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  [No.797] Re:「甲斐青木氏の研究(花菱紋)」についてご質問
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/09/07(Wed) 16:32:30
Re:「甲斐青木氏の研究(花菱紋)」についてご質問 (画像サイズ: 100×100 0kB)

柳沢さん 今日は。
回答をお読み頂いた事ですので、早速続けてお答えに入ります。


>1.質問1に対して、系図史料入手は難しいとの事ですが、これは福管理人様の個人ルートによる情報入手であり、所在が公になっている例えば丸山浩一「系図文献資料総覧」等にない情報ということでしょうか。今後公になることはあるでしょうか。
>福管理人様の論文はWeb上の論文なので引用できるかどうか困っております。研究雑誌等に発表して頂ければありがたいのですが考えておられないでしょうか。

私の先祖は天智天皇の第6位皇子の皇族賜姓伊勢青木氏で1465年の歴史を持つ青木氏です。当方に伝えられる資料と同族青木氏5家5流が所有する1千年以上の管理保管された資料、青木氏と同族の皇族賜姓佐々木氏が研究された資料、血縁氏の藤原秀郷流青木氏116氏の氏が所有する資料、これ等が一族青木氏と佐々木氏と藤原秀郷一門とで学問的に研究された資料、同族11代の皇族賜姓源氏が残した資料、並びに公的に成っている信頼できる歴史的資料や日本書紀や平安期の朝廷記録の資料、日本世記や韓国の日本歴史伝記、青木氏に関わる約55地域の青木氏の遺産資料等を集めて研究して学問的に確立した資料です。青木氏に関しては公になっているものも有ります。
先祖から引き継いで筆者も50年程度の研究をし整理したものです。
ヤフーの歴史専門家の歴史審査による25倍の倍率で合格しカテゴリーに登録されているブログ資料となっているものですが、その言によると段突の日本一の情報量との事です。
自らの氏が自らの資料で自らの長い間の研究による排他的な研究資料で、一族一門(391氏)に非売品に配布されている完成文献と成っています。恐らくは8000氏日本にありますが、この様に纏められたものは青木氏1氏だけと考えられます。その1千年以上の歴史的に管理された資料を補完する体制がその賜姓族の立場から成り立つ所業です。
依って、花菱紋の柳沢氏もこの青木一族の延長に有る事が判ります。
同じ様に永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏も青木氏一族の縁戚族に成りますが、これ等一族一門391氏の内容を網羅したものです。

他氏の研究者が営利を目的として江戸時代に信頼に乏しい偏纂された何らかの文献資料を用いて創り上げたものではありません。営利外に管理された信頼に値する資料を基に多くの青木氏に関係する筆者を含む歴史学者が長い間の編集作業に依って構築されたものです。
これは相当量の文献資料と成りますが何れも関係者391氏の本家筋に配布した非売品の文献と成っています。
青木氏とその関係一族外には、これらのものが何らかの形で公的にしている資料以外は、その立場から”公に晒してはならないとの戒め”がありまして、青木氏とその関係一族のみに公にしています。
(結果としては公には成りますが積極的にはありません)
今後もその計画はありません。しかし、その訪れる人にはその資料とその雑学を基本的に営利外で公的外に利用して頂くことには排他的では在りません。
また当ブログは日本最大の放送機関も資料の利用契約をしておりますが無償容認している状況で拒否していません。既に7度ほど利用放送されています。
依って著作権を侵害しない範囲で個人の責任で営利目的以外として個人的に使用する小さい範囲事には拒否いたしません。今までも許可のもとで使用しています。
因みにある若い青木氏は本レポートを発表用に取り纏めて全国弁論大会で優勝している事もあります。

研究雑誌等の発表はせずとも青木HPや日本国内の「青木ブログサイト」や「外国用青木ブログサイト」や「戦国時代サイト」、「全国ツイッター」等の青木氏が運営する場所に、放送関係者に特別許可等に、出していますので雑誌以上のメディアーを世界的に独自に持っています。

> 2.質問2について、詳しいご説明有り難うございました。青木-柳沢系図に関しては、寛政譜はほとんど信 用できないということですね。寛永譜の編纂は柳沢吉保の出世直前ですから、これは信用して良いと うことでしょうか。ご説明を元に検討を進めたいと思います。


さて、この件に関しては、ほぼその通りです。
寛政及び寛永の何れの譜も江戸期のものですが、この時代は家柄身分を社会が要求しそれが出世や婚姻や社会的立場の根本に成っていました。因って要するに氏家制度の閉鎖的封建社会でありましたので、室町期の下克上で伸し上り、且つ戦国乱世で出世したものが殆どですので、この社会に対応するには家柄身分を搾取偏纂する以外にはありませんでした。
徳川氏がその最たる氏です。朝廷と開幕時に大きく揉めた有名な事件もあるくらいです。

柳沢氏での件はやや問題がありますが吉保以降は信じるに値すると考えます。
柳沢氏は他氏の殆どと異なりその系譜の範囲を正直に祖父のところまでのものを基本にしています。

(長俊のところで止めている理由は「豊定−(・信兼)」の名跡を剥奪した為、その元祖は名跡跡目を本流の長俊・信俊とした為、信兼は罪を犯した為の3つの事から外しているのですが、青木氏から観れば何の関係もありませんから「豊定−(・信兼)」までと成るのです。この点だけが問題ですが仕来りから仕方の無い事に成ります。)

寛政系譜や寛永の史書に記している様に殆どは、普通の氏であれば神代の時代まで少なくとも平安初期まで搾取し偏纂して家柄を良く見せる系譜を作るところですが、青木氏に遺された柳沢氏の系譜には不明な所があるので「作成者の明記」と「後勘に問う」の語句を添えている系譜です。
柳沢氏の系譜を青木氏側がこれを更に補完している処です。

又、公表しているものとは違い、「添書」なるものを添えられており、系譜の人物、経歴、出来事。、出身、妻、石高、仕官先、官職、役目、勲功、幼名等のあらゆる判断するに必要とする情報が書き添えられていてそのその詳細度は遥かに異なっています。
公表のものはこの様な添書の系譜を見た事が有るでしょうか。添書を書きますと個人情報によりもめる事が起こりますし、資料を供する側が祖先を愚弄する事に成りますので添書はそもそも出しません。
吉保系の柳沢氏の系譜でも観る様に、拙い人物が有るなどしますと削除や脚色する事などして偏纂を要求します。
そもそも嘘の系譜には添書をつける事は矛盾が露出しますので不可能です。
系譜に限らず公表の物にはこの問題を持っています。
信じる信じないかは個人の問題です。
しかし、公的なものと比較しますとお家が考え検討を進めるに値するものと考えます。
但し、公表しているものがその花菱紋の柳沢氏かどうかの問題が伴います。

前回にお答えしました様に柳沢氏には「未勘氏と第3氏」が、高位の氏としての青木氏に関わる氏であるが為に、この2つの無血縁の氏が実は多いのです。
特に、苗字と氏を持たない者に対して明治3年の苗字令、8年の督促令による氏発祥が多く90−95%は実質この氏と成ります。近隣の有名な氏名を名乗るという現象が全国各地で起こったのです。起こったと云うよりはその様に進まない苗字令に対して維新政府がその様に指導したのです。
村や郡全体が同姓を名乗ると云う現象が各地で起こりました。
この事は、江戸期初期にも同じ程度で起こったのです。
昔は武士と言えども下級武士は苗字や家紋等を持つ習慣ではなかったのです。全部氏が苗字と家紋を持つ様になったのは江戸期に入っての事です。そこに農民・庶民が武士になった事から一度に姓氏が拡大したのです。
この様に室町末期に立身出世した農兵の者が苗字や家紋を持ちませんので近隣の豪族の氏名や家紋の拝借をやって時世の動きに合わそうとしたのです。これもむしろ明治維新政府と同じで徳川幕府が家臣団に「士農工商」の封建社会確立の為に強く指導したのです。

この点を先ずクリヤーする事が必要です。これには公的に成っている資料は、寛政系譜にも書いていますように「第三氏」としているのでこのことを保障するものには成りませんし、必要な情報が削除されていますので個人域までの資料は論理的にあり得ません。

そこで如何するかと言う事ですが、江戸時代には社会慣習が氏家制度と身分制度を確立した封建社会であった事から「仕来りや掟や慣習」が全ての面でありました。幾ら苗字家紋を持ちえたとしても、「仕来りや掟や慣習」のところまでは搾取できませんので矛盾が生じるのです。
この所謂、「状況証拠」でこの事で判別が可能に成ります。歴史雑学です。
青木氏はこの事で判別していて多くのお問い合わせでルーツを判別しています。ルーツ掲示板等をご覧下さい。
学問には基礎知識が必要な様に、ルーツにも基礎知識と成る雑学が必要です。
これ等の雑学はレポートの各所に書き記しています。全国の青木さんと関係一族の方はこのレポートをご覧になって把握しておられますが、柳沢氏の青木さんは初めてですので是非一度ゆっくりと少しづつ楽しんで膨大な関係資料をお読みください。青木氏の「生き様」を理解する上でもご不明な点はご説明いたします。
「4つの青木氏」族の中の「嵯峨の詔勅」による皇族青木氏系の柳沢氏でのお問い合わせはこれで確か2度目です。
昔では徳川氏より上位の家柄ですよ。殿様より上位ですから、本来であれば上座から殿様が降りて家来が上座に座るということに成りますね。
実は因みに筆者の先祖では、家康の次男の紀州徳川頼宣が筆者の先祖と面談した時に頼宣は下座し座布団を外し列座する家来も頭を下げたままでの面談となりその慣習は祖父の明治期まで続いたと祖父から聞いています。

慣習とはこの様に護られていましたが余談はさて置き、情報を提供していただければ雑学を屈指して解明いたしましょう。何とか青木氏族のルーツ解明を多くしたいと思いますので(本サイトの目的です)。
雑学は急に獲得出来るものではありませんので、本サイトをご利用ください。これはネットなどでは無理です。

>3.質問3のご回答について了解致しました。ネットで以前から検索していますが探し当てる事が出来ておりません。「源空寺」、「甲斐」、「浄土宗」、「廃寺」、「石灯籠」を組み合わせていますが、何か欠いているようです。

まず困難で無理と考えます。
それで出て来るほどに先祖の社会は資料に充分ではありませんでしたし、ネットには柳沢氏のルーツを解明出来るほどに充実し完成されていませんし、柳沢氏自身も判って居ないのですから。根本的に無理であり、考察ではすこし間違われています。ネット信望者になっていませんか。
まして殆ど搾取偏纂の資料を元にしてその真偽如何を問わず営利目的で文献を作り上げているのですよ。
もう一つ花菱紋には曹洞宗を組み入れなくては困難です。甲斐武田氏系青木氏の菩提寺は元は常光寺です。
この寺は元は浄土宗でしたが、内部で激しい勢力争いが長い間起こり分裂し、勢力争いにやっと勝った信定側が勝手に曹洞宗に変えてしまった主君が乗り出すほどの武田氏を揺るがす大事件が起こったのです。
そこで正定と豊定と豊勝は反発して伝統を護る為に源空寺等を建立して浄土宗に戻そうとしたのですが、今度はこの信定は更に養子の信生を割り菱紋の青木氏の跡目を取らし常光寺を護らすと云う破天荒な行動に出ます。
ですから、柳沢氏では曹洞宗として先ず観るのが筋道でキーになります。
後に浄土宗に正定と豊定等は戻しますが養子の信生のルーツはこの曹洞宗と成った廃寺に近かった常光寺を立て直します。そこで、ご質問ですが、お家のご本家の宗派は何ですか。

次に江戸時代の編集の寛政系譜や寛永史書にも書いていますように室町末期の「第3氏」発祥と決め付けられています。ネット資料はこの判別が完全に100%出来ていません。諸事情により無理で出来ないと考えます。
この3つの事を配慮するとネットによらずとも論理的に自ずと答えは出てきます。

>4.質問4のご回答よく分かりました。柳沢郡が北にあったことは始めて知りました。
>有り難うございました。

青木氏は唯一氏名を村名に出来る氏で平安期に朝廷より特別に許されています。
青木氏外は全て地名を村名にする奈良期からの掟に成っていますし、氏名も藤原氏を除き地名で名乗る事の掟です。

(青木氏の氏名と地名の皇族外の他氏の使用は「嵯峨期の詔勅」で禁止されています。3期の混乱の一時期を除き原則明治3年まで堅く護られました。又青木氏にはこの天智天皇、天武天皇、嵯峨天皇等により青木氏に対して「不入不倫の件」が特権として認められています。信長、秀吉、家康も護りました。)

つまり、青木の村名が有る所には青木氏が存在していたのです。サイトメニューから「地名地形データ」をご覧下さい。故に、前回にお答えしました様に、主君武田氏に名跡を剥奪されたとは言え、豊定は兄の正定と同じく本来は青木氏の身分家柄であって他氏の様に地名の柳沢を名乗る立場ではなかったのです。
父信定との軋轢上止む無く妾子と云う立場もあり俸禄の保障無く柳沢を名乗ったのです。
兄と弟に助けられながら何とか武川12人衆に特別に組み入れてもらい氏を保ったと云う経緯があり生活は困窮を極めたのです。当初は家来も養えないほどの生活を強いられます。
家康軍に組み入れられる時も柳沢氏だけは遅れますが兄の家の働きで家康の腹心の大久保氏に組み入れてもらう程でした。後に再び浪人に成りますが、極めて質素で粗末であった事が青木氏の添書記録から判明します。吉保より4代は困窮極めます。
三男の弟の豊勝の青木氏は正定の子供昌輝の養子先(武田氏の重臣大井昌義)の援助を受け3代目で昌輝自らが養子先から豊勝−豊信の跡目に入り戻りこれを受けて立場は保てていたのです。
(養子先は昌輝の子供に譲る)
弟の豊勝は比較的父に対する態度が中間的であった事から青木氏を名乗ることを許されますが、豊定は許されなかったのです。2人の支援を受けながら柳沢の「豊定−(・信兼)」は名跡が無く成るほどに困窮を極めたのです。
結局、割り菱紋の「信兼−信俊」の「柳沢交代劇」で、花菱紋の始祖の困窮を極める「豊定」のルーツはその立場を既に無くしてしまった事に成ります。「割り菱紋」の「信興ルーツの柳沢氏」だけが「柳沢氏」と成ってしまったのです。
つまり、青木氏の本流「割り菱紋」の「信親の妾子」の「信俊」がこの「豊定−(・信兼)」の柳沢氏の跡目に入り家を興し直します。これにより一本化し本流化したと考えられてしまったのです。

結局、支流と成った花菱紋の青木氏は徳川氏の家臣と成って、正定−正重−・信久−信知−信秋−・・と続き武蔵国鉢形に青木村(一部柳沢氏も伴なう 埼玉、宮城の柳沢氏)ごと集団移動します。その果敢な戦闘能力を見込まれて徳川氏の北の守りに入ります。(正定ルーツの信久は小右衛門の襲名)
(後に「八王子1000人衆」と呼ばれ武蔵国を周囲から護る集団として名を馳せました。)

豊勝のルーツも兄のルーツより跡目を入れて代々続きますが、青木氏である柳沢氏だけは吉保まで困窮していました。「豊定−(・信兼)」は名跡を取られて全て兄の正定に従って結局は鉢形に一部移動したと見られていました。
ところが、お家の次ぎの5の情報で次ぎの事が判明したのです。

> 5.当方調査の内容とご助言のお願い
>私は現在宮城県在住ですが実家の青森県柳沢家について調べております。
>(1)実家は山村で農家です。先祖から5代の某は1848年南部藩系図御用掛りに由緒書を提出しています。
> これに先祖「○○保忠」、遠祖「小右衛門」とあります。先祖は1704年藩から官牧の管理の役目を仰せ かり微禄を賜い、代々役目を継いでおります。先祖の没年は1730年です。家紋は丸に花菱です。
>(2)青森県にも柳沢の地名は多く、姓も多くあります。しかし当県のA市、隣県のB市の柳沢氏も家紋は花菱と異なっております。2市とも近くに地名がありそこに興ったものと思われます。実家の近くに 柳沢の地名はありません。
>(3)寛政譜で遠祖名「小右衛門」を検索しました。その結果29家64人が該当しました。このうち花菱紋は3家4名です(卷162青木正定、青木信久、卷166折井門次、卷1084武者安貞)。この結果遠祖に青木正定が有力と考えられました。
>(4)貴論文からは青木正定から柳沢は出ないと解釈しましたが、今回のご回答によると出る可能性があると理解しました。貴見をを伺いたくお願い致します。


先ず、お答えからお家のルーツが判りました。
(1)から”江戸末期に由緒書を提出””・・保忠 小右衛門””微禄””丸付き紋の保有”の”苗字帯刀を許された農民”云う事に成りますので、4つの身分を示す情報からなると、身分は元は武士で庄屋又は村長である可能性が高いと観られます。
(2)から(1)を証明するもので、何らかの功を上げて「苗字帯刀と家紋使用」を許された姓族でこの場合は「丸付き紋」の使用と成ります。

その経緯をご説明いたします。実は決定的な情報があるのです。
柳沢氏は本来支流ながら青木氏で甲斐の時光系の無冠の皇族青木氏です。
皇族系青木氏(柳沢氏も含む)皇族系である為に「家紋掟」により「丸付き紋」は使用しないのです。
しかし、「丸付き紋の花菱紋」と成り(1)の4つの事から藩主(宗家申請)より特別許可にて家紋使用を許されたお家です。この場合は村長が代表して授受します。つまり此処までは上記した「第3氏」と成ります。
当然に、由緒ある名跡名の使用も伴ないます。「小右衛門」「・・保忠」も与えられ授受し使用を許されます。この場合は、藩の式典や祝事の時には名字帯刀、家紋使用で羽織袴の姿で参加できる身分に成ります。
つまり、藩が出陣する際には兵力を与えられますが、この時、家臣団では常設兵力では足りませんので必ず「農兵」を採用します。農兵は村毎に割り当てられて村長が仕切ります。戦いに於いて著しい勲功を立てた村民には事前に受け取る準備金と戦後の勝利した時の報奨金とは別に、その勲功に応じて(1)と(2)の様な事が与えられ、「農兵」が「武士扱い」とする「論功行賞」をどの藩でも行うのです。

中には天皇家の祭祀紋の「五三の桐紋」に似せた「五七の桐紋」の使用もあります。
豊臣秀吉が勲功のあった藩主にこの天皇家の式紋を与え、それを与えられた藩主は家臣や農兵に使用を許す権限を与えられます。この権限がない藩主は自分のルーツの「名跡名」や「丸付き紋」の家紋使用や特権などを与えたのです。(南部藩は「五七の桐紋」を持っていない)
江戸期にもこの秀吉が決めたシステムが引き続き使われました。
依って、当然に(3)はこの農兵慣習から与えられたものですので、ネットで打ち出せば必然的に青木氏にたどり着く事に成ります。
しかし、決定的なのは青木氏の「丸付き紋不使用の掟」と「宗派」だけは異なる事に成ります。
江戸中期前はその宗派は身分家柄別にその宗派が決っていました。青木氏は浄土密教です。
それ故に、家紋は判りましたので、”お家の宗派は何ですか”とお聞きしています。
この浄土宗の場合は寺が客観的に管理し戸籍簿の役割もしていますので(1)(2)に依って変える事が出来ないのです。
更に浄土宗であると菩提寺(檀家寺と異なる)となり仏壇、戒名などにも家柄身分等のルーツ歴も変わりますので判別が着くのです。
家康により江戸初期に「浄土宗督奨令」が出されて家柄身分に拘らず中級以上の武士も入信出来るようにしました。
依って、氏を構成する事が出来ますので、菩提寺には過去帳が存在している筈です。
その戒名に書かれている内容にても判別が可能です。

さて、(4)ですが、青木氏では地名を氏名にする慣習はもとより皇族系ですのでありません。
「天智天皇の詔」と「嵯峨期の詔勅」により青木氏だけに与えられた特権です。依って「青木氏」からたどれば「柳沢氏」は地名の上記経緯を持っていますので出てくる事はありません。
しかし、「柳沢氏」を辿ると「信俊」に行き着き、「青木氏」から辿ると「信兼・信俊」に辿り着きますのでルーツは元祖までの時光まで行き着きます。
更には弟の源光を通じて清和源氏にたどり着く事を意味します。これ全て「青木氏の経路」です。
柳沢氏を青木氏と繋げば出来る事に成りますが何れも単独では繋がりません。
しかし、もとよりお家の今回の情報から、先ず間違いなく上記したことから何れにも辿り付けません。
宗派や過去帳や仏壇や地理的要素などの情報がありませんが、「丸付き紋の花菱紋」である限りは。

ただ、上記の事は普通の経緯ではこの様に成るのですが、花菱紋の柳沢氏が何で青森なのかは解明されていません。
実は「割り菱紋」であるとその歴史的な経緯は無くもありませんので納得できるのですが。
「割り菱紋」から「花菱紋」に変わる何かが有ったのか、「青森の柳沢氏」は「青木氏」から観た「花菱紋の柳沢氏」は1700年代以降に調べましたがその足跡が取れません。
それは何故なのでしょうか。(宮城、埼玉はあり得ますが)
甲斐の武田氏が滅びた時に「豊定」か「信兼」か「安忠」か「信俊」の何れかの妾子が青森に逃げ延びた事も考えられます。
軍令を破った「信兼の妾子」が逃げた事も考えられます。(現実に子供の信久は駿河の穴山氏に逃げ込みました。)「安忠も信俊」も青森との関係が出て来ません。
この3人からは青木氏の資料から正式には地名を残すほどの経緯が観られないのです。
そこで、可能性があるのは鉢形に移動したと観られていた柳沢氏の「豊定−(・信兼)」の一族が甲斐の武田氏が滅びた時、この柳沢氏は青森に逃げた事も考えられます。
柳沢氏の「豊定−(・信兼)」の一族は「長俊・信俊」の柳沢氏とは決別し抹殺されていますので、考えてみれば正式な形で正定を頼って鉢形に移動し難い事が伺えます。
甲斐の「武田氏系青木氏」が「秀郷流青木氏」を頼って神奈川、横浜、栃木、高知に逃げたと同じ様に「豊定−(・信兼)」の柳沢氏の本来の花菱紋の「豊定−(・信兼)」の青木氏も逃亡している事が考えられます。自然の考え方です。
そうだとすると、青森は不明で武蔵鉢形と観られていた「豊定−(・信兼)」の子孫の逃亡先と観られます。

そこでお家の情報では1705年には既に青森に柳沢氏がいた事に成ります。
武田氏が滅んだのが最終1582年頃で、吉保1658−1714ですので、「長俊−吉保」の経緯は青森には無く、そうすると「吉保前の柳沢氏」と成ります。
つまり「豊定−(・信兼)」の名跡を剥奪されて抹殺された「豊定−(・信兼)」の柳沢氏と成ります。
恐らくは130年の間隔がありますので、青森に定着するにはこの推理の武田氏滅亡の逃亡説ではないかと考えます。
青木氏としては50近い定住地の中で青森は日本最大の関係地ですが、「甲斐の青木氏」とは無関係の土地柄です。

此処青森は藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓族信濃青木氏の移動地でもありますので納得できるのです。
そこで逃亡説で研究してみますと、陸奥の秀郷一門(青木氏と永嶋氏)を頼った事が考えられます。
近くの新潟にも秀郷一門の青木氏や進藤氏などが定住しています。
新潟にも柳沢の地名と氏が存在しますので、逃亡途中にこの秀郷一門に匿われた事を意味します。
因みに信濃の「武田氏系諏訪族青木氏」も実は新潟に秀郷一門を頼って逃げ延びていたのです。(ルーツ掲示板のレポート検索)
この事からすると隣村の「武田氏系諏訪族青木氏」も移動していますので、これで更に青森への逃亡経路が秀郷一門青木氏で繋がります。
とすると、この時、「武田氏系諏訪族の青木氏」のみならず地名もある位に「柳沢氏の一部」もこの秀郷一門を頼って逃亡して新潟に定住している事は判っていますので、無理なく完全に青森は繋がります。(武田勝頼もこの方向に逃亡していた)

そうすると、「豊定−(・信兼)」逃亡説の確率が極めて高く成りますので、そうであるとすると、お家のルーツは上記した普通の検証では異なりますのでこの上記した「慣習と経緯」により又少し変わってきます。

頂きました情報の年代からすると、吉保ルーツの柳沢氏では無く、つまり柳沢氏の名跡を継いだ「長俊・信俊ルーツ」では無い事に成ります。
と言う事は、不明であった鉢形と観られていた「花菱紋」の「豊定−(・信兼)」の「本ルーツの柳沢氏」と成ります。だから、このルーツが不明と成っていたのです。
「信兼」は勝頼の軍令に逆らい信念を押し通した人物で罰せられて柳沢氏を剥奪された者ですが、この豊定親子が一部は新潟に、或いはそして残りが陸奥の藤原秀郷一門を頼って逃げ延びた一門である事に成ります。
陸奥の事は青木氏の「研究室とルーツ掲示板」「地名地形データ」にレポートに詳しく記載していますので参照して下さい。

代々秀郷より9代に渡り鎮守府将軍を務め、陸奥をはじめ東北北陸一帯は秀郷一門の末裔の完全な勢力圏です。「東山道」以北が秀郷一門の勢力圏で、秀郷一門の「第2の宗家」で、一門の護衛団の青木氏と土地の豪族は殆どこの血縁氏で構成されているのです。
足利氏の前身の花房氏と、武田氏の前身小山氏と小田氏等は陸奥の土豪で秀郷一門青木氏との血縁氏です。
この血縁3氏が主家の秀郷一門に従って信濃、甲斐、常陸にやって来て豪族になったのです。
中でも小山氏や小田氏の分家が後に秀郷一門として関東一の豪族に成ります。
(永嶋氏、小山氏、佐竹氏、宇都宮氏は「関東屋形」と呼ばれた)
秀郷主要5氏の永嶋氏も室町期は下総常陸と共に陸奥永嶋氏の豪族で有りました。
ここには青木氏と共に武田氏の前身小山氏や小田氏本家一族もいます。
ここに逃げれば信長の権域を完全に外れ安全です。氏家制度の中でここに逃げない方がおかしいのです。

とすると、ここでお家の提供された「庄屋並みの扱い」を受けていて「丸付き紋」となる根拠が家紋掟により「第3氏」ではない別の意味を持ってきます。
元は武士であったが、地元土豪(庄屋)の娘の妾子の血縁家柄であって家紋継承が柳沢氏の本家筋から許されず、止む無く「丸付き紋」とした事を意味します。それは提供された次ぎの2つの事が物語ります。

一つは由緒書を提出した事、二つは柳沢の土地から離れている事がこの「妾子の説」を物語ります。
このパターンは良くある事ですが、何故、「由緒書」なるものを提出したのかもこの経緯で納得させられますし、「官牧の管理」のお役目も納得できます。
当時の「慣習の雑学」でこのような立場身分のものには、主君の「馬の管理・飼育」、「官牧の管理・保全」、「別荘の管理保全」等の主に主君が日常使うものの管理保全を信頼できる者に任したのです。
その為に信頼できる証拠として「由緒書」を提示したものと考えます。
中にはその役目に応じて「馬・」「牧・」の付いた姓や名を与える等の事をしました。
徳川時代では馬上氏、馬場氏、牧田氏、牧野氏はこの経緯からの姓名です。
お家は由緒ある柳沢氏である事から姓ではなく名を与えた事も考えられます。
「・右衛門」が青木氏の襲名名です。「与右衛門」と「与兵衛」の襲名名が多い。因って「小右衛門」の襲名名ではないかと考えます。

(青木氏の平安時代の朝廷の永代官職は宮廷を護る「近衛六衛府軍」の指揮官で「・右衛門佐」「・左衛門佐」が青木氏の官職です :佐、尉は階級 江戸時代は高額金品を朝廷に払えば一代限りの官職名を貰えた 後に誰でも無断で使った)

江戸初期前後の混乱期には「丸付き紋」は家紋掟により先ずはこの「妾子」として使われたのです。
青木氏本流の「長俊・信俊」が入る事で柳沢氏は本流の柳沢氏になったことで「丸付き紋」は掟事に成り使用する事は出来ませんが、名跡を剥奪された以上、「豊定−(・信兼)」の本来のルーツでは、移動先の陸奥では、普通の氏の仕来りに従います。
因って、最早、「青木氏の掟」は除外されますので、今度は「丸付き紋」は妾子紋と成ります。
(家紋使用は本家の許可が必要で家紋掟による。妾子の場合は大抵は丸付き紋に成るのです。この場合3つのパターンがあります。お便りにより次回に検証し記述します。)

5の提供された情報は大変な情報です。これで「青木豊定・柳沢豊定」の逃亡先が新しく判明する事に成りました。
山梨県境の柳沢郡の近隣にある現在の諏訪郡の諏訪族青木氏と武田氏系諏訪族青木氏の一部は神奈川の秀郷一門の青木氏を頼って逃亡して生き延びたのです。その後一部は栃木に逃亡移動しています。
この時も逃亡先で生き延びる為に土地の土豪との血縁を進め土地に馴染む戦略として用いました。
そのために「青木氏の掟」を言い立てては生きる事は成り立ちません。そこで土地の土豪の血縁族の末裔には「丸付き紋」を与えて区別したのです。
この方法は逃亡先の「高知や新潟や神奈川や栃木」でも同じ事が起こっているのです。
この地域のみに逃亡氏の各氏家紋の「丸付き紋」が発生しているのです。

ですから、当然に同じ柳沢郡・諏訪郡に住んでいた「豊定−(・信兼)」系の柳沢氏の青木氏も何れかの秀郷一門の青木氏を頼って逃亡するのは自然の成行きです。まして秀郷一門の青木氏と共に武田氏の前身小山氏の定住しているところでもあります。(頼らない方が不自然です)
越後には昔の中頚城郡金谷(現在は金屋)の青木村等他の2個所に青木村を基点として青木氏は広がっています。信濃には下諏訪地方と隣の小県郡青木村など南北の分布の青木村が基点として広がっています。そうすると信濃の高井郡の青木村は信濃北右よりに位置していますので、「安全と生活手段」を確保する為にも縁戚を頼り、「諏訪−小県−長野−妙高−高田−安曇野−上越−柏崎」のこのルートを経由して護られながら移動して行ったことに成ります。
そして諏訪族の青木氏は新潟に、その新潟を経由して一部を遺し柳沢氏の青木氏族は更に北に逃亡した事に成ります。
甲斐−信濃−越後−陸奥の北に向かう秀郷流青木氏に保護されながらの安全な無理のない逃亡経路が成り立ちます。
長野道−上信街道−上越道−北陸道と移動経路を採りますが、この経路上は全て青木氏の定住ラインです。
信濃では諏訪には諏訪族青木氏、国府に皇族賜姓信濃青木氏、松本付近には足利氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、越後国境には足利氏系賜姓青木氏の5家5流の品の青木氏が長野道沿いに分布しています。

新潟に逃亡した諏訪族の青木氏は、新潟より阿賀野−新発田を経由して北陸本線上の村上地域まで秀郷一門の青木氏が住み分け定住していて、その中間の新発田に定住しました。
隣村であった為に一体となってこの経路を通して新潟まで逃亡をしたのではないかと推理しています。
この様に逃亡説では無理なく「氏と地域」の条件のところまでも完全に一致します。

昔は氏家制度の中では同じ氏の血縁関係があると助け合う仕来りです。
秀郷一門との助け合いはサイトの他のレポートを参照して下さい。代々同族血縁の母方血縁の関係にあります。
この助け合いの青木氏から観てこの逃亡説が極めて高いと観ています。
(家紋掟は研究室にレポートあり)

先ずは「丸付き紋」にてほぼ決定付けられますが、確定は出来ません。
後一つ上記の疑問点もありますので、兎も角も、お家の宗派は何でしょうか。檀家寺ではなくご本家筋の菩提寺をお持ちでしょうか。江戸中期の過去帳をお持ちでしょうか。お家はご本家筋でしょうか。
これで100%で確定します。

教えてください。青木氏のルーツ解明の為にも。筆者は柳沢氏は純然として甲斐の武田氏系青木氏であると考えています。柳沢氏は血縁して氏名が変わったのではなく、ただ氏名を変えただけの生粋の青木族さんなのです。
(甲斐には源光の甲斐の皇族賜姓族青木氏等5つの青木氏がある 内3つの武田氏系の青木氏が各地に逃亡 青木氏の研究室レポート参照)

「注意・追記」
(「豊定−(・信兼」)の表現に付いては説明不足があります。青木氏側で解決する必要があり、これが柳沢氏の疑問点3なのです。
後刻説明する予定でこの表現を採りましたが意味が伝わらず誤解を招くと考えましたので先に概容を記述します。柳沢氏の矛盾点として。)
「信兼」は事実は「割り菱紋」です。そのルーツは青木氏の本流の分家の「割り菱紋」の柳沢氏元祖の「信興」−定興−信房−「・信兼」−「・信久」−・・でこの「信兼」の所に青木氏の本流本家の信親の妾子で「割り菱紋」の「長俊・信俊」が入ります。
通説では”別ルーツの名跡を継ぐ”と成っていますが、本家から分家に入っただけの事ですので当り前の仕置きです。
しかし、柳沢吉保は柳沢氏が示す系譜「長俊・信俊ルーツ」としていれば、本来は柳沢吉保の系譜であれば「割り菱紋」である筈が「花菱紋」を家紋としているのです。矛盾1です。
矛盾1は本来、「信定との親子争い事件」から「正定−豊定」の花菱紋の柳沢氏の発祥と成ったが、「信兼−信俊」の事件劇から「豊定」の「花菱紋の柳沢氏」が故意的に抹殺されてしまったのです。(信興一本化)
吉保の系譜作成時に「抹殺の花菱紋の柳沢氏」を名誉の為に名乗れず、「信兼−信俊」の正式化されたルーツを選んだが、伝統を護る為に家紋の「花菱紋」だけは遺したのです。
それで菩提寺も「常光寺」にせずに「源空寺」にしたのです。
しかし「吉保ルーツ」は「源空寺」等から観ても「正定・豊定ルーツの花菱紋」が本来では正しいのです。
「割り菱紋」の「信興−信兼ルーツ」は系譜からすれば元は浄土宗ですが、上記した「信定事件」で「曹洞宗」であり「常光寺」です。「吉保ルーツ」は本来であれば「浄土宗」であり「源空寺」であります。矛盾2です。

次ぎは「信兼」の子は「信久」と成っていますが、この同時期に本流支流で信兼事件の関係族に「信久」なる関係する人物が何と3人も居ます。普通では有り得ない事です。何かを物語っています。
ご注意願いたいのは、通説(ネット含む)ではこの辺が同姓同名の人物の存在を知らずに錯誤して「ゴチャゴチャ」に成っている事です。矛盾3です。
中には江戸時代に史書にはこの「柳沢氏の信興」は「信種の父」と成っていたり間違いだらけです。
これが武田氏の戦術です。家柄の正統性を余りにも追求しすぎた搾取偏纂の結果です。
問題の「信兼−信久」(割り菱紋)の「信久」は信兼切腹後、逃亡して徳川氏の家臣駿河の穴山氏を頼り家臣になると通説にあります。(この3月後に信長没)
この時、家康の供として境から逃亡中伊賀で死亡している事になっていますが、後勘が騙されてこれもゴチャゴチャから来る疑問の一つです。
家康家臣の更に媒臣の家臣が同行するのも当時の慣習から疑問で、更に武田氏滅亡3月後の事ですので慣習と時間から観て困難です。
(これも「物語性」を作り上げて事件性を横に逸らし末梢させる武田氏特有の戦術です。)

ところが、更に青木氏の本流のルーツにも、信時−信安−信就−信幸−「・信久」−・・があるのです。
更に、青木氏支流の花菱紋の元祖本流のルーツにも、正定−正重−「・信久」−信知−信秋−信倉−信保−正満−信政(信政は本系譜の再編集者でこの策謀を知っている筈 「後勘に問う」と記述)もあります。
「後勘に問う」とありますので、この同時期3人の同族「信久」の存在は何らかの意味を持たしている様です。今疑問は解けませんが柳沢氏逃亡」に関わる事ではないかと観ています。一つの推理説が生まれます。(信兼事件の勝頼の謀略に対抗した説)
正定ルーツの「信久」と「豊定」の消えている柳沢末裔との関わりがあるのではと推理しています。
これは恐らく、「青森の柳沢氏」の系譜(豊定−?)が解ければ答えは得られるのではないでしょうか。

甲府で家康が戦後処理を6月くらいかかった事が書かれていて、その後に武田氏族の遺臣処理をし家臣団に加えますが此処まで1年弱掛かっています。
各地に逃亡するには結局は猶予期間はせいぜい武田氏滅亡の3月と信長没後2−3月程度以内までの6ケ月間以内の青木氏と柳沢氏の生き延びる苦悩と成ります。

本流の「青木信時ルーツ」は嫡子襲名の「与右衛門」(与兵衛)で、支流青木正定ルーツは嫡子襲名は「小右衛門」で、本流分家青木氏・柳沢信興ルーツは嫡子襲名の名は通しの「与兵衛」です。(通襲名は「与兵衛」)
青森の柳沢氏は「吉保ルーツ」では無い事が5の情報と共に「襲名名」や「家紋」や「ルーツ」のこれらの事から明らかに違っています。

従って、論理的に「花菱紋の柳沢氏」の氏は柳沢を名乗った経緯からも「支流青木正定ルーツ」の「正定」の弟の「豊定」以外に出自は無い訳ですからこの様に成ります。
「吉保ルーツ」は「吉保系譜」を採る限り、「家紋掟」からも本来は何れから観ても「割り菱紋」なのです。
(筆者は、経緯から観ても、矛盾解消から観ても、添書内容から観ても、吉保の行動から観ても、源空寺と宗派から観ても、間違いなく「豊定ルーツ」と観ています。)
因って、青森の「花菱紋の柳沢氏」は、花菱紋の正規のルーツとしては、「青木豊定ルーツ」の花菱紋柳沢氏始祖の「柳沢豊定ルーツ」である事を表現する為に(「豊定−(・信兼」)として表現し整理して記述しました。
複雑回避としての表現でしたが、お調べに成るとしたら矛盾の持ったところを先に説明する必要性から追記いたしました。(・信兼)の表現は後述に論じる為に「矛盾」を提示していました。
明らかに青木氏からは判明しているのですが、矛盾含みの通説から末梢されている事は、花菱紋の本流の柳沢氏の「豊定ルーツ」が、陸奥に移動していたことを意味しているのです。これを先に伝えます。
上記に論じていました様に、この「柳沢氏豊定ルーツ」の正確な行方が判りませんでした。
不明と矛盾を含んだままに研究不行き届きで予想として武蔵「鉢形」と観ていましたが、お便りより明らかに成りました。
(”武蔵川越藩の吉保の柳沢氏と融合した”と観ていました。そこで陸奥の柳沢氏が不明で本文に記述した様に「江戸初期の第3氏」として観ていました。)

これにて上記していました「柳沢系譜の矛盾」は別として、青木氏としては「豊定の件」は不明矛盾は解消されました。
そこで、更に証拠と成る「花菱紋の家紋の発祥の意味と経緯」(本文でも述べていますが)の詳細はお便りをお待ちして予定通りに次回に致します。

少し進みましたね。ちょっとしたことでも結構ですので、当事の基礎知識の雑学を使うとこの様に両方から観ることでルーツが次第に見えてくるのです。
確定しましたら、是非に青木氏としてサイトにご協力ください

何かご質問が有りましたらお尋ねください。



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