青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.125
Re: 日本人の発祥-3
125編集 追加
単一民族の日本人を構成する北ルートは人の類の異なる2類とその2ルートによる移動であった。
第1集団は北海道の北部地域に定住し、第2集団のAとBが更に浸透して山間部を避けて日本海沿岸と太平洋沿岸に移動して定住したのであつた。山間部が本格的に定住開発したのは紀元後7世紀頃である。

第2集団と同じコルボックスの人の類は次の3つのルートから移動し上陸してきた。
中央アジアルートから朝鮮半島を経て直接陸伝いで入った人の類。
(第3集団)
この第3集団は現在の下関から長門市にかけて移動し上陸してきた集団である。
この集団は中国地方を経て日本海沿岸(湖)を移動し、現代の鳥取付近まで移動定住した。

中央アジアルートから中国を経て進化を遂げながら船で移動し上陸した人の類。
(第4集団)
この第4集団は現在の北九州市から福岡市の沿岸付近に上陸した集団である。
この集団は九州北部から中部地方の奥地まで次第に浸透した。

南アジアに到達した人の類は現代のベトナムからタイ付近から船で黒潮に乗り九州北部の現代の長崎付近の沿岸部に上陸した人の類。
(第5集団)
この第5集団は九州北部から西側の沿岸付近から南に移動浸透した。

この第5集団の一部は黒潮に乗って南九州の鹿児島湾岸付近に上陸した。
(第6集団)
この第6集団は北部に向かって東側の宮崎付近沿岸部まで浸透した。

ヨーロッパの南部の沿岸部を通じて移り渡り進化を通じて、太平洋に移動して次第に南陽群島からハワイ諸島から船で沖縄を通じて南九州の鹿児島の沿岸部に上陸した太平洋民族の人の類。
(第7集団)
この第7集団は西側部の沿岸部に北上定住し熊本南部まで到達して定住した。

上記した第2集団から第6集団はコルボックス系である。
これ等の5つの人の類の集団は中継点を経て進化しながら、よりよい生活環境を求めて移動を繰り返しながら日本に移動し上陸してきた人の類である。

第2集団のように一部はシベリヤからアラスカに入り、又、その一部は北アメリカ大陸に移動して定住した。更に、この集団は南アメリカの北部まで到達し、その住まいは山岳民族として発達し、遂にはインカ帝国を作り上げたのである。

この第2の集団には大変な話があるのでここで述べる。
日本の原住民騒動は、今から10年前程度に起こった。それは日本の学者や一部の政治団体の支援を得て大騒ぎとなり「原住民保護の大論争」が起こった。
”「日本の原住民はアイヌである。だから保護せよ」”という論調である。
しかし、この論調には政府と一部の歴史考古学の学者は反対した。
上記した様に”「日本の民族は7つの人の類からなりこの人の類の融合人種である」”という説である。
当時、遺伝子学が進歩しつつある時期でもあつた。
この為、政府はこの問題を解決するためにこの遺伝子学をもって証明しようとしたのである。
日本人の遺伝子を5年間程度にわたり大量に調査した。

その頃「7つの人の類説」を取っていた司馬遼太郎氏などがいた。
古代も古代の人の原始の時代の事に付いての大変な予言である。
それなりの根拠と研究がなされていたのである。私もこの論文を読んだことがあった。
この説から関係する外国の遺伝子も大調査したのである。

この結果、日本人には7つの種類の遺伝子を持つ人の類が存在する事が証明され、大まかにはその地方性も示されていた。
且つ、司馬遼太郎氏の「7つの人の類説」が完全な形で証明されたのである。

(7つの割合も証明され、この割合も大方に合っていた。 後述)
(注記 人の類の元になる情報遺伝子は女性の卵子に引き継がれて行くのである。そして、個々の人の情報遺伝子は男子の精子の尾の付け根の所にその元となるデータが書き込まれていて卵子と精子の遺伝子を詳しく調べると確定するのである。人の類が同じとするならば血液検査でも可能である。)

しかし、これでは原住民のまだ問題は解決していない。上記の第2集団のシベリヤアラスカ周りのインカ帝国の説がクローズアップしてきた。
そこで、このインカ帝国の皇帝の一族の者が存在する事を突き止めて、その者の遺伝子の調査を詳しく調べたところ決定的な結論が出たのである。司馬遼太郎氏の説の通りの答えがでたのである。

その答えとは、彼の幻のインカ帝国の一族の者の遺伝子とアイヌ(
第2集団)の北海道に定住した一部の者の遺伝子とは全く同じであったのである。
そして、全てのアイヌの人が同じ遺伝子を持っていた事ではなかったのである。
アイヌと云われる人の中でも異なる遺伝子をもつ人も居たと云う事を物語っているのである。

つまり、この意味は何を物語るのかという事である。
これには二つの事実が生まれる。
第1はシベリヤルートを採った一族と日本に第2集団として入った一族とは”「兄弟だった」”という事である。
そして、第2はアイヌの中でも異なる遺伝子を持つ融合の人の類がいたことを意味するのである。

先ず、第1の結論は、兄弟が二手に分かれてよりよい生活環境を求めて、北海道の手前のところで分かれたと言う事実である。そして、この遺伝子はアイヌの一部の人に引き継がれていたと言うことである。
これは明らかに二手に分かれた第2集団の人の類である。

では、もう一つの遺伝子が合わなかった「融合のアイヌ」はどういうことになるのかという疑問が湧く。

総合結論は、元から最初に居た原住民では無く7つの人の類の一つである事が証明されたのである。

では、”「この融合のアイヌはどこから来て、どの様な歴史を持ち、融合のもつ人の類なのか」”と言う問題である。
この問題も解決したのである。
この問題も私が知る範囲では二人の人が推論をたてており、事前に論文を発表しているのである。
司馬遼太郎氏と松本清長氏である。

次回はこの問題から記述し、第3から第7まで集団が遺した歴史と融合に付いて進める。続く。

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