青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.72
藤原秀郷一族の生き方
72編集 追加
皇族賜姓青木氏の弱点を記述しましたが、宿命的な立場から時代の変化に翻弄されて衰退と繁栄を繰り返し、遂には家柄と慣習と名誉を無視する「下克上」の時代で殆ど滅亡に落ち至った。
この3つのことが子孫を多く遺すということにも難しさがあつた。
必然的に、源氏などの同族との血縁を交わす事以外になかったことが時代に翻弄された原因なのである。幸いにして伊勢は天領地でもあり伊勢神宮という不可侵の地でもあつた事が幸いした事と、いち早くこの「3つのしがらみ」から脱皮して「族」に頼るのでは無く、「2足の草鞋」に切り替えたことが瀬戸際で生残れた二つの要件であつた。
他の近江、美濃、信濃、甲斐の賜姓青木氏は不幸にしてか現代から見ると最悪の状況を選んでしまったと云える。何か時代がその様に仕組んだかの様にドラマチックである。そのドラマチックな歴史上の人物の織田信長に4家全部が丁度申し合わせたかの様に、あの個性で打ち砕かれたのである。青木氏だけではなく、支流源氏の一族でさえ滅亡したのであるから。たとえ、伊勢の青木氏の様に「2足の草鞋」策で生き延びようとしても無理であっただろう。
ここで、信長の性格は比叡山の焼き討ちの例にもみる様に激しいものがあつたが、しかし、伊勢の地だけは無理であつたのではないかと想像する。
それは何故なのか。
一つは、大儀名文が立たなくなると見たのではないか。民衆の天皇と言うものに対しての感情がいくら「下克上」とは云えども許さなかったのではないか。現代に於いてでさえある事を思うと、仮に、幕府を作ったとしても支持が得られないと見ていたと考える。
その証拠に伊勢永嶋攻めの後の伊勢松阪攻めは信長の意を汲んだ秀吉であっも、蒲生氏郷なる人物を送り込んだという事も含めて、極めて温厚で緩やかであつたし、その後の扱いも含めて同様である。
この事が伊勢という土地柄の所以である。
そこで、この賜姓青木氏に対して、藤原秀郷流青木氏はどの様であったかに付いて興味を持つ。
そもそも、藤原鎌足から秀郷まで八代で315年程度の間であるが、誕生は大化改新という同じ時期である。
秀郷流青木氏の誕生は秀郷の子の第4子より青木氏を名乗らせると言う方式にしたのだが、この場合も賜姓青木氏と同じ理由による。
平の将門の乱の恩賞の一つの貴族にするという条件から自らが武装すると言うことは慣例より出来なくなる。
故に関東の藤原氏を護衛する武装集団を身内から作るという策から天智天武期の朝廷の方式の賜姓青木氏臣下策を同じ藤原氏の血筋を引くという事から、踏襲して生まれたものである。
つまり、どちらも時代は違えども同じ発祥源からである。
しかし、余りにも生き様は違う。この事に付いて次レポートから検証して見る。
続く。

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