青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.98
Re: 藤原秀郷一族の生き方-12
98編集 追加
永嶋氏は結局、主には2つの発祥ですが、渡来系京平氏の一族の大蔵氏から出た一族系と、藤原氏の秀郷系から出た一族系の間にはなんらかの関係があり、そのためこの同時期に氏の変名を起している事を何とかして解き明かしたい。それにはまず、この時期の歴史的背景を調べ、その背景から、二つの氏がどの様な行動をとったのかを検証する事にする。
歴史的状況
藤原秀郷一族の存亡が起こり勢力に陰りが出るし、奥州藤原氏の滅亡が起こる。
頼朝にて「鎌倉幕府」が樹立し、「平家没官領」を実行した。
旧領の「本領安堵策」を実行し、源氏一族が息を吹き返す契機が起こるが坂東平氏の圧力で衰退。
「京平氏」の西国渡来系一族の衰退。
各地に「地頭制と荘園地頭制」を敷く。
御家人に「新恩給与策」の実行
「一所懸命」の現象が起こる。
莫大な平家の土地を権門勢家(院)と鎌倉幕府(将軍家)は獲得した。
「関東進止の地」で幕府は絶大な権力保持
「鎮西奉行」で九州の実権把握と奥州を取り締まる「奥州総奉行」の実権把握
清和源氏は滅亡し、「十三人の合議制」で北条執権強化で、「坂東八平氏」は衰退する。
「承久の乱」(1221年の後鳥羽上皇)幕府倒幕が起こる
「新補地頭」に上皇の所領3000箇所を「東国御家人」に地頭文として分ける
西に所領を得た「西遷御家人」が生まれる
六波羅探題で西国ににらみ効かす
評定衆、御成敗式目、先例制、年紀法、武家法、公家法、本所法(1225年頃)

この2氏に関わる1230年前後(20年)の歴史的状況は以上であるが、この状況から次のことが見えてくる。
藤原一族としては、一族の末裔である奥州の藤原氏の滅亡や武蔵や下野の周囲の国は平家の所領を分け与えて坂東八平氏の所領にかわり、心理的には追い詰められた境地で、他の勢力も衰退して行く中で何時、藤原一族も仕掛けられて滅び行くか、びくびくしていた筈である。
朝廷の摂関家も衰退し、自力では立ち向かう勢力はもはや
無く、頼るところ勢力も無かったという状況で合った筈。
其処に、関東には新たな地頭制を敷かれて新しい御家人が生まれて「新恩給与策」のような新しい税体制も確立して社会の機構も変わり、時代の変化が違ってきた事を感じていた時でもある。
この時期は殆どの土地は幕府御家人と朝廷の院のものとなり、藤原氏の所領は「東国御家人」などに押されて、以前の守護としての各地に散在する小さい範囲の所領のみとなつた。そして、御家人保護の「関東進止の地」策で奪う事も出来ず身動きが取れない今や古い一族藤原氏となつた様に他の氏にとっても「四面楚歌」であつた。

又、一方西国の超豪族であった渡来系の一族は、平安期は「遠の朝廷」と言われて3権を与えられて九州はおろか中国地方まで勢力圏としていた一族にとっては、同族の京平氏の滅亡からは実に脅威となっていた筈である。何時、わが身かの恐怖感を抱いていた。

しかし、いよいよ鎌倉幕府は西国にも勢力を及ぼしてきたのである。しかし、戦いはなかった。京平氏が滅亡したとしても、まだこの一族には結束した戦うだけの勢力はあつた筈である。
中国地方を制覇していた一族の陶氏もあり、九州は肝付氏や大蔵氏
等が依然として無傷である。
しかし、鎌倉幕府は「西遷御家人」と称して東国の者を西国に所領を与えて赴任させ、京平氏の所領であった土地を「本領安堵策」にて元の小さい旧領主の者の「一所懸命」に守ろうとする者たちを多く引き上げて味方に取り込み、九州の各地で周囲から締め上げる戦法に出た。これに対して、この九州の2豪族は動きが取れなかったのである。足元が旧領安堵の餌で崩れて戦う戦略はたたなかったのが現実である。
鎌倉幕府は政治的に、この2つの豪族を押さえ込むことに成功するやすかさず、「六波羅探題」を設けて西国ににらみを効かしたのである。これは実に大きな成果をあげた
しかし、何時の世も不満分子が立ち上がることは世の常である。
実権を完全に把握した執権鎌倉幕府にたいして、「後鳥羽上皇」はこれ等の「北面武士」ならず゜「西面武士」の「西国武士団」を募り、幕府討伐の令を発したのである。
所謂、「承久の乱」である。しかし、失敗して朝廷内も二つの統に分かれて乱れ、益々、北条得宗家は全権を握った。
元々も味方であつた坂東平氏もことごと潰し、関東や西国と藤原氏の一族が点在する奥州にも「奥州総奉行」を設けて東国の武士団も政治的に押さえ込んだのである。
そして、この乱を契機に「法的な整備」を行い、より平安期より進んだ「武力と法」による完全な秩序のある政治体制が確立したのである。そして、朝廷を中心とする今までと違った政治体制「武家社会」が確立して、朝廷の中で育った藤原氏と大蔵氏の一族は全く未知の社会体制に入り、戦う事を忘れる程に、どの様に生きて行けばも判らないほどに狼狽した筈である。
次はこの西国と東国の各2氏にはこの態勢の中でどの様な事情面での共通点があるのかを検証する。続く

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