青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.99
Re: 藤原秀郷一族の生き方-13
99編集 追加
朝廷から鎌倉幕府の「武家政治」に移り、その「政治手法」が根底から変化した。このことに藤原秀郷の一族と九州の大蔵氏はその基盤の根底を根こそぎ浚われたのである。

両者とも、朝廷との関係が強く、その勢力基盤は朝廷の行く末に基いていた。
「賜姓青木氏」や「賜姓源氏」のように皇族と言う家柄と名誉と社会習慣に基いていたことで族間の勢力争いが起こる事でその基盤を失った。

藤原氏は平安時代は「摂関家」を中心として「朝廷政治」の下に巧みな生き残りを図ってきて361氏という子孫の裾野を広げてきた。これが万全であるかの様に見えた。

しかし、大きな落とし穴があつた。
「朝廷政治」の貴族中心の世界の中での生き残りである。
これが「武家政治」という全くそれまでの歴史の中で経験した事のない未知の世界が生まれたのである。
気がつくと藤原氏は「氏家制度、又は氏姓制度」のなかで保護されていたのである。そして、「桓武天皇」の「律令政治」即ち、「国体制度の完成」は正せば「貴族階級」を中心に成り立つ制度であつた。その中にどっぷりと浸かって自分の土台の種類が何であったのかをも意識は無かったのであろう。
多分当時の者誰一人も全く予想もつかなかったのではないか。現代の我々でも民主主義の中に居ると異なる社会制度の時代が突然来るとしたら、今予想が着くだろうか。
「平家の武士の時代」とは云え、それは矢張り、「朝廷政治」の代行であり社会体制は依然として貴族中心のものであつた。

それが、やつぎばやに、政治機構を次から次えと打ち立て変更して行ったのである。ゆっくりではない。約15-20年以内である。
そして、いままで、朝廷から任命された官僚は守護として赴任したが、「御家人」というものが地頭という役職で各地に配置された。
今まで守護であつた者は突然に一介の武士だけに成ってしまったのである。大勢の家来を抱えていた者が家来と同じ身分になるのである。一族と家来を抱えた彼等は逆転して地頭の家来になる以外に生きて行く道はない筈である。
その前に、子孫を増やして裾野又は基盤を強化する戦略に集中し過ぎてその目の前で起こっている現象が自らの土台基盤を壊す者である事を認識する事さえも忘れて、安穏とし、毅然と立ち向かう姿勢を忘れていたのである。そこが源氏や青木氏や平氏の様に武門ではない貴族の持つ欠点であったかも知れない。鎌倉幕府にとってはこの「藤原集団の結束」が一番恐れていたのではないか。
「結束」が起これば朝廷内に「摂関家」を持つ一族としては「錦の御旗」を与えられて、「大儀と武力と戦略」では「坂東八平氏」には十分に勝てる相手であった。「藤原氏」にその意が無いと見た鎌倉側は最も武門に近い考えのある秀郷一族の「奥州藤原氏」の「各個攻撃」に出た。そして、成功したことで他の秀郷一族は戦意を失ったのであろう。
秀郷のような指導者の欠いた優柔不断な藤原氏が立たない事を知った朝廷の天皇家は立ち上がったと見る。各地に散った源氏系の一族の西国武士集団を集めて苦肉にも立ち上がったのである。
上皇自ら起した「承久の乱」が起こっているのにさえ、秀郷一族は動かなかったのである。

これが貴族であるが所以の藤原氏の「栄華の末路」である。
期を逃した藤原氏には「自然の淘汰」以外に身を任す方法はもうないのである。

そして、結果は「自然淘汰」は起こり始めた。
実に多くの浪人集団が発生したのである。この武装集団が野や山にこもり互いに連携しあってシンジケートを各地に作り上げたのである。
この時期から「下克上」の原因基盤が出来てきたのである。
抱えきれなくなった家来が下野に隠れ、頼れない藤原氏を見限り、いつか再び帰り咲く時期を狙っていたのである。

このことは系譜の内容をよく見ると判る。
1230年前後を境にして、361氏を抱えるの藤原秀郷一族の系譜と大蔵氏の一族の系譜を見ると、全て役職は無くなっている。
支流の一族も増えていないし、更に、1250-1300年頃のこの付近で子孫の系譜がとまっているものが多い。この現象を見て取った両一族は、両者共に多くの氏流一族を持つが、全てに永嶋一族にほぼ統一されていて新たな氏は生まれていない。
永嶋氏を中心に「再編」を計つたのではないかと推測される。

足利氏との縁続きの2氏の佐野氏、結城氏は足利氏の家来になる以外に、藤原秀郷氏一族の23氏も同じ傾向であり、鎌倉の御家人か、殆どは地頭の家来になつて生残っている。

そして、1350年から1450年頃ころから滅亡し始めて(佐野氏、結城氏共に一度潰れている、そして足利氏に拾われて盛り返している)、1570-1590年台には藤原氏と藤原氏秀郷の一族の一氏で領国を治めている者はない。最後は記録では藤原氏の越前の国の守護が最後である。
(このころから下克上から戦国時代へと進む)

九州永嶋氏も大宰大監であつたが種秀以後は一族は役職から離れている。
一族の本流は全て永嶋氏を名乗り、農業や他の産業に切り替えて支流は消えている。
この九州地方は古来より江戸の終わりまで、豊臣秀吉の「兵農分離」の禁止令に関わらず、武士と農業の併用の習慣が長い間続いていたのであつた。
従って、本流以外は残らないという現象が起こったのである。
1570年以降の島津氏に成っても同じであつた。

そこで、この両者が何故に永嶋氏に変名したかとの疑問あるが、
1220年―1250年頃の時代性の変化と、それ以後の一族の行く末が一致する。
このことから九州の永嶋氏は一族の京平氏の滅亡から周囲の「あつれき」と官職と領国の無くなったことから、又、藤原秀郷の佐野、結城氏の永嶋氏も足利氏の庇護の下で生き延びたが、互いに「永嶋氏」を名乗る事で一体性を出し、全国的に散在することを利用して「永嶋氏」という族の大きさを示す事に依って「下克上と戦国時代」から結束して身を守ろうとしたのではないか。

各地の地名の永嶋氏(長嶋、永島、長島、34氏)は、名古屋以西は大蔵氏永嶋氏、以北は秀郷流永嶋氏である。

しかし、その話し合いとなる証拠は見つからない。
その鍵は仁徳天皇の末裔の日下部氏の古代永嶋氏の氏を統一の氏としたのではないか。
その証拠にこの末裔は武蔵の国久良岐郡に住まいしていたとされる。
もう一つの鍵は家紋である。この永嶋氏三者の家紋は「左三つ巴紋」に副紋つきである事で一致する。

日下部氏永嶋氏は一文字に五三桐の副紋付き、
九州長嶋氏と佐野氏永嶋氏は左三巴紋
結城氏永嶋氏は丸に剣鳩酸草の副紋付きとする。
勝手に名乗った偶然の一致とは思えない。

時代の変化に追いやられた両氏は最後の苦肉の策に出たのであろう。しかし、これも、1570年頃までのことで「下克上と戦国時代」の波には勝てなかったのである。

以上

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