青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.55
Re: 皇族賜姓青木氏の背景2 (End)
55編集 追加
嵯峨天皇が譲位したこの頃、阿多倍一族の勢いに対して賜姓青木氏も北家藤原氏も何とか対抗しようとしてあがいていた。
しかし、余りにも大きい相手である。この渡来系の一族は益々実績を挙げて、更に力を付けて拡大した。過去誰もなし得なかったが3男の息子坂上田村麻呂は征夷征伐の大成果を成し、征夷大将軍となり、長男と次男の大蔵氏と内蔵氏として、朝廷の律令の国体を完成するなど3蔵の官職のうちの2つまで握り、又一族は九州全土を統治するようになり、大宰府の大監になり「遠の朝廷」(とうのちようてい)と呼ばれ3権を委ねられた。現代までこのように呼称されて3権を与えられた者はいない。この様な一族の働く中で、嵯峨天皇は源氏を賜姓し、1から4までの改革を進めた。歴史では簡単に云うが大変なことであったと思う。
嵯峨天皇と藤原氏はこれだけでは納まらなかった。
絶大な反対勢力の中で桓武天皇の政治を改めたのである。また、北家藤原氏も着実に勢力をた高めた。それは次のことである。
5に付いて
律令体制が完成したが、一つの問題が出てきた。
それは、官職と官職の間の不備である。この問題に藤原氏は大いに関わったのである。
それは令外官制度である。(令の規定にない官職)
戦略1
嵯峨天皇は渡来系一族の対策として次の政治見直しにかこつけて
対抗する勢力を藤原氏北家に次の役職を与えて政治力を強めさせたと考える。
戦略2
それと侍所や右大臣などの政治の場での役職を与えて、身内の源氏一族の引き上げをした。
令外官は次の通り。
内大臣、中納言、参議、勘解由使、検非違使、按察使、蔵人、摂政、関白、近衛府 以上を設置した。(財政司法行政立法の官)
この政治と行政の見直し機関を設置し、これに全て藤原北家氏が関わったのである。力の出てきた藤原氏の秀郷も祖父の豊沢と共に70年後位に押領使として下野に赴くのである。
そしてこの令外官制度は次第に常駐となった。この常駐となる事で藤原北家は朝廷政治の中では、渡来系一族に負けない絶大な力をもったのである。軍事や経済力は依然として劣っているが朝廷政治では同等とまで成ったのである。(880−920)しかし、矢張り渡来系一族は強かった。1120年頃には再び藤原北家族は権勢は無くなるのである。
戦略3
しかし、朝廷内では衰退したが、坂東では930−940年頃には坂東では豊沢や村雄や秀郷らに役職を与えて勢力を高めさせていた。
そして、遂に、朝廷内でも940年更に台頭のきっかけとなる事件が起こったのである。平の将門の乱である。
また、近畿で源氏が誕生して村上源氏(11代目)まで一族が拡大していた。そして清和源氏や村上源氏や醍醐源氏が軍事と政治に力を持ち始めていた。頼光、頼信は摂関家の侍所、村上源氏では具平親王が右大臣になり、遂には朝廷内に3源氏は藤原北家氏と勢力を二分するまでに成長した。しかし、まだ一氏だけでは渡来系族には劣っていた。(15源氏中3源氏が勢力を拡大した。)
令外官で政治の場に台頭した藤原北家氏、関東では北家秀郷氏らが勢力拡大、近畿では軍事力を保持した親衛隊の源氏3家が台頭
力の盛り返した賜姓青木氏。この4つの勢力が一体となって渡来系一族に1160年を境に立ち向かうのである。背景2の最終へ。

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