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  [No.856] 小平の青木です
     投稿者:青木宏恵   投稿日:2012/07/17(Tue) 21:32:26

始めまして、失礼いたします。
東京、小平の青木です。
私の家は昔から小平に住み今はかなり小さくなりましたが、農家をしています。
昔から土地持ちで、御大臣というアダ名がついていた時代もあったようです。

青梅街道沿いに小平が出来た時にどこかから移住してきたようです。神明宮とお寺と何軒かの家が青梅街道沿いに土地を縦に持ち暮らしはじめたようです。が、祖父は少し詳しかったようですが、私は最近結婚し、やっと家の行事や仕事を覚えようとしている所です。

小平が出来た頃からある、昔はとても大きく頑張って続けてきたお家なのだからと言われ。父や母はあまり執着はしていなかったのですが、私はひとりっ子の女ですがなんとしても青木を継いでいきたいと、結婚する時長男の相手に変わってもらいました。

が、青木についてよく知らないのは良くないと思い、ふと江戸時代以前小平に来る前はどこにいたのだろうか?と青木の小平以前のルーツが気になっていました。純粋にどこかの豪農の分家なのかと思っていました。

また、赤ちゃんが生まれ、私も母もそうだったのですが、蒙古斑が三世代ありません。うちの母の姉妹の子も1人を除き蒙古斑が無かったようです。漢民族には蒙古斑が無いとかネットで見たのですが。今回以前は江戸時代より前に西洋系の血筋が混じったのかな?とか思っていました。

いそ右衛門だったかからの戸籍しか、戸籍が作られたのが最近なので、小平以前がわかりませんでした。改正原戸籍を以前とったのですが、実家にあるのでまたお盆に調べてみようと思います。

家紋は抱き角で、正直なんでこんな家紋つけたんだろうと思っていました。お婆ちゃんにいたっては、女性にはゴツいからと抱き角に丸を勝手につけてしまいました。なので結婚式では母の着物はあまり考えず、丸に抱き角でした。

また、今後色々と調べてみようと思います。
今、この文章を記入している間に100歳に近い祖母の訃報の連絡が来ました。相続などでまた忙しくなりそうなので、ゆっくり青木のルーツを学んでいきたいです。
私が出産して、次の年に亡くなるなんて‥とても不思議な気分です。

それから、HPで質問が公開されてしまうと、特定されてしまうような言葉、住所、名前が晒されているのが少し怖いです。


  [No.857] Re:小平の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/07/27(Fri) 10:13:08

小平の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトです。サイトには青木氏に関わる資料が沢山用意されていますよ。
ご心配なくお気軽にどうぞ。

さて、お便り遅れました。時間オバーのエラーと成っていました。
毎日暑いですね。昔に比べて2-4度くらい気温が上昇していますね。
関東も昔は関西より低い印象もありましたが、今や関西より高い位ですよね。

御祖母が亡くなられたとの事ですが誠にお悔やみ申し上げます。

早速ですが、小平の青木さん お家のルーツのお答えですが、”「蒙古班」漢民族”のカンが当っていますよ。
お家のルーツはお便りの情報で直ぐに判りますよ。はつきりしています。
「抱き角紋」と「青梅街道」と「小平」と「蒙古班」と「磯右衛門」と「地主」、「豪農」と「神明宮」と「お寺」と「家主」でお家のルーツが読み取れます。情報が揃っていて比較的珍しいですね。
他にルーツに関する何か気のついた事が有りましたらお知らせください。

さて、ではそのお答えから先に述べますと、「信濃諏訪族系青木氏」の名籍名家です。
上記の情報は繋がっています。
この「信濃諏訪族系青木氏」は歴史の遍歴で次ぎの3つのルーツに分かれます。
先ず、本流の「諏訪族系青木氏」です。
信濃には「皇族賜姓信濃青木氏」が奈良期末期から皇族として信濃守護王として定住していました。
この「皇族賜姓信濃青木氏」が、奈良期の末期からここに定住した後漢民の職能集団の首魁(諏訪族)一族と血縁をしました。
つまり、中国の後漢が、隋と唐に滅ぼされて「漢民族」が潰れ、この結果、「200万人の職能集団の17県民」が難民として阿多倍王に率いられて渡来し日本に帰化して来ていました。
この大職能集団は「部」と云う組織で構成されていました。そして九州全土を瞬く間に征圧し、次には中国地方まで無戦制圧して66国中32国を支配下に入れました。
むしろ在来民はその「部の技能」を享受して豊かに成り、進んで配下に入って行ったのです。(日本の第一次産業の全ての礎を築く)
そして、この次から次へと押し寄せてくる組織の後漢民の民の一部が奈良期の末期に中国地方から中部地方に移されて其処で開墾を命ぜられました。
主に背の高い馬(大型馬)を飼育する「馬部」等が牧畜放牧を中心にして定住しました。その為、未開の信濃は瞬く間に著しく富み、それを背景に平安期には信濃には豪族が出来たのです。
これが有名な諏訪神社の諏訪族です。
日本書紀にもこれ等の諏訪族の開拓民の事は詳しく出てきます。
蒙古班の情報はこの事です。元は後漢の漢民族です。

そもそも日本人は「7つの民族」の「融合民族」で出来た大変に珍しい「融合単一民族」です。
(研究室に詳しくレポートしています)
そこで、朝廷は「大化改新」の「天智天皇」から始めた仕来りで、天皇の「第6位皇子」を臣下させて賜姓する仕来りがありました。蘇我氏に天皇家が脅かされた経緯もあり、この反省から天皇家の身内から一族を護る親衛隊を創ったのです。
(青木氏の5代と11代の源氏の合わせて16代はこの仕来りで発祥)
この第6位皇子の「皇族賜姓青木氏」は、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の5家5流あるのですが、伊勢が施基皇子でその始祖と成ります。
天智天皇から光仁天皇までの男子の5代の天皇が天皇の第6位皇子を青木氏として賜姓して、臣下させて武家(侍の発祥源)とし、「天皇を護る親衛隊」を組織しました。
この上記の内の信濃と甲斐の「開拓地の守護王」に送り込みました。(伊勢、近江、美濃は元々主要国であった)
これが「皇族賜姓信濃青木氏」(A)の先祖で、この「信濃青木氏」と上記した豪族と成った「信濃諏訪族」の首魁族と血縁をしたのです。
この時、この「皇族賜姓青木氏」の分家は、諏訪族から「跡目養子」を迎えたのですが、2代続きで男系跡目が出来ず結局は女系と成り、養子先の系列の中に入り「諏訪族系青木氏」(B)と成りました。
昔の社会体制は氏家制度ですのでこの様に成ります。
この賜姓族の「諏訪族系青木氏」は室町期には、後に武田氏と血縁し、矢張り、男系跡目が叶わず「武田氏系諏訪族青木氏」(C)が発祥しました。
更に、この(C)が「諏訪族系武田氏族青木氏」(D)と成り(A)を元にこの3氏が発祥したのです。
従って、丸付きではない「抱き角紋」ですので、お家はこの(B)の「皇族賜姓諏訪族系青木氏」です。
「丸付き抱き角紋」はこれ等の支流一族です。
ところが、これらBCDの青木氏は、武田氏に味方し武田氏が信長に滅ぼされて、神奈川横浜等に逃げ延びました。(越後にも秀郷流青木氏をたより逃亡)
この時、母方の遠戚関係にあった特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」(116氏で構成する日本最大の最高の名籍氏族 朝臣族)に保護されてこの地に定住します。

(嵯峨期の詔勅により特別に皇族外から藤原秀郷の第3子の千国に一門の一族一門の護衛隊の任務を持たせ、天皇は特別に皇族外から青木氏を賜姓します。
秀郷は「平将門の乱」を平定した特別功労者でそれに対する論功行賞 母方一族の皇族賜姓青木氏を補佐する目的で賜姓した。藤原氏北家の摂関家筋の公家や貴族は武力を持たない原則なのですが、秀郷一門は特別に青木氏として武力を持つ事を許された。日本最大の武力集団)

しかし、この後、一部は神奈川横浜地区から離れ、勢力を盛り返すために藤原秀郷一族一門の手薄と成っている北域に移動します。矢張り、栃木の秀郷一門の「藤原秀郷流青木氏」を頼り移動します。
ここで、「藤原秀郷流青木氏」の北域の勢力拡大に大貢献し豪族と成ります。そして勢力を広げた地域には諏訪神社を多く建立しています。
この栃木の「諏訪族系青木氏」等の一族は「藤原秀郷流青木氏」を背景に仙台の直ぐ手前まで勢力を伸ばします。
そして、そこで、甲斐に定住した賜姓族ではない別の流れの皇族の「武田氏系青木氏」があって、徳川家康の家来となり武田氏滅亡で一族全員が埼玉鉢形に集団移転させられます。

(皇族青木氏は「嵯峨期の詔勅」で皇族の者が下俗する際に名乗る氏名と指定され他に使用を禁ずる。甲斐には賜姓族でないその一つの「皇族青木氏」と、守護王として定住した上記の第6位皇子の「皇族賜姓青木氏」も存在する。2つの流れの青木氏が甲斐に存在した)

江戸期にはこの徳川氏の家来と成ったこの埼玉鉢形の「武田氏系青木氏」(有名な柳沢吉保もこの青木氏)と、同じく上記の「藤原秀郷流青木氏(徳川氏家来)」の家臣と成り、その勢力を北関東一円の八王子手前まで伸ばしました。
その栃木の「諏訪族系青木氏」等3氏の一部が、徳川幕府の江戸の周囲を護る旗本御家人として「関東1000人衆」を組織します。この中の一つが有名な「八王子衆」です。
この「八王子衆」に「諏訪族系青木氏」は組み込まれましたが、大変に強く有名で豪農や名主や庄屋等の「半農武士」として生き延びて来たのです。歴史的経緯から観ると大変に苦労しました。
例えば、青木氏ではありませんが新撰組の近藤勇もこの地区の郷士組です。
これ等の人たちを江戸期では古い地元の武士団の「郷士、郷氏」と呼びました。

この郷氏と成った青木氏の「半農武士集団」を率いる郷士組護衛隊の主軸が「抱き角紋の諏訪族系青木氏」なのです。
青梅街道の情報はこの事なのです。

次ぎは「磯右衛門」の「・・右衛門」「・・左衛門」「・・兵衛」の「世襲名」は、この天皇を護る親衛隊に付けられた官職名で、宮廷の三門を護る役目があり、「武家の発祥源」である「賜姓青木氏」(朝臣族)にのみ許された永代世襲名です。(江戸期には無秩序に使用される事と成った)
平安期にはこれを彼の有名な「北面武士」と呼ばれました。
上記の「皇族賜姓青木氏」と、「藤原秀郷流青木氏」(武蔵入間を中心に半径横浜神奈川の円状の中に特別賜姓族の遠戚の青木氏がいる)のこの「2つの青木氏」にのみに許された家柄身分を表す呼称です。

次に、「神明社」はこの「2つの血縁青木氏」とその古くからの家臣団の「2つの絆青木氏」の守護神で、その「祖先神の神明社」が「青木氏のみの守護神」です。
「祖先神」は「天皇の皇祖神」(伊勢神宮)を引き継ぐ唯一の子神です。
ですから、青木氏が定住する処には必ず「皇祖神の伊勢神宮」の分霊があり、「祖先神の神明社」が建立されています。
つまり、お家の「信濃諏訪族系青木氏」の守護神の主神は「祖先神の神明社」なのです。

次に「武家の発祥源」である「2つの賜姓と特別賜姓の青木氏」は、古代密教の「浄土宗」を「菩提寺」としています。(檀家寺と異なる)
室町期中期までは「皇位の者」(朝臣族)のみが入信出来る宗派で、自らの氏の者を祭祀する独善の浄土宗派寺を持っていました。浄土宗に一般の者が入信出来る様に成ったのは江戸初期に徳川家康が特令を出して許可した事から始まります。それでも上級武士階級の範囲でした。

ですから、お家の皇族賜姓の「諏訪族系青木氏」は、この神明社を主神とし、諏訪社を副神とする2つを守護神とする諏訪族の青木さんです。
そして、菩提寺は元は古代密教浄土宗寺であった筈です。多分、信濃諏訪地方にある事に成ります。
関東にも古代密教の古いお寺が5つ程度あった筈です。この内の栃木よりのお寺が諏訪族系青木氏の菩提寺を勢力を関東で保持した時に神明社と諏訪社と共に建立したのです。
ですから、信濃には有名な諏訪神社と共に、元のこの青木氏の浄土宗菩提寺と、お家の守護神の「神明社」が栃木のどこかにありますよ。

然し、お家の大元の守護神は伊勢神宮です。ですから、この「2つの賜姓族・特別賜姓族青木氏」だけに許された主神です。(ですから、賜姓青木氏だけに「不入不倫の権」が与えられ本領は原則永久的に護られたのです)
一度、何時か「お伊勢詣で」を兼ねて青木氏の主神と、「諏訪詣で」として信濃諏訪社に詣でてはどうですか。
伊勢神宮の街燈灯篭には4つも大きな青木氏寄進の街燈灯篭がありますよ。
西諏訪地方には青木氏にまつわる色々な物が残っています。
つまり、伊勢神宮の皇祖神の下に皇族系の者の守護神として「祖先神の神明社」が子神と成っています。青木氏=神明社なのです。
信濃諏訪には、現在でもお家のルーツの諏訪(特に西諏訪地方)には青木さんが大勢いますよ。
おーい 青木さん と呼べばハーイと応える位ですよ。
埼玉の入間や八王子なども同じですね。
(青木氏の地名地形データーベースを参照)

これ等の青木氏は江戸期までは200から500人位の家臣を持ち、土地や家屋敷を与え地主や家主であったのです。
又、特に信濃と伊勢の青木氏には大きな影の「大シンジケート」を持ち、裏では「2足の草鞋策」として大商いや大地主などを営んでいました。
信長と伊勢丸山城の戦いで青木氏(伊勢−信濃)は勝利しました。信長の唯一の有名な敗戦です。
余談ですが、筆者の先祖は伊勢神宮を護る「伊勢の青木氏」で、明治35年まで950年も「紙問屋」をも片方で営んでいまして、大河ドラマにも3度も登場しましたよ。
お家等の「信濃青木氏」とは明治の頃まで親族として深い付き合いがありました。
お家の「信濃諏訪族系青木氏」ももちろんの事として、賜姓青木氏の5家5流は和紙の一連の殖産までを兼ねて全て「紙問屋」を裏業の「2足の草鞋策」として互いに連携し営んでいました。この5地方は5大古代和紙の生産地です。
お家の青木さんが農業をご先祖から営んでいた事から、昔は恐らくは生産から商いまでの古代和紙生産に関わっていた事(殖産農業)が考えられます。
上記した事は全て研究室に論文が在りますし、ルーツ掲示板のお便りや家紋掲示板や地名地形データベースなどに詳しく掲載されています。大変苦労して生き延びてこられた「青木氏の生き様」が見えてきますよ。

ご質問等有りましたら、このお便りを専用投稿欄としますのでReで何なりとお尋ねください。
掲示板には昔ご親類であった方からのお便りも多いですよ。諏訪族で検索してください

是非、膨大な論文に成りますので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。3年くらいは掛かりますよ。10年位前からヤフーの25倍の審査に合格し、歴史カテゴリーの段突日本一トップの情報量を誇っていますよ。ブログも含めますと一日に3000人から5000人が訪れてきます。
最近は青木氏外の人もご質問が多いのです。
(青木氏族には 青木氏の他に、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏 佐々木氏があります。これ等6氏を青木氏族と呼びます。)

HPの左メニューには物真似で有名な青木族の青木隆治さんが歌っている「青木氏の歌」もありますよ。
一度聞いてください。左メニューにあります。

因みに、おばあさんが丸付き紋に変更したとの事ですが、養子を迎えられたのでしょうか。
もし、養子であれば一次的に養子さんは丸付き紋か実家の紋を使います。本当は、”固い”と云う理由では無かったと思いますよ。日本一の名籍名家の家紋ですからね。
お家の場合は、形上は養子さんを迎えられたと観られますので、本来であればご主人は「丸付き紋」を一次的に使う事に成りますが、男子の子供さんがお生まれに成っていた場合は、元の丸付き紋の無い「抱き角紋」に戻ります。
「家紋掟」(研究室に掲載)と云うものがありまして、武家はそれに必ず従います。
江戸期まで守られていましたが、庶民も明治には苗字や家紋を使う様に成りましたので守られなく成りました。
お家に嫡子が生まれていた場合は家紋は、大化期からの1000年以上の悠久の歴史を持つ旧家中の超旧家名籍のお家ですので、「諏訪族系青木氏」の「抱き角紋」にお戻しくださる事をご検討ください。


では、ご質問や又お便りをお待ちしています。


  [No.986] Re:小平の青木です
     投稿者:   投稿日:2014/07/18(Fri) 04:46:16

大変遅くなり申し訳ありません。
小平の青木です。

久しぶりにこちらに訪れ、こんなにも親身に膨大な情報を教えて頂きましてありがとうございます。お礼も遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
まさか、管理人さんとも繋がりがあり、膨大な歴史の渦に頭が整理出来ていません。
そして私が生きていく間に少しづつ自分のルーツを理解し、明白にして子供に伝えたいとおもいました。
少しづつまた質問しに戻ってきます。


膨大な先祖の歴史が一本に繋がりそうで、頭が混乱しています。本当にありがとうございます。
祖母が亡くなり相続で家がバタバタしていて、また子育てに追われる日々を過ごしていて、こちらへの質問をすっかり忘れたまま月日がたってしまいました。
こんなにもはっきりしたお答えを貰えるとはありがたいです。
まずは家紋の○を取り払う事が使命かと思います。

そして、小平市の歴史と私の家の歴史の繋がりを知りたいのですが、お寺は小川寺臨済宗円覚寺派寺院だそうです。
小平市は小川町が初めて作られたのが起源で、その小川町に住んでいます。神明宮と小川寺は青梅街道を挟んで南と北にあります。
が私の家は丁目を一つ飛ばした場所にありますが、小平での青木氏の元はうちであることは確実です。

管理人さんの話では神明宮と青木氏は一緒にやってきたという事ですが、小平の始まりの小川村を作ったのは小川九郎兵衛となっていて、簡単に調べた所青木氏は小平の歴史には見当たりません。
小川寺の歴史や神明宮の歴史にも出て来ないようです。(ネットで調べたくらいですが)
しかし、うちの言い伝えでは最初に小川村に住んだ何人かのうちの一人ということでした。

小平の歴史らしき文章の引用ですが、小平で一番最初に開発されたのは、小川村です。 開拓者は、小川九郎兵衛といって岸村(現在の武蔵村山市)の郷士でした。小川氏は武蔵武士の末裔です。武蔵武士とは、平安の時代、朝廷から国司として派遣された下級役人が任期があけてもそのまま居ついて、土地と警察力を持つようになった人のことです。中でも武蔵七党(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)が有名で、小川氏は西党の構成員で、小川牧(秋川市)という馬を育てる牧場を治めていました。室町時代には、北条早雲の北条氏に仕えていましたが、北条氏が秀吉に降伏(1590年)して滅びてからは岸村(現在の武蔵村山市)に住むようになったそうです。
だそうで、何故この小川氏と一緒に村の最初の人となったのでしょう?

それから、蔵には昔質屋をやっていたらしき看板と、敷地内に昔蚕小屋跡がありました。蚕は紙に結びつきますでしょうか?
遠い親戚の方に出会えたこと、本当に感謝します。
素晴らしいデータベースを作っていただきありがとうございます。

また、何かわかりましたら追加で記入させてください。


  [No.987] Re:小平の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/18(Fri) 19:41:10

小平の青木さん 今日は。お久しぶりですね。
お元気のご様子で何よりです。
さて ”小平”の小川氏は「姓族」ですので、「氏族」の「青木氏」とは全く関係ありません。
青木氏の場合は、奈良期から唯一氏名を村名に出来る氏族です。
天智天皇は、全国に氏名を村名にする事を禁じました。
この禁令は江戸期まで護られました。
小川・・は村の地名から採った姓名です。
青木氏とは、「氏族」と「姓族」の先ず大きな違いがあります。
次ぎに時代性が違っています。地名からの姓名は殆どは江戸初期頃からの発祥です。
「諏訪族の青木氏」はこの武蔵に移動して来たのは、武田氏が滅んだ室町期末期です。

以前のご返事にも書きましたが、諏訪族青木氏は一度神奈川に、次ぎにその一部が栃木に移動定住しました。
その栃木の一部が仙台の手前まで宇都宮付近に伸長します。
更にその後その一部が、武蔵の八王子付近に戻って移動定住します。
そもそも、江戸期を含む以前は移動定住は法度で、「国抜け」と云って、その一族が連座制で打ち首の斬罪です。
許可制の期間限定です。(何らかの理由、血縁とか開墾とか、の領主が認める理由があって移動出来るもので、その後に定住するにも許可が必要に成るのです。)

従って、室町期末期に、お家は、秀郷流青木氏の背景の下に後押しを得て、その勢力域を拡げて自領とする動きを見せたのです。
ところが、ある事件(下記)があって、この「八王子」に一部移動した「諏訪族青木氏」は、秀郷一門の秀郷流青木氏の定住地の武蔵の国境にも広がりを見せています。

(八王子は開墾と血縁ですが、お家は小川地区の開墾・殖産が条件であり、この一部が定住を認められたルーツです。)

恐らくは、その多くは「秀郷流青木氏」との血縁関係と開墾を通じて広がったと観ています。

「秀郷流青木氏」の定住地の中に「抱き角紋」の「秀郷流青木氏系」の「諏訪族青木氏」が国境付近に観られるのです。
普通は「棲み分け」と云って争いを避ける為に定住地を区分するのですが、血縁族はそのどちらにも属さない事から、国境に住むのが決まりで在ったのです。
依って、八王子の山間部とか秩父の山間部とか、河川の未開地とかを開拓して定住地を作り出すのです。
小川村も岸村も秀郷一門の自領内での当時は未開の地でした。
村山市一帯は「秀郷流青木氏」の入間の根拠地域です。
お家は、秀郷一門の許可を得て、この自領地の未開発部分の開発の殖産を主導した諏訪族の者であったと観られます。

秩父の山間部と荒川との境に出来た湿地帯、即ち、花園ー小川ー松山ー坂戸ー桶川ー熊谷の領域に囲まれた「湿地帯」を埋めて平地を作った領域で、秀郷一門が行った開墾地で有名です。
ここに、この湿地帯に適した物を植える事に成ったのです。
その殖産が、「養蚕」と「和紙」の殖産を試みたのです。
恐らくは、この小川地域の湿地帯の開墾作業には「姓族」の「小川・・・」土豪が替地として関わったのです。
その殖産には経験者を本庄や宇都宮などからこの殖産能力の持った「諏訪族青木氏」を招いて、行わせたのです。
それがお家のご先祖であった事に成ります。

南の八王子ー青梅ー飯能ー越生ー「小川」ー深谷ー本庄ー北の宇都宮までの戦略上のラインを作り上げたのです。
これがかの有名な「小川開拓」ですが、お家のご先祖は殖産のそれを成したのです。
この村山入間に居た郷士を替地としてこの開拓に差し向けたのです。

実は、その状況証拠として、栃木に伸長したお家の諏訪族青木氏の本流は勝ち取った土地の跡に必ずこの殖産を敷いたのです。
ですから、当然に、この「小川開拓」にも専門家を差し向けた事に成ります。
当時、荒川の上流河川域は良く氾濫したのです。
そこで、上記の湿地帯を埋めて護岸工事をし開拓地としたのです。
江戸時代は更に、水量の多いこの荒川の水を分ける開拓工事をしたのです。荒川分水として有名な河川工事の一つであったのです。

次に第二の状況証拠として、次ぎの事があげられます。
この土木工事は秀郷一門の得意中の得意の仕事で平安期から江戸までこの本職なのです。
比較的知られていない事なのですが、秀郷一門は、平安期から「土木工事プロ」なのです。

「藤原秀郷一門」の元の平安初期の氏名は官職から「結城」で在ったのです。
その最初に住んだ地域名が「結城」です。
鎌倉幕府の頼朝は、この結城氏の能力を良く知っていて、平家が奪っていた結城の領地を秀郷一門に本領安堵して戻します。
この幕府が行う土木工事の能力を高めようとしたのです。
朝廷の土木工事を専門に行う官吏で、今で云う設計から施工まで行う「ゼネコン」です。
有名な事として何と現在の「山陽道」の元はこの「結城氏」が行ったのです。
ですから、「結」・「城」なのです。

このライン上に存在する秀郷一門の豪族を「関東屋形」と呼ばれます,
そのラインが小川で切れていてここを開拓する事で一門の勢力は繋がり安定したのです。
荒川下流域の氾濫も少なく成ったのです。
勿論、経済的な流れが起こり生活は向上したのです。
江戸期には、幕府は秀郷一門に命じて、更にこの北域の開拓整備も進めます。
開拓しても、そこに根付く事が出来る産業を作り出してこそ開拓です。
それが、この湿地帯に適したのが、「桑と楮」であって、その殖産能力を信濃の古来から持っていたのが、諏訪族青木氏でした。
そして、そこに殖産を導いたのでした。この事は幕府の記録にも残っているのです。

特に、幕府は、この小川の「養蚕と和紙」には、「幕府の専売制」を強調して、江戸の中期頃にはその利益が莫大で中国に輸出するまでに成って居ます。
この為に、「専売制の利権」を独占する為に、嫌がらせ等をした為に地元の農民や郷士や郷氏や領主が組んで「利益の分配」で事件まで起こしているのです。

殆どはこの様にして、定住地を開墾してそこを住みかとするのですが、お家も宇都宮に帰らずにここに定住してしまった事に成ります。
その為には、他国の土地を奪って開墾するか、秀郷一門の許可を得て未開地を開墾するかの方法を採るのです。
開墾してもそこにどの様な作物を植えるかも開墾の作業秘訣です。
お家はこの後者で在ったのです。
従って、地主に成れているし、郷士にも成れているのです。お家は本来は「郷氏」の家柄です。
「養蚕と和紙」の何らかの跡が遺っている筈です。
幾つかの記録に依れば、”「桑と楮の殖産」を指導した”と観られますので一度お調べください。

お家の本流の「諏訪族青木氏」は、栃木を制覇して更に仙台のところまで勢力を伸ばして行った前者に成ります。
当然に土地を奪取した後には、上記したライン上にこの「桑と楮の殖産」を進めたのです。
北へ北へと伸長する中で、「諏訪族青木氏」の本流一族は、その後にこの勢力地にこの殖産を根付かせる為にお家のご先祖をここに配置して殖産を進めたと観られます。

小川氏の事に付いては「姓族」ですので、詳細は把握していませんが、半兵半農民から立身出世して力を持った者です。
岸村付近から替地で小川地域に入り勢力を以て地名を姓名にした者です。
その者と一緒にこの「付近の東より」を許可を得て隣接した形で殖産開墾をしたお家であろうと観られます。
お家は、小川の西よりは武蔵7党の勢力圏に近づく事から、無かったと観られますので、全体として小川村として扱われた事に成ります。
ライン上の中での役ですから秩父より東に定住していたと観られます。
従って、それほどに大きな氏の末裔を拡げていない事に成ります。

小川氏は「姓族」で「郷士」、お家は「氏族」で「郷氏」で、その違いが出ているので、小川村付近の記録には出ないと観られます。
その理由は、そのお家の主流は栃木方面にあるからです。
お家はこの小川地域に「殖産の専門家」として配置された家であって、そのルーツを辿れば奈良時代からの「氏族」です。
「抱き角紋」は、朝廷から認められた数少ない「氏族」ですので、本来、「丸付き紋」は無いのです。
信濃から栃木に移動定住して来た悠久の歴史を持つ「正規の諏訪族青木氏」です。
「日本書紀」にも出て来る氏族をご先祖に持っているのです。

(参考に、面白い話が日本書紀に載っています。
それは、諏訪族と青木氏が牧畜と絹と和紙の殖産を作り上げて信濃を開墾して豊かにしたので、天智天皇は特別に朝廷に呼び出して褒美と領地を与えます。
この時、諏訪族の首魁(諏訪族青木氏の母方)が青木氏と共に、天皇に直訴したのです。
やってはならない作法なのです。天皇に話が出来るのは正三位以上の高位の者しか出来なかったのです。
ところが、この首魁は皇族賜姓族の青木氏を背景に、天皇に対して、税が高いので、改善してほしいと直訴したのです。
周囲の者は止めに入ったのですが、天皇は直接聞く事を許して、その結果、税が緩く成り更に殖産が進んだ事が書かれています。
この事で、信濃青木氏は立場が良く成って朝廷からほめられたことが掛かれています。



その女系のルーツを辿れば、日本書紀にも書かれているこの人物の「後漢の人」の信濃の「馬部の首魁」に辿り着くのです。

故に蒙古斑の無い理由は、この「ヒト遺伝子」を引き継いでいる「女系の影響」がお家の中に主流と成って引き継がれ、隔世遺伝にて1/4で蒙古斑が出て来る事に成ります。
お家は女性ですので、この「ヒト遺伝子」を今も引き継いでいる事になります。
大変貴重な生き証人と成りますね。
「男子系諏訪族青木氏」には無い「体」が証明するとは実に珍しく驚きです。
遺伝子から観た絶対的な諏訪族の人の証明ですね。
お家のご親戚は栃木に今でもありますし、神奈川にも、信濃に、諏訪にも健在です。
是非、「珍しい女系の青木氏」は「生き証人の青木氏」ですから、是非引き継いで頂きたいものですね。
青木氏から観ればですが、お家が青木氏を引き継いだ事は、善き判断であった事に成りますね。
「ヒト遺伝子の論文」もレポートしていますのでお読みください。
日本書紀の青木氏に関わる事もレポートしていますよ。是非お読みください。

さて、話を下に戻しますと、何故ならば、青木氏だけは、500人程度以上に成ると、「青木村」の命名権が持っているのです。
現に、お家のご先祖の栃木に移動定住した「諏訪族青木氏」は2か所に「青木村」を形成しているのです。
そして、そこに、「諏訪神社」か「神明社」かの何れかを建立しているのです。
お家は、この一般的には「青木氏の「神明社」に関わりを持ったことから、青木氏の神明社や諏訪神社や菩提寺を建立する力と子孫拡大が500人を超えていなかった事が判ります。
臨済宗は浄土宗系列の支流です。これも納得出来る証拠です。
依って、浄土宗系寺を宗派としているこの事から判る事は、お家が信濃皇族賜姓族諏訪族青木氏である事が判ります。

更に、青木氏には一族の者を祭祀する寺(菩提寺)を建てる権利を持っているのです。
江戸末期まで、神社仏閣は誰ても建てる事は出来ず、特別に許可を得た氏族にしか認められていない権利なのです。
一般の「姓族」には、「寺社の建立権」のこの権利は認められていないのです。
青木氏にはこの「三つの権利」が認められているのです。

(小川氏には姓族ですのでこの権利を保有していません。従って、周囲に寺や神明社がある事はその権利を持っている氏族が周囲に居た事を示します。
秀郷流青木氏は勿論に諏訪族青木氏が周囲に居た事を物語ります。)
小川氏が、村山地区の郷士との事ですが、そもそも村山は秀郷一門の宗家の有る根拠地です。
其処に、武蔵7党と呼ばれる連合体が元から在ったのです。
「武蔵7党」とは弱小集団が互いに連合して身を護る集団です。
その中に丹党等が元から村山入間に郷士(地侍)として住んでいたところです。
そこに秀郷一門がここを根拠地とした為に、この地域の「地侍」は「別の土地」を与えられて、そこを開墾して交換地の土地を大きくもった郷士です。記録が遺されています。
サイトに「郷士」や「郷氏」のことをレポートしていますし、「武蔵7党」の事もレポートしていますのでお読みください。
この丹党から「丹党青木氏」が出ています。この事も詳しくレポートしています。

武蔵の地侍の定義が少し間違っていますが、”役人崩れと主張している地侍”のその地域がやや西寄りの地域です。
「武蔵7党」のそのルーツの主張は「家柄誇張」の江戸初期の搾取偏纂です。
ただ、丹党の「丹治氏系青木氏」だけはそのルーツが確認でき、記録もあります。
これもレポートが在りますのでお読みください。
日本書紀にもお家の事が書かれていますので、レポートしていますのでここもお読みください。

さて,その神明宮はお家の諏訪族を含む単独の「青木氏の守護神」です。
依って、お家は諏訪神社と神明社を守護神と成ります。
神明社には伊勢神宮が親神です。
その意味で「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」は、「伊勢神宮」に替えて朝廷にも命じられて奈良時代から全国に自氏建立の神明社は500社程建立しました。
「青木氏の守護神ー神明社の論文」にもありますので、お家の生き様が良く判りますよ。これも是非お読みください。

>それから、蔵には昔質屋をやっていたらしき看板と、敷地内に昔蚕小屋跡がありました。蚕は紙に結びつきますでしょうか?

このご質問に付いては、時代性が良く判らないので、難しいのですが、古くから絹は使用され養蚕は各地で行われていました。
特に、農民のみならず、武士に於いても副業として養蚕の「殖産」を行っていました。
直接に作業に関わらなくても殖産として関わり、栃木から神奈川までは桑野が多く見られた事が記録されています。
諏訪族は信濃では元々養蚕が盛んで、且つ、古代和紙の生産でも有名でした。
「古代和紙」は、その意味で「諏訪族青木氏」もこの生産能力を持っていて「桑や楮」の「原材料の生産」に積極的に関わっていました。
筆者の伊勢青木氏と信濃青木氏系一族(諏訪族青木氏含む)は、この一族が殖産に関わった和紙と絹の販売を手広く行っていました。
当然に「信濃諏訪族青木氏系」も逃亡先では武士として生きて行くことは難しく「生活の糧」として色々な職業に就きました。
中には信濃での経験を持ち込み殖産を広めたとされるのが神奈川で海岸沿いを開墾して「桑」の殖産を広めた事が判っています。
又、栃木に伸長した諏訪族青木氏は,その土地にも「桑の殖産]と同じ作業を伴う「和紙の楮の殖産」も手掛けています。
この状況証拠からも小川地区に「養蚕と和紙の殖産」を手掛けたと観られます。
秀郷一門にとっても諏訪族青木氏のこの行動は非常に重要な「戦略上の事」であったのです。
奪った土地になにもしないと云う事は治政から許される事ではありません。
武蔵の「秩父の小川村」は「小川和紙」として昔から有名ですね。
因みに青木氏に関わる地域では、全国和紙に関わる地域は、平安期からのものとして20か所に成るのですが、その内、14か所が和紙の生産地なのです。
如何に青木氏が一族が和紙に関わっていたかは良く判ります。

和紙の生産地
紀伊、伊賀、近江、美濃、・信濃、甲斐、ーー皇族賜姓青木氏
上野、下野、・武蔵、上総、越前、越中、越後、美作ーー特別賜姓族の秀郷流青木氏、

養蚕の生産地
・信濃、甲斐、美濃、
上野、下野、・武蔵、上総

この様に室町期からの時代を合わせると、養蚕地も和紙の生産地に類しています。
これには、「人」と「湿地の土壌と気候」と「桑と楮」の生産に適している事です。
湿地の水分を吸い取る能力の強い「桑と楮]が用いられたのです。この殖産には専門知識が必要であったのです。

中でも、最も両方に大昔から盛んであったのが「信濃」と「武蔵」で、その中でも「小川和紙」(秩父和紙)で有名です。
「小川生糸」としても有名でした。
ところが、奈良期からの殖産地であり、信濃も「信濃和紙」で「信濃生糸」有名です。
ここで「信濃と武蔵」は繋がるのです。
その「繋がる要素」は、「諏訪族青木氏」を含む「信濃青木氏」が殖産した「桑と楮」なのです。
「開拓地の小川村」は、この「桑と楮」の殖産に賭けたのです。
その基を持ち込んだのがお家のご先祖なのです。
その殖産をこの小川の開拓地に持ち込んで広めたのです。
武蔵は、室町末期から盛んに成りました。
特に江戸幕府の肩入れが特別に在って、武蔵の秩父小川地区は「桑の木」と「楮の木」の殖産が盛んであったのです。
これは信濃から諏訪族青木氏らが持ち込んだ殖産であったのです。

以上です。

余談として、そもそも、人のミトコンドリアでは、人は先ず「雌」があって、そこから子孫存続を確実にする為に、「雌の部分」から「雄の部分」を抜き出して分身を出して、生き残りを図ったのです。
この間にはミトコンドリアは生き残りの為に「4度の転換」を図りましたが上手く行かずに最終は、雄の部位を分離して生き残りに成功したのです。
元は、雌なのです。だから元の「ヒト遺伝子」は男性には無く女性にあるのです。
その分身の証拠が現在の男性には4か所遺されています。
その二つは一つは「乳首」と「ヘソ」です。全く機能していません。これが証拠です。
後の二つは本論では禁止用語に成りえますので表現できませんので割愛しますが、元は雌であるのです。
とすると、人の継承論からすると、論理的には、蒙古斑の様に、はっきりとする事が出て女系が本筋である筈です。

青木氏の密教論の仕来りでは、女系の青木氏が2代続いてもその家が男系では無く成っても、一代目の女系の嫁ぎ先の男子を養子として迎えてすれば正規の男系後継ぎとする事が出来る事に成って居ます。
お家の子供さんの息子さんが青木氏を継ぐ事で男系にもなりますし、娘さんまでの男子の子供さんが後を継げば世紀の青木氏となる仕来りです。レポート投稿済み
世間の仕来りとは少し違っていますが、兎にも角にも、本来は遺伝子的には女系である事が矛盾の無い継承と成りますね。
ご質問と成る大抵の事は家紋掲示板やルーツ掲示板や研究室やメニュー地名データにもレポートしていますので、ゆっくりとお読みください。
武蔵7党や坂東八平氏等の事などはインターネットよりも正しく大抵詳しくレポートしていますよ。
是非お読みください。
では、又何か判りましたらお尋ねください


  [No.988] Re:小平の青木です
     投稿者:青木宏恵   投稿日:2014/07/18(Fri) 10:11:29

また、思い出した事ですが、密教の話も聞いた事あります。が、元は密教なんて変だからあまり人に言わないよう言われた覚えがあります。
それから、小川村は元々神奈川県横浜群かなにかの小川村を戸籍で見ました。
また確実な情報にまとまりましたら書き込みます。


  [No.989] Re:小平の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/19(Sat) 09:57:00


さて、「密教の情報提供」が追伸されていました。
確かに、5家5流皇族賜姓青木氏の15氏は密教の中の更に密教です。
仏教伝来前の飛鳥時代の「和魂荒魂」の「古代宗教」からの密教性です。
三大密教の前の「神仏習合の古代密教」からの伝統を青木氏は引き継いでいるのです。

確かに、悠久の歴史を持つ氏ですから、当然にその習慣や仕来りも遺されているものです。
確かに、筆者も子供の頃は周りと生活の何処かが違うと云う違和感があり、何か周囲の人も違和感で接していた様な気がします。
子供で有ったので気にもしていませんでしたが、これが密教浄土宗の仕来りであったとは思いもしませんでした。
ただ広い部屋にはいつもお香の匂いが漂い、茶器セットが常に準備されているのは、確かに周囲とは違うと思っていましたし、お盆や彼岸などの祭祀には大変な違いが在りました。
考えてみると、友達が来ても部屋に絶対に上がらない状況でした。異様な雰囲気が漂っていたのでしょう。
「5家5流の賜姓族青木氏」の一門15氏は、「和魂荒魂の古代宗教」に「古代仏教」が習合し、それが「密教浄土宗」に成り、「青木氏の密教」として、その慣習仕来り掟を護ってきました。
また、この”青木氏の慣習仕来り掟を他氏が倣っては成らない”とする平安初期の禁令もあって、余計に密教性が高まりました。
ところが鎌倉時代には、宗教改革が起こり、浄土宗も密教が衰退して顕教の浄土宗が起こりました。
室町期には下剋上や戦国時代で密教を継承して行く氏は殆ど滅亡してしまいました。
依って、密教が余計に密教と成ってしまって、特異なものと成ってしまいました。
江戸初期には全ての密教は顕教に変更する様に「宗教令」が出て、密教を宗派とする氏族は青木氏と近江佐々木氏位に成ったのです。

ですから、諏訪族の定住地では無かった地の栃木や埼玉に移動したお家に取ってみれば、尚更、明治期に成っても「異質の感」が在ったと観られます。
信濃諏訪地方では、周囲が全て信濃青木氏一門ですから、たとえ顕教令が出てもそうでも無かったでしょう。
しかし、父の代までは護って居たのですが、筆者の代の現在では最早、難しく成って居ますね。
ですから、出来る限り、文書にしてでも遺そうとして、「伝統」シリーズで細部まで掘り下げて検証して論文を投稿しています。
既に、若い頃に書き溜めた原稿を修正して投稿を始めています。
恐らくは20くらいの伝統シリーズで投稿する予定です。

研究室などに沢山の論文を投稿していますので、必要なものをコピーして「諏訪族青木氏の由来書」にして子孫に遺すのもロマンが在って良いのではないでしょうか。
若い時にはなかなか読みませんが、定年間際の歳をとってみると、楽しみと成るでしょう。

お便りの情報を頂きましたが、「蒙古斑」や「絹と和紙」や「密教」等の情報に驚きました。
実にカンの鋭い感覚の持ち主とお見受けいたしました。

青木氏は、伝来の血液型があって、実はAB型が大変多いのです。
これは奈良期より明治の初めまで同族血縁をして来た所以です。
賜姓族としての血縁性を護る為に採られた生き残り策であった模様です。
AにしてもBにしてもルーツにあるのは、殆どがAB型から分離したAでありBであります。
つまり、隔世遺伝で、2代前か3代前にO型の先祖がいるとABは突然配偶者の血液型如何に関わらず分離した分離型Aと分離型Bが出るのです。
これも過去の同族血縁の影響です。
伊勢青木氏一族は信濃青木氏一族とは明治期の初めまで女系で相互に同族血縁をして来ました。
信濃青木氏の諏訪族青木氏にも同じ現象が起こっている事もあり得ます。
これは、「青木氏の密教」を護ると云う事も一つにはあった事に成ります。
蒙古斑の無い遺伝が今も起こっていると云う事が、ABに対しても起こっている可能性が有ります。
何か他にも血液型の特徴もお持ちでは無いでしょうか。

(栃木域に於いても氏族賜姓族と云う事から、同格式の持つ「秀郷流青木氏」との間で同族血縁が進んでいるのです。
昔は、「家柄つり合いの血縁」が主体でしたから「氏族」、「賜姓族」と成れば、必ずあったと観られます。)
お家が「ヒト遺伝子」を継承する「女系青木氏」であると云う事でこの事が考えられる事に成ります。


又何か判りましたら、是非にお便りください。
信濃の諏訪族青木氏の方も、神奈川の諏訪族の青木氏の方も、栃木の諏訪族青木氏の方も、埼玉北部の諏訪族青木氏の方も、楽しんでみていますよ。
確か、お家の親類に当たる栃木の諏訪族青木氏さんで自衛隊に入隊しておられる方も良く本サイトの投稿を観ておられるようです。
「密教の事」も論文でより詳細にはっきりさせますのでご期待ください。

では、お便りをお待ちしています。
ルーツ掲示板には諏訪族青木氏の方の投稿も沢山ありますので、それもゆっくりとお読みに成ると良いと思います。