青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.75
Re: 藤原秀郷一族の生き方-3
75編集 追加
生き方-2では3つの条件(家柄、慣習、名誉)は賜姓青木氏に勝るとも劣らずありながらも、361氏もの子孫を増やし、領国の守りも身内で周囲を固め、尚且つ、役目柄の赴任地には子孫を残してくるという戦略がみられ、賜姓青木氏と大きく異なるところである。
何はともあれ361氏の本流支流は別にしてもこれだけの一族を抱えることだけで、どんなことがあっても子孫は十分に遺す事は確実である。

世に当時は、中小の豪族は、「源平藤橘」といわれてこの傘下に入る事で一族の安全を図ると云う戦略が採った。
当時の氏は最大で1800程度に氏が拡大した。その原因は上記した戦略に大きく原因している。
その方法とは、荘園公領制の下で中小の豪族は自らの力で荘園を開発した場合、この荘園を周囲の勢力から守る為に名義上、勢力の大きな「領家」に寄進し、その勢力で守ってもらう方法を採った。
これには大寺社や中央貴族に名意義上の領主になってもらう事をした。更に、この大寺社や中央貴族は更に上の「本家」に預けると云う二重の方法を採った。この本家には天皇家や摂関家や上記の「源平籐橘」(源氏、平氏、藤原氏、橘氏)等に頼った。
この様に、「寄進系荘園」を各地で多く出来て、不輪の権や不入の権を得て、中小の豪族は身を守ったのである。このために、「氏」の発生が一挙に拡大したのである。
このような背景の中で、藤原氏は大きく勢力を伸ばして来た。
361氏は大きくはこの戦略に関わったことが原因していると思われる。
それは、家紋を見てみると戦国時代の終焉期の家紋200選の殆どが存在する事、そして、それ以外の小族の家紋も目立つ。
その結果、守護地やそれに近い役職やこの寄進系荘園を守る為に出した武装勢力が関東地方中心に西は遠くは北九州の豊後国、北は陸奥国まで17地方に及んでいる。
この戦略は経済的にも恵まれ、いざ戦いの時は大きな軍事力にもなる。当然に、この軍事力を保持するために青木氏などの直系、直流の一族が各地に分散し、藤原秀郷流の5氏の中でも最大の勢力の116氏にもなったのである。全てが上手く発展のサイクルが働いている。賜姓青木氏の千変万化の呈ではない。
ここにも大きな違いがある。

秀郷流青木氏の初代の祖の秀郷の子供の千国に始まり、17代後には青木氏の跡目を継いだ行久の直流の青木氏と、その4代目の行信の直流の青木氏の計4家が存在する。
鎌倉中期以後に出来た支流の青木氏の4家が存在する。
この計5家の青木氏を中心に支流の青木氏とあわせて九氏の青木氏から上記の戦略に絡んで116氏の青木氏へと繋がったのである。
この116氏の青木氏に対して、他の4氏の発祥期は秀郷から数えて進藤氏と長沼氏は約120−150年程度の後であるので、氏の数は少ないのである。秀郷の持つ青木氏の信頼度が垣間見ることが出来る。
寄進系荘園制の政治的な動きを大いに利用する戦略がレポート2で記した赴任地に子孫を残してくる戦略とあわせて相乗的効果として働いたのである。続く

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