青木氏のルーツ & 雑学研究室

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◆-初めまして。Re: 初めまして。
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No.172
初めまして。
172編集 追加
初めまして、自分の先祖のことが以前から気になっていて、色々検索してたらこちらのサイトを見つけたので、投稿させてもらいました。
数年前、祖父が亡くなったときに、仏壇から何代か前の先祖の名前が書いてある札がでてきて、その札に安政の年号が書いてありました。それで先祖のことが知りたくなったのがきっかけです。
私は現在大阪市在住ですが、父の故郷は福井県です。
お墓も菩提寺も福井市にあります。宗派は浄土真宗です。
家紋ですが、下がり藤らしいです。らしいですというのは、父の話によると昔お墓を立て替えようとしたとき、前のお墓に入っていた家紋が、風化などで解りにくくなっていて判別できなかったそうです。しかも菩提寺が昔火事になって、過去帳などの資料が無くなってしまったということです。ですので、父の記憶でしか解りません。以前調べたら下がり藤の家紋と青木家との関係を見つけられなかったので、父の記憶違いかなと思ってたのですが、こちらのサイトを見たら下がり藤の家紋は藤原氏に関係があるそうですが、やはり私の家系は藤原氏に通じるのでしょうか?宜しくお願いします。
No.173
Re: 初めまして。
173編集 追加
>初めまして、自分の先祖のことが以前から気になっていて、色々検索してたらこちらのサイトを見つけたので、投稿させてもらいました。
>数年前、祖父が亡くなったときに、仏壇から何代か前の先祖の名前が書いてある札がでてきて、その札に安政の年号が書いてありました。それで先祖のことが知りたくなったのがきっかけです。
>私は現在大阪市在住ですが、父の故郷は福井県です。
>お墓も菩提寺も福井市にあります。宗派は浄土真宗です。
>家紋ですが、下がり藤らしいです。らしいですというのは、父の話によると昔お墓を立て替えようとしたとき、前のお墓に入っていた家紋が、風化などで解りにくくなっていて判別できなかったそうです。しかも菩提寺が昔火事になって、過去帳などの資料が無くなってしまったということです。ですので、父の記憶でしか解りません。以前調べたら下がり藤の家紋と青木家との関係を見つけられなかったので、父の記憶違いかなと思ってたのですが、こちらのサイトを見たら下がり藤の家紋は藤原氏に関係があるそうですが、やはり私の家系は藤原氏に通じるのでしょうか?宜しくお願いします。
大阪の青木さん 今日は。
お尋ねの件ですが、次ぎの情報に基づき検証致しますので御了解ください。

第1番目は故郷は福井県で菩提寺がある事。
第2番目は浄土真宗である事。
第3番目は下がり藤紋である事。

以上と思いますが、福井県のどの辺か判りましたら教えて下さい。
実は福井県は昔の越前の国と若狭の国と加賀の国と国が一つでした。
途中でこの地域が3つに分けられましたので、越前を真ん中に左の若狭国、右の加賀国のこのどちらの地域になるでしょうか。

さて青木氏は主に二つの発祥から出ています。
1つは皇族賜姓青木氏、2つは藤原秀郷流青木氏です。

これ以外に第3の青木氏があります。この第3の青木氏は明治初期に苗字を持たない一般の庶民が明治政府の指示に基づき寺か神社に依頼してつけてもらう事が起こりました。この時、青木姓は平安初期の嵯峨天皇期に青木氏を皇族関係者以外に名乗ることを禁止しました。(770年頃)
この禁令は江戸期まで守られれましたので、日本国内で最も高位の氏姓でした。
そこで、この高位の姓にあやかるために金持ちはこの青木姓を付けてもらうために高学の金品を贈り、姓と偽の系譜を作ってもらと云う現象が起こりました。此れが第三の青木氏です。しかし、この青木氏には歴史上の矛盾が起こりますので見破ることは出来ます。

これ等のことに付いては研究室の藤原秀郷流青木氏の生き方とか賜姓皇族の青木氏のレポートを沢山投稿していますので、詳細は時間をかけてじっくりと是非ここをお読みください。全てのことがお判りになるでしょう。

先ず、お家の青木氏ですが、結論から申し上げますと、藤原秀郷流青木氏です。其れも直系の藤原秀郷流青木氏です。
藤原秀郷流青木氏は次ぎの九つの氏から発祥しています。
直系の1氏の青木氏、直流の4氏の青木氏、支流の4氏の青木氏の以上9氏です。
この9氏から分流してなんと116氏に子孫を広げています。
藤原秀郷流の青木氏はある特徴ある法則で子孫を拡大しているのです。
(研究室のレポート参照)
この研究室にはこの116氏の青木氏からのルーツ依頼がたくさん寄せられています。研究室のこの依頼の内容もお読みください。皇族賜姓青木氏を除く殆どは藤原秀郷流青木氏です。

そこで、そもそも藤原秀郷流青木氏とは何者なのかという事ですが、詳細は研究室のレポートを参照して頂きます様に。)大まかにご説明いたしますと、
藤原鎌足と言う人物はご存知でしようが大化改新で中大兄皇子と共に蘇我の入鹿を討ち、政権を天皇家に取り戻した人です。
この鎌足から8代目にあたり、藤原四家(北家、式家、京家、南家)のうち最も勢力のあった北家筋の者です。
この秀郷は下野国の押領使(警察と軍隊)でありましたが、此処で「平の将門の乱」が起こります。
この乱を平の貞盛と共にこの3年も続いた乱を鎮めます。
この勲功で朝廷より下野と武蔵の国の守護になり、なおかつ貴族に成ります。
貴族に成りますと自らは武力を使うことは許されません。
そこで、自分の子供の第3番目の千国という者にこの侍の任務を与えて武士にし、藤原秀郷の護衛軍団を作り専門の任務を与えました。
そして、この者に青木氏と言う氏を与えました。

ここで、上記した嵯峨天皇の禁令に反しますが、朝廷は特別に許可します。
その理由は、大化改新の蘇我氏への反省から、天皇を自ら守る護衛軍団を天皇の第6位目の皇子に近衛侍にして臣下させてその任務を与えました。
さして、この者(施基皇子)に氏を与え青木氏としたのです。最初は勿論天智天皇です。伊勢王となり伊勢青木氏を発祥させたのが最初でした。
その後、この方式は4代に続いて実行されます。
天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の以上の5天皇の時に第6位皇子を青木氏としました。これがもう一方の皇族賜姓青木氏です。
この青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護王として朝廷にとって主要な土地の護衛任務(天領地)を担い京の天皇を守る役として務めました。

この方式に習って藤原秀郷は青木氏を発祥させたのです。
その天皇が許した根拠はこれ等の氏は賜姓青木氏の母方は全て藤原氏で秀郷の血筋とが同じ藤原氏であるからです。(伊勢の青木氏を除く)

この藤原秀郷の千国から青木氏か゜次第に増えて上記した116氏にも拡大したのです。
この拡大した青木氏の直系青木氏がお家のルーツです。
何故ならば、藤原氏は本来は家紋は「下がり藤紋」なのですが、下がると言う意味を嫌い、多くの藤原氏は上り藤紋などの家紋に変更しました。
しかし、北家筋の藤原秀郷は頑固にもこの「下がり藤紋」を固持して、その力を全国に誇示しました。
この「下がり藤紋」を使用した藤原秀郷は次ぎの2系列から発祥しており、第4代目の文行系と兼光系からです。藤原秀郷主要5氏といいます。
文行系は進藤氏と長谷川氏の2氏です。
兼光系は青木氏と永嶋氏と長沼氏の3氏です。
(詳細は研究室のレポート参照)
藤原秀郷流青木氏は兼光系から出ていますが、これは4代目のところで男系が直系の千国系の青木氏に途切れて、総宗本家の兼光の一族からこの青木氏に跡目を入れて青木氏を継ぎます。更に、17代目で同じ兼光系青木氏の男系が途切れることになり、再び、総宗本家から行久成る者が跡目に入ります。
この様にして時代的に拡大した青木氏は主要9氏となり、上記した青木氏が発祥したのです。
お家はこの内の直系千国系の青木氏か、直流系の4氏の青木氏かですが、下がり藤紋を使用していたとすると、この直系の青木氏の血筋を引いている分家筋と云う事になります。
(直系の青木氏の本家筋は武蔵の国の入間郡に定住しています)

藤原秀郷の青木氏は総宗本家の朝廷からの命により代々赴任地を24地となり務めていますが、この時必ず青木氏が護衛軍の任務を負い赴任地に付き従います。当然お家の直系青木氏の分家筋の青木氏も赴任地に赴きます。
そして、その土地に嫡男以外の分家になる者がに根付きました。
これがお家の直系青木氏の分家筋の更に越前の赴任地に根付いた青木氏であります。
お家の嫡子に成る者は赴任地より本国を守り護衛役の子孫を作り出す役目から武蔵の国に戻ります。本家筋と共に武蔵の入間郡を護衛します。
藤原秀郷の総宗本家の一族(公家)の入間郡を中心にして神奈川横浜までの半径を描く関東の範囲にこの青木氏の9氏の本家筋が分担して守りについて居たのです。外側になるほどに支流の本家筋が護っていました。

藤原秀郷の総宗本家の者が越前に赴いたのは次ぎの者です。
藤原為延(守護)と藤原伊傳(押領使)の二人の越前、加賀の守護として藤原吉信(守護)と藤原忠頼の親子とその3代一族(押領使)と藤原想頼(守護)の三人です。吉信と伊傳と忠頼と為延は親子孫の関系にあり、更に忠頼の子供の3代も続き務めました。

ここで、計7代人のどの者につき従ったかのかと云う事です。
それがどの付近の土地に定住していたかと言う事につながります。

直系の青木氏一族筋が護衛役として時代性から観て付き従えるのは藤原吉信一族ではと考えられますが情報がないので確定は出来ません。7代も続いたのでこの一族に従い代々直系青木氏の分家筋が定住もしたことには間違いないと考えます。
直系の一族で家紋を継げるには嫡子以外に分家しても本流ではないので、「家紋掟」では本来は「下がり藤紋」になんらかの細工や丸付きにするなどをする必要があります。
跡目の嫡子の本家の許可があれば本家筋の血筋を絶やさない意味からもこの家紋を引き継ぐ事は出来るのです。
従ってお家は越前に居ながらにして「下がり藤紋」を継いだものと考えられます。
つまり、この事は当時の家紋掟の慣習から次ぎのことを意味します。
お家の直系青木本家筋とは妾腹ではなく、本妻同腹の分家であった事を意味します。つまり此れも直系の直系として意味するところです。

妾腹の子供は普通は本妻腹に男系の子供がいない場合か、嫡子として適さない場合を除き分家か支流化して家紋を丸付きにするか、蔭紋にするか細工するかして家紋を作ります。
藤原秀郷流青木氏の116氏まで子孫を増やした理由の一つは此処にもあり、またその役目にもあり、総宗本家の戦略でもありました。その流れの中での一つとして、そして、越前での本家筋としてここまできたのではと検証します。

念の為に、この越前付近岐阜県境には、皇族賜姓青木氏とその血筋を持つ土地の豪族の土岐氏との血縁による土岐氏系青木氏の2氏も住み分けして存在します。
大変青木氏の多い土地柄です。

宗派の件ですが、本来は藤原秀郷青木氏一族は浄土宗です。
浄土宗は特定の高位の氏が入信を許される宗派です。
お家は親鸞上人の浄土真宗であるのですが、特定の氏を限定するので各赴任地にはこのお寺が無く各地に赴任した青木氏は止む無く他宗に入りました。
浄土宗は特に江戸時代から徳川幕府の推奨で拡大した宗派です。
この越前には浄土宗寺がありますが、当時はなかったのではないかと想います。
時代的には越前と加賀に赴いたのは早い時期(950-1000年頃)であるので浄土寺がないのは直系の所以とするところです。
そこで後から出た来た浄土宗に近い親鸞の宗派に宗派変えをしたのではと推測します。

以上、先ずは研究室の藤原秀郷一族関係のレポートを根気良く楽しんで毎日すこしづつでもお読みください。

次第にお家の過去のご先祖の生き様がお判りいただけると想います。
今ある自分は過去の自分の引継ぎであると言う人間本来のこの世に命を授けられた目的を基にご先祖を我々と共に青木一族としてこれからもお守りください。

何でも結構ですから、ご質問なり有りましたらご遠慮なくお尋ね下さい。

越前のどの地域にお住まいかの事と宗派変えのことに付いてお調べください。
また、ちょっとしたことでもヒントに繋がるものですのでお尋ねください。

下がり藤の家紋は家紋掲示板に掲示してあります。
No.174
Re: 初めまして。
174編集 追加
詳細なご回答ありがとうございました。

福井のどのへんに住んでいたのかは、父に確認して分かりましたら書き込みたいと思います。

自分の先祖が藤原氏に繋がっていてたなんて、それも藤原秀郷の直系だということで、ますます先祖のことに興味が沸いてきました。自分でも少しずつ調べていこうと思います。

本当にありがとうございました。
No.179
Re:
179編集 追加
お久しぶりです。
今日久々に実家に行ったので父に住んでいたところの事を聞いてみました。
それによると、父が小さい頃に住んでいたのは下細江というところだそうです。そこに代々住んでいたかどうかは分からないとの事でした。
只曾祖父の代までそこで織物工場をしていてそうです。お墓もその近くにあるので、代々住んでいたのではないかと思います。

いろいろと話を聞いてみたのですが、父の子供の頃なので、大分忘れているようであやふやな感じですが、これで参考になりますでしょうか?

宜しくお願い致します。
No.180
Re:
180編集 追加
>お久しぶりです。
>今日久々に実家に行ったので父に住んでいたところの事を聞いてみました。
>それによると、父が小さい頃に住んでいたのは下細江というところだそうです。そこに代々住んでいたかどうかは分からないとの事でした。
>只曾祖父の代までそこで織物工場をしていてそうです。お墓もその近くにあるので、代々住んでいたのではないかと思います。
>
>いろいろと話を聞いてみたのですが、父の子供の頃なので、大分忘れているようであやふやな感じですが、これで参考になりますでしょうか?
>
>宜しくお願い致します。
今日は、お久しぶりです。
藤原秀郷流青木氏の「下がり藤紋」直系の青木さん。貴重な情報を頂き有難うございます。

「下細江」との事ですが、この地は真に越前の国の中心地です。j
そしてこの付近に国府の役所がおかれて政治を行っていました。
その中心の土地で県庁所在地の中心です。

この情報にて藤原秀郷総宗本家のこの地に赴いた人物が絞られてきます。
次ぎの二人です。
この地には藤原為延と伊傳が赴きました。
為延は守護として、伊傳は押領使(軍事と警察)として、この国府に入りました。
他の若狭よりと加賀よりとでは違ってきますので確定できます。
先ずこの二人ですが、青木氏の家の役目は護衛役ですので、この点から考えても伊傳ではとも考えます。
前レポートにも書きましたが、伊傳の子孫も引き継いでこの地の役目を担っていますので定住してこの地に役目として残った事が裏付けられます。
為延の親子孫の3代で務めていますので二人のうちのどちらとも決定せずとも
お家の役目はこの3人の親子孫の3代の護衛役として代々務めたと考えられます。
逆に、この国府の土地の3代も続いた役目から見ても、藤原秀郷流青木氏の直系の青木氏である事が裏付けられる事にも成ります。

後に、越前の国から分離した隣の加賀の国の4代の藤原氏も越前の二人の子孫ですので、当然にその越前の国府のあるところの護衛役は青木氏の本家筋が守っていたことは明らかです。

そう云うことになってきますと、長期間で代々務めていますのでこの付近に菩提寺を造っていた筈です。
それがなんらかの理由で焼失(室町の戦国時代から第2次大戦までの間で)して、又は寺自体が真宗に変宗したこともある筈です。

お家のその菩提寺の歴史をお調べになると何かわかるかもしれません。
インターネットで(例えば「e-寺見物」)のサイトでも調べられるとも思います。

この菩提寺(昔は戸籍簿の役目は寺と神社が果たしていた)で、ルーツのご先祖の名前もつかめますので、どこまでの時代の人の名前を掴むことが出来るかでも判るはずです。つかめたところまでが、子先祖に何かが起こった区切りでもあります。

兎も角も検証は確定しました。為延と伊傳に付き従った藤原秀郷流直系青木氏(青木氏9氏中の千国直系)での分家筋であります。

又、なんらかの情報がつかめましたらご遠慮なくお知らせください。では。
No.181
Re:
181編集 追加
お返事有難うございました。

ますます先祖の事に興味が沸いてきました。
福井に行く機械があれば、色んな事を自分でも調べてみようと思います。

また何か情報が入れば、ご質問させてもらいますので、そのときは宜しくお願い致します。

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