青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.248
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>お久しぶりです。新たな発見がありましたので報告します。それは25年位前までもう一つお墓があったそうです。それは江戸後期から明治にかけて作られたらしいですが、宗派が日蓮宗ではないとのことです。場所は東京近郊だそうです。そう言われれば幼少の時に連れられた記憶があります。ただそれ以上の詳しいことは教えてくれませんでした・・・水戸のお墓は江戸時代からあったそうです。水戸の方の時代ははっきりしませんのでいつ作られたか正確ではありません。お家に2つお墓があるのは良くないということで古い水戸のお墓にまとめたそうです。もしかしたらそれ以前の菩提寺があるのかもしれませんね?彦根藩(これは私がしっかり記憶してませんでした)から養子を迎えたりお家存続のために色々苦労があったと聞かされました。空襲でかなりの資料が焼失し情報が不足しているみたいです。

水戸の青木さん。お元気ですか。お久しぶりです。
さて、お墓の件ですが、お墓が2つある事は良くある事です。
特に浄土宗は非常に少ない限られた家柄の者が入信を許される宗派で、藤原秀郷流青木氏は宗家の赴任先に護衛役として移動しますので、そこで定住しますと浄土宗のお寺が殆ど無いのが現実でした。そこで、止む無く浄土真宗か日蓮宗を利用する以外にありませんでした。

浄土宗は江戸初期に幕府が特に奨励してこの浄土宗のお寺を増やしました。
やつと、江戸後期くらいになって各地にお寺が出来る様になりました。それでも他の宗派に比べて少ないのが現状です。

多分、お家はこの為に江戸付近に多くある浄土宗のお寺に墓を移動したのではと思います。藤原秀郷流青木氏はの多くは24の各地に定住していましたが、鎌倉幕府が出来て藤原氏一門はその職を失い、多くは武蔵や下野国等の一族が居たところに戻りました。その為に墓が二つあるお家が多いのです。

これが第一段階で、更に戦国時代から室町後期で再び藤原秀郷流青木氏を始めとして藤原一門は再び離散して各地の大名に仕官しました。
この時にも墓をその地に設けることをしました。このように藤原秀郷一門の宿命的な事が現状でした。

お家は水戸に仕官した一族でしたから江戸後期には江戸に移動して幸いに浄土宗のお寺が幕府の奨励で多かったのでお墓を浄土宗のお寺に戻したと見られます。
お家は以前のレポートでも記述しましたが、藤原秀郷流の青木氏でこの内、揚羽蝶の家紋の丸つき紋でしたから、青木正命をご先祖とする一族ですが、
この一族は結城藤原氏の護衛役を任務としていました。

その後に元の領国の結城の土地に定住していたお家が土地の徳川水戸藩に仕官した事に成ります。

以前にレポートでも記述しましたが、千葉の結城地方には必ず菩提寺があると思います。
地名/地形データーベースの千葉の安房郡富浦町青木村のところを一読下さい

多分、お家のご先祖とその縁者関係がここに青木村を形成しています。
必ずこの土地付近にあると見られますので参考までお調べください。

現代の件と違いまだ家という考えが強かった時代ですので、跡目の件は男系跡目が出来ずに苦労するのがどこでもある事ですが、藤原一門は家柄などの吊りあいもあり更に難しく成ります。その都度、男系の跡目相続が出来ないで家紋を変紋せざるを得ないことが起こりました。

兎も角も宗派も確認出来ていますので、後は菩提寺の調査です。

資料の件は藤原秀郷一門は下克上で全く標的にされましたので資料は少ないのと戦後の混乱で少ないのが現状です。

又何か有りましたらお便りください。お待ちしています。

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