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  [No.1073] 高祖父
     投稿者:きもつき   投稿日:2015/11/24(Tue) 18:47:16

はじめまして。宮崎県都城市に住む肝付と申します。
私の高祖父はハヤタ(早太?隼大?)と言い、児玉家から養子を迎えたということ
です。高祖父がどんな人物だったのか、全くわかりません。
かつて父が調べたらしいのですが、役所の記録は保存期間を過ぎていたとのこと
です。
家は旧中郷村にあります。曽祖父は軍人で、東京や熊本にも勤務し、満州にも居
たのか、あちらの友人と撮った写真があります。病気で早く亡くなったようですが、
晩年に村長をしていました。我家は東本願寺派浄土真宗。近くの寺に納骨堂あり。
寺の維持か納骨堂の建立などに我が家も協力したようです。
家紋は特に使用することもなく、一応、軍配ですが、調べたところ児玉家のものの
ようでした。仏壇に神棚、氏神の社もあります。カネトシ?という方が警察関係の
仕事で静岡に勤務していた際、山岡鉄舟と交流があったようですが詳細不明です。
家系のつながりを知るにはどうしたらいいでしょうか。
御助言等戴けましたら幸いです。何卒宜しくお願い申し上げます。


  [No.1074] Re:高祖父
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/11/25(Wed) 16:45:57

肝付さん 今日は。
始めまして。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

さて、青木氏サイトは、古来飛鳥の時代より天智天皇の第六位皇子(施基皇子)が「賜姓」を受けて「青木氏」が生まれ、そして、奈良期から平安期に掛けて「氏」が拡がり、遂には「青木氏族」と云う「皇族系氏族」が大形成されました。

平安期初期の「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は、二代続いてこの「賜姓制度」が途絶え後に、再び「青木氏」を賜姓する代わりに「源氏]と云う氏族を発祥させました。
「賜姓青木氏」は五代続き、「賜姓源氏」はその後11代続きました。
合わせて、「16代の皇族賜姓族」(青木氏 源氏)が発祥しました。

そもそも、「桓武天皇(山部王)」は、平安期の「聖武天皇」の期に男系の皇位継承者が無く成り、結局、「準ずる氏族」としてその為に、「伊勢青木氏」の「施基皇子」の第六男の「白壁王」が「聖武天皇」の皇女と血縁して「光仁天皇」と成って継承しました。
この子供の「山部王」が「桓武天皇」と成ったのです。

ところが、40程あった多くの氏族が滅亡する中で、悠久の歴史の荒波を乗り越えて、その「青木氏」は上手く生き延びて、現在までに遺った唯一の「氏族」ですが、ところが同じ賜姓族の「源氏族」はその「生き方」で完全に滅亡して仕舞いました。

結局は、「皇族系氏族」で、「二つの青木氏」が「武家侍の発祥源」と成っています。
「平安期初期」には、「藤原氏]等の「公家族」に対して、「青木氏族」は「武家族」として朝廷より最初に認証された「氏」です。
そして、「侍」(さむらい)の「最初の発祥源」として、「象徴族」として、「五家五流皇族賜姓族」が発祥しました。
その「五つの発祥地」は、伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐と成ります。
これに対して、「賜姓青木氏」は、代々、公家の「藤原氏の母系族」であった事から、「藤原秀郷一門」から「母系青木氏」が「円融天皇期」に天皇より皇族外に特別に「賜姓」を受けて発祥しました。

ところが、青木氏一族であった「桓武天皇」が、制度に従って「青木氏」を賜姓せずに、母方の氏族に対して「平家」(たいら族 伊勢伊賀北部に住む「阿多倍の孫娘の高野新笠」を妻にする)を賜姓したのです。これが平城天皇まで賜姓制度は二代続きました。
これを基の賜姓制度に戻したのが、上記の桓武天皇の子供の「嵯峨天皇」なのです。
この「嵯峨天皇」は、詔勅と禁令を発し、「源氏]を賜姓しましたが、この時に合わせて、別に賜姓族にせずに「青木氏」は「皇族の皇子皇女」(第四世族王位まで)が皇位を離れる時に名乗る「固定氏名」として定め、賜姓せずに名乗る事が出来る氏名として定めました。
この「青木氏」が持つ一切の「慣習仕来り掟の使用」を禁令で禁じました。
この禁令は明治3年まで護られました。

さて、そこで、この事が、この「肝付氏」にどう繋がるかと云うと、次ぎの様に成ります。

実は、お家の「肝付氏」が現存する事は大変に珍しい事なのです。
「青木氏]とその古さは余り変わりません。
そもそも、「肝付氏の発祥」は、奈良期からの青木氏が持つ長い歴史とあまり変わらないのです。
それは、平安初期に朝廷の官僚族には、「五大官僚族」と云うものがあって、その中の一つです。
主に、「大蔵官僚族」でした。
その「大蔵官僚族」が「伴氏」なのです。
この「伴氏」の「大蔵官僚族」は、「大蔵氏」として「桓武天皇」から賜姓を受けた族で、「氏族」と成り、その大蔵氏の父の「阿多倍王」は、中国の「後漢]と云う国の第21代献呈の曾孫で「阿多倍王」と云う王が居て、その者が隋に滅ぼされて、17県200万人の民を引き連れて、大和博多に上陸しました。
瞬く間に九州全土を無戦で制圧し、関西の手前までの33国/(66国)を勢力圏に収めたのです。

その後、「戦い」を避け帰化し、敏達天皇の曾孫の孫娘の皇族の皇女を娶り、准大臣に任じられました。
そして、当時の政治機構の「三蔵制度」の内、「藤原氏」が持つ「斎蔵」を除き、「大蔵]と「内蔵」の朝廷の政治機構の二つの実権を官僚族として握りました。
中國の後漢の進んだ政治能力をもった「阿多倍の職能集団」の民は、瞬く間に平安初期の遅れた古い政治機構を改革して新たに作り上げたのです。
その「阿多倍王」には、皇族の血筋を持った「三人の子供」が居て、長男は坂上氏を賜姓され、彼の有名な坂之上田村麿です。
この坂上氏は、朝廷の軍政を担いました。
次男は大蔵氏の賜姓を受けて、朝廷の財政の「大蔵」を担いました。
三男は内蔵氏の賜姓を受け、天皇家の財政を担う「内蔵」を担当しました。
内蔵氏の子孫には、安倍氏や阿倍氏があり、東北方面に定住しています。

この長男は、桓武天皇と兄弟の様にして育ち、全国を統一する事に成功した事で有名な人物です。

次男の大蔵氏は、財政を受け持ちながらも、「阿多倍王」の父の「阿智使王」が住む九州の統治までも任されたのです。
そこで、大蔵官僚としての末裔が、この子孫が「伴氏一族」です。
この「伴氏」の一部が、九州全土の税を受け持つ「弁済師」で赴きました。
そこで、地元の豪族と血縁をして九州にその子孫を多く遺しました。
その最大の勢力を持ったのが、日向から薩摩まで勢力を張り、室町期中期までの長い間、この「伴氏の末裔」の肝付に居た者が、室町期の最大時には制圧していました。
これが、地名を採って名乗ったのが、何とお家の肝付氏なのです。
歴史的な出来事から考えて、お家の「肝付氏」が未だ南薩摩に現存する事が大変に珍しい事なのです。

さて、この「肝付氏」は、九州では、上記の「大蔵氏」が、朝廷より「錦の御旗」を授かり、「遠の朝廷」として「九州全土の自治権」を与えられました。
この上記の北九州各地に根付いた「官僚族の弁済師」の「伴氏」と、この自治権を与えられた同族の大蔵氏との同族血縁族です。

同族血縁族は、当時は、「高位の氏族」に取っては純血性を護る為の「高位の仕来り」として当たり前の習慣でした。
主に、九州南域を任されたのが、この肝付に居た大蔵氏族で、地名を名乗りました。

ところが、ここでこの「肝付氏」は「青木氏」と繋がりが出て来るのです。

平安末期に「源平合戦」が起こり、「清和源氏の源頼光」が平家に反旗を翻し、「以仁王の乱」を引き起こしたのです。
ところが敗退し、頼光の孫には、「宗綱と有綱と京綱の三人の兄弟」がいましたが、「京綱」は血筋を護る為に同族であった「伊勢青木氏」に事前に「青木氏跡目」に入り、命を取り留めました。
しかし、「宗綱と有綱の二人」は、罪を得て斬罪と成る所を、「京綱の青木氏」は平家清盛の母方(伊勢伊賀定住)に助命嘆願して、聞き入れられて、お家の一族が住む「肝付氏」の住む「日向廻村」に配流と成りました。

「桓武天皇」は「伊勢青木氏の末裔」で母方(高野新笠)の実家先は伊勢伊賀で阿多倍王の定住地であり、「伊勢青木氏」とは伊勢地域に住み、古代和紙の生産でも、共に殖産していた仲間であった。
つまり、間接的に血縁族の縁籍族でありました。
この誼で助命嘆願をしたのです。
「伊勢青木氏」は、平家とは間接的な血縁族と成ります。

ところが、この時、この二人は、日向廻村から再び「大蔵氏族肝付氏系廻氏」を背景に九州平家に対して再び反旗を翻しました。
結局は敗退して、やっと廻氏の一部は、「薩摩の大口村の寺」に「二人の末裔」を護り何とか逃げ込みました。

然し、結局、平家に追いつかれて、寺の門前まで来た時に、親族の「伊勢青木氏」を名乗りました。
「伊勢青木氏」には、「不入不倫の権」の「永代特権」で朝廷より護られていましたので、平家は引き上げました。

これで、「肝付氏」の保護の下で、「大蔵氏族肝付氏系廻氏」とその「清和源氏の血筋」をひく末裔は生き延びて、この時から薩摩大口村に「大蔵氏族肝付氏系廻氏」の「日向青木氏」が発祥しました。
その後に、平家が滅亡し故郷の日向廻村にも「青木氏の子孫」を拡げました。
「日向の青木氏族」が平安末期に九州に発祥しました。

この時に、この薩摩隼人に「青木氏族」として「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」が発祥しています。

お家の本流の「大蔵氏」は、平家一族で、「肝付氏」も平家一族であった事から参戦せず、この「宗綱と有綱」と北九州に駐屯していた「平家との戦い」には「肝付氏廻氏」だけが参戦したのです。
この肝付氏系廻氏に執っては「同族争い」と成ったのです。
「平家の同族」でありながら反旗を翻した事から、同族の廻氏は寺の門前でも許されず、結局は住職の勧めで、護って来た清和源氏の血筋を引く赤子の末裔に、「伊勢青木氏」を名乗らせて急場をしのいだのです。

この「肝付氏系廻氏」の血筋を持つ「日向青木氏」は、室町期末期からは「黒田藩の大傭兵軍団」と成って勢力を盛り返し一族を拡げ青木村を形成しました。
日向市から大口市までの地域にこの「肝付氏系廻氏の青木氏」は現存します。
有名な野球選手も出ています。

この「日向青木氏」は、お家の「肝付氏」とは、親族なのです。

ところが、この「大蔵氏系肝付氏」は、室町末期に、南薩摩から起こった土豪の島津氏が勢力を拡大して、肝付氏とは十数回も戦い勝敗は尽きませんでした。
結局は、薩摩の島津氏が優位を保ち、島津氏が支配権を薩摩で取りました。
そこで、両氏は決戦を避けて、肝付氏は島津氏の支配下に入り、薩摩北域を持つ事で、島津氏の筆頭家老として治めて子孫を遺しました。
その後に血縁して島津一族として栄えました。

これが、お家の肝付氏です。
ある程度の系譜も判って居ますが、さて、お家の肝付氏は、大蔵氏系に近いのか、肝付氏に近いのか、廻氏に近いのか、青木氏に近いのか、長嶋氏に近いのかは情報が無いので判りません。

情報としては、「隼大」と「都城」と「中郷」からは、大隅の隼人に住んでいた青木氏族に近い永嶋氏との繋がりを持つ肝付氏ではないかと考えられます。

詳しくは、兎も角も掲示板と研究室に島津氏、肝付氏、廻氏,長嶋氏、宗綱、有綱、日向青木氏等のワードでサイト検索で引き出して全て読んでください。

極めて詳しく論じていますので、お家のルーツが観えて来る筈です。



他に情報が在りましたらお知らせください。
ちょっとした情報でもお家の更なるルーツが観えてきますよ。

念の為に、明治以降の情報はルーツ探究には社会体制が異なる為に全く参考には成りません。
尚、「真宗」に付いては、九州の南薩摩のお家の事をある程度物語っています。

では、ご不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
「青木氏族の関係族」としてお答えいたします。


  [No.1075] Re:高祖父
     投稿者:きもつき   投稿日:2015/11/26(Thu) 00:30:33

福管理人様、
検索で引き出し拝読しようとしましたが頭の準備が追い付かず読めません。
4〜5代前辺りのことから分からず、家系について知りたいと思いましたが、
「ルーツ」を知ろうと思ったら全くスケールの違う世界に分け入らねばならない
という当たり前のことを教えられた気がしました。
膨大な内容をばらばらに読んでいては頭に入って来ません。分からない事
だらけのような気がしますが何をお聞きしたら良いかも分かりません。
時間をかけ、何か観えてくれば、と思っています。


  [No.1076] Re:高祖父
     投稿者:きもつき   投稿日:2015/11/25(Wed) 19:30:04

福管理人様、
初めまして、こんばんは。
早速の御返信を有難うございました。余談は改め修正させて頂きました。御助言に従い拝読させて頂きます。
今後ともまた宜しくお願い申し上げます。


  [No.1077] Re:高祖父
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/11/26(Thu) 09:58:16

> 福管理人様、
> 初めまして、こんばんは。
> 早速の御返信を有難うございました。余談は改め修正させて頂きました。御助言に従い拝読させて頂きます。
> 今後ともまた宜しくお願い申し上げます。

肝付さん 今日は。
早速、お読み頂いた様ですね。

仰る通り、歴史は読めば直ぐ解ると云う事はありません。
それは、歴史を理解するには、「歴史観」と云う知識が必要で、これなくしては唯文章を読んでいると云う事に成ります。
理解と云う事は到底無理な事です。

それは、現在の社会体制と、江戸時代以前の氏家制度の社会とでは、「社会構成」が根本的に違うからです。
この「社会構成の知識」を時代毎に把握する事が必要なのです。
学校では、その基礎知識を学びますが、これでは、「個人のルーツの内容」を理解するには到底無理な事に成ります。
「氏」と「家」と「身分」や「封建」とそれにこれに深く「宗教」が絡んできますので、結果としてそれぞれの独特の「慣習や仕来りや掟」が有り、それがまた「家柄や家筋」に依っても異なっていますからなかなか現在感覚では理解は難しいのです。

それには、本サイトでは青木氏としては纏めていますので、肝付氏としての纏めは残念ながら出来ていません。
出来る限りにまとめていますが、「関係族」としての記述に成っている事は否めません。
確かに「リスク」はあるとは思います。それだけにご質問は必要ですね。
然し乍ら、他氏としては出来るだけ纏めていますので、本サイトの様な記述から徐々に読みながら、この「歴史観」を獲得して行くことが必要ですね。
何れにしても誰でも歴史を知るには同じ条件が課せられます。

従って、お便りを読んだ段階では、この「歴史観」が無いとお家のルーツの事が、今の社会とは余りにも違っている事から驚かれる事に成ります。
最初のお便りでは、この”歴史観」は在りません”と書かれていましたので、当然にびっくりする事に成りますね。
況して、そこに1300年以上の歴史を持つ「肝付氏」で、数少ない「氏族」あるのですから、頭が整理できないのは当然です。

ご子孫に「家の歴史」をご説明するとすれば、先ずはこの「歴史観」を持たれる事が必要です。
尚の事、「肝付氏」ですので、是非にこの「歴史観」を伴ってご説明しないと、子孫の方は聞いても判らないとでしょう。
筆者の家でも子供たちは、「青木氏」と云う事なので、理解に苦しんでいる様です。
筆者も、父や祖父から聞いても、最低限、未だその様な歴史の慣習の中で育ちましたので、未だ理解ができましたが、現在ではそのような家筋は全く無く成りました。

当然の事と思います。
時代劇のテレビなどでも少しは得られますが、お家の肝付氏や青木氏のルーツの歴史は、テレビ等とで得られるものとは一段と一般の武家社会とは一段違っているので、なかなか理解は出来ないのでしょう。
恐らくは、日本全国の氏姓は、8000あると云われていますが、その「肝付氏や青木氏」の「氏族」はたった1%にも満たないし、殆どは「姓族」です。
この「姓族」であれば、300年程度の歴史ですから、ルーツに関しては左程に「歴史観」を持たずにも基礎知識で理解は可能です。

「氏族」や「姓族」を合わせても、15%にも達しません。
後は、歴史を持たない家筋と成ります。
この「氏族」では無い「姓族」でも、最も早く発祥したのは、書物で確認できる範囲では正式には室町期初期頃の安芸国の「海部氏」と云われています。

「氏族」は、一時は最大時は室町期初期で200氏程度に成りましたが、下剋上や室町期の戦乱で滅亡して20程度に激減しました。
奈良期では20氏程度、平安期では40氏程度、鎌倉期では80氏程度でした。

「肝付氏」は、この奈良期の20氏の中に入るのです。

これも「肝付氏」のルーツを理解するに必要とする「歴史観」の一つで、先ずはここから「肝付氏の歴史観」を増やして行ってください。

従って、この様な「肝付氏のルーツ」を探究し得るツールは普通の書物では無いと思います。
青木氏や佐々木氏や藤原氏等では、歴史家やマニアなどが「ルーツの歴史研究」で解明されています。
これらは可成りの専門書で大抵は非売品です。
しかし、非売品で市販はされていませんので、現在では一般では相当に歴史研究をしなければこの「歴史観」は得られません。

況して、現在は「個人情報の縛り」が在って困難と云うか不可能です。

幸い「肝付氏」に関しては、「青木氏族の永嶋氏」に関わる事から、古くから研究されて解明されていますので、本サイトの範囲では得られます。
然し、地域性のある九州の「肝付氏」に関しては「青木氏」と「佐々木氏」が研究して相当な情報を持っています。

従って、先ずは青木氏の本サイトでゆっくりと少しづつ時間を掛けて歴史観を得てください。
ご質問頂ければ判る範囲でご協力いたします。

それ故に「青木氏の本サイト」は、「ヤフーのHPの歴史カテゴリー」に高倍率の審査を経て登録されている「歴史専門サイト」ですので、「ヤフー歴史カテゴリー」からも入る事は出来ます。
現在では、社会に貢献する為に公開投稿し、段突の情報量で「ヤフーHP」から「お墨付き」を得ています。
ある放送局にも本サイト(裏サイト)から「歴史情報」を提供しています。

では、先ずはお読みください。徐々に判ってきますよ。

現在では、本サイトの愛読者の読者は、青木氏族を含めて10000人/日以上がカウントされています。
お家の様に一般の方が読まれている「ヤフーHP」を含めると、相当なカウントに成ります。
ですから、今では10000人程度の歴史観を持った愛読者の「歴史マニア人」が育っている事に成ります。

歴史は「先祖の生き様」が観えてロマンがあり面白いですよ。
ご子孫にもその面白味を伝えてください。