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  [No.666] 宜しくお願いいたします。
     投稿者:出席番号1番の青木   投稿日:2009/11/24(Tue) 10:56:42

はじめまして。私も青木と申します。30代女性です。
子供の頃から歴史が好きです。
同じ青木でもいろいろな源流があるんですね。
自分もそれを知りたいと思い、お力をお貸しいただきたく投稿いたしました。
どうぞよろしくお願いいたします。
祖父母(愛媛在住)は、祖母のおば(愛媛出身)の嫁ぎ先である島根県浜田市の青木家に
子供がなかったために、結婚して養子に入る形で家を継ぎました。
祖父(島根出身)の旧姓は小川で家紋は不明です。
祖母(愛媛出身)の旧姓は渡邊で家紋は渡邊星、丸がついていたかは不明です。
愛媛のお墓には祖母のおば夫婦だけが眠っており、祖父母が守っています。
家紋は丸に剣片喰で、曹洞宗です。
なぜ祖母のおばが島根に嫁いだのか、なぜ祖父母が島根の青木家を継いだのかはわかりません。
昔のことなので、入り組んだ親戚関係があったのかもしれません。
私自身は島根に行ったことがありませんが、青木姓が多いと聞いたことがあります。
(確か自民党の重鎮だった方も青木さんで島根出身だったような。)
・・・ここまで書いて、いかに祖父母から先祖の話を聞いてこなかったか思い知らされました。
もったいないことですよね。
祖父は認知症気味ですが祖母がまだしっかりしているので、来月帰省する際に
ゆっくり聞いてみようと思っています。
厳密に言えば青木家は私の直系のご先祖ではありませんが、
祖父母も養子に入ってまで守った苗字なので大切に名乗っていきたいです。
以上情報が少なく申し訳ございませんが、何卒宜しくお願いいたします。


  [No.667] Re:宜しくお願いいたします。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/11/24(Tue) 20:49:15

愛媛の青木さん 今日は。始めまして。
青木サイトにようこそ御越し頂きました。
同じ青木さんとしてよろしくお願いします。
もとより、このサイトは全国の青木さんが集うサイトですが、これからもご協力お願いします。

さて、お便りよく判りました。
実は、お尋ねは文面から観て貴方が密かに思われてていることが、大変な古の縁で繋がっているのです。
祖母の叔母(島根)と祖母(愛媛)は、結論から云いますと、同族です。つまり古では親類です。
そして、祖母の叔母の青木氏を継いだ理由は大きな理由があり、祖母の家とは一門の縁続きでその青木氏の家柄を知っての縁組で跡目を縁者から養子を求めての血縁なのです。

ではご説明します。
先ず、島根から進めます。
この島根の鳥取よりの宍道湖付近と、隣の鳥取の米子と八頭には、次ぎの一族が移動定住していました。
先ず、平安期の中期頃に信濃の豪族(土豪)足利氏と信濃の守護王(第6位皇子)の皇族賜姓青木氏とこの土豪足利氏とが血縁して発祥した足利氏系青木氏があります。
下記に述べる事件でこの土豪足利氏と皇族賜姓の足利氏系青木氏の一部が日本海側に沿って逃亡し移動しました。
この2つの氏は、最終、先ず、鳥取の八頭に定住して子孫を拡げました。
更に其処からその一部は米子まで移動してそこで又大きく子孫を広げました。
この米子の皇族賜姓一族の足利氏系青木氏は島根の宍道湖よりやや西まで子孫を拡げました。
従って、この付近の青木氏は皇族賜姓族の足利系青木氏です。
さて、その事件とは、信濃の土豪足利氏は元は陸奥の花房氏で、藤原秀郷一門(12人)が鎮守府将軍として陸奥に赴任しました。
この時、土豪の小田氏(武田氏)や花房氏(足利氏)はこの藤原秀郷一門と血縁をしました。そこで、朝廷の命で、秀郷一門は信濃の国司として赴任し、それに伴ない秀郷一門の青木氏とこの血縁した花房氏が共に護衛団として信濃に動向しました。
そしてその地に定住し、力をつけ勢力を高めて、秀郷一門の青木氏らの勢力を背景で土地の強い土豪と成長したのです。土地の名を採り土豪として足利氏を名乗りました。
ところが、この足利氏は秀郷一門の云う事を聞かなくなりました。そこで、秀郷一門はその土豪足利氏の分家の絶えた家に一門男子を跡目に入れて再び興し、そして、家柄を良くする為に賜姓青木氏や賜姓源氏の血を入れて本家に負けない家柄と勢力を持つ様にしました。
遂には秀郷一門はこの本家の土豪足利氏本家を潰しに掛かりました。
結局、戦いが起こりこの土豪足利氏の本家は負けて日本海に沿って逃げ延びたのです。この時、守護王の賜姓青木氏との血縁をした足利氏系青木氏の一部がこれに同行したのです。
勝利した分家の足利氏が本家と成りました。
この一門が八頭と米子に定住し土地を開墾して子孫を広げたのです。
皇族賜姓族の足利氏系青木氏です。

次ぎは、この島根の宍道湖より以西の浜田付近までには、藤原秀郷一門の「第2の宗家」の青木氏が定住しているのです。浜田付近がこの住み分けの境界域です。現在では宍道湖付近は混在域です。
さて、この藤原秀郷一門の藤原秀郷流青木氏はその元は香川(讃岐)と香川より愛媛の域を中心に「讃岐籐氏」と呼ばれる藤原秀郷一門が赴任して定住しました。
この時に護衛団の藤原秀郷流青木氏がこの付近を統制していました。
そして、この青木氏は瀬戸内の讃岐の以東全域を勢力圏に納め、更には中国地方の安芸を中心に勢力を拡大し、出雲の土地の出雲神社の氏子集団の亀甲族との血縁を進めて、最終島根の浜田付近まで勢力を直線的に伸ばし子孫末裔を定住させました。
これは武装勢力を背景にもとより瀬戸内の廻船業を営み日本海側との商いで島根の浜田港や鳥取の米子付近の港までに子孫を置き商いで末裔を広げたのです。

そこで、この皇族賜姓族の足利氏系青木氏か、藤原秀郷流青木氏かのどちらかと成ります。混在域とは少し外れていますが難しい所です。
しかし、祖母の叔母の墓の家紋が剣片喰の丸付き紋だと云うことですので、家紋から藤原秀郷流青木氏と成ります。この青木氏は讃岐宗家の主家の「下がり藤に副紋結び雁金紋」を始めとして「剣片喰紋」や「亀甲紋」ですので、家紋と浜田の土地柄である事から先ず間違いは無いと思います。現在もこの主家は讃岐に存在します。
丸付き紋は6つの意味を持ちますが、その一つの「分家」の意味があり、剣片喰紋の丸付き紋は分家紋として明確です。故に讃岐籐氏の青木氏の分家である事に成ります。
讃岐から島根浜田まで一族を置いて商いをさせていたのですから、範囲からして本家筋では無い事は当然ですので丸付き紋があるべき家紋と観ます。

しかし、宗派はこの秀郷一門をはじめとしてこの一族は本来は浄土宗ですが、土地柄(密教の為に浄土宗の寺はない)で安芸などでは真宗に帰依しています。しかし、讃岐と瀬戸内と安芸の一門の青木氏は浄土宗か真宗ですが、浜田付近の秀郷一門の青木氏までは当初は恐らく真宗であったと思いますが、後に改宗している可能性があります。
その根拠は跡目の内容です。養子を直系ではない縁者から求めている事からその養子先の宗派の曹洞宗(庶民:途中で男系跡目が出来なかった)に変更している事が考えられますので、この場合は浜田まで伸びた青木氏までは浄土宗は要件としては出来ません。まして古代密教宗派ですので。
丸付き紋はその理由の2つ目の直系で無く成ったことから宗家から分家扱いの丸付き紋を指示された事も考えられます。
この様に、藤原氏北家の最大勢力を誇った秀郷一門の「第2の宗家」の青木氏ですので、家柄身分は高位です。(藤原氏は四家あり、式家南家京家北家 勢力争いで北家が勝つ)
そして、氏家制度の中で氏をまとめる為に全体を取り仕切っていたのはこの秀郷一門の青木氏ですので、島根の青木氏まで指示命令が届いている事は充分に考えられます。まして、「2足の草鞋策」で商いをしているのでいすから。
この四国では、阿波の国も秀郷一門の青木氏が定住していますし、讃岐の青木氏の保護の下で土佐にも賜姓族の武田氏系青木氏が信長に滅ぼされて逃亡しここに匿いされてその末裔が定住していますよ。

詳細は秀郷一門の関連するレポートを参照して下さい。全てこれ等は網羅されています。
念のために、この青木氏は、天智天皇から始まった第6位皇子の施基皇子の伊勢賜姓青木氏から5代の天皇の第6位皇子が5国に守護王として配置し賜姓青木氏が定住しています。光仁天皇まで5家5流続きましたが信濃もその一つです。
この後2人の天皇を置いて嵯峨天皇がこの賜姓青木氏の臣下5代から賜姓源氏の臣下11代に変更しました。その時、嵯峨期の詔により、皇族系の朝臣族と例外に宿禰族が臣下する時は青木氏を名乗ることを命じたのです。それ以外の者は使用してはいけないとしました。
その時、この詔を使って秀郷は第3子をこの詔の青木氏の例外として朝廷に名乗ることを申請し認められました。その理由は賜姓青木氏は母方が藤原一門である事からで青木氏を名乗ることを認めたのです。この青木氏は宗家の護衛団を任務としたのです。賜姓青木氏も天皇の親衛隊です。
秀郷は平将門の乱を平定した貢献から貴族と成りましたので、直接武力を使えません。そこで第3氏の千国を侍にして臣下させて護衛団を任じたのです。
この様な家柄であって明治までこの詔は原則として護られました。

祖母の実家が愛媛の渡邊氏だとの事ですが、讃岐籐氏の藤原一門の支流の渡邊氏であると思います。詳しい情報がありませんので確定する要素が有りませんが、家紋が「渡邊星紋に一文字」ですから讃岐藤氏一門の支流紋です。宗家だけでは無くこの「三ツ星一文字紋」は秀郷流青木氏も血縁しています。
宗家が血縁すれば、「第2の宗家」の青木氏も血縁するのが当然の成行きです。氏家制度中では。
むしろ「第2の宗家」の青木氏が351氏を取り仕切っていたのですから。
讃岐籐氏の青木氏はこの様に瀬戸内全域を武力と商家の経済力での「2足の草鞋策」で生き延びたのです。
御蔭で平安中期950年ころから昭和の初期20年代までこの勢力は一族は続きました。
だから1000年も伝統ある家柄のおうちであるので、祖父の養子なのです。
当時の血縁慣習から一族で固めに固めたのです。これは秀郷より351氏の有名な家の家法戦略でした。お家もその家宝戦略のパターンに沿っているのです。現在まで。
恐らくは、つい最近まで秀郷一門の血筋で固めていたのはこの家法戦略を知っていたのではと思います。

お家のご質問の疑問とした感は当っていたのです。それは血筋から来る遺伝的なもので脳が働いたとも思えますね。遺伝的に繋いできている古い記憶がこの青木サイトの内容を見て。

氏家制度の社会の中、当時は長い間、血縁は「家柄のつりあい」を前提としていました。
叔母は島根の秀郷一門の青木氏との血縁では吊り合いが完全に取れています。
当然ですね、平安期期から室町期までは付き合いの深い親族でしたからね。
平安期では純血性を保つ為に同族血縁を習慣としていたのです。
平安初期までは3親等以内の血縁を主体としていました。皇族系と藤原氏は。
藤原秀郷一門の最高の家柄と合うのは賜姓青木氏か同門藤原氏北家一門各地(24地方)以外にありません。
ですから、祖父は養子に入ったのですよ。高い家柄を絶えさせない為に縁者から養子を求めたのです。実家も愛媛も島根も全て藤原氏一門ですね。小川氏は別ですが。
お家は提供された情報の範囲で検証した場合は北家藤原秀郷一門の濃い血筋で出来ている事になりますね。確定は出来ませんが。

サイトの「青木氏氏 研究室」にはこの藤原秀郷関係のレポートが沢山あります。読むと1年も掛かるかも知れませんが、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。これ等のことは全て書いています。お家のご先祖の生き様が判りますよ。
それから、「青木氏のルーツ掲示板」にも四国の藤原秀郷一門の青木さんからの沢山のお便りもありここにもいろいろとレポートしていますのでお読みください。2年掛かるかも知れませんね。
歴史の史実なども沢山書いていますよ。先ずは楽しんでお読みください。
検索で観てください。

最近は、他氏のご質問も多く成りましたので大変ですが、折角ですので精一杯頑張っています。こちらもお読みになると歴史好きが更に広がり、遂には、”ご先祖とは何か”もお判りにも。

読んでお疲れになると、写真館で癒してください。

ではお待ちしています。

又、何か判りましたら、お便りをお待ちしています。
ご質問、ご不明点などあると思いますので、ご遠慮なくお尋ねください。