青木ルーツ掲示板
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  [No.191] Re: 島根の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 15:03:14

島根県青木遺跡
takakookamoto
2009/01/19 17:14 - パソコン
  こんにちは、先祖が青木氏の子孫です。個人的な分については現在調査中。
何か面白いことがでてきたらまたメールしますね。そうこうしているうちに
標題の島根県青木遺跡についての疑問が出てきました。ちょっとだけ調べたところ近年発掘がすすんでいるようで不詳な部分もあるようですが、この研究室ならではのまとめのようなものがいただけたらと思い今回はメールしました。
飛鳥・平安などの信仰や神道とも関係あるようですが、その辺のことや伊勢青木や近江青木の流れもあるのでしょうか?豪族がいたのならどんな豪族?わかることだけでもけっこうですので詳しく教えて下さーい!
 


今日は。お元気ですか。
青木ハイケンさんの事何か判りましたか。

今回は島根の青木遺跡の事でお便り頂きました。

そうですね。最近、島根の出雲市の「青木遺跡」から新しい判断材料のものが出たとテレビでありましたね。
「神像」ですね。

さて、この地域は青木氏に深く関わることが多いのでその関連する青木氏のことも含めてお答えしようと思います。

この地域は縄文、弥生、飛鳥、奈良、平安時代と文化的な古墳が多く出ていますが、500個も銅鐸が出ているところですね。

実は地元の方ですので既にお判りと思いますが、鳥取の米子市の「青木遺跡」、島根の出雲市の「青木遺跡」の二つの青木遺跡があります。
この二つの「青木遺跡」は「青木原」という宍道湖の周囲一帯を呼称しています。

もう一つ、「青木遺跡」が在ります。
山梨県の北杜市の「青木遺跡」、昔は甲斐国巨摩郡長坂町にもあります。

この三箇所は青木氏に関わる青木の呼称なのです。

この地域、つまり、「青木原」は「皇族賜姓信濃青木氏」の末裔の「足利氏系青木氏」が移り住んで青木村を形成したところです。
平安中期(960年)に移り住んでいます。

これにはある事件が経緯がありますので、先ず「地名地形データーベース」の鳥取の所をクリックして下さい。
ここに詳しくレポートしています。

この氏が移り住んでこの地域が青木と呼称されるように成りました。
この宍道湖一帯には皇族賜姓信濃青木氏の末裔が多く住んでいる所です。

お家の実家も庄屋さんをしていたと言われていますので、この地域付近に室町期以前から住んでいるとすればこの末裔である事は間違い有りません。ただし、宗派は浄土宗です。家紋は足利氏の二つ引き両紋かその一族の家紋と成ります。
室町から江戸期に掛けて、男系継承の跡目が出来ずに周囲の豪族と養子縁組をしたが、再び男子跡目が出来ずに女系となり、養子先の家紋と成った事も覗えます。
ただし、中級武士以上の家柄身分を保持している事が必要です。下級武士と農民と一般庶民はこの氏家制度の慣習を行っていませんでしたので、菩提寺には過去帳を保持していません。

ただ、庄屋、名主、郷士、郷氏、大富農には、苗字家紋帯刀を許された者があります。元々はこれ等の者は元は侍であったことが多いのです。
多分、お家もこの庄屋であれば、この青木氏であると考えます。多分家紋もこの付近の土豪の家紋であると思います。

鳥取には八頭郡がありますが、最初は足利系青木氏は足利から移動してこの地に定住しました。ここから米子市の青木に移り出雲市東林木町付近へと末裔が広がったのです。
普通は、氏家制度ではこの様なことは起こりませんが、皇族賜姓族であると云う事から、朝廷は出雲政権と大和朝廷の勢力圏境に村を形成する事を許したと考えられます。
当時は普通の氏の一族が村を形成する事は許されません。この仕来りを破る事は氏家制度の崩壊を意味しますので江戸時代末期まで特別の許可が無い限り有りません。「国抜け」と称し、この仕来りを破った者の一族尽く打ち首の掟でした。
領民は全て領主の支配下にあり、又、遠縁等の何らかの血縁関係にあり、一族と見なされていましたので、移動する事は無く、大変な移動集団が動きますので、その土地に留まったとしても、一族の違いなど、その地域の食料事情等もあり到底住み着く事は物理的にも難しい状況でした。
しかし、この平安中期に八頭郡と米子地域に移動が特例として青木氏であるために認められています。
そして、「青木村」を形成して子孫を拡大させる事が出来たのです。普通は出来ません。
ですからルーツの探求はこの様な「氏家制度」「家紋掟」等の仕来りを知って置く事でルーツを探り当てる理屈が生まれるのです。
嵯峨期の詔により皇族出身の者で青木氏以外に、アオキ、青木は使用する事を禁じました。
同様に、山梨の巨摩郡の「青木遺跡」の呼称も甲斐の皇族賜姓甲斐青木氏の村名から来ています。

さて、この地域の豪族とのお尋ねですが、実はむずかしいのです。
この地域の平安初期前-奈良時代の豪族は史料が少なく、はっきりと判らないのです。
只、鎌倉期では、名和氏です。室町期では、陶氏、大内氏、江戸期では深田氏、堀氏でしょう。
これ等は藤原氏の何らかの血筋を引いていると考えられている氏です。
この地域の青木氏は、郷氏であったと考えられます。
郷氏とは、土地の長くから住み着いた土豪侍で多くは豪農も兼ねていたものであります。
郷士はその下の地侍です。多くの庄屋、名主は戦国の武家が滅亡離散した者で元は侍であり農民になった者です。この時代はこの鳥取の青木原の地域の青木氏は豪族としての史実は確認出来ません。
多分、郷士であったと見られます。

島根鳥取の豪族はインターネツトでお調べになると判るかなとも思えます。其処まで青木氏外の氏までは把握できません。藤原秀郷流青木氏にかかわる一門支流以外の青木氏を呼称する豪族は把握していません。

さて、青木遺跡の古墳に関わる文化のことですが、飛鳥文化、天神文化、天平文化ですが、この地域の文化は飛鳥文化は大和朝廷の文化ではなく、勢力を二分していた独立国家群の出雲国の文化であったと考えられます。
飛鳥文化期の史料は殆ど有りませんので、この二つの「青木遺跡」の出土品が大きく影響するのです。当時の文化を知る上で重要となり、特に出雲文化は最近やっと少しづつ判って来ました。

大化期の天神文化に付いては、出雲の国も滅び、この青木遺跡は大きく影響しています。
この事に付いては、「青木氏氏研究室」の「大化改新レポート」と「日本書紀と青木氏」をお読みください。
近江、伊勢青木氏との関わりなども詳しく研究していますので判ります。そちらをゆっくりと楽しんでお読みください。
そうすれば次の「青木遺跡」の出土品についての理解が大きく膨らみます。

その青木遺跡の出土する品も理解が出来ます。この当時のこの地域の大和朝廷の政治的なかかわり具合が判りますので。例えば銅鐸、神像はこの天神文化の影響を受けているのですから。
例えば、天智天皇は中国と朝鮮半島の圧迫、白村江の戦いなどで下関から大和までの国々の間に「烽火(とぶひ)システム」をしきましたので、この時の連絡情報伝達手段の銅鐸とかその関係の道具などもでて来ています。
また、水城(みずき)、大野城、基頴城、高安城等を作り防備と国家安全の祭祀を行いましたが、この時に使用された祭祀品が出土しています。神像はその一つと見られています。
当然、この祭祀の中心は、伊勢の伊勢神宮として定めたのです。
これを護っていたのが天智天皇の皇子末裔の伊勢王の初代青木氏の皇族賜姓伊勢青木氏です。
この防備と国家安全の祭祀の実行主であったのです。(日本書紀に記載)
それを補佐していたのが、代々天武第6位皇子の近江青木氏と天智第7位皇子の近江佐々木氏です。

これ等の関係する史料は「青木氏氏研究室」に関係するレポートが沢山在りますのでお読みください。
(現在は関連するレポートは青木氏氏ブログでご覧下さい。)

では、とりあえず概容をまとめましたので、お読みください。

ご質問、ご不明な点はご遠慮なくお尋ねください。
では、お便りお待ちしています。



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