青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.13
青木姓の発祥源
13編集 追加
そもそもの青木姓の発祥源は皇族賜姓の青木氏と藤原秀郷流の2流になりますが、この2つの発生源について少し詳しく記述します。

先ず、皇族賜姓の青木氏について、大化改新645年の時に発生しました。大化改新は多くの問題があっておこりましたが、特に3つの問題、政治的、軍事的、経済的な問題をもつていました。そしてこの3つの問題の解決を図るためには天皇家の体質を変える必要がありました。

経済的には中大兄皇子には34人もの皇子皇女がいました。この子供たちにかかる費用は莫大な経費でした。そこで経済的負担を軽減する目的で、王位継承制度をかえました。第4皇子まではこれを与え、第6皇子以降は臣籍(侍になり家来になる)にし、第5皇子は中間的立場としました。この第6位の皇子には青木氏の氏を与え(賜姓)ました。第7皇子以上は土地の名を採って氏としました。そして夫々には朝廷にとって主要な守護地を与えました。これが5つの土地ですが、中大兄皇子(天智天皇)は先ず伊勢を第6子の皇子(青木氏)に伊勢王として守護させました。伊勢は天皇家の天領地で守護神でもあり、主要交通の要所地で主要穀倉地でもありました。これで経済的な軽減と政治的に重要地を身内で守る体制を確立しました。更に、侍となつて武装集団で土地を守り天皇を守る親衛隊としての役割(侍所)を果たしました。

この様にした背景について、当時、蘇我入鹿が天皇家をしのぐ勢力をもっていました。その背景には次のことがありました。蘇我氏には自前の特別な武装集団をもつていました。この集団は、中国の後漢の光武帝から21代目の献帝の子供の阿知使王とその孫の阿多倍王が後漢滅亡で17の県民(200万)を引き連れて大和国に帰化してきました。この集団には専門の武装集団と技能集団と政治集団を引き連れていました。後漢一国が帰化した事になります。この集団が日本の国体の基礎をつくりました。この武装集団(漢氏、あや。東漢氏、やまとのあや)と技能集団を蘇我氏が管理管轄していました。技能集団は部(べ)制度として物を作りそれを朝廷が売り利益をえていました。当時は市場経済ではありません。部経済ですからこの権利を取得していた蘇我氏は軍事と経済の全てを握り、政治は婚姻を繰り返して思うがままでした。3権を握られていた天皇家と朝廷は弱体化するばかりでした。この状態を打破する目的で、藤原鎌足とともに大化の改新を実行しました。これが上記した改革で経済的軽減と自前の親衛隊と政治的に主要地の守護を実行し、更に、公地公民制度にて部制度を天皇家に戻し親衛政治を敷きました。これが青木氏と藤原氏の発祥の起源なのです。

この後、青木氏は天武、文武、聖武、光仁の4代の天皇の時にも賜姓(しせい)をしました。近江、美濃、信濃、甲斐に4家の青木氏を配置しました。光仁天皇の後の桓武天皇の時、この青木氏の勢力を嫌い、上記した渡来系の阿多倍王の一族を引き立てて(平貞盛)後の渡来系の京平家が産まれました。ちなみに、桓武天皇の母は高野新笠という上記の渡来系の阿多倍王の子孫の娘です。参考のために、この阿多倍王は敏達天皇のひ孫の娘を娶り3人の男子を作り、長男は大蔵氏(朝廷の大蔵大臣)、次男は内蔵氏(天皇家の財務大臣)氏、三男は坂上氏(朝廷の軍事大臣)の賜姓を受けました。そして、準大臣の地位を授かりました。大蔵氏は後に永島氏になりますが、3人とも朝廷内では最大の勢力をほこりました。3蔵というのですが、もう一つは斎蔵でこれが後の秀郷の祖先の北家藤原氏が握っていたのです。

この青木氏と藤原氏の青木氏と源氏とが歴史上で絡んできます。次はこの藤原流青木氏の発祥関係を記述します。
青木氏は天皇家の軍事勢力で東漢氏は朝廷の軍隊としました。更に、この賜姓を嫌った次の嵯峨天皇は青木氏とするのをやめて、賜姓の氏を源氏としました。後15代の天皇まで続きました。この青木氏の家紋は笹竜胆(笹リンドウ)です。源氏紋と同じです。したがって、源氏系は16流16家あります。最終的に清和源氏とこの5家青木氏と藤原氏とが一体化します。

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