青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.17
レポートの訂正
17編集 追加
レポート見直しをしましたところ2ケに間違いが見られましたので訂正します。

”崇峻天皇を阿多倍王の武装集団、漢氏又は東漢氏か゛蘇我入鹿の命で殺害した”と書いていましたが、蘇我馬子の命で”に訂正します。

”貞盛が平の将門を討った功により、国司に任じられた”と受け取れる文面になっていましたので、功の実施がずれて実際は息子の維衡が元々住んでいた伊勢北部伊賀地方の国司に任じられています。
以上

余談
京平家の平の清盛の元祖の貞盛(渡来人阿多倍王の子孫)の居住地域がこの伊勢北部伊賀でした。日本書紀にもこの地域を阿多倍王に国の産業の発展に寄与した事を理由に朝廷より与えられたものと記しています。

そして、この地域を立ち入り禁止にし、且つ、鳥獣の捕獲禁止地域にも指定して彼等を保護した事が書かれています。不輪の権と不入の権を与えました。そして、朝廷で祝いごと事があると、300人ほどの人たちが天皇の前で度々踊ったと記されています。
賜姓平氏は桓武平氏ともいい、京平氏とも伊勢平氏ともいいます。
貞盛より清盛まで5代で上り詰めたわけですが、この勢力の大きさは大変な者でした。
当時、日本全土は66ケ国ありましたが、このうち32ケ国が平氏のものでした。

以前のレポートでも阿多倍王の一族が九州から中国地方と関西までの殆どを制圧して移動してきてこの伊勢北部の伊賀地方を与えられて住んでいました。皇族の皇女と結婚して3男をもうけて朝廷内に絶大勢力を築き、後には清盛が最高位に昇り詰めました。坂上氏と内蔵氏や阿多倍の子孫阿倍氏が北陸以北に子孫を遺しました。32/66の勢力は青木氏や藤原氏や源氏が束になっても勝ち目はありません。長嶋種材と言うすごい豪傑もいました。朝廷より太宰大監として「錦の御旗」を個人に与えられた最初の人物です。

桓武天皇の母はこの子孫の娘ですが、だから平氏を賜姓した3理由(青木氏の勢力牽制も含み)の一つです。
この勢力の中で藤原秀郷は関東に坂東八平氏と戦い勝ったのは親衛隊青木氏の活躍である。この活躍で青木氏は各地に分散して行く。そして、清和源氏の頼信の関東進出とで坂東八平氏は衰退した。
皮肉にも同じ頼信の子孫の頼朝を旗頭に1185年に再び坂東を取り戻したことになる。表向きは源氏が勝った様に見えているが。
大河ドラマの義経と頼朝との摩擦もこの原因です。
(義経は源氏主力で戦う意見であった)

幕府樹立ご4年で頼朝とその子孫と源氏も完全抹殺された。平の将門と平の忠常の独立国家の夢は遂に叶ったのである。逆に、第1,2の青木氏は衰退に向かうのです。
藤原秀郷流青木氏はこのような背景が子孫に掛かっていたのです。
だから、116流にもなる勢力拡大をはかつたのです。
ルーツを知るには先祖の苦労も知ることが大事な気がします。

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