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  [No.628] 教えてください!
     投稿者:青木   投稿日:2009/09/28(Mon) 20:14:23

はじめまして。

私は、「青木一矩の次男の子孫」だと聞いています。

そこで、
青木一矩の「先祖」、「子孫」、「親族関係」
を知っておられるのならば是非教えていただきたいです。

どうぞ、宜しくお願いいたします。


  [No.629] Re:教えてください!
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/29(Tue) 11:22:03

何処かの青木さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。

さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、大変情報が少ないのでなんともお答えが難しいです。

お尋ねの内容からはこの情報でお答えする方はいないと思います。先ず不可能です。
日本全国の特定の個人のルーツを知る人がいるでしょうか?。物理的に無理ですね。

せめて、古くからのご本家の宗派や家紋や菩提寺や定住地などが無くては困難ですので、お知らせを頂きたいと思います。それに付け加えてせめてお名前でも。

しかし、折角ですので、概容をお答えする事に致します。
お家のルーツであるかは別として、
この青木一矩は青木紀伊守一矩です。
官位は従五位左衛門佐です。
越前府中8万石 後に北の庄20万石を領していました。
信長と秀吉に仕えました。
関が原の戦いで西軍に着きました。
徳川氏から叙封されました。
そのため一族は離散の憂き目を受けています。
この末裔は一時西国に逃亡し、その後、徳川時代に越前の国に戻って定住し商いを手広く営んだとされています。現在も子孫は定住しています。
本サイトにもお便りが来ています。

尚、この親族も同じく青木伊賀守忠元です。
越前坂井郡丸岡四万五千石を領していました。
信長と秀吉に仕えました。
関が原の戦いで西軍に着きました。
徳川氏から叙封されました。
一族は離散しています。
同様に一時西国に逃亡し、その後は不明ですが、越前に戻たと考えられます。

この二族は皇族賜姓伊勢青木氏の支流だと見られています。

伊勢松阪の伊勢青木氏は関が原の戦いでは本家筋は徳川家康に直接請われて伊勢路の護りを担いました。
兵250と用員兵1万を出して合力しました。大河ドラマの「徳川三代」で出てきます。
伊勢の豪商青木紙屋長兵衛の二つの顔を持つ青木氏で関が原までの道筋の警護と物品と食料の調達を任されたのです。
この時、伊勢青木氏支流(美濃よりの青木氏)は信長秀吉に組したと記されています。

紀伊守と伊賀守は伊勢国の守護域で、南は南紀新宮まで、北は伊賀地方、東は員弁、桑名までの領域です
信長と戦った天正の乱 3乱 伊賀の戦い、永嶋の戦い、松阪の戦いで伊賀丸山城の戦いで伊勢青木氏は勝利しました。信長が負けた只一つの有名な戦いです。
この時の人物は青木民部少尉信忠です。(天領地の伊勢国は3つに分割されていた)

さて、お家は口伝でとして、一矩の子供としていますが徳川氏に叙封を受けていますので、徳川の軍に掃討されています。武士を追われていますのでその間の経緯がどうであったかが問題です。
商家として紀伊守の末裔は生き延びています。
多分、本家伊勢青木氏紙屋長兵衛の保護をうけたものと考えますが、私の史料には子供の経緯は保持していません。
より伊勢青木氏の研究を進めるためにも、お家のご本家の宗派や家紋や菩提寺や定住地やご先祖の官位や通名などを教えていただけたら幸いです。
実は筆者は伊勢青木氏の本家で青木紙屋長兵衛の直系孫です。

青木一矩の子孫としての研究が拡がります。現在は越前に一矩の一族子孫が存在しています。
推理から、もし一矩次男とすると越前に一族は戻っていて商いをしている事に成ります。
これを確定する事を意味します。

先ずは、概容をお答えしました。

是非、お忙しい中、これ等の事をお調べ頂いてご返事を心よりお待ちしています。


  [No.632] ありがとうございました。
     投稿者:青木   投稿日:2009/10/01(Thu) 21:19:00

回答していただきありがとうございました。

早速ではありますが、わかる範囲でお答えさせていただきます。
まず、
宗派は禅宗の曹洞宗です。
家紋は、青木富士で、副紋に関しては、福岡にきてからは輪違いを使っていたらしいです。
菩提寺は、最古が福井県にあったと聞いています。
定住地は、一矩さんがいたところしかわかりません。
なお、明治時代まで福岡県西陣の「きんりゅう寺」というお寺にお墓があったそうです。

そして、青木一矩の次男「かずむね」(よしぞう?)という方が福岡県久留米市に来て島原の乱に加わったというのも事実です。
その子孫が、黒田藩の御殿医になって幕末まで14代まで続いています。
最後の方が青木春英です。
何代目かわからないですが、青木道琢という人もいます。

情報が乏しいですですが、なにとぞ宜しくお願いいたします。


  [No.633] Re:ありがとうございました。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/02(Fri) 12:45:55

青木さん 今日は。
大変多く情報を頂きました。これでさらに一歩前進します。
これを検証して問題点を解消して行けばかなりのお家のルーツの全容が観えてきますね。

さて、早速ですが、
宗派の問題ですが、この紀伊守の青木氏はご本家は浄土宗です。
しかし、お家は曹洞宗です。この問題は解決します。
関が原で敗退し西国に逃亡し後に越前に戻ります。恐らくは一族の一部は更に西国に逃亡する意見と越前に戻る意見に分かれたのではと考えます。
つまり、一矩(1603没)とその長男俊矩(j前田氏一時人質)は越前に、一族等は更に西国にとなった事が考えられます。
そして、福岡まで到達したと考えられます。
そうしますと、浄土宗は関西から武蔵を中心に関東の特定氏を主にしていましたから、北九州には有りませんでした。浄土宗が全国的に成ったのは、家康による浄土宗の督奨励令によるもの江戸初期には未だ北九州にはありません。
仮にあったとしても、また逃亡していますので当然に特別な古代密教を教義とする浄土宗には帰依できません。そこで、この時期全国的に広まっていた曹洞宗に入信したと見られます。

島原の乱に一宗は加わったとすると、一族を滅ぼした徳川氏に対抗する心情から尚更の事では無いかと考え
ます。この乱は秀頼説もあるくらいですので、豊臣方の侍が多く参加したことは史実です。
通説では宗教戦争だと成っていますが、1600年慶長3年の関が原から私は豊臣方の巻き返し戦であったと考えています。
1637年寛永14年から起こった乱は秀吉の農民上がりを承知し要するに農民、庶民、武士を巻き込んだ壮絶な戦いが長く続きました。
西国北九州に逃亡する根拠はありますし、まして豊臣秀吉の軍師黒田藩の御殿医にもなれるくらいですので筋や根拠が一致しています。西国の逃亡先はここしかないとも考えます。
つまり、一族は越前に戻って商家(造り酒屋)として出直し組みと、豊臣方が多く居る九州地方にて再起を期するとする組になるのは当然の成行きです。

越前組は徳川時代になり加賀の前田藩が徳川氏に人質を出し生き残り、この前田氏が一矩の子孫を庇護した事は史実として残っています。(造り酒屋と廻船問屋も営む豪商になる)

従って、この宗派に関しては問題はないと考えます。また逃亡先の福岡県も納得できることです。

当然に、本家菩提寺が福井県(越前)にあるとすると、ご本家筋が戻ったところの越前ルーツにある事を意味しますので、ご本家の定住地は紀伊守ルーツ説の移動と一致します。

一宗末裔のお墓は福岡県西陣の「きんりゅう寺」であるとすると、この寺は何宗かですが、曹洞宗ですか。
恐らくは、このお寺にも紀伊守一矩の「菩提の御霊写し」も行っていると思います。
それが当時の宗教慣習です。そのお寺のお家の過去帳には「御魂写し・・何処、何時、誰々」と書き記していることが多いのです。
つまり”越前より、慶長から寛永に、一宗が”と云う事の意が記されている可能性があります。又は墓石左後ろに書いている事も考えられます。
一度確認ください。
北九州人で画家(医師)の青木春英と言う人物も承知しています。
医師で「青木道豚」と云う人物の事は九州から大阪に出た医者であると聞いた事がありますので納得できます。

さて、問題は家紋です。

お家の家紋は青木富士ですが、この青木富士には厳密3つ(副紋含めて未勘氏5つ)あります。
この内、本家筋の富士は富士山に霞紋です。分家は「変わり青木富士紋」の2つです。後は副紋つきです。
この紋は実は、関東の武蔵7党の一つ丹治氏系青木氏の家紋で、一族と武蔵7党は関が原の戦いで徳川方に着き勲功をあげ、後に摂津国の麻田藩藩主と成りました。その弟は河内四千石(2千石説あり)の領主と成っています。
この丹治氏の青木氏は皇族青木氏です。従って浄土宗です。武蔵国の領主の藤原秀郷流青木氏とも血縁しています。


室町期前のルーツは紀伊守本家筋は伊勢の皇族賜姓族青木氏(又は美濃青木説も)であると観られるので、本家家紋は笹竜胆紋でその末裔は丸に笹竜胆紋を使用しています。
(美濃説もあり ここではある根拠で伊勢説とする)
紀伊守系譜と移動説と、伊勢青木氏の分家系譜伝意からも伊勢青木説の根拠としています。

美濃青木説は伊勢青木氏の東域の員弁、桑名と美濃青木氏の西域が融合しているので判別が困難なのです。
紀伊守の一矩は、中には美濃の青木氏であるとして、一重ルーツ説が生まれているが一重は丹治氏系青木氏です。この一重説の姻戚説は美濃には皇族賜姓青木氏とその支流土岐氏系青木氏がある事を読み取れて居ないことから起こる説で間違いです。

一重説では次ぎの事が前提と一矩生誕不明としている。
一重は1551年生誕
一矩は1541年生誕
一矩の実父を一重の4代目「重矩」として居るが重矩は1665年生誕
家紋、地理、宗派等を無視し、時系列も尚10年も生誕が違うのに、一矩と一重を一族と見立てる第3氏の劣悪説の系譜偏纂説です。

(この様な手の込んだ家柄の搾取偏纂は江戸期前後のブームであった。第1期の室町期末期と第2期の江戸期初期前後と第3期の明治初期の3混乱期に起こる。この時期のデータを使った説には充分に注意が必要です。室町期前の時系列と家紋と地理性と氏由来性を採らないと殆ど信用が出来ないのです。豊臣氏や徳川氏の搾取偏纂は有名に史実です)

ただ、丹治氏系青木氏麻田藩の青木一重との婚姻説は充分に考察の余地があるとして研究していました。 

一重姻戚説は家紋、地理、宗派の検証により明らかに丹治氏系青木氏です。
(江戸初期の第3氏と未勘氏の搾取偏纂説を排除しての史実に基づく学術的な論説による)
丹治氏は武蔵7党の一つで多治彦王の配流孫です

(又、秀吉従兄弟説もあるが伊勢或いは美濃の青木氏と繋がりを着ける為の事で秀吉の家柄を良く見せるために秀吉母方の系譜偏纂した史料を元にしての目的どおりの説であるので全く信用できません)

青木富士紋の家紋もさることながら一重系譜から”武蔵入間から後に足立郡に住した”とある事からも間違いはなく、多くは多分美濃青木氏、伊勢青木氏、武蔵7党の丹治氏系青木氏等の存在史実を掌握していない説と見られます。

丹治氏系青木氏の徳川方とは関西の一族の豊臣方の紀伊守と全く反対です。

さて、この問題をどの様に解決するかです。
それを確認取れれば、家紋の青木富士はクリヤー出来ます。

考察経緯

一つは「一重」を口伝で一矩と聞き違えて伝わった事
しかし、これには一宗や越前に菩提寺がある事などが一致しません。
丹治氏系青木氏の麻田藩には子供は2人で養子で一宗は居ませんので聞き間違いでは無いと観られます。

もう一つ考えられる事は、関が原前に血縁する事です。越前の大名と関東の土豪族との血縁です。
この場合の問題はこの時代に武蔵7党の丹治氏の末裔がこの越前、越中、加賀、美濃、信濃付近域に来ていたかの問題です。

一重一族と一矩一族との繋がりはこの繋がりから来ていると観ています。
一重ルーツ説は推論に近いのですが、その内の一つの姻戚説は美濃説で起こるものですが、そうではなく信濃説であると観ている事を意味します。
それは、一重の子孫に拠ります。
下記に記したように養子2人で実子は居ないのです。この内の一人は麻田藩を継承し子孫は摂津に住しています。
内一人は重正は小寺氏からの貰子です。この重正が信濃に定住するのです。
本来跡目として入りましたが病弱の為廃嫡し信濃に戻ります。
この後、一重の弟の可直の子供を養子に迎えて2代目とするのです。
これが一重説の姻戚信濃説です。

戦い前に紀伊守の一宗方は同僚のこの丹治氏系青木氏より男子跡目に恵まれず養子を取った。
しかし、更に男子に恵まれずに女系と成った。
家紋掟より養子先の家紋と成り丹治氏系青木氏となった。同じ青木姓です。

当然に丹治氏系青木氏ではこれは嫡子ではなく次男の分家筋のシナリオと成ります。
一矩の次男一宗がこの血縁をした事を意味します。
これは曹洞宗を意味付ける事にも成ります。
つまり、ご先祖の次男一宗がこの血縁をしたのではと成ります。
よって、不思議に無傷で越前に戻れるくらいに紀伊守一族が生き残れたのは、西国逃亡期間37年間の間の最初の頃、摂津付近域を担当域として出張っていた丹治氏一門(戦後この地域を摂津麻田藩丹治氏の青木氏の領地となる)に極秘の庇護を受けていたことも考えられます。
そのキーワードは丹治氏系青木氏が北陸3国付近域に末裔が広がっていたかの確認が必要です。
そこで、家紋の青木富士の2つの内のどの富士紋かと云う事も解決する事に成ります。

丹治氏系青木氏 青木一重(1551-1628)武蔵の国入間郡から足立郡に住する
先代より織田氏の家臣を務める
柴田勝家 北の庄で敗戦 1583年没

青木紀伊守一矩 北の庄に入る 1585年頃 一矩生没 (1541-1603)
嫡子俊矩(養子 一矩弟矩貞の子 前田利長人質となる 子女は家康側室蓮華院)

丹治氏系系青木一重 秀吉の家来 黄母衣伝衆となる 1584年頃
実は、この麻田藩青木一重(1551-1628)には2人の子供(養子 実子なし)が居ます。
一人は重兼で、一族末裔は故郷の武蔵足立郡に住まいします。
最初は武蔵入間付近で後に藤原秀郷がここを領地としてからは足立に移動した本家筋です。
重兼は一重の甥  弟可直の子−1606年誕
麻田藩主一重の養子(1619)に跡目継承(1628)する


次男は重正で、信濃の丸子、南佐久、南小縣、上田の4地域に子孫を広げています。
小寺則頼の子として生まれる−1580年頃
重正(1580-1650)の系譜は重正は一重の跡継ぎとして養子に入る−1585年頃。
病弱にて跡目継げず小寺氏の信濃丸子に戻る-1590年頃
信濃に丹治氏系青木氏として末裔広げる
嫡男重吉が跡を継ぐ重吉−1697年没−信濃に代々続く
嗣子は系譜から重吉含めて3人と見られる

1600年の役後 一重は1615年に麻田藩主に成っています。
この間摂津の監主を務めています。

この説からすると、信濃は越前と国境にありますので丹治氏の青木氏の次男重正の3の末裔一族のどれかとの血縁を結ぶ事が出来ます。
何れも関が原の乱前にては代々信長秀吉の家来であり、秀吉後は共に家来です。
関が原前では何れも北の庄と信濃丸子付近に住まいしています。

紀伊守越前北の庄の皇族賜姓青木氏伊勢青木氏(美濃青木氏)の分家支流と、丹治氏末裔の嵯峨期の詔による皇族青木氏の分家の血縁です。

結論は”紀伊守の次男一宗と丹治氏系青木氏分家の信濃の4つの何れかの末裔の者を養子に迎えたが男系に恵まれずに家紋掟から女系と成り養子先の家紋となった”と成ります。

当時の氏家制度の習慣から家柄身分の吊りあいで他国の氏と血縁をすると云う事は普通ですので全く問題はなく、むしろその釣り合いのために探し出すと言うことを頻繁に行ったのです。

”この一族が関が原の乱を経緯に敵味方に分かれたことに成ります。そして、敗戦し西国に移動し北九州にたどり着き努力して医術を習得し豊臣方大名黒田藩の御殿医になった”と成ります。

この説が正しいとすると、大変な史実を掴んだことに成ります。

別の福岡の青木さん(5人)からのお便りがあります。
このお家等は同じ青木富士の青木さんで、黒田藩の御殿医の末裔であると云う人です。
(青木ルーツ掲示板の検索で”摂津麻田藩”でお調べください。)
この様に福岡の青木さんのお便りとそのお答えがありますが、全て末裔かは確認は出来ません。

ところが、武蔵と美濃に末裔が存在する丹治氏系青木氏がどの様にして福岡に移動したかは不詳でした。
この時代は幕府の許可が無くては自由移動は出来ませんので疑問点でした。
系譜上と添書からも福岡に末裔が直接移動移住している事は有りません。

しかし、青木富士と黒田藩御殿医と丹治氏の3つのキーワードを持つ青木氏が5つものお便りがあるのです。先ずいずれにしても移動している事は確実の史実です。

お家への検証のこのお答えは、福岡の青木さんは通説では麻田藩の丹治氏の青木氏の末裔子孫と成っていましたが、ところが”紀伊守一矩の一子次男一宗と信濃の丹治氏系青木氏の次男重正の末裔との血縁による一族で、この一族が関が原の戦いで西国に逃亡し、最終の逃亡先の豊臣方拠点の福岡に定住した。”とすれば、これで、移動説は繋がります。

その紀伊守の子一宗ルーツの大元は恐らくは皇族賜姓始祖天智天皇の第6位皇子の施基皇子の伊勢青木氏(美濃青木氏もあり確定は出来ない)の支流分家末裔と観られています。

(伊勢神宮の後に梅香寺として自前移築城とする 伊勢不入不倫の権により伊勢松阪神宮付近には賜姓青木氏以外は築城は出来ない勅令がある。 伊勢青木氏本家には青蓮寺城と松阪館と脇出山城あり。)
(この説では筆者とは福岡の青木さんと御家とは元は同じルーツの親族となることを意味します。)
(その元祖は最終越前北の庄の大名となった青木紀伊守の次男一宗を祖としている事に成ります。)
(梅香寺を一矩一門の菩提寺とするかは議論の余地あり)
大変多い説が在るのですが大変なところで疑問がつながった事に成ります。
考察としては余り無理の無い納得できる説とした新しい結果です。
念の為に更に検証を進めてみたいと考えます。

更に、お家のちょっとしたことでも結構ですからありましたら是非お便りを頂きたいと思います。検証の史料としたいと考えます。
一寸した事が今回の様な事に繋がるのがこのルーツの不思議さなのです。

ではまた、是非お便りを頂きます様に。

参考
北の庄の地名は以下の3つです。
福井県の北の庄
富山県の北の庄
福岡県にも北の庄と言う地名がある。

元越前は越前、加賀、越中です。後に3分割された。
そのために北の庄は2つに成る。

福岡は不明であったが紀伊守一族の西国最終逃亡先ではと見られていた。
恐らくは、この福岡の北の庄にお家の先祖は留まったのではと観られます。
そこに越前の村名を付けた。

参考として、麻田藩の系譜を添付します。
本史料は青木ルーツ掲示板の末尾Pにあります。
この一族は末裔の方は現存しています。
丹治氏に付いては「青木ルーツ掲示板」か「青木氏氏 研究室」をお調べください。
紀伊守や伊勢青木氏に付いても検索でレポートが出てきますので参考にしてください


紀州入山城主(1万 1585年)−播磨立石城主−越前大野城主−越前府中城主(8万)−越前北の庄城主(20万)
家康側室の蓮華院(江州浪人 青木一矩の娘 梅の方 後本田氏に)
大野城 (蓮髄上人)梅香寺後に伊勢市に移設(伊勢神宮の森隣接) 
公表されている青木紀伊守一矩のルーツに関しては大野城主の時を前提に多くの推理説が生まれている。室町鎌倉時代の先祖のこの青木氏のルーツを前提とした学術的検証は無い。
この青木氏については殆どは家紋、地理、宗派、慣習などを無視した劣悪説が多い。

公表されている麻田藩系譜です。

摂津麻田藩
青木氏
藩祖 - 青木 一重(かずしげ)
天文二十年(1551年) 青木刑部卿法印重直の長男に生まれる。
母 某氏、幼名 忠助
所右衛門(通称)、初名 重通、法号 宗佐
官位職歴 従五位下民部少輔
経歴 豊臣秀吉の黄母衣衆
慶長・元和の役後、徳川家康に仕える
元和元年(1615年)  一万二千石を領し麻田に住む→のち弟可直に二千石分与
寛永五年(1628年)  8月9日没 法名 梅隣院革屋令曇居士
葬地 麻布祥雲寺(のち、摂津畑仏日寺へ改葬)
墓所 江戸白金台瑞聖寺
正室 不詳
子女 重正(一重養子、小寺則頼子)→ 病により家督相続できず。武蔵足立から信濃丸子に移る
重兼(養子) → 二代

二代 - 青木 重兼(しげかね)
慶長十一年(1606年) 青木可直(一重弟)の長男に生まれる。
母 関右京亮某の娘
幼名 源五、職歴 甲斐守、号 瑞山
元和五年(1619年)  一重の養子となり、家督を相続。
寛文三年(1663年)  摂津多田院再興の奉行
同十二年(1672年)  致仕
天和二年(1682年)  没 法名 瑞山性正竹岩院
葬地 河原村北渓の山中
正室 酒井忠利養女(酒井忠季娘)
子女 可一(重兼養子、酒井忠勝三男)→ 正保元年(1644年)没
重成(養子) → 三代
女子     → 三代の正室

三代 - 青木 重成(しげなり)
寛永二年(1625年)  松平忠長家臣朝倉宣親の長男に生まれる。
母 酒井忠勝の娘、職歴 内膳→民部→甲斐守
承応元年(1652年)  重兼の養子となる。
寛文十二年(1672年) 家督を相続。
元禄五年(1692年)  大番頭・御留守居→側衆を勤める
元禄六年(1693年)  没 法名 陽徳院殿徹山道剛大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 二代重兼の娘
子女 直正(青木直澄養子)、重矩(四代)、女子、景孝(朝倉景行養子)、明教(加藤喜隆養子)、源三郎

四代 - 青木 重矩(しげのり)
寛文五年(1665年)三代重成の次男に生まれる。
母 正室 二代重兼の娘、幼名 源五郎
職歴 民部→甲斐守
元禄六年(1693年)  家督相続
正徳三年(1713年)  致仕
享保十四年(1729年) 没 法名 了心院殿雄山元英大居士
葬地 摂津畑仏日寺
正室 戸沢正誠の娘
子女 一典(五代)、女子(大給[松平]乗真正室→離婚→京都祇園宝寿院行快妻)

五代 - 青木 一典(かずつね)
元禄十年(1697年)四代重矩の長男に生まれる。
母 某氏、職歴 民部→出羽守→甲斐守
正徳三年(1713年)家督相続
元文元年(1736年)没 法名 春徳院殿瑞海元活大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 冷泉為経の娘
子女 一都(六代)、見典(七代)、一新(八代)、女子(加藤明義妻)、女子、寅太郎、
亀三郎(近江國唯念寺長寿養子)、正岑(井上貞高養子)

六代 - 青木 一都(かずくに)
享保六年(1721年)  五代一典の長男に生まれる。
母 正室 冷泉為経の娘、幼名 源五郎
職歴 出羽守→甲斐守
元文元年(1736年)  家督相続
寛延二年(1749年)  没 法名 覚翁院殿大徹浄真大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 谷 衛衝の娘
子女 見典(弟、養子)→七代

七代 - 青木 見典(ちかつね)
享保八年(1723年) 五代一典の次男に生まれる。
母 某氏、職歴 内膳→内膳正
寛延二年(1749年)  兄、一都の養子となる。
寛延三年(1750年)  家督相続
宝暦四年(1754年)  没 法名 清涼院殿秋岳浄映大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 不詳
子女 一新(弟、養子)→八代

八代 - 青木 一新(かずよし)
享保十三年(1728年) 五代一典の三男に生まれる。
母 某氏、職歴 主税→美濃守
宝暦四年(1754年)  兄、見典の養子になり、家督相続。
明和七年(1770年)  致仕
天明元年(1781年)  没 法名 善応院殿心珠衍明大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 久留島光通の娘
子女 一在 → 明和三年(1766年)没、女子(九代の正室)、一貫(養子)→九代、他 早世男子四人

九代 - 青木 一貫(かずつら)
享保十八年(1733年) 伊達村年の三男に生まれる。
母 伊達吉村の娘、幼名 伊織、職歴 甲斐守
明和七年(1770年)一新の男子早世により養子になり、家督相続す→大番頭を勤める
天明四年(1784年)  没 法名 養源院殿慈眠衍端大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 八代一新の娘
子女 健行(佐野義行養子)、貞喬(設楽貞猶養子)、政佑(米津政従養子)、一貞(十代)、
女子(渡辺春綱正室)、女子(斎藤利恵妻)、一寧、喜代三郎、他 女子四人

十代 - 青木 一貞(かずさだ)
安永五年(1776年)  九代一貫の四男に生まれる。
母 正室 八代一新の娘、幼名 源五郎
職歴 出羽守→甲斐守
天明六年(1786年)  家督相続→柳間詰を勤める。
文政四年(1821年)  致仕
天保二年(1831年)  没 法名 正法院殿一乗義貞大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 佐竹義忠の娘、継室 池田定常の娘
子女 重龍(十一代)、一興(十二代)、衛モ(谷 衛弥養子)

十一代 - 青木 重龍(しげたつ)
寛政十二年(1800年) 十代一貞の子に生まれる。
職歴 内膳正→美作守→駿河守、幼名 源五郎
文政四年(1821年)  家督相続
弘化四年(1847年)  致仕
安政五年(1858年)  没 法名 龍光院殿天祥本瑞大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 森 忠賛の娘
子女 一興(弟、養子)→十二代、重義(十四代)

十二代 - 青木 一興(かずおき)
文政五年(1822年)  十代一貞の子に生まれる。
職歴 美濃守
弘化四年(1847年)  兄、重龍の養子になり、家督を相続す。
嘉永二年(1849年)  没 法名 玄了院殿俊徳義勇大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 不詳
子女 一咸(養子)→十三代

十三代 - 青木 一咸(かずひろ)
文政十一年(1828年) 奥平昌高の子に生まれる。
職歴 甲斐守
嘉永二年(1849年)  一興の養子となり、家督を相続す。
安政三年(1856年)  没 法名 泰雲院殿一峰清咸大居士
葬地 江戸白金台瑞聖寺
正室 戸田光庸養女 ラ(戸田光行娘)
子女 重義(養子、十一代重龍子)→十四代

十四代 - 青木 重義(しげよし)
嘉永六年(1853年) 十一代重龍の子に生まれる。
幼名 源五郎。職歴 民部少輔。
安政三年(1856年) 一咸の養子になり、家督を相続す。
明治十七年(1884年) 7月8日 子爵位を授爵す→同年 没
正室 松平信宝の娘 由(のち、離婚)、継室 塩田伝兵衛の娘

15代 信光(のぶみつ)
16代 蔚(しげる)
17代 淳一(じゅんいち)




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80 青木一重流青木氏のルーツ
青木研究員
 
一重氏の孫 重吉氏は当初は信州の丸子に住まいしていましたが、それ以前は武蔵国足立郡の青木村に住んでいたと記録されていますので、9/14の土地ですので藤原流青木氏と判断しました。
信州小県郡等にも青木村がありましたがこの青木村は末裔が武蔵の国足立郡の青木村から時間経過から末裔が移住したものと推測します。