青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.212
Re: 四つ又抱き角紋の狩野氏
212編集 追加
>初めまして神奈川県在住の 狩野 (かりの)と申します。
>我が家の紋が御サイト題11/33番目の 四つ又抱き角と
>同じなのですが つながりはありますでしょうか。曾爺さんから父
>の生まれは宮城県です。
代理投稿します。

狩野さん。始めまして。当サイトをご覧いただき有難うございます。
今後ともよろしくお願いします。

さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、この鹿角紋に付いては元は戦国時代に兜の前立ちにつけた飾りで勇壮であるので用いられたものです。
信長に切腹を命じられた家康の長男の松平清康の家来近藤乗直という者が狩の途中で鹿と組討し角を持ってねじ伏せて角を裂いたことで有名になりこの角を家紋として清康から賜ったという逸話があります。

しかし、既にお読みになつた事と思いますが、この紋の「抱き角」紋は平安初期から
甲斐の国に奈良時代から定住していた中国後漢の国(光武帝)から21代目の献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王が引き連れた17県民(200万人)が大和の国の九州に上陸し帰化しました。大化の改新の頃の孝徳天皇の頃からです。
瞬く間に全土を無戦で制圧しました。次第に上陸した一団は関西まで制圧して土地の者と同化して勢力を持ち当時日本全国数は66ありましたが33までこの一族が制圧してしまいます。この一団の長の5代の末裔が平清盛です。
奈良期の頃には外来馬を飼育して甲斐の国に入植して開拓しました。
この子孫がこの「抱き角」紋の諏訪族です。この入植した一団と国を守護するために光仁天皇の第6位皇子が青木姓を天皇から賜り甲斐王としてこの地に赴任しました。この皇族賜姓青木氏と土地の諏訪族との間で血縁関係が興り子孫が諏訪族青木氏をが発祥させました。
この後に陸奥の国から武田氏が藤原氏を護衛してこの地にはいり、勢力を得て諏訪族を吸収しようとしましたが、この一族には朝廷より不入と不倫の権が与えられていたので武力による吸収は出来ずに結果として政略結婚にて吸収して甲斐を制圧しました。
当然に武田氏と皇族賜姓青木氏とも血縁を持ち、皇族賜姓源氏とも血縁を持ちました。
この諏訪一族の家紋が抱き角紋で22の紋様があり、この内18が抱き角紋(諏訪族系)です。(残りが徳川の家来の近藤氏の家紋です。)
この一族は分家支流共に角の一部を変えて家紋としました。

諏訪族支流のこの「四つ又抱き角」紋も、青木氏は諏訪族と血縁を持ち男系継承不可となり諏訪族から養子の跡目をとり、姓はそのままに家紋は家紋掟によりこの四つ又抱き角紋としたものです。、諏訪族青木氏か皇族賜姓青木氏かの一部のどちらかがこの紋様になつたのです。本来は本家は笹竜胆紋です。

お家の狩野氏はこの諏訪族の他の支流の一族との血縁を持ち男系継承不可(養子)から家紋掟により狩野氏(養子先姓)の姓を引き継いだものと考えられます。諏訪族には他に多くの姓の氏があると思います。

甲斐の3つの青木氏とは間接的に縁者ですがまったく血縁関係が有りません。
当時は氏家制度の中での身分や家柄を中心として血縁しますので、氏として残るには必然的に限定されてきます。

よって青木氏にとっては掟外の血縁は氏としてはのこらず「妾」としての扱いで氏を名乗ることは許されません。
血筋を守る為に当時はこのような認可は総宗本家に届け出て認可される仕組みです。

甲斐では武田氏と諏訪族の二つが血縁関係の相手となります。
「家紋掟」は徳川時代まで維持されました。家紋と氏姓はこの掟により決まりました。

青木氏系は皇族賜姓青木氏は5家5流24氏になります。(藤原秀郷流青木氏は116氏)この中には狩野氏との何れも血縁はありません。

諏訪族の支流の末裔と見られますが、戦国時代を経ていますし、専門外ですので確定は困難です。

狩野氏は甲斐国の出で徳川氏の御家人と見られます。
この御家人は家康が武田氏が信長に滅ぼされた時に勇猛果敢な武田系諏訪族をそっくり家臣にしました。(諏訪族青木氏を除く)

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