青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.127
Re: 日本人の発祥-4
127編集 追加
前記のこの7つのルートからはいつた人の類は良好な環境を得て子孫を増やし何時しか人の大いなる進化を遂げて、その生活文化は沿岸部での漁労文化と初歩的な農耕文化を築き上げて縄文時代へと進む。この時期が紀元前5から4世紀にまでで更に時代と共に進化と子孫の繁栄は進み、大まかには日本の沿岸部付近を中心として浸透は進む。
ここまでが、第1段階の人の類の移動である。

念の為に記述するが、この人の類は日本に於いては4段階の人の類の変化を起す。
此処までは、原人から縄文までの人の類の変化である。第1段階である。紀元前5-4世紀頃までである。

これからは古き中国の戦国時代の影響を受けたアジア民族の大移動である。これが紀元前2世紀頃までの日本にとつての第2段階の移動である。
この移動によって日本に入った7つの人の類は大きな影響を受けて列島の両端から入った人の類は圧迫を受けて中央部へと移動を余儀なくされて行くのである。

しかし、第2段階の移動に付いては、この付近の時代ではアジア大陸での民族の大変化が起こり、特に、中国付近を中心に起こり周辺の国々に影響を与えて、圧迫された事が原因で第2の人の類の移動が再び大きく起こるのである。

アジア大陸では次の時代の変化が起こっていた。
殷(紀元前15-10)、周(紀元前11-3)、春秋時代(紀元前8-4)、戦国時代(紀元前4-2)と時代は進み、人の進化とそれに伴う生活環境は飛躍的に進歩したのである。この事により、人の類はより良い環境を求めて拡大し、争いがおこり戦国時代へと突入して行く。

この影響を受けて周辺の人の類の集団、特に朝鮮半島から、南アジアの人の類と東アジアの人の類は追い出されて陸伝いで、又黒潮に乗って船でアジア各地から九州北部に上陸してきたのである
これが第2段階の人の類の移動である。
(この段階から人の類を進化と文化の進展により民族、又は人類と記する)

第2段階の移動、即ち、これが、弥生文化の出現である。
この第2段階の移動は元を質せば他の地で進化したコルボックス族の移動である。
同じ人の類である日本列島の7つの集団はより良い環境を得て人の進化と縄文文化の進展とを遂げていた。
此処により進んだ第2段階の文化を持った人類が移動進入して来たのである。
縄文人類と異なり、人類も顔形や背の高さや手の長さ等の体型が進化していたのである。
この人類が第3集団から第5集団に影響を与えたのである。

第3集団から第5集団が九州北部に陸伝いと沿岸部に定住し、時代の経過とどんどんと上陸する第2段階の移動に圧迫されて、大きな戦いもなく融合を重ねながら、共に次第に九州南部に向かって移動を遂げた。

第3集団の東に移動方向をとった一団はより東へと進み最先端は中部地方まで進み融合を重ねて行った。

第3集団と第4集団との間では住み分けの博多付近の境界部での争いがあつたが、この付近では融合が進んでいたのである。
そして、主にはこの第3集団は融合を重ねて主力部は関西部まで次第に移動した。
この地域には第2集団の最先端が日本海と太平洋の沿岸部に沿って進出して到達して来ていた。従って、中部地方付近ではラップ現象が起こり戦わず文化と人の大融合の領域を形勢していたのである。

第4集団も融合を重ねて九州南部に向かって中部付近まで移動し、第6集団との争いを避ける為に住み分けを選びこの付近で留まった。
特に、第6集団は第7集団との融合を既に起していたのであるが、この結果、後にもその集団の性格を示す出来事が起こるのであるが、この集団の影響もあり、戦いは避けたのである。
その境界部では文化と人の融合が進んでいた。

第5集団は西部の沿岸部に祖って南部に向かって移動したが、この集団は特に深くは移動をせず現在の熊本県の南部までにとどまったのである。
この集団は第3集団と第4集団の文化とは全く特異な文化と信仰を持つように成っていた。この特異な文化が第6集団との境界部では融合を進まなかったのである。
また、第2段階の人類の移動とも文化は勿論として人の融合をも拒否し遂げなかったのである。

その原因の一つは、第5集団のその特異な文化と、その特異さから来る集団の方針が影響していたのである。
その原因の二つは、第6、7集団の性格とが影響していたとされている。

更にこの第5集団と第4集団との境界部でも同じく融合は起こらなかった。
そして、九州南部の第6、7集団では第2段階の人類の移動との融合は南部よりの中部付近での部分的な融合で終わったのである。

第3集団は中国地方に数々の小国を作り、そして、その国の集団が出来上がるに至るのである。
(紀元後2-3世紀頃には出雲国となる)

第4集団は中央部に進出し周囲の小国が一つの集団国を作るが国主になる者が居なくて、結局は、神に奉仕しお告げを示す役目の巫女の女を主(多説あり)とする集団国が出来る。
(紀元後2-3世紀頃に邪馬台国となる)

第5集団はその特異な文化と信仰とで周囲の国との接触を絶ち融合せず、第5集団の範囲で子孫を増やし国を建国したのである。
この集団は熊を神の使いとして崇め、この文化を頑なに護り、邪馬台国との融和融合もせず、その国主は邪馬台国の卑弥呼とは断絶していたのである。

北部に於いては、この小国分立の統合体の邪馬台国が北部を統治し漢の国との国交も持っていたが、融和融合を国是としていたので軍事的な統治ではなかったのである。

隣には第5集団の狗奴国も存在し統治に服さなかったし、争いも試みたが依然として閉鎖国をも服させる事はできなかったのであつた。この巫女の国主の状態は長くは続かず、衰退を始めたのである
(紀元後2-3世紀頃には狗奴国となる)

この熊を心棒する狗奴国が次の記する戦いで逃亡し、その過程での融合は一切せず子孫を減らしながらも中国地方を経て関東、東北へと移動し、遂には、北海道へと追いやられて行くのである。
(参考、逃避行中のヤマトタケルの命と稲葉の白ウサギの伝説である)
そこに、第6と7の融合集団(第6、7集団は集団指導体制を確立し国を統治した。国主を「大隈の首魁」と称した)はこの時期を逃さず北上し、第4集団の邪馬台国と第5集団の狗奴国を瞬く間に滅ぼしたのである。
しかし、ここで、異変が起きた。
この大隈の首魁が率いる一団は狗奴国や邪馬台国を統治せずに引き上げるという行動を採ったのである。歴史学上この原因は解明されていない。
私は邪馬台国が漢の国との国交があり、駐在員も居たとの史実からこの事から漢が攻め入ってくるとの見方を採ったのではないか。
その為、民族保全を是としてた集団指導体制下では戦う事を避けたのではないかと推測する。
周囲には強国は無いし、朝鮮半島の沿岸部に住んでいた邪馬台国の人種の倭人も(漢の国に朝鮮半島は制圧されていたので)弱体化していた。この朝鮮半島の漢の国の攻め込みを恐れたと見る。

戦いの後は一時卑弥呼の弟が邪馬台国を護ったが直ぐに滅亡し、此れに従って上陸する第2段階の移動民が第4集団の邪馬台国の民との融合を図り、彼等に依って持ち込まれたより高い文化の花が咲いたのである。

特異文化と他の文化との接触を頑なに守った狗奴国の生き残った一族は北海道で自分達を向かえ入れてくれた第2集団の人との小さい範囲での融和を図り、局部の集団を構成し熊を代表する文化を守り、いまだ現在に於いても日本民族との融和を避けて独自の文化護り続けている。これが俗に云う別名「熊襲」である。

この姿を見てよくも調べず、原住民説を唱えた一団があつたのである。(しかし、遺伝子手法で原住民説は完全に否定された)

つまり、第5集団の狗奴族と第2集団の北海道に初期に定住した人の類との小融合の一団であったことが証明されたのである。

インカ帝国との遺伝子の完全合致はこの狗奴国との融合を図り、血縁化して文化を取り入れて、周囲との断絶を図った結果その血統の純潔さが保たれて第2集団の一部の者との遺伝子の合致が起こったのである。

ここで、小融合の集団の第2集団の一部の者がインカ族との同じ遺伝子を持つかという疑問に付いて次回に述べ、第3段階の民族移動へと移る。続く。

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