青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.97
Re: 藤原秀郷一族の生き方-11
97編集 追加
藤原秀郷の青木氏の4氏の家紋が平氏の綜紋の「揚羽蝶」関係の家紋である理由が判明したが、次は永嶋氏の氏に付いて記することにする。
実に不思議な現象である。
以前のレポートでも記したが、兼光流には、長沼氏、青木氏、永嶋氏の3氏が主な一族がある。この永嶋氏が何故に藤原秀郷流にあるのかという疑問である。何故疑問なのかを述べる前に永嶋氏の構成を検証する。
永嶋氏は次の3つに発祥から分かれる。
1つ目は、渡来系阿多倍と敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘との間に出来た子供の次男は孝徳天皇より賜姓を受けて大蔵氏の氏を名乗る。
大蔵は朝廷の3大役職(3蔵)の一つの大蔵職から採って大蔵とした。(650―670年頃)
この大蔵氏が種秀より変名して大蔵氏から永嶋氏に変名した。
この時期は1200―1225年頃である。
阿多倍は帰化後、その絶大なる力で瞬くに九州全土を制圧し、その子孫は「遠の朝廷」と呼ばれて「錦の御旗」を与えられて3権(軍事、政治、経済)を以って「太宰大監」として統治した。
その後、中国地方、関西まで制圧して支配下にいれた。このことは軍事面のみならず技能、政治経済の面までも新しい知識を伝え国体の発展に大いに貢献した。遂に阿多倍は朝廷より呼び出されて伊勢北部伊賀の国を与えられた。桓武天皇から賜姓を受けて貞盛より始まるこの子孫が渡来系京平氏である。
(桓武天皇の母は高野新笠と言いこの阿多倍一族の出である)
この一族の大蔵氏、即ち、永嶋氏である。

2つ目は、平安時代の後期の朝廷より派遣されて、九州北部に勢力を張った「伴兼貞」(奈良時代の5大官僚の一つ)の子兼俊が大隈国肝付郡の弁済使(税務官)となり、在名を取って氏とした。
大隈国の首魁 阿多倍一族の永嶋氏と同じ国に定住したことから、
九州の融和策によりて、この肝付氏と上記の永嶋氏との血縁により誕生した「肝付氏族永嶋氏」である。
(肝付氏に付いては別途詳細を記する)
1450年頃、長年の宿敵であった島津氏に滅ぼされる。

3つ目は、藤原秀郷の兼光流の佐野氏(秀郷より10代目の基綱が祖)から出た行長(基綱より5代目)が祖の永嶋氏(1210年―1230年頃)である。
佐野氏は下野国安蘇郡佐野庄から出た藤原氏の豪族で初代は藤原基綱(秀郷より11代目)である。永嶋行長は基綱から7代目である。

4つ目は、藤原秀郷の兼光流の結城氏(秀郷より9代目の朝光が祖)から出た永嶋氏である。
この永嶋氏は結城氏から酒井氏となり永嶋氏に成った。(佐野氏流 1220年―1250年頃)
この結城氏は上野国の守護の時に、朝光の旧領の結城庄は平氏に奪われていたが、鎌倉側に味方したので、頼朝の鎌倉幕府の本領安堵策により、朝光に戻されてから下総の結城庄の結城氏を名乗る。

5つ目は仁徳天皇の皇子で「若日下王」より起こった者で、日下部氏から日下部姓永嶋氏が出た。永嶋氏の祖と年代は不明である。
日下部氏の子孫は朝倉氏である。
この子孫は武蔵国久良岐郡に住まいしていた事実がある。

以上5つの永嶋氏の発祥がある。しかし、この5つは3つに分けられる。1と2、3と4は夫々は同系列である。5は詳細は不詳だが、朝倉氏や江戸期に永嶋泥亀なる子孫が存在するところを見ると古代の皇族系永嶋氏であろう。

5の永嶋氏を除いて、二つの系流の永嶋氏には共通する者がある。
この共通することを調べることで、見えてくるものがあると考える。
次回はこのことに付いて、検証する。続く

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