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No.423
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Re: 大化改新7−3
副管理人さん 2007/03/17 (土) 10:55
NHKの新説大化改新の番組の中で、10項目の新説の唱え、その第7番目の説で”大化の改新は「失政、失敗」”との説を唱えました。その説が余りにも根拠に基づかない新説であるので、「18改革」の夫々について検証して「失政、失敗」の是否を論理的に反論している。

中大兄皇子の大化改新は「18改革」と「10活動」を実行した。

(改革1から6は検証済みで、今回は改革7番目より9まで付いて検証する)

では、先ず中大兄皇子が実行した「第7番目の改革」に付いての検証を進める。

「第7番目の改革」

7 「冠位の制」を改善した。
天智天皇は生没年は626-671で、在位は668-671年である。つまり、天皇としては在位3年である。その間23年間は中大兄皇子として政務(18改革、10活動)をとったのである。
そして、この改革は第7番目の改革で647年である。
この身分制度を含む「7つの改革」は大化改新劇が始まって、2年間の間にその7つの改革までを実行したのである。

この時期は未だ、藤原入鹿の暗殺からまだ政情が不安定である時期である。

改新劇の時に中臣の鎌足の説得で味方に引き入れた分家の首魁の蘇我石川麻呂はこの時は未だ生きていた。
そして、中大兄皇子は石川麻呂の娘を妥女(女官奴隷)にして子供を産んでいる時期に当る。

そして、孝徳天皇との政治手法の違いで軋轢もあり混乱中の混乱でもある。
普通は、こんなときは改革が出来るものではない。

しかし、上記したように大改革の「7つの改革」が適時適切に実行に移されていたのである。
それも、豪族支配の原始政治の時代から未だ半歩も出ていない時でもある。
現代に於いてでさえ、三相(人、時、場所)を考えたら先ず出来ないだろう。

僅か2年間の間に7つもの改革を成し遂げた背景力を考えると、この「三相」が「適時適切」に行動が優れていた事を示すのではないか。

先ず、人である。

@ 混乱の中、周囲の力のある人を説得し、そして、それを起案する優れた知識をもつ官僚、更には起案を実行する組織の阿倍内麻呂を代表とする阿多倍らの子孫となる渡来系の人々、
A 全体を指揮統括する国博士、天皇の直接手足となり相談役として働く施基皇子(伊勢青木氏)川島皇子らの「10活動」で活躍した身内の軍略師や内臣、
B 後漢から阿多倍らが引き連れて来た事務を本職とする技能集団の秦氏、司馬氏らの末端の役人、
C そして、それらを保護するの漢氏、東漢氏、百済氏の阿多倍の渡来系の人々、
これ等の者が一致結束してこそ始めてできるものである。
人の問題だけを捉えてもこれだけの大プロジェクトとである事が判る。

それも「時の問題」としても、

この7改革が2年間の間に猛スピードで処理し実行した事を意味する。
現代でも一つだけでも起案、実行、監査をするに2年も掛かるところを7つもの改革を実行したのである。

そして、その改革を蝦夷地を除く60カ国近い地域に前記した「東国国司」を置いて、この施策を実際に「測量」、「人口調査」や「国境の確定」等の「10活動」など敷いたのである。

場所としての施政地域は次ぎの範囲である。

この時には未だ、東北、北陸、蝦夷地は未征圧である。危険を覚悟で実行している事になる。
最初にこの地域を制圧したのが15年後の阿多倍の長男の坂上の田村麻呂である。
その地域のまだまだ未開の土地でもあつた。
この未開の地域までの近い所まで「民主政治の原型」の政治体制を敷いたことを意味する。

この事はいかに、大改革で、実に多くの人員を投下して、多分、7つ以上のプロジェクトを組み、実行した事が覗える。

又、「国博士」が飾りではなく本格的の知識が最大限に生かされたことを意味する。
高くて広範で進んだ知識と豊富な経験が無くては出来ない
当然にどれだけ中大兄皇子が熱意を以ってして指揮したかが判るものでもあり、これだけ2年間の間の7つの改革を指揮できる人物はそうざらにはいないであろうと考える。
それを的確に、論理的、合理的、数理的に即決判断出来て指示する人物は秀才を超えている。

その間には、政治不安の対応もあったであろう。
現に、蘇我石川麻呂の謀反の嫌疑や孝徳天皇のと軋轢、その勢力下の子供や親族の抹殺、蘇我氏の血縁を持つ皇子の追い落としなども1年後に起こっているのである。と云う事は、既にこの時にはこの粛清の動きは始まっていたことを示す。
燻りから見ると、その時の状況はその真ん中にあった事を示す。真にすごい勢いで猪突盲信の如くである。

この2年間の政争混乱の末に生まれた直接天皇を護衛し、相談役の日本最初の元祖の皇族賜姓伊勢青木氏(647)らの一族もこれに参加したのである。もし、私なら無理である。
いかに相当で天才的な優秀な天皇であったことを証明している。

この様な背景から生まれた為政者のこの身分制度の持つ意味はどのようなものであったかを考えるに、大変重要な判断材料であり、この視点を欠いて判断すると違う結果が生まれる。

「冠位13階制度」
聖徳太子の冠位12階制度の意思を引き継ぎ、この冠位13と19と26冠位と状況に応じて追加をしているのである。
この状況には対応した夫々の意味を持って居たのである。
この政情不安の中、その反動は主に豪族の反動であり、それらを押さえる一つの手段として改新に力を発揮した豪族には、「名誉」という手段で応じた。
聖徳太子の冠位制度を改善して、この大化改新の豪族間の不安定な状況に対応したのである。
そして、これだけではなく、更にこれに姓制度を加味して安定を図ったのである。それが、次ぎの制度である。

「7色の姓制度」
それだけではなく、この時に「7色の姓制度」を新しく付帯して施行したのである。
この「7色の姓制度」は後に、天武天皇が更に充実させて684年に完成させたものである。
明治までこの冠位身分の制度は用いられた。「失政、失敗」であれば個々まで続く事は無いだろう。

それは、次ぎのとおりである。
真人族(まさと)  最上位で皇族出身の者で、第4世までの皇子らに与えられた冠位の姓である。
          皇位継承権の持つ皇子である。
          後の島左大臣の子孫といわれる丹治氏系青木氏がある。 
朝臣族(あそん)  第2位の姓である。
          皇族出身で臣下した第6位皇子らに与えられた官位の姓である。
          賜姓青木氏(伊勢)や後の嵯峨天皇期から生まれた賜姓源氏である。
宿禰族(すくね)  第3位の姓である。
          皇族系で天皇家と直接血縁を保持する一族である。
          元の連姓にあたえられた冠位の姓である。
          例えば橘宿禰として橘諸兄などがいた。
          皇族系の橘系青木氏がある。
忌寸族(いみき)  第4位の姓である。
          始めは直姓(あたい)の族に与えられた。
          各地に赴任する高級官僚に与えられた。
「国造」(くにのみやつこ)「伴造」(とものみやつこ)の冠位の姓である。
          後には、阿多倍らの渡来系の一族に与えられた。
          坂上、大蔵、内蔵、阿倍氏らである。
道師族(みちのし) 第5位の姓である。
          実際には与えられた氏の姓は少ない。
          天智天皇の子供を生んだ妥女の「越の道師君伊羅都女」の父親などがある。
          地方豪族が主体である。(この妥女は施基皇子の母)
          妥女から皇子を産んだ里親などに与えられた冠位の姓である。
臣族(おみ)    第6位の姓である。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。
連族(むらじ)   第7位の姓である。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。

(天武天皇期に追加)
稲置族       「隋書」の倭国伝の中に記されている。
          道師の更に小族で村などの里長である。
          この10人程度の集団で忌寸の配下に成っていた。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。        

当時は氏家の制度を主体としている事から、この様な冠位と姓を受けることで、権威が上がり、官職も上昇し、権力も強くなり、俸禄もを増える。このことは氏一族の発展を意味するのである。
少々の不満があろうと、この一種の餌で収まるほどの不満である。確かに下記の「公地公民」があり、「土地と民」を奪われての不満があった。しかし、これを、「冠位と姓」で埋めたのである。

つまり、「土地と民」の不満>=「冠位と姓」の名誉、 「冠位、姓」の制=「公地公民」の制の方程式が成り立つのである。

冠位制度の変更の経緯は次ぎのとおりである。

聖徳太子の冠位12階制度より開始された。
大化改新の2年後(647)に中大兄皇子に依って変更された。
それが7色13階制度というものである。
その後、更に2年後(649)に19階の冠位制度とした。
そこから15年後(664)に26階の冠位制度とした。
19年後(685)の天武天皇期には48階の冠位制度した。
後に「7色の姓」から「8色の姓」に変更した

この様に次第に冠位を増やしたのは、矢張り、末端まで行き届く制度に変更して下記の方程式にしたのである。
「土地と民」の不満=「冠位と姓」の名誉

このことは、この制度が政治的「不満」という事に効果があったことを意味する。

では、不満という見地以外に、何故にこの「冠位制度」と「7色の身分と姓制度」を定めたのかと言う疑問が残る。
それを検証して見る。

上記したようにこの「7つの改革」時期は「混乱の時期」である。
その中でこの「混乱」を沈めるには「民衆」が納得する「論理的な区割り」をして、力の有無を原則として問わない新しい身分制度というシステムで政治的に統治しようとしたのである。

つまり、このシステムを方程式にすると次ぎのようになる。
「民衆の納得」=「論理的な区割り」<>力の有無 

「身分」や「冠位」や「姓」や「職業別」や「氏族」等で「括り」を作り、夫々に対して「権限」と次ぎに述べる「食封」などと共に、「公平に論理的分配」をする事で「人心の安定」を保ったのである。

これも方程式にすると次の様になる。
「人心の安定」={「身分」・「冠位」・「姓」・「職業別」・「氏族」}*{「権限」+「食封」}

その為には、「10活動」のような土地を政治的主体としている社会の中で、数理的な計測をする事で論理性を出し、衆知が得られるシステムを構築したのである。

現代でも、国会で問題に成っているこの政治的システムである。この時代にこの新しい計測システムを駆使して正確に区分けしたのであり、それも全国的である。

この計測さえも当時の文明では大変なのに、この2年間程度の中で行ったと言うことは脅威と言う以外にない。
不思議なくらいである。おそらく各地では上よ下へよの大騒ぎであったはずであるし、珍しさと未来に向けた期待もあり各地は祭りの如くであっと思われる。また、これを実行する官僚は今の「奉仕残業」どころの話では無かったと想像する。

蘇我氏らの豪族支配による原始的社会制度から、ある程度の民主的な新しい社会体制に移行して生まれ変わるのだと言う日本全国が熱気を帯びていただろう事が想像出来る。

現在の政治改革は過去の見本や履歴がありその延長上の改革である。しかし、この改革は全く新しい履歴の無いところでの改革で有るのだから、中大兄皇子のその指揮ぶりはどの様なものであったか知りたい気持ちに駆られる。
おそらく、人間離れした「機械的超頭脳人間」であったであろう。

この様な雰囲気の中を利用して民衆を掌握して、民衆が納得できる体制を確立したのである。
誰でもが同じと言う古来の原始時代に用いていた「共産主義的な括り」の延長ではなく、「冠位と姓制度」という手段でより進んだ民主主義的要素を持った天皇を頂点とする中央集権的な社会と政治の体制を確立したのである。

今の時代から考えれば、天皇を中心とするという政治体制は異質に感じるが、当時としては当り前の身分と言う括りに納得していたのである。

何故ならば、それは、前記した「民族構成」にある。
「7つの民族」からなる「融合単一民族」へと進んでいる最中なのである。
この「融合」をより進めて、一つにしてこそ政治社会の体制が確立するものであろう。
この「7つの民族」の「習慣や考え方や能力」などは全て違うと言う現象の中で、これを統治する手段はそう多くない筈である。
では、この「7つの民族」のを統治するとしたら、貴方ならどうするかである。

矢張り、私ならば、民衆の「集約的な要素」を分析して、「論理的、合理的、数理的」な「行動」で納得させる。
これを「身分」という「括り」で分類する。
それに、「冠位」と言う「権威」を与える。
「基本的権利」を分別する。
その区分けに相当する「働き」を義務化する。
それに見合う「俸禄(食封)」を与える。
主観的なものを排除した3つの「論理、合理、数理的」な「集約的手段」として納得させる。

そして、このベースとして、「民主的な義務の責任」=「税体制」(後述)の方程式を確立させる。

この「冠位と姓」制度と関連した「税体制」を調べると、実に合理的で細部までに配慮が届いている事が”よくもまぁなるほど”と判るのである。

以上から見て、NHK新設の「失政、失敗」は当らない。
以後、これを見本に、天武、聖武、文武、光仁、桓武、嵯峨の6代の天皇に引き継がれて、「皇親政治」により強固な律令国家は完成したのである。以後も1185年頃までは確実に続けられた。(開始645年)
「失政、失敗」であるのであればこれ程に続く事はありえない。

それこそ、NHK新説そのものがこれ程の客観的史実がありながら「失政」だとする事は、その新説そのものが「失敗」と言いたいところであろう。「新説」は平成の「大不思議」を超えて「平成の大失敗」である。

尚、これにそのすごさを更に証明する改革を用意する。

それでは、先に、第9番目の「食封」(じきふ)の改革から述べてみる。

9 「食封」を定めた。
「18改革」の内の第9番目に実行した改革である。

この改革は上級官僚等に一定の戸(封戸:ふこ)を指定して、その戸が納める租の半分と、調、庸の税の全部を受け取らせると言う俸禄制度で、下級官僚には布帛(ふはく)が支給された。
大化改新の際には大夫(たいふ)以上の官僚に支給したのが始まりである。
これ等のことを正式にこの令で裏付けたのである。

ここで税体制がどの様なもので成り立っていたかを述べると、次ぎのようになる。
税には13のものがあった。

これは天智天皇から天武天皇に引き継がれて完成された税制である。
実に内容が細かく再分化されてこの時代に決められたものかと思う程である。
そして、この細分化され納められたものを収納するシステムまで完成しているのである。

大化改新の税体系(13税体系と2収納方式)


律令下で田地面積に応じて課せられる税であり、田租である。
諸国の正倉に収納されるもので、地方行政の財源となつたものである。
上田(稲の品質を4等分した内の最上級)の1段に採れる公定の収穫量を72束として決めて、その2束と2把を税として徴収した。約3%である。

この3%の根拠は初めて採れる穂を神に捧げる農耕の儀礼を元としているのである。
現在の主税(3-6%)の根拠に近いのである。これは現在の税率が正しいとすると素晴らしい論理的根拠である。


労役、或いは歳役である。
年に10日と定めて、その労役が出来ない場合に納める税で、物納税である。
例えば、その物納は麻布が主であり、3段階に分けていた。個人の労力程度に分類して正丁(10日)、次丁(5日)、小丁(0)としていた。
正丁は2丈6尺である。次丁は1丈3尺。小丁は免除された。
これは、雇役して河川などの公共施設などの増設や修理作業等に支払う財源にしたのである。
目的財源である。現在の自動車税や通行税などの道路特定財源等に当るのである。
今と変わっていないとすると論理的根拠と言える。

調
地方の特産物を物納する税で、品目としては絹、綿、糸などの他に、鉄や海産物などを納めるものである。
正丁、次丁(正丁の1/2)小丁(正丁の1/4)で納税し、畿内は免税である。

歳役
労役そのもので、庸で物納税に代える事が出来る税である。

あしぎぬ
粗い絹織物で、全国から集められる。その内の調の一つでこれを官人に支給される物品税である。

雑徭
これも労役である。正丁(60日)、次丁(30)、小丁(15)地方の労役に従事する。

兵役
徴兵制である。正丁の3人に1人が平氏とする制度で、1戸で1兵士を徴兵する制度である。

衛士
宮廷警備の兵士制度で兵役の軍団から1年任期で選出された。

仕丁
これも労役である。中央の公的造営建設に従事する制度である。50戸に2人を選出した。

運脚
庸調を中央政府に送る運送労役である。食料は自弁である。

贅(にえ)
天皇へ貢納物であるが、山海珍味を納めるもので儀礼的な意味の役。

義倉
備蓄用の米麦粟の等級に応じて納入した。

出挙
稲種を貸付て、利稲をつけて返す制度。

正税
地方財源にする田租で国司が正倉で収納管理する。

以上の労役税、物納税、正稲税の3つに分けて、それを納める段階を3つに分けて、正丁、次丁、小丁に指定し、夫々に課税する方式を採用する方式である。

「消費形体」も確立していた。

労役税は賃金を支払われる事で、地方と個々の戸に貨幣を流通させて、経済の均等化を図っていた。
地方の労役は自弁を原則として消費活動を活発化させた。
労役が出来ないことでは柔軟に物納を代替させて労役の財源としたのである。

「経済方式」も確立していた。

基本的には技能集団による「部制度」で全物品を集めて管理(伴造)し、それを市場に出し、上記の労役で消費させる「基本的な市場経済」になる。
各地に「弁済使」の官僚を置き、税の徴収や稲の管理、収納と運搬の全体の管理をさせた。
担当した氏は主要官僚5氏の伴氏である。

「出挙」等は「国定財源」を恒久的に安定させるシステムであるが、市場経済的な合理的手法である。
この一つ一つの税を見てみると、現在の税の種類と同じである。
若干の手法は時代の進歩と付加価値では異なるが基本の税理念は同じである。
そして、それは「国税」、゜地方税」、「徴兵税」、「運輸税」、「物品税」、「消費税」等に当てはまる。

当時としては個々の物品の技能集団(阿多倍ら支配下)を形成して「部制度」を確立させて、それを「計画生産」させて、市場に出して「消費」させて、「国定財源」を確保安定させ、その税を再び「労役で戻す」方式である。

一部は「社会主義的な生産」をさせて、「消費は市場経済」を採用している事になる。

検証
極めて合理的である。現在でも出来ないのではないか。それを一部蘇我氏ら豪族の力のある者の消費に頼る「原始経済」の状況から、「国民全部」の「市場経済」を確立させたのである。驚き以外にない。

もし、これを「失政、失敗」だとすると、「成功」とはどんなものを言うのであろうか知りたいものである。
NHK新説の「成功」は共産経済を是として「失敗」としていると考える以外にないのでは無いか。

3管理システム
この上記の「13税種」の体系だけでは税は確立しない。
されには、「3つの管理システム」を確立させる必要がある。

それは、「収納」、「搬送」、「消費」である。

この「3管理システム」と「13税種」がうまく連携してはじめて機能は働く。

主要広域な消費システム

消費としての意味合いの強いこの労役税が多いが、これは労役を通じて「民衆の現金収入」と正税の「稲から得られる収入」の二つで生計を立てさせ、その上で消費活動を活発化させて経済システムを構築する為の労役なのである。
この労役は農繁期を外した時期に行われたので、問題は無い。

又、防人(さきもり)等の兵役も各戸の余剰の働き手を吸収しさせる事で、生計を潤させる事ができ、且つ消費が活発になり、国を守る意識を植え付ける事が出来るなどの政策効果を高められる重要政策の一つである。
兵役などは2年と言う短期間に限定して悪影響の出ない工夫をしているのである。

この様にむしろ、この時代では経済を大きく動かす事の出来る唯一の主要政策の位置付けであった。

「正倉」(しょうそう)
地方毎にある「収納倉庫」で、「正倉」(しょうそう)と言う倉庫。公的に財源とした正稲を収納した。

「官稲」(かんとう)
諸国の「正倉」に納められた稲の総称である。国定財源になる。これを運ぶ手段として上記の「運脚」税と「官稲」管理システムとを絡めていたのである。

このように現在の国が仕切る「税体系」と農協が行う「管理システム」とは余り変わっていない。この事から見ると、現在の税システム体系が正しいとすると、「失政、失敗」の改新ではない事になる。

そして、この税体系が次ぎの一定の「根拠」により形成されているのであり、思い付きでの税体系ではなかった。

そこで「根拠」として、次ぎの「8番目の改革」に付いて述べるとする。

民にこれから行う「政治改革」を事前に発表したのである。
現在のマニフェストである。
現在でもまともに出したのは10年前位からである。それを1365年前に発表したのであるから、驚きである。民主主義の原点を1365年前に実行したのである。
さて、その内容はどんなレベルのものであったのであろうか。

「8番目の改革」

8 「改新の詔」を定めた。
「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。

4つの「行政方針」は次の通りである。

現在の「行政方針」に当る様なことを新しく敷いて公表したのである。真に、「民主主義」の原点である。

A 公地公民制 
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「伴造」「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。  

それまでは、蘇我氏らの豪族の支配に有る半奴隷的所有であった民を国の民として位置付けて豪族から支配権を剥奪した。
そして、これ等の民を国の民として上記した労役や兵役、衛士として活躍させ、且つ、市場経済の消費の源としたのである。
更に、豪族が所有していた土地も剥奪して、国の管理の基にしたのである。
土地から来る豪族の利益は極めてなくなったことを意味するのである。
民も地とも国に取られたら、普通は豪族が結束して反乱を起こす筈である。
しかし、実行出来たのである。

当然、何かがあったから出来たと疑問が出る筈である。
この事に付いて、「日本書紀」に詳しく出ている。

この「改革」を推進し、この事を解決したすごい人物が、中大兄皇子と大海人皇子の2人の側に居たのである。それも、身内の子供である。
第6位皇子と第7位皇子である。つまり、「施基皇子」と「川島皇子」である。
各地で全ての争いや問題や揉め事が有ると呼び出している。調べた範囲では「施基皇子」は18回呼び出されて各地に飛んでいる。「川島皇子」もこれに近い程度で呼び出されている。そして、沈静化していることが書かれている。

後漢の「光武帝」より21代目の「献帝」の子供「石秋王」の子供の「阿智使王」と孫の「阿多倍王」らの帰化人が九州征圧して、中国地方と関西の一部を征圧して、この「豪族の反動」は鎮圧されてた。

更に、各地の経済も技能集団の民により「生活程度の向上」に貢献し、「民の不安」を取り除いた勲功で、薩摩を分轄して「大隈の国」と、伊勢国を分轄して「北部伊賀地方」とを作り「2つの領国」を与えた。

日本書紀には「大隈の首魁阿多倍」と「伊賀の衆」と呼ばれて3度朝廷から呼び出されて祝宴している。

この3人(伊勢青木、近江佐々木氏、阿多倍一族)の持つ「大勢力とその活動」が、「豪族達の反動」を押さえた事も言えるのである。

B 統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。
むしろ現代より、この時代の方が地方に行政を委ねているのである。
   
その例として、九州全土の政治を「阿多倍」の一族の3人の男子の内の次男の子孫に委ねたのである。
大蔵氏(後の九州永嶋氏)である。そして、現代までも例の無い一氏のこの大蔵氏に「錦の御旗」を与えたのである。
そして、その大蔵氏に対して「遠の朝廷」と呼んだ。どれほど地方に行政を委ねたかが判る。
南の守りとしては、官職として「太宰大監」を代々に与えた。
北の守りとしては、北海道の鎮圧の為に代々与えた藤原秀郷一族の「鎮守府将軍」と同じである。

C 戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。

この測量方式は秀吉の検地や江戸時代の測量に採用された方式である。
同じ方式を用いた江戸時代の伊能忠敬の日本地図の正確さを見れば、如何に正確であったかが判る。

現代の中国でさえ、今もまともに行われていない位の難しい難題を解決したのである。
如何にこの官僚と指導者の強い意志が有ったことを示す。
日本人の体質を物語ることである。つまり、”ここぞ”と思うときに出す根気の有る「精神構造」である。

D 統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に「弁済使」を置き「租税」の統一と正確な管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで合理的な税を徴収した。

この「弁済使」で有名な氏は「伴氏」である。地方の各地に子孫を配置してこの任を実行した。
各地に、この伴氏との血縁族が各地に多い。例えば、九州の最大勢力の「肝付氏一門」がある。
以上の内容である。

これ等の活動のことを、「日本書紀」に詳しく書かれている。

上記の「10活動」はこの政策を実行ならしめる為に、内臣で軍略師の伊勢青木氏の始祖の施基皇子、近江の佐々木氏の始祖の川島皇子が活動したのである。

この「18改革」と「10活動」は、多くの国民が国の変革の為に熱気を持って指示し支えている事が判る。

この改革は、中大兄皇子と大海人皇子の下に、この「3人の活動」から来るもので、現代の「日本の根幹」を作ったのである。

このように、多くの民に指示され、豪族の反動を押さえ、進んだ技術と国政のシステムを駆使して、現代の税体制に類似する政治体制を敷いたのである。

7−3の改革は、何処から見ても「NHK新説」の「失政、失敗」となるのか判らない。事の良し悪しを決める「人、時、場所」の三相の何処が「失政、失敗」なのか勉学の為にNHKに聞きたい位である。

では、次は第10番から検証する。
(18改革)と(10活動)の詳細は大化改新2−2参照

(第10番から18番までの「18改革」項目は大化改新7−4以降に記述する)

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