青木ルーツ掲示板
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      [No.1128] Re:青木一貞の6人の男子の名について
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/09/21(Thu) 12:14:42  

    さて、お久しぶりですね。

    お便り読みました。そうですか。


    前回、ご説明した「歴史観の範囲」に沿っていないと考えますので、「古川氏の事」に関しては専門域でもありませんので、これ以上は敢えて詳しい論評は避けたいと思います。

    そこで、仮に「歴史観の範囲」を超えてのお便りの通りとすると、日本全国に8000もの「氏」と「姓」がありますが、前提として参考とされたと思われる資料(1と2を正としての論)らしきもので考えれば、全て、お説の様に「氏族」の「青木氏や佐々木氏」、将又、「源平籐橘の族」に、果ては「天皇家」に繋がるかと考えます。

    つまり、江戸期初期の「黒印状」に基づく「系譜詐称のブーム」(1)、明治初期の「系譜詐称のブーム」(2)の検証を否とする以上は、「詐称の範囲の論」と成りますので無意味かと考えます。

    (この二つの時期には、この様な”「系譜詐称のプロ」(1,2)”が大横行し、「財力のある者」は全てと云って良いほどに作った。幕府や維新政府や世間はこれを黙認した。
    故に、「史実の歴史観」から矛盾が生まれる。
    そもそも、「氏族の慣習仕来り掟」と室町中期から発祥した「姓族の慣習仕来り」とには大きな乖離(歴史観)があります。
    そもそも、「姓族」は瀬戸内から発祥した「海部族」が最初と云われていて、御家は間違いなく「姓族」ですのでお便りの様にはならない一つなのです。
    例えば、この一つとっても「公的歴史観」を越えています。)

    「根本的な事」に成る「維新戸籍簿」や「室町期後半の菩提寺の有無」と「江戸期前の宗派」や「過去帳の確認」等の「確実な資料」の上に立って検証されるべきかと考えます。
    (お便りには歴史観に依る論理的矛盾が観られる。)

    念の為に、少なくとも明治期ではなく、是非に、「系譜」などの事は「江戸期以前の男系」に従う必要があります。
    「女系譜」を参考にするには、多くの「氏家制度」の中での「慣習仕来り掟」があり、それによって追及すると「歴史観の矛盾」が生まれ「真の系譜」は発見できないと考えます。
    後は、「個人の自己満足」にかかりますので、無理な論評は避けたいと考えます。

    従って、「青木氏」としては、この「歴史観に関わる事」はご協力しますので是非尋ねください。


      [No.1127] Re:青木一貞の6人の男子の名について
         投稿者:東京の仁太郎ー   投稿日:2017/09/21(Thu) 01:22:17  

    今晩はお久し振りでございます。

    あれから、色々調べまして、自身の家系を明らかにできました。

    古川家は対馬藩重臣で家紋は桧扇です。
    維新後当家は三つに分かれます。
    本家、分家1大阪天満橋付近家紋は○に蔦、分家2最初広島能美島に移住。
    家紋は○に沢瀉。後に兵庫県へ移住。本家は対馬の前は豊後であり、その前は日向であり、その前はもっと東国で元々は武蔵七党猪俣党となります。

    対馬藩は朝鮮通信使受け入れを担っており、藩邸を大阪、京都、江戸に持っていました。
    古川家は通訳、儒学者の雨森芳洲をも先祖とし、藩主宗氏からも2度婚姻関係となり、従って公家の日野家は遠戚です。
    後に古川図書が出て儒学、藩政の両面で活躍します。
    幕末になり、時の古川の嫡男は、京都の公家正○○○○家から室を迎えます。
    後の嵯○○愛とその妻○茂の娘です。古川嫡男とこの娘の間に茂○彌と多○という兄弟が産まれます。
    そして、何れも麻田藩青木氏の娘を室にしています。

    興味深いことに、池田氏の血筋を引いた系と一方は佐竹氏の血を引いた系となります。
    そして、茂○彌の嫡男と多○の娘は結婚しています。
    これが曾祖父と曾祖母です。結果、池田と佐竹両方の血筋を引くことになります。
    従って青木一貫の実家伊達氏とも縁戚、従って公家村上源氏久我家も遠戚。従って四条家も縁戚、従って平清盛は直系の祖となります。
    嵯○家を遡れば稲葉氏、織田氏、木造氏、北畠氏。別の方向で遡れば中院家。伊達氏を遡れば、三沢初子。
    その上に氏家卜全、宍戸氏、内藤氏、山内氏、吉川氏、小笠原氏、尼子氏、京極氏、佐々木氏、五龍局から毛利元就。
    傍系に小早川隆景。佐竹氏を遡れば上杉氏、奥州藤原氏。

    青木氏を遡れば、来島氏、木下氏、安芸浅野氏、浅井氏、加賀前田氏、徳川秀忠、徳川家康、お市の方。
    嵯○家からは戸田氏、松平戸田康長、戸田氏鉄。正親町西家、加賀八家美濃前田氏の前田孝行。西洞院家、本多政重、本田正信。池田から生駒氏、藤堂高虎。
    分家1の蔦紋は戸田氏、藤堂氏から。
    分家2の沢瀉は毛利氏、水野氏から維新時に自由に定紋としたものだったのです。

    これ等が全て祖母の系。戸籍に『嵯○○愛』とあり流石にこの事実は歪めようがありません。
    祖父の系は、妹尾兼康直系、伊賀氏、明石氏、尼子十旗の熊野氏、伊予金子氏、祖を原彦右衛門とする長州小松氏、渡辺氏、宇高氏、
    そして喜入肝付氏、根占氏、島津氏、久松松平氏、桜井松平氏。
    私は小松帯刀同様根占清房からの直系となり従って日本武尊直系となります。


      [No.1125] Re:栃木の青木と申します
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/07/08(Sat) 17:14:29  

    > はじめまして。ぜひお聞きしたい事があり、コメントさせて頂きました。
    > 亡くなった祖母が、よく先祖は青木昆陽だと話していたので、真偽が気になっています。
    > 家紋は丸に抱き茗荷、少なくとも明治の頃から栃木県宇都宮市に住んでおり、宗派は浄土真宗本願寺派です。
    > 情報が少なく、難しい質問かとは思いますが、お答え頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。


    さて、栃木の青木さん
    今日は。
    ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。
    御質問が在れば何なりとお尋ねください。

    お話では、江戸中期の”「青木昆陽」の子孫ではないか”と云う事で、御家紋が「丸に茗荷紋」で栃木県にお住まいで、宗派は「浄土真宗」と云う事ですね。

    実は,この「青木昆陽」の「出自」は、元ははっきりとした「町人」で、江戸日本橋小田原町(東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子である事は判っています。
    ところが、学問が好きで「京都の儒学者」の「伊藤東涯(古義堂)」に入門して「儒学]を学びました。
    この縁で、「江戸町奉行所与力・加藤枝直(又左衛門)」と懇意に成りました。
    この「幕臣の加藤氏」は「藤原秀郷流一門」の一つで、同じ一門の「藤原秀郷流青木氏」が在りました。
    「偏纂の後付」の「明治後の他説」が多いのですが、この「藤原秀郷流一門」の伊勢の分家筋末孫の一部に家系が絶えた「秀郷流伊勢青木氏(近江系)」が伊勢に於いてありました。
    そこで、この「昆陽の学問」を何とか生かす為に、「加藤氏」は「伊勢住人」であった「南町奉行・大岡忠相」に紹介し、その結果、「武士」にする事に成り、この「武士」の「家系の絶えた秀郷流青木氏の跡目」を継ぐことに努力しました。

    (嵯峨期の詔勅で勝手に青木氏を名乗ってはならないと云う禁令がある。)

    実は「大岡越前」は、元は「吉宗の紀州藩」の藩主時には「伊勢在留の藩臣(吉宗付きの藩臣で懇意)」で当地の豪族の「秀郷流伊勢青木氏」とは遠からぬ関係にありました。
    「嵯峨期の詔勅」に反する事になるので、そこで、学問を生かすためには武士に成り幕臣に成る必要があり、「武蔵の秀郷流一門の加藤氏」と「武蔵の秀郷流青木氏」と同じ一門の「伊勢秀郷流青木氏」の縁で、「伊勢の抱き茗荷紋の秀郷流青木氏(近江藤原とも縁籍の名籍)」の分家筋の男系の途絶えた「名籍の跡目」を引き継ぐことに成功したのです。

    関東一帯には、従って、「関東の秀郷流青木氏」が集中して現在でも多く在住しています。

    「吉宗」が「八代将軍」と成った時に、「伊勢の土豪」の祖先をもつ「大岡(伊勢の伊藤氏と同じ藤原一門)」も「伊勢」から取り立てました。

    (伊勢の「山田御船奉行」も務めていた。関西全域の船に関する奉行)

    又、そもそも、この「伊藤氏」は「秀郷流一門」の「伊勢の藤原氏」で「伊勢」の「伊」と「藤原氏の藤」で「伊藤」と名乗っているのです。
    「青木氏」と同じく平安初期の極めて古い名籍一門の伊勢宗家です。

    (筆者の「伊勢青木氏」もこの伊勢の伊藤本家筋とは縁籍関係にあります。)

    当然に、「加藤氏」は「加賀」の「加」と「藤原氏」の「藤」で「加藤氏」である事に成ります。
    そもそも、この「藤原氏」には、「四家」がありますが、この中でも「北家の下がり藤紋」の「秀郷一門の藤原氏」はこの「藤」の慣習に従っています。
    これは「藤原秀郷流一族一門の慣習仕来り掟」です。

    故に、「伊藤東涯」も「秀郷流伊勢青木氏」と同様で、「同祖同縁の縁籍関係」にあり、「伊勢の秀郷流一門」であるのです。

    この様に全て、「秀郷一門」で繋がっているのです。

    さて、実は、この「吉宗(頼方)」も「紀州巨勢氏出」の「湯殿女の子」でした。
    「紀州藩の二代藩主」は危険を察知して吉宗(頼方)伊勢に匿います。
    「伊勢の二つの流れの青木氏」(「皇族賜姓青木氏」と縁籍関係にある「秀郷流青木氏」の同祖同門の「二つの青木氏])の下で秘密裏に育てられたのです。

    これ等の詳しい事は「研究室の伝統シリーズ」に論じていますが、実は「筆者の青木氏」が「伊勢加納氏」と共に「吉宗の育ての親」であります。

    この「吉宗」が「八代将軍」と成って「育ての親」の「二つの伊勢青木氏」と共に江戸で「享保の改革」を行いますが、この時、「大岡」は、「伊勢の抱き茗荷紋の秀郷流青木氏」の「分家」のこの「養子跡目」を継ぐ「青木昆陽」を、「見聞きしていた縁」のある「吉宗」に紹介します。
    その「学識」を見いだされ「飢饉の対策」として「食料」として緊急に関西にだけで栽培されていた「甘藷(現在のサツマイモ)の栽培」を命じたのです。

    その御蔭で、「享保と天明の飢饉」を「吉宗」は乗り越えられのですが、この功績を称えられて特別に「最高名籍の青木氏」を「嵯峨期詔勅の禁」を掻い潜り正式に名乗る事を許された商人からの人物なのです。

    問題は、この「青木昆陽」とお家との繋がりですが、「茗荷の家紋」と「宗派」だけですが、「茗荷紋」は確かに「伊勢及び関西域の秀郷流青木氏の家紋」です。
    この「家紋」は、「近江の土豪」であった「鳥羽氏や稲垣氏」が江戸初期に出世して伊勢の鳥羽や長嶋に配置された事からこの家紋を使った事は判っています。
    元は、近江と関係の深い「伊勢の秀郷流青木氏」の家紋です。

    そこで、江戸初期に家康に依って伊勢の守護に廻された「鳥羽氏や稲垣氏」の二つは縁籍関係にあり、江戸初期に無名から出世して「名乗った姓」ですが、「黒印状」を獲得する為に名籍の権威がない為に何とか「伊勢秀郷流青木氏の名籍」を名乗る為に努力します。
    「青木氏」は名乗れませんでしたので、縁籍関係にある事を示す家紋を獲得する事に努力したのです。
    それには伊勢の「秀郷流青木氏」から「不継養子」(妾子)、又は、何度も「嫁」に依る「縁籍関係」を造り上げて、その一子をこの「名籍家紋」を引き継がせた事が判っています。

    そこでこの「名籍家紋」が何で栃木かと云う事に成ります。
    一つは、「青木昆陽」が吉宗と共に「江戸向行」」で現地に子孫を遺したと云う筋道です。
    二つは、「苗字の持たなかった無関係の庶民」が「明治初期3年の苗字令と8年の督促令」によって、それの「秀郷流伊勢青木氏の茗荷紋」に関わった「農民」などが名乗った。
    このことから、その後の「移動の解禁」と成って栃木に移動したと云う筋道が出ます。
    三つは、一の「青木昆陽」に直接に生活に関わった「農民や奴や下男」等の「民」が「明治初期3年の苗字令」で名乗った筋書きです。

    この三つを何れも確定する情報はありませんので判りません。
    唯、それを「確認する方法」があります。

    一つ目は、「明治初期の苗字令」の時の前に住んでいた「地域の浄土真宗」のお寺に、「お家の過去帳」と云うものが有ります。
    この「過去帳」に「お家のご先祖」が書かれています。
    但し、お寺の「檀家寺」の「人別帳」ではありません。
    この場合は「民」です。

    二つ目は、お家の明治初期3年の「維新戸籍簿」に「お家の定住地」と武士か民かの「身分」を明記しています。
    これを確認する事です。

    三つ目は、お墓の形式でも判ります。
    お家に「お墓」があるとして、そのお墓は「どんな石」で出来ていますか。
    「墓の形」は「三つの墓石」と「五輪の塔」の二つの形式の様なものに成っていますか。

    「維新政府」は「3年の苗字令」が進まず、8年に強制的にその民の関わった地主や郷氏や郷士や地名等の「姓」を名乗らせる事を強制的に命じたのです。
    又、「家紋」や「伝統」や「系譜」を真似る等の事も頻繁に起こりました。
    従って、ある日、突然に一日で村や郡の民が「同じ姓」に成る事が全国各地で起こりました。

    実は「青木昆陽」のその後の子孫の詳細は判っていません。
    「目黒区の龍泉寺」に墓があります。
    この「龍泉寺」は「天台宗」です。
    「浄土真宗」ではありません。

    そもそも、決定的に「宗派」が違いますので、「子孫」と云う事には成りませんが、「青木昆陽」の仮に「子孫」であったとして、そうすればお家のご「先祖の戒名」がここで確認できる筈です。


    「名籍の青木氏」の「姓」を特別に「商人の身分」から名乗る事を特別に吉宗により許された事から、「三代目以降の青木氏」の「名籍」を名乗ることを許されたかは疑問です。
    普通は許されません。
    実は、「青木氏」を名乗ることは「嵯峨期詔勅」に依って「禁令」と成り、明治3年まで原則護られたのです。
    (研究室に明記)

    実は、江戸初期に、苗字の持たない者の武士に成った旗本が「青木氏」を勝手に名乗り、幕府から「千年以上の名籍権威」を保つ事から「禁令」を受け、「青樹」等に改名する事が命じられました。
    幕藩地に多いのです。
    もし、「青木昆陽」の「嵯峨期禁令」と「慣習の事」も含めて「青木昆陽氏の三代目や四代目以降」は、年数的には結果として「明治初期」に成りますので、上記の「三つの青木氏」の何れかと考えるのが普通です。
    唯、二代目男子が居た事は確認できています。

    (”「青木昆陽の子孫だ」”とする青木氏は実に多いのですが、殆どは、上記の三つの「第三青木氏」で矛盾が多いのです。)

    「青木昆陽」は、上記の通り庶民からの「跡目断絶」の「跡目養子」でしたので、江戸期に於いては、「丸付き紋の子孫までを遺す事」を許されたのかは疑問です。
    (「幕府推薦」の下で「朝廷の許し(偏諱)」を獲得する必要がある。)
    又、そんな「年数」が無かった筈です。

    お家の家紋が、「丸付き紋」である事と「本願寺派」ある事から観ると、「末孫傍系の分家筋」であり、江戸中期頃の「青木昆陽」が明治初期までの100年程度で「丸付き紋」の此れだけの「末孫傍系の子孫」を遺し得たかは極めて大きな疑問です。

    お家が「浄土真宗」(本願寺派)である事から、「身分」に依って「宗派」が推測する事が凡そ出来ます事から、考えると関東に定住する「本願寺派」は考え難いのです。
    何故ならば、江戸期までは、「民」は領主に所属するものとされ、勝手に江戸期は「移動定住」は「一族打ち首の斬罪」でしたので特別な場合を除いて移動定住は出来ませんでした。
    「五年以上の定住」に成ると一度は里に帰り再び手形を取り直しする事に成ります。
    そうしないと「江戸の庶民の無宿者」と成ります。

    筆者の推測では、上記の三つ目に当たるのではと考えます。
    「明治期以降の口伝」で、「昆陽の関係者」がいつの間にか「昆陽の子孫」と成ったのではと思います。

    一度、兎に角も上記の「三つの確認の方法」でお調べください。

    ご不明な点や御質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。
    お待ちしています。


      [No.1124] 栃木の青木と申します
         投稿者:栃木の青木   投稿日:2017/07/07(Fri) 22:23:24  

    はじめまして。ぜひお聞きしたい事があり、コメントさせて頂きました。
    亡くなった祖母が、よく先祖は青木昆陽だと話していたので、真偽が気になっています。
    家紋は丸に抱き茗荷、少なくとも明治の頃から栃木県宇都宮市に住んでおり、宗派は浄土真宗本願寺派です。
    情報が少なく、難しい質問かとは思いますが、お答え頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。


      [No.1123] Re:長野の青木さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/06/17(Sat) 16:26:17  

    長野の諏訪の青木さん 今日は。

    お便り頂きました。有難う御座います。

    さて、早速ですが、この「神明社」と「諏訪社」には、歴史的な独特の経緯が在りましてこの事を知って置く必要があります。

    それは先ず、「神明社」から述べますと、「神明社」は「神社」ではありません。
    奈良期の「高位の真人氏族」として特別に認められた「青木氏の守護神」として祭祀を許されたものであると云う事てす。
    そして、それは単なる「神社」では無くて、元より「皇祖神の子神」の”「祖先神」”と云う「特別の神」を祀る「社殿」であり、この「社殿」は、「神」と後に伝わる仏教の「仏」を融合する「自然神」に近い「神仏を祭祀する社」であったのです。
    ですから、「神明神社」とは云っていないのです。

    後に、これを真似て江戸期には「神明神社」と云う神のみを祀るものは出て来ますが、これは「神明社」ではありません。
    平安期初期から存在する由緒正しい「諏訪社」も同じです。

    前回に述べました様に「諏訪族」は奈良期に渡来しますが、この時には、「神明造」と云う「独特の社」に合わせて、「渡来人」として「諏訪造」と云う「独特の社」を造り、既に一族の守護神を祭祀していたとされています。
    この奈良期のこの世は、仏教伝来時前はこの世は「神(神も仏も融合の世界観)」でした。
    そこへ、「仏教」と云う「救世主」を分離させた「独特の世界観」が中国を経由して伝来します。
    この時は、この「救世主」はあくまでも初期は「密教」として捉えられていました。
    従って、「密教」である以上、その「密教」として扱う以上は、その「氏族の民」の下で「独特の仏教観」を作り上げたのです。

    これに対応して「青木氏一族」は、”「祖先神の神明社」”を祭祀していた事からも、尚の事、「融合の世界観」を作り上げました。
    これが「古代浄土密教観」です。
    そこで、平安期に入り「法然上人」などに依り「三代密教論争」が興り、「法然上人」により「青木氏等」の「浄土密教」を一般の密教観に確立させたのです。
    然し、「青木氏」は「古代密教性」を強く「慣習仕来り掟」等に維持しました。

    それは、独特の「祖先神」と云う「神」を祭祀する「神明社」と云う「偶像」があった事に依ります。
    「青木氏」以外には「祖先神」と云う様な「神」を持つ氏族は、11流の源氏の「八幡神」、藤原氏の「春日神」などがあります。
    「青木氏一族」は、そこで、平安期に入り、この「神道性」を一部で排除して、「独自の氏族の菩提寺」(達親制度)を分離させました。
    この「菩提寺」とは、江戸期から起こった「密教」では無い「顕教の檀家寺」とは異なります。

    これが、江戸初期に家康によって「密教制」が禁止され、全て「顕教制」にし、神社や仏舎は幕府(国)の管轄下に置かれました。
    「青木氏の神明社」は、全国青木氏が定住する地域には約500社弱にも上りましたが、一切管理外と成ったのです。
    諏訪社も菩提寺(寺名は匿名)も同様です。

    江戸期では「社」は一切は信仰は自由とし、「顕教の寺」は自由性を排除し「家柄と身分」で決められる事に成ったのです
    この為、「青木氏一族」は「二足の草鞋策」でこれらを「氏」で維持していたのですが、幕府は財政難から維持出来なく成り殆ど荒廃して仕舞います。
    それで室町期末期頃までは何とか形をこの500の神明社を保っていたのですが、この「顕教令」等で殆どは江戸初期以降は”「祠程度」”に成ったのです。
    この経緯は「諏訪大社」も同じです。

    そこで、困った「青木氏」は、何とか本来の「神明社」を維持せんとして密かに山の中などの別の所に”「祠」”を造り祀って来ました。
    本来は、「卑弥呼」などから引き継がれた「自然神」から「皇祖神」、そして「子神の祖先神」と成り、自然の象徴の山を神としてその山裾に社殿を設けて祀るという形式をとりました。
    ところが、江戸期の「令」により、密かに「小山の山中」にこの「神明社の祠」を「青木氏の民」が祀りました。
    これが、お説の様な現象を江戸期に起こしたのです。
    ですから、青木氏の記録とは多少ズレる事が起こりお家がお調べに成った様な事に成ります。

    しかし、治政から各地の領主はこれを黙認しました。(「信濃青木氏系の一族」は「郷氏」)
    それは家康の”伊勢の事お構いなし”の「御定め書」の「お墨付き」に従ったのです。
    「伊勢の事」とは、江戸期では伊勢と信濃と甲斐の青木氏一族の事を意味しました。


    これが現在もその雰囲気を遺されているのですが、江戸期には中には自ら財源の提供をして土地の領主に再建や建造の許可をもらったものが有ります。

    例えば、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、勿論の事、有名なものはその権力を利用して「甲斐青木氏の一族」の「柳沢吉保」やその一族は、何とか維持せんとして自らの財源で由緒ある「武蔵深谷(埼玉)の神明社」や「美濃や伊勢の神明社」等の古い社を再建しました。
    従って、「祠」もあり立派な「神明社」もある事に成り、「歴史的な場所」には無い事が起こっているのです。

    「菩提寺」については、数多くの「分寺」(多くは土地の豪族の別の寺名に成るものもある)などは荒廃しましたが、「本寺」などは「献納金」等で幸いに遺されています。
    伊勢は「紀州徳川氏の菩提寺」にも成ったのです。

    この経緯から観ても、「神明社」の「御柱祭の記録」からでもお家のご先祖の懸命に生きた懐かしい「生き様のロマン」が観えますね。
    それの表れの一つとして次の事が挙げられます。

    追伸
    「御乳社」について、この読み方に疑問をお持ちの様であったので追記しておきます。
    神明社等の古い社(天照大神祭祀社)は現代風の読み方はしていなかったのです。
    「韻読み」でした。
    つまり、当時は「神主」は祝詞等を読むとき、又は関係者の呼称する時は、母韻のアオウエの四音、父韻のチイキミシリヒニの八音から成り立ち、母韻を中心に発声する習慣でした。
    例えば、「青木」の「あおき」であれば,”ウォーキェ”と呼称していたのです。

    これはそもそも、「日本の言葉」の発祥は、先ず人間が最初に発した言葉は、この母韻からの組み合わせでの言葉から作られて行きました。
    そして、次第にこの「四母韻の言葉の組み合わせ」に、「八父韻」を付けて「韻読み」で作り上げて行きました。
    この為に、大化期の奈良期の神明社関係はこの慣習に従っているのです。
    お調べに成った様に、”玉依毘売命、神武天皇を産んだ方”、つまり「天照大神」とされ「皇祖神」の「神」、子神の「祖先神の神明社」の祭祀する神です。
    その為に「母音言の慣習」から、この「乳」は「母」を意味し、その韻の発生源は「ウ」と云う事に成ります。

    従って、この「御乳」が古来からあるとして、四韻の「母の意味」が込められていて、呼称は「御」はその意味に沿って先ず母韻の「オ」、又は「ミ」、父韻のィに、「ウの母韻」に「チの父韻」を添えて発生していたと考えられます。
    オミーウエに成るのでしょう。
    この様に「古来の言葉」では、この母韻言から「母」には、母音の四韻の他にカミ、ウ、ウミ等の言葉があって、後に女将さんとか、乳母、海母とかして残っています。
    「大神」(オオウミ おおみかみ)はこの意味を持つています。

    つまり、しかし、「御乳」の「おち」の発音は、「ち」の父韻が強くなった頃の相当の後に出来た言葉で、「後付」であることが判ります。
    恐らくは、この地域に信濃の青木氏の中で、お家の青木氏の勢力が衰退した時期にこの地域に入った「姓族 豪族」の付けた社名と考えられます。
    「神明社」以外の呼称は、「祖先神」では「皇祖神の子神」である事から使えませんから、明らかに「後付の社名」と成ります。
    筆者の説は、室町期の足利氏の宗家の信濃足利氏の斯波氏の影響かと考えられます。
    「斯波氏」であれば、その信濃源氏の家柄身分からも「氏族」と見做され、その多少なりとも資格はあった事に成ります。
    又、韻語からも「キィハ」で成り立ちます。

    「皇祖神」は、「祖先神の青木氏」以外に祭祀する事は出来ませんから、これを「姓族」が祭祀出来る時期は江戸期初期からと成り、当然に神明社の社名は使えません。
    従って、室町期に入り確固たる「武力集団」を持たない「郷氏」の為に「青木氏」は衰退します。
    諏訪族や武田氏系の血筋を持つ分家筋に至る程に「郷氏」としては何とか生き残りはしましたがその影響は大きかったのです。
    この青木氏衰退後の後に入った豪族が「大御神(大神)」の名前をかえて,「御乳大社」(現在風におち大社)としたとも考えられます。

    この様に「社」を調べる事でも、ここでもお家の当時のご先祖のロマンが観えてきますね。
    いい旅でしたね。

    この「古来の言葉」、「韻語の言葉」、「言の葉」の源は、「青木氏」が継承する言葉ですので研究室に論じています。
    これらの経緯は「伝統シリーズ」などで論じていますので参照してください。


      [No.1122] Re:長野の青木さん
         投稿者:塩尻市の青木   投稿日:2017/06/16(Fri) 20:15:31  

    お久しぶりでございます。

    > お家の場合は「諏訪大社」との「両方の神」を祭祀する「松本市の神明社の御乳社」が気に成ります。
    > お便りの仕来りなどから先ず間違いは無いと考えます。


    こちらの情報をもとに御乳社(神社)に行ってみました。

    松本市島立という場所には神明社と御乳神社がありました。
    神明社は松本市内の両島、井川城という地域にもあります。
    長野県神社庁にて確認できる神明社は井川城のものになります。
    井川城という地域は小笠原氏が入り、守護館を建てた地域であり
    元の地域は井川というそうです。
    両島の神明社は下水処理施設の近くにあり
    小さな拝殿と本殿が残されているのみでした。

    話が逸れましたが
    島立という地域にて確認できた神明社は
    神明としか書かれていないものでした
    三叉路の角にありとても不思議な感じでしたが
    石仏や、周りの家の敷地内にも名残が多少あるため
    以前はもっと大きな社がであったと思われます。

    本題の御乳神社ですが
    案内板があり由緒には
    御祭神は玉依毘売命、神武天皇を産んだ方
    創建は大化5年(649)
    元々はこの地域ではなく
    波田という地域にあったとのこと
    その頃は諏訪社ではないのに御柱祭を盛大に行ってる
    沙田神社(いさごだじんじゃ)と対になる様にあったようです。
    この沙田神社も調べてみると面白そうなので今後調べていこうと思います。
    また、ネットで調べてみると
    http://www.komainu.org/nagano/matumoto/otiti/otiti.html
    http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/otiti.htm
    上記のサイトで御乳社について触れており
    面白かったのでURLを貼っておきます
    御乳神社で検索すると引っかかる項目のため
    必要ないかもしれませんが

    御乳神社の祭神
    玉依毘売命ですが、松本市内に他に祀っているところもあり
    川合鶴宮八幡神社というところでそちらの由緒は
    人皇五十代 桓武天皇御宇延暦10辛未年7月20日勧請す。
    (792) 神饌幣帛料供進指定神社
    となっています。


    画像を添付しようと思いましたが
    めっちゃくちゃ容量があるので
    止めておきます…


      [No.1121] Re:長野の青木さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/30(Tue) 19:25:03  

    早速、お便りありがとうございます。

    「青木氏の事」の「伝統の一端」をご理解頂きましたが、これからも更に本サイトを多少なりともご理解しお読みください。

    さて早速ながら、全くお説の通りで、これは前回ご説明した「青木氏」が持つ世間と乖離した「独特の慣習仕来り掟」から来る事の弊害に依ります。
    然し、昔はこれが何の不思議もなく当たり前でした。

    前回のご説明の立場から、これは主には「四家制度」と云う「氏」(賜姓族と云う立場)としての厳しい制度を保っていた事からの結果から起こった事であります。

    取り分け、「諏訪族青木氏」に関しては「ルーツ掲示板」には72カ所、研究室には数えきれない程の事を論じていますので参照してください。

    お家のご先祖の事(諏訪族青木氏)を書いた最も古い記録は、何と日本最古の書籍「日本書紀」に明記されています。
    研究室に青木氏に関わる事の「日本書紀の事」が論じています。

    実は、筆者がその「伊勢青木氏」の「総集本家の宗家青木氏の40代目」に当たりまして、此処に幸いにして多くの全国青木氏の事を書き示した書籍類や古遺品や口伝等がある程度遺されていまして、それを全国の青木氏の方にお伝えする目的で、管理人さんのご協力を得て投稿しています。

    現在、「青木氏の子孫」にその歴史ロマンを遺す目的から、「由来書の再現」を図るべく投稿している次第です。
    お説の様に、「青木氏」には「青木氏氏是」と云うのがありまして、簡単に現在用語に要約すると、世に晒す事無かれ、何れ一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”)

    これが生き残る「青木氏の氏是」でありました。

    前回のご説明の通り、平安初期に編纂された「新撰姓氏族」等を始めとしての「日本最古の三つの古書籍」がありますが、ここには「青木氏と同じ立場」を持つ「氏族」は、平安初期には20、そして中期には40程度、平安末期には約80氏に成りますが、鎌倉期にはこれらの「氏族」は200までに拡大はしました。
    然し、「青木氏の氏族」を除いて、室町期末まで10程度以下まで落ち込み、明治期初期にはにすべて滅亡しました。
    この様に室町期初期から中期に発祥始めた「姓族」(海部氏が始まり)と異なり、「氏族」(武家貴族)は、家人によるだけで大きな本格的な武力集団を持たなかった事から、「下剋上」や「戦国時代」で生き残る事は難しかったのです。

    然し、「青木氏」には、この「青木氏氏是」を下に、主に「伊勢青木氏と信濃青木氏」は「二足の草鞋策」を敷き「郷氏」として結束して生き残る事が出来たのです。
    然し、室町期末期の信長と秀吉は、この「伊勢と信濃と甲斐の青木氏」をも容赦なく攻めたのです。
    ところが、「伊勢と信濃の青木一族」は、「影のシンジケート」を使って2万の軍に対抗し勝ちます。
    この為に、総指揮官の織田信雄は叱責を受けて蟄居した有名な事件が起こります。
    秀吉は「長嶋の戦い」で、青木氏は「影のシンジケート」を使って「物資の買い占め策」に出て「軍需用品の調達」が出来ない様にし、余りの大金で戦いが進まないと云う事が秀吉側に起こったのです。
    この「青木氏の作戦」が成功したのは、総指揮官が青木氏と縁者関係にある「藤原秀郷流蒲生氏郷」が総指揮官であった事が作戦成功の鍵であったのです。
    「作戦の落としどころ」を上手操ったのです。
    これで「伊勢と信濃の青木氏」は護れたのです。
    ところが「甲斐青木氏」は武田氏と共に敗れますが、家康に救われて、その為に武蔵鉢形に一族定住移動させられました。
    この「甲斐青木氏」の一人が、かの有名な幕府の要人の「柳沢吉保」です。

    (注釈 「柳沢」と云う「甲斐の土地」に住んでいた「甲斐青木氏の分家」(三男)で、父と争い「青木氏」を継ぐことが許されなかった。)

    その前には、既に「近江と美濃の青木氏」は氏是を破り源平合戦で宗家本家筋は滅亡しました。

    そもそも、「青木氏」は前回のご説明の通り、「伊勢と信濃」は「家人制度」をベースとする為に「武力集団」を持っていません。
    但し、これでは生き残るとこは到底出来ません。
    そこで「二足の草鞋策」で、戦国時代で潰された周囲の小さい土豪の集団と経済的な結びつきを持ち、「膨大なシンジケート」を創設したのです。
    無暗に攻めると、この山の中に住む「影のシンジケート」が動き相手を殲滅する憂き目を負います。
    例えば、食料の路を絶ちこの「影のシンジケート」で足利氏の2万の軍を餓死させました記録もあります。
    つまり、江戸時代の忍者集団がその一つです。
    「伊勢と信濃」には、「伊勢−信濃シンジケート」がありました。
    その中の一つが、元は伊賀、甲賀、雑賀、根来、河内などがあります。

    この様に、氏は総宗本家(宗家筋の本家)、宗家(分家筋の本家)、分家(支流族と縁者族)とあり、夫々が「子孫の枝葉」を拡げている事に成ります。
    これを一つに束ねているのが、「氏家制度」と「封建制度」に基づいた「総宗本家」です。
    この「総宗本家」が、前回ご説明した「氏の菩提」と「氏の守護神」を護っていたのです。
    ここに上記する全ての「氏の者」(達親制度)は、氏から独自に住職や神主を出して葬られたり祀られたりしていたのです。
    当然に、氏全ての記録等は、この住職や神主に依って書記を務め、ここに記録される事に成ります。
    従って、総宗本家、宗家、本家以外には詳しい伝統も記録も口伝も遺り難いのです。
    取り分け、分家筋はお説の通り、お家の事をお調べに成るには、この「氏の菩提寺」(檀家寺ではありません。)か「氏の守護神」(神明社か諏訪大社)に頼る以外にはありませんので、そこで分家が「勝手な事」を伝える訳にはいかないのです。
    又、勝手な行動をする事が出来なかったのです。
    血縁等全て宗家本家の許可を必要としたのです。
    勝手にすればたちどころに潰されます。

    さて、話を戻して、ところが江戸時代には、家康から”伊勢の事お構いなし”と云う有名な「お墨付き」を受け、保護を受けて生き残る事が出来たのです。
    奈良時代には、「日本書紀」にも書かれている様に、「天智天皇」より「不入不倫の権」と云う「伊勢神宮」あるい伊勢を護る為にもこの「大権」を受けていた事もありました事からも、より生き残る事が出来ました。

    当然に、前回のご説明の通り、多くの記録にも遺されている様に、この「伊勢青木氏」と「信濃信濃青木氏」は「深い親族関係」にあった事からもに、同じ共通する「習慣仕来り掟」で生きて来ていた事からも生き残る事が出来たのです。

    この「伊勢や信濃青木氏」は、前回のご説明の様に、「日本書紀」にも書かれ、「新撰姓氏録」にも書かれ、「青木氏の始祖」と成る立場にあり、何とか1400年の荒波を経て生き残る事が出来ました。
    それ故に、実は固く身を護る事からも開放的では無くお説の様な事が起こっていたのです。
    従って、分家筋には「四家制度」に基づく「掟」から「家筋の情報」が伝わらなかった事だと思います。
    恐らくは、「室町期初期の下剋上」と足元を見られては困る「戦国時代の影響」ではと思います。

    「伊勢と信濃」には幸いにして、「500万石にも上る財力」を背景に記録に遺る程の「大豪商の紙問屋 伊勢屋長兵衛」として「二足の草鞋策」を敷いていた事からも、多くの記録を遺す財力と戦闘の抑止力が備わっていたのです。(歴史上に出て来る)

    故に、先ずは「信濃の神明社」か「諏訪大社」の守護神をお調べに成ると昔の事が次第に解ると思います。
    それには、次の「四つの神明社」で、松本市、北安曇野、北佐久群、大町市が「信濃青木氏の関係する神明社」でありますが、取り分け、お家の場合は「諏訪大社」との「両方の神」を祭祀する「松本市の神明社の御乳社」が気に成ります。
    お便りの仕来りなどから先ず間違いは無いと考えます。

    又、「氏の菩提寺」は、「寺名」を明記する事は混乱を招く為に公には控えますが、お家等の「信濃の青木氏の菩提寺」は、「長坂町」にありますので、参考にして下さい。
    江戸初期に出された「顕教令」等で、今では「氏の菩提寺や神明社」ではありませんが、一度は、お参りになさると良いのではありませんか。

    これ等の事は研究室などにも論じています。ゆっくりとお読みください。

    では、又、何か判りましたらお便りください。お待ちしています。


      [No.1120] Re:長野の青木さん
         投稿者:塩尻市の青木   投稿日:2017/05/30(Tue) 13:05:27  

    返信ありがとうございます。
    小林氏と青木氏の関りについてご説明ありがとうございます。



    青木氏氏研究所の
    [No.84] 信濃の諏訪の旅 を読ませていただきましたが
    青木氏、またその血縁の中にも青木氏のことを知らない者が多い
    というのは、その閉鎖的な家系が関係しているのかもしれません。
    知る所では、私の家の本家にあたる家では
    「御家のことは他家に語るな、御家は長男(家長)が守れ」
    という習慣が今でもあり
    分家でも家の事については長男には語られますが
    次男三男となると全く知らないまま育つ
    ということがあります。
    そのためなんとなくの話を聞いたことがあっても
    ほとんど知らずその次男、三男が独立し
    個々の流れを作っていく中で
    薄れていくというのがあるのかもしれません。
    また、興味を持ったところでそれを伝えるという習慣がありません。

    私は一応分家の長男で現在20代前半ですが子どもの頃
    「家を守りなさい」とか「青木家を継ぐのよ」
    と一般的には言われないであろう
    ことを祖母や親族に言われて育ってきたため
    そう思います。
    母がこの習慣を嫌い青木家を離れた際に
    その流れから外れているため私自身では
    容易に関りを探ることを進めることができない
    というのがあります。
    諏訪大社などに関してもそうですが
    あのあたりにも青木家があり
    安易に詮索できないのです。
    ここまで貫いて閉鎖的な青木氏もなかなかいないと思いますが
    そのような家も極々一部ではありますが
    一応その流れの一端の者として少し悲しく思うところでもあります。

    また、私が調べようとしている地域には
    本家が所有している一部の土地には現在は田畑になっている土地に
    史跡があり土器や昔のお金(形としては寛永通宝のようなもの)
    が出てきますが、市等の調査が入ることを嫌い
    これは田畑を守るということ、兼業農家が多いため収入を保つということもあります
    私が知る限りではその調査に入ったものはいません。
    その一部でも探れればと思い現在はその地域に特定して
    調べているところでもあります。


      [No.1119] Re:長野の青木さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/28(Sun) 12:07:34  

    長野の青木さん 今日は。
    早速、お便り頂きました。有難う御座います。

    お役に立てて良かったと思います。
    青木サイトのデータを読まれて判らない時など、是非、お便りをください。

    この度のお便りにも、「家の事」を証明する事が出来る「二つの情報」がありました。

    それは、「小林氏の事」と、「2のルーツ」をお持ちの事を証明する情報から、次ぎの事をサイトからも「青木氏の歴史観」としてお知られせする事がありましたので投稿致しました。

    それは先ず、周囲に「小林氏」が多いと云う事です。
    この事は「2のルーツ」の「お家の青木氏」と実は無関係では無いのです。
    お家の「2のルーツ」の存在を証明する一つに成ります。

    前回にご説明した様に、「皇族の真人族」が「朝臣族」に成って臣下した「氏族」ですが、これには「五家五流の青木氏」が在りますが、取り分け、中でも「伊勢」と「信濃」の「青木氏」は奈良期から明治初期まで同族でありながらも血縁関係が深いのです。

    (注釈 「五家五流青木氏」 伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐)

    この時、「青木氏」の「氏族」としての「氏」は、”ある範囲の濃い血縁関係で維持していた”のですが、この制度を「家人制度」と「四家制度」と云います。

    (注釈 「五家五流青木氏」は「賜姓五役」を務める為に「朝廷」より「ある純血範囲」を義務付けられていました。
    天智天皇の第六位皇子の「施基皇子」を始祖とする事から、その「敏達天皇の春日真人族の第四世族」で同祖同門の「志紀真人族」である「後裔の青木氏」は、「准皇位継承権」を課せられていました。
    その為に「天皇家の血筋の純血を保つ義務」があったのです。
    そこで、「伊勢王の施基皇子」の子の四男「白壁王」(青木氏)が、「聖武天皇」の時に天皇家に男系が途絶えた為に、唯一残された皇女の「井上内親王」(「伊勢青木氏の白壁王」)がこの「伊勢青木氏」に嫁ぎ、「准の継承権」を持つ事でその権威から「光仁天皇」に成りました。
    つまり、桓武天皇の父です。)

    「青木氏の氏」だけは、室町期中期から発祥した「姓族」の様に、「血縁の無い家臣の契約」で構成されている家臣団では無く、「何らかの血縁関係を持つ家人」(四家制度)と云う主従関係で全体が維持されていた「特別の族」なのです。
    この掟が「皇族賜姓族臣下族の宿命」でした。

    その「伊勢青木氏の家人」の中に、「小林氏」が在りまして、「伊勢」を中心に分布し存在していました。

    (注釈 「五家五流青木氏」の中では「四家制度」に依る「家人制度]と職能人に依る「青木氏部」と云う「二つの組織」で構成されていました。)

    中でも「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」とは、明治20年頃まで大変に深い関係にあって、その為に、「女系関係の血縁」で繋がっていて、「伊勢」より「信濃」に輿入れの際に「家人従者」として、その時に、「伊勢青木氏の家人」の「小林氏」が信濃に移動して定住したのです。

    (注釈 逆に、「信濃」からの女系関係の血縁で「信濃」から、「伊勢」にも「神戸氏」の様な定住した「信濃の家人族」が在るのです。)

    これは恐らくは、ご記入の情報の林氏等も「信濃」で拡がったこの「小林氏の傍系族」(分家・支流族)ではないでしょうか。
    江戸初期か、明治初期の苗字令の時に、「傍系族(小林氏の女系の縁者関係)」が本家筋に憚って「林の姓」を名乗ったとも考えられます。

    お家の周りにお家の「青木氏」に関わる姓があるのはその証明です。

    次ぎは、「家紋文様の事」ですが、「1のルーツ」は「笹竜胆紋」で変紋しません。
    従って、「分家」と云う形式もありません。
    ところが、「2のルーツ」の「諏訪族青木氏」は「変紋」が起ります。(但し、総本家の宗家は起こさない。)
    この「2のルーツ」の本家筋は、「総紋」として「1のルーツ」との関係から「笹竜胆紋」で原則維持されるのですが、矢張り、「宗家」を除いて「分家筋」は、前回のご説明の通り跡目継承で「変紋」が起ります。
    お家は、この「変紋」が、2度起こっていた事が考えられます。
    つまり、「総紋」(氏の象徴紋)を「笹竜胆紋」としながらも、「家紋」は「笹竜胆紋」から「梶紋」、そして「三階菱紋」に成ったと考えられます。

    従って、お家の家紋の元は、総紋を「笹竜胆紋」とし、「宗家」はこの文様を維持していた筈ですが、三階菱紋の前は「諏訪氏の総紋」の文様の「梶紋」であった事にも成ります。
    これは「2のルーツ」の分家筋にも依ります。

    従って、「1のルーツ」に近ければ、「祖先神」の「神明社」が「氏独自の守護神」で、「2のルーツ」に近ければ、「諏訪大社」が「氏独自の守護神」と云う事に成ります。
    「2のルーツ」の逃亡などでの「定住地移動先」では、「神明社」と「諏訪大社」が建立されていますので、両社を「氏の守護神」にしていた可能性が有ります。

    (注釈 氏族は、独自の守護神を持つ事が出来る。)

    「邪馬台国の自然神」に近い「庶民の信仰対象」であった「道祖神」にも興味をお持ちと云う事ですが、出来得れば「氏の守護神」の同じ自然神系の「祖先神の神明社」(伊勢神宮の皇祖神の子神)や「諏訪大社」もお調べに成ると、「青木氏の歴史観」をより深く獲得できると思います。
    研究室にこれらの事は論じていますので御参照してください。

    然し乍ら、「三階菱の家紋」から、両方と云う事もありますが、お家の家筋は、「梶紋」の「諏訪大社」と云う事かなと考えます。
    「何でもない一寸した情報」から、この様な事が判りますので、先ずは、「研究室やルーツ掲示板の情報」を獲得されて独特の「慣習仕来り掟」を持つ「青木氏の歴史観」を高められれば、この「一寸した情報」を掴む事が出来ますので、お読みください。

    この事は「研究室の伝統シリーズ」の中にも論じています。
    参照してください。


      [No.1118] Re:長野の青木さん
         投稿者:塩尻市の青木   投稿日:2017/05/27(Sat) 12:10:01  

    お手を煩わせてしまい申し訳ありません。
    ご説明ありがとうございます。

    ご説明を読ませていただき
    副管理人様のご指摘の通り2のルーツが濃厚かと思います。
    というのも私の祖父は元々塩尻市の青木家ではなく
    諏訪市の家の子で祖父には兄弟が多く
    養子として塩尻市の青木家になったという話を
    昔聞いたことがあるからです。
    そのためか、父方の実家で話を聞くと
    祖父本人が他界しているため
    とてもややこしくなるため
    こちらで色々と調べさせていただいておりました。

    今回私が自分の苗字、ルーツに興味を持ったきっかけが
    私は道祖神や石碑等を見て
    本やネットを使って年代等調べるというのが好きで
    父方の実家のすぐ近くに北熊井城跡という城址が
    あったのを思い出し調べ始めたこと
    その地域一帯は
    小松、小林、林、青木が多く
    地域と苗字の繋がりに興味を持ったということからでした。

    今回のことでとても青木氏について
    興味が湧いたので、こちらで
    勉強させていただきます。


      [No.1117] 長野の青木さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/24(Wed) 15:58:37  

    長野県の塩尻市の青木氏さん 今日は。

    来場記帳頂きました。有難うごさいます。

    お家のルーツがどの青木氏かの疑問をお持ちの様ですが、お家のルーツがはっきりしていますので、折角ですのでお答えさして頂きます。

    実は、長野にはルーツの異なる二つの青木氏が存在します。
    元は同じですが、それが次の経緯に依って、枝分かれしています。

    それは大まかに分けると次ぎの通りです。
    1 信濃の皇族賜姓臣下族青木氏
    このルーツが発祥元に成っています。
    「天智天皇」の「皇子族の真人族」で、皇位継承権を外れ、「第四世族で第六位皇子」と成った者の皇族王で、皇族を外れて賜姓を受けて「臣下族」と成った「氏族」です。
    この臣下した「氏族」に「青木氏」と云う「氏名」を賜ったのです。
    これには「五家五流」あって臣下した朝臣族として、伊勢、近江、信濃、甲斐、美濃の「守護王」(国司を置いた)と成って配置されました。
    この「氏族」も信濃では、現在も信濃の小県等に青木村を形成しています。
    信濃の天領地の開発を担当しました。

    2 信濃諏訪族青木氏
    信濃については、先ず経緯として奈良期に、中国の後漢と云う国が滅び、日本に逃げて来ますが、瞬く間に無戦で九州地区全土を勢力圏に置きます。
    この渡来一族は「阿多倍王」と云う王に率いられて渡来しますが、大和朝廷と戦わず融和し、その渡来人の家臣の馬を率いていた一族が放牧を中心として信濃開発に廻されます。
    その一族の頭が諏訪族です。
    その頭の族と女系で血縁した「信濃の守護王」との間に出来た子供が「賜姓青木氏」を名乗りました。
    ところが、この「諏訪族青木氏」には「男系継承」が二代続きで女系と成った事から、1の継承の名籍を継ぐ事が叶わず「養子方の諏訪族系の青木氏」と成ったのです。
    この「皇族賜姓臣下族の青木氏」が「諏訪族青木氏」です。
    1と2は同族一門です。

    現在もこの一部は、諏訪を中心にして西諏訪地区にも「青木村」を形成して定住しています。
    又、武田氏に加勢して信長との戦いに敗れ各地に逃亡します。
    神奈川と更には栃木にも一部は逃亡して定住移動しました。
    この後、この更には、神奈川に定住した「諏訪族青木氏」は新潟にも移動定住しています。

    3 諏訪族武田氏系青木氏
    上記の「2の一族」が室町時代に武田氏との戦いで敗れましたが、結局、武田氏と血縁していて、この2の一族の一部も二代続きで男系跡目が叶わず女系と成り、武田氏より養子をとりました。ところが、これが、「女系」となり武田氏の一族に組み込まれました。

    後に一部に諏訪地域に定住する族と、後に家康に依って埼玉の鉢形に村を形成して定住移動させられた一族に成ります。
    武田氏系青木氏と共に3の一族も一族として同行します。

    4 武田氏族諏訪族系青木氏
    「3の一族」が武田氏の中で生きる中で、血縁が完全に「武田氏」の血縁性が強く成った一族です。先祖に諏訪族の血筋(女系で血縁)を引いているという一族です。
    この一族は、血筋が武田氏であった事から旗本として武田氏と共に完全に滅亡したされています。
    一部、甲斐にも各地に散在して農民に成って生き延びた事が判っています。
    元々の甲斐青木氏が定住地の巨摩郡にも多い事が判っています。

    現在はこの一族には定住地や家紋分析などは確定する事は困難です。
    武田氏と共に敗退して滅亡している事からもそもそも信濃に定住する事もおかしいのですが、この一族だとする青木氏が存在するのです。
    戦いで敗れ、その子や孫が掃討作戦で何とか生き延び密かに山などの村落で生き延びて、江戸初期の農兵で武士と成った者、明治期の苗字令で先祖の氏名を名乗ったとする定説です。
    だから、小県と長野の地域群 諏訪塩尻地位群の中間地に位置している上田地域に位置していると観られています。
    この[上田地域の青木氏村」は、江戸期だと云われていて比較的新しいのです。
    この「青木氏」は、「丹治氏流青木氏」(1万石の大名と成り摂津地域に一族移動定住した為に疑問)とも云われ、又、「秀郷流青木氏」とも云われ、恐らくは先祖伝来の確証のある物証を持つ「青木氏」は見つかっていません。

    故に、宗教や慣習の異なる「青木氏」が多い所から殆どは「明治期の第三の青木氏」とも思います。


    さて、そこで、お家はこの「4つの青木氏」より、家紋と定住地の二つの情報がありますので、これからも、明確に判定が可能です。

    「丸付き紋」ですから、上記の4つの何れかの分家筋であることは判りますが、家紋から武田氏系の菱紋類ですので、2か或は3と云う事に成ります。
    4は確実にお住い地区が異なっていますし、主に甲斐に定住していましたから当てはまりせん。

    此処で、お家のご先祖の母方は「青木村」にお住いの方であったとすると、母方は1または2のルーツを持つ一族の「賜姓族の青木氏」で、これとは違うと云う事ですので、そこで、「3のルーツ」を持つ一部で持つ「青木氏」と云う事にも成ります。

    そこで、ところがお住まいがお家の場合は、昔の諏訪西地域の塩尻市にお住いと成りますと、「2のルーツを持つ青木氏」のお家と観られ、その分家筋の武田氏の傍系の血筋を一部で持つ後裔一族と観られます。
    (お家の2のルーツの分家筋で二代続きの男系不継承が起こり武田氏の傍系三階菱紋の家から養子を迎えた事で、お家は女系と成り家紋変更が起ったのです。武田氏宗家は花菱紋)

    3、又は4のルーツの青木氏は、武田氏系一門ですので、諏訪域に住む事は、昔の慣習の「棲み分け」から困難です。

    棲み分け状況
    小県地区 2地域の青木村  1のルーツが棲み分け
    大町地区 3地域の青木村  2のルーツが棲み分け(1系ルーツ含む 1とは東西に棲み分け)

    諏訪地区 2地域の青木村  2のルーツが棲み分け(塩尻迄東西に棲み分け)

    長野地区 1地域の青木村  3のルーツが棲み分け

    上田地区 1地域の青木村  4のルーツが棲み分け(3とは南北に棲み分け)

    又、母方のご先祖の青木氏との血縁があると云う事から、氏族の格式を重んじる同族血縁の慣習から2であることに成ります。
    更に3、又は4は格式が下の姓族ですので、当時としては考え難いものです。

    これ等の事は、詳しくは研究室などに論文を投稿していますので参照してください。
    地名の地図のメニュウも参照下ください。

    ルーツ掲示板にもお家の元親族の方からのお便りも多く寄せられています。

    掲示板の検索を使って、諏訪族青木氏でも読む事は出来ます。

    判らない時は、ルーツ掲示板にお家の専用欄を設けますので、お問い合わせください。
    ではお待ちしています。


      [No.1115] 兵庫の青木さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/04/02(Sun) 17:13:36  

    「来場記帳」に投稿がありましたので、代理投稿します。


    >現在、私は兵庫県神戸市に在住です。自分の先祖に興味を持ち、この青木氏のサイトにたどり着きました。こんなサイトがあるとは、びっくりですよね。
    >家紋は、丸に左三階松。
    >戸籍上でわかっている事は、私の曽祖父(鹿蔵)まで鳥取県の八頭郡志子部村に住んでおり、高祖父は源次郎であった事。
    >その志子部村に昔は、青木姓がたくさん住んでいた事。宗派は、家系図を辿れば、おそらく1600年頃までは浄土宗、その後真言宗に改宗し、曽祖父(鹿蔵)は、黒住教の倉吉大教会の神主をしていた事等です。
    >何かご縁のある方おられましたら、メールください。

    兵庫の青木さん 今日は。
    ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお付き合いください。
    全国の青木さんが自由に集うサイトです。
    ヤフーHPでも他に比較しても断突の情報量を持つサイトで、「氏の出自」は遡れば奈良期初期に成ります。

    お家のお便りを記帳欄にいただきました。
    有難う御座いました。
    そうですか、お家のご先祖は、お便りの通り歴史にもその事実が明確に成っています。
    鳥取県の米子と八頭に定住した「二つの青木氏」の一つです。

    実はこれには、ある経緯があるのです。
    この事は既に、研究室やルーツ掲示板にも掲載していますので、後ほど詳細はご確認ください。

    さて、一通りの概要を記述します。
    先ず、此処信濃には奈良期より「朝廷の天領地」があり、これを護る「天智天皇の皇子」の「施基皇子の後裔の青木氏」が定住していました。
    この「青木氏」は、「皇族賜姓臣下族の青木氏」で、つまり、「天智天皇」の「第六位皇子の施基皇子」等の「第四世族の真人族皇子」が先ず「伊勢」を始めとして、「五家五流の青木氏」を発祥させます。
    この「皇子の後裔」は「志紀真人族」と云います。
    この「敏達天皇の皇子」を始祖とする天皇家本流の「春日真人族の第四世族」の「施基皇子」で、且つ、この後裔の流れを持つ「志紀真人族」は、「近江王」、「伊勢王」、「信濃王」、「美濃王」、「甲斐王」として遙任し、「近江」と「伊勢」と「信濃」と「美濃」と「甲斐」の国の「守護王」として「国司」を置いて定住します。

    其の務めは、「天皇」を直接守護する「近衛軍」を主務として形成して護ります。
    この「五家五流皇族賜姓臣下族の青木氏」には、特別に「賜姓五役」と云う役が課せられていました。

    ところが、「聖武天皇」の時には、男系の跡目継承が無く成り、結局は、「皇位準継承権」を持つ「伊勢の志紀真人族の施基皇子」の子供の「第四男の白壁王」(青木氏)に白羽の矢が当てられて、「聖武天皇」の「内親王の井上内親王」が嫁ぎ、この「施基皇子」の子供の「白壁王」が「光仁天皇」と成ります。

    さて、そこで、「信濃王」の「後裔の氏の青木氏」には、現地の豪族の足利氏との血縁族の「足利氏系青木氏」が発祥します。

    平安期960年頃に、この「皇族賜姓臣下族の青木氏」が、身内の天皇の「光仁天皇」の孫の「嵯峨天皇(桓武天皇の子供)」が、この「青木氏」を「嵯峨天皇の詔勅」に依って「皇親族」(天皇に助言する親族)から外したのです。
    この為に、「賜姓五役の務め」が「国政」に行き届かなく成り、困った後の「円融天皇」が「武蔵の藤原秀郷の一族」にこの「青木氏の役目」を「補完する氏」として指名し、その代わりに、「藤原秀郷流一族」には、永代に第三子の(千国の後裔)には「青木氏」を名乗らせ、「皇族賜姓臣下族五家五流青木氏」と同じ「官位官職の最高職」を与えたのです。

    そして、「鎮守府将軍」として陸奥に一族を派遣して「北国の安定」を図り、「五家五流の地」には一族を配属します。
    この「秀郷流青木氏一族」と「五家五流の皇族臣下族青木氏」との「血縁族青木氏」が発祥したのです。
    ところが、この「信濃」で問題が起ったのです。

    元から居た「秀郷一門」の「本流の信濃足利氏」と、この分家に陸奥の豪族の花房氏の秀郷一門の血筋を受けた者をこの「足利氏分家」に入れて血縁して「秀郷流一門の発言力」を増そうとしたのです。

    つまり、「同族争い」で、結局は、「本流の信濃足利氏」が負けます。
    そして、この本流と血縁していて発祥した「信濃皇族賜姓臣下族の血筋」の持つ「足利氏系青木氏」(「秀郷流青木氏の血筋」も持つ「青木氏」含む)が、この本流の「信濃足利氏」の「秀郷流足利氏系の青木一族」を護って日本海沿いに「米子と八頭」まで逃げ延びたのです。
    その後、この護衛役を務めた親族の「足利氏系青木氏」は、「信濃」にも戻らず、此処に定住して仕舞います。

    そして、ここに「米子」と「八頭」に「青木村」を形成したのです。
    (この「氏名」を村名とする事は、明治三年まで青木氏以外に認めていない。)
    その後に、この「二つの青木氏」は宍道湖の東まで広がりました。

    現在で云えば、「米子市」と「八東郡二分方」と「青木村」があります。

    さて、お家は、この「二つの青木氏」の「足利氏系青木氏」と、「秀郷流青木氏」の「三つの血筋」を持つ「青木氏」、つまり、「三階松紋系の青木氏」です。
    お家は、全く情報の通り「丸付き紋」ですのでその「分家」と云う事に成りますね。
    平安末期からの「八頭の青木村」(八東とも書く)に住む「長い歴史を持つ青木さん」です。
    「志子部村」は、その後に郡内に広げた村です。

    詳しいルーツには、「研究室の検索」で「米子」か「八頭」で、ルーツ掲示板でも同じくお家の昔、「親族」であった人からのお便りもありますよ。

    もっと古い御先祖の事は、「信濃の足利氏系青木氏」で検索してください。
    元、「浄土宗」であった事は、「青木氏」は、奈良期より「古代浄土密教」であった事からも納得できるところですが、この元の浄土宗のお寺をお探しに成りますと、「過去帳」と云うものが「米子の青木村」か、「八頭の青木村」にありますので、お家のもっと「古い譜」が判るかも知れませんね。

    尚、兵庫にも、「近江青木さんの末裔」が、摂津や堺には多く居られますよ。

    では、何が判りました場合や判らない事がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
    お待ちしています。


      [No.1114] 佐賀の青木さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/17(Fri) 14:51:29  

    青木善祐さん 
    来場記帳の欄よりに記載

    代理投稿

    >本籍は佐賀県唐津市です。
    >家紋は丸に剣片喰です。
    >先祖の墓は、唐津の唐人町にある龍源寺です。

    善祐さん 今日は。
    ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。

    お家の青木氏のルーツが何処だったのかを調べました。
    先ずは、「片喰紋」ですね。
    愛知から静岡に掛けてこの文様を持つ「青木氏」が分布しています。
    それは「藤原秀郷流青木氏」です。

    この一族は、四国や北九州にかけても「赴任地」として分布しています。
    取り分け、「長崎」に拠点を置き、そこから「青木氏」は「佐賀域」までにも伸びています。
    この「長崎の拠点」が「青木村」として呼称されました。
    この結果、佐賀の肥前国は、黒田藩に成る前は、「肥前国青木村」が現在の「今宿付近」から「唐津域」までにあって、黒田藩の時に、この「青木村」が「谷村」とに分断されました。

    恐らくは、経緯としては、歴史的には「長崎の青木村」が先ですから、この北に延びた「肥前の青木村」はその後に形成した「青木村」だと考えられています。

    実は、肥前の長崎の「青木村」には一つの経緯があって、この「青木村」は北に向かって伸びたのには、この「青木村」がいっぱいに成り、枝葉の分家筋が村には入れずに、どんどん北に村域を拡げて江戸期初期には佐賀唐津域まで広がって行った経緯があるのです。

    普通は、「氏名」を「村名」にする事が「嵯峨期の詔勅」に依って出来ませんが、「青木氏」だけは認められていました。

    普通は、五年毎に本領の愛知からから静岡に戻り交代する事に成るのですが、現地で現地土豪との間で子供が生まれると、「現地孫」として原則はその地に遺る事に成ります。
    そして、その「現地孫の男子」は、本領より現地の「土豪の姓」では無く、「氏名の青木氏」を名乗る事を許されます。
    そして、氏家制度に依って本領にある「宗家」に「現地孫」として認められますと、「片喰紋に丸付き紋」の使用が認められます。

    「青木氏」には、朝廷より認められた特別の「青木氏の慣習仕来り掟」が有って、「青木氏」に成るとこの「慣習仕来り掟」に従う事に成ります。

    藤原氏の「総紋」は「下がり藤紋」で、この「24の地域の青木氏」には夫々の家紋があって、お家の場合は「副紋」を「片喰紋」とします。

    「武蔵の宗家本流」(24地域別)に近いと、「副紋」は、「下り藤紋」の「藤と藤花の間」に、この「副紋」を組入れて、「組み入れ家紋」とします。
    宗家、本家、分家、傍家、支流と116氏が「組み分け」されますが、本家筋がこの「組み入れ紋」を使います。

    お家は、丸付き紋ですので、「片喰紋の本家筋」の「分家筋」に当たる事に成ります。
    それは次ぎの事で判ります。

    江戸期初期の顕教令が出るまでは、唐津域にある「青木村の龍源寺」が、お家の「青木氏の菩提寺」(檀家寺ではありません)であった可能性があります。
    この「青木村」の中にあった「唐津の龍源寺」は、別氏に依って1600年頃に移築されたものですが、その元は「龍泉寺」と云います。
    更に、その前は「2つの寺」から変名しています。
    1550年頃は、お家の『肥前青木氏」から離れて浄土宗の流れの「禅宗の派」で、移築者の宗派の「曹洞宗」と成っています。
    移築時に別氏に依って寺がそっくりと移築されましたので、「宗派換え」と成ったと考えられます。
    その後には黒田藩の管理下に置かれます。

    (恐らくは、平安期から室町期中期頃までは、元は「青木村」の中にある「お家の菩提寺」で「浄土宗」か「浄土真宗」では無かったかと考えます。)

    「秀郷流青木氏」は「浄土宗」が本宗としていますが、各地に赴任すると、取り分け、九州には浄土宗は土地柄より無く、浄土真宗でも良いとする定めがありました。
    本領などに戻る際は、元の「宗派換え」をしますが、「現地孫」の場合の本領に戻らなかった子孫は、「浄土真宗」か「浄土宗系」に入信する事も許されました。

    お家の「現地の始祖」は、鎌倉期を発祥期と観られますので、土地柄より、「禅宗」(鎌倉中期)は、取り分け、座禅を基とする為に「武士」が多く入信しました事から納得できるところかと考えられます。

    「藤原秀郷一門」は361氏あり、この中で「青木氏」は116氏と成ります。
    この「青木氏」は「24地域」に分布しています。その内の一つです。
    この「藤原秀郷流青木氏」は、「秀郷一門の第二の宗家」と呼ばれ、秀郷一門の全体を取り仕切っていました。

    恐らくは、鎌倉期にはこの地域の長崎(佐賀)に赴任していますので、この時にお家が発祥したと考えられます。

    この地域には、秀郷一門が二度に渡り来ています。
    もう一つは「元寇の役」の時で、この時も秀郷一門は、「青木氏」と共に「青木氏族主要五氏」と呼ばれる一門の「永嶋氏」や「進藤氏」や「長谷川氏」が現地孫を遺していますが、この時には「青木氏」と「長沼氏」は現地孫を大きく遺せなかったのです。
    最も大きく遺したのが永嶋氏です。

    「家紋」からと、青木村のあった「唐津の分布」から観て、鎌倉期の秀郷流青木氏に間違いはありません。
    恐らくは、その「九州の始祖」は、「長崎青木村」で、その「本領元祖」は愛知か静岡で、「一族一門元祖」は「武蔵入間」です。

    一族の中でも「片喰族」は大変に大きな「青木氏の一族」です。

    では又、何か判りましたらお尋ねください。お待ちしています。


      [No.1113] Re:東京の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/06(Mon) 17:23:17  

    さて、お判りになられたとの事で良かったです。

    生物学的に、人には、ある時期を以って、遺伝子の部分までの自らの人の起源を知ろうとする本能があって、それが若い勢いでその本能が抑えられています。
    ところがその若さのエネルギーが衰えると、この本能が強く成る仕組みに成っているのです。

    例えば、性の欲は、男性は、本来は、生まれた元の処に戻ろうとする本能が変化して欲として出るのです。女性は、この逆に成ります。
    元より性欲と云うものは人間には無いのです。
    それは、男女の元は女性であったからです。
    男には、4つのその証拠と成るものが遺っています。
    その二つは、「へそ」と「乳」です。
    全く機能していません。
    あと二つは公で説明できませんが、人間は女性の体を4回に渡って変化させています。
    その原型がミミズやカタツムリで、常態は女性で、子孫を増やす時は体の一部を男性に変えて子孫を増やすのです。

    これは元に戻そうとする生物の遺伝的な本能の原理です。
    「伝統」を知ろうとする気持ちが強くなるのはこの事から来ています。
    弱い人もいますがね。
    「原始脳」と云う部分がその様にさせています。

    さて、質問です。

    >坂上田村麻呂にまつわる伝説
    >将軍が蝦夷征伐の際に、身馴川十丈淵に住む大蛇が、付近住民に危害を加え、生活を脅かしていることを聞いた。
    >・・・近くの山で軍議を凝らした上、赤城大明神に祈願して神力をお借りするなど、苦心して末ら退治をした。
    >大蛇の祟りを静めるため、大蛇の尻尾を諏訪山に埋めてお寺を建てた。
    >それが安光寺と言われている。

    >武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記に記載されている。

    利害性を含んだ「伝説」なので偽飾、脚色、詐称、偏纂があり信じ難い事もありますが、史実から観た事を延べます。

    そもそも、「坂之上田村麿の伝説」(806年まで)は各地に多く在りますが、埼玉の美里町の身馴川公園のある処ですね。

    利根川の支流ですが、平安期初期にこの一帯には、まだ朝廷に逆らう賊が多く全国を制圧する事の任務を負った田村麿は、北に向かって23年を掛けて制圧して行きますが、この時、武州と接するこの一帯に勢力を持っていた「武蔵七党の祖」を制圧した時の事を「勧善懲悪」で描いたのがこの説です。

    この説には、実は「時代考証」が崩れているのです。

    「諏訪山」とありますが、此処に信濃の諏訪族が定住して諏訪山と名づけられたのは、室町期の中期の事です。

    坂上田村麿の阿多倍族と諏訪は奈良期の頃は縁籍関係にあったのです。
    供に、610年頃に後漢から来た渡来人で、坂上はその父の阿多倍王の長男です。
    諏訪族は君主の家臣でもあり縁籍族でした。

    諏訪の一族はその縁籍の渡来人で馬を飼育する族で朝廷より信濃に配置された族です。
    信濃諏訪族が室町期に武田氏に追われ逃げ込んだのが元に成っています。

    「青木氏の歴史書」にも「諏訪族青木氏」が神奈川に一時定住し、その後、この諏訪の一部がこの地に定住した事のこの時のことが載っています。
    (サイトにも詳しく記載)
    これは、江戸初期の大ブームと成った「寺社の由来や系譜の詐称偏纂」の結果です。


    >5社の明神と4仏の薬師

    >延暦の昔、坂上田村麻呂将軍がら上州赤城明神の本地仏薬師如来に祈誓して、見馴川十丈淵の大蛇退治をした後、古郡、阿奈那志ら北十条、沼上ら小茂田の五か村に明神を勧請し、同時に古郡ら阿那志ら北十条、沼上の四ヶ所に薬師を安置したお伝承されている。

    >なお、この5社の明神は何も赤城の方面、北向きに建てられている。いづれも赤城の方面、つまり北向きに建てられているので北向明神と称してる。

    >歴史の時系列からいうと、もともと神社が建てらています。
    >ここで浮かぶ疑問は
    >神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。
    >北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か
    >時代背景として、後から神明社が合併されたということになるのか。

    >他にもヒントになりそうなことがありましたので明日またお送りします

    先ず、一つは「明神」と「神明」とは祭祀の源が違います。

    よく間違われる事ではありますが、「神明社」は、本論の通りで、「皇祖神の子神」で、「祖先神」です。

    「明神社」は、奈良期の前のその昔、「卑弥呼の時代」の少し後の「大阪の淀川域の湿地帯処に発祥した「庶民が信じる神」(道教や道祖神の元祖)として信じられていた「庶民の神」で、その形として奈良期には「稲荷大明神」として拡大し、全国に広がりました。
    「伏見の稲荷大明神」が其のもとに成ります。

    これを受けて「伊勢神宮」の「外宮の豊受大神宮」の基に成ったのが、伏見にあるこの「稲荷大明神社」です。
    この「庶民の神」で「農業の神」の「豊宇気毘売姫神」が「外宮の豊受大神宮」として迎え入れて天武期に庶民も信仰する「伊勢神宮」としたのです。

    従って、前回にもお答えした様に、全国に「農業の米造り」を最初に広めた「稲荷の神」(米の神)の「豊受の神」(豊かにした神)は「大国主」であるのです。

    「稲荷の神」の「明神さん」は、全国に「農民の神」(豊受の神)として発達したのです。

    これを後に、「伊勢神宮」は、「外宮」として「庶民の神」を「豊受の神」として招いたのです。

    >神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。

    この質問は、奈良期よりあった下記の「神仏の方位の掟」(自然神)に従っているのです。

    >北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か

    これは、下記にも書きました様に、江戸期初期には寺社は取り分け浄土宗徒と神明社系は元は密教であって信徒が少ない事から、其の経営管理維持が困難と成りました。
    然し、この時に信徒を出来るだけ多く求める為にも、又、特定性が強く「浄土宗」では成り行かぬ為にも真言宗などに「宗派変え」をした事から起こった事から来ています。

    この時節は、享保期前まで歴史にもある様に庶民の生活も侭ならない状況で寺社は荒廃したのです。
    この時、そもそも「幕府の御蔵金」はたった「113両」しか無く成っていた事が記録にもある位でした。

    >昨日お送りしました「美里町史」で他にきになった点を挙げさせて頂きます。

    >・北向神社(勝輪寺持ち)と記載されている。

    >寺が神社を持つとはどういう意味なのかが解りませんでした。

    >「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り

    >上記を指しているのでしょうか。


    さて、お答えはその通りです。

    このご質問がお家のルーツの凄さを証明する事に成るのです。

    実は、「法然の密教浄土宗」の前は、「古代密教浄土仏教」で、現在とは少し違っていました。
    「仏教伝来」に依って、その「仏教」を広め帰依したのは、「青木氏等」の「朝臣族」や「宿禰族」等の「八色の姓制」に基づく「上位の氏族」でした。

    「仏教伝来」の前は、大和は、「自然神」に基づく「神道」で信仰されていて、この環境の中で、同じ「氏族」が「仏教」も取り入れる事は、その教義に「矛盾」が生まれます。
    そこで、この一族らが独自に「神道と仏教」とを調和させる努力を試みたのです。
    それが、その「氏族」にしか適用されない教義から「密教」と云う結果で現れたのです。
    当然に、この「密教」はそれぞれの「氏族の調和の仕方」で変わります。
    故に、「氏独自の考え方」に基づく「教義」を確立させたのが「密教」なのです。

    そして、「神と仏を融合させた教義」が、”「神仏同源」”という言葉で表されたのです。
    その「神仏同源の考え方」を担ったのが、「朝廷の神紋」の「柏紋」と云う由緒ある「柏紋の青木氏」なのです。
    これを広めたのが、「祖先神の神明社」であり、「柏紋」を引き継ぐ「青木氏の御師」であったのです。
    つまり、お家のご先祖です。
    従って、「法然の浄土宗」とは「密教」でありながらも、「青木氏の密教」は「神道が同源する密教」であったのです。
    お家のご先祖の様に、「柏紋の神職」と「柏紋の住職」があるのはこの事から来ています。
    (その元は伊勢青木氏信濃青木氏から配置されたご先祖で、筆者等の先祖と一致します。)


    つまり、「神仏」に拘らない当に「皇祖神」が教義とする”「自然神」”なのです。
    「自然の神」とは、「神」と「仏」が融合している「自然の状態」を指すのです。
    これが「日本の宗教の基」に成っているのです。

    故に、古社(古寺)には「神道、墓所、菩提寺」が存在するのです。

    これを最後まで遺したのが、その「神仏融合」を意味する「密教の考え方」を布教する「祖先神の神明社」で最後は「青木氏」だけであったのです。
    だから、朝廷は、全国に由緒ある「朝廷の神紋」である「柏紋」を与えた「青木氏」を配置して「500以上の神明社」を「青木氏」に建立させたのです。

    これが、「賜姓五役」と云われる務めであったのです。
    その最も古い「神明社]の一つとも云われるのが、「武蔵の神明社4社」であって、その「役務」を務めたのが「お家のご先祖」と云う事に成るのです。
    (故に、青木氏族の柳沢吉保もこれを護ろうとしたのです。)

    「北向」とは、江戸幕府の顕教令が出た後の時代に付けられた名称だと考えられます。
    元は、「神明社の分社」を意味する社名であったと考えられ、江戸初期の「顕教令」で、「北向」(神仏が存在する方位)に特別に向いている事からの俗称が「北向神社」と成ったのです。

    普通は「神仏同源」で「祖先神」でなくては向けられなかった「古式の決まり」があったので、その社も寺も正門を南側に向けられて建立されます。
    人は、神と仏の坐す方位(北)に向いて拝する姿勢を採ります。

    ところが、「神仏同源」としない「社や寺(顕教)」は、社は「護り本尊(山とか川)」を背にして建立されます。
    寺は、「護り本尊」に向かって建立されます。
    従って、「護り本尊」は千差万別の方向に依って決まりますので方位は南北東西決まりません。

    この「北向き」は、「神明社」と「・・寺」(匿名)を除き「嵯峨期の詔勅の禁令」で、朝廷より「禁止された方位」であったのです。
    ただ、「青木氏の神明社」だけは「皇祖神の子神」である事から認められていたのです。

    つまり、「北向き」は「神仏同源」を示し、「古い」という事に成ります。
    この言葉で、「神明社」である事が既に判るのです。

    周囲の「顕教の社寺」と異なる事から、「北向きの神社」と云えばわかる事に成り「俗称」が「本名」に成ったという事だと思います。(江戸初期に)

    昭和20年頃までは、この風習が庶民の中でもあって、家を建てる時は、不浄な場所やものは「北向き」にしないという風習があったのです。


    >江戸時代前期の欄に以下記載がありました。

    ・勝輪寺 小茂田村、新義真言、児玉郡、本庄領、若泉庄、京都仁和寺の末寺

    >ここにも疑問を持ちます。
    >現在WEBサイトを見ると、真言宗豊山派:本尊 大日如来と記載されています。

    >wikiで仁和寺を調べると真言宗御室派:本尊 阿弥陀如来と記載されております。

    >同様に真言宗御室派を調べると、古義真言宗と記載されています。
    >本では新義真言宗と書かれていますので矛盾しています。

    >また阿弥陀如来を同様に調べると、信仰は浄土宗・浄土真宗と書かれています。
    >ここも何故真言宗御室宗が入っていないのでしょうか。

    >新義真言宗を調べると、豊山派の紹介がされています。

    >ぐるぐるとまわってしまいますが、
    >これはあまりヒントにはならないでしょうか。

    >本を読み進めて疑問になること・発見もありましたらここに載せさせて頂きます。

    実は、此処には知って置かねばならない「ある一つの歴史観」があるのです。

    上記の記述は正しいのです。

    「法然の密教浄土宗」に対して「空海の真言密教」は違っているのです。
    同時に、「最澄の天台宗の密教」も、両者の密教とは異なっているのです。

    これが、平安期に起こった有名な「三者の密教論争」です。
    「密教」とは何なのかです。

    「密教性」を強固に主張したのが「法然の浄土宗」 ><「密教性」を柔軟に主張したのが「空海の真言宗」
    この中間を行くのが、「最澄の天台宗」でした。

    つまり、「神仏同源」を基の影響を受けている「法然の浄土密教」は如何なる場合も元は「自然神」にあり、全て「密教」でなくてはならないと主張。「基本派」です。
    従って、「帰依する信徒」は「氏族」が限定されます。

    ところが、然し、「空海」は、この影響を受けていませんので、「密教性」は自由であるべきだとする教義で、「帰依する信徒」は、「氏族」を除く「姓族の武士」と「一般の民」と成りました。
    基本は「顕教」です。

    ところが「最澄」は、「密教]である事は基本とするも、時には、「顕教」でも良いとする教義を説きました。
    従って、「集団を形成しない貴族などの密教族」や、逆に、「密教性を持たない集団」を形成する忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)等の「官僚族や武力集団」が帰依する宗派と成りました。
    つまり「密教族」と「顕教族」が混在する。

    さて、そこで、「密教族」は、「大日如来」を守護神とする教義で、「大日如来」が「神仏の教え」を伝え、直接、この世に降りて伝え導く教義です。

    ところが、「顕教族」は、「阿弥陀仏」を守護神として、その教えを間接的に「釈迦」が伝え導く教義です。

    従って、真言宗は、「大日如来」を帰依する族と、「阿弥陀仏」を帰依する族が出て来るのです。
    場合によっては天台宗にも出て来ることに成ります。

    処で、この「浄土宗寺」は、江戸初期に「顕教令」により「顕教」に成りましたので信徒を失う事に成り、荒廃します。
    そこで、「浄土宗寺」の多くは、江戸初期には「神仏同源」を止め、「真言宗」に宗派して維持しようとしました。

    念の為に、「神仏同源」と明治期に起こる「神仏習合」とは異なります。

    これがお家の疑問と成っている現象です。

    >ぐるぐるとまわってしまいますが、
    >これはあまりヒントにはならないでしょうか。

    >本を読み進めて疑問になること・発見もありましたらここに載せさせて頂きます。

    ご遠慮なくお尋ねください。


      [No.1111] Re:東京の青木です
         投稿者:東京の青木   投稿日:2017/02/06(Mon) 07:55:08  

    昨日お送りしました「美里町史」で他にきになった点を挙げさせて頂きます。


    ・北向神社(勝輪寺持ち)と記載されている。

    寺が神社を持つとはどういう意味なのかが解りませんでした。

    >「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り

    上記を指しているのでしょうか。


    江戸時代前期の欄に以下記載がありました。

    ・勝輪寺 小茂田村、新義真言、児玉郡、本庄領、若泉庄、京都仁和寺の末寺

    ここにも疑問を持ちます。
    現在WEBサイトを見ると、真言宗豊山派:本尊 大日如来と記載されています。

    wikiで仁和寺を調べると真言宗御室派:本尊 阿弥陀如来と記載されております。

    同様に真言宗御室派を調べると、古義真言宗と記載されています。
    本では新義真言宗と書かれていますので矛盾しています。

    また阿弥陀如来を同様に調べると、信仰は浄土宗・浄土真宗と書かれています。
    ここも何故真言宗御室宗が入っていないのでしょうか。

    新義真言宗を調べると、豊山派の紹介がされています。

    ぐるぐるとまわってしまいますが、
    これはあまりヒントにはならないでしょうか。

    本を読み進めて疑問になること・発見もありましたらここに載せさせて頂きます。


      [No.1112] Re:東京の青木です
         投稿者:東京の青木   投稿日:2017/02/06(Mon) 02:02:12  

    こんばんは。
    前回頂いた返事で自分の祖先の行って来た役目をはっきりと理解できました。
    本当にありがとうございました。

    今、このタイミングで知ろうとしていたのが何故か。最近はそればかり考えています。
    意味があるのではないかと思っています。

    仕事柄最近では全国を回る機会があるのですが、去年から日本の大きな変化を感じています。
    すごい波が来ており、新たな時代が来ている感覚を肌で感じています。
    IT関係の仕事ですが、最近ではAIなども仕事で関わることもあり、その新たな、自由な、物理的な面を超越した文化に乗っていく経営者などと接していると、波を感じずにはいられません。

    ちょうどこの掲示板に投稿させて頂きましたあたりから、その変化に気づき、その波に体を押されている感覚を覚えます。
    このような時代生まれ、この様な祖先を知る機会を得て、この先自分の使命や役目が、今回知った神明社を広める役目ということと何かしらシンクロしていく様な気がしてます。

    かなり抽象的な話で失礼いたしました。


    さて、
    名古屋に出張した際に、商談先の隣の古本屋にちらっと立ち寄ったのですが、
    美里町史という1300ページにわたる本に出会いました。
    不思議な運命です。まさか名古屋に埼玉の美里町の歴史のヒントがあるなんて。

    まだまだ読めていませんが、いくつか気になるところを抜粋します。

    坂上田村麻呂にまつわる伝説
    将軍が蝦夷征伐の際に、身馴川十丈淵に住む大蛇が、付近住民に危害を加え、生活を脅かしていることを聞いた。
    ・・・近くの山で軍議を凝らした上、赤城大明神に祈願して神力をお借りするなど、苦心して末ら退治をした。
    大蛇の祟りを静めるため、大蛇の尻尾を諏訪山に埋めてお寺を建てた。
    それが安光寺と言われている。

    武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記に記載されている。

    ・・・

    5社の明神と4仏の薬師

    延暦の昔、坂上田村麻呂将軍がら上州赤城明神の本地仏薬師如来に祈誓して、見馴川十丈淵の大蛇退治をした後、古郡、阿奈那志ら北十条、沼上ら小茂田の五か村に明神を勧請し、同時に古郡ら阿那志ら北十条、沼上の四ヶ所に薬師を安置したお伝承されている。

    なお、この5社の明神は何も赤城の方面、北向きに建てられている。いづれも赤城の方面、つまり北向きに建てられているので北向明神と称してる。

    歴史の時系列からいうと、もともと神社が建てらています。
    ここで浮かぶ疑問は
    神明社ではなく赤城明神を向いてるのは何故か。
    北向神社は何故赤城明神ではなく、天照大御神でもなく、大国主、素戔嗚さんを祀っているのは何故か
    時代背景として、後から神明社が合併されたということになるのか。

    他にもヒントになりそうなことがありましたので明日またお送りします


      [No.1110] Re:青木一貞の6人の男子の名について
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/03(Fri) 17:49:11  

    ご返事ありがとうございます。

    さて、早速ですが、以下のご質問ですが、大変多いので順次お答えします。


    >1 該当の人の筆頭に「同村」の指示語があり、現西宮市発行の戸籍なので武庫大社村かと思いました。
    >しかし、古い書き方の原戸籍で元の在籍地、実際には広島の能美島を指していると考えます。

    >2、1、のことから、古川が武士の家系とすれば、戸籍上の広島の能美島には維新直後移動したと考えます。
    >すると、青木の方は既に戦国末から定住している可能性があります。
    >または、能美島は一時小早川隆景から与えられた水軍の村上氏の領地であり、これについてきた青木の可能性があります。
    >(近くでは伊予の青木は足利流という話もあるようですが?)

    1に付いては、この御説の能美島等の「瀬戸内一帯」の南域は、平安期中期から「藤原純友の乱」に示す様に、この「讃岐藤氏」の支配域で、その中でも「秀郷流讃岐青木氏」が「軍と財力と信頼」で勢力圏に収めていた処です。
    平安末期には、「平家水軍(陶氏配下の水軍等が支配)」が北域を支配地にしました。
    平家滅亡後は、「源氏勢の伸長」に基づき、瀬戸内は鎌倉幕府に味方した伊予北部から「讃岐藤氏の支配」が強く成り、中国地方の安芸域に至るまで、その勢力圏に入りました。
    その後、「陶氏」も応仁の乱で潰れ「毛利氏」が勢力を高めますが、それでも四国一帯と瀬戸内の海を支配していたのは実際は「讃岐藤氏が抑える支配形態」でありました。
    この役目を担ったのが、「讃岐青木氏」です。

    その勢力は、廻船問屋等を営む事でその財力を使って瀬戸内の水軍と伊予の一部と讃岐全域を昭和20年まで続きます。
    江戸期には瀬戸内全域は「讃岐青木氏」の支配域で、一時、宍道湖域まで子孫分布でその勢力を拡げます。
    ここに、毛利氏が食い込んでの勢力図でした。

    (”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われていた。その為に警戒されて「純友の乱」が起った。)

    1350年代に多少活躍した「村上水軍説」には異説が多いでのすが、江戸初期には「豊後」に配置されていますし、1560年代に一時、秀吉に依って残存末裔は勢いを返しますが、ところが可愛がったとした村上族に対して突然「海族禁止令」を出しました。それで衰退し何とか毛利の配下になり生き延びます。
    ところが、家康は瀬戸内を秀郷一門の讃岐青木氏に任せて護る為に完全に否定し、江戸期には瀬戸内の島の村上族の末裔は根こそぎ豊後に移封で配置され潰されます。

    史実の村上氏は「偽作伝説性」が強すぎますので、系譜などの事には充分に偽称が多いので論説には使わない方が得策と考えます。


    2に付いてですが、この伊予讃岐域と瀬戸内全域に平安期中期から定住していたのは、上記の讃岐青木氏です。
    平安中期の「純友の乱」に物語ります。
    従って、村上氏に関わった青木氏はありません。

    お説の村上説は、「単なる海族」で、「秀吉も認めて海族禁止令」、徳川幕府も一族郎党のそっくり「豊後配置換え」で「潰し」(岡に上ったカッパ)にあった様に実は「水軍の定義」には入りません。

    そもそも、それほどの議論に成る程の「軍力、財力、政治力、経済力」は1360年以降は最早ありませんでした。

    「讃岐藤氏の青木氏」の「水軍」は元より、「青木氏」は、「嵯峨期の詔勅」で「青木氏」を名乗る事のみならず、その「慣習仕来り掟」の「類似の使用」と「その地名」などは一切使えませんでした。
    これは時の幕府が追認して「明治3年」まで完全に護られました。

    従って、「青木氏の定住地」は決められていて、「五家五流の青木氏(近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の五地域と四地域)」と、「藤原秀郷流青木氏116氏」は「24地域の定住地」とで決まっています。

    況してや、「青木氏」は、朝廷より「賜姓五役」の「歴史的な立場上」で、血縁も含めて世間との「慣習仕来り掟との乖離」があって、「皇族朝臣族の賜姓臣下族」で朝廷が認めた「氏族」である為に、「村上氏」の様な極めて小さい「姓族の家来」に成る等の事は無く、禁令で出来ない立場であったのです。

    「明治後の第三青木氏」と、「江戸初期の農民から旗本に成った者」だけに認めた「青樹氏」等がありますが、これも家康の禁令で「青木氏」から直させたものです。

    この「二つのあおき」でなくても”「黒印状」”を取得できませんので「他氏の家来」には成れません。
    (丹治氏系青木氏は除く)


    もし、「黒印状」を取得できない様な事では、「家臣」にすると、「藩主」などは「謀反」とされ、藩は「取潰しの口実」にされます。

    「紀州藩の初代」で家康が一番可愛がっていた「頼宣」さえも、家臣に成る者から「黒印状」を採っていたとしても「謀反の嫌疑」を掛けられて一時蟄居するというくらいでした。

    但し、江戸期初期に成って、「24地域」の内で、徳川氏外の領地では「秀郷流青木氏」が幕府の意向からその地域の「青木氏」そっくりが優先して家臣として抱えられました。

    「徳川氏」に関わる地域は、そっくり「徳川氏」の「御家人か旗本」に、「青木氏」は「黒印状の令」に基づき優先して仕官する事に成りました。


    従って、2の様なお説にはならないのです。
    仮にあるとすれば、「江戸初期の令」に従わなかった「第三青木氏」です。

    さて、「麻田藩の末裔」も明治初期まで「幕府の統制下」の中では、これを護った事から「明治初期」まで領地の中で生き延びられました。

    お説1と2には、平安期からの「国抜け制度の禁令」があり、江戸幕府は特に厳しく「一族郎党の斬罪」で取り締まれましたので、この時代考証が欠落しています。

    更に、「村上氏」は「小さい姓族」で、且つ、2の説とは200年ものずれがあります。


    尚、「伊予の青木氏」は「足利氏系」ではありません。
    「讃岐藤氏」と呼ばれた平安中期からの「藤原秀郷流青木氏」です。

    この伊予等を含む四国には、先ず「伊予の東部と讃岐全域」には、
    上記の「秀郷流青木氏」が定住し、それ以外には、
    「青木氏」は、次ぎの様に成ります。
    (1)「阿波青木氏」(秀郷流青木氏 美濃ー駿河域と、利仁流青木氏の二氏)
    (2)「土佐青木氏1」(脩行系秀郷流青木氏 紀州より逃亡)
    (3)「土佐青木氏2」(甲斐青木氏)
    (4)「阿波青木氏」(秀郷流青木氏 武蔵)


    以上の4流6家があり、この中には室町期から戦乱で追われた氏も含めて「棲み分け」で存在していました。

    (1)の「阿波青木氏」には、徳島と淡路に赴任にて「現地孫」が残留した「青木氏の2氏」です。

    後の(2)(4)は、戦乱とお家騒動にて、「讃岐青木氏」が保護して住まわした「氏族」です。

    尚、「足利氏系青木氏」は、「鳥取の米子と八頭」に定住する「米子青木氏」です。
    此処より逃亡移動はしていません。

    (信濃で、本家筋の足利氏と分家の足利氏が権力争いが起こり、陸奥から来た分家系で秀郷一門と血縁関係にあった足利氏を秀郷一門がこの分家を押して戦いと成ります。本家筋の本流足利氏が負けて逃げ延びたのが米子で、これの逃亡に力を貸したのが米子に定住した本流の皇族賜姓足利氏系青木氏です)


    >3、1827年生まれの青木の娘と結婚した夫の古川の家紋は丸にオモダカです。美濃○という名を持つ祖母の女紋は「八重向こう梅」で母もこれを譲り受けています。家紋辞典によると花房氏は三つ雁金紋や梅鉢紋を使っていたようなので、関連性はあります。梅鉢→向こう梅→八重向こう梅と3回は変化しているので、美濃花房氏からは何回も分家や婚姻があったと仮説しています。


    さて、「青木氏」と離れて3に付いてですが、古川さんの事に付いては詳しくは判りません。
    ただ、「青木氏」と血縁したとしても恐らくは、明治以降の事で、お聞きくする範囲では「第三の青木さん」と考えられます。
    従って、「青木氏」と関連付ける事はなかなか難しいと考えます。
    それには「確固たる理由」があります。

    さりとて、折角ですので参考として歴史を調べる事の知識として述べ差していただきます。

    先に、「女紋」について一言述べておきます。
    これは「家紋」とは関係ないもので、呉服に付いての明治以降の習慣で、地方に依っても「女紋の扱い」は異なります。
    この「女紋」を使うのは、「母の呉服の遺品の継承」と云う意味で使われるもので、実家等の家紋を表すものではありません。
    何でもよいのです。
    中でも、「天皇家の儀式紋」の「五山の桐紋」が多く使われることが多いのです。
    これが「家紋」とすると、「天皇家の皇族」と成ります

    そもそも、「女性の服」には家紋が付きませんので、冠婚葬祭の色々の儀式の場合に”「襟を正す」”という「気持ちの表現」として使われるものです。
    ですから、「天皇家の儀式紋」の「五山の桐紋」が多く使われたのです。

    「女紋」が地方で異なるのは、その地方で「力のあった豪族の紋」を使う事で、「女性の呉服」で以て「襟を正した」という慣習があったのです。
    これは明治以後の事ですので、ルーツとは関係はありません。



    「古川さんの家紋」が「沢瀉紋」との事ですが、この文様は、美濃から三河駿河域の海よりの地域に限定して地域の土豪などに使用されました。
    「約82の文様種」がありますが、お家の古川さんはどの様な文様でしょうか。

    文様から判定する場合は、「地域と宗派と菩提氏」を連動させて歴史考証する必要があります。

    その為には、「明治初期の戸籍簿」の「士族」と「発祥地」の”「基本確認」”を是非先ず行ってください。

    そして、その事から、「菩提氏と宗派」が特定されれば、「過去帳」で「お家の系譜」が判り、その「添書」で「お家の関係族」が判ってきます。
    更には、その「発祥地」で「家紋の特定」も可能に成ります。

    但し、古川さんが「士族」でない限りは、江戸期以前のルーツは100%ありません。
    (「曾祖母方の青木氏」に付いて、維新戸籍簿で発祥地は確認できているようですが、何かあるのかは判りませんが、「士族」では無い様ですので論評は難しいと考えます。)

    さて、この”「丸付き」”と云う限定した文様を使っている事は、この「地域の分家筋の土豪」であった事も云えますが、この「82文様」のどれかに「丸付き紋」ですので、「花房氏」との関連づける事には一つステップが生まれます。

    参考 更に、この「花房氏」は、元は「陸奥の国」の住人で土豪で、秀郷一門が鎮守府将軍として赴任していた時に、女系血縁しての「土地の現地孫」です。
    秀郷一門が陸奥から引き揚げて来た時に、この「陸奥の現地孫」の「花房の末裔」が「護衛役」として同行し、「信濃の足利」に定住して仕舞ったのが「秀郷流信濃の足利氏」の元に成ります。
    (花房氏の始祖)
    この前には、ここには「本流の信濃足利氏」が、「平安期の初期」から定住していました。

    この「血縁族」が「皇族賜姓臣下族」の「信濃足利氏系青木氏」ですが、この「信濃足利」に定住していました。
    そして、秀郷一門が「後押し」した「花房氏」が来たことで、秀郷一門から跡目をこの「花房氏」にいれて血縁族にし、後に本流との間で「勢力争い」が起こります。

    此処で、結局は本流の「信濃足利氏」が負けて米子に逃げたのです。
    (足利氏系信濃青木氏が警護同伴 下記)
    この「信濃足利の秀郷流花房氏」は、秀郷一門の各地の赴任地に同行して、各地に「現地孫」を遺したのが「各地の花房氏」です。
    元は「陸奥の土豪」です。


    つまり、「丸付き紋」には、「家紋掟」に依り「色々な事象」が決められています。
    前回にお答えした様に、「丸付き紋」は「明治期の苗字令」により名を持った者は「沢潟紋の土豪」からの苦情に遠慮して「丸付き紋」が生まれ、更に、82の文様へと一部を変化させた事が全国的に起こったのです。
    「沢潟紋の土豪」も分家筋や女系筋に与える事もあり、「丸付き紋」さえも出来ないくらいでした。

    (よく見ると見分けのつかい程に酷似するなどの事が明治期と江戸初期に頻繁に起こりました。)

    つまり、「丸付き紋」を許さない族と、許す族もあって専門的にその家紋を観れば判るのです。
    明治期以降を除いて殆どは許さない。

    例えば、「藤原氏秀郷流一族」の総紋の「下がり藤紋」は「丸付き紋」は原則として認めていません。
    実に全国的に多いのです。

    更に、「藤原」の「氏名」そのものも、「宗家」でなくては使わない仕組みです。
    「宗家」は「家紋総紋」が「下がり藤紋」だけで「副紋」か「副紋組入れ」かでも判り、後は「・・藤」等の氏名とし、役職と地名を「・・」に使う仕組みです。
    従って、「藤原氏」そのものを名乗っていて、「家紋」が違っている場合は、明治期の第三の藤原氏です。
    この様に最も多い明治期の「偽称の姓名」です。

    江戸期以前は、殆どどんな豪族の家紋でも勝手に使えば潰されます。
    そんな危険な事は誰もしませんでした。


    >4、伝承では青木氏も花房氏も美濃で斉藤道三の斉藤家と関わりがあるようです。先祖は斉藤道三を大変尊敬しています。藤原北家利仁流の青木も絡んでいるでしょうか?


    さて、「美濃青木氏」「土岐氏系青木氏」「近江青木氏」「佐々木系青木氏」「駿河青木氏」は、土岐氏と共に平安末期に「富士川の戦い」の一つで「墨俣川の戦い」で、平家に敗れ徹底した掃討作戦をして完全に滅亡します。
    この事で、その「殲滅さ」が酷く指揮官(重衡)が清盛に叱られると云う事が起こり、世間から平家に対する反発が強く成ったほどの事件が起こったのです。

    従って、後から来た元は「信濃の花房氏(秀郷流)」も斉藤氏も「美濃青木氏」信濃青木氏」とは関係がありません。

    従って、お説の「斉藤道三」と関わった「青木氏」はありません。

    そもそも「青木氏」には、奈良期より”「四掟」”と云う固い掟が有り、更に「同世男系」「同祖祭祀」「異性不養」の掟があって、その掟に適合しなければ血縁は認められない「朝廷からの仕組み」に成っているのです。
    本家が認めません。
    そもそも、江戸期以前は、「氏家制度の社会」でしたから、本家が認められない血縁は、「青木氏」を離脱しなければ成りませんので、その様な「青木氏」は存在しません。

    つまり、勝手に血縁が出来ない事に成っていて、もし血縁したとして「青木氏族」から排除され生きて行く事は出来ません。
    その様な事件は全くありませんでした。
    これは明治期3年まで護られました。

    「四家制度」と云う仕来りの範囲で血縁をして「氏族の立場」を護っていたのです。
    依って、「斉藤氏」等の「姓族との血縁」は出来ない事に成っているのです。

    従って、4の説は起こり得ません。
    起こるとすれば、江戸初期の「黒印状の令」の為に起こった「系譜偽作」の影響です。

    徳川幕府は、旗本や御家人の家臣や大名、更には大名は藩士に、藩士は媒臣に、と云う風に「権威の創設」を目的の為に、「家臣の身分」を確定させる為に、嘘でも良いから「権威ある系譜」を作らせ、これが無いと、「武士の証拠」と成る「黒印状」を発布しなかったのです。
    この「黒印状」の広布が無ければ「武士」には成れません。

    国民の1割の「武士」は、何とか「偽の系譜」を「寺や神社」に頼んで作ってもらって提出しました。
    この時に使われたのが「青木氏や藤原氏」等の系譜に修正を加えてこれが見本と成りました。

    明治期以降には、国民4000万で、先祖が武士であったと主張する家が、9割もいました。
    ところが、江戸期の武士は1割未満でした。
    つまり、8割は家柄の詐称の偽称偽作の姓であった事に成り、如何に「第三氏」が多かったかは判ります。

    そこで、幕府は、令を発して「青木氏」と「藤原氏」だけは「禁令」として変名する様に命じたのです。
    これが、「青樹や葵木」等でした。

    この「歴史の基本知識」が無ければ正しくはルーツを引き出す事は無理です。

    時長の子の利仁流の件ですが、この一族は主に現在の仙台と群馬の付近にその勢力を持っていました。
    親族の「秀郷流青木氏」と血縁して出来た「利仁流青木氏」は阿波に四代に渡り赴任していますが、全て五年毎の入れ替えで、最終は本領に「現地孫」も遺さずに帰っていますので関係がありません。


    >5、過去帖はどこかに残っているのでしょう。しかし、母方祖母の系は疎遠で移動が多くかつ籍の移動が多く期待できません。しかし、古川家は明治末の摂津の他家の古文章にも登場し、小さな家ではなかったのは判ります。


    「過去帳」はお家が、「明治期の古川さんの戸籍簿」で「士族」である場合は、その発祥地元が書かれています。
    其処には、発祥元のお家の「菩提寺」(檀家寺ではありません)がある筈です。
    無ければ、「お寺」も「過去帳」も無かった場合は、「武士」では無かった事に成ります。
    既に「菩提寺」が不明と云う事は疑問です。
    「士族」である場合は、最低限、この「菩提寺」は伝統として把握して入る筈です。
    そうすると、明治期に大ブームとなった「系譜詐称」のお家と成ります。(家柄と姓名 8割が詐称)

    その前に、「お家の宗派」が何であるかをお調べください。これでもすぐに簡単に判ります。
    その「発祥地元の宗派」のあるお寺に「過去帳」があります。
    但し、ルーツを書かれていない税の為の「人別帳」ではありません。
    武士以外は「人別帳」です。
    宗派でも「人別帳」か「過去帳」かは判ります。

    「沢瀉紋」とすれば、美濃から駿河のどこかにある筈です。
    「家紋」の判別も解っていず、沢潟家紋類が判っているのに、「宗派」が判らず、「菩提寺」も解らず、「発祥元」や「士族」の判別も解らないと云う事はどうも疑問です。

    「移動厳禁の国抜け罪」がある中で「摂津域」とは外れていて疑問です。

    但し、82文様のどれかです。
    既に、現在においても「菩提寺」と「過去帳」が判らないと云う事は「伝統」から考えてあり得ませんので、せめて「人別帳の有無」も解らないと云う事は疑問です。

    「母方の移動」そのものが「江戸期の慣習」から疑問です。
    江戸期は移動はご法度で、「国抜け」で一族全て斬罪です。
    そんな事はありません。

    明治期末で「古文書」がありながら「宗派と菩提寺等の事」が無いのも疑問です。
    家の「重要な古書」は普通は「菩提寺の役目」にあった筈です。
    つまり、「財を成した商人」などが起こした「明治期の系譜詐称」であるから、「古文書」が家にあるのです。
    全体の「時代考証」が出来ていません。

    明治後に「財」を成したお家か、「庄屋か名主か村主」(明治維新の戸籍簿に明記)にでは無いでしょうか。

    普通は、大なり小なりは伝統品は遺されているのですが。

    >6、岡山は旗本花房氏の領地で近くには麻田藩の領地があったようです。何かここにも関係がありそうです。
    >よろしくお願いいたします

    この「花房氏」は、上記した様に、秀郷一門が各地に赴任して同行した時に遺した「現地孫」で、その「現地孫」とも思われる「花房氏」には証拠が殆どありません。
    「足利の花房氏」以外は、「歴史的な根拠」に基づくものが無く、殆どは江戸初期か明治初期の「後付の系譜」です。


    確かに「麻田藩の丹治氏系青木氏」は、他の「二つの青木氏」とは「格式と出自」が違いますので、関係する事は可能ですが、結び付けることは難しいのではと考えます。

    「秀郷流の血筋」を受けた「花房氏の出自」と「麻田藩の出自」には関係するものが「武蔵」しか見つかりません。
    実は、「丹治氏」は「武蔵の土豪」で、そこに入り込んだのが、「平の将門の乱の功績」で「朝廷の命」で国を奪ったのが「秀郷一門」で、秀郷一門に支配されていたのです。
    武蔵では、花房氏を含む秀郷一門と、「武蔵七党」とは色々な事件を起こしていて、代々「犬猿の仲」でした。

    依って、花房氏と丹治氏とは血縁は無かったと考えられます。
    むしろ、「国境の争い」があった筈です。
    現実に、「麻田藩青木氏」の弟が「土佐と讃岐との国境の村」を与えられたのですが、「秀郷流青木氏との争い」の為に「受領召し上げ」に成り「美濃」に「移封の罰」が出されます。


    その前に、麻田藩の「丹治氏系青木氏」であるとする根拠の為にも、古川さんに付いても明治初期の戸籍の士族と菩提寺と宗派と発祥地と家紋とを先ずは確認してください。


    > > はじめまして、東京に住む仁太郎と申します。お世話になります。
    > > 私の母の実家は古川氏といい、岡山の花房国興の後裔といわれており、江戸時代後半は村上水軍の後裔でもあるためか広島のある島に移り住んでいます。村上、鳥居、板倉の流れといわれています。そのことがわかるように各氏の祖先の名や縁の地名から名前ができています。

    この件ですが、上記しました様に、江戸初期には瀬戸内の村上族は幕府より、「海族の認定」を受けてしまい「豊後」に「瀬戸内の島に住む一族郎党全て」を「移封の処置」を受けています。

    更に、当初は秀吉に依って一時可愛がられたのですが、突然に「海族禁止令」が出され生きて行く事がままならなく成って一族は飛散しています。
    それを決定づける為に、家康は「移封」を命じたのです。
    村上氏は、実質は1360年頃を以って現実には衰退しています。

    恐らくは、江戸期に流行した「後付譜」と考えられます。
    従って、時代考証は崩れていますのでこの御説は間違っています。

    以上ですが、何か判らない事は遠慮なくお尋ねください。


      [No.1108] Re:長島さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/02(Thu) 14:56:26  

    > 昨日、投稿がエラーと成っていましたので、代理投稿します。
    >
    >
    >
    > > はじめまして。
    > >
    > > 私は茨城県県南地方に住んでいる長島と言います。
    > > 昔は長嶋姓を名乗っていたようです。
    > >
    > > 先祖やルーツについて調べている時に、このHPを
    > > 拝見し、青木さんと昔は関係があったことを知りました。
    > >
    > > 場違いだとは思うのですが、ぜひお力をお貸しいただけないでしょうか?
    > >
    > > 家紋は丸に桔梗です。宜しくお願いします。



    長島さん 今日は。始めまして。これからも宜しくお願いします。

    ようこそお越し頂きました。

    さて、先ず、お家は、何時頃から茨城にお住まいですか。

    お便りは、昔は長嶋さんでしたとの事ですが、元は全て「永嶋さん」です。
    この「永嶋氏」が武蔵から各地に赴任して「現地孫」を残し、その「現地孫」が地域に依って見分けられるように「永嶋氏」から「長嶋氏」、「長島氏」と変名します。
    薩摩の先端まで各地の豪族と血縁氏にてこの一族は広がります。

    この一族の元の「永嶋氏」は、奈良期の頃から元祖は「結城地域」から発祥しています。

    そして、その「永嶋氏」が「藤原秀郷流兼行系の主要五氏」と成って、その勢力を拡大します。
    詳しくは、ルーツ掲示板か研究室に極めて詳しく掲載していますので参照してください。

    そこで、概要ですが、この「主要五氏」は「二つの流れ」に分かれます。
    秀郷より四代目の「兼行系」と「文行系」に別れ、「兼行系」には青木氏、永嶋氏、長沼氏の三氏、「文行系」には「長谷川氏」、「進藤氏]に分かれます。

    この「主要五氏」は、「青木氏族」と云われます。
    この中でも「永嶋氏」は、一時、”「関東屋形」”と云われ、関東域から中部域まで、北域では、陸奥域(現在の青森ー仙台間まで)までその勢力圏に収める程に大勢力を張りました。

    この「永嶋氏」は奈良期の結城氏の末裔で「永嶋氏の元祖」です。
    この「元祖の結城氏」は,奈良期には朝廷の土木建築の専門の官僚で指揮を執っていました。
    「天智天皇」の時に、中国が攻めて来るという事で、山口から奈良までの山陽道を敷きましたが、この工事が結城氏に依って行われたのです。現在の山陽道です。
    その技術的レベルは現在にも劣っていないと成っています。
    ところが、この「結城域」は「平家」に依って奪われてしまいます。
    鎌倉初期まで奪われたままで、そこで、「藤原秀郷の宗家末裔の朝光」が、頼朝に味方して、その戦功で結城を本領安堵を願い返されます。

    ここに、「藤原秀郷流永嶋氏」が、この「遠祖地の結城」に定住するのです。
    「結城永嶋氏」として全国にその勢力を拡げます。

    その勢力は西は美濃までとして、そこに一族を配置して固めます。
    それが、伊勢に拠点を設けますが「伊勢長嶋氏」です。
    この伊勢には、「秀郷流青木氏」と一族の「伊勢藤氏の伊藤氏」と配置して、「伊勢藤氏の長嶋氏」で固めていたのです。

    この「中部域の永嶋氏族」は、「長嶋氏」として呼称する事に成りました。
    この一族は、五年に一度は武蔵と結城に帰ります。
    この為に、結城にも、末裔の「伊勢長嶋氏」が遺る事に成っていたのです。

    この「伊勢長嶋氏」は勿論の事で、「秀郷流青木氏」や「伊勢伊藤氏」との同族血縁や、「二つの伊勢青木氏」とも血縁したのです。

    この「伊勢長嶋氏」は、遂に中部に勢力を伸ばしていた「信長との決戦」に及び、伊勢の「二つの青木氏」や「伊藤氏」も「伊勢長嶋氏」を助けますが、「伊勢長嶋氏」は敗退して何とか「結城」に帰ります。
    恐らくは、この時の関東に逃亡して結城に辿り着いた末裔と考えられます。
    この時、筆者の「皇族賜姓臣下族」の「伊勢青木氏」は、「二足の草鞋策」(200万石の豪商)を敷いていて、影で「伊勢シンジケート」を使って出来たばかりの「戦いの出城」を焼く等、また「織田軍の物資調達」の「妨害買い占め」をしたりして、「ゲリラ戦」で山道の物資の輸送の邪魔をしました。

    その後、秀吉の時代に成り、未だ関東と東北北陸域に勢力を持っていた秀郷一門361氏を代表する「永嶋氏」は、秀吉と激しい戦いに成ります。
    秀吉は、先ず結城の弟が治める「陸奥の白河結城氏の永嶋氏」を攻め落とす事に成り、秀吉は軍を自ら率いて攻込みますが、白河の永嶋氏の抵抗を受けて中々攻める事が出来なかったのです。
    そこで秀吉は、結局は「無理攻め」をして3000人以上と云う戦死者を出します。
    ところがここで秀吉に大変な事が起こります。
    それは、「伊勢長嶋氏」と縁籍で同族の伊勢の「秀郷流青木氏の青木主膳」が「白河結城氏」を救う為に軍を出して背後を牽制したのです。
    「結城永嶋氏の宗家」は関東を固めなくてはならない事(秀吉の戦略)から軍を出せなかったのです。

    伊勢の「二つの青木氏」にはその「賜姓五役の立場」から”古来より武力を使わない事”に成っていたのです。
    ところが、これで「秀吉の計算」が狂い思いがけないところから軍が背後に迫ったので、「挟み撃ち」で全滅する事に成る軍様と成って、「秀吉」は慌てて、北陸の道なき道を逃げ延びて大阪に戻るという事件が起こったのです。
    これは秀吉が敗戦した唯一の戦いでした。
    この以後、秀吉は秀郷一門との戦いを止めて講和する事に成ったのです。

    注釈として、この事が原因と成って家康を関東に追いやればこの煩い秀郷一門と揉めて徳川氏は衰退するだろう見込んだのです。
    衰退したところで徳川氏を討ちとる戦略でした。
    ところが、徳川氏は、この秀郷一門361氏全てごっそり家臣にし旗本と御家人にしたのです。
    其れも、上級の官僚として雇ったのです。
    そして、遂には一族に秀郷一門の「女系の血筋」を入れて自らも「藤原朝臣徳川の家康」と名乗ったのです。
    その前は、偽の「源氏朝臣」と名乗っていたのに急に「藤原朝臣」としたので、地域の大豪族であった秀郷一門は揉め事も無く、むしろお家などの力が中部域まで及んでいたので、いざと云う時は各地の秀郷一門が動くとして以前より強く成って仕舞ったのです。
    秀吉の大失敗で、これで命運が決まったのです。

    従って、この「戦い」でお家等の永嶋一門の「長嶋氏」は結城地区で生き残ったのです。

    そもそも「秀郷一門361氏」を指揮していたのは「第二の宗家」と呼ばれた「秀郷流青木氏116氏」です。

    そもそも、「青木氏族」と呼ばれた根拠は、「女系の血縁」のみならず、「円融天皇」の時、「皇族賜姓臣下族の青木氏」が、「青木一族」の「嵯峨天皇の詔勅」に依り「皇親族」から外され衰退し、「賜姓五役」と云う「朝廷の役目」が出来なく成りかけていました。
    それを憂いた「円融天皇」が、「将門の乱」で功績のあった地方の藤原氏の秀郷に「貴族の格式」を与える代わりに、秀郷宗家一門の第三子を永代に「青木氏」(始祖 千国)に任じて「皇族賜姓臣下族」と「同格の格式身分」(従四位以上 公家以上の身分)を与え、天皇から特別賜姓を受けました。
    そして、「皇族賜姓臣下族の青木氏の補完役」を命じたのです。
    それで、再び、「賜姓五役の役目」は動き出したのです。

    「皇族賜姓臣下族の筆者の伊勢青木氏」とは、「秀郷流青木氏」とは母方で繋がる縁籍関係にあり、この「秀郷流青木氏」と同族の「秀郷流永嶋氏」とも血縁関係にありました。
    まして、「伊勢の長嶋氏系一族」とは、筆者の「皇族賜姓臣下族の伊勢青木氏」とは女系で繋がっています。

    追記として、「長島氏の発祥」は、「元寇の役」の際に、九州博多に軍を秀郷一門主要五氏は送りますが、九州全土にその力を古来より持っていた「大蔵氏」と血縁をして、「大蔵氏系永嶋氏」が九州博多域で発祥します。
    この「大蔵氏系永嶋氏」が九州中部日向で勢力を持っていた「大蔵氏」と血縁族と成っていた「肝付氏」とも血縁して、「大蔵氏族肝付氏系永嶋氏」が発祥し、この「永嶋氏」が「島津氏」と血縁して、更に「肝付氏族永嶋氏系長嶋氏」が、更に、この「長嶋氏」が「島津氏」と更に血縁して「長島氏」が発祥したのです。

    「肝付氏系長嶋氏」は、薩摩の東の大隅の隼人に、「島津氏系長島氏」は西の長島地区に住み分けました。
    これが「長島氏の発祥源」です。
    従って、九州には永嶋氏と長嶋氏と長島氏が在るのです。

    さて、次ぎは「家紋」との繋がりですが、上記した様に、中部域には平安末期には「土岐氏」が勢力を張っていました。
    この「土岐氏の家紋」が「桔梗紋」です。
    ところが、「源平合戦の富士川等の戦い」でこの「土岐氏」は勿論の事、「五家五流賜姓臣下族の美濃青木氏」と「土岐氏」と血縁族の「土岐氏系青木氏」(桔梗紋)も完全に滅亡します。
    この「土岐氏系青木氏」(桔梗紋)は「伊勢長嶋氏」とも血縁していたのです。
    ところが、「伊勢長嶋氏の分家筋」には、男子跡目が無く二代続きで養子を「土岐氏系青木氏」から求めます。
    結局、この「土岐氏系青木氏」の血筋が濃く成り「家紋掟」に依り、「土岐氏族青木氏系長嶋氏」と成り「桔梗紋」と成ったのです。
    その後、この「土岐氏族青木氏系長嶋氏」が子孫拡大を図り、分家が増え分家を示す「丸付き紋」の「桔梗紋」が発祥します。
    「丸付き紋」に成るにはいろいろの場合がありますが、その一つとして「妾子」の嗣子の場合は本家が認めない限りは「丸付き紋」を使う事に成ります。
    恐らくは、お家は結城地区に戻っているという事は、この「桔梗紋の分家」を起こした「妾子の嗣子」の子孫と観られます。

    当時は、「青木氏」を含む永嶋氏一門には、その格式から「掟」が有り子孫を確実に引き継ぐために、「妻嫁制度」と云う制度があって、「后妃嬪妾」の妻の制度があったのです。
    「嬪」と「妾」は「丸付き紋」に成るかは「宗家の意志」による可能性が有ります。
    「永嶋氏」は、本来は総紋が「下り藤紋に副紋付き」です。

    お家は、この制度と男系跡目の二代続き養子により、「土岐氏族青木氏系長嶋氏」の子が「丸付き紋」に成った末裔なのです。

    つまりは、平安期に滅亡した「土岐氏の血筋を持つ長嶋氏」と云う事です。
    彼の有名な明智氏もこの「土岐氏の傍系」で何とか生き残った桔梗紋です。
    お家は、ご先祖は平安期の早い段階で、この「土岐氏系族」と血縁していた分家と云う事に成りますので、「伊勢長嶋氏」の中でも分家でありながらも「由緒ある立場」にあった事に成りますね。
    だから、妾子であって丸付き紋であっても「結城域」に戻れたと考えられます。
    普通は、「現地孫」と成るのが普通です。

    だとすると、筆者の「伊勢青木氏」とはかなり早い段階で女系で血縁関係を結んでいた事に成り得ますね。

    「青木氏族」と云われる所以は以上の事に依ります。
    念の為に、「桔梗紋」とすると奈良期からの「近江佐々木氏」とも血縁している事にも成りますね。

    以上が、お家の由来ですが、詳細は研究室の論文やルーツ掲示板のお便り等でお家の由来は判ると思います。
    相当な資料ですので、ゆっくりと時間をかけてお読みください。
    都度、判らないところは、遠慮なくお尋ねください。

    恐らくは長嶋氏マニアに成ると思いますよ。


      [No.1109] Re:青木一貞の6人の男子の名について
         投稿者:   投稿日:2017/02/02(Thu) 14:48:23  

    管理人様

    早速のしかも、ご丁寧なご返答ありがとうございます。
    青木一貞の6人の男子という説は無い可能性が高いですね。

    以下ご意見を頂いた上での思ったことです。


    1、戸籍見直しました。申し訳ございません。
    該当の人の筆頭に「同村」の指示語があり、現西宮市発行の戸籍なので武庫大社村かと思いました。
    しかし、古い書き方の原戸籍で元の在籍地、実際には広島の能美島を指していると考えます。

    2、1、のことから、古川が武士の家系とすれば、戸籍上の広島の能美島には維新直後移動したと考えます。
    すると、青木の方は既に戦国末から定住している可能性があります。または、能美島は一時小早川隆景から与えられた水軍の村上氏の領地であり、これについてきた青木の可能性があります。(近くでは伊予の青木は足利流という話もあるようですが?)

    また花房正興の後裔は存在せず、その系は途絶えているようです。その他の女子4姉妹は父来島氏、母鳥居氏ですが、
    3名は早くに亡くなり、1名は播磨高家松平広寿の嫁となり、ここから2代で来島氏、母鳥居氏両方の血を
    引き継いだとは考えにくいです。(但し、正興には花房外記正興という別人もあると旗本の辞典にあります)

    さて当家の伝承ですが、
    a,花房氏、b,来島村上氏、c,熊野権現鳥居氏の血を引き継いだ。また一族の名の構成が一、重、興、国、吉、皆、その他3氏の縁の地名の言葉で名前ができていることから。c,との血縁説は仮冒だと思います。家のつながりのみでしょう。何故なら、古川家と、青木家の子どもにはc,を表現する名前は皆無です。その後の世代になって初めてc,が登場し不自然です。

    a,ついては美濃時代の花房氏と交流のあった青木氏(伊予と同系でしょうか?)から、b,については、能美島は一時小早川隆景から与えられた水軍の村上氏の領地であり、これについてきた青木氏から受け継いだというのが私の仮説です。この系に維新後移動してきた古川氏が加わります。戸籍上に後に村上氏と血縁の河野氏と、また血縁にある山野井氏に嫁にいったりしています(他は諏訪氏、阿倍氏等です)

    3、1827年生まれの青木の娘と結婚した夫の古川の家紋は丸にオモダカです。美濃○という名を持つ祖母の女紋は「八重向こう梅」で母もこれを譲り受けています。家紋辞典によると花房氏は三つ雁金紋や梅鉢紋を使っていたようなので、関連性はあります。梅鉢→向こう梅→八重向こう梅と3回は変化しているので、美濃花房氏からは何回も分家や婚姻があったと仮説しています。

    4、伝承では青木氏も花房氏も美濃で斉藤道三の斉藤家と関わりがあるようです。先祖は斉藤道三を大変尊敬しています。藤原北家利仁流の青木も絡んでいるでしょうか?

    5、過去帖はどこかに残っているのでしょう。しかし、母方祖母の系は疎遠で移動が多くかつ籍の移動が多く期待できません。しかし、古川家は明治末の摂津の他家の古文章にも登場し、小さな家ではなかったのは判ります。

    6、岡山は旗本花房氏の領地で近くには麻田藩の領地があったようです。何かここにも関係がありそうです。

    よろしくお願いいたします。

    東京の仁太郎




    > > はじめまして、東京に住む仁太郎と申します。お世話になります。
    > > 私の母の実家は古川氏といい、岡山の花房国興の後裔といわれており、江戸時代後半は村上水軍の後裔でもあるためか広島のある島に移り住んでいます。村上、鳥居、板倉の流れといわれています。そのことがわかるように各氏の祖先の名や縁の地名から名前ができています。


      [No.1107] 長島さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/01(Wed) 17:16:33  

    投稿がエラーと成っていましたので、代理投稿します。



    > はじめまして。
    >
    > 私は茨城県県南地方に住んでいる長島と言います。
    > 昔は長嶋姓を名乗っていたようです。
    >
    > 先祖やルーツについて調べている時に、このHPを
    > 拝見し、青木さんと昔は関係があったことを知りました。
    >
    > 場違いだとは思うのですが、ぜひお力をお貸しいただけないでしょうか?
    >
    > 家紋は丸に桔梗です。宜しくお願いします。


      [No.1106] Re:青木一貞の6人の男子の名について
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/01(Wed) 17:08:07  

    > はじめまして、東京に住む仁太郎と申します。お世話になります。
    > 私の母の実家は古川氏といい、岡山の花房国興の後裔といわれており、江戸時代後半は村上水軍の後裔でもあるためか広島のある島に移り住んでいます。村上、鳥居、板倉の流れといわれています。そのことがわかるように各氏の祖先の名や縁の地名から名前ができています。
    > さて本題でございます曽祖父は青木氏と結婚しており、その女性の父の名前は十左衛門です。その子たちには、仁、一、重、興等の字や、「六一」という名、美濃青木村のあった大垣の別の呼び方等が名前となっております。さて、十左衛門の生まれた年代は戸籍で逆算でおよそ1800年前後となり、麻田藩青木一貞の息子一興と同じ世代となります。その青木氏の実家が明治初頭でいう武庫大社村(のみ記入)と戸籍にあります。端的に伺いますが、この青木氏は一興の兄弟ではないでしょうか?「六一」という名前の意味は男子六人の一人という意味で、十左衛門は男女12兄弟の10人目での男子6人内の1人ということはないでしょうか?戸籍に載っている情報は約200年まえからです。
    > よろしくお願いします。

    今日は。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    これからも、よろしくお願いします。

    さて、曾祖父は青木氏と所縁のある家婚をされている様ですが、先ず、末裔の方のお名前(A)からそのルーツ(B)が、且つ、お家のご先祖の移動ルート(C)と、明治初期の戸籍簿(D)と、曾祖父の年代(E)と合わせて勘案しますと、青木氏の別譜の歴史的経緯(F)から一つのお答えが出ます。

    それは、お説の通り、お答えは、(A)から(F)が合致するのは、「丹治氏系青木氏」である事です。

    「丹治氏系青木氏」の詳細については、「ルーツ掲示板のお便り」や「研究室の麻田藩に関連する資料を参照してください。
    そこで、この「丹治氏系青木氏」に付いての概要を述べます。

    「丹治氏系青木氏」は、武蔵の国の入間より北部域に定住していた土豪で、平安期に皇族の十市王の孫の「多治彦王」が罪を得て、関東に配流されます。
    この王の面倒を看たのが、武蔵七党と呼ばれる一つの「土着の丹族」です。
    この「土着の丹族」との間に「現地孫」の子供が出来ます。
    その後、この「多治彦王」は罪が解けて京に戻ります。

    この武蔵には、平安期から日本最大豪族の藤原秀郷流青木氏116氏が定住地として存在しています。

    その中で、この「多治彦王の現地孫の末裔」が、この時の事を理由にして、「嵯峨期の詔勅」に基づき「青木氏」を名乗ったのです。
    此処で、「嵯峨期の詔勅」とはそれまでは「皇族」が下俗し臣下族と成る場合は、「青木氏」の賜姓を受けて名乗り「皇族賜姓臣下族」で「五家五流青木氏」の何れかの「氏族の跡目」に入る仕組みがありました。

    ところが、始祖の「施基皇子の後裔青木氏」の「三代後の後裔」でありながら「嵯峨天皇」は、この「青木氏」を「賜姓族」とせずに、新たに指定した皇子の者に付いては「賜姓源氏」を名乗らせ、「青木氏」に付いては、皇族の賜姓を受けられなかった「朝臣族」に対して名乗る氏名とする事に決めたのです。

    つまり、「多治彦王」は賜姓を受けられなかった皇子ですので、それの血筋を持つ現地孫である事を理由に「丹族」は、別系列として丹治氏を興し、その者に「青木氏」を名乗らせて権威を付けたのです。
    現地孫としての証拠は「青木氏」を名乗るべき物は見つかりませんが、「丹治氏系青木氏」を興します。
    その後、室町期に入り、この「丹治氏系青木氏」は、「本家の丹治氏」と共に、家を興す為に全国各地を「傭兵の国衆」と成って回ります。
    主な処は、信濃、甲斐、最後に「美濃」に「傭兵国衆」として定着します。

    皇族賜姓臣下族の五家五流青木氏と藤原秀郷流青木氏のルーツ詳細は判っていますので。(A)から(F)から判断すると次ぎの様になります。

    この時、名冬夏の陣が起こり、当初は、この「美濃」にいた「丹治氏系青木氏」は「傭兵国衆」は豊臣に付きますが、夏の陣では、徳川方に味方して戦功を挙げて、やっと「摂津麻田藩1万石」が与えられます。
    この時に、一族郎党摂津に移動します。
    この弟には、「河内」や「土佐」や「美濃」の「村程度の小領」の合わせて4000石を分け与えたのです。
    その後、この弟の小領の河内や土佐の領地は没収され、元の国衆として暮らしていた「美濃の村」に落ち着きます。
    美濃には兄の本家の末裔はいません。

    本家の摂津麻田藩1万石は、明治期まで摂津にて続きます。
    従って、大名と成った初代の一重の弟のルーツの美濃の丹治氏系青木氏と成ります。

    >美濃青木村のあった大垣の別の呼び方等が名前と・・

    このお家の美濃説に付いては、美濃には、上記の「五家五流皇族賜姓臣下族青木氏」の「美濃青木氏」と「美濃の豪族土岐氏」と血縁した「土岐氏系青木氏」が在りましたが、これら全てが室町期に滅亡します。

    後は、これ等の傍系の末裔が土豪と成って「美濃の青木氏」を興しますが、この族のルーツが「丹治氏系青木氏」との区別が資料が無くつきません。

    お家の曾祖父の血縁先のご先祖が、この弟の末裔の「丹治氏系青木氏」である事は、お家の美濃説を採れば先ず間違いはありません。

    次には、「一興の子孫」との御推理は、当時の江戸社会の掟の「国抜け」で各地に自由に定住する事は出来ません。
    藩士であれば藩内での永住の定住で、惣領以外の部屋住み者は、惣領の家人や僧侶にしか成り得ず、他の地に定住する事は無宿者と成り出来ません。「国抜け」は「一族斬首」が掟です。

    次の「戸籍説」に付いては、「明治初期の苗字令」に基づく「戸籍令」で出来たものであり、それ以前1800年頃の説とすると、江戸期以前は摂津藩の菩提寺の「寺の過去帳」に記載されています。
    従って、武士以外は、江戸期には「戸籍の記録」はありません。

    税に基づく帳簿で「檀家寺」のお寺の「人別帳」か、「庄屋の人別帳」にしか記載はありませんので過去にさかのぼる事は出来ません。
    従って、”「200年とする戸籍簿」”のお説は、「戸籍簿」は「明治初期に苗字令」に基づくものしかありませんので、約100年の歴史です。

    仮に、200年だとすると、江戸期半ば頃と成りますので「菩提寺」を持ち「過去帳」を持つ事に成ります。
    「麻田藩の所縁」の「青木氏族」とするとすると、現在からすると「360年の戸籍」が遺る筈です。
    「過去帳」のある「何所のお寺」の「何宗」のどの「宗派」と成るかの疑問と成ります。
    当然に、お墓は何時建立されたものでしょうか。

    「江戸期の武士以外」は「墓」を持ちません。
    国民すべてが持ったのは戸籍簿が出来た明治以降です。
    従って、「200年の戸籍簿」はありません。
    100年ではありませんので、有ればどこの青木氏かも明確に「過去帳」ですので元より判る筈です。

    要は、この「明治初期の戸籍簿」には、江戸期の身分に「平民」か「士族」と書かれていて、その出身地も記載されています。
    この「明治期の戸籍簿」では、「武庫大社のある村」と云う事に成ります。
    「武庫大社]は極めて古い奈良期からの「摂津の社」で、この地名は「務古」と記載され古書にも載る程です。
    この「武庫地域」は、室町期初期頃からの「近江青木氏系」の「摂津青木氏」の「逃避地の定住地」です。

    この神社のある村に明治期初期に住んでいたとすると、美濃との関係で矛盾する事に成り、矛盾を起こす現象は、「第三の青木氏」との判別と成ります。

    結局は、その「明治初期の戸籍簿」に「武庫大社村」と書いていたとする事から、その戸籍簿が優先されます。
    依って、江戸期の「お家の身分」を補償する「士族」と書かれていたかの問題に成ります。

    無ければ、「明治初期の苗字令」に基づく「第三の青木氏」です。

    先ずは、念の為にお家に関わった青木さんの「明治初期の戸籍簿」をご覧ください。
    「士族」と書かれていなければ、明治期に「青木氏の定住地」に住んでいた農民等が「青木氏」に関わったとして一斉に「村や郡の一般の民」が「青木氏」を名乗ったのです。
    「青木氏29地域」に関わらず、「藤原氏361氏等の豪族の氏名」を名乗る事が一夜にして全国各地で起こりました。

    これは苗字令が進まなかった為に、明治8年に督促令を出し政府がこの様に強引に指導したのです。
    これを学術的に「第三の青木氏」と云います。
    実は、五家五流の美濃、摂津、近江、信濃、甲斐などの「青木氏」にもこの現象が大きく起こりました。

    この現象は、幕府が、姓名を持たない農民から武士に成った者に、認めましたので江戸初期にも起こります。

    実は、摂津には、「五家五流の近江青木氏」の流れを汲む近江から流れて来た傍系族の「摂津青木氏」が室町期にありました。
    又、「伊勢青木氏」の「二足の草鞋の商い」の支店もあり「伊勢青木氏」が現在も定住しています。
    「武庫大社」の付近は、「皇族賜姓族の近江青木氏」の末裔が住んだ「摂津青木氏」が「青木村」を形成して定住していました。

    注釈 明治初期まで、嵯峨期の詔勅禁令に依り「青木氏」以外に、この「青木氏」の「氏名」を「村名」とする事を禁じていました。護られました。

    依って、明治初期の戸籍簿の「士族」(士分)の明記があるかの確認をしてください。

    他に確かめる方法として次の事でも判ります。
    麻田藩は明治初期まで一族が続きましたので、過去のルーツの記録や遺品や過去帳や曼荼羅図等の伝統品が必ず引き継がれている筈です。

    尚、「士族」である場合は、必ず慣習として、麻田藩である場合は、江戸の武家諸法度の規則により「姓名」の「俗名」と「通名」と「襲名名」と「仮名」を持っています。
    取り分け、「通名」がある事に成ります。

    位牌や墓所には、「士族」である場合は、「院殿居士」の戒名と成っている筈です。

    摂津や美濃の「麻田藩系」の「士族」である場合は、「浄土真宗」に帰依しています。

    確認される事が多く在りますので、お判りに成られた場合はお便りをください。


      [No.1105] 青木一貞の6人の男子の名について
         投稿者:仁太郎   投稿日:2017/01/31(Tue) 18:42:56  

    はじめまして、東京に住む仁太郎と申します。お世話になります。
    私の母の実家は古川氏といい、岡山の花房国興の後裔といわれており、江戸時代後半は村上水軍の後裔でもあるためか広島のある島に移り住んでいます。村上、鳥居、板倉の流れといわれています。そのことがわかるように各氏の祖先の名や縁の地名から名前ができています。
    さて本題でございます曽祖父は青木氏と結婚しており、その女性の父の名前は十左衛門です。その子たちには、仁、一、重、興等の字や、「六一」という名、美濃青木村のあった大垣の別の呼び方等が名前となっております。さて、十左衛門の生まれた年代は戸籍で逆算でおよそ1800年前後となり、麻田藩青木一貞の息子一興と同じ世代となります。その青木氏の実家が明治初頭でいう武庫大社村(のみ記入)と戸籍にあります。端的に伺いますが、この青木氏は一興の兄弟ではないでしょうか?「六一」という名前の意味は男子六人の一人という意味で、十左衛門は男女12兄弟の10人目での男子6人内の1人ということはないでしょうか?戸籍に載っている情報は約200年まえからです。
    よろしくお願いします。


      [No.1104] Re:三つ鍬形紋のやすさん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/01/17(Tue) 11:19:37  

    > 本欄は エラーにより代理投稿
    >
    >
    > またまた歴史に興味がわき、ルーツが気になってきました。
    > 和歌山のやすです。
    > 氏は
    > 浅井 あさい
    > ついでに名は……
    > 康臣 やすとみ
    > やすは家康の『康』
    > とみは豊臣の『臣』



    和歌山の浅井さん 今日は。

    お久しぶりですね。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。

    さて、前回お尋ね頂いた際には、御姓が判りませんでした。
    その際に、お家のご家紋が、三つ鍬形紋(くわがた)との事でした。
    この時のお答えは、紀州徳川氏の家臣であるとのお答えをしました。
    その中で、「浅野氏系の一族」ではないかとのお答えをしました。

    実は、和歌山北域には、浅井氏が多いのです。
    この系列の多くは、浅野氏系の一族一門に含まれ、その血縁を一部引き継いでいる家系と成っています。
    主に、山梨域と「和歌山の北紀域」に多いのです。

    さて、この度のお便りの中にお家の「ルーツの所縁」が出ているのです。
    実は、歴史マニアの中で「有名な逸話」が遺されているのです。

    それは、家紋研究の中でも、”「家康」が夢を見たとして、信長と秀吉と家康が「三つ鍬形の兜」を被って、天下国家を論じた夢を見た”として、この事からこれを”「兜の替紋」”にしたと成っている所縁のある「有名な家紋」なのです。

    そこで、「替紋(替家紋)」とは、江戸期初期から使われた「特別な慣習」で、この最初が、「紀州徳川氏」の「頼宣」なのです。
    「紀州徳川氏」は「主紋」は「三葵紋」ですが、「替紋」は「兜等の武具」にも用いる「武勇を示す文様」です。
    この「替紋」は「副紋扱い」の家紋なのです。
    後に、大大名は幕府の徳川氏から許可を貰い「自分の家の替紋」を造り真似る事が起こりました。

    そこで、この「替紋」は「誉れある武勇」を示す文様である事から、戦功を挙げた家臣にもこの主君の替紋を使う事を許されたのです。
    江戸期には最大の「家の誉れ」であったのです。

    そこで、これを「家康」から聞いた「紀州藩の初代頼宣」は、これを「兜の替紋」に指定し、そして、「紀州徳川家の縁続き」の「伊予西条の松平氏」もこの「替家紋」を使う事に成りました。

    この「替家紋」(かえかもん)は、同時に「戦功のあった家臣」に「名誉」の為に「主君の家紋」を与える事にも使われましたが、「紀州浅野氏」や「縁続きの浅井氏」のお家とかが許された特別な数少ない「誉れの家紋」なのです。

    この様に「替家紋」(鍬形文様)とは「紀州」と「伊予」にしか分布しいませんので大名が戦功のあった者に特別に与える家紋としても用いられたものなのです。

    実は、「紀州徳川氏」では、「浅野氏、浅井氏」(昔は”あざい”と呼んでいました。)の家臣が多く仕官されていました。
    これには「ある経緯」があって、浅野浅井氏が紀州に分布しているのです。

    紀州では,この「誉れ」から、特別に”「浅野浅井氏」(あさのあざいし)”と云う言葉で特別に呼ばれていたそうです。
    昔は、”あさい”では無く”あざい”と呼んでいたのです。

    現在でも、浅井さんは和歌山に多いのですが、この一族と考えられます。

    故に、お家の名がこの家紋の「夢の謂れ」に因んでご先祖の名誉を後世に伝える為にお説の通り”「康臣」”と名づけられた可能性が有ります。
    臣は「豊臣」では無く、「兜の経緯」(名誉の三つ鍬形の替紋)から「徳川氏の臣」であった事を示している事もあります。
    つまり、これはお家が、矢張り、紀州徳川氏の由緒ある初代からの家臣であった事を意味しています。

    実は、上記の経緯とは、「家康」に最も愛された「紀州初代の頼宣」が、紀州伊勢に居た青木氏等の土豪の武士を全てと云って良い程に多く抱えました。
    この為に、幕府から「謀反の嫌疑」が掛かり、一時、蟄居を命じられたほどの事件でした。
    この時の元の「紀州浅野氏」と共に一族であった仕官した「土豪の浅井氏」と考えられます。

    後に、秀吉の時代に大阪の泉市に城を構えていた「紀州浅野氏」も江戸期には「頼宣の入城」と共に「国替え」と成ります。

    徳川幕府は1625年に正式に樹立させますが、「頼宣」は1619年に紀州に入城します。
    夏の陣で徳川氏に命じられて「紀州浅野氏一族一門」は紀州から大阪に側面攻撃の為に攻込みますが、この時にお家らの「紀州の浅野氏一族一門の土豪」は、この時に戦功を挙げたものと考えられ、その後の混乱で紀州を平定に貢献して、「頼宣」よりこの「替紋」の「三つ鍬形紋の使用」が認められたものだと考えられます。
    紀州北部の和歌山と泉との境に小さい領地を与えられたのです。

    然し、紀伊国は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の後、「甲斐国主」であった「浅野幸長」に与えられ、外様の浅野家の治める紀州藩が一時成立しました。
    ところが、元和5年(1619年)の「福島正則改易」に伴い嫌疑を掛けられた「紀州浅野家」が「安芸国・広島藩」に移されるます。
    それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・「徳川頼宣」が「浅野の旧領地」に入城し、「紀州徳川家」の治める「親藩の紀州藩」が成立しました。
    この時に紀州の「浅野氏一族一門」は後に国替えと成りますが、この「浅野氏の一族」の一部の「浅井氏」等が地元に残り、「徳川氏」に改めて仕官したのです。

    この事も含めて、「福島正則改易」で疑われた「紀州浅野家一族一門」の家臣を召し抱えたとして幕府から嫌疑を掛けられた事にも成ります。

    ところが、然し、残ったお家は「戦功」をあげていた事から、紀州徳川氏の替紋「名誉の三つ鍬形紋」を授かっていた事から疑いが解け「仕官」が出来たのに間違いはありません。

    現在も、お家の所縁の地の「泉」(泉佐野)に城跡がありますよ。
    近くですから一度先祖の城跡でも見られては如何ですか。

    出来ましたら、是非、この伝統を御子孫に伝えてほしいものですね。

    では、判らない事や御質問がありましたら又お便りください。
    お待ちしています。

    お家のご先祖が仕官された時、「紀州伊勢の青木氏」等も仕官した時の事をサイトに記載しています。

    「研究室の伝統シリーズ」の処で、検索で、”「頼宣」”か「浅野氏」等のキーで検索してください。


      [No.1103] Re:三つ鍬形紋のやすさん
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/01/16(Mon) 11:32:18  

    本欄は エラーにより代理投稿


    またまた歴史に興味がわき、ルーツが気になってきました。
    和歌山のやすです。
    氏は
    浅井 あさい
    ついでに名は……
    康臣 やすとみ
    やすは家康の『康』
    とみは豊臣の『臣』


      [No.1101] Re:東京の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/12/05(Mon) 17:21:11  

    東京の青木さん 今日は。お久しぶりですね。
    お元気で居られる様で何よりです。これからも宜しくお願いします。

    お便り頂きました。ご先祖が埼玉の神明社の神職を務められ、柏紋をベースに子孫繁栄されている始祖を「伊勢青木氏」とする「青木さん」と記憶していましたのでお便りを読んですぐに判りました。

    神社を参拝された様で、矢張り、御先祖が神職をされていた事もあり、何か遺伝子が心に引き付けるものが有るのだと思います。

    私も良くそんな気分に成る事があります。何か「ベータ波のテレバシイ」が、未だ人間に持っていて脳幹の近くにしまわれている「原始脳」から発するのかも知れませんね。
    これは「人」にもよる様ですが、私と同様に、お家もシナプスを「原始脳」に働かせる回路を未だお持ちなのかもしれませんね。

    さて、お便り頂きました事に付いて、前回にも述べましたが、それを更に裏付ける事であると考えます。

    >名前の記載は致しませんが、墓碑の一番初めの年号は寛永でした。
    >歴史は詳しくはありませんが、改めて、青木氏の歴史を感じました。

    >そこに書かれていた先祖の名前を検索してみたところ、
    >児玉郡美里町の北向神社の御神燈に先祖の名前が刻まれていたとこのことでした。

    >こちらの祭神は大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命とのことです。
    >住んでいた土地の神社なので、こちらに刻んだのでしょうか

    「前回のお答えの要点」
    「児玉郡」は、埼玉県北部域の「深谷神明社」から西隣接域の山手ですから、「分家の入所」としては充分に考えられます。
    以前、お答えいたしました「武蔵神明4社」、つまり、「深谷の神明社]と、「所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社」が加わり4社に成るのですが、後は、後に建立された「神明社系の分社」等がこの児玉郡域に建立されました。

    恐らくは、この「分社域の神明社」をお家の分家筋が受け持たれたと観ています。
    依って、「深谷の本宮」から「児玉郡の美里域」にお家の分家筋が移動されて、子孫を拡大させて「分家筋の墓所」を別に持たれたと考えられます。

    依って、「児玉郡の美里町の勝輪寺」の前は、ご本家筋の深谷域に「本宮の神道の本墓所」があった事に成ります。
    昔は、墓所や建物を建てる事等の「自由に出来る土地」は、「郷氏」や「庄屋]や「豪農」や[社領」や「寺領」などが「地権」と云う権利で補償されている地域、つまり、お家の場合は「社領」にしか持つ事は出来ませんでしたので、「児玉郡の美里」に「神明社の社領」の「地権」を持っていた事に成ります。
    従って、「分家筋の墓所」を設けるには「児玉郡の美里」しか無かった事に成ります。

    お家の家紋が統一されている事は、一族が互いに助け合い「児玉郡」で纏まり「子孫繁栄」を図って居た事に成りますね。

    依って、「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り、その[菩提寺の経営等]が成りゆかずに、明治期に世間の仕来りに従い「一般」の「檀家寺」に成ったものと観られます。
    多くはこの経緯を辿りますが、明治期では経営が成りゆかずに全てが「檀家寺」に変えたのです。

    「今回のお答え」
    寛永期は1625年から20年間で、寛永期が刻まれている事は、徳川氏がやっと幕府を安定させた時期ですから、柳沢吉保が神明社を建立する直前の事に成ります。

    前回のお答えの通り、お尋ねの件は次ぎの様になりますね。

    >児玉郡美里町の北向神社の御神燈に先祖の名前が刻まれていたとこのことでした。

    とすると、寛永期頃と成りますと、上記の前回のお答えを裏付ける事に成ります。
    寛永前は「青木氏の財力」で「神明社系分寺」を維持していましたが、寛永期に神明社や寺等を江戸幕府に移行した時期で、その後幕府の財政が行き届かずに荒廃しました。
    この時に、「特定の氏」が持つ神社や寺は禁止されました。
    この例外に洩れず「美里町の守護神」としていた「神明社系の北向神社」も「分社」として周囲の氏子等ともに「社の維持」を図ったのです。
    この時に、郷氏として分社の「総代的な立場」から、「御神燈」を寄贈した事に成ります。

    「神社や寺等の寄贈燈」は、この総代(守護)等に依って行われたものです。
    明治期以降は、「総代」だけでは無く、「地域の商人」なども加わり寄贈する事に成るのですが、寛永期では、庶民はこのような事に関わる事は出来ませんでしたので、刻まれている事は「総代」であった筈です。
    神明社では、この「総代」を務める人を「御師(おし)」と呼称していました。

    そもそも、「総代」とは、「神社の維持管理一切を取り仕切る責任者」の人の事を言います。
    多くは、室町期では、「柏紋等の神社の関係者(氏上)」がこの「永年に総代」を務めました。
    そうでない場合は、「氏子総代」と呼称し、現在と同じ様に交代制です。

    次ぎに、「大巳貴命」とは、「大国主(おおくにぬし)」の事ですが、この「命」を祀ると云う事は、「自然神」に類する社であり、「皇祖神や祖先神」がそれにあたるものです。
    主に「神明社」だけがこの「社神と仏神」を含む「古式型の合祀体」でした。

    更に、「素盞嗚命」はその先代の倭国の初代大王で、、「大巳貴命」が倭国を引き継いだ二代目で自らを高める為に全国を行脚し、「農業の開発」が国を高めるとする考えを持ち、その開発の見本と成る拠点を紀州に求めたのです。
    そして、中国の近代的な農業を会得していた「少彦名命」を重用し、その拠点とする社を紀州に築きます。
    この拠点造りに「少彦名命」か活躍したのです。

    現在もこの拠点と成った神社が紀州の若山から有田近郊に幾つもあります。
    後に「最終の遷宮地」として「伊勢」に成ります。
    これがわれらの青木氏を通じて「古い深谷」を始めとして全国500社に広まったのです。
    その関東の一翼を担ったのがお家の御先祖です。

    この拠点が、後の大和朝廷の「祖先神」であり、「神明社の役目」でもあるのです。
    つまり、この「三者」が紀州では無く、関東にも祀られていると云う事は、まさしく「神明社」で全国に建立し「農業開発の拠点」とした事であり、「神明社系の合祀体」の証です。
    きわめて古い「深谷の神明社」の「分社」である事を間違いなく証明しています。

    依って、お家の「柏紋系」、「総代」、「御神燈」、「児玉郡美里の定住地」等の情報が一致してます。
    名が刻まれていた事、寛永期の時期の事からも時代性に矛盾はありません。

    つまり「土地の者」であったからだけでは無く、上記の経緯を持った「御神燈」であったと云う事です。
    これで、よりお家の「御先祖の歴史観」が発掘された事に成りますね。
    だから何か引き付けるものがあったのでしょう。

    全国の青木さんの「青木氏の歴史観」としては大変に役に立つお便りでした。

    何か判りましたらお便りください。


      [No.1100] Re:東京の青木です
         投稿者:東京の青木   投稿日:2016/12/04(Sun) 16:40:57  

    大変ご無沙汰しております。
    東京の青木です。

    本日は父親と母親と龍宮神社を参拝してきました。
    2度目は1度目と異なる感想で、神社全体から温かみがあり居心地の良さを感じました。

    その後、勝輪寺にお墓参りもしてきました。

    本日1点発見がありましたので、報告致します。
    私の父親の父親(おじいちゃん)のお墓と別に、おじいちゃんの実家のお墓にもお線香をあげる機会がありまして、そこに過去の先祖の名前が刻んでありました。

    名前の記載は致しませんが、墓碑の一番初めの年号は寛永でした。
    歴史は詳しくはありませんが、改めて、青木氏の歴史を感じました。

    そこに書かれていた先祖の名前を検索してみたところ、
    児玉郡美里町の北向神社の御神燈に先祖の名前が刻まれていたとこのことでした。

    こちらの祭神は大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命とのことです。
    住んでいた土地の神社なので、こちらに刻んだのでしょうか。

    宜しくお願い致します。


      [No.1099] Re:長島さんのお答え
         投稿者:長島 由光   投稿日:2016/08/16(Tue) 19:41:56  

    こんなに早く回答頂き、ありがとうございました。
    よく読んで理解したいと思います。
    また、質問事項が生まれましたらご教授お願い申し上げます。


      [No.1098] 長島さんのお答え
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/08/16(Tue) 14:36:40  

    雑談掲示板から移動投稿


    >埼玉県行田市須加地区出身の長島ですが、
    >家紋は丸隅立て四つ目、お寺は曹洞宗です。
    >藤原秀郷一門と繋がりはありますでしょうか?


    埼玉の長島さん 今日は。

    始めまして。これからも青木サイトを宜しくお願いします。

    長島さんは藤原秀郷一門主要五氏の一つ青木氏、永嶋氏、長沼氏と長谷川氏、進藤氏(五氏 計361氏)があり、中でも前三者は、始祖の秀郷より4代目の兼行系で「青木氏族」と呼ばれます。
    秀郷一門の「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏」とは最も縁籍関係が深く、「青木氏116氏」が定住する地域には必ず「永嶋氏一族」が存在する程でした。
    「秀郷一門の秀郷流青木氏」は、「皇族賜姓臣下族の五家五流青木氏」と共に「朝廷が認める護衛軍団」で、その役目は天皇を近衛で警護する軍団として、又、「五家五流皇族賜姓族の補完役」(賜姓五役)として「円融天皇」から特別に賜姓を受け「青木氏」を永代で名乗る事を許され、身分や格式や官職官位は同格の最高位で、且つ、その役目を義務付けられたのです。
    秀郷一門の「宗家の第三子」(始祖は千国)が、必ず「補完役の青木氏の跡目」に問題が出た場合は「青木氏跡目」を継承する事を義務付けられました。

    そこで、「青木氏族」の「永嶋氏族系」は25氏(全35氏)から成り立つていて、定住地は青木氏とほぼ同じ地域です。
    長谷川氏と進藤氏は、四代目の文行系で、この「皇族賜姓臣下族の補完役」を補佐する立場にあって、「青木氏への跡目」を出していた為に「青木氏族」とも云われます。

    中でも、「永嶋氏」は、「関東屋形」と呼ばれ、「永嶋氏一族」は秀郷一族一門の中でも「青木氏」につぎ最も古く、「秀郷一門の奈良期の古巣の地」の「由緒ある結城」を任されていたのです。
    従って、「永嶋氏の宗家」は「結城永嶋氏」と呼ばれ、「結城の地」は一時は平氏に攻め執られていて、鎌倉期直前に秀郷一門の宗家が取り戻します。
    ここを「永嶋氏」の宗家が護り、「永嶋氏一族のルーツの地」とも成ります。

    さて、そこで「お家の長島氏」ですが、この上記した「青木氏族」の「永嶋氏」には、「永嶋氏と長嶋氏と長島氏」との三氏が在ります。
    この「ナガシマ氏」には、この呼称でそのルーツが解る様に成っているのです。

    お家の「長島氏」には、永嶋氏一門に仕える一団の中で、ある二つの理由で名乗る氏名です。
    それは、一つ目には、家臣団の中で、「永嶋氏」と女系の縁籍関係を持った者の末裔が名乗る氏名が在ります。
    その、二つ目には、永嶋氏一族にその職能で永代に仕える者の集団の中の「長」に与えられて名乗る氏名です。
    お家の長島氏は、二つ目の氏名の「長島氏」なのです。

    それは、そもそも「永嶋氏」は、奈良期の元より”「結城」”の名の通り、土木や建築などを司る技術集団で、現在で云えばゼネコンの官僚族でした。
    この「ゼネコン官僚族」で、家臣団の殆どは、この”「永嶋氏部」”と云う「技術集団」に所属し、この「長島氏」は”「永嶋氏部」”と云う集団を取り仕切る由緒ある「頭領」の血筋で、「永嶋氏」とは直接、間接的な何らかの縁籍関係にあった者等の宗家から与えられる特別な誉れ高い呼称の氏名でした。

    そして、”「永嶋氏部」”と云う特殊な技術集団を持つ「結城永嶋氏」は、奈良期から「朝廷の技術者集団の役人」を担っていました。
    その技術レベルは、現在でも技術的に全く劣っていないとされ、天智天皇が中国の脅威から国を護る為に山口から京都に敷かれた「古代の山陽道」(京までの緊急情報伝達手段も含む)を敷いたのは、お家らの「永嶋氏等の結城一族」です。
    現在の夜空を美しく飾る「花火」も、この情報伝達手段の一つとして「狼煙方式」と呼ばれて、「花火の形や色や煙の具合」等でこれで情報を京に伝えていたのです。
    これを開発したのがお家らのご先祖の長島氏なのです。

    現在でも、この「古代山陽道」の一部が遺されていて技術的には現在の「土木工学」や「建設工学」や「材料力学」や「冶金工学」に劣っていない事が証明されています。
    現在でも、「狼煙方式」もそうですが、通用する超本格的な土木工学がベースに成って出来ています。

    つまり、土木、建設等の技術が得意とする「珍しい総合技術氏」です。
    こんな「技術氏」は他にはありません。
    然し、かと言って、武力的にも陸奥で「白河の結城永嶋氏」が直接に「秀吉軍団」と戦って惹けを採らなかった珍しい有名な強力な一族で、お家の長島氏等が裏で支えていたのです。
    と云うのも、「陸奥白河の結城永嶋氏」やお家の「長島氏」らを始めとして、「永嶋族」は、互角に戦い、秀吉軍団の背後から「関東屋形」と呼ばれた「下総の結城永嶋氏」が深い縁籍関係にあった「伊勢の青木氏族」の援助を受けて秀吉の背後を攻めかかり、秀吉戦績の中で唯一、何と「獣道」とされる「商人道」の「新潟道」を一目散に逃げ帰った「有名な陸奥白河の戦い」と云うのが在ります。

    この秀吉を逃げ帰らしたのには、”「結城族」”であったからです。
    城や堀を造る専門集団や高い科学技術を持っていたからで、「技術工作術」が高く、何が起こるか判らなく怖くてまともに攻められなかったのです。
    その結果、秀吉は判断を誤り「無理攻め」して歴史に残る大戦死者を出してしまいます。
    以後、秀吉は以後、深く反省して、攻める時は、この様な「技能集団」を家臣団に抱えて「中国攻め」に入ったのです。
    「高松攻め」等に観られる様に、武力は最後の手段にしたのです。
    これが後に「秀吉の強み」に成ったのです。
    豊臣家が滅亡してからは、これを観ていた家康は関東に居た秀郷一族一門をごっそり基礎の家臣団にし、御家人や旗本に据えたのは家康なのです。

    この「技術者集団の名乗る氏名」が「長島氏」なのです。

    そして、この「長島氏の氏名」は、古式豊かに継承されて行く徒弟制度の中で引き継がれて来たのです。
    取り分け、「埼玉の行田」に住していたとすると、「秀郷一門の慣習仕来り掟」から、その「技術集団の頭」に当たる家筋の末裔である筈です。

    そこで、これらの「技術者集団」は、「永嶋氏部」ですので多く在りますが、家紋と宗派で細かく判別する事が出来るのです。

    お家の家紋は、「丸隅立て四つ目紋」で、お寺は曹洞宗ですね。

    当に、その地域が歴史的に有名な「職能の町」の「埼玉の行田」で、奈良期から平安期には「鉄鋼」で周囲が栄え当時の遺跡も遺されて、更には河川路、排水路、池沼の灌漑工事は取り分け発達していた町です。
    江戸期には、「当時の殖産の機械化」が得意とした街で、特段に進み栄え、足袋等を機械産業化して発展した町で有名です。
    「キュウポラの町」としても有名な「浦和」と共に「工場町」としても栄えた町です。
    これは、この「長島氏の技術集団の御蔭」なのです。
    (筆者は13年間埼玉に住んでいた経験があります。)

    家紋が「隅立て四つ目結紋」と云って、秀郷一門が自ら抱える「職能部の長」に氏名を与えて伝統的に継承させる時に使うのが、「丸隅立て四つ目紋」の「結文様」なのです。
    この「結文様」の隅に「職能の印」(お家の場合は丸)を入れて、お家がどの様な職能の持ったお家かを解る様にしていたのです。
    お家の文様は、中でも取り分け、青木氏と関係を深く持った家紋です。
    秀郷一門には、近江系秀郷流佐々木氏や青木氏が在りますが、この流れを受け継いでいる長島氏なのです。
    秀吉との白河の戦いで「伊勢の秀郷流青木氏」が援護しましたが、「伊勢の秀郷流青木氏」は近江の秀郷一門が伊勢の青木氏の跡目に入って居た事から援護に入ったのです。
    つまり、上記のルーツの通り何らかの血縁関係があった事を如実に示しています。

    伊勢にも「伊勢の長嶋氏」が居たのです。

    そして、この「職能紋の目結の結文様」の「家紋の者」は、秀郷一族一門の徒弟制度に従っていましたので、宗派も統一して曹洞宗なのです。
    秀郷宗家一門は浄土宗、家臣団は浄土真宗、技術集団は曹洞宗と分けていました。
    「技術の武士」も含む「職能の人」はこの「曹洞宗」に入信しています。

    「青木氏」では「技術集団」は「青木氏部」と云い、その「氏部」の「徒弟制度」は、”「御師制度」”と云う組織で出来ていた集団です。
    詳しくは調べていないですが、「永嶋氏」も「青木氏族」として「御師制度」(おし制度)を敷いていたと考えられます。
    伊勢で育った吉宗が、秀郷一門を家臣団にした御家人や旗本にした江戸幕府に敢えてこの制度を敷いたのです。

    何故、曹洞宗かと云うと、「永嶋氏の永嶋氏部」の宗派は「曹洞宗」で、それは禅宗で座禅などで技術者と成るにはその「精神の悟りの有り様」等を唱え、その様な「技術の徒弟」に理解のある宗派でした。

    恐らくは、情報が少ないので確定は出来ませんが、お家は、この家紋と宗派と埼玉である事から、「長島」を名乗る事を許された「職能の者」で、そして一団を取り仕切る長の「職能武士の家柄」のお家に成るのではないでしょうか。

    青木研究室や青木ルーツ掲示板等で、検索を使って昔親族であった人からのお便りも在りますので、お読みください。

    「丸隅立て四つ目紋」の長島氏の大変珍しいお便りで驚きました。
    研究室にも論じています。

    お読みに成って、不明な事とかありましたら、この専用投稿欄のReからご遠慮なくお便りください。

    先ずは、藤原秀郷一門の「永嶋氏の職能集団」の当にその長島氏の家柄でした。お答えまで。


      [No.1096] Re:ルーツを教えて下さい
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/07/15(Fri) 19:29:45  

    >相原にある青木家です。立派なお屋敷を見て知りたくなりました。大豪農ということは、江戸時代から、姓を名乗ったのでしょうか?教えていただけると、幸です

    相原の青木さん 今日は。
    始めまして。これからも宜しくお願いします。
    ようこそ青木氏のサイトにお越し頂きました。
    サイトには青木氏に関する膨大な情報は何でもありますのでゆっくりとお読みください。

    本日のお家に関するお問い合わせも詳しく記載されていますよ。

    さて、その前に、念の為に確認したいと思いますが、相原とは相模原町田市の相原地区の事でしょうか。

    その前提で本日はお答えしたいと思います。

    お答えは、在りました。

    昔は、この相原は南奥多摩相原に所属していた地域です。
    ここは、青木氏の中でも「藤原秀郷流青木氏」の武蔵入間(埼玉)を中心に半径を神奈川横浜として円を描く様に入間の宗家を螺旋状に取り囲む様に「第二の宗家」と呼ばれるこの「青木氏」が定住し護っていました。

    日本最大の勢力を誇った「藤原秀郷流青木氏」です。
    藤原氏一門の中でも「116氏−24地域」にも成る大一族です。
    958年の「円融天皇」の時に、{五家五流皇族賜姓臣下族の青木氏}の「賜姓五役の役務」を補完する為に、特別に秀郷一門の宗家の第三子に「青木氏」を永代に名乗る事を円融天皇に命じられます。
    これが「藤原秀郷流青木氏の発祥」に成り、「家の身分格式」は最高級の「五家五流皇族賜姓臣下族の青木氏」と同じとして扱われました。
    「五家五流皇族賜姓臣下族の青木氏の母方族」です。

    詳細はサイトの研究室やルーツ掲示板で検索を使って調べてください。
    膨大な資料ですので、ゆっくりお読みください。
    判ら無い処はその都度お尋ねください。

    筆者もこの町田域の事に付いては、昔2年間程通った事がありますので、原風景と地域性について良く知っています。
    昔は、未だ養蚕の桑畑が一面で、その中に農家が点在していました。
    ここには江戸時代の昔以前には「青木村」が形成されて、「藤原秀郷流青木氏」は庄屋や名主や豪農などの役務を果たしていました。

    取り分け、この相原は、その中心地域で、お家は昔、豪農であって「青木氏」だとすると、そのルーツは間違いなく「藤原秀郷流青木氏」であると考えられます。

    その青木氏がこの相原に現存して確認出来た事は一つの収穫です。
    提供されたお家の情報が少ないので、確証は出来ませんが、「豪農」であったとする事は可成りの史実と成ります。

    この関東地域は、江戸に徳川家康が秀吉に依って移封された時に、地元の豪族の秀郷一門をごそっと一族を旗本や御家人として家康の家臣団に加えました。
    この時に、秀郷一門では「家臣に成る事を選んだ者」や「郷氏に成って豪農と成る事を選んだ者」らに分かれました。
    恐らくは、お家は後者の「郷氏」を選んだ一族だと思います。

    そもそも、”「郷士」”には、「郷氏」と「郷士」とがあって、秀郷流青木氏一門は「郷氏」に、その家臣であった者らは「郷士」と成って生き延びました。
    「郷氏」と「郷士」には「地権」を与えられ、農民を小作人として抱え、その地権範囲の治政を任す様にして庄屋や名主や村主などと成っていました。
    中でも、お家の様な「青木氏の郷氏」には「大きな地権」を与えて、例えば、相原地域の治政の責任を持たしたのです。
    そして、その地域の殖産等を手掛けさしました。

    この制度を敷いた家康は、これらの秀郷一門一族の味方に引き入れる事に成功して、逆に秀吉の移封で勢力が低下する事を狙っていたが、これが大きな秀吉の誤算と成ったのでした。
    その後、江戸幕府を開きましたが、幕府官僚の多くはこの秀郷一門一族が占めました。

    さて、この付近には、「五家五流皇族賜姓臣下族」の「伊豆の青木氏」や、この流れを汲む「武田氏系青木氏」や「諏訪族青木氏」も武田氏滅亡で、「秀郷流青木氏」を頼って相模域に逃げ延びてきました。
    そして、その一部が此処の相模相原などに江戸期初期に養蚕などの殖産事業を手伝って家を再び興して定住したのです。
    「武田氏系青木氏」等は栃木にも移動します。
    有名な話です。
    その時の口伝が現在まで相原には伝わっていたのでしょう。

    更に、武蔵には国衆の「丹治氏系青木氏」も定住していましたが、関ヶ原で戦功をあげ、摂津麻田藩一万石の藩主に成って、殆どは一族は摂津に移動しました。

    お家は、以上で、この時の「相原の秀郷流青木氏の郷氏」だと思います。

    他に何かお家の情報が在りましたらお便りをください。
    江戸期の一寸した情報でもお家の事を物語る事に成りますのでお便りください。

    詳しくは、研究室やルーツ掲示板等の情報を確認してください。
    「相模の青木氏」等のワードで先ずは検索確認してください。

    相模の相原域の「郷氏の青木氏」の存在が確認出来たのはサイトとしては良かったです。

    出来ましたら、論文をお読みに成ってお便りが頂けると相原域の青木氏の事がサイトとして更に良くつかめますので、家紋や宗派や菩提寺や伝統の事がありましたら、是非お便りください。
    お待ちしています。


      [No.1095] ルーツを教えて下さい
         投稿者:たま   投稿日:2016/07/14(Thu) 17:05:21  

    相原にある青木家です。立派なお屋敷を見て知りたくなりました。大豪農ということは、江戸時代から、姓を名乗ったのでしょうか?教えていただけると、幸です。


      [No.1094] Re:先祖研究
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/06/20(Mon) 11:41:04  

    青木茂さん 今日は。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。

    >まず、我が家の家紋は抱き茗荷で、祖父の出身地は福岡とのことです。
    >関西方面に出てくるときにいろいろあったらしく、今は地元の浄土真宗本願寺派となっていますが、もともとの宗教は恐らく浄土真宗か何か、浄土系であったようです。
    >曽祖父、曽々祖父くらいまでは確実な家系図もあり、またそこそこの資産家でもあったので映像をはじめ様々な記録もあるのですが、問題はその前になにをしていたか。
    >そして、起源となる祖はだれか

    さて、お尋ねですが、ルーツを確定させるには、明治後のルーツの情報は参考に成りません。
    明治3年と8年の督促令で武士以外の99%の庶民が苗字を持つ事を義務付けられました。
    従って、曽祖父(曽々祖父)くらいまでの情報では探る事は先ずは難しいので出来ません。

    先ず、そこで、次ぎの事を確認されると良いと思います。
    お家の「檀家寺」と成っている「浄土真宗のお寺」には、「人別帳」と云うものが有りますので、江戸期の先祖の名前が確認出来ます。
    もし、確認できなければ、お家は「明治期の青木さん」です。
    仮に確認出来たとして、浄土真宗には過去に内部の問題があって、明治政府がこの争い問題を解決する為に一時、浄土真宗の一部を「真宗」と呼ぶ事にして仲裁をしました。
    お寺にはその証拠と成るものが在ります。
    一時でも「真宗」であったと成れば「檀家寺」でもあり、ルーツを持たない「明治期の青木さん」です。

    実は、明治3年の苗字令が進まないので、明治8年に政府は令で周囲の氏族の名を苗字にする様に半強制で指導しました。
    全国に確定した「青木村」が在りますが、この明治8年の「政府の指導」に依って発祥したこの青木村付近には江戸期以前のルーツをもたない「青木さん」が多く存在します。
    (「青木村」はサイトに記載ししています。実は福岡には取り分け多いのです。)

    それは、家紋分析(青木氏が持たない家紋)と宗派(青木氏が入信しない宗派)と過去帳(過去帳がの有無の確認)と寺名(特定の寺名以外の菩提寺を持ちません)と守護神の有無で大方ルーツは判ります。

    実は、九州には、長崎と福岡と鹿児島の三か所に「青木村」が在ります。
    この「青木村」の近くに住んでいた村人達は明治8年に青木を名乗る事になりました。
    従って、この「青木さん」にはルーツはありません。

    そもそも、村の「青木村」は、「嵯峨期の詔勅」で「青木氏以外」には氏名を村名としてはならないとする禁令があって明治期まで使えなかったのです。
    殆どは地名かその土地の所縁で付けられていました。

    お家は、消去法で少なくとも「浄土真宗」であるとすると「五家五流の青木氏 25氏」ではありません。
    尚、青木氏の浄土宗は、密教で、室町期はある特定の身分家筋のみが氏の一族一門で入信出来る宗派で、江戸期に浄土宗も顕教に成り、高級武士のみが入信できる宗派でした。
    ころころと宗派を宗派換え出来る社会ではありませんでした。
    江戸期以前は、宗派でその家筋の大方がわかる社会でした。階級分けした社会でした。
    明治期に成ってもある程度財力を持つ庶民が入信出来る宗派でした。

    「明治期の青木さん」で無ければ、「秀郷流青木氏の支流族」か、「丹治氏系青木氏」と成りますが、お家は「家紋と福岡」と云う要素からどうもそうではありません。

    とすると、どの青木さんかと云う事に成りますが、次ぎにそれを提示します。

    そして、先ずは、家紋が「抱き茗荷紋」だとすると、「伊勢の秀郷流青木氏」が、江戸初期に伊勢の小大名と成った稲垣氏か、その縁籍の鳥羽氏と血縁し、二代続きで男系跡目に恵まれず、変紋を余儀なくされた「秀郷流青木氏の支流傍系族」と分析されます。

    この「稲垣氏」は、近江二宮氏(関東二宮氏とは異なる)の支流末裔の血縁族とされていますが、その元は農民から這い上がって周囲の農民や浮浪者や野武士や庶民をかき集めて「請け負い集団」を造り、江戸初期に家康に味方して見いだされ、鳥羽を与えられました。

    然し乍ら、この稲垣氏と血縁した「伊勢の秀郷流青木氏」の一族一門の全ては頼宣の「紀州藩の家臣団」と成っています。
    依って、江戸期以前の時代に九州地域には定住していないのです。

    そもそも、江戸時代には、国を勝手に移動する事は”「国抜け」”と成って、一族斬罪の厳罰で、自由移動は認められていませんので、江戸初期以降には九州域や福岡に移動定住する事はありません
    そもそも、武士は親族のいる地元でいる事が最も安定して子孫を拡大させられる条件です。
    単独でいる事は其れは武士を捨てること以外にはありませんでした。

    取り分け、九州と福岡と云う事はこの域を超える事は難しい社会でした。
    況して、死んでも葬ってくれる寺も無い処では生きて行けません。
    移動説は無理です。従って、このルーツの説は消えます。

    >賜姓青木氏は何かあって九州に移動した場合を除き、場所的に自分の研究上違う確率が高いのですが、藤原秀郷流青木氏、日向青木氏、摂津青木氏とどれも可能性の面では捨てきれないものばかり。
    >福岡、九州には青木という地名もいくらかあり、かつて博多区には青木村という地区があったともあります。

    実は、「賜姓青木氏」は、他氏と異なり神明社の柏紋の神職の青木氏以外には、「賜姓臣下族」ですので、平安期初期から移動定住していないのです。
    依って、これらの定住地は限定されています。
    賜姓族に関しては賜姓族の役務柄で特別と云う事はありません。
    「慣習仕来り掟」が決められていたのです。
    この族は家紋分析と宗派と菩提寺で簡単に判明します。

    この件ですが、「賜姓青木氏」には、「鹿児島の日向青木氏」を除いて「慣習仕来り掟」に縛られて移動はありません。
    (青木氏サイトの献策で確認ください)

    又、宗派は「浄土密教以外」には宗派を持ちませんし移動はしません。
    その様に定められていたのです。
    「日向青木氏」は、ある特別な事情で「日向廻村」と「薩摩大口村」と「一部福岡」に館を定めて子孫を拡大させました。
    賜姓族系ですので家紋は定まりますし、一族は四家制度と云って分散しませんで「青木村」に発祥しています。
    詳しくはサイトの献策でお調べください。

    賜姓族系の「日向青木氏」と「摂津青木氏」は、この「抱き茗荷紋」の家紋と「浄土真宗の宗派」は持ちませんのでお家のルーツではありません。

    >また、運よく空港近くの福岡市博多区青木には隣接して浄土真宗の寺もあり、ここが出身地なら単に地名からとっただけの明治以降の苗字なのかなという思いもあります。
    >いくら地元指折りの資産家と言えど、地名にまでなることは無いでしょうし。
    >また、その博多の青木村も、青木氏が集まってできたものなのか、長野の青木村のように自然からついたのか不明です。

    「青木村」は「氏名」で出来た村で朝廷の認可を受けた村名です。
    実は、唯一、日本で氏名が村名に成っているのは青木村だけなのです。
    これ以外にはありません。全て地名です。
    氏名と人名を村名にする事が明治3年まで禁じられていたのです。
    「青木村」は「地名」からの「村名」ではありません。
    明治3年まで、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、勝手に「青木」と云う呼称を使う事を禁じられていたのです。
    「青木村」が存在する処には、「皇族性賜姓臣下族」の「五家五流の青木氏25氏の9地域」と、「賜姓秀郷流青木氏116氏」が「全国各地24地域」に赴任して、そこに現地子孫を遺した事から「青木村」を造る事を許された地域なのです。

    >調べれば調べるほど、諸説出てきており、何がなんだかわからない次第。
    >苗字も家紋も有名どころで確定困難。

    サイトにはこれらの上記の事が全て記載していますので、検索で調べてお読みください。

    >おまけにずっとそこにいたのかも良くわからず、あるのはちょっとした兄弟間のお家騒動を脱して復興したと言われている口承に伴う大正か明治かからの記録のみ。

    「自由移動」は江戸期以前には出来ません。上記した様に「国抜け」と呼ばれ「一族斬罪の極刑」に晒されます。明治3年までは民は藩主の下に存在するとする社会でした。
    原則4年か5年とし過ぎれば一度国に戻り再び許可をとって移動すると云う社会でした。
    赴任が終われば国に戻ると云う以外には定住は出来ません。
    現地孫以外には、現地孫でも原則は組に戻る事が義務付けられていたのですが、選択が出来ました。
    但し、許可を得て誰かの臣下に成り現地で独自の「家」を興す必要があります。

    恐らくは、この残された”明治と大正の記録のみ”とする事からも、先ず「明治期の青木さん」と考えられます。

    そこで、本題に入ります。
    ただ、一点、江戸初期に、多くの農民が、武士に成り、旗本等に成った時に苗字を持っていませんでしたので、全国各地で一斉に「青木氏」を名乗った事が起こりました。

    水戸藩が編集した室町期からの「姓名の歴史記録書」として書いた本に、「第三の青木氏」として「青木氏」を名乗ったと記録されています。
    この「青木氏」は、「嵯峨期の禁令」に反するとして、後に「青木氏の権威」を保つ為に幕府から別名にする様に令が出ます。
    その時に、青城等の変名にする様に令が出されます。

    この「あおきさん」が最も多かったのが、実は福岡なのです。
    つまり、農民から下級武士に成ったものがこの福岡の地域に多かったと云う事なのです。
    何故かと云う事です。
    九州は農民から勃興した豪族が多く、そこで豪族に成った限りは、江戸期に成って一定の定められた範囲で家臣団を作らねばなりませんが、元から武士の者は、「下剋上と戦国乱世」とで消滅し、この九州地区には少なく、新たに農民から武士と成った者は、「武士」である事を認められ黒印状を得る為に何がしかの「伝統ある苗字と家紋」を持つ事を義務付けられました。
    元々、持っていないのですから、搾取で「伝統ある苗字と家紋」を持ったのです。
    当然に幕府も黙認しました。

    この時、「青木村」から出て来た農民から身を興したので「青木氏」と「抱き茗荷紋」としたのです。
    幕府は、武士は「下士」までを武士として認めましたが、殆どは兵は農民の半農半士が多く、この者らを「準下士」として幕府は仕方なく特別に認めました。
    これが、農民からの下級武士なのです。
    この準下士と下士が福岡に多かったと云う事なのです。
    播磨に居た黒田藩が福岡に移動し、九州の大藩に成った事と、付近の土豪もこれに従い家臣に成った事から、その家臣の数の義務が課せられた為に、この現象が起った事なのです。

    それが、この地域では室町期中頃までは「秀郷流青木氏の赴任地」であって、現地孫が「青木村」にいた事からその周囲で農民準下士等から「青木氏」の呼称と成ったのであって、江戸初期に幕府から変更する様に令で、命じられました。

    この時に青城や葵木や青樹等に代えて名乗ったのです。

    明治3年に成って再び苗字令で青木に戻したと云う現象が起こりました。


    家紋では、秀郷流青木氏の総紋は下り藤紋で、116氏の家紋はある一定の格式ある家紋群に成っています。
    「抱き茗荷紋」は上記の稲垣氏の事情も合ってこの家紋格式が低いのです。
    秀郷流青木氏は格式は従四位ですから、武士では最高の家柄です。
    当時は吊りあいの採れた家柄血縁でしたので、「抱き茗荷」との血縁は基本的にはありません。
    唯、江戸末期頃には伊勢の秀郷流青木氏の支流傍系が女系で一度血縁した事が判っています。

    それだけに「抱き茗荷紋」に丸付き紋が多いのはこの事から遠慮して丸を付けたのです。
    家紋にはこの様に色々と「丸の意味」が在るのです。

    何故、この青木さんが「抱き茗荷紋」かと云いますと、元は伊勢に来た稲垣氏が農民から身を興し家康に特に気に入られ頑張って近江の二宮氏と血縁して遂には伊勢の小大名と成った有名な人物でした。
    従って、この家紋を二宮氏の茗荷紋を、奈良期からの名門の信濃諏訪氏青木氏の抱き角紋に真似て、「抱き茗荷紋」としたことから、この家紋を農民が武士に成った者が使う事に、同じ身の上の稲垣氏は文句を云わなかったのです。
    従って、農民から勃興した下級武士が使う家紋として用いられたものなのです。
    この青木さんのルーツが長くても江戸期の中期までしかありません。
    殆どは、この家紋は幕末前後か、殆どは、明治期初期後です。
    山口県にも多いのです。

    そして、明治期の3年と8年にあわせて、これらのアオキさんは「青木さん」に戻しているのです。
    この「あおきさん」は、現在では関西の手前近くまで分布しています。

    実は、このアオキさんは福岡に家紋と宗派がお家のものと一致するお家が多いのです。
    それには江戸初期の「浄土真宗の由来」とこの家紋の「抱き茗荷の家紋の由来」に大きく関わっている事から来ているのです。

    依って、結論は、「第三の福岡の青木さん」です。
    ルーツを探っても古くても江戸中期以降、殆どは明治初期に成ると思います。

    但し、福岡には、「抱き茗荷紋類」では無い別の「元寇の役」に移動定住した「秀郷流青木氏が持つ家紋群」と「浄土宗の宗派の秀郷流青木氏」が「浄土宗の菩提寺」と「守護神の春日神社」を持って存在して居ます。

    一度、檀家寺の明治初期前後の人別帳を確認ください。

    ご質問があれば、ご遠慮なくお尋ねください。


      [No.1093] 先祖研究
         投稿者:青木 茂   投稿日:2016/06/18(Sat) 19:52:21  

    はじめまして、関西に住む青木です。
    ふとした思いから、自らの祖先は誰なのかという疑問を抱き、人の力を借りるのも先祖のためにどうかと思いこの3年ほど、このサイト含め独自に研究を続けてきましたが、いまいちはっきりせず、頼みの綱であった祖父も今は亡き人になってしまったので、ここに投稿させていただきました。
    その祖父より聞いた情報、そして今まで調べた情報を下記に記すので、判断してもらえれば幸いです。
    まず、我が家の家紋は抱き茗荷で、祖父の出身地は福岡とのことです。
    関西方面に出てくるときにいろいろあったらしく、今は地元の浄土真宗本願寺派となっていますが、もともとの宗教は恐らく浄土真宗か何か、浄土系であったようです。
    曽祖父、曽々祖父くらいまでは確実な家系図もあり、またそこそこの資産家でもあったので映像をはじめ様々な記録もあるのですが、問題はその前になにをしていたか。
    そして、起源となる祖はだれか。
    抱き茗荷の青木氏として当てはまるかもしれないのは、五家五流の青木氏(施基皇子、二宮氏家紋説)、藤原秀郷流青木氏(戸奈良宗綱の流れをくむ、青木行勝、行村、藤原支流説)、第3流(地名説)、加えて九州ということで日向青木氏、黒田藩摂津青木氏の何らかの関係者という説。
    賜姓青木氏は何かあって九州に移動した場合を除き、場所的に自分の研究上違う確率が高いのですが、藤原秀郷流青木氏、日向青木氏、摂津青木氏とどれも可能性の面では捨てきれないものばかり。
    福岡、九州には青木という地名もいくらかあり、かつて博多区には青木村という地区があったともあります。
    また、運よく空港近くの福岡市博多区青木には隣接して浄土真宗の寺もあり、ここが出身地なら単に地名からとっただけの明治以降の苗字なのかなという思いもあります。
    いくら地元指折りの資産家と言えど、地名にまでなることは無いでしょうし。
    また、その博多の青木村も、青木氏が集まってできたものなのか、長野の青木村のように自然からついたのか不明です。
    調べれば調べるほど、諸説出てきており、何がなんだかわからない次第。
    苗字も家紋も有名どころで確定困難。
    おまけにずっとそこにいたのかも良くわからず、あるのはちょっとした兄弟間のお家騒動を脱して復興したと言われている口承に伴う大正か明治かからの記録のみ。
    よくわからない乱文となってしまいましたが、これらから何かお分かりのことがあれば、ぜひ教えていただきたいです。


      [No.1090] Re:川崎の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/03/29(Tue) 10:29:19  

    川崎の青木さん 今日は。始めまして。
    これからも宜しくお願いします。

    サイトには、青木氏に関する情報が満載しています。
    膨大な資料ですので、ゆっくりとお読みに成り、不明な点や質問が在りましたらお便りください。
    又、他に、ちょっとした情報が在りましたら、お便りください。
    意外にその様なちょっとした情報にお家の歴史が隠されているものなのです。

    さて、サイトには「お家の事」も詳しく記載されていますよ。
    お家のこのお便りの事は、有名な戦いでしたから、お家の事は直ぐに判りました。

    北条氏と豊臣氏の最後の戦いで、小田原の支城として山中城の山城は間宮氏等が護っていた処です。
    ここの城には、「信濃の諏訪族」の諏訪族青木氏の守護神とする「諏訪神社」がある所です。
    「諏訪族青木氏」が定住するところには必ず、「諏訪族の守護神」の「諏訪人神社」があります。

    関東地域では35、その中で神奈川地域では15、埼玉北部地域では6、在ります。
    中部地域では20、その中で長野地域では12、も在ります。

    お家の守護神の山中の諏訪神社も関東域の一つですし、神奈川の15もお家の本家筋のものです。

    この「諏訪族一門」には、「信濃皇族賜姓族青木氏の血筋」を持つ筆頭格の「諏訪族青木氏」(1)と、この一族と「武田氏」との「血縁族」の「武田氏系諏訪族青木氏」(2)と、この「皇族賜姓族の甲斐青木氏」と「諏訪族の血筋を持った武田氏」とが血縁した「諏訪氏系武田氏族青木氏」(3)が在りますが、この「諏訪氏系武田氏族青木氏」と「諏訪族青木氏」が血縁した「青木氏族」の「青木氏族武田氏系青木氏」(4)の中で「諏訪氏族の三氏」が存在して居ました。

    この諏訪三氏は「同族血縁族」です。
    信濃が武田氏に攻められ信濃甲斐下野を含み武田氏の支配下になりますが、この武田氏が滅び、この「諏訪三氏の青木氏」は神奈川横浜に定住していた「藤原秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びました。

    一部の「武田氏系諏訪族青木氏」は、「越後」の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びます。

    この時、「皇族賜姓族」の支流の「武田氏系甲斐青木氏」は甲斐に入った徳川氏の配下に入り、武蔵の鉢形に一族が移動させられます。
    武蔵北部の下野上野の守備を担当します。

    そこで、この「諏訪族青木氏」等の諏訪三氏の内、一部が「藤原秀郷流青木氏」の「入間の宗家の青木氏」の依頼により「栃木と仙台」に隣接する域の守備の為に北部に移動します。
    そこで秀郷一門の「北の護り」を致します。
    ここで、この「諏訪三氏の諏訪族系の青木氏」は、勢力を再び固め拡大します。

    残った諏訪三氏の一族の一部が、後に北条氏に間宮氏と共に味方してこの山中付近に移動定住します。
    ここに一族の守護神の諏訪神社を建立するまでに成りました。

    「武蔵の間宮氏」(間宮氏は本来は近江が元祖出自地です。)とはお家と血縁しています。
    北条氏が滅び、この城は廃城と成りますが、この時、お家は再び、横浜神奈川の本家筋一族を頼って川崎に移動したのです。

    「間宮氏の川崎」では無く、逆の現象が起こったのです。

    お家の逃亡先の本家筋(横浜神奈川域圏全域に分布)に間宮氏を引き連れて戻ったと云う事に成ります。

    後に間宮氏もお家と血縁して共にここで勢力を拡大したのではないでしょうか。

    お墓の青木寺の西運庵ですが、このお寺には過去帳がある筈ですので、この「川崎での経緯」や[間宮氏」との関係も判る筈です。
    他氏もあると云う事ですが、これは、江戸初期の顕教令と明治初期にも廃仏希釈運動が起こり、青木寺にも他氏の墓を作る事に成ったのです。
    然し、この他氏の墓の一部には、お家との古い関係を持つ他氏の墓所もある筈です。
    つまり、「青木氏族」の墓所が必ずある筈です。
    つまり、「諏訪族の三氏の青木氏」が、母方の一族の跡目が絶えたので青木氏の子供の嗣子の一人に「母方の跡目」を継がすと云う事が起こるのです。

    要は青木氏の嗣子であるので、「青木氏の寺」の中に他氏の母方氏姓の名がある事にも成るのです。
    1600年前頃の墓であれば、先ずこのパターンだと思います。

    この「神奈川横浜」に逃亡した「諏訪三氏」の内、お家は「武田氏系諏訪族青木氏」(2)と成ります。

    「木瓜紋類」を家紋としているのは、「武田氏系諏訪族青木氏」に成ります。
    家紋には「諏訪族」は、「総紋]を持たない「姓族]では無く、朝廷より認可された「氏族」ですので、「氏の総紋」が在って、 「諏訪氏族の青木氏の総紋」の「四角の抱き角紋」が「総紋」と成り、これに支流化すると「家紋」が出て来る事に成ります。
    お家はそれが「木瓜紋類」であったと成ります。
    お家の「氏族の総紋」は「四角の抱き角紋」なのです。

    後の[諏訪二氏」は、「諏訪族青木氏」(1)の「総紋」と「家紋」が同一の「笹竜胆紋」で、「皇族賜姓族の総紋」です、
    「皇族賜姓族」は本来は純血性を保つべき「賜姓族の掟」が有りますので「家紋」を持ちません。
    つまり、「総宗本家筋」の「諏訪族青木氏」で「皇族賜姓族の宗家筋」です。
    「諏訪氏系」の本家筋の「四角の抱き角紋」の「青木氏」と、「諏訪族の総紋」の「立梶紋」を引き継いだ「青木氏」と成ります。

    「青木氏」とは、そもそも、「皇族第四世族]の「第六位皇子」に与えられる「特定氏名」で「五家五流皇族賜姓族」にしか「天皇が出す命令の詔勅」に依って使用を認められていません。
    近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の国の王と成った一族が名乗れる事が出来る氏名です。
    信濃の諏訪族は、この「信濃王」の末裔と血縁した母方に「土地の豪族」の「諏訪族の血筋」を持つ「信濃王の末裔(青木氏)」なのです。


    では、江戸初期には、お家の「武田氏系諏訪族青木氏」の本家筋一族は徳川氏に仕官して150石の旗本と成った事が判って居ます。
    これがお家のルーツです。

    依って、神奈川横浜川崎の域圏が「第三の故郷」ですが、元の出自は「第二の故郷」が「甲斐西部域」で、更に「第一の故郷]は「信濃の諏訪湖西部」です。

    ここがお家の本当のルーツの故郷です。
    夫々の「移動定住先」で子孫を拡げ現地本家を造り拡大してきました。
    移動先で子孫を拡げ現地の本家と守護神の諏訪社を建立するまでに勢力を吹き返すのには,「諏訪族の赤兜」で有名な「強い結束力のある頭の良い氏族」であったからです。

    だから徳川氏は各地の諏訪族を積極的に家臣にしたのです。

    「信濃諏訪湖付近」に行きますと、オーイと呼びますとハーイ答える程のお家の最古の御先祖の青木氏の多い所です。

    更に奈良期に進みますと、筆者の青木氏と繋がります。
    お家のルーツは日本書紀にも出て来る程に奈良期からの「皇族賜姓族の一族」で「天智天皇」や「天武天皇」の「皇子の末裔子孫」に繋がり、その元祖は「信濃王」と成ります。

    更に云うと、お家の「母方の最古の御先祖」は、中国の後漢国の第21代「献呈」の孫の「阿知使王」とその子の「阿多倍王」の子孫に繋がります。
    更に、この「阿多倍王」で探ると、「平の清盛」に繋がります。
    更に、母方で探ると「桓武天皇の母」に繋がります。
    この「桓武天皇」を探ると筆者の「伊勢青木氏」とも繋がります。

    そもそも「諏訪族」の元祖は、隋の国に追われて中国後漢の国から「大陸の大型馬」を大和の国に持ち込み、放牧をして「信濃」を開拓して生活を始めたのです。

    これらの事は「日本書紀」と「累代三代格明鑑」に記載されていますよ。

    お家の詳細は資料もはっきりしていて研究室に記載しています。
    ルーツ掲示板にはお家の元親族の方のお便りが多く在りますので、そちらも、「諏訪族青木氏」の献策で引き出し関係する事から次第に広げて行って先ずお読みください。

    サイトの献策を使って関係する処の論文からまずお読みください。

    それで、質問等ありましたらご遠慮なく、このReで専用欄としますのでお尋ねください。


      [No.1089] 川崎の青木です
         投稿者:青木裕実   投稿日:2016/03/28(Mon) 15:52:27  

    先祖代々川崎に居住する青木です。
    叔父が調べたところによると、間宮一族と一緒に山中城で戦い、山中城の落城に際して川崎まで落ちのびたとの事です。笑いながら金子が無くなって、多摩川を渡れなかったと言っていましたが、間宮一族の領地である川崎に落ち着いたものではないかと考えています。
    お寺は横浜鶴見区の宝泉寺です、お墓は青木寺と呼ばれていた西運庵です(現在は、青木姓以外のお墓も多数ありますが…)。ちなみに、本家は現在17代目です。
    家紋は丸に木瓜で、西運庵の他の青木一族のお墓も木瓜系が殆どです。
    山中城までは辿れたのですが、それ以前はどうなのかを知りたくて、アドバイスをお願いします。


      [No.1088] Re:山梨の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/02/21(Sun) 11:25:30  

    >
    山梨の青木さん 今日は。
    投稿頂いたと云う事ですが、確認が取れませんので、始めましてと申し上げます。

    さて、頂いた情報は最近の明治期の事の様ですので、社会構造が異なる為にルーツ判定は無理と成ります。

    日蓮宗ではルーツは辿れません。日蓮宗は独特な檀家管理をしていた事から、有ったとしても「人別帳」が主体で、「人別帳」はルーツを系統的に管理する台帳では無く、その時の税の対象者を明確にする台帳です。
    取り分け、日蓮宗には、原則としてこの「人別帳」も無いと思います。
    あるものは「檀家帳」と成るものはあったと思います。

    更に、「日蓮宗」は「顕教」ですので、「菩提寺]では無く、「檀家寺」です。
    「菩提寺」にしか、「過去帳」が無く、「ルーツ」を辿る事が出来ません。

    依って、正重なる人物も、「日蓮宗」と云う事を前提とする限りはお家と繋がっていると云う事は無いと思います。

    その前に江戸期前の情報を確認される事が必要で、「日蓮宗」と成ればそれも難しいと考えられます。
    本日は、これだけにします。


      [No.1087] 山梨の青木です。
         投稿者:青木ちえ   投稿日:2016/02/21(Sun) 02:53:50  

    こんばんは。先日投稿させていただいた青木です。書き足りない事が沢山ありますので追記させて下さい。山梨県南アルプス市旧櫛形町上野に住んでおります。現在は日蓮宗で妙了寺檀家ですが菩提寺の本重寺檀家でもあります。それは、日蓮宗妙了寺よりも本重寺の方が古いので日蓮宗に宗派が変わったからではないか。と思われます。嫁いで来て2寺檀家が不思議に思いました。墓も今は改修して新しい墓石がメインとなっておりますが、昔は真ん中に空間があり南側の列北側の列に別れていたぞうです。寺は現在無人寺ですが、以前和尚人に青木家の家系図を尋ねましたが見つからないとの事でした。曼陀羅も日蓮宗の古い物はあります。祖父は近衛になり中将という経歴があります。努力と青木という家柄も関係しているのでしょうか。管理人さんの研究を読ませていただいたところ、青木正重が気になりました。西暦何年に生まれたのか、大井信達の養子になってから先が知りたくなりました。本重寺の''重が正重の''重'のような気がしてなりません…。家の先祖…私の勝手な憶測ですが…
    末裔の夫と娘で明日青木の先祖が眠る常光寺に行ってみたいと思います。
    学生時代は歴史に興味がなく、むしろ苦手でしたが青木に嫁ぎまさかの末裔が分かり、色々知りたくなりました。ご協力していただけたら嬉しいです。又投稿させてください。


      [No.1086] Re:群馬県の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/02/10(Wed) 17:40:49  

    群馬の青木さん 今日は。
    始めまして。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。

    サイトには全国の青木さんに関する歴史的な研究資料を満載しています。
    ヤフーサイトの歴史カテゴリーでは段突の情報量で、ヤフーからお墨付きをもらっています。

    一度、ゆっくりと時間を割いてお読みください。お家のルーツの事も良く観えてきますよ。
    お家の御先祖の生き様が判りますよ。

    さて、ご質問ですが、情報量が少ないので、ルーツを確定するには無理が在ります。
    信濃と家紋と天台宗の三つですね。

    ただ、時代性がはっきりしませんので、有る条件下で論じます。

    信濃は北部、南部、西部、東部なのかで異なってきます。
    確かに、信濃には皇族賜姓族青木氏とその系列の足利氏系青木氏と同じく信濃諏訪族青木氏の定住地です。
    この一族は家紋は笹竜胆紋です。宗派は浄土宗です。

    然し、家紋が、「丸に違い鷹の羽紋」ですから、この家紋からすると長野県南部と岐阜ー愛知県との国境沿いの南部域と成ります。
    そうすると、この南部域に定住していた「青木氏」は、日本全国最大の氏の藤原秀郷流青木氏である事に成ります。
    ところが、宗派が天台宗と成りますと,少し矛盾が生まれます。

    昔は一族一門で「棲み分け」をし、その一族で宗派を固定していました。
    この南部域の秀郷流青木氏は浄土宗です。
    そこで「天台宗」と成ると近江藤氏と呼ばれる近江に住んだ秀郷流一門の宗派と成ります。
    ここには、原則的に秀郷流青木氏は定住していませんでした。
    ただ、近江藤氏の一人が伊勢の母方の秀郷流青木氏の跡目を継ぎました。

    そこで、この近江をベースにすると、時代が少しの平安期の後に成りますが、近江の藤原秀郷流脩行系青木氏が生まれました。
    この脩行系青木氏は公家系の血筋を持ち、天台宗です。
    ただ、この一族は紀州に赴任し紀州有田と地域に村を形成して住んでいました。
    ところが、南北朝の時にどちらに味方するかの論争が起こり、南朝に味方した一族は敗戦し四国讃岐に逃亡しました。
    残りのどちらにも味方しない一族は、故郷である美濃の北部域に移動して仕舞います。
    紀州にはこの時の子孫が遺されています。

    ここで信濃南部域と美濃北部域とがほぼ一致しますし、天台宗も一致します。
    問題は家紋ですが、異なっています。
    この一族は州浜紋です。

    但し、家紋は、跡目継承に依って家紋掟から変紋する事に成りますので、美濃北部に移動した後に変紋したか、紀州の時に変紋したかに依って変わる余地があります。

    分家支流の丸付き紋ですので、変わった余地は大きい事に成ります。
    本家筋は家紋の変化を起こさない様に一族から養子を取り血筋を護る役目がありますので、簡単には変紋しません。

    変紋説で考えますと、ルーツは定まります。
    その証拠と成る事が見付かればの話です。
    先祖が紀州に居た事があるのか、美濃で変紋したのかの証拠です。
    実は紀州の違い鷹の羽の説も完全に否定できないのです。
    紀州北部の奈良伊勢との国境域にはこの一族の伊勢の秀郷流青木氏が定住していました。

    さて、そこで、群馬上野は武蔵の北部ですが、此処は藤原秀郷一門の宗家の定住地の北部の外れです。
    利根郡ですので全くは縁の無い所ではありません。
    何時この群馬に移動したのかと云う事に成ります。

    秀郷流青木氏で在る事には疑問がありませんが、脩行系か秀郷流青木氏の分家筋かの判別に成ります。

    これ以上の事は判りません。
    恐らくは、「秀郷流近江脩行系青木氏」(紀州)と観ています。

    兎も角も、研究室とルーツ掲示板の検索で、全国から届いている「脩行系青木氏のお便り」をお読みください。何かヒントが出る事もあります。
    ご先祖の解明に繋がる何でも簡単な事でもありましたら、お便りをください。


      [No.1085] 群馬県の青木です
         投稿者:青木   投稿日:2016/02/09(Tue) 17:29:45  

    群馬の青木です。

    家紋は丸に違い鷹の羽です。宗派は天台宗です。
    亡くなった祖父の話だと先祖は長野から群馬の利根郡に流れてきたそうです。
    ルーツが知りたいのでよろしくお願いします。


      [No.1084] Re:東京の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/01/05(Tue) 16:21:47  

    新年、あけましておめでとう御座います。

    本年も宜しくお願いします。

    さて、「年始のお墓詣り」に出かけられたとの事ですが、最近は、「年始のお墓参り」も少なく成りました。地方に依っては年末にする習慣もあります。
    青木氏は、古来より年始ですね。年末は「墓掃除」で行きますが、一族家族そろっての「本参詣り」は「年始」です。

    >児玉郡の前がどこにいたかまではわかりませんでしたが、
    >皆同じところから出て集落を児玉郡に作ってたのでしょうか。
    >他の青木家は皆違う家紋かと思っていましたので大変驚きました。


    お家は、以前お答えいたしました様に、元は「伊勢青木氏」の「祖先神の神明社」の「神職の家柄」で、その「分家筋」ですから、「ご本家の柏紋」から出自し、「支流の丸付き紋の柏紋」と成って栄えました。

    従って、元は、伊勢松阪にある「青木氏菩提寺」が「柏紋の青木氏の元寺」と成ります。
    歴史ある「深谷神明社」を護り続けた事から深谷に定住した「伊勢青木氏の末裔」です。

    従って、お家一族のその後の「青木氏の分家墓所」は、「柏紋神職の青木氏」が持つ「神明社の社領の地権」の範囲の中で、別ら墓所を設けて深谷から分離している可能性が有ります。
    「ご本家筋の墓所」は「神道の原則」を護っていますから、「深谷の神明社」の直ぐ近くの社領内にある筈です。

    「深谷神明社」の「神道」ですので、その後、「普通の墓所」と異なり「本家の神道墓所」は、その性質上から、恐らくは手狭であったと観られます。
    依って、本来は「丸付き紋」を用いない慣習に従っている「青木氏」ですから、慣習に従わず敢えて「丸付き紋」を付けて「分家支流族」を形成している「大きな子孫力」を持っている以上は、「神道の墓所」では到底狭い事に成りますので、「墓所」を別にする事が起こったと考えられます。
    この時、当然に「神明社4社」が、深谷から児玉郡等に十数社に分社していますので、本家だけの墓所では手狭に成り、分社のある地域にも、その「分家の土地」(児玉郡美里域)として分け与えられた場所に一族が住める「居住地]と「分家墓所」を敢えて設けたと観られます。

    しかし、その後、「神道」ですので住職では無くて「一族の代表の方]が管理していた事に成るのですが、その多く成った墓所には、何時しか維持管理の為に「小寺」を建立し住職を招いたと成ります。
    其処から、お家一族の栄枯盛衰の変化で以て、その寺の維持管理も大変と成り無住職の寺の墓所と成った経緯を辿って現在の勝輪寺の檀家寺として権利を譲ったものと成ったと観られます。
    依って、殆どは「柏紋の青木氏」の「一族で占める墓所」に成った事と成ります。

    お家の「柏紋の神道」もこれに沿った経緯を持っている事に成ると思います。
    500社に上る全国の「青木氏に関わる神明社」は、[青木氏の定住地」に建立しましたが、江戸初期に徳川幕府に全て引き渡しました。
    この時、各地にある「神明社の神道の墓所」(柏紋)はそのままに成りました。
    それまでは、「伊勢青木氏と信濃青木氏と甲斐青木氏」が「二足の草鞋策」に依って得られた財力で、この全国の500社の神明社を「独自の職能集団」の「青木氏部」が修理保全を担ってきました。

    依って、その後は、この徳川幕府の管理に移行しましたので、一部はこの「神明社の神職」として残りました。
    従って、その神職は「神明社の歴史の遍歴」に沿っていると思います。
    この時、「柏紋の神職の青木氏」は、多くは伊勢か信濃か甲斐に戻りました。
    他の一部は、「青木村」を形成する村に「独自の祠」を維持する神職として残りました。
    お家は、恐らくは残留組と観られます。

    その後、「幕府の財政難」と「神明社の人気の低下」で、大変、「神明社」は,例外なく荒廃し、衰退し、遂には、各藩に修理令が出る始末に成りましたが全く進みませんでした。
    この時、「荒廃した神明社の神職」を離れた「柏紋の青木氏」が「各藩の家臣」等に成った経緯を持っています。

    前回お答えしました様に、甲斐青木氏系柳沢吉保が所沢に神明社を建てたのもこの事から来ています。
    「柏紋の青木氏」も吉保の家臣に成った者も居まして、その後、柳沢氏は奈良に移封しましたが、この時に付き従ったお家の一族の方が「柏紋の青木氏」が奈良に分布しています。

    そこで、先ず「家紋掟」で家紋は長い間には変化するものですから、お家の分家が「柏紋や巴紋」に所縁があるとすると、「分家の位置づけ」はご本家にそう遠くない分家であった事に成ります。
    現在の墓所が児玉郡とし、周囲にはお家の家紋を中心に別家紋と別氏があるとすると、「神道の墓所」ですから「二番目の墓所」であったと考えられます。
    「分家筋の墓所」としたところではないかと考えられます。

    「児玉郡」は、埼玉県北部域の「深谷神明社」から西隣接域の山手ですから、「分家の入所」としては充分に考えられます。
    以前、お答えいたしました「武蔵神明4社」、つまり、「深谷の神明社]と、「所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社]が加わり4社に成るのですが、後は、後に建立された「神明社系の分社」等がこの児玉郡域に建立されました。

    恐らくは、この「分社域の神明社」をお家の分家筋が受け持たれたと観ています。
    依って、「深谷の本宮」から「児玉郡の美里域」にお家の分家筋が移動されて、子孫を拡大させて「分家筋の墓所」を別に持たれたと考えられます。

    依って、「児玉郡の美里町の勝輪寺」の前は、ご本家筋の深谷域に「本宮の神道の本墓所」があった事に成ります。
    昔は、墓所や建物を建てる事等の「自由に出来る土地」は、「郷氏」や「庄屋]や「豪農」や[社領」や「寺領」などが「地権」と云う権利で補償されている地域、つまり、お家の場合は「社領」にしか持つ事は出来ませんでしたので、「児玉郡の美里」に「神明社の社領」の「地権」を持っていた事に成ります。
    従って、「分家筋の墓所」を設けるには「児玉郡の美里」しか無かった事に成ります。

    そのお家の「分家筋の墓所」であった「氏の家紋」から観て、寺に他氏の墓所がある件ですが、他のものは明治期ものでは無いでしょうか
    >内田家の丸に十字の家紋
    >代々木家の八ツ矢車の家紋
    >丸に鷹の羽

    先ず、この家紋の主家は、「丸に十字」は島津氏、「八矢車紋」は佐藤氏、「丸に鷹羽」は白須氏ですが、江戸期前にこの「姓族の墓所」が、此の寺処にある事は、「国元の墓所に埋葬する事」を前提としていますので、有るとすると「国抜け」と成りますので、江戸期までは「棲み分け」を原則としていますので明治期で無ければ先ずはあり得ません。
    ただ、実は、この「矢車紋」には、「神職」が多いのです。
    その事から、そもそも、この佐藤氏は、秀郷流一門で同門で、「第二の宗家」と呼ばれた「秀郷流青木氏」とは「同紋の縁籍関係」にあり、且つ、武蔵はその本領ですから、何かお家との所縁があると観られます。
    考えられる事として、「神職関係」から養子縁組等が起こり、実家先の断絶家を嗣子に興して、その墓所をここに設けたとの見方も出来ます。

    可能性として、普通は「家紋掟」に依り男子跡目が出来ず、先ず「養子先の家紋」に変化して行くものですが、全て「三つ柏紋]であったとすると、可成り後にまで「神職」を続けられていた事に成りますね。
    普通なら、悠久の歴史を持つ「深谷神明社」からの時期から考えると、更に、その後に、「完全女系」が続き、「姓」まで変化した可能性も否定できない事も起こり得ますので、この血縁で家紋と墓所が同じに成るには、原則として普通は明治期以降の事に成ります。
    然し、家紋が統一されている事は、一族が互いに助け合い「児玉郡」で纏まり「子孫繁栄」を図って居た事に成りますね。

    場合に依っては、これ程長く家紋を変えずに居られる事は珍しく、「神職」であった出自先の「伊勢青木氏の四家制度」を採用していた可能性が有りますね。

    他氏の左程墓所が多く無い所から観て、「檀家寺」に成った時点はそう昔の事では無く、明治初期と考えられます。

    依って、「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り、その菩提氏の経営等が成りゆかずに、明治期に世間の仕来りに従い「一般」の「檀家寺」に成ったものと観られます。
    多くはこの経緯を辿りますが、明治期では経営が成りゆかずに全てが「檀家寺」に変えたのです。


    さて、昔は「柏紋の青木氏」で「伊勢神宮の神職の御師様」と呼称される立場にあったので、一度、その大元に成る「伊勢神宮」をお参りされると良いと思います。

    「神明社の神職(柏紋青木氏)」は、「自然神」の「伊勢神宮」の「皇祖神」の「子神の祖先神」の「神明社」の神職です。その中でも古い「深谷神明社」系ですのでお勧めします。

    その際には、合わせて、JR松阪駅下車の駅前広場の前の大通りを隔てた右手一画の中ほどにある本寺があります。
    ここは元は、「青木氏の菩提寺」でした。
    二度、松阪大火で消失して、その後に「紀州藩の菩提寺」を経て現在は知恩院派の浄土宗檀家寺と成っています。
    「寺名」は匿名としますが、御訪問になると良いと思います。必要な場合はメールで連絡します。
    ここが「お家の本宮」であり「出自寺」と成ります。

    中々、「伝統」は伝わりにくいものですね。
    筆者も同じです。
    親族が聞く耳を持つかは別にして、先ずはこの世に生を得た以上は”「伝える役目」”だけは果たしたいと考えています。
    筆者がそうでした様に、何時か、必ず一族の中に「伝統や歴史」を重んじる者が必ず出てきます。

    ではまた何かありましたらお便りください。お待ちしています。


      [No.1083] Re:東京の青木です
         投稿者:東京の青木   投稿日:2016/01/04(Mon) 16:58:15  

    あけましておめでとうございます。
    昨年ははじめてこの掲示板に参加させていただきましたが、
    大変多くのことを教えていただきありがとうございました。

    一昨日お墓参りに行ってまいりました。
    周りの家紋を色々見てみましたのでご報告致します。

    場所は前にもお伝えしました児玉郡の勝輪寺です。

    青木家は皆、丸に三つ柏でした。
    父曰く、小さな青木家の集まりがおじいちゃんの実家にはあるとのことでしたが、
    児玉郡の前がどこにいたかまではわかりませんでしたが、
    皆同じところから出て集落を児玉郡に作ってたのでしょうか。
    他の青木家は皆違う家紋かと思っていましたので大変驚きました。

    また、それ以外の苗字は
    内田家がいくつかあり、丸に十字の家紋
    代々木家があり丸に八ツ矢車の家紋
    後は、丸に鷹の羽が一つだけありました。

    新し目のお墓は除外すると、
    一番青木家が多く、丸に三つ柏、内田家、代々木家がついで多いという感じです。

    まじまじと見たことは無かったのですが、青木家の家紋が同じだったことが衝撃的でした。
    他に着目したほうがいい点などあればまた機会を改めて訪問した際に見てこようと思います。

    昔からお墓参りは気持ちが落ち着くものです。
    ここまで色々教えていただいたのもありますが、今回はより一層気持ちがすっとしました。

    この事を家族に話しても中々耳を傾けようとしないので、
    少なくとも私はこの事実を大事にしたいなと思っております。

    明日から仕事も始まりますが、
    会社の近くにある芝大神宮にお参りに行こうと思っております。


      [No.1082] Re:今はさぬき市ですが
         投稿者:青木 一夫   投稿日:2015/11/29(Sun) 23:29:04  

    副管理人様

    > この様な生き様に付いての事が掲示板には論じています。
    > 兎も角も、お読みください。

    今も読んでいたところです。
    歴史観、生き様、圧倒される思いです。
    私ながらに検証しながら読み続けると相当時間はかかると思いますが
    大分人生観も変わってくると思います。

    このサイトに出会えて幸運です。
    大変ありがとうございました。


      [No.1081] Re:今はさぬき市ですが
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/11/29(Sun) 21:21:02  

    信濃の青木さん 今日は。
    早速、お便りをお読み下さって有難う御座います。

    直近の{信濃青木さん」との親交では、明治の地租改正で伊勢と信濃では、歴史上の記録に遺る大規模な農民を交えた一揆が起こりました。
    この一揆と云いますか動乱と云いますか、この一揆を裏で経済的に支えたのは「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」です。
    この一揆は明治9年に租税の修正の案が出されて収束しましたが、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、超大地主であって地域の農民を護る為に貢献した事が判って居ます。
    この時も地租改正で土地の利権を放棄する法が成立し、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、共に結束して民に開放して大きな痛手を負いますが、農民の税付加に反対していますが、「商い」でこれを賄い立ち直った事も有名な事です。
    これ程の「賜姓族」としての結束を図りました。
    この様な同じ援助の事が室町期にも起こっています。
    この様な生き様に付いての事が掲示板には論じています。
    兎も角も、お読みください。


      [No.1080] Re:今はさぬき市ですが
         投稿者:青木 一夫   《URL》   投稿日:2015/11/28(Sat) 23:03:03  

    有難い情報大変ありがとうございました。

    先月伯母(父の姉)が107歳で亡くなりその葬式のとき従姉が先祖侍説を持ち出してきましたので少し調べてみました。状況証拠はいろいろありますが実態は養蚕と精米所をやっていましたので農家だろうと思っていました。ただ後の調査で藩米の精米は庄屋階級が自家精米所で行うことがあり養蚕については明治になって士族授産として奨励されたと知りそれを家業として継続できたと納得しました。
    関氏につきましては家紋は「五葉木瓜(瓜の唐華)」です。現当主で四十六代とのことです。
    明治35年頃の青木久右衛門につきましては私の祖父が明治13年生まれですからその父の久右衛門に間違いないと思います。
    世代交代で本家に直接聞き難い中このサイトがあって大変助かりました。
    大変有難うございました。
    今後もこのサイトで勉強させていただきます。


      [No.1079] Re:今はさぬき市ですが
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/11/28(Sat) 19:54:01  

    信濃の青木さん 今日は。
    始めまして。
    全国の青木さんが自由に集う本サイトにようこそお越し頂きました。
    これからも宜しくサイト運営にご協力の程をお願いします。

    さて、お便りをお読み致しましたが、実は大変に驚きました。
    常日頃、「信濃青木さん」のお便りがある筈だと期待しておりましたが、遂に頂きました。

    実は、筆者は「伊勢青木氏」ですが、「筆者の家」とお家の「信濃の青木氏」とは、明治35年まで親密な親族関係を保っていました。
    筆者の家の口伝では、大変にお世話に成ったと聞き伝えられておりまして、取り分け、江戸後期に久右衛門さんには、祖父の弟の光三郎が養蚕技術を学びに2年間お世話に成ったと聞いていまして、この光三郎は、その後、伊勢に帰って養蚕の殖産を広めたと聞いています。
    この事は、三重の郷土史にも書かれていて、又、伊勢の郷士衆の家にも伝わっている有名な事なのです。
    又、伊勢は米の品質が悪く、且つ、古来より地形と気候の影響で米の石高が耕作面積より低いと云う事があって、別には、「伊勢の青木氏」の者が、信濃は「米どころ」ですので、「信濃青木氏」の「宗家の久右衛門さん」に頼んで暫く生産方法を学び、それを伊勢に持って帰って品質は良く石高も多く採れる米の生産に成功したと伝えられ、更に、この技術を使って当時としては極めて珍しい「早場米」の育成に成功した事が伝えられています。この「早場米」は「早稲光」(早光米)と呼ばれ全国に広まったと聞いています。
    郷土史にも記録され、地域の人々から徳宗家として「信濃青木氏」と共に尊敬されていた事が判って居ます。
    その節は有難う御座いました。

    さて、お家の事に付いては、研究室やルーツ掲示板等で詳しく論じていますので、そちらを先ずお読み頂くとして、「信濃青木氏の概要ルーツ」だけをここでは述べて措きたいと思います。

    奈良期の天智天皇期に「大化改新」が起こります。その時を契機に青木氏は発祥します。
    それまでは、「天皇家の皇位継承制度」は、「第六世族の皇子」までを王位継承者として扱われてきましたが、「天皇家の内蔵の財政」の立て直しの為に、これを改めて「皇子王」を第四世皇子までとし、「皇位継承者」は「第四位皇子」までと定められました。
    天皇の代わりの際に起こる「第六世族以降の皇子」は王位を失い、且つ、皇族から排除され、更に、都から離れ、「坂東」に配置され職を失いました。
    そして、合わせて、「第六位皇子」は、臣下して「侍」として「青木氏」を賜姓して発祥させ、天皇を警護する「臣下族」(侍)と定められたのです。
    それ以外は比叡山に「門跡僧侶」として移されました。
    「第四世族内の第六位皇子」は「宮廷警護」と「五地域の守護王」と施政執行を担う「国策氏」等の「賜姓五役」に任じられたのです。
    この時に、「青木氏」を賜姓されたのは、「伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」でした。
    そして、この「五つの王家」には、代々起こる「第四世族内の皇位継承者」から皇位で外れた皇子がこの「五家の青木氏跡目」に入る事を定められたのです。
    これが、「伊勢青木氏」であり、「信濃青木氏」等であるのですが、ところが、下記にします様に、「近江」と「美濃」の「青木氏」は、平安末期に滅亡して仕舞いました。

    「甲斐青木氏」は、平安期から室町期に掛けての戦乱で青木氏氏是を護ったのですが、同族争いが起こり衰退して地域での繁栄は大きく出来なかったのです。

    それ以下の皇子は、全て下族して、坂東の警護に付きました。
    これが「坂東八平氏」(ひら族)です。

    ところが「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「二足の草鞋策」で生き延びました。
    奈良期の頃から、「朝廷の役処」として「賜姓五役の国策氏」として、新たに”「紙屋院」”と云う「特別な役処」を与えられて、「和紙」(墨・硯)を作る事を命じられ、日本で最初に「和紙の生産」に成功しました。
    それまでは中国の紙を全て輸入していました。
    この中国の紙品質は良くなく、結局、研究の結果、「楮による和紙」の生産に成功したのです。
    朝廷が「青木氏の紙屋院」の下で、丹波で直接に和紙生産に関わります。
    又、「墨」も「備長炭の煤」を墨する事が出来、「硯」も紀州にて良質な「紫石の岩石」の素材が発見され、共に成功したのです。

    それまでの「木簡]を使った記録から和紙の記録に切り換えます。
    その結果、紙の利用文化から「朝廷絵師処」等の役処を支配下に置き、朝廷の「賜姓五役外」に多くの「文化的役処」も課せられました。
    「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は共に力を合わせて「賜姓族」として役目を果たしたのです。

    その後、朝廷で使われていた「余剰和紙」を「金銭に換える役目」も命じられて、且つ、市場で使われる様に改革を任じられました。
    これが、平安中期に「二足の草鞋策」として朝廷より認められて、「賜姓五役の国策氏」として「紙屋院」の「紙屋」の屋号で「商い」も初め豪商とも成りました。
    925年までには、「賜姓五役」として「信濃青木氏」も、「甲斐青木氏」も「和紙の殖産」に携わり、1025年には、「賜姓五役」以外に「二足の草鞋策」として、遂には日本で初めての「総合商社]を営み貿易まで手掛ける「商社」を経営します。
    この時、お家の「信濃青木氏」もこの「古代和紙の殖産と興業と商社の経営」を共に担ったのです。
    ところが、「嵯峨期の詔勅と禁令」を基にした「青木氏氏是」に従わずに、「平安末期の源平合戦」で、近江と美濃の青木氏は滅亡しました。

    この様な数多い口伝や記録が「伊勢青木氏」や「信濃青木氏宗家」には遺されていまして、お家のお便りの様な概要の事は承知をしております。

    そもそも、この「青木氏の事」は、全て研究室やルーツ掲示板等に記述していますが、賜姓五役を担う「五家五流皇族賜姓族青木氏」として、当家の記録にも遺され、平安期の「五つの歴史書」にも記録されています。
    この様に、奈良期より「第四世族内の皇子王」として「伊勢、信濃、近江、美濃、甲斐」に「皇族賜姓族」の「青木氏」が、「朝廷の命」により定住し、「守護王」として活躍をし、又、宮廷の護衛団としても最初に担当した家柄です。

    ところが、「平安末期の源平合戦」にて、「青木氏氏是」を破り「近江]と「美濃」の青木氏がこれに加わり敗戦して嵯峨期の詔勅に依って発祥した同族の「賜姓源氏」と共に、「美濃富士川の戦い」で滅亡して仕舞いました。

    お家の「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」と「甲斐青木氏」は、「青木氏氏是」を護り生き延びたのです。
    その後、お家の「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」は、その後、「賜姓五役」を維持する為に課せられた特別な家制度の”「四家制度」”に基づき、何度も互いに「養子養女」にて同族血縁して子孫を拡大してきました。
    明治35年までこの「商いの関係」も続けられ、「親族」としての付き合いがありました。
    その直近の象徴的な事が、上記の「久右衛門さん」に世話に成った事です。

    筆者の家の屋号は、上記しました様に。「紙屋」で、襲名は「福家」の松阪殿は「長兵衛」と名乗っていました。
    これらの概要はお家の信濃青木氏の宗家筋との関係ですが、さて、お家の「信濃青木氏」の「関氏との血縁」があったとの事ですが、明治後の事ですので、「社会の構成」が全く異なっていますのでルーツには参考には成りません。

    >父に先祖は「猿が馬場峠警護の侍」と聞いたことがあります。
    >信じている従兄弟たちもいますが私は疑問に思っています。
    >あるとすれば松代藩真田家家臣ではなく(松代藩武家屋敷の巡回コースに青木家がありますが)むしろ川中島藩森家の残党ではと思っています。森家と関家は一門ですし、同じ期織田信長の家臣団に
    青木があります。

    次に、以上の行ですが、「信濃青木氏」の「江戸期の動き」に付いては、筆者が先祖から聞き及ぶところでは、西国街道と信濃善光寺と繋ぐ商道の「猿が馬場峠警護の侍」の説が理解できます。

    この江戸期の「信濃青木氏」のご先祖は、二つの派に別れた事が聞き及んでいます。
    一つは地域の庄屋で、地主の土地を生かした米生産と和紙殖産と養蚕等を始めとして「豪農」で、それを売り捌く「豪商」と、紙製品を加工して裁く「企業家」であった事が判って居て、この道を貫いた「賜姓五役」を務めた「郷氏の家筋」と、お家の「分家枝葉の家筋」と成った「武家の郷氏」の家筋を活かして「郷氏の国衆」として「真田氏の家臣」に成った「二つの家筋」とに江戸初期に分かれた事が判って居ます。
    その豪農と豪商と企業家の宗家とは、筆者の家とは親族として親交を深めていた事が判って居ますので詳細は判って居ます。

    筆者の家との親交が絶えたのは、筆者の福家の家(松阪宗家 筆者の家)が失火元の「松阪火災」になり「福家」は、賠償倒産して、家筋を「四家」に引き渡しました。(現存)
    「信濃青木氏の宗家」とは、明治35年まで続きましたが、この時を境に「福家」と親交が無く成りました。
    一部は娘の末裔に残務整理で遺しましたが、多少の親交もあったのですが、この松阪に遺した福家の我が家は平成10年に絶えてしまいました。
    依って、紀州に移った「跡目の筆者の家」とも親交が途絶えました。
    現在、信濃の情報は全く無く成りました。

    この「信濃青木氏」は、宗家筋の枝葉では、伊勢青木氏と同じで、家紋は「笹竜胆紋」、宗派は「密教浄土宗」である事が判って居ます。

    そこで家紋と宗派から、お家は下記の青木氏で分家筋に当たる「信濃青木氏」ではないかと観られます。
    真田氏の家臣と成った青木氏は、その経緯から国衆と成って曹洞宗に宗派返していますし、この時に、「家紋掟」から蔦紋に成った事も判って居ます。
    つまり、江戸期の中頃にお便りにある様に秀郷一門の支流族の「関家」を通じて「藤原秀郷流青木氏」との血縁をしている可能性が有ります。
    或は、関家から養子を迎え、二代続きで男系跡目が出来ずに、武家の家紋掟に依り男系側の関家系列に入った事で蔦紋の青木氏が出来たことも考えられます。
    然し、後者ではないかと推測します。
    「青木氏と血縁族(家紋)-2 (蔦紋)」 にその事を記述していますが、「蔦の家紋」とその「丸付紋」ですので、江戸中期頃に支流族の分家として発祥したと観られます。
    このルーツの分家筋に当たります。

    然し、もう一つの武家として他藩に仕官した家は真田藩に仕官した事が判って居ます。
    この真田藩に仕官した青木氏は二派に分かれ、一つは九度山に真田氏と共に同行し、もう一つは松代で家臣を続けたとあります。
    この事はサイトでも論じています。

    関家は母方に成りますので「青木氏」とは別と観られますし、「織田家の家臣の青木氏」に付いてはルーツははっきりしていて別の青木氏です。これも詳細は論じています。
    尚、関家に付いては、その出自源は三つあるとされていまして、「伊勢関氏」で「たいら族」、「陸奥関氏」で「秀郷一門支流族」、「美濃関氏」は出自は不明です。
    お家の云う関家は、恐らくは、「蔦の家紋」から「秀郷一門の陸奥関家」と観られます。

    その根拠は、この陸奥関家は、陸奥から秀郷一門が陸奥から引き揚げた時に、陸奥の土豪で秀郷一門の血筋を受けた末裔の花房氏と共に信濃に定住しました。
    この時に、信濃に同行した同じく秀郷一門の血筋を持った花房氏の配下の陸奥土豪の関氏だと観られます。
    そもそも、この花房氏は、「信濃足利氏」を最初に名乗った豪族ですが、この「花房氏系足利氏本家」は秀郷一門に本家を追い出され、最終は米子に逃げ延びました。信濃足利氏は秀郷一門野血筋を受けた分家が取って代りました。
    この時には、「足利氏」は「信濃青木氏」と血縁をしています。これが「足利氏系青木氏」です。

    その経緯から、「信濃青木氏」の分家筋が、江戸期には関氏とも血縁を進めたと観られます。
    この関氏は「藤原秀郷一門の支流族」ですが、この関家と江戸中期頃に下記の青木氏と血縁している可能性も在ります。
    恐らくは、お家は、この「信濃青木氏の支流枝葉の分家筋」に当たると観られます。
    本流の宗家枝葉が久右衛門の家筋と成ります。

    そもそも、この青木氏は大きく分けると二つのルーツに成ります。
    一つは、上記の「皇族賜姓五家五流青木氏」の25氏と、二つは「藤原秀郷流青木氏」の116氏があり、「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は、円融天皇に依って賜姓を受け、「皇族賜姓族青木氏」を「賜姓五役」も膨大な職務と成った事に依り、これを補完する母方の「特別賜姓族青木氏」です。
    後は、嵯峨期詔勅で名乗った[青木氏」4氏が在り、明治3年期の苗字令で名乗った第3青木氏が在ります。

    お家は、信濃の「皇族賜姓族青木氏」です。
    先ずは、論文をお読みください。お判りに成ると思います。

    「出自などの詳細」は、「研究室の論文」を先ずはお読みに成り、その後には「ルーツ掲示板」でサイトの検索を使って「信濃青木氏」で検索してお読みください。
    「家の詳細」は、「伝統シリーズ」で詳しく論じています。

    膨大な論文に成りますので、ゆっくりと少しづつお読みに成り、都度判らない時はご質問をして頂く事でご理解が進むと思います。

    「青木氏」の皆さんからよくご質問頂きますが、明治以降の現在の社会体制と、江戸期以前の社会体制は全く異なっていますので、「過去のルーツの事」を御理解いただくには、その当時の「歴史観」が必ず必要です。
    お読みに成りながら、この「歴史観」を深めて行きながら理解を深めて行くことが必要です。
    その為にはご質問も必要に成って来る事かと考えます。
    ご遠慮なくお尋ねください。


      [No.1078] 今はさぬき市ですが
         投稿者:青木 一夫   《URL》   投稿日:2015/11/27(Fri) 00:34:00  

    長野県千曲市桑原の父の実家のルーツを知りたいです。
    菩提寺は千曲市大雲寺(曹洞宗)、過去帳で江戸時代中期まで辿れるようです。
    曽祖父以前は代々久右衛門、又右衛門を襲名しています。紋は「丸に蔦」、
    屋号は「車や」、裏手に水車の設備の跡が残る精米所、表は養蚕農家を表す
    ウダツの上がった3階建て(最上階は換気用)で北国西街道に面しています。
    建物は明治期のものです。
    父は官立の上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)出身です。
    因みに数軒上には旧松代藩士の関家(本家)がありその下方に関家の分家が土塀を連ね
    父の実家がその下にあります。
    私の祖母の実家が関一門です。因みに文政年間に関(本家)の次男が紀州家家臣葛山八郎衛門(八百石)として養子に迎えられています。
    江戸期の大半を関家が桑原村の名主庄屋を占め明治に入ってからも本家が区長、分家が戸長をやっていました。
    青木家では久右衛門が寛文5年(1665)に長百姓として村誌に名を残しています。
    昭和に入って祖父が桑原村の助役、戦後更埴市となって始めての選挙で伯父(父の長兄)が市議に当選しています。
    戦前まで大地主だったことは間違いないです。
    父に先祖は「猿が馬場峠警護の侍」と聞いたことがあります。
    信じている従兄弟たちもいますが私は疑問に思っています。
    あるとすれば松代藩真田家家臣ではなく(松代藩武家屋敷の巡回コースに青木家がありますが)むしろ川中島藩森家の残党ではと思っています。森家と関家は一門ですし、同じ期織田信長の家臣団に青木があります。
    因みに桑原の関家の当主は代々新右衛門長○です。
    我が家は私の代で絶えますが良い家系であれば娘に伝えます。


      [No.1077] Re:高祖父
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/11/26(Thu) 09:58:16  

    > 福管理人様、
    > 初めまして、こんばんは。
    > 早速の御返信を有難うございました。余談は改め修正させて頂きました。御助言に従い拝読させて頂きます。
    > 今後ともまた宜しくお願い申し上げます。

    肝付さん 今日は。
    早速、お読み頂いた様ですね。

    仰る通り、歴史は読めば直ぐ解ると云う事はありません。
    それは、歴史を理解するには、「歴史観」と云う知識が必要で、これなくしては唯文章を読んでいると云う事に成ります。
    理解と云う事は到底無理な事です。

    それは、現在の社会体制と、江戸時代以前の氏家制度の社会とでは、「社会構成」が根本的に違うからです。
    この「社会構成の知識」を時代毎に把握する事が必要なのです。
    学校では、その基礎知識を学びますが、これでは、「個人のルーツの内容」を理解するには到底無理な事に成ります。
    「氏」と「家」と「身分」や「封建」とそれにこれに深く「宗教」が絡んできますので、結果としてそれぞれの独特の「慣習や仕来りや掟」が有り、それがまた「家柄や家筋」に依っても異なっていますからなかなか現在感覚では理解は難しいのです。

    それには、本サイトでは青木氏としては纏めていますので、肝付氏としての纏めは残念ながら出来ていません。
    出来る限りにまとめていますが、「関係族」としての記述に成っている事は否めません。
    確かに「リスク」はあるとは思います。それだけにご質問は必要ですね。
    然し乍ら、他氏としては出来るだけ纏めていますので、本サイトの様な記述から徐々に読みながら、この「歴史観」を獲得して行くことが必要ですね。
    何れにしても誰でも歴史を知るには同じ条件が課せられます。

    従って、お便りを読んだ段階では、この「歴史観」が無いとお家のルーツの事が、今の社会とは余りにも違っている事から驚かれる事に成ります。
    最初のお便りでは、この”歴史観」は在りません”と書かれていましたので、当然にびっくりする事に成りますね。
    況して、そこに1300年以上の歴史を持つ「肝付氏」で、数少ない「氏族」あるのですから、頭が整理できないのは当然です。

    ご子孫に「家の歴史」をご説明するとすれば、先ずはこの「歴史観」を持たれる事が必要です。
    尚の事、「肝付氏」ですので、是非にこの「歴史観」を伴ってご説明しないと、子孫の方は聞いても判らないとでしょう。
    筆者の家でも子供たちは、「青木氏」と云う事なので、理解に苦しんでいる様です。
    筆者も、父や祖父から聞いても、最低限、未だその様な歴史の慣習の中で育ちましたので、未だ理解ができましたが、現在ではそのような家筋は全く無く成りました。

    当然の事と思います。
    時代劇のテレビなどでも少しは得られますが、お家の肝付氏や青木氏のルーツの歴史は、テレビ等とで得られるものとは一段と一般の武家社会とは一段違っているので、なかなか理解は出来ないのでしょう。
    恐らくは、日本全国の氏姓は、8000あると云われていますが、その「肝付氏や青木氏」の「氏族」はたった1%にも満たないし、殆どは「姓族」です。
    この「姓族」であれば、300年程度の歴史ですから、ルーツに関しては左程に「歴史観」を持たずにも基礎知識で理解は可能です。

    「氏族」や「姓族」を合わせても、15%にも達しません。
    後は、歴史を持たない家筋と成ります。
    この「氏族」では無い「姓族」でも、最も早く発祥したのは、書物で確認できる範囲では正式には室町期初期頃の安芸国の「海部氏」と云われています。

    「氏族」は、一時は最大時は室町期初期で200氏程度に成りましたが、下剋上や室町期の戦乱で滅亡して20程度に激減しました。
    奈良期では20氏程度、平安期では40氏程度、鎌倉期では80氏程度でした。

    「肝付氏」は、この奈良期の20氏の中に入るのです。

    これも「肝付氏」のルーツを理解するに必要とする「歴史観」の一つで、先ずはここから「肝付氏の歴史観」を増やして行ってください。

    従って、この様な「肝付氏のルーツ」を探究し得るツールは普通の書物では無いと思います。
    青木氏や佐々木氏や藤原氏等では、歴史家やマニアなどが「ルーツの歴史研究」で解明されています。
    これらは可成りの専門書で大抵は非売品です。
    しかし、非売品で市販はされていませんので、現在では一般では相当に歴史研究をしなければこの「歴史観」は得られません。

    況して、現在は「個人情報の縛り」が在って困難と云うか不可能です。

    幸い「肝付氏」に関しては、「青木氏族の永嶋氏」に関わる事から、古くから研究されて解明されていますので、本サイトの範囲では得られます。
    然し、地域性のある九州の「肝付氏」に関しては「青木氏」と「佐々木氏」が研究して相当な情報を持っています。

    従って、先ずは青木氏の本サイトでゆっくりと少しづつ時間を掛けて歴史観を得てください。
    ご質問頂ければ判る範囲でご協力いたします。

    それ故に「青木氏の本サイト」は、「ヤフーのHPの歴史カテゴリー」に高倍率の審査を経て登録されている「歴史専門サイト」ですので、「ヤフー歴史カテゴリー」からも入る事は出来ます。
    現在では、社会に貢献する為に公開投稿し、段突の情報量で「ヤフーHP」から「お墨付き」を得ています。
    ある放送局にも本サイト(裏サイト)から「歴史情報」を提供しています。

    では、先ずはお読みください。徐々に判ってきますよ。

    現在では、本サイトの愛読者の読者は、青木氏族を含めて10000人/日以上がカウントされています。
    お家の様に一般の方が読まれている「ヤフーHP」を含めると、相当なカウントに成ります。
    ですから、今では10000人程度の歴史観を持った愛読者の「歴史マニア人」が育っている事に成ります。

    歴史は「先祖の生き様」が観えてロマンがあり面白いですよ。
    ご子孫にもその面白味を伝えてください。


      [No.1075] Re:高祖父
         投稿者:きもつき   投稿日:2015/11/26(Thu) 00:30:33  

    福管理人様、
    検索で引き出し拝読しようとしましたが頭の準備が追い付かず読めません。
    4〜5代前辺りのことから分からず、家系について知りたいと思いましたが、
    「ルーツ」を知ろうと思ったら全くスケールの違う世界に分け入らねばならない
    という当たり前のことを教えられた気がしました。
    膨大な内容をばらばらに読んでいては頭に入って来ません。分からない事
    だらけのような気がしますが何をお聞きしたら良いかも分かりません。
    時間をかけ、何か観えてくれば、と思っています。


      [No.1076] Re:高祖父
         投稿者:きもつき   投稿日:2015/11/25(Wed) 19:30:04  

    福管理人様、
    初めまして、こんばんは。
    早速の御返信を有難うございました。余談は改め修正させて頂きました。御助言に従い拝読させて頂きます。
    今後ともまた宜しくお願い申し上げます。


      [No.1074] Re:高祖父
         投稿者:福管理人   投稿日:2015/11/25(Wed) 16:45:57  

    肝付さん 今日は。
    始めまして。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。

    さて、青木氏サイトは、古来飛鳥の時代より天智天皇の第六位皇子(施基皇子)が「賜姓」を受けて「青木氏」が生まれ、そして、奈良期から平安期に掛けて「氏」が拡がり、遂には「青木氏族」と云う「皇族系氏族」が大形成されました。

    平安期初期の「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は、二代続いてこの「賜姓制度」が途絶え後に、再び「青木氏」を賜姓する代わりに「源氏]と云う氏族を発祥させました。
    「賜姓青木氏」は五代続き、「賜姓源氏」はその後11代続きました。
    合わせて、「16代の皇族賜姓族」(青木氏 源氏)が発祥しました。

    そもそも、「桓武天皇(山部王)」は、平安期の「聖武天皇」の期に男系の皇位継承者が無く成り、結局、「準ずる氏族」としてその為に、「伊勢青木氏」の「施基皇子」の第六男の「白壁王」が「聖武天皇」の皇女と血縁して「光仁天皇」と成って継承しました。
    この子供の「山部王」が「桓武天皇」と成ったのです。

    ところが、40程あった多くの氏族が滅亡する中で、悠久の歴史の荒波を乗り越えて、その「青木氏」は上手く生き延びて、現在までに遺った唯一の「氏族」ですが、ところが同じ賜姓族の「源氏族」はその「生き方」で完全に滅亡して仕舞いました。

    結局は、「皇族系氏族」で、「二つの青木氏」が「武家侍の発祥源」と成っています。
    「平安期初期」には、「藤原氏]等の「公家族」に対して、「青木氏族」は「武家族」として朝廷より最初に認証された「氏」です。
    そして、「侍」(さむらい)の「最初の発祥源」として、「象徴族」として、「五家五流皇族賜姓族」が発祥しました。
    その「五つの発祥地」は、伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐と成ります。
    これに対して、「賜姓青木氏」は、代々、公家の「藤原氏の母系族」であった事から、「藤原秀郷一門」から「母系青木氏」が「円融天皇期」に天皇より皇族外に特別に「賜姓」を受けて発祥しました。

    ところが、青木氏一族であった「桓武天皇」が、制度に従って「青木氏」を賜姓せずに、母方の氏族に対して「平家」(たいら族 伊勢伊賀北部に住む「阿多倍の孫娘の高野新笠」を妻にする)を賜姓したのです。これが平城天皇まで賜姓制度は二代続きました。
    これを基の賜姓制度に戻したのが、上記の桓武天皇の子供の「嵯峨天皇」なのです。
    この「嵯峨天皇」は、詔勅と禁令を発し、「源氏]を賜姓しましたが、この時に合わせて、別に賜姓族にせずに「青木氏」は「皇族の皇子皇女」(第四世族王位まで)が皇位を離れる時に名乗る「固定氏名」として定め、賜姓せずに名乗る事が出来る氏名として定めました。
    この「青木氏」が持つ一切の「慣習仕来り掟の使用」を禁令で禁じました。
    この禁令は明治3年まで護られました。

    さて、そこで、この事が、この「肝付氏」にどう繋がるかと云うと、次ぎの様に成ります。

    実は、お家の「肝付氏」が現存する事は大変に珍しい事なのです。
    「青木氏]とその古さは余り変わりません。
    そもそも、「肝付氏の発祥」は、奈良期からの青木氏が持つ長い歴史とあまり変わらないのです。
    それは、平安初期に朝廷の官僚族には、「五大官僚族」と云うものがあって、その中の一つです。
    主に、「大蔵官僚族」でした。
    その「大蔵官僚族」が「伴氏」なのです。
    この「伴氏」の「大蔵官僚族」は、「大蔵氏」として「桓武天皇」から賜姓を受けた族で、「氏族」と成り、その大蔵氏の父の「阿多倍王」は、中国の「後漢]と云う国の第21代献呈の曾孫で「阿多倍王」と云う王が居て、その者が隋に滅ぼされて、17県200万人の民を引き連れて、大和博多に上陸しました。
    瞬く間に九州全土を無戦で制圧し、関西の手前までの33国/(66国)を勢力圏に収めたのです。

    その後、「戦い」を避け帰化し、敏達天皇の曾孫の孫娘の皇族の皇女を娶り、准大臣に任じられました。
    そして、当時の政治機構の「三蔵制度」の内、「藤原氏」が持つ「斎蔵」を除き、「大蔵]と「内蔵」の朝廷の政治機構の二つの実権を官僚族として握りました。
    中國の後漢の進んだ政治能力をもった「阿多倍の職能集団」の民は、瞬く間に平安初期の遅れた古い政治機構を改革して新たに作り上げたのです。
    その「阿多倍王」には、皇族の血筋を持った「三人の子供」が居て、長男は坂上氏を賜姓され、彼の有名な坂之上田村麿です。
    この坂上氏は、朝廷の軍政を担いました。
    次男は大蔵氏の賜姓を受けて、朝廷の財政の「大蔵」を担いました。
    三男は内蔵氏の賜姓を受け、天皇家の財政を担う「内蔵」を担当しました。
    内蔵氏の子孫には、安倍氏や阿倍氏があり、東北方面に定住しています。

    この長男は、桓武天皇と兄弟の様にして育ち、全国を統一する事に成功した事で有名な人物です。

    次男の大蔵氏は、財政を受け持ちながらも、「阿多倍王」の父の「阿智使王」が住む九州の統治までも任されたのです。
    そこで、大蔵官僚としての末裔が、この子孫が「伴氏一族」です。
    この「伴氏」の一部が、九州全土の税を受け持つ「弁済師」で赴きました。
    そこで、地元の豪族と血縁をして九州にその子孫を多く遺しました。
    その最大の勢力を持ったのが、日向から薩摩まで勢力を張り、室町期中期までの長い間、この「伴氏の末裔」の肝付に居た者が、室町期の最大時には制圧していました。
    これが、地名を採って名乗ったのが、何とお家の肝付氏なのです。
    歴史的な出来事から考えて、お家の「肝付氏」が未だ南薩摩に現存する事が大変に珍しい事なのです。

    さて、この「肝付氏」は、九州では、上記の「大蔵氏」が、朝廷より「錦の御旗」を授かり、「遠の朝廷」として「九州全土の自治権」を与えられました。
    この上記の北九州各地に根付いた「官僚族の弁済師」の「伴氏」と、この自治権を与えられた同族の大蔵氏との同族血縁族です。

    同族血縁族は、当時は、「高位の氏族」に取っては純血性を護る為の「高位の仕来り」として当たり前の習慣でした。
    主に、九州南域を任されたのが、この肝付に居た大蔵氏族で、地名を名乗りました。

    ところが、ここでこの「肝付氏」は「青木氏」と繋がりが出て来るのです。

    平安末期に「源平合戦」が起こり、「清和源氏の源頼光」が平家に反旗を翻し、「以仁王の乱」を引き起こしたのです。
    ところが敗退し、頼光の孫には、「宗綱と有綱と京綱の三人の兄弟」がいましたが、「京綱」は血筋を護る為に同族であった「伊勢青木氏」に事前に「青木氏跡目」に入り、命を取り留めました。
    しかし、「宗綱と有綱の二人」は、罪を得て斬罪と成る所を、「京綱の青木氏」は平家清盛の母方(伊勢伊賀定住)に助命嘆願して、聞き入れられて、お家の一族が住む「肝付氏」の住む「日向廻村」に配流と成りました。

    「桓武天皇」は「伊勢青木氏の末裔」で母方(高野新笠)の実家先は伊勢伊賀で阿多倍王の定住地であり、「伊勢青木氏」とは伊勢地域に住み、古代和紙の生産でも、共に殖産していた仲間であった。
    つまり、間接的に血縁族の縁籍族でありました。
    この誼で助命嘆願をしたのです。
    「伊勢青木氏」は、平家とは間接的な血縁族と成ります。

    ところが、この時、この二人は、日向廻村から再び「大蔵氏族肝付氏系廻氏」を背景に九州平家に対して再び反旗を翻しました。
    結局は敗退して、やっと廻氏の一部は、「薩摩の大口村の寺」に「二人の末裔」を護り何とか逃げ込みました。

    然し、結局、平家に追いつかれて、寺の門前まで来た時に、親族の「伊勢青木氏」を名乗りました。
    「伊勢青木氏」には、「不入不倫の権」の「永代特権」で朝廷より護られていましたので、平家は引き上げました。

    これで、「肝付氏」の保護の下で、「大蔵氏族肝付氏系廻氏」とその「清和源氏の血筋」をひく末裔は生き延びて、この時から薩摩大口村に「大蔵氏族肝付氏系廻氏」の「日向青木氏」が発祥しました。
    その後に、平家が滅亡し故郷の日向廻村にも「青木氏の子孫」を拡げました。
    「日向の青木氏族」が平安末期に九州に発祥しました。

    この時に、この薩摩隼人に「青木氏族」として「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」が発祥しています。

    お家の本流の「大蔵氏」は、平家一族で、「肝付氏」も平家一族であった事から参戦せず、この「宗綱と有綱」と北九州に駐屯していた「平家との戦い」には「肝付氏廻氏」だけが参戦したのです。
    この肝付氏系廻氏に執っては「同族争い」と成ったのです。
    「平家の同族」でありながら反旗を翻した事から、同族の廻氏は寺の門前でも許されず、結局は住職の勧めで、護って来た清和源氏の血筋を引く赤子の末裔に、「伊勢青木氏」を名乗らせて急場をしのいだのです。

    この「肝付氏系廻氏」の血筋を持つ「日向青木氏」は、室町期末期からは「黒田藩の大傭兵軍団」と成って勢力を盛り返し一族を拡げ青木村を形成しました。
    日向市から大口市までの地域にこの「肝付氏系廻氏の青木氏」は現存します。
    有名な野球選手も出ています。

    この「日向青木氏」は、お家の「肝付氏」とは、親族なのです。

    ところが、この「大蔵氏系肝付氏」は、室町末期に、南薩摩から起こった土豪の島津氏が勢力を拡大して、肝付氏とは十数回も戦い勝敗は尽きませんでした。
    結局は、薩摩の島津氏が優位を保ち、島津氏が支配権を薩摩で取りました。
    そこで、両氏は決戦を避けて、肝付氏は島津氏の支配下に入り、薩摩北域を持つ事で、島津氏の筆頭家老として治めて子孫を遺しました。
    その後に血縁して島津一族として栄えました。

    これが、お家の肝付氏です。
    ある程度の系譜も判って居ますが、さて、お家の肝付氏は、大蔵氏系に近いのか、肝付氏に近いのか、廻氏に近いのか、青木氏に近いのか、長嶋氏に近いのかは情報が無いので判りません。

    情報としては、「隼大」と「都城」と「中郷」からは、大隅の隼人に住んでいた青木氏族に近い永嶋氏との繋がりを持つ肝付氏ではないかと考えられます。

    詳しくは、兎も角も掲示板と研究室に島津氏、肝付氏、廻氏,長嶋氏、宗綱、有綱、日向青木氏等のワードでサイト検索で引き出して全て読んでください。

    極めて詳しく論じていますので、お家のルーツが観えて来る筈です。



    他に情報が在りましたらお知らせください。
    ちょっとした情報でもお家の更なるルーツが観えてきますよ。

    念の為に、明治以降の情報はルーツ探究には社会体制が異なる為に全く参考には成りません。
    尚、「真宗」に付いては、九州の南薩摩のお家の事をある程度物語っています。

    では、ご不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
    「青木氏族の関係族」としてお答えいたします。


      [No.1073] 高祖父
         投稿者:きもつき   投稿日:2015/11/24(Tue) 18:47:16  

    はじめまして。宮崎県都城市に住む肝付と申します。
    私の高祖父はハヤタ(早太?隼大?)と言い、児玉家から養子を迎えたということ
    です。高祖父がどんな人物だったのか、全くわかりません。
    かつて父が調べたらしいのですが、役所の記録は保存期間を過ぎていたとのこと
    です。
    家は旧中郷村にあります。曽祖父は軍人で、東京や熊本にも勤務し、満州にも居
    たのか、あちらの友人と撮った写真があります。病気で早く亡くなったようですが、
    晩年に村長をしていました。我家は東本願寺派浄土真宗。近くの寺に納骨堂あり。
    寺の維持か納骨堂の建立などに我が家も協力したようです。
    家紋は特に使用することもなく、一応、軍配ですが、調べたところ児玉家のものの
    ようでした。仏壇に神棚、氏神の社もあります。カネトシ?という方が警察関係の
    仕事で静岡に勤務していた際、山岡鉄舟と交流があったようですが詳細不明です。
    家系のつながりを知るにはどうしたらいいでしょうか。
    御助言等戴けましたら幸いです。何卒宜しくお願い申し上げます。


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