青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.53
Re: 皇族賜姓青木氏の背景2 (続き)
53編集 追加
背景2の続きです。
皇族賜姓青木氏から還俗青木姓が、皇族賜姓源氏からは家紋違いの源氏がうまれた。
桓武天皇の施策によって政治構成が大きく変化したがこの変化に対して、嵯峨天皇は反対派を押し切って修正を実行した。
律令国家の形態が完成したがこの行き過ぎを嵯峨天皇は修正したのである。兄の平城天皇が病気理由で譲位したが、譲位後、戻ろうとして、薬子の変が起こる。つまり、変が起こるという事は現状派と修正派の戦いであろう。そして、これに藤原氏が両者に絡み戦った。そして、式家が落ちて修正派の北家が上がった。桓武天皇に命じられ青木氏に代わり、伊勢の守護にはなった北家の藤原藤成であったが、修正派の勝利で伊勢の守を退き、伊勢青木氏に戻した。
そして、藤原秀郷の祖父藤原豊沢が修正派として藤成と行動した。この結果、北家が力を持ち孫の秀郷の代へと繋がるのである。
3について
渡来系への牽制策の必要性があつた。余りにも大勢力の超一族が朝廷内に存在して来た。修正派として勝利した古来から朝廷内に血縁を広げて確固たる勢力をしいて来た藤原氏にとってこの渡来系一族の存在は放置することは出来ない。しかし、余りにも大きく貢献度もある。建前上も到底武力では排除できない。
桓武天皇の背後の渡来系一族は勢力の出した青木氏を牽制し、今度は藤原氏が渡来系一族を牽制しょうと画策する。多分、薬子の変はこの策の延長線にあったのであろう。しかし、嵯峨天皇809から1185年までこの戦いが続くのです。この間にこの戦いが朝廷内にくすぶるのです。そして、数多くの乱(保元平治 1159)などに結びついてゆくのです。戦う北家は摂政関白にありながらも殆ど権力を失った状況の中(1150頃)で、渡来系一族を横目に見ながらその後の11代の天皇(1070頃まで)は源氏を賜姓し北家の協力を得ながら着実に親衛隊の育成に勤めるのです。この証拠に清和源氏の妻は殆どが藤原氏北家の娘である事。特に清和源氏の源氏の勤め先は藤原北家の侍所で、頼光や頼信などは長く摂関家に勤めたのである。(1148頃)このパイプを利用して約10年程度に5家青木氏の守護地は全て頼光の守護地に変わり青木氏との血縁を進めた。(990頃)
ここで源氏と摂関家との結びつきが生まれ、清和源氏と皇族賜姓青木氏が古来からの守護職を清和に代譲し、且つ5家青木氏の跡目に入るなどの同化策に出た。(1150年頃まで)渡来系一族追い出しの長期共同作戦である。

続く

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