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  [No.982] 家紋のルーツについて
     投稿者:d―青木   投稿日:2014/07/09(Wed) 14:36:58

埼玉県在住の青木と申します。

我が家の家紋のルーツを調べていたら、このサイトにめぐりあい、ご質問をさせて頂きました。

祖父は明治末の生まれで 、既に他界しており、墓石には、丸に抱き茗荷の紋がはいっています。

父に確認したところ、祖父は日向市の細島の漁師の次男として生まれ、戦前に関東に出てきたとのことでした。
祖父の実家は、現在も日向にあり、少なくとも明治初めにはその地で漁師を営んでいたようですが、遠縁となっ
ています。

日向市は、日向青木家の地でありますが、我が家の家紋である丸に抱き茗荷との関係が解りませんでしたので、
恐縮ですがご教授いただければ、幸いです。

よろしくお願いいたします。


  [No.983] Re:家紋のルーツについて
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/09(Wed) 17:36:06

埼玉の青木さん 今日は。

ようこそ青木氏サイトにお越しいただきました。
これからもよろしくお願いします。
サイトには青木氏に関する事を沢山投稿しています。
膨大ですが、ゆっくりと楽しんでお読みください。
お読みに成って、不明な点や、ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
全国の青木さんが集うサイトですのでこれからもよろしくご協力お願いします。

さて、ご質問ですが、提供頂きました情報は「抱き角紋」と御尊祖父が日向の方との事ですね。
実は、明治以前でなければルーツは判らないのです。
明治以後は維新で時代が変わりましたので、自由に定住地を変えられる様になりました。
それまで、江戸時代以前は封建社会で氏家制度の社会でしたし、定住地の移動は原則禁止で特別に許可を貰って移動する事に成り、所定の範囲で帰らないと捕まって罰せられる時代でした。
隠れて国を出ると、「国抜け」と云って「斬罪」に罰せらる時代でした。
一族全て打ち首に成る時代でした。

情報が明治後ですので、ルーツの判定は出来ません。

折角ですので、「抱き角紋」に付いてで観てみます。
「抱き角紋」は、信濃の「諏訪族青木氏」が持つ家紋です。お家はその支流です。
お家の江戸時代以前のご先祖は信濃の青木さんでした。
この信濃の諏訪族の青木氏は、奈良時代の大化期に天智天皇の第四世族までの皇子が王の身分に、第六世族は王から外しました。第七世族は下族させて坂東に配置しました。
天皇家の財政が皇子が多い為に逼迫していた為に皇位継承制度を見直したのです。
そこで、この第四世族内で第四位皇子には皇位継承権を与え真人族と呼称して呼びました。
「第六位皇子」には天智天皇から直接に賜姓(青木の氏を与えられる事)を与えられて臣下(武家)しました。朝臣族と呼ばれました。それ以外の者は皇族から外れ、「宿禰族や連族」と呼ばれてました。
この「皇族賜姓族の青木氏」は、次ぎの国の守護王として配置に成りました。
近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の五つの国です。
この国の守護王をしながら天皇を直接護る近衛の護衛団も担います。
又、皇親族と呼ばれて天皇が政治をする手伝いも行います。
天皇が変わる度に出る皇位継承順位から外れた第四世族内の皇子、つまり、「真人族と朝臣族」はこの五つの守護地の青木氏の跡目や養子に入って青木氏族を形成したのです。
この制度は五人の天皇に依って行われました。光仁天皇まで続きました。
嵯峨天皇からは源氏と氏名を変えて花山天皇まで11代続きました。
この嵯峨天皇からは、皇位継承から外れた皇子が天皇家から外れて下族する際に名乗る氏名としました。天皇の詔勅と禁令を発して、この氏名の使用を永代に禁じました。

さて、お家の青木氏は信濃の「皇族賜姓青木氏」ですが、この青木氏が信濃の豪族の諏訪族と血縁をしました。ところが、この「諏訪族」と血縁した青木氏は、男系跡目が二代続きで出来ず、掟に依り養子先の男系の諏訪族の系列に入る事になりました。
その為に、「皇族賜姓族の諏訪族青木氏」と名乗りました。
この皇族賜姓族の諏訪族青木氏は養子先の家紋の「四つ抱き角紋」を家紋としました。
これがお家の青木氏です。日本書紀にも出て来る青木氏です。
ところが、時代が進み、変化が起こって、この諏訪族青木氏には、更に諏訪族系の青木氏には四つの青木氏が生まれます。
全て家紋は四つ抱き角紋か五つ抱き角紋です。
この諏訪族青木氏は四つの青木氏の内、武田氏と血縁した武田氏系の諏訪族青木氏の二つの流れの青木氏も生まれます。この二つは諏訪族武田氏系青木氏と呼ばれます。
武田氏が滅んだ時、この諏訪族青木氏は次ぎの四地域に逃亡しました。
新潟、神奈川、横浜、栃木、埼玉に逃亡して生き延びました。
ここには、皇族賜姓族青木氏を補佐する為に、母方血縁で繋がる藤原秀郷の第三子の千国が特別に天皇から賜姓を受けて、例外として皇族外でも「青木氏」を名乗る事に成ったのです。
青木氏と全く同じ官位官職など一切の扱いを受けて同じくして皇族賜姓青木氏を補佐しました。
平安中期に発祥しました。
この後の青木氏は藤原秀郷流青木氏と呼ばれ、特別賜姓青木氏と呼ばれました。
全国に116氏もの流れの子孫を作り埼玉入間を中心に超大勢力を誇ります。
日本最大の勢力と成ります。
埼玉入間に宗家を置き、その周囲を神奈川横浜を半径にしてぐるぐる巻きに116氏の青木氏の本家筋が護っていたのです。

この新潟、神奈川、横浜、栃木、埼玉の青木氏を頼って諏訪族青木氏は逃げ延びたのです。
さて、抱き角紋は埼玉を除き他の四か所に逃げ延びて再び、秀郷流青木氏の保護を受けて勢力を盛り返します。
「武田の赤兜」と呼ばれて強かったのです。
この時、徳川家康はこの赤兜軍団を一部家臣にしました。

そこで、このどの諏訪族青木氏かと云う事に成ります。

ここからは情報が無い為に判らないのです。
恐らくは明治後に移動自由に成った事から、各地に分散していますが、現在でも、この四地域に多く分布しています。
実は、抱き角紋の諏訪族青木氏はあまり各地に分布しない考え方を持っていたのです。
それは独自の神社の「諏訪神社」を「守護神」にしていましたので分布しないのです。
ですから、上記の四つの地域には諏訪神社があるのです。
「諏訪神社」はお家の守護神ですよ。

日向の青木氏はお家とは、ある理由があって全く別の青木氏です。

明治の始めに日向に漁業の関係で定着したと考えられます。
そうすると、恐らくは、明治初期頃に漁業関係であったとすると「新潟」か「神奈川」の諏訪族青木氏と観られます。
更に、推測すると、神奈川の漁師関係者であったと考えられます。

神奈川に定住した諏訪族青木氏は秀郷流青木氏の庇護を受けて漁業者(漁師や船頭)に成った者が多かったのです。
この神奈川の諏訪族青木氏の一部が栃木に移動し秀郷流青木氏の背景を下に「武士団」として生き延びました。
この漁業関係で日向灘の漁場の漁に出ていた関係から明治期に移動自由に成った事から日向に定着したと観られます。

日向青木氏は、確かに日向の出ですが、「薩摩の大口村」に一族全員移動定住しているのです。
明治の初期にはほとんどは未だ大口村から西域に分布していましたが、その後に日向にも広がりました。


諏訪族と諏訪族の青木氏に付いては研究室やルーツ掲示板の論文をお読みください。
沢山のお便りが来ています。お読みに成るとお家のご先祖の事が良く判りますよ。

その上で、何か関わる情報が無いかをお調べに成ると特定する事が出来るかも知れませんよ。
その時には一つ一つ片づけて行けばある程度辿り着けるでしょう。
ご本家を辿る事から始められると、江戸期のお家のルーツに辿り着けますよ。

ご本家の明治維新の戸籍簿にどこから来たかを描いていますよ。
祖父の段階では無理と思いますが、更に、2代前位に成ると思います。

現在でも、信濃の諏訪地方に行けばお家のご先祖が未だ沢山居られますよ。
西諏訪地域に分布しています。
おーい青木さん と呼べば はーいと答える位ですよ。
ここがお家の古先祖の土地ですよ。

一度、サイトの関係論文をお読みください。
そして、何でも結構ですからご質問等ありましたらまたお便りください。


  [No.984] Re:家紋のルーツについて
     投稿者:d―青木   投稿日:2014/07/10(Thu) 13:05:17

ご丁寧にご回答をいただき、ありがとうございました。

祖父の実家とは、疎遠となっており、追加情報がどこまで入手できるか、コツコツと調べて参りたいと思います。一つ、回答いただきました中で確認がございます。祖父の墓の紋「丸に抱き茗荷」とご回答の解説の「角紋」については、同じルーツということなのでしょうか。理解ができませんでしたので、ご回答をよろしくお願いいたします。


  [No.985] Re:家紋のルーツについて
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/10(Thu) 19:27:41

今日は。早速のお便りありがとうございます。

大変失礼をしました。
実は、お答えをする前に、前提が在りましたが、それを書き忘れてしまいました。
それは、抱き角紋の青木氏の中に、良くこの「抱き茗荷紋」と間違えてお尋ねがあり、尚且つ、抱き角紋の青木さんの支流族にこの抱き茗荷紋が多い事を念頭に描いたものなのですが、書き終わった時にはこの前提をすっかり書き忘れて仕舞いました。

というのは、この抱き茗荷紋の青木氏には、本来はこの「丸付き紋の抱き茗荷紋」の青木氏は無いのです。
この文様は江戸初期に作られた文様で、家紋を持っていなかった立身出世した旗本の70家にも及ぶ家が家紋にしました。
主に関西では稲垣氏、鳥羽氏等の、二宮氏の一族が使いました。
関東では、前回にもお答えした漁師や漁業関係者や船舶関係者に成った中で、且つ、昔は「抱き角紋の支流族」であった中に、長い間に身分や家紋等を無くした者も居たのです。
その彼等が、徳川氏の「軍船の傭兵」として、度々戦いに参加した者が、江戸初期に旗本と成った者があったのです。
その彼らが、旗本として武士として、うろ覚えにしていた家紋を「抱き茗荷紋」と勘違いして、家紋とした事が起こったのです。
これが関東での発祥原因です。
普通は上記した一族で近江や伊勢の関西地域から出る江戸初期の家紋なのです。
青木氏は古い氏で江戸初期に出る家紋の氏では無いのです。
ところが関東からは神奈川横浜等の海域側からも出るのです。
彼らのルーツを調べると、その多くは、前回お答えした神奈川に辿り着くのです。
そして、その殆どは海に関わる職業に成って居て、その殆どはルーツは神奈川に逃亡した「諏訪族青木氏」に繋がるのです。
この末裔の一部が上記の事から旗本と成り、その時に、本来の家紋の伝承が出来ずに、「家紋」を間違えて何らかの関係から良く似た「抱き茗荷紋」にしたと考えられているのです。
三重の者で「抱き茗荷」の人物が周囲に居た可能性もあって、それを使った等の事が在ったりもしました。
しかし、その本当の事態は判らないのです。
”類似した為に間違えた”と云う説が通説に成って居ます。
彼らの元の先祖は、”海の仕事”をしながら神奈川横浜の「海の傭兵」として生き延びた「諏訪族青木氏」であった事が判っているのです。

実は、日向青木氏にも日向灘の「海の傭兵」の軍団で黒田藩に「プロ傭兵」として働いた青木氏なのです。
日向灘で漁をしながらの有名な日向プロ傭兵軍団でした。
日向青木氏には農業をしながらの「陸の傭兵」としても黒田藩専属の「プロ傭兵」としても働きました。
お家とは家紋が全く異なっているし、これらの軍団の拠点は薩摩大口村と青木村にありました。

諏訪族とか戦いで逃亡した武士は多くは漁業や農業をしながら「戦い」が起こると「傭兵」として参加する「武装集団」を形成したのです。
お家は、太平の江戸末期頃に成って元の仕事に戻り、その関係から明治に成って日向に落ち着いたと考えられます。
江戸期の長い間に日向との繋がりが出来た可能性が考えられます。

この事を描く事をすっかり忘れて仕舞って慌ててお答えをして仕舞いました。
お家の室町期末期のご先祖は神奈川の諏訪族青木に繋がるのです。
青木氏の古い氏には本来無い家紋なのですが、現実には121の青木氏の家紋群には江戸初期のお家の青木さんが有るのです。

ここでお家の家紋が「丸付き紋」です。
この「丸付き紋」にはそのお家の経緯として色々な意味を持っています。
この様な時に使う一般的な方法の一つです。
主に分家族や支流族や遠縁族等が使うものですが、江戸初期に抱き茗荷紋とした際に何らの事情があって丸付き紋にしたかが伺えます。
「抱き茗荷紋」は新しい為に始めから「丸付きの抱き茗荷紋」は無い筈なのです。
本来なら神奈川であるのに日向にある事の理由は、分家か支流か遠縁であったから日向に移動出来たことが先ずあったと思います。
むしろ、幕末当たりで何らかの関係で日向に移った事から、分家等の意味から丸付き紋にした事だとも思います。
昔の慣習でこれはよくあった事ですが、仕事関係での日向の知り合いの家に養子とか跡目に入るとかの事が在った事が考えられます。
漁村や船頭等の長の家に迎えられた等の事が在ったのではないでしょうか。
何かその様な事が遺ってはいませんか。
一度お調べに成ると良いかも知れませんね

以上です。

青木氏121氏には色々な歴史的な経緯をもつているのですが、お家もその中の一つです。
では、又何なりとお尋ねください。