青木ルーツ掲示板
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    ※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。
    みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。
    また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、
    下記の情報を添えて書き込んでください。
    福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。

    必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。]
    ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など)
    ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。
    ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。
    ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。
    現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。

    この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。
    関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。

    青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。
    ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。
    また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。

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      [No.265] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:42:15  

    Re: Who am i?
    副管理人さん 2007/03/03 (土) 12:01

    愛知の青木さん
    今日は。はじめまして。

    青木サイトにようこそ興しいただきました。
    これから、同じルーツを持つ青木氏としてちょくちょくお尋ねください。

    さて、お尋ねの件ですが、本当に情報が少ないので大変ですが、二つの情報から検証してみますので確定は困難ですが、そのようにご理解ください。

    青木氏は大きく分けて2つのルーツで構成されています。
    1つは、皇族賜姓青木氏です。
    つまり、天智天皇から数えて5代の天皇の第6番目の位置する皇子が臣下して侍となり、この皇子に対して天皇自らこの第6位皇子に氏を与えました。
    これが青木氏であります。
    この青木氏は天智天皇の大化の改新前は蘇我氏に3権(政治経済軍事)を牛耳られて飾りでありました。自らを守る武力が無く極めて不安全でもう少しで蘇我氏に天皇の座を奪われるところまでになっていました。
    そこで、中大兄皇子が蘇我入鹿をうち、この反省から、18の改革と10の活動の改新を行いました。
    その中の一つに、天皇を自ら護る親衛隊を創設しました。この任務に就いたのが第6位の皇子であります。
    その第6位皇子が青木氏を発祥させました。
    この青木氏は5家5流24氏から成っています。
    その5家5流の青木氏は初代の伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王を元祖としています。
    従って、この5つの土地には笹竜胆を家紋とする青木氏が存在します。
    そこから分かれて土地の豪族との血縁で発祥した5つの土地の豪族系青木氏から生まれた24氏が存在します。
    研究室の「皇族賜姓青木氏」のレポートに詳しく書いてありますので参照して下さい。

    次ぎに藤原秀郷流青木氏です。
    この青木氏は藤原秀郷が平の将門の乱を鎮めた勲功で出世して貴族に取り立てられ武蔵と下野の国をあたえられました。
    この時、貴族は武力をもつ事が出来ないので秀郷の第3番目の子供の千国と言う息子に皇族賜姓青木氏と同じく真似て、護衛役の任務をあたえました。これが藤原秀郷流青木氏です。

    青木氏は、一般の者が名乗っては成らない氏でしたが、特別に朝廷の許可を得て名乗りました。
    これが、直系1氏、直流4氏、支流4氏の主要9氏から116氏まで子孫を広げました。
    (「藤原秀郷一族の生き方」等の研究室のレポートをお読みください。詳しく書いています。)

    そこで、長野(信濃)の情報から、この信濃には3つの青木氏が存在します。
    先ず一つは、上記の信濃王の青木氏、つまり、皇族賜姓青木氏です。
    この青木氏は長野の国府のある位置に青木村を形成して定住しています。

    次ぎは、この賜姓青木氏と土地の豪族の足利氏との血縁で発祥した足利系青木氏です。
    この足利系青木氏は信濃の北側の北陸の県境に住み分けをして青木村を形成して定住しています。

    三番目が藤原秀郷流青木氏で、この藤原秀郷の宗家からこの信濃南部を守護するために朝廷の命で赴任した時に護衛役として同行した一族の青木氏です。

    この南部付近には幾つかの藤原一族が存在しますが、この中にその土地に定住した藤原秀郷の末裔が土地の名を採って真田と名乗った一族がいます。

    普通は、武蔵国に役目が終わると帰りますが、藤原氏は必ず一部を土地に残す戦略を採ってきました。
    これが真田氏です。後にこの真田氏は勢力分断を図る為に足利幕府は分家を高野山下の所に移動させました。本家はこの信濃南部付近が土地です。

    NHKの大河ドラマの風林火山で先週この真田氏が出てきました。
    この真田氏の家臣であったので有れば、この藤原秀郷一門の真田氏を護衛役として同行した藤原秀郷流青木氏であると見られます。

    家紋と土地と宗派と菩提寺が確認出来れば確定は可能ですが、一度、この藤原秀郷流青木氏を基準に
    お調べになると本家真田氏ははっきりとしていて江戸まで続きましたので青木氏は必ず出て来ると思います。
    分家は徳川氏に滅ぼされましたので一寸わかりませんが。

    信濃の真田郷には御家の本家筋のお墓と菩提寺が必ずあると思いますので、比較的も簡単にルーツの元を判明させる事は可能と思います。

    左のメニューの「地名地形データーベース」にも信濃地域のところをクリックすると詳しく書いています。
    家紋が判れば、「家紋掲示板」にも御家の家紋のところをクリックすると更に詳しく説明しています。
    研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」でも家紋が判れば詳しく書いています。

    研究室の各地の青木さんからのお問い合わせのレポートも家紋がわかれば沢山の親類の方が投稿してきていますので参照して下さい。

    青木氏のブログも参考に参照して下さい。

    先ずは信濃の真田郷のところから青木村を形成しているはずですからスタートされると良いと思います。
    御家は先ずは、真田という氏の現状の情報ではこの藤原秀郷流青木氏の末裔と思います。

    お判り頂けたでしょうか。
    ご質問とご不明な点が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
    ではお便りお待ちしています。


      [No.264] Who am i?(愛知の青木さん)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:41:02  

    Who am i?
    青木勇さん 2007/03/03 (土) 04:05 [ メール ]
    どうも、はぢめまして! 愛知の青木勇と申します。

    もともと出身が長野県で、先祖が真田雪村に仕えていた武家らしく

    家紋が、「丸に〜〜〜」だそうです。

    こんな少ない情報では判断しづらいと思いますが

    わかる範囲で構いません!

    なにかわかることがあったら教えていただけませんか?

    どうか宜しくお願いします!!


      [No.263] Re: はじめまして(栃木の青木さん)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:39:38  

    Re: はじめまして
    千葉在中、栃木の青木Kさん 2007/03/30 (金) 23:02 [ メール ]
    すいません説明不足で・・・。
    鹿島神社(分社)は抱き角紋でしたね。
    当家の家紋は、丸に抱き角紋です。最初に言ったときには、なんか似たような家紋だと妻と話していてそんな話を書き込みました。
    又鹿骨という地名は、昔、常陸国の鹿島大神が大和国奈良の春日へお移りになった時のこと、途中この地を通られた時、大神の杖となっていた神鹿が病気でたおれてしまい、里人はこれをていねいに葬ってこの地に祀ったそうです。又何かありましたらお便りします。


      [No.262] Re: はじめまして(栃木の青木さん)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:38:48  

    Re: はじめまして
    副管理人さん 2007/03/30 (金) 21:17


    栃木の青木さん 今日は。
    さて、早速ですが、家紋が「丸に鹿角」と言う風に述べられていますが、「鹿角」は文様の総称ですので。
    鹿角文様には24もの文様があります。

    この中の4つの「抱き角紋」が諏訪族青木氏の家紋です。家紋掲示板をもう一度参照して下さい。
    その中の一つの丸に抱き角紋です。

    父上が養子であるとの事ですが、貴方が男性であり2代続きの養子ではないので昔の仕来りでは「丸に抱き角紋」である事には変わりが有りません。

    男系が出来ないときは養子を取りますが、その期間中は養子先の家紋と成ります。しかし、次に又養子であれば、女系になったことを意味するわけでありますから、この場合は元の家紋は継ぐ事が出来なくなったので最初の養子先の家紋と成ります。最初の養子との間に男子が生まれたら元の家紋に戻り生まれた男子がそれを継ぐ事に成ります。
    2番目の養子に男子が生まれなければ2番目の家紋に再び変更します。女系続きですので。

    次に、江戸川の鹿島神社の件ですが、鹿島三者の神社ということで、この三社の寺紋は左三つ巴紋ですので、江戸川の鹿島神社の家紋が「丸に抱き角紋」と言うことは変ですね。
    多分これは、この「三つ巴紋」の鹿島神社の中に分社という形で、諏訪族青木氏の諏訪神社の分社があったという事に成りますね。
    皇族賜姓青木氏系の24氏の青木氏は自らの神社を持っていました。
    勿論、同系24氏の一つですので、綜紋の「笹竜胆紋」から「抱き角紋」に変紋した事により「抱き角紋」の神社が横浜や栃木の周辺にあるのです。
    この神社の分社が江戸川の鹿島神社にあったのだと思います。
    この分社は何処の神社でもあるのです。
    大勢の人が参るのですから、自分の守護神の神社があれば便利ですから。特に江戸では各地から大勢の人が集まってきていますので分社が殆どです。多分、その鹿島神社も分社か支社と思います。
    江戸の神社は殆ど分社支社です。
    つまり、支社の中に分社の神社を設けているのでしょう。
    本家本元に初詣は大変ですからね。

    大きな神社に行くと20くらいの分社がざらにありますよ。

    先祖があって自分があるのですから、ご先祖との引き合う何かがあるのだと信じています。

    現在の自分は1/250兆の確率でこの世に出てきたのです。
    つまり、完全に選ばれて出てきた事になりますよね。この確率は。

    現在の遺伝子学では血液型が同じであれば、80-95%の遺伝子を引き継いでいる事になります。
    という事は、殆どクローンですね。

    この理屈から、先祖は過去の自分であり、孫は未来の自分であり、子供は近未来の自分と言う事に成ります。

    当然に、過去の自分から何か(テレパシー)で引きつけられることもありえます。95%の自分なのですから。

    このことに付いて、研究室の「先祖の人生観連立方程式」にレポートしていますのでお読みください。

    では又お便りください。


      [No.261] Re: はじめまして(栃木の青木さん)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:37:43  

    Re: はじめまして
    千葉在中、栃木の青木Kさん 2007/03/29 (木) 23:14 [ メール ]
    いろいろとありがとうございます。
    家紋は、丸に鹿角でした。
    又、どうやら父の父は(自分の3代前ですね。)以前栃木と言う性で青木家に
    養子に行ったそうです。(ってことは純水ではないのか?)
    がしかし十数年前に父が商売を失敗してしまい、余儀なく土地を動くことになり現在江戸川区、鹿骨という土地に十数年前より商売の拠点を置いています。近所の氏神様にお参りに行った時はびっくりしました。なんとそこは鹿島神社なのですが門が「鹿角」ではないですか。何かこの土地に呼ばれたような思いで毎年欠かさずに初詣は行っています。何か御祖先様のお力ですかね?


      [No.260] Re: はじめまして(栃木の青木さん)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:36:53  

    Re: はじめまして
    副管理人さん 2007/03/23 (金) 20:48


    栃木の青木さん 今日は。始めまして。

    御家のことは詳しく家紋掲示板の2Pに抱き角紋の4つの青木氏がレポートしています。
    又、この研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の鹿角紋のレポートを参照して下さい。

    この4つの家紋のうちのどれかに成ります。

    大まかには雑談掲示板に書きましたが、諏訪族青木氏です。
    諏訪族は諏訪太鼓で有名な武田軍団の赤兜の軍団で大変強い軍団でした。
    しかし、信長との戦いで負けて、この諏訪族青木氏は藤原秀郷流青木氏の所を頼って横浜神奈川に到達しました。ここで諏訪族青木氏の一部が残り、更に奥の栃木へと逃げ延びたのです。
    そして、そこでその力を発揮して土地に根着き郷氏や庄屋や名主などになりました。

    元は諏訪族は620−660年頃にかけて帰化してきた200万人もの後漢の民で、この民は後漢の国を造った光武帝より末帝21代の献帝の子供の石秋王の子の阿智使王と孫の阿多倍王らに率いられて九州に上陸、瞬く間に無戦に近い状態で征圧し、中国地方から関西にかけて征圧しましたが、朝廷に帰化を申請し、次々と上陸してくるその一部が信濃の開拓に廻されました。この阿多倍一族の5代後の末裔が平清盛です。

    それが、諏訪族の始祖に成ります。ここに皇族賜姓青木氏が守護王として着任し、後にこの諏訪族と血縁して発祥した諏訪族青木氏が発祥しました。
    後に武田氏に組み込まれて、武田系諏訪族青木氏となりました。
    信濃王の皇族賜姓青木氏の一族と諏訪族と血縁しましたが、男系継承が2代続きで女系となり、出来ずに養子先の家紋となり諏訪族青木氏となったもので、家紋は皇族賜姓の綜紋の「笹竜胆紋」から「抱き角紋」と成ったものです。つまり、御家一族の綜紋は「笹竜胆紋」です。

    話を戻して後は信長に敗退して逃げ延びてきました。

    御家の諏訪族が、天皇に、その開拓の勲功で、都に会いに来る状況が日本書紀にも出てきます。

    「皇族賜姓青木氏」のことは研究室の所の皇族賜姓青木氏のレポートをお読みください。

    渡来人の阿多倍一族のことも研究室にもありますのでゆっくりとレポート参照して下さい。

    何かご質問がありましたら遠慮なくお便りください。
    ではお待ちしています。


      [No.259] はじめまして(栃木の青木さん)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:35:22  

    はじめまして
    千葉在中、栃木の青木さん 2007/03/23 (金) 08:50 [ メール ]
    同じ内容で、記帳させていただきました。はじめまして青木氏のホームページが在ったとは驚きです。千葉県在中ですが、父の出身は栃木県栃木市です。
    家紋は鹿角紋でしたが、詳細がわかりません。
    宗派は、浄土宗。
    菩提寺は、市内の近龍寺です。
    父の口癖は、祖先は壬生の殿様だったなんてことをよく言っていました。(まだ健在ですが・・・。)
    ちょっと前のど祖先様は、栃木市で紙屋を営んでいました。
    何かわかりますかね?又いろいろと御祖先様について興味がわいてきました。ありがとうございます。


      [No.258] Re: 群馬の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:31:39  

    副管理人さん 2007/03/26 (月) 21:56

    今日は。さて、ご質問ですが、
    石の種類は何でしょうか。
    昔、江戸時代の御家人が家柄を競うため、庭石や灯篭などで誇示した事がありました。石でも大きいだけでは誇示できませんでした。
    石の種類の良し悪しがありますので、普通武家が競ったのは「青石」です。
    この習慣は朝廷の公家達が庭に高級石の「紫石」等を庭石として玄関先や門前の見えるところに据えました。

    この「紫石」は珍しい石であるので大きいほど値打ちがありました。当然に数も多ければそれだけで高級石を持っているので値打ちが上がります。
    何故、この紫石が良いかというと、朝廷や幕府では、紫は当時、僧侶の袈裟色が最高位を示す様に、色として最もいい色と認められていました。
    確かに紫石はきれいです。次に良いのがこの「青石」なのです。
    この二つの石は万葉歌などを刻んで碑にしたりして、家柄身分の嗜みとして公家や貴族は楽しんだのです。
    紫石は、天皇や公家が使う特別仕立ての最高級硯石に用いられました。めったに見つかりません。
    青石は比較的にありますが、特産地は何れも主に紀州石なのです。昔より県外不出の条例があるくらいです。

    紫についで青は青木氏の青で、その氏の由来どおりに昔は全ての根源を意味したのです。
    青もきれいですが、「生命の根源」を意味していました。青木と言う木がありますが、この木は常緑樹で真っ赤な10ミリ程度の実をつけます。
    赤い実は、血を意味し命を表し、青い葉は長く続く生命を表します。生物の根源を意味するのです。
    ですから、我々の皇族賜姓青木氏の氏の由来が、青木なのです。全ての民の根源、即ち民の元を意味して天智天皇から賜姓を受けてつけられたのです。
    この様に、紫石や青石は大変貴重できれいな石である事から、そのステイタスとして持つ事を競ったのです。
    そのために入手そのものが難しいかったのです。今も。

    関西、紀州では今でもこの二つの石を多く大きく持っている家はその家柄を誇っています。

    他に、第3番目に白岩石(御影石)も同じ扱いをされています。あまり、わざとらしいので風流を好む人には好まれません。「枯山水邸」に谷川を表す石として用いています。

    一度どのような石であるかをお調べください。では又お便りお待ちしています。


      [No.257] Re: 群馬の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:29:54  

    群馬の青木さん 2007/03/26 (月) 18:52
    ありがとうございます。
    すごい名前なのですね。また調べてみます。

    そして、また聞きたいことがあるのですが、庭の外(道路の縁側)に大きな石(縦幅1m横幅1m40)くらいの石が3つほどあるのですが、前から気になっていたのですが昔の武士は石の大きさなどで石高を表していたと聞いたことがあります。もしかして、それらの石はそれなのではなかと思うのですが、実際どうなのでしょうか?また、父の話では開拓して出たものでないかと言っておりました。


      [No.256] Re: 群馬の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:28:37  

    群馬の青木さん 今日は。

    お久しぶりです。去年の10月以来ですね。

    お彼岸でお墓参りされたそうでよかったですね。
    さて、ご先祖のお名前が、忠右衛門さんとの事ですが、実はこの「..右衛門」の「右衛門」と言う名は朝廷の官位なのです。
    「左衛門」と同じく官位で、朝廷の宮殿を守る官位役職です。近衛兵です。宮殿には「右側の門」と「左側の門」とを近衛兵が守っていたのです。
    この近衛兵は天智天皇が定めたもので、蘇我氏に「軍事、経済、政治」の3権を牛耳られていた反省から、大化の改新の「18改革」と「10活動」改革の一つとして実行した制度で、第6位皇子を臣下させて侍とし、賜姓(青木)を授け、親衛隊としたものです。

    これが伊勢王の「施基皇子」を始祖とする初代の皇族賜姓族の「伊勢青木氏」です。
    この時、「天智天皇」は更に、「冠位制度」と共に「7色の姓制度」という制度を施行しました。
    この中の一つが「衛士」制度というものがあり、宮廷の各門を守らせる徴兵制がありました。
    この「衛士」には各地から身分の高い氏の若者を選びました。
    そして、これ等の「衛士」を青木氏が指揮していました。つまり、親衛隊の近衛兵です。

    この名誉ある近衛兵の指揮する青木氏らの幹部に与えられた官位として、次のようなものがあります。
    左衛門
    現代の軍隊であれば、下士官で軍曹に当る。5家5流の支流24氏はこの冠位を与えられた。
    右衛門
    現代の軍隊であれば、下士官で軍曹に当る。5家5流の支流24氏はこの冠位を与えられた。
    左衛門尉 
    現代の軍隊では士官級で少尉から大尉に当る。この階級を3つに分けられていました(少、中、大)
    右衛門尉
    現代の軍隊では士官級で少尉から大尉に当る。この階級を3つに分けられていました(小、中、大)
    左衛門佐
    現代の軍隊では上級士官級で少佐から大佐に当る。この階級を3つに分けられていました(小、中、大)
    右衛門佐
    現代の軍隊では上級士官級で少佐から大佐に当る。この階級を3つに分けられていました(小、中、大)

    左兵衛府
    右兵衛府
    親衛隊の近衛兵の指揮官。諸国の郡司の子弟などから兵衛を率いて、宮門の守衛や行幸の警護などを担当した。
    民部丞尉(民部尉)
    現代の軍隊では准将から大将に当り将軍位です。伊勢青木氏他4家の青木氏はこの冠位です。

    例として、「北面武士」、「西面武士」ということばがありますが、「北面武士」は北側の門を守っていた近衛兵軍団です。
    「西面武士」西側の門を守っていた近衛兵軍団です。
    後に、天皇と北条氏と戦いましたが、この時にこの「西面武士軍団」が戦いました。

    藤原秀郷一族はこの左衛門佐、右衛門佐の官位を代々授かり、この藤原氏は後に佐を採り「佐藤氏」と名乗ったのです。
    左衛門の冠位を授かった藤原秀郷一門は左を採り「左藤」と名乗ったのです。

    この様に、護衛隊の賜姓青木氏に与えられた職位ですので、この名誉を守り、名に左衛門、右衛門を付け前に区別用の文字をつける習慣がありました。
    特に、近江の青木氏にはこの「..右衛門」の官位を名にしたものが多く襲名として引き継がれてきました。
    伊勢は親衛隊の左右兵衛府の官職を担いましたので、「..長兵衛」の代々襲名として引き継がれて来ました。

    御家のルーツは抱き角紋の諏訪族青木氏で24氏の一つですので、代々この「..右衛門」を襲名していたのではと考えます。しかし、江戸時代末から明治にかけて誰でもが使うようになりました。

    江戸時代初期までは、厳格にこの官位の名を使用する事は青木氏や藤原氏らにて守られていました。

    群馬の青木さん この様にご先祖の名には由緒あるお名前ですので引き継がれて来たものと思います。大切にしてください。大正時代までは普通の名に成っていましたが、元はこの様な青木氏と藤原氏に関わるもので意味を持っていました。

    又、何か判りましたら、是非お便りください。お待ちしています。


      [No.255] Re: 群馬の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:26:51  

    群馬の青木さん 2007/03/23 (金) 09:07
    おひさしぶりです。お彼岸ということで久しぶりにお墓参りに行き、江戸時代に生きていた祖先の名前を知ることができました。
    名は青木忠左衛門という人物でした。没した年は慶応3年とかいてありました。確か農民などが苗字をつけて良くなったのは明治3年ごろと聞いたことがあるので、昔から青木という苗字を持っていたと知り安心しました。


      [No.254] Re: 三つ盛り州浜
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:24:10  

    Re: 周防大島
    副管理人さん 2007/03/16 (金) 11:02
    今日は。
    周防では大変に資産家であったようですね。

    当時は鎌倉幕府が出来て多くの氏家が朝廷からの職を失いました。特に、皇族賜姓青木氏や藤原氏の四家は大集団の一族でしたが、武士に代わった鎌倉幕府で完全に職を失い、各地に離散しました。

    御家の場合も皇族賜姓甲斐の青木氏ですから、一時職を失いかけたと見られますが、この時、頼朝は本領安堵策という2つの政策を強引に北条等の反対を押し切り、実行に移しました。
    つまり、清盛等の京平家に奪われた土地を元の青木氏や藤原氏に戻す政策を実行したのです。

    これで頼朝の味方となる源氏の11家の一族と同族の青木氏5家の一族の各地の勢力が息を吹き返しました。この時、御家の甲斐の青木氏も息を吹き返し、一時衰退していた家を起こす事が出来て各地の安堵地を獲得したはずです。
    この時に、肥後付近の自領地を取り戻したと考えられます。
    その後、鎌倉幕府はこの独断専行した頼朝を3年後にトリカブトの毒草で暗殺します。北条氏に依って頼朝の子孫の一族も全て暗殺されます。その後、室町幕府になり下克上と戦国時代が起こり、信長と武田氏が台頭し武田氏は滅びます。
    この時、御家はこの肥後付近の自領地に逃げ延びたものと考えられます。
    そして、そこで土地の地主として生きて土着の郷氏となり、秀吉や家康の時代に土地の守護大名となったものに仕えたと見られます。
    郷氏といえども、元は皇族賜姓の甲斐の青木氏ですから家柄身分はどの戦国大名より上ですから、御家の様に土地に力のある郷氏の仕官は政状安定から、当然に守護大名は雇い入れた筈です。

    御家はこの時、薬草などを小作人に栽培させながら、これを売りさばく大店と組織を持っていた筈です。つまり、「二足の草鞋」策を採っていたのです。
    これは大抵の5家の青木氏は、室町末期か江戸初期頃から、この方式で生き延びてきたのです。「二束の草鞋」と「郷氏」でです。
    江戸時代までの全ての大店の家柄は、このような家柄の氏が営んでいたのです。
    又、そのような力とシンジケートとの繋がりが無くてはこの時代は大店はできませんでしたのです。

    だから御家は、薬と漢方の医者であったのです。それだけの背景があり、その身分と家柄から郷氏であって、家臣となりましたが、仕官先の大名の家柄より数段上であり、朝廷から「守」を受ける家柄であった事から朝廷より名誉職を与えられる資格適任氏であったのです。
    誰でもが医者だから受けられると言う事は有りません。それなりの家柄にしか出しませんでした。

    朝廷には、古来より「冠位制度」と「姓制度」とがあり、この規則の範囲で名誉職の種を出していました。いくら金品を積んでも、原則はこの方式に従いました。

    例えば、徳川氏でも、朝廷は征夷大将軍の冠位を出す事を渋りました。この最高職の冠位は皇族賜姓青木氏か皇族賜姓源氏の2つの氏にしか出しません。そこで徳川氏は室町中期の天皇家の第6位皇子の先祖だと搾取偏纂して一切の生活費まで押さえて脅かしをかけて認めさしたのです。
    室町中期は南北朝の時代で、既に、第6位皇子の賜姓は行っていませんでしたし、主張する皇子などいませんでした。作り上げて認めさしたのです。有名な事件です。

    他に、その後、「源氏の頭領」という冠位がありますが、これも要求しましたが朝廷は譲りませんでした。又、朝廷は天領地を全て奪われ生活費を押さえられて食べるのも苦しいことになりました。
    そこで、苦し紛れに、「源氏の長者」と言う冠位を作り与えたのです。

    郷氏で抱え医者で、「守」が与えられるのは皇族賜姓青木氏の5家の家柄であった事が認められたのです。

    実は私の家の伊勢青木氏も同じ二束草鞋策で生き延びてきたのです。
    伊勢の豪商の紙屋長兵衛で、名張の小次郎の小説や歌舞伎やNHKの大河ドラマに3度も出て来るほどの商家です。祖父の明治35年まで約950年程度続きました。
    私の家の伊勢青木氏は平安期から代々の冠位は「民部尉位」です。
    天皇を守る親衛隊の侍の最高位の冠位です。伊勢青木氏の役目とおりの冠位です。

    面白い話があります。
    紀州初代徳川頼宣が伊勢の飛地領(元は天領地)の伊勢青木氏の我が家に会いに来ました。
    お城の松坂城で会いました。その時、家康の子供のこの頼宣は一段高い殿様が座る上座から降りて下座に移り、上座に青木長兵衛を座らせました。この仕来りは祖父の代まで付き合いがあり大正14年まで続いたとの事です。
    これで、同じ施基皇子を始祖とするルーツ御家もどのくらいであったかを物語る事が判ると思います。神官で医者として「守」が与えられたもので、本来は綜紋「笹竜胆紋」の「民部尉位」です。

    元、施基皇子を始祖とする同じ従兄弟兄弟関係の青木氏ですが、その後の生き様もよくにていますね。

    この様に、5家5流の青木氏はこのような郷氏が多く、大店とで「二束の草鞋策」で生きのびました。

    当時は、相等の家柄身分で血縁をしていましたので、お説のような血縁が生まれるのです。

    ぜひとも子孫を大事にお育て下さい。
    それから、三つ柏紋が珍しいと書かれていましたが、珍しいのではなくそのような家柄身分なので少ないのです。

    今は、三つ柏紋ですが、綜紋(一族の統一紋、元の紋)は私の家と同じ「笹竜胆紋」です。

    三つ柏紋は大変に由緒有る日本でも10の指にも入る家紋で、家紋200選にもある文様ですので、
    日本全国で家紋は8000ありますがその中のトップ10ですよ。

    家紋掲示板の三つ柏紋の青木氏は6つあると思いますが、その宗家です。元を辿れば笹竜胆紋でそれも伊勢の青木氏と同じルーツですので、天皇の菊紋に継ぐ笹竜胆紋を綜紋とする三つ柏紋です。

    そのお店に無い方がおかしいのです。家紋中の家紋なのです。だから、「守」が降りたのですから。


      [No.253] Re: 三つ盛り州浜
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:22:59  

    周防大島
    福岡在住青木さん 2007/03/15 (木) 23:36

    このあたりには青木という地名が多いですね。
    気がつきませんでした。
    私は周防大島出身ですが、毛利が関が原で負けて
    外様になったときに、石高が減らされてやむなく
    先祖が大島に移り住むことになったようです。
    120年ぐらい前までは住んでいた地域の土地はほとんど
    私の先祖の土地だったそうですが、相場で損したりと
    次第に財産はなくなったようです。
    ただ、調べてみると以外なことに登記の変更のないまま
    他人がすんでいる土地があるようで、まあ地代も取って
    ないまま数十年がすぎて実質その人の土地になっているようですが
    かなりの名士だったことが想像できます。

    また、曾爺さんの嫁、つまり曾ばあさんは大変な名家
    だったようで、結婚してからも御付の人がいたらしいです。
    晩年もおごうさまと言ってたまにうちに来ていたそうですが
    私も小学生だったのでほとんど覚えておりません。

    ちなみの曾ばあさん方の系列をたどると、岸家に嫁いだものがいるようで
    今の総理大臣はかなり遠い親戚になるようです。
    向うは知りませんでしょうが、私も結婚するときに
    初めて聞いて、相手の父親の前でびっくりしたのを思い出します。
    ちなみに私は普通のとりあえず正社員のサラリーマンで
    古い血筋とは思えないただの人です。あしからず。


      [No.252] Re: 三つ盛り州浜
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:21:59  

    Re: 三つ盛り州浜
    福岡在住青木さん 2007/03/14 (水) 22:30
    詳しく説明してくださって大変ありがとうございます。

    私の家はかなり古い歴史があるのですね、びっくりしました。

    五月人形には家紋を入れておきます。

    私も守がつく人がなぜ家臣に当たる立場になるのか不思議に
    思ってましたが、名誉職なら理解できます。
    今後も歴史について調べてみたいと思います。

    ちなみに掲示板やサイト内をよく見ればわかることもあったのですね、
    お手数を掛けました


      [No.251] Re: 三つ盛り州浜
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:20:45  

    Re: 三つ盛り州浜
    副管理人さん 2007/03/12 (月) 20:40

    青木さん 今日は。

    ようこそお出でくださいました。これからも青木さん同士コミニケイションを計りましょう。

    さて、ご質問ですが、
    御家の家紋が「三つ盛州浜紋」ですが、この青木一族に付いての詳しい内容はこの研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」の州浜紋のところのレポートをお読みください。詳しく書いています。
    御家のルートは藤原秀郷流青木氏です。
    この藤原秀郷流青木氏に付いてはこの研究室の「藤原秀郷一族の生き方」のところに詳しくレポートしていますので参照して下さい。
    そして、これ等の関連のレポートを沢山研究室にありますし、多くの元親族の青木さんからのお問い合わせなどもレポートしていますのでゆっくりと楽しんで御読みください。青木氏のこと全てがわかります。
    先ずは研究室のメインメニューあたりから読まれると良いと思います。

    そこで、青木氏は主に2つのルーツから発祥しています。
    一つは皇族賜姓青木氏です。
    概略だけ書きますが、天智天皇の第6位皇子が天皇の親衛隊と成る為に臣下して侍となり、先ず初代の青木氏を発祥しました。これが施基皇子を始祖とする伊勢青木氏です。そして、その後、4代の男系天皇がこの仕来りに従い第6位皇子を臣下させ、侍とし、賜姓(天皇が自ら皇子に氏を授けること)し近江、美濃、信濃、甲斐の守護王として配置して守らせました。これが5家5流の賜姓青木氏です。この青木氏より24氏に分流しています。

    もう一つは藤原秀郷流青木氏ですが、主要直系1氏、直流4氏、支流4氏の9氏からなり116氏にも拡がっています。

    御家はこの中の一つで、直流4氏のうちの一つの一族です。大変古い名家の青木氏です。
    藤原秀郷より4代目兼光くらいのところでこの三つ盛州浜紋の一族との血縁を結んでいます。
    年代にすると概ね980−1000年頃位かと考えます。
    少なくとも、約1000程度の歴史の有る御家と成ります。この御家の元親族の方の投稿がこのサイトにも多くありますのでお読みください。

    さて、この2つの青木氏が「守」として成ったものを時代性無視で列記しますので参照ください。そこで筑後守のことに付いてご説明します。

    青木氏の守護職

    摂津守、伊豆守、豊前守、甲斐守、尾張守、伊勢守、信濃守、近江守、美濃守、下野守、武蔵守、遠江守、駿河守、出羽守、美作守、和泉守、志摩守、紀伊守、伊賀守、以上18です。

    藤原秀郷の一門は全国66国の内の24国での守護職を務めています。

    これは800年頃から江戸期までの青木氏が朝廷から任命された守護職です。
    この武蔵守あたりまでは朝廷より確実にその土地の守護として政治を執り行っていました。

    この守護職は確実にその職と統治と一致しているのは鎌倉期までの1期と、下克上と戦国時代の混乱期の2期と、江戸中期頃以後の3期とでは「守」の意味と内容が異なります。

    第1期は守護と官職は一致していますが、
    第2期は下克上で守護などが襲われて無くなり力の強いものが滅ぼした「守」等を勝手に名乗る混乱期でその正誤は明確ではありません。
    第3期は衰退した朝廷に高額金品を渡して名誉職として得て、統治国とは全く関係の無い「守」を取得するなどの慣習が流行りました。江戸幕府はこれを黙認目視して朝廷の隠し収入として黙認しました。

    さて、そこで御家の「三つ盛州浜紋」は大変古い藤原秀郷の兼光系一族ですが、由緒有る一族ですが、陸奥の小山氏や小田氏の系列ですので、陸奥から武蔵に帰り、鎌倉期で全藤原一族は崩壊しましたが、各地の藤原氏は仕官先を探して各地に分散しました。室町期と江戸前後の混乱期を経て肥後に移動して定住したと思います。
    そこで仕官したのか、守護職になったのか判りませんが、「守」を名乗るとすれば大名ですから肥後国には青木氏の国は有りませんでした。
    そこで、もし、肥後守を名乗ったとすると第3の「守」と成ります。
    更に史実的に青木氏の「守」は肥後の守はありませんので、第3期代の名誉職としての「守」と成ります。

    御家は医者であったとすると頷ける点です。当時の大名のお抱え医者だけは大名の権威を高める為にこの名誉職を衰退した朝廷に働きかけて名乗る事がありました。
    江戸期の無力の朝廷は家の壁が剥れていても直すことが出来ない程度に幕府から押さえられていました。
    江戸中期以降は、この状態を見越して多くの「守」が出てきたのです。

    ですから、無規則に出したのです。中には紀伊守、伊賀守、伊豆守等の様に問題の起こらない様に天領地にたいしてダブって出したものもあるのです。

    「三つ盛州浜紋」の家紋からも探してみましたが見つかりませんでした。

    今の御家の情報ではこの程度の事しか判りません。
    他に何かわかりましたら又ご遠慮なくお便りください。ではお待ちしています。


      [No.250] 三つ盛り州浜
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:19:07  

    三つ盛り州浜
    福岡在住青木さん 2007/03/11 (日) 23:27
    こんばんは福岡在住の青木です。
    私は山口県の東部出身ですが
    先日五月人形を買いに行ったら案の定家紋がありませんでした。
    丸のない三つ盛り州浜は珍しいとは聴いていましたが、ほんとに
    珍しいようですね。

    ちなみに私の青木家は青木肥後守という方が始祖となっているようです。
    親戚のおばさんが毛利家のおつきの漢方医をしていたと言っていましたが
    確認するすべはありません。ただし山城を持っていたようで由緒はあるようです。

    ただなんとなく漢方医をしていたと言うのもあながちうわさだけでもなさそうで
    曾爺さんの台までは薬屋をやっていたそうでその後も爺さんの兄弟が
    薬のメーカーに勤めて、私のおじさんも薬のメーカーに勤めていて、
    私もぜんぜんする気もなかったのに薬の卸に勤めていました。
    現在も薬関係の仕事をしています。
    わが家ではなんかあるんやないかー!と不思議に思っています
    ただの偶然とは思うけど、私も就職活動ほとんどせず、大学の就職課の人に
    無理やり進められて就職したところが薬の卸だったし・・・。

    しかし青木肥後守という方は中々ネットで検索しても詳しい情報は
    出てきません。
    いったいどんな人か詳しく知りたいところです・・・。


      [No.249] Re: 我が家は何者
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:15:41  

    Re: 我が家は何者
    青木研究員 さん 2007/02/23 (金) 07:33


    おはよう御座います。

    そうですか。菩提寺は判りませんか。多分本家筋の近江のどこかにあった筈です。
    本家筋を割り出してゆくと出て来ると思います。

    その寺には、青木氏の塊の墓群がある筈です。本家筋の寺と墓は浄土宗です。
    今の墓は移動して「御魂遷し」と言って移動させたものですので宗派は判らないかも知れません。
    誰でも本家筋はある筈ですから。東京に居られる場合は御家の場合はそこから入ると判ってきますよ。近江の青木氏の寺で入るとわかります。

    家紋がお判りであると言う事は菩提寺もどこかで判るはずです。近江付近の抱き茗荷紋の寺紋のお寺が有るかもしれません。
    又、抱き茗荷紋の集落があるでしょうからそこから探されては。

    美濃の野田さんに付いては全く関係ないと思います。

    当時江戸は世界一の都市でした。
    各地から、次男三男のたちの家族が移動してきました。
    本来は、「国に抜け」といって罪ですが、嫡子以外は大目に認められていました。次男三男の杭物を減らす目的で庄屋と国役所の許可を得て江戸に出てきたのです。

    それでなくては関所は通れません。また武家であれば浪人者とか参勤交代で江戸に住み着きますので多くの人々があつまりました。

    交通はその時代はその時代の能力で時間掛かっても出て来るものです。それが当り前ですから。
    現在、我々も同じです。後の世には東京に出るのに大阪としますと今は2時間ですが、多分、30もかからないと思います。いって直ぐ変えると言うことになると思います。
    例えば、ロケットエンジンの小型を列車につけて電気で始動して後は小型ロケットですれば30分でいけますよ。小型ロケットのハイブリットエンジンを研究しているとの事です。
    相すれば後の人は”昔は3時間もかかつたのだ”といわれてしまいますよね。

    江戸で何らかの縁があったと思いますよ。

    野田氏のことに付いては専門で有りませんが、野田氏は千葉の氏だと思います。地名もありますので。その頃の江戸半ばからは日本はもう「国抜け」など関係なくなっていましたから。

    農家の出であれば、嫡男は矢張り締め付けが合ったとの事ですが。それ以外の者はフリーでした。
    美濃には、皇族賜姓青木氏と土岐氏系青木氏があります。
    美濃の東外れには藤原秀郷流青木氏。西外れには皇族賜姓の初代の伊勢青木氏。
    まんなかには、川中津7党の青木氏があります。全て青木村を形成して住み分けしています。
    北側には、信濃側よりに藤原秀郷流青木氏が住んでいました。

    以上ですが、また何か有りましたらお尋ねください。


      [No.248] Re: 我が家は何者
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:14:42  

    Re: 我が家は何者
    近江の青木さん 2007/02/23 (金) 01:13 [ メール ]
    とても詳細に説明して頂きありがとうございます。

    現在では、宗派も菩提寺も分かりません。
    父は結構好い加減で、私が子供の時に、一度墓参りをしただけで、
    小さい子供のため記憶に無い次第です。
    調べるにも谷中には寺の数が多過ぎます。

    関係無いかもしれませんが、祖母は美濃の出身です。
    旧姓は、野田です。
    何で明治初期の交通の発達していない時期に岐阜から東京へ嫁いで来たのしょうか。
    岐阜には、野田姓は多いのでしょうか。(野田聖子とか)
    また美濃にも青木氏が封じられたと言う事に関係するのでしょうか。

    宜しくお願いします。


      [No.247] Re: 我が家は何者
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:13:44  

    Re: 我が家は何者
    青木研究員 さん 2007/02/22 (木) 08:08
    おはよう御座います。

    近江の青木さん。
    早速、お便り、ご質問いただきありがとう御座います。

    びっくりされたと思います。

    お尋ねの件はまず、一つは、横浜の青木町の件ですが、このことからお答えします。

    この横浜神奈川の青木町は御家の青木氏と別の青木氏です。

    この青木氏には横浜より右側では藤原秀郷流青木氏の子孫が定住し平安期から独自の村を形成していたのです。埼玉の入間を中心に神奈川横浜を半径として円を描く範囲に存在しています。
    村ついては青木氏の地名地形データを参照して下さい。

    そして、この左側の伊豆よりにも青木町があります。この神奈川の左よりの青木町には甲斐の武田系青木氏と甲斐の皇族賜姓青木氏が信長に追われて逃げ延びてここに定住しました。この一部は栃木方面にも逃げ延びています。
    次に熱海から伊豆地方にかけてある青木町は平安初期からこの地域を守護地としていた清和源氏の源の頼政に伴ってきた皇族賜姓青木氏の伊勢、美濃の青木氏です。守護地であるので一部が移動してここに村を形成したのです。

    次ぎに御家の青木氏ですが、これには3つの青木氏が考えられますが、情報が少ないので確実とは行きません。
    藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏とあり、この皇族賜姓青木氏には2つに分かれます。
    あとは佐々木系青木氏です。
    皇族賜姓青木氏と佐々木系青木氏はルーツは同じですが、発祥期が佐々木系青木氏は後に成ります。元は近江の皇族賜姓青木氏です。近江賜姓佐々木氏と近江の皇族賜姓青木氏との血縁で出来た青木氏です。

    ここで、もう一つは元は上山氏という一族がこの賜姓青木氏の分家を乗っ取り青木氏を名乗った子孫もこの近江と滋賀地方に多く存在します。

    抱き茗荷紋はこの3つの青木氏が血縁しているのですが、前レポートでも書きましたが、藤原秀郷流青木氏ではないことは、お名前の「右衛門」のなずけになっていませんので、先ず異なると考えます。
    次ぎは伊勢の皇族賜姓青木氏との血縁ですが、これもなずけでは異なります。

    ところが、近江皇族賜姓青木氏(一部佐々木系青木氏含む)にはこの土地には丹波から甲賀に沢山の城を持っていましたが、この一族は全て右衛門を使っています。「...右衛門」です。

    昔は各地のどの青木氏であるかを区別してわかりやすくする為に有る程度の家柄の子孫は襲名の習慣がありました。右衛門は近江地方の賜姓青木氏です。

    ところが、この近江賜姓青木氏は一時佐々木系青木氏との間で問題が起こり、一部は滋賀に移動しています。ところが、この移動した青木氏は又元に戻ります。一部は摂津に定住しました。摂津付近にも青木町がありますが、これは滋賀から戻った近江賜姓青木氏の子孫です。

    そこで、この近江の皇族賜姓青木氏を元祖とする御家は、この近江の賜姓佐々木系青木氏か近江の皇族賜姓青木氏か情報が有りませんので判別できません。後に、情報の提供が有りましたら定まっていくものと思います。

    「...右衛門」だけの手がかりだけですので、この皇族賜姓青木氏と云う事以外にありません。
    兎も角、この佐々木系青木氏も同じルーツですので「...右衛門」を使用しています。
    青木城の城持ちもいました。

    近江の佐々木氏も同じ天智天皇の皇子から賜姓を受けた元祖ルーツを同じくしています。

    そこで、滅亡したとのことですが、何処に書いていたのかお知らせください。
    「青木氏(家紋)と血縁族」茗荷紋には「滅亡」はないと思いますが。
    その意味具合を説明したいと思います。

    念のために、家を中心とした氏家制度のなかですので、滅亡には家が潰れたことと、子孫がなくなったこととは別ですのでご注意ください。

    この5つの皇族賜姓青木氏24氏は信長に全て潰されています。しかし、子孫をこっそりと逃しているのです。上記した様に逃げ延びて子孫を遺しているのです。
    藤原氏の青木氏の中に皇族の青木氏がのがれれば、わからなくなるからです。

    土地の守護であった「氏」つまり、「家」が無くなる事。言い換えれば守護ではなくなって身分が無くなったことを意味します。それが戦いでなくなったとすると、その後継ぎの子孫は潰されてしまいますが、抹消の支流、分流、分派の子孫は残ります。本家筋が潰されると言う事に成ります。

    ところが信長だけは、勢力が届くまでの域まで、この抹消の子孫までを殺戮したのです。

    逃げ延びたところで、元居たところで、復元しているのです。
    滅亡といっても色々あります。この青木氏は子孫を戻しています。

    青木氏は、独自の自分の寺の菩提寺と神社を持つています。御家も調べていくとこの菩提寺にたどり着けるはずです。

    そして、その菩提寺の条件は浄土宗です。現在は何宗ですか。
    宗派が異なると移動したときに付近に浄土宗が無かったことが考えられます。
    浄土宗は特別の身分のものしか入れない宗派でした。
    江戸期になって幕府が奨励しましたので少し増えたのですが少ないです。

    そこで、青木氏ははっきりした一族で皇族賜姓青木氏24氏と藤原秀郷流青木氏116氏から成り立っています。(他に上記の皇位の家柄の青木氏を真似て、一般の人々が江戸初期と明治初期に寺に高額の金品を渡して偽の系譜をつけて届け出て名乗った第3青木氏があります)
    この青木氏には矛盾が生まれます。宗派、土地、寺、地域、家紋、名、系譜など

    家紋にしますと30紋/33に成ります。家紋掲示板に掲載しています。
    御家はその一つの「抱き茗荷紋」です。

    ちょっとしたことでも結構ですのでお判りになるとお便りください。
    お待ちしています。


      [No.246] Re: 我が家は何者
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:12:37  


    Re: 我が家は何者
    近江の青木さん 2007/02/22 (木) 00:40 [ メール ]
    すいません、書き忘れたのですが、
    この研究室に、近江の青木氏は滅びたと有りましたが、
    我が家は、滅びた家系なのに何で存在すのでしょうか。

    宜しくお願いします。


      [No.245] Re: 我が家は何者
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:11:37  

    Re: 我が家は何者
    近江の青木さん 2007/02/22 (木) 00:25 [ メール ]
    こんにちは、
    とても詳しい解説をありがとうございます。

    我が家は由緒正しい歴史有る家系なんって驚きです。
    曽祖父・玄祖父が右衛門と言うので、何だ我が家はドラえもんの子孫なのかって
    おちゃらけていましたが、とんでもない話ですね。
    これからは近江の青木と名乗る事にします。

    長男は○右衛門と改名しようかと言ってます。
    次男は、海外に居るので帰って来たら教えてやろうと思います。

    親父が亡くなったのは、ちょっと前でして、相続もしないで放って置いた実家を相続する事になり
    戸籍を取りに行ったところ先祖が分かった次第です。

    当初は、どうせ何処かの馬の骨だろうと思ってました。
    姓名も明治になってから貰って来たのだろうと思ってました。
    ところが戸籍に江戸の年号が記載して有るので
    江戸時代から続いてたんだと分かり、ルーツを知りたくなりました。

    ただ、親父が中学生の時に祖父は亡くなり、まもなくして祖母も亡くなったため
    私達は祖父母を知りません。
    親父も徴兵されて6年戦争に行って帰って来たら跡形も無くなっていたと言う事です。
    先祖を知るものは何も有りません。
    墓も子供の頃に谷中の何処かの寺に連れて行かれたのは憶えていますが、寺の名前も分かりません。
    親戚が居るかも分からない状況です。

    他に知る術が無いので、再び中央区役所へ行って、曽祖父と玄祖父の戸籍が無いか調べて来ます。
    ちょっと何時になるか分かりませんが、調べたら報告します。

    ヤフーに江戸古地図が有り、日本橋界隈を見たのですが、青木は有りませんでした。
    しかし九段に青木が3軒ありました。
    その内の1軒は、青木与右衛門と記載されています。
    ○右衛門繋がりで関係有るのかと思うのですが、現在は靖国神社になってます。
    もしかして明治になって追い出されたのかも知れないですね。

    因みに我が家(横浜)から近いところに青木町が在ります、これも青木に関係すのでしょうか。
    良く知らない友人に我が家の先祖が作ったんだぜとホラを吹いてました。

    これからも宜しくお願いします。


      [No.244] Re: 我が家は何者
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:09:49  

    Re: 我が家は何者
    青木研究員 さん 2007/02/21 (水) 10:17

    近江の青木さん   今日は。はじめまして。
    ようこそ、青木サイトに興しくださいました。これからもちよくちょくお尋ねください。
    元は同じルーツを持つ青木さんです。大化の改新頃に戻れば親族です。元親族同士コミニケイシヨンを致しましょう。

    さて、お尋ねの件ですが、直ぐにわかります。
    御家の家紋が「抱き茗荷紋」ですので、近江、滋賀地方を勢力範囲として活躍していた古い豪族の「二宮氏」と血縁をした近江青木氏と伊勢青木氏のどちらかの青木氏です。

    この青木氏は、大化の改新のときに天智天皇の第6位皇子(6番目の皇子)天皇を護る親衛隊と成る為に臣下して親の天智天皇から青木氏という氏を授かりました。(賜姓という)
    この皇族賜姓青木氏は天智天皇から始まり、男系5代後の天皇の光仁天皇までこの第6位皇子の賜姓青木氏が発祥しました。
    天皇は、天智、天武、文武、聖武、光仁の5代の天皇です。
    その賜姓青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの国に守護国守として赴任しました。
    その内、初代の賜姓青木氏は伊勢王が初代です。
    御家はこの伊勢王の賜姓青木氏か、近江王の賜姓青木氏かと言う事に成ります。

    御家の鎌倉時代か室町時代の古いご先祖が何処に住んでいたかと言う事が判ればこのどちらと言う事が決定します。

    と言うのは、この二宮氏が伊勢の永嶋と志摩地方に移動して、勢力を持ち、稲垣氏、鳥羽氏、小沢氏と名を変えて移動しました。
    この氏は元は近江の二宮氏から出ています。
    この二宮氏と近江賜姓青木氏の末裔が血縁関係を持ちました。そして、抱き茗荷紋の二宮氏の家紋を引き継ぎました。
    血縁して男子が生まれず女子が跡を取り、養子を同じ土地の豪族の二宮氏から迎えましたが、さらに男子が生まれずに遂に女系となりました。
    2代続きで女系と成ってしまったことを意味します。
    はじめの二宮氏から養子を迎えた時にとりあえず、家紋は抱き茗荷紋としてあつかいますが、この養子から男子の跡取が生まれれば元の笹竜胆紋に戻ります。
    しかし、又女子でその女子が又養子を迎えたと成りますが、この時は女系ですので養子親の抱き茗荷紋になってしまいます。その後に男子が生まれたので抱き茗荷紋と成ったのです。
    このようなことを決める「家紋掟」というものがあり、氏家制度の決まりです。

    御家の賜姓青木氏が移動先の伊勢永嶋の二宮氏の末裔の稲垣氏または鳥羽氏、小沢氏等(抱き茗荷紋)との血縁で上記の「家紋掟」により、変紋を余儀なくされた青木氏で、この時は初代の賜姓伊勢青木氏との血縁で発祥した抱き茗荷紋の青木氏で有ることも考えられます。
    もし、このルーツであれば、筆者と同じルーツです。昔は親族であった事です。近江伊勢ともにどちらも下は天智、天武の皇族賜姓ルーツは同じです。

    一度お調べに成ってください。そこで、何でも結構ですから、ちょっとした伝説や伝承品や親類の昔話があれば意外にどちらかを決める事が出来ます。その時、何か気がつきましたらご遠慮なくお尋ねください。

    そこで、一寸した事を発見いたしました。それは、御家のご先祖のお名前です。
    昔はその名前で何処の人かわかるように成っていました。
    特に、青木氏の「..右衛門」は近江(滋賀)の賜姓青木氏の襲名用の名でした。
    代々使用されているようですので、先ずは近江賜姓青木氏の末裔(笹竜胆)と近江二宮氏(抱き茗荷)との血縁を結んだ青木氏である事がいえます。

    ちなみに、伊勢青木氏は、青木長兵衛の長兵衛が襲名の名ですので先ず間違いがありません。

    そこで御家は、抱き茗荷紋の本家筋との血縁をルーツにしている事が判ります。
    「丸に抱き茗荷紋」の青木氏もこの三つの伊勢と近江と永嶋の地方に存在します
    つまり、分家筋の末裔が広げたルーツです。

    上記のこれ等のことは、研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」の「茗荷紋」のところのレポートと家紋掲示板の3Pの「抱き茗荷紋」のところと研究室の「皇族賜姓青木氏」関連のレポートが幾つかありますのでゆっくりとお読みください。御家の古いご先祖の生き様なども見えてきます。
    地名地形データーベースの近江付近のデーターも見て下さい。

    因みに、青木氏には概ね、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏があり、江戸期から生まれた御家人青木氏(第3の青木氏)があります。

    この二宮氏は「二宮尊徳」という江戸時代の学者をご存知と思いますが、この人もこの二宮氏の末裔です。

    更に、「佐々木小次郎」と言う「宮本武蔵」と戦った剣豪はこの近江の佐々木氏です。
    近江の佐々木氏は元は天智天皇の第7位皇子で賜姓を受けて臣下して佐々木氏を名乗りました。
    ですから、元を正せば、天智天武のどちらかのルーツにたどり着けます。
    つまり、同じルーツです。
    筆者(伊勢青木氏)とも同じルーツになると思います。

    これからも、同じ元祖を持つ青木氏同士でこのサイトでお会いしましよう。
    藤原秀郷流青木氏も元は母方は藤原氏の血縁で伊勢青木氏を除く4つの賜姓青木氏と結んでいるのです。
    つまり、従兄弟です。

    ご質問や不明点など有りましたら、ご遠慮なく青木氏同士でお尋ねください。喜んでお答えします。

    先ほどの、ちょっとしたことでご先祖のお名前で土地や発祥がわかるのです。

    レポートは長文に成りますから、ゆっくりと楽しんでお読みください。
    多分、研究室に御家とご親類になる方の投稿があった気がしますので、研究室の青木さんとのやり取りなどをお探しになりお読みください。
    全体をかけてゆっくりとお読みになると青木氏全体がみえてきますよ。

    では、お便りお待ちしています。


      [No.243] 我が家は何者
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:08:54  

    我が家は何者
    青木ドラえもんさん 2007/02/21 (水) 06:47
    かんりにん代理登録

    こんにちは、
    親父が亡くなり届出をするため戸籍を取り寄せたところ、
    祖父・曽祖父・玄曽祖父の名前まで載っていて
    曽祖父の生年月日が天保3年11月8日と江戸時代の年号で載っていました。
    我が家は一体何者なのか興味を持ったのですがルーツが辿れません。
    そんな時ここを見つけました。
    曽祖父の戸籍は東京市日本橋区です。
    家紋は抱茗荷です。
    因みに曽祖父は、青木八右衛門、玄曽祖父は、青木清右衛門です。
    衛兵みたいな名前です。


      [No.242] Re: 大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:07:38  

    Re: 大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます
    青木研究員 さん 2007/01/24 (水) 21:13

    どこかの青木一徳さん 今日は。始めまして。
    先ず、お尋ねは次の3つとしてお答えします。

    信濃国北部の足利氏系青木氏に付いて。上田藩の青木氏か。
    家紋3つの氏の青木氏に付いて。青木村の青木氏か。
    大阪の陣での豊臣方青木氏に付いて。

    以上の事としてお答えします。

    先ず足利氏系青木氏(二つ引き両紋)に付いてはそのルーツは皇族賜姓青木氏と信濃の足利氏との間で血縁を結んだ一族です。この皇族賜姓青木氏に付いては研究室の所に詳しくレポートしていますのでお読みください。

    概要は天智天皇から光仁天皇までの男系天皇5人(天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇)の夫々の皇子のうち第6位皇子を天皇自ら青木氏を賜姓して、臣下させて侍とし天皇を護る親衛隊として、5つの国の守護王として遣わした者です。
    この国は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐です。この国の王(青木氏)となつたものです。

    この場合は信濃王の末裔の青木氏は土地の豪族足利氏(藤原秀郷より4代目兼光から更に4代目の成行を土地の足利氏の分家の跡目に入れて足利氏の本家を奪い取り、本家の足利氏を美作国に追い出した)と血縁を結んで2代続きの跡目が出来ず家紋掟にて足利氏系となつたものです。
    (2代続いての女系になると養子婿先の家紋となる。元は笹竜胆紋)
    この一族が信濃北部の国境に定住すみわけ、もとより国府にはこの皇族賜姓青木氏が定住し、南部には藤原秀郷流青木氏が住み分けていました。

    藤原秀郷流青木氏に付いては研究室の「藤原秀郷一族の生き方」に詳しくレポートしていますのでお読みください。

    この足利系青木氏は末裔の方でこの地域から沢山にこのサイトに投稿されています。
    お説の名主の青木氏に付いては調べてみましたが、家紋と宗派の点で疑問とみています。多分、足利系青木氏ではなく、藤原秀郷流青木氏ではと考えるのが妥当と見ています。

    そもそも、この上田藩の上田氏は父と弟が西軍に合力しましたがこの上田氏は藤原秀郷の一族です。
    そして、この上田氏に所属する青木氏は藤原秀郷流青木氏で御説の青木氏もこの支配下にあつたと見られます。

    次にこの時に伊勢青木氏を始めとして皇族賜姓青木氏5家5流は徳川方に合力しました。
    伊勢青木氏は徳川家康方に250を持って参戦したと記録されていますので、5家5流の元締めとして采配していましたので、5家5流24氏も徳川に付いています。
    有名な名張と伊賀の戦いで1575−8年に織田と秀吉から伊勢青木氏は攻められていますので西軍に合力する事はありません。
    よって、上田藩の青木氏は皇族賜姓青木氏(足利氏系青木氏含む)ではなく、藤原秀郷流青木氏です。

    下克上と戦国時代を経てきた室町期から江戸期までのルーツの系譜や家紋などは全く信用が出来ません。徳川氏でも系譜搾取改纂ですから。

    私が研究した中で矛盾だらけで一度も確定した事がありません。
    ですから、鎌倉時代まで遡って検証する必要があります。特に2つの高位の青木氏に関してはある特定のいくつかの絶対条件が合う必要がありますので搾取改纂では矛盾が生まれるのです。

    次の3つの家紋に付いては全て藤原秀郷流青木氏の家紋類です。従って、皇族賜姓青木氏の青木氏では有りません。

    この皇族賜姓青木氏は上記5家5流の青木氏と伊勢の国を除く4国の豪族との血縁氏とその支流24氏とで成り立っています。5家5流の青木氏の綜紋「笹竜胆紋」と24氏の家紋の中にはありません。

    この3家紋は明らかに藤原秀郷の一族の綜紋の「下がり藤紋」と主要5氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)から末裔を広げた24氏の3つの氏の使用する家紋類です。

    先ず、第1に、丸に剣片喰紋は酒井氏との血縁による藤原秀郷流青木氏でその分家筋に当ります。

    第2に、三盛州浜紋は陸奥の小山氏(秀郷から4代目兼光系で、更に5代目政光が跡目のルーツ)の代表家紋です。陸奥小田氏の支流です。この氏と藤原秀郷流青木氏との血縁による一族です。

    第3に、左三つ巴は宇都宮氏、小山氏、佐野氏、結城氏、赤松氏です。藤原秀郷系24氏の中の兼光系4主要氏の氏と家紋です。この一族との同族血縁による青木氏(佐野氏系)です。(矛盾点として、兼光系ですが、佐野氏以外に、ただこの一族からは青木氏は出ていません。)
    (藤原秀郷流青木氏は116氏にも及んでいますのでご注意ください)

    この一族の青木氏は各地に赴任して定住していますし、その本家筋は武蔵国の入間郡を中心にして横浜神奈川を半径として円を描く範囲の中に、内円を総宗本家筋にして定住し、外側に支流本家筋が囲み宗家を護っています。。(武蔵、下野、常陸)
    分家筋は全国24地方の各地にも分布しています

    藤原秀郷流青木氏は藤原秀郷の第3子の千国を元祖としてそれより3代目の兼光系から青木氏が護衛役として継続発祥しています。17代目で更に行久のところで総本家から跡目を入れて継承しています。
    (貴族に成った藤原秀郷は、皇族賜姓青木氏の親衛隊役方式を真似て、朝廷より青木氏の氏を使う事を子供の千国に許されます。嵯峨天皇から皇族の者以外に青木氏を名乗ることの禁止令の詔を発しました。その代わりに第6位皇子は源氏を名乗りました。)

    以上は「青木氏(家紋)と血縁族」と「家紋掲示板」などのレポートを参照して下さい。
    この一族の方々が当サイトに多く投稿されています。
    この3家紋の青木氏は皇族賜姓青木氏では有りません。

    この信濃の青木氏には以上3氏の皇族賜姓青木氏と足利氏系青木氏と藤原秀郷流青木氏とが住み分けていますが、更に別に皇族青木氏(島氏と橘氏の2氏青木氏)と伊川津七党青木氏、第3青木氏(江戸初期前後と明治初期苗字令で青木氏を系譜搾取改纂した青木氏)の3氏の青木氏が混在しています。

    下克上と戦国時代で、室町期から江戸初期までの混乱期でこの住み分けはかなり崩れています。したがってこの時期の資料では信用が出来ない理由の一つなのです。

    青木氏に関しては鎌倉期前の資料で是非にお調べになる事をお勧めします。

    大阪の陣での青木氏は次の資料に掲載されていますのでお調べください。
    「徳川除封禄」です。ここにお尋ねの青木氏が記載されています。

    念の為に、青木一重、青木木工右衛門、青木左京進衛門、青木紀伊守一矩、青木伊賀守忠元、青木次郎兵衛、青木多膳、青木太郎左衛門、青木清左衛門、青木新兵衛などが挙げられると思います。

    研究室と家紋掲示板と地名地形データーベースと青木氏氏ブログに詳しくレポートしています。

    ご不明な点がありましたらご遠慮なくお尋ねください。


      [No.241] 大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:06:52  

    大坂夏の陣で戦死、帰納伝承の青木氏を探してます
    青木一徳さん 2007/01/24 (水) 17:56 [ メール ]
    長野県の北部の県境に近い青木氏は、足利氏流との記述がありましたが、この地域で一番、素性が確かなのは、江戸時代に上田藩川中島内中氷鉋村の名主及び組頭の青木氏では?
    長野県では現存する最古の太閤検地帳(文禄期の増田長盛による)を伝えています。
    全国によくある話ですが、大坂の陣で浪人に加わって戦死し、戻って帰農し村役人との伝承。
    家紋は3家あり、表紋が丸に剣カタバミ、裏紋が三盛り州浜の家と、左三つ巴の家があります。
    中世には青木湖畔に荘園を持っていたことからの由来といい、青木村の青木氏とは違うようです。

    このような大坂浪人系を伝承する青木氏には、石田三成の鉄砲頭で、関が原の戦いで捕虜になつた
    青木市左衛門の末裔もいるようですが、情報を教えてください。

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      [No.240] Re: 天皇家と武田家の関係?
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:04:18  

    Re: 天皇家と武田家の関係?
    青木研究員 さん 2007/01/14 (日) 20:04


    上州の青木さん 今日は。始めまして。

    さて、早速ですが、ご質問ですが、結論から申し上げますと、全く関係が有りません。

    武田氏は元々は陸奥の小豪族でした。藤原秀郷は武蔵、下野の国を領国として初代から東北北陸地方と北海道の治安を朝廷より任されました。これを「鎮守府将軍」といいます。代々この軍事最高位の職に任じられていました。

    この時、藤原秀郷の2代目頃からこの陸奥(現在の青森県)に藤原秀郷流青木氏の護衛の下に護っていました。この時、土地の豪族の協力を得るために4代目位から血縁を結んで地盤を固めました。

    この時の豪族としては、武田氏、小田氏、小山氏、花山氏などと血縁を結びました。

    この時の武田氏の分家が、藤原秀郷の一族が甲斐の国の国司代に任じられた時に藤原秀郷流青木氏と共にこの武田氏も護衛役とし同行しました。(ここには光仁天皇の第6位皇子の皇族賜姓青木氏が領国として甲斐王として守護を務めていた)

    この武田氏が甲斐の土地で勢力を持ち治安を保つ為にも甲斐の土地の豪族との血縁を結び続けました。この時に特に諏訪族との血縁がこの目的を達成させるには信濃の諏訪族との血縁を図ることでしたが、この諏訪族には朝廷から「不入、不倫の権」を与えられていた為に武力で攻めて支配下に入れる事が出来なく「由布姫の政略結婚」で解決して甲斐に確固たる地盤を築きました。
    更に、藤原氏の後、皇族賜姓の清和源氏の宗家の「源の頼光」がもとより居た皇族賜姓青木氏を補佐する為に守護代として赴任しました。この時、武田氏はこの皇族賜姓青木氏との血縁をし家柄を高めました。又、この時に赴任してきた「清和源氏」とも血縁を結んで血筋を確実にしてきました。

    つまり、この武田氏は皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏の2つの第6位皇子の家柄の一族と血縁を結んだのです。

    この時、この支流の源氏と成った武田氏は家紋を定めました。それが「菱紋」です。

    さて、ここでこの「菱紋」の由来なのですが、次の通りなのです。
    「菱紋」は織り文様を元としています。そして、この織り紋様は丁度菱の形に似ているところから菱紋と呼ばれる様になったのです。

    初めから「菱」をデザインした訳では有りません。
    元は、中国の皇帝などの高級官僚が用いていた紋様で、この紋様を「唐花」文様といわれます。

    つまり、この「唐花」の文様が始まりで後に朝廷などの式典や襖や幔幕や屏風などの式典に用いる式具に使われるようになったものです。奈良朝頃から使われていて正倉院などの具に用いられています。

    この唐花には大別すると菱紋と唐花紋に分けられ、この唐花は菱形の文様を4分割して模様を入れて花の形に見立てたもので、更にその花びらに細工する文様があります。

    もう一つは菱形を4つに単純に分けたものです。色々な説がありますが武田菱はこのタイプです。
    武田菱紋は一族で使い分けて6つもあります。上記の唐紋では有りません。

    この文様にはこのような「縁起」を担いで140にもなるほど多く用いられています。

    つまり、武田氏は上記した様に家柄を上げる事が出来て家紋を「権威ある家紋」にする必要から朝廷などで使われている唐花紋に似せて縁起を担ぎこの菱紋を用いたのです。当時は家紋は身分高い氏しか用いられないが、陸奥の小豪族であるので家紋はありませんでした。

    武田氏の武田菱紋とこの天皇家が式典にて用いる唐花紋の菱紋とは少し違っています。
    出所は同じ菱形です。

    念の為に天皇家は奈良時代から平安末期までは確実に純血性を保つ為に近親結婚を繰り返していました。
    また、当時は「氏家制度」のなか高い身分での血縁を繰り返していましたので、陸奥の小豪族出では絶対に無理です。現在と違い「氏家制度」という掟がありこの中での婚姻です。
    平安期の朝廷では「八色の姓制度」という令を発して身分の統制を行いその律令制度の仕来りが残っている中でのことですので武田氏の様な一族は何らかの方法で身分を上げること以外にありません。(下記)

    皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏との血縁をしたとの事ですが、実は当時の当り前の習慣としてこの2つの氏のような行為の身分(朝臣)が訪れた場合は夜に一族の娘を差し出し子供を作り、その勢力傘下にはいり一族を護るという習慣がありました。
    当然にこの2つの氏もいざ戦いとなるとその見返りとして参戦に駆けつけますし、年貢に近いものとして米や砂金などを献上する事に成っていました。

    この方式が後の「荘園制」に発展していったのです。

    生まれた子供が男子である場合は上位の2つの氏から認可を貰い、支流一族として名乗りを上げるのです。

    この方式から血縁を結んだのです。時には娘がない場合は妻を差し出しても当然の行為としてこの習慣を維持したのです。現代では異常ですが、当時では当り前の慣習です。
    この事を「戦地妻」と呼ばれていました。これでいざ戦いとなると血縁者が各地から駆けつけるのです。
    例えば義経が強かったのは義経には家来達の戦地妻の子孫が義経の下に駆けつけて12000もの自らの軍隊を持ったことによります。(頼朝は北条氏始め坂東八平氏に頼り全く有りませんでした。)

    武田氏はこの方式で甲斐源氏と成ったのです。参考に皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏は家紋は「笹竜胆」紋です。源氏直系は「笹竜胆紋」ですから家紋が異なるので武田氏は足利氏などと源氏支流一族と言うことに成ります

    天皇の後ろにあった文様は天皇家が式典に用いる唐花文様です。

    武田氏はこの文様を真似て作ったもので花紋では有りません。当時天皇家が使う文様を勝手に使うことは出来ませんでした。(武田氏の6つの紋は模様のない菱形紋です。間違っている文書などが多い。)

    何か質問が有りましたらお尋ねください。


      [No.239] 天皇家と武田家の関係?
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:03:09  

    天皇家と武田家の関係?
    上州の青木さん 2007/01/14 (日) 13:08
    明けましておめでとうございます^^
    さて質問なのですが、正月の一般参賀?で気になったのですが。。。天皇陛下らの後ろに武田家の家紋「武田菱」がありました。これは天皇家と武田家はどのような関係があったのでしょうか。


      [No.238] 樫の葉の家紋の件(代理投稿)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 10:01:47  

    樫の葉の家紋の件(代理投稿)
    青木研究員 さん 2007/01/04 (木) 09:09
    貴島明美さん 今日は。始めまして。

    家紋掲示板に質問されていましたのでこちらで代理投稿します。

    お問い合わせの家紋の樫の葉の家紋を調べましたが、見当たりません。
    日本の各地の家紋を集めた家紋の数多い文献を調べましたが見当たりません。
    青木氏に拘ること以外ですので専門外ですので、他の文献を良く調べても有りません。

    家紋8000程度が明治初期ごろに出来ました。この家紋8000選が載っている幾つかの文献にも有りませんでした。

    結論としては、かなりある地方の土地に限定された家紋であると見られます。
    鷹の羽の紋に似ているとの事ですが、家紋としては葉が交差していなければ「抱き樫の葉紋」と呼ぶことに成ると思います。交差していれば「違い樫の葉紋」と呼ぶ事になると思います。

    つまり、多分、このパターンの家紋が明治初期以降の家紋の中には多いのです。
    植物紋系の家紋ですので少なくとも江戸初期以降の家紋であると見られます。

    このパターンから”ご先祖の出身地が何処であるのかで、”その地方の主要家紋に似せて家紋化したことが考えられます。明治の家紋はこのパターンが多いのですが。
    だとすると、その地方の図書館や地方の資料館でわかる事に成ります。

    次に、確かに、樫の葉であるのかをお調べください。良く似た植物家紋が多いのです。
    樫の葉は細い葉ですので、青木氏にある植物家紋で柏紋も樫の葉に似ています。多分見分けが付き難いと思います。
    「違い柏紋」か「抱き柏紋」である可能性も残されています。柊紋である事も考えられます。
    この家紋は大変多い家紋の一つです。

    貴島さんと言う氏姓は父上の本家の氏でしょうか。其れに依っても上記の事が違ってきますのでお調べになり、そのご本家筋の菩提寺に行かれても判るかもしれません。

    家紋8000にも無いというのは疑問が残りますので、一度この2つのことをお調べに成るとよいと思います。


      [No.237] ルーツ探訪(東京の青木さんの代理投稿)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:59:26  

    ルーツ探訪(東京の青木さんの代理投稿)
    青木研究員 さん 2006/12/28 (木) 11:01
    >東京の青木さん 2006/07/24 (月) 10:42
    >はじめまして、東京の青木です。

    >現在は東京に居りますが、祖母、母は宮城出身です。
    >祖母から、おじさんが調べたら、昔は埼玉にいたけど、
    >殿様が死んだとき、一緒に死んで、子供を宮城に逃がしたらしい。
    >それより前の先祖は調べられなかった。
    >と聞かされており、それ以来、自分の先祖に興味を持っていました。
    >家紋は半月に九曜、宗派は真言宗です。
    >よろしくお願いします。

    東京の青木さん 始めまして。
    お尋ねの件ですが、次ぎの情報で検証を進めますが、ほかに仔細名事でも結構ですから、有りましたらお便りください。
    第1番は昔は埼玉に居た事。
    第2番は殿様の死後宮城に移動した事。
    第3番は家紋は半月に九曜紋である事。
    第4番は真言宗である事。

    以上の事から次ぎのことをお調べください。
    第3番目の家紋は半月に九曜紋との事ですが、半月に八曜紋では有りませんか。
    第4番目の宗派は真言宗の前は浄土宗ではありませんでしたか。又は浄土真宗では有りませんか。

    星紋に付いての青木氏に付いては研究室の「青木氏と血縁族」の第7番と家紋掲示板の第6/33番目の紋様の星紋様を参照して下さい。

    青木氏に関する星紋には8つありますが半月に九曜紋は含まれて居ません。
    この星紋は藤原秀郷流青木氏は、宗家が赴任する地方に護衛役として同行したもので、各地6地方に同行して定住し土地の豪族との血縁を結んだ一門です。

    この一族は男系跡目が出来ずに土地の豪族から跡目を入れて青木氏を継承した結果、家紋掟により家紋を下がり藤紋から各地の豪族の家紋に変紋せざるを得なかったものです。

    6つの家紋の青木氏とは次ぎの家紋の青木氏です。
    第1は九曜紋です。
    第2は丸に九曜紋です。 第1番目の分家です。
    第3番目は三ツ星紋です。
    第4番目は丸に三ツ星紋です。
    第5番目はながとみ三ツ星紋です。
    第6番目は亀甲に三ツ星紋です。
    第7番目は三ツ星に一つ引き両紋です。
    第8番目は扇に三ツ星紋です。

    兎も角も藤原秀郷流青木氏に関しては「藤原秀郷一族とその生き方」を時間を掛けてお読みください。詳細に記述しています。
    又、その他の藤原一門のレポートも一読ください。

    青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の二つの流れです。

    他に、室町末期か明治初期の2つの時期に「第3の青木氏」が、青木氏姓の使用に付いてので峨期の詔の禁止令に拘らず系譜の偏纂で名乗ったものであります。よってこの場合は鎌倉末期より以前のルーツに付いては検証は出来ません。

    藤原秀郷の主要一門は次ぎの5つです。
    永嶋氏、青木氏、長沼氏、と進藤氏、長谷川氏です。
    この氏のうち青木氏は116氏に分流しています。
    武蔵と下野国とその周辺の国を領国とし24の各地に赴任して各地の血縁族を発祥しています。


    皇族賜姓青木氏は5家5流24氏です。
    近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の5国です。伊勢以外は各地の豪族との血縁族が生まれています。

    さて、そこで、お家の青木氏はこの8つの青木氏に有りません。
    先ず、上の二つの件についてお調べできる情報が有りませんか。

    何かの理由にて半月九曜紋に変紋をしたと考えられる事もあります。

    室町末期前のルーツが確認する事が出来ます。
    室町末期ごろの系譜や資料は殆どは信用が出来ないのです。その理由は下克上や戦国時代の混乱で青木氏などの高位の家柄を持つ氏はことごとく潰されましたのでまともな資料は有りませんし、よって下克上で伸し上がった者が家紋や系譜や氏などを偏纂し搾取しましたので全く信用が出来ません。徳川氏をはじめとして信用できません。

    お家には上記2つの事を何とか調べ出すことが出来ればこの時期の前のルーツにたどり着けます。たどり着けばこの8つのうちのどれかに入るはずです。

    上記の仕官先の主が死んだ事に殉死したとの事ですが、この時期は殉死はよほどのことが無ければ禁令になっています。
    一族を逃がしたとの事ですが、特別の力のある縁者が無い場合以外は逃がす事は国抜けと成り犯罪で宮城付近では困難と思えます。

    もし藤原氏であるのであれば鎌倉期以後に3度か4度の一族が離散する事が起こっています。この内、上記の様なことがあるとすれば鎌倉末期から室町初期の下克上の問題に絡まったと考えられます。
    その逃げた時期がこの1300年―1350頃からと見られますので、殉死は何時頃かをお調べください。

    ご本家はどこにあるのかを調べられてその宗派と家紋は何なのかも調べられると判るはずです。ご本家と違うはずが有りません。
    もし違うとなれば問題で第3の青木氏の可能性もありますが、兎も角ご本家のものをお調べください。

    ちょつとしたことでも大きなきっかけに成りますのでお便りをお待ちしています。
    もし、お判りに成りますとルーツの検証は確実に成ります。
    ではまずは、研究室の藤原秀郷一族の生き方のところをお読みください。
    何かヒントがつかめるかも知れません。

    ではお待ちしています。
    東京の青木さん 2006/07/25 (火) 10:09
    ご回答ありがとうございます。

    祖母に聞いてみたところ、うちが本家で、
    昔から宗派も家紋も変わっていないそうです。
    青木家は祖母の曾祖夫母の家だったらしいのですが、
    子供がおらず、祖父母が養子に入ったそうで、
    家の事については、祖母もあまりよく知らないようで、
    詳しい事は火事だか戦争だかに巻き込まれていて、
    紛失しており、調べられないそうです。

    しかし、宗派も家紋も変わっていないみたいですので、
    うちは第3の青木ということになるのでしょうか?
    現在の所、私が長年調べた事から見て検証を確定するに必要とする情報は有りません。
    ただ、江戸時代の情報のみに限りますのでそれ以前の情報の焼失か錯誤かで家紋と宗派などが変化ししまったことも考えられます。

    かなりの数で青木氏は青木氏に関する家の事は次ぎの時期に問題を起しています。
    下克上の時期と戦国時代と江戸期の偏纂期と明治初期の混乱期と第2次大戦で全ての情報が関東近辺で多く焼失しているのが現状です。

    又、「第3の青木氏」を確定する情報も2つの青木氏に合致する情報が出ないという事だけですので検証を確定するものも有りません。

    しかし、第3の青木氏はそれなりに3百年もの歴史を持つ青木氏とすれば充分な意味を持ちます。

    私は主君に殉死し、一族を逃がしたと言う情報が気に成ります。
    この情報に何らかの真実が隠されていると考えています。

    このことに付いての何かが出ましたら又お知らせください。


      [No.236] 美濃の土岐氏系青木氏
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:57:10  

    美濃の土岐氏系青木氏
    青木研究員 さん 2005/09/27 (火) 21:41
    名古屋の青木さん 始めまして。私は全国の青木氏を長く研究している者の一人です。このサイトに研究結果をいつも投稿しております。

    実は、このサイトの青木氏のレポートをお読み頂きましたらお判りいただけると思いますが、要約しますと天智天皇より光仁天皇までの間には5家5流の皇族賜姓青木氏が存在しまして、この賜姓青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国に赴任し守護として務めました。
    この中で、伊勢と美濃と信濃と甲斐と近江の賜姓青木氏の存在が現在も(子孫の少ない5家の直系の末裔が)非常な混乱の中でも生き延びていることがつい最近になつて確認されています。

    それとこの5家5流の青木氏が土地の豪族との血縁で生まれた青木氏が存在します。

    この前記の5家5流の青木氏は家紋を笹竜胆として居りまして、後期の青木氏は伊勢の青木氏を除き、近江の佐々木氏との血縁にて佐々木氏系青木氏(笹竜胆)、美濃の土岐氏系青木氏(桔梗紋)、信濃の足利氏系青木氏(梅鉢紋)、甲斐の武田氏系青木氏(割り菱紋)が存在する事は判っていますが、大変な源平の戦いの混乱の中で現在までも生き延びている直系の末裔の存在が確認が困難でした。

    しかし、貴方の美濃の土岐氏の家紋を持つ直系の土岐氏系青木氏の確認ができて居りませんでしたが、本日、貴方の当サイトにてメールでその存在を確認できました。

    この5地方の豪族との血縁で生まれた5家の青木氏の直系の末裔が全て存在することが確認できました。

    支流の家紋を持つ豪族系青木氏は確認は出来ていましたが、これで5家5流の皇族賜姓青木氏と5家5流の直系の豪族系青木氏とが現在でも末裔が存在する事とが確認できました。

    この2つの5家5流の青木氏の存在は子孫を大きく広げていなかった事情とその歴史的な背景から少ないと見ていましたが、2つの直系の5家5流青木氏はその粘り強い皇族系の血筋を強く引く事から生き延びたものと関心致しました。

    既にご存知とは思いますが、桔梗紋は土岐氏が戦いの時に兜の上にこの桔梗の花を差し込んで戦いに臨んで戦勝した事から家紋としたものだとされています。
    その後、土岐氏はこの家紋を陣幕には使わず、桔梗の花の淡青色を陣幕に染め上げて家紋を表現したものです。この色つき紋は土岐氏が最初であります。足利義満の後陣を務めた土岐美濃守頼益の直垂に使ったことから桔梗紋は土岐氏の綜紋としました。

    加藤清正や明智光秀も同族ですが、明智光秀の信長との不和の端緒はこの家紋を信長の前で堂々と家柄を誇示したことから始まったとされています。
    貴方のお家は家系としては天智天武期から続く由緒ある皇族賜姓青木氏に近い一族とされます。(天武期の令に基づき青木氏の取り扱いにより)
    桔梗紋とされる紋の種類は126紋あります。
    この支流の中には大変な「丸に桔梗紋」の持つ豪族が存在します。母体より何倍も大きい一族(日本最大)で、大蔵氏系永嶋氏で九州に存在します。(研究室の他レポート参照)
    これだけの支流を持つ一族です。貴方のお家はこの126の頂点に立つお家です。当時の慣習として、貴方のお家の家柄は土岐氏より上の特別扱いを受けていた筈です。

    私の土岐氏系青木氏の確認が出来た記念のレポートとしました。
    これからも、当サイトにお越しください。

    また、上記のレポートに際してご質問がありましたら遠慮なくお尋ね下さい。


      [No.235] Re: 滋賀の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:52:52  

    Re: 青森の青木です。
    青木研究員 さん 2006/12/19 (火) 20:07

    青森の青木さん 今日は。始めまして。

    答えはすぐでます。
    御家は藤原秀郷流青木氏です。
    この藤原秀郷流青木氏に付いては詳しく研究室の「藤原秀郷一族の生き方」を参照して下さい。

    「下がり藤紋」に付いては家紋掲示板の4Pの最初にレポートしています。

    又、研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の藤紋のところでも詳しくレポートしています。

    藤原秀郷は大化改新の藤原鎌足より8代目の人物で平の将門の乱で勲功を立て武蔵国と下野の国を領国となりました。そして貴族となり貴族は武力を自ら使えませんので第3番目の子供の千国と云う者を侍にし護衛隊の役目を与えました。
    この千国が侍になつたので青木氏を与えました。この千国が元祖です。

    そして、代々鎮守府将軍として陸奥(青森)に赴任してい居ました。この時の護衛軍が青木氏です。
    鎌倉時代から江戸まで征夷大将軍と呼ぶようになりました。

    藤原秀郷の主要5氏は青木氏と永嶋氏と長沼氏 進藤氏と長谷川氏です。
    そしてこの藤原秀郷の総宗本家は24氏に広がっています
    この総宗本家は全国66国のうち24国に国司として朝廷の命で赴任しています。この時全て青木氏が護衛しています。
    この青木氏がその赴任地に子孫を残し土地の豪族と血縁を結び勢力を広げています。
    だから、24地方には藤原秀郷流青木氏が存在します。
    本国は武蔵国で入間郡を本拠地として116氏青木氏の本家筋が横浜神奈川を半径として円縁を描く様に取り囲み内側からより本家筋が取り囲んで居ます。
    そして、栃木群馬まで拡大しました。

    藤原氏は4家といい、南家、北家、式家、京家がありましたが同族の勢力争いを越しこの内勝ちのこったのは北家でこの藤原秀郷一門です。

    この下がり藤紋は”下がる”を嫌い上り藤紋とする藤原氏が出ました。下がる藤紋はこの秀郷一門だけが使用しました。

    青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の2流です。

    (他に江戸初期と明治初期に第3の青木氏がありこの高位の青木氏にあやかって系譜を搾取と偏纂して名乗りました。)

    念の為にこの皇族賜姓青木氏とは天智天皇より5代の天皇の第6位皇子が侍となり臣下して天皇の親衛隊として働きました。

    この時にそれぞれ天皇自ら皇子に青木氏の氏を与えました。この青木氏は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王としての国の守護となり5家5流24氏に子孫を増やしました。
    この後、2代後の嵯峨天皇から青木から第6位皇子を賜姓源氏に変名し、そのかわりこの時青木氏は皇族出の者(全17人)が名乗る氏とし青木氏の使用を禁じました。

    この禁令を藤原秀郷は朝廷の許可を得て青木氏を使うことを許されました。その理由はどちらの青木氏も藤原氏の血筋を引いているからです。

    御家は現在も下がり藤紋を引き継いでいるとしたら陸奥に護衛役として同行して定着してから男系跡目が1100年程度できている事を意味します。

    この藤原秀郷一門は4代目から兼光系と文行系に別れます。青木氏は3代目までは千国の直系で4代目からはこの兼光系から出ています。後に2代に渡り本家から跡目を入れて守っています。
    この一門の綜紋は下がり藤紋です。

    この下がり藤紋の青木氏は116氏に広がっています。当然に下がり藤紋から変紋して116もの家紋が出来ました。

    これ等の全ての青木氏は鎌倉幕府樹立にて失職します。この時仕官した者や豪商や豪農等になりました。御家は農家を選んだとみられ江戸時代には本家は名主や庄屋などに成っていたはずです。
    次第に土地と財産を分けて分家して普通の農家になっていったと観られます。

    寺は室町期(乱世)くらいからその内に変化したものでしょう。本来は藤原秀郷流青木氏は自分の菩提寺を持っていました。このサイトの投稿している多くの青木氏は菩提寺を持っています。これも分家分派して変わったものと思います。

    青木氏の地名地形データの所の陸奥(青森)の国を調べて下さい。

    このサイトには沢山の藤原秀郷流青木氏の末裔の方が投稿していますのでそちらもお読みください
    元は縁者の同族です。

    ではまたレポートをゆっくりとお読みください。ルーツは詳しく成るはずです。何か有りましたらお便りください。


      [No.234] 青森の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:51:43  

    雑談掲示板より代理投稿

    青森の青木です。
    岩手の暇な青木さん 2006/12/19 (火) 10:48 [ メール ]
    はじめまして。よろしくお願いいたします。
    この一年、身の回りでいろいろありまして、ふと自分のルーツに興味を持ちました。

    ・青森は県南(※)
    ・家紋は下がり藤。
    ・墓はお寺には無く、伊勢神宮にルーツのある神社が管理する墓園である。

    このくらいしか手がかりがありません。しきたりだとかの類は一切無く、肩肘張る
    ことなく自由きままでいられるので、そういう意味でもご先祖様には感謝していま
    す。

    祖母が昔、「北陸のほうから移ってきたという話を聞いたことがある」と話してく
    れましたがそれ以上詳しいことは判りません。直近の何代かは所謂お百姓さんです。
    その土地に青木姓は少なく(5軒無かったと記憶しています)、いつの時代かは判
    明しませんが開墾地だったと聞きました。


      [No.233] Re: 滋賀の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:49:37  

    Re: 滋賀の青木です
    青木研究員 さん 2006/12/20 (水) 23:18

    滋賀の青木さん 今日は。

    どうも内容がよく判りません。近江源氏佐々木流青木氏の投稿と同じでしょうか。
    なにを言われているのか少し判りません。

    兎も角も青木氏の家紋は2つのルーツの青木氏に限定して家紋類をレポートしています。
    したがって、原則第3の青木氏の家紋種は掲示はしていません。
    というかルーツを調べたくても不特定に存在する特徴を掴むことが不可能だからです。

    青木氏の柏紋様は6つとレポートしていますが。4つ目結には触れていませんが。
    目結いの青木氏は4つ目結い紋ばかりでは有りません。三つ目結い紋もありますよ。(3家紋)

    柏紋と目結い紋とどのような話の繋がりでしょうか。

    佐々木氏と青木氏の間のどのような話があるというのでしょうか。

    佐々木氏に付いては綜紋は笹竜胆紋ですが。

    念のために、家紋には綜紋と副紋ともあることをご認識ください。(家紋には5つのパターンがあります。)5つの何をもって家紋と呼ぶかです。
    この内の一つを捕らえて家紋を論じるにはあまりにも問題があります。
    論所を統一する必要がありますね。

    佐々木氏の紋様はどの時代までのものをまとめたかも問題があります。

    江戸時代までのものであるとすると青木氏の第3の青木氏と同様にこの近江佐々木氏も同様の事が起こっています。
    よつて、12とあるはおそらくのこの第3の佐々木氏も含めてであると思います。

    江戸期ごろのデーターを元に作本をすると信頼性を低下させます。
    勉強の初期このことで訳がわからなくなるのは江戸の初期前後と明治の初期の現象のこの第3があるからです。
    其れと一つの書をもって論じる事にもルーツ検証には余りにも危険があります。
    其れはどの時代の資料をもとに本を書いたかと云う事が信頼性と云う点で問題なのです。
    室町から江戸期の書を用いるとあまりにも偽作がおおいのでとんだ間違いを起すのです。
    だから、確実なところでルーツを論じるには鎌倉期前と言う事になってしまうのです。
    ところがこの鎌倉期前の資料は極めて少なくなっているのが現状でしらべるには大変な金額と時間の浪費が働き到底我々のアマチュアでは不可能です。

    だから、第3と区別する以外に正しくレポートする事は出来ません。
    そもそも家紋や系譜を搾取する事でルーツというものが確定するのであれば限界が有りません。なぜなら誰でも出来るからです。いますぐにでも。私はこの第3の青木氏や佐々木氏は取り除く事が先ず大事で次のこの第3の青木氏に付いて論じるのであればそれはそれで一つの見識と思います。

    私はこの第3の青木氏が特異な形で意味を持つ大きく末裔を作った青木氏は「家紋掲示板」にも「青木氏と血縁族」にも主要第3青木氏を載せています。
    一度、そのような資料館の研究員などの人に質問されるとより正確にまとめる事が可能と思います。

    司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や松本清張氏や山本総五郎氏などの著書になどこのことを分析しています。

    兎も角、先ず江戸前後と明治初期の第3青木氏と佐々木氏(勿論、藤原氏も)があるということを先ず認識されて調査される事をお勧めします。


      [No.232] Re: 滋賀の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:48:39  

    Re: 滋賀の青木です
    T/Mさん 2006/12/20 (水) 22:14
    滋賀の青木様  
     管理人様 代理投稿ありがとうございました。
    近江源氏青木氏のルーツを探しているのですが、今年 「梅花無尽蔵」の著者 万里周九は近江速水氏の出身である。との説をもとに、湖北町速水へ行きました。その著書のなかに、私が調査している美濃から飛騨へ抜ける街道で、ここは土岐氏の領であると感想を述べた箇所があるからです。
     小谷城の麓にあります。速水氏姓の集落は他に虎姫町にもあるようです。
    青木さんの家紋の柏葉は代表的な四つ目結紋ばかりではなく、「佐々木12の添紋」の中にあります。


      [No.231] Re: 滋賀の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:47:44  

    Re: 滋賀の青木です
    青木研究員 さん 2006/12/12 (火) 18:25

    今日は。 滋賀の青木さん 始めまして。
    情報が少ないので確定は出来ませんが先ず家紋と土地柄とから検証してみます。
    早速ですが、滋賀には古くから2つの青木氏が定住していました。
    この2つは次の通りです。
    1つは近江の青木氏が移動して滋賀に移り住んだ青木氏です。
    この青木氏の末裔の本家筋一族が元の近江に戻り残った分家の一部が子孫を増やして滋賀の青木氏となりました。
    この滋賀の青木氏の更に分家した一族の絶えた分家がありました。しかし、元上山と名乗る者が勢力を得て土豪となり家系を出世に必要とする為にこの絶えた分家分派の青木氏を奪い取り名乗り始めました。この青木氏を奪った上山一族が子孫を増やして滋賀の青木氏が出来ました。

    そもそも青木氏は皇族賜姓青木氏の5家5流の24氏の青木氏と藤原秀郷流青木氏の直系1氏と直流4氏と支流4氏とで主要9氏で出来上がり116氏にも広がりました。

    それ以外に、江戸初期前の混乱期を経て出世して江戸の初期から侍になった者と明治の初期に庶民が苗字令に基づき青木姓を名乗った者とがあり、これを第3の青木氏といいます。このルーツは一部を除き横の全ての縁者関係を維持していません。
    研究室の青木氏と血縁族(家紋)のレポートを参照して下さい。
    家紋掲示板の2Pに柏紋の6つの青木氏の家紋が載っていますので参照して下さい。
    研究室にはこの皇族族賜姓青木氏のことも詳しくレポートしていますので一度ゆっくりとお読みください。

    この滋賀には3つの青木氏がありますが、天智天皇より始まったもので、第6位皇子が臣下して天皇の親衛隊となり侍と成りました。
    5代の天皇 天智、天武、聖武、文武、光仁の5代に続き青木氏が出ました。
    この青木氏は5つの土地の守護王となり赴任地に定住しました。
    初代は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成りました。
    これが青木氏の5家5流の24氏の青木氏です。
    家紋掲示板にある皇族賜姓の家紋類です。24家紋と成ります。

    この青木氏は宗派は浄土宗です。浄土宗はこの藤原氏を含む高位の者が入信できる宗派で江戸時代まで限定されていました。
    中には、少ない寺院であるので赴任地や移動地になく止む無く浄土真宗に入る者もありました。

    さて、御家の家紋はこの6つの家紋類には有りません。
    したがって、明治初期か江戸初期の何れかの青木氏である事が覗えます。

    そこで、御家が侍であったかでこの2つのどちらかであるかが判ります。

    この江戸時期には136もの柏紋を家紋とする侍が生まれました。この中にも青木氏を名乗った者も多くおります。
    又、御家の縁者関係が多く広がりを見せているのかも一つの資料と成ります。
    ご親類の菩提寺や宗派が一致しているかや土地柄が古いなども大きな資料と成ります。
    ご先祖の本家筋がどのくらいのところまでわかるかも判断資料と成ります。10-15代程度までだと江戸初期の青木氏で、3−5代程度ですと明治初期ですが、男親の本家筋のルーツ家紋など一致するかも資料と成ります。

    滋賀の速水に長く住まわれていて本家筋がこの地に存在するかも重要です。
    というのは、途中で男系不能となり女系と成って家紋掟により変紋を余儀なくなくなり現在の家紋に変わったことも考えられます。

    つまり、抱き柏紋は江戸前期から吉田氏や金子氏や豊崎氏や森氏らが用いていますのでこの分家筋に当ります。この分家筋と御家の青木氏とが血縁氏したことを物語っていますので上のことを確認出来れば滋賀の2つの青木氏の分家筋か第3の青木氏かは判断出来ます。

    一度、一寸した事でもわかりましたらお便りください。意外に何の意味の無い事でも大きく判ることがあるのがこのルーツ調べなのです。

    他に上記したことで判りましたらお便りください。


      [No.230] Re: 滋賀の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:46:28  

    滋賀の青木です
    近江の青木さん 2006/12/12 (火) 17:01
    上に書き忘れましたが、我が家では代々名前に「吉」の字をつけてます。(例:青木吉雄)
    参考にならないかもしれませんが。。
    よろしくお願いします。




      [No.229] 滋賀の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:45:37  

    滋賀の青木です
    近江の青木さん 2006/12/12 (火) 16:47
    こんにちは。
    滋賀県の大津に住んでます。
    先祖は、同じく滋賀県、湖北町速水というところに住んでいたそうです。
    家紋は丸に抱き柏で、宗派は、真宗大谷派です。近くに家のルーツに関して知っている者はおりません。管理人様、何かお分かりでしたらお教えください。
    お願いします。


      [No.228] Re: 小田氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:38:56  

    Re: 小田氏について。
    青木研究員 さん 2006/12/18 (月) 19:41
    稲垣さん 今日は。

    書き忘れましたので追記します。
    揚羽蝶紋の藤原秀郷流青木氏のことは家紋掲示板の3Pの上から3番目にレポートしています。
    又、研究室の青木氏と血縁族(家紋)の揚羽蝶紋のところのレポートをお読みください。

    詳しくレポートしています。


      [No.227] Re: 小田氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:37:55  

    Re: 小田氏について。
    稲垣雅子さん 2006/12/18 (月) 17:16 [ メール ]
    こんにちは(^^)

    今回の「青木氏」の話には心底驚きました・・・!!
    「え?まさか平家ってあの平家!?」と読んだあとも少し呆然としていました(苦笑)まさか父方が藤原氏と縁がある家だったとは・・・。考えもしませんでした。父方の先祖のことは父から「うちはどうせただの農家やろー」としか聞いたことが無かったので全然興味もありませんでした。

    それで今日驚いて父に電話してみたところ、何やらお盆だけは母方の家と似たようなことをしていたらしいです。父の家は仏間を飾ったりはしていなかったらしいのですが、父の父(私の祖父)の兄の家は仏間を少し飾ったりしていたらしいです。父も幼いときの記憶なのでもうあやふやだと言っていましたが、ひもの先に三角や丸の形をした綿をつめた飾りがつるしてあったらしいですよ。実家付近ではそんな飾りをする地域性は無いので、これはもしかすると何かのなごりでしょうか??

    もしも父方の家が本当に藤原氏の血を汲んでいるのだとしたら、本当にうちの家は面白い縁になりますね。血のつながりもない他人だと思っていたら遥か昔に実は同じ先祖から始まった人だったとは・・・。ルーツ調べは奥が深いです。(笑)


      [No.226] Re: 小田氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:36:52  

    Re: 小田氏について。
    青木研究員 さん 2006/12/17 (日) 17:55

    今日は。稲垣さん。
    旧姓青木さん。

    ちょとすごい事が判りましたのでお便りします。

    その前にお盆の飾りの件ですが、七夕はこの仕来りのなごりです。

    さて、肝心な事ですが、旧姓の青木氏のことです。
    この青木氏は家紋が揚羽蝶紋であるとの事ですが、実はこの揚羽蝶の家紋は平家の綜紋です。
    この平氏の青木氏は藤原秀郷流青木氏の主要9氏の一つです。この支流4氏の一つです。
    この揚羽蝶の家紋の青木氏は元は嶋崎と名乗っていました。又一部の縁者は岡田と名乗っていました。この嶋崎氏は藤原秀郷流青木氏の元祖の初代の秀郷の第3子で千国というものが居ました。
    この元祖の千国の母は平氏のこの嶋崎氏の出です。
    そのことからいくつかの姻戚によりこの嶋崎は後に藤原氏一門となり、青木氏元祖の千国の後の青木氏を名乗りました。

    兵右衛門利澄の時に青木氏となりました。この初代元祖の利澄の子供の長男の正命がこれを引き継ぎました。
    藤原秀郷流青木氏の青木正命が2代目の元祖です
    藤原秀郷流青木氏は直系1氏と直流4氏と支流4氏の9氏からなり、116氏に拡がっています。
    研究室の「藤原秀郷一族の生き方」のレポート参照して下さい

    この支流4氏の一つです。そして、鎌倉幕府樹立により平安期の朝廷が衰退し藤原一族は全て失職し他の豪族に仕官となり農業や商いをしたりして生き延びました。

    この青木氏です。したがつて嫁ぎさきの藤原秀郷の支流の稲垣氏末裔と旧姓の藤原秀郷流青木氏は同族でどちらかと言うと身分は上位です。

    次に、藤原秀郷一族の小田氏に付いては家紋掲示板の3Pの真ん中あたりに家紋の州浜紋を掲示していますので参照して下さい。
    研究室の青木氏と血縁族(家紋)のレポートの州浜紋のところを参照して下さい。

    小田氏は武蔵の小田氏と陸奥の小田氏と常陸の小田氏と肥前の小田氏とがありこの小田氏の元は総宗本家は武蔵で次に陸奥から常陸から肥前からと成ります。

    家紋は州浜紋です。


    つまり小田氏、青木氏、稲垣氏の3つの藤原秀郷の一門同士の血縁で藤原氏の血筋の濃い稲垣氏と成ります。世の中とは不思議ですね。こんな事は珍しいですね。元祖の宇都宮氏か小山氏などを入れると5つくらいの藤原秀郷一門の血筋で出来た御家といえます。藤原氏そのものでしょう。

    では又サイトにお便りください。


      [No.225] Re: 小田氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:34:49  

    Re: 小田氏について。
    稲垣雅子さん 2006/12/17 (日) 12:16 [ メール ]
    こんにちは。
    今回も詳しい回答ありがとうございました。

    昔の公家や武家はそんな仕来りがあったんですね〜。うちは今はもう全然仏間を飾ったりはしなくなったので、来年のお盆には手作りで作って飾ろうかなと考えています(^^)
    でも稲垣と小田が少なからず関係があったというのは驚きです。人間どこで繋がっているかわからないものですね。。笑


    今回は色々とありがとうございました。先祖のルーツも知ることができ、とても感謝しています。
    ありがとうございました。


    余談ですが私の旧姓も青木です。家紋は揚羽蝶ですが、間違いなくただの農家です(笑)
    こうして青木氏を研究するサイトでお世話になったのも何かご縁かもしれませんね!(笑)

    ではここら辺で失礼します。


      [No.224] Re: 小田氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:33:42  

    Re: 小田氏について。
    青木研究員 さん 2006/12/17 (日) 09:22
    稲垣さん 今日は。

    さて、お便りの事ですが、仏間に飾りつけをするという習慣は公家(藤原氏含む)や皇族賜姓族(青木氏や源氏)やこの血筋を受ける青木氏24氏と藤原秀郷本家筋24氏や藤原秀郷流青木氏など116氏等の家柄ではこの仕来りが行われていました。

    特に浄土宗系列(上記の氏が入信する限定宗派)天台宗や真言宗では寺なども今でもこの様な飾りつけ事を行っています。上記の支流一族の家柄が入信した浄土真宗もこの風習が行われていました。
    江戸期になってすたれていつた様です。

    他に、お盆の時に迎え火や送り火などの行事をしますし、この時は3代前の先祖の数だけお線香を炊き般若心経を一族が集まって上げるという習慣が昭和初期までありました。
    後にこの行事が一般化して焚き火をして盆踊りの行事と変化してゆきました。
    仏前のお供えも周囲とちがって居た筈です。

    多分、この習慣は間違いなく藤原秀郷一族の支流一門の肥前の小田氏にはあつたと考えます。
    筆者の家も今でもこの伝統を大分はなくなりましたがまだ続けています。

    次に、宇都宮氏や結城氏や小山氏や小田氏などの藤原秀郷一門の末裔24氏は武蔵国(埼玉)や下野国(茨城栃木群馬)等の関東武士(関東尾形という)は総宗本家の国司赴任地に官僚として24国(全66国)に赴任し一部が藤原氏の勢力拡大の戦略としてその土地に定住しその土地の土豪と血縁を必ずしました。
    (青木氏は藤原秀郷の主要5氏の一つですが護衛役を担っていました。)
    したがって、常陸国は藤原秀郷一門末裔の領国ですので此処には当然小田氏が存在します。
    藤原秀郷24氏の一つの結城氏が常陸一族のその元祖です。

    次に、稲垣さんのおうちのことですが、肥前小田氏の詳細ルーツのことに付いては不詳ですが、
    一族と考えます。

    藤原秀郷の一門の小田氏と稲垣氏とどのように繋がっているのかは判りませんが、小田氏が生残るためには土地の大小の豪族と繋がる意外には有りません。
    当然に稲垣氏とは血縁関係を結んだ事が考えられます。
    又は、小田氏の一門の末裔が男系跡目が出来ずに娘に養子を稲垣氏から取り跡目を次がせてたが、再び女系となり止む無く稲垣氏を名乗ったことも考えられます。
    この時に家紋を稲垣氏の家紋にするか家紋だけは元のままにするかが決断のことです。

    稲垣氏を辿れば必ずこの小田氏に繋がり、宇都宮氏か結城氏か小山氏かに到達するはずです。
    何れににせよ、この宇都宮氏と小山氏の先祖は長崎奉行を務めています。常陸は小田氏は結城氏
    と、肥前小田氏は宇都宮氏か小山氏かのいずれかと繋がっていると考えます。

    そして、このいずれかの藤原秀郷一門と稲垣氏とが繋がっていると考えます。このところの確証は専門外なので取れません。いずれにせよ血縁一族であると観られます。

    何れの日にかこの稲垣氏の多少のルーツがわかりましたらこのサイトで又お便りします。


      [No.223] Re: 小田氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:31:58  

    Re: 小田氏について。
    稲垣雅子さん 2006/12/16 (土) 19:38 [ メール ]
    回答ありがとうございました。
    とても詳しく書いていただいて、母と二人喜んでおります。
    本当にありがとうございました。

    早速今日叔父に電話で色々と尋ねてみたところ、上げ膳据え膳などのことはもうほとんど覚えていないと言っていましたが、お盆については何か思い当たることがあったようです。曾祖母の家はお盆のとき、仏間の入り口から仏壇までずらっと天井から飾りがつるされていたそうで、これは近所でも見たことがなかったと言っていました。お武家の古い仕来りとはこのことかもしれません。
    話は変わるのですが以前「小田」と調べていたところ、「肥前小田家」というのを見たことがあります。宇都宮氏ー常陸小田氏ー肥前小田氏、というルートのようで、その肥前小田氏の一族は一度敵に滅ぼされています。その後小田家から養子に出ていた人の子により肥前小田氏は復活したらしいのですが、うちの家もその生き残りの筋の可能性はありますか?肥前小田氏の家紋は不詳ということになっているので同じ家紋かどうかもわかりません。

    ・・・何か本当に質問ばかりでスミマセン;
    よろしくお願いします。


      [No.222] Re: 小田氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:31:06  

    Re: 小田氏について。
    青木研究員 さん 2006/12/15 (金) 19:48

    稲垣さん 今日は 始めまして。
    ようこそ青木氏のサイトにお越しくださいました。

    このサイトは青木氏のことに付いて研究しているところですので、小田氏のことはなかな難しい事です。

    しかし、折角ですので判る範囲でお答えをします。
    先ず、お歯黒とそり眉 武家であつた事 おたたさま 平伏か土下座 家紋は小田氏で左三つ巴紋
    の情報ですが、

    これ等から判る事は大正の始め頃まで武家の仕来りで結婚すると古い仕来りの家ではお歯黒にし眉そりをしました。
    ”おたたさま”の呼び名は”おもうさま””おたあさま””おひいさま”と呼んでいました。

    この場合は武家でも用人を何人か雇える少し高位の武家の家柄の家でした。
    例えば、江戸末期以降に武家の出であり村の名主や庄屋や豪農や郷氏や大郷士や大豪商の先祖を持つ家柄であった氏などがあります。又は土地の大名などが当ります。
    特に、青木氏や藤原氏などの先祖を持つ家では家の中の仕来り全体が古来からの仕来りを守っていましたので上記の様なことが周囲でもありました。

    次に、「左三つ巴紋」ですが、この家紋の家は武家の出です。
    この家紋の種類は91もありますがこの中で左三つ巴紋を家紋としているのには特長があります。

    宇都宮氏、小山氏、佐野氏、結城氏、赤松氏などがこの家紋を使用しています。
    特長いうのはこの家紋を持っている氏は藤原秀郷の一門の関東での武家の家柄です。

    藤原秀郷と言うのは大化改新で有名な藤原鎌足の8代目のもので勲功を立てて武蔵の国や下野の国を領国として関東一帯に最大勢力を誇った藤原北家一族です。この一族の末裔は全国に朝廷の命で国司として24地方に赴任した一族です。

    平安末期から室町期にかけて宇都宮氏、小山氏、竹中氏、結城氏は関東で大勢力を誇りました。
    この一団の事を当時は、「関東屋形」呼んでいました。

    特にこの中の小山氏に付いては、平安中期から後期にかけて藤原秀郷一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任した時しましたが、この時、土地の豪族との血縁をしました。
    この代表的な氏が小山氏でこの流を汲む小田氏等があります。
    藤原秀郷一門が赴任地を甲斐や信濃に変わったときにこれ等の小山氏等の血縁族が護衛群として同行しました。そして、甲斐に定着してそこで勢力を広げたのが甲斐の武田氏です。
    又、陸奥の花山氏等は信濃に定住して足利氏となりました。
    この時、小山氏の一部は秀郷の領国の武蔵、下野、上野、常陸の付近に移動して定住しました。
    特に常陸の小山氏は上記の通り関東屋形と呼ばれるくらいに大勢力を築きました。

    秀郷一門のこの関東屋形の結城氏からは永嶋氏が出ました。
    これが結城永嶋氏です。佐野永嶋氏結城氏との同属血縁で結城永嶋氏が出たのです。

    この一族の末裔は主要5氏(永嶋氏、長沼氏、青木氏、長谷川氏、進藤氏)を中心に24氏の氏が出来ました。この中には上記の5つの氏があります。

    そこで、この藤原秀郷の一門が肥前国に国司として赴任しました。その時に小山氏の支流が護衛軍の一部として付き従いました。

    この時、この赴任した藤原秀郷の末裔の一族が鎌倉幕府の樹立で失職し土地に定住して土地の名主や庄屋や郷士などになり、又、元の立場を生かして豪商となりました。

    この時に、付き従った武家の家臣群やその一族縁者も肥前付近に配置されていましたからこれ等も鎌倉期以降も同じく村の力の持つた武家として存在しました。

    多分、藤原秀郷一門の中に見られるこの支流の左三つ巴紋の小田氏もこの時に肥前付近の土地に残留したのではないかと推測します。此れが御家の元祖ではないかと思います。

    このような高位の武家では父上や母上の言葉は使いません。上記の言葉の様に少し違っています。
    天皇家のように。

    参考としてこのサイトの青木氏は皇族賜姓青木氏ですし、藤原秀郷流青木氏はですのでこの様な仕来りの中にあります。

    平伏土下座も明治大正期には土下座はすくなかつたと思いますが、立ち止まり横に道を譲り腰を低く下げて平伏の慣習が残っていました。

    参考に、筆者の先祖は江戸初期から大正末期までの紀州徳川の殿様がわが家の先祖と会うときは徳川の殿様が座る上座を譲り下座し座布団も敷くことはなかつたとた伝えられています。
    伊勢青木氏は皇族賜姓青木氏であるので徳川氏より身分家柄が格別に上位である事から起こる慣習でありました。
    伊勢の豪商の紙屋長兵衛として2足の草鞋策で伊勢の青木氏としての武家と片方では商いを営む豪商でした。
    この様に青木氏と同じ様に、元の勢力を生かして殆どの各地の藤原秀郷氏の一門の末裔も残留した土地ではこの様な立場を保っていました。

    名主や庄屋や大豪農や大豪商などは殆ど元は高い身分の武士でした。

    一度、御家のご先祖のその娘さんの呼び名は”おひいさま”と呼んでいませんでしたかお調べになるとよいと思います。食事などは上げ膳、据え膳では無かったかもお調べになるとよいと思います。
    お盆の仕来りなども異なっていましたが付近と違って居ませんでしたか。

    もしこのようなことがあれば間違いありません。

    推測できる事は専門ではありませんので上記の通りですがご質問が有りましたらお尋ねください。


      [No.221] 小田氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:29:45  

    小田氏について。
    稲垣雅子さん 2006/12/15 (金) 00:11 [ メール ]
    初めて投稿させていただきます。

    私の曾祖母は旧姓が「小田」といって、九州対馬の峰村という所の生まれです。
    母の話によると、曾祖母はお歯黒をしていて眉をそり落としていたらしいです。私も小さい頃から母に「うちは代々お武家さんでね」と聞いていたのでそこまでは納得していました。
    でも先日母と曾祖母の話をしていたときに、どうも「?」な話を聞きました。
    曾祖母は峰村の実家では、家の人から"おたたさま"と呼ばれていたそうなのです。そして、その峰村では曾祖母が歩いているとその姿を見るなり村の人が地面に平伏していたらしいのです。
    普通お武家さんは「父上」「母上」と呼ぶと思っていたので何だか首を傾げてしまいます。そして大正末〜昭和初期にかけての時代になっても、村人に平伏されていたという曾祖母がとても気になります。

    ・家紋は左三つ巴(おそらく小田家のものだと思いますが、もしかすると曾祖母の母方の紋かもしれません)
    ・お墓は対馬の「いずはら」というところにある

    ・曾祖母の父は郵便局を作り、郵便局長をしていた

    ・曾祖母の叔母は自分の夫のことを「殿」と呼んでいた

    ・当時、対馬ではお歯黒をしていた人は少なく、峰村とその周辺では曾祖母と親戚関係のある家の人しかしていなかった


    このぐらいのことしかわかりませんが、曾祖母の家はどんな家なのか知りたいです。
    どうぞよろしくお願いします。


      [No.220] Re: 教えてください。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 07:22:09  

    青木克彦さん 2006/12/09 (土) 11:31 [ メール ]
    青木研究員様。

    早速大変丁寧なご回答を頂き、誠に有り難うございました。

    我が青木氏は、美濃王を先祖とする皇族賜姓青木氏の土岐氏系分家一門であると思われること。
    信長との戦いに敗れて、関東の藤原流青木氏を頼って逃げ延びてきたと思われること。
    青木紀伊守や平氏、「富士に霞」紋の青木氏とは関係がないこと。

    以上、感銘深く読ませていただきました。

    我が青木氏が現在で15〜16代目ということも、丁度信長の頃に武蔵国に移ったことと一致する気がします。

    今後、研究室のご報告を更に読ませていただき、また、我が青木氏のより詳しい伝来の情報も集め、またお便りさせていただきたいと思います。
    取り急ぎ、御礼まで。
    有り難うございました。                   青木。


      [No.219] Re: 教えてください。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 07:18:00  

    Re: 教えてください。
    青木研究員 さん 2006/12/08 (金) 20:04

    青木克彦さん 今日は 始めまして。
    先ず、ご先祖を調べるには家紋や宗派や土地柄などで調べる事が出来るのですが、次の情報から判断しますと次の様に成ります。

    第1には御家は真言宗です。
    第2には家紋が井桁に木瓜です。そして女家紋は丸に木瓜紋です。
    第3には富士講の先達であつた。

    質問として平家の落人が青木氏であるのか、青木紀伊守が先祖では。


    さて、御家の家紋から検証してみますと
    青木には33の紋様からなる青木氏があります。家紋にしますと121程度に成ります。
    この中で、木瓜紋の青木氏は6つの種類の家紋からなっています。
    家紋掲示板のP2の真ん中あたりに投稿していますので参照して下さい。
    木瓜紋種としてはこの6つ以外にありませんが、御家の男性紋は「井桁に木瓜紋」ですので外れる事に成ります。

    そもそも青木氏は研究室のところに青木氏の2つのルーツがあります。(で研究室にレポートされています。)青木氏はこの2つのルーツで広がっています。
    しかし、江戸初期と明治初期の2期に第3の青木氏が生まれました。
    江戸期のものは庶民が出世して侍となり系譜と家紋が必要となりました。この時に高位の身分の青木氏の氏名を名乗りました。

    明治期は庶民が苗字令にて姓を持つことに成りました。この時に同じく寺や神社に金品を出して青木姓を名乗るということが起こりました。
    (詳細は研究室のレポートをゆっくりとお読みください 詳しくレポートしています)

    青木氏の家紋33紋様は第3の青木氏ではない氏の家紋群です。
    この家紋はそのルーツがはっきりとしています。

    因みに、先ず一つ目は皇族賜姓青木氏で5家5流24氏です。
    二つ目は藤原鎌足の8代目の子孫の藤原秀郷流青木氏です。
    この二つは藤原系の血筋で繋がっています。
    藤原鎌足は大化改新の時の中臣の鎌足です。
    藤原氏の四家のうち北家で最大勢力をほこりました。

    皇族賜姓青木氏はこの時の天智天皇(中大兄皇子)の第6位皇子が臣下して侍となって天皇の親衛隊となつた氏で天皇から青木氏を授かりました。
    初代は伊勢の青木氏です。次に近江の青木氏です、美濃の青木氏です、信濃の青木氏です、甲斐の青木氏です。
    以上何れも5代の天皇の第6位皇子が臣下して名乗った氏です。
    天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人の天皇の第6位皇子です。
    詳しくは研究室の「皇族賜姓青木氏」のレポートを参照して下さい。

    藤原秀郷流青木氏ですが直系1氏、直流4氏、支流4氏から成り立ちここより116氏に広がっています。
    藤原秀郷の第3番目の子供の千国から青木氏が広がっています。
    詳しくは研究室の「藤原秀郷一族の生き方」を参照してください。
     
    そこでこの青木氏の中に「井桁に木瓜」は有りませんが女紋の「丸に木瓜」紋は美濃の土岐氏(綜紋は桔梗紋)の一族の末裔と血縁を結んだ土岐氏系青木氏の分家です。

    美濃の土地の土豪の土岐氏は美濃の守護の皇族賜姓青木氏と血縁して勢力を伸ばしました。
    本来この土岐氏系青木氏は「笹竜胆紋」です。しかし、2代続きで男系跡目が
    とれず家紋掟で変紋を余儀なくされ、養子先の土岐氏の家紋となりました。
    これが、「木瓜紋」です。そして、この分家が「丸に木瓜紋」と成ります。

    主要家紋書の中には「井桁に木瓜」はなく珍しい家紋です。家紋200選の中にもありません。しかし、「丸に木瓜紋」は存在します。

    つまり、御家は長い間に一時女系となったことが予想できます。この時はまだ「丸に木瓜紋」であつた事が覗えます。
    しかし、この後に男系跡目は出来ずに家紋掟にて変紋を余儀なくされた結果、木瓜紋を残したいと考えて木瓜紋に井桁を入れて「井桁に木瓜」としたものと考えます。したがつて珍しい家紋となつたと思います。特に特別に井桁紋としては特定の氏の家紋では有りませんので、止む無くこの時には変紋をしたと考えます。

    しかし、女紋では「丸に木瓜」ですので土岐氏系青木氏です。
    つまり、美濃の美濃王を先祖とする皇族賜姓青木氏の分家一門で24氏の一つです。

    賜姓とは天皇の皇子であるので氏を持ちませんので臣下(侍になる事)して天皇を守る親衛隊となり、天皇から青木という氏を直接に与えられる事です。

    御家の菩提寺の埼玉の入間郡を中心として神奈川横浜を半径として円を描く範囲に藤原秀郷の総宗本家を真ん中に藤原秀郷流青木氏が内側より本家筋が取り囲み外側に向けて支流の本家筋が取り巻いて存在していました。

    したがって、ここに居る青木氏は藤原秀郷流青木が主です。
    しかし、此処に、この青木氏を頼って信濃皇族賜姓諏訪族青木氏や美濃青木氏が信長との戦いで敗れて逃げ延びてきています。横浜、栃木などに多く分布しています。

    皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏は本来は浄土宗です。浄土宗はこの様な高位の身分の者が入る宗派でした。ところがこの宗派の寺があるところは限定されていますので、藤原秀郷流青木氏の一部は赴任先では寺がないので浄土真宗に入りました。逃げ延びた御家の一族などの他の青木氏らもこの宗派に入りました。
    しかし、この全ての5家5流の皇族賜姓青木氏は高位であるため元来自分の守護神の神社を持ち移動さきにも遷していますので一族として逃げ延びた場合に於いてどこかに自前の守護神(祠も含む)があった筈です。一度調べられたらよいでしょう。

    御家は江戸期前に美濃から移動してきたものと思いますので、寺はなかったものと思います。このために同系の浄土真宗に菩提寺を求めたと考えます。

    江戸初期にこの為に幕府は浄土宗を普及する為に奨励しました。
    この為に江戸半ばに各地に広がりました。

    此処で、既にお判りと思いますが、平家からはまったく青木氏は出ていません。平家のルーツもはっきりとしています。
    中国朝鮮系の渡来系で中国後漢の21代の末帝の献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王の子孫です。日本に17県民の200万人引き連れて入国し殆ど無戦で九州全土と中国地方全土を制圧し66国中32国まで制圧した渡来系一団です。この一団が孝徳天皇期に帰化してきました。この後、天皇家と婚姻を結び朝廷組織の3つの内の2つまでも独占し、日本の律令政治の根幹と第2次産業の基礎を作りました。
    そして、この子孫が太政大臣の平清盛です。桓武天皇の母がこの子孫の末裔です。むしろ、青木氏とは政治的には犬猿の仲なのです。この為に天皇の第6番目の皇子であり親衛隊として最大勢力を誇っていた青木氏は勢力を弱められたのです。このことを嫌った息子の嵯峨天皇は元に戻しました。
    此れが源氏なのです。

    青木氏は明治初期までは皇族以外のものが使用しては成らない姓でした。
    800年頃の嵯峨天皇期に詔令で青木氏の使用禁止令を出しました。
    そして、嵯峨天皇期からは青木氏を止めて第6位皇子の臣下は源氏としました。この青木氏からかわつた源氏は16代続きました。
    青木氏と源氏は同族です。全部で21代です。

    青木紀伊守一矩は信長と秀吉とに仕え、北の庄8万石でありましたが家康はこの者を除封し一族を滅ぼしました。子孫のないところ氏の子孫としても使えば文句の云う者は有りませんから多くの庶民は使いました。

    そして、この者の子孫だと言う者が多く出ていますが殆ど偽です。
    除封されると子孫は原則なくなります。そして、更に木瓜紋では有りませんので子孫とは考え難いです。江戸初期の偏纂搾取ですし明治の第3の青木氏の偏纂の現象です。

    「富士に霧」紋は江戸初期のこの第3の青木氏です。出世して大名に成りました。富士講とは関係有りません。

    以上が御家の江戸期前のルーツです。美濃の大豪族の土岐氏系青木氏です。皇族賜姓青木氏の24氏の一門で分家の支流一族です。

    研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」のレポートの木瓜紋のところを参照して下さい。

    美濃の青木氏は青木氏の地名地形のデーターベースの美濃、尾張の所を参照して下さい
    このレポートを一読後、研究室の所定のレポートを参照後にご質問が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。

    ではお便りお待ちしています。


      [No.218] 教えてください。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 07:16:21  

    教えてください。

    青木克彦さん 2006/12/07 (木) 21:30 [ メール ]
    初めまして。
    我が青木家の先祖について、お教えいただきたく投稿させていただきます。

    家紋 井桁に木瓜

    菩提寺 武蔵の国 正能村(現在の北埼玉郡騎西町正能)
        真義真言宗伊豆山龍花院(真言宗智山派)
        頼朝の命により創建され、江戸時代には朱印20石を拝領
        将軍が日光へ参る途中、茶を飲みに立ち寄った
        江戸期には末寺28を数えた名刹

    冨士講先達の家
         
         寛文年間(1661〜1673)、冨士講初代先達が富士山に初登                     頂する
         1699 初代先達、富士登山33度の大願を成就する

         8代将軍吉宗から感謝状を戴く(寄進したためか?)
         
         1852 初代から6代までの各33度の富士登山大願成就で、正          能村諏訪神社境内に記念碑を建立
              最盛期には、関東一円5000人の参加者が、青木先達          の冨士講にはあったと伝えられる 

    今回、青木氏に「富士に霞」の紋があることを初めて知りました。
    青木ヶ原樹海や、青木先達の家が冨士講の中心として栄えたことを考えると、青木氏と富士山には深い関係があるのでしょうか。

    更に、我が青木氏の江戸期以前のルーツについて、お教えいただければ幸いです。
    大正期に歴史を学んだ親族が、「青木紀伊守がルーツだ。」と言ったと聞いています。
    また、平家の落人が青木氏の祖先という話も聞いたこともあります。

    では、よろしくお願い致します。               青木。

    追伸
    青木克彦さん 2006/12/08 (金) 14:55 [ メール ]
    家紋 男性が、井桁に木瓜
       女性が、○に木瓜です。

    よろしくお願いします。


      [No.217] Re: 嶋崎氏について。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 07:08:43  

    お礼を申し上げます。
    井上 のり子さん 2006/12/01 (金) 13:35 [ メールウェブサイト ]

    私の疑問に、お答えくださり、有難うございました。 お礼を申し上げます。
     たぶん国からの、見舞金であったことと、思います。 疑問が、一つ
    解消されました。 忙しい時期を、迎えます。 お体を大切になさって下さい
     ませ。 失礼いたします。


      [No.216] Re: 家紋について
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 07:05:03  

    Re: 家紋について
    青木 浩さん 2006/10/16 (月) 13:08

    お早い回答を頂き誠に有難うございます。
    以前、私は転勤で水戸に行った時、歴史館にお勤めになっていた桜井明さんから家系図及び家紋について、話をした伺ったことがあります。
    家系図を本当に追えるのは茨城県でも2,3家しか居ないと、殆どの人は家系図はその時代に金力のある人が改ざんをしている事が多々あると言っていました。
    私もそうなのかな?と思っていました。
    そう云えば、茨城県の内原に青木一族が住んでいたことを思い出しました。
    たわいも無い話です。
    今回投稿させて頂く機会を与えて頂き有難うございました。
    また青木のルーツについてこんなに研究している事に、私は感動いたしました。
    追伸
    私どもの青木の菩提寺は真言宗の林光寺です。
    林光寺は鎌倉時代に設立されたと言っていましたので
    青木の先祖についてもう少し勉強しようと考えています。


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