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  [No.1201] Re:瀬戸内海の青木です の返信
     投稿者:副管理人   投稿日:2022/08/05(Fri) 11:18:41

青木サイトにようこそお越しいただきました。
これからも宜しくお願い致します。これからも何なりとお尋ねください。

さて、早速ですが、お便りから推測いたしますと「讃岐青木氏」であると思います。
そもそもこの「讃岐」には、平安期に「藤原純友」と云う者がおりました。
この時、「瀬戸内」に発生した「瀬戸内の数十個の海賊」が幅を利かせ牛耳っておりましたが、そこで困った「朝廷」は、既に「瀬戸内域」に勢力を持っていたこの「藤原純友」にこの「海賊討伐」を命じます。
然し、討伐した後の「勢力圏」は、寧ろ、逆にこの「瀬戸内の海の勢力族」を配下に置いて使って逆に自己の勢力を伸ばしたのです。
そもそも「討伐する」と云っても彼等は元々は「純友の支配下」で動いていたのですから、この「討伐」は形式上のものと成ります。
精々暫くは、“おとなしくしていろ”と云う程度の事に成りました。
それを知ってこれを嫌った「朝廷」は、この「純友」に「謀反の難癖]を着けて弱めようとします。
その効果が無いとして「謀反」として「罰する事」にして正式に追放したのです。
「純友」は罰せられますが、密かにその子孫等は納得せず、秘密裏に「この瀬戸内の海賊ら」を束ねて、「藤原氏の讃岐藤氏」と云う一団を構成しながら、それらを一族に巻き込みながら、「讃岐藤氏」は表に出ずに「格式の高い賜姓讃岐青木氏」で「朝廷の発言を抑えて支配し、挙句は、東は淡路島、西は下関までの「全瀬戸内の海域」を制して「瀬戸内水軍」として活躍します。
そしてこの「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は、南は土佐、北は宍道湖迄を、勢力域下に治め、そこに「子孫」をそれぞれ配置します。
この「讃岐青木氏」とは、この時、その子孫に「皇子」でもないのに「武蔵の北家藤原秀郷流一門の嗣子の第三子・千國」に「永代賜姓」で「青木氏を名乗る様・賜姓」に「円融天皇」は永代に特別に命じます。
ところが、この「藤原氏の母方」であった「賜姓臣下族の青木氏」が奈良期には「五家五流」があって、別に一番最初に647年に先ず「天智天皇の第七皇子の施基皇子」に「伊勢」に賜姓臣下し「青木氏」を賜姓して、それらに「天皇家の継承者から外れた皇子ら」を一族内に引き取らせていました。
この「賜姓臣下族の青木氏」には、「五家五流・近江王と信濃王と美濃王と甲斐王の青木氏」に「配置された王家」にも「皇子皇女ら」を引き取らせていました。
中でも「伊勢王」と「信濃王」は「約35人の皇女」だけを引き取ったのです。
この内、「四掟」と云う「厳しい掟の範囲」で「完全な皇族系の純血」を護る為に、母方にこの北家筋の「関東の藤原氏」を選びました。
この900年前後頃から「藤原秀郷一門」との「母方血縁」を行わせていました。
この「賜姓族」の「伊勢と信濃の後裔」は、上記の武蔵にいた「賜姓秀郷流青木氏」は上記の「讃岐藤氏・純友子孫」とも血縁を広く進め、その後に「秀郷流賜姓族讃岐青木氏」が生まれたのです。
この「讃岐藤氏の最高格式の秀郷流賜姓族讃岐青木氏」が「讃岐藤氏の拡大」と共に拡がり、遂には「米子青木氏」とも血縁を拡げてその勢力は関西以西にまで広げました。
その「武力」は、勿論の事、「海運での経済力」も「数十もある瀬戸内の海賊ら」を取り纏めている事を背景に、主に「海運業」でも「巨万の富」を獲得していました。
この「讃岐藤氏」と「格式ある背景を持った賜姓族讃岐青木氏」は、これを当時は「武力の持った瀬戸内海運・水軍」と呼ばれて尊敬され、その武力も恐れられていました。

ご質問の様に、恐らくは、「室町期末期に勢力」を興した土豪の一部が「村上水軍」と呼ばれる小さい水軍」をつくり居たのは確かですが、彼等も「讃岐藤氏の讃岐青木氏」で統制されていましたし、そもそもお話の「村上水軍の話」は、江戸期に面白おかしく「物語風に仕立てた小説」であって、それが真実かの様に語り継がれた事が原因していて、有名になっただけで、現実は「灘の水先案内人」をしていて、「毛利氏の媒臣」と成っていたのですから、「海賊まがいの等の事は出来る訳は全く無く、「物語風に仕立てた小説」であったのです。

「瀬戸内水軍」はその主家が、お家らの「讃岐藤氏の讃岐青木氏」です。
お家はその「讃岐青木氏の分家に当たる一族」と観られ、それはお便りの「家紋」で判ります。

お便り
互い違いにひし形に組まれた枠の中に三枚の葉っぱがあるものです
隅立て組み井筒?井桁?に、縦長で葉脈がはっきりとある葉が三枚です

以上とお便りがありますが、恐らくはこれは、「組合わせ角に三つ柏葉紋」では無いかと思います。

又は、安芸の国付近にある「益田三葉紋の組み合わせ紋」かも知れませんが、
だとしますと、この周辺の豪族との血縁族の秀郷流讃岐青木氏では無いかと推測されます。
然し、「讃岐藤氏の秀郷流賜姓讃岐青木氏」は、「賜姓族」である以上は「貴族」が最低でも護らなけばならないものがあって、それが「四掟と云う貴族が護らなければならない血縁規則」です。
これに縛られていましたので、「周囲との土豪との血縁」は正式には出来ません。
この様に従って「家紋知識」で判別できるのです。

「秀郷流賜姓讃岐青木氏の総紋」は「下り藤紋」で、その「宗家の家」はこの「総紋の藤の花の間に自分の家紋」を書き入れて、本来は一族が集まる場合の正式なもので「副紋」としました。
これで「一族性」を明確に記したのです。
そうすると、お家はこの方式に従うと、お家の分家筋の位置で主家筋に近い場合は、「下がり藤紋」に「組合わせ角」を挿入するか、或いは、より宗家筋に近ければ「三つ葉柏紋」を副紋として挿入します。

そこでこの「柏紋」は、そもそも「尊い神木」で、この「神木の柏紋の使用」を許されたのは、「賜姓を授かった格式高い二つの青木氏」だけに対しであって、その職を「神職とする場合」に於いて許されて来たのです。
つまり、最早、これを使えるのは「最上級の格式高いの紋類」と成ります。
この「神木の柏紋」は、「神明社の神職の青木氏」か「春日社の神職の青木氏」である事を示す「最高級ステイタス」と成っていたのです。

これを「副紋」とするのですが、一族性を特に示す必要のない場合は「組合わせ角に三つ葉柏紋」とします。

だとしますと「讃岐青木氏の分家筋」かその「血縁分家族」と成ります。
恐らくは支流族や縁者族とはならないと思います。

広島県佐伯郡沖村大字是長150番屋敷⇒ 能美島になります
 (現在は広島県江田島市沖美町)

以上の情報からしますと、「組合わせ角に三つ葉柏紋」だと推測できます。
瀬戸内に存在する数多くの海賊らを取り纏めた「瀬戸内水軍」を根本構築していたこの“「江田島」は、その当に「水軍の拠点」であり、そこの「村主」”であったと考えられますので、「家紋」が「組合わせ角に三つ葉柏紋」であるとしても「相当な分家筋」であった事は確かですね。
「江田島の村主秀郷流賜姓讃岐青木氏」の「瀬戸内一帯を取り締まる神職を兼ねた村主一族」であった事を物語っています。

そこでこの「家紋の主軸」に成っている「組合わせ角紋」も、「職能紋類種」の一つで、その「職能」とは「水軍の操船術等」の「職能」を示している事に成ります。
「副紋」は、「下がり藤紋に三つ柏紋」が正式な氏紋であった事に成ります。
「讃岐藤氏の一族が集まった会合」の中でも「最高格式の云う筋」であった事になります。

「村上水軍」に関しての「海賊のご質問」は、「瀬戸内」のその東の一部に過ぎず、取り分け「勢力」を見せたとする「能島村上氏」は、「逸れ者」とされていて「能島城の範囲」だけです。

「毛利氏の媒臣」であった「因島村上氏」は、江戸期物語では「 長崎城」 から「 余崎城」、その後 に「青木城」 へと移ったと誇張されていますが、これは全くの搾取です。
故に、「長崎城」と「青木城」の「因島」、「余崎城」の「向島」、「来島城」の来島は、抑々「瀬戸内水軍の拠点」としていた讃岐青木氏の活動拠点の拠です。

「瀬戸内水軍」を物語に上手く取り入れて物語小説に使われたものです。
「瀬戸内水軍の枠組み」から外れて「戦乱の室町期末期」に活動したとされるだけのものです。
この「青木城」は「讃岐青木氏の拠点」でしたので相当な江戸期の脚色ですね。
江戸期には無秩序に搾取のこのような事は横行しました。

然し、この情報は「江戸期の搾取」で「瀬戸内水軍」が存在する中では物語の様な勝手な行動は出来なかったのです。
此れでは物語風では瀬戸内は村上氏と成って仕舞いますがこの矛盾承知で小説を造って売ったのです.。
そももそも、おとなしくしていた「因島村上氏」は、「毛利家の家臣・媒臣」となっていましたので、世間で騒がれ程の「村上氏」ではそもそもいてられませんよね。


さて、ところが、この「瀬戸内水軍」を再び弱める為に1588年に豊臣秀吉が彼等を強引に海賊として認定し、「海賊停止令」を出します。
と、この「小さい域の村上水軍」らは従来のような清浄な活動が不可能となり、「海族衆としての活動」から撤退を余儀なくされ衰退してしまいます。

残ったのは「瀬戸内水軍」です。
その活動期には村上氏は「灘の水先案内人」として生き残り「灘西部」など「芸予諸島近辺」に限られていたのです。
従って、そもそもお家の先祖との関係は全くありません。
そもそも、世間で有名に成っている「村上水軍」と云うのは江戸期に物語として誇張されたもので、実際は「瀬戸内の水の流れが厳しい因島付近」を通行する際に「水先案内人」として活躍していた程度の「水軍」で、「瀬戸内水軍」が存在する限りは「海賊」として活躍できる環境下ではありませんでした。

さて、そこで知識として「水軍」には「海賊」と「海族」とがあります。
「瀬戸内水軍」は海で活躍する「海族」です。
この「瀬戸内全域」を「昭和20年」まで「瀬戸内水軍」として活躍し、主に「廻船業」を営んでいたのです。
江戸期には、「北海道から東周りの廻船の許可」が下りて「瀬戸内まで廻る東周りの廻船業」も昭和20年まで営んでいました。

この「瀬戸内の水軍」は、元はと云えば「讃岐青木氏」が、瀬戸内に無秩序に活躍していた「海賊」を取り纏めて「正規の水軍」にしたのですが、これが最後には「廻船業」と成ります。

この平安期には「瀬戸内水軍」と関係したのが、「摂津水軍」、「紀伊水軍」、「熊野水軍」、「伊勢水軍」、「駿河水軍」らとの深い血縁関係で維持され「廻船組合」を運営されていて「小さい水軍」もこの「組合規則」で縛られていたのです。
実際はこの規則を[護らなかった者」はこの「廻船組合」を敵に廻す事に成り殆どは潰されてしまいました。
「時の政権のお墨付き」もあって、この「廻船組合」をバックアップしていましたので、この「瀬戸内」で「逆らう馬鹿者」は居ませせんでした。
それが、「摂津水軍」は「伊勢青木氏の摂津青木氏」、「伊勢水軍は伊勢青木氏」、「駿河水軍は駿河秀郷流青木氏」、そして「瀬戸内水軍」は「讃岐青木氏」、の「日本一の格式高い伝統のある一族血縁関係」を維持していたのです。
血縁族ではない「紀伊水軍や熊野水軍」は、時には「海賊」と「海族」の両方を演じていました。

「瀬戸内水軍の事」や「讃岐青木氏の詳しい事」は「サイトの二つの掲示板」の「問い合わせ欄のワード検索」から「讃岐青木氏」や「讃岐藤氏」や「瀬戸内水軍」等のワードを入れて全てをゆっくりとお読みください。
相当な情報量ですので調べて根気よくお読みください。
それで「讃岐青木氏の全体像」はご理解いただけると思います。
出来ましたら他の血縁族の青木氏の事も合わせてお調べ頂けると青木氏の全体像が掴めると思いますよ。

さて、「お家の系譜」をお調べになるとすると、「上記の家紋」では大筋はお判りに成ると思いますが、それとは別にお寺からの情報ですね。
ところが、「讃岐青木氏の宗派」は、本来伝統として「貴族系の一族」が帰依する事になりますので「浄土宗白旗派」であり、「讃岐青木氏を含む秀郷流青木氏のお寺」は「浄土宗」の「西光寺」が「一族一門の青木氏の菩提寺」となります。

そもそも「菩提寺」とは、自らの一族一門が自費で寺を建立し一族の中から僧侶を出して一族先祖の菩提を祭祀するお寺の事で、その教義も一族の中でさだめます。
そして一族が分布する処に建立します。
つまり、「密教」の「氏寺」です。
恐らくは、その後、子孫拡大で大きく成った事でこの「西光寺」は「知恩院系の浄土宗」に帰依していた筈です。
ところが、お家はお便りでは、次の様に成っています。

菩提寺/宗派   浄土真宗本願寺派 照高山 長徳寺

本来は、「藤原秀郷流讃岐青木氏」であれば貴族や公家などの限られた氏族が許されて帰依する「浄土宗白旗派」なのです。
最も格式を証明する宗派であってそこが違いますね。
これは当時としては大変な意味を持っているのです。
それは、「讃岐藤氏の讃岐青木氏一族から追放された事」を意味しています。

実は、ところがこんな事があってはまず地元にはいられませんし、現在まででも19代も続けられていますところからこれには別の意味があるのです。

それは「浄土宗白旗派」は「密教」である為に何処にでもあるお寺では無く、地方の「秀郷流青木氏」は困った結果、この事に対して「讃岐藤氏の総家」から特例を出したのです。
それが「浄土宗白旗派」で無くても、その宗派に近い「浄土真宗」に一時的に入信しても良いとする特例でしたのです。
この「江田島」には現在では13の浄土宗真宗の寺がありますが、この江田島には全く当時は「浄土宗寺」は在りませんでした。
そこで、「浄土宗真宗の寺に帰依」が条件付きで許されたのです。
取り分け、「讃岐青木氏」は瀬戸内全体を統治する「瀬戸内水軍」を率いる現地に定住する一族一門でしたので、「讃岐青木氏の宗家」と「讃岐青木氏の分家筋」は「密教」ではない「顕教」である「浄土真宗」に一次的に入信したのです。
ですから「密教の菩提寺・西光寺」ではなく、「顕教の檀家寺」と云う位置づけになります。
然し、これには条件があって、必ず1年に一度は西光寺の近くにある本寺に挨拶をしなければ成りません。
「氏が建立経営する菩提寺」には、「氏の系譜が遺る過去帳」、「一般に建立された檀家寺」には「人別帳の一代限りの税徴収用の台帳」と成ります。
従って、檀家寺では系譜をたどる事は出来ません。

お家は本来は「讃岐藤氏の北家藤原秀郷流讃岐青木氏」の「氏族」です。

「顕教」は身分家柄関係なく誰でもが入信できる「庶民の宗派」でそのお寺という事になります。

従って、浄土真宗本願寺派 照高山 長徳寺では「檀家寺」ですので、お家の先祖を辿る事は出来ませんね。
「浄土真宗の檀家寺」として長い間付き合いをしていた以上は、「過去帳」に依る系譜は、兎も角も「先祖位牌」と云うものがありますが、この「先祖位牌」の中に「木札」があって「過去10代程度の先祖の位牌札」が入っていますので、其処までは遡る事は出来ますね。
そもそも「浄土真宗」ですので「戒名」は違い戒名から先祖を辿る事はできません。
「浄土宗」では「院殿居士」ですので先祖がどの様な人であったかは判り辿れます。

そこで「系譜的な事」は「下記の西光寺」にあるかも知れませんね。
「先祖の氏墓」も見つかる事もあり得ますね。
そうだとしたら、ここから「讃岐青木氏の宗家」に辿り着く事もあるでしょう。

そこでお家は、どこかの「宗家の菩提寺・氏寺」の「浄土宗 西光寺」にも届ける事をしていた筈です。
もう一つは「氏の守護神」ですが、「秀郷流讃岐青木氏」も「諡号の定める氏族」ですのでこの付近にあった筈です。
「秀郷流青木氏の守護神」は「春日社」と決められています。
平安期末期以降は、ある事件があって「春日社」を地方では続ける事が難しく成り、「春日神社」となりました。
「賜姓臣下族青木氏の守護神」は、「祖先神の神明社」、「賜姓臣下族青木氏の密教菩提寺」は「清光寺」です。

そこが、お便りの本籍地の広島県佐伯郡沖村大字是長150番屋敷であるとすると、この事からすると「氏寺の西光寺の菩提寺」は次の処のお寺では無いかと思います。

広島県広島市佐伯区湯来町大字伏谷25−1
以上の「西光寺」では無いかと推測します。

「沖村と湯来との間」は約三里弱・11Kですので、ここを「宗家の菩提寺・氏寺」の「浄土宗西光寺」としていた事は確実でしょう。
当時の生活圏の範囲は2から3里が基準ですから、まずここがお家らの宗家の「氏寺」だと思います。

此処でお家の御先祖の何かを掴む事が出来るかも知れませんね。

実は、「讃岐青木氏」は「瀬戸内水軍」として活躍していた以上は「浄土宗の掟」に反している事に成ります。
これは「浄土宗白旗派」は、「貴族の格式を有する者」のみが帰依する宗派ですので、「表向き」は「瀬戸内水軍」として活躍する以上は、「隠れ蓑」が必要で、「浄土真宗」として、此処を「一族の正式な檀家寺」としていたと考えられます。
つまり、「宗家本家の菩提寺・氏寺」で、「讃岐青木氏の総家」から観て「お家」が「讃岐藤氏の系譜上」どの位置に居たかです。

「瀬戸内水軍の中心の江田島」にいた事は、「活動する実働する水軍の指揮の位置」にいた事に成りますので、判って来るかと考えます。
「家紋」からもこれを証明しています。
「三葉柏紋」として観れば、恐らくは「倉橋春日神社」の「宮司」も兼ねていた事も考えられます。
本来は「春日社」、若しくは「春日神社」がお家の守護神です。
「武蔵入間の総宗本家の秀郷流青木氏」は「春日社」です。
だとすると、「讃岐青木氏」の中で「瀬戸内水軍」を実際に指揮して動かしいたのは、お家である可能性があります。
だから、「讃岐藤氏の総紋」を「下り藤紋」として「讃岐青木氏の副紋」をこの「家紋」にしていたのです。
その「伝統」が何時しか消えて仕舞ったのかも知れませんね。
この副紋存在を知る事でもお家の御先祖により近づく事が出来るのではないでしょうか。

兎も角もサイトの「検索ワード」を使ってお読みください。
個人情報などで今や確かな事はこの方法しか無いと思います。
お家の親族の倉庫などにも何か遺っている事もありますね。

念の為に、「香川の讃岐青木氏の総家」は、 香川県木田郡三木町小蓑にある「春日社」が守護神と成ります。
又、讃岐青木氏の宗家の菩提寺の西光寺は、香川に13の西光寺が有りますが、中でも 香川県綾歌郡宇多津町2198の西光寺が「最も古い浄土宗寺」と観られます。
ここが従って「総家の菩提寺」としていた処だと思います。

ある意味でお尋ねに成る事も意味があるのではないかと思います。


    



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