青木ルーツ掲示板
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  [No.795] Re:「甲斐青木氏の研究(花菱紋)」についてご質問
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/09/05(Mon) 06:51:31

> 1.青木豊定が柳沢氏を発祥させたとする青木系図の史料を入手したい。所在をお教え願いたく。
> 2.青木豊定、柳沢信俊が関連づけられている史料(豊定-信立-信俊-?)の所在。
> 3.柳沢吉保が石灯籠を贈った源空寺・松源寺の廃寺の現在地。(訪問致したい)
> 4.論文で書かれている北巨摩郡青木村(韮崎市清哲か?)、南巨摩郡青木村、巨摩郡青木村、柳沢郡
>  青木氏、柳沢郡柳沢氏の本拠地は現在地名でいうとどこか?土地勘が無くお教え願いたく。
>
> 以上よろしくお願い致します。


柳沢さん 今日は。
青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。

さて、柳沢氏は武田氏系青木氏族柳沢氏ですが、「嵯峨期の詔勅」に基づき清和源氏末裔を理由に皇族青木氏を名乗ったもので時光系青木氏です。
甲斐の皇族賜姓青木氏は清和源氏分家頼信系の源の源光系から「青木別当蔵人」として正式に認可されて出自していますが、特別に源光の兄の時光が無冠で甲斐武田氏系青木氏を名乗ったものです。
この青木氏の末裔で信正−信定(信種)の子の正定の弟の豊定が柳沢郡青木村に住し青木氏を名乗らず柳沢の郡の地名を採って柳沢氏を始めて発祥させたものです。

ご質問1の件ですが、この青木氏に関する資料は個人が所有する資料を研究目的で纏められたもので非売品ですので、入手は困難だと思います。
資料詳細は青木氏の資料の中に記録されているものです。
柳沢氏の系譜等は論文にも記述していますが、都合よく搾取偏纂されています。この資料はインターネットでも検索する事は出来ますが、青木氏からの柳沢氏の系譜は青木氏を中心とした資料に成っていますので柳沢氏だけを引き出す事は困難です。
判るものの内容は論文に整理して記述しています。
然しながら、真偽の程は別として江戸時代の「寛政系譜」と云う書物の中に「柳沢曲渕の譜」として次ぎの様に記載されていますので参考にして下さい。

「寛政系図」の記述内容(漢文資料より)
「武田信虎に仕える。某年死す。法名深見。「寛永青木第三の系図」に記載する処の信種、及び同書柳沢曲渕の譜に見ゆる信定と共に尾張守と称し、法名浄見という。その事跡同じければこの信定疑うらくは同人ならん。これ寛永の時呈するところの譜、家々に伝うるところを誤り、或いはその名を異にし、或いは別人のごとくせしものか。しかれどもその子に至りては、いずれ兄いずれ弟たる事を詳にせず。よりておのおのその見ゆるところを記して後勘に備える。」

現在もこのルーツの柳沢氏宗家は現存されていますので、個人情報の法的範囲に入りますので青木氏から全てを網羅させる事は困難です。
ただ、折角ですので、支障の無い範囲で本文に記述します。
信親(信立)−信時−信安−信就−・・
信安の義兄弟として信時の養子として信生が入ります。
その養子の信生の系譜は次のように成っています。
信親−信時−信生(養子)−某(信正)−信定−信之−・・と続き、信正−信定−正定・豊定・豊勝となり、豊定から花菱紋の柳沢氏が発祥します。
これ以降は青木氏ではなく柳沢氏の範疇ですので青木氏に関するあるところまでは把握していますが、それ以降は真偽の程が判りませんので回答出来ません。

2番目のご質問ですが、青木氏から見た柳沢氏は1と同じです。
信種は信親の父親
信種は信定の事 (信正−信定系列の信定と同名で別人)
信立は信親の事です。
信親には信時と信国と・信俊の3人の男子がいます。
信時の子供は信安の実子と養子の信生がいます。
信生は落合信資の子供です (信時に養われる。)
信生は信正−信定−信之−信茂・・・と続きます。(青木氏の養子系列 将来大きな力を持つ)

この信定(藤九郎)から上記した3人の子供の次男の豊定が花菱紋の柳沢氏を発祥させます。
(通名の「信定」は幼名では、八十郎と藤九郎と信種(幼名不明)の3人がいる 別人)

信俊の兄の信時の養子の信生の系列の末裔の豊定の柳沢氏の名跡を、勲功にて信親の三男・青木信俊が引き継いだのです。

この青木氏の信時の養子系列の青木信生−青木信正ー青木信定(割り菱紋)−豊定(花菱紋・柳沢氏の元祖)のルーツより分家の花菱紋の柳沢氏が発祥したのです。(長男の青木正定が花菱紋本家 武川12人衆)
この信定が問題の人物で宗派を浄土宗から曹洞宗に宗派変えする、養子系列を嫡子がありながら割り菱紋の青木氏を継承させようとする、菩提寺常光寺を変えるなど等の問題で親子争いが起こります。
そこで実子の正定・豊定・豊勝の3人の子供は割り菱紋を継承できずに花菱紋の青木氏を発祥させます。

嫡子本家の正定は花菱紋の青木氏を、次男の弟は青木村のある郡の地名から花菱紋の柳沢氏を、三男の豊勝は花菱紋の分家青木氏を発祥させ2代で絶えますが、本家の正定の子供の次男の昌輝を豊勝の3代目の跡目に入れて継承します。

豊定と信俊と吉保までは青木氏から見ると花菱紋の柳沢氏は次ぎの様に繋がって行きます。

源時光(武田系甲斐青木氏の元祖)−・・・−義虎−信種−信親−・信時(長男 嫡子)−青木信生(養子)−青木信正ー青木信定(割り菱紋)−豊定(花菱紋・柳沢氏の元祖 妾子)
信種−信親−・信俊(三男 妾子)
豊定−・(信兼)−・信俊(長俊 :通名の信の継承がない妾子)−安忠−吉保−・・

(柳沢氏を継承した事により通名の信を使って正式に一族と見なされて信俊とします。)

3番目の件ですが、誠に済みませんが以前この件で問題が起こり所在地をお伝えする事は又クレームが着く事もありますので、先ずはインターネットでお調べください。現在荒れ寺に成っていますが源空寺の灯篭は現存します。インターネットからも判ります。

4番の件ですが、論文に記載しています通りです。巨摩郡を中央と南北に分け北は清哲です。現在と同じです。昔の柳沢郡は現在は長野と山梨の県境に位置し現在の長野の諏訪郡柳沢付近と県境付近です。
村は青木氏と左が柳沢氏と二分しています。もともとは青木村から柳沢氏が発祥したために多少の住み分けをしたのです。

宮城の加美の柳沢ではありません。
全国柳沢の所以のあるところは奈良、長野、山梨、東京、埼玉、青森、宮城、新潟、の8所ですが、花菱紋の青木豊定系の柳沢氏は移動経路から前5つであると思いますが更に詳しく調べないと判りません。
割り菱紋の柳沢氏も信種の伯父の青木信興から発祥し、途中で途絶えますが、後に青木氏から跡目を入れて再び発祥していますので青森、宮城、新潟はこの柳沢氏であるのかも知れません。

お家の柳沢氏がどの様な由緒の柳沢氏であるかは情報を得ていませんのでなんともし難く判りませんのでご質問のみのお答えと致します。他に未勘氏と第3氏の2つの柳沢氏があります。

そもそも青木氏と柳沢氏を含む武田氏の系譜は大変入り組んでいて判別が困難なほどに成っています。
これは武田氏の由緒が河内源氏の末裔としていますが、明らかに傍系なのですが、系譜の正統性を見破られないように各所に同人物、同名等が使われたり、またある流れの系譜に別の系譜が組み込まれていたり、同じ人物でありながら別の名前が使われていたりし、それも何度も同じ手を各所に使っているのです。中には時代的に矛盾もあります。明らかに故意的、恣意的にしている事が判ります。
これは武田氏が唱える家柄の搾取を隠す目的からでこの様に成っています。
それを紐解くのは大変なのです。今は研究が進んで大方は判っています。
武田氏系青木氏は解明されていますが、花菱紋の武田氏系青木氏族柳沢氏の系譜もなかなか面倒なのです。確か4つの柳沢氏に広がっていたと思います。
甲斐から吉保の移封により奈良に移動していますので奈良が吉保の本家筋、長野が古い柳沢氏宗家筋、東京は吉保の残留支流筋、埼玉は吉保の残留支流筋、山梨が吉保の分家筋と成ります。

花菱紋の青木氏族柳沢氏に付いては論文に網羅していますが、大変に複雑です。名前が違うが同人物とか、系譜も武田氏を含む3つの系譜が網の目の様に組み込まれています。
これは本来青木氏である柳沢氏が武田氏の中で論文にも網羅しましたが低く扱われたためで代々の禄高を観ると生活が出来るかどうかの困窮の中にありました。

(花菱紋の本家青木正定一族も武田氏の中で勢力争いが起こり青木氏の傍流として低く扱われ、禄高も低く最後には甲斐の山奥の隣国からの守備隊にまで追い遣られる始末です。最終、家康に依って救われ武蔵国鉢形に一族一門は移動します。徳川軍団の北の防衛軍団としてその武力を見込まれて配置されます。この時一部の柳沢氏も移動します。この時の柳沢氏「?信兼」が隣の宮城の柳沢氏になった可能性もあります。信興流か正定流か不明)

この様に武田氏が滅亡し徳川軍団に組み入れられますが、この時も極めて低い禄高で困窮します。吉保から一度に高く成るのです。
このため菩提寺は無くなり系譜管理どころの話では無く吉保の祖父にあたるところまでしか判らない状況でした。
これを武田氏系青木氏からの資料で繋げることで判るのです。



割り菱紋の青木信興は柳沢氏を名乗ります。家康に厚遇されますが、この信興のルーツが解明できません。この柳沢氏が江戸期に宮城等の他の地に広がったかも知れません。

青木氏の専門外ですが、宮城の柳沢氏と成りますと先ずは上記の未勘氏や明治の苗字令の柳沢氏の判別も出てきますので此処から始める必要が出てきますね。
先ずはお家の宗派、ご先祖本家の菩提寺(檀家寺ではない)の有無と場所、家紋、過去帳、仏壇、ご先祖の一番古い人などからで大方の判別か着きますので。

以上の複雑な系譜からお家のルーツをお調べに成るにはかなりの研究が必要で大変だと思います。
ただ、ご質問の資料があってルーツが判る程に甘くなく、それを幾つかの資料を考察して検証して考証して始めて判ってくるものです。これには正しい判断をする為にかなりの歴史雑学が必要に成ります。
上記する内容もこの過程を経ての結果であります。
まして、1個人のルーツを網羅するほどに昔には整ったまともな資料などある筈はありません。まして、下克上、戦国時代の混乱期です。殆ど消失しています。まして江戸期直前の柳沢氏です。
現在と比べて昔も同じとするほどに資料などありませんしその様な整備された社会慣習ではなかったのです。
有ったとしても上記しました様に100%搾取偏纂です。
これを信じるか信じないかは個人の思考の範疇ですが、此処青木氏にある資料はこれ等を精査して整理してレポートされているものです。
向後ルーツを解明される努力を成されて成功に導かれる事を願ってご忠告申し上げます。

以上ですが、多分、柳沢氏からの正しい資料はないと思います。
他にお調べになられて判らない時は歴史雑学上の判断としては青木氏がご協力いたします。ご遠慮なくお尋ねください。



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