青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.67
Re: 賜姓青木氏の弱体-2
67編集 追加
賜姓青木氏の守護地の甲斐、信濃、美濃、伊勢の4つ国には清和源氏の頼光系と頼信系の子孫から賜姓青木氏に対して、期を同じくして跡目に入っている。これらには、一つのパターンがある。

伊勢以外の3つの国では頼信系のものが跡目になっている。
頼信より3代目の義光系の一族である。嫡男の義家ではない。
分家で甲斐は弟の源光、美濃は兄の時光、の嫡子外の者が跡目に。
甲斐の土着豪族の武田氏にも跡目に。
信濃には土着豪族の足利氏にも跡目に。
美濃には土着豪族の土岐氏にも跡目に。
これ等は分家で嫡子外であり、家紋は笹竜胆ではない。支流源氏である。娘の婚姻ではなく、男子の跡目の血縁をえらんでいる。
当時は男系家系であるのでより固めを強くする狙いがあり、源氏の支流となる事で一族を広めたと見られる。

賜姓3氏の青木氏と清和源氏の血縁作戦、土着豪族3氏と清和源氏の血縁作戦である。
そして、驚く事は、賜姓青木氏3氏と土着豪族の3氏との間でも血縁が結ばれている。つまり、土着豪族3氏系青木氏が生まれているのである。
(家紋違いの賜姓青木氏流青木氏となる。3氏の家来として系列下にはっているが)
完全な三つ巴の形である。この3つの国を完全に清和源氏を中心に固めたことを意味し、そして、同時期の1060頃と1160頃の2回に分けて実施されている。
3つ巴と云い、時期といい、明らかに戦略である。
そして、この時期は、源平の戦いの始まる前と始まる時期の二つにわけられる。
ここで、遂に、藤原秀郷流5氏とのつながりが出てくるのである。
上記の戦略が実行された時期を同じくして、清和源氏は藤原流丹治氏との間に血縁を結んでいるのである。
藤原秀郷流丹治氏系青木氏があるが、。この青木氏は皇族左大臣の島(真人姓)の末裔により皇族氏より臣下した場合は青木姓を名乗ると嵯峨期より令によって定められているので、丹治氏から分岐して青木氏を継承したものである。
中部を固め、藤原秀郷氏とも連携しながら、関東にも血縁を伸ばしたのである。
さて次は、5国の一つ近江国である。
ここは少し事情がある。天智天武期の第7位皇子の川島皇子が第6位皇子に準じて地名を採って特別に賜姓佐々木氏を授けた。
これが初代の佐々木氏である。この後に、1160年頃に清和源氏の源頼憲の子の盛綱がこの佐々木氏の跡目を継承して、初代となつている。そして、ここに光仁天皇(聖武天皇か)のときに賜姓青木氏を配置して守護としている。
つまり、初代佐々木氏の後に100年位たってここに賜姓青木氏を入れたと見られる。
この経過は次の通りである。
盛綱を初代とすると、賜姓佐々木氏は絶えた可能性があり、故にここに賜姓青木氏を置いたのではないか、そしてこの青木氏も一度近江を出ている。そこで盛綱を跡目に入れて継がせたものと見る。
戻った賜姓青木一族はこの佐々木氏との血縁を結び、佐々木流青木氏を作ったものであろう。
結論は、近江の国は清和源氏の盛綱が近江の賜姓青木氏の佐々木氏との同化により、佐々木氏の跡目を継いだことになる。時期は以仁王の乱の前の1160−1170年頃である。これで、全ての5国の血縁関係を結んで再び結束を強化して出直したのである。血縁体制が整ったところで、源氏の宗家の源の頼政(伊勢青木氏の元祖)が遂にたちあがり、源平の戦いの前哨戦となる「以仁王の乱」へと突入して行った。仲綱の子を跡目に入れた宗家の血筋を青木氏に移したとは云え、賜姓伊勢青木氏の最大の危機である。敗退し、伊勢青木氏は衰退する。しかし、4年後に頼朝が平家に勝利して、「関東管領」となり、「本領安堵策」を実施し、天領地としての伊勢領は再び戻る。しかし、150位後に「下克上の戦乱」が起こるのである。
5家賜姓青木氏はどなるのか。続く

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