青木ルーツ掲示板
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  [No.390] Re: 備前青木氏のルーツを探しています
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:39:09

Re: 備前青木氏のルーツを探しています
副管理人さん 2008/07/07 (月) 21:02
備前の青木さんルーツの方 今日は。始めまして。

ようこそ青木サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。

さて、いろいろと歴史をお調べに成っているようですね。
出来るだけ、知る範囲でお答えしたいと思います。

先ず、その前に、備前には、藤原秀郷流青木氏で四国の讃岐の藤氏の藤原秀郷流青木の綜紋「下がり藤紋」と剣片喰紋等を家紋とする一族が、備前と美作などに大勢力伸ばしていました。この一族讃岐と行き来をして明治まで廻船問屋などを大きく営んでいました。
そして、この同族の備前に赴任した藤原氏に同行した藤原秀郷流青木で茗荷紋の青木氏がいます。

青井氏の件ですが、藤原氏の南家であるとしていますが、上記のここの青木氏は何れも最大勢力を誇った北家ですので、原則的には違うのではとも考えます。
しかし、ある条件では一致するところがあります。それは下記に示します条件なのです。

氏の変更の件では、青木氏は大化期の天智天皇より伊勢の青木氏から始まり、光仁天皇の5代続き、桓武平城天皇の2代を外して、政治的な理由で嵯峨天皇から青木氏を源氏に変名しました。
この時、青木氏は朝臣族か宿禰族の皇族以外(藤原秀郷流青木氏は母方で繋がるために例外に認められた)のものが使用する事を禁止しました。明治3年まで続きます。
原則的には、この間の3期の混乱期を除いて護られました。

そこで、もし、青井氏から青木氏に変更したとすると、この3期の室町末期の第1期、江戸初期の第2期、明治初期の第3期の何れかと成ります。

二宮氏の抱き茗荷紋であるとすると、第1期の室町末期と成ります。
そして、その理由は上記の例外藤原一門(本来は北家)として、嵯峨天皇の詔では、朝臣族、宿禰族が名乗る事ができるのです。
これを理由に、南家の青井氏から青木氏に家柄か何かの理由(下記)で、これを重んじて変名したと考えられます。(藤原氏は朝臣族としてのこの例外は2件ある)

その必要性はこの時期に大きく出世した事と、高位(皇位)の家柄との血縁の必要性があったとも考えられます。(多分、近江青木氏一族一門との血縁か 近江青木氏の一門の摂津青木氏では)

この血縁は稲垣氏ら3氏ではなく、家紋からこの3氏の元の二宮氏が拘っていたであろうと考えます。
この3氏は江戸時代の伊勢で、後に二宮氏の末裔として豪族になった氏である事から、時代性から観て、直接古い発祥氏の二宮氏の方だと考えます。

全く衰え殆ど潰れた南家筋の藤原氏を名乗るより、藤原北家の朝臣族を利用して、賜姓族ではない詔による皇族青木氏を名乗る事により有利となり、政治的にも二宮氏との血縁の際の上位の血縁と成ります。

主に摂関家などを努めた代々の北家筋だけが認められた青木氏ですが、この場合、嵯峨期の詔により室町末期に朝臣族を理由にして身分の位をあげて、後に駕籠を使える身分の侍までなったとすると、出世も絡めた「出世と血縁」をかさねたものであると考えられます。
現に、徳川時代ではその勲功と家柄で、二宮氏の末裔の稲垣氏も伊勢の東部の大名にまで成っています。又鳥羽氏も稲垣氏を背景に相当の勢力を持っていました。

このタイミングが、提示されている貴殿の次の疑問の「相良騒動」でしょう。

この騒動は次の事で符合一致するのではありませんか。
実は、宇喜多氏の件ですが、伊勢の青木氏(藤原秀郷流青木氏 伊勢永嶋半国司の藤原秀郷の末孫の基景に同行した青木氏)の青木氏の一部が、戦国時代に宇喜多氏を名乗ったと言う土地の説があるのです。宇喜多氏側からの説と思います。
出世によって家柄身分を創り上げる為に、この時代に良くあったことですが、徳川氏のように、騒動時の時に持ち出して名乗った青木氏とも考えられます。

この事が事実とすると、藤原秀郷一門の伊勢永嶋の青木氏の末裔の分家筋か、縁者関係が土地の土豪の宇喜多氏との血縁(入り婿)で立身出世して、青木氏として独立したのではとも考えますが確証は取れません。

つまり、宇喜多氏の一部が、立身出世後に絶えかかった元の親族の藤原秀郷流青木氏を名乗ったとも考えられます。いずれにしてもこれで青木氏が宇喜多氏から出た事に成ります。
つまり、この情報から観ると、家臣団ではなく、宇喜多氏そのものが青木氏であった事に成ります。

相良の藤原氏の朝臣族で青井氏から青木氏に、藤原氏の青木氏の宇喜多氏から青木氏に、の二つの青木氏が考えられるのではないでしょうか。
不思議にどちらもが偶然に相良がキーになっています。

推理ですが、相良では長い期間に勢力争いが幾つも起こっている中で、何れが相良氏か家臣の宇喜多氏からか青木氏で結ぶ知恵を出した。そして、それを理由に解決しようとした。

相良氏は朝臣を理由に青木氏に、宇喜多氏はもとの抱き茗荷の青木氏にしてで双方が結び一族としてタイアップし、その裏づけに、讃岐籐氏の綜紋「下がり藤紋」の剣片喰族等の青木氏の勢力圏の世界の中で、同族の藤原秀郷流青木氏の旗の下でとしてを青木三者連合を結んだ。
この接着材は青木氏であった。この接着は茗荷紋の婚姻では。
だから、経済軍事を背景に、長期間の相良騒動の後も、宇喜多氏は大勢力を張る事ができた。「三方一両損」です。何時の世も何も背景が無ければ個人の力では簡単に潰れます。

相良を乗っ取る事が出来たのは大きな力が働いたからです。

美作と備中に定住していた青木氏には、四国一体と瀬戸内を政治経済軍事で明治まで支配した讃岐籐氏に同行した「下がり藤紋」を宗家として剣片喰族等の藤原秀郷流青木氏があります。家紋関係が異なりますが元は同じです。
利害を伴ない同族である事から三者連合が成立した。

この地域では備中に赴任した藤原一門に同行した青木氏の末裔は大きく子孫を遺せなかったことから、殆どは讃岐籐氏の青木氏です。この讃岐籐氏の青木氏一族は、四国阿波はもとより、広くは、中国地方の土豪の亀甲紋族も含めて広島山口まで広げています。

参考に、直ぐ北側に位置する鳥取の米子から八頭付近までに信濃足利から逃れてきた足利本家とそれに同行した足利氏系青木氏(皇族賜姓青木氏)の一部がここまで逃れてきて定住しています。
(藤原秀郷一門と本家争奪戦で本家筋が負けて奪い取られる。)

美作、備中、備前の土地の豪族を全て血縁関係を維持し経済と軍事を支配するほどに大きい力を持っていた「2足の草鞋策」を持った藤原秀郷流青木氏の中に、その大勢力の領域に宇喜多氏の青木氏が入ったのではないかと思われます。生き残り策の連合です。
元は、この二つは伊勢の藤原秀郷流青木氏(家紋不明で片喰紋か)と讃岐の藤原秀郷流青木氏(剣片喰紋)で同じルーツですが。
つまり、基の青木氏を持ち出して、同族である事を背景に見方に引き入れる手段としていたのではないでしょうか。平安時代なら別にして、この時代に普通なら変名したところで家柄を誇張する背景程度で大した意味はありません。
しかし、この宇喜多氏はこの讃岐籐氏の力と前記する二宮氏一門の力を何らかな方法(婚姻変名劇)で獲得したかつたのではないでしょうか。
だから、青井氏から変名をもしたのではと考えます。青木氏による三者連合を成す為に。


宇喜多氏は、「讃岐籐氏」と呼ばれるくらいにこの瀬戸内の両岸を抑えていた藤原秀郷流青木氏の一族間のこの大背景を基にして、有名な「相良騒動」を乗り切ったのではと考えます。
この「相良騒動」を乗り切るには、経済的な裏づけと、軍事的な後ろ楯を得なければ出来ることでは有りません。
この「下がり藤紋」を綜紋としての宗家剣片喰一族等の藤原秀郷流青木氏の勢力は、土佐、阿波にも剣片喰の同属で抑えていたのです。
秀吉も四国攻めの時にはこの一族に余りにその勢力が大きくて手を焼いた有名な話があります。
信長も手が出せなかったのです。

多分、抱き茗荷紋の青木氏を名乗ったのもこの環境とこの背景があったのではないでしょうか。

さて、次に、宇喜多氏の家臣の寺尾氏の「下がり藤紋」の件ですが、藤原秀郷一門宗家の氏の綜紋を引き継げたのは確認出来るところでは藤原一門の主要5氏を含む計9氏しか居ません。又、藤原秀郷一門の中に寺尾氏が見つかりません。
綜紋を引き継げるには藤原秀郷一門の青木氏を含む本家筋主要24氏でありますので、寺尾氏の「下がり藤紋」は疑問です。支流末裔族の氏では無いでしょうか。または第3の氏と成ります。藤原氏には大変多いのが「第3の氏」で江戸時代初期に利用されたものです。
宇喜多氏が支流紋で、寺尾氏が本家紋は疑問です。

次に、更に、清和源氏支流一族と結んだ藤原秀郷流青木氏がありますが、これも未勘源氏です。

家紋に付いてのご質問ですが、
家紋は家紋掟により、常に血縁関係で変化します。氏家制度の中で男系継承でありますので。嫡子がなければ養子か婿養子を取り、再び、嫡子に恵まれなければ、養子先の家紋に成ります。
藤原秀郷主要5氏の一つの藤原秀郷流青木氏はこの様な理由で116氏にも拡大しています。
下がり藤紋を維持出来るのは余程の事でなくてはなりません。まして、使える元の本家筋ともなれば9氏筋しかありません。

宇喜多氏の家臣団の寺尾氏は別として、この寺尾氏の件は疑問が残ります。

次のご質問の件ですが。
青木氏と青井氏のつながりをどの辺りを調べればよろしいのでしょうか。
また、家紋掟や武士の氏名変更についての資料があればお教えください

青木氏と青井氏は上記した通りではないでしょうか。禁じられていた青木氏に変名するには、藤原氏のこの朝臣か宿禰族以外にありません。当時は突然に青木氏を名乗ることは周囲のこの禁則から観て出来ない事でしょう。

実は、例えば典型的な例として、伊賀の上山郷の上山氏がこの滋賀の耐えた分家の青木氏を奪い取り立身出世に必要な為に名乗りました。ところが、本家の青木氏が怒って2度戦いをして滋賀の本家青木氏が負けてしまいました。
この後この上山の青木氏はぜんこく8箇所の守護職を勤めるまでに出世したのです。

問題は青井氏から青木氏の変名は朝廷に届けられていたものかはべつですが。
第1期の混乱期ですから、届出はないとみます。

家紋掟は氏家制度の平安末期からの慣習で、家紋化が主要40氏ぐらいが行われてきました。
その後、鎌倉末期から明治初期まで新規発祥の氏が沢山でて家紋化が進んだのです。特に、
3期に集中しています。
室町末期、江戸初期、明治初期の3期です。中でも、家紋は武士のステイタスですので、江戸初期には初めは公家や皇族の高位の象徴紋の8紋程度で、次第に40程度のものになり、平安末期には、200家紋程度となり、遂には一挙に4000位に膨れ上がりました。
明治にはいり、裕福な者が苗字と家紋を採用しましたので7000程度成り、次第には現代では8000以上と成っているのではと考えます。
江戸時代に造られた「家紋200選」というものがあり、奈良時代からの現存する主要な家紋類撰です。

この間もには、氏家制度の中でのステイタスとして、それを守る為に、慣習として、作られてきたのが家紋掟です。江戸時代初期か中期ごろにまとめられたものがありますが、非売品の本で家紋と対比して書かれているものです。私達でも50年前くらいには未だその言伝えが遺されていました。
今でも田舎に行けば残っているのではないかと思います。

基本は、「氏家制度」の社会の慣習、男系継承の規則を知る事で、2つの事を考え合わせればこの慣習の掟は自然に出てきます。そんなに難しいものでは有りません。
論理的です。
後は各氏の特長を把握する事でわかります。

例えば、娘が生まれて、男子が生まれず、他から養子を取ります。
この時は、未だ、男親が居ますので、家紋は維持できます。男親が無くなり、養子の時代と成りますと、今度は娘の時代ですが、この一時期、男系継承ですので男子先の養子先の家紋と成ります。
しかし、子供が生まれますが、嫡子であれば、家紋は元に戻ります。嫡子で男系になったわけですから。しかし、又、女子の娘であれば、2代続きの女系になったのですので、養子の親が生きていれば、養子先の一時期の家紋が本家紋に成ります。もう元に戻る事は有りません。養子の親が死んでも養子先の家紋と成ります。

この様に理屈に氏家制度の知識を組み入れれば自然に掟が出てきます。

ここで、氏家制度ですので、この養子先の家紋にするには、養子先の本家の了解が必要です。
了解が得られなければ、家紋を失うので、何か別のものを考えるしかありません。この時は丸付き紋も考えられます。

その子供が本妻の子であれば、本家が認めれば家紋は繋がりますが、妾腹の子供となると問題に成ります。もし、正妻に嫡子が無く妾腹に嫡子が生まれた場合は本家の了解を得て嫡子として家紋を引き継げます。本家が認めなければ、分家などの支流紋の丸付き紋にするか、別紋を作るかによります。
妾腹でも、本家筋が認めれば、同じ家紋を引き継ぐ事ができます。要は本家がどう出るかによります。

男子も女子もなく子供に恵まれなかった時は、縁者から養子を迎えるかによります。この養子が同じ門であれば問題はありません。
他人から迎えれば、次の養子の嫁との間に生まれた子供が男子であれば、家紋を引き継ぐ条件は取り敢えずは出来ますが、本家が何というかと成ります。
もしNOとでれば、この場合は、家紋を別にする以外にありません。
この様にして家紋は同族でも増えて行く事に成ります。
江戸の中期ごろからはこの慣習が無視されて行きました。本家などの氏家制度は無くなり、明治以降は全くでした。

又、主要な氏には夫々の掟があり、丸付き紋は作らないとか、副紋方式にするとか、家紋の一部に細工して類似紋とするとか、主紋の中に血縁先の家紋を小さく入れるとか、2つ紋にするとかを決めています。
例えば皇族賜姓青木氏の場合、純血を守る為に一切認めていません。そこで、この中に入らない青木氏は丸付き紋しか採用していません。つまり、「未勘家紋」と成ります。
「丸に笹竜胆紋」は未勘家紋です。純血を保て無かった、又は血縁がはっきりとしない氏である事を意味します未勘の丸付き紋としています。支流分家分流分派はこの丸付き紋にして本流の純血を護ります。これが未勘氏です。
藤原秀郷流青木氏は副紋方式ですが、下がり藤紋に丸付き紋の藤紋が殆どですが、これは藤原秀郷一門の家紋掟の内容と異なります。藤原秀郷一門主要5氏24氏はこの丸付き紋を採用していません。
従って丸付き下がり藤紋は偽と言う事に成ります。つまり、如何にも藤原北家一門の者であるかの如くみせている事に成ります。
家紋掟は各主要な氏(家紋200選)の慣習や取り決めを決め、氏家制度の仕来り慣習や系譜とともに家紋とその共通する慣習ルールを取りまとめたものです。

家紋を調べる各主要氏には特長がわかってきますので、これは偽だ何とか判ります。

徳川氏も源氏であるのと主張していますが、「笹竜胆紋」ではありませんよね。16代目の源氏なんかは無かったのですから。南北朝時代だのに。皇子を創り上げて系譜を作り上げたのです。
当時の朝廷は知っていましたので、なかなか認めませんでした。経済的圧力を加えて無理に認めさせたのです。武田氏や足利氏や新田氏も殆どの源氏と主張している氏は笹竜胆紋ではなく支流分流分派の別の家紋ですね。女系になったわけでは有りません。
ルーツや家紋や系譜は鎌倉期にまでルーツを遡らないと真実は出てきません。
3期の混乱期発祥の氏はこの前提を先ず崩す必要があります。100%とに近い状態で信用できません。それはそれなりに良いとして信用すればべつですが。
ところが、真実の書物はこの下克上と戦国時代の混乱期で消失して有りません。

次にルーツをお調べになる場合は次の事を留意しておく必要があります。
ルーツをお調べに成る場合は、この点を考慮しないと書物を見ても、何がなんだかわからないと言う事に突き当たります。これはこのことによります。江戸初期の大風潮で、自分勝手に良く見せてつくりあげたものを信用して史実としているからです。殆どです。
ある日突然、村、否、郡全体が青木氏や藤原氏を名乗ると言う事態があちらこちらでおこったのでいすから。主要な氏の「第3の氏」です。当然、家紋も同じ事になりました。
しかし、これ等の氏には、矛盾が必ずあるのです。本当の氏には歴史的条件が備わっているので、そこまで、この「第3の氏」が条件を合わせる事ができないからです。
特に、宗派などは全くこの条件に合わないひとつです。宗派は歴史と地理性と条件を持っていますから合わせられないのです。
菩提寺、宗派、過去帳などは、伝統の証ですので、第3の氏でない氏の場合は、絶対に護る条件の一つです。特に江戸初期から明治以降の発祥氏はこの条件に合致しません。
判らないとか、知らないとかは先ず少ないものと考えます。

先ずご質問の参考になればとして記述しましたので参考にしてください。ご質問があれば何なりとお答えします。

ではお便りお待ちしています。



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