青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.403
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Re: 大化改新7−1
青木研究員 さん 2007/02/22 (木) 21:47
大化改新7に付いて検証する。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。

今回は大化の改新に付いて第7番目の新説に付いてである。(18改革)と(10活動)

この新説は”大化改新は失政であった。”と言うことであるが、どんな根拠で「失政」としているのか明確に説明が無かった。

最早、大化改新1−6までのレポートで失政ででない事をそれを充分に証明していると思うが、あえて反論するならば次の要領で論じてみる事とする。

「失政」という限りは「失敗であった」と言うことなのであろう。何処が失敗なのか良く判らない。論処も無かった。

兎も角、主観的に ”「失政」でない”とするも意味が無い。論理的に検証して証明する。
その為には、次ぎのことを設定する事で立証する。

そこで、「失政」であるのであれば、ます゛次ぎの「2ポイント」に分けて考える必要がある。

ポイント 1
大化改新のきっかけとなった「蘇我の入鹿を討った事」が失敗であったというのであろうか。

ポイント 2
後に行う「大化改新」の「改革の事」が失敗であったと言うのであろうか。

もし、ポイント2の事を言うのであれば、それは次ぎの三つの要件について言えるが、どれが失敗で有ったと言うのであろうか。
     
3要件  1 人なのか、2 時なのか、3 場所なのか この3つが物事の要件(三相)となる。

そして、立証の条件は次ぎの事になる。

条件 @ 
この「2ポイント」の事と「3要件」に付いて検証して「失敗」としての意味合いを持つものが出なければ、「失敗」でないと言うことになる。

条件 A 
この「失敗」とする定義が、「後の世代に何らかの効果をもたらしている事」が「有るのか。無いのか」を立証すれば良い事になる。

付帯事項
つまり、「改革」がそのものがその時代に「失政」または「失敗」であったとしても、その事自身が後の世に大きな影響をもたらしているのなら、それは、基礎的な時代の礎として評価できる。
兎角、「初期の段階」の「成せる技」は「大きなリスク」を負う為に「リスク」に隠れて「失敗」と一般的に評価されやすい傾向があるが、果たしてどうであろうか。

「大化改新」は余りにも大きな「時代の変革」で有る。
まして、それまでは「原始的な社会」の中に、「律令政治」を導入し、「刑法」と民主的な伝達(「民法」=法令)で民衆を統治し、「行政」というある「一定の規律」で「政治」を行うシステムを敷くのである。

配慮点
それまではといえば、蘇我氏らの豪族の一人の考えで刑罰を決め、その主観で判断するもので、統一された物が無かった社会に、「法」に定めた要領(刑法と民法)にて統治する「客観的手法」を取り入れるのである。
それは、天地をひくっり返すほどであり、大騒ぎになったであろう事は想像出来る。
そのような改革である。現代でも、「改革」とは言え、これ程のものは無い。
「大化改新」とはこれ程の「大リスク」を負っての事であることを承知して、次ぎの検証を判断する事が必要である。

改新の目的
中大兄皇子はこの様な社会を創造したかったのである。それと正反対の「蘇我氏らの原始的な政治」を砕かなければならなかったのである。

では、先ず、どの様な改革を実行したかを前レポート(大化改新2−2)に述べたが、改めて概要を列記する。
(詳細は、大化改新2−2を参照)

活躍した内容
17の改革以外に次ぎのようなことも行われている。
仕事は次の様なものである。(10活動)

1 「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
2 「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
3 「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
4 「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
5 「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
6 「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
7 「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
8 「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
9 「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
10 「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
 
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。

本格的改革は次ぎの通りである。(18改革)

1 「軍略所」としての役職を定める。

2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。

3 「内臣」を置く。

4 「東国国司」を置く。

5 「男女の法」を定める。

6 「薄葬令」を定めて身分に基づいた葬儀や墓の規模などを定めた。公地公民の前提を作り上げた。

7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。

8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。

 4行政方針は次の通りである。

詔の意味
 現在の「行政方針」を新しく敷いて公表したのである。 「民主主義」の原点である。現在のマニフェストでもある。現在でさえも基本方針を発表したのはつい最近である。いかにすごい進んだ民主主義の考えを遅れた民を導く為に伝えたのかが判る。所謂、天皇を中心とする「中央集権国家」である。国を変えようとする心意気がわかるし、豪族による「原始的政治体制」を維持しようとする蘇我氏を倒さねば成らない事が理解できる。

 A 「公地公民制」 
 土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「伴造」「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。  

 B 「統一的地方行政制度」
   国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。

 C 「戸籍と計帳と班田の収受制度」
   民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
   官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
 
 D 「統一的税制度」
   上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
   大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収(租庸調 歳役等) 

9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
 官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布 帛(ふはく)を与えた。

10 「防人」(さきもり)を定めて、「職業軍人」とは別に現代にもある「徴兵制度」を敷いたのである。


11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の「防備要塞」を築いて防衛拠点を作った。
 唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。

12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。
 鎌足らが作ったとされる22巻から成る法令であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。

13 「御史太夫」を定めて太政大臣などの補佐として特別に補佐役を設けた。
 「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別に作ったものである。

14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。
 皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。

15 「皇位継承制度の変更」
 皇位継承は大変な財政的負担と成っていた(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもな り、天皇家の財政を担う内蔵では破綻寸前であつた。このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を経費節 減のために改革を断行し実行した。

 其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて  「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護としてに配置した。
 「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。
  即ち、「第6位」方式である。

16 「親衛隊の創設」
 蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。
 この後、 15の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。2代後、賜姓源氏とした
 伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の 国の戦略上の主要地の守護としたのである。

17 「飛鳥浄御原令」を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)
 大宝律令(701)の基となった。光仁天皇の子供の桓武天皇が律令制度を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の 聖徳太子 から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。
 その後、嵯峨天皇から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期の基礎を敷いた。

以上が大化期の「改新」の改革項目である。
追加として
18  「行政単位の設定」
 地方の行政の単位を「評」(こおり)と決めて、そこに国司を置き「改革」の新党の徹底を図った。
 「東国国司」の「10活動」の「改革の専門官僚」とは別に、通常の「一般行政の役所」の「単位区域」を定めたのであ る。
 それまでは、各国の守護王とその代理の官僚国司との「独断と偏見」で行っていたのである。
 「蘇我氏」の元ではこの体制「独断と偏見の政治」を維持していた筈である。
 この手法の違いが、「蘇我氏」と「中大兄皇子」との真実の原因「軋轢の違い」で起こったのである。

先ず、ポイント1に付いて。
「蘇我氏を討ったことが失敗である」事に就いて。

もし、大化改新1−6までのレポートの論説の通り、天皇家は勿論、朝廷の実権3権(軍事、政治、経済)を牛耳っている事は明らかで、その蘇我氏が生きていたとするなら、上記「18の政治的改革」と「10活動」は成し得ただろうか。

「3権を牛耳っている」中で、殆ど出来ないのが現実である。
急に、蘇我氏の態度が急変する事が有り得るか、又その要素の変化が起こるのであろうか。この様に事をさせないで置く為に3権を牛耳るのである。そうでなければ牛耳る事は無いし、中大兄皇子もそのような感情を持つことは無かった筈である。
生きていては成し得ない改革である。

中大兄皇子はこの過程で、分家の蘇我氏も血縁しながらも排除して、体制を固めたからこそ成し得た事業である。
その判断の基礎は現代の発想ではない。前にも記述した聖徳太子が始めたと言えど、原始に近い社会体制である。
大事を成すには、小事を排除する事は絶対条件の社会である。

では、蘇我氏が生きていたとして、「成し得た」とする改革があっただろうか。史実を並べてみても見つからない。
少なくとも、その存在する影響を受ける50年程度の半世紀の間に。
あるとすると、中大兄皇子と蘇我氏グループの二つの勢力が存在するのであるから、朝廷内が乱れている筈である。

そうすると具体的にはそれは次の事となる。

@「乱」の有無であろう。
A「政治の結束」の有無と言う事になる。
B 乱れていれば成し得ない「身分制度」等の政治改革であろう。
C 蘇我氏がいると出来ない改革であろう。

@は「蘇我石川麻呂の自決」は別として「壬申の乱」「白村江の戦い」だけである。蘇我氏が絡む何れも勢力争いではない。
「白村江の戦い」で負けたから「失敗で失政」だと言うのか。
良く考えて頂きたいものである。
   
解説
中大兄皇子に唐の実情を熟知した「国博士」等がいて、「阿多倍」の後漢の民らも政治の実務に携わっている。
まして、隋を潰して618年に唐という国を築いた勢力である。更に高句麗や新羅を潰して勢力下にいれた国である。唐を熟知していた筈で知らない方がおかしい。
しかしながら、極めてこの大リスクの大きい筈の相手の国まで攻め込んだのである。
だから、知って上での戦いである。こんな戦いは馬鹿でもしない。そんな勢いの有る国を連合軍を叩き潰す事などを思う事の方がおかしい。

つまり、だからするとすれば、前記の大化改新1−6で説いたが、戦略上の手段の「先制攻撃」を狙ったと見る。
勝負は別問題である。大和国に攻め込んでくれば「大リスク」を伴う事を念頭に、大和の国の「意思」と「心魂」を唐に示したのである。つまり、これを「大和魂」という。

唐にしてみれば、攻めるには「長蛇の戦列」と「挟撃」と「戦艦列島」の大きな障害があり、「大和魂」の「心魂」がある。これを解決しなければ、もし、失敗すれば、朝鮮半島と 失い、唐の国内の民衆の批判を受けることになり、得策ではない事を計算できている筈である。

だから、「先制攻撃」をしたのであり、これで「唐の脅威」を除いたのである。
その証拠に、直ぐに1年程度で博多から飛鳥までの戦列に防衛網を築いているし、民間の徴兵軍隊(防人)も準備している。反面、直ぐに遣唐使を続けて派遣しているのである。つまり、硬軟両面から対策を採っている。

この事で、唐の心を静めているのである。抜群の「軍略師」である。
「白村江の戦い」は後の時代の戦いの有名な「先制攻撃の見本」になったものである。
前レポートで書いた「日露戦争」はこれを見本にしているのである。
(結果的に、軍師つまり参謀がよかったので完全勝利したが、初期はこの目的である)
「失敗、失政」の話どころではない。極めて「頭脳的指導」であったと考えている。

Aは 前レポートで記述した「皇親政治」として朝廷内が「一致結束の政治」を行ったのが何よりの証拠である。

Bは「冠位階制度」や「八色の姓」等があり、江戸時代まで維持されたものがある。
Cは 経済の実権を握っていた蘇我氏がこれをやらす事はない筈の全国の戸籍制度を2度(庚午年 鑑、庚申年鑑)に渡り作り上げた。

民主主義の無い中国でもいまだ出来ていない「戸籍調査」である。去年やっと行ったが信頼度が低いのである。
つまり、奈良時代の民主主義の根着かないところには成し得ない「調査」なのである。

そのような社会体制の中に、「18の政治的改革」と「10活動」を実行し、それが、55年後に「養老律令」を経て「大宝律令」として仕上がり、150年後の「桓武天皇期」には完成したのである。
そして、大化改新の改革は維持されている。
その後、全て時代に合った改善で、むしろベースにして追加改革が行われた。

結論として、ポイント1の蘇我氏が生きていた事により出来た事は史実上50年間にない。

ポイント2  ”「大化改新」の「改革の事」が失敗である。”に付いて。

「17の政治的改革」と「10活動」に対して、3要件=「人」「時」「場所」を検証して見る。

1 「軍略所」としての役職である。
改革を勧める天皇を補佐してこの役職を設置した。

「人」としては、最も信用できる身内である第6位皇子がこれを担当したが、これ以上の信用できる者はいないし裏切りはなかった。

「時」としては、この役職は光仁天皇まで5代も続き136年もの「皇親政治」で維持した。
しかし、「桓武天皇」は「京平氏」を賜姓したので、次ぎの天皇の「嵯峨天皇」が青木氏に替えて賜姓源氏としたが、結局、京平氏の台頭と律令政治の邪魔になる事も含めて青木氏は衰退する事でこの役務は無くなる。136年も続いたのであるから充分である。 

「場所」としては、天領地で軍略上の5つの街道の主要地を任した。そして「軍事的安定」は元より「主要穀倉地」として開墾させ天皇家の「財政的安定」を果たした。
この主要地は江戸時代までも戦略上、経済上の処点であった。「失政」では無い筈である。

「3相」何れにとっても「軍事、政治、経済」に影響して成功している。特に、その基礎には「10活動」に大きく貢献している。

2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。
4人の「阿多倍」一族の者が隋と唐に留学生として滞在して進んだ知識を習得して帰国し、中大兄皇子に進講している。

このことは以前のレポートで述べたが、この「国博士」の人物登用が無くしては改新は成し得なかったし、それこそ日本の現在はなかった筈である。
多分、何時の時代にか蘇我氏らの豪族の「原始的政治体制」の未開の国の日本は他国の侵害を受けていただろう。
それだけの意味を持っている改革の役どころであったのである。
言い換えれば、漢民の「阿多倍」の子孫とその有能な集団なしでは「軍事、経済、政治」共に成し得なかった事である。

この場合は政治部門である。この何処が「失政」なのか。

先ず、「人」であるのか。
この「国博士」4人は「大化改新1-6」で前記したレポートの経歴を持っていた。これ以上で無くてはならないのか。そんな人物がどこにある。逆に何故に「国博士」以下の人物でなくてはならないのか。知る事に越した事は無い筈である。

次ぎに、「時」であるのか。
4人が帰国したのは偶然にも「大化改新」の直前である。私は偶然過ぎると思う。最優秀な人物が3人ともに確率的に偶然が起こるか。起こらない。故に、推測の域を脱しないが次ぎの推測を立てている。

この大化改新の計画を前提に、”事前に呼び寄せていた”と見ている。とすると、この人物無しでは「改革が成し得ない」とみて呼び寄せた考えとなる。「用意周到」である。故に間違いなくこれは「失政」ではない事になる。

そして、「場所」であるのか。
飛鳥板蓋宮から、難波宮、大原宮、後岡本宮、大津宮、浄御原宮と遷して機先を制していてこれに伴い「国博士」らの要人を伴っている。この5−6回もの「機敏な移動=遷宮」は気まぐれに移動したものではないと判断する。
その状況に応じて「臨機応変」に対応したものである。
その証拠に、最後には「浄御原宮」(飛鳥板蓋宮の跡地に遷宮説)に遷宮しているのである。
これだけの事をするには中大兄皇子の意味の無い気まぐれだけでは理解できない事で、間違いなく「国博士」らの「進言」に基づくものである。
(中大兄皇子は上記の「18改革」と「10活動」を実行しただけに「用意周到」と「警戒心」の強い人物で愚能ではなかった)

明らかに、3点から見ても上記の通りに「国博士」の施策と採用は「失政、失敗」ではなかつた事になる。

3 「内臣」を置く。
天智天皇の時期だけに置いた補佐役である。
「18改革」と「10活動」もの大改革と広範囲の改革を行うのであるから当然に必要である。
逆に、これだけの改革を推し進め様とする「強い意志」の現れである。
これを置いていることでも「失政、失敗」で無いことが判る。
自分の時代に何とか改革を行おうとする姿勢の現われであり、そして、その根底には構成に何とかその道筋をつけたいとする「心意気」であろう。

その証拠に、23年間の内、天皇に成った3年間で「後継者」を作ろうとしている。
つまり、「伊賀皇子即ち、大友皇子」に皇位継承を継がせて、自らの「改革意思」を継がせて成功裏にしようとしたのである。

この時代の皇位継承は「血筋」の濃い順位から継ぐ事に成っていたのである。つまり、実の弟の大海人皇子である。
しかし、この時、意思を重んじて「大海人皇子」は「天智天皇」に対し辞退したのである。
しかし、3年後に天智天皇死去後に「壬申の乱」が起こり「大友皇子」を倒して天武天皇となる。
(日本書紀に詳細記述 :しかし、大友の皇子は一時天皇に成ったと説もある)

然し、共に戦ってきて支えてきた「天武天皇」は「天智天皇」の「18改革」と「10活動」の意思を継いで、更に改革を推進している。
そして、その元なる人物を兄の「天智天皇」の皇子の有能な「施基皇子」と「川島皇子」の二人を自らの皇子より重んじて自らの皇子として扱い改革に取り組ませている。

「天武天皇」死後も10人もの皇子がいる中で、この二人の伊勢王と近江王の皇子が「持統天皇」の「行政補佐」をさせている。(以上は日本書紀の記)

「18改革」と「10活動」を維持しようとする姿勢の現れである。

これだけのことを見ても「3相」(人、時、所)からも[失政、失敗」では無かった事を意味する。

4 「東国国司」を置く。
外国、つまり、唐への備えも「硬軟懐柔」で充分にした。朝廷内の「政治改革」を断行した。
しかし、これだけでは改革の効果は生まれない。この改革を地方に浸透させる事が必要である。
この為に、この政治改革の浸透を担当する国司をおいたのである。

当時の始めての改革で未経験のものでありながら、本来なら「朝廷の権威」を背景に「強権」を持って実行させるのが普通であろうが、そうではないのである。専門の国司を派遣しているのである。
「用意周到」と想像を越えた配慮である。

「人」として、この「国司」は上級官僚を選出した。指揮は「施基皇子」「川島皇子」ら「内臣」等が担当する

「時」として、645年末、直ぐに「大化改新」(一年程度)後に各地方に派遣している。

「場所」として、先ず重要諸点の倭国6県に派遣し、その後、東国17県、坂東8県、(東北2県)に派遣している。

「職務」として、先ず、「人口の把握」「田地調査」「民間武器収公」など上記「@−Eまでの活動の徹底」である。

「18改革」の基礎となるこの職務を徹底して地方に浸透させているのである。

考えてみれば「原始的社会」から初期的な「民主主義」社会への移行である。
考えは正しいとしても基礎が出来ていないのに余りにも施行には無理があると考えるのが普通であろう。
しかし、そのリスクを無くす手法を屈指しているのである。
このことの指揮指導は「施基皇子」らの始動によるが、この「東国国司」を設定して浸透を図っているのである。驚くべき判断である。

「指揮系統」も含めて「職務」、「配置先」、「役職」も明らかに成っている。
今の時代から見ても驚くべき体勢である。今でもこれ程には出来ていないのではないか。

この事と比較して、更に、66国の中を「地方行政単位」として、「評」として定めて「一般行政区域」を行うようにしたのである。(18)
真に、「痒いところに手が届く」である。

これが、「失政、失敗」と見えるのか。見えるとしたら普通ではない。見えるとしたら、他に「心底」に「何か一物」を持っているとしか考えられない。

続く。

5 「男女の法」、6 「薄葬令」等の18までは大化改新7−2に続く。

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