静岡の青木さん 今日は。
ご返事遅れてすみません。
お久しぶりですね。
お気遣いありがとうございます。
最近は、若い頃に書き上げた「青木氏の伝統の論文」の「原稿の見直し」の毎日です。
「青木氏の歴史」には判らない事が多いのですが、最近は歴史はどんどんと拍車をかけて消えゆく運命にありますし、美化され脚色されて行きますので不安ですね。
そこで、何とか「青木氏」に関してだけは「後世のロマン」として「真実の歴史観」を遺そうとしています。
最近はテレビにも青木さんが多く出て来る様になりましたね。
さて、以前のお便りを再確認さしていただきました。
そうですか。青木氏のメッカの埼玉に引っ越しされた様ですね。
実は、筆者も若い時に「草加」に約25年以上近く住んでいました。
この時も会社にも大勢の青木さんが居られて古来血縁関係にあって何か古を感じる思いでした。
恐らくは、お尋ねした処では殆どの方が「秀郷流青木氏」でしたね。
「伊勢の青木氏」とは、長く母方、つまり、「女系の血縁関係・嫁家制度の下で」にあり、「伊勢」にも「秀郷流青木氏」や「秀郷流長嶋氏」が定住し、「氏家制度」の中で「血縁性」を保つ為に、「四掟」を護り繋がっていました。
ですから、相手の方は兎も角も、当方としては何か懐かしいと云うか変な気がしていました。
お家も、少なくとも繋がりのある事で余計に歴史に魅かれるのだと思います。
さて、これを機に、少し「埼玉」の「青木氏の歴史観」をもう一度展開してみたいと思います。
“呉服などを商っていた豪商、長島屋という商人”の事ですが、江戸初期前に成って「秀吉」に依って「家康」がこの地に「転封」と成って、周囲の「藤原一門・主要5氏」の「助け」を借りて、逆に勢力を築きます。
そして、自らも「藤原姓」を名乗る程の事と成ります。
この「秀郷流一門361氏」をそっくりと家臣として「徳川氏の官僚族」に据え「官僚機構」を築いたのです。
そもそも、「秀吉の転封目的」は、「秀郷流361氏の反抗」を受けて「徳川氏」は衰退すると観ていた「秀吉の思惑」を見事に外したのです。
ところが、この時、江戸の地の沼地や氾濫の多かった地域に「河川干拓工事等」をして「米の収穫量」などを高め様としましたが、余りにも莫大な「財政的な問題」が生まれたのです。
「御蔵金」には300両しか無かった時期がありました。
「河川工事等」は「奈良期・天智期」からその名の通り「結城氏の土木専門職」で、何と「山陽道」を築いたのはこの字名の通り「賜姓結城氏」でした。
この「山陽道」は殆ど現在の地と変わっていませんが、調査によると現在でも考えられない様な「近代的な技術」で造成されているのです。
「天智天皇の白村江の戦い」の失敗で、中国が攻めて来るのでは無いかとしてその為の「軍の通行路」として、又、「情報の連絡道・狼煙制度」として築造されたものです。
朝廷には、「結城氏」、「額田部氏」、「和気氏」の三氏の土木建築官僚がいたのです。
前2氏とは「青木氏」は「朝廷の造を統括する立場」から「関係性・血縁含む」を保っていました。
それは明治9年までです。
ですから、「荒川の治水工事」などは「専門中の専門分野」でした。
「賜姓結城氏・賜姓青木氏族の永嶋氏一族」は此処で「財源の捻出」に動いたのです。
この「結城永嶋氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢長嶋氏」とは、取り分け「血縁関係」が深く、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」は一族関係であった事から、「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」の協力を得て、「二足の草鞋策」を「江戸」で財源確保の為に始めたのが始まりです。
そして、「主要五氏」の中でも「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」は「青木氏一族」と呼ばれる一族で、「永嶋氏の中」からも「永嶋氏系青木氏」が出ていたのです。
これが、後の「長島屋の呉服商」なのです。
「伝統の論文」では論じる事は詳しくは外していましたが、「江戸幕府」に入り、「長島屋の呉服商」は、故に「御用商人」として働き、「江戸幕府の財源」を支えていたのです。
「関ヶ原の戦い」の戦費等もここから捻出されていたとされています。
「伊勢青木氏の伊勢屋」との「連係プレー」で「徳川氏」を「土木干拓工事」や「幕府官僚組織」や「幕府財源確保」の面で支えたのです。
これが「有名な秀吉の大誤算」でした。
結果として、「秀郷流主要5氏」は、幕府に“「御家人」”として取り立てられ「1000石以上の官僚族」と成ったのです。
そもそも、元々は、“「御家人」”と云うのは「朝廷の官僚の役名・天皇家の仕事をする人」で、「秀郷流藤原氏」には、「結城氏」をはじめとして「斎藤氏」、「工藤氏」、「佐藤氏」、「進藤氏」、「左藤氏」、等、その「朝廷の官僚の役名」を「藤原氏」の「藤」の前に着けてその「役職名」を明確にしていました。
つまり、平安期では「天皇家の家人」として「格式ある役人」の「御家人」と呼ばれていたのです。
この「平安期の格式ある官僚人」の呼称を用いて再び「徳川家の家人」として特別に与え優遇したのです。
「江戸期の御家人」は、「低い意味・身分」で捉えられているのは、この様に当初は「別の意味」を持っていました。
ところがそもそも、その低い理由とされたのには理由があって、「三河旗本」が「官僚族の御株」を奪われた「腹癒せ」に「彼等」を低く表現して、「自らの権威」を高めようとして吹聴した結果なのです。
ところが逆に、取り分け、その中でも活躍したのが「永嶋氏系青木一族」で、「関東屋形」と呼ばれ程に特別に優遇されました。
又、「享保期」は「伊勢」から「吉宗の親代わり」であった「伊勢青木氏と伊勢屋・伊勢屋青木氏」を江戸に引き連れて「享保の改革」を成した時も、「関東一円」では「豪商・長島屋の青木氏」も連携プレーとして歴史上では実は働いていたのです。
「伊勢屋・伊勢屋青木氏」の影に隠れて表には知られていませんが、”「関東屋形」の呼称」”の通りで「直参御用商人」として働いていたのです。
江戸享保期以降には「200以上の伊勢屋・主に金融業と質屋」と「長島屋青木氏」があるのはこの事から来ています。
上記した様に、実際は「青木氏の歴史観」を物語る様に「伊勢屋青木氏と長島屋青木氏」が活躍していたのです。
「歴史」では、「伊勢屋青木氏」の中に「長島屋青木氏」が埋もれていますが、「伊勢」では「伊勢長嶋氏」と共に情報は把握しています。
ところが「享保末期」に「伊勢屋青木氏」と「吉宗」とが「信濃青木氏の処遇の事」で仲違いし、3日の内に「伊勢」に引き上げました。
この時、「江戸の伊勢屋青木氏」は全ての店を店子に無償で譲りました。
この時に、話では「長島屋青木氏」も「吉宗の追及」を逃れる為に「幕府」から離れ「武蔵の豪商」で生きたとされています。
その「一族」はその時の「古来の本領の地権」と「財力で得た地権」を生かして、「子孫」は「地権先の結城や上総や下総」で「名主や庄屋や村長や豪農」にも成っていたとされています。
そもそも、「千葉青木氏」には「3つ流れ」があって、一つは「秀郷流永嶋系青木氏」、「秀郷流青木氏」、そして血縁性の無い「未勘氏」の滋賀から流れて来た「上田氏系青木氏」です。
“「干拓事業に失敗」”の件は、「商い」とは別に上記しました様に奈良期からの「結城永嶋氏一族の本来の本領」です。
「伊勢」も同様に明治9年に「維新政府・薩摩藩」から「焼き討ち・打ちこわし」を酷くうけました。
「表向き」は「青木氏の口伝」では、火の出る事の無い蔵からの「全て失火」として記録していますが、「菩提寺」も焼かれると云う憂き目を受けました。
更には「伊勢と信濃の青木氏」は「密教族」であるとしても攻撃されました。
遂には、耐えかねて「明治35」には「伊勢屋」を「摂津」に移して「倒産の形」を執って逃れました。
「天皇家以外」に「青木氏と云う家」が存在する事を嫌った結果の攻撃でした。
全国的に青木氏一族は攻撃されたのです。
幕末から明治9年まで続いた「有名な伊勢騒動」は伊勢と信濃が興した氏族の氏人たちが興した大一揆の様な物です。
宗教に絡んだものでは無かった事から「伊勢騒動」と呼ばれています。
幕府も実体を知っていた事から特別に取り締まる事はせず、無関心を装います。
結局、維新政府は約11年間続いた結果、「首謀者の武士・郷士」だけを罰して一切の者を無罪として処理して納めたのです。
これが不満のはけ口でした。
この「明治9年」は遣り過ぎた西郷が失脚して薩摩に逃げ帰った年でもあります。
“名前に「善」の字”の件は、「世襲名」と云うもので、「格式ある家」は「5つの名」を「一人」が持ちますが、「世襲名」も「商い」や「事業」を営む「家の慣習」のその一つです。
これで、その家が「5つの名」を持つ事で、“どの程度の家であるか”を観る事が出来るのです。
中には、「神明社」に関わる「彦名」等二つも持っています。
他には「院号、諡号 諱号、大字名」と云った朝廷から与えられた「号」もあります。
“浅間神社も長島屋が建てた”の件ですが、恐らくは「伊勢」と同じく「結城永嶋氏の由来」より、{平安期末期の朝廷」まで独自に「技能職人集団・部」を持つ事を義務付けられていました。
この為に、“「青木氏部・匠の技能集団」”と云うものをそのままに明治初期まで持っていたと考えられます。
「伊勢」も「明治期35年」まで「青木氏部」を持っていたのです。
その後、「彼等の家人・青木氏」を独立させ会社を創立させました。
現在も二社の宮大工の会社が遺っている様です。
この「青木氏族の諡号」は、元々、「国造・くにつくり」と「事務官僚伴氏・とも」を束ねていた事から「造・みやつこ」や「とも」の「諡号」を持っ事を許されてその伝統を明治期まで引き継いでいます。
つまり、当然にこれは「青木氏部」を持つ事を許された「氏族」にだけです。
ですから、これを以て「皇位族」でありながらも、特別に「商い」をも許された唯一の氏族と成っているのです。
当然に、これがこの「青木氏部の家人」として「女系で興した青木氏」が生まれる所以なのです。
本件の下記に論じる「長島屋青木氏」もこの「延長線上」に先ずあったのです。
「秀郷流青木氏」は「円融天皇の賜姓・始祖千國」に基づく「北家藤原氏・下がり藤紋」です。
この裔系の「結城永嶋氏系青木氏」は、故に「宮大工」から始まり全ゆる「職人・部・匠・造」を持つ「青木氏族」である以上は、間違いなく「明治期」まで抱えていたと考えられます。
だから、この事で「家人で職人の青木氏・女系青木氏」が多く生まれているのです。
“一色氏の館跡の近くには神明社”の件ですが、この「一色公深」の件は実は詐称なのです。
歴史観としては重要な事なので敢えて詳しく論じて置きます。
実は、“「一色」”とは「施基皇子の大字名」で、「日本書紀」にも記載がある通り「天皇」から与えられた「土地と人民」に着けた呼称の事です。
「青木氏の始祖の施基皇子」に関わる「伊勢」にはこの与えられた「大字名」は他に4つもあります。
これを「天皇」から特別に与えられ「土地」に纏わる「施基皇子の号」と云います。
従って、「一色」と云えば、「施基皇子の事」を指し、その「皇族の格式」は「天皇に次ぐ冠位浄大一位」を表している事に成ります。
何人も使う事を禁じられているのです。
これをその「施基皇子の裔」の「青木氏の子孫」が、自分の住んでいる処に「地名」として付ける事が出来る「仕来り」です。
ところが、室町期にこの「仕来り」の締め付けが緩み、これを破って勝手に「源氏族系・河内源氏」としての「足利氏」等が「格式」を誇張する為に、「地名」では無く遂には「姓名」に使ったのです。
その「最初の人物」が「地名」だけにするべきところを「姓名」にして「一色公深」と名乗って、いかにも「格式ある家柄」と周囲に誇張したのが始まりです。
この為に、後世では偽である為に特別に分けて「西尾一色」と云います。
ところが、この「青木氏族の慣習仕来り掟」は、「嵯峨天皇」が「嵯峨天皇詔勅の禁令事項」に、“使用してはならない”と明記されているのです。
更に、「嵯峨天皇」は、「天皇家の血筋格式」を護るために「皇位族系朝臣族」に”「9つの縛り」”を与え、これを護れない者は「皇位族系朝臣族」と名乗っては成らないとしたのです。
「河内源氏系」は全くこれを守っていなかったのです。
それどころか、全くの「禁じ手」の「武力集団」を形成したのです。
この為に、その祖である「満仲」は朝廷を無視したとして追放され蟄居を命じられて仕舞います。
つまり、“朝臣族では無い”としていたにも関わらず世間を欺いたのです。
然し、その「裔の頼朝」は、これを押し切って「鎌倉幕府」を開き強引に「大儀」を引き寄せたのです。
況してや、「支流卑属の足利氏」がこの「掟」を破り「一色」を「姓名」にしてしまったと云う事です。
ところが「11家の源氏」の中でも「摂津源氏・頼光系」は何とかこの「9つの縛り」の幾つかを護ったのです。
故に、「以仁王の乱」を起こせる「格式・令旨」を有していたとして起こしたのが「摂津源氏の源頼政」です。
「河内源氏系の頼朝」には、「皇位族」としての「9つの縛り」を全く守らなかった事から、つまり、この「資格」は無かった事から、従って、この「資格」のある先に起こした「頼政の乱の延長」として、これを“「頼朝が引き継いだ」”として、この“「大儀」”を作り上げて「鎌倉幕府」を樹立に持ち込んだのです。
当然に「朝廷の反対」にあいますが、此の「大義」で朝廷は止む無く引いたと云う経緯を持っています。
この事で、「河内源氏系・頼朝」には、「天皇」から「一色・施基皇子」を象徴する「皇位族の青木氏」に「賜姓」を授かった際に与えられた「笹竜胆紋と白旗・天智系」を使う事を許された記録は一切無いのです。
「天皇系の裔系」も異なる事でもあるし与える訳は無いのです。
現に、「白旗」とは「14ある浄土宗派」の中の「皇位族」が帰依する「弱小の密教原理主義の白旗派」から「白旗・律宗族」としているものです。
「青木氏」だけが「律宗族の号」を与えたその「足利氏の室町幕府」も改めてこの呼称と格式を追認しました。
然し、「河内源氏系」は、そもそも、全くその条件に合わない“「八幡大菩薩」”の「顕教の仏教」を帰依し、且つ、「八幡社」を守護神とする“「寺社同源の立場」”を一族として執っています。
全く「笹竜胆紋と白旗」の条件とは異なっているのです。
そして、更には、朝廷と幕府が認めた族の“「律宗族・青木氏」”では抑々ありません。
又、「朝廷」が編集して定めた「新撰姓氏禄」の中に、「源氏」は「朝臣族・48氏」ですが、「皇位族の朝臣族・18氏・氏族」の中にも選出されていないのです。
そもそも、更には「朝廷の認可を受けた氏族」の中には、この記載が無く、且つ、「正規の氏族」を現実に構成していません。
要するに、「笹竜胆紋と白旗」を象徴する「一色」はそもそも使えないのです。
つまり、この「頼政の乱」の引き継ぎの「大儀」による事から強引に使っている事に成ったのです。
「一色」とは、これらの事を一括して「象徴する名・号」であるのです。
「一色」は「伊勢と美濃」の「一色・施基皇子の裔系存在・女系含む」が有って、「鎌倉期」に「地頭制度」を朝廷の反対を受けて敷いた「守護制度」ですが、この最初に「地頭・西尾」として派遣したのが始まりです。
この為に、「自らの家柄」を誇張する為に搾取して着けたのが「愛知県西尾の一色」です。
その後に、「一色の足利氏」と地名を使って名乗った事から、その後、「一色氏」として「姓名」としてまで名乗る様に成ったのです。
一色を名乗ったのは、その東に「端浪一色・施基皇子の美濃裔系」が奈良期よりあり、これに乗じてその裔であるかのように振る舞った事に依ります。
室町期には、「嵯峨詔勅の永代禁令」を破って、この様に「格式のある字名」を名乗る習慣が出来たのです。
この様に「場所場所で使い分ける習慣」が起こり、江戸期まで引き継がれました。
例えば、「家康」は何れの裔系でも無いのに、「藤原氏の家康」、「源氏の家康」、「橘氏の家康」、「平氏の家康」等を使い分けたのと同じです。
「一色」がその例の最初の人物です。
その他に、愛知県には「青木氏」に関わる「岡崎一色」、「刈谷一色」、「知多一色」、「豊田一色」の以上の5ケ所があります。
本命は、岐阜県には「伊勢の裔系」の「青木氏」に関わる「最初の端浪一色」、「養老一色」、「恵那一色」の以上の3カ所があります。
この全ての元は、「伊勢桑名」から「美濃の三野王」に嫁いだ「浄橋王、飽浪王」の裔系で、この「端浪一色」が「故郷の伊勢の施基皇子」を偲んで「一色」と名付けたのが「最初」です。
「足利の一色・西尾一色」は、「遙任」では無く、そもそも「干拓地」であった処を埋め立てた「西尾」に一時期住んだところから「一色」と呼称する事に成ったのです。
近くにある由緒ある一色を名乗る事で地元を統治する為の格式の搾取でした。
古跡の「神明社」の件ですが、埼玉には5カ所の神明社があります。
江戸初期に、神明社は、全て幕府に接収されますが、荒廃してしまいます。
この「4つ神明社の付近」には、「伊勢の裔系の柏紋の青木氏の神官族」が今でも多く住んでいますよ。
この「荒廃した4つの神明社」に、綱吉の側用人の「柳沢吉保・青木吉保・甲斐」が「私財」を投げ打って修理をしたのです。
それが現在に至っています。
本社の入間市、古跡の所沢市の2社、川越市、さいたま市の5カ所です。
一度、参拝されると良いかと思います。
「江戸期の歴史」は、“「国印状獲得」”の為に「搾取」が公然と横行していて、「系譜を造る専門家・神職や住職」が出て来る始末でした。
これを前提とする「歴史の論調」には気を付けなければなりません。
格式の無い江戸幕府に執っては「格式」を着ける為に、「搾取」でも良いから「系譜偏纂」を強引に義務付けて「武士の証明である国印状」を発行したのです。
それは「江戸期の武士」は殆どが「第二の姓」で、「格式」を有する「諡号の第一の姓族」ではありませんので、強引に「由来・格式」を持つ為にも「系譜偏纂」をするしかなかったのです。
歴史では、室町期前後頃からこの現象が徐々に始まり「下克上」が起こり、これが「一色に代表される現象」担ったのです。
最後に、「永嶋氏、長嶋氏、長島氏」がありますが、これには「秀郷流青木一族の掟」がありました。
「永嶋氏」は由緒ある「諡号の族」であり、家筋目で云えば、本家筋は永嶋氏、分家筋は長嶋氏、支流族は長島氏と、尊属系は永嶋氏、長嶋氏、卑属系は長島や永島と云う風に分けられ、役目、職業、商い等の場合は「長島」と使い分けしていたのです。
「一族一門の361氏と、青木氏116氏」ともなると判らなくなるので「姓名の格式・家紋も含む」を尊重して観分けていたのです。
ですから、「商いの屋号」は「長島」と云う事に成るのです。
まだまだ続く「コロナ」には充分に気を付けられてお過ごしください。
「ウイルス」は「人間の祖」が陸に上がり、其処にこのウイルスが襲いました。
殆ど絶えましたが中に遺った裔がこの「ウイルス・RNA」を遺伝子の中に取り込んでDNAに繋がり、この事で「人間」は猿等と違って、ウイルスに対抗する為に「言葉」と云うものを獲得する進化を遂げたと云う事があります。
コロナ禍以外に今度の「RNAウイルス」は「人間の進化」に何をもたらすでしょうか。
以上、又、お便りを下さい。お待ちしています。