青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.136
Re: 日本人の発祥-7
136編集 追加
第3段階が終わり、大和の関西より西はほぼ制圧して蘇我氏と聖徳太子の時代へと移り大和朝廷は次第に安定するが、依然として、中部から東国はまだ大和の朝廷に対して服しない族も多くあり、大和朝廷は苦しむ。
この反大和の集団は此処まで進出してきた第1と第2の集団の融和族による連合体である。
大和朝廷は征夷としてこの集団の反乱族を鎮圧するために出陣する。蘇我馬子は自ら出向き鎮圧に当るが成功しなかった。この時、一部の制圧した族の娘との間に出来た息子をつれて大和に戻る。
他に居た息子をさておき非常に肌は白く大男で蛮勇のこの息子が馬子の後継者になった。これが蝦夷(えみし)である。

この後、第4段階の優秀で高度な武力を持っていた民族の移動の子孫(下記)が、この第1、2の融合体の一団と戦い、この征夷は第一段階の制圧としては終了するのである。

ここまでは中国の漢の国が滅びて第3段階の民族の移動が起こったが、この時、高武帝が漢の国を盛り返し、中国より東側の領域と朝鮮半島を制圧して、後漢の国を樹立する。そして、この後漢も21代目の献帝の時滅びる。

この後漢の民族は朝鮮半島からの上陸を実行し、又、遼東半島から船に乗って17県民の200万の人民の全てが日本に上陸を開始したのである。大変な帰化団である。大和朝廷は国が滅ぼされると驚いたはずである。

この集団は献帝の孫の阿智使王とその子の阿多倍王(高尊王)が率いていた。
この集団は、軍事、政治、経済、あらゆる面の生産技能に付いて非常に高い能力を持ち進化していたのである。

この集団は先ず、北九州北部に拠点を置きひきりなしに移動してくる民を指揮した。この阿智使王と阿多倍は戦いをせず帰化を願い大和朝廷もこの優れた後漢の人民を引き入れた。そして、瞬く間に九州北部から最南端の大隈まで進出し大まかには不戦にて制圧した。

日本書紀には戦いらしき表現は無いどころか、”大隈の首魁阿多倍”と表現している。この「大隈の首魁阿多倍」は書紀には8回も出てくる。
この阿多倍の一団300名と記して踊りが大変上手く天皇に披露して喜ばれたと記している。
そして、度々祝賀の時に呼び出しては褒美を与えている。
度々の呼び出しは九州南部からは難しいことから、既に中国地方も傘下にいれて、この伊賀地方に拠点を置き関西に出てきていたと見られる。

その証拠に伊勢北東部にもこの集団の村があつたと見られ伊勢の永嶋の地名がある。この付近まで勢力を伸ばしていたのである。ここより以東は賜姓青木氏と藤原氏の領域であった。

「永嶋氏姓」は鎌倉期には存続をかけて藤原氏系結城氏と連携し共に結城氏から、大蔵氏から変名して名乗り直した氏である。
故に既成の事実を容認し、「大隈の首魁阿多倍」を呼び出して伊勢北部伊賀地方に半国伊賀の国を造り、その貢献度を評価して特権と共に褒美として与えている。
ここは京平氏の出身地でもあり、阿多倍又の中国王名は高尊王(高望王ともある)である。
この名は、桓武天皇の母の高野新笠(阿多倍の子孫)の祖祖父とみられるこの阿多倍の別名の「高望王」に桓武天皇が賜姓をしている名である。
(年数的に30年くらいのずれがあるが)阿多倍の年齢も非常に高齢でもあったとされ且つ、故意的にこの一族の引き上げを目睹としてこの賜姓のみだけは朝廷は桓武天皇の意を汲んで詳細不明の賜姓としたのであろう。

桓武天皇は律令国家の完成を成し遂げた天皇であり、律令の法体制で国体を維持しようとした為に大勢力の5家の青木氏の台頭は国体の法の維持は困難と見たのであろう。

このためにもこの主目的は賜姓青木氏の牽制にあつたのである。
桓武天皇から青木氏の各氏に対して原因のない叱責を受けて、守護職の短縮や交代、領国、土地の割愛、役職の罷免など受け衰退期にあつた。
次の天皇の嵯峨天皇はこの皇族一族の衰退を嫌い、元に戻す政策に出て、青木氏より変名して源氏と賜姓したのである。

青木氏はこの様に第4段階の渡来族の一団とは敵対関係にもあつた。
天皇を護衛する親衛隊の賜姓青木氏の武装集団と、桓武天皇の保護を受けた朝廷の軍事集団の阿多倍の長男の坂上氏との対抗がうまれており、賜姓青木氏にとって危機存亡の大変苦しい時期であつた。

又、母方の渡来人との遠慮と上記の皇族一族に対する遠慮もあり、既に存在する第7世以降の皇族外れの一族の(坂東に定住していた)平族(たいらぞく)とも掛け合わせて、この氏(ひらぞく)を採用して賜姓したとのである。
(史書によるとこの二つの氏をこの様に呼び分けていたとある)

九州南部薩摩の地方に”阿多”という地名がある。ここに初期の拠点を置いていた可能性がある。

この九州地域に居た第3、4集団と第6、7集団はこの移民の漢民族を積極的に引き入れ且つ融和を図った。
それは余りにも高度の生活能力を持つた民族に対して、その文明を取り入れて自らの生活能力を得ようとしてその配下に入ったのである。
この時、朝廷から派遣されていた官僚伴氏などはこの民族との融和を図り血縁的な結びつきを持ち、この民族を背景に勢力を伸ばし、土地の地名を採って肝付氏と名乗ったのである。(後に島津氏との勢力争い1450年頃に敗れる)

この民族には優れた軍事集団や高い生産技能の集団を引き連れていた。
その集団は「部」という集団で統制されていた。
この集団の子孫が各地に定着し、この民族は融和を積極的に図り、土地に根付いた勢力集団と成っていた。そして次から次えと入国する民を今度は中国地方へと移していった。
この中国地方も阿多倍の引き連れてきた技能集団の陶部の一団が大和へと進行するにつれて同様に融和を図り制圧して行った。
この地方を陶部の陶族が瀬戸内海と陸を長期に渡って統治した。(後に毛利氏に敗れる)
そして、阿多倍の一団は更に進み関西に至る。
朝廷は次から次えと入国する一団に対して、中部地方より以北の未開地の山間部に入植させた。

彼等には背の高い優秀な馬を飼育する馬部の特技と、それらを加工して食品にする技能や、渋のある山の産物を加工して保存して食品にする山部の特技や綿を繊維にして衣類を作る技能の織部など持っていた。この特技で加工し多くものを海辺に運び、海辺では磯部、海部、等の集団を配置し、高い技能で加工した海の産物を、この山の産物との交換を図りの生活が成り立つ様な新しい経済的な生活習慣システムを確立したのである。(詳しくは研究室レポート参照)
其れまでにはなかった経済システムである。
この後は部経済が確立し朝廷はこの部経済を管理管轄する官僚を国造(くにのみやつこ)として配置して管理した。
この当時の改新の一番大きな改革であった。

其れまで難しかった中部地方の美濃、信濃、甲斐国での山間部の開拓はこの様にして著しい速度で進んだ。
この移民のピークは、時代的に奈良時代の中大兄皇子(孝徳天皇期)の大化の改新の前後である。
大化の改新はこの第4段階の影響を大きく受けた。
大化の改新はこれ等の背景の中で行われたのである。

それまでは、蘇我氏はこの阿多倍の集団の軍事集団と技能集団と政治経済の官僚集団を管理管轄していたのである。この結果、軍事で他を威圧し、この集団から上がる利益を獲得し、朝廷をも官僚を操作する事で牛耳り、遂には第3集団の朝鮮系渡来族の応仁大王から始まった天皇家をも奪い採ろうとしていた。

皇族系の武内宿禰から出たといわれる蘇我氏という一族を通して、大化の改新の時代背景はこの第4段階の移動が後ろに大きく働いていたのである。
蘇我氏は崇淳天皇をこの阿多倍の武装集団の漢氏(東漢氏)に命じて殺害し、次には聖徳太子の一族をもこの集団によって根絶やしにし命じて抹殺させたのである。

中大兄皇子でなくても次はだれであるかは推測は大よそは付くものである。
私は中大兄皇子が23年間も天皇に付かなかった理由の主な事は、日本書紀では謙譲の美徳の委譲としているが、そんな生易しい時代の背景ではなかった。
この背景があり蘇我宗家は潰れたとは云えまだ依然として蘇我一族は生残っていた事と、この武装集団と阿多倍の一族の出方が明確に掴めかった事では無かったかと考える。

だから即位は確実に周囲の動向が明確に掴めて、又この反勢力を潰したことにより死の直前の3年前となつたのであろう。それだけに蘇我氏の血を引く兄の古人皇子を抹殺もしたほどに、非常に用心深く緻密に行動する人物であったと伝えられている。このことは日本書紀でも覗える。

孝徳天皇を前面におしだしての戦略であつた。
その証拠に都を移すことに付いて孝徳天皇を旧の宮に一人放置したことでもあきらかである。

しかし、朝廷はこの阿多倍には敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘との婚姻を進め准大臣に任じ、政治経済の阿多倍の実務集団を官僚として使い、軍事集団は婚姻を結んだ阿多倍の長男(坂上氏)に任せ、朝廷の役務の3蔵のうちの2蔵までを任せ、阿多倍の3人の子供には賜姓を授けて、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏とした。(3蔵とは斎蔵と大蔵と内蔵である)
歴史的には藤原氏の貢献といわれているがは比べ物にならない。藤原氏の政治的貢献の否定者はこの一族背景を判断してのことである。
確かに後には斎蔵の役務柄無いでの摂関家としては貢献したが、国を大きく変えるほどではない。
この阿多倍の一団の貢献は京平家の5代後の清盛までとすると鎌倉期直前までとなる。(1185年)
この鎌倉期では同じく藤原氏も同じく北家藤原氏の摂関家一族は衰退したのである。このことを考えれば確かに藤原氏貢献は小さい。

阿多倍集団は軍事と2蔵であるので朝廷の4職務の内、遂には3/4はこの阿多倍一族の手中に入れたのである。つまり、朝廷は懐柔策に出たと見る。

この長男の坂上氏が征夷大将軍となり、蘇我氏に出来なかったことを坂上田村麻呂として第1と2集団の蝦夷(えぞ)の征夷を果たし大和の国の覇権を遂に果たしたのである。

朝廷は、朝廷外では山間部でのこの阿多倍の一団の働きの結果で、財政的な根拠が高まり、国の安定は進みより強固になつたのである。

この状況を確実なものにする為もあり、信用の置ける第6位の皇子を賜姓して
臣籍し、青木氏による武装の親衛隊を造り、この開拓された山間部の3国に配置し護ったのである。(天皇5代に渡り続く)
この国は地形的にも都を護る防護線上にもあり、且つ、最早開拓にて主要な穀倉地ともなり、軍事経済の要ともなったのである。
伊勢国と近江国と合わせて、この朝廷の要とも言えるこの3国の土地を護る必要に迫られてのことで、これが賜姓青木氏と系列の青木氏(23氏程度に広がった)の中部地方以西に多く存在する理由と成ったのである。

日本書紀によると青木氏と阿多倍の技能集団を再三に呼び出し、この3国の者たちに調役の免と不輪、不入の権の申請を認めて保護している事が書かれている。

又、同時に、その国に大隈に居た首魁の阿多倍を呼び出して、この阿多倍の首魁には伊勢の国の北部を分割して伊賀国をつくり、ここに住まわせ立ち入り禁止区域にし不輪、不入の権を与えて半国守護扱いをしている。
(後に阿多倍の子孫の平の維衡に国司に任じている)

皮肉にも、この伊勢の国は伊勢王として第6位の施基皇子を配置し守護として護らせている国でもある。

この様な次ぎから次えと、朝廷内とこの集団にあらゆる懐柔策の手を打ち安定したところで即位して3年後に天武天皇に引き渡しているのである。
この朝廷の役務の3/4を獲得した阿多倍の一族は融和を図りながらも、更に勢力を増し、遂には平安初期には関西以西を殆ど制圧する32/66国の勢力となつたのである。
そしてこの勢いは1185年まで続くのであるが、此れ以後、国は富みて、依然として大量に進入する侵入者に対してこの阿多倍の一族が排除して許さなかったのである。

大和の国はこの辺が民族的に、人口的に、経済的に、外国との軍事的な背景も考慮して限界であったと見られる。その為に、そのことを成し遂げられるこの味方に引き入れた渡来系の一族に護らせるのが最適であると判断して九州全土を領国として与えたのであろう。

この第4段階の阿多倍の一団は、その後、九州全土の一切の政治、軍事、経済の3権限を任されて、「遠の朝廷」と呼ばれ、更に「錦の御旗」を受けたただ一つの一族であつた。あらゆる書物に出て来る「大蔵種材」と言う武勇日本一と謡われ、個人に「錦の御旗」を授かった歴史上のただ一人の人物を生み出し、九州を護っている。

この九州は大蔵氏が護り、鎌倉前まで太宰大監として大宰府に国府を置き護った。その後、永嶋氏と変名して依然として鎌倉以後も勢力を保つたのである。
この九州全土には融和して大蔵氏、永嶋氏一族の血筋を引きくまなく各地に殆どの人々といって良い程に存在する。

実は筆者の妻もこの一族の血を引く支流の末裔である。村全体が同姓である。
そして、皮肉にも筆者の祖先の伊勢の青木氏はこの過去平安期にはこの一族とは宿敵であつたのである。このことを思えば融和は判別が不可能なくらいに進み、日本の民族は7つの人の類の集団と後の3つの民族の移動によって融和による単一化民族となつたのである。今の筆者の家庭を見てもあきらかである。
未だ、21世紀になっても日本を除く中国朝鮮に及ばず殆どの国は種族の住み分けで未だ暮らしている始末である。

そして、この大和の国の7つの人の類の国は世界の第2の国力を持つに至っている。此れは7つの交配の優勢遺伝による民族の進化の証明でもある。
この進化の一躍を大きく担ったのは何をか云わんや誉れ高き我が2系列の青木氏である。

阿多倍一団とのこの過程の中では互いに敵対する大きな歴史の流れがあつたが融和で解決している事実を見逃してはならない。
そして、この青木氏一族は特に賜姓族の青木氏は直系5氏と直流5氏と支流と分流15氏の末裔が未だ一つ欠けること無く存在している事が確認出来ていることはすばらしきことである。
そして、藤原秀郷の青木氏は直系1氏と直流4氏と支流5氏と分流116氏の
末裔の存在が確認されている事も子孫繁栄のすばらしき証である。

この奈良の古から続くこの2系列の青木氏は日本民族の子孫繁栄のパラメーターである。
この様に日本民族の発祥は7つの人の類と4段階の移民とによって概して平和裏に融和が行われたのである。
この人の類の割合は上記のレポートでの内容から大よそ理解できるのではないかと考えて特記しない。
(司馬遼太郎氏らはこの割合を事前に言い当てているのである)
以上 終わり

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