青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.443
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Re: 土佐の青木氏
副管理人さん 2007/04/11 (水) 09:27
>早速の返信ありがとうございます。
>いつもながら副管理人様の知識量には驚かされます。
>
>さて、私の先祖が居た土地は高知県土佐市高岡町なのですが、こちらにも青木町があります。
>この辺りは青木という名前の商店が多く、青木一族の集落であった可能性が高いと思われます。
>副管理人様のレポートによりますと賜姓青木氏が四国に赴任したとの史実は無いとのことなので、やはり藤原一門の青木氏の集落だったのでしょうか。
>
>しかし、そこに甲斐の国から逃げてきたとなると、信長の勢力圏を通過しなければならないはずなので、私の先祖はかなりの勇気の持ち主であったのかも知れませんね(笑)
>
>
>このHPと出会えたおかげで自分のルーツを辿るということの楽しさに目覚めました。
>ただ通り過ぎるだけだった土地、たまたま自分と同じ姓の商店など、意識しなければ見落としてしまうような先祖の繋がりを認識させていただき、管理人様と副管理人様にはとても感謝しております。
>今更ではありますが、御礼申し上げます。
>
>また我が家のルーツを調べていくつもりですので、結果が分かり次第こちらに書き込ませていただきます。
>私の調べた結果が他の青木家の方々のルーツを辿る一助になれば幸いです。

今日は。土佐の青木さん。早速のご返事と御礼ありがとうご在ます。

おっしゃる通りです。
おしゃることがご先祖に省みる心をはぐくみ感謝していることではないかと思います。
全く同感です。
一助に成れてありがく思います。
これからもどうぞ同じ青木さん同士コミニュケ−ション致しましょう。
それが同じ先祖を持つ供養でだと思います。

さて、高岡町に青木町があるとは知りませんでした。大変貴重な情報です。
早速、データーベースに追記させていただきます。
このことで須崎以外に四国の青木氏の活動具合がひろがってきました。

5家5流24氏の定住地は皇族賜姓族というその家柄から限定されており分布が史実の箇所に限定されておりまして、これが子孫を大きく広げられなかったという原因にもなっています。
下克上や戦国乱世で敵のように大分つぶされましたし、家柄上自由に移動できませんでした。

鈴木氏や藤原秀郷一門との戦略上の違いで起こった現象ですね。(「鈴木氏のルーツと青木氏」のレポート参照して下さい。)

御家の逃走経路は史実上判っています。
ご指摘のように信長の勢力圏を通過する事は出来ませんでした。
ところが、この信長の勢力圏には落とし穴があったのです。
この落とし穴を最後秀吉が潰したのです。

信長は甲斐の北側はまだ勢力圏には成っていなかったのです。
上杉謙信の勢力圏で、甲斐の北側の信濃を通り越中から越前、若狭、丹波から播磨、美作の経路を経ています。つまり、この経路の若狭行きまではの地域は5家5流の24氏支流の分布地域なのです。
これを頼っています。そして丹波と播磨と摂津は近江青木氏が定住地域です。ここを頼っています。

次に美作は足利本家が分家(藤原秀郷の後押し)との本家争いに負けて逃げ延びてここに青木村を形成して定住しました。この地域には前回のレポートでも書きましたが、讃岐の藤原秀郷流青木氏が大勢力を持っていたところです。「2足の草鞋」で瀬戸内海を牛耳る大廻船問屋の大豪商の勢力圏です。「讃岐の藤氏」の言葉有名です。明治時代まで続いています。
摂津より西側の海に出ればもう絶対に安心です。

信長の欠点は史実上、この日本海側の国と瀬戸内海の海に弱かったのです。秀吉もこの国を押さえるのに大変な時間と苦労をし過ぎて基盤を築けずに滅びたのです。
家康はこの域を勢力圏に入れる時間がおおくとっていたので天下取りを遅らしたのです。

前回のレポートでも書きましたが、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏には2足の草鞋でシンジケートを持っていたのです。これも信長の欠点でした。(この反省から家来の榊原氏を配置して家康はこの点に力を注いだのです)
だから信長が死んだときには家康は堺にいましたが、このシンジケートに助けられて三河に逃げられたのです。
このシンジケートの存在なのです。
古い伝統と家柄を持つ氏は下克上と戦国で滅びましたが、遠縁の縁故を頼りに生残るためにこのシンジケートに入り一員として働きながら庄屋や地主や郷氏や郷士や名主などになって一族を守ったのです。
この様な背後の力がなくては到底他国では大勢の一族は生きて行けません。
当然に逃亡してくる事も出来ません。
5家5流の青木氏と藤原秀郷流青木氏の存在するところには必ずこのシンジケートが形成されていました。
尾張や駿河では今宮シンジケートがありこの総取締りは今宮神社の宮司でした。
関西では特に紀州では雑賀根来シンジケートがありました。

伊勢にもこの様なシステムが働いていました。
伊勢の大豪商の青木長兵衛(紙問屋 紙屋長兵衛)は小説や歌舞伎やNHKの大河ドラマにも3度も出てきた程に有名で、2足の草鞋策で明治35年まで950年間の大店を維持してきました。
この豪商を元締めとする伊勢シンジケートです。
全て、これ等のシンジケートは堺と攝津等の5大豪商町に繋がっていました。

これを通過するには「手環」(てわか)という「鑑札保証札」があったと書かれています。

多分、御家もこのこの藤原秀郷流一門の讃岐の藤氏と青木氏の「讃岐シンジケート」に護られて資金源を裏打ちされて、土佐で、一族で土地を開墾して地主までになれたものと思います。

この讃岐シンジケートと土佐の土地の豪族との戦いも記録されていますが、讃岐シンジケートが勝っています。この様にシンジケートの勢力を広げて言ったのでしょう。

時代的には同じ頃ですので、調べて行くと大きな集団の御家の一族を守るために通過点の反対豪族を潰したと見る事もできますね。

実は御家のようなこの皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一門青木氏とは母方で全て繋がっているのです。

当時は血縁は家柄身分での仕来りでおこないました。この二つの家柄身分は一致しますので同族結婚のような血縁に成ります。
だから禁令の青木氏を名乗ることを朝廷は特別に藤原秀郷に許したのです。

「讃岐の青木さん」にこの詳しい事が書かれていますので、研究室の検索で調べてお読みください。

この様に調べていくと面白い史実が出てきます。
先祖の苦労が働き具合がよくわかりますね。

又、何かわかりましたらお便りください。お待ちしています。

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