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No.1144
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Re: 先祖と宗教(キリスト教の教え−6 主題5)
副管理人さん 2007/10/20 (土) 10:14
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」

設問@−Iは主題4に関わりますが、Eからは主題5にも関わります。

では、キリスト教の設問として、D番の続き、Eの問題の説明に入ります。
設問
@ 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
A 教えがかなり強引である事。
B キリスト個人を神扱いにしている事。
C 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
D 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
E 中間的考え(柔軟性)は無い事。
F 全体が闘争的な発想に成っている事。
G 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
H 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
I 「民族的」と言う考えを認めていない事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」を検証するため、設問(E−I)に入ります。

第E番目の事です。(中間的考え(柔軟性)は無い事)
@からDまでの設問に対する考えが、共通することで大半を説明していますが、「柔軟性」はキリスト教には少ないと考えます。
むしろ、本来、(日本のように融合民族であるが)、融合していない他民族の集合体の自由の国であれば、その考え方に幅を持たせて、柔軟に教義が出来ていると考えられるのが普通であると思うのですが。
しかし、ヨーロッパも日本と違い周囲に他民族が多く存在しますので、当然に、民族の重複部分地域は、キリスト教の教義ついてはこの柔軟性はあると考えられます。
しかし、矢張り「信じよ」ですから、この教義からはこの柔軟性は考えられません。これは言葉の性質からも来るのでしょうが、仏教は、般若心経の教義一つを観ても代表的な言葉として、(何度も書きますが、)「色不異空、空不異色」「色即是空、空即是色」を始めとして、「不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中無色」等は、”この語意は一体何を意味するのだろうか”と思える位に、柔軟であります。

仏教は以前、その「反意や深意や真意や裏意」が大きく働く教義であると書きましたが、上記の語意は、判断の経験を大きく左右するものである事は、多くを調べていると理解出来ると思います。
ここに書いている”「色」とは、「空」とは、何ぞや”から理解する必要があります。(前説に記述)
この理解で全体の解釈も充分に異なるであろうと思います。それでよいとしています。

仏教では、”その人その人の受け取り方はそれはそれで良いのだ”という。宗教関連者では、職業柄、定説的なもを主張しますが、一般の者の理解としては、”その人が、経験もしないのに、その人も立場や環境もあろうことなのに、そのことを解いても、それは「悟り」(理解)とは言わないのである。そして、経験を通じてその理解が深まれば、それはそれなりの「悟り」(理解)と言うのだし、それは「真の悟り」へとに近ずく”としています。

仏教の教えの一つとして、次の様な仏教言葉がある。
@「人を以って法を説け」という言葉があります。
A「三相を得よ」と説きます。
更に、次のその言葉として、代表的なのはがあります。
B「縁無き衆生動し難し」という説法があります。
この3つの言葉を組合すと上記の理解事を物語る言葉でなります。
況や、その真意、深意は、この意味が柔軟性を物語る先ずひとつであります。

この「三つの法意」(3つの言葉@AB)がその「柔軟性」を物語るものです。

@は”人は夫々立場、性格、職業、男女、家柄、生立ちなどでその理解は異なる。説法だからと言って仏教の教義をそのものをずばりを以って伝えても意味がない。その立場などに生おじて噛み砕いて伝えよ”としているのです。

Aは”@が成し得たとしても、人、時、場処にあわして説法をしなくては法意は伝わらない。伝え得るには@とAの術を身につけるべし。何事もそうである”としているのです。

Bは”@とAを経たとしても、理解できない者はある。全て者を理解させようとするはその心根は「拘り」である。理解できない者はそれはそれで縁無き常の者として動かし難いものとして扱いを別にしろべし”としているのです。

この仏教の「3つの法意」は一言で言えば、”柔軟に対処せよ”としている事に成ります。

つまり、”それはその人の今の[悟り](理解)である。””「悟り」は、この様で、この如くでなくては成らないと限定するものではない。人の世では、次第にその「悟り」が増せば良い”としています。

これに較べて、キリスト教の「悪の子」は「悪」と最初から決め付けていることからも、「柔軟性」が無いと見えます。

ただし、私が言うこの「柔軟性の有無」が教義の「良悪」の事を説明しているのではありません。
それはそれで彼らが納得するのであれば関知するところでないと考えます。
当然に、国民性や常識は違うのだから、「良悪」の問題ではありません。差違や適応性の問題です。
ただ、キリスト教は、その語意は、(「悟り」理解が難しい」が、)経験が共にするので「判断は容易」であると思います。
しかし、逆には、「反意や深意や真意や裏意」があるので、、(「悟り」理解が易しい」が、)「判断は難」の仏教だと思います。
故に、キリスト教は個人の悟りに差が余りに無く(個人受け取り方)これが一つの特徴であり、中間的考え(柔軟性)は無い事に成ります。仏教は様々と成ります。第一、キリスト教には「悟り」という概念が乏しいのではと考えます。

次はF番の事に続きます。

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