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  [No.742] 新潟の青木さんのお便りより
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/08/27(Fri) 09:52:21

本文は新潟の青木さんからの訪問掲示板への投稿内容ですが、青木氏の研究資料として大変役に立つご情報を頂きましたので、別途、青木ルーツ掲示板に代理投稿させてもらいました。

来場記帳の掲示板のお便り
最近、祖母のかたみを整理していたら、長持ちに掛けてきたらしい家紋刺繍の入った布を見つけ、それが祖母の実家の紋と我が家の紋の対になっていました。我が家の紋は紋付等の家紋から下がり藤だと思っていましたが、下がり藤の中に抱鹿角が描かれており、調べてみたいと思い、このサイトにヒットしました。青木には下がり藤、鹿角も多いらしいのですが、セットになったものはあまりないようです。代々浄土真宗で昔から新潟に住んでた小庄屋らしいですが過去帳等でも江戸末期までしかたどれないようです。聖武天皇の時代に尼寺があったらしく地名や屋号に痕跡はあるのですが、今は古池があるだけです。ちなみに家には屋号がなく我が家を中心に東西南北他、夫々の江戸時代の家業が屋号になっているようです。またご近所は青木姓が多く、古くからの親戚の様です。



新潟の青木さん 今日は はじめまして。

青木サイトにようこそお越し頂きました。これからもよろしくお願いします。
サイトには青木氏に関する史実研究レポートや家紋や宗教や氏家制度の社会慣習などの歴史的な考え方などもレポートしています。

膨大ですが、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。

さて、お便りを読まして頂きましたが、やや少し違っていますので同じ青木さんのよしみでご指摘いたします。それもこのサイトの勉強の一つと考えています。

先ず、歴史感の3つ間違いを起こしていますね。
先ず、お家の家紋ですが、紋付袖紋では「下がり藤紋」で、(祖母方が「抱き角紋」ですか)、そして、「抱き角紋」を組み合わせた家紋との事ですが、実は来場記帳の訪問掲示板に書かれているご感想のご判断が若干違っているのです。

「下がり藤紋」は藤原北家筋の9氏が使っている紋ですが、「下がる」を忌み嫌い多くの藤原氏は「上る藤紋」に変更してしまったのです。そして、たった9氏しか使用していません。
その1氏で藤原氏最大勢力を誇った藤原秀郷一門では主に引継ぎその主要7氏だけなのです。
藤原秀郷一門は361氏もありますが、この内の7氏だけで、尚且つ、その中の総宗本家、宗家、本家筋だけが使え引き継げる家紋です。これを「綜紋」と云います。
つまり、一族一門361氏の「代表紋」なのです。皇族賜姓の青木氏や源氏等の「笹竜胆紋」の綜紋と同じです。戦う時等はこの旗印の下に集まります。
主要7氏の内、主要5氏が有名で大きく子孫を遺しました。
藤原秀郷流の青木氏は「第2の宗家」と呼ばれます。
青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏の5氏で、この「宗家本家筋」だけが引き継ぐ事ができる家紋で、何がなんでもその引き継ぐ義務があります。
武蔵入間を中心に日本全国24地方に一門は分布していますが、せいぜい20家程度です。
お家が「下がり藤紋」を家紋とすると新潟に秀郷一門の宗家筋の青木氏が居た事を意味します。
確かに新潟にはこの青木氏は青木村を形成して多く定住しています。
つまり、宗家本家筋だけが引き継げる「綜紋」です。この様に先ず理解してください。
(注 但し、下がり藤紋を家紋としている氏が多いのですが、これは明治初期の苗字令、督促令に依って名乗った庶民の第3氏です。本来はこの家紋とできるのは宗家本家だけですからね)

次に、祖母方が「抱き角紋」だとの事ですか?。
これは皇族賜姓族の諏訪族系青木氏です。
青木氏には藤原秀郷流青木氏と、母方の藤原氏で同じくし、同族系の皇族賜姓族と、嵯峨期詔の皇族青木氏との青木氏が合わせて29氏があります。
つまり、天智天皇から光仁天皇の皇子の第6位皇子が臣下して天皇より青木氏の賜姓を受け名乗った氏です。源氏もある理由により嵯峨天皇の時に、青木氏の後に賜姓族として変名して第6位皇子が賜姓源氏と名乗った氏で青木氏とは同族です。
その時より青木氏は皇族の者が還俗する時に使用する氏として他に使用を禁止し明治初期まで原則護られました。

さて、違うところは、その「綜紋」の代表紋「下がり藤紋」に、上記の「抱き角紋」を組み合わせた家紋とのことですが、ここも違います。
実は藤原氏には超豪族の為に、又各地に大きく分布している為に何処の氏で誰とかどの様な官職を見極めるためにいろいろな「掟」を作っています。
その一つに、この家紋方式の「副紋方式」と云う「組み合わせ紋」があるのです。
「下がり藤」の下に、別の家紋を書き加えて表示する方式です。
つまり、お家は藤原秀郷一門の青木氏でその綜紋は「下がり藤紋」ですが、一時、嫡子に恵まれずに男系継承が叶わず、他氏から養子縁組をして男子を入れて家系を繋いだのですが、家紋を「下がり藤紋」の下に組み合わせて「養子先の家紋」、つまり「抱き角紋」を表示する事に成ったと観られるのです。
但し、宗家、本家筋として。
例えば、讃岐籐氏の四国広島に広がる青木氏の総本家は「下がり藤に雁金紋」として使い「副紋」を藤の下に雁金紋を表示する仕組みなのです。(家紋掲示板を参照して下さい。)
つまり、6つほどある一般に使われる変紋方式は採用していないのです。
しかし、としますと、ここで問題が出ます。
一つは、「養子先実家の家紋」が「祖母方の家紋」としますと問題が出ます。
祖母先の家紋は別ではないかと思いますが如何ですか。
昔、明治期嫁入りする時は桐の箪笥長持には家紋を入れますが、この時には嫁ぎ先の家紋と相手先の家紋も付けるところがありました。


二つは、「下がり藤紋」は綜紋ですので、お家の家紋は何になりますか、(本家筋でないとすると)
或いは、そうでなければ諏訪族青木氏の家紋「抱き角紋」が家紋と成ります。
つまり、違うとして組み合わせからすると養子先が諏訪族青木氏と成っています。

この経緯は次ぎの通りとなります。
”2代続きで養子を迎えたために男系が切れ女系と成った為に、そこで氏家制度の家紋掟により変紋を余儀なくされてはじめの養子先の家紋をお家の家紋とせざるを得なくなった。”と成ります。

新潟の庄屋さんをなされていたとすると、藤原秀郷流青木氏の「宗家か本家」筋となりますので、藤原氏の掟により「下がり藤紋」の綜紋の下に「抱き角紋」を書き込む家紋としたと成ります。
宗家本家筋でない場合は掟により「抱き角紋」に「変紋」する事に成ります。
これが藤原氏の仕来りです。
実質「女系」と成ったのですから、直近の「抱き角紋」が家紋と成ります。
元の2代前は藤原秀郷一門でありながら、2代続きで養子で”養子先の諏訪族系青木氏の一族系列に組み込まれた”となります。
それでは庄屋等は務まりませんので、本家筋はこの様な「副紋方式」を使います。
庄屋、名主、豪農、郷氏、郷士、豪商は元は土地の豪族でしたので、平安時代からの古い伝統を護る為に藤原氏等の大きい氏はこの様な方式を採用しているのです。
遠縁から養子を迎える事ができなかった為です。大抵は本家筋ではこの遠縁で解決してきます。
それもできなかったことを意味します。

念のために、諏訪族青木氏は日本書紀に出て来る氏で始祖の藤原鎌足と殆ど同時期の氏です。
この信濃の皇族賜姓信濃青木氏も土地の豪族諏訪族との血縁にて発祥した氏で同じく男系にて2代続きで叶わず、「笹竜胆紋」から養子先の諏訪族の家紋「抱き角紋」に変紋を余儀なくされた氏となります。
皇族賜姓族にも掟があり、副紋等一切使用しないのがこの青木氏の方式です。

新潟の歴史的な経緯は秀郷関係のレポートをお読みください。
新潟には確かに多くの秀郷一門の青木氏が主要定住しているところです。
「地名地形データ」のところを参照して下さい。

そうすると、お家が新潟の青木氏の本家筋である可能性が出てきます。
宗派が浄土宗、又は真宗で江戸期には庄屋さん、「抱き角紋」との血縁等から当時の氏家制度の社会慣習から十分に考えられることです。
(庄屋は元は土地の豪族の武士で鎌倉期か室町期に農民になった氏が殆ど)
そうでなければ、「下がり藤紋」は「綜紋」ですのでお家には「独自の家紋」がある筈です。
新潟の庄屋さん筋等であったとすると本家筋である可能性が大です。
問題は、一番目の祖母方問題の疑問ですが抱き角紋とは異なるのでしょうか。

秀郷一門の青木氏は116氏あります。秀郷一門では361氏、この内の最大勢力を誇っています。
「第2の宗家」として最大の軍事力を以って護衛団として始祖秀郷第3子の千国から始まった青木一門として361氏を取り締まっていました。
この青木氏は24地方に宗家(貴族)の護衛として常に同行したので、掟により各地に分家子孫を遺してきました。この24地方に定住した本家筋がこの家紋方式の副紋が使える掟なのです。
これで何処の藤原氏でどの氏と血縁しているかも判る仕組みです。
新潟の本家筋の存在が当然に予想されますし、諏訪族青木氏との血縁は身分家柄の血縁のつりあいは十分に考えられますが、当時、皇族賜姓族で同族系の血縁をしていましたので、他に史実も有り可能性があります。ただ、男系ですので、明治初期の直前の母方の家紋組み合わせには疑問が残ります。
直前まで男系継承を護ってきたこともありえますが。

これ等の事は研究室の関係するレポートに全て網羅していますので、お読みください。
左メニューの地名地形データなどにも新潟の地名もあります。

実は、もし、家紋の時代性から観て、「抱き角紋」が血縁者であると、次ぎの説が新たに出てきます。
信濃から新潟に信長に追われて信濃の諏訪族青木氏は一部が新潟に逃げた事が考えられるからです。

現在までの史実の記録では、横浜、神奈川、栃木に逃亡して生き延び諏訪族系青木氏の3氏の子孫を大きく拡げています。ですから、この2つの地域には諏訪族系青木氏が定住地として多いのです
そこに、「新潟」と成りますと、充分有り得ることです。
むしろ、研究では地形、地理、親族関係から観てこちらの方が数段に得策ではないかと不思議に思っていたところでした。
新潟には、藤原氏母方の同族で藤原秀郷流青木氏と進藤氏と藤原利仁流進藤氏が定住しているところですから、「抱き角紋」の皇族賜姓族諏訪族青木氏が信濃の諏訪から距離的にも近いこと、信長の勢力の及ばない藤原秀郷一門と利仁一門が勢力を張っているところにも手が出せません。
第一に武田勝頼はこの地方の勢力に逃げ込もうとしたのですからね。最高の条件である筈です。

つまり、興味の湧く2つの事が発見できた事になります。
新潟の藤原秀郷流青木氏の本家筋が発見されたこと。(庄屋筋が物語ります)
皇族賜姓族の諏訪族青木氏が逃亡先として選んだ史実が発見される事
この2つの可能性があります。勇気百倍また研究を続けてみます。

地名地形データでもお判りのようにはっきりと史実記録で新潟には幾つかの青木村が形成されている事はわかっています。(平安の朝廷の決まりで特定の村は勝手には形成できない)

お便りには、若干間違いがありましたが、ご指摘させて頂き、何よりも疑問に思っていた事の上記2つの発見資料が掴めた事が驚きでした。

青木ルーツ掲示板などに新潟から多くの青木さんからお便りを頂いて可能性を高めていました。
研究はしていましたが、きっかけがが又掴めました。
ありがとう御座いました。又何か有りましたらお便りを頂けますように。

専門的な用語を使っていますが、上記の事柄は全て網羅させています。
それでは青木氏のレポートをゆっくりとお読みください。

レポートなどにご質問、ご不明な点などありましたら、又是非お便りをお願いします。