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  [No.1166] 高祖父以前のルーツにつきまして
     投稿者:青木 豊   投稿日:2020/06/14(Sun) 10:39:56

貴HPを拝見し内容の深さに感銘いたしました。
もしよろしかったらルーツについてご助言いただけると幸いです。


亡父より多磨霊園の青木家墓所を継承しました。

曽祖父が昭和初期に用意したものですが
高祖父以前のルーツははっきりしておりません。

何らかのヒントをいただけたら幸いです。


従叔父に伝わる口伝では「武田家の家来であった」です。

大叔父(故人)の回顧録では 「学者、医者、僧侶神官は士族扱いであり紀州徳川家に仕え、市ヶ谷に居宅を藤沢付近に土地を与えられた父の家は当然士族であったが明治の徴兵逃れのため同じ名字の青木家に養子に入り士族から平民に下げられた」とあります。


私自身のかすかな記憶では祖父が学者の家だったと言っていた覚えがあります。


以上がすべて正しいとすると次の解釈となります。

武田氏家来の青木が、武田氏滅亡後の紆余曲折を経て江戸時代に学者となる。紀州徳川家に仕え市ヶ谷居住、藤沢付近に知行地(旗本と同じ処遇?)があった。
(その後曽祖父の時代に明治維新があり、必要に迫られ曽祖父は戸主となるための手段を講じた。)

これはあり得たのでしょうか?



関連情報は以下の通りです。

−家紋

蔦です。祖父から聞きました。大叔父(回顧録の大叔父の弟)の墓石には丸に蔦の紋が入っています。何世代に渡り蔦紋を使っていたかは不明です。


−戸籍

入手できた一番古い戸籍(明治19年式戸籍)では曽祖父は現神奈川県藤沢市の青木家二男となっております。明治22年(26歳)に他家の養子となり2年で養子解消して青木家に戻り同年に生家隣地番に分家しています。(分家後は北海道、ウラジオストック、東京と移り住みました。戸籍の生家とは殆ど交流がありませんでした。)

戸籍通りとすると回顧録の「紀州徳川家に仕え市ヶ谷に居宅を」の部分は否定され、学者でもなく、口伝のみ正しければ武田氏滅亡後、現藤沢市に代々住み、明治地代になり藤沢を出たと推定されます。

戸籍生家地番の青木家を訪問しましたが曽祖父の時代の事はわからないとのことでした。一方、その折にお教えくださった一族墓所には戸籍に記載された方のお名前をいくつか拝見いたしましたが墓石の家紋は貴HPでお見受けするもの以外でした。


  [No.1167] Re:高祖父以前のルーツにつきまして
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/16(Tue) 10:19:25

今日は。始めまして、これからも同じ「青木氏」として宜しくお願いします。
お尋ねを拝見いたしました。
早速ですが、凡その所は下記の様にルーツは成ります。

唯、“「明治後の情報」”は「江戸期前の氏家制度」に基づいていませんので、余り役には立ちません。
「明治3年と8年に苗字令」と云うものが出され、社会は「江戸期前との慣習」が一変しました。
つまり、「自由な社会」と成りましたので、その「情報の意味合い」が替わりました。

さて、頂きました情報により次の事から大枠のルーツを導き出せると思います。
先ず、「青木氏」には大別すると次の様に成ります。
詳細は、サイトの情報の関係する処をゆっくりとお読みください。

1 皇位 賜姓臣下族五家五流青木氏
奈良期・天智天武期から平安期・嵯峨期まで、「皇位の第四世族内」の「第6位皇子」が天皇から特別に「賜姓」を授かり臣下して「朝臣族」と成り、「天皇」を身内で護る「近衛兵の集団」を構築しました。
これが「賜姓青木氏」です。
そして、その「青木氏」は次の国の「守護王」として遙任として配置されたのです。
自らは「近衛兵の役目」を果たし、「守護の国」には「国司・国司代・役人」を向かわせて守護しました。
これが、「近江王、伊勢王、美濃王、信濃王、甲斐王」の「五都・五都計画」です。
これが「五家五流青木氏」です。
以後、「皇位・皇位第四位」にあり乍らも「皇位継承」の出来なかった「皇子皇女」は、この「五家五流の青木氏」に全て入り保護を受けました。
この「賜姓システム」は「嵯峨期前」まで続けられました。
処が、自らもこの「伊勢青木氏の出自の嵯峨天皇」が、つまり、「青木氏」より天皇に成った「光仁天皇の孫」は、この「賜姓システム」を変更して「賜姓」を「源氏」として変更しまったのです。
ところが「皇位継承外」と成った「皇女皇子」は「生きる場」を失い各地に散りました。
多くは、「美濃青木氏と甲斐青木氏」に引き取られたのです。

2 嵯峨天皇の賜姓後の青木氏
この「賜姓源氏」には「経済的な裏付け」は在りませんでした。
そこで、「甲斐青木氏」では「源氏」の「賜姓」を受けられなかった「皇子の者」がこの「青木氏」を引き継ぎました。
「賜姓の受けられなかった者」も「源氏」を勝手に名乗りました。
これが、「賜姓甲斐青木氏の跡目」にはいった「源の源光」と云う者でした。
ところが、「嵯峨天皇の賜姓の詔勅」には「源氏」と成れなかった多くの皇子皇女は、「元の賜姓の青木氏」を名乗っても良いと云う「詔勅禁令の中」で書かれていました。
そこで、「源光の兄の時光・妾腹」はこの令に基づいて「青木氏」を「甲斐」で名乗ったのです。
それが「二つ目の甲斐青木氏の源流」と成り、これが「嵯峨期の甲斐青木氏」です。
これを「甲斐時光系青木氏」と云います。

次に、この「甲斐」では弱小と成った「賜姓族」の「源光系青木氏」と、勢力を拡大した「時光系青木氏」は、室町期に入り武田氏が勢力を持ち初めて、これと血縁して、「三つ目の傍系支流」の「武田氏系青木氏」が生まれます。
更に、「四つ目の卑属支流」の「青木氏系武田氏族青木氏」が生まれます。
何れも「時光系」で、「源光系青木氏」は血筋を護るために「厳しい皇位族の伝統」を護り「武田氏」とは血縁をしませんでした。

この「姓族の武田氏」は、更に「信濃」を獲得し、「信濃の諏訪族青木氏」と血縁をして「諏訪族本家」から正妻を迎えます。
「信濃諏訪族青木氏」は奈良期から「信濃青木氏との血縁族」です。
この「諏訪族青木氏」は、武田氏との間に一つ目の「諏訪族武田氏系青木氏」を、更に、二つ目の「武田氏系諏訪族青木氏」と、三つ目の「武田氏族諏訪族系青木氏」の「三つの青木氏」を誕生させたのです。

従って、「甲斐」には、「青木氏」は系流として、以上のこの「7つの青木氏」があるのです。
この「7つ」が「武田氏の家臣」に成りました。
この「7つの青木氏」の内、「武田氏」が「長篠」で滅び「家臣」の殆どが「織田氏の傭兵雑賀根来」の「火縄銃」に依って「戦死・12000人」したのです。
然し、生き残った「甲斐の青木氏」がいるのです。
それが「武田氏系」を除く「諏訪族系青木氏」と、もう一つは「時光系青木氏の分家族」です。
「諏訪族系青木氏の2流」は勝負が決まる瞬間に長篠から逃亡し「神奈川の秀郷流青木氏」を頼ったのです。
其の後、神奈川に定住組と栃木と越後に移動した組に成ります。
もう一つの「時光系青木氏の分家族」は「武田氏」に味方せずに「徳川氏」に味方して生き延びたのです。
この「時光系青木氏の分家族」は「本家族」と「分家族の主家」との間に「考え方の争い・相続争い」が起こり、この「分家の主家の嫡子」でありながらも「嫡子」として扱われなかった「兄弟二人」は徳川氏に着いたのです。
長篠の戦後、「武蔵・埼玉の鉢形」にこの一族は移住させられて「北の護り」として任務を与えられ家臣となりました。
その一人が「柳沢」に住んでいた「弟・豊定」と、二人は「北巨摩郡」に住んでいた「兄・正定」は、共に「200石から250石」での「徳川氏の下級家臣」と成りました。
この「柳沢の弟・豊定」の「青木氏の二代目」が彼の有名な「柳沢吉保・青木吉保」です。
其の後、「兄の一族」は出世した「弟・吉保の家臣」と成ります。
この「兄の青木氏」は「弟の移封」と共に「奈良郡山」に移り、そこで「郡山青木氏」を興しました。

さて、結論は流れからすると、この「二組の青木氏」と成りますが、お家は、江戸に先ず定住しているようですので、情報からすると「諏訪族の系の青木氏」では無い様なのです。
そうすると、生き残った「時光系青木氏の分家筋の兄弟の青木氏」と成ります。
然し、「郡山」に移っていますので違っています。

そこで、残る情報の「家紋」です。
明治期に「丸に蔦紋」としていますが、これは全くおかしいです。
この紋はそもそも「松平氏一族」の文様で、使うと打ち首ですのであり得ません。
この「蔦紋」には85紋あり、多くは各地の「支流の松平氏の家紋類」で他氏が使う事を禁じていました。
そもそも、「葵紋類系」でも「御三家以外」は使用を禁じていたのです。
この家紋は全くあり得ません。

ではそこで、この「家紋」によく似た「青木氏に関わる家紋」があります。
それは「立ち葵紋」です。
これは「信濃諏訪族一統の守護神」の「諏訪神社の神紋」です。

この「神社の神官族」は「諏訪族青木氏」で、彼等がこの「神紋」を奈良期から護っていたのです。
戦いに不得手とする彼ら神官族は、「長篠の戦い」で逸早く逃れて「神奈川の秀郷流青木氏一門」を頼ったのです。

但し、ここで一つ参考として。
戸籍も家紋も明治期中頃の情報で、姓や家紋の持っていなかった9割の全国民が明治3年の「苗字令」で持つと云う事が起こり、それでもこの令は全く進みませんでした。
そこで、明治8年後に「督促令」が出され、強制的に苗字を持つ事が起こりました。
この時、「青木氏」に関わっていた農民や庶民は主家の元の姓を名乗らせたのです。
当然に慣習や伝統に矛盾が生まれるこの「青木姓」を「第三の青木氏」と云います。
一斉に一夜明けると村が「青木姓」に成っていたとする事が起こりました。
当然に、主家に似せる為にそれに伴って「偽の系譜」と「家紋」と「墓所」も持つと云う事が起こったのです。
最早、一切の「慣習の縛り」は解け、この時は「葵紋」であろうが、「蔦紋」であろうが、「下り藤紋」であろうが、「笹竜胆紋」であろうが、「姓」と同じ様に自由に何でも使ってよかったのです。
これを武士が持てる墓所を持ち、「大理石の墓石」に刻むと云う事の庶民の習慣も生まれたのです。
江戸期前では「仏教の戒め」で「武家の主家・本家」を構える家しか「墓石」を持つ事が許されなかったのです。
この時の墓石はそもそも「砂岩」でした。
又、「家紋」も「特別な者」しか刻む事は許されませんでした。

従って、これ等の事から「明治以降の習慣・口伝」は使えません。
これがお家が行っている「士分」では無い「青木姓」だと思います。
「出自元の維新戸籍簿」には「士分か平民かの分別」をしていて、何処の出身かも明記しています。
江戸期は「国抜け」と云って出自元から勝手に移動する事は許されていませんでした。
無宿者と成る以外は移住する事は許可なく出来なかったのです。

次は、「紀州藩の家臣」の件ですが、これにも「縛り」がありまして、「紀州藩の初代頼信」は石高に応じた家臣を持っていませんでした。
そこで、「紀州藩」を造る為に急いで「紀州の土着の土豪」と「伊勢の伊勢藤氏・伊勢秀郷流青木氏を含む」を全てごっそり「家臣」にしたのです。
ところが、これを「謀反」として「幕府」から疑われる程に各地から広く採用せずに、「地元優先の策」を執った事で疑われる事に成ったのです。
実は幕府も同じ事をしたのです。
「関東の秀郷一門一統・361氏」をごっそりと「御家人」として「官僚」にしたのです。

そもそも「紀州藩の家臣」に成る事等、実際には出来なかったのです。
それも関東に於いてであるとし、「5000石位以上の旗本」で無い限りは「知行地・土地」も与えられるという事は全くあり得ませんでした。
紀州藩は関東に与えられる領地を持っていません。
紀州徳川氏は、維新後、大正14年まで紀州にいました。

次は、「学者の件」ですが、仮に「諏訪族神官族青木氏」とすると歴史的にあり得ます。
この「諏訪族の神官族」から江戸期に史実で「神学者」が多く輩出されたとされています。

これ等の事を組み合わせると、ある「一つの説」が生まれます。
それは、「諏訪族系の二つの青木氏」のどちらかが、「頼信の家臣集め」の際に、「伊勢藤氏・秀郷流青木氏主体」は「一族・116氏」から「人集め」をしました。
この際に「関東の秀郷流青木氏」から「一族」を集め「媒臣」にし、「紀州藩の家臣・媒臣」と成ったのです。
この時に、「神奈川の秀郷流青木氏」に世話に成っていた「お家の主家」はこの「誘い」に乗ったという事に成れば、「紀州藩の家臣、又は媒臣か陪臣に成り得ます。
恐らくは、「媒臣」であったと考えられます。
この説であれば、「大きな矛盾」が無くなります。

そこでお家では、江戸期の末期頃から「伝統」が錯綜した可能性がありますね。

以上、寄せられました情報を元に「青木氏等の史実」と照らし合わして考えますと、確定が出来ませんが以上の結論に至ると思います。

そこで、確定するには「武士の家柄」は、お家の「江戸期の宗派」や「維新の戸籍簿」や「菩提寺か檀家寺」か「過去帳か人別帳」や「仏壇の形式」等で連動していますのでお調べください。
普通は錯綜しないのですが、場合に依っては、「錯綜の原因」に成っているのは、この「第三の青木氏」と云う事にも成り得ます。
身近な事として木魚は無く金であったとか、仏壇が違ったとかいう事が決め手にも成ります。

上記の事をお調べに成ればこれで確定は出来ますよ。

では、お便りをお待ちしています。


  [No.1169] Re:高祖父以前のルーツにつきまして
     投稿者:青木 豊   投稿日:2020/06/16(Tue) 14:24:19

早速のご丁寧なお返事に大変感謝しております。
年長者が存命のうちにご教唆いただきました情報の収集に努めます。


曽祖父の配偶者は「信州松代藩の上級武士の娘」(大叔父の回顧録表記による)でした。
何か信州との縁は感じております。


  [No.1171] Re:高祖父以前のルーツにつきまして
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/19(Fri) 14:37:07

今日は。早速のお便り有難う御座います。

さて、途中の話としては、江戸末期の事に成りますね。
そうすると、当時の武士の慣習として、「家柄の吊り合い」を前提としていましたので、「諏訪族の青木氏」とすれば、尚の事、この「吊り合い」を「女系」で採ったと考えられます。
「青木氏族」は奈良期から基本的には「四掟」で定められた「女系氏族」です。

室町幕府から「伊勢と信濃の青木氏」には、“「律宗族」”と云う立場が認められていましたので、幕末でも相当に「浄位・上位」の「武士の家」からで無くては婚姻はしないと思います。
取り分け、その中でも、これは「諏訪族全体に云える事」ですが、可成り、この「考え方・伝統」では「厳格な家柄・下記」でした。
武田氏に略奪婚で嫁いだ「夕姫」の如く、その「家柄」から「武田氏」を低く見ていた事が伝えられていますよね。
この様に、そもそも、「諏訪族」のその家柄を論じますと、奈良期の初期に中国の「後漢の国」が隋に潰され、その後漢の「阿多倍王」に引き入れられた「渡来人」が、「200万人」と成って「北九州」に上陸します。
九州全土を無戦で制圧し、その勢いは関西手前の兵庫まで制圧してきました。
66国中33国を無戦で制圧されたのです。
この無戦は、彼等の持つ進んだ技能を倭人に快く伝えた事の結果なのです。

そこで、この時、朝廷は「薩摩・隼人」に軍を向けますが、朝廷はこの「阿多倍王」と和議し「薩摩隼人と伊賀の国」を半国割譲して与え、「敏達天皇の孫」の「芽淳王の娘」を娶らせ「三人の男子」を作ります。
そして、「准大臣の立場」を王族を与えたのです。
この時、「阿多倍王」が引き連れて来た「馬部の技能集団」を「信濃」に配置し荒れていた「信濃国」を放牧で豊かな国にします。
その「功績」が認められ、「信濃王の青木氏」と共に「天皇」に謁見し、初めて「相撲」と云う競技を「天皇の前・銀杏の木」の下で見せます。
そこで、この「信濃の馬部の頭」に“望を述べさせる”と云う特例を許します。
そこで、この「馬部の頭」は“「税」を軽くしてくれ”と申出たのです。
「天皇」は「優秀な渡来人の頭」と認め「破格の位・臣族」を与えたのです。
そして、この「馬部の頭」の家と「信濃王の青木氏」のとの血縁が決まり、ここで「信濃諏訪族青木氏・朝臣族」が誕生したのです。
これが、「信濃諏訪族青木氏」です。

前のお便りの通りに明治期まで続きます。
それだけに、「信濃青木氏」と共に、その「信濃王の流れ」を持つ「諏訪族系の一族一門・立ち葵門と抱き角紋」は伝統的に歴史のある家柄意識が高いのです。
伊勢と信濃の「青木氏の血縁」には、この様に奈良期より“「四掟」”と云う「血縁の鉄則」があって、この範囲で血縁を余儀なくされていました。
この「女系の血縁の伝統」は明治期まで続きました。
遺伝子学的に「四掟の女系で一族内を何度も繋ぐ事」は「血縁障害を少なくする事」が出来る唯一の合理的な方法なのです。
従って、「明治期の血縁」に於いても、この「伝統の掟」に縛られていたのです。

故に、鎌倉期までは皇位族の純血性を保つた氏族であった事から「賜姓族・臣下族」と呼ばれ、時には桓武期には「公尊族」、室町期から幕府認定で追称され、且つ、江戸期でも世間は依然として「伊勢と信濃の青木氏一族」だけには、“「律宗族」”としても呼称され「別扱い」を受けていたのです。
明治期には、更に「得宗家の称号」でも呼ばれました。
故に、斯くの如しでお便りの通り、充分に有り得た血縁だと思います。

仮に、お家の家紋が「諏訪社」の「立ち葵紋」だとすると、「諏訪族」の中でも上位の「神官族の宗家筋の家柄」と云えます。
長篠後、「秀吉」に諏訪社の神域を犯されここに高島城を築かれ、其の後に徳川氏の藩城と成ります。
「一部・頼忠」は徳川氏家臣として諏訪の神官を務めま繋ぎ留めます。
ところが「神域・聖域」も犯され、神奈川の「秀郷流青木氏」を頼っていましたが、そこからの支援も滞り糧を無くし困り果てていました。
それが「伊勢秀郷流青木氏の誘い」に従い紀州藩の媒臣と成ったと考えられますので、その後のお家は、「諏訪族神官族の裔・青木氏」であったからこそ、「お家の格式」を利用して高める為に「真田藩の重臣との血縁」が進んだ事と考えられます。

唯、当時の「女系の慣習」は、「一族の中の娘・孫か曾孫か玄孫」を「「女(むすめ)」と観て嫁がせ、その見返りに「相手の一族」からも娘を貰うと云う「家柄を引き上げる伝統的な習慣」があったのです。
当然にこの逆もありました。
これを伊勢と信濃の青木氏一族だけが持つ「伝統」の「妻嫁制度と嫁家制度」と云いました。
ですから、お調べに成ると一族の中にその銃身の一族に嫁いだとするこの逆の慣習があったと思います。

此処で、気に成る一点があります。
それは「松代藩の相手の重臣のお家」というのは「信濃青木氏の一族」では無かったかと云う推測が成り立ちます。
何故ならば、「吉宗」が「信濃青木氏の聖域」を「殖産」で奪いますが、この時、「信濃青木氏」の一部が「真田藩」と「上田藩」には、この「殖産の技術」を維持させる為に高い身分で、「幕府の命」で多くを強制的にでも仕官させました。
「青木氏の四掟」からこの「信濃青木氏の末裔」では無いかと考えられます。

この様に、一寸した「伝統の情報」でも「ルーツ」が判って来るのです。

「信濃青木氏系の諏訪族系青木氏」である可能性は高まりましたね。
「諏訪族の地」から真北90kの所に「松代藩・真田」があり、そのすぐ南には「信濃青木村」が現在もあります。
「青木村」から北に「20kの位置」に「松代」があります。

この「千曲川の南北の領域」と「東は佐久域まで」は「信濃青木氏の神明社聖域・国幣社」と「諏訪族青木氏」の「諏訪社聖域・国幣社格」として奈良期から永代に「不入不倫の領域」として認められていた「聖域」です。
ここは「養蚕の殖産の地」でもあったし、「二つの領域の大半」は「幕領地・殖産地」として没収されます。
これを吉宗が奪い取ったのです。

「武田氏滅亡」とその後の江戸期に成っても「信濃青木氏」と「諏訪族青木氏」は既存の大きな糧を失い、更に飛散する事に成ったのです。

恐らくは、経緯は「武田氏の事件」でも諏訪を失い、其の後の支援の元と成っていた聖域からの糧も失い、その後、紀州藩の陪臣と成っていた「吉宗の事件」でも失いました。
この二つが覆い被り、遂には支援の元と成っていたこの「信濃の諏訪社の聖域の糧」をも失う窮地から逃れる為に頼っていた「神奈川の秀郷流青木氏の助言」もあり、「伊勢の秀郷流青木氏の媒臣案の誘い」に従って江戸初期に「紀州藩の媒臣」と成ったと考えられます。
その幕末に、上記の近い故郷の縁続きの「信濃」から嫁を「青木氏だけに課せられた四掟」に基づき貰ったと云う「流れ」と成ったという事に成りますね。

これ等の事は本論の「伝統シリーズ」で詳しく論じておりますし、「日本書紀」を始めとして「3つの歴史古書」でも記されていますよ。

では何か判りましたらお便りください。