青木氏のルーツ & 雑学研究室

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◆-我が家は何者Re: 我が家は何者
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    └Re: 我が家は何者

No.398
我が家は何者
398編集 追加
かんりにん代理登録

こんにちは、
親父が亡くなり届出をするため戸籍を取り寄せたところ、
祖父・曽祖父・玄曽祖父の名前まで載っていて
曽祖父の生年月日が天保3年11月8日と江戸時代の年号で載っていました。
我が家は一体何者なのか興味を持ったのですがルーツが辿れません。
そんな時ここを見つけました。
曽祖父の戸籍は東京市日本橋区です。
家紋は抱茗荷です。
因みに曽祖父は、青木八右衛門、玄曽祖父は、青木清右衛門です。
衛兵みたいな名前です。
No.399
Re: 我が家は何者
399編集 追加
>かんりにん代理登録
>
>こんにちは、
>親父が亡くなり届出をするため戸籍を取り寄せたところ、
>祖父・曽祖父・玄曽祖父の名前まで載っていて
>曽祖父の生年月日が天保3年11月8日と江戸時代の年号で載っていました。
>我が家は一体何者なのか興味を持ったのですがルーツが辿れません。
>そんな時ここを見つけました。
>曽祖父の戸籍は東京市日本橋区です。
>家紋は抱茗荷です。
>因みに曽祖父は、青木八右衛門、玄曽祖父は、青木清右衛門です。
>衛兵みたいな名前です。

近江の青木さん   今日は。はじめまして。
ようこそ、青木サイトに興しくださいました。これからもちよくちょくお尋ねください。
元は同じルーツを持つ青木さんです。大化の改新頃に戻れば親族です。元親族同士コミニケイシヨンを致しましょう。

さて、お尋ねの件ですが、直ぐにわかります。
御家の家紋が「抱き茗荷紋」ですので、近江、滋賀地方を勢力範囲として活躍していた古い豪族の「二宮氏」と血縁をした近江青木氏と伊勢青木氏のどちらかの青木氏です。

この青木氏は、大化の改新のときに天智天皇の第6位皇子(6番目の皇子)天皇を護る親衛隊と成る為に臣下して親の天智天皇から青木氏という氏を授かりました。(賜姓という)
この皇族賜姓青木氏は天智天皇から始まり、男系5代後の天皇の光仁天皇までこの第6位皇子の賜姓青木氏が発祥しました。
天皇は、天智、天武、文武、聖武、光仁の5代の天皇です。
その賜姓青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの国に守護国守として赴任しました。
その内、初代の賜姓青木氏は伊勢王が初代です。
御家はこの伊勢王の賜姓青木氏か、近江王の賜姓青木氏かと言う事に成ります。

御家の鎌倉時代か室町時代の古いご先祖が何処に住んでいたかと言う事が判ればこのどちらと言う事が決定します。

と言うのは、この二宮氏が伊勢の永嶋と志摩地方に移動して、勢力を持ち、稲垣氏、鳥羽氏、小沢氏と名を変えて移動しました。
この氏は元は近江の二宮氏から出ています。
この二宮氏と近江賜姓青木氏の末裔が血縁関係を持ちました。そして、抱き茗荷紋の二宮氏の家紋を引き継ぎました。
血縁して男子が生まれず女子が跡を取り、養子を同じ土地の豪族の二宮氏から迎えましたが、さらに男子が生まれずに遂に女系となりました。
2代続きで女系と成ってしまったことを意味します。
はじめの二宮氏から養子を迎えた時にとりあえず、家紋は抱き茗荷紋としてあつかいますが、この養子から男子の跡取が生まれれば元の笹竜胆紋に戻ります。
しかし、又女子でその女子が又養子を迎えたと成りますが、この時は女系ですので養子親の抱き茗荷紋になってしまいます。その後に男子が生まれたので抱き茗荷紋と成ったのです。
このようなことを決める「家紋掟」というものがあり、氏家制度の決まりです。

御家の賜姓青木氏が移動先の伊勢永嶋の二宮氏の末裔の稲垣氏または鳥羽氏、小沢氏等(抱き茗荷紋)との血縁で上記の「家紋掟」により、変紋を余儀なくされた青木氏で、この時は初代の賜姓伊勢青木氏との血縁で発祥した抱き茗荷紋の青木氏で有ることも考えられます。
もし、このルーツであれば、筆者と同じルーツです。昔は親族であった事です。近江伊勢ともにどちらも下は天智、天武の皇族賜姓ルーツは同じです。

一度お調べに成ってください。そこで、何でも結構ですから、ちょっとした伝説や伝承品や親類の昔話があれば意外にどちらかを決める事が出来ます。その時、何か気がつきましたらご遠慮なくお尋ねください。

そこで、一寸した事を発見いたしました。それは、御家のご先祖のお名前です。
昔はその名前で何処の人かわかるように成っていました。
特に、青木氏の「..右衛門」は近江(滋賀)の賜姓青木氏の襲名用の名でした。
代々使用されているようですので、先ずは近江賜姓青木氏の末裔(笹竜胆)と近江二宮氏(抱き茗荷)との血縁を結んだ青木氏である事がいえます。

ちなみに、伊勢青木氏は、青木長兵衛の長兵衛が襲名の名ですので先ず間違いがありません。

そこで御家は、抱き茗荷紋の本家筋との血縁をルーツにしている事が判ります。
「丸に抱き茗荷紋」の青木氏もこの三つの伊勢と近江と永嶋の地方に存在します
つまり、分家筋の末裔が広げたルーツです。

上記のこれ等のことは、研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」の「茗荷紋」のところのレポートと家紋掲示板の3Pの「抱き茗荷紋」のところと研究室の「皇族賜姓青木氏」関連のレポートが幾つかありますのでゆっくりとお読みください。御家の古いご先祖の生き様なども見えてきます。
地名地形データーベースの近江付近のデーターも見て下さい。

因みに、青木氏には概ね、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏があり、江戸期から生まれた御家人青木氏(第3の青木氏)があります。

この二宮氏は「二宮尊徳」という江戸時代の学者をご存知と思いますが、この人もこの二宮氏の末裔です。

更に、「佐々木小次郎」と言う「宮本武蔵」と戦った剣豪はこの近江の佐々木氏です。
近江の佐々木氏は元は天智天皇の第7位皇子で賜姓を受けて臣下して佐々木氏を名乗りました。
ですから、元を正せば、天智天武のどちらかのルーツにたどり着けます。
つまり、同じルーツです。
筆者(伊勢青木氏)とも同じルーツになると思います。

これからも、同じ元祖を持つ青木氏同士でこのサイトでお会いしましよう。
藤原秀郷流青木氏も元は母方は藤原氏の血縁で伊勢青木氏を除く4つの賜姓青木氏と結んでいるのです。
つまり、従兄弟です。

ご質問や不明点など有りましたら、ご遠慮なく青木氏同士でお尋ねください。喜んでお答えします。

先ほどの、ちょっとしたことでご先祖のお名前で土地や発祥がわかるのです。

レポートは長文に成りますから、ゆっくりと楽しんでお読みください。
多分、研究室に御家とご親類になる方の投稿があった気がしますので、研究室の青木さんとのやり取りなどをお探しになりお読みください。
全体をかけてゆっくりとお読みになると青木氏全体がみえてきますよ。

では、お便りお待ちしています。
No.400
Re: 我が家は何者
400編集 追加
こんにちは、
とても詳しい解説をありがとうございます。

我が家は由緒正しい歴史有る家系なんって驚きです。
曽祖父・玄祖父が右衛門と言うので、何だ我が家はドラえもんの子孫なのかって
おちゃらけていましたが、とんでもない話ですね。
これからは近江の青木と名乗る事にします。

長男は○右衛門と改名しようかと言ってます。
次男は、海外に居るので帰って来たら教えてやろうと思います。

親父が亡くなったのは、ちょっと前でして、相続もしないで放って置いた実家を相続する事になり
戸籍を取りに行ったところ先祖が分かった次第です。

当初は、どうせ何処かの馬の骨だろうと思ってました。
姓名も明治になってから貰って来たのだろうと思ってました。
ところが戸籍に江戸の年号が記載して有るので
江戸時代から続いてたんだと分かり、ルーツを知りたくなりました。

ただ、親父が中学生の時に祖父は亡くなり、まもなくして祖母も亡くなったため
私達は祖父母を知りません。
親父も徴兵されて6年戦争に行って帰って来たら跡形も無くなっていたと言う事です。
先祖を知るものは何も有りません。
墓も子供の頃に谷中の何処かの寺に連れて行かれたのは憶えていますが、寺の名前も分かりません。
親戚が居るかも分からない状況です。

他に知る術が無いので、再び中央区役所へ行って、曽祖父と玄祖父の戸籍が無いか調べて来ます。
ちょっと何時になるか分かりませんが、調べたら報告します。

ヤフーに江戸古地図が有り、日本橋界隈を見たのですが、青木は有りませんでした。
しかし九段に青木が3軒ありました。
その内の1軒は、青木与右衛門と記載されています。
○右衛門繋がりで関係有るのかと思うのですが、現在は靖国神社になってます。
もしかして明治になって追い出されたのかも知れないですね。

因みに我が家(横浜)から近いところに青木町が在ります、これも青木に関係すのでしょうか。
良く知らない友人に我が家の先祖が作ったんだぜとホラを吹いてました。

これからも宜しくお願いします。
No.401
Re: 我が家は何者
401編集 追加
すいません、書き忘れたのですが、
この研究室に、近江の青木氏は滅びたと有りましたが、
我が家は、滅びた家系なのに何で存在すのでしょうか。

宜しくお願いします。
No.402
Re: 我が家は何者
402編集 追加
おはよう御座います。

近江の青木さん。
早速、お便り、ご質問いただきありがとう御座います。

びっくりされたと思います。

お尋ねの件はまず、一つは、横浜の青木町の件ですが、このことからお答えします。

この横浜神奈川の青木町は御家の青木氏と別の青木氏です。

この青木氏には横浜より右側では藤原秀郷流青木氏の子孫が定住し平安期から独自の村を形成していたのです。埼玉の入間を中心に神奈川横浜を半径として円を描く範囲に存在しています。
村ついては青木氏の地名地形データを参照して下さい。

そして、この左側の伊豆よりにも青木町があります。この神奈川の左よりの青木町には甲斐の武田系青木氏と甲斐の皇族賜姓青木氏が信長に追われて逃げ延びてここに定住しました。この一部は栃木方面にも逃げ延びています。
次に熱海から伊豆地方にかけてある青木町は平安初期からこの地域を守護地としていた清和源氏の源の頼政に伴ってきた皇族賜姓青木氏の伊勢、美濃の青木氏です。守護地であるので一部が移動して子に村を形成したのです。

次ぎに御家の青木氏ですが、これには3つの青木氏が考えられますが、情報が少ないので確実とは行きません。
藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏とあり、この皇族賜姓青木氏には2つに分かれます。
あとは佐々木系青木氏です。皇族賜姓青木氏と佐々木系青木氏はルーツは同じですが、発祥期が佐々木系青木氏は後に成ります。元は近江の皇族賜姓青木氏です。近江賜姓佐々木氏と近江の皇族賜姓青木氏との血縁で出来た青木氏です。

ここで、一つは元は上山氏という一族がこの賜姓青木氏の分家を乗っ取り青木氏を名乗った子孫もこの近江と滋賀地方に多く存在します。

抱き茗荷紋はこの3つの青木氏が血縁しているのですが、前レポートでも書きましたが、藤原秀郷流青木氏ではないことは、お名前の「右衛門」のなずけになっていませんので、先ず異なると考えます。
次ぎは伊勢の皇族賜姓青木氏との血縁ですが、これもなずけでは異なります。

ところが、近江皇族賜姓青木氏にはこの土地には丹波から甲賀に沢山の城を持っていましたが、この一族は全て右衛門を使っています。「...右衛門」です。

昔は各地のどの青木氏であるかを区別してわかりやすくする為に有る程度の家柄の子孫は襲名の習慣がありました。右衛門は近江地方の賜姓青木氏です。

ところが、この近江賜姓青木氏は一時佐々木系青木氏との間で問題が起こり、一部は滋賀に移動しています。ところが、この移動した青木氏は又元に戻ります。一部は摂津に定住しました。摂津付近にも青木町がありますが、これは滋賀から戻った近江賜姓青木氏の子孫です。

そこで、この近江の皇族賜姓青木氏の御家はこの近江の賜姓佐々木系青木氏か近江の皇族賜姓青木氏か情報が有りませんので判別できません。後に、情報の提供が有りましたら定まっていくものと思います。

「...右衛門」だけの手がかりだけですので、この皇族賜姓青木氏と云う事以外にありません。
兎も角、この佐々木系青木氏も同じルーツですので「...右衛門」を使用しています。
青木城の城持ちもいました。

近江の佐々木氏も同じ天智天皇の皇子から賜姓を受けた元祖ルーツを同じくしています。

そこで、滅亡したとのことですが、何処に書いていたのかお知らせください。
「青木氏(家紋)と血縁族」茗荷紋には「滅亡」はないと思いますが。
その意味具合を説明したいと思います。

念のために、家を中心とした氏家制度のなかですので、滅亡には家が潰れたことと、子孫がなくなったこととは別ですのでご注意ください。

この5つの皇族賜姓青木氏24氏は信長に全て潰されています。しかし、子孫をこっそりと逃しているのです。上記した様に逃げ延びて子孫を遺しているのです。
逃げ延びたところで、元居たところで、復元しているのです。
滅亡といっても色々あります。この青木氏は子孫を戻しています。

青木氏は、独自の自分の寺の菩提寺と神社を持つています。御家も調べていくとこの菩提寺にたどり着けるはずです。

そして、その菩提寺の条件は浄土宗です。現在は何宗ですか。

そこで、青木氏ははっきりした一族で皇族賜姓青木氏24氏と藤原秀郷流青木氏116氏から成り立っています。(他に第3青木氏があります)

家紋にしますと30紋/33に成ります。家紋掲示板に掲載しています。
御家はその一つの「抱き茗荷紋」です。

ちょっとしたことでも結構ですのでお判りになるとお便りください。
お待ちしています。

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