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No.411
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Re: 大化改新7−2
副管理人さん 2007/03/03 (土) 20:20
この新説に付いては後は次の4つ(7-10)の事が未だ残っています。
それは次ぎの様な事でありました。

(活躍した内容の「18改革」と「10活動」はレポート末尾を参照)
(大化改新の新説 1−6は解説済み 改新7−1は検証済み)


今回の検証
7 天智天皇は失政した。
この新説テーマの7−2です。

次回の検証(7−3終了後に記述します)
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。

今回は大化の改新に付いて上記第7番目の2の新説に付いて、「18改革」の第5番目以降の問題の検証である。
(第6番目から10番目までの項目は末尾に追記)

この新説は上記の”大化改新は「失政、失敗」であった。”と言うことである。

(大化改新1−6までのレポートで失政ででない事をそれを充分に証明しているが更に詳細に次の要領で論じている)


では、続きの第5番目から6番目までの改革に付いて述べる。(第7番目以降第18番目までは7−3で論じる)

次ぎの5番目の改革である。
5 「男女の法」を制定した。

この法令の制定が「失政、失敗」で有るのか、無いのかである。

先ず、この法の内容を記する。
現在の民法の「子供の認知」の法である。

この蘇我氏らの豪族が支配する原始時代に近い社会情勢の中にありながら、この子供の認知のことを定めたのだからかなり進んだ法令である事が判る。

一般の者は別に決めて欲しいと思う事は無かったと考えるのが普通ではないか。
そこを、系譜を定めて人との繋がりを明確にし、人としてのこの世に存在する意義を明確にしたのではないか。
もし、そうだとすると大変な進んだ考えを持っていた事を意味する。
通常の頭脳を持った人間が考えられる物ではない。それは後ほど証明される。

内容
生まれた子供の所属を定める基準を定めたものである。

1 良民の男女の子供の所属は 父に。
2 良民と奴婢の子供の所属は、奴婢に。
3 奴婢間の子供の所属は、奴婢に。

以上3つの基準を定めたのである。

ところで、「奴婢」とは「奴隷」であるが、この時代は「7つの民族」の「融合」から大和の民は構成されていたが、大和の国には近隣の混乱から中国、朝鮮、南アジア、ロシアなどから多くの難民が押し寄せて来たのである。
未だ、5世紀前は日本の全土を統一されていなかった。そのために国間の戦いで負けた民は奴婢となり扱われたのである。
又、外国の混乱から逃れてきた密入国人で各地に上陸した者等が「奴婢」として扱われたのである。

現代では「奴婢」は異常と判断されるが、この時代の「戦いの負け」は「死か奴婢」の選択であった。
特に、大化改新の前までは戦いの一つの「戦利品的内容」の意味合いを持っていたのである。

つまり、第一次産業の生産を高める為の労働力として扱われ国の国力を高める一つの手段であった。むしろ、他国から拉致して生産力を高めようとした時代でもあった。
このために「奴隷」というよりはこちらの「労働力=生産力」の意味が高かったのである。

例えば、天智、天武の皇子皇女は「妥女」(うねめ)より生まれた子供である。
「妥女」はこれも一つの「奴隷」の形であり、地方の小豪族から採った「人質」であり親元の発言の届かない「女官奴隷」であった。

当時の社会は「身分」という「細分化した階級」で維持されていたのである。
つまり、「労働」という括りで「二つの身分」が出来、それを「良民」と「奴婢」とに成って分けていた。この二つを更に細分化されていたのである。

この事の証として次に述べる大化改新7−3のところで述べる「公地公民」の制度がそれを物語るものである。

上記の「社会体制」を理解した上でこの施策の何処が「失政で失敗」であるのか検証する必要がある。

昔の「社会体制」を現代の社会体制の常識で考えれば全ての事が「失政で失敗」となるのではないか。
そんな論理があるのであろうか。
普通は、物事は「三相」(人時場所の条件)を統一したところに論理が成り立つのであろう。そうで無ければ「一物」を持った考え以外には普通は無い考え方である。

現代の「思考」で過去の社会を「評価」する事はそれは即ち、「歴史」そのものを否定する事になるのである。
現代の感覚で評価できるものではない。

「人」としては、「良民、奴婢」の括りが「戦いの掟」での当時の「社会の仕来り」である。
「部制度」等の充実の中、民の全ては「公の民」であり、民でない民は認めていない制度である「公民制度」を施行した事から理解すると問題は無い。

「時」としても、当時としては蘇我氏等の豪族の支配されていた状況の中では「奴婢」は「奴隷」そのものであるが、これを「公地公民」らの制度とあわせて時代を変革し施行したのは、適切であったと考えるのは、当然のことであり時代的錯誤は無い。
むしろ、この時期に蘇我氏を討った目的の一つでもあったのであるから、時期としては天皇の無力化の進行からみると限界を示している。

「場所」として、阿多倍らの後漢民らの渡来系の技能集団の働きで「30/66国の生活力と統治力」が上がり、未統治の蝦夷域を除き、中部以北を大和朝廷の支配下に入った統治地域の安定域の全域に敷いた事は適時適切である。

何処に問題があるかとすると、この「奴婢」で「歴史」を否定する事ぐらいであろうが、これは上記した「当時の社会体制」の所以である。

この事を理解する事とあわせて、次ぎのことを知り理解しておく必要があり、そうで無いと誤解が生まれる。
つまり、この時代の大和民族の「構成状況」とその「融合過程の経緯」を知るべきである。

大和民族の「構成状況」とその「融合過程の経緯」
日本は「単一融合民族」であり、この結果、民族の優秀性はこの「融合」の結果から来るのである。人類は交配するほど優秀な人類が出来る事は衆知の事実であるが、日本はこの交配の最多の民族でそれも「7つの民族」というものすごい数の融合である。2つでも難しくて現代でももめている国も多いのに大変な融合を成しているのである。

当時は、「封建社会」であり、大化期前は「原始社会」でもあり、未だ「7つの民族」が混生して「融合単一民族」に向けて「融合化」が進んでいる最中である。

この「7つの民族」とは、3世紀から6世紀までの間に、日本の各地に民族移動が起こり上陸してきた。

先ず、国がこの遺伝子的、歴史的に分類した「7つの民族」を列記してみる。

1 中国系の民族(15)。2 朝鮮系の民族(20)。3 太平洋系の民族(10)。4 ロシア系の民族(3)。5 アイヌ系の民族(2)。6 南アジア系の民族(10)。7 北アジア系の民族(40) 

以上の7つの「民族の融合族」である。

これだけの民族が融合して単一の融合民族を構成した例は他に無い。
現代世界の乱れの原因はこの「否融合民族」間の争いである。
そこで、先ずは「アジア系人類」の歴史的な移動経路に付いて述べる。

民族(人類)の移動経緯
アフリカで生まれた人類Aは、地球の地殻変動に伴い気候が変化して、アフリカからヨーロッパ南に移動して地中海の縁を経て、アジアに入った。
ここで2つに分流して海岸沿いを経て南アジアに移動して定住したグループAと、更に南下して海洋に出たグループA−1
イタリヤから北側に分流したグループが中央アジアを経てモンゴール経由して東岸に到達したグループBと、
このグループが沿岸を租って南下して朝鮮に到達したグループCと、
グループBの一部が北部に分流してシベリヤの最東岸に到達したグループDと、
このグループが半島を経て樺太に入ったグループEと、
このグループがアメリカ大陸に到達したグループFと、
更にこのグループがアメリカ大陸を横断してパナマを経由して南アメリカに到達したグループGと、
この一部か山岳部に移動したグループHと、
平野部に移動して定住したグループIと、
更に南下して最南端まで到達したグループKとになる。

所謂、コルボックス系の人類の移動経路であり、そこで定住し一つの民族構成を成したのである。


そこで参考として、アジア系人類を比較対照にして理解する上で大切であるので概要を記する。

人類の起源
アフリカで生まれた人類Bは人類Aとはその類人猿は異なる。(ネアンデルタール、ピネカントロプス)
つまりは、猿の本が違うのである。

ところで、猿系は最も進んだ人間、次にボノボ、次ぎにチンパンジー、次にゴリラ系と分かれる。
ボノボは一時、チンパンジーの一種と見られていたが、大変に人間に近い方の猿である事が最近になって判り、チンパンジーから分離された。
このボノボから人間に変化したのではないかと言う説が通説に成っている。顔もチンパンジーより人間に似ている。
原人とはこのような顔をしていたのではないかと思われている。

このボノボは人間の感情と殆ど同じ「喜怒哀楽」を持つ事が判っていて、チンパンジーと生活させて言葉の原語を教えて研究したところ、器具類の変化にて得た文明知識を除けば、人間の持っている本質の知能指数は人間に余り代わらない事が判っていて、チンパンジーに対し人間が猿に対する持つ「優越感」と同じ「優越感」を持って一所にいることへの不満を表し「優越感」を持っている事を原語を使って表現したと言われている事が判っている。
そして、驚く事に、人間に対しては自分ボノボは、何故人間に生まれなかったのかを残念に思っていることが判っているのである。

このボノボが移動中に進化して原人と成りつつ移動して人類と変化してきたと見られている。

一方ヨーロッパ系の移動経路は概ね次の通りである。

この人類Bはヨーロッパに進出し北岸側に移動してデンマーク付近に移動し、更に付近域の北ロシアに到達したグループLがある。このグループLの僅か一部が極寒の中生き残り、東海岸まで到達してカムチャッカ半島を経て北海道と北陸東北一部まで移動して入った。

一方海岸線に沿って移動したグループがとイタリヤ付近まで到達移動したグループとに別れる。

この2つのグループは夫々、地球の地殻変動に伴う激しい気温低下の気候変動で遺伝子と体格と骨格変化を起こした。
この時、北周りのグループは厳寒を避ける為に、食を肉食主体として暖かくして、住居は原野での毛皮のテント生活とし、骨格の額を前に出し奥目にして目を保護し、鼻から入る低温の空気を直接体内に入れないように高くし、下向きにし、長くした。そして、全体毛を深くし、血管を体内深くに入れた。だから、体が白く成る。歯茎は肉食から奥行きを大きくして食べやすくしたのである。所謂、北ヨーロッパ系の人類である。

イタリヤ側に移動したグループは体格、骨格は類似するが、草食生活を選び、岩窟に入り、移動を少なくして厳寒に絶えたが、必然的に熱と食料の絶対量が不足して絶滅に瀕した。

この人類は顎とその頭から顎にわたる筋肉が異常に発達し頭骨格が四角になり、草食にて熱が不足したので体毛は多くなった。
これがヨーロッパ系の2つの人類の民族構成の概略である。

さて、話を戻す。

人類の元は、縄文時代(紀元前4000年頃)の骨格のしっかりした四角頭格で毛深くて目が丸く眉の濃い縄文人(グループB)と、その2000年後に北アジアで進化した人類で、後に入った顔の細い背の高い目の吊りあがった弥生人(グループC)の二つの人類であり、これが原住民となる。
そして、その後の紀元年頃の後の進化した民の3つの民族で概ね構成されている。そして、この紀元前後の進化した民族は次に示す幾つかの地域で進化して日本列島に上陸してきたのである。

それは次ぎの通りであり概要を説明する。

1 中国系民族は、
広大な大陸であるので、南アジアAと中央アジアBと東アジアCのグループから構成されているが、現在に於いても余り融合化は進んでいないのが現実であり、三国志の書籍でも明らかなように民族の戦いの変化で統治者が変わる。

入国の経緯 @−Eクループ
この民族は縄文と弥生時代と紀元前までに上陸したグループ@と、日本の国体が出来ていない時代の2世紀から3世紀前半の邪馬台国の卑弥呼の前までに移動して来たグループA-Bと、6世紀中ごろまでの阿多倍らに代表される渡来人より構成されたグループ(C-E)とになる。

3世紀後半は博多や下関付近に上陸したグループBと、漢が滅亡して2つのグループに漢民は分かれて逃亡した。西に逃げた漢民は山を越えてネパールに入り定住し、一部は更に西に進みベトナム付近に入ったがここで戦いが起こり漢民の一部とベトナム民とネパール民の一部もが海に逃げボートピープルなり、インド洋から太平洋に出て黒潮に乗り長崎博多付近に上陸したグループCと、更に一部は黒潮に乗り薩摩付近に上陸したグループDとである。(580年頃)

その後、中国の東に逃げて光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧して「後漢」を樹立したが、21代後の献帝の時に唐に滅ぼされた。
この時、石秋王の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王は、九州北部に上陸し九州全土を無戦の状態で制圧、その後、下関から関西に入り中国地方も征圧して30/66の国を制したが、引き連れていた17県の漢民は帰化した。その後、中部地方の開墾に廻された。
この17県民の200万人もの帰化集団のグループEとがある。(620-660年頃)

その後、朝鮮半島より下関、博多付近に難民が度々に上陸してきたが、朝廷は国情を配慮して阿多倍の末裔の「太宰大監」がこれを取り締まらせた。(1050年頃)

この中国系の民族は遺伝子的に区分けした結果、全体の15%程度を占めている。

2 朝鮮系の民族は、
この民族の移動経路の人類は主にグループC、D、(E)で構成されているのある。所謂、これ等が融合進化して後の弥生人と成ったのである。

その後2世紀の当時の朝鮮半島は3つ民族で構成されていて、古来、「馬韓」、「弁韓」、「辰韓」の三韓で構成されていた。
現在も地区は同じ分け方である。
その後、中国東部と朝鮮北部に出来た高句麗、朝鮮の中央部東に出来た新羅、中央部西に出来た百済での3つの国であるが、「倭人」として下関と博多と朝鮮半島の南部に交易諸点を割譲して設けた倭人(倭国の交易人を特別に呼んだ)が常駐した「任那」とがあり、この倭人の民は南部半島沿岸部に住み分けていた。

ところが、この朝鮮半島が2度に渡り混乱し、この時の難民が下関や博多に上陸して来た。

未だ、日本全土には統治機構は無く主に4つの域で独立国的国家体制であったので、上陸は統制されていなかった。
「倭人」が活躍している頃の3C末期4C前半頃に、この下関、博多域に入国してくる難民を任那の交易民の倭人の統治機構で海峡管理され始めたのが最初である。

先ず、その前に紀元前に北朝鮮系の民の弥生人が、この日本列島に2つのルートで上陸してきた。一つは下関、博多ルートで上陸してきたグループ@と、新潟、佐渡付近に上陸してきたグループAとある。これが第1期である。

その後、上記3韓が乱れて、4世紀後半ごろ瀬戸内海を経由して堺港に入り、上陸してきた応仁(応神)王の大船団のグループBがある。これが第2期である。

この応仁王は、当時、大和国は4つの部族の豪族から構成されており、この関西地方を連合統治していた。
その4つの部族とは、「巨勢族」、「紀族」、「葛城族」、「平群族」、等に依って首長を交代で統治していた。
上陸時、この連合軍との戦いで苦戦、その後、戦略を変更して各個攻撃に変更して、先ず、紀族を制覇した。
その後、紀伊半島を南下して、新宮から奈良盆地に入り、各族を制圧しようとしたが抵抗持久戦となり、結局、和睦した。
そして、この「応仁王」が率いる朝鮮族を加えた5つの族で大和国の域を「連合統治」したのであり、この初代の王と成ったのが、この「応仁王」(応神王)で「応仁大王」となった。所謂、「河内王朝」である。
この「応仁大王」で「初代天皇」として7C頃に定められた。
この時に上陸した「蘇我氏」や「物部氏」らがあり、後には上記関西域の豪族に「蘇我氏」と「物部氏」が加わったのである。

次に、7世紀初期から中期にかけて中国後漢に征圧されていた民の朝鮮族が、「阿多倍」に引き入れられて下関、博多に上陸して来たグループCがある。これが第3期である。

以上、朝鮮系の民族は大量にはこの3期の民の上陸があつた。
この朝鮮系の民族は遺伝子的区分けした結果、全体の20%程度を占めている。

3 太平洋系の民族は、
所謂、アモイ族である。海洋族と言われる民族で、グループAが更に南下して海洋に出たグループÅ−1である。
ハワイなどの太平洋にある群島に定住した太平洋系の民族が黒潮に乗って2世紀前半ごろに更に流れ着いたところが南九州であった。これがグループ@である。

このグループ@と基からいた北アジア系民族(縄文人)との融合が起こった。

この後に、580年頃に南九州には、別に、漢が滅亡して民族が西側に逃げ海洋に出た一部がインド洋から太平洋の黒潮に乗って長崎、博多付近(中国クループC)と南九州(中国グループD)に上陸したが、この中国グループDのグループAがある。
この南九州に上陸した漢民と先に入ったこの太平洋族と基から居た北アジア系民族の3つの民族が争い無く融合したのである。
このグループ@とグループA(中国グループD)との融合民族は大変に強く、しかし、争いをあまり好まない民族であったとされている。

2世紀中頃は北九州地方に「倭国大乱」が起こり乱れていたが、グループ@とAこの間に融合が起こり、その後3世紀中ごろの「邪馬台国」の「卑弥呼」が死んだ後に、グループ@と北アジア系民族(縄文人)の融合民はこの北九州に攻め上がってきて全土を制圧した。

しかし、この「融合民族」は不思議に北九州の土地(狗奴国と邪馬台国)を統治せずに南九州に戻った。これで「邪馬台国」は滅亡したのである。
ところで、征服される前はこの「狗奴国」は熊を守護神として崇め、国を閉ざし、戦う事を嫌う閉鎖的民族が定住していて「邪馬台国」と争っていた。
これが、周囲と融合を図らなかった元から居た北アジア系民族の(縄文人)の狗奴国(アイヌ系)民族である。

この民族は征服されてからは北九州から門司を渡り、中国地方を通過するときこの地を支配していた出雲国に追われて、名古屋地方に出て、元から居た北アジア系民族(弥生人)にも追われて、最後、滅亡寸前で蝦夷地に入り、元から居たコルボックスの東岸に到達したグループBと融合し定住したのである。

4 ロシア系の民族は、
この民族は2つのグループから成り立っている。
そのグループはグループBとヨーロッパ人類の北ロシアに到達した人類が東岸に移動したグループの2つから構成されている。

この民族は蝦夷地と北陸地方までの地域に定住した。
この民は2つの民族から構成されていたが、その一つは白系人(グループL)であり、もうひとつは黄系人(グループB)である。

現在でも、東北北陸地方の人の中には白色の肌をした人は多いがこれは寒いと言うことから起こる遺伝子的現象のみならずこの白系人の遺伝子をも引き継いでいる事からなのである。

北海道では良く”大楽さん”(だいらく)という氏名等のロシア人の名に似た人を見つける事が出来るが、これはこの白系人の遺伝子を持った氏なのである。私の埼玉の友人にいるが明らかにロシア系である。

清和源氏の゜源義家」が「征夷大将軍」となり、この東北北陸以北を征圧統治し勢力圏としていた首魁人物「アテルイ」を藤原氏の力を借りて騙まし討ちしてこの蝦夷域を征圧して鎮圧した。この「アテルイ」はこの系統の人物である。
この人物らの一団は体格が良く背が高く毛深く色白で異人的様相であったと記されている。

5 アイヌ系の民族。
この民族は上記した邪馬台国と対峙していた「狗奴国」の民が南九州の融合民に追われてこの地に逃げついた「縄文系民族」である。
この民族は熊を主神として崇め閉鎖的で他民族との融合を全く図らなかった。
この地に移動しても同じであり、一部グループBとの融合を図った。この二つは元を正せばグループBの縄文系であり、何れも融合を図らなかった事によりコルボックス系の原種とも言われている。現在までも行っていない事から殆ど絶えたに等しい。

ここで、グループBがアラスカを経て南アメリカに到達し山岳地域に移動したインカ帝国を築いたインカ人と、このグループBの遺伝子を色濃く持つ上記の狗奴国とグループBの融合縄文系アイヌ民族とは、国の調査の結果、遺伝子的にこのインカ帝国王の末裔と全く遺伝子が一致したのである。

つまり、閉鎖的な民族のアイヌ民族と、インカ帝国王の末裔も純血を護って王として子孫を遺したので、ともにどちらもグループBの遺伝子的純血を保っていた事になる。
つまり、東岸に到達した時にそこの地点で日本に上陸したグループと、アラスカを経て南アメリカ山岳部に入ったグループとは親子兄弟であったことを意味する。
この大陸のアジア東海岸のここで親子兄弟が左右に分かれたことを意味するのである。ともに純血を守った事による結果なのである。

この”アイヌ系民族が日本民族の原住民である”という運動が25年前頃(1980年頃)から長く学者を中心に起こった。
困った国はこの問題の研究に取り組んだ。
そして、判った結果が上記した「7つの民族」説と「単一融合民族説」と「アイヌ原住民説」を遺伝子的に最近に解明し証明したのである。そしてその民族割合を遺伝子的に出したのである。

この時、このアイヌ原住民説を上記の通り「インカ帝国」の末裔と一致する事を証明した。つまり、「グループBの子孫」と「狗奴国の民」(現代の熊本 狗奴=熊)とする事が解明出来て、「アイヌ原住民説」の左傾学者運動は解明されて消えたである。

6 南アジア系の民族。
上記した人類分類のグループAとグループÅ−1の人類が南アジアに到達して定住したが、この民族が更に移動して来た。
上記した西に逃亡した漢民により追い出されたベトナム民族やネパールなどの山岳民族がインド洋に逃げ黒潮に乗って南九州の薩摩と北九州の博多長崎付近に580年以降の頃に到達した難民である。

7 北アジア系の民族。
紀元前4000年に縄文人(人類グループB)と、その後、紀元前2000年頃の弥生人(人類グループC)が九州と中国、関西、中部地方に分布し各地に定住していた。この二つの民族は体格、骨格、頭格、性格など異なる民族で紀元前頃まで融合が進んでいた。
この2つの「原住民族」と2世紀−7世紀半までに6つの地域から移動してきた民族と融合をしながら「単一民族」化を進めた。

 以上である。

この「7つの民族」が構成されて奈良時代の大化期には5−7世紀半の民族を「渡来人」と呼び、同化には桓武天皇期まで掛かった事が書物による「渡来人」の言葉で判る。
しかし、この実態は、言葉としては残るが、「天皇家」との血縁等や朝廷の官職などの重要職域に成っていた史実から既に同化、融合は完了していたと見る。

このような「7つの民族」の構成中の対立を出来るだけ避けて「同化融合」の方向に向けて進んだ時代背景の中で、「良民と奴婢」の関係がどのような意味を持つかを考えた上で、この「男女の法」を評価すべきであって、安易に現代風に決して「失政、失敗」の説を唱えるべきではない。

6 「薄葬令」
この法令は、646年に発布されたもので、内容は次の通りである。

身分に基づいて墓の規模、葬送の形式などの儀式の要領と基準を定めたものである。

この法令の持つ意味は「身分」を基準に社会を構成し、統治しようとする「政治方式」であり、現代の感覚では理解が難しいが、上記した「7つの民族」で構成し「同化融合」を遂げようとしている社会では絶対的条件である。
何故ならば、この「7つの民族」の「同化融合」の初期段階では、「習慣、慣例、思考、常識」が全て異なるのである。
これは、国としての要件を最も欠けるものである。つまり、纏まり無く国が乱れる前提であるからだ。

それには先ず、上記の生活から来る基本の条件を統一化させる事が「同化融合」の基本戦略となる。
その為には、「男女の法」の「生誕」条件を定めて「身分」と言う「括り」を作って「常識」の一つとしたと事と同じく、逆の本法令の「死滅」の行為の「常識」を矢張り「身分」と言う「括り」で統一させた。

この「身分」と言う「括り」で「7つの民族」の、「習慣、慣例、思考、常識」を統一させて「同化融合」を国家としての方針で断行したのである。
現在ある日本の「単一融合民族」の社会の「習慣、慣例、思考、常識」はこの時代の法令から来るものであってその行為が現代の「世界に冠たる日本」を作り上げたのである。
決して、[失政、失敗」では無いことが判る。
もし、これが「失政、失敗」とするならば現代の日本を否定するに等しい事となる。
つまり、国会でも「命令放送」などで問題に成っているNHKの最近に見られる心に1物を持った歴史否定のイデオロギーに他ならない。

7−18までは大化改新7−3のレポートに続く。

7 「冠位の制」を改善した。
聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。

参考 改革の下に概要を列記する。
(詳細は、大化改新2−2を参照)

「18改革」と「10活動」は次ぎの通りです。

仕事は次の様なものである。
(10活動)

1 「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
2 「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
3 「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
4 「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
5 「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
6 「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
7 「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
8 「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
9 「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
10 「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
 
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。

本格的改革は次ぎの通りである。
(18改革)

(改革1−6は検証済み 次回は7以降 大化改新7−3に記する)

7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。

8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。
 4行政方針は次の通りである。

 現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。 民主主義の原点である。

 A 公地公民制 
 土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「伴造」「国造」とし行政を明確に  した。現在の行政の原型を定めたのである。  

 B 統一的地方行政制度
   国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。。

 C 戸籍と計帳と班田の収受制度
   民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
   官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
 
 D 統一的税制度
   上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
   大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収

9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
 官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布 帛(ふはく)を与えた。

(第10番から18番までの「18改革」項目は大化改新7−4に記述する)

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