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  [No.469] 青木姓ではありませんが。(長嶋氏)
     投稿者:カントリー   投稿日:2009/02/24(Tue) 12:43:38
青木姓ではありませんが。(長嶋氏) (画像サイズ: 210×210 0kB)

はじめまして。

私は茨城県県南地方に住んでいる長島と言います。
昔は長嶋姓を名乗っていたようです。

先祖やルーツについて調べている時に、このHPを
拝見し、青木さんと昔は関係があったことを知りました。

場違いだとは思うのですが、ぜひお力をお貸しいただけないでしょうか?

家紋は丸に桔梗です。宜しくお願いします。


  [No.470] Re: 青木姓ではありませんが。(長嶋氏)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/25(Wed) 10:32:22
Re: 青木姓ではありませんが。(長嶋氏) (画像サイズ: 210×210 0kB)

茨城の長嶋さん 今日は。始めまして。

藤原秀郷綜紋 下がり藤紋

よく本サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。

長嶋さんは茨城の県南にお住まいとか。
家紋は「丸に桔梗紋」とのことですが、既に本サイトの何れかのレポートをお読みではと思いますので、詳細な所は藤原秀郷一門関係のレポートをお読みください。

提供されました情報が少ないので、家紋だけでの検証と成ります。
ルーツを探る手がかりとしては家紋は大変重要ですが、もし他に何か、ちょっとした先祖のこと等が聞き及びしている事、又、遺されているものなどありましたらお聞かせください。
今と違い当時のご先祖の時代は氏家制度のなかですのでほんの一寸した事が大きな手がかりに成ります。


さて、結論から申し上げると、藤原秀郷流永嶋氏です。

永嶋氏は殆ど藤原秀郷流青木氏とはルーツが同じです。
全くの親族です。
本サイトは青木氏のサイトですが、永嶋氏のサイトと全く同じ経緯を持っています。
つまり、内容は殆ど一致します。それ程にこの永嶋氏とは非常に親密に親戚付き合いをしていました。
その事も青木氏のところで永嶋氏とは「親戚」であるとレポートしてます。
全国の青木さんもこれらのレポートを読んで居られますので同様に「親戚」と思っています。
そして、お家が住んでおられる茨城、埼玉、栃木、群馬、千葉には埼玉入間を中心に横浜神奈川を半径として円状に取り囲んでいまして、一門を守る為に固く同族血縁を繰り返していた青木氏が定住しています。
青木氏は秀郷一門宗家が貴族に成りましたので武力を使えません。そこで青木氏がその宗家の護衛役を担っていたのです。
この方たちとは戦国の室町期末期までお家の付近に居られる青木さんとはスクラムを組んで深くご親類で付き合いをしていました。

しかし、永嶋氏や長沼氏の方の研究レポートが社会の中に少ないのでそれが伝わっていません。
そこで、本サイトはこれ等の情報を全国発信した訳です。「青木氏氏ブログ」を通じて。
”親戚の皆さん集まってください。”と、幸い青木サイトが藤原秀郷流一門サイトを構成していますので企画しましたが、”出来うる事ならばコミニュケーション致しましょう”と。

ここで、お家のところに戻りますと、「永嶋氏」と書きましたが、「長嶋氏」も同じです。ただし、この永嶋氏は「二つの流」が出来ております。
「結城氏系永嶋氏」は判別する為に、一門は結城氏系は最初は酒井氏を名乗り、後に「長嶋氏」としました。
もうひとつの永嶋氏は「佐野氏系永嶋氏」です。
つまり、親類が二つの流れを作ったということです。
正しくは、「秀郷流兼光系結城氏系長嶋氏」が正しくその長嶋氏(永嶋氏)の主流と成りました。

そこで、結城氏は藤原秀郷の8代目(5世)の子孫で「藤原朝光」と云う者が居りました。
この者は下総の「結城」と言うところがありますが、ここを領地としていました。常陸の「結城」付近までその勢力を張っていました。
ところが32/66国の大勢力の平家に乗っ取られてしまいました。
この宗家の朝光は何とかして取り戻そうとして頑張りました。ところが、源の頼朝が鎌倉幕府を樹立する時に朝廷に仕えていた秀郷一門が離散失職してしまいした。
しかし、その逆境を跳ね除けて朝光は大変に頼朝に合力し、幕府の本領安堵策(昔の領地を取り戻す権利)で結城を取り戻したのです。
そして、この時改めて秀郷一門の判別の為に「結城氏」を名乗りました。
その後、酒井、長嶋と変名し、一部の親族は結城氏、酒井氏を名乗り遺します。

そこで子孫は、藤原秀郷一門24氏の中でも、「第2の宗家」であった青木氏と緊密な同族血縁関係を構築し「関東屋形」と呼ばれるほどに勢力を得て秀郷一門主要5氏の中に入りました。
そして、この時、同じ秀郷一門の佐野氏の流れを強く汲む「永嶋氏」と、結城氏の流を汲む「長嶋氏」とに分かれました。

お家は、この「結城氏系長嶋氏」です。
そこで、この結城氏系長嶋氏は室町期に二つに分流します。
一つは陸奥の白河の結城氏系長嶋氏です。
陸奥は元藤原秀郷の一門の代々の「鎮守府将軍」としての土地柄です。ところが渡来系阿多倍一門(京平家 平清盛の先祖)に奪い取られてしまいます。
そこで、結城氏長嶋氏はこの旧来の土地を取り戻します。そして、兄弟の一人に陸奥を護らせました。

お家は兄の系列の本家「下総結城氏長嶋氏」です。
茨城、千葉に分布しますので、県南付近に江戸期前の昔から住んで居られるのであればこの真にこのルーツです。
そこで、永嶋氏(長嶋氏)は34の家紋を持っていますが、つまり、子孫末裔が34氏に広がっていることですが、なかでも「丸に桔梗紋」は永嶋氏の中でも主要氏です。
この桔梗紋は美濃の大豪族土岐氏の家紋ですが、美濃は後にお家の結城氏系長嶋氏の最大勢力地に成りました。
この土岐氏の分家(丸付き紋)との血縁をしました。
本来はお家は藤原秀郷一門の朝光を元祖としていますので綜紋は「下がり藤紋」です。
しかし、お家のご先祖のどこかで、男の跡目に恵まれず娘に土岐氏分家から養子をとりました。しかし、この夫婦にも男系に恵まれず、結果は氏家制度に基づく「家紋掟」により男子側の養子先の家紋と成ったのです。
もし、ここで、養子に男子に恵まれていた場合は元の家紋(下がり藤紋)に戻る事に成りますが、2代続きで女系となり恵まれなかった事を意味します。
しかし、信濃、桔梗紋、茨城県南の常陸結城の土地柄、長嶋姓、下総結城から条件が一致しますので、それらから観て、総宗本家の藤原秀郷一門としての「永嶋氏」流の中の「長嶋氏」の本家としては、氏家制度の中では上位に居たと考えられます。
と言う事は青木氏と更なる親類付き合いをしていたことを意味します。


この事から、お家のご先祖は、平安末期に永嶋氏を発祥させた時期から考えても、朝光が結城永嶋氏を発祥させた時期は1190年頃としますと、室町期初期に滅亡した土岐氏との血縁が出来る時期としても、又更に、家紋が桔梗紋である事としても、朝光が平家に領地を奪われている間は下野と常陸付近に居ました時期としても、考え合わせると、朝光より直ぐ後の朝光より2ー3代後のところの長嶋氏と考えられます。

そうすると、朝光の孫の廣綱と祐廣の兄弟の時期と成ります。
(祐廣は陸奥白河の結城氏系長嶋氏になる)

多分、兄の廣綱の直系子孫です。
丁度、長嶋氏が勢力を盛り返してきた時期で、下総結城を兄(兄の一族は剣片喰紋 左三つ巴紋になる)に任して、祖父の居た常陸結城を守る為に配置されたその末裔(丸に桔梗紋)である事に成ります。

実は私の研究史からは長嶋氏=青木氏=長沼氏とも考えているのです。
ご先祖がどのように生きてきたかの「生き様」は青木氏と殆ど同じです。
その違いは「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」レポートで詳しく解説しています。
「藤原秀郷一門の生き方」(1-13)等のレポートがありますので参照して下さい。

青木では詳しく「生き様」などの史実に基づき色々と史料を提供していますので同じとしてお読みください。
更に詳しく長嶋氏の事も記述しています。

この結城氏系長嶋氏ルーツに関しての更なるルーツについては情報が有りませんので、ここまでです。

詳しくは本サイトの「青木氏氏 研究室」の秀郷一門のレポートを選んでお読みください。

当然、不明点やご質問等が出てきますのでそこから更に検証いたしましょう。

ですから、青木氏と同じく自分のサイトと思われて、情報やご質問ご不明点など有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
自分のサイトとしてお使いください。
青木サイトというよりは藤原秀郷一門主要5氏サイトともいえますね。

念のため、系譜概容を添付いたします。
秀郷(藤原鎌足より8代目 最大勢力の北家一門)-千常-文脩-兼光-頼行*-兼行-成行-家綱-有綱-基綱-景綱-秀綱-行政*-行長(初代の永嶋氏発祥 その後、佐野永嶋氏になる)

頼行*-行尊-行政*-政光-朝光(結城長嶋氏発祥)-*-廣綱(お家の長嶋氏)
(注意 重複する血縁により同一人物が別ルートに出て来る)

基綱の佐野氏からも血縁で佐野氏系永嶋氏を発祥する。
(重複血縁で永嶋氏の血筋を継ぐ)

参考 青木氏は千常(長男)の兄弟(3男)始祖として代々秀郷総宗本家から「宗家第3子跡目の掟」により跡目を入れて家と純血を守る為に「第2の宗家」として活躍した。
主要5氏は相互に同族血縁関係を繰り返していた。

「行政」と従兄弟関係にあった「行久」も青木氏跡目に入る。

史実保存の意味からもご親類やお知り合いの方々にもお伝えください。
本サイトはご親類として充分に対応させていただきます。
この青木サイトには秀郷一門以外の青木氏以外の方々も多く投稿されていますよ。

「青木ルーツ掲示板」には茨城、栃木、千葉付近のご親類付き合いをしていたはずの青木さんからの多くのお便りがありますので、これもご参考ください。

元は藤原秀郷流青木氏と親族で同族です。
4代目の文行系と兼光系があり、長嶋氏は兼光系です。
藤原秀郷一門の事に付いては本サイトに詳しくレポートしていますのでご参照ください。
大変長く詳細なレポートですので、少しづつ楽しんでゆっくりとお読みください。

では、お便りをここからお待ちしています。


  [No.471] Re: 青木姓ではありませんが。(長嶋氏)
     投稿者:茨城の長嶋   投稿日:2009/03/01(Sun) 18:43:19

副管理人様

お世話になっております。
ご返信が遅くなりました。

詳細に説明いただき有難うございます。
これからゆっくり熟読して参りたいと思います。

我が家の情報なのですが、江戸時代末期頃には
常陸国河内郡という場所に住んでいたらしく、宗派は天台宗です。

恐らくお百姓さんだったのではないかと思います。

私の知る限り、一番古い先祖は儀左衛門さんという方で
文政の頃の方です。

ただ、私の代で14代目と伝わってきているので
もう少し遡れるのではないかと思い、今度お寺に行ってこようと思っています。

また、近所に江戸埼土岐氏の家臣が土着したといわれている家があります。
何か関係があるかもしれません。

これからもこのサイトを利用させていただきます。

今後も宜しくお願い致します。


  [No.472] Re: 青木姓ではありませんが。(長嶋氏)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/03/01(Sun) 22:36:40

長嶋さん 今日は。

早速のお便りありがとう御座います。

さて、お便りによりますと大事な情報が5つあります。
一つは一番古いご先祖は文政の頃(1820年頃) 儀左衛門さんとの事。
二つは貴方は14代目である事。
三つは近所に土岐氏が居る事。
四つは常陸の河内(千葉県隣接地)である事。
五つは天台宗である事。
六つはお百姓では?との事。

先ず、先に、六つ目から。
百姓でありますと、文政の頃の「儀左衛門」を確認する事は出来ません。
というのは、農民であるとすると戸籍を持ちません。
封建社会の中、当時はある一定の身分以上で無いと菩提寺で過去帳に乗せません。
昔は戸籍は寺が担っていまして、過去帳が帳簿になるのです。
そして、庄屋、名主、郷士、郷氏、豪農、中級以上の武士階級が過去帳に乗せます。
庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、は殆どは元は武士です。
鎌倉幕府で藤原秀郷一門は失職離散した時に武士を捨て豪農の農民になりました。

次に、一つ目は「儀左衛門」の名前ですが、当時は普通の農民はこの様な名前を使いません。
「左衛門」は藤原秀郷一門の氏か皇族賜姓青木氏以外には使わないのです。特に文政の頃以前では。
「儀左衛門」を確認出来る事は普通の農民ではありません。
少なくとも、武士の証拠が確認できないのであれば、庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、のいずれかです。
この5つはもとより武士ですので「苗字と帯刀と家紋」を許されます。
「左衛門」は宮廷の左門を守っていた近衛兵の官職です。
藤原秀郷一門はこの官職に代々着いていました。このことは本サイトでレポートしています。
「藤原秀郷の官位と官職..」です。
江戸中期以降は中級武士以上は高額の金品で一代限りの官職名を天皇家から買いました。

次ぎに二つ目は14代目ですと、文政以前の歴史を持っている事に成ります。また、農民は上記しましたように過去帳に乗りませんので代目がわからないのが普通です。
14代目だとすると普通では550年位前後に成りますので、室町中期前後と成ります。
つまり、お家の長嶋氏の発祥期付近と成ります。
そもそも14代目であると、文政より190年も前に成ります。
従って、お家の本家筋の菩提寺の過去帳をお調べになる事です。
14代目というように代が判っているとすると、本家筋であるかの可能性があります。
本家で無いとすると、現在のお寺では出ないことが考えられます。本家の菩提寺です。
この本家の菩提寺は多分、浄土宗と思われます。茨城には浄土宗のお寺がありますのでご本家の菩提寺は見つかると思います。ただ、下克上と戦国時代で消失していることもあります。
現在の天台宗のお寺をお調べになり、ご本家筋の居所をお調べになる事をお勧めします。
多分、河内の浄土宗寺を先ず確認する必要がありますね。それから常陸結城市の付近の浄土宗寺と成ります。

次ぎに三つ目は土岐氏の家臣が土着した時期を江戸期としていますが、普通、余程のことが無いと「国抜け」と云って勝手に国を移ることは今と違って許しが無い限り「掟」で出来ないのです。
土岐氏は室町前期に完全滅亡していますので、一族の末孫が密かに逃げ延びた事に成ります。
もし、そうであると、その土地の者が許しません。その状態が出来るのは戦国時代の混乱期のころの室町中期前後と成ります。当然に逃亡者一族には過去帳は有りませんし、農民になる事に成ります。
それでも土岐氏の者達の一族が移動するのですから、可能なのは縁者親族を頼って匿われたことが考えられます。歴史上この事例は大変多くあります。青木氏でも起こっています。
そこで、この多分一族は美濃土岐氏の分家筋で縁者の長嶋氏を密かに頼った事に成ります。
ここでもその土岐氏とは時代性がほぼ一致しています。

次ぎに四つ目は常陸の河内ですが、下総結城から常陸結城の間の上総との国境です。
この河内文政のころからに長く住んでおられたとすると、結城市系長嶋氏の定住範囲の真ん中にありますので十分な証拠と成ります。
武士であった証拠は河内の明治維新の役所の戸籍簿に「士分」とか枯れていれば武士である事、もしかかれてなく「平民」と書かれていれば、庄屋、名主、地主、豪農、郷士、の可能性があります。
本家筋の菩提寺を確認される事をお伝えします。
14代目と言われているのであれば、何らかのこれ等の身分を示すものが遺されている可能性があります。場合に依っては本家筋にある筈です。農民であれば過去帳は有りませんので14代と計算する出来る事は先ず有りません。もとより農民には氏姓がないのですから過去帳は無理です。(人別帳です)

次ぎに五つ目は宗派ですが、上記しましたように本来は浄土宗ですが、江戸中期以降分家して移動で天台宗に宗変えする事もあります。しかし、天台宗は関西地方が主に成りますので、関東で天台宗であるとすると農民ではなく、武士の可能性が高く成ります。封建社会の中で天台宗は江戸初期までは武士の入信の宗派でした。農民は一部の浄土真宗や日蓮宗系列等です。
この天台宗か浄土宗のどちらかになると思いますが、御家が現在天台宗とすると、多分、元は浄土宗でしょう。もし、本家筋が浄土宗とすると、藤原秀郷一門の可能性がより高く成ります。
御家が本家筋とすると、赴任地で天台宗に入信した事が考えられます。
藤原秀郷一門一族は本来は浄土宗ですが、平安時代各地に赴任して末裔を遺してきましたので、浄土宗は特定の身分回帰優の者が入る為に限定された場所にしかなく、仕方なく、天台宗に入信しました。
徳川時代の初期に浄土宗を奨励しました。しかし、矢張り、中級以上の身分階級の武士しか入信する事は有りませんでした。明治にはいってから多くなったのです。

この二つの宗派のどちらかです。
天台宗である事が普通の農民でなかったことを示します。
農民になってもでも、先祖伝来の宗派を変えることは余程のことが無い限りしませんので天台宗を維持したものと考えます。藤原氏の赴任地から移動し戻った時も天台宗を維持したと考えられます。
というのも、長嶋氏の青木氏の補助役的に赴任地に護衛役として移動しています。伊勢長嶋までの域まで長嶋氏は赴任地に子孫を遺してきました。各地に大変多い長嶋の地名はこのことから来ています。
北九州にもありますょ。

これ等六つを考えても、藤原秀郷一門の条件は外れてはいません。

お調べになるときは、上記の時代の諸条件事を確認してください。氏家制度の封建社会での常識を先ず認識されて、現在の常識とは異なっています事をご理解ください。

例えば国抜け、宗派、名、身分、時代性、戦国時代の常識などを考えてお調べに成る事です。

なかなか、これ等の常識は余程マニアでなければ判らない事ですので、ご不明点はご質問ください。
又系譜などをお考えになる場合にも知っておか無ければならない常識がありますのでご注意ください。
本サイトにはこの様な常識がレポート中に多く出てきますので参考にされてお読みください。

では上記参考にされて、お調べください。

お便りを心からお待ちしています。