青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.109
Re: 飛鳥京の防備と賜姓族氏-2
109編集 追加
先ず、最初の乙巳の変の事前交渉説に対する証拠として、次に掲げる事柄が短期間の内に行われたのです。

1 全九州制圧、中国地方の制圧と及び朝廷は大隈の首魁阿多倍を京に呼び出し、伊勢の北部の伊賀地方を与え、不輪の権と不入の権、立ち入り禁止、調役の免と矢継ぎ早に恩賞を与える。
2 准大臣に任ずる。
3 敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を阿多倍に娶らす。
4 3人の男子に賜姓を授ける。(長男は坂上氏、次男は大蔵氏、三男は内蔵氏)
5 朝廷役職の3蔵のうち2蔵まで任す。(斎蔵、大蔵、内蔵で斎蔵は藤原氏、残りは阿多倍の一族、このことから藤原氏の1蔵に対して2蔵を持つ事からどれだけ大きく恩賞を与えたか判る)
6 高市の土地を与える。坂上氏を征夷大将軍に任ずる。
7 檜前国を与える。
8 宿禰の身分を与える。
9 対馬国の守護職に任ずる。
10 従五位下に任ずる。
11 「錦の御旗」を与える。
12 国刀を与える。
13 太宰大監に任ずる。九州の3権(軍事、政治、経済)を与える。「遠の朝廷」の称号を与える。
14 壱岐守に任ずる。
15 上総国の守護に任ずる 伊賀国を分国し国司として任ずる。

以上の様に次々と恩賞を与え優遇する。

これでも判る様に、藤原氏の栄華どころの話ではありません。
藤原氏はただこの時期は斎蔵の地位にあるだけである。
斎蔵とは朝廷の政務即ち、祭祀と政治に関係する仕事であつた。
大蔵は朝廷の政治以外の財務を中心とする仕事である。(経済と軍事の二権)
内蔵は天皇家の政治以外の財務を中心とする仕事である。(経済と親衛隊)
国体の律令や政治機構の立案と軍事等を担当する官僚であります。

これだけの恩賞は普通の武装集団の一事件の介入に対する恩賞とはどの様に考えてもおかしい。
また、この恩賞がその集団の主に対する恩賞である。
これは明らかに中大兄皇子との「事前交渉」に依る結果から来ることではないだろうか。

阿多倍一族の東漢氏(やまとのあや)の出方で決まる計画であり、この為に、中大兄皇子としては「天皇家の存亡」を賭けた戦いの結果に対する恩賞と考えれば何の不思議でもない。
まして、天皇家のこれからの必要とする高い知識を持っている。
そこで、この東漢氏の武装集団はこの恩賞の流れの中でどの様な動きをしたかであるが、全くの動きを示さなかったのです。
彼等は、温厚に主の名に従い、阿多倍の長男の坂上氏の支配下に戻ったのである。今や、坂上氏は朝廷との血縁関係を持つた一族となり、後漢から帰化したときの元の状態の主の下に入ったのである。
つまり、朝廷の正式な中央の軍隊となつた事を意味するのです。
そして、この軍隊の一部は大蔵氏の配下に入り、関西から以西の国の守護と九州全土の3権の軍事関係の役務に着くのです。
もう一体は内蔵氏の支配下に入り、関東以北の国の守護と征夷の見張りの役務に着くのです。
この武装集団は3つに分団して存続したのです。
従って、飛鳥の都の防備の役はこの様な経過を辿り、戦略的に決まるのです。
朝廷としては弱みを強みにして抱え込みなかなか強かであります。

ここで、賜姓青木氏のことに触れなければ、検証は意味をなさない。
元はと云えば、青木氏は天皇の親衛隊として第6位皇子を臣下させて賜姓して青木氏を造り、大化の改新の反省の対策としたのであります。
その最初が、天皇家の守護神の伊勢神宮の地域の護りとして伊勢の青木氏が赴任したものであります。
阿多倍の武装集団は朝廷の軍であり、青木氏は天皇の軍であるので天皇家に関する土地や社殿などの護りの役務に着いたのです。
滋賀近江の佐々木氏を始めとして、他の3地も天領地としての土地でありましたし、都の天皇家を防備する戦略的な土地でもあり、穀倉地であり、交通の要衝地としても、身内を自由に動かせる背くことのない親衛隊を配置したのです。
伊勢の賜姓青木氏の分布を考察すると、この意味が判るのです。

伊勢の飛鳥より国境の土地の名張地方に城を築き、そこから、東に伊勢神宮周囲の松阪、玉城、そして、員弁、桑名地方と帯状に分布しています。そして、西には賜姓佐々木氏を、東にはこの帯線上の延長には3地の青木氏が配置しているのです。
飛鳥の宮に戦略上に何時でも流れ込みやすく一族の青木村の分布を伊勢を中心に配置しいます。

こ員弁地方には定住地として青木村(古代呼称のおうき又はおおきの呼称で村が形勢されています。古い時代より賜姓又は皇族青木氏の定住した村は殆ど古代呼称で存在します。)即ち、大木村として現代も存在します。

この様に賜姓青木氏は天皇家の親衛隊としての役務を遂行したのです。当時は天皇家の一族が中心に政治を行う「皇親政治」を行いました。そしてこの政治形態は主に桓武天皇の「律令体制」が整うまでの平安初期まで続きました。

余談として、坂上氏の配下に入った東漢氏即ち、文直氏の軍は阿多倍の長男の坂上の田村麻呂として、征夷大将軍として征夷を討伐し、又各地の反乱の鎮圧や百済国の援軍として大活躍します。
後には、阿多倍の子孫からも阿倍と書いて”あべ”と呼称する一族も出てきます。後には、阿部と成ります。この阿部氏は後には東北の豪族として名を馳せますし、朝鮮の戦いに参戦して故郷に戻って帰って来なかった一族でもあります。

このように、蘇我氏の支配下にあつた職業武装集団は主の下にかえり、天皇家との血縁を持ち、且つ、藤原氏も凌ぐ朝廷の政治の根幹にも成り、朝廷軍となり防備の一役を担い、賜姓青木氏と並んで2軍が退治する形となつたのです。

その後のことは、この状態は250年程度続き、皇親政治が終わり、そして桓武天皇期の律令政治に入ったところで、2軍の対立が生まれてきます。
即ち、賜姓青木氏の牽制時代に入るのです。

桓武天皇の母は「高野新笠」というこの朝廷の軍と成った阿多倍の一族の娘であります。他にも青木氏を牽制する理由はいくつかありますが、この為に伊勢の賜姓青木を始めとする賜姓青木氏は衰退を余儀なくされるのです。逆に阿多倍軍は国香、貞盛、維衡、維盛、正盛、忠盛、清盛と続き栄華を謳歌するのです。
都の防備から賜姓青木氏は外れて行きます。

この青木氏に変わって出てきたのが、嵯峨天皇の反意を下に賜姓源氏に戻して11代(実質)も続き発祥するのです。

この賜姓源氏で都の周囲の防備は戻りつつも、桓武平氏即ち、阿多倍軍の末裔の京平家との対峙と成ります。

これに吊られて5家5流の賜姓青木氏も源氏と土着豪族との婚姻の巴戦略で息を吹き返してくるのです。

遂には、源平合戦となり、阿多倍の朝廷軍(坂上氏中心とした)の京平家軍の伝統は消え去るのです。
しかし、九州ではこの一族の大蔵氏の永嶋族が残り栄えます。
(東北では内蔵氏の末裔一族の阿部氏が奥州藤原氏に平定されて滅びます)
これで、飛鳥の防備の変化と青木氏の関わりは終わりです。

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