青木氏氏 研究室
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  [No.386] 「青木氏の伝統 61」−「青木氏の歴史観−34」
     投稿者:副管理人   投稿日:1970/01/01(Thu) 09:00:01

> 「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」の末尾
>
この「山県昌景の判断ミス」とは相対的であるのだ。
> これが「青木氏族」に遺した「始祖の施基皇子の教訓」の「青木氏の氏是」の意味する処なのである。
> 躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」では無く、其の侭に「山県軍の別動隊の追尾」や「武田軍の本隊」に向けてこの「銃口」を向けていた場合は、間違いなく「歴史」に名を遺し、周囲から警戒されて其の侭では済まなかった筈で、泥沼化していた事は間違いは無いのだ。
> これは「青木氏の氏是」の「発祥以来の伝統」に反するのだ。

「青木氏の伝統 61」−「青木氏の歴史観−34」

(注釈 「三河戦記の詳細な検証」
「三河の事に関わる戦記」には主に五つある。
この「三河戦記A」や「甲斐戦記B」から総合的に読み取る事が出来る「額田青木氏に関わる事柄」を拾い出して、この「二つの事に含まれる脚色部分」を外して、そこからその更に“「細かい処」”を検証して読み解いてみる。所謂、詳細経緯である。
そうすると「言葉の使いまわし」等から意外に“普通なら見逃している情報”が潜んでいる事が多く、「青木氏の歴史観・無脚色」と突き合わせて観ると判る事が出て来るのだ。
そこを突いて観る。
取り分け、「三河戦記A」には「脚色・矛盾」が実に多いのだ。
そうすると、先ず「前段までの注釈」でも論じた様に「詳細な行動の経緯」が見える事が出来る。
先ず、「武田軍の背後・堀江城行軍」を「銃力で背後から圧力を掛けた事」に付いては「額田青木氏の銃隊」の「独自の判断」であった事が解る。
「三河戦記の事を書いた五記」からも「命令が出ていた事」は何処にも書かれていず結果だけである。
「書いている事」は、詳しくは「一言坂の偵察隊の事の前後の部分」だけではあるが、判る事は「言葉の隠された意味や隠れた読み解いた経緯」からで、それを繋ぐとこの時の「全体の行動」が見えて来る。
何は兎も角も最も「全ての経緯」の「決め手」と成ったのが「籠城の経緯のキー」である。
どの戦記でも此処は見逃していない。
「武田軍の全軍」が「大軍」であった事で、仮に「松平軍」が「浜松城籠城」を選んだとすると、「浜松城」を攻めるには「補給等・二俣城・山県軍の別動隊が整えた・史実」を受けながら「波動作戦」で、「三方ヶ原・宿営地・補給基地」から「当初の作戦」として何度も攻めて来る事に成っていた事が判る。
この「一連の経緯」から読み解くと、その“「準備の為・掃討と補給」”に「山県軍の別動隊・二俣城」は「三方ヶ原」にやや遅れた事が先ず判る。
その証拠に、「戦記」では、現実に「武田軍の本隊」に遅れて「別動隊・山県軍」は「二俣城」で「周囲の掃討作戦」と、その“「補給路の準備」”に入っていた事が判っている。
その「遅れた主な理由」は、「落城までの期間・2月」と、その勝敗の様子を観ていた「周囲の地侍」が反抗し、これを鎮圧するまで「補給拠点」は最初の二俣城落城前までは造れなかったのだ。
然し、遂に「水攻め」で崩れて開城し、この「様子見の地侍」も「武田氏」に靡いて遂には襲われる事も無く成り「補給路」は出来たのだ。
ここで「青木氏の歴史観」として注目するべき「決定的な情報」があるのだ。
それはこの「二俣城」には「副将」として「青木貞治・三方ヶ原で戦死・駿河秀郷流青木氏」が居たのだ。
この本論の「最大の史実」は、「額田青木氏の南下国衆」に影響していた事に成るので下記でこの点の「詳細経緯」を論じる。
この経緯から「10/16日・元亀」から攻めて、12/19日に落城させて、12/20日まで掃討し、12/21日に「補給路作戦」を開始し、12/22日に西に向けて移動している。
これに「三河五戦記等の信頼できる記載」を合わせると、「補給作戦拠点造り」に苦労して「二俣城」を必要以上に時間を掛けて「北の山際」を西に向けて進軍して来ている。
つまり、これはこの「三方ヶ原」が”「宿営地」”と云うよりは”「補給基地」”であった事を間違いなく物語るものである。
仮に、違うのであるならば「武田軍の本隊が辿った道」を「山県軍の別動隊」は南下するのが通常である。
然し、「山県軍の別動隊」としては「補給基地」は、同時に「守備隊の宿営地」と成り得るので、戦記では“「補給基地・補給拠点の意味含む」”として記しているのだ。
又同時に、この事でも他説の「山県軍の別動隊」が、「天竜川沿い」に南に進軍せずに、「北の山際」に沿ってこの当初の「補給基地・補給拠点」の「北の三方ヶ原」に向かっていた事が読み取れる。
そもそも「武田軍の本隊」も、この「三方ヶ原」を「補給基地・補給拠点」として確保するならば「北の山際」を通って牽制しながら「堀江城」に向かうのが戦略的に距離的にも最も合理的である。
ところが先にこの「南のルート」を使ったのだ。
当然に、「山県軍の別動隊」も、「補給基地・補給拠点」としないのであれば「同じルート・南ルート」を辿って「武田軍の本隊」の後を追うだろう。
ここがよく読み切らないと判らないところであり、故に、「武田軍の本隊」と「家康」との「一言坂の戦い・二つの説」が起こったのだ。
さて、「一言坂」と云うキーを元に、故に、ここからが「青木氏の歴史観」の「額田青木氏の南下国衆の事」と「青木貞治の事に関わる事」に絡まって起こる事に成るのだ。
「三河戦記」の一つの説は、「二俣城」の南下している「武田軍の本隊」に向かって城から出て「野戦」を仕掛けたとする説と、「一言坂」に到着した「武田軍の本隊」に城から出て「野戦」を仕掛けたとする説の二つの説があるが、「詳細経緯のタイムラグ」から観て、前者は成り立たず、後者が正しい事に成る。
普通なら、ここでは遅くとも12/20日で「西・堀江城」に向かう筈であった事が判る。
要するに、この「4日間」の「山県軍の別動隊」は「浜松城籠城作戦に対する為の準備」をしていた事に成る。
この為にも、同時に「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めるには「北の三方ヶ原・宿営地・補給基地」にするとして必ず来ると「松平軍」は観ていたのであろうし、寧ろ、作戦的には先に「野戦の戦場の確保」と「補給基地・補給拠点」を阻止する為に「三方ヶ原」としたとも執れる。
これには「南下国衆の銃隊の一連の行動」に執って「意味する処」があり、何れかであるがどの「三河戦記」にも「甲斐戦記」にも“何れか”を記されていない。
唯単に「三方ヶ原」とし主にはその意味合いから「宿営地とする説」が主流である。
それについては疑問がある。
先ず「経緯の行動」から読み込むと、当初は「堀江城」を「本陣・武田軍の本隊」として、「二俣城の拠点・補給拠点・山県軍の別動隊」にする案が検討されていた「形跡」があると観る。
何故ならば、「信玄の戦い方」の全体を観れば、「野営地を本陣とする戦法」を採らないのが「信玄の戦略のポイント」なのである。
彼の戦記では「周囲の大城・本陣」を落として必ずそうしている。
必ず、「本陣」を戦場と成る所を見計らって「1k〜1.5k程度の処・城館」に安全を期して離している置いた戦術を採っているのだ。
「一言坂の周囲」には「2k圏内」には「8つの出城」があり、この何れかに「本陣」を構えた筈である。
何故ならば、「一言坂」より少し「東・18k」に離れて「遠江と駿河との国境域」には堅固な戦略上の拠点と成る「掛川城」と「高天神城」の二つの城があって、これを先ず落とす必要があった。
その「掛川城」は三方ヶ原の戦いの前の「永禄12年5月・1569年」に落城させた。
これは「三方ヶ原の戦い」より「3年前の事」であるが、ここを「本陣」とするには遠すぎる。
ところが、「高天神城・掛川城より南8k」は「天正2年5月・1574年」に落城させた。
「三方ヶ原の戦い」より「4月後の事」であるが、「掛川城」と同じく遠すぎる。
戦略的に先に「掛川城」を落として於いて「西側の城の処置」に掛かり、この「西側」が片付いたらその余力で「高天神城」を落とし、その間は「掛川城」から「東側」に睨みを利かしていたと云う事であろう。
故に、「三方ヶ原の戦い」では、東に「高天神城」の一つの城を残して落とさずに其の侭に直ぐ近くの「一言坂」に入っている。
「三河戦記」では、「二俣城」の手前まで出向いて牽制しようとしたが、その前に「武田軍の本隊」が迎え撃つ様に「一言坂手前」まで進軍し逃げる「松平軍」を追尾し「一言坂」で追い払い、再び、「文面の流れ」からこれをあやふやに“本隊が二俣城に戻つた”様にと記されている。
明らかに上記の後者説であって、「一言坂」に到達した「武田軍の本隊」に城から出て「野戦」を仕掛けた事に成る。戦記では前者説は「偵察隊」と記しているが現実には「野戦」であって、「偵察隊」ではあり得ない「5000の兵」を向けているし、後者説では「野戦」と記されているので後者説が史実と成る。
ところが、この「一言坂の戦い」は、この日が「三河の戦記・松平氏」では「10/13、又は10/14」としていて、ところが「甲斐の戦記」では、「武田軍の本隊」は「10/15」は「匂坂城」を落としている。
「二俣城に戻ったとする様な説」と「匂坂城の説・10/15・一言坂より北4k・天竜川沿い」とには「2日の行動の無理」が起こる、又戻ってもいないのだ。
然し、「甲斐戦記」では「二俣城」には、「山県軍の別動隊・11/中旬・15日頃」に合流し、「本隊」と共に「水源」を破壊して落とした事と記されていて、「武田軍の本隊」が戻ったとは成っていなく、この後、直ぐに「目途」の着いた「二俣城」を「山県軍の別動隊」に「周囲の国衆の掃討」と「補給路の構築」を任せて「二俣城」を離れて南下しているのだ。
実際は、先ずこの「二俣城」は無血開城したが、未だ「周囲」の「国衆・土豪」は反抗を続けていて現実には終わっていない。
これを「武田軍の本隊」も“未だ「二俣城」に居た”と勘違いしたか、「脚色のネタ」にした可能性があると観られる。
この説では、“「偵察隊」”としていて、その軍勢が家康本隊が3000で、本多・大久保等の隊は総勢2000としていて、合わせて合計5000である。
これは松平軍の全勢力であって、そもそも「偵察隊」であれば、「家康・大将」も出ないし、精々100程度で済む筈である。
ところが更にはそもそも「偵察隊」であれば戦わず手前で引くのが常道でありながら、引いたが追いついたとして脚色している。
「武田軍の本隊」が“自動車にでも乗っていたのか”、「どれだけの速さ」であったのか脚色もここまで来ると笑える。
ここにもこの説の無理があり、矛盾だらけで「負けた戦」に江戸期に脚色して虚勢を張ったのだ。
「一言坂」から「二俣城」まで直線で16k、徒士で最低で4hの道則であり、そもそも疲れた兵が戦い後に1日の工程では「大軍の進軍」は倍と成り無理であり、再び、「一言坂」まで戻ってくるのは戦略的に無理であり、そもそも無駄であるし、更にはこれでは「一言坂」の遠江の周囲の「出城8つ」を落とす時間は生まれないし、当然に突然出張った松平軍を追ったとすれば「武田軍の本隊」の「補給態勢」が続かないのだ。
又、そもそもその期間に「2月のずれ」があるのだ。
「甲斐側の戦記」とには修正できない点が生まれて其の侭にして脚色したのだ。
「三河戦記の脚色」は後勘で墓穴を掘った形であるが、江戸期ではこれでも良かったのであろう。
筆者の感覚では敗戦した「甲斐の戦記類」の方が「矛盾と脚色」は少なく「祐筆衆の原稿通り」に「史実」を伝えている気がするし、普通は逆であろう。
もう一つは、「一言坂」へ進軍中の「武田軍の本隊」に向けて城から出て「一言坂」で「野戦に依る戦い」を仕掛けたとしている説があり、天竜川を越えた域当たりで「野戦」と成り敗戦したとする説でこれの方が矛盾は少ない。
そもそも地形的な面から観て、「浜松城」からは、この付近は”「圷の平地」”であったので、「武田軍の本隊」の「一言坂付近の進軍」の「動向の状況」は見えていたので矛盾はない。
其の後の詳細経緯を追うと、ここで、「松平軍を追い払い・11/15日頃」、「軍の態勢を立て直し」、「補給路を確保」し乍ら、その間に「8つの出城」を落として、この間に一時、「約1ケ月間程度・12/20まで」を「浜松城の様子」を観察しながら駐留したのだ。
そして、前段の時系列の通りの行動と成って行く。
 12/21 本隊 朝頃一言坂発進
 12/21 銃隊到着−額田青木氏の銃撃戦
 12/21 17時半頃浜松城通過
 12/21 20時頃堀江城到着・開戦
つまり、この経緯から故に、「武田軍の本隊」が北三河を制圧して合流していた「山県軍の別動隊」に「二俣城の処理」を任したが、然し、「二俣城」から「南下」して途中で左に折れて直接に「三方ヶ原」に向かい、「本陣とするべき城館」の無いそこを「宿営地」として、そこから「浜松城」を攻めて、その後に「堀江城」を攻め落とし、それから「本戦の西・三河に向かうと云う戦略」では元々無かったと云う事である。
然し、史実は直接に南下して「浜松城の東・12k−2.5h」に位置する「一言坂・兵站・六間街道―盤田街道・天竜川から東5.5kの坂・盤田目付」まで到達している。
この「東坂下」では「松平軍」と「一度目の野戦・一言坂」をしているのである。
要するに、仮に、何故か「宿営地」としていたとするならば、この史実と矛盾するので「三方ヶ原」には向かっていないのだ。
この様に多くの「三河戦記の説」とは矛盾するのであり、「江戸期の脚色の矛盾点」である。
寧ろ、「二俣城」を落としている限りに於いて先に宿営地としているのなら「二俣城」から直接に「藁科街道・静岡県―本坂街道・愛知県」を西に向かって「三方ヶ原」に向かう筈であり、この西に向かわずに「天竜川沿いの東」の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂」に向かっていて、且つ、そこで無駄な「仕掛けれられた野戦」もしている事に成るのだ。
然し、そもそもこの「三方ヶ原に向かう方・藁科街道」が前段で論じた「時間のずれ」などの事は、一切の問題は吸収出来ていて「無駄」が無く成り「合理的」であった筈である。
故に敢えて、「天竜川沿いの東」の「二俣街道東を採った事」には意味があった事に成る。
つまり、この詳細経緯では、戦略は当初から最も三河寄りの湾際の「堀江城」を本陣に据える筈であった事に成る。
これは過去の戦歴の「信玄の戦略ポイント」に一致する。
だとすると、「二俣城」から「三方ヶ原の南横」を経由して「湖東町交差点」を西にルートを採れば、「三方ヶ原」などに対する「戦略的印象」も効率的で、最も「堀江」に「近いルート」と成り、「両者の籠城戦の考え方」に執っても意味があった筈であったが、史実は違ったのだ。
ここに「両戦記」の「記載の牽制策説」の生まれる所以と成っているのだが、これは飽く迄も「三方ヶ原が野営地・本陣」の「前提の説」に成り、「武田軍の補給基地説」ではない事に成る。
史実は「武田軍の本隊」からは「浜松城の真下・城南」を通過しているので「多少の牽制の考え」はあった事に成る。
況や、「三河戦記」の多くの主説の「信玄の牽制策・脚色」では無かった事に成る。
この説では従って「三方ヶ原」の「信玄の本陣説・脚色矛盾」では無い事に成る。
では、そこで問題に成るのは、上記の“天竜川沿いの東の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂」に向かって”の史実は何なのかである。
確かに「8つの出城を潰す事」もあったろうが、「他の全ゆるルート」では解決でき得ない点の「決定的なポイント」があった事と成る。
それが、次の事だと観ているのだ。
筆者は「二俣城の副将」の「青木貞治・駿河秀郷流青木氏一族一門・駿河水軍」の存在であると観ている。
そもそも、このルートを採ったのには、この「駿河青木氏の青木貞治」の背景には、「日本一の大勢力」の「遠州と駿河と相模と武蔵の国衆の出方+秀郷流一門361氏+秀郷流青木氏116氏」の「出方」を伺ったと観ているのだ。
要するに「青木貞治の駿河青木氏」に繋がる「東勢力」を気にしていたのだ。
「軽視し無視の出来ない勢力・青木氏116氏+青木主要五氏の一族361氏」である。
これは「一族の直の勢力」であって、これにこの一族と血縁を持った国衆も存在するのだ。
信長も秀吉も家康も手を着けなかった相手であった。
此れを下手に動かす様な事にも成れば幾ら「戦い上手な信玄」でも人溜まりもない。
平安期から元々、“「戦闘的ではない寝る子」は起こすな”である。
何せ「一言坂の盤田」の「姫街道沿い・本坂街道」の「直ぐ横・1k」の所に「駿河青木氏の青木貞治」の「一門の菩提寺西光寺・大寺閣の平館城」があるのだ。
これを誰が観ても解らない馬鹿はいないだろう。
この周りは要するに「一言坂の戦場と成った地域」であり、「一族の住処・東域」で一族一門としても放置できない事で、古来より「氏是」として直接に攻撃侵攻はしないが、「入間総宗家の判断」があれば一団と成って救出する。
これが寝る子の「青木氏族の掟」である。
「第二の宗家」としていた「遠江駿河の青木貞治」を始めとする「秀郷流青木氏116氏」はこれを護った。
いざと云う時には、「伊勢」から「伊勢水軍を廻す事」もあり、「駿河水軍にも救助を求める事」も出来、最も東に近いの一族が居る「藤枝」か「青木」からは直ぐに動ける「1日生活圏」の「40k=10里の位置」にもある。
この様に「援軍救助と云う点」では全く問題は無かったし、「武田軍」は「水軍」には全く弱く「補給路」は陸路に限られていた。
故に、「武田軍の本隊・東駿河侵攻」ではこれに対して「藪蛇の戦略」と成らない様な戦略の必要性に迫られていたのだ。
それには「唯一つの策」があった。
それは「戦記」から観ても、「松平軍を攻めた」が「周囲・菩提寺付近」は荒らさず手を付けていないのだ。
何故ならば、「一言坂の戦場」と成った「盤田の西光寺」も「一族の過去帳」や「墓所」等が遺る位に消失していないのだ。
これを観た「遠江と駿河と相模の秀郷一門の勢力」と「伊勢の抑止力の勢力」は連携して「攻撃すると云う事」はせず結果として動かなかったのだ。
故に、「武田軍」は、この寝る子を起こすような事をしなければ、“一言坂を通る南周りの行軍路を選択した”のだ。
同然に、「二俣城の副将・青木貞治等」とその「兵・1200」を開放するに及んだのだ。
これを「甲斐側」から観れば、「遠江と駿河と相模の秀郷一門の勢力」を戦う事なく間接的に抑えた事に成り、「松平氏側」からすると、逆に「背後」を及びやかして欲しかったであろうが、「駿河侵攻・松平氏支配・1568年頃からの4年」では余りに短くその勢力は浸透していなかったのだ。
要するに「戦略の狂い」であった。
上記の“天竜川沿いの東の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂・姫街道」に向かって”の「史実」は、「東の勢力・青木貞治の一族一門」を間接的に抑えたと云う点では「戦略」では「信玄の方」が一枚も上であった事に成るのだ。
つまり、「家康と重臣」は「二俣城の副将の青木貞治の存在・背後の勢力」を低く見ていた事に成る。
「元今川氏の家臣・松井氏」と云う事もあったろう。
要するに「菩提寺」が、“直ぐ傍にあると云う事”を放念していたのだ。
そんな処で「戦いをする事」がそもそも可笑しいのだ。
因みにこの「二俣城の時に、本家分家共に「5人の甲斐時光系青木氏・重臣」が参加していたが、この内の内部紛争で「二人・分家」は積極参加していないのだ。
他の三人は、「三方ヶ原」と「長篠」で「戦死・滅亡」であった。
この「二人」は、後に「武蔵鉢形」に移住させられ「徳川氏の家臣」と成り、一人は孫の「柳沢吉保・青木吉保」であるが、この時のこの一族が「青木貞治の秀郷流一門との関係性」は無かった事が二つの系譜上で判る。
要するに、元々、甲斐とは古来より犬猿性が歴史的にあって、「繋がり」は働いていなかった事に成るが、“働いている”と成っていれば「青木貞治の様子」は違っていただろう。
唯、「二俣城の開城」の“「条件」”から観ると、確たる「証拠」は無いが、甲斐側は“何らかの横の繋がり”を持っていての事かも知れない。
つまり、この無血開城の“「条件」”に疑義があるのだ。
「水攻め」で負けたが、その「開城の条件」が良すぎる。
普通なら、無血開城の場合は「主将と副将」は切腹で始末するのがこの時代の常道である。
それを「城兵1200」と「主将と副将」の「退散」で何と「浜松城に入場」までもを許したのだ。
“これから攻めようとする浜松城に”であり、「敵の勢力を高める策」では無いか。
本来であるなら歴史の定説では解かれていないが「青木貞治隊200」は全滅であった筈で、それが生き遺させた何かが働いたと観るのが普通であろう。
それが上記で論じた「遠州と駿河と相模の秀郷流一門の説」であると説いている。
「青木貞治の秀郷流一門との関係性」を誰かが「甲斐の青木氏・重臣の信種か信秀か等の二人」を通じて「条件」として「青木貞治」に持ち込んだとする説である。
実は、この「信種」は「法名」を「浄賢」と称し、「僧門に入っていた事」から「秀郷一門の事」に詳しく「駿河攻め」に帯同しての「信玄の参謀」を務めていた事が判っていて「「浄賢は重臣参謀の者」であった。
「藪蛇の戦略」や「寝る子を起こす」の様な事の無い様に「逃避説」を説いたのではと観られるのだ。
それに成功したとすれば、“「1200兵の開放」”は「等価の条件と判断した」と考えられる。
場合に依っては、「駿河青木貞治」、又は、「甲斐青木信種」かの何れかが、“「条件」”としてこの「参謀の信種」に話を通したのではないか。
筆者はこの推論は先ず間違いは無いだろうと観ている。
だから、「青木貞治」は「三方ヶ原」で「責任を執つて戦死・旗本から責任を問われた」のだし、「青木貞治隊200」は「南下国衆の銃隊の援助」を受けた事もあるが、その後の掃討でも「西光寺」に逃げ込み無事に生き延びられた所以であろう。
これは「青木氏の歴史観」として絶対に見逃す事の出来ない点であるのだ。
さて、ここで念の為に記するが「青木貞治の一族」は、「遠江の盤田」に「西光寺の菩提寺」があるが、「遠江青木氏」では無く「駿河青木氏」であって、「秀郷流青木氏」の「駿河青木氏の西の勢力末端」に分布して平安期から鎌倉期に子孫を拡大させた裔系である。
この「駿河」は、平安末期の富士川の合戦・源平戦に参加して敗退して逃げて来た「近江青木氏」と「美濃青木氏」と組んで「源平戦」に参加して滅亡した「駿河水軍の駿河青木氏」である。
其の後、織田勢に「尾張と三河の神明社」を全て破壊され、この為に「額田青木氏」を「国衆」として鍛え上げて「フリントロック式改良銃」を秘密裏に堺で独自製作し、これを「額田青木氏」に持たせて南下させて「古跡神明者の神職」が定住していた「三河伊川津」に家族と共に定住移住させた。
この時、「伊勢」は、この「駿河」には「滅亡した駿河水軍の末裔」を探し出して「伊勢」で「訓練・1540年〜1545年頃から」を着けさせて「大船一艘」を与え、「糧」を与えて、再び、水軍の「駿河青木氏の裔系・28年〜30年間」を拡大させたのだ。
その「復元駿河水軍」の「30年後の裔系」が、「国衆」として仕えた「元今川氏の国衆連」であったが、「今川氏衰退」で「松平氏の家臣・下記」と成った「青木貞治一族」である。
その意味で、「水軍を持つ国衆の駿河青木氏」は「松平氏」に執っては魅力であったのだ。
さて、この「青木貞治一族」の「秀郷一門を背景とする勢力」を軽視し、16k離れた「二俣城」に配置していたのだが、ところが、更に「松平軍」には弱点があった。
つまり、この「弱点」を「武田軍の本隊」に読み込まれたのだ。
「浜松城」と先に落とされた「掛川城」と後で落とされた「高天神城」の「間・28k」には「護りの城」が無く、その中間の「一言坂」を突かれたのだ。
周囲には「8つの出城」があったが、この「青木貞治一族」の「庄地・盤田」に「出城」なり「平館」を造れば、「駿河水軍の威力」はより戦略的に働いたのだがそれをしなかった。
「秀郷一門を背景とする勢力」の「補給や兵力」も含めて「臨戦態勢」が構築できるのだった。
その様にできれば、「織田氏」では無く、「松平軍+東の勢力・秀郷一門・江戸転封で構築」の「武田軍を凌ぐ勢力圏」を築けていた筈であった。
もっと云えば、この「青木貞治の駿河水軍」を使えば「浜松城の籠城戦」の勝利は可能であった筈であった。
当然に、背後を突ける「伊勢水軍と伊勢の財力」をも使えたのだし、「鬼に金棒」であったろう。
つまり、「青木氏の歴史観」から観れば、この様に悉く、「現場的な戦略性の無い家康」は「青木貞治の使い方・旗本の嫉妬と怨嗟」にも失敗していたのだ。
後勘と成るが、筆者ならそうする。
さて、結局は「一言坂の東」を制し「向後の憂い」を無くし、戦略通りに西進しこの「堀江」に向かったのだ。
此処からは、この「青木貞治論」に於いて、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の詳細経緯に関わって来るポイントに成るのだ。
そもそも「堀江城」は、「武田軍の本隊の本陣」としては、「今後の西三河尾張攻め」としても「最高の戦略的位置」である事は、「甲斐戦記」での「言葉の使いまわし」で「読み取る処」ではあり、「三河と甲斐の両記類」でも「両軍が認めていた」とする節があるのだ。
この事は、「武田軍の本陣」とに関わらず、「二俣城」と共にどの「三河戦記・戦略拠点」としてのその表現には“「最重要拠点」”との意が記されている。
“「最重要拠点」”と表現する内部に含まれる「幾つかの意味」を持っている。
その「意味」の一つには、「武田軍」にしても「松平軍」にしても「二俣城」は、「補給の拠点」、「堀江城」は「指揮命令の本陣」とする事、又はその様に成る事に“重きを置いていた”という事に成る。
逆に云えば、「松平軍」に執っては戦闘で最も重要となる「差配・命令」の出る「本陣化の危険城」と観ていた事に成る。
然し、「一言坂・元亀3/11/13?・勝利」に向かい、且つ、最後には「堀江城・元亀3/12/22落城」に向かい、ここで一度、「補給」などをして「軍立」を直して「元亀3/12/22 ・1573/1/25」に直ぐに「三方ヶ原」に向かったのだ。
定説と成っている「三方ヶ原の野営・宿営地の説」は、これで崩れるのだが、然し、ここで改めて「疑問」があっ。る。
第一に、況してや「武田軍の本隊」は「一言坂の野戦」をして周囲を掃討した後に「堀江」に向かったのだが、何故、「浜松城の前」を素通りして、その後で、「定説」と成っている「三方ヶ原・宿営地」に「情報」があったのなら、何故に堀江より先に向かわなかったか?と云う疑問もあるのだ。
但し、「松平軍」は「堀江城陥落後」に松平軍が「籠城」から「野戦」を選び、この「補給拠点を攻めると云う説」もあり、この説が正しいと云う事は上記の論で解明できているが、それならば「堀江」を攻められるというも「一言坂の地点」で既に判明しているのだ。
だとすると、此処で「松平軍の軍議」は、何故、「野戦」としなかったのか?である。
「情報」と「野戦決定」との間には、「1月程度の大きなタイムラグ」があり、これは有り過ぎる。
要するに、ここには「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が大きく関わっていたと観ているのだ。
先ずは、「籠城戦」にしろ「野戦」にしろ「銃隊の効果」は大きいので何れにせよ「吉田城」から呼び出すまでの期間を待ったとする説論である。
現実には呼び出した後の「軍議」では、そうならず何と「350の銃隊の大勢力・松平氏軍勢比7%」を「吉田城」から呼び出して置き乍ら、”城外”に「偵察隊」として放り出した結果と成った。
注釈として、そもそも、「火縄銃の銃力」は「兵力の10倍」と云われていて、額田青木氏の南下国衆の連射式のフリントロック改良銃では20倍以上となろう。
とすると、「7500の兵力」に相当する事に成り「松平軍の1.5倍の兵力」を外に放り出して「偵察隊」としてしまったのだ。
そもそも、「吉田城の守備隊」であったものを{浜松城}に呼び出して置いて、「偵察隊」とする戦術的に「低い命令」を何故に下したかである。
既に、そもそも、「浜松城」からは平坦地にいる「武田軍」は東に見えているのである。
何故、意味の無い、又は「低い命令・偵察」を出したかにある。
何れにしても「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、そもそもの「三河国衆の初期の目的・条件」とは異なっていた事から、そんな「危険な位置に加わる事・銃隊を陣形の中心に据える事」をこれを「軍議で拒んだ事」は、「銃隊の指揮官」からの伊勢への手紙の資料等の内々の「やり取り・不満」からも読み取れる。
つまり、ここは「駿河青木氏の青木貞治」と、「武田軍」にしても「松平軍」にしても「判断の分かれ目」に関わっていたので詳細に検証して観る。
その“「判断のカギ」”は、その前に“「武田軍の本隊に起こった出来事」”であろう。
それの大元は、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」との「一言坂の偵察隊との遭遇戦」にあったと観ているのだ。
先ず、その内容はこの「遭遇戦」に勝利して無傷で「西の坂下」に戻った「南下国衆の銃隊の行動」にあったのではと考える。
そして、それは「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「浜松城」の「城」、或いは「城付近・北東の小丘」に「陣取つた事」にあったと考えるのだ。
つまり、先ず「信玄の頭」に「1年前の第一次吉田城の籠城戦の経験」が過ったと云う事だ。
少なくとも覚えていただろう。
そこで、「信玄」は「一言坂の銃隊の偵察隊」に対して「吉田城の敗戦時・撤退」の「印象記憶」とから、「浜松城通過の間」に、先ず「第1回目の変更の作戦方針」が替えられてたと云う事であろう。
“これは拙い”として「武田軍の初期の目的」の「堀江の方向」に向かったと成るのだ。
つまり、「浜松城」の必要以上の“「牽制行動」”は「銃隊の存在・追尾」でこれ以上は危険と察知したと云う事に成る。
ここの直前までは、未だ“「牽制行動の一策」”として「山県軍の別動隊・補給基地増築使命」の到着までの期間として、「三方ヶ原の補給基地・宿営地・浜松城攻略」に行くか、直接にこの「牽制行動の如何」の為に「堀江城の攻略」に向かうかの「判断」は出ていなかったと観ている。
そこで、「一言坂の坂下」を下りて「浜松城の北東の小丘」に手痛い思いをさせられた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「浜松城の右横」の「北東の小高い丘・公園の右側・140〜150m」に陣取った事を観たのだ。
ここは「一言坂の平地」と違って此処から下に向けて銃弾を浴びせられれば抵抗できない為に“全滅もあり得る”と、信玄は「2度の経験」から観たのだ。
「三方ヶ原の宿営地・浜松城攻略の作戦」では、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を「相手にする事」に成る為に、「信玄の判断を先送りした」と考えられるのだ。
そこで、「浜松城の城周り」を廻って「館山街道」を北に進んだ。
未だこの段階では「三方ヶ原の補給基地・宿営地・浜松城攻略」に向かえる道である。
つまり、「第1回目の方針変更地点・城」から離れて「武田軍の本隊の後尾」を「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「追尾してくる事」を「武田軍」に「情報」として後尾より入っていた。
ここで、この「情報」に依って、更に「第2回目の方針変更地点」で「判断」を更に替えさせたのである。
それは「牽制行動の中止」の「最終的な決定方針」である。
つまり、「三方ヶ原」に向かうか、将又、「堀江城」に向かうかの「最終的な判断」に達して此処で方針を確定させたのだ。
その「二つの判断のポイント」が、「西と東の街道の交差点・湖東町交差点付近・館山街道」にあったと観るのだ。
同然に、「浜松城攻略」が「最後の作戦」と観ていれば、「二俣城」から南下して進軍してきて、其の侭に「三方ヶ原」に向かい宿営して「山県具の別動隊」を待って「浜松城攻略」を進めれば良い筈である。
その後に「堀江城を落とすと云う戦略」もあった筈だが、この場合は「本陣」が「野営と成る欠点・奇襲攻撃」を持っていたがそれを嫌ったのだ。
要するに、「信長の桶狭間の奇襲作戦・1560年」の例があったからなのだ。
その「奇襲攻撃・南下国衆の銃隊」は、「松平軍」と云うよりは、つまりは、直前の「一言坂」で遭遇した偵察隊の「額田青木氏の南下国衆の銃隊の攻撃」を予想していたのだ。
そうすると、「一言坂を通るという事」の詳細経緯の結論は、先ずは「余裕」を以て「浜松城そのもの」をある程度に牽制して置いて、後に「堀江城」に向かい当初から「三方ヶ原に陣取る予定」では無かった事に成る。
この事は、「一言坂の野戦」の「兵の数」と「織田軍の援軍」も無いと観ていた事に成る。
「織田軍の援軍」があれば、「一万近い兵」が「浜松城」には入り切れないし、「兵糧作戦」から「織田軍」は「補給路」を確立して、「城」の近くに「野営」をしていた筈である。
西には「堀江城からの挟み撃ち」や「大軍の織田軍の補給路」も断たれる事が起こるし、「援軍」は無いと観ていた筈である。
そもそも「織田軍」もそのような愚策もそうしないであろう。
兎も角も先ずは、「銃隊も攻撃してくる様子」も無いとして、その「牽制であった事」に成る。
然し、何れの戦記にも「野営と補給路の記載」は無いの通り、「織田軍」にしても「松平軍」の何れにも「野営」は現実に無かったのだ。
「浜松城」の近くに「野営」が無ければ「松平軍の戦略」は「籠城戦」である。
当然に、「一言坂の坂下」に降りた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「城近く・北東の小高い丘」に「野営していた事・隠れる」は判っている。
現実には「軍議の内容」では、「織田軍の軍目付・軍艦」と「松平軍も」からも、間違いなく「籠城戦」としてその様な傾向に成っていた筈である。
「銃の牽制力の戦略的効果」を上げながらの「南下国衆の銃隊」も、「軍議」で拒否して外に出された以上は城に入れずに、そのつもりで攻撃せずに追尾だけにしたのだ。
ここで検証は「駿河青木氏の青木貞治」に関わって来る。
然し、「館山街道」の追尾中に、「軍議」に参加している「駿河青木氏の青木貞治隊」から“「驚くべき内部情報」”が齎されたのだ。
つまり、「一言坂の偵察隊との遭遇戦」で、暫く、「武田軍の本隊」は進軍に於いて「隊の再編成」を整えていた「時間・4h〜8h」の間に、この「松平軍の浜松城の夜間の軍議」が成されたと云う事に成るのだ。
これに対応した上記の経緯の変化点で、「追尾中の南下国衆の銃隊」は、“「信玄の臨機応変の二つの命」に待つ”という事、つまり、どう出て来るか待つ事に成ったと考えられるのだ。
「武田軍の本隊」には、「松平軍」に放っていた「隠密からの情報」が入っていたと観られる。
そこで、「一案・第1の方針変更」は、「城」を通過して廻って「三方ヶ原」で宿営して「山県軍の別動隊・補給路確保」を待って「浜松城」を攻めると云う「危険策」であった。
つまり、これは「二俣城の作戦」と同じである。
次に、「二案・第2の方針変更」は、被害の大きく出る「銃隊の行動」を観て、これを逸らして「堀江城」に向かう「安全策」である。
その「判断の起点」が、「西と東の分岐点の湖東町・館山街道」で現実のものと成ったのだ。
同然に、これは「額田青木氏の南下国衆の銃隊」にも同じ事が云えたのだ。
この時、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、未だこの時点でこの「三方ヶ原」が「武田軍の宿営地・補給基地」で「籠城戦」と成ると考えていれば、“三方ヶ原方向の東に向かわずに、「もと来た道・館山街道南下」を採り、城には入れないので、「城の近くの丘に陣取る事」に戻る筈である”がそうは成らなかったのだ。
ところが、然し、ここで所謂、上記の「青木貞治の軍議情報」が入り「東の三方ヶ原」に向かっているのだ。
では「内部情報」を得たとしているが、「南下国衆の青木氏の情報源」は判るとしても、気に成る処は「武田軍の本隊」は何処からこの「情報・隠密説」を獲得したかである。
「情報源」が無かったとして「籠城」から「野戦」と変更されるタイミングは「城」を出た時であろう。
然し、これでは「三方ヶ原」を確保され、「補給拠点築造の山県軍の別動隊」は危なく成り遅過ぎる。
少なくとも「内部の情報源」で無ければ無理である。
そこで「内部に情報源」があったとして、「松平軍の軍議」に参加できる国衆は、凡そ200以上を持つ豪族である事になるので、「190居たとされる国衆」の内の“1割にも満たない数”である。
一つ考えられるのは、「時光系甲斐青木氏の五氏」である。
然し、この二つは「長篠の戦い」に消極的態度を採った「分家筋・巨摩郡と柳沢郡」であり、更に一つは安芸・女系の縁者から養子で継いだ分家の本家であって、「戦い」が始まると直ちに安芸に逃亡した。
依って、「甲斐時光系青木氏の武田氏系」と縁組をした本家筋の二つであった。
この「二つの青木氏」が「青木貞治」に「繋を採ったと云う事」も考えられるが、古来より甲斐とは「犬猿の縁」にあって「繋がり」は本来は無かった筈である。
唯、「二俣城」で「武田軍参謀の信種・浄賢」が「二俣城の開城の条件」として「青木貞治を救った事・副将200」があったが、この誼で「お返し・恩義返し」として、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に「内部情報」を提供したと同じ様に情報を提供したのか。
これは疑問であるが、“一族温存の為に”この「情報」を提供したか、又は、要求されたかの可能性があり、「戦乱の世」に於いて否定は出来ない。
元々、「松平氏の家臣」では無く、今川氏の家臣の「松井氏の家臣・近江での縁」であった。
この「松井氏」が潰され、「松平氏の家臣」の「中根氏の配下・二俣城の主将」の「副将」として入っていたのだ。
この事は、飽く迄も「流れの推論」であり、「一切の資料」からは読み取れず、且つ、「戦記」からも同然である。
然し、何も「情報源が無いと云う事」は考え難い。
もう一つは、追尾していた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「突然の行動・三方ヶ原に向かった」のを観て、「異変を察知した事」も充分に考えられる。
つまり、この場合は「青木貞治が間接的に情報を提供した事」には結果として成る。
筆者はこの説を採っている。
そうすると、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「銃力の威力」では、“「山県軍の別動隊・補給基地築造」が危険”に陥るとして警戒して「武田軍の本隊」が、これを護るために急遽、予定を超えて行動を起こした事も考えられる。
然し、「堀江城」から「三方ヶ原」に向かう途中で「魚鱗の陣形」を途中で編成しながら「三方ヶ原」に向かった「武田軍の本隊の行動経緯」を観ると、違うかなとも考えられる。
然し、場合に依ってはそのつもりで「進軍中」に、「松平軍が居ると云う事」に判り、更に「編成」を強めて後尾に居た「赤兜の騎馬隊を前に出した事」からすると充分に有り得る「詳細経緯」である。
「武田軍の本隊」からすると、城に入らず追尾して来た「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「独自の行動」で「三方ヶ原・補給基地・宿営地」とする処に向かったとは考え難いだろうし、幾ら「脅威の銃力」を保持していたとしても一つ間違えれば極めて危険な行為の判断と観たのではないか。
「武田軍の本隊」は、その「南下国衆と成った初期の目的」は知っていたかであるが、「吉田城の戦い」や「一言坂の偵察隊の遭遇戦」から観て“「松平軍の銃隊」”と未だ観ていた事が考えられる。
「松平軍の軍議」で拒否し城外に外された事は未だ知り得ていないであろう。
故に、「南下国衆の銃隊」が「東の三方ヶ原の方向に走つた事」で察知し確信したのだ。
恐らくは、この時点で同時に「武田軍の幌者」を確認の為に「三方ヶ原・8.4k・馬0.8h・徒士2h」に走らせたであろう。
「南下国衆の銃隊」が「三方ヶ原に到着する前」に「幌者の往復」で充分確認はできる。
この時点で、少なくとも「籠城戦」では無く、「二度目の野戦との情報」が確認でき、この「情報源」が、実は上記の通り「額田青木氏の南下国衆の銃隊・下記詳細」にはあったのだ。
然し同時に、「松平軍」からすれば「武田軍の本隊」も「堀江に向かっている事」で直ぐに踵を返しても、この段階では「三方ヶ原」に来ない事は判っている。
とすると、この状況は少なくともこの時点、つまり同じ「西と東の分岐点の湖東町・館山街道」で「籠城戦」から「野戦」に「作戦が変更された事」の「情報の入手」を示すものと成ったのだ。
追尾していた「南下国衆の銃隊」が「三方ヶ原に向かった事」と合わせて間違いは無いとしたのだ。
「武田軍の本隊」と「松平軍」の両軍方に執っても「両軍に作戦が変更された事」に成る。
「松平軍の変更」で「武田軍」が変更したのか、将又、「武田軍の変更」で「松平軍」の変更が成されたのかは記録からは判らない。
「流れ・詳細経緯」から上記の通り「松平軍の方」であった事は判る。
但し、「三河側の戦記」では匂わしているが、「松平軍の変更」とは定説では成っていない。
一方の「武田軍側の戦記・資料」では、「堀江城を落とす事」に変更したとする程度で明確な表現が無いし、「三方ヶ原への変更」も明確な記載がない。
故に、「松平軍の変更」と成っているが必ずしも決定づけられない。
何れにせよこの「地点・西と東の分岐点の湖東町・館山街道」が「三者の運命の共通地点」という事に成る。
ここで、「武田軍本隊」と「松平軍」と「山県軍」と「南下国衆の銃隊」と「青木貞治隊」のこの「五者の全てのサイクル」が“「狂い始めた地点」”であるのだ。
ここで何故、「松平軍」が、まだ決まってもいない「堀江」に居る筈の「武田軍の宿営地・補給基地の予定地」を、先に「野戦・決戦場」と決めて、「三方ヶ原」に来たかと云う疑問に成る。
それには、「合戦の戦略上の常道」として、“「合理的な堀江を拠点にすると云う作戦」”もあった筈で、「武田氏側の戦記」では、「堀江城」を「長い時間・延4日」を掛けて落とす程にこの城に対して「大軍」を投入して“「注力」”を注いだのだ。
何も大軍を投入する程の城勢力では無かった。
これに付いて「両戦記で物語る事」は、「堀江城・武田軍本隊の指揮拠点」と「三方ヶ原・山県軍の別動隊の補給所の役目」の「二極拠点化説」が「武田軍側に在ったと云う事」である。
そこでこの事を後で知った「松平軍」は、この「三方ヶ原、山県軍の別動隊の補給所」を「野戦で攻める目的・補給拠点の破壊と場所の確保」であったとする事が頷ける。
然し、これには「高いハードル」が二つあった。
一つは同勢の「山県軍の別動隊」を打ち破る事である。
二つは「補給拠点」を絶たれた「武田軍の本隊」は必ず攻めて来て「決戦と成る事」である。
何れにしても「周囲の城を完全に落とされている事」から「敗戦見込みの賭け」で「織田軍援軍の時間稼ぎである事」は判るし、「織田氏の軍目付・軍監・3氏」も当初より「時間稼ぎに最も効果的な籠城戦」のその発言をしている事が戦記でも記されている。
最終的に「織田軍の大掛かりな援軍・援軍の意思なし・時間稼ぎ」は得られず、結局、「軍目付・軍監・3人・1200・美濃尾張の守備隊」の内の「平手軍の小部隊・主将戦死」のみが「三方ヶ原」で合力をしたし、元より「織田氏」は「武田軍の尾張進軍の時間稼ぎ」を「狙い」としていて「積極的な姿勢」では無かった。
故に、「平手軍」は「この時間稼ぎの一つの策」としての「作戦変更」に止む無く賛同して「合力・戦死」したのだ。
この事で後に「信長」に「軍目付・軍監の二人」は戦記の通り「信長」より「酷い叱責・追放」を受けたのだ。
この「後の史実」が「三方ヶ原」に出たのは「野戦で攻める目的・補給拠点の破壊と場所の確保」を証明している。
そこで因みに、この「補給拠点の破壊と場所の確保」には観えて来るものがある。
「堀江城、三方ヶ原、二俣城、浜松城、一言坂」の「五つの点の地形的な関係性」に付いて検証して観ると、この“「堀江城」の「武田軍側の二極拠点化説」”に対して頷けるものが見えて来るのだ。
先ず、この「五つの点」には次の様な「正三角形の位置関係」にあるという事である。
「一言坂」からは「5点の全体」は、当に“「正台形の位置関係」”を示しているのだ。
「堀江城」からやや北東側に「三方ヶ原」があり距離は8.5kある。
この「三方ヶ原」から同じ「線状A」の12.2kの位置に「二俣城」がある。
「堀江城」からほぼ「中間点の位置」に「三方ヶ原」があると云う事だ。
そして、この「三方ヶ原」から「線状A」に「垂直の位置」の「9.7kの位置」に「浜松城」がある。
この「浜松城」から南西側の「堀江城」に結ぶ距離は12.5kにある。
「浜松城」から北東側の「二俣城」までの距離は18.5kにある。
「一言坂」から「二俣城」までの距離は15.7kの位置にある。
「浜松城と三方ヶ原」の「線状A」を「左右対象の位置」に左に「堀江城」、右に「二俣城」があると云う事だ。
つまり、地形的に「三方ヶ原」は戦略上では、「武田軍側の拠点化」には「最適な位置関係」にあり、「籠城戦」とした場合は、「武田軍の本隊」の「三方ヶ原の野営」よりは「堀江城の本陣・指揮所」としてはより「最適な位置」にあったのだ。
この「武田軍側」のこの「二極拠点化説」には合理性がある。
言い換えれば、西の「織田軍の動向」を堀江から睨みながら、この「堀江城の存在」は同時に「浜松城籠城戦の長期化を予測していた事」をこの説は物語る。
「織田軍の援軍」はこの「堀江城」を攻め落とさなければ「浜松」には、上記の補給の問題もあるが、「入る事」さえも出来ないのである。
「三河戦記の定説」と成っている「援軍説」は無理であった筈である。
現実に「長篠の戦い」で「堀江城と二俣城」は歴史に遺る程の抵抗戦が繰り返された事が記されている。
という事は、この説からすると、「家康」はこの「補給拠点」を奪取して上手く行けば上記の「二つのハードル」を突破して、この「二極拠点化説」を撃ち砕く作戦に無理に出た事に成る。
この「補給拠点」を造ろう、或いは護ろうとしているのは「同勢の山県軍の別動隊」である。
其れで突如、「作戦」を変更して「浜松城」を早く出て、「三方ヶ原」に「鶴翼の陣で構えて待つ作戦に出た事」に成るだろう。
然し、この「作戦」は「信玄」に「館山街道湖東町の交差点の動き・南下国衆の動き」で悟られていたのだ。
定説とは異なり、密かに「家康」は「情報・定法の漏れる事」を恐れて「タイミング・山県軍の別動隊の動向」が来るまで心中に秘めていたかも知れないのだ。
何故なら、それは遠江では「190以上の国衆の寄せ集め軍・脆軍」であったからだ。
筆者は、この「きっかけ」は、間接的にも「青木貞治の南下国衆への情報」から興った事で心持ちこの気がする。
さて、この時の否定されている「鶴翼の陣形の妥当性」であるが、「山県軍の別動隊」と「同勢」、或いは「やや多い兵力」であるとするならば、「松平軍」が戦った場合は必ずしも負ける前提の陣形では無い。
何故なら「山県軍の別動隊」は、「二俣城の陥落後」に「二俣城」より経由して「三方ヶ原」に「補給基地を構築する使命」を帯びていた。
「甲斐戦記の通り」にすると、「山県軍の別動隊5000」とあるが、この内訳は記されていないがこの「使命」は明記されている。
とすると、この「使命」から「実戦兵・守備兵」は「約半分のと2000〜3000」と見込まれる。
「松平軍」は実質は「190以上の国衆の寄せ集め軍・脆軍」であっても、5000>2000〜3000とすれば「家康」は密かに勝てると見込んだ事が予想できる。
だから「鶴翼の陣とした」とも取れるのだ。
これは当に「甲斐側の戦記通り」である。
この場合からすると、当然に“「松平軍」が東側に陣取った”ので、「山県軍の別動隊」が西側に陣取る事に成ろうし、又、必然的に結果として「西の堀江城をからの応援を求める事」に成るので間違いなく、止む無くして「北の山際」を西に向かって廻り込む様に「西」に陣取る事に成る。
この「西向きの鶴翼」の是非は、「山県軍の別動隊・補給隊と戦後処理」には、「早くて突撃性の強い赤兜の騎馬隊」を有していないので、「攻めて来た兵」に対して相手がどんな陣形であろうが、随時、波状的に包み込む様に戦う事で互角には戦え問題は無い事に成る。
唯、「鶴翼の陣形の欠点」の一つは、「鶴翼の開閉」が出来ず「早くて突撃性の強い赤兜の騎馬隊・6000」の様な勢力に弱いと云う事である。
弱ければ疲れれば「本陣・大将」に突き抜けて仕舞うと云う事だ。
「山県軍の別動隊」にこれが出来たかと云う事であって、「補給基地を築造する使命」から、その「築造兵」を連れている以上は当然に出来ない事は一般として判る。
「三方ヶ原」で勝利すれば、「補給基地の使命」を帯びていた事から「浜松城の掃討」もしなければ成らない事に成る。
そうでなけれは「補給基地」は成り立たないし、次の「西三河攻略」の「第一補給基地」にも成る拠点でもあるのだし、それには「松城城の掃討」も「一連の重要な使命」であった筈である。
そもそも「戦い」は第一義的なものとして何れの戦いも「補給」無くして戦いは成り立たない。
これを危惧した「武田軍の本隊の上記した行動」に繋がったのだ。
因みに、早くて突撃性の強い「赤兜の騎馬隊・6000」の様に、「関ケ原の真田幸村」も大阪城から突き出した様に「廓柵・1km・馬防柵」を造り、周囲から攻撃されない様にして「本陣近く・家康」に近づき「騎馬隊」で突撃してこの「作戦」に出て成功している。
同然に、又、騎馬隊よりも早い銃を無視して頼り過ぎた面もあるが、この「赤兜の騎馬隊」が「武田軍の強み・本隊所属」でもあったのだ。
更に、参考として「家康」は、長篠後に、この「赤兜の騎馬隊・6000の勢力」をそっくり陣営に加え配下に組み込んで兵力を高めた位である。
故に、「松平軍」にはこれが無い以上は「鶴翼で同格に戦うと云う戦術を採った」と云う事にも成ったのだ。
中間説を採る戦記の「突撃性有無論の説」である。
もっと云えば、「堀江城の本陣化」は「今川氏真の失敗」を承知していて「家康」は充分に知り得ていた筈である。
だから、遠州が自分の手に入ったのだから知らない訳はない。
今その手に入れて遠州を「信玄」に「滅亡寸前」まで攻められているのだ。
「三河戦記」では定説とされている「本陣」を「三方ヶ原」に置くなどの事は露も思わなかっただろう。
要するに、故に「家康」は、“心の中に秘めていた判断”として「定説」とは違い、“補給拠点を破壊する”、又は、“確保する”と云う「戦術」に急変した事に成るのだ。
唯、とは云えど、これも「堀江城陥落の後」に、間違いなく奪回に「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」に駆けつけて来ると云う難題があって、その時間内に勝利しなければならないし、再び、勝利しても奪回されるのは「時間の問題の課題」があった。
その時は、「城に逃げ帰る事」に成っていて、此処で「籠城戦に持ち込む」と云う「時間稼ぎ」にあったのであろうし、これであれば始めから「籠城戦」では無く、「織田氏の援軍の同意・軍目付・軍監の同意」を獲得できると云う「妥協中間策・時間稼ぎ」を執ったと考えられるのだ。
この「武田氏側の戦記」での仮説では、何処かの資料を以て史実に基づいて論じているかは別にして、この様に観ていたと云う事なのだろう。
これに賛同したのは「軍目付・軍監」の内の一人の「織田氏家老・平手汎秀」だけであったという事に成る。
故に合力して戦死しているのだ。
現実には、「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」に出向いて来たが、出向いてきた理由は“補給拠点を破壊する”、又は、“確保する”事に対する作戦行動であったとしているのだ。
恐らくは、故にこの「説・二極拠点化説」の意味する処は此処にあったと考えられる。
だとすると、「軍勢とか陣形の是否」では「合理性に基づいた行動」として符号一致しているのだ。
本来であれば、江戸期で「戦記として論じる事」には「有利な立場」に成った「松平氏側の戦記・幕府」でも正しく論じられるものではあるが、そうでは無く不思議に冷静に筆者の上記の“青木氏の歴史観から観た考え”に似た「詳細経緯」が、「武田氏側の戦記の一つ」が論じているのだ。
気になるのはこの「論処の合理的な所以」である。
どうもこの「武田氏側の戦記」と云うか、「甲斐の戦記」と云うかの「研究資料の根拠」は「武田氏の戦略・戦術を決める立場の者」の傍に居た「家臣の書き記し・日記等」に基づく「総合論」である様だ。
明記はされていないがそれが「松平氏側の戦記」との「江戸期の照合論」である様だ。
この戦記資料は、江戸期初期には余りにも幕府自らも進んで行った「松平氏側の戦記」の“有利性を持たした美化の脚色論”に対しての「反論」であったのではないかと観られるのだ。
筆者は、「徳川家康・1563年に改姓後・長篠後に多用する」は、長篠後、多くの武田氏の家臣をそっくり抱え込んだが、この中の者が密かに「名・ペンネーム」に変えて「擁護論」を展開したのではと考えられる。
それが誰かは正確には判らないが筆者の見立てでは二人居る。
それをできる者として、先ず、綱吉の側用人の「柳沢吉保・甲斐青木吉保・時光系青木豊定の孫」が密かに家臣の誰かに命じて纏めさせたものでは無いかと考えている。
もう一人は、「松平氏の重臣」で「二俣城の副将」の「青木貞治・三方ヶ原で戦死」の「子孫・戦功を揚げる」が「無駄死にした先祖の名誉」の為にも「真実・史実」を書き記し遺したと観ているのだ。
この「駿河青木氏の青木貞治」の「子・長三郎・伊賀越えの功労者」とその子孫は、「御側衆3500石・上級番方」に取り立てられ破格の出世をしたのだ。
では、此処で、「柳沢吉保・青木吉保」の事は前段でも充分に論じているので、もう一人の上記でも論じた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に「貴重な情報を齎した者」は誰だったのかであるが、其れは「二俣城副将の青木貞治」である。
当然に、「伊賀青木氏の銃隊・荷駄隊50」にも、又「伊勢シンジケート・香具師・伊賀隠密」も参加している事は当然の事として、「伊勢隠密」も放っていた。
そこで「情報経緯」として、「松平氏の内部の情報」をどの様に「情報」として獲得したかを解明して置く必要がある。
実は、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「指揮官」と、「国衆として銃の取り扱い訓練」の「指導者」として、前段でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」がこれに当たったし、且つ、「三河」に「開発業や殖産業」をして「長篠後」にも爆発的に子孫を多く遺した。
ところが、前記の「松平氏の重臣」で「二俣城の副将」の「青木貞治・三方ヶ原で戦死」は鎌倉期までこの地の「秀郷一門の豪族・駿河秀郷流青木氏」であった。
「全国24地域116氏」のここは「州浜族と片喰族」と呼ばれた一族の24地域の一つの定住地の一つであったのだ。
平安期には「駿河の最西端」の遠江との国境に定住した水軍族であって、伊勢屋信濃の制止を振り切って「源氏化」して源平戦に参加して滅亡したが、「伊勢」に依って再び探し出され「伊勢」で訓練を受けた「復興一族・女系」であった。
この「三方ヶ原後」の「青木貞治の子孫・長三郎」は「家康御側五人衆と呼ばれた者」で、「本能寺の変」の時、「堺に居た家康」を護っていた「御側五人」の中の一人であった。
この時の「伊賀越えの事件」には、「青木貞治の子孫・長三郎」以外にも「実家の駿河水軍」には他にも功績を挙げた者らが居たのだ。
伊勢の資料を繋合わせると、その詳細経緯が記され判って来る。
これによると、「本能寺の事件」と「青木長三郎から持ち込んだ家康救出作戦」が伊勢で採られた。
「堺の伊勢青木氏・仮名を使う・摂津店の商人」に先ず話を持ち込み、「伊勢シンジケート」を使って「伊勢福家」に連絡し、更に「一族の伊勢秀郷流青木氏」にも話を通し、「伊勢青木氏」が「伊賀青木氏・伊勢シンジケート」に指示して「伊勢」まで擁護して「四日市・青木氏」まで救出し一時休息させた。
そこから更に「青木氏資料の白子湾説」、又は他説では「長太浜説」より、「伊勢水軍」が周囲を保護して「青木氏の船」で「三河の大浜」まで運び助けたとする有名な歴史的経緯があった。
「伊勢水軍の伊勢衆」は後にこの事で家康から「お墨付き」を貰い江戸までの「永代の廻船業の許可」を得たとして記されている。
又、「伊勢シンジケートの情報」により「出迎え」に廻って海から警護に当たったこの「駿河水軍・実家」も「家臣・水軍」に加えられたとしている。
つまり、これが「駿河青木氏の青木貞治」の裔で、「伊賀越えの御側衆」で貢献した「駿河青木氏の青木長三郎の実家」であるが、この実家も家臣と成ったのだ。
これは「家康」には、「徳川軍に水軍の必要性」を感じさせた事件でもあり、「三方ヶ原の青木貞治と子の長三郎」の実家先の「駿河水軍青木氏の存在」をも認めさせた「勲功・褒章」であったのだ。
今川氏、松井氏、中根氏から遂には独立して、「近習衆・近番衆・近侍衆・近国衆の三河衆」の旗本に対して、「家人衆」と呼ばれる「関東の秀郷流一門・官僚族」が成った関東の「旗本」に加えられたのだ。
但し、注釈としてこの「伊賀越え」では、「家康を助けた者」では「堺の商人」も「伊勢の青木氏」やその「船などの所有者」もを「青木氏側」では一切直接に名を出していないのである。
「内部の資料・祐筆の記録」にもこの件の行動が記載されて遺されてはいるが、「本名を出さない仕来り」のこれは、全て“「青木氏の古来からの仕来り・青木氏の氏是」”である。
因みに、前段でも論じたが、もう一度この事に少し触れて置くと、その一つとして「信長の伊勢攻め」で「戦いの出城」として「松ケ島城」を建築したが、この際に、城の築城建材の一切を「堺商人・伊勢青木氏・伊勢屋支店・名変える」が請負い掛け合っていたが、物価高騰を理由に「高額な値」を付けて織田氏を財政的に影から揺さぶり、「伊勢シンジケート」を使って城建築の現場に職人を送り込み、建築材の遅延を理由に工事を遅らせ、挙句は「伊勢シンジケート」に依って出来上がつた城を燃やしたのだ。
この時も、「堺商人」は「伊勢」に害を及ぼさない様に「実名」を隠して接したのだ。
歴史書には時々出て来るこの「二人の堺商人」は当に「伊勢青木氏の人物」である。
「秀吉の長島氏攻め」でも同じ手を使って出城建築を遅らせたのだが、これを秀吉に気づかれて「自らの兵」を使って吉野の山から木材を切り出すと云う破目に成ったのだ。
この「偽名の手段」は、「堺支店の掟」であり、「堺」に限らず「全国488店の支店」にも適用されたと記されている。
この様に都度、「名」を変えたとしているのだ。
これらの事は、「青木氏の資料の行」のみならず「江戸期の物語風の戦記・二つ」にも成っているのだ。
通常は、要するに「超豪商」は「名」を変えるか、「顔」を見せないか、「人」を変えるか、時には「店」を変えるかして対応していたのだ。
この掟は別には借財も抱える等もしている「武力の持つ者」からの害を防ぐ目的があったのだ。
最大の目的は二足の草鞋にあって「商い」の行為が「賜姓臣下族青木氏の格式」に尾よ場無い様にする為の掟であった。
一般的にも超豪商は「テレビ物語などの様な実名を出す様な事」は決してなかったのだし、「伊勢青木氏」には奈良期からの「格式の氏是」があったのだ。
「伊勢青木氏」は「朝廷の命」で「紙屋院」として「925年頃」から「商人」も兼ねる「二つの顔」を持つ様に成ったが、これ以来に基づく「商人」としての「厳しい掟」があったのだ。
取り分け、実務の「堺支店の堺商人」や全国に店を持つ一族の「伊賀青木氏の香具師・隠密商人」等にもこれが求められていたし、これが大正期まで続いていたのだ。
これ等は明治期初期に「維新政府の命」や、「火付け打ちこわしの嫌がらせ」の圧力も受け無償放棄で「本店関係」を残し解体したのだし、「伊勢の青木氏部」も同然であった。
其の後には、広大な大字の本領地の土地までも、又、債権も無償放棄する結果と成り、この掟等は遂に歴史を閉じ霧消したのだ。
「伊賀青木氏の香具師等の各地の店」も一部は昭和初期までとし多くは大正15年頃までに各地に「影」を残し解体されるが、「明治期の厳しい締め付け」が緩み改めて大正期頃から各地の支店であった定住地では「掟」を無くして「青木・・店」として再出発している。
正しく理解する為の青木氏の歴史観として上記を付記する。
戻して、これ、即ち、「伊賀越え事件」は「渥美湾の制海権」を獲得した「9年後の事」である。
この「駿河秀郷流青木氏一族」の「菩提寺の西光寺・青木貞治」は「静岡県盤田市目付」にあって現在もある。
「南下国衆の指揮官」であった「伊勢秀郷流青木氏」の「三河伊川津田原」の「古跡神明社の隣200m」の所にも「菩提寺・西光寺」があるのだ。
この「二つの西光寺・秀郷流青木氏菩提寺」は真東西に「54kの位置」にある。
「伊勢の青木氏の裔系」とは「四掟」に基づき古来より「女系」で何度も網の目の様に繋がり、互いに助け合って来た。
当然に、「三方ケ原の戦い」の中でも容易くに「情報交換」はあったと考えられ、「内部の事情」は間違いなく把握出来ていたと考えられる。
故に「伊勢の家人等に遺されている手紙」などの「資料」には、信用度は高く資料の行の各所には「伊賀越えの事件」の一節等が記されていたのだ。
長い間の一族でありながら「情報を遮断すると云う事」は100%あり得ないだろう。
公で無くても提供しあっていた筈であるし、上記の通り「伊勢からの資金援助」も充分に有ったと考えられる。
そもそも「青木貞治等」には、「滅亡した駿河水軍の駿河青木氏の子孫」を探しだし、「伊勢」で教育して大船一艘を与えて駿河に帰しているのだ。
勿論、俯瞰し合っている「青木氏一族」のみならず「松平氏」にもである。
「松平軍」はこの「莫大な資金」無くしてこれだけの「長い間の戦いの戦費」は「石高」では何もできない。
「家康」も、「二俣城の副将・青木貞治」に据える位であるとすると、「青木氏」に於ける一族関係は承知していた事は間違いなく頷ける。
故に、だとすると、これが“「額田青木氏の南下国衆との初期の約束」”をぎりぎりのところで護った事になろう。
そもそも、氏家制度の社会の中であり、その様に考えるのが普通である。
寧ろ、筆者なら大いに利用したが、ところが「青木氏の氏是に基づく信念」を貫き、「提供」が結果として「青木氏に危険を招く」として、「資金の提供」はあったとしても「銃の提供」に関してだけは応じていないのだ。
又、「銃の保持」は、「青木氏の氏是」に関わらず、「銃」は「銃シンジケート」に依って掟の範囲で隔離され、仮に「金銭」が有っても「仲間の約束」は護り「調達」は難しかったのだ。
そもそも「青木氏の銃」は「貿易と財力と高度な熟練」を無くして手軽に保持できる「銃型」では無かった。
ハッキリ言えば、この「三つ要件」を身内に備える、況や“「青木氏銃」”であって「青木氏族」にしか使えない銃であったのだ。
それだけに飽く迄も「保持の前提」は、「額田青木氏の南下国衆の護身用の改良銃」であって、「松平氏・この頃から徳川氏を頻繁に名乗る」は、それを「国衆の戦力」として観てこれを「味方に持つ事」と引き換えに、「渥美湾の制海権の獲得の条件」を認めたのだ。
その意味では、“戦力と云うよりは抑止力的効果を期待していた事”も一部では読み取れる。
況や、この意味でも、「青木氏族の一員」の“「青木貞治とその子孫の松平氏の内部の活躍具合」”が読み解けるのだ。)

「青木氏の伝統 62」−「青木氏の歴史観−35」に続く。



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