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  [No.259] 写真技術と色の理論−前編
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/12/01(Tue) 09:11:09
写真技術と色の理論−前編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

写真技術と色の理論
(副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)


さて、写真を趣味としている人、或いは写真が好きだが難しいし理屈が判らないと云う人は一度は”写真をより綺麗に撮れるノウハウが無いのか”と思ったことがあると思います。
意外にその「写真技術」に付いての解説が一般的にどこでも見られる事に成っていない気がします。
有っても難しい抽象的な事の芸術的な事が多い気がします。カメラの使い方ならあるかも知れませんね。
そこで、「芸術写真」では無く、”綺麗で自然美のある写真を撮りたい”と思う人は多いと思います。
一般に「綺麗な写真」とは「人間の目で観た通りの感じ」が表現出来ていると、人は「綺麗な写真」と先ずは云うのではないでしょうか。
脳の科学でも「綺麗」と云う印象は、その比較対象があり「汚い」が反意語ですが、「綺麗」には脳の中に先祖から培われて来たその無意識の「印象」が遺伝子的にインプットされているものがあります。それは人間が生きて来た「環境」に左右されています。
その「環境」とは「自然の美しさ」なのです。この「自然美」が長い間に一つの統一したものを脳の「印象記憶」として保存されているのです。
そうなりますと、その「自然」が違う、或いは「環境」が違えばその「自然美」の評価も違うという事になりますね。例えば、日本人の先祖はある程度の「穏やかな環境」と「自然豊かな環境」に恵まれて来ました。四季があるのは何よりの要素ですね。
ですから「日本人の自然美」と云う固有の共通したものがある事に成ります。
それはこれから論じる写真の「色」で最も表現出来るのです。
そうすると、論理的に「人種」では異なると云う事に成りますね。
その通りです。例えば、下記でも書いていますが、以前にもレポートした事がありますが、アングロサクソン系の人種は極寒の中から生き残り進化して来ました。そして、その環境で「身体」とその「脳」もそれに合わせて進化しています。
ですから、其処に存在する「環境」の「自然美」の感覚は必然的に違う事に成ります。その最も異なる「印象記憶」は何はともあれその「極寒からの自然美」なのです。
例えば、特に人はその「肌の色」と「自然美」に顕著に違いを出すと言われています。
「肌の色」は日本人は「淡いピンク色」ですね。でもヨーロッパ系は、本当は違うのですが、「やや赤みがかった色」を云っているのです。
この様に、「色」にはかなり「主観性」というよりは「人種性」に依って異なります。
そこで、その「色」と云うものに付いて根本から考えて見ようと思います。

「色」とは何か
そこで、先ず、この雑学に入る前に、”色とは一体何だ”ということを知る必要があります。
ここから少し論理的に成りますが苦手な人は何とか追い付いて来てください。
出来るだけ優しく説明をします。
では先ず、簡単にいえる事は、「色」は「波」、つまり「振動波」と云う事ですね。
では、その「振動波」は”何の振動波”と次から次えと疑問が湧きますよね。
それは、「太陽から来る振動波」です。
では更に、その「太陽から来る振動波」は”何の振動波 何で来るのかな”と続きます。
それは「太陽の核爆発で起こる振動波」だと云う事で「エネルギーを持った振動の波だ」と成るのです。
では、その「太陽の核爆発で起こる振動波」は”何が爆発して起こるのかな”と疑問が湧きます。
それは、「全ての物質」の「核爆発振動波」だという事ですね。
「物質」の基の基と成っている「核」と云うものがあります。それが爆発しているのです。核爆弾のあれであの爆弾の大きい破裂が連続的に起こっているのです。一つが爆発すると、その物凄いエネルギーで更に隣の核も爆発してしまいます。この「核の連動爆発」が起こっているのです。そのためにその爆発の熱で太陽の表面の温度は6000ケルビン(ほぼ6000℃)と成っているのですが、その中の方は想像も付かない温度と成っています。この為の熱で連動して「あらゆる物質」の核が爆発を続けるのです。ビッグバーンで飛来した地球上にある物質では溶解する温度の最高は知る範囲で3200度程度です。地球と太陽は同じビッグバーンで発生していますから、ほぼ同じ物質が存在している筈ですね。そうすると、表面が6000度ですから内部の物質は全て熔け蒸発の領域にあると考えられます。
因みに鉄は1540度ですから、太陽の中ではとっくに蒸発している筈ですね。
蒸発すれば4倍以上ですから気体領域をとっくに超えている訳ですから、その物質のエネルギーを持つ核は裸の剥き出しですから隣の核との反応に依って核の分解が起こる事は素人的にも充分に考えられる筈です。
そうすると気体を超えて裸の核の状態の中で、”何で核が爆発すると振動が起こるのか”と云う疑問が起こりますよね。
それは簡単に云うと、「裸の核」の環境の中(+−の状態)で、物質の基の核が爆発すると+と−の引き合うエネルギーの渦が起こります。そうするとそのエネルギーの差がバランスをとろうとして「振動」として動きます。そもそも「振動」というのは原理は「高いところ」と「低いところ」の差で起こるのですから、差が無ければ振動は起こりません。
そうすると、その+−のエネルギーの差が次第に集まってきてエネルギーを持っているのですから「磁場の渦」が起こるはずですね。よってその渦の中にはエネルギー差の振動が集まり、そこで大振動が起こる事に成ります。従って、この振動は音の振動のようにエネルギーの無い振動ではなく、その振動には磁力(E)を持っていますので「振動磁波」が働きます。この磁波の力が集まって「磁束」が起こりその磁波の渦が起こるのです。
この大きなものが宇宙で起こるビッグバーンと連動して起こるブラックゾーンですね。
恐らくは其処に起こる磁波の渦の形は「とんがり帽子」をひっくり返した様な形で渦巻いていると想像できますね。強い所と弱い所の差を埋めようとして渦が収束して行きますからね。
太陽ではこの一つの核爆発で一瞬の一つのビッグバーンの連動が起こる事で振動が起こるのです。

この現象は太陽だけで見られる事ではありませんよ。実は地球の「自然の摂理」の中でも、これと同じ様なよく似た事が身近で起こっていますよ。台所ではIHのコンロです。洗面所では自動歯ブラシ器です。工場では高周波熱源などの装置です。
つまり、この原理は次ぎの通りです。
上記した磁束の真ん中には振動磁波の束の渦が起こります。この渦の真ん中に抵抗する何かのものをセットすると、その振動がその抵抗物の中の電子を無理に動かしその逆の方向に電流が生まれます。そうすると、そのセットした物質に電子の衝突が起こり、衝突した時の熱で加熱現象が起こるのです。IHのコンロはこの振動磁波の特長を利用しているのです。(誘導起電力と云う)
電動歯ブラシもこの電流でモータを廻しているのです。
この原理の大きいものが起こり、その時に起こる振動が渦の中心から「振動波の連動」で飛び出すのです。そこから発生するのです。この連続したものが振動磁波です。
では、爆発するとそのあらゆる物質の核の”その振動波はどの様にして遠い太陽からこの地球まで届くのか”と云う疑問が湧きます。
その答えは、太陽と地球の間には「宇宙ちり」以外に障害物がないからですね。
障害物が無いと”何で「核爆発振動波」が届くのかな”と疑問が湧きます。”
振動波とはどんなものか”という事を知る事で判ります。
先ず、衝撃が起こる。宇宙は「相対の原理」に基づく為に、衝撃の+エネルギーの反対の−エネルギーが同時に起こります。それでなくては衝撃は起こりません。反対のエネルギーが無い事は同じ衝撃が連続的に起こる事を意味します。その事は衝撃が無い事を意味していますね。
つまり、衝撃とは「ある処からの差」を云っているのですよね。

簡単に言い換えますと、「楽しい」と云う事は「楽しくない」と云う事があって、その「差」を言っているのですよね。「楽しくない」と云う事が無ければ「楽しい」と云う変化はありませんね。当然に、差が無いのですから「楽しい」という言葉も無い筈ですね。

この様に、核爆発が起こる事は例えば「+の衝撃」が起こると、多少の「タイムラグ(時間差)」が起こり「−の衝撃」が起こります。
同じく「−の衝撃」が起これば必然的に相対の原理で「+の衝撃」が起こる事に成ります。
ここにこの時、次の「三つの特長」が必ず生まれますね。
それは、次ぎの通りです。
「タイムラグ」
「衝撃の大きさ」
「速さ」
以上3つが生まれる事に成ります。
この事が色に関しては大事な事なのです。特に人間には大事な事なのです。
この衝撃の「+−」の事が繰り返して起こりますね。この衝撃に「障害と成るもの」が無い限り永遠のリサイクルが繰り返し起こります。

つまり、「タイムラグ」と「衝撃の大きさ」と「速さ」の「三つの特長」が起こる限りはサイクルは続く事に成りますね。
「三つの特長」が起こらないと、”衝撃は皆同じ”と言うことに成りますので、波は起こらない事を意味します。
そこで基に戻りますと「波」とは”あるものからあるものへの差”があるので「波」と云う言葉が存在するのですよね。
繰り返しますと、”全てのものが皆同じ衝撃”という事に成りますので、それは衝撃ではありませんね。当然に「衝撃」と云う言葉は必然的に存在しませんね。

さて、太陽で核爆発を起して衝撃振動波が起こりサイクルが起こると磁束の渦の中央から噴水のように打ち出される様にそれが宇宙に飛びたします。(トンガリ帽子の形のために)
宇宙には、空気を含む一切の障害物がないとしますと、「三つの特長」の持った波は「+−」のサイクルが次から次えと起こり始めます。
「タイムラグ差」*Nの条件で360度の方向に繋がって起こり始めます。
障害が無いのですから、「タイムラグ」と「衝撃の大きさ」と「速さ」の「三つの特長」に影響を与える事無く条件は永遠に維持される事に成りますね。
つまり、このサイクルでこれが太陽で起こった「核爆発衝撃波」として三つの特長を持ち続けて地球まで届いているのです。これが波なのです。

さて、そうすると、”あの太陽でそんなことが起こっているの””「三つの特長」は何で起こるのかな”と思いますよね。
そこで、それを解くには”太陽はどんな物で出来ているかのかな”と考えます。
地球は星のビッグバン(爆発)で生まれていますので、少なくとも太陽と同じ物質である事が考えられますよね。
そうすると、同じ物質であるので、その物質には上記した様に何がしかのエネルギーを持っています。そうすると”そのエネルギーとは何なのか”と云う疑問が生まれます。”鉱物は生きてもいないのにどんなエネルギー”と続きます。
この太陽から分裂したこの宇宙の世に存在する全ての物質には上記した様に「電磁波」なるものを持っているのです。当然に人間にも持っているのですよ。
この宇宙は相対の原理ですから、「+」と「−」とがあるのですよね。太陽を含む宇宙からから出た物質にはこの原理に依っていますので、「+」「−」になるものが物質に存在する筈です。
それが、「電磁波」なのです。未だすっきりとしませんね。
その電磁波についてももう少し詳しく考えると、物質は分子、原子、核とにより成り立っています。
その物質は幾らかなバランスを崩して他と引っ張り合う為に1か2か3か4か・・の+−の何れかのイオンを物質に触手の様に手を出して持っています。
このイオンの触手がある為に物質と物質との「結合と融合」が起こるのです。その基は核の振動です。
この核の中には僅かなエネルギーの差を埋める為に、更に「中間子」と「中性子」とがあり、夫々の役割を果たして微妙なエネルギーのバランスを保っています。
そうで無いと、いつかバランスが崩れて物質は破壊してしまいますね。
言い換えればこの「相対の原理」とは「バランスの原理」とも云えます。
そして、その為に物質には何がしかの行動が無くてはなりませんが、その核は「超微細な振動」をし続けているのです。一般的な概念では”鉱物は死んでいる”と思いますが、これでは”生きている”と成りますよね。そうなんです鉱物も生きているのです。「生きると言う概念」の問題ですね。
全く静止しているのではなく自ら核はバランスを取る為に中間子中性子を連動させて「超微細振動」を起こしているのですからこの概念の一つとも云えます。
更に、この磁力を持つ振動の磁波は人間を始めとする他の物質に影響を与えているのですから、これでは”生きている”と成りますね。
概念として観て見ると、この電磁波の最たるものとしての収束力が地球と成りますが、鉱物の集合体の地球の電磁波は地球の上に存在している人間を、この磁力の力、つまり、エネルギーの差で地球に引き付けているのです。
人間にもその人に相当する電位差(身長分)を持っていますので、その電位差と引き合い地球に存在出来ているのです。そうでないと、地球はマッハ2程度の速さで回転していますので、加速度により宇宙に飛ばされて行きます。そして破壊します。
つまり、バランスが崩れての現象が起こるのです。人間だけでは無く全物質が対象です。この様に、電磁波は太陽で起こった核爆発で振動と云う原理で届きます。

ところが、その物質が持つ猛烈な電磁波の差で引き付けられて核の衝突が起こり、その衝突熱のエネルギーで核が更に破壊されて核爆発(爆発のすごさを表現すると6000ケルビンで℃では凡そ6千度の表面温度)が起こっているのですから、この理屈から地球に存在する物質の全ての核爆発が太陽で起こっている事に成ります。
そうすると、その物質の核爆発の特徴とする「特有の衝撃波の違い」が出てきますね。人間の指紋の様に、それが「三つの特長」と成って出てきます。
その3つの特長とは、「タイムラグの大小(波長)、衝撃波の大小(振幅)、波の速さ(エネルギー)」でその大小が生まれますね。
これが、地球に「特有波」と共に届いているのです。
では、その物質は地球では約360程度の物質数にも成りますので、太陽にもその物質が熔けてある筈ですね。その物質の全ての核爆発が起こりそれだけの違いの振動磁波のサイクルで地球に届いている理屈に成ります。
この波が地球に届くとここからが「色」と云う原理が働きます。

さて、いよいよ「色」ですが、では、その「三つの特長」が人間にはどのように見えているのか疑問です。
其処には、ある「物理的現象」と「人間の目」のシステムに依っているのです。

そこで、その前に、復習としてもう少し波の成り立ちに触れます。
”何でその振動(波)が遠い地球に届くのか”と云う疑問の追求です。
先ず、+の第1の振動が起こります。そうするとその−(マイナス)の相対のエネルギーの振動が起こりますね。そのエネルギーを減らす障害物が宇宙には無いのですからエネルギーを保持したままにこのサイクルが前へと延々と繰り返されます。
この様に、宇宙は障害物が有りませんので、全く変化無く届きます。しかし、地球に届いた時から障害物が存在します。
”そうするとその障害物にどの様な事が起こるのか”と云う疑問です。

その前に地球圏内ではどの様な障害物があるのかと云う事の疑問が先ですね。
先ず、地球には次ぎの2つがあります。
全ての物質さえも引き付けてしまう超強力な磁力波(バリヤーA)が存在しています。
更にはその周りには「空気と塵やガス」(バリヤー:B)が在ります。

そのバリヤーBには3段階で覆われています。
第1(95K)、第2(500K)、第3の成層圏(1000K)のB(1−3)で構成されています。

そうすると、このバリヤーB(1−3)の手前まではこの核爆発で起こった振動波が弱まる事無く「+−」のサイクルで届いている訳ですから、エネルギー(E)に変化はありません。
それが、(B)と衝突します。
猛烈な速さで届いた振動磁波は、その時、超高速な為にそこに含む物質との間で衝突が起こり分子が破壊されて、それによる分子爆発が生まれ閃光を発します。この現象が必ず起こります。
丁度、火打石で火花を飛ばす事と同じですね。金属と金属が衝突した時に出る火花の様に。
その時に発する特別な「波」との「火花」です。
それが、人間の目ではその「爆発波」が網膜の角質に入り「色」としてに入り目に写るのです。

太陽からこの360もの物質の振動磁波が届いている筈ですが、その内のほんの僅かな振動磁波だけが目の細胞が受け取る事が出来るのです。これを「可視光線」と云います。
この「可視光線」の「振動磁波」の大きい側には、紫外線(周波数:振幅700ナノ)、細かい側には赤外線(周波数:振幅400)があります。
後は地球の電磁波力に依って引き付けられて消滅するか、振動磁波の細かいものは人間の細胞を透過して地球も透過して再び宇宙へと飛んで行くのです。
この時、全ての物質の衝撃波が主に太陽から届いていますが、それを人間は「色」として捉えてある範囲しか見えていません。つまり、「光」、即ち振動磁波が「色」に変わるのです。
これが「可視光線」と云います。(波では、400ナノ(n)−700ナノと成ります。)

目に見える色(光)に変えるとすると、「7つの原色」と成りますので振幅の小さい順に、次のように並びます。

「赤外線」 「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」 「紫外線」です。

この「可視光線」外の「紫外線」、「赤外線」までは目には見えませんがある現象に依って確認出来ます。
この「可視光線」のそれは、真に、「虹」の現象として観えますね。
虹は雨上がりの空気中に、水滴が多いためにそれにこの7つの物質の振動磁波の波が当ります。
そうすると、K(カリウム)と云う物質の核爆発の振動磁波の光の変化の色の「紫」は振幅が大きいので、水滴の少ない所でも遮られて止まってしまいます。その時に衝突により色を発します。

Li(リチウム)と云う物質の光の変化の色の赤は振幅が細かいので水滴が多くても通過して最も多い所で遮られますのでその時に衝突により色を発します。
夕焼けも同じですね。一日の塵や埃などで光が遮られてその障害物の多さや細かさでその夕焼けの色が違ってきます。赤色の夕焼け、黄色い夕焼け、紫色の夕焼けとその中間の夕焼けが見える事に成ります。それは「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」の範囲で見える事に成ります。
端的に云うと、赤色の夕焼けは空気がより澱んでいる事に成り、赤色より右側の振動磁波も手前で抑えられてしまいますので衝突して赤色だけを発することになり、紫色の夕焼けは藍色より左側の振動磁波が透過してしまうくらいに澄んでいる事に成ります。
一日の空気が汚れて通過する振動磁波の波長が変化します。天気の良い日の塵埃の少ない時、多いときで色合いは変化するのはこの原理から来ています。
「真赤な夕焼け」や「紫の夕焼け」や「黄色の夕焼け」では空気の清み方が違うのです。

写真技術の原理
ですから、写真をとるときはこの原理を頭の中に入れて撮影をすると人間の目に映る自然の色が表現が出来て綺麗に撮影出る事に成るのです。

朝日にも同じ事が必然的に起こりますよね、塵や埃の沈んだ空気ですから夕焼けとは又別の色合いを示す事に成ります。朝日には、その空気の澄み具合と温度の上昇で「3つもの色合いの変化」をも起こします。これを「朝ぼら、曙日、朝日」と呼ばれていますね。
「朝日」では塵埃が増え温度も上がり地面の水分が蒸発してあがり絶対湿度も上がります。夕焼けとは環境が変わるために又別の趣が見える事に成ります。
「朝ぼら」や「曙日」はその傾向がより低い事になります。
「朝ぼら」の持つ趣や「曙日」の持つ趣が、写真性に与える影響を考えて、その被写体の趣を最大現に引き出す為には、この様にその撮影時期を選ぶと自然性のより綺麗なスナップが取れることが約束される筈です。

そもそも人間の思考の「綺麗」であるかどうかはその比較のものがある事による感覚ですから、その人間共通する比較対象と成るのが「可視光線」による「自然美」です。
人間は目に映るこの「自然美の色」を基準にして脳の感覚を表現しています。
「自然美」=「綺麗」=「趣」の数式がもし成り立つとしますと、「太陽から発する振動磁波の光が衝突に依って発色変化する色」の理屈を ”より上手く使うことである”と定義されますね。
同じ物を同じ位置から同じ撮影条件で間違いなく撮影すると、明らか違いが出ます。
この違いを「柔らか味」とか「爽やかさ」とかの「趣」で撮る時に使えばより素晴らしい自然の色合いの「表現力」が出せると言う事に成ります。

フエリヤー理論
この様に、この振動磁波の「季節の澱みの知識」を観察して撮影する事が第1番目のポイントです。
当然にこの空気の澱み方は季節に依っても異なりますね。
夏は温度が高く、乾燥しますし、絶対湿度(空気中の水分)も高いですから空気は澱み傾向です。
冬はこの逆に成りますし、風も強く吹きますから塵埃も飛んで行きます。
この様に「春夏秋冬」、「気候」、「天候」、「地理」や「場所」での「酸素の多い少ない」等も撮影には大きく働きます。
この様に、これを写真技術では”フェリヤー(撮影の環境条件)が働く”と云います。
これを「フェリヤー理論」と云います。
先ず、色の元の知識が掴めましたがまだこの理論が続きます。

色を発する鉱物
では、その”太陽から来ている核爆発の物質のものとはどんな物か”と成りますが、地球には360の元素の内、次ぎの物質が人間には見えているのです。
今までは正直「色」は「色」としてのみ太陽から飛んできていると思っていたのではありませんか。
鉱物の振動磁波とは到底思っていなかったでしょう。
では、その鉱物又は物質はどの様な物なのでしょうか。

これは、主に「アルカリ金属」と「アルカリ土類金属」に所属する物質の爆発の振動磁波です。
第1 Li(赤)、Na(黄)、K(紫)、Cu(緑)、Ca(橙)、Cs(青紫)、Cr(暗赤)
第2 Sr(紅)、Ba(緑)、Ra(洋紅)
第3 B(黄緑)、G(青)、In(藍)、Tn(淡緑)
第5 P(淡青)、Bs(淡青)、A(淡青)
後の物質は地球を通過して行きます。

これだけの物質の光の振動磁波が色に変化するのです。
赤夕焼けの真っ赤はLiでした。Na:ナトリュウム(黄色)は皆さんも知っている何処にでも使われている物質ですよね。外灯ですね。あれはNaの黄色を出しているのです。ですから埃塵や水滴が有ってもNaの外灯の光線は届いていますよね。
ですから、黄色や赤の色合いを示している花や物は、この物質の光が花や物に当り色を発している事に成りますね。
この物質の色を簡単に試験で観る事が来ますよ。
例えば、銅の粉を市販のやや強いライターで燃やして見ると緑色の火花が見えますよ。
この原理を使ったのが夜空に咲く色とりどり「花火」の祭典ですね。
これを「花火」をも含む酸化反応による「炎色反応」と云います。

色合いの技術
この様にこの色でどんな物質の波が遮られているかが判るのです。
写真では、撮影する物がどんな色合いであるかを先ず観察します。
そして、その色合いが「可視光線」の左側にある物か右側にある物かをまず考えます。
そうすると、地球の環境は埃、塵、水分で覆われていますから、赤か紫かのどちら側の色合いが出易いかを考えます。
凡そは赤のLiの波が細かいので透過してしまいますから赤より右側の色合いが出やすい事が考えられますね。都会と田舎ではよりはっきりしますね。
そして、それが朝、昼、夕方なのかの撮影時期を考えます。
更に突っ込んで朝の何時頃、雨模様か晴天か曇りか、湿度、風の有無、日当たりや影、等を先ず考えて撮影しますと、これだけでもかなり「自然美」の色合いを出す事が出来ます。
フェリャーが正しく取れる事に成ります。
そこで、より理解を深める為に次ぎはこの「フェリヤーの理論」を進めます。

フエリヤー理論
写真では、色(光)の三原色(BGR)と補色の光の三原色(YMC)で撮影は一度に変化するので、この事を先ず覚えておく事が必要です。
ここで「色は可視光線」だけだと思っているでしょう。ところが違うのです。
その前に、元は光ですよね。そうすると、可視光線の一つ外に、「紫外線」と「赤外線」がありますよね。その紫外線や赤外線にも「色らしきもの」が幾らか有るとは思いませんか。
急に「可視光線」に成って仕舞うのですか。そんなに急に色に変わってしまう程に自然はきっぱりしていませんよね。
未だ「紫外線」、「赤外線」は光の状態ですね。
その光の状態で「僅かな色合い」を示しているのです。
そして、それが「可視光線」の色の基本に成っているのです。
この理屈が写真には大事なことなのです。
つまり、人間の脳の感性はこの「僅かな色合い」の光を重視しているのです。
可視光線の「BGRの三原色」の基を成し、このBGRの「深まりや鮮やかさ、明るさ」等微妙な「色合い」を構成しているのです。
ですから、この「光の色合い」はその可視光線の7色の「微妙な色合い」を変えているのです。
これが、「光の色合い」が(YMC)の「3つの色合い」なのです。
この事の詳細は例を上げて観るとなるほど”紫外線に色が人間の目に見えているな”と気付きますよ。
現実の目の前でBGRの可視光線ほどでは有りませんが起こっているのですから。
この事は後述します。
そこで、写真ではこの微妙に確かに目の前で起こっている「光の色合い」を知り認識する必要が先ずあるのです。
可視光線の根幹を成しているのですから、これを認識しないでは綺麗な写真は先ず撮れません。

光の色合い
そこで先ず「可視光線」の知識とこの「光の色合い」の知識が必要と成るのです。大事な事なので更に解説を続けます。
太陽から届いた振動磁波の光は全ての光が交じり合うと「白」と成ります。
混じらない時は「黒」と成ります。当然ですよね。昼は白ぽいし夜は暗いので黒ですよね。
ところが、これが衝突すると色に変わるのですから、全ての色が交じり合うと「黒」に成ります。混じらないと「白」に成ります。これも当然ですね。
そうすると、ここで、この「光」の「色」と「三原色」の「色」とに何か特長のある原理が働いていますね。そうです。大雑把に云えば「反対の性質」が働いていますね。
これを理論では「反対」と云う定義ではありません。この現象は「+−」の相対の関係では有りませんね。少し違います。
元々「光」と「色」は同じ物では有りませんからね。BGRの色だけでならば「+−」の相対の原理となるでしょうが。そこで、この関係を色理論では「補色の関係」にあると云うのです。
反対の様で基が違うのですからお互いに助け合っていると云う関係にもあると云えますよね。
そこで、この関係を良く観て見ると、この「光の色と可視光線の色」には3つに分けられますよ。

先ず可視光線を見てください。
「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」
この可視光線は次ぎの通りです。
「黄色系」
「紫色系」
「青色系」
以上3つに分けられそうですね。
兎も角も「濃度と強さ」は別としてこの3つに分けられるのでは有りませんか。

「黄色系」を「Y」、「紫色系」を「M」、「青色系」を「C」と成ります。
この3つに分類で出来ますね。

当然に上記した様に「補色関係」にあるのですから、この3つの分別に相当するものがある筈です。
そこで、考えて見ます。
補色ですから「色」として見る事にします。
例えば、橙、緑などは黄色系の中には青が入るとこれに近い色合いに成りますよね。
この考え方で観てると次ぎの様に成りますね。

「黄色系」(Y)のものは「青色系」と観る事がで来ます。これを「B」とします。
「紫色系」(M)のものは「緑色系」と観る事が出来ます。これを「G」とします。
「青色系」(C)のものは「赤色系」と観る事が出来ます。これを「R」とします。

人間の目に見えている振動磁波の光は可視光線としての色として見えていますから、これを「色の3原色」と呼びますね。
当然「光の3原色」と観る事も出来ます。
「YMC」は「イウロー、マゼンタ、シアン」
「BGR」は「ブルー、クリーン、レッド」
以上3つと成ります。

「Y」に対して「B」、「M」に対して「G」、「C」に対して「R」の補色関係にあると云う事に成ります。

「YMC」「BGR」の働き
さて、この事が判るとして、この関係が”撮影でどのように働いてくるのか”と云う事が浮かんで来ます。
そこで、例題を挙げます。
ある「B」系の背景があります。この環境は木々などで撮影する場合が多いですよね。
其処に、人が立ちます。
そうすると、その「青色系:B:ブルー」の中に人の肌色の顔があるのですから、この肌色には「B」に引っ張られて補色関係の「Y」が働き、肌色に黄色が働き褐色ぽい顔色になってしまいます。
これは人間が観た自然色ではありませんね。人間の目は脳の印象記憶でこれを瞬時に修正しています。
”私の顔はこんな日焼けした顔していないよ”として”綺麗に撮れた”とせずクレームがつきます。

ある「G」系で画面が6割以上も占める背景があります。其処に、顔とか花とかを中心に据えます。
そうすると、フェリヤーが働き、補色の「M」が働き、花が「M」が強く混じった色の花が出来上がります。何か紫ぽい花と成ります、肌色の顔ですと赤っぽい赤紫色ぽい顔が出来ます。
同様に、クレームですね。写真を叩きつけられるかもね。

M(マゼンタ)中間色
ところで、この「M」(マゼンタ)ですが、聞きなれない色の呼び名ですね。
この色はつまり、光は「極めて薄い赤紫」の色合いを示し、”色なのか色でないのか判らないもの”で、つまり原色では有りません。
これを「中間色」と云う色理論では呼ばれている色合いです。
この「M」と「C」は「全ての色」に対して大きくその色合いを与えるもので、この様な働きをするものを「中間色」と云います。
これから撮影する場合、花や物や人物等の被写体をよーく見てください。そうすると”なるほど 少し原色と違うな”と感じる筈です。これがYMCの「中間色」が働いているのです。

さて、この「中間色」ですが、日本人はこの色合いが含まれた色を「綺麗」とし、「自然美」の感覚としているのです。つまり、日本人の「綺麗」の根源はこの「中間色」なのです。
その中でも、この聞きなれないM(マゼンタ)を最も好むのです。
万葉の昔から、「薄紫」が最も高位の色とされている理由はこの所にあるのです。
このM(マゼンタ)とこれを含んだ色合いを「綺麗」とする遺伝子を持っているのです。
ところが、上記した人種の印象記憶ではアングロサクソン系の人種は、余りこの中間色に反応を示しません。もとより「原色の美」を好みます。
つまり、「中間色」又は「中間色を含んだ色合い」のものは濁り、澱み、くすみとして嫌います。原色の中でも特に、赤系統を好む傾向があります。
それは何度も言うようですが、極寒の中で進化した人種の遺伝子がその様にさせているのです。
況や、極寒の中での生死はその血液の凍結を防ぐ最も大切な条件であったからです。
彼等の体型や顔や目鼻や皮膚の全てがこの「血液の凍結」を防ぐ事から進化してあの体型に成っているのですから。
そのYMCの中間色ですが、花の「自然美」が判りやすいと思いますが、中間色又は中間色を含んだ色合いの花と原色の花とを示すと、日本人は「中間色」系を「自然の美」として「好み」を示します。
しかし、「原色」の美は「感動」とした反応をする事が統計的に判っています。
「好み」(中間色)の「自然の美」
「感動」(原色)の「自然の美」
以上2つとに脳の印象記憶で分けている事が判るのです。

漫然と聞くと、どちらも「綺麗」と聞こえていますが、それを分析すると、上記の様に脳では分類しているのです。
故に、その理屈から云えば脳科学では「感動」は「血液」の如何を意味しています。
ですから、上記したアングロサクソン系の人たちは遺伝子から「血液」即ち「感動」を基幹とした反応を示す事になるのです。
当然に、日本人としては、写真を撮る時、又は観る時には、この脳の反応が働いている訳ですから、この「中間色」(YMC)を如何にして取り入れる工夫をするかに掛かる事に成りますね。
自分と他人は「綺麗」と反応して評価するのですからね。
当然に、日本人にもある「感動」を与える写真の工夫は、”如何に「BGRの取り入れ」を工夫するか”に掛かることを意味します。

そこで、問題に成るのが、「綺麗」で且つ「感動」の写真ですね。
つまり、「難しい写真」と成る事です。
そこで、その典型的な被写体があります。それは、「秋の紅葉」に挙げられる風景です。
「原色の自然の美」とも云えるものですね。確かに「感動」を与えます。
観ると「血」が騒ぎます。そして綺麗です。感動と綺麗が融合しているのです。難しいですね。
しかし、反対に「春の花々や植物」は「中間色の自然美」ですね。「感動」「血が騒ぐ」と云った脳や前頭葉の働きでは無い「何か静けさを感じる美的感覚」では有りませんか。
”感動して心が動く”と云うものでは有りませんね。

この季節による写真にはこの様に”何か違うもの”を感じます。
「淡い色合い」で何とも云い難い印象を持ちます。
最近は西洋花が多く成りましたが、矢張り、春の野辺の花の色合いの綺麗さは「血液」が騒ぐと云うのでは無く「遺伝子」が騒ぐと云う感じがします。
これが我々日本人に持っている「遺伝子」の「YMCの感覚」がその様に複雑に美的感覚を分けているのです。日本人は「繊細」な人種と判定出来る要素ですね。
アングロサクソン系の人たちは全体を「血液」の「感動」に依る事から、当然に日本人の様には論理的にこの難しい事は起こらないことを意味します。
彼等は全て、遺伝子から来る「血液」による「感動」を主体としている事に成ります。

量的感情と質的感情
「感動」とは確かに「綺麗さ」もその一つですが、主に「強さ」や「壮大さ」や「広大さ」に対して起こる「量的感情」が主体です。そして、秋の「感動」の綺麗さはその字の如く主に「動」による綺麗さでは有りませんか。

それに対して、春のYMCの綺麗さは「静」による綺麗さを示しているのでは有りませんか。
YMCの淡い色には、「感動」の「動」の強さや壮大さ広大さの「量的感情」の印象は少ないと思います。どちらかと云うと、「質的感情」と区分けする事が出来ます。

この様に、まとめますと「静」の「光」の「YMC」中間色による「自然美」の「綺麗」は、殆どは日本人の「遺伝子」による「質的感情」の「綺麗さ」とでも云えるものなのです。
そして、それは色理論としてはYMCが「色の根幹」の印象を左右しているのですから、むしろその上記「まとめ」である事が正しい感情と云う事に成ります。
ですから、写真撮影ではこの「YMCの如何」を習得して表現する事が「本当の自然美」であると言えます。

YMC
さて、そこで、そのYMCの全てが均等に左右しているとは限りません。
質的、量的にも特長を持ちます。経験による私的感覚ですが総合的には、この関係はM>C>Yであると観ています。その原因は日本人の「進化による遺伝子」と「四季による環境変化」によって起こっていると判断しています。

ではそのYMCが個々にどの様な特長を示すのかを説明します。
中でもM(マゼンタ)の美は日本人以外の人種では綺麗だとする感情を高める統計的なものは無いとされています。
市場の店頭で起こっているその例題を述べます。

M(マゼンタ)
このM(マゼンタ)に関して普通にプリントすると、10人の日本人があるアスファルト道路の入った被写体写真に対して、このマゼンタを抜いた本来の色のアスファルト道路としてプリントすると、10人がこの”道路の色はおかしい”云うのです。
あの汚いアスファルト道路に対して、Mだと認識はしていないのですが、”M(マゼンタ)の様な色合いを少し欠けている”と要求するのです。通常、0.2−0.3程度の色合いを求めます。
そして、Mを補正を欠けると納得するのです。
この様に、写真店等のところでは道路だけではなくてもプリント全体にM(マゼンタ)0.2の補正を掛けているのです。それで初めて、”綺麗だ”と評価されるくらいに日本人にとってはこの中間色の存在を綺麗の前提としているのです。
そもそも、補正に依らずとももとより、「静」の「光」の「YMC」による「自然美」の「綺麗」は綺麗なのですが、遺伝子的な強い感情なのです。

C(シアン)
淡い青の色合いを示すC(シアン)は、特にM(マゼンタ)程にその傾向はありませんが、恣意的に欠けさしていると、強さとかシビヤーさとかシャープさとしてクレームが付きます。
観やすいものとしては、真っ白い光の当った花などよーく観てください。光がよーくあたった一部分に薄い淡い青、或いは水色の光り輝く部分があります。この部分がC(シアン)が当ったところです。このC(シアン)はより真っ白を白く見せつけます。
可視光線外の何ともし難い紫外線にこのC(シアン)が多く含まれている為にフェリヤーが強く働き自然美を阻害してしまうので注意を払う必要があります。
最近ではこの紫外線は大変に知られ、嫌われる光ですが、そうでもないのです。
殺菌作用や季節の植物の発育には欠かせない光でこれなくして生物は生きて行けないものなのです。
しかし、可視光線外の紫外線に含まれるこのC(シアン)の中間色としての存在そのものが知られていないのが現実です。最近ではやっと「アントシアン」として知られるように成りました。
従って、普通は一般的には「可視光線」の範囲での色合いの構成と知られ観られていましたが、ところがこのシアンが光として写真技術にも大きく影響しているのです。
より写真技術を上げるとすると、逆にこのC(シアン)を如何にコントロールするかの技術が必要となりますね。上記した様に強弱、鋭鈍、明暗等の輪郭等の印象記憶をコントロールする場合に必要と成ります。

もとよりM(マゼンタ)は言葉そのものの認識が低くても中間色としての色合いは日本人なら誰でも知っている事ですが、太古の昔から知られていました。
しかし、このC(シアン)の言葉はもとより色合い自身も認識されていないのが今も現実ですね。
それだけに写真技術を上げるにはこのC(シアン)の論理的な知識を習得してそれを活用する事で「綺麗な写真」が撮れる前提要素と成るでしょう。

Y(イエロー)
次ぎはY(イエロー)なのですが、イエローは日本語で黄色ですね、でも、この光の中間色のイエローは色のイエローとは少し違います。
その色合いはやや淡い薄い透明的な光り輝く黄色です。
日本人はこのY(イエロー)の有無には余り反応を示しません。それは遺伝子と進化から来ています。
日本人は黄色人種ですし、その環境は森林や家屋等にイエローの多く含む環境にあります。ですから、多少のY(イエロー)が過不足があっても違和感を持たないのです。この中間色のY(イエロー)が働くと顔等は黄土色や日焼けしたように成ります。
色の黄色にこのYが多く含むと輝くようなイエローと云うか黄色が出来上がります。
テレビ等の画面に最も多く出て来る自然美から離れた不良画面はこの中間色のY(イエロー)が代表的です。余り意識していない事から来ていると考えます。
この光の中間色のY(イエロー)は原色を好む人種には大変に好まれます。それは色としての可視光線の原色の黄色として存在するからです。
原色の黄色の変化として、日本人の中間色の嗜好品的な所までは行きませんが、使われるのです。これを加える事による変化を好みます。
「感動」を主体とした反応である事から、強弱、鋭鈍、明暗等の輪郭等の印象記憶を要求する事に拠ります。

どちらかと云うと、C(シアン)等の使い方もこのY(イエロー)に近いものがあります。
更にどちらかと云うと、多くは画面が汚くなる傾向があります。このフェリヤーが働いた画面等は見られませんね。
とは言え一概には云えないことですが、写真撮影期の「春榛の緑」とすれば必要な中間色ですが。秋の銀杏の葉などにも使われる色合いですので、機会の多さ被写体の多さからすると同等に学び使う必要が出てきます。

中間色YMCの使い方
そこで、「好み」(中間色)の「自然美」と「感動」(原色)の「自然の美」をコントロールする”この難しい写真を撮るにはどうすれば良いのか”との課題です。
先ず、あくまで「原色の自然の美」の「BGR」を中心に、中間色の「YMC」を引き出すかの写真技術と成ります。そうすると、必然的には「YMC」の理論を学び会得するかに掛かる筈ですね。
難しい被写体ですから、簡単にこれだとする一つのものはあり得ません。故に複雑なそれを系統化した其処に理論が生まれるのですから。
それを系統化して論理的にしたのが「CC理論」なのです。
その中には、当然に補色に関係する「フェリヤー理論」も必要ですね。
本文の目的とするレポートですが、日本人の自然美は多くは、原色BGRの理論も必要として、よりこの「YMCの理論」と「フェリヤーの理論」を会得する事に関わります。
そして、それを融合させた理論の「CC理論」があるのです。
この「CC理論」のSカーブに付いて後述します。

そこで、それを理解する為に必要とする予備知識として知るべき事があり、その為に話を元に戻します。

撮影の予備知識
同じく、ある「R」の多い花などの背景に人が立つとしますと、或いは別の花を中心に据えるとしますと、その人物や中心の花には「C」が働き、何か青覚めた人物や花が出来上がります。
これでは写真では有りませんね。
今度は、「Y」「M」「C」の背景に同じ様に撮影の対象物を撮ると「B」「G」「R」の補色関係が働き観るも堪えない写真が出来ると考えられますね。趣が出るのか疑問に成りますね。
しかし、この「BGR」の背景に「YMC」が中心に来るとに較べて、そのフェリヤーの影響は少ないと見えます。”何故かな”と成るでしょう。
それは「YMC」の背景に「BGR」が来ると、人間の目或いは脳は次ぎの様な事に成ります。

先ず、1つは目は、フェリヤーが働いてくる「BGR」は可視光線のよくある色ですし、中央の被写体の色の殆どはこのBGRの色で構成されている事だから目立たないのです。脳、目は”反応し難い”のです。
2つ目は、YMC全体の背景と云う被写体が自然界では少ない事により、確率的に認識できないのです。恣意的、故意的にスタジオでの背景を作らないと「全体背景」としては先ず見られません。
3つ目は恣意的、故意的な特別なものは除くとして、自然背景の「BGR」に対して「YMC」はその色の根幹をなしているのですから、むしろその色合いのはっきり感等の明度の助長として働くからで目立たないのです。

テレビ等でよく観察してください。主にこのBGR背景でのフェリヤーの働いた画面が出てきますよ。
人間は「人の肌色」(YMCの中間色です)に対する印象記憶が何よりもすば抜けて強く違いを見抜きます。又、これには納得する色理論が働いているのです。後でこの理論を解説します。

人種の色の好み
この様に、フェリヤーは自然の摂理現象の「光と色」関係がある以上この現象が起こります。
写真はこれを目の錐体(覚質)細胞の覚質層(受光細胞)に残像として遺すわけですから、人間の印象記憶がある以上また避けることも出来ません。
ところが、恐らく、”この印象記憶が人或いは人種により異なる”と考えるでしょう。
その通りです。日本人は全世界の人種の内で最も自然色を好む人種なのです。恐らくは自然に周囲が囲まれ育まれてきた結果だと思います。
例えば、アメリカ人又はアングロサクソンのヨーロッパ人は自然色から離れたやや赤みがかった色を好みます。人肌は赤みの人肌を自然だと云います。実際は違うのですが。希望的観測と云うか印象と云うかのものですね。
これは、彼等の祖先が生き抜いて来た「極寒の環境」から来ていると云われています。そのために肌は赤く血液が通って居るのが良いということに成ります。
アングロサクソンの白色人種は極寒であったために血管が体の中に引き込めて進化した結果のために白色に成っているからです。鼻が長く高く毛深いのはこの進化から来ているのです。
日本でも北部の人はこの若干の傾向を持っています。
色とはこの様にその祖先の如何が左右するのですが、兎も角も、好みの範囲ですが、論理的「自然色の美」は変わりません。
そんな事を言っていても、フイルムや画像ソフトが売れなくては困ります。そこでその好みの範囲でフイルムやソフトはその好みに合わせています。この合わせる理論があるのです。
それを「CC理論」と云います。それを一つの図表化にしたものがあり、これを上記の「BGR:YMC」の関係と「CC理論」とを合わせた「CCカーブ」(Sカーブ)と云うものがあります。
これは大変撮影の時に重要なものですので、後で解説します。
我々は、日本人ですので、「自然美の色合い」の理論で更に進めます。

自然美の理論 YMC
紫外線
では次に「可視光線」外の紫外線と赤外線とに付いて述べます。
この「2つの光線」も色に影響するのです。当然に写真にも作用するのです。
先ず、紫外線です。700ナノ付近の光線です。
この光は現在はかなり知られて来ましたが、この光は物に作用して殺菌する能力等があります。それはその光の持っているエネルギーに拠ります。衝突した時に発生する熱エネルギーで菌が死滅するのです。また、紫外線に多く含まれる「C」(シアン)が光線として物体に当りますとそのシアンの毒性で菌などは死滅する事に成ります。(用語としてアントシアンと呼びます。)
青酸カリという劇薬を知っていると思いますが、これはシアン化カリのことです。(C)は青色系ですから青と呼称します、シアンの酸化イオンと(K:カリ)のアルカリイオンが反応したものだと云うことです。このシアンが猛毒で怖いのです。炭素と窒素で出来ています。これをCNイオンと書きます。
このシアンがアントシアンとして作用します(ここではシアンと記する)。紫外線にはこのシアン(C)の光を多く含んでいます。
光は物質の振動磁波だと上記しましたが、この紫外線にはCN物質の振動磁波の光の状態のものが含んでいることを意味します。
例えば判りやすく例を挙げますと、柿の実、或いは葉や赤い紅葉はこの紫外線に含まれるシアンが柿に当りシアンの補色の赤に作用して赤く色づくのです。
色づくだけでは有りません。このシアンは柿の実の中の味物質に衝突してCとNが分離してCが更に醸成して炭酸(CO)イオンとなり、紫外線の当る量が増え、更に進んで果糖になりブドウ糖の糖分へと変化します。これが真っ赤に熟した甘い柿の実なのです。
柿の葉や赤の紅葉も同じで紫外線の当る量が多くなるとシアン(C)の補色の(R)へと変化するのです。簡単に云えば赤い夕焼けと同じですね。
ですから、この時期の葉で太陽光線に強く当った紫陽花の葉は危険なのです。緑の葉でありながら、葉には紫外線が当っても補色の色に変化せずに緑のままでこのシアンを溜め込むのです。それだけに紫陽花の葉の緑の力が強いという事ですね。虫は紫陽花の葉を食べませんね。虫食いの紫陽花の葉を見たことが有りません。
ところが、例外の紫陽花の外では、つまり、紫外線が当る事で、葉の緑の色素は分解されて葉の内部の細かさが赤を受け付けるのです
赤の夕焼けと同じです。この物質にアントシアンが残るのです。シアンは元は「薄い青みがかった白
」です。写真技術では「薄い青みがかった白」だと大事ですので覚えて置いてください。
このC:シアンの光が衝突することで補色の赤(R)の色に変わるのです。
他に例としては、銀杏はこの紫外線のシアンを吸収しますが、紫陽花ほどでは無く黄色程度のところで葉の内部の分解は留まりますが、この葉も危険です。ですから、生きた化石として長く生き延びてきたのです。
同じく銀杏の木にもこの溜められたシアンが働きスポンジ状の木の内部に溜め込みます、当然に菌や虫は食べませんので腐らずに木は生き残れたのです。

つまり、当然にシアンを含んでいるのですから、写真ではこの紫外線の太陽光を最も気にする必要がありますね。どう言う事かと云うと、写真は光と物体の肖像ですから、アングルに光の取り入れ方が重要です。取り入れすぎるとシアンが働きますし、その光の中心に肖像物体を入れて撮るとシアンの補色が働き赤みが自然色から離れて働きます。上記の理論よりフェリヤーが働き過ぎますね。
そうすると、撮影時は光は写真を生かすかどうかのものですから、何とか取り入れる必要があります。そこで、フェリヤーが働かないように撮影肖像物から離して取り入れる必要が出てきます。
むしろ反対の場合のも在りますね。
撮影肖像物が赤であり特に強調したい場合は、むしろ紫外線を当ててフェリヤーを働かせればより綺麗に写ります。
更には、白色をより強調したい場合は、アングルの中心から僅かに外してフェリヤーを外して紫外線を直接当てる事でCの薄青みがかった白が出てより白く見せる事が出来ますね。
注意は当然に光の綜合色の白が強く成るのですから、ハレーションが起こります。このハレーションを防ぐには紫外線の時期を選ぶ以外には在りません。紫外線の少ない光です。
朝の上記した3つの時期と成り局部的に当てる事でかなり抑えられます。だから、朝日でもこの様に3つもある事の自然論を知っておく必要がありますね。
つまり、地球の空気の澱みの有無を知る事が写真技術では大切な要素と云う事です。
こうなると、物理に成りますが。マア其処まで行かなくてもこの程度の原理を覚え使う事で綺麗な写真が撮れる事に成れば覚えて活用したほうが得ですね。
この様に、上記した理論を駆使して紫外線を撮影から利用するのです。推して知るべしで撮影には紫外線は色々なアングルに「シアン」というものが大きく働きます。
太陽光の綜合色となる即ち紫外線ですから最も重要ですね。
紫外線フィルターも在りますがこれも使うことも一つです。芸術写真を撮る事等にはお勧めですが。
紫外線の効能は「シアン」以外に「趣」として観ると活力や明るさ等もありますからね。
又、他の方法では4000ケルビン程度のフラッシュで紫外線を迎え撃つ事も出来ます。光の方向に向かって明るいですがフラッシュを焚くのです。
慣れてくると、フラッシュの発射角度や時間や強さをコントロールする事でも微妙な趣を出すにはこの方法も可能です(場合によっては自分専用に改造か作る必要がある 殆ど充電量をコントロールする事で可能)。

写真を撮る一番最初に考える事は、被写体が決まると”「光」をどうするか”ですから、シアンの影響が続けて記憶から出るぐらいにしておく事が必要です。

赤外線
次ぎは、赤外線です。
紫外線ほどではありませんが、この光も働きます。
赤外線は400ナノ程度以下ですから、実に細かい振動磁波ですから殆どのものを透過します。
当然、空気の澄んだ時には多くこの赤の光とか赤外線の透過量が多いと成ります。
そうすると、どうなるかの問題です。
赤外線量が多いと云う事はその量が衝突する物体に赤傾向が強く成ると云う事ですね。
朝の「曙」はその赤の綺麗さが良くて「曙」と呼ばれ好まれているところですね。
赤の夕焼けとは少し違います。赤の夕焼けは空気中の澱みでやっと透過してきた赤の振動磁波が空気の澱みに衝突して発光して赤を示すのですが、朝の曙は澱みが少ない事でその量が多くて衝突してより多くの赤を発光している訳ですから。「質と量」の内の「量的」なところが違うのです。
そうすると、写真性では、先ずは「色濃度」はもとより「色の深み」と云う形で出て来る事に成ります。
紫外線のシアンの白っぽさの元気感、活力感、とかに較べて、赤外線の補色の赤は「しっとり感」「落ち着き感」とか「深み感」が出る事に成ります。
夜明けの赤外線は「低い角度」で入ってきますから、撮影時はこの角度をも配慮する事がその趣感をより強く出すので大切です。
この様に、赤外線と紫外線とは相対的な趣を醸し出す事に成ります。大まかには逆に働くとして覚え利用する事です。
赤外線は振動波が細かいですから、つまり透過は良いわけですから衝突や透過に依って起こる色合いではものを「暖める能力」を持っていますから「暖かい感じ」がしますし、被写体に当ると透過の影響で花の花びらなどでは透き通る事に依って「透明感」のある「色合い」を示します。
この様に、赤外線の「透過」と衝突による「赤味」から撮影時はこの2つの影響を論理的に考えることで赤外線の趣を引き出す事が出来るわけですね。
紫外線の様にYMCのC(シアン)が強く出る事が有りませんが。強いて云えば「下地にM傾向」と云う事になるでしょうが、赤の中にMですので目立ちません。BGRの根本の一つMですから赤の色合いは良くなる事は確実ですね。
現実に、論理的には振動磁波が物体に衝突する事で発生する熱エネルギーにより紫外線の「熱さ」に対して、赤外線が当ると穏やかな「温もり」を起します。「遠赤外線ヒーター」はその証拠ですね。
この論理的な現象から目に見えないのですが、これを活用する事が写真ではより「自然美の綺麗さ」を表現する事が出来ます。従って、意外には配慮されていないのが現実ですが、上記した様に大きく影響するのです。
推して知るべしで、逆に赤外線の影響を少なくするのには赤外線フィルターも在りますが、紫外線の処で述べ現象と同じ事が起こります。使う目的にあわすことが必要ですね。
フラッシュは逆効果で赤外線の効果を消す事の手段としては使えますが、それも面白みなどを出す目的での事に合わす事が必要ですね。
兎も角も、この赤外線を含む赤色系は、「空気の澱み」がある限り紫外線と較べて難しい事に成ります。
ですから、都会で撮影する時と、田舎で撮影する時と、町で撮影する時と、森で撮影する時では、「空気の澱み」と「酸素やオゾン」の量が異なるので、違う色合いを示す事に成ります。
森や林で、木々の多い所で撮影すると「深み」のある「しっとり感」とかが出てよい写真が撮れ易いのもこの事から来ています。

次ぎは中編、後編と続きます。


  [No.261] Re:写真技術と色の理論−中編
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/12/08(Tue) 06:18:23
Re:写真技術と色の理論−中編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

> 写真技術と色の理論
> (副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)
>

中編
科学的な物質の影響
ここで、「酸素」(O2)やオゾン(O3)なのですが、写真性の影響外と思われたでしょう。
ところが、あるのです。
酸素は化学的に周囲の温度を下げる効果を持っています。つまり、酸素は他の物質と酸化反応を起します。その時、その反応に必要とするための熱量を周囲から吸収します。ですから、森や林や木々の下では涼しいのです。あれは影だからだけではないのです。論理的には一般には2度ほど下げる効果を持っているのです。
では、”温度が下がるとどうなるか”ですね。
空気中の水分量が下がります。つまり、絶対湿度(その温度が水分吸収するの限界能力)が下がるのです。上記の理論から「空気中の澱み」の水分量が下がりより澄んだ光を多く通すことを意味します。
又、周囲の浮遊物質を酸化させるために余計な澱みが少なくなる事を意味します。まして、オゾンは酸素より一つ酸素が多いオゾンO3のイオンですから酸化反応は抜群です。(因みに消毒剤のオキシドールは(H2O)より酸素一つ多い過酸化水(H2O2)です。それが一部空気中にあるわけですから。当然に、より赤外線領域の光が通る事を意味しますから、撮影には、赤外線の効果の「深みの色合い」が増す事になる訳です。ですから、山で撮った写真には良い綺麗な写真が撮れるのは景色だけでは有りませんね。

では、「深みのある写真」を撮ろうとすると、論理的には次ぎの様に成るでしょう。
雨上がりの後に埃が落ち、
暖められて湿度の少ない、
温度の高すぎない、
お昼までの朝方の、
カラットした日
以上の条件を選ぶ事に成りますね。

この様にして上記した知識を論理的に活用する事で目的の良い綺麗な自然美のある目で観た写真が撮れる事になるのです。

では、次ぎは上記した中で、”後述する”とした二つの事です。
この二つの事は一つを説明する事で解説出来ますので、それをこれから進めてゆきます。
この理論は最も大事です。この事を知る事でマスターすると写真家専門家に負けない知識を習得した事を意味します。意外に専門家は芸術家であるので技術者ではないので知らない基礎的知識なのです。

「CC理論」(Sカーブ)
先ずは添付ファイルの図を見てください。
写真技術はこの論理により成り立っています。
上記した「顔の肌色の影響」の解説と、「BGR:YMC」の関係と、「CC理論」とを合わせた「CCカーブ」と云うものがあります。その解説ですがこの二つのことでしたね。

では、解説を始めます。
Sカーブの経緯の見方
人の綺麗さの評価はある基準がありそれをベースにして脳では印象記憶として持っています。それが人種に依ってその先祖の生きて進化した環境から若干理論的な色合いに較べて異なっているのです。そして、それはある「光或いは色の濃度」と「光或いは色の強さ」との関係から違いの差が判定できるのです。
当然に、「BGR:YMC」の関係です。
先ず、縦軸に「光、色の濃度」を取り、横軸に「光、色の強さ」を取ります。
これをエネルギー(E)として考えても判り易いかも知れません。
そうしますと、添付ファイルのような図表が出来ます。
これをCC理論の通称Sカーブと云います。

取り敢えずは、面倒ですが、数理に苦手な方が多いのですが、でもより良い写真を撮るという意気込みからこの図表の論理的なことを覚えてください。数理に苦手な芸術家の写真家は意外に知らないのはこの事から来ているかも知れませんね。余談は兎も角も。
このデータは各メーカーのノウハウの基となるものなのでこの理論は公表されていないかも知れません。その共通の理論を解説します。

先ず上記した特長を持つ「BGR:YMC」を夫々この二つの関係をとると次ぎの様に成ります。
先ず、大まかな推移として述べます。
光の色YMCがBGRの色に変化して行く過程のEの変化を基に解説します。
そこで、縦軸の濃度を(Ed)とし、横軸の強さを(Es)とします。
光が弱い事は当然に色の濃度も低い事に成ります。当り前の事で光が弱いのに濃度が高いと云う事は有りませんね。ですから、朝の光は弱いですから、朝の色は濃度が低い事に成りますね。
当然に、写真ではこの理屈を利用する事で目的の柔らかくてスッキリとした趣は叶えられますね。
この様にカーブの変化を論理的に観てその理屈を使って写真に利用して自分の思う趣を表現すればよい訳です。

左から次第にYMCは右の方に強さ(Es)を変えて行きます。
ところが、低濃度で弱い光は余り濃度が上がらずにほんの僅かに上がりながらほぼ右に平行移動して行きます。
これは、高低と強弱の関係は余り無い事を意味しますので「安定している事」を示します。もっと云えば、Edが変化しないのですから、環境条件の諸条件に影響され難い事ですから、更に云えば、写真性として”問題なく綺麗に撮れる”と成りその領域が実に広い事になりますね。
「濃度の変化」と「色の強さ」の変化が変わらないのですから、この何処の範囲で撮っても同じ様に取れると言う事です。
YMCは下記にも書いていますが綺麗に撮れる光の色媒体ですから、朝の薄暗い時から色として確認出来るまでの明るさまではYMCの綺麗な色で写真は撮れる事なのですね。

そして、あるポイント付近(3)に来ると急激に高低のバランスが崩れて強さEsの変化比率に対して濃度Edの方がより上がるのです。EdとEsのバランスが崩れると云う事です。
ある光の強さEsの時期で強さよりも濃度Edが強く出る事に成りますから、明るさよりも濃度がきつく出る事ですので、写真では昼前後域には思ったよりも強い色の写真が出来る事に成りますね。
当然に何時もでは有りません。
曇り、塵、埃、水分などでも変わりますね。その時はこの障害物に依ってBGRの透過率が低いのですから、濃度は低いし、光の色合いYMCの方が透過率が良く成りますのでこの色合いの強い写真が出来る事に成ります。

色の出現
そして、そのポイント付近(3-4)から、光が色へと徐々に変化してゆきます。そして、遂には「色」らしきものが出てきます。
その「色」又は「光に近い色」は白に薄い淡い白に澱み、濁りに近い色合いを示してきます。それが次第にある程度の速さではっきりとしてきます。
YMCの色に近いその3つはその間隔の差が無くなりひとつに融合して行くのです。
一点化が進みます。その全ての「色の中心色」付近(4)に来るとYMCの高低同比率では一つに成ります。
YMCが同率である事は元々濃度Edの差がないのですから、それが理想的なYMCで撮影する領域である事がいえますね。
つまり中間色が理想的な色合いを示し、それでいて、写真撮影をすれば濃度も丁度良いころあいでBGRもある程度はっきりとして来る部位ですから撮影としては良い所に入ったと云えます。
ポイント4の中心とその右側での撮影より、私は、YMCの強さがまだ残っていて更にBGRもはっきりとして来るこのところの方が癖の無い部位としては良いのではと、考えます。
この様な時期は環境が好条件であるとして、昼過ぎから14時頃までのところであろうと思います。
「春夏秋冬」でその時期がずれますが、凡そ感覚的にですが、真夏では1−2時間手前、真冬では1−2時間後と言う事になるのではないかと思います。

季節の選択
真夏では日差しと紫外線量が最大の傾向がありますし、逆に真冬は日差しが弱く、夕闇は速く成ります。
秋では冬傾向にあり、春は夏傾向にありますが、一日の撮影時間の長さとYMCの量の多さか
から考えると、春がこの部位の領域を示す傾向が一般的な好みから一番ではと思います。
しかし、秋には春に対して逆に撮影時間とYMCの量が少ない事ですが、環境条件は秋晴れの空高く空気が澄んでいますし、色彩豊かで環境条件で良い事では一番となりますので写真性は高まりますね。
結論は「YMCの春」か、「環境条件の秋」かを選択する事に成ります。

K18グレー
「CCカーブ」はこれ等の環境条件等の全ての影響要素を無くしての試験世界標準適用(22℃RH50%etc)で作成されているので、この領域を使う場合は「春夏秋冬」「朝昼晩」の時期を選べぶ必要があります。

さて、上記の左側から移動して、次ぎは中心(4)ですが、ここが大変意味のあるポイントなのです。
色と光、つまり、YMCとBGRの中間点又は融合点なのです。その光(YMC)と色(BGR)の融合点は通称グレーと呼ばれています。
グレーには沢山のグレーがありますが、この点はそのグレーの中心で、G=「18K」と呼ばれるところです。
上記した左側YMCの写真性とその右側のBGRの写真性の良い部位、領域の特長の中間であると云う事に成ります。
右側のBGRの部位、領域は当然に左側より時期では14−16時、或いは夕日までの時間帯です。
環境条件としては「春夏秋冬」としてでは、夏では「光の強さと量の多さ」からBGRは段突ですね。その反対は勿論冬となるでしょう。
YMCは少なく、右側ですのでBGR域だけの域ですから、中間色は紫外線の強い夏のC(シアン)だけと成るでしょう。
「春のYMC」と「秋の環境条件」はその中間と観るのが妥当でしょう。
「春のYMC」では、右側のBGR領域ですので、BGRの品質の根幹と成るYMCで「はっきりくっきり感」等良く出る領域となるでしょう。
春の緑豊かなこの時間帯で写真を撮るとすると、春は「BGRの品質」と云う事に成りますね。

「秋の環境条件」は当然に光の透過量が大変良くなる訳ですから、写真は空気が澄んでいるので赤の色合いが強く成ることを意味しますね。ですから、紅葉写真は最も適合している訳です。

この様にこのCCカーブを使えば、写真撮影ではその目的に合わせて撮る事や、その時期の特長と時間帯を選べばより綺麗な写真が撮れることが約束される事に成ります。

時期と時間帯の特長
撮影の時期
凡そ次ぎの様に成ります。

「夏のBGR」
「春のYMC」
「秋の環境条件」
「冬の白黒」
以上の4つの条件を覚えて置く事がこのCC理論のSカーブを利用する事が出来ます。

撮影条件を考えてCCカーブの特長をのポイントを選ぶと云う選択方法もあり、逆にこのCCカーブの色のEsとEdの状態の特長を念頭にして、撮影条件を考えると言う事も有り得ますね。
上記の時期に対して、今度は時間帯はどの様に分けられるのかと云う疑問が出ます。

撮影の時間帯
CCカーブの特長から詳細に分けると次ぎの様になります。
一日の時間帯を次ぎの様に分けられます。
「朝日の3光(6-9)と時間帯(5-6)(7-8)(9-10)、(10-12)」
「昼の3つの時間帯(12-14)(14-16)(16-18)(18-19)」

(0-5)(19-24)は黒の特殊な領域です。
(0-5)の領域の黒と(19-24)の領域の黒とでは黒の傾向は異なります。
これは光の環境条件から起こる結果です。
(0-5)は空気が澄み、気温は低下します。結果、論理的に光の透過は良く成りますので、YMCは勿論の事、赤と赤外線領域の透過は良く成りますので、黒はB系の黒が出てきます。
(19-24)は空気は澱み、まだ地熱より気温は高いです。結果、光の透過は悪くなりますので、もとよりYMCは悪く、逆に黒は赤系の黒が出る事に成ります。
G系はこの何れかの時間帯の中で起こることですね。それは季節の変化にも大きく左右される所ですが、空気の澱みと気温の程度に依ります。

この時間帯での写真は全て光と色のEdとEsの変化から異なってきます。
この「8つの時間帯」を考えCCカーブの色のEdとEsの特長とを合わせて撮影するとぐっと写真性が良くなるのです。
この様にして、季節の時期と時間帯を使う事でも的確にその被写体の特長を引き出し、自然美をより効果的に演出し再現できる事に成ります。
このCCカーブの理屈を利用して綺麗な写真を撮るにはこの特長は大切です。
未だ細かい判断記憶があるのですが、後は後述で説明する事にします。先ずややこしくなるのでここまでにします。

次ぎは、ここK18では、ご覧の様にYMCとBGR全てが一点に合流しているのですから、論理的には撮影には最も良い事を意味しますね。

この中心点、合流点、K18、グレーポイントのポイント4は、左側部位、領域と、右側部位、領域から”推して知るべし”でどちらにもマッチングする領域と成ります。
しかし、当然、理想的な領域ですが、残念ながらその領域は小さい事に成ります。
ここで撮影出来れば綺麗な写真が撮れる事に成ります。無難で綺麗な写真が問題を少なくして撮れる事に成ります。
K18のグレーを背景にして写真を撮れば、自然美のある人間の目で見た綺麗な写真が撮れる事が出来ます。YMCとBGRの左右の領域に偏らない問題の少ないバランスの取れた撮影が約束されると云う事ですね。でもその綺麗な中に更に綺麗さの基を成している「趣」を強調するとした場合は左YMCの領域だと云う事なのです。

上記した「春YMC」と「夏BGR」と「秋の環境条件」と「冬の白黒」等の条件が絡んでも綺麗な写真が取れます。しかし、「趣」をより強く出すとかの工夫をする場合は、その特長と云う点では賛否両論の出るところです。写真でなくても世の中の事は何でもそうですよね。
この条件を見つけ出すのは自然界の中ではなかなか困難でしょう。
プロのスタジオでの「作り出し条件」では問題はありませんし、プロのスタジオでは凡そ世界標準に成っていてこの領域で撮影をします。ですから、商業写真は綺麗ですよね。なかなか欠点を見つける事は困難ですね。
では自然美の撮影では”どう言う時にこのチャンスはあるのか”と云う事に成りますね。
それを発見するには、先ず、CCカーブを使って論理的に考えます。

理想条件
時の要素
CCカーブは標準的で理想的条件の世界標準の中で出来ていますので、これに先ず、自然の全ての環境条件が絡んで来ると撮影時の要件は悪くなる一方ですね。
とすると、その中でも理想条件を叶えるものとして、この最高の領域となると、経験から観ると次ぎの領域ですね。
先ず「秋の環境条件」の一番良い時で時間帯は「昼前後」と成ります。

では、”そんな時は秋にあるのかな”と知りたいとして疑問が出ますね。
実はあるんです。その例として、皆さんは次ぎの言葉知っていますか。
”「秋の台風一過の青空」”昔の人は良い言葉を遺してくれていますね。
この言葉は写真だけに対してだけではありませんで多くの事に適応されるのです。
「台風が来た半日ほど経った時かあくる日」です。

台風のよく通る地方の人は知っている筈ですね。
このポイント4域を再現すると、この日がこのYMCとBGRの合流点なのです。抜群の写真が撮れますよ。環境は標準条件に近いでしょう。
ただ、”絶対に秋だけでは”と言う事ではなく、他の季節にもこの様な標準的な環境条件が無いと云うわけでは有りませんね。
このCCカーブの中心点に相当するYMCとBGRの総合的な好条件を再現する環境条件は”秋だけに限って”とする意味合いでは有りません。他の季節にも再現される可能性はあります。少ないと云う事だけですね。

そこで、「時、人、場所」の三要素の内、上記のこの「時の要素」の「季節、時期の問題」だけでの考察では無く、「場所の問題」で観て見ると、この標準条件の好条件に近い場所があるのです。

場所の要素
何れの季節に於いても再現しやすい所が在ります。多くの良い写真はこの場所から撮っていますよ。
其処は山間部の「山」なのです。
「山」は酸素の様な科学的な要素、温度湿度の要素、塵埃の要素、風の要素、光の透過、周囲のYMCとBGRの豊富さ等が際立って良い事が云えます。
これは季節の夏でも、気温を大きく下げる事や風等の要素が働き、秋の環境条件を再現出来るからです。
当然、春も同様ですが、冬だけは除外しなくてはなりません。冬は雪もさることながら、上記した様に白黒の再現域ですので、このポイントの好条件の発見と演出は困難となりますね。
従って、次ぎの様な事に成ります。
「秋の時期」の台風一過の様な天気、
「山間部」の山の様な場所
以上2つが撮影にはこの中心点ポイントの好条件を再現する事に成ります。

この中心域はEdがEsに対してその比率が高くその領域が狭い事を示していますので、ある限られた範囲でしかこの好条件は成立しない事を示しています。

「台風一過」の様な好条件を頭にしっかりと認識して、”さて、今日はどうかな”と空を見上げてCCカーブを思い浮かべてその日の撮影に合った被写体を模索する事が必要ですね。

中心域最右側
次ぎはこの中心点から上記した右側の域を越えての領域でのCCカーブです。
そして、其処から強さEsの変化比率に対して放物線で一挙にBGRの色の濃度Edは急に上昇してBGRの夫々の強さにその差が出てきます。
次第に拡大して行きます。
ある中間位に来ると色として最も際立って明確な色調を示します。
色としての色合いを最も幅広く使えるところでBGRそのものの特長を顕著に出す所です。
其処から放物線は最大点を迎えます。
この点付近からはポイント5の領域の特長を持ちながら、よりその特長の強さを写真性に出し”ドギツイ”と云いますか”過激”と云いますか、余り色として使われない所で自然の「美の感動」を表現するには問題が出てきます。しかし使えない所では有りません。これは何度も云っていますが日本人の話ですね。ヨーロッパ系人種は使えるところです。
日本人と比較すると、彼等はポイント1つ右にズレていると概して云えますね。

更にそのBGRの強さの差違は拡大しながら今度はその放物線は下降を始めます。
この領域は”下降する"と云う所に問題があるのです。
下降するは”Esに対してEdの比率が下がる”と云う事ですから、最高点に較べて”何か濃度が薄らんで来た”と感じるところです。
マア、その様な趣を出す被写体があればこの域のポイントを使う事に成ります。
夕焼けより少し後の”太陽が落ちた頃合”の時間帯となりますかね。
当然、写真にするのであれば、フラッシュを焚く事に成りますよね。
”何か濃度が薄らんで来た”は無関係に成ります。
”夜の線香花火”の写真でしょう。

この範囲では自然美の追求としては黒ずんできますので普通では使える程度では有りません。
黒をバックにして対比的に被写体を浮き出させその色合いを誇張する写真などがあり、夜景のスナップ写真と成ります。
そして、最後はBGRの綜合色の黒と成り、BGRが一線状に無く別々にR>G>Bで拡がっていますので、その黒がBGRのB系の黒、G系の黒、R系の黒となる黒系が出来ます。
R>G>BからR(赤)系の黒が強く出てきます。
G系、B系の黒は”鬱陶しい”と云うか”物寂しい”と云うか”物静か”と云うか基本的には”被写体の目的に応じた黒を選ぶべき”とするべきですが、現実にはR系が好まれるのです。
これが白から黒までに変化する「CCのSカーブ」と呼ばれる変化です。

「3つの要素」(撮影3要素)と「CCカーブ」
これを自然美の追求からすると、次ぎの様に成ります。
「撮影季節」と「撮影時間帯」
「撮影場所」
「撮影被写体」
以上の「撮影3要素」の「3つの要素」です。

このCC理論に当てはめて考えると「自然美に融合した綺麗な良い写真」が撮れる事が出来るのです。
逆に、写真展などで綺麗な写真を判定評価するとしたら。この「3つの要素」と「CCカーブ」が合致しているかの評価をすればよい事に成ります。
写真展や展覧会などで「3つの要素」と「CCカーブ」を下に観た事がありますか。
余り少ないと思います。
そうですね。プロはこの「3つの要素」と「CCカーブ」で観ているのですよ。
この「3つの要素」と「CCカーブ」の視点で観る事でその写真の撮った人の「努力」や「技量」の奥のものも垣間見る事が出来て楽しさや観覧の有意義さが出るのではないでしょうか。
この様に、「3つの要素」と「CCカーブ」が働いていますから、絵画の芸術性と違い写真は「技術の領域」を多く占めている事を物語る事ですね。
本文は故に「芸術写真」を論じていないのです。

ポイントの詳細(ポイントの解説)
それでは、更に深く理解を深める為に、そのポイントのところを更に詳しく考察する事にします。
さて、復習しながら進めますが、そこで、このポイントの”写真に対する効能がどの様に働くか”を解説します。

ポイント1−4
先ず、太陽の光が人間の目に届いた時点のところです。YMCの左側のスタート点と云う所ですね。
この点をポイント1としますと、このポイント1この所が、YMCの完全な綜合光、即ち灼熱の太陽に見る「白」ですから、その白つまり、ポイント1の所です。人間の目に見えうる僅かな色合いを示す限界の所です。
従って、写真には影響の出るポイントと云う事に成ります。
つまり、最も光の領域に近い色合いですよね。BGRも光が物体に衝突した時に発する閃光色と考えられますから、その最初の所と云えます。

最初とは云え、実は無視の出来ない大事な大事なポイント1なのです。
それは”何故なのか”と云う疑問が湧きますね。
太陽のぎらぎらの光が写真に無理だと思うでしょう。目にも見えないくらいの光の領域の白なのですから。ところが、人間に見えない光線が人間社会に働いているからなのです。
つまり、可視光線外に色があると云う事に成りますね。よーく知られている言葉の紫外線、赤外線の境界領域なのです。
特にこのポイント1の場合では、紫外線の働きがあるのです。
写真には、人間の目に見える限界です。
その限界に現れる白を持つ植物や自然現象が多くあるのですよ。
では、それを説明します。
元々BGRも上記した様に光の色のスタート点(ポイント1)からEsが進んだものなのですからね。

先ず、植物では「淡く薄く青じみた光輝く青」とも確認が難しいほどの色合いを示す白の花があります。
当然にこれは自然界には物理的にもあり得る事です。無いとは云えませんね。巾のある自然界ですから。
太陽から可視光線外の紫外線などの光を受け付ける細胞(錐体細胞)を持ち得るものがあればその限界の白ともいえる色合いを示す事になりますから、自然界にはある事に成ります。
もっと紫外線外の光をも受け付けている植物が在るかも知れません。しかし、如何せん人間の目にはその限界があるからそれを確認出来ないだけの事なのです。
この様に考えれば”なるほど”と納得出来ますね。実は意外にこの世の中には物理的に観るとこの事が多いのです。知られていないだけの事なのです。

自然界でははっきりと観られますよ。先ず「雷」の光を見た事の無い人はいませんよね。又は物と物とが高速で衝突した時に出る閃光も光の領域ですね。
BGRは光の透過量(YMCは衝突閃光)を原理としますが、要は元は振動磁波と浮遊物質との衝突ですね。その時に出る閃光ですからね。雷の光の色も原理は同じですね。他にも沢山あります。

最近ではプラズマ光線、レザー光線など良く知られるように成りましたが、あれは太陽で起こっている核爆発の光に近いケルビンを持っていて太陽で起こっている光そのものでもあり、小さい太陽そのものの光線ですね。
普通には鉄等の鉱物を溶断する時等に使う建築現場の酸素と窒素の溶断バーナーなどの火炎が身近に在りますよ。火炎は光りですから
水晶の結晶に超高速の高周波を通すと起こるレーザー光線などは明らかに青色がはっきりと見えますよね。レーザー光線は目でも飛んでいる光の色ははっきりと青として観えますね。

プラズマ光線ははっきりとやや赤味を帯びた感じがしますし、酸素バーナーなどはやや黄色味を帯びた色をしています。
この様に例でもわかる様にこれらの光に「色合い」を持っていますね、確かに。これがYMCのスタート点のポイント1の所です。つまり、YMCは光の領域の色合いですね。
そうすると、もうそのものから考えると、YMCは光又は色の基に成っていることが判りますから、この「光の色」(YMC)が無くては全ての色合いは成り立たない事は判りますよね。
太陽が色の根源なのですから当然ですね。
では、この光と云うか色と云うか「YMC」の融合色には3つのものがある事も判ります。
Y傾向の閃光、
M傾向の閃光、
C傾向の閃光
と云う事に成ります。

この白の色合いが完全に融合した所が白ですから、しかし、このエネルギーを分析すると本来理論的なところでは「一つの白」と成る筈ですね。
ところが、光は鉱物の核爆発の振動磁波でしたね。そうすると、鉱物には人間の指紋と同じく特長を持っていますから、当然にその持つエネルギー(E)も違う事が考えられます。
この地球上の「鉱物の周期律表」と云うものを習いましたね、あれは言い換えればエネルギーの違い差ですから、その差がズレとなって出てくるのです。YMCの3つの形で。
ですから、ご存知の上記した閃光をよーく観ると、Y系、M系、C系の白の光の色合いを示すのです。そして、そのレベルは高い順にY>M>Cと成ります。エネルギー的には一つに成っていないのです。但し、メーカーに依ってはEdがYとMが接近か或いは同等である様に編集している場合があります。これは人はM傾向を一般的に持っているからなのです。当然に日本人ですが。

つまり、その閃光の基の鉱物はNa>K>PorBs=Y>M>Cと成ります。
そこで、理解を深めてもらう為にC(シアン)の例をもう一つ挙げます。
昔の人から墓所で「火の玉」「人玉」を観たと聞いた事があるでしょう。これは現実なのです。
これは夏場に虫や生物が死んだ時に出る肉質の根源のP(リン)が静電気の現象(「スキンエフェクト」と云う現象)で引っ張られツルツルとした冷たい墓石の角にイオンの形で集まり、塊となるとそしてそれが空気の酸素と反応して酸化して燃え軽くなった塊が石から飛び出した現象なのです。
昔は人は土葬でしたからね。
余談はさて置きこの(P)が燃えた色合いがシアン色を発光するのです。

Y(イエロ)のNa(ナトリウム)は夜の道路やトンネルの外灯です。ランプガラス管の中でNaガスイオンに放電管から出た電子が衝突してYの閃光を発しているのです。これも太陽からの飛んできた振動磁波が障害物に衝突して閃光を発した光の色と同じ事ですね。それがガラス管の中で起させているのです。

M(マゼンタ)のK(カリウム)は料理の時に塩が鍋からこぼれてコンロの火に当り燃えた時の色です。このマゼンタの光の色合いが自然界では多いのですがよく認識されていない為に気が付いていないのです。そして、このマゼンタが中間色としてBGRの色に融合していないと写真では納得しない色合いなのです。勿論、前提は日本人ですが。
赤い夕焼けなどもよーく観るとマゼンタの場合が多いのです。
秋の紅葉を赤と観ていますが、あれもマゼンタのものもあるのです。
このマゼンタは最も多いのですが、赤に間違われやすい色合いだからです。
これはマゼンタのEd(濃度)が高くなった領域ポイント3−4のマゼンタを観ている事なのです。
中には、人間の肌色やピンク色を「マゼンタ」では無く「赤」として観ている傾向があるのです。
ピンク色はマゼンタのポイント3域付近の色合いですね。人間の肌色はポイント2域付近と成るでしょう。
プリントする際に補正を要求する傾向の強いのはこのマゼンタの色合いが多くこの認識の違いから来ているのです。
極端な人では、道路のアスファルトは黒か黒系統の灰色と普通は観ているでしょうが、違うのです。マゼンタ傾向のアスファルトと認識している人が日本人に実に多いのです。
決して色盲ではありません。印象記憶がその様に思い込まれて記憶しているだけなのです。

この様に印象記憶になるほどにYMCは身近にある光或いは燃えた時の光の色として多く存在しています。ですから、念の為に聞きなれない光の領域の色合い「YMC」を確認して覚えてください。
これ等は全て「YMC」=「光から出る色合い」ですね。

さて、これでその原理は判ったとして、次ぎは、この「3つの光、YMC」の色はそのエネルギーの僅かな差でほぼ平行移動して変化して行きますが、写真撮影ではどの様に働くのかが問題です。

色を左右させる根幹のものですから、人間の目には色では無い色ですから、光とBGRの色との中間ですから、このの融合色は「中間色」(専門用語でハーフトーン)と云う事に成りますね。
例えば、YMCの融合色のピンク色などが中間色です。要するに肌色の様な感じの特長を持った色合い等です。中には中間色でもEd(濃度)の濃いBGRと見間違える中間色もありますよ。
ポイント4域手前と、ポイント3域付近では慣れていないと見間違えます。
この共通する感覚としては次ぎの様に覚えてください。
「YMC」=「淡く薄い光輝く色合い」
以上の共通する特長を持っています。

それを覚えるには上記した説明です。
「YMC」=「閃光色」です。

そこで、上記した「閃光」の色合いを少し濃くした色として思い起こしてください。
そのYMCのマゼンタ傾向の強い「融合色」のピンク色はプラズマ光線の色合いを濃くした色がこの中間色です。

このポイント1の部位域での色合いの濃度、つまり、エネルギーの量Edを上げて行くとその中間色は濃くなって行きます。そして、その領域(量域)がポイント3まで続く事に成ります。
ここまでは「中間色域」で「光の色合い域」と云うべき所です。
厳密にはポイント4域までが論理的な域ですが、このポイント3からポイント4域は中間色とは云え特長をやや異にして来ます。
当然、写真性でも同じくその効能と云うか特長として出て来るものが異にしますので、ポイント3とされるのです。
兎も角も、ポイント3域まではポイント1からのスタートのYMCのEd、Esの差違は狭まりながらもやや濃度Edを上げながらもほぼ平行に推移します。この域を「中間色」(YMC)なのです。
「YMC」=中間色

余り変化の無いという事は光の色としてである為に単独(単属)では「安定している」と云えるのです。従って、ポイント1に対してポイント2までの域は強さEsと濃度Edに対する判定能力はやや出来る程度(0.5)である為に写真性に大きく差が出て来る領域では有りません。
その「安定性」の面ではポイント4より右のBGRの障害物に依って変わる色に比較して「安定」な特長を示す領域です。

ポイント1域は「極めて淡い薄い色合い」で光輝く「光の色合い」程度で、自然の中では探せば見つけることが出来る程度の色合いです。
ポイント2域では「淡い薄い色合い」で自然色の中に多く観られる色合いとなり人間の印象記憶の始まり程度の「光の色合い」です
ポイント3域では「淡く薄い色合い」では人間の判定能力から色BGRの濃度の薄い色合いと見間違える人が出て来る色合いです。印象記録は誰でもが共通の色合いを示します。
しかし、未だこの域は光輝く特質は持っています。自然の中には大変多い色合いです。
淡い透き通るような花の多くはこの域のものが多いのです。

撮影では、条件さえ整えば「安定」して表現出来る色合いであると云う事ですので、この3つの目で観た情景を的確に捉えて。撮影に反映させればよい事に成ります。
その反映とは上記した
「撮影季節」と「撮影時間帯」
「撮影場所」
「撮影被写体」
以上の「撮影3要素」の「3つの要素」でこれを検討すればよいことに成ります。
この逆の事も「撮影3要素」で「情景」を探せば良い事に成ります。

まとめますと次ぎの様に成ります。
撮影要領=「撮影3要素」><「自然の情景」

その安定域はポイント4或いは3まで続く事に成りますので撮影には好条件です。
かなりの”環境条件にも左右され難い色合い”という事に成ります。
但し、上記したBGRのフェリヤー(補色反応)が働かないとい云う前提です。

ですから、このピンクの色の花の群れがあるとして、それを被写体としてアングルの6割以上(科学的な論理的根拠あり下記に記述する)の中に入れると、目で観た色としての感覚は保たれると云う事に成ります。
この事からすると、写真技術としては、そのピンクの色合いだけでも「安定して且つ感覚が保たれる」だけでも、「アングルや周囲の景色」の如何を問わずそれはもう綺麗な写真と成ります。
更には、光の色YMCは光が衝突して発光したのがBGRですから、この理論からすると、このBGRの色を持つものの根底にはこの中間色YMCが含むことを意味しますから、撮影にはこのYMCをより多く出す工夫をする事が秘訣と成りますね。
そうすれば、YMCのBGRに対する効能として「くすみ、澱み、濁りの無い色合い」を引き出す事が出来るのです。

よって、論理的には「YMCの中間色」は、ポイント1からポイント4までの中間色域と、BGRのポイント6までの域まで(このYMCは色合いとして)働いていることに成ります。

前はポイント3域までは「直接的な影響」です。
後ろポイント6域までは「間接的な影響」と云えます。

当然に、このYMCは直接、間接で「自然美の綺麗さ」を表現出来る最高の色合いである訳です。
更に言い換えると、このポイント3域までのところで撮影をする事が秘訣です。
最高撮影域=ポイント3域

では”どうしたらその様に出来るか”ですね。
何度も云っていますが、「自然環境」です。撮影の「環境条件」です。
振動磁波が地球の障害物に衝突した時に発する「閃光色」ですから、「障害物」つまりは論理的に地球の「環境条件」と成りますね。
光の色のYMCは光の状態に左右される事に成りますからね。地球上でこの「光の状態」を変えるのは「自然環境」以外には有りません。太陽から飛んできている訳ですからね。それが地球の障害物に衝突しているのですから。その障害物は自然そのものですね。

障害物=自然環境
その光を左右させる自然条件は上記で述べた様に、温度、酸素、風、湿度、塵、埃、朝昼、紫外線量、赤外線と影域等に成る訳ですから「被写体に合わせた良い条件」を選べばよい事に成ります。

更に、シビヤーにするとすれば、上記した様にYMC(中間色)の場合は次ぎの要領です。
光の強さのガンガンのポイント1域なのか、
量的な領域のポイント3域なのか、
その中間のポイント2域を使うか
以上3つに拠ります。

これ等は日本では、季節、時期の選択と成ります。
環境の広域変化の四季を使うか、
狭域の一日の変化を使うか
この2つによる事に成りますね。
光の色合いYMCですからね。

例えば、ガンガンのポイント1域では真夏を使えばよいでしょう
ポイント3域では秋冬間を使えばよい事に成ります。
ポイント2域では晩秋か春盛を使うことで表現出来るでしょう。

狭域では、朝の光(3つもあります)のポイント1域、
11−15時の昼の2つの光のポイント2域、
夕暮れの16−18時の夕焼けが起こらない手前のポイント3域
を使うとなるでしょう。
復習
「朝日の3光(6-9)と時間帯(5-6)(7-8)(9-10)、(10-12)」
「昼の3つの時間帯(12-14)(14-16)(16-18)(18-19)」

(0-5)(19-24)は黒の特殊な領域です。
(0-5)の領域の黒と(19-24)の領域の黒とでは黒の傾向は異なります。

これだけでも、良い写真を撮る事は出来るでしょうが、上記した幾つかの環境条件を駆使する事でも更に短期に撮影できる事に成ります。

温度の心得
先ず、温度ですが、
一季節の温度、
月単位の温度、
週単位の温度、
一日の温度の「温度の高低」
以上でも大きく変わります。

特にこの温度の要素は、湿度、乾燥、空気の移動、酸素量などの変化が起こします。
これは光の透過量を大きく左右させます。又、花などでは植物にも変化を与えますし、そもそもその色合いにも微妙に変化が起こります。

酸素の心得
酸素は意外に認識は無いでしょうが大変に影響があるのです。
酸素量はその周囲の温度を2度以上に下げる能力を強く持っています。
風は温度を2度程度下げます。もとより、塵埃類を飛ばします。

湿度は推して知るべしで空気中の水分量が光の透過を左右させます。
後はこれも推して知るべしで被写体に合わせて選ぶべきですね。

これら一度に全部の条件選択とはいかないでしょうから、その被写体に合わせたより多くの条件を選択して撮影する工夫が必要でしょう。

撮影前の心得
写真撮影は撮影前のこれを考え設計するのも又楽しみの一つとすべきです。これがこのCC理論をマ
スターする秘訣ですね。
設計する楽しみ
当然に撮影時の楽しみ、
撮影後の設計の検証考察の楽しみ
この3つだと思います。

言わずもがな、この「3つの楽しみ」が、上記した「写真技術の習得」と「その腕前」を上げる基となるでしょう。
一度には覚えられない理論に苦手な人も居られるでしょうから、何度も読み返しながらも訓練と経験を通して得られるものです。慌てる事は有りません。

条件のマスター
誰でもが通る方法は、写真撮影ではこの理論を一つづつマスターしながら多くを覚え、遂にはいくつもの条件を瞬時に配慮した撮影の成功に繋がるのです。その時の喜びは飛び上がらんばかりです。
実は、筆者も撮影の際には出来るだけ前もって設計し、それを現場である程度の範囲で瞬時に条件を考え出し、それを再現する努力をします。どちらかと云うと設計が楽しみなのです。
これはボケ防止によい様に幸いにも働いていていまだ忘れぽくなると云う事が少ない様に思いますね。何をか況やこれは父親が手本です。

さて、余談が過ぎましたが、”YMCの光が色を発する?”はこの以上の理屈から来ているのです。そして、それがBGRの色域のところまでその影響力を伸ばしているのです。

この「中間色」には色々と理論が多くありましたね。
ここら辺で一休みして又別の日でも読みますかな。
しかし、説明は続けます。

次ぎはポイント4域ですね。
中間色YMCのポイント1−3の説明はこの程度として、次ぎは大事な色の3原色のBGRの色への入り口です。
「光の色YMC」から「BGRの色」へと入るには、エネルギーEを持っていますからある変化が必要ですね。
この世の何でもそうですが、その脱皮には莫大なエネルギーEが必要です。物理学でもこの点のところには言葉が付いているくらいです。降伏点とか変態点とか分岐点とか分離点などの言葉がありますが、この色の理論では「K18ポイント」(K18)と呼ばれています。
そして、このEの「変換点」には全てのものに云える事ですが、その変化にエネルギーの加速度が起こり軌道を一時「ズレ」を起す現象が伴ないます。これを通称他の物質(水等の液体)ではス−パーヒーティング(加熱時)とかス−パークーリング(冷却時)と呼ばれています。
要するに過熱現象、過冷現象(通称ラップ現象)などの言葉が付いています。(スーパー:過)

YMCの過色現象
YMCからBGRへのこの「脱皮点」の「K18」付近では全てのEが集中しています。光が色に変化する時にも全ての物質に起こるようにこの様な「変位現象」が起こるのですね。
普通の理屈なら集中しなくてもそのままで変化しても良い筈ですね。
しかし、例外なくCCの理論のカーブでも集中現象が起こっているのです。
集中してEを蓄え「変位現象」が起こっているのです。明らかに脱皮現象ですね。
そして、そのカープが双曲線から放物線へと一挙に変化します。
物理学ではE的に観ると、この地球上の全ての物質の「変位現象」はこの「ラップ現象」と「BGRの集中現象」が起こる事に依って成立していると成ります。
そうするとCCカーブでは「集中現象」は再現されて起こっていますので、過色現象(ラップ現象)も当然にある筈です。

そこで、多分、自然摂理からこの変曲点ではこのスーパー現象(過色現象)が起こっている筈です。
つまり、どう言う事かと云うと、K18の直ぐ右側でYMCの現象も一定の領域で平行して起こっていると云う事です。本来なら理論的にはYMCはBGRの根幹要素として働く事に成ります。
しかし、このK18右側一部領域では根幹要素ではなく左側の「YMC効能」をも示す筈だと云う事に成ります。
ですから、K18の所での撮影が最も綺麗に撮れるポイントだと成るのです。
それ相当には、K18の左右のCCカーブの集中領域では綺麗に撮れる領域ですが、文句なしの完全に綺麗に撮れると成れば、理論的には、K18のその一点の領域だけと成りますね。
そんな芸当は現実に困難ですよね。しかし、テストでは確認すると現実に多少ずれても可能なのです。
最高の撮影ポイント領域だとする事はこのYMCの「過色現象」が起こっている事に成ります。
CCテストでは現計測器ではCCカーブのこの「過色現象」を取り出す事(この色としての再現)は無理だと言う事に成ります。水などははっきりと大きく長く出て来ますよ。
「YMCの過色現象」がBGRの領域にあると云う事は綺麗に撮れる領域である事の証明なのです。
当然ですよね、綺麗に撮れるYMCのポイント3の領域とBGRの領域の二つを持ち合わせるのですからね。文句なしですね。
そこで、では撮影に際してどのような時かと云う事に成りますね。なかなか難しいですが。
YMCの濃度Edが急に3−4倍に成っていますから、その事から考えると
BGRの色が情景に観られる所で、且つ、その濃度が「YMCの淡くて薄い色合いを持つ濃度」よりはっきりと数倍の濃度に成った所ですので、BGRの色合いの情景が着いた領域で、時間帯で云えば季節にも依りますが、平均して昼前ごろですね。
カンカン照りのEsEdの強い15時以降の時間帯では無い事ははっきりしていますが、季節では春の桜の咲くころ前後かなとも思います。この時期に「目で観た自然美」の「完璧な色合いの写真」が撮れる事に成りますね。これは基本的には経験で体得して頂く事に成りますが。

先ず、桜が綺麗に取れるのは桜の花の色合いをお考え下さい。
主にYMCの中間色のピンク系でEdが少し進んだところですね。桜の花がピンク色であるからだけでは無く、このK18の直ぐ右側の過色現象が働いている所も大きく左右しているのです。
写真館にこの桜の時間帯に分けた写真の3枚組写真を添付していますが、この時間帯を過ぎるとフェリヤーが働いて色合いが変化していますが、時間帯の早い桜の写真は自然の色合いを示しています。
(写真館にはこのCCカーブの各ポイントでの例題写真を展示していますのでご覧下さい)

さて、少し難しく成りましたが、そこで、これを覚える事のためにも、もう一度K18の意味合いが深いので復習を兼ねてこれに付いて考えて見ます。

各メーカーで独自の分岐点を持っていますが、これでは国際的な統一が出来ません。そこでこの微妙な点を何処の国のどの分類方式のものにするかが新理論を確立する上でも何れの時も問題に成ります。
この際は一番進んでいる2つの国の日本のポイントとするか、米国のポイントとするかに成りました。結局、この理論化の発祥元の米国のものとする事に成りました。
それを確立したメーカーのコダック社のものを使うことになったのです。
その為に、Kを使いました。そしてその分岐点の階層分類の内の18番目のものを使うと云う事に成りました。
それが、この「K18」ポイントと成ります。カーブではポイント4に当ります。
「K18グレー」と呼びます。
そうなんです。このK18は光の色のYMCとBGRの中心で、K18のグレーより左側は薄くなるグレーで中間色の色合いです。ポイント3付近半ばから起こる極めて薄い色合いのグレーです。
右側のグレーはBGRの色のグレーと理論的には云えます。
「左の中間色のグレー」か「右の色のグレー」かの判別は上記した「淡く薄い光輝く色合い」で判別が出来ます。慣れるとそう難しくは有りません。
その為に、色に変化するためのカーブの傾きが最も高く成っています。
つまり、この事は「量と質の変化」のEが同率で比例的に起こる事が示されています。
「中間色」には「YMCの色合い」以外に、この「グレー系統の中間色」があるのです。
綺麗なグレーですね。
この左側の中間色のグレー色の領域での撮影では、「色合い」の表現では、大変難しい作業と判断が伴なうことが論理的に云えます。難所である事が云えます。
それは次ぎの「質と量」の変化が原因しています。

「質と量」のE
K18での「質と量」のEが急激に同率で変化するのですから、その領域は小さい事が云えますので色合いの表現は難しいのです。
逆に、その色を表現出来たとすると、その写真は抜群の出来栄えと成る事を意味します。
被写体に中間色の薄い淡い輝くようなくすみの無いグレーがあるとすると、上記のYMCの撮影の環境条件が限定されてくる事に成ります。
逆に云うと、このグレーを背景にすると前に来る色合いはYMCとBGRの中間付近にある訳ですから最も補色関係の差が有りませんので、フェリヤーが働き難い領域と成ります。
そうすれば、我々素人範囲ではそのタイミングを取る事が難しいですし、この自然美が自然界に少ないことが考えられます。主にはプロが撮影するスタジオなどで再現できる環境条件です。
ですから、身近では祝時等でスタジオ撮る写真には後ろにグレーの背景の膜を張り撮影しますね。あれはこの原理から来ているのです。
プロが撮る商業写真などをよーく観てください。この域の中間色域のものを選んでいます。
難しいですがその環境条件を再現できれば出栄えは抜群で誰でもクレームをつける事が出来ない綺麗な写真が撮れる事が出来るからです。
当然に上記したフェリャーや紫外線の影響などの問題は起こりません。この過色現象とK18の左ですから周囲にBGRの色を使っても印象記憶の差違も出ません。
ですから、環境条件を再現出来る様に計器が多く存在するスタジオなのです。

商業写真の被写体の目的にも拠りますが、次ぎの領域を使う事に成ります。
第一には「K18の左側」=「ポイント4の左側50%付近まで」
第ニには「K18の右側」=「ポイント4の右側15%の過色現象領域まで」
第三には「K18の右側」=「ポイント5の左側50%付近まで」
成ります。

ポイント4の右域(50%以上)は既にYMCの領域では有りませんから、BGRの単一色の欠点を補う間接的なYMCの影響と成り、商業ベースでも綺麗な写真とはなり難いのがこの域です。
しかし、それを敢えて撮影に出すという技法も有り得ます。最近は美以外に人を引き付ける目的で、強い「個性出し」とか恣意的な「意外性」を出す為、又は「芸術性」を出す為に用いられる事が多いのではと考えますが。ここではその域であるとして知る事で充分ですから対象外とします。

このポイント4域の左右は撮影の良い環境ですが、変化し障害の多い自然界にはそのタイミングを捉える事には少し難しさを感じます。
先ずはこの中心点をK18と覚えてください。色合いを文章で表現するのは困難ですので、専門書等で「K18」でお調べに成ってください。

そこで、現実には更に突っ込んで、撮影では被写体が「YMC」と「BGR」のどちらの比率が高いかの問題が出ます。それを解決する事が必要ですね。
それは、被写体の中心に置くものがどちらの領域のものであるか判別する問題です。
下記にそれを解説する理論がありますので、そこでより詳しく理解してください。
答えは撮りたいものを、画面の中心を原点として、その領域の「60%の範囲」の何れかに置く事で解決します。
つまり、その「60%」の中にある被写体に合わせて、YMC、BGRのポイント5まで左の域ですので、「YMCの環境条件」を考えて撮影する事に成ります。
YMCの条件下にして被写体を60%以内に抑える事です。(60%の根拠は後述する)
そうする事で「自然美のある綺麗な写真」が撮れる事に成るのです。


次ぎは後編です。


  [No.262] Re:写真技術と色の理論−後編
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/12/12(Sat) 13:43:24
Re:写真技術と色の理論−後編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

> > 写真技術と色の理論
> > (副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)


「写真技術の現状」
むしろ、極端に云うと、この理論から云うと、一般的にはマニアを除く素人域では”YMCの色合いを出す努力”で大方の良い綺麗な自然美の写真を撮るのには充分だと成りますよね。
そして、ポイント4域右の領域は”プロとマニアに任す”と成るのでは有りませんか。
つまり、2分化ですね。我々は「光の色域」の中間色の所での撮影に重点を置く事ですね。
カーブもそ「光の色域」が広く安定した様に成っているのは太陽、否、神の成せる業(技)ですね。特に、色理論のCCカーブは日本人好み向きと成りますね。そこで次第にCC理論の腕を挙げて来れば挑戦すればよい事になるのでは有りませんか。しかし、このCC理論を知っておく事は絶対に必要ですね。腕をより挙げるのであれば。
昔は、外国で”カメラを首から吊るして歩いている人は日本人と思え”と云われていました。
ところで、この日本の2分化は写真技術の発展に大きな効果を示し、カメラのみならず写真媒体関係も発展させたのです。何れもが世界のトップに成ったのです。
非常に美的感覚の強い繊細な日本人の為にはCCは最適であり、YMC域があり、好みの範囲であり、その領域が綺麗に撮れる領域で、且つ、撮影には安定しているのですから、故に日本で写真技術は進んだのですね。
そこで市場の現状を観て見ると、昭和の時代はコダック社が日本の市場の寡占状態でしたが、次第に日本のメーカーもカメラ好きの日本人の後押しもあり、上記した様なCC理論の技術革新と開発をして、平成に入って日本のトップメーカーのF社はアメリカに上陸し、優れた繊細で綺麗な写真技術を背景に瞬く間に2大写真媒体メーカーを買収したのです。現在はカメラ本体、写真の技術媒体の何れもがアメリカ市場を大きく寡占する状況に成っているのです。
当然に、上記した米国人の印象記憶の問題がありますが、これはポイント4−5域のところですからCC全体からすると20%程度と成るでしょう。
最近では、日本人好みのG傾向が理解されて来て日本ソフトも好まれるように成りました。
これは日本の景観の観光の効果と、米国の多様人種化の影響、米国人の「飲まず嫌い」の為でもあったと考えられます。丁度、寿司が世界に広まった事と同じではないでしょうか。
これは、ただし写真を撮るのではなく、上記CC理論の様な写真技術を理解して撮る事により進歩が生まれて、それが物心両面で何時か我々の生活を豊かにさせる要因と成っているのではありませんか。

話をCC理論に戻します。
上記して重複しますが、ここで、「色調」を示す「色の階層」というものがあります。それを知っておく必要がありますので、長文と成った為にも改めて上記の復習をします。

色の無い白が次第にやや色じみたものが出て来ます。このポイント1が大事な写真の良悪の判定となるのです。これがある程度の平行状態で進みポイント2のところに来ますと、YMCの色合いが強く出てきます。
この辺まではポイント1と同じく自然色の色合いの判定が出来又、その写真性の修正も幾らのYMCを足せば自然色なるかの判定が可能です(説明する)。
YMCのバランス関係が一定で推移します。
ところが、更に右に進むと、つまり、このポイント3付近ですが、このポイントから急激に濃度は上がります。又このポイント3当りからYMCの相関関係が崩れてきます。
同時に光の関係が崩れて色の関係へと進むのです。融合すると薄いグレー色を示してきます。
そして、ポイント3から4付近で全てのYMCが一点に集中して来ます。ここがポイント4です。
所謂、融合色のグレーです。このポイント4が「K18」と云われるところで、「光と色の中心」即ち(YMC)と(BGR)の中心と成ります。「K18グレーポイント」と呼ばれるところです。
「BGR:YMC」の光と色の中心、又は光と色の分れ目、分岐点、分離点です。
このポイント4が世界で統一されたグレーでこれを基準に色の種類の判定が出来る様に成っています正確に、そのK18の中味を分析すると、YMC、BGRの数値がバランスの取れた形で存在して色合いが出来ています。

では、その階層が判るとして、写真技術では「色のレベル」を判定して調整する事が必要に成ります。
撮影時には環境条件やカメラ技術で調整する事に成りますし、プリントではペイントソフトで編集する事も必要と成ります。
兎も角も撮影時の調整として考えるとどうしても「色レベルの判別能力」をつける必要が出てきます。
そこで、人間には色に対する判別能力が実にシビヤーに持っているのです。

色判別能力
そのレベルはどの程度なのかの疑問が湧きますね。
もとより判別が出来なければ撮影の環境条件を左右させられません。
目で観た自然との違いを表現するにしても数値的ものが無くてはこの位と云っても抽象的では判りません。
世界共通の何かの基準が必要です。
そこで、そのために色理論では「色の階層」を定めています。そのレベルに付いて述べます。
そして、それに依ってYMC、BGRの個々の色の階層と云うものを定めています。

その方法を簡単に述べますと次ぎの様に成ります。
人間の色の濃度(Ed)或いは強さ(Es)の判定のレベルを統計的に、色の範囲を十進法で先ず10階層に分けます。そして、その1の色の濃度の変化を更に10等分してどの程度に見分けることが出来るかを観ます。
(注 ここでは写真性という観点から判りやすくする為に「濃度Edと光の強さEs」と云うエネルギーの定義の枠で説明している)
そうしますと、統計的に実験では、カラーチャートを使うと次ぎの様な能力を持っています。

人間の判定能力は次ぎの様に成ります。
普通の人でD=0.5です。
プロではD=0.2です。
D=1であると判り易いのですがそうでは有りませんでした。

この判定能力を機械的(濃度計)に再現しても一致しますし、写真の中での濃度を見ても0.5と0.2ですので、これを根拠に再び階層を分け直しますと次ぎの様に成ります。
0.5では10のものは、中心と両サイドを計算すると12階層と成ります。
プロでは0.2ですから24階層と成ります。
更にプロ域が使えるために作った0.2は確実なので「感の領域」のために進めると36階層が出来ます。この様に分ければ人間の判別能力に一致します。
簡単であれば現実でも6階層でも充分可能です。
これで”何色が0.5足りない”とすれば直ぐに対処できます。
当然、縦と横の階層の判別はその色がK18の基準が決められていますので縦の位置と横の位置の判別には問題はなく成ります。

本文では、縦のその色の変化をポイント1から7までとしての6階層として説明しています。
しかし、この6階層を更にその微細な特長毎に分割すると12階層に分けられます。
当然この域はプロの域です。そうしますとYMC、BGRの一階層に対して、6、12、24、36の単一の階層が出来ます。
そうしますと、最高の識別では縦横の階層に分けた色の種類は1300程度成ります。
現在では機械的に更に分ける事は出来ますが、それに付いて来る人間の判別能力が追い付きませんので意味が有りません。
多くして超微妙な「色合い」を変化させてもそれを観る人が居ないのでは同じですね。(中には10進法で階層を作っているものもある)
これで、YMC、BGRの色の分類をしています。
我々では6階層でも綺麗な写真は上記理論を駆使すれば充分に撮れます。
ですから、出来た写真を観て、1程度の濃度等の判別能力があれば充分です。
色見本を観ながらでは経験して慣れますと、この写真の出来栄えでは”少し濃度が現実の自然より高いな”とか、”色がずれているな”と評価して一眼レフのカメラ技術で修正撮影をする事が出来ます。
又、プリントする際はカメラ写真店で”Mを0.5程度引いて下さい”と云えば自分の好きな色合いを弾き出す事は出来ます。
当然、目で観た「自然の美」に合わせることも出来るし、「趣」を表現し誇張する事もこの操作で出来る事に成ります。(デジタル、アナログともに可能)
今はデジタルですので目で観たものとモニター写真とで直ぐにこの評価が出来ますね。
しかし、ところが、このデジタルにも多く問題を持っていて万来の信頼を置く事は出来ません。
デジタル写真では、家でのプリンターでの操作は、先ずはそのソフトの持つメモリー容量から来る再現能力で決まります。その再現の品質が悪ければ、後は画像修正のペイントソフトで行えますね。
ところが、実はデジタルは色を出す事に対して「大変な問題」を持っているのです。このことは詳細は後述します。

「店頭プリントの問題」
ここで、自然の美を追求する立場から、デジタルとアナログ共にプリントに付いて少し予備知識として持っておく必要があるのです。
デジタルはインクジェットでプリントしますが、なかなか思った様な再現プリントが出来ませんね。
微妙な色合いは出ません。それはそのインクジェツトが噴射するソフトのメモリーが左右します。
充分な色階層を再現出来るソフトメモリーでなくては実態の自然美を出す事は出来ません。
そうすると、マニアーはデジタルカードを銀塩写真の現像器にセットして処理しますと400万画素と成りますので充分な色合いを正しく出す事が出来ます。
しかし、現像液の管理が正常に出来ている事を前提としています。これには管理の問題があるのです。
デジタルを直接PCに映像にすると、それを再現するソフトのメモリーが左右してしまいます。
今は多くはインクジェツもソフのトメモリーの低さが左右しますので同じです。、これを放置するとどんなに撮影で写真技術を駆使して微妙に表現しても、思ったような写真は出来上がりません。

メモリーでないこの店頭プリント(家でのプリントも含む)で解決できるのですが、この管理の問題点を理解していないと再現出来ません。
それを説明します。
店頭のプリントは現像液で処理しますが、このシステムは簡単に云いますと次ぎの様に成ります。
デジタルアナログ共に同じです。
「現像]「定着」「水洗」「安定」「乾燥」の原則5つのプロセスで出来ています。
ところが、これは化学液ですから次ぎのことが起こります。
「処理液の反応差」
「反応による劣化」
「自然の劣化」
「機械のCCソフト差」

先ず、反応差です。
反応は処理すると反応前の原液が一定量で処理量に合わせて補充されます。従って処理液は原則的には劣化しません。ところが、この処理液はメーカーに依って微妙に異なるのです。
この「微妙」がまずは問題なのです。0.2以下の違いであれば問題有りませんね。しかし、それでは反応差をメーカーがつける必要がありませんから、少なくとも0.5程度の差を付けています。
当然に、ポイント4−7までの域での差と成ります。
この差は次ぎの様に成ります。
CC全体に及ぼしている場合
限定したポイント域で及ぼしている場合
以上2つです。

それは上記したCC理論で記述したメーカー独自のノウハウで調整されています。
上記での人種の差も含みますから、米国の処理機械と処理液では日本人であればクレームを付けられる範囲です。
先ずは、ここで出る「0.5程度」の「色の差」と「濃度の差」を認識しておく事です。
ポイント5−6域では1弱程度は出るでしょう。
日本のデジタルカメラで日本の処理機であれば0.2程度以下ですのでほぼ問題が有りませんる
カメラと処理機のマッチングが違った時の問題です。日本に居ますので殆どはマッチングしていますが、米国製であると、上記した様にR系で出てきます。そうするとテストプリントを見て「R0.5引き」を要求する事に成ります。
この事を知っていれば自然美の写真を再現出来ます。この時にはこの色の判別能力が求められます。

次ぎは「反応による劣化」です。
処理すると反応による処理劣化が起こります。劣化した分の液の補充は行います。しかし、反応によって起こった反応廃棄物は機械的に除去されながらも発生して沈殿し、さらに攪拌されて印画紙に付着等の現象を起し、紙の表面の反応が不十分と成り、自然に劣化が起こります。
定期的に交換が必要に成ります。これを忙しさとコスト意識で遅らすと出てきます。
この時に、全体に先ず濃度が低下します。個別の色ではM(マゼンタ傾向)が多くて出来ます。
これも、液の交換が怠り長引けば0.5程度の「色の差」と「濃度の差」は出ます。
劣化はマゼンタですので、写真でマゼンタになったのか、現像劣化でマゼンタに成ったのかは左右しますので、兎も角も少なくともこの劣化では「マゼンタ引き」M0.5引きは起こるでしょう。

次ぎは「自然の劣化」です。
処理されていれば「反応劣化」の程度で済むのですが、一日の処理量が少いと充分に補充が行われませんので、化学液は空気、湿度と温度の影響も伴ない自然劣化します。
標準的には一日20本以下であると発生してきます。8本/1日ですと劣化退化を起すのです。
このレベルは20本では0.5程度で、8本以下であれば1程度起こります。
起こる「自然劣化」の色合いはこれもはっきりとしたM(マゼンタ傾向)です。
当然にそのプリントの店頭の繁盛さが響きます。
本来であれば、モーニングチェックでK18のグレーチャートをプリントして補正を掛けます。
処理量が少ないと補正が届きませんし、経費が大きく掛かります。
最近ではデジタルのインクジェツトプリンターに成りましたので銀塩の処理機ではこの問題が大きいのです。マゼンタ引きM0.5から1.0は起こります。

次ぎは「機械のCCソフト差」です。
処理機ではCCカーブのソフトが入っていますが、次ぎの問題が出ます。
ソフトメーカーのノウハウ差
店頭のノウハウ差(顧客の要望傾向の反映差)
以上の2つがあります。

CCカーブの事に付いては上記で論じて来ましたが、例えば米国メーカーの機械で日本のカメラで撮影したものを米国の処理機械でプリントした場合はどのように成るのかという疑問が出ます。
上記した様に米国はR傾向と日本はG傾向の違いによる「色ズレ」なるものが起こる可能性があります。実際、目で観た被写体に較べてRとGが強く出ると言う事に成りますね。
この逆の事も起こりえます。どの程度かは判断は困難ですが、0.2では無い事が云えますから0.5程度の差は出る事はCCカーブ差でも判ります。
店頭では顧客の満足度を高める事が「市場命題」(至上命題)ですから、その統計的な傾向を汲み取りセットアップの時にK18グレーに対してこの分を補正を掛けてスタンダードとします。
当然、気に入らない人も出てきます。統計では8割程度の時に実行します。
ですから、2割程度の人は不満足と成ります。この人が自然美を追求していると、補正分を引く事を指示しなくてはなりません。8割とは写っていれば良い一般の人です。
そして、この補正の色合いは上記しました様に
矢張りM(マゼンタ)なのです。元々日本人はマゼンタ傾向を要求しますので、補正分とすれば補正値は(0.2要求分)0.5程度です。
中にはCCカーブの両端の白と黒の色合いを要求します。白にマゼンタが入ると「白さ」が低下しますので余計に嫌われると言うことに成ります。
白を強調するのは上記した様にC(シアン)ですからね。

対応策
「処理液の反応差」「反応による劣化」「自然の劣化」「機械のCCソフト差」が最悪の場合重なると、2程度の差が出て来る事に成ります。何度も経験しています。そして、その都度、主にM引きを要求するのですが、問題はその店のオペレーターの「技量」の問題、つまり、「目の判別能力」の問題ですね。その為に、メーカーが各店を廻ってセットアップをK18にする様に指導するシステムを採用しているのですが、徹底されていないのですね。上記した様に、”アスファルトにマゼンタ”のオペレータとか、”市場がM傾向が多い”とか成りますと最悪ですね。
修正を要求するとそれだけ儲けが無く成りますからね。ですから、「いい店」を見つけて置くか、主人と「知り合い」に成っておくか、その店の傾向を観て「何時もM引き」とするかの対応策が必要です。マァ2度程同じ修正をすると、”何時もの様に”で通りますがね。
故意的にM傾向にしているのは別として、上記「4つの問題」からでは他のYCも多少狂っていることを意味しますから、処理量20本/日以上と0.2−0.5の判別能力の持った「いい店」を選ぶべですね。
何せ上記した様に1で誰でも明らかに違和感が起こりクレームが付くのですからね。これは絶対に無視する事は出来ません。少なくとも0.5−1は起こっているのです。
0.5は普通の人の判別能力がありますからね。
この様な画素数ではよい処理機でありながら上記「4つの問題」ですから、”インクジェツトのプリンターに”としたいと成りますし便利ですが、一般の人は上記のPCの画像ソフトメモリーの問題が伴ないますしね。最近は大分高いものはよくなりましたが、プリンターの画像の解像度の問題も起こりますしね。余り使わないプリンターに高額も無いと思いますから。
そこで、私は”これぞ”と思う写真は溜めておいて「行付けの店」で「何時もの」でプリントしています。要は「CC理論」は「400万画素」と「画像ソウトメモリー」の問題で揺さぶられるのです。ですから、展覧会とか展示とも成ると、是非にも「店」ですね。
さぁ、どうしますか。
こんな事が起こっていると云う事を想像した事はないでしょう。アマチュアでも否プロでも知らないかもね。恐らく、このズレに慣れている為に、”これが「当り前だ」”と認識していると思いますよ。不幸にしてか「上記4つの問題」と「CCの傾向」から、全てM系かR系に走りますからね。”何か赤っぽい”とか思う程度で終わっていると思いますよ。
この「4つの問題知」の知識と「画素数とメモリー」の知識を覚えておくことが必要であり、自分の問題として「判別能力」を養って置く事が自然美を再現する「隠れた秘訣」です。
 
デジタルのメモリー
上記に”後述する”としたメモリーの問題です。
改めて、更にメモリー(画素数含む)を解説します。

兎も角も人の判別能力を持ったとしても、その外側では先ず「上記4つの問題」で「色のズレ」が起こります。この「色のズレ」を何とかしなくてはなりません。しかし、未だ「色の問題」が外側であるのです。
それ等を知ってこそ「自然の美」を、吟味し観察し、撮影して再現できると云うものです。
難しい面倒と思えばそれまでの事です。しかし、その物事の「追求」とはその様なもので、それを会得する処に「面白味」や果てには「侘寂」の様な何か「悟り」の様なものを得られるのでは無いかと思うのです。当然その面白味も倍増すると云うものですね。
もとより、「色理論」等と難しいものと観られがちな事を長々と解説するのは本文の目的ですので敢えて論じることを続けます。色にはさて未だ問題があるのです。

先ず、次ぎの事がソフト上で出ます。
先ずは、「YMCの表現力」と「CCカーブを含む理論」を記憶させる「メモリー容量」の問題が出ます。
次には、上記の「色の階層」をメモリとして反映する容量の問題も出るのです。
更には、困った事には、画面の「画素数」(後述します)にも問題が出来ます。
以上「3つのソフト問題」を抱えています。

幾ら写真技術で「自然美」を表現してもこれ等の「メモリー」がそれに追いついて来なければ何の意味も有りません。
ですから、6階層程度でも良い事に成ります。それ以上であると、その1300以上の階層の色合いを先ずメモリーにしておかねば成りません。CCカーブをメモリーにするだけでも大変な要領を必要とします。そうなるとPCでは無理ですから専用器機のプリントや画像にするプロ用の高容量の高額のソフトを使う必要があります。
そこで、これ等の3つの事は後で解説します先ずは予備知識として知って置いて下さい。

再び、話を元に戻します。
前まではポイント4の説明でした。
これからの説明にはメモリーに直接関わってくることだから重複して詳細に掘り下げて置きます。

さて、ここからが問題です。ポイント5域です。
上記しました人種の印象記憶の違いが出てくる域です。
そして、BGRの色合いのバランスは大きく差として出て来ます。
この事は、撮影では大きく影響します。では”どの様に出てくるのか”ですが、YMCの様に”撮影の環境条件をコントロールすれば自然美を出す事が出来る”と云う事では無く成ります。
それは次ぎの原因です。もとよりBGRは「透過」と云う現象を乗り越えてくる事から、「環境条件」に左右され易いことは説明をしました。ところが、これだけでは今度は済まないのです。

そもそも、CCカーブより”BGRの色の差が大きく差が出る”と云う事は、本来であれば同率である筈ですが、そうであれば問題ありませんね。次ぎの様な事柄です。

自然界では縦軸と横軸に微妙な(E)の差でズレが出る事、
更には人種の印象記憶から来る「好みの違い」を演出している事
この2つから厄介な事が起こります。

先ず、YMCの様に環境条件を合わせたところが、このポイント5域は撮影すると、自然に合わせて撮ったつもりでも極端にRが強く出たりして、目で観たものと違う現象が画像上に起こる事に成りますね。
BGR同率で有ればバランスが取れていた場合は目で観た通りのものが再現されますね。
しかし、BGRとしての色としては「はっきりくっきり」と出る事に成りますが、当然に、突出した色に対して、画面にフェリヤーが更に働く構成の画像に成っていたとしたらこれは大変です。
先ず見られる写真では有りません。色が突出してフェリヤーが働くのです。
しかし、故意的、恣意的にその様にしたいとすれば好都合ですね。その場合、この領域を使って撮影する事で解決出来ます。但し、フェリヤーがそれだけに働きやすいのですから注意が必要です。
人種による印象記憶の好みの国ではこの現象の2つは普通の事に成るでしょうが。日本人では先ずは普通では無いと思います。(日本人はマゼンタ好みでG)
では”日本人のこの2つはどの様に成るのか”と疑問が出ますね。
日本人は統計的に「G」にあるのです。
これは問題が出ますね。
このポイント5での日本人好みは、CCカーブでは、エネルギー(E)的にはRが強く出ます。其処に印象記憶の好みの「G」が要求されて来るのです。
つまり、RとGが衝突です。さて、どうするのか。解決策はただ一つです。
Eの順序からするとR>G>Bですから、RとGを同率扱いにソフト上操作する事が必要に成ります。
これは論理的に同率で本来の形ですからいい事です。でも、そうも行きませんね。
RとGが良くても、今度はBとの差が同率であれば問題ありませんが、しかし、Bとの差が単独で大きく(−)で出て来る事に成ります。R=G<Bと成ります。
つまり、日本人の場合は、Bに問題が出て来るのです。
この場合は、RとGが同率ですから、Bが低い写真として出て来る事に成りますね。
Bの少ない何となく思惑より青味の少ない写真が出来る傾向が出てきます。
乾いた様な写真が出来る事に成りますね。
つまり、ポイント5域付近で撮影した写真はBが引けている写真と成ります。
日本人の目の印象記憶の目の感覚からすると”自然美と少し違う”と云う感覚ですね。
D0.5の領域を越えない範囲であれば問題視しないでしょう。色の判別能力外ですからね。でも、プロD0.2では困りますね。(D:濃度差)
しかし、このポイント5の域は断念ながら0.5域では有りません。明らかに違うのですから、概して1.0−2.0はあると思います。

困りました。そこで”何か技術的工夫は無いのか”ですね。
幾つか考えられますが、次ぎの方法があります。
フェリヤーを使う方法です。
このポイント5域付近はDがフェリヤーを起しやすいDに成っていますから、この技術を使えますね。
先ず、被写体の「背景をY傾向」にします。
その「被写体の位置を画面60%の中央の中」に入れます。
且つ「Yの多い背景の位置に写す」様にアングルを考えます。
これで補える理屈に成ります。

或いは、
その被写体に「日差し」を強く取り込みます。
そして「紫外線」を多く取り込む事です。
「C(シアン)」の薄い青味の色合いを取り込みます。
太陽のハレーションとで何とか見た目を直す事が出来ます。

この様に、写真技術の論理の展開でカバーが出来る様に成ります。経験と訓練が必要ですがね。
この様な「Bの低下現象」は、季節の傾向としては、次ぎの様に成ります。
「青味豊かな夏」は目立ちます。
「秋は色の綜合色が蔓延する時期」ですから、写真としては元々は青味が少なくなる時期ですから「紅葉」が進んだのかとも観えますね。
反対傾向では
「冬は落ち葉」で目立ちません。
「春は緑」は徐々に目立って来ることに成るでしょう。
「春と夏」にはこの認識を持つ必要があります。

特に、ポイント5域はBGRの最も撮影の良い所ですからね。色がくっきりと出る時期ですね。

では、この時は他の人種にとってはどの様に成るでしょう。
例えば、アングロサクソン系はRが強くなり濃度を上げて来ますので、ソフトもそのバランスを組み込んで作られています。「R傾向」に「R好み」ですからR>G>Bはそのままでも問題ないことに成ります。
本来はYMCもBGRも同率比であるのが理論ですが、つまり、一つの曲線で推移する筈です。本来は。自然界のEはそう上手く出来ていません。
復習しますと、しかし、自然はそのように出来ていなくて、地球の環境により太陽から飛来し届いた振動磁波は、3段階の成層圏を経て地球に到達するまでに、振幅の細かさの影響でこの定率の関係は崩れて、先ずYMCでY=M=Cであるはずのものが、はそのY>M>Cの順序で成り立ちが変わります。
そうしますと、Y>M>Cであるのですから、理論的にはB>G>Rとなる筈です。
しかし、R>G>Bと成っています。逆転していますね。上記の説明の通りでRは振幅が細かいのですから「可視光線」の順序からすればRが強く成るのは当然ですね。
ポイント1でのYMCではYの濃度が最も高く出ます。それほどに大きな差を示しませんが。これがポイント2までの領域です。
ところが、ポイント3からはその濃度が急激に上がる事で差は再び縮まります。
ポイント4では左側から集中が起こり始め遂には「一点に集中」(K18)します。
これは濃度がこのYMCの少しのバランスの違いを埋める事になる事を意味しています。この事は、写真は撮りやすく成り、思ったように自然美が撮れる傾向が改善され事を意味します。
そのポイント4からはBGRのバランスがRの濃度が高く成ります。
この様に品利色の変化の経緯は上記したようにポイント5域と成りますので、Rが突出して、次にGと成り、Bと成ります。
逆転したRGBであり更に大きな差を示しますので、写真にすると「色の違い」が完全に判別することが出来ます。

ここで、その前に、「色の違い」が出るのですから、「判別能力」が必要です。何度もと言っていますが、「判別能力」が無ければ「色の違い」は出来ませんから自然の美の再現は出来ません。
従って、更にそれを説明します。
一つの色を機械的には10段階(基本12段階)に分類する事に成っていますね。
一般の人の色の差の判定能力は0.5で違うと判別する事が出来ます。
プロになると0.2でも判定する事ができます。
普通の人では0.2では”違うかなー”との程度と成りますが計測器では違うのです。(この判定はデンシティー計で計測する事がで来ます。)
この様に、人間の脳の能力は素晴らしいものがあります。

そこで、この判別能力が特に働かせなくては成らない領域と成るであり、これなくして「目で観た自然美」を再現する事は不可能ですね。
このBGRのポイント5の処から、人種の違いが出てきて「印象記憶」から「本当の色合いと違う」のですから、夫々「希望的色合い」を主張するように成ります。
つまり、CCの理屈以外のところの「美意識」で「自然美」に対する違いが出てきます。
日本人からすると、基準から”何でこんなに違うのに”と思うくらいです。
統計的に日本人はこの基準に極めて近く理解に苦しむ範囲がこの辺から起こります。

「日本人はG」ですが、「彼等はR」が強い訳ですから、この域のカーブはR>G>Bと成っていますので、”更にRが強い”と成ります。
日本人はGで下のBが低くで、彼等は上のRですから、これは反対に成りますよね。
日本人からすると、”何だこれは”の印象ですね。
季節から観て見ると、彼等にしてみれば、日本の秋の紅葉はBGRの祭典ですね。喜びますよ”ワンダフル”と。「日本人はGですから春」ですね。

この様にポイント5域ではこの様な傾向を持ちながら、次ぎはその傾向を維持しながら、ポイント6付近ではその状況のバランスが最大と成ります。
マァこの辺までが写真にする事が出来る範囲です。それがポイント6と成ります。BGRが「はっきりくっきり区域」です。
その最高点に来ています。逆に云えばポイント5の拙い現象は最高と云う事に成ります。
写真性で云えば、極めて「BGRの色合い」を出すには最高の所ですが、自然美の演出では危険性も失敗も起こり易い所と成ります。
念の為に、YMCを忘れない事ですね。前述した様に、YMCは光の色で、その光がBGRに変化するのですから、その基本又はベースに成っていますね。
つまり、「BGR」の色合いを良く見せるのはこの「YMC」なのですから、「くすんだ、澱んだ、濁った、冴えない、映えない等の色合い」を無くすには、「BGR」にこの「YMC」を多く加える事が論理的に必要ですね。日本人には。

それには、次ぎのことが必要です。
可視光線外に「紫外線や赤外線を多く取り込む事」
上記した「撮影の環境条件を最大限に引き出す事」
以上の2つの工夫が必要に成ります。

YMCはBGRの根幹
画面全体が綺麗であるのですが、”何となくスッキリしない、パッとしない”はこのYMCの不足から来ている事が多いのです。
逆に云えば、”素晴らしい”と成るのはこの「YMC」を多く取り込み含んだ写真と成ります。
この判別は次ぎの様に成ります。
夏の「夕日の写真」
秋の「紅葉の景色」
以上での2つの季節ではっきりしますよ。

この様な現象が顕著に起こるのがポイント6なのです。
春は原色を持つ西洋花などで起こるので「夕日」と「紅葉」とのその中間域ですね。
ポイント5からポイント6はこの季節域にこれ等の現象が主に働きます。
被写体によっては他の季節では起こらないと云う事では有りませんが。

そこで、この域ではBGRの綜合色は黒ですから、黒域に近づいている訳ですから、この域の特長としては「黒の色合いにも変化」が出てきます。
写真では黒を演出する場合もありますから、その黒の色合いをこの域では多少論理的に意識する必要が出ますね。その現象が顕著に出て来るのが、次ぎのポイント6です。

ポイント6域
ポイント5域を基本に説明してきましたが、改めてポイント6を勧めます。
Ed(濃度)としては最もピークに有る訳ですから、即ちポイント5の特長が最大に成る事ですから、写真では「色合い」がはっきりし、濃度もよく出ると云う事に成ります。
自然の景色では、この域ではこの被写体は季節的に限定され少ないと思いますが、あるとするとYMCによる「はっきりくつきり」の特長と黒の特長が出し易いと云う事ですね。

このポイント6域前後はカーブではRGBの全体が下がる傾向を持っています。
「下がる」と云う事は縦軸と横軸の「Eが下がる」と云う事、主には「濃度が下がる」と云うことですから、撮影では思ったより薄く写ることに成ります。
しかし、もとよりこの域では黒の傾向が強く成りますから、撮影には大きく影響しません。この辺からは黒く暗くなり過ぎて最早、写真とはいい難いものと成ります。
黒を基調とする被写体であれば問題と成りますが、「自然美の綺麗な写真」では殆ど問題外と成ります。マア、「夏の夜空の花火」の写真や「夜景写真]や「影の多い写真」くらいでしょうか。
この領域の黒味を使って、YMCの中間色の色合いを出すと言う技法もありますね。日差しの強い所でのYMCの色合いはカラーフェリヤーが働き自然美を表現し難いということが起こります。そこでこの技法を良く使われるのです。
つまり、青葉や緑葉での多い背景の中での自然のYMCの色合いを持つものが多いですから、影にして、斜め上から柔らかい朝の日差しを部分的に入れて被写体の花のYMCを表現するのです。

そして、次第に今度は黒の領域が始まりほぼその濃度差は一定で少し下がり始めますので黒の基調が(R)赤気味に成ったり、(G)、(B)の黒が目だって出て来ます。
BGRの強さ、即ち「明度」とか「彩度」とかの特長が良く出て被写体の中の黒に特長が出ると云う事ですね。
全体としてはR傾向の黒が出ます。画面全部が真っ黒な写真と云うものはありませんから、その中に被写体の灯りが出てきますので、赤傾向(R)又はG傾向(緑に含まれるY)であれば問題はなく成ります。むしろこの特長を利用して撮影をすると云う事もあり得ますね。

この様な特長を維持してポイント6からポイント7と成り、ポイント7では黒のレベルの領域です。
そして、急にその濃度は下がります。
これは黒はエネルギーを他から吸収する性質を持っている事から起こります。
依って、その黒の持つエネルギーと濃度との対比関係に狂いが生じる事に成り、吸収した分の差だけ濃度が下がると云うEに関する自然現象が起こる事に成ります。
ですから、下がったところで印象として赤みがかった黒とか、緑がかった黒とかの印象領域と成ります。
当然に、次ぎの様に成ります。
BGRの黒の末端には「Eの色を吸収する」の性質があります。
YMCの白の初期部分にも「Eの光を反射する」の性質があります。
以上2つですから、その分のEの濃度比率が僅かに上がることが起こります。

しかし、この白と黒のこの末端領域で印象領域と成りますので、殆ど使用しませんので、全く問題はありません。マァここの域はスタジオでの写真技術ですから何とでも成りますのでプロ域でしょう。

この様に、「YMC」と「BGR」は定率で変化するのでは無く、且つ、バランスよく差の無い形で変化しているものでは無い事を物語ります。
論理的には光(YMC)と色(BGR)はある一定の傾きで直線として伸び、且つ1本線であるはずのものが、上記の様に縦軸と横軸のEd、EsはYMC、BGRのポイント毎に異なる巾を持ってこの様にSカーブを示します。
其処にポイント4域付近からポイント6域までは厄介な「印象記憶」が働くと云う事が起こるのですが、この部分には本来Eに依って起こるカーブの傾き(積分係数)より高めの印象記憶(R等)が追加されてソフトに組み込まれます。

現在ではアナログでのプリントと云うものは少なくなりましたが、アナログの現像器機ではこの印象記憶を「現像液」と「マニアル操作」で反映されるように成っています。
デジタルではスキャナーでの読み込み、プリンターでの読み込みのソフトに反映されているのです。
(詳細は後述)

撮影の変化
例えば、撮影では”どの様なことが起こるか”と云う事ですが、次ぎの様な事に成るでしょう。
まず、中間色のハーフトーン領域だけの写真撮影であれば、多分考えた通りのものが出来上がります。
しかし、BGRだけの写真撮影であれば、一律で無い為にその被写体の濃度Eに依って少し思ったものと違う色合いのものが出来る事に成ります。そうすると自然色の美は遠ざかります。
更に、ハーフトーン領域(YMC)とBGR領域とを入れた被写体とすると、脳がYMCに持っている基本的な正常な記憶(YMCは広域で定率変化する事から脳で基準と成っている)から対比感覚が起こり微妙に判定して”違う”としてしまいます。

アマプロの判定領域
これ等の微妙な判定領域は、上記した様にYMCとBGRでの横軸は、本文では判りやすく6階層に分けましたが、プロ域ではこれを更には12階層、24階層、36階層と分けられています。
プロ域での分け方では微妙な色(E)の階層域です。
普通、簡単なもので普通は6階層(0.5)ですが、マニア等やや専門的に成ると12階層で留まりです。これ以上は上記したプロの判定能力(0.2)に掛かりますので一般の人は無理と成ります
上記した事は色の三属性(色相、彩度、明度)の変化がどの様に変わるのかを簡単に判り易いE(縦横のエネルギー)として観た場合の変化で説明をして来ました。

ハーフトーン
YMCの領域のポイント1から3まではほぼ平行領域ですので階層を分けても余り意味を持ちません。このポイント1から3の領域は「ハーフトーン」(中間色)と呼ばれるところです。
上記した肌色などの領域です。この「ハーフトーン」で色の良悪の判定が確実に出来るところです。
当然に濃度の変化の無い一定率で平行領域のところですから、ポイント3までのかなりの範囲で同じ基準で判定が出来ます。ですから、逆に云うと広範囲でのBGRの”フェリヤーの影響を受け易い”と成ります。
この理屈から背景をYMCのハーフトーン(中間色)にしてBGRの原色でない人物など被写体を撮れば綺麗な写真となりますね。これがスタジオのハーフトーン中間色の背景の理由ですね。
逆手に取れば、フェリヤーを含む写真全体の自然色の判定が出来ることを意味します。
濃度の差がないのですから基準は一定と観る事が出来ますので、その基準に照らして見れば0.2或いは0.5の差で判定が確実に出来ます。
概して云うと「空気の澱み」等の影響を余り受けていない領域だと云えます。
例えば、花や肌色などのハーフトーンを画面から探し出して、その色が変化していないかを見る事でわかります。一度テレビ等の画面をよく見てください。
あまり、金額をかけていない質の悪い番組等はこのハーフトーンが全く出来ていないのが多いのです。フェリヤーなどはもう無視の場面が実に多いですよ。
矢張り、NHK等のそれなりの写真性のある番組を見るとこの理論が出来ている事が判ります。勉強に成りますよ。その場面のハーフトーンのところを見る事ですね。一番いいのは顔ですね。化粧していても原色で化粧する人はいませんからね。

このCC理論のSカーブがソフトに組み込まれて連動して画像ソフトは出来ています。
画像を作りだす機器にはこのソフトが組み込まれているのですから、人種の印象記憶からアメリカ人の好みに合わせたソフトでポイント5から6のカーブ域は手を加えていて、その域は日本のそれと違って来ますね。日本人から観ると何時も”赤みがかっている”と云う印象を持ちます。
彼等からすると、”Gがかっている”と見えるでしょう。
最近では、この域はデジタルとなりましたので、更に難しく成ってきました。
上記のYMC、BGRのCC理論だけの問題では無いのです。

実は色に関してここに大問題があるのです。次ぎの事を認識する必要があります。
上記の「YMCとBGRのCC理論」とこの「デジタル大問題」のどちらの問題が起こっているのかを判別する必要があるのです。
折角、YMCとBGRのCC理論の写真撮影で工夫をしたのにそれを低下させる問題が起こるのです。

デジタルメモリーの不足
その問題とは、次ぎの事です。
「人間の感覚」をいかに忠実に「デジタルソフト」に組み込み反映させるかの技術です。
当然に、今までの「経験」と色の階層等の「CC理論」と2つをソフトに組み込みますが、この2つ全てを組み込みますと膨大なメモリーと成ります。とても出来るものでは有りません。
このメモリーでPCに乗せると大変な事に成ります。
PCには「ROMメモリー」と「RAMメモリー」がありますが、PCの容量を高ギガ(G)レベルに上げておくことでROMメモリーは解決しますが、PCを立ち上げた時に、ハードディスクから呼び出した表に出て来るその操作用の動作メモリーは小さい(全体の1/10程度)ので、「完全なCC理論」と「色の多階層」の情報の大きいものを入れると動作メモリーは不足して他のものに支障を来たします。
場合によっては動作メモリーは動かない事になる程度と考えられます。
従って、単独に使える専用画像ソフト器機となるでしょう。
インターネットでは現実にPCに関わる事ですから。動作メモリーにマッチングしたソフト容量と成ります。人間の感覚に忠実に自然美を反映させられるソフトにでは無理で容量を落としたソフトに限定されますね。
この事は一応納得したとして、更にこのメモリーに更に問題を持っているのです。

そこで、このメモリーには次ぎの2つの問題を持っています。
一つは、画面を出来るだけに細かくして人間が観て自然と見られる画像を入れる事が必要です。
これを「画素数」と云います。

普通アナログではこの画面の細かさ、即ち画素数が400万画素です。
この400万画素で人間の脳、又は目は画面に異常性を認めません。
問題が起こらない「基準画素数」(400万画素)です。
ところが、デジタルでは画面を細かく分けて、その分けられた個々(マス)にメモリー(2ビット)を配分して行かなければ成りません。そうしなければ、その分けられたマスに写った情報を反映させられなく成ります。又、更には、そうしなければ実際の被写体をところどころを削った写真となってしまいます。これでは自然美どころの話ではありませんね。
一度PCの自分の写真の登録したものを倍率を200-400倍程度に拡大して見てください。
四角いマスで囲われています。これはそのマスの中に入る情報が区切られていることを意味します。
多くの情報があったのが削られた結果です。
特に中心から外れた上下、左右、対角線状の4隅にはこの現象が目立ちます。
当然、全体としても画像の細かさやその輪郭等がスムースに表現出来ないし、ピントも甘く成りますね。目立つ所はYMC、BGRなどの色の繋がりなども突然に色が変わる事や悪く成ります。
それには輪郭でははっきりと放物線等の曲がったものや線などにはスムースに繋がらない線や輪郭が出来てしまいます。これを専門用語では「パラセーション」と呼びます。
中には直線部分が突然消えたように表現されないと言う事さえ起こります。
ここでは色ですから、例えばYMCの白からBGRの黒までの領域を細かく分けて、それに光と色の階層を割り振り、それを情報として画面の画素に入れる事に成りますと、大変なメモリーのバイトに成ってしまいます。
400万画素で正常にパラセーションなど事が起こらない域ですので、メモリーから考えるとせいぜい200万画素程度が良い所です。
ところが、最近ではデジタルカメラでは最高で400万を超えて1200万画素までのカメラが出来ています。
プリントソフトや画像ソフトの反映力が、「200万画素」で、「色のメモリーバイト」が低いとすると、幾らカメラが1200万画素でも1/6ですので、「画素メモリー」と「色のメモリー」が低いので反映力は悪く成ります。
つまり、折角、綺麗に取れたカメラでの映像はPCなどの映像ソフトに載せると1/6の綺麗さに低下すると云う事です。
「趣」を充分に撮影出来た写真が普通の以下(400万画素)の趣の写真となると云う事に成ります。これは、難しく云うと、当然に三属性(色相、彩度、明度)にも影響して来ます。
そこで、その画素問題をより詳しく説明します。

上記2つの問題
「画素」に関係する問題
「色」に関係する問題
以上の2つに品質低下の影響が出て来ると云う事です。

当然にプロが使う専門の専用画像ソフトは、一眼レフカメラに対してこれを反映出来るの程度400万を超える様にメモリーを配置されているのです。ですからデジタルカメラ1200万画素のカメラがある事に成ります。
画素数ではテレビでもデジタルハイビジョンのテレビとアナログのテレビの違いですね。

簡単にこれ等の判別が出来ます。
1番目は、それは放物線の線や輪郭を持つものを写すのです。
電線などですね。これを観るとその「線や輪郭が不連続」に成っています。これを「パラセーション」と云います。
2番目は、これが起こるのはメモリーが画素だけでも400万以下である事を意味します。
慣れますと、人間は色判別等でも0.5の能力を持っていますので「カラーチャート」を撮影する事で「色の違いのズレ」が判別できます。
3番目は、YMCのポイント1のところの白の白さがフェリャーが働いているか働いていないかの判別です。
上記のメモリーの不足でCCカーブのメモリーが低いと白が白らしく出なく成ります。
フェリヤーを防止するソフトを組み込まれていないのでフェリヤーが働いています。
組み込まれたテレビと組み込まれていないテレビを2台並べて観れば一目瞭然です。
最近のテレビは安価廉売と原価低減でこれ等のソフトを外しているからか知れません。

上記して来ました理論の様に、確実なのは「YMCの白」を見抜く事で自然美の良悪が判るのです。
写真もさる事ながら、デジタルテレビも画像なので同じなのです。
さすがパラセーションは400万を超えている為かなかなか発見出来ませんが。
カラーフェリヤーとYMCの白だけは一目瞭然で見抜く事が出来ます。
デジタルにはこの様にそのメモリー上の問題を持っていますので注意が必要です。
さて、これで問題は全てだと思われたでしょう。
ところが、未だ大変なことがあるのです。
それは画面の画素に対するメモリーの配分なのです。
これはどうしようもありませんね。人間の脳の働きと目の働きによる訳ですから避けられません。
それが「画面比率」と云うものです。

画面の比率
写真画面は全体を同比率でメモリーの配分を構成している訳では有りません。
人間の脳とそれと連動する目は、ピントや色合い等はその被写体をほぼ画面の中心に置く確率が高い為に、その中心の写真性をよく出す様に仕組まれています。
これは人間の目の能力に起因しています。脳が目がその様に判断して見ているから同比率配分よりはむしろ合理的であると云えます。
人間の目は捕らえた被写体のものを中心に据えて、観てよく観察して脳にその信号を送り印象記憶として保管します。従って、対角線の4つの隅は意識と記憶が低く、記憶としての量と記憶の確実性は低いのです。
当然に、写した写真を観る時もその中央のものを先ず観るという傾向を持っています。
又、画面を同時に全体を観ると云う能力は無く、ある時間を置いてこの対角4つの隅を見て中心と上下左右の6つを綜合的に写真を考察するようにも成っています。
同じくその「記憶の量」と「記憶の確実性」は低い事に成ります。
「撮る時」、「観る時」の脳の記憶の原理がこの様に成っています。
従って、その被写体の中心に評価が主に集中する訳ですから、4隅が良くビンと色合いがよくてもその評価は脳の仕組みから出て来ません。
その為に、次ぎの様に成ります。
その脳の仕組みの為
カメラ、プリントのメカニズムとメモリー上の制約の為
以上2つが働きその理由で9つの分類を画面に施しています。
いずれにして脳と目は兎も角も元はレンズなのですから。

そのメモリーの配分の仕組みは次ぎの4つに成ります。
A 脳の記憶の仕組み
B カメラの仕組み
C プリントの仕組み
D メモリーの仕組み

先ず、分割の部位は次ぎの9ヶ所と成ります。
1 画面の中央部位 1ヶ所
2 左右の部位 2ヶ所
3 上下の部位 2ヶ所
4 上の両隅 2ヶ所
5 下の両隅 2ヶ所

この1−5はA−Dが同等の配分とは成っていません。
そうすると、どの様に成っているかと云うと、次ぎの様に主に成っています。
配分
1>2、3>4、5と成っています。

その比率は概して次ぎの配分です。
比率と領域
6:3:1(1域:2、3域:4、5域)
この様に仕組まれて被写体が構成されているのです。
これはアナログ、デジタルの遺憾に関わらず脳の仕組みもさることながら、カメラ機能やプリント(映像化)機能にも仕組まれている大事な基本機能なのです。
人の脳又は目はもともとの事ですが。
ですから、この仕組みを配慮して撮影をする事がその撮影の効果、即ち本文の自然美の綺麗さを最大に引き出すコツと成りますね。
主にはメインとする被写体を何処に置くかに関わる事に成ります。

意外にもこの事は各メーカーのノウハウに依るものなので一般に知られいません。
しかし、脳科学では認知されているのですから、さして、多少より工夫を凝らした特長の持った違いはありますが、我々にはそのノウハウの違いを特別に意識する必要は何もありません。

そうすると、では写真技術ではどの様にするかですが、次ぎの様な工夫をするでしょう。
当然に、先ずは撮りたいものを中央付近に置く事が必要ですね。
そして、それは全体の6割の領域の中に納めることが必要です。
その6割のどの程度の領域を恣意的に使用するかを決める事かに掛かります。
その領域の占める割合でもその印象記憶は変化します。6割の全域を使用するのか、その中で何割の被写体にするかに依って写真の綺麗さも違ってきますね。
当然に、左右、上下、中央の何処に置くかでも違ってきます。大きな違いですよ写真では。
「趣」などはこれで一変に変わりますよ。

これは更に追求すると、その被写体を表現する度合いが、広域な意味として「時、人、場所」の何処に重点を置くかにも拠りますね。
例えば、撮りたい被写体を6割の領域内でやや左右、上下のどちらかにずらして撮る事もその思惑を表現する事にも成ります。ど真ん中とする場合もあるでしょうし、6割全部を使うと云うこともあり「場所と割合(比率)」の問題を持っていますね。
マクロなどのカメラレンズを使うとこの6割全部を使う事に成ります。
と云う事は、”どの様な色の問題を引き起こすのか”と云う疑問に突き当たります。
上記での解説の理論を使うとどうなるでしょうか。
先ずは、
画面比率から画素数が高いためにピントやYMC、BGRはよく写る。
綜合色から単一色傾向になる為に反面カラーフェリヤーが強く働く可能性が出る。
パラセーションが起こりやすい。
6つの3の領域は当然にピンとは甘くなるので全体に色に関するイメージが落ちる。
この6つの3の領域では、これをカバーする為に、色や影やアングルで中央の被写体を際立たせる工夫ポイントとする必要が出ます。

それは、上記3つの思惑条件「時、人、場所」(TMPと呼ぶ)に関わって来ます。
ただ、この領域を外れて、上下左右と4隅に置く事はA−Dの表現力の差違で写真としての効果は無いと成りますのであり得ません。
取り込んだとしても1による影響ですから全体の表現力には必然的に成り得ません。その前に脳がその様に動かないので1が0と成り論理的に無い事が云えます。
芸術写真は別として「自然美の綺麗」とするテーマではあり得ません。
当然に、本文のYMC、BGRをより効果的に問題(フェリヤー)無く取り込む為にもこの配慮も必要に成ります。
例えば、
イ 太陽の光の影響、
ロ 日差しの方向や強さや時期の取り込み
ハ 影の配置で強弱の表現力
ニ 明暗の区分けによる説明力、
ホ アングルの比率やバランス、
ヘ 全体の色合い、
ト 背景の色合いとフエリヤー
チ YMC、BGR配慮
の特長を配慮等をし、この仕組みのどの所に置くかを、それも出来るだけ瞬時に閃かせるかで決める必要があります。
これはこの条件を撮影時に訓練し経験しする事で可能に成り、この「成行き」が写真の面白みに成っていると思います。そして、次第に表現力が伸びることへの喜びに浸たるのですね。
この表現力は「CGS(長さ感、重さ感、速さ感)」を引き出す大元と成るのです。
出来た写真を観る時もこの「思惑(RPM:理由、目的、手段)」がどれだけ多く表現できたか、或いは限定した思惑がこの仕組みの中で上手く反映されたかの結果が楽しみであり、且つ、「出来栄えの喜び」か楽しみと成るのですね。
目で観た自然の美の綺麗さが表現出来、且つイ−チで「趣」をも引き出す事が出来るのです。
TMP、CGS、RPMをより引き出したかの評価が決まります。

この写真の配分比率の知識も知る事で、より綺麗な写真が脳の印象記憶と連動して、綺麗な趣のある写真が出来る事に成ります。
これはひとつ一つを使いこなす経験と訓練で成し得る事ですね。
当然に、写真の観る目もより養えて来る事に成ります。この様な目で観ればそうすると展覧会に行っても”面白い”と成る事でしょう。

まとめとしては、「6:3:1」と「1>2、3>4、5」の仕組みは「TPM、CGS、RPM」を引き出すために「A−Dとイ−チ」に大きな影響を与えるのです。
 
以上 ”目で観た自然美を如何にして綺麗に撮るか”をテーマとしてその影響する写真技術を解説してきました。
最後に私は写真を撮る時は何時も「絵」として捉え、日本画、南画のような景観を思い浮かべ被写体を決めています。このポイントが写真が写真だけでは無く成る接点ではないかと思っているのです。
「写真技術」と「色理論」が「絵」として変わる点である筈だと考えています。そして、そこに「芸術写真」との接合点が生まれると思うのです。その為には、日本画や南画の誇張の無い自然美溢れる絵を良く見る事も必要です。
芸術絵画や芸術写真には、否定するものではありませんが、何かそのものの持つ「趣」と云うものが少ない気がするのです。
写真が芸術写真でなければ、それは「趣」を表現して人にその「軽やかな印象」を与え「懐かしき思い出」を引き出すところに意味があると信じているのです。そして、それを最大限に引き出す技法が「自然の摂理」から来るこの「写真技術と色理論」にあるのだと思うのです。

そこで、それが意外に多くの問題と云うか技術があるのかを知ってもらったと思います。技術ですので論理的である事は否めません。しかし、何とかより高いところを目指す意思をお持ちであるのなら、何とか繰り返し呼んで頂き少しづつ理解して「経験と訓練」で獲得して頂きたくレポートを致しました。

折角ですので、この青木サイトには「一時の癒しの場」として写真館を解説していますから是非一度ご覧ください。
最近ではこの館に訪れる人も多く成りましたので、敢えて「昔取った杵柄」で思い出してその資料を史料とすべく遺す事にしたのです。
本文は理論を説いていますので難しいとされる方も居られますから、一度に全ての理論を記述するのではなく、何度も同じ論理を繰り返して少しづつ別の要素からの理論を書き足して行く方式を撮りました。従って、散文と成っている事は否めません。
理論の言葉や用語も平易にして出来るだけ判りやすく配慮したつもりです。
専門的な立場では多少の語弊はあると思いますが、あくまでも上記の趣旨の範囲での技術として頂きます様にお願いします。
そうして、この技術を使って撮った写真を写真館に展示して頂ければ幸いです。
そこで、その方法は次ぎの方法に依ります。

展示登録方法
雑談掲示板1580より

写真データの登録システム開設のお知らせ
この度、携帯などから直接青木ルーツ掲示板に添付したい写真がある場合、その登録する保管庫が出来ました。

パソコンなどに登録した写真の場合は青木ルーツ掲示板の投稿欄の下から添付ファイルにて出来ます又、カメラ、携帯から直接する場合、先ず一度保管庫に登録し、その後、管理人室から代理添付の作業を行います。
この場合は、保管庫に登録されたかは判りませんので、雑談掲示板などから先に連絡を頂きます。

保管庫メール先はaoki@aoki.ccです。
QUANP.NETが出ます。
コメントも付けられます。


  [No.335] Re:写真技術と色の理論−続編
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/09/23(Wed) 10:53:50
Re:写真技術と色の理論−続編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

以下は後編の末尾

>以上 ”目で観た自然美を如何にして綺麗に撮るか”をテーマとしてその影響する写真技術を解説してきました。
>最後に私は写真を撮る時は何時も「絵」として捉え、日本画、南画のような景観を思い浮かべ被写体を決めています。このポイントが写真が写真だけでは無く成る接点ではないかと思っているのです。
>「写真技術」と「色理論」が「絵」として変わる点である筈だと考えています。そして、そこに「芸術写真」との接合点が生まれると思うのです。その為には、日本画や南画の誇張の無い自然美溢れる絵を良く見る事も必要です。
>芸術絵画や芸術写真には、否定するものではありませんが、何かそのものの持つ「趣」と云うものが少ない気がするのです。
>写真が芸術写真でなければ、それは「趣」を表現して人にその「軽やかな印象」を与え「懐かしき思い出」を引き出すところに意味があると信じているのです。そして、それを最大限に引き出す技法が「自然の摂理」から来るこの「写真技術と色理論」にあるのだと思うのです。

>そこで、それが意外に多くの問題と云うか技術があるのかを知ってもらったと思います。技術ですので論理的である事は否めません。しかし、何とかより高いところを目指す意思をお持ちであるのなら、何とか繰り返し呼んで頂き少しづつ理解して「経験と訓練」で獲得して頂きたくレポートを致しました。

>折角ですので、この青木サイトには「一時の癒しの場」として写真館を解説していますから是非一度ご覧ください。
>最近ではこの館に訪れる人も多く成りましたので、敢えて「昔取った杵柄」で思い出してその資料を史料とすべく遺す事にしたのです。
>本文は理論を説いていますので難しいとされる方も居られますから、一度に全ての理論を記述するのではなく、何度も同じ論理を繰り返して少しづつ別の要素からの理論を書き足して行く方式を撮りました。従って、散文と成っている事は否めません。
>理論の言葉や用語も平易にして出来るだけ判りやすく配慮したつもりです。
>専門的な立場では多少の語弊はあると思いますが、あくまでも上記の趣旨の範囲での技術として頂きます様にお願いします。
>そうして、この技術を使って撮った写真を写真館に展示して頂ければ幸いです。
>そこで、その方法は次ぎの方法に依ります。




以下は続編です。

さて、問題は「人間の目」が、又は「人間の脳」が、”何故この様な現象を起こすのか”と云う事である。
それは、「人間の目の発生原因」にある。

(本論は筆者の専門学域に合わせて多くの関係する学術研究論文を参考にして論理立てたものである。本論域は未だ解明されていない領域が多く、他説もあるが筆者が論理的に納得出来得る研究論文を用いた。)

そもそも、初期の「ミトコンドリア」には「目と云う機能」は無かった。
「目」が無かったのではない。「目」のとなる機能の「光を取り込む機能」が「ミトコンドリア」には元より無かったのである。
(人間の元の生物体をここでは「ミトコンドリア」で表現する)
何故ならば、「目と云う機能」は、「光」を取り込んで、その「光の差の境界」を認識して「初期的な形」と云う現象を「脳」の中で作り出した事に依る。
従って、この事に成るには,「ミトコンドリア」に、”外から何かの「ある事件」”から偶然に起こった事に成る筈である。[事変 1]
そして、ところが、この「光の差の境界」には、上記に論じた様に、太陽から得られたものである以上は、当然に、”「色の差の変化」に置き換わる事”の何かが起こった事に成る筈である。[事変 2]
その”「色の差の変化」はどの様な範囲であったのか”と云う事も合わせて問題に成る。[事変 3]

何せ元々はミトコンドリアには無かったものである以上は、「目」として見えるまでの機能、「色」として認識して観えるまでの機能等は、全て新たに作り出さねばならない筈であった事に成る。
この「3つの事変」を解明するには可成り難しいテーマである。

そもそも、「他の生命体」とは、ミトコントリア柄出来た「人間」の場合は、「全体の機能」が違っているところから、取り分け必要なのは、ミトコンドリアと云うよりは、「人間の場合」に於いての解明である。
「他の生命体」に付いても完全に解明されているものは現在でも極めて少ない。
「他の生命体」の判る範囲は、「人間の場合の解明」に必要とする範囲で解明されている程度のものであるのでこれを利用する。

現在は、「人間」としてでは無く、「人類」として観て見ると、日本人では、解明されて「7色」と云う事に成るが、果たして、”何故、7色だったのか”と云う事も問題である。
と云うのは、同じ「人類」でも、「7色」として”観えていない民族”も多いからである。
”観えていない”と云う事より、”認識されていない”と云う表現が正しい事であろう。


では、”綺麗な写真を撮る”と云うテーマから、これらの疑問をより平易に解くとする。
当然に「人類」の中でも「日本人」と云う事で考える必要がある。

先ず、この「光」、或は、「色」は、どの様に「人間の脳」に届く事に成ったのかと云う事に成る。
”何を以って「光」、或は、「色」として捉えて「脳」が認識する事に成ったのか”である。
上記した様に、「人類」は、兎も角として、元々は、その生命体の「ミトコンドリア」には無かったのである。
依って、元々無かったものである以上、”何かが外部からの「突然変異」(ある事変)で起こった事”に成る。
”「突然変異」”と云う表現は正しくは無いだろう。
それは下記に説く事で判るが、「ミトコンドリア]の中には、中に全く無かったものが入り込んだのであるから、「変異なるもの」を起こしていない。
”変異に繋がる進化であるのか”と云う事でも当然に無い。
”ミトコンドリアが「順応」した”と云う表現が正しいであろう。
先ず、この”順応した”と云う概念を念頭にして解く事に成る。

そもそも、上記した様に、「太陽の振動磁波」が、外気の空気の「物質」に衝突して、その事に依って「燃焼光」が先ず発生する。
そして、遂には、それを「生命体」の「目と云う機能」が捉えて”「形」と「色」”として認識した事に始まる。
つまり、先ず、それには、「生命体に」には「太陽の振動磁波」、即ち、「光を取り込む機能」が必要である。
”「目と云う機能」”の成り立ちに対する解明である。

そこで、”何かが入り込んだ”とする以上、「他の生命体」には、”この「機能の基」に成る機能が在った”と云う事に成る。
「空間」から入ったと云う事では無い。
では、この世の「自然物」の中で、この「機能」を持ち得ていた「生命体」がただ一つあった。
それは、「動物」では無く何と”「植物」”である。
上記した「3つの事変」の機能を「植物」が持っていた事に成る。
「動物」から「動物」では無く、全く生体が異なる「植物」から「動物」にである。

原始の時代には、「植物」以外に「光」を物理的に取り込んで機能させて生きていたものは他には無かった。
この世の唯一のものであった。
況や、「太陽の振動磁波」、即ち、「光」を「取り込む機能」を「光合成」として存在した。
その「光合成の機能」は、周囲から「炭酸ガス」を取り込み、「葉緑素」を作り出し、「酸素」を放出する機能である。
唯一、この「光に関する直接的機能」を持ち得ていたのは「植物」なのである。
当にこれは「植物の原理機能」である。
この「植物の原理機能」が、「探索機能(或は、複眼機能)」を持った生命体」に入った事以外には無い事に成る。

そもそも、然し乍ら、かと言って、直接、”「光」”そのものを「生命体」に取り込む事は不可能である。
何故ならば、上記の通り、「太陽の振動磁波」である以上、「高エネルギーを持った振動波」である。
そして、且つ、「高電位性を持った磁波」でもある。
到底、「有機物」で出来た「ミトコンドリア」の「生命体」とは云え、飽くまで地球上に存在する限り「電位体」である。
この「電位体」に、、「高エネルギーを持った振動波」と、「高電位性を持った磁波」を直接簡単に受け入れる事は破壊に繋がることである。
この「ミトコンドリア」から成る「電位体」と云う観点からも、「光の衝突や燃焼」と「電位による分解」が強力に起こり、到底に耐えうる事は出来ない。
この「光」に依っては「放射性を強く持つ光」もあり得て”「光リスク」”と成る。

これらに耐えられ得る”「何らかの媒体」”があって初めて成し得る事である。
従って、論理的には、そもそも「ミトコンドリア」に入り込む為には、この「光リスク」を”「和らげる媒体」”が絶対に必要である。
その「媒体」が植物の”「葉緑素体」”と云う事に成る。

この「植物」が、この「光リスク」を直接に「取り込むリスク」を「和らげる媒体」として持っていたのである。
何も「ミトコンドリア」が態々「和らげる媒体」を作る必要は無かった。
”無かった”と云うよりは、「ミトコンドリア」では「葉緑素体」を作り得なかった。
そうなれば、「ミトコンドリア」はそれは最早「植物」である。
その「ミトコンドリア」の「生体の有り様」から観ても判る。
この”「光リスク」”は、この”地球上に存在する生命体”に執って、最大の”「生存リスク」”であり、これに耐えうる「媒体」は、又は、「器官」はいまだ生まれていない。
明らかに「ミトコンドリア」が、「自ら生み出した機能」では無い事は証明できる。
そして、況して、C(炭素)とN(窒素)で出来ている「有機体」である以上は、「高エネルギー」や「高電位」や時には「波長」で分解される事の”「光リスク」”が高く、到底,耐えうる機能や器官を生み出す事は論理的に出来ない筈である。

従って、”「光」が入った”と云う簡単な定義では無く、”「光」を取り込む為のリスク”を「和らげる媒体」を既に作り上げていた”「葉緑素体」”が、”間違って「ミトコントリア」の中に入った”とする定義に成る。
”恣意的に取り込んだ”と云うよりは、”思わずに入って仕舞った”の表現が正しい。
”恣意的でない”と云うことは、これ程に「光リスクの緩衝材」と成り得るのであれば、もっと取り込んで「ミトコンドリア」を強くして防御していた筈である。
”何らかの事で思わず入り込ん”で、生き延びて、遂には、機能化や器官化を成し遂げたと云う事に成る。

つまり、この事は「原因性の有無」が議論される事に成る。
唯一つ云える”「第一の原因」”は「水」である。

それは”「光のリスク」”を軽減出来て、「葉緑素体」が何らかの形(下記)で偶然に入り込む為には、「水」は「第一の原因」(絶対条件の原因)と成ったのである。
唯、其れも、”「入り込む」の工程から「光の差による造形」”と云うプロセスの範囲(プロセスA)までである事に成る。

「目の機能」に至るまでの”「全体の工程」「プロセスX」(プロセス全体)”を云えるものでは無い。
むしろ、「水」、或は「水中」が障害と成り得るものがある。
何故ならば、「水中」では「BGRの7色の複数色」と「YMCの光領域」の獲得は論理的に不可能である。
つまり、「目の機能」を確立した一つの条件、即ち、「脳に依る学習能力」の範囲は不可能と成る。

この事から、「プロセスX」は、”二段階”で起こった事に成る。
むしろ、「水中と陸上の変化」の「陸」が”「第二の原因」”とも云える。

然し、「目と云う機能」に至るまでには、未だこれでは「プロセスX」が余りにも足りない。
そもそも、「葉緑素体」は「光を吸収する生命体」であって”「目の機能」を持つ生命体”では無い。
ただ単に「光を取り込む生命体」であった。
「植物の機能」は、「葉緑素体」−「炭酸ガス」−「光合成」−「酸素」−「葉緑素体」の「プロセスA」を繰り返す事で成長を遂げるのみである。

この”「光のリスク」”を「和らげる媒体」を持った「プロセスA」が、単に「ミトコンドリア」に入ったと云う事に過ぎない。
これでは、「目の機能」等と云う「プロセスX」には到底に至らない。
はっきり言えば、”何かが間違えて「ミトコンドリア」に「異物成るもの」が入った事”に成るだけである。

問題は、当然に、そこで「ミトコンドリア側」には、”「異物排除の本能」”を発揮する筈である。
そして、「葉緑素体側」も異体の中で生き延びられる事が出来るのかの大きな疑問もある。

そもそも、「ミトコンドリアの本能」は、現在も人間の体の中で、「独自のミトコンドリア細胞」(真核細胞)成るものを構成して「人間」の「生命体の細胞」(本体細胞)を護る”「異物排除の働き」”をするものである。

そうすると、ここで、次ぎの「二つの疑問」が起こる。
「異物排除」が何故に起こらなかったのか(疑問1)、
「葉緑素体」が何故に死滅しなかったのか(疑問2)
以上の「プロセスA」の前の疑問がある。

この事から解明しなければ「ミトコンドリアの葉緑素体異入説」は成り立たない。

そこで、その前に、先に解決しておかなければならない事に付いて、次ぎの「大きな疑問」が二つ起こる。

先ず、一つ目の疑問(疑問3)は、”何故、この「植物の原理機能」の「光合成の機能」が「植物」から「生物」の「ミトコンドリア」の中に入り込んだのか”と云う事に成る。

次に、二つ目の疑問(疑問4)は、”「葉緑素体」が、何故、「ミトコンドリア」の中で「目」と云う機能に変異したのか”と云う事に成る。

先ず、「一つ目の疑問」(疑問3)」では、”「入り込む」”がなければ、「ミトコンドリア」には、元よりこの「光合成の機能」は無かった。
そこで「目の機能」の根本は「光」である事から,「光」と云うキーワードで考えられる事は、ただ一つしかない。
それは”「水中」”で生きていた「ミトコンドリア」が、何らかの事(「突然変異(ある事件)」)で「細胞」の中に、この「葉緑素体(緑虫)」の一部を”巻き込んで仕舞った”と云う事に成るのである。
この事に依って、普通の「生物を構成する細胞」では無く、「ミトコンドリアの真核細胞」の中で、当然に、この「(緑虫)の葉緑素体」が「光合成」を始めて仕舞った事と成る。
これが「疑問3の答え」に成るしか他にない。

然し、ここで(疑問2)を解決する答えが出て来る。
「葉緑素体」そのものが「ミトコンドリア」の「真核細胞」の中に”「入り込んだ」”のでは無く、”「葉緑素体」の「成長体」の「単細胞の形」の「緑虫」”で入り込んだと考えられる。
そうする事で「葉緑素体」は死滅しない。
何故ならば、「単細胞の緑虫」は、「ミトコンドリアの「真核細胞」と「外形」と[大きさ」と「細胞構成」と「細胞内部」が、何と”酷似している”のである。
「葉緑素体の死滅」(疑問2)は、同類と観て生きる環境条件が類似した事に依って、起こらなかったと云う事に成る。

簡単に云えば、殆ど、「ミトコンドリア真核細胞」=「葉緑素体の緑虫の単細胞」であった事に成る。

当然に、「疑問2」が解決すれば、「ミトコンドリア側」も、「ミトコンドリア真核細胞」=「葉緑素体の緑虫の単細胞」から「疑問1の拒絶反応」は起こらなかった事に成る。
「疑問1」と「疑問2」は、「疑問3の論理」に依って、同時に、この数式論から解決した事に成る。

依って、「プロセスA」は、”「単細胞の形」”と”「緑虫」”で成し得る。

この”「葉緑素体」”のみでは、この「プロセスA」の中のあくまでも「一つの働き」であって、未だ全体の「プロセスA」を起こし得ない。
其れも”継続して”起こし得ない。

下記に詳細を論じる事に成るが、この”継続して”が解決のキーワードである。
”継続して”は、(異物排除の疑問1)をも更に解決し得る。

「異物排除」が仮に起こったとしても、次ぎの条件が成立すれば、解決する。

その「異物排除の速度」と「プロセスA」の「継続の速度」に重要な関係がある事に成る。

「異物排除」=「異物排除の速度」<「プロセスA」の「継続の速度」

と成り得れば、”「異物排除」”は瞬時に終わる事に成る。

何故ならば、「異物排除の速度」は、細胞である限り”限界のある「定速」”である。

ところが、「プロセスA」の「光合成」、又は、「葉緑素体」の「継続の速度」は、「定速」では無く、「Nの2乗」の「相乗速」である。

「限界のある定速」<「Nの2乗」の「相乗速」

以上の数式論では比べものには成らない。

つまり、「ミトコンドリア」の中での「異物排除の行為」は、”無視できる範囲”として、「プロセスA」は、「Nの2乗」の「相乗速」で起こり続ける事に成る。
「異物排除の疑問1」と「葉緑素体の死滅の疑問2」はこれで無理なく解決し得る。

従って、「プロセスA」は、「単細胞の形」と「緑虫」で解決し得る事に成る。

筆者は、もう一つ大きな原因があったと考えている。

「疑問1と疑問2」には、「緑虫」の”「単細胞の形」”が大きく働いていたと観ている。

それは、「ミトコンドリア細胞の形」(真核細胞)と「葉緑素体の緑虫の単細胞の形」(原核細胞)とが極めて酷似している事が原因していると観ている。
つまり、平易に云えば、”細胞の仲間”と「ミトコンドリア」は観た。以上とする説を採る。
つまり、「真核細胞」=「原核細胞」である。

「ミトコンドリア」は、「生体の警察官」で「修理体」である以上は「生体の意志能力」を持っている。
この「ミトコンドリアの意志」は、「細胞の仲間」と観たのである。
上記の「真核細胞」=「原核細胞」等の論理が成立したとしても、「ミトコンドリアの意志」が異なれば成し得ない。


もっと云えば、「ミトコンドリアの生きる環境」と、「緑虫の単細胞の生きる環境」が一致したとも云える。

そもそも、この”「酷似」”は、「細胞の形」のみならず、”「細胞の内部」”までも酷似するのである。
”「細胞内部までも酷似」”が、「ミトコンドリアの意志」を”「細胞仲間」”と観た事に成る。

これは、”「単細胞」”に所以していると観られる。

「ミトコンドリア細胞」は、最近の分類では、「真核細胞(真核生物)」と分類されるが、最近の学問までは、「単細胞」の「原核細胞(原核生物)」としても考えられていた事からも明らかである。
平易に云えば、同類であったと云える。
つまり、「真核細胞」=「原核細胞」と考えられる。

「プロセスA」には、或は、「単細胞の形」と「緑虫」には、生存には周囲に「充分な水分」が必要である事から、合わせてこの条件は「ミトコンドリア」と全く同じである。
つまり、「ミトコンドリア細胞」と「緑虫の単細胞」は「生きる環境条件」が同じ条件であった事に成る。
(「細胞の形」も極めて類似する所以はここにある。)

従って、明らかにこの「二つの論理」から「異物排除」等の「ミトコンドリアの拒絶反応」は、比較的に弱かったと云える。
故に、「緑虫の葉緑素体」は、「ミトコンドリア」の中で定着したと云う事に成る。

これで、(疑問3)は、(疑問2)(疑問1)を解決する。

後は、(疑問4)を解明する事に成る。
この「葉緑素体」が、何故、「ミトコンドリア」の中で”「目」”と云う機能に変異したのか”と云う事に成る。

この解明は、可成り、複雑な「論理的なプロセス」(プロセスX)を踏んでいる事に成る。
この「論理的なプロセス」(プロセスX)を次ぎに解く。

そもそも、「疑問123」を解決し得れば、次ぎは、植物の「葉緑素体」に執っては「異体」である「ミトコンドリア」の中で、”本来無かった機能”の”「光合成」”が起これば、必然的に「葉緑素体」は増え続ける事に成る。
この事が、「ミトコンドリア」の中で、当然に、「ミトコンドリア細胞」(真核細胞)と、それに順じて”「本体細胞」”は、”「生体反応」”に依って必然的に反応して仕舞う事に成る。
最も重要なポイントと成る。

この「ミトコンドリア」は「相乗速」(「Nの2乗」)の「プロセスA」で増え続ける「葉緑素体」に対応して、「二つの細胞類」が増え続けるが、遂には、順応して「異物排除(疑問1)」は無く成り「葉緑素体の量」に比例して対応する事に成って仕舞ったのである。
つまりは、”「ミトコンドリア」の細胞が順応する”と云う「特異な進化」、或は「特異な変異」が起こったのである。
未だ、この段階では「進化」とは云えない。「変異」である。

では、何故、「ミトコンドリア」は、”細胞が順応する”と云う”「特異な変異」を起こしたか”と云う事である。
それは「ミトコンドリアの生体機能の基本的機能」にあった。

この「基本的機能」とは、この「葉緑素体」の反応に順応し増え続けた「ミトコンドリア」の中で「特殊な細胞」が、「生体の機能原理」で異物が混入すると、「生体」を護ろうとして、今度は、「生体細胞の異物排除」から、その「異物」を「本体細胞」が取り囲み、”「ミトコンドリア」の一か所に集中させる”と云う事が起こる。
つまり、「ミトコンドリア」で構成される”「生体の本能動作」”が起こった事と成った。

(現在の人間の体の中でも、この「独自のDNA」を持ち、「独自の細胞核」を持っている「ミトコンドリア」(真核細胞)は、「人間の細胞」に執って「如何なる細胞に対する異物」或は「如何なる細胞に対する過剰物」に対しても、この様な「防御の生体反応」を示している。)

平易に云えば,次の様に成る。
「細胞の情報機能」
「細胞の警察機能」
「細胞の消防機能」
「細胞の再生機能」

以上の様な働きをしている。

「細胞集合体」で出来ている「人間の体内」で「独自の真核細胞」としての立場を持ち、あらゆる方法で「細胞」そのものを護っている。

この4つの「防御の生体反応」に依って「ミトコンドリア」の中では、必然的に”集中させる”と云う事が必然的に起こる。
そうすると分散飛散する事では起こらないが、更に、”集中的”に成った事でより「増え続けた細胞」は、、遂には、その「葉緑素体の光の吸収過程」で、その”「光の差の違い」”を認識する様な機能を、集中し増える事で強く持つ様に成った。

この「光の差の違い」は、論理的には一つの「造形」を生み出すが、この時は、この”「造形」”を認識し得る程の「脳領域」は未だ形成し得ていなかった。
この事から、未だ暫くの期間は、”「造形」”と云えるまでには至ってはいなかったと考えられる。

「人類の脳の拡大」は、幾つかの段階に分類されるが、この「進化A+進化B」の「学習能力」までの「目の機能の獲得」に依って、最大にして飛躍的に関連的な拡大をしたと考えられている。

この「目の機能」が完成するまでには、人類が持つ”元来の「複眼機能」”が未だ働いていた。
この「複眼機能」は「原始脳」と連動していた。
この時の「脳」は現在の「同じ脳」を使っていたかの疑問は、「原始脳」と左の「中紀帯脳」と云う「脳」を使っていたとする論理もある。(下記)

そもそも、”「複眼機能」は「原始脳」の連動”と云う機能がメインであった事から、当初は、”「造形」と云う概念”ではなくて、”物質の存在する「光の方向性」と云う程度の概念”であったと推論されている。

実は、この様な機能で生存している「他の生命体」(下記)も現在ある事から論理づけられている。
「動物学」では、これを「原始機能」と云われるものである。
実は、人間も、現在も、この「原始機能の原始脳」を未だ働かずに脳内の隅に持っている。
恐らくは、従って、この「人間の原始機能の原始脳」を仮に働かせられれば、”「造形方向を指し示す働き」”をすると観られる。

但し、この「人間の原始脳」は、「人間の複眼機能」と連動していたと考えられていて、下記で論じるがその能力は、”「予知能力」”が主体であった事が考えられている。

つまり、”「原始脳」の「造形方向を指し示す働き」”と”「複眼機能」の「予知能力」”が連動していたと観られる。
この「予知能力」は充分ではないが、”「現在の目の機能」に近い働き”をしていたと考えられる。
この段階では、「脳の拡大」は未だ無かった事から、「色の認識」と「完全な造形の認識」は無かったと考えられている。

例えば、”何となく判るある造形(イ)”が、”ある方向に在る事(ロ)”を認識して、それが”何であるか(ハ)”を凡そで”予知して(ニ)”、”「個体の行動」(ホ)を起こしていた”と考える事が出来る。
このイロハから”「蝶の様な反応」”を起こしていたと考えられる。

「原始の環境」の中では、当初は、ある期間、この程度でも充分な環境であったと考えられる。
ところが、「生存の著しい環境変化」で、「目の機能」の確立の「プロセスX」では、それでは生存するには済まなく成った事に成る。
「生存の著しい環境変化」で、「複眼機能の退化」と「原始脳の退化」までの過程が急激に起こったと考えられる。

ところで、この”「光の差の違いの認識能力」(本来能力)”そのものは、「ミトコンドリア」に入った事で起こったのではなく、「植物」の時より「葉緑素体」には、元来より持ち得ていた機能である。
従って、「葉緑素体」に持ち得ていた「光の差の違いの認識能力」に対するもは,「ミトコンドリア」には、”「新しく働く機能」”であった事から、これを認識する”何らかの「脳の造成」”が必要と成った。
この”何等かの「脳の造成」”が、「目の機能の確立(プロセスX)」に大きく繋がった。

この”何らかの「脳の造成」”には、少なくとも論理的には、上記する「本来能力」以外に、”「三つの能力」に相当する「特殊な脳」に成るもの”が必要であった。

この「三つの能力」とは次ぎの能力である。

一つは、「光の差の違い」を受け取る脳 センサーのデータを収集する働き 網膜−「受光能力」

二つは、それを理解する脳       センサーのデータを理解する働き 右脳−「造形能力」

三つは、理解したものを整理する脳 理解した「脳データ」を貯蔵する働き 左脳−「学習能力」 

そもそも「植物の葉」は「光の強さと量」に順応して「光合成」を行っている。
当然に、「ミトコンドリア」に入った「葉緑素体」にも同じ機能を持つ事に成る。

そうすると、それに合わせて、上記した「ミトコンドリア」の機能には次ぎの数式論が働いた筈である。

「細胞の情報機能」(本来能力)+「細胞の警察機能」+「細胞の消防機能」+「細胞の再生機能」=「ミトコンドリア機能」

以上の「数式論の機能」等とで、当然に、これに次ぎに示す能力に「ミトコンドリア」は順応した。

順応能力−「順応した細胞」(「造形能力 イ」 「学習能力 ロ」)も持った。

本来能力−「葉緑素体」と「同じ機能(受光能力 ハ)」を持った。

この「二つの事(イロハ)」に成ったのである。
要するに、上記の”「三つの能力」(イロハ)”である。

この「本来能力」は、兎も角も、上記の「三つの能力」は、ある長い期間を経て、次ぎの変化を遂げた。

「複眼機能の退化」+「原始脳の退化」=「受光能力」+「造形能力」+「学習能力」

「受光能力」→「造形能力」→「学習能力」=「目の機能」

以上の「二つの数式論」の順序でより「高い進化」を遂げた事が考えられている。

その進化過程としては、次ぎの様に進んだと考えられている。

「受光能力」には、「光の方向性」の認識本能へと進んだ。 →「進化A」
「造形能力」には、「生存の為の糧」の認識能力へと進んだ。→「進化B」
「学習能力」には、「進化の拡充」の認識能力へと進んだ。 →「進化A+進化B」

上記の「進化の前提」は、何れも”生命体の「生存」”を前提とした「進化」であった。

その為に、爆発的に「増える細胞」に従って、その「光の差の違い」が”「おぼろげな造形」”として先ず認識する「脳細胞」が生まれた事に成った。

この休みなく相乗的に起こる「光合成」に合わせて増え続ける「脳細胞」は、「光の方向性の認識」(進化A)から発達して、更には、「造形の学習機能」(進化B)を持つ様に成ったのである。

この「造形の能力」は次ぎの「二つの細胞」を拡大させた。
a 「脳細胞(右脳の視葉野)の増加」
b 「光の差の違いを認識する細胞(目の網膜)の増加」

以上の「二つの細胞」(a b)で、「造形を受け取る機能」が専用に生まれたのである。

この「ミトコンドリア」の中で「光合成」を起こす「葉緑素体」と、それに対応し増え続ける「二つの細胞」でより「鮮明な造形」として次第に「右脳」が機能する様に成った。

遂には、その「二つの細胞の増加」に依って、「7つまでの範囲」の「光の差の違い」を認識するまでに至ったのである。
然し、これ以上は増え続ける事は起こらなかった。

何故ならば、元より「太陽の振動磁波」であり、「強力なエネルギー」を持ち、あくまでも「色」までに至るまでには、そこには「光の衝突に依り起こる現象」が発生する事に成る。
従って、必然的に「光を取り込む機能」には(「二つの細胞」には)限界が生まれる。

この「特異な二つの細胞」が増え続ければ、益々、「取り込む範囲」は「7つの範囲」を超えると云う範囲では無かった。
何故ならば、「高エネルギー」を持つ以上は、これを吸収する事に依って過剰と成り、”「有機物」”の「細胞の論理的な破壊」が起こる。

それは、”CとNで構成された「有機物」”に「論理的な破壊の原因」が必然的に起こるのである。
当初は、それを取り込み過ぎる事で「細胞の破壊」が続き、其の内に受け入れられる範囲の「ある限界」が出来上がったのである。
それが、「7色の色範囲」であった。

ところが、不思議な事に「人類、人種、民族」に依っては”「7色の色範囲」”では無かった。

(例えば、「白色の輝く環境」や「極寒の環境」で進化したアングロサクソン系の人は、「原則6色」を主張している。
「日本人」が誰しも認識する「藍色」を彼らは絶対に認識できない。

そこで、「熱帯の民族」では、その「生活環境」と「自然環境」から、「原色3色」に近く、何と、「赤系」から左に「4色の認識」の範囲と云う事もになっている。
それこそ、「YMCの光の領域」の認識は到底に無理である。

この様に人間であるのに、”「画一的で無かった事」”が、「有機物の破壊」が、「初期の色範囲」が決まる頃には既に起こっていた事が証明される。
依って、各地域の「光の強弱や量」によって、それなりの「有機物の破壊」が起こって「4から6色の認識」が起こったのである。

この様に「光の衝突に依り起こる現象」は、「地球の地域差」と「生活環境」で異なったのである。
「赤道域や南北極域」までの「日射量と温度差」は、論理的に「有機物の細胞の破壊差」は異なる。
「目の機能の細胞量」と、それに「順応した脳の細胞量」が異なっている事が云われている。
取り分け、「脳のシナプスの回路の量」が、この「目の機能の領域」で低かった事が云えると観られている。
結局、上記した「環境種」が変わって、遺伝的にこの領域が進化すれば、日本人と同じ様にシナプスは作られると観られている。
唯、要するに、「遺伝」に関わった検証であるので、時間的な経過は求められる。


それは、現在でも、「人間」には、「光のリスク」として、「紫外線」などに依るこの「細胞の破壊現象」は起こっている事でも明らかである。
「太陽光線」(紫外線領域と赤外線領域の光)を直視すれば起こる「光リスク」と同じ事が起こる。
所謂、「細胞の破壊」である。
その「他の光線」は、「人間の細胞」を透過して仕舞い、元来より「受け付ける能力」は「ミトコンドリアの細胞」には無かった事に成る。
結局は、結果として可能な範囲と成ったのは、そもそも「7つの範囲」であり、波長としては400から700ナノの範囲、「光範囲」にして「Y−M−C」、「色」に変換して「B−G−R」の範囲と成った。

(物質は上記の通りであるが、この”有機物の「細胞の破壊」は何故起こるか”に付いては下記で詳細に論じる。)

然し、理論的にはあり得ない筈なのに、不思議な事にこの「光領域」(YMC)を現実には獲得している。
本来は論理的には無理と評価できる範囲である。
これには「特別の現象」が起こった事が云えるのである。

論理的な詳細事項は下記で論じるが、「進化のAとB」の「プロセスX」としては先に述べて置くとして、この「Y−M−C」の「光の波長領域」は、兎も角も、当初より単純に取り込む事は出来なかった。
この事は、「生活環境の変化(水−陸)」に伴う「生存に関する進化」から「ミトコントリア」は、相当に「特別な進化」を遂げた事に成る。
上記の「進化A」と「進化B」は、勿論の事として、「学習能力(「進化A+進化B」に対する左悩の記憶判断)」とは、明らかに同時期では無い事が判る。
つまり、次ぎの様に「学習能力期」が二つに分けられる事が起こったと云える。

 「BGRの色域」(学習1)
 「YMCの領域」(学習2)

以上二つに分けられる。

詳細は下記に論じるが、先ず、「BGRの色域」(学習1)では、「左脳」を拡大させて「学習能力」を持つ事に先ずは進化した。
最早、この「光領域(BGRの色域)」は、「葉緑素体の受け得る域」を遥かに超えた結果と成って進化したと云える。
その証拠には、「左脳」の領域には、耳の直ぐ上の位置に元からあった「脳」と考えられる「中紀帯」と云う部位がある。
その「中紀帯」のそれ以外の「左脳」は、この「情報を処理」の「学習能力 (学習1)+(学習1)」が原因して拡大したものである。
少なくとも「BGRの色域」(学習1)の範囲では先ず起こった。

「ミトコンドリア」の「細胞膜(網膜)」に起こる「光の差の違い」によって起こる「造形情報」は、今度は、「脳細胞の増加」に依って連動した。
取り分け、「左脳」が起こした「学習能力」によって「7色と云う認識情報(BGR)」を、今度は「右脳」の「脳細胞」が「受け取る能力」を新規に拡大して、連動して構築した事に成った。

つまり、この時、この「光と色の増加する脳細胞」の機能を補完するものとして、これを「目から受け取った光」と、それに見合った「色にする相関機能」を、「脳の記憶と云う手段」で構築がなされる事が「左脳」で起こったのである。
直接に”「色」”として入っているものでは無く、「光情報」を「脳」が「色情報」に先ず変換してそれを「色」と云う「感覚意識」として認識していると云う事である。
長い「左脳」の「記憶の学習能力」に連動して、「入って来る光の差」を区別して、色と云う感覚的なものにした。
そうすると今度は「右脳」もこれに合わせた「色の判断能力」(識別判断能力)を作り上げた事に成る。
つまり、これが「左脳の学習能力」なのである。
ところが、この「左と右の悩の働き差」にある「微妙な領域」(錯覚現象)で「違い」が起こったのである。

この「左悩の学習能力」で処理された”「色に変換された情報」”を”「右脳」”の特別に作られた場所の”「視葉野」”に”「視神経」”と云う”「特別の伝達線」”を創って送られている事に成る。

所謂、この「記憶と云う機能」には、その送られて来る「記憶の僅かな差違」に依って、「左脳」には、それまでに無かったより「繊細な学習機能」(補完機能)と云うものを生み出す事が起こった。
この「学習機能」のそれが、「単なる光」を「色と云うものに変換する機能」と成ったその所以である。

この時に、起こった「学習のズレ(補完ずれ)」が「本論の問題1」と成るところである。
平易に云えば、次ぎの様に成る。

「学習能力」が未だ完ぺきでは無い。
「補完」が完ぺきでは無い。
「完璧に補完し得る脳量」を未だ持っていない。
「目から送る情報」が完ぺきでは無い。
「目の機能(網膜)」が完ぺきでは無い。

以上「五つの現象」等で例えられる。

現在の研究では、この「学習のズレ(補完ずれ)」は、「目の原因」か「脳の原因」かは解明されていない。
筆者は、「目の原因」<「脳の原因」の説を採っている。

これを観ると、左脳の「学習能力」を増やし、それに応じて「脳量」が増えれば解決しし得る様に観える。
然し、「目の機能」がこれに順応するかの問題もある。
難しいと考えている。
それは、「光→色→学習の変換」には、「色→学習の過程」は「進化」である事からあり得るだろう。
然し、「光→色の過程」は、「人間」が恣意的に進化的にも変える事は「不可能の領域」である。
「人間」がこれに「耐えうる細胞」を持ち得るかの問題に突き当たる。

「進化」では、これ以上は無理で、「有機物」で成り立つ「人間改造」を成さねば不可能と考えられる。
突き詰めると、論理的には「ロボット」と成るので、不可能であろう。
ロボットでもメモリー容量からも無理と成る。
何故ならば、この世の最大のメモリー容量は、「有機物の細胞」が最大と成っていて、現在、「細胞のメモリーチップ」が研究されている位である。

例えば、本論の「フェリア理論」とは別に、「目の機能」には次ぎの様な問題がある。

簡単に平易に論じるとして、目には、次の様な難解な問題を持っている。
「目」、又は、「左脳」には、次ぎの事が起こっている。

残像1−「時間残像」
残像2−「補完残像」
残像3−「補色残像」
残像4−「運動残像」

以上4つの残像と云う「学習のズレ(補完ずれ)」として、「目から入る情報」には論理的では無い”「残像」”と云う現象が起こる。
その「学習のズレ(補完ずれ)」は次ぎの事を起こす。

「撹乱1」 「入った情報」は、情報と異なる「逆の情報の現象」が約8秒から15秒位の間、直ぐに消えず情報は遺す現象が起こる事。

「撹乱2」 「入った情報」は、既に左脳から右脳まで送られて認識した後の現象で、「色の正逆」の「二つの逆の現象」が重複する事が起こる。

この”「撹乱現象」の「残像」”は、
「時間の差」(残像1)で
「色変換」(残像2)の補完で
「光変換」(残像3)の補色で
「運動の差」(残像4)で

以上が起こる事に成る。

この「撹乱1」と「撹乱2」の「2つの攪乱」は、以上の「4つの変化」(残像1234)の中で起こる事に成る。

以上、結果として、そうすると、合わせて”「8つの現象の攪乱」”が起こる事に成る。

これだけ起これば、”脳は不完全”と云える。

実は、これだけでは無いのである。

この「入って来る光」にも次ぎの種類がある。
次ぎの「5つの現象」にもこの「残像」は起こる事に成る。

透過
吸収
反射
屈折
干渉

この「5つの現象」が上記の「8つの現象の攪乱」に全てに関わる事に成る。
従って、何と、”「40もの撹乱」”が起こる事に成る。

「透過、吸収」の二つは「入光の変化」を起こしていない。
「反射、屈折、干渉」の「入光の変化」は「残像」では複雑な現象を起こしてより「人間の脳」を撹乱させる。

例えば、説明は、「40の撹乱」と云う現象は、”「感覚」”であるので困難であるが、「残像」の周囲には、次ぎの様な事を起こす。

「照輝現象」(現象1)を起こしたり、
「暗雲現象」(現象2)を起こしたり、
「フラシュ現象」(現象3)を起こしたり

以上の三つの現象が起こす。

(他にも専門的には幾つかの現象がある。)

最早、これでは幾ら「脳の学習」があるからと云っても、これでは「学習能力の1と2」では到底に解決できない事は判る。
然し、「学習能力」では解決できないこの「40の撹乱」は「悪いリスク」だけでは無い。

例えば、映画などの人間が作った映像は、1秒間で8コマであれば画面に「パラセーション」を起こすが、24コマでは繋がって観える。
これはこの「残像の時間」を利用したものである。

然し、「自然の状況」の中では、「40の撹乱現象」と成って表れる。

これを人間が作った写真やビデオ等には「40の攪乱」(+現象1+現象2+現象3)と成って表れる。
これでは、人間の脳は、左脳の学習能力が進んだとしても、この範疇では最早、理路整然と解明して修正して補完補足してと云う事は無理であろう事が判る。

そこで、脳以外の処で、人間の知恵で解析して出来る事がある。
それは、この中の”「補色残像」”と”「補完残像」”なのであって、可能で有るのなら、その要領を解き明かそうとするのがが本論の問題であるのだ。

然し、これは”「残像」”と云う範囲の事だけであり、他には、上記した様に、「左脳の学習能力」とは別の次元の問題として、人間には厄介な”「脳の習性」”と云う範囲の事も絡むのである。

「修正1」 「残像40の攪乱」の修正
「修正2」 「脳の習性」の修正
「修正3」 「映像技術」の修正

以上の「修正123」の事で、人間が作った写真やビデオやテレビ等の「機器映像」では、「脳」とは連動していない事から故意的に修正しなければ成らない事が起こるのである。

これでは、「芸術映像」では無い限り、”「綺麗」と云う感覚”や”「写実」と云う目的”を到底に解決し得ない。

その前に、「左右の脳事態」が、「習性」があるので「修正」できるかは疑問である。
答えは、現実に「学習能力」では、「修正」が出来ないのである。

故に、上記の「修正1」と「修正2」は、「脳の領域の修正」ではあるが、既に、「撹乱」でこの領域を超えている。
従って、超えているのであるから、「修正3」が恣意的に働かせる事が必要に成る。

「照輝現象」
「暗雲現象」
「フラッシュ現象」
「ハレーション現象」

以上等の「脳以外の処」で「修正3」を技術的に強引にしなければ成らない事に成る。

これらの「多くの攪乱」は、現在も「脳科学」ではまだその原因は解明されていないのである。

従って、「機器映像」では、この「修正123」を行うノウハウを獲得する必要がある。

そのノウハウを獲得する為に本論では、その「発生原因の基礎理論」を説いている。
然し、此処でも未だ「色領域の事」(BGRの色の範囲)であって、「光の領域の事」(YMC)までの「学習能力の発達」のものでは無い。

「YMCの光の領域の事」に付いては、「有機物」の「細胞の破壊」に至る「論理外の事」である事から、”「自然の成行き」から来る「学習能力」”の範囲では無かった。
無理にでも「左脳の学習能力」(学習B)に依って「色変換]を果たさなくてはなら無く成ったのである。

それは、”何か、生存に関する「特別な事変」”に対応する為に、取り分け「人類」の「ミトコンドリア」は無理と云う説破詰まった形で動いた事に成る。

そもそも、「BGRの色の領域」」(学習A)では、特に大きな「生存の危機」に関わるものでは無かった。
従って、時期的には、、「YMCの光の領域の事」(学習B)は、「ミトコンドリア」の「進化の後期」に当たる事変であった事が判る。
何故ならば、、「BGRの色の領域」のこの時期には,未だ「原始脳と複眼機能」の「連動期,又は、重複期」であった事から、無理にしても「YMCの光の領域の事」は、論理的には必要では無かった筈である。

従って、「BGRの色の領域」」(学習A)の段階では、”「脳の習性の修正」”と云う問題は生まれていなかった事に成る。

例えば、「左脳の学習能力」では、「前に記憶されたもの(R−1)」と、「後で記憶されたもの(R−2)」が全く同じ「記憶」であれば、「単一の記憶現象(R−1=R−2)」で「脳の働き」は(=)で終わる。
然し、(R−1≠R−2)であった場合、その「記憶」の一部の「環境条件の差」に依って「記憶の差違」が多数生まれた事になり、それが何度も繰り返される事で、「同一類系パターン」として認識されるも、その中で「記憶の整理」が行われる。
その「多くの類似性のある記憶」が整理されると、今度は、そこで「差違ある記憶の情報」が「独自の情報]として生まれる。
これが所謂、「学習能力」の「学習機能」と成るのである。

ところが、ここで無理に「光」を「色」に変換する「学習B」を作り上げたとすると、そこには「変換の複雑さ]から「脳の習性」に対応できていない事が起こって仕舞った。
当に、上記の「補色の攪乱」であった。
では、下記にこの”「補色の攪乱」”には主にどう云う事が起こるかと云う事を解く。

「補色の攪乱」
「脳」には、「目に入る全体の情報」を取りまとめて学習して「一つの色合い」を「右脳」に送るが、ところが「中央部」にこの「YMC」に関する「学習B」の「色合いの物」が存在したとすると、これまでを「一つのBGRの色合い」の中に入れて仕舞うと云う「補色の攪乱」を起こすのである。
この結果、「全体の色合い」が「中央部の色合い」に加色して「実際と異なる色合い」のものを表現して認識して仕舞うのである。
「全体部」を主にしていながら、「中央部」を観て判断して仕舞うと云う事は、人間の逃れ得ない「脳の習性」である。

例えば、今度は、全体が「YMCの光の領域」のもので、中央が「BGRの色領域」あるとすると、論理的にどう云う現象を起こすのかと云う当然の疑問がある。

実は、ここには、「ある現象理論」が起こっているのである。

「BGRの色の領域」の「変換感度A」、或は、「補色感度A」
「YMCの光の領域」の「変換感度B」、或は、「補色感度B」

この二つには、ある理論が成立する。

それは次ぎの通りの関係式で成り立つのである。

「変換感度A」、或は、「補色感度A」:「変換感度B」、或は、「補色感度B」=3:1

つまり、どう云う事かと云うと、次ぎの様に成る。
BGR
イ 「B−G」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力
ロ 「G−R」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力
ハ 「R−B」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力

例えば、イとして、BからGに色変化、或は、「混合色」であったとして、その「色の変化」に対して中央部の「YMCの光の領域」は、其れに対して3/1の程度の範囲でしか敏感に応じると云う事に成る。
B−Y G−M R−Cの「補色の関係」があるが、「B−G」だからと補色関係のある「Y−M」に対して変化すると云う事である。
つまりは、”3倍の広い範囲から影響を受ける”と云う事に成る。

”3/1で影響は出る”と云う事で、中央部が「Y」だけであるのなら補色の関係にあった「全体部B」の影響を強く受けて加色される事に成る。
「M」と「C」も同様である。
と云う事は、”中央部が補色関係に無ければ影響を受けない”と云う事に成る。

但し、全体の「BGRの色合い」は、中央部の「YMC」の上に”加色される事”は、大なり小なり「脳の習性」であるから避けられない。
加色されるが、「YMC事態の独自の変化」は、全体に引っ張られて殆ど起こさないと云う事である。

何故ならば、上記は「幅域の影響」から来る「補色による変化」であるが、、「YMC事態の独自の変化」の場合は、「BGR:YMCの比」の「強弱の影響」を受ける。
この「全体の影響」を受けた「加色分」を取り除けば、そのままの「Y」なら「Y」で居続けられる事に成る。
ロとハも同じ働きを起こす。

「色対色」の影響であれば、この様な事は起こらない。
「色対光」である所以である。

さて、そこで、「YMCの光の領域」は「BGRの色の変化」の様に、(1:3)「幅域」を持たない。

「Y−M−Cの変化」には、3つ合わせても「幅域」が3であり、「BGRの9」に比して変化しても狭い為に殆ど影響は起こらない事に成る。

この理屈が「綺麗な映像」を撮ろうとすると、利用すれば良い事に成る筈である。9:3で影響が少ないのだから。

仮に、中央部に「YMCの混合色」が来たとしても、これに対しては全体がBGRのB−Gとすると、YMCのY−Mにしか補色関係が無いから、混合色に対して補色反応を起こして、混合色のYとMに対してその能力の3/1の加色で影響を与える事に成るのである。
「混合色]であるとすると”変わったかな”と云う程度の事に成る。

簡単に云えば、扱いとしては、「YMC」は「単一」として扱える。
中央部付近に、補色であっても「YMC」の何が来ようと「単一」として扱えるのである。

そこで、この論理から、「上記の逆」の現象の事が起こったとすると、どの様に成るかと云う事に成る。

全体に「YMCの光の領域」であったとして、中央部に「BGRの色の領域」が来たとしても、「YMC」には「1/3の関係」にある事から、「中央部の色合い」BGRに対しては殆ど影響を及ぼさず変化しない様に観える。
機器映像からすると、「人間の目」には”観える”と云う事に成るのであろう。
日本人の様な目には、鋭い人では、1が観えている事に成るであろう。
現実には「日本人」には多いのである。
そして、「映像の専門家」であれば、この1が観えて取り除かねば、「専門家の映像」とは言え無い範疇であろう。
「映像マニア」であれば、むしろ、この1を残しておいた方が味わいがあって良いと一般的には評価される。
それは、「映像の使い道」の如何に関わるからである。

要するに、概して感覚的には、「1/3の関係」から「BGR」にはその様な「影響力」が出ないと云う事に成る。

つまり、「中央部のBGR」(3の影響力)に対して、「全体部のYMC」(1の影響力)の「加色現象」は起こさない程度なのである。

現実には、「1の影響」は持っているが変化には出て来ない。
「目」或は「脳」には認識できない程度の事に成る。(一般的に)
これは、「光から色」に無理に変換した「脳の学習能力」から来ているのである。(日本人の範囲)
この原理を表しているトップ記載の「色相関図」では、「BGR」は120度、「YMC]は90度の占有領域を占めている。

つまりは、”「綺麗」”は、上記のこの原理をどの様に使うかである。

当然に、この時にも、この「補色の攪乱」以外にも、「時の残像の攪乱」も起こっている事には成るが。
ここで、面倒な事に、この「時の残像」は、「全体の色合い」の「逆の色合い」で残存する事に成る。
従って、15秒程度は、明らかに「撹乱現象」は起こり続けるのである。

これは、映像を15秒以上に観る事で、「濁りの無い映像」を「左右の脳」が動作して作り出してくれる事に成り解決し得る。
従って、専門家とマニアは、「より正しい映像」を獲得する為に、”映像を暫く眺める動作”をするのだ。
我々も、この、”映像を暫く眺める動作”をすれば、「左右脳が起こす問題」を解決する事になり良い事に成る。

ここで、この事が理解できたとして、「BGRの色領域」に対して、「YMCの光領域」にはもう一つの理論があるのだ。

上記は「補色関係」の「幅域」で論じた。
然し、「BGR」にしても「YMC」にしても、「色」或は「光」にしても”「強弱域」”は持っている。
では、この関係はどの様な理屈で出来ているのかと云う問題を把握しておく必要がある重要な本論のテーマである。

中央部の「YMC」に対して、「幅域」では「補色関係」で「BGRの加色現象」を起こすが、「YMC」のそのものの「変換色」に対して、”何か変化を起こさないのか”と云う問題がある。

実は、この「強弱域」は「人種 民族」によって異なるのである。

「YMCの混合色」は、加色に依る「光域」なので完全な等比であれば「白」である。
「BGRの混合色」は、加色に依る「色域]なので完全な等比であれば「黒」である。
(減色はこの逆に成る)

厄介な事に、然し、「人種 民族」は、この様に論理的には無い。
ある程度の範囲で等比では無い。

そこで、先ず、「日本人」を観て見る。
元々、「YMC」それぞれの強弱のバイアスは殆ど無い。
然し、日本人は次ぎの様に、”「僅かにずらした混合色」”を無意識に作る。
「白」に対して「薄い肌色」を「混合色」として用いる「脳の学習」の「習性」があるのだ。

もっと云えば、「日本人」は、この「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」と主張する「悩の習性」がある。
「純白」を学問的には「白」であるのにも関わらず「白」とは云わない。
「映像的」には、この「白色」は「極めて薄い肌色を含む白色」を白と認めるのである。
これは「趣向的」と云えば、事実、「趣向的」なのだが、上記の論理の通り、「学習機能」が発達している事に成る。
つまり、「全体と中央の関係」などの「補色能力と補完能力」が進化している事に成る。
そして、その結果として、「全体的に評価する能力」から「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」と評価する事で、上記の問題を出来るだけ起こさない様に進化している事に成る。
「学問的な純白」は「白」と認めながらも、「目の機能」としての「白」は、「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」としたのである。
「左右脳」が起こす「40の攪乱の解決」には、基本色の「白」を「極めて薄い肌色を含む白色」で解決しようとしたのである。

要するに、これは確かに「肌色」を含ませる事に依って、「目と脳が起こす上記の問題」を軽減できる。
上記の相関図では、肌色を含ませる事で、右側のBGRの色の相関域に近づき、Edを上側に引き上げるので、1/3から殆どは映像を感覚的には、綺麗の表現に近づけられる事に成る。
その意味で、相当に強い肌色を白とする日本人も地域差で起こっている。
筆者は、これは「進化」である限りは、「目に映る自然環境の差」に依って違っていると観ている。
それは、「雪の差」ではないかと考えられる。
「純白」である筈の「雪」を15秒以上直視していると、「肌色の雪」に観えて来るが、これがパラメータに成っていると観られる。
これは「論理的」である事から、日本人だけの「学習能力の進化」であろう。

この進化は次ぎの論理式でも証明できる。

この時、「YMC」は次ぎの関係にある。
C>M>Y=1.2>1.0>0.8=1
(Y>M>C=1.0>1.0>1.0=白 )

ところが、「BGR」は次ぎの関係にある。
B>G>R=4.2>4.0>3.8=4
(B>G>R=4.0>4.0>4.0=黒)

Cは白を、「より白らしく見せる光領域」で、その反対のYは、「より自然らしく見せる光領域」です。
とすると、MがそのCに近いか、Yに近いかに依って、その映像が「綺麗に目に映るかの変化」を起こす。

「1.0のM」を、Cに近づければ、白の「極めて薄い肌色を含む白色」に成るので、日本人の進化は論理的に一致している。
上記の相関図では、日本人の「極めて薄い肌色を含む白色」は、C−M−Yのバランスでは等比の1.0では無く、MがCよりに存在する事に成る。

「YMC」と「BGR」の上記数式論は共に「人種 民族」によって異なり、中には「YMC」の持ち得ない「人種 民族」もある。

但し、中には、その比は別として、R>G>Bとする人種民族もある。
日本人はどちらかと云うと、G>B>Rの傾向を示す。

これは、”「けばけばしい色合い」を好まない”と云う事であろう。

以上から、概して、YMC:BGR=1:4 の関係である。

上記の「色変換の幅域」では、YMC:BGR=1:3 であった。
この「色変換の強弱域」では、YMC:BGR=1:4 である。

従って、次ぎの様に働く。
「全体部BGR」に対して、「中央部YMC」は、全体部からの「加色現象」は中央部に「習性」として起こり得るが、「色の強弱の影響」は、「幅域」とは逆に影響を強く受ける事に成る。
立えば、全体部が”輝き目立ち”、中央部は”くすみ目立たない”と云う現象を示す事に成る。
例えば、全体部のBに対して、中央部に補色関係にある「Y」を含む物があったとすると、「B」の4に対して「Y」は1である事から、強く影響を受けて、その「Y」はその「色合いの印象」を激しく変える。

茂る夏の山々に囲まれて中央部の「紫陽花」は、”くすんで見える”と云う表現である。
依って、この理論を展開すると、「紫陽花」の様な「YMCの要素」を多く持った花は、バックを森等の「BGの要素体」を背景にしてはならない事に成る。
つまり、秋の紅葉した山々には、この「YMC」を多く含んでいる。
この秋の紅葉の山々を背景に、中央に置いた被写体は影響を受けにくい事から、”綺麗に撮れる”と云う事が起こり易い。

結局、この背景に「YMC」か「BGR」の「存在の如何」を素早く見抜く事にある。

「印象」と云う事からすると、例えば「明るいY」から「暗いY」に変わる「減色反応」が起こったとする印象を与える。
色々な印象の色合いを呈する。
混合も含めて単一のMもCも補色関係の中では同じ現象を示す。


従って、この逆の「全体部YMC(1)」「中央部 BGR(4)」の場合は、「中央部 BGR」は「全体部YMC」の影響を強弱の点でも受けないと云う現象を示す。
つまり、「中央部BGR」は、”輝き目立つ”と云う事が起こる。

”秋の紅葉の山々に中央部の緑は映える”と云う表現である。

つまり、この景色には、このBGR:YMC=1:4の関係が働いている事に成る。
これらは世界標準化された「CCカーブ」には反映されている。

以上の論理で、左脳は学習して記憶しているのである。
それが「目に入った情報」をこの様な論理で処理しているのである。

そこで、人間は、何度もこの撹乱が起こる事でこれを「学習」して、この「15秒の範囲内」で、中央部の加色された「実際と異なる色合い」を修正しようとして、「目の機能」を「中央部」に持って行こうとして脳がすばやく働こうとする。
その結果、「中央部」の「実際の色合い」の「YMC」に補正する「学習C」が働く様にした。
この時、「時の残像」も「逆の色合い」(補色)を示していた事から、「YMCの学習C」と一致する事に成り、「脳」は”「正しさ」”を認識する事に成る。
”逆に起こる「残像」”と云うことを、この「学習」によって既に認識している「脳」は、比較する対照が起こる事で、”「正しさ」”は認識出来た事に成る。

つまり、「時の残像の逆の色合い」とは、元は「全体の色合いのBGR」である事から、この「逆」と云う事は、「YMC」と云う事に成るので、結局は、次ぎの様に成る。

「YMCの学習C」=「時の残像の逆の色合い」

以上の数式が出来上がる事に成る。

「人間の脳」は長い期間を経てこの様に学習したのである。
否、そもそも、「YMCの領域」を認識しない「人種や民族」がある事から、取り分け”「日本人の脳」”が学習したのである。
但し、この「正しさの情報」が無い時は、「脳の習性」では「修正」は起こらない事に成る。

現実には、この「正しさの無い状況」は、「自然界」の条件では頻繁にあり得る。
「BGR」と「YMC」の判定が難しい場合であり、これも学習である限りは起こり得る。
(取り分け、日本人でなくても「YMCの判定」は難しい。)
この場合は、「残像の範囲」で「脳」が働けば良いが、そうで無い場合は、「故意的に修正」をしなければ成らない事に成る。

「環境条件」(温度と湿度等)と「脳の条件」(疲労性)に依っても、常に「残像の範囲8秒から15秒」で出来ない事が常に起こる。
そして、「人種」は、勿論の事、「人の感性力」に依っても著しく異なる。
上記した「透過や吸収」等の「光の有り様」の「5つの現象」に依っても異なるとされている。
結局は、「習性と学習」に大きく関わる事に成る。

殆どの日本人は、これが出来ると云う事は”早い方”と云う事に成る。
「学習」である以上、「無意識の中の認識と行為」であり、写真等を撮る場合は、この条件を整える事が恣意的に必要と成る。
さもなければ、「綺麗」は表現できないことを意味する。

当然に、人間が作った「映像機器」は、「人種や人類や民族」さえ認識し得ない能力であるので、ここまでの能力を持ち得ていない。
従って、「機器映像」とする限り故意的に修正しなければ、”「綺麗」”は表現できない事に成る。
例え、デジタルとしてもである。

(通常の「目の細胞能力」はデジタルの画素数に変換すると、一概には比較できませんが平均すると、「約400万画素から1200万画素数」とも云われている。
細胞の細かい部分を使えば数倍には成るでしょう。
現在は、「映像機器」ではこの5倍は超えている。
但し、「映像機器の画素数」が増える事は、「目の撹乱」から来る「照輝現象」等には本質は変わっていないから関係が無い。
然し、本論の問題は「学習能力」と「脳の習性」に関わる事である以上変わらない。)

恐らくは、現在も未だ未了でありながらも、この上記した難しい現象を学習で獲得している事を考えると、原始には「環境条件の差」が想像も付かない程に学習能力の構築や進化に執って大変に激しいものであったと考えられる。
勿論、「BGRの色範囲」では、「生存の危機の状態 A」が「普通の状態」であったと成る。
依って、「YMCの光の領域の事」の「生存の危機の状態 B」は、「生存の危機の状態 A」を遥かに超えた「天変地変」が、「左脳」に「特別な変化」を与える位に、「生存に関する特別な事変」が長期に起こっていた事に成る。

「YMC」は明らかに、「BGRの学習能力の期間」と異なり、長い進化の後に起こった現象であった事が云える。

結局は、先ずは、この左脳の「学習機能」により「適格な情報量」が増え「鮮明な造形」と、それに伴う「色の造形(色彩)」が連携して構築されるに至ったのである。
ところが、「学習能力の事」だけでは済まなかった。
この時、この「記憶」が飛躍的に相乗的に多く成る事に依って、「右脳」の「光の差の違い」の「光の造形」と、「左脳」での「記憶]で相関し補完する「色の造形」との間には、”「論理的な記憶」”の”「補完ずれ」”が起こる事に成った。(「BGRの色の領域」の補完)

これに「YMCの光の領域」の「学習能力」も加えられて時期がずれて起こる事に成ったと観られる。
恐らくは、「右左の脳」には「パニック状態」に成っていたと考えられる。

「人類」に現在も依然として、この「学習能力の有無と差違」が起こっている現状は、この時の「後遺症」と観られる。
(本論の結論)
そうで無ければ、「ミトコンドリア細胞」に「違いがあった事」に成って仕舞う理屈と成る。
「人類、人種、民族のミトコンドリア機能」としてのそのものは同じである。
異なるのは「学習能力の有無と差違」にある筈である。(そうで無いとする説もある。)
依って、この時の「後遺症」と云う事に成り、当然に「後遺症」とすれば、「人類、人種、民族」に依って異なる事が生まれる理屈と成る。

「左右の脳の細胞」には、「生きる環境」が、「進化AB」に左右する性質はあり得るが、「ミトコンドリア細胞」は人類は無く同じである。
現在でも、「人類、人種、民族」に依って差違のある現象は、「右左の脳」の「パニック状態」が引き起こした「遺伝的な後遺症」である。

これが、「脳の中」で起こるどちらとも捉えにくい「光の領域のYMC」の事に加え「色に変換されたBGR」の「補完関係」と「光の領域のYMC」の「補色関係」で起こる二つの現象(補完ずれ 補色ずれ)なのである。

つまり、先ず、「人類」には、「目で捉えた全体範囲」の像には、「全体」を捉えてその認識状況を全体の細部に宛がうと云う上記した様に厄介な”「脳の習性A」”がある。

要するに、「像の中央部分」が異なる事の如何に関わらず、「全体印象」で認識して仕舞う「像」と「色(BGR)」に関する習性である。
「全体」が「中央」と同じ印象とは必ずしも限らないにも拘らず起こす。

この「像と色」に付いて「実際との補完関係」が採れていない事に成る。
これは「補完関係」である事から、「事実に関する詳細情報」を、全体を観て、そして、更に中央を観る事(習性B)で左脳に送る事では”「融合現象」”を成して修正させられる事には成る。

ところが、ここで面倒にも「学習能力の現象」が「人類、人種、民族」に依って、全体を観て、そして、更に中央を観る事の”「習性B」”をしないと云う事があるのである。
むしろ、”遺伝的に起こさない”が正しい。
この差は、検証の研究論文では「後遺症の強弱」に左右していると観られる。
(日本人はこの「習性B」を遺伝的に無意識に起こす。)

ところが、「補完」は次ぎの習性から成り立っている。
「習性A] 「(全体を観る)BGR」
「習性B」 「(中央を観る)YMC」

「習性C」 「(中央を修正)YMC」習性Aの加色分を外す。
以上を行う事で「補完ずれの修正」は成立する。

これは「習性A」が「BGR」(補完関係)と限定しているし、「習性B」は「YMC」(補色関係)と限定している。
然し、、「YMCの光領域」の「補色関係」には、そもそも、無理に学習した事に依り「完全性」が担保されていないのである。
依って、”恣意的に別の処”で修正しなければ、「事実に関する詳細情報」は得られないのである。

それは、上記で論じて来た通り、「YMCの光領域」の「左脳の学習能力」によって「光領域」のものを無理に、「色領域の関係」に修正して送る情報である以上は、或は、其処には、”「補色」”と云う情報処理で行うものである以上は、無理が伴うのは必然である。

「補色と云う概念」上の事である以上は、決して、「事実に関する詳細情報」の「補完」では出来ない。
”「補色」の「色」を”補う”と云う「脳処理」(習性C)”なのである。
概念の事である以上は「人類、人種、民族」の影響は当然に避けられない。
「習性A」と「習性B」でも無し得ない事であるのに、到底は「習性C」は無し得ない。

(日本人はこの「習性C」を、「学習能力」が発達していて、一般的には遺伝的に無意識に起こすが、如何せん「個人差」が生まれる。)

「光」を無理に[色」に変換する作業に加え、「色」には主観が伴う。
依って「補完」とは成らず「補色」には無理が伴う。
「YMCの光の変換色」を、”どの様に脳で定義するか”と云う難しい問題が伴う。

例えば、「目で捉えた全体範囲(BGR−1)」の「中央付近 A」に、「光の領域の(YMC−1)」の「色合いの持つ物体 a」が来た時に、「記憶の脳」は、「学習機能」で、当然に全体色(BGR−1)の同系として捉えて、より(BGR−1)の「色」に近づけようとして、この(YMC−1)に(BGR−1)が加えられる。
その結果、この(YMC−1)には(BGR−1)が加えられて(YMC−1)でも無い(BGR−1)でも無い「とんでもない色合い」の「a」が出来て仕舞う事に成る。

ところが、次ぎに「人間の瞬時の動作」で、この「中央付近 A」を直視する反応を示す。(習性B)
(「時の残像」で入った情報を認識して、「中央部」が少し違っている事から動作に及ぶと考えられる。習性E)
そうする、全体範囲(BGR−1)の影響を受けない「中央附近 A」の「真の色合い(YMC−1)」が「認識」される。
この二つの「認識」を捉えて「脳の学習機能」は「修正」を掛けて、「全体範囲 B」と「中央附近 A」の二つを融合して正しい「真の色合い」の「画面の認識」(習性D)をする。

然し、上記した様に、これもこの「二つの認識」をした事に依って起こる事であって、「人間の全体の習性は基本的には「全体の認識」で終わる場合が多い。
これも原始の頃からの「生活環境]から来た「遺伝子化した学習能力」に左右される。
日本人はこの「二つの認識の習性ABCDE」を持っている。
恐らくは、春夏秋冬の著しく変化する景色等を観て、この「生活環境」を認識して生存を左右させていた事から来ている。

但し、全体範囲域を、上記の逆の場合の(YMC−1)に置く事では、この現象はBGR:YMC=1:3 or 1:4の関係が働きその変化を判定しにくい。
判定しにくい理由は、下記に記述するが、然し、これは未だ何とかなるが、「光領域」を「色領域」に変換する事には「主観」が伴うが、これは論理的に解決し得ない。
我々日本人は「異常な補色」の配色と捉えても、「人種」に依っては正常、或は、別の色を主張する事にも成る。
これは「左脳の学習能力」を超えている。

「補完」に付いても、人種同一と云う事にも成らず、「全体と中央との捉え方の如何」が左右する。

「左脳」が成し得る学習能力の如何の差
「左脳」が成し得る学習能力の「光領域の色変換」の如何の差
「人類の目」が起こす共通する習性癖

以上の現象を起こす。

この事から、「脳」は、先ずは「全体の傾向」を捉えて「全体評価して仕舞うと云う習性」を持っている事に成る。
逆に云えば、「目」に映る「中央附近」を捉えて「最終評価すると云う習性」を持ち得ている事にも成る。
”[中央→全体」の「→」のこの場合は、「脳の学習能力」はどうなるのか”と云う「疑問5」が起こる。

基本的にスタート点が「YMC」であれば、上記で説明した通り、「1:3或は1:4の論理的関係」を超える事はないので余り変化は示さない。

「全体がYMC」で、「中央がBGR」と云う事も起こるが、この場合は「脳の学習能力」はどうなるのかと云う「疑問6」が起こる。

然し、上記で説明した通り、「論理的関係の1:3、或は、1:4の関係」で余り変化は示さない。
唯、上記の場合は遠近感は無い物としての評価である。

ところが人間には、この「遠近」でも異なる習性があるのだ。

何故、この様な「二つの評価方法」を採る様に成ったかと云うと、これも高い「学習機能」の結果である。
これは「人間」には、「物体」を多種多様な見方をしているからであって、これを学習した事に成る。

それには、例えば次ぎの様な場合がある。

周囲体を「遠くの物」にして観た時の「遠くの中央の物」の色の評価
周囲体を「近くの物」にして観た時の「遠くの中央の物」の色の評価
周囲体を「近くの物」にして観た時の「近くの中央の物」の色の評価
周囲体を「遠くの物」にして観た時の「近くの中央の物」の色の評価
周囲体を「中位の物」にして観た時の「中央の物」の色の評価

原則的には、以上の「5つの場合」に分けられる。(但し、「人の感性」でその原則数は変わる。)

イ 周囲体が「遠くの物」とする場合は、通常は「周囲体の色合い」を「総合的に観る」、又は「漠然的に観る」と云う傾向にある。(習性E)
この為に、「遠くの中央の物」には、上記の「補色関係の現象」は起こる事は起こるが端的には出難い。
”出難い”と云うよりは、”出る”と云う意識が低い限り出ていても、”それはそんなもの”として認識していないのが普通である。
ところが、「近くの中央の物」には、周囲体は、「融合色」の「単一性の色合い」を示しているので、「単一色」として端的に出て目立つ。
これも上記の通りで、それはそんなものとして意識していないのが普通で、この「補色関係」はプロと成れば見抜くであろう。

取り分け、「YMC」はグレーの所(相関図横軸の中央域)までは、「Y」と「M」と「C」の間の縦の”「色間」”が実に狭い事が特徴である。
”「色間」”が狭いと云う事は、「YMCで構成された色合い」に”変化が起こり難い”と云う事で、或は、「色合いの変化」が”目立たない”と云う事にも成る。
”「色間」”が広いと云う事は、どれかが先んじて影響を受けて「色合い」が変わり易いと云う事に成る。

「強弱」がYMC:BGR=1:4であるが、この「色間」に付いては、1をCCカーブでは標準と成っているが、「学習能力」ではYMC:BGR=1:5位である。
従って、厄介な事に「人種や民族」によって、この「色間」は異なる。

例えば、赤(R)等の華やかな色を好む民族では、「学習能力」では、R>G>Bとして記憶されている。
この範囲が「CCカーブ」では1を標準としていても、学習の記憶では、Rを先頭にGでBとしてこの差を5程度の差を持つ様に学習記憶しているのである。
そうすると、目に映るものはRが先に強く印象に残る事に成る。
ことほど左様に、YMCは、「CCカーブ」では、標準の1であっても、「色間」はY>M>Cとして記憶されている。
ところが、1よりやや大きく1.5程度で、「学習記憶」されている事が多いのである。
そうすると、目に映るものとしての影響が先にYが影響を受ける。
「YMC」は、元々、この「色間」が低いので、影響は受け難いが、それでもYが受けると云う事に成る。

「学習能力」では次ぎの様に成る。
(CCカーブに対比して)

色間(縦の記憶)
YMC:BGR=1:5

色幅(横の記憶)
YMC:BGR=1:3

色E(縦横の記憶)
YMC:BGR=1:4

「人種 民族」等に依って異なる為に、均一には云えないが、「色間」では「YMC」は「BGR」に比べて論理的にも1/5程度しかない。

従って、「近くの中央物」にしても「遠くの中央物」にしても、”その影響は無い”とは云えないが少ない事が云える。
ただ、「YMCの関係」のその「色間」が、普通は、上からY>M>Cの順にある事が多い事から、「Y」に影響を受けている事に成る。

取り分け、日本人は、「YMCの混合色」を「薄い肌色(薄いピンク色)」を好む傾向がある事から、「Y」に必要以上に影響を受ける事はある意味では好ましくない。

唯、これは「薄い肌色」のベースに成る「M」と、「中間色のベース」と成る「C」を護らねばならない事からこの様な順序にしている。
「C」に影響を受けると、Cは[ベース自体」であることから、「修正」が「他の色合い」にも影響して仕舞う事が起こるので護っている。
「C」の影響は、質感に対して”「肌色系」のものでは無く成って仕舞う。
従って、「YMCの混合色」、つまり、この「縦の色合い」では”「中間色」”と云うが、この”「中間色」”には、”「単一として端的に目立つ」様”にしているのが、「Y」なのである。

その程度に依っては、「Y」は「薄い黄色系の日本」では、”「自然色」”に成るので、影響は受けても無い様に観えるのである。
”観える”と云うよりは、”そんなものだ”と思い込んでいる傾向が普通であり、「違和感」は余りない。
然し、影響を受けている事は受けているのだ。
それを知った上で撮影する事が必要である事に成る。

全体として、「白」を「極めて薄い肌色を含む白色」としている限り、「Y」の「自然色」には「薄いM」を求める「悩の習性」を持つ事に成る。

「景色」、即ち、「目に映る映像」を、”全体を観て、中央部を観て”、よく観察する事が必要で、これは「撮影の前のプランニング」である。

敢えて、距離感で云えば、「望遠レンズ域(普通レンズ域)」と成る。

ロ 周囲体が「近くの物」とする場合は、人間は、通常は「周囲体の色合い」を「単一的に観る」、又は、「具体的に観る」と云う傾向にある。(習性F)
この為に、次ぎの様に出る。

「遠くの中央の物」には、「可成りの色合い変化」で出る。
「近くの中央の物」には、「完全な色合い変化」で出る。

何れも写真性は極めて悪い。補正を掛けないと観られない程である。

これは、「習性F」が働いている以上は、逃れられない。
この場合は、どの様にして写真を撮るかは「充分な計画」が必要である。
周囲と中央をどの様に配置するかの「計画なし」では、花などの「綺麗な色合い」の真面な写真は撮れないだろう。
画面には大きく占めて来る被写体と成ることから”「目立ち」”から逃れられない。
下記の「CCカーブ」や「YMCの色間」等の知識を良く知らなくてはならない。

色間(縦の記憶)
YMC:BGR=1:5

色幅(横の記憶)
YMC:BGR=1:3

色E(縦横の記憶)
YMC:BGR=1:4

外部の「自然の映像」は、室内で上記の理論で整えたものと違い、好むと好まざるとも全て「脳の学習能力」に左右されるのである。
例えば、写真館は主に「グレー方式」(相関図の中央域を背景)で影響を無くして整えている。
この時の「グレーの程度」は、「コダック18%グレー」と定められている。
日本人には「やや濃いグレー」と観られていて、「仕上がり具合」が必然的に相関図の右側に来るので「BGRの色合い」を強くし、「西洋的な色合い」に出て仕舞うので、嫌われている。
そこで、日本では、主に、「YMC方式」を採用して元から「補色補完の影響」を無くそうとしているのである。
従って、相関図の完全な左域である事から、「日本人好みの柔らかい色合い」の「中間色」が出て来るし、「補色補完の影響」が少ない事から、綺麗さも表現される事に成る。
当然にこの時に、「極めて薄い肌色を含む白色」を求めているので、全体的にやや薄いマゼンタ傾向(M)には成る。

唯、この「YMC方式」で影響を無くして整えている場合は、ポスターなどの撮影である。
観衆の面前に晒すものである以上は、”衆目の批判を避けたい”とする心理が働いている。

テレビ画面では、相当に金を掛けている番組は、兎も角も、殆ど、フェリアーが出ている。
到底、綺麗と云う事は云えない。どちらかと云えば、”けばけばしい”であり、「色」より「人の印象に残る事」を目的としている傾向がある。
日本の「テレビ受像機」では,「高額の機器」は、「恣意的な映像」は別としても、この「CC相関図」をソフト化して修正を掛けてより「綺麗」に見せる様に開発されている。

距離感で云えば、「マクロレンズ域(普通レンズ域)」と成る。


ハ 周囲体が「中位の物」とする場合は、イ、又は、ロの何れかで観える傾向を持つ。(習性G)
傾向としては、「人間の目の視力(1)」に関わることから、何れも「ロの傾向」にある。
距離感で云えば、「普通レンズ域(マクロレンズでの撮影も含む域)」と成る。



もっと判り易く云うと、そもそも、「光の領域のYMC」が「学習機能」で起こらなければ、「補完ずれ」は起こらない理屈に成る。
もっと云うと、「学習機能」が無ければ「補完ずれ」は起こらない。
然し、如何せん左と右の脳の連携にはその様に動かない。必然的に「学習機能」は働く。
そもそも、「ミトコントリア」が、どうのこうの出来る事では無い。
これは「人間のミトコンドリア」だけが持ち得た範囲の「光までの範囲」のものの能力を持ち得て仕舞った事から起こる事なのである。
つまり、「人間のミトコンドリア」は「BGRの範囲」では終わらなかったのである。

これは、”何を意味するか”であるが、恐らくは、当初は、当然に「学習能力」の「低い時期」があった。
そして、先ずは進んだ初期段階はこの範囲であった筈である。
ところが、「陸」に上がる事が起こる事で、「光と色」の「強さと量の範囲」が格段と変化した事で、急激にこの「学習能力」が拡大した。
且つ、「水」を介しての「光」に対してであったが、「陸」では「直射光」をこの「目の機能」が受ける事に成った。
そこで、「光のYMCの領域」までを採り込んで仕舞った。

「学習能力」が完全に持つまでの間、「BGRの範囲」のみならず「光のYMCの領域」が入ってきて、「混乱状態」が「眼と右左の脳」に起こっていた時期があったと考えられる。
つまり、「目と右左の脳」に映し出される「視野」の「中央の色具合」は「自然色と異なる色具合」の現象が起こっていたと考えられる。
そもそも、その前に「白黒説」がある位である。

この証拠として、従って、「陸」に上がった動物の中でも、特に「節足動物」の様に「目の機能」の異なるものが生まれて、「原始の形」を遺したのではないかと考えられている。
取り分け、現在でも「複眼機能」を持つ生物は、「昆虫類」に多いのはこの事を説明している。
(現実に「白黒の色合い」を持った生物もあり多くは「原始生物」に多い。)
つまり、「節足動物」は、この「混乱状態」に対応した可能性があり、その「複眼機能」の働きは生物によってまちまちである。
この「複眼機能」には、普通は「単眼の集合体」を「複眼機能]としているが、その「単眼と複眼」の連携機能は殆ど別々の状況にある。
つまり、「陸」に上がった時の「対応性」が、その生物、取り分け、その「節足動物の生き方」に左右していた事から「複眼機能の違い」が起こっているのである。
千差万別と云って良い程であって、現在でも判ら無いところが多くある。
明らかに「生存に関する事変」が起こっている証拠である。
「人間」も当初は「複眼機能と原始脳」の生物であったし、現在もこの機能の原型を所有している。
ここで、この「節足動物」に関わらず、「人間」も、この”「複眼機能」”を「額の中央」にかなり長い期間持ち得ていた事が判っている。
現在も、この「複眼機能」が人間には存在しているのであり、未開の地の山岳民族にはこの機能を持ち合わせて使っている少数民族もある事が判って居る。
「未開の地」の人間でなくても、「複眼機能の動作」があるかどうかは判って居ないが、「幻覚症状を起こす精神疾患」の中には、この未だ持っているこの「原始脳」が動作している事が検査で判って居る。

この「複眼機能」は、上記の「三つの進化過程」の「進化A」から「進化B」に足るまで間、機能していたと考えられている。
「進化過程」のなかで「繋ぎの機能」(補助機能)であったとも考えられている。
この「複眼機能」の「重複使用の期間の影響」を受けていた事から、「習性A」から「習性F」までの事が脳に遺されてしまったと考えられる。

ところで、この「複眼機能」は、「前頭葉」の後ろで、「左右大脳の中央下」の「脳幹の上」で「原始脳の傍」にある。
「大脳」が発達し、「目の機能」の「学習能力」が発達した事で、その「使用の意味合い」が低下して、「左右の大脳」と「前頭葉」が大きく成った事で内側に追いやられた事が判っている。
現在でも完全に退化したと云う事では無く、「人種」に依っては、未だこの「複眼機能」(原始脳である為に予知能力として働く機能が遺されている)を働かせている。
このある「限定された地域」がある。

つまり、「陸」に上がる事に依って、当初は「直射光の悪影響」を、この「複眼機能」と「原始脳」で補完していたと考えられている。

研究に依って、その機能は「節足動物」の様なものでは無かったと考えられている。
人間としての生き方にあったと観られている。
それは、人間の場合は、「網膜」と「右脳の視葉」と「左の記憶脳」を発達させた「単眼機能」に特化している事から、主に「紫外線の左」と「赤外線の右」の「光のリスク」を「複眼機能」で補っていたと考えられている。

ところが、この「複眼機能」で補完していながら、”何故、面倒な「YMCの領域」を取り込んだのか”ははっきり判っていない。
無意味に取り込んだ事では無い筈である。
この世の生物と植物には、次ぎの様な二つの「進化の目的」があった。

一つは、「生存の防御本能」 敵からより安全に身を護る「進化目的(イ)」
二つは、「生存の食糧調達」 より適格に食糧調達する為の「進化目的(ロ)」

以上の二つに分けられる。

「YMCの領域」を敢えて取り込んでいる以上は、相当な生きる為の「リスク解消の理由」があった筈である。
「YMCの領域」は、「進化目的(イ)」では無い筈である。
「人間の敵」が全てこの「光領域の色合い」を持っていたとするならば「進化目的A」であったかも知れないが、そうでは無かった事は論を待つ値しない。

然し、この時期は、「進化A+進化B」の「学習能力」の後の話に成る。
従って、「進化目的(ロ)」であった事に成る。

実は、現在も、この「進化目的ロ」を遺して「基本機能」として持っている「節足動物」がある。
そして、それを「複眼機能のメイン機能」として持っているのである。
それは、「蝶類」と「蜂類」と「トンボ類」の全てに観られる機能である。

それぞれのものは僅か乍ら異なるが持つ「基本機能」は同じである。
そこで、典型的な類は「蝶類」である。

「蝶類」は、何と、完全に「光領域」の高エネルギの「紫外線域と赤外線域」までを観る事が出来る。

これは、”何故か”と云うと、次ぎの事にあった。
「BGRの色領域」の波長を持つ「花」の「付け根部分」に、実は、「紫外線」と「赤外線」を受け取れる「顎(ガク)」と云う部分がある。

そもそも、「花の構造」も次ぎの3つに分けられる。
1「雄しべ 雌しべ」
2「花弁 胚珠 顎」
3「花托 花柄」
以上から成り立っている。

この2の中の「胚珠 顎」の部分が、「紫外線の吸収」(進化目的ロ)と「赤外線の透過」(進化目的イ)で機能させている。
この「2の部分」に蜜を貯め込める部分がある。

「蝶」は、これを天候や光の強弱や遠近に関わらず、ここを適格に素早く観る事で「花の在処」を発見できる。
そして、その「花」の「糖質の蜜」(生きるに必要とする絶対的必須要素)を獲得できる様に進化しているのである。
これは蜂類もトンボ類もほぼ同じ進化をしている。

唯、「蜂」は「蝶」よりも、「赤外線」は元より「赤のR域の能力」さえも持っていないで、「緑のG域の能力」をより優先して持っている様に進化している。
実は、「蜂」には「赤外線の前後領域」には「大きなリスク」を持っているのである。

この様に、「複眼機能」を持っている「類」に依っても、その「進化目的ロ」の手段は違っている。

そうすると、人間の「YMCの領域」の獲得は、「進化目的ロ」の手段として獲得した事が判る。
つまり、「陸」に上がる事で、「BGRの領域」以上に「YMCの領域」の能力を「進化目的ロ」の為に絶対的に獲得する必要に迫られた事に成る。

どう云う事かと云うと、次ぎの様に成るだろう。
食料として「B(ブルー)野菜系類等」を認識する必要があるが、気候や天候や遠近に左右され難い「光領域側のY(イエロー)」を見通す事が出来得れば安定して「進化目的ロ」は達成される。
更に、「G(グリーン)森林系類等」を認識する必要があるが、同じ環境条件に左右されずに「光領域のM(マゼンタ)」を見通す事が出来得れば、そこには果物等の食糧(進化目的ロ)がより安定して獲得する事が出来得る。
同様に、「BやG」に比べて、その気候や天候や遠近等の環境条件に最も左右され難い「C(シアン)」を見通す事が出来得れば、絶対栄養素の「R(レッド) 花系類等(蜜 糖質類)」を蝶の様に確実に獲得する事が出来る。
更には、その「光領域側」の「C(シアン)」は「毒性」を顕示する「光」でもあり、「進化目的ロ」としては、他の二つに比べてこの見通す能力を持つ事は「絶対的な有利性」を有する事に成る。
より400ナノ附近としての「微細波長」であることからも、「BとG」に比べて比較に成らないほどの有利性が有る。

むしろ、この「C(シアン)」だけでも良いとも考えられる。
何故ならば、この「C(シアン:CN)」は、この世の「全ての物質」の「構成要素(C)(N)」に通じていて、この”「色合い」”を見通す事が強く出来得れば、他の「BやG」も見通す事に結び付くのである。
「生物の構成要素」の炭素(C)と窒素(N)から構成される「シアン:CN」はこの意味を持っている。
現実に、従って、上記した様に、「蝶」は、この「シアン領域」を通り越して「赤外線」を見通す事が出来るのはここから来ている。

この「二つの要素(炭素と窒素)」を見通す事が出来得れば、「生きる糧」を獲得できる事を保障されている事に成る所以である。
「蝶」は「進化目的ロ」で、究極の、何と”「赤外線」”までを「透視する能力」を「複眼機能」を使って獲得する進化を遂げたのである。
「進化目的ロ」の「典型的見本」とされているのである。

簡単に例を挙げると、銀杏の葉の黄葉(Y)は虫は食べない。
何故なのかである。観て判ると云う事である。
つまり、この(Y)のベースには(C)を強く有しているからで、虫はこれを透視しているのである。
未だある。「紫陽花の7月頃の葉」は虫は元より動物は愚か人間も「食せず」と云い伝えられている。
現実に人間も強力な腹痛を起こし危険な状態に至る。
大昔は、紫陽花の葉や銀杏の葉は、細菌が着かない事から食器として用いられたものであるし、神仏に捧げる食器としても用いられていました。

これは、「7月の葉」の真緑葉(G)のベースにはこの(C)を強く有している事から、虫はこれを透視しているからである。
最後の事例として、「キンポウ草」の(Y)の花は、毒性が強く虫は花のみならず葉も食さない。
これも同様に(Y)のベースには(C)を強く有している事に依る。
虫は複眼などの器官を発達させてこれを透視している事に成る。

これらの葉や花を写真にして、この(Y)や(G)の写真から(Cシアン)を抜いて行くと如何に「Cシアン」に左右されているかは良く判る。

須らく、論じている「写真性」に於いても、この「Cシアンの有り様」を確認する事で全ての「写真性の綺麗」と云う概念を見抜く事が出来るのです。
且つ、被写体にこれを構成出来得れば、「綺麗」と云う事の賛同は確実に得られる。

如何に被写体から”「Cシアンの有り様」”を見抜くか、或は、構成するかにかかっていると云っても過言では無い。
その様に、人間であれば、「記憶の領域」の「学習能力」にはインプットされてしまっている事に成る。
これは何人も逃れる事の出来ない「無意識領域のシアン概念」である。

但し、然し、この(YMCの領域)の「認識能力」や「透視能力」は極めて退化しているし、「芸術性」とは異なる事は云うまでもない。
逆に云えば、「芸術性」の被写体を作るとすれば、「シアン概念」をコントロールする事に成る。
況や、これは「進化A+進化B」の「学習能力」が如何に低下したかを意味する。
「学習能力の低下」は、無意識中の事である事から、所謂、退化である。
「進化目的ロの状況変化」で起こる「左脳の使わない情報」は「退化」へと進む所以である。

次ぎに、事程左様に、人間の”「複眼機能」”と”「YMCの領域(左脳の学習能力)」”の問題である。
この「二つの同じような機能」が存在する事は、重複期は別としても、完成期には「進化」からあり得ない。
そうすると、「左脳の学習能力」の”「退化と進化」”が人間に起こっていた事が判る。

「人間」に執っては、この”「退化と進化」”が起こったと云う事は、”「進化目的ロ」に何かが起こった事”を意味している事に成る。
では、それを解明するには、「陸に上がった時期」が、”何時頃であったのか”を読み取る必要がある。
ところが、この定説はない。「陸」に上ってからの何時頃に、この「YMCの領域]の「認識能力」を取得したのかも判らない。
然し、凡その事は判る。

先ず、上記した様に、「人間」には「蝶」と同じ様に「複眼機能」があった事は判っている。
「蝶]と同じ機能で働いていたかは別であるが、あった事、否、ある事は事実である。
元より「YMCの領域」を認識できるのであれば、そもそも論理的には「複眼機能」は不要である。
「複眼機能」が先で、「YMCの領域」が後であった事は「複眼機能」が退化している事実から確実である。

そうすると、”「YMCの領域」に進化し、「複眼機能」が退化した時期は何時か”と云う事に成る。
それまで、「進化目的ロ」の為に、「複眼機能」を作り上げて使っていた。
ところが、これは「退化」と云う意味から、論理的には、その「複眼機能」が「進化目的ロ」の為には徐々に役に立たなく成った事を意味する。

では、”何故、役立たなくなったのか”と云う事に成る。
それまでは、この「複眼機能」を使って「進化目的ロ」で「糧」を得ていた。
然し、この「糧」がこの「複眼機能」で得られにくく成った事に成る。

それは何故かである。
これは、上記した「進化目的」のもう一つの”「進化目的イ」”に”「何等かの変化」”を起こした事を意味する。
この”「何等かの変化」とは何か”である。

上陸後、次ぎの様な事が起こったと考えられる。
先ずは、「同じ様な種類の糧」を獲得する能力の持った「生命体」が多く出て来た事を意味する。
或は、「同じ様な種類の糧」が「気候変動等の要因」で獲得が難しく成った事も意味する。
或は、「同じ様な種類の糧」に「何らかの異常」が起こった事も意味する。

恐らくは、この原因が単一では無かった事が判る。

何故ならば、次ぎの理由が挙げられる。

「光の領域」の「YMCの領域」と云う「特殊な領域」に進化させた事。
「特殊な領域」と云う事から、単一では無く「相当な事」が起こっていた事を意味する事。
「通常の右脳」だけでは無く、「左脳」をも連動させ動作させてた事。
「連動と動作」だけでは無く、「記憶データ」を貯め、且つ、「学習機能」を作り上げた事。

これ等の事から、全ての事(「相当な事」)が起こったと考えられる。

では、”何故、「特殊な領域」に進化させたのか”と云う根拠、或は、理由である。
それは、「確実な根拠」が自然界に原理として存在した。
そもそも、人間にとって生命を維持するに「絶対的な要素」として必要なのは「糖質」である。

「進化目的イ」と「進化目的ロ」を獲得するには、「右脳」と「左脳」をより働かせる事に成ることから「必要糖質量」は大きく成る。
そうすると、この「右左脳を働かせるエネルギー源」が必要と成る。
生体的に左右に関わらず「脳」を働かせるには、「糖質」が必要である。
もっと云えば、この「糖質」を構成するNa(ナトリュウム)が必要と成る。
この「Naイオン(ナトリュウム)」は、「人間の脳」を動かす「神経細胞の中継点(シナプス)」にこの「Naイオン」を瞬時に飛散させて、その「Naイオン」を媒介して「電子信号」を送る仕組みに成っている。

そもそも、「脳」は「地球の電荷力」に依って、「人の頭部」の先端にある「脳幹」に「身長」に相当する「電位」を持たせ、それを「電極」にして、その電極から発する電子信号に依って「神経細胞」を刺激して「脳」を働かせる仕組みに成っている。

従って、この「Naイオン」が無ければ脳は動かない。
「脳」がより動くと云う事は、「糖質」(肉などの脂肪から分解される糖質 ケトン脂肪は適切)が、つまり、「Naイオン」が必要と成るのである。

「右脳のYMCの領域の認識」と「左脳の学習機能の蓄積」を起こすには、「絶対的」により「生体」を維持する事のみならず、「Naイオン」をより多く要求される事に成る。

他の動物よりも著しい「脳の拡大」を起こした人間にとっては、比較に成らないほどの「糖質」を要求される事に成る。
故に、「Naイオン」を絶対的に獲得しなければならない。
これには、直接に糖質と成っている「蜜の在処」を、他の動物などの生体以上に、どんな環境下に於いてもより速くより確実により多く「見抜く力(透視力)」を要求される事に成る。

「肉質」などの分解から得られる「脂肪分 ケトン体」を分解して糖質に変えて「Naイオン」を獲得する事では「脳の糖質」は獲得できるが、これには時間が掛かる。
「ケトン体の糖質獲得」は、「脳の働き」は遅れて「学習能力」の様な「素早い脳の働き」を賄う事は出来ない。
又は、ミネラルから「Naイオン」を獲得する方法もあるがこれも同様の理屈が働く。
この「肉質の脂肪」と「ミネラル」からの「Naイオン」の獲得は、「進化目的イ」に直接左右する事でも「獲得のリスク」は大き過ぎる。
且つ、「脳」に必要としている「速度と量」には、「進化目的イ」と「進化目的ロ」の「リスク環境」は「原始と現在」と違い「適応力」と云う点ては無理であった。

従って、この「蜜の在処」には、「進化目的ロ」は「絶対的な条件」であった。
ところが”「YMCの領域」”でなくては成せ得ない理由の絶対的条件がまたもや存在した。

それは、殆ど「蜜の在処」と成る「花の付け根」に「紫外線域を吸収させる部分」が在る。
これを適格にどんな場合でも確認でき得れば確実に「蜜」に在り付ける。
この「花の付け根部分」は、「紫外線」を「吸収させる事」では、「赤外線」も当然に「透過させる事」に成る。
結果として、その「付け根部位の色合い」は、必然的に「YMCの色合い」を呈する論理に成る。
この「部位のYMCの色合い」を逸早く確認出来れば、「他の生体」より先んじて「蜜」に在り付ける事に成る。
他の生体は、この能力を持ち得ていなければ、絶対的に有利である。
他の生体のみならず、動物、哺乳動物にも観られない機能であるのだ。
「YMC」は「人類」だけに観られる機能である。

この「糧」を得る為に態々、「危険な地域」に出て「命」を落とす危険性も低下する事に成る。
「進化目的イ」の解決にも成る。
恐らくは当初はこの目的にあったと観られる。
何故ならば、この能力を獲得出来る事で、「花の付け根部位の発見」と「蜜の在処」のみならず、「果実の在処」も合わせて発見出来る。
その「果実」に集まる小動物も狩猟する事が出来る等の「生きるに必要とする糧」をも獲得できる事に成る。
「進化目的イ」「進化目的ロ」の何れに執っても有利である。

何故、では,この「花の付け根の部位」に「赤外線」と「紫外線」の吸収し得る部分が在るのかと云う事に成る。
それは、何れの生体に執っても例外なくその「振動磁波のエネルギー」から受ける「紫外線のリスク」を持っているからである。
無制限に受ける「紫外線」は、「花などの生体」を破壊させる事にも成り、「花弁を持つ植物」などの防御反応に働いていた。
「赤外線」は、生体に必ずしも悪い事では無く、良い事もあるが、波長が短い事から受け過ぎると「熱」を必要以上に貯め込む事に成り得る。
従って、ある程度に透過させる様に働くが、これは「現在の環境」に於いて論じられる事であって、原始では、水中から陸に上がった事で、”「熱リスク」”を強く生体は持っていたと考えられる。
それは、空気中の「酸素量と粉塵量」に大きく影響していた事が判っている。
「酸素量」は多く、「粉塵量」は極めて少ない環境であった。

「酸素量」は、森林に入ると”冷たくヒンヤリする”のは、科学的に植物が出す酸素が酸化反応に依って熱を奪う事から「空気を冷やす能力」を強く持っている。
ところが「粉塵量」が低いと云う事は、振動磁波が小さいことから「赤外線」は透過して来る。
従って、この「赤外線」は、この多い「酸素量」に衝突してより高い熱を発するし、粉塵も少なければ衝突する事で消滅せずに透過してくることから「生体」に当たるとより高い熱を発する。

現在と異なり、水中と陸上との違いもあり、「熱」に対する感度はより敏感でもあり、「冷却性」のある森林の無いところでは、「糧の獲得」の為に「長期間の滞在」は「進化目的イ」も含めて不可能に近い状況であった事が云える。
これは「生体の生存環境」にも大きく影響していたのである。
その為には、多くの「陸上の生体」は「赤外線」を受けると透過させる様に働いていた。
その証拠がある。

「蝶類]は「赤外線」をむしろ利用して受け入れ、逆に「蜂類」は、この「赤外線」のみならず「赤領域」までも排除しているのである。
これは、「蜂の糧」の「蜜」に起因している。
「蜂類」は「蜜」と云う「限定した糧」であった事からより、この唯一の「糧の蜜」を獲得するには、この「赤外線に依る熱(リスク)」を嫌った事にある。
「蜂類の生態」はこの「熱」を最も嫌うのはこの事から来ている。
その「蜂類の生きられる熱の限界」は45度である。

「糖質」は、生体の中で直ぐに熱に代わるが、これを唯一の糧とする以上は、「他からの熱」、即ち「赤外線の熱」を必然的に排除しなければ「体温」は上昇し維持し得ない。
「蜂の巣箱」を観れば、羽で巣箱の中を冷やしている事からも一目瞭然であり、飛来中の羽の羽搏きにて「熱(赤外線に依る輻射熱)]を必要以上に持たない様にしている。

ところが「蝶類」は、逆に「赤外線」も観えているのは、特段に巣を持たない事と、その「羽」とその「羽の銀紛」にある。
「赤外線」を直接体に当たらない様に反射させてリスクを防いでいるのである。
「赤外線」を認識できる事から来る「糧の獲得」のメリットが大きくリスクは低く成る。

この「蜂蝶類]に付いては、兎も角も、「人類」はこのリスクの大きく成る領域を避けて、「YMCの領域の範囲」で留めた事に成る。
逆説的に論じるとすれば、もし、「紫外線」や「赤外線」までも「進化目的イ」+「進化目的ロ」の為に必要とした場合は、蜂類や蝶類の様な機能を持たなくてはなら無く成っていた事を物語る。

当然に、「複眼機能」も未だ退化させずに額中央に持ち得ていた事も充分に云える。
従って、「人類の形」ももっと変わっていて、場合に依っては「生存の環境条件の地域さ」で、「人種」でも違っていた事が考えられる。
現在でも、地域に依っては皮膚の色や頭形なども違っているくらいであるから、「体の皮膚機能」や「手足などの形」も充分に変わっていたことも云える。

然し、逆説でその様に成っていない事は「人類」は「紫外線 赤外線」は排除した事が云える。
然し、危険領域である事に変わりはないが、「進化目的ロ」の[糧」の為には、その「直前の光領域(YMCの領域)」を獲得する様に働いた事に成る。
可成り、「危険領域の光領域」を獲得した事は、「生存」に可成り逼迫していた事が云える。

筆者は、「危険領域の光領域」の「YMCの領域」を獲得出来た背景には、この”「複眼機能の存在」”が補完していた事があったと観ている。

唯、この人類の「複眼機能」のそれは「他の生体」の持つ「複眼機能」とは違っていたと考えられている。
元々、この「現在様」であったのか、変えたのかは判らない。
この「複眼機能」の持つ生体は、同一では無く千差万別と云われている。
この事から、「現在様」に変えた事も云えるが、筆者は「現在様の元々説」を採っている。

「人類」は、主に、「現在様]の”「予知能力」”が主であったと考えられている。

現在も遺されている「原始脳の機能」から観て、「原始脳」に近い”「予知」”に依って「人の感覚」を研ぎ澄まして、「糧の在処」を見定めていた事が云えるのである。

恐らくは、「複眼機能」が、この”「予知能力」だけ”であったとするには、「進化目的イ」と「進化目的ロ」が人類には到底に維持出来なくなっていた事が云える。

筆者は、「小さい人類」、或は、それに近い生体であった頃の「進化目的イ」と[進化目的ロ」を果たすには「予知能力」だけでは無理であって、”他にも在った”と考えている。
そもそも、人類には、主体は「原始脳」があった事から、「複眼機能」と連携していた事は「予知能力」であったと考えるが、ある程度の”「光の透視能力」も在った”と考えている。
この「光の透視能力」は、「予知能力」にも通ずるが、これを「予知」するには「何かの媒体」が必ず必要である。
この”「媒体」”が「光」或は「色」であったと観られる。
主に「BGRの色域」であったと考えられる。

つまり、この”「色の領域」をぎりぎりの領域まで広げる進化を遂げた”とする説と考えられる。
それが結果として、”「YMCの領域」”であった。
そして、それをより正しく適格に判断するには、”「学習能力」が要求された”と云う事に成る。
結局は、「人類の複眼機能」は、「色」で全て認識し予知していた事の説に成る。

「複眼機能」は、この事から「予知能力」であったとする説は納得出来る。
「光領域」の「YMCの領域」を「光]では無く、「学習能力」によって、”「YMC(イエロ マゼンタ シアン」と云う色域”に変換して獲得したと考えるのが、「進化A」+「進化B」から無理なく論理的と成る。

この「複眼機能」に頼る事無く、ある程度の「YMCの領域」の「学習能力」が達成された。
この事から、「複眼機能の予知能力」は、併用しながら退化して行ったと考えられる。

当然に、「学習能力の拡大」に伴いそれを処理する為に、「右脳」と「左脳」と連動する事に依って「色に関する感情感覚」と「生存の糧」をより確実に得られ多感情感覚が「前頭葉の脳」をも拡大させた。
その「情報量」より細胞が増大して拡大化した事に成る。

左右と前から三つの脳が拡大した事に伴い、額中央の複眼機能は中央部に押しやられ、後頭部の運動脳とに挟まれる位置に移動して次第に退化した事に成ったのである。

この「退化」は、「人種の生存の環境条件での差違い」に依って、異なり、「学習能力の差違」とも成って起った事に成る。

そうすると、「人種」に依って現在も「差違」がある事は、「複眼機能の退化」><「学習能力の進化」の過程にあるとも云える。

余談であるが、「Y(イエロ)」は、”黄色”と表現するも適格性には無理は少くない事は兎も角も、より右の光領域に近づく「M(マゼンタ) C(シアン)」は「色の表現」は難しいのはこの事からも判る。
「Y」は「薄い黄色ポイ」と成るのだが、人種、民族によっては、BGRの色の領域の「7色」の左から「3番目にある黄色」と見分けが付かない。
”「光る黄色」”とも表現する。
「Mのマゼンタ」は ”紫ポイ”と云うが「紫」では無い。
”ポイ”である。「薄い紫色ポイ」となるだろう。
日本人は位の最上位に置き「紫系統」が好きである故に、「共通の理解」がある。

唯、「M」に関しては、流石、”「光る紫」”は少く無い。
「紫」自身に「輝き性」が無く、これに”「光る」”は無理と考えられるが、”「輝く薄紫」”と表現する民族もある。
「光る」も「輝く」も何が違うと思うが、違うらしい。

然し、ところが、特に、「C(シアン)」は、”シアン”と簡単に表現するが、”ポイ”は無く、「適格表現」の色は無く無理である。
無理に云えば、”薄い水色ポイ”と成るが、決して「薄い水色」では無い。
人によって、「人種、民族」に依っては、”薄い水色ポイ”は、理解されず ”「光る白」”とも云う。
日本人には理解されないが、”「光る白」”の方が正しいかも知れない。

何故ならば、これらの「YMC」をCPで色補正する時に、「薄黄色ポイ」「薄紫色ポイ」「薄水色ポイ」で画面を観て「自然の色合い」に戻そうとすると、日本人はこの”ポイ”で色調節するのが上手いが、シアンに関しては、”「光る白」”は比較的適格性が有る事は否めない。

それには、次ぎの根拠が有る。
この様に、「科学用語」のそのものと同じ「Cシアン CN」に関しては、人種に依って誤解が起こらない様に”シアン”と呼ぶのが普通である。
須らく、猛毒の「NaCN」は「シアン化ナトリュウム」である。
「Y」「M」と「C]は異なっている。
事実、異なっているのである。
「C」は「BGRの色の領域」を含む全ての「色合いの基本」と成る。
この”「C」で「色」は何とでも成る。””印象は一度に変わる。”と云われる様に「加色 減色」の何れに於いてでも一変する。

「M」「Y」は確かにある方向に印象を持って行くが全体を変えるには至らない。
この”「印象」”は大きく好みに左右してくるので、使うには注意が必要である。
然し、「C」は違う。この存在を見逃したら「綺麗」は難しい。

因みに、良く画面には、どうしても「アスファルト道路」が大きく占めて来る事が多い。
この「アスファルト道路」の「色合い」が悪いと「全体の映像」の「印象」は変わる。
勿論、「綺麗」は大きく損なう事が多い。実際と違う「色合い」に成っている場合が多い。

これは、上記した様に、「周囲の色合い」がこの道路に「補完」が働き、持つ「YMC」に補色が掛かっているのである。
実に多い事例である。
「全体から来る加色」と「YMCの減色」が起こった事に成る。
この事例は実に起こり易い。
従って、「加色」の色を引き、「減色」の色を加える作業が必要に成る。
そうで無ければ、「綺麗」は不可能で、撮る前に、この補完と補色を良く観乍らアングルを計画する必要がある。
画面にアスファルト道路を入れる場合は注意が必要であり、Mが左右してくる。

これで、「YMCの領域」は「学習能力」に依って「左の記憶脳」が補完している事が明らかに判る。
これが、”光と色の中間色”と呼ばれる所以である。
故に、「脳の学習機能」の「能力限界」にある為に、本論のテーマの問題を引き起こすのである。

従って、これは「人類」にしか見られない事から、その時期は、「YMCの領域」と「学習能力」への「完全進化と特化」は、「人類に進化した時」から起こり始めた事に成る。
その人類でも「学習能力の未了」の「民族差」もある事からも云える。
そして、”その目的は何か”という上記の疑問は、答えは”「糧」”であって、”「花の蜜」”にあった事に成る。

この「学習能力」に付いて、現在も進化しているので更に論じる。

従って、「人間の脳での解決策」が必要である。
論理的にこれを解決するには、「脳」が起こす論理的な問題の解決する方法を、人間が考え出して、これを「左脳」に教えて記憶させる事で解決する事が出来る筈である。
あくまでも、「右左の脳の論理性」から来たものであるから、解決し得る事は判る。
それには、次ぎの「二つの方法」が考えられる事に成る。
この「二つの方法」を「左脳」に教える事に成る。
つまり、これが「人間工学」、或は、「光工学」で云う「フェリャー理論」である。

さて、この「フェリャー理論」をより判り易くより「脳の進化」を促す為に解く。
「進化目的イ」(生存の敵)や「進化目的ロ」(生存の糧)でも無い、新しい「進化目的ハ」として説く事に成る。
「進化目的ハ」は、「左脳の学習能力」の「情報の錯誤」として捉えられる事から、この「錯誤」を起こさないにする「より高い学習能力の脳の進化」と云える。
所謂、”「生存の進化」”と云える。
解決方法は次ぎの二つに成るだろう。

色間(縦の記憶)
YMC:BGR=1:5

色幅(横の記憶)
YMC:BGR=1:3

色E(縦横の記憶)
YMC:BGR=1:4

上記した以上の学習能力の論理式から、次ぎの方法が導き出される。

解決方法 A
一つは、「Y−M−C」の「光と色の領域」にある範囲に「背景体」を置き、その真ん中に「被写体」を置けば、「光と色の右左の脳の論理的補完現象」を解決する事に成る。

日本は四季に依って背景体が大きく変化する。
下記の「解決方法 B」は室内での事と成り、費用も掛かる事から現実的では無い。
専門のスタジオでの事と成る。

然し、この方法では、画面の要所要所にこの「YMCの色合い」のものを引き込むアングルを考えるなどすれば簡単に解決する。
それは景色であろうと、YMCの樹木や花であろうと、人物の服であろうと、白系の建物であろうと、背景体の中に一つ置くだけでも簡単に軽減される。
更に、これに遠近の差がつけられれば、より効果的である。

日本は、秋は紅葉で「YMCの色合い]が山全体にいっぱいに成るし、春も趣の違う「YMCの色合い」を示す。
写真が綺麗に取れるのは木々や花々だけでは無く、この理論に基づいていた環境条件であるのである。


解決方法 B
「光の集合体」は「白」、「色の集合体」は「黒」である。
とすると、この「光と色の補完現象」が「起こし難い色の範囲」に「背景体」を置けば良い事の理屈に成る。

「光と色の中間色」、即ち、YMCに対して、右側に進んだ「色と色の中間色」、即ち、「白と黒の中間色」とは”「灰色」”と云う事に成る。
つまり、上記の「論理式の2附近」に置くことで影響の少ない「灰色」は現出される事に成る。

「学習能力」が覚えている「CCカーブ」を再現してその「灰色」を作り出す事は簡単である。
これで、「完全」とは云えないが、「論理的補完現象」を最低限に解決する事に成る。
当然に、未だ、脳では起こらない。

「解決方法 B」の”「完全で無い」”と云う事はどの様な事かと云う事に成る。
つまり、”「灰色」とは、何を以って「灰色」とするか”に関わって来る。
それは「脳」に関わる「良悪を決めにくい人間の主観領域」であるからで、「白ポイ灰色、黒ポイ灰色」が起こるからである。
これは「主観での範囲」であって「国民性」に依って大きく異なる。
アジア人は、特に日本人は、「白ポイ灰色」を好む。
然し、西半球の人は「黒ポイ灰色」を好む。
そこで、「BGR(三つの原色)」の「色の領域」の「灰色とする範囲」の左(白ー黒)から「18%のポイント KODAC」を万国共通で「灰色」の中心とすると決めた。
(論理式では2附近)

この「灰色の中心」(18%グレー)には、「重要な意味」を持っていて「色の趣向」を決める「重要な要素」と成る。
「18%グレー」の右の「黒ポイ灰色」をより好む人は、従って「7色」の「赤色側」の「色合い」を好む事に成る。
つまり、そうすると、日本人は当然に「白ポイ灰色」をより好むので、「7色」の「紫色側」の「色合い」を好む事に成る。
だから、日本では「紫」は「最高位の色」と古来から定められているのである。
どちらかと云えば、「日本人」は「紫色の範囲」の薄めの「肌色」を好む傾向にある。
つまり、「綺麗」と云う難しい主観は、論理的にはこの領域で構成された「色合いの構図」のものと成る。

「綺麗」等に始まる「難しい主観」を色論理的に論理づけた事に成る。
この「色理論的情報」が好む好まざるに関わらず「右と左の脳の相関記憶情報」として持っている事に成る。
人は、取り分け日本人は持っている。
それが「色理論情報の理論」が人種に依ってその”「起点」”がずれている事を意味する。

この「色理論情報の理論」を「一つの図表」に表したのが、”「CCカーブ」”と云うもので表現されるが、当然に、これをCP化しようとすると、「CCカーブ」は同じにしても、その「カーブの起点」が人種に依って異なる。
つまり、簡単に云うと、「日本人バージョン」「アメリカ人バージョン」と云う事が生まれる。
従って、「人種」に依っては、人間であったとしても「目に起こる右脳と網膜の機能」には「強弱」の差と云う事は起こるが、「左脳の補完記憶情報」は、”「遺伝子情報」として入力されている事が少ない”と云う事も起こり得る。
場合に依っては、”「色理論情報の理論」が殆ど無い”と云う事も起こり得る。
その意味では、日本人は段突に進化している事に成る。
つまり、人類として進化している事に成る。
「学習能力の情報量」が多いと云える事に成る。

ここで、ところがそうすると、日本人は「解決方法 B」では無くて、主に「解決方法 A」での解決を好む事に成る。
「色合いの多い事」が原因と観られる。
日本人に執っては、共通して例外なく「Y−M−C」の「光の融合色」は、概して「薄い肌色系」なのである。
日本人は、自らの「薄い肌色系」を無意識に好む。
「極めて薄いピンク色」を好む。
好むと云うよりは最早、好みの良し悪しの判断基準とするばかりである。

もし、祖先と両親が日本人でありながら、「濃いピンク色」を好む場合は、それは「有意識」の中の趣向域である。
「光工学」からすると「拘りの趣向」と捉えられる。又、別の範疇の論議と成る。

最近は、欧米の影響を受けこの傾向が強く成ったと云われているが、「学習能力の情報域」までは到達していないと考えられ、米国等に感化された「拘りの趣向」と捉えられている。
「拘り性」が強いかどうかは「芸術性と個性」の「別の問題」である。
この「芸術性の部分」は排除して更に論じる。

ここで、”例外が起こらない”と云うのは、「無意識中の学習能力の脳」に支配されている事から起こっている。

論理的に「光領域と色領域」の中間にある”「光領域の色」”と云われる「Y−M−C」を捉えて「写真にするか」に関わって来る事に成る。
「写真」で無くても、「景色」でも、「絵」でも同じでこの「趣向」が必ず働く。
つまり、「無意識」の「右左の連携した脳」が働くのである。
あくまでも上記した様に逃れえない「遺伝子」にインプットされた「記憶の無意識の脳反応」である。

後は、その人の”「拘り」”から来る「有意識の趣向」の範囲で評価が起こる。

さて、「目から受け取る情報」を左右させる事柄は、この上記した原理機能に基づくものである。

この「原理機能」を打ち破るだけの「芸術性」を発揮しうる才能を持ち得ていれば論外である。
依って、この趣向は、「無意識の脳反応の趣向」を好むのか、将又、「有意識の趣向の範囲」を好むかに依って異なる。
写真とすれば、景色とすれば、絵とすればどちらを好むかによって決まる事に成る。

ここでは、”「綺麗」”とは、「無意識の脳反応」の「美意識」を説いている。
依って、これらの反映は、「背景体の範囲」と「被写体の範囲」の「二つの要素」の置き方如何(何れも量と位置に左右する関係)に関わって来る事に成る。

これは「人間の目の機能」であるが、例えば、「蝶」は全く異なっている。
多くの「単眼」が集まって「複眼機能」を働かしている。
然し、観えている範囲は、「6つの色域」と「赤外線」と「紫外線」までの完全に「光の領域」までも観えている。
上記した様に、これは「光を集める能力」に対応して発達した機能で、「花の付け根」の「底の部分」に「蜜庖の部分」に紫外線を吸収する部分がある。

これを確実に適格に早く安全に見分ける為に発達した「目の能力」である。
「赤外線」が観える事は、「花の色」をより強く遠くから見極める能力から発達したものと考えられている。

「蝶類」の「6色」は、より「赤色」に近い方に「見極め能力」が必要な事から「紫」を無くしている。
然し、人間の様に「YMCの認識能力」は無い様である。
「目を持つ生命体」は、全て人間と同じでは無く、その生命体の生きるに必要とする能力に限定されている。

同じ類の「蝶」と「蛾」でも異なり、同じ「複眼機能の持つ「蜂類」は「赤」は観えないし「緑」だけで全てを認識しているのである。

この様に、生命体の「目の発生原因」が、「光合成を行う葉緑素体」の「細胞への混入」から特別に「目の進化」を興した事から、個々にその生きる為に必要とする異なる機能の範囲を限定した事から特別の「進化の差」を作り上げたのである。

人間の場合は、他の動物の「目の機能」には無い”「綺麗」”と云う様な「主観の機能」(前頭葉)が融合しているのである。

これは、「目から得た情報」は、「左の脳」の「色に関する論理的情報」を蓄積して「視神経」を媒介として「右脳」の「視葉」と云う「脳領域」を「進化目的イ」と「進化目的ロ」に依って構築したのである。
ここに、この左脳の”「論理的情報のズレ」”を興した事に成る。

これが上記した様に同じ人間でもその能力に「人間差」が出た事に成る。

ところが上記した様に、この「人類」でも、持ち得ていないと云える程に「人種」に依っても差違がある。
それは、”「退化」”なのか、”「不進化」”なのかの議論が起こる。
恐らくは、「人類」としては、当初は「基本」は持ち得ていたが、生活環境の差違により「人種」に依ってその「学習能力の未了」で必要以上に進化しなかったと観られる。
その「地域性」を観ると、「自然環境」と「生活環境」に大きく左右されている事が判る。
我々日本人は、他の民族以上に「美的感覚」が優れているのは、この「YMCの領域の学習能力」が高かった事に依ると考えられる。

現在では、「進化目的イ」の「敵」と「進化目的ロ」の「糧」からの何れのものでも無く成っているが、「YMCの領域の学習能力」は、退化させる事無く、むしろ現在もより進化を遂げているのである。

最近、江戸時代の「浮世絵の評価」が外国人に高まっているのは、この「YMCの領域の色合い」を「奇異の感覚」で観られている事に外ならず、「YMCの領域の学習能力」の高さを評価されている所以でもある。

普通であるのなら、上記した様に、主に「進化目的ロの糧」から起因している為に、「退化の憂き目」にある筈の「YMCの領域の色合い」を未だ高く持ち続けている所以でもある。

筆者は、上記の理論より「日本食ブーム」も「健康食」のみならず、この「YMCの領域の学習能力」の「健康色」の「美的感覚」にもあると観ている。

「目と脳」は、「補完と補色の機能」を「学習能力」によって行うが、写真などの「機器映像」にはこの学習能力が無い為に「補完と補色」が付き物である。
これと同じ様に、「学習能力の補完ずれや補色ずれ」がある事からも未だ成し得ていない。
何時かは成し得る事は考えられる。
但し、この時は、カメラは人間の脳を超えた事に成る。
「人間の脳」が考えて作った「カメラの脳」は、論理的には「人間脳」>「カメラ脳」で超えるか疑問である。

「人間脳」=<「カメラ脳」が起こさせると云う事は、その前に、「人間脳」は「進化拡大した理屈」と成る。
「学習能力の補完ずれや補色ずれ」は論理的に難しいと考えられるが、「機会映像」は「論理的ずれ」が判っている以上はこれをソフト化出来得れば超える事は可能で有る。

可成り大きなものとは成ると考えられるが、「チップのメモリー容量」が発達すればソフト化は可能で有る。
然し、「PCの専用アプリケーション」で「デジタル画像の修正編成」が可能と成っている事からその方向に行くかは疑問である。

兎にも角にも、「目の機能」が、他の生物が持つ「光合成」からのもので構築されている以上は、「学習能力の補完と補色のずれ」は永久に起こる。

「左脳」は、次第に「論理ずれ」である以上は、この「学習能力」の「ずれ」を改善して行くことは間違いは無い。
然し、「目と脳の代理手段の映像機器」の場合は、恣意的にその論理性を理解して修正して行く限りはあり得ない。

芸術では無い「綺麗な映像」は、この修正に至るまでの「フェリアー理論の知識」をマスターすること以外には無いのである。

依って、ここに基礎的な事を論じた。後は「フェリーア理論図」を「読み取る事」にあろう。
なかなか「図の都度の解析」は、理系に秀でる人の範疇に入る事も心配はする。
文系はご質問頂ければ、可能な範囲で応じたい。