青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.54
Re: 皇族賜姓青木氏の背景2 (続き)
54編集 追加
青木氏への牽制策が、今度は藤原氏が子孫を守るために余りに大きい渡来系一族にたいして天皇譲位と言う変化を捉えて牽制を始めた。渡来系一族にとっては青木氏との摩擦から今度は藤原氏との摩擦になりつつあった。
そのなかで、皇族一族の維持経費が増大した。
4に付いて、
天智天武期の改革で皇族の維持費が財政上の問題として大化の改革は行われたが、それから160年経った嵯峨天皇期には再び膨大していた。嵯峨天皇には多くの皇子皇女がいた。そして、8人の皇子を臣籍した。そして、皇族を賜姓しなかった桓武天皇にも皇子が居たので天武からの第4世以降の王が嵯峨天皇の時には膨大に成っていた。それまでは第6世以上の者は坂東に移して土地の者とした。
これが、「坂東八平氏」で”たいら族”と呼ばれていた。しかし、この「たいら族」以外に天皇が代わるたびに増える5世王がたまって来ていた。王には高位王と低位の王とが居た。この低位の王の存在が朝廷と天皇家の財政上の問題と成っていた。よって天智天武期と同様に嵯峨天皇は弘仁5年8月に詔書を出した。そして、それまで、大化改新時に実施した皇位継承の制度を正式に制度として発した。天武期のそれと一部改善して4世第6位臣下方式を発した。
代々出る低位王の数を減らした。
この事も桓武天皇との考えの違いがあったのではないか。譲位すると直ぐに実行したのはその証拠である。桓武天皇はこの臣下の策を皇子の中では採らなかった。律令制度を構築した天皇でありながら
財政上の改革を身内の中で実行しなかった唯一の天皇であった。
それどころか、渡来系一族の引き上げを一族と見せかけて賜姓したのである。(これが将来、朝廷内のもめごとの一つになるのだが)
嵯峨天皇以降の15天皇はこの方式を踏襲して第6位王を臣籍してそれ以外の王は比叡山か門跡寺院の僧として入った。皇女は伊勢神宮の斉王や門跡寺院の尼僧として入ったのである。一部には豪族の他家に嫁ぐなどした。この皇女を受け入れた豪族は源氏一族として生まれた嫡子に名乗らせたのである。これが家紋違いの源氏一族の支流族である。(豪族の跡目方式として出来る源氏一族もある)
これらは全て、家紋違いの源氏である。
入山した学僧や尼僧が還俗する時は[青木姓}を名乗る事もこの嵯峨天皇から後15代の天皇に引き継がれた。(多くはない)
歌舞伎などで演じらる5家の賜姓青木氏に対して、徳川家の殿様が上座を外す、外さないともめる場面がある。慣例では賜姓青木氏は上位であるので結局外して上座を譲るという場面である。
たとえ嵯峨天皇から臣籍してきた源氏であっても、古代の賜姓青木氏に対しては下座した。特に、伊勢王を先祖として持つ伊勢の賜姓青木氏に対しては江戸時代になっても行われたと伝えられている。
天武天智から引き継いだ賜姓族の制度で朝廷の財政は改善されたのである。(実際の効果は花山天皇期までで後二条天皇まで行われた)   続く

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