青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.68
Re: 賜姓青木氏の弱体-3
68編集 追加
血縁的に3つ巴に連合を作り上げた5家の青木氏と清和源氏と土着豪族3氏(武田、足利、土岐)は関東には藤原秀郷との連携しながら坂東平氏の動向を押さえ込み、朝廷内では摂関家が監視して、以仁王の乱(1180)へと突入して行く。これに頼朝の背景となつている坂東八平氏は京平氏に味方せず源氏側に着いた。これは頼朝というよりは藤原秀郷一族のにらみが効いていたのではないか。

頼朝といえども御家人制度で結んでいるといってもあくまで平氏の集団である。「利のある方」に味方する筈。「利のある方」は渡来系の京平氏である。しかし、彼等には歴史が証明する一つの夢があつた。それは、皇族第7世のを子孫とする一族でありながら、しいたげられていた一族は坂東に独立国家を作ると言う夢である。
皮肉にも、藤原秀郷が乱を収めた平の将門の乱はこの夢の実現の戦いであり、同じく平の忠常の乱なども同じである。しかし、彼等にはこの夢の実現を成す大儀とその頭となる人物がない。勿論、源氏である。
しかし、そのチャンスが訪れた。「頼朝」である。
京平氏に味方するより、ここで頼政を中心とする「以仁王の乱」の勃発を利用することで夢が実現すると見たのです。
また、京平氏に味方するには大きなハンデイがあったのである。
それは、清和源氏と結んだ藤原秀郷の一族の押さえである。皮肉にも夢を潰された相手である。武蔵国と下野国の背後からの攻撃を受ける危険がある。勢力を拡大した藤原秀郷の一族では難しい。京平氏に味方したとしても夢は実現しない。そこで頼朝を旗頭にして源氏側に味方する方が利があると見た。そして、その後に、担いだ頼朝を倒す事で夢は実現すると考えた。
その証拠に1195年に頼朝は鷹狩の帰りに反吐を吐き、落馬して死んだと歴史は成っている。
薬草による毒殺である。その発端は「頼朝」が坂東平氏の反対を押し切って「本領安堵策」(旧来の領土を元の一族に戻す政策)を実行したことが反発の発端となつている。
何故反発したのか。
幕府を開いたが頼朝が自分たちの操作のうちに入らず、自分で勢いを得て政策を実行し始めたから。
弱く成っていた源氏の一族はこの「本領安堵策」で息を吹き返したので坂東平氏としては夢は遠のく。
更にこの一年後に二人の子供は暗殺される。歴史的に有名な事件である。これで利用した頼朝一族は無くなる事で執権として夢の実現が可能になつた。12年間の源平の乱の間に、これを証明するものがある。
義経は源氏の力を結集して平氏を倒すと言う考えに対して、頼朝はそれでは自分は危ない。しかし、全ての戦いは殆ど義経の源氏の力で勝利している。更に、大島の源氏が頼朝軍が背後の三浦湾から平家水軍に攻められそうになった時、4日の所を2日で三浦湾にたどり着き平家軍を殲滅した。又も源氏軍が勝利した。この大島源氏と
義経が坂東平氏と激論した。源氏主力で戦うかどうかでの議論である。夜間に大島源氏は襲われて逃げた。まだある。義経軍の監視役としていた坂東平氏の二人(梶原景時ら)が頼朝に送った讒言の手紙が発見されている。これ等は全て歴史事実である。結局は北条はじめ坂東八平氏が1196年以降政治の実権をにぎる。
このことで、又も、賜姓青木氏5家は極めて衰退する。伊勢青木氏は伊勢の守護を奪われる事になった。中立を守った北家藤原氏の藤原秀郷一族の9代目の基景が伊勢守護(1275年頃)に収まる。
「以仁王の乱」で敗退で衰退し、本領安堵で戻り、再び北条執権で
不可侵の伊勢も無視され、守護が又奪われた。伊勢青木氏はこれで遂に、生き延びるために「2足の草鞋」を実行したのである。続く

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