青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.16
Re: 青木姓の発祥源
16編集 追加
元記事のレポートの追加をします。この内容を理解しておくとルーツを判断するのには大変効果的です。
先ず、大化期には、皇子が34人いましたが、内訳は12人が皇子で、22人は皇女です。12人は二人の親からですが、兄の中大兄皇子と弟の大海人皇子です。中代兄皇子には4人いましたが一人の軽皇子は若くして病死、もう一人は大海人皇子との皇位継承で大友皇子は戦い死亡。兄の子供は2人となりました。施基皇子と川島皇子です。残り10人は弟の大海人皇子のこどもですがこの内二人は兄の中大兄皇子の娘との弟の間に出来た皇子です。この時代は天皇家の純潔を守るために血族結婚は普通なのです。天智天皇が671年に死亡してから、弟の大海人皇子の天武天皇が即位して天智天皇の2人の皇子は皇位第6位の施基皇子と7位の川島皇子となりました。第6位が伊勢王となりました。伊勢青木氏の元祖で日本書紀にも14回も出てきます。

部制度を記しましたが、渡来系技能集団で、例えば、服部(はつとりべ)とか海部(かいふべ)とか磯部(いそべ)陶部(すえべ)とか綾部(あやべ)と武部(たけべ)とか土師部(しがらきべ)等数えれば限りありません。後日レポートします。現代ではこれが姓となっていますが、この人たちは元記事の阿多倍王の連れてきた技能集団です。部の着いた氏は渡来系です。室町末期まで中国地方を統治した陶氏はこの子孫です。現代の各地の第1、2次特産物は殆どこの子孫が持ち込んだものです。
渡来系の武装集団の漢(あや)氏と東漢(やまとあや)氏は蘇我入鹿の命で気に入らぬ崇峻天皇を殺害した。これほどに蘇我氏は力をもっていました。天皇家は手も足も出ない状況から中大兄皇子の大化の改新となつたのです。元記事で記した様に青木氏や源氏や藤原氏の氏の発祥させた理由です。

次に阿多倍王の集団は先ず九州北部に上陸し、余りの力の差で土地の勢力の肝付氏や朝廷は戦うのをやめて同化して土地に根着きました。そして朝廷の伴氏とともに遂には九州全土を制圧しました。九州南部には阿多と言う地名があります。ここに本拠地を置いたのです。大隈の首魁の阿多という名で日本書紀には8回も出てきます。
この後、中国地方へと進出し、ここでは配下の陶氏が勢力を保持します。更に、上記した様に朝廷は関西に拠点を与えます。伊勢北部伊賀地方に住まいします。全国の長嶋と言う地名はこの末裔です。
馬部等の集団は甲斐などの中間地に移して馬などを飼育しました。
元記事での三男の坂上氏は坂上の田村麻呂の歴史で蝦夷や東北部を制圧した将軍がいます。阿多倍王の親族は阿倍(あべ)と言う姓を出しした。阿多倍王の妻は敏達天皇の孫の芽淳王の娘です。

さて、藤原氏のことに入ります。藤原氏は中臣鎌足から始まり、賜姓で藤原氏になります。藤原氏は加藤氏や伊藤氏や後ろに藤を着いた姓が地方に移った藤原氏が名乗りました。役職の頭文字を付けたのが斎藤氏や佐藤氏です。そこで藤原秀郷氏は藤原氏は4家に分けられます。北、南、式、京家ですが、秀郷流は最大勢力の北家です。初代は房前(738)、魚名、藤成(826)から3代目の秀郷になります。958年頃です。秀郷は地方の豪族でしたが、関東に坂東八平氏の内の平の将門の乱がおこります。これを清和源氏の初代源の経基が朝廷に告訴します。しかし、朝廷はこの乱を鎮めることができませんでした。将門は国司を倒し独立国家を作ろうとしました。そこで、倒した者は2つの褒美を賜ると詔をだしました。この時、2人が手をあげました。一人は元記事で書いた桓武天皇の賜姓を受けた平氏の貞盛で阿多倍王の一族でしたから実力は十分。

もう一人は青木氏のルーツになる秀郷でした。結果は乱を制圧します。そして、褒美の貴族の身分と武蔵国と下野国の守護になります。貞盛は伊勢北部伊賀の国司に任じられ、子孫は清盛までますます出世します。秀郷は大きくなった氏を保つため、先祖の藤成の時、伊勢の国司に2年間任じられましたが、この時の伊勢青木氏を見習い、天皇家の藤原血縁から、秀郷は第4子以降を藤原直系の親衛隊として臣下させました。代々慣習として続けました。これが116流になりました。同じ加藤氏や佐藤氏や伊藤氏と違い、直系の一族として氏を構成しました。念のため、後の時代の氏として、佐野氏流青木氏、青木玄蕃、青木忠英、青木安明、青木正命、青木政之、青木正胤の一族が確認できます。中には平氏の血筋を持つ氏もある。皇族賜姓の5家5流の青木氏(家紋笹竜胆)以外として、116家ありますが、家紋が家紋200選の中にあり、且つルーツの土地が武蔵国や下野国や元記事追加で明記した土地の者であるとすれば、この秀郷流青木氏です。それ以外は明治以降に付けた青木姓です。家紋については注意してみる事が必要でわずかに変えているものもあります。古来より氏姓(うじかばね)制度で社会が構成されていましたので、家紋掟というものがありました。全ての氏はこの制度の掟に縛られていました。明治以降はこの掟は崩れました。

わからなければルーツの菩提寺の過去帳を調べると良いとおもいます。昔はお寺が戸籍簿の役目を司っていました。これだけ調べればで大抵は偏纂は難しいとおもいます。鎌倉以降の下克上の戦国時代以降は世中が乱れて歴史や慣習が崩れてしまいましたので、殆どは偏纂の様です。ちなみに天下の豊臣秀吉や徳川家康の家系も偏纂しています。この二人の偏纂は後日に。これで2つの青木氏の発祥源は一応停止しますが、御質問があれば可能な限りでお答えします。
次は源氏などとの関係をレポートします。次第にルーツが見えてきます。

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