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  [No.591] 冨田家の家紋
     投稿者:冨田敏雄   投稿日:2009/07/28(Tue) 22:10:34

初めまして、御教示をよろしくお願いします。本家は江戸中期には名主をしていました。           私の家は丸に下がり藤ですが葉が下向き花弁は外11内7家紋です。どちらかと言えば花弁は離れています。本家は元禄頃の墓誌があります、また嘉永5年の墓誌に上州足次村重吉郷写と碑文があります。 宗派は真言宗です、足次村の寺も真言です、足次村には戦国のころから冨田の名字はありませんと、住職にいわれました。館林の武士と口伝えはがあります、冨田又十郎氏と関係があるのでしょうか?又十郎氏の使用家紋はわりましたらよろしくお願いします。本家は明冶の初め火事にあいなにものこってません。 乱文に勝手な御教示お願い申し訳ありません。


  [No.592] Re:冨田家の家紋
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/29(Wed) 20:41:06

冨田さん 今日は。 はじめまして。
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。

さて、お尋ねですが、冨田氏のルーツに付いては専門で無いので全く判りません。

ただ、折角お尋ね頂きましたので、知る範囲でお答えしたいと思いますのでご参考にしてください。

提供されました情報は、
江戸中期は名主、
家紋は11花弁の丸付き紋の下がり藤紋
本家は元禄の墓がある
墓には上州足次村重吉郷写
宗派は真言宗
足次村には冨田氏はない
館林の武士

以上6つです。
これで判る事は史実からルーツ分析上判る事が3つあります。

先ず、氏家制度の社会では、武士以下の庶民は氏姓を持ちません。
又、当然に墓も持ちません。氏が無い為に「信系統的に時系列」で先祖を記録する事はできませんので寺の過去帳も有りません。
ただし、次ぎの身分の者は持つ事が出来ます。
名主、庄屋、豪農、郷士、郷氏、豪商です。
以上の者は苗字、帯刀、家紋、墓、過去帳を持つ事が許されていました。

以上から、このいずれかである事が検証出来ます。
宗派が真言宗で、元禄期に墓があり、丸付き紋の家紋を持つことが出来ている事、館林では武士の口伝から、「郷士」であったと観られます。つまり、その土地の昔から住み着いている「農民」であり「地侍」であったと観られます。
秀吉の代には「兵農分離令」で「郷士」は「農民」扱いと成りました。
ですから、土地の名主(殆どは郷士)と成っていたと観られます。

上州足次村は「重吉郷写」の内容から冨田氏とは無関係と観られます。

家紋ですが、下がり藤文様は全部で30あります。
この中で、97氏が藤原氏の藤紋を使っています。
そして、更に、下がり藤紋は藤原秀郷一門の351氏の内7氏です。
藤原氏は下がり藤紋を綜紋としていましたが、「下がり」が忌み嫌われ、秀郷一門だけが使いました。「下がり藤紋」は秀郷一門の綜紋です。つまり、宗家、本家だけが使える家紋です。
下がり藤紋は「丸付き紋」は使いません。
副紋方式を使用します。下がり藤紋の真ん中に紋を入れる方式です。
秀郷一門7氏が使う下がり藤紋は花弁が九つです。
江戸初期250程度の旗本と元御家人が藤紋を使いました。
藤原摂関家の公家が多く用いました。

花弁が離れているとしますと、公家紋(花弁11)系の丸付き紋ではと思います。
以上の家紋掟から、秀郷一門と公家紋は「丸付き紋」を使用していないところから、
「個人家紋」と成ります。つまり、全国家紋8000の中にも有りませんし、家紋200選にも有りませんので、全国に広がっていない特定の個人が使用していた家紋と成ります。

この家紋からも、上州館林の「郷士」冨田氏であった事が考えられます。
館林の確証は有りませんが。
墓石には戒名が書いている筈ですが、又、ご本家の館林のお寺に過去帳がある筈ですので、それをお調べになると一番古い人が出てきますので、確認されると更に詳しい事が判ります。元禄にお墓があると云う事は過去帳もある筈です。冨田氏を名乗った時期が判ります。

足次村重吉の後ろにある「郷写」は正しい字句でしょうか。名前でしょうか。
足次村の重吉郷(ごう)では無いでしょうか。「写」字句は”墓を移した”と云う意味で”現在のところに移した”ではないでしょうか。
仏教用語でお墓は物を移すのではなく「御魂」なので「写す」とします。「移」は物を移す事の意です。墓所を移動させる時は「御魂写し」と云います。そのための儀式を行います。宗派に依ってはことなりますが、普通は墓石の左側面の左下に小さく書きます。

「冨田又十郎」に付いては青木サイトですので判りません。

参考 別の冨田さんからのお便りが以前ありましたので、検索で調べてお読みください

ご質問や判らない時はご質問ください。


  [No.606] Re:冨田家の家紋
     投稿者:冨田敏雄   投稿日:2009/08/12(Wed) 20:15:37

早々と御返事有難うございます。又、もうすこし調べてから投稿しょうと思います。そのときはよこしく御教示のほどお願いします。


  [No.995] Re:冨田家の家紋
     投稿者:冨田 恵利   投稿日:2014/08/31(Sun) 20:30:27

初めまして、御教示をよろしくお願いします。本家は江戸中期には名主をしていました。

私の家は丸に下がり藤ですが葉が下向き花弁は外11内7家紋です。
どちらかと言えば花弁は離れています。
本家は元禄頃の墓誌があります
また嘉永5年の墓誌に上州足次村重吉郷写と碑文があります。
宗派は真言宗です、足次村の寺も真言です
足次村には戦国のころから冨田の名字はありませんと、住職にいわれました。
館林の武士と口伝えはがあります、冨田又十郎氏と関係があるのでしょうか
?又十郎氏の使用家紋はわりましたらよろしくお願いします。
本家は明冶の初め火事にあいなにものこってません。 
本家は江戸中期には名主をしていました。
乱文に勝手な御教示お願い申し訳ありません。


  [No.996] Re:冨田家の家紋
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/01(Mon) 16:53:45


冨田さん 今日は。始めまして。

さて、困りましたね。
以前お尋ねに成られた方と同じルーツの同文で同内容と成って居ますがお尋ねの方が違っています。
この方にお答えした内容以上には、残念ながら判りません。

ただ、お尋ねの中で、戦国時代には上州には冨田氏は無かったと住職の方が発言されています。
しかし、明治より約20年前の嘉永年間には上州に居たとする事と、時代考証的に墓所の碑文とが一致しません。
そして、明治前に墓所を持っているとすると、武士であった事に成ります。
士農工商の農工商の者は正式な墓所を持つ事は許されていませんでしたので、武士と成りますが、この時代は「国抜け」と云って、自由に定住地を抜けて移動する事は出来ない事に成って居て、これを破ると一族悉く斬罪です。
しかし、江戸期には上州に墓所まで持って定住していますね。
仕官先が変わったと云う事なのですかね。

そこで、そもそも、下り藤門は藤原秀郷一門の総紋で、宗家しか使えない家紋です。
一族であっても本家筋しか使えない家紋群です。
この文様に更に丸付き紋ですね。
秀郷一門は家柄身分から丸付き紋は一族は使いません。
全て副紋方式です。
更に、江戸期では、類似家紋の使用は法度です。
依って、藤紋の丸付き紋は藤原氏では無い事を意味しています。
花数からも違っていますので、藤原氏の家紋群では無い事に成ります。

ただ、一言、お家の大元のルーツは伊豆の大島にあります。
伊豆の大島から、冨田氏、富田氏や富岡氏等が大島から伊豆に、伊豆から駿河に駿河から上州へと移動した事は判っています。伊豆大島には大島水軍と云って源義朝が逃亡してのこした配流孫の末裔です。この水軍の末裔に成ります。その末裔と考えられます。

少し矛盾の持ったルーツと成って居ますね。
青木氏では全く判りません。