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  [No.752] 先祖の不明部分を教えて下さい。
     投稿者:青木正明   投稿日:2010/09/26(Sun) 17:24:09

はじめまして。
青木正明と申します。
現住所は静岡県三島市加茂39-2に在住です。
本籍は茨城県水戸市です。
家紋は丸に揚羽蝶です。
墓地は茨城県水戸市内にある水戸徳川の藩士のための
水戸常磐共有墓地内にあります。
水戸学の藤田東湖の墓地の向かい側に青木家の墓地が
位置しています。
青木家の墓地には昔の古い五輪の塔があります。

共有墓地の管理人によれば、共有墓地内には五輪の塔
が建立されている墓地は他にないそうです。
従って、家格、身分の高い家柄であると教えられました。
現代ではお金を出せば、誰でも供養塔を設けることが
できるが、当時は五輪の塔の建立は勝手に設けること
は許されなかったことから家格が判明するそうです。

青木家の系図は
青木近江守持通五世とあり
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)から下記のように
始まっています。
 
 青木筑後守若年の時江州を出て、駿州に来り。
 今川氏に属し後三州に住す。天文元年十二月卒
 六十九歳。

教えて頂きたいのは青木近江守持通から青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
に至るまでの抜けている部分です。五世とあるから五世代その間に存在すると
いうことになると解釈しているのですが、如何なものでしょうか?
また青木近江守持通に関する史実及び青木近江守持通に至る経緯が分かれば
教えて頂きたいと念じています。

青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の弟に青木隆吉(又の名:青木六左衛門)
が記載されています。

青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子には
女子(名前の記載なし)として下記の記載があります。

清康公御室廣忠公御母堂永禄四年八月四日逝去

次の質問ですが、

廣忠公の誕生が代永六年四月二十九日或いは
天平四年という情報があるのですが、事実は
何年でしょうか?

清康公御室廣忠公御母堂は廣忠公の出産御まもなく
なくなっているという情報もみうけられます。

我が家の系図では永禄四年八月四日逝去と記載されて
いることから産後まもなく死去したと言うのは当たらないない
と考えるのですが?如何なものでしょうか?
何処に埋葬され、墓地はどこにあるのでしょうか?
どのようにすれば墓地の場所がわかるでしょうか?


青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子(次女なあたる)には
女子(名前の記載なし)として下記の記載もあります。

 松平善兵衛信正妻
 信正の子善兵衛正親其子善兵衛康安は元亀三年叔父青木
 四郎兵衛吉継と共に遠州二又城を守る。其子善四郎正朝
 後壱岐守に任す。六千石を賜い水戸中納言頼房郷に附属
 せらる。其弟志摩守重成五千石を賜て兄と共に頼房郷に附属
 せらる。

青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子青木吉継
 
 又隆重 四郎兵衛初名又四郎遠二股城代を命せられ元亀三年
 十二月二十二日同国味方原合戦に討死四十三歳

  *徳川家康嫡男岡崎三郎信康の寺 清瀧寺(天竜市)に墓があり史跡となっている。

青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子隆員

 青木権十郎

青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子青木泉良
 
 法印権大僧都

青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の女子

 伊豆の守義勝妻

 
 以下省略

以上宜しくご教示いただきたくお願い申し上げます。
青木家の系図を検証しながらより完成させていくことを希望しています。

次回は明治時代の早い時期にある事件が起こっています。その件に
お伺いいたしたいと思っています。先代の時に水戸市役所の史跡編纂係りから
資料を求められたことがありましたが、残念ながら...

氏名: 青木正明













  


  [No.754] Re:先祖の不明部分を教えて下さい。
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/10/02(Sat) 16:47:13

青木正明さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
全国の青木さんが集うサイトですので、これからもよろしくお付き合い頂きます様にお願い申し上げます。
サイトの研究室等には青木氏に関する大変多く資料を準備しています。
また、更に研究を続けて全体像をより多く正しく後世に遺そうとしています。
ご協力の程お願いします。
多くの青木さんから貴重な情報も提供して頂き、青木ルーツ掲示板にもお便りも頂いています。
その中にはお家の室町期にご親戚であった多くの方からもお便りが届いてますよ。

さて、お便りのご質問が多くありますので、かなり難解なお答えですので整理しながら順次お答えして行きます。

実はお家のお便りは本研究室の一つの追求テーマでもありましたので、驚いている次第です。
実はこの「青木近江守持通」の子孫の一つがお便りで福井に現存している事は判っていますが、もう一つの子孫が何処に現存しているのかが判りませんでした。徳川氏の家臣になり関東に移動している事が判っていたのですが、水戸に現存している事がお便りで判りました。
資料では上総とあるのですが、矢張り水戸でしたか。

そこで、ご質問の一番目からご説明いたします。
ご質問は1と2を合わせてお答えします。

ご質問1
教えて頂きたいのは青木近江守持通から青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
に至るまでの抜けている部分です。五世とあるから五世代その間に存在すると
いうことになると解釈しているのですが、如何なものでしょうか?

ご質問2
また青木近江守持通に関する史実及び青木近江守持通に至る経緯が分かれば
教えて頂きたいと念じています。

お答え
「青木近江守持通」は大変珍しい人生を送って居りまして、歴史上、不思議の一つとされています。と云うのは、近江守護は先ず鎌倉時代からその守護は近江の佐々木氏が専有しています。5代中全て源氏の一員の近江佐々木氏です。室町に成っては一部京極氏もありますが殆どは足利の家臣六角氏です。
この室町期の中に突然に一代に限り青木氏の近江守護が生まれるのです。
特に青木氏ですので、この辺の経緯からご説明しないとその真意が出てきません。

では、そもそもこの佐々木氏の始祖は中大兄皇子(天智天皇)の4人の皇子の内の「川島皇子」が始祖と成ります。
この「川島皇子」は日本書紀にも多く出て来る人物で近江の生まれで、本来、「第6位皇子」が天皇から賜姓を受けて天皇家の護衛団の親衛隊として臣下するのが仕来りです。
ところが、第7位の川島皇子は大変に有能である事から、第6位皇子の施基皇子と共に賜姓族と成り近江の土地の佐々木を採って佐々木氏の氏を天智天皇は賜姓します。
そして近江守護王となり佐々木氏の始祖と成りました。
これが源頼朝の鎌倉幕府に成っても、室町時代手前まで全て代々守護職を務めたのです。
念のために、この理由は、源氏は嵯峨天皇の第6位皇子の仕来りから賜姓を受けて臣下した皇族賜姓族です。つまり、先ず最初は天智天皇から始まった第6位皇子が青木氏の賜姓を受け、施基皇子からの伊勢青木氏から始まりました。
この仕来りは天智天皇を含む5人の天皇(天武、文武、聖武、光仁)に引き継がれ伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐に守護王と成ります。これが5家5流の皇族賜姓青木氏です。
ところが、光仁天皇の子供の桓武天皇はこの仕来りを実行せずに、自分の母方の一族を引き上げます。
この一族と云うのは、中国後漢国の光武帝より21代献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王が、618年前後にして後漢が滅びますが、日本に17県民200万人の各種の技能集団を引き連れて上陸し瞬く間に無戦で66国中32国を制圧します。そして薩摩大隈に定住しますが帰化します。
朝廷はこの首魁の阿多倍王を大隈の半国を与え、更に伊勢国北部の伊賀地方の半国を領国として与え、敏達天皇の芽淳王の孫娘と血縁させます。その阿多倍の孫に当る「高野新笠」と「光仁天皇」との間に出来たのが「桓武天皇」です。そして、この「高野新笠」の親が阿多倍王の子の国香です。
ところがこの「国香」から始まった一族は瞬く間に5代後には太政大臣「平清盛」と成ります。
「たいら族」として桓武天皇から賜姓を受けたのです。関東に配置していた皇族第7世族の「ひら族」に真似て「たいら族」としたのです。「桓武平氏」と呼びます。
しかし、桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこれに反発して争いをします。そして賜姓を元の第6位皇子に戻し、第1期の皇親政治を敷きます。この時、賜姓を青木氏から源氏と変名して、青木氏は皇族の者が下族する際に使用する氏名として「嵯峨期の禁令の詔」を発します。
この令の仕来りは明治まで3期の動乱期を除き原則守られました。つまり、嵯峨期から始まった賜姓源氏は花山天皇までの11代と賜姓青木氏5代と合わせて16代続きました。要するに天皇家の同族です。
鎌倉幕府の頼朝は土地の同族の賜姓佐々木氏を近江守護として平安期より続いた役職を与えます。
頼朝の2度に渡る「本領安堵策」で近江守護として同族を守ります。北条氏もこれを維持します。
次ぎの室町幕府の足利氏はこの清和源氏の摂津源氏の源氏の傍系支流ですが、家臣の六角氏と京極氏に代々近江守護職を与えます。
ところが、突然、9代目だけにこの「青木持通」に近江守護を2年間(4年の説もある)与えたのです。(1412−1414)
ところが、この青木氏には問題を持っています。(1411年の説1412、1416年1414の説もある)

実は、元はこの青木氏は甲賀の上山郷の者で上山氏を名乗っていましたが、元は武蔵国の丹治氏の末裔で平安時代に赴任先に定住し土地の者と成り兵農を生業とする小土豪であったのですが、この一団が立身出世して勢力を大きくします。
しかし、身分制度と役職の厳しい氏家制度ですので、丹治氏系上山氏では大きく出世する事が出来ません。そこで、近江賜姓青木氏が滋賀甲賀地方の国司として移動した際に土地に分家筋の子孫を一部残して再び近江に帰ります。この時、土地に残した一部分家も絶えてしまいます。
ところが、この上山氏はこの絶えた分家を興すためにこの残った青木氏の遠縁に当る娘を探し出します。そして、上山氏と血縁をして近江賜姓青木氏の分家を再び興したのです。近江青木氏の名籍を奪ったのです。この分家は上記の近江賜姓佐々木氏と近江賜姓青木氏との血縁族です。
そして、この元上山氏の青木氏は大変に有能であった事から朝廷に取り入りその家柄にあった役職を与えられます。後にこの末裔子孫は青木氏の名籍を下地に鎌倉幕府、室町幕府にも取り入る事に成ります。
現在もこの近江賜姓佐々木氏系青木氏として滋賀地方に現在も分布しています。

ところが、ややこしいのは同じ元上山氏を名乗る別の青木氏があります。
この青木氏のこの分家一族は賜姓滋賀佐々木氏と近江賜姓青木氏との血縁族であるとして佐々木氏系青木氏と名乗っていたのです。
この佐々木氏は川島皇子を始祖とする近江賜姓佐々木氏ではなく、宇多天皇の滋賀賜姓佐々木氏との血縁族を名乗ったのです。
この別のルーツを称する元上山氏の佐々木氏系青木氏は平安時代に北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見、美作等の守護を務めました。赴任地の各地にこの子孫を残してきました。
この滋賀賜姓佐々木氏系青木氏も丹波、甲賀、若狭地方(滋賀)に分布しています。この末裔は現在福井県にも現存しています。

注目すべきはこのどちらもが、家紋は「丸に揚羽蝶に副紋を木文字」です。

そこで、全青木氏の中で、「揚羽蝶紋」を主紋としている氏は多治氏と丹治氏系青木氏が只一つです。
実は、上記の丹治氏には、その一族にはこの様に別に嵯峨期の詔による「皇族青木氏」が発祥しているのです。
更に、この丹治氏系青木氏には藤原秀郷流青木氏の始祖千国の母方の元嶋崎氏のルーツもあります。
此処で、更にややこしいのです。
この丹治氏の発祥は、平安時代に皇子「多治彦王」と云う者が罪を犯し、関東武蔵に配流と成ります。
この時、土地の土豪と血縁して子孫を遺します。この「多治彦王」は罪が解けて京に戻りますが、この子孫が「多治彦王」の名から武蔵で丹治氏を名乗ります。
これが「武蔵7党」(丹党)と呼ばれる一つです。
この丹治氏(丹党)は嵯峨期の詔に基づき、皇族の子孫である事を理由に一部が丹治氏系青木氏を名乗ったのです。
上記の丹治氏系嶋崎氏の青木氏は、又別に藤原秀郷流青木氏の母方である事から藤原氏系の嵯峨期の詔によるこの青木氏を名乗った氏です。

さて、次のようにまとめます。
1 丹治氏末裔の甲賀の上山郷の元上山氏の近江賜姓佐々木氏と近江賜姓青木氏との分家血縁族
2 丹治氏末裔を名乗っていない丹波の元上山氏の滋賀賜姓佐々木氏と近江賜姓青木氏との血縁族
3 多治彦王から発祥した丹治氏系青木氏の皇族青木氏(嵯峨期の詔)
4 丹治氏から元嶋崎氏の藤原秀郷流青木氏(嵯峨期の詔)の青木を名乗った皇族系青木氏

4氏の何れもが「丸に揚羽蝶」(たいら族 桓武平氏の家紋 丸付き紋は支流紋)を主紋としています。
(丹治氏系青木氏はほかにも多く分流している)
何れも平安中期と平安末期からの氏発祥と成りますが、この何れかの氏がこの室町時代の近江守護職九代目を勤めた氏の者が「青木持通」と成ります。

明らかに1と2のどちらかですが、2の青木氏が「青木持通」であります。
2の青木氏が滋賀賜姓佐々木氏と近江賜姓青木氏との血縁族の分家として興し、勢力を高めて興した青木氏で、その再興する前の4代前の青木氏では有りませんので、名乗りは「5世青木持通」と成るのです。これは史実と一致します。
5世前の先祖は上記のこの氏の経緯から先祖は無い事を意味します。
4世前は皇族賜姓青木氏の男系ルーツと成ります。

この2の上山氏は上記した様に時代性から一致していますので近江守護職を経験しています。
この青木氏は室町期には城(友政城等)を有しています。ここを拠点に活動しています。
更に室町期に勢力を持ったこの青木氏から有名な多々良姓青木氏も発祥している程に末裔は栄えました。

ここで追加経緯として、遂にこの発祥元1と2の甲賀の青木氏は、持通の後4代までは美作守と成りますが、佐々木承禎の家臣として近江正福寺城に住していましたが、本流の近江賜姓青木氏と「名籍争い」を2度起こします。最初は信長の家臣として仕えます。信長死後一度目は負けますが、2度目は秀吉の監視の下で近江国勢多に於いて戦います。そして、勝って正式にこの近江の青木氏の分家名籍を滋賀青木氏として引き継ぐ事を許可されます。
この後4代続き、5代目からの分家は松平氏(徳川氏)に合力します。

その子供の兄弟(4人)の一人次男「高頼」(五左衛門)は上総に移動して先ず武蔵と上総で650石取りの家臣と成ります。
この一族は三河松平氏の代々御書院番に列し高禄を賜うとあります。
その後、その子の一人は上総水戸徳川氏に仕えるとあります。
この関東に移動した側の本家を継いだのはお家が云う「青木貞景」であることを意味します。
(検証要 後記)
この御書院番の関係から、娘が先ず水野氏の正室に成った後に松平清康の室に入ります。
これは歴史的に有名な事件です。この娘が後の「華陽院」と成ります。
恐らくはこの者が関東に於いてのお家の系譜とするご先祖の元祖と成ると思います。
(検証要 後記)

関東に移動した次男「高頼」の兄の長男「法頼」も「守山崩れ」事件後に家康に仕えますが、甲斐攻略時に家康に有名な事件が起こります。
家康の乗った船が浅瀬に乗り上げて碇が船底に食い込み沈没仕掛けます。その時この「法頼」(長左衛門)は飛び込み碇を外して船の沈没をくい止めます。そしてその結果溺死殉死して家康を救います。この子孫を家康はこの縁戚青木一族と共に高禄にて優遇します。先ず秀忠付きの御書院番に引き上げます。

残りの者4男(平左衛門)は井伊家に仕官します。
福井に移動して子孫を広げた1の青木氏です。
近江、滋賀の青木氏の分家名籍を継いだ3男(本家襲名 木工右衛門)が父(安頼)に継いで2度目に近江賜姓青木氏と戦い決着を付けた人物です。この末裔が滋賀、甲賀に分布する1の青木氏です。
長男、次男の関東に移動した一族が2の青木氏であります。

この2の青木氏が1の系譜を松平氏後の徳川氏の家臣と成った事から系譜を偏纂して悪い印象とする所を美化したものと考えられます。
依って、関東の長男と次男の2つのルーツのこの青木氏は系譜を貞景のところで消したものと考えられます。又は、移動に伴ないその先祖の累積が判らなくなった事も考えられます。
つまり、各地を点々としていますので、移動に伴ない菩提寺は無くなり檀家寺も変わりますし、宗派の寺も土地に無い事が起こり変わるかも知れません。依って寺の過去帳の維持は確実に困難になった事が考えられますし、又は消えてしまった事も有り得ます。

兎も角も、何時この系譜を編集したかは不明ですが、恐らくは旗本や御家人達に最も系譜を作る事が流行った時期の江戸初期か江戸寛永前後か寛政の頃ではと考えられます。
この2つの時期に多くの氏はこの時期に偏纂や改竄をして系図系譜を作っています。同時に家紋や宗派をも決めると云う流行が起こったのです。
この頃の系譜は殆どが搾取偏纂により信頼度が低いのです。

そもそも、系図系譜とは代々書き足して行くのであれば良いのですが、これは余程の伝統ある家柄、大家や大名のような資力のある氏でなくては出来ません。(菩提寺の氏寺を管理運営する武家の氏)
まして、又一人一人が過去に遡れるだけの専門的な歴史知識を習得している訳ではなく、更に、社会に書籍が少ない事、個人の故人の系譜を把握している者や書籍もありません。
下克上、戦国時代、一揆などの動乱がありましたので、証拠と成るものが消失したり、寺などが戦いの拠点の役目をしていましたので一番に焼き討ちに合ったりしています。だから資料と成る過去帳が無く成るという事が起こっています。(檀家寺に入信する武士)
依って、個人で作る事は物理的に無理であり、100%に歴史学者と組んだ専門の業者が居てこの者に頼んで作成するのが普通でした。従って寛永と寛政の頃に主要氏の歴史書がまとめられたりしました。
その作成の元は菩提寺や檀家寺の「過去帳」以外に経時的に調べられる手段はこの時代の社会にはありません。
”過去を遡る”という概念が薄かった時代にまして個人の過去に遡る事等到底物理的にも無理で、其処に家柄、身分の流行が出てきた訳ですから、信頼できる系図などたどる事は現実無理な事です。
当然、菩提寺等を保有していない氏は作成は困難です。また檀家寺に過去帳が存在しても、まともな「院殿居士」程度の戒名が無ければ到底無理な事なのです。

そうすると”如何するか”ですが、自然の摂理の「人の知恵」が働きます。
個人の自己満足や見栄に対するを目当によく似た幾つかの系譜をつなぎ合わせて、その繋ぎ目に架空の人物を入れて「繋ぐ方式」を採るのです。架空人物が難しい場合は逆の事をします。一人物を系図から抜くのです。「抜き方式」で繋ぎます。周りが知らないのですから余程の事でないと文句は言えません。

酷い系譜では北九州の有名豪族に関西の有名豪族を一人の架空人物を一人か二人入れてそこから出た様な系図を作り、それを北海道の氏の系図にする等のものがあるのです。
これではどちらの氏も文句が言えません。過去に架空の人物が存在したのかもその2つの氏は到底判らない事ですからね。
これで系図が出来ますが、しかし明らかに次ぎの要素で矛盾が出ます。
家紋、宗派、菩提寺、戒名の方式、仏壇、墓形式、地理、氏分布、歴史的仕来りに縛られた部分の社会習慣を代えられませんので、矛盾が出るのです。
豊臣氏や徳川氏等の搾取偏纂の系譜がその典型的な見本です。この2氏も朝廷と揉めた有名な事件が起こっています。そこで水戸光圀などはより正しい主要氏の「大日本史編集」等に動いたのです。

現在でもこの様な業者が現存しますが、歴史研究して雑学を知り調べるとこのトリックが判るのです。

さて、系譜系図の信頼性に付いて特記しましたが、話を戻します。
このことを念頭に於いて以下のことをお読みください。

ここで、更に、上記の名籍争いは元一族であった1と2の間で争いと成ります。
江戸に入り関東の2の方から関西の1の方に対して青木氏の正式名籍の異議申し立てを行います。
後勘に問うとして1の方が発祥源として2に対して反論を行いませんでした。
恐らくは、1の方は正式な系譜である事から判っているのですが、2の美化した系譜に対して反意を持ちます。当然に1と2は同じルーツであるのですが、他方いずれかが系譜を作る際にその先祖の処を間違えた或いは変えたのではと考えます。
この史実の後勘から観て、明らかに甲賀の上山氏が正しいもので、丹波の方はその経緯を美化してルーツを作ったもので、佐々木の由来から調査すると2の方に矛盾が生じます。

その最な所として、家紋から考察しても佐々木氏側には揚羽蝶は完全に矛盾するところです。
つまり、近江と滋賀の賜姓佐々木氏と近江と滋賀の賜姓青木氏も皇族賜姓族ですので、全く反対の源氏を含む賜姓族の綜紋の「笹竜胆紋」だからです。揚羽蝶紋は平家紋です。
恐らく、5世持通の時には1と2は同じであったと考えます。5代後辺りから変化して行く事になったのです。
特に、2の関東派の2つの流の方で大きく移動遍歴の歴史を持った事から変化して矛盾を起こしたことに成ります。
「丸に揚羽蝶」の家紋が正しいとすると、丹治氏系と青木氏分家奪取を2が系譜編纂の時に隠したことを意味します。
実は、何故この様な説明を上記でしたかと云う事ですが、示されたお家の系図にはこの現象が起こっています。

これが9代目の近江守護の5世青木持通までの経緯と、5世持通以後の貞景(検証要 後記)までの経緯です。
約120年程度のブランクがありますが、系譜としては1の資料で説明すると明確に埋ります。

注釈
お答えには、この間の経緯の系譜は末裔が厳然として存在しますが、資料は公的にしていないものです。故に個人情報の域を脱していませんので、記載する事は出来ないのです。
ただし一部の名を書く事だけを致しました。

そこで、お家の系図作成に関しての下記の様な疑問点が幾つかあります。
これ等の点を解決して系図を向後の為にも編集し直す必要があるのではないでしょうか。敢えて進言いたします。
依って、折角ですのでその問題点を敢えて青木氏である事を理由にご指摘いたします。

疑問1
矛盾する3つの流れの青木氏を繋いでいる事です。上記123の流を繋いでいる事です
当然に、まず大きな矛盾である家紋が異なります。

家紋の持つ意味はその氏の伝統そのものですから、これが異なると云う事は「違う」の意味を持ちます。
青木貞景の一族は明確な別の流れの独立した武蔵の丹治氏系青木氏です。皇族青木氏です。
家紋は「富士山に霧紋」です。「揚羽蝶紋」では有りませんし、まして丸付き紋でも有りません。
丹治氏系青木氏の中で富士山紋は多い家紋です。
つまり、この3の先祖で江戸初期に丹治氏系青木氏の麻田藩青木一重流と同族でもあります。
この者は元は丹治氏系青木氏で武蔵国足立郡青木郷に住し、その後、信州に移動し徳川氏の家臣と成ります。この一族の末裔が青木貞景でこの娘が有名な「華陽院」で、家康の祖母である事が通説(検証要 後記)とされています。そのために家康は幕府を樹立した時に、一時豊臣に味方したにも拘らずこの青木一重に摂津1万石を与え麻田藩を作った程です。その一族の弟の一族にも四千石を与えた程です。

上総の青木氏と丹波、甲賀、滋賀の青木氏は元は同族である筈ですが、5代後には変化していますので違和感が沸きます。先ずこの事をお調べに成る事を無お勧めします。
又、家紋と連動している情報として提供されていませんが「宗派」もお調べ下さい。
宗派は検証の大きな要素です。

持通の資料から観て、甲賀、滋賀、丹波、伊賀にも豊臣方に味方した大名2名の青木氏末裔が居ますが、少なくとも、この内の一つが1のルーツの末裔であると見られますので、お家は2の上総に移動した兄弟の2人の内の一人の末裔と成ります。

疑問2
この一族は元上山氏で武蔵の丹治氏の末裔で、その家紋はその中の一つの「丸に揚羽蝶に木文字」紋です。ところがお家は「丸に揚羽蝶紋」としていますが、丹治氏が使う家紋は全て副紋を併用しているのです。これには家紋の仕来りがありまして、賜姓青木氏、藤原秀郷流青木氏、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏等の高位の氏は、先ず丸付き紋を使用しない仕来りで、更に、副紋方式を採用しているのです。
皇族賜姓族青木氏は副紋も使いません。つまり全ての皇族氏との血縁を図り血族を保ち血筋を護る方式です。飛鳥の時代から天皇家を始めとして同族血縁を主体としていたのです。

「たいら族」の「桓武平氏」は皇族の血筋を引いていますので原則丸付き紋を使用していません。
この「たいら族」の「桓武平氏」の丸付き紋があるのは「未勘氏」と云いまして、そのルーツを証明する証拠が無いか、確認出来ない氏で殆どは搾取偏纂の氏です。
賜姓青木氏と賜姓源氏の笹竜胆にも丸付き紋がありますがこれも未勘氏です。

ともあれ、皇族青木氏の丹治氏系青木氏は確かに「たいら族」の血筋が入っていますが、皇族青木氏側の方を名乗る以上は矛盾が生じます。依って「武蔵7党」の丹治氏は特別に丸付き紋を使用する代わりに副紋併用方式を採用したのです。
男系、女系の何れかに「たいら族」の血筋が入っているのですが、恐らくは女系であると観られますが、本当の家紋が副紋と成る事を意味しています。

揚羽蝶紋は「綜紋」(一族代表紋)として扱いをしています。家紋掟から女系である事から丸付き紋にした事に成ると観られます。
ところがお家の場合はこの副紋が有りません。また、本来無い「未勘氏」の丸付き紋です。これは疑問です。

疑問3
青木持通は1の流ですが、お家は2の流です。この青木持通を先祖とする根拠は120年程度の空間があるにも拘らず、何故、この青木持通に辿り付いたのでしょうか。辿り付いたとするとそれなりの根拠があるから辿り付いたのでは有りませんか。辿り付いたとするとこの120年のブランクは無い筈ですね。それが判らないと云う事は疑問です。
相当に青木氏と佐々木氏と丹治氏の3氏を学術的に専門的に研究しないと、この元上山氏に辿り付けない筈です。まして、江戸期の頃の系図では無理である筈です。

この疑問から、徳川氏の詳細は専門では無い事から他説が無いのかを確認していましたが、岡崎市の史跡説によれば広忠の母方は別人の説を採っている様に伺えます。ある程度納得できます。
この根拠はこれ等の疑問が解けない事によるのではないかと推察します。何れ多少の疑問が残るものですが、かなり決定的な疑問ですので。
筆者は華陽院は青木貞景説と記憶していましたが、もし違う事と成ればお家の系図は全て霧散します。
つまり、系図の作成時期、作成者、作成方法、作成の資料根源元が問題に成ります。

その為にも作成に関わる人、時期に付いて疑問を持っていました。この件も如何ですか

疑問4
実はお答えに時間が掛かったもう一つの理由は、この点の確認をしていたのですが、インターネット上に”豊臣氏と徳川氏に関わった青木氏”のサイトに示された系図と一語一句全く同文のものが出てきました。お家が運営されているサイトでしょうか。それとも資料を引用されたのでしょうか。
これも何時ごろかこの系図を作成されたご先祖の人と時代と時期を教えて頂きたいと思います。

疑問5
ご提供された主な情報では次ぎの事に成りますが、
水戸学の藤田東湖の墓地の向かい側に青木家の墓地
家紋は丸に揚羽蝶です
五輪の塔の建立
青木近江守持通五世
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
青木筑後守若年の時江州を出て、駿州に来り。
 今川氏に属し後三州に住す。天文元年十二月卒
 六十九歳。

筑後守は江州−駿州−三州 今川氏に属すとありますが、三河から上総に何時移動しているのでしょうか。移動の経緯が判らない事、今川氏から松平氏に変わった経緯が判らない事です。
何故上総のお家に繋がったのでしょうか。
この1と2と3の青木氏から観ると織田氏と豊臣氏と松平氏と徳川氏とその家臣団に成りますが、隆道成る人物は三河で終わっていますので上総までへの経緯証明は必要です。
ここで家紋とルーツの異なる貞景の人物に隆道を結び付けている様に見られます。
即ち上総の2の青木氏に無理に繋いでいる事に成ってしまいます。

1500−1700年代で観ると、上総の青木氏は明白に資料から1の別れの2の一族の一人につながっているのですが。又、上総の青木氏は他に藤原秀郷流青木氏も結城付近に多く分布します。

この文章から、お家の系図は後作りである事が判ります。
天文期、永録期の事を記述していますので少なくとも1600年頃以降より水戸藩家臣としていますので、系図が書ける時代と成りますと、寛永期の1650年代の第1流行期か、1750年以後の「寛政の重修諸家譜」を使った可能性があります。
従ってこの資料を使って系図を作れる時期としては第2流行期の1800−1850年頃の幕末期と成ります。或いは、明治初期の苗字令、督促令の後の第3の流行期かでありますが、文章から観て第2の流行期と観られます。

疑問6
筑後守と記していますが、若年の時とは、広忠1526-1549、隆道1463-1532 若年としては1478年頃滋賀を出た事に成ります。今川から三河で仕官すると成りますと1500年頃仕官したことに成ります。娘の婚期は最低1505年頃に水野氏 1535年清康没 広忠10歳の頃に事件追放 その2年前に没、1530年頃前にこの青木氏はどうしたのでしょうか。続けての仕官は無理で浪人と成った筈です。
死の直前で浪人、では子孫は如何したのでしょうか。

更に、この1478年頃の時代の筑後守は守護名ですから、この時期はまだ流行しました江戸期の金品で買える一代限りの官職ではなかった事から守護が勝手に土地を無は離れる事は不可能です。
この疑問も起こりますが、この官職名は何なのでしょうか。

又、1478年と言う事に成りますと青木持通の近江守護は1412-1416 その後は美作守と成っていますが、62年後ですので持通は生きているか次ぎの子供の代(美作守)と成ります。
続けて安頼の時まで美作守を務めます。次ぎの代の関東に移動した長男の時に家康に仕えて天正12年で無官と成ります。
しかし、お家の系図から計算すると生1463-1532とすると「孫」と成りますが筑後守は如何観ても疑問です。お家の系図では孫なら系譜は判る筈です。持通が判り孫は判らないと云う事は疑問です。
持通の系譜(代毎に追記方式)から観て時代120年と行動に疑問があります。  

後からこの様な史実の経緯がありながら判らなかったか、無視したかでよく起こる現象です。
これ等の点を検証をお勧めします。

さて、次ぎのご質問に入ります。

ご質問3
清康公御室廣忠公御母堂永禄四年八月四日逝去
廣忠公の誕生が代永六年四月二十九日或いは
天平四年という情報があるのですが、事実は
何年でしょうか?

徳川氏の事ですので良く判りません。
ただ、この清康と広忠の有名な事件(守山崩れ 1535)から観て、華陽院は1560年没とすると広忠は誕生は1526年で没が1549年の23歳か24歳と成ります。
天平4年に付いて天文4年では有りませんか。阿部氏に保護されながら、没は信定に追われて伊勢や遠州など各地を転々としましたが、1549年没ですから1535年だとすると14才と成りますね。若すぎます。1526年が正しいと思います。

ご質問4
我が家の系図では永禄四年八月四日逝去と記載されて
いることから産後まもなく死去したと言うのは当たらないない
と考えるのですが?如何なものでしょうか?

広忠のことを言われているとして、産後と成りますと広忠が信定に追放される事は起こり得ないことに成ります。ご質問が華陽院の事を示されているのであれば、生1492年から没1560年ですから広忠は1526年ですから水野氏の妻から清康の後妻に入ったとして34歳の時の子供であり納得できる年数ですから”産後間もなくは”はおかしいと思います。(検証要 後記 広忠は別の子供の論調)
ただ、華陽院の広忠の子供説は松平信貞の娘説もありお家の系図の年代と異なる可能性もありますね。信貞の娘として云っているのではないでしょうか。

広忠は清康の別の室の松平信貞の娘の子供とする説ですが、実孫の説が岡崎市史編にありますので通説通りに一概に云えないのではと思います。
又は清康1535年没と貞景1532年没と広忠1526生が近似していますがこの事を云っているのではないでしょうか。

ご質問5
何処に埋葬され、墓地はどこにあるのでしょうか?
どのようにすれば墓地の場所がわかるでしょうか?

貞景のことですか、華陽院の事ですか、それとも広忠の事ですか
青木貞景がお家の先祖とするならば、武蔵の丹治氏系青木氏とするならば、このルーツのお家のご宗家の菩提寺をお探しになり、そこに過去帳がありますので確認した上でその菩提寺に聞かれてはいかがでしょうか。
この様な家柄であれば「菩提寺」の氏寺が必ずある筈です。
華陽院であれば、清康の後妻として没した訳ですので、清康の祀られているお寺の三河松平氏のご本家の墓の横に「女墓」がある筈です。その「女墓」に平石が建てられていて、そこに松平氏本家の妻を含む室も関わった代々の女房達の戒名を列記しています。その中に掛かれている「院殿居士」による「・・華陽院殿・・大姉」とある筈です。「女墓」です。
華陽院の戒名に3つの内容を読み込んでいますから、この戒名を解きますと生き様の一部が読み取れます。
ある高位の家柄の場合は墓の祭祀の仕来りがあり、格式があり普通と異なる墓方式です。
徳川氏、松平氏には独自の一族だけを祭祀する菩提寺が各地にありますので、三河岡崎にある筈です。そこの「女墓」にあります。
松平氏や徳川氏の墓では一族に関わった女性は別に祭祀され、「女墓」とよばれるものがあります。
又、それを探される事と一族代々に関わった女性(妻、室、妾)は「比丘尼寺」(びくに)と云う寺があります。そこに全て収容されて社会と隔離され一生尼僧として先祖を祭祀する様に成っていますので、其処にも葬られています。
”三河松平氏の菩提寺”で岡崎市に聞かれては如何ですか。
それにお家のご先祖の戒名もお調べに成るとお家の家柄も判り証明できますのでお勧めします。

ご質問6
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
青木筑後守若年の時江州を出て、駿州に来り。
 今川氏に属し後三州に住す。天文元年十二月卒
 六十九歳。

疑問6
先ずこのご質問6の事で疑問があります。
御家の系図の説から隆道即ち貞景(1532)が没するまで、上記しました様に青木持通(1412−1416)からすると120年程度がお家の家系図にブランクがありますね。
又、この情報があるインターネットでは全くの同文で書かれていますが、この貞景がご先祖とお判りになるのであれば、持通までの6−8代程度のご先祖が判らないのは何故なのでしょうか。
この系図を作成する時に当然にご先祖の誰かがこの系図作成を専門家に依頼した事に成ります。
つまり、私資料からすると貞景が隆道とするところが不明です。
何故、隆道の別名があるのでしょうか。
仕来りでは武士の場合は中級以上は4つの名がありますが。
ブランクになった時点で私資料の襲名と俗名と違う名の継承が途切れた事を意味していると考えますが、何か理由があるのでしょうか。その為に貞景成る人物に系図を宛がえたと云う事ではないのでしょうか。

疑問7
その証拠にお家の系図には青木氏に関わる官職名がありませんね。時代と家柄から観て大疑問です。
「青木・・左衛門尉・・貞景・・」と成るはずです。系譜があるのであれば不思議です。
武士とりわけ五輪の塔を有する系譜は全て書くのが仕来りですから。せめてもし、高禄を持つ氏の旗本であれば、最低は一代限りの官職名を付けるのが普通です。特に青木氏は「民部尉」の階級が着きますが付いていますか。寛永の歴史書1615と寛政の歴史書1800には必ず官職名が書かれています。

そこで、これらを検証する為に「五輪の塔」を有するのであれば。お家の五輪の塔の石質を知りたいのですが。これで判断が出来ます。時代で仕来りから石質が宗教上の理由で異なるのです。
又、お家の宗派が判りませんが判ると尚判断が付きますが。
また、更に仏壇形式が五輪の塔を有する武士の階級で判別できますが、お家の仏壇は何形式でしょうか。
上記インターネットサイトでは貞景=隆道と書かれていますが、他には公的な資料サイトではこの名は出てきません。ここも疑問点です。

注釈
「五輪の塔」は先祖が死亡して先ず仮の木の大きい塔婆を建立します。5年後本墓を建立します。この本墓が法事が終り後に50年経つと先祖墓の五輪の塔に収め直します。
普通は3代までを祭祀します。50年経過して五輪の塔が建立されるまでには実際は60年以上かかります。依って50年経過の先祖が2代3代と成りますには100年以上の1世紀に成りますので普通の氏ではまず五輪の塔がなかなか出来ません。この仕来りから観て明治期から観ると五輪の塔を建てられる氏はやっと今ごろに成ります。
江戸初期の氏発祥は段突で、長期もその枝葉が拡大して氏発祥はどの時代のものより大きいのです。
そうすると、明治前江戸期では江戸中期前の氏がやっと建立できる計算に成ります。
殆どの氏は江戸初期から中期前が発祥に成りますので五輪の塔がある氏は古い氏と成ります。
この事から、氏家制度の社会習慣や氏の仕来りもありますが、有無如何が名籍と成ります。
そこで、お家のご先祖は江戸初期に関東上総に来たとすると、そこで氏は近江関係とは切れていますので新たな発祥となり、五輪の塔がやっと建てられるのは江戸中期ごろに成ります。
水戸藩藩士は家臣と成るのには殆どがお家の様な青木氏より新しく発祥した氏の事に成りますので、五輪の塔が江戸末期頃に成ります。
水戸藩士集団墓地と成りますと、仕来りも大きく働きますので勝手な事は身分家柄から出来ない事に成ります。だから余り見当たらないことに成ると思います。
同じ事から、当然にも系譜系図の作成もこの中期以降でなくては作れない事を意味します。ですから寛永の頃、寛政の頃に歴史書が作られこれを元に多くの氏は系図を作り始めたのです。
当然に江戸初期前の系譜と成れば、繋ぎの系譜や抜きの系譜の搾取偏纂が必然的に起ったのです。

青木氏等の上記する賜姓一門や藤原氏一門の古い氏は自らの氏寺の菩提寺や氏神社を自力の高い経済力と武力で自らの一族が住職神職を務め管理運営していましたので、五輪の塔のみならず過去帳から系譜系図がしっかりとしていることに成るのです。合わせて。、室町期初期から「2足の草鞋策」を採っていた事から可能に成る事なのです。
ですから、宗派は系図と共に連動して信頼の於ける要素と成ります。
筆者の本件に関する上記した1から4までの私資料はこの背景にあります。

これ等の内容は研究室のレポートの中に記述されていますので後日ゆっくりとお読みください

参考
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の弟に青木隆吉(又の名:青木六左衛門)
が記載されています。

貞景の妹には、近江蒲生郡の六角氏に仕えた蒲生左衛門大夫高郷(氏郷の曾祖父)の妻となった者がありますが、その子が「梵純」として母姓を名乗って青木玄蕃允とする者が居ますが、この者は伊勢に住しています。筆者の先祖と氏郷と玄蕃允とは大きくかかわりのある人物です。
又、青木六左衛門は筆者の先祖の伊勢青木氏の者で、8代将軍吉宗の享保の改革を実行するために、吉宗が伊勢加納家に育てられたのですが、この加納家と血縁を繰り返している伊勢松阪の950年も続いた紙問屋青木長兵衛の者を招き江戸に同行させます。
納戸方や勘定方の重役を務めましたが同姓同名ですね。
「五左兵衛門」であると上総に移動した弟(高頼)のルーツには襲名名としてあります。
「六左兵衛門」はその意味で江戸に移動した伊勢青木氏のルーツの襲名名ですが、青木氏のこの時代の襲名名が同じと云う事には釈然としません。
江戸には6つのルーツの青木氏と21氏の青木家があります。
水戸には藤原秀郷流青木氏が多く定住しているところです。恐らく水戸家臣の中に居たと思われます。又、華陽院の妹の嫁ぎ先の蒲生氏とも伊勢青木氏は付き合いを深くしていました。この蒲生氏の末裔の青木玄蕃允も伊勢青木とは付き合いがありました。その様な事から貞景の研究はしていました。
その意味で驚きました。青木氏サイトに上総家臣との青木氏の歴史を遺したいと考えていますが、逆質問で申し訳有りませんが上記の疑問点にお答え頂けませんでしょうか。よろしくお願いします。

このお尋ねは他の青木さんにも観てもらって歴史の雑学を高めて頂く為に詳細に当時の慣習も加えて記述していますので、お答えが忌憚無くして記述して長く成っています事をご理解ください。

お答えが遅れました事をお詫びいたします。
念の為に、系図をお作りになった時点の情報の錯誤で系図に疑問がありますが、丹治氏系の上総青木氏である事は間違い無い事です。平成の大修正もいいと思いますが。

本文は急いで記述しましたので誤字や説明不足などありますので、修正しながら投稿しますのでご留意ください

では、また逆質問のお便りやご説明でご不明な点があると思いますので、ご質問頂きます様に御願い致します。