青木氏氏 研究室
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  • 福管理人[副管理人]より -
    青木氏には未だ埋もれた大変多くの歴史的史実があります。これを掘り起こし、研究し、「ご先祖の生き様」を網羅させたいと思います。
    そして、それを我等の子孫の「未来の青木氏」にその史実の遺産を遺そうと考えます。
    現代医学の遺伝学でも証明されている様に、「現在の自分」は「過去の自分」であり、子孫は「未来の自分」であります。
    つまり、「歴史の史実」を求めることは埋もれた「過去、現在、未来」3世の「自分を見つめる事」に成ります。
    その簡単な行為が、「先祖に対する尊厳」と強いては「自分への尊厳」と成ります。
    この「二つの尊厳」は「青木氏の伝統」と成り、「日本人の心の伝統」に繋がります。
    この意味から、青木氏に関する数少ない史料を探求して、その研究結果をこの「青木氏氏 研究室」で「全国の青木さん」に提供したいと考えています。
    そして、それを更に個々の青木さんの「ルーツ探求」の基史料としたいと考え、「青木ルーツ掲示板」を設けています。
    どうぞ全国の青木さん、その他ルーツ、歴史に興味がある方、お気軽に青木ルーツ掲示板までお便りください。お待ちしております。

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      [No.376] Re:「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/11/09(Sat) 10:21:25  

    > 「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」の末尾

    > 現地調査には、 この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
    > 時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。
    >
    > 注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
    > 奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
    > 中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
    > 故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
    > 「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。
    >
    > 取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
    > 「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。
    >
    > 従って、上記の「2〜4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
    > そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。
    >
    > 上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


    「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」


    そこで「伊豆」の「伊勢美濃信濃との繋がり」の問題である。

    先ず「伊豆」にその「関わり」の届くまでの経緯がどうであったかである。
    それには「伊勢と美濃の間の事」を明確にして置く必要がある。
    大きく関わっているのだ。

    前段で「伊豆」には「抑止力のシンジケート」が及ばなかったと論じたが、実は「伊勢の桑名」から「美濃の土岐」までの間には、「シンジケート」は無かったと観ていて、それを補うには「神明社の存在」であったと観られるのだ。
    「伊勢桑名」に集中する「神明社」は、この間には「小牧」から「知多」に向かって当に一線上(当時の正式な神明社はたった4社)に在った。
    平安期中頃にはこの両サイドの「桑名」と「土岐」との両間には“「不思議 1」”な事に全くなかったのである。
    この「美濃」に「神明社経路」が無く成れば「伊勢」から「伊豆」には当然に「青木氏の情報のルート」が途切れ「情報や物」が届かない。
    ところが、「尾張」に何故か不思議に存在しているのだ。
    そうすると「尾張―三河」と行けば「伊豆」に届く筈である。

    では、“何故に、「美濃」に無く「尾張」では一線状に遺っていたのか“と云う素朴な疑問が残る。
    やるなら、平安末期では「神明社」は全部潰すのが常道であろう。
    然し、戦略上それは出来なかった様である。

    「神明社」は、「青木氏の守護神」で「重要な連絡網」ではあるが、平安期やせめて鎌倉期までは「美濃―尾張」の全ての「民の信仰の対象」でもあった。
    本来は「全滅」は其処を「治める者の責任」であり、失う事は「自らの領地」には負わなくてもよい「政治的な傷」を負う。然し、「美濃」には無く成っていた。
    そもそも「民の信仰」の「最高の信仰対象・国幣社」が無い事は「民の信用を失う事」に成る。
    然し、放置する訳には行かなかった筈だ。

    では、どうするかである。
    要は、その目的は「美濃―尾張間」の”「情報の遮断」”であった事が遺された資料の一部に記されていて判っている。
    だとすると、つまり、その推理は「勢力者」は「青木氏の力」を削ぐ為には「伊勢―信濃」の間に「神明社の空白地」を作る事であったろう。
    且つ、それを観察できる様にするには、両サイドから中間地に縦に固めて一線上に監視すれば「ある目的」は叶えられる。

    これは平安期末期から室町期初期までに「力のある影の神明社の存在」が「美濃―尾張間」の「統治者」に執って戦略上好ましい事では無かった事に成る。

    これが「不思議 1の策」と下記の「不思議 2の策」であった事に成る。

    これは、「上記の経緯」から「平安末期から室町期」の「戦乱」で「神明社」が「戦いの城郭」と成った事で故意に潰されたのである。
    それ故に「青木氏」としては「神明社連携」が以降採れなくなったのである。
    その証拠が青木氏の資料の一説に下記死ねされている事であろう。
    明らかに「青木氏が持つシンジケートの力と情報の遮断」が狙いとみられる。

    それには考えられる事として「青木氏」に対して「戦いの為の金」を要求されていたと観られる。
    此の拒絶した事の結果として、後に「伊勢での青木氏との激しい戦い」と成った。
    これは明らかに、次の「二つの事件」が「美濃―尾張間」の「神明社の破壊」を起こしているのだ。

    先ず一つは、平安期の平家に依る「富士川の戦いと石橋山の戦い」で「戦い拠点」を破壊された事。
    次の二つは、室町期の「伊勢攻め」の時の「織田氏の仕業」と「神教と仏教の力の排除」した事。
    三つは、「平安末期の美濃の源氏化」で「美濃側の方」で「伊勢の影響の強い神明社」を取り壊した事も考えられる事。

    三つ目はこれに関する行の資料記載がない事と、民の為の格式を持つ「国幣社」である「神明社」を壊す事が自ら「源氏化を否定する事」に成り、且つ民の信頼を失う事に成る。
    遣るとしても直接的な破壊は無いだろう。

    従って、以上の二つと主に云える。

    (注釈A 平安期末期(1178年〜1180年)にも「神明社」が“「戦い拠点」”とされた為に現実にここで破壊が起こった。
    「伊豆」に流されていた頼朝は「以仁王令旨」で挙兵し、「伊豆の目代」の「館」を襲撃して殺害した。
    ところが「石橋山の戦い」で頼朝は「平家」に惨敗してしまい安房国に逃亡する。
    この時に「戦いの拠点」と成って「尾張―三河―伊豆の神明社」は消滅したと記録にある。
    其の後の駿河の「富士川の戦い」でも「尾張東と駿河間の神明社」は消滅した。)

    (注釈B 「比叡山焼き討ち」や「今井のシンジケートの排除」や「蓮如への攻撃」や「根来の焼き討ち」や「雑賀族の攻撃」や「紀州門徒衆の討伐」等でも遺ったのに「美濃尾張間の神明社」は消滅した。)

    結局は、「伊豆の神明社」は鎌倉期に多くが消滅するのだが、これが原因して伊豆には「祠の神明社」が多い所以なのであって、上記した様に「遺跡」が多い所以でもある。
    その後、「伊豆」に入った「青木氏の財力」で神明社は再興されたが、江戸初期の「神明社の放棄」で「幕府の管轄」と成った結果、「幕府の財力不足」で再び荒廃した。
    殆どは、「江戸期の荒廃原因」ではあるが、「伊豆」では密かに「祠」で祭司していた。
    この事は、「桑名から美濃の西域」は「祠の神明社」で「伊勢青木氏」は祭司したのだ。
    然し、平安期末期からは「美濃から駿河」と「伊豆までの間」は遂に対策が出来なかったのである。
    つまり、「神明社を経由する情報網」と「美濃から駿河」の「シンジケートの構築」は切れてしまったのである。
    これが「伊豆」まで及んで「商い」で生きていた彼らには生きる死ぬかの大きな痛手であった。

    その「美濃から駿河」の「シンジケートの構築」の断絶を物語るものとして、「織田氏の膝下の岐阜」にあったのだ。
    つまり、それは答えは「信長」である。

    この「信長」は「過去の歴史の履歴」から「青木氏」が「戦い」に裏から絡んでいた事を知っていた。
    それが「神明社の事(今井神社も敵視された)」に成る。(前段で記述・記録有)
    室町期末期には、美濃域で僅かに遺し得ていた「神明社網」が「伊豆」までのその元を断絶された事に成るのだ。
    「伊豆の命の綱」である神明社を遮断されたのである。

    それには、「神明社の存在の実情」は、更に、室町期末期の「美濃」には、「不思議 2の策」の事に成る。
    それは「三つの野(青野、揖斐野、各務原野)・三野」にしか「神明社(一社ずつの3社)」は無いのである。(神社含まず)
    これも、「情報網の遮断」であり同様である。

    本来であれば「肥沃な三野である事」からその目的から最も多く有っても良い筈である。
    全国に500社弱あったとする「神明社」である。
    前段でも論じた通り「伊勢の桑名寄り」に集中してでも「19社」あったとすると、少なくとも平安期中期までにはこの「三野」にもそれなりの数の「神明社」が充分にあったと考えられる。

    そこで「尾張―駿河」の域は再興し得る「青木氏族の存在する地域」ではそもそも無い。
    従って、「美濃の事」でこれを論じて観る。
    元より平安期末期以降は、この間は「神明社」は無かった事から、連携先の関係の深かった「今井神社の情報網」を何とか使っていたのであろう事は充分に判る。

    筆者が行った「シンジケート族」のプロットも「縦の線上形」であったとは云えこの間で全く切れているのだ。
    故に、筆者はここまでをこれが「伊勢シンジケート」としたり、「伊勢信濃シンジケート」と書いたりしている所以なのである。

    これは明らかに、実は「信長」に依って「伊勢―信濃間」の「シンジケート」が遮断されていて警戒されていた事に成る。

    これは裏を返せば、ここに「(a−1)(a−2)の様な族」が「信濃寄りの山間部」に逃げ込んだとする根拠ではある事になるのだが、これは同時に「信濃のシンジケートの根拠」と成り得ていた事にも成る。
    資料でもそうなっている。
    そこでこの「シンジケート」とは、単なる「経済的な契約」のみならず「青木氏族」とは切っても切れない関係にあった事を当時は一般に常識であった事に成る。

    つまり,何故ならば上記した様に元々は「神明社の繋がり」のあった「美濃と尾張」である。
    そもそも、「設楽」を除いて、この地域は「7世紀の古来」は全て元は「野」であった。
    「古書」によると、その「尾張」は、“尾の張りたる地”と記され、“肥沃で土地厚く天領の国”と記されている。
    その「裕福な農業生産力」で「機内への地理的な背景」から「天領地」として支えていた事が記されている。

    その「尾張の名」の語源は「ヤマト王権」の持つ東の「権力の端(野の尾)」を意味していた。
    この様に「三野と張野」の「広大な野」は「逃げ込む所」は無いし、「野の富」を求めて「武力」が働く。
    今昔共に、「平和」でない限りは、「生存競争」に依って「武力」に弱い「(a−1)(a−2)の様な族」が此処では生き延びられる事は不可能である。

    (注釈 “尾の張りたる地”とは、”元気な動物は尾がピンと張っている”と云う事で、「肥沃な土地」の事を意味する。)

    故に、上記の通り、当然に「平安期末期の戦い」では遂には「両サイドの山間部」に逃げ込む事は必定である。

    では、次に逃げ込んだずっと後の室町期のこの「断絶遮断の問題の解決の糸口」の問題である。
    つまり、言い換えれば「室町期以降」は「伊勢と信濃の青木氏族」はどの様にしたのかである。
    何かをしなければ「命の綱」が遮断されたのであるから「信濃の衰退」と「伊豆の滅亡」が目に観えている。

    ところがそれには「最も安全な連携手段」があったのだ。
    それは「神明社の断絶」の起こった「伊豆」でもそうであった様に要は“「船」”であった。

    前段でも何度も論じたが、「伊勢青木氏」は、「紙墨硯筆」等の「宋貿易」で「大船」を平安期初期(925年朝廷の許可で「商い開始」)の頃から持っていて、1025年頃には「総合商社」をも営む。
    更に「伊勢水軍(七割株)」も持っていた。

    これは「伊豆」に「青木氏融合族」が入るほんの少し前(1159年)の頃の事である。
    従って、「信濃」から塩尻の「木曽路」を経て「美濃の土岐」まで出て、そこから「山伝い」に真南の「駿河の渥美湾」に出れば事は事は済む。
    これで「船の策」は成立する。
    「伊勢水軍」も配下にあるので伊勢からのこの「渥美湾」までの「暫定の経路・2時間」は成立する。

    そして、この「美濃の土岐」からの「暫定の経路」の「縦の線状域」には「神明社」や「特定の寺」が「戦い」から逃れて僅かに遺されていて存在分布する。

    後はこの「渥美湾」を海路で獲得するにはその域までの「縦の経路」に「守備隊」として誰を引き出すかであろう。
    「信濃自身」が勢力を前に出して出て来るのか、或いは、「信濃シンジケート」を引き出すかの「二者拓一」であった。
    何れにしてもリスクは大きい。
    「武力」を持たない「信濃」も自らの聖域が「国衆」に依って脅かされている。
    その答えは「何方のリスク」がより現実性があって柔軟に対処できるかであろう。

    その前に出て来る以上はその「縦の環境の如何」であろう。
    この域の多くは、記録で観れば当時は未だ“「三野」”の名の通りに「土岐域の周辺部」は未だ「山間部」であったと観られる。

    「日本書紀の記述」等に依れば、「木曽川」を境に現在の「岐阜県南部」と「長野県木曽郡」の中間地付近に歴史的考察から「三野王の拠点(美濃青木氏)」があったと読み取れる。

    この「拠点」は「木曽川」を挟んだ「各務原野の右域」、つまり、「土岐域付近(土岐氏)」との間にあった事に成る。
    従って、ここの「三野」に渡り、「(a−1)(a−2)の皇子族」も初期には点在して定住していたと考えられる。
    「三野王」を始祖とし「氏族」を形成していた「美濃青木氏」、土地の「土豪土岐氏」との血縁族の「土岐氏系青木氏(「各務原野の左域定住)」の「三氏」が住み分けしていた地域と観られる。

    そこで「神明社」に替わる「情報網の復元」の為に「渥美湾の船の対策」には次の手を打っていた。

    この「重要な注釈」として述べる。
    前段でも論じたが、一説では 「土岐氏系青木氏」の「傍系の流れ」を汲むと考えられていた“「伊川津七党の青木氏族」”が、室町期末期に「三河国渥美郡の土豪集団」として集団化して勃興した事が「古文書や資料」にも記されている。
    この「古文書(郷土史)」の説には実は「青木氏の資料」とは異なっているのだ。
    そして、「三河徳川氏の資料」の中には室町期末期の「三河の戦記等」としての内容の一部に、更に、「額田郡」にも「山間部」から出て来て「美濃の青木氏(額田青木氏・蒲郡青木氏)」を興したと記されている。
    この後の説と「青木氏の資料」とほぼ一致する。

    そこで内部を解明すると、「伊川津七党」の「内部の構成」は実は二つに分かれているのだ。
    「伊川津の土豪の集団」には「古文書」が記する様に、干拓して入植して室町期初期の頃から定住した者等が豪族化して「4つの土豪」があった。
    又、前段の経緯の通り、戦乱期の室町期末期に入った「美濃の青木氏(額田青木氏・蒲郡青木氏)」があった。
    この「二つの族」が互いに護りあう集団の「党」を構築したのである。
    これが「伊川津七党」と呼ばれる集団である。
    この内の「三つの青木氏」に関わる族が入り「伊川津七党」を構築したのである。
    前段で論じた「a−1の青木氏」と「a−2の青木氏」とこれ等と血縁した「bとc族」の「三つの青木氏」が室町期末期に入り、そもそも「合計七党」を構築したのである。

    (注釈 「郷土史」には「郷土」をよく見せようとして、この様に大雑把に表現して真実かの様に見せかけれる手法は目立つ。
    この{江戸期の郷土史}は、信用性を高める為に”「古書」を前提として書いた”としているが、過去の経緯をよく調べないで記述している。
    そもそも、この「郷土史」は「徳川三河の戦記集」には「三つ」あって、この「三つの三河記録の史実」と異なるのだ。この事を敢えて認知しなかった事に成る。)

    「渥美湾」を境に真北に「額田郡」と真南に「渥美郡」がある。
    全く直線的な「真北南の対岸」の位置にある。
    実はこれは偶然ではないのだ。

    そこで、何故、美濃青木氏が源氏化して、源平戦で一度、敗退して「美濃の加茂−木曽の山間部」に逃げ込み「シンジケート」として生きてきた彼らが、室町期末期に「真北にある額田郡」と「真南にある渥美郡」に恣意的・故意的に出て来たのかである。

    そもそも「一郷士」が出たくらいでは無理であり、当然に「戦国の世」の戦場に出る位である。
    それには、相当な「次の条件」を整っていなければ成し得ない。
    これは「青木氏」にしか解き明かし判らない真実の経緯なのである。

    それを解く。

    一つは「相当な経済力」
    一つは「相当な集団力」
    一つは「相当な武力」

    この「三つ」を裏打ちする事が先ず必要である。
    その上で次の事が叶えられていなければならない。

    「相当な背景力」
    「背景力の権威」

    以上が叶えられれば、「戦国の世」に突如出現する事が可能と成ろう。

    況してや、「尾張の隣三河」である。
    世にも有名な「戦国中の戦国の地域」である。

    此の突如出現する元と成つた「情報網の切断の対策」は、先ず「伊勢と美濃」、「美濃と信濃」の「経路を立て直す事」であった。
    そして、先ずはその上でその経路で「尾張の隣三河」と「伊豆」に繋がる「駿河を繋ぐ戦略」であった筈である。

    「駿河」に繋がれば後は「藤枝、三島、富士宮の伊豆青木氏」に繋がる。
    重複して「今井神社系シンジケート」との連携も可能に成る。
    そうすれば、「伊豆」の「繋がり」は護れる。
    然し、これは簡単な事では無かった。

    それは「最後の決定的条件」は次の事であった。
    それが矢張り、記録には無いが全体の経緯から観て「決め手」は”「船」”であった様である。

    当時の「廻船の裏の仕組み」があってそれには、勝手に「出入り」は出来ないのだ。
    その「海域」を統括する「商人の差配頭(船主組合)」との「繋がり」を持っていなければならない。
    この「繋がり」は「組合株」を入手できるかにあった。
    これらを入手できる事で、「商いの裏表」の「圧倒する力」で、以上の美濃の額田の「二つの国衆」が突然に出現出来上がる仕組みである。
    先ずこの条件を叶える必要があった。

    (注釈 「伊勢海路」での「摂津の組合株」は持っていた。
    然し、未だ突如出現の前は「三河駿河域」の「組合株」は持っていなかった。
    当時は、時の政権が財源を獲得する為に「太平洋側の海域・瀬戸内まで」に「4つ奉行所」を設けこれの管理を商人に任し、そこから「莫大な利権」を獲得していたのである。
    「商人等」は「組合組織」を作り固め、その「組合人」に「株券」を発行して安定を図った。
    「時の政権・武力」を背景にこの組合の差配頭等は政権に勝るとも劣らずの金の力を持っていたのである。)

    室町期までの「紙文化」に依って「巨万の富」を獲得していた「伊勢信濃の青木氏」は、前段でも論じた様に「二足の草鞋策」で、これを当時の大大名以上等比べる事の出来ない程のこの「総合力」を持ち得ていた。

    前段でも論じたが、1545年頃に「伊勢青木氏」は、源平戦に参加し衰退した「駿河域の株券」を持っていた「海運の駿河青木氏の支流族・血縁関係」を呼び寄せ、「伊勢水軍」で再び訓練させ「船一艘」を与えて「伊勢と信濃の商い用」の「駿河水軍」を復興させた。
    つまり、この「駿河青木氏の組合株券」を以てして「渥美湾の利用権」を獲得したのである。
    これで「伊勢」から「伊豆」までの「商いに依る航行権」を獲得した。

    そこで問題に成るのは「渥美湾の中継点」の「確実な構築」であった。
    これ無くして伊勢水軍と駿河水軍を繋いだルートは中継点が弱ければ成功しない。

    そこで「伊勢信濃の青木氏」は「二つの国衆」の背後にいよいよ就いて「大戦略の準備」に入った。
    記録に依ればこれも「1545年頃」に「準備」に入ったとある。
    然し、これは「捉え方」に依っては「武力に関わる禁手」であった筈である。

    その「青木氏族」が、要である「神明社とシンジケート」を遮断された以上、この「禁手」を止む無く外してそこで「織田軍の弱点」を突く事に成ったのである。

    それだけに重要であって一族生命線の「伊豆」を救う為である。
    唯、それは流石に直接に「禁手」を使えなかった。
    そこで「額田」の「信濃シンジケートの族」に持たせようとしたのである。

    (注釈 前段でも論じたが「伊勢青木氏}の「額田の裔系・桑名殿の浄橋飽波の裔」にである。
    「彼等」を再び興し、且つ、「伊豆」が救える二策である。)

    その為には、この域に勢力を持つていた「織田軍」の「彼らの弱点」を突く事にあったのである。
    つまり、歴史的にも有名な「水軍(弱体)」にあった事は有名である。
    織田軍は中部域を抑えるには「織田水軍」が必要であって、伊勢湾の水軍伊勢衆の仲間割れをさせて一つの小水軍を味方に引き入れたことが「三河の記録」にも記されている。

    この事を充分に承知していた伊勢水軍は伊勢青木氏と共にここを当に突いたのである。
    ここに「楔を打ち込んだ」のである。

    (注釈 「熊野水軍の九鬼氏」に繋がる「志摩水軍の嶋衆・弥富族」があったとされ、これが伊勢湾の水軍衆の一員であったが、結束を裏切って信長に着いたが然し未だ勢力は弱かった。
    現在も海運業として遺る。)

    筆者は、この「記録」の行の表現から観て、「神明社の力」と「情報の遮断」で、相当にぎりぎりに困った末に採った手であったと受け取れる。
    何故かである。それは「青木氏の禁手の氏是」にあった。
    普通はこの「氏是」を破らないと成し得ない事は充分に理解できる。
    「氏是」か「伊豆」かで在ったと読める。
    然し、「伊豆」を選んだ。「実戦」を選んだと云う事に成る。

    そこで次の手を打った。
    「信濃シンジケート、つまり、額田青木氏等」を呼び出す前に、記録では“「1545年頃」に「準備」に入った”とする「行」がある。
    然し、「説得」から始まり「移動」までの「準備」が必要で在ったと観られる。
    「約300年間」も「シンジケート」の中で生きて来た「二つの族」を一つにして「差配頭」を定めて結束させなければならないし、「国衆」としての訓練も必要に成る。
    「訓練の指導者」を「秀郷流青木氏」に協力を求めなくてはならない等多くあった。
    仮に“「1545年頃」に「準備」に入った”とすると、「実行(1560年頃)」までには「準備は15年間」かかった事と成る。

    そこで、この「国衆」にとして仕上げて呼び出しには次の様な経緯があった。
    それを複数の資料の時系列を纏めて観ると次の様に成る。

    先ず、
    1 「木曽と賀茂」に潜んでいた「(a−1)(a−2)の美濃の額田青木氏」、つまり、「信濃シンジケート・とそれに付き従っていた「bとc族等」に力を与えて呼び出した。
    2 そこで呼び出した「美濃の(a−1)」の彼らに「渥美湾」を挟んで「真北に額田郡」に配置した。
    3 「真南の渥美郡」には「美濃の(a−2)青木氏」と「bとc族」を配置した。
    4 この「海の防衛ライン(渥美湾と伊勢水軍)」を「国衆の武力」で作り上げさせた。
    5 「渥美郡の青木氏」には伊勢屋信濃の青木氏であると云う事を前提に”「四家」”を構成させ、「伊川津の土豪」等と「伊川津七党」を構築させた。

    (注釈 そこで「国衆の武力」にはある驚くべき誰も出来ない特徴を持たしたのだ。)

    この「史実」に依って、“「伊勢から信濃までの連絡網」を再構築出来た”と考えている。

    後は、「駿河水軍」と「船での横のライン」を造れば「神明社網」が亡くなった「伊豆」に到達する。
    「神明社替わり」の「船のシンジケート」は出来上がる。

    (注釈 「記録」に依れば、この事に依って「三州街道 R153」を経て、もう一つは「R19」で、凡そ「200キロ」であるが、ここを「三河蒲郡」から「信濃塩尻域」に縦に入った可能性がある。
    ある「国衆の武力」に依ってこの縦のラインを構築できた。)

    そこで、「伊豆」までの「海の横のルート」と「信濃」までの「陸の縦のルート」を確立させるに「必要な事」は「三河の松平氏の勢力」に何とか関わる必要があった。

    この「時期の三河」は、主に「今川氏弱体化」と「徳川氏勃興」と「織田氏伸長」の「戦乱の混乱期」にあり、「各地の豪族」が入り混じって「国盗り合戦下」にあった。

    そこで、この上記の「二つの戦略」を実行するには「青木氏族」は、「(a−1)(a−2)」として潜んでいた「美濃青木氏族」を一つに「集団化(国衆)」して表に出したと云う事に成る。
    それには、次に「三河松平氏の国衆」に成る事であった。
    其れも相当に魅力のある「国衆」で無ければ成らなかった筈である。
    そうでなければ「松平氏」は信用しない筈である。

    現実に、記録に遺る処では「東の三河衆」は信用したが「西の三河衆」は信用しなかったとある。
    その結果として「西の国衆」で在り乍ら「東の三河衆」に組み込まれた。
    「東の三河衆」に組み込まれる事は、青木氏の描いている戦略には「違い」が生まれた事に成る。

    「重要な事」は、”美濃から彼等を出す以上は「集団化を壊されない絶対的条件」”を付加しなければならなかった。
    先ず、その為に、そこは「国衆同士」で、「必要以上の戦い」を避ける為に、「活用野」ではない“誰も目に着けない「不毛の土地”」であった「二つの域(今川の土地)」に限定してここを確保する事であった。
    「二つの域」と限定して記されている。

    この「二つの域」が次の地域であった。
    ・現在の「蒲郡町付近」
    ・湾対岸の「伊川津町付近」と「田原・吉田町付近」
    以上と記されている。

    その為にこの訓練された「二つの美濃集団」は以上の地域に直下で先ず南下したとある。
    当時の「蒲郡」は、未だ「額田一色側の山間部」に向かって地形的に食い込んでいて、何れも「小さい漁村と石切り場」であったらしい。
    記録に依ると、“額田郡蒲郡の「横川(西田川の事)」より「引小舟」で遡った“と記されている資料もあり、従って「奈良期の美濃王の本拠」は現在の「額田の一色町」にあったとあり、これが額田の事に成る。

    さて、その前に先に重要なのでこの「一色」の「成り立ち」を説明して置くとする。

    そもそも、この“「一色」”の「地名」は、「伊勢」にもあって、「施基皇子」の「しき」を“「一志」“と”「一色」”との「二つの地名」に変化した事と成っている。
    現在もこの二つの地名は伊勢にある。
    この「呼称」を「地名」や「第二の氏名」として使う事は、直接に「施基皇子名」を使う事は憚られ、且つ、「嵯峨期の詔勅」で禁じられている。
    従って、そこで「施基皇子の権威」を誇張して良く見せようとする場合は、この一色等を使用した。
    つまり「額田青木氏」は「施基皇子」の「子の桑名殿」の「二世族王の裔系」であるとして、定住地にこの「一色」を使用したのである。

    注釈 「足利氏の裔系」に鎌倉期から室町期には乱用されたが、本来は中国から伝わつた習わしで、その「姓の発祥地」を本来の姓の「戸籍名」として、この「権威名の一色等」は、「本貫名」、又は「第二の姓名」と称し、「権威や象徴性」を「搾取的」に高める為に用いた。
    「足利氏」の裔系には、そもそも、「本貫名」の由来は全く無いが、源氏支流性を誇張する為に搾取しても用いたものである。

    さて、そこで「額田郡の事」に付いては、前段でも論じたが、「青木氏の記録」では「一色殿」、又は「額田殿」の「二つの記録」が遺る。

    明らかに「蒲郡」と「伊勢の地名」と、同じ“一色”の「地名」を使っている事は、彼らは「(a−1)と(a−2)」の族(「美濃の原士・信濃シンジケート」)であった事に成る。

    そして、彼らは「伊勢信濃青木氏」と血縁性の強い平安期初期の「美濃の額田青木氏」か「土岐氏系美濃の青木氏」であって、平安期には「皇子皇女族」の多くが「三野王族系」に入った。
    つまり、確かに「嵯峨期の新撰姓氏禄」の「族区分け」の「(a−1)と(a−2)」の族(「美濃原士」)であった事には成る。
    然し、ここに「天皇としての裔系」の無かった「光仁天皇」は、止む無く「光仁期」に出自元の「伊勢の青木氏」が「追尊」を受け「二世族と三世族」が王位等を遺志に反して追尊された。

    この時、「桑名殿の女」の「浄橋と飽波」の「二人」がこの「美濃王」に嫁いだが、この「二人」は「氏としての路線の違い」を理由に「女系の裔系」を編成した。
    実質は、「伊勢青木氏」と「美濃王の青木氏」の「裔系差の争い」が「三野の内部」で興ったと見られる。

    この現れの一つが「一色の地名」であって、その中には、「“一色”の地名」と「“額田”の地名」まで遺した事と、“「一色殿」と「額田殿」”の「二つの記録」が遺る事を勘案すると、これはより「青木氏族」に近い「皇子族の子孫(a−1)」が居た事を示しているのだ。
    つまり、間違いなく「伊勢青木氏の裔系」であつたのだ。
    そもそも「三野王族系」には決して使えない「清光寺や清光院の存在」が明らかにこの事を証明する。

    (注釈 念の為に前段の記載を重複すると、(a)は「皇族真人族系」で、 (a−1)は「皇子皇女の朝臣族系」で、(a−2)はその「末裔の朝臣族系」で、その「区分け」は「新撰姓氏禄」に依る。
    「美濃のa−1」は、「光仁天皇期」の「伊勢青木氏の桑名殿」の「追尊二世族」で「浄橋王女と飽波王女」による「直系の女系子孫」であり、「伊勢青木氏の裔系」である。
    (a−2)はその「伊勢青木氏の裔系」の子孫である。
    (bとc族)はこの地に赴任していた官僚族であったが、後に(a−2)との血縁で繋がった族系である。
    「源平戦」で「三野王の美濃族」が滅亡し、これに参加しなかった「伊勢青木氏の裔系」、つまり、「浄橋と飽波の女系の裔系族・a−1、a−2、bとcの族系」が「信濃シンジケート」と成って「額田・一色・端浪の以北の山間部」に逃げ込んで、「伊勢信濃」との「繋がり」を持ち生き延びた「伊勢青木氏の裔系の族」である。)

    注釈として、 歴史的な経緯から考察すると、「秀郷流一門の結城永嶋氏」の「勢力圏の最西端」にあった事を前提にすると、この域を利用してこの「額田郡」と対岸の「伊川津」の「国衆としての獲得」はこの「勢力圏」を「梃子」に周囲を牽制する為に此処を選んで張り出して来ていた事を示す資料でもある。
    つまり、この域が「国衆として安全な戦略的域」としては都合が良かったと観られる。

    「伊勢と信濃青木氏」は、「伊勢藤氏」やその一族の「伊勢秀郷流青木氏」を始めとしてこの「情報遮断の事」に付いて、彼らに「戦略的な協力」を求めたと考えられる。
    それは、「永嶋氏の丸に片喰紋」の「家紋」を、この「額田青木氏」の中に引き継いでいる事でも判る。

    つまり、彼らの中に「美濃青木氏の笹竜胆紋(美濃の原士)」と、その血縁族の「揖斐氏と土岐氏(土岐氏系青木氏)」の「家紋」が「土岐桔梗紋」である事から考えると、この彼らの中には「別系の秀郷一門」の「丸に片喰紋の家紋」が見えるのだ。
    どの程度の裔系であるかは判らないが、確かに彼等の中に小さいながらも「現地孫」を遺していた事は判る。

    (注釈 「州浜紋」もあるとする「近江佐々木氏の研究記録」に散見できる。
    これは「秀郷流青木氏」が張り出して来ていた確実な証でもある。
    これ等の歴史的な見地からして、「秀郷流青木氏」、又はその一門の「永嶋氏」等が「伊勢域」まで張り出した時期は次の史実からも判るのだ。
    「鎌倉幕府の頼朝」に合力下功績により特別に「秀郷流宗家の朝光・結城の出自」が、「平家の所領」として奪われていたものを、「結城等の永嶋氏所領」として認めて貰った。
    この史実からであるが、天智期に「山陽道の建設」に関わつた事が「日本書紀等」にも記されている事からも、元は奈良期初期のこの時期からである。それが「将門の乱」でも判る様に「平家」に奪われていた。)

    この上記の「注釈の事・結城域の奪還」から結果として、「青木氏族」の「永嶋族」は「力」を獲得し「関東屋形」と呼ばれる様に成って、その「勢力」は中部域まで張り出した事に成る。
    ここ事から「四国等の守護職」までも務めているのだ。
    この時に、この地域に一門の片喰紋と州浜紋の家紋が広がったのである。
    この時期が「1245年〜1540年頃」までである。
    故に、この事から「片喰紋や州浜紋」は、この時の「永嶋氏の印」であり、「三河国衆」の中に分布する秀郷流青木氏一門に「準備段階」で協力(国衆としての訓練)を得ていた可能性は否定できない。
    先ず間違いは無いだろう。

    この「美濃や三河の信濃」の「山間部」に逃げ込んでいた「元美濃の浄橋と飽波の女系族・(a−1)(a−2)の信濃シンジケート」を「単独で押し出させる」には僅かに残る「秀郷一門」の「地元の協力」が必要であった筈である。
    その「押し出した先の地域」が「蒲郡と吉田・田原」であるとすると、「家紋」の通り「三野の洲域の植物」の「片喰族と州浜族」の定住地であるので、時系列的にぎりぎり符号一致する。

    丁度、「永嶋氏の勢力」が落ちて来た時期にこの「情報・運搬ルート奪還作戦・シンジケート」を敷いた事に成る。
    「伊勢青木氏」等は「永嶋氏の勢力」が落ちて来た時期のこの時以外に無いと観た事に成る。
    この時期を逃したら“相当の犠牲を負う”と観たと考えられる。
    従って、その年代からも矢張りその「1540年頃の直前」であった事が判る。
    現実に「奪還作戦の顧問役」として「伊勢秀郷流青木氏(秀郷流近江族の左衛門太夫高郷の末子の玄蕃梵純)」が「美濃三河」を経由して軍を移動させ「結城」を護る姿勢を示しながら、「秀吉の奥羽攻略」に対して背後から「奥羽結城を護る戦略」を採っていて、「動いた史実」があり現実はそうなっている。
    そうする為には、この「三河の勢力圏」をある程度一族で抑えて置かなければ「玄蕃梵純の軍」は進められない筈である。

    明らかに、それまでは平安期末期から室町期まで「加茂―木曽」の山の中で「美濃の原士」として静かに暮らしていた事で、彼等にはこの「秀郷一門との血縁」は先ず無い筈である。
    それ以前の平安期と成っても、「時系列」と「家紋と永嶋氏の経緯」から観ても無いと考えられる。

    単に「家紋」から観れば「秀郷一門」(「永嶋氏か小田氏」)が、確かにこの時、一見して「張り出してきた事」の様に観えるだろうが実はそうでは無かったのだ。

    (注釈 つまり、伊勢青木氏が直にこれに追随するのでは無く、これは「信長との摩擦」を敢えて避けていた事に成ろう。
    それの方が「美濃三河の戦略・国衆作戦」に執っては事を殊更に大きくせず都合が良かった筈である。風林火山である。)

    唯、先ずは、この「初期の目的」は、「信長との敵対」では無く、「神明社の排除策」に対する策ではあった。
    その為のこの「情報・運搬ルート奪還作戦」は周囲に対して「牽制の戦略」であった事は充分に解る。
    然し、果たしてそれだけなのか、ところが“違うとしたらどの様な働きの役目をしたか”は分かっていない。
    又、この「永嶋氏」が記録からそもそも「一族の伊勢の長嶋氏」であったかも分かっていないのだ。

    唯、これは記録に頼らなくても次の「状況証拠」で判る。

    仮に「伊勢長嶋氏」であるとすると、少なくとも「青木氏族」の「秀郷流青木氏族との血縁」は、直接の「原士との血縁」では無かった事から、「美濃の氏族と成り得ていた原士」はその「対象」とは成り得ず無かった事に成る。

    この「情報・運搬ルート奪還作戦」の策として「額田と伊川津の青木氏(a−1)(a−2)」、つまり,約300年を経過して支援は続けていたが「美濃の原士」と成り得ていたのである事に対して、何とか“「青木氏族」”に難しい事ではあるが再び組み入れる様にした事にも結果として成る。

    (注釈 「三野王の裔系の美濃青木氏」が「源氏化」で敗退し衰退し滅亡して完全に「青木氏」から離れた。
    「伊勢青木氏の四家の桑名殿」の「二世族の浄橋と飽波」はこの源氏化路線に反対して敢えて自らの「女系の伊勢の裔系」で一族を造り離れ山間部に逃げ込んだのである。)

    この為に、そこで「伊勢と信濃の青木氏」は、「15年間の準備段階」として彼等を積極的に同時進行の形で「前段の妻嫁制度」を用いて、先ずは「伊勢の裔系」の彼等を「組織の強化・結束力の強化」をしようとしたのだ。

    元を質せば、その出自は「(a−1)(a−2)の族関係」にあったが、伊勢はこの「四掟の関係」を無視して「美濃の原士(伊川津七党の青木氏に成る)」に対しては、その為に急いで改めて現在の「妻嫁制度に依る血縁」を進めたと考えられる。
    要するに「300年の溝」を埋める為にである。
    つまり、より「血縁」に依る元の「伊勢族にする策」を採ったと云う事に成る。
    この「血縁」の一つが、「額田」から「三河の伊勢族」に入った「丸に片喰紋の所以」(州浜紋)に成ったと考えられる。

    (注釈 「伊勢と信濃」は「賜姓五役」や「9つの縛り等」の「伝統」を護り「家紋・象徴紋」は「笹竜胆紋」以外にそもそも無く、「額田青木氏」にだけは「青木氏のこの伝統の縛り」を外して改めて「伊勢の血縁族」として「片喰紋と州浜門の青木氏」を「三河」で持った事に成る。
    当然に上記した「氏是の禁手」も外したのである。
    そして、一方で「伊勢の裔系を強める策」に出た事に成る。
    「伊豆や美濃の原士」等を救う為に柔軟に対処した事に依る。)

    そもそも、「(a−1)(a−2)の族関係」、つまり、「原士(伊川津七党の青木氏)」は「信濃シンジケートの一員」であったと云う事は、「伊勢と信濃の青木氏」は、最低限その「内部の続柄の変容」を掴んでいた事に当然に成る。
    とすれば、「丸に片喰紋の所以」(州浜紋)の「美濃族」に成り得ている彼らに対して、「妻嫁制度に依る血縁」は「周囲に目立たない最低限の範囲」で進めていた事が考えられる。
    「内部の続柄の変容」を掴んでいる以上は其れの方が自然であろう。
    だからこそ「情報・運搬ルート奪還作戦」の策に彼等を説得して引き出せる事が出来たと観られる。

    唯、それには「条件」があると上記で論じた。
    それは現在と将来の彼等への「完全な保障」であった。

    それが、“「青木氏の商記録」”に依れば「信長」などにも出来ない「伊勢と信濃」だけが成せる「超近代的な保障」であった事が判る。

    それが取り方に依っては、商記録は”「別の商い」”であるかも知れないが、この時期に「大量の銃調達の計上(300丁)」がこの商記録にあるのだ。
    それだけの近代銃が大名の歴史史実の中にこの時期に抑々無い。
    記録としてあるのは「美濃の原士の国衆」にあるし三河戦記の三記録にこの事が記されている。
    「青木氏の商記録」と一致する。

    これだけの「銃調達」を出来る大名は「信長」でも無理で、「雑賀族の銃の傭兵」を雇った史実もある。
    「銃」は松阪の隣の「和歌山の雑賀族・鈴木一族」で生産されていた。
    「堺の支店」の隣である。

    ここで先にその「答え」を明かして置く。

    この「計上」は上記した様に後の「松平氏の戦記録」に記載されているのでこの事であった事が判る。
    「額田青木氏の二つの国衆」が「銃隊の編成」であった事が記されている。

    それは「額田青木氏等」に対する「近代的な保障」は、この「経済力」に依る“「大量の近代式銃の供与」”であった。
    彼らを「引き出す保障」として、成立する条件であろう。
    その当時としては“「信長」でさえ持ち得なかったもの”であった。

    (注釈 この事は詳しく前段で論じた。)

    さて、「秀郷流青木氏」との血縁であれば、「伊勢青木氏」と「同族並みの血縁」を進めている「伊勢秀郷流青木氏」や「伊勢伊藤氏」や「伊勢長嶋氏」が近くに現存していた。
    この「家紋」は「伊勢長嶋氏の家紋」でもある事は間違いないが、同紋で血縁を進んでいる「伊勢秀郷流青木氏」でも「片喰紋の家」もある事は同じであり当然である。

    「情報・運搬ルート奪還作戦」は何も武蔵までは話を持ち込む必要は無い筈であり、第一、この策の話を持ち込んだのは「伊勢と信濃」であり、リーダシップを執るのは当然である。
    従って、「伊豆」を含めた「青木氏族」を固めるのであれば、「伊勢の方」が良く充分に目的は達成出来る。
    これに依って、この事を知れば「周囲の武力勢力」は、この“「美濃の原士」”だけの行動とは観なくなり、有名な「背後の抑止力の形成」が出来る事に成る。
    そうすると、「周りの勢力」が「美濃の原士」に手を出せば「青木氏族の影の力と背後の力」で、逆に潰されるか怪我をする事は誰でも知っている。
    要するに「抑止力のシンジケート」である。その上に近代式銃で武装した特異な国衆であった。
    従って、確実に安全を確保出来る。

    もう一つは、「伊川津の七党(四土豪と額田青木氏等の裔系三氏)」が結束して、「一つの武力集団」を結成したのだが、この「七つの土豪」の中身が全て「美濃の原士」であったのかは記録的には良く判っていない。
    然し、それは下記の通り「状況証拠」で判る。

    「古書」にも“「貝塚の事」”と、江戸期に“「伊川津の田原」”に港を開いた事だけが記載されているだけで他に詳細な記載はない。

    (注釈 唯、「近江佐々木氏の研究記録」には、「伊川津七党青木氏の資料」はあり、「伊勢青木氏の商記録の資料」と一致している。)

    そこで、然し、前段でも論じた様に、「武蔵七党」の例がある。
    これから手繰ればそれは簡単に判るのだ。
    そもそも、「力の持つ惣領」が「武士」を集めて「命令の武力集団」を結成するのに対して、「党」は、「弱小武士団」を「和合の集団」により集まり、互いに「同族的結合」を成し護りあう「共和的結合」を云うと成っている。
    鎌倉時代末期から、室町期にかけて勃興した「地縁的血縁的集団」を云うともある。
    中国地方の亀甲集団もある。

    この定義からすると、「古書」にある「伊川津七党の青木氏の三氏」とは、次の事が云える。

    第一は、「七党」は「青木」の「諡号の姓」を有している事。
    第二は、「氏」と明記していて「姓族」では無い事。
    第三は、「七党」の相互は完全同族では無い事。
    第四は、「何らかの血縁性」を有している事。
    第五は、「何らかの地縁性」を有している事。
    第六は、「七党の勃興期」は同一であった事。
    第七は、「和合集合」であった事。
    第八は、「共和的な結合」であった事。
    第九は、「平安期」では「武士相当(bとc族)」であった事。

    この「九つの条件」を成立するに相当する集団は、何れも「美濃の原士」と成り得る。
    古くは、奈良期末期から室町期初期まで、「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「(a−1)(a−2)の朝臣族とその官僚族の数族(一部bの族を含む)」と成り得る。
    「美濃の原士」の其々は、「皇族系」の「同宗同門の族」ではあるが、濃い血縁性を有していない限りは「同族」では決してない。
    約700年間の間に興った「(a−1)(a−2)の101族と(bとc)の官僚族」に近い「美濃付近域」に集まった「同宗同門の族」と云う事である。

    前段でも論じた様に、この「101族」の内、「皇族の皇子系朝臣族」は、「伊勢や信濃や近江や甲斐」に入り生き延びる事が出来た。
    然し、「皇族の王系朝臣族(第五世族以降・官僚族)」は、この「美濃の地(美濃の原士)」に隠れた。
    その他の王族系の多くは死滅した。
    当然に、他の一説によると、上記の通り「平安末期と室町期初期」まで多くは滅亡したが、この「美濃の原士の族」が自発性であるかは別として、300年の歴史を経て「三河の末端近辺」に出て来て事前に「伊川津七党」と呼称して結束していたと成るとこの「事前説」が成り立つ事もある。
    「党説の根拠」からこの「事前説と云う説」も成立する事は確かである。
    問題は「出て来た後の呼称」と成るのか「事前の呼称」と成るかがこの他説で明確に成らない。

    そうすると、この他説で行くとここで「額田郡の青木氏」とは「違い」がここで生まれる。

    この先ず「大きな違い」は、「額田郡の青木氏」は、対岸の「伊川津」の様な「党」を結成していない。
    「半島の伊川津」に対して、歴史の史実にも出るこの「額田郡の海」に面した「野」に出て来ている。
    そして、この記録から考察すると、「本庄本貫の地名」を「商記録の添書」にも観られる様に、“「額田殿」”として、又は、“「一色殿」”としている。
    これは明らかに「額田郡の青木氏・額田青木氏」であり「蒲郡青木氏」と呼称されている。

    とすると、対岸に存在する「伊川津七党・田原・吉田地区」は、「額田郡の青木氏・額田青木氏・蒲郡青木氏」の「二つの呼称」が明確であれば、必然的に「伊川津青木氏」と「田原・吉田青木氏」との「二つの青木氏」で呼称されたいた事に成る。

    「渥美郡の伊川津」は、古来より「田原・吉田の地」の中央の森林地帯から「真北の湾」に向かって「伊川の流」とで湾海流に依って砂地が集まり「津」が進んで拓かれた地域である。
    そもそも、「貝塚」のある古来より「津の開墾」が進んだ地域である。

    前段でも論じたが、改めて此処に「六つ地域」の「住む者等(飛鳥期の磯部族)」に依って互いに護りあう「磯部族」の「郷」を形成したとある。
    その後、此処に「北の山間部」から降りて来た「(a−2)と(bとc)の原士」がこの「六つの郷」に入り、「七つの郷」を造り、結社して「伊川津七党」と成ったとある。
    その証拠が、「奈良期の最古の神明社」がこの田原地区の中央に遺跡として現存しているし、「貝塚」もある。

    「日本書紀や古書」に依れば、「信濃や土岐等の地域」が古来から「山間部の物」と「塩や海産物」との交換をしていたと記されている。
    それを仲介していたのが後漢の渡来系の「磯部族」と記されている。

    (注釈 この「磯部族」の「六つの郷(六つの党名)」は判らない。
    「日本書紀」に依れば「磯部族」は中国系の「初期の渡来人」であったと明確に記されている。)

    (注釈 更に詳しく「日本書紀等」に依れば「大型馬で搬送した事」が記されている。
    それが「馬部」であったと記されている。
    この「磯部族」と同じの「渡来人の馬部族」は「朝廷の命」で「信濃路一帯」に「牧場の開墾」を命じられている。
    この信濃一体の馬部族と三河駿河一帯の磯部族とは相互に物々交換をして関係を保っていたとある。
    故に、古くからここに「神明社」が存在したのだ。)

    上記の経緯や注釈の様な史実の背景を持つ事から「伊川津青木氏の経緯」が判る。
    何よりも「神明社の古跡」とその隣に「新たな神明社」が存在する事は「美濃・額田」から出て来てここに居を構えた証であるのだ。
    ここに「神明社」が在った事は、「神官族の青木氏の存在」を古くから証明するものであり、隣の神明社も古く、「神官族の青木氏の所以の地」であった事に成るのだ。

    何も急に無関係な地の渥美郡に美濃から飛び込んで行った訳では無いのだ。

    故に、現実に「伊川津青木氏」と「田原・吉田青木氏」と二つで呼称されている所以なのである。
    従って、結論は「事前説と云う説」は無い事に成る。
    恐らくは、「神明社の青木氏」の「神官族」を以てしてこの江戸期に記された「郷土史説」が史実を読み間違えて我説を造り生まれた可能性がある。
    然し、「青木氏の由緒ある柏紋の神官族」は、3年から5年に一度伊勢に帰り交代する掟と、現地孫を遺さない堅い掟と成っている事と「四掟の掟」と「神道の神官族」である事から、況してや江戸初期の神明社の幕府に引き渡しの後に興り得る事であって、室町期には起こり得ない話である。
    この事前説は成り立たないのだ。


    唯、南に降りて来る拠点と成った「一色」の「地名と族」には呼称は二つある。
    これを検証しておく必要がある。

    ここで、この「愛知県西尾市」の「一色」は、歴史的に1406年までは「一色氏」の「本貫」とするものであった。
    ところが、この「一色氏」は、本来は、「清和河内源氏」の「傍系足利義国の子」であり、「一色の地」に「鎌倉幕府の地頭」で始めて派遣され住み着きそこで「一色」を名乗ったとしている。
    「本来の一色」の「出自」では無い事(守護職 1376年からの1476年間 変遷実質80年間)から「時代性」が異なる。
    更に、そもそも「本貫名」であり、諡号ではない「姓名」である。

    本来のこの「一色」は、上記した様に「奈良期」からの伊勢から発祥した「一色・716年頃」である。
    この「一色」が使われる理由とは「伊勢の青木氏の格式」にあった。
    それは何時からこの「一色」を使う事の「格式」が生まれたのかである。
    そして、何処に「一色の地名」があるかである。

    「一色の地名」
    「三重」と「岐阜」と「愛知」と「京都」の四か所である。
    つまり、ここは「五家五流青木氏の定住地」である。
    ところが「信濃と甲斐」には無いのである。(それなりの理由があった。)

    「伊勢の青木氏 五地域」
    三重県伊勢市一色町。
    三重県津市一色町。
    三重県津市久居一色町。
    三重県四日市一色町。
    三重県桑名市一色町。

    「美濃の青木氏 三地域」
    岐阜県瑞浪市一色町。
    愛知県一宮市一色町。
    愛知県稲沢市一色町。

    「額田の青木氏(三野の青木氏系4氏) 四地域」
    愛知県蒲郡市一色町。
    愛知県豊田市一色町。
    愛知県岡崎市一色町。
    愛知県豊橋市一色町。(吉田系)

    「青木氏外の一色」(斯波氏系の足利氏 四地域)
    ・愛知県刈谷市一色町。
    ・愛知県西尾市一色町。
    ・愛知県名古屋市一色町。
    ・京都府京都市上京区一色町。(斯波範光が京都所司代。)

    以上の様に「一色の地名」は分けられる。

    「愛知県」は上記の通りの「北域の額田の一色」から「蒲郡の西域までの地域」に掛けての「北南の広域の地名」である。
    「愛知県豊橋」は「吉田・田原の右隣」に位置し、「伊川津青木氏(田原青木氏)」の領域であった。
    この事で「額田の一色」が南に下がって行く過程がこの「一色の分布」でも解る。

    但し、「愛知県西尾市の一色」は上記の通り鎌倉期に地頭として清和源氏傍系を名乗る「足利(斯波系)氏」が使った「一色」であり異なるし、及び「・印」は「西尾の一色の域」であり異なる。
    中には彼の有名な一商人から出世した「美濃の斉藤氏」が「斉藤の姓名」がありながらも「一色氏」を名乗るなどの事が起こっている。

    この様に、「一色の格式」を室町期に勃興した「諡号のない姓族」は、「本貫名」を利用して「権威と象徴」を搾取誇示する為に恣意的に搾取して用いて誇示しようとしたものなのである。
    つまり、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、衰退したと云えども「美濃の青木氏を名乗る事」は出来ないのだ。
    然し、そこで「美濃の青木氏族の様な氏名」を直接は使えない為に、この「権威や象徴に肖る」として「伊勢」からの「志紀、色、一色」の「古来の地名」を利用して「本当の姓名」を名乗らず「一色の地名」を採って、如何にも「所縁」があるかの様に見せかける様に地名・本貫を「第二の姓名(第三の名)」として名乗ったのである。
    庶民から這い上がった「斉藤の姓等」はその典型である。全く無縁である。
    「清和源氏河内系の足利氏の斯波氏」も直接的な所縁は無い。

    「志紀、色、一色」の地名を使って「権威や象徴に肖る」為に、「第二の姓族」としては「藤原氏、菅原氏」等を始めとして「3氏族、3姓族」の「六つ」が使われているのである。

    三重県は全て「四家の地域」であり、「伊勢市」から始まる。
    「岐阜の端浪」は前段でも論じた通り「青木氏の領域」である。

    そもそも、この様に「伊勢の一色」の「格式」を利用して名乗った「第二の姓族」がある事が判る。
    決定的には600年以上の時代経緯の異なる「一色氏」を名乗る「(a)と(a−1)(a−2)と(bとc)」では無い「姓族」には因みに次の「五姓族」が名乗っている。

    上杉氏、斉藤氏、土岐氏、足利氏(斯波氏)、菅原氏の以上の五氏がある。

    (注釈 上記の姓は本来の「氏族」とは異なる。
    何故、この「五氏」が「本貫名」の「一色氏」を名乗ったかの「所以」は、三河の「本来の一色」は上記した「施基皇子」の“「しき」”の「色」による所以から来ているが、つまり、この五氏は“「地名の権威と象徴・格式」”で名乗ったのである。
    そもそも、嵯峨期で定めた「正式な氏族」と云うものでは無く、要するに「第二の姓族」であり、「諡号族」ではない。
    従って、一色である事は100%無い。況してや「本貫」ではない。)

    注釈として 前段でも何度も論じたが、“「地名の権威と象徴」“を「姓名」とは別に「公的な呼称とする慣習・本貫名」が鎌倉期から興ったのである。幕府も緩やかにこれを許した。
    「氏名や姓名」では無く、当初はその住んでいる「地名」に格式を与えようとする習慣であった。
    そもそも、「名」を持てる「全ゆる族・910の諡の号」には、「名字、姓名、苗字、氏名」の四つがあり、これは「時代の経緯」で生まれた。
    その結果、鎌倉期には其処に「名字、姓名、苗字、氏名」の「四つの名」の全てに「統治する権威」を保持する為に地名に「格式」と「意味」を与える必要に迫られたのである。
    これが鎌倉期の「地頭制度の所以」である。
    そしてこの「四つの名」には「意味と格式」を持たせたのである。

    ところが室町期初期からは「戦国時代」で、「下克上」が起こり、この地頭の族に預からない者が生まれた。この者らの「本貫名の乱用」に依ってこれが異なるものと成って行ったのである。

    取り分け、本来の「氏名を持つ者」は、何度も論じている様に、「嵯峨期」からは「縛りに適合する族」としては「青木氏」を始めとして「数族」しか無くなった。
    本貫名を使える「48氏の皇族臣下族」が淘汰されて行った。
    要するに、「新撰姓氏禄の制度」では「958族」もあった族のその「格式」が決められて仕舞ったからである。

    これを嵯峨期の朝廷が「特別の範囲の身分格式の制度」を堅持する為に掛けた“「9つの縛り」”を放棄して仕舞いその上で、武力化した「姓化した源氏族」等は、これを護れずに厳密には「氏族」とは言い難い族と成って仕舞ったのである。
    そこで、護れない以上は止む無く彼らは「元の名(名字か姓名)」の何れかを持つ様に成ったのである。

    然しながらも、そもそも元から“姓を持たない「名字・第二の姓族」は違った。
    「一段上の諡号の姓」を持つ「姓名・官僚族」よりも、「地名」に「権威や象徴の格式」の影響力を持つ「本貫名」と、その「本貫名」に所縁のある“「苗字・朝臣族の名」”を搾取して名乗ると云う「習慣の流れ」が(一部鎌倉期から)室町期に生まれたのである。
    平安期と違って「武家社会」に成ってこれを「統治する政治力」は既に無く成っていたのである。
    寧ろ、同じ立場を持つ政治家に執ってはこの「積極的なムード」を煽ったのである。
    然し、流石に「青木氏」等の「真人族の氏名」だけは名乗れなかったのである。
    搾取が見え見えで「効果」が無かったからである。
    そこで、「施基皇子の一色等」の「本貫名」なら何とか所縁があるのではないかと思われるとして使ったと云う事に成るのだ。

    これが「格式のある地名」などから「元の名・名字、姓名」を其の侭にし乍ら「公的な場」では勝手に誰にも文句の云われない「そもそもの苗字」を名乗るという事に成って仕舞ったのである。
    場所や人に依って使い分けていたとする記録資料がある。

    つまり、話は戻るが、この代表的なのは「伊勢」の「志紀と一志と一色に関わる権威」の「一色」であったと云う事である。
    つまり、行く就くところはこの「地名」に「格式」を持たせ、それを「名乗る慣習」が広まり「苗字、氏名」は「権威の場・朝廷の場での使用」と成って行ったのである。

    中には、「農民・庶民」から「武士に成る者」が全体の大半を占め、更にこれが行く就くところまで行った事に成った。
    これが「江戸期」には全く朝廷が認める「9つの縛り」の中に無い「第二の姓族」でさえ「氏名」や「本貫名」を勝手に名乗る者さえも出て来たのである。
    完全に「名字、姓名、苗字、氏名」の「区分け」には、最早、「歯止め」が効かず無くなったと云う事に成ったのである。

    「朝廷」はそれでも飽く迄も「氏名」の「構成要件が整っていない」としては推薦された殆どを認め無かった。
    ところが、それでも認められなかった「有名な件」では、前段でも論じたが、遂には「幕府の威力」を背景に勝手に名乗った典型的なものが「松平氏の徳川氏」であるし、「源氏の朝臣」や「藤原氏の朝臣」や「源氏の棟梁」等の「権威名」も名乗った。
    それも「場所場所」で「使い分け」していた事が最近の研究で判ったのである。

    この結果、最後には「激しい経済的圧力」を掛け、「宮殿の塀」が崩れるまで締め上げて、「西の政権」は根を揚げる始末と成って妥協したのである。
    然し、「源氏の棟梁」だけは決して認めず、「源氏の長者」で事を治めた経緯を持つ程であった。
    上記の「五氏」も同然でもあったとされる。

    (注釈 「江戸期の朝廷」は「西の政権」と呼ばれ、この様な「権威名等の格式の称号」を与える範囲で存在を認められた。
    江戸中期には「西の政権」は遂に「経済的締め付け」を怖がり、結局は「幕府の推薦」で幕府に金銭を積み上げて猫も杓子も認められるまでに至った。
    実質は「幕府の推薦」が「決定権」を持って「西の政権の存在」は無く成って仕舞ったのである。
    無用の長物と成っていたのである。
    この時、「伊勢と信濃の青木氏」だけが「幕府の黙認の許」で「献納」と云う形で朝廷を支援していて生活が成り立つ状況であったのである。
    従って、明治初期には、政権を取り返した朝廷は「江戸期の全ての決定」を”認可していない”として破棄してしまったのである。
    その最たるものが「藩」である。これを抑えれば幕府の政治機構は無かったと云う理屈に成る。
    [西の政権であった維新政府]は「藩」と「それに関わる全てのもの」は認めていないとしたのである。
    従って、「江戸の期の藩」は”「政治機構」”では無く、あれは単なる”「家」”であったとして決めつけたのである。
    この論理で「江戸期」に与えた「江戸幕府の権威」は全て「無」と成った。
    依って、正式な形で「西の政権」は続いていたとしたのである。)

    「朝廷」は、そもそも、「嵯峨期の詔勅」と「新撰姓氏禄」と「9つの縛り」の「掟」に合わない「氏族」を構成していない。
    それにも関わらず、そもそも「姓名を持つと云う形態」は論理的にあり得ず、「第二の姓族」である故に、「正しい氏族」は「諡号五姓の氏」のみであるとしたのである。

    この様な例にもある様に、抑々、「本貫名」の「一色」とは「最高格式の苗字」として使われたのである。

    (注釈 「施基皇子」は「天皇に継ぐ浄大一位の格式」であった事から「春日宮天皇」と追尊されたが、「天皇の格式を有した者」でこの「本貫名」と成ったのは{施基皇子}だけである。
    「天皇位」は、明大一位・明広一位・明大二位・明広二位の四階級があり、この直ぐ下が「浄大一位」であり、「皇子」では「歴代最高位」で「皇太子」より三階級も上位であり、歴代には無い。
    それだけに「施基皇子の本貫名」は天皇に継ぎ「格式」が高いのである。)

    (注釈 下記に論じる事は「青木氏の氏是」に添付されていた資料で、研究過程では全く難しくて歯が立たず判らなかった。
    そもそも筆者の苦手な「漢文」で記されてあって、当初は「般若経の添え書き」かと観ていた。
    つまり、「施基皇子が伊勢王」と成って臣下した事に依る「賜姓青木氏の心得」を定める際の「経典」かと余りに解釈が難しい為に観ていた。
    其の後、研究が進み「青木氏の家訓十訓」の「解き明かし」とかが進む事で、この書の意味が違うと気づき始め、更に「漢文」を勉強し、「視点」を自由にして解こうとした。
    最初に気づいたのは、「経典」では無い事は直ぐに解った。
    そこから芋づる的に「青木氏の氏是」を定める必然的な前提である事に気づいたのである。
    「理解の土台」の無い処に「青木氏の氏是」を急に定めても長い間には護られる事は補償出来ない。
    そこで、「光仁期」か「嵯峨期」の所で、その「絶対的な必要性」を認識して、「青木氏の氏是」に付け加えて遺す事を考えたと観られる。
    筆者は、白羽の矢の後の嵯峨期の政争期であったと観ている。
    つまり、「桓武論説」と「嵯峨論説」の政争である。
    この時から、「桓武論説側」に着き、政争から逃れる為に、二度と「白羽の矢」を受けない様に「女系の妻嫁制度」をとって「皇族」と一線を画した。
    ”「青木氏」は「青木氏」で行く”と云う「氏是」である。
    唯その時に、「桓武論説側」である為に「伝統」として「氏是の前提」を遺す必要性に迫られたと云う事では無いかと考えられる。
    「氏是の前提」を消えない為にである。
    その「前提」を時代により変化しない様に難しく書き記したと云う事では無いか。
    その「前提」で一字一句読み解いた。
    これには「相当な歴史観」が必要とされた。
    それが「下記の論説」の結果である。)


    さて、前段でも何度も各所で論じたが、「漢文」で書かれた書を改めて「氏是の前提」なるものを筆者なりに現代風に判り易く咀嚼して「要約する」とすれば、次の様に成る。
    ただし、「漢文」とはそもそも「基本と成る解釈方如何」ではその「意味合い」が「古来の中国の漢字」の持つ「意味合い」で大きく変わる事が起こる。

    先ず、「本貫名」の「一色」とは「最高格式の苗字」として存在する。
    それは次の理由による。

    要するに、後にこれを「苗・なえの字」、つまり、「苗字」と云う事に成ったのである。
    この「苗・なえ」はそもそも「縄・なわ」と云う意味があり、「なえ」は「なわ」に通じ、「苗のある域」、即ち、「縄の張る域」、即ち、「田の域」を確定する時に「縄張り」をしてその範囲を決めていた。
    これがその夫々の「苗のある範囲」、即ち、「縄張り範囲」、つまり、これを「字・あざ」としての「単位」で区切られて名付けられる。
    そして、これを「呼称」として区別する為に、この「字・あざ」に「名を着ける事」が興こる。
    これを「縄張り」の「苗の字」、即ち、「苗字」と呼んだ。
    そして、その「縄張りの範囲・字」が功績に依って更に大きく成ると、遂にはそれが「地域」と成ってこれを「地名」と成って行った。

    古来、「格式」を表現する手段として、「飛鳥期から奈良期初期」に於いては、その「者の功績」に依って「朝廷」より与えられた上記で意味する「田」の「縄張りの範囲」と「民の数」の「二つ」で以てその「者の格式」を表していた。
    ところが、この「格式表現の方法」に限界が来た。
    それが、「功績の積み重ねに依る拡大」と「官僚の増加数」にあった。
    そこで、この「格式表現」の「田」の「縄張りの範囲」と「民の数」の「二つ」を基本にして「十二階」に分けて「格式の名称」を着けた。
    これが、「推古期」の「冠位十二階の制度」であった。
    その後、「大化の改新」を経て「天武期」には「官僚族」も著しく増大し、「功績に応じた褒章」も増え、「二つを基本」の範囲が広がった。
    それで、これを「二十六階」、「四十八階」と増やされたが常にトツプの位置に存在した。
    更に、それでは済まず、「格式」までのみならず”「服装の色」”までも決めて階の「格式の区分け」をしたが、「祖・施基皇子」は常に「濃い赤紫の色・黒紫」であったとされる。

    そして流石にこの「グループ分け」のこれでは「格式の官僚機能」に「障害」が生まれ、これを「八の服装の色」で「グループ分け」をした。
    これが「八色の姓制・やくさのかばねのせい」である。
    後に更に「十二の草の色」に色分けされた。

    中でも「浄位族・真人族・継承皇子族」は特別として区分けしたのである。
    そこから、「天皇位の特別枠」の「明大一位から四位」と明広一位から四位」に加え、この「浄大一位から四位」とか「浄広一位から四位」とかの以上の「十二階の冠位」が生まれた。
    この時も祖は「浄大一位」であったとされる。
    つまり、これは「祖の冠位」のみにあらず「永代の冠位」を示す。

    従って、結論として、そこでこの「祖」の「施基皇子」の「浄大一位」の示す処は、「最大の縄張りの範囲の字」と「民の数」を持つ者としての況や「苗の字」であり、つまり、それが我々裔の「青木氏」なのである。

    (注釈 その「八の草色」は「真人」。「朝臣」。「宿禰」。「忌寸」。「道師」。「臣」。「連」。「稲置」に曰くとある。)

    (注釈 この書はこの事から「施基皇子期」に書いたものでは無い事に成ると筆者は読み取る。)

    我々の「青木氏が持つ地権田」の「縄張り」がこの様に「広大」とすると、当然にそこには上記の通り「田の範囲を示す苗字・みょうじ」が生まれた事に成るのだ。
    そして、それが余りに大きい為にこの「苗字」を「諡号の姓名」とするのでは無く、更に大きい特別の「氏名」として権威づけたのである。
    故に、依って中でも「伊勢の青木氏」だけは「諡号の姓名」を持たない「氏の形で構成された大きさの族」なのである。
    況や「氏族」なのである。
    これにより当然に「諡号の姓」は持たない事に成るのだ。
    これが「浄大一位の族」である「特定の条件」なのである。
    この「当然の事」に加え、所謂、「氏名の持つ族」である為に「諡号の姓名」の「識別紋」も無い事に成るのだ。
    あるのは、所謂、「浄大一位」だけの「格式紋の象徴紋」と成るのだ。

    況や、「浄大一位」であるが故に「神に仕える僕族」に必要とする「神木」をも持てる「唯一の氏族」であると成ったとするのだ。
    それが「神木」の「青木の木・イ」であり、「神木の柏・ロ」であり、「笹・ささ・ハ」である。
    この「笹」は、「万の神々」の「百々・ささ」に通じ、「竜胆・ニ」は「八色の姓制の最高色」の「黒紫・浄大一位」の「浄・きよらか」に通じ、依って、これを「神に仕える氏族」が持つ由縁から「神の具」のこの色の持つ「笹竜胆」を「神の象」としているのだ。
    故に、最早、これは「格式の家紋」では無く、「神に仕える僕族・氏族」の「象徴」としているのだ。

    注釈 「具・とも」とは、その古来の語源は「とも」と意味し、「神、宮の御人の唯一の供」としている。
    つまり、「神明社の神供」にして「笹と竜胆」は「神の唯一の具供」である事を意味する。
    要約すれば、「神木の青木」、将又「神木の柏」に相当する木では無く、「神の草」の「笹と竜胆」は「神の具供」であるとしているのだ。
    依って”「神草」”と云う事なのであろう。
    況やそれが転じて「八色の姓・八草の姓・や草の姓」と呼称しているのであろう。
    要するに、この「八色」は「神の草の色」であるとしている。
    結論は、この「色を持つ者」は「神の子」であると定義づけている事に成るのだ。

    つまり、それが故に「禁令」である「諡号の姓名」が無い為に、特別に「本貫名」として「志紀、色、一色、一志」と「地名」として「裔の者が持つ田」には「苗の字」が「着けられる事」に成るのだ。
    そして、これが余りに広大である為にこの「地権田の域」を「志紀、色、一色、一志」となずけた所以である。

    (注釈 別の資料に依れば「地域」だけでは無く、古書の中にはこの「田」そのものにも「権威」を持たせ「一色田」と書いたものもある。
    これでこの「田」がどんな「田」か判る事に成る。)

    (注釈 「伊勢」には時の変化と共に地名が祖名の「志紀・施基」から「志紀」の「一志」と、「施基」の「一色」と、「浄大一位の役服」の「色」の地名と変化したのだ。
    それが、その「伊勢の裔・青木氏」が「五家五流に拡大する所以」を以て、先ず、「伊勢の一色」は勿論の事として、桑名殿のこの「三野」の「伊勢の裔系」の「額田の地」だけに名付けられたと考えられる。
    其の後の「他の一色」は、前段で論じた「三河等の子孫拡大」で広がったが、「青木氏外の一色」は搾取に依る。
    従って、「9つの縛りの条件」には適合していない「三つの裔系」が、何時しか血縁して「土岐氏の一色氏」とか「足利斯波氏の一色氏」の系譜では、それなりの「所以」を持っている事では妥当であろう。
    詳しくは「厳密な一色氏の考察」は論外とするが、これらの「一色」は元は一色では無く、干拓に依る「大きい田の表現」として用いられたと観られ、その「大きさ」が「字」より遥かに大きい「最大田」の「一の単位の大きさ」を一つの表現としていたと考えられる。
    兎も角も、然し、何度も衰退を繰り返した「足利氏斯波氏系一色氏」は、丹後に復興したが、「細川忠興」に依って1579年に完全に滅亡させられているので、この「一色の地名」は問題外でもあるし意味合いも少し違っていると考えられる。
    既に、この時は「斯波氏」は「行動」を起こしている時であるので「時代査証」は違う。後着け説とも考えられる。)

    (注釈 前段でも論じたが、この様に「地名の一色」と同様に「権威や象徴」を持たせようとした他に典型的なものには、例えば「天皇家の式紋」の「五三の桐紋」を変紋して「秀吉の五七の桐紋」と同じ意味合いを持つ。この様な搾取は歴史的に多くあるのだ。
    この事は歴史観として留意する必要がある。)

    依って、そもそも、この「書の説く処」は、この「祖」の曰く「青木氏の氏是の前提」は「浄大一位の諸々の由縁」を以て、その「裔系」は絶対的に護らなければならない「掟・前提・根拠」であるとしている。

    (注釈 ところがこの後に「裔系の嵯峨天皇」に「賜姓族と令外官」を外された。
    従って、この「書の前提・根拠とする処」は弱まったが、これを以て故に敢えて先祖はこの「一枚の書」を遺したか、その直前の「桓武期」に遺したかの何れかである。
    直前では「桓武論説」と「嵯峨論説」が「醜い激しい政争」と成っている時期で、臣下間もなくの時期であるので、「皇族の影響」を何とか避けて生きようとしていた時期でもある。
    この事からも筆者はこの「直前説」を採っている。
    それは、この解きたく無くなる様な「難しい書の前提、根拠の書」の中で物語る”「神明社」”を裔系が守護神として護る以上は、それには”「賜姓五役」”が依然として「青木氏の施基皇子族の裔系の役務」として付きまとうが、この「役務」が遺されているからで故に「直前説」をとっているのである。)

    唯、この「書の前提、根拠」の「一つ」としての「一行」には、重要な事が記されいる。
    それは「賜姓時の象徴」として授かった「大日如来坐像の所縁」が見逃すかの様に簡単に記されている。
    ところが、実はこの「行」が大きく「青木氏の歴史観」に問題があるのでここだけは「別書き」にする。

    この「大日如来坐像」は「最大の伝統物」として厳格に護られて来た現存所有するが「最大の形」として遺る「書の前提、根拠」のものに成るのだ。

    これは「二尺の紫檀}で造られた{木像坐像、台座付」であり、「司馬達等の裔」の「鞍作止利」の作と刻まれていて、「作製年月日」が「大化1年末」と共にある。
    本来は「木像坐像の仏像」としては「一尺六寸」が基本である。
    これに「敷台、台座、光背、藍、如輪・・等」が付け加えられ相当大きいものに成る。
    然し、「青木氏の鞍作止利」の「大日輪の木像坐像」は二尺である。
    「敷台」や「座台」や「光背」や「藍」や「如輪」を加えると裕に「七尺五寸程度」と成る。

    そもそも、「施基皇子の裔系」の「伊勢の青木氏」は「647年」に「第二世族第六位皇子」として「賜姓臣下朝臣族」と成った。
    「仏師の鞍作止利」は「623年」に「30代の若年」で仏師として選ばれて「法隆寺金堂の釈迦三尊像」を「天皇の命」により作ったとされ、この時の「逸話」が幾つか遺されている。
    そこから、「24年後」に「祖」は「賜姓臣下」して、この「大日輪の木像坐像」が「賜姓象徴物」として授かったとある。
    丁度、「作製年月日・大化1年末」のこの二年後に「天智天皇の大化改新」に依って「七色十三階の冠」が定められ、「天智天皇の皇子」の「祖」は「第六位皇子」として「臣下」して「朝臣族」と「最高冠位」を賜り、「賜姓」を授かる。
    時が確かに一致する。

    そうすると、然し、この時は未だ「伊勢の青木氏」は「神明社の神道」であった。
    「仏教」に帰依していない。
    帰依したのは記録から「嵯峨期の後」に「清光寺の菩提寺」を持った。
    とすると、この「大日輪の木像坐像」は「仏像としての物」では無かった事に成る。

    つまり、「書の行」にある様に、これは単なる「大日輪の木像坐像」は「賜姓象徴物」であった事に成る。
    故に、「仏像木造の規定尺」が合わないのであるし、上記の具物が「仏像の体」を成していないのだ。
    従って、「神道」であった頃の「青木氏の氏是の前提」としのこの「書の行の一つ」として書き込んだものとして採れる。

    「賜姓象徴物」の「大日輪の木像坐像・紫檀」は「浄大一位」と”「同じ格式」”を有しているのだとして書き込んだ事に成る。
    恐らくは、この「書の伝えたい処」は、この「紫檀」は「最高の貴財木」で極めて高額で相当な天皇等の「高位の者」しか使えない、所謂、「貴財木」であった。近代や現在でも不可能である。
    且つ、それが「天智天皇」が「大化の改新」で定めた”「七色十三階の冠」”が定める当に”「紫」”でなのあるとしたのだ。
    そして、更に、この色階に従う「七色十三階の冠」で「臣下」し「賜姓」を授かり、その後の「天武天皇」の「八色の姓」と「冠位十二階の制」で「最高位の浄大一位」と成った。
    そして、「大日輪の木像坐像・紫檀」が是を以て根拠づけたと「書」は云いたいのであろう。

    現在では到底得られない高級な「貴財木」であるのだが、「賜姓象徴物」の「大日輪の木像坐像・紫檀」は、「神とする大日」と「最高位の色を表す紫檀」と「仏師の最高位の鞍作止利」とを誇示したものと査証される。

    何しろこの「紫檀」は極めて大木には成らず当時では中国でしか僅かに植されず「貴重木」で、況してこの「大日輪の木像坐像」は「横幅」でも「台座」を含めても二尺以上の「紫檀の大木」から出来ていて何と夫々「一帳木彫り」である。
    表面の全体は兵站であるが、「長方形の陵」は「葉の葉脈」を形どっている。
    裏は完全に「神木の青木の葉形」か「神木の柏の葉形」の形状をしていて「葉脈」がくっきりと刻まれている。
    「長方形」ではあるが「完全な長方形」では無く、「葉形」である。

    実は、筆者宅には、これ以外に、この「大日輪の木像坐像」に隋する「紫檀の敷座」は他に三つもある。
    この「書」には記載がないが、これ等を「一対」として記していたと考えられる。

    先ず一つは、「畳一畳分の紫檀の大敷座」の一つと、その「半分程度の敷座」が二つがある。
    「大敷座」は「6寸・約20センチ厚み」で中を「3寸・10センチ程度」に刳り貫かれ形は、「長方形の何かの葉の形・青木か柏」で、この「大敷座」はこの「大日輪の木像坐像」の「元座」であったと観ている。
    この「紫檀の大敷座」の上に「大日輪の木像坐像」が鎮座していたと口伝で伝えられている。
    今は「大日輪の木像坐像」だけが安全な場所に別に保存されている。

    そして、他の「紫檀の二枚の敷き座」は、「5センチの厚み」で「青木葉か柏葉の同形の半畳程の座」である。
    この「紫檀の二枚の敷座」は「大日輪の木像坐像」の「紫檀の大敷座」の上の左右に納めて、この上に「飾り」と見られるものを「置く台」であったと観ている。
    この二つに付いては「口伝」では残念ながら伝えられていない。
    現在は「紫檀の二つの葉形の敷座」は「二尺半程度の大花瓶の敷座」として利用されている。
    然し、この「二つの敷座」が「大花瓶の花の飾り」に使用されていたのかは記録が無いので定かではないが、筆者は左右にも象徴する何かを据えていたと観ているが発見できない。


    実はこの「大花瓶」は「対」で実に「綺麗な青磁」であり、「対の大花瓶」に「一尺程度の青磁の花瓶」が「対」として存在する。
    この大きさは最早花瓶では無いだろう。この「花瓶」そのものが「飾り」であった事が伺える。
    この「花瓶類」が「賜姓象徴物」であるかは今は「記録」が見つからないし口伝も無かった事から判らない。
    後に売買で獲得したのであれば「商記録」に載る筈である。
    そもそも、この様な持っては成らないしものとし、且つ、超々高額な「玉器」を持ち得ている者は無い。
    持ってはならないとする事は象徴物である事を意味する。
    これを「中国の儒教」もそれに準ずる「仏教」も所持を禁じ、且つ、「天皇」も禁じていたとすると「象徴物」である事に成ろう。

    「花瓶の形状」から「年代」ものである事は素人の筆者が観ても判る。
    筆者は物理学が専門でこの種はある程度の知識を有する。
    この「青磁」は紀元前(新石器)からのもので、中国や北アジアなどで造られたもので、4種類ある。
    「緑釉(中温性銅イオン・酸化第二鉄)」、「天青釉(コバルト)」、「果緑釉(高温性銅イオン)」、「青釉(アルカリ性銅イオン)」で造られる。
    それぞれ時代性が異なり生産地も異なる。
    日本には平安初期に貿易により盛ん入る。生産は江戸中期有田で生産が始まる。
    ところが「有田の青磁」は日本の土壌はケイ素酸が多い為に「色合い」も異なり「音」も違うし、形も「水仙型」が主流で低温性に近く「陶磁・無釉」に近く簡単に見分けは着く。
    そもそも、「青磁」は中国では「儒教」で使われ、「尊厳」を意味し、「玉器」として扱われ、「貴族のみ」に用いられるものとして扱われた。
    日本には「奈良期初期」に「渡来人の阿多倍等の後漢人」より伝わる。
    「奈良期の大和」ではこれを持つ事は「高位の貴族のステイタス」とされ禁じられていた。
    筆者の家の「壺口狭型の青磁」は見立てでは間違いなく「青釉(アルカリ性銅イオン)の青磁」である。
    依って、時代的には4つの中で最も古い「青磁」と成る。
    取り分け、「青釉の花瓶」の「瓶」の「壺口狭型」は古く中国の製である。

    故に、「賜姓象徴物」であった可能性が高いのである。
    (花瓶類は後に「遺品シリーズ」で論じる。)

    この「花瓶」とは別に、この全ては「紫檀の三つ」も現存するが、仮に「仏像」ではそもそもこの様な扱い事、つまり、三重の形式は採らない。
    「大日輪の木像坐像」を含めて明らかに「賜姓の象徴物」として授かった事は、この同じ「三つの紫檀の敷座」と合わせると、「仏像」そのものでは無かった事が「状況判断」できる。
    仮に「浄土密教」であって、「大日如来」を崇めるとすると、顕教の「釈迦如来の仏像形式の様式」を抑々有していない事が問題として挙げられる。
    様式的には何れにも明らかに違っているのだ。

    (注釈 この「紫檀の賜姓象徴物」の「一対」はどの様な所に安置されていたかを述べる。
    その事でも、凡その「祭司物」として扱われていたかは判る。
    先ず、「民家」でも無く「武家屋敷」でもない事が判る。
    筆者は全く記憶が無く、祖父の親族とその縁者から説明を受け再現した。
    幸いに「福家の家」の細部に渡りよく覚えていた。
    そもそも「家」と云うよりは当にそのものの「館」である。
    その前に、この館は前段でも論じが、「松阪城」を中心とした「中町の侍屋敷群(現在の殿町・御城番屋敷)」に「蒲生氏郷」から「九番から十一番の三区画」の邸を与えられていた。
    更に、櫛田川北側(松阪・現在の中町)にも「自前の館」を持ち、松阪(現在の京町)には「菩提寺と来迎寺」に近くに「福家の館」を持っていた。
    そして、松阪(現在の本町)に「紙屋伊勢屋の本店」を持っていた。
    次に述べるのは最も「青木氏を物語る福家の館」である。
    他は夫々の目的を以て「館形式」は構成されていた。
    取り分け「九番から十一番の三区画」の邸は「政治」に関わる決められた「間取りとの様式の体」であったとされる。
    この「三区画」は「城との関係事務所」を三つに分けていたらしい。
    一つは「城との殖産」、「城との商い」、「地権域の政治」であったと説明を受けた。
    それだけに大きかったと云う事である。
    「櫛田川の北側館」は殖産関係の事務所」であったとされる。
    最も上記の状況証拠と成り得るのは矢張り「福家の館」であろう。
    そして、ここは他と違って説明に依れば「大きな寺の様式に似ている事」は判る。
    その説明を完全に表現できないが縷々述べるとする。
    そもそも、これ等は当家の「仏間」と云う処に安置されいる。
    その間は、右には相当大きな「仏壇」の安置の間と、左にはこの「賜姓象徴物」の安置の間に分かれていて、夫々、東西に「一間の幅」と「南北の奥行き」が「四尺の奥行きの安置場所」を持ち、ここに納められていて、「残りの二尺」は関係する物の収納庫である。
    その前は「板敷の間」であった。
    この「板敷の間」は二間・一間の板間を持っていた。
    この「板敷の間」に連なってこの南側には「二間・二間の大広間」があって、「祭司の際」は襖を全て外して、此処に一族が参集する仕組みとなっていた。
    この南側の大広間は「客間」と呼ばれ、東には南北に二つの床の間があった。
    尚、客は、先ず、四畳半の「玄関の間」に上がり、次は四畳半の「控えの間」に移り、その次は「仏間」に移り、最後にはこの「大客間」に南向きに入る仕組みであって、「控えの間」では客に抹茶を持て成すのである、
    此の控えの間が「書院造り」であり、常に「四季の軸」が掛けられ「茶道用具の漆器の茶箪笥」があり花瓶の壺に一輪の「所縁の花」が飾られていた。
    この「玄関の間」は二つに分かれていて、先ず、南から扉を開けて入る客は「石敷の四畳半の受付の間」に入り、ここで「正式な挨拶」をして、そこから「四畳半の玄関の間」に上がる。
    この「玄関の間」と「受付の間」の高さは「半間」あり「二段の階段」で上がる事になる。
    この「玄関の間」には東に低い棚があり、ここには所縁の物が置かれていた。
    その後、此処は「畳敷き」に成っているが、合わせてここを「仏間」等の呼称で幼少の頃は呼称していた。
    周囲は全て襖で仕切られていた。
    二つの床の間には青木氏を物語る所縁の物(遺品シリーズ)が二つに分けて祭司されて、南床の間には軸が掛けられていて、全ての周囲の欄間には「横軸と額」が掛けられていた。
    この「大客間の西側」は同じ大きさの間でここは談間と呼ばれていて、客は最後にはここに移り、枯山水を愛で和歌や俳句等や俳画や水墨画を書いて楽しむ間であった。
    最後は、更に南の六畳の間に移り、枯山水の青石や紫石の石畳みを渡り裏門から帰る。
    生活や家人や家の者は別棟に住し、これらの間は更に北側と西側の四つの間に連なり、客は東門から入る者は同じ様な仕組みの間に入り団欒する。
    客は自ら何れの客層かを判断して正門の南紋か西か東の門から入る事に成る。
    北門は無かった。
    北の間の二つには「控えの間」があり、此処に数人の執事が控えていた。
    別棟には弟子等の別棟があった。ここから執事が北の間に入る仕組みであった。
    この別棟で弟子等に絵画和歌等を教えていた。
    「紀州の別低」も筆者の「記憶と口伝と調査」でもよく似ている事は判る。)

    実はこれらの内、「賜姓象徴物」だけに危険が生まれた事から平成10年10月15日にこの「賜姓象徴物」だけは「安全な場所」に保存され祭司されている。
    青木氏氏研究室 NO222 青木氏のステイタスの論に写真記載) 

    (注釈 相当以前に前段でも論じたが、渡来人の「司馬達等の孫の鞍作止利」の像を、其の子孫である「歴史小説家の司馬遼太郎氏」が勤め先の「産経新聞」を辞した後に、予約を取り筆者の松阪の家を訪ねて来て、この「大日輪の木像坐像」を観に来た事があって、現存する彼の先祖の作を観て感心して帰った。
    其の後にこの事に就いての「歴史の単行本」を限定して関係者に発刊した。筆者の家にもある。)

    (注釈 「法隆寺金堂の釈迦三尊像」を「飛鳥寺の金堂」に入れる際に「規定尺の仏像」が入らず「鞍作止利の発案」で何とか入れたとする逸話が遺る。
    当初、前段で「仏像・ぶつぞう」として論じてきたが、この論を論じると、訳が分からなくなる恐れがあって、此処で、”仏像では無い”と論じている。この書の事も同然である。
    勿論、「書の解明」が可成り後の歴史観を得た研究結果である事も含めて、此処に記した。
    この避けていたこの「書の研究」で「青木氏の歴史観」は大いに替わり全てを見直す羽目となった次第でもある。)

    (注釈 一部前段で触れた事があるが、この「書」の後に、更に「青木氏の由来」を書き記した書が在って、「平安期末期までの由来に関わる事」で、当然に、室町期の中頃の先祖に依って書されたものでその期日も書き込まれている。
    この「書」は何しろ漢文の解読困難な草書で、みみずが這った様な「超難解極まるこの書」である。
    又、この「書」からその一部を抜き出して「軸」にして飾られている。何故一部を抜き出したのかは判らない。
    極めて「達筆」で近所の「書道の心得」のある人に解読を依頼したが、この「漢文」は苦手と云う事から充分な読み取りは現在も出来ていない。
    恐らくは、「歴史的由来」そのものより「達筆性を競った軸書・悟り」であると考えられ、「禅宗の僧侶との競い」であったのではないか。
    「数人の禅僧の書」もある故に、「書の競い・即ち、悟りの境地」の会のものであろう。
    この頃、この「書」を通じてのこの様な慣習がの会が室町期にはあった事は歴史観として承知していて、「永平寺の高僧」の「書」を後に額にして欄間に架けられている。現在もある。
    何度かの挑戦で凡その「読み取り」は出来ているが、充分な研究には至っては居ないが、其れなりにその一部は「歴史観」として本シリーズで活用して論じている。
    何れにしてもこの「二つの難解の書」の解説の一つをここに記した。)


    「美濃の経緯」に付いて基に戻して。

    1159年に入った「伊勢と信濃の融合族」の「伊豆」に対してその後に脅威が三度起こった。
    一度目は入りたての時期に「源平戦の影響」での「駿河伊豆間の神明社シンジケート」が遮断された。
    二度目は「信長の美濃三河間の神明社シンジケート」が遮断された。
    三度目は江戸初期の「引き渡しに依る荒廃で神明社シンジケート」が遮断された。
    以上の三つであった。

    その大きな元は「美濃」にあったと説いた。
    源氏化した「美濃」が滅亡して結果として美濃の「神明社シンジケート」が遮断された事にあった。
    この事から「伊豆を護る」にはこの修復が「一族の喫緊の課題」であった。
    取り敢えずは「伊勢水軍と駿河水軍のルート」の「水路」で「伊豆」を補完していた。
    その為にも「伊豆」は必要な「三つの湾(内浦、下田、稲取)」に「一族の四家(福家 湯ケ島)」を置いて、そこから「情報を含む生きる糧」を内部(梅木等)に補充した。
    そして、「伊豆の入口(イ地域 三島等)」には「陸路の拠点」を置いて、「陸路の繋」と「水路の繋(藤枝)」として取り敢えずの「伊豆態勢」を整えていた。

    ところが、戦国時代は益々激化して「伊豆」も「情報網」と「生活の糧」と「商品の入手」が困難に成った。
    「伊豆」には「秀郷流青木氏」が後ろに控えていたとしても喫緊性に欠けていたので危なく成った。
    「室町期末期」の「秀郷流青木氏族」の「主力の永嶋氏」も背後に「三つも戦い・秀吉軍」を抱えていた。
    「水路」があったとしても緊急には間に合わないし「抑止力」は小さい。
    繋がった「シンジケートの抑止力」が何としても必要とした。
    それが、論じている「美濃の修復作戦」と「神明社の修復作戦」なのである。
    これを氏是を破って「上記の作戦戦略」で一度に行おうとした。

    「陸路と水路の両面」から「大作戦」が「伊勢と信濃の連携」で開始された。
    室町期は「紙文化」で「巨万の富」を獲得していて「財力」には全く問題は無かった。
    これを生かした「伊豆救出作戦の経緯」であった。


    さて、そこで「断絶の元」と成った「美濃の件」の経緯を進める。
    その後、この地を領国として治めていた「今川氏(駿河)」が滅亡し、松平家康が“「1560年」”に信長に味方して「三河・遠江」を抑え獲得した。

    (注釈 伊豆は関東官僚の上杉の統制下にあった。)

    従って、「加茂木曽の山間部」に潜んでいた「三野王の子孫」の“「美濃青木氏(額田青木氏)・a−1」”が、先ずこの「額田の地」にまで押し出せた事に成る。

    それには、それなりの「経緯」があり、先ずはその時期は次の様に成る。
    唯、実は歴史はこの前に動いていた事が判るのだ。

    先ず一案として「1560年の直後(本能寺1582年)」である事に成るとした。
    ところが注釈として、実際は“「1540年代後半の早期・準備」に進出していた”とする記録がある。
    恐らくは、これに従えば、“「国衆」”として「家康」に認められて組した時期が「1560年の前後の頃」と判断できる。
    「準備」からすると約20年後である。

    そこで資料を繋ぎ合わせて検証して観る。
    つまり、「伊勢と信濃」は「額田青木氏」として「三河一色の地(額田一色)・松平の支配地」に入らせた。
    この事は、既に、「加茂木曽の山間部・シンジケート」に潜んでいて、「伊勢と信濃」はその「子孫の成り行きの事」、つまり、「額田青木氏、一色青木氏、美濃青木氏」」を把握していた事に成る。

    もっと云えば、存在していた「土地の問題」である。
    この「一色の地」にこそ、元は「美濃青木氏の地」であった事を知っていた事に成る。

    そうすると、「美濃青木氏」の始祖の「三野王」の「戸籍上の本貫」は、「北の揖斐域」と「真南の大垣」とを「縦の直線」で結び、この「真南の大垣」と「東の土岐」を結ぶ「直角の三角州の野」の中にあった事に成る。
    つまり、「直角三角州」の「北の斜線上」には「各務原の野 1」が在って、「大垣 2」と「土岐 3」を結ぶ直線上には「小牧 4」が存在すると云う「構造の野」に成っていた事に成る。

    紐解けば、この「5点の間(額田)」に、北側には「揖斐川」、中央には「長良川」、東側には「木曽川」と「土岐川」の「四河」を挟んだ領域に囲まれた「周辺一帯の地域」であったとする「古書の記録」と一致する事に成る。


    更に、これを検証して観る。
    「大垣と真東の土岐」との間は57キロ≒60キロ
    「大垣と真北の揖斐川」の間は17キロ
    この「三角形の面積」は、凡そ510Ku
    以上と成る。

    そうすると、「古書の記録」とには、「額田の蒲郡」と「西の一色」との位置には南側に少し“「ずれ」”が起こる事に成る。

    「土岐入口」と「蒲郡」とは真北に70キロ
    「蒲郡」と「一色」とは真西で真直角に20キロ
    以上の位置にある。

    この「古書」に依れば、結局、次の様に成る。
    「入江」は「北の山側」に凸に食い込んでいた。
    「圷の野」は大きく南方に広がっていた。
    以上という事に成る。

    これは「三野王の時代」から既に「700年後」である。
    つまり、これは次の事に成る。
    70キロの「圷の野」が広がったという事
    100年で10キロ進んでいる事
    以上に成る。

    そして、これを「地形的」に観ると次の様に成る。
    「土岐―蒲郡」の間は、「丘陵・山沿い(海抜200〜300m)」である。
    「土岐」から「蒲郡」まで南に70キロと云う事に成る
    これで「700年前」より東には地形的には変化していない事に成る。

    そこで、その「丘陵」から真西に直角に20キロの位置に、この“「額田の一色」”があったとすると次の様に成る。
    20キロ/60キロ≒1/3と成る。
    「1/3の圷の野」は、「三つの河の影響(土岐川は丘陵・山沿いに流れる。)」で「尾張側」に広がった事に成る。
    以上に成る。

    とすると、「額田の一色」は、「三野王の頃」から最低でも「150年後」の「800年の平安期初期頃」(施基皇子没後、85年頃)には、「額田の一色の土地」は、先ず「土岐」よりの「山沿い側」に在った事と成る。

    “「100年で20キロ」”と云う「圷の経過期間」を経て居る事である。
    これで「額田の一色の圷」は、既に「野」として存在した事が充分に云える。

    故に、「施基皇子」の伊勢の「一志」「志紀」、又は、「一色」の「地名」の「格式由縁」を以て、それと同時に、「三河国」にも「しき」の「一色の地名」として、額田後に“「地名」”として名づけられたと考えられる。
    これは「血縁族の美濃青木氏」の「存在の由縁」であった事に成る。

    従って、「伊勢」の「一志」「志紀」、又は、それに準ずる「一色の地名」は、少なくとも「当時の慣習」で「天皇名等の皇位の名」を「地名等」に使う事を禁じられていた。
    故に、「施基皇子没(716年 追尊770年)」後の「一色の地名」の命名は原則的には無かった筈である。

    そう成ると、先ず、「美濃(額田)」でもこの間は「一色の地名」の命名は避けた事と成る。
    「平安京の遷都期(795年)頃」には、「始祖で祖父の施基皇子没716年」である為に論理的には「一色の地名」の命名は可能と成る。
    それ以前は「桓武天皇」は認めなかった筈である。
    つまり、凡そ「800年頃」には「一色の地名」は使えた事に成る事がこの検証から定められる事に成る。

    要するに、「800年頃」のこの時期は、「青木氏族」に執っては取りも直さず前段でも論じたが、「賜姓族や皇親族」から外され、その結果として「四家制度、四掟制度、四六の概念、女系の妻嫁制度、嫁家制度」等が構築されて行き、「皇族との決別」して「政争」から逃れて生き残るために強力にこの制度が推し進められていた時期でもある。
    この時期は「青木氏」を巡って「桓武論説と嵯峨論説の激しい政争」も起こっていた。

    言い換えれば「近江青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏」とは、未だ「四掟の範囲」で盛んに血縁し、これに「女系の妻嫁制度」に、朝廷に関わらない様にする為にも切り替えようとしていた時期でもある。
    「一色の地名」の命名はこの「短い時期」である事に成る。

    前段でも詳細に論じたが、この直後から「嵯峨論説派」が主導権を握り、それに沿って「嵯峨論説派」(824年頃)の「近江、美濃、甲斐」は「源氏化」を進めた。
    「795年〜824年の間」の「30年間」が「一色の地名」の命名の間と云う事に成る。

    (注釈 その証拠に「嵯峨期の詔勅の禁令」を出してまでもこの「青木氏に関する一切の慣習仕来り掟の使用」を正式に禁じたのである。
    それだけに止められない程に横行していた事が云える。
    それが更に、「新撰姓氏禄」と云う事に成った経緯である。
    それでも、止まらなくて「九つの縛り」を掛けて止めようとした。
    然し、「初代の賜姓源氏」の「肝心の嵯峨源氏」が護らなかった。)

    要するに「嵯峨論説と桓武論説」の「桓武論説派」に在り乍らも「二つの青木氏」は何れからも逃れようとしていた時期でもある。
    事態が「795年〜824年の間」の「30年間」が「一色の地名」の命名期間で在ったとすると、「額田の一色の地名」がよく遺ったと云える。
    「美濃」に「源氏化」が進んでいたとすれば「額田の一色の地名」が遺す事は無かった筈である。
    「賜姓青木氏の一色」と「賜姓の源氏」は相反する事であるからだ。

    然し、相反する事なのに遺している。
    これは一体どういう事なのかである。
    その前に、前段でも論じたが「美濃の経緯」は次の注釈の通りである。

    (注釈 「近江、美濃、甲斐の青木氏」が滅亡したとされるのは、先ず「近江の戦い」で敗退し、その後、「石橋山の戦い」と「富士川の源平の戦い」とで滅亡したとする記録に在る。
    「甲斐」は「鎌倉との軋轢」で更に徐々に衰退する。
    元々、「平家」は、先ず、「以仁王の令旨」が「近江、美濃、甲斐の源氏化勢力」に出されたのを受けてこれを削ぐ計画であった。
    その為に、先ず「播磨」の近くの「近江勢」と、そして「美濃勢」と「駿河勢」が「石橋山の戦い」で潰された。
    つまり、“「1180年8月の滅亡」”と成る。
    この「五家五流」の内の「伊勢」と「信濃」はこれに参加しなかった。
    「信濃の国友」が「伊豆」に移った直後でもある。
    伊豆に「伊勢」と「信濃」の「青木氏」が入った時期は1159年である。
    然し、「摂津源氏系の源頼光」は、「河内源氏系の頼朝」には、この「令旨」を出していなかった事が最近に成って判った。
    「鎌倉幕府の後付け」であった事が判明したので今後の歴史観は大修正が伴う。
    然し、届いているとして頼朝は動いた。
    この事が「平家の計算外」と成って「富士川の戦い」と成った。)

    この疑問は簡単に解ける。
    (注釈 この「800年頃」から「1180年」までは「血縁続きの氏族」として、「(a)の美濃青木氏・末裔」と「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」は「美濃」に存在していた。
    注釈の通り、「(a)の美濃青木氏・末裔」と「(a−1)の関連族」は源氏化に賛成して完全に滅亡した。

    そうすると、「血縁族」と観られて「逃げ込んだ族」は山間部で生き遺った。
    “山間部で生き遺った“と云う事はどういう事かと成る。
    「三度の戦い」でも“徹底抗戦して戦わなかった族”と成る。
    つまり、源氏化に反対していた血縁族が居た事に成る。
    それが「血縁族の(a−2)の族」と「bとcの官僚族」であった事に成る。
    「bとcの官僚族」は「美濃の青木氏族」で無い為に当然に源氏化は無関係である。
    とすれば、少なくとも「血縁族の(a−2)の族」はより近い位置にいた「bとcの官僚族」に引っ張られていた事に成ろう。
    近いだけに血縁も進んでいた事は頷ける。

    「三野王に縁」のある「血縁族の(a−2)の族」と「bとcの官僚族」が「逃げ込んだ族」であって「山間部」で生き遺って、「信濃シンジケート」を構築した事に成る。
    そして、「(a−2)の族」の「主家末裔」を中心に「bとcの官僚族」の「原士」がこれを護ったと成る。
    仮に「源氏化の末裔」だとしたら「伊勢と信濃の青木氏」は手を貸さなかったであろう。
    それは又、同じ事が起こるからである。
    源氏化の無縁の「血縁族の(a−2)の族」と「bとcの官僚族」で構築したからであろう。
    それは、矢張り、伊勢から「浄橋や飽波」が「源氏化の前」の「初期の美濃」に嫁いだ事に大きく関わっていたと考えられる。

    そして、その象徴として「源氏化の族」では無い「伊勢の一色の所縁」のある「一色」を「三野王の定住地」の「額田」に名付け直して「(a−2)の族」の「主家末裔」を「差配頭」に据えた事に成る。
    前記したが「シンジケートとの関わり」を持っていた事はこの事を充分に承知していた事に成る。

    「古書」や「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏の記録」から経緯を読み取れば、「五家五流の美濃青木氏」と云うよりは、“その末裔族とする”と記する事から“「一色青木氏(記述は額田青木氏)」”での呼称であった事が資料から判る。決して「美濃青木氏」とは記していない。
    要するに、故に資料は「美濃青木氏」で無く、「一色青木氏・額田青木氏」なのである。
    それが「伊勢を意味する一色」の存在した「額田の地名」から遂には「額田青木氏」と呼称されて行き、結果として。最後は「蒲郡青木氏」と呼称されて行った事に成る経緯である。
    「源氏化の美濃青木氏」であれば「伊勢を意味する一色」は使わない。

    地形から検証して観る。
    その頃には、「美濃の圷」と「一色の地名」とには、「500年の経過期間」があり、「土岐−蒲郡の丘陵・山沿い」は、「圷野の速度」が真西に「100年−20キロ」とすると、5・20=「100キロ真西」に「圷の野」は確実に広がっていた事に成る。
    従って、「一色の地名」の西には、最早、10キロ西に「知多湾域」にあった事に成る。

    そうすると、「土岐―蒲郡の丘陵・山沿い線」から西に20キロ、そこから知多湾域に直線で10キロ、合わせて30キロと成り、「圷の進行速度」の「100年―20キロの数値」から計算すると「150年」と成る。
    つまり、「三野王」から「150年の頃」は、つまり、これでも「800年の頃」と成り、検証結果は一致している事に成る。

    この「歴史的経緯」から観ても、地形から観ても、「一色の地名」の着けられる事の可能性のある期間は、地形でも「770年頃」から「嵯峨期の詔勅(823年頃)」までの間に着けられたと考えられる。

    それが「約30年〜50年間程度の間の地名」で、即ち、この間に、「伊勢―美濃の間」での「妻嫁制度の血縁」がまだ進んでいた事が云える。(浄橋や飽波が嫁いだ。)
    従って、これは「美濃」の「圷」が「野」に変化した「初期の頃」と成り得る。

    これで美濃の元の事は検証が済んだ。
    そうすると、此処で何で「甲斐」は兎も角も「信濃」に「一色の地名の論」として無いのかと云う疑問が湧く。
    何故かその確たる証拠が出て来ない。

    考えられる事として次の事が上げられる。
    1 「一色」は「美濃との関係(三野王)」にのみに使われた。
    2 「伊勢と信濃の関係」から、最早、「一色の格式」は必要なかった。
    3 「独自の生き方」をする「甲斐」にも無いのは「一色の格式」を敢えて拒絶した。
    4 「信濃」には「足利氏系斯波氏・源氏傍系族」が室町期初期(1387〜1402)に赴任した。

    筆者は、この「四つの事」が総合的に重なっていたと観ている。
    「美濃との関係改善」を「伊勢と信濃」は「800年前後」に「伊勢の青木氏」から“「二人の女(むすめ)(浄橋と飽浪)」”を嫁がせて「血縁」も含めて懸命に図っていた「史実の経緯」がある。
    前段でも何度も論じているが、これは「天皇家」の「皇子を引き取る事」により起こる「縛り無視」に対する「源氏化の問題」であったと予想する。

    敢えて、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
    この為にも「信濃」には「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。

    然し、起こって仕舞った。
    恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。

    それには二つあった。(前段でも論じている。)
    第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こったのである。
    第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」であった。

    「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」に続く。


      [No.375] Re:「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/10/16(Wed) 14:45:41  

    > 「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」の末尾
    >
    > (注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、これは「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
    > これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
    > 取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)
    >
    > (注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏」に嫁いだ「伊勢の浄橋と飽波」で生まれた゜伊勢の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41−R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
    > 結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
    > 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」の彼らは「額田一色」にその拠点を置いて伊勢と信濃の支援を得ていた。
    > 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」に従ったこの「二つのルート」(「(a−1)(a−2)の原士」)には「氏族の氏人」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成って生き延びたと観ている。
    > 故に彼等も「神明社」を守護神とする族に成ったのである。
    > そもそも考え方として、“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
    > 目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入って支援を待つ事を選んだのである。)


    「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」

    さて、そこで「伊豆の国友の件」に戻す。
    丁度、この上記の時期の直前に、即ち「以仁王の乱」の前に「頼政の件」が起こった。
    上記の「前知識の説明」で、「国友」は先ず「信濃」に入り、そこで「信濃の青木国友」と成ったとある。

    この「青木国友」は「国衆」の多い「信濃」では危険であった。
    そこで、「融合族の伊豆」に入り、「伊豆の青木国友」と成った。
    これで「信濃青木氏と頼政の策」は「平家の追及」から逃れられ「危機」は無く成り成功する事に成る。

    「皇族臣下族」としての護るべき「9つの縛り」を護らず、且つ、「四掟の範囲」を逸脱した源氏族に対して「信濃」はこの「迷惑な話」に対して上記の様に目論んで臨んだが、幸い現実にそう成った。

    そもそも、そこで「頼政の所領」の「平安末期の伊豆」はどの様に成っていたかである。

    この”「所領」”であるとされる「伊豆の青木氏」は現在では次の「通りである。

    「所領」と成ったとして「頼政」に頼まれて「伊勢と信濃の青木氏」が「伊豆」に入った。
    当初の大義は「所領の守護」であって入ったが、現実には少し「本来の所領」では無かった。

    「頼政の所領」の「名目」の前は「藤原一族の守護代」が4〜5年毎に入れ替わって務めていた国であった。
    「清盛」に「正三位」に推薦された事から、その位に相応しく「名目上の所領」を、急遽、「藤原氏の守護代」で治めていた国を与えられたものである。

    そこに「伊勢と信濃」は「守備を名目として入った事」に成る。
    ところが「名目守護であった事」から「伊勢と信濃の青木氏」は「商い」で”「融合して住み着いた」”と云う経緯であった。

    (注釈 この時代は伊勢と信濃の連携で「宋貿易」も営んでいた。この「商いの拠点」の一つとして生きた。伊豆の地形上、湾が良く商いに向いていた。)

    その結果として、「伊豆」には次の様な「青木氏の分布」が出来た。
    この定住地は「商い」を前提とした定住地と成った。


    イ地域
    静岡県三島市青木 
    静岡県富士宮市青木

    以上の「二つの青木村落地」から「南部域(下記)」までに架けて存在したのであった。

    そして、そこには記録から観てみると上記の「青木氏の条件」が存在する。
    第二の「菩提寺の来迎寺館」は「沼津市」に存在していた。(現存する)

    ロ地域
    静岡県沼津市内浦青木 (来迎寺・分寺存在)

    第一の「菩提寺の本寺A(清光寺から後に清光院)」は「賀茂郡の湾際」に存在していた。
    (一度消失し室町期中期に清光院として再建した。)

    ハ地域
    静岡県賀茂郡東伊豆青木

    その後、この「伊豆青木氏」は子孫を拡大し、次の通り駿河湾沿いに「東海道の西域」に定住地を広げている。

    ニ地域
    静岡県藤枝市青木
    静岡県静岡市駿河区青木
    静岡県藤枝市東町青木

    以上の「三つの青木の村落地」は何れも「陸路の東海道の要衝地」である。

    ホ地域
    静岡県三島市青木 
    静岡県富士宮市青木

    以上の「二つの青木の村落地」は何れも北部域の「陸路の東海道の要衝地」である。

    ヘ地域
    静岡県伊豆市土肥
    静岡県伊豆市八木沢

    以上の「二つの青木の村落地」は何れも東部域の「水路の湾岸要衝地」である。

    ト地域
    静岡県賀茂郡河津
    静岡県賀茂郡東伊豆(菩提寺・本寺・稲取湾)

    以上の「二つの青木の村落地」は何れも「伊豆中央部域東の地」である。

    チ地域
    静岡県下田市青木
    静岡県下田市吉佐美青木
    静岡県南伊豆町青木

    以上の「三つの青木の村落地」は何れも南部域の「湾岸水路の中継要衝地」である。

    唯、「古書」では「南部域の三村落・下記 リ地域」にも「青木村」があった事が記されていて、その痕跡は確認できている。

    (注釈 そもそも、何故この様な分布域に成ったかと云えばそれには次の様な理由があった。
    そもそも「伊豆」は山間部を殆どを占める為に過疎化か最近の市町村合併で消えているのでは無いかと思われる。
    筆者の若い時の訪問調査では、この「南部域の二村落」に限らず「北部域の六村域」や「中部域の四村域」や「東部域の二村落」の全てに「墓所や祠」や「館痕跡」等が「聞き取り」でも確認出来ていて、取り分け、判るのは全てに共通して「墓所の笹竜胆の家紋」で、「墓所全体」が「笹竜胆紋の青木氏」の墓所であった。
    この「集落の大きさ」とその「村落の在り様・一族性」が「伊勢と信濃」を遥かに超えていて、「伊豆の国全体」が「青木氏の分布域」に成っている。
    筆者の印象では、“笹竜胆紋の青木氏”が伊豆全体に存在したと云う印象であった。
    「土地名」は勿論の事、「店名、宿名、会社名・・・」等、当たりを見渡せば「…青木」であった。
    「伊勢」ではここまではないし、徹底していた。
    守護神の「神明社」までもが、“「伊勢神明社の名」”が着けられている。
    如何に結合性の高い伊勢と信濃の融合族であった事がこの事で判る。)

    さて、そこで「伊豆」の「菩提寺の本寺A・清光院」も含めて何れも「商い」が出来る「沿岸の港町」に集中している。
    此の湾港は「相模の秀郷流青木氏の拠点」と、三河の「額田青木氏の蒲郡青木氏」と「伊川津青木氏の吉田青木氏」のほぼ中間点に位置している。(両者の血縁族も存在か、商いで定着か)
    「墓所」や「家」や「祭」や「祠」等には何れも「神明社と笹竜胆と白旗」を象徴としているのが確認できる。

    然し、「伊豆」の「上記の地域・イ〜リ」には「頼政の象徴」を示す「八幡神社(神道)」と「八幡菩薩(仏道)」と「官位と位階(三位)」を示すものは何もない。
    「伊豆」の全ての「八幡」は、鎌倉期以降のもので、且つ、殆どは「村社格」で格式低いのである。つまり「神明社」の様な「官弊社」は全くない。

    要するに、「青木氏」が運営する「官弊社」の「神明社(賜姓五役)」では無く、況してや、「頼政」が経営する「源氏運営の八幡社」でもないのである。
    青木氏以外に存在を示す最大の要素は無いと云う事である。

    (注釈 そもそも「神社」には前段でも論じたが「社格」と云うものがあって、これは「延喜式目」で決められていて「三社格」に分けられている。この事を知って置くと研究は進む。
    この「社格式」を分ければ、「官弊社・国」は次の三社類と成る。
    官幣大社>国幣大社>官幣中社」
    以上と成る。
    一段下の「社格式」の「国幣社・地方」は更に観つつに分けられ次の様に成る。
    国幣中社>官幣小社>国幣小社に成る。
    最後は「無資格幣社」と成る。
    そこで、「村格社」は「鎮守杜社(民間社)」等であり、殆どは「無資格幣社」に近く、その運営の「神幣料」は「民間の供進」に基づくものである。)

    これで「伊豆」が「頼政の所領地」とされているが、現実には矢張り「守護代での遙任」であった事が判る。
    つまり、当時よく使われた「名目守護」であった事が判る。

    そこで、この「伊豆」に「国友」が「信濃青木氏」としても1178年頃に「潜り込んだと云う事」である。
    この「所領地」であって「所領地」では無い「伊豆」に“「青木国友を入れる事」”は大いに「頼政の望む所」で「隠す事が出来る場所」であったと考えられる。

    さて、一方そうすると伊勢の「幼い京綱」を「青木京綱」として「伊勢福家」に入れたが、問題はこの「母親の後家」の始末と成ろう。
    「伊勢」にその「存在の形跡」が何処にも無いという事は、残る「最高の策」は「国友」の様に「伊豆に隠す事」であろう。
    上記の通り「伊豆全体」が最早、「青木氏の村」である。

    「経済的な問題」や「護衛の問題」も「住み方」も何の問題もない。
    そうなると「後家」である以上は「菩提寺の二社に入る事」か「神明社に入る事」であろう。

    そうすると、「隠す」と成ると伊豆の何処かの「神明社か清光院」と云う事に成る。
    「神明社」は「伊豆」には現在は「四社」あるが、「伊豆の青木氏」の分布状況から次の様に成る。

    1 静岡県伊豆市梅木   神明社 総社格
    2 静岡県静岡市駿河区  伊勢神明社 分社格
    3 静岡県静岡市清水区  神明社    分社格
    4 静岡県富士市       神明社    分社格

    「伊豆青木氏」が「イ地域」から「リ地域」の「9地域」に分布し住み分けていたとすると、「官弊社」の「神明社」、「賜姓五役・実質は「青木氏の財源で運営」は、この「四つ」に限らず少なくとも「9地域毎」に存在していた可能性があったと考えられる。

    「伊豆」には「伊勢信濃」と共に「陸路と水路」で連携して「商い」を大々的に行い続けた事から江戸期直前まで荒廃する様な事は無かった筈である。
    但し、調査しても「融合族」であるので「伊勢信濃の区分け」は出来ない状態であった。
    筆者は「来迎寺等の分寺」と「本寺の菩提寺」もこれに沿っていたと考えていのである。
    「祠の痕跡」等が確認できるが何故に亡くなったかは良く判らない。
    恐らくは、主に江戸期の「顕教令」と「神明社の引き渡し」で荒廃したと考えられる。

    そうすると、「引き渡し」と「顕教」で「伊勢以上の事(表と裏の事)」が伊豆にもあった筈である。
    答えは何れも減少しているので資料の公開は無い。
    「神明社や来迎寺(菩提寺)との資料」は室町期後期以降しか遺されていない。

    この様な良好な環境を見逃す事は無い。
    寧ろ、「伊勢以上」であったであろう。
    「後家」を周囲の目に付かずに、且つ、早く運ぶには「水路」で運びここに匿ったと成る。
    そうすると、「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」か、遺された「稲取湾」の近くの「賀茂郡東伊豆の本寺」という事に成る。
    安全を期するとすれば「稲取湾」から「賀茂郡東伊豆の本寺」から「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」に運ぶとする手がある。

    資料が無いので判らないが、この「本寺」が室町期中期に「寺」から「院」に変更している。
    この「意味」は前段でも説明したが、その「格式」は同じとしてもその寺の持つ「特徴範囲を限定した事」を意味する。
    取り分け、「院」は「天皇家の様な高位格」に繋がる「ある種の特徴」を前面に押し出す時に使う「号」である。
    「天皇」が譲位して門跡僧に成るとその「寺格式」は「門跡の院」と成る。
    この「院の格式」は「特別の者」に与えられる格式の呼称である。通常は「院格」と云う。
    この「元寺」であった「清光寺」が室町期に「清光院」と成る事はある意味で限定して「寺の格式」が挙げられた事を意味する。

    そうすると、この「伊豆」のこの「本寺・清光院」では室町期にこの「伊勢の総宗家」の「京綱の母」の「後家の比丘尼僧」が住んでいた事を以て「院」に変更したとも執れる。
    院に変更する事は単に変更したのでは何かがあっての事と成り得る。

    「イ地域」から「リ地域」の「9カ所」に「神明社が四社」で、且つ、「東部の本寺と北部の分寺」が二つとすると、「融合族」である以上は尚更に「伊豆族全体」が、元来の「神明社の神道」を貫いていた事も充分に考えられる。

    この説を証明するには「墓所」には「寺か院」が在る筈である。
    筆者の「イ地域からリ地域」の当地の調査から「笹竜胆紋の青木氏の墓所群」は多く確認できるが、
    「寺院」は確認できなかった。
    つまり、その意味する処は伊豆全体の青木氏族は「原理主義」の「神明社神道」であった事に成り得る。

    そこでこの「神明社の神道」に付いて「神道の墓所」には仏教より前に「ある習慣」が古来よりあった。
    それを観る事で「神道」であった事が判るのだ。

    それを先ず解説して置くとこの「神道の事」が解明できる。

    仏教の「墓所」に対しては「奥津城(おくつき)」
    仏教の「戒名」に対しては「諡号(おくりな)」
    仏教の「位牌」に対しては「霊璽(れいじ)」

    以上と成る。

    「神明社の神道」は「仏教の前」からの「習慣仕来り」であった。

    この刻まれる「諡号(おくりな)」は次の通りである。

    大人の場合は、「・・・・大人・おきな」(男性)、「・・・・刀自・とじ」(女性)
    子供の場合は、「‥‥彦命」(男)」、「・・・・比売命」(女)

    この「諡号」では年齢に依って異なる。

    男で幼児では「稚郎子(いらつこ)」 女では「稚郎女(いらつめ)」
    男で少年では「郎子(いらつこ)」 女では「郎女(いらつめ)」
    男で青年では「彦(ひこ)」 女では「比売(ひい)」
    男で大人では「大人(うし)」 女では「刀自(とじ)」
    男で老人では「翁(おきな)」 女では「媼(おうな)」

    これ等は伝統の前段でも論じたが場合にはよく使っていた。
    この事を知っていなければ現地調査では役に立たない。

    「二つの青木氏族(五家五流青木氏と秀郷流青木氏)」にはそもそも「神明社と春日社」を「守護神」としているので「神道」が多く「青木氏の歴史観」にはこの知識が是非必要である。

    前段でも論じたが、「皇祖神の神木の神紋」である「柏紋の使用」を許されたと云う「最高格式の神明社」の「神職青木氏・神道」の「氏族」である。

    「神明社」だけではなく「浄土密教」の「清光寺(五家五流青木氏)と西光寺(秀郷流青木氏)と来迎寺」の「柏紋の使用」も許された最高格式の「二つの氏族」である。

    結論は、現地調査では、紛れもなく「神道」であった。
    故に、「伊豆」では「密教系の菩提寺」はこの「二社・清光院と来迎寺」しかないのである。

    「神明社」は「伊豆」では、1の「一社」しかないのである。(江戸期には荒廃している)
    子孫拡大に依って東海道沿の「2、3、4の神明社」がこれを物語っている。
    「2の伊勢神明社」はそれの証拠である。

    さて、「伊豆に入った時期」である。
    「伊豆」に「融合族」を形成したのは「頼政(1180年没)の所以である事」からすると、「従三位昇進期(正三位)」に成った事(1174年頃)で上記で論じた所領(形式上)を持てた事からである。
    それまでの「遙任の守護代」の“「伊豆」を所領とした”(1159年)とあるので、この時の直前に「伊勢と信濃」は「伊豆」に入ったと考えられる。

    そうすると、「守護代」とはそもそも3年から5年程度を「一期」として、一期ごとに一族の者に代わって9〜15年の「三期」務めるものと成っている。
    そして「5年毎」に一度都に戻る制度である。
    「頼政」の「伊豆国」の「摂津源氏族の初代の守護代」は「1159年」からで、その後に一時「仲綱」に引き継がれた。

    少なくとも、その少し前は頼政は「従五位」であって、「1158年頃・平家守護」のこの時には未だ入っていない。
    「1159年」に「従三位・正三位」の「伊豆の守護代」に成った事に成っているので、「伊勢と信濃」の「青木氏族」はその時に「伊豆」に入った事に成る。
    そこから、そうすると「京綱の母の後家」は「1178年頃・仲綱遙任守護期」には、既に「伊豆稲取の清光院」に入っていた事に成る。

    伊豆の青木氏が「神明社の神道」であるとすると、「東伊豆の稲取」の「清光寺(清光寺−清光院)」に一度は入り、其の後に「神明社の神道」の上記の「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「1の神明社」に入った事に成ろう。(境内と跡地ありね現在は「廃社跡」である)

    ここが「現地調査」で分かった事として、この付近が過去は「伊豆の青木氏の勢力中心地」であったからだ。

    (注釈 「神明社の設置条件」は「皇祖神の子神」の「神の社」なので「杜」として中心の南の山間部際に存在する事に成る。)

    「伊豆の青木論」を更に展開する。

    室町期に「伊豆」の「菩提寺清光寺」から「清光院」に変更した理由は、周囲が「八幡菩薩」と「八幡神社」を兼ねる「低格の村格社(14)」が多く「伊豆」に創建されて、「青木氏の菩提寺の清光寺」の権威が低下した事に依ると考えられる。
    その「根拠」は「伊勢(賜姓五役の青木氏の権威・格式・象徴)」から「京綱の母の後家」が平安期末期に「比丘尼」として入った事を以て「権威・格式・象徴の差の特徴」を前面に押し出したと考えられる。
    前段でも論じたが「美濃や信濃」でも全く同じ事が起こっている。
    例えば、それは「光仁期」に「伊勢」から「追尊王の飽浪王女」が「美濃清光寺」に入り、その後に「清光院」に変更している。

    この例に持つ意味が「伊豆」にもあった。
    それは、危険な「下剋上と戦乱」の「室町期中期」に成ってもまだ依然として「伊勢の青木氏」が「仁明天皇期までの出自元」であり、「新撰姓氏禄で示す志紀真人族」で、「賜姓五役の数少ない氏族」であったと云う「認識」が未だ「民衆の記憶」の中に漠然として僅かに遺っていた事を物語るものである。
    然し、これが後に「白旗派の原理主義」に対して「世情から攻撃」を受ける結果と成っていた。

    これは「村格供進の源氏社」で創建して居た伊豆の中でも、未だ「清光院」にする事でその「権威と格式」を保たれた云う事に成る。
    都に近い伊勢や信濃に比べて「伊豆」には最低限タイムラグがあった事に成る。
    これは何を意味する事なのであろう。

    これは“「伊豆」にも「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」をしたと云うことであろう。
    それは「伊勢や信濃」の様に元からいた族では無く、1159年に突然に入って来た族で、それも「高位族」と云う立場の族である。
    その様に受け取った「伊豆」であったからだ。それまでは鎌倉期の源氏族に関わった伊豆であったのに源氏が滅亡すると、其れより「院の号」を誇示できる「格式高い族」が来た事に驚いたのではないか。

    その庶民のこの「驚き」が「排斥の様な形」へと向いたと考えられる。
    その証拠に「村各社の八幡神社」が「室町期」に成っても実に多いと云う事で証明できる。
    判り易く云えば、周囲は「源氏贔屓」で一辺倒であった事に依る。
    「村格社」と云う事は、それには大きく「利害関係が働いていた事」を示すものであるからだ。
    平安末期1159年に入り、応仁の乱で頼政は平等院の別院で死亡し、この事で1178年には定住根拠が無くなり戸惑った。
    然し、鎌倉期の「頼朝保護」を受けて安泰であったが、それも「室町期の1340年頃」までには要所要所に「官幣社の神明社」が建立され、「清光寺・清光院」が建立されて来てた。
    「幡万社」と「神明社」、「八幡宮と清光寺」の「攻めぎ合い」が激しく起こったと観られる。

    然し、「神明社と清光寺」は勝利を得た。
    それは格式が「八幡社と八幡宮」の上に居たからであった。
    その証拠に、「八幡社関係」は全て「伊豆の最東部域」に移動集中し、又は、東部域を除いて「神明社域」と成っている。

    この様に、「室町期」には「周囲との絆」は「190年後」であっても充分に形成されていたとは思えないのである。

    そもそも、古来から”「伊豆族」”と云われる族は「海洋族」で占めていた地域であった。
    「伊豆」は古来より「山岳部」が中央部に多く、「平地定住族」では少な無い。
    「紀州熊野地区」と同様に地形も類似し、その「先住族」は長い間「海洋族」であった。
    その意味で、此処に入った平安中期・800年代からの「国司・守護」は、その時の「都の勢力図」に従っていて,「統治」は難しく独立性の強い海洋族であったと云われている。
    その為に守護代は「頼政」まで「約30の低位の官僚族」から成り立っている。

    歴史の変異を観ると、「初代期の国司・800年」から「頼政」までの「約350年間」は、平均11年間/国司が務めていた事に成り、この「約30の低位の官僚族」の子孫・現地孫は「頼政」と同様にこの「伊豆」には大きくは遺し得ていない事に成るのだ。

    丁度、「伊豆」は「紀州熊野神社の海洋族」と土地の支配年代も全く同じである。
    「熊野一帯」は「神官族・海洋族の六氏」から成り立っている。
    これから観ると「伊豆」も「現地族」は「六氏程度」と成っている。
    都に近い「紀伊半島」と都から遠い「伊豆半島」の差を考えれば現地族が少ない事は当然に考えられる。

    「他の伊豆研究」を観ると、「現地族」は「太平洋族」で、その基は「台湾族」であるとしていて、台湾語の古い言語が遺されている地域である。
    つまり「伊豆」にはこれと云った土豪が勢力を張っていなかった事が云える。
    これは「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」は周囲に対して可能であった事に成る。
    熊野では成り立たなかった。隣の尾鷲で留まつた。
    この事は寧ろ、「伊豆」の「伊勢信濃融合族」が「190年間の子孫拡大」で「一大勢力」と成り得ていたのでは無いかと考えられる。

    但し、「伊豆」では「源氏の利害」と「海洋族の絆勢力」であった事から、「武力」では無く、「権威と商い」であったと考えられる。
    それが「商いと云う手段」と「元皇親族と云う名声」の様なものがあって、「世情から攻撃」は相当遅れていた可能性が高い。

    現実に、「イからリ地域」に観られるように「伊豆の上下、左右、中央域」とその前線域を「青木氏の定住地」としているのは何よりの証拠では無いか。
    「武力」を持っていないにも拘わらずである。

    従って、この様に「危険な誇示」を敢えてすると云う事は、「武力」に依る「危険に冒されない力」が地元にも背後にもあった事に成る。
    その一つが「相模の秀郷流青木氏の抑止力」と「伊勢信濃との連携の商い力」が彼等を「後押し」していたという事であろう。
    こけが大きい要素であった事は理解できる。

    然し、この中でも室町期に建立された「源氏の八幡社寺」は上記した通り「村格式・民間」ではあるが全て東域に入り込んでいる。
    それだけにこの時期はまだ「世情」は、源氏が1221年に滅亡したのに”「源氏」と云うもの”に人気があった事を意味している。

    そこでこの難しい族の「伊豆海洋族」はこの「頼朝の源氏」に対して鎌倉期前期は従順に従っていたのかである。
    この「東部域の村格式の八幡社」はこの「海洋族の末裔・六氏」が寄進供進元とするものでは無いのであり、「一財を持つ者」の営に基づく「村格社」である。
    要するに、「利を観た個人経営」である。
    それだけに、”八幡は利になるものであった事”を意味し、滅亡後でも世情には「人気があった事」が云えるのだ。

    逆に、矢張り、「伊豆」でも「原理主義の青木氏・神明社」は人気が無かった事を意味する。
    「世情の人気」は無かったが、「象徴権威の尊敬」は未だ潜んでいた事に成る。

    それは源氏族等に無い上記で論じた関係式の「商いの力」に他ならないであろう。
    「象徴権威の尊敬」よりは「商いの力の恩恵」が伊豆には及んでいた事に成る。
    前段でも何度も論じている様に「紙文化」で室町中期は「巨万の富」を「青木氏族」は獲得しているのである。

    (注釈 これで以て「伊豆との連携」を維持していたのである。
    ところが実は後にこれを壊されそうになるが。)

    これは「伊勢青木氏」が「天皇家」への「影の賜姓五役の献納」が「莫大であった事」の「裏返し」である。
    幾ら1221年に完全滅亡した「縛り」も護らなかった「源氏力・八幡社寺」を「伊豆」に誇示建立した処で、最早、何物でも無かった。
    「源氏族」では無い民間が「儲け主義」から世情に滅亡したとは云え人気のある「八幡社寺」を建立したのである。
    「嵯峨期からの源氏」に「庶民の人気」があったからとしても“「天皇家・朝廷」から「高い格式」が得られるものは何もない。”
    だから「認可」も何も得られない「民間の無資格社に近い村格社」なのである。

    多少は伊豆でも「商いの青木氏」>「賜姓五役の青木氏」=「権威・格式・象徴の青木氏」の数式論が庶民の中に働いていた可能性は否定できない。
    だから思い起こさせるように“「院に変更したという事」”にも成る。


    そうすると、この「伊豆の背景」の中で、次に「伊豆の入り口・沼津市内浦」にある「北部域」の“「来迎寺の分寺の館」は何であったのか”という事に結び付く。

    その「答え」は、その「氏の館」としての目的から「伊勢氏族の信濃融合族」の「家人館」であった事に成る。

    (注釈 来迎寺論は依然少し論じたが、後段でも論じる。)

    現地調査では、その証拠と成る「笹竜胆紋を主とする墓所・家人墓」が上記の各地にあった。

    「伊豆」も「福家」を始めとして「四家」で構成していた事から、「福家(主家)」は「神道」、「家人」は「来迎寺館」としていた可能性があったが、現地調査でも矢張りこれを現実にしていた。

    前段でも論じたが、そもそも、「福家」とは元は「古来密教系浄土宗の氏墓」の「差配頭の名称」であった。
    それが後に四家の主家と成って行った。
    その主家が「守護神の神明社」と「氏寺」を差配する事から必然的に「氏族全体の差配頭」と成って行ったのである。

    それだけに共通する「神仏の概念」で結び付いていた事に成る。
    「福家を務める者」は四家の中から選ばれる為に相当に「氏族全体を統制する能力」に長けていた者が成った事が判る。
    青木氏の守護神の「神明社」は「社形式」の「神仏同源とする古来の信仰体」であったが故に、私的仏教伝来後もこれを融合させる氏族としての組織形態を執っていた。
    これが「福家形式」である。
    つまり「福家形式」を中間にして「神仏の同源」を維持した形式である。
    これが後に「氏の組織形態」と成ったのである。

    この形態は「藤原秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」だけである。
    もっと云うと、前段で論じた「来迎寺館の形式」」もそれを明確にした「神仏同源の会所」としていた“「組織館」”であったのだ。

    つまり、これは「青木氏族」に執ってはその立場から「氏の寺・分寺」であって、「氏の館(平城・家)」であって、「氏の社」であって、「氏の会所」の「四つの意味合い」を持たせた「建築物・城」とした云う事である。
    これは周囲から観れば「古来の歴史」を持つ「特異・特殊な形態」であった筈である。
    従って、「青木氏の存在する所」には「来迎寺」と云うこれらの「連携した形態」が必ず存在するのである。
    伊豆の「来迎寺」もその証である。

    そこで、「伊豆の現地調査」ではこの「福家の存在した位置関係」を調査した。
    これで「伊豆の青木氏」の「存在の環境」を芋づる的に網羅できる事に成る。

    これを検証して観た。
    その結果、次の様に成った。
    「福家」は北部域の「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊)」から「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「西よりの位置」にあった事が確認できた。

    「沼津市内浦の来迎寺」より東南の「梅木の神明社」までは「約11k・2里の位置」にある。
    此処から「稲取の清光院」までは「約20k・5里の位置」にある。
    この位置から「福家の位置・湯ケ島」までは北西に「約20k・5里の位置」にあった。
    この「福家の位置・湯ケ島」より「沼津市内浦の来迎寺」までは「約11k・2里の位置」にある。

    丁度、この4点を線で結ぶと、「西北−東南」に長く「菱形の形」をしていて「便利な位置」にある。
    約2里半から5里である。充分な「1日の生活圏」の中にあった事が判るし、計算されている。
    「道路」は「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m)」まで通っていて地理的には「最高の位置」にあった。
    伊豆観光名所の「浄蓮の滝の近く」であった。

    「福家の館・湯ケ島」は、平安期には「約1万坪以上の土地」でこの隣に「元神明社(鳥居の形式)」と観られる「杜と祠社と鳥居と石垣」の「址」がある。

    この東の後ろの「杜(約2万7千坪程度」(聖域)も含めて「域全体(約4万坪)」が「福家の館・湯ヶ島」であったと考えられる。
    「聖域」がある事が神明社が在って、且つ、「福家存在地」の“「構え」”の一つである。

    この「福家の館の湯ヶ島周辺」には「八幡社(半径10k圏内)」は全く無く、逆に「元神明社」と観られる「無名の神社(山を祭祀する神社)」が何と「六つ」も周囲を円状で「半径5k圏」で囲んでいる。

    「山を祭祀する社」は、古来より“「山神」”と称して「神明社の存在」を証するものであり、且つ、この「六つの山神」が囲む範囲を「聖域とする証」でもあるのだ。
    その様に陰陽で六つの方向の位置に存在させるものと決められていた。
    従って、「神明社の聖域」が在る所には「山神社」は必ず存在する。
    ところが源氏族の拡大で平安末期からは「伊勢と信濃」に「山神社の存在むが減少しているのだ。

    (注釈 然し、「美濃」にもその「形式の址」が確認できるが現在は聖域の痕跡は無い。
    「近江」にも「青木氏」の存在した「二つの地域」には夫々に「二つの神明社・祠社」が存在する。
    山は約750k平方メートルの面積を有していて、「山神社」は一つである。
    現在では「聖域の形跡」は見られないが六方向にあった事は「神明社」とその「面積」とその「位置」から確かであろう。
    「甲斐」は信濃国境の北部域・北杜市に「五つの神明社」が集中して存在し、「一社の山神社」の社のみである。
    これは実は「甲斐の聖域」は「信濃論の処」でも詳細に論じるが「信濃の大聖域の末端」でもあるのだ。
    この「北部域の北杜市域」は古来、元々「甲斐青木氏の定住地」では無かったので判らない。
    ここは信濃域の南部末端域であった。)

    そこでこの事等を念頭に「伊豆」の「村格社、或いは無資格社」の「八幡神社」は上記した様に「北東部」に集中している。
    この事は「室町期中期の混乱期」に成っても依然として「伊豆」には「伊豆青木氏」が「商業的な勢力」を保持していて、前段でも論じたが、どんな勢力も入り込めなかった事を示している。

    この伊豆の「無名の神社(山を祭祀する神社)」の示す処はここは“「聖域」”であった事を示しているのだが。
    更に、「福家の館の位置」を「拠点(0番地)」に「現在の番地」が周りに広がつているのだ。
    明らかにここが「伊豆青木族の統治」の中心地の「福家の館跡」であった事を証明している。

    (注釈 当然に伊豆は上記で論じた様に「武力的では無かった事」である。
    「武力」で抑えるのでは無くて、その出来る方法は「伊勢」で証明している。
    つまり、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」 である。
    この「青木氏族」に執って「重要な関係式」が「伊勢と信濃」のこの「矛盾を解ける鍵」であったのだから当然に、「融合一族末裔」の「伊豆」もこの関係式を維持していた事に成る。
    「武力」で「伊豆の9カ所の土地」を獲得したのでは無く、「経済力」、即ち、「地権」で時の幕府から獲得した事に成る。)

    要するに「商いの地・地権」であり、「家人の館(青木氏の情報館)」である「来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m」の境内は、南東に54mで、北東に41mの「長方形の敷地」にあり、後ろを「広大な社領の杜」が控えている。

    さて、そこで問題に成るのは次の「二つの所在地」である。

    「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
    「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」

    この「二つの湾」に近い「二つの最高の位置」から観ても、“船で伊勢と繋がる「商い」”が成されていた事に成り、「福家の差配」は「伊豆の湯ケ島」から行われていた事に成る。

    (注釈 参考 「修禅寺(頼朝の子の二代将軍が北条氏に依って幽閉誅殺された寺)」は、「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」よりの「南西の位置」にあり、「R12に沿い7k」で、「R18 南西方向の1.5kの位置」にあり近隣である。
    「神明社」からも近いし「福家の館」からも北西に直線で11k 路で17kであり「1日の範囲」にあり近い。
    無視できる範囲では無いので「青木氏との関係」が無かったのか気に成る所である。
    記録は無いが、「国友の存在した位置」が判らないので議論が発展しない。
    唯、筆者は「国友」は「来迎寺館付近」に住んでいたと想像している。
    何時でも船で移動させて隠す事が出来るし、「商い」をさせて移動させて晒さない様に出来る。
    その意味でも「頼朝の子頼家」とは関係を持たない方が「摂津源氏であった事」から「鎌倉幕府との関係・北条氏」も含めて都合は良い筈であった。

    「京綱」の様に「福家に入る事や四家」に入れる事は、最早、年齢的にも無理であり、「青木氏族」はそんな簡単な組織体では無く、簡単に「人」を「福家に入る事や四家」に「引気入れる事」は出来ない筈であった。
    恐らくは「商い」を学び「船や陸路」で頻繁に移動する身元を隠した「営業マン(家人)」と成ったと考えられる。
    「伊豆」に入ったとする「二つの記録」があるが、“その後の事が判らないという事“は「信濃青木氏・伊豆青木氏」に成りきっていたと云う事では無いか。)

    伊豆の「福家の館」は「浄蓮の滝の東側」の「約390mの位置域」にある。
    この「福家の館」から「修禅寺」まで通路を経由して「16.5k・4里の南西の位置」にある。

    「清和源氏の分家」の「河内源氏の鎌倉幕府」と「伊豆青木氏」との関係である。
    「本家の摂津源氏」の「妾子の国友」が「信濃青木氏」と成って上記の経緯で「伊豆」に入った。
    これが「1178年頃」の事であった。
    「頼朝の子頼家の没」は1204年であるとすると、「26年後の事」に成る。
    「国友」が「伊豆福家」に成ったかは記録が無いので判らない。
    唯、「青木氏の仕来り掟」からは「女系制度と四家制度等」を敷いていた事から無かったと考えられる。
    「頼朝の子頼家」の幽閉没は1年間である。
    「1203年修禅寺入り」であるので、「坂東八平氏との関係」は「福家の館」からの極力接触は避けたと考えられる。

    (注釈 そこで「各地の青木氏」が存在する「現地調査」では、「事前調査」に伴って知っていなければ成らない「青木氏の歴史観」がある。
    これで調べて行けば紐解けて行くのであり、また「資料や記録」では判り得ない「本当の意味の調査」は出来ないのである。
    それは「時代の変異」が大きく変えてしまっているからだ。
    それを基に歴史観を戻す事に意味がある。
    上記の様な確率の高いと考えられる推理も成り立つ。
    そもそも、この「頼政」の後に「仲綱(長男)」が「伊豆守護代」を引き継ぎ、「1180年」の直前まで「摂津源氏族(「頼兼(次男)」までが「遙任」で務めている。
    従って、「信濃青木国友」も入り易く成り、「同時期(「1179年頃前」)」には既に入っていなければならない事に成る。この前後は無理であろう。
    この様に現地を観て確率の高い推論が出て来て資料が無いか調べる。)

    (注釈 実質、記録では「伊豆の守護」は「鎌倉の河内源氏(頼朝系)」がその後の「1185年直前」まで勤めている。その後は一般の守護に成っている。)

    唯、これには一つ疑問があった。
    確かに、「伊豆」は観ても明らかに「地域全体が地形防御の要衝地」である。
    「相模の秀郷流青木氏の背景」はあったがそれが他家で済んだのかである。
    「伊勢信濃の様な抑止力」の「シンジケート」が必要では無かったかと云う疑問である。
    「商い」をする場合はこれは取り分け必要である。
    此処を解決しなければならない「現地調査の疑問点」であった。
    これには何かあった筈である。

    それは何かである。
    それが平安末期から室町期末期までの長期間必要なものであった筈である。
    これは行く前からの疑問でもあった。
    答えは現地調査の一寸とした事から見つかった。
    それは「水軍」である。
    その「水軍」は「伊勢水軍(7割株)」を持っているが「伊豆」には常駐は当然に無い。
    然し、前段でも論じたが縁戚関係にあった「駿河水軍」が「駿河湾」を拠点としている。
    上記している様に、陸は「天然の要害」であるとすると、少なくとも「伊豆半島の入り口を護る事」が戦略上で肝心な事に成る。それは湾湊である。

    上記の「9つの地域」に「伊豆青木氏」は分布している。
    これは仮に攻められたとしても一族は滅亡しない。
    「イ地域の青木氏」が攻められても「内部の青木氏」が攻められていなければ時間稼ぎが出来、「秀郷流青木氏の援護」が背後から来る。
    「背後」を攻められれば敵は殆どは全滅するは「戦略の常道」である。
    「イ地域からリ地域」まで「要害の地」でありながらそれでも一族を「要所に分布させている事」が「答えの元」であった。
    一か所に集中させても良い筈である。

    一族を分布させている以上は、それは“「四家」が何処なのか”と云う疑問の調査が必要であった。
    それは次の通りであった。

    「福家」は「伊豆市湯ヶ島の聖地」
    「四家1」は「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
    「四家2」は「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」
    「四家3」は「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」
    「四家4」は「静岡県下田市青木の港湾地」

    以上であった。

    これ等の「発見のポイント」は要するに「青木氏の伝統」で生まれた“「伝統の構え」”である。

    「青木氏族」と「神明社」は守護神とは前段でも論じてきたが切っても切れない関係があって、これから生み出される「特徴」、所謂、何事にも他氏と異なる“「構え」”と云うものがあった。
    「青木氏の歴史観」から滲み出る「特異な形や現象の事」である。
    この“「構え」”で見極める事に在る。

    例えば、上記の「福家の所在の確定」である。

    「福家の構え」

    「所在地」にはある「面積(2万坪程度以上・長方形)」がある事
    それが何らかの「囲い(石垣や土塁)」で回りを保護していて「館様式(痕跡の有無)」である事
    「場所的」に「移動の良い処」にある事
    周囲が「歴史的な風格」がある過去からの「土地柄(奈良期からの歴史性がある)」である事
    必ず「背後」に必ず「神明社の聖域」が在る事

    「神明社の構え」

    その「神明社」には独特の“「神明造り」”の「鳥居や祠、社殿」等のものが存在する事
    必ず「古びた石段・砂岩造り」があり、「平地」には「神明造」から無い事
    この特徴ある「神明鳥居」は「社領の入り口(仮鳥居)」と「本殿の入り口(本鳥居)」の二つある事。
    「祠、或いは本殿(神明造り)」の「南側」には「広大な杜(聖地・神が坐杜)」が位置する事。
    この「聖地」を護るために「杜の六方向所」に「山」を護る通称、「山神の社」を配置している事。

    現地調査には

    この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
    時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。

    注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
    奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
    中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
    故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
    「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。

    取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
    「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。

    従って、上記の「2〜4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
    そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。

    上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


    > 「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」に続く


      [No.374] Re:「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/09/20(Fri) 10:14:07  

    > 「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」の末尾
    >
    > さて、これで「同位」の「四掟」がある程度が叶ったとして、これを結果としては押し切った事に成るだろう。
    > 「伊勢と信濃の青木氏側」は“「源氏化では無い」”として妥協したと云う事に成る。
    > 1178年頃から「以仁王の策 (1178年) 乱(1180年〜1182年)」は進んでいたとされているので、少なくとも直前に「頼政の説得」を受けて「1176年〜1178年頃」に「頼政子孫残存策」として「青木氏側」から嫁した事に伊勢では成る。但し、誰に嫁したかは解っていない。
    > 「信濃」は女を嫁家せずに「国友」を入れた事に成る。
    > 従って、伊勢の場合は「妾子の京綱」は最低でも「1歳か3歳」に成っていた事に成る。
    >
    > そもそも「妾子」は「青木氏」の方が「官位格式位階」で何れもにも上位であっておかしい事から「当初からの策」としては「裏向きな嫁ぎ」であったと観られる。
    >
    > つまりは「四掟を護る原理主義」の「伊勢青木氏側」では「影の策」で逃げたと考えられる。
    > 「信濃」は「伊豆」をつかった別の策を講じた。
    > この「低年齢」での「頼政側」から観れば「青木氏への子孫残存策」と成るが、「伊勢青木氏側」から観れば、これで“「桓武平家」を納得させられる”と考えた事に成る。
    > つまり、“「源氏化・姓化」では無い”とする姿勢で表向きには見せた事に成る。
    > 上記の「桓武平氏と青木氏との血縁の関わり」は、検証の通りで明らかに“「桓武平氏側」にあった”のであるから、「京綱の年齢」からも納得は得られた事に成るだろう。
    > 現実に、この「2年後」には「以仁王の乱の敗戦」に依って「頼政の孫」の「宗綱・有綱等」の「助命嘆願」(廻村配流)を聞き入れられているでは無いか。




    「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」

    さて、次は「信濃」が関わった「伊豆の問題」である。

    「1159年」に「伊勢と信濃」が「伊豆」を管理する事を目的として「頼政」に頼まれて入り、その後、20年の間に「融合族」と成った。
    そして、「商い」で「伊豆」を治めようとしていた。

    「信濃の国友策」
    そうすると、殆ど同時期に行われている「信濃の国友策」も「経緯と事情」は同然であったであろう。

    この「国友」の事では判る範囲としては、一部の記録では、「若狭」の生まれで「妾子」で表には出て来ていない人物であるとしている。
    そのルーツは「摂津源氏四家」に在るとしている。
    但し、別の「国友」に関する資料では時代性が大きく一致しない。
    然し、「青木氏の資料」では「信濃は国友」と成っている。
    恐らくは、実態は殆どは同然であったと考えられる。
    唯、この別の「国友の資料の真偽性(時系列が余りにも違い過ぎる・300年程度)」が疑われるので参考にならない。

    「信濃」のこの事に関する研究が難しい為に「経緯」が読み込めない。
    然し、実は前段でも何度も論じているが、これには「頼政と仲綱の所領」の「伊豆」にあると観られる。

    それはこの「伊豆」は、前段でも何度も論じた様に、「伊勢と信濃の融合族」で守護し固守したとする「青木氏の記録」がある。
    筆者は、結論から先に云えば、此処の「信濃の跡目」に入ったのは「頼政の一族」で「若狭」から廻された「国友・妾子」が、ここから更に「伊豆」に入ったと観ている。

    「京綱」の様に若くは無かった事も解っているので、先ず間違いは無いだろう。
    「伊勢の京綱」と「信濃の国友」とには「措置」が少し違った事に成る。

    (注釈 この時期の「伊豆」には「仲綱の子有綱」がいたとする説もある。
    この説は「以仁王の乱」に参加せずに生き残ったとする説である。
    この説では「義経」に従い北条氏に大和国で打ち取られたとしている。
    これは間違いなく江戸初期の「搾取偏纂説」である。)

    筆者は、記録のある様に「廻村配流説・日向青木氏説」を採っていて、「以仁王の乱」に参加して「平等院」に追い込まれ「伊勢の嘆願」で「配流」と成った説である。
    現実に「廻青木氏・日向青木氏」を遺している。現存しているのである。

    「伊豆守護の有綱説」の搾取は、「2年程度の相当準備した乱」を起こそうとしているのに、そんな時に「実子の次男有綱」の「伊豆偶然説」はおかしい。
    そもそも、「摂津源氏」が「自分の勢力」で護れるのであれば、1159年に何も「伊豆」に「伊勢信濃融合族」が配置される事が無い筈である。
    抑々、「頼政」は京に遙任しているのであるし、且つ、そこに「祖父の所領地」に「孫」が赴任する事がおかしい。
    もし、「有綱」が奈良に居たとするならば平家は決して放置しない。

    実は記録では「頼政」は「乱の2年前」に一度伊豆に出向いている。
    そもそも、「父の頼光」でさえ「三天領地の守護代」で済んでいて「所領地」は持っていなかったのである。
    確かに「頼政」は「正三位に成った事」から「清盛」に推薦されて「伊豆所領地」を与えられている。
    これは「珍しい事」なのである。
    つまり、「所領地」であっても記録からは「完全な所領地」ではなかった。

    (注釈 「伊豆の守護代」は「1159年から数年間・遙任」で「藤原氏系の守護代」と「平家一門の守護代」で何度も変わっている。
    「頼政より摂津一族の二人」で続けて務めていたが、乱後は頼朝幕府の家臣で務めている。
    これは「所領地」としては完全に認めていなかった事に成る。)

    そもそも、この事で、故に、「自らの軍」を置く事を禁じられていたのであって、「清盛」は「伊豆」を拠点に関東で反乱を恐れて、その「所領地」を「軍」では無い「伊勢信濃族」に護らせたのである。
    この事に就いての記録が遺されている。
    明らかに史実は完全な所領地では無かったのである。
    其処に有綱説は可笑しい。

    この「軍」では無い「伊勢信濃族」に護らせた理由は「伊豆を拠点に貿易」をさせて治めようとしていたのである。
    つまり、平族は「伊賀」で伊勢青木氏と関係があり、青木氏出自の「光仁天皇」の妃の「高野新笠」が「伊賀出自」であり、平家の祖でもある。
    その青木氏が摂津港で「宋貿易」をし、「殖産」をしている「伊勢信濃青木氏」に管理させようとしたのである。
    「清盛」も同じ事で同時期に「湾湊」を造る等をして「商い」を以て「大宰府域・九州北部域」を現実に治めている。

    (注釈 1025年頃には「伊勢と信濃」は「殖産」を通じて「宋貿易の大商い」をしている。
    前段でも論じたが、「清盛」に「殖産」から「貿易」を教えたのは伊勢資料では「伊勢と信濃」であると語っている。
    この「伊勢と信濃」はそもそも軍は待たない「抑止力」であった。
    又、「960年頃」から始まった「補完役の秀郷流青木氏」との「繋がり」も「220年後」のこの時点には「大富豪の商い」で氏族は出来ている。
    これの意味するところは、当然に「賜姓五役の莫大な献納金」が「天皇家」に入って来る事に成るのだ。
    これを態々小さい事で目くじら立てて見逃す手は朝廷には100%無いだろう。
    故に「記録通り」の“「伊勢信濃青木氏」に管理させた”とするのが正しい。
    「武蔵」を拠点に全国的に子孫を広げていた「補完役の秀郷流青木氏」の意味を理解すれば充分にこの説は証明し理解が出来る。
    “「伊勢信濃青木氏」に管理させた”とするは同時にこの「補完役の秀郷流青木氏」の力が背後にあると云う事でもある。
    「伊豆」の隣は当に相模・神奈川であり、「補完役の秀郷流青木氏」の勢力圏である。)

    この様に注釈での時系列が一致する。
    上記の注釈の故に、「以仁王の乱」が起こっても「摂津軍」で無かったから攻められなかったのである。
    仮に、「摂津軍」であれば「関東に常駐していた関東守護の平家軍・桓武平氏・たいら族」に今一番に攻められていた筈である。
    「乱」を起こそうとしている時に「伊豆」に「主力軍の伊豆守護軍」を置く事の事態がおかしいし、「神明社一社も直せない摂津源氏」がどうして「摂津外の伊豆に軍を置けるのか甚だ疑問で、「有綱説の稚拙さ」の搾取が見える。

    「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の資料」でも、その証拠に「融合族」を送ったとしている事と、現在も「伊豆」には現実に「信濃」の様に「村全体」に「青木氏・青木村」を形成しているのである。
    「村」が遺されているこの事を理解すれば「伊豆の位置付け」は判り、これを明確に論じている。
    この「伊豆の青木村」などの事は詳細に論じれば証明できる。

    注釈の結論は、要するに「系譜」に出て来ない「妾子国友」にあるとしている。

    恐らくは「有綱説」はこの「国友説」を混同したか利用して搾取したと考えられる。
    利用して国印状取得の搾取説に間違いはない。
    だから「論理の矛盾」が生まれているのである。

    多分、「源氏傍系ルーツ説」を名乗る為の「江戸初期の国印状取得の後付け説」であろう。
    これを使う事で得をした豪族が居た事に成る。
    想像は着くがそれは議論が広がる為にここでは誰かは判らない事とする。

    さて、「伊豆の事と国友」の検証から、更にこの「国友の出自と信濃」について検証を進める。
    実はこの「国友の母(妾)」は「若狭(国友の出生地・妾の里)」である。
    つまり、「近江の最北端・京の右横・福井の最西端」には「清和源氏系の源氏の勢力」がこの時代に一部存在したとする「記録説」があり、その「土豪の領域」があったとしている。

    (注釈 史実はここには「嵯峨源氏の末裔」が土豪化して細々と住んでいた。この史実を利用したと観られる。
    この土豪化した「嵯峨源氏の末裔」を摂津に呼び寄せて「清和源氏の満仲」は武力集団化を始めてしたのである。この「妾」もその流れから来ている可能性がある。)

    ところがこの説に従えば、その「領域の若狭」には「幼少期の国友」は長くは居なかった筈で、恐らくは「妾の里」であろう。
    従って、下記の検証でもこの「若狭」は直接の関係性は無いと観られる。

    この「国友の母」の「妾」の事を考察すると、「摂津清和源氏の四家」の一つである「頼綱系」の「三男国房」の「妾」であった事が史実として判っている。
    その「妾子」で、この「妾子」が「頼政」の「養子」か「義詞」としたとする説がある。
    「頼政一族」には「実子の三人」の他に、「養子の三人」と、「義詞の数人」が居た事が判っている。
    「国友」はこの「義詞」に成ったと考えられる。
    「養子の三氏」は「四家の子供」が「頼政」に入ったと成っている。

    筆者は、間違いなく「妾子」である事から、記録には大きく載らない所以はこの「義詞説」であると観ている。
    「近江佐々木氏の資料」にも簡単であるが、「青木氏の資料」と共に「信濃青木氏」の段で、“「若狭国友の跡目記載」”がある。
    間違いは無い。

    さて、ここで「若狭」に遺された「郷土史」の「寺請文記録」の中に“「国友」”の名が出て来るので取り敢えずこの真偽を査定して置く。

    これは、これには「河内源氏」とあって「源氏説」であるが、ところが此処はそもそも住み分けから「摂津源氏域」であって「河内源氏」では無いので先ず全く違っている。
    昔は続柄や路線が異なると「争い」を避ける為に「住み分け」と云う手段で知恵を出していた。
    これはこの答えから「郷土史の江戸期初期」の「後付け」の「間違い」であろう。
    更に、又、一部の資料には「国友」は「群馬にいたとする説」もあり、何れも利用された「後付け説」であろう。

    そこで、先にこの二つの事を始末検証する。
    兎も角も、「群馬の事」は笑止で別として、もう一つの上記の「源氏説」の「国友の存在」を示すとする「寺請文」とするものがあって、これを証拠にしている。
    これにはその證文は「大疑問」がある。

    この「寺請文」とするものには、先ず、その「寺請文」をよく観察すると、これには“墨が掠れていて中央に縦に消した跡”がある。
    これを「崩書」で「正安の四年」と「郷土史」では読み込んでいる。
    そして、これを「1302年4月」と「別段後書き」で追記している。
    そもそも「正安」は、実体は「1299年」までである事で何と“「4年」”も「後書き」の100%の間違いを起こしているのだ。
    そもそも、西暦を「別段後書き」の「添書」で入れるという事は「明治後の事」である。
    そして、ところがその「ずれ」は1年は未だしも「3年」も「ずれ」ているのである。
    この「ずれと間違い」でも充分に「ある目的」の為に先ず「後付け」と「添書」の二つの方法で「郷土史に手を加えた事」が判る。

    この時、時代は「改元」が時代的に珍しく少しずれて1302年12月に行われている。
    それは「4月後の事」である。
    この事を知らずに書き込んで仕舞ったと云う事だろう。
    「郷土史」が相当後に成ってこれを説明するに及んで「西暦」に表示するのは「後付け説の証拠」でその思惑が判る。

    次に、更に「決定的な間違い」を起こしている。
    「源氏族」、「国友」は上記した様に「清和源氏」で「摂津源氏」である事は確実に判っている。
    としているので、「源氏族」は、抑々どんなに生きていたとしても歴史的に、一切、“「1221年」”に完全滅亡している。
    そうすると「1221/1299年」では「78年」、仮に「1221/1302年」にしても「81年の前」に「国友」も含めて滅亡しているのである。
    「国友」の判る範囲の年齢から観れば、「120年のずれ」が起こる。
    明らかに「後付け説」である。

    更に、未だある。
    この「寺請文」には「恣意的説」とも執れる「かすれ気味」にして、その中央を二本の太線で消している。
    この様に成っている「崩書」を「正安」と読める様にした事が間違いである。

    これは明らかに“「治承」”の記載である。
    「治承」とすると、その四年は「1180年(頼政没)」であり、「治承寿永の乱」の通りに「1180〜1185年」である。
    「治承」は「1177年〜1181年」である。
    「治を正 承を安」と恣意的に、且つ偏纂して読んでしまった事の大間違いである。

    「国友」に依らず、”「河内源氏族」”そのものが完全滅亡しているのに、搾取にしてもよくも「偽の寺請文」を造り上げたなと思う。

    検証は未だある。
    「国友」の“「寺請文記録(年貢と村統治に関する報告書)」”は間違いだらけのものである。
    そもそも、“「寺請文」”とは「村寺の寺領」の「委託管理状態」に対する「寺への報告書」である。
    「寺領」を管理してもらっていた「農民か村の代表の組頭か庄屋」が行う仕事である。

    前の検証の通りの間違いだらけではあるが、これは「上塗りの間違い」で「源氏の国友」がそもそも行う事は100%無い。
    「読む」と云う前の何かに利用された「後付けの搾取書(大変多い)」である事が判る。
    「江戸期初期の系物」はこの様に「矛盾だらけの後付け」であるのだ。

    これは、各地の「神職や住職」がプロとして裏業で行った江戸期初期に横行した「家柄証明の国印状取得」の搾取であろう。
    「第二の姓」から身を興した者の「家柄証明の国印状取得」の為の搾取で、この「若狭の妾子」の伝記を利用したものである。
    「河内源氏説」も都合よく合わしたのであろうが記録と違っている。

    これ等の「搾取」は、“周囲が歴史的な事を知らないだろう”として「弱み」に付け込んでの行為であった。
    「上野」のものは読むにも値しない「矛盾」があり「若狭」も斯くの如し同然である。


    そこで、これらを前提にして、「信濃の国友の正しい経緯」は次の通りである。
    「若狭」の「妾子の国友」を一度「信濃の跡目」として入れて、それを今度は「伊豆」に「頼政指示(義詞の理由)」で廻して「信濃青木国友」で護ったと考えられる。
    これで「信濃」は「源氏化の影響」から「平家」からも「疑い」を持たれずに逃れられ、「伊豆」も「伊勢信濃と観られる事」で逃れられるとした。

    現実に「伊豆」は「頼政守領地(遙任地)」でありながらも、この伊豆先の直近まで2度に渡り「平家軍」が来ているのに「全く攻める事」は無かった史実があるのである。
    そもそも「伊豆」は平家軍に執っては「戦略的位置」としては先ず攻めて「関東の足掛かり」を着ける位置域にあった筈である。
    上記した様に「国友」が居るとしても、「子孫存続策の者」で「防御の国友」では無かったので充分に協力は得られた筈である。
    この時は「信濃青木国友」であった無関係であった筈である。

    上記した様に形式的には「信濃青木氏の者」として扱われて「伊豆の信濃者」に成っていた事に成る。
    「戦略的位置・拠点」とそうすれば「弱点」を突かれて「鎌倉軍」は手も足も出ない筈であった。
    「平家軍」はでもそうしなかった。
    「史実」はこの直接に、「鎌倉の浜」に目がけて直進した。(史実)
    ここに三日後に「大島水軍・源氏方」が迫っても「伊豆の足掛かり」が有れば「大島水軍」も手も出せなかった筈である。
    ところが逆に、戦後に「伊豆」はその後「大島水軍」に乗っ取られたのである。

    (注釈 その後、「大島水軍」は「頼朝」と「そり」が合わず一週間で「大島」に引き返した。)

    其の後の「国友の足取り」は判らないが「伊豆外」には出て行っていないので、遂には「伊豆青木氏」に溶け込んだと観られる。
    この「信濃」に一度は入り、その後に「伊豆」に移った「妾子国友」を「実氏有綱」として「後付けの搾取」で「家柄搾取」で利用したと観られる説を造り上げた者がいた事に成る。

    「頼政」の「義詞」で「妾子国友」で「信濃跡目の伊豆青木国友」では、「後付けの搾取」としての信憑性は、その「搾取の根拠」が低いし「現実」があり搾取は出来なかった所以であろう。
    つまり、「伊豆国友」では「頼政と青木氏の範疇の事」で、これを搾取しても「国印状の認可」には直接繋がらなかったと考えられる。

    (注釈 「伊豆」には「大島族の姓」が多く、「富岡・富田等」の「富」の付く姓名が多い。
     「伊豆青木氏」は「神奈川の秀郷流青木氏の庇護」を受けている。
    尚、「国友に関わる情報」を獲得出来得るには、“「神明社か青木氏菩提寺」からの情報”検証すれば、“「信濃に関わる範疇」”と考えられる。
    且つ、それが“「有綱」が奈良に入った”とするこの「有綱説の資料」を造り上げるのに都合の良かった江戸初期の者と成る。
    「搾取の者の答え」は直ぐに出る。

    それは「信濃の四藩」、つまり、「真田藩 上田藩 小諸藩 岩村田蕃」で奈良に関わった藩の者という事に成る。
    この者が搾取して造った「有綱説の資料」と成ると「S藩」であって、且つ、多くの「国衆」で構成されて、且つ各地を廻った藩と成る。
    更に、江戸期初期に大大名に成って数多くの藩士を抱えた藩で、自らも「国衆」であった「S藩」で、最も自らも「搾取の系譜」を持つ藩と成れば、矢張り「S藩」である。
    系譜上でもあり得ない「搾取摂津源氏説」が公的に定説に成っていて、「搾取の藩」として「有名な藩」ともなれば矢張り「S藩」である。
    つまり、「S氏」そのものである。

    更に、江戸期初期に「信濃青木氏」は「地権地の大半」を幕府に「殖産地没収」と「新規四藩」に与える為の土地として没収されたが、この時、没収された地に定住していた「殖産能力の持った信濃青木氏」が「真田藩の家臣」に成った。
    「青木氏の氏是」を破って「契約家臣」に成った事が記されている。
    恐らくは、この「有綱説の資料」は「S氏」が搾取編纂した事に間違いは無いだろう。
    これを以て定説と成っている「搾取の摂津源氏説」を唱えたとされる。
    以上の経緯の条件に完全に100%符号一致する。)

    恐らくは「平家」がこの「伊豆」を攻めなかった理由は、上記の「伊豆青木氏の事」、つまり「桓武天皇の論説側(平家側)」」もあるが、それを補完する「武蔵秀郷一門」を敵にしたくなかったのであろう。
    又、「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事から「平家」は信用して「信義」を貫いた事に成るし、潰せば「献納金」は入らなくなり、「青木氏の影の抑止力」を敵に廻す事にも成る。
    そもそも「最大の勢力」を張っていた全国の24地域に分散する「補完役の秀郷流青木氏や永嶋氏等の青木氏族」を始めとして、「背後」を突かれる恐れが充分にあった事で「戦線が拡大し過ぎる事の懸念」が強かった筈である。

    この様に「伊勢と信濃と伊豆」は「上記の検証」で論じた様に「同族」の「同然の立場(血縁と絆から平家側)」であったからだ。
    「伊勢と信濃と伊豆」は「難しい舵取り」を迫られていたのである。
    これを失敗していたら現在は源氏族と同じに成っていただろう。
    ところが、この後、伊豆は何度も危機を迎え、伊勢と信濃は「青木氏の氏是」を破ってまでも救出に懸命に成った。後段で説く。)

    (注釈 上記の注釈の藩も真田藩だけでは無く搾取の源氏説を唱えているのだが、全て流れと時代と祖が異なるのだ。
    然し、源氏化していない「信濃」には念の為に他説には「河内源氏」を祖とするとしている「源氏説」が「6流」あるとしている。
    この説の地域は、「問題の搾取偏纂の真田藩」の「北部の青木村」とは反対の「南部信濃」である。
    この全域かどうかは明記が無い。
    この「狭い山間部の南部信濃」 (約190k平方)」に「6流(1流 35k平方≒1万坪)」の「祖が異なる河内源氏」が存在した事の説が異様である。
    先ずこんな事は無い。
    中には、「時系列」が異なるし、「6流の各始祖」とする「源流の始祖」は1221年に既に完全滅亡しているのに何故に存在し得るのかという事に成る。
    中には「1600年代(江戸初期)の資料」とするものもあるし、「6流」とすると「河内源氏の傍系流れ」の丁度全てである。
    一か所に「傍系の流れが違う族」が「住み分け制度」の中で存在する事は100%無い。)

    注釈として、検証する。
    「源氏」が生まれたのは824年で、全て滅亡したのは1221年である。
    この間約400年と成る。
    当時の寿命は50歳であるとすると子孫を興せる年代を25歳とする。
    400/25=16代 仮に平常時で最大「4のn乗」の前提とする。
    然し、これには時代性が共なうので、乱世としてこの1/2〜1/4成ろう。
    現実に「河内源氏」は武力化したので、歴史的に観ても子孫の多くを無くしている。
    前提の「4のn乗」は最低の1/4として「1のn乗」、最大の1/2として「2のn乗」と成る。
    論理的にはこの子孫拡大式は「1のn乗」は成り立たないので、1/3とすると「3のn乗」とする。
    次は、400/25=16代も「乱世の影響」を受けるので、最大の1/2で8代、最低で1/3で5代と成ろう。

    先ず「2のn乗」では、最大の8代では516 最低の5代では64
    次に「3のn乗」では、最大の8代では19613 最低のでは5代では729
    従って、結論からすると「64と19613」は無いだろう。
    抑々、歴史的史実からそれだけの子孫を養う力は無かった。



    この代表するパラメータの一つとして「源氏の守護神」とする「八幡神社と八幡仏社」は格式は「村格」であるし、「独自の軍事力、」は「5000程度」で後は殆ど「合力」であった。
    「壇ノ浦の源平戦」の「義経の一族の自軍」は2000とする資料もある。
    仮に、「直系尊属と卑属」と「支流の尊属と卑属」と「傍系尊属と卑属」の「三つの族」を集めたとしても、「516〜719」が妥当と考えられる。
    64は兎も角も、「2万の軍」を集めたとする資料から最大で「19613の計算」に付いては次の様に成る。
    最大の「19613」はこの「三つの族外」の「源氏ではない縁者族」とする勝手に縁者を理由にして名乗ったとすれば成り立つ話であろう。現実には名乗っている。
    「歴史上の軍力」とは殆どは「日和見の合力軍」である。

    現実に「頼朝」が「以仁王の乱後」に「自軍」として集めたのは「500程度」と成っていた。
    全て「日和見の合力軍」であった事が歴史が物語る。

    「日和見の合力軍」の殆どは「源氏族」として名乗る事を許されての「日和見の合力軍」で歴史上の戦いの通例である。
    負けると決まった時には、”蜘蛛の巣を散らす様に去る”が常道で、「平の将門の乱」もそうであった。
    この事から「第二の姓族」の「源氏系と名乗る数」が殆どでそんな数は論理的にあり得ない数なのである。
    「源氏でない族」を調べるのが難しい位である。

    (重要な注釈 筆者工、そもそも江戸期初期の「徳川幕府の国印状の政策・権威醸成策」は歴史を歪めたと考えている。
    「諡号族」では無い「第二の姓」の「徳川姓」は「上野の得川の土豪名」から来ている。
    「得の川」を「三河」で勢力を獲得した時に変じて「徳川」としたのである。
    この「得川」は、通常時は「農民」で働き「戦い」と成ると「傭兵業者」が村にやってきて来て「農民」から兵を集めた。
    この時に「傭兵」に応じる「農兵の土豪集団」であった。
    上記の「源氏の軍」もこの形式で拡大する軍力であった。
    最後には、完全に「傭兵」を職業とする事にした「農民」が出て、これが「第二の姓族」であるのだ。
    代表的なのは「黒田藩の全て」がこの形式から成り立っている。
    江戸期に成っても同然で、「日向廻と薩摩大口の青木氏」は江戸期末期まで「黒田藩の専属の傭兵軍団」であった。
    これは「家臣」を最小限にして「出費」を抑えて「財力」を蓄えた「黒田藩の戦略」であった。
    この様に「源氏族」と誇示するのはこの「日和見の合力軍」の「戦いの原理」から来ているのだ。
    例外は無い。)


    その「始祖とする南部信濃への経路」を「証明する資料」は何処にあるのか、あるのであれば「源氏族の経緯」をもっと判る筈であるし、中には考えられないのもある。
    「源氏」が完全滅亡した「1221年代滅亡」から何と「400年後」に信濃に「1600年代の資料」として見つけ出してそれを表に出して来たのかを明確にしていない。
    その「6つの源氏説」は全く別系としている。
    そもそも、この「系譜の途中」に突然に見慣れない人物を引き出して、それを「系譜繋ぎ」のその人物に上手く系譜を繋げている「プロ」が使った「江戸初期の最大の手」である。
    「ある系譜」と「別の系譜」を接着剤的につなぎ合わせる架空の人物を入れて繋ぎ合わせるのである。これが常套手段であった。

    更にもっと云えば“何で南部なのか”でもある。
    「伊勢の源氏説」も同様であり流石に実によく似ている。
    何故、源氏種が「6流」かと云うと、重なると偽である事が暴露するので「六流」に広げてごまかしたのである。

    (注釈 そもそも、「滅亡」とは山岳を逃げ延びて「追討軍」の「掃討軍」に掃討されて「出自元の子孫」を含めて“「全ての物」”も事石滅しされる事である。
    一切の寺などの資料も含めての事である。遺る事はないのである。
    その掲げるその系譜をどの様にして「正当な経緯での系譜」に造り上げられているのかその真偽は疑われる。
    こんな「信濃青木氏」には関係は全く無いが念の為に「矛盾を持っている信濃源氏」があるとして主張しているので説明して置いた。
    この「6流」の「信濃源氏と呼称する系譜」は「江戸初期の国印状交付の系譜搾取の偏纂」である事は先ず間違いはないし、流石に「尊属」とはしていないで「傍系族と支流族」としている。)

    (注釈 歴史を好む人間としては、この様な「江戸初期の搾取偏纂」は大変に時間を要するものでこれは愚痴であるが。
    載せる事、信じる事は自由であるので“載せるな”とは言い難いが、何時も正しい歴史観で論じる為にはほとほとこれで苦労させられるのだ。
    せめて “仮に・・・としたら”と書いてほしいものだ。
    調べる時間がもったいないし、間違えば本元に辿り着けないのだ。)

    「青木氏の氏是」として「摂津源氏」でさえも、「上記の論説」の通りであり、「四掟の範囲外」として「血縁族」の中に「源氏系」は入れない事に成っていた。
    それ程に「原理主義」を貫く為にも“「源氏化を嫌っていた事」”を意味する。
    それにも関わらず、「京綱と国友」の「搾取偏纂説」を取り除き論じているが、“「伊勢と信濃に入った事”として、検証した。

    この“1の頼政の「圧力・説得」に屈した“の論説に対して、更に他にどの様な経緯が考えられるかである。
    これを次に検証する。

    2 「政争」から子孫を逃す事が出来る。注釈の通り「子孫遺策」である。

    そもそも、「女系の妻嫁制度」を敷いている理由には、前段でも全ゆる面から論じているが、この「女系の妻嫁制度」のもう一つの「大きな理由」があった。
    それが「天皇家」が「男系の定め」である。
    「白壁王」に向けられた「孝謙天皇の白羽の矢」が二度と起こらない様にするには、「青木氏」の中を「女系の妻嫁制度」にすれば、「男系の定め」に適合しない事に成り、二度と「白羽の矢」は飛んで来ない事に成る。
    要するに、“「桓武天皇説と嵯峨天皇説」の違い”である。

    「桓武天皇説と嵯峨天皇説」のこの「二つの説」には「男系が前提」と成っている。
    何方かと云えば「伊勢と信濃の青木氏」は上記している様に「桓武天皇説>嵯峨天皇説」に成ろう。
    そこで、この「男系の前提」を崩し「女系の妻嫁制度」にすればこの「二つの争い」から逃れられる。
    つまり、“「政争」から逃れられる”と云う事に成るのだ。
    故に「子孫」は長く存続できる。

    従って、「伊豆」に関する1178年頃は既には「女系の妻嫁制度」は完成している。
    目的の通り完全に外れているし、「天皇家」は仁明期後は「男系」が続けられている。
    最早、心配はいらない。

    「経済的」にも「商い」は「日宋貿易」でも勝れ、「抑止力」でも「平家や源氏」に比べても「抑止武力」を裏付ける「経済力」でも勝れていた。
    何れの世も「武力=経済力の関係」で成り立っている。
    「経済力」の上に「武力」が成り立ちこの逆はない。
    つまり、「商いの経済力」は「抑止力の裏の力」を物語るものであり、依って「青木氏」には「充分な力」は出来ている。
    況や、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で出来ている「氏族」でありながらも、「世情」は“表裏のある恐れる氏族”と厳しい目でその様に観ていただろう。

    「天皇家の血縁」でも「仁明天皇期」で「青木氏族系」は既に完全に終わっているのだ。
    「伊豆の事」で、仮に「源氏力との繋がり」を持つとしても「血縁的」にも寧ろ「平家側>源氏側」と成っている。
    「経済的」にも殖産で「平家側>源氏側」と成っている。

    当初は「青木氏=源氏」であっても上記の通りこれは飽く迄も「仁明期までの事」である。
    「1178年頃」では「平家側>=青木氏>源氏側」が既に完全に確立していた。
    この「青木氏の扱い」に関する「政争」の「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の傾向が大きく「1178年頃」では答えが出ていた。

    つまり、「扱い」をうまく遣れば「京綱と国友の件」は大きな事は起こらないとする「青木氏側の読み」であった。
    つまり、「政争」から逃れられると云う事に成る。
    「頼政」からすれば「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」での立場からそれを利用すれば、“隠す事が出来る”と観ていた事に成ろう。
    仮に“隠す事が出来た”としても「源氏再興」には決して成り得ない。

    つまり、「原理主義の概念」が大きく氏を左右させていた事に成る。

    「平家側>=青木氏>源氏側」と「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の関係式から観たら「再興」は100%無い事は判る。
    再興しなければならない「理由」は「青木氏側」には100%無い。
    寧ろ、厄介な「潰すべき族」であった事に成る。

    そもそも「原理主義」が元々そんな事は考えないから「原理主義」なのである。
    とすると、「頼政」は“単なる子孫を遺す”と云う事に目的は在った事に成る。

    これで「三つの血縁源」に迷惑はかける事は無いし、筆者は「平家」にしても「源氏」にしても、仮に「無縁の河内源氏」に敵対されても「三つの血縁源」で対処すれば勝てると観ていたと考える。
    「武力」にしても「経済力」にしても「政治力」にしても「血絵で結ばれた補完役」が背後に入れば“「大義」”は獲得できると観ていたと考える。

    現実に、それを証明する様に「信濃」でも「伊豆」ではそうなったではないか。

    「平家」は、飽く迄も戦略上は「敵対する相手」は「源氏」に絞るだろうし、「源氏」も「女系の妻嫁制度」を執る「青木氏との関係性」は無かった事から敵対しなければ、「平家」は「戦線拡大」は敢えてしないだろう。
    従って、「頼政の策の程度(妾子での子孫存続)の容認」と成ったのであろう。

    「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「平家(4流or7流)」も「源氏(11流)」もありながらも、現実に平安期の「9つの縛り」から「四掟の血縁相手」には決してしなかった。

    そもそも、「神明社」であって「古代密教」であったとすれば、この「原理主義」を敷く以上は「野心的」では徹底して無かったと云える。
    「青木氏の氏是」(古書に遺る「施基皇子の生き様」)を考えればこれは当然である。

    地理的な歴史観
    そこで、「頼政の件」で、例えば、「伊勢と信濃」が「この状況」を乗り越えられるのには大きく「地理的要素」も絡んでいた。

    そこで重要と成るこの「地理的な歴史観」を詳細に説明して観る。

    先ず「伊勢」から先に論じる。(信濃は後段で詳細に論じる。)

    伊勢の松阪地区以外の「北域」(員弁域、桑名域、四日市域、名張域を除く)には、上記した様に、「松阪」に隣接する「明和町」、「玉城町」、「多気町」、「大台町」、「渡会町」の東西に帯状に「青木氏」が定住していて現在も多く分布している。

    これが「四家の松阪殿」の「福家の一族」が「北域のよりやや南側域」に分布する定住地であった。
    この「松阪域の北側域」に隣接位置する「四日市殿」との「棲み分け」が成されていた。
    従って、主に「松阪郡域」と「多気郡域」のこの二つの全域は「松坂殿と絆青木氏」が定住していた。

    そして、その為に起こる事は「寺の在り様」であった。
    この「寺の在り様」が系譜上から縁者関係にある「平家から疑われる要素」と成るのだ。

    「平家側>=青木氏>源氏側」が既に完全に確立していて、「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の立場にあったにも関わらず、「平家から疑われる要素」は納得できなかった筈ある。

    そこで、「松坂の本寺(総寺・清光寺)」(松阪市中町)と合わせて、この“「松阪市多気郡明和町佐田」(「斎王の里の館域」)”にも「分寺A」の「青木氏菩提寺」を建立したのである。

    (注釈 「二つの寺名」は「来迎寺」と「清光院・寺」と記されている。
    古くから存在する「清蓮寺」は「寺」を兼ねた「平館・集会所」で在ったと記されている。)

    この事は、“「周囲の郷士」との「血縁族の青木氏族(家人)」”があった事からであり、「青木氏族一族一門の寺」として「分寺(B)」を建立し、“「松阪市中町の本寺(A)」”とは別に建立した事が伝えられている。
    ところが、この「分寺(B)の存在」が疑われる事に左右したのである。


    (注釈・「分寺の二つの寺名」は「分寺A」は「清光院」、「分寺(B)」は「来迎寺」で在ったと経緯から考えられる。)

    (注釈 現在の「本寺(A)・清光寺」は、「青木氏の菩提寺」の元合った位置よりやや少し東寄り(2m)にずれている。
    然し、「江戸初期の顕教令」に依って「密教」が「禁令」と成った事から、「本寺の菩提寺」の維持は難しく成った。
    その後、この「本寺(A)・清光寺」は、三度目の「松阪大火」で焼失した。
    更に、この「本寺(A)・清光寺」は、「顕教令」で江戸初期に「紀州徳川氏の支藩の伊勢菩提寺」として接収された。
    この事から「現在の寺」は建て替えられたものである。
    ところが「寺名」は紀州藩の配慮で同じと成ったものである。)

    (注釈 特別に紀州藩が同じ寺名としたとする明らかな「紀州藩の記録」がある。
    更に「青木氏族の墓所」もこの寺に特例として同じとして使用を許されたとある。
    現実に一族の墓所は元のままで、相当な「墓構え」である。
    「紀州支藩の墓所」より比較にならない程に大きい。
    紀州支藩の菩提寺と成ってはいるが、関係者の墓所で主だった墓所は和歌山にある。
    長方寺と報恩寺と東照宮の三寺に分かれている。
    これは「顕教の檀家寺」では無く「菩提寺扱い」としても特別に許された事に成る。
    実質は江戸期でも青木氏の菩提寺で現在も同じで「青木氏の歴史的宝物」を納められている。)

    (注釈、但し、明治後「第14代の紀州徳川氏」が、「紀州」から「東京」へ、そして「伊豆」に移動後は現在も「徳川氏」から外れ「一般の顕教寺」として存在している。
    賜仏像の根拠寺として存在する所以から「特別扱い」の「菩提寺扱い」と成ったと記されている。)

    (注釈 ところが、この注釈の“「伊豆」”に好んで紀州徳川氏が移動した理由があった。
    それは「上記の論」にあった。)

    (注釈 家康の“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」に従い、故に、この「松阪本寺」は江戸期でも“状況を変えなかった”とされている。)

    (注釈 ところが其の後も「松阪の別家筋の青木氏:四家」と「絆青木氏の寺」としても扱われていた。
    この事は「本寺の経緯」から「勿論の事」として、「伊勢衆との血縁族 青木氏族」の「菩提寺の分寺(B)」もその後に「顕教」に成った。
    然し、それでもこの「分寺(B)・来迎寺館」を上記の多気郡等にも建立出来たのである。
    この「特例の事」は、「伊勢」に如何に強く結ばれ「青木氏血縁族(氏族の氏人)」が多かったかを物語っているのだ。
    だが、「本寺の寺名(A)・清光寺」は前段では敢えて匿名としていたが、ところが「古代密教の青木氏族」だけの「密教菩提寺」は、江戸初期の「顕教令」に依って尚更に「表向き」には維持が出難く成っていた。)

    (注釈 実は、これには鎌倉期から始まった「浄土宗派争い」で「密教浄土宗」は殆ど無く成って居た。
    その処に、更に「顕教宗教派」が増加して「派争い」と「教派争い」が加わり、益々「青木氏の密教」は難しく成って行った事に成る。
    西山派系 東山派、嵯峨派、西谷派、本山派、深草派、時宗派
    鎮西派系 白旗派、石城派、藤田派、一条派、三条派、本幡派、一向派
    長楽寺派系 
    九品寺派系
    「14派中」の「鎮西派」の中の「最小派の白旗派」の「原理主義」を概念とする皇位族が入信した「古代密教派」である。
    尚更にその為に周囲からは完全に無視され「排除の圧力」を受けていた。
    その後に、ところが「室町期初期」に「足利幕府」に依って「原理主義の白旗派(14派の中の最小派)」だけが強引に「浄土宗本貫」と決められたのである。)

    「氏族の概念」を表す「宗教・宗派」にはこの様な大経緯があったのだ。
    唯、結果としては「原理主義の白旗派の概念」が認められたが、それだけにすべての「派争い」と「教派争い」の「羨望を向けられる事」に成って仕舞ったのである。
    遺されている「青木氏の資料」の一部にこの「行」がある。
    それに依れば、此処から「原理主義の白旗派の密教」である事に対して、“「世間の羨望」”は「暴力的要素」を含んだ攻撃を示す様に成って行ったとある。

    これは宗教でも「氏への尊敬」から「攻撃的羨望」へと変わって行った事になるのであろう。
    取り分け、「信濃と伊豆」では大変であったらしく、「攻撃を受ける恐れ」がある様に「密教である事」をも極力隠す様に成ったと記されている。
    信濃では昭和の初期まであったと聞き及ぶ。

    「伊勢」も「多少の変化」は認められていたらしく、唯、「伊勢神宮」と云う「原理主義的な思想概念」と「神明社族の印象」が古来より根強くあった事からも、「菩提寺」が直接的に攻撃されると云う事は無かったらしい。
    これが江戸期まで持ち込まれた。

    ところが明治期にはこの「攻撃」は再燃したとある。
    今度は「密教の原理主義的な思想概念」だけでは無く、奈良期から平安期初期までの「青木氏と云う象徴的な立場格式」と「巨万の富を獲得した氏への羨望」の「三つが絡んだ羨望攻撃」と成った。
    恐らくは、これには「裏での政治的思惑」が働いていたと考えられる。

    前段でも論じたが、そもそも「明治の民主化」により「天皇家」に継ぐ程度の「格式族の存在」は否定しなければ成らなくなった。
    況して、「献納」を明治9年に中止した事で益々、険悪と成って行ったと観られる。

    (注釈 この時、「紀州徳川氏の仲介」で華族制度に推薦されたが、「伊勢と信濃の青木氏」は断った。
    この「断りの根拠」は徹底して「青木氏の氏是」であってそれを護ったと記されている。
    その時の「天皇の側近右大臣からの手紙」と「徳川氏の手紙」が遺されている。
    この事で、東京に出て直接に謝罪をし「紀州の景色」を書いた「南画」を献納している。
    この時の「天皇家からの返納品」は「所縁の藤白墨」であった。現存している。
    「臣籍降下の元皇親族」の“「皇親華族」”に列せられる推薦であった。)

    (注釈 そもそも「華族」には「皇親華族」の他に「公家華族」と「大名華族」と「勲功家族」があった。
    その「皇親華族」の格式は最高位であった。)

    この「歴史的経緯の事」で「伊勢」では、「分寺 Bの来迎寺館の存在」は、この「使い分け策」として逃げた事も合わせて考えられる。
    つまり、どう云う事かと云えば、「本寺(A)・清光寺」が「青木氏族の定住地」には先ず必ず“「菩提寺」”として在って、更に、夫々に“「ある目的」”を以って「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺」が存在させたと云う事である。

    実は「顕教化する宗教界」に対応する事のみならず、もう一つここに「注釈の答え」があったのだ。
    この「分寺(B)」、即ち、「来迎寺城館(分寺Bの寺名)」には、「青木氏族」に執って「多くの意味」を持っていたのだ。
    唯の寺ではなかった。

    これから先ず論ずる事に成るのだが、「信濃」や「伊豆」でも伊勢と寺に関する防備として「同然のシステム」を執っているのだ。
    つまり、防備のこれは「青木氏と云う限定した族」に対する「攻撃」であった事に成る。
    その原因が「密教と顕教の差」がその「引き金」と成っていた事に成る。

    「室町期中期」から発祥した「第二の姓族」が「全体を占める社会」と成れば当然に「顕教の力」が強く成る事は否めない。
    逆に云えば密教は認められないと云う事に成る。

    それは後の「江戸初期の顕教令」が物語っている。
    みんな同じにしようとする「社会の流れ」である。
    それは「密教的要素の伝統」を発祥時から持たない「第二の姓族」社会であるらこそ起こる事である。
    必然的に「密教」は浮き出る事は必定であって、その現象を社会が心豊かに容認しなかったのであろう。
    これは「日本人の特性」と云っても過言ではないだろうか。

    そこでこの事は、青木氏に執ってはその特別性の期が無くても社会は無意識に攻撃する。
    その為に、「青木氏」は「菩提寺」にその防御の目的を持たせたのだ。
    其の事が最も明確に出て来る「菩提寺」にである。
    そこで夫々に“「ある目的」”を以って、「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺館」を存在させたと云う事に成る。
    「平安期末期」にも「限定した地域」にもこの社会の「攻撃」が起こっていた事に成る。
    そしてそれが宗教の「密教論争」と云う事まで興した。

    上記した「白旗派の古代密教」の「浄土概念に基づく原理主義」を巻き込んだ「争い」が平安末期から鎌倉期を経過して室町期初期まで、遂には「他の宗派」も加わって醜い”「160年論争」と云う宗教争い」”が続いた。
    勿論、室町中期以降も続いた。
    これが上記した「浄土宗の分派」と云う形で手出来たのである。
    何とかこの社会の攻撃に少しでも教義の中で修正して対応しようとした。
    その最たるものが浄土宗から飛び出した「親鸞の浄土真宗」で完全に密教性を排除した。

    「青木氏の伊勢と信濃と伊豆」にはこの影響は大きく働いた。
    「密教から顕教」への変化が「氏存続」の「大きな脅威」と成っていた事に成る。
    「密教」が「顕教」に替えられるかと云えばそれは無理であろう。
    これには「青木氏の伝統の基礎」と成っているからだ。

    そうとなれば、それを示すのが上記の伊勢青木氏が執った「分寺策」で在ったと考えられる。
    同然に、「信濃」にも「伊豆」にも、将又、「美濃(後段で詳細を論じる)」にもこの「分寺策の形跡」がはっきりと遺されて観られる。

    「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺館」では、従って、後者の「分寺(B)・来迎寺館」は「武力的攻撃への対処策」であった。
    要するに「直接的攻撃防御策」であった。
    前者の「分寺(A)・清光院」は、“「院」”に示す通り「天皇家への権威の象徴」であったので「権威に依る牽制策」であった。唯一、「院」を行使出来るのは伊勢青木氏である。
    つまり「、間接的権威牽制策」であった。
    この“「二つの策」”で対処し護った事に成るのである。
    これで、“ある目的”の意味合いが判る。

    上記している様に、世情の「青木氏への尊敬」から遂には社会の流れの変化で「攻撃的羨望」への変化に対して、「分寺B」を攻撃から逃れさせる為に“「来迎寺城館」”としたのである。

    つまり、世情には“「密教寺」”ではあるが「寺」では無く“「館」”なのだ”としたのである。
    「館」なのだが「寺」だとする苦肉の策である。
    この「館」は「住まい」では無く、要するに「城壁を持つ平城」なのである。
    これは平安期初期からあって「伊勢青木氏の清蓮寺城館」と同じである。

    上記でも何時の世もこの密教の「原理主義・白旗派」を貫く以上は「世情」は厳しく成ると説いた。
    世情の「顕教化する宗教界の社会変化」と、「攻撃的羨望への社会変化」に対応したのである。

    「名張」の「清蓮寺城館」も「平安期初期の古来」に於いてこの「二つの事」に近いものがあったのでは無いかと考えられる。
    つまり、それは「平安期初期」には上記で論じている「桓武論説と嵯峨論説の影響」があったという事に成る。
    この「政争」からの「防御」と観える。
    その証拠に、これに合わせて、平安末期の「薩摩域・大口青木氏・日向青木氏」までの「伊勢」を含む「青木氏族系の定住地」には、必ず、「同宗同派同名」の「ある寺(館)」(「来迎寺城館」)が少ないが定住地の近隣に必ず一つ存在しているのだ。
    現在も存在する。
    取り分け、南の端の「薩摩大口村」と「日向廻村」にも存在するのは典型的な例である。
    この「薩摩の分寺(B)」も、本来は「青木氏の家城」で「城郭・館」と「寺」とを兼ねたものであった。

    (注釈 「寺」では無く「館」として建立した。これが「表向きの策」であった。
    後は「館」での「寺的な行事」の「集会所」とするだけで事は済んだとしている。)

    この他にも存在は別として次の域にも現在でも存在する。
    「美作国吉野郡」
    「越後国古志郡」
    「佐渡国賀茂郡」
    「三河国渥美郡伊川津」
    「三河国額田郡」
    「因幡国八東郡」
    「豊前国下毛郡」
    「越前北ノ庄と坂井郡」
    「加賀国」
    「岩代国安達郡」
    「磐城国袋内」
    「伊豆国沼津郡内浦」

    以上の地域、即ち、「青木氏の定住地」であるこれらの地域には、この「ある寺(B寺)(館)」(来迎寺城館など)が必ず存在した。(現存)

    これは、「伊勢名張」の“「清蓮寺城館」”と同じ様に、この“「来迎寺城館」”にも“「ある意味」”を持って共通して存在させたのである。

    研究中により{青木氏の所在地詳細}などは秘匿するが、「青木氏」と大きく関わっている事は間違いの無い事実である。
    江戸期以前の「密教の浄土宗」の置かれていた環境から勘案して明確に判る。

    この様に「ある寺(B寺)(館)」(来迎寺城館など)が「存在する共通環境」は、「浄土真宗の環境」の中に於いても「知恩院派の浄土宗寺(鎮西派系の白旗派原理主義派)」がぽつんとある事なのだ。

    上記した様に、この「鎮西派系の白旗派原理主義派」は「青木氏の所以」そのものである。
    「古代浄土密教の系列」であり、平安期初期以降では「青木氏」以外にはこれを引き継いでいない。
    「信濃と伊豆」にもこの怪しき伝統は引き継いでいる。

    更にそれは何故かである。
    これが判れば先ず上記の「伊豆の事(「伊豆国沼津郡内浦」)」も解って来る。
    伊豆の国友の件も読み込める

    それから先に論じる。それは次の注釈で判る。

    注釈として、先ず「伊勢」には「ある寺(分寺B)(館)」(来迎寺城館など)の「来迎寺」は、二つある。

    一つは、「天台宗寺」で「伊勢」を侵食した「下級公家官僚」の「北畠氏の菩提寺」である。
    他方は、「(a−1)(a−2)の郷士」と成った「菩提寺」である。

    つまり、ここが過去には「浄土宗寺の城館形式」に成っていたのである。

    従って、「来迎寺」のある所には、この「(a−1)(a−2)の郷士」があったと云う事に成る。
    依って、「伊勢」からこの「来迎寺城館等」の「来迎寺の形跡」を追い求めて行けば、「(a−1)(a−2)の郷士」の「移動定住の跡」が判ると云う事にも成る。

    これに依って何と「伊勢−信濃間の縦の線」、つまり「移動定住の跡」と云うものが生まれているのだ。

    (注釈 美濃を経由して 且つ、伊豆の平安末期の生活も環境も判るのである。)

    この事は「平安初期」には「氏族の存在」と「宗教の概念」が伊勢と信濃と伊豆はすくなくと一致していたと云う事に成る。
    だから、「氏族」と云うのではあるが。

    (注釈 美濃の詳細は別段で論じ、此処では論外とする。)

    そこでそもそも、この「移動定住の跡」の“「来迎寺館」”とは、元々は、「上記(bとc)」の地方に赴任した「高級官僚族が入信する寺」でもあった。
    依って、この結果、「高級官僚族」は次の様に分かれていた。

    「天台宗(公家等の官僚族)」の派
    「浄土宗(武家貴族の官僚族)」の派

    以上の二つの「両方の寺」と成っていたのであった。

    ところが、「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」の「移動経路」は「線状」として全く成立せず少なく無いに等しい。
    又、天台宗(公家等の官僚族)」の派はそもそも最澄概念から「館」では無かった。
    つまり、天台密教を唱えながらも顕教として信者を多く獲得する戦略に出た。

    (注釈 「最澄」は当初は「緩い密教」を唱えていた。その後、「顕教的密教の概念」に替えた。
    この「概念の変遷」から「原理主義」では無いので「館の考え」は生まれない。)

    つまり、これには「宗教概念の違い」があった事から起こっていたと観られる。
    故に「浄土宗(武家貴族の官僚族)」は「白旗派の原理主義の概念・律宗族」の経路と云えるのだ。
    殆どは「(bとc)」と同様に、前段でも論じている様に、「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」は平安末期の「戦乱の世」に出て滅亡したのである。(近江美濃甲斐の様に)

    「浄土宗(武家貴族の官僚族)」は下記の様に「館策を執った事」で生き残ったのである。

    然し、「(a)族」と一部の「(bとc)」の「浄土宗派(武家貴族の官僚族)」は、「武力」を持って「赴任地」を統治し、「土地」に根付いていた彼らは「下剋上の戦乱」でもある程度生き延びられたのである。
    ここに「違い」があった。
    これが「館の所以差」であるのだ。
    当に、「上記の薩摩」がその典型例であるのだ。

    この事は「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」を帰依する故に「氏族の存在」と「宗教の概念」が一致していなかったと云う事に成る。
    だから、彼らには「氏族」と云う「存在性」が薄いのではあるが。

    つまり、宗教的には「(a−1)と(a−2)の郷士」と、「(b)と(c)」の「浄土宗帰依族」の「武家貴族の官僚族)」とが、この“「来迎寺」”の「寺」を「菩提寺」にし「館形式」にしたと云う事に成る。
    この「菩提寺の在り様」が違ったのだ。

    前者は「来迎寺城館等」の「館」で、他方は単に「来迎寺の寺」であったと云う事に成る。

    そして、何方もその元を質せば、「朝臣族」の族の「身分秩序の諡号の姓」であった。
    確かに「位階と諡号の姓の差」はあるが、“「高位の族」”に類するのである。

    (a)族と一部の「(b)(c)族」の「浄土宗帰依派の武家貴族の官僚族」が平安期末期までは全国各地に分布し、赴任して現地に根付いた。

    「鎌倉期」にはこの任が無くなり、この「元官僚族」が「時代の変化」に敏感に即応して館を基に「武力」を前提に「豪族・土豪」と成って生き延びた。
    その彼らが現地に建てた、つまり「菩提寺」が、「武力集団」を収容する「来迎寺の城館」であったのだ。

    唯、彼らの「来迎寺」は、「本寺A」が在る事が故に「分寺AB」で執った「来迎寺城館等」の“「館の形式」”では無かった。
    然し、彼ら「(a)族と一部の(b)(c)族」は「高位族」である以上は、多くは「都の近隣の天領地等」に配置されていた。

    ところが一方、平安期初期から室町期に架けての長い間に「生き延びるに必要とする力」を持ち得なかった「皇親族系(皇別)」の「(a−1)(a−2)の官僚族」は、生き延びる為に必要とする武力と財力が非弱であった。
    この為に衰退滅亡し山岳地等に潜んで生き延びた。(美濃は別段で詳細に論じるので注目)

    彼等には当然に「菩提寺(来迎寺等)」を建立する事は必要で、潜んでいる以上はそれは不可能であるし、その力は元より無かった。
    然し、「古い所縁」を得て幾つかの種類の「シンジケート」に入って「経済的な裏付け」とその「抑止力」の傘下に入り「糧」を得て、「他に侵される危険性」が無く成った時、これらは始めて「シンジケートを支配していた青木氏族の協力」を得たのだ。

    そして、元の帰依する「浄土宗密教の菩提寺(「来迎寺城館)」を建立し得るに至るのである。

    唯、ここで注目すべきは、「(a−1)(a−2)の官僚族」の由縁で、彼等には「持ち得る伝統」があって、その「習慣仕来り掟の最低限」のものを持ち得ていた事であった。
    中には、「官僚族の所以」を以て「学問処(事務方)の郷士」も居て、それが「シンジケートの力」に大きく幅広く反映した。
    彼らの「学識の高さ」のそれが、「青木氏の神明社組織」をより高いレベルで生かす結果と成ったのだ。

    この「(a−1)(a−2)の官僚族」の由縁の中には、一部「神明社」を「守護神として崇めた族」もあって、「シンジケート」と云うよりは、寧ろ、彼等を“「神明社族」「来迎寺城館族」”とも云っても過言ではない族と成っていたのである。

    (注釈 唯、他氏と違って「青木氏族」「神明社族」「来迎寺城館族」に執っては“「影の組織である」”に意味があって、その「意味」を強調して筆者は“「神明社族」”と云うよりは敢えて筆者は「シンジケート」と呼称しているのだ。
    この「シンジケート」とはそもそも「やくざや暴力や武力の集団」では決してなかった。)

    (注釈 例えば、消失から遺された一例として、「青木氏に関係する資料」の中には、この「シンジケート」に付いては秘密にするものである為に明確には触れていないが、唯、「宗家の商記録」の方には、一定額が「神明社」に定期的に振り込まれている。
    この事に合わせて、「護衛荷駄搬送等の勘定」で記載され、「送り先」が地名で「‥殿」とした記録が数多くある。
    「尾鷲の差配頭の家人の資料」には、「・・・原士の事・・御任せ頂き候故・・」とある。
    この時は、室町期末期の「秀吉の長島攻め」で、この「シンジケート」を動かして、「伊勢紀州の材木の買い占め」と「工人の雇攻め」と「山岳地のゲリラ活動」で対抗した史実がある。
    この時の「伊勢の家人」と「尾鷲の家人」との「やり取り」が「影や原士・・」と云う隠語で遺されている。
    この「影の作戦・伊勢長島の戦い」を知った「秀吉」は、やむなく「家来」を使って谷川から材木を自ら流した記録と成っている。
    この記録は、「軍略組織」であって、“唯単なる「シンジケート」では無かった事”を意味する。)


    (注釈 「伊勢攻め」の足掛かりと成った「松ヶ島城」の時も、「伊勢の家人」と「摂津の支店」との「やり取り」で、「・・の影」の隠語で「伊勢信濃の影組織の連絡」の一部が遺されているし、どこから漏れたか外記録にも成っている。
    これが後に、この「時の事」が江戸期に物語化されている。
    この種の“「その時々の秘密裏の云い廻し」゛での手紙が多く「伊勢の家人」の家にもある。
    「九度」等の「地名」とを組み合わせた“「九度の影」”とか「影九鬼」「影員弁渡り」の隠語を使っている。)

    (注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
    これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
    取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)

    (注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏の浄橋と飽波の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41−R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
    結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
    彼らは「額田一色」にその拠点を置いていた。
    この「二つのルート」の「(a−1)(a−2)の原士」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成ったと観ている。
    故に神明社を守護神とする族に成ったのである。
    そもそも考え方として“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
    目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入ったのである。)


    > 「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」に続く。


      [No.373] Re:「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/08/13(Tue) 15:28:16  

    「青木氏の伝統 51-1」−「青木氏の歴史観−24−1」の末尾

    > 注釈から、最早、「原理主義」で「源氏化」に応じなかった「伊勢と信濃」の範囲で留まったが、平安末期の「皇女、王女、宮人」の「受入口」は、「血縁性」も「役務」も含めても当然に無く成っていた事>に成る。
    > それ「以後の事」は「正しい資料」が見つからないので判らない。
    > そもそも「受入口」をしていれば「原理主義」は崩れる。
    > つまり、原理主義を貫いてきた「青木氏族」は潰れると云う事に成る。
    > この事が「生き残り」に繋がったのである。
    >
    > (注釈 「斎王」は、「嵯峨期前」に既に終わっていた。
    > その後、前段でも詳細に論じたが「嵯峨期後」からはその格式は「斎院」等であった。
    > 「巫女的なもの」で何とか鎌倉期までは形式的に続いた。
    > この事でもその後の「受入口」は「234」で終わっており判る。
    > 「嵯峨期以降」は記録から受け入れている証拠は「伊勢と信濃」には無い。
    > 「信濃」にも前段で論じているが、「伊勢神宮」に近い様な「大聖域」なるものを持っていて、「伊勢」と同様に「何らかの祭司制度」を持っていた事が最近判っている。
    > 同様に、「234の受け入れ」は連携で行われていた事が証明されている。
    > 「信濃青木氏」として「原理主義族」である以上、明らかに「伊勢」と同様に「祭司王」や「物忌」等の「役務」を果たしていた事が予想が着く。
    > そして、最近その研究と記録が発見されている。)
    >
    > 「信濃の聖域の詳細」は今後の研究に成る。



    「青木氏の伝統 51-2」−「青木氏の歴史観−24−2」

    さて、注釈として、理解するに「重要な事」は他にもあった。
    それは、「皇女、王女、宮人」の「受け入れ」で興った事の「此処での違い」である。
    つまり、「伊勢と信濃」と「近江美濃甲斐」の唯一つの違いは、「出自」は「氏族」でありながらも「姓の有無」であった。
    「近江美濃甲斐」は「縛り」を護れなかった以上は「正式な氏族」ではない。「姓族」である。
    何れもが「氏の名」は持つが、一方は「伊勢と信濃」は「郷士関係」とで、正式な氏族を構成されていた。
    つまり、「氏人と皇位族の(a−1)・(a−2)」での構成であった事である。

    他方の「近江美濃甲斐と(b・c)」は「姓関係の繋がり」にあった。
    この「近江美濃甲斐と(b・c)」は「皇子・(皇女、王女、宮人)」の「受け入れ」を利用して興った「姓関係の繋がり」である。
    これは判り易く云えば「源氏化の差(縛り)」と論じている。

    当時は、「縛り」を護らなくても「皇族系であった朝臣族」であると云う「名誉の風潮」が社会に大きくあった。
    世間には、“「平家」にあらずんば「人」にあらず”、されど、“「源氏」であらずんば「武家」にあらず”であった。
    “「9つの縛り」”は守れなかったのに、世間はそんな「縛り」などは気にしないで囃子たてた。
    逆に、この風潮に載り「近江美濃甲斐と(b・c)」は、「140年間〜160年間」の間に「家柄の格式」は低下していた事が起こった。

    そもそも、「美濃の始祖」は「三野王」で「浄広四位の冠位」であって、「朝廷」きっての有能で「筑紫大宰率」を務め、その後に出世して「美濃王」に成る。
    ところが其の後の末裔の功績は無く、永代で無い事から低下した。
    そこで、元の様に「家柄の格式」を引き上げる為に「美濃末裔」は逆にこれ「皇子・(皇女、王女、宮人)」の「受け入れ」を利用したと考えられる。
    それが安易な「源氏化と姓化の路」であった。

    そもそも「社会」は嵯峨期から「賜姓源氏」は「花山源氏」までの「11家11流」の「盛流」の中にあった。
    この「11家11流」は「9つの縛り」を無視して解放されて「自由な生活」を獲得して“飛ぶ鳥落とすの勢い”であった。
    この「原理主義」と成る「9つの縛り」を守っていれば「源氏族」は「縛り」に潰されて存在し得なかったであろう。「美濃」も同然である。


    ところが対比して「伊勢と信濃」は「9つの縛り」の「原理主義」を貫いたからこそ「生き抜けたと云う事」が逆説として云える。
    唯、果たして“「原理主義」だけで生き抜けたか”と云うとそうでは無い。
    何時の世も「原理主義」で生きている者は世情からは排他されるは必定である。
    それは「人間の本能とする自由性」が無いからであろう。
    比較すれば、この義務付けられた「原理主義・縛り」から「自由性を求めた源氏族」には「世情の人気」があって、それに頼ったのが「近江美濃甲斐」であった。

    然し、「自由性を求めた人気族の源氏族」には何れも底が浅いものがあり、「強かな者」に見抜かれて、結局は300年程度で「滅亡の憂き目・1221年」を受けている。

    (注釈 「円融期の補完役」はこの「不人気状況・原理主義・縛り」を観ての策で、それには「血縁と抑止力の強化」も一つの要因で在ったと考えられる。
    「世情の源氏化」と「不人気状況・原理主義・縛り」は逆比例していた事に「天皇の危機感」を持ったという事であろう。)

    「天皇家」とほぼ同じ「原理主義」を貫く「世情人気」の無い「伊勢と信濃の青木氏」は、“それを消し去る策”を持っていた。

    そこには「氏族発祥期」からの「商いの裏付け・二足の草鞋策」があったからであろう。

    これには、自由性を発揮する「商いの自由の裏付け」と「氏の維持概念の原理主義」は一見して矛盾する処がある。
    然し、この「矛盾を解ける概念」が「伊勢と信濃」にはあったのだ。

    それが「氏族発祥期」からの「共生共存共栄の概念」にあった。
    この概念は次の関係式が成り立っていた。

    「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」

    この関係式がこの「原理主義」の「矛盾を解ける鍵」であったのだ。

    更に注釈として、この「原理主義」を維持していた「aの族」を、三つに分けるとすれば次の様に成る。
    「(a)、(a−1)、(a−2)」のこの三つに成ると前段でも説いた。
    「a族」には三つ分けられる血縁的要素を持っていた。
    これに繋がる「何れの郷士」も次の様な経緯を持っていた。

    (注釈 嵯峨期の新撰姓氏禄はこの基準で格式の分離をしている。)

    因みに、判り易い例として「伊勢」の「氏人の伊賀郷士(甲賀含む)」を例にすると次の様に成る。

    前段でも論じたが、そもそも、「伊賀」は「伊勢の半国伊賀」であった。
    後漢の「阿多倍王」は博多に入国して「32/66国」を支配し「関西の手前」までを無戦で制圧して、そして大隅に住していた。
    朝廷は三度に渡り「制圧軍」を薩摩に派遣しも敗退する。
    朝廷は結局は「調停」を選び「阿多倍王」を都に呼び出す。
    そして「渡来人後漢の阿多倍王」に「伊勢の伊賀」を半国割譲する。
    「阿多倍王」は「芽淳王の女」を娶る。
    「准大臣」と成り「坂上氏、大蔵氏、内蔵氏」の賜姓を授かり三氏を輩出する。
    其の後、「称徳天皇の白羽の矢」が伊勢王の「施基皇子の末裔賜姓族」の「青木氏」に当てられる。
    この「伊賀の阿多倍王」の「孫女高野新笠」を「白壁王(光仁天皇)・青木氏」が妃として娶る。
    「子山部王」は「桓武天皇」と成る。
    「伊賀の桓武平氏(たいら族・賜姓)」を輩出する。
    「桓武平氏」と「伊勢青木氏」とは「縁」では「光仁天皇」、「血縁」では「桓武天皇・甥」で繋がる。

    注釈として、ところがこの経緯を持つ「伊賀」には、そもそも、「阿多倍王の入国前」には“「伊賀原士」”と呼ばれる上記の「(a)、(a−1)、(a−2)」の「一部の族」が存在していたと云う事である。

    「阿多倍王の族」と「伊賀原士(a−2)・(一部の族)」とが共存共栄していたという事に成る。
    記録的な確認は取れないが恐らくは血縁があった可能性が高い。

    ここで、「伊勢青木氏」は、更に時代を遡ると、“「芽淳王の子(第三の説)」“の「第四世族春日王」を祖として、「系譜」ではこの「伊賀」の「芽淳王の女・阿多倍の妃」に繋がる。
    全段でも論じた。

    「桓武天皇」は、「阿多倍と芽淳王の女」との間に出来た子の「桓武平氏の祖」の「坂上田村麻呂(北陸域を統一した征夷大将軍)」とは、“兄弟だ“と公言したとする記録が残る位である。
    そして、「施基皇子の四男」の「白壁」は「伊勢青木氏」である。
    明らかに血縁性を保持している。

    更に、「白壁王の光仁天皇」と「阿多倍王」の「孫の妃高野新笠」と血縁して、「子の山部王の桓武天皇」で繋がるとすれば、この系列からすると、「高野新笠の血筋」の「始祖 阿多倍王の桓武平氏」から「七代目の末裔」の「清盛(約300年程度)」と成る。
    つまり、ここで全て「芽淳王」で繋がっている事に成る。

    注釈 系譜は次の様に成る。

    (注釈 平高望・高望王・高尊王には多説あり・矛盾説もある。)

    高尊王(阿多倍)−平国香−平貞盛−平維衡−平正度−平正衡−平正盛−平忠盛−平清盛

    「阿多倍」の処では「芽淳王」の「女」で「系譜」で繋がる。

    「芽淳王」と「青木氏」は繋がつているのでここでも繋がる。

    結局は「伊勢青木氏」と「光仁天皇」は「出自元」で繋がる訳であるから、「平国香−高野新笠」の処で、「縁」で「光仁天皇」で、「血縁」で「桓武天皇」と繋がる。


    とすると「青木氏」から観れば、「伊賀」は次の様に繋がつている。

    「白壁王−妃高野新笠のルート」と「春日王−芽淳王の子のルート」

    「桓武天皇のルート」−「阿多倍と芽淳王の女のルート」−「桓武平氏のルート」

    「血縁の関係性」は斯くの如しである。

    要するに“「芽淳王」”を起点に短期間でこれだけの「血縁の輪」が出来ていたのである。

    (注釈 上記注釈の通りで、従って、「春日皇子真人族の由縁」もあって「施基皇子の子」も同じ「春日王」を名乗っている所以なのである。
    但し、「春日」の「皇子や王」を名乗る者は3人もいた事に注意)

    そもそも、そうすると「伊賀」に於いては、次の様に成る。

    「(a)、(a−1)、(a−2)」の一部から成る「伊賀原士(伊−イ)」
    清盛移動後の「伊賀郷士」と成った「残存郷士(伊−ロ)」

    「伊勢の族階」は伊賀では以上の二つに分けられる。(但し、鎌倉期の地頭足利氏は除く)

    そして、下記参考の「(a)、(a−1)、(a−2)」の一部に族階する事に成る。

    参考(前段記載)
    (a)真人(48)、朝臣(101)  ・「三分類* (a)、(a−1)、(a−2)」
    (b)宿祢(98)、忌寸(50)
    (c)臣(66)、連(258)
    (d)首( 93)、造(80)
    (e)公(63)、直(42)
    (f)史(28)、村主(20)、県主(12)

    合計=810

    この記録から観て「郷士か原士」と成った全国的な「族階順表」は以上の様に成る。
    (注釈 「郷氏か原士」かの説明は前段で論じた。)

    上記の「伊賀の経緯」の例で論じた様に、「伊勢」では「(伊−イ)と(伊−ロ)」の何れも「郷氏の青木氏」とは「血縁郷士」と成っていて「氏人族」であった事に成る。

    (注釈 この事は間違いは無いが、この判別が今ではつかない。)

    この「伊−イ」と「伊−ロ」の「郷士か原士」は、「(a)、(a−1)、(a−2)」で「伊勢青木氏」とは関わっていた事に成る。

    「伊−イ」と「伊−ロ」の「何れの郷士」も、「室町期初期」まではこの様に「血縁の輪」を広げていたと考えられる。

    注釈として、 資料が乏しいので証明は出来ないが次の様に成る。
    「郷士」には大別すると2流あり、小別すると4流ある。
    この大別は発祥時期である。
    ここで云う「郷士」とは、「室町期から江戸期までの郷士」、即ち「第二の姓」から成った「在郷農士」とは別であり本論外である。
    本論は、次の郷士を云う。
    奈良期末から平安期末期までの「上記の族階表910氏」で示す「官僚族」として地方赴任、又は、特定地域に定住していた「官僚族の末裔」から成り立ち、「朝廷の衰退」に伴い「第一の姓」から成った「在郷武士」の事である。
    その「官僚族の役立場」から「統治の為の武力勢力」を持つ事を許されていた「官僚族」であって、結果として「武士」と成ったのである。
    元より「武士族」では無かった。
    彼等は「aの郷氏」と共に生き、「特定地域」に定住して生きた者らを指す。
    「郷氏の氏族」の「氏人家人」などを形成した「元官僚武士族」を云う。
    中には「高位官僚族」、且つ、「武家の立場」を有する族も居たし、この「第一の族」の「下級官僚族)」とその陪臣は「農業」に勤しむ傍ら「郷士」を助ける「原士」とも成った。
    これが「伊賀原士」や「美濃原士」等をいう。 )

    そこで、故に、上記の「伊勢の例」でも判る様に、上記の注釈を改めて前提にして、前段でも「伊勢と美濃と信濃間」では「伊勢−美濃−信濃」の「縦の線のシンジケート」が存在下した。
    それは要するに、「(a)、(a−1)、(a−2)」」の「三つの族」と「bとcの族・官僚族」とで構成されていたと説いた。

    そして、この「縦の線上」にあったこの「伊賀の二つの郷士(「伊−イ」と「伊−ロ」)」とも含めて、「(a)(a−1)(a−2)」の”「影の郷士」”と成っていたのである。

    (注釈 詳細は個人情報に関わるので匿名するが、「伊勢シンジケート」で関わった「伊勢での郷士」の姓名は確認できている。)

    「上記の族階表910氏」の内の「(a−1)、(a−2)」の「101の族」で関わっている事は、組織化されて効果を発揮する。
    「(a−1)、(a−2)」の「101の族」の「彼らの守護神」は、当然に「祖先神の神明社」と云う護り神を持つ事に成る。
    「(a)族」を中心とした、「(a−1)、(a−2)」の族は「全国500社近くの組織」で全て統制されていたと考えられる。

    「室町期以降の第二の姓の郷士」とは違い故を以て強かったと云えるのだ。

    「経済的繋がり」は当然にあるしても、元を質せば、「(a)と(a−1)、(a−2)」の「古来の血縁の繋がり」も認められるし、「支払や指示や計画」などの全ては「神明社」を経由して処理されていた事に成ったとしている。

    つまり、これが「伊勢−美濃−信濃の縦の線のシンジケート」であり、故に「シンジケート」が成り立っていた事に成るのだ。
    ここには「神明社」が鍵であった事に成る。要するに「神明社族」と云われる密教の宗教概念の強い「原理主義」の「律宗族」である。
    彼らはその様な「神明社概念」と云えるものを強く持っていたのである。

    「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」と共に、「神明社概念」の実に「不思議な共同体」であった事が云える。

    (注釈 唯、この関係を解明しようとしたが、ある所までは「家人や差配頭などの記憶」を辿り可能と成ったが、どの様に「系と譜」の詳細な関係を持っていたかの証拠は、「1716年の松阪大火(1614年の大火含む)」で消失してどうしても確定できない。)

    そこで少し「伊勢郷士の詳細」たけが判っているのでこれを先に論じて看る。
    最近、判って来た「信濃の歴史と伝統」も同然であろう。

    この内の「伊勢の郷士」の「4氏」/50氏」が、”伊勢青木氏の末裔で郷士だ”と今でも公的にも主張している。
    恐らくは、これはその位置づけからと口伝から観て、「伊勢衆の11郷士衆」であると観られる。
    つまりは、「(a)と(a−1)、(a−2)」の説から観ればこの「裏付け」と観られる。


    その「4氏」の内の「2氏」は、「土豪」として「玉城地区周辺」と「櫛田川沿い北域」の住んでいた様である。
    この事から、前者は「絆の青木氏」、後者は後に絆を結んだ「射和の郷士衆の商人」ではと考えられる。
    後の「2氏」は「南紀勢地区」で「青木氏の旧領地」であるので、「職能集団の郷士・家人」ではと考えられる。

    この事から、現実に伊勢には、“「青木氏族」だ”と名乗っている「郷士」が今も居ることから、後から成った「射和の郷士衆」も含めて、上記の考察からも「(a)と(a−1)、(a−2)」で“間違いなく繋がっていた”と考えられる。

    この事では上記の論と合わせて「4氏」は起こり得た事は充分にあり異論は無い。

    そもそも「末裔」と云う事は、限定される「氏族と云うもの概念」の捉え方に依って変わるが、少なくとも「伊勢青木氏の四家の掟」から何れも少ない中の「皇子(a−1)」が「家人」と成って「郷士の跡目」に入った事か、「氏人」に成った事を意味している。
    「氏族」である故に「総称」と捉えれば、「関わった郷士」は全ては「青木氏」である。

    然し、「氏族の総称」とは云えど、明治期3年の「伊勢と信濃」での「苗字令」では「郷士や農民」は「青木氏」を名乗らなかった史実はある。

    普通、「青木氏」と密接に関わった血縁性の無い農民などが、明治期3年と8年で「第三の青木氏」として区分される。甲斐などに多く発生した。

    これは、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で結ばれた「信頼性が伴う氏族」であった「長い間の由縁」であろう。

    (注釈 伊豆でも同然の事があった事が判っている。)

    (注釈 最も「明治の苗字令」で「青木氏」を名乗ったのは、皮肉にも逆で「氏族」は崩れていた「甲斐」であった。
    「嵯峨期の詔勅」を使った賜姓族の「源光」の兄の「時光系の第三青木氏」に関わった農民たちである。
    つまりは、「甲斐」は「歯止め」が効いていなかった事を意味する。)

    (注釈 後段でも論じるが「美濃」は「額田青木氏の蒲郡青木氏」と「伊川津青木氏の四家・伊川津・田原・吉田青木氏」と成って「国衆」で再興させた。
    「近江」は「傍系末裔」が「摂津青木氏」として「商い」で再興させた。)


    ここで、何度も論じたているが、「路線差」からもう一度観てみる。
    「上記の事」から「伊勢と信濃」と「近江と美濃と甲斐」とにははっきりとした「路線差」が観える。
    「伊勢と信濃」は血縁関係を強化して同一路線を採った。
    故に、「桓武天皇と嵯峨天皇の青木氏の論争」では、上記の「芽淳王の論」から明らかに「桓武平氏側」に血縁関係があった事に成る。
    「青木氏側」からは「二代目の甥域」であった「桓武天皇の論説側」に有った事に成る。
    同じ出自元でありながら「嵯峨論説側」には無かった。

    然し、論じている様に「近江美濃甲斐」は「多くの皇子」を引き入れて「源氏化と姓化」したし、従って、この「源氏化と姓化」を否定した「桓武天皇の論説」との繋がりは「近江美濃甲斐」には観えて来ない。
    「源氏化と姓化」は「嵯峨天皇の論説」の側にあった事に成る。
    然し、此処で「嵯峨天皇の論説」は「姓化」を決して認めていない。
    寧ろ、「9つの縛り」で姓化を防ごうとした。

    とすると、「近江美濃甲斐」は「直近の勢力・世情」に迎合した所以である事は明らかである。

    「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」では無かった。

    確かにこれで「近江美濃甲斐」は「約250年近く」は生き延びられた。

    ところが「以仁王の乱」より「源平戦」が起こると、脆さが「近江美濃甲斐」に出た。

    この時、「桓武天皇の論説側」のこれで「伊勢と信濃」は「9つの縛り」を護り中立を採った事は理解が出来る。

    「以仁王の乱」の後、「近江」も「美濃」も「甲斐」も将又、「源氏」も滅びたが、この時、「伊勢」から出した「頼政の孫の助命嘆願」では「桓武天皇の論説側」に在った事が理解され受け入れられた。

    (注釈 結果は日向廻村に配流と成った。)

    「白壁王−妃高野新笠のルート」と「春日王−芽淳王の子のルート」
    「桓武天皇のルート」−「阿多倍と芽淳王の女のルート」−「桓武平氏のルート」

    以上の上記の“「芽淳王の繋がり」”を以て「日向廻村配流」の処置で「無理な嘆願」は聞き入れられた。

    (注釈 後に再び九州平氏と戦うが敗退して薩摩に宗綱の廻氏との末裔と共に家臣5名が逃げ延びた。
    「市来の浄土宗の寺」に辿り着き其処に「平氏の追討軍」が追い着いた。
    そこで、「伊勢青木氏の裔」である事を名乗る様に住職に勧められた。
    そして、「日向青木氏と大口青木氏」が発祥した。
    後に「黒田藩の傭兵」と成り功績を得て子孫を拡大させた。)

    筆者は何度も前段でも論じたが、ポイントは「伊勢と信濃の青木氏」が「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事と、上記の論説通りに「源氏との繋がり」が無かった事が大きく影響したと考えている。
    直前の「頼政の京綱や国友の策」があったにも関わらず平氏に聞き入れられたのである。

    これは「伊勢と信濃の青木氏」では「氏是」を破る初めての事で前代未聞の事であったが、「頼政の孫」を「伊勢(源京綱・四男妾子・多田)」と「信濃(四家の源国友・妾子・若狭)」を「青木氏」に入れて「源氏子孫」を遺そうとした。それが主目的であった筈である。

    それなのに「無理な嘆願」は聞き入れられた所以は、強く「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった所以と観られる。


    さて、ここで前段でも論じたが、次は「桓武天皇の論説側(平家側)」の面から論じるとする。
    ここで疑問なのは次の事である。
    この事を解かなければ前段までの論説は崩れる。

    前段まで論じているが、「桓武天皇の論説側(平家側)」の論説で検証する。

    そもそも、「桓武天皇の論説側(平家側)」では「京綱・国友」は矛盾した行為である。
    何故ならば、上記通りの系譜からも「平家譜論」である。
    なのに、「京綱・国友」は間違いの無い「源氏譜論」である。

    これは一体どういう事なのだ。
    当然に「青木氏の氏是」とも矛盾する。
    この「二つの矛盾」を押し通した事に成るのである。認めて仕舞った事に成る。

    当然に「二つの矛盾」を押し通すには、何かそれをしなければならない「絶体絶命の理由」があった筈である事は簡単に解る。
    「伊勢と信濃の青木氏」としては見逃す事は出来ない事由である。
    其処には、次の説があった。

    「伊勢の京綱説・国友説の解明」

    「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事にも関わらず、何故に同時期に「伊勢と信濃」は「源氏」を入れたかである。
    頑なに護ってきたこれは始祖からの「青木氏の氏是」である。

    (注釈 この”「共存共生共栄の氏族」”である事の為には「青木氏の氏是」として、
    ”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し 世に憚る事無かれ 何れにも一利無し”
    以上の意に通じ、結果として、”「「共存共生共栄の氏族」であれ”と宣言している事に成る。)

    明らかに「京綱説・国友説」はこの「源氏化」に繋がるような「矛盾する行為」である。
    何の得にもならない策であるし、そんなに「摂津源氏」とは近縁でも無い。
    寧ろ、「氏人郷士」に対して「裏切り」の「危険行為」である。

    さて、そこでその「伊勢の記録」で辿ると判る範囲では次の様に成る。

    先ず伊勢で判る事である。

    「京綱」を「四家の福家」に入れている事。
    そして、“血縁をさせていない”と云うか「嗣子」を遺していない事。
    嫁いだ「女(むすめ・京綱の母)」は「四家」には入れていない事。
    「女(むすめ)」の記録も無い事。
    「京綱」は「四家」の「元」からいた人物では無く「福家」に突然に入った事。
    そうすると、理屈では「福家」は空席であった事に成る。
    以上と成る。

    そもそもそんな事は無い筈である。
    どの位の年齢であったかは判らないが、“若かった”とする記録がある。
    年齢不詳である事で、恐らくは、「1〜2歳程度」と観られる。

    公にしていたかは判らないが、「摂津側の資料」では次の通りである。
    「源京綱・四男・妾子・多田」とする記録が遺されている。
    「妾子」であって「仲綱の子」の「四男」とする記録と「六男」とする記録がある。

    これは研究で解決出来た。
    「頼政」には「仲綱」を始めとして以下の通りである。
    「5人の実子、養子」が居た。
    「四家一族」から5人が入っている事。
    合わせて10人居た事に成る。
    この他に「妾子」と「義詞」の存在は確かにあったかの証拠は判らないが、当時の慣習からいたと考えられるので、10人は超えていたと考えられる。

    (注釈 当時の慣習として四家宗家には「実子、養子」以外に一族から多くの継嗣を引き取る仕来りがあった。
    丁度、「女系の青木氏」の「女(むすめ)」と同じで「主家」で養育する仕来りがあった。
    宗家の摂津源氏だけは「青木氏」と同じ「四家制度の縛り」を伝統として守っていた。)

    ところが「頼政の子」の「仲綱の子」には「摂津源氏の四家」の「親族一族」から「三人の養子」を態々入れている事である。

    つまり、先ず「宗綱、有綱、広綱」の「3正子(配流後死亡)」が居た。
    それに「3養子(解除)と3妾子」が加わっている。
    以上の計9人であった事。

    従って、仲綱の子の「妾子の京綱」は男では「四男」、年齢的には「六男」と成る事。
    問題の「嗣子」では「七男」と成る事。
    「3妾子」の内の「2妾子・(伊豆か)」が存在しているが詳細は不詳である事。
    これには更に「計算外の義嗣(外孫子・不詳)」が有った事

    最終的には、仲綱の子には「12人の男子」が居た事。
    (「頼政の子」を入れると22人以上いた事に成る。)
    乱後は「嗣子」が「京綱」と成っている事

    以上の事も判っている。
    以上に成る。

    そこで、「青木氏の氏是」として前段でも論じたが「四家制度を敷く摂津源氏」でさえも「源氏系」は入れない事に成っている。
    前段でも論じたが、源氏は世情の人気の的であった。
    「近江や美濃や甲斐」の様に人気中の源氏化をすれば、”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し 世に憚る事無かれ 何れにも一利無し”に反して媚びた事に成る。

    「律宗族の白旗笹竜胆紋の密教原理主義」を唱えながら明らかにこれは大きな「氏是違反」である。

    この解く鍵はこれにも関わらず「京綱を入れた事」として、どの様な経緯が考えられるかを検証する。

    1 圧力に押された。

    明らかに成っている事は、「以仁王の乱」をリードした「頼政」は初戦で先ず敗退するとして“「摂津源氏一族」を絶やさない事”の為に同じ「賜姓族朝臣族(四家制度)」であるとして「青木氏」に入れた。

    上記で論じた様に、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で「氏族」で既に確立している「伊勢と信濃」である。
    この段階では、この「京綱と国友の事」は、「伊勢と信濃」も「摂津源氏の四家」も「桓武平氏に敵対する事」は充分に解っていた筈である。

    とすると、「伊勢と信濃の青木氏」はその「説得」に“無理にでも応じたと云う事”であろうか。
    そうすると“応じた理由は何なのか”である。

    「前例の経緯」を観れば「伊勢と信濃の青木氏」には“利益的なもの”は何も無い筈である。
    寧ろ、「不利益」であろう。

    そこで唯一つ考えられる事は、次の事に成るだろう。

    それは「妥協案」として、「青木氏の女系の妻嫁制度」に従って「摂津源氏頼光の四家」に「女(むすめ)」を嫁家させた事が考えられる。

    そこで検証としては、「清和源氏の頼光四家」は「青木氏の縛りの四掟」に入るかであるが、原則的には入らない。
    前段でも論じた様にこの場合、「嵯峨天皇」が定めた「9つの縛り」には「四掟の二つ」は適合しない。
    それを強引に嫁家させたと考える事が出来る。(強引は何なのか)

    それ故に、先ずは「女(むすめ)」を「記録」の載らないで「伝統」の関わらない「妾」として「伊勢と信濃の青木氏」は「嫁家の形式」を執ったと考えられる。

    「伊勢」の場合は、「乱の直前」にその嫁家した“「女(むすめ)」とその「子供(京綱)」と共に「伊勢」に戻させた”と考えられる。
    それがこの「京綱の福家入りの狙い策」であったと観ている。

    「信濃」は「国友の年齢」が記録から高かった事が判っている。
    「信濃」も伊勢と同じ伝統を敷いているので同じような扱いと成ったと考えられる。

    ではその「伊勢」の「女(むすめ)」は誰なのかである。

    この「女(むすめ)の解明」に付いては調査したが判らなかった。
    「女(むすめ)」は福家で養育するので、「執事の差配」で判るが室町期に消失している。

    判らなかったと云うよりは、この「平安末期(1176年〜1178年)」までの間に「後家」に成って、又は「尼僧」に成っている事に少なくとも成る。
    そして、「俗世」から「出家している事」であり、「俗名や履歴」を遺さないのが「仕来り」であるので、判らないのである。

    時代的には「神明社の巫女・比丘尼」では無い筈で、且つ「多気の館」の「十二司女」でも無かった筈である。

    問題はこの「後家の扱い」にあったと成る。

    つまり、「伊勢(信濃も含む)」がどの様に扱うのかという事である。
    「その場の状況判断性」が大きく左右したと観ている。
    この「始末」を間違えば「大変な事に成る事」を知っての事であって、それは「頼政の思惑」の本音であろう。
    最も裁量策はこの段階では「後家」だから「比丘尼の尼僧」としたかである。

    前段でも論じている様に、「単純な事」であって「後家」として戻ったとすれば、「青木氏の嫁家制度」の「仕来り」にて「後家」として受け入れて、「多気の館」か「分寺」を含めた「三つの菩提寺の尼僧」に先ず成ったと観られる。

    そうすると、その「幼児の子供(京綱)」は「四家」では無く「福家」に入れたと成る。
    現実に「福家」であった。
    “「四家」では無く「福家」であったと云う事”は「福家の強引さで行った事」があった事に成るだろう。

    そもそも、これは「共生共存共栄の概念」からして「氏族を左右する事」で「四家や家人や氏人の納得」を充分に得られていたかは甚だ疑問で経緯から得られ難い事であった。

    何度も云うが、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で「氏族」で確立している「伊勢と信濃」である。先ず無い。

    それ故に、そこで“「福家」として充分に配慮して処置する様に”との「条件」を「氏人」から突きつけられたのではないか。
    「仕来り通り」の“単純な事では駄目だよ”という事である。

    それが、先ず嫁ぐ際は実記録として遺さない様に「女(むすめ)」を「妾」としての「嫁家の形式」で嫁がせ、戻す際は“「後家」として、その「子供(京綱)」と共に密かに「伊勢」に戻させる”の条件であったのであろう。
    そして、戻した後は「後家の扱い」で、その「措置」は判らない様に「行動記録」を消す。
    以上が条件であった筈であろう。
    私ならそうする。
    これでは「四家や家人や氏人」を何とか納得させられるだろう。
    何はともあれ先決は“「四家や家人や氏人」の納得”であろう。
    これが「絶対条件」であった筈である。

    実は、“戻した後の「後家の扱い」のその「措置」”では、下記で論じるが、“ある出来事”が「信濃」にも起こっているのである。
    つまり、「伊勢と信濃」はこの措置で連動していたと観ている。

    「信濃」では少ない資料から、それは何と此処に“「伊豆」”が出て来たのであった。(記録下記)

    そうすると、その前に“その時期が何時であったか”と云う疑問を解決する必要がある。

    先ず、「四家や家人や氏人」の「反対する根拠」は「氏是」に反し「四掟」にあった筈である。
    この「策の根拠」はこれをクリヤーする事に有って、それには「同宗と同位」をクリヤーしなければならない事に成った。

    「9つの縛り」について完全に護っていなかった「四家の頼政」は「清盛」に媚び入り「1178年」に「正三位」に先ず成った。

    (注釈 従三位・後に正の制度は無く成った。天皇に拝聴出来る立場)

    これで「四掟」の「格式の位」では先ず一つクリヤーした事に成る。
    後は「賜姓源氏」は特異な「八幡神社・八幡菩薩」の”「二神仏併用」”としている為に「青木氏の大日如来」と「神明社」では「同宗」とは成らない。

    (注釈 「源仲綱」は「1179年」に「従六位」に何とか成って位階を持った。高位の官僚族の位階である。
    「公家」は従四位以上である。)

    (注釈 「浄土宗」でも「主流派(四派 14流)」に分かれていたが、最も「鎮西派」の一つの「原理主義」の「最小の白旗組(古代密教浄土の如来概念  原理主義 現在の浄土宗の祖)」と称する派に所属する「青木氏」であった。
    「律宗」を基本概念とする「律宗族」と云う。
    「摂津清和源氏四家」は「浄土宗進歩派の西山派」の「八幡菩薩・「二神仏併用」」の「主流に所属する源氏」であった。)

    宗派では「同宗」では無かったし、記録から中には「天台宗」もあった。

    この「原理主義」の「律宗の白旗組」は、「青木氏等」の「古代密教浄土如来の宗」で「密教浄土を概念」とする「真人族系」が帰依する「原理主義の概念」の最小派であった。

    (注釈 そもそも念の為に記載して置く。
    「源平合戦」で「源氏」が「白旗」を掲げたのは、この「青木氏等」の「白旗派」の印を真似て「戦いの権威」を付けたとされ、定説と成っているが現実には異なっている。
    そもそも「旗印」を持たない「浄土宗進歩派の西山派」であるし、「律宗」ではない。矛盾している。
    奈良期からの「当時の慣習」として「旗印」と「白印」を持てる事は「皇別派の真人族の証の仕来り」であった。
    「真人族」では無い「朝臣族の源氏族」は「9つの縛り」を護らなかった事もあり朝廷より序されていない。故に本来は無い。完全な搾取である。
    更には、序でに前段でも論じたが、「源氏の総紋」を「笹竜胆紋としているが、「源氏」にそもそも、この「律宗の神紋の笹竜胆紋」を「使える立場」には無く、「神紋族」ではない。
    朝廷より「賜紋の記録」は無い。
    況して姓化しているし、「9つの縛り」は護れていない事から「神紋」は使えない仕来りである。
    「9つの縛り」を護らなかった「姓化」している族にはそもそも朝廷が認める「神紋」は使えない。
    「神明社の神紋の象徴」である「笹竜胆紋」は「八幡神社」では使えないのである。
    且つ、「八幡の神社」は格式外であって「笹竜胆紋」は使えないのである。
    そもそも、「嵯峨期の詔勅」で「青木氏の慣習仕来り掟」の「一切の使用」を禁じることが明記している。
    これは「桓武天皇と嵯峨天皇の論戦」の末の「結末策」であった。
    要するに律宗族で無い限りは「白旗も笹竜胆」も使えないのである。
    仮に無理に使えるとした場合は、「青木氏の出自元尊属」であった「嵯峨源氏」と「淳和源氏」と「仁明源氏」の三源氏までであろう。
    後は「青木氏との直系尊属の血縁性」は無く成っている。
    この「三源氏」は結局は「禁令や皇族朝臣としての縛り」に絶えられなかったが、「摂津清和源氏」の様に完全に「朝廷の縛り」を無視はしていない。
    一応の初期では「四家」と「無姓化」と「四掟」は護っていた。
    ところが「清和源氏が使える理由」があるのだ。
    それは、「清和源氏」の「賜姓」を無理に受けた「経基−二代目の満仲(摂津)」が、この嵯峨の山奥にひっそりと土豪化して住んでいた「上記末裔の三源氏・「嵯峨源氏」と「淳和源氏」と「仁明源氏」を集めて「武力集団」を形成し「同族血縁」をした「確実な記録」がある。
    三代目の「頼光の摂津源氏」がこの「武力集団」を引き継いだ。
    従って、「完全縛り」から外れるが使えるとした理屈と成り得るだろう。
    然し、「白旗」は明らかに同宗でないので無理であろう。
    これも、理屈を捏ねれば成り立つがそもそも「時系列」が異なる。)

    (注釈 それは、室町期初期に「浄土宗の宗派の争い」を無くす為に「室町幕府」は、この「弱小の原理主義の白旗派」を「律宗の浄土宗の本貫」として決定したのである。
    以後、統一されたが「時系列」は違っているが、「傍系族と称する族」は「白旗」も「源氏」のものとし搾取した。
    公にされている論説にはここを黙認して「源氏説論」は、「象徴紋」であり「神紋」の「笹竜胆紋」としている。
    敢えて、「白旗に関わった事」なので、何度も論じているが、「縛り」と「四掟」とする本論には大きく関わるので論じて置く。
    公論説は必ずしも正しいという事ではない。)

    さて、これで「同位」の「四掟」がある程度が叶ったとして、これを結果としては押し切った事に成るだろう。
    「伊勢と信濃の青木氏側」は“「源氏化では無い」”として妥協したと云う事に成る。
    1178年頃から「以仁王の策 (1178年) 乱(1180年〜1182年)」は進んでいたとされているので、少なくとも直前に「頼政の説得」を受けて「1176年〜1178年頃」に「頼政子孫残存策」として「青木氏側」から嫁した事に伊勢では成る。但し、誰に嫁したかは解っていない。
    「信濃」は女を嫁家せずに「国友」を入れた事に成る。
    従って、伊勢の場合は「妾子の京綱」は最低でも「1歳か3歳」に成っていた事に成る。

    そもそも「妾子」は「青木氏」の方が「官位格式位階」で何れもにも上位であっておかしい事から「当初からの策」としては「裏向きな嫁ぎ」であったと観られる。

    つまりは「四掟を護る原理主義」の「伊勢青木氏側」では「影の策」で逃げたと考えられる。
    「信濃」は「伊豆」をつかった別の策を講じた。
    この「低年齢」での「頼政側」から観れば「青木氏への子孫残存策」と成るが、「伊勢青木氏側」から観れば、これで“「桓武平家」を納得させられる”と考えた事に成る。
    つまり、“「源氏化・姓化」では無い”とする姿勢で表向きには見せた事に成る。
    上記の「桓武平氏と青木氏との血縁の関わり」は、検証の通りで明らかに“「桓武平氏側」にあった”のであるから、「京綱の年齢」からも納得は得られた事に成るだろう。
    現実に、この「2年後」には「以仁王の乱の敗戦」に依って「頼政の孫」の「宗綱・有綱等」の「助命嘆願」(廻村配流)を聞き入れられているでは無いか。



    > 「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」に続く。


      [No.372] Re:「青木氏の伝統 51−1」−「青木氏の歴史観−24−1」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/07/18(Thu) 14:46:08  

    > 「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」の末尾。


    > (注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
    > 結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
    > 従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
    > この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
    > 「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
    > 故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
    > 「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
    > 故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
    > そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
    > この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
    > 要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
    > 然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
    > それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
    > 然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)
    >
    > (注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
    > そして11流も発祥している。
    > これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
    > 故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
    > この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
    > もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
    > 「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


    「青木氏の伝統 51-1」−「青木氏の歴史観−24−1」

    さて、前段の注釈を前提として、「真人族48氏」を基に論じてきた。
    前段でも論じた通り果たして、“これが正しいのか”と云う疑問があるのだ。
    上記した「真人族の数の疑問」である。

    そこで問題と成るのは「真人族の定義」である。
    当時は「大化改新からの定義」が世情では乱れていた。
    その為に最終は「嵯峨天皇」はこの定義を明確にして「身分格式」をはっきりさせようとした。
    その最初が「孝謙天皇期」であるが、この「孝謙天皇期」と云うよりは「藤原氏の孫」の「淳仁天皇期の事」である。
    天皇家に男系継承者が絶えた事を見計らって藤原氏の「外孫王」を「天皇」に仕立てて「政権の奪取」を図った。
    そうすれば「天皇家」は「藤原氏」と成ると見込んだのである。
    その為にこの「定義」を「藤原氏」に有利に成る様に「姓氏の範囲」を統制する「族系図」を作成しようとしたのである。

    その策は成功したかの様に観えた。
    然し、女性の「孝謙上皇」はこれに気づき「淳仁天皇」を廃帝にし淡路島に流し、再び「孝謙上皇」は重祚して「称徳天皇」として即位し実権を握った。
    この時の「族系図の編者」等は゜政争の恐ろしさ」を恐れてこの「系図の作成」に途中から放棄して「族系図」そのものを不明にした。

    この「称徳天皇」(「孝謙天皇」)は今後の「藤原氏の策」に警戒して、この「乱れた定義」を「本系の天智天皇系」に戻そうとした。
    この事で定義は安定すると見込んだのである。
    ところが、「天武系」は聖武期には男系は断絶していたので、更に一代遡り「敏達天皇春日王系真人四世族」に戻せば本流に戻ると見込んだ。
    ところがこの「天智系」は「二人系列・川島皇子系と施基皇子」を遺す事と成っていた。
    その一つの「伊勢の施基皇子・716年9月没」も既に賜姓臣下して下俗していた。
    ところが「近江の川島皇子・691年没」には「天智系」でありながらも「天武系」に近づき過ぎ、又、「天武崩御後の政争」で「密告者の汚名」と「人格的批判」があり、「称徳天皇770年没」は堅い意思から避けたとされる。
    それは「施基皇子の中立性の生き方」に賛同していたと観られている。

    当に、この「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は前段から論じている様に「人格的評価」も高く「青木氏の生き方(氏是)」に一致している。
    「孝謙天皇・称徳天皇764即位」では、下俗し「商い」もしていたにも関わらず「皇子の末裔・二世族」に「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は拘り「白羽の矢・765年頃」を放ったのである。
    既に「施基皇子没後の48〜50年後の事」である。二世三世時代の事であった。
    当時としては、「二世代の寿命期間」でもあり「下俗」して相当後の「二世代か三世代」に入っていた事になる。
    もっと云えば「四世代目」が生まれていた事が判っている。
    既に「商い」も進んでいた時期でもあった。
    この「白羽の矢」はこの「二世代目」に当てたのである。

    この時の事は前段でも論じている。
    当然に、この時、「天武系の自らの血筋」を「天智系に入れると云う策」を執ったと云う事である。
    それわより確実にするには「姉の井上内親王・717年〜775年」を「施基皇子の二世末裔(青木氏・白壁王・実質の四男)」の「妃・745年」にする事であった。
    但し、この「井上内親王」は727年〜744年の「17年間」は「伊勢神宮の斎王」であった。
    その「伊勢神宮斎王」を退下させて帰京させての「血縁策」であった。

    兎も角も、「施基皇子没後」の前段でも論じている様に「女系妻嫁制度等の体制・四家制度」を次々と強化している「最中の事」であった。
    社会には「藤原勢力の意」を汲んで、この下俗した「施基皇子の末裔・伊勢青木氏」に対しての批判が高まるのを恐れたのである。
    「社会」では「最早50年後の氏」と云うのは「民間人の何物」でも無かったし、「高位族の禁じ手」の「商い」もしている当に「民間人」に観えていた筈である。
    この策は明らかに「下俗」と「商い」に対する「世情批判」を躱す目的があった。
    兎も角も、これで「政争」を抑え込もうとしたのである。

    「白壁王・光仁天皇」も、この「藤原氏の力の低下」を狙うと当時に、依然としてその根幹と成っている「族の定義の安定」が定まらず政争が続いていた。
    そして、矢張り、「族系図」を定めて「定義の確定」を施そうとした。
    この時は、その「偏纂の目的」は「淳仁期」、つまり「藤原氏系」の「外孫王」を「正統化する目的」に比べてやや異なっていた。

    今度は「下俗していた50年後」の「施基皇子族系」を天皇家として「正統化する目的」で纏められようとしていた。
    然し、又、この「族系図」は「編者等の反発」により矢張り失敗するのである。

    この事から観ると「世情」は「青木氏」に対して完全には肯定的ではなかった事に成る。
    正統な「井上内親王・717年〜775年」が「青木氏」に入ったとしても充分に認めていなかった事に成る。

    その主因は次の事が考えられる。

    1 「貴族」が「商い」をすると云う「禁じ手」が大きく働いていたのでは無いかと考えられる。
    2 「50年〜54年と云う期間」が「施基皇子の記憶」に戻せなかった事も考えられる。
    3 「世情の感覚」は「施基皇子」では無く「伊勢郷氏の青木氏と云う感覚」の方が強く働いた事もあり得る。
    4 「族系図」の「最高位が青木氏である事」で「定義の確定」は成らなかったのかも知れない。

    「1〜4の事」を勘案すると、それ故に、「追尊の春日宮天皇」の策を歴史的に始めて打ち出したのであろう。

    この「追尊」に付いて幾つかの説があるので触れて置く。
    その内の「主な二つ」に付いてである。
    抑々、「追尊」とは“亡父に対して贈る尊の号”であると定義されていて利用されていた。

    (注釈 念の為に「光仁期以前の過去(淳仁天皇期)」には「一人の追尊天皇の事例(父の舎人親王)」があり、桓武期には実弟の「相良親王」があるだけである。
    平安期以降は「准・・」が着けられて「追尊である事」を明確にする「天皇家の仕来り」とした。)

    「施基皇子没後716年」に「追尊」と成っている説もあるが、この説では「白壁王・709年〜775年」は54年後に「天皇770年即位・61歳」に成っていて論理的に「追尊」に成る事は無い。

    仮に「追尊期」が「716年没」とすると、この期間は「元明天皇・715年10月〜724年3月期」の以外には無いのである。
    「元明天皇」との間には「追尊の定義」に関わる事は何も無く、当に「追尊する程の高いもの」は無くそもそも「無縁」であるし、既に「臣下している者」でもある。
    定義の「追尊の権利を持つ天皇」としては「光仁天皇」だけであり「父を追尊した説」が正しい。

    恐らくは、この「716年追尊説」は「称徳天皇・764即位」時の「白羽の矢」の「根拠付」の「後付け説」である事が明白である。
    この前に「注釈の通り」の「追尊の舎人親王の事(正式系図には無い)」があってこれを「後付け」で利用したと考えられる。
    この「後付け説」で以て「伊勢系列」に繋がる様にした「江戸初期の搾取偏纂の可能性」が高く、大体予想が着く。

    「追尊」から戻して、「世の族系の定義」を質す為に「族系図偏纂」に取り組んだ「三度目」は「嵯峨天皇」であるが、前段でも論じた通りである。
    「族系図」は「編者等の反発」も同じようにあったが、その内容に対して周囲が反発をした。
    今度はこの「族系図」に依って「身分格式が定まる事」への反発であった。
    然し、「嵯峨天皇」は一策を講じて強引に押し通した。

    この為に過去の二度とは違う処で造り始めていたのが、それが“「族系の縛り策」”であった。
    この「族系の縛り策」でも、“「皇位継承」に問題を興すのではないか”と云う「光仁期」と同様に「疑念」が出た。
    これが「政争の元」と成ったのである。
    この様に「族系図」の実現の為に三度挑戦された。
    これが「嵯峨期」の最終の「新撰姓氏禄」の基になるものであった。

    つまり、それが「皇位継承の定義」が原因であった。
    当時の政権は「孝謙天皇期」までは、“男系継承者が絶えた”とする主因と観ていたのは「皇位継承の定義」であって、その基の議論と成っていた。
    何方かと云うと「族系図」では無く、引き継がれてきた「大化期の改新の定義」に在ったと観ていたのである。

    それを検証して観る。

    そこで、先ず「皇位継承の成す為の数」としては、そもそも「内蔵の財力」が問題であった。
    「皇位継承族者」を「存在させる範囲」として、仮に「その財力」で出来るとしても「半分程度(家族 100人)」の「20氏の真人姓諡号」の程度の範囲であったろう。

    その為に、「新撰姓氏禄」の基で「9つの縛り」を掛けた。
    現実に最終的に「11流の賜姓源氏」も結局は、この「9つの縛り」に耐えられず「姓」に成ったそもそもの族であろう。
    依って、「近江佐々木氏の研究記録」も正しいと観ている。

    故に、当時としては、「編集」に当たって「三代天皇」の「編者等」そのものから「その矛盾(9つ縛り)」を突かれた事も「反対の一つ」であったのであろう。
    つまり、「数と質の範囲」に「天皇家の誇張」の問題が興ったのである。
    「純仁期の記録」では、世間だけでは無く「表向きの理由」として「編集者に選ばれた者」等から、“これでは編集しても意味が無い”と訴えたとする記録が遺されている。

    (注釈 故に、「三回」ともに「編者」に指名されながら「編集途中」の侭で放置された等の事が起こった。
    この「三回の放棄」は上記の通りに夫々理由が多少異なっていた。)

    これは、つまり「嵯峨源氏」が生まれる前から「族系」の「縛り等に対する矛盾」が潜んでいた事に成る。
    「嵯峨天皇」はこの為にもこの「縛りをより強化した事」と成ったと観られる。
    それが遂には「詔勅の結果」とも成ったと観られる。

    (注釈 これ等が記されているこの「類聚三代格」にしても「新撰姓氏禄」にしても、この後に弄られた書である事に留意する必要がある。
    つまり、「公表されている記録」が全て史実とは限らないからで、その当時の政治環境に大きく忖度されている事が多いのである。)

    筆者は「淳仁天皇、光仁天皇、嵯峨天皇」、取り分け、「嵯峨天皇」はこの「皇子皇女の数と質等の矛盾」に対して「皇族の反発」や「世間の反発」等に忖度して「数や質の格式身分」を合わしたのではないかと観ている。

    つまり、そもそもの共通点は「天皇家の血縁範囲(真人族の範囲)」を「9つの縛り」で改めなくては「数と質」は変わらず「継承は不可能」であるとしているのである。
    「編者の理由」は論理的で現実的であったと考えられる。

    そこでこれを検証して観る。

    「文徳系13」+「光孝系40」=「皇族15」
    「嵯峨系9」+「淳和系9」+「仁明系9」=「皇族27」

    以上から「842年没の嵯峨天皇」の間までには「正式な数」として“「42人の皇族」”が生まれた事に成る。

    そうすると「新撰姓氏禄」の(a−1)の「真人族48」にはこの「皇族42」が少なくとも含まれている事に成る。
    然し、この「5人の天皇」には公式に全て“「源氏族」”を「皇子皇女」に関わらず「賜姓」か「無賜姓」かで「朝臣の姓」で臣下させている。
    従って、「(a−1)の真人族」は、計算上ではこの段階で(48−42)=「6人」だけと成っていた事に成る。

    「光仁系13」+「桓武系22」+「平城系5」=「皇族40」
    以上と成る。

    「施基皇子の後」にでも「真人族の皇子皇女の数」は「82(42+40)」であったと史実として記されている。
    然し、「新撰姓氏禄」は「真人族48氏」なのである。

    「大化改新」で「施基皇子の前」は「第四世族内の第四位」までを「真人族の皇子皇女」としての「縛り」を掛けていた。それ以外の「第六世族」までは「王」、順次起こる「第七世族」は「王位」は無く成り、無位無冠で「坂東(坂東八平氏・ひら族)」に配置される。
    従って、この「仕来り」から「天智天皇」からの「真人族」で「子孫」を遺していたのは次の通りである。

    「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」

    但し、「天智天皇の皇子」は「4人」であるが、2人は没で「施基皇子と川島皇子」は「賜姓臣下族」として「真人族」から外れた。

    3回の「新撰姓氏禄の編集」に選ばれた編者から観れば、要するに“これは明らかに多い”と観たと考えられ「継承者」は絶えて“「質」も低下した”と判断していたと観たのであろう。

    従って、結局は、この「真人族48」の中には上記の「5人」が含まれている事に成る。
    然し、「文武」で絶え「女系」が続き、又、子供の「聖武天皇(文武の子)」から「皇子の真人族」は「女系」と成り絶えているので、継承のカウントはこの期では0である。

    故に、ここでも検証の結果は、(82−48)=34(皇子皇女)が少なくとも「真人族の受け入れ口」であった「五家五流」に入っている事に成る。

    この「34の内」、「青木氏の直系尊属」であった(「文徳系」+「光孝系」)+「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」)は、「賜姓の有無」は別として何れも「賜姓5源氏族」と成ってはいる。
    つまり、「(34−5)=29」が「真人族」であった事に成る。

    然し、これも「(a−2)の清和源氏」に組み込まれた「嵯峨源氏(縛りから外れた)」を除いて子孫を遺していない。

    (注釈 殆どは傍系支流か搾取偏纂である。)

    又、この「賜姓5源氏族」は「縛り」から外れているために「真人族」でもない。
    もっと云えば、「縛り」から外れていて「格式」は低く成り、本来は唯の「武力集団」に過ぎず「朝臣族」の定義の中にでもない。

    ここでも、従って、殆どはこの「真人皇女族の34」であって、これが「五家五流」に入っている事に成る。
    「青木氏と近江佐々木氏の資料論文(皇子17皇子15の説)」は正しくその通りに検証されている。

    念の為に「青木氏の歴史観」として、「平安期の応仁の乱(1467−1477)」の前までには「近江、美濃、甲斐」は滅亡しているので、ここでも「真人皇女族の最大で34(最低で28)」は「伊勢と信濃」に遺ったと云う事に成るのだ。

    故に、「新撰姓氏禄」の「(a−1)真人族48」は、計算が合わず少なくともこの時は上記の「真人族 6」以上には無かった筈である。

    そこで仮にあったとすれば、理屈上は何も「孝謙天皇の白羽の矢」は、「臣下族、朝臣族」に成って仕舞っている「施基皇子の子孫」に、飛んで来なかった事に成る。
    その「48」もあるのであれば、「真人族48」の所に「白羽の矢」を飛ばす事にすればよかった事に成り、これは矛盾する。

    又、伊勢に「白羽の矢・770年」を向ける前に、この時期は「川島皇子族(近江佐々木氏)・657年〜691年」とは、「春日王皇子四世族」と「安貴王の孫族」を共通とするほどの「完全な同族」であった。
    だとすると、こちらに「白羽の矢」を向けても良かった筈である。
    これも矛盾する。

    (注釈 他に「川島皇子族(近江佐々木氏)」には、追尊王の「名張王女や尾張王女」等も伊勢から嫁している。)

    抑々、この理屈からすれば「真人族48」も有るのなら「聖武天皇」の後の女性の「孝謙天皇」が即位しなかった事にも成るだろう。
    つまり、この「論理矛盾している「(a−1)真人族48」はおかしいのである。
    これが「3回ともの編者の反抗」と成った所以の一つであろう。

    他の「三史書」も同様であろうし、要するにこれを認めた天皇家に対する「忖度書」である事に成る。

    (注釈 但し、“「第二姓族」”は、これらの「諡号の規則(格式)」に一切関わりの無い「身分秩序の単位」の単なる「名」として室町期中期に発祥したものである。
    この「応仁の乱」を契機に「(a−1)(a−2)の族・第一の姓」は衰退し、「第二姓族」が生まれるきっかけと成った。
    それが「安芸地方域」に発祥した「渡来系海部氏」が記録に遺る最初の「第二姓族」であるとされる。

    (注釈 逆にこれが契機に「末裔子孫」を引き出し「美濃額田青木氏」等を再興させた。)

    では、この様に“明白な真人族の無い史実”もありながら、又、「編者の反発」も受けながらも、何故、「(a−1)真人族48」と成って仕舞っていたのであろうか。

    これも「疑問」であるので検証して観る。

    基本は、次の通りである。
    一つは、「桓武天皇と嵯峨天皇の青木氏の扱い論争」にベースがあった。
    二つは、「第1回目編集」は主に「質」に対する反発が興った。
    三つは、「第2回目編集」は主に「質と数」に対する反発が興った。
    四つは、「第3回目編集」は主に「数」に対する反発が興った。
    五つは、「910の族柄と格式が確定してしまう反発が興った。

    「第1回目編集(淳仁天皇)」では、次の通りである。
    「絶えた朝臣族」を補う方法を「藤原氏の外孫王」に基本軸を求めて「真人族」を構築しようとした。
    それには「数と質」には問題が無かった。
    然し、ルート外での「藤原王朝」が出来る事に成る。
    「指名された編者等」はこれを放置し、遂には問題を噴出させると云う行為(政争)に出た。
    ところがこの議論に気づいた「孝謙天皇(上皇)」は、「外孫王の淳仁天皇」を「淡路廃帝」とした。
    そして、「政争の後」に自らが「称徳天皇764即位」と成って実施実権を再び握り、上記の「白羽の矢」で事は治まった。

    「第2回目編集(光仁天皇)」では、「第1回目編集」で纏まらなかった事を“「青木氏の追尊王」”を巻き込んだ「光仁天皇族・50年後」で「真人族」を構築しようとした。
    「白羽の矢」で急に「光仁天皇」と成った為に周囲を固めるその「真人族」は無かった。
    既に、「臣下族」で一族は治まっていた。

    (注釈 この時、「皇親族」として「紙屋院の令外官」の「商い」に力を注いでいた。
    「出自元」と成った「伊勢青木氏の四世族」までは何とか政争から逃げようとした。
    「白壁王等」も必死に成って「闇愚」を装い「白羽の矢」から、その後の「追尊扱い」からも逃げようとした事が判っている。
    「白壁王」は「王位」と成っているが、賜姓を受け臣下した「施基皇子の子」は「大化期の規則」でそもそも「王位」では無い。
    それを「四家全体」の「三世族」までもが追尊で「王位」と成って仕舞ったのである。)

    そこで、上記注釈の通りに、この「出自元(青木氏)」を追尊し再び格上げして、「大化改新の規則」に従い「第四世族」の一部まで無理に「王位」を与えて「真人族」を構築しようとしたのである。

    「皇女」として扱われたのは正式には4人/5人である。
    正式には「妾子」を入れると「9人」であった。
    然し、実質は「妾子」を入れて「二世族9人」と「三世族まで13人」は「追尊族」、つまり、これらは「青木氏の女(むすめ)」であり、「皇族」では決してない。

    この様に「彼女等」に依って「真人族」を強引に構築したが、これを権威づける為に「孝謙天皇」の姉の「井上内親王」を組み込んだ。
    この「井上内親王」の反発(光仁天皇の后)・聖武天皇の子」を受けて「青木氏・実家」に「17人」は殆ど密かに保護を受けて逃げ込んできたとある。
    つまり、この様に「内示の真人族」の内容に「数と質」に問題が興って反発が興った。
    この為に編者は編集をサボタージュして放置した。

    「第3回目編集(嵯峨天皇)」では、「第1回目編集」と「第2回目編集」で纏まらなかった。
    この事から、「光仁期から仁明期」と「嵯峨天皇の目(光仁天皇の孫・施基皇子の曾孫 生存中であった)」の届く「文徳と光孝系」までを組み込んで、要するに「嵯峨一族」を以て「真人族48」とした事に成る。
    この事に「編者の抵抗」を受けたが強引に「縛りの策」の一つとして発行した。

    この時、「祖父の光仁期」では「青木氏」を組み入れたのに、「嵯峨期」では入れなかった。
    この所以は上記の「基本の論争」にあったからである。
    つまり、この時、「嵯峨天皇」は「政治路線の事」で「父兄」との間で激しい政争を起こしていた。

    それが次の事であった。
    「桓武論説(平城天皇派)」と「嵯峨論説」であった。
    結局、「薬子の変(現在は薬子は間違いと訂正)」を起こした。

    「桓武論説」で「真人族」を構築すれば「青木氏」がベースに成る事から、上記の検証から「真人族48氏」は成立していた事は確実である。
    「五家五流青木氏(天智期からの皇子皇女族の集約系)」で「真人族(敏達天皇第四世族春日皇子系一門)」は確実に確立する。
    「孝謙天皇の白羽の矢」も「天智系春日皇子系真人族」の「四世族」で繋がり「大化期の規則」にも従う事に成り、何の問題も無く成る。

    (注釈 「四掟一門の近江佐々木氏」も含む。 要するに「青木氏族」で構築する考え方であった。)

    然し、「嵯峨天皇」は我節を曲げずこの論説を執らなかったのである。
    「幸い血筋(嵯峨天皇系)」としては、その後は「青木氏外の文徳と光孝」で「天皇家」は「男系」で繋がった事になった。
    これにより、「青木氏族等の反発」を受けながらもこの議論は消えた。

    つまり、「桓武論説と嵯峨論説の争い」は消え、「新撰姓氏禄の論争」も消えて治まったかに見えたのである。
    この時を境に、更に「氏族としての制度改革」を進め「青木氏族(伊勢と信濃)」も上記に論じている様に「女系」で二度と「白羽の矢」を受けない様に「天皇家との乖離策」で一線を敷いたのである。

    (注釈 「青木氏」から云えば、つまり「血縁的」に云えば「光孝系」であるが、その前の「女系的」に「仁明天皇」で直系的な尊属は終わっている。
    「女系」に依らずとも「男系の天皇家との血筋」は切れた事に成る。
    「青木氏(伊勢と信濃)」は、この時、既に「女系」に切り替えているので、既に論外と成っている。
    「追尊の影響」を受けた「信濃青木氏」も「女系」を採りながらこれで乖離は可能に成った。
    これも「商い」を含む「同じ路線を採る事」で「伊勢と信濃の結びつき」が更に強く成った原因である。)

    「筆者」も「近江佐々木氏の研究記録」も、“「桓武天皇論説」の手前で、「論争の集結」を狙って「嵯峨天皇」は「折衷案」として最悪の場合は、「苦し紛れの真人族48(実質6)」で逃げようとした“と観ているのである。
    故に「矛盾」が出るのである。
    然し、「伊勢と信濃の青木氏族」では期待していなかった。
    「近江、美濃、甲斐」は「9つの縛り」を護らないのに「源氏化」で「天皇家」に近づこうとしたのである。
    つまり、「伊勢と信濃」は「女系」で「天皇家」から絶対的に離れて行き魅力は無かったのである。
    彼等の「三氏の青木氏」は、“「氏の権威と象徴の力」を獲得する為に「源氏化」で近づこうとした”と云えるのである。
    然し、「三氏の青木氏」の実体は「9つの縛り」から離れていたのである。
    「嵯峨天皇」が定めた「皇族系」では皮肉にもなく成っていたのである。

    これらは上記の検証の通りで証明できるのである。

    そこで、そもそも「桓武天皇論説(兼平城天皇説)」とはどの様なものであったのかである。
    それは次の通りである。

    始祖の「施基皇子」は、「没716年」でその「二世族の子」は「女7人 男9人」を遺した。
    「白壁王」を除き先ずは「四家」を形成し「四掟」を設けた。
    これが「氏族」に統一した基本概念の「四六の概念の設置」である。

    前段でも論じたが、「春日皇子系の真人族」は、青木氏の資料から次の通りである。
    「春日王(745年没)」
    「湯原王」
    「榎井王」
    「桑原王」(生没不詳)

    以上の「四家」で先ずは構成していた。

    これに次の二人が四家の下に加わっていた。
    「壱志濃王」
    「光仁天皇」(白壁王)

    以上の「6人」とである。

    (注釈 歳の順位から「四男」の「61歳の白壁」は、「四家」から外れている事から「白羽の矢」が当たった事に成るだろう。
    「青木氏との鍔迫り合い」が在った事に成るだろう。
    本来なら、「伊勢の四家の四人」に「白羽の矢」は行くであろう。
    又、「近江や美濃や甲斐」にも「白羽の矢」が向けられても不思議では無い。

    ところが「近江」は「始祖川島皇子」で天智系あるが問題があった。
    又、「美濃」は「始祖三野王」で天智系では無い。
    「甲斐王」も天智系では無い。

    「日本書紀」等にも盛んに出て来る「三野王」は冠位が「浄広肆位」である事からそもそも「皇子並み・王位」である。
    とすると「天武系」と成るが不詳で、可成り「有能な妾子」であった事が伺える。)

    ところが、後にこれに「伊勢の三世族」が加わっていた。
    「鴨王」
    「神王」
    以上の二人(父母不詳)であったとされている。

    更にこれに妾子と観られる「1人・不明」があり、更に同じくこれに妾子外の「4人・宮人子」が続くとある。
    計5人と成る。

    合わせて”「男子合計13人」”が「青木氏の四家の継承者」が居たとしている(青木氏の資料)。

    「青木氏の四家」を形成していた上記の「春日王(745年没)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)
    「「壱志濃王」「鴨王」「神王」「不詳王」の「四人の二・三世族」は、議論の分かれるところではある。
    然し、最早、この時には「春日真人族系四世族」からは当に外れていた。
    「七世族」か「八世族」に成るだろう。

    つまり、「皇族」の中から外れている「青木氏」の「氏族」である事から、「生没等の記録」はそもそも「公」には無い事に成る。
    あるは「伊勢青木氏の記録」だけと成り、他の「四家四流青木氏」も同じ扱いと成ったと観られる。

    上記に論じた様に公的に成っている系譜には次の四説がある。
    A 敏達天皇−春日皇子−舒明天皇の敏達天皇の子供説
    B 敏達天皇−・−舒明天皇−春日皇子の敏達天皇の曾孫説
    C 敏達天皇―・―芽淳王−春日皇子の敏達天皇の曾孫説
    D 敏達天皇―・―芽淳王=春日皇子の敏達天皇の孫説

    これでは「施基皇子(伊勢王)」は、「敏達天皇」からは「五世族」である。
    然し、「春日皇子の真人族」としてはでは「四世族」に入る。
    「大化改新」に依って「天智天皇」から観て、「四世族内の皇子」の「近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」も「天智天皇二世族の施基皇子」と同様に「春日皇子の真人族」として扱われたと古書にある。

    注釈として、これには「二つの事由」があった。
    この様に「皇位系諸族」から外れていた。

    イ 「多くの皇子皇女(34)」が逃避先として「五家五流青木氏」に入った事に依り「春日皇子の真人族」として扱われた事が云える。

    ロ 「五家五流の相互間の血縁」にてその差が無く成り、「天智天皇四世族内」として認められた事が云える。

    以上の「二つの事由」があった。

    唯、問題は、「春日王(745年没・施基皇子の子)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)の「伊勢青木氏の四人」は「敏達天皇」の「春日皇子の真人族」からは原則外れる。

    然し、「春日皇子の春日真人族」からは「青木氏」は次の様に成る。
    上記のA〜Dは次の様に成る。
    A−五世族
    B−四世族
    C−四世族
    D−五世族

    (注釈 前段でも論じたが、実質、「春日皇子の真人族」としての「奈良期の継承族」は、直接に「身分保障(a)」も無く、且つ、「生活の保障(b)」の得られない事だし、元より「生活力(c)」等が無いから、「賜姓臣籍降下」せずに其の侭に全て「五家五流青木氏」に入った。
    依って、彼らはこの(a)〜(c)が基本的に無い事から「三世族扱い」とされた。
    然し、この奈良期の時は未だこれも“「賜姓五役の務め」”であった。当然の務めであった。)

    然し、平安期では、「17皇子15皇女 32(検証 34)」が降下したが,全ての「皇女」は「青木氏」に入った。
    そして、「17の皇子」の多くは「賜姓源姓」を求めたが、叶わず「姓」を遺せずに没落して「近江美濃甲斐」を頼った。
    これが「源氏化の元」に成る。

    (注釈 この「没落皇子」を使って「系譜継合わせ」に依る「搾取編纂」に多く使われた。
    又、「没落皇子」の名を「姓」にして「搾取偏纂」にも使われた。
    この「二つパターン」がネット上の説明の「姓」に良く出て来る。
    そして、「酷いもの」では「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」には、何と室町期の時代の異なるこの「姓名(第二の姓)」が記載されている。
    そもそも、その理由は「新撰姓氏禄」の存在は、一時不明の時期があり、その為にあり得ない事を書き添えられた形跡があるのである。現在も内部は不明
    現在も全てが網羅されていず「出自元」である事から「伊勢青木氏」では遺された資料より関係する様な「行」を読み取って研究して論じている。)

    恐らくは、あるとすれば元は「神明社関係」のどこかに“「関係する資料・写本」”があった筈であるが、筆者もそれを基に調べていた。
    「神明社」は「江戸初期」に全社を幕府に引き渡し、その後に「幕府の財政不足」から著しく荒廃している。
    この時に「神明社」から「何処か」に持って行かれた可能性が高い。

    そもそも、一般に判らない筈の「没落皇子」の名を「姓」にして江戸初期の「国印状の取得」の為に利用され「搾取偏纂」にも使われた位である。
    筆者は「青木氏」の「神明社」にしか与えていない「神職の柏紋」を「神紋」としている「神明社」から流失していると観ている。
    何故ならば、“「関係する資料・写本」”は「神紋」を与えられた「格式の高い神職」にしか扱えないものであった筈である。
    それも「古く格式高い神明社」と成り、且つ、「伊勢域」と「信濃域」と奈良期初期からある「神明社(武蔵)」の「三つ域」である筈である。
    且つ、その「神明社」は「大きな聖域」を持っていた「天領地の神明社」と云う事に成る。
    元より「伊勢」では、「江戸初期」には無かった事が、「幕府引き渡し」で資料より「相当な騒動」が幕府とあった事から解っている。

    その時の経緯ではね次の様に記されている。
    「派遣された官僚(山田奉行所)」との間で「争いと裁判」までした事が書かれている。
    結局は、「一切合切引き渡し」であった事が書かれている。
    “「関係する資料・写本」”はこの時に「引き取る事」が出来なかったのである。
    この時の「争い」で前段でも論じたが、紛争を治める為に”「家康のお定め書」”が伊勢に出された位であった。
    これで「立場」は保たれたが、山田奉行はこれに従わず、「一切合切引き渡しの裁定」は変わらなかったとあるのである。

    後は前段で論じている様に、又、「青木氏の掲示板」に論じている様に「信濃」と「武蔵」の“「四社の神明社」”で何れも奈良期からの代々の高格式の柏紋神職であった。
    ここに“「関係する資料・写本」”があったと考えられる。
    ここも「伊勢」と同然以上の「一切合切引き渡し」であったらしい事が判っている。
    後に柳沢吉保・甲斐青木吉保が自費で再建したと記録がある。

    「信濃」では相当に厳しいもので「幕府不満」が高かったらしく、「伊勢」は裁判で終わったが「信濃」では「一揆(宗教性の無い郷士階級らの騒動)」を起こしているのだ。
    だとすると、幕府膝下の「武蔵の神明社・四社」から「旗本家臣」等に「国印状」の為に「ある官僚」が漏らしたと未だ証拠は無いが筆者は観ている。

    (注釈 伝統36を参照 「甲斐の時光系青木氏」の「分家の次男の柳沢の青木氏」の「柳沢吉保」か、抑々、彼は「武蔵四社の内」の最も古い一つを「守護神」であるとして「自費」で修復している。
    二度に渡り移封している地に「神明社」を創建修復しているのである。)


    この事から「紛失」は江戸初期と観られる。
    従って、このはっきりしている「搾取偏纂」なので、正しく世に出て来る見込みは無いだろう。

    前段でも論じたが、もともと、「淳仁天皇」、「光仁天皇」の二代でも「編集化失敗」に終わっている。
    これを更に「未完成」の侭で「嵯峨天皇」は、「縛り策の一環」を目的としていた事からも嵯峨期の「偏纂者の反対」を押し切って慌てて世に出した記録である。
    ここの「不備」を不明期に狙われたのである。

    これらの事(賜姓朝臣の姓化)が「類聚三代格の記載の詔勅内容」に“突然に無封降下させた事”が記載されている。
    「嵯峨期の詔勅」はそのものは正しいが「内容」に忖度と観られる傾向があり疑問である。
    何故ならば、「天皇と成り得た者」でさえ、単族で「諡号」としては何処にも属さない最高位の“「すめら真人族」”を形成し、退位後門跡したとある。

    従って、「信頼性の高いBとC説」から観ても、「青木氏」は「春日王系(皇子)の四世族内」の「同祖同門同族同宗同位であった族」と位置付けられている。
    前段でも論じたが、A〜Dの何れにしても「光仁期前」では明確に「真人族め50年後」から外れている。
    その延長期として観ていて、その様な「生活(賜姓五役・令外官・市場放出権)」をしていたと考えられる。
    然し、「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」が「生活」を大きく変えてしまった。
    「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」は、これに依って前段でも論じた様に、「青木氏の縁戚族」と「皇女の逃亡先」としても公然と可能にさせて仕舞った。
    且つ、奈良期では「近江、美濃、信濃、甲斐」も含めて、“「同族」”として「追尊の志紀真人族」の「間連族」に仕立て上げられた。

    (注釈 平安期からは、彼らは「伊勢信濃」とは全く別の路線に入り、「近江、美濃、甲斐(「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の確保・男系」が起こり、結局は上記した様に「考え方の違い差」が出て分離して行った。
    「近江、美濃、甲斐」に「源氏化と姓化」が起こるという事は、光仁天皇期で50年後、「源氏化」が深刻化した900年頃代から190年頃後には、「青木氏族」に対する「世間の目」が「真人族や賜姓族」としては既に低く成っていた事にも成る。
    低く成っていたからこそ「近江、美濃、甲斐」は「過去の栄光」を取り戻そうとして躍起に成っていた事に成る。
    「9つの縛り」を護らない人気絶頂の「単なる武力化勢力の河内源氏」に憧れた事に成るのであろう。)

    その「伊勢と信濃」は、光仁期から完全に「A〜Dの何れの説」からも既に外れていたのにその「二世族、一部は三世族」までも含めて「追尊の志紀真人族」に巻き込巻き込まれる事に成って仕舞ったのである。

    この事から逃れる為に、「近江、美濃、甲斐」とは全く反対の行動を執っていた。
    つまり、「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く方針の“「反対策」”である。
    況や、“「皇女引入策」”で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。

    (重要な注釈 全てを捨てるのでは無く、「朝廷、天皇家」との「完全決別」を目論み乍ら、本来の「賜姓五役」の「令外官役」だけは「商いの為」に護ろうとしたと云う事である。(後に論じる)
    この「氏族としての生きる概念」で考えれば、明治期までの「一切の行動」はこれに符号一致する。
    筆者は、これを“「共生共存共栄の概念」”と判断している。
    「青木氏の氏是」や「家訓10訓」をこの「共生共存共栄の概念」で考えれば外れている事は全くない。
    恐らくは、「光仁期の混乱期」の時に「信濃」を含む「福家と四家と氏人」等は、一族を一同に集めて協議したと観ている。
    この時に再確認し決めたの事が「青木氏の氏是」や「家訓10訓」であった。
    そして、「総合的な考え方」として新たに「氏族の生き方」として、この“「共生共存共栄の概念」”であったと観ているのである。
    そもそも「皇親族と賜姓族」を外されたとしても、「氏族の伝統」である「本来の消すことの出来ない役目」、即ち、“「賜姓五役」と「令外官役」”も護ろうと合わせて議論されて決められたと云う事である。)

    「上記の注釈」から後勘からすると、「伊勢、信濃」と「近江、信濃、甲斐」の「生きる方向」は真逆であった事に成る。


    そこで、この「真逆」であるとすると次の事はどの様に解釈するのかである。

    然し、平安期の「近江の和紙殖産」の為に手を差し伸べた「額田部氏の干拓灌漑工事」と、「室町期末期の美濃を三河に引き出して復興させた事」の二つは、果たして「共生共存共栄の概念」によるものであったのかである。
    筆者は違ったと観ている。後に詳細に論じる。
    「8割程度」は「商いによる戦略」から来ていると観ている。
    大まかには“「過去の繋がり」を利用したと云う事”であって、それが「彼らの利益」にも成るとしていたと観られる。

    「美濃」に関しては元々「シンジケート」で繋がっていた事も働いたのが2割であろう。
    結果から先に云えば、現実に、「室町期末期」に「徳川氏の国衆」から離れて彼らは「シンジケートの経験」を生かして「大運送業(伊勢と信濃の商いと連携)」を営んで自立している。
    (後段で論じるが明らかに突き詰めれば「商い」である。
    氏是を破って戦闘的な戦いで道を切り開こうとします。)

    「近江」は平安期末期に滅亡している事から「傍系族」を引き出して「伊勢の支店」の「摂津」に定住させたとある。
    然し、その「近江の行動」は「傍系」であるが故に、且つ、「美濃の様な連携」の中に無かった事で、生き方に落ち着きが無く、過激であって手を焼いた事が判っている。
    これ等の「二つの救済策」は、当に、「共生共存共栄の概念」に合致している。


    ここで再び検証に戻す。

    この結果として、結局は、「初期の(a−1)」は「伊勢」は「18氏・皇女族」、「信濃」では「4氏・皇女族」が「郷士・家人」に入ったと観られる。

    (注釈 前段でも論じたが、平安期初期までは「伊勢と信濃」の「避難してきた皇女族」は「女(むすめ)」として先ず入り、その後に「郷士・氏人」に嫁すか、「伊勢の多気の館」などに収容された。
    又、先ずは「女(むすめ)」で養育された後に、「四掟」により「公家一門」に嫁している事もあり得る。
    その後には、どの「郷士・家人」に入ったかは判らないが、「家人」に成っている「氏人」に入ったと観られる。)

    それが、何れでも「子孫拡大」を興し、「伊勢」は「不入不倫の権」で保護された事で最終は減る事は無く、遂には最大の「50士(氏人)の郷士」に成った。
    「信濃」では、前段でも何度も論じたが、江戸期まで「時代の変貌」に大きく振り回された。
    それでもこの「避難族の4氏・皇女族」が「実質の関係郷士・家人・氏人」に入り、そして、それが拡大して「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」の「氏族」と成ったと云う事である。

    つまりは、少なくとも「(a)(a−1)」と、多くしても「(a−2)の一部」が「何れの郷士」もこの中に入る事と成ったものである。
    元を質せば、この「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」は上記で論じている様に「(a)(a−1)」で“「真人族の由縁」を持つ”という事には成る。
    これが元の所で「血縁根拠」と成り、「信濃」では「郷氏と郷士の関係」が出来上がった事に成る。
    「伊勢」とは少し異なるが、「信濃」にはこの形で「氏人と氏上の関係」や「郷氏と郷士の関係」が出来上がったのである。

    要するに、上記でも検証した様に「最低でも82以上」の「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」と成ったのである。

    (注釈 奈良期から平安中期(仁明期)までの間に、その可能性はあったと観られるが「234程度の皇子皇女」が入ったとする一説もある。
    「234と82の違い」は「正式記録と実体との3倍差」であろう。
    これは「妾子」や「宮人子」は実際には「朝廷の古書の記録」には載らない。)

    この注釈の事は「青木氏の歴史観」に繋がる事なので論じるが注釈のその証拠がある。

    「光仁天皇の族」とされた「正式記録」の中には、「青木氏族の追尊皇女」が記録の上でも「4人」は居る。
    そして、更にそれには「妾」にも含まない“「宮人」”の子とする「子女の扱い(数は不明)」で多く含まれている。
    つまり、ところが「天智期」からの他の天皇にはこの“「宮人・十二女司」”は含まれていないのである。
    「光仁期」では主に「青木氏の三世族」までが「追尊王女」であった事が判っているが、この“「宮人子」”は記録には記載しないのが慣例である。
    「大化の規則」では「第四世族〜第六世族の元王女族」、それと「お手付き」の「十二女司」の「女(むすめ)」の身分のその「女」が記録には入らない。(慣例)

    つまり、「上記の検証に入らない女」が「234」にも及んでいた事を証明しているのである。
    「后妃嬪妾」の子供、つまり「女(むすめ)」と、この記録外の“「宮人」”と記載されている「お手付き」の「女(むすめ)」の子供があるのだ。
    数字的には、実質/記録=2.5倍であった事を認識する必要がある。

    「五家五流の青木氏族」には「32(34)」では無く、「第四世族内」を前提としていた検証数字 34・2.5=85(82)でも解る。
    この差が記録外の“「宮人子」”が入っていた事に成る。

    (注釈 立場上は、この記録外の“「宮人子」”は「天皇家内」には居られる事は無い。
    当然に「逃避受入口」が必要に成り、それを「伊勢と信濃」が務めていた事に成る。
    「古書の一節」にもこの事が記載されている。
    「中国の古書」にも“「宮人子」”の悲劇が遺されている。)

    これを「第六世族」までとした場合は、「二世族」が増えるとすれば、凡そは、85(82)・2≒170はあり得る。
    更に、これに上記の「妾と宮人」の「皇女扱い」されない“「宮人子」”を入れると、「234」はあり得る。
    これが「青木氏の中での実態・皇女数」であったのであろう。

    注釈であるが、「逃避受入口」の「青木氏」では「妾子」と“「宮人子」”は、「青木氏の中の呼称表現」では 、「記載」では「女(むすめ)」であって、「呼称」は「ひぅいさま」であったとされていた所以であろう。
    「234皇女」が「氏人を含む青木氏族」の中に入り込み、その「青木氏の女(むすめ)」の「子孫」が「氏族全体に増えた事」による「体質」と成った所以と理解される。
    故に、これが「女系による妻嫁制度」の「所以」とも成ったし、これらの「システム」に「氏族全体」が何の疑問も持っていなかった所以でもある。

    この様に、“「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」”の論は、結局は故に「女系の妻嫁制度」、「女(むすめ)」の制度を構築したとする「青木氏の資料の一説」に成っている。
    取り分け、「伊勢」と「信濃」に執つては「234皇女」は「青木氏に深く関わった皇女事件」であって、その関連しない「別の出来事」では無かった。

    (注釈 「皇女」は上記の通りとして、念の為に論じると「皇子の受入れ」は「美濃や甲斐」のそれと大きく異なっていた。
    上記で論じた様に、「近江、美濃、甲斐」は積極的な「皇子引入策」では「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く寧ろ方針・方策であった。
    この反対策、況や、「伊勢と信濃」は「皇女引入策」で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。
    「伊勢と信濃」の「皇子の受入れ」は、“「神木の柏紋の使用」を許された「神明社の神職」と「菩提寺の住職」で受け入れた“とする資料の説もある。
    筆者はこの説に大いに賛成である。
    「資料の説」がある位であるので当時は観えぬ処で受け入れたのであろう。
    故に、「皇女族(皇子)」が「伊勢と信濃」の全体に組み込まれた組織体、況や「氏族」であったからこそ、「一氏族の血縁族」の「氏人の郷士や家人」までが、「青木氏の氏是や家訓10訓」は勿論の事、「四六の古式概念の制度(共生族の氏族)」等を護り、それが明治期半ばまでの長く護られたのであろう。)

    (注釈 明治期に「伊勢と信濃」の「青木氏」に掛けられた“「社会や政治の圧力」”が無ければもっと長く維持していた可能性がある。
    明治9年まで続いた「伊勢と信濃の青木氏」を影とした「氏人の伊勢騒動」はそれを顕著に物語る。)

    (注釈 この「青木氏族」に向けられた「政治や社会の反動」は強く昭和の初期まで「密教」であった事さえも「敵視の目」で見られたのである。
    明治期3年頃まで「献納」で朝廷を支えていたにも関わらず「青木氏」から観れば「天皇家」は「道義」を通さなかったと観える。
    この時から「献納」は終わったとある。)

    そして、更に、そこに、前段でも論じた様に、この「234人の皇女の入籍」を「女(むすめ)」として、又、年齢に依っては「多気の里館」等にも「青木氏」が受け入れた事が判っている。
    それが上記で検証した様に、「複数回の女系の妻嫁制度」で「郷士」と繋がり、「氏人と氏上の輪」は更に広がりを見せたのである。
    「伊勢と信濃の青木氏」はこの様な「特別条件」を成し得ていた「氏族」で長く形成されていたのである。

    (注釈 これを「奈良期末期の朝廷」は、「真人の姓諡号」とは別に、「氏族」として特別に認定したと云う事に成ったのである。)

    ここに、平安中期から「補完役」として「秀郷流青木氏」が「真人族」と同じ「冠位位階と賜姓臣下朝臣等」を一切同じとして与えて、この「氏族」と血縁的に結合させ、「青木氏族」の「氏族」として認定したのである。
    「神明社」を守護神とし、「賜姓五役と令外官」を護り、この「二つの前提」で、「縛り」を護り「姓化せず源氏化せず」の態勢にいた。
    この「伊勢と信濃」の二つに成った「原理主義族」を「天皇」は「補完役」で護ろうとしたのである。
    元々、補完役は母系族であった。

    (注釈 「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。)


    此処からは、上記の「天皇家」に大きく関わる「234の立場」と「神明社」と「賜姓五役と令外官」を護ろうとしていた「伊勢と信濃の青木氏族」の「原理主義族」と、それを何とか維持させ様とした「補完役・秀郷流青木氏」に付いて論じる。

    これには前段でも色々な面から論じたが、要するに「原理主義」であった事に成る。
    この”「原理主義」”を利用しょうとする充分な”「朝廷(天皇)の計算」”があった。

    敢えてこれに追加するとすれば、この時期は既に“「女系化が進んでいる」”ので「白羽の矢」の役は無く成っている。
    とすれば、此処での「原理主義族の補完役」も排除できないのでは無いか。
    そもそも、この「原理主義」とは「朝廷・天皇家」に執っては無くてはならない「基本概念」である。
    これが崩れれば当然に「原理主義」で成り立っている「朝廷・天皇家」は崩れる。

    つまり、「伊勢と信濃」の「皇女引入策」と「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした“「原理主義族」”を一応認めてこれを補完させようとしたとも考えられる。
    この「補完役」は寧ろ「朝廷」から接近してきた事に成る。
    元々、「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。
    何も「補完役」とする必要が「青木氏側」には無かった筈である。
    つまり、従って、「青木氏側」から観て「過去の経緯」からこれには充分な「朝廷(天皇)の計算」であったと考えられる。

    (注釈 「青木氏」の「氏族を形成する制度」や「神明社の社」や「古代浄土密教の概念・白旗派」等の何を執っても全て“「原理主義」”に基づいている。
    これから外れているものは無い。
    「780年頃」の「光仁期」から「円融期」の「960年代の頃」までには、「氏族としての制度」が確立し、周囲から観ても完全に「原理主義族」と観られていたと考えられる。
    そもそも、何時に成っても「原理主義の原点」の「神明社族」である事は変わらない。)

    ”「神明社族」”とは別に、それを物語るものが「青木氏族」だけが帰依する「古代浄土密教の概念・白旗派」であった。
    前段でも何度も論じてはいるが、「14もの法然宗派」の中の「超最小派」であって、それも“「原理主義派」”として“「無視される立場」”にあった事が記録として判っている。
    つまり、「円融期」の「960年代頃の以降」には、この「原理主義族」は「社会」はその存在さえも認めない風潮の中にあった事が云える。
    取り分け、「原理主義族」を貫いている「伊勢と信濃」はその渦中にあったのである。
    相当に世情は厳しいものが在ったと考えられる。

    前段でも「特異な伝統」と説いたが、これが当に「原理主義族」と結びついているのである。
    筆者は「円融期の補完役」の一面には「朝廷(天皇)の計算」があったにせよこの「原理主義族」を護ろうとしたものがあったと観ているのだ。

    ここで「青木氏の総括的な生き方」、況や、敢えて“「原理主義族」“で考えて論じるとする。
    この事を理解する事で「青木氏の歴史観」は大きく違って来る筈である。
    何時の世も「原理主義」は良し悪しは別として融通性が無い為に排他される。

    現実に、「嵯峨期」より「皇女引入策」は、そもそも「青木氏」が「皇親族」から外された以上は「皇室内」では何処も「救済制度」としての「皇子皇女受入口」は無く成っている。
    この現状は「天皇家」では遷都を二度もした現状であるしその「財政の面」では「皇子皇女の存在」は無視できないでは無いか。
    それまでは「234人」もの「皇女引入策」であった筈である。
    この数は「天皇家」では大変な事であり、それは「莫大な財力」と、その吸収し得る「組織力」に関わっている。
    誰でも出来る事で無い。
    「藤原氏北家」でもその立場からも却って政争の問題が興る。
    どんな条件を執っても「青木氏」だけであろう。
    だから全ての関係者が同じ立場であったからこの事で「政争」が起こらなかった事が云える。
    「救済制度」としての「皇子皇女受入口」があったからに過ぎない。

    これは「嵯峨期以降」であっても「234人」程度の「皇女」が出る事は間違いない。
    この「救済制度」を急に無く成っては困るのは「天皇家」である筈だ。決して「青木氏」では無い。
    幾ら「賜姓の有無」は別としても「賜姓源氏」で臣下させたとしても「皇女」である事には変わりはない。
    「皇女」は「自活力」は無く、「皇子の様」に「源氏化」で救済してくれる訳には成らない。
    「嵯峨期(820年頃)から円融期(960年頃)までの間の「140年間〜160年間」には仮に「234人」程度の「皇女」が出ていたとすると、その処置に問題が興っていたと考えられる。
    しかし、ところがこの「140年間〜160年間」はこの「原理主義族」はこれをブロックしていたのだ。
    それは「嵯峨論説」の影響であった。
    「嵯峨論説」が世情にある以上は「青木氏」としても「血縁性」の無い「皇子皇女受入口」と成る根拠も必要性も義務も無い。

    注釈として、「青木氏」での「234人の皇女、王女、宮人」の「扱い差」に於いての記録が相当探したが見つからない。

    そこで、これを「青木氏の歴史観」で以て検証して観る。

    「氏族」としては「234人の皇女、王女、宮人」を受け入れる以上は、そこに起こり得る「支障」と成る「仕来り」とも思えるものが無い。
    これは「女系の妻嫁制度の概念」の「成り立ちの所以」かとも考えられるがそれにしても変である。
    「支障」があってもおかしくはない筈である。
    何処かの資料の一節の「行」に出てもよい筈である。
    前段でも論じてきたが、それの答えは、“「女(むすめ)」”の「養育扱い(格式身分)」には“一切差はない”とする「掟」として存在していたではないか。
    「光仁期」から「仁明期」までは少なくとも「青木氏の直系尊属・血縁族」である。

    そこで、要は「皇女、王女、宮人」は「宮廷内の格式身分差」である。
    それがその「尊属ルート」から「青木氏の氏族」に入る以上は論理的には「皇女、王女、宮人」の扱いでは無い。
    全ては「青木氏」に執っては「四世族内(最大で六世族内)」の「女、又は「女(むすめ)」までに過ぎない。
    つまり、これは言い換えれば、例えば“「子と曾孫」に格式身分として差をつけるのか”と云う理屈に成る。
    当然に、「格式身分差」を着けないであろうし、着けるとしたらそもそも「女系の妻嫁制度」は崩れる。

    「施基皇子前後」の事に就いては、「五家五流」では、次の様に成っている。

    上記の検証で、「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」であった。

    この記録に載る「皇女、王女」は出ていない。
    そして、そもそもこれは「青木氏」では無く、出自元は全て“「藤原氏」”である。
    「救済制度」としての「皇子皇女受入口」は青木氏にはそもそも無い。

    そうすると、「藤原氏」に関わりの無い「宮人(十二女司)」の「女」は、原則、地元(地方)に帰る事に成る。
    ところが、この「宮人(十二女司)」の「女」に付いては、実は「伊勢と信濃以外の三家三流」は、積極的に「宮人(十二女司)」に関わっていた可能性があるのだ。
    寧ろ、“出していた”とする事が「資料記録」から読み取れるのだ。
    従って、「公的記録」に載らない「宮人(十二女司)」の「女」を「伊勢と信濃以外の三家三流」は引き取っていた事に成ろう。

    「伊勢と信濃」は、家柄として「永代浄大一位・天皇次位」で「賜姓五役」である以上、皇室には“「皇女、王女」も「宮人(十二女司)」も出していない”と考えられる。

    と云うよりは、「伊勢と信濃の二家」はどの「天皇」よりも「身分、格式、官位、位階」は上位であった為に出さないし出せない。
    朝廷側からすると「面倒な氏族」である。
    “「原理主義の概念」”が働いていた筈あるし、「天皇家の方」もその様に観ていた筈である。

    従って、これを「救済する概念」の”「比丘尼制度」”が確立しておらず未だない時代でもあった事から、恐らくは、前段でも論じた様に引き取るとした場合は、「斎王や祭司王」等を多気の「斎王の館」を通して引き取る事に「務め」として成っていた筈である。
    一種の「救済制度」としての「皇女受入口」(「多気の斎王館」)であった。
    然し、この「管理維持」は伊勢青木氏であった。
    「伊勢青木氏」は釈然としなかった筈である。

    (注釈 「比丘尼の仏教戒律」が完全に世間に広まったのは「大乗仏教の宗派・法華経」が広まった同時期と成る。
    従って、「最澄や法然の死後」の10世紀半ばであろう。
    最低限は、この範囲であった事は納得できるが、この時期では「制度」として造り始めていた「女系の妻嫁制度」には[関わり]は無かったであろう。
    「施基皇子没前後716年頃」の事に就いては、その「扱い」は単なる「神明社の巫女」の“「比丘尼という女」”に成っていた。
    「光仁期」頃からは、精々、「仁明天皇」、或いは、「仁明天皇の皇子」の「文徳・光孝期 32(34)」までは、「神明社比丘尼」から「仏教比丘尼」への過渡期であったであろう。
    それ以後は、“「9つの縛り」”があって「三家三流」にも“「源氏化」”で生きようとしていた為に「血縁性の無い者」までも受け入れて生き残りを図ったと考えられる。
    これが平安期末にはこの「源氏化策(皇子の受け入れをした)」で「近江、美濃、甲斐」は「氏族」としては連なって共に平家に淘汰されて滅亡した。)

    注釈から、最早、「原理主義」で「源氏化」に応じなかった「伊勢と信濃」の範囲で留まったが、平安期末の「皇女、王女、宮人」の「受入口」は、「血縁性」も「役務」も含めても当然に無く成っていた事に成る。
    それ「以後の事」は「正しい資料」が見つからないので判らない。
    そもそも「受入口」をしていれば「原理主義」は崩れる。
    つまり、原理主義を貫いてきた「青木氏族」は潰れると云う事に成る。
    この事が「生き残り」に繋がったのである。

    (注釈 「斎王」は、「嵯峨期前」に既に終わっていた。
    その後、前段でも詳細に論じたが「嵯峨期後」からはその格式は「斎院」等であった。
    「巫女的なもの」で何とか鎌倉期までは形式的に続いた。
    この事でもその後の「受入口」は「234」で終わっており判る。
    「嵯峨期以降」は記録から受け入れている証拠は「伊勢と信濃」には無い。
    「信濃」にも前段で論じているが、「伊勢神宮」に近い様な「大聖域」なるものを持っていて、「伊勢」と同様に「何らかの祭司制度」を持っていた事が最近判っている。
    同様に、「234の受け入れ」は連携で行われていた事が証明されている。
    「信濃青木氏」として「原理主義族」である以上、明らかに「伊勢」と同様に「祭司王」や「物忌」等の「役務」を果たしていた事が予想が着く。
    そして、最近その研究と記録が発見されている。)

    「信濃の聖域の詳細」は今後の研究に成る。

    取り敢えず「伝統46や伝統48等」を参照。


    > 「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」に続く。


      [No.371] Re:「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/06/19(Wed) 14:35:58  

    > 「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」の末尾。

    (注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
    これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

    ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
    ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
    「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。


    「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


    「氏族」として、「福家(氏上)」として、「四家」として、“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”を興していた「郷士の氏人」としての関係は、「完全な相互関係(共生共存共栄)」が確立していた事がこの事でも判るし、前段でも論じた種々の内容でも証明される。

    (注釈 筆者が幼児期にこの「南紀の縁者の何軒かの家」を父に連れられて旅した事がある。
    その時に、何が何だかよくは判らなかったが、未だ“「福家の・・・の若様」”とか呼ばれた「薄らいだ記憶」がある。
    この時、「伊勢北部の伊藤氏本家」の「縁者」で、“格式ある様な家構えの家”に泊まった記憶もある。「家人」であった「南紀の周参見の家」にも泊まった記憶もある。
    更には、「南紀湯川の家人」であった大きな旅館業を営む家にも何度か訪れた記憶がある。
    又、「南勢の尾鷲」の父が育った「加納氏出の祖母」が住んでいた家にも薄らいだ記憶として幼少時に訪れた事がある。
    この様に「南勢の遠祖地」との関係は父の代まで続いていた。)

    北部から遠く紀州南部域に定住していた「伊勢青木氏」と関係していた「郷士筋の末裔の家」(氏人)であった事から、この事は「昭和の20年頃」までは、未だ「50」とは云わずとも「20位の郷士との親交」が未だあった事が云える。

    「北伊勢に本家」があった「伊勢藤氏」の「伊藤の分家」の「南紀勢」の“「旅記憶」”が未だ筆者にあった等の事からすると、「伊勢郷士衆」と共に「伊勢北域」の「櫛田川付近」の「郷士の射和商人」等との「親交」は充分にあった事が、「数字の考察」以外にも記憶で証明できる。

    この“「親交」”とは、そもそも「氏家制度」のある程度の「古い習慣」が未だ遺っていた地域であり、この事は“「縁組」”を半ば意味する。
    この事からも、正式な譜系が消失して無く成ったとしても「血縁の有無」は多少とも証明できるだろう。

    上記でも論じたが、「青木氏」で判っている「シンジケートの郷士」には、資料で分かる範囲としては「伊勢域」では「18程度の郷士」(「氏人」は除く)の名が遺されている。

    「青木氏」と「経済的契約」に於いては「大小の郷士」で組織されていた。
    これらは全体で次の様に成る。
    「伊勢全域」から「南紀」−「伊賀甲賀域」―「員弁桑名域」―「美濃域」―「木曽域」―「諏訪域」―「信濃小県域(後段で詳細に論じる)」―「小諸域」
    以上の「縦の線」で結ばれていたことが判っている。

    注釈として、前段でも論じたが「戦国時代で潰された豪族」を山岳部に「避難村」を形成させて、「経済的契約」に基づき支援をした。
    これに対して、彼らは「抑止力、荷駄の搬送と保護、他のシンジケート」の「横との関係」に従事した。

    筆者は、この「縦の線の関係」を持っていた「伊勢−信濃シンジケート」は、実は、奈良期から平安期に「青木氏族」と血縁を含む何らかの関係を持ったと観られる(a−1 48氏)(a−2 101氏)、或いは(b 148氏)であったと考えている。
    そして、その「直系族別と尊属族別と傍系族別」の「原士や郷士」であった可能性があると観ている。

    前段でも論じた「伊賀原士衆」や「甲賀原士衆」との関係の様に、だから、「山岳部の民」と成り得ていたとしても「900年以上」の「経済的契約の関係」だけでは無かった”「特殊な行動」”を執ったのであろう。
    実は、その論処は、「真人族48氏」の内の「敏達天皇の四世族内」の「同祖同門同宗同位」で「春日王系の皇子族」の「真人族の末裔」の多くは、前段でも論じた様に「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだ歴史的史実がある。
    「孝徳天皇との軋轢」や「斉明天皇重祚」や「壬申の乱」や「吉野の盟約」等で皇族内を含めて「政争」が起こった事で、彼らは「四掟の元先」の「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだのだ。
    それが「平安期の仁明期頃(青木氏出自の直系尊属の終)」まで起こった。
    又、これに関連する「(a−1)と(a−2)の910族」は、この庇護下に逃げ込んで生き延びようとしたのだ。
    中には、少数であるが「讃岐、安芸、淡路」等にも逃げ込んで土着したとする記録もある。

    前段で論じた様に「五家五流青木氏」以外の「(a−1)」は「郷氏、又は郷士」に、土着化した(a−2)は「郷士」と成って生き延びたとする史実がある。
    本流論では無いが、これが室町期初期の「下剋上と戦乱」で激減し、その都度、「血縁性」が低いが一部は「青木氏族」に救われたとする資料もある。
    (江戸初期の搾取偏纂か)
    「近江佐々木氏の研究記録」には一部は少数であるが密かに「伊勢信濃のシンジケート」の組織に加わり、その「経済的な保護下」で生き延びたとする真偽性が低いが記録もある。

    前段でも論じている様に、「五家五流青木氏族」内の「四家」に「初期の皇子皇女」に入った者等は、間違いなく「(a−1)の48氏」中の一つ「敏達天皇の春日王系」の「同祖同門同宗同位の四世族内」にあった「末裔」という事に成る。
    何故に彼らは「青木氏」の「家人化」しなかったかと云えば、(a−1)(a−2)であったからである。
    唯、結局は平安末期に「近江と美濃(源氏化)」は滅亡し、その地の「郷士 (a−1)(a−2)の族」は共に消えた。
    「甲斐」も衰退しその地の「郷士(a−1)(a−2)の族」の殆どは消えた。

    又、「伊勢青木氏」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇(聖武天皇 井上内親王)」を輩出し、追尊で「志紀真人族」に戻った。
    血縁関係をより深めていた「信濃」と共に、そして「拡大する経済力」と共に、この地の「氏人の郷士」と共に、「(a−1)(a−2)」の「影の郷士のシンジケート」と共に上記した「縦の線上」で存在し拡大させたのである。

    これが、筆者が考える「伊勢−信濃の縦の線」に出来た「シンジケート説」の経緯である。
    前段でも論じたが、疎遠であった「甲斐」で「(a−1)(a−2)の郷士説」を証明する事件があった。
    「武田氏」を滅ぼした「信長の甲斐視察」である。
    つまり、「象徴権威」を嫌う「信長事件」である。

    因みに、「(a−1)(a−2)末裔」の“「古式伝統」”を守っていた源氏化した「甲斐の一郷氏」が「白衣着用と白馬乗馬での殴打事件」である。
    実は、別の面から観れば、前段でも論じたが「源氏化と姓化」していた「甲斐」がそれほどの伝統を守っていなかったのに、何故、“「古式伝統」”を態々「信長」に見せたのかが疑問なのである。
    取り分け、「甲斐」は殆ど「信長の先祖が持つ格式」と「甲斐の源氏化と姓化の格式」には差異は無いのである。

    それはそもそも「信長」も元を正しく辿れば「平家傍系族」である事は解っている。
    一般化している“「象徴権威」を嫌う信長”と云う説の公説で説いているが、「青木氏の歴史観」から観ると「甲斐の源氏化と姓化の格式」と差異が無ければ、この説は崩れる。
    この説の「甲斐の源氏化と姓化の格式」の前提は「上位の格式の源氏」であると云う事から来ている。
    この「源氏化と姓化」をし更に「郷士化」した「甲斐の源氏」は果たして「格式ある源氏」であるかのと云う事である。

    前段で論じた様に「格式」を保障する「縛り」から逃避したそもそも「河内源氏の傍系族」である。
    「甲斐の格式」の前提は、そもそも「五家五流の賜姓青木氏」であったとする前提であり、「後付けの源氏説」で論じれば違うという事に成る。
    寧ろ、「出自先」を辿れば「信長の方」が搾取偏纂が多少はあったとしても「揚羽蝶紋で木瓜紋」である事の方が搾取は少なく、且つ判り易い。

    公説は「青木氏」から観れば「信長」の方が上である。
    況して、「摂津源氏」と違い”「縛り」”から外れた唯の豪族の「姓化の傍系源氏」では無いかと云う認識があっての事であったと観ている。
    その意味ですれば「織田家」の方が「桓武平家」と云う正統性があると云う自負が在ったと観ている。
    つまり、”格式は上だ”とすればここで”白馬から引きずり下ろす”が常道と成る。
    故に、「甲斐青木氏の態度」を必要以上に誇張する態度に感情を高ぶらせたと観ている。

    (注釈 話は逸れるが、{格式の論}として参考に論ずる。
    又、南北朝で活躍した「楠木正成」も実はこの「(b〜e)の影の郷士説」と云われている。
    何れ存在は認められるとしても、「彼等との何らかの関係」を証明する記録は「大阪府南河内郡千早赤坂村」の「楠木正成」が「影」であった事は史実であり、この限りでは否定は出来ない。
    実はこれを解く鍵はこの“「楠木」の姓”にあるのだ。
    別論なので詳細は論じないが、紀州一帯でのこの「楠木姓」は実に多い。
    これは「熊野宮司六氏の支配下」にあった「熊野神社に由来する土豪」が使う姓である。
    そして、「900年頃以降」からこの子孫は拡大した。
    その「土豪」は前段で論じた「b〜eの810の中」の「第一の姓」の「宿禰族等の上位の官僚族」に従った「低位の官僚族・家臣」の派遣子孫である。
    900年頃以降に此の「現地孫の末裔」が土着し、「熊野神社の神姓」を名乗ったものである。
    要するに「熊野神社族」である。
    この「熊野シンジケート」が「伊勢シンジケート」や「雑賀根来の紀州シンジケート」との連携であった事が判っている。
    「熊野シンジケート」はそもそも紀伊山脈に逃げ込んだ「平家の落人族(史実)」である。)

    (注釈 紀州では「高野村」、「大峰村」、「有馬村」、「龍神村」、「十津川村」、「北山村」等は有名な史実である。
    「楠木姓」と共にこの「村の土豪姓」も多い。
    後に彼らは「シンジケート忍者」と成って「紀州徳川氏の媒臣」と成って「伊賀」と共に働いた。史実
    前段でも論じたがそれが「熊野神社」と連携して生き延びたのである。
    「青木氏に関わる伊勢紀州一帯の研究」からは紀伊半島では「一般的に成っている説」とは異なる。
    「影の郷士説・シンジケート」は「彼等の実際の戦歴(シンジケート戦術)」の史実で証明できる。
    「ジンジケート」とはこの様な経緯から興る)

    そこで、前段でも論じたが、筆者は、「郷士」には次の様に分類されると考えている。(原士も含む)

    (a−1)に依って「土地の郷氏又は郷士」と成り得た族で、僅かながらも「氏人関係」が成立している。
    (a−2)に依ってある地域の「影の郷士」と成り得た族で、「氏人関係」が充分に成立し得なかった。

    何れも、後に郷士やシンジケートと成り得た「(a−2)」は系譜上では次の様に成る。
    1 元は祖「敏達天皇」の孫「芽淳王」と、同孫「舒明天皇」は「異母弟:(母のロ)」
    2 「敏達天皇」の妃「春日老女子:イ」の「第二皇子(異母:ロ)」が「春日皇子(王)」
    3 「舒明天皇」の子で「妻不詳」の子が「宮処王」、即ち、「春日皇子(王)」

    以上、「(a−2)」の「始祖」と考えられるのは以上の「3系」であると考えられている。
    ここで、これは「伊賀との関係性」を考察する上で「重要な事」に成る事があるのでそれを先に論じる。

    先ず、この系譜では難解であるが、「敏達天皇」の「妻のロ」が「舒明天皇の妻(妻のロ)」と成った。
    従って、系譜では「舒明天皇の子」と成る。(妊娠期で何れの実子かは判らない。)
    即ち、この系譜の「天皇家の純血の慣習」は、「后(母)」を除いて「妃嬪妾」が“「次の天皇の妻」として引き継がれる事”が通例であった。

    (これは「純潔性の保持」の「天皇家の当時の「財産的仕来り」であった。)

    この場合は多くは慣例に依るが、この場合は“「妻不詳」”と記されている。(記録上の当時の仕来りであった)
    この様な場合、「医学的進歩」が無かった時期では、“「妊娠期」”が何時であったかが問題と成り、且つ、未だ「比丘尼制度」が充分に整っていなかった時代では「比丘尼」として「天皇家」から外れる仕来りは無かったしその概念も無かった。

    (注釈 後に「比丘尼制度」でこの「仕来り」を上記の「財産的純血性の保持の「仕来り」は廃止した。
    矢張り、「血縁弊害」が大きく響いたと考えられる。)

    従って、当時としては官僚が行う事務的処理は「不詳の記載」は「当然の事」であって、「子」であったり「孫」であったり「兄弟」であったり、時には「親」と成り得る事もあった。

    後勘としては、この古き時代の「記録の不足する事」を勘案すると、「記録一致」を証明する「複数記録」が無い限り、どの説を採るかに依って変わり「多説」が起こる所以でもある。

    (注釈 その意味で”「比丘尼の概念」”を獲得する事は重要と成る。
    そもそも、「比丘尼の概念」は「仏教伝来」によるもので、「公的」に扱われたその時期は「欽明天皇期頃」である。
    唯、「日本書紀・720年」には“「天皇信仏法尊神道」”と記載がある。
    “天皇は「仏法」を信じ「神道」を尊ぶ”と記載されている。
    この頃には徐々に浸透している事が判る。
    つまり、これは「敏達天皇」の前に成るが私的には「仏教」は「職能集団の渡来人」の「密教」として伝来している。
    この経緯からすると、「尼僧の概念」が確立したのは「仏教概念」が確立した「平安期795年」に入ってからであるので、「仏教の戒律」から「妻のロの様な慣習」は直ぐに見直された。
    然し、未だこの奈良期では「普通の事」であった。
    ところが「尼僧」が「比丘尼の概念」に到達するのは「後の事」である。
    直ぐに概念化したのでは無かったのであり「尼僧=比丘尼僧」では無かったのである。
    この返還の「経過過程」では、「比丘尼」は「巫女」と同様に「神社の役務」を務めていたのである。)

    「敏達天皇の孫」の「芽淳王(後勘の渡来人の阿多倍王はこの別娘を妾に迎える)」から観ると、「舒明天皇」と「異母弟」である。
    この「芽淳王の女(吉備姫王)」が「舒明天皇(斉明天皇)の后」と成り、「天智天皇」が産まれるのである。
    つまり「異母弟」の娘が「異母兄の后」と成って、「天智天皇」が産まれた事に成る。
    「異母」とは云いながらも「姪」を嫁にした禁じ手の「二親等血縁」である。
    これには当時の「皇族内の血縁の概念」があった事に成る。
    それは“「女の財産」”と“「異母」”である。
    父から譲りうけた「女の財産」は継嗣の「女の財産」であると云う「基本概念」である。
    これを前提に「血縁弊害を無くす事」が出来る「親等」では無く、無くす事の出来ない“「異母」であれば問題は無い”と云う「基準概念」である。
    もっと云えば、「血縁弊害」より「純血優先」であった事に成る。
    「純血優先」にしても「優先」とはそもそも「血縁弊害の理屈」が判っていて「優先」と云う考え方に成るので、「血縁に依る弊害」は判っていなかった事に論理的に成ろう。

    現在から観れば、この「基本概念」は“異常ではないか”と考えられるが、未だその様な概念は殆ど無かったのであろう。
    それより、“「純血で系統を維持させる」”のが「正統であった事」と、「血縁弊害の出る原因」が判らない以上は「人間の生殖行為」では「血縁弊害が出る事」は「当然の出来事」と考えられていた様である。

    そもそも、その「基本概念」を変えさせたのが「仏教の概念」が「天皇家(720年前後)」に浸透した事であろう。

    前段でも論じたが、「仏教伝来」は「公伝(538年頃)」を境に「公伝前(513年頃)/3説」と「公伝後(571年頃/3説)」に分けられる。

    概念の経緯は「蕃神・神道」から「仏神・仏道」へと「概念」が変わって行くのである。

    「800年頃(平安期初期・天台宗・浄土宗・真言宗)」に「3つの仏道」が出来て「蕃神・神道の力」=「仏神・仏道の力」へと移動して行き浸透する。
    この「800年頃」を境に人々は「仏神・仏道」を概念の中に取り入れて云って、例えば「血縁の概念」も大きく変わって行ったのである。

    その大きなきっかけが、上記の”「比丘尼」”である。
    つまり、「血縁の元と成る女性」の「概念の変化」であった。

    これは前段でも論じたが、行き成り「比丘尼の概念」に移った訳では無い。
    「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の経過期間に沿っているのである。
    「約290年程度の経過期間」があった事に成る。

    「800年頃」に“「比丘尼」”で「約290年程度の経過を経ながら次第に上記の「女の財産」は「倫理悪」として、「血縁弊害」も「道義悪」としの概念へ変化して行ったのである。
    この「比丘尼の概念」が「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の「両方の経過」の中にあったからこそ「概念の変化」が起こったのである。
    そして、「比丘尼が女」であったからである。
    そもそも、「概念の変化」と云うが長年に渡る染み着いた「人間の思考基準」であるからこそ簡単には変わるものでは無い。
    それが、この“「二つの条件」”が伴い何と「約290年程度」で変わったのである。
    現在でも「日本文化の概念」が未だ延々と続いている事を思えば短期間である。

    さて、この「800年頃」を考えて頂きたい。
    「青木氏の光仁期」の後の「桓武期」である。
    この期を境に「青木氏」も同時に大きく変化した事を前段でも論じた。
    取り分け、「四家。四掟。女系の妻嫁制度」等の多くの制度を敷いて「氏族の尊厳」を守りながらも「皇族」と完全決別した。

    つまり、「皇族」も「概念の変化」をさせた時期、つまり、「仏教の概念」、「純血性の血縁の概念」とそれに対する「比丘尼の概念」に変換した時期でもあるのだ。
    「出自元」が同じでありながらも、「青木氏の決別概念」と「皇族の概念変化」があったからこそ、その差が広まつたし、決別出来た事が「青木氏の氏是」にも成った筆者は分析している。
    故に、「800年頃」に「賜姓五役」や「令外官の役目」からも決別して行く過程を観えたからこそ「影の役目」は成し得たと考えられる。
    近づいていればそれこそ「墓穴」である。
    「決別」を「氏族の目標(氏是)」であるのなら幾ら何でも本来は何もしない筈であろうし、余計なそんな事はしなかったと観られる。
    それだけに「青木氏の氏是」であったのかも知れない。


    次の問題に移る。
    先ず、それらを判断するに必要とする知識として前段でも何度も論じている事ではあるが、下記の「注釈」で改めて記する。

    (注釈 「春日皇子(王)」は、「異母弟の舒明天皇の皇子」であるとすると、「芽淳王」とは「異母弟」に成る。
    つまり、「従兄」であって、「芽淳王」の「女の吉備姫王」と「春日王の父の舒明天皇」が婚姻する事で「春日皇子」は「芽淳王の義嗣」と成り得た。
    「春日皇子(宮処王)」の実母「妻のロ」が「芽淳王」に絡んだかは確定は出来ないが、あり得るとした説も観られる。
    そうすると、ここで「義詞子説」と「義兄弟説」が生まれる。
    ところが「芽淳王の子説」は、「義嗣」では無く、「妻のロ」が絡んでいたとして「子」と明記している。
    然し、これは”「妊娠期」”を証明できない限り確定は無理である。)

    (注釈 この一方で、「芽淳王の別の女(四世族内の王女)」と「阿多倍王」とが婚姻し上記の妃(妾の説もある)の正式な三子を産む。
    これが半国割譲で「伊賀」に住み着いた「阿多倍王」の「嬪妾」が”子供を産す”の記載に結び付く。
    人数不詳で、 坂上氏、大蔵氏、内蔵氏の賜姓三氏外に 伊賀に平国香を生むの。記載に成る。
    この「子供の子(孫・貞盛かその子の維衡か不明)」が「高野新笠」であり、「白壁王(光仁天皇)の妃」と成り、その子「山部王」が「桓武天皇」と成る。
    この「桓武天皇の孫説」の「平高望―国香―貞盛・維衡」と成るが、「高望王(平高望?高尊王)」から時代考証が入り乱れている。)

    (注釈 「国香の父」の「高望の名」は「阿多倍王」に与えられた「追尊名」を名乗ったとする説もある。)
    「伊賀」に居た「阿多倍王」は、別名では「高尊王、平望王、高望王」の三名を持つ。
    後漢名の「阿多倍王」は、伊賀で100歳近い長寿であったし、「桓武天皇」は「曾祖父」に当たる「阿多倍王」に、記録では「伊賀」に行幸して追尊して「日本の王位」として「平望王」等の王位を与え、「平姓・たいら」を賜姓したとある。
    正式には「追尊」である事から「平姓・たいら」は「宇多天皇の賜姓」とされる説が生まれる。
    「長寿・95歳以上」であった事、
    「妃嬪妾」の「上記の入り組んだ慣習」である事
    「孫や曾孫」と云っても現在の「累代性の概念」の中には無い事
    当時の平均寿命が55歳の事を勘案すると、追尊時にはぎりぎりで生存していた事
    以上が通説と成ろう。
    筆者は前段からもこの説を採って論じている。)

    (注釈 始祖と成る「春日王」には同名の王が「二世族の王」と「四世族の王」と二人いるので注意、
    他に「施基皇子の春日王皇子」があるが、これは上記の「2の春日皇子」の「四世族の青木氏」である事から名づけられた。)

    (注釈 「芽淳王のルーツ」の「伊賀の平姓・たいら」と「春日皇子・王」の「四世族の青木氏」の関係から観ると、「芽淳王」と「高野新笠」と「桓武天皇」の「三つの要素」で由縁があった事に成る。
    故に、この由縁を以て「以仁王の乱」の「青木京綱」から「伊賀」に求めた「宗綱らの助命嘆願」は聞き入れられたと考えている。)

    (注釈 この「桓武平氏・たいら」の「清盛」は、「伊賀」から播磨に一族全て移動するが、「遺された者」等が「伊賀原士」と成って「伊賀郷士衆」を形成した。
    そして、遂には「伊勢郷士衆」に組み入れられた。
    そのご血縁して「伊賀青木氏」(甲賀青木氏含む・家人)まで輩出した。)

    上記の「注釈」から考証すると次の疑問が出る。
    それでは、“彼らは一体誰達だったのか”と云う疑問が湧く。

    その「桓武平氏」が去った後の伊賀に「遺された者等の系譜」は何なのかである。

    この「重要な点」の解く鍵は、「高野新笠・桓武天皇の実母」の里から“「伊賀青木氏」”が発祥しているという事である。

    仮に、「桓武平氏」との「伊勢青木氏との血縁族・伊賀青木氏」は、当然に「桓武天皇の母」の伊賀の「高野新笠」の「由縁」を以て間違いなく起こるであろう。
    然し、「伊勢青木氏」が「女系の妻嫁制度」を執る以上は、「男系の青木氏」で無い限りはこの「伊賀青木氏」も「平氏」として播磨に移る筈である。

    では、「移らない者」としての説はあり得るのかである。
    検証して観る。それの答えは、“ある”と成る。

    日本書紀に依れば「九州全土」を無戦で平定後に「薩摩大隅」にいた「阿多倍王」に対して、「朝廷の軍船団」が「薩摩での数度の戦い」で敗戦した。
    そこで「朝廷仲裁」が成り立ち、阿多倍王は「呼び出し」に応じたとある。
    そもそも、「薩摩大隅」から「伊賀」に移り、都に遙任して、「芽淳王の女」を娶り「坂上氏、大蔵氏、内蔵氏」の「3氏」を発祥させた。
    その後に「伊賀の里」に戻り移るが、「妃嬪妾」を娶り、平氏以外に「子孫」を設けている。
    この「平氏・たいらの母」と成った「妃」以外に、そこで考証としては「複数の伊賀の嬪妾」は、「伊勢青木氏の女」や「伊勢郷士の女」であった筈である。
    これが前段でも論じた様に「青木氏の家人制度」に依って発祥した「伊賀青木氏」であると成る。

    そうすると、前段で論じた「女系の妻嫁制度」で観れば、「伊勢青木氏」からは「伊賀の阿多倍」の別和名「高尊王、平望王、高望王」は位階の「王位」を授かった。
    そうすると「白壁王−桓武系」に相当するので、「四掟」に適合する事と成る。
    従って、「嬪妾」は「妃族」の「平氏・清盛系」とは根本的に「伊賀青木氏」は「族系」が異なる事に成る。
    故に、「播磨」に行かずにその子孫は「伊賀」に残留する事に成り得たと観られる。

    (注釈 これが「伊勢青木氏」と血縁に依る連携をして「伊賀郷士の青木氏(伊賀原士)」として播磨以後に発祥する事に成ったのである。
    つまり、「四家外」の「伊賀の青木氏(甲賀青木氏もある)」という事に成る。
    前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」より「伊賀郷士」に「女(むすめ)」が嫁ぎ、そこで「優秀な外孫嗣子」に「青木氏」を別に興させ、「家人」として受け入れる制度を使った。
    そして「伊賀」を「氏族」として組み入れられたものである筈。)

    (注釈A 上記した「春日皇子(560年頃)の族系」が、始めて「天武期の八色の姓制(684年)」で、年数からすると「120年後」に“「春日真人族」”を形成する事に成るのだ。
    然し、ところがその間に「春日真人族」を形成したとする当時の記録は何処にも無い。
    実質は、記録から「160年後」に「施基皇子(天智天皇の皇子)」に依ってこの「春日真人族」が発祥させた事と成る。
    「天智天皇」はこのぎりぎりの「敏達天皇系」の「第四世族の春日真人族・2」であった事に成る。
    恐らくは、既に、「四世族」から外れた「臣下族の朝臣族・賜姓青木氏」と成り得ていたにも関わらず、実質的には直前で絶えている。
    この「春日真人族・2」を「元皇子」であった「施基皇子族」と云う形で形式上で興させたという事で成り得る。
    筆者はこれは「孝謙天皇の策(白羽の矢)」であったと観ている。)

    (注釈B、その後、この策で「孝謙天皇の白羽の矢」でこの「発祥の理屈」を造り上げて「光仁天皇(二代目の春日真人族の白壁王・朝臣族に)」が誕生したと成ったと観られる。
    何故ならば「発祥の理屈」は、「大化の改新」の「定め」から外れる為に、これを無視する訳に行かず、既に「臣下族の朝臣族」と成り得ていた事に対する「定め」の「苦しい引き上げ策」を打ち出して於いてその上で「白羽の矢」と成ったと成るだろう。
    更に「54年後(214年後)」に“「追尊」”で、この形式上(孝謙天皇の策)の「春日真人族」から新たに独自の追尊の“「志紀真人族」”を造り出して「正当化した事」に成ったと云う経緯と成ろう。
    故に、追尊の「志紀真人族」と成った「青木氏の氏族」に「所属する者」等は、「八色の姓」に依って「真人族」以外の「姓」、つまり、別に「諡号の姓族」を発祥させてはならないと云う「皇族の掟」に組み込まれて仕舞ったのである。)

    (注釈C 更に、この「二つの追尊(「春日宮天皇」と「志紀真人族」)」に依っての「天皇家の系に載った志紀真人族」に成って仕舞ったのである。
    この事に依り、その「子孫」は本来はあり得ない「賜姓族」として授かっていた「青木氏(天智天皇)」だけが名乗れる所以と成って仕舞ったのである。
    従って、同時に、これまで一時期まで「五地域」に散っていた「名の持たない皇族朝臣族(a−1 48氏)」であった者や、一時は「源氏(賜姓族ではない源氏)」に成った者等も「源氏」を外しても一斉に集結して「五家五流」に雪崩込み「青木氏」を「諡号」として公然として名乗って広まった経緯である。
    「嵯峨期以降」の「源氏」には「賜姓の有無」の「源氏」がある事に注意。 
    「11家/26家」と成っていて殆どは無賜姓である。この内15人が「五家五流」に流れ込んだとする経緯である。

    (注釈D 記録に依れば「嵯峨期前」(施基皇子期)では「約240人と云われる皇子皇女」が当然の事として「五家五流」に流れ込んだとある。
    「皇子族」は「近江美濃甲斐」(源氏化・姓化の原因)に、「皇女族」は「伊勢と信濃」(女系制が原因)に流れ込んだのである。
    その後もこの傾向が続いた。)

    以上の注釈に付いて「氏族の制度」以外に、「伊勢信濃」には前段でも論じたが次の理由があった。

    市場放出権での経済力
    都に近い地理的な優位性
    「不入不倫の権」で護られての安全性
    「祖先神の神明社」の救済策
    「伊勢神宮」の膝下
    「斎王や祭司」などに成った後の「館の救済策」(元々の役目)

    以上の理由で流れ込んだ。但し、取り分け、「皇女」が一番多かったと考えられる。
    この事は「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の研究記録」から判る。

    但し、「伊勢」では「四家」に入れずに僅かに入った「皇子等」は「500程度」の「神明社の宮司・家人」に成った事も書かれている。
    この読み取り記録から完全に「皇女族」だけでは無かった様である。
    唯、「扱い方」が違った事があるのだ。
    つまり、「伊勢と信濃」は「源氏化するような扱い方」では無かった様である。
    これが「第二の象徴紋」の「神木の神紋」の”「柏紋の使用」”を許されている所以なのである。
    この「扱い方の所以」は「青木氏の守護神」の「神明社の神職」は「柏紋の青木氏」であった事に依るだろう。
    要するに「賜姓五役の役目」がその全ての立場にあった事が理由であろう。

    「皇子の逃避先」は「日本書紀」や「他の歴史書の三古書」から観て「美濃」が多かったと観ている。
    「信濃」は伊勢と同制度にあった事から「皇子」は多くは無理で有ったと観ている。
    最近、記録から判った事であるが、「信濃」は「不入不倫の権」に近い侵してはならない「広大な神明社の聖域」を持っていた事が判っている。
    西は「現在の青木村域」から東は「佐久域」までの「東西距離25k 幅は45k」の面積の「聖域」のものであった事が判っている。
    これは平安期は「五大天領地」の一つであった事に依ると考えられる。
    そこの「聖域地」として、つまり、これを「神明社域の聖域」として「信濃青木氏」が護っていた事に依るものであろう。
    「江戸期の享保期」まであった事が判っている。
    (後段で論じる)

    (注釈E 「近江」はそもそもその力が無かったし、「甲斐」は独自性が強く山間部と云う事もあって「皇女」は少なくとも嫌った事が判っている。
    然し、「皇子」は「醜い政争」から逃げると云う意味では都合は良かった筈である。
    何にしても男女の「救済策」は伊勢が整っていた。)

    (注釈FE 前段でも何度も論じているが、復習として、尚、念の為に歴史の知識として知る必要のある事は、何らかの資料に「志紀真人族」から「姓発祥」があるとするは、それは、室町期末期か江戸初期の「系譜への継ぎ合わせ」での搾取偏纂に他ならないのである。
    この時代に横行した「プロの搾取偏纂者(神職や住職の復職として)」に依る仕業である。)

    (注釈G 復習として、そもそも、“「姓」”とは、“「身分の区分秩序を分離する単位」”の事。
    その「複数化した単位」を更に“「諡号(縛りの条件付帯)」”を使って判り易くした。
    この「諡号」が「区別の名」と成り得て“「固有名」“として使われたのが、要するに”「姓名」“である。
    その”「固有名」“を持つ族を”「姓族・(第一の姓)」“と称する事と成った。
    従って、「真人族48氏以外」の「朝臣族等の七色(色で身分階級を区別)」は、「固有名の諡号」を持つ事を公然と許されて“「第一姓族」”が正式に誕生した。)

    これらの「注釈」を前提として、そして、“「身分の区分秩序」”の「第一の諡号」の「真人族」を構成した中で「朝廷」が示す一定の「特定条件」を叶えた者を「真人族」と認定した。
    「朝廷の認定」を受けたこれを「諡号」して“「氏族」”と定めたのである。
    これが“「我々の青木氏族」”なのである。
    其れの「特定条件・縛」が前段までに論じているものである。
    簡単に云えば、「真人族系」の「青木氏の氏族」である事から「氏名」以外にはその他の「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持たない論理と成るのだ。
    もつと云えば、この理屈からすれば「朝臣族系」の「特定条件」と「認可」を叶えた「氏族」は「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持っても良い事に成る。

    その典型が、例えば“「藤原氏の四家」”であり、遺った北家主流は「25流137家」と、「青木氏族」と関わった「秀郷流 8流361家」に成るのだ。
    この様に「藤原氏の氏族名」と、その「氏族」の内の「判別用の姓名」を特別に持つ事が出来るのだ。

    つまり、唯、ここには「真人族系の青木氏の氏族」と「朝臣族系の藤原氏の氏族」には全く違う点が一つある。
    「真人族系の青木氏の氏族」は「氏人との構成族である事」である。
    つまり、「郷士族との構成族」である事である。要するに「絆族」である。
    「郷士族との構成」は、“その数を限定し増やさない”で「女系で血縁構成する族」であり、「血縁性」は「数度の血縁」で繰り返す族でありながら、氏人は「独自の姓名」を持つ構成族である。
    この限定される中での血縁である為に「血縁性は高まる形態」と成る。
    況や、「主家(福家と四家)」と「氏の人(家人・氏人)」との関係である。
    つまり、当に、「氏の中の人」である。所謂、「共存・共生・共栄」の族である。

    「朝臣族系の藤原氏の氏族」は「血縁性の薄れる一族」を最大限に増やし、更にその「主流族」に更に「薄い血縁性で繋がる支流族」の「姓族」との「二つの構成族」の「枝葉形態」で構成する。
    この「支流族」は「独自の姓名」を持つ「構成族」ではあるが、「男系の主流族」には拘束されない。
    この「支流族(男系・女系を問わず)」は、従って、「拘束性の低い事」から「他の族との血縁族」とも成り得る。
    要するに「傘下族」と云える。
    この「笠の人」は「他人の笠に入る事」もあると云う事に成る。
    この「笠の人」が「氏族の氏人」と云う事に成る。

    「真人族系」と「朝臣族系」とには「氏の人」となる「独自の姓名」には意味が違う事に成る。
    「家人の姓名」と「族人の姓名」には「氏族の構成力」が異なるのである。

    この「二つの種類」の“「特定条件」”の「氏人−氏上が物語る特定の血縁」で結ばれて固められた族を”「氏族」”と云う。
    この「真人族系」と「朝臣族系」の「関係の氏の人」が、「(a)、(a−1)、(a−2)」の「何れの郷士」もこの中に入る。
    これが「氏族」として朝廷より「特別条件」として認められた「重要な要素」なのである。

    要するに、「時代の経緯」に依って、「真人族の衰退族」や「皇族系に分別される官僚族(位階族)」の「郷士」と成った「氏人族」である。
    況や、(a)、(a−1)の多くは「真人族系」に入った。
    そして、(a−2)以下の地方に多く分散していた「官僚族」は「官僚族」であった「朝臣族系」に入った。
    物理的に立場的にも“入った”と云うよりは入り易かったのである。

    この地方に分散していない「氏族、氏人と成り得る族」の殆どは、先ずはその系の基が「真人族(48氏)であった事」を前提とした。
    そして、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族」にのみが氏族に入り得たのである。
    唯、この事から、「真人族(48氏)(a)」の全てが成り得たという事には成らない。
    「真人族」となった「皇子の者」等でさえも、「力」が無ければ、「諡号」、つまり、“「一人立ち」”が出来ない限りは、「権威と象徴」だけでは「氏族」は成し得ない。
    当然に、「朝臣族」以下の「皇別系」の「諡号の姓」の保持も尚更に無理であり、且つ、「賜姓」を授からなければ尚難しい。
    故に、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族・氏の人」に入るしか無かったのである。

    上記の「青木氏の諡号」を、「真人族系」と「朝臣族系」の「二つの青木氏」の各地に散っていた彼らは、「注釈A〜Gの経緯」により公然とその根拠付けられた。
    この事で、「青木氏を名乗る事」が出来たと云う事に成る。

    「日本書紀」によれば、天智期以降から桓武期までには、多くが「青木氏外の賜姓」を受けているが、現実に平安期末期までに生き延びて「諡号」を獲得した「姓」は、「新撰姓氏禄」から観れば、1/20にも満たないし皆無に近いのである。
    「室町期」では、最早、皆無であり、全てを捨てて奈良や京の都付近域の土地(土豪)に根付いたか、絶えたかである。

    況して、「平安期末期」では、「新撰姓氏禄」に記載されている「真人族」が、「族」として「諡号の姓」を守った「族系」は、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」を除いて、次の通りである。

    「天智皇子族系」の「近江佐々木氏系族の2族」
    「天武皇子族系の7族」
    「春日族系の2族」

    以上と成っている。

    合わせて、「11族」で、「青木氏族」を加えると「16族」と成っている。

    (注釈 「春日真人族系四世族の五家五流の青木氏族」は、「近江佐々木氏」と同じく本流では「天智皇子族系」と云える。
    然し、上記に論じた様に、「初期の段階」で「賜姓五役の役目」を与えられた。
    多くの「真人の皇子」を「族内」に抱え込んで「五家五流の青木氏族」が形成されているので、 「大括り」の「春日真人族」としている。)

    さて、詳細にはこれから観ると、「新撰姓氏禄」の「真人族48氏」は、実際は“「16氏/48氏」”=1/3 と云う事に成る。

    つまり、残りの”「32氏」”は、「五家五流の青木氏族」に入ったか、衰退し土地に根付いて「郷士」に成ったか絶えたかに依る。

    そこで、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」に入った「真人皇子の数」は、確定は出来ないが、論理的には次の様に成る。

    「伊勢青木氏に入った数」の内、「四家」そのものに入った数は、「5〜7人程度」と読み取れる。
    後は前段でも論じたが、「伊勢郷士」として関わった数が「11氏」であろう。
    合わせて、最大でも「伊勢」では、前段でも論じたが、その「賜姓五役の役目柄」で基本的な数としては「18氏」と成る。

    そうすると、「伊勢外の四家四流」には、1家で3〜4人程度として、゜12〜16氏/32氏」と成る。
    「平安末期」では、「近江と美濃」と、「甲斐」が滅亡したので、「信濃の3〜4氏」だけと成る。


    「真人族」は、「公表の記録」には全国に散ったと成っているが、彼らの「皇子」の生い立ちから全国に散る事は先ずない。
    そもそも、そんな力は無かった筈である。
    論理的に欠ける。
    精々、奈良や京を中心にして近畿か中部域である。
    現実に「新撰姓氏禄」も「近畿か中部域」として限定しているのはこの事から来ている筈で歴史的に証明される。

    「坂東に移動したとする説」は間違いである。
    当時、「坂東」は「流人や罪人の配流地」であった事から、自ら進んでそんな地には行かない。
    間違いなく「新撰姓氏禄」から外れた「地方の土豪」の「家の格式」を高める為の「後付けの搾取偏纂」である。

    (注釈 同じ「真人族の位階等」を持つ特定の「氏族」で、態々、「逃避の受け口」が、あればそこに入るが世の常である。
    「青木氏」から観れば、「坂東に散ったとする説」は、殆どは、この「真人名の系譜」を使った「搾取偏纂の説」にする為に過ぎないと観ている。
    そもそも、「多治彦王説」と「島王説」があるのだが、これを名乗っている「関東の豪族・武蔵七党系等」がある。
    ところが、これには矛盾がある。
    それは、「・・彦」とは「彦・ひこ」は「神道の諡仕来り」で10歳程度の「少年期」の命名に使われる。
    未だ「彦の少年」が子供を造れる能力の無い者に使われる。
    従って、3〜5年では子孫を現地には遺せないのである。
    然し、「軽罪」を得て3年後に未だ少年だとして都に返されるのだ。
    この「多治彦王」は正式な記録では3年後に罪を許されて都に戻っているのだ。
    例え、「子供」であっても「現地孫」と成り「子孫」とは公的記録ではカウントされない仕来りでもある。
    これを「嵯峨期の詔勅」に従って30年後に子孫だとして系を造り上げているのだ。
    矛盾が多い。)

    これが、室町期初期には、「賜姓臣下朝臣族」と成った「真人族」では、「伊勢と信濃青木氏」を除いた族は最早無い事に成る。
    「皇子皇女の朝臣族」の「逃げ込み先」として存在していた「近江佐々木氏」は、「近江青木氏」と共に「平家」に敗退し少ない傍系を遺して滅亡に近く衰退した。

    (注釈 「近江佐々木氏の研究記録」には「青木氏の逃げ込み策」の「人数やその形態」まで論じていながら「自らの族」にこの「皇子皇女の逃げ込み策」の記録の記載は無い。
    これには明確な原因があって後に論じる事になるが、「近江の環境に依る財力」の低さにあった。
    「伊勢青木氏」と「額田部氏」の連携で派遣して干拓灌漑工事で彼等を救済した。後に論じる。)

    ここで、更に付け加えて論じたいのは、この「新撰姓氏禄」に記載された「48の真人族」である。
    これを今は「正しい」の前提として論じてはいるが、実はこの「48の真人族」の中に、「飛鳥王朝初期の天皇の真人族」だとする族数が何と「9族」も記載されている。
    況して、「真人の姓の諡号」は、そもそも、「684年制定」で、この「神代時代」のこの主張する「真人族」は、「450年頃の事」で、「235年後に真人族だと名乗った事」である。
    つまり、「235年後」に“どの様な根拠でその「天皇系譜の真人族」だ“と云っているのかは甚だ疑問である。
    そんな「日本書紀」よりも相当古い「神代の時代の系譜」を示す資料があったら示すべきだ。
    これは、「新撰姓氏禄」が「紛失した時期」を利用しての「自らの出自」をよく見せる為の「大胆な系譜搾取偏纂」の「始末の所以」であろう。
    従って、「嵯峨天皇期」に編集されていた「真人族数」は少なくとも「41氏以下」と成ろう。

    そして、更には上記した様に、この「41氏」の中には「室町期の第二の姓」が「真人族」だとして侵入している事は確実である。
    「810の第一の姓族」には入らないその数は調べても少なく観ても「4姓」、多くて「11姓」が散見できる。
    厳密にはもっと多いと観られ「後付け」である事は明白である。
    この差し引き「30〜37氏の真人族」は、「歴史的な考察」から充分に論理的には理解はできるが、まだ完全に納得は出来ない。

    筆者は、もっと少ないと観ていて、「近江佐々木氏の研究録」による数は、男子では「17皇子(20以下 皇女で15)」と記載されていて筆者も同じ意見である。
    何故ならば、大化期から嵯峨期までに朝廷が「41氏の真人族(家族を入れると200〜250人)」を養えるのであれば、「嵯峨天皇の詔勅禁令(類聚三代格にも記載)」を出す事は無かった筈である。
    大化改新期でも「六世族」を「四世族内」に狭めて「皇子範囲と数」や「王族範囲と数」を態々、限定したりしなかった筈である。

    (注釈 これを記載している「類聚三代格」は、そもそも、「律令の書」である。疑問である。
    その「律令の書」の中に「皇子の範囲と数と経費の事」の「詔勅」を記載するはそもそも「範囲外の事」である。
    何か変である。
    これは「世間の評価」に対する「時代性の変化」を敏感に反映して恣意的に手を加えられたとも考えられる。
    それだけに、「皇子の範囲と数と経費の事」を減らしたいとする「天皇家の当時の意思」が大きかった事を示している。
    「嵯峨天皇」が「詔勅」で現実に書いてもいる「48」を、「41や31」にしたところで「内蔵の財政」にはそもそも何の意味も持たない。
    少なくとも半分以下にしなければ、その「天皇家の当時の意思」は解決したとは成らないであろう。
    現に、「春日真人族」から「志紀真人族」に替わった「青木氏」さえもが、「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」と「真人の賜姓元族」が廃止されて外れているではないか。
    何をか況やである。
    そもそも「嵯峨天皇の出自元」であるのにも関わらず外したのである。
    それだけの財政改革をしたのである。
    だとしたら、「真人族 48(a−1)」の数字は多すぎる。
    当然に、「朝臣族 101(a−2)」の数字も極端に多すぎる。)

    (注釈 公表の“「皇子皇女(皇子17皇女15)」を「朝臣族」や「源氏族」にした”ところで「政務」に付ければ「大蔵内蔵の財政の負担」は変わらないではないか。
    故に、「天皇家」が出来る唯一の「変える方法」はそれは次の一つである。
    「出自元」を含めて「天領地」を守護領としている「五家五流(自活)」に入れる事であった筈だ。
    つまり、上記で論じた「青木氏に吸収される機能」に入れる以外に無かつた筈である。
    又、その為の「五家五流青木氏」に「嵯峨天皇」は、「政争の変」を起こしてまでも「桓武天皇との妥協案」の模索の上でそもそもしたのではないのか。
    何度も云うが「近江佐々木氏の研究記録」は、故にその考証から“「皇子皇女(皇子17皇女15)」は「五家五流」に入った”としているのである。
    但し、筆者は「伊勢」では「少数皇子説」は「家人」と成ったと観ている。
    そもそも、「伊勢」では「四家制度や妻嫁制度等」を敷いていた事は、充分に「出自元」であるので知っていた筈である。
    「出自元」でありながらも入り難い事に成ろう。
    故に、「出自元」を根本して入った者は、“「家人覚悟」”で来ている筈であるし、「伊勢」も敢えて「家人制度」を敷いたと観ている。)

    注釈からすると、殆どの皇子は「美濃と甲斐」に入って滅亡したと考えている。

    そこで「出自元」ではない「美濃や甲斐」に入った理由は、次の事にある。

    「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」までは「出自元」ではある事は認める。
    然し、「縛り」を護らずに「源氏族化」して行った為に、「伊勢と信濃」には入り辛く、結局は「美濃と甲斐」に救いを求めた事に成ろう。
    その結果として、「美濃と甲斐の青木氏」は、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれた所以でもあるのだ。
    故に、「以仁王の乱」から「源氏族化した美濃と甲斐」は「清和源氏主体の戦い」に参加した所以でもあるのだ。
    これが理由と成る。
    そもそも決して我々「青木氏族」は「源氏族」ではないのだ。

    本来、「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」 +「文徳系」+「光孝系」の「前の皇子族の集団」の「青木氏族」である。
    「源氏族と称する集団」は嵯峨期からである事は云うまでない。

    (注釈 下記に改めて検証するが、この「真人族の皇子皇女82」と「新撰姓氏禄の真人族48」との差の主因が、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれるはここにあると考えられる。
    逆に云えば、「出自元」であって「前の皇子族」であっても、論理的にはそもそも「伊勢源氏と信濃源氏」はあり得ないのである。
    将又、「光仁天皇」と「追尊の春日宮天皇」の「主家」と成っていたのであるからだ。
    この「青木氏族」から観れば、論理的に「源氏族」は「分家族(分家の持つ意味が重要)」である。)

    (注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
    結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
    従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
    この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
    「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
    故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
    「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
    故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
    そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
    この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
    要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
    然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
    それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
    然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)

    (注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
    そして11流も発祥している。
    これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
    故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
    この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
    もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
    「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


    「青木氏の伝統 51」−「青木氏の歴史観−24」に続く。


      [No.370] Re:「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/05/15(Wed) 10:07:04  

    > 「青木氏の伝統 49−1」−「青木氏の歴史観−22−1」の末尾。


    > つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
    > “否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
    > これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
    > 結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。
    >
    > 然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
    > 結局は、二世族として「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
    > この「醜い政争」で子孫が政争で絶えるとしたのである。
    >
    > 歴史的に後勘として観れば、この懸念は充分にあり得た。
    > これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
    > 解決策の一つはこの「令外官」にあった。
    > 「皇親族」を外されたのであるのだから慣習仕来りの論理的には令外官」でない筈である。
    > 然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は、出自を前提としている限り変わらないのだからこの事から外せない。
    > 依って、難しい所ではあるが「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
    > つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。
    >
    > 此処には確かに歴史的に観れば「表」では皇親族から外れたのであるから「脱落家の氏族」であった。
    > ところが、そこでこれを160年後(円融天皇)には、「補完役の秀郷流青木氏」の出現の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。
    >
    > つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているのを「円融天皇」は認識していた事に成るのである。
    > 況や、これが後に唯一と成った”「氏族」”の故であろう。



    「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


    さて、この「時の事」を血縁で観ると、その時の「避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)は止むを得ない「時の差配」であった。
    つまり、「政争」から逃れる為に「四掟の純潔性」からシフトして、「パラメータの差2」で「血縁性を薄める事」で「出自族」から逃れようとしたのである。
    これは「賜姓五役」の一部を緩めた事をも意味する。
    「女系の妻嫁制度」は、「純潔性の男系制度を敷いている天皇家」との決別を意味した。

    「青木氏族」に執っては「象徴」でもあり「権威」でもある“「賜姓五役」の一部を緩めた事”と云う事は、勇断でこれは「皇別族」の「四六の古式概念の仕来り」の「ぎりぎりの所」であった。
    然し、「女系制度」を執ったとしてもこの時(血縁的には仁明期頃)までは「ぎりぎりの所」であるとするが、ところが「血縁弊害の限界」の「パラメータ3」(四の法則)に対する「確固たる自信」は未だ無かったと観られる。
    結果としては、これを進めるには「避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)は「ぎりぎりの所」の外側の「外れる処」では未だ無かった事に成る。

    従って、通常は、「パラメータ2」(三の法則)以下では、「仁明期頃」までは確実に行われていた。
    然し、「女系」にすればすべてが解決するとは成らず、「女系」で観れば同時に「経験」に「改善」が加えられ乍ら、結果として現実には「パラメータ3」の「四の法則」から「完全避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)までの間を採った処と成り得ていた事にある。
    それを叶えたのは「女系」だけでは無く「独特の妻嫁制度」にあった。

    この間を詳しく観れば「パラメータ3」「四の法則」から「完全避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)に成るまでの間には、つまり、この「160年程度」の間は「過渡期であった事」を意味する。

    ここで、この「過渡期であった事」から超えて、「経験則の160年後」は初めて「青木氏」としての本当の「四六の古式概念」は成立させて行ったのである。

    「慣習仕来り掟」は当然の事として、つまり、「氏族存続の前提」の「血縁」に関しても「正常な概念」と成り得て行ったと考えられる。
    それまでは、「パラメータ3」「四の法則」が「血縁弊害が起こらないとする限界経験値」と充分には成り得ていなかった事に成る。
    これは「記録」から読み取れば、その間に“「嬰児の発生」”があった可能性が充分にあったからだ。

    (注釈 そもそもここで「氏族」に課せられた「重要な慣習」があった。
    それは”「嬰児」と云う習慣”である。
    これは「習慣」と云うよりは寧ろ「掟」であった。
    これは記録に乗せない習慣であった。
    「奇形児等の弊害」の「嬰児の処置」には「決められた掟(作法)」があった。
    「奇形児」とは成らずとも「精神障害の弊害児」が成長期に判ればこれも同様の処置が成された。
    「嬰児」とは、「血縁弊害」に依って「障害のある稚児」が生まれた瞬間から「濡れタオル」で窒息させて、直ちに無かった事として始末する掟であった。
    当時は血縁弊害に関わらず「死産」も多かったのである。
    これは「氏族」に課せられた「絶対的な掟」であった。
    「奈良期・平安期の天皇家」にはこの掟を破った為に後に問題が起こった史実が多くある。
    その一つが我々の「青木氏族」に関わる始祖にあった。
    始祖の「施基皇子」はその為に第六位でありながらも皇子順位は第七位と成り、その後に障害児の死亡に基づきに第六位に戻つた。)

    「注釈の掟」の通りそうなると、「パラメータ3」「四の法則」では未だ駄目であり、「パラメータ3」「四の法則」では無くて「パラメータ5」(六の法則)が「正常な経験値」であった事に成る。
    「パラメータ3」「四の法則」では医学的な論理的判断では問題がない筈なのだが、後勘から観れば「遺伝子学的な領域」であった事に成る。
    「パラメータ2」「三の法則」までの環境の中から「パラメータ3」「四の法則」に移る過程では一つ起こる遺伝子的問題がある。
    それは「血液型」と「隔世遺伝の法則」で「パラメータ3」「四の法則」でも出て来ると云うことである。
    「パラメータ3」「四の法則」の環境が続く中では「パラメータ3」「四の法則」のこの「血縁弊害の現象」は起こらないと云う保障の事に成らないと云う事に成る。
    それを解消できた期間が、「160年間と云う事」に成る。

    つまり「160年」が「経験則」で獲得したと云う事である。
    医学的には「隔世遺伝」が消滅して起こらないと云う事に成る。
    その「時期の経緯(仁明期頃 「始祖施基皇子」より約100年後)」までは「安全な法則」に直ぐに切り替えられたとは判断できない。
    従って、この時の「猛烈な経験」を得て「鎌倉期から室町期初期」に掛けて、「パラメータ2」から「パラメータ3」(四の法則)の「限界経験値」の方向へと切り替えられて行ったと考えられる。
    当然に、「養育制度」の「女(むすめ)」の範囲もこれに従ったと考えられる。
    恐らくは、「室町期初期から室町期中頃」まではその方向性が充分にあった。
    としても、より「良い方向」の完全に「パラメータ4」、又は「パラメータ5」(六の法則)に切り替えられたかは疑問で、それは無理であったであろうと考える。

    (注釈 「青木氏族の歴史的経緯」から観て「パラメータ3」「四の法則」は「ある程度の血縁弊害」が何とか除かれた時期の「限界経験値」であった筈である。
    そして「パラメータ5」(六の法則)は「血縁弊害」の起こる時期の「限界経験値」と成っていた筈である。
    その様に掴んでいたと考えられる。)

    実質は別としても、資料から読み取る範囲では研究から来る状況判断として、筆者は「彼らの概念」としては”中間の「パラメータ4」(下記4)では無かったか”と云う印象を持っている。

    「パラメータ3」>「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)
    以上の関係式から、従って、詳しくは次の様に成っていたと考えられる。

    「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)

    以上の範囲で留まっていたと観ている。
    (伝統―40に記載 追記)

    つまり次の範囲で区切られるのだ。

    通常の範囲
    1 子、
    2 孫・
    3 曽孫(ひまご)
    4 玄孫(やしゃご)

    特別の範囲
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    注釈の通りの「概念」としては次の様に成る。

    「パラメータ3」>「パラメータ4」(下記4)=1〜4

    「通常の範囲」を使おうとする方向に「血縁弊害」を避ける様に「概念」が働いた事と成る。

    当面は「血縁弊害の管理」を厳しくして行けば以上の関係式でも良い事に成る。

    「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)=5〜7

    従って、問題が興れば「特別の範囲」を使おうとする方向に「血縁弊害」を避ける為にも「血縁の概念」を変えようと働いた事と成る。

    然し、実体は期間がかかっている事から観るとこの逆から努力するもなかなか逃れられなかった様であったらしい。
    つまり、“「女系の妻嫁制度の改善」”が「確立する過程」までは「以上のプロセスの例」に物語るものが大きいと考えられるのだ。

    つまり、「三つの血縁源の効果」が発揮するまでは、所謂、「氏族」が完全に構築できるまでは「大変な事」であった事が伺える。

    実は、それを物語る証拠の一端が遺されているので論じて置く。
    それに触れて置くと明らかに上記の「血縁弊害の原理を獲得した事」を証明出来る事にも成る。

    「青木氏族」(伊勢や信濃等)は、その為にも、これらの事の「知識」を“「女の得本(「血縁弊害の原理を獲得した事」)」”として纏めて持たせていた。

    「三つの血縁源」に対しての「嫁家先」にも嫁ぐ「女(むすめ)」を通じて「同じ範囲の概念」である様に指導し教育し導いて行ったのである。
    それには、これら全てを明記した「確たる内容の物」、つまり、“「女の得本」”が編集されていた事が判っているのだ。

    「青木氏族」を健全に保つ上でも、考えると「光仁期から仁明期の立場」は非常に重要であった事に成る。
    これらを「本」にまでして纏められたのは「他の青木氏族」には経験し得なかった「知識」であった筈で無理であっただろう。
    前段から論じている様な「確たる制度を敷いていた事」からこそ得られた「知識や概念」を集約出来たのである。

    (注釈 筆者は「商い」を通じて「貿易」も影響していたと観ている。又、500社から得られる神明社から全国の情報もあったと観ている。
    そもそも「施基皇子の撰善言司」の家柄である。)

    恐らくは、故に「嫁家先」には、この“「女(むすめ)の教育」”を受けた「嫁の立場(家の慣習仕来り掟に於いて)」は相当なものであったと予想される。
    何故ならば、当然に、その「嫁家先」には、一族の「祖母(パラメータ2)」か「曾祖母(パラメータ3)」が存在し、古い彼女等は、元は「伊勢や信濃」の「女(むすめ)」であった筈である。
    「嫁家先の四家の範囲」に「大きな影響の基盤」が出来つつあったと考えられる。

    つまり、それには「経験則」か「何らかの医学的知識」を獲得して「影響」を与えたのは“「女の得本」”であったと説いている。

    参考として、後勘から観ればそれはかなり綿密でそうとうな「医学的知識」を獲得している。
    それを「養育時の作法の本」として使われ、且つ、嫁ぐ時の“「女の得本」”の所持品でもあった事も解っている。

    実はこの“「女の得本」”は何とこの「現在の医学的立場」からも間違ってはいないのだ。
    (下記に解いてみる。)
    当然に「嫁家先」から「女」が嫁ぐ際には、恐らくは、この経験を積み重ねた「伊勢青木氏」の「女の得本」なるものの「写し」を持たした筈であろう。
    又、それを熟知する「侍女」が付き従っていた筈である。
    取り分け、「伊勢」とは血縁関係が深かった「信濃青木氏」も記録は消えているが同然であった事は間違いは無い。

    とすると、「位階や四掟」を敷く「他の嫁家先(血縁源)」にも確実に広がって行った事が充分にある。
    且つ、これが「女系の妻嫁制度」の「広がり」へと繋がって行ったとも考えられる。
    少なくとも「最低限の基幹の制度」が広がった可能性がある。

    そもそも、その「嫁家先」も「位階」を持つ故に何もないという事にはならない。
    それは「嫁家先」が「位階」等を持つ以上は、何らかの「最低限の家の維持する確たる制度」を朝廷から「義務」として求められた事に成る。

    それで無くては「朝廷の格式」に拘る「位階官位」は与えないと云う逆の事も云える。
    何らかの「最低限の家の維持する確たる制度(氏族)」を持たなければ、朝廷から「位階」等は与えられないと云う事に成る。
    現実にはそうであった。

    それが制度として確立させたのが後段で論じるが”「縛り」と云う厳しい掟”があったのだ。
    多くは「光仁期から嵯峨期」の間に定められたものである。
    「朝臣族」とは云え「源氏族」はこの「縛り」に耐えられず「低い位階」のものであった。
    この「縛り」を無視して与えればそれは「位階の権威」を下げる事に他ならないからである。
    「朝廷の権威」が低下する所以とも成る。

    (注釈 但し、江戸期には遂には{権威}では無く背に腹は代えられず{金銭}で与えて仕舞った。下記)

    寧ろ、「女系の妻嫁制度」を執りながらも、「官位と位階」は元々は「福家と四家」は永代に持っているが、「福家」は「氏人の位階」を獲得する為には積極的にこの「女の得本」を求めた。
    その為に「妻嫁制度」に依って「血縁をより深くする戦略」に出たと考えられる。
    依って、「家内の慣習仕来り掟」はこれに従った所以と成る。
    つまり、「伊勢や信濃」からこれ等のものが“広がった”と云う前提に成る。

    然し、「近江」を始めとして「美濃も甲斐」も平安末期には朝廷から求められる格式ある「家内の慣習仕来り掟・縛り」を捨てて姓化して源氏化して行ったのである。
    結局、ここで彼らの血縁に関わる「伝統」は消えた。

    因みに、これらを始めとした“「青木氏の伝統」”は勿論の事、「青木氏の氏是」、「浄土密教の考え方」、「嫁家先の関係」、「冠位位階等」の事が「女の得本」のこれには纏められて書かれていた。
    取り分け、”「密教」”であるが故に、「青木氏の捉え方」で「般若経の語句」の「意味の解説」なども書かれていた。
    故に、これらを習得した「女(むすめ)」の「嫁家先」も「四掟の同宗」で無くてはならない事に成ったのだ。

    例えば、ここには嫁ぐ身の「女(むすめ)」の「「女の心得」として重視しなければならない事が書かれていた。
    因みに、「色即是空」とは、「女」として陥り易い”「拘りの性」”に付いて、“決して拘るな”と説いている事や、「色不異空、空不異色」は「彼世(空)、現世(色)」は“同じ”と敢えて説いている。
    つまり、“極楽は在るとは思うな“と、「無」である事こそが「極楽」であると、「大日如来信仰の密教説」を説いている。
    何故、説いたかと云えば、「血縁弊害の一助」にしようとしたと考えられる。(医学的に説いた理由は下記)

    (注釈 下記で論じるが、これ等の教えは「四掟」に依って起こり得る「血縁弊害の軽度の精神疾患」と、「女系」であるが故の「強く成る性」を抑える為の「戒め」でもあった事も考えられる。)

    これら「青木氏の密教概念」の「伝統」は、当時の「顕教の考え方(観音信仰)」とは著しく異なっていた。
    故に、後の統治者の家康は、この独自性を持つ「密教」を完全に禁止し全て「顕教・顕教令」とした事に成る。

    事程左様に、この「本の詳細」に至ると、又、それには、「血縁時の最たる証拠」となる「初夜の作法」の事までも書かれている。
    当に「女系」であるが故の「女の得本」である。
    本論に記される範囲でも下記の通りである。

    風呂を浴びる事、
    その時、体毛を剃る事、
    湯殿女に処女検査を受ける事、
    初夜時の白襦袢は洗わず「福家(寺)」に送り届ける事、
    現在と違い暖房設備がない事からその体位が重要で妊娠するに必要とするその作法等の事、
    生理の25日型、28日型の事、
    月と関わる事、生理前の6日前の行為の事、
    男性の3日の欲情生理の事、
    生理道具や行為の道具の事等・・・等

    以上の「青木氏の「女(むすめ)」の掟(作法)」が書かれていた。
    (もう少し他面に渡り相当に詳しく概念として書かれているが、卑猥になるので記述しない。)

    現実に、これらは江戸期の大奥や大大名家にも伝わったものであろう。
    これは「性欲の括り」では無く「血縁」に繋がる「生殖の知るべき正式な作法」としてのものでもあった。
    現実には現在でも通用する程に“「女の得本」”は相当に「人の摂理」を把握していたものである。
    江戸期の大名家のそれは「青木氏の妻嫁制度」の一部の「古来の作法」が広まってそれを真似たものであろう。


    さて、「女(むすめ)」の“「女の心」の持様を表した「得本」”からは論を戻して。
    以上、実は更にこの“「女の得本」”で「血縁弊害の原理を獲得した事」を証明出来るのだ。

    そこで先にこの「同族血縁の弊害」とはどんな「論理的な理屈」で発生しているのかである。
    これを説く。
    これを先に論じる事で合わせて“「女の得本」の「目的」や「すごさ」が判るので”解明して置く。

    注釈として、そもそも、現在医学では、結論として「同族血縁の弊害(奇形は除く)」は、これを「同族血縁」を繰り返す事に依り「脳」に次の様な問題を起こす。

    それは基本的に「脳の自立」を保っている「ドーパミン」と「セロトニン」の「ホルモンバランス」が崩れる事にある。
    そして、この「バランス」を保つ為に多く成りやすい「セロトニン」を食う“「トランスポータ」”と云う細胞があってこれが働く。
    ところが、「同族血縁を繰り返す事」に依って、この「トランスポータ」がその「子孫の脳」に不必要に大量に蓄積される。
    そうするとこの結果として、遺伝的に「セロトニン」が一度脳に放出されたものがこの“「トランスポータ」”に多く食われる事に依って「脳内」で低く成り、「ドーパミン」との「バランス」が崩れた状態が遺伝的に恒常的に起こる。
    そして、実際には「脳内」には潜在する「セロトニン」と「ドーパミン」が増えてはいないが、「脳内の再取り込み」のところで「バランス」が恒常的に崩れた事に依って「ドーパミン」が増えた形の状態と同じパターンが起こる。

    つまり、この「アンバランス」が「パニック症(不安)」や「躁鬱性症」、「自閉症」の「精神障害」等の「精神障害」を引き起こす事が判っている。
    これを現在では「SSRI」と云う。
    「自閉スペクトクル症候群」と云う色々な面倒な症状が出る。

    取り分け、高齢化に依らずともある「事象範囲」でも起こるのだが、「年齢化の進行」により歳をとり「自立神経」に「低下の症状」が出始めるとこの現象が益々出る。
    そうすると「交感神経」のみが低下して「副交感神経」との間に「隔離現象」が起こって仕舞う。
    そうすると「スペクトクル・脳の神経連鎖反応」が起こる。

    例えば、たった「三粒の雨」に濡れたとすると、其の事に依って「副交感神経」が過敏になり過ぎ、私は「風邪をひく−熱が出る−咳が出る−死ぬ」と云う風に連想する。
    そうすると、「自立の副交感神経」である筈が過敏に反応して、「風邪」では無いのに実際に「熱(最大38度位 不安定)」を出し、「咳」を出し、「震える」と云う風に連鎖して行くのである。
    この様な事が「弊害」として起こる。

    これを医学的に一時的に直すには、唯一つある。
    そもそもこれは「副交感神経」の「過剰反応体質」から来ているので病理現象ではない。
    そこで、神経が過剰反応している事から来ているので先ずは”「安心させる事」”が「唯一の方法」で最も効果的で、無反応の「栄養剤等の点滴」を施し「安心させる事」や「医者の癒し」等の処置で全ての症状は10分程度で治まる。
    「風邪の病理」ではないので薬は「ショック現象」を興すので与えられない。

    つまり、”医者と云う専門家に依って看て貰っているのだ”として自分を脳内で安心させる結果と成る。
    そうすると「過剰に反応した副交感神経」が”死なないんだ”として今度は逆に働き安心して直ぐに落ち着く。
    ここで、ところが入院をさせたとすると、”あぁ、自分はそんなに悪いのだ”として、更に興奮状態のスペクトクルが起こる。

    この「トランスポータの蓄積量」にも依り「症状に大きな強弱」があるが、何事にもこの様な現象が興す。
    手の付けられない強いものもあり恒常的で完全な精神病と成る事もある。
    「同族血縁の弊害」の多くはこの「パターン」が多いのである。
    昔はこれを「精神が衰弱した」と判断していたものであろう。

    (注釈 青木氏では「女(むすめ)」の過程で成長して判る場合は「女(むすめ)」の養育過程で見抜く事が必要になる。
    然し、その前の過程で「掟」として選抜していたらしい。)

    普通は「自律神経の低下」で「交感神経」も「副交感神経」も同率で低下して「認知機能」の全体が低下するのが普通で8割程度であるらしい。
    例えば、同率で低下すると何が起こるかである。
    「肺炎」を起こしてもこの「脳の認知機能の低下」で今度は逆に「熱」も出ないという事にも成る。

    然し、この「トランスポータの蓄積」の場合は、「脳内」に取り入れた事に依って「副交感神経」が強く働きすぎ、”考えられない様な神経質”に成る。
    中にはこの事で「脳の攪乱状態」を起こし「大声」を挙げたり、「不可解な行動」を採る事も起こる極めて取り扱いが難しい。

    (注釈 「トランスポータの蓄積」はこの「血縁蓄積」だけでは無く、上記の状態が続くと、「トランスポータ」では無くその「ストレス」が脳に蓄積され、結果として「恒常的なストレス」にも大きく左右している事がある事も解っている。
    最近は同族血縁は少ないのに若者にも軽度の症状が多いと考えられている。)

    昔では「血縁障害(血縁の弊害)」の殆どは、このパターンの精神病や高濃度の場合は「亜子」が生まれる事も起こっていた。
    現代医学から観れば、その「家柄のストレス」も代々に渡り引き継がれるので「血縁弊害の問題」だけでは無くても起こっていたのである。

    (注釈 当時は「亜子」もこの「症状の延長」と観られていたが、最近の医学では亜子の場合は「卵子の老化(35最以上)」が原因と云う事が判っている。
    然し、「青木氏」では同じと観ていたらしいが、前段でも論じたが「女(むすめ)」の年齢が18歳以下であった事から、この現象は少なかった事が判る。)

    そこで、従って「トランスポータの蓄積量」の「低下対策」は、その「血縁源を増やす事」が必要と成る。
    これで必然的に低下するのだが、この様な病理であるので、「遺伝子的な欠陥」では無く「一種の血縁障害の病気」と云える。
    然し、「同族血縁する」と蔓延的に蓄積が起こるので結果としてなかなか消えないので「遺伝的欠陥」と見做されやすいのである。

    これは「同族血縁の濃度」に大きく左右されるが、唯、一度、起こると「人遺伝子(女系継承原理)」として潜在して引き継がれる事に成る。
    つまり、「血縁濃度を下げる事」で隔世的に無くなる論理である。
    隔世であるので世代を跨るような上記の様な長時間が掛かるのだ。

    上記の「青木氏の血縁弊害」は「青木氏族の初期」はこの論理の病理に悩まされていた事が判るのである。
    「正常な血縁範囲」の血縁でありながらも「パラメータ3(四の法則)」でも無くせなかった時期はこの上記の原理に従い次第に減少しながらも長く続いた事に成る。
    「(パラメータ4(五の法則)」で始めて完全に消えた理屈は上記の摂理に依っていたからである。
    従って、「トランスポータの蓄積」の元が「(パラメータ4(五の法則)」で霧消した事に成る事は理解できる。
    隔世であるが故にこれが最低で「160年と云う期間」を要した事に成る。
    一代を「約25年」とすると最低でも「6代〜7代」を要した事に成るだろう。

    故に、「女の得本」は各所から情報を獲得して、それを基に恐らくは医学的な合理性を感覚的に把握して、これを取りまとめたものであろう。
    これに近い事を説いて「女の得本」で「弊害」に対応したのである。
    これ等の事は「神明社か菩提寺」の「執事役」が纏めていた事が判る。

    最終は「6代〜7代」を経て「女系」に依る「三つの血縁源の対策」からのその効果で遂に消えたと云う理屈に成るのである。

    これは、現代の遺伝学では「人の遺伝子情報」は「女子」は直接的に直接遺伝し、「男子」は潜在的に隔世的遺伝する。

    そこで、後勘から観ると、この論理で「女系の妻嫁制度」で成功したのだが、更に「男性」では果たしてどうであったのかを検証する。

    そこには先ず「人遺伝子(女系継承原理)」は「男系の場合」は母親から引き継いだ「潜在的人遺伝子」は「隔世遺伝的・潜在的」に引き継がれる。
    然し、「隔世遺伝」である為に「二代続き」で「女子」が生まれなければ「女系の持つ遺伝子」は遺伝学的には遺らないで消え去る。

    これを「三親等から四親等の同族血縁」を繰り返すと、この範囲で三世代以上繰り返すと「トランスポータ」が蓄積されて徐々に「精神障害」が発症して来ると云われている。
    古来は血縁は二親等もあった。

    「男性の男系」ではこの「トランスポータ」の蓄積が「女系継承原理の人遺伝子」で潜在的である為に「血縁弊害の現象」を読み切れず改善出来ない事に成る。

    従って、上記の遺伝原理に従い上記の数理論でも検証した通り「女系」で無くては成らないのである。

    故に、近代学的にも「四六の古式概念」の上記の「青木氏の女系の妻嫁制度の策」で採った「青木氏」の「パラメータ3」(四の法則概念)が「血縁の弊害」を防止する事が出来る「限界値」であった事と成り得るのだ。
    後勘的に観ればこの原理を「青木氏族」は知ってか知らずかこの方向に向けていた事に成るのだ。

    依って、「不明な隔世遺伝的要素」を持つ「男の嗣子」を「四家の範囲」で固定して外に出さず、「女子」をある範囲で区切り、「出と入」を監視すれば「血縁弊害」の「持ち込み」は防げる事に成る。
    何故ならば、この「三つの血縁源の監視」でその「血縁弊害」が「其のルート」の「表(女子)」に出ているからである。

    「三つの血縁源」の中で「一つの氏族」を構成している「氏人の血縁源」は、要するに「女(むすめ)」で「氏族内管理(掟)」されているから「弊害(嬰児などで)」は排除出来ている事に成る。
    この課題は「氏人の血縁源」から“絶対に男子を入れない事”である。

    そこでその「難しさ」は、“四家の範囲で男子を調達する事”が出来るかである。

    つまり、それが況やその「出来る範囲」が”「四家制度」”であるとしているのだ。
    「青木氏の範囲」での「四家の男子の数」を「20人」として確保するとしているのだ。
    そうするとこれには「妻の数と質」が前提と成る。


    これをできるかどうか検証して観る。
    前段でも何度も論じている事ではあるが、この「20人」を確保するには「妻」を「四人(実質3人)」としていれば「嗣子20人」は確保できるとしたのである。

    [(福家1)・4+(四家4)・4]・3=60人の妻 と成る。
    {60・(4〜2)}・50%(産)≒60〜120(子) の子供が生まれる。
    この内、出産男子:50%≒ 30〜60人 と成る。
    世継ぎまでの生存率≒50% 15〜30人≒23人 と成る。
    計算バスアス10%最低≒6人 とすると
    故に「20人」は確保できる事に成る。

    実に適正であった事が云える。

    「計算バスアス10%」が時系列で変化したと変化と成るだろう。

    「青木氏」が、これ程の事を読み切れていたのは、この「医学的根拠(遺伝学)・経験則」を何らかの方法で見抜いていた事に成る。
    どんな方法で知識を獲得していたかは判らないが、筆者は「貿易」とそれを「神明社」が解釈していたと観ている。

    次はこの「見抜き」は果たしてどの様にして獲得したのかである。
    それは恐らくは、「女(むすめ)」から養育時に教わった「外観上の男女の性の差異」の「人の生態摂理」で引き継がれていたと観ている。

    元々、この事が「女の得本」に記されていたからでもある。
    これが広がった「重要な原因」でもあって、「青木氏族が一つの慣習仕来り掟」に依って「血縁関係」が構築された原因でもある。
    この逆はあり得なかっただろう。
    「青木氏族の血縁弊害」の出ない「氏族」を周囲は凝視していたと観られる。

    {光仁期−仁明期の経験>「女系の妻嫁制度」={女の心得本>嫁家先制度}  1
    「弊害原因」<「慣習仕来り掟」>血縁関係  2
    1+2=「青木氏族」

    故に、 「通常範囲」+「特別範囲」=「青木氏族」

    この関係式を見抜いていたと云う事である。

    以上の関係式が先ずは成立していたと考えられ、これを時系列的に時代に合わせて上手く使い分けていた事に成る。

    この「通常範囲」と「特別範囲」を差配する事で上記の「青木氏族の関係式」は成り立っていた。

    ところがこれでは「四家の範囲」では成り立つが、然し、「氏人を含めた氏族管理の範囲」では弊害は起こり充分ではない筈である。

    その答えは、上記の検証の通りある範囲の”「氏人の伊勢郷士数」”が必要に成っていた事に成るだろう。

    この「伊勢青木氏の例の考察」から観ても、「最大時の伊勢の50郷士」としても、この関係式の成立ではぎりぎりに成り立っていた事に成る。

    「伊勢の青木氏」の「本領安堵の地権域」が、「遠祖地の南紀」までの範囲である事(a)
    そして、その地域には、必ず、「家人や氏人」の「四家の絆青木氏」を含めて定住していた事(b)
    恐らくは、この「元の郷士の数」の「50の郷士」まで、つまり、隈なく「伊勢の全域」まで「何らかの形での縁組」が出来上がっていた事(c)
    これが1000年以上(江戸初期)で築きあげられていた事(d)
    そして、「氏族」として及んでいた事(e)

    以上の5つが働いていた事が充分に理解できる。

    恐らくは最低限、「信濃」までは同然であった。

    {「四家20」+「50郷士」}・X=「伊勢青木氏族」

    {光仁期−仁明期の経験>女系の妻嫁制度}={女の得本>嫁家先制度} 1
    弊害原因<慣習仕来り掟>血縁関係 2

    二つの関係式の「1+2」=「青木氏族」 が「青木氏族」である事に成る。

    故に、「通常範囲」+「特別範囲」=「青木氏族」

    これらの関係式で「パラメータ3(四の法則)」でも後半には少なくともほぼ完全に成立していた事に成る。

    更に検証して観る。

    単位年を「100年」として、「四家20家」で養育する「女(むすめ)」の数が「玄孫域」までとする。
    例えば、男子/女子≒50%として、子=10〜12、孫域=5〜6、曾孫域=2〜3、玄孫域=1〜2とするならば、「玄孫域」で「15年単位の区切り」で観れると次の様に成る。

    最低で「19の縁組」 最多で「23の縁組」 

    これを「1000年」とすると、これの比例として「10倍」が嫁す。

    (注釈 計算を容易にする為に「毎年の血縁」を一つの「区切り」として観る。)

    そうすると、最低で「190の縁組」、最多で「230の縁組」が起こる。

    「郷士数 50」では、最低で「3回周りの縁組」、最多で「5回周りの血縁」
    以上の「血縁回り」が起こる事に成る。

    「血縁回数」=3〜5回周り

    以上と成る。

    これで「原士」を含めて「伊勢郷士」が、完全に「青木氏の氏人化した事」は証明出来る。

    「奈良期から平安初期」には「信濃や甲斐や美濃や近江」も同様の理屈がほぼ成り立っていただろう。

    「伊勢王」として遙任してから「施基皇子(716年 四家形成期)」から「子孫拡大」を見せたとして次の様に成る。

    「一回目の縁組」は、上記の検証の通り「最低で19、最多で23」として、「郷士との縁組(家人差配頭)」はこれの1/3〜1/5とすると次の様に成る。

    「4〜8との血縁組」が“「780年頃」”に既に起こっていた

    以上と考えられる。

    この「4〜8の傾向」が、「15年単位(女子の血縁年齢)」で区切るとして「累計的」に増えていく事に成る。

    「100年の単位」で、「単純比例」では、「28〜56」(一周り)と成る。

    現実にはこれが次第に「累計的増加(1.3)」として観れば、次の様に成る。

    「37〜73」=AVE55/50と成る。

    「施基皇子没後の100年後」の“「816年頃」“には、“「氏人」”が完全に構築され「氏族としての条件」は完全に成立していた事に成る。

    この「816年頃」は、何と「嵯峨天皇期の頃(嵯峨期詔勅)」で、丁度、「新撰姓氏禄」が出された時期でもある。

    全く「青木氏の歴史観」と「数理計算」とは、「伊勢」では完全に符号一致する。

    何度も云うが、この時期では「信濃、近江、甲斐、美濃」でもまだ全く同じ事が何とか起こっていた事に成る。
    問題はこの後からである。

    唯、「信濃」に於いて「郷士数」が「伊勢の5倍から9倍位」はあったとされている。
    「新撰姓氏禄」に記載されている「原士(e)と郷士(d)〜(f)」とすると、次のように成っている。

    (注釈 「伊勢の郷士数」は「不入不倫の権」で流入する事は無く少なかった。)

    但し、鎌倉期から勃興を始め室町期に発祥を興した「姓族(イ)」や、「移動する国衆」等や「姓族から郷士と成った者(ロ)」等を除く。

    (a)真人(48)、朝臣(101)
    (b)宿祢(98)、忌寸(50)
    (c)臣(66)、連(258)
    (d)首( 93)、造(80)
    (e)公(63)、直(42)
    (f)史(28)、村主(20)、県主(12)

    (a−1)の「真人族48」は「青木氏等数氏」を遺して全て下剋上で淘汰され滅亡した。
    (a−2)の「朝臣族101」も殆ど淘汰滅亡したが、「傍系族」が地方に姓族化して土豪化して生き残る。

    この記録から観て「郷士か原士」と成った「族階順表」は次の様に成る。

    (b)=148
    (c)=324
    (d)=173
    (e)=105
    (f)=60

    合計=810

    この「810」が、「近江、美濃、信濃、甲斐」の「平安期の主要天領地」であったこの「四地域」に分布した事に成る。

    矢張り、「日本書紀」にもよく活躍して出て来る様に「臣と連」(c 324)が多い。

    これには歴史的に其れなりの理由があり、「臣と連」(c 324)は「中級官僚族」である。

    この「族階順表」から更に検証する。

    A 関西域と中部域の郷士予想数

    国数=13/66とする。
    当時、「天領地」は「810の約65%」が関西と中部域に集中していた。
    810・0.65/13=41 郷士数/国

    そうすると「平安初期の四地域」には、 正規な41の郷士数/国 と成る。

    これに(a−2)の「101(朝臣族)」のBが加わる事に成る。


    B 天領地に赴任族で姓族化した傍系族。

    (a−2)の「101の朝臣族・傍系姓族」/4=25/国
    41+25=66 正規な郷士数/国(近江 信濃 美濃 甲斐) と成る。

    「平安期初期」には、矢張り、「主要天領地」では次の様に成る。

    「伊勢」とほぼ同じ程度の「原士と郷士数(50〜66):(A+B)」

    以上であった事が云える。

    (注釈 重要 「伊勢」は、結局は室町期に北畠氏や織田氏等に侵されて乱れるが、結局は「元来の原士や郷士数」は変化しなかった事に成る。
    「伊勢」は言い換えれば護られた事に成る。
    「信濃」は国衆などに浸食されるが抑止力効果で所領地権域の1/4程度は護った。後段で論じる)

    時系列として、平安期末期には、然し、「近江と美濃」は滅亡し、「甲斐」も大打撃を受ける。

    (注釈 取り分け「近江」は「美濃」まで逃げた事が近江の全てを失った。)

    これに鎌倉期から次第に増え室町期中期より「勃興の姓(イ)と(ロ)」が加わる。

    然し、この「勃興の姓(イ)と(ロ)」は「新撰姓氏禄」に記載される正規な「原士や郷士」では無い為にこの計算には入らない。

    (注釈 「正規」とは朝廷が認める族 「族階順表」の記載)

    従って、「(a)〜(f)に記載されている族」が一族化して一部は「郷氏」に、多くは「郷士」に成り得ている。
    依って、その「ルーツの位階や官位」は、「勃興の姓」の「武士の時代」に成っても「郷士>武士」であって彼らは「誇り」を持っていた。

    江戸期には、従って、「勃興の姓(下記のイ)と(下記のロ)」の「姓族(第二の姓)」はこれを卑下して、この「郷士>武士の関係」を「郷士<武士」の関係に変えようと醜い論争が起こった。

    基本的には重要な歴史観としてはこの「族階順表」からも読み取れる。

    「(a−2)〜(f)の900」に近い「全国の郷士」は、そもそも「奈良期から平安期」の“「官僚族」”であって基本的には“「武士族」”ではない。

    要するに、「官僚の務め」を全うする為に「武力」を行使していた“「官僚族」”である。
    つまり、「補完役の秀郷流青木氏(初期)」の様に、地方の「押領使の令外官(警察や軍隊や治安)」の役務を果たしていた族である。
    判りやすく云えば、「藤原氏や大蔵氏の傍系族の下位の官僚族」である。

    “「官僚族」”の「位階」は「従四位下の以上の官僚族」である。
    「最高官僚族」では「大蔵氏」の「錦の御旗族(大蔵氏・内蔵氏・安倍氏)」でもあるくらいである。
    「源氏」と云えど「上記の縛り」から外れた限りでは位階・格式は数段で下位である。

    (注釈 この様な意味で清和源氏分家の河内源氏系の頼朝が「摂津源氏の本家」でない限り幕府を開く資格は無かった。
    そこで、平家討伐の「以仁王の宣下」を「頼政」は頼朝に通達は出していなかった事が公に史実として最近に証明され判明した。
    「新宮次郎」がこの「宣下」を各地に通達したが、頼朝は受け取っていたとされていたが、これは幕府を開く為の「後付けの口実」であった事が判明した。
    そもそも「縛り」を放棄している「姓化した河内源氏」には「以仁王の宣下」は権威上から出さなかったこ事が証明されたのである。
    「以仁王の宣下」の「権威」に付いては「賛否両論」で、頼朝は軽く観た可能性が高い。)

    因みに例えば、「九州鹿児島の本土末端」に派遣されて、その後、「島津家の郷士」と成った「市来氏」等も元はこの「朝廷の六大官僚族」の一つである。

    歴史的に現在まで正式に「錦の御旗」を唯一与えられた「大宰府大監」で「九州全域の自治統治」を任された「阿多倍王」の末裔「大蔵氏」の「大蔵種材の末裔説」でもある。
    殆どは九州では元は「大蔵氏系の官僚族の末裔」が「郷士化」したものである。
    然し、この「大蔵氏」の彼らの「高位の官僚族は「郷士」とは成ら無かった。
    例えば、「青木氏と関係」のある「伴造」から「九州全土に広がった豪族」と成った「大伴氏」もこの「派遣の官僚族」である。

    この事前知識を前提に、元に戻して検証を続ける。

    取り分け、前段で論じた様に「信濃と近江」では、奈良期までは「血縁関係」が相互間で起こっていた事から“「伊勢」と連動していた事”が資料からも判る。
    又、この「族階順表」からも伺える。

    この状況が、「100年単位」を一つの区切りとしてで観れば、江戸期初期まで「比例的」に血縁は10回繰り返されていた事に成る。

    「比例的増加(2)」の「37〜73」=(AVE55/50)・10回≒550

    以上と成りこの数は現実にはあり得ない。

    但し、「平安初期からと江戸期初期」までは、前段でも論じた様に、「血縁の相手の数」が数倍に異なる故に比例計算は先ず論外で出来ない。

    上記の「1000年での数理計算」の“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”では納得できる。
    この間の「郷士数の変動などの歴史的経緯」の「変動値20%〜30%」を勘案して観ると次の様に成る。

    550・「1/2〜1/3倍」=270〜180=3〜5

    以上として成立する。

    「室町期の下剋上と戦乱」に巻き込まれた元々「対抗する力の弱い官僚族・押領使等の令外官」であった「郷士の960」は、例えば、次の様に成った。

    「真人族」の「(a−1)の48」は、1/5(≒5氏)程度に成った。
    「朝臣族」の「(a−2)の101」は、「豪族の家臣(≒68士)」に成った。

    (68士は滅亡して殆どが「傍系族」の姓化した。)

    「郷士」に成ったとされる「朝臣族」の「(a−2)の生き残り」は、「秀郷一門の庇護」を受けた。
    その存在はその「主要地域の24地域」に観られる。

    これはその「家紋分析」より凡そ確認出来ている。

    イ 「郷士数」は(68士・1/3)≒「33士程度」と成った。(氏人族と成っている。)
    ロ 「家紋分析」以外に「郷士」に成った「士・原士含む」には、「諡号の姓」を名乗っている。(「当時の地名」を使っている。)

    この「イとロ」が彼らの「官僚族の判別できる特徴」である。

    この「二つの特徴(家臣化と郷士化)・イとロ」から「朝臣族」の「(a−2)の生き残り」が系統的に明確に読み取れるのだ。

    この「読み取り」から「朝臣族」の「(a−2)の生き残り末裔 101」の内の「郷士の氏族化」は、次の様に成った。

    “「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”/(50士〜55士)

    以上と成った。


    平安期から比べれば、要するにこの「氏族・(50士〜55士)」の数は激減している。
    然し、これが江戸期初期、又はその直前では恐らくこの範囲にあった事が頷ける。

    (注釈 但し、上記の計算の「氏族化の変動値」は、これから「10%〜15%」と計算している。
    前段の検証でも「一国・6〜7郡」の中で住める「郷士の数」も「50前後」とした。一致した。)

    (注釈 前段でも論じたが、つまり、当時は、「天智天皇の川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」が住んでいた「神・神木」に関わる「佐々木郷(「斎斎の木」)」を以って賜姓したと「日本書紀」に在る。
    又、「日本書紀」や「嵯峨天皇の詔勅の禁令」等の古書にも、「青木氏」の様な“「神木名」”を使った「皇族の朝臣族」が在ると記されている。
    「青木氏の氏名」は「あおきの木」の葉は常緑で、木も浄木地で育ち緑で、実は血を表す赤で、奈良期は「柏の木」と共に最高級の「神木」とされていた。
    「青木氏」は更にこの「神木の柏の木」も「神明社の象徴紋」として与えられた事が「日本書紀や三代格書」などにもと記されている。)

    (注釈 従って、これらの「三つの族」の「諡号の姓化」には「神地名」と「神木名」と共に使用を禁じている。
    「嵯峨期の詔勅の禁令」は「奈良期からの慣習」を追認して禁じたものである。
    「特別地名の諡号の名」と「神木の諡号の名」は、「真人朝臣族」以外の族には、「地名の姓名」と共に、その「慣習仕来り掟」をも一切を使用を禁じている。
    当然に、「48氏以外の朝臣族」、即ち「賜姓源氏」も含めて使用を禁じられているのだ。)

    そこで、「嵯峨期」まで「上記の注釈の様な乱用」が無秩序にあった事から「新撰姓氏禄」では、それまでの「血縁」が無秩序に入り乱れて区別が付か無くなっていた。
    この「状態の子孫拡大」を改善して国体の基礎として「正常な秩序ある判別性」を持たす為に次の事を行った。

    これがそれまで無かった「910の族」の社会環境に”「縛り」”と呼ばれた「格式制度」を確立させたのである。

    先ず、上記の「(a)〜(f)」を「12−6」に分類した事である。(縛り 1)

    その上で、更に「真人族48氏」を除く「911氏」に付きこれを次の「3つの族」に分けた。(縛り 2)

    (a)真人(48)、朝臣(101)
    (b)宿祢(98)、忌寸(50)

    (c)臣(66)、連(258)
    (d)首( 93)、造(80)

    (e)公(63)、直(42)
    (f)史(28)、村主(20)、県主(12)

    この「3つの族」は更に次の様に区分けした。(縛り 3)
    (「皇別族」は含まず)

    「朝臣族」
    「神別族」
    「蕃別族」

    以上の3つに区別して「血縁性の確立(縛り 1〜3)」を押し立てたのである。

    そして、更に、この時、この「区分け」を明確にする為に次の区分けを定めた。(縛り 4)

    「特別地名の諡号の名」と「神木の諡号の名」の範疇にある族の全てに対しても縛りを掛けた。
    (縛り 5)

    「皇別族・皇族別48氏での判別」も、次の三つに分けるとした。(縛り 6)

    「直系族別」 (判り易く云えば主家族 : 卑属と尊属に分ける)
    「尊属族別」 (判り易く云えば親戚族 : 卑属と尊属に分ける)
    「傍系族別」 (判り易く云えば縁者族 : 卑属と尊属に分ける)

    以上、「3つ」が「6つ」に成り、この関係で「子孫」を区分けしては拡がらせる事を定めた。

    この「六つの縛り」に依って「格式化」を促したのである。

    これが更に「子孫拡大」に伴って{「2の2乗」*3}の法則で広がる。
    然し、”拡がり過ぎる”と元の{「2の2乗」*3}の「元の状態」に戻させた。

    つまり、この「一族管理」が出来る範囲の限度の「縛り」を設けたのである。

    これが「総家−宗家−本家」の「区分けの原則」として戻されたのである。

    「族内の一切の決め事」が「総家」が認めなければ、「宗家」が認めなければ、「本家」が認めなければの「認可制度」を確立させたのであった。
    上え上えと”何事にもお伺いを立てる掟”である。

    その「区切りの範囲」を「分家」と云う言葉で区切ったのである。

    (注釈 青木氏は姓を持たない為にこの「総家−宗家−本家」が無く当然に「分家」は無い。)

    つまり、この「分家の言葉」には大きな「格式の違い差」を持たせたのである。

    極端に云うと、「総家−宗家−本家」までが”「家」”と云う範囲であった。

    「氏族である秀郷流藤原氏一門・361氏」は、この「仕来り」を「家紋と家号」に表す程に徹底して強調した。
    故に、「秀郷流一門一族」の「位置づけ」は「家紋と家名」で現在でも見抜けるのである。
    当に、この「縛りの効果」であるが、「秀郷流藤原氏一門・361氏」はこれ等のことが評価されて「特別な縛りを護る氏族」として認められていたのだ。
    「家紋や家号」からも「総家−宗家−本家」の位置づけが格段と違う。
    逆に云えば、「秀郷流藤原氏一門・361氏」は常に比較対象と成るが、この「縛り」に従わなかった「源氏族」はこれが全く無いのだ。
    ただ「単なる賜姓族」であると云うだけで、そこには格式を示す他のものは無いのだ。

    (注釈 理解を深める為に「縛り」の例として次の事がある。
    そもそも「源氏族」が「笹竜胆と白旗」を象徴としているが、何処に朝廷より与えられたとする記録があるのか、そんな記録はないのである。
    在るのは「光仁天皇」に於ける「皇別の青木氏との繋がり」からの搾取に他ならないのだ。
    そもそも、”「八幡宮社」”と”「八幡大菩薩」”の守護神と菩提寺を有する「源氏」が「笹竜胆である事・(神明社)」は無く、且つ、この事は同時に「密教浄土宗原理主義派」の印の「白旗」とも矛盾している。
    14もあった「法然後の浄土宗の派別」から「宗派争い」が起こり「最小派の白旗組」の「密教浄土宗原理主義派・青木氏派」を”「浄土宗」”とすると突然に決めたのは「室町幕府」である。
    「源氏」は「鎌倉期・1221年」までであり、且つ、「縛り」を無視した族であり、「顕教の浄土宗」である「源氏」が「白旗」である筈が論理的に無いのだ。
    従って、「白旗」でない限りは「笹竜胆」でもない事に成る。
    「白旗と笹竜胆」は一対のものであり逆の事も云える。
    更には「賜姓紋」として与えられた「笹竜胆」であるとするならば、「青木氏」から観れば曾孫域の「嵯峨源氏だけの出自元」が「伊勢青木氏」であったとする事だけで精々云えるかも知れないのである。
    従って、「嵯峨源氏の範囲」であれば何とか理解は出来るが、「嵯峨源氏」でさえも結局は「縛り」を護らなかったのである。
    更に、これも一対としての「笹竜胆紋」に添えられた「賜姓守護像・ステイタス像」、つまり「鞍作止利作の大日如来坐像」を持つているのかという事に成る。無いのだ。
    そもそも「如来信仰」は「青木氏等の密教」であり、「源氏」は「阿弥陀信仰の顕教」である。
    前段でも何度も論じたが根本域に違いがあるのだ。
    念の為に再記するが、「如来信仰」は彼世から「人に悟り」を求める密教で、「阿弥陀信仰」は釈迦を現世に下ろして「人に教え」を伝える「顕教」である。
    「皇祖神の子神の祖先神の神明社」では無く、「八幡菩薩」で「八幡の神教」と「菩薩の仏教」を合わせた「信仰体」である限り、そもそもこれらはあり得ないのである。
    上記した「以仁王の宣下」の事も含めて、これ等の矛盾を隠すために明らかに「頼朝の権威後付け」であった事に成る。
    「摂津源氏」ならば未だしも「繋がり」は多少認められるが、要するに頼朝らはそもそも上記の「分家」である。
    故に、この様に「歴史」とは、「権威の為の後付けの搾取」が多く横行し、よく調べないで公的な記録とされているのが現状で根本的な間違いを起こすのである。
    「青木氏の研究」から観ると、この「頼朝の笹竜胆紋」は「搾取の矛盾」があり過ぎるのだ。
    つまり、この朝廷が定めた「縛り」が無ければ問題はないが、論じている「史実の縛り」から観ればである。
    故に、「摂津源氏の四家族の頼政」等は、”事を興す大義”を何とか造り上げる為にも「伊勢と信濃」に「子孫」を送り込んだとも執れるのだ。
    これならば、「笹竜胆も白旗」も頷ける。
    確かに前段で論じた様に”子孫を遺すと云う大義”もあったであろうが、この事も大きかったと観ている。
    「正三位」がこれを証明し、「分家の頼朝」に”「宣下を出していなかった」”とする史実も理解できる。)

    この「注釈の様」に「嵯峨期」までは無制限に無統制に成っていたものを「縛り」で統制しようとしたのである。
    無制限は「天皇家の形態」が崩れる事に成り兼ねないからである。
    つまり、思わずも「孝謙天皇の白羽の矢」から発している所以を以て「秩序ある国体」を造ろうとしたのである。
    ところが皮肉にもその期待する結果はその後も嵯峨源氏や河内清和源氏の「自らの子孫」がこれを破った事であるのだ。

    この様な事を無くす為にもこの「八つの縛り」を掛けて「血縁の範囲の明確化」をして「族の拡大を防ぐ制度」が確立する様にしたのである。(縛り 7)
    「子孫の無秩序な拡大」がこの様な事を生み国体は乱れるとしたのである。

    この「真人族の区分けの原則」も、「総家−宗家−本家」を「四家制度」にして採用して「分家・支流化・姓化」を食い止めて「格式の確立」を求めた。
    「青木氏」では「四掟の原則と四家制度と女系妻嫁制度」に枠を固め「氏族」で統制した。
    従って、「尊属族別」から「傍系族別」へと移行して行く過程を無くして「四家の範囲」で留めて行く原則とした。(縛り 8)

    当然に、「朝臣族」「神別族」「蕃別族」の「3つの族」の910族もこの「血縁原則」のこれに従う事に成った。

    これで「青木氏」では「血縁関係の乱れた原則」を統一したのである。
    これが本来の「新撰姓氏禄の政治的な目的」であった筈である。
    然し、「清和源氏の二代目満仲」がこれを壊して朝廷から蟄居を命じられたのである。
    その「分家の頼信」の河内源氏も意地に成って徹底的に無視した。
    「11流ある源氏」もこれに追随した。
    結果としては、生きて行く為に「八つの縛り」を守り切れず「近江美濃甲斐の三流の青木氏族」も破ったのである。

    前段でも論じた様に、「天皇三代」に渡り確立しようとしたが、然し、これ程に「910の諡号姓族」からも「猛烈な反発」を受けた。

    つまり、所謂、この「八つの縛り」、これが“「氏家制度」”の始まりである。

    (注釈 後にこの「氏家制度」が確立し始めて、江戸期で完成して世は「安定期」と成ったのである。
    「第二の姓」がこれを成し遂げたとするは皮肉な事ではある。)

    「910の諡号の姓族」に対して“「総家−宗家−本家」”を中心とした制度を確立させ、何はともあれその元と成る「血縁制度」を確立して、「血縁弊害」を無くし「良い子孫の国体」を造ろうとしたのである。

    (注釈 最終は「氏」は「縛り」に耐えられず消え、限られた数氏に成った。
    然し、「家」は810〜906の範囲で出来た。)

    唯、そこでこの「縛り」の範囲で遺った「真人族48氏」には更に“「特別の義務」”を押し付けた。

    「縛り1〜8」までは、勿論の事、更にこれを護らない以上は、“「真人族」とは認めない”と云う「厳しい縛り」である。

    次の3義務である。

    1 「四掟」の「縛り 9」である。
    2 「氏族(姓化しない)」を形成する事の「縛り 10」である。
    3 基準とする「位階と官位と格式」を授かる事の「縛り 11」である。

    以上、3つを課せた。

    「真人族48氏」は焦った。
    そもそも、世間性の無い「真人族」である。

    前段でも論じた様に、平安末期までに、鎌倉期では一時保護した事により増えたが、これで「真人族」は激減した。
    「室町期の下剋上や戦乱?1333年頃から」では影も無く消えた。

    然し、「青木氏族」は生き遺ったのである。

    次にそれは何故なのかである。

    何度も論じる処の“「商いの経済力 1」”とこれを使った“「抑止力 2」”と“「補完役の出現 3」”である。
    当然に朝廷が示す「縛り」を護った。

    (注釈 「補完役」そのものがこの「縛りに対する補完」でもあった。)

    当然に、以上の上記の「3つの課題条件」は元より、上記の「血縁の縛りの制度」にも適応した。

    そこで何が興ったかである。

    「滅亡する事」は解っている「皇子皇女」は、「真人族に成る事」を避けて、「皇族賜姓朝臣族の五家五流青木氏」に流れ込んだのである。
    これが「伊勢域」から始まった「青木氏族の所以」でもある。
    これも「青木氏」を彼らの「逃げ込み口」にする「補完役の意味・960年頃 平安期の中頃まで」でもあった。
    「伊勢と信濃」は「皇女」のみにして「血縁の弊害」を概観より取り除いた。
    但し、何度も云うが、常に比較対象とされる「賜姓源氏・最終1008年・花山」はこの「全ての縛りや課題の条件」に適合できなかった。

    (注釈 ここで、唯、興味深い事があるのだ。
    故に、「新撰姓氏禄・815年」にはそもそも「嵯峨源氏・814年」が、この時、「嵯峨源氏」は「真人族48氏の中」には入れられなかった。
    これはどういう意味か、賜姓して発祥させたにも、既に、定めた「縛り」を遵守されなかったと云う意味かである。
    この「嵯峨詔勅」は814年である。
    それまでは桓武期までは”「一世皇子制の賜姓」”であったものを、「賜姓青木氏」に真似て「賜姓源氏」と云う「氏名」を限定賜姓して「名誉」を与えるがその代わりに「経済的保護」をしないとする制度に替えた。
    つまり、「桓武期の賜姓・一世での身分保障」と「嵯峨期の賜姓・否保障」と比べれば始めから”勝手にせよ”という事で突き放している事に成る。
    故に、「縛り」には当初から彼らは守る意思が無かった事に成る。
    だから、「新撰姓氏禄・815年」には載せなかった事に成る。
    とするならば、「河内源氏」の「分家の頼朝」の「権威の後付け搾取」や「青木氏の家紋や旗の象徴搾取」は理解できる。)

    唯、然し、「摂津源氏の3代目源頼光−7代目頼政」は「四家制度や四掟制度」を何とか敷きこの課題をある程度護る姿勢を示しているのだ。
    「皇族の者」が「家臣の家臣」に成ると云う前代未聞の事の「仕来り破り」して逆道して、「北家藤原氏の道長に臣従して保身したのであった。
    この事から「桓武期の賜姓・一世での身分保障」の制度を護ったという事にも成る。
    変を起こす程の政争にも成った「桓武論説」と「嵯峨論説」の「桓武論説側」に着いたという事に成った。

    この様な苦労をしてある時期まで「四家と四掟」を構築した為に「真人族並み・正三位」(「氏族」は形成できなかったが)に扱われたのだ。
    そして、破格の「3天領地の守護代」を務め、朝廷より「伊豆の所領」までも正式に与えられた。
    つまり、「河内源氏の武力による奪取」では無かった。
    「嵯峨期の詔勅」は所領を与えないものであったにも拘わらず所領を与えられた。

    (注釈 この事に乗じて朝廷は荒廃した神社の建て直しを摂津源氏に命じた。
    ところが、なんだかんだと言い逃れして実行しなかった。
    あまりの追及に「一社の改築・改修」をして逃げようとしたが出来ず、見放された事が史実として遺されている。
    一国の所領の力では無理な事であった。)

    ところが「頼信系河内源氏」は敢えて始めからこの「一切の縛り」に従わなかった。
    一族が「姓化する事」は一見して血縁弊害が低下する様に見えるが、そうでは無かった。
    寧ろ、「一族の結束力」を強化する為により近い血縁を繰り返して弊害を生んだ事が資料から読み取れる。

    (注釈 寧ろ、逆らって姓化して武装化して奪取して領地を拡大させた 
    故に朝廷から観れば河内源氏は何ら「第二の姓」と変わらないのである。
    寧ろ、「810の官僚族」の方が当時は「権威性」はあると考えられていた。
    「朝臣族」であるとは云え、後の徳川幕府と何ら変わらない事になるのである。
    それ故に「分家」でもあり「権威と象徴」が欲しかったと考えられるのである。
    朝廷が「縛りの制」を敷いた事は彼らは充分に知っていた筈であり、この為にも「後付け搾取」をやってのけたと云う事なのである。)
    故に、「頼政の正三位」に比べて「真人族」では無く「朝臣族」に留まり「位階も官位」も低いのである。)


    注釈として、この“「縛り」”の為に「賜姓源氏族の子孫拡大」は限定された。
    「真人族の朝臣族」には組み入れられず、殆どは「傍系族別」に部類される事に成って仕舞った所以でもあるのだ。
    従って、「賜姓源氏と名乗る族」の殆どは、本来はこの「傍系族別」以上は歴史論理的に起こり得ないのである。
     (世間の風評資料と記録は殆どは搾取偏纂)

    「禁令と区別(縛り)」でこの結果として以上に分ける事が出来るとして、これに更に次の様な事が興った。

    血縁の経緯から必然的に「(b)〜(f) 810」が次の様に成った。

    「室町期の豪族」の「支配下に入り生き延びた武士」 姓化
    「氏族」と共生する「誇り高い伝統を護り得た氏人」  郷士

    この「二つに成り得た族」が興ったのである。

    この「二つの間 810」には更に結果として“「格式を示す姓名」”に「違い」が起こったのである。

    どんなに誇張搾取しても「禁令の差」と「格式の判別」と「縛りの判別」や「姓名の違い」で判別できると云う事なのである。

    唯、ところが「真人族を入れた959」のこれ等に関わらない“「新たな姓族(新興族・第二の姓)」”が室町期に勃興した。
    それが「第二の姓」であるのだが、これで「縛り」などの「社会の秩序」は大きく変わって仕舞った。
    この為に「室町期中期頃」からは“「格式を示す姓名」”が遺り得てもこの「禁令」と上記の「身分格式制」が元より完全に無視された。
    この「第二の姓」の「新興族の比率」が急激に逆転し、その比が室町期の中程(1500年頃)から急激に増し、遂には短期間(140年)でその「勢い」は室町期末期には8割以上までを占める事と成った。

    筆者の調査で検証して観ると次の様に成る。
    「武士(上級下級含む)」は「約130万人・士族」であった。
    (明治3年苗字令の士族を基準に計算 徒士と家族含む)

    130万/4人≒30万 4%(戦闘員)

    「第二の姓」/「第一の姓(910族)」≒8:2
    「第一の姓(910族)」は「6万人(家族含まず)」いた事に成る。

    30万・0.8=24万 3.2%
    24万/140年≒1714人/年

    「増える事の無い姓」が庶民から毎年「2000程度(人、家、族」が「実質の士族」・「第二の姓」に成って増えて行く事に成る。
    (軍は大半は「荷駄兵等の農民」や「傭兵」であるのでこれは除く) 

    「室町期中期(1500年頃)」を境には、「第一の姓(910族)」を一挙に追い越し、既に、毎年4倍化して行った事に成る。

    これでは、「縛り」も何もあったものではない。
    これに合わした新制度を新たに構築しなければ社会は安定はしない事は充分に解る。
    上記の「イとロ」の「第一の姓(910族)」の立場も殆ど無く成っていた事に成るだろう。
    「苦しい環境」であった事に成る。
    取り分け、「信濃」は苦しい環境にあった事が判る。

    これが「第二の姓(24万」の上記の「氏家制度」を模倣し踏襲した江戸期の「武家諸法度」である。

    (重要な注釈 歴史的に関係する令として出されたものを観てみると、「元和、寛永,寛文、天和、宝永、享保」の6令を以て出されている。
    これが追加集約されて「武家諸法度」として確立し大名に一定の秩序を課した。
    その内容を観て観ると、主に「元和」がその「縛りの趣旨」に近く「幕府許可制」で「幕府の思惑」で統制した。
    「嵯峨期」の様な「縛り条件」を確定して明示せずにそれを参考に判断して許可を出した。
    「幕府思惑」に外れた場合は「取り潰し」で厳しく処理した。
    「裁量権」を強化して「複雑な血縁関係」を「柔軟」に対処したのである。
    実は朝廷と繋がりを強く持った「豊臣政権」でも同じような事が模倣されていた。
    これは「血縁の許可制」に重点を置いている事から「縛り」に近いものである。
    矢張り、「血縁濃度」が高く成りやすい「一族の結束力強化」に懸念して「国体の在り様」が考えられていた事に成る。
    当初は主に一万石以上の「大名」に対しての掟であった。
    それは上記した様な血縁弊害から「痴呆の指導者」が出来る事で族内外で戦乱・混乱が起こり易く成る事を懸念していたのである。
    特に「元和の令文」を読み取ると、「7つ縛り」の散文形式には成っているがこの内容が組み込まれている。
    これを観ると、明らかにこの「監視の元」をこの「縛り」を見本にしたのである。
    そして、「第一の諡号の姓」ではなく「第二の姓」の「氏家制度・血絵統制」として確立したのである。
    享保期以降には「大名」に限らず「5000石程度の家」、つまり「第二の姓」の「家」が構成できる限界と観ていた。
    彼等にもこの制度を適用して統制したし、後にはこの概念が末端の武士にも引き継がれて行った。
    江戸中期以降には「縛りの変形」が要するに遂には「天下の宝刀」として怖がられたのである。)


    (注釈 江戸時代に「西の政権・権威を与える朝廷」は金銭で「官位官職」を「幕府の推薦」で「武家(5000石程度以上の家)・第二の姓」に与えた。
    然し、与えた「官位官職」を調べると一応これにはそれなりの朝廷側の「基準」があった。
    「第二の姓」が「武家の証」を造り出す為に「搾取偏纂」で「第一の諡号姓・910」の「武家の系譜」を求めた。
    そして、この搾取での「福家の証」として発行されたもので「国印状」を取得した。
    この国印状で得られた「搾取の武家」でも良いから、先ずはこれの前提で上記の「縛り1」「縛り2」「縛り3」の基準で与えたのである。
    「大名格の高位」の場合に依っては、更に「縛り4」「縛り5」「縛り6」)に適合しているかで「官位官職のレベル」の「振り分け」をして与えていた事が判る。
    従って、「大名格の高位」の場合は「系譜の搾取」にボロが出ない様に絶妙に行わなくてはならなかった。
    推して知るべしで、この「搾取系譜」が数代経過すると「尾ひれ」が着いて証拠も無いのに本物と思い込まれて行くのが歴史である。
    「新撰姓氏禄」の中に全く時代の異なる、且つ、「慣習仕来り掟」の合わない「矛盾の第二の姓名」が記載されているのはこの事から来ているのだ。
    「後付け」の最たる見本である。
    この現象は「青木氏」にもあって、「上記の縛りの理屈」からも「青木氏」は「姓」を出さない「氏族」なのに「姓化した甲斐」では横行しているのだ。)

    何事も多勢に無勢の論理から「嵯峨期」からの「禁令」と「身分格式制(縛り)」は上記の検証速度で崩壊して行ったのである。
    壊したのは確かにその意思の無い“「新たな姓族(新興族)」”ではあるが、「縛り」を無視した「河内の源氏族」も自ら壊した張本人であろう。
    「第二の姓」の「勃興の兆し」もあったのにこれに気づかずに「自分で自分の首を絞めた所以」と成ろう。

    (注釈 「摂津の嵯峨源氏」も最終は耐えられず「清和源氏」の「初期の武力集団」に組み込まれた。)

    然し、ここで云いたい事は、この様な環境の中でも「青木氏族」の中には依然として「青木氏の氏是」を護りながら「禁令」と「身分格式」は大変な苦労の末に「伝統と云う形」で、且つ「氏族と云う形」で維持していたのである。
    求めない「身分格式」がありながらも現代的な”「共生共存共栄の伝統」”で生き抜いたのである。
    明治9年まで続いた「青木氏」が主導した「伊勢騒動」はその「典型」では無いかと観られる。

    (注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
    これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

    ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
    ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
    「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。

    「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」に続く。


      [No.369] Re:「青木氏の伝統 49-1」−「青木氏の歴史観−22-1」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/22(Mon) 10:41:57  

    > > 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」の末尾。

    > 注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
    > 故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
    > そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
    > そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
    > これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。
    >
    > 時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
    > 内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」
    >
    > ∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」
    >
    > 以上の論理が成り立つと観ている。
    >
    > 更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
    > この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
    > 云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
    > 当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
    > この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。
    >
    > 故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
    >
    > この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
    > 故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
    > これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
    > これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。
    >



    「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−22」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    然し、ここで、先ずは一つ疑問がある。
    それは、“この「後家の表現」を「青木氏族」が使っていたという事を、又、何処でその資料と成る物が世間に漏れたのであろうかである。”これが「疑問−1」である。

    この疑問に触れて観る。
    そもそも、これは上記した様に「青木氏族」の「四家の中だけの制度」であり、この事は当時の「ある書物の記録」(不記載とする)として記述されている。
    この「後家の処置」は、元より、「青木氏族」としては知られたくない一種の「隠れ蓑の策」であった筈なのだ。
    確かに、「光仁期(770年)」から「仁明期(847年)」の「約80年間程度」は、少なくとも「直系尊属の氏族」として前段でも論じたが「政争」に巻き込まれない様に「青木氏の氏是」を護って何とか遠ざかろうとしていた。
    従って、「四掟の血縁」に依ってこの「政争」に引き込まれる可能性が高まるが、これを避けようとすればこの「後家の隠れ蓑の策」は是非に必要であった。
    期間的に観てこの“「後家の隠れ蓑の策」”を使用するとした場合の期間を、検証すると長く観ても「天皇家とその周りの族の政治的混乱期」が続いた「清和期(960年代頃)」までの間の事であろう。

    前段でも論じたが、歴史的には「清和源氏(経基―満仲)」そのものがその「張本人の一人」であった。
    この時、歴史的に「秀郷一門(青木氏族の秀郷流青木氏を含む 960年頃)」が敵視され大きく影響を受けた。
    注釈として、「関東での政争・将門の乱等」と「瀬戸内の純友の乱」が代表的である。
    この様に、二つの「青木氏族」はこれらの「政争」から何とか逃れようとしたのである。
    故に「関東の秀郷流青木氏」、「讃岐の秀郷流青木氏」は逃れられなかった事に成り巻き込まれた。

    この「政争」に“何が起こったか”と云うと、取り分け、秀郷一門の「青木氏族」と成った「主要五氏」に対しては、「円融天皇の補完策(960年頃)」により「特別優遇」され「最高の位階や官位」を次々と与えられた。
    然し、「清和源氏(経基―満仲)」にはこの特別優遇は無かった。(羨望と嫉妬)
    それが故に、この「青木氏族」の「弱者の女性」(位階を持っている)は、「他の氏族」から「絶好の婚姻策の相手」と定められて“「政争の具」”と成って巻き込まれる事と成って行った。
    この時、この結果、矢張り、光仁期の「五家五流青木氏」と同じく、この“「政争の具」”に使われる事を嫌って、上記の様に「女系の妻嫁制度」をより充実させてより確立させている縁戚の「伊勢や信濃の青木氏(救済策)」に逃げ込む事が多く成った。

    ところが、未だ「伊勢の秀郷流青木氏」を除き「他の主要な青木氏族」にはこの制度は未完であった。
    それには、「嫁家先制度」に関わらない場合には、「女(むすめ)」として入る事、将又、即座に「入妻」として入る事の二つは、「掟」の上では困難であった。
    そこで、どうしたかと云えば、“「隠れ蓑の策」”として造り上げていた“「後家制度」”で隠れて、その制度の中で何とか“「青木氏族」”として生きようとしたのであった。

    これは「源氏族の様な朝臣族」に執つては「羨望」と云うか、寧ろ「嫉妬」に近いものがあって、更にこれを「政争の具」と云うものにして引きずり込ませ様とする「煩わしい環境」の中にあった。
    高い位階と官位を与えられる同じ賜姓朝臣族でありながらも、彼らは「嵯峨期の詔勅」で冷遇されていたのである。
    だから当然と云えば当然なのだが。況してその「補完役」までも自分たちを超えて厚遇されていたのだ。

    この為に「伊勢、信濃の青木氏」と血縁関係の深かった「位階の持つ嫁家先(四掟)」の「秀郷一門の主要五氏の青木氏族(青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏)」は、「戦乱や政争」に明け暮れていた事から空かさずに「女系での子孫存続」に懸けて大いに救済を伊勢らに求めてきた。

    (注釈 この事は、「青木氏の資料」は元より「佐々木氏の資料」にも、「純友の乱の研究記録」の一環として、「讃岐秀郷流青木氏等の青木氏族」の行でこの「混乱の様」が記載されている。
    これは「秀郷流青木氏116氏24地域の分布」にも大きく影響を与えていた様である。
    それは「現地孫の増加」と「家紋分布の変化」に顕著に観られる。)

    事程左様に、「光仁期(770年頃)」から始まった「緊急策」であった「後家制度」は、90年間を経て「女系の妻嫁制度」に組み込まれた。
    そして他の関係する「青木氏族」からも積極的に利用される“「正式な隠れ蓑策」”に替わって行った。
    この経緯が「疑問−1の答え」である。
    つまり、この様な環境から「秀郷一門」へと間口が広がりそれが更に一族一門に広がったと云う事に成る。
    これが元で先ずは広まったのである。

    ところが、この「疑問−1」にも「疑問−2」が伴う。

    この「正式な隠れ蓑策」に付いて、「朝廷や摂関家などの権力者」が、この公然と行われる「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(第一段階 770年頃〜870年頃の100年間 更には第二段階960年代頃の100年間まで)に、“何故に政治的な権力や圧力を行使しなかったのかと云う疑問の「疑問−2」が湧く。

    当然に何時の世も世の中の周囲では起こる”「反動」”であり“出る杭は打たれる”が世の例えである。

    少なくとも、取り分け、「政治、政争」の中心にいて「利害」が伴った「北家で藤原摂関家」が、台頭する「秀郷流青木氏族」等に対して同じ「北家」でも少なくとも「口を出した筈」である。

    (注釈 そのひとつの証明に成る事がある。
    現実に「北家の摂関家」は衰退気味の中で「下がり藤紋」から「下がる」は忌み嫌うと云う事で「上り藤紋」に「総紋の家紋」を変えた。
    この「先祖伝来の下がり藤紋」を急に替えるという処に意味を持つ。
    然し、秀郷一門はこれに追随せずに「下がり藤紋」を貫いた。
    これにも証拠と成る意味を持つ。)

    必要以上に「宗家の勢力」より大きく成る事を「四家」で構成していた内の同じ藤原一族でも「南家藤原氏も西家も」の様に潰されて勢力拡大を嫌った筈である。
    当然に「皇族賜姓臣下族の青木氏」に対しても、然し、記録上では「口出し」は全く無かった。

    何故なのかである。
    それは、次の「六つ事」にあったと考えられる。

    「光仁天皇の尊属」であった事。
    「朝廷の大献納者」であった事。
    「抑止力の大氏族」であった事。
    「経済力の大氏族」であった事。
    「不入不倫の権の公的な保持者」であった事。
    「摂関家藤原氏」を遥かに超える「身分、冠位、位階の氏」であった事。

    他にも、前段でも論じたが、嵯峨期に「皇親族と賜姓族」を外されたにも関わらず「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処、賜姓五役)」を務めた。
    更には、「商い」を通じて「献納」の際に「天皇」に「巷の情報提供」をする“「戦略処(青木氏の表現)」“と云う「秘密裏の務め(令外官)」をも実行していた事が判っている。

    これらの務めは、前段の通り、元からの「施基皇子の役目(「撰善言司」)」でもあった事から、「青木氏族」がこれらを“「戦略処」”の言葉として捉えていた事が「青木氏の資料」に記載されて遺されている。
    これは「日本書紀の記載」の「施基皇子の編纂」の“「撰善言司」(「撰善言集」)”の「司」の「範疇(役目)」がそれに当たるだろう。
    歴史的にも証明できる。
    これ等の事も大いに働いて「疑問2」の答えとしては、「表向き」には簡単には「口出し」が出来なかったと観ている。

    「疑問2」の「口出しの出来ない理由」に対して、「疑問1」はだから「裏向き」を使って「讒言」で「政争」に巻き込んだと云う事であろう。


    そこで話が変わるが、そもそも、上記の「司・(つかさ)」に就いて「青木氏の歴史観(「撰善言司」)」として知って置く必要があるので先に特記する。
    これが「口出しの記録」が遺らなかった事を理解する事に役立つ
    その「言司」に込められている意味の“「司」”とは、これを咀嚼すると現在で云う「司の意味」と大部違っている。
    つまり、当時の“「司」”とは、“「朝廷(天皇)の一つのプロジェクトの役目」“を云う定義で、その「権能」は「天皇から与えられる令外官的意味合い」を持っていたものと考えられる。

    最低限、「室町期頃」までは、取り分け、記録から観るところでは少なくとも「鎌倉期の頃」までは「司」とは、「朝廷の仕事を務める下級の役人」の事を云っていた。
    それ故に、更に後には、「朝廷」、或いは、「幕府」より依頼されて「ある物」を専門的(令外官=司=匠)に作り、納品する「庶民の匠(たくみ)」の事も指す様に成ったと考える。

    これを「青木氏の歴史観」から観ると、筆者は“「朝廷(幕府)」の本来の「司の使用」”は「日本書紀」にも記載がある様に「施基皇子」の“「撰善言司」”の頃が始まりでは無いかと観ている。

    この前提は奈良期頃から始まった「渡来人」に依って興した“「経済システム」”にあったと考えられる。
    それは現在の様な「市場経済」ではなかった。
    歴史を考える場合はこの前提を知って理解を深めるべきである。

    その「古代の経済」は、何度も前段で論じているが“「部経済」“と呼ばれるものであった。
    それは“「全ての物造り」”の者は「朝廷の管理下」に置かれ、そこで造られた一切の物は先ず朝廷に納められ、「必要量」を収納し、「余剰品」を庶民に放出すると云うシステムであった。

    この「役目」を「朝廷の令外官」が担っていたのだが、つまり、これを「賜姓五役の一環」として共に「令外官の役目」として「皇親族の施基皇子とその子孫(青木氏)」が果たしていた。
    ここに大きな意味がある。
    この「各種の物造部の頭」の事を「匠(たくみ)」として呼称し「朝廷の末端の役人」として扱われていた。
    この「匠頭の役人」が「朝廷内の呼称」として「司」(役目・役人)と成った。
    つまり、「・・部司」(かきべのつかさ)である。
    つまり、この「司」は「物造り部の頭」の事である。

    (注釈 「青木氏の資料」によれば「物造りの人」を「部人(かきと)・部民(べみん)」)と書かれている。
    これらを「匠司」を束ねていたのが「上級役人・官僚」の「造(みやつこ)」である。
    「伴」、即ち、「束ねるの意」の「伴(とも)」に「造」で「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれていたのである。
    但し、「大豪族等の者」にも一部これを認め分けて「部曲(かきべ)、又は、部民」(かきべ)と呼んだ。

    (注釈 そこで当然に、「青木氏」に執っては「民に放出する役目の立場」として全国の「伴造」を配下にして、これを「総合的に総括する立場」としても独自に”「青木氏部」”をも保有していた。
    従って、「総合的に総括する立場」を使って「光仁期」から「仁明期」までの「青木氏出自系の天皇」はその本来の「諱号」は「伴・とも」に関わるものを名乗った。
    故に、この経緯から、この時から元の支配下にあった「官僚の伴氏」は「大伴氏」と変名した事は歴史の有名な史実である。
    平安初期は「諱号」により「伴氏」から「大伴氏」に、この「諱号」の影響が無くなった平安後期には地域的には「大伴氏」から「伴氏」に官僚の諡号姓名を変名した経緯がある。)

    (注釈 この「部司(かきべのつかさ)」に繋がる後の朝廷官僚、即ち、「五大官僚族」としてこの「伴造」の「伴氏」は「物造り」の「立場の重要性」から朝廷内にその勢力を拡大させ力を得て、そしてその部が盛んであった九州各地に配置された。
    九州各地に「大伴氏とその末裔族」が多い所以はここにある。
    前段でも論じた様にここが「渡来人の定住地」である。
    従って、多くの子孫の官僚族を九州各地に遺しているのだ。
    この子孫が名乗った者の多くの地名(例・鹿児島の市来・市来氏)が遺されている。
    九州全域に「物造りの匠(たくみ・つかさ)」と呼ばれる「司(つかさ)」が多い所以なのである。
    これがこの「匠司」から「たくみ」が「つかさ」と呼ばれ、「司」の「つかさ」が「たくみ」と呼ばれる所以はここから来ている。)

    (注釈 「青木氏」に神明社等の建造物を建造し管理維持する為に独自に「青木氏部」を持つていた事に成っているが、筆者はこれら「朝廷が抱える全ての部人」を青木氏部と呼んでいたのでは観ている。
    それは、これらの「部人の統括」は元より「その物の処理」まで任されていたのだから「全体呼称」を「青木氏部」と呼称していたと考えている。
    その証拠に市場放出権を任されこれを以て余剰品を一手に「商い」までに発展させられる「権利」を朝廷は認めているのであるから、その「総括権」から「青木氏部」としていたと考えられる。
    これが嵯峨期から「単独の青木氏」の「青木氏部」と替わって行って約60年後に独立して行った事に成ろう。
    何故ならば「60年と云う猶予期間」があるのは「祖先神の神明社」は依然として「青木氏」に委ねられているのであるからだ。
    天皇家に「祖先神の神明社の維持」のそんな力は無かった筈である。嵯峨期の詔勅が徹底する程に青木氏には影響は直ぐには来ていなかった事が云える。)

    この「部人(かきと)・部民(べみん)」の殆どは「後漢の阿多倍王」に引きつられて来た「職能集団の200万人の渡来人」である。
    薩摩の「阿多」や「大隅」などがそれに当たる。
    これが、本来の「司の語意」であり、「匠の語意」であるのだ。

    ところが、この「部の経済」は「市場経済」が発達し「鎌倉期頃」から次第に崩壊し、一部の物を「専売品」として定め、後は全てを「民が営む市場」に放出し始めたのである。
    そこに「貨幣経済」(中国から貨幣を輸入する)が浸透し、室町期中期には完全な「市場経済」へと移り始めたのである。

    重要な事は立体的に観察すれば、「青木氏」も連動して「市場放出権」や「伴造」を支配下に治めたことから「商い」は拡大した事で「疑問1と疑問2に打ち勝つ力」を持ったのである。

    (注釈 これに連れて次第に匠と司の語意の変化が起こった。)

    前段でも何度も論じている様に、「嵯峨期」から、「皇親族や令外官や賜姓族」から外れた後も、注釈の通りで「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処の実務)」と「賜姓五役」の「影の務め」を矢張り果たしていた事も解っている。

    それ故に、「疑問−2」の答えとしては、「周囲の勢力」は、上記の「六つの事」は勿論の事、「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(770年頃〜870年頃)に対して、“何故に「政治的な権力」を行使しなかったのかと云う疑問には、天皇家も摂関家にしても“一切何も言えなかった”ではないかと云う事であろう。

    依って、「司の役目」としても秘密裏に「令外官」を続けていた事を示す証拠等とも考えられる。
    寧ろ、戦略的には「表向き」は兎も角も「裏」では積極的に利用していたと考えられる。

    この“「匠司」”は“「言司」”と共に正確な知識の上に「青木氏の歴史観」として歴史の史実確定の上での見逃してはならない言葉なのである。

    (注釈 「青木氏の伊勢と信濃」は、「皇族賜姓朝臣族」、「伊勢(伊勢王)」の「冠位」は永代浄大一位、「信濃(信濃王)」は浄高二位 伊勢の官位は永代正二位、唯、信濃の官位は従四位上であった。
    何れも「皇族の四世族内の王位」に与えられる「冠位と官位と位階」である。
    これは「大化の改新」で「王位の範囲」を「第六世族」から「第四世族内」に改められた事から来ている。
    「伊勢」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇」を出した事から、同時に「敏達天皇の春日真人族の四世族(天智天皇)」の「同族、同門、同宗、同位」であった事から、「賜姓臣下族朝臣族」から、再び、「真人族」と成り得て、独自の「志紀真人族」を形成するまでの事と成る。
    そして、遂には再び「最上級の冠位位階の氏族」と成った。
    故に、「天皇」に「面会」が許され、且つ、「意見」までを述べる立場に永久に成っていた。)

    この事を考えれば「疑問1と疑問2の答え」は鎌倉期には最早「無駄な抵抗」と成り得ていた事であろう。

    (注釈 祖父の口伝では、祖父や曾祖父・先祖代々にはこれに関係する慣習が引き継がれ、「徳川時代の紀州藩藩主との接見」でも藩主より何時も上座に位置したと聞いている。
    従って、「令外官」として「献納時の挨拶」では「巷の情報」を「天皇に対する提供」する事は異議なく可能であった。
    これも前段でも別の面で論じたが、この「永代の冠位位階」を持ちながらも「朝廷の衰退」で、「慣習慣例仕来り」と成った「江戸期末」までは「将軍家」、「大正期」までは「紀州徳川氏」にも「上座」で面会が出来た事が「記録と口伝」と、又、実際に扱いを受けた「祖父の話」も聞けている。)

    (注釈 筆者の祖父は、明治から大正期まで「紀州徳川氏の茶道や南画や歌や禅の師匠、況や「素養指導」を務めた。筆者も一部確認している。)


    そこで話を初めの「後家制度」に戻して。
    この様な“「普通の立場」”でなかった「背景」があった為に、要するに「摂関家」を始めとして他の氏族は“「口出し」”は「表向き」には出来なかったと考えられる。
    従って、その結果から「公然とした隠れ蓑策」の「後家制度」と成り得ていた。
    そして、後にこれが「秀郷一門」から「表」に出て広まったという事に成ろう。
    「関東の秀郷一門」は挙って江戸初期に「徳川家の御家人」として、又、「官僚族」として活躍した事で「一般の姓族の武士」にまでに広まりを見せた事に由来しているのである。

    其の内に、「他の氏族」にも、これは「都合の良い策」として、「後家」は一般化して行って、これが範囲を広げて、何時しか「多くの意味合い」を持つ「庶民手段」に成ったと考えられる。
    故に、昭和中期頃まで使われたのであろう。
    そもそも、「嵯峨期の詔勅禁令」で「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用は禁じたが、この「後家」だけは早期に広まっている。
    これは他家に都合の良い策であった事が由縁と云える。

    注釈として、然し、庶民まで使われる様に成った事には、これらの「史実の事」を知り得ていた「青木氏族」の「伊勢、信濃の青木氏」も「秀郷流青木氏」も驚いていたと考えられる。
    「世情の安定期」に入った「江戸期」には取り分け使われた。
    これは、矢張り、「女系の妻嫁制度」の制度に付随するそのものの「隠れ蓑策」は別にしている。
    「享保の改革」を実行する為に「吉宗に同行した伊勢青木氏」と、「幕府の家臣」と成っていた「武蔵の秀郷流青木氏」の“「二つの力の影響」”が世間に一度により広がりを見せたものでふろう。
    取り分けに「武家諸法度」を護る為にも「武士の社会」に「都合が良く」、この“「影響」“を「社会慣習」として捉えて印象強く与えたと考えられる。
    昭和期まで続いたのはその証明である。
    逆に云えば、「便利な慣習」であったのであろう。
    これは「後家の呼称」の多さを観れば判る。
    「後家と云う言葉」を使う事に依って、それまでに無かった「社会慣習の区切り」が付けられたという事であろう。

    広まりを論理的に観れば、伝わった当初は、それほどに“「差別的な悪い意味」”では用いられてはいなかったのであろう。
    これは「江戸社会」が「享保の前後の頃」から社会は「安定期」に入り、「姓」から伸し上がった者にも「歴史や伝統」がそれなりに生まれ“「武士のお家感覚」”が広まった事に依るだろう。
    これは、つまり、更に、「黒印状」に依って社会に「権威に依る差別化」が起こり、それを容認する「武家諸法度」が制定された事が起因し、「姓の武士」にも「氏族」と同じ様に“「家感覚」”が起った事に成るだろう。
    この「家感覚」が起これば今度は必然的に「武士の家の慣習化」が起こりそれは複雑化する。
    ここに、「青木氏族」等の「後の家」の「上記の便利な慣習」が真似られて用いられたと成る。

    これは、明らかに他の「姓族」には無い「青木氏族」ならではの完全な「青木氏の歴史観」である。
    注釈として、この時期には「大括り」には「青木氏族」である「近江佐々木氏」も遂には耐えきれず「姓化」が起こり「氏族」は「伊勢と信濃青木氏」のみと成っていた。
    故に、「後家の伝統」の「青木氏の歴史観」である事さえも忘れ去られたのである。

    (注釈 「近江佐々木氏の青木氏の研究」の中にはこの「後家の現状」の行が記述されている。
    念の為に、これは「近江佐々木氏」も「青木氏族」であった事を説いている事に成る。
    筆者は「青木氏族」であると考えている。
    但し、全国に広まった「近江の宇多佐々木氏」は異なる。)

    この「後家の言葉」の“「広がり」“が、最初は、「特定の身分を持つ階級」に使われた事から、その”「便利さ」“であったからだと考えられる。
    「便利さ」を例えれば、「行ず後家」、「戻り後家」、「遺り後家」、「添え後家」、「妾け後家」、「隠し後家」、「不義後家」、・・・「後家倒し」、「酌婦後家」、「擦鉢後家」等、
    以上、最早、全ての「女の人生縁」に繋がる事に宛がわれている。

    この用語は、矢張り、関西に多く、北に向かうに従いその語意は限定されて使われて行く面白い傾向にある。
    それは、何をか況や「伊勢から始まった言葉」であったからであろう。


    さて、この事に付いて「青木氏の歴史観」として元に戻って少し詳しく「内部の事」を論じてみる。

    当然に、「位階」などを持つ「入り先」も、この「四六の古式概念」に基づく「妻嫁制度」ではその「掟」に従わざるを得なかった。
    又、古来の「古式の慣習仕来り掟」を持つ「入り先(高位の武家貴族)」である以上は、況してや、「神経を最大に働かせる血縁(公家階級)」に於いては、「大きな差異」は「伊勢」や「信濃」とはそんなに無かったであろう。
    当然に歳を得た「熟女」は「嫁(行ず後家)」に出さないであろうし、「青木氏」も「入り嫁」としては受け付けなかったであろう。
    ここが、双方に執って「妻嫁制度の掟」を納得させる為の「住職神職の腕の見せ所」であったであろう。

    今から考えれば、これは「女の人権を無視した事」には成る。
    然し、「子孫存続と云う大前提」を達成するには、「四六の古式概念」の基で執った「妻嫁制度」「嫁家制度」では「当然の仕儀」と成り得ていた。
    それは「氏家制度」の中では社会と異なる特異な制度であった。

    そこで、資料を見て行くと「面白い掟」の「伝統」の様なものが出て来る。

    先ずこの事から論じる。
    例えば、“嫁ぐ際に、その準備を誰がしていたのか”と云う事なのだが、これにも「女性の性」を抑え込んだ「掟」があった。

    当然に、「嫁ぐ準備」は、「女(むすめ)」に対して「口出し厳禁の掟」と「養育平等の掟」と成ってはいる。
    これが、その「母元」と「女(むすめ)」に執っては「見栄の性」としては気に成る事ではある。
    これを、「平等」に扱う事を前提に「養育所の住職」に任していた。
    “「養育の一切」”と“「出と入りの手配」”の「下計画」を当然に「福家」が決定していた。
    これに対して「住職」が「実務」を務めていたが、「福家と母元」は「女(むすめ)」の事には「口出し厳禁」であった。


    そこで「面白いもの」があって、これに触れて置く。

    これも「女系の妻嫁制度」を「適正に守る方法」で確立されたものであろう事が判る。
    何故ならば、これを司る「執事の差配」が「何らかの間違い」を興した場合、常に「6のパラメータ」であれば良いが、この「4のパラメータ」が狂い「3の領域」に入ったとすると、「血縁の弊害」を興す可能性が否定できなかった。

    この時、「執事」は、常にこの「6のパラメータ」にあるかを確認して、「妻嫁制度と嫁家先制度」を管理していた。
    従って、これで行くと、上記した「三つの血縁源」から「入妻」として入る「女」が「3のパラメータ」に成らないか先ず「確認注意する事」に成る。

    (注釈 「出と入り」の「女系譜」、又は「女過去帳」の様な「一覧表」を作っていた可能性がある。
    それでなくては「管理」は到底無理であろう。
    故に、「女墓」が出来ている所以であろう。
    この一覧表は明治35年の災禍で消失した。存在した事は確認できる。)

    どう云う事かと云うと、解りやすい例が直近で起こっていたのである。
    それは、上記した「冠位と位階」を持つ「近江佐々木氏(地名から賜姓)」は、「施基皇子」の弟(兄とする説もある)の「川島皇子」の出自であり、「佐々木郷(奈良期は斎々木の地名)」の「川島皇子(色夫古女)」は、「施基皇子(越道郎女)の息子の「白壁王(後の光仁天皇)」は「叔父」にあたる。(パラメータ1)
    その「叔父の家」に、「光仁天皇の女(むすめ)」の「能登王女」が、「川島皇子の男子」の「市原王」に嫁す。(パラメータ1)

    ここで「いとこの三親等の血縁」に成る。
    且つ、この「市原王」は「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
    これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
    既に、ここで「近江佐々木氏」では大きな「トランスポータ」が蓄積された。(青木氏族の所以)

    ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「能登王女」の「女(むすめ)」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入った。

    (注釈 「能登王女」も共に伊勢に戻る。これは要するに前段でも論じた様に「後家」として戻った事に成る。
    正しくは離縁して娘を引き連れて戻った事に成る。
    「能登王女」も「青木氏の四家」の叔父に嫁した形を採っている。)

    この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等の血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポータ」が蓄積される。(パラメータ2)

    処が、更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもある。
    既に、「曾孫」のここに更に「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「名張王女」”が嫁したのである。
    この段階で、その“「名張王女」”の「近江佐々木氏」の「女(むすめ)」に「血縁弊害」が必ず起こっていた筈である。

    つまりは「血縁弊害」の起こらなかった「女(むすめ)」が、再び、「伊勢青木氏に嫁した事」に成る。
    これは可成り大きな「トランスポータ」が「伊勢青木氏の四家」にも蓄積されていた事は否めない。
    女系で継承される「ミトコンドリヤの基本遺伝子」が元に戻ったと云う事である。
    「女同士の近親婚」は生理上あり得ないので、これをどの様に考えていいか良く判らない。
    この時期では、未だ、この様に相互に「女(むすめ)」の「交換の血縁」は常態化していた。

    従って、この時の「執事の差配」は、この「嗣子」と「佐々木氏に嫁した能登王女」の「女(むすめ)」との「入妻」は既に絶対に避けなければならない事に成っていた筈である。(パラメータ3)
    これは「女系」で引き継がれるこの「人の遺伝子」は、それも「二重」に元に戻って仕舞う事に成る。
    これは最早、「近江佐々木氏=伊勢青木氏」と成って仕舞った事を意味する。(青木氏族である。)
    況して、この「嗣子」が、当時の「相互血縁の仕来り」で「近江佐々木氏の女」(むすめ・いらつめ)の「入妻の男子」であった場合は「トランスポータの血縁弊害」は最悪と成る。

    (注釈 不詳だが、あった可能性が充分にあった筈。)

    これでは「男子」が母親から引き継いだ同じ「人の遺伝子(潜在性遺伝子)」が同じ家内で血縁すると云う「最悪の現象」が起こる。

    (注釈 「人の遺伝子」は直接に女系に繋がれる。)

    更に殆ど訳の分からない「近親婚」に近い事が起こる事に成る。
    確実に、この時、「伊勢」にも「近江」にも「血縁弊害」が何かが起こっていた事に成る。
    だから、一方でこの時期の「政治没」や「生誕不詳」や「消息不明」の記録が実に多い事の一つであろう。
    故に、そしてそれは、「青木氏族」や「佐々木氏族」の「掟」のみならず「弊害子・嬰児」は「普通の仕来り」を超えた事として「抹殺される事」が「位階」の持つ「貴族社会」での「社会の掟」と成っていたのであった。

    従って、この事があって、“「良い子孫存続」”の為の「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「伊勢青木氏」は、この時の経験を生かして「最悪の血縁」が生まれると云うどの様な「人の遺伝子」を持ち得ているか判らない「男子継承方法」を避けた。
    そして、「人の遺伝子」を明確に引き継いでいる「女系」で管理して、「最悪の血縁」を避け「良い子孫存続」の方法をこの時に採ったと考えられる。

    この時、「青木氏」には「女性」による「人の遺伝子」を引き継いでいるという「漠然として概念」に到達していたと観られる。
    当然にこの当時では、「遺伝子と云う概念」は無かったが、“「経験」”から「女性の持つ特異性」を感じ執っていたのであろう。

    それの経験とは、筆者は、「男女の両性」にあって「男性」のものが機能していないと云う事に気が付き、その次の「四つ事実」に着目していたと考えている。

    大部前の前段でも論じたが、男性には「へそ」と「ちち」と「子宮」と「生殖器の一部」は保持しながらもそれが“機能していない”と云う現実に気づいたと云う事である。
    当時、「子宮」の位置には未だ「男性」にも「親指程」のものが「なごり」として機能せずに遺されていた事が人類学の研究で判っている。
    「交配の進む民族」にはこれが「進化の過程」で無く成ったとされ、未だアフリカや交配の進まない山岳民族に現在も観られる。

    その「生殖器の一部」とは、「女性の膣」の「子宮の入り口」に“「ちんこう」”と云うものが現在人にもある。
    これは「子宮の入り口」を閉めているもので同形の機能を持つ。
    そもそも、「男性の生殖器」は「女性の生殖器」の単に外部に突き出たものに過ぎない。
    この「進化の過程」で女性にある恥骨が男性には消滅した。
    又、女性に無く男性に在る「喉仏」もこれを物語る一つである。
    これらを「総合した能力」から「女性」が「人の継承の源」である事を外見から見抜いていた事に成ろう。

    (注釈 人間で無くても虫や小動物の雌からの分離で雄が出来て生殖を行いその後死滅や母体に戻る等の変異を起こす。
    これでも解る。
    中には余談で海中や小動物に「ブルーの光」を雌に強く当て続けると雄に替わる等の事も解っている。)

    (注釈 昭和の中頃まで、“娘は母親似、息子の娘は祖母似“と云う「言い伝え」があった。
    つまり、「息子の娘」には、「祖母似(息子方・潜在型)」と「母親似(直系型)」の「二つの系統」が起こり引き継がれると云う事であるから、相当前にこの真実を既に分かっていた事を示す。
    つまり、上記でも示す様に外見でもこれは現在の「ミトコンドリヤの遺伝子」の摂理を既に云い充てていた事に成る。)
     
    即ち、前段でも論じている「女系の妻嫁制度」では、他の氏族とは異なり、上記の「社会の掟」に従うのではなく、この外見上の経験則の経緯からも最低でも“「パラメータ3」(四の法則)”に成る様に改善を加えて行ったのである。
    そして、常時は「パラーメータ4」(「パラメータ5」)に成る様に「女系の妻嫁制度」を改めたのである。

    この「血縁制度」は「氏族の命運」を左右する要素であって、それ故に、“「四の法則」”に従う必要があった。
    かと云って、平安期は当然の事として、鎌倉期も未だ難しい状況下にあった。
    「下剋上や戦乱」と云う中での室町期中期頃までは“「六の法則」”は、「三つの発祥源の役務」を崩す前提に成るので、先ず執れなかったというのが現実であった筈である。
    執れ始めたとしても、「江戸初期過ぎの安定期」に入った頃からの話と成っていた事に成る。
    唯、「パラメータ5」の「六の法則」を取り入れたかは別問題であろう。

    (注釈 「青木氏の四六の古式概念」は、「資料」より読み取ると、「始り点」(原点)を「影響の出ない点」としてそれを「−」として計算、「パラメータ」は、影響の出る「開始点」を「1」として計算する。
    数理学上は「パラメータ」は原点を「0」としている。
    この原点を「0」とする処に「古代浄土宗」と「神明社の融合」の「宗教的概念」があった様である。)

    この時、この「天皇家や公家族や氏族内」で起こるこの「血縁弊害の現象」を観て、「青木氏の執事」は、「四の古式概念」で防いでいた事が資料より読み取れる。
    そして、防ぐ為にはその“「発生源の範囲」”を確実にする事により改善したとされる。

    それが、如何なる理由があろうとも、「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式を導き出し確立させて行った事に成る。
    「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式で、経験則で「パラメータ4」(五の法則)で差配すれば、「血縁弊害」は完全に解消される事に成ったのである。

    (注釈 但し、これには一つの「特別な掟・前提」があった。それが“「嬰児」”と呼ばれる掟である。)

    この「嬰児の掟」(別記)を護る事が大前提とした。
    従って、この「関係式」を維持するには、相当に“「執事の管理に依る差配」“が左右したと考えられる。


    ところが、上記の例に観られる様に、「パラメータ2」の内で「嫁家制度」を未だ敷いている「位階」の持つ「三つの血縁源(近江佐々木氏等)」があった。
    ここから入る「伊勢の妻嫁制度」の限りに於いては、「福家と四家制度(4+4*4=20)」のこの「関係式」を敷いたとしても、「人の遺伝子の弊害」を持ち込まれる可能性は未だあった。
    これには“「四掟を基準とする付き合い」”を続ける限りは防ぎきれないものが絶対に起こる。

    さてそこで、考えたのが、「人の遺伝子」を直接引き継ぐ“「女(むすめ)」の範囲」を広げる事”にあった。
    このシステムでは、「人の遺伝子」の“「種と量」“が「氏族内に増える事」に成る。

    (注釈 男系の場合は、息子が引き継ぐ母親から「人の遺伝子」は隠れていて「息子の娘」にどの様に出るかは判らないし、娘を二代続きで生まれなかった場合は、「母系の人の遺伝子」は消える事に成る。
    つまり「血縁濃度」は高く成る。
    「重要な事」は論理的にも「男系嗣子の交配」は上記した様に「潜在型」である以上は外見からは管理する事は出来ない。
    娘が二代続きで生まれなかった場合の確立弊害の防止は男系では出来ない。
    その点では「女系」で管理すれば「直接型」であるので外見からは管理は可能である。)

    これは前段や上記で何度も論じている事である。
    「氏人からの血縁源の導入」と、それを補完する「女(むすめ)」の「養育制度」との二つであれば、例え「嫁家先制度の相手」が「位階の持つ三つの血縁源」であっても問題なく出来る。
    それは「女(むすめ)」の範囲を広げた「女」を差し向ければ、どんな事があっても「パラメータ3(四の法則)」、或いは、「パラメータ4(五の法則)の数式論」は完全にクリヤー出来る。

    何故ならば、この「三つの血縁源」から、再び、仮に「伊勢青木氏」に入ったとして、広がっている範囲で云えば次の様に成る。

    それは既に、「パラメータ2」(三の法則)で嫁いでも、そこから、更に、「三つの発祥源」の「女(むすめ)」を「入妻」として迎えても、この過程では更に「パラメータ2」が加わり、最低でも、「バラメータ4」(五の法則)に成り得る。

    直接、「自分の子供」の「女(むすめ)」を差し向ける事は、「名張王女の例の場合」でも「曾孫域」(パラメータ4)であったので、現実として、これを踏襲するとすれば、例え、「氏人との血縁性」があったとしても可能に成り、恐らくは、「パラメータ5」(六の法則)に成ったであろう。

    それが「玄孫(「夜叉孫域」)」の「女(むすめ)」とも成れば、確実に「パラメータ5」(六の法則)に成る。血縁弊害の可能性は極めて低く成る。

    つまり、恐らくは「女(むすめ)」の範囲を「玄孫」までとしたのは、「相手との血縁状況」が、何らかの「近い血縁」が結ばれる運びに成った可能性がある。そこで仮にあっても、「一つの方法」として「玄孫」を「嫁家先制度」に組入れておけば解決する事と成ると判断した事に成る。

    では、そこでこの「嫁家先の相手」は、「何処の氏族」かと云う事に成る。相手次第だ。
    これが、あり得るとしてら「伊勢秀郷流青木氏」か「秀郷一門の伊勢の伊藤氏(伊勢藤氏)」の範囲と成り得るだろう。

    注釈として、 「信濃青木氏」は、既に「四掟の範囲」を超えた殆ど「同族(四親等内親族・直系尊属)」に等しく、「伊勢青木氏」と同じとして考える必要があった。
    「信濃青木氏=伊勢青木氏」の関係式である。
    上記の「近江佐々木氏の事」を考えれば、最早、その隙間は無く「伊勢青木氏」で論じる場合でも、それは何もかも「伊勢青木氏=信濃青木氏」と成るに等しい。
    現実に「系譜」を観れば、又、「口伝」でも明治9年まで現実にそうであった。

    然し乍ら、当然に「信濃青木氏との血縁」は、「伊豆の融合青木氏」に観られる様に、「他の青木氏族」とは異なり頻繁に行われていた。

    では、だとするとこの「青木氏族の組み合わせ」の「信濃伊豆」との「血縁の弊害」はどうしていたのかである。

    それが出来ていたのは、「伊勢青木氏=信濃青木氏」である事より、其処には、最早、“「位階」”と云う「バリヤー」の存在を超えていたもの何かの事があったからである。

    この「位階」が、「四掟」が、「嫁家制度」の「バリヤー」が、存在しない氏族はどの様であったかである。
    全く同様の「四家制度」と「女系に依る妻嫁制度」、や「後家制度」、「多気の里、神職、住職、物忌、支女、斎院、斎宮、」等の制度一切も、「伊勢青木氏=信濃青木氏」であると云う事に成っていた。
    依って、「同じルートの中」にあった。

    これを解決できるキーは「氏人の郷士の血縁源」であった筈である。
    最早、「氏人―氏上」、「御師」も同じと成ると、「女(むすめ)の制度」も同じであれば、必然的に“「信濃の小県郡の郷士衆との繋がり」”も双方が血縁で結ばれていた事に成り得る。
    これが血縁の弊害防止の策と成し得ていたとする答えである。


    これを検証する。

    注釈として、江戸期初期前は、「小県郡の青木村」は「六郷」に依って構成されていた。
    後段でも詳細に論じる。

    そうすると、「伊勢」の「女(むすめ)」を「信濃」に、「信濃」の「女(むすめ)」を「伊勢」にという事が興る。
    「伊勢」の「女(むすめ)」の「氏人の郷士」の「自由な血縁源」と、「信濃「女(むすめ)」の「氏人」と成っている「限られた郷士」の「自由な血縁源」が交互に、「伊勢と信濃の青木氏」に入る「仕組み」と成り得ていた事に成る。

    そもそも「信濃青木氏」の「氏人の郷士」は「小県郡青木村の郷士数」に限られていた。
    「信濃」にも、初期には「移動する国衆」も含めて変動する中でも「500以上」はあったとされる。
    ところが当初の平安期の頃と比べると「氏人の郷士衆」は1/10程度に激変化した。

    注釈として、平安期末期頃までは、
    現在の地名で云えば次の様に成る。

    長野市 1郡
    大町市 3郡
    小県郡 2郡
    上田市 1郡

    以上の四か所の7郡までを「郷氏」としての「勢力圏」として治めていた。

    「信濃国」は「10郡 67郷」にて構成されていて、当時としてはこの内の「4郡程度」を勢力圏にあった事に成り相当な勢力を保持していた事に成る。

    昔は1郡に「平均50郷士」が存在し得る限界数であって、これ以上は面積的な事からも無理の様であったらしい。
    この事から、当初は「200程度の郷士数」を支配下に治めての「巨大な郷氏」であったと考えられる。
    然し、記録から実際はこの時の「氏人」と成り得た「郷士数」は「100に満たない数」であったと考えられる。

    江戸期初期に成ってこの「勢力の支配地」は「殖産可能な肥沃な土地」であった事から「江戸幕府」に依って「幕府の財政確保」の観点から「幕領地」として接収された。
    従って、この経緯から最終は住む域が分断された事に依って次第に衰退し「小県郡域の一郡域(青木村)」と成った。
    「郷士数も50以下」と成ったのである。

    然し、「信濃青木氏」は「接収の結果」として、この元の「聖域の4郡の連携域」では「7郷が確実な村範囲」として広く「地権」が認められていた。
    結果として、この「地権域」まで含めると「合計12郷域」までにも分布している事に成った。

    下段に論じる様に、ここに江戸期初期の主に享保期には「大変な出来事」が起こった。

    (注釈 伊勢青木氏と吉宗との関係はこれで最悪と成った。)

    この事に就いては小県郡の青木村の「青木村歴史館」にも記録が遺されているし、公に成っている研究論文にも詳細に論じられている。

    さて、この上記の「注釈の範囲」に於いて、それが「玄孫(パラメータ4・五の法則)の範囲」として血縁すれば、既に、「玄孫域」では「パラメータ4」を超えている事に成り得る。

    故に、「伊勢=信濃間の血縁」は、「玄孫の更なる目的」として先ずは「玄孫域を原則」と定めていた根拠に成る。
    これが「郷士数」と「玄孫域」の「二つの防止策」で先ずは「血縁の弊害」を防いでいたのである。

    この「玄孫域」を用いる疑問は、「研究の過程」で資料から読み解けた範囲である。

    「資料」には、四度も「玄孫」の「女(むすめ)」が相互に時期は多少異なるが、「出と入」が起こっていた。
    「伝統−40の末尾」に記した下記の「女(むすめ)」の範囲は、「玄孫域外」の次の域と成る。

    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    以上は、資料から散見できる範囲では、何らかの“「特別な事情」”により養育した事が考えられる。

    この「5〜7の範囲」の「女(むすめ)」が実際の「嫁家先制度」に乗せたかは定かではない。
    然し、あった事は事実であろう。
    因みに、「筆者の父」の従弟は「伊勢郷士」の出自であり、別の従兄は「信濃郷士」である。


    そこで、検証の問題なのはこの“「特別な事情」“とは何であったかは定かではない。
    唯、これは「青木氏側の事情」と云うよりは、「室町期末期の混乱期」の、前段での「伊賀の件」の様な「氏人の家」に「氏存続」の“「特別な事件」”が起こった事が主な事も一つとして考えられる。

    「伊勢=信濃間の血縁」は上記した様に「玄孫域」で解決出来ているので、それ以上と云う事に成ると、論理的に「信濃」や「伊豆」と「秀郷流青木氏」の「伊勢や近江や武蔵」の「関係性の深い青木氏族」のところに「特別な事件」があった事と成る。
    故に、「青木氏の資料」には確たるものとして多く散見できないのであろう。

    それらの事が原因して「伊勢内」では、
    先ず考えられる「一つ目」は、「青木氏の四家」では無く“「氏人の家の断絶や跡目」”が途切れて保護した等の事であろう。
    考えられる「二つ目」としては、上記した様に江戸期初期の前後に「信濃の小県郡」等は「富裕な土地」として「幕府殖産地政策」の一環としてとして「幕府領」として接収されたがこの事に依るものであろう。

    この二つの事に依って上記した様に、「信濃青木氏」が「4郡の連携域」が「7郷」から「12郷域」の5域に分散させられた。
    そして、「自由な絆の血縁」が制限される結果と成った所以であろう。

    この「5域」に対しては「地権」、つまり、「庄屋(郷氏)」が認められたかは定かではないが、「青木村付近」で興した「五つの大一揆」から観て「庄屋」ではなかった事が考えられる。
    一揆の首謀者は全て村を藩から派遣された「組頭」であるからだ。

    筆者の見解では、一揆の事も含めてこの「5地域の青木氏」を「家紋等や伝統」などで調べた範囲では広く認められていなかったと観ている。

    「上田藩」に下げ渡された段階までは、「殖産の指導(和紙と養蚕と酒造り)」と云う範囲で認めてられていたが、「幕領地」から藩領に成った時点の頃から家紋が変化している。
    「和紙と酒造り」は「7郷」でも主と成って殖産していたので「変化の境目」が出難い。

    殖産をさせる為に分断された「青木氏の者」が「真田藩、上田藩、小諸藩、岩村田藩」の「四藩」に本来あり得ない筈の家臣化しているのである。
    つまり、家臣化、即ち「姓の血縁化」が起こった事に成る。
    この事は「庄屋」では無く成っていた事に成る。

    故に、そうすると突き詰めるとした場合、信濃では分断されたことで「血縁」が「5、6、7の事」と成ったと考えられる。

    (注釈 その後、「幕府の殖産政策」が「青木氏等の努力」で大量の生産態勢が立ち上がった事を契機に幕府は「上田藩」に下げ渡し、管理させて「殖産利益」をフィードバックさせていた。)

    この時、「地権のあった土地」を奪われ、当然に貧した「信濃青木氏の氏人」の子孫を遺す為に、「伊勢の福家」は「7郷以外」の「女(むすめ)」を「伊勢の妻嫁制度」の「女(むすめ)」として引き取り、「伊勢」に保護したという事が充分に考えられる。
    「信濃」は相当に貧していた。(全国唯一一か所に集中して五大一揆が頻発している。)
    それが、農民では無く「組頭の武士」である。
    これは大きな意味を持つ。
    藩から派遣され「藩に味方する武士」が「一揆の首謀者」である。
    如何に藩の治世が悪かったかは判る。
    言い換えれば、「青木氏の氏族」は如何に貧していた事かを物語る。

    (注釈 「正規な資料」が遺されていないが、その「経緯」が遺されていてその経緯からも充分に判る。
    「幕領地としての接収」と「国衆の侵入」が大きい。)

    「幕領地の接収根拠」は「4郡12郷」は「天領地」であった事が「接収の理由」と成っている。
    江戸初期に全国の天領地の多くが幕領地として接収された。
    「伊勢」も「青木氏の旧領地」と鎌倉期の「本領安堵地の地権」は江戸期でも認められたが、その「他の本領地」は「接収」と成り例外では無かった。
    唯、前段でも何度も論じたが、「紀州藩との殖産共同体」や「勘定方指導」や「貸付金」や「朝廷への献納金」や「伊勢神宮の協賛」や「徳川氏との血縁族の四日市殿」や「莫大な財力」の等があった。
    これで、「本領地地権を接収する事」は“却ってこの「ツケ」が自分に振り返って来る事”から幕府に「紀州藩」は働きかけたのである。
    そもそも、「紀州藩の家臣」の殆どは、「伊勢青木氏」との血縁関係にある「伊勢藤氏」と「伊勢の秀郷流青木氏」等で占められていた事の経緯がある。
    これが良い方向に動いたのである。
    然し、周囲との手前から「接収無し」とは行かず「中伊勢域の接収」を形式上で行われた。
    結果としては、その「管理元は紀州藩」と成り、「青木氏の財力」に依って結果として「殖産地・地権」として利用している事から実質は同じであった。

    唯、ここに「山田奉行所管轄の幕府役所」が置かれていた事は事実であり、後にこれが「伊勢青木氏と揉める事」と成ったが、家康の“「伊勢の事お構いなし」”の「お定め書」で優位に立った。
    つまり、「信濃」にはこの経緯が起こらなかった。

    結局の処は、この「根本」は「伊勢」は奈良期からの「日本書紀」に書かれている「天智天皇の不入不倫の権」が伊勢では大きく左右したと考えられる。

    これは「女系の妻嫁制度」のそのものの為に執られた範囲たけではないだろう。

    この「5〜7の範囲の事」は、「執事」が専門的に判り得たとしても幾ら何でもそもそも「正式な記録」の中にこの様な事(「特別な事情」)は遺し得ないであろう。

    注釈として 検証するとして論理的に「女(むすめ)」での「子孫の拡大力」と、男での「子孫の拡大力」はその比ではない。
    前段の「人の遺伝論理」の通りで、「男性5」に対して「女性1」=「人の数1」であるが、「女性5」に対して「男性1」=「人の数5人」の以上と成り得る。

    そもそも「人の形態」では、この摂理は「男性」は「女性の分離体」としてで出来ている所以でもある。
    因みに、みみずは、雌が主体で、生殖時、メスが体を二つに分離し、雄を作り、生殖後は、その雄は再び雌に変化する。
    この様に、「生物」に依りその生殖構造は異なる。

    故に、注釈の通り、「5〜7の範囲の処置」は、「子孫拡大」には“「女(むすめ)」”を保護する所以であって、「女系の妻嫁制度」もその所以の一つでもあった。

    そもそも、この「5〜7の範囲の事(特別な事情)」は、平安期から江戸期初期頃までの時代とは云え、そこまで解る範囲であったのかが疑問である。
    然し、そこは伊勢も信濃も「執事の差配処」であったらしい。

    (注釈 現在ではこの範囲は全く他人の範囲であって、精々、田舎では「口伝の範囲」であろう。
    然し、平安期では「伝達手段」が低いにも関わらず少なくとも「5〜7の範囲の事」は「執事の範囲」では把握できていた事が「旧領地の家人の家の資料」の中に散見できる。
    然し、それが「女(むすめ)」の範囲として「常時の範囲」では無かったであろう。)

    そもそも、「時代の経緯」としては、平安期では上記の「尾張王女の例」の通り、確実には「伊勢の範囲」では「子域」、「孫域」、或いは、「曾孫域の範囲」で行われていた。
    「玄孫域」は、「信濃」を除いては、当に、「5〜7の範囲の処置・「特別な事情域」」の事と成り得ていたのである。
    それが、鎌倉期、室町期と時代の変化が進むに連れて、「玄孫域」までが、「通常の仕来り掟の範囲」として「女系の妻嫁制度」として採用される様に成ったのである。
    当然に、「嫁家先」も、この「時代の経緯の環境」の中(四掟)にあった事は云うまでもない。
    ところが「時代の経緯の環境」は、当初からの「5〜7の範囲」とは成らなかった。

    然し、平安期では、「玄孫域」は、未だ“「特別な事情域」“で、室町期末期や江戸期初期では、それが変化して「5〜7の範囲」が“「特別な事情域」”と成ったとする経緯である。

    当時は、「系譜」を「氏人の家」にも、当然に「青木氏」(菩提寺)にも備えてあって、それを突き合わせれば「容易な事」であり、全く問題は無かった。
    「幼名、俗名、戒名、通名」などを読み込み書き記し、観るだけで大方は解る。
    これはその証拠としてその「出自」等を読み込んだ「曼陀羅絵」や「過去帳」や「女墓」が出来る所以でもある。

    (注釈 江戸期は、一般の系譜は何度も論じてはいるが「搾取偏纂の系譜」で信用は出来ない。)

    唯、「玄孫」は筆者の代でも何とか確認できて知り得ていた。
    故に、「玄孫域」では「専門に扱う住職の執事」は、「50の郷士の中の事」の域では、全て記憶の中にあって、即座に答えられ判断され全く問題は無かったと考えられる。


    何故ならば、「伊勢青木氏」の「女系の妻嫁制度の権威」を、例え「女(むすめ)」の事に成るとしても、「位階」の持たない「伊勢郷士」の「氏人の男子の血筋」の入った「女(むすめ)」が嫁す事を容認したかである。
    と成れば、「嫁家先の彼ら」はそれをそもそも「許容するか」である。
    どんな理由で許容するかである。

    その答えは、“「権威」”に関わらず、「伊勢」や「信濃」に“「根付いた範囲の氏族」と成り得る“と判断していたからに外ならない。
    それは、郷士族であったとしても“「1千年と云う歴史」の「血縁の力」”に他ならない。
    伊勢も信濃もである。

    “「1千年と云う歴史」の「血縁の力」を”言い換えると、次の様な経緯と成る。

    論理的には「女系の妻嫁制度」には、“「人の遺伝子」を引き継ぐという概念”があった。
    これに対して、「四掟」で限定された「嫁家先」では、少なくとも“「ある程度の理解」(「1千年と云う歴史」の「血縁の力」)”を示していた事が云える。

    そうで無ければ、「一方的な押し付け」と成り、幾ら「女系の妻嫁制度」を敷いているかと云って「押し付け」を可能ならしめるレベル状況では無かった筈である。
    従って、その「理解の前提」は、上記の「外観差異の生態的な認識」の下にあって容認していた事に成ろう。

    現実に、「四日市殿(秀郷流青木氏との融合族青木氏族)」が「四家外」に誕生している事がその証拠と成ろう。
    又、幾つかの資料に依れば、この時の「四家の継承者の嗣子」には、「京の位階の低い公家」より「入妻」を配置している。

    (注釈 公家の名は避ける。位階があったが、従五位下で「妻嫁制度と嫁家先」の「血縁頻度」は低い。
    然し、光仁期から明治期初期まで三度もこの「公家族」と血縁をしている。
    この「公家」の一つは、筆者の父方祖母の家で、その血縁の最後と成るのはこの祖母は血縁の三年後に明治33年災禍で死亡と成る。)

    (注釈 「桓武期」から「嵯峨期」に掛けて「出自先の青木氏」の「取り扱い」に対して親子で政争と成る激しい論争が起こった。
    然し、この時、「桓武天皇」の「青木氏賜姓」の「存続論」と、「嵯峨天皇」の「青木氏」を「賜姓族」から外す「除外論」が対立した。
    この「論争の争点」の一つがこの「女系の妻嫁制度」にあった。

    つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
    “否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
    これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
    結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。

    然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
    結局は、「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
    子孫が政争で絶えるとしたのである。

    歴史的に後勘として観れば、これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
    解決策の一つはこの「令外官」にあった。
    「皇親族」を外されたのであるのだから「令外官」でない筈である。
    然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は出自を前提としている事から外せない。
    依って、「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
    つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。

    此処には確かに歴史的に観れば「表」では「脱落家の氏族」であった。
    そこでこれを160年後(円融天皇)は、「補完役の秀郷流青木氏」の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。

    つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているを認識していたのである。
    況や、これが唯一と成つた「氏族」の故であろう。
    :

    「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」


      [No.368] 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/21(Sun) 14:47:28  

    「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」の末尾

    「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
    然し、これが出来ない。
    だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。

    如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
    故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
    この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
    これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。


    「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」



    「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
    そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院や比売さまや妃御さま」等も、本論で論じている多くの「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。

    これを証明する言葉としての注釈は、最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
    つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
    恐らくは、これは「青木氏」が「神明社に依る影響」から独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。

    (注釈 そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
    関東の「宗家筋の秀郷流青木氏」にも「資料関係」が多く遺されていないのは「大戦の火災」よりも明治期から昭和期までの“「攻撃」”が主因と観ている。
    これは「首都の関東」であるが故の「伊勢信濃等以上の災禍」と云える。)

    ところで「光仁期の中期頃」から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
    「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいたと論じたが、時代と共に世間にも都合が良かったのか広まって意味が少し異なって行った。

    この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族の制度」では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。

    ところが注釈として、この「後家」に対しては青木氏の中では「分別する呼称」は無かった。
    依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」の事を云っていた。

    確かに上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家 ロとハ」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
    結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて「人を説き」、「導きをする事」は至難であったらしい事が読み取れる。
    然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事が「青木氏」では必要であったらしい。

    取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
    そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
    「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
    従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
    例えば、衰退した「近江佐々木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「美濃土岐氏系青木氏」、や「四掟の青木氏に近い公家」の「後家」を引き取る事は充分にあった筈である。

    云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味でも戻る事があったらしいが、但し、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。

    そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
    然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、ところが「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
    そこで、「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)の範疇」に合ったとしても其処には“「生女」”ではないと云う基準がある。
    従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。

    前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
    この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
    従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
    この場合の処置が難しかった事が読み取れる。

    それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
    この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
    「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
    資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
    これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
    この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
    「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。

    (注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に、世間から観れば「記録」から垣間見れる「恐怖の青木氏の抑止力」であった。
    それ程に恐れられていたのだ。
    故に、「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が絶対に可能と成っていた。
    尚、「室町期」までは「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。無かったと云う事は少なくとも無いだろう。
    「恐怖の抑止力」もあるが、“「不吉」”として記録しなかったと観られる。
    但し、「江戸期」は「神明社」を全社を幕府に託した為に無い。それ故に幕府に依って消されたと観ている。)

    況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも「保護施設」として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
    従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。

    そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
    「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
    多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって、「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
    然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
    「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
    それは、「斎王の里の館」にである。
    そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い“「女人(女官)制度」”があった。
    凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
    この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。

    況して、そもそも、「平安期」には「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅と禁令の文面」の通り「源氏賜姓」にもある様に保護せずに突き放した。
    「四掟の範疇」の「四家の家」にも「朝廷の保護」は無く同然であった。
    更には、元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」から始まり、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」をも支える「その力」が既に無かった。
    当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。

    (注釈 「天智系青木氏」の「直系尊属の仁明期後」は「斎王に関わる事」の「祭司」さえも無く成った。)

    前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは、「賜姓」を外れた事で「賜姓五役」等も)を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。

    (注釈 これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)

    これを最低限にして、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。

    「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
    この“「多気の里(青木氏の呼称)」”は、“「斎王の里(郷土史の呼称)」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
    この段階(嵯峨期以降)では、最早、“「斎王」の云々”では全く無かった。

    (注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)

    だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。

    「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない)」を出していた。
    従って、「青木氏の概念」としては「光仁期から仁明期前の斎王」は「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。

    (注釈 そもそも、「斎王」は、「王族」やそれに準ずる者から嫌われて「仁明期以降(青木氏の直系尊属)」から成る者は少なく成っていた。
    筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期−嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
    記録的にも、この「政争没」は「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
    そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、“「世にでない記録」”として遺さない様にする為の「奇策」であったらしい。)

    (注釈 此処で云う「後宮」とは「后妃の事」を指すが、「后妃が住む宮」を云う事もある。
    皇室では、「后妃」と「嬪妾」には「ある身分格差」があり、「嬪」は「ひ」と「ひん」と「ひめ」の「三つの呼称」で分けられる「格差」があり、「ひ」と「ひめ」は皇族内の「「女(むすめ)」:娘の位置」にあった。
    「ひん」は「純潔制度の同族血縁」の中で生まれた中間の位置にあった。)

    従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
    当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。

    つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(呼称:十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
    松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
    “「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わさせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
    「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
    「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。

    ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
    それは、この“「後家」”そのものなのである。
    前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。

    この“「言葉(後家)」”が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
    この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、“「家」”と云う言葉にある。
    その前に当時として、“「家」”とは、「公家(公の家)」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語(格式の言語)」である。
    当時は“「家」”は「高い格式を持っていた言語」であった。
    要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。

    ところが、江戸期に「姓族」が「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
    唯、現実には、「氏族(武の家)」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
    その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。

    (注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)

    “「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族等」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄の格式を示す用語」であった。
    当然に「家」に着く“「侍」”も同然である。
    「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
    「公・きみ」の「斎・いつき」の「立場や役務を表現する言語」である。

    前段でも何度も論じた様に、「斎」は、朝廷を構成する「三つの政治体制」の「三蔵」の「大蔵・内蔵・斎蔵」の「斎」であって「祭事」を意味し、即ち、「政治」の位置にあった。
    この「政治の位置」を司る「朝廷の集団」を「公(く・きみ)」として「公」の「集団(家)」で「公家」と称した。
    この奈良期に於いては、「軍事を司る集団」は「政治体制」の「三つの中」に無かった。
    「大化の改新」で信頼できる「皇族」より「賜姓」され「臣下」して「近衛の親衛隊」を構築した。これを「朝臣族」と称した。
    この「武」を以て「近衛」の「賜姓臣下朝臣の族の集団」を「武の家」と称し、「公家」に対して「武家」とした。
    後に、「大蔵氏」から出自した「坂上田村麻呂(桓武天皇)」の「征夷大将軍」と「近衛軍団」を「三つの政治体制」に加えて、「三蔵」に「武家」の「軍事集団」を加えた。
    この時、「斎蔵の家の公家」には「蘇我氏の事」を顧みて安全を期する為に個々にこの「軍事集団を持つ事」を厳禁した。
    この「近衛軍団(武家)」と共に「軍事集団」を「天皇」に帰属させて互いに牽制させて「政治の安定」を図った。
    これが「武の家」の由来であり、「武の家」とはその「立場の格式」を意味する。
    「家」とはその意味で使われたが、「姓化」が進んだ室町期中期から江戸期ではこれを無視した。


    「施基皇子」を始めに「賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
    そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」を「家」とされた。
    この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。

    「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家」、即ち「20家」と「郷士族50(氏族)」で構成していたと云う事に成る。
    従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
    「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「血縁族の郷士集団
    (氏人)」を持つ「氏族」として朝廷に認められた事に成るのである。

    唯、ここで「武家貴族」を認められながらも「家」を興す以上は「公家の禁令」に従って「武の朝臣族」であっても「賜姓族臣下族」ある事を前提に「表向き」には「武」を持たなかった。
    但し、「影の抑止力」を持った。
    ここが「補完役との違い」(「姓」と「武力」の「保有の容認」と、「身分格式の同格扱い」を)としたと成る。
    そうでなければ「補完役」は務まらないであろうし「当然の朝廷の認知」である。

    当然に、これは「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以でもある。
    従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成り同然に「姓族イ」と成る。
    当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
    つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。

    「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」

    以上の関係式が出来る事に成る。

    (注釈「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」に依れば、「嵯峨源氏」は「単なる朝臣族」の「姓族イ」に所属し「皇別」の中でも「皇別の真人系48氏」に組み込まれていない事は興味深い。
    「嵯峨期の詔勅の文言」を厳しく実直に反映している事に成る。
    この「嵯峨源氏」を含む「賜姓源氏族11流」はこれに従う以外になかった。
    従って、この厳しさから「源氏」には「賜姓を受けない源氏」が多かった事に留意が必要である。
    つまり、「上記皇別の48氏」に組み込まれるには相当厳しいものがあって、「賜姓」を受けられない侭に「源氏」を名乗つても「賜姓源氏」に成っても全て滅亡した。
    「清和源氏の満仲−頼信系河内源氏」だけが「一切の朝臣族の柵」を排除し、「姓」と「武力」の「保有」と、「身分格式の同格扱い」の「欲望」を捨てて「姓と武力で生きる事」を選択したと成る。
    上記の関係式を捨てたのである。)

    「秀郷流青木氏」は、「青木氏の補完役の策」として「特別賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」としても認められた。
    その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏」の“「家」“が認められた。
    そして、尚且つ「冠位と官位」でそれを補填して証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に、「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」と「格式身分」とを与えられたのである。
    つまりは、「賜姓源氏」を超えた扱いを受けた事に成りその意味は大きいし、「補完役」と云う「意味合い」も大きいし、「賜姓青木氏五家五流への配慮」が高かった事に成る。

    (注釈 然し、結果として観方に依れば平安末期には「近江」「美濃」「甲斐」はこれを裏切り源氏化した事に成るのである。)

    従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
    「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
    つまり、上記の「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の「関係式」が姓族には成り立たないのである。

    そもそも、そこで「姓族」には、前段でも論じたが、次の「二つ」がある事を知って於く必要がある。
    (a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族(新別に分類)」
    (b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族(諸潘)」

    (a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
    天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
    但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
    この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。

    「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の関係数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
    故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
    これがその論理的証拠である。

    つまり、上記の「氏族」の「家」に起こる「血縁制度」であるからこそ「後の宮(高位の人)」の「家」であるのだ。
    前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
    この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。

    注釈として、結局は「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」のそのものを認められていないから、従って、残るは「分家」として発展せざるを得ず、つまりは、「一つの家」を“「分身の様」に分ける“と云う理屈と成る。
    故に「分ける家」なのであって「家・氏」を別段に興していない理屈に成る。
    “「分家」”ではない「独立した四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」として成立する故なのである。
    依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。
    「主君−家臣」を何れが「契約関係」を破棄すれば「主君−家臣」では無く成るが、「血縁関係」が存在する以上は「氏人・家人・郷士」から離れる事は永遠に出来ない所以である。

    「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の関係数式は付いて廻る事に成るのだ。

    従って、この独立した「四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」に起こる「後家」は「姓族」には論理的には「起こらない言葉」と成るのだ。

    そもそも、“「後家」”は、皇室の“「後宮」”に通ずる言葉であり、皇室の「宮(高位の人)」、即ち、「皇別の氏族」の“「家」”であり、この“「家」”は「青木氏族」の様な「氏族」のみに“「後家の言葉」”(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。

    (注釈 「公家」は「斎に位置する家」であるので「政治的」には力はあっても「経済的」にも「武力的」にも力は無く、「斎に関わる権威を貸す荘園制」に頼っていた為に本質は弱体であった。
    「氏族」としてでは生きて行けない為にこの「公家」には「姓族化する傾向」は大変に多かった。
    「荘園」を下に「姓化」して禁に反して「武」を持って生きた「公家」は殆どは100年未満で潰された。)

    この結果として「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
    この場合は、上記の関係数式は無く成り「氏族」を朝廷より外される事に成った。公家も同然であった。

    (注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う「高位の特別の格式」を有する事により「公家の関係族」にありながらも「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
    そして「361氏」と云う「姓化した族(現地孫末裔)」には「分家」が特別に認められた。
    依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍らも”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)

    従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
    当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様:特別に「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「青木氏の神職」には「神紋の柏紋」の使用を許された)」だけなのである。

    (注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
    庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸国の渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
    庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた「数々の氏」と「家を構成する制度」が異なっている。)

    故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」/「4000家紋」に成り得たのである。

    この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
    当然に“「後家」”もである。

    (注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
    少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。
    明治期には家紋と称される文様は8000と成った。)

    「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家(施基皇子の伊勢青木氏)」の「天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
    これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」:無理やり宣下)として、「皇室の後宮」に因んで、皇室は「宮を興す事」に相当する「家を興す」の故を以て“「後家」“と云う呼称を使って「皇室」に対して「公然」とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。

    (注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
    「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を”「巫・かんなぎ」“と呼んでいた事が判っている。
    この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
    当然に「後家」も務められた。
    どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。)

    そこで、上記の注釈に関して、だとすると、「500社弱の神明社」等に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
    「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。

    この注釈に関して「五家五流青木氏」は、勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
    「116氏の秀郷流青木氏」にも「宗家筋(四掟の範囲)」では「同様の制度」を敷いていた以上は、一族一門の「女(むすめ)に対する処置」も同様に起こっていた事があり補完されていた事は解るが、この事に就いての補完は“どの程度のレベルでの補完であったか”は定かではない。

    唯、「116氏の秀郷流青木氏の24地域」にも「宗家筋(四掟の範囲)」で「春日社」が「守護神」であった事も考えると、「かんなぎ」は存在し得ていたので、実質は「協力関係の程度」かと観られる。
    筆者は、「361氏の秀郷一門」が当初は「春日社」を主幹していたので、「第二の宗家」としては算数的表現とすれば「361/116の義務範囲」であったと観ている。
    後に、前段でも論じたが、「興福寺事件以来」は「361氏の守護神」は「春日神社」に変革したので、「116氏の「宗家筋(四掟の範囲)」(宗家筋(四掟の範囲)」は「春日社」を主幹する経緯と成った。

    それでも何しろ、「平安期」では、「家的」には「116/5」と観れば、「地域的」には「24/5」と観れば、「500の神明社」だけでも運営するには難しい事は歴然としていた。
    「室町期」では、殆どは「伊勢と信濃」と成り得ていたので「宗家筋(四掟の範囲)」の補完無くしては無理であった筈である。
    但し、「伊豆」は独自運営し、衰退した「近江と甲斐(美濃は暫くは伊勢と信濃青木氏が支援を出来なかった)」ではその力を無くし停止していた。

    (注釈 「美濃青木氏」は室町期末期に「別の形」で「伊勢と信濃の力」が隠れていた「美濃青木氏」を引き興した。
    「一色域」に隠れていた「美濃青木氏の末裔一族」を「経済力」と「強力な武力」の支援で引き興して「蒲郡青木氏」として、「伊川津七党の青木氏」の「田原青木氏」として興す事に支援し「徳川氏の国衆」として成功した。)

    「江戸期初期」には、「幕府へ神明社の引き渡し」と「菩提寺の顕教令」で全て「青木氏」からの「かんなぎ」等は停止したとある故に、「116氏の秀郷流青木氏」からの「補完の必要性」は無く成った事が判っている。


    注釈から話を戻して、それが最初の“「後家」の呼称”であった。
    正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の中にいた場合に於いては“「後宮」”として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から“「後家」”であった。
    (言語的に「宮」と「家」は同意で格式的意味合いが異なる。)

    そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない事で、明らかに「救済策(逃避の便宜策)」であった事が判る。
    これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来て、「青木氏族」の中で生きる事は出来たのである。
    将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官」”とそれを支える“「采女(上記)」“として生きて行く事かの、この“「三つの選択肢」”が広げられて行った。

    奈良期の「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初の頃から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事も”「後家」“と伴ってその存在は判っている。
    「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
    これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
    そして、ここから「福家の支援」に依って「郷士・氏人」に「嫁」に向かったのであろう。
    これらの「独特の青木氏の呼称」から観ても「四家の政所の制度」の多くは「女系」で占められていた事が明らかに判る。「女系族」であった事が判る。

    恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここでも同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
    これは「氏人の底上げ策」であろうし、「強力な絆構築策」であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
    上記の通りの氏族全体の「数多くの女の力」で以て、これも「男系」では成し得ない「女系の妻嫁制度」ならではの「堅い絆」が構築されていた事が判る。

    注釈 青木氏の中での「十二女司(十二司女と書かれているのもある)」は、次の様な役目であった。
    「内司」、「蔵司」、「書司」、「薬司」、「侍司」、「単司」、「殿司」、「掃司」、「水司」、「膳司」、「酒司」、「縫司」の「12の役目」を指し、「青木氏の保護施設」の「日常の雑務・庶務」を12に分けていた。
    「意味」は読んで字の如くであり、「奈良期の天皇家の伝統の継承」であったと観られるが、取り分け、「伝統」と云うよりは「雑務」を分ければこの様に成るのは当然で、そもそも「皇室の伝統継承」と云う感覚は無かったと考えられる。
    「斎王の館」などでのこの様に分けていたと考えられる。
    「多気の家人の家の資料」に遺された損傷激しい読み難い資料から公的資料と査照して再現した。
    これを要約すると、次の様に成る。

    1「内司」は「妃嬪妾」の「入妻や後家」等の女系制度の人の「内回り」の仕事、
    2「蔵司」は「金銭の財務関係」の仕事、
    3「書司」は「手紙代筆」や「文書の保管管理」の仕事、
    4「薬司」は「薬医回り」の仕事、
    5「侍司」は「身辺警護」の仕事、
    6「単司」は「簡単な雑務」や「外回り」の仕事、
    7「殿司」は「寝所回り」や「便所回り」の仕事、
    8「掃司」は「掃除」などの「清掃」に関わる仕事、
    9「水司」は「水回り」の仕事、
    10「膳司」は「食事の準備」とその手配の仕事、
    11「酒司」は「酒宴」やその手配の仕事、
    12「縫司」は「衣服回り」の仕事

    以上と成る。

    この「十二の役務」には、更に「実務の下働き」をする者がいて、例えば、記録に遺る者としては、6には「下働き」の「仕女(しめ・かがりめ)」と、10には「下働き」の「炊女(かしきめ)」が別にあった事判っていて、これには「階級」は無く、「青木氏」と関係する「地域の民」がこれを務めていたらしい。
    この「二つ」は、“務めていた”と云うよりは「通いのパート」の様な契約にあったらしい。
    必ずしも、「女」に限らず中には「男」も居た様な表現である。
    前段でも論じたが、総じて彼等を「男子衆:おとごし」と「女子衆:おなごし」と呼ばれていた様である。
    この「呼称の語源」は、「男子:おとこ」の「おとこ衆(おとこしゅう)」から変化して「おとこし」、「女子:おなこ」の「おなこ衆(おんなしゅう)」から変化して「おなこし」と成り、これが昭和の頃まで「伊勢」から「奈良や紀州」に遺る方言として紀州では「こし」が「ごし」と呼称した。
    筆者の子供頃には使われていた方言で、筆者の家にも二人の「おとごし」と「おなごし」と呼ばれる人が雑務全般を担っていた。

    この「伊勢青木氏の伝統」が強く地域に根付いていた為に「方言」と成って遺されている所以である。

    (注釈 筆者はこの「おとごし」の人から「植木の手解き」を受けた記憶が事がある。
    明治期の鎌倉の縁者の家では「支女」に当たる人が10人いた事が判っていて、この頃までこの「伝統」は何とか引き継がれていた事が判る。)

    上記で論じている様に、“「皇室の後宮」”に仕える「女官」に対して、これに相当するのが“「青木氏の後家」”等であって、従ってそれに仕える「青木氏の女」に関わる「役目柄」である事に成る。
    訳して、“「皇室の後宮」”≒“「青木氏の後家」”の関係式が成立する。
    故に、「皇室の十二女司」≒「青木氏の十二司女」と成る。

    元々、「中国の王朝」の「宦官制度(男子の官僚)」に対しての制度を、「奈良期の朝廷」に持ち込み天「皇家の後宮」の制度として敷いた。
    この制度は変化して、「平安中期」から「後宮制度」の「身分格式の立場」を持たして「内の政所」の「女性の発言権」が整い、「外の斎蔵(政治)」に対しても「発言力」を増した。
    更に「10世紀初期頃」から整理され充実した「後宮制度」が出来た事に依り改めて「後宮以外」にも「女官」にもこの制度を敷いて力を発揮させた。

    ところが、ここに目を着けたのが「摂関家」であって、この「摂関家」が「斎蔵の外政」に対して「勢力拡大」の為に「内の政所」を掌握する事で「内外の両方」に触手を伸ばした。
    「内の政所」と成った「後宮」を引き受けて「政治の斎蔵」の「一つの仕事」して掌握し「内外の政治の権力」を広げた。
    この為には、「内の政所」の内容を「摂関家」に都合の良い様に変更し、「内の政所」の「格式や身分」を下げて「内の発言力」を弱めて「摂関家の発言力」をより完全に確立させたのである。
    この為にも「天皇家」に対して「内の政所の発言力」に及ばず“「血縁」”を入れて「摂関家の血縁の浸透(例えば、上記の許嫁等)」を図った。
    この段階で、「十二女司の内容」は「原型」を留めない程に完全に権力に浸潤する様に変化したのである。

    この「歴史的経緯」から観ると、「青木氏側」は「光仁期の前頃」からの事であるので「青木氏の十二司女」の方が早く「原型」を保持していた事が判る。
    「青木氏」では、この「原型」が上記した様に「五家五流青木氏」に「妻嫁制度」や「後家制度」が確立して行く過程で生まれた時期に採用されていた事が判っている。
    この「古い制度」の「采女・うねめの呼称」が「多気」に遺っていた事がこれを証明している。
    青木氏の資料の一部に「十二女司の内容」の変化に伴って“「十二司女」”の違いの呼称があるのはこの事の証明に成る。
    この事から「青木氏」は「十二女司の内容の変化」で敢えて変更したのでは無いかと考えられる。

    注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
    故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
    そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
    そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
    これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。

    時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
    内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」

    ∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」

    以上の論理が成り立つと観ている。

    更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
    この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
    云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
    当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
    この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。

    故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。

    この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
    故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
    これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
    これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。

    > 「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−23」に続く。


      [No.366] Re:「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20 
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/02/03(Sun) 17:08:40  

    > 「青木氏の伝統 46」−「青木氏の歴史観−19」の末尾
    > 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    >
    > それが最初の“「後家」の呼称”であった。
    > 正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
    > そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
    > これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
    > 将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
    > 「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
    > 「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
    > これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
    > ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
    > 恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
    > これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
    > これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
    > 故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
    > この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。




    「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    更に「青木氏の歴史観」に関係する「呼称」について更に論じる。
    先ず、前段の「後家の呼称」に関係する「比丘尼」に付いてである

    「紀州藩」の代々の藩主の「比丘尼寺」が筆者の家の近くにあって、それをサポートしていたお家があった。
    これは恐らくは「伊勢青木氏との付き合い」から「初期の紀州藩」はこの制度を敷いたと考える。
    この「比丘尼の寺」は小山の西の下は直ぐ海岸沿いに面し、東と北の下は小さい湖で、南は急な山手にあり、この小山を「比丘尼山・びくにやま」と呼称していて、その南の山手に世話をする「農家の人」が住んでいた。
    そして、この寺に通ずる道は狭い道一本であって、子供の頃の昭和20年初期の頃は未だこの「古びた寺」に「老女の比丘尼僧」の二人が住んでいた。
    この農家の息子と友人であった為に見学をした事がある。
    祖父と父からこの時の「経験」を話し、「伊勢青木氏の比丘尼寺の事(松阪の寺名は匿名にする)」を聞いて不思議に思った事がある。
    その後に「伊勢の歴史」に興味を持ち勉強し始めた。)

    (注釈「祖父・先祖」は、「紀州藩の14代の方」までの「初代からの長い付き合い」が続いていて、「歌や俳句や詩吟や茶道や禅問や南画や書道等」の「素養の師匠」もしていた。
    この故あって、「代々徳川氏からの贈り物の遺品」が多くある。
    「比丘尼寺の事」もその後に「松阪の寺」と合わせて良く理解が出来た。
    前段でも論じた様に、「女墓の慣習」が無い限り「姓族」には「比丘尼寺」は普通は無い。)

    (注釈 当時の江戸初期の慣習では普通は“「分寺」”を持つと云う「仕来り」は「氏族の菩提寺」があっても少ない。先ず経済的に持ち得ないだろう。)

    筆者は、「後家の比丘尼」が起こる原因の一つは、前段でも検証した様に婚姻の可能な年齢差のこの「10歳」が婚姻の際の「仕来り」か「掟」と成っていたと観ているので、これが原因であろう。
    これは、「入り妻側」に執っては「四掟の範囲」では「厳しい掟(10歳)」に有ったと考えられる。
    「無制限の入妻」に執っては、「10歳の年齢差」が合っても「有制限の嗣子(48歳引退)」に比べれば、「40年間」は「長い事」に成り、又、直ぐに婚姻できない「煩わしい入妻の掟」があったとしても、間尺に合い「比丘尼僧」として「下界から隔離される掟」は「苦しい掟」とは成り得なかった筈である。
    故に、「比丘尼」が起こる原因と観ている。
    殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は、多少の「母性の情愛」が合ったとしても「女系の妻嫁制度」の「掟と仕来り」での原則は無いのであるから、それはそれとして「氏族の定め」の「当然の享受」として理解すれば「40年」と合わせれば「比丘尼」には「寺に入る事」への理解が出来ていたと観られる。

    何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる事を知っていたし、その様に「入妻」として教育されて来た筈である。
    「四掟の氏族での血縁ある事」を前段でも論じた様に「女系の妻嫁制度」が浸透していてこれを知っていて「入妻」として入って「妻嫁制度の伝統」があった筈である。
    「嫁家先制度」で「祖母(出妻の先祖)」からも充分に教育されていた事は確実である。
    故に、云うまでも無いが「女系の妻嫁制度を壊す不理解」が起こらない様にする「四掟」を前提する血縁なのである。
    「四掟」を合わせれば「不必要な不理解」は起こらいは必定である。
    この事を理解していた上で「後家」や「比丘尼」に成るとするならば「入妻」に成るとする「当然の心構え」が必要と成ろう。

    ではこれを如何していたのかである。

    そこで注釈として、考えられる事として、「四掟の範囲の青木氏族間」では、“「入妻の決定(許嫁)」”は定まりやすい“と上記した。
    然し、そうすると、”「早熟」“と成るならば、この「早熟」に対して何もせずに座視するは得策ではない。
    その為に「何らかの策」を構築したと筆者は観ている。
    “「入妻」として{待つ期間}”を「相手先」は“「許嫁」“と云う「制度」で早期に補完していたと考えられる。
    然し、例えば、「伊勢や信濃の青木氏側」ではその「許嫁の制度」があったかは疑問である。
    唯、だとしても「全ての相手先」が「許嫁の制度」を持ち得ていたかも疑問である。

    奈良期に執った数々の制度から観て、取り分け「妻嫁制度と嫁家先制度」から奈良期に「入妻」が成立している事から考えると、必然的に“「許嫁」”もこれに「連動する制度」として「特定の階級」には合ったとは考えられる。

    上記の検証から考えても、「入妻」と「許嫁」は「対の物」として咀嚼しなければ成り立たない。
    故に、これは「青木氏の歴史観」として考えられる。
    これが後に「青木氏」から世間に広まったと観ているが、ところが、この“「許嫁の文字」”が存在する資料からは何故か散見出来ないのである。
    これも何故なのか大いに疑問である。

    その事に就いて先に考えて観た。

    「青木氏」からの「許嫁」は「出妻」に関わる事であるが、次の事が考えられる。

    1 「四掟の相手の血縁源」への「出妻」には「許嫁の制度(公家族)」が無かった事。
    2 「青木氏側」に文書の中で「許嫁に代わる呼称」が無く別の呼称があった事。
    3 「若年婚姻(女性)」の概念」が浸透し、元々、「許嫁の呼称」がなかった事。
    4 「許嫁の概念」が実質は「武家貴族」には格式から低く考えられていた事。
    5 「賜姓五役と云う役目」に「呼称」が沿わなかった事。

    以上の事が考えられるが、「青木氏」にはこれが全て適用される。

    そもそも、そこで「青木氏」から離れて、「公的に成っている記録」から観て使用された時期は”「平安期中期頃」”からと成っている。
    その理由は「政争」から「摂関家」が「天皇家」に対してその「勢力」を伸ばす目的から「天皇家」に対して「后妃嬪妾」として「事前に送り込んだ政略」から起こったとされている。
    その「許嫁の呼称」の記録は、その少し後の”「平安期末期」”に観られると成っている。
    その後は、「摂関家」も”「平安期末期(三条天皇以後から後三条天皇で隔絶)」”には「天皇家との血縁関係」が無く成り、「摂関家の許嫁の制度」は一時衰退したとされる。
    その後の”「室町期」”には、「姓族の豪族(室町期)」が政略結婚で勢力拡大に使われたとされる。
    ”「江戸期の中期」”に成って「力のある民(庄屋、豪商)の領域」まで広く使われたとされる。
    然し、ところが「許嫁の意味合い」は違って使われる様に成って行ったとある。

    これが許嫁の歴史的経緯であるとしている。

    従って、最初の「許嫁の言葉と制度」としては「平安期中期」から使用される事に成った事に成るので「青木氏族」には無いのであろう。

    ところが、時系列として観て「青木氏族」に於いては、「光仁天皇期頃以降」に「女系の妻嫁制度」等を敷いた事に成るので、「許嫁システム」としては存在するも「許嫁の呼称」を使用していなかった事にも成る。

    では、“どの様な言葉が使われていたのか”と云えば、「青木氏側」からすると、”「女(むすめ)」”という制度の字句で記録されていたと考えられる。
    そうすると前段でも論じた様に、その「実際の呼称」は、「青木氏」では「比売さま(ひうぃさま)」であった事に成る。
    つまり、この「女(むすめ)」と「比売さま(ひうぃさま)」の「二つ」が「青木氏」に存在するのに「許嫁」の「制度と呼称」が存在する事は「制度的な論理的矛盾」が起こり合わない。

    そもそも、「比売さま(ひうぃさま)」には、元より「許嫁の意味」も含んでの呼称であった筈である。
    何故ならば、「女(むすめ)」の「比売さま(ひうぃさま)」は、元々は「その立場」に合って「福家」で養育を受けていたのである。
    従って、「養育を受ける」と云う事は、何時かは相手は兎も角も「嫁ぐ事」には間違いはないからであり、そのための準備期間であった。
    そこで、“個々に相手が既に決まっていたか”は確定する資料がないので定まらない。

    然し、筆者は大方は定まっていたと考えている。
    その根拠は、「青木氏族」である「補完役の秀郷流青木氏116氏(960年頃)」と「秀郷流一門主要五氏の血縁源361氏」の「大血縁源数」を考えれば、「補完役の掟」として「四掟制度」を敷いている限りは、少なくともその都度では間に合わない事は明々白々の事である。
    この為には「相互の執事役」は「相互調整」を常時執っていた事が制度の一環として伺える。
    そうでなければ、「女(むすめ)」の「養育制度」と「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度」は成り立つ話ではない。
    これは、「女(むすめ)」の養育制度を敷いている限り「氏族の絆」を固める「氏人への血縁制度」も同然である。
    従って、「四掟の制度」を大前提にする限りは、「許嫁の呼称」は、兎も角も「大方の嫁家先」は「執事間の間」で「調整」が「公然の事実」として行われ出来ていなければならない。

    つまり、前段でも論じた様に、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”という事もあり得た事もあるが、ここに「4」の「玄孫域」とか、「5、6、7」域までの「女(むすめ)」の養育をする必要は無い筈である。
    明らかにこの「4〜7の域」は「執事間の調整」のその「結果の表れ」が原因していると観ている。
    唯、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”と云う事に関しては、その可能性は低い。
    何故ならば、下記の事が理由として云える。

    上記の「性に依る発育過程」から“少ないと云う事”は補える事。
    平安末期までは「五家五流賜姓青木氏」から、鎌倉期からは信濃と一部近江からも補える事。
    「伊勢の50の氏人」と「信濃の50の氏人」と、未だ「四掟の範疇」に遺っていた「近江佐々木氏と近江青木氏の宗家」から補える事。

    以上の「三つの事」を鑑みれば、“氏族の中に少ない”という事は無かったと観られる。

    これを検証して観ると、「361氏の全て」を「嫁家先」とするのは別として、「同族補完役の青木氏族」の「116氏」の「嫁家先」に対して次の様に成る。

    仮に氏=1として、116氏/(50伊勢+50信濃+10近江)≒1

    以上の関係式が成り立つ。

    上記の計算は、「子供=1とした前提」であるから、つまり、この「嫁家先=1の数式」が成り立つ様に、「女(むすめ)」の養育範囲を「4の玄孫域」までを基本とすれば充分に成り立つ事に成る。

    この数式論から、次の関係式が導かれる。

    「116氏+公家範囲(20)」+(361氏/5氏:主要五氏限定)≒208

    「玄孫域」までとして「4の倍数」と成るが、この「3地域」のその「子孫力」が「4の均一倍数」とは成らず、それを見込んで観ると次の様に成る。

    「伊勢4+信濃2+近江0,5」/3≒2

    以上の関係式で平均=2と成る。

    従って、平均の子孫力=110・2≒220

    「全体の子孫力」の相互バランスは、∴ 208/220≒1

    以上でほぼ成立する事に成る。

    これが「青木氏族の氏族としての血縁力」に成り、上記の数は“少ないと云う事”は無かったと考える事は出来る。
    そうでなければ「玄孫域の理屈」は成り立たない。

    この検証の関係式から観れば、「女(むすめ)」の養育域は「孫域」でも充分に良い筈であった。

    もっと云えば、「伊勢と信濃」の域で、「孫域:2」≒「平均子孫力:2」の数式論で何とか成り立っていた事に成る。

    仮に「曾孫域」までならば、「曾孫:3」で、次の数式が充分に成立する。

    (伊勢の50+信濃の50)・「孫域:3」=300

    故に、300>208が成立し、“少ないと云う事”という事のみならず、「許嫁の制度」のみならず、その「呼称の必要性」は、「比売さま(ひうぃさま)」の「呼称に持つ意味合い」で充分であった事が証明できる。

    但し、そこで「玄孫域」までの制度を現実に採った事は資料からも明らかであるので、これは「近江域10」と「信濃域50」に、“ある事”で賄えなくなった事を意味する。

    では、同時にこの“ある事”が起こった事に成るので、それは何かである。
    それは、室町期の「下剋上と戦乱」にあったと観られる。

    「平安期末期の近江域と美濃域の青木氏の参戦後の衰退」が長く続き、「衰退」は室町期末期まで持ち込んだ事、
    それと同時に室町期の「信濃域の国衆の侵入による弱体化」が「信濃青木氏」を弱めた事、

    以上の「二つの事」が起こって仕舞った。

    そして、「伊勢青木氏」だけが無傷で生き残り、逆に、「室町期の紙文化」に依って「巨万の富」の勢力を確保した。
    その「巨万の富の事」で以て、「信濃域」を引き上げ助け「青木村」に独立させ、「近江域」は「末家の分家」を引き出し「近江域」と「摂津域」とに蘇らせた。

    (注釈 この「美濃域」では、「伊勢」と持ち直した「信濃の青木氏の勢力」が「青木氏の旧領地の一色イ」から「塩尻の山間域ロ」にかけて隠れていた「美濃青木氏の主家の末裔イ・蒲郡青木氏」と「美濃の土岐氏系青木氏ロ・伊川津七党の田原青木氏」を引き出して「国衆」に仕立てて「経済力の支援」と「生きる為の近代武力:鉄砲」を与えて成功している。)

    前段でも論じたが、「秀郷流青木氏との関係」を継続させる為にも、この間の「伊勢域だけの子孫力」に頼らざるを得なかったと云う事である。
    これが「4の玄孫域」であり、非常時の「5、6、7域の顛末」にあったのである。

    参考 特別の範囲
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    以上と成る。

    そうすると、上記の検証から「相手」を固定して「許嫁」までして「女系の妻嫁制度」を敷く必要性がなかった事に成る。

    従って、後はその相手に応じてどの「比売さま(ひうぃさま)」を嫁がせるかに依ると考えられ、その「養育具合」を見定めながら「許嫁先・執事の差配」が凡そ決まって行くシステムに成っていたと考えている。

    注釈として、そもそも「比売さま(ひうぃさま)」が大きく関わっていた事に成るとすると、この“「比売さま(ひうぃさま)」の「語源」が何処から来たのか”と云う事を知る必要がある。

    そこで、これを紐解く。
    先ず、古代の“「売る」“の「韻の語源」は、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云うものであって、貨幣経済が深化するに従ってその結果から「対価の有無」は別にして、”物を相手に渡す行為として使われる言葉“にも成って使われて行った。
    決して「売り買い」が主の語源では無かった。
    それは「市場経済」が未だ成立していない世界の中でこの意味合いは無かった。
    飽く迄も、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云う単なる単語であった。

    更に、「比」の「敬いの言語」も、“「ある物」に対して「別の物」の方が良い”とする行為が「別の物」を「優位に至らしめる言葉」として用いられる様に成った。
    これがある物に対しての差を以てして「敬いの言語」と成った。
    この「比」の源は、前段でも論じた様に、人間に言葉が生まれた「母音(アオウエ):母韻」に対して「イ」が含まれていない。
    これは「イの音韻」は「父音(チイキミシリヒニ):父韻」に含まれ「ヒとイ」は「父韻」に所読する別格の韻音なのである。
    つまり、「イ」と共に「ヒの父韻」は「父の尊厳」の「語意」を持った「初期の語源」なのであって、「優位に至らしめる言葉」=「敬いの言語」として用いられていた。
    後に、この「二つの意味を持たせた造語」の「韻音」が「青木氏」にだけ遺された“「比売」”と成り、「父韻側」を強め「後側」の「母韻」を添えて「売」を「韻」にして弱め「比」を「主」にして出来た「祖先神」に伝える「神への言語」と成った。
    従って、この「二つの意味を持たせた造語」には、“「相手」に「優位」に至らしめ「認知」に至らしめる“と云う「意味合い」を持った言語であった。
    つまり、元よりこの「造語の語源(比売)」には、「許嫁の様な意味合い」を含んだ「古来の呼称用語」であったのだ。

    (注釈 これは「青木氏の歴史観」であるので、この事を知るか知らぬかで大きく意味が異なり、「真の史実」を見逃す事に成るのだ。)

    (注釈 「青木氏」はそもそも「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を「守護神」とする“日本広し“と云へど「唯一の氏族である事」を知り、これを「前提とする事」を知る必要があり、全ての解釈はこれに依って変わる。
    全ての歴史的事項に関して「神明社の概念」が左右している。
    「青木氏に存在する言葉」の語源はそれだけに難しいのだ。)

    つまり、「女系の妻嫁制度」の如く“「女性」”が司る「神」への「呼称用語」であって、その役目の「皇祖神の斎王」と同じく「祖先神」の「比売(ひうぃさま)」も同じ位置にあったのだ。
    従って、前段から論じている「女系の妻嫁制度」は必然で同然に「神明社(神仏同源)の概念」なのであり、突然に「女系の妻嫁制度」を敷いた訳では無く、「氏族」として存在する以上は「男系」は論理的にあり得ないのである。
    何れにしても「氏族」としては特異なのである。

    要するに「光仁期から仁明期」までは「斎王・いつきのきみ」も「比売・ひいぅさま」も「青木氏」から出ている所以である。
    「王・きみ」は「様・さま」と「同源の意」である。

    つまり、「許嫁」に関する論議は、「神明社の概念」を思考の中に入れれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁=比売さま・ひいぅさま)」であった事に成る。
    従って、「連動するシステム」はあっても、“態々、「許嫁」と云う呼称は無かった”とする結論であって、且つ、“その必要性はなかった”と云う事に成るのだ。
    もっと云えば、「神明社の概念」を思考すれば「許嫁」と成る制度は、本来、「品格を落とす所以」と考えられていた事に成る。
    「賜姓五役」からも「許嫁の意」はあり得ない理屈であり同然であるのだ。

    唯、「藤原北家一族」の主幹の「補完役側の青木氏族(主要五氏)」には「許嫁の呼称」は、「三条天皇期(976年)」〜「後三条天皇(1034年)」から無いとする。
    「秀郷流青木氏(960年)」にも、「犬猿の仲であった摂関家」にはその「公的な資料」の「許嫁の呼称」が「摂関家に合ったとする研究記録」がある。
    この説と照合すれば、「許嫁の呼称」は「補完役側の青木氏族(主要五氏)」にはあった事が考えられる。
    「神明社」では無く、「賜姓五役」ので役務は無く、強いて「許嫁の呼称」を排除する必要があったかは疑問である。
    然し、前段でも論じた「神明社=春日社(摂関家菩提寺の「興福寺事件」のきっかけ:神仏同源の採用事件)」の関係からすると、充分に避けた事もあり得る。
    「神仏同源の事件」である以上は先ず避けるであろう。
    唯、「妻嫁制度での概念」が「嫁家先に浸透」が起これば必然的に消えた事もあり得るが、確認できない。

    筆者は「消えた説」である。
    敢えて、「後宮制度」の様に「摂関家の衰退の原因」と成った「摂関家の真似」はしないであろう。
    仮に「許嫁の呼称の有無」が、「北家秀郷一門」にあったとすればそれは「近江」に赴任していた「秀郷流近江一門」と「秀郷流脩行系青木氏」の「二つの氏」にはあった事が伺える。
    取り分け、「摂関家」と大きく繋がっていた「秀郷流脩行系青木氏」にはその可能性が高い。

    (注釈 後の平安期末期に「摂関家」と「秀郷流青木氏の主要五氏との血縁」を考えれば、その影響から考えればある筈の「証明する資料」が見つからないが,“無かった”とは云い難い。)

    それは何故なのかである。
    「秀郷流青木氏」には、特別に「116氏に繋がる姓族の存在」が「現地孫」としてある以上はこの「現地孫の姓族」を一門として引き付けて置くには、又、組織を維持するには「姓族」に向ける「嫁」は必然的に必要に成る。
    但し、「宗家筋」には、「純潔性を保持する義務:高位の立場」があった事から考えると、「現地孫を設けない掟」があった事から“「許嫁制度」は無かった”と考えられる。
    この為に、「分家筋の傍系尊属族」の中では「許嫁の制度」は「室町期の資料」の中には認められるがそれ以前は判らない。

    では、「秀郷一門」の「青木氏側との血縁時」には「許嫁の呼称」は使っていたかは疑問で、「四掟の範囲」での血縁であった事から筆者は使っていなかったと考えている。
    「物理的な視点」で考えれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁)」の“「システム」”が別の形で相互に敷けている以上は、「比売さま(ひいぅさま・下記)」で充分に成り立って行けていたと観ている。
    つまり、「妻嫁制度」と「嫁家先制度」がある以上は論理的に矛盾が生まれる為に「入」と「出」も重複するような「許嫁制度」としては無かったと云う事に成る。

    「ひうぃさま」の意味に含まれる「許嫁の考え方」が「氏族」としては「初めての事」であって、「呼称」とその「制度」は「青木氏族」には無かったと云う事に成る。

    「妻嫁制度」と「嫁家先制度」のこれは「奈良期の末期(770年前頃:記録から第四世族が認められていた)」から始まった事で、「公的な記録」にある「藤原氏摂関家」の「許嫁制度」は「平安中期の頃(890年頃)」である。
    そうすると時系列的に観れば、これには「約100年の差」があり、「四掟の範囲の公家族」と「青木氏」との間で盛んに行われた「慣習仕来り掟」が、「摂関家」の中にも「許嫁の制度」として取り込まれて行った事に成る。
    これが「960年以降」に「補完役の秀郷流青木氏」との血縁にも採用されたと云う事に成る。

    (注釈 「公的に示されている記録」には、“「許嫁」”と云う文字は出て来ないで、説はあやふやな表現と成っている。
    「青木氏」と同じく「血縁の基本概念」(神明社の概念)として採用されていたと観るのが正しいと観られる。)

    この記録には、“「天皇家の后」に対して「摂関家の権勢」で先に決めていた“とする「摂関家の中の記録」に依るもので、”「摂関家」の中でも「家」と「家」の間で「男系」の基で「女子」を「政治と権勢の具」として用いられて行われていた“とする記録である。
    「青木氏」の「賜姓臣下朝臣族の五家五流の間」と「公家との間」の「四掟」にて「女系の妻嫁制度」の基で行われていたとする事と制度的に少し異なる。
    つまり、”「100年後」”に「青木氏の基本概念」だけを用いたと観ている。

    (注釈 「嵯峨天皇」が編纂した「新撰姓氏禄」やその他の「三代格史書」には、「敏達天皇第四世族春日真人族」の「四掟の真人族」として位置づけされているのに対して、「藤原氏摂関家」は「神別格」に位置付けられている。
    この事から、少なくとも「血縁に関する慣習仕来り掟」に於いては「皇別格」の「青木氏の慣習仕来り掟」が優先され、「神別格の摂関家」は「平安期初期の嵯峨期の詔勅禁令」に依って「家の制度」として用いる事が出来なかった筈である。
    故に、「青木氏の直系尊属」の最後と成る「仁明期:850年」の後の頃からこの「禁令」が緩み「血縁の基本概念」を使用するように成ったと考えられ、時系列の検証と一致する。
    依って、その少し後の「平安中期の記録:890年頃」に採用したと成っていると観られる。)

    (注釈 元に戻して、「青木氏族」には上記の検証は、「継承年齢」や「停年年齢等」を「要領化とした本」があった筈であるが、恐らくは、この「要領本」なるものは「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられいる。
    一番最後の「明治35年の松阪大火」のこの時の「戒め」として「口伝」でも、重要な記録等を一度外に出したが他の類焼した「他家」が「丸焼け」に成っているのに「失火元」が「資産」を遺す事は「道義」に反するとして、再び火の中に入れさしたとある。
    「曾祖父」はこの時、改めて「青木氏の由来書・伝記」を“復元せよ”と云い残したとある。
    それを最終、筆者が何とか復元した事に成るが、解明できない事は筆者の伊勢も含めて多い。
    遺るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて「読み込み」をしその中での散見で紐解いた事であった。
    そこに「論理的な計算」を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)

    そこで「注釈」を更に検証するとして次の事が挙げられる。

    この「妻嫁制度」で「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれたとある。
    この「重要な呼称」と成る“「義母(ひごさまの呼称)」と「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。

    次に、「光仁天皇の后」と成った「井上内親王」は、「妃嬪妾」と「二世族や三世族」に対して「厳しい軋轢(怨念説)」を起こしていたらしく、これを恐れて「後家」等に成る等の「人生の選択」をして「上記の保護支援の施設」に入る等の策を選んだとする資料も一部の資料からも読み取れる。
    その後のこの「怨念事件」の「公に成っている記録」、つまり、「政争から来る怨念説」には、この事からの影響に依る「後家の類似の論説」が記載されている。
    「光仁期」の「朝廷で起こった政争事件」と「青木氏で起こった影響・後家等」が一致している事から「前者の朝廷の怨念説」と「後者の青木氏の軋轢説」の事は否定は出来ない史実と成る。

    更に次に「青木氏の歴史観」として「義母(ひごさまの呼称)」と「後家の呼称」と同じくもう一つ「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。

    筆者の研究では、奈良期の古代は、「義母(ひごさまの呼称)」も「女(むすめ)」も「元の発韻」は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えている。
    そして、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。

    ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母(ひごさまの呼称)」」と「女(むすめ)の呼称」を分ける必要が生まれ、「ひ」に対して「「義母(ひごさまの呼称)」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
    そして、「女(むすめ)」に対しては「ひうぃさま」の呼称で遺した。
    「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。

    「神仏同源の立場」からであると考えられるが、「扱い等の差異」は左程なく、従って、その呼称は「比(ひ)」に対して「義母(ひごさまの呼称)」が俗世から離れて成る”「比丘尼」”の「丘」は「韻」を踏んで「きゅぅ」と成り、「比丘」は「ひきゅぅ」と呼称していた。
    つまり、「比売さま」は「ひうぃさま」に対して、「比丘さま」は「ひきゅうさま」と呼称されていた事に成る。

    「女(むすめ)」の「比売さま」が務める「巫女」も「比丘」も同源であり、次の様な「同格の位置」にあった。

    「女(むすめ)」=「比売さま」=「巫女さま」=「比丘さま」=「神仏同源」=「神明社」

    何故、この様に成るかは同然の事で、「皇祖神」の「内宮の天照大神」と「外宮の豊受大神」は「女性」である。
    この「子神」である「祖先神の神明社」である限りは「神仏同源」とすれば、「義母(ひごさまの呼称)」の“「比丘」”は「女性」と成るは「同然の事」である。

    (注釈 ここに平安期末期頃から「世間との隔離」が生まれ、「特異性が際立つ事」と成って行ったし、「賜姓五役の務め」も「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」も一切に「世間との隔離」が出て来た。
    これは、“「青木氏が興した」“と云うよりは、「世間の変化」が「青木氏の世間との隔離」を起こさせたと考えられる。)

    注釈として、因みにその「世間の変化」が顕著に成り、結局は“「青木氏の氏是」と「家訓」”をより強硬にして「世間に出る事」に対して護ろうとしたのである。(A)
    「世間」に出れば益々起こるこの「差異の特異性」から「潰される」が落ちである。
    これが「室町期(姓化)」にはそれが「最大」と成った。
    幸いにして「紙文化」が起こり「商い」を前面に押し出し「巨万の富」を獲得し「青木氏」を影にして生きた。)(B)

    「結論的な説」としては、「世間」とは逆に「有形の氏」を極力抑え、「無形の商い」の「伊勢屋」を前面に押し出した。
    この「二つのAB」が「伝統の青木氏」を救ったと云う事であろう。

    それだけに江戸時代初期頃には未だ世間にも僅かにその「存在と権威(“伊勢の事お構いなしの家康の「お定め書」”)」は知られていた。
    然し、現在に至っても世間には歴史に相当に見識のある人以外は「青木氏とその歴史」は知られない所以である。
    「江戸期」に出した「歴史学者の近江佐々木氏」の「自らの氏族の研究記録」と共に「近江佐々木氏の青木氏の研究記録」も世間には出さずに「非売品」としていた意味合いが良く判る。
    この「非売品」は少なくとも「二つの青木氏族の宗家筋」には存在していた筈であるが消えている。

    (注釈 「近江佐々木家宗家」に遺されていた書籍を1690年頃に一度見直したとあり、その後に明治期(明治10年)に「近江宋家の佐々木氏(東大教授)」が「過去の研究記録」を更に復元したとある。
    これが「国の史書」として保管されている筈である。)

    この「佐々木氏」の「江戸期の研究記録」には遺されている事から「入間の遺品」も空襲で殆ど焼失したと観られる。
    兎も角も「サイトの意味合い」はここにある。

    上記の「青木氏の各種の呼称」は、これは「嵯峨期の詔勅禁令」に依って「同じ語意」のものの使用が許されなかった所以である。

    そこで室町期から使われた誤解を招いている“「姫」”の基は、「中国南北朝」の頃(440年頃〜590年頃の間)の「王朝の姓」で、その後も専ら「中国」で使われていたものである。
    それが「大和」では「ひめに類する言語」としては皇室内では一般に“「嬪・ひめ」“が長く用いられていた。
    「皇別(真人族)」に類する「祖先神」を有する「青木氏」では、上記している様に「比売・ひうぃ」が用いられていた。
    ところが「武家社会」と成った「鎌倉期頃」からその「慣習仕来り掟」が踏襲する事は出来ず、況して、「姓族イ(主に神別)」には「比売さまの呼称」は到底に無理であり、結局、「中国の王朝の姓」を用いて「権威性」を持たせて「姫」を使う様に成った。
    「室町期」に入り規制の無い「民」から身を興した「姓族ロ」もこの「姫」を盛んに使用した。

    それは、どの様な根拠に基づいて使われたかは、初期の頃の「姓族ロ」の元は、「後漢の第21代献帝の孫の阿多倍王(589)年」が引き連れて来た「職能集団の渡来人の末裔(姓の初代は「海部氏・陶部氏」である)」であった事に依る。
    この「中国の王朝伝統」を引き継いで来た「帰化民族(姓族ロ)」が、初期に使い始め「姓族イ」もこれに準じて「姫の呼称」を踏襲した。
    要するに、「姓族イ」は「嬪」と「比売」を「嵯峨期の詔勅禁令」で使えなかった事に依り「姓族ロ(主に諸蕃別)」に準じたのである。

    つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはそもそもなかった。

    同然に「特別賜姓族」で「補完役の秀郷流青木氏の主要五氏」も「春日社」を守護神とする為に「宗家筋」に於いては「姫・ひめ」は無い。
    (「現地孫の姓」は認められている「分家筋」にはあった。「春日社」は「春日神社」ではない。)

    これらの「青木氏族の独特の呼称」を咀嚼して、注釈の前の「後家の話」に戻す。
    そして、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成る。
    結果としてその「プロセス」は同じ事に成るからである。

    上記の注釈の「姫」では無い事の二つとして、この「斎王の館の存在」がそれを証明し、「姫」が「斎王の館」に入る事はどの様な「仕儀の変化」があったとしてもあり得ない。
    依って、「姫」は「後家」に成り得ないのであって、「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる事に成る。
    形式上、“「後家」”に成ったとしても、その「後の扱い」は、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
    「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無く、且つ、「神明社の概念」に沿わない。

    それは「伊勢」とは異なり「信濃の周囲」は、「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って「弱い処」を狙って渡り歩く“「国衆」”の多い地域として知られる程に安全では無かった。
    「信濃」は、平安期はそれなりに「天領地」であった事から一時は「不入不倫の権」で護られていたが、室町期の「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
    この時の「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは前段でも論じたが「伊勢と信濃間」の間には「衰退した美濃域」があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。
    室町期では「美濃域の神明社などの中継点」が排除されていたことが原因している。
    室町期末期にこの為の対策を採った。

    (注釈 それは一色域で隠れ潜む「美濃青木氏」を「経済力と武力」を持たせて引き出し「蒲郡青木氏」を置き、同様に対岸の田原に「伊川津七党」として再興させて「美濃土岐氏系青木氏」の「田原青木氏」を「国衆」として置いて再興させ、「伊勢」からの「海運の要所」として湾内を占有した。
    そして、「近代銃」で「国衆の傭兵」で完全武装させた。この「銃」で三河の松平氏は拡大する。)

    この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃):青木氏の直系尊属」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
    その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。

    これは恐らくは、「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」から外れた「二つの事」が大きく原因していると観られる。
    つまりは、「後家の隠れ蓑策」が、「天皇家」に於いて「男系の皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。
    「青木氏族」から「天皇家に関わると云う事」が無く成ったと云う事にある。

    ところが、然し、「伊勢青木氏」の中では、この「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、「口伝」で伝えられる範囲では“「ある程度の形」“を変えて明治35年まであった事が書かれている。

    この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。

    先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成り、その後に成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。

    次の二つは、一度、「出の嫁家先制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この呼称の「後家さん ロ」。

    以上の「イとロ」の「後家さん」で、後は「尼僧」に成るかして通すかにあった。

    この「ロの後家」に付いては、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの「若い者(上記検証の範囲)」であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
    但し、そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
    これには“「無い」”と云うよりは、一度は「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上、その「後の人生」を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。

    つまり、「戻す事の方」が両者に執って何かと都合が良かったのであろう。
    それには「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者も多く居た事が記されている。
    但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様である。
    これは「女系の妻嫁制度」の「信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。

    この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。

    この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも「後家の呼称」の「使われる範囲」は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が「便利な呼称」として使われていた。
    それには、資料の読み取る範囲で咀嚼すると、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていたと観られる。
    つまり、「青木氏族の呼称」であった事に依る「社会の憚り」であったと考えられる。

    然し、明治期(13年頃を境に急激に変化)の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は「平等主義」に託けて「揶揄」へと変化して行った。
    「主家の存在」と云うものそのものが次第に“庶民”から敵視されて行ったのである。
    「明治政府の方針」であった事は否定できない。
    この時、「青木氏」でも、最早、この「憚り」は無く成って、同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で記録にもある。
    当然にこの“「後家の呼称」”も青木氏の資料の中の記録から消えている。

    その消えている中でも、但し、「殖産の恩恵」と「氏人との過去の関係」から、更には、元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、もっと云えば“「地権」”を無償で払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ、「御師様」や「氏上様」から「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていたと「伊勢青木氏の記録」に遺る。
    又、この事に就いては「松阪郷士の氏人」であった方からの「お便り」にもある。

    端的に云えば、「地租改正や農地解放等の政策」に依って「氏上様」や「御師様」からの関係が消えて、「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。


    この様に、「呼称に関する伝統」は歴史的に大きく関わっている事が判る。
    然し、その「呼称の伝統」も「青木氏」の中で維持するにはそう簡単な事では無かった。
    「世間の影響」が大きかった様であるが、その「苦労の実記録」は残念ながら遺されていない。
    資料から「読み取る事」以外にはないのが現実である。
    取り分け、「伊勢」以外には「伝統の史実」でも乏しい現実の中では尚の事である。
    戦乱等の「消失や紛失」の事で「乏しい事」は判るが、「伊勢」と共に「目に見えない苦労」が現実に合ったのだ。


    この事に一度触れて置きたい。

    注釈として、幸いに「伊勢青木氏」に「明治35年頃の変化の記録」が詳細に遺されている。

    恐らくは、「他の青木氏族」にも合ったとする証明に成ろう。

    それは次の通りである。

    口伝で伝えられたのであろう「信濃の青木氏宗家の方」からの「お便り」にも「以下の事」に似た事があってこの所以を明確に記載されている。

    「酒造」や「早場米」の「殖産」を新たに興した事が「徳宗家」や「徳農家」の変化に力を添えたと考えられる。
    筆者の祖父の叔父に当たる人がこれを成した。

    その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられた。
    そして、「台頭する社会主義的勢力」の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
    これに付いては、「伊勢青木氏と信濃青木氏」では、この「勢力の制裁」は驚くべきか“「攻撃」”を意味するものであったらしい
    この「攻撃」は「それまでの経緯」からかなり手厳しく遣られた事が判っている。

    それを物語る証拠として、次の事があった。
    筆者は、「明治35年(祖父の代)に起こった「伊勢屋の大失火」は「失火の原因」と「その後の処置」に疑問を持ちこの「攻撃」によるものでは無いかと観ている。

    その「後の処置」には、その「後の処置と失火の原因」には、疑問がある。
    父や祖父らは敢えて、昭和の初期まで「紀州徳川氏」等との付き合いがあり、「伊勢青木氏の立場」もあって、要するに「知名人」であった故に「周囲との関係」を悪化させる事のない様に配慮したものと聞いている。
    その様にするのが、「攻撃」たるものがあっても、「何事も無い様に振る舞う事」が「青木氏の品格であり宿命」と信じていた様がある。

    然し、敢えて、最早、筆者にはそま「柵」は全く無く成っている故にこれを公表する。
    そもそも、本サイトの公開の意思はここにある。

    「記録」に遺され得ない「伝統を誇る青木氏族」には「目に見えない軋轢」があったのだ。

    そこで、この分析を述べる。

    本来は「失火類焼」は「貰い損」が原則であるが「全面損害賠償」をしている事、
    「商い」の全てを摂津に移している事、
    「松阪」にはその後に「二つの大プロジェクトの殖産・酒造と早場米」を施している事、
    必要以上の「地権の放出」をしている事、
    「青木氏の福家」を「四家」に移して「福家」は「尾鷲」に引き上げている事、

    この事から、この”「攻撃」”を何とか逸らしたと観られる。

    父からは飽く迄も「オムツの乾燥」とする「失火」として伝えられているが、「土蔵の蔵群」の中で外に失火しない事、
    その後の「遺品の隠し方」が異常である事、
    「明治9年で政府への献納金」を中止している事、
    「伊勢神宮への支援」等は打ち切っている事、
    「明治9年の伊勢騒動」を裏で支援していた事、
    「権威性を持つ氏族の存在」を政府が否定し一掃した事、
    「大名・華族等への貸付金」を返還無効にしょうとした事、
    「生活苦では無い」のに「生活の拠点」を恣意的に移動させている事、
    敢えて、態々「福家の見せかけの副業」を前面に押し出した事、
    「信濃」も失火に関わらず影響を受けている事、
    前段よりの「青木氏の制度」の一切を突然これを契機に打ち切った事、
    河を隔てた「燃える事の無い地権地」の「玉城域の南側」も一部類焼している事、
    「関東の秀郷流青木氏との関係」も不自然に以後打ち切っている事、
    「華族制度への誘い・紀州徳川氏の内示」に対して「青木氏」ではなく「伊勢屋」を前面に押し出し断っている事、
    これに対して「名目」を変えて謝罪してその「返答」を右大臣から直筆で受けている事、
    政府は「一応の手続き」を採ったと観られ、それに依って「献納金」を中止し、その後の失火事である事。

    以上等が挙げられ明らかに「不自然の失火」である。

    以上の事で、筆者は「社会的反動の徒」を煽った「政府の仕掛け」であって、「見せしめの攻撃説」を採っている。

    簡単には「青木氏の存在否定の所以」であろう事がこれだけの「不自然な事」で証明できる。
    先ず間違いは無いだろう。

    唯一「権威と象徴」を有していた「氏族の存在」は「政府」と「天皇家」に執つて、好ましくなかった事に成ろう。
    落ち着いて考えて観れば、少なくとも明治期の祖父の代までは「四掟」をそれなりに何とか維持していたのである。
    これを見方に依れば”「正規の天智系」を維持していた”と成れば、「政治的な国体」からも「排除」と成るは必定であろう。
    これは今でも云えるだろうし、「孝謙天皇の白羽の矢」で騒いだ事の逆であろう。

    この様な事は、歴史的に他にもあった。
    江戸初期の「伊勢の事 お構いなし」のお定め書」である。
    これは裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」に対して周囲が文句をつけた事に他ならない。
    そうでなければ「お定め書」を出す必要は無かった筈である。

    「信長の伊勢攻め」である。
    信長に対して、「伊勢」は反抗していない。
    なのに「無防備な庶民」への「焼き討ちと虐殺6000人」を繰り返した。
    同じく裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。

    「室町期初期の下剋上」である。
    「姓族の支配下」に置かれ、鎌倉期の「旧領地の本領安堵の地」に対して「地権」が壊滅状態に成った。
    これを「巨万の富の獲得」で「商いの力」で「地権」を買い戻した。
    なにも青木氏側は土岐の政府に対して反抗した訳では無いし、不入不倫の権で護られた伊勢であるのに。
    幕府はこれを無視した。
    これも裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。

    前段で論じた様に、平安期初期に於いても、鎌倉期中期に於いても同然である。
    典型的な事象は云うまでも無く「嵯峨期の事件」である。
    「嵯峨期の詔勅と禁令」が出されると云う事は何もなければ出す事はない。
    出すと云う事は、裏を返せば「青木氏の存在」が「当時の政治体制」に問題に成ったと云うことであろう。
    突き詰めれば周囲から「存在の異論」が出て「源氏」で逃げたと云う事にも成る。

    鎌倉期でも、「青木氏」に対して「周囲の反対」を押し切ってでも「本領安堵」を出した。
    ”反対を押し切ると云う事”は、そもそも、「権威と象徴性」を兼ね備えた「氏族」に必要以上に「力」を与えず「本領」を与えない方が良いとする意見が合った事である。
    恐らくは、「頼朝」はこれらの「反対を押し切った事」で暗殺されたのであるから、「青木氏の存在否定」である。
    それが、語るも面倒、「第七世族の坂東八平氏」の反対である。
    「義経の件」も「頼朝」を悪くしているが孤立無援の中で親族を抹殺する事は自らの存在を弱くする事に成り「頼朝の意思」では決してない。
    つまりは、良く似た事であろう。

    要するに、全て「時代の変遷期」に、この「攻撃」が全て起こっている。

    「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
    然し、これが出来ない。
    だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。

    如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
    故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
    この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
    これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。

    > 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」に続く。


      [No.365] Re:「青木氏の伝統 46」−「青木氏の歴史観−19 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/12/31(Mon) 18:15:42  

    > 「青木氏の伝統 45」−青木氏の歴史観−18」末尾
    > 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    前段でも論じていた様に、例えば、「出の嫁家先」が、「位階の持つ氏」や「摂津源氏」や「嵯峨源氏」であるとするならば、そこには「女系の妻嫁制度」や「四家制度」が敷かれて行くか、生まれて行く故と成り得ているのである。

    そもそもは、何故ならば「家の政所(まんどころ)」は、「女性に任される事の仕来り」があったからであり、この「政所」の基の語意の「まんどころ」(政)はこの意味であり、「家政婦」とはこの語源を持つ言葉である。
    当然に「位階の嫁家先」には、従って、「女(むすめ)」が仕切る「政所」は最低限に於いてもこの「女系の妻嫁制度」が敷かれている所以でもある。
    つまり、これは前段から論じている様に、明らかに「四六の古式概念」の「四掟の前提の範囲(血縁の条件)」にある事にも成るのだ。



    「青木氏の伝統 46」−「青木氏の歴史観−19」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    さて、この上記の考察の「年齢」とでは、「入りと出」の「政所(まんどころ)」の「女の性の主張」は左程強くなかったと考えられる。
    これを出来るだけ排除する為に、”「妾の子孫(四家20家)」”の死亡時の「代替わりの掟」があった。
    この時の「母の処置の掟」(尼僧寺に退く掟)が幾つか定められていた事が判っている。
    取り分け、この中でもこの「尼僧寺に退く掟」の「比丘尼寺」ではこれらの下界との一切の繋がりを遮断し切っていた。
    例えば、少しの「出入り」も「重罪の厳禁の掟」である。

    「福家」と「四家20家」には、多くの“「比丘尼」“が「代替わり」毎に出る。
    これが下界(世俗)に出て「不倫不浄」を働けば、「青木氏の沽券」に関わり「四家の信頼を失う事」になり、強いては、「女系の妻嫁制度の信頼を失う事」に成る。
    これの「災い」は絶対に避けなければならない。
    取り分け、次第に広まって行く「女系の妻嫁制度」ではこの「女の災い」は「伊勢」だけに及ばず「青木氏族以上」に際限なく広がる事に成る。
    これは「賜姓五役」の「権威」からも絶対に避けなければならない事であった。
    この口伝や資料の一節を観ると、その「厳しさ」から相当な「決意の掟」であった事に成る。

    この時の「比丘尼寺」には先ず「小山」に合って「下界」から疎遠であって、その寺との疎通で唯一人も入る事は出来ず、老下男一人が食料等を毎日運ぶ「仕組み」と成っていて周囲は堅く囲まれ、その生活は裕福では無く一生を「継承者の仏(青木氏全体の仏)」のみに念仏を捧げる「厳しい掟」であったらしい。
    今から思うと間尺に合わないと感じるが「比丘尼僧の現実」はそうであったらしい。

    検証して観ると、「四家の嗣子の寿命」が55歳として、15歳に嫁ぎ55歳の40年間のそれ以上に長生きすると、「菩提寺の分寺の尼僧」か「比丘尼僧」として、生きて行かなければならなかった。
    「青木氏族の菩提寺の寺名」、その「分寺の寺名」は、又、「秀郷流青木氏の菩提とその分寺」の寺名は判っている。
    そもそも「分寺」があるという事は、「尼僧寺(一族の女)」か「比丘尼僧寺(一族の女)」があったという証に成る。
    強いて云えば、この分寺があると云う事は、当然に「女系の妻嫁制度」かそれに近い制度を「嫁家制度の拡大」で敷いていた事をも意味する。
    つまり、当時はそれが当たり前の事で、“「女の宿命」”でもあり「武家貴族の社会」に於いては疑問の出る処ではなかった。

    そもそも、「尼僧」にも「戒律と掟」があったが、主にその主眼は「戒律」にあって、一族の「菩提寺の分寺」で「人を導いて行く事」に成るのが「分寺の尼僧」の普通だが、然し、「比丘尼僧」は違った。
    取り分け、「比丘尼僧」は「四家の継承者」のみの「菩提」だけを弔い、「密教の概念」の許に「氏人」の「仏」と「人」を導かない。
    依って、「分寺の尼僧」は役目の無い「比丘尼僧」の程の厳しさの程では無かった。
    然し、「比丘尼僧」は優先して「女墓」には刻まれるが、これは「当時の慣習」では「誉」であったのだ。
    それだけに、「代替わり」を待つまでも無く、「代替わり」直前で許可を得て自ら進んで「入妻」から「尼僧」に成った「入尼僧」と成る者も多くあった。
    これと共に、或いは、「女(むすめ)」から直接、「若尼僧」に成る者と共に、養育する「女(むすめ)」を導く「養育係の役目」に成る事も多かった事が書かれている。
    これで「女の性の主張」と「不必要な災い」を防いでいたのだ。

    これ程に、長い間に改善を加えられて「女系の妻嫁制度」は、如何なる「氏族や姓族」にも見られない「生き残りの策」を確立していた。
    これだけの並々ならぬ「努力」は「普通の氏力」では絶対に出来なかったであろう事が判る。これは「氏族と云う絆」の所以に依る。

    更に、付け加えるならば、子供を産めなかった「入妻(いづま)」は、「馬爪」(産まない女・産まず女)、要するに、“馬の爪の様に役に立たない”と揶揄した呼称で呼ばれ、「尼僧寺」に入る厳しい「定めの掟」であった。

    (注釈 「生存時の代替わり」の「継承者」は「隠居扱い」と成る。)

    そこで、「四家20家の継承」は、“「代替わりの空き」”を待つ事に成るので、その「年齢」には制限が無く、依って基本的に高く成り、これに連れて「母扱いの年齢状況」も高くなる。
    即ち、「妻」と逆に成る。
    これで継承の「嗣子の数」を調整していたと観られる。(隠居策もあった)
    これは上記の「男女の本能の差」もあるが、兎も角も、「嗣子」に「仕事の経験させる目的」もあるが、「嗣子」は継承するまで、“「妃、嬪、妾」の「妻」は持てない。
    「嗣子の四家20家」の「仕事の年齢」を若くしても、その「仕事を熟す能力」は若いからと云って、「女性の性の様」にはならないし、「男性ホルモン」を喚起させても女性の「女性ホルモン喚起」の様に早熟する性を持ち得ていない。
    飽く迄も、「三段階の体の成長」を遂げないと、その「仕事も性」も「男性の能力」は喚起され得ない。
    従って、「嗣子の継承年齢(四家20家)」を敢えて定めていなかったのである。
    つまり、「妻を持つ事」は、「四家」を「継承しての権利」である事に成る。
    これも「入妻の掟」と成る。
    結果としての傾向は、「嗣子」と「入妻」のその差は、次の様になり「女系の妻嫁制度」にはある一定の重要な意味を持つ事に成る。

    例えば、「入妻」は、上記の検証の通りの様に「15歳〜20.5歳」であるとすると、「嗣子の継承年齢」は、「寿命55歳」とすると、男性は「三段階の成長(初夢)」を遂げるのには、上記で述べた様に、「女性の脳」での反応では無く、「前立腺の成長」が起因しているので「進化の過程」では早くなる事は低い。
    現在では、「初夢」は、定まった「三段階の体の成長」が無い限りは最低で「15歳頃以上」と成っている。
    ここが「三段階の体の成長」が無いところが「女性」と違うところである。
    従って、女性に於いては上記の様に「脳の刺激」に依って、「女性ホルモン分泌」が高く成り、「体の成長以上」に早くなる事は起こるが、男性にはこれが無い。
    簡単に云うと、「女性ホルモンの分泌」を「脳の刺激」に依って促せば、その「女性ホルモンの分泌」に沿って「生殖可能な全ての体」がそれに合わせて備わって行く事に成る。
    「生殖に関する年齢の分岐点」が無い事を意味する。

    判りやすく云えば、「脳の女性ホルモンの分泌」の「刺激方法の強弱」にも依るが、際限なく早く起こる事も云える。
    外国資料に依れば、「5歳児」で起こった史実も資料も観られる。
    この「初潮の有無」を別にすれば、0歳児からもその意味の理解は別にして、「初期の行為」の発表もある位で、これは内外を問わず一般に認められている事でもある。(体内に於いてもその行為が観られる。)
    この「初期の行為」が「初潮」を早める結果とも成る。
    因みに、豊臣秀頼の妻、「家康の孫の千姫」は、「初潮の有無」は資料では明確ではないが、政略的意味合いは別にしてその「能力」を保持し「9歳」で嫁ぎ、その後の「妻の役目」を果たしている記録があるは、上記の事斯くの如である。

    逆に、男子はこの「生殖に関する年齢の分岐点」があって、「男性ホルモンの脳の刺激」などに依って「生殖能力」は生まれない。
    脳に遺伝子的に記載された変化する事が無い「人体プロセス」に依って、即ち、「三段階の決められたプロセス」に従って、これに達しない限りは「生殖能力」(初夢)は起こらないのである。
    従って、この「年齢差」は極めて少ない事に成る。

    そうすると、この事を前提に、計算すると、「現在の平均寿命(生殖能力の精子の老化限度)」は、男子65歳以下とされ、「栄養分の改善」などに依って、その「体の成長の過程比」に影響され、それは、65歳/55歳=1.2と成る。
    当時の寿命の55歳は、「人体プロセス」に従う事より、65歳以下の年齢と成る為に、寿命と成り得ていても、「精子の老化年齢(数は影響)」には無く、この比は成立する。

    即ち、15歳*1.2=18歳  と成る。
    つまりは、「18歳頃(上限)」が、現実の生殖可能な「初夢」と成る。

    そうすると、上記の「女子の初潮年齢」は、「10歳」として「20歳」以上が計算の上では「卵子の老化年齢」であった事に成る。
    「卵子の老化年齢」は、男性の「精子の老化年齢」とは少し意味が異なり、確かに、「精子の老化」は多少は起こるが、主に「精子の生産数が激減する事」の意味の方が大きい。
    取り分け、男性の場合の「精子の老化」は、「生殖」はあっても「無精子」という事が老化に依って起こり、「三日に一回毎の精子の畜生産」はこの傾向が強いのである。

    「夢精の初夢年齢」は「三段階の成長(初夢)」が必要な為には、当時は、「初夢の有無」は別として「大人」として扱われる「元服」は、「15歳」と成っていたので、「生理的な年齢」の計算の上では、この事から「15歳」から「18歳」という事に成る。

    然し、「生殖」は可能かどうかは別として、恐らくは、資料から鑑みると、「男性の三段階の体の変化」の内の「二段階くらい」は終わったのが、「15歳頃」として「三段階目」が始まる事があったのであろう。
    故に、ここを「元服15歳」としていた事が考えられる。
    実際は、計算の通り「18歳頃」にあったと観られる。

    この「成人期(大人・一人前・男性)年齢」の計算値の「18歳」は、「四六の古式概念」でどの様に考えられていたかと云うと次の様に成る。
    「四の倍数」では「16歳」、「六の倍数」では「18歳」と成り、「基準」としては矢張り、「18歳(〜16歳)」であった事に成り合致する。

    この「四六の古式概念」を敷いていた事もあって、「15歳」を超えている事から、又、「人の差」にもよる為に、「何らかの理由」があり「確認」の上で、「16歳」も「特例」としてあり得たと観られる。

    参考 原則、「精子の老化」は65歳頃とされていて、「性欲の限度年齢」は76歳頃であると成っていて、従って、当時の平均寿命55歳は、未だ65歳には達していないので「男性の生殖能力」は、「寿命」に変化はない事から充分にあった事に成る。
    「卵子、精子の老化」の限界年齢は、「亜子の可能性」と、「生殖の成功率」に大きく左右し、「妊娠出産能力の限度年齢」とも成る。

    従って、「寿命55歳」として、「四家継承の年齢」は、計算では最低でも「18歳」と成るが、ここからあらゆる「継承」に必要とする“「経験期間」”を「最低5年」と仮定し、「空き」が起こる期間を待つとすると次の様に成る。

    当時の寿命の「55歳」が限界で、「停年」が現在では60歳/70歳(活躍年齢)=0.85の比と成る。
    つまり、計算値としては、「55歳*0.85」=「47歳」が「停年の限界値」と成る。

    この「停年の47歳」に「四六の古式概念」を宛がうと、「4の倍数」では「48歳」、「6の倍数」では「48歳」と成り得る。
    従って、恐らくは、「当時の四家の停年年齢」は「48歳」であった筈である。

    さて、この継承は、「20家」に分散適用されるので、その確率は、一斉に起こったとして、「係数0.05」と成る。
    従って、「47歳」*0.05=2.35年〜2.75年と成る。
    つまりは、「約2〜3年程度の空き」を最短で待つ事に成る。

    故に、18歳を基準に、結果として、「修行期間」が5年+3年=「8年」と成り得る。
    結果として、遅くても18歳+8年=「26歳の継承年齢」と成る。

    さて、そこで「入妻」は、15歳/55歳で、「嗣子の継承者」は、26歳/55歳と云う事に成り、「答えのその差」は、15歳−26歳=「約10歳」の差と成り得る。

    故に、「妻と継承者の間」には、「約10歳の差」があった事に成る。

    さて、そうすると、この「継承年齢」の「基準」はどこにあったのかと云うと、計算の「26歳」は、「四六の古式概念」を宛がうと、「四の概念」で云うと「24歳」か「28歳」と成り、「六の概念」で云うと、「24歳」か「30歳」かに成り得る。
    結局は、当時の「継承年齢の基準」としていたのは“「24歳」”と云う事に成る。

    そうすると、「入妻」として「最長で40年間」は「妻」と成り得て、(又は比丘尼僧)、「最低で32年間」は「母」、(又は尼僧)と成り得る。

    尚、殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は原則は無い。(女系の妻嫁制度の掟と仕来り)
    何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる。

    飽く迄も、つまりは、「女(むすめ)」も「義母」も、「四家20家の全体」の“「母」”であって、特定の「四家20家の個々の母の扱い」ではないのである。

    (注釈 上記の継承年齢や停年年齢等を要領化とした本があった筈であるが、恐らくは、「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられる。
    残るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて、その中での散見で紐解いた事であった。
    そこに論理的な計算を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)

    この「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれた。
    この「重要な呼称」と成る“「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。

    同様に、「公的な記録」としては、例えば、「光仁天皇期」の「斎王」や「王女」等に成る事を拒んで、故意に「伊勢青木氏の四家」の”「後家」”に成ったとする事が公に二件記録されていて、一人は「叔父の後家」、もう一人は「兄の後家」に入ったとされている。
    そもそも、幾ら血縁性を重んじていたとしても、「叔父」や「兄弟」との”「後家」”による「近親血縁」はあり得ないが、これは明らかに「政略結婚」や「その政争」、又、その「斎王や王女の人生」を拒んで“「後家」”を「隠れ蓑」にしていた事を意味する。
    「青木氏の資料」には、逆に「女(むすめ)・ひいさま」の段階で、「斎王」、或いは「斎院(斎宮)」を積極的に希望して逃れた記録もある。

    ここで注釈として、先ず、この「後家の表現」がこの「公的な記録」として出て来るのは「伊勢青木氏の光仁期の事件」が最初であり、「伊勢青木氏の資料」ともほぼ一致する。
    これは重要な「青木氏の歴史観」である。

    次に「青木氏の歴史観」として「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。

    「青木氏の資料」で垣間見ると、本来は、「公的な記録」では「ひいさま」ではあるが、“「ひさま」”であり、「い」は「青木氏の守護神」は「神明社」である事から呼称は「韻の発声」として使われる「慣習仕来り掟」があった。
    依って、「主韻」の「ひ{敬いの意}」と、「韻」の「い」とで「ひいぅ」となる。

    次に“「ひごさま」“に付いては、上記の「ひ{敬いの意}」と、「ご」は矢張り「韻」で「御・こぅ」としている。
    「御」の「ごの濁音」は「韻」に連動して「言葉の品格」がないとして、「こぅ的か、おぅ的」に「韻音」とする発音で「ひこぅさま」か「ひおぅさま」と成るとある。
    依って、「ひ御」は、要するに「御母の漢文的表現」となる。
    但し、そこで「ひ」の漢字は、古代では“「ひ」”の語源は“「妃、又は嬪」”から来ていて、“「御」”の語源は“「后」“から来ている。
    何れも「妻嫁制度の后妃嬪妾」の制度から来ているのである。
    平安用語では「嬪」は「ひ」、或いは、「ひめ」と呼称する。現在でも同様である。
    筆者の研究では、奈良期の古代は「義母」も「女(むすめ)」も元の発音は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えていて、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。
    ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母」と「女(むすめ)」の呼称を「ひ」に対して「義母」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
    「女(むすめ)」に対しては「ひぃさま」の呼称で遺した。
    そこで漢字の宛がい方では「義母」に対しては「ひ」には「妃か嬪」に「様」を付けるとしていた。
    然し、「女(むすめ)」の宛がい方は、古来の漢字表現は“「比売」”としていて“「比売様」”と宛っていたとしている。
    「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。

    注釈として、これに付いては「青木氏」で無くては判らない「重要な青木氏の歴史観」を述べる。
    上記の「比丘尼(びくに)」は「サンスクリット語」ではあるが、仏教伝来時はこの「比丘尼の役目」は「巫女の役目」と同じ務めをしていた。
    「女(むすめ)」の古来語は、上記の通り”「比売」”で”「ひいさま」”としていたが、この「神明社の巫女役」に近い務めの「仏教の比丘尼僧」も”「比丘(びく)」”と呼称して「比」の「ひ」を使っていた。
    前段でも論じたが、「仏教伝来時」は「社も仏」も「同源(神仏同源)」のもので、「皇祖神の子神の祖先神の神明社」は、「巫女(生女)も「比丘(女)」も”「神に仕える役目」”としては区別は無かったし、そもそも「区別の概念」も無かった。
    従って、”「比売」”も”「比丘」”も{同源}と考えられていて、そこで「神に仕える身」から「敬いの意」の「比(ひ)」が使われ「韻」の「売」も「丘」も共に使われた。
    この「古来の伝統」が「女(むすめ)の意味する伝統(神に仕える身)」としてM「青木氏」に最近まで伝わっていたのである。
    但し、この「比丘」に対して「比丘と比丘尼」は「比丘は男性」、「比丘尼は女性」の得度者と云う風に「鎌倉時代」から一般ではその体質を元の差別的な方向に変化させて行った。
    元々、{釈迦の比丘尼}の{発祥経緯}から仏教伝来時の奈良期と平安期までは、この「古来の伝統」を引き継いでいる「青木氏の比丘尼・巫女」の様にこの差別的概念は消えていた。
    「青木氏」の「女系の妻嫁制度」に依る「基本概念」と、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の神明社」からの「基本概念」からと考えられる。
    これは「青木氏の概念」に、沿って、寧ろ”消した”と考えるのが妥当と考えられる。

    注釈に鑑み、何故に「青木氏」だけが”「韻を踏む」”かと云うと、当然に「賜姓朝臣族」で、「皇族系の伝統」を形を変えながらも引き継いでいる事には間違いは無い。
    然し、皇族とは何もかもが同じと云う訳では無かった事が判る。
    上記の「妻嫁制度」や「四家」などの制度を特別に構築している事から変わる事が起こる。
    然し、この「韻を踏むと云う事」に関しては上記注釈の様に「伝統の継承」をしているのだ。

    つまり、そもそも、「韻を踏む」は、前段でも論じたが、「人類の言葉の初期の発声」は「母音の四音・あおうえ」と「父音の八音・ちいきみしりひに(ヰ音の横の段・奇声音」との「32音の組み合わせ」から「初期の言葉」が起こった。
    その「初期の言葉」の元は「母性の性交時の発声類音」が「母音の元」と成っている。
    「父音」は「猟時の仲間との暗号」としての「奇声音」が発露と成っている。
    この「母音と父音」の「組み合わせの音」が「韻音」として成立する故に、「皇祖神の子神の祖先神の神明社」は「民の神の道祖神」と「稲荷社」と共に「最も古い社」であり、「祝詞」はその語源は結局は「韻を踏む発声」と成り得ていたのである。
    故に、この「伝統」を色濃く引き継いでいる事から「母音に繋がる呼称・母性系の言葉」には「韻を踏んで発音する仕来り」と成っている。
    恐らくは、この「伝統」は最終は「伊勢と信濃の青木氏」だけに遺されたのであろう。{伝統−4と伝統−24に記載)

    ところがその後、室町期中期以降に民から身を興して{姓族}の豪族に席巻された。
    この時、「姓族の豪族」の「女」に対しては「ひ」の「姫の語」の適用を室町期に成って起こった。
    豪族と家臣との間には「契約」に基づく「臣下契約」が果たされ、この事で「主君の女」に対しても「それ成りの礼節」が求められた。
    「姫」の字は「女辺」に「臣」が着いているが、「臣」の字体は「人のひれ伏す形」から来ていて、この事から「女と臣」の結合語は室町期初期の字体である。
    「姫」に「平安期の慣習」を用いて「ひ」と表現させて「ひさま」と呼称したのである。

    つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはなかった。
    これは「賜姓臣下族青木氏」に於いても同様で、その「古代の皇族の慣習仕来り掟」をそれなりに引き継いでいる事により、「女・女(むすめ)」に於いては「女と臣」の位置にはなかった。
    「女(むすめ)」の処で論じた様に、その「女と臣の概念」がそのものが無かったと云える。
    「女系の妻嫁制度」のシステムを考えれば「郷士、氏人、家人」から「福家の女(むすめ)」に成って養育する事から明らかに「横関係の家族の位置」に合って「家臣の位置」には無い。
    従って、「青木氏」には「女(むすめ)の概念」がある以上は、この「姫の用語」は使われる概念ではなかった。
    もつと云えば、「女系の妻嫁制度」が敷かれている以上は論理的にも「姫の概念」は「青木氏」には当然に起こらないし、資料や記録からもこの「姫の用語の使用」は発見出来ない。

    仮に「姫・ひめ」として観るならば、「青木氏」では「神明社」である為に「姫」では無い事は明らかであり、且つ、必然的に「韻」を用いる事に成り、この為に「き」であり「きさま」と成りあり得ないのである。

    注釈の前の「後家の話」に戻して、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成り、結果としてそのプロセスは同じ事に成るからである。
    上記の注釈の「姫」では無い事の一つとしてこの「斎王の館の存在」がそれを証明し姫が斎王の館に入る事はどの様な仕儀の変化があったとしてもあり得ないが、依って「姫」は「後家」に成り得ないのであって「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる。
    形式上、“「後家」”に成ったとしても、その後の扱いは、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
    「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無い。

    「姫」との違いはこの程度として「斎王の里の館」の中でも、「福家の養育過程」の中と同じ環境で、且つ、全て一族の「女(むすめ)」の姉妹なのである。
    従って、「特別な違和感」が無かったと考えられ、「政争」からの「逃避地」としてはこれ程に都合がよく安全で格好の良い「隠れ蓑」は無かったと考えられる。

    一方、上記した様に「斎院、斎宮、物忌、支女」と成る事は、「必然の定まった道」が出来ている事に成る。
    この「物忌」を務めれば、多くは最終は「斎院・斎宮」や「支女」として「斎王の里の館」に入るのである。
    「青木氏族」に執っては何の問題も無い。

    この「制度の状況」は、「四世族」まで適用されるので、平安期初期の前後(770年頃)は、「伊勢」を始めとして賜姓族の範囲の「近江、信濃、美濃、甲斐」まで、適用されていた可能性があった。
    現実に近江にもあった研究記録があるのでこの事は云える。

    その後、「最盛期の光仁期(770年頃〜780年頃)」では、「四家制度」を敷いてその制度が徐々に改善されて行き、「伊勢」を中心としたものと成って行って、「女系の妻嫁制度」が改善され確立するに至った。
    そして、先ずは、「位階の持つ青木氏族の嫁家先」に広まって行ったのである。

    そして、その当に「光仁期」からは、「青木氏族の子女(「女(むすめ)」」は、「伊勢の範囲」からは「四世族(王女宣下の範囲)」と成るので、当然に「伊勢−信濃間の血縁」のより進んだ「信濃の四家の妻嫁制度」の「女(むすめ)」にも「王女宣下」が適用される事に至り、この後の「政争」から逃れようとして「後家の隠れ蓑策」は「青木氏族全体」に及んでいた事は確実である。
    記録からは観る事はできないが、「斎王の館の存在」や「親族である事」からも「女(むすめ)」や「妻嫁制度」の中に組み入れられていた可能性が充分にある。(散見無し)

    (注釈 資料を読み解くと、この「信濃」では先ず第一に「数少ない神明社」を「隠れ蓑策の設備」に使った可能性があり、第二は伊勢に逃げる事に成ったと観られる。
    それは「伊勢」とは異なり信濃の周囲は「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って弱い処を狙って渡り歩く「国衆」の多い地域として知られる程に安全では無かった。
    「信濃」は平安期はそれなりに「不入不倫の権」で護られていたが、「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
    「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは間には衰退した美濃域があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。)

    この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃)」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
    その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。
    恐らくは、これは「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」が外れた「二つの事」が原因していると観られる。
    「後家の隠れ蓑策」が、「皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。

    ところが、然し、「伊勢青木氏」の中ではこの「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、口伝で伝えられる範囲ではある程度の形を変えて明治35年まであった事が書かれている。

    この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。
    先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。

    次の二つは、一度、「出の嫁家制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この者は「尼僧」に成るか、「後家さん ロ」として通すかにあった。

    この「ロの後家」は、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの若い者であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
    そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
    これには「無い」と云うよりは一度、「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上その後の人生を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。
    つまり、「戻す事の方」が両者に執って都合が良かったのであろう。
    「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者もいた事が記されている。
    但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様で、これは「女系の妻嫁制度の信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。

    この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。

    この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも使われる範囲は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が便利な呼称として使われていた。
    それには、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていた。

    然し、明治期の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は平等主義に託けて「揶揄」へと変化して行った。
    「主家の存在」のそのものが次第に庶民から敵視されて行った。
    この時、「青木氏」も同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で、その中でも但し、「殖産の恩恵」と「氏人の過去の関係」から、更には元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、「地権」を払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていた。
    端的に云えば、「氏上様」や「御師様」から「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。
    (明治35年頃の変化の記録がある。)

    その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられて、台頭する社会主義的勢力の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
    「伊勢青木氏」ではそれまでの経緯からかなり手厳しく遣られた事が判っている。

    (注釈 この様な言葉は、当然に、「四六の古式概念」に基づく古来の「古式概念に依る制度」を確立させる為の「重要な欠かす事の出来ない仕来り」であった。
    この様な「歴史的用語」は、この「後家」も含めて「青木氏族の慣習仕来りの掟」の中にも多くあり、その「青木氏族の伝統」そのものが敵視され、その「思惑の対象」と成った事が口伝でも明確に伝えられている。
    その一つの例としては「四六の古式概念」等を含む“「密教の概念」”であった。

    (注釈 お便りで「信濃青木氏」でも起こった事が伝えられている。
    これはまさしく特異としての「氏族」の「青木氏そのものの否定」であって、「後家」から始まった否定は「青木氏の伝統や慣習仕来り掟の否定」でもあった。
    極端に云えば、大正期には家の中にある「伝統に関わるもの」は全て隠した事が伝えられ、昭和20年初め頃には筆者も天井に何故か先祖の遺品の骨董品や多くの資料があるのを確認している。)

    「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
    そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院」等も、本論で論じている「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。

    これを証明する言葉としての注釈は、 最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
    つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
    恐らくは、これは「青木氏」が独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。
    又、そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。

    ところで光仁期の中期頃から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
    「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいた。

    この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族」の制度では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。

    (注釈 「後家」に対して「分別する呼称」は無かった。
    依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」を云う。
    上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
    結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて人を説き、導きをする事は至難であったらしい事が読み取れる。
    然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事は必要であったらしい。

    取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
    そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
    「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
    従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
    云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味で戻る事があったらしいが、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。

    そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
    然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
    「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)」の範疇に合ったとしても其処には「生女」ではないと云う基準がある。
    従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。

    前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
    この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
    従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
    この場合の処置が難しかった事が読み取れる。

    それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
    この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
    「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
    資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
    これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
    この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
    「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。

    (注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に記録から垣間見れる「恐怖の抑止力」であった。
    それ程に恐れられていたのだ。
    故に「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が可能と成っていた。
    尚、室町期では「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。)

    況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも保護施設として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
    従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。

    そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
    「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
    多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
    然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
    「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
    それは、「斎王の里の館」にである。
    そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い「女人(女官)制度」があった。
    凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
    この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。
    況して、そもそも、「平安期」には「四掟の家」は「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅の源氏賜姓」の禁令文面にもある様に、更には元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」を支える「その力」が既に無かった。
    当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。(仁明期頃)

    前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは賜姓を外れた事で、「賜姓五役等も)」を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。
    (これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)
    これを最低限に、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。

    「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
    この“「多気の里」”は、“「斎王の里」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
    この段階(嵯峨期以降)では、最早、「斎王」の云々では全く無かった。

    (注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)

    だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。

    「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない」を出していた。
    「青木氏の概念」としては「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。

    (注釈 そもそも、「斎王」は、王族やそれに準ずる者から嫌われて仁明期以降(青木氏の直系尊属)から成る者は少なく成っていた。
    筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期−嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
    記録的にも、「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
    そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、「世にでない記録」として遺さない様にする為の奇策であったらしい。)

    従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
    当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。

    つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
    松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
    “「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
    「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
    「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。

    ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
    それは、この“「後家」”そのものなのである。
    前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。

    この「言葉」が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
    この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、「家」と云う言葉にある。
    その前に当時として、“「家」”とは、“「公家」”の「家」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語」である。
    「高い格式を持っていた言語」であった。
    要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。
    ところが、江戸期に「姓族」が、「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
    唯、現実には、「氏族」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
    その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。

    (注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)

    “「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄を示す用語」であった。当然に「家」に着く「侍」も同然である。
    「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。

    「施基皇子の賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
    そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」(家)とされた。
    この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。

    「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家、即ち20家と郷士族50」で構成していたという事に成る。
    従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
    「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「氏族」として認められた事に成るのである。
    当然に、「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以である。
    従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成る。
    当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
    つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。

    「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」

    以上の関係式が出来る事に成る。

    「秀郷流青木氏」は「青木氏の補完役の策」として「賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」として認められ、その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏の家」が認められた。
    そして、「冠位と官位」でそれを証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」を与えられたのである。

    従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
    「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
    つまり、上記の「氏族=家=武家=氏上=氏人=家人の関係式」が成り立つのである。

    そもそも、そこで「姓族」には、次の二つがある。
    (a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族」
    (b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族」

    (a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
    天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
    但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
    この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。

    「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
    故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
    これがその論理的証拠である。

    前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
    この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。

    (注釈 「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」を認められていないから、従って、「分家」として発展し、つまりは、「一つの家」を「分身の様」に分けると云う理屈と成る。
    故に「分ける家」なのであって「家」を別段に興していない理屈に成る。
    依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。)

    従って、この「後家」は「姓族」には論理的には起こらない言葉と成る。
    そもそも、「後家」は、「後宮」に通ずる言葉であり、皇室の「宮」、即ち、「氏族」の「家」であり、「家」は「青木氏族」の様な「氏族」のみに「後家の言葉」(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。

    「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
    この場合は、「氏族」を朝廷より外される事に成る。

    (注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う高位の特別の格式を有する事により「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
    361氏と云う「分家」が特別に認められた。
    依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍ら”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)

    従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
    当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様)」だけなのである。

    (注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
    庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
    庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた数々の氏を構成する制度が異なっている。)

    故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」に成り得たのである。

    この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
    当然に「後家」もである。

    (注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
    少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。)

    「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家の天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
    これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」)として、“「後家」“と云う呼称を使って、公然とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。

    (注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
    「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を「巫・かんなぎ女」と呼んでいた事が判っている。
    この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
    当然に「後家」も務められた。
    どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。
    だとすると、「500社弱の神明社」に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
    「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ女」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。
    「「五家五流青木氏」は勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
    但し、江戸期初期には全て「青木氏」からの「かんなぎ」は停止したとある。)

    それが最初の“「後家」の呼称”であった。
    正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
    そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
    これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
    将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
    「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
    「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
    これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
    ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
    恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
    これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
    これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
    故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
    この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。

    > 「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」に続く。


      [No.364] Re:「青木氏の伝統 45」−「青木氏の歴史観−18」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2018/11/21(Wed) 15:27:53  

    「青木氏の伝統 44」−「青木氏の歴史観−17」の末尾
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


    つまり、「現在の概念」で云えば、「出」の「嫁家」から「養女(実際は娘の概念)」として、再び、「四家の青木氏」に戻し、そこから、再び、「出」の「嫁」として出るというシステムである。
    この「女系で繋がる縁戚関係」が無限に増えるという「仕組み」である。

    注釈として、「遺伝子」のレベルでの理論では最も「正統な血縁」の「仕組み」と云える。
    それは、前段でも何度も論じている事ではあるが、「人の遺伝子」は「女」が引き継ぎ、母から引き継いだ「男」の持つ影の「人の遺伝子」はその子の「女子」に引き継がれる。
    と云う事は、「女子」に全て引き継がれ、「人の遺伝子」は「族の範囲」で融合して行く事に成る。
    結論としては、「遺伝子的」に云えば、「女子」で繋がる方が論理的には「族の結束力」は、意識するかしないかは除外され、高まっている事に成る。
    但し、この説は、その「族の娘」に「婿養嗣、或いは婿義嗣」を迎える「女系」ではない。
    つまり、況や、「女(むすめ)」)の範囲で成り立つ論理である。
    況や、「女系」と云えども、飽く迄も、「四六の古式概念」の「四掟」の「妻嫁制度」と「四家制度」の範囲で制限を求めて成り立つ論理と成る。
    これが、「青木氏族」が執っていた制度という事に成る。

    従って、本人の意識外の外で、好むと好まざるに関わらず「同じ族内の遺伝子に依る結束力」が発情する所以と成り得る。
    これが他と異なる「青木氏族」と云う所以であり、周囲からは「異様」と成り得るのだ。

    故に、これを考えた「施基皇子の血筋」を持つ「女系子孫」の「青木氏の氏是」と成る。
    何度も色々な面から論じているが、「青木氏の氏是」が徹底して長く守られた所以である。

    要するに、但し、「四家」は純然とした「嗣子の男子」で継承し、それを「女系」で補うという「特異なシステム」に成る。
    「娘」に「無縁の義嗣(婿取り)」を迎えて「家」を継承する「女系」ではなく、「最小限の血縁の四掟」を守れるシステムと云える。
    これの前提は「氏を構成していると云う前提」に依って成り立っている。



    青木氏の伝統 45」−「青木氏の歴史観−18」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    「氏の構成条件」とは、つまり、上記で論じた「氏の条件的な血縁の論理」に基づいての「氏の中」での「出と入りの仕来りの制度」という事に成る。

    然し、筆者は、この「室町期の血縁」に於いて、この「制度維持」に於いて、この難しい時期は、同時に「血筋を豊かにする必要期」にも入っていたとの考えを持っている。
    どう云う事かと云うと考察すれば、そもそも、「四掟」に依る「妻嫁制度」を、“「青木氏」の制度として義務付けていた”としても、この「対象の氏族」の「位階」から観ても、確かに平安期初期の嵯峨期(「新選姓氏禄」から)には最大時は「150の氏族(皇族ではない朝臣族含む)」に限られていた。
    この記録上では、「150氏族」であっても殆どは衰退して滅亡していて、「妻嫁制度の対象」と成り得るのは、恐らくは1/4以上(40氏族・記録は48とある)はあり得ないだろう。
    これであれば現実に「男系の妻嫁制度」は論理的に「氏族」としては取り得ないであろう。
    そもそも、「男系の妻嫁制度」は論理的にはあり得ない話であるが、「妻嫁制度」は「女系」にて成り立つものである。
    一時、経緯としては「平安期」に向かって倍化し、鎌倉期には5倍に増加し、室町期中期には平安期程度に戻り、室町期末期には半減以下の激減した経緯があり、「氏族」からも観ても大差はない。
    現実的には可成り難しい状況であった様である。

    当然に上記した「氏の定義」(「新撰姓氏禄」では48氏)からすると、それを守れる制度を敷いているのは、半減どころではなく数える程(5氏程度)に成っていたであろう。
    筆者は、そもそも「氏の制度」を守ると云っても、先ずは「無償」で出来る訳では無く、これに「経済的裏付け」が無ければ成り立つ話ではないと観る。
    依って、現実には“「商い」”を奈良期から興していた「青木氏族」の「1氏族」しかなかったと観ている。
    「大きな武力」を持たない、或いは、「強い抑止力」を持たない「公家族の北家摂関家の藤原氏」も乱れる「荘園制」で、この「経済的負担」に責められていた事を考えれば無理であったと観ている。
    そもそも、「天皇家」さえもこの「経済的負担」には喘いでいたのであり、その証拠に明治まで永遠と「青木氏」が「献納」を続けていたのはこの証拠でもある。

    (注釈 前段でも詳しく論じたが、「皇親族、令外官」から外され、密かに「献納の形式」を護る為に明治期まで「紙屋院」、「繪所院と預処」を務めていた。)

    現実には、この「氏族維持の血縁」の「難しい状況」は「奈良期からの事」であって、「青木氏の始祖」の「伊勢王の施基皇子」の母は「人質」として入廷していた「妾」の越前の「地方豪族の娘」の「越道君郎女」である。
    この「対象族の40族」であったとしても、「四掟」等の「掟」に叶う「対象の氏族」は、嵯峨期以降の「生活力」から観て、同じような「家系制度」を敷き得る「氏族」は,1/2〜1/4程度以下と考えられる。

    (注釈 現実に、「嵯峨期詔勅」には、“朝廷では賄いきれないから「賜姓」はするから自分たちで勝手に立ち行く様にせよ”と「皇位の者(「源氏族」)」に云っている。)

    結局は、「四掟等の仕組み」を保とうとすれば、「仕組み」としては「20程度の氏族」との何度も「繰り返しの血縁」と成り得る。
    当然に、ある年数が経つと「同族血縁の弊害」を生み出す事は当然の結果と成り得る。
    そこで、これが、「四家制度と家人制度」を補完する「同族血縁の弊害」を無くす「影の制度」、即ち、「四家制度の前提」と成る“「妻嫁制度(女系)」”であったと考えられる。

    (注釈 「人の遺伝子の継承」から起こりにくい。但し、一度、「悪幣の遺伝子」が持ち込まれると永遠に「女系」の中で引き継いでしまう事に成り得る。
    それだけに、「入りと出」の「悪弊のチェック」が先決事項と成る。
    「女系の妻嫁制度」でも然る事乍ら、「男系の氏家制度」の中でも江戸期の末までこの「亜子の始末」は「周知の約束」として生誕時に公然と行われていた。
    従って、この「女系の妻嫁制度」でも「掟」として、その母は「比丘尼寺」などに幽閉された。
    「優性保護法」はこの概念の名残である。)

    これはあくまでも、最初は「原則の掟」であった様で、良く調べると、中には、「位階六位の家筋」(宿禰族 「新撰姓氏録 参照」)も可成り含んでいる。
    主にこれは「家人」と観られるが、資料に「准氏上」とあるは、この「位階六位の官位」を授かった「氏人の家人」であろう。
    筆者は、「朝廷との繋がり」の「主執事を務めた神職」も含まれていたと考えているし、「家人」を務めていた可能性がある。
    そうすれば「位階」を持つ事には違和感は無い。

    (注釈 例として「橘の宿禰族」があるが、この一族は「橘諸兄系の青木氏族」であり、「敏達天皇の四世族同門同宗同族」に当たり、同じ系列の「青木氏族」であるが衰退はした。
    然し、この一族には「神職の位階の持つ者」が多い。
    従って、同様に、「真人臣下族で朝臣族」であった事から、「皇祖神の子神」の「祖先神」の「神明社の神職」などを務める「青木氏族」と成れば、将又、「朝廷との調整役」の「執事」を務めていると成れば「位階」を持つ事には疑問は無い。
    「家人」であっても「同様の務め」を果たしていたので、不思議はない。)

    この場合は、「永代の従四位下までの家筋」か、或いは、「青木氏四家20家」に、妻嫁先の、一度、「稚児」の頃から子(「義嗣の養女」は除く)として入れて育て、「優秀な女子」を選択して原則を護っていた様である。
    取り分け、位階の持つ「入りの妻」は元よりこの「掟」が公然としていたが、そうでもなかった男系から持ち込まれる可能性のある「妾子族」には「厳しい掟」として充てられた。
    奈良期からの「位階の持つ族の掟」で多くの記録が遺されている。

    (注釈 例えば、前段で例として論じているが、念のために「大化期の軽皇子」も「亜子」であったが、祖母が懇願して遺したが、短命で死亡した。
    多くの事例が記録されている。)

    この“「優秀な女子」(女 むすめ)”が其の侭に「妾」として位置づけられる事が起こった。
    つまり、これが「四家制度の女系化」であろうし、「妾子の族と成る所以」でもあろう。
    これで行けば、「江戸期初期」を待たずしても「女系」では、充分に「血縁出来る能力」が未だあり、最速で「1385年頃の室町期初期」には「対象族」として「血縁」が行き渡っていた事にも成る。
    最遅でも、「1495年の室町期中期過ぎ頃」には、「妻嫁制度」と「女系策」に依って「伊勢郷士衆との血縁関係」は「伊勢域の全範囲」では行き渡っていた事を論理的に示す。

    数理的に観てみると、これは「四六の古式概念」の「4の最大」としても、「1の最小」でも「江戸期初期」まで充分に成り立っていたので、「2の中間」として考察すれば、「室町期中期頃」には、「35/50の伊勢郷士衆」との少なくとも「1回の血縁関係」は済んでいた事に成る。

    「35の伊勢郷士衆」の「妻嫁制度」の「女系策」等により「枝葉関係との血縁関係」、つまり、「複数の血縁関係」としても、江戸初期頃には、既に、郷士との間では全て「血縁済み」として終わって居た事に成る。つまり、何重にも血縁に依る氏人関係が出来上がっていた事に成る。

    「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」も「四家制度」を敷いていたので、両家の「四家の20家の嗣子」を補完した上で、且つ、「相互の跡目」に入る事はあった事も考慮して計算しても、「位階」の「有り無し」に関わらず、“「家人」”としての「三つの組織」の「郷士」の「跡目や嫁」に入る事は、「4の倍速」から観ても、「江戸期初期」は勿論の事、「室町期末期前頃」には既に完了していた事に成る。

    これが、他の国の「500−250と云う郷士数」からでは、成り立つ話では無かった事に成る。
    上記した様に“「伊勢の環境」”であった事からこそ成り立っていたのである。
    「結束力」が国の中で来ていた全体に「氏族」として出来上がっていたのである。社会科全体が最早、全てが「姓族の中」でである。
    注釈として、それだけに、他国と違って「敵対する郷士」が無く、“結束は固かった事”を示し、「伊勢シンジケート」の構築や、「殖産興業の進展具合」が比較的円滑に進んだ証拠とも云えるのである。

    上記の「伊勢郷士」や「伊賀者(甲賀含む)」との「血縁の繋がり」は、この様な「女系による妻嫁制度の論理性」が成り立っていたのである。


    尚、ここで、もう一つの「重要な掟」と成るは、「青木氏の四家の嗣子」が、“「家人」”と成って、独自に「家」を興して「別姓」を名乗って「郷士」と成るケースは、「姓族の原因」と成る為に「純血性を護る四家制度」の「禁じ手」ではあった。
    これは「氏族」がその「構成の前提」にあったからである。

    それは、論理的には「四掟」と、即ち、「同世男系」「同祖祭祀」の「補完掟」に合致しない事にあった。
    あくまでも、「嫁家先の制度」に依って「既成の家人」から先ず「青木氏」を興し、そこから「四家の養女」(「女(むすめ)」)として入り、そこから「郷士の跡目の嫁」に入る「仕組み」(「女系策」による「嫁家先制度」と「妻嫁制度」)に成っていた。
    現実には、上記で論理的に論じた様に、「福家と四家20家」に跡目を入れて、その上で「嗣子」では「氏人の郷士の跡目」に入る余裕はそれ程に無かった。

    つまり、「四家青木氏」から観れば、“「出の仕来り」“として、奈良期から必ず、”「家人に成る前提」“の形を採っていた。
    これは前段でも論じた様に、「四家20家の青木氏」に執っては、”「入の仕来り」“として、「皇族出身者」、或は、同族の「賜姓源氏や佐々木氏や母方族の藤原氏や公家(叶氏)」等から、「男系の場合」に於いて「四掟の格式の立場」を護って、”「跡目に成る前提」”の形を採っていた。
    然し、現実には「京綱以外」には無かった。「禁じ手の掟」であった。

    平安期末期までは「京綱」を例に見る様にあったが、鎌倉期以降は、「上記の理由」により「男系の入りの仕来り」は無理と成り得ていて、執った制度は“「四家の範囲」”で男系を繋ぐ「仕来り」へと変わって行ったのである。
    現実には、「皇親族」や「令外官」や「賜姓族」から外される以前の孝謙天皇期から光仁天皇期にかけて、「白羽の矢のトラウマ」もあって、「四六の古式概念」があったとしても、「改善」を加えて「女系に依る妻嫁制度」を強く認識し積極的に採用し始めていた事が判る。

    そして、その代わりに「妻嫁制度の女系」の「入りの仕来りの掟」で補完し、且つ、「出の仕来り」として「女系」で「四家に戻す方法の掟」へと転換して行ったのである。
    この「妻嫁制度」の「出入りの掟」は「女系」と成った故に「男系の入りの掟」は完全に消えた

    この事に対する「青木氏族」の“「反覆の掟 :純血性保全の掟」“であって、「男系の入の仕来り」は、以後は確かに「禁じ手」に成った。(「姓化」が起こる理由。)
    然し、“「出の仕来り」”と呼ばれる血縁は、「入の仕来りの欠点」を補完する目的があって、”「家人に成る前提」“を”「家人掟」の「仕来り」“と呼ばれて行われていた。
    明治期の資料にも出て来る。

    要するに、「出」と「入」の「仕来り」を、”「跡目」”として同じくすると、「四家制度」の範囲で区切っている「仕来り」は、無制限に広範に広がり成り立たなくなる。(「姓化」が起こる理由。)
    と同時に、名目上の「賜姓族」としての「三つ発祥源」と成る「純血性の保全」は保たれなくなる事から来ていた。(これも「姓化の前提」に成る)

    つまり、「男系跡目」に於いての「四掟等の格式の立場」は、「四家20家」の中で厳しく護り、「女系」に依る「嫁家先制度」や「妻嫁制度」等による“「位階などの格式」”の「仕組み」は、形式上はある程度に護るにしても緩くしていた事に成る。
    これは、矢張り、要するに、「同族血縁の弊害をなくす事」から、「女系に依り新しい血筋を入れる仕組み」に切り替えて採っていた事に成る。
    これならば「厳禁の掟の姓化(氏是)」は起こらない。

    (注釈 この「青木氏の氏是」を破り「男系の入りの仕来り」を外した事には他にもあった。
    それは、「乱世」であって、その「男系の入り」の先の状況に巻き込まれる“「危険性」”があったからである。
    例えば、何度も例に挙げるが、「頼政の孫」の「京綱」も「伊勢青木氏」に執っては、止む無くも「男系の入り」の「最後の仕来り」とは成ったが、「源平戦」に巻き込まれる寸前であった事は間違いは無かった。)

    唯、この注釈の事件も、大化期よりの“「平家の里」の「伊賀との付き合い」”や、「青木氏より出自の光仁天皇」の妻は、「平家の出自先」の「伊賀の高野新笠」であったからこそ巻き込まれずに助かった事でもあった。
    又、この事を「平家」は、「頼政の京綱跡目」の件は見逃す筈はない事は明々白々であったが、そこは上記の論の通りに大化期からの「伊賀郷士衆との血縁の繋がり」もあって助かった。

    この「伊賀郷士衆(原士・氏人)」は、「青木氏族の殖産」にも携わりながらも、「室町期」にはどこの国にも属さず「金銭契約の特殊防御技能を持った傭兵軍団」とも成ったが、「伊勢青木氏との血縁の繋がり」も然る事乍ら、「経済的な契約」による「伊勢シンジケート」でも繋がっていた深い関係にあった。

    この事は、上記した「女墓」や「曼陀羅帳」や「郷士の資料」や「商記録」などでも充分に読み取れる。
    然し、これは「伊勢青木氏」のみならず「青木氏族全体に及んでくる事」を危惧して、相当に“「危機感」”を感じていた筈である。

    筆者が考察するには、結果として、ところが逆に、この“「危機感」”を果たして感じていたのか疑問な点がある。

    「青木氏族の歴史観」を紐解く為にも、これを考察してみると、そもそも、この時、「伊勢青木氏」は頼政の孫の「宗綱や有綱の助命嘆願」で、“「事件の逆手」“を使ったが、この”「逆手」“以外に、この時の「対応状況を物語る資料」は、「伊賀郷士衆」や「伊勢郷士衆」の中にあると観たが何故か見つからないので確定は出来ない。
    然し、この“「危機感」”は、「平家」は「伊賀郷士衆の血縁の繋がり」等の事を鑑みて、矢張り、手を出せなかったと観られる。
    「信濃青木氏」も「源国友」が、「信濃青木氏の跡目」に入ったので同じ「危機感」を抱いていた。

    こと程左様に、「青木氏族」が執っていた「女系の妻嫁制度嫁や家先制度」などの「特異な制度」は、それだけに前段や上記でも「男系の入りの跡目」には「世情の混乱」に巻き込まれる可能性があった。
    それが、常時でも無く、たった一度の「妥協の掟破り」でもある。
    「青木氏族の立場」が、その様な位置に好む好然るに及ばす「光仁天皇期」より押し上げられていた事になる。
    故に、「青木氏の氏是」なのであるが。


    さて、その「特異な制度」の「論理的な原則」は、上記した様に、「入の仕来り」>「出の仕来り」=5>、或は、「4以上の関係」が「青木氏の基本的概念」としてあった事に成る。
    「4以上の関係」を保ったのが本論の「女系策(「嫁家先制度」と「妻嫁制度」と「四家制度」と「嗣子制度」)」であった事に成る。

    依って、「入の仕来り」=「出の仕来り」では、その意味は低下したものの、江戸期以降もこの「過去の三つの仕来り」を頑なに維持し、明治初期まで護ったものであった。
    つまりは、「女系制度」が左右したのであろう。
    ここには前段や上記していた様に、“「掟」”と云うものが存在していた。

    唯、この「女系に依る妻嫁制度や嫁家先制度」は簡単には完成した訳では無く、都度に「掟」を作り“「改善」”を加えて行った事が資料からも読み取れる。
    つまりは、「掟」は「改善」なのであった。

    取り分け、男社会の中では無く、「女性」と云う独特のその「性」がに依る社会である
    この「性に依る社会」を確立させるには「掟」=「改善」が必要であった。
    例えば、今まで論じてきた「掟」としては次の様なもの掲げられる

    「亜子処置」の掟
    「養育制度」への「口出し厳禁」の掟
    「女(むすめ)」範囲の掟
    「入りと出」の掟
    「位階と四掟」の掟
    「妃から妾」までの扱い掟
    「女(むすめ)」の平等掟
    「嫁家先」の「口出し厳禁」の掟
    「四家嗣子」への「口出し厳禁」の掟

    以上は、「母性本能」と元来の「女(むすめ)」の「性」に関わる事柄が共通点で、これを「掟」で縛って抑え込んだが、その基の概念は「四六の古式概念」の中での“「平等」”にあった。

    他に、次の様な「掟」があった。

    「福家と四家20家の代替わり」の「掟」に於いて、「四家20家」の其々の「入り」として入った「母」は、つまり、“「妃、嬪、妾」の「母」は、その侭に「母」として存在する。
    何故ならば、その「四家の嫡子(継承者)実子」とは限らないからである。
    「母」の存在は、「四家全体の母の位置」にあって、仮に「四家」に「妃」の位置の全て「母」が居たとすると、「妃の位置」の「20人の母」が居る事に成る。
    「四家20家の継承者」は、「四家全体の継承者」であり「四家の独自の継承者」ではない。
    他の四家の内から次の「継承者」が廻ってきてその「四家」を継承する。
    「嗣子」は「女(むすめ)」と同じ概念で養育される。
    その「四家」に次の“「妃、嬪、妾」が入った時点で、それが、「位階」で定まる「妃」であった場合は、その「母(妃)」は寺に「尼僧」として退く。
    この様な「仕組み」にする事で、「口出しの機会」は無くなる。

    要するに、これが「実子」であれば、「厳禁の掟」であっても抑えられない「女の性の本能の情愛」が働き「口出し」は確実に起こり働く。

    その「ある四家」の「代替わり」が、死亡した場合の“「妃、嬪、妾」の「母の処置」は、全員が「尼僧」として「青木氏の比丘尼(びくに)」として「尼僧寺(青木氏の菩提寺の分寺)」に退くのが「掟」である。

    (注釈 「継承者」と成った時点で、「妻持ち」と成るのだが、必ずしも“「妃、嬪、妾」の「三人の妻」を持つとは限らず、「子供の数」に従って、或いは、「政治的な事情」に従って、“「妃、嬪、妾」の順は別として持つ事に成る。
    これが、「入りの位階」に従って定める事に成る。
    「福家と継承者と執事の相談」によると観られ、「執事の情報」での「福家の指示」が大きい事が判る。
    これも「諸般の状況」、取り分け、「時代の状況」で変わるが、室町期後半を境に基本的に平均的に「妾」が多く成り、「嬪>妃」が次に成っている傾向がある感じがする。
    従って、「位階」の持たない「入妻」の「妾」は、「絶対要素」としての「嗣子の数」を基本に、要するに「諸般の状況」に従う「掟」である事が判る。
    「安定期の世情」で無い「諸般の状況」とも成れば、必然的に「妾」が多くなる事は否めない。
    故に、「青木氏」は「妾子族」と成り得るのである。)

    さて、追記するなのらば、「女(むすめ)」と呼称するが、「男(むすこ)」とは、呼称していない。
    何故ならば、「女(むすめ)」は、「青木氏族」を超える広い範囲の「女で縁続きの家」から集めた「女系の女」であるが、「男」は「四家の範囲の嗣子のみ」であるからだ。
    つまり、「嗣子」は「女系の女」として「氏」を跨ってはいない。
    この「嗣子の全数」が「四家20家」に対して、溢れた場合は、「四家20家」の何れかに「空き」が出来るまで、「寺の養育所」で待つ事に成る。
    唯、歳を得すぎると、「本人の意思」で「神職(各地の神明社)や住職(各地の菩提寺)」、将又、「家人」と成る事もあり得た事も記述されている。

    念の為に、記述する。
    前段でも論じてはいるが、「神職や住職」は別組織であるが、「皇祖神の伊勢神宮の子神」である「祖先神の神明社」であるので、「普通の神社形式」とは別の「神官組織形態」を執っている。
    その「神官」には、前段や上記で論じた様に「位階」を持つ。

    参考として、その「神官」には、「浄、明、正、権、直」の位階があって、「青木氏の神明社」の場合は「浄の位置」にある。
    更に、「神明社」の中は、「祭司」、「大宮司」、「小宮司」の「三位階組織」で成り立つ、一般職は「禰宜、権禰宜,官掌の三位階組織」で成り立っている。
    「嗣子」から「神職」に成るとすると、「青木氏の位階」は「浄の位置」にあるので、当然に一般職の三組織の位階を経てのある「一定の修行」を経て、「祭司」の「位の神職」と成る事が出来る。
    従って、「全国の神明社」の「神職」は、この最高位の”「浄の祭司の青木氏」”である。
    この事から鑑みれば、「神職の陣容」としては「相当の嗣子の数」が必要で、この数も計算に入れての「神職の執事」の仕事と成る。
    結果として、「四家の継承」から一時外れて「神職」に成る事は別に恥とはならない。
    「四家」に行くか、「神職」に行くかのただの「違いの差」であった。
    中には、強いて望む者もいた。

    「青木氏の密教浄土宗」の「菩提寺の僧侶の位階」は、「奈良期の律令制の官僚」として扱われていた。
    それには「僧官制度」と云う「古い密教」に基づくもので、その「宗教」に宗派が出た事に依って、且つ、「顕教化して行った事」に依って、全く異なるものが出来た。

    「伝来時の古式仏教」を基本として「青木氏族の独自の概念」を以って密教化をした。
    これが朝廷に採用されて、「僧官」と云うものが生まれた。
    この時の「流れ」を「江戸期の顕教令」まで敷いていた。
    一般には、三階級の「僧正、僧都、律師」に分かれる。
    これが「僧正は5、僧都は6、律師は3」に分かれる。
    更に、これが3,4、3に分けられる。

    ところが「青木氏の菩提寺」では、古式の侭の「三階級」の「僧正、僧都、律師」に成っている。
    これは「独自の青木氏概念を持つ密教」の所以であって、同じ「浄土宗」に縛られない事から、「階級」を分ける必要性は無く「三階級」の侭であった。
    これを全て「青木氏」で務める事に成る。

    記録には、「僧正と律師」が出て来る。
    取り分け、「密教の謂れ」として、「青木氏の概念」を「律師」の「自然の律」、この「世の律」を導く者(師)として、この「律師僧侶」が多かった事が資料の各所に散見され判る。

    「菩提寺」では、この「僧侶の三位階の組織」で賄うが、何れにしても「神職や住職」は、「青木氏族の嗣子」が「継承する権利」を江戸期初期まで有した。

    (注釈 初期の頃の記録から幕府側に渡した神明社は住職の継承は暫くは伊勢などから送り込んでいたが、途中から記録がないところからその社の神職の末裔に引き継がれて行ったらしい。
    中には跡目継承が出来ず、且つ経営が不可と成り荒廃した事が判る。)

    そこで、「青木氏」では「女系の妻嫁制度」の「女(むすめ)」に依る神職や住職はある時期にいた。
    前段でも論じたが、「神明社」は、奈良期、仏教伝来時からのものであるが故に、そもそも、「神道と仏教の概念」を融合したものとして、“「社」”として成り立っていて「神社」では決してないのであった。
    「神道」と「神社」は異なる。
    従って、「女子を排除するという概念」は元より「青木氏族」に無かった。
    それは「女系の妻嫁制度」であって、「男系の氏家制度」では無かったからである。

    「伊勢神宮」は、“「物忌」”と呼ばれる「女性の神職」である。
    そもそも、この「神宮の物忌」については、「神明社」が「青木氏」から離れる江戸期初期まで廃止されるまでの間、「伊勢神宮」と「青木氏」で維持された経緯はある。
    どの程度の範囲で、「神明社の物忌の神職」が居たかははっきりしない。

    唯、「伊勢神宮の斎王(斎宮)の件」で、「日本書紀」にも記述がある様に、天武期に始まり、その後に衰退し、嵯峨期で復興の形を示したが、鎌倉期では再び衰退を続け絶えた。

    「青木氏」は、この「賜姓五役の役目」として「斎王の館(多気館)」を護る役目があって、その「斎王」の身の回りを務める「支女」として、この「神明社の神職」を務める「物忌」の「女(むすめ)」をこの「支女(ささえめ)」として仕えさせたとある。

    「光仁天皇期」から「仁明天皇期頃」までは、「斎王」と共に同じ「志紀真人族」の「直系族」であるとして、この「支女」として仕え復興を果たそうとした。
    然し、その後、「青木氏の援護」が途切れて衰退し断絶した経緯がある。

    この「青木氏」の「女(むすめ)」の「支女」が仕えた場所は、松阪の隣の海よりの「南伊勢の多気郡明和の里」にあって、ここに「斎王の館(多気館)」があった。
    この地は、光仁天皇期から仁明天皇期、そして、鎌倉期初期までは「伊勢青木氏の本領安堵の地」でもあった。
    この「本領地」でもあって、江戸期には「伊勢青木氏」の「地権の範囲」にあり、「殖産の地」でもあった事から、「地権」、及び、「青木氏の経済的な支援の届く地域」でもあった。
    この「斎王の館」は、「伊勢青木氏の保護下」にあったのである。

    「青木氏側」から云えば、「斎王の制度」が続いた「仁明天皇期」までは、「妻嫁制度の「女(むすめ)」から役務に就いた「神職の物忌」−「支女」−「斎王」は、同じ一族の「女(むすめ)」の関係にあった事を認めている事に成る。
    この「支女」に付いては、“「斎院」“と書いた資料もあって、当時は、「同族の女」と「女(むすめ)」と同じ「一族の位階の役目」として観ていた事が判る。
    これは「門跡院」の「・・院」と同じの意味として、この「青木氏の支女」を「斎院」=「斎王」としたと観られる。

    需要な注釈として、「伊勢神宮」系の関西にある「六十六の遷宮地の社」もこの「斎王」に当たる「位階の持つ女」を「斎院」とした。
    この「青木氏の資料」の「皇祖神の子神」の「神明社の物忌」も「斎院」と記したのは間違いではない。
    「斎院」は、「物忌」よりも「支女」よりも正しい呼称である。
    恐らくは、「その役目の見方方向の違い」があったと考えられる。
    「位階」を基にその役目は「斎院」と成り、「位階」を無視した役目からは「物忌」や「支女」としたと考えられる。

    何故ならば、「位階」の無い「女系の妻嫁制度」の「女(むすめ)」から「物忌と支女の立場」に成ったからである。
    「斎王」は、そもそも、「内親王の位階宣下を受けた皇女」の「未婚の処女の女」を前提としていたからで、「位階」の無いものは、「斎院」か「斎宮」と呼んでいた事から由来していると考えられる。

    然し、これは「志紀真人族の青木氏」のみの「女(むすめ)」に当てはまる「重要な役目」と成る。
    その意味で、「物忌、支女、斎院」と成り得る「女系の妻嫁制度」は、「福家や四家の範囲」には留まらなかったのである。
    「賜姓五役」はこの様に影で続けられていた事に成る。

    筆者は、「伝統−14」で、「施基皇子」の「青木氏の子供」が「光仁天皇(白壁王)」に成る事に依って一度外れた高位から「王位」を意思に反して得たが、この結果、“「政争」”に巻き込まれた。そして、その結果の記録は”「早没」”と成っている。
    然し、筆者は、取り分け、「王女位」を得た「女の早没」の記録には疑問があって、「施基皇子」の「女性の二世族の9人」の多くは「斎王」に成ったと考えていて、「王位」を敢えて受けなかったこの「記録」から抹消された「女(むすめ)」は、「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)と成って逃げたと観ている。
    記録に遺る事として、中には、
    「王位を外す事(a)」を正式に願い出て認められ「青木氏族」に戻って、“「青木氏の後家」”と成ったとする「現実の記録」もある位である。
    中には止む無く嫁ぎ、離縁を願い出て早期に「伊勢青木氏」に戻った記録もあり、この時、初めて”「後家」”と云う言葉が使われたと記されている。
    又、更には、「王位」から逃れる為に“行方知れずの「女(むすめ)(b)」”もいた記録も史実としてあった位である。
    「伊勢青木氏」のみならず、奈良期末期の「信濃、近江、美濃、甲斐」の「女(むすめ)」(c)も、恐々としていた事が資料より読み取れる。

    筆者は、この「光仁天皇期から仁明天皇期までの斎王」には、この(a)(b)(c)の「伊勢青木氏の四家」が中心とは成っていたが、然し、「斎王」を賄うためには伊勢だけでは足りず、再び、近親の皇族位に成った「信濃、近江、美濃、甲斐」の「王女位の持てる立場」にあった「青木氏族」の「女(むすめ)」では無かったかと考えられる。

    未だ、この時期は、「女系の妻嫁制度」をこの「王位」から逃れる為の一つの策とも執った状況下であったと観られる。
    「男系」では、この「孝謙天皇の白羽の矢」で巻き込まれた「政争」からは逃れられる事が出来ないと考えたからに外ならない。

    「施基皇子」の定めた「青木氏の氏是」は、まさしくこの「時期直前の状況下」で定められたものである事を考えると、この「状況や環境」は充分に判る事でもある。
    「青木氏の氏是」からもこの事が察し得る。
    「天智天皇より賜姓を受けた臣下族青木氏」を名乗り、「五家五流の青木氏族」に成って、再び改めて「王位を持った皇族」ばかりで、この「光仁天皇の事件」は、「晴天の霹靂」と受け取られていた事は明らかである。

    ところが、「読み取れる資料」や「史実の記録」は、筆者が調べた範囲では「青木氏族」には詳細には見つからない。
    「神明社」の「江戸期の荒廃」と「数度の戦戦乱の消失」から消えたと観られる。
    取り分け、「斎王館の事」も然る事乍ら、「斎王」に始まり、「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)の事は、敢えて、江戸初期に「幕府の意」(伊勢奉行)に依って消した事もあり得る事も考えられる。
    筆者は、むしろ、「後者説」を採っている。

    唯、一部、「近江佐々木氏族の青木氏族の論」の中には、「光仁天皇期」の行の中の一節に「斎王と成った青木氏の王女」(伝統−14の中程)と「伊勢多気郡の館の事」が書かれている。

    (注釈 例えば、「光仁天皇」の王女の「能登王女」は、この「政争」から逃れて、「近江佐々木氏」の「市原王」に嫁した事もあった。
    更には、「尾張王女」等、「采女の女の扱い」として「青木氏の後家制度」で多気に隠れた。
    「弥努摩内親王」も、叔父の四家の「榎井王」・「名張殿」の「神王」に形の上で嫁し、その後、この後家制度に載って多気に隠れた。
    この様に史実が遺るが、それ程に、「青木氏族」には「白羽の矢」は思い掛けないことで混乱した。
    この混乱から「救済策の隠れ蓑策」が敷かれたのである。)

    この「後家制度」と「多気の里制度」が無ければ、相当に混乱し、「女系の妻嫁制度」も維持が難しかった事が判る。

    「青木氏のこの記録」は、「神に仕える身」の「斎王」と成る事で、「記録」は「消される仕来り」の事から見つからないとも観える。
    早没の記録はこの混乱の証である。

    ここは、その後の「女系の妻嫁制度」等をより詳細に論じるには、「初期の経緯」と成ったこの「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)の事は、その「女(むすめ)」の「役目」として「重要な要素」と成り得るのだが、「資料と記録」が無い事からここからは研究は前に進まない。
    「神明社の神職と執事」、「菩提寺(比丘尼寺と分寺)の執事」、には見つからない。

    「青木氏」が関わった「斎王の館」からその「光仁天皇期からの経緯」はある程度を読み取れるだろう。

    これも「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)の事は、「掟の基礎」と成った一つである。

    「女系の妻嫁制度に成った経緯」から、「時代」が進むに連れて、「改善(掟)」が必要と成り、故に、四家の“「妃、嬪、妾」の「入りの調整」にはこの配慮が是非に必要と成った。
    これを上記した様に「家人」の「執事」が調整する経緯とも成った。

    (注釈 「神明社の神職」も同様に「執事」を内容別に分け合っていた事から同じ事に成る。
    それ故に、この「家人の執事(住職と神職)」の「入り先との調整力」と「情報収集」が重要に成る。)

    故に、「光仁天皇期から仁明天皇期までの経緯」から観て、「位階」が有るか無いかでは、「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)の点では「高貴の入り先」ではその「扱い」は異なる所以と成る。
    つまり、この事を左右させるには、「位階」を持つ「住職と神職の家人」が多くなる所以でもある。
    これも「掟」の一つである。

    従って、「入り」の“「妃、嬪、妾」の「母」は、「住職や神職」に左右され、「掟」を守ろうとする環境と成る。
    そして、その「入りの妻」(「入妻・いづま」の呼称)、つまり、「後に母と成る年齢」も若く、「16−17歳」を少なくとも超える事は先ず無い事に成る。
    何故ならば、下記の「馬爪」(うまづめ)とされてしまう可能性(根拠の掟)があるからだ。

    当時は、若年齢での妊娠は通例で、上記での養育所での正しい「女の心得本」で教育されていた事もあって、「入りの妻」(「入妻・いづま」の呼称)にもこの教育は無いと観ると、「無駄な年齢」は踏まない様に「青木氏側」でも配慮されていたのです。
    「青木氏の今後」を占う上でも、「女系の妻嫁制度」を確実に維持する為にも、「嗣子出産」にしろ、「女(むすめ)出産」にしろ、“「早期妊娠のテーマ」“は重要であった。

    例えば、現在の閉経年齢を40歳〜45歳とすると、出産可能年齢は30歳〜34歳であるとされていて、それ以後の「卵子」は老化して妊娠と共に「亜子」が生まれる可能性が高くなる。
    これは現在で云われている基準の75%(30/40〜34/45)である事に成る。

    とすると、当時は、「早熟」は別としても、「寿命の平均年齢」が55歳として、(40歳/80歳〜45歳/86歳)の理屈から、「閉経年齢」が55歳*50%=27.5歳と成る。
    その27.5歳*75%=20.5歳以下が「出産年齢の限界」と成る。
    従って、15歳/20.5歳=73%は、「初期出産の限界値」である事に成る。
    「卵子老化の亜子」を確実に産まない「年齢」と成れば、残り、精々「3歳程度」と成る。
    故に、この「15歳」を限界として「馬爪の掟」が定められていた事に成り、流石に、この「女の心得本の内容」は、「女系の妻嫁制度」を続けてきた「経験値」のである事に成る。
    この様な「女(むすめ)の知識」が、「青木氏族の女(むすめ)」に「教養」として躾けられ、これが「出の嫁家先制度」に生かされていた事に成る。
    何をか云わん、この「青木氏族の掟」が「他の青木氏族」にも伝わっていた事をも意味する重要な事に成る。
    恐らくは、この様に、「嫁家先の掟」とも成り得て行った事に成る。

    「出妻(でづま)」と成る「女(むすめ)」の年齢も必然的に「15歳」を超えていない。
    当時の「平均年齢」が55歳とすると、1/4として現在より5歳は早い。
    早い記録では、最低年齢で何と「9歳」の「女(むすめ)」から、「11歳」でも嫁いでいる。
    これは「養育所」で明らかに「女性ホルモン」を刺激して「早熟に育てた事」が判る。
    下記の「女の心得本」等はこれに当たるであろう。

    女性は現在医学でも男子と違い、「女性の性欲」は元より「脳による性ホルモンの刺激」に依るもので、当然にも「成長」もこれに従うのである事から、「女の心得本」は当を得ていた事に成る。
    「性欲」は、「脳の刺激」によるものであって、「子を産むと云う原理」に従って、何度も脳を刺激して「毎日の数度の性交志向」が可能と成り得ている。
    現在では、女児は生まれる前から「体内での行為」が医学的に確認されているくらいで、「脳の発達と共に起こる能力」と成り得ている。
    この「脳の学説」は科学的に確認されている。
    科学が発達すれば、1〜2歳という事も起こる可能性もある事が動物実験で確認されている。
    「月移住論」から、この「女(むすめ)」の「科学」が必要論と成る事から研究は進んでいる。

    話を戻して、「女の心得本」にもよく似た事が書かれていて、これを成す為の体位とその作法等華詳しく書かれている。
    これに依れば、「脳の刺激に依る早熟」は充分に考えられる。
    それ程の必然性があったという事であり、「性の理屈」を経験値なのかは判らないが、驚異の本と成り得ている。

    そこで、因みに、男性は「前立腺」から起こる「3日毎の性欲」であって、「脳から起こる刺激」では全く無く、従って一度の性の目的行為で終わる。
    それは、前立腺には全神経の50%以上の関係する神経が集まっていて、これが約4000と云われている。
    つまり、その「性の質と目的」が、根本的に異なるという事に成る。
    従って、「三段階の体の成長」と「前立腺の成長」を経て得られる「性能力」と成る。
    これを見据えた「女系の妻嫁制度」と成り得ている。

    即ち、上記での「四家の継承」は、年齢に関係なく成長を待つ体制が出来ているのである。
    これを崩せば、「女系の妻嫁制度」そのものも成り立たない。
    そして、「嗣子」を他氏に出すのでは無く、「四家内」で納め、継承させる年齢を待って、効果を上げる「掟、制度」と成り得ていた。
    これがの「嗣子制度」が無い所以でもあり、「嗣子」も「女系の妻嫁制度」に従う由縁とも成り得ているのである。

    これも見えない「重要な女系の妻嫁制度の掟」である。

    前段で「論じた「嫁家先制度」もこの「女系の妻嫁制度」に影響を受けて成り立つ制度で、この影響を受けた「嫁家先制度」で他家に「女系の妻嫁制度の浸透」を果たしていた事に成る。
    つまりは、「青木氏族に関わる家の制度」は、必然的にこの「女系の妻嫁制度」に成って行く所以なのである。
    前段でも論じていた様に、例えば、「出の嫁家先」が、「位階の持つ氏」や「摂津源氏」や「嵯峨源氏」であるとするならば、そこには「女系の妻嫁制度」や「四家制度」が敷かれて行くか、生まれて行く故と成り得ているのである。

    そもそもは、何故ならば「家の政所」は、「女性に任される事の仕来り」があったからであり、この「政所」の基の語意の「まんどころ」(政)はこの意味であり、「家政婦」とはこの語源を持つ言葉である。
    当然に「位階の嫁家先」には、従って、「女(むすめ)」が仕切る「政所」は最低限に於いてもこの「女系の妻嫁制度」が敷かれている所以でもある。
    つまり、これは前段から論じている様に、明らかに「四六の古式概念」の「四掟の前提の範囲」にある事にも成るのだ。


    > 「青木氏の伝統 46」−「青木氏の歴史観−19」に続く。


      [No.363] Re:「青木氏の伝統 44」−「青木氏の歴史観−17」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/10/15(Mon) 08:16:09  


    「青木氏の伝統 44」−「青木氏の歴史観−17」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


    「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」の末尾
    >筆者には、前段や上記の事も含めて史実に関わっているこれ程の族を論じない方がどうかしているとも云え、本サイトとも成っている所以でもあると考えている。
    >それ故に、「遺される資料」の殆どは、搾取性の疑い高い「姓族の資料」を中心としたものに関わるものであって、「自力の研究」に頼らざるを得ない状況にあった。
    >前段からも詳細に論じている様に、「四六の古式概念」を基本とする「妻嫁制度」で繋がる幸い「稀に見る氏族」であったからこそ、「資料」も多く確実に遺されている所以が「掘り起こし」に付いて良い方に大きく左右したと考えられる。

    本論

    合わせて、「青木氏の福家」から観れば、「四つの血縁源」と成っていた。
    前段で、「四六の古式概念」の「内部の詳細」を論じたが、これは一般から観れば、或いは、常識的に観れば、将又、現代感覚から観れば、この「青木氏の概念」は、上記した様に確実に“「異様」”と観えるかも知れない。

    前段でも何度も論じたが、注釈として、大化期からの「四六の概念」に基づいた「四掟」をベースとする「血縁の源流」、その後、960年頃から始まった「外部の秀郷流青木氏の補完策の血縁」と、これから論じようとする”「内部の三つの補完策の血縁(地元郷士との絆関係)」”で強化されたが、これが「青木氏族」に執って有名な「四定以成異性不養之固掟也」”の文章の一節となっているのである。

    そもそも、この「四掟」は、「賜姓朝臣族」、並びに、「敏達天皇」の「春日真人族の四世族」の「志紀真人族」に成った時点からの「青木氏族の独自」のものと観ていたが、調べるとこの「四掟の一節」は、中国の皇帝の紀章文の中にも、「・・異性不養・・」の節の文言が観られる。
    恐らくは、「大化期の四掟」とは少し違うので、それと「似たものの概念」を持ち込み踏襲しているのかも知れないので、従って「異様」であるからも知れない。

    「宋貿易」を始めた925年頃から1025年頃までに、この「中国の古代概念」を密かに持ち込んで「青木氏なりの改善」を加えて体制化したとも執れる。
    既に、この頃には、「嵯峨天皇期」から「賜姓五役、令外官の役目」は正式には解かれ、且つ、「皇親族」からも外され、その「立場保全」の「血縁的な純血性の責任」は無くなっている。
    恐らくは、「青木氏族」はこの時点から「血縁の概念」は直ぐには出来なくとも大きく切り替えたと思われる。
    それが、「中国で云う四掟」の「青木氏族」に「適合する吹き替えの制度」を作り上げようとしたと考えられる。
    「中国の四掟の件」のみならず、上記で論じた「時代性の件」、前段で論じた「殖産商いの件」、などが複合的に重なり、「四六の古式概念」や「四家制度や妻嫁制度」などを含む「多くの制度」の「改善と確立」を図らざるを得なくなった時期でもあった。
    故に、考えても「体質や制度」は急には変えられないが、925年から1025年という期間は異なっていた。
    従って、「氏の構成の根本」と成るこの「四掟」も大化期からのものを改善し「青木氏族様」としたと考えられる。

    前段でも論じた様に、「殖産に通ずる商い」もこの100年の期間からの変化であった。
    全て「青木氏族に関わる事」はこの時期を起点としているのである。


    さて続けて詳細に論じる。
    従って、前段でも論じたし、上記の通り「青木氏族の血縁の制度」が、100%に成り得た「姓族」の周囲から観ると、「異様」ともなるのだが、この「異様な概念」の「影の制度」とは、”「四家の20家」”と「縁続き」と成っている”「氏人の家」と「家人の家」“にも、”「永代の従六位までの家筋」“から“「四段階の妻嫁」”を迎える制度を敷いたともある。
    これは「数人の家人」の家には”「永代の従六位までの家筋」“があった事を意味する。
    但し、大化の改新で天智天皇が敷いたものとは一致するかは疑問。
    唯、これは「青木氏族」を解く上で大変に重要な見逃す事の出来ない記録である。
    この「位階」を「家人(氏人)」が持つという事は、「四六の古式概念」に基づく「四掟」による「妻嫁制度」に大きく「氏人と云う事」だけでは「完全な対象」として成り得る。

    これを敷いた「青木氏族」では、上記の通りこれを“「妻嫁制度」”と呼び、「天皇家の制度(大化期)」(后、妃、嬪、妾)と「中国の四掟」に真似て持つ事を制度として「四家の範囲(20家)」に義務付けていた事になる。
    現実には、これは「大化期」から始まり「室町期初期頃」には「嬪」までが限界であった様で、「永代の従四位までの家筋」以下の「入りの嫁」は「妾」として「特例扱い」であった様である。
    元より「系譜などの記録」の多くは、この範囲までの記録が多いが,前段でも論じたが、現実には、「青木氏の子孫存続」に大きく働いたのは、殆どは、”「妾の子孫」”の様であり、これは「室町期以降」より「江戸初期」にかけてより進み、「四段階の妻嫁制度」を超えて、「周囲の郷士衆」とも、最早、「上記の(A)(B)(C)の女系族」の「完全な状況」と成り得ていた。
    依って、この「女系族」と「妾子系」は、「始祖からの形態」と成り、その後にもこれらの「システム」を敷く以上は、大方は「青木氏族が持つ宿命」とも成っていたのであろう。
    絶対とは云えないが、「伊勢」で云えば「伊勢の青木氏の女墓」や僅かに「遺された曼陀羅帳」から観るとその様に読み取れる。
    注釈として、前段で論じた「天智天皇、施基皇子の子供」は共に「妾の子孫」であり、「施基皇子族の青木氏」の後の嵯峨期からの賜姓族の「摂津源氏の四家」から特例として「伊勢青木氏の跡目」に入った「跡目源京綱」も「妾子の嗣子」である。

    この「四掟」と「四家制度」とを敷いていた以上は、本来は「男系の跡目」では直接に源氏族等から入る事は「論理的な原則」では成り立つ。
    然し、ところが、「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「入と出」の「妻嫁」に反する事に成る傾向が起こり、この結果、制度は崩壊する。
    従って、「男系の養嗣、況してや、義嗣」が「氏族に入る習慣」がそもそも入る事は無いが、下手をすれば、この「乱世」に「子孫」を遺そうとして「衰退の源氏族」が安定している「青木氏」に付け込んで次々と「跡目」を入れて来る事もあり得た。
    それなのに、その付け込んだ”「流れ」”が、「崩壊」にも繋がるかも知れないのに、「京綱の件」では、「伊勢青木氏」が“うん”と云わざるを得ない「仕儀」に成っていた事に成る。
    この「仕儀」には、「青木氏族」に執って大きな意味を持つ。
    本来であれば、避ける筈である。
    注釈として、そこで若干余談には成るが、この“「流れ」”は記録に依れば、「伊勢青木氏」のみならず「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」にも現実に送り込んで及んでいる。
    この現実は見逃せない。

    「伊豆と越前」には記録は無いが、「頼政の本領」であった関係から「伊豆」はあったと観られるが、記録は見つからない。
    筆者はこの「伊豆」が大きく絡んでいると観ている。

    恐らくは、「頼政」は「本領」も最も危ないと考えて「子孫存続の手」を態々「伊豆」には施さなかった事が考えられる。
    現実に施していないし、将又、「秀郷流青木氏」に護られた史実もある。
    後の「武田氏滅亡の影響」もあったが、何よりの証拠に、その結果、「女系の妻嫁制度」のそれが無かった「甲斐青木氏」は、「衰退し滅亡の寸前」まで立ち至っている。
    それは、「宗家」が「それなりの古式概念」を敷きながらも、「甲斐青木氏」や、引きずられた「諏訪青木氏」の様に、結果として「乱世に巻き込まれた事」のみならず「内部制度の崩壊」をも意味していたのである。

    現実に「傍系源氏の武田氏」に巻き込まれて、この「甲斐と諏訪の二つの青木氏」の「宗家」が霧消した事から、「最低限の伝統」を守りながらも、「制度の崩壊」は起こった。
    「逃亡した事」から大化期から引き継いだ「氏としての古式概念」に依る制度は崩壊したが、「諏訪大社の伝統」だけは守った。

    「越前」は「神明社の質」の統括下にあって、「伊豆青木氏」に似て「全青木氏族の融合族」であった事から、「氏子」に依る“「青木連」”を作り、何れの時期に於いても警戒されず直接は攻撃される事もなく生き遺れた。
    当然にして「青木氏連」である以上は「統一した氏としての制度」は無く、且つ、従って、「神明社の質」の規則に基づき「商い」を主体として存続した。
    「青木氏族への支援」は、「質」としてあって保護していたが、これはこれでその状況を生かした「生き残り策」であった。

    それでも、甲斐や諏訪や越前に対して、「伊勢と信濃の青木氏族」が連携して「流れ」を極力防いでいたが、それ故に、ここに「摂津清和源氏四家の頼政」の“「歴史的な思惑」”が強く働いた事を物語る。
    つまり、「以仁王の乱」の「歴史的背景」が「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」には強く働いていた。
    然し、この「伊勢と信濃」の「二つの青木氏」は「氏是」を守り結束して「守備網」を構築し、且つ、「氏人らの伊勢と信濃の郷士衆団」と「伊勢信濃シンジケート」をより強固に構築して対応してその結果が違った。

    上記の「氏」で成り立つ「強固な血縁制度に基づく組織」を守り、これを前提に「伊勢の秀郷流青木氏」のみならず、全国に及ぶ「秀郷一門の勢力」を背景に守った。
    取り分け、史実にある様に「主要五氏の青木氏族」は直接的に囲い込んで護った。
    何度も云うが、例えば「伊勢郷士衆団と伊勢信濃シンジケート」は、「足利氏の二万の軍」を餓死させた「公に成った史実の実績」がある位である。。
    この様に、「信長や秀吉の伊勢攻め」でも勝利したのも「伊勢郷士衆団と伊勢信濃シンジケート」が前面に出てこれを排除したからである。
    これ程までに「結束できる組織」は、上記した様に全て「氏としての女系の妻嫁制度の血縁組織」にあった。
    「自らの存続に繋がる事」と考えたからである。

    前段からの論説の通り「女系に依る妻嫁制度」の基に成る「青木氏族」の「四つの血縁源の力」が働いた所以でもある。

    当然の様にこの事に疎く、「氏是」を軽んじ破った「近江と美濃」は完全に滅亡した。
    然し、特質すべきは、最も見事であったのが「頼政の伊豆の本領」に「流れ」に引き込まれて「護衛団」として入っていた“「伊勢と信濃の青木氏融合族」(頼政の策)”である。
    これは、「青木氏族」としの血縁性の強い神奈川の「秀郷流青木氏の勢力の庇護」を受けて、「氏是」を守り続けて生き遺った事にあり、「青木氏族としての四六の古式概念」より「それなりの制度」を敷き、この伝統を守り続け現在に至っている事にある。
    まだ多くの資料を菩提寺などに遺し「古式概念を表す祭り」まで保存されている。

    そこで、そもそも「頼政本領」でありながらも「平家」は、先ず最初に潰される筈のこの「伊豆の青木氏」に手を出せなかった「史実」がこれを物語る。
    これは何故なのかであり、「頼政の策」の答えはここにある。
    これには「秀郷流青木氏の大きな背景」は否定できないが、「氏族としての結束力の所以」でもあろう。
    ここで、上記で「重要な事」として記した「頼政の策」の事に触れて置く。
    前段で論じた様に、「避けるべき源氏族からの跡目」は、「伊勢と信濃の青木氏族」に及んだ。
    「頼政」にしてみれば、「四家制度」と「妻嫁制度」を採っている「京綱や国友」を「跡目」として受けさせるには、この「二つの青木氏」を、「頼政の目的」と同時に解決し、「頼政の源氏子孫」を遺す策が必要と成る。
    それには、平家が絶対に論理的に手を出せない事、子孫を護り通せる力、絶対的な経済力と抑止力が必要な事、この「二つの条件、又は目的」を永久的に絶対的に叶えられる策が必要と成る。
    その策はただ一つある。
    それは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の“「青木氏の融合族」”を形成して「伊豆」に繰り込む事で成り立つ。
    「伊勢と信濃の経済力、抑止力」は元より、「妻嫁制度」による「秀郷流青木氏」とその背景にある「秀郷一族一門」の「主要五氏の青木氏族」は、「平家」と云えども無視はできない。
    これは当然に、平家の里の「伊賀での血縁族」で、「高野新笠の血縁の所縁」もあり、攻める事は先ず出来ない。
    ここを見抜いた「見事な頼政の策」であった。
    故に無傷で遺れたのである。
    現実に、平家は壇ノ浦の海戦で敗退したが、再び水軍を立て直し鎌倉湾に迫った。
    水軍の持たない鎌倉幕府は背後を責められて崩壊寸前であった。

    では、この時、「伊豆青木氏」は、「秀郷流青木氏」は、「青木氏族の配下」にあった「伊勢水軍や駿河水軍」は鎌倉幕府に全く味方しなかった。
    すれば、味方にすれば「平家」を直ぐに潰せた可能性はある。
    又、「平家水軍」も、この「伊豆」を始めとした「青木氏族」に手を出さなかった。
    場合に依っては、「伊豆青木氏」は「滅亡の憂き目」を受けていた事も考えられるが、「上記の青木氏の氏是」を護った事に依る。
    そもそも、この「青木氏」と「平家」は「所縁や戦略的な立場」から「阿吽の呼吸」が働いたのであろうが、両者がこれでは当然に「戦い」にはならなかった。
    これは「上記の説」を物語る事に成る。

    (注釈 結果として、「源為朝の伊豆大島の源氏水軍」が急遽駆けつけて、激戦の末に平家水軍は滅亡する。
    場合に依っては、逆に、その所縁から、先ず「伊豆青木氏」を味方に着け、「伊勢信濃の青木氏族」、「伊勢水軍や駿河水軍」を、将又、「秀郷流青木氏族」を味方に引き入れていれば鎌倉幕府は無かった。そもそも、「坂東八平氏」を中心にした「鎌倉幕府」には「青木氏族」は味方する程の所縁と義理は無かった。
    故に、所縁としても「四掟の範囲」にはあっても、「源氏族」の様な姿勢は、「青木氏の氏是」はこれを許さない。
    唯、「皇族朝臣族」とするだけであって、「中立」を守ったのではあるが、ここに歴史を左右した「青木氏の歴史観」があった。
    故に、この「重要な中立」を執った「全青木氏族」に、鎌倉幕府、取り分け、「北条氏の反対」を押し切った「頼朝から本領安堵」が得られたのである。
    同じ「朝臣族」として「力のある青木氏族」を温存させておく事は戦略的に必要であった。)

    「伊勢青木氏と信濃青木氏」は、大した所縁も義理も無い「頼政の申し出」に「青木氏融合族」で妥協した。
    現実に「女系の妻嫁制度」を敷きながらも、「四掟の範囲」に最も近いこの「河内の源氏族」とは関係を持たなかった。それは“戦闘を好む彼らの族”が発祥時から「青木氏族の氏是」に反していたからである。

    この事は、「平家水軍」も承知しての事であるからこそ、「頼政の策」とは知りながらも平家は必要以上に、“寝ている猫を起す様な事”を避けて、中立性を持たせる為にも果たし得なかった事に成る。

    (注釈 「秀郷流青木氏」と「秀郷一門」は、周囲を固められていて、「坂東八平氏の古来からの仇敵」であり、これを取り除かなければ「彼らの勢力拡大」は無かった。
    逆に、「頼朝」は、この勢力を味方に引き付けて「将軍としての立場の保全」があった。
    「頼朝」は身の危険を感じてでも「本領安堵策」に出た。

    (注釈 現実にトリカブトで暗殺死す。「頼朝」は、この件はもとより、義経、為朝軍等の多くの失政を繰り返した。)

    これは、「女系の妻嫁制度」に繋がる「氏族」であるからこそ、その「結束力」は揺るぎ無いものと成り、誰一人結束を乱すものは出なかった。
    もしここで乱れていた場合は「青木氏族の存在」は疑問であった。
    「男系」では、前段と下記の「人の遺伝子論」から観ても、この様に成らなかった事は明々白々である。
    これも「青木氏族」に関わる大きな歴史観であろう。


    何はともあれ、「歴史に残る厳しい掃討作戦」がありながらも、「諏訪青木氏」も「庇護」を受けて生き延びた。
    これらは「氏族を形成する程の血縁制度」の下であって「偶然」ではなかった。

    (注釈 確かに伊勢郷士の結束力は高かった。)

    然し、前段や上記でも論じたが、現実には、「伊賀の郷士衆」(青木氏に関わった24郷士が居た)に「3郷士」が信長に寝返り、「伊勢青木氏族」に裏切りが出た。
    結果として、「伊勢青木氏の宗家」は、この内、「18郷士」を護る為に「中立を守る姿勢」を採り続け信用させていた。
    それまで頑なに守っていた「青木氏の氏是」を破り、「織田軍の襲撃」の前夜に「名張城と清蓮寺城」の館城の平城から出て、夜間に餓死寸前の伊賀城(比自山城)に侵入し、「11郷士」を救い出したとある。
    その後、信長は、「氏人を含む11郷士と青木氏族の掃討」は無かった。
    上記した様に、これは室町期に「史実」を遺す「青木氏族の持つ背景」を恐れたと考えられる。
    「秀郷一門の背景」とその一門であり、この「伊勢の指揮官の蒲生氏郷の働き掛け」もあったと観られる。

    この「史実」は、要するに、この「乱世に珍しい血縁で深く結ばれた氏族」であったからこその所以でその証拠と成る。
    これは全て「四六の古式概念から制度」の「結びつきの結果」に依る。
    唯、「血縁の割合」として観られる事があった。

    ここでその「疑問」の一つを解決して置く。
    前段でも詳細に論じたが、ここで「伊賀郷士衆の24士中」の「3士」が裏切り、「18士」が敵対したとあり、この内の「11士」を二つの館城に救い出したと記録にある。
    (注釈 「中立3士」の事は上記)

    とすると、「24士」−「中立3士と裏切り3士」=18士と成り、今度は、“18士−11士=「残りの7士」は何なのか”と云う事が疑問に成る。

    前段で論じた様に、“自分で逃げ出したと云う事”もあるが、これは「記録」として残るのであるが、初めから逃げ出せるのであれば、餓死寸前までいないで「中立3士の様」に逃げるであろう。「伊賀掟」から観て大いに疑問である。

    確かに「青木氏の軍(伊勢信濃シンジケート)」で一緒に救い出したとあるが、この経緯からすると「残りの7士」は、「縁戚関係」に無かったかという事に成る。
    確かに救出後、記録では「飛散した事」に成っている。
    現実に、“「飛散した事」”は記録にあり、「中立3士の滋賀青木氏の件」で「近江佐々木氏の研究記録」の中にも触れている事は事実である。
    江戸期に成ってこの「伊賀の7郷士」を“「殖産」”で呼び寄せた事が判っている。
    つまり、室町期末期には「伊賀郷士衆」とは、先ず、少なくとも「11士/24士」、即ち、約半分まで血縁に依る「氏人の関係」は確実に出来上がっていた事を先ず示す。
    勿論に、「女系に依る妻嫁制度」に依ってである。
    そうすると、「呼び寄せている事」は明確であるとすると、“それは誰がやったのか”という事で解決する。

    先ず、彼らを“「呼び寄せる」”には、先ず、その匿っている「行き先」が判っていた事(イ)、次に、呼び寄せる全国的な組織を独自に持ち得ていた事(ロ)、呼び寄せた以上はその生活を保障する能力を持ち得ている事(ハ)、その家族を誰が養っていたかという事(ニ)、逃亡先での生活を誰が保障していたかという事(ホ)、紀州藩に話を通せる者である事(ヘ)と成る。
    少なくとも、この“「(イ)から(ヘ)の条件」を「充分に果たせる力を持っている者」“でなくてはならない。
    それは、「青木氏族と神明社と秀郷一門」の「青木氏族」でなければ成り立つ話ではない。

    とすると、「残りの7士」は、「妻嫁制度」に依って江戸初期から「青木氏」と「後の血縁族」と成り得た事を意味する。
    前段で論じた「伊賀域」で「和紙の殖産」に関わった「伊賀原士の氏人」は、先ず、この「11士」に当たり、その後の「綿花の殖産」に関わったのが、この「残りの7士」であった事に成る。
    何故ならば、前段で論じた「伊賀の経緯」上は、この「残りの7士」は「伊賀掟」から「伊賀」には住めない筈である。
    少なくとも、前段で論じた様に、「殖産の工程の流れ」から、「名張と西連寺」と「伊賀を結ぶライン上」に住む事に成る。

    何故ならば、その「残りの7士」の「家族の養い場所」(ト)が必要で、「何かの糧」(チ)を与えて、未だ乱世が終わったとは云え、「身の安全」(リ)を確保して保護し、「伊賀に近い場所」に住まわせる「適切な施設」(ヌ)が必要であった。
    そして、そこが「青木氏の地権の働く場所」(ル)である事が必要であって、「青木氏」がそれを「熟し得る組織(四家制度と伊勢屋)」を持ち得ている事(ワ)が必要であるからである。

    「青木氏族」が(イ)から(ワ)を満たしている限りは、上記の「残りの7士説」は正しい事に成る。

    次に「疑問」になるのは、「氏家制度」の中で、果たして、「男系の跡目制度」との繋がり関係とはどの程度の差があったのであろうか。
    徹底した「父方での繋がり」と「母方での繋がり」としては、筆者の論では次の様に成る。
    “「徹底」“と云う前提で論じれば、“「母方での繋がり」が強い“である。
    それには「父方の繋がり」では「欠点」がある。
    その「欠点」とは、一つは「逃れ得ない本能の闘争心」にある。
    況してや、「男系」の場合には、「母が異なる系列」(異母兄弟)には「族」、或いは「属」としての
    情愛」は世の常で薄れる。
    この結果、「姓化」が起こり、広範に広がりその属性は薄れ「独自性」が出る。
    この広がる「独自性」を「掟と武力で抑える仕組み」で防ぐ様にするが、破ればこの本能の「闘争心」が働く。
    これを「差=A」とする

    ところが、「妻嫁制度の女系」に依れば、「人の遺伝子」の継承は、「母方」(「女(むすめ)」)に継承される。即ち、「人の遺伝子の融合族化」が生まれる。
    「男系」では、「人の遺伝」を引き継がない以上はこれは起こらないで、その「意思」に関わらず「遺伝子上での結束」が生まれない。
    ここには、「妻嫁制度による女系」では「闘争心」(嫉妬程度はあるが掟で抑え込める。)は生まれない。
    これを「差=B」とする。

    結局は、何れもその「意思に」関わらず、次の差が生じる。
    「差=A」<「差=B」に成るだろう。

    この「差=A」<「差=B」の「差=C」が、「結束力」、即ち、「意思」に関わらない「結束力」と云う事に成る。

    「四掟に基づく妻嫁制度に依る女系」は、この“「結束力」”を産むと云う前提に成る。
    何はともあれ、周囲が、「男系に依る氏家制度」の中で、「青木氏族」だけが独自に「妻嫁制度に依る女系」を執った事にある。
    ここでは、「氏家制度」;「妻嫁制度」と云う数式論が生まれる。
    「青木氏族」は、結局は、「氏家制度」<「妻嫁制度」の「数式の概念」を持った事に成る。
    これでは普通ならば、生きては行けない。潰されるであろう。
    これは「異様」であった事は間違いは無い。
    然し、この「異様」で「異端な血縁」を、周囲は、“「青木氏族」”として観ていたからに他ならない。

    (注釈 潰す事の出来ないあらゆる面、即ち、「経済、政治、武力、権威」の「抑止力」が働いていた。それも、「表裏の抑止力」であった。)

    現実に、「政治と権威」では、「お定め書」を出した「家康」も「青木氏族」として観ていた事に他ならない。

    さて、注釈より本論に話を戻して、前段でも論じた様に「次の差の疑問」が生まれる。
    この「妻嫁制度の中での必然的に生まれる差」の事である。

    そこで、“「后、妃、嬪、妾」と成る差”にこの「疑問」を持つが、その資料から読み取れる範囲としての答えは、「入り」の先の「位階」と、その系の“「直系本流と傍系支流の末裔の差」”で決まる様であった。

    現実には、この「四段階の制度」は、主に「福家」のみが採られる制度で、「福家」以外の「四家」は、原則として「妃(ひ)」、「(嬪・ひめ)」、「妾(しょう)」の範囲であったが、前段で論じた様に室町期以降は、もっと遡れば、「光仁天皇期」以後は、「后」は完全に「特例扱い」で、「(嬪・ひめ)」、「妾(しょう)」の範囲であった様で、明らかに「四六の古式概念」を外している。

    (注釈 これには、“「后」”に対して「青木氏存続に関わる重大な理由」があった。
    これは「孝謙天皇期の白羽の矢」の「心的外傷、トラウマ」、或いは、「戒め(青木氏の氏是)」と考えられる。)

    そもそも、前段でも論じている様に、「青木氏族」に、この”「妾子」”が多く組み込まれた理由は、論理的には、”「入と出」の「妻嫁」”であるのだが、現実には何が理由か確定はできないが、間違いなく「経済的理由」では無い。
    又、確かに、「上記の注釈の要因」とも考える事は出来るが、それだけでも無く、「妻嫁制度の論理的な仕組み」にもあった様である。

    「主な原因」としては、先ずは「青木氏との繋がりの範囲」、所謂、「永代の従四位までの家筋(四掟)」が「平安期」と違って、取り分け、室町期以降は「下剋上と戦乱」で「氏族」は前段で論じた様に激減した事から少なく成った事が云える。
    その為に、熟慮し改善して執った策であると観られる。

    この「下剋上と戦乱の時期」では、“「四掟」”は現実には難しかった筈で、「位階」を外した範囲での「入り」の「后、妃、嬪の制度」も難しくなっていた事が解る。
    結局は、この「四六の古式概念」に基づく「論理的な制度」を敷いていた以上は、「位階」の無い「妾の妻」と成らざるを得なかった事に成る。
    従って、これに応じて当然に相対的には「出」の「嫁」も難しい事に成る。
    然し、ここには頼るべき少ない「妾」の「妻」と、「出」の「嫁」の差が起こり、この「妾」の「妻」><「出」の「嫁」の差を埋めるには、「女系の妻嫁制度」を敷いている以上は、「出」の「嫁家先」から、再び、必然的に「四掟の四家(20家)」に「女(むすめ)」として補う以外に無くなる。

    「女(むすめ)」、つまり、前段で論じた「妻嫁の女子の娘孫」を「青木氏」に戻し養育して、「出」の「嫁」を多くして「縁戚」を多くして補う以外に無くなる。
    前段から論じている「青木氏族」の「女(むすめ)」の概念である。(*に続く)

    ところが、中には、「出」の「嫁家」から「優秀な男子の一人」に「出の先」で「福家の許可」を得て「青木氏」を一度興させて、そこから「本人または嫡子」を「四家」に戻すと云う「補完策」の特例を執った事も書かれている。

    実は、これには「青木氏」の「歴史に残る戦歴」による「妻嫁制度のその強さ」の証明があるので敢えて外れて下記に論じる。

    これは、前段で論じた「人の遺伝子説」の論理には薄らぐ結果とは成る。
    「女子の子の女子」は「人の遺伝子」では、同じ「人の遺伝子」を継承する。
    従って、完全な女系族からは出ない。依って「妻嫁制度」は成立する。
    然し、ところが、「嫁家先の男子(a)」の持つ母親から引き継いだ「人の遺伝子」は、その「男子(a)」の「女子(娘)」に引き継がれる。
    然し、その「女子(娘)」が「四家」に要するに前段で論じた“「女(むすめ)」”として戻る事には、「妻嫁制度の論理性」は崩れない。
    これには「女(むすめ)」の「福家に於ける養育制度」には影響はない。

    然し、この件の様に、この「男子(a)」が、直接に「禁じ手」で、「四家」に入ると、「妃、嬪、妾の制度」の「直系男子」では無く、別の嫁家先の傍系尊属の「男子の遺伝子」を持ち込む事に成る。
    「妻嫁制度の女系」では、元より「男系の遺伝子のある枠」(男系の血縁源)を超える事に成る。
    これは、「掟外」である。

    然し、「掟破り」で実施された記録がある。
    これは、態々、「掟破り」をしてでも行った事は、“そこには何かがあった事”の疑問が起こる事に成る。放置できない。
    少なくとも、“「相当な人材の評価」”があった事は頷ける。
    従って、「特例」なのであって、それも「福家と嫁家の了承」があっての特例事であろうし、それも「位階を持つ家人」等の「掟破り」で、上記の「氏族の中での事」と当然に成るだろう。
    この「特例」が、「何らかの大きな事情」が起こったものであって、この特例が常時に起こっていた事を示すものは何も見つからない。

    筆者は、その「ある事情に応じた対応策」として、これは「氏族の中のバランス」を執る為に、特別に「不必要な競争心」を無くす事から“「家人からの補完策」であったと観ている。
    これは「室町期の末期の資料」である事から、「氏族内」に何か「乱れ」が起こり、これを鎮める為に執った策であろう。

    先ず、「殖産」に於いてではない筈である。
    何人かいる中の「家人」である事は確実で、この「家人」であるとするならば、この時期の前後に前段でも、「青木氏族存亡」に関わる織田氏による「4つの伊勢攻め」がある。

    その4つの内の2つは「伊賀に関わる戦い」で、「家人」の「女(むすめ)」を「氏人」であった「伊賀の者」に嫁がせる戦略を執った。
    今回は、「南伊勢の家人」であるとすると、4つの内の「大河内城の戦い」と成る。
    「福家」と「南伊勢の家人」がリードした「伊勢北畠氏の大河内城攻め」であった可能性が強い。
    (注釈 1569年に南伊勢を所領する北畠氏が信長に攻められる。)

    この時、「伊勢青木氏}は、「青木氏の氏是」を破り陰日向で「北畠氏」に合力する。

    (注釈 「貴族の北畠氏」は、そもそも「不入不倫の権」を破り「伊勢」を攻略した。「青木氏」に執っては好ましくない相手でもあった。)

    然し、この「南伊勢」は、「青木氏の旧領地」で奈良期からの多くの「氏人の定住地」でもある。
    放置はできない。この「旧領地の家人」は妻嫁制度の血縁でも深く繋がっている事は明らか。
    そこで、「伊勢青木氏」は、止む無く「伊勢シンジケート」を直接投入して「彼らの氏人」を護ろうとした。

    又、この「旧領地」は、「墨や和紙の原料の楮」の「最大生産地」でもあった。
    ここを奪われる事は、「伊勢青木氏の存亡」、強いては、「信濃青木氏」にも影響する大問題であった。
    つまり、「青木氏族の今後」を占う「戦い」と成っていた。
    恐らく、激戦を予想できる事から、この「氏人等の家人」の「跡目」を絶やさない様にする為に、「優秀な嗣子」を選び「福家」に「掟破り」も承知で預けたと考えられる。
    「家人の嗣子」か「氏人の嗣子」かは確実には判らない。

    奈良期からの「青木氏」を物語る「青木氏の旧領地」である事から、「氏人」と云えども「家人」に相当する血縁関係は構築されていたものであり、所謂、故郷や実家先に相当する。
    結局、この「記録」では、「大河内城」が落城寸前に「伊勢シンジケート」が、彼らを救い出し「南伊勢の尾鷲」に逃がしている。この時、「福家」も「尾鷲」に約1年間避難している。
    織田軍は「大河内城」の周辺に火をかけ「氏人」等を含む「住民全て」を城に追い込んで圧力を掛けた。
    「青木氏」の「氏人等の住民」を全滅させる事は、必然的に「青木氏」等に敵対される事は必定で、結果として同じに成り、北畠軍は瓦解し開城する。

    織田軍は、背後には、歴史的にも過去にも有名な「青木氏のゲリラ戦の戦歴」があり、この戦いに於いても「妻嫁制度に依る独特な結束力」のある「青木氏族」が潜んでいる事は「周知の事」であり、戦略的にこれを狙ったのである。

    既に、「伊勢シンジケート」が周囲に配置されていて、軍事物資を経済力で抑えられれば、直前に経験している「田丸城と松ヶ島城の二の舞」に成る事は「経験済みの承知」である。
    「伊勢水軍」もいて「海と陸」を封鎖されれば水軍の持たない織田氏は全滅する。
    物資を抑えられれば「無理攻めする事」は100%無い。
    「足利氏の餓死二万」の二の舞である。戦わずして負ける。

    「青木氏側」からすれば、当然のこの「戦いの構え」をした事に成る。
    そして、「織田軍」が攻めて来る筈のない「尾鷲」に住民を館に保護したのである。
    何故ならば、「尾鷲」は、「伊勢青木氏」と「氏人の伊勢郷士の里」でもあるのだ。
    前段でも論じた様に、「女系の妻嫁制度」で繋がる「小林氏や加納氏や玉城氏や玉置氏や山尾氏・・の里」でもある。
    つまり、この「里」とは、「伊勢郷士らの休養地」でもあり、且つ、「尾鷲港」は「天然の湾」として「奈良期からの交易港」で、ここに身内を置いて「事務館」を設けていた。
    下手をすると信長に敵対している、熊野六氏や雑賀氏、根来氏、北山氏等の「武装ゲリラ軍」が動くこともあると、周囲を固められると織田軍は全滅する事もあった。

    この様な、「掟破り」には「伊賀」と同じく「歴史的に残る経緯」があった。
    これは「妻嫁制度の何者かを物語る由縁」を顕示している。
    「南伊勢からの嗣子」はその後に戻されたかは判らない。
    然し、筆者は、注釈として、この「南伊勢の嗣子」を戻さなかったと観ている。
    前段でも論じたが、それは江戸幕末から明治9年までの南伊勢から起こった「伊勢騒動」に「青木氏」が大きく関わった事からも考察できる。
    明治政府との掛け合いで「過去からの献納」を配慮したか「伊勢の騒動」の一揆は、処罰人を出したが、“正当である事”を「維新政府」は認めた。

    この「女系に依る妻嫁制度の結束力」は、「歴史的な事象」から見ても「時の政権や最大勢力」をも動かすものと成っていた。

    「血縁制度」では「異様」と云う事に成るだろうが、「歴史的な観点」からは“形の見えない「脅威」”と観られていた事には成るだろう。
    然し、これだけ「歴史に残る実績」を持ちながらも、「青木氏の氏是」に従って、明治期までこの「影の脅威」を以って「青木氏族」は決して前には出なかった。
    明治期の「華族制度」の叙勲と勲位時も、「紀州徳川氏の推薦」もありながら丁重に断り受けなかった。

    (注釈 「断りの品」を添えて返信している。これに対しての、この時の「維新政府とのやり取り」
    で、「左大臣から桐の菊絵紋(直筆)」の気品のある文箱に入った手紙が遺されている。
    「文箱、直筆、菊絵」は、“「最大の礼」”を示している。
    他の華族にはこれ程の扱いは無かった筈で、始祖施基皇子、光仁天皇族、直系族は仁明天皇青木氏族、志紀真人族であったからであろう。
    この位に徹底していた様で、「口伝」でも「戒め」として伝わる。)

    (*は下記から)
    つまり、「現在の概念」で云えば、「出」の「嫁家」から「養女(実際は娘の概念)」として、再び、「四家の青木氏」に戻し、そこから、再び、「出」の「嫁」として出るというシステムである。
    つまり、「女系で繋がる縁戚関係」が無限に増えるという「仕組み」である。

    注釈として、「遺伝子」のレベルでの理論では最も「正統な血縁」の「仕組み」と云える。
    それは、前段でも何度も論じている事ではあるが、「人の遺伝子」は「女」が引き継ぎ、母から引き継いだ「男」の持つ影の「人の遺伝子」はその子の「女子」に引き継がれる。
    と云う事は、「女子」に全て引き継がれ、「人の遺伝子」は「族の範囲」で融合して行く事に成る。
    つまり、「遺伝子的」に云えば、「女子」で繋がる方が論理的には「族の結束力」は、意識するかしないかは除外され、高まっている事に成る。
    但し、この説は、その族の娘に婿養嗣、或いは婿義嗣を迎える女系ではない。
    つまり、況や、「女(むすめ)」)の範囲で成り立つ論理である。
    況や、「女系」と云えども、飽く迄も、「四六の古式概念」の「四掟」の「妻嫁制度」と「四家制度」の範囲で制限を求めて成り立つ論理と成る。
    これが、「青木氏族」が執っていた制度という事に成る。
    従って、本人の意識外の外で、好むと好まざるに関わらず「同じ族内の遺伝子に依る結束力」が発情する所以と成り得る。

    これが他と異なる「青木氏族」と云う所以であり、周囲からは「異様」と成り得るのだ。
    故に、これを考えた「施基皇子の血筋」を持つ「女系子孫」の「青木氏の氏是」と成る。
    何度も色々な面から論じているが「青木氏の氏是」が徹底して長く守られた所以である。

    要するに、但し、「四家」は純然とした「嗣子の男子」で継承し、それを「女系」で補うという「特異なシステム」に成る。
    「娘」に「無縁の義嗣(婿取り)」を迎えて「家」を継承する「女系」ではなく、「最小限の血縁の四掟」を守れるシステムと云える。
    これは「氏を構成していると云う前提」に依って成り立っている。



    「青木氏の伝統 45」−「青木氏の歴史観−18」に続く。


      [No.362] Re:「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/09/16(Sun) 14:11:16  

    > > 「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15日」 末尾
    >
    >
    不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。
    >
    > さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。
    >
    > これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
    > 前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
    > 「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
    > 矢張り、「殖産」の主軸は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
    > 上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
    > 「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。
    >
    > (注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
    > 筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)
    >
    >
    >

    「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    さて、この「絆の関係」を構築しているのが、これ即ち、「四六の古式の概念」や「四掟等の掟」は、この「絆の関係構築」の為の「一つの方法」ではあった。
    依って、この事の「血縁」等の「弊害」を充分に見定めた上で、「譲れない氏族」としての「四掟等の掟」と成っていた事なのであって、これは重要な「青木氏の歴史観」であった事に成る。

    (注釈 前段の「孝謙天皇」の「青木氏」に対しての「白羽の矢」は、この「(A)(B)(C)の条件的な血縁」を前提として点てられた事を意味した。
    本来であれば「入りと出も男系と云う前提」で「天皇家の血筋」は成り立つ前提であろう。
    然し、「青木氏族」は「入りと出」は、基本的に「入りと出」の「男系」では無く、全て「女系」で成り立っていたのである。
    然し、未だ「氏族の構成」があまり進んでいない時期ではあったが、「孝謙天皇」の放った「白羽の矢」が不幸にして当たったのであった。況してや「妾子族」であったのに。
    前段でも論じたが、「白羽の矢」の当たった「伊勢青木氏の嗣子」等の夫々は、「公的な史実」として、“飲んだくれ”等を装い避けた事が書かれている。
    「氏是」に従い懸命に「氏人を含む青木氏族」を守ろうとした事が判る。)

    故に、今後、この様な事が起こらない様にする為に、これが前段で論じた基本の「四六の古式の概念」をより強化して改善を加えて持ち込み、その為に独自の「四掟」等の制度が定められた所以でもある。

    (注釈 「后の入り」を執らなかった唯一の理由はここにあったと考えられる。)

    然し、唯単に、「四六の概念」に基づいた上記の(A)(B)(C)は、「氏族保持」と「家柄保持」と云う事だけではなく、上記で論じた”「殖産」”などを含めた「広範な体制保持」に欠かす事の出来ない「絶対的な概念」であった。
    従って、これは、「殖産」=(A)(B)(C)の関係が成り立たなければ、不可能だと観ていた事に成ろうし、これが”「青木氏の強味」”でもあると認識していた事に成る。
    この「青木氏の強味」を生かさない手はないだろう。

    (注釈 しつこい様だが、上記の「大岡裁定」の「三河者の大岡」は、言い換えればこの“「青木氏の強味」”を必要以上に意識し過ぎたと云う事にも成ろう。)

    又、「市場放出の余剰品」の「和紙と墨」を「殖産」と「商い」として成立させた時期の925年頃には、「青木氏部」と共にこれを成す事に「力を貸した郷士」とは、既に、この「(A)(B)(C)の条件的な血縁の関係」が一重くらいには出来上がっていたと考えられる。
    少なくとも、この頃から衰退を極めて行った「近江」、「美濃」、「甲斐」を除いては、出来上がって行った事に成る。

    (注釈 故に、前段でも論じたが、「平家に圧迫」をうけて「近江、美濃、甲斐の衰退」を見た「円融天皇」は、憂慮して「平の将門の乱」を利用して功績のあった「俵源太」に「青木氏」を補完賜姓し、960年頃からの「秀郷流青木氏の補完役」の「出現」を成したと観られる。)

    筆者の感覚は、「奈良期」から始め「江戸期」までの「殖産」に於いては、この「絆の関係氏との保持」の為の「青木氏の概念」が、上記の制度を構築した「四六の概念」に基づいたものであった。
    依って、その「主流の概念」であったと観ている。

    従って、奈良期から続けられ江戸期まで続いた上記の「女系の入りと出の振り分け具合」が、どの様な程度と成っていたのかが気に成る。
    然し、探すが資料にはそこまでは物語るものが見つからない。
    「商記録」は別に、上記した様に「入りと出の情報源」を掴んでいたところにあり、それは主なものは「青木氏の執事等のあらゆる事務」の執事を司っていた「菩提寺や神明社」に遺されている資料と成るが、上記した「江戸初期の令(後段で論じる)」で消滅している。

    下記にも論じるが、結論的に云うと、「四六の概念」を敷く以上は、「入りのキャパシティー」と「出のキャパシティー」の差から生まれると判断できる。
    これは「奈良期からの時代性」と「青木氏族の繁栄力」に大きく左右される。
    仮に、筆者が執事に成ったとして、とすると、これは明らかに「答え」は次の様に出る。
    上記や前段でも論じた様に、次の数式が生まれる。

    「入りのキャパシティー」<「出のキャパシティー」

    つまり、この「青木氏のキャパシティー」の5=5の数式は成立しない。

    故に、これが要するに「青木氏」では、”「4:6の比(四六の古式概念)”」という事に成り得る。

    では、仮に、これが「3:7の比」であったとして、「福家と四家20家」を補う為の「「嗣子」と、「出」になる「女(むすめ)」は賄えない。
    そこで、「四六の古式概念」に依って「福家と四家20家」を賄う為に「妻嫁制度の妻」は、要するに「四段階(后、妃、嬪、妾」)」に成っている。
    但し、この「掟」により課せられていた事は、「妃、嬪、妾」は、「后」は無く、且つ、各々が原則1人であるとしている。
    従って、「3の比の妻」から生まれる子供は、標準二人としても「四家20家の合計」は40人である。

    (注釈 当時は死亡する比率が疫病等により高かく、平均寿命の短命55歳であった事を勘案する。)

    この内、「男女の差」が「現在の標準比」から考えると「5:5」である事から、「嗣子の20人」と「女(むすめ)の20人」と成る。
    標準的に「嗣子20人」としては何とか賄えるが、一度に「全四家」に跡目が起こる訳では無く、「四家20家」には必ず「代変わり」がある。
    この「代かわり」が、最大で「四家20家の半分」の5:5で起こるとする。(長寿系であった。)
    「20の最大」でも賄えるが、現実には、種々の理由で5:5とは成り得ない事が起こる。
    それが仮に「嗣子と女」の「比」が2〜「4」:8〜「6」と成った場合は、最低でも2・5=10と成るので、5:5であっても何とか賄える事に成る。
    従って、検証では「男系の継承の嗣子」には問題は無い。

    さて、そうすると、この場合の「女の比」は、最低で6・5=30 最高で8・5=40と成り充分と成り得る。
    「伊勢」に於いては、「出の先」が「郷士衆」は50であるとすると、最大で30〜50は成り立つ。
    「郷士衆」、つまり、「氏人」に対しては一斉にしても成り立つが、この様な事は先ずは起こらない。
    即ち、余裕が起こる。
    「郷士衆・氏人」の50の半分としても25であり、「女(むすめ)」の「出の嫁家数」としては成立する。

    充分成立するとしてでは、次に、この「女(むすめ)」」の「余裕分」を放置できない。
    当然に、後の「妃、嬪、妾」の「入り」の「三つの血縁源」、つまり、上記の通り「京等の位階の血縁源」と「秀郷一門と秀郷流青木氏」と「信濃、甲斐、越前、伊豆等の血縁源」に、最低でも5、最大でも25が振り向け戻せられる。

    (注釈 「后」は「特例扱い」で現実には採用されていない。
    そもそも、「后」があると、この「三つの血縁源」を嫁家先を差別化する事に成り、「三つの血縁源」が同列としている概念の「四六の概念」には問題が起こり好ましくない。)

    そうすると、考慮しなければならない事は、生まれる「嗣子と女(むすめ)」の比が、上記の3:7の3から生まれるとすると、このパラメータには、当然に「バイアス」が含まれるが、これをどう見るかである。
    即ち、常に、この「数字のバランス」が続くとは限らない事に成る。
    これを何かで補わなくてはならない。
    時には、「入り妻」に「子」が生まれない事、或いは、男ばかりであったりする事、又、逆の事も起こる。
    この事も配慮を要する。
    それを「バイアス」として1と見做せば、3+1とすると、矢張り、「4の概念」が生まれる。

    では、「4の概念」のこの1を加える事を「バイアス」として持っておく必要がある。
    そもそも、他氏の様に、“「入りの妻」の「人数」”を「一人ずつ」とする事を止めて、“複数化すればよい”とする考えもある。
    然し、「青木氏」はこれを執らなかった。

    何故ならば、上記で論じた「入りの妻」に課せていた「掟」、所謂、「女(むすめ)」への干渉」や「入り妻同士の争い」が起こり、「統制」を執れなくなる事を懸念したからに他ならない。
    前段でも論じたが、この「制度の模範」は、そもそも「中国」にあって、”中国の「国の短命」(専門家の定説)はここにあった”とする事を「貿易」を通じて情報として持っていた。
    従って、複数化は「青木氏」としては採れない。
    では、“どうするのか”と云う事に成る。

    この「複数化」を抑えるには、これが、「バイアスの採用」と成ったのが、”「女(むすめ)」”の「定義の変更」であった。
    つまり、上記で論じた「郷士衆、氏人」との間で結んだ「伝統の決まり事」、況や、上記した「定書き」の経緯と成った事であった。
    況や、「孫から玄孫」までを取り敢えずは、「区別、差別、位階、格式」の無い“「女(むすめ)」とする制度”としたのである。
    こうすれば、「何らかの変化」に依って「不測の事態」が起こっても、何時、「女(むすめ)」が不足しても、「バイアス」には対応できる事と成る。
    この「掟」を以て「孫から玄孫」を「バイアスの1」としたという事に成る。

    然し、ここで云える事は、この「1のバイアス」を「三つの血縁源」に求められる事は不可能である。
    そこまで、「青木氏族」とは云えども、つまり「族の関係」にあっても「氏人と同じ関係」には無かったであろう。
    唯、「信濃」とは、「商いの関係」もあり、大化期からの血縁を繰り返して来た「同族の生遺り」でもあって、「バイアスの融通」は利いた筈で記録には遺る。

    この「バイアス」を常態化すると、普通は、取り分け、「玄孫」の「女(むすめ)」と成れば、「氏人の嫁家先」は別としても、他の「三つの嫁家先」と成れば、場合に依っては「嫁家先の信頼」を失う事に成りかねない。
    三つのその一つである「京などの位階先への嫁家(「入りの妃の家」の関係族)」は、100%無理で信頼は確実に失う。

    では、この「バイアス」を作る場合は、次の様に考えていたと思われる。
    「福家と四家20家」の「女(むすめ)」の「孫」は、「入りの嬪」で、「曾孫」と「玄孫」は「入りの妾」の「二つの原則」が生まれる。
    それは、そもそも、社会は「氏家制度の仕来り」に依って成り立っていた。
    従って、取り分け、「血縁(婚姻)」ともなれば、勝手に自由は効かない。
    「青木氏」が「氏族」を唯一形成する族もと成れば、それも「伝統ある氏族」である。
    依って、”ある程度に従うと云う事”にはならない。
    「青木氏族」は冠たる「氏家制度の見本」以外には何物も無く、「異様」ともみられる「家の制度」を大化期から敷いていた。
    故に、これは「氏家制度の以前の問題」である。
    何はともあれ”「妃、嬪、妾」の「妻嫁制度」を導いていた事”はその最たる所以と成る。

    そこで、この「玄孫」を含む以外の「女(むすめ)」の、前段で論じた(5)〜(7)」(下記)は、この「バイアス」が無くなり、「氏家制度」の中とは云え、数理的に考えれば“「特例」”と成り得ていた事に成るだろう。
    然し、詳しい記録が消滅しているので確たるところが云えないが、バイアス=0とは成り得ていたとは到底に考え難い。

    1 子、
    2 孫
    3 曽孫(ひまご)
    4 玄孫(やしゃご)
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    それは次の資料から読み取れる。

    これは室町期末期頃に掛けてのやや風化した資料である。
    「青木氏部の差配頭」の「郷士衆の家(家人)・(A)」に「遺された手紙」の「福家とのやり取り」の資料の一文節には、(5)の「女(むすめ)」としての「養育」を願い出ている文節がある。

    これは、「この家人の郷士の家・(イ)」と「他の氏人の郷士との家・(ロ)」の「縁組」を、“「何らかの理由(ハ)」”があって、これを解決する為に“「(5)の養育願い」”を出したものであるらしい。
    この「家人の差配頭・(イ)」の縁続きの差配下の別の「氏人の郷士の家・(ロ)」」との(5)に当たる「女(むすめ)」を、「他の氏人の郷士の家・(ハ)」に嫁がせると云うものの様である。
    その為に「福家」の「女(むすめ)」として養育して、それぞれ、「(イ)の家」を中心にて「(ロ)の家」と「(ハ)の家」を「血縁と云う方法」でより結び、「青木氏」の「女(むすめ)」として嫁して、(ロ)と(ハ)の間に“「ある問題」”を「氏としての血縁」で深くして解決しようとしたと考えられる。

    この“「ある問題」”とは、何なのかはこの文節には書かれていない。
    (イ)も(ロ)も(ハ)も何れも「氏人」である。
    「福家」はこの「ある問題」を既に承知していた事が“文節中に無い“と云う事で分かる。

    筆者は、「殖産化と商業組合を推し進めた時期」で、世情は「混乱期」で、且つ、「伊賀郷士との絡み」と観ている。
    そもそも、「伊賀郷士(ハ)」は、普通は「郷士」とは呼ばれず、“「原士」”と呼ばれた。
    この「原士」と呼ばれる所以は、「農民」であり、「郷士」であり、「技能士」であり、「契約戦士」であり、「万能職」を熟す人の事であった。
    要するに、今で云う「忍者の事」で、その「定まった姿」を明かさないのがこの“「原士」”であった。
    この「伊賀郷士の(ハ)」は、奈良期の古来より「青木氏の氏人(郷士)」と成っていて、「青木氏部にも職人(技能士」」として加わり、時には「伊勢シンジケート(戦士)」として加わり、「田畑を耕す農民」でもあった。
    室町期末期は、「織田氏」の「伊勢への侵攻」で、取り分け、「織田氏」には、「原士の礎情(支配関係を排除)」があって“「権力」に立ち向かうこの「伊賀の人」”に対しては、敵意を示していて、前段でも詳細に論じ、下記にも論じるが、「織田軍苦戦の伊賀の戦い」が起こった。

    この時期には、同時に「青木氏族」は「殖産」を拡大していた。
    その時、「信長への敵対」は、「伊賀郷士の存亡」に関わる重大事であり、何とか思いとどまらせる様に、「伊賀郷士(ハ)」(伊賀の差配頭か)に対して、この「殖産」に加わる様に説得をするよう試みていた。

    さて、ここで、前段でも一部論じたが、「青木氏族」とどのような関係にあったかをもう一度解説する。
    ここでは、上記の「妻嫁制度での繋がり」がどの様に動いたかを証明する事が出来る。

    「織田と伊賀の勝負」は「多勢に無勢」で勝敗は決まっている。
    「青木氏族」の全てが、何とか「伊賀の原士の氏人(11士/18士/24士)」を何とか救うべき説得を繰り返していたと考えられる。
    それには、「職能」でより繋がっていた「青木氏部の差配頭(イ)」が適任で、「血縁の氏人」である以上は、「青木氏の懐」の中に誘い込み「保護する戦略」を「福家」と内々に打ち合わせていた。
    勿論、「青木氏族」にも直接、危険は迫っていた。
    「伊賀の一角」が潰されれば、「青木氏族の抑止力」は低下し、「青木氏族」を興す「殖産」のみならず「商業組合」は崩れる。
    これは「青木氏族の衰退化」を意味する。
    筆者は、「莫大な経済力と強力な抑止力」を持った者には、信長は敵意を示し天下取りに邪魔と観ていた筈で、その手始めが「北畠や伊賀等への侵略」であったと観ている。

    公的に史実と成っている事を時系列で並べて考察すると、この「青木氏族の強さ」が観える。

    「信雄の田丸城攻め(改修)と松ヶ島城(仮城」」の二つでは、「青木氏族の軍事物資買い占め」と「伊勢信濃シンジケート」で、築城を遅らせ、最後にはやっと完成した城を燃やした。
    その後の「松ヶ島城の仮城」でも「青木氏族」は同じ手を使った。

    「伊勢秀郷流青木氏」も「秀郷一門」を動かして全国的に織田氏に牽制を掛けようとして、一門を率いる「青木氏族の結城永嶋氏」に話を通していた。
    「結城永嶋氏」は動いて「織田」と敵対し始めていた。
    秀吉による「陸奥結城永嶋攻め」では、「結城の本家」が「秀吉の陸奥攻めの背後」を攻め立て、「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢から陸奥に向けて背後を突き、「結城本家」を助け、「秀吉の戦歴」に遺る3000人の死者を出す大敗北で、自らも東北道の商山道を逃げて大阪にやつと辿り着くと云う事に成った。

    「伊勢長嶋攻め」でも、「青木氏族の集結」と「伊勢信濃シンジケート」に抵抗され軍事物資が調達できない「枯渇の戦い」と成った。
    「信濃青木氏」も、「平家との戦い」で「近江、美濃の滅亡の失敗」を繰り返さない様に、勿論、側面から「陽動作戦」を展開し「信濃シンジケート」を伊勢に差し向けた。

    そこで、伊勢での「妻嫁制度」では、事前にとった「伊賀」の為に執った「強力に推し進めた血縁」は整ったが、然し、現実は歴史に残る「有名な戦い」と成った。
    「信雄の4つの伊勢攻め」の内、この「伊賀の総攻撃」の前夜で餓死寸前であった「11原士とその一族」を「伊勢青木氏の平城館」の「名張館」と「清蓮寺館」に仲間の「伊勢信濃シンジケート」を使って救い出したとある。

    (注釈 参考の為に、多説の中で公開されている「一般説の記録」では、矛盾が多く、“「柏原城」(名張・伊賀)に投げ込んだ“とあるが、この説は「伊賀の平城の柏原」であれば「織田軍の攻め先」を変えればよい筈でそもそも「逃げ込み先」とはならない。
    又、簡単に逃げ込めるのであれば始めから四方を囲まれていて「餓死寸前の籠城」等する事は無い。織田軍に抵抗する事も又無い。
    そうであるのなら当初より抵抗などすることもそもそも無い。

    (注釈 但し、「掟の考え方」の違いで「伊賀の別れ」となったので、この「甲賀掟」であればその様にすることも「掟破り」ではない。
    そもそも「伊賀掟」とはそう云うものでは無かった。
    取り分け、“「裏切り」”は「最大の掟」で身内でも処罰される厳しい掟である。)

    これに依り「青木氏の説得」にも関わらず「全滅覚悟」で臨んでいた筈で、「餓死寸前の体力状況」では幾ら織田軍が油断していたとは云え、簡単に体力の低下した状況では「四方堅め」では逃げられない。
    先ずは、「絶対条件」としては“「誰かの救い」”があって、且つ、“家族を含む「逃げ込む先」”が事前に確保され、“「身の安全」”を保障される場所で無くてはならない。
    そして、その場所が、「一族も住める近くの広い生活の出来る場所」である事で、「織田軍の敵対場所では無い相手」である事、且つ、氏郷が絶対に敵対して「責められない相手」である事に成る。
    筆者は、これらの「絶対条件」を満たし、家族も含めて長期に匿う事が出来て、今まで通りの「原士」であって「今後の生活」も成り立ち、救い出した後の殖産等の「史実の事」も整っている事と成れば「血縁」で繋がっている事が必要であり、それ故に「先祖の説」を採っている。
    この余談からも「上記の手紙」は当にそれを物語る証拠である。
    一般説は甲賀側の伊賀者では無かったかと思われる。

    下記でも詳しく論じるが、一般説の論処11士は、「青木氏」が保護した11士とは別の、全24士(青木氏説)とされる内の「裏切りの3士」を除く、「不明の3士」と、「18士」の内の「7士の事」に成ると観られる。
    これであれば、一般説は矛盾なく成立し「青木氏説」と一致し齟齬は無い事に成る。
    一般説の「名張の柏原城」もその意味で、近くの「青木氏」の「名張館と西連寺館」で逃亡先も一致し、一般説の「平城柏原城」の「開城和解説」にも一致する。
    筆者は、「近江秀郷流蒲生氏郷」は、「伊勢秀郷流青木氏」のと「嫁家制度」の近い親戚で、当然に、「秀郷流伊勢青木氏」とも「嫁家制度の血縁関係」にあれば、「氏郷」は故意に演じたと考えている。
    つまり、「青木氏」と繋がりのある「伊賀者の救出」に裏で「青木氏の説得」に応じて密かに参加していたと考えられる。
    「信長の軍師」でもあった「頭の良かった氏郷」がこの様なミスをする事は先ず考え難い。
    直前の「田丸城と松ヶ島城」の築城に影で「ゲリラ作戦」で邪魔をして置きながら、肝心な餓死で落城寸前の「伊賀郷士」を救い出さない訳が無く、直前まで説得作戦を継続していたのに、“駄目だった”として諦める「青木氏」ではない。
    既に、「青木氏(「松阪の福家と摂津伊勢屋が商いで介在)」も信雄に「ゲリラ作戦」で抵抗している「攻撃されない仲間」でもある。
    「残された手」は、「氏郷」を「氏郷の立場」を立つ様に「秘密裏に説得する事」に成ろう。
    そもそも、「氏郷」と、攻撃する「伊賀郷士」と「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢青木氏」の「青木氏族の関係」は、「信雄」も「充分に知り得る範囲の事」であつた筈である。
    むしろ、「周知の事実」である。
    その「氏郷」を「伊賀二次の攻撃の主将」にする事、そのものがおかしく、この「結末」は始めからの「計算済みの事」であったと考える方が正しい。
    故に、前段でも論じた様に「演じた説」を採っている。


    この文脈より「氏人の郷士(ロ)」は(伊賀郷士と関係の深い)「伊勢郷士の氏人」であったらしい。
    これらの「時系列の史実」から観ても、「伊勢の事」は「青木氏の資料を基にした歴史観」から観ると変わる。
    これは、「重厚な一つの血縁族」でなければ果たし得ない「結束力」が証明でき、これらの事は前段から何度も色々な視点から論じてはいるが、この「妻嫁制度」から観ても、有効的に働き、「戦いの氏族」では無かった「青木氏族を守った事」の大きな証明となる。
    以上は、「公的な史実」と成っている事であり、「四六の古式概念」に基づく「氏族の独自の制度」が「青木氏の歴史観」をここでも構築している。

    さて要するに、この「バイアス」は、臨機応変に主にこの様な場合に使われていた事が「歴史的な史実」により判る。
    「青木氏族の血縁族」は「足利氏の南北朝期の戦い(「伊勢シンジケートの一員の楠木正成)」で有名なゲリラ戦で2万人の餓死者を出す程の結束力を示している。

    この「4つの伊勢攻め(大河内城、田丸城、松ヶ島城2、丸山城)」の「信雄の行動」の「信長の叱責」は、「独断」と公的に決めつけられているが、筆者は、「青木氏の歴史観」で論じている様に、上記の「過去の青木氏族の戦歴」の「抑止力」を重く見ている。
    この様に「姓族」から観ると、「四六の古式概念」による“「異様」”とも観えるこの「固い完成した血縁制度」に結ばれた「唯一の遺された氏族」を相手に、“下手に動くと失敗する“と判断して叱責したと考えている。

    現実に、その後の史実では、「雑賀攻め」や「根来攻め」や「紀州攻め」でも、勝利はしたものの何れも、「経済的支援」と、「青木氏族のシンジケート」で、邪魔をして最後には「青木氏族」が救出して、歴史上は「完全勝利」には成ってはいないのである。
    前段でも論じたが、「伊勢の騒乱」や「伊勢と信濃」で起こった「三つの宗教一揆」にも加担して犠牲は出たが一揆を成功裏に導いている。
    これは何故か、疑問と成ろうが、答えは、「四六の古式概念」に基づいた「血縁組織」とそれを「支える制度」がこれらの「結束力」を増し、「姓族」には想像もし得ない完成した「一揆への影の力」を発揮した事の所以である。

    注釈として、「伊賀」と「甲賀」は同族である。
    「伊賀」は支配を避けて「契約傭兵族」で生き、「甲賀」は支配の「契約傭兵族」で生きようとした。
    この為に一つ山を越えた地域で分裂した「原士」であり、この「考え方の違い」や「統制の違い」が表に出て1540年代〜1550年代頃に分裂したと云われている。
    唯、前段でも論じたがその前の「前兆」は既に前からあった。

    そこで前段でも何度も論じている事ではあるが、認識を新たにして頂く為に次に概要を期す。

    そもそも、「伊賀半国」は、「青木氏の始祖施基皇子」が守護を務める「伊勢の国」から割譲して出来た。
    この半国は、九州全土を後漢滅亡で200万人を引き連れて渡来し、無戦制圧し、渡来人の「阿多倍王」が薩摩の阿多や大隅地区にその一団は住み着いた。
    朝廷よりの呼び出しで、この「伊勢の伊賀半国」を授かり、「伊賀」に定住し、「敏達天皇の孫の芽淳王の女」を娶り「准大臣」と成り、その三人の子らは「朝廷の政治組織」の「三蔵の内、大蔵、内蔵と征夷大将軍」を務め繁栄した。
    その付き従って来た「技能集団の一団」は、「高度な技能を持つ官僚族」(日本書紀にも記載)と成った。
    これより、「阿多倍王の孫」の「高野新笠」が「施基皇子の四男白壁王の妃」と成り、「白壁王」は「光仁天皇」と成り、子の「山部王の桓武天皇」が「伊賀の阿多倍王の子孫」に“「たいら族」”として賜姓し、「平望王、高望王、高尊王等」の「日本の王位」を「桓武天皇」より母方に追尊で与えた。
    この「平家(たいら族)」が誕生し、ここより「平清盛」が誕生したのだ。
    その後、「太政大臣平清盛」は政治的な理由で「伊賀」より「播磨国」に移る。
    多くは付き従ったが、渡来人であった「伊賀に残された一団」はそれより「原士」として生き延びた。
    「青木氏族」が興す「殖産」や「商い」や「シンジケート」とに大きく関わって生き延びた。
    この「伊賀半国に遺された一団」が「伊賀の郷士」の基と成った。
    この事からも「伊賀郷士」と「伊勢青木氏」との「繋がり」は「絆以上」を超え、「奈良期から繋がる血縁族」と成り得たは説明に及ばすとも「自明の理」であろう。

    (注釈 前段でも論じたが、この「伊賀の郷」のはずれの「上田郷の原士」の一部が上田を離れ、滋賀に渡り、盗賊などで土豪と成り、平家に討伐された「近江青木氏の」(傍系)は、滋賀に移った。
    「近江青木氏傍系の滋賀青木氏」が後に再び「近江」に戻り、「近江青木氏の本家」を興し名乗るが、この「跡目の絶えた分家の一部の母娘」が残り、この「跡目の絶えた家の跡目」に「伊賀上田郷の原士」が先ず「上田姓」を名乗り、その後、勢力を拡大して「略奪」で強引に入り「滋賀青木氏」を名乗った。
    その末に、「近江青木氏の本家」を興した「傍系の近江青木氏」との「本家争い」に成るが、これも「伊賀での青木氏との繋がり」を主張して「滋賀青木氏の分家」を奪った事件でもある。
    参考として、この「滋賀青木氏」は、後に、兄弟系による「主家の相続争い」が起こり衰退し、静岡に移動定住し「駿河青木氏」を名乗る、又、一部は更に千葉に移り「下総青木氏」を名乗った。
    何れも「やくざ並みの青木氏」であった。
    中には、「青木氏」である事から、上手く利用して地元の「駿河、下総の秀郷流青木氏」を名乗り、「国衆」を装いとして幕府に旗本として仕官した者もいた事が判っている。
    こと程左様に、この「滋賀青木氏」も必ずしも「青木氏」とは無縁でも無く、「伊賀での女系での繋がり」と「滋賀での青木氏での強引な繋がり」もあって、「近江と伊勢の青木氏の繋がり」からも必ずしも「無縁」とは云い難いものがある。
    「滋賀」から「近江」に帰った「近江青木氏傍系」が「近江青木氏本家」を名乗り、「秀吉」に訴えを起こし、秀吉提案でその面前で「戦い」に敗れる始末。
    注釈として、これが「公的な史実」と成っているが、「略奪の滋賀青木氏」だけであれば、上記の様な「戦いの裁定」は秀吉は出さないであろう。
    それには最低限にそれなりの「青木氏の根拠」があったからこその裁定であった事が考えられる。
    それが上記の根拠と成る。)

    この「滋賀青木氏分家」を略奪し名乗った「滋賀青木氏」(伊賀上田郷の元上田姓)とは、秀吉の面前で戦い、勝った者が「滋賀青木氏」を名乗ると裁定が下り、現実の史実として戦い、結局、「滋賀青木氏」が勝利して正式に名乗る事が許された経緯がある。(公的な史実)
    百々の詰まりは、筆者は、上記の逃亡の「中立の3士」はここに繋がっていると考えている。

    その「根拠」は、この「中立3士の上田郷の原士」は、戦い前に、“何故、「滋賀」に逃亡したのか”と云う疑問である。

    それは、以下の事で解ける。

    「滋賀」には「源平の戦い」で滅亡した「近江青木氏」の僅かな傍系が「滋賀」に逃れて「滋賀青木氏」を興している事(a)。
    そして、近江に帰り「近江青木氏」を再興した事(b)。
    その結果、滋賀には残された跡目の無い衰退を極めた母娘の分家らが残っている事(c)。
    先ず、ここに目を付けたと考えられ、この「中立3士」も、「11士の氏人」とは別に、「何らかの形」で「伊勢青木氏の女系の血縁(d)」である事。
    この事を受けているとすれば、この「滋賀」に逃げ込みを弱体した「滋賀青木氏(e)」の事。
    これを略奪すれば、同じ「青木氏」としての「所縁の者(f)」の事。
    以上の事として扱われれば、「伊賀11士」からの「裏切り者の追及(g)」の事。
    からも逃れられる。
    「四掟に基づく妻嫁制度」では、「近江青木氏」とは「源平戦の以前」は盛んに「青木氏族」として血縁を結んでいる事(h)。
    この事から、「滋賀青木氏」を略奪すれば、「伊勢青木氏の自らの女系血縁」でも、共に正統に「伊賀の原士」にも「青木氏族」を主張できる事(i)
    この事にも成る。
    「近江」に戻って「近江青木氏」を再興した「青木氏の主張」にも対抗する事(k)。
    この事が出来る。
    つまり、最も、「最善の方法の生き残り策}を執った事(l)。
    以上の事にも成る。

    この(a)から(l)に至る事は記録に明確に遺されている「史実」であり、明確に解ける。

    この「伊賀」に関しての「青木氏の資料」によると、もう一つ疑問がある。
    それは、何故に、「中立3士」に対して(不詳)として記し、詳細に遺さなかったのかという事である。

    別の資料関係を組み立てれば、上記の様に解るのには、この「中立3士」の「滋賀での行為」が粗暴で、多くの略奪を繰り返し、現地の山賊や盗賊等を糾合して勢力を拡大させた経緯があり、且つ、伊勢に関わる「青木氏族の経緯」に「不必要な傷」が着き「他の青木氏」にも迷惑等の影響を及ぼすと考えての配慮であろう事が判る。

    「伊賀別れ」の「甲賀」は別にしても、この時、「伊賀」は全体で「24士」が存在したとあり、この内、「伊賀」より「3士」が裏切り、信長に味方、更に「3士」が中立し逃亡飛散(?)、「11士」は「青木氏族」に関連する「氏人の伊賀郷士(救出)」であり、「7士(救出)」は逃亡飛散し、戦後、伊賀に戻り、「殖産」に参加としたと読み取れる。
    但し、「中立の3士の行方」は、資料から充分に読み取れないので判らないとしながらも、「上記の疑問」には、その経緯を時系列的に並べれば読み取れる事があってほぼ解明はできている。

    そもそも、“「伊賀の掟」”から「中立」は許されないので、「裏切り3士」と同じに観られたと判断されるが、実は、これにはこの「中立3士と目される原士」には、「上記の注釈」の様な「生き残りを果たせる方法」、つまり、「追及を逃れられる方法」があって、それを示す経緯が「上記の注釈」であったのだ。
    敢えて、「経緯の時系列で判らせる方法」であった事から、「不肖の事」は伏せたと考えられる。

    (注釈 実は、「伊賀別れ」の「甲賀」にも「甲賀青木氏」が存在する。
    この「甲賀原士の者」は、「女系の青木氏血縁の所縁」を以って「武士」に成るに及び、「青木氏」を名乗り「武田氏」に仕え、その女は「武田氏の妾」と成る。
    この「妾」は子を孕み、その後、「近江」に移動して子を産み、「近江甲賀青木氏」を発祥させ、その後にその子は「秀吉」に仕えている。)

    この注釈の「公的な史実」には、「青木氏」に執って「妻嫁制度の範囲」に「大きな意味」を持っている。
    つまり、「伊賀11士」のみならず、「青木氏の血縁」は「甲賀域」にも及んでいた事に成る。
    「伊賀別れ」の時代は1540年代〜1560年代に起こった事件である事から、その事件の相当前の「青木氏との妻嫁制度に依る血縁」と観られる。

    何故、伊賀の北の甲賀の里に戻らずに、近江国の滋賀の湖東の伊賀上田郷の元上田姓の「滋賀青木氏(中立3士)」の勢力圏に移動したかは疑問の点である。
    筆者は、その素行は別にして救ってくれるのは、「中立3士」であったからではないかと観ている。
    或いは、この「中立3士」とは、「伊賀の血縁族」か「青木氏の血縁族」であった可能性があるが、確定は出来ないが、筆者は、「青木氏を名乗った経緯」と「滋賀青木氏のいる地域に移動した経緯」から観て、移動できるのは“何れにも血縁していた”と考えている。

    という事は、この「中立3士」とは、“「青木氏と血縁族」であった“とする新説が成り立つ。
    つまり、「青木氏血縁族」の「11士」+「中立3士」=14士と成り得る。
    故に、「上記の説」の江戸初期以降の「7士」を加えると、「青木氏血縁族」は「21士」と成る。
    「裏切り3士」は血縁族として決める未だ資料は見つからない。
    唯、「裏切り3士」の中の「首謀の山下姓」は、「伊勢郷士」の中に観られるので、「青木氏血縁族」であった事も考えられる。

    この様に、「後勘の者」が紐解けば解る事、即ち、例えば、歴史に明確に反映する「伊賀の事」等からも、「歴史に残る史実」にも観られる様に、一朝一夕では出来ない長い間の「期間と経験」をかけて「適切な改善」を加えて、「四六の古式概念」を基本とする「青木氏族」を維持させた制度である事が判る。
    これは、「論理的に成り立つ固い制度」と成り得た事に成った。

    (注釈 故に、上記に論じる事にした「伊賀の事」もこの「適切な改善の過程」の中にあって、敢えて後勘で知らしめるとしたと観られる。
    研究していると、この傾向が「青木氏族の歴史」には多い。
    これは「青木氏の氏是の影響」であろう。
    要するに、事を殊更に表にせず、「後勘の者」に必要事項を網羅し知らしめ解かせると云う手法であろう。
    「青木氏族の研究」に大きく影響した「近江佐々木氏の研究記録」もその様に見える。
    始祖を質せば同じとする事から、矢張り、「佐々木氏の氏是」の様な「掟」が当初はあった様に考察し得る。
    言わずもがな、勿論、本論の「妻嫁制度等の血縁制度」では、明治期までは「近江佐々木氏系青木氏」で繋がってはいるが。)

    故に、稀に見る「唯一の氏族」として現在に生き遺れたとする説が成り立つ。
    それも、確かに、潰された仲間もいたが、これ程に数量でも「自由な血縁制度を持つ他の姓族」にも劣らない「氏族」は他に無く、大化期から始まって明治期まで「歴史上の事象」に関わった族も少ない。

    この様に、取り分け、「青木氏族」が「四六の古式概念」を敷くにより、「女系に基づく妻嫁制度」を敷くに及び、史実にもその状況が語れる程により血縁は深く成り得たのも「自然の利」であろう。


    筆者には、前段や上記の事を含めて史実に大きく関わっているこれ程の族を論じない方がどうかしているとも云え、本サイトとも成っている所以でもあると考えている。
    それ故に、「遺される資料」の殆どは、搾取性の疑い高い「姓族の資料」を中心としたものに関わるものであって、「自力の研究」に頼らざるを得ない状況にあった。
    前段からも詳細に論じている様に、「四六の古式概念」を基本とする「妻嫁制度」で繋がる幸い「稀に見る氏族」であったからこそ、「資料」も多く確実に遺されている所以が「掘り起こし」に付いて良い方に大きく左右したと考えられる。

    > 「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」に続く。


      [No.361] Re:「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/07/31(Tue) 10:36:01  

    > 「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14日」 末尾


    > 上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
    > 殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    > つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。
    >
    > さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    > それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    > そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
    >
    > 従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
    >
    > この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    > 矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。
    >
    > 余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    > これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    > 然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
    >
    > この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
    > これは史実にもある。


    「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しく根拠ある「黒印状の発行」を求めた。諡号の持たない姓族(第二姓族)は、結局は殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、次に続ける。

    さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    そこで、他の「青木氏族」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例にして考察してみる。
    そうすると、上記した様な「殖産に纏わる事件」などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「、「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
    従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
    この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

    余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    これは「施基皇子」の、異母弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
    この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。

    (注釈 前段でも論じたが、{近江佐々木氏」は、近江蒲生郡安土佐々木荘 沙沙貴の地名を天智天皇の賜姓、 「近江青木氏」は近江犬上郡青木村、「近江佐々木氏系青木氏」は近江の南近江甲賀郡青木村、「滋賀青木氏」は滋賀の右京区大秦、「伊賀分裂の甲賀青木氏」は「甲賀郡青木村」の伊賀寄りを出自の地とし在所であった。)

    前段でも論じたが、「伊勢秀郷流青木氏」と「跡目縁戚の関係(叔父)」にある「蒲生氏郷」が「近江商人」を松阪に呼び寄せたが、この中には「近江佐々木氏系青木氏族」の「商人」は居なかった事が「佐々木氏の記録」や「青木氏の記録」からも解る。
    「女系で血縁関係があった事」は解っているが、「近江佐々木氏」が「研究記録の青木氏族」として定義する関係にあったかは、江戸期前の「近江商人」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」が居なかったという事から疑問でもある。
    「松阪」に差し向けると云う事からすれば、まず最初に「松阪の青木氏と伊勢秀郷流青木氏」がいると成れば、最初に優先して選ばれる筈だと考えられ、戦略的にはその方が上手く行く筈である。
    現実に前段で論じた様に、「伊勢の青木氏族」の「二つの青木氏」とは「犬猿の仲に近い状況」であった。
    つまり、「近江商人の近江佐々木氏系青木氏」は居なかった事に成る。

    「近江佐々木氏の研究資料」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」は灘域に「酒蔵商人」がいた事は書かれている。
    要するにこの事は「氏郷の呼び込み」に参加しなかった事に成ろう。
    それは、「伊勢の二つの青木氏族」との「不必要な競合」が起こる事への配慮かとも考えられる。
    現実に、前段で論じた様に、「信濃と福井と越前」から「青木氏の酒蔵の杜人」を呼び寄せて「酒米と松阪酒」を造っている。
    従って、「近江佐々木氏」が「青木氏族」として記録として遺している以上は、上記で定義する「氏族の関係」までは至っていなかった事が考えられるが、「別の形」では繋がっていた事は大いにある。
    筆者の考えとして、確定は出来ないが、上記する「嫁の出の女系」も然る事ながら、「四家の中」から「嫡子外の嗣子」が出て、「近江佐々木氏」はもとより「近江佐々木氏系青木氏」の跡目に何度か入るという事があったのではと推測している。

    (注釈 「四家20家」に男子20家の男子の嫡子を切れ目なくそれぞれに世代交代をしながら宛がう事は可成り難しい事で、「近江佐々木氏族」まで跡目を入れる契機を持ち得ていたかは疑問である。)

    それは、平安末期に「近江佐々木氏」と「摂津源氏(伊勢の京綱、信濃の国友とも青木氏の跡目)」とも同時に繋がりがあった事から起こり得る事ではないかと考えられる。
    確かに親密な関係にあった事は下記の事でも解る。


    唯、江戸時代に「近江佐々木氏」とは「伊勢青木氏」の「江戸屋敷」が近隣であった事、脩行系を含む「近江秀郷流一族」と「伊勢秀郷流青木氏」とは同門同族にあった事、この「伊勢秀郷流青木氏」とは「四家」の「四日市殿」とは縁戚関係にあった事、などを含めて少なくとも「近江佐々木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」は本家に於いては「四家制度や妻嫁制度」を敷き「氏存続」を図っていた。
    この事からも「近江佐々木氏」の「研究幅」が「青木氏族」にまで広がったと考えられる。
    「近江佐々木氏」の「青木氏族の定義」は、補完役の「秀郷流青木氏116氏」までとしている。
    問題は、「近江佐々木」は「傍系族」が拡大し、「姓族」を広げて「氏族としての存続」に失敗している。
    全国的に広がったのは、矢張り、「補完役の宇多佐々木氏(近江蒲生郡西湖面より出自元)」である。
    ところが、この「青木氏族」の「五家五流の青木氏」は、「五氏」から「三氏」には成ったが「姓族」は出してはいない。
    当然に、「補完役の秀郷流青木氏」は、確かには「皇族系」では無く諡号が「「朝臣族」にある為に縛られないので、「姓族」を出してはいるが、「24地域に116氏の子孫」を広げている。
    違うところは、この遺った「三氏」は互いに連携を執り、取り分け、甲斐を除く「伊勢と信濃と伊豆」は、飽く迄も「氏族の範囲の血縁関係」を保持し貫いている事にある。
    つまり、基本的には「氏族」とは、「新撰姓氏禄」にある様に「朝廷が認めた族」となるが、認める以上は当然に“「ある範囲にある事」”を前提とする。
    無暗には認定はしない。この課せられた「血縁的な条件」が「氏族の定義」にある。

    これを守ってきた「伊勢や信濃や伊豆」で云えば、上記、下記で論じるように「郷士衆との血縁の関係性」にあり、上記した様に、「単なる血縁関係」には無く「一定のルール」、つまりは「血縁的な条件」に従っている。
    「女系」と云えども前段の“「四六の古式概念」”に依って「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、この“「条件的な血縁」”を結び、決してその血縁は「傍系の縁戚範囲」のものでは決して無い。
    確かに一見して“「女系という範囲」”という傾向にはあるが、“「条件的な血縁」”は「出と入りの範囲」で「両軸」で「相互」に繋がっていて「単なる女系」ではない。
    「青木氏」の「福家と四家20家」は、先ず「嗣子の男子」で繋げ、前段でも論じたこの「三つの血縁の源流」を「両軸相互の血縁範囲」で繋がる族なのである。

    先ずはこれが「条件的な血縁」の一つ(A)である。

    当然に、「青木氏」に務める「家人」も単なる「無縁の家人(家臣)」では無く、「家の中の人」、即ち、「族人」(「氏人」)であり、要するに「臣」ではない。
    つまり、これを支えるのが「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、「条件的な血縁(B)」をした族を「氏」と云う。

    つまり、「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」にある「一族」で構成されているものが「氏」なのである。

    論理的に云えば、(A)は(B)に依って支えられ、(B)は(C)に依って支えられ、(C)は(A)に依って支えられ、「氏族」は構築されると云う事に成る。

    要するに、片方だけでは「氏」としての「条件的な血縁」として成り立たず、上記の「(A)−(B)−(C)−(A)」が成り立たない血縁では、「氏の定義」の中に無い。

    その時、「出と入の両軸相互の血縁関係」の「血縁」の「時間的間隔」には問題はない事に成ろう。

    「青木氏」との間に何時か「入り」があって、何時か「出」がある事で成り立つ事で「氏」が成り立つ事を意味する。

    「四掟」の説明の中に、「氏」とはこれを”「両軸相互の血縁関係にある事」”と定義されている。
    それが、要するに下記にも論じる”「四定以成異性不養之固掟也」”の意味するところと成ろう。
    「両軸相互の血縁関係にある事」が”「絆の関係」を構築する事”と成りこれを指すだろう。

    問題と成る”「時間的間隔(a)」”は、「青木氏」に於いては「大化期」からと成り、一重二重にも「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」が成立していた事に成ろう。

    この「氏」を構成する以上は、短時間では難しく、且つ、「妻嫁先」が血縁的にある程度安定している必要がある。
    (短期間でない方が好ましいだろう。)
    つまり、「出の嫁家先」が「豪族」であるかどうかは別として、小さくてもある程度の”「族としての力(b)」”を保持している事が必要に成る。
    簡単に云えば、「力」は持っていても「武力」を持たない「名主や庄屋や豪農」などを含む「郷士程度」も含むという事に成るだろう。
    そして、無くなったり飛散したりする事なく、”「定まった地域(c)」”に長く定住している環境にある事が必要であろう。

    「氏」としての「血縁の(構成)条件」の(A)(B)(C)が成立させるには、この「(a)(b)(c)の条件」が成立している事が必要と成る。
    この「血縁の条件」、即ち、「氏の構成条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」が成立するとなると、この条件を成り立っている地域は限られて来る。
    考察すると、「京、伊勢、信濃、伊豆」だけと成るだろう。

    (平安末期に美濃と甲斐は「青木氏の氏是」を破った事からこの例から漏れる事と成った。)

    何故ならば、この「地域以外」は「郷士衆の数」が250から400と云う地域ばかりで、且つ、その「郷士」には“「国衆」”と云って、占有割拠にて移動し「力」によって日和見的に一時的にその一部の地域を占有して存在し、更には「郷士の数(姓族)」が多いと生存競争により「戦い」が起こり地域は安定はしない。
    従って、到底、「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」の関係は成立しないし、根本的にはつまりは「姓族」である。

    故に、この視点から観ると、「大化期」は勿論ではあるが「平安期末期前」と、「鎌倉期中期」までは対象とする「氏族」がそれなりに存在し得た事にも成る。
    それ以外の時代は、唯単に「戦乱で滅びたという事」のみならず、そもそもこの「血縁の条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」とを構築できる環境下には無かった事が云える。
    然し、これが江戸期の末期までは「青木氏族」は「氏族」を「奇跡的に続けられた由縁」でもあり、これを「力(「青木氏の強味)」にして「殖産」と云うものが成し得たと云えるのだ。
    当に「奇跡の氏」であろう。
    この「奇跡の氏」の下には、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を構成する古式豊かでありながらも前段や上記に論じた“「合理的な改善」”を加えた“「青木氏の制度」”が続けられていたと云う事だ。

    (注釈 この概念的と云うか「精神的な歯止め」は「青木氏の氏是」にあった事は云うまでも無い。)

    そこで、上記のこの(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を更に詳しく論じるとして、故に、多くの位階の保持者が存在する「近江」を始めとして次の様に成る。

    「近江、伊勢、信濃、美濃、甲斐」などの“古くから土地に住するこの「氏人の郷士衆」(イ)”
    その土地には常に定住でき得る能力を備えていて、且つ、その「官位官職の程度」は別として、土地の“「官位族」(ロ)”

    以上が、「妻嫁制度」の「入りの相手」と成り得る事に成るだろう。
    況や、簡単に云えば、これは「妻嫁制度」の“「妻」、即ち「入り」”は原則としては「官位族(ロ)」であって、“「嫁」、即ち「出」の先は、「郷士衆(イ)」と成っているのだ。

    注釈として、唯、「郷士衆(イ)」は、“「出の先」”となるが、“「入の先」”とも成り得ていた。
    上記で論じた様に、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)とで成り立つも、兎も角も「土地の官位族(ロ)」と云っても、室町期の「下剋上と戦国状態」のこの状態の中で、地方で「官位を持つ族」は激減し衰退し、殆ど「入り妻」としての「形態」は無くなっていた事は事実である。

    ここに行き成りそもそも「女系の妻嫁制度」の「入りの先」を求めたかの「疑問」が残る。

    然し、現実には求めているのである。
    では、“どのようにして「入」を求めたのか”という事である。

    そこで、この疑問解決に執ったのが、その「位階」は低いが「官位を持つ家人と氏人」からの「入り」とする以外に、主には「入りの先」は室町期全般には概して無くなっていた筈である。
    然し、「家人や氏人」にだけ求めたとしても「四掟の条件」を満たす「低い官位」を元から持っていたとは考え難い。

    そこで、研究すると「家人の家の資料(尾鷲の家人)」の中の文節によると、“「従六位下」”と云う文節が出て来る。

    そこで、左右の大臣などの「政治にかかわる特別職」(4段階で正従で8位階)を除き、当時の官職に関わるこの「朝臣族の武家」に与えられる「官位の位階」は「10位階」あって、それを上下に分け、一番下は「従八位下の位階」である。
    「家人」に与えられた“「従六位下」”は下から三番目と云う事に成る。
    「青木氏族の氏人・家人」の位階は、朝廷が認めた範囲は相当に高かった事を意味する。
    これは、 「(A)(B)(C)と(a)(b)(c)」の関係を朝廷は認めていた事を示す。

    (注釈 ここで云うこの「武家」とは、「公家」に対しての「武家の呼称」であって、「江戸期の姓族」に与えた武家は、「本来は武家の呼称」では無く「武士の呼称」と成り、且つ、安易に朝廷の財政保持の為にそれに与えたその「安易な位階」でもない。)

    とすると、この「資料の家人」に与えられていたのは「従六位下」であるので、つまりは、「青木氏族の家人」に与えられる「位階」としては「妥当な位階」である。
    氏人と成る」「家人、又は、差配頭」が何かの理由で授与されたと成るのだが、果たして、何人が授与されていたかであろう。

    「家人」が「六人居た」とする一部の資料があるが、「差配頭」は「青木氏部等(詳細後談)」も入るので少なくとも「朝廷貢献」と云う事から勘案すると「15人程度」は居たであろう事が判る。
    然し、これら全てが授与されたとはならないし、時代の経過もあるし、授与される理由の有無も伴うので特定は難しいが、「10人程度の家人や差配頭」が常時に授与されていた事は考えられる。
    時代的には、「身分格式や和紙等の殖産の貢献(詳細は前段と後段)」から、嵯峨期を除いて「光仁期から仁明期・円融期」までが最も多く、そして、「室町期から江戸初期」では「献納金(前段)」で助けた事の理由が考えられる。

    (注釈 これらの関係の資料は三度の松阪大火の消失で遺されていない。)

    参考として、「伊勢王の施基皇子」に与えられた「宗家の青木氏の位階」は大化期に与えられたのは「天皇」に継ぐ身分を示す「冠位」は、「永代浄大一位」で、位階は「永代正二位」で最上級である。
    因みに「清和摂津源氏四家の頼政」は「正三位」である。
    従って、この事から勘案すると、「青木氏族の家人」に与える「位階」としては相当なもので、与えられた理由と云うかその背景には“「相当な実質の評価」”があった事を示す。

    そもそも、江戸期の様に「金で買える位階」では無く、つまり、唯単に与える評価では無かった事を意味する。

    そこで、「高級官僚」や「公家の末端」の「貴族」として扱われる為には、最低限に「従四位下」から上位が基準と成るので、これから考えると妥当である。
    この「従四位下」の「位階」を持たない限りは「上級官僚」には成れない。
    その意味で、「官僚的貢献」ではなく、「社会的貢献(朝廷の財源)」であった事が云える。

    従って、何で「青木氏の家人」が、「青木氏家人と云う格式」も含めて、この「位階」を持っているかの理由は、前段でも論じたが、恐らくは、「格式・殖産・献納での貢献」のこの三つにより与えられたものであろう。

    そうすると、何で「青木氏の福家」が授与されなかったのかと云う疑問が起こるが、それは無い。
    それは、既に、「冠位と位階」等は永代としての最高位を持ち得ている。
    従って、「貢献」に寄与した場合は、「氏族の氏人」の「青木氏の家人や差配頭」と云う事に成る。

    という事は、「献納」は「和紙墨等の余剰品」を裁いた時期の奈良期の末から始まり、明治9年までの期間を持続的に続けていた事から考察すると、これを理由とするならば「相当な人数」が居た事に成る。
    取り分け、「余剰品」から始まった「献納」であるとするならば、天皇家に執って一番苦しい時期の「室町期の乱世」の中で、「巨万の富」を築けたその「恩義」からは「巨額の献納」を続けていた。
    その事からすると、「相当数の家人の位階者」は居た事に成ろう。
    「従六位下の位階」は兎も角も一人では無かった筈であり、「家人」は時代、世代ごとに代わるとすると、この260年間に「家人の数(5人程度・5)」やそれに「相当する氏人の数(3人程度・5)」としてこれを鑑みると、最低でも、“「15人から25人」”は居た事に成ろう。
    「永代」であるかは「従六位下の献納」とすると「永代」を授かるは普通ではあろう。

    「青木氏族」に中の「家人」にこの「従六位下程度の位階」を持っていた者が何人居たかは残念ながらポイントで在り乍らも「資料」が見つからないので史実としての研究は前に進まない。
    従って、「女系の妻嫁制度」の対象としては、鎌倉期頃迄にはこの関係は崩れていないので、「近江」を始めとする「五地域」からの「出と入」の「四掟の条件を持った血縁の関係」は相当成り立っていたと考えられる。
    つまり、室町期は上記の論理性からも「伊勢の郷士衆」との「出と入りの関係」はそう問題は無かったと成る。

    今では推論は着くが、それが「永代での官位の位階」であったかも、確実にする事は、最早、できない。
    だとすると、この論理的な考察から、江戸初期までは少なくとも乱世を超えて”「家人」”を含む「伊勢郷士衆」の「氏人」との「氏」としての「出と入」の「血縁条件」は成り立っていた事に成る。
    故に、「伊勢と信濃」は、当然の事として「三つの源流説」は成立する。

    そうすると、そこで戻って「四掟の範囲」で「入り」をどの様に求めたのかが疑問と成る。
    「京や近江や信濃や甲斐」などに「四掟の範囲」で持っていた「氏族」や、都で「政治的な問題」で行き詰まり、この「三つの地域」に「逃亡や避難した真人族」や「高位の公家族・貴族」が居て、生き残りの為にも、彼らの「貴族」から多少は「入り」として入った事は充分に考えられ否定はできないし、一部記録に残るところもある。
    その「国是」に近い形で保障されていた「安定した地域」の一つが「伊勢」であった事は云うまでも無い。

    「時の政権」が「伊勢」には公然と権力を振りかざして捜索が出来なかった事が「入りの形」を偶然にも保全したのである。
    これは前段や上記した様に、「大化期の不入不倫の権」から始まり「江戸期末期」まで引き継がれ、「家康発行」の“伊勢の事 お構いなしの「お定め書」”でも解る。

    ところが、何度も論じるがもう一つ「同じ地域」があった。
    「伊勢」も然る事ながら、「青木氏」が定住する「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」もこれに近いものがあった。
    江戸期中期までは少なくとも保障された。

    (注釈 前段の殖産でも論じたが、「江戸期」には「幕府」がこの「天領地」を「幕府領」として奪い「優秀な殖産地」として取った。)

    故に、「四掟の範囲」の「位階を持つ者」が、平安期までにはここに逃げ込んだのではあるが、この末裔が「血縁条件の対象」と成り得たのである。(後段記載)
    従って、「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」は「伊勢」とほぼ同じ環境にあったのである。

    残るは、「青木氏の逃避地の越前(神明社が保護)」がある。
    ここは前段でも何度も論じたところであるが、要するに、何らかの問題を起こし「青木氏族の逃げ込む場所」で江戸期初期まで「神明社の質」で維持されていた。
    前段で論じた「神明社」が、江戸幕府に引き渡すまでの江戸初期まで、「神明社組織」が保護して「質」を施す地域であった。
    依って、室町期全般は「四掟の範囲にある末裔」が「現地孫」を作り「血縁条件の対象」と成り得ていた。
    この「越前青木氏の末裔(酒造商人)」が成功して、「青木氏族の入り」と成って戻ると云う事とが起こっていたのである。

    前段でも論じたが、「越前」は「信濃」と共に、「伊勢」の「酒米と酒造りの杜師」として働き「入り末裔」を遺している。
    これは一度のみならずこの地域との「同じ族」のこの「入」の「血縁の証拠」である。
    元より新たに成った訳ではない「家人、氏人の氏族」にあった。

    次は思い掛けないところの“「善光寺」”がある。
    ここは、元来、天台宗のここは「門跡や皇位継承に外れた高位の官位位階」を持つ「真人族や貴族」が僧侶と成って入山し、或いは、その貴族の門外嗣子が入山するところでもあった。
    そこから、この「善光寺」に移籍する「還俗僧侶の定留地」と成っていた。
    又、同じく「浄土宗密教」に帰依する「高位の位階を持つ皇位の門外嗣子」がこの「善光寺」に入山した。
    この「善光寺」は、史実にある通り、従って「天台宗密教派」と「浄土宗密教派」に分かれ「別院」を作り「勢力争い」を繰り返していたところでもある。
    この「二つの派」の「高位の位階を持つ僧侶」が再び還俗して信濃に子孫を遺して根付いた。
    この中の「浄土宗密教の子孫」が「四掟の対象」と成り得ていた事は解っている。

    現実に、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」の「六人の嗣子(実質には9人と女子は7人)」には「京の貴族」から入っている。
    現実に前段で論じた様に、「白壁王、光仁天皇」の后は「井上内親王」である。
    少なくとも「850年頃の仁明天皇期頃迄」は「直系の青木氏族」であった事から「四掟の範囲」で「入り」は最低限で保てていたと考えられる。

    「福家と四家20家」を保つ為には、「京や近江や信濃や甲斐」の「四掟の範囲」を満たす最低の「官位を持つ青木氏族」が、その縁戚関係と成っていた事は否めない。
    とすると、この「氏族」が現実に存在したのは、「摂津源氏四家の頼政」による「以仁王の乱」の以前の”「1100年前頃(詳細後段)」”までと先ずは大まかに絞れる。
    そして、流石に「平家の専横時代」を除くと、「女系の妻嫁制度」の「高位の血縁(四掟)」という事では「1050年頃まで」と成るだろう。

    論理的には、最も「青木氏族」と「四掟の範囲」で近いのは各地に分散していた「源氏族の直系尊属」と成るのだが、この「氏族」が、然し、「源氏族」の殆どは「傍系尊属で姓化した姓族」であったとすると、「四掟の範囲」の対象から外れる。
    だから、「摂津源氏の四家」以外は「姓族化していた事」から、「11流の源氏族」とは「男系継承が禁じ手」と成り得ていたが、その「摂津源氏の頼光系四家で頼政の孫(仲綱の子)京綱」を除いて、故に「入りの女系」で「源氏族」とは血縁を示すものが無いのであろう。

    結局は、「入り」の「四掟の範囲」を満たす「氏族」は、位階の多くを持つ「秀郷一門一族」であって、その「目的の為」に「補完役」として任命された「賜姓族の秀郷流青木氏」が「血縁の源流」と成って引き継がれた事に成る。
    当にその象徴が「四日市殿」である。

    故に、「近江佐々木氏の研究記録」の「青木氏族の定義」が、前段でも論じた様に「秀郷流青木氏」とその一門一族の「永嶋氏、長沼氏」と「長谷川氏と進藤氏」までと定義されているのである。
    残念ながら、「伊勢」では永嶋氏の一門の「長嶋氏」と繋がっている資料があるとしても、「伊勢」では「長沼氏と長谷川氏と進藤氏」との資料は見つからない。
    筆者の持つ「青木氏族の資料」の中には無いが、「近江佐々木氏の研究記録」に詳しく論じられている以上は、「佐々木氏の持つ資料」の中にはあったと考えられる。

    従って、明治期までは「入りの源流」は勿論の事で、「出の源流」も絶えなかったとする結論に成る。

    そこで「入り」は、主に「三つ」と成るが、それは次の通りと成る。

    一つは、「京」を始めとする「四つの地域」の「位階の保持家」
    二つは、「秀郷流青木氏」を始めとする「秀郷一門の青木氏族の五氏」
    三つは、「位階を持つ家人衆」で、「嫁ぎ先の地元郷士衆の氏人」

    以上の「三つの入り先」と成る。

    これを「女系の妻嫁制度」では、「四つの地域からの位階保持者」と「秀郷流青木氏族」を中心に、その位階を基準に次の様に成っていた。

    先ず一つは「妃」である。
    そして、「位階を持つ氏人の家人衆」を「(嬪、妾の中の「嬪」)としていた。
    最後には「氏人の無階の地元郷士衆」から「入り」と成れば「妾」としていた。

    以上の「入り」の「三つの妻の立場・階級」に成るだろう。
    (下記の「女墓」にその例がある)

    そこで問題なのは、「后」は基本的に室町期以降には資料からは見つからない。
    これは、室町期には「四掟」に叶う「入りの対象者」が無かったという事では無く、「青木氏族側」からの「入り」を執らなかったという事が正しいだろう。

    何故ならば、次の事が云える。
    「下剋上の混乱期」の世情の中で「皇位から入りを執る事」は政治的に好ましくない事。
    つまりは、「政敵」とみなされる事もあり得る事。
    「青木氏族」としては、兎も角も、奈良期から「御用商人的商い」を避け「均等性」を堅持してきた「商い」に影響する事。
    「四掟」に基づき「四家制度や妻嫁制度」を執る以上は、「后」に相当する「入りの先」は他の「入りの先」との「身分や冠位や位階」に基づく官位等が、他の「三つの入りの先」とはその差があり過ぎる事。

    以上四つのこれが「妻嫁制度を崩す事」に成り得て、結果として”「四家制度の争い」”を招いて成立しないと判断したのである。

    そもそも、前段や上記で論じた様に、「中国の歴史」を見ても「独自の改善」を加えてこの制度が成り立っているのだ。
    つまり、后を入れた形の其の侭では成り立たなかったという事である。
    中国は次々と政権が代わるがその「政権の寿命」は50年程度と短いのである。これが所以であると中国は説いている。
    これが最も、その「知識」から編み出した”「入り」”で起こる”避けなければならない「氏の最大の戒め」”であるという事に成る。

    「白壁王の井上内親王」の様に、「特別枠とする考え方」の為にあった事も考えられるが、「皇親族」や「令外官」から外れた「青木氏族」には、最早、その「機会」は起こり得ない。

    では何故、この「妃、嬪、妾」の「入りの三階級」を定めたかと云う疑問が湧く。

    それは、「入りの階級」を無くす制度とする事は、当時としては無理であっただろう事は疑う余地はない。
    それは、未だ、全ては「階級社会」で決められる「封建的な氏家制度」の中にあったからである。

    上記の「三つの入りの先」では、言わずもがな、”この掟を求める事”は必定と成る。
    況してや、「婚姻」である。
    「世間の目」はあり、今後の事を考えれば無視する事は絶対に出来ない。
    だとすると、最も合理的な方法は、「官位に基づく官職の如何」は別として”「朝廷が授与する位階」”であろう。
    その「家の官職」の「有り無し」に関わらず、持つ「位階」に応じて「入り」の「受け側」も対応する事で収まる。

    然し、「入りの受け側」、つまり、「青木氏族」では、人の世情の常、あまりの身分格式の差のある「后の差」の様に、”「階級による見栄の争い」”が起こるは必定である。
    そこで、「青木氏族」が考えたのが、前段で論じたような制度を敷いた。

    「青木氏族の女(むすめ)養育制度」
    「福家の統制」
    「寺での養育所」
    「違反による罰則掟」
    「出から入りに戻す制度」

    以上の制度(掟)で、この階級による差を削除させたのである。

    この事から、ほかの「入り先」が決して持ち得ない「后の冠位を持つ特別差」は、当然の事として避けられる事に成るだろう。

    そもそも戦略的に観て、「冠位の入り先」は恣意的に絶対に避けれるべきものであった事に成る。
    この「冠位の差」は「上記の掟」では無理と成るだろう。

    それは推して知るべしで、前段から論じた様に、「孝謙天皇期」の「白壁王の井上内親王の経緯(期待しない白羽の矢)」に繋がる事に成り得るからだ。
    つまり、この事で「青木氏族」は「青木氏族で無くなる所以」とも成る。

    そもそも、唯一の「最高位の冠位と位階」と、「職務の官位」と、「賜姓と志紀真人族、朝臣族」などの全てを持つ「氏族の青木氏族」である。
    「高位族」は「孝謙天皇」の様に「入り」の「白羽の矢」を立てたい相手である。
    況してや、「孝謙天皇」でなくても「朝廷」を安定させるには、「巨万の富を持つ青木氏族」(15地域の青木氏族)ともなれば喉から手が出る程であったろう事が解る。
    これは何も「入りの位階の相手」だけではない。いずれの「豪商等(武家)」も婚姻の相手としては同じであったろう。

    然し、「青木氏族」はこれに絶対に載れないのである。
    従って、「后」は元より、他の「三つの差」も「入り」を受けた後は制度と掟に依って無くす事が「絶対的な戦略」と成っていたと云う事である。

    但し、この「出と入り」から生まれる「嗣子の出入り」は、兎も角も、「福家と四家20家」に全て入り、「嗣子の出」は「禁じ手」と成っていたし、当然に、「入りの養子(養嗣)」は当然の事として、「義子(義嗣)」は厳禁の手であった。

    従って、「男系の禁じ手の原則」が守られれば、「四掟」によって入る「妻」の「妃、嬪、妾」には、下記の「良い一族性」、即ち、「血縁性の連携」が永続的に生まれる。
    「出」の「娘、孫,玄孫」などの要するに「青木氏族」で云う”「女(むすめ)」”は、「妃、嬪、妾」の「福家」で養育を受けた「実の女(むすめ)の概念」である事から、そこから再び、「福家」に戻される「実の女(むすめ)」の二代目、或いは三代目の「女(むすめ)」は、「愛児」として繋がる完全な血縁下にある。(ここで疑問(女)がある。)

    それは「妻」を「妃、嬪、妾」に分けている以上は、それぞれの「女(むすめ)」の「立場の差」等の「関係性の差」が左右するが、これを「福家で養育する事」の「女(むすめ)」の「掟」にその差は一切削除され、全て「女(むすめ)」である以上は“「平等とする掟」”に成る。
    「妃、嬪、妾」の子は、勿論の事、「長女次女」などの区別する差さえない掟であった。
    依ってこの「関係性の差」は解消されていた。

    これには「福家の威厳」と、「寺などに隣接した養育所」に、「幼児より入れる事」で、この「養育所」に余計な「差し出口を入れる事」などの「行為の弊害」を防ぎ、この「関係性の差」を排除していた事が解っている。
    一切、「親の手」を離れた事を意味し、この「掟」を破った妻は処罰されることに成っていたらしい。
    飽く迄も、「青木氏の女(むすめ)」であって、最早、「妃、嬪、妾」の「子や孫や玄孫」ではない事に成っていた。
    簡単に云えば「青木氏の支配権」を持つ「福家の女(むすめ)」であった。
    同様に、「四家を引き継ぐ嗣子」にもこの掟は採用されていた。

    そこで、上記の疑問の「女(むすめ)」である。
    その疑問は「嫁家先の娘」を強引に戻すと云う訳には行かないだろう。
    ではどんな「方法」と云うか「掟」と云うか、何か問題を起こさない様な方法でなくてはならない。
    いくら「家人」であろうと「氏人」であろうと「嫁家先」にも事情があり無視できない。

    この解明に時間がかかり難しかった。
    「郷士衆の差配頭」に遺された「手紙の一節」にこの事が書かれていた。
    それによると、「我が尾鷲小林の幣家・・の方の娘の妃児・・は三歳にして優秀賢美にて育ち・・に依存無く・・・に依れば福家のお定めによりこの娘を‥寺の養育所にお預け致しく候故御差配宜しくお願い申し上げ・・・云々」とある。

    この経緯から読み取れる事は次の事に成る。
    「福家のお定め」である。
     これに依れば「要領書」の様な「定書き」を配布していた事に成るが、果たして、「定書き」が出ていたかは他に調査したが明確ではない。
    恐らくは、嫁いで来た「女(むすめ)」は「福家」でその「嫁としての教育」を受けているから、その必要性はあったかは甚だ疑問で、「氏人の家」がこの要領を「既成の事」として周知して“「定書き」”として捉えて書き込んだものと読み取れる。

     「優秀にて賢く美しい児」である事が条件の様に成っていた事を意味する。
    福家から「氏人の愛児」に対して三歳の誕生日祝いが出た。
    これは「福家が行う慣例」で準備を寺の執事が行い「福家」が「氏族」に出していた事は解っている。
    この事は「福家の女(むすめ)」として如何であるかを暗に問い質している事を意味する。
    そして、「相手の意思」を尊重している事に成る。強制は無い。
    要は、「嫁家の判断」に委ね、「福家との繋がり」を重んじて「女(むすめ)」として入れた方が得策と判断した場合は「入り」と成り、「嫁家の存続の事情」も鑑みて「嫁家」が判断していた事に成るだろう。
    「福家の女(むすめ)」の事情が貧し急務を要した場合は、後は「嫁家と福家の話し合い」であったらしい。
    それが、現代感覚では、「福家」側では、「女(むすめ)」を「孫」までは解るが、「玄孫」までに「女(むすめ)」として求めている史実は、明らかに「出」に対して貧し急務と成っていた時期があった事を示す。
    故に、依って、「話し合い」が原則であった事に成る。
    更には、「玄孫」とすれば「嫁家側」でも他家に嫁がせていた事が判るし、娘が多ければ「優秀賢美の娘」を「福家」に入れて、他は嫁がせる事と成り、嫡子が居なければ養子を執る成りした事は解る。
    「養子」という事に成れば、二代続きで「氏人」からは離れる事に成り、其の侭では保護などは受け難く成る事から、是非にも「福家」に優先的に入れて置こうと云う計算が嫁家側に生まれるは必定である。
    そうすれば、男子を「氏内の郷士」の家から迎えれば離れる事は無くなる。
    その手筈も安易に成り立つ。
    彼らには、氏外の「他家からの養子」は「氏存続」のみならず、前段でも論じた様に殖産などの枠から外されて「生活の糧」を失いかねない問題でもある。
    上記の「三つの入り」から入る中で、「家人と氏人」はこの逃れざるを得ない「絶対的な宿命」を負っていたのである。
    「秀郷流青木氏一門」からの「出と入り」にしても、「青木氏族」の「青木氏の氏」を別に構成している。
    「四掟」に適合した「京」などからの「高位の位階を持つ貴族」からの「出と入り」も単族の「族」を持ち得ている。
    小さく成ったが「近江の氏」や「甲斐の氏」、「伊勢の氏」、「信濃の氏」、伊勢と信濃の融合族の「伊豆の氏」、越前の「全青木氏融合族の氏」は、それぞれに再び結合して「青木氏の氏」を構成しながらも、且つ、これらの「五氏の連合体の青木氏族」と、「秀郷一門と秀郷流青木氏の氏」の、これら全てを「女系」で血縁し合した「青木氏族連合体」を形成しているのである。
    従って、例えば「伊勢の氏」からは出る事は出来ない前提に成り、当然に「氏存続」として安全は全く保障され得ない事に成る。
    「乱世の中」でそんな選択は絶対にできない事は自明の事実である。
    前段でも論じたが、「諏訪族青木氏」が「神奈川横浜の秀郷流青木氏」の中に逃げ込んだのも、この「女系の血縁の関係」が奈良期から深く続いていた所以でもある。
    越後も同然である。

    故にも、手紙の中の一節の「定書き」の「発想の概念」が染みついているのである。

    従って、「定書きの有無」に関わらず「子孫存続」とも成れば、先ずは「嫁家の事情」を優先する事が必要に成り、「定書き」に拘る事は「氏存続」という点で好ましくない。
    故に、「定書き」は先ずは無かったと云う判断に成ろう。
    大化期からの「嫁家制度の長い仕来り」の結果から、重ねて「氏人全員の自然の概念」と成っていたと観ている。

    何れ在ったとしても、「福家」に無いからこそ「氏人や家人」が「重大な間違い」を起こさない様に「家の掟」(氏人の掟)としてこの「定書き」を子孫に伝える為に遺したとも論理づけられる。
    然し、実は、下記に記すが、可能性が高いとして「執事を務めた菩提寺」の「養育時の指導書的なもの」としては必ず遺されているとして調べたが、資料は「三度の消失」と、最終は「江戸期初期の顕教令の撤収」で「伊勢松阪の菩提寺」には遺されていず発見は出来ていない。

    さて、続けて論理的に考えれば、「嫁家」側としては、結果として「福家」に「女(むすめ)」として入れて「出」の「嫁ぎ先」が定まれば同じ事であって「損得」で云えば「得」はあっても「損」はない事に成る。
    「福家の女(むすめ)」である以上は、「出」の婚姻に関する準備一切は「福家」で持つ事に成るのであるから、後は「心情の問題」だけと成ろう。
    然し、これさえも元を質せば「出自先の実家」であるし、他家から「氏」に入った者でもない。
    この「心情」は「掟」にて大きく表に出せないが、何れにしてもその範囲を弁えれば其れなりの事は認められる状況ではなかつたかと考えられる。

    後の「嫁家の判断」は、抜き差し成らぬ「嫁家と他家との事情」と成ろう。
    それ以外は寧ろ「嫁家の嗣子」に重点を置いた存続方法が、「氏人」として維持して行く上で優先的に嫁家側には求められよう。

    「福家」から「女(むすめ)」の「出(嫁ぐ)」の際には、古来より「元の血筋」と重らない様に「執事」を住職が務め、且つ、「養育所」を寺で管理していた「菩提寺の管理下」に置かれていた様で、遺された資料の一部から読み取れる。
    当然に、「女墓」を管理していた事からもこの事は頷ける。故に「女墓」が創れるのであろう。
    更には、合わせて上記の「妻嫁制度」を敷いているからこそ、前段で論じたが、その「青木氏族の住職」の「執事の役目」も「最も重要な要」と成っていた事に成る。

    では、この「出と入りの血縁先」を「適時」、「適格」に「選出してくる仕組み」はどの様なものであったのかが疑問(仕組み)と成る。

    これは、この「執事の役目」(身内の青木氏の住職)に大方はあったと観ていて、確かには、「福家と四家20家」の多くの「付き合い」と「紙問屋の伊勢屋」から情報もある事は解っているが、各「近江や信濃や伊豆や甲斐や越前」の地に存在する「青木氏独自の菩提寺からの情報」、24地域の「秀郷流青木氏の菩提寺からの情報」の相互交換、5百数社に上る「守護神の神明社からの相互の情報」を互いにやり取りしていた事が解る。
    これを基に「出と入りの妻嫁制度」を網の目の様に構築していたのである。
    これが無くては「青木氏族の子孫存続」はそもそも論理的に無理であったろう。
    これらは「完全な詳細な情報源」であり、誰が考えてもこれを維持するには「経済的な裏付け」が無くては出来ない事は明白である。

    論理を敢えてひっくり返す様ではあるが、「出と入りの四掟などの概念」や「無形の権威や位階」やそんなものでは決して得られない。
    故に源氏族の様に衰退し滅亡する所以となっていた。
    注釈として、然し、この情報の二つが抹消された時期があった。

    それは上記にも記したが、前段でも論じた江戸初期に出された「宗教に関わる事柄の独自保有の禁止令」である。
    つまり、「神明社の幕府帰属令」と「菩提寺の顕教令」である。
    そして、幕府は財政難からこれらを放置し荒廃させた。

    この「二つの令」は上記の通り「絶対的な情報源」である故に。「青木氏族」に執って片手をもぎ取られたものであった。
    この時、「遺されている情報源」は唯一「紙問屋の伊勢屋」の情報源だけであった。
    「青木氏の情報源」は上記の「二つの令」で論理的には消えている。
    この儘では、「源氏族」に成り得る。

    ところが、そこで、より「青木氏族の力」をつけたのが「殖産」であって、室町期末期から始めて江戸初期に完成させた「15地域の商いの組合での構築」であった。
    これに依って、「殖産」「商い」は元より「青木氏族存続」に絶対的に関わる「重要な情報源」も再構築され戻ったのである。

    それでも上記した様に「青木氏族の存続」に関わる事である事からは「氏」を纏めて行く上で、「菩提寺」は絶対的に必要不可欠である。
    そこで、何をしたかという事である。
    それは規模を縮小して目立たない様に密かに建立した。
    「神明社」は、内部の内容は同じにして幕府令に違えない様に一般性を装い、守護神を表す「社」から「神社」にして「神明神社」と変名する事と、「青木神社」として何れも密かに「小さな山祠」を建立して守ったし、元の位置からずらして「大鳥居」をそのままに遺した。。
    これらは現在も遺されて「青木氏族の氏人」らに依って祭られている。
    ところが不思議に幕府はこれを黙認した。

    (注釈 「神明社」はそもそも「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の社」である。
    全国に五百数社もある「民の社」でもあった。民からは「道祖神」と同じに親しまれ信仰されていた。更には、「紀州藩との繋がりの事」も含めて、「朝廷への献納の事」もあり、厳しく当たれなかった事が考えられる。)

    (注釈 「残りの神明社の荒廃」については流石に見かねた元甲斐の青木氏族の柳沢吉保は、武蔵深谷に「民の反発」も恐れて古来より存在した歴史ある「神明社と寺」を自費で公然と再建した。
    そしてその周囲には青木氏族の神職や住職が現在手も定住している。
    如何にその「荒廃の影響」は大きかったかを物語る。
    従って、上記で論じた様に本来は菩提寺と神明社に資料と成るものが遺されている筈なのであるが、結果として無い。)


    さて、話を基に戻して、これらの「入り」の「伊勢」での「青木氏の証明」となるのは、残るは「女墓」と「菩提寺の曼陀羅帳」等に成る。又、「家人や氏人」や「庄屋、豪農、名主、村主」の資料の中に読み取れる範囲のものでしかない。
    これには、「俗名と戒名」があり、「俗名」にはその大まかな「出自元」、又は、「系譜、戒名」には「四段階の戒名」があって「生前身分と位階程度」が判別できる。
    恐らくは、「信濃」にしても「伊豆」にしても「甲斐」にしても、将又、「秀郷一門の主要八氏」は判別できる。
    彼らの密教であるので゜菩提寺」は統一していて、「信濃、伊豆、甲斐」などと「秀郷一門と秀郷流青木氏」の「菩提寺」はその定住地の主要地に必ず「同一名の菩提寺」で存在する。
    (注釈 「二つの青木氏」のそれぞれの二つの統一した菩提寺名は匿名とする。)
    比較的簡単にその「血縁元の内容分析」が可能である。

    後は「青木氏の福家と四家の資料」、「家人と主要の郷士の氏人の資料」の中に求められ、これらを紐解いて行けば年月が掛かるが判明する。
    どの様に繋がっているかも分かってくる。

    不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。

    さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。

    これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
    前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
    「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
    矢張り、「殖産」は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
    上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
    「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。

    (注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
    筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)



    > 「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」に続く。


      [No.360] Re:「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/06/10(Sun) 14:18:49  

    「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」の末尾
    >(注釈 近江佐々木氏の「青木氏族の段」でもその様に定義され「青木氏族」として認めて論じている。と云う事は同じ「青木氏族」も然る事ながら「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」もその「掟」を大方で採用していた事を意味する。)


    「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    では、本論の続きの問題であるが、上記の注釈を前提とすると、室町期に成ってこの「掟」を何時緩めたのか、どこまでを緩めたのか、何で緩めたのか、等の「理由目的手段」、と「人時場所」を明確にしなければ前段の「江戸初期の殖産」の論は不充分になるだろう。

    (注釈 これが本段の江戸期前から江戸中期までの殖産を進める上での後に於ける採った手段であった。
    そろそろ、その務めとしては「有名無実の状況」とは成り得ていた事は解り、自己満足の「青木氏の独自のステイタス」に近いものと成り得ていたであろう。
    これが”「伝統」”というものの本質であろう。
    つまりは、「賜姓五役」としての「務めの転換期」と成っていた。)

    しかし、現実には、「天皇家への献納金」の形で明治初期まで密かに、或いは、「幕府黙認」の形で貢献していた事は事実である。
    ここでも「青木氏の歴史観」として認識して置く事がある。

    これは、前段でも論じたが、「家康」が「伊勢青木氏」に執った ”伊勢の事お構いなし”の「お定め書」でも理解は出来る。
    つまり、「家康」は、「表向き」には、”宮廷の外壁が崩れても放置する程”に「天皇家」を締め付けたが、裏では行き過ぎて「信長」の」様に「民の反発」を招かない様に「青木氏族」に遣らせていたという事でもある。
    これも「青木氏族」にしか判り得ないてい「重要な歴史観」である。

    その前に一言、この「青木氏の歴史観」を以ってして更に悪く云えば、この為にも江戸初期には「商いの面」で本論と成っている”「殖産」”を進めなければならない破目に陥っていた事にもなり得るだろう。
    この事から云えば、この時代に成っても未だ、形は変わっていただろうが、”「賜姓五役」”は明らかに存在していた事にも成る。
    否、社会的にさせられていた事もあり得る。

    更には、江戸幕府は、「権威の象徴である天皇家」に「圧力」を掛けながらも、一方では「権威」を重視し「天皇家」を体よく利用し、”「二極両面」”を利用する態度を執っていた事に成る。
    結局は、その「幕府の矛盾」を「青木氏族」で補っていた事にも成る。

    「室町期の紙文化」のおかげで、「青木氏族」が、「紙文化の遺産」と「殖産」で「巨万の財」を成していたから良かったが、これを「青木氏の歴史観」から観れば、仮に無かったら如何していただろうかと、場合に依っては「天皇家の存在」も危うかった可能性もある。
    つまり、「青木氏」に執っては、この期待もしない「時代ずれ」のある”「賜姓五役」”を都合よく使われたと云う事も云える。
    唯、云える事は、「青木氏族」のその「殖産を含む商い」は、、何時の時代にも”「幕府の御用商人」”では無かったという事である。

    だからこそ”「伊勢の事 お構いなし」”の「お定め書」を公に「家康」が出せたという事でもあろう。

    「青木氏の歴史感」を想像しているこの「お定め書」が、果たしてどれ程に「青木氏族」に執って効いていたかは甚だ疑問ではある。
    前段で論じたが、「江戸初期の殖産」では、確かに効いていた事は確かであるが、「前段の殖産」を進める為に「紀州藩」が「山田奉行所」に申請した件では、つまり、「七割株」を持つ「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」では、「山田奉行所」の奉行時代の「大岡忠相」には、これを否定された事は有名である。

    この事に付いて一族内や関係族の内に「遺されている書物」を読み取るには、その「存在」は認めているが、その「お定め書の効能」を大きく特記する記述は特に目立たない。
    故に、この事では「青木氏族」の内には、取り分け”「影響」”はなかった事になるだろう。

    これは大化期からの「永代不入不倫の権の存在」を族内で代々認識していた事を物語るものとして判断できるし、その「認識」と云うか「概念化した知識」と云うものが、「お定め書」を当然の事として捉えていた事に成ろう。
    判りやすく云えば、”何を今更”であったのであろう。
    「青木氏」に執っては、この「概念「」と云う意識と云うものが無いにしても、合ったとしても”表には出せない”が、周囲はそうでは無かった筈である。
    つまり、「青木氏」に執っては、故に「時代のずれ」を感じながらも、更にはこれも「時代のずれ」のある「永代不入不倫の権」の出処の「賜姓五役」であり、且つ、それを表す一つとして「献納」を続けていた事になるのではないかと考えられる。

    はっきり云えば、「伊勢郷氏」であっても、、傍らで「商いや殖産」を生業とする以上は「永代不入不倫の権」も今と成っては「青木氏」には「何の効能」も無かったであろう。
    「商いや殖産」は、「権威や象徴」に頼っていては成り立つ話ではないのは当然であろう。
    唯、何度も云うが、上記の資料からも左程に記述が無いし、「青木氏の氏是」もあり、「権威や象徴」を振りかざす程の「氏のすさみ」も無く、「青木氏側」にはその「意識」はそれほどでも無かったであろう事が解る。
    要は、、”周囲の目が違った”という事に成ろう。
    この事に就いては、確かに読み取れる。

    つまり、故に、これも「青木氏の歴史観」から観れば、「山田奉行所」は意固地に「青木氏族」に対して「意地(妬嫉に似たもの)」に成っていた可能性もある。
    「下剋上」は進み「下級武士の、姓の時代」に成ったこの江戸の初期に未だ「青木氏族」のような「氏族」が残されている事の事態が気宇であったので、その様に観られるのも不思議では無かった。
    むしろ、「意地(妬嫉に似たもの)」は「普通の事」であったであろう。

    何故ならば、況してや、この時期は「将軍吉宗」と「伊勢青木氏」は、江戸では「江戸伊勢屋」を置いて「享保の改革」を推し進め初めていた時期でもあり、前段でも論じたが、、養育元として幼少期より「吉宗とは蜜月の関係」を維持していた筈であり、「家臣」ではないが「重臣」か、「仲間」「かそれ以上の”「布衣着用の身分」”でもあった。
    「大岡忠相」は、「高石の旗本の身分」とは云え、不必要に強い「本旗本の武士意地」の”「三河者の大岡」”に執っては、”目の上のタンコブ”、”何するものぞ”の「裏の感覚」は持っていた筈である。
    唯、表に出さない程度の事であったであろうと推測する。

    大化期から平安期にかけて「志紀真人族」であり、「直系の四人の天皇」を出した「郷氏」でもあり、その果ては「家康」も「お定め書」で一目を置き、「吉宗育ての親」で、裏で経済的な支えとして「将軍」に仕立てたのも、「享保の改革」を進めたのも、江戸市中で200店舗以上の「伊勢屋」を営み、永代の「お定め書」を持ち、紀州藩を「勘定方指導」で経済的に支えているその「伊勢青木氏」に対しては、これほどの自然が創り上げた「権威を持つ氏族」に対して、人間である以上は表に出せない「屈折心」も否定はできないであろう。
    兎に角、「大岡」の様な「有名な人物」にはありがちな「作られた評価」、つまり「公的な記録」では「美化」されているが、「青木氏の歴史観」からすると、この「美化」を取り除くと「上記の事」や「下記の事」はこの様に観えてしまう。

    (注釈 前段でも論じたが、ここで「青木氏の歴史観」の一つである」世間で云う「質屋」は、そもそも、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」が庶民に対して、生活に困る者に「施し」をし、そして「職」を紹介」し、「厚生の道」に導く功徳を行っていた。
    これを奈良期から「質」と呼んでいた。
    中国の金山寺が行っていた習慣を持ち込み「朝廷」に代わって全国500社に及ぶ「神明社「」が行った。
    これが、江戸享保期のこの「伊勢屋200店舗」でも行った。
    そして、それが「無償の施し」から「低利の施し」として「享保の経済」を活性化させた。
    これが、「質屋」の呼称として広まった。
    享保末期に「江戸伊勢屋と青木氏」は、「吉宗との不調和」が起こり、200店舗の権利を放棄して店子に譲って伊勢に引き上げた。
    これが、「質屋」の始まりで、江戸に「伊勢屋の質屋」が多いのはこの事から来ている。)

    そもそも、この筆者は研究を進める中で分かってきた事で、この”「美化」で固められた歴史”等には、”何の値打ちも無い”と信じている。
    故に、「青木氏の歴史観」として当然にこの説を採っている。
    恐らくは、「青木氏族」に執っては、幕臣の家臣ではないが「布衣着用の身分」には、彼らには「相当な軋轢」が「人の世」である以上はこの時期からあった事が伺える。
    これは「人の世の常」であり無い方がおかしい。
    どこでも起こる事ではあるが、”伊勢者 何するものぞ”であろう。

    前段でも論じたが、それが「享保期末」に周囲から強く噴出して仕舞い「吉宗との折り合い」も着かなくなって、”「伊勢」に帰るという結末に成った事”でも解るし、そもそも、この時代に成っても、これだけの事の「権威性」を未だ持っていたとすれば、世の中は利用し放って置く事はないから、だから未だ「青木氏の氏是」にも成っている事でも解る。
    普通は何れに於いても意味の無い「氏是」は消えるは必定である。
    然し、明治九年まで消えていなかったのである。

    後勘から観れば、“「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」”は、特段に「当たり前の申請」であろうし、況してや、”誰もできない「紀州藩の殖産」を推し進めていたのに”である。
    そもそも「否定される謂れ」は無かった筈である。
    あるとすれば前段でも論じたが、「青木氏の資料」より読み取れる「讃岐青木氏」の「瀬戸内の廻船問屋の利権」に重なる事だけであろう。
    或いは、当時、綱吉が執っていた「御三家への牽制策」から引き継がれて、享保に成っても吉宗の出自元の「紀州藩」を富ませる事への「幕臣の反発」とも執れる。
    「二万両の借財体質」を維持させる事で「政治的な圧力」を掛けていた事からも分る事である。

    末梢とすれば、この「伊勢水軍」を始めとして「熊野水軍」「紀伊水軍」「鳴門水軍」に「瀬戸内水軍」と海域を分け合ってバランスよくその利権を守っていた。
    何れも共通する事は、保守的に成ってこの「利権を壊す事への不安感」が否めない。
    「伊勢水軍」に、「青木氏族」に、つまり、「紀州藩に認可の裁定」を下せば、「利権域」は乱れるは必定であり、紀州藩を富ませる事が起こり、「政治的な圧力策」は霧消する。
    筆者は、「山田奉行所」は、つまり、「乱れる事への責任」を問われ、「大岡」は裏では「保身」を狙ったと観ている。

    そもそも、”「廻船」”と云う点から観れば、「紀州藩」は「熊野水軍」や「紀伊水軍」でも良かった筈で、でもそうしなかった。
    それは、何故かである。

    そもそも、「紀州藩」には常態的に前段でも論じた様に「毎年二万両の借金体質」があり、其の侭だと潰れる。
    それを解決するには何かを興さねばならない。
    それには「殖産」とその「資金」の課題があり、然し、それを興させるには「熊野水軍との軋轢」「紀伊水軍の素行」が問題と成っていて出来なかったからでもある。
    又、「七割株の青木氏の伊勢水軍」と「讃岐青木氏の瀬戸内水軍」には、「古来より強い絆」がある。
    当然に、「松阪経由で瀬戸内」までの「廻船」ができ得れば、「松阪」で「四日市殿」と「秀郷流青木氏」と縁戚関係にある「駿河水軍」と繋げれば、関東、中部から中国域先端までの「大プロジェクトの廻船路」が出来る。
    筆者は、「青木氏の進言」で「吉宗」は初代からのこの「計画の推進」を進めようとしていたと考えられる。
    これは「紀州藩と青木氏族」に執っては「経済的波及効果」は測り知れなかった筈であった。
    (幕府御蔵金は300両しかなかった。)
    況して、「紀州藩の家臣団」は「伊勢秀郷流青木氏」である。
    これを当初から「初代からの殖産」をより大きくする為に狙っていた事は間違いはないだろう。
    「紀州家臣団」としては計画を進めない方がおかしい。

    そもそも、「讃岐青木氏(伊勢水軍)」と「瀬戸内水軍」を単独として見做しているが、「伊勢水軍の廻船」と繋ぐとする思惑があれば、横浜から防府の先まで一廻船が成立するのである。
    こんな「大廻船」が出来れば「大岡」が警戒するのは当然であろう。
    将軍と成った「吉宗」は承知していたというよりは密かに「目論んでいた事」であろう。

    その証拠として、そもそも後に、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」は、「三陸より駿河」までの「東周り廻船」が認可されている。
    そこで、吉宗は「大岡」に否定されたので、この「当初の計画」を示現する為に、何の関係も無い圏外の遠い「瀬戸内廻船」に態々これを認めたと観られる。

    そもそも、「圏外の廻船問屋」に認可するというのは不思議で恣意的としか考えられない。
    そこで、つまり、否定された「切れたルート」の「伊勢水軍の域」を「青木氏族の大船四隻」と足りない便域を「伊勢水軍域」で繋ぎ完成させたと観られる。
    否定された以上は、そこでそれをいきなり繋ぐと違反と取られかねない。
    そこで、飽く迄も,”「青木氏族単独の商船」”であるかの様に見せかける必要があった。
    その為に、密かに執ったのが「摂津港」に「大船二隻」を係留して松阪まで「ピストン配船」させ、松阪からも矢張り、「大船二隻」を同じく「ピストン配船」させ、それをカモフラージュに「伊勢水軍」を「摂津」までの「往復回路」を作れば、「完全な廻船」は出来上がる。
    「紀州藩」はこれで「関わり」が無くなる。
    解ったとしても「山田奉行所」は文句の着けようがない。

    筆者説はこれに基づいているが、これほどに「史実としての戦略」が出来上がっている事そのものが不思議で、恣意的であるとしか考えられない。
    明らかに「神奈川」から「讃岐」までの「青木氏族」が力を合わせて”一致して仕組んだ事だ”と観ている。
    思い思いにはこれだけ「統一した戦略」は出来ないだろう。
    そもそも、この「戦略」には「日本の経済の発展」と云う「次元の高い思惑」が課せられていた。
    「大岡の否定」は、”次元は低すぎる”と観ていて、筆者説のみならず「青木氏族の共通の認識」であった様に資料から読み取れ、故に「青木氏族の戦略」と成り得ているのだ。
    故に、「大岡」に次元低く否定された以上は、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」を態々持ってこなければならない事に成ったと成る。

    江戸に出た「伊勢屋の伊勢青木氏」を始めとする「青木氏族」は、前段でも論じたが、これらの「対応策」を幕臣を交えずに密かに”「吉宗と談合した」”と考えられる

    (注釈 「佐々木氏族の江戸下屋敷」の直ぐ近隣に幕府より屋敷を与えられていた事は解っていて、ここで吉宗と談合を重ねた事が解っている。
    「伊勢屋の屋敷」と「青木氏の自邸の屋敷」は前段でも論じたが、主な伊勢屋の屋敷は「問屋街の小伝馬町」と「日本橋界隈」や「横山馬喰町等」にも複数あった。
    「江戸伊勢屋店舗」は200か所以上に上る)

    確かに何れも其れは云えるが、然し、この「否定された案件」には、細かく観るとそもそも「往路廻船と復路廻船の違い差」が出ているだろう。
    それは、「伊勢水軍」は別として、「熊野水軍」には「熊野宮司六氏」が背景として絡み「通行」には「利権」を主張する「海賊的水軍」であったとされる。
    これを守らないものには容赦なく鉄拳を加えたとする資料もあり、その「海賊の村」とされる所の資料説もある位である。
    然し、どちらかと云うと”「海族」”と云うところかと考えられる。

    又、次に「紀伊水軍」は、平安期から”「海賊」”そのもので、「利権」がどうのこうのでは無く、海を荒らす純然たる要は”「海賊」”なのであって、その記録は「義経の壇ノ浦の戦い」の時にこの「海賊の存在」が最強を誇った「平家水軍」との「海戦の勝敗」を決めるとして、義経は執拗にコンタクトをとった記録が遺されている。
    つまり、この背景には「雑賀一族」と「根来一族」の「海の族説」があって、それを「背景」に勢力を持っていた”「海賊」”でもあった。

    「鳴門の荒波」を制する「鳴門水軍」は、淡路島を根拠地とする「海洋民族」と、その「土豪」であった「淡路島の鳴門族(後の蜂須賀族)」を背景としてその勢力を張っていた。
    この様に何れも一癖のある単なる水軍では無かった。

    (注釈 「義経の海戦」の時に”「摂津水軍」”と書かれている資料がある。
    この「摂津水軍」は源氏方であったと書かれている事から、「嵯峨源氏」を含む「摂津清和源氏」を主体とした「青木氏族」や「近江佐々木氏族」等の「混合隊の水軍」で「小水軍」であったと書かれていて、「義経の海戦」が始まった段階で直ぐに「摂津港」に引き上げた事が書かれている。
    恐らくは、「荷駄を搬送する役目」と戦略上の「船団のダミー的役割」を負っていて事であったらしい。)

    兎も角も、当時の「暗黙のルール」は、この「三つの海域」を通行する廻船は「通行料」を払い”「堺会所」”で認可を取らなければならなかったとある。
    “「堺会所」”には「支配頭」がいてこれらの「全水軍」に渡りをつけての事であって、「山田奉行所」とは云え、「実質の実力的差配権」はこの「堺会所」にあって、「山田奉行所支配」の「自由横行の運航」ではそもそも無かった。
    従って、然しながら「紀州藩」としては「幕府の支配下」にある以上は「山田奉行所」であって、且つ、紀州海域にあるとは云え、「一種海賊的水軍」を「紀州藩」としては使う事は出来ない状況でもあった。
    飽く迄も「政治的な支配権」でのその様な「山田奉行所」であって、それに基づいた申請であったと云える。

    本音を云うと、故に「上記の低次元の裁定」と成ったのである。
    だから、「青木氏族」は”馬鹿らしい”と云う感覚に成っていたのであり、「紀州藩」から出された申請である限りはこれに従わざるを得ない事に成る。
    当初から「青木氏族」にとっては、大化期から定住する「氏族」で「摂津」に店舗を持っていた関係からも「堺会所」は知っていたし、「宋貿易」をしていた事からもこの「堺会所との付き合い」は当然にあつた。
    又、「伊勢屋」で「伊勢水軍」を統括していた事から考えても、この事は事前に間違いなく”計算済みの想定内”にあったと考えられる。
    故に、時間の掛かる”「大船建造」”を事前に進めて「殖産計画」に間に合わしたのである。
    それで無くては「運搬問題」が発生し前段で論じた「殖産計画」は成功しなかった筈である。
    大掛かりな「船の建造」を伴う時間の掛かる「讃岐青木氏の東周り廻船の設定」も間に合わなかった筈でもある。

    江戸初期の紀州藩初代から始まったこの「江戸殖産(創業平安期より)」は、当初は伊勢域は「伊勢水軍」で行い、「商品」を売り裁く為の摂津大阪などへの搬送は主に陸路に頼っていた。
    ところが、この「殖産」は大きく進み、「墨と硯」、「和紙と製品」、「綿と布」、「漆と漆器類」、「海産物と加工品」、「菜種油」、「海産物加工」、「白粉」等々の「殖産」は発展し、「陸路の量的な搬送」は無理と成った。
    この間、「搬送先」、つまり、「販売先」は拡大し、「大量」で「遠距離輸送」は日本全国と成っていった。
    この時期が、丁度、100年後の享保期初期に当たり、「殖産」は、紀州藩初代頼信から吉宗まで「勘定方指導」で「紀州藩の借財体質」を改革し、最終的に上記するこの輸送問題が勃発したのである。

    そこで「将軍と成った吉宗」は、紀州藩のみならず「三陸」から始まり、「防府」までの「一廻船体制」を確立して「経済の発展」を支え様として、この為に上記の「旧態依然の利権体質」を改善すべく途切れている「松阪から摂津」までの「統一廻船」を作ろうとしたのである。
    つまり、「駿河と瀬戸内」は何れも「青木氏族との絆」のある廻船である。
    そして、「三陸部」から駿河までに「瀬戸内廻船」を持ってくれば、「一つの絆廻船」が出来上がれば「利権」に振り回されない「安定した廻船」が出来上がる算段であった。
    100年目にして仕上げる「頼信ー吉宗」の”「思い」”であったのである。
    然し、低次元の「大岡の裁定」を無視してまでも「幕府命」で「押し通すべき算段」では無かったかと思われてならない。
    恐らくは、「幕府命」と「幕府機関」の裁定が異なる事は、「権威の低下」を招く為に執れなかった事は解る。
    そして、「将軍」に成りたての頃である以上は未だそこまでは「幕臣」を統括出来ていなかったであろうし、次元が低いが出自元でもあり裁定に口を出せば「要らぬ誤解」を招く事にも成り兼ねず、遠慮した事も考えられる。

    江戸に「吉宗」に同行して「江戸出向」していた「青木六兵衛等や青木氏族等」には、「江戸屋敷での談合」では「大岡裁定」には「吉宗」は「猛反発」を受けていた事が伺える。

    (注釈 「青木六兵衛とその息子一族」は、「吉宗」と享保期末には「折り合い」が悪くなり、「江戸商い」は「店子」に譲り「江戸伊勢屋・青木氏」を「伊勢(伊勢秀郷流青木氏や信濃等の青木氏族関係者含む)に引き上げるが、この時の始末に「青木六兵衛とその息子」は、「六兵衛は病死」でその「息子は江戸で跡目が絶えた」と成っているが、「青木氏の資料」では確実に引き上げている。
    「兄の長兵衛」の「四家の福家の跡」を継ぎ、「享保期の重責」を全うしたことが判っていて、逸話まで遺されている。
    この事に付いて、「近江佐々木氏の資料」にも記載があり、江戸での「六兵衛とその息子の所在」は不詳としている。
    これには「吉宗と幕府」に警戒されない様に仕組む位に「関係悪化」があった事が伺える。)

    注釈の通り、これは「吉宗との関係悪化」は否定できない「青木氏の歴史観」ではあるが、「大岡裁定」に観られる様に「江戸の幕臣の反発」は間違いなく、この「青木氏族」や「江戸伊勢屋」に向けられてあった事は間違いはない。
    それは「江戸屋敷」を隣接する「近江佐々木氏」の「青木氏族の研究記録」にも確認出来る事で、目に見えてあった事に成るだろう。
    記録に遺す程であるから、「享保の改革」を裏で支えてきただけにその落差は大きく映り、相当のものがあった事は「間違い」は無い。

    つまり、この「一つの絆廻船」を「青木氏の戦略」で押し切った事が、「幕臣の執拗な反発」を増幅させていって、「吉宗」も「最大の味方」との「蜜月の関係」を続ける事は出来なく成ったと考えられる。

    さて結局は、「青木氏族」から観ると「最悪のシナリオ」の「切欠」と成った「大岡裁定」だが、この「一事不再理の原則」から「吉宗」も動かしに難く成ったが、この様な「事前承知の背景」から「青木氏族」は力を合わせて「摂津」に「千石大船二隻、松阪に大船一隻」を追加建造して名目は”「商船」”として、自ら「四隻の運用態勢」を整えて対処した事にある。
    虚を突かれた幕臣側は色々と裏で画策を試みた事であろう。
    それは、「陸路運送」と「江戸販売の認可」にあったと観ている。
    (「陸路運送」は「伊勢シンジケート」が秘密裏に「横の関係」を使って安全に輸送した。)

    「青木氏の伊勢屋」の「商い」の細部に普通ではない「事件記録」が遺されている。
    この「陸路運送」では、「青木氏の資料や商い記録」に遺されている事件としては、一例として前段でも論じたが「鈴鹿峠部の通過事件」がある。
    ここは「四日市殿の地権域」にあったが、「支配権」は鈴鹿関所として幕府に統治され、「京、大阪、摂津」に出るルートを地元地権者でありながら「関所の大義」を理由に厳しく抑えられたとあり、これで、「陸路搬送の輸送量」が遅退したとある。

    「大船建造」は「上記の経緯」と「輸送利用の増大」からもあるが、この「鈴鹿通過事件の件」も大きく影響していたと考えられる。
    故に「資料から読み取る史実」や「商記録」に、放念できずに態々記載されているのであろう。

    享保の時代中には、「江戸販売の認可」の件では、「菜種油」と「海産物加工品」と「海産物を利用した飼料」を殖産していたが、これを江戸に卸そうとしたが、すぐには認可が下りなかったとある。
    中には他の「商人」には下りても、「早出しの伊勢屋」には「認可」そのものが下りなかったものがあったとある。
    当時、「害虫被害」が関西で起こったが、これに効く薬が無い事から、「菜種油」を薄めて散布したところ被害が納まった。
    ところが、この被害が関東にも及び急拠関東にこの菜種油を送ろうとしたが「認可」は下りなかったとされる商記録もある。

    「海の干物、(ほしか)」を粉状にして畑に蒔く事でみかん畑や綿畑などで大収穫が得られた。
    当初は使用の出来なくなった「乾物」をみかん畑に廃棄したが、この「廃棄」が効いたか旨くて大収穫が得られたとある。
    そこで粉状にして蒔いたところ効果覿面で、それ以後、畑にも蒔いたとあり、商品として関西域に販売して好評を得たとある。
    そこで、、江戸伊勢屋にて販売しようとしたが認可はすぐに下ろさなかったらしいことが書かれている。
    認可後も、「伊勢の殖産」が広がり各地の漁場の「ほしか」を買おうとしても嫌がらせを受けてなかなか要求量が入らなかったと記載されている。
    又、それまでは食物として使用されなかった海藻類を煮出してその液を凝固させて作る寒天などを開発し、これが関西で大流行と成り関東にも送ろうとした。
    ところが、これも認可が直ぐには下りなかったとあり、50年以上も後に成ったとある。
    事程左様に、「伊勢の射和殖産」も含めて「江戸を含む伊勢屋」には厳しかったとある。

    これらには、「圧力という表現」は流石に使ってはいないが、恐らくは、「大岡裁定後の幕臣圧力」であろう。
    このような事が積み重なり「青木氏族側」では、「莫大な資金」を投じて「享保の改革資金」を調達しながら「吉宗の優柔不断さ」に対しての「「不満」が沸々と募って行ったと観られる。

    さて、上記の事から”「伊勢屋」”を使っての「関東への陸路販売」は流石に難しかった事は否めない。
    然し、それでも前段でも論じた様に「質屋」を含む200店舗以上」(チェーンストア)で営業を営んでいた。
    「江戸」への「海路の運送」は、「伊勢水軍」を使っていたかは資料が無いので定かではない。
    恐らくは、享保期の「伊勢水軍の規模」から考えて「関西域で海路輸送」が限界で難しかった事が充分に予想できる。

    然し、依って「江戸の伊勢屋」では、「商品の入荷」は「伊勢シンジケートの陸路運送」で行っていた事から充分では無かった事が予想できる。
    然し、一方、享保期前後の「伊勢の伊勢屋」の「殖産」の「製品の販売体制」を瀬戸内までの間を三日毎の「四隻態勢往路復路の入れ替え方式」で行った事は解っている。
    中には「人の運搬」も影では行っていたと読み取れる。
    史実として”「商船」”としての実績を証明するものとして「浅野家取り潰し」の「蔵出し買い取り」をこの「商船」で一手(大船三隻)に引き受けた事が書かれている。
    関西域での「伊勢水軍と四隻態勢」が暫くは続いていた事が解る。(船数は増加)

    享保期前後には「駿河水軍との連携」は未だ成立していなかった事が解るし、これからも「伊勢水軍」は「関西域の専用廻船」であった事が証明出来て「江戸」に廻していなかった事に成る。
    「陸路運送」は、「陸路の縄張り」と云うか「権域」と云うか海路と同じくグレーの体質があって、これを「シンジケートで通す場合」はその「縄張り」に「渡り」をつけて搬送する必要があった。

    結局は「伊勢シンジケート」に執っては適任であり、その「警備と運輸と渡り」に全面的に頼っていた事に成る。
    「青木氏族」に執っては、「海路運送」の「伊勢水軍」も「七割株の契約関係(血縁関係もあった)」にあり、「陸路運送」の「伊勢シンジケート(信濃含む)」の「経済の契約関係」にあり、何れも「警備力と渡り力」を持った「運輸力」にあった。
    「他の商人」にこれほどの「運輸力」を持った「古い関係」を持ち続けている「犯しがたい氏」での「商人」は全く無いであろう。

    これの事実を知れば恐れられる程の「脅威に近い運輸力」に「幕臣」には観えた筈である。

    一度、事が起これば「戦力にも成り得る運輸力」である。
    室町期までは現実にそうであった。
    そこに、「郷氏としての象徴力や権威」があり、「一絆廻船の戦略」を敷かれ、「大船四隻」を持たれれば、最早、「幕臣の政治的権力」の及ぶ範囲には無かった筈である。
    そして、況して、幕臣が裏の手を使って「脅迫」などを「伊勢屋や青木氏族」にするものなら逆襲を受ける。

    つまり、「伊賀者」には”「郷士の縁戚者」がいる”と成り、室町期初期に「二万の軍」を餓死させた戦績を持つ「関西中部域」に及ぶ「シンジケートの力」と、関東北陸までその勢力を保持する旗本御家人の「秀郷流青木氏の縁戚族」の存在ともなれば、「山田奉行所等の幕臣」には既に「危険域」を超えていた事になろう。
    下手に幕府の中で口を開けば、情報は洩れる事に成り、気の休まるところはなかったであろう。
    そうすれば、後は「世は必定」で”嫌がらせ”しかない事に成る。

    従って、上記の背景から観ても、そもそも、「三日毎の四隻態勢の往路復路の入れ替え方式」で行うのであれば、初めから何も上記の「紀州藩の案件」は煩い「山田奉行所」に出さなかった筈であろう。
    決まって「嫌がらせの裁定」が下りる事は必定なのであって、然し、「青木氏族」として出していなく「紀州藩」としては出したのである。
    「紀州藩」として出したから「山田奉行の否定の大岡裁定」が出せたと観ている。
    それも「御三家」と「将軍吉宗」に対してである。
    普通に考えれば「認可」と成ろう。
    従って、普通に考えれば、上記した様に、「紀州藩」「御三家」「将軍吉宗」でありながらも、裏には”「三河者」”に執っては、「家康のお定め書」も然る事乍ら、”腹に据えかねる「羨望嫉妬の青木氏族」”が居た事に成ろう。
    何度も云うが、「青木氏族」であり乍らも大化期からの「伊勢屋の商人」である以上、上記の様な「高飛車な意識」は毛頭無かったのであって、そもそも其れであれば「商い」は出来ないだろうし、「相手方の持つ否定できない自然の意識」と成ろうし、問題はその「意識の大小」と成るだろう。

    従って、「青木氏族=伊勢屋」が執るべき手順としては、戦略上、先ずは、”「紀州藩の申請(ダミー策)」”〜”「大船建造(事前建造)」”〜”「東周り廻船の申請(事前交渉)」”の過程を踏んだと観られる。
    この「戦略の手順と過程の差配」を違える事は、「幕臣の反発」をより喰らい「殖産計画全体」が成り立ち難く成り得ていたとも考えている。
    何故ならば、この「大岡裁定」は、「殖産」に執ってはそれなりの影響は否定できないが、「次元の低い裁定」と観ているからで、その「低い思考能力」からすると、「船の建造」を進めていたとしても「影響」だけではなく「運搬」で円滑に全体を動かせなくなる可能性があった。

    依って、筆者は奉行所が「案件」を否定したのは、上記の「周囲の意識説」は間違いは無いと観ている。
    “伊勢の事 お構いなし"の”「お定め書の事」を気にせず「正しい裁定」を「山田奉行所の大岡」が下した”とあるは大いなる疑問である。

    「伊勢のお定め書」の原型は、元々は、「伊勢の国の守護王」であった「施基皇子」に対してもので、「日本書紀」にも記載のある「不入不倫の件」の「伊勢」に下した「大化期のお墨付き」のコピーでもある。
    つまりは、「美化の典型」の「大岡裁定」を左右させなかったとある”「お定め書」”は、恐らくは「献納」に対する「見返りの追認」ではないかと考えられる。

    これは「家康」が、“バランスをとった”云う事であって、記録めいたものが事更にないと云う事は、「青木氏族」に執っては、”「今更の件でもない」”の程度であっただろう。
    つまり、これを「根拠としての裁定」とは、「青木氏の歴史観」からすると、当時としては”何をか況や で馬鹿らしい”であっただろう。

    この様に「大岡の一件」を捉えても、「青木氏の歴史観」から観ればこの様に変わり、そもそも、先ずはこの様な事は、普通は「一氏」からの”「史観」”で見る事はしない。
    故に、少なくとも「青木氏族」の周囲に起こっていて、或いは関わっていて、「公の史実」と成っている「史観」にはこの様に大きく変わる為に、一度、「遺された史実」を調べ疑問を持つ必要があるのだ。

    そもそも、「青木氏族」と云うのは、その様な「特異な立場」(青木氏の歴史観)にあったと云う事である。
    少なく遺されている「氏族」の中でも「史実、史観」として掴んでいるのは、「青木氏族と近江佐々木氏族」くらいではないだろうか。
    この「二氏に関わる事の歴史観」は大きく変わる事を知る必要があるが、「藤原氏の場合」は各所に遺されている資料が多すぎて、その結果、他説が多すぎて散在し過ぎている気がする。
    「氏族」のみならず、「下剋上」で勃興した「姓族」のこれをうまく使われて、それには「搾取偏纂」が多すぎて又論じ難い。
    それはそれなりに楽しめば良いとされる論法もあろうが、「姓族の場合」は「氏族」の様な「歴史観」は無い事でもあるが、「最低限の歴史観の辻褄」を合わしてもらいたい。
    筆者はあまり採用したくない論法でもある。


    上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
    殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。

    さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。

    従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。

    この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

    余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。

    この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
    これは史実にもある。



    > 「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−14日」に続く。


      [No.359] Re:「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2018/02/19(Mon) 10:06:17  

    >「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」の末尾


    当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
    云うまでも無いが、この「血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
    これにて「何らかの血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
    そして、それが、況や、“「女系族」”であったと説いている。

    その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
    逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

    次の段では、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
    「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
    これに付いて次段で論じる。




    「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」

    「女系族」の「四六の古式の概念」

    さて、話を少し戻す事に成るが、「上記の女系族」の「清らかな血縁性の源流」の為にそこでより考えられたのが、これが前段で論じた「四六の古式の概念」であった。

    つまりは、“四を保ち六を入れる”とすれば論理的には「純血性」は保てる事に成ると云う考え方である。
    それには、この「四六の古式の概念」で得た“「純血性」”、つまりは、「青木氏族」ではその「歯止め」と云うか「指針」と云うか「基準」とするかそれを定めたのが“「四掟」の事”に成る。

    然し、「現在の概念」で考えてみれば、「六」が「四掟(六掟か)」で縛り、「四」が「入り」に成っての以上程度が、「完全純血」が無い以上は、始めて“「純血性」”と云える論理だとも考えられる。
    然し、これでは前段で論じた様に「血縁性の弊害(唖子等)」を出す所以と成っていたと云う事であろう。

    (注釈 これが「六四の概念」以上を保とうとする「天皇家の理屈」であろう。)

    筆者は、「青木氏族」はこの時期の頃から既に「血縁性の弊害」のこの「経験値」を獲得していたと観ている。
    そして、そのより「弊害を薄める方法」を今までの「男系」に頼るのではなく、前段の論理性で“「女系」で行う”と云う方向に舵を切っていたと云う事なのであろう。
    当時としては、「皇族朝臣族」とは云え未だ「妾子族」への「社会の見方」はそれほどでも無く、より「妾子族」であるが故に「血縁性の弊害」には神経をとがらせ「経験値」を得ようとする姿勢が強かったと考えられる。
    現在医学から考えて、当時としては充分な医学的根拠なくしても、「経験値」で「雄」があくまでも「補完役」であって、主は「女系(雌)」が「人の類」の「遺伝情報」を引き継いでいるという事を知っていた事にも成る。
    そうすると「男系の継承」を逆の前提としている「社会の中」で、或いは、もっと限定すれば「皇族系の中」では、この「考え方」は明らかに「異端」であった事に成る。
    これは、恐らくは「宋貿易」をしていた事に依る「知識の吸収」の影響ではないかと観られる。
    そして、「宋貿易以外の知識」を補完するものとして、それは「経験値」のみならず「人の類」(雄雌)の「外見上」からの「雄」が持つ身体上の「四つの不要な差異(前段で論じた)」を分析して見抜いていた事にも成る。

    「歴史観的」にもっと云うと、その「分析の知識」、或いは、「確たる鋭利な感覚」が強く「青木氏族の中」にだけあったという事にも成る。
    そんな「異端の考え方」が果たして「志紀真人族」の中にだけ許されたのであろうか疑問に成る。
    然し、何故か現実には成り立っていたのであった。
    そうすると、“何かがあった”から「賜姓五役の立場」の「志紀真人族」には許されていた事に成る。
    その“何かがあった“とするものが何なのかである。

    そこで、更に云うと、「宋貿易の知識吸収」のみならず、中国の紀元前の「華国の時代」の「国王の歴史」を始めとして、そこで起こった「知識」を獲得していた事にも成り、大和では「天皇家」が「権威と象徴」を保つ事の為にだけ「純血と云う事」で、この“「六四の掟」”に拘っていたからこそ「青木氏族等」はこの”危険性”を感じ取っていたのではないかと考えられる。
    そして、「志紀真人族」はこの”「危険性」”から鑑みて、「孝謙天皇期」では、最早、“「純血性」が保てなく成った”と云う事を事前に読み解いて知っていた事にも成ろう。
    それは、「華国」を始めとして中国に興った国々の歴史期間を見れば約50年程度で滅びている事の知識であった。
    この様に「純血性」に拘り過ぎると「国王、或いは、天皇」の「権威の象徴」を消失する事にも成り得る「世の掟」であろう。
    つまりは、この「経緯」から観ればすぐ近くで“滅びる”と云う前提にあった事に成る。

    (注釈 この時期迄に百済を経由して「王仁等の渡来人」の「中国人の学者」が多く渡来して大和に「中国文化と歴史」を伝えていて知り得ていた筈であり、「国家体制」を確立した大化期では是非に知り得なければならない進んだ国の情報であった筈である。)

    それなのにでは何故に、「国王や天皇」は「権威と象徴」の為に例外は無く「純血性」に拘ったのであろうか。
    それは、それ以外に方法が無いからであって、「武力と云う方法」もあるが、それでは「武力」によって潰された者の「恨みの輪廻」が増幅する事に成り、「人」を束ねる事は何時かは出来ない事を「経験値と情報」で知っていた事に過ぎない。
    故に、「蘇我氏」等を危険を顧みず苦労してこの「周囲の力」を集めて「武力」で取敢えず抑えたからこそ、「天智天皇の大化の改新」では、研究書では「天皇を凌ぐ蘇我氏の専横」と結論付けられてはいるが、確かにその事(武力の脅威の心)もあった事は否めないが、「武力」に頼らない「制度的な対応策」を考えた事に成る。

    (注釈 この「皇族」は勿論の事、或いは、「公家族」や「武家貴族」の考え方には、”「武」を持たない”とする「ステイタス」が、江戸末期まで保たれた所以でもある。
    ”「武」を持つ事はその位格を傷つける”事とする「暗黙のステイタス」があった。
    表向きの理由は別として、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”と成ると考えていた筈である。
    現実には、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”から逃れようとして室町期にはこれを破った平安期の「源氏」を始めとして室町期の公家族の「北畠氏」、「西園寺氏」、「一条氏」等は結局は滅亡した。)

    唯、元々、「武力だけへの対応」は、「ある条件」を除いて何時の世も論理的に無理であろう。
    「武力を持たす姓」が今度は蘇我氏の様に成れば元の木阿弥である。

    では、この”「ある条件」”とは、一体何か。それが次ぎの事に関わるだろう。
    然し、そこで「天智天皇」は、不思議に、それも唐突にも突然に「后妃嬪妾の制度」を「国の制度」に取り入れて実行した。
    この事は、先ずは「権威と象徴」の為の「純血性の維持」に依って、“「天皇家を弱めると云う危惧」”を抱いていた事に他ならないと考えられる。
    この侭では「蘇我氏」の様な「象徴と権威」だけに拘らない「自由な血縁性を持つ豪族」にその「天皇の立場」を奪われると危惧したのである。
    そして、その上で目の前に起こっていたその「きっかけ」と成ったのが、”「純血性」から起こる「唖子(軽皇子の事)」に象徴される事にもあった”と認識していたと云う推論である。
    つまり、「数多くの唖子の現出」が「天皇家の権威性」が低下させると認識していた事に成る。
    故に、”外からの脅威の「武力」”と、”内からの象徴を脅かす「純血性の弊害」”から逃れられ、且つ、これらに頼らないで「権威と象徴」を樹立する事にあり、この為にはこの”「ある条件」”を確立させる事に気が着いたのである。

    そこで、この”「ある条件(妾子を利用する事)」”を確立させるに必要とする事の為には、「国家成立」後初めての「政治の大改革」、つまり、「大化の改新と云う制度の創設」などに依る改革を決断したのである。
    何としても「激しい抵抗」を受けながらも断行し推し進めるしか無かったという事に成る。
    故に、先ずその為には、”先ず隗より始めよ”であって、”「妾」”を”隗”と見立てて制度として唐突にも「公」に取り入れたのである。
    これが先ずは”「ある条件の対策(妾子の環境造り)」”としたと読み取れる。

    これは勿論の事、「純血性(イ)」を緩和し、且つ、「豪族との繋がり(ロ)」をより一層強化する事に意味があった事は云うまでも無い。
    ところが当時の「貴族社会」としては、そもそも“「妾」を制度化して採り入れる事”のそもそもが極めて“「異端」”であった。
    確かに「青木氏族等」も「四六の掟」で、“「異端」”のところがはあるが、親元の「天智天皇」も元より「異端」を演じていたのである。
    これでは「四六の概念」を持った、或いは、「四六の概念」を持たされたとしても「非難される筋合い」は必然的に無く成る事と成る。

    それが、(イ)や(ロ)だけであるのならば、「后、妃、嬪」と「妾」の系譜や「三つの身分制度」から観ると、そもそも、何も、「后、妃、嬪」の階級だけでも済む筈であり、これは判るとしても、態々、“「妾」”を制度に明記する必要性は何も無くそもそも一見してこの制度としては「変」である。
    普通では、“「妾」を持った”としても補助的に「子孫を遺す目的の為」として「高位の者」が持つ事は「何処でもあり得る仕儀」で放置して置くものであり、それを態々制度して書き込んだとする事には、そこの“「異端」”には“「何らかの意図」”があった事を示すものであると観る。
    そもそも、その環境として、つまり「天皇家の基礎環境」としては、それ以前は「六四の掟」ではなく「七三の掟」位以上であった事が判る。
    然し、後勘として観ても、この何も対策を採らない侭の「純血性」であるとするならば「七三の掟」にしても「六四の掟」でも、どう考えても「血縁性の弊害」を防ぐにはこれでは無理である事は明々白々である事が判る。
    結果としては、その「権威と象徴」は低下してその行く末は目に見えている。
    だから、この上記の様な切羽詰まった「天皇家の中の基礎環境」があり、そもそも「制度」として「妾を制度化」し、その上で“「妾子を賜姓」”して、且つ、「臣籍降下族」としたと成るだろう。
    「妾子族」では無く、「后、妃、嬪」の「嗣氏族」ではこの周りには「姓族の傍系尊属」が付き纏いその「天皇の立場」を侵されるは必定である。
    そこで、この「遠隔の地方の土豪を外縁」とする事で心配は無く成り、その上で”「妾子族」”とする事にすれば、これ成らばある程度に納得できる。
    然し、それだけでは済まい事は明らかである。

    つまり、この為には「后、妃、嬪」の族から護る為には、”「周囲の策」”を固める必要がある事に成る。
    この経緯を先ず「お膳立て」をして、そこで生まれるその「施基皇子族」や「川島皇子族」の様に、その「経緯の最終」はこの“「妾子ルーツ」”に頼る事にする、或いは、頼らなければならない事にして行くその様に運んだと考えられる。
    然し、故に、この「二つの欠陥」をあまり持たない「四六の概念」を持つ”「妾子族」”であるがこそ「頼る事」としたと観られる。
    ”「周囲の策」”を凝らした上で頼る以上は、この「四六の概念」が「必須の条件」と成ったと云えるのである。
    これが「青木氏の歴史観」から観れば、”「大化の改新」の「大きな背景」”ともしたとも又云える。

    注釈として、現実に、そこに至るまでには”「周囲の策」”、即ち、多くの”「成すべき手立て」”が必要であった。
    そこで、先ずはそれまでは「真人族の皇子」は、「第六世族迄」であったがこれを先ず「四世族迄」とし、「真人族」は「第四位迄」として制限して、これから外れた四世族までの元皇子を王位に下げて遠隔の主要各地に遥任を認めない「守護王」(a)として配置し固め、そして「第六世族」以降は例え元は「嗣子族」であっても無冠の「ひら族・(坂東八平氏)・(たいら族では無い)」(b)として下げて「坂東の警護」に廻した。
    当然に”「遥任」”でない以上は土地に根ずき「末裔」を遺す以外に無く成ったのである。

    つまりは、これが「天皇家が恐れる姓化」であったが、「姓化に成る事」を事前に承知した上での「恣意的な配置」をした事を意味する。
    遠からず「嗣子族」が必然的に姓化に成るとするならば、「都付近の姓化」よりも、「遠隔地の姓化」と成る方が”より安全である”と判断した事に成る。
    そして、その代わりに「四世族内の第六位皇子の妾子族」には、「都の天皇の警護」と「都を囲む主要五天領地の遥任の守護王」として配置して固めたのである。
    例え、「遠隔地」に配置され、”「ひら族扱い」”に成った「第六世族以降の嗣氏族」から観れば、”何が妾子族ぞ”とする「蔑視の感覚」はあったであろうが、「妾子族」であっても「第六位皇子とする制度化」に依って抗う事が出来なく成った、或いはその様にしたのである。

    この状況は以降、「天皇」が変わる度に起こる事には成るが、その度に全ての「姓化に成る嗣子族」が都近くにいる事はそれだけで危険であり、これを避ける為には先ずは「遠隔地」に追いやり身を護る策を採った事に成ろう。
    普通ならば「嗣子族]だから「身の周り」に置いて固めるとする策と成ろうが、然し、この「常識的な一般策」を採らなかったのである。
    そこには歴史が教える”「嗣子族」”の”「外縁族の影響」”での”「姓化」”が必ず起こる事を学習した結果の対策であった。
    当然に、外縁族が都の周りに増え続ければ、その発言力は増し、天皇の立場を侵される事にも成るは必定で、そこで嗣子族を遠ざけた事に成る。
    これらから観ても、明らかに「四世族内で第六位皇子(妾を制度化する事で皇子に成る)」の”「妾子族」”で身を護り、且つ、それに必要とする第二弾の「順次改革」を進めたのである。
    これで、その後裔が広範に広がり「姓族化」に成り安い”「嗣子族」”で固めずに”「妾子族の身内」で固め頼った事はよく判るし妥当だと考えられるのである。

    そこで、「青木氏族」を客観的に観れば、この経緯から観ても避ける事の出来ない”「嗣子族の姓化」”で、次第にこれに対抗する「青木氏族等の妾子族に掛かる負担」は難しく大きく成った事は充分に予想できる。
    要するに、ここには「第六位皇子の妾子族」が持つ「四六の概念の有無の基準」が存在したという事に成る。
    この「四六の概念」を持たない「自然発生的な姓族化」は防ぎきれ無い定めに有っても、そこで、「四六の概念」を敷きながらも「賜姓五役」を務めるという事は至難の業であった事に成ろう。
    普通なら、”そんな「面倒な四六の概念」なんか捨てよ。「妾子族」であろう。”と成るだろう。
    然し、「青木氏族や佐々木氏族」は捨てなかった。
    つまりは、「姓化」はしなかったという事に成る。
    そこには、「大化の制度化」に依って、本来であれば”「妾子」”で終焉する筈であったが、「天皇の意」に顧みて「第六位皇子と云うプライド」がそれをさせ占めた事に成る。

    (注釈 然し、後には「aとb」は、姓族化した事で、矢張り、遂には「逆の事」と成り失敗に終わる。
    その「失敗の終焉」は、見事に「鎌倉幕府」の後ろ盾に成った「姓化した坂東八平氏の勃興」であった。
    即ち、「四六の概念」を捨てた「第六世王族の末裔の姓族化」であった。
    つまり、この姓化で結局はその「招いた事」は「蘇我氏の専横以上の事」と成ったのである。この姓化の結末は矢張り「世の定め」と捉えられた。
    所謂、「武に頼る嗣子系の姓族」と「四六の概念を済に求めた妾子族」とには、その「生き方の差異」は生まれていた。
    然し乍らその最終の経緯は、室町期終焉では”「姓の武」と「氏の済」の勝負”と成って行き「四六の概念」を敷く「氏の済」が勝利を得たのである。)

    (注釈 然し、さて、これだけの「改新の改革」を立て続けに実行する事は現在でも難しい。
    これを「取り巻く勢力(蘇我氏など姓族と姓化の姓族)」が黙っていない事は直ぐに判る。
    況や、「世の定め」として大きな「立場上の利害」は生まれる。
    それだけに「世の定め」とは云え「天皇の身辺」は元よりその膝元の「要害と成る都を護る事」は高まり、この”「妾子族」(氏上と氏人の族)”で護る必要性は高く成り、「主要五天領地の警護」も「妾子族の青木氏族」等に委ねたと成る根拠である。
    「姓族」では無く「妾子族」に任した発想は、「三相」を得て戦略的にはよく考えられているだろう。
    唯、「妾子族の四六の概念」に護られた「氏上と氏人」に依るこれの「防護態勢」には、「姓族化の進捗」が大きく影響する事と成り、そこに限界が生まれるは必然であろう。
    そこで、平安期中期前頃から室町期末期までにかけては、「妾子族」は「四六の概念の縛り」から、敢えて逆の手を使って「戦国で滅びた姓族」を集めて「経済的契約に依る防護体制」、即ち、「影の武力組織」の「シンジケート体制」を構築して、「氏上と氏人に依る防護体制」の「自らの補完策」を採った。
    当然に「藤原秀郷流青木氏の補完役」の上により強固にする事で対抗した。
    従って、「妾子族」の「自らの武」は「四六の概念」の上で絶対に執らなかった。
    つまり、「直接威力」では無く、”「抑止力」”であった。
    この意味で「四六の概念」=「抑止力」の関係が成立していた。
    「氏人の関係」は兎も角も「四六の概念」の中の「補完役の青木氏との関係」は「青木氏族全般」を形成する上で絶対的条件の中にあった。
    この「二つの抑止力」は”「姓族」”に執ってはこの上ない”恐怖”であった事は予想できる。
    況してや、この「二つの抑止力」の上に「上記の済」が伴うのである。
    済に依る持久力があり、且つ、何時、何処から攻め込まれるかもしれない”「お化けの様な影の力」”を持ったものに襲われるかも知れない「抑止力の勢力」にこれに適う「姓族」はいないだろう。
    そして、「天皇のお墨付き」を持つ「妾子族と云う権威」が着いている。
    逆らえば、例え姓化した「嗣子族」でも「逆賊の汚名」を着る事に成る。
    この「恐ろしい勢力」が「天皇を護る」とした場合は、当時としてはこれらは”考えられない発想”であったと考えられ、周囲は唖然とした事の様子が目に映る。
    これらの事の一切は、「妾子族の四六の概念の所以」と成り得るのである。)

    (注釈 「姓族」では無い「補完役」の「藤原秀郷流青木氏の補完役」を作っただけではその「抑止力の効果」はない。
    そこで、「天皇」、即ち、「朝廷」は、「秀郷流宗家」以上に「藤原秀郷流青木氏」を広く「24地域」に広げ、且つ、多く「116氏」にしてこの「抑止力」を高めた所以であると観ている。
    普通ならば、賜姓して補完役を命じたとしても、その秀郷流宗家以上に力を持たす事は無かった筈である。これが前段でも論じている「第二の宗家」と呼ばれた所以でもある。
    所謂、これが「永嶋氏」や「長沼氏」や、将又、広く「長谷川氏」や「進藤氏」を含む「青木氏族」である。
    ここまで「補完役」が広がれば「外縁族の北家藤原一門」を含むどの様な勢力であっても「妾子族」には手を出せないであろう。)

    (注釈 「佐々木氏族」が「補完役佐々木氏」とどの様な関係を構築していたかは良く判らない。
    唯、「近江宗家佐々木氏」が出している研究書から観ると、「宇多源氏佐々木氏の補完役」との関係が観えず、むしろ、「青木氏族」に関する「秀郷流青木氏族との関係の研究」が目立つ。
    これが歴史的にどの様な意味を持っているのかは研究は行き届いていない。
    不思議な疑問の一点である。
    これに付いては予想の域を脱しないが、各地に余りに姓族化して散在する「補完役との関係性」が良くなかったのではと考えられる。
    それはあまりの「補完役の姓化」で「近江宗家が持つ四六の概念の域」を超えていたからであろうか。
    それは、研究書によく出て来る「近江佐々木氏系青木氏」に表れている事であって、「四六の概念」を敷く「青木氏族」の「近江青木氏との連携」を執っていた事からも凡そは読み取れる。
    「補完役の宇多佐々木氏」よりも近くにある「近江青木氏との関係性」を重視したと云う事に成るだろう。
    それは、「近江宗家佐々木氏」と「近江青木氏」とには、固い”「共通する点」”があって、”「天智天皇の妾子族」で「同祖」として、同じ「四六の概念」を敷く一族と観ていた”と云う事に成るのではないか。)

    だが、この「妾子の賜姓」には、「天皇家の基礎環境」の中では、要するに「目的」が上記の二つ(イとロ)、言い換えれば「天皇家の保護」と、「純血性の維持」にあって、その“二つが上記の”「妾子の事の目的」”とも深く連動していた事”に成る。
    況や、これが発祥時から「青木氏族や佐々木氏族」の中には、この「連動目的」から逃れられない”「宿命があった(「四六の概念」)」”のではある。
    だが、そこで「天智天皇」は「大化の改新」で「青木氏族」と「佐々木氏族」を”「妾子族」”でありながらも、この”「宿命」”を持たす為にも、前段でも論じたが“「直系尊属(皇族の朝臣族)」”として発祥させた事の所以にも成るだろう。
    当時としては、本来であれば、”「系譜」にも抹消される立場”にもあった筈である。

    (注釈 「嵯峨天皇の詔勅」に依って「青木氏」に代わって賜姓を受ける様に成った「源氏」には賜姓を受けない源氏も実に多かった。
    歴史的な記録からに観て、全源氏22源氏と称される内のこの「賜姓有無の基準」は、「皇位に残れる事の差」、即ち、大枠で「嗣子と妾子との差」にあってその約半分に当たる。
    嵯峨期以降で、「嗣子族」を含み「妾子族」として遺れた族は「姓族」や「氏族]としても皆無である。
    正式に「源氏族」としては、「花山源氏までの11流」を最後にその”「正式な目的」”は終えている。
    「各地の源氏土豪」とする説は、この「正式な目的」から逸脱していて、到底、「源氏」とは云えず「江戸期の後付けの偏纂(黒印状)」であって、殆ど”「僧侶」”としてその族を遺さず一生を終焉している。
    その「食」に苦しみ「天台宗寺院、門跡院、善光寺、真言宗」の記録を観れば、その「源氏と成り得た人数」からも数は合わない。
    それは、前段でも論じたが「善光寺の内部の組織」を観れば一目瞭然である。)

    この「注釈の事」を配慮すると、外から観れば、同じ運命にあった「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族の妾子族」は、これはまさしく世に示す特別な”「妾子の権威付け」”であった事に成るだろう。
    つまり、「天皇家の基礎環境」には、「妾子を権威づける絶対的必要性」があったと云う事である。
    「嵯峨期以降の賜姓族」は、その「四六の概念」等を始めとする”「正式な目的」”は霧消している事である事から比較すると、その大化期の「妾子族の位置づけ」は比較に成らないものとして証明できる。
    その「決定的な所以」として位置付けた上で、その上で「四六の概念」等を敷く事を前提して”「賜姓五役」”を与え、”「皇位の准継承族」”と更に位置付けたものでもあろう。
    これで、後の「源氏族」の様に「無役」では無く、”「妾子族」”であってもこれで「絶対的存在価値」を世に示した事を意味する。
    ここから「大化期の妾子族」は、”世にその存在を認められる様に成った”のである。

    その最たる経緯が、「妾子族の青木氏族」は嫌ってはいたが、「孝謙天皇期の白羽の矢」”という事に成る。
    その意に反する「経緯の状況」は、同じ「青木氏族の嵯峨天皇」に依って「打ち止め」された。
    長く云えば、その経緯は「仁明天皇」迄と成ろう。
    「四六の概念の論」を結論付けてしまうが、「始祖と後裔」の”意に反していた”とする処から観れば、「青木氏族」に執っては一時は「嵯峨天皇」に苦しめられたが「子孫繁栄」では縛られることも無く却って良かったかも知れないとも考えられる。
    前段でも、論じたが「嵯峨天皇」の「隠された真意」はどこにあったかは今と成っては判らないが、「青木氏の歴史観」からすると後裔としてはここにあったのかも知れないと思いたい。


    (注釈 「妾子族」を系譜から外す慣習は武家社会に成っても長く存続する概念でもあった。
    因みに、「清和摂津源氏宗家の源の頼政」の孫、「仲綱の子の系譜」には、「伊勢青木氏の跡目」として入った「妾子の京綱」を一部で記載しない古書籍もあるくらいである。)

    (注釈 前段でも述べたが、”「妾子族」の「青木氏氏是」”は、この「権威付け」で「施基皇子の青木氏族」と「川島皇子の佐々木氏族」に限っては「妾子族」は世に強く認められる様には成ったが、「天皇家を護る族の範囲」を超える事無くこれを前提として、”頭に載って前に出過ぎるな”とする”「絶対的戒め」”である。
    「物語る事」はこの「氏是」に尽きると筆者は観る。
    唯、「佐々木氏族」にはこの「佐々木氏氏是」になるものがあったかは、「佐々木氏の宗家の研究書」を観る限りに於いて明確ではない。
    然し、研究書から読み取れる範囲では当初はあったとも採れる。
    唯、「補完役」として出自の「宇多源氏の佐々木氏」の出現で消えてしまったのではないかと考えられる。
    「近江佐々木氏の宗家末裔」の「剣豪佐々木小次郎の書」を観ると、衰退していた「近江家宗家の御家再興の行」から「氏是の様な行動規範」で動いていた事が読み取れる。
    この事から「青木氏族」と同じ境遇にあった事から、当初は、つまり、平安初期頃(中期頃か)迄は「宗家」だけには確定は出来ないが受け継がれていたのではないかと想像できる。
    何をか況や、「近江宗家の佐々木氏族」には、仮に「佐々木氏氏是」が細々と宗家だけに受け継がれてあったとすれば、江戸期頃までは「四六の概念」も受け継がれていたするパロメータにも成り得る。
    筆者は、「宇多源氏佐々木氏の姓(890年代頃)」が出自の段階で、単独の「総宗本家」だけは別としても、「佐々木氏族全体」として霧消したと観ている。
    少なくとも「青木氏族」も大きなダメージを受けた「嵯峨期の詔勅頃迄」はあった事は充分に頷け「四六の概念」の形を変えて江戸期直前まで維持していた事は前段でも論じ事である。
    その「佐々木氏氏是」、将又、「四六の概念」の存在の証拠は、「佐々木氏系青木氏の出現」にあると観る。
    そうでなければ、「四六の概念」の基となる「四掟による血縁」は起こり得ず、「佐々木氏系青木氏の出現」も成し得ないからである。
    つまりは、「佐々木氏氏是」、「四六の概念」、「四掟」も「佐々木氏系青木氏の出現」迄は存在していた事を意味するものであるからだ。)

    (注釈 そもそも、追記するが”「源氏の呼称」”の原点は、中国の「魏」の皇帝が他国を滅ぼし、その国の王を上記した儀式で家臣にした時に、その「祖」は同じとして、その者に「源」と名乗らせた。
    この「中国の経緯」から「天智天皇の妾子族の青木氏族」と同じとして「源」の氏名を「嵯峨天皇(志紀真人族・青木氏族)」は与えた事に依る。
    この「源の意味」を知った上で、その「生き方」は上記や下記に論じている様に違ったが、「青木氏族と源氏族の関係」を理解する必要がある。
    尚、「源の呼称」として、目的から観れは「花山源氏」、ルーツ的にみれば「仁明源氏」迄であろう。
    後は、その「目的とルーツ」から正確には”「源」”とは言い難い。「慣例に依る呼称」であろう。
    「青木氏の歴史観」から観れば、「青木氏族」と繋がる「源」が「源」なのである。
    故に、「嵯峨天皇の親元の青木氏族の象徴紋」の「笹竜胆の継承」と成った。
    つまり、「目的とルーツ」からは「仁明源氏」迄は正しい事に成り「笹竜胆紋」は納得できる。
    唯、「清和摂津源氏」の「宗家の四家」の「頼政との繋がり」を「青木氏族・伊勢と信濃」が持った事では、「目的とルーツ」では「源氏と笹竜胆紋」は納得できる。故に使ったのであろう。)


    さて、そこで「華国」の様に、“初めて執った「国家形式」”の、“初めての「妾子族」に対する「酒瓶に基づく家臣儀式」”だけでこの事が済むのであればいざ知らず、その侭では必然的に生まれてくる「家臣力(官僚族)の拡大」は防ぎきれ無い。
    そこで、「中国の華国」等の「滅亡に至る結果」を観る様に、これを「事前知識」として知っていた「天智天皇」はこれを避ける為にも、「大和」でも「家臣の蘇我氏等」に対抗できる“「直系尊属」を「天皇家の外に造り上げる事」”で対応したと観る。

    故に、その為に「絶対信頼できる身内」の「妾子族の皇子」に「一定の規則(四世族内第六位皇子)」を宛がい、その「皇子」に“「賜姓」”と云う手段を始めて使ったのであり、「家臣の豪族の朝臣族(高位の官僚族)」に、「皇族の朝臣族」を加えて創設し、「華国の習わし」を用いて“「酒瓶」”を交わし与え、権威付けの「象徴紋」を与え、「氏神木」を定めてその行事を神格化し、「賜姓五役」の「令外官の役目」までを与えると云う事までは行わなかった筈であると観ている。
    明らかに、これは正式で完全な「二つの目的(イとロ)の為の儀式」である。
    この“正式で完全な儀式(賜氏の儀式)を世に見せる事”で、「妾子族」であってもこれは明らかに蘇我氏等の様な「豪族に対抗し得るだけの権威のある力」を着けさせた事を世に示した事に外ならない。

    そこで、この上記の通りに、この様な「天皇家」の中にも、この様な“「下環境(基礎環境)」”があり、「異端(四六の概念の保持)」な「皇族賜姓臣下族」だけに文句をつける筋合いは、「天皇家」は元より“「周囲の官僚族」”にも無かった事に成る。
    この“「異端」”とも観られる「四六の概念」を敷く事には、そもそも“「異端」”どころか、「違和感」そのものが無かったと観られる。
    百々のつまり、この「青木氏族や佐々木氏族」の“「四六の概念」”は、「皇族賜姓臣下族」として「当然の事」として認められていた事にも成り得る。

    (注釈 これらの「賜姓時の儀式」に授与された「遺習物品」のものは「記録」を含めて「伊勢青木氏族」に現存保管されている。
    「近江宗家の佐々木氏の研究記録」に、この「遺習物品」に付いての記載がないので「佐々木氏族の近江宗家」に存在するかは確認が取れていない。)

    (注釈 そこで飛鳥期から始まり奈良期の当時は、そもそも、歴史的に“「賜姓」とはどのような位置づけに成っていたか”に成るのだが、その「日本書紀の記録」に最初に観られるものとしては、つまり、先ず“「賜姓」”に付いての「最初の歴史」に観られるものとしては、「垂仁天皇期」にあり、“敦く湯河板挙(ゆかわたな)に賞す。則ち、「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”とある。
    これは「中国の華国」に観られる様に「家臣(官僚族)」に成る儀式に対しての「姓の賜姓」によるものであって、且つ、「氏名の賜姓(皇族)」の最初は、同じ「日本書紀」にも見られる様に「天智天皇期」にあり、これら「家臣(官僚族)」に対する「姓名」と、「皇族から臣籍降下した皇子」に対する「氏名」を二つに分けて正式に制度化した事に成る。
    この意味は「青木氏族」や「佐々木氏族」に執って大きい。)

    「姓名(官僚族)」と「氏名(皇族系朝臣族)」との違いと、その「目的の違い」からすると、前者は当に「賜姓」で、後者は明らかに「賜氏」である筈である。
    然し、「日本書紀」では、「賜姓「の「二つの事例」で「賜姓の言語」を使っている。
    この事は、且つ、「天智天皇の意」を引き継いで上記で論じた様に「二つの目的」で制度化したのは、「八色姓制度等の政策」にある様に「天武天皇期」にある。
    つまりは、「姓族の賜姓(官僚族)」と、「氏族の賜姓(皇族朝臣族)」とは、「考え方」を別にしていた事に成る。
    これが後に、上記の“「周囲の官僚族」“として記した「朝廷内を構成する姓族」に対するものを、その「目的」はさて置き、兎に角はその違いを明確にしようとした「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」(下記に論じる)に繋がって行くのである。

    (注釈 然し、ここで考察として、その前に、記したいのは「垂仁天皇期」のそれを“「姓(かばね)」”としている以上は、「中国の華国」に見習って「家臣・官僚に対する制度」を前提としていて、「賜姓」は「酒瓶の儀式制度」と連動した制度あった。
    従って、当初は「家臣(官僚)」に対する「儀式の一環」で、少なくとも「氏名」とする「皇子」に対する「臣籍降下の賜姓」では無かった事に成る。
    「天皇の立場」から観れば、儀式化に依って、「姓」は、他人の「家臣又は官僚」、「氏」は、「身内の同族」と見極めていた事に成る。
    「他人の姓」は元より、この「身内の同族」にも、”二つに分けて観ていた”という事に成る。
    その「判断基準」が、「姓化の有無」、即ち、「四六の概念の有無」、将又、「嗣氏族と妾子族の差異」との三つにあったと観られる。
    この「天皇の三つの判断基準」からすると、残るは妾子族という事に成ったと云う事である。)

    そもそも、その「賜姓の目的」は異なる。
    上記した様に「本来の意味」、又は、その「目的」からすると「賜姓」では無く「賜氏」であるのだが、それを明確にしている証拠が「日本書紀の天武天皇の発言」(前段でも記したが改めて記す。)にある。
    後に、「ある種の問題」が出て、敢えて、ここでこの「官僚族に成る賜姓」、つまり、「姓族に成る賜姓」と、「皇族の臣籍降下の賜姓」とを明確に分けようとした、或いは、分けて違いを明確にしたものである。
    然し、判る範囲では、この「違い(「ある種の問題」)」から始まって、「三代の天皇」が正式に手掛け、遂には「新撰姓氏禄」たるものがまがり乍らも編纂されたと考えられる。

    筆者は、この計画は正式には「最初の淳仁天皇」の前の“「持統天皇期」”から既に企画されていたと観ている。
    「官僚族に成り得る姓族の賜姓」とは別にして、この新しい「皇族賜姓臣下族の賜姓」、つまり、「臣籍降下の賜姓」を始めた「天智天武の意向」を継承した「持統天皇期」にあると観ている。
    その「根拠」と成るのは、「日本書紀」にも記されている“「天武天皇の発言」”にある。
    それまでは、「朝廷内の高度な専門性の持った官僚族」は、殆どが「蕃別」に記された「後漢からの渡来人」であった。

    (注釈 改革を進める上で、「天武天皇」は「進む改革」に対してのその進捗状況を官僚から聞き、「家臣・官僚」に厳しく問いただしていて、その「問題点」を指摘され、その事に対する「命令」を下している行である。)

    つまり、前段でも何度も論じられた「阿多倍王」に率いられた「後漢の部の族」と云う族で、その専門域を「・・部」と云う呼称で括り、「極めて優秀な官僚族」で占められていた。
    “「大和の民の官僚族」が育っていない“と云うその事を憂いた「天武天皇」は、官僚の部下に”「大和の民」にも「優秀な民」を選んで早く「姓(官僚族)」にしなくてはならない”と命じている。
    「後漢の部の民」は、「高級官僚」としてその能力を発揮し、「朝廷の三務」、つまり、「大蔵、内蔵、斎蔵」の「部造(べのみやつこ)」として「賜姓を受けた姓名の持つ官僚族」が殆どを占めていた。
    最たるものは「伴氏]や「秦氏」や「物部氏」や「鞍作氏」等多くいる。

    (注釈 これが「新撰姓氏禄」の「蕃別」に所属する「姓族」の事であるが、「斎蔵」が「神別」に所属する「藤原氏等の姓族」の事である。)

    「後漢の渡来人」の「阿多倍王」の長男はこの「蕃別」に所属し、且つ、「賜姓族」でもある「征夷大将軍の坂上田村麻呂」もそうであるし、三男の「賜姓族」の「安倍氏に繋がる内務大臣・財政の内蔵氏」、次男の「賜姓族」の「九州域の後裔に繋がる全政務と財政の大蔵氏」は、最たる「渡来系の姓の官僚族」である。

    この「日本書紀」にある「天武天皇の命」より、「大和の民の官僚族」に成る為の「姓の賜姓(本来の姓族の賜姓)」を受けていたのである。 
    中国では「華国」のそれに見習い、「官僚」と成り得る「宦官制度」と云うものを敷いた。

    (注釈 中国のそれに見習い「官僚試験」に受かり「賜姓」を受け「官僚」に成る過程を経る。)

    この「天武天皇の命」を受けてから発祥した「大和の姓族」に対して「持統天皇」は、「華国の失敗」を招かない様に、その多く成り「勢力」を持ち始めた「官僚族の姓族」を整理していたのである。
    この証拠は、「新撰姓氏禄」に記されている「蕃別族 404」と「神別族 326」と云われる間違いなく「姓族の官僚族」のその多さがそれを示している。

    (注釈 「数値の信頼度」は別として、但し、分けて問題のある「皇別の姓族の多さ 335」は下記で論じる。)

    故に、「垂仁天皇期」には、未だ「四六の概念」を敷く「氏名の賜姓の概念」はそもそも無かった事を示す。

    故に、この「四六の概念」のそのものが、当時では”「氏族を表す象徴」”と成っていたのである。
    況や、同じ「朝臣族」でも「四六の概念を持つ氏族」と、「持たない姓族」との「大きな違い」と成っていた。
    従って、「四六の概念」を論じる上では、これを編纂した「新撰姓氏禄」と「氏姓制度」とは避けて通れない「青木氏族の歴史観」としては論点と成るのである。

    (注釈 更に進めてそもそも、そこで「日本書紀」にある“「鳥取造」”とは、「鳥取の守護王(遥任)」の代わりに「鳥取」の国に赴任する「国司」の事であり、“「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”のこれを「姓の賜姓の原型」とする「後期の研究論説」には少し無理があると考える。
    それは先ず「姓」に「官僚の役職」の「造(みやつこ)」を着けるのは当時の「官僚の慣習、又は掟」からしておかしい。
    況して、一般の会話の中で使うのは吝かではないが、官僚が作る「日本書紀」と云う正式な公的な書物の中では疑問である。
    先ずあり得ない事である。単に「姓」なら“「鳥取」”で良い筈である。)

    (注釈 筆者は、次ぎの様に「守護王の施基皇子」の「伊勢の国司代」であった「伊勢造三宅連岩床」と同じ様に、“「鳥取造」”は、「赴任先の役職名」であり、依って「朝廷」が出す「赴任命令」であって、本来の正式なものであるのなら「三宅連」の様に「鳥取造・・・・」とし、冠位の後ろの「姓」の後に「連」か「宿禰」等の「八色の制等の官職位」を着けて「名」を入れる事に成ると観る。
    依って、単なる「赴任命令」であったと考えている。
    従って、“「姓」を賜いて“の文言は、「姓名」の「賜姓」を受けた上での”鳥取の国司に任じられた“とする表現であろう。
    この研究論文では、例え、「垂仁天皇期」であっても既に完成していた「中国の冠位制度」に習い「賜姓」には、必ず「冠位」が伴う事の知識が欠落している。)

    (注釈 少なくとも当時には、「家臣」、つまり、「姓の官僚(家臣)」に対しての「厳格な朝廷の掟」であったとするならば、上記の「慣例」に依って「鳥取の国司並み」に成るには、「賜姓を授かった事」と同じ結果を意味するのであるから、その「姓」は「湯河(ゆかわ)」であって、その「名」は「板挙(たな)」とすれば上記の例に観る様に、唯、「八色等の冠位」は無いが「伊勢造三宅連岩床」と同じ事に成る。
    つまり、「鳥取造湯河・板挙」と成り得る。)

    (注釈 何故ならば、国司、又は国司代に成るには、そもそも、既に、先に「姓」を持っていた位にいて、「連」か「宿禰」等程度の冠位を獲得していなければ、且つ、無冠であっては、成れない掟の朝廷の「官僚の役職」であった。
    つまりは、「姓」を持たない「官僚の者」には”「造」”は無いという事である。
    そもそも、「官僚」である限りは「姓」が無いという事は無い。
    先ずは先に「姓」なのである。中国の「華国の家臣に対する儀式」も同じである。)

    (注釈 「聖徳太子」の「冠位十二階制度」、「七色十三階冠制度」、「八色の姓制度」等の施行は「聖徳太子前の政権」や「王朝や朝廷」から引き継がれてきたものを纏めて「律令の下」で正式により確実に制度化したもので、これらの元は急に出来たものでは無い。
    「垂仁天皇期の記録」にも「・・宿禰等の冠位」が散見できるが「造」は上記の冠位では無くその「官僚族の下位の階級」を示す。
    そして、その「造等の役務」とは別に、「冠位」としての始まりは「聖徳太子期」にあり、これに「律令」を加えて完全に正式化したのは「天智天武期」にある。
    その中で「それまでになかった概念」の「特別な意味(「賜姓五役)・「四六の掟」・「四掟」)を持つ「臣籍降下の賜姓族」の発祥であった。)

    以上の「注釈」に依って“「賜姓と云う前提」”と“「新撰姓氏禄」”の「予備知識」を持った上で、更には論じる。
    そうでなくては「下記の論の意味合い」の理解に差異が生まれるだろう。

    さて、これならば「天皇家」自らが「権威と象徴」を保つ為に「武力や純血性」を充分に保持しなくても、“「臣籍降下の賜姓族」がこれを裏打ちしてくれる”と云う手段(安心の“保障手段”)を用いた事に成るだろう。

    逆に言えば、「中国の華国」より始まった「家臣に成る姓の賜姓の儀式制度」には、「中国の史実(50年経緯)」の事を学んではいたが、ところが「大和」ではその「高位の家臣(官僚族」」に対しては中国に比べてそれ程に「信頼」を持っていなかった事にも成る。
    故に、「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して信頼のおける「家臣(官僚)の儀式制度の確立」を特別に図った事にも成る。
    これが「天皇家の権威と象徴」を裏付ける「純血性の保持」にも繋がるものと成ったが、それを「天皇家」の”「六四の掟」”より下げて「臣籍降下の賜姓族」として”「四六の掟”」とした事は、裏を返せば、ある程度の「純血性の保持」を、或いは、引き継がせていた事にも成る。
    そして、天皇家自らが「賜姓する事」だけでは無く、「権威性を保させる事」の為にも近い「純血性の掟(四六の概念)」を「引き継がせる強い意志」を持っていた事にも成る。

    だから、この結果として「青木氏族や佐々木氏族」が引き継いでいたのであるから、「権威と象徴」を保てる「天皇家の純血性」は、「孝謙天皇期」の「直前」までは何とか「六四の掟」以上のその程度には保てていた事にも成る。
    唯単に、「現在の定説」、即ち、これは“「皇位継承者」が「直系尊属内」に居なかったという事”では済まされない事態に成っていた事なのである。
    「純血性の保持」の「自体」が、形式上は「傍系尊属の外孫王」の中にあったとしても「天皇家」の中には、最早、出来ていなかった事に成る。

    注釈として、重ねて云うと、「孝謙天皇期」には、「中国の歴史」の例に漏れず「外孫王の背景」、即ち、「傍系尊属(家臣)」、或いは、「傍系卑属(家臣)」、将又、「姓族」が、「天皇家」より力を持ち過ぎた結果の所以でもある。
    「孝謙天皇期」では、最早、それを続ける事が出来なく成った事をも意味する。

    結局は、「中国の歴史の経緯」とは違い、既に「四六の概念」を敷く「四世族」を遥かに離れ「直系尊属」では無く成っているにも関わらず、依然として「過去の経緯」から頑なに「四六の概念」を敷いている「青木氏族」に「白羽の矢」が立てられた所以とも成る。
    それと共に、その「特別な意味」を持つ「臣籍降下の賜姓」の「キー」は「四六の概念」とも成ったのである。
    然る事乍ら、それよりも、「四六の概念」を敷く「妾子族」のそれに裏打ちされた“「絶対信頼」”にあった事を意味する。

    「青木氏族からの歴史観」として観れば、この様に考える事が出来る。

    然し乍ら「白羽の矢」の当たる「青木氏族等」に執ってみれば、それは単に、“「賜姓」と云う事”だけでは済まない事なのである。
    つまり、そこで授かった「賜姓」に何かを持たせる事に成らないと“「裏打ちの手段」”とは成らないからだ。
    その事が「青木氏族や佐々木氏族」にそっくり任されていた事に成る。
    この「何かを持たせる事」の如何に依っては「妾子族の行く末」が決まる事にも成り得る。

    (注釈 況や、「佐々木氏族」にはこの”「何かを持たせる事」”の如何に狂いが生まれたと観られる。)

    もし、仮に唯単に、その「出自」が「直系尊属」と云う事だけであれば、「嵯峨期の詔勅」に見られる様に「源氏族」の様に「賜姓」だけで済む筈である。
    これが無い「源氏族」と「その経緯」がそれを証明している。
    上記した様に、「妾子族」に与えられた”「権威付け」”などに代表される「天智天皇や天武天皇等の行動」があったからこそ与えられる「象徴紋」等であって、全くこれが無い「源氏族」に「象徴紋」等の「権威付け」を与えられる訳けが無い。
    所謂、「冠位役職」=「権威付け」=「象徴紋」であって、「詔勅の文章」を観ても判る様に「権威付けの行」は全くない。
    何時の世も「権威」の無いものに「権威を象徴する象徴紋」等は論理的にあり得ないし、そんな政治は自らが「権威」を否定している事に成り出来ないだろう。行く末は判る。

    故に、「令外官の様な役職」は元より「象徴紋」も与えられなかった「源氏族」は、結局は、他の「慣習仕来り掟」は別としても「嵯峨期の詔勅と慣習の禁令」に依って「青木氏の象徴紋(笹竜胆紋)」だけを上記した「源の呼称由来」の言葉通りに理由づけて用いた事に過ぎない事が判る。
    ところで、そもそも、「理由付け」したこの「用い方」に問題があったと筆者は観る。

    先ず、この「青木氏族」の様に「源氏族」にはこれらの「権威付け・習わし」が、“「天皇」に依って与えられた“とする記録はどこにも無いのである。
    むしろ、上記した様に「嵯峨期の詔勅とその慣習の禁令」の中の文章がそもそもそれを証明している。
    つまり、「妾子族の権威性」を高める為に“「青木氏族の慣習仕来り掟」を何人も真似てはならない”とする「禁令」が記載されている。
    “何人も”とある以上は、当然、「賜姓」を授かった「源氏族」であっても例外ではない。

    注釈としてこの事は何度も論じている事ではあるが、唯、論理的には、「志紀真人族の青木氏族」の血筋を引き継ぐ「嵯峨源氏」だけには「慣習仕来り掟」の中でも「笹竜胆の象徴紋」だけは最低では使用は認められるだろう。
    然し、その「嵯峨天皇の自らの詔勅」がこれを否定している事には間尺が合わない。
    少なくとも「目的と血筋」として観ても、「仁明源氏」までと成ろう。
    後の源氏は「目的と血筋」からもそもそも論理性が無い。

    同じく「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている「近江佐々木氏」は勿論の事、嵯峨期以前の「賜姓の妾子族」であった「伊勢青木氏、近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」は当然に「嵯峨期の前の賜姓の妾子族」である以上は、「象徴紋の笹竜胆紋」を使えるし、その間も使ってはいるが、「佐々木氏の補完役の宇多源氏等」は「嵯峨期の詔勅」以降の源氏であり、且つ、「目的性や血筋性」からも論理的には使えない事は明白と成る。
    これは筆者から観れば、これは明らかに”こじつけ”以外の何物でもない。

    この「注釈」として、「笹竜胆紋」はある説では「源氏の家紋」としている説もあるが、仮に「源氏の家紋」とするならば、それ以前の発祥の「伊勢青木氏」を始めとする「近江佐々木氏、近江青木氏、伊勢青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊勢と信濃の融合の末裔の伊豆青木氏」が「源氏族」でないので「無紋族の賜姓の妾子族」であった事に成り得て、「笹竜胆紋」では無い事に成る。
    又、「源氏族発祥の以前」は、これらの「天智天武期の賜姓族の妾子族」には、上記した様な「確実な形の賜姓」が有り乍ら「象徴紋」が無かった事に成り得て矛盾であり、「日本書紀の記述」等を否定する事に成る。
    そんな事はあり得ず、「青木氏族や佐々木氏族の存在」そのものが否定される事に成る。
    「嵯峨期以前の歴史の氏族 妾子族」から観ても、「日本書紀」もその後の「累代三代格等の書籍」にも記述があり、「青木氏族」が持つ記録や遺賜品などにも証明するものが有って、現実に使って来ているのであるのだから、これらから観ても、「笹竜胆紋の使用」は「源氏族のこじつけの使用」と成り、「歴史の識見の高い多くの歴史家」も筆者と同じこの説も取っているのだ。

    まあ、無理に論理性を持たせば、「象徴紋と家紋の差」とも云えない事も無いが、「嵯峨源氏と仁明源氏」が使っていたので、”我々も使ってもよいとする発想であった”のであろう。
    「家紋」であれば「姓族」である事に成る故に、「新撰姓氏禄」では「源氏」は「姓族」に分類されている事からもそれなりの妥当性は出るだろう。
    となると、「同紋使用」は「禁じ手」であった当時の慣習からは逸脱しているし、「嵯峨期の禁令」にも触れる行為と成る。

    だから、「目的とルーツ」から「嵯峨源氏と仁明源氏」までとする説とし、後は「摂津源氏」を除いたとして「成り行きのこじつけ説」に成るのだ。
    唯、注釈として上記で論じた「清和摂津源氏の四家」が使用しているのは、「伊勢青木氏」を始めとして「近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」と血縁を結んでいる事から「象徴紋」にしろ「家紋」にしろ「笹竜胆紋」は使えるし、場合に依っては禁令の「慣習仕来り掟」も使えるとする論理は成立つ。
    「摂津源氏宗家」が「四家制度」を採用していた事は判っているが、「准皇位継承権」などの「権威付けの四六の概念の採用」は無い。
    然し、「分家の河内の清和源氏」は少なくとも「源氏族のこじつけの使用」の範囲であろう。
    何にしても、「嵯峨天皇以降の源氏の笹竜胆紋」の使用以前には、「五家五流の青木氏の象徴紋」として、且つ、「賜紋」として「笹竜胆紋」は使っていた証拠があり、将又、「青木氏の平安初期の古記録」や「賜物の遺習物の刻印紋」にも観られ、「日本書紀」にも記載がある以上は「源氏族のこじつけの使用」と成り得るのだ。

    そもそも、何をか云わんとするは、”「四六の概念」を敷くか”は、この「象徴紋の使用の前提」とも成っている事なのである。
    「象徴紋」などは”「四六の概念」”がその「数少ない氏族」に無ければ使えないとする前提であって、「嵯峨天皇の禁令の前提」と成っているのである。
    依って、”「四六の概念」”の敷かない「源氏族」はどんな理由があろうが原則使えないのである。

    「賜姓族」、将又、「妾子族」の前提は、この”「四六の概念」”の中にあって、始めてそれに依ってその「権威」が保てるのであって、その「保てる事」を証明するものが「象徴紋」なのである。
    「源氏族」が、この”「四六の概念」”を敷いていたのであればいざ知らず、敷いていなかった限りは「象徴紋」はあり得ない事に成る。
    これが「象徴紋」の「笹竜胆紋の前提」であるのだ。

    尚更に、「源氏族」には、正式には「花山天皇」までの「11家11流」まであるが、然し、これらの「11家」の「賜姓時」の度に「象徴紋の笹竜胆紋」を与えたとする記録は何処にも一度も無く全くない。
    当然に、「四六の概念の記述」も全く無い。
    従って、せめて、「嵯峨源氏と仁明源氏」は記述は無いとしても、その「流れ」からは考えられし、「血縁」と四家の「四六の概念」に近い「慣習仕来り掟」を持ち得ていたので、この結果から「摂津源氏」もあり得るだろう。
    そもそも、これは「権威のある氏族の妾子族の象徴紋」であり、「姓化した源氏族」には論理的にあり得えず、上記の”こじつけ”の説と成る。

    まあ、百歩譲って、”「四六の概念」”の無い「姓化した族」であるから、「笹竜胆紋」を「象徴紋」では無く「家紋」として観れば、我慢は出来る。


    そこで、「四六の概念」の理解上もう一つ解き明かさなければならない疑問なのは、この「禁令」には、“「青木氏族と佐々木氏族」“とは書かれていず、”「青木氏」”だけである。

    この事は「佐々木氏の研究書」にも明確に記述されている。
    上記の「象徴紋の条件」の行に合致し、且つ、「四六の概念」を敷いていた「近江宗家の佐々木氏」の記載があっても不思議ではない。
    これは”何故なのか”はよく判らないが、兎も角も、当然に、「青木氏族と佐々木氏族」が敷く「四六の概念」がこの「慣習仕来り掟」の中に含まれている。

    つまり、恐らくは上記した様に、“「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して強引に「信頼のおける朝臣族」を「妾子族」で創設した事は上記した。
    この基と成った「臣籍降下の賜姓の儀式制度の確立」を図った事”に従い、そこで態々この「儀式の差 (イ)」を付け、更に「禁令の差 (ロ)」で縛った。
    この「二つ(イ)と(ロ)」に護られた「青木氏の慣習仕来り掟の前提」は、”「姓制」の持たないこの「四六の概念」”、つまり、「青木氏の慣習仕来り掟」に影響する事が前提とも成っていたと観る。
    この事から考えて、敢えて(イ)と(ロ)を持つ「四六の概念」を敷く「佐々木氏族」を記載する事にしなかった事に由来すると観える。
    この(イ)と(ロ)が、”「佐々木氏族」そのものを保証する”と観ていたと成るだろう。
    唯、”「佐々木氏族」も記載してはいいではないか”と考える事も出来る。
    然し、この「記載有無の差」が、”「志紀真人族の青木氏族の嵯峨天皇」であった”と成るだろう。

    「嵯峨期の禁令」が、”「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族」を「権威づける目的」であった事”は云うまでも無いが、(イ)と(ロ)から観て、「四六の概念」を他の「氏族や姓族」に敷かせない目的があった事も強く考えられる。
    何故ならば、この「四六の概念」が「他の氏族」に広まる事は、それだけに”権威性が低下する”と云う懸念も持ち得ていたとも考えられる。
    「孝謙天皇期の外孫族」に観られるように、”恣意的に権威性を獲得しよう”とする「氏族の勢力」が表れていた事も充分にあり得る。
    現に、「嵯峨天皇の嵯峨源氏」でさえも(イ)と(ロ)の適用を受けていない位なのであるから、この事の配慮は充分にあっただろう。
    これは、「禁令」では無く「嵯峨期の詔勅」のそのものの文面でも判る。


    これには後勘から観ると、唯、気になる事がもう一つあって、「天智期から嵯峨期」までに、それは「近江佐々木氏族の宗家族」は別にして、「傍系尊属」には「佐々木氏族の一門」より「姓族」を多く出した事に関わっていたと考えられる。
    嵯峨期の前後には既にその様な「姓化の兆候」が「近江佐々木氏」にあったのではないかとも考えられる。

    「青木氏族」の様に、「絶対に姓制を敷かなかった氏族」では無く、「傍系族」とは言え「姓制」を持った「近江佐々木氏族」には“「絶対信頼」を置けなかった事”に成るであろう。
    つまり、「近江佐々木氏」は「四六の概念」を敷くが、その「四六の概念の信頼度」を疑問視した事を示している。
    「近江佐々木氏宗家」の「四六の概念の統制」が「青木氏族」ほどに十分では無かった事も考えられるし、況して、「青木氏族の後裔の嵯峨天皇」である。
    その点では、当然の事として「記載の事」に付いては厳しく考えていたのであろう。
    「青木氏族」は「四六の概念」を始めとして、「四家制度」、「妻嫁制度」、「四掟」、「青木氏氏是」等で「姓族」を出さない様にしていたが、取り分け、その「証拠の前提」と成る”「青木氏氏是」”は、その「青木氏族の勢力」を表に出す事を禁じた掟であって、「嵯峨天皇」はこの「青木氏氏是」を始めとした制度を身を以って体現していた人物でもあり、ここに”「信頼」”の基点を置いていた事にも成るだろう。

    この様に「佐々木氏族」に対する「見方」とその「信頼度」に付いては間違いなく違っていた筈である。
    故に、「詔勅の禁令」までには「佐々木族」を書き込まなかった所以であろう。


    さて、そこで次に気になるのは、「光仁天皇の孫」に当たる「青木氏族の嵯峨天皇」が、上記の「詔勅と禁令」と共に、「氏族志」を見本編にした「新撰姓氏禄(妙記)」で周囲の反対を押し切って編纂してこれを態々慌てて書いて公にしたと云う事である。
    これは、少なくともこの時期までは「青木氏族」の中には、この”「経緯」と「歴史観(概念)」”が強く伝えられていた事にも成る。
    所謂、この“「四六の概念」”が「青木氏族や佐々木氏族」にある事を知った上での事であったと考えられる。

    前段に戻ってみて別の面からの「経緯」としては、そこで、妥協して「外縁族(傍系卑属)」を入れる事無く、「四六の概念」に切り替えて最大限に保っていた「青木氏族」に上記の「詔勅の禁令」に至るまでの”「歴史的経緯」”を「青木氏族」の中に持っている事を「孝謙天皇」が知っていて、”「白羽の矢」”がこの「経緯」に従って当てられたと云う事に成るとも考えられる。


    さて、然し、そこで”「孝謙天皇の白羽の矢」”が立ったとしても”「四六の概念」”であってもこれの保持を前提とする以上は、無暗に条件を緩める事無く「公家族」と「武家族」、或は、「真人族」(最大48)と「朝臣族」(最大101 30%)からの「数少ない氏族の血筋」から必然的に求めなくてはなら無く成る。
    変化の起こる歴史の長い期間の中でこの事が永久に成し得ない事は直ぐに解る。

    例えば、注釈として、鎌倉期の末期から戦国時代と下克上の時代に掛けて次第に上記した様に「純粋な賜姓」を受けた「48もの氏族(真人族の15%)」が、「身分や権威」だけに頼っていた結果、「自己を防御する戦力(武力)」を保持し得ない侭で完全に近い形で淘汰されて行った。
    之は儘ならない「生存競争の中」では当然と云えば当然である。
    「四六の概念」としてはこの侭では成し得ない。

    例えば、「逸記」の多い「新撰姓氏禄」の中だけに従えば、「101の関係氏族」では記録では「20程度」に成ったとされていて、「純粋な48の氏族」は筆者の調査では厳密に「慣習仕来り掟」を護っていたとされるのは「5氏」だけに成るのではないかと推測される。
    これでは到底、「四六の概念の維持」は無理であった筈である。

    注釈として、念の為に、その前に、「嵯峨天皇の編纂」と云われるこの「新撰姓氏禄」の研究書は多くあるが、そもそも「目録」だけに編集された「抄記」であって、且つ、「逸記」であるが故に、そもそも「嵯峨天皇」自らの出自の「春日真人族の四世族後裔」の「施基真人族」や「川島真人族」の直系の後裔「青木氏族や佐々木氏族」は、矢張り「逸記」されて書き込まれていない。
    そもそも、これは次の事から来るのかも知れない。

    「光仁天皇と春日宮天皇」に成った事で恣意的に「逸記」したのかは分からない事。(A)
    「5割の抄記」と云われる事から逸脱したかも判らない事。(B)
    「本文」の無い「抄記」「逸記」である事。(C)

    以上の事から止むを得ない事も考えられる。

    然し、「研究書」に依っては「日本書紀」にも記されているこの「敏達天皇」の「春日真人族の後裔」として「志紀真人族」や「川島真人族」が書き込まれた研究書もある。
    唯、脱落している書もあるのは、何故に「逸記」し「脱落」したかは筆者の研究が未だ行き届いていない。
    恐らくは、筆者はこれは「研究書のレベル」によると観ている。

    筆者は、(A)の説を採っているが、その理由は、現在では、「追尊の春日宮天皇(施基皇子)」と、その四男の「光仁天皇の出自元」とした以上は、編纂に当たって「嵯峨天皇」自らがそれまで「志紀真人族」で「臣籍降下の朝臣族」から「元の真人族」に戻したとする説(A)を採っている。
    そうでなければ、「臣籍降下の朝臣族」から「天皇」が出ると云う事はいくら「四六の概念」等を持った「氏族」とは云え、一度外に出た「氏族」である以上は論理的にあり得ない事に成るからである。

    その「根拠と裏付け」は、「始祖の施基皇子」は「皇太子」を遥かに跳び超えて「天皇」に継ぐ「永代浄大一位」にあったからと考えられる。
    そうなると、「永代浄高二位」で「四六の概念」を持つ「臣籍降下の賜姓」を授かった「近江佐々木氏の始祖の川島真人族」(宗家族・直系尊属)をもその侭にして置く事は論理的に無理が出る。
    依って、「歴史研究者」では無く、「嵯峨天皇」が見本にした「中国の氏族志」に拘わらず恣意的に敢えて「逸記の命」を下したと観ている。

    (注釈 この「新撰姓氏禄」は815年に「編纂」は取り合えず終了したが、「公表」はその前から編纂者の中に「反対」が多く、遅れて815年に成ったとされ、最初の「嵯峨源氏族」の詔勅は814年であるとすると、「源氏の詔勅」を出したからと云って直ぐには行かない。
    当然に「源氏族(皇子23 皇女17)」が出るまでには時間がかかりこの偏纂には間に合っていない筈である。然し、記載されている。
    況して、「近畿圏」としながらも、この多くの「嵯峨源氏」は地方に飛散し、その中でも「皇親族」として左大臣として勢力を張った「源融の末裔」でさえ、中国地方の日本海側の米子の東付近に「土豪」として末裔が潜んで生き延びていた。
    然し、後に「清和源氏源満仲」が「武力集団」を形成する際にこの「嵯峨源氏の末裔の土豪」を呼び寄せ摂津に住まわせた。
    この事で摂津域に「嵯峨源氏の末裔」が多くの「姓」を拡げた。
    この事は記録からも知られていて、これに付いても「逸記」である。
    従って、そもそも、「朝臣族」の中に「源氏族」が記されている事の事態が、そもそも大いなる疑問なのである。
    他にも数多くこの815年代以降の「姓族」が記されていて、これは明らかに後勘での「逸記」(追記)に他ならない。)

    (注釈 更には「清和河内源氏の末裔」の「姓」の「室町期の姓」も多く含んでいる。
    これが「後付け」の何よりの証拠である。)

    著書を出した数人の研究者も「本文」がない事に依る“「江戸期初期の後付け」”と観ている。
    つまり、「江戸幕府の権威付け」の「政策の一環」として大名を始めとして「武士」である事を確定する為の「黒印状」を獲得する為に、課せられた条件をクリヤーする必要に迫られた。
    この為に、その「ルーツ」を搾取し「不確定な過去の資料」に多くは偏纂を加えた。
    この槍玉にあげられたのが、「本文」の無い「不確定な抄記と逸記」を持つこの「新撰姓氏禄」が「格好の的」と成ったのであったとされる。
    所謂、これが「後付け説」である。

    これを「片識の研究者」が前提として著書とした事が、「新撰姓氏禄」と思われてしまっている事の所以であろう。
    筆者もこの意見に賛成であって、嵯峨期の当時の本記の編者の反対は、下記した様な「不確定な理由」で「逸記の多い事」へのここにあったと観ている。)

    「新撰姓氏禄」には「抄記」で「逸記」で有り乍らも上記の様に、「青木氏の歴史観」を説明する事に関わる事が多くあり、この「予備知識」を前提に更に論を展開する。

    さてそうすると、この「新撰姓氏禄」に、「敏達天皇の一族春日真人族の四世族」としては位置づけされてはいるが、別に、天皇家に継ぐ「四六の概念」を保持していた「志紀真人族」として記載を避けたとしても、「志紀真人族」であるとする以上は否が応でもこれでは「青木氏族や佐々木氏族」が採っていた”「四六の概念」”にも、絶対に「四」をその侭にしても論理的には「六の入り」を変えざるを得ない事が判る。

    それにしても、”「六の入り」を変える”と云っても、当然にそれに依って”「四が薄くなる現象」”が必然的に起こる。
    つまり、これに依って「青木氏族や佐々木氏族」としての「存在価値」は、必然的に低下する事に成る。
    何時かは、結果として“「姓族化する」“に相違ない。
    そこで、より長く「姓」を持たない「氏族」を保つ為にも「四」を何とかその侭にして「六の入り」を変えるには、“「入れ方如何」”を変える以外には無いと判断したと成る。

    つまり、これが「青木氏族」の執った「四家制度」等での“「女系族の入れ方」”に成る。
    但し、これにも前段でも論じたが、無限にこの方法が一定に出来た訳ではない事は判る。
    「大化の改新」の様に「上記の改革」を推し進めたとしても、矢張り、何時かはその効果は低下するは必定で、これは止むを得ない事ではある。
    然し、「孝謙天皇期」に観られる様に、”「天皇家の権威の前提」と「純血性」”に拘る以上は、同じ様に矢張りそこには”「限界」”が起こり「時代性」に依って“「変化」”が起こっていた事は明らかである。

    (注釈 「中国の歴史」に観る様に、中国もこの”「変化」”に対して「貞観氏族志」に依って見える様に何とかしょうとして頓挫した。
    この「頓挫の氏族志」を編じたのを学習しての同じく「頓挫の歴史を持つ新撰姓氏禄」である。
    依って、態々、“「新撰」”としたのであって、「青木氏族」等の「四」に拘った「四六の概念」であったとしても「純血性の維持」の結末は、どんなにしてもある「一定の時代経過」に左右されてこの”「限界」”が起こる事を知っていた事にも成る。)

    (注釈 この「二つの書」の「頓挫の原因」は、況してや「氏族」だけでは無く、主に多く成った「姓族だけの禄記」であった。)

    (注釈 その「頓挫の無理の原因」のそれが顕著に出てきたのが、「孝謙天皇期」であって、その”「トバッチリ」”が「自分の出自元」に出た「逃れ得難い因縁」があり、余計に無理にしても「編纂」を試みた事も考えられる一つである。
    然し、何れにしても何時の世もこの種のものは“「利害」”が多く「反対」に見舞われる。
    前段でも論じたが、正式には「淳仁天皇期」から始めたものとされているが、実際は歴史的には以前にもテーブル上には出て何度も「反対」に合い結局は挫折し、この「新撰姓氏禄」も例外では無く何とか編じる迄には至った。
    それだけに「利害に伴う編者の思惑」が出て「酷い逸記」に成り得たと観える。)

    (注釈 筆者は、そもそも、正式な「酒瓶と賜姓の儀式」を受けていない「335の姓族(正しいとして)」を”系統的に網羅する事の事態”がおかしいと観ていて、正式な「賜姓族の氏族」が全体の「15%の48氏」しかない中で、自由に「姓」を名乗っていたものを寄せ集めて編じる事は当然に必然に“「利害の温床」”と成り得ると観る。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅」で、これに従って「自由」であるが故に「自由な姓名」には「制限」が編纂と同時に掛けられたのである。
    「青木氏族や佐々木氏族」などの「賜姓族氏族の慣習仕来り掟に関わる名詞」、勿論に「氏族に似せたもの」等を「姓名」にしては成らないとする歯止めをかけた。
    然し、結局は、彼らは「地名」かのである、或いは、「由緒ある土地の特徴」以外を「姓名」にする以外には無く成ったのである。
    この「慣習仕来り掟の禁令」は三幕府の保護もあって明治3年まで原則護られた。)

    注釈の「新撰姓氏禄」の偏った編纂による”「利害の温床」”の発生に付いては、載せられた「姓の者」には「利」が生まれ、載せられなかった「姓の者」には「利」が著しく損なわれるのは当然の事である。
    況してや、「近畿圏内に限られての事」とした場合、大半の圏外の「有力な姓族」は公的に認められなかった事として「利」が著しく損れる事と成る。
    ところが、例え圏外と云えども、都より赴任している「姓族」、のみならず「賜姓族」や「四世族の真人族」の「守護王の後裔」や果ては官僚の高官の「国司の後裔」も近畿圏よりも多くむしろ多く存在する。
    これらの者には「冠位を持つ上位の者」が多く、且つ、数も近畿圏のそれに比較には成らない。
    そもそも、「地域限定」そのもので編纂する事は当初より無理である事は明々白々である。
    当然に「反対者」も出るは必定である。
    中には、都より赴任していた九州全域を統治していた「賜姓族」で「高位の冠位」を持つ「日本書紀」にも記載される「四世族の大隅王の三代の末裔」等はどうなるのかと云う大問題も生まれる。
    例えば、北九州全域にその後裔を拡げ赴任していた「朝廷官僚族五大氏の伴氏」や「南九州域の官僚高位族の市来氏」はどうなるのかと云う大問題も生じさせている。
    何も「血縁」は、そもそも何も「近畿圏の中」だけで起こる事では無く、遠く九州からも足を運んで血縁する事も頻繁に起こっている。

    (注釈 現に、曾孫である「嵯峨天皇」の祖の「施基皇子」であった「妾の母」は「越の国」から来ているではないか。知らない訳は無い。)

    むしろ、「血縁の事」を考えれば「遠い方」が良い事は判るし、「青木氏族」や「佐々木氏族」でも中部域の「五家五流青木氏」、関東や北九州からの「秀郷一門の青木氏」との血縁も現実に起こっている。
    そもそも、「純血性の弊害」のみならず「四六の概念の保持」に依る「血縁の格式」を確立させるとしても、その「目的の範囲」で編じるのであれば、次ぎの様に成る。

    (1)「正式な酒瓶儀式」を受ける事
    (2)「正式な賜姓儀式」を受ける事
    (3)冠位を持った「氏族と姓族とその後裔」に限るべき事

    以上ではあった。

    これならば、朝廷が認証しているから文句は出ない。
    自らが文句の着けようもない”「四六の掟」”を敷いていたその「三代目の後裔」であるのに、「血縁の弊害」は、そもそもその範囲での事であり、少なくとも「姓族」には大きくは及ばない事でもあり、「編纂の強行判断」はどの様に考えても普通は“「不思議な事」”ではある。

    当初は、前段でも論じた様に、「補完役の秀郷流青木氏族(960年頃)」を始めとして一門からその「源流の元」を得ていたが、「四六の掟」でさえも何時か起こり得る終末期を迎える。
    これを防ぐ為に、江戸初期頃には「氏族」を「氏人」として広範囲に構成する「郷士との繋がり」からも「源流の元」とせざるを得なく成っていたのである。
    つまりは、「四六の概念」の「青木氏族に起こった限界」は、「江戸初期前後」にもあったという事に成る。

    それは前段でも論じたが、「殖産の拡大と云う事の手段」のみならず、「嵯峨期頃」から改善を加えて来た「四六の掟」にも限界に至っていた事にも成っていたのである。

    矢張り、最早、「限界」に至りこの「室町期末期」からはより「源流を拡大する手段」に陥っていたと成る。
    然し、「四六の概念」が崩れそうに成ってはいたが、ここでも頑なに「姓族」までは広げなかった。

    「補完役の秀郷流青木氏族の源流 1」と「青木氏の氏族を構成する郷士の源流 2」に頼る事と成って行った。

    そこで、これが百々の詰りは、この「四六の概念の限界」を知り、“「六の入り」の「入れ方如何」”と成ったのである。

    (注釈 この傾向から考えても、問題の起こった「孝謙天皇期頃」には、「天皇家」と血縁を結べる「純粋な氏族」は、最早、「48氏族」では無く、問題の持つ「新撰姓氏禄」に関わらず本当は既に「数氏」に陥っていた事に成るだろう。)

    (注釈 前段でも論じたが、「青木氏族の光仁天皇(施基皇子の子の白壁王)」の孫の「嵯峨天皇(山部王の子)の新撰姓氏禄」を慌てて未完成のままで世に出すという「編纂の意味」も敢えて云えば一部はここにあった事も否めないと観ている。
    つまり、「奈良期からの四六の概念」を弱めた所謂、「青木氏族の四六の掟」を敷かないまでも、“「姓族」”としては、それなりに「ある程度の格式」を維持する為に「何らかの慣習仕来り掟」を持っていた事は否めない。
    唯、”「四六の概念」”の様な格式張ったものは無かった筈で、有れば、それに拘れば衰退を余儀なくされるは必定で、「間口を広げて身を護る事」は「姓族」であれば「常套手段」として当然の事であって、その為に“「武力の容認」”が認められていた事にも成る。)

    従って、「自由な姓族」にも「社会の血縁の動き」が、「勢力」を獲得すればそれなりに格式化して閉鎖的に成り、「血縁の範囲」が狭まり「弊害」が出始めていた事にも成る。
    これが”「別の意味(武力の容認)」”としても読み取れる。
    然し、「天皇家」の中では無くて、財政的理由を下に各地に散在した「数多くの真人族」を臣籍降下させ「姓化」した事から、「氏族と姓族」にも夫々の社会にある程度の「格式化」が起こったとする論も考えられる。
    現実には「四六の概念」と迄では行かないが起こっていた事は記録でも事実である。
    故に、「賜姓氏族」ではない「ある程度の格式化を持つ族」に対して“「姓族の禄」”として出したとも成るが、この「姓族の禄」に「記載された族」には「記載され得なかった族」との間に差異が生まれ却って「格式化」を招く事にも成ったらしい。

    (注釈 ここで云う「姓族」とは、「官僚に成る為の儀式を受けた姓族(「平安期からの官僚族の姓族)」と、室町期中期から無制限に出自した海部族等に代表される「自由な姓族」とがある。ここでは前者の「三分類される姓族」を云う。)

    (注釈 上記注釈について、唯、「新撰姓氏禄」の「姓族の禄」の「分類の仕方」にも問題があって、「皇別、神別、蕃別」の三つに分類され、且つ、研究書によればその「同門後裔」迄に分けられている。
    「同門、後裔」まで分ける事には、取り分け問題は無いが、そもそも、「皇別」は兎も角も、「神別」は「天孫降臨期」からのものとして何の証拠もない「姓」が多く書かれている。
    「皇別」と「蕃別」には入らず、然し、古くから「高位の官僚族」を形成している組み入れ難い「姓族」を「神別」のここに組み入れたと観られ、これで批判を増幅させたのであろう。
    ここに「本文の無い本禄」に「江戸期の後付け」の「醜い戦術」が起こった事を注釈する。)

    (注釈 そこで、「新撰姓氏禄」に、“何故にそもそも「本文」が無いのか”と云う疑問がここにある。
    普通であれば、「抄記」迄あれば「本文」はあるのが当然であり、「無い」とする処に意味があって、これが江戸期初期の「後付けの根拠を消す目的」があったと観られる。
    筆者は、「本文の消失」は「江戸期初期説」と考えており、「後付け説の所以」と考えている。
    「純仁天皇期」から勧められ「嵯峨天皇期」で兎も角も終止符を打ったが、この三期でも「紛失」や「放棄」や「停止」等のサボタージュがあった事は記録からも明らかではある。
    この研究には、「全体の紛失」はあったとする記載があるが、「本文の消失」迄の事は書かれていない。
    従って、「本文の消失」は江戸期初期と見做される。
    故に、「嵯峨天皇期後の姓族の名」が多く書き込まれた所以なのである。
    後勘で調べれば、”「後付け」”は直ぐに判る筈で、当時の混乱期の中では判らないだろうとする「低意識の余裕」が定着していた事に成る。これは世の常であろう。
    現実に、「ある研究書」では、「姓族の説明」として”室町期の中期の発祥”と態々書いたものもある位で、極めて笑止である。)

    (注釈 因みにこの「説明の族」の二つは、同族で「関ヶ原の戦い」で功を挙げ「近江の土豪」ではあったが、5千石と一万石を与えられて「伊勢長嶋域」に移封された「近江二宮氏の末裔」であったとされる。
    その末裔が江戸期に「伊勢者」と呼ばれある「家紋」を持っている。
    「説明の族」が記載されている事は、明らかに「新撰姓氏禄」のそれは逃れられない「黒印状の所以の仕儀」である事は明白である。
    そもそも、上記した様に「注釈の姓族」には「室町期中期の前後」を境にして、更に「勃興」は二つに分けられる。
    「中期前の最初の姓」は海部氏である事は記録で判っている。
    この「伊勢者」と云われていた姓族も中期後の発祥である。)

    さて、然し、「青木氏族」には「源流 1と2」があったとしても、この依然として「賜姓を受けた真人族の臣籍降下」の「氏族」が、敢えて「源流」を求めずに「四」に拘り、多少、後に「四六の概念」を弱めたとしても「四六の掟」の程度を敷く以上は、「同族血縁の弊害防止」に対する「情報の提供」は矢張り急務であったとも考えられる。
    唯、「本文」が消されている限りはこの情報は無意味であるのだが。

    そもそも、「本文の無い情報」は、「血縁弊害が出る慣習仕来り掟」の中に無く、且つ、後の時代には「自由に出来る姓族」には不要であった筈である。
    故にも、三代以上も偏纂を試みられて「嵯峨期の前後」ではある程度の「本文的な情報」が既に有ったので、反対のある中で「逸記」の多い筈なのに完成を急いだ事も云える。
    それ程に「孝謙天皇期の争い」の混乱期の中で「社会に与えた影響」が大きかった事を物語っているし、「嵯峨天皇」、果ては、「志紀真人族」等に与えた影響は大きかった事を物語る。
    「孝謙天皇」に抗した「外孫族」も詳しくは判らないが、この点に「思想論理の原点」があった可能性がある。

    (注釈 上記した様に光仁天皇期には偏纂する者等がこの編纂した書を隠してしまうと云う事が起こった。)

    「嵯峨天皇期の詔勅」と、”同時期に世に出したという事”は、次ぎの様な事が考えられる。
    「青木氏族」や「佐々木氏族」を始めとして、社会の中、取り分け、「335の皇別族(朝臣族)」と云われる「姓族」の中には、「原因」は別として「唖子を含む血縁の弊害」の様なものがある程度に蔓延していて、「国家的問題」に成っていた可能性があったとも観られる。
    筆者は、それは「四六の概念」以上の慣習を持った「賜姓の氏族」では無く、「純血性の弊害」と迄ででは無く、「血液型の不適合」(遺伝子障害)か「抗うつ性症候群」(同族血縁障害)が蔓延し、これを「血縁弊害と捉えていた事」が考えられる。
    故に、「氏族志」と違い「氏族」では無く「姓族」のそれとしたと考えると間尺が一致する。

    (注釈 一部には縄文期に入って来た「結核菌」が蔓延し、これが集団で患う事から「血縁障害」とも捉えられていた事が判っている。
    「研究」に依って「骨の状況」から判明していて、この状況は平安期頃迄続き「血縁障害」と捉えられていた事が判っている。
    その後、貿易で中国から入った「漢方薬の薬湯」で治る事が解り、「血縁障害」では無い事が認識された事が解っている。
    つまり、この様に「結核菌説」もあり考えられる。)

    (注釈 そもそも「上記の注釈」のその根拠としては、現在、「日本の姓」は「8000前後」とも云われるが、「嵯峨期の近畿圏の姓数」は「新撰姓氏禄」の総計を前提で「約1200」だとすると、全国域で観れば五地域圏ではこの5倍はあったと観られ、凡そ、「6000の姓数」に成る。
    然し、江戸期の「武士階級の姓」を持つ人口は、全人口の1割以下であったので、「8000の姓数」に対して「800程度」と見込まれる。
    「江戸期の800の姓数」と「嵯峨期の6000の姓数」には差があり違い過ぎる。
    江戸初期には「姓名」を持たない「農民等」から「武士」に成った者が多くを占め、且つ、合わせて「明治維新の苗字令」で9割以上の者が一挙に「姓名の苗字」を持った。
    そして、この「二つの経緯」を経て「8000の姓数」と成ったのであり、嵯峨期までの「自然増」だで近畿圏だけで「1200の姓数」は違い過ぎて論理性が逆転している。
    この崩せない前提条件の事から考察すると、明らかに「嵯峨期の姓数」は「1200程度」では無かった筈で極めて多すぎる。
    これは「後付けの証拠」である
    「時代の経年変化」として、「嵯峨期から江戸期」までの「約400年間」からも考えても、「バイアスを持つ自然増」としてこれを「1/4」としても、「300程度の姓数」と観る事が妥当であろう。
    そうすると、「嵯峨期」では「全国の姓数は1500の姓数」と成り得て、論理性が出て来る。)

    (注釈 上記の注釈から、そうすると「300程度の姓数」での「血縁」には「限界」が生まれ、その「姓族」の「周囲の血縁出来る姓数」は、どう考えても限られて「30程度以下の範囲」と成り得るだろう。
    この「30の姓数」に対して血縁を何度も繰り返す事は不可能であり、「純血性の弊害」に含まれない上記した「軽度の遺伝子レベル」の「血液型の不適合」か「抗うつ性症候群」かが起こるし、更に、当時は平均寿命から観て平均年齢から8−15歳が「女性の血縁の適正年齢」で、現在は30歳−35歳でこれを超えると、「卵子は老化する事」は医学的に証明されている。
    この「血縁年齢の低下」による「老化卵子に依る弊害(唖子・水頭症)」等の弊害が蔓延していた事にも成り得る。
    現在でも依然として起こっていて社会的問題となっている事からも、当時としては尚更に「姓族」にとっては「逃れ得ない弊害」であった事に成る。
    この「三つの弊害」は現在でも起こっていて、これを「血縁の弊害」として捉えられていた事に成る。)


    再び、嵯峨期前の施基皇子期に敷かれた「氏族の四六の掟」以外の問題、つまり、「血縁の弊害」を克服する「氏族の四六の掟」(四掟基準)の施行、そして、同時期に「姓族に対する姓禄の偏纂」の喚起の二つがあった。

    然し、その上記の「注釈の前」に戻って、これは“「氏族の四六の掟」”の維持する元と成る「賜姓五役の務め」としては、これを“「四掟の格式」”を前提としている為に、つまり、“氏族の何処からでも良い”、況してや、“「姓禄に記する姓族」の何処からでも良い”と云う事では無く成る。

    そこで、「氏族」にはどうしてもこの「歯止め(「四六の古式の概念」から求めた四掟・基準)」が必要に成る。
    その「氏族の歯止め」として、無暗に「姓禄に記する姓族」までに陥らない様にしながらも、厳しい「純血性の掟」を緩めて、例えば「位階」で云えば、「永代の従四位までの家筋」の範囲の血筋とした。
    つまりは、「四掟の運用」を見直した事に成るだろう。
    この「永代の従四位までの家筋の範囲」とは、記録から観てみると、多くは「四世族内か五世族の範囲」に留まり、ある程度の範囲で”「四掟の原理」”が成立している。

    (注釈 「姓族」は、上記の「新撰姓氏禄」で「抄記や逸記」でありながらも、この範囲の中にある「姓の朝臣族」と云われる族を根拠として何とか無理にでもこの為に公表した。これは前段でも論じた)

    前段でも論じたが、古い「帝紀や諸事紀」に観る様に、「朝廷の規則」にもその範囲を定めてある限り、その範囲を最低限に逸脱しなければ良い事に成る。
    それは、「永代の従四位までの家筋」の範囲の「血縁の掟」は、「公家族」と「武家族」も「四家制度と家人制度」に「近い制度」を少なくとも敷いている訳であるから、多少の「同族血縁の弊害」を持ち込まれる可能性はあるにしても、「性」による役務上からの“「男系」“では無く、これは上記した様に「女系の理」、況や、“「人の理」が根本として成り得ている“と云う理屈が「青木氏族や佐々木氏族」にはあった事に成り得る。

    つまり、ところが「佐々木氏族」は、この「四六の概念の維持」は、鎌倉期前頃には崩れ始め、全国に「佐々木氏族」の「氏族の中」に“「四六の掟」や「四掟の掟」”を緩めて「勢力保持」の為に「主従関係」を確立して「姓族」を作らせた。
    然し、ところが「青木氏族」では、この為に「女系」を重視した「孫域までの娘」を「子の域部」として“「子の選択」”の範囲を広げる事の方法を選択したのである。
    ここに違いが出た。
    この「佐々木氏族」を外し「青木氏族」に「白羽の矢」を立てたのは、この「違いの差」を「孝謙天皇」は着目したのである。

    (注釈 つまり、頑として「姓」を発祥させなかった。「佐々木氏」とは、この段階で生き延び方、況や、「四六の掟の維持」が異なってしまった。
    「佐々木氏が編纂した研究書」にもこの種の事が書き込まれている。
    その原因と成ったのは、「補完役」としての「秀郷流青木氏」と同様に、「佐々木氏族」にも「補完役」の「宇多源氏の佐々木氏の発祥」があった。
    この「補完役の宇多流佐々木氏族」が「四六の概念」を無視して「佐々木氏系姓」を各地に広げた。
    では、唯、「補完役の秀郷流青木氏から出自した姓」と、同じ「補完役の佐々木氏系姓」との違いは、前者には、この「姓」を“「現地孫(傍系卑属)」”として位置づけして、形式上は「氏族内」として認めなかった事にあった。
    然し、後者は、「勢力保持」を前提としていた為に「氏族内の勢力」として取り込み認めたところにあった。
    何れの方法も方法は違えども「生き残り」には効果は認められた。)

    然し、改めていう事には成るが、「賜姓臣下族の青木氏族」には「氏人と云う慣習」が認められていて、「四六の概念」を敷く以上は、次第に「男系が薄れる事」に成り、この「男系の氏人」は薄れる事にも成る。
    従って、これを補完して「女系」で繋がるものとしているのであるのだが、但し、だからと云ってこの「女系」の「子の範囲」を広げた事だけでは「本当の解決策」とはならない事は必然である。

    それの「解決策」には、”「子としての扱い」”にあって、無制限のものでは無かった。
    「第四世族(一説では「第三世族」と書いているものもある)」までの「孫域(2)」までの「子」を一か所に集め、現在の保育園の様に“「共同養育」と「共同教育」と「共同教養」”を施し、「四家制度の範囲」に従って行ったのである。
    つまり、制度的(慣習仕来り掟)に「青木氏族」から逸脱しない範囲の「女系」を確立させていた事らしい。
    無暗に「女系概念」を拡げていたのではなかった様である。

    この「共同と云う範囲」がよく判らないが、資料の各所から読み取れる事として、毎日、親元に返すのではなく「専門の教育と養育掛かり」を置いて「福家管理」の下で「共同生活(菩提寺と分寺の二か所に男女の設備が設けられていた)」を敷いていた事らしい。
    現在の「寮生活の学校とホームステイ」を組み合わせた様な形式であったらしい。
    但し、注釈として、記録によると、「子供の数」が少ない一時期があって、「玄孫(3)」までとしている事がある。
    この方法で「女系に依る四六の掟」を維持していたのである。

    注釈として、前段でも何度も論じている事ではあるが、改め理解する上で記する事として、そもそも、「青木氏族」は、「分家支流族制度」を採らない「賜姓族臣下族としての掟」がある事から、「直系族の女系」に限っては、最大で「直系7親等」までの「子の範囲」を云う事としていた様である。
    これを「四家制度」に依って、現実には「第四世族内」に留めていたらしい。
    これを「福家の世代交代期」に依って、「直系族」と云われる「主家」の「7の孫(じゃくそん)」が連れて変わって行く事に成る。
    [世代交代」と云っても、「四家の範囲」の中で、次ぎの「四家の中の長」が「福家」と成る仕組みである事から、「福家の嫡嗣」が引き継ぐのではなく「世」に依る「世代交代」は激しくは起こらない仕組みである。
    従って、「四六の概念」の「四」に大きく関わる「福家の嫡嗣の世継ぎ」では無く、普通はせいぜい25年か30年程度と成るが、「四家の範囲」の中で「福家」を「長」で引き継ぐ方式では、「世代交代」は、少なくとも「100年」は見込める事に成る。
    これに”「四掟で補う仕組み」”で「四を補う事」であるとするならば、”「世継ぎ」”という事では”「急激な変化を起こさない仕組み」”と成る。

    然し、「姓制」を採らない以上は、これは実質上は「女系性」の強い「直系の青木氏族の青木氏」である。

    (参考 因みに、「上記の注釈」の解りやすい例として「直近の福家の継承」は、「伊勢青木氏]の紙問屋を主体とする明治期(970年間)以上続いた「総合商社の伊勢屋」では、この「福家の長に依る仕組み」は筆者の祖父の代まで引き継がれて来た。
    例えば、次の様に成っている。
    曾祖父の兄−曾祖父−曾祖父の弟−・祖父の兄−同祖次男−同祖三男−・祖父−同祖次男−同祖三男=明治35年 これから観ると長寿系であった事から(・)と(・)の間隔は「約100年程度の間隔」で「世代交代」と成っている。
    現在もこの「紙屋問屋の伊勢屋」は二か所で継承されている。
    多少の他と違う「伝統」は残すも「四家制度」などは最早敷いていない。)

    即ち、「六の入り」の子は次ぎの通りである。
    1 子、
    2 孫・
    3 曽孫(ひまご)
    4 玄孫(やしゃご)
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    (注釈追記 以上、上記で「玄孫」までとしていたが、「過去の筆者の研究記録」をもう一度詳しく見直したところでは、「時代性の状況」に応じて、「孫>曾孫>玄孫」をその「女子の範囲」として”「六の入り」”は運用したらしい事が「氏人の遺手紙の記録」からも読み取れる。
    それ以降の「来孫>昆孫>じゃく孫」の「女子の範囲」は何か”「特別性」”があったとも考えられる。
    「尾鷲の遺手紙」に「7のじゃく孫」が記されている関係から、当時としてはここまでが「青木氏と氏人の女系に依る関係」が「一族の範囲」として確認し認識できていた事を示すものであろう。
    現実には、「玄孫」までは筆者の代でも充分に知り得ていたし、普通の「言葉の使用」としても確認できていた。
    従って、「村の組織構成」との「繋がり」や、前段で「論じた「部の差配頭」の関係から「来孫>昆孫>じゃく孫」の「来孫」までは普通扱いで、「しゃく孫」までが最大で特別であったろう事が伺える。)


    ここまでを「賜姓族臣下族の掟」としてでは、“「直系族」(女系の「六の入り」)”と定めとしてこの範囲までとしている。
    後は、「傍系族」に成る。

    従って、そもそも、「青木氏族」の「傍系族」としては、次ぎの「三つの属の範囲」に成るとしている。
    「傍系尊属」
    「傍系卑属」
    「傍系同代」

    以上の範囲に限定して「青木氏族」としない様にして定めている。

    (注釈 「近江佐々木氏」は限定は出来ないが、この「範囲の限定」を無制限に近い状態で緩めていたと観られる。
    これを「孝謙天皇」は嫌ったと観るか、将又、これに関連する「四家制度」か「四掟」を緩めてしまったかとも観られる。)

    これで極力、”「属の範囲」”を限定し、”「四六の概念」の[保持拡散(概念を緩くする事)」”を防ぎ、且つ、それによって興る「姓発祥」を食い止めていた事が解る。
    最後までその「四六の概念」を保持していた「青木氏族」、取り分け、明治維新頃(・明治35年)までその連携を続けた「伊勢と信濃の青木氏族」には厳格なものがあった事が伺える。
    「補完役の青木氏族」には、その立場上から「四六の概念の考え方」を変えて維持されていた事が「近江佐々木氏の研究書」からも読み取れる。
    これは「当然の事」と考えられ、「両青木氏」のものが「完全一致」とはならないだろうが、伊勢の秀郷流青木氏は「四日市殿」を発祥させている事から見ても相当に近い「四六の概念」を保持していた事が判る。


    然し、「賜姓臣下族の志紀真人族」としての「重要な掟」として、この「傍系族」等は鎌倉期までは少なくとも原則としては「青木氏族の内」として認めていなかった事が判る。
    所謂、「外孫扱い」であったらしい。
    この「鎌倉期までの外孫族」に付いては、調査したが全く判明しない。
    本来は「系譜や添書」に記載されている筈なのだが、又、せめて「女墓」に刻まれているかさえも判別し得ない。
    これは、「姓化の緩み」のものとして「傍系族」に対して「徹底していた姿勢」とも考えられる。

    これについて、強いて云えば、判った範囲で、前段でも論じたが、「宮崎の廻村」と「鹿児島の大口村」の「廻氏の血筋」を持つ「青木氏」が唯一それに当たるだろう。
    この「廻氏系青木氏」の「傍系の青木氏」は、「姓族」には成っているが、江戸期には「黒田藩の専属の傭兵」として山や海にその「最大勢力」を拡大させている。
    時期は明確ではないが、記録の中に垣間見られる範囲としては、何れか確定は出来ないが、「鎌倉末期頃」、又は、「室町期末期頃」から「丸に笹竜胆(本家筋)」を”家紋”としていたらしい事が判る。

    (注釈 唯、筆者はこの判断には、この時、その「薩摩山岳族」と「日向灘の海洋族」として勢力を拡大していた室町期末期から江戸初期前後頃に「黒田藩の専属傭兵」と成った事から、又、確たるルーツを語る家紋を必要と成った事から、その出自経緯から「丸付き紋の笹竜胆」を使用したとする説が納得できる。(イの説)
    調査では、それまでは「五七の桐紋(黒田藩より授受)」を使用していた事が判っている。
    黒田藩はその彼らの功労により「秀吉」よりこの「家紋の使用」を許されたが、更に黒田藩はこの「専属傭兵の青木氏族」にこの「五七の桐紋」の使用を許したらしい事が判っている。
    然し、江戸期初期に成って「黒印状獲得」の為には流石に「秀吉」の「五七の桐紋」は憚って使えず、その出自元と成る「廻氏の血筋」を引く「清和摂津源氏族の笹竜胆紋(上記)」に傍系として「丸付き紋」を着けて「家紋届」を出した事に成るだろう。
    或いは、平家により配流された「源宗綱」と兄弟であった「伊勢青木氏の京綱の所縁」を以って「大口村の浄土宗寺住職(寺名は秘匿する)の勧め」で「青木氏」を名乗ったとする記録もあり、この事から宗家筋が「丸付き笹竜胆紋」を使った事も考えられる。(ロの説)
    家紋が刻まれている墓所を観ると、両方の墓の家紋があり、凡そその違いは宗家筋とそうでない筋に分類される様でもある。
    この事から筆者は、記録のある「後者の説(ロの説)」を採っている。先ず間違いは無いだろう。
    何故ならば、「大口村の浄土宗寺(生き残り主従5人)」に逃げ込んだが、間近に「平家の追手」が迫り、緊迫した中で”「名乗り」”として(イ)の説(「嵯峨期の詔勅の青木氏」)を採れば、恐らくは何の所縁の無い「源氏族」としては遠慮会釈なく討ちとられていただろう。
    然し、「伊勢青木氏」では、「松阪の隣の伊賀との付き合い」や、「光仁天皇の妃の高野新笠」は「伊賀の平家の里の祖」でもあり、「宗綱の助命嘆願」の親元であり、「伊勢青木氏の所縁の者」とも成れば先ず討つ事は出来ないであろう。)

    (注釈 「伊勢青木氏」では、遠い薩摩や宮崎の事でもあり、且つ、「伊勢青木氏」が「直接」に使用、又は「許可」を認めたものでない限りは、「記録」のある限りは事実として「丸付き紋家紋」を逸視していたと考えられる。
    「丸付き紋の笹竜胆紋」の記録に残る「確定できる姓」はこの「日向と薩摩出身の廻氏系青木氏」だけと観ている。
    筆者は、むしろ「青木氏族」を物語る「確たる物証」のある「所縁のある姓」を敢えて「不問の姿勢」を示し遺そうとしたと観ている。)

    注釈として、「近江佐々木氏系の青木氏族」の段でも、その様に定義され”「青木氏族」”として認めて論じている。
    と云う事は、同じ「青木氏族」も然る事ながら、「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏の直系族」もその範囲のものとして考えていただろうことが判る。
    故に「佐々木氏族」も自らの研究記録の中にこの「日向青木氏の歴史」を態々記載している事の「裏の意」は、その「四六の掟」を頑なにある程度までは採っていた事を意味すると観ている。




    >「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」に続く。
    >「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


      [No.358] Re:「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/12/18(Mon) 16:06:22  

    > 「伝統シリーズ−38」の末尾

    「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城−名張−伊賀−射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

    筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

    これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
    元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
    全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。


    > 「伝統シリーズ 39」に続く


    「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」

    前段の「射和の殖産」の論に加えて、ここでもう一つの「青木氏の歴史観」を作り上げる重要な事があった。
    それは「射和の殖産」をリードする為の「青木氏(A)」の「盤石な体制」にあった。
    これ無くしては「射和の殖産」は成し得なかったと観ている。
    それは、単なる「氏存続」の事だけでは済まされ得ない「青木氏(A)の体制造り」にあった。

    前段でも論じたが、「青木氏(A)」には「四家制度」と「家人制度」や「四掟制度」以外にも、この定義を護る為には、“「同族血縁の弊害」”を起こさせないもう一つの課題の制度が必要であった。
    これが無いと「大きな殖産」と云う「世の繋がり」と密接したものを維持する有能な架体を持っていなければ成し得ない。
    その大きくて堅固な架体の体制を維持させる制度が「青木氏(A)」の中にあった。
    それは上記の“「妻嫁制度」”、つまりは「女系族の制度」であった。

    そもそも現在の「一夫一妻」とは、「人の目的」を達成させられる「社会性や時代性」が異なることから、この制度では一概に「善悪の評価」は難しい。
    前段でも論じたが、これは余り触れられていない、或は、触れない“「影の制度」”と云える制度であった。
    当時としては、現在感覚では矛盾する様に考えられるが、一般的に経済的に成り立てば、「人」、つまり、“「女系」を重視する「通常の概念」”であった。
    これは現在では否定されている一種の「一夫多妻」に類似するからであろう。

    そこで、先に論じておくが、この「現在の人類学」では、「一夫多妻」の「悪の原因」は現在医学で解明されている。
    それに付いて理解度を深める為に念の為に少しこの事に先に触れて置く。

    そもそも、原始の時代に於いて「人の類」は「類」を増やす為に「四回の変態」を起こしたが、それは他の類からの「捕食に耐える事」の為にあって、遂には「雌の類」で増やしていた変態方法を「雌」から分離させた「雄」という「補完の役」として「人の類」を造り上げて「子孫を増やす方法」の確立に成功した。
    そして「雌」と云う「人の類」を「雌」を主体として「雄」を造り上げて継承(遺伝)する事に成った。
    つまり、それまで取っていた変態形式の「雌」の子(娘)の「雌の遺伝継承」と、新しく「雌」の「雄」(息子)の子(娘)の持つ「雌の遺伝継承」の二つで「雌」の「人の類」の子孫確立を高めた。
    このプロセスが、他の類からの「捕食」から子孫を増やせないと云う「第一の危機回避策」であった。
    これはとりあえず成功した。

    (注釈 「人の類に関する遺伝継承」は「雌」に依ってのみ継承される。)

    ところが、「第二の危機」に襲われた。
    「人類の初期」、つまり、四千年前の中国の「華国の創建」の由来、況や、“国と云う概念の創設期”では、「善悪の概念」は別として、この「集団」を形成する為に必要としたのは、「第一の危機」の回避策が進みより子孫を遺そうとして採ったのが「雄」を起点にして「一夫多妻の原理」であった。
    この「一夫多妻の原理」に従っていた事から「多妻に依る集団化」が起こり、その互いの集団に「指導者の王」(絶対的指導者)を定め、「国と云う概念の集団」が初めて出来た。
    これが人類史上初の国の所謂、中国の“「華国」”であった。
    この時、「一夫多妻の原理」で生まれた初の国の「華国」は、夫々の妻の子供の集団化が幾つか集まり、その中での「指導力のある者」が「国家の王」として祀り上げて、「初の国家規則」を作り上げた。
    それは、「臣下制度」と云うもので、これを「初の国家規則」として「儀式化したもの」は“「瓶杯」”であった。
    「瓶」と云う入れ物に「酒」を入れて、それを「家臣と成る者」に「瓶皿」に注ぎ「家臣と成る者」が飲み干すと云う儀式化であった。
    これで「初の国家体制」を造り上げた「華国」は、「血縁のある絶対的な絆」が成立させて行った。
    これが最初の「国家の規則」であり、最初の「国家儀式」であった。

    この「国家形式の儀式」は、世界の人の類に依って異なるのだが、我が国に限定し論じるとすると次の様に成る。
    日本では、最初に、この「儀式化」で出来た「国家形態」は、摂津湾に入った「渡来人の応仁王(蘇我説)」で、関西域を制圧し、「地域の五豪族」(紀族、巨勢族、葛城族、物部族、)を先ずは血縁で結び、上記したこの「儀式化」で「家臣化」して「応仁王」から「応仁大王」による「初の正式な国家」、況や「飛鳥王朝」が出来た。

    これは、経済的とか精力的とかは無関係の“「子孫を増やす」”と云う「単純な人間の原理」からの発意であった。
    如何なる世であっても、補完役の「雄」が多くても「妻」(人の基礎の雌)が少なければ、尚更、危険の多い原始の自然界では子孫は増えない。
    「道義的な感覚」よりこの「集団」を維持する為には、“「子孫」を増やす“と云う命題の方が優先され、その事からの「国家形式」を保つ上でも「一夫多妻の原理」の方が良しとしてこれに従っていたのである。
    「雄」が補完役である以上は、「人の類」の「論理的呼称」とすれば、「多妻一夫の原理」が正しいだろう。
    何故、この様に逆転したかは別の論として、当然に、「国家」を形成する「臣下の族」も同様の形式に従っていた。

    ところが、この「仕組み」(「一夫多妻の原理」)に依って「子孫」は確かに増え多くの「集団」(初期の国形態)が形成されたが、ここで別の“ある思わぬ出来事”が起こった。
    そして、その“ある思わぬ出来事”で、「人類」には「捕食」とは新たな別の危機が起こり、“「滅亡に近い事」“が起こったのである。
    各大陸全体にこれが蔓延し地球規模で起こって仕舞った。

    そこで「人間」(人の類)は、再び色々な「子孫拡大の仕組みの模索」を試みたが、駄目であった。
    この“ある思わぬ出来事”とは、それは何と“「菌」”であった。
    それは「補完役の雄」を出す事に依り起こった危機であった。
    「雄」を造り上げる事に依って、造り上げた生殖の「繁殖の仕組み」に原因があった。
    「雄雌」に依る「人類の生殖反応」に依って、この「菌」が「菌」に依る「性病」を蔓延させ「良い子孫」を遺す事のみならず、「子孫拡大」どころか「滅亡の方向」に動いた。

    この滅亡過程で、この時、次ぎの「二つの事」が起こった。

    一つは、「無制限な生殖」に依る「菌の繁殖拡大」である。
    二つは、「同族間血縁の弊害」であった。

    然し、この時、「人類」は、この「二つの事」が、これは「生殖反応」に依るものとは到底解っていなかった。
    ”「神の成せる技」”としか考えなかった。

    先ず一つの「菌の繁殖拡大」では、「人類」が住むジャングルに存在するこの「菌」は「人の類」にのみに影響した。
    ところが、そこで「人の類」は、これを「場所的な原因」として観て、世界的に大きく大陸移動を開始した。
    そこでも、一時、「人類の子孫」は拡大を再び興すが、再びこの「菌」が拡がり、移動先でも滅亡する事も起こった。

    ところが、この「人の類」の中でもある大陸に移動して進化させて「知恵」を発達させた「新たな人類」が生まれ、この「菌の発生原因」が「人」に依るものだと云う事を考え着いた。
    そこで、”「神の成せる技」”として「知恵の進化」に依って生まれた「原始の神の宗教的概念」を興して、これに基づいて「戒律」を造り、この「戒律」を利用して「一夫多妻」を禁じたところ、この「新たな人の類」は滅亡から徐々に増大へと進んだのである。
    この「菌」が「生殖の行為」に依って爆発的に蔓延する事を知ったのである。

    このある「人の類の種」は、「原始の宗教的概念」に依っては、次ぎの様な行為を採った。

    A 「一夫多妻」を止めた地域、
    B 「女系家族制」を採用した地域、
    C 場所を決めて「集団生殖行為制」を採用した地域、
    D 村で管理する「通夫制度」を採用した地域

    以上の様な工夫をした。

    どれも「効果」は認められて「菌に依る弊害」の危機は無く成り「子孫拡大」へと繋がった。
    これらの制度に「共通する点」は、次ぎの事であった。

    “「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”であった。

    以上の二つであった事を人類は初めて知ったと云う事である。

    「国家の集団化」と「原始の宗教的概念」とを合わせて「管理する事」で、「菌」を強制的に除く事が出来て、且つ、「保菌者」を排除できる事となった。

    元の「女系にする事」で、「菌」を排除できると同時に「生まれる子供の保菌者」の「排除と奇形」とを除く事が出来た。
    「奇形」は「人の類」を危機に追いやる事から逃れ得た。

    「無菌の女系」で纏まれば「人の類」は爆発的に拡大できる事となった。

    後は、この「二つの管理」、つまり“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”によって「男子の保菌者」を排除出来ればこの「菌」に打ち勝てる事を知ったのである。

    結局は、「女系にする事」で「人の類の危機」から逃れられる事を知った事から、ここで「神は雌として崇める原始の宗教概念」が生まれたのである。

    ところが、ここで、中には、次ぎの様な制度を採った「国」と云う形式には至らない「集団」があった。
    それは、「男子を集団で生活させる事」で、次ぎの方法を採った集団があった。

    「女系家族制」
    「集団生殖行為制」
    「通夫制度」

    以上の「三つの制度」を同時に敷いた地域も起こった。
    これは、“神は雌として崇める原始の宗教概念”を徹底した事からのもので、「局部の地域(ジャングル居城地域・発生地)」に不思議に終わった。
    恐らくは、この制度では大きく集団化が起こらず、「奇形による危機」が起こり、「国」にまで発展せず「混血に依る知恵の進化」は起こらず、「人の類」は「劣化」を興し「村レベル」で終わる結果と成ったのであろう。

    少し進んで「島国の日本列島」に於いてもこの上記の「二つの危険性」(菌と奇形)はあった。
    海を渡る「移動浮遊族」に依って持ち込まれる「菌に依る問題」もあって、況して、「7つの民族の融合民族」であった事から、島国でありながらも「持ち込まれる」と云う事が起こった。
    (注釈 菌には、主に「梅毒と結核菌」の二つがあって「遺跡の骨」からその証拠が発見されている。)
    つまり、未だこの頃は「同一融合民族」で無くその過程であった事から、「女系家族制」「集団生殖行為制」「通夫制度」の「三つの制度」は採れてはおらず、結局は、「村単位で管理を強化する」と云う事で徹底的な隔離を含む「排除主義」を採っていた。

    ところが、少し進んで「飛鳥期の前期頃」からは、融合しながらこれ、即ち、「村単位の排除主義」(集団も含む)で「国と云う概念」が生まれながらも「純血性」とか「子孫を増やす」とか云う宿命を持った「力のある融合族」は出来なく成っていた。


    「人の類」の初期の頃には、次ぎの滅亡の危機があった。
    イ 「捕食に耐えうる事」
    ロ 「菌に耐えうる事」
    ハ 「奇形に耐える事」

    以上に耐え得た「人の類」は、「子孫」を増やし、「属」が出来、そして遂には、その「属」で上記の通り「国」と云うものを形成した。
    この「国」と云うものを護る為には、その中で今度は国を構成する「属」では困難と成り、更に細分化して、「族」を形成させて「国の形態の正当性(血縁性)」を護る為に生まれた。

    「真人族」とそれを「補完する臣下族と成った賜姓族」の二つで「特別な慣習仕来り掟」を創造して定め、「国の正当性」を護った事に成る。

    然し、ここで、「国家」と成った事に依っての「国」の「王(後に天皇の呼称に成る。)の権威」を保つ意味から「高い純潔性」を求め継承しようとする形態が生まれた。
    これが、「飛鳥王権」「飛鳥王朝」「奈良王朝」と変化し、遂には「奈良朝廷」に成り、「八色の姓」や「冠位十二階制度」(後に天武天皇が四十八階にする)等を定めて「継承族の立場と役目」とその「慣習仕来り掟」等について定めてその「権威性」を確立させた。
    然し、この時は「ロとハのリスク」は未だ充分には解決には至っていなかった。

    そこで、ロ 「菌に耐えうる事」と、ハ 「奇形に耐える事」に付いて「国レベル」で「見直し」が行われた。

    「ロとハのリスク」の面から観ると、次ぎの様に成る。

    「ロのリスク」は、「属」では出来ない事から「族」の中で、「生殖の範囲」を限定して、「族」を細分化して制度化してブロック化したのである。
    然し、これには「ハのリスク」が伴う。
    「ハのリスク」は、「ロのリスク」に依って生まれる「ハのリスク」を「排除主義」を取り入れて制度化して、況や「廃嫡制度」を敷いた。

    これを制度化した事で、「人の善悪を越えた思考」が生まれ、リスクに対する「ブロック制度」と「排除制度」は正統化させてその事に依って徹底した。
    この事が資料からも判っている。

    その根拠は「国と云う概念」の下にあった。
    この「国と云う概念」を護る「上位の族」に執っては大きく課せられた「ブロック制度」と「排除制度」は「族の宿命」と成った。
    これが、飛鳥期の「国の成立過程」を経て奈良期から敷かれた「確定した国の制度」(骨格)であった。

    「聖徳太子」が採った制度は、「政治の構成」と離れて、「族で構成する国」が起こす「ロとハのリスク」と云う別の面からのもので、その面から観た検証の結果であったと云える。
    つまり、「冠位十二階制度」は「属」を超えたその「族の縛り」であると観える。
    その意味で飛鳥期では、未だ「属」による「ロとハのリスク」を持つ「不完全な国の構成」とも云えるのだ。

    この「幾つかの制度」を更に見直した事に依って「初めての国家」と見做されたもので、それが「大化改新」であろう。
    その「大化期の終息期」(647年)に生まれたのが、所謂、我等の「青木氏族」であるが、それなりにこの「ロとハのリスク」の期に所以があるのである。

    従って「初めての国家」の期に出自した「国家の族」を構成する「賜姓臣下族で朝臣族」の「血筋と云う視点」では見逃す事の出来ない論点であるのだ。

    故に、そもそも前段より論じている様に、「冠位十二階制」から始まった「冠位十八階制度」と「八色姓制度」であり、この時に生まれたのが「真人族」から離れ「朝臣族」の「賜姓臣下族の五家五流青木氏」であり、同じく「近江佐々木氏」であった事に成る。

    論理的に場合に依っては、「天皇家」を始めとして「青木氏族等」の「王族の朝臣族」の様に「ロとハのリスクの侵入」を周囲に「壁」を張って「血筋を中に閉じ込める政策」では無く、むしろ外に放出して「ロのリスク」は兎も角も「ハのリスク」をも無くすものとして観れば、「第七世族」である「坂東八平氏」も「ロとハのリスク」を大きく開放した制度であった事も云える。
    「ハのリスク」はこの「壁」が無い為に「新しい血筋」が入るが、反面では「ロのリスク」は、「第七世族に任す事」に成り得る。

    從って、その意味では「青木氏族や佐々木氏族等の第四世族」は、「ロとハのリスク」を責任を以って「リスクの壁」を「制度や慣習仕来り掟」と云うもので造り護ったという事に成り得る。
    つまりは、見方を「人の類と云う視点」に変えれば、これが「両氏族に課せられた賜姓五役」であった事にも成る。

    然れども、「天皇家」は、「ロとハのリスク」は、あまりの「純潔性」を「権威を保つ手段」に特化したが、これを「国家」と云う事に使った事で、「ロのリスク」は防げたとしても「ハのリスク」が逆に大きく成った。
    そして、この「ハのリスク」を何とか除く為に止む無く「廃嫡制度」を「系譜に載らない形」で密かに採らざるを得なくなったのである。

    (注釈 この「廃嫡制度」では、「ロとハのリスク」の記録上では、多くは「出自不祥」等と云う形でも処理されている。)

    従って、この「天皇家の廃嫡」が進むと、これを緊急時に補完する為に、この両者(「青木氏族」と「近江佐々木氏族」)には「朝臣族」でありながらも、「最低限に準継承族」としての「条件」が求められていた事に成る。
    この「準継承族」は、「最悪の場合の事に対処する族」と成るのだが、これも原則的には「令外官」と「皇親族」の時までの事で、「形式上の族」に成り得ていたのである。(嵯峨期には正式に外れた)
    この「条件」が、「ロとハのリスク」を持たない族として、最低限に於いて「賜姓五役の役目」を維持する「男系嗣子」に限られた「純潔性の保持」であった。

    さて、ところが、これが思いの他で問題を起こしたのである。
    そして、それが、当時では理解できない思いがけないところに起こった。
    これが「三つ目」に起こった「存亡の危機の事」には成った。

    これが大和に出来た「初の国家形態」を揺るがす “「ハの遺伝障害の事」”であった。
    つまり、突然に表れる「純潔性の悪弊」(同族血縁に依る弊害)であった。
    当時では、この原因が殆ど理解されていなかった。

    「天皇家族の系譜の記録」を読み解くと、この時(改新後)は、飛鳥初期頃に比べて既にこの「遺伝障害の事」の原因は、“「神の成せる業」”として理解されある程度に認識されていた様である。
    その証拠が、「伝統の論」の前段でも論じた様に、「嗣子」だけであれば数的に「后妃嬪の妻」の「制度の範囲」でも「継承」は成立する。

    これに対して、態々、“「妾」”が組み入れられている事が、「政治的な事」のみならず間違いなくそれに当たるだろう。

    ここで、“「神の成せる業」”としての認識が、この“「妾を組み入れる事」”にどう繋がり、“何故に「神」に関わる事に成るのか”と云う疑問がある。
    それは、“「純潔族(四世族)」”の中に持ち込まれた「人の悪行」が、“「因果」”として「神が指し示す行為」と見做され、「神殿」に於いて「御払い」をする事のみならず、現実的にこの「因果」を「薄める行為」として持ち込まれた「神義」に近いものであった。
    故に必ず、「后妃嬪の妻」の正式な制度に「妾」を加えて大化期からは「后妃嬪妾の妻」とする制度としたのである。
    「后妃嬪妾の妻」は、正式に「身分制度」にも用いられたが、その「皇位継承者」はこの順に従うものとして、「后妃嬪の妻」までに「継承者」がある場合は、「皇子族」から外れ「賜姓臣下族」として「天皇」の「近衛族役や皇親族役」を新設して「下俗する事」になったものである。

    これが「前段までの論調」であり、これには上記する「血筋に関わるリスク」と云う視点からの「国家形成過程」に関わる経緯があった。
    つまり、「青木氏族」は、当にこの「国家形成期の出自」に当たり、必然的に「氏族の意思」に拘わらずこの「ロとハのリスク」を持ち込んだ事に成るである。

    そもそも、「青木氏族」は、当にその「神の成せる業」の「因果の解消策」の最初の「妾の出自族」に当たる。
    「準継承族」の「賜姓臣下族の朝臣族」として「準継承氏の立場」にある二氏も、「施基皇子」(青木氏 越道伊羅都売 越は福井山形域)も、「川島皇子」(近江佐々木氏 忍海造小竜の女色夫古娘 四国域)も何れも「地方の豪族の女」のこの「妾子」である。
    「青木氏族の歴史的価値」はここにもあるのだ。

    (注釈 但し、「妾子族」には「ロとハのリスク」を持ち込む恐れは充分にあったが、何れもよく調べた上での「妾」であれば“問題はなかろう“と云う事に成る。
    「ロのリスク」は目で直ぐに判るが、「ハのリスク」は目では判らず「隔世遺伝的に持ち込まれる事」はあり得る。
    「地方の豪族」であるので、何とか系譜などで調べれば判るが、密かに廃嫡をしている事から、当時としては、廃嫡以外に確実などの様な調査方法があったのかは分からない。
    恐らくは、「隔世遺伝のリスク」そのものが理解されていなかったと考える。
    「何時か出ると云う感覚」では諦めていた事で、その為の「廃嫡制度」は是非に持っていなければ成らない事でもあった。
    そもそも、「七つの民族」が融合し1400年経てもこの「隔世遺伝のリスク」だけはあるだろう。
    ところが、「青木氏族」は前段でも論じている「四家制度と云うシステム」、つまり「福家で養育する制度」で、この「隔世遺伝のリスク」(男系女系に拘わらず)も見抜く事が出来ていたのである。)

    (注釈 記録に見れば、「唖子」は別として「優秀でない嗣子」は廃嫡せずに傍系に出して外している。)

    況や、この「天皇家」を含む「賜姓臣下族の朝臣族」の「后妃嬪妾の仕来り定義」が無ければ、この「同族血縁の弊害」は、“「隔世遺伝的に起こり得る大弊害」”の可能性が有った。
    恐らくは、もっと云えばこの「妾子」に依る「優性保護の仕来り」が無ければ、「国家」を維持する「主の権威」を保つ上での「劣性嗣子」が頻繁に起こり、結局は、「国主の権威」は保て無く成り、「国家」は失墜し混乱に陥り維持は出来なかった事が起こった筈であった。

    現実には、飛鳥から奈良期に於いて「皇子」と成っているにも関わらずその「皇子の半数」は少なくとも「国家の権威」を維持するに値する「優性嗣子」では無かったとする説もあり、現実には「日本書紀」などにも「天智天皇の皇子」の「建皇子の劣性の記」等が認められる。
    本来は、「唖子」の場合は、「帝紀と上古諸事」に見られる様に「廃嫡制度」によりそもそも「皇子」には成れない筈であり、然し、「建皇子」の様に「皇子」に成っている。
    これには、「唖子や廃嫡」の場合は、系譜の中に入らないが、現実にその一例が「天皇家の系譜」に出た。
    この理由には「日本書紀」に書かれていて、「建皇子の祖母」が「皇位」を主張して「皇子」とは一時は成ったものの、直ぐに廃嫡死亡した例がある。

    そして、この「四世族内の血縁」における「劣性遺伝」を防ぐ為に「嵯峨天皇」が慌てて態々、未完の「新撰姓氏禄」を世に出した目的にもこれを防ぐ基準としたと観ている。

    筆者は、前段で論じた「天皇家のルーツを確定させる」という事よりこの「目的の方」が強かったと観ている。
    その意味では、況や、「青木氏族」に執っては厳しい仕打ちともとれるが、この「ロとハのリスク」を断ち切ったと云う視点から観ると、これのは「嵯峨天皇の功績」とも云える。

    ここで、この「ロとハのリスク」を排除した視点から、「青木氏族の事」を理解する為に前段でも論じている事ではあるが念の為に「注釈論」を論じる。

    (注釈 そもそも、「四世族の基準」は、それまでの「第六世族」を変更して「天智天皇の大化改新」で「王位」とすると決めた。
    この「四世族基準」からすると、平安期中期以降は原則として「青木氏族」は本来は「王位」は持たない。
    つまり、「聖武天皇」からは「第七世族外」であり本来は「王位」は無い。
    この「聖武天皇期」のこの時には、「天皇家の真人族」には「四世族」は元より「六世族」までも含めても、「唖子と廃嫡族」を除いて「皇子」も含めて「王位」に成り得る「嫡嗣」は無かったし、「義嗣」も無かった。
    「永代浄大一位の身分」を持つ「施基皇子」の「四男・六男説もある」が、「聖武天皇の皇女」の「二人の姉」がいて長女が「女系天皇(孝謙天皇)」と成ったが、「女系天皇」と成らなかった三女の「井上内親王」との血縁で、「天皇」と成った事(下記に論じる)で、「施基皇子の男子」はその時点で「個人の意思」に拘わらず「王位」を獲得した事を意味する。
    更に「施基皇子」が「追尊・後付け」の「春日宮天皇」と成った事も「王位」と成った理由でもある。)

    (注釈 論理的には、「施基皇子の男子」であった時には、「天智天皇期」、「天武天皇期」では「第三世族」、「第四世族内」にあって、「王位」にあった事に成り、「持統天皇期」でも「天智天皇の第二皇女」で「天武天皇の皇后」であるので、「四世族内」にあって「王位の座」は保たれていた事に成る。
    然し、「文武天皇期」に「第五世族」と成った事で「王位」はこの時点で外れた事に成り得る。)

    (注釈 一説によれば「施基皇子の六人の男子継承者・四人説もある」は、現実に「父の生き方」を見習い「王位」を好まなかった事が内資料も含めて書かれた資料があり、取り分け、「湯原王」と「榎井王」は敢えて「無冠」と成り、「冠位」も含めて嫌った事とが判っている。
    従って、論理的にはこの二人は「王位」には成っていない筈である。
    そもそも、「王」としての「冠位」が無く、「冠位」の無い「王」は、そもそも存在しない。
    「相当の冠位」(第二品 従四位下以上)があるから「王」であり、「王」であるから「相当の冠位」があるのであるとすると、「本人の意思如何」を問わず「湯原王」と「榎井王」は「王」では無かった筈である。
    つまり、これも「後付けの追尊王」である事が判る。
    「光仁天皇」と「後付け天皇」の追尊の「春日宮天皇」の「権威の辻褄合わせ」で、「後付け王」と成った事が判る。
    これは「施基皇子の生き方」であってそれは「青木氏の氏是」に表れている。
    恐らくは、「白壁王」を除いて他の五人の子供は、この「青木氏の氏是」を護った事がよく判る事に成る。
    強い圧力の上で「白壁王」も止む無く応じるしか無かったと考えられる。)

    (注釈 つまり、最も純潔の血縁性の深い一族から止む無く、「帝紀や上古諸事」外に成るが例外として「中国の古典」に見習って「白壁王」として条件を整え「義嗣方式」を採ったという事にも形上はした事に成る。)

    (注釈 「青木氏族」の 「・湯原王、・春日王、・榎井王、白壁王、桑原王、壱志王」で王位を追尊で得た事が判る。 
    「榎井王、桑原王、壱志王」の三人は「妾子」で、四人の女子の内三人は光仁天皇期には内親王と成る。
    そして、更に、「光仁天皇期」の「二世族」、つまり、「施基皇子」からは「第三世族」としても、「*壱志濃王、市師王、 安貴王、高田王、香久王、 神王、榎本王、鴨王、*桑原王二世」がそれぞれに「王位」に着いた。
    ところが、「賜姓臣下族の朝臣族」に課せられた「慣習仕来り掟」に従わず「姓」を「・印の二世王の*印の後裔」が興したとする説がある。
    然し、「桑原王・妾子」と「壱志王・妾子」等の「二世族」は「青木氏族」を護り拒んだ。
    「桑原王は二世族の子」で、然し、「三世族」では「・印の二世族」を親とする「*印の三世族」の後裔に「姓」を興したとされるが定かではないし、その「後裔」を興した時期も判らない。
    唯、「・印」と「*印」には矛盾が多くあり「江戸期の搾取偏纂」ではと観られる。)

    (注釈 世間に出ている「一般説」では、この「後裔」としているが、殆どは、「江戸期初期の諸版説」を論処として論じているので総合的に見た歴史観から見れば「搾取偏纂の矛盾」が生まれる。
    唯、その内の「*印」の「一つの姓族」に付いては、「傍系卑属の末裔」の可能性があるが、これもその主張は「施基皇子」を始祖とする「川島皇子」とすると成っていて矛盾し疑問がある。
    確かに、「新選姓氏禄」や「他の二大歴史書・三大累代格」から観ると、平安初期にその「姓の名」を持つ「臣連の朝臣族」は存在した事は認められるが、「・・朝臣族」の「・・名」を「姓名」にするは「朝臣族」として課せられていた「慣習仕来り掟」から観ても疑問でもある。
    そもそも、本来は、「皇別の真人族の朝臣族」の課せられた「掟」から観て、「・・朝臣族」の「・・」は「氏名」に成るものであって、「姓名」にするものではない。(嵯峨期で禁じられている)
    但し、「新撰姓氏禄」には、これを明確にする為に全体を「皇別」と「神別」(地方豪族)と「諸審」(渡来人)に先ず分けられ、その「皇別」には「真人族」(高位)の他に「真人族}ではない特別に「縁戚関係族」、つまり「傍系尊属 傍系卑属」を主体とした「皇親別」(低位・縁戚)に分けられている。
    この「皇別の朝臣族」の「皇親族」だけは「姓」を持つことが出来る事に成っている。
    従って、上記の「*印」の「一つの姓族」とは、この「朝臣族の皇親族」に成り、つまり、「傍系卑属」と成る。
    「傍系尊属」からは「姓」を興すと成ると、「傍系」とは云え「氏家制度」の中で課せられている「慣習仕来り掟」を護らせる立場にありながら、自らがその立場を失う様な事をするは先ずあり得ない。
    又、仮に「姓」を発祥させたとすると、「氏家制度」から「宗家」から「慣習仕来り」に反したとして「氏族」より外される事は「尊属の立場」である以上必定である。
    その点から観ても、条件的に観て「後裔の可能性」が強いとするならばそれに縛られない「傍系卑属」である事は頷けるが、「施基皇子」と「川島皇子」の「絶対的な矛盾点」だけは解明できない。
    その「姓」の「近江の出自」から「近江佐々木氏」の「始祖の川島皇子の後裔」と云う点が取られ、どこかで「系譜作成」で間違えてしまった可能性もある。)

    (注釈 その「姓の始祖」とする「施基皇子」の「ある第二世王の在所」は近江に関係していないので、だとすると、この「第二世王の後裔青木氏」の「女系」が血縁で、「青木氏側」には記録は無いが、「第四世族内血縁」を「賜姓五役の前提」としている事から、又、「・・朝臣族」の「・・」を「姓名」とする事から観ると、「佐々木氏系青木氏」に嫁いだ可能性があると観られこの視点から観ればこの「矛盾点」は解消出来る。
    この「・・朝臣族」は「新選姓氏禄」から観て確かに「四世族内」にはある。
    然し、この時期は、「近江佐々木氏系青木氏」の「傍系卑属」までを含む一族一門は、「二つの源平合戦」で敗退し平家に依る厳しい掃討作戦に依って滅亡しているので、平安末期直前の事と考えられ本来は「後裔の姓」は生まれない筈である。
    その為に、江戸期初期に作成した「系譜作成」が錯綜したと観られる。
    恐らくは、検証をすると、その「姓族の在所」からも一部に密かに生き延びた末孫の「佐々木氏系近江青木氏の傍系卑属」の説の可能性もあるが生き延びたとする確定検証は出来ない。)

    (注釈 残りの「一つの姓」は、典型的な拭い切れない矛盾の疑問が残り、論じるに値しない「江戸期初期の搾取偏纂」と観られる。
    更に、上記した様に「賜姓五役」の「青木氏族の慣習仕来り掟」に合致せず「姓」を持ったとする説の「・印の二世族」は三人いるが、「*印」の「もう一つの姓」は「・湯原王、・春日王、・榎井王」には確認できないが、恐らくは、「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「無冠位」を主張した「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「三人の内」の「春日王の姓族」としている事にも成り、「矛盾の姓」に成る。
    つまり、明らかに、この「二つの姓の件」に付いては、「嵯峨期の詔勅と禁令」がありながら、この様な間隙を狙って、江戸期初期に矛盾する「姓」をねじ込んで来た事を意味する。
    従って、「重要な歴史観」として矢張り「青木氏族」は、「賜姓五役」を保持するが故に、結局は「江戸期初期の前後頃」までは少なくとも「姓」を持たない「原則四世族内」の「青木氏族内」にあった事を意味している。
    唯、「優性の後裔を遺す」という点では、鎌倉末期から江戸初期前後頃まで「四家制度」等を敷きながらも、次第に難しい状況に陥って行った事は事実であり頷ける。
    取り分け、室町期には「下克上や戦国時代」と成り、歴史書に記載されている「朝臣族の氏族」は「姓族」に依って悉く一掃され潰され、又、「下克上」により「傍系卑属」に乗っ取られたりして「数氏」にまで落ち込んだ歴史的経緯を持つ。)

    (注釈 幸いにして、「紙文化の発展」に依って「巨万の富」を獲得し、それを以って先ずは「抑止力」を高め、「女系族」を推進して「周囲の姓族との絆作戦」を展開して生き延びてきた。
    此処が、「第二の分岐点・ターニングポイント」であろう。
    室町期初期からじわじわと始まる「危機」がこの分岐点で、これでは拙いとして大きく「四家制度の考え方」について舵を切った時期と考えられる。)

    以上、「注釈論」を前提に次に「血筋の論」を進める。

    「直系尊属と直系卑属」は、「賜姓臣下族の慣習仕来り」を護りながらも「四世族血縁」を貫いた。恐らくは、この事から「室町期初期」からは、「四家制度」に依って上記した「玄孫までの女系族」にシフトし始めた事が判る。
    この鎌倉末期から室町期初期が「第一の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。

    本論のテーマである「江戸初期の殖産」に依る「体制造りの主眼」は、「玄孫までに依る女系族」に徹底して切り替えたと考えられる。
    この江戸初期前後頃が「第三の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。
    それが、「女墓」(伊勢・信濃)に表れているし、「甲斐青木氏と信濃青木氏の動き」にも出ている。

    先ず、そこで生き残った室町期初期の「甲斐青木氏」では、「賜姓臣下族の正統族」の「源光系甲斐青木氏」と、「源光」の兄の「時光」が「傍系の源氏族」であるとして「嵯峨期の詔勅」で「時光系青木氏」を発祥させた。
    ところが、この「時光系青木氏」には内部抗争が起こった。
    この為に、「武田氏系」の「時光系青木氏」は弱体化し、結局、生き残るために武田氏に組した為に「第三の分岐点・ターニングポイント」では、「慣習仕来り掟」を全て金ぎり捨てて完全に姓化した。
    そして、「傍系源氏族の武田氏」が滅びると共に、掃討作戦にも何とか生き残り一族郎党全て「武蔵鉢形」に移封され「徳川氏の家臣化」をした。

    (注釈 この時、この武田氏を滅ぼした勝者の信長は出迎える為に列の中に「白馬に乗った者」がいてその侭に信長を出迎えたとして,引きずり降ろし滅多打ちにした。
    これは古来からの「賜姓臣下族の朝臣族」の「高位の者」の儀礼の「立場の仕来り」であるとして迎えたのであるが、信長はこれを否定する行動に出た。
    信長はこの「仕来り」を知らなかったとする説もあるが、「平家傍系の末裔」でもあり伊勢信濃に近く、且つ、足利将軍などとも謁見している事から知らなかったという事は無いだろう。
    恐らくは、「賜姓臣下族の朝臣族と云う立場」を自分の「覇者の権威」を保つ為には認めたくなかった事を意味する。
    この「白馬の者」は中立を保った甲斐の「源光系青木氏の後裔」であると云われている。
    現実に、この「白馬の者・源光系青木氏」は信長より所領の剥奪等の圧迫を受け滅亡に近い衰退をし行方は分からなくなったとされている。
    然し、「傍系卑属の後裔」とされる一族は江戸期にも生き残ったと成っている。
    そして、武田氏に味方した「武田氏族の時光系青木氏」は、家康に救われて潰れる事無く、「信長の圧迫」を受けない様に家康は即座に一族郎党を鉢形に移した。
    この一人が「柳沢吉保」の父である。)

    元々、源氏傍系の「時光系青木氏」は、そもそも、傍系族(傍系卑属の可能性)であって、「賜姓族」では無い為に「慣習仕来り掟」には大きくは縛られず姓化に成れた経緯もある。
    弟の「賜姓臣下族の源光系青木氏」は、「郷氏」を続けながら「和紙」等を殖産生産して、「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」を護りながらも、より「女系化」を採用して後裔に「姓」を置き「姓化の絆」で一部が「商人」として何とか生き延びたとされいる。
    その「存亡の有無」も判らないほどに「子孫力」は三氏(伊勢、信濃、甲斐)の中で最も低下した。
    甲斐」に於いては「時光系」のみならず「本流の源光系」も「直系族の甲斐青木氏」は遺されていないのである。

    次に、そこで気に成るのは周囲が多くの国衆で囲まれている「信濃青木氏」であるが同じ道を採らず、「甲斐」とは別の選択を採った。

    それは、前段でも何度も論じたが、”「伊勢青木氏との絆」”を徹底して強化して一体化を目指す”「同化戦略」”を採った。

    伊勢と同様に「四家制度等の各種の制度」を採りつつも、且つ、「伊勢との同化」の為に「女系」のみならず、「男系の同化」も図った事が判っている。
    「信濃」は「伊勢からの優性の血筋」、「伊勢」は「信濃からの優性の血筋」を入れて共に「劣性の弊害」を排除し「四世族態勢」を堅持した。
    これは、「氏族堅持」の為に「血筋」に関わらず「商い」に関しても「同化戦略」を採ったのである。
    唯一つ信濃は「違う筋道」を採った事があった。

    それは、「伊勢との同化」を進める中で、それは「四世族系」の「直系族」のみの範囲に留め、「尊属と卑属」に拘わらずある程度に「傍系族」には「姓化」を認めている。
    故に、現在に於いても「直系族の宗家」の「信濃青木氏」が存続し、伊勢、信濃共に「直系族の宗家」は明治期(明治9年)まで存続した事が確認できる。
    現在も「笹竜胆紋の後裔」は、その「ある程度の伝統」と共に遺されている事が判っている。
    この様に一定の規律、つまり、「慣習仕来り掟」を「直系族」が柔軟にして護りながらも「姓化の弊害」を乗り越えて生き遺った「青木氏族」もいた事にも成る。

    唯、「伊勢と信濃」に於いては血縁に於いて更に「面白い事」があるので追記する。
    それは平安期末期に京にて遥任していた「源頼政」が朝廷より得ていた「領国」の「警備」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」を合体させて「伊豆」に送り込んだ。
    これは「賜姓の氏族の血縁」と云う視点では「面白い戦略」である。

    本来であれば、「領国の伊豆」に警備として送るのであれば、普通は「源氏族」であろう。
    何故なんだろうか。それは何か「血縁を含む氏存続」に関わる何があって、この様な「不思議な戦略」を執った事は先ず判る。

    そもそも、「摂津源氏の頼光系の四家一族」は、前段や上段でも何度も論じたが「武家貴族」と云う立場を護る為に「武力」を大きくは持たなかった。
    「武力」を持つ事で「武家貴族」として「祖父満仲」の様に朝廷から疎まれたが、その事では「摂津四家」の「頼政」は三位まで登り詰める事は出来なかった筈である。
    当然に、「直系族の宗家」として「じり貧の運命」を辿り「賜姓源氏族の生き残り策」を果たせなかった筈である。
    然し、「満仲の作った武力集団」を引き継いだ「頼信系」は一時は伸長したが、然し、この結果は逆に平家に敵対され衰退化を招いた。


    そこで、「頼政」が目を付けたのが同じ「皇族系賜姓臣下族」の「伊勢と信濃の青木氏族」が持つ”「影の勢力の抑止力」”であった。
    「武力集団」として公に成っていないこの「影の勢力の抑止力」を「平家の勢力拡大」の中で「伊豆」に送り込んで何とか「領国」を護る事に着目したと考えられる。
    そうすれば、朝廷より武家貴族としての非難は免れる。

    そもそも、「頼信系」と同じく「武力集団」を形成して送り込めば、一族の”「血筋」”は乱れ、且つ、”「姓化」”が起こり、何もしなければ「ロとハのリスク」を抱え「族の形成」は危うくなる。
    「朝廷が認めた領国」である以上は、そう簡単に「武力」が無ければ手を出せないし、従って、最大勢力の「平家」に潰される事が先ず起こらない。

    (注釈 「伊勢青木氏」は「平家の始祖の阿多倍王(孫の高野新笠・光仁天皇の后)」とは古来より隣国として繋がっている。)

    そこで、「武力集団」に相当する「影の勢力の抑止力(経済的繋がり)」をこの「伊豆」に成すには「伊勢と信濃」を「合体させる手」を打つ事が必要であった。
    そうでなければ「ロとハのリスク」が起こると共に衰退し「賜姓源氏族」を遺せ無い筈で、そこで「伊勢」には血縁的に「妾子の京綱」と、「信濃」には「妾子の国友」に跡目として送り込み、そして、この「融合した合体一族」を「伊豆」に送り込む「奇策の戦略」を執ったのである。
    これでいずれも「宗家」の「源氏族の血筋」と「青木氏族の血筋」の合体で、「血筋リスク」はより解消され圧迫を受けている「摂津の宗家の源氏族」を安定して遺せると考えた筈である。

    そもそも、「青木氏族」の「直系血筋の四世族」は「仁明天皇」までであり、「ロとハのリスク」は系譜上は無い。
    「摂津源氏族」は、他説が多いが、「貞純親王説」としては「7世族」に当たり「姓族の外子王」である。
    「四世族」までとすれば完全にルーツを変えた「賜姓族」であるが、そもそも、「貞純親王説」は「傍系尊属」に相当するので、好ましくないと観たのではないか。
    然し、「親王」ではないが「陽成天皇説」であれば、この「天皇」は「ロとハのリスク」を持った記録に残る程の「暴君」として有名であった事からも、この「二つの説」からも「清和源氏」にはこの「血縁のリスクの危険性」を持っていた。

    これを当然に認識にしていた「頼政」は、「青木氏族と賜姓源氏族との血縁戦略」とすれば「ロとハノリスク」は解消されると考えたと観られる。
    「清和天皇」は、上記の通り何れの説も「皇子」ではない孫(王位)であり、例外であり、且つ、「ロとハのリスク」を引き継いだ王を賜姓する事に成り、これを頑として拒んだ。
    本来は、「清和源氏」では無く、「賜姓源氏族」と成るには「陽成源氏」と成るが、「ロとハのリスク」を持つ「天皇」としては「賜姓」は困難と扱われていた。
    そこで、止む無く、「純友の乱」を「経基王」は企て「祖父(清和上皇)」に頼んでその勲功で「賜姓」を願い出たは経緯を持っていたのである。

    つまり、これらの「三つの汚名」を払拭し「正統な源氏族」として遺す為には、「跡目」を両氏に入れる事は血縁上は問題はまずなく「ロとハのリスク」は殆どない「賜姓族」と成り得る。
    これは、当に、下記に論じる「政争」とも成った「孝謙天皇の正統説」と全く同じである。
    筆者は、重要な事は、「青木氏の歴史観」に執ってみれば、「孝謙天皇期の政争」も「清和源氏頼政の戦略」も要は「施基皇子のルーツ原理説」に起因していると捉えている。

    (注釈 「親王」と「皇子」の違いは、「大宝律令」を境に漠然としていた「四世族内の皇子」の「皇子の位階」が正式に決まり、呼称が「皇子」から「親王」と成り、宣下を受けた者は「親王」に、受けなかった者の四世族までの者を「王」と呼称する事に成った。
    但し、平安期の初期当時は「外子王」の場合には、未だ「皇子の呼称」が残り、宣下を受けた「外子王」を「親王」とする区別する呼称が一時期続いた。
    当時としては、「貞純親王の母」は「妾」であり、「貞純親王」は「妾子」となり、「親王」とあるが「母の経緯」から「傍系族尊属」に相当する「外子王」に成る。
    この使い方に付いての説には「歴史的経緯の間違い」が多い。)

    そして、「跡目を入れた融合合体族」と「女系で繋がる抑止力団」で周囲を固め、更にこの血筋は隣国に存在する「補完族の秀郷流青木氏」とも血縁関係を持ち、その「秀郷流青木氏の勢力」を以って「伊豆の入り口」を防御しすれば、「完全無傷の形」で源氏族は正常に遺せる。
    (その後に、「以仁王の乱」を起こす。現在も「青木村」を形成し生き残っている。伊勢と信濃以上であろう。)
    本来であれば、「伊豆」には「血縁の劣性の弊害」が起こっている筈であるが、資料によれば何某かのそれと思しき内容は元々出て来るものであるがそれも発見できない。

    更にこれは、何故であろうか疑問である。

    これは、矢張り、「青木氏族以外」からの「源氏族」の「頼光の生き残り戦略」の通りに、この中に116氏に及ぶ「秀郷流青木氏との繋がり」を持つ事で「血縁の劣性の弊害」は消されていった事以外に無いだろう。
    「青木氏の歴史観」から観れば、これが、「血縁」に依る「補完役としての役割」として「頼光の戦略」は考えていた事に成る。
    これは同時に、つまり、このこれに依る”「姓化」”が入れば、「源氏族」では「正統な血筋の範囲」では最早遺せ無いと観ていた事にも成る。
    この「焦り」が「頼政」にはあったと観ている。
    故に、「劣性の弊害」が出る可能性の高い「同族血縁性の高い融合族」の中でも「四世族制」を護り、「賜姓臣下族としての慣習仕来り掟」と「血縁の弊害」を無く現在まで護り通し得た戦略であったと考えられる。
    その意味では、「伊勢や信濃」を凌ぐものが「伊豆」にはあったと考えられ、現在に於いても現実に目の当たりにして、その「慣習仕来り掟や祭祀」等の「伝統」は遥かに凌いでいる。
    この侭では、「融合族と云う定義」はそもそもおかしいが、「融合族の伊豆青木氏」が最後までその「伝統」とその「血縁性」をより高く護り通す可能性が高いと観ている。
    その意味で、「冠位官職」を同じくする「補完役」で、且つ、「賜姓族(藤原朝臣族)」で当初は「四世族」では無かった「秀郷流青木氏の存在」は実に大きい。

    これは”「血縁」と云う事”のみならず、「姓族勃興」に依って「慣習仕来り掟」が護れなくなり「衰退逃亡」に追いやられた四地域の「賜姓臣下族の青木氏族」を救った事も見逃せない事である。

    そこで、その「秀郷流青木氏」を「劣性の弊害を無くす血縁」と云う意味で検証する事に成るのだか、それは次ぎの様に成るだろう。
    更に、平安期の「青木氏族の補完役」、つまり、「第二の宗家」と呼ばれた「藤原秀郷流青木氏」は武蔵域を始めとして「全国24の地域」に根を下ろし、何と116氏まで広げたが、「劣性に依る弊害」は「青木氏の中」では最も生まれなかった。

    注釈として、唯、「秀郷流一門」の中での「青木氏族」の中に入る「主要五氏の進藤氏」だけには、「秀郷流一門」のこの「劣性の弊害」は出ていた様で、それは「一族一門を取りまとめる立場」にあった事から、「一門の血縁性」で固め「発言力」を保持していた事に依るのであろう。

    この事に付いては、「秀郷流一門」の資料にも遺され、更には、「進藤氏」と親密な関係のあった「近江佐々木氏の資料」の中にも垣間見られ、「武蔵北部域」を護っていた「進藤氏直系の系譜」を観ても「継承者の事」で苦労している様子がよく判る。
    それを観ると、「血縁の弊害」が強く出て、実に「廃嫡性」が高く、「嫡嗣と義嗣の入れ替わり」が激しいのが判る。
    宗家分家に拘わらず、「秀郷流青木氏族の秀郷流進藤氏」は、「義嗣」が多い事から「血縁の弊害防止」に先ず「廃嫡」をしてその上で「義嗣」に入れ替えて何とか「血縁の弊害」を無くそうとしたと観られる。
    これは「直系嫡嗣」に恵まれなかったという事では無く、家筋を保つに堪え得ない「唖子や劣子」が多かった事を示していて、それ故に「系譜に観る内紛」が起こっているのである。

    この様に「秀郷一門の青木氏族」の中でも、「血縁戦略」を一つ間違うとこの様な「宿命的な運命の道を辿る事」に成る事を意味している。
    実に狭い道筋と云える。

    その中で取り分け、「伊勢の秀郷流青木氏」は、「伊勢と信濃の賜姓臣下族」の「青木氏との女系」を基本とする血縁を積極的に進め、「青木氏族の氏族」を形成し、殆どは「同化に近い状況」と成り得ていた。
    その象徴は、「賜姓臣下族の一員」として認められていた「四日市殿」である。
    つまり、前段でも論じた事ではあるが、「女系」で繋がりを強化して、その子の「二世族の嗣子一人」に「実家の青木氏」を「嫁ぎ先」で一つ先ず興させて、「嫡嗣の男子」を「実家の四家制度」の中に組み込ませ、且つ、「女子の二世族の範囲」では、実家の「四家制度の養育の娘」として送り込んだのである。
    これを室町期から明治初期まで相互にこの制度を推し進め強固なこの基盤を作り上げたのである。

    (注釈 「四日市殿」は「青木氏族」と「伊勢籐氏」と「徳川氏」とも直接に血縁関係を持った「パイプ役」を果たした。)

    当然に、複合的にも「伊勢籐氏の血筋」も「伊勢秀郷流青木氏」を経由して融合される事にも成り、何れに於いてもその「結果の絆」は相互に高まり、それは前段でも論じた様に室町期末期の混乱期の「信定と忠貞の連携」にも表れている。
    元より、前段でも、「射和商人の段」でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」は「伊勢籐氏」と共に「紀州藩」にそっくり抱えられ家臣(姓化)と成り、「青木氏族」を側面から護った。

    武蔵域に於いても「秀郷流青木氏」のみならず「秀郷流一門」は、そっくり「御家人や旗本」として「家臣化」し、「幕府の官僚族」を席巻したのである。
    この事で、全国に散在する「現地孫」や「傍系族」を含む「秀郷流一門」の「横の血縁の連絡」は充分に取れ、それが「血流」と成って「伊勢や信濃」にも及んで居た事にも成り得る。
    つまりは、これは「血筋の源流の大きさ」を物語る。
    これ程に「血縁の大きい源流」は日本には無い。
    「血縁と云う正統な伝統」に護られた形の上では日本最大と考えられる。
    「宗家」は「四家制度」を採りながらも「秀郷一族一門の361氏」と云う途方もない「勢力」と、それを使った「吸い上げた血縁性」により、「血縁性に関する弊害」は認められなかったのである。

    「姓化」は「青木氏族」に執っては、一面では「氏族存続の弊害」とも成り得るが、全国に分布する「傍系尊属卑属」までの「姓族」を含めれば、ここからの「血筋」の無限に出続ける「源流」と成り得て、且つ、その「源流の流れ」からその「血筋の流れ」を引き込む事は、「無限の新鮮な血筋の井戸」を示す様なもので、「血筋の劣性弊害」は無く成る事は必定である。
    「青木氏族」に執っては、この”「源流制度論」”であれば、最早、この事では「血縁弊害」は秀郷一門に関する事ではこの論外であろうと考える。

    そこで戻って、「伊勢」は、「四世族制」に関わらずに「伊勢郷士」との間にも幅広く徹底した「女系族造り」に切り替えた。
    そして、地元に根付いた「絆造り」に切れ変えた事が示されている。
    であり、重要な事は”その本質に戻した”という事に成り得る。

    (注釈 江戸期前後に於いて、上記した様に「女系族論」は、そもそも「人の類」の「本筋論」であり、これに依り、「劣性遺伝の弊害」を無くした事のみならず、「信濃」を含み「青木氏族存続の輪」を広げたと考えられる。
    この事は遺伝学的にも補完役として裏付けられている事である。
    これは、現在に於いては「特別な事」では無く、「孝謙天皇期の政争」と「頼政の戦略」も「江戸初期の女系族化策」も本筋を得た先祖の行為であると論評している。)

    これに関わった「秀郷流青木氏の116氏一門」は、「子孫繁栄の補完役」を完全にを果たした事に成り、「実務上の補完役」に拘わらず「氏の根底の補完役」をも先を見据えて戦略した「円融天皇の判断」は実に正しかった事に成る。
    秀郷一門の「宗家の第三子」を「補完役の秀郷流青木氏」を断絶する事無く「継承を義務付けた事」がこの「天皇の決意」を物語るものであるとされる。
    そうでなければ、「実務の補完役」で終わっていただろうし、「天皇」は赴任地を多く与えて116氏まで広げなかった事に成る。

    上記の論調に関して言えば、この「土台作りの影響」が「前段の射和郷士の件」に表れていると云う事なのである。
    つまり、「直系族の男系」は、論理的には「四世族制」を保ちながらも、「女系族」から「優性遺伝の血筋」を入れていた事に成る。
    これでの「重要な事」は「男系に依る血筋源」では無く、「女系の血筋源」とした事を意味する。
    よく似た対策としの「優性対策」として「平安期に採った妾子制度」と違って、江戸期初期の「女系の血筋源」の方が幅を持つ事ではむしろ「優性遺伝」に繋がる事に成った。
    「混血に依る優性遺伝」は、「劣性遺伝による弊害の防止」のみならず「特別に優秀な嫡嗣」を生み出すという特徴をも持っている。
    江戸期の第三の分岐点・ターニングポイントはここに決定的な違いがあった。


    そこで、上記の事を認識したとして、話を戻して、「奈良期の後半」に入り、この原則的な対応策(賜姓五役の宿命)を採っていた「志紀真人族」には、「劣性遺伝の弊害」のこれが「四家」の「四家20家」の何処かに出ると認識し、「賜姓臣下族の朝臣族」を保つ上では、つまり、「青木氏族」を保つ上では、「四家制度」と「家人制度」では防ぎ切れない事に成っていた事を認識していた。

    (注釈 「志紀真人族」とは、「施基皇子族」で後の「春日宮御宇天皇」の後裔の事であるが、つまり、「皇族真人族」に「男子後継者」が不在と成り、結局、「聖武天皇」の内親王の「井上内親王」と「準継承族の賜姓臣下族で朝臣族」と成った「施基皇子」の「四男の白壁王」との婚姻をして「皇位」を継承した「光仁天皇」と成る。
    依って、その父である「施基皇子」を後付けで天皇としたが、「施基皇子の崩御後」の54年後に出来たこの「四世族までの一族」を云う。
    つまり、「敏達天皇の春日真人族」の「四世族の施基皇子」の「青木氏族」を云う。)

    上記の注釈の通り、この事を読みこめば、「聖武天皇期」は「別の意味」で当にこの危機に入っていた事を示す。
    「続日本紀」にもある様に「皇子族」(真人族の親王)が無い為に「皇族内部」に「後継者」をめぐり「抗争」が起こり、結局は、「外子王」までを持ち込み「勢力争い(藤原氏や橘氏)」が起こった。
    「聖武天皇の真人族」の「四世族内」にも、「皇位継承族に値する優性の男系の継承者」が無く成り、唯一、「真人族」の「二人の内親王」の一人が「孝謙天皇」と成りその後上皇と成るが、“「外子王」“の「純仁天皇」が皇位を続けが、「上皇」との軋轢から廃位されて止む無く「上皇」自ら「天皇」に戻り、「称徳天皇」として戻り二代続きの「女系天皇」と成った。
    然し、結局は、「正統な男系継承者」は無く成り、一説では「潔癖性の強い嫉質」(原理主義・正統主義と観る)があったとされるが、それ故に「時間稼ぎ」をした事に成るのだろう。
    遂には、その妹の「天皇」と成る事を拒んだ「井上内親王」(天皇に成る事避けていた白壁王)を持ち出し、周囲が掃討されたその結果で、「苦肉の策」として「準継承族(敏達天皇より9世族)」の「賜姓臣下族で朝臣族」と成っていた「施基皇子族(青木氏族)」までに手を伸ばして来た事に成る。

    結局は、「孝謙上皇」は「純潔性」を守る為に、「原理主義・正統主義」に基づいて一度、「天智・天武期の状況の血筋」に戻して、その「準継承族」として遺っていた「志紀真人族」に「白羽の矢」を立てて納めたのが本事件であった。
    つまりは、「施基皇子」や「川島皇子」が自らが編纂した「天皇家の慣習仕来り掟の規則」を定めた「帝紀」や「上古諸事」を持ち出して、無理に「皇位継承者」を造り、それに「天皇の継続性」のある「井上内親王」と血縁させて辻褄を合わせたと云う事に成る。

    この「二つの根拠」には、「外子王」(四世族の傍系卑属)を入れて「皇族の血筋」を外すよりは、「原理主義・正統主義」に基づいて戻す事の方が「より良し」とする判断には、「外縁」(傍系卑属・中には四世族を外れる外子王をも持ち出した)は抗する事が出来なく成った。
    これは、つまりは、「孝謙上皇」は候補と成る「四世族内」の「傍系卑属の外子王の人格」、況や「劣性の弊害」等を認め悉くクレームをつけた。
    この「劣性の外子王」を操り「天皇家」を乗っ取らんとする企てにも気付いていた事にも成る。

    (注釈 一説ではこの事が誤解されて孝謙天皇の「嫉質説」が生まれた。)

    更に、この「四世族内」に「男系」が無く成ったという事だけでは無く、有ったとしても廃嫡せざるを得ない状況が強かった事に成り、想起外の「志紀真人族」に「白羽の矢」を向けた。
    この決定は普通ではあり得ず、明らかにこの「天皇家」は「ロとハのリスク」のこの危機に入っていた事を示す。

    さて、ここで一つ疑問なのは、何故、同じ立場にあった「近江佐々木氏」や「四家四流青木氏族」にも向けられる可能性はあった筈であるが、然し向けられなかった。
    資料は全くないが、その理由として次の事が挙げられる。

    短所
    「朝臣の近江川島族」は争いの下に成る政争であった「天武期の吉野盟約」に参加した事。
    「近江佐々木氏」は「青木氏族」より「四世族制」を充分な制度化をして護らなかった事。
    「賜姓臣下族の朝臣族」としての「務め」に比較的に疎かった事。
    「施基皇子の二世族」に比べて「良き男系継承者」が少なかった事。
    「近江佐々木氏」や「近江青木氏」は「政争の元」と成る「公家族との繋がり」が強かった事。
    以上のリスクが考えられる。

    長所
    1 「志紀真人族」には「高野新笠(渡来人の後漢阿多倍王の孫)の背景」があった事。
    2 「施基皇子」は「敏達天皇の四世族」であり「正統性」があった事。
    3 「青木氏族」は、既にそれまでの「皇族血筋」(継承外と成った真人族王)を頻繁に入れて「五家五流族」を形成していた事。

    幾つかの「遺されている資料」を咀嚼すると、つまりは「孝謙上皇」は、「周囲の強力な反発」を振り切ってこの「長短の比較」をした結果と考えられる。

    その「決め手」は「長所重視」に及んだ事と考えられ、取り分け、“「天皇家の本筋」に戻す”という事から考えると明らかに「長所の3」であったと考えられる。

    そうと成れば、上記した厳密な計算された「規則や制度」に依って「外部血筋」を入れて徹底して「姓化」を敷かなかった「伊勢青木氏」を選ぶ事に成る。
    例え、「臣連族」であったとしても「姓化のリスク」は、より「外部勢力」を呼び込んで仕舞い、女性である「孝謙上皇」が嫌った、“「政争」”が朝廷内に蔓延る危険性が大いにあった。
    そもそも、この「皇位継承の縁組」を申し渡された時でも、「白壁王」を始めとして女子を入れた「十人の子供」等は、「施基皇子の遺言」の「青木氏の氏是」があったとしても、徹底して個人で「無冠を主張した事」でも歴史上の事実として判る。

    (注釈 然し、現実には最後は「無冠」であったのは「男子の二人」と「女子の一人」と成った。)

    この時期は未だ表向きは「皇親族」であった。
    つまり、前段でも論じたが、天皇に困った事が起こった場合に、天皇の前で意見を述べられる立場で、且つ、場合によっては「天皇の秘意」の有無の事も含めて、その困った「懸案事項の解決」に直接務めるという役目の「令外官役」を負っていた。

    (注釈 この「皇親族」の「令外官の役目」は、「嵯峨期の詔勅」で外された事のみならず「賜姓族の対象」からも外された。
    そして「賜姓」は、「令外官の役」の持たない「無役の源氏族」と変名して賜姓した。
    源氏族には財政的にも保障しなかった。)

    筆者は恐らくは、「孝謙上皇」は、「和紙」などの「二足の草鞋策」の「豪商も兼ねた令外官」の「世間に明るい伊勢青木氏」に密かに諮問していたと観ている。
    結局は、それが「孝謙天皇の信頼」の元と成って「白羽の矢」を立てたと考えられる。
    この説で観ると、「青木氏の二世族」は、何で「無冠」を主張したのかと云う事に辿り着く。
    この事で、表沙汰に成れば、「世間の批判」を受けかねない事にも成り得て、「青木氏の氏是」の事もあり、敢えて「無冠」を主張した事に成る。
    この根拠は、その後の「青木氏族の執った姿勢」、又は、その「立場」にあったと観ている。

    つまり、次ぎの事である。
    「二足の草鞋策」を通じて朝廷に対して明治初期まで「献納」を行っている事。
    「嵯峨期の詔勅」で無く成った筈の「賜姓五役の立場」を堅持し、江戸初期まで堅持した事。

    つまり、この事は「諮問に対する答えの責任」を執ったという事であろう。

    それでなければ、鎌倉期からその「役目の意味」が殆ど亡くなっているのに、更には「準継承族」では全く無く成っているのに「賜姓五役の役目」を依然として続けた事に疑問が残る。

    既に、上記した様に「青木氏族」から光仁期に「天皇」を出した以上は、最早、「準継承族」では無く成っている筈である。
    その「天皇」は、「青木氏族の直系族」としては、血縁的に考えても、丁度、「第四世族」の「54代 仁明天皇」までである。
    その後は、「高見王」は、即ち、「桓武平氏」: 「阿多倍王・高望王・平望王」の「後裔の血筋」が入る結果と成るのであるが、この祖と成る「光仁天皇の后」の「高野新笠」はこの「阿多倍の孫」でもある。
    従って、この「青木氏族」と傍系で繋がる血縁を持つ「高見王」に、「賜姓源氏族(賜姓でない源氏も多い)」と「藤原氏系族」がこの血筋に組み込まれた。
    然し、この状況は「後一条天皇」の直前まで続いて、「外縁」と成る「賜姓源氏や藤原氏」等の血筋の範囲は一端この時では終わっている。

    はっきり云うと、本来であれば、理屈上は「賜姓五役の役」は、三世族の「嵯峨天皇期の詔勅」で正式に終わっているが、伸ばしたとしてどう考えても最早、四世族の「仁明天皇」のここまであろう。

    ここからは、論理的には「純潔性を含む賜姓五役の責任」は完全に無く成っていて、後は「青木氏の勝手」という事に成る。
    取り分け、「純潔性」に付いては「賜姓源氏族に渡っている事」にも成る。
    然し、実態は違っている。

    つまり、「第一の分岐点・ターニングポイント」の前に、平安期末期にも「ある種の分岐点」があった事に成る。

    筆者は、これがそもそも”「基点」”であったと考えていて、直ぐに「第一の分岐点」には成らなかったのであり、敢えて云うならば、「仁明天皇期」が「0の分岐点」と成ろう。
    ここから「青木氏族のエネルギー」を貯めて徐々に変化していって「第一の分岐点」に達した事に成ると考えている。

    況や、直ぐに「仁明天皇期」に「分岐点」として成らなかったのには、それには「分岐点」には成らない「(−)のエネルギー」が働いたからである。

    それは前段でも論じている960年頃に令外官的な「補完役」としての「秀郷流青木氏の出現」であった。
    この「補完役」を作り出さなければ、世の中に「政治的に困った事」が起こっていたと云う事に成る。
    「補完役」のこれは「藤原秀郷一門」がそもそも自発的に求めたものではない。
    「朝廷(円融天皇)」が「社会情勢の乱れ(青木氏族が皇親族から引いた事)」から「令外官」としての意味も込めて「秀郷一門宗家の組織」に「宗家から第三子」をこの「補完役の青木氏」を名乗らせる事を命じた。


    (注釈 これは「令外官」としての「実務と血縁」の「補完役」でもあって、この始祖が「千国」と成ったのだが、その後は二流に分流し秀郷一門の「主要五氏」として「青木氏族」を形成するまでに成った。
    この結果として、秀郷一門361氏の内、116氏を占め「第二の宗家」と呼ばれるに至った。
    ここでは、そもそも「青木氏の歴史観」として観れば、「全国24地域と116氏」と云う要素には大きな意味を持っていると考えられる。
    平安期中期から室町期中期までの間にどんなに考えても、「時の政権」が「実務的」には桁外れの「24地域」にまで「補完役」として赴任させる事は先ずは無い。
    更に、「血縁的」には「116氏」と云う膨大な子孫拡大を認める事は無い。
    これは明らかに「実務と血筋」の「補完役の令外官」としての「恣意的意味合い」を持たせたと考えられる。
    他の「氏族」にこれだけの事をさせる事は「政治的に好ましい事」ではない。
    「藤原氏北家族」の「秀郷一門の勢力」の土台の上に更にこれだけの勢力を持たす事は「政治的発言力」は強大と成り得て警戒される。
    現実に、瀬戸内で勢力を伸ばしていた「讃岐藤氏の一豪族」でさえ「純友の乱」としてこの「警戒心」から潰された経緯を持っている。
    この逆の政策を執っているのである。
    「純友の乱」と「秀郷流青木氏」とは根本的には違うが、「純友」は「一族の単なる勢力拡大」で、「青木氏」は「実務と血筋の補完役」であり、根本的に「立場の有利性」は違う。
    「実務と血筋と云う令外官の補完役」は、「実務」は「血筋」無くして成し得ないし、「血筋」は「実務」無くして成し得ない「相関の関係」にある。
    故に、時の政権は「実務の24地域と血筋の116氏」と云う拡大を認めたのであり、ここからは「政治への発言権の拡大」はあり得ない。)

    そこで、上記の「政治的に困った事」とは、「賜姓五役」として手を曳いた事に依って「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の荒廃」と「献納」が途絶えて「財政的な困窮」にあった事である。

    (注釈 「政治的に困った事」は政治的に二度あった。一つ目は、この平安期から室町期で、二つ目はと前段での江戸初期である。)

    これで観ると、一つ目は明らかに、「準継承族」としての「純潔性の義務の保持」は外れたとしても、「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の役目」までを放棄した事に成る。
    これは「青木氏族」としては「相当な覚悟であった事」に成る。

    ところが、この「秀郷一門」に「青木氏族」と成って「令外官の補完役」を命じる前に、一つの大きな出来事があった。

    それは、朝廷は「賜姓臣下族の青木氏族」に代わった「賜姓源氏」にこの「神明社の修復」を命じている。
    これは、「嵯峨期の詔勅の文言」の”賜姓してやる代わりに財政的に保障しないから自由に生きよ”に反する。
    その「賜姓源氏」に「青木氏の守護神」の”「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を修復せよ”はどう考えても不合理である。

    然し、元々、「嵯峨期の詔勅」に明記されている様に、「財政的能力のない武家貴族の源氏」にこれを成す能力は無かった。
    そこで中でも、「武家貴族の清和源氏」が各地に飛散している「源氏族の有力な傍系族」を集めて「武家」に課せられていた「禁じ手の武力集団」を構築し、各地の荘園を奪い勢力を蓄えた。
    然し、そもそも「修復」はその「勢力下での財政的裏付け」にあるにも関わらず、これにも「朝廷から非難」を受けた。
    確かに理不尽そのものである事は否めない。

    (注釈 「清和源氏の二代目満仲」は「武力集団の創設」のこれを行ったが、この「路線争い」で三代目で意見が分かれ、「嫡子の頼光派・官僚族派・摂津源氏」と、「三男の頼信派・武力集団派・河内源氏」に分かれた。
    「摂津源氏(頼光派)」は「四家制度」を敷き「青木氏族」と同じ務めを引き継ごうとしていた。)

    「朝廷」は、以上での経緯があるにも拘らず「財政的な補償」をしなかった「宗家の摂津源氏」にこの「修復命」を出したのである。
    ところが、「摂津源氏」には元より全ての源氏には、「神明社を修復する財力」は元より、技術技能を司る「青木氏部」の様な「技能部の力」は持ち得ていなかった。
    そこで「朝廷の命」の「体面」を保つ為に「摂津源氏宗家」は一社のみを修復して、後は言い逃れて「引延策」を演じた。
    業を煮やした「天皇」は、遂には、直ぐに「将門の乱」にて功績が認められ「貴族と位冠と武蔵国」の三つを与えられ発祥した直後の「藤原秀郷」に、上記の「補完役命(秀郷三男の千国)」を出したという事に成った。

    余談として、以上の事でも”如何に「青木氏族」が「嵯峨期の詔勅」に対して反抗したか”の例として考察され、この「政治的に困った事の経緯」とはこの様な事であった。

    話を戻して、注釈として、「四世族の範囲」での独自の血縁制度で「純潔性」を保ち、且つ「天皇家の権威」を保つ上で「帝紀」等を運用して「大義」を造り上げた。
    「純潔性の血縁制度」に依って出る「唖子や劣子に対する誕生」に対しては早期に済ます系譜には出ない「廃嫡制度」を採用して、記録にも出ない制度を敷いていた。

    この様に上記の経緯は、何時、又、「準継承族としての立場」を課せられるかも知れない「掟」があって、「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」としていたが、この事がそれは何時か一挙に「青木氏の滅亡」をも意味するか認識していた証でもあり、戦々恐々としていた事を物語る。

    それが「孝謙天皇期」に遂に再び訪れたという事に成ったのであろう。
    故に、「志紀真人族」の「第二世族」は全員が「無冠」を主張し、「施基皇子」が定めた「青木氏族の氏是」を「第二世族」に依ってより強化されたものと理解する。

    恐らくは、そもそも、多くの皇子の中で「施基皇子」だけが「天武期の吉野盟約」にも、「あらゆる政争」にもただ一人だけ参加しなかった事から観ても判り、従って、この「青木氏の氏是」は「施基皇子の生き様」を示す「施基皇子の遺言」と捉えてられている。
    これは、「撰善言司」に成っていた事でも云える。
    つまり、筆者は、当初から、つまり、「施基皇子の代」から持っていた「戦々恐々論説」であり、「準継承族」としての「名誉的な自惚れ」は無かったと観ている。
    だから、「嵯峨期」には一族の出自元・実家先でありながら、この様な場合に依っては潰される可能性もある「反抗態度」に出たと考えている。

    故に、裏を返せば、「天武天皇期」には、「草壁皇太子」や「高市皇太子」より三段階も上位にある程に信頼され、「天武天皇崩御」の「葬儀人」にも選ばれた所以でもあろう。
    更には、「葬儀人」に相当する「持統天皇の造御陵長官」、「文武天皇の嬪宮」も務めた人物でもある。
    この様に全ての人からその「人格や品格」を信頼されていたからこそ「法律の骨格」と成る調査をも任され「撰善言司」にも成っている。
    「吉野盟約の不参加」が指し示している。
    ところが、この様に「立場」を不安定にしない為にも執っていた”「準継承族」としての「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」”が逆に痣と成ったのである。

    これは、「孝謙天皇の行為」や「続日本紀の編集の経緯」にも表れている。

    その事に付いて「血筋」、即ち、「血筋が起こす悲劇」として論じる。

    そこでそもそも、この「続日本紀」とは、「六国史」の内の一つ「日本書紀」に続く「史書」でもあり、文武期の697年間から始まり最後は791年までの事を編纂したもので、その多くは「桓武天皇期」に完成されたものであるが、「撰善言収書」はこの「編集の資料」にも成ったとされ、且つ、「日本初の完全法令書」の「大宝律令(701年)の参考書」にも成ったとされている。


    さて、ここ迄の議論で、何で「伊勢青木氏」が「天皇家」も含むどの「氏族」よりも早く完全に近い形で「劣性遺伝による弊害の防止」の「血縁制度」を驚く速さで敷けたのかと云う“「疑問A」”がある。

    そもそも、これは「賜姓族」であった為に「慣習仕来り掟」に縛られた中ではそう簡単に進む話ではない。
    そして、もう一つの「疑問」は、何で「信濃青木氏」は血縁を含む「伊勢との繋がり」を迷うことなく即座に強く持ったかと云う“「疑問B」”のこの事である。

    筆者は、この上記の「二つの疑問AB」は連動していたと観ている。

    それには、つまり、上記の通り「史書」や「律令」に影響を与えたくらいのものであったとすれば“「撰善言司」“が大きく関わっていたと観ているのである。

    全国地方を歩き廻り得た「善治」の中には、「家族を構成する血縁の事」も含まれていて、「天武天皇」を含む「三人の葬儀人」を務めたとする驚くべき「長寿と名誉」を得た「施基皇子」と、その全ての「二世族」は、この「施基皇子の知識」と「考え方」を反故にする事は先ず無かったと観ている。
    その上で或いは、その「撰善言司の資料」は、或いは、「撰善言収書」の「写し」が後々まで遺されていた可能性があって、それを「二世族」が観てよいところを引き出し採用し、骨格化して作り上げたものであると観る。
    それが「短期で反映された根拠」であって、且つ「血縁組織制度」であったと観ている。

    (注釈 口伝に依れば、古書の殆どは「消失」としているので、自宅か菩提寺の何れかに保管されていて、これらの関係する資料は二度の火災の何れかで焼失したと観られる。
    本来は、「青木氏族」に関わる執事役は「菩提寺」・「撰善言収書」の「写し」か、神明社の「守護神」・「撰善言収書」の「本書」の保管であるから何れかにあったと観られるが、「本書」は可能性が低いと観られる。)

    故に、「施基皇子」の「白壁王(光仁天皇)」の子供の「山部王(桓武天皇)」、つまり、「孫」がその環境に育った事もあって、この「祖父の事」と「祖父の青木氏の事」を書いた「日本書紀」に続く歴史書の「続日本紀」を強い熱意を以って完全に仕上げたと観ている。

    そもそも、「青木氏の歴史観」に関わるこの「続日本紀の編集経緯の件」ではあるが、これは、年数にすれば約95年も掛かったものであり、この経緯からすると放置していれば完成は出来ない事でもあった。
    敢えて“仕上げた”とするからには、“それなりの強い意”があった事を示す。
    何故ならば、この「続日本紀」は、当初は、「文武期以降の事から孝謙天皇期までの事」を偏纂しようとしたものである。

    然し、編纂開始の時期の「第一期」は、「淳仁天皇(760年頃)」からでその間に政争等色々な出来事などに依って「中止」と成る等の経緯と成った。
    この「外部勢力」を巻き込んだ「天皇家内部の政争」は、「外子王の淳仁天皇の正統性」を作り上げる事への「孝謙上皇(称徳天皇)の反発」にあったと観られる。
    然し、この「反発」がその事に依る「中止の原因」と成った。

    ところが、「第二期」としては、「光仁天皇」が「続日本紀の編集」を再度に命じたが、ところが、更には「編集者の反抗」を受け、更には「編集した資料」が「編者らの懐疑的な行為」により「紛失する等の事」が起こり、矢張り、未だ「孝謙天皇期の事」を引きずる論調が強く編集途中で有耶無耶にされ「停止」してしまった。

    然し、「第三期」としては、「桓武天皇」が「父の意」を受けて「桓武期の途中までの内容」として再編纂する様に命じ、それも在位中の「天皇の権威」を背景に、遂には、「編集」に対する「紆余曲折」の末に完成させたものである。

    最早、この段階では「血筋の正統性」の議論は霧消し、編集は加速したのである。

    これらの「三つの期」を観ても、一つには明らかに「光仁天皇と桓武天皇」は「施基皇子族の天皇期」の「孝謙天皇の真意」を継承して「歴史的な証明」を成し遂げようとしたと観ている。

    第一期は、「外子王の淳仁天皇」の「文武期からの正統性」を「歴史書」にして遺そうとした事でもある。
    然し、「青木氏族」としても、且つ後勘としても、「四世族の傍系の外子王」である限りは「血縁の正統性」には無理があった事は否めないと考える。

    「第二期」と「第三期」は、「孝謙天皇の意」を得て「血筋」を「天智期からの施基皇子族」の原点に戻して「天皇の正統性」を主張とした「歴史書の編纂」でもあった。

    当時は、急激に100年程度も戻った「正統な血筋に戻す事」への「抵抗」があったと観られる。
    それが「賜姓臣下族」で「朝臣族」の最高位にあった「施基皇子」でありながらも、「四世族外」の「王位」を持たない「二世族の血筋への疑問」にあったと観られ、その「抵抗」を大きく受けたと観える。

    然し、「別の視点」では、「孝謙天皇期」に於いては、他に正統な後継者の皇子が居ない限りは“「外子王」(四世族)”である限りに於いては、「四世族」は「大化期の王位の条件」である以上は、最早、「最高の正統性」を持っていた事も否めない。
    「大化改新」の「四世族王位制」からの論調とすれば、「外子王の淳仁天皇」としては「正統性」があるとの主張である。

    それは、「四世族制の王位」の論調にあった。
    然し、“「外子王」”は、「直系族」では無い「四世族内の傍系族」であるとすると、「血筋論」としては「直系族」では無い事から外れる。

    この”「四世族の定義」”が明確では無かった事から起こった問題であって、原則論からすると先ずは「直系族論」であろう。
    然し、この時は、最早、この「直系族」は全く無かったのであるから、「四世族王位論」を以って主張される事にも一理はある。
    (「青木氏の氏是」がある限りは「青木氏族」としてはそうで合って欲しかった。現実に一族は皆その様に動いた。)

    そうすると、「孝謙天皇」は、この「直系族論」を採ったとすると、そうすれば「天智・天武期」に戻す以外には無く成る。
    故に、「施基皇子の族 青木氏族」か「川島皇子の族 佐々木氏族」かと云う事に成り、「井上内親王の嫁ぎ先」に「白羽の矢」が立て優先するは必然の事と成る。
    況してや、何れの派にも属さない「天下の人格者」でもあった「施基皇子族」を選ぶであろう事は間違いはない。
    この事を事前に察知していた「施基皇子族の二世族」は、この「醜い政争」に巻き込まれない様に警戒して「無冠」を望んでいた事は判る。

    (注釈 氏是の説明と共に口伝でも伝わる事である。)

    それが、「施基皇子」と「井上内親王」と云う「キーワード」に左右されたのである。
    これが、その中でも「井上内親王」を「后」とした「四男の白壁王」は、「歴史書や書物」でも見られる様に「無能者」を装う程に、この「血筋の正統性の政争」に巻き込まれる事を大いに嫌っていた。
    然し、「彼らの意」に反してこれが「最高手段」とした「孝謙天皇の主張」であった。

    第三期は、当然に「光仁天皇の意」を下に「桓武期までの歴史書」にする事で「天皇の正統性」を完成させたものである。
    「多くの説」があるにしても、当の「青木氏族」からの論調としては、「孝謙天皇の意」を完成さる事で「正統な天皇制」と云う「国体の有様」を完成させたという事であろう。
    それは、況や、百々の詰りは本論のこの「血筋という事」に成り得る。
    更に況や、「血筋優先論」であり、「直系族論」であった。

    故に、何れも「天皇の正統性の主張」であり、「日本書紀の文武期までの歴史書」に繋いで、「続日本紀」とした事でも判る。
    「孝謙天皇」は、この事に拘り「男系継承者」が無く成った事から、最早、「外子王の系統」にせずに「施基皇子」のところまでの「正統な処に戻そうとする葛藤行為」であった事が判る。

    そこで、初めて、“何で「直近の文武期」には敢えて戻さなかったか”という事でも理解できる。
    通常的には考えれば、正統な「血筋優先論」であり、「直系族論」であれば戻せた筈であろう。
    然し、直ぐには「抵抗」を受け戻せなかったのである。

    それは、次ぎの事に関わる。
    一つ目は、本書の「編纂目的」は「日本書紀」に書かれた内容に繋ぐ「歴史書の編纂」にあり文武期からの編纂と成る事
    二つ目は、「四世族」ではあるが「文武天皇」は、「天皇の子」ではなく「草壁皇子の子」で「王位」である事

    (注釈 「草壁皇太子」は早没である事から「王位」であるが「持統天皇の引上げ」で「天皇」と成る。
    第二皇太子の高市皇子も続けて没する。)

    以上とすると、この論理からすると、文武期に戻す事は、「皇子の子」でない「外子王」の「舎人親王の子」の「淳仁天皇系」でも好いという事にも成り得る。

    これでは、論理的に矛盾して「孝謙天皇の主張」に反する事に成る。
    故に、その「施基皇子の志紀真人族」と云われる「氏族の経緯」を「歴史文書」に仕上げ「正統性の証」を建てたかったと観ている。

    況や、「施基皇子族」に戻す事で「二つの懸案事項」は解消される事に成り得るし、「聖武天皇の皇女」の「井上内親王」と云う「切り札」でより「継承性」は成立する事に成る。
    これにて、「孝謙天皇の主張」を押し通したと観ているのである。

    (注釈 平安期は全ての天皇には自分の皇子としての「出自の正統性の確立」を成すその傾向があった。)

    そもそも、「続日本紀の編集」を始めたのは「淳仁天皇」(47代)の本人であったが、「中止」と成った原因は「論争を含む政争」のここにあって、それを「書紀化する事」で成立する。
    注釈としてつまりは、「自らの正統性」を御世に作り上げようとした「淳仁天皇」はこの行為は「背任行為」と観られ犯罪と捉えられて、何と「廃帝」と成り、「子孫」を一切を遺させずに「淡路配流罪の刑」を受ける事と成り失敗する。

    この事でも「外子王の四世族制」は排除し抹殺し、「直系族性の四世族制」を成立させた事にも成る。
    つまりは、”基本は直系族である”と云う合わせて「定義の成立劇」でもあった。

    そもそも、「二世族」は「青木氏の氏是」を護り通し、「無冠」でなければ、「天皇家の醜い政争」に巻き込まれ「氏の滅亡」を覚悟しなければ成らなくなり、遂にはその為には“「厳しい廃嫡」”を常に実行しなければならなく成る。
    そうすると、この事、即ち「純潔」だけを護り通す事を避けねばならない事に成る。
    簡単に云えば、そこで、「表向き」は「四世族」に縛られながらも何とかして「常に外の血を入れる事の制度」が「青木氏族」の中に絶対的に必要に成り求められた事に成る。
    そうでなければ、「優性の血縁維持」は成し得ない。
    (但し、本論の意味合いは敢えて「優生」としない。)

    「続日本紀の編纂」に依って、この結果、「青木氏族に課せられた事」と云えば、「直系族性の四世族制」を成立した以上は、その「基盤と成った青木氏族(所謂、氏元)」は、「青木氏族の氏是」(施基皇子の遺言説)に反しても、体面上でもその「血縁性を確立させる必要に迫られた事」に成る。
    それが、上記した「純潔性の血縁に関する論調」であった。
    嫌々ながらも今まで以上にその「責任」に攻め立てられた事に成った。
    これは当に、「二律背反」であった。
    「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」は背反する。

    そこで「逃れ得ない背反」にどの様に対処するかに掛かっていた。
    「青木氏族」に執っては「有史来の極めて苦しい立場」に置かれていた事が判る。

    況してや、この時期は、「二足の草鞋策」で自ら「和紙」を開発し「部制度」による「余剰品の市場放出の役務」を朝廷より請負い「商いの基礎」が始まった時期でもありながら、「財政的負担」もより起こった。
    「天皇家の氏元の責任」としても「賜姓五役」もより課せられた事に成った。

    「青木氏族の存続」としては是非に逃れたい時期ではあった筈で、「天皇家の氏元の責任」だけでは「氏の存続」は成し得ず何の利益にもならない。
    あるは「名誉と権威」であろうが、「氏存続」と「商いの基礎」には邪魔であろう。

    つまりは、そもそも、「商い」無くしては次の事は成し得ない事が起こった。
    「青木氏の氏是の順守」
    「天皇家の氏元の責任」
    「賜姓五役の遂行」

    以上のこの三つは何事も成し得ないのである。
    これが「唯一の解決策」であった事に成る。
    況してや、上記した様に、更にこの後に一族の「嵯峨期」に於いては「皇親族や賜姓族」も外されたのであるから、「唯一の解決策」があったとしても、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」は、「氏族存続」の為には「放棄する事」以外には無く成る。

    その結果、「青木氏族の財力」を背景とした「天皇家の財政的能力」は低下し、「直系族」としての「四世族の仁明天皇」で終わる結果と成ったのであろう。

    余談ではあるが、論じておく必要がここである。
    これは一面では「嵯峨天皇の失敗」とも観える。
    筆者は、この説を採っているが、何故に、「二足の草鞋策」を採っていた事は、「嵯峨天皇」は子供頃から観ていた筈でありながら、且つ、「権威」は「天皇」にそもそもあり、残るは「権威を強める財源の裏打ち」で、成せるものであると判らなかったのかである。

    筆者は、戦略的に観てこれを「嵯峨天皇」は見落とした事と観ている。
    何時の世も「権威」は「権威」だけで保てるものではない。
    「朝廷」より敢えて「二足の草鞋策」が、「部制度の処理」として「天智天武期」から「青木氏族」だけに許されている事を鑑みれば、何故にこの「特権」を認可したかは容易に判る。
    「嵯峨天皇」はこんな「簡単な事」を理解できなかったのかと云う疑問である。
    これは特別に利発な者でなくても誰でも判る事であろう。

    「桓武天皇と平城天皇」に対抗して「政治路線」の「政争」をしてまで「青木氏族」を外した事は理解が出来ない。

    注釈として、他面で見れば、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに苦しんでいるのを観て、外した事も考えられるが、そうだとするとこの「判断」は感情的で論理性に欠ける。
    結果として、「財政力」が無く成り、「朝廷の財政的な負担」から、「皇子族」は「真人族四人」まで残して、後は「賜姓源氏族」にして「権威も財政も武力」も無しに世に放り出したのかであり、あるのは「真人族であったとする名誉」のみに成って仕舞った。
    これでは「賜姓源氏族」は生きて行くことは到底に無理であり、「賜姓源氏族」は全国に飛散して「傍系族」に成って「不祥な姓族」を多く作って仕舞った原因と成った。
    つまり、「青木氏族や佐々木氏族」の様には成らず子孫を全く遺せ無かった原因とも成ったのである。
    遺せていれば「外縁族」に左右されずに、「天皇家の裾野」は強く成り、「継承者を廻る争い」を興さずに「繁栄の道」を辿っていた筈であると観る。

    (注釈 その結果、何が起こったかと云うと、「11家11流の賜姓源氏」の内、四氏(嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏)を除いて地方に散り、又、僧侶に成るなどして家を興して子孫を遺す事は出来なかった。
    主に、彼らは天智期の「坂東八平氏」を頼ったし、各地の「門跡院」や「比叡山]や「善光寺」に入山してしまった。
    主に何とか遺された近江の土豪と成っていた「嵯峨源氏」は「清和源氏」に吸収され、「宇多源氏」は東北域にて「佐々木氏(神職住職系)」を名乗り、「村上源氏」は平家に吸収されるに至る。)


    「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに確かに苦しんだが、然し、これを糧に「仁明天皇期」では、「二足の草鞋策」に完全に傾倒して「生き残り策」を推進し、「氏存続を目的」として朝廷より一時手を引いた。

    この事に付いて「青木氏の資料」によれば、「嵯峨天皇期(809−823年頃)」には「余剰品払い出し業」の「商い」より離反し独立し、「仁明天皇期(833−850年頃)」には、「五家五流の青木氏族」と共に「和紙殖産」で何とか「氏族」を更に強化して興したとある。
    そして、950年頃には、「和紙以外」にも「商い」を成立させ拡げ、「補完族の青木氏」の助けも受けて1025年頃には「総合商社」にて「宋貿易」を行う等して拡大を続けている。
    遂には、「青木氏族の安定期」の「鎌倉期」を経て、「室町期(1360年頃以降)」には、戦乱期の中でも「紙文化の発展」で「巨万の富」を「二つの青木氏族」は獲得し、遂には、これを元手に「各種の殖産」による「商い」を本格化させて前段の江戸期に入る。

    この「商いの経緯の事」から、70年−100年位で何度かの「商いの変革期」を迎えている。
    筆者は、この「商いの変革期」は同時に「青木氏族の変革期」にも重複し、合わせて「血縁性の変革期」にも符合していると「青木氏の歴史観」として観ている。

    結局は、「大きな変革期」の「嵯峨天皇」の「青木氏に対する仕打ち」が逆に「青木氏族」を奮い立たせ成功裏に導いていたとも解く。

    故に、「上記の事の経緯」を敢えて論じたのには,「血縁の道筋」が「単なる優劣の弊害」だけでの事で収まると云うものでは無いと解いている。
    これが同時に、「血縁の筋道」を作ったと考えているのである。
    幾ら「血縁の筋道」と唱えても、上記の経緯に示す様に「財政的裏打ち」が無ければ成し得なかった筈であるし、将又、逆の事も云える。

    上記の論説の通り、つまりは、この「商いの変革期」を無くしては「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの「三つの事」は何事も成し得なかったのである。
    つまり、少なくとも「前段の論説」の「江戸初期前の前後」までは、最低限に於いてこの「三つの事」は成し得ていた事に成る。

    ところが、前段の江戸初期の前後の「商業組合の創設」や「地産の殖産」が始まると、その「血縁性」や「優性の血筋」の課題は、上記の「三つの事」の目的では最早無く成っていたと云う事である。

    それは、この「三つの事」、即ち、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の目的は薄らいでいたという事にも成っていたのである。
    これは当然と云えば当然ではあるが、取り分け、残るは「青木氏の氏是の順守」だけであった。
    これは「青木氏の先祖からの口伝や遺資料」等をある程度伝え遺していた「曽祖父(江戸期)」や、これを受け継いだ「祖父の忘備録」等にも書かれている事でもある。
    この「先祖の口伝や忘備録や遺資料」等に依れば、後は、「家柄を示す事」だけであって、それを使い分けていた事が良く判る。

    (注釈 「祖父の忘備録」は明治35年の火災で多くの先祖を物語る資料関係を焼失して、それを何とか再現せんとして記録に残した資料で、次いで筆者が歴史好きの幼少の頃から再現を試みてここまで遺せた。70年以上は所要した。
    そもそも、「伊勢青木氏」には、古来からの「青木氏族に関する古書」等を所蔵する「専用の蔵」があって、この蔵の事を「かせ蔵・架世蔵」と呼んでいたらしい。
    奈良期からの「商い等に関わる古書」は「かせ蔵」に、「青木氏族に関わる古書や遺品」は「菩提寺蔵」に、「青木氏の伝統に関する古書」は「神明社蔵」に夫々分けて保管されていた事が判っている。)

    唯、周囲が「商いの伊勢屋」><「郷氏の青木氏族」の関係をどの様に観るか、どう扱うかに依るとしていると「先祖の口伝を伝える祖父」等は云う。
    “事を殊更に拘るな。粛々と青木氏の中で行えばよい”としている。
    つまりは、唯一つの「伝統の先祖の遺言」の“「青木氏族の氏是」に従え“であろう。

    それ等の意味からすると、“時代に従い、「商い」に重点が移りつつある事から「商いの伊勢屋」と「郷氏の青木氏族」との「使い分け」”に代わって行った事らしい。
    それだけに、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の「役柄」の「三つの課せられた事」も次第に色あせて来たらしい。

    (注釈 唯、“「朝廷への献納金」をどの様に評価するか“は、「青木氏族」に関わる事であって、「朝廷の献納金」は「明治3年」に終わった事が判る。
    これの完全終結は「伊勢騒乱」終了後であったらしい。
    始まりは、「江戸初期」と「室町期中期」と「鎌倉期末期」で、「平安期」は末期に中止している。
    この「四つの期」がどのくらいの期間続いたかは「商記録」には無いが、「開始した期の意味」は判る。

    江戸期初期は、朝廷が幕府に締め上げられていた時期と享保の改革期までの範囲
    室町期中期は、紙文化と朝廷の荒廃時期までの範囲
    鎌倉期末期は、元寇の役の朝廷の荒廃期までの範囲
    平安期末期は、頼政の朝廷に関わった時期までの範囲

    そもそも、「青木氏族」に執っては、最早、継続的に献納する意味が無く、その都度に献納するという体制を敷いていた事が判る。
    恐らくは、最早、嵯峨期からは、「青木氏族の認識」は下記の理由に従っていた事から、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の昔の「役柄」等を持ち出され頼ってきて、密かに「献納」を依頼されたと観られる。故に断続的であったのであろう。
    「頼政の乱」と「明治期の伊勢騒乱」ではこの「献納の効果」は確かにあった。)

    その上に、江戸初期に「祖先神の神明社」も「密教の菩提寺」も江戸幕府に引き渡した事からも「権威性」は更に低下し、最早、「名誉」のみのものと成っていた事からも判る。
    残るは、上記の“この名誉も周りが認めるものであって「青木氏族」自らが認めるものではない”とし、何度も云うがあくまでも“「青木氏族の氏是」に従え“が物語るものであって、依って「商い」が江戸期前後には、「名誉に頼らない体質」が、最早、大きく占めていた事に成る。
    前段で論じた「享保の改革」の「伊勢屋の貢献の経緯」からも、「青木氏族」と云うよりは実質は“「伊勢屋」”であったろう。

    つまりは、それまでは、それなりに「商いの伊勢屋」<「郷氏の青木氏族」の関係を維持していたが、室町期中期頃からは、「商いの伊勢屋」>「郷氏の青木氏族」の関係に変わって行った事の経緯に成る。
    大概は「紙文化の発展」を起点に依って「変革」を遂げていったのであろう。

    「殖産」を、況や、「巨万の富」を獲得した上で、これをどの様に使うかの問いに対して「商いで答える方法」を模索し拡大させる方法を導き出したのである。
    それを基盤として「今後を作る事」が「青木氏族」に求められていたのである。

    それは、「四世族制」、つまり「四掟」(「ロとハのリスク」を無くす血縁の掟)を護りながらも、それから離れた「女系族」に重点を置いて江戸前後期には、「地元と信濃」との「郷士衆との繋がり」に重点を置いたのである。
    これで、「大殖産」を進める「青木氏族の地盤」が、「伊勢秀郷流一門の力」を借りて「伊勢全域」は元より「信濃域」までに広げて固めたという事に成る。
    これで上段の「姓制」を置かずとも「清らかな血縁性」は「源流の如し」に成ったのである。

    云わずと知れた同じ課題、即ち、「三つの事」を抱えていた「信濃青木氏族」が「殖産の商い」と共に「伊勢青木氏族」との「血縁の繋がり」を無制限にして一体化したという事に成る所以である。

    当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
    云うまでも無いが、この「女系族の血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
    これにて「何らかの女系族の血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
    そして、それが、上段で論じた「女系を基本とする人の類」に従った事にあって、況や、「二つの青木氏族」の「生き残り策」は“「女系族策」”であったと説いている。

    (注釈 「秀郷流青木氏」はこの「女系族策と姓族策」で生き残り、「賜姓臣下族青木氏」は「女系族策」だけにあった事が云え、それだけに「直系族」は伊勢と信濃だけ、「傍系族」は近江と甲斐と成って仕舞ったと云える。
    「姓族策」は幕府や御三家の家臣化に依る。
    「賜姓臣下族」は「姓族策」を採らない以上は「郷氏」を継続した。)

    その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
    逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

    (注釈 その「女系族」を物語るものとして、「四家制度の女墓」(20家)がある。
    これに依ると、ある程度、主流としては「秀郷流青木氏」と「地元郷士」と「信濃青木氏」との「女系の入」が判る。
    「女系の出」は、「菩提寺の資料消失」で判り難いが、この女墓の「女系の入」があると云う事は、同じ範囲で「女系の出」があったと云う事を示す。
    後は、「女墓や関係族の手紙や遺資料」から読み取ると、「伊勢近域の国」を中心に摂津、近江、駿河、伊豆、越前、越後、武蔵、常陸、下総などの「女系の入」が判る。
    唯、どの様な理由なのか「甲斐と美濃」だけが「女系の出入」がよく判っていない。
    「美濃」は早期に滅亡した事、「甲斐」は「独自性」が強く「付き合い」が少なかった事かも知れない。)


    奈良期の施基皇子期から何度も紆余曲折しながら「四家制度の範囲」で「相互に女系の出入」が頻繁にあった事は概にして判る。
    殆ど、「出入の女系血縁」に於いては「一体化に近い形」にあったと観られる「秀郷流青木氏」の「遺産伝の伝統資料」が多く世に出ていれば更に判るとも考えられるが、最早、無理であろう。)

    (注釈 「近江佐々木氏」は早い段階で「秀郷流青木氏の血縁関係の事(青木氏族)」を研究されていて、この資料が非常に参考に成った。
    と云う事は、「近江佐々木氏」の「賜姓臣下族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」との「血縁関係」も把握していた事に成る。
    個人情報に関わるので現存する「近江佐々木氏関係の血縁関係」からのものはここで網羅できない。
    「近江佐々木氏の古書の研究書」が当家にある事は「女系に於いて充分な血縁関係」があった事を裏付ける。)

    次の段では論じるが、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
    「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
    これに付いて次段で論じる。


    > 「伝統シリーズ 40」に続く


      [No.357] Re:「青木氏の伝統 38」−「青木氏の歴史観−11」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/10/13(Fri) 12:10:57  

    > 「伝統シリーズ−37」の末尾



    >さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
    >そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸くが、これが射和と青木氏の経済的な関係で大きく影響していたので「射和と殖産の関係」で次ぎに先に論じる。
    >実は大いに影響していたのである。


    > 「伝統シリーズ 38」に続く

    そもそも、「射和」と云う松阪の一部の地域には、商いを前提とする地域では無かった。
    前段でも論じたが「伊勢郷士」、取り分け、「松阪郷士」(A)が住む普通の土地柄であった。
    ところが、この「射和郷士」は、「青木氏の女系」の「縁者関係の郷士」であった為に無力であった。
    そこで室町末期に織田氏の支配下に入り、次ぎに秀吉の豊臣氏の支配下に入った。
    この時、織田氏から伊勢制圧に功績のあった事から、ここを「近江の秀郷流藤原氏」の「蒲生氏郷」に任せ、彼らは「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「ヨーロッパ風の商業都市」を構築した。
    この「商業都市の構築」に倣って「近江武士」から転身した「近江商人」(B)を呼び寄せて「伊勢商人」と共に発展させようとした
    然し、織田氏が倒れ秀吉の代に成ると「浄土真宗の顕如一派」が秀吉に反抗し、「紀州征伐」として、この「門徒宗」を徹底掃討した。
    追われた紀州の「門徒衆の下級武士」の一部が「不入の権」に守られた「伊勢」に逃げ込んできた。
    見かねた「青木氏と松阪郷士(A)」は紀州の「異教の彼ら門徒衆(C)」を密かに「射和地域」に匿った。
    そして、彼らに生きて行く為に“「商い」”を教え「青木氏の仏施」で導いた。

    然し、ここには「青木氏の苦労」があった。
    ところが、その最中、「日野城主」から「松阪城」を築城しその藩主に成った「蒲生氏郷」は、再び秀郷一族一門の多い事を背景に「陸奥黒川藩藩主」として秀吉に依って「北の固め」を強化する為に移封された。
    この事で「蒲生氏郷の故郷」の「近江」から呼び寄せた「伊勢の近江商人(B)」は「強い背景」を失い困窮を極めた。
    そこで、困窮の中で無謀にも江戸期に入り「江戸」に出て一旗を挙げようとした。
    ところが、享保期前は相続く飢饉や震災などで経済は著しく疲弊し最悪と成り、彼ら「伊勢の近江商人(B)」は、再び故郷の援護の得られる「近江」には戻らずに不思議(1 下記)に「松阪」に戻った。
    この間の約60年後には、その結果、彼らは多くは衰退したが、その一部は「名と意地」を捨て「青木氏X)」と「射和郷士(A)」等の庇護の下で何とか息を繋ぎ、「射和地域」の中で「住み分け」(2)をして「商い」(近江商人(B))に関わった。

    享保期に入り「享保の改革」に依って「江戸の景気」は回復したところで、「青木氏の庇護(江戸の伊勢屋)」の中で、貧困に喘いでいた「資本力(財力)」の無い彼ら「近江商人(B)」は、「江戸の伊勢屋」を辿って再挑戦のために「射和」から「江戸」に出た。

    (注釈 その「松阪」での「貧困の状況」が資料として遺されていて、代表する資料として最初に江戸に出て失敗した親は老いて病気と成り、「その日暮らしの事」が書かれている。
    多くはこの様であった様である。)

    又、「射和」で保護された「紀州門徒衆(C)」は江戸期には解放され、「商い」を覚えた彼らも同じく一部は「伊勢」の「近江商人(B)」の「商人」と共に江戸に出た。
    (注釈 結果は成功しなかった。「射和」に戻ったかは判らない。)

    これら(A)と(B)と(C)の「射和郷士(A」)の「商人」は、室町期に築いた巨万のその財力で伊勢全体を「殖産と商業組合」で固めた「青木氏(X)」の庇護の下にあった。
    そして、二度目には江戸での「近江商人(B)」の「子供等の成功」で“「松阪商人」”と享保期以降に呼ばれる様に成った。

    (注釈 吉宗の「享保の改革」に完全補完した「青木氏(X) (伊勢屋)」が下地と成り「松阪商人」(AとBとC)がこの様な経緯で生まれた。
    「江戸での仏施」の「質の江戸伊勢屋(青木氏の商業組合組織)」が低利で「彼らの出店」を促した。)

    つまり、「伊勢商人」の中の一つの“「松阪商人」”とは、「松阪商人(青木氏)」と「射和商人」と更に区分けされているが、そのルーツは、享保期末期以降に「江戸」で「商い」に成功したその他の商人も含めて「伊勢商人(享保期の後半期)」と「松阪商人(享保期の前半期)」と区分けして呼ばれる様に成った。

    ところが、この状況の中で「青木氏」に執って「近江商人(B)の反目(意地と誇り)」と共に、更に次の様な困った事があった。

    そもそも、「紀州門徒衆の(C)」は、その元は「紀州の郷士武士」でもあり、「商人」として必要な「柔軟性」に欠け、「肩肘」を張った者等であった。
    又、その「心情の元」と成る「彼らの宗派」の影響もあって、考え方にも異なる事もあったが、実に反目に近い形で閉鎖的で「松阪郷士・射和郷士の(A)」と「近江商人の(B)」とも融合しようとしなかった。
    勿論、「松阪」を仕切っている「青木氏(X)」とも大きく距離を置いた。
    又、「近江商人(B)」も「紀州門徒衆(C)(異教と異郷)」程ではないが閉鎖的で、取り分け、「青木氏(X)」とは「彼らの家柄の誇り」もあるのか、「紀州門徒宗(C)(異教と異郷)」との距離感と違って、殆ど、「親しみの無い冷めた距離観」を取っていた。

    注釈として そもそも、「松阪」に来た「近江商人」のそのルーツは、「近江佐々木氏(始祖 川島皇子)」や「近江の藤原氏北家秀郷一門」の傍系ではあるが、その“「末裔」”とも云われ、かなりの高い「誇り」は持っていた。
    この「北伊勢」には、「北家近江藤原秀郷一門」の血筋と、「藤原氏北家宗家の血筋」もを引く「伊勢秀郷流青木氏」が存在していた。
    この近江の「出自の氏郷」の「蒲生氏の血筋」が、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」に入る等の事もあって、「青木氏(X)」は勿論の事、同じ家柄家筋を持つ「射和郷士(A)」、つまり、「青木氏の女系族」にも肩を活からせた「誇り」を持っていたのではないかと考えられる。
    今は「商人」と成り得ていたとしても、“武士は食わねど爪楊枝”であったのであろう。

    (注釈 「紀州門徒衆(C)」も紀州郷士として貧困の中で生きて行く為に、紀州城下門前町の装飾や漆職人としても働いていた。)

    「青木氏(X)」として援護するにしても何れも「難しい相手」であった筈である。
    何か「適格な対応」が必要であった。
    現実に、彼ら「近江商人(B)」は、「江戸」で成功後は、「青木氏(X)」の「殖産の商い」を物語る資料関係には「近江の一字」も全く出て来ない。

    この事から検証すると、最初の「江戸での失敗」で「近江に帰らなかった理由」(不思議 1)は読み取れる。
    それは、次ぎの心理(計算された維持)が働いたのではないか。

    近江に帰れば、「氏家制度」の中で家柄家筋の良い「二足の草鞋策」を敷く「本家筋の庇護」を受けて生活を余儀なくされる。
    恐らくは、彼らの下である程度の生活は維持されたとしも次ぎのチャンスは最早ない。
    彼らの天下に誇る「宗家筋」、或いは、「本家筋」は、世間に対して「その立場」を失うとして絶対認めないであろう。
    それよりは「貧困」を得ても「青木氏(X)の庇護下」の中でも「自由の利く松阪」で生き残りを選んだ事に成るだろ。
    だから、より「青木氏(X)」に対して「意地を張った誇り」の為にも縛られることのない範囲の「距離感」を置くことで「自由度」を高めようとしたのではないか。
    況や、故に、「二度目の成功裏」には、「武士」でありながらも「商人」であるとし、「道理や仁義」の欠くこの「不思議な距離感」を「最大限」にしたと考えられ、この「諸行無常の道」を選んだのであろう。


    さて、「近江商人」は兎も角も、「松阪商人の本題」に戻るが、この「松阪商人」の(AとBとC)に前段の「殖産に依って増えて行く販売(営業力)」を担わしたのである。
    そして、この「難しい環境」の中で「青木氏(X)」は、それぞれに適した「殖産の販売力の役割」を与えようとした。(適格な対応)

    当然に「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」にあった「営業の役割」を考えて割り振らねばならない事に成った。

    その役割は、次ぎの通りであった。

    「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
    「松阪木綿(綿油含む)」
    「松阪絹布(松阪紬)」

    以上の三つであった。

    ところが、更には彼らはこの時期は未だ「商い」に充分に馴染んでいなかった。
    貧困に喘いでいた近江から来た「近江商人(B)」を除いては、「青木氏」と繋がりのある「(A)の射和郷士衆」も、又、救った「門徒衆の郷士(C)」の「紀州の下級武士」にも「商い」のそのものには無縁であった。

    唯、「(A)の射和郷士衆」には、江戸期前からの「青木氏部の関係」もあって生産する事に対する経験は深く持っていた。
    唯、生産は作業場などを作り「人」を雇いする事で可能であったが「販売」はどうかとするとそこまではそもそも「身分家柄上」は無理であった。
    取り分け、奈良期より伊勢の「楮和紙の生産」には開発段階から「青木氏(X)」と共に関わっていた何事にも変え難い経緯を持っている。
    どちらかと云うと、今で云う「生産技術者」であった。

    当然に、彼らに、「殖産」の「伊勢和紙(松阪紙型含む)」、「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」の販売に携わらせたという事に成るが、必然的に「伊勢和紙」の主は「(A)の射和郷士衆」と成る。
    でも、“それで済むか”と云う話には成る。
    「(A)の射和郷士衆」は、「青木氏(X)」が「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」を支援をする以上は、「青木氏(X)」に代わってかなり「難しい事」ではあるが、「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の面倒も看る事にも成る。

    従って、後勘からの観ても、他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」も観ていただろう事は当然に解る。

    取り分け、「紀州門徒衆(C)」には、その「難しい性格や信条」から「商い」は疎か、将又、「生産のイロハ」から教える必要に迫られた筈で、説得から始まり教える事は「苦難の技」であったろう事は判る。
    助けられたとは云え「松阪郷士(A)」や「近江商人(B)」とは、当時の封建社会の社会慣習からして三者ともに同じ「郷士の身分」(「松阪郷士、近江郷士、紀州郷士」)であったとしても、そのルーツの「家柄家筋」には違いがあり過ぎる。
    「彼らの立場」からすると、これは全て「負い目」であり、委縮して僻んでも至し方は無いであろう。
    この事は逃れ得ない事であり間違いは無いであろう。

    そこで、兎も角も(A)と(B)と(C)の「商人」と成った彼らには「商記録等の内容」や「松阪に遺された資料」からも「状況証拠」として判る。

    では、問題はこの「三つの役割」をどの様に彼らに割り振ったに掛かってくる。
    無茶に割り振る事は出来なかった筈で、その「性格や信条」と「射和地域」の「住み分けの地域」や「地理条件」や「水利条件」などが働いた筈である。
    余り資料には成っていないのだが、大方は判る。

    そもそも、「松阪の射和地域」は次の様に極めて良好な位置にあった。
    当然にそれは「殖産と云う点」でも云える事でもある。

    先ず、資料関係から読み取ると、次ぎの様に成っていた。

    そもそも、「射和地域」は東の海側より「12Kmの位置(3里)」に存在する。
    「射和地区の範囲」は南北左右の「2Kmの範囲」である。
    「櫛田川」の川沿いの北側に位置し、櫛田川の入口よりも「12Kmの位置」にある。
    東側の港の荷上場や漁村から「西の位置」に存在する。
    南側に位置し、「宮川」とに接する「青木氏の生産の殖産地」の「玉城地域」とは、丁度、櫛田川と宮川を挟んで隣接する「南北の位置」に存在する。
    西隣には「名張地区」、その上の北側には「伊賀地区」の「生産線状」にあり、当然に、この「射和」の北隣は「司令塔」の「松阪地区」である。
    つまり、地形上は「鶴翼の陣形」で、鶴の翼に囲まれた中央には「射和」の「販売地区」が「三つの範囲」で存在する。
    これは「青木氏の殖産」の「コンビナート」であったと云える。

    既に、江戸初期には、「殖産の商いの戦略」として「近代的な体系」が「青木氏」等に依って確立していた事を示す。

    その「射和地域」は、「櫛田川の川洲」より「北側の平地」のほぼ中央(イとハの左右に村)には低い山があり、東西に伸びていて、そこから盆地の様に東西に横切る様に「平地の畑地」がある。
    そこから、北に山が東西に続く。
    この「山地の谷部」の「左右2か所」に明らかに「開発されたと観られる平地」が山際に存在し、そこに「村(ニ)」がある。
    そして、欠かせない「交通運輸の道」として南北のほぼ中央右寄りを縦に「熊野古道」が横切る。
    「住み分け」のみならず「交通の便」も含み「販売拠点」としては申し分ない位置にある。

    明らかに「鶴翼の陣形」にして「地形と水利」を利用して「殖産の販売拠点」として開発されたものである事が容易に判る。

    そこで、「鶴翼の販売拠点」の「射和地域」の「住み分け」は次の様に成っていた。

    (イ) 「松阪郷士(A)」は、左右、つまり、「東西2Kmの東側」に定住していた。
    (ハ) 「近江商人(B)」は、「東西2Kmの西側」に定住していた。
    (ニ) 「紀州門徒衆(C)」は、「西側の上の地域(山間地)」を東に向きに配置されていた。

    “「住み分け」”には、その地区には「菩提寺」、或いは「檀家寺」が伴う。

    この点で観てみると次の様に成る。

    (イ)の「松阪郷士(C)」は、古来より「松阪出自」であり「浄土宗」で密教の「菩提寺」
    (ロ)の「近江商人(B)」は、「近江出自の郷士」であり「天台宗」で密教の「菩提寺」
    (ハ)の「紀州門徒衆(C)」は、「紀州出自の郷士」で「浄土真宗」で顕教の「檀家寺」

    (イ)には、江戸期には「射和」の直ぐ東側に「青木氏の分寺」と「浄土宗寺」が存在している。

    恐らくは、ここが「青木氏系に近い縁戚関係」の「氏人」の「松阪郷士」がこの「分寺」に、その「他の郷士衆」は「浄土宗(A)」に帰依したと考えられる。

    (ロ)には、「松阪の南 射和寄り」には珍しく「天台宗の寺」が数寺存在していた。

    「明治期の寺分布」で観てみると、「天台宗」は松阪地区南には「数寺(四寺か)」が存在している。
    そもそも、江戸期以前の「松阪」は、古来より「密教浄土宗の聖域」で「不入の権」と共に「不可侵の地域」とされた。
    「伊勢神宮」が存在する為に混乱を避けるためにも「宗教的」にも保護され「浄土宗密教」のみが許されていた地域であった。

    (注釈 ここで「歴史観イ」として重要なのは、「浄土宗密教」とは、「古来の浄土観念」を「密教」として引き継いだ「古来宗教」であり、「神仏融合」の「宗教的概念」を指す。
    これを「法然」が「神仏」を分離し仏教の「浄土宗」として概念を「密教」としながらも一般化した。
    その前身とも云える。
    「五家五流の青木氏」や「近江系佐々木氏」がこれを引き継いだ。
    故に、両氏には「氏内の者」で「神職と住職」が共に多い所以でもある。
    従って、この「概念」で「伊勢神宮域」は少なくとも護られていた為に「伊勢松坂」には他宗派は原則は存在し得えない事に成る。)

    (注釈 「歴史観ロ」として重要なのは、唯、「朝廷の学問処」を務めていた武家貴族の「北畠氏」が室町期の世の乱れに乗じて「不入不倫の権」の禁令を破り、無防備な「伊勢」に侵入した。
    「北畠氏」にしてみれば、「侵入の大義」は表向きにはあった。
    それは、「戦国の世」に成り、流石に「伊勢」も「不入と不可侵の権」だけの名目では弱体化した「朝廷の威信」では守り切れなくなった。
    流石、「伊勢」を護る「青木氏」は「シンジケート」を「抑止力」として待ちながらも、この衰退の“勢いに勝ち得るのか”と云う事を心配に成った「北畠氏」は「伊勢(四日市の左域に御所設置)」に入ったと主張した。
    そして、建前上、伊勢に“「御所」”と銘打って支配して伊勢以外にも勢力を拡大した。)

    (注釈 「歴史観ハ」として重要なのは、この「北畠氏」は、戦国で敗れた武田氏の浪人等や秀郷一門の傍系の溢れた武士等を雇い家臣として「強固な武力集団」を構築した。
    その財源を平安末期からの各地の「名義貸しの荘園」に置き、その「名義荘園」を武力で奪い取った。
    全国各地で主な「武家貴族」のこの現象が起こった。
    この時、存立をかけて止む無く「青木氏」は「北畠氏」に合力したが本意ではなかった。
    ところが、流石、「信長」はこの現象を見逃さなかった。
    武力を背景に「信雄」を養子にして「北畠氏」を奪い、挙句は「北畠氏」を乗っ取った上で武力で伊勢等を攻め取った。
    建前上、「青木氏」は「北畠氏」に合力したと見せかけ、裏で「伊勢信濃シンジケート」と近隣の「今井氏の支配下」にある「神社系シンジケート」を使って「織田信雄」を敗戦に追い込んだ。
    「織田氏」は、この後に「信雄」に代わって「青木氏」と関わりのある「蒲生氏郷」が入り「伊勢」は「酷い戦乱」とはならず穏便に収まりを見せた。
    そして「青木氏」は「シンジケート」を引いた。)


    所謂、この「歴史観イ、歴史観ロ、歴史観ハ」があってこそ、ここに他の「密教の天台宗寺」が少なくとも「松阪」に存在する事は本来は難しい事と成ったのである。
    然し、「織田信長」はこの禁を無視した事になるのだが、その倣いに従い「蒲生氏郷」が上記した様に“「近江商人」”を呼び寄せた。
    この結果、彼らの「天台宗の菩提寺」を「松阪の南」、つまり、「射和の北」に建立したが、「蒲生氏郷」が「陸奥」に移封と成った事で、最早、余りにも遠い「陸奥」までに同行せずにいた事でその「勢い」は落ち「松阪」に残った事に成った。

    ところが、結果として当然に「勢い」を失い「射和の北」(松阪の南)で定住していた地域は、その「地権」を放棄して、この地域の「本来の地権者」の「青木氏(X)」に譲り、その後の「住み分け」が進み、上記した「射和の西側」に「近江商人(B)」は移った。

    この為に、本来は「射和地域」にも後に幾つも建立した筈の「天台宗の寺」が「一寺」しかなく無いのである。
    逆に「元の定住地」には、「菩提寺」は維持が出来なく成り、海側より西の山手に向かって「顕教の檀家寺」と成った「天台宗の寺」が数寺が存在する所以でもある。

    (注釈 彼らの「天台宗寺」は「松阪の南」、つまり、「射和の北側」には天台種の寺は三寺「一寺は派が異なる」があったが、江戸期初期には、その派流から「菩提寺」はこの海側にある一つであると観られ、その他は明治期に建立されたものと考えられる。(寺名は秘匿)
    「天台宗」は、本来は「密教」であるが、{平安期の宗教論争}で「顕教」も並立させて「武家貴族の信者」を獲得させた。これが派流の生まれた原因である。)

    注釈として、「歴史観ニ」として重要な事は、彼らの「地権の放棄」には、次ぎの経緯があった事が伺える。

    上記の「殖産の販売力」を拡大させるには、絶対に彼らの持つ高い優れた近江からの伝統に基づく「商い術」は見逃せない。
    又、「青木氏(X)」に執っては、上記の「維持と誇り」を適え、且つ、進んで積極的に取り組んで貰うためには、彼らにもう一度の「再起力」を与える必要があった。
    それは「再起の資金力」であった。
    それが、上記の「地権の買戻し」であり、その条件として「青木氏(X)の地権」の多く持つ「射和郷士(A)」の定住地であった「射和の西」に土地を与えた。
    当然、「地権売却の資金 近江商人(B)」だけではジリ貧で、「殖産の販売の仕事」を与える事で生き続ける事が可能と成る。

    況や、「青木氏の逃避地」の「越前の神明社」にて大いに行っていた「仏施」を、当に伊勢松坂でも行った「歴史的な青木氏の大仏施」であった。

    (注釈 この「仏施」は彼らの享保後の江戸出店までに続いた。)

    さて、これで「近江商人(B)」の関りは述べたが、次は「紀州門徒衆(C)」の事に成る。

    上記した様に、次ぎの問題があった。

    何はともあれ政権や仲間の門徒衆から暫くは匿う必要があった事
    当時、世間を騒がして警戒されていた「門徒宗」である事
    彼らの「異教と異郷」、更には彼らの持つ「頑な性質」がある事

    いくら何でも、これだけの事があれば、「射和郷士(A)」「近江商人(B)」と同調させて生活させる事は至難の業である。
    何か「緩衝材の策」が必要であろう。

    「縁戚の氏人衆」の「射和郷士(A)」にそれを任すとしても「何らかの手」を打たねば、それこそ縁者関係の「射和郷士(A)」からは「青木氏(X)」は完全に信頼を失うは必至である。

    当然に、事前に充分に打ち合わせはした。
    一つは、それを証明するのが彼らが定住していた「地域の地形」(a)から判る。
    もう一つは、「彼等の衆徒」には「寺」を建立するに必要な「財力」は未だ当然に全く無かった。

    そこで、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」は、落ち着いて定住させる為にも”「信心する寺の建立」”を一寺(浄土真宗 東本願寺)を匿っている居住区に敢えて建てて「手(b)」を打っている。

    これは、「地権」を持ち、「縁戚の松阪郷士」の「伝統ある定住地」に勝手に他宗の寺を建立する事は許す事は無い。(あ)
    又、「氏人」を含む「青木氏等の浄土宗密教の地」に「常識や慣習仕来り掟」から観ても100%あり得ない事であったし、これは世間からも蔑視される危険性もあった。(い)
    況してや、当時の閉鎖的で不審者を排除する「村体制」の中の世間から危険性を以って視られていた「門徒衆」でもある。(う)
    紀州や関西域で大騒動を起こした「門徒衆」が「村」に入り、又、同じ事を起こされるのではないかと云う恐怖心もあった。(え)

    この(あ)から(え)までの事があっても「異教の寺」を射和に建てるという事は相当な決断が居る。

    建てれば匿った紀州郷士衆の存在が公に成る。
    密かに匿ったとした「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」は、紀州藩は敢えて殖産の為に黙認していても事も水の泡と成り公に匿ったと成って仕舞う。
    その事を覚悟で建てるのである。

    そこまでして「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」には、「販売力の強化」以外に他に得るべきメリットがあったのであろうか疑問である。
    後から紀州で肩身の狭い思いをして生きていた門徒衆と彼らの家族は押し寄せてくる事も予想出来た。
    匿うだけでその侭にしていても好かった筈である。
    唯、困る事があった。それは「紀州門徒衆(C)」が、「紀州の門徒衆」が押し寄せてくる事は販売力強化の点でも好い事ではある。
    然し、彼らが「射和」に居つくにしても恥を我慢しなければならない。
    その結果、紀州にじわじわと逃げ帰る事だけは、紀州藩が期待する「丸投げの殖産」の意味からも、避けねばならない事であった。
    それには、“「彼らの心の拠り所」”を作り上げる事であった。
    そうすれば、「紀州門徒衆」が押し寄せる事も更に起こり、当然に逃げ帰る事も防げる。

    後は、結局は、前段でも論じた様に最も「伝統」を重んじて来た、むしろ、「伝統の氏族」の様な「青木氏(X)と松阪郷士(A)の伝統」がこれをどの様に扱うかに係る重要な事に成る。
    当然に「紀州藩」は「殖産に依る税の利益」を先んじて、それは「青木氏族」に任せば良いとして完全に黙認している。

    結局は、奈良期からの一度も破らなかった「禁断の伝統」の一部を「浄土真宗寺」を建てる事に踏み切り破る事にしたのである。
    同時に「伊賀郷士の全国から呼び寄せ」も行っている時期でもあり、「議論百質」であった事は充分に判る。

    (注釈 伊賀には縁戚筋関係のつながりはあったとしても「青木氏の地権」は多く及んで居ないことから「内部の治世」には深く組み込めなかった。)

    注釈として、「浄土真宗寺の建立時期」は異宗である事と、「伝統を破った事」からも資料的なものは見つからず「寺の由来」も記録には無い。恣意的に不記載とした可能性もある。
    「彼らの財力」では、「江戸期後半の成功期」にしても遺されたあらゆる資料からはそれほどの財力は無かった事が伺い知れる。
    彼らの財力有り無しに関わらず、結局は「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「地権のある射和」では、況して「他宗禁令の松阪」では無理な事であり、「定住地の開拓開墾」を含めて「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「財力に頼る事」以外には無かった事に成る。
    状況証拠から割と早期の1630年から1650年頃に「浄土真宗寺の建立」に踏み切ったと考えられる。



    例えば、上記した様に先ず「地形」であるが、櫛田川の中州の後ろの小高い山続きの中ほどに山に囲まれて「開拓された畑地」が現在もあり、その後ろ側の山の角の様に山に囲まれた谷部に開発された狭い居住用の様な「窪地」が二つ存在する。
    明らかに、これは“「作られた地形」”であって恣意的には周囲からは判らない様にしての開拓と成っている。
    そして、その「居住用の窪地」の前に開拓されたと観られる「生活用の畑地」が存在する。
    明らかに「造られた秘境」である。
    中州からは全く見えない小山の中に存在する造られた「天然の隠家」の様である。
    近くを「熊野古道」が縦断するが、ここからも見えない山手の奥方の隠れた地形にある。
    然し、「熊野古道」には山伝に1Km強程度で簡単に出られる。
    この「居住地の窪み」の「西寄り」にこの「問題の寺」が存在する。
    「戦略的な位置関係」にあり、且つ、「恣意的な位置関係」にあり、“いざ”と云う時には「防御の拠点」とも成り得る。
    山を越えれば櫛田川であり「生活用品の調達」は容易である。

    ここに「門徒衆(C)」を匿って、「殖産の仕事」を与えた。

    では、問題は上記した「三つの営業力(販売力)」をどの様に配分したかに関わってくる。

    その「配分の内容」は、次ぎの通りである。

    「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
    「松阪木綿(綿油含む)」
    「松阪絹布(松阪紬)」

    以上の三つであった。

    「松阪郷士(A)」は、「和紙の開発から生産」まで朝廷の命で「紙屋院」として日本最初に手掛けた「青木氏の氏人」である事は云うまでも無い。
    そして、それを「近江と信濃と甲斐の青木氏」に広め、「志紀真人族」の彼らの「生きて行く基盤」を作り上げた。
    「松阪郷士」、取り分け、「射和郷士」はこの「第一の貢献者」でもあった。
    従って、「射和郷士(A)」は、当然に「伊勢和紙(松阪紙型含む)」を担当した。
    然し、他の「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の「殖産に関わる事」に「青木氏(X)」に代わって面倒を見なければならない。
    他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」と「松阪絹布(松阪紬)」の面倒は知らないという行為はあり得え無い。
    「商記録」に依れば、どのような形かは明確ではないが、全体の状況証拠から観て、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事が判る。
    何故ならば、「工程管理」では、所詮、彼らは「外者」であり、「生産工程」まで「督促などの発言力」を持ち得ていなかった。
    故に、「発言力」のある誰かがこの「パイプ役の実務」を演じなければならない。
    必然的にそうなれば、「松阪郷士」の「射和郷士(A)」と成る。

    商記録には、「・・射和・・・・入り」とあり、「玉城」から「松阪木綿の製品」が入った事を記したと考えられる。

    注釈として、 ・・・は虫食いで充分に読み取れず、・・・は、“射和・・木綿入り”と記されていた事が判る。
    ここで云う「射和」と「木綿」との間の「・・の欠損部」には、「・反」とし「数字」が、「射和の地名」の前の「・・の欠損部」には販売全体を取り仕切る「射和郷士(A)」の総称を“射和”としていた事が判る。

    これで、「綿布」は「射和郷士(A)」の「差配頭」に届けられ、それが「青木氏(X)の商記録」に「情報」として伝えられていた事に成る。

    この事から「差配頭」から「松阪木綿」は「近江商人(B)」の各店に分配されていた事に成る。
    上記した様に、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事に成る。
    「商記録全体」を通して観るとこの事がよく判る。

    これでも「射和郷士(A)」が関わっていたと成ると、「松阪木綿」が「販売営業力」に経験のある「近江商人(B)」の「専属の販売担当」であった事が判る。
    「江戸出店」して成功した「近江商人(B)の事」に付いて書かれた内容を読むとこの事は明らかで“「木綿商人」”と表現するまでにあり、これを扱っていた事は明白なのだ。
    唯、彼らが江戸にて成功を遂げたのは「享保期の後半以降」であり、この時は既に“「伊勢木綿」”も津域で生産されていて、これも“「木綿商人の表現」“の中に入っていたと考えられる。
    故に、最終は、「近江商人(B)」は、温情を受けた「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」とを裏切り「反目する態度」を取ったと考えられる。

    彼らから観れば、「温情」という考え方より「根っからの近江商人」である事から、「運用資金」を「借金」で調達し返したとし、「原資」は「地権売却」であったとすれば、「青木氏(X)」等には“恩義はさらさらない”とする考え方が成立する。
    「射和郷士の差配頭」の手紙の中を観ると、更には、江戸で成功を納めた「近江商人(B)」は、中には「吉宗の享保の改革」に貢献した「青木氏(X)」の「江戸の伊勢屋」の名を使って喧伝し「商い」を有利に導いた事があったと記されている。
    合わせて、「青木氏の名」を上手く使った事も併記されている。
    この手紙は「射和」がこの情報を掴み「福家」に報告した事への返信であろう。
    然し、「青木氏の氏是」から“取り立てて騒がない事”が書かれている。

    「歴史の後勘」から観ると、「彼らの立場」からすると、そうなるのかも知れない。
    「射和」で「殖産の販売力」として「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」の中で「松阪木綿」を扱い働いた。
    そして「松阪木綿」で独立したとすると、それを紀州藩を背後に「殖産」として一手に扱った事は、まさしく「伊勢屋」であり「青木氏」である事を広義的に意味する。
    “我々は、「江戸の伊勢屋」の出店だ”と主張しても「著作権」など無い時代におかしくは無いであろう。

    この享保期後半の時期は、吉宗との路線の行き違いから「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」は松阪に引き上げている。
    故に、この事件は、尚更らの事であって、「氏是の事」もあり騒ぐことは得策ではないとして「射和郷士(A)」を宥めたと考えられる。

    従って、彼らの精神は、彼らに執ってみれば「射和」は、“その一時の話”と成ろう。
    故に、「射和」には一寺の「檀家寺」(顕教寺)があったとしても「菩提寺」がない事に成る。
    つまり、“敢えて作る必要はなかった事”等が読み解ける事に成るし、更には「射和郷士(A)」も「寺」は許さなかったであろうことが判る。
    この両方が一致すれば、「寺」を潰す事も充分にあったと考えられ、事を納めるには潰すしかなかったとし、「青木氏(X)」も「射和郷士(A)」の意見を入れて許して丸く納めたと観る。
    筆者はこの「潰した説」を採っている。

    これで、「射和郷士(A)」と「近江商人(B)」の担当領域は読み解けたが、難しいのは「紀州門徒衆(C)」の事であり、且つ、「松阪絹布・松阪紬」の事である。
    何せ参考と成る資料が殆ど残っていないのである。
    これには次の理由があった。

    「絹」は古来からの物で、朝廷に部制度に依って納められる「朝廷の専売品」で、「余剰品」を除いて「絹物」は一般市場に出回らない。
    これが高貴族に“「松阪紬」”と呼ばれた所以である。
    当時は、「伊勢和紙」も「信濃和紙」も「甲斐和紙」も「近江和紙」も同じく「部制度」による「専売品」で、これを「四家四流の青木氏」が「青木氏部」を持ち「朝廷」に収めていた。
    しかし、「青木氏部の努力」により「余剰品」が出て925年頃に市場に卸す事を許され、直ぐ後に「商い」をする事で朝廷の大きい財源と成る事から、特別に「四家四流の青木氏」に対して「朝廷」より「賜姓五役」以外に「氏族の商い」を「二足の草鞋策」を前提に特別に慣例を破って許された。

    (注釈 この時から「武家貴族の青木氏」と「商人の青木氏」の「二面性を持つ青木氏」が生まれた。)

    ところが、細々と「絹物」を「朝廷用」として生産していたが、江戸期に入り「徳川氏の後押し」もあり「殖産品」として「松阪紬」を生産し始めた。

    これには注釈として、 「5千石以上の幕臣武士」を対象として許可を得て「絹衣着用」を許された為にその需要が増したが、貴重な「絹紬」は幕府が身分に応じてその着用を禁じた。
    そして、「商人」などの「裕福な庶民」が使う「絹物」と、「高級武士」など身分の高い身分の者が着用する「絹物」との「品質」に差をつけた。
    更に、「質素倹約令」に基づき「城」で着用する「紋付羽織や袴や裃」の絹物の使用は将軍からの特別な許可が必要と成っていた。
    これを「絹衣着用のお定め」としていた。

    (注釈 「青木氏(X)」は、この姿で享保期に将軍御座の前面で意見を述べる権利を所有していた。本来は格式か上座にある。)

    厳しい「身分仕様の絹物」には、更に厳しい「括り」があり、取り分け、その中でも“「松阪紬」”は「古来からの超高級品」である事から「徳川氏の専売品」として納める事に成っていた。

    (注釈 「秀郷一門の結城地区」で生産される「結城紬」も「松阪紬」と同じ立場に置かれ同じ事であった。)

    (注釈 「青木氏(X)」が手掛けていた「古来からの藤白墨」も「朝廷の専売品」から時の「政権の専売品」と成り、一部は「朝廷」に流され、取り分け、明治期まで「徳川氏の専売品」(紀州藩総括)で市場には出回らなかった。)

    注釈のこれと同じく「松阪紬」は殖産する事で何とか市場に出回るほどの「生産力」を保持し高めたが、「超高級品」として「紀州藩の専売品」と成っていた。
    つまり、「青木氏(X)の殖産」により労せずして入る「紀州藩の超財源」と成った事に成る。
    故に、前期した様に「本領安堵並みの地権」を「青木氏(X)」に惜しみなく与えたのである。

    注釈として、徳川氏の幕府は、「紀州藩の成功」に真似て、「青木氏の定住地」にも「幕府領(「信濃 36村・甲斐 315村」)を確保して一部に「地権」を与え「二家二流青木氏」にも「和紙の殖産」と「養蚕の殖産」を命じた。

    この様な背景があって、「絹の扱い」には「木綿」などとは雲泥の差にあった。

    この差の面倒な「仕分け作業」を「紀州門徒衆(C)」に担当させたのである。

    では、問題は、“どのような作業であったのか”である。この時代では不思議な作業であった。

    それは、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とあり、これを“「五仕業」”と記されている。

    つまり、上記の通り、「販売拡充の努力」は不必要で、「五つの定められた仕事」をすればよい事に成っていたのであり、むしろ、してはならない「仕業」であった。
    「伝統ある松阪紬の殖産」には、「特別な伝統」と云う事に縛られて目的は「販売」には無く、主に「増産」そのものにあったのである。
    当然に必然的に、「伝統に基づく増産」には、完全に近い「五仕業」が要求された。
    粗製乱造では済まされない宿命が「松阪紬」にはあった。

    つまり、これが”「五仕業」”と書かれている所以であっては、現在で云う「トレサビリティー」の事を表現しているのである。

    「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とは、「殖産の製造」を除いて、この「絹物の松阪紬」の「五つの工程」の間に起こるあらゆる問題を治めながら最終の「松阪紬」まで持ち込む作業なのである。
    そして、「紀州門徒衆(C)」はこの「松阪紬を保証する役務」を負っていたという事に成る。
    唯、最早、これは単に「松阪紬」を作れば良いと云う事では無く成っていた。
    つまり、「権威」の“「保証と云う事の責任」”が伴っていたのである。

    この時代の事であるので、この「トレサビリティー」には、首がかかる事もあった。
    これを「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」に代わって「紀州門徒衆(C)」が務めるのである。
    つまりは、「和紙」や「木綿」などと違い「絹衣を着用する相手」が先ずは違っていた。

    彼等には、上記する様に「生産量」は兎も角も、主に“「禁令」”と云うものが大きく左右し、その結果、何せこの「絹衣」には「武士や貴族」の「名誉や地位や格式や家柄」と云うものが絡んでいたのである。
    「青木氏も同じ立場」にありながらも、これは「絹衣殖産」に依って生まれた「厄介な事」ではあった。
    記録を観ると、「五仕業」の文字が出てくるのは、この「殖産」が始まって暫く経った頃(1635年前半の頃)の事である。

    この事から、当初、室町期では、この仕業は「荷造り」、「搬送」程度であった様で、「直接販売」は無いので「納所」に届ける程度の事であったらしい。
    ところが、「殖産「を始めた事が、「江戸期の禁令」に合った様に「検品の品質」に強い要求が高まりる様に成った。
    暫くして「仕分け」の「絵柄や色合いや染め具合の要望」が増え、遂には、事前に「金糸銀糸」等の柄入れ、挙句は「絵柄」や「紋入れ」の特注等を含めた「着衣の仕立てまでの要望」が出されて来た様である。

    これは、「絹衣着用」が「名誉な許可制」に成った事で、「許可」を獲得した「高位の武士間」の「ファション競争」に火が付いたと考えられ、金に糸目も付けずに高額なものと成って行った事を示す。
    これは、古来から朝廷に納めていた”「松阪紬」”と云う「超高級品」を着ける事で「ステイタス」を示したかったのであろう。

    (注釈 この意味で細かく規制した「節約禁止令」は「絹物」では逆に成って行った。)

    この「厄介な作業」の「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」を、反元として「紀州門徒衆(C)」は熟さねばならない事に成った。
    元々、「紀州武士」であるし、今も武士は捨てていない。
    相当な抵抗があったと思われるが、「紀州郷士」と云えど「武士のステイタス」は理解されている範疇であったであろう。
    彼らは懸命に取り組んだ事が手紙資料の中で報告としての形で書かれている。

    そこで、先ずこの「五仕業」はどの様なものであったのかを書くと、次のようなもので簡単な「要領書」の様な形で書かれている。

    そもそも、「検品」とは、名張や伊賀から届けられた「素地の反物」を先ず「禁令」に合わせて「上中下」の「品格」に目視で検品して分ける。

    その「検品項目」は、「傷、巻込、不揃、色別」で判定した。

    「傷」は、「傷・噛込み」が入っている事
    「巻込」は、「塵・誇り・汚れ」が巻き込んでいる事
    「不揃」は、紡ぎ悪い事
    「色別」は、「光沢や色合]が悪い事

    以上の「四項目」であった。

    この「四項目」に全て合格した反物を「上格」であった。
    「上格」の中で「色別と不揃い」が格落ちした反物が「中格」であった。
    「傷」「巻込」が強く、「四項目」に格落ちした反物が「下格」として分けられていた。

    (注釈 但し、「検品制度」を高めればより収入が得られるし、「検品情報」を提供して「伊賀や名張」の「紡ぎの段階の品質」を上げられれば、「紀州藩」、「青木氏(X)」を始めとして「松阪紬全体の工程」は潤う。)

    こころから「仕分け」に廻される
    「仕分け」とは、「上格」は禁令に基づき先ず「朝廷」や「絹衣着用」を認められた「1万石以上の大名格」の上級武士用に振り向けられる反物である。
    「下格」とは、「老舗の絹物大問屋」に、「豪商などの商人用」、或いは、禁令に従い5千石以下の「中級の武士用」としても卸されるのが基本である。
    最後に、「中格」とは、「5千石程度の中級武士」の「旗本や御家人」で、何らかのお墨付き(黒印状)のある「格式の家」に充てられる。
    この「品格」にして「紀州藩納所」に納められる。(朝廷用は「上格」)

    原則は媒臣等は禁止である。唯、原則として、「松阪紬」はその「朝廷品の伝統」であった事から「下格」の品は「商人用」には実質は廻らない事に成るが、密かに「納所」より高額を得る為に廻されていた様である。
    これは、「高額な賂を獲得できる手段」として、「納所の紀州藩」は知るか知らぬか「市場」に流されていた事が追筆されている。

    (注釈 長い間の話であり、「家臣の私的賄賂」であれば「青木氏との帳簿突合せ」から見つかる事は必定なので知っていたと考えられる。
    そうでなければ「青木氏(X)」は「名誉回復の名目」にから指摘していた筈でその記録は無い。)

    従って、「青木氏(X)」と「紀州門徒衆(C)」の「元締め」は次の様な事が起こらない様に差配した。

    この「仕分け 1」として、次ぎの「仕業」をした。
    上記の様な事が起こらない様に「仕分役」は帳簿を確認しながら慎重に行う。

    次に「仕分け 2」として、次ぎの「仕業」をした。
    「松阪紬」が「殖産」で増産され特定の市場に出ると成ると、より要望が必然的に出てステイタスを高めようと買い手側から「松阪紬」を扱う「役所の納所(なんしょ)」に「家紋」に合わせた「柄、色合」などの要望が「上格」の「買手」から事前に出されてくる様に成った。
    又、「青木氏(X)」と「付き合い関係」のある「朝廷や大大名」からは、「ステイタス」の一つであった事から「贈り物」としてのこの様な特別注文が出るし、この為の「特別の仕分け」が必要と成る。

    「仕分けの要望内容」に依って、「振り分け」の「仕業」をした。

    「仕分け 3」としては、次ぎの「仕業」をした。
    何処の「染物屋」に回すかの難しい「仕分け」もあり、その「要望の如何」に依って「仕分けの技量」と合わせて「染め物師の技量」をにらんで振り向けなければならない。
    大変な作業で「検品」などの合わせた「総合的な目の技量の経験」が伴う。

    これらの「仕分け」(1から3)は、「検品の影響」を大きく受け、相互の工程の「連携」が必要で、これらの「要望(情報)」を前工程に伝えておくなどの手配も必要と成る。
    この連携無くして「仕分け」は成り立たない。

    この中間工程、つまり、「仕分け」は「五仕業」の中核(主)を占めていた。

    次は、「仕立て」は「上格の反物」に対して行ったものである。
    「朝廷」が「幕府」を始め大大名の「引出物」、「冠婚祭の祝品」等として、「最高権威」としての名の下に「超最高品」の「絹物」を送るが、多くは古来からの「部制度」による「朝廷専売品」のこの「松阪紬」が用いられた。
    これを「受ける者」は「最高の誉れ」(ステイタス)として受け取った事に成る。
    取り分け、「婚姻や世継ぎ誕生」などには「仕立て」をして送る事が、「受ける側」には「朝廷の祭事の供納品」でもある「松阪紬」を送られる事は、これ以外に最高の比べ物の無い未来永劫に伝わる栄誉として捉えられていた。

    この「伝統のある仕立て」を「青木氏(X)」外の氏素性の判らない「仕立屋」に出すのではなく、全て「青木氏(X)」の中で「完全ステイタス」を作り上げて“「賜物の松阪紬」”として贈られるものであった。
    これらの「限られた依頼者」は、「賜姓五役」で勤めていた「朝廷」、「殖産籍」の中にある「紀州藩」、公家と繋がりのある「縁戚の伊勢秀郷流青木氏」、「青木氏同族の信濃青木氏」に限られている。

    (注釈 「信濃青木氏」(小県郡)と「甲斐青木氏」(巨摩郡)は、後に強引に「幕府領」とされ「幕府の殖産地の地」とした。
    この「江戸期初期前の養蚕地」は、関西中部域では、「伊勢」を始めとして、「信濃、甲斐、美濃、越前、越後、丹後」が記録としてある。
    但し、これらは全て「青木氏の居住地」であり、その「青木氏財力」で進められていたが青木氏の滅亡した「美濃」は衰退した。)

    この「松阪紬の配分」は、次ぎの通りであった事が書かれている。

    「古来からの朝廷分(1割) イ」
    「殖産主の紀州藩分(8割) ロ」
    「青木氏の割当分(1割程度) ハ」

    以上の割り当てに指定されていたらしい。

    そもそも、「朝廷の分(1割)」には、江戸期に於いても「青木氏(X)」は、「朝廷の役職」の「紙屋院」と共に、「絵画院の絵処預」を務めていた事もあって、「幕府の目」があっても「手」を抜くことは出来なかった。
    この「絵画の絹物分」もあって、「朝廷」は「伊勢和紙」も含めこれを「絵処預の絵師」の「土佐光信派等の絵塾」に「絹絵」を書かせ、これを“「最高賜物品」”として「絹衣や反物」と共に高位族に送っていたのである。

    この様な傾向から、「青木氏(X)」は、その「元からの務め」であった立場から「朝廷への納品 イ」は、実際にはこの「1割」とは行かず、「出る限りの割合」を当てたいところであったらしい。
    これは資料からも読み取れる。
    然し、「青木氏(X)の殖産」であったとしても、今は「紀州藩の専売品 ロ」と成った現状では相当無理であったらしい。
    「青木氏(X)」の「自らへの割り当て分(1割程度) ハ」と、少ないが「伊勢秀郷流青木氏等」への「割り当て分 ニ」、つまり、「青木氏(X)」の「割り当て分 イ」からの充当をして「裏の割り当て分 ニ」として調整していた。

    その内から秘密裏に殆ど儲けの無い「朝廷分 イ」として工面して廻す事があったらしい。

    (注釈 「朝廷分 イ」には朝廷の勢力の拡大を恐れて「幕府の目」が厳しい。)

    恐らくは、「古来からの伝統品」という事もあり、且つ、薄利ではあったが、「権威の供納品」とする事で「衰退する朝廷への密かな肩入れ」であった事が容易に判る。
    これで「朝廷」への「供納品のお返し」として高位族からの密かな「朝廷への見返り分」が大きく成り、強いては内々に「朝廷援助」が出来たからであろう。
    「青木氏(X)」は江戸期に成っても「その務め」は続け、「賜姓五役」としてこれを期待して支えていた。
    「紀州藩」はこれを黙認していた模様ではあるが、「朝廷の財力」が高まる事も含めて「幕府の目」もあり気にしていた様である。

    この手紙の資料には、事の次第が「幕府の目」もあり明確に書けない様であって、この「松阪紬の状況」を報告した文章がある。
    それには急に文章の中に意味不明な、「四家の長」の“「福家様の御仕儀」“の文字が出て来て、”何か“を匂わせている文面であり読んでいても判らない。
    これは“何か”を知っていなければ解らないのであろう事が判る。

    注釈として、筆者は、「朝廷分 イ」の「割り当て分」に対する「福家の指示」を「射和郷士(A)」の「差配頭」に密かに伝えていたと観ている。
    この「福家の指示」とは次の経緯にあった。

    そもそも、「殖産前」は、「朝廷と青木氏(伊勢神宮の供物」を含む)」の中で割り当てられていた。
    これは、「朝廷と伊勢神宮の財源」に成っていた。
    つまり、判り易く言えば、当初は「紀州藩(「伊勢籐氏の家臣団」)」との「打ち合わせ」では、「藩の借財」を返す「最高の手段」として、そもそも「青木氏(X)」と共に、「松阪紬」の「朝廷への献納の利」のここに目を付けていたものであった。

    つまり、「松阪紬」を「権威の象徴の産物」として「政策的」に仕立てれば、“これ程の「見返り」は先ず無い”と読んでいたのである。
    後は、これに「政策的な禁令」や「質素倹約令」等を添えれば成立する。
    その為の「殖産」を「青木氏(X)」に任すとすれば、「紀州藩」は濡れ手で粟である。

    これは、注釈として云うならば、今で云う「地域興し」の「松阪紬ブームのプロジェクト」である。

    「権威の氏の青木氏(X)」の下で作られる奈良期よりの「伝統の朝廷専売品」を増産して「権威」で固められる「松阪紬」を先ずは世に出す事である。
    それも、人が羨む「限定の範囲」での販売とすれば、権威に憧れていた江戸初期に「高級武士」には火が付く事は必定で、金目に糸目を付けない事と成ると観たのである。
    「節約の禁令」の「裏の目的」はこれに火をつける「点火材」であったと観られる。
    大名格は「黒印状」を授けられたとする「伝統の氏姓の素性の裏打ち」にも成る。
    (殆どは詐称であった。)

    然し、ここで疑問が残る。
    「松阪紬の殖産」を続ける以上は、例え「伝統の物」であったとしても「殖産」である以上は、「利益」を上げる必要がある。
    これ無くしては続けられない。
    「朝廷の割り当て分(1割) イ」は、もとより続けていた関係上は伝統の「薄利」である。

    そもそも、「朝廷」に執っては「殖産」は何の意味も持たないし、「殖産」だからと云って衰退する中で「値上げ」はあり得ない。
    そうすると、「殖産の利益」を何処で取って「帳尻を合わすかの戦略」が「青木氏(X)」に必要になる。
    当然に、に求める事は「畑方免令による殖産税」である以上は無理である。

    恐らくは、この事で「紀州家臣団の伊勢籐氏」との間で、上記の資料の通り“「福家様の御仕儀」“の文字の意味する事から「検討」を繰り返したと読み取れる。
    これが、この時の「会議の決定事項」を“「福家様の御仕儀」“と表現したと考えられる。

    つまり、「秀郷流青木氏」等に廻す「青木氏(X)の(1割程度)の分 ロ」の「内訳とその内容」であった事が判る。
    何故ならば、「秀郷流青木氏」は、この「殖産」に於いて“何の必然性もない”のに文中に書かれているのはこの「戦略の内容」であったと読み取れる。

    “どう云う「戦略の戦術」か”と云うと恐らくは次の様に成る。
    「秀郷流青木氏(伊勢籐氏含む)」の「広い付き合い関係」(幕府の家臣団も含む)から「高位族の者」が、“密かに「権威と伝統の松阪紬」を何とか獲得しよう“とすると、この「ルーツ」を通じて「依頼」があった筈と観る。
    これを相手の「要求や身分」を観て、先ずは「下格」(中格を含む)を密かに振り当てる。
    この「名目」を「伊勢神宮(遷宮地の関係諸社含む)」の「献納品」に置く。
    「名目」としている「伊勢神宮」は、もとより「春日神社(藤原氏の守護神)」と「古来より関係性」を強く持っている。
    つまり、「北家の最大勢力の藤原秀郷一門」とは、「守護神」である以上は疑う余地は完全に無くなり、「紀州藩」や「幕府」に対し「言い訳」(神宮献納品)に成る。

    (注釈 「紀州藩」は当然に黙認する。紀州藩の「幕府目付家老」も仮にも知り得ても「幕府官僚集団」も同族の「武蔵藤氏」である。
    「幕府目付家老」も紀州に赴任される以上は、恐らくは「藤氏の末裔」である。
    そうすれば黙認はするし、「紀州藩の借財」が解消すれば「目付」としての「自らの立場」も成り立つ。
    要は“「名目」”さえ成り立っていれば先ず文句をつける事はない。)

    この“「名目」”を生かしながら、この「ルーツ」から「莫大な利益」を獲得すれば成り立つ事に成る。
    この事前に承知していた「戦略戦術」を「名目」として“「福家様の御仕儀」”として表現したと云う事が判る。

    注釈 その後の事として、上記した「信濃と甲斐と近江と越後と越前の幕府領」は、「米の生産石高」が安定して増えた「享保期」(12−16年頃)に「養蚕の殖殖産」が起こっている。
    これは、「吉宗」が厳しく採った政策の恐れられた彼の有名な“「無継嗣断絶策」”に依る「公収化策」で、上記の「青木氏の定住地」が何と「幕府領」と成った。
    “成った”と云うよりは、“した”である。
    ここは「伊勢」と同じく「古来からの養蚕地」で、「青木氏の定住地」で、「青木氏の商業組合の組織」で、「資力」を蓄えたところを「幕府領」として、「地権」を安堵し与え、「養蚕の増産」を命じている事に成る。
    これも見事に濡れ手で粟である。

    この条件は、「吉宗」が「親代わりの膝元(青木氏)」で直に経験して観て来た権威性を持った「殖産の絹紬」がどれだけの「莫利」を得られるかを詳細に知っていたからの事であろう。
    そして、この紀州の「権威と伝統」の「戦略と戦術」を使えば、「300両」しかなくなった当時の「幕府の御蔵埋金」を一挙に埋める事が出来る。
    それには、何はともあれ「賜姓臣下族」で「志紀真人族の末裔族の青木氏一族」を利用する事に成る。
    実績は紀州で作っていると成れば事は早い。

    「信濃紬」、「甲斐紬」、「近江紬」、「越前紬」と「越後紬(「秀郷流青木氏と信濃青木氏))」等の「絹物」の「権威名」を着ければそれで済む。

    (注釈 ここは「青木氏」が始めた「15商業組合」の「主要5地域」でもある。
    この「無継嗣断絶策」は所領を持つ旗本・御家人までも含む「大小の武士階級」にまで適用され、「無継嗣」と見做された場合は問答無用で没収され「幕府領」とした。
    「青木氏の定住地」には、恐らくは難曲を着ける、挙句は「土地の振り替え」で領主を追い出し、そこを「幕府領」とし、本領並みの「青木氏に地権」(元の天領地)を与えた。
    然し、上記した様にその「領域の村域」が大きいのはこの理由による。
    この為にも「青木氏の権威と資力」を見逃さずこの元の「天領地」を「幕府領」とした上で保護した。)

    何せ「幕府領の養蚕の仕掛け人」は、当然に「吉宗と江戸の伊勢屋(青木氏)」とすれば何の問題もない。
    つまり、「松阪」から人を送りこめば済む事であるし、呼び寄せればよい事に成る。
    「権威と価格」に問題が出れば、「松阪紬」とすれば済む事である。
    ある研究の資料には、”「御領紬」の呼称”が出てくるが、これがその事ではないかと考えている。
    つまり、どう云う事かと云えば、上記の「幕府領」(徳川氏)は、「伊勢松坂」を含めて、元は天皇家の「天領地」(天皇家)と呼ばれた地域である。

    (注釈 「幕府領」は別に「幕領」とも呼ばれ、これを間違えた明治期の研究資料が「幕府領」を「天領地」と呼んだ事から誤解が生まれた。
    現在は、過去の資料より学問的にこれを正式に訂正されていて、「幕府領」と「天領地」とは区別されている。
    「青木氏」に於いても「近江、松阪、信濃、甲斐」については「天領地」とした資料に成っている。
    唯、「近江と甲斐」はその「天領地の範囲」が狭い事から「天領地」と「幕領地」の重複部がある事が観られる。
    例えば、「源頼光」が派遣された「信濃国」は「天領地の守護」としてであったとする明確な学問的な資料もある。
    当然に、「青木氏の始祖の施基皇子」が「伊勢天領地守護」として「三宅連岩床」を国司代として派遣した事も正式に資料として遺されている。)

    この意味でも、”「御領地」”は本来の「天領地の総称」であって、その呼称を使って、江戸期中期には「「松阪紬」も含む「御領紬」として「権威」を持たせる為に意図的に呼称させたと観ている。
    この呼称は、一般に出回る事も無く、且つ、「禁令の事」もあって憚って「高級武士の間での呼称」であったとされている。
    況や、この呼称は、”「松阪紬」”の「伝統」に基づく「名誉と権威」として利用したと観ている。

    これが、「青木氏の松阪紬」が基盤と成った大切な「青木氏」しか知り得ない「歴史観」である。

    さて、この歴史観を前提に、この話は「五仕業」に続く。
    ここで次ぎの事で、何故、この殖産工程が「仕事」では無く“「仕業」”としたのかが判る。

    そして、その「仕業の呼称」から「松阪紬」を”どの様に仕向けるのか”、将又、位置づけるのかの判断をしたのかも判る。


    そこで次は、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」の“「荷造り」”の工程である。

    普通なら、この「荷造り」は「技職の業」では無いであろう。
    ところが資料を読むと単なる工程では無かった。
    相当に、「前行程の仕立て」までの「権威性」を計算した恣意的に利用した「技職の業」である。

    上記の朝廷の「供納品」や「賜物品」に、「より権威性を持たす方法」が下記の通り二つあった。

    一つは、「反物」、或いは「仕立物」の「宝飾荷造り」である。
    二つは、「宝飾荷造り」に「権威の影」を染み込ます事である。
    この(一)と(二)で一対として、「伊勢神宮」に「神の御霊入れ」を祈願して「御朱印」を授かる事にある。

    この作業を一手に引き受ける事に成り、この為に「装飾技能」や「反物、仕立物の漆箱等の技能」が要求された。

    そもそも、この「装飾技能」と「漆箱の技能」は、「紀州郷士」の彼らの「元からの特技」であり全く心配はいらない「彼らの本職」(「技職の業))であった。
    「装飾技能」と「漆箱の技能」を「技職の業」でないという人はまさか居ないであろう。

    それは何故かと云うと、次ぎの様な経緯があった。

    注釈 そもそも「紀州」は「南紀」には「熊野神社」と、「北紀」には「伊勢神宮の最後の遷宮地」で多くの「伊勢神宮系の遷宮神社」(4社)が存在する。
    この「熊野神社」や「遷宮地」の門前町には「祭祀に関係する技能」が古くから多く広まって集まっていた。

    その一つが「装飾技能と漆技能」であり、現在もその伝統は継承されている。

    (注釈 「紀州漆器」は、「三大漆器」の「輪島塗」と共に有名で「紀州漆塗」は「古来からの伝統芸能」であった。
    現在はこの「漆器伝統」が、江戸中期に分流し二流、つまり、「黒江塗」と「根来塗」に分かれて遺されている。
    分流した原因はよくは判らないが、そのきっかけは平安期末期と室町期末期の混乱で「近江の木地師」”が紀州に移り住んで「木地物」を広めた事から、これを「椀物」と「塗」とを組み合わせた事に成っている。
    時期的に観ると、「紀州郷士」の「紀州の北紀殖産」を導いた「名手氏や玉置氏の保護」を受けていて、何か「射和との関係性」を持っているかも知れない。)

    (注釈 そもそも、「近江木地師」は、「近江関係氏の資料」の「近江の佐々木氏系青木氏」の項の論文によれば、「近江木地師」は「近江佐々木氏系の青木氏部」に所属していた筈である。
    ここには、平安末期の「近江の源平戦」で敗退し、更に「美濃の源平戦」でも敗退し、「佐々木氏系青木氏の滅亡」にて分散したとある。
    そして、「近江佐々木氏」が一部を囲い、一部は伊勢等に移動したとある。
    この時の「木地部」が、「近江佐々木氏」が室町期末期に衰退して「木地師」は「紀州」に移動し、平安末期には「伊勢」に飛散したと読み取れる。
    そもそも、「木地師」とは、「仏像」を始めとして「木地に関わる生活用品」を幅広く作る「職人」であり、平安期には「賜姓族」であった「青木氏」には無くてはならない「青木氏部の職人」であった。)

    (注釈 論外ではあるが、ここで「二つの疑問」が残る。先ず一つは、「近江木地師」は何故、、紀州紀北に移動したのか。二つは、何故、「紀州漆器」が二つに分流したのか。この「二つに疑問」が残る。
    そして、この「二つの疑問」が「射和との関り」にあるのではと考えた。
    一つ目は、現在の地元の定説は単に移り住んだとある。当時の掟では許可なく理由なき移動は認められていない。確かに「近江佐々木」は衰退を続けたが、それでは「移動できる条件」にはならない。
    ただ「紀州」は、「木の国」であり、「漆の最大産地」でもある。「木地師」に執っては「絶好の定住地」と成るだろう。しかし、それだけで「移動できる事」にはならない。
    これには「伊勢の青木氏部」に組み込まれた同族の「一団の木地師」との関係が出ていたのではないかと考えていて、それが「射和」と結びついてると考えている。
    これには何か「歴史的キーワード」がある筈である。その「歴史的キーワード」が「分流した原因」でもあると観ている。)

    (注釈 この「歴史的キーワード」を解く鍵は、「江戸中期前後」と「秀吉による根来寺荒廃」にあったと観ていて、「秀吉」に依って徹底的に潰された「根来寺」を江戸中期前後に「吉宗」と「紀州藩」が庇護して伽藍を修復したとある。
    つまり、「紀州」と「江戸中期前後」とは、”「吉宗に関わる事」”に成る。
    「青木氏部」に組み込まれた「近江木地師」を、「漆器職人」を生業としていた「紀州門徒衆(C)」を「射和」に呼び寄せて「養蚕の殖産」を成功させた。
    ところが、「吉宗」が引いた後の紀州藩は放漫な藩政に依って再び「借財態勢」に成った。
    そこで、「射和の成功体験」をもとに「吉宗」は、「射和の経緯」もあり「青木氏(X)」と相談の上で、「伊勢の青木氏部の近江木地師」を「紀州藩の財政立て直し」と「根来寺の再建」を図る為には逆に「伊勢」より「根来」に差し向けたと考えられる。)

    (注釈 「青木氏(X)」は、江戸中期前後、つまり「享保期末期(1751年没)」の直前に表向き理由として「吉宗との意見の違い」にて江戸を引き上げているので、その直前にこの「木地師の配置」を決めたと観られる。
    これで、現実に奈良の国境の「根来」は息を吹き返した。
    そもそも、「吉宗後の紀州藩」は「借財体質」に再び戻った事からも莫大な金額を要する「根来寺伽藍修復」は「吉宗と青木氏の援護」なくして出来る事で無かった。
    この仮説が「上記の疑問条件」を解決する。)

    (注釈 「根来寺」は高野山の麓の真言宗寺であり、忍者の里でもある。「雑賀集団」と共に反抗集団として恐れられ五月蠅がられた。
    「吉宗」はこの「根来衆」を鎮める為にも「伽藍修復」と根来発展」と云う上記の手を打った。
    この「二つの地域」には「木地と云う姓」が多い所以でもある。
    これが江戸期に二度行っている「青木氏」の「紀州藩勘定方指導」と云う事に発展していったのではと考えられる。)

    その「古来からの伝統ある技能」を家内工業的に彼らの「唯一の収入源」として「紀州郷士」等が継承していたのである。

    この「荷造り工程」の前の「三つの工程(検品、仕分け、仕立て)」は、何とこの「荷造り工程」に付き物の工程なのであった。

    彼等には身寄りもないこの「伊勢松坂射和」であったが、この難しい「五仕業」は当に“水を得た鯉“であった。
    だから、「門徒狩り」のほとぼりが冷めた後も彼らは「射和」を飛び出さなかったのである。
    これは「青木氏(X)」と「松阪郷士(B)」の判断であったが、より「松阪紬の権威性」を高められる手段を模索する中で、確かに「扱いに問題」はあったが「天の巡り合わせの様な出来事」であった事が判る。


    さて、その「彼らの行動」は、それどころでは終わらなかった様だ。
    「天の巡り合わせ」と云っても、そもそも、この「五仕業」には「人手」が多くかかる。
    この事は、「青木氏(X)」から高度な仕事(仕業)を与えられた瞬間から判る事であった。
    合わせてこの事は、この「五仕業」が「高度な職能」である限りは「射和郷士(A)の手」を、借りられない事は直ぐに判る。
    当然に、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」との間で相談に入った筈(手紙の一説)で、「解決策」は当然に直ぐに提案された事に成る。

    それは、「唯一の策」として、“紀州から彼らの縁者一族を呼び寄せる事”にあった。
    これには、「国抜けの禁令」が障害に成る。一族郎党の斬首の重刑である。
    彼等自身(紀州門徒衆)にはこの事は何とも仕難い事である。

    そこで、「青木氏(X)」は動いた。
    「紀州藩(伊勢籐氏家臣団)」に隠密裏に掛け合う事であった。
    「紀州藩」はこの事を許可しなければ「借財」は疎か「税の収入」も激減する。
    それどころかこれらを解消させる「殖産」が成功しない。
    況してや、「絹衣」は「他の殖産品の木綿等」と比べても比べ物にならない「高額収入源」であり、「紀州藩」としても「権威の象徴」として広範に利用できる。
    更には、藩としての「借財」は返せて、且つ、「権威と名誉」は保て幕府に大きい顔が出来る。
    この最大の問題の鍵はこの「国抜け罪」である。

    然し、「見事な殖産」を「青木氏(X)」と共に仕立てた「賢明な藩主」は、要は、「国抜け罪」<「殖産」=「借財」と間違いなく考える筈である。
    後は、「伊勢」には「南勢と北勢」に幕府の「四つの代官所」を置いているが、この「幕府の目」をどの様に反らし「国抜け罪」をどう繰りぬけるかにあった。

    然し、積極的で賢明な「藩主」は、「遷宮神社」の「門前町の職能者」の「彼らの一族一門の郎党」を「射和」に送りこむ事を決定した。
    それには、「門前町職能の現能力」を下げずに「門前町職能者」の郷士の「次男三男の部屋住み」を密かに「射和」に送りこむ事にして、そして、彼らに秘密裏に「通過鑑札」を与えた。

    (注釈 この「遷宮地門前町」は、城下の直ぐ東側に繋がる様な位置にある。
    そして、この紀州藩城下にある「遷宮地」は、真東の奈良五条を経由して、そして、「名張」−「射和」に通ずる「一本道の位置上」にある。
    つまり、距離は「射和」まで約130Kmであり、容易にこの計画は、無理なく、即座に、且つ、円滑に、極めて早く実行できる可能性がある。
    急がねばならない。人の歩く速度約10Km、一日12時間として昼夜のほぼ一日で着く。
    関所は五条の一か所、地形は殆ど平坦で名張まで来れば迎えが入る事で、荷駄と人は早くなり最早安全である。
    戦略は当然に「風林火山」である。
    「紀州藩の家臣団」は目立たぬ様にそれとなく護衛している事と、一団を「カモフラージュ」する役を演じる事にも成る。

    (注釈 実は、呼び寄せの「別の証拠」として、「紀州北紀の郷士」で「射和」に来ている一門の「玉置氏」がある。
    この「玉置氏」は、「筆者の母方」の「江戸期の出自先」で、「醤油と酒」を製造し、「搬送業」も兼ねていた。
    この「搬送業」での口伝では、「松阪射和」まで運んでいた事が伝わっている。
    何を運んでいたかは明らかではないが、恐らくは、当然に「射和の一族」に「醤油と酒」を運んでいた事は判る。)

    実は、この彼らの一族郎党を呼び寄せた証拠が記録として二つ残っている。

    先ず一つは、「射和地区の北側」は開発をして定住した地域なので「紀州郷士の姓」は多いが、ところが、「西側の近江商人(B)」の定住地域には「紀州郷士の姓」(前段でも論じた)が「住み分け」をしている筈の中でこれまた多いのである。
    これは何故かである。
    この時代は「争い」を避ける為に「住み分け」を原則としている以上は、西側には無い筈で、「松阪郷士(A)の土地」でもあり、「自由な住み分け」は殖産工程上も当時としては先ず起こらない。

    ところが「時系列的」に観ると、「近江商人(B)」が江戸に出始めた享保期後半に集中している。
    これは、この時期に「紀州門徒衆(C)の開発定住地」の「射和北側」から「櫛田川の川洲域」の「西側」に向けて降りて来たという事に成る。

    これには、記録上で二つ理由がある。(呼び寄せた「二つ目の証拠」)
    一つが、「射和北側」では「五仕業」の工程が山間部である為に手狭になった事。
    これを解消する為に、その「工程の流れ」を「射和北側」の定住地の中での「横の流れ」から、「射和川洲向き」の「縦の流れ」に変えれば「最終の搬送工程」は直ちに「舟」に乗せての「便利な工程」の流れに成る。
    幸い「近江商人(B)」は江戸に出て空き地と成りは始めた。
    工程を熟す「住まい」をその方向に建て替えてゆけば成立する。

    (注釈 彼等にも「五仕業」の御蔭で「資力」は出来た。「青木氏(X))も援助する。)

    二つは、「近江商人(B)」が担っていた「松阪木綿」を扱う者が居なくなった事。
    「近江商人(B)」は、結局は、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」等と反目して一族を「射和」に遺す事は到底出来なく成った。
    この結果、「松阪木綿」の「販売」を誰かに委ねなければならない。
    そこで、「射和郷士(A)」は、「青木氏(X)」の了解を得て、子孫拡大する「紀州門徒衆(C)」に依頼し、その条件として「西側の使用権利」(地権も含む)を援助の形としても譲った事に成った。

    紀州から逃避して来て、「青木氏(X)」に保護された「紀州門徒衆C)」と、その呼び寄せられた一族は、「五仕業」に依って生活は一度に裕福になった。
    「子孫」も養えるし、彼らの名誉を回復して郷里にも顔が立った。
    この経緯が「紀州郷士の姓」が多くなった理由である。

    さて、次は、「搬送」である。
    この「搬送」は、”単なる前工程の絹物を特定先(上記)に運べばよい”という事では無かった。

    先ず、「一つ目の搬送先」は、松阪にある「紀州藩納所」である。
    搬送には領内であるので問題はない。

    次ぎの「二つ目の搬送先」は、「朝廷」で京まである。
    「高額品」であるのでこれは慎重にしなければならない。
    「護衛」を着ける必要があり、「伊勢シンジケート」に「射和郷士(A)差配頭」を通じて手配が必要である。

    最後は、「三つ目の搬送先」は、「青木氏の割り当て分(1割相当)」からの「伊勢神宮献納品」である。
    これも問題はない。

    先ず「搬送品」を筵で包むような事は出来ない。それなりに装飾を加えての「御届け物」に成る。
    「朝廷」には、「天皇家」に納めるのではなく、「朝廷の式典」の「供納品」として納める事に成る。
    従って、「荷駄」には「式紋の五三の桐紋」の敷物が古来から使用された。
    荷駄には旗が立られて運ばれるが、周囲は荷駄に対して最敬礼であった事が書かれている。

    「紀州藩」の納所には、徳川氏の「式紋の立葵紋」の敷物が使用されたと書かれているが、これも朝廷荷駄ほどではないが、邪魔や追い越すなどの無礼は無かったらしい。
    何れもそれだけに、「搬送」は「権威」を落とさない様に周囲を固めて運んでいたらしい。

    後は、「青木氏分の割り当て分(1割相当)」より充当した「秀郷一門への搬送先」は松阪北側の湾寄りの四日市と津の中間位置にあった事から、直納した事が書かれている。
    これには余り荷駄を公には出来ず、速やか密かに屋敷に届けた事が判っている。
    その内容を書いた「要領書」の様なものがあってそこに書かれていたらしい。

    (注釈 「青木氏分の割り当て分(1割相当)」とは、一定の生産計画分より「増えた分」を「青木氏の割り当て分」としてプールし、それを「秀郷流青木氏」を通じて密かに廻していた事に成る。
    紀州藩には表向きは「秘密の分」であったらしい。黙認されていたと観られる。
    「増えた分の差配」は「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」と「紀州門徒衆(C)」の三者で密かに決めていたと観られる。
    この三者に対してその増分から得られる「利の配分(利得分・割り増し分)」もあったからだと観られる。)

    何れも、四者に届ける「搬送役の要領書」が独自にあったらしいが見つからない。(消失か)

    そして、この「要領書」の様な中に、彼らの「搬送の本領」が書かれていた様で、それは、つまり、「実質の営業」であった事らしい。

    つまり、「状況証拠」から、先ずは、次ぎの手順を踏んだらしい。

    「届け先」に着くと「届けの確認」と、「次ぎの要望」等を取りまとめて聞いてくる事。
    場合によって「発注量(納品量)」と詳細な「要望の把握」と「納品期の要望」にあった事。
    時には、「厳しい交渉」(苦情含む)が丁々発止で行われていた事

    以上の様な事であったらしい。

    「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城−名張−伊賀−射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

    筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

    これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
    元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
    全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。

    本段は、著作権と個人情報の縛りの中で「伊勢の事」を少ない資料の分析を以ってそのつもりで論じた。



    > 「伝統シリーズ 39」に続く


      [No.356] Re:「青木氏の伝統 37」−「青木氏の歴史観−10」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/08/20(Sun) 14:32:06  

    > 「伝統シリーズ−36」の末尾



    >(注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
    >その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
    >「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

    >(注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
    >「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。

    >(注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。
    >少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。


    >注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
    >これは既に”「青木社」”であった。
    >つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
    >その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
    >つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
    >それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

    >その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
    >「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
    >「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。




    「伝統シリーズ 37」

    此処で「青木氏の歴史観」として、「青木社」を成し得るにはそこには「地権と云う権利」があった事になろう。
    それ無くして「無理」と考えられる。

    この「青木氏の地権」に付いて詳しく論じて置く事がある。
    それは「単純なる地権」では無かった筈である。
    この「地権」には、「政治的なもの」が働いていて、与える者、与えられる者の双方の「戦略的駆け引き」が読み取れる。

    先ずは例として、「伊勢青木氏の地権の状況」が良く判っているので、これを見本として論じるが、全国の「青木氏の地権」も、取り分け、「15地域の青木氏」はほぼ同じであったと考えられ、この事は遺されている資料からも頷ける。

    江戸初期の紀州藩から受けた「青木氏の本領安堵」の内容には、“「地権」”と云う点から観ると、その「地権の一部」に異なる事があるのだ。
    ところが、その「地権の一部」には“ある意味合いが潜んでいる事”が判る。
    それは、むしろ、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」以外は、「紀州藩」から「殖産と興業」の「伊勢復興」の為の「地権の土地」ではあったと観られる。
    その「地権の一部」には、紀州藩の「頼宣の差配」で「本領安堵策」で、敢えて「奈良期と平安期初期の旧領の本領」までを付加されているのだ。

    先ず、当時の「本領安堵の慣習」として普通ならば、これ程に古い「旧領安堵」までは認めていなかった。
    この事は「青木氏」としても当初は考えていなかった筈で、この事から考えると「地権を持つ地主」と云うよりは“「ある目的」”を以って、形式上は“「預け任された」”と云った方が適切であろう。

    「青木氏」としても“「ある目的」”を理解するまでは、或は、「紀州藩」から「内々の話」があるまでは驚いたと観られる。
    実は、これには「根拠となる資料」があった。
    江戸初期の当初は、その年の収穫量から割り出す「検見法」と云う令があって決められていたが、当時の江戸中期前後には、この「検見法」は変動が大きく「定免法」と云う税法に変えた。

    (注釈 「検見法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに都度の「年貢率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
    一方、「定免法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに「定税率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
    その設定方法に依って使い方の時期は判る。)

    然し、例外を設けて「収穫量が低い地域」には、“「畑方免令」”と云う特例を発して「畑地の税比率」を変えた。
    そこで、この「畑地」として登録されている「殖産地」には、足りない収穫分は「米」を他から買って「米」で納め直す「買納制」が敷かれていた。

    ここが「殖産政策を敷く青木氏」に執っては大問題なのである。
    そこで、取り分け、上記した本領安堵された「青木氏の地権地域」の「殖産」には、「米」に変換して「金か米」を納める事が起こったが、「青木氏」では主に「金納」であって、一種の別の「買納制の慣習」が敷かれていた。

    つまり、「紀州藩」は、“「米納」(「買納制」)”では無く、特別に「青木氏」に対して例外的に原則禁止の“「金納」”のこれを特別に容認していたのである。

    さて、これは何故なのかである。
    この“「ある目的」”を理解することが出来る「重要な疑問点」であった。
    「幕府」は、「紀州藩」の「財政立て直しの目的(安定した借財返済)」を理解して、これを黙認した事が史実として判っている。
    これを観ると、「青木氏」の「旧領の本領安堵策」の地域だけには特別視していた事が判る。
    実は、この時の事の一部がこの「資料」に書かれていて、「公民比率」が普通の「四六の税」が逆転して、上記の「旧領(古来)の本領分域」の「殖産の地権部分」だけは「六四の税」に成っている内容が書かれている。

    そもそも、「一揆」が起こりそうなこの“「厳しい税」(「六四の税))“を考えると、先ずは「紀州藩改革」の為の「一窮策」であったかも知れないが、「青木氏」の「資産投入」に依って”「殖産を興す前提」“として、敢えて紀州藩は「本領安堵する条件」にしていたと考えている。

    仮に、この地域を本来の様に「紀州藩直轄領」とすれば、「殖産」を興すとしても全て「紀州藩の財政」から賄わなければならない。
    然し、その「投資の財力」が「借財中の紀州藩」に無ければ、取るべき方法は唯一つである。
    それは「青木氏」に先ず「慣例」を破って「旧領の本領安堵」をして、“「地権」”を与え、その上で「私財投入」させた上で、その「差配一切の費用」も持たせて、その代わりに「税」だけを「金納」(「六四の税)で、「紀州藩」が獲得出来得れば安定した「六の純利益」が安定して丸々獲得できる事に成る。
    それを更に「金納」にすれば、「紀州藩」は大阪で「換金の手間と経費」も省ける。
    こんな「濡れ手で粟の策」は無いだろう。

    普通は、「四六の税」かせいぜい「五五の税」ではあるが、国に依っては厳しい「七三の税」も在ったが、ここまですると「殖産に注ぎ込む力」はなくなる故に、これはせずに少し緩めて「六」を納め、「四」を「殖産」に注ぎ込ませる政策を採ったと観ている。

    そして、「畑方免令」に依って「殖産の利益」を「米換算の納入」にするのではなく、「返還金」で直接納税しているところを観ると、「米換算の納入」では大阪堂島の「米相場の影響」を受けない「藩のメリット」があった事にも成る。

    これは、“予期していなかった“と云う事もあって、「紀州藩立て直しの策」として「了解の上の政策」であったと考えられる。

    (注釈 それは「青木氏の資料」の文脈から「反動的な文言」は無い事からも判る。)

    これで幕府からの「借財10万両の返還」を成し遂げた「紀州藩」の「立て直しの窮策」の効果的な一策であったと観られる。

    (注釈 それでもこれを引き受けた事は、「青木氏」に執っても「四」でも”「無形の利」”があった事に成る。
    それは「殖産」を興せると云う「利」があって、それが「旧領の氏人」に「潤い」と成り得り「氏人」を救える。
    つまり、恐らくは、この「旧領の本領安堵」の地は、「奈良期からの氏人」が住んでいたからであって、“救える”という「無形の利」を敢えて採り、元より「利益」を度外視していた可能性が高い。
    「紀州藩」も「腹の底」でそこを見据えていた可能性がある。)

    何故ならば、「紀州藩の家臣」は、殆どは縁戚の「伊勢の秀郷流青木氏族」であるからだ。
    彼らが“縁戚を裏切る事”は先ず無く、この意味から、事前に説得を受けて内々で承知していた事が伺える。
    下記の「紀州藩の勘定方指導」もその「戦略の経緯」の中の一つであった事は間違いはない。
    この時の内々の話の中には「この話」が出ていた筈である。

    去りとて、幾ら、「頼宣の時」は別としても、更に「殖産」を進めた「吉宗」の時に「勘定方指導」で「紀州藩」を救うと云っても、それまでの「幕府借財2万両の体質」と「10万両の借財返済」の「負の勢い」を押し返し、「立て直し」までに至らすには「相当で効果的な秘策」が無ければ成し得ない。
    「吉宗」が唱えた単なる「質素倹約策」だけでは成し得ない事は明白である。
    この「質素倹約策」は明らかに「紀州藩の政策上」の「表向きの策」であった事が判る。
    ”領主はちゃんとやっているよ”と吉宗に対する領民の期待感を先ずこれで維持し、「一揆の動き」を抑え、傍らで”「青木氏の殖産策」”を示すと云う「パフォーマンス」をやってのけたと考えられる。
    そもそもこの時期、飢饉や災害が頻発し、その上に「質素倹約の令」は現実的には無理な筈である。
    然し、建前上は”「派手」”は推奨出来ない。

    筆者は、「領民」には、「吉宗と伊勢屋(伊勢青木氏)」との「育ての親関係」は、「周知の事」であった筈で、「吉宗の裏」には「豪商伊勢屋」、つまり、「伊勢」のみならず「二つの青木氏」があると知っての事で「質素倹約令」を敢えて受け入れたのだと観ている。
    これは「一種のサイン」であって、”これから改革して「領民の暮らし」を良くするよ”と云うものであったのだ。
    そしてそれは、”「殖産」”を手掛ける「青木氏と伊勢屋」である事は領民の周知の事であったのだ。
    況してや、前代未聞の「旧領の本領安堵」の事も充分に伝わっていたのであるから、これから”何か起こるよ”と領民の期待は膨らんでいた事に成る。
    だから、「郷氏」としての「旧領安堵の事」を素直に受け入れたと考えられる。

    そこで「伊勢屋の紙問屋」の「二足の草鞋」の「青木氏」が、「殖産」と共に「紀州藩の勘定方指導」をする以上は、「質素倹約策」ならば誰でも出来るから何も「青木氏の指導」を受けることの必要はない。
    それは「青木氏」ならではの「秘策」とその「実行するノウハウ」を持ち得ていなければならない筈である。

    その「秘策」が、次に論じる”「商業組合と殖産」”であって、その「殖産」を前提とした「商業組合」の「殖産」を興す前提が、この“「旧領の本領安堵策」”であった事に成る。

    そこで起こる「殖産収益」にその税率を「六四の税」を掛け、「六を金納」にして「四を殖産経費」に廻せば「青木氏と紀州藩」に執っては双方共に「六は純利益」と成り得る仕組みである。
    これが「青木氏」の「無形の利」の根拠であろう。
    そして、“「殖産」”から生まれる「製品」をより効果的にする為に”「商業組合式」”にして「生産から販売」までを「系統化」すれば、「販売如何」では「六四」以外の”「利益」”は間違い無く起こる。
    これを「青木氏等」の「殖産側の取分」とすれば、この「システム」は成り立つ事に成り、「氏人」も確実に潤う。

    この「旧領の本領安堵策」以外にも、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地」の「二つの地権地域」の「殖産」もある事から、「殖産経営」は充分に成り立つ。
    従って、「頼宣の要請」(伊勢藤氏家臣団)としても、「吉宗の勘定方指導」(青木氏と伊勢衆)としても、何れにしても「殖産の策」として使えた事に成った。
    兎も角も、後は「青木氏と伊勢衆」の「殖産努力の如何」に関わる事に成り、「紀州藩」は「旧領の本領安堵策」だけで事は終わる。
    後は”「税納」”を待つばかりに成る。

    更には「吉宗」の時は、「勘定方指導」で”「政治」”そのものも任せた事にも成り得て、そこに「伊勢藤氏族の官僚」の体制が整えたと成れば、「伊勢方の主導」で「紀州藩」を動かしたとも云える。
    故に、一致結束が出来た事に依って上記の計画、或は、謂わば、”「伊勢戦略」”が「2万両の借財体質の脱却」と「10万両の返済」が可能に成ったのである。

    それが「青木氏の歴史観」の「伊勢殖産」であった事は確かではあるが、”「殖産」”をしても「純利益」を高める事が「必要条件」であって、それに「紀州藩」が「伊勢殖産」に直接投資していては「純利益」などあり得ない。
    況して、そのノウハウも無いし「必要経費」で毎年の幕府から借財する「2万両の赤字」は更に膨らむ事に成る。
    この何もしないで得られる“「純利益」”が、上記した“「負の勢い」の「押し返し」”の”「反力」”と成り得たからだ。

    この上記の「金銭」に変換して”「純利益」の「反力」”が「上記の窮策」であったと考えている。


    (注釈 何度も記述するが、「紀州藩の家臣団」の殆どは「秀郷流青木氏」を中心とする「伊勢藤氏の集団」であるから、この話を「青木氏」に通して「内諾」を得る事は実に簡単な事であり、この「立場」を生かさない方がむしろおかしい。
    むしろ、「青木氏の方」から裏でこの話を持ち込む位の事はあっても不思議ではない。私なら絶対にやる。)

    筆者は、この“「反力」”を示す事が何処かに必ずあると観て研究を進めた結果、正式な書類とは考えられないが、「新宮の遠祖地の縁籍筋の家」からこの事に関する資料が発見された。
    この資料の上記の一説に、この時の「税の事の経緯」を書いた文章の一説が見付かった。

    つまり、「青木氏」が、この「今後の税」の事に付いて、況や「地権地」の事に付いて縁籍関係一族一門に説明をしている一節の行である。
    「地権」を持つ各地の「遠祖地の縁籍筋」からの「殖産振興」を進める上での「問い合わせ」の様な事が書かれてあって、これに対する「返信」ではないかと観られる。
    そもそも、250年近くも平家をはじめ多氏の支配下にあった「遠祖地の氏人」が、江戸期に成って急に「本領安堵」となれば、”何かあるな”という事は理解していた事は明白で、そこら辺のやり取りではないかと考えられる。
    恐らくは、「紀州藩との関係」に付いての「戦略的な事」に付いて懇切丁寧に説明したのではないかと観られる。(青木氏側には消失して資料はない。)


    そこで、この「殖産の土地」には、「畑方免令」を上手く利用して「平安期の旧領(遠祖地)」の「本領安堵策」で解決したとして、次ぎの問題としては「優秀なリードできる人の確保」であった。

    「優秀なリードできる人の確保」の問題を語る上で「重要な事」があって、そこで、「伊勢青木氏」等は「歴史上に遺る史実(歴史観)」として次ぎの事を成したのである。

    前段でも論じたが、「室町末期の伊勢三乱」で敗退して何とか生き残った「3割程度の郷士衆」と、「全国に飛散していた者(伊勢衆の伊賀衆)」等を先ずは呼び集めたのである。
    「伊勢衆」を生き残らせる為にも、江戸初期には、「頼宣肝入れ」で、「青木氏」と共に、「紀州藩公認」の下でこの事に取り組んだのである。

    この事に付いては「紀州藩家臣団」が要するに何と云っても「伊勢籐氏」である。
    「呼び戻す事」には何の問題もない。
    むしろ「人と云う戦略点」では、これ程の「都合の良い事」は無いであろう。
    普通なら、”呼び戻せばまた反乱を起こす”という意見も家臣や周囲から出るであろうが、そこは逆であった。
    そんな馬鹿は幸いに居なかった。

    況して、当時は、「人」は領主の下にあり、”他国から呼び集める”と云う事は「国抜けの法度」でもある。
    「理」に合わなければ「時の指導者」でも逆らうと云う「伊勢の骨入りの郷士」とその「家人」である。
    ”「人」には問題がない”と云うよりはこれ程の理に適った「人」は無かったであろう。

    後の事は「青木氏」が「引き受け元」に成れば完全に上手く行く。
    この事は「公的資料」として遺されている。
    流石、「家康」が目にかけた「頼信の紀州藩」である。
    実にうまく利用した。中にはこの”「殖産策」”を利用して「伊賀者を護身団」に仕立てたくらいである。

    (注釈 実は「頼信」は将軍からその「才」を嫉妬され「謀反の嫌疑」をかけられる始末で「影の護身団」が必要であった。
    これも「伊勢籐氏の家臣団」が「当主」を護る為に「青木氏等」が行う「畑方免令の殖産策」に託けたと考えられ、「青木氏」もそれを導いたものである事は疑う余地は無いだろう。
    後は、「青木氏の影のシンジケート」で包み込めば表向きは何の問題もない事に成る。
    何時の世も「組織の人」を扱うときは慎重であらねばならない。
    これは「青木氏」の「家訓」でもあり「氏是」でもあり、それに従ったという事ではないか。)

    注釈として、そもそも、室町末期の「伊勢三乱」の結果、「織田軍や秀吉」に抵抗した「伊勢郷士衆」は、取り分け、「北勢の伊賀衆11氏」や「南勢の北山衆(平家残党末裔)」や「山間部の戸津川衆(平家残党末裔)」や「東勢の長嶋衆」等は家族を残して全国に飛散した。
    彼らを「神明社」が託ったのである。
    多くは「青木氏の定住地」で、「織田軍や秀吉の勢力」が届かず、且つ、「青木氏の保護力」が強い地域の特に「越前や越後(神明社)」等の北域に逃げ込んだ。

    ところが、この「二つの条件」のある「武蔵域」には不思議に逃げ込んでいない。
    そもそも、「秀郷流青木氏の膝元」であり、家康の「御家人や旗本と成った家臣団」であり、ここに「家臣」として逃げ込めば助かるのに無い。
    何故かという疑問には、「北域」と「武蔵域」の差には「伊勢信濃シンジケートの活動」が届く範囲であったかと云う事が考えられる。

    そもそも、史実として前段でも論じたが、“「呼び集めた」”と云う事は「居場所」を承知していて保護していた事を示すものであり、“ほとぼり”が冷める時期を見謀っていた事を示す。

    この”呼び集めた”とする記録がある事は、前段でも論じた様に、「伊勢」そのものが「郷士衆」が極端に少ない(全国の1/10程度)上に、この「郷士衆」が元より少なく成った処に飛散している訳であるから、“「殖産」を進める上では、「絶対的な力と成る者」が少ない”と観ていた確実な証拠でもある。
    つまりは、「青木氏」等に執っては「必須の課題」であった事を示す。
    この「畑方免令を利用した殖産」に必要とする”「人の問題」”はこれで解決された事が判る。


    この「必須の課題」(「人」)を解決でき得れば、後は、”「拠点造り」”に成るだろう。

    この「紀州藩との取り組み」の”「拠点造り」”のそれが、上記の様に、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」の「二つの地権地域」であった。
    その一つでもある「玉城領域の全域」(現在の玉城市)が、物流の「蔵群」と「作業群」と「長屋群」であった所以なのである。

    この松阪に近い「宮川沿領域」を「畑方免令の殖産」の「拠点づくり」の地域にした。

    「旧領の本領安堵地の殖産地」では無い此処に「殖産の実務拠点」を置いて、「全殖産」の「一切の集積地」としたのである。
    ”何故、「旧領の本領安堵地」に拠点を置かなかったのか”と云う疑問であるが、この地域は「熊野神社の領域」に近く「熊野六氏の勢力圏」(平家落ち武者の末裔族)でもあった。
    この域に「殖産の拠点」は絶対に置けない。
    然し、「幕府」が成立したとしても世の中は安定はしていない。
    「本領安堵域」と成った以上は、未だ無防備ではいられない。
    護るには「青木氏」は「武力集団」は使えない。
    「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」をこの地域に及ぼさねばならない。
    然し、「熊野勢力」に執っては南勢に「北勢の影の勢力」が浸出して来る事は、この不安定な時期では最も危険性を孕んでいた。
    ”ではどうすれはせ良いか”と成る。
    何せ250年もの長きに渡り、北勢域に伸びた「青木氏の抑止力」の届く範囲ではなかった。

    そこで、「青木氏」は、「商記録」にも観られるように、「7割の株券」を持つ「伊勢水軍」を使った様である。
    この「水軍勢力」で「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」を「動かす姿勢」を見せて「熊野勢力」を牽制していた様である。

    どう云う事かと云うと、「伊勢水軍」は「海の上での勢力」で「熊野勢力の牽制」は直接は無理である。
    況して、「熊野水軍」もある以上は直接的には戦略上好ましくない。
    然し、それは「使い方」である。

    それは、次の様であった様で、「遠祖地の本領安堵地」等からの「畑方免令の殖産」の生産品を「伊勢水軍の水路」を使って「松阪の玉城域」に「宮川」を経由して陸内に運び込む戦略をとったのである。
    そして、ここ「地権のある玉城域全域」に「蔵群」と「職能長屋」と「加工場群」と「支配拠点」を置いてここを「殖産の拠点」とした。(明治期の35年まで残されていた。)

    (注釈 中には、恐らくこれでも足りない為に、「郷士の家の庭」に「小さい拠点の作業場」があって、周囲の「氏人の家人の女子供」までもを呼び集めて「工場」が設営されていた。
    如何に「殖産」がうまく動いていたかを物語る。
    「呼び集め飛散した郷士」等の「屋敷群」が元の「四家の各地域」にも「新たな設営」があった事が記載されている。)

    シンジケートの拠点は流石に明記は無いが、「神明社社領域」に敷設されていたらしい事は判る。
    唯、身分は隠しての事である。
    例えば、判り易い例として、「南北朝の楠木正成」は「シンジケートの一員」でもあったくらいで、「山間地の土豪の身分」の家柄で生きて行くには「経済支援」とそれに基づく「掟」で結ばれた「裏の存在」が必要であった。
    この様に「シンジケートの身分」は、多岐に渡りあくまでも「神明社や寺社」の「影の中に生きる身分」であった。
    当然に、これに依って「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」は、”伊勢から直ぐにでも移動できると云う「印象」を与えていた事”は、「商記録の動き」からも判るし、「旧領地の手紙の文面」からも読み取れる。)

    そもそも、「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」の中には、記録では証は出来ないが「平家末裔」が含まれていた事は否めない。
    だとすると、確証はないが「熊野勢力の六氏」とは”「事前の渡り」”は付けられていた筈であろう。

    上記で論じた様に、「畑方免令を使った殖産」に「利」を与えるには、いくら”「無形の利」があるから”と云って、あの高く厳しい修験道が登る「南勢の紀伊山脈」を越えて運んでいては「利」どころの話では絶対にない。
    この事はむしろ、それ位の「使い道の無い山間地の地域」という事にも成ると云う事は、「紀州藩」も当初から知っていた筈で、「殖産として本領安堵する条件」の一つであった事は云うまでも無いであろう。
    普通なら、”その土地をやるよ”と云っても”そんなものいらない”と云うだろうそんなもの「土地」である事は誰でも判る。
    素直に”頂きます”と云うのは、「遠祖地」であると云う事から「青木氏」だけである事も判る。

    「熊野勢力六氏」は、「社領権域の隣接地」であるので”頂きます”と云うかも知れないが、ところがこれは「紀州藩」に執っては好ましくない。
    これ以上、彼らの「宗教勢力と発言力」を拡大させたくないし、「殖産」で何とか借財を償却しようと「苦肉の戦略」を練っているのである。
    そんな愚策は無いであろう。

    そもそも、「宗教勢力」と云うのはどんなものであるかは知っている。
    相当、「厄介な勢力」である事は歴史が物語る。
    何時の世もこれに大きく関わり過ぎた「政治圏」は乱れる。

    その一つの「青木氏の例」があるが、「守護神の神明社」を、丁度、この時期の「江戸初期の幕府」にすべて無償譲渡した事はこの事に由来する。

    「青木氏」と「伊勢籐氏の家臣団」が「愚策」を練る様なそんな馬鹿な事をする訳がない。
    そもそも、北勢の「伊勢神宮の宗教勢力」の「旗頭」に執っては、南勢の「熊野神社の宗教勢力」に「利」に成るような事は絶対にあり得ない。
    況して、「青木氏の遠祖地」で、且つ、「殖産改革」が成り立つ条件下にあれば尚の事でもある。
    むしろ、戦略上は「熊野勢力六氏」を適度に”ちょっかい”を出させない様に抑え込んで置く必要がある。
    唯、見栄を切って抑え込む事は好ましくない。相手を刺激するだけである。
    この事は、「遠祖地の旧領の本領安堵」に依る”「畑方免令の殖産」”を成功させる「重要なポイント」でもある。

    そもそも「遠祖地の氏人」は武力は持たないし、”「殖産」”を上手く進めるには穏やかに護る事が必要で、”静かなる事林の如”である。

    さて、その上での事を念頭にしての事である。
    それには、「間接的に圧力」をかけての「伊勢水軍を動かせる勢力」(7割株保有)である事が条件であった筈だ。

    そして、もう一つは、「旧領地の付近一体」を安定に保たせる事が必要である。
    「紀州藩」がこれに「家臣」を費やすれば、そもそも「六四の税」の意味が亡くなる。
    当然に、「青木氏」の持つ「伊勢信濃シンジケートの抑止力」を生かせる事が必要である。
    然し、幾ら「シンジケート」云えども「南勢」はその「勢力」が届く範囲ではない。
    上記した様に「熊野勢力」の思惑が働き”「小競り合い」”等の「いちゃもんの脅威」もある。

    つまりは、この「二つの条件」を組み合わせれば解決する。
    当然に、更には上記の「搬送の利」も解決する。
    (この”「搬送の利」”にはもう一つの意味があった。)
    これで「一挙三得」でもある。「殖産」は上手く行くかも知れない戦略であった。

    そして、「水利」で運んで「宮川」から「陸内の玉城」に運び込めば解決する。

    「人の問題」、「拠点造り」に絡む「三つの条件」、「無形の利」等の事を考えたからと云ってそう簡単にできる訳では無い。
    相当に「遠祖地の氏人」や「伊勢郷士の呼び集め」や「伊勢籐氏の家臣団」や「伊勢水軍」や「伊勢信濃シンジケート」の関係者と事前に綿密に「打ち合わせ」ての事でなければ出来ない事である。
    「遠祖地の手紙」の一説はそれを物語るものであったと観られる。



    投稿時の脱落部の追記


    ここで、「伊勢籐氏の家臣団」を大量に雇った事のみならず、全国に飛散していた「伊勢郷士」を呼び戻した事は、勿論の事で、更には「青木氏の歴史観」に大きく関わる事が起こったのである。

    この”「幕府の嫌疑」”を余計に増幅させた事が次ぎの三つのこの「殖産の策」にあった。

    一つは、上記した「搬送の利」の意味である。
    二つは、「本領安堵の遠祖地の旧領地」で、”何を殖産させたのか”と云う事である。
    三つは、「伊勢水軍」を係留する「大船の港」があるかである。

    一つ目の「搬送の利」の「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」との扱いの関係であった。
    「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」の組み合わせで「遠祖地の山間地の殖産」は克服できた。
    然し、これには、「隠れた問題」があった。

    それは、”誰が生産品を搬送して防御するか”である。
    「伊勢水軍の人夫」は操船で手はいっぱいで出来ない。
    だとすると、「遠祖地の山間部の生産地」から「港までの搬送する役」を誰が担うかであって、これを解決しなければ「絵にかいた餅」である。

    これが、「伊勢信濃シンジケート」であった。
    「影の武力集団」の実力集団でもある。
    過去には、足利軍の「二万の軍」を餓死させた歴史記録を持つ怖い「実戦集団」、織田信雄の軍を半壊に追い込んだ「実践集団」、「伊賀の戦い]で「名張の実力」を示した「実戦集団」、秀吉の「長嶋の戦い」で秀吉を物資不足で苦しめた「実戦集団」、「紀州門徒狩り」で秀吉を苦しめた「実戦集団」、二度の「伊勢動乱」で実力を示した「実戦集団」等、この様に上げれば「有名な歴史記録」はこれ全て「伊勢信濃シンジケート」である事は有名である。
    「青木氏」はこの”「抑止力」”に使う「影の武力集団」(陸)と「伊勢水軍」(海)に大きく支えられていた。
    そうでなければ、「危険で強大な抑止力」を働かせなければ、この時代は「殖産」などの「大きな商い」は絶対に出来なかった。
    この「影の実戦集団」が、「伊勢水軍」の船に「搬送役と護衛役」で乗り込むのである。

    「幕府」だけではなく、”誰が見ても何かあるのか”と勘繰るは必定で、その上に「伊勢水軍」と結びつけば「謀反」と決めつけられる要素は充分に持っていた。

    「表向き」にはとやかく言われる筋は無いが、「青木氏」は、この「影の実戦集団」を「経済的な支援と掟」で平安期からの「悠久の関係」を保ち得ていたのである。
    恐らくは、「影」ではあるが、明治期の半ば頃まで「周知の事実」であった事が判っている。
    この「青木氏の経済力」が「殖産と云う大義」で「紀州藩の背景」にあるとすると、黙っている方がおかしい。

    だから、「青木氏」は「殖産の大義」もあるし、個人の「謀反の嫌疑」は無いが、「紀州藩」では表に出せない理由がここにあったのであるし、況して証拠と成るものを「目付家老」に見られて「難癖の材料」ともなっては困り当然に記録にも残せない所以でもあった。

    然し、「青木氏側」に執っては、何はともあれ、「影の実戦集団」と「伊勢水軍」の「組み合わせ」の上に、船に「搬送役と護衛役」で乗り込むさせる戦略は欠かせない事なのであった。
    そして、「遠祖地域の熊野勢力」を牽制する意味でも、船には”「影の実戦集団」を載せている”という事を個人的に「殖産」を進める以上は恣意的に誇張する必要があった。
    唯、この「牽制策」に付いて上記した様に「紀州藩の勢力」は期待は全く出来ない事は明らかである。

    (注釈 下記の「参考」のところで示す「伊勢での紀州藩領の実態」を観ればよく判る。)

    この様にする事で、「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」は、”「殖産の利」”が大きかったのである。

    ではそこで、、”何を殖産させたのか”と云う事が重要ではあるが、その「殖産」の内容に依っても事態は変わる。
    そもそも奈良期より「紙屋院」で「和紙の開発」を手掛け、「楮の生産」をこの「山間地の遠祖地の地域」で、「生産」をして来た。
    ここに江戸期初期に成って「畑方免令」に依る「本領安堵策」で、「山間地の本領」により「殖産」を進めると成ったが、これでは問題は無いであろう。

    ”では何を以ってこの地で他に「殖産」が可能か”と云う問題が出る。
    下手をすると、紀州藩に嫌疑がかかるが「養蚕」であった。ケチをつける程に問題は無い

    「楮の増産」は、兎も角も、「畑方免令に適した物」として「利」を上げられる物は先ず考える事は「楮」に似たものと成ろう。
    この思考は失敗は少なかった。それは、記録から「桑の木」であった。
    つまり、伊勢に「養蚕の殖産」を開発する事であった。
    それまでは他国の多くの地域で「養蚕」は手掛けられていた。
    然し、世間に未だこれだと云う”「殖産」”の”「養蚕」”は無かった。
    つまり、それに「見合う生産」と「それを賄う商い」の形を採っていなかったという事である。
    つまり、それまでは”「殖産」”では無かったと云う事である。

    ところが「殖産という形」で始めたにしては、”「養蚕」”のそも物の記録は、この「遠祖地の手紙資料」には「養蚕の字」の一字も出て来ない。
    ところが実際の記録は、「伊勢の商記録」の「取引の内容」から江戸に”「松阪紬の名」”で江戸期も極めて初期頃に取引された記録が読み取れるのである。

    (注釈 「搬送役の伊勢水軍の記録」そのものが発見する事が出来ない。明治期に運送業に転身した事までは判ってはいるが、「青木氏の商記録」には「7割株の保有」までの資料があっても「伊勢水軍側の個別の資料」と成る全てが発見できていない。
    これは恐らくは、「養蚕」に関しては「桑葉搬送」であった事と、嫌疑とならない様にする「紀州藩に対する配慮」にあったと考えられる。)

    この「青木氏の商記録」には、”「松阪紬」”の「固有名詞」で記録されている。
    つまり、「江戸での市場」からその珍しい「殖産」に依る「優れた品質」を観てこの名称が付けられた事に成る。

    当時、”「絹」”は各地でも生産はされてはいたが、「青木氏」の様に”「殖産」”として生産された「品質」で、その”「品質」”に対して「江戸の市場」が歓迎した事を物語るもので、全国的にその名が広まった事が公開資料で分かる。
    その呼ばれた呼称が、商取引の「青木氏の商記録」にも初めて記載したと云う事であろう。

    従って、この”「殖産紬」”としての”「松阪紬」”であった事は、”「殖産」”に適する環境下で紡がれた事を意味する。

    この事から考えると、普通は「山間地の遠祖地の地域」では、「養蚕の生産」そのものは適さないという事に成る。
    これは「養蚕」そのものでは無くて、「養蚕の殖産」に適さないという事であった。
    それは「絹糸・絹布」まで仕上げるには、それなりの「平坦な土地の面積」と「近隣の水利などの生産条件」と「生産に関わる人」が整っていないと出来ないと云う事に成る。

    現実に、「商記録」では、この「青木氏の養蚕」は、「伊賀域と名張域と玉城域」での「北勢」の「青木氏の地権域」の「線状域の生産」に成っている。
    この”「線状域」”と云う事に「殖産の意味」が含んでいると観られ、地形や土壌や水やその地の環境に合わせて「殖産工程」を繋いだ事が資料で読み取れる。

    (注釈 「伊賀」は「織」として有名で、「名張」は「染色」、「玉城」は「布」の役割を主に担っていた事が記録で判る
    後に、この技能を生かして「伊賀織」として全部の工程を熟し、「名張紡ぎ」では「水利」を生かして「紡ぎ」と「染色」、「玉城布地」は「布と服」に仕立てる事で名を馳せた。)

    つまり、「遠祖地」では”「桑葉」”を生産して荷造りして、急いで「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」で、「伊勢水軍」を使ってここに運んだという事に成っている。

    では、それが可能なのか検証してみる。
    「伊勢松坂」より紀伊半島東側を志摩半島から周り大船が接岸出来る大港と成れば、古来の貿易港の「尾鷲」か「太地」か「新宮」と成り得る。
    そもそも、この「尾鷲」は奈良期の古来より「中国との貿易港」で最も盛んであった。条件に問題は無い。
    但し、この「尾鷲」の場合は、「遠祖地」からは港に「陸路」か川沿いに「小舟」で搬送しなければならない。

    記録では、そもそも「紀州藩の本領安堵の遠祖地」とは、「尾鷲」から「北山村」と「熊野村」に囲まれた「山間地」(地権)とされ、南紀の「飛び地」(地権)では、現在も縁戚筋が定住する「太地村」と「湯浅村」と「周参見村域」にもあったとされる。

    (注釈 平安期にはこの「南紀の地域付近」は、「遠祖地としての支配地」であって、伊勢には「三宅岩床連国造」の「国司」を送って守護国としていた。「飛び地の地域」はこの時の「名残の地域」で江戸期まで細々と「地権」を持っていた。)

    この「遠祖地の地域」の中心は、明治期まで「遠縁の親族」が居て「越前の地」と同じく「青木氏の休息地」でもあった事から”「尾鷲」”であった事が判っている。


    そこで、この事に関する重要な参考事として、江戸期末期までの「伊勢の国」は、何と小国分離の国で、普通は「5郡程度」が原則で一国の藩主が領有するが、何と「13郡」に分かれ、更に分離され「57か所」に成って支配されていた。
    その内訳は、「幕府領」(北勢の平地5か所)と「旗本領」(1か所)と「神宮天領」(3か所)を含めて「藩扱い」で何と「25藩」である。
    その内、伊勢の「紀州藩領」は、僅かに「8郡/13郡」に跨り、その一部地域の「8か所/57か所」である。

    この「8か所」は1郡全部では無くこの「一部地域の分散した村域」なのである。
    そして、地元の伊勢の豪族は無く、「熊野勢力」の一氏の「久志本氏」(現在の串本の豪族)が「南勢」の「小さい地域」を「領国」に任じられていて「支配力」は皆無に近かった。
    これは「関ヶ原の戦い」で著しい戦功のあった全国の無名の豪族や旗本に小国に分離して分け与えた結果である。

    それだけに「伊勢」は「不入不倫の権」で護られ「強い武力の持たず郷士も少ない国」であった事から、「幕府」に執ってみれば「戦功」に分配する「格好の地」であった事がこの「25藩」が物語る。
    当然にここで起こる状況は、火を見るより明らかで「不入不倫の権の悪弊の域」であって、これが「青木氏」に重荷に成って圧し掛かっていた。

    その中でも元より「伊勢信濃シンジケート」の「影の支配力」を持つ「青木氏」が、「郷氏」として「地権」の持っていた「北勢」と「松阪」を除いては、上記は殆どは地形は「山間地」であり、「青木氏」が「殖産の地権」として関わった域は、「飯高郡」、「飯野郡」、「多気郡」、「度会郡」の「4郡/13郡」の「南勢」に当たる地域であった。
    その内の「4地域/57地域」という事に成る。
    主に、「多気郡」と「度会郡」の2郡に集中する。
    因みに、「神宮天領」は僅かに「5か所/57か所」である。

    この問題の「南勢」には、更に難しい存在があった。
    関西域全域の水利を統括する天下にその恐ろしさに名を馳せた「幕府奉行所」が、南勢の度会郡に”「山田奉行所」”があって目を光らせていた。

    この状況を観ても、伊勢で「紀州藩の藩領」と成った「小域」はどのようなものであったかは一目瞭然であり、語るも意味がない状況であろう。

    ここをそもそも「本領安堵」として、「畑方免令」で、「殖産」とするは、「紀州藩領」でありながら、「本領安堵」とは一体どういう事かと成る。
    そもそも、「本領安堵」と云う事なら「遠祖地」でありながらも「郷氏の青木氏の領地」である。
    然し、そうでは無く、唯、「遠祖地」である事を理由にして「領地並みの地権」を認めたという事に成る。
    そして、「大義」を作る為に「畑方免令」で「領地並みの地権」を与え、その上で「殖産」とするには「裏の命令」を出す事で済む。
    そして、「六四の税」で「目的の借財」を返すとしたと執れる。
    その為にも、”ほとんど役に立たない誰も欲しがらない細かい分散した土地”を表向きは「藩領の形」を採ったと云う事に成る。
    そもそも、「幕府」に対しては、表向きは「藩領」としながらも、内々では「青木氏」に対しては紀州藩独自で「本領安堵の大義の形」を整え与えて”「地権に対する全ての支配権」”を委ねたという事である。

    勿論、これは上記した様に、「紀州藩と青木氏」との裏の「合意の上」ではあるが、実に状況を観た戦略を練ったという事が云える。
    これは当に幕府に対する「謀反嫌疑の対応」でもあった。

    何故ならば、こんな「小さい地域」に「幕府領」が「伊勢領」に何と「5か所」も配置され、江戸期には「海奉行」だけではなく、「紀州と伊勢全域の奉行権」をも命じていた有名で恐れられていた「天下の山田奉行所」が配置され、それも「本殖産の度会郡」にあったのだ。

    これが「頼信」を通じ「家康」が「江戸初期」にこの「山田奉行所」に命じた”伊勢の事一切御構い無し”の特権の「御定書」の所以でもある。

    (注釈 天智天武天皇が出した「不入不倫の権」に基づく「朝廷の永代令」を追認した。
    この時の事例を以って追認したのであり明治初期までこの原則は守られた。それだけに緊迫していた。
    参考として、吉宗の時も、この「山田奉行所と青木氏」は、”瀬戸内に大船で搬送する商い”で争う「事変」が再び起こった。)

    (注釈「紀州藩の伊勢領」は、「伊勢神宮域の北勢域」に4か所、「熊野神社域の南勢域」に4か所と恣意的に配置されている。)

    これは「幕府の差配」に依るもので、これを「紀州藩」が「幕府の意向」を表向き果たし、何とか生かそうとして其処で「青木氏の殖産」を興させる。
    それに依って「地権を持つ北勢の伊勢神宮域」は元より、「南勢の熊野神社域」をも「牽制させる策」とすれば、「山田奉行所の監視」の「幕府の意向」は表向きは成し遂げられる。

    さて、この事を参考とする状況の中で「伊勢の事態」がよく判る事であるが、そうすると、現在の国道R42かR34の陸路か、又は「中川」で小舟で尾鷲の海まで運んで、そこから海路を通じて運んだことに成るので、「尾鷲」からは150キロ、「新宮」からは「熊野川」で小舟で「新宮港」に運びそこからは海路で約200キロと成り、風向きでは5時間から7時間で運べる。
    「陸路の分やその他の時間」を加えれば、7時間から10時間程度と成る。
    まあ何だかんだで、「半日程度」で運べる算段である。

    これならば、「桑葉の搬送」は可能な事に成る。
    但し、ここで上記した様に「新宮」は直ぐ隣が「熊野神社の境界」であるので、「熊野勢力」がおとなしくしていてもらう事が絶対必要である。
    「熊野勢力」に騒がれては、それこそ「幕府の思う壺」と成ろう。
    資料では「陸路」の表現は書かれていないので、主には「小舟」の「川舟」を使って「港」に出していた事が判る。
    これの方が騒ぎにはならないし速い事は誰でも判る。また、「目立つこともない事」から先ずこの状況では「陸路」は採らないであろう。

    では、その前に、「北勢」は兎も角も、「南勢」の「川舟」をどのように調達したかの問題を先に解決しておく必要がある。
    そもそも、「遠祖地」は「山間地」であり「川舟」は持ち得ていたかの疑問が残る。

    「青木氏」がこの「殖産」の為に準備したという事は当然であろうが、それだけの「舟」と「漕ぎ手」を充分に準備出来たかは大いに疑問である。
    「舟」は作れても「漕ぎ手」は技能を伴う事から身内で直ぐには無理であろう。

    では、現実には調達できているのであるのでどうしたかである。
    「尾鷲」は「遠祖地の地元中心地」であり、「港」をもつ事から縁者関係で「舟」さえ調達できれば「漕ぎ手」は”「ある方法」”で簡単に整えられる。
    然し、これだけでは不足であるし、「熊野聖域港」の「新宮」と成ればこれは殆ど無理である。
    それこそ「熊野勢力」に足元を狙われる。近隣には「久志本氏」が目を光らしている。

    これには、唯一つの方法(ある方法)があった。
    それは、新宮港の直ぐ西隣の「太地域」と「周参見と湯浅域」は江戸期まで「地権」の残る「青木氏の縁戚地」であった。
    ここは地形上は紀伊山脈の全くと言って良い程に「平地の無い鯨業等の黒潮の漁村」であった。
    ここから調達をした事が縁戚筋の資料や口伝から判る。

    これは「閑散期」とか「繁忙期」とかではなく、口伝や資料の読み方では、長い年月の期間、「松阪」から離れて「青木氏との関係」が途絶えていた事で生活は豊かではなく、又、次男三男を「漁業」で充分に賄える事は無かったとある。
    そこで、この次男三男に「青木氏」が舟を与えて「漕ぎ手」として迎え入れた事らしい。
    こうすれば「漁業の跡継ぎ」は解決するし、「縁戚筋」は喜んだと口伝にある。

    (注釈 筆者も祖父や親からや、又、筆者が訪れた際に老人から「伊勢宗家の事」として詳細に聞き及んでいる。)

    唯、この場合には、「紀州藩に対する税」を納めなければならなくなるし、「漁業権」を届け出て許可を得て獲得しなければ成らなくなる。
    そして、ここは「伊勢」ではなく「紀州」であり、「紀州藩の関り」が表に出て好ましくは無い。
    先ず、「伊勢」であれだけ気を配っての戦略なのにそんな事は絶対にしない。
    そこで、この「逃げ策」として、この”「畑方免令」”を使ったのである。
    この手は、「遠祖地」だけではなく「玉城、名張、伊賀」でも「働き手」として「同じ手」を使った。
    何れもこの手には、「紀州藩」は完全な事前了解の無視であって、「畑方免令」を使えば「青木氏の中での事」に成り、次男三男の「働き手」を自由に生み出す手段と成り得て「利益」が生まれる。

    (注釈 この時期は、長男が「働き手」として農家の跡を継ぎ、土地の細分化を避けさせる為にそれ以外は奉公など外に出て働かねばならなかったし、そもそも働き場所は少なかった。
    武士も同じ事で「部屋住み」の「冷や飯食い」や「僧」で終わる者が多かった。
    ところが、この「畑方免令」を使えば「郷士」や「農民」や「漁民」もそれぞれの元の「身分の立場」を保つ事が出来、且つ、「税」からも逃れられたのである。
    幕府は「税の管理」が煩雑化し取り分け「土地の細分化」を嫌った。
    これを知りつつも室町期の「紙文化」で得た「莫大な資本」(5百万両)を元手に投資し、「未開の土地」等を「田畑」にして「殖産を興せる者」だけに与えられた「畑方免令」で「無形の利」を挙げ、多くの「氏人や家人」らを救い逃れられたのである。
    「無形の利」とは云え「青木氏」に執っては「鎌倉期からの宿願」を果たせるこれ程の事は無かった筈である。)

    つまり、上記した様に「本領安堵」とは、「地権と畑方免令」の「組み合わせ」で「領地並み」が成立し、強いては「青木氏の完全裁量の範囲」で出来る事に成る。
    この事を充分に双方が理解していた事に成る。
    後は、この「縁戚筋の漕ぎ手」と「舟」を何処に所属させ支配下に置くかに関わるだろう。
    これに依って事態は変わるし、「紀州藩」は当然の事としても、「熊野勢力の動き」も又変わる。
    それは、「伊勢水軍の支配下」に入れたのである。
    これでは文句の着けようがどこにも無くなる。
    これは、”流石、見事”と云いようがない。
    「青木氏の縁戚筋」、つまり「氏人」や「家人」を豊かに出来る。これが「無形の利」の一つであった。

    だから、「南勢」でも川、「北勢」でも「川を利用する戦略」を採った。
    これには「北勢」では「松阪の玉城」の「宮川か櫛田川の水利」が必要で、生産に関わる「人と面積と条件」が整う「大地権」を持つ「玉城域」であって、その先の「名張域」と「伊賀域」であったという事に成ったのである。

    そして、「紀州藩」の「畑方免令の殖産」の当時の江戸初期は、未だ誰も手掛けていなかったこれを”「松阪紬」”として命名して、問屋街が集まる「江戸大伝馬町」に「伊勢屋」として問屋を構え販売して大好評を受けたのである。

    江戸期は伊勢領は上記した様に「多くの小国」に支配されていたが、その後、「青木氏」が始めた「養蚕の殖産」は20−30年程度を経て、下記の様な経緯で藤堂藩などの支配下で「津域付近」でも生産されるように成っている。(下記)


    さて、「殖産の戦略」は解ったが、「養蚕」のこれで「紀州藩の借財」は返せるかの問題があった。
    現実には、藩主吉宗の半ば頃に「蓄財」は別として莫大な12万両(積算10万両と幕府2万両)と云われる「借財」だけは返せたのであるから、「蓄財」までにするには他に「別の物の殖産」をした事に成る。


    では、その”「他の物」”とは何かと成る。
    全く「養蚕の殖産」と同じ事が云える。
    それは、「遠祖地の記録」にも「松阪の商記録」にも記載が観られ、公的資料や郷土誌にも記載がある”「木綿」”であった。

    この「遠祖地の山間部の畑地」に”「綿の木」”を植え、その「綿花」までを生産し、その「綿花」を上記の要領で「伊勢玉城」までに運び、そこで「木綿布地」にして、「松阪」で販売すると云う手段をとった。
    この事に関する記録は、「青木氏の上記の資料」の中にも出てくるし、「郷土史」や「複数の公的資料」や「個人の研究資料」にも明確に記載されていて、その「製品の呼称」までの記録が明確に明治期まで残されている。

    この”「木綿」”は当時の衣類の主な生地であって、これをそれまでの家内工業ではなく大量に「殖産」で「興業する事」で爆発的に販売は論理的には可能であった。
    ところが、「青木氏の殖産」と云うか「伊勢での初めての綿の殖産」は、初期は論理的には行かなかった様である。
    「養蚕の要領」で「玉城までの搬送」には全く問題がなかった様で、意外なところに「落とし穴」があった事が記録や口伝に残る。

    そもそも、家内工業的に生産された「木綿」には、「買い手側」の「品質」に対する「諦め」が長い間の習慣に依って潜在的にあって、”「木綿」とはこんなものだ”とする「妥協の産物」として長く市場で認められていた経緯があった。
    ところが、大量に問屋で販売すると成ると、「流通」には「多くの目」が働き、「市場原理」が働き、「市場の値段」が激しく変動し、「間接費」が嵩み「利益」に繋がらないという事が起こったのである。

    「青木氏」が最初に始めた”「殖産木綿」”を扱う「松阪の伊勢屋」は実に困った。
    実は、当時の木綿は全国各地で生産され市場に多く出回っていた。
    この中に「伊勢の殖産木綿」が全国で市場に初めて殴り込みをかけたのであるが、これが戦略的に間違っていた。
    ”間違っていた”と云うよりは、”戦略に欠けていた”と云う方が正しかった。

    それは、当に”「殖産の欠点」”でもあった。
    「生産の流れ」に沿って「木綿」を作ると云う事に拘り過ぎたのである。
    それは、「木綿の品質」にあった。但し、この「品質」は決して”悪い”という事ではなかった。
    「家内工業的木綿の品質」に対する妥協からすれば、そんなに「品質の差」は無かった。
    決定的に無いのは、「殖産木綿の品質」を市場から「特別に求められた品質」にあったのである。

    ”「殖産木綿」”として大量に市場が消費する以上は、「品質」に”「布」”としての「品質」を強く求められたのである。
    それはどの様なものであったかは記録にも記載がある。

    それは、要約すると、次の様に成る。
    「木綿の布地」がザラザラせず「平坦」(1の品質)である事
    「繊維の目」(2の品質)がキッチリと揃っている事
    「生地の色合い」(3の品質)が整っている事

    以上であったらしい。
    唯、この「色合い」とは生地として「色ムラ」がない事であったらしい。

    この「3つの品質」が”「殖産木綿」”に「市場」から求められたのである。
    概して言えば、大量に使う事に依って「使い勝手」と「人目」を要求されていた事に成る。
    「麻布」から「木綿」を通常に使う以上は、「絹の様な高級の品質」に近い物を求めた事に成る。
    つまり、これは今風で云えば「江戸のファション性」として要求された事に成る。

    「伊勢」で初めて”「殖産興業」”に成功した”「松阪木綿」”の「伊勢屋の青木氏」は、これに「青木氏部」に依る「機械化」と「職人の技量の向上」の獲得に励み懸命に対応したと記されている。

    (注釈 「青木氏」に執っては「可成りの衝撃」であったらしく、「家訓10訓」に追記して説かれている位である。)

    この結果、”「松阪木綿」”の「上品質の称号」が「江戸人」に認められた事が多くの資料で確認できる。
    全国的にもこの結果、”「松阪木綿」”は別格で扱われた事が記されている。(下記)

    その後、上記した様に小国化した「伊勢」では、殆どの小藩主が「なけなしの資産」を投資して、全国各地から「綿花」を仕入れ「委託生産」(OEM)を行ったとされ「伊勢津域」で生産された。
    これが、後に、”伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ”の「伊勢の諺」に成った所以である。
    そして、この「伊勢の諺」の結果、何と”「松阪」”は「伊勢」ではなく「松阪」であり、「松阪以外の津以南」は、「伊勢の国」とまで呼称される所以と成った。

    これはどういうことかと云うと、そもそも、「松阪」の隣接北域が「津域」であり、更に北域には伊部域や桑名域があり「伊勢」であり、「松阪」より南部域は上記した様に間違いなく「伊勢」である。
    何故、中間の「松阪」だけが「伊勢」ではないのか、どちらかと云うと「伊勢神宮の膝元」であって、云うのなら「松阪」が「伊勢」であろう。

    この「伊勢」のこの「二つの諺」が、物語る様に、”「松阪」”は「青木氏が興す殖産と商業域」があまりにも特異であって特別視されていたのである。
    これが後に、この「本領安堵策(地権)」の「畑方免令による殖産」を大きく物語るものと成った。

    「青木氏の殖産」を真似てこの「木綿生産」に関わって「利益」を上げようとしたと記されている。
    ところが、この結果、この後口からの「木綿」は、「市場の要求」には充分に対応せずに、「利益」だけを追求する「木綿の生産」に成って、結果としてその品質は、上記の「3つの品質」の低いものが出来たとされた。
    その結果で「品質」は、”毛布やタオルの様な物”と成り、使う中に「木綿の毛」が剥がれ触手の悪いものと成ってファッション性の無い直ぐに使えなくなる品質と観られた。

    これを、”「松阪木綿」”に対して”「伊勢木綿」”として区分けして呼称された事が記されている。

    (注釈 有名と成りその品質が認められた”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、市場の需要の要求に対して「供給の増産」は必要以上にしなかった事が記されている。
    その分、「津域の伊勢木綿」に委ねた結果、”「伊勢木綿」”も繁栄をもたらした事らしい。
    ところが「摂津堺店」では、この「綿花」を仕入れているが、これは「松阪への供給」ではなく、その後の「津域の伊勢木綿への供給」であった事が「商記録の一部の表現」で判る。
    「津域の伊勢木綿への供給」が「遠祖地の綿花」に影響を及ぼさないようにする為の策であったと観られる。
    それは「質素倹約令」に依ってあまりにも「伊勢木綿の需要」が後に高まった事から、”「松阪木綿」”は、兎も角も、先ずは「紀州藩」に影響を与えない様にする為の「手立て」であったのであろう。
    それと、況や、これは明らかに「青木氏の氏是」に従った事に成る。
    どんなに「需要」があったとしても「本殖産の目的」以上のものを求めなかったのである。
    然し、「需要」がある限りは見放す事はせずに、「津域の伊勢木綿の成長」に、「松阪木綿の販売」も手掛ける中で、陸路と海路で「摂津堺店」を動かしたと云う事に成るのであろう。
    「津域の伊勢木綿の様な高い成長」は、幾ら「豪商」であっても「青木氏」の様な”殖産を興し得る豊かな財源”を無くしては成し得る事ではない。)


    そうすると、”「松阪紬」”は高級品とし、この”「松阪木綿」”や”「伊勢木綿」”に対して、「紀州藩」と幕府は「質素倹約令」を発し、「木綿の使用」を奨励した事の所以と成った「青木氏の歴史的経緯」である。
    それまでは多くは庶民の多くは「麻布」であった。
    ”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、この様に当に「青木氏のそのものの歴史観」を作ったのである。

    (注釈 「綿花」を扱えば、当然に種からの「綿油」の「殖産」も考えられるが、詳しい資料が発見出来ない。
    唯、確かに、「殖産に依る綿油の生産」が始められたのは1620年頃の後半の様ではある。
    然し、江戸初期に広まった「綿油」は、「遠祖地と松阪」では「充分な殖産」では無かった様で、「摂津堺店」で扱ったと考えられる。
    1725年頃には、大阪で「水油の菜種油」と共に広まっているし、前段でも論じた「寒天とてんぷらの消費」が神戸付近で広まった事から、「津域」に供給する「綿花」と共に「摂津堺店」と考えられる。
    つまり、最大量の「供給」に追われ「綿油」までに持ち込むだけの充分な「生産量」は回せなかった事が考えられる。)

    (注釈 仮に、「綿の種」から「綿油の殖産」を行うとして、この場合は、「水利の条件」が整わは無くてはならない。
    この条件には、江戸初期の1620年代前半でも全く問題は無く、「玉城の宮川北岸」は高台の「堆積地の水利の地」としても古来より有名であった。
    元々、「松阪」は「元神領地の守護」でもあった事から、「青木氏」は江戸初期の紀州藩からもその「玉城域の大半の地権」が認められ、「自費による整備」を行い、上記の様に「殖産」に関わった。)

    (注釈 従って、水車等の「綿油の生産条件」は、この時の「青木氏部の技術」を生かし、「享保改革」では、”「紀州流し」”として有名に成ったほど元々充分にあって、「綿油の殖産」は始めたと考えている。
    唯、「商記録の傾向」から「綿種の供給」が、「摂津堺店」の「播磨」から主に陸路で運んだと観ている。
    そもそも、「播磨」も栽培目的は違うが「菜種栽培の有名な地」でもあった。)

    (注釈 記録によれば、「紀州藩」は1680年代の計画から1720年代に「2万両と云う莫大な費用」を投入して「青木氏の地権外」であった「宮川南岸域の洲域」を「埋め立」てなどの「畑地造成用の護岸工事」に入っている。
    恐らくは、紀州は「青木氏の畑方免令」での「税利益」をここに更に投入したと考えられる。
    これは当に「青木氏の紀州藩勘定方指導の時期」であろう。)

    (注釈 その後に、1820年代に伊賀地区の山間部の庄屋から出された水利を利用する「民間の開発計画案」は「財政不足」から採用されなかった経緯がある。
    これは吉宗が将軍と成ったそのあと暫くして「放漫財政の赤字」に戻った事を意味する。)


    以上、投稿時の脱落部位

    これが「殖産の詳細」を論じた部位である。

    (注釈 相互に関係する資料は発見されないが、それぞれの「事の時代性」を組み合わせればこの様に成る。
    「青木氏」に「総合的な事」が書かれたものがある筈で、無いのはそれまでの室町期の二度の「消失」に依ることは先ず間違いはないであろう。
    唯、「青木氏の氏是」がある事から、「紀州藩に直接に関わる事」は、「青木氏の執事役(神明社の神職や菩提寺の住職)」が敢えて遺さなかったと考えられる。
    「紀州藩」にもない事は、「明治初期の混乱」による事もあるが、「末端の事象」は「頼信や吉宗事」の以外は消える事でもあろう。)

    (注釈 これは、それ程に、「紀州藩の関わり」が、周囲に刺激を与えない為に”隠密裏に行われた”という事にも成り、且つ、「青木氏の主導」で「隠密裏に行われた事」を意味する事にも成る。
    これは「南勢の状況」、主には「熊野勢力の六氏」の動きが「微妙}であった事を示している。
    それはそうであろう。250年の間は「熊野勢力」や「土豪勢力」に代わる代わる支配されていたのであるから、「紀州藩の藩領」に成ってからは、彼らに執っては「差配量」は入って来ないという事が起こったのである。
    それまでは、「熊野勢力」や「浅野勢力」や「日高勢力」の支配下にある土豪に占所されていた。
    表向きは、「伊勢神宮社領域」で「天領地の形」を取っていたが、現実には「実質支配」は出来ていなかった。)

    (注釈 「幕末の事」は、「藩主」との「やり取りの一部」等は、本来であれば「借財返済の経緯」等は「名誉の為」にも消される処であるが、「青木氏側」に手紙で一部残されている。
    明治初期の混乱に乗じて「青木氏」が徳川氏に裏切られる「借財の揉め事」があった。)

    この時の「紀州藩の官吏」等に執ってすれば、伊勢の「秀郷流青木氏」の一族が大量に家臣として仕官したのであるが、強いては、上記の様に「青木氏」と共に「殖産」を導いた。


    次は、「殖産」としては上記の様に進められて行ったのではあるが、その結果として、幕府の「嫌疑と嫉妬」が余計に膨らんだ事が起こった。

    その子孫の縁籍筋の「紀州藩家臣と成らなかった郷士衆」が、“どう成ったか”の問題が潜んでいたのである。

    この「実家先の一門等」もが、「生活の糧」を確実に得る事に成り、彼等の「思惑(戦略)」も成功した事には成った。

    そこで「彼等の思惑(戦略)」も成功した事なのだが、この雇った「大量の家臣団」は「幕府」に「謀反」と疑われた位の「大仕官団」であった。
    この事からも、余計に幕府は不穏に思ったのであろう。(浅野一門の残留族も雇った。)
    唯、「幕府の上層家臣団」も関東域の秀郷一門の「同族同門の秀郷一門」でもある。
    (家康が藤原氏を名乗った位のものであった。)
    とすると、「上層部の幕閣」と「将軍の取り巻き筋」の「頼宣謀反」を感じる位に「大懸念や恐怖」(嫉妬)と成って居た事を示す位のものであった。

    そこで筆者は、前段でも論じたが、更に詳しく云うと、この「謀反」と疑われる根拠には、「伊勢藤氏の家臣の量」だけでは無かったと考えていて、その”「質」”にも「恐怖」を持たれるものがあったと考えている。
    此処が「青木氏の歴史観」としては重要である。
    これが「本論の殖産」であり絶対に述べておかなければならないものなのである。

    この嫌疑と成る「殖産」は、そもそも「青木氏の二足の草鞋策」の「片方の草鞋」でもあって、「左右の草鞋」があって両立して成り立つもので、江戸期に成って始めたものでは決してない。

    唯、その「殖産」が上記した様に「戦略的」で少し違っていたので、”「嫉妬に近い嫌疑」”が増幅したのであろう。

    慣例外の「旧領までを本領安堵」、そこに「殖産推進」、そして「全国青木氏一団」、「伊勢の紙屋の背景」、「15地域の商業組合の成功」、「伊勢藤氏の結束」、「伊勢信濃シンジケートの影の力」、「西の政権(朝廷)との繋がり」等を総合的に咀嚼すると、何か「東の幕府」に対して”「西の幕府の樹立」”を企んでいるのではないかとする「謀反」に近い「恐怖」を感じ取っていたのではないかと観ている。

    考えて観れば、「謀反力」、即ち、「政治力(朝廷の御旗と賜姓族の権威)」、「経済力(豪商と殖産)」、「軍事力(西の大名と地域力)」の「三つ力」は現実には備わっている。
    そして、「戦費を賄う豪商」と「朝廷(西の政権)」と繋がりのある少なく成った「権威性を持つ氏族」が揃えば「紀州藩」には「大義」は成立している。
    「御三家」とは云え、他の二家にはこの「大義の条件」は揃わない。

    更には、「頼宣」対する「家康の亡霊」がある。
    そもそも、「頼宣入城」後の「藩主」と地元の「大豪商」や「郷氏」と「藩士」の「郷士」の結束は、前段で論じた様に「土佐山内氏の様な事件」を普通は起こす位であり、当時としては「紀州藩の成り立ち地」は「珍しい現象」であった。
    「幕府の見方」としては、「紀州」は、“もう少し乱れるのではないか”と観ていたのではないか。
    然し、「御三家」の「尾張」も家臣団との間でごたごたしているのに「紀州」だけはそうでは無かった。

    このギャップから、“「家康」に可愛がられた「頼宣」何する者ぞ、“と「江戸の嫉妬」も半分は有ったと観られる。
    「謀反」は兎も角も、条件の揃った「紀州藩の発言力」を低くして置く必要があって、「幕府」に執ってはある程度、「名声や信用」を落として置く必要が戦略的にあるとしていた筈である。
    これは最高権を持った者の宿命であろう。
    最初に採った手(謀反嫌疑)が、「紀州討伐」等をした「秀吉」も手こずった位なのに、「頼宣の紀州」は上記の様に政策上で余りの高い実績が上がり、次第に「恐怖や懸念」に変わって行ったのであろう。

    「権謀術数」の世の中、「幕府内の勢力争い」はあり得る中では、公にしないまでも「謀反」に近い考え方は少なくとも幕閣は持っていたとする方が妥当であろう。
    現実に、見方を替えれば、丁度、100年後に「紀州藩」は、以上の「五つの勢力」が揃って、遂には前段の通りそれを背景で江戸に持ち込み「謀反」とは云わずとも、将軍家系列ではではない「傍系の吉宗」を「将軍」にしている。

    何時しか「東の幕府」を倒してまでとは云わずとも「吉宗の将軍の座」を獲得しているのである。

    唯、この為の「殖産」とまでは云わないが、「五つの勢力」が整い、その時の「政権の低質さ」から「御三家」として「将軍の座」を狙ったとする事が「謀反の定義範囲」とすれば納得出来る。
    筆者は、紀州藩は「謀反の定義範囲」には有ったと考えている。

    この「謀反の定義範囲」の事では、「伊勢の秀郷流青木氏の家臣団」が親族でもある「伊勢屋紙問屋の伊勢青木氏」等と「江戸の秀郷一門の同族の官僚族」と共に、取り組んだ事が考えられる。

    つまり、最終は「謀反」と定義されながらも構う事無く、“「頼宣」が敷き、そして「吉宗」が仕上げた“とする見方である。
    「伊勢の家臣団」に成らなかった「伊勢郷士集団」と、「伊勢から南紀までの職能集団」(生産集団)と、「射和にそれを取り扱う郷士の商人」(販売集団)を「飛び地領」に殖産と云う名分で配置したのである。

    この様に「紀州藩」を側面からサポートした「育ての親の青木氏」としては、「頼宣」までは「謀反の嫌疑」は霧消したかに見せて置いて、そして、その「意志」を継いで50年後には「吉宗」が「謀反の定義範囲」で成し遂げたと考える事が出来るのである。

    (注釈 ここが「土佐山内氏」との違いであって、その「政治手腕」に嫉妬と嫌疑が働いた違いであり、更には、”その「殖産と云う戦略」が極めて優れていた”と云う事に成ったのである。)

    この意味でも、世間では、これが、“総称「松坂商人」(松阪組 射和組)“と呼ばれる所以でもあり、この中で、“「射和商人」(射和組)”と、特別に(1785年頃から)に世間では呼ばれる様に成った由来でもある。
    つまり、「伊勢商人」の「射和商人」の呼称には、この「裏の意味」を持っているのである。

    「青木氏」と「生き残った郷士衆」とは、「伊勢信濃シンジケート」の関係で「古くから血縁」があった事が判っているが、「射和衆」に関しては「女系」の為に記録も辿り着けない。
    遺された一部の系譜には、「女系の嫁ぎ先の事」は「添書」にしか書かれていないので、単純に確証が採れないのである。



    そこで、尚の事なのであって、この「女系の嫁ぎ先の事」の諸事に付いて、「射和衆との絡み」もあるので改めて少し論じて置く。
    「青木氏の歴史観」としては持っておいた方が実態は掴めるだろう。

    そもそも「青木氏」には、前段で論じた様に、“「四家制度」”と云う組織が古来より在り、この「組織」に依って「四掟」からの「血縁」などが決められていた。
    当然に、前段で論じた様に、この間には「門徒衆の秀吉からの救出劇」も在って、そこで新たに「射和地区」でも上記の「新殖産」を興して、旧来の「射和の郷士」(木綿、白粉)と共に「商業」も発展させようとした。
    そして、この発展の中で、「確固たる組織」にする為に「青木氏」としては、元々の概念(「四掟」への「女系策の補完策」)を基に「射和の女系の流れ」を創った。

    “「創った」”と云うよりは、「射和衆」を救うという役(「賜姓五役」)の為には、「必然性の概念」として“「生まれた」“と云う事であろう。

    本来は、「青木氏」としては、“「子孫」はその勢いに任せて無制限に広がれば拡がる程良い”とする概念は元より無かった。
    この「四掟」の「四家制度」では、「20家の青木氏」が定められていて、この「限定した家」には、上記した「仕来りと掟」に依って、「定められた範囲の一族の者」が配置される。
    それを支える「氏上と氏人の関係」や「伊勢信濃シンジケート」と云う「互いに助け合う影の裏組織」や、「青木氏部と云う職能集団」が有って、そこには、「青木氏の嗣子(男女の養子の嗣子制度)」の場合は、一度立場を「家人」に移して、「女子の嫁家先」と共に「伊勢衆」等に「跡目として入る組織」をも古来より制度として確立していた。

    上記した「青木氏部」と、「殖産の職能集団」と、「伊勢シンジケートの郷士集団」の「三つの青木氏の下部組織」に、「青木氏の嗣子(男女)」等は、“「四家の福家」”の指揮で、選ばれてこの“「家人(家臣)の形」”で入っているのである。

    (注釈 上記で論じたが、奈良期から敷いている“「四家制度」”に依って、この「三つの青木氏の下部組織」に入る場合は、先ず「男子の嗣子」は、直接に“「青木氏」”で入るのでは無く、一度、“「家人(家臣)」”に成った上で、この「下部組織の家の跡目」に入る「仕組み」と成っている。
    然し、慣例としては、この制度は「四家の嗣子の直系男子数」が少ないと云う理由で基本的には少ない。
    それは、優先的に「五家五流の跡目に移動」と云う事もあって、基本的には「家人の跡目」に入る事は少なく成るが、慣例外では無かった。)

    (注釈 唯、元より「家人の家」(「嫁家先」)で、「四家制度」で育った「養女の女子」が「青木家を興し生まれた「嗣子」(「義嗣」ではない)も「四家の跡目の資格」を同等に「養女の女子」として持っているのであるから、「青木氏側」から「家人側」への「男子の跡目」で無くても、「家人側」からの「青木氏側」への「男子の嗣子」が発生する。
    従って、この場合も「氏内の養子」(義嗣ではない)なのであるから同じ事に成り得る。)

    更には、上記した様に、「射和衆・射和郷士」との場合は、主に「男系」だけで繋ぐシステムでは無く、「四家制度」の「定義」によって、「射和衆・射和郷士」に「養女の女子」の嫁ぎ、そこで生まれた「嫁家先の嗣子の者」が先ずは「青木氏の家人」として成る。
    そして、そこで別の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」が「家人と成った嫁ぎ先」に入る「仕来り」が採用されていたのである。
    この血縁方法で「射和衆・射和郷士」との関係が広げていった事が良く判る。

    つまり、先ずは「青木氏との繋がり」を「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせ「青木氏の家人」として作り上げた上で、その上で二度目の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせる「仕組み」である。
    これで「深い女系の血縁関係」が成立する仕組みである。

    況や、如何なる場合に於いても何にも「青木氏との関係の無い家筋」には嫁がないと云う事である。
    それは前段で論じた“「四定以成異性不養之固掟也」”の掟に伴い、次ぎの旧来の「注釈の掟」(「四掟」、「同祖祭祀」、「同世男系」)が有る事に縛られているからである。

    (注釈 「共同養育の制」として、この「家人」に入った「娘」の「嗣子」の一部は、「孫域・曾孫もあり得る」までは「男女」を問わず「青木氏の子」として「四家」に入り共同で育てられる。
    養育方法は「氏内」の一種の今の保育園か幼稚園の形体であろう。
    此処で「青木氏」として「共通する教育」を受け、「そご」の無い様にその「認識とレベル」を統一させる事に狙いがあったと観られる。)

    多くの遺された資料からよく読み取ると、次ぎの様な結論が出る。
    年齢は女子では、普通では13歳で最小は10歳で最高で15歳、男子では、普通では15歳で最小で13歳で最高で18歳として、まとめると資料から何とか読み取れる。

    つまりは、男子は15歳が成人、「雛人形の論」の処でも論じた様に女子は13歳が成人の儀式が行われたと記されている事から、普通はこの儀式が基準と成っていたのであろう。

    (注釈 本来は「仕来り」であり「四掟に関する事」から「御定書」と成るものがあった筈であるがなぜか災禍で消失している。
    恐らくは、この「儀式の基準」は、血縁を確定させる為にも男女ともに「初潮の生理」に左右されている事が判る。ょ

    況や、その前の血縁関係は、「出産不可」から結果として前段で論じた“「嗣子」“では無く”「義嗣」“の「養子や養女の形」に成り得る為に成立しない。
    従って、確実に速やかに「血縁状態」が成立する為には、この「生理に依る年齢基準」が「青木氏」では定められていたと考えられる。

    この様に「女系の形」でも入る「四家のシステム」に成っていた事から、間違いなく繋がっている事は判っているのである。
    つまり、「四家制度」の「子の定義」に入る範囲の女系の「男女の子」が、「四家の福家」に依って「優秀な子」が選ばれると云う「青木氏の仕来り」が有る以上は、上記した様に「家人」で無かった郷士の場合は、一端“「家人の形」”と成って「血縁関係」を結ぶ制度を持っていた。
    これは「奈良期」から積極的に進めていた「四家制度」と「家人制度」を結び付けた制度であった。
    これに依って「血縁に依る家人」が増え強化される制度であった。

    「青木氏」では「性の差」を基本に「賜姓五役の役目」は「男系」を原則とはするものの、「女系」を問わず“「嗣子」”は平等に扱われ、それを基にした縁籍を繋ぐこれを“「家人制度」”と呼ばれていた。

    「重要な歴史観の注釈」として、前段でも論じたが、本来、「青木氏」では「自然神」を基とする「皇祖神の子神」の「祖先神の影響」がある事から、「祖先神の神」は「女神」である。
    この事から「青木氏」には、“「人」”は「女」に依って繋がれると云う「固有の概念」が在って、封建的な「男尊女卑の様な考え方」が根本的に無かった。
    唯、「男女」には其の「性の差」による単なるその「役目としての違い」があると云うだけの概念であった。

    現代の遺伝子学的にもそうなっている事から、この「祖先神の青木氏の概念」は正しい事であった事を意味する。
    そして、「青木氏の密教浄土宗」でもこの概念は生きていて、例えば「女墓」(伝統−3)と云う慣習もある。
    又、「青木氏の家訓10訓」(家訓1と家訓2)にも「女系」(人)を重視する概念は生きている通りである。

    この様に「氏族の賜姓族」の「四家制度」と「家人制度」を考察して観れば、「江戸期初期」の時点で観れば、「郷士の姓族」とは、「姓族」は「室町期中期」から発祥している事を鑑みても、「約350年以上」、「郷士」の前身の「鎌倉期中期の伊勢豪族時代」からでは、「約500年以上の期間の縁組」である事に成る。
    数少ない「35程度の伊勢郷士衆」(江戸初期)とは、35族/350年とすると、1/10と成り、10年に1回の血縁と成る。

    (注釈 日本の最も早い「姓族」は、瀬戸内から出た「海部氏」と云われている。)

    「四家の20家」に生まれる「男女の子」が、「1家−5人」の子供として、「100人」、この内、二人を「家人制度」で「三つの組織」に縁組したとすると、「40人」が対象と成る。
    これが、「1代−40年」とすると、「40年−40人」と成り、「10年−10人」と成る。
    「10−10」/「10−1」から10倍と成り、40−35族/10倍=「4のパラメータ」と出る。

    恐らくは、「全体の青木氏」でも、最低限、この範囲(「4のパラメータ」)で「四家制度」を保っていれば「家人制度」を維持する事が出来て、「最低限の血縁関係」は保てる。

    つまり、この「4のパラメータ」(上記計算の検証前提: 「四六の古式の概念」)で行けば、“「青木氏」は正常に維持される”との「基本認識」は持っていた事に成る。
    従って、平安期中期にまでに定められたレベルのこの正常に維持される「4のパラメータ」の範囲では、「賜姓族の宿命」の「純血性」を保つ為の「同族血縁の弊害」は起こらないとする定義(「四家制度」には「天動説」から来る「陰陽道」の「四六の古式概念」)があった事に成る。

    この「家人制度」を維持されると云う前提を護れば、“「四家制度」を正しく保てる定義”でもあった事に成る。
    況や、この「二つの関係」は互いに「補完関係」を維持して居た事に成り、「青木氏の存続の大前提」であった。

    つまり、それは、突き詰めると“「人」”であって、故に、“「女系」”であると云う前提に成り、これが「青木氏の家訓」に成っているのである。

    この様に「賜姓五役」の「純血性を保つ事」には、「家人制度」と下記に論じる「妻嫁制度」と共に、発祥時の奈良期(647年)から「男系女系の区別ない概念」が絶対的不可欠であった事に成る。
    これが他氏の男系に拘る数少ない「氏族」や「賜姓族」や「臣下族」とは異なる所以であって、「青木氏」が生き延びられた「根本原因」であった事が頷ける。

    それは現在でも通じる「人の遺伝子学」と「青木氏の人の概念」が一致していた事に由来する。
    先祖の凄い「透視力」と云うか「真理力」であったと当に驚き入る。


    さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
    そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸く。”

    それを「射和と殖産」で次ぎに論じる。実は大いに影響していたのである。


    > 「伝統シリーズ 38」に続く


      [No.355] Re:「青木氏の伝統 36」−「青木氏の歴史観−9」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/07/22(Sat) 16:17:28  

    > 「伝統シリーズ−35」の末尾

    >さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

    >「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
    >「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

    >「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
    >「同世男系」の補完策が取られた。

    >「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」の「第四世族」であり「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
    >「女系策」の補完策が取られた。

    >「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。

    >「鞍作部止利作の賜物」の「大日如来坐像」をステイタスとする事。
    >「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

    >この様に「四掟」を補完して定義されている。
    >これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
    >この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。




    「伝統シリーズ36」に続く

    さて、「伊勢の青木氏」(信濃にも入る)に執っては跡目として「頼政の子(仲綱)」の子の「京綱」が平安末期に入るが、
    この「頼政」に関しては「青木氏の歴史観」として多くの事が遺されている。
    これを掘り起こして置く。

    「頼政」は「摂津源氏の四家」の四代目である。
    「平家台頭」に依って発祥から200年程度で「源氏族」は衰退した。
    その中で何とか仲間を騙し、「平家」の中で生き残りをかけた。
    この時、「青木氏」と関わったが、その関りが「跡目」であった。
    原則として、前段でも論じた様に「四家制度の掟」に依って、跡目の「嗣子」は「四掟」で、他氏からの「跡目嗣子」は長い間禁じられていた。
    「嗣子」と云うその「固い掟」が、その壁と成っていた。
    然し、「四掟」からはその「固い掟」そのものを否定する事は「源氏族」には無かった。
    ここが「青木氏」と違うところで緩やかであった。
    唯、「慣習仕来り掟」の長い間の流れの中では、これが「難壁」と成っていた事であったが、「嵯峨期の詔勅」でこの流れが一変したのである。


    当然に、「同祖同門の源氏族」から始めて、「跡目」を入れる事に成った「青木氏」としては「青天の霹靂の歴史的な事」ではあった。
    然し、「新撰姓氏禄」に依って明確に定義された事で、「同祖同門」と成るのであるが、それ故に青木氏側には「四掟」に依る論理的には無理は無かった。
    唯、「11家11流」あるどの「賜姓源氏族」でも良いという事では無かった。

    (注釈 「源氏」と言いながらも「賜姓」を受けられなかった「真人族の源氏」が多く、各賜姓を出した天皇には必ず単なる源氏も居た。
    殆どは、結局は、生活に困窮し比叡山か善光寺や地方の土豪の家に入った。
    「11家11流」とは言えど、その資格を何とか持ち得ているのは実質は武力集団を構成した「清和源氏系」である。
    「宇多源氏」でも搾取偏纂が多いし、源氏の中でも「嵯峨源氏」は「清和源氏」に融合された。)

    そこで「四家」を構成する「摂津源氏四家の始祖」の三代に付いて関連事項を述べて置く。
    先ずは、「三人の遙任」の受領、或は、守護地は次の通りである。

    ・「満仲の受領・守護地」
     摂津、越後、越前、伊予、陸奥、武蔵、下野、信濃

    (二度の役の摂津を領国とする。「武家貴族」として「嵯峨源氏」(母系)を郎党とし「武士団」を形成する。全国域) 

    ・「頼光の受領・守護地」
     美濃、尾張、但馬、伊予、摂津、信濃、甲斐

    (満仲の摂津国を護り引き継ぐ。但馬を受領する。「摂津四家」を形成する。中部域と関西域)

    ・「頼政の受領・守護地」
     摂津、美濃、伊豆、相模、下野、上総、下総

    (摂津を引き継ぎ伊豆と相模国を受領する。関東域)

    さて、そこで果たして、これを観て、同祖同門であるのなら「清和源氏の宗家の摂津源氏」には「神社仏閣の修理」は何所までを命じられたのかと云う疑問がある。

    それは、出来たとしても上記の17国の「神社仏閣の修理」である。
    この「関西域から中部域」にかけての「天領地」が存在する地域とされていて、それは「六国」であろう。

    つまり、これに依って、「嵯峨期の詔勅」に依って、以後は、「青木氏」は、「皇親族」として、或いは「賜姓族」として賜姓を受ける事はなくなった事で、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」を含む「新規建設」が一時的に留まったのかと云う事が判る。
    又、その「内容」と「期間」に依っては「青木氏の歴史観」が判る。

    その「期間」としては、「神明社の荒廃」が進んだ時期は、「嵯峨期」では未だ続けていた事が判っている事から、源氏の清和源氏が政治に関わって来て、上記の「青木氏の定住地」に入って来た920年−930年代頃から「青木氏」は「賜姓五役」として摩擦を避ける為に手を一時引いた事に成る。
    当然に、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」からは手を引いた事にも成る。

    現実には、「守護」が「賜姓青木氏」に代わって「賜姓源氏」と成った以上は、「賜姓青木氏」は「旧守護の郷氏」である事に成り流れとしては手を引く事に成るだろう。
    両者が共に片方(源氏)が守護をし、もう片方(青木氏)は「神社仏閣の修理」をすると云う事はあり得ないであろう。

    そもそも、源氏立役者の「三人の受領・守護地」は「青木氏の定住地」でもあり、「天領地」のある処でもある。
    「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に変わった事で、故に、「源氏」に対して正式に「朝命」としてこの「赴任地の受領・守護地」の「神社仏閣の修理」を命じられた事と同じ事に成ると考えられる。

    然し、未だ、この時期には、領国として受領した「摂津の国」を除いて、この地域には「賜姓源氏族」は「守護神の八幡社」と「密教の菩提寺」を各地に作れるほどの「財政と技量の状況」にはなかった。

    (注釈 但し、「武家貴族」から離れた「武勇の頼信」の「河内源氏」にも「八幡社」が存在していたとしているが、他の源氏族地域と同様に「鎌倉期の後付」ではないかとの見方が強い。)

    故に、荒廃した自らの守護神の八幡社だけの修理に留めたと観られる。

    結局は、「祖先神の神明社の修理」は、「頼政」が「志紀真人族の青木氏」に「京綱の跡目」を入れた時期までと云う事に成る。
    少なくとも、この時期からは、”「青木氏の力」を借りる”と云う「手立て」が成り立ち、この事で「祖先神の神明社の修理」の大義は成立する事になり、再び、「青木氏の守護神」である限りは修理は始めたと考えられる。

    従って、「祖先神の神明社の修理」は、「青木氏」に依って“「1150年頃以降」”に再び始まった事に成るだろう。
    然し、「治承期」には、最早、平家が66国中32国を支配するに至り、その「平家台頭期」からその支配地域に関して以上には、「守護神」であるとは言え「賜姓青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は到底勝手には出来なく成るは必定であるだろう。

    従って、続く乱世が保元(1158)−平治(1159)−治承(1180)−寿永(1185)の乱とすると、詳しくは、上記の通り「1150年頃以降」に再び始まった事に成るだろうが、“1165年代頃”からは再び無理にでも出来なく成った事に成る。
    つまり、再開後、15年間程度で、又、中断した事に成る。

    結局は、時系列的に観ると、次ぎの様に成る。
    「頼政(1104年生誕−1135年家督を引き継ぎ)」は、「1140年頃」に官位叙任して出世した。
    そして、「賜姓平家の台頭」の中で「賜姓源氏族」として上手く泳ぎ、「1178年頃」までに最高位の「正三位」と成り、「受領・守護地」(「伊豆の受領」を特別に希望した記録)に「京の遙任」を敢えて止めて赴任した。

    そして、この間に、「孫の京綱」の「青木氏跡目」も「青木氏の資料」から「1167年−1170年頃」(頼政53歳頃)に行われた事が「公的記録」や「青木氏の記録」でも判っている。
    つまり、「平家の権勢」の中で「伊豆の守護地」を特別に臨んだ事に「頼政の戦略的意味」があり、「先々の事」(源氏四家再興)を考えて準備していた事に成る。

    と云う事は、「青木氏」が“「皇親族」”から外れ、大きく変化した時期の「嵯峨期(在位824年−没年842年)」では、この「嵯峨期の20年間」は「同祖同縁」である事から何とか「賜姓五役」を務めた時期と成る。
    然し、その後、「約108年間(950年頃 「秀郷流青木氏の補完策」まで)」は中止した事に成る。
    ところがその後、再び一時は始まるが「220年間(1170年頃 )」で再び中止に成った。
    この間の清和期の「1135年頃から1178年頃」まではより「安泰期」であった事には成るが、これも「13年間(頼政以仁王の乱 1180年)」で中止した。

    「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は、結局、再び始まったのは「源氏の政権」が樹立した「鎌倉期」である。

    そこで、「青木氏の歴史観」として問題がもう一つある。
    それはこの鎌倉期の何時頃から始まったかは、「青木氏」の中に判断資料と成る欠片も何も見つからない。
    何故なのかは解らない。この時期には資料消失の事故は無い。

    「賜姓五役としての務め」として「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事が出来る様に成ったのであるから、「幸い」である事に成る。
    然し、どこかに何か「関連した内容の事」でもが書かれている筈なのに無いのである。

    (注釈 この「青木氏に関わる歴史的な記録の務め」は、本来は「神明社の守護神」か「氏寺の密教菩提寺」が執事として勤める役目の「慣習仕来り掟」にあった。)

    この「不思議な事」は、「青木氏の中」で“「書けなかった混乱」”が発生していた事以外には考え難い。
    これは大きく「青木氏の歴史観」に関わる事ではあるが、“何なのか”である。

    先にこの事に付いて是非検証してみる。

    この「執事の記録」は先ず考えられる事は、「氏寺」よりも「神明社」であろう。

    それは全国の「神社仏閣の建設と維持管理」は「氏寺」よりも「神明社」の方が格段に多い。
    「神明社」は“「神明造り」”と云う奈良期からの「古式造り」である。
    従って、この「各種技能」の「青木氏」に関わる多くの「技能種」は「青木氏部」の中で培われている。
    他では、「皇祖神の伊勢神宮」に関わるもので、その「子神」としての「古式造り」を造り維持する事は他に出来ない“「特段の技能」”である。

    そうすると、全国500社以上に上る「神明社」と「氏寺の菩提寺」と、その「分社」「分寺」を維持するには、夫々の「国の社寺」と、「伊勢か信濃」の本部にこの「特段の技能を持つ者」を抱えておかなければならない。
    しかし、そんな「不合理な事」は幾ら「青木氏」でも無理であろう。

    当然に、一か所に統括して、夫々の社寺から連絡を受けて「人物金を手配する事」に成る筈であろう。
    つまりは、それが「青木氏部」と云われる「古来からの技能集団」である。つまり「青木氏部」である。

    少なくとも歴史上の存在する記録として、「伊勢」に「青木氏部」が奈良期から歴史的に常駐されていた事は明白である事から、ここから「人物金の統括」をしていた事に成る。
    当然に、これ等の「建設修理に伴う資材の調達と運送と警護」も担わなくてはならない事に成り、これ等の全体を効率よく手配する部署が必要に成る。
    これらの「責任」を「青木氏の四家」が持ち、各四家が担当し手配していた筈であり、当然に「商い」の「伊勢屋の紙問屋」も関係する事にも成る。
    又、直接に「青木氏部」が任されて責任を持っていたかの問題とも成る。

    この問題は、この三者の一か所だけで全てを賄える能力を持ち得るのかと云う判断が出て来るが、到底、無理であろう。
    総括責任の「指揮支配」は「青木氏」、「物品の手配」は「伊勢屋の紙問屋の総合商社」、「技能者の手配」などは「青木氏部」と云う事に成るのではないか。
    当然に伊勢だけでは無理と成り、「信濃の力」、時には「甲斐の力」も求めたであろう。
    これを「信濃」を含む「四家の者」が主と成って一体で担当していたのであろう。

    (注釈 記録にもある様に「補完役の伊勢の秀郷流青木氏」も平安中期から合力をしたが、どのような「補完役」を演じていたかは、近江の秀郷流一門の記録の流れから考えると「運輸面の実質の警護」にあったとある。)

    さて、次の問題は、この「記録」を誰が担っていたかに移る。

    筆者は、当にこれには”「御師制度」”が絡んでいたと考えている。
    「神明社の御師」には多くの「仕事種」があった。

    中でも、記録で明らかに成っている様に、全国の「神明社」を経由して全国の「全ゆる情報」を集め、「福家」に提供する役目もあった。
    これには、「諜報活動」もあり、「商いの情報」から「神明社の荒廃状況」等までも報告していた。
    この事からすると、「青木氏の福家」には、「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」と「青木氏部の差配頭」に対して「指揮支配」をしていた事に成る。
    これを受けて「青木氏部の差配頭」(「隅切り目結紋の青木氏」)に「指揮支配」をし、それに必要とする「物と金」を「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」に「手配依頼」していた事に成る。
    後は、「差配頭」が「運搬と警護」を「伊勢シンジケート」等に手配する事に成るだろう。

    恐らくは、これらは「享保の改革」に執った「江戸の伊勢屋」と「伊勢」との「連絡体制」(記録)からも解る様に、“「会議」”を開いたと観られる。
    とすると、「疑問の記録」は、「青木氏部の差配頭」が執っていた事に成る。
    従って、「伊勢」の「青木氏部の差配頭」に「記録消失」の何かがあった事に成る。

    ところで、「松阪」は、「不入不倫の権」で護られていながらも「四度の災禍」に見舞われた。
    「松阪火災が二度」、「信長災禍が一度」、「平安期末期と室町期初期の乱の災禍の二度」と成る。
    後は、江戸初期に神明社は徳川幕府に引き渡すが財政難から全国的に荒廃する。

    「伊勢」の「青木氏部の差配頭」には、少なくとも五度以上のこの「全ての大災禍」に直接的に影響を受けている。

    そこで「伊勢」には、「青木氏」が関係した「神明社系の社」は「30社」あり、この内、「1社」は当に「青木社」、残りの「2社」は「青木氏」に関わる「同祖祭祀神」、残りの「27社」は「祖先神の神明社」である。
    この「青木社」が「守護神の神明社」の中でも、「氏族全体」をより「神仏同源」として祭祀していた「社」であり、「伊勢松阪」は、「皇祖神」の「伊勢神宮のお膝元」として、「青木氏の色合いの強い神明社」を祭祀する事は困難であった。

    そこで、「青木氏の記録」によれば、「四家の桑名殿」の地域に「神明社系の青木社」を設けたのである。

    (注釈 「施基皇子の子」には、「春日王」「壱先濃王」「桑原王」「白壁王」「湯原王」「榎井王」が居て、桑原域は、「桑原王」の住地であった。)
     
    「松阪の西」の「名張地域」にも、「松阪の北」の「員弁地域」と「四日市地域」にも、もう一つあった様で、この「四つの神明社」には同時に、「神道祭祀」でもあり、「菩提寺の氏寺」も備え、且つ、この「氏社と氏寺」は「護りの城郭」としての目的も持つ「平館」としての役目も果たしていた。
    歴史上で本格的に「青木氏」に降りかかった「桑名と名張と上田」の「三つ戦い」の際には、「護りの館」としても働いた有名な「氏社」と「氏寺」でもある。

    この様な「役目」としてもあった事からも「神明社」ではあったが、これを須らく「青木社」と呼ばれていた。
    現在では、「桑名の青木社」と「名張の神明社」と「四日市の神明社」が寺社共に遺っている。

    筆者は、従って、「青木氏の歴史」として遺すとすれば、この「桑名の青木社」に遺されていたと観ている。
    然し、唯、「桑名」と共に「北の備え」として役目を果たしていたが、「桑名の左横」の「員弁の神明社」が「上田の戦い」で消えている事から考えると、此処に遺されていた事も考えられる。

    つまりは、「青木氏部の差配頭」(隅切り目結紋)は此処に住んでいたとも考えられる。
    従って、「記録」が消えたと考えている。

    唯一つ、この事で考えておく必要があるのは、この「青木氏部の差配頭」の家紋から観ると、つまり、「隅切り目結紋」が関東域にも存在する事である。
    と同時に、「神明社」の「柏紋の神職」の末裔も、「越前」を除くと「関東域(埼玉)」にも多く分布する事である。

    本来は、「伊勢」に5年毎に帰る「仕来り」に成っていたのである。
    全国に移動しながら「社の修復」に関わっていたので「青木氏部の差配頭の子孫」は、この「桑名市多度町付近域には絶えなかったのである。
    鎌倉期から室町期を経ての「戦乱」を経て「目結紋の青木氏」が関東域に残るはただ事ではない。
    「柏紋の青木氏」と共に残しえるだけの事があったという事であろう。

    (注釈 故に「神仏同源」であったこの”「青木社」”としてはここに残せたのであり、、これが「桑名市多度町小山」にあり、現在は本体は平地小山の上に「祠の様な構え」で祀られていて、過去は大きな鳥居(現存)を持つ社であったが、現在はこの「大鳥居」は周囲に威容を放つ様に目立って遺跡を遺している。
    この「多くの神明社」は中部域から北勢域に存在する中の功績なのである。)

    「伊勢」には、この様な「祠」の様なものも含めて「970の神社」があると云われているが、これでも最も「社関係」が少ない地域でもある。
    全国は元より「伊勢の神明社系の30社」は、多くはこの様な「祠の状況」に成っている。
    その原因は、江戸初期に「青木氏」から徳川幕府に移管した事で財政難から著しく荒廃した事とし、又、合わせて「密教」を廃止し「顕教令」を発して急激に移した事で「支える信徒」が少なくなった事と、「他宗の勢い」にも影響している事にも依る。

    全国の神明社の多くは、この様に成っているが、この「伊勢桑名市多度」の「青木社」に関してだけは、「青木氏の口伝」で、この「桑名一社」だけは江戸期以降も”「青木社」”としての呼称で維持したとある。
    その後、第二次大戦にて大鳥居だけを残し消失し、昭和21年5月に「多度の小山に屋根付きの祠」を再び建設し登録した事が判っている。
    ”「青木社」”のここを何としても残そうとしたのは「目結紋の青木氏」と共に「柏紋の青木氏」と「「桑名殿」が地域に居た事の所以でもある。

    (注釈 唯、「頼朝」は「1197年」頃から特に「地方政治」に「力」を入れ、「武家体制」と「幕府体制」(格式と権威の確立)を強化した。
    この時、長い間の乱に依って「神社仏閣」が「戦いの根拠地」と成っていた事から荒廃し、これを立て直す政策と、全国に「平家の残党」が多く残る治安状況の中で実施する為に、ここを、つまり、「神社仏閣」を拠点として「守護や地頭」等の配置を実施した。
    この為には、「拠点」は元より,乱に依って疲弊していた「人々の安寧の場」としても重要な「神社仏閣の社会整備」が急務と成っていた。

    (注釈 取り分け「頼朝」は、この初期は「北条氏等の反対」を押し切って「頼朝が思う政治体制」を強引に敷いた。
    公的に成っている記録として、「格式と権威」を樹立する為に、「神社仏閣」などに深く帰依し保護して推進した。
    取り分け「皇祖神の「伊勢神宮の保護」と、その子神の「祖先神の神明社の保護」には目立つほどに「政治力」を注いだ事が判っている。)

    その為にも、「志紀真人族」で「武家貴族」の「青木氏の賜姓五役の力」を利用して、「伊勢」は元より「天領地」と成っている「五地域の整備」(「青木氏の定住地と組織力」、「青木氏の権威」、「青木氏の財力」、「青木氏部」を利用)に力を注いだ。
    その事に依って、「朝廷の力」(権威)をも利用した。
    つまり、「皇祖神の伊勢神宮」に代わって各地に多くの信徒を抱える「祖先神の神明社の力」を利用した事に依る。

    それ故に、「祖先神の青木社」を含む「神明社」を守る「目結紋の差配頭一党」は、正倉院にも残されている程に「関東」に於いても鎌倉期から室町期まではその子孫は関東に於いて絶える事無く保護された所以でもある。

    これには、鎌倉幕府と室町幕府はどうしても「賜姓臣下族の青木氏の五家五流」と、それを補完する「秀郷流青木氏116氏」の「力」を利用する必要があった。
    それには、彼らを「引き付ける権利」を与える事であった。
    これが、「北条氏等の反対」を押し切って実行した頼朝の“「本領安堵策」”であった。
    過去には「青木氏」と敵対した「足利氏」も「本領安堵策」を採った。

    (注釈 「伊勢の天領地保護」には力を注いだ。)

    (注釈 「坂東八平氏の傍系」の「北条氏」等に執っては、この「格式と権威」は「利害の反する事」であり、記録に遺る程に「強い反発」を受けた。
    取り分け、「義経」は「清盛の影響」を強く受けていて「頼朝」以上にこの「官僚的な考え方」が強かった。
    「二つの青木氏」は、「二つの青木氏の氏是」に依って関わらなかったが、これが生き残りの要因の一つに成った。
    仮に、「同祖同門の第七世族の末裔」の「坂東八平氏」に関わっていれば「同門の戦い」に成りどうなっていたかは判らない。
    身の危険を感じながらも反対を押し切ってでも行った「頼朝の本領安堵策」が「同祖同門」を引き付けたのである。)

    恐らくは、「南北朝の足利氏」や「室町末期の織田信雄」や「長嶋や根来や松阪の秀吉」との「闘い」の様な「シンジケート」を使った「影の戦い」と同じ戦いに成っていた事が充分に予想できるが、大きくは手を出さなかった。

    取り分け、「伊勢の天領地保護」には力を注いだが、「以仁王の乱」で「鎌倉幕府樹立」のきっかけを作った「頼政の孫」の「京綱の青木氏」が「政治的中立」を保った事から、「北条氏の反対」を押し切ってでも「本領安堵策」を実施し、その為か「青木氏」の奈良期からの旧来の「平家に奪われた土地」までも本領安堵(中勢域から南勢域)された。

    (注釈 平末期から「紙を使用する文化」が徐々に進み、鎌倉期には、最早、「紙」は通常の物と成り、室町期には世の中が乱で荒廃する中でも、「紙」は専用の用語として“「紙文化」”とも呼ばれる程に逆に花開いた。 
    「二つの青木氏」は、この「紙の文化」の進歩と並行して「氏族」を拡大させ強化させ、「巨万の富」を獲得した。
    これには{南勢や南紀(秀郷流24地域と信濃域も含む)}までの「旧来の本領安堵」が大きく効果を発揮させ、進む「紙文化」の「紙生産の殖産地」に成った
    この様に”「青木社」”が物語る様に、「鎌倉期と室町期」は「本領安堵策」で力を蓄え、そして「江戸期」にはこの「抜群の力」で生き抜いたと云える。

    この「青木氏の歴史観」を物語るには、「柏紋の青木氏」と共に「目結紋の青木氏の存在」が欠かせないのである。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」は「五家五流」の「五地域」、「賜姓臣下族の秀郷流青木氏」は「116氏」の「24地域」、合わせて「121氏−29地域」である。
    この内、強大な勢力を拡大させたのは、合わせて「15地域」で、この内、「秀郷流青木氏」は「10地域」と、「五家五流」の内の「三地域」が「政治、経済、軍事」の「青木氏の基本勢力」を拡大させた。
    この「15地域」は、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を共に協調して獲得した。
    これには、「秀郷一門361氏」の「主要16氏」の内、「青木氏族」と呼ばれる「主要8氏」が勢力を拡大させた。秀郷流青木氏は116氏−に支流分布)

    この事から、再び、「青木氏」に依る「祖先神の神明社の修理」は始まったと観られる。

    然し、上記の事や注釈にある様に、「歴史の政治的経緯」の中には確定的な物が観られない。
    何故、この事に関わる記録資料が見つからないのかは、この「歴史的変化」からは判らない。
    だとすると、「青木氏の中」にある事に成るのだが、無いのである。

    全国の「祖先神の神明社の修理」は「皇祖神の子神」として認められて進んだ。
    ところが、この頃(1000年頃)からの「青木氏に関わる資料関係」は多く成っていて、「室町期初期」(1334年)に成って「下剋上と戦乱」の影響を受けて、この資料からも「神明社」は一時荒廃が始まった事が書かれている。
    ところが、「「鎌倉文化」とそれに続く「室町文化」の“「紙文化」“と云われる文化が興り、「青木氏」は本領安堵された事も伴って「巨万の富」を獲得するが、何故か不思議に「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料は見つからない。
    「巨万の富」を獲得し、「青木氏に関する記録資料」が多く成ったのであれば、「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料が出て来てもおかしくはない。

    つまりは、「修理するに必要とする財力」は充分に獲得している筈なのに、無いのである。

    これは次の事が考えられる。
    先ず、「三つの事」が考えられる。
    「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
    「青木氏」が「修理」はしたが何かの「記録を遺すシステム」に障害が起こったか(2)
    遺したが一度に消える何かが起こったかであろう(3)

    「前者二つの原因」(1)(2)は戦乱であった事もあり、全て考えられる状況であった事は頷けるが、(2)は少しは遺るであろうし、一度に全てが消えるのか(3)では疑問である。

    上記した様に、記録に関しては一度に全てが消える事からすると、(3)だけが原因していたのだが、「青木氏部の差配頭」の「隅切り目結紋」の一門が預かる「神明社」の「主社の青木社の焼失」が原因である事が頷ける。

    注釈として、さてこれを裏付けるかの様に、この「桑名地域一帯」には「桑名殿の青木氏」と共に、この「職能家紋の青木氏」が符号一致した様に実に多いのである。
    「松阪」には、後で建設された「伊勢神宮」に関する「新しい社」が多く、この「古い祖先神の神明社」は無かった事が伝えられていて、現在も60社ほどの社が祭祀されている。
    然し、「神明社の祭神」としては無く、且つ、「皇祖神の子神」であるにも関わらず無い。

    これには原因があって、これは次の”「古来の慣習」”に依るもので、「神宮遷宮」に於いて中国地方から各地を遷宮して、最後は、紀州で「遷宮」は落ち着きを示しすが、最終は「伊勢松阪」に落ち着いた。
    然し、そもそも、各地の「遷宮地」には、この「遷宮の仕来り」に依り「子神の神明社」は祭祀されていない事に成っている。

    そこで因みに、「伊勢の神明社の分布」を見本にすると次ぎの様に成っている。
    先ず「青木氏の定住地」に多く分布する。

    「青木氏の口伝」によると、「南勢の旧領地」には、平安期より「1社」あったが、歴史の中で「南勢」は「熊野神社の聖域」であった事から消失して無く成ったとの事である。
    一時、この「南勢の遠祖地」は平家と熊野の圏域に置かれ、その事で削除されたらしいとの事であった。
    これは現実に云える事で恐らくは”「事実」”ではあるだろう。

    そこで「正式な神明社」としての分布は次の通りである。

    桑名 13(15) 員弁 3 四日市 4

    三重郡 3 鈴鹿市 2 亀山 1

    名張 1 志摩 1

    津 0 松阪 0 名張伊賀 0

    他の8地域 0

    これを観ると、「青木氏の聖域」、或は、「神明社の聖域」の範囲が良く判る。

    明らかに”「北域」”に集中しているし、当時の聖域図が読み取れる。
    併せて、この分布でも、「南勢の旧領地」の事は「平家熊野の説」は納得できる。

    「伊勢」を除く「他の四家四流の聖域」も、この「神明社の分布」で観る事が出来る。
    この事はある程度の研究資料があるので何時か論じてみたい。

    この分布をみると、”「北域」”に「勢力圏」を持ち、その「勢力圏」は「西と東」に分割している。

    上記した神明社の中でのこの“「青木社の存在」”はこれを物語るもので、此処に記録資料が保管されていた事の証拠にも成る。

    記録に依れば、「松阪」の西域の「名張」にも、江戸期以降にも「青木氏」が管理維持する「独自の神明社」が秘密裏にあった事が記されている。

    これは「江戸期」という環境の中では重要な事である。
    神明社返還後、勝手に「独自の氏社」を持つことを禁じられている中での「青木社」である。

    この「青木社」は「完全な神仏同源」であった事が書かれていて、恐らくは、その事は「室町期末期の青木氏」が実戦した2つの内の一つの”「伊賀の戦い」”(他は北部の「上田の戦い」)で活躍した「清蓮寺城と清蓮寺」がそれに当たる事が判る。
    これが「青木社の条件」を備えていたのである。

    つまり、「松阪の代わり」にして、「城郭的意味合い」を持たせ「福家」がここを「全体の指揮の拠点」にしていた事が考えられる。

    念のために注釈として、「家紋分析」でも「青木社の存在」と、その「目結紋の青木氏」には、要するに「青木氏」には「家紋」と云うものはそもそも無く、「志紀真人族」であった為に「賜紋」としての「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている。
    但し、朝廷の「賜姓五役」を務める事から、その朝廷が定めた職能に関する文様が次の三つあった。

    一つは、「神木の柏」の「三つ柏文様」
    二つは、「職能の印」の「目結文様」
    三つは、「賜姓源氏」から「青木氏」を名乗った時に使用する「丸付き紋様」(限定)

    以上が「青木氏」に認められている。

    「神職の青木氏」の「三つ柏紋」、「青木氏部の青木氏」の「隅切り目結紋」、「摂津源氏」が九州大口村で「青木氏」を名乗った「丸付き笹竜胆紋」

    以上の「三つの文様」がある。

    「佐々木氏の研究資料」にもこのことが書かれている。

    後に、室町期頃からこれ等は家紋的に用いられ現存する。

    「柏紋」と「目結紋」(桑名多度域)は、朝廷記録や正倉院などの記録にも遺る由緒ある「古来の文様」である。

    そもそも、「賜姓五役」を務める為に「部組織」を持つ「青木氏」にだけ使用を認められた格式のある文様である。

    これ等の分布は、「柏紋」は伊勢では「名張地域」を中心として「北東の紀州域」までと、桑名、員弁域に多く分布する。

    この事から、「桑名の多度小山の目結紋」の平館があって、「名張の清蓮寺城」では「柏紋の神職の本拠地」としていた事に成る。

    故に、「神明社」が「神仏同源」とする事からも、「柏紋の青木氏の住職」が多く存在する所以とも成る。

    つまり、此処を拠点として、「神職と住職」を養成していたと観られる。

    故に、「神明社」が存在する全国の地域には、「目結紋の青木氏」と共に、この「柏紋の青木氏」の末裔が存在する所以と成る。

    次に、「目結紋の青木氏」は、「桑名地域」と「員弁地域」を拠点としていた事から集中的に分布する所以でもある。

    この文様も「全国神明社の分布」に従っている。

    これで上記の「記録の保存の疑問」これでは解ける。


    さて、「疑問の記録保存」から話しを戻す。

    「青木氏の歴史観」をより深めると、平安期のこれは(1)、つまり、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
    で、「皇親族」を外し、その「賜姓五役の役務」を外し、それに代わる「源氏族」に任せようとした。
    然し、結局はこの策は出来なかった事に成り、あらゆる「社殿修理」は“「放置状態」と成った事”を意味する。

    取り分け、「皇祖神の子神」である事から「建設、修理、維持、布教」は「朝廷の勢力」を補完する事にも成り、牽制されて「神明社」は荒廃した。
    結局は、平安期から江戸期末期までの期間で上記と多様な経緯から「青木氏」が「修理保全に携われなかった期間」は、この意味でも「神明社」は荒廃したのである。

    更に取り分けで、「江戸期全期」は「青木氏」より幕府管理下に引き引き渡した事から「神明社荒廃」は「密教の事」もあって「荒廃」は酷かった。

    ”「桑名の青木社」”や”「名張の清蓮寺城」(青木社格)”はその意味で「青木氏の歴史観」を大きく物語っているのである。

    (注釈 上記の務めである(1)である以上は、「神明社の荒廃」は「青木氏」は意地でも見逃すことは出来なかった。
    何らかの形で残す工夫が必要であった。
    それが「青木社」か「青木社的神明社」であった。
    「青木氏の定住地」の「主要地15地域」には、この「青木社格の神明社」が観られる。
    この内の「四地域」、つまり、 「伊勢」、「信濃」、「伊豆」、「越前」は、「青木社」である。)

    さて、そこで「桑名や清蓮寺」のみならず、これは、言わずもがな他の「青木氏の定住地」でも全く同じ事が起こっていた。

    「秀郷流青木氏の主要地」でも、この事は例外では無く、有名な例として、古来から存在する”「武蔵の四つの神明社」”はその意味で「柏紋の神職の定住」と、「柏紋の住職の定住」と、「目結紋の青木氏の定住」はその歴史を具に物語っている。
    つまり、江戸期の中で