青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.70
Re: 賜姓青木氏の弱体-5
70編集 追加
賜姓伊勢青木氏は大化改新(645<668)で誕生してから前記したように何度も何度も歴史的な変化(乱)に依ってその宿命的な立場から危機に落ち至った。その度になんらかの救いで子孫は生き延びてきた。
しかし、血縁を結んだ一族(源氏や4家青木氏)はもう居ない。
自らの才覚で生きて行かなければ成らない。そこで、「2足の草鞋」の策を採用した。(1280年頃)
「2足の草鞋」策に付いて、この頃から、「下克上」が起こり始めた時期でもあり、家柄とか名誉とか慣習とかが次第に潰れて行く時期である。伊勢青木氏を始め5家の青木氏はこの3つの上に乗って生きていた事が多くの危機に巻き込まれて来たのである。
その土台が崩れた事を意味する。そこで、1/3に成った領土も維持することが困難になった。そこで、領国を監督すると言う立場から
伊勢青木氏は地場の産物を管理し扱っていたので、この立場を商いに変更する事を決断した。(1315年頃)
伊勢は古代より、伊勢北部から南部に架けて良質の和紙の産地であつた。又、綿も採れた。これは金に換えて税としていたのでこれを全国に売るルートを持っていた。この行政の行為を商いに換えたのである。
この頃から、後の室町文化の花が開き始めていた。この時代の変化の微妙なところを青木氏の長者は見抜いていたのであろう。
なぜなら、上記した「下克上」と言う逆の現象が起こり始めていた。まして、青木氏の土台を覆す上記の3つの現象が起こっている。この文化の前兆を読み取った。
ここて゜当時の治安状況に付いて、「商い」をする場合、誰でも出来るということではない。何故なら、「商いの品」を運ぶには、それなりの武力が必要であり、これなくしては絶対に出来ない。
これは守護と云う立場から十分な経験と実績がある。
当時は、戦いで潰された豪族が連携をとってシンジケートを作り上げていた。そして、この潰れた豪族の武士の生き延びる道はこのシンジケートに入る事で生き延びる事がで出来たのである。
例えば、後に起こる「南北朝の戦い」の主役の「楠木正成」はこのシンジケートの一人である。だから10万の軍に負けなかったのです。このシンジケートの撹乱戦法で敵を飢えさせ、多数の犠牲を払ったのである。
織田信長は周囲の国との戦いに勝つには鉄砲を入手しようとした。しかし、出来なかった。秀吉に話した。秀吉は蜂須賀小六の仲間に入って居た時にこのシンジケートの事を知っていた。信長はこのシンジケートに話を就けた。この時のシンジケートは神社の宮司であつた。堺の商人が秀吉をてこずらしたのは後ろに巨大なシンジケートがあったからである。家康もこの堺商人のシンジケートを知っていた。大きな経済活動はこのシンジケートとの繋がりを持たなければ絶対に「商い」はできない事が当時の事情であつた。

当時は山賊や海賊は全てこのシンジケートに入っていたのである。
土着の豪族であつた一族が潰されて生き延びる手段は「郷氏」(郷士は小さい族)に成って(村の長、庄屋、長者、名主に)表向きは「郷氏」裏はシンジケートの一員である。村全員が一員なのです。安全に物を作り、物を運び、物を売る経済活動にはこのシンジケートの力が無くては成らないのである。
伊勢青木氏は松阪商人として伊勢松阪で紙等を扱う豪商として片方で力を持った。
(NHKの4度の大河ドラマに伊勢松阪豪商紙屋長兵衛が登場した)
衰退した他の賜姓青木氏はこの「郷氏」になった筈である。又、潰れて行った豪族は「シンジケート」に入った。続く

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