青木氏氏 研究室
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  • 福管理人[副管理人]より -
    青木氏には未だ埋もれた大変多くの歴史的史実があります。これを掘り起こし、研究し、「ご先祖の生き様」を網羅させたいと思います。
    そして、それを我等の子孫の「未来の青木氏」にその史実の遺産を遺そうと考えます。
    現代医学の遺伝学でも証明されている様に、「現在の自分」は「過去の自分」であり、子孫は「未来の自分」であります。
    つまり、「歴史の史実」を求めることは埋もれた「過去、現在、未来」3世の「自分を見つめる事」に成ります。
    その簡単な行為が、「先祖に対する尊厳」と強いては「自分への尊厳」と成ります。
    この「二つの尊厳」は「青木氏の伝統」と成り、「日本人の心の伝統」に繋がります。
    この意味から、青木氏に関する数少ない史料を探求して、その研究結果をこの「青木氏氏 研究室」で「全国の青木さん」に提供したいと考えています。
    そして、それを更に個々の青木さんの「ルーツ探求」の基史料としたいと考え、「青木ルーツ掲示板」を設けています。
    どうぞ全国の青木さん、その他ルーツ、歴史に興味がある方、お気軽に青木ルーツ掲示板までお便りください。お待ちしております。

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      [No.404] Re:「青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−52」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/10/29(Sun) 10:30:41  

    > >青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」の末尾

    >前段で「個々の事象」として論じて来たが、これ等を「以上の様に時系列」で読み込んで観ると、その時の「幕府に対抗した姿勢」が観えて来て、上記した「ある青木氏族物語」が出来て来る。
    >要するに、上記に記した様に、「信濃や伊勢」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「奈良期から長年続いた役務の権利」は、ここで遂に剥奪はされたが、「肝心な処は抑えていた事」で無事に寸前で治まる事に成り得た。


    青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−53」

    前段に論じたこれらが「平安期初期から始まった新撰姓氏禄」の「紛失後の経緯」であって、長年に渡って「青木氏の周囲」に「多大な苦しみと影響」を与え続けたのだ。
    最後、この「変化」が「意にして求めた事」では無かっただけに、「青木氏族」に執っては、未だ遺るこの“「正親町天皇からの律宗族の権威と格式の授与」”は、“「余りありがたい事」では無かった事”とも読み取れる。
    つまり、今度は「江戸幕府」から、これが続けて警戒される要素に成って仕舞ったのだ。
    何故ならば「商いが進んだ青木氏族」には、「神明社の象徴権威の必要性」は、最早、強く求めるものでは無く成っていて、その「意識の中」でも薄くなりつつあったのだ。
    その「意識の中」では、この「経緯」としては、既に「江戸期の中」に突入していた。
    前段で論じた「額田青木氏と駿河青木氏の論」の様に、ところが、この時の貢献を認められて、この“「江戸初期の伊勢の事お構いなしのお定め書」”が未だ影にあったのだ。
    そこで続けてこれらの事を検証して観ると、新たに「青木氏の歴史観」として観えて来るものがあるのだ。
    そこで本論では「時系列から観た状況諭」として読み替えさせる事にする。

    前書き。
    本論では前段から論じて来た「奈良期の経緯」から「状況証拠」を見つけ出し集め其れを検証して「新たな青木氏の歴史観」を導き出そうとしている。
    そこから、「資料や記録」にはないものが別に導き出せる筈だ。。
    これを纏めたものを、先ず「奈良期の歴史観」として、“「次の二つの段」”で論じようと思う。
    この結果から、そこから“「色々な疑問」”が新たに湧きだし起こり、それを解く為に「歴史書」のみならず「別の面からの資料の活用と読み直し」もすると驚く様な「次の結果」が判明したのだ。
    これを「青木氏の歴史感」として追加して後世に遺したいと思う。

    さて、この「導き出した青木氏の歴史観・感」の中には、「奈良期末期」から始まった「格式化の影響」は「青木氏」の中では殆ど無く成りつつあったのだが、それでもこの「格式」に付いては、又、「別の癖」があって、それが最早、「江戸末期」までも、“「その過去の栄光」”としての「ある限定された範囲」で遺されていたのだ。
    そして、それが「尊称の呼称」として現れて、“御師様や徳宋家や氏上さま”などと呼ばれていたのだ。
    その程度に、「伊勢青木氏」が期待せずとも江戸期の中程迄、一般社会では“「青木氏の栄光の時系列」”として成り立っていたのだ。
    だが、特別に「江戸幕府」だけは別格で厳しく扱われていたのだ。
    それは「幕府以上の権威が別に存在する事」のそのもの「警戒」を持たれそれに敏感に反応して拒絶して来たのだ。
    他の時代毎の府は寧ろ逆であって利用しようとしたのだが、ここに「違い」が大きくあった。

    この様に、「格式化に関する歴史観の青木氏の経緯」は、後勘から観てそれは「白羽の矢の事件」の前後から始まり「嵯峨期の事件」と「市原王の事件」と「近江と美濃の源氏化の事件」と「頼政の事件」と「室町期の律宗族事件」と「江戸初期の神明社接収事件」と「享保期の吉宗大事件」の“「以上8つの事件」”として進み、期待していない「青木氏の格式の問題化」と成って現れて来たのだ。
    唯、これを通して観れば、これは先ずは「比較的に円滑な自然経緯の経過」の中の事では無かったかと総括して考えられる。
    それには、全てに通しての事だが、“「二足の草鞋策」”の「商いがあった事・殖産業」、即ちこの「商い概念の浸透」が起因して「伊勢青木氏を正面から補完していた事」だと観ているのだ。
    要するに、「奈良期からの強くて長かった殖産の商い感覚」が、その後にも「氏是と家訓」にもこれが強く影響していた事を物語っているし、それが又、「奈良期」から“氏族運営にもその感覚が「猪突猛進性を抑えたと運営」だった”事と観えて来たのだ。
    そして、それ故に、唯一、「奈良期からの生き残り族」と成り得ている事を意味しているのだろう。
    つまり、「有史来、1450年以上」の中で全く消滅する事なく、「格式化の社会変化」に惑わされずに生き遺ったのだ。
    これが「唯一の四掟氏族」の「秀郷流青木氏116氏」を含む「女系で繋がる大氏族一族一門の青木氏族」に影響していた事なのだと云う事を意味しているのだ。
    そもそも「こんな族」は他にないのだし、それ故に理解が難しく、この事を「論の前提」として先ず置いておく事にする。
    それを元に次に説いて行く。
    それだけに“「一族の歴史ロマン」”として「後裔に遺す歴史観」は、その「価値の有無」は別としても、“大切だと考えていて、「深く正しく」を前提にして「研究調査」”を未だ続けているのだ。
    最近では「書物」からの「直接の記述」だけでは「新しい史実の発見」が現実に難しく成って来たのだ。
    然し、「標記の調子で読み込み」を続けて行くと、そこでその「行」から「新しい意味する処」を発見し、それを時系列を合わして単純に追求して行くと、それでも「長く続けている」と「思い掛けない所」から「新しい時系列一致の史実の発見」が見つかる事があるのだ。

    それは、殆どは「資料の再検証を含めた読み込み」からの結果であって、つまり、“ここには「疑問・矛盾」が沢山に隠されているのではないか”として、それを「ヒント」に探求すると「驚く様な史実」が観えて来るものがあるのだ。
    今までは「経緯の追及だけ」であったし、それを元に「経緯論」を論じて来た。
    つまり、「青木氏の歴史観の時系列」から観て、これらの「経緯の間には隠された史実」が出て来て、この“「掘り起こし」”では「ほぼ確定できる事」が起こる事があるのだ。
    そこで古来より、そもそも「青木氏たちだからとする事」に付いて、これらから発する「遺された書籍の文章」の中には、色々な未だ観えていない“「特別な癖」”が遺されているからだ。
    その“「青木氏ならではの特別な癖」”とするものには、そもそも、そこには、“明確に具体的に書き遺す”のでは無く、“「韻を含めて書き記す」”と云う「慣習仕来り掟」が「伝統的」にあって、“それを目がけて書き下ろす事”が、寧ろ、“好とする文章、又は文化だ”とする癖があったのだ。
    其れだけに、取り分けこれらの「歴史書」には、“「読み込み力・隠された意味する事」”が試されているのだ。
    それが出来てこそ、過去には“「学者・研究者」”と呼ばれるものとしていたのだろう。
    それだけに「青木氏の歴史観」の「新たな掘り起こし」は難しいのだ。

    そこで、本来、高位族に限られるかも知れないが“「日本の文化」”は、つまりは代表される「俳句や歌等」には、次の“「情景と情緒とそれに伴い見えてくる韻訓の文化」”のこの“「3つの効果の組み合わせ」”に依って構成されている事が観られ、その様に限られた社会の中では、“「韻を込める事の巧さ」”、又は、“「それを詠み込める力」”が讃えられた“「独特な文化」”であったのだ。
    筆者も「俳句」をやるが、最近は「英語」の様に「西洋文化の影響」か「直接的表現」が好まれる様に成ったが、矢張り、「情景・場景 1と情緒 2」と、それに伴い「そこから見えてくる韻訓の文化 3」であって、其れを得るには「経験と教養の二つの獲得の結果」で無くてはならないとされていたのだ。
    それだけに「過去」では「その人間力・教養が試される文化」だったのだ。
    これ無くして「青木氏の歴史観」を解けないとされる文化だったのだ。
    「青木氏の事」が書かれている「歴史書」には、当にこの昔の「俳句の集まりの構成書」であったのだ。
    例えそれが「箇条書き」であったとしても、「云いにくい事」や「伝えにくい事」は、この「手法」を使い込み「箇条書きでも書き遺す事」があったのだ。
    故に、「多くの歴史観の保持」を以て“「読み込み」”が必要と成るのだし、そうでなくては前段で論じた様な「ネット説」の様なとんでもない「間違い」を起こしたものが出て来るのだ。
    そもそも、この「家の事を書き残す事を役務とする祐筆・青木氏の神職や住職」は、その「豊かな才能」を持って何の疑いも無くそのつもりで普通に書いていたのだ。
    何故ならば、これを「同じ教養や教育を受けた氏族の者」がこれを読むのであって、寧ろ、それで良いのだ。
    そもそも、それ故にその基と成った「漢文」はそうであろうし、「神社の祝詞・神明社や春日社」もこの「韻語」のそのものである様に、もっと云えば「日本語」も、基はこの「韻」を以て出来ているのだ。
    昔から「青木氏守護神の皇祖神の子神の神明社系国幣社の格式の神社の詔」は、この「古式伝統」を引き継ぎ、それが今に於いてでさえ「韻訓表現」で読むのだ。
    「和歌山や奈良の地域」に於いて今でも多く遺る「奈良期と平安期の言葉の方言」には、当にこの「名残」が今でもであるのだ。
    これが「韻訓表現」である為に、「本当の意味する処」は、なかなか「別の地域圏や文化圏の域」では伝わらない事が起るのだ。
    多分、これは「生活の一端」として、それを当に「算数で割り切れないものとして物語る文化」、所謂、「守護神の神社や菩提寺の寺などにある枯山水」までの至る所までとして、その例外は無いだろう。
    「枯山水」を「普通の現代感覚」で観れば、「石と木々の散在」にしか見えないだろう。
    故に、それだけに「自己研鑽を高める事」のみならず、これに伴って“「読み込み力」”も「青木氏に関わる歴史」には「絶対条件としての必要性」があるのだ。
    それに依ってこれを「読み込み積み重ねて」の努力でここまで来たのであるが、それだけに“意外と見逃している事が多い”とも考えているのだ。
    取り分け「青木氏の歴史観」に於いては、上記の感覚と理解は特別に必要とされるだろう。
    故に、「別の視点から再び観た読み込み」、つまり「疑問の心」を持って解くと、“ふっと閃く事があるのだ。”
    これが意外に重要なのだが。
    そういう意味で、取り分け「青木氏の歴史探査」には、この「文化の情景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の 3」の「文化の感覚」が無くてはならない“「歴史の特技」”になろう。
    故に他者が「慣習仕来り掟を持つ青木氏に関わる事」で「歴史を論じる事」は難しく成る所以でもあろう。
    先ずはこの事を“「前置き」”として置く。

    然し、最近は「新しい史実の発見」が難しく成ったが、それでも長く続けていると思い掛けない所から「新しい史実の発見」が見つかる事がある。
    それは殆どは上記した様に、「資料の検証を含めた読み込み」からであって、“ここには「疑問・矛盾」が隠されているのでは”として、それを「ヒント」に探求すると観えて来るものがある。
    それを「青木氏の歴史観の時系列」でほぼ確定できる事が起こるのだ。
    古来よりそもそも「遺された書籍の文章」の中には、“明確に書き遺す”と云う「習慣作法」では無く、“「韻を含めて書き記す」”と云う「風習」があって、それを寧ろ、“好とする文章・文化だ”とするのだ。
    其れだけに取り分け「歴史書」には、徹底した“「読み込み力」”が試されるのだ。
    そして上記した「物語る事」や「意味する処」を見つける事だ。
    それが出来てこそ、“「学者・研究者」”と呼ばれるものとした。
    本来、「日本の文化」は、つまりは上記した様に、「俳句や歌等」は「情景1と情緒2とそれに伴い見えてくる韻訓3の文化」のこの「3つ」に観られるものだ。
    この様に、“「韻を込める事の巧さ」”、又は、“「それを詠み込める力」”が讃えられた「独特な文化」であったのだ。
    筆者も“門前の小僧習わぬ経を読む”ではないが、「俳句」をやるが、最近は英語の様に西洋文化の影響か「直接的表現」が好まれるが、矢張り、「情景・場景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の文化 3」で構成されていなくてはならないだろう。
    そもそも、その基と成った「漢文」はそうであろうし、「神社の祝詞」はこの「韻語」そのものである様に、「日本語」も基の原理は、この「韻」を以て出来ているのだし、発音も韻発音であるのた゛。
    和歌山や奈良に於いて今でも多く遺る“「平安言葉の方言」”は、当にこの「名残」である。
    多分、「生活の一端」として「枯山水の持つ趣」までに至る所まで例外は無いだろう。
    故に、それだけに「自己研鑽を高める事」のみならず、これに伴って“「読み込み力」”は「歴史」には“「絶対条件」”であって、それに依ってこれを積み重ねて消えた歴史観を掘り起こししてここまで来ているのだ。
    それだけに意外と見逃している事が多いと考えている。
    故に、「別の視点から再び観た読み込み」である疑問を持って置くと、“ふっと閃く事がある”が、これが意外に重要なのだが。
    そういう意味で、取り分け「青木氏の歴史探査」には、何度も云うがこの「伝統文化」の「情景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の 3」の「文化の歴史感覚」は無くてはならない「歴史の特技」になろう。

    そこで「前段の平安期の前後の格式化論」では、もう一度その論筋に戻して検証して観る。
    つまりは、前段や上記する様に、「社会の格式化」で最も影響を受けたのは「最上位の格式・浄大一永代浄大一位」を有していた「賜姓臣下した青木氏族」であった筈だ。
    だが、元々はそれ故に「新しく格式化される社会・新撰姓氏禄による格式社会化」には、「拒絶反応」が自然に働くものと考えられるが、それ故に“周知すると云う事は不可能”であった観ていた。
    ところが良く検証すると、そうでは無かった様なのだ。
    それでも当時としては良かったのかも知れないが、当時としては、“先ず社会構成として「格式を造る事」に先ずは「意味」があって、それが「実用化」するかは「別問題」であった可能性があったのだ。”
    何故ならば、それはそもそも“造る目的の発端が、「社会を格式化で区切ると云う事」”よりも、そこには「裏の意」があって、これを「青木氏の歴史観」から観て、“「青木氏出自の天皇」と云う「レッテル」をそもそもこの「格式化」で剥がしたかった”のでは無いかと観ていたのだ。
    「賜姓臣下族」に成り「神木の“あおき”を以て諡号姓」を賜ったその時から、その「格式の高さの剥がし方」に就いては何でも良かったのでは無いか。
    そもそも「賜姓臣下して商いをする」とした場合は、この「高格式」は“格式で商いをしない”以上は必要はない。
    必要なのは「部経済」の中で「青木氏が興す殖産業」に於いて「院屋号の取得の占有権」にあったのだし現実にその様にした。
    然し、ここまで至るに、そもそも「歴史観」としては、その「方法」が簡単に見つからなかったのだ。
    然し、それ故にいっその事として、「光仁期」には、“「天皇」も含めて「全ての階層の者の出自の格式化」を再び図ろうとした”と考えられるのだ。
    そもそもその前に、「天智天皇の645年に大化規定」を造って、この「格式」を大枠で造って人臣を填めていた経緯があったのだ。
    それだけに「大化期の格式」と「光仁期の格式」の「二つの格式」が「必要としない青木氏」に意に反して覆い被さって来ていたのだ。

    前段でも論じた様に、「施基皇子・716年没・84歳」から既に「130年以上・647年賜姓」も経過し、且つ、「賜姓族」としても「禁令の商い・部経済の支配頭」も「院屋号」を以てし、更に「四掟四門で枠を造る女系化」で、「逃れの独特の立場」を造って、何とか「天皇家」から逃れようとしていたのだ。(下記で証明)
    「皇族列より離れている立場」に於いては、最早、その意識的にも「格式化で戻るなどの事」はあり得なかった筈だ。
    そこで、思い掛けない「突然の770年事件」の「白羽の矢で引き出された者等」は、兎も角も「女系と成っていた青木氏族」としては、“これに関わりたくなない”と云う「意識の発情」は必定必然であった筈だし、これを示す祐筆の記録にもある。
    これに就てこの「伊勢の記録」に依ると、“馬鹿を装う者や酒乱を装う者や隠れる者や暴者を装う者や逃げ隠れする者、中には系譜から消える者等があったとして、男女の関係なく曾孫や玄孫域まで逃げ惑った”とあり、“混乱の極めであった”とされているのだ。
    そもそも「青木氏の継嗣の立場にいた上四人」は、「四家を支える者・伊勢を支えるも者」として逃れる事が出来た事が記され、それ「以外の対象者に目される者」は、最後には「大酒乱や暴君や阿者」を装いながらも、それを敢えて押してでも、“「白羽の矢に当てられる事に成った状況だっだ」”としてこれは“「恐怖の状況」にいたのだ”としている。
    この事にはこの「白羽の矢」で其処までする騒ぐ必要が無い筈なのに騒いだと祐筆は暗に韻を込めていてここには何か言いたさの様に「大きな意味」を物語る。
    そもそも「白壁だけの男の問題・正嗣までとして」であって、且つ、「曾孫や玄孫まで逃げ惑う事」は必要はない筈だ。
    だが女子供も逃げ惑ったとしているのだ。
    それも中には「系譜から消す者」まで出て来たとしているのだ。
    だから少なくとも「七男以上」にはいた筈で「家人まで」入れると「20人近く」は居た事に成ろうが、「青木氏の四家制度の中の家人の動き」に付いては何も記述は無い。
    現実に調べると、「青木氏の記録」では「白壁」は「四男でも五男」ではも無く、「六男」としていているのだし、「四家の嫡子の福家の春日」から始まり「四家の継嗣の七男・記録では」の「春日、湯原、榎井、壱志、・、白壁、・、・・」まで「過去帳の記録」の通りに「四家・福家の春日」を構成していたのだ。
    そして「伊勢では六男・諸説四男説も」の「45歳の白壁王・伊勢では54歳説」は「酒乱」を装っていたとされているのだ。
    ここの「意味する処・1」は、「白壁」は「四家の主軸四家」を外れ未だ「家人」として働いている以上は、事前に“「立場上から身軽な自分に来る可能性が高い」”と観ていた事に成る。
    そして、更にこの「意味する処・2」は、「政争で継承者の無く成った天皇家側」と簡単に話が着かないと両者は観ていた事から“「事前打ち合わせをしていた事」”をも意味している。
    そして、その「打ち合わせ人物・3」が、これを「決め得る能力」、又は「権利保持の人物」がこの「打ち合わせ人物」と成って派遣されて「伊勢に来た・4」と云う事になる。
    ここまではある「下記の資料」で先ず裏付けられて読み込める。
    そして、更にそれに応じている事だが、既に「賜姓臣下して庶民格・5」に成っている事だ。
    「断れば断れる立場・6」に充分にあった筈だ。
    其れも何と「130年」も経っている事・7}なのだ。
    然し、「青木氏に執ってはこの1〜7は大問題」であって、「四家の家人を含めた一人・継嗣も含む」を「商いの上」でも「大事な継嗣を欠く事・8」に成るが、ところが現実の話し合いでは「史実」ではこれらの下で応じているのだ。
    それを“「押し切る力」”が当然に保有し示されていても、「ある理由・下記・9」で“動きが取れなくなった事”をもここでは意味しているのだ。
    此処には「上記の1〜9」を超えた以上は、「何か物語るもの」としてここには“「何か事件性の様なもの」”があった筈だと観る。

    そこで先ずは、それの一つは「永代賜姓五役の立場を相手が利用した事」を意味する。
    これは“「天皇から密命」”で出される“「絶対的な令外官命令」”であったとすればこれは“「因事菅隷」”しかない。
    この「意味する処」としては、この“密命・因事菅隷を敢えて使った事”に成る事までは読み込める。
    そこで「問題」は、“すんなりと、はいと言ったのか”である。
    「商いをしている氏族」がそんな事は先ずは無い事ぐらいは簡単に判る。
    つまり、“それに見合うだけの条件を付けた事”が充分に読み込める。
    今にに成ってこれだけの「氏族を動かす犠牲」までを払って黙って、“はい”と云える訳はない。

    それでも「伊勢説」では、“「白羽の矢」が飛んできた"とされるのだが、然し、現実には「天皇家からの白羽の矢」が「伊勢に入った」のは、“その「7年後」”の事であったとされ、そして“「白羽の矢を受けた六男の白壁」”が、その“「条件」”と成る「井上内親王との婚姻」に付いては、直ぐには進まず、この「経緯の検証」から、少しずれての、“「結果・1年弱」”と成ったとされているのだ。
    さて、この“「結果・1年弱」”に、そもそも何か「意味する処の問題」があって、その“「条件」”に関して何か特別な“「秘匿の話し合い」”が行われ、少なくとも“直ぐには決着が着かなかった事”を意味していると考えられるのだ。
    普通ならば「天皇家」であるとするならば「話し合い」が進めて直ぐに先ず「后」になるだろう。
    少なくとも“準備”と云うものがあったとしても、“「結果・1年弱」”には成らないであろう。
    それには、“迎え入れる家等の準備”とかされているが、それはその「白羽の矢の目的」が「伊勢青木氏の財」であったとするならば、兎に角受け入れて、後で間に合わせれば済む筈であり、ところがこれに関してだけは何も「記録らしきもの」が無いのだ。変だ。
    何せ先ずは、“第一の対象者であった「淡海族の天武系直系族の市原王」”から、“「伊勢の白壁王」”へ飛び変えての“白羽の矢”であり、“「天皇家」”でもここの「事情」は充分に承知していた事に成ろう。
    とすれば、この“「結果・1年弱」”に於いての間は、“「打ち合わせ」に於いての条件”に付いて何かの条件が折り合わずに“揉めていた”と云う事に成ろう。
    結果として、前段で論じた事や上記した様な論に、飽く迄も“「伊勢青木氏の者」として扱い、直ぐに「天皇」にしないし、且つ、つまり、“特別扱いもしない”と成ったと観ているのだ。
    つまり、絶対に「伊勢青木氏のペース、伊勢青木氏の伝統慣習仕来り掟に従う事」に決まった筈なのだ。
    主にこの「意味する処」は、“「井上内親王の扱い」”に関しては、“「打ち合わせ」”では「ある意味で厳しく定めた」と云う事であろう。
    だから、ここに「下記」にも論じる“「特異な時系列」”が生まれたのだと観る。
    そして、この「白羽の矢の白壁」が遂に「即位」するのは、「孝謙天皇の姉・井上内親王」が「伊勢青木氏」に嫁いでから合計、何と“「9年後の事」”であったのだ。
    この「時系列の経緯」を正当に考えれば、これは「伊勢の青木氏と天皇家との間」には、上記の様の様な“「相当なやり取りがあった事」”を物語っている事に成る。
    「普通の事」なら、“天皇家の命”とも成れば「奴隷」の様に100%に従うが世の習いであり、況してや直前の本命で「白羽の矢を望んでいた淡海族直系」での「市原王の事」を考えれば「問答無用の事」で従うであろう。
    故に、“「結果・1年弱」”の期間は異常であると観たのだ。
    そもそも、仮に記録に描かれている様に、「白壁の酒乱」とすれば、原理原則に「天皇の役務は務まらない事」は明らかであり、それを超え知っての事は、“「帝紀」”に照らせばこれは正常ではないし避け蹴るのが普通であり、そんな「前例・陽成天皇」は確かに後に起っている。
    この事は、“事前に判断できる”のに、それを知り得てでも“「白羽の矢」”を飛ばすのは、“何かの別の目的でも以てそれを利用して「天皇」に仕立てようとした事”に成ると、「読み込み」で観ているのだ。
    言わずもがな「青木氏の女系」は、少なくとも「帝紀」にも抵触する筈であって、況してや既に「130年後の賜姓臣下し、女系化した伊勢青木氏・庶民化」に、「天皇家」と云うものに対して「必須条件」としてのそもそも“特段のものは何も無かった”筈なのだ。
    もしここであるとするのは、ここでは「状況証拠」として「他の氏族」に観られない「部経済での差配役」を評価した“「財の才能」だけ”であったと読める。
    本来は「天武系の直系族」が多く存在する「近江佐々木氏系」がまだ存在していて、その「正統な筋目」であって、それを超えての事は、「別の目的」の“「伊勢の財」に求めた事”に間違いはない事に成ろう。
    それだけに、「大仏殿建立」を始めとして「内蔵のみならず大蔵」に於いても膨大な出費が絡み「極度な財政難でに喘いでいた筈であるし「記録」にもそうある。
    これを救えるのは、最早、「血筋論」では無く、「朝廷内」では、「財政論優先論」に成っていた筈である。
    そこに、「天皇家継承問題」が絡み、そこにこの「醜い政争」が起り、結局はこの「政争の結果」で「肝心の継承者は絶えると云う事」が、「770年の1年弱前」には起っていたのである。
    こうなれば「議論」は、最早、血筋が絶えているとか、庶民化と成っているとか、女系化しているとか、六男とか、なんだかんだ言っている場合ではない。
    必然により近い血筋で、且つ、「この財政難を解決出来得る矛先」と成ろう事は自明の理である。
    それが「伊勢青木氏に来た事」に成ったのだが、とするとそこで「問題」が発生したのである。
    “それを誰にするかの問題”が問題で、それがこの“「1年弱の間」に又起こったと云う経緯”となろう事が読み込める。
    そこでこの「1年弱」も過ぎ、「2月前近く前」に成ると、最早、「天皇家・称徳天皇の病状」に執っては「問答無用」で「打ち合わせと云う事」に入る必要性が出て来たのだ。
    反対社の多い仲で「白羽の矢」を何とか飛ばしたがそこで焦ったのだ。
    そこで、さて、“其れの「打ち合わせの担当者」}を誰にするかという問題が起こった事”が「読み込み」で判る。
    それがこの「読み込み」に依って、最終的に「吉備真備・記録発見した」に成ったと答えが出た。
    これが、「吉備真備」に付いて調査した「資料末端」に記されている事で判ったのだ。
    何と「光仁天皇期」には、この「打ち合わせの者・称徳天皇の政治補佐役・吉備真備」が「重要役職」に重用されている事が記録に記されているのだ。
    それも挙って「「吉備真備一族の者・学者子孫」も重用されているのだ。
    そして、彼が「反乱者藤原仲麻呂」を討った「指揮官」でもあったのだ
    つまり、「彼の意味する立場」は、「称徳天皇期末期・770年8月8日の前」の「政治の立場」では「最高決定権を持った人物」であった事に成る。
    その「人物」がこの記録では「打ち合わせの責任者と云う事」を意味していたのだ。

    注釈 そこで前段で論じ様に、この事は、「文武天皇期の直前」の「持統天皇」は、「淡海族と施基皇子族系の者等全員」を集めて「全体会議会議・コンセンサス造り」を開いて、「継承者を天武系族」にする様に念を押しているし、この「会議」を仕切った「天智系の長者」も、「強く発言していた天智系の若者」を抑え込んで「淡海族系にする事」を計っている事が記録されているのだ。
    この結果として、「天武系の文武天皇」が生まれて「天武系」が続く結果と成って、遂には必然的な形で「男子継承者のいない聖武天皇」へと繋ぐ結果と成って行ったのだ。
    ところがこの事で、最終的に「孝謙上皇・称徳天皇の期」では、「天武系が淡海族」の「市原王」を除いて結果として「直系族は無く成る事」と成っていたのだ。
    且つ、逆にこの「継承者会議の流れ・葛野王の発言」で「天智系継承者」も結果として無く成る事と成るのだ。
    この「会議」でも、この時から既に「天智系族・伊勢族」は、自ら「天皇継承者の問題」からも自発的に外れようとしている事が判る。
    そしてこれが「次の注釈の史実・記録」としてこの事が物語っている。
    「青木氏の研究室」で“持統天皇で検索”

    注釈
    上記した「継承者会議」の記述は、これは“「漢詩集である懐風藻・751年頃」”によるもので「史書」では無いが、これの記述に依ると、「意味する事」が多く次の様に成っている。
    「持統天皇・645年〜703年・在位690〜697年」が、「697年頃」に“「皇位継承者」である「次の日嗣・ひつぎ」を決めようとした。”とあるが、この時のやり取りを書いたものである。
    それに依れば次の事に付いてである。
    これは興味深い事に「第三者的立場」から書いているのだ。
    さて、この時に、「群臣等」がそれぞれ「自分の意見」を言い立てた。
    この為に「利害が絡む意見の対立」で決着が着かなかった。
    その際に、“「葛野王・大友皇子の子・大友皇子は天智第一皇子・施基皇子の兄甥」”が、次の様に言い立てた。
    “「わが国」では、「天位」は「子や孫の直系尊属」が継いで来た。
    もし、「兄弟」に「皇位」を譲位すると、それが原因で乱がおこる。”と強く主張した。
    これは次の事があって嫌味を言っているのだ。
    そこで、“この点から考えると、「皇位継承予定者は己と定まる」”という主旨の「発言・天智系に」をした。とある。
    ここでこの「反論」の為に、“「弓削皇子・天武第二皇子」が何か発言をしようとした。”
    然し、これを観た「葛野王」が高圧的にこれを叱り付けた。
    この為に、その場では、そのまま口を噤んだ”とされる。
    そこで「葛野王・天智系」と「弓削皇子・天武系」との間で「皇位継承の対立事件」が起こったのだ。
    ところが、再び、この「会議」で、“「弓削皇子」が自らが先の天皇の子である為に「正統な後継者」である”と明確に主張したのだ。
    ところが、逆にそこで「持統天皇」は、不思議に、“この一言が国を決めたと大変喜んだ”、とある。
    「持統天皇」は、「葛野王・大友皇子の子・天智系の主張」に賛成していたのだ。
    これは矛盾するが、これには「意味する裏の意・韻」があって、つまり、これは「天智派が巻き込まれる事」を嫌って、“正統は既に天武天皇系の派であるのでそちらの天武系で決めてくれ”と云った事を意味する”と当に韻を込めたものとして持統天皇は解釈したのだ。
    これは何故かであって、「葛野王・天智系の主張」が自らこの主張を引下げれば「弓削皇子・天武系の主張」だけと成る。
    現実に直ぐにその様にした。
    “一方的に結論を導き出すと「自らの一族の天智系の者ら」が騒ぎだす”と観て先手を打ったのだ。
    この「先手策」を読んで「持統天皇は喜んだ」としたのだ。
    そして、重ねて「弓削皇子・天武系」は、“「皇位継承の立場にあるのはそれは私だ”と強く主張したという事の経緯に成ったのだ。
    つまりこれには「一つの経緯」があって、この様な「論争が起こった事」には、「天武・持統両天皇」が元々、「自分達の後継者」を「草壁皇子」と定め、「皇太子」に立てた。
    にも関わらず、即位目前の689年に皇太子は没してしまったからだとしているのだ。
    この為に、これを受けて「持統天皇」は、次に「草壁皇子の子である皇子・珂瑠・文武天皇」に「皇位」を継承させようとしたのだ。
    そしてその為に、その成長を待つ間は自ら皇位に着いた。としているのだ。
    これには、要するに、「持統天皇」が、昔、「軽皇子・孝徳天皇」を「皇太子」にしようとしていた際にも、「王公諸臣の意見が纏らなかった事件」が起こったという事が、三度も起こって仕舞った事に気にしていたと云う事であり、それが、“この「一言」で解決したとして喜んだ事に成った”としたのだ。
    つまり、この「事件」は、“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”でもあった事を意味するのだ。
    この事の「史実の意味する処」は、この時から「聖武期の皇位継承問題が起る事」を見込んでいた事を意味するし、「天智系は正統系の高位の格式を有する」が、既に「賜姓臣下している庶民・647年」である故に、「意識の切り替え」が充分にまだ出来ていず、この時は未だ「上記の様な継承意識」を少しは持っていた事を意味している。
    矢張り、これはこの余りにも高い「高位の格式・浄大壱位の格式」を意識していた事で、そのズレが起こっていた事だろう事を意味している。
    周りに見られない「殖産権や院屋号や因事菅隷等」を依然として持つ以上は、止むを得ない事かも知れないが、この「段階」で「氏族含む一族全員」が未だ切り替えられていなかった事に成る。
    「会議を招集した事態」に於いてもでも「周囲」も切り替えていなかった事が読みとれる。
    故に、「施基皇子存命中・716年以前」に於いてもこの「意識を持った葛野王・天智系の主張の発言」と成った事を意味しているのだ。
    此の様に全て「韻訓」を「読み込み」、そこから「その意味する処」、又は「物語る処」を読み込む必要があるのだ。
    此の事で隠れた「青木氏の歴史観」が導き出せるのだ。
    「白羽の矢の直前の事の時系列」が継続性を以て導き出せるのだ。
    そうする事で更に読み込みが深められて行える。
    ここでは、直前でも「継承者の流れ」があって、遂には、「白羽の矢」として「伊勢青木氏に来た事」に成った事が判る。
    そしてこの時から「賜姓臣下族・647年」に成った時の「50年後・施基皇子存命 716年没」からも、「葛城王の発言」の様に、既に「臣下族」と成っている限りに於いて「継承は受け付けないとする姿勢」を既に方針として示していた事が此処からも読みとれるのだ。
    此の様に「物事の青木氏の歴史観」が継続的に解って来るのだ。
    つまり、「施基皇子の定めた青木氏の氏是」を、この「葛野王」は会議でもこれを反映していた事が読み込みめる。
    これは「会議」の前に「施基皇子と葛野王は打ち合わせていた事」を意味する。

    そこで、この書からもう更に一つ判る事がある。
    その先ず一つは、この書にはよく読むと次の事が態々書かれている。
    それは、「川島皇子の事」に付いてである。
    「懐風藻の作者」も、“手段を尽くすことなく親友と親族を苦境に陥らせたこれを「川島皇子の態度」に関して疑問を呈している事を書いている事なのだ。
    ”「大津皇子の謀叛事件」で「川島皇子は天皇に密告した事」に成っていて、「漢詩書」でありながらも政治的に「密告した事」そのものの事を直接に批判しているのだ。
    「密告は史実である事」をこの事から読み取れる事だ。
    要するにこの書はつまり先ず「淡海族の者が書いたものでは無い」と云う事だ。
    態々身内の悪口を後世に遺す事は先ずない。
    書くとしても「濁す程度」に成るだろうがはっきりと書いているのだ。他にも下記するが今度は雌核に川島皇子を否定しているのだ。
    次にこの会議に既に「淡海族が参加している事」であるし、そもそも「記録」に残す必要はない。
    「川島皇子」は「施基皇子」と同然に既に賜姓臣下しているのだ。
    其れなのに「会議の諸臣」とする中に、「施基皇子の伊勢族」は参加していないのに、「淡海族の者」が参加しているのだ。

    これには「疑問」がある。
    つまり「川島皇子の子」には、先ず「春日王と三室王と高丘王とする説」もあるが、「春日王」は「施基皇子の第一継嗣」であり違う。
    「市原王」は「天智天皇の曾孫」の「安貴王の子・玄孫」であるとし、「安貴王」は「志貴皇子の孫」で「春日王の子」であるとして、「川島皇子の孫」の「春日王の子」であるとしている。
    これは矛盾しているが、これは「川島皇子の娘」が「施基皇子の子の春日王」に嫁ぎ、その子が「川島皇子の外孫」と成り、それが「市原王」と成ると云う事だ。
    何故この様に成るかと云うと、これは「青木氏の歴史観」によるのだ。
    前段でも論じたが、当時は「施基皇子と川島皇子の血縁関係」は、「天皇家」は元より相互に入り混じって「同族重複血縁関係」にあって「妻子孫曾孫」が判別付かない状況の究極の純血血縁に成っていたのだ。
    当時としては「純血を護ると云う慣習」から普通の事であった。
    例えば「天智の娘」が「兄弟の天武の妻」になる等、妹が姉の夫と血縁するなど、更にその両者の子が血縁するなどの事とが、当たり前として究極の純血を護るシステムを敷いていたのだ。
    其の事で何らかの直接血縁で結束を図っていたのだ。
    要は、この「当時の高位の血縁の歴史観」の不足で「施基皇子の子の春日王」を「川島の皇子の子」とする誤解を生んでいるのだ。
    まぁ間違いではないが「系譜」としては「春日王は伊勢の施基皇子の子」であった。
    そうすると、「川島皇子の子」の「三室王と高丘王」の二人と、「川島皇子の曾孫」の「安貴王」は、どういう関係に有ったのかという「疑問」が起こり、これを解決する事で継承権の持っていたとする「川島皇子の後裔の状態」が判る。
    何故ならば、これでこの「臣下族と二つの真人族」が観えて来る。
    「三室王の子」として「長柄王と久勢王・川島皇子の孫」として、「高丘王」の子としては「吉並王・川島皇子の孫」があるが、何れにも「孫」としては「安貴王・川島皇子の孫」の記述はないと云う事、つまり、これは、上記した様に「当時の伊勢と近江の血縁関係」から観て、これは当時の“「后妃嬪妾の四制度」”から来ていて、「三室王と高丘王」の系は、「嬪妾のルーツの後裔」と成り、「淡海族」として扱われていた所以は、この「安貴王と市原王」は「后妃の系のルーツの後裔」となる。
    つまり「宗家」は、この「后妃の系のルーツ」で繋いで行く事に成るのが「高位の氏族の歴史観」である。
    故に、「賜姓臣下した神職系」の「川島皇子の淡海族の沙沙木神社のルーツ系」も生まれた所以であるのだ。
    「川島皇子の後裔」は、此の様に「賜姓臣下族」と“「后妃嬪妾の制度」”による「朝臣族の二つのルーツ」が生まれていたと云う事にここでは成っているのだ。
    とすると、「始祖の川島皇子の氏族の方針」に従わず「三室王・位階は従四位下」と「高丘王・従四位下・左大舎人頭」の「官位」を持つ限りに於いて、“どちらも臣下しなかった事”が云える事に成る。
    「川島皇子の賜姓」は、結局、「近江」の「沙沙木神社の地」に定住した「神職系の沙沙木氏族」であって「朝臣族と成った後裔系の事」にある。
    「佐々木氏」には、「宇多天皇系の佐々木氏」もあるので注意。
    これに依れば、子は「従四位下の官位・公家」を得ている以上は、「三室王も高丘王」も賜姓臣下しなかった事に成る。
    「川島皇子の賜姓臣下」では、要するに「臣下した」のは、結局は「父系の沙沙木神社の神職系の子孫」が「神職系子孫の神社名の佐々木氏」を名乗り、子孫を大きく伸ばし事を歴史的史実として新たに意味するのだ。
    そうすると、「本命の市原王」は、上記した様に「川島皇子の曾孫」で、「従五位上・安貴王の子」で「官位は正五位下・造東大寺長官」とした場合は、「神職系の沙沙木・佐々木氏」では無い事に成る。
    この様に「漢詩集である懐風藻・751年頃」では、「歴史の史実」は「読み込み」によって変わる事に成り、最終は「市原王の後」は前段でも論じた様に絶えた事に成るのだ。
    ここでは、「青木氏に関わる歴史観」としては大きく開けた事に成る。

    此れだけの「青木氏の事」を「詠み込めている」のは、「漢詩集である懐風藻・751年頃」に付いては、その編者が「絶えた市原王系」では無理と云う事に成り、従ってこれは明らかに「伊勢青木氏の祐筆・神明社か菩提寺の祐筆」かが別の形で書き残したものである事が読み込める。
    この「内容の史実の把握」から観て、当時に生きた「伊勢の青木氏」と「近親族の親族であった川島皇子」の「淡海族の者」が描いたとする説では、「編者」は、「大友皇子の曾孫」にあたる「淡海三船と考える説」が有力であるとしたが、又、他にも「石上宅嗣、藤原刷雄、等」ではないかとする羅列説もあるが、これは「当時の漢詩学者」を前提としていて,特別に何らかの根拠があっての説としているものではなく、上記の根拠非弱で史実から確定されないのだ。
    つまり、「経緯」どころか「情況証拠」もないと云う事である。
    然し、「書かれている内容」は、「施基皇子の大友皇子の子の葛城王の事」であるとするとして、此れはそもそも「施基皇子の存命中・716年没」であるとすると、「淡海者等」は「伊勢を無視して書いたと云う行為の事」に成り、これはそもそもこれは無理であろう。
    そもそも「淡海者等としているその前提」は、「漢詩学者である」としているだけのものであって、同然に「施基皇子」も全ゆる記録にもある様に,「天下一の漢詩学者」として目されており、当時、「もっとも有名な詩歌人」でもあったとすると、「自分の家の事」を「淡海の者族」が描くとするのはそもそもおかしいであろうし、又、「伊勢」には「淡海族より多くの漢詩学者」も「祐筆」もいた「大きな氏族の事」でもあった事を歴史観として無視している。
    そもそも「当時の奈良期初期に生きた高位の者」は、全て「漢詩学」にも通じて居なければならない環境に置かれていたとする「重要な歴史観」に基本的にそもそも欠けているのだ。
    寧ろ、「伊勢の者・50郷士衆」は、「氏族全員が漢詩学者」と云っても良い程の「高学識の氏族」であったのだ。
    それがこの「氏族背景」に「求められる教養の前提の賜姓臣下族」であったのだから、「漢詩学者」としてだけで「淡海三船ら」と決めつけるのはこの「歴史観」を無視しておかしい。
    寧ろ、「淡海族等」と違って何と云っても「伊勢の施基皇子族」はそもそも「多くの祐筆」を「神明社と菩提寺の神職と住職」に抱える「漢学の学者の集団」であったのだから。
    それ故に「自分の家の事」を「淡海族等に書かせる事」はそもそもあり得ない。
    これは間違いなく「青木氏の祐筆」が描いたものであろう事が判る。
    そもそも何処にも「淡海族等」とも書いていないのだから、それを自らも認めているのだ。
    以上の事も読み込めるのだ。
    だから、この「会議内容」は信用できる前提にあるのだ。
    これを前提にしての「読み込みの意味する処」は次の経緯に繋げられる事に成る。

    注釈
    上記の「淡海 三船」とは、「奈良時代の後期 722年〜785年」の皇族・貴族・文人であるとし、「御船王」より「臣籍降下」し、「淡海朝臣姓」となる。
    「大友皇子の曽孫」で「本会議の葛野王」の「子の池辺王の子」。
    官位は従四位下・刑部卿。勲位は勲三等に成るも天平年間に出家し「元開」とす。
    「孝謙期 751年30人の諸王」は内蔵の財政難から「真人族」から賜姓降下して「朝臣族」に成る。
    この際、勅命により「御船王・?・臣籍降下している」に再び戻った。
    そして再び、「淡海真人の氏姓賜姓」で臣籍降下し、「淡海三船・出家している?」と改めたとある。
    「式部少丞」を歴任するも、「756年」に「朝廷」を誹謗し禁固刑を受けるが放免されている。
    この者が「697年・約60年前の事」に付いて触れると云う事はおかしい。
    況して、既に僧と成っているのに「下俗の事」に触れるのはおかしい。
    更に云えば、罪人であるのにこの書に触れる事は禁手でありおかしい。
    既に、「大友皇子の曽孫」で「池辺王の子・玄孫」の「位置づけ」は賜姓臣下している以上は「始祖川島皇子の淡海族」と成り得る。
    何故ならば、前段でも論じたが、「大友皇子」を含め「天智系」は「反乱者の天武天皇・帝紀論」に最終的に凌駕され「天智系子孫」は直前に賜姓臣下していた事で逃れられ、「第七位皇子の施基皇子の伊勢族」と「第六位皇子川島皇子の淡海族」の「二系」に最終的に集約され子孫存続は引き継がれたからだ。
    この「反乱者の天武天皇」に潰された「皇太子の大友皇子」と「川島皇子の淡海族」と「施基皇子の伊勢族」は兄弟である以上は、「上記の葛野王に触れる事」のそもそも発想はない。
    従って、「敏達天皇の春日王系四門族」のこの「葛野王系後裔の子孫」は「伊勢族」に引き継がれて行く事に成ったのだ。
    つまり、故にこの頃からこれは「伊勢族の問題」と成っていたのだ。
    「葛野王」は既にこの段階でその「伊勢系の姿勢を示していた事を意味する」のだ。
    つまり、「存命中の施基皇子の意思・716年没」を尊重し、それを反映させようとした事に成る。
    だとすれば、上記の「注釈の奈良期初期からの流れ」に逆らった「称徳天皇の天皇家」にしてみれば、「正統な継承者」が無くして仕舞っている以上は、最早、「女系化している伊勢のみ」であっても誰でも良かった事になろう。
    もっと云えば、この様な「淡海神職系の臣下族後裔」と「衰退した二つの朝臣族」しか無く成っている「淡海族」である以上は、「目途とする朝廷の財政難」と「伊勢の財力の事」と「内蔵大蔵の事」は、別にして、この段階では百々の詰まりは、「系譜上」では「臣下した伊勢しか無かった事」に成る。
    云い換えればこの事からすれば、「天皇家系」としての「継承者の選択肢」は最早全く無く成っていた事に成る。
    何故ならば、既に「市原王の事件」に示す様に、もう「二つの系の淡海族系に分離した朝臣族」と「臣下した神職系しか無く、記録にある様に何れも「土地の収入」では耐えきれず早くも衰退し始めていたのだ。
    前段で論じた様に、この事は「琵琶湖東岸の干拓灌漑・真砂土壌の改善」の「因事菅隷の工事の支援」でも判る事だ。
    何故ならば、そもそも“因事菅隷を別の氏族の支援に対して命じて出すと云う事”は、つまりは、最早、その「氏族」に「天皇家と成る力」が既に備わっていないとして、出している事に成るのだからその前提の上にある。
    そして、“因事菅隷を別の氏族、つまり、「伊勢青木氏」に支援を命じて出した時期をこれらの事から割り出すとそれは、“「20年の工事期間が掛かった」”と記されている事から割り出すと、少なくとも上記の「葛野王の発言の後」と成り、その「700年頃」か、又は「770年前の743年の前後」か、遅くても「白羽の矢」で強引にこの「因事菅隷」を「伊勢」に押し付け突き付けて来た時期の「少し前の因事菅隷の指示」までの事と成り得る。
    恐らくは、この“「中間期の720年前後の頃」”と成るのではないか。
    そうすると、「継承者の会議の経緯」から紛糾するも「淡海族」と決まった以上は、「持統天皇」は次の採るべき策は、先ずこの“「継承者」”を安定させる為に、且つ、これを「正当系化して安定させる為」にも、「兄弟の施基皇子・632〜716年の伊勢」を頼る以外には、それの「財を持ち成し得る族」は無い事に成り、「後継者の決定」は飽く迄も「衆議」とはいえ「砂上の楼閣」と既に成り得ていた筈なのだ。

    そこで、これ等の“時系列”から検証すると、次の様に成る。
    「持統天皇・703年没前」の「会議直前の在位中の697年頃」に、この「目的の因事菅隷」を向けられる者は、「施基皇子」だけと成り、「伊勢」に向けて発したと云う経緯だけと成り得る。
    但し、「問題」はこの「持統天皇の命の因事菅隷に基く工事の開始の命令」は、これより「少し後の事・下記」と考えられる。
    少なくとも「当事者同士の生前中」が最も好ましく、そうすると「施基皇子の没年716年」より少し前で無くてはこの「因事菅隷」は出し難い筈だ。
    この大工事には、史実の通り「不二の友の額田部氏」にも「工事」を頼ま無くてはならないし、その「見積もり」や「測量や工事の準備等」の「諸々の手続き」が必要と成り、「淡海族との同族血縁などの良好な関係を維持しているぎりぎりの経緯の中」で以てしてでなくては、少なくとも行われなかった筈なのだ。
    そこで、「川島皇子・657年〜691年」の「孫になる安貴王・694年」が遺されているので、「確実な歴史観の20年の工事期間・記録」を経て終了した事の経緯が検証される。
    そしてこの「20年間の工事終了」が、「少なくとも関係悪化の直前・施基皇子没716年」のつまりその“「直前715年頃」”で無くてはならない事に成る。
    故に「施基皇子」が生存していたから、こそ「淡海族」とは関係が保てていた事に成るとすると、従って、この「問題」の“「工事の開始」”は、会議の直後の“「700年弱頃・699年頃か」”であって、“「工事の最終の終了」”は「20年間」を経ているので、“「720弱年頃」”とすると全ての上記の経緯は間尺が一致する。
    そうすると、ここで「判る事」は、「淡海三船の偏纂説」でみると、「三船785年没年の前」と観ると、既に「淡海族」は既に衰退している途上期の時の事である。
    これが「青木氏の歴史観」から検証結果であり、つまり、「伊勢青木氏の祐筆が記述したもの」と観られる。
    とすると、この「ネット説」の「三船偏纂説」は「時系列からの検証」では「設定の証」は無理ではないか。
    但し、流石に「確証の自信無さ」か、“注釈するとして確定は出来ない”との「添え書き」を加えている。

    次にそこで、上記の「これ等の検証の事」のそれを知り得て、「吉備真備」はこの「葛野王の発言を以て事前打ち合わせ」と成り得たと考えられる。
    そうすると、この事を「吉備真備」が「学者で家庭教師」であった以上は、未だ「70年程度」しか経たないこの「歴史」に付いて知り得ていた事と成り、この事から「吉備真備」には、「伊勢との打ち合わせ」に於いて、最早、「選ぶ有利な条件が無かった事」が云えるのだ。
    「継承者」を醜い数々の政争の中で無くしてしまって、「財を獲得する目途も無く始めた大仏殿建立」から来る果てしない「財政難」に窮していた「朝廷と天皇家」が浮かび上がる事と成り、上記の事も含めて“「伊勢の言い分」に従う以外に無い”と観ていた筈である。
    そもそも130年も前に賜姓臣下していたとは云え、「伊勢の取扱い」に「浄大一位の格式にあった面倒な大氏族」であった以上はこの事は間違いない事だと考えられる。

    そして上記の「経緯の情報」を知り得ていた上で、これを元にした「吉備真備と伊勢との話し合い」と云う事が行われた事に成った事が判る。
    この「漢詩集である懐風藻・751年頃」により、ここまで「読み込みに依る史実」が蘇ってそれに依って「青木氏の歴史観」はより深く鮮明に判って来るのだ。
    この「漢詩集である懐風藻・751年頃」から更に判った事が下記に蘇ったのである。

    注釈
    「始祖の敏達天皇」には「押坂彦人大兄皇子」と「春日皇子」と「大派皇子」と「難波皇子」の「四人の継承者」があり、この「四系」を以て歴史的に“「四門族」”と云われた。
    そしてこの“「四門族」”から「天皇」は引き継がれ、そこから「四代目迄一門」を以て“「継承権」を引き継ぐ権利”を有すると「天皇家の禁令」で決めていたのだ。
    従って、これに従い「天智天皇」は、この「春日皇子」の丁度、“「四代目の後裔」”と成り、正式に「継承権を持って引き継がれた事」に成る。
    故に「押坂彦人大兄皇子」の子の“「芽淳王の子」”の「皇極天皇と斉明天皇」にも引き継がれたのだ。
    これの禁令からすると、「謀叛者」と扱われた「大海皇子・天武天皇」には、本来は、「定められたばかりの帝紀」に基けば、この「継承権」はそもそも無く、「大友皇子に継承権」は正式に繋がるが、「天智天皇の弟」の「大海皇子」には元々無く、それが、「継承権無くして反乱」を起こして「天皇の継承権」を奪い、それが大海皇子の皇子たちに引き継がれたものと成るのだ。
    要するに、この事を“「帝紀・下記、及び天智天皇が定めた大化規定」”に基づき「持統天皇の継承権会議」では、「春日皇子系で天智系の葛野王」が、この前例に従わなかった事を正論としてで発言しながらも天武系を暗に批判したのだ。

    注釈 そもそもこの前提と成ったこの「帝紀」は、「皇室に存在する伝統習慣掟」を「一つの形式」に纏め、「歴代天皇や皇室の系譜」や「決定事項のルールの取扱い」、特に「古事記や日本書紀」の「内容の決まり事」に付いてまでも纏めて書いたものだ。
    最も古い「歴史書の一つ」である。
    概要したのは、681年に「川島皇子と忍壁皇子」が勅命により編纂したとされるものであると云われ、「皇室の系譜の伝承」を記したもので、その後に「朝廷の基本史料」として扱われる様に成ったのだ。
    この「大化規定」とは、これを「天智天皇」が補足し新たに追加したものであって「帝紀」と同然に扱われた。
    一般に、この“「帝紀」”は「二つの皇統譜・基準要領・下記」であるとして扱われた。
    故にこれに記した事が「基準」にして「朝廷」では決められていたのだ。
    「大化の規定」は、例えば「王位」は4世族までとし5世族は王としない。
    第7世族以降は位を外し「坂東警備」に配置し、これを「8族」に形成して「坂東八平氏・ひら族」のこの中に入るとした。
    「皇子皇女」は第4位までを「真人族」とし、「第6位または第7位以降」は「朝臣族」と成って「賜姓臣下」する。
    その格式に応じて、「特別の賜姓」は「特別の諡号の姓」を与え「賜姓」し、その他の「賜姓」には「地名」を採って賜姓する等と定めた。
    故に、「上位の高位の賜姓」には、「神木等の神系に用いられるもの」を以て「諡号姓」として与えた青木氏が第一号と成ったのだ。
    「青木氏の賜姓」は、この「神木の青木の木」を以て「最高位の名目」で「第七位の浄大一位の施基皇子」に与えたのだ。
    ところが「第六位川島皇子」の臣下に対して三段下の「浄大三位であった事」から「皇祖神の子神の神明社」の守護神に比して、神社格の下位の「沙沙木神社」を「氏族の守護神」とする処から「一段下の地名の賜姓」と成ったのだ。
    これには「川島皇子の後裔」の「内の2系」は「真人族」として残り臣下しなかった事から「1系」の「神職系のみ」が臣下して「朝臣族」と成った所以である。
    この事から「一段下の地名の賜姓を与えられた事」が、何故に「一段下の地名の賜姓」と成っていたのかは不明であったが、上記の検証で新たにその原因も判った事に成る。
    これには他に「征夷代将軍や鎮西大将軍の条件等」や外にも多く細かく定められている。
    「帝紀」と共にこの「大化の規定」も後に「天智天皇崩御後」も「帝紀」に含まれるものと成ったのだ。
    こレらの関係する「青木氏に関わる歴史観」だけでも是非に知って置く必要がある。
    又、これに関連して下記の「注釈の歴史観」も持って置くと間違いは起さない。

    注釈
    他にこの「帝紀」に並んで別格で「皇統譜」とは、天皇と皇族の身分に関する事項を記載した簿である。
    形式等は、「皇室皇典」と「皇統譜令」の二つに定められている。
    「天皇・皇后に関する事項を扱う大統譜」と「その他の皇族に関する事項を扱う皇族譜」の「2種類」がある。
    これは「皇室の身分関係と家族関係と皇統」を公証するものでその規範とする。

    そこで是非に解かなければならない「次の疑問」がある
    そもそも、だとすると、「施基皇子の死後・716年・84歳」の「伊勢青木氏を仕切っていた「福家で四家の長男・春日」が、そもそも「曼陀羅や過去帳」から、例外なく「80歳以上の長寿系の伊勢・現在まで例外は無い」の中であるのに、この時期に唯一、一人が極めて“「早死」している事”が気に成るのだ。
    ところが、この「注釈の導かれていた流れ」の中には、偶然か必然かは判らないが、現象として「天武系の淡海族の流れ」に逆らう様に、忽然とこの“「話・話し合い」”が「天智系の伊勢青木氏の福家のに春日」に持ち込まれて来ていたのだ。
    そこでこの「話し合い・するかどうかについて」が、何とか「話し合い」をするとまでに辿り着いた後に、この「話し合いの流れの経緯」がありながらも、「10年」も経っても最終的に「詳細」に付いて「決着が着かなかった事」が経緯として起っていたのだ。
    然し、「伊勢側」が敢えてこれに付いて「何故か決着を着けなかった事」が「状況証拠」から割り出せるのだ。
    これは、“「朝廷内部の政治的な乱具合」からいつか瓦解する”と観て「時間の引き延ばし策」に出たと観られるのだ、
    この事から、何故に、“「春日だけが早死している事に成ったのか”に付いての「伊勢の大疑問」が湧く。
    これは是非にも解決しておきたい「青木氏の歴史観」である。
    つまりは、確証は取れないが、何故か不思議にこの「死の疑問」と「話し合いの時」が一致している事なのだ。
    筆者はこれに付いて考えるに、恐らくは、これは「福家の春日」が、「白羽の矢」に付いての「朝廷内の“政争の具に持ち込まれた事での早死」”ではないのだろうかと観ているのだ。
    どういう事かと云うと、これには上記した「状況証拠」だけで「確証」はないが、これは“「長男福家の春日の反対・福家と四家全体」で「朝廷との話し合い」が長引いていた”のを、“「朝廷内のある理由」”があって、是非にも早期に絶対に解決しなければならなく成っていて、その為に“政争の具に持ち込まれた死・仕掛けられた死」”であった可能性があると観ている。
    これにより「無理やりに決着」を着けようと、“朝廷から「仕掛けられた死」”ではないだろうかと観たのだ。
    もっと云えば、「伊勢の証としての記録」には、「時系列の経緯・状況証拠」が遺こされている限りは、つまり、「祐筆の書」に、この事に“「後裔に疑問」を興させて匂わせる事をこの「書の文章」で計ったのではないか”と云う事だ。
    つまり、この「祐筆」は、後々の事に付いて忖度して、この「春日の死」と「この話し合い」とを符号一致させる事では、“「後々の出自の天皇家」を直接に批判する事に成り得ると判断し、忖度した”為に、故に上記した様に「当時の青木氏に良く用いられていた伝統」の、“「表現に特別に強く韻を込めた工夫をした」のではないか”と観ているのだ。
    要するに後は、“これを「後裔の判断」に任す”としたのだろう。
    当然に「四家のチェック」が入っていたと考えられる。
    その「理由」に依れば、先ず第一にその他の「証拠との違う処」は、“「伊勢の内部の事」がここまで書くかと云う程に「余りにも詳細」に記されている事”なのだ。
    他の遺された祐筆の書とは違いがあり過ぎる。
    下記に示す様に、“「井上内親王の周辺の事」”も「其の死の間際までの詳細な有様・子供と共に平衡に並んで死んでいた事等の表現」が、“ここまで詳細に書き記す事は普通の感覚では先ず無いだろう”と思う程に詳しく描かれている事なのだ。
    それは、例えば、“「青木氏の名張の清蓮寺城の一部屋に押しやられて、二人の子供と並んで自殺している事」まで“詳しく描いている事”なのだ。
    そもそも普通なら、死なら死、自殺なら自殺として単に書けば済む事では無いか。
    これは普通では、“「記録」”としては、ここまでは描かないだろうし、最早、「史実」を此れでは“小説”に仕立てている様なのである。
    つまり、この「古来の書物等」が、良く使う“当時者を刺激しない様に憚った、よくやる“韻に韻を込めた記録”であり、それが“「小説型の様」に成っている”事なのだろうが、それだけに「後裔」に、「この事の真相」を、”「唯の事件」として故意に敢えて伝えたかったもの”の発露では無かっただろうか。
    況してや、この“「事件」”として、上記した様に不思議に、“例外なく子や孫や曾孫まで伊勢中を逃げ惑った事”があからさまに描かれている。
    これは、”「天皇の跡目の問題」”だけとするのにはし少し騒ぎすぎて変だ。
    これだけの「逃げ惑うとする事があったとする事」は、普通では先ず幾ら「白羽の事件」と云えど無いであろう。
    然し、結果として、「時」を一致してその中の一つに「福家の春日の不審死」があったのではないか。
    これは、つまりの処は、“暗に「天皇の跡目の問題」だけでは無かった事を暗示している事に成る。”
    その事を「伊勢の祐筆」が当に韻に韻を踏んで物語っているものだ。
    例外なく子や孫や曾孫まで伊勢中を逃げ惑った事”が描かれている以上は、彼等にも何らかの災いや恐怖が与えられていた事に成ろう。
    「春日の死」と共に、「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷、又は摂関家の藤原氏からの圧力・恐怖」がかかっていたのではないかと云う事だ。
    そして遂に「この死の前後の事」は、不確認だが、この「春日の死」と成って現れたのだろう。
    それは、上記で論じた様に、「朝廷内で継承権問題」で「際限のない殺戮を繰り返していた事」からも考えれば、この事は、「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷・摂関家藤原氏」からの「圧力・恐怖」があって、況してや「孝謙上皇・称徳天皇の精神的な乱」に依っての「乱政」の「やり口」から考えれば、充分にそれがあり得たと観ているのだ。
    それを事前察知して一族挙って逃げ惑ったのではないか。
    この時、上記や前段でも論じた様に、既に「伊勢青木氏」には「姉の井上内親王」が入っていて、「伊勢」を内部で仕切っていた「難波との争い」もあってして、「内部を掻き乱していた事」も「一つの逃げ惑う恐怖の表れ」として観ていたのだろう。
    要するに、「商い」では「福家の春日」、「政所」では「難波」“と争っていたのだ。
    この、「母は県犬養広刀自の娘で藤原氏ではない」で、「姉・井上内親王」有りてこの「妹・称徳天皇」あり”であろうと「伊勢一族の者」は受け取っていたのだ。
    つまり、“直ぐにでも何時か自分達にも降りかかって来る”と観ていたのだ。
    此の様に「現実に降りかかってきた状況」を観て逃げ惑う事に成ったと観られる。
    要するに「天皇家の死を呼ぶ乱」は、何時か自分たちにも降りかかる事もあるとして、警戒していた事に成ろう。
    恐らくでは有るが、「男子の天皇の跡目」だけではなく、「追尊王女にも引き込まれる事」や「斎王にされる事」や「十二の女官にされる事」等の方法で、「格式高い子孫存続」の為にも先ず「天皇家族内の嬪妾」にして「天智系の内孫子」にされて、「継承者を作り出す策の懸念もある事等」が過去にもあって、それを察知しての“逃げ惑った”と考えられるのだ。
    元々、この策の一つとして「追尊の肩書で縛られたりする事」を嫌って、“「青木氏の女(むすめ)の幸せ」を採られたくない”としたのだろう。
    これも少なくとも間違いは無いだろう。
    「福家の春日」は、その役目柄として「始祖の施基皇子」が遺したまだ間がない「青木氏の氏是」を護り、それを頑として前面に出て護ったと観られ、その為に先ず「朝廷の刺客」に暗殺されたと観る事が出来るのだ。
    然し、「福家の春日」を失ったそれ以後も「伊勢」は頑として動かなかったのだ。
    「朝廷の藤原氏や天皇家」は、これまでの史実に物語る様に、この時には、「極度の財政難」であった事から何時かは「朝廷の大蔵と内蔵の財」に耐えられなく成るとして「伊勢側」では先ず“折れて来る“と観ていたとなろう。
    それが「1年弱の前の事件」であったし、結局は、朝廷は遂には耐えきれずに「伊勢青木氏絶対有利の条件」の中で、結果として「疑問の1年弱に打ち合わせ」に入ったのだろう
    当に「四家の福家の春日」は、「唯一の伊勢青木氏側」の「白羽の矢の犠牲者」と成ったと云えるだろう。
    然し、この「伊勢青木氏族にとって最も忌まわしい事件」は、兎に角も伏せられたが、ところが「兄が殺された恨み」は「白壁の心」に遺されていたのだし、「四家からこの後始末を暗に課されていた」と観られるのだ。

    さて、もし、ここで「継承選択の目的」が「伊勢の財」とするならば、「青木氏の女(むすめ)」を「淡海族の近江佐々木氏の男子」に嫁がせて、そこで「その子に天皇家を継承させるなどの策」があった筈で、それに依らずとも“「天武系直系の近江佐々木氏の六人以上も多くいる男子を天皇にする事」をも企てる事”の「案・策」も充分にあった筈である。
    その事で「福家の春日」は、“白羽の矢の行き先を躱す策”に出ていた事も考えられる。
    これが「伊勢の市原王に能登女の入嫁の事件」も「その一つでの策であったと観ているのだ。
    然し、この件も“「市原王の自殺事件」”として消え去ったのだ。
    果たして、「自殺」で有ったかはこれも「疑問」であり、本来は「近江」に遺るのが普通で、其れなのにまだ「後家制度が無い時期」のこの時期に「伊勢に帰った事」と「後の能登女の無功績」による「疑問の破格の昇進」に付いても疑問視されるのだ。
    「伊勢のこの事件の犠牲者」とすれば、「春日で白壁で能登女であった事」に成る。
    然し、兎も角も其の様に「白羽の矢の経緯」はうまく動かなかったのだし、「流れ」は結果として遂に「伊勢」に向いて仕舞ったのだ。
    そもそも「青木氏の氏是」からしてもこれは反している。
    それは、この「770年の即位後」の後の「井上内親王の庶民化」と「同幽閉死事件」も「対抗策の一つ」としてやり返した事であったと観ていて、「残る朝廷の者・摂関家と犬養氏」に対しては、“これでもかと見せ占めて応じた”のだと観る。
    それでなくては「外戚系の犬養氏と藤原氏」から仕掛けられる可能性はあったのだし、これに楔を打たなくては伊勢としてならない事に成っていた筈だ。
    そもそも、幾ら「后や他戸親王等」がPTSDであったとしても、それも「朝廷内」に幽閉すればいい事の筈であり、それの方が世間に対して必要以上に噂が漏れない様にする「唯一の得策」でもあった筈であるが、其の様にせずに「世間に晒す」か如くに「態々に庶民化」にして、且つ、更に最も嫌っていた「嫁ぎ先の伊勢」に帰して、且つ、それも松阪では無く「田舎の名張」に幽閉する程の厳しすぎると思える処置を採っているのだ。
    これも「春日の暗殺に対する弟としての報復策」であったと筆者は観ているのだ。
    これは「光仁天皇」として「天皇家と朝廷」に入る以上は、未だ遺る息のかかった「藤原氏や公家や官僚たち」に対して、「施基皇子の遺した50年程経った青木氏の氏是」として、「天皇家」に憚り阿る事無く護り毅然として応じたと観るのだ。
    それには先ずは「実家の伊勢青木氏と切る事」であって、「逃げ惑う等の事」や「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷からの圧力・恐怖」や「実家への不慮の事故」が防げる筈と「光仁天皇・白壁と青木氏族」は観たのだ。
    そうでなくては「青木氏の氏是を護らなかった事」に成り、「伊勢氏族の中では死に値する大罪」であった。
    「始祖の施基皇子716年没」から「50年程度」しか経っていないのだから、「伊勢50郷士衆の周囲の者」も許さず「伊勢の者全て」にこの流れの一連の事は知れ渡っていた筈である。

    注釈 この直前に於いて前段でも論じたが、未だ「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」には、「完全な縁者関係以上の相互重婚主義の血縁関係」にあったのだ。
    「伊勢青木氏の娘」が、「近江佐々木氏」に嫁げば、同時に「佐々木氏の娘」が「伊勢」に嫁ぐと云う「相互血縁同族関係」を結び、「男子」に於いても良好な関係の同然の関係で事実、維持されていたのだ。
    「四掟四門四家の制度を持ち込む前」では、「天智天皇第六皇子の川島皇子・母は忍海小竜の娘で色夫古娘」と「天智天皇第七位の施基皇子・母は越道君伊羅都売」の「兄弟家の相互重複血縁関係」で既にあったのだ。
    それが前段でも論じた様に、突然にこの“「市原王の事件」”で「婚姻関係を結ぶ事」が崩れて「相互重複血縁関係」で成り立つ「皇位族の関係」を突然に「淡海族側」から断ったのだ。
    これは、ここで「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」と「孝謙天皇」の「天皇家との間」で何かが起こった証拠でもある。
    それは次の注釈の事で判る。

    注釈 この「市原王」に関しては、前段で論じた人物で大きく青木氏に関わった者だ。
    ところがその注目する処は、その「市原王の生誕・青木氏の検証では64歳」に付いてである。
    それは一説では、「生誕719年頃から723年頃」と成っていて、「没年」は何故か不詳と成っている。
    その直前の「716年」に「伊勢の施基皇子」が「84歳」で没している。
    この年を境に「淡海族の近江王佐々木氏」と「春日族の伊勢王青木氏」との関係の「相互重複血縁関係」は突然に崩れたのだ。
    その「淡海族・市原王の最高格式」は「二品」にあり、 「両者の相互重婚主義の血縁」に於いて「施基皇子と川島皇子の曾孫」に当たる「安貴王の子」に当たるとし、つまり玄孫の事か。
    最終は「市原王」は「正五位下」で、“父より高い位を獲得している事”なのだ。
    これには「ある意味」があって、この位に付帯する立場として考えれば、「皇位継承者の筆頭」と成り、これには「思惑行為」としてそれに仕立てようとしていた事が判る。
    当時の「伝統的な決まり・三代継承性の規定」であって普通は何かが無くてはこれは起こらいのだ。
    そして、更に、何と最高格の「造東大寺長官/聖武天皇の思惑・光明皇后疫病平癒の願い」にまで任じられているのだ。
    つまり、「充分な肝いりの思惑があった事」がこれでも判る。

    これ等の関わる記録から「白羽の矢の事件」の問題の「市原王の経緯」は次の様に成っている。
    739年に「写経司舎人」を務める。
    743年に無位から一挙に従五位下に昇格する。
    聖武朝では、「写一切経所長官」に任じられている。
    続いて「玄蕃頭、及び備中守」に任ぜられている。
    746年には以降は「東大寺盧舎那仏像の造営」の「金光明寺造仏長官」と「造東大寺司知事」を歴任する。
    最終は「大仏造営の監督者」を務めた。
    聖武朝の末の749年に、「聖武天皇の東大寺行幸」に際し「従五位上」に叙せられる。
    「750年の孝謙天皇」には、大納言・藤原仲麻呂の派遣で「市原王」は「正五位下」に昇叙される。
    然し、ところがここからこの「昇進続きの市原王」に異変・750年が起こる。
    「下僚官」であった「佐伯今毛人」が突然に4階の従五位下→正五位上に昇進を果たした。
    そして、「高市大国」は2階の従五位下→正五位下に昇叙された。
    これに比して、この上官格の「市原王昇進」は1階に留るのだ。
    更に酷い事に、「一番の貢献者の市原王」は、「2年後の752年」の「東大寺大仏開眼供養会の出席者」に呼ばれなかったのだ。
    そして「760年の光明皇后の崩御」で格下の「山作司」を務めた。
    763年に「摂津太夫」に成る。
    763年に「謀叛の佐伯今毛人の後任」として、「造東大寺長官」に再任されている。
    764年の8ケ月後に「造東大寺司長官」を解任され、担当は天皇の家庭教師の「吉備真備」に成っている。
    769年に再び「造東大寺司長官」に返り咲く。
    769年後のその経緯は判らなくなっている。

    この「時系列」で「目に見えて判る事・物語る事」は、「750年の孝謙上皇」は伊勢に「大納言・藤原仲麻呂の派遣をした。
    この事は「伊勢青木氏の後裔」に何かが起こった事を物語っている事に成る。
    それは「天皇家の内部」では、「後継者」に付いて「二派」に割れて「方針転換」が起こっていた事だ。
    この“「方針転換」”とは、「天皇継承者の白羽の矢の飛ぶ先の変更」と云う事であって、「天武系の直近氏の近江「佐々木氏の市原王」から「伊勢青木氏に向けられ直した瞬間」である。
    769年にこの「市原王」に何かが起こった事を意味する。
    ところがここでも更に「異変」が起こるのだ。
    それは密月で仲の良かった二人の間に、突然に「孝謙天皇と大納言・藤原仲麻呂との政権争い」が起こったのだ。
    当初は、“「市原王の排除」”では意見が一致していたのが、「孝謙上皇」は「伊勢」に、「市原王」を推していた「仲麻呂」は、“自らが政権を握り傀儡政権を造る”と云う思惑で動いていたと云う事だが、上記した「帝紀」に従えば「天皇の位」はこの段階で帝紀に従えば、「時期継承」は敏達天皇春日王系の四門後裔の「市原王」では無くてはならないが、突然に自らが傀儡として政権を握ろうとして、それを知りながらも“「市原王」を推すのを突然に止めた”のだ。
    当初は「上記の経緯」でその為の昇進をしていたのだ。
    この結果は次の様に動いたのだ。
    そして、一時期、「天皇の座」は、“「持統天皇の後継者会議の事」”から外れて、先ず「外孫王・淳仁天皇」に据えそこから、遂には、“自らがその座に着く”と云う経緯を造り、その考えの「仲麻呂」に奪われたのだ。
    ところがこれを観ていた「仲良し」であった「孝徳天皇の孝謙上皇」は、これを見抜いていたその「家庭教師」であった「吉備真備の意見」を取り入れて、「仲麻呂」を政権から外し、「傀儡の外孫王の淳和天皇」をも廃帝し、自ら「天皇」に先ず再び返り咲き「称徳天皇」として「実権」を握り直して、「先の実権を握っていた藤原仲麻呂」を潰し、そしてその「傀儡天皇」であった「藤原氏の外孫王の淳仁天皇」を廃帝し淡路に流して自ら再び“「称徳天皇」”と成ったのだ。

    ここまでは前段で論じた「白羽の矢の経緯」であるが、この「経緯」から物語るものは上記の通り「天武系の最も有力候補者」であったこの“「市原王}”が「天皇に成る為の経緯」として“「政権の内部ではその中間まで働いていた事」”が良く判るのだ。
    それが、ここが「時期的」にも、符号一致した形で、「伊勢と近江が突然に血縁し無くなった仲違いの原因」でもあると観ているのだ。
    「白羽の矢の影響」に「市原王」は「品位のつり上げ」を餌に一時は振り回されたのだが、この見込みも「藤原の仲麻呂」が出て来て霧消してしまったと云う事だし、「近江佐々木氏との伊勢との関係・天皇継承者問題」もこれで永遠に消えたのだ。
    だから、前段で論じた様に後に、これが「近江佐々木氏の青木氏に関する研究」が成された所以でもあろう。

    注釈 さて、ここまででは、「伊勢と近江の突然に血縁し無くなった仲違いの原因」には、完全にはならないであろうが読み込みで他にも調べて観ると別の原因もあったのだ。
    ところが現実にこの時に、「市原王」に嫁いだ「伊勢の「女(むすめ)・追尊王の能登女」は、「伊勢での記録」としては、「伊勢の習慣」に従って、上記した事から「朝廷から見放された市原王」から突然に離縁して「伊勢」に戻ってきている事に成っているのだ。
    この「事件」には、普通であれば淡海族に残る筈の処が、“何かがあってこの様に「離縁」と成っている事に成る”のだ。
    それは先に結論から云うと、此れを“「伊勢青木氏の力」では「親族の市原王」を支え切れなかった事”として、「近江佐々木氏」に依って捉えられ、逆に「白羽の矢」では、最早、「女系化し全く継承権の無い130年」も経った色々な上記した経緯で「伊勢」に飛んで行って仕舞った事」が、“「重婚制度」を破るまでに「感情的理由」として発展し悪く受け取られて仕舞った”のだと考えられる。
    ここからは「淡海族と伊勢との時系列と経緯」は、同期して無く成って仕舞っているのだ。
    この「伊勢青木氏・・持統天皇の因事菅隷」は、その後の「淡海族の貧困・持統天皇」を観て、「賜姓五役としての因事菅隷」で「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」を「額田部氏の土木工事の専門的な力」を得て開始し「20年後」に完成させ、ここに「院屋号の特権」を以てこの「和紙の楮生産」を行える様にしたし、「伊勢」はこの「淡海族の貧困」を遂に解消さしているのだ。
    この時は未だこの「持統天皇」は「次の天皇継承族」として「天智系の淡海族」として「目論んでいた事」がこの「因事菅隷」で判り、その「継承者の人物」が「市原王であった事・大仏殿建立などの重職任命」」に成る。
    恐らくは、その意を引き継いで来た「天皇家の称徳天皇の動きのへ変遷」には、これにはこの「市原王の能力」のみならず「淡海族の財・貧困にも問題」があった事を示している。
    其の後の「和紙での経済的な豊かさ」を得た「淡海族」は、その“「勢い」で「伊勢」から離れて行き疎遠”と成り、遂には「問題の嵯峨期」からは「源氏化」して行ったのだが、この“「勢い」で「伊勢」から離れて行き疎遠”、が称徳天皇には魅力が無く成って行ったのではないか、と観られる。
    飽く迄も、伊勢との繋がりに魅力があったのではないか。
    そこから「歴史的経緯」は無く成っているのだ。
    ところが「伊勢」から云えば、寧ろ、逆であって「淡海族に飛ぶはずの白羽の矢」が「伊勢」に来た為に、「内部」には抑え切れない「氏人の伊勢郷士50衆の不満」の“「伊勢騒ぎ・史実」”が起こって行ったのだ。
    この“「四家に対する不満の伊勢騒ぎ」”が起こったのだ。
    この事への「不満」には、「淡海族の貧困を救った事」への「淡海族の態度の不満 1」、「伊勢福家へのやり方への不満 2」、遂には「白羽の矢が飛んで来て仕舞った処置の不満 3」と「上記の持統天皇の継承会議の問題 4」が有ったらしい。
    つまり、とすると「1の行為」は「3の行為を防ぐ策」でもあった事に成る。
    百々の詰まりは、「淡海族へ白羽の矢を向ける策」であったと云う事だが、こっちの「伊勢」に飛んで来て仕舞ったと云う事に成ったのではないか。

    注釈 「伊勢」は「因事菅隷」に基づいたこの「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」を「伊勢青木氏」が行い「額田部氏の力」を借りて「20年」も架けて行ったが、それに続けて今度は「伊勢」が「院屋号の占有権」を以て、続いて、「和紙の元に成る楮の生産・殖産」をここで始めて「佐佐々木氏に渡し経済的潤い」を与えてたのだ。
    この時に、「和紙の専有家の院屋号」を持つ「伊勢」に対して、どの様に対応したのかが「疑問」で、現在の研究では「楮を植えたが、これが「琵琶湖の真砂の土壌」に余り適合しなかった事から、今度は「楮和紙」からその後に「沈丁花の和紙生産」に切り替えてまでして行ったとされていた。
    「近江佐々木氏」はこの「良質和紙の開発」をして「独自の和紙」を造り上げて仕舞っていたのだ。
    これが上記の「歴史の史実」から割り出せた事は、「2つの真人族系・後に経済的に行き詰まり真人族では無く最後は朝臣化した」では無く、「賜姓臣下した沙沙木神社を守護神」とする「神職系の佐々木氏子孫」で行われていた事に成る。
    ところが「伊勢の持つ紙の占有権」に対してこれを無視した。
    そこでこれを食い止める為に「米子」から「西域」にこの「勢い」が移らない様に「米子和紙生産」を中止させて「美濃の寺尾」に「生産拠点」を移動させたのだ。
    そもそも「和紙生産」は、「院屋号の青木氏の専売権」を持つもので、その「伊勢」から勝手な行動を採り始め逃れて行ったと云う事だ。
    ここで上記の親族関係は完全断絶する事の原因の一つに成ったのだ。
    以上の状況に成っていたと「青木氏の資料」には記されているし、「佐々木氏の青木氏の研究論文」にもこの事が匂わせているのだ。
    この時、「争いを治める為」に「伊勢」は兎も角も親族である以上はこれを黙認したと成っている。
    但し、この時に「琵琶湖東岸」での「米原の楮生産」だけは、飽く迄も「伊勢青木氏の占有権」に入るとした様だ。
    其の後に「この理由・前段で論じた」があって、この「米原」から「美濃の寺尾」に楮生産を移しているのだ。
    ここで、「米原は交通の要所の地」、つまり、「和紙生産の搬出拠点」でもあるのに、何故、「米原の楮生産」を止めたのか「疑問」である。
    これは、態々、「東の美濃域の奥の寺尾」に移している処から考えると、独自路線を取り始めた「淡海族の和紙生産」を先ず此処で一端食い止めて制限し、「院屋号の青木氏の専売権」を無視する発展をここで制限したと観る。
    これで「近江和紙の発展の動き」を「東に進む事」を止めて圧力を架けた事に成ろう。
    これで「同族の親族」が「和紙」でも「犬猿の仲がより進む事」に成った要因の一つであろうし、これで「方向性を無くした淡海族」は、其の後の嵯峨期には「源氏化に進む事」に成った原因でもあろう。
    そして最終は、前段でも論じた様に「猶子現象」が起こり「源氏化の根拠を失う事」に成り、「神職系の佐々木氏」も含めて「二つの朝臣族の淡海族全体」が滅亡する事に成る。
    注釈乍ら「後勘」からすると、「上記の時系列」から此の様な経緯を辿った様に観える。
    「五家五流の賜姓族」の内の「淡海族と前段で論じた経緯」の「甲斐族と美濃族」は潰れる事に「持統天皇の皇位継承問題での会議」を正当系にしようとした「天武系の存続で図った思惑」が全て無く成る結果と成ったと観えるのだ。

    “これで淡海族は独立できる”とし、上記の「白羽の矢の事件の前後」からの「伊勢と近江の親族争い」には、「長年の矛」を収めたと「伊勢青木氏と佐々木氏」ではしている。
    その「証拠」に「近江佐々木氏の研究」に依ると、「注釈の通りの工事支援の結果」で「その生活」は潤い、その糧を得て「近江」には「佐々木氏系青木氏」と「近江青木氏」と「近江青木氏系佐々木氏」の「淡海系3氏」が其の後に誕生しているのだ。
    この「伊勢青木氏・敏達天皇系春日伊勢族」や「神職系と2つの朝臣系の3淡海族」を悩ました“「白羽の矢の事件」”では、「伊勢青木氏内部」では、「本論の井上内親王の事件」のみならず「淡海族との絡み事件」も含めて「伊勢」には「煩わしい事件」がこの同時期に起こっていたのだ。
    そして、この「騒ぎ」は「嵯峨期」でそのピークを迎え続いたとし、そして遂には「仁明天皇・出自元伊勢の孫で嵯峨天皇の子」であるこの「仁明天皇の努力・父と違って桓武派の考え方を持っていた」で要するにここまでとして、その「不幸な騒ぎや事件」は前段で詳細を述べたような経緯で一応は彼の努力で終わらせているのだ。

    合せて、前段でも論じた「近江鉱山の鉄生産」も合わせて「因事菅隷」で同時期に開始しているのだ。
    これは「白羽の矢の交換条件・打ち合わせ」であった事が「本論の読み込み」で判った。
    この「近江での伊勢青木氏が手掛ける鉄鉱山開発・因事菅隷による国有鉱山」が地元のこの「貧困状況下の淡海族」にはどの様に影響していたかは資料がない。
    又、「近江佐々木氏の青木氏の研究」でもこの事に殆ど触れていないし、「公的な資料」にも何も論評の様なものは無い。
    これはそもそも「秘匿の因事菅隷」に有ったのではないだろうか。
    この「伊勢青木氏だけに発せられる因事菅隷・天皇の密命」であれば無い事には一応は掟であった限りにお於いては納得できる。
    当時としては「主流の砂鉄」にしても珍しい物であり、それが「山から掘り出しての鉄・鉄鉱石」には、「試掘の事もあり、失敗の事」も含めて「伊勢」では「慎重な対応」をしていた事が読み取れるのだ。
    それ故に、これが「白羽の矢の前後の事・打ち合わせの条件」もあって少なくとも「外への公表」だは避けていたと観られるが、上記した「4つの鉱山」は「近江の近場の事」であるので、徹底して黙り続けるのは無理であったのではないか。

    注釈 この「鉱山開発に携わる人・工人の山師集団・金山師集団等」に依っては「秘匿の工事」が世間に漏れるが、これは「朝廷」に依って「功績」として「鉱山開発に携わる人・工人の民・200人」等は、「伊勢王施基皇子」の「私有財産として与えられた事」が記録として遺されている。
    因みに「伊勢王の施基皇子」には「全2000人の民・工人が与えられた事」が記録として遺されているのだ。
    因みに「川島の皇子」は「500人」と記されている。
    それだけに「施基皇子とその後裔の功績」は実に大きかった事が云えるし、此の事でもその位置づけは理解出来る。
    もっと云うと川島の皇子とその後裔は500人の民を与えられていながら貧していたとする記録には何か違和感が生まれるが、おおよその事はその土壌の事に会って生活の糧を伸ばす余地が無かった事が云える。
    だから「天皇」はこれを救う為に「国の問題」として捉えて「伊勢」に「干拓工事の因事菅隷」を発したと考えられる。
    この時に「伊勢青木氏」に対して「工学院の院屋号の占有権」が与えられたものと考えられる。
    これだけでは「伊勢」には、幾ら「親族の関係」に有ったとしてもそこまでも「近江に尽くす謂れ」はそもそも無く間尺に合わないだろう。
    そこで結局は、「天皇」に「その見返り分」として「佐々木氏の近江の地」に対して「鉱山開発の権利」を「条件」として出し、その「権利の裏打ち」として「因事菅隷を発する事」に成り得たと考えられる。
    結局は国にとっても「鉄の生産」と云う「殖産を興す事」に成り「大蔵は元より内蔵も潤う事」に成り、その「生産から販売」までの一貫を「伊勢」が担えば、後は「大蔵と内蔵」に「利益が入る事」と成り「濡れ手で粟」と成ったのだ。
    故に、当時は「その土地とそこに住む農民も含む民とその殖産業一切」は“「功績」”そのものとして「私有財産」として扱われていたのだ。
    それだけに「情報開示の事」では「今の社会」と違って、「ある程度の秘匿」は護られる環境にそもそもあったのだ。
    然し、「近江佐々木氏の青木氏の研究」には、こんな事が何も知らない事は無く、研究書はこの事に付いて何も触れていないのは、知らなかったとするとそもそも元より「別の名目化」にして「極度の秘匿の因事菅隷の下」にあった事に成る。
    当時としては、それでも「何もしていない様に秘匿でき得る環境レベル」であった事が「因事菅隷論の歴史観」として判断できる。
    だとすると当時は、未だ「伊勢青木氏」に対して多くだされていない「因事菅隷の影響」が「相当な力」を世間に与えていたと考えられ、「天皇の令外官・勅命」の秘匿の「天皇の命を受けた事」として、世間に取り分け「全官僚」たちにも恐れ慄く程に何があったのだろうとして「警戒心を与えていた事」に成るだろう。
    この時代の遺された少ない「政治の記録」から観て見ると、その様な「史実」が多くあって、“何を密かに命じられていたかは判らない為に余計に恐れられていた事”もあったと考えられる。
    「史実の政権争い」で、“「謀叛を企てた」”として暴露され罰せられた史実などは殆どは、この「秘密裏の令外官の働き」に依る「秘密情報からの判明」に依るものである。
    何時の時代もそうである様に、取り分け「奈良期から平安期までの政争」には、この「令外官・内密書の勅命」の「秘匿の天皇の命を受けた事からの発覚」であって、これは「皇位の者にとっては常識の事」であった。
    それだけに「勅命の皇親族の特別令外官の働き」は恐れられていたのだ。
    取り分け誰でも受ける事の無いこの「因事菅隷を受け、且つ格式を持つ立場の令外官」は、周りからこの「二つの大権を持っている事」に恐れられていた事が記されている。
    それ故にその「特別令外官の務めの内容」は、この「周囲の謀叛の事」から始まり「院屋号の事の特権」や「鉱山開発等」の「殖産等の全範囲に及んでいた事」に成るのだ。
    然し、確かに恐れられていたがこの事はある種当然の事と受け取られていたらしい。

    さて、そうすると「上記のこの事」から「読める事」は、一つある。
    それは「川島皇子」の「大津皇子の謀叛密告事件」も「天武天皇」に密告した「近江の市原皇子の件」もこの「特別令外官の仕業」であった事も考えられる。
    だとすると、この「流れ」から成し知り得るのは当然に「伊勢と云う事」にも成るが、何も資料が無いので確定は出来ないが、然し、「親族でもあった事」からも検証する必要があるが、この件で「損得に触れる者」はとすると矢張り「伊勢」では無かったかと観ているのだ。
    何故ならば、この「大津皇子」は「天武天皇の皇子」であってしても、ここに隠れた要素があって実は「母」は「天智天皇皇女の大田皇女」であり、「同母姉に大来皇女」と、その「大津皇子の妃」は「天智天皇皇女の山辺皇女」と成り、要するに「母方は施基皇子の3妹」でとりかこまれていると成る事からであり、「川島皇子」がこの「大津皇子の謀叛として密告した事」は放置出ず、「天智系とその施基皇子系の周囲を弱らせる淡海族の目的」があって、これを企てた事に付いて「施基皇子」はその様に観たのではないか。
    何故ならば、それはそもそも“その真偽を確かめた”のは、「秘密裏の令外官の働き」に依る「伊勢の者」であると云う事になる。
    「天武天皇」にその「事の真偽の調査」を秘密裏に命じられ、それを必ず報告をしていた事に成るからだ。
    「大津皇子」を庇う訳ではないが、その周囲は「全て施基皇子の妹達」であり、「真実の情報」は多く取れその真実は「施基皇子」は必ず知っていた事に成る。
    そうすると「施基皇子の出方」は決まって来る。
    敢えて「川島皇子」が“「ある目的」で「でっち挙げた報告をした事」”に対して先ずは身構えるであろう。
    例え、「天武系の皇子」であったとしても、実の処はその「子孫」は何時か「天智系の血筋を持つと成る事」を意味している事と成り、仮に「大津皇子」が「天皇」と成った時には「継承権」は自然と「施基皇子側の伊勢系」と成る事は必定で、女系であってその意思や気が無くても完全に「施基皇子系に移る事と考えての行動」であったのではないかと観られる。
    だから「市原王の件」からも判る様に、「継承権」を望んでいた「川島皇子」は、“「密告という手段」に出て、これを杭止めてこれの「流れ」を「淡海系に来る事」を計った”と考えられるのだ。
    然し、この「密告の謀計」は失敗したのだ。
    つまり、この事件の「意味する事」は、この時から「淡海系」は未だこの段階からもでも「継承権を狙っていた事」を意味する事に成る。
    そこでその証拠を捜索すると、実は、その「証拠」が見つかったのだ。
    それは「下記の注釈の事」を配慮すれば「上記の意味する事」が良く物語り証明している。

    注釈 ところで“上記した「懐風藻の説の証拠」”に続き、更に続けて「次の重要な記述」が記載されていたのだ。
    それは、先ず「大津皇子の事」を「天武天皇の実質の長子」と判っている事なのに“特別に態々記されているのだ。”
    この「漢詩集」なのに、その事から外れて「次の記述の事」が態々と書き添えられている事なのだ。
    それはこの事から次の事が読みとれる。
    この「懐風藻のこの特別記述」から、先ず、その「長子たるに足る人柄」が、敢えてこの「漢詩書集」の「懐風藻」に記されている事なのだ。
    これは当に「謀叛に対して反論する意味」から「その目的」で態々我慢できずに書かれたものと考えられる。
    当然に当時の「慣習・歴史観」からこれは当に「韻を込めての記述」であって、それ故にこれには「何かの目的があっての事」と考えられ実に歴史的に珍しい事だ。
    その韻を読み解くと、先ずその侭を次に引用記述するとしてそれを要約すると次の事に成る。
    「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。
    壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。
    性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。
    これによりて人多く付託す。
    体格や容姿が逞しく、寛大。
    幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。
    成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。
    その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。
    このため、「大津皇子の人柄」を慕う、多くの人々の信望を集めたとある。
    以上
    重要な事は「以上の内」と同じ事が、何と“「日本書紀」にも「おなじ趣旨の讃辞」が述べられている事であり、つまりこの内容を追認している事であり、確かに「抜群の人物と認められていた事」の様である。
    この結果として、「密告に対しての無罪」に対してそれを立証できずに、そもそも既に、その時まで「天皇」に代わって「政務」まで採っていた「24歳の大津皇子・686年」は、“行き詰り自害に追い込まれた”事に成るのだ。
    そして、その「後釜」と祭り上げられていた「草壁皇子」もその「3年後に弟の草壁皇子」も「28歳で没す」とある。
    この「漢詩書の特別記述」は、「弟の草壁皇子の死」は無関係では無かったと云う事を暗に匂わしている事に成る。
    この「川島皇子の密告事件」の「二人の犠牲者」は、「大津皇子と草壁皇子」の「政争の形」に持ち込まれて治まった事」を「意に反した事」と成りて、これを悔いて「弟の草壁皇子」もそれぞれも「没す」と成るのだ。
    そこでそもそも、既に、“「天皇に代わって政務まで執っていた大津皇子」が「謀叛と云う事」は無いだろう。
    要するに急ぐ事はそもそも無く、「次の座は自分である事」が既に決まっていたのだから疑問だ。
    そうすると「謀叛」と成れば「父の天武天皇」に対してであって、「川島皇子の密告」は実に「不自然な史実の行動」と成るだろう。
    そして、更にこれに付いて「施基皇子の調査報告」もありながら、それを知りながら“「川島皇子の密告」と「施基皇子の報告」”とを何と天秤にかけて、「川島皇子の密告を信じた天武天皇」にも「相当な愚者」であろうとする疑う余地のある事」を暗に酷評しているのだ。
    故に、そこでこれで、「特別令外官の役の立場」で報告していながらも、「無視され防ぎきれなかった施基皇子の立場」は「氏族とその親族衆」に対しても信頼を失い且つ無く成った事に成る。
    故に、「686年自殺」に、“続けてその「3年後・689年」に「同母弟の草壁皇子」も「28歳で没すとある。」”とあるのは、ここにも“何かがあった事”を強調して意味させる事に成ったのだ。
    だが、これを「証明する資料」が未だ見つからなかったが、そもそも、態々、この事を記録した「懐風藻」がこれに付いて以上の事で“間違いなく何かを物語っている”のだ。
    これで「施基皇子」と「686年没の天武天皇」に媚びした「密告者の川島皇子」とは、前段や上記した様に、ここから「犬猿の仲に成った可能性がある事・686年から689年」を物語るのだ。
    そして、その10年後のこの事を知っている「697年の持統天皇の継承者会議」で、これが決定的に成ったのだが、この期に乗じて「持統天皇」は、「伊勢に因事菅隷」を以て“「琵琶湖東岸の干拓工事」”を命じて来たのだ。
    「施基皇子」は、こんな事があったのに、勿論の事、「伊勢の心」は、“虫が良すぎる”として「妹の持統天皇」にも「川島皇子の淡海族」にも相当に憤慨していた事が判る。
    つまり、明らかに書の記述の通り、ここでこの「3つの連続の死」には何かがあった事を意味しているのだ。
    「伊勢の福家」が、此れでは、“何かしなければ氏族を治まりを着けられ無く成っていた事も判り、然し、何も出来なかった事”を物語る。
    「始祖の施基皇子と福家の春日」の二人の信用は此処で無く成っていた事をも物語る。
    この書の物語る事として何とかしなけれは四家は治まらなく成っていた筈だ。
    以上としている。
    それが次の注釈の経緯と成って現れたと観られる。

    注釈 さて、そもそも前段でも論じたが、「天皇の命を受けての行政の太政官」は、「格式上位の皇親族・浄大一位格式・伊勢青木氏」には、絶対に「行政命令」は「太政官」が格下の為に出せない。
    そこで、故に「伊勢」より「上位の天皇」が、密かにこの「皇親族・浄大一位の格式」に対して、「行政上の特別令外官の格式の立場」として、「密命・因事菅隷」として「命」を発したのだ。
    ここでは「その掛かる費用一切」は「密命」である限りに於いて「特別令外官」が受け持つ。
    更にそれは限定されてこの「特別令外官」はだれでもという事には行かない。
    「それ相当の組織力」と「密命を果し得る財の持ち主」で無くては務まる事は不可能である。
    依って「因事菅隷を成し得る者」は更に極めて限られた者に成り得る。
    これが「五家五流」の中でも、「全ゆる殖産を行う事で巨万の富」を得ていた「施基皇子とその後裔とその氏族」だけと成り得ていたのだ。
    例え、「活発極まりにない三野王」であったとしても、「記録」から全て「太政官令」に従うものであって、井の中の蛙ではそもそもこの「因事菅隷を受ける事」は絶対に格式無く無理な事であったのだ。
    同然に「継承権を狙う淡海族」もである。
    そもそも「天皇の密命」である以上は、「資料記録」を遺さないのが「伝統の禁令規律」であるが、奈良期から平安期に欠けて「施基皇子とその後裔とその氏族以外」には、一切の記録や資料からは見つからないのはこの事に依る。
    調査すると唯一つ例外があって、{調べた範囲」では、後に「信濃青木氏」が「神明社を通じての質行為」として、“「第二姓の認証制度に携わっていた事」”が「記録」としてあって、正式な時期は確定は出来ないが、「青木氏」を「律宗族として再任した正親町期頃」の「因事菅隷」によるものと考えている。

    注釈 前段からも論じている「天皇家の継嗣外者」を「引き取る務め等」も、この「皇親族の令外官の務め・賜姓五役」の一つとして理解されていた様だ。
    前段でも論じている様に、“「永代賜姓五役」”として、“誰でも引き取ると云う事でも無かった”様で、「伊勢と信濃」が引き取ったのは、全女系族であって全て「女継嗣外」ではあったが、それが「四掟四門の範囲」、つまり上記した「天智系後裔族」であって、ここでも当に「天武系・淡海族系を避けていた事」が読み取れるし、これに外れた「女継嗣外」は、“「甲斐」”とか“「近江」”に落ち延びて、「その行き方行方知れずの事」と成り得ていた事が記されている。

    注釈 “甲斐”は、室町期まで「血縁の独自性を貫き余り継承から外れた皇子皇女を引き取らなかった事」が「記録になる程」に記されている。
    「近江」は、その「血縁族の者が落ち延び先」としてあり得たが、要はその「近江族の財の無さ」から一度は立ち寄ったものの、そこから「更に北に引きこもる事・行方不明の事」が起こったと記されている。
    この事は「近江佐々木氏の研究記録」からも読み取れる。
    それを「賜姓五役」として熟していたのが、「五家五流の青木氏・伊勢と信濃」であって、取り分け「部経済」を誘引して「巨万の財」を成していた「伊勢王の伊勢青木氏の務め」は大きかったのである。
    要するに、前段でも論じた様に、「伊勢多気郡」に「彼等を引き取る村の施設と組織・青木氏様の十二司女官制度の設置・役を終えた斎王も引き取っていた」までを構築し、これを「因事菅隷を持つ賜姓五役」として熟していた事が記されているのだ。

    さて、この時の「因事菅隷の代償案」として出した「川島皇子の近江地領」のそもそもそこに出した伊勢青木氏が行う「鉱山開発の因事菅隷」は、「天皇しか知らない内密書」で行ったとすると、この「伊勢多気郡の事」も、「天皇」は此の「因事菅隷を使った事」も考えられる。
    そして、とすると同然に「白羽の矢を出した孝謙天皇の件」も、“これに有無を言わさぬ様に”の姿勢で、この「因事菅隷に依るものであった事」にも成り、それ故にこの時は間違いなく「女系にして、且つ、伊勢は継承外であった事」から観ると、“「伊勢の財を選んだ白羽の矢」に傾いた”と観る事が出来るのだ。
    それの効果は別にして、先ずは「因事菅隷で黙らしたかった事」になるだろう。
    そこで、故に、先ず「打ち合わせに入り事」に依り、「ある上記の見返りを求めた事」が判る。
    「近江佐々木氏の青木氏の研究書」には無い事は、何せ「本命であった淡海族」が「何も知らなかったとする事」に、これを「裏打ちする意味」を持つ事なのだ。
    これが「天皇家の白羽の矢の行き先」を選んでいた「当時者達」に執っては、最早、“「淡海族の天武系列」では無く、今は「伊勢の財」”としては間違いなく逆に映っていたのではないかと観られるのだ。
    密かに、これの「見返り」としての「鉱山開発に因事菅隷」が働いていたとすれば、これは「聖武天皇の時」からも内々で検討され働いていた事が判る。
    この事が少なからずも「犬猿の仲に成った事」で、「弱体する近江佐々木氏」を「伊勢青木氏」が、何にせよその「弱体衰退化の為の事」として、過去に於いてはそれが「相互重婚血縁族」であっても、それを放置できる程に無関係では無かった事は確かである。
    上記する「断絶の原因」の「大津皇子の密告事件」はこの「流れの中」にあったのだ

    そこで、当時、“どの様に働いていたかを知りたい”と考えて「歴史観」として研究調査した。
    考えられる「事前知識」としては、「天武系の直系近江佐々木氏・市原王の伝統権威・川島皇子の浄大三位の格式」に対して、「130年経過の女系化の天智系伊勢の財と永代浄大一位の格式」の「比較の差」にあって、これに対して「朝廷の対応する考え方」が次第に替えられて行った事に成るだろう。
    この「最終上記の考え方に傾いた事」は、つまりは「帝紀に縛られる天皇家・朝廷」の「考え方の大転換・青天の霹靂」であった事に成る。
    冠位四十八階位の「明位二階」の「四冠位・大と広」は「天皇の冠位」である。
    「天武天皇」は「明広一位」とされる。

    注釈 参考として、「判断材料の時系列」は次の様に成る。
    「天皇家の継承問問題」で検討された「有利な点」は次の様であった。
    淡海族有利の点A
    伊勢族有利な点B

    A「始祖の天智天皇」は「敏達天皇の春日王系の四門族」のぎりぎりの位置にいた。
    A「天武系直系氏の継嗣の市原王」とは「系列内」で、「伊勢」は比較にならない立場にあった。
    A「継嗣系」で云えば、「近江佐々木氏」が俄然に有利と成ろう。
    A「四門族」で云えば、「淡海族一門の天武系直系族」>「敏達天皇系春日王四門の子の嗣子」と成っていた。本来は正統性から逆であった
    A「母系の格式」で云えば、断然に「淡海族一門の天武系直系族」の紀氏
    A「天皇系に入る事」を望んでいたのは紛れもなく「淡海族一門の天武系直系族」であって、「望んでいなかった」のは「伊勢」であったのだ。
    Aその「白羽の矢」が当たって仕舞った「六男・継嗣外の子供の第七位皇子の施基皇子

    B子・浄大壱位」で、その「継嗣外の六男」に相当し、母は「女系で五大豪族の紀氏後裔の嗣」であった。
    B「永代浄大壱位・伊勢」>「永代浄大参位・近江」の格式にあった。
    B「格式系」で云えば、断然に「伊勢青木氏」>と成ろう。
    B「賜姓五役」、「因事菅隷の令外官」、「氏族組織の総合力・伊賀など含めた伊勢王」は、伊勢側にあって「組織力全体」は「伊勢」であった。
    B「二系の違う事」は、結局は「伊勢の商い財の存在とその大きさ・院屋号の特権」にあった。

    注釈 先ず、この「天皇家の思惑・政争」に上記の様に振り回された「市原王・川島皇子の密告が原因」は、「白壁王(後の光仁天皇)の娘・伊勢青木氏の「女(むすめ)」である「追尊能登女王」を先ず「妻」に迎えている事だ。
    これが上記の「A=Bにする為の縁組」か、将又、単なる重婚制度に依るものかは判らないが多分前者であろう。
    この「問題」を複雑にした「婚姻の説」には、「上記の注釈」の通り「施基皇子の白壁王」と「川島皇子の安貴王の子の市原王」の二人は、「同世代の叔父と甥の親族関係である事」と、「白壁王の母の紀橡姫」と「市原王の母・紀小鹿」が「紀の同族の叔母と姪の関係」にあってその「紀氏の出身・飛鳥王権五大氏族」である事だ。
    後に「上記の昇進事件」では「淡海族の市原王」は「酷いうつ病」と成り、「伊勢」ではこの事が原因して「追尊能登女王」は「伊勢」に戻している事に成っている。

    注釈 この時は未だ「後家制度の考え方・伝統的慣習」は女系制度を敷く務も「伊勢青木氏」には無かった。
    結局は、この「追尊能登内親王の青木氏」の中での「働き具合」が「問題」である。
    「白羽の矢」の「白壁王の考え」に切り替えられる前は、この「中心人物」と成っていたのは「淡海族の市原王」である。
    然し、結果として「死を選ぶ事・・763年頃」と成ったが、後にこの「淡海族の市原王」に「嫁・744年頃・11歳」して、「二人の子」を遺して「継承権の犠牲」に成った「追尊能登女王・733年生誕」は、其の後は此の“「淡海族」の中”では無く、元の“「伊勢」”で「青木氏の伝統慣習の下」で過ごし、「入嫁37年後」の「781年・48歳/平均55歳」に死したとされている。
    「伊勢」に一度帰した「後・763年・30歳頃」の「追尊能登内親王」は、「7年後」の「770年・白壁王即位」に追尊されて、改めて始めて「光仁天皇の内親王・770年追尊」に叙せられている。
    女性としては、これは「破格の昇進」をしたことに成り、同時に「四品・770年」にも先ずは叙せられ、更に6年後の「776年」に「三品」にも昇進し、更には「781年・没直前」には何と「一品」にまで破格の速度で叙せられているのだ。
    其れだけの“「功績」”を他の者に比べてこの「能登女」は実はこれで果たしていたのかという「疑問」である。
    この「他の兄弟」に比べ“「破格の昇進」”をしたこの「意味する処」は、間違いなく“「大功績があった事」”を意味しているのだが、それが何なのかは「伊勢」では詳細には記されていない。
    当然に考えられる事として、この“「特記すべき経緯の中」にその「意味する処」が隠されている筈である。
    それは、「市原王との関係にあろう事 1」が先ず解り、且つ、その元に成り、「白壁王が天皇に成った事 2」と、「井上内親王の事 3」の「三つ事に絡んでいる事」は先ず判る。
    そもそも“「能登内親王 3」”とする処は、正しくは「追尊能登女の王」であり、飽く迄も正しくは「追尊の格式」である事に成る。
    この“「不思議な疑問と成る事」”は、「白壁王」が「青木氏の者」として、「聖武天皇の長女との井上内親王」と婚姻してから、何と“「婚姻の7年後」”に即位している事だ。
    この“「婚姻の7年後」に「意味する処」があって、”婚姻後直ぐでは無いのだが、此処に「大きな意味」が隠されている。
    これはそもそもその「前の事」であり、「伊勢青木氏の仕来り・独特の仕来り」に沿っているので、「井上内親王」は既に「伊勢青木氏」に嫁した以上は、「王」でもなんでもないし、既に、唯の「賜姓臣下族の伊勢郷氏の六男の嫁」に成っているのだ。
    そこで、これは「青木氏の者」としての“「時期の問題」”であり、“「733年生誕の能登・781年没・48歳」”である以上は、「光仁天皇・即位770年即位」とすると、当然に「定め」は“「追尊王の形を執る事」”に成る。
    そこで、この時、「母の夫人・高野新笠妃」が、仮に「母説」であるとすると、この「能登女」は、「3人の子の長子・能登女」であり、他に「同母の弟・山部王の737年」と「同母の弟の早良王・750年は」としている説でる。
    すると、この事で、その「夫人・高野新笠の生誕等不詳とする処」は、先ず解明できる。
    それは、「永代浄大一位の後裔」で「賜姓臣下族の伊勢青木氏」に於いては、「女系制度の女15歳までの入嫁の掟・嫁家制度」がある以上は、「伊賀青木氏族出の夫人・高野新笠の生誕」は“「718年・掟」”である事として割り出せる。
    従って、「没年年齢」は、「791年」で、“「81歳没年」”と読み取れる事と成る。
    この「読み込み経緯」から、これで「皇族の伝統経緯」から「最低で当時の格式伝統の定め」から、「15歳青木氏への入嫁」は「718年」と成るのだ。
    そして、時系列が割り出せた「夫人・高野新笠の母親」として、又「妃」として「791年没年・生誕718年」である以上は、「733年生誕の能登女の子供説」は、「第一子は最高で15歳の時の子」と成り、「737年の山部王の19歳の子説」は、「第二子19歳の子」として設定で来て、「弟750年は早良王の第三子説・32歳」として成り立つ。
    そこで、この“「通説ネット説の能登女の24歳の時の子供説」”では、時系列的には無理である事が判る。
    且つ、「早良王の第三子説・32歳の説」も、「医学生理学的な面」で「卵子老化」が起こり、且つ、前記した様に、これも当時の「平均寿命50歳説」から考えても相当に「医学的に体力的無理な高齢出産」と成る。
    これは「高齢の卵子老化と成る現象・水頭症」が起こり、現在でも医学的も到底に無理である事に成り、何とこれも“「45歳/平均寿命50歳」”に相当するとしているのだ。

    「母・高野新笠・748年に15歳青木氏入嫁・伊勢の仕来り」とすれば、「791年は58歳の没」と成る。
    この「疑問」の多い「光仁天皇770年即位」で観ると、「青木氏の伝統の掟」に従い「能登女」は、「淡海族市原王」に「15歳・掟で嫁いだ事」に間違いなく成る。
    初めて「能登女」は、「追尊王」としては「母37歳の時・母親は748年の子」と成る。
    故に「733年生誕から770年」までは、「能登女」は「ネット説37歳の時説」では、未だ「青木氏の中」ではそもそも「追尊」でも「王女」でもないのだ
    従って、「748年で母15歳で青木氏に入嫁」で、「770年で能登女」は「733年生誕」であるとすると、「追尊王である事」は、「青木氏の女であった事」を示している事に成り得る。
    これが「ネット説37歳の時説に成る」とすると、この「時の人の市原王」に入嫁した「能登王女説」を唱えているその「ネット説」では、肯定してはいないが“「入嫁は757年頃」”としている。
    つまり、“「24歳の時説」”としている訳であるが、この説は上記の通り生理医学上では無理があり「大疑問」である。
    何故ならば、「伊勢青木氏」では前段でも論じた様に、「女(むすめ)」の妻嫁制度」と「嫁家制度」を敷き、それに従って「四掟の女系制度」で嫁いでいる。
    とすると、この「伊勢青木氏の女系制度」では、従って必ず100%で、少なくとも遅くても“「15歳」”に成ると“「能登女」”は、「淡海族の市原王」に嫁している事に成り、この事は「24歳時説」する「ネット説」は「100%間違い」である。
    何故ならば、この当時は前段でも何度も医学的にも論じたが、“「正しい歴史観」”として、飽く迄も“「平均寿命50歳」”であるので、今で云えば「40歳から45歳の子の誕生」と成り、100%で生理的医学的に現在の体外受精方式を使わない限りあり得ずに其れも「3人も出産」もである。
    あったとしても体力的に無理であろう。
    故に絶対に“「15歳説」”であるのだ。
    つまり、この“「24歳説」”から来る「能登王の光仁天皇の子供説・高野新笠の子説」には「論理の崩れが生じている」ので「大疑問」を感じているのだ。
    つまり、故に「嫁がせる“能登女”」を、“「光仁天皇の子・高野新笠の子」に先ず仕立て上げて、そこで“「当時の時の人」”の「淡海族の市原王の格式」に合わせたのではないかと観ているのだ。
    この事はそもそも「女系化青木氏の制度」である。
    つまり、既に、「臣下している氏族の子」のこの要するに“「能登女」”は、「浄橋女や飽浪女や難波女」の「伊勢青木氏の女(むすめ)」の様に、同じ立場にいたのだから、「追尊王」と無理やり仕立てて、更に嫁ぐ際には既に「臣下族」である以上は、「格式上」に於いては、“「白壁の娘」”と態々したのでは無いかと観ているのだ。
    「白壁」は「臣下族の四家の六男」であり、「四家の四男」にも成っていない「家人並みの男」であった。
    それでも、それに上記の「読み込み検証での経緯」で「白羽の矢」が飛んできたのだ。
    要するに、“大疑問の「770年の即位」に対して「748年・15歳」では未だ「天皇の立場」を得ていない時の事なのだ”。
    そもそも「伊勢の記録」には、“「逃げ延びた者・第三世族まで」”には例外は欠いていないからだ。
    況してや、女系化を成す「伊勢の女(むすめ)制度」では、「赤子や幼児」より全てはこの「伊勢の四家の制度」に先ず入るのであって、それが仮に「高野新笠の子供」や「井上内親王の子供」であったとしても、そもそも特定して嫁がせる制度では無く、一度、まず「氏族の玄孫迄」の生まれてから直ぐに、「女(むすめ)」は「福家」に全員引き取り、そこで統一して「乳母」に依って零歳児より育てられ「青木氏としての女(むすめ)」の「特別教育」を受け、そこから「四掟先に嫁ぐ制度」を敷いていたのである。
    同然に逆の事も起っていて「四掟四門の嫁ぎ先」から、今度は「その子孫の後裔」が新しい血を持ち込み、又伊勢に入嫁して入る事が繰り返し行われていたのだ。
    この繰り返しの中でこれに従って「氏族内の例外」はなかったらだ。
    飽く迄も「伊勢の能登女」で有っても、「一族の伊賀から来た高野新笠」であっても、この制度に従って「伊勢青木氏の女(むすめ)」であったのだ。
    そこで「伊勢青木氏の女系の制度」では、「四家制度等」を維持する為に「后妃嬪妾の制度」を敷いて「バランス」を執っていたのだ。
    この「女(むすめ)」制度」の中に入れば、「赤子の時」から集められ「福家」に集めて、この「女(むすめ)の養育制度」に必ず入り、「伊勢郷士氏人」の「乳母・めのと」で、例外なく一か所で早くて「9歳から遅くても15歳」になるまで「青木氏」の「女(むすめ)」として教育され育てられるのだ。
    その後は、この「女系化制度」に依って「四掟四門の範囲」で「嫁家制度と妻嫁制度」に従って、「嫁入り・15歳掟」と成るのだ。
    そこで「四家の中」で生まれた「全ての男子の場合」は、その「赤子の頃」から「母親」から強引に引き離され、「四家制度の中」に入り、そこで「四家の男子」として鍛えられて、「画道、華道、茶道、座禅道、算術」などの「諸道一般の素養」や「学問や商知識」や「武芸一般」や「格式教養」等を、例えば「襖の閉め方・お茶の飲み方・箸の上げ下げまで」を学ぶ事に成っていたのだ。
    そもそも、この「厳しい統一制度」に於いては、“「母親」が「自分の子供」として特定する事”、即ち、「高野新笠の子供と特定する事」が、そもそも難しい事の程度で離されて育てられる事が徹底していたのだ。
    そうでなければ「族内に全ゆる差と個性」が出て、“統一して青木氏の子供”として“「四掟四家四門を保つ女系制度」”は保てなかったとしているのだ。
    飽く迄も、要するに「女子男子」は、「だれだれの子供」では無くて飽く迄も“「青木氏の四家の子」”であるのだ。
    この「能登女」も当然の事であって、「高野新笠の子」としてのこの制度の中では確定は困難であった筈である。
    敢えて近づく事があれば「福家」から罰せられる程の制度なのだ。
    これは「四家四掟四門」に基づいている以上は、この「特別な中国から伝わった制度」では、“「絶対的な制度」”として扱われ、それで無くては差が生まれ、この“「女系制度の四掟四門制度」”は成立しないのだ。
    これ等の「奈良期平安期に関わるネット説」は、この「女系制度」の「青木氏の歴史観」を把握しないでの唯単なる「現在風生活習慣説」に過ぎないのだ。
    「平安期までの説」はこの範囲の中に間違いなく厳しくあったのである。

    注釈 前段でも論じたが、「平均寿命」が「50歳頃」とする奈良期平安期に於いては、女性は「9歳頃から15歳」までを「婚期」とし、これは「当時の初潮」を前提にしていて、医学的にも「平均寿命の低さ」に比例しての仕組みが組み込まれていて、それが「本能的」に「遺伝学的」に時には「環境的」にも順応する仕組みが組み込まれて、主に「寿命」に準じても「早くする人間の生理現象」と成っているのだ。
    従って、「女系制度」を前提とする「嫁家制度や妻嫁制度」の中では、最低年齢で「9歳」で、既に「嫁する事の出来る年齢」として、「最高でも15歳まで嫁する事」として上記した様に「古い青木氏の制度」の中で細かく決められて「教育得本・青木氏専用読本」までが製作されていた中で教育されていた。
    この「遺された記録」の中では、「8歳の年齢」で既に「関東の秀郷流青木氏に嫁した」とした記録がある。
    最高で「15歳」を超えては流石に「四掟四門」には無く「19歳」で「氏族の伊勢郷士」に嫁したとする記録もある。
    「能登女」にしても「高野新笠」にしても「美濃」に嫁した「浄橋女や飽浪女」にしてもこの制度の中にあって最高でも「15歳での前提」としていたのだ。
    「男子」は「四家制度」では、全て「15歳」が「成人」として扱われ「元服」していて「式」を行っていたとしている。
    この「元服式・成人式」が、現在では「七五三の祝い」として遺されているが、「女(むすめ)」の「三と七」は上記の「嫁する年齢の9歳頃から15歳」の“「前年齢」”としての「成長した証」として「祝い儀式」が行われたとしていて、特に「女(むすめ)」の「三歳の祝い」は「病気などに患う事なくに生まれて来た祝い」として行われ、又、「七歳」は「伊勢青木氏」では飽く迄も「嫁する年齢の9歳頃前」の「女性の成人前年齢としての祝い」として、「帯解きの儀式」にされていたものである。
    「青木氏の歴史観」としては、恐らくは「律宗族」として長い間の「青木氏で繋いで来た儀式」が世間に広まった儀式である事は想像できる。
    これ等が本来は「妻嫁制度や嫁家制度」の中での、「特別な意味ある儀式」として「区切り」をつけて行われていたのだ。
    それによると、この時、「子供服」から「着る服・着物」の「帯解きの儀式・成人服に替える式」に変化させる儀式とした。
    そこで「女(むすめ)の頭髪・坊主頭であった」から「髪置き・長髪」に変える式としていたのだ。
    然し、「男子の五歳」は、「別の意味」で江戸期に付け加えられた「武家の儀式」として加えられたものであって、これが「商人などの経済的裕福な庶民」まで広まったとされるものだ。
    「伊勢青木氏の記録」では全く行われていなかった事が読みとれる。
    平安期までは「男子の場合」は、「祝い儀式」としては「15歳の元服式のみ」で「五歳祝い」は無かった事が判る。
    この意味で、「嫁する年齢の9歳頃から15歳の意味」には取り分け重点が置かれていて“「他の女系制度」”と共に「一つの女系制度的な意味」が強かった事が判る。
    所謂、「娘の成長」と云う事より「女系制度」を引く限りに於いて「四家の継承・商いを担う男子」より「氏族の要」として「女系制度的な意味合い」が強かった事が独特の歴史観として云える。
    「市原王の能登女の件」は上記の事から「伊勢青木氏に戻ったと云う事」は、そこに「大きな意味・女(むすめ)」を持っていたのだ。
    その「意味の違い」では、実際に使われていたのは、遺された記録からそれは「男嗣・男継嗣」であって、「男子」では無く、同然に「女子」では無く、「女嗣・女継嗣」として、飽く迄も「嗣」が使われていたのであったのだ。
    現実には「呼称も書物の記載」にもこれらが現実に使われていたのだ。
    「青木氏の中」では、結局は「嗣と子の意味の持つ処」が「格式の伝統、即ち慣習仕来り掟の持つ女系の所以」で違っていたと云う事だろう。
    この上記した、“「男嗣・男継嗣」であって、「男子」では無く、同然に「女子」では無く、「女嗣・女継嗣」として、飽く迄も「嗣」が使われていた”の「持つ意味」は「全てを物語る意味」として大きいのだ。
    「女系の四家の制度」を良く表している「青木氏の独特性の歴史観」を知っておく必要がある。

    注釈 そもそもこの「女系制度の採用の経緯」は、中国に於いて「四掟、四門」の中で「男嗣」に於いても「女嗣」に於いても、ほぼ同然の中にあったとされているのだ。
    それを奈良期に、この「基本」を「伊勢青木氏」が「施基皇子の賜姓臣下族」と成った時点で「真人族」から離れて「臣下族」として生きて行く上で、飽く迄も「皇族の伝統の呼称」を維持するのでは無く、その前提をこの“「中国の皇族の制度」”の一部を真似て採用したものだとしているのだ。
    従って、「賜姓臣下族」であった「皇位族・天皇系」から離れる為にも、徹底してこの「女系化の制度の新たな考え方」を図ったのだ。
    上記の「ネット年齢説」では、「高野新笠説も井上内親王説も光仁天皇説」にもこの「青木氏の歴史観」が無視されていて、その説が何と「ネット記載化までされている事」には驚く。
    故にそれを唯一、「伝統」として持ち得ていて知り得ている事である故に、ここで「青木氏独自」でこれを訂正しておかなければならないので甚だ面倒である。
    この「歴史観の狂い」が出始めた時期の室町期には、それまでの“「賜姓族臣下族」”であったものから、“「律宗族」”と認定され、且つ、「呼称される事」を積極的に進めた「室町幕府と正親町天皇」には、即ち、これには元より「天皇系の権威の復元の狙い・正親町天皇」や「低下しつつあった室町幕府の権威」は、唯一、「天皇家の復権を試みた天皇」と「権威低下を食い止めようとした幕府」が裏の目的として見え隠れしていて、これが「遺された様々な記録」からも判る事なのだ。

    注釈 然し、これはそもそも普通に考えても判る事ではないか。
    「歴史に興味に持つ者」としてこれは「普通の事」で不思議に思うのだ。
    何故ならば、今更論じる事では無ないが、「奈良時代の生活や言葉や習慣や家の伝統慣習仕来り掟」が、そもそも今と全く違う事は、「当然の事」であって、「寿命」も然る事乍ら「医療」も何もかも違う事は誰でも判る。
    況してや現在と違っていなければそもそも「歴史」ではない。
    だから「その時代ごとの歴史観」が成り立つのだし、時代毎や氏族毎の上記の様な独特の歴史観を紐解かなければならないのだ。
    依って「奈良時代」なら「奈良時代に生きた先祖の生き様」は、「伝統」は勿論の事として「習慣」の「言葉や字一つ」とっても違うのだ。
    そうすると、この「歴史観の違い」から勉強してこそ「歴史の紐」は正しく紐解けるのだ。
    それを“現代感”で割り出してネット説として論じるとは甚だ理解が出来ない。
    況してや「ネット説」にその論文を載せて正しいとするは異変としか言い様が無い。
    そもそもその「奈良時代」からの「伝統慣習仕来り」を長く引き継いで来た「唯一の氏族青木氏族」が1700年以上に生遺っているのだ。
    故に、同じ「文化伝統慣習仕来り掟」が同じである筈がないのだ。
    そもそも前段で論じた「鎌倉期の水鏡や吾妻鏡の歴史書」や上記の「懐風藻の説の証拠」を観ている限りは、何れ「歴史書関係書」である以上は、同じ感覚で論じる事では「道理・論理の矛盾」が興ったものであるのだ。
    「青木氏」を知り得なくても「伊勢奈良紀州と云う地域・古代国家のあった地域」が幸いにも遺っていれば、そこから足を棒にして使って調べれば判って来る筈の事で、それがそもそも「歴史研究の紐解き」である。
    何はともあれ先ずは、「歴史観の紐解き」は「文化伝統慣習仕来り掟」から始めるべきである。
    筆者は「青木氏」に限定して始めて遥か50年以上にも上っているが、それが「サイトの基本データー」と成り得ていて、そこから「データーには表せない事」を「伝統シリーズ」として何とか論じて伝える為に“「時系列論」”とは別に「経緯から割り出す“状況諭」”でもこれを論じている。居
    そこから上記に論じた“「全て繋がる一連の経緯の事件論」”は、これが織りなす「複雑な状況の歴史観」が「現在感覚」では全く通じないと思っていて、それ故にそれの「時代の差の検証を行う事」が又面白いのだ。

    未だ「本論の続き」があるので次の段で論じる。

    「青木氏の伝統 80」−「青木氏の歴史観−54」に続く。


      [No.403] Re:「青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−51」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/09/06(Wed) 10:18:05  

    > > 「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」の末尾

    > 「献納の時」は旗を建て大きな献納の車列を仕立てて京に上っていたとする記録がある。
    > “相当に豪勢な車列であった事”が口伝で伝えられている。
    > これが証拠と成るかは別として、「商記録」にも「大きな出費の算段の記録」は一時消えている。
    > 恐らくは、この時ではないか。
    > 「伊勢と信濃」では、「院屋号や因事菅隷や賜姓五役」」としての「影の永代令外官」としてその「財力」は何れにも勝るとも劣らずに持ち得ていたが、だからと云って「青木氏に依る内蔵の献納」の「正式な再開」は、「猶子」が社会に蔓延った結果、その為に「二人の天皇の策」に依って「源氏族」が絶えた「1221年以降の事」である事に成る。
    > それは「正規」に再開したのは、つまり、再び「内蔵掾・献納の形で」として貢献したのは、「正親町天皇と室町幕府に認められた律宗族の格付け期の直前期」ではあったと考えているのだ。
    > 史実として、それまでは「宮廷の壁」が各所で崩れ落ちている「記録」があり、「内蔵の悪さ」が物語っている。
    > 「室町幕府」はその力は無く、「正親町天皇」は「天皇家の権勢」を立て直そうとした唯一の天皇であった事から、青木氏の力を借りようとしたのだ。
    > その為にも「律宗族」として世間に再び喧伝し、「格式」を世間に認め直したのだ。


    >青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」


    前段で「頼政の件」を「源氏化」と共に論じたが、もう少しこの事件を探って観る。
    それは「格式化の問題」であり、「青木氏」にどれだけの影響を歴史的経緯として与えたかについて検証して論じて観る。
    そこで、先ず「頼政の事件」から始めとして論じる事とする。
    先ず「過去の経緯」を知っていた「頼政」に、「伊勢青木氏」と「信濃の青木氏」が、“「桓武派として摂津源氏も同派である事」”を理由に、“巧みに利用しようとした”と云う事であった。
    それが、“「新撰姓氏禄”の進捗経緯」により、「公家武家の貴族社会」に「格式化」と云う別の問題を浮き出していた。
    ところが、これが前段で論じた様に「新撰姓氏禄に依って格式化」がより起こり、「源氏化や猶子現象と云う社会」を「必要以上に乱す現象」を呼び起こして仕舞った。

    要するに、この“「頼政が頼った事件」”は、当にこの“「源氏化や猶子現象と云う社会を必要以上に乱した現象」”の、この“「新撰姓氏禄の記載」に原因があった”という事だ。
    そして「伊勢」に対して「頼政」は、この「弱い処」を突いて来たと云う事だ。
    前段で述べた「歴史観の経緯」は、次の様な事から来ていたが、それを改めて「青木氏に与えた経緯」を検証して論じる。
    その重複するが、この「歴史観の元」は、後々にも影響及ぼしたのがこの「新撰姓氏禄」にあった。
    それは「新たに誕生した姓の階級」を「諡号以上」に仕分けして「国家の在り様」を定めようとしたものだ。
    然し、それだけでは済まなかった。
    改めてその「概要」をこの段の「探求論」で追記する事とする。
    この時、世の中には「格式の高い氏族」と「諡号の姓族」が先ず増えた。
    ところがそれをそれまでの制度の“「八色の姓制」”では、「格式を前提とする社会の統制」が執れなく成り始めていた。
    この「格式による身分制度」に於いてだけでは成り立たなく成っていたと云う事だ。
    そこで「格式上位の者等」に限って、その“「冠位を着ける事」”で乗り切ろうとして、よりこれを「細分化」したのだ。
    それは「八つの身分別」、即ち、「八つの諡号の姓別」、又は、「八つの系列別」に「それまでの姓の範囲」の侭で「身分分け」をした。
    即ち、それが「真人族、朝臣族、宿禰族、忌寸族、道師族、臣族、連族、稲置族」であるが、ところが問題の「嵯峨期」には、これでは「細分化・格式化」は難しく成ったと云う事だ。
    それが前段でも論じた様に、「青木氏族」にも強く影響を受けた「新撰姓氏禄の目的」の一つでもあった。
    そこで、この内の「宿禰族程度」までには、原則として「冠位を与える事」で更に「格式別」にして「細分化」した。
    ところが、これも「歴史」が進むに連れてこれでは処理しきれずに次の様に変える事に成った。
    つまり、これを「上位の姓」に対して“「冠位」”と云う「永代も含めた臨時的な格式を与える事」で、「格式化」で「細分化」をした。
    それが、「十二階」から「十九階」に、「二十四階」に、「四十八階」へと「格式」でどんどん「細分化・格式化」して行く事で対応した。
    だが、当にこれが「初期に起こった格式化の象徴」とされるものを生んだのであった。
    そこで、「諡号の姓化」で先ず分けて、それを「諡号姓の原則」としては、「宿禰族」までの「上位の姓の者」だけに限定した。
    「格式化」で「着衣も色分け」してでも、「当時の格式化で進む社会」を構成しようとした。
    要するに、「身分化と格式化」の「二つの分類」で、「上級社会」を無理にでも構成したのだ。
    そこで「当時の伝統」として「幸せを招く」とする“「八の一般原理・当時は」があってこれを利用した。
    「反発を防ぐ策」としてこの「八の原理・中国思想」が選ばれて「幸運を呼ぶ数字の組み合わせ」として用いられた。
    当時はこれが“「格式の伝統・習慣」”として存在していたが、これを使って「格式の伝統原理式」を以て、“「48*8=384」”にして分類にした。
    この「身分化と格式化の二つの分類」は、「前者」はほぼ“「永代固定」”し、「後者」は「特権」で決めたが、これが所謂、“「応変式固定」”にしたのが「初期の身分化方式と格式化方式の経緯」だ。
    これに更に「官吏の職能」にも、これを宛がう事とした。
    「官位」をも新たに「下記の注釈」の様に加えた事で、これでも「格式化に反対」を受けたが、何とか「上級社会と官吏の格式化」だけは進んだ。

    注釈 そもそも「上級官吏等の職能」には、資料的なものが何も無かっただけに「格式を分ける資料元の問題」、即ち、この“「資料元」を何処から持ってくるか”の編者たちの中でこの問題が持ち上がった。
    何故ならば、「全国行脚して調べた実績の資料」が社会の中に纏められたものが未だ遅れていて無かった。
    この「資料元」に依っては、「社会の格式の如何」が変わるからだ。
    この「議論」が「三度の編者」の中で共に先ず持ち上がったと記されている。
    ところが、この「議論の終着」は幸い簡単に着いた。
    それは偶然にも次の経緯からそこに終着したのだ。
    前段でも論じた様に、「格式議論を決定させるもの」が何と「伊勢青木氏」にあったのだ。
    それを次に論じる。
    「伊勢青木氏の始祖の施基皇子」が、長年を掛けて“全国行脚”して編纂して天皇に提出したのが「因事菅隷に基く撰善言集」であった。
    これを「基礎」にして出来たのが、「701年の大宝律令」と、更にはこれを見直した「718年の養老律令」であった。
    ところがこの資料の中には、“これを基に更に「官位令」も定めた”と記されていた。
    つまり、この“「官位令」も定めた”という事は重要で、「位」、即ち、“「官吏の格式」も決めた”と云う事を意味しているし、それに匹敵するだけの資料が添えられていたと云う事を意味する。
    この経緯の結論は、つまり“「位の情報を決めるもの」があった”と云う事を示していて、それが“「全国行脚で示す情報」と、「撰善言集で示す情報」の「二つにあった事」を歴史的に示していた事に成る。
    判り易く云えば、「格式の元に成る地方の豪族の者等の色々な情報」が、「撰善言集を纏める事」に当たって“この「参考と成る記載事項が添えられていた事」”と云う事に成る。
    判り易く云えば、・・の何なの地方の豪族には・・の撰らばれるへき「善い言葉・決め事」があったとまとめられていた集であったと云う事に成る。
    この、「・・の何なの地方の豪族」には、この「‥」を「編集資料元として使えると云う事」を編者たちが云っていた事に成る。
    取り分け、「淳和天皇の編集」の時に上記のこれが検討されていた事が歴史的経緯として読み取れる。
    恐らくは、「光仁期の時、嵯峨期の時」のものも、この「淳和天皇の編集」の時の「未完成の侭のもの」が使われた事が判る。
    それは、「姓氏禄の遺された表紙書きの添書」には、上記した様に「逸文散文乱文」の意味する処の“未完成の侭で遺されていた”からだ。
    「自らの始祖の施基皇子の編纂」した「撰善言集」から、この「格式化の資料元を引き出した事」に成った訳である。
    故に「伊勢青木氏の中」でも問題に成っていた事が読みとれる。
    この時、「白羽の矢の問題」も直前にあって、一族からも“福家は何をしているんだ”と非難されていた事が充分に判る

    つまり古来に於いて「社会」には、既に「本論の格式化」の「新撰姓氏禄の基礎地」が出来ていた事に成る。
    この「意味する官位令」には、「皇族」が、「官吏」を務める場合は、「1から4の階級・品位1から品位4」があって、例えば、「臣下族」がこれを務める場合は、「1から30までの階級(位)・青木氏は一位」の格式」に分けていた。
    然し、ここに「重要な問題」があった。
    この「格式を定めた官位制」には、前段でも論じたが、ここには「固定された制度の社会に必ず起こる問題」があった。
    それが当時、社会に「大問題」に成っていた“「世襲」”であった。
    その「与えられた格式」を一族で永久的に保全して利益を努力なしに獲得しようとする「停滞社会」であったからだ。
    そこでこれを改善する為に、先ずは「認可制・届出制」に変更にした。
    その上で、“「三世代制」”に限定して換えて、先ず「社会の動きを止める悪弊」を無くそうとした。
    然し、“適任しない者の出現の対策”として、先ず「族制認可制・届出制」にした。
    ところが「停滞社会で育った者」である為に、ここで「能力なし」として「不認可の事例」が多く起こったと記されている。
    「二世代者」や「三世代者」は甘やかされて居て「無能」と評価され「世襲認可の不許可事例」が多く出た。
    「世襲認可の不許可」が出た家では、“これでは家が潰れる事に成る事”から、次の事が社会に蔓延した。
    そこで、他所から適当な能力のある男子を「金銭」を以て探して来て、その「男子」に「世襲認可」が得られ得る様に、又、家に相当する格式を与えられる様に、先ず「格式のある家」に「養子の形式」を採って出し、その様にして次から次と家を廻して「格式と品位を着けさると云う策」を企てて、元の家柄を隠してでも、要するに“「猶子」"にして届け出て「認可」を獲得してなんとか「世代を継ぐ苦肉の策」の現象が蔓延した。
    最早、「格式や血筋などの考え」は社会に薄く成ってやがて無く成って行った。
    これが「源氏化で論じた格式を獲得する猶子策」であった。
    何とかこの「猶子に依って認可を得た者」に対しては、これに「猶子」で得た「官職と位階」に応じて任命する様に厳しく変更したのだ。
    最早、「源氏等とする格式」を「猶子」で獲得したとしても、殆どは、「調べようもない信用が出来ない格式の氏族」と成り得ていたのが現実であった。
    この「猶子策」を盛んに使って「金銭と人気」を獲得しで「財と名声勢力」を成したのが「村上源氏等」に現れたと記されている。
    「歴史の記録」を観ると、「・・源氏」と呼ばれている「源氏の殆ど」は、この「猶子策によって生まれた源氏」であったとまでされている。
    ところが上記した様に、当然に「殆どの格式あるの家柄」では、「無関係の血筋の持たない猶子であった事」から、後に、途中でこれが下で「嵯峨期の新撰氏禄の格式化」は完全に崩れ始めて仕舞った。
    そこで、「困った朝廷」は、次は、“「叙位に応じた制度」”に先ず変換した。
    例え、仮に「猶子」であっても、“「叙位を受けた者」”でなくては、「世襲制度・格式は得られない」に乗れなく成ったのだ。
    「可成り優秀な男子」で無くては、「世襲の認可」は受け入れなく無く成って行った。
    その事で、「叙位にて保証される身分・格式と品位」が明らかに認められる“「皇位の者」”に限っては、この「問題」の「世襲制・原則三世代制」が認められる様に再び戻った。
    ところが、戻したは良いが、なかなか“「皇位の者としての厳しい制限」”があって、この限りでは、“認められなかった者”が続出するのが「現実」であったと記されている。
    そこで一つの典型的な身近な我々の族の例として、「近江の川島皇子の佐々木氏の後裔・市原王」は、「大仏殿建立の責任者の役」を、規則に沿って先ず「叙位」を受けて何とかこれを担ったが、“二度もその能力なし”として評価されて外された事が史実として記されていて、遂にはそれが原因か自殺する破目と成る身近な例がある。
    前段で論じた様に、更に進む「源氏化の格式化」で、それに乗る事は出来ずに「近江佐々木氏の後裔」はここから現実に傾いた。
    兎も角も、「格式化や身分化」を壊すものの一つのこの“「世襲制度」”は、“政治を腐敗させるもの”としても非常に「皇位の格式を有した官僚族」から嫌われていた。
    以上でこれに依って改善を繰り返して出来た。
    この「上記の体制の改善努力」が、しっかりした官僚で明治初期まで続いたのだが、これが下記に示すのが「二官八省一台五衛府制」に成ったと云う事だ。
    隠されながらも社会に知られ利用され始めたこの「新撰姓氏禄の格式化」は、「猶子策や世襲制度の社会」を停滞させるものとして社会には無く成ったかに見られた。

    注釈
    「二官八省一台五衛府制」とは、参考として前段の歴史館に関わっている事から簡単に云うと、次の様な政治組織を云うが、本論の改善した政治組織の最終形である。
    先ず、「朝廷には「斎蔵」の「祭祀」を担当する「官僚」がいて、其れが前段でも論じた「神祇官」と、大蔵の「国政」を「統括した太政官」が二つが置かれた。
    これが「二官」と呼ぶ。
    その一つの「太政官」には「実務行政を分担する八省」が置かれた。
    これを総じて「二官八省」という。
    この「一台五衛府」は、「行政組織」を観る「弾正台」と、「宮中を守る衛府・近衛府」が「天皇直轄組織」であった。
    これが要するに「二官八省一台五衛府」である。
    この「八省」の下には「職・寮・司」と呼ばれる「官僚の実務機関」が設置された。
    これ等の組織が時代と共に変化して上記した「近衛府」を設置をした。
    前段でも論じた様に、「青木氏の格式」で、この「近衛府」と「令外官」に関わった。
    前段の「花山源氏」は、皇族が成る「令外官」のものでは無く、この「皇族の格式」を以て官僚が成るものでありながら特別に朝臣族の源氏族が「神祇官」に任命されたと云う事だ。

    この様に「上記の注釈の制度」に依って網目の様に、その増えた「氏族と諡号姓族」の「在り方」を、「身分格式」に於いて、区別し判別して、それで始まる“「律・刑法」と「令の民法」の「二つの法制で国家」”を先ず安定させようとした。
    其処に「国家の基本」を先ずは求めたのだが、ところが、肝心な事に「氏族」と「諡号族」と「姓族」の「3つの族の在り方」を「定める法体系」が未だ無かったのだ。
    そこで、先ず、我々の始祖の“「施基皇子」”が、全国を歩き廻りその「法体制の基に成る事柄」を全国から集めて来て、これを「法作成の基本」と成るものとして、“「撰善言集・因事菅隷」”として作成して「天皇」にこれを正式に提出し表した。
    当時としては何も無い資料元であったのでこれは「大功績」だった。
    そして、これを「基本」に上記した“「日本初の法令の大宝律令」”が出来上がった。
    以上の経緯からこれを基本に「嵯峨期」には上記の制度に合わせて造ったのが、要するに「未完成の侭の新撰姓氏禄」であって、更に世の中を更に“「格式化」”を推し進めてこれで図ろうとした
    これを「一つの視点」として観る事が出来る。
    その切っ掛けは「出自元の伊勢青木氏との関係」にあったと観られる。
    これが出来れば、“いざ本格的に「新撰姓氏禄」で「身分の格式化」を決定づけて「社会の格式化」の「さらなる格式化を図ろうとした”のだが、ところが上記の様に「品位・格式」で、“「品位」は兎も角も容認するも、「格式化で決めつけられる事”の反発」が、“ある利害の絡む特定の上位の階級”に於いて噴出して社会に露出したのであった。
    そこで、「夫々の諡号」に属していた「諡号の姓族」、取り分け、その中でも「上位の諡号姓族」に執っても、この為に「利益の差が生まれる事」を特に嫌って「反対の姿勢」を採り始めた。
    この為に「2つの階級の社会の激しい抵抗」を受けて実現しなかった。
    ところが、この「新撰姓氏禄集」だけが、「猛烈な反対」を受けながらも、その内容を詳しく知る為に何故か原因不明でどさくさに紛れて“世に漏れて出て仕舞った”のだ。

    この“世に漏れて出て仕舞った”と云う事に、そもそも“問題”があるのだが、「青木氏の歴史観」としてこれをどう云う風に捉えていたのかである。
    この「紛失の結果」として、これが“「正式であって正式では無いとする慣習」が「社会」に生まれて来た”のだ。
    つまり、“「賛成する者」は大いにこの「格式」を前面に押し出すと云う「猶子策も伴った現象・格式を無理にでも獲得する秘策」が社会に生まれた”のだ。
    中でも「源氏」が行う「源氏化の猶子」では、これを大いに利用したと云う事だ。
    そこでこの「猶子策」の風潮を巧く此れを取り上げて、“頼政に上手く利用された”と云う事が記載されいる。
    然し、この意味する事は、この「紛失したと云われる新撰姓氏禄」が、未だ“「朝廷内にあったと云う事」”に成る。
    然し、掘り下げて考察すれば、そこで、将又、「突然の紛失先」がその「行政の元」を握っていた「藤原氏がこれを抑えていたのか」、将又、「嵯峨期以降の源氏」がこれを抑えていたのかに成るだろう。
    然し、それを「利用して得に成る者・認定の権力を一手に握る者」としての「官僚族」と成れば、確かに「藤原氏摂関家に有った事」に成ろう。
    つまりこの「紛失の道筋」は、その考えられる内容の一つが、それが「摂関家の道長」から「特別な格式的利益」を受けていたその「家臣であった摂津源氏頼光」から、最後はその「漏洩の存在情報」をこの「問題の後裔の頼政」にも伝えられていた事にも成ろう。
    「一段低い格式の令旨の形」と成っていた「以仁王の乱」を興しても「味方を集める事」と成ると、より「味方」を多く引き入れる為には、先ずは「格式社会」である限りは、「自分の格式の高さ/最終・正三位」の程度」であったからだ。
    然し、その「自分の源氏の頼政の最高格式」は「源三位」であって、「9つの縛り」を護らなかった「摂津源氏の格式」としては矢張り低かった。
    「清盛」に依って「源三位」にまでさせてもらって成ったとしてもその意味する格式は低く、その裏には「満仲の三代罰の事」があったからだ.
    流石に「一地方の摂津源氏」は、少なくとも身内に「四家制度」を造ってある程度は、「武装集団」も「道長の家来を借りての勢力」であった事から、大きく持たずに「寺侍程度」とし「9つの縛り」を護ったが、それでも乱を起して地方の武装集団を集めるには、矢張りそこには「伊勢青木氏の様な人」を集められる「高い格式とその財とその氏族の血縁集団・秀郷流一門」を味方に持ちたかったのだ。
    そうする事で「いざ戦い」となれば「関西勢の人」を集められると考えたのだ。
    そこで「伊勢と信濃」に血縁をしてでも求めて来たと云う事に成った。
    結論から応じなかったが無理に求めて来たと云う経緯である。
    それは「青木氏の格式」に有ったのだがその目論見は成功しなかった。
    それは、「上記の政治構造」の、「注釈の組織・二官八省一台五衛府制」」を造る上でも、間違いなく「三つの紛失の新撰姓氏禄の存在場所」は、既に知っていた筈でそれを「参考とした事」に成り得て、知らないと云う事は少なくとも無かった筈だ。
    そうでなければ、上記の「注釈の様な詳細な組織」は出来なかった筈であろう。

    注釈 律令制では、「従三位以上」を「上級貴族とした。
    「従三位」が「中納言」や「青木氏の近衛大将・浄大壱位」、「正三位」は「大納言相当」と成るが、「平清盛」はその「先き駆け」として「武士」として「正三位」と成り、最終的に「従一位太政大臣」と成った経緯である。
    「頼政の頃の時代」には位はより一段下がっていたので「乱を起す格式」は無かった。

    筆者は、ところがこれの「必要性」を政治的に認め「格式化を押し進めようとした三天皇」、即ち、「淳仁天皇・藤原氏外孫王・1」、取り分け、これを引き継いだ「施基皇子の六男の光仁天皇・伊勢青木氏の六嗣・2」と、同じ出自元である「嵯峨天皇・伊勢青木氏の曾孫・桓武天皇の子・3」の「三人の天皇」が、これに取り組もうとしたのがその表れであって、その「三人の意識」の内の「伊勢青木氏出自の二人」の中には、次の様な意識、っまり、“「過去・施基皇子」は、兎も角も、「白羽の矢の事件」で引き継いだ「天皇家継承の正統性を卑下する意識」”、又は、「天皇家としての格式意識の有無の疑義」がこの当時の社会の雰囲気として強くあったのではないかと観ているのだ
    当時男系継承者が直系で無かった故に、「淳仁天皇・藤原氏外孫王」も云わば「天皇に成った後の経緯を考察する」と、「臣下族の藤原氏の男系血筋」としての「天皇家の正統性を卑下する意識」は同様にあったのでは無いかと観ている。
    要するに「淳仁天皇・藤原氏外孫王」、の「新撰姓氏禄の取り組み」もここにあったと観ているが、その“「元と成った資料は果たして何処から持って来たものなのか」”の「疑問」が遺る。
    その“「元と成った資料」の記録は何処にも記載はない。
    筆者は、歴史的に唯一つ記録としてあるとすれば、そこで上記や前段でも論じた様に、“「施基皇子に依る全国行脚」の「撰善言集」にあった”と観ている。
    そもそも「必然的に全国行脚の行為」に依っては、これは「絶対に獲得できて知り得る知識」であり、又、知り得なければこの「撰善言集」も共に成し得なかった事に成る筈だ。
    これが「疑問の解決」に成るとすると間尺は合う。
    故に「撰善言集にあったと云う事」に成るに依って、故に「編者を中心とした者からの歴史に残る猛反対」もあったと成る。
    だから、この「三者共」に「編者・学者」からも含めて「隠して仕舞う程の反対」を受けていたと成る。
    この要するに、この「三者供の悉くの全ての学者たちの反対」は、此の「撰善言集の施基皇子の調べた元資料」を「許可なくいきなり使う事」に「抵抗を感じた学者的な正義感の反対」であったと観られる。
    この「元資料を仮に纏めるとした行為」は、元より「編者たちの仕事」であるし、今更の事で問題は無いし、[社会に格式を敷く」と云っても、これを嫌う反対の論調は、既にその前の「天武天皇や持統天皇や文武天皇」が進めた「八色の姓や冠位制度」などにもあって、兎に角も「貴族社会の反対」を受けても後に「社会」に充分浸透して進んでいる事実がある。
    故に「多少の反対」はあり得た事を承知していた筈で、この「歴史的経緯の記録」を観れば、もう一つは、仮に“それ以上の格式化は無理だとしての「反対」も考えられるが、「三人の天皇に関わった編者全員の反対」であったとすれば、「格式化だけの事」でも無かった”とする説が生まれる筈だ。
    とれば、それは一体何なのかである。
    従って、故に新たに上記した様に、此の“「撰善言集の施基皇子の調べた元資料」を、「許可なくいきなり使う事」に「抵抗を感じた学者的な反対」があった”とする説が浮かんで来る。
    然し、抑々、その「出自元の二人の天皇」は、「許可」を既に「女系化した出自元に求める事」は必要なしとして求めなかった。
    前段でも何度も論じた様に、「史実」には「出自元・伊勢とは仲が良く無かった事」が記載があった。
    だから「歴史書に載る程の仁明天皇の出自元への改善努力」があった。
    確かに、「青木氏出自の二人の天皇以外」には、それ以後にこの「格式化に取り組まなかった」とする「史実」があったすると、これは「前段の格式化に対する反対」は、そもそも「“潜在的に強くあったとする前提の上での説」と成り得る。
    故にその「反対の正体」が、“「新撰姓氏禄偏纂」”に起っていたと成る。
    何故ならば、人は自由のある社会体制求める事は、「配慮の中」で常にある事は認めなければならない。
    これはその範囲の反対であった事に成り、故に正式な発表と成り得なかった。

    そこでその後の「青木氏出自系の天皇」には、つまりは、「天智天皇」は「敏達天皇の春日王の同宗四門族・ぎりぎりの正統族」と成るが、その後に“「天武系」が「正統族派」として認められていた事”に成った。
    以上と「決めつけられた事」には、「正統系とする強い意識」には、二人には弱くする“未だ卑下が有ったのではないか”と観ている。
    “「青木氏出自」が、仮に「天智天皇―施基皇子の裔系系列」の中に確かにあったとしても、一度は飽く迄も「臣下した族」に下族した事であった”と云う理由の事に成り、当時としては、又、既に「臣下族後100年近く」も経ち、且つ、「徹底した四掟に基づく女系族」に成っているのにも拘わらずに、“再び“天皇系だとして戻る事”への「「強い反発感や不必要な劣等感」の様なものが、既に「青木氏族」に醸成していて、「臣下族一族の氏族」には逃げ惑う程に少しは未だあったのではないかとかとも考えている。
    所謂、当時には、既に“「正統派の天武系」ではないと云う劣等感”が存在していたと云う事だ。
    それはそもそも、“今更この時に「正統継承ではない白羽の矢の事件」で天皇に成り得た”とする「卑下らしきもの」が「青木氏族の出自の者6人等」に統一して潜在的に有ったと云う事を物語っている。
    「天武系の聖武期から孝謙期」に掛けて、“「正統な天皇継承者」が「皇族の中」に完全に絶えた事”で、「聖武天皇の跡目を継承した皇女」の“「孝謙天皇の突然の白羽の矢」で、再び「皇族列に引き戻された族」”と云う「周囲や社会の非難」とか、「怨嗟か嫉妬」とか、「権威性低下の主張」とか、が現実には強く世の中に起こった、又は非難の様な事が起ったのではないかと観ている。
    つまり「四掟での女系化」で、既に100年も経っているので、一族の者は“完全に天智系の皇族系を恣意的に外していた”と思っていたと云う事に成る。
    それが逃げ惑ったとする記録で証明している。
    何故ならば、この何処の「氏族も敷いていない掟・四家四掟四門」、つまり、これは当時は「中国で敷かれていた貴族間の慣習」であって、それが、主に「天皇家」とは全く無関係に関わりのない様にする為に採用された「四掟の相手の関東の押領使の秀郷流一族一門361氏内・母系族」と、「青木氏氏族の伊勢郷士衆50衆」の「二つの女系」の中で先ず固められて行われて来たからである。
    そもそも「血筋・血統」としては、「新撰姓氏禄」にも記載のある「最高格式の淡海一族」は、「四掟」としては採用していないものだ。
    そもそも、この事の意味する処は、ここでも「前段から論じている淡海族の中途半端さ」がここでも噴出していたと云う事に成る。
    その「淡海族」は、唯一の「天武系の直系族」であって、「男系継承」で当時としても引き継がれていた「後裔」であったのだ。
    それなのに完全に切れている「四掟の女系の青木氏」に、「白羽の矢」は向けられたのだから、この「白羽の矢」には何か“別の意味”を持っていた事に成る。
    この事は、前段でも詳しく論じたが、そうすると、この“別の意味”とは何なのかであって、その態々、「四掟」でブロックしていた「女系の青木氏」に向けられたのは、この「別の意味」とは、「表向き」は「天智系」とされていても「その青木氏の格式とその権威とその財」にあった筈だと成るのではないだろうか。
    それ以外に「天武系の直系族の天皇」としては「白羽の矢」に成るべき所は何も無い。
    然し、この「白羽の矢の裏の目的」の「財も賜姓の繋がり」も、「青木氏の出自の嵯峨天皇」は、更にこの「未完成姓の高い新撰姓氏禄」でも、これを世に出す以上はこの「青木氏出自の格式」を自ら切って仕舞わなかった筈だ成る。
    これが、「自らの出自先の最高格式を否定する事」で、「反対者を黙らせる目論見」であったかも知れないが、それでも「反対」は治まらなかった。
    そんな程度の問題では無かった事を意味する。
    「白羽の矢」の直ぐ後に、「天武系の直系族の淡海族が存在する中」でも、直ぐに否定して来た。
    この“別の意味の存在”の裏には、如何に、“「淡海族」が信用されていなかった事”が先ず判るし、その「行を物語る記録」も遺されている以上は知っていた事に成る。
    つまり、「嵯峨天皇」も、結局は、“この事”を腹の中では事前に認めていた事に成る。
    その“「青木氏」”を“賜姓から外す、つまりは、「新撰姓氏禄」から外す”のであれば、“「天武系の直系族の淡海族」に「賜姓」も「皇位族」も返せば良い筈だった”のではないか。”と判断できるではないか。
    然し、それもしなかった。
    それどころでは無く、前段でも論じた様に、“訳の分からない出自も格式も判らない前段で論じた「猶子の源氏族」に賜姓して仕舞っている”事だ。
    それ故に、「社会」は何とか容認するも「法的」には反対されていたものを、「青木氏出自の三天皇」には、無理やりにも、将又、「天皇系の出自肯定」の為にも、“格式化を強引に推し進めようとした”のではないかと後勘からするとその様に推測できるし、それも「社会に出し方」が悪い。
    「新撰姓氏禄」として「世に出す方法」が、普通なら「詔勅」として出すのが通常だが、これが「正式」では無く、意図して漏らしたのか、「編者等も含む反対者」の多い中で、且つ、「出す事」すらも含めて反対されていた中で、“世に出て仕舞った”と云う形になった事が「史実」だ。
    これを観て、“嵯峨天皇が強引に未完成の物を強引に出した”とする「研究者の説」が多くいる中で、その逸文や乱文や散文さんを始めとして整理が出来ていない姓氏禄の資料」の中では、そう成っているのだが、筆者は「強引」では無く、「嵯峨天皇が慌てていた事」から、故意にして“漏らして仕舞った”と云う事では無いかと観ている。

    注釈 上記の事は、遺された一部を観て見ると、「未完成と決めつけられている事」には、先ずこの「氏禄の範囲」は、「京と五畿内に住む姓氏」に限られている事だ。
    ところが、然し、これも「全て」では無く、それも“「編者自身」が反対していた様子”として、そもそもその「氏禄の序」には、態々、自らが“未完成である事を書きこんでいる事である。
    又、「編成」に於いてそもそも他に比較対象とするものがあって、それに対しての“新撰」”とする「意味」があるのだが、そう云う訳でも無く、全体的に“「編成」”そのものに「全体に乱れていた事」が読みとれる。
    何か他にあってそれと比較しての事なのか、何故に「新撰」としたかも判っていない。
    「撰善言集に対して新撰としてたとする説も生まれる。
    更に、世に「出す集」としては「極めて逸文が多い」とされる事だ。
    確かに、調べると「同じ表現」が一定せず「別の表現で書いる処」も見られ、「書」としては整理統一されていず、そもそも「未完成である事」が誰が観ても判るものと成っている事だ。
    此の様に「歴史研究者が論じている事」には筆者も賛成が出来る。
    個々に欠点を羅列して述べ立てる事の良し悪しは兎も角もどう見ても「乱雑と動揺」は認められる事は間違いはない。
    「青木氏の歴史観」を論じるにしても瑕疵はないだろう。
    当時は、「白羽の矢」と共にこの様な「新撰姓氏禄」は、「氏族の中」では前段の「源氏化や猶子策」などと共に、大きく揺さぶりを掛けられたものであり、「青木氏の歴史観」としてはこの様な「新撰姓氏禄」であっても論じて置かなければならない江戸期にも繋がる歴史観で重要な歴史観だ。
    前段で論じている事でもあるが、普通なら、論じる必要もない「資料的な程度の録」ではあるが「青木氏の存在」と関係していたので敢えてもう少し詳しく論じて置く。

    そして、「青木氏」は、「中国の制度」に習った「四掟一門制」を引き入れて、それを「伝統の氏是」として定めたが、その中に「古い系列の天智系を四掟一門の中」に「女系」ありながらも「全国に例を観ない程大きな氏族」として治めて、何とか「出自肯定・敏達天皇の春日王系の四掟一門」としてこれを確定させようとしていたのだ。
    「天智天皇の四掟」としては“「敏達天皇系の春日王系の四門族」”がこれに当たる事から「天皇家ぎりぎりの系列」としいたと観られる。

    現実にこの「史実」として、この当初は、この「白羽の矢」が「伊勢と信濃の青木氏」に当てられるより前に、この「天皇の継承者」に付いては数々検討されていた。
    「白羽の矢」が当たる前は、最も、「天皇系に近い直系族」としては「天武系直系族四掟の淡海族」が文句なしに先ずあって、それを始めとして、「藤原氏の外孫王の模索」や「出雲大社の子孫・末孫」から探し出したと云う「三つの経緯」があったとして遺っている。、これにも「推進派同士の政争を含んだ大議論」が起こり、結果として強引にこれ等の本議論も青木氏の白羽の矢に成る前には霧消させている。
    その事で「大政争」も起こっていたし、そもそも「淳仁天皇・藤原氏外孫王・舎人親王の七男・天武天皇の淡海族の直孫族」を引き出す事に一時は成功し「天皇」とは成るが、ところがその後に何故か「心変わり」した「孝謙天皇」に依って引き下ろされて、「淡路島・淡路廃帝」に「島流し」して挙句は「抹殺された上に廃帝の処分」を受けた。
    其処までもしなくても「廃帝」だけでも「目的」が達せられるのには「島流しを受け抹殺された上に廃帝の処分」まで受けての「白羽の矢」に成って行った。
    上記の所謂、筆者は、“「廃帝経緯」まで受ける必要が無かった”と検証されるが、逆に
    此処に、“それだけの意味があった”のであろう。
    当然に、「伊勢青木氏」に於いてもこの経緯に対して、それだけに「氏族の存続の危険性や大きな不安感」を感じていた事になろう。
    それは伝えられている様に「第四世族までもの伊勢の者ら」は逃げ惑った経緯と繋がっている。
    この“「廃帝経緯」”から、自分達にも何時何らかの理由を着けられて、“白羽の矢の族”には相応しく無い”として、又は、白羽の矢を飛ばすに当たって、邪魔だとして一族が何らかの形で“誅殺される事”も連想していたのではないか。
    それだけにこの「政争」の“「廃帝経緯」”は、周囲に恐怖の様な強い印象を与え、何時吾が身かと連想させ“恐怖の印象が強かった”と観ている。
    寧ろ、「理路整然とした政争」では最早無く、最早、全てが感情的に成って、“何をするか判らない行動にあった”のではないかと観ているのだ。
    だから普通ではない事が、“伊勢では逃げ惑った事に成った”と判断している。
    普通は伊勢中を逃げ惑う事は幾ら何でもしないであろうし、幾ら政争と云えど”馬鹿を装う程の事はしない”であろう。
    この事に持つ“「特別な意味」”が大きいと観ているのだ。
    それは、「伊勢」ではこの「孝謙天皇の人物感」に、“何をするかも知れない”として“余り信用を置いていなかった事”があったと観ていて、資料の分脈からそう読める。
    それは、前段でも詳しく論じた様に、その後の「伊勢の経緯」で論じた様に、“「伊勢での井上内親王の事件」”を観てでも「孝謙天皇の人物感」は良く判る。
    筆者は、“最も、「天皇家に近いとする資格」を持ち続けていた「天武系の淡海族」に、この「白羽の矢」を何故に当てていなかった事”に重点を置いている。
    「天皇家継承」と云えば、“先ずは絶対的に正当な系列”から始まる。
    そもそも、「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は、前段でも論じた様に、既に「女系化」を進めていた時期でもあって、この「淡海族」と違って多く「伊勢衆50衆の血筋」も取り込んで入って融合化していた時期」でもあったのだ。
    “どの様に考えても「白羽の矢」が飛んでくる”とは思ってもいなかったのではないか。
    故に「伊勢青木氏とその氏族」では「白羽の矢」では無く、「黒羽の矢」であったろう。
    だから正しい判断の“抑々の狂い”が、“「孝謙天皇の周囲」にはあった”と観ている。
    それ故に、此の最終的に「臣下した事」や「天智天皇の第七皇子・施基皇子」の「子と孫と曾孫」の「後裔族」と成ると、この「格式化」が叫ばれている中では、「その格式の影響」は「藤原氏の外孫王の時」に比べればそもそも「100年以上も経過」していて低く成っていた。
    且つ、そもそも「天皇と成り得る格式」は、“「基本とする帝紀」”からも見ても、その「資格・権利」は、既に確実に“「低く有しない事」”に成っていたのだし、誰しも考えていた筈だ。
    努々、「伊勢氏族」は少なくとも考えていなかったと考えられる。
    そうでなくては、そもそも“「商い」”は真逆の事である以上は出来なかった筈だ。
    「淡海族・近江族」は、勿論の事、「信濃族や美濃族や甲斐族」も上記の様に、「帝紀」に沿って「血縁性の考え方・現実」に「乱れ」があった場合には、「白羽の矢の対象」と成り得ていたと考えられる。
    取り分け、上記した「近江族の佐々木氏」は、勿論の事、「甲斐族」は別として、前段でも論じた様に“「美濃族」”も、「王位継承から外れた多くの皇子族を殆ど引き取っていた経緯」から観て、適当な理屈を着ければ「血筋格」と云えば「血筋格」であって、「伊勢や信濃の青木氏」よりもあった筈である。
    況してや、「白羽の矢」を期待していた点でも、「嫌っていた伊勢の青木氏」より「美濃族」にもあった筈だ。
    現実に「其の後の行動」に於いても、この“「美濃族」”は「時代の経緯」としても現実には其の様に振る舞った。
    その意味では、期待していなかった「光仁天皇・追尊白壁王」は、実に「やりにくい所」はあったと考えられる。
    その「意味」で「伊勢」に「白羽の矢・黒羽の矢」が飛び込んで来た事には理解できない事が今でもあるのだ。
    それは、最早、明らかに「天皇家の理屈・伝統・帝紀思想」が崩れていた事に成り、故に「天皇家の理屈・伝統以外の処」で決められたと成る。
    故にこの点を突き詰めれば、論理的には“他の者に無かったものに「焦点」が充てられていた事”に成る。
    それが、特別に青木氏が持つ“「格式と権威とその財」”であったろうし、「その白羽の矢の理屈」は最終的に「青木氏の財」による「内蔵を潤す事」にあったと成る。
    その意味では、格式は疑うべきも無く充分にあった事に成る。
    そもそも、「天皇家」が「白羽の矢の理由」を「内蔵を潤す事」にあったと立場上は云えない事に成り得ていて、それ故に前段でも論じた様に“「前提と成り得る過去の格式」”は別であったと観ている。
    当時の先祖達は、公の歴史には記録されないが、「青木氏の範囲」ではこの事を充分に理解していた筈だ。
    それ故に、「前段で論じた嵯峨天皇の行動」は、“世間の間尺に合わない行動を採っていた”と云う事になる。

    仮に「帝紀」や「大化基準」に基づき比べるとすれば、「純仁天皇・天武系の舎人親王系―皇位継承権有」>・・・>「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の数式論である事には間違いは無く、従って後に上記した「定まらない政争の中」では、「青木氏出自の六人の天皇」も「後刻の天皇」に依って「形式上の廃帝の処分」に成る可能性が未だ十二分にあった。
    ところが現実に「廃帝の憂き目」を受けた「外孫王の淳仁天皇」には、「藤原氏系外孫王であると云う欠点」のみで、それは「当時の仕来り掟の中」では無く、結局は「社会」はこれを如何見るかに成っていたのであった。
    この結果の「淳仁天皇」は、この「自らの欠点」を補う為に「格式化」を造ろうとした為に周囲から猛反対を受けながらも「最初の新撰姓氏禄の作成」に取り掛かった。
    然し、「周囲の全ての層」からの「大反対」を受け、それを押してでも矢張り無理に編纂しようとしていたのだが、遂には、その為に“それをされては「権力の移動が起こる事」を懸念される”として、“これは拙い”として一度退位をさせられて仕舞しまったのだ。
    そして「淳仁天皇に権力移譲」をしていながら、突然に「退位した筈の孝謙上皇」に依っては、「淳仁天皇の新撰姓氏禄の作成」も「天皇自らの立場」に対しても、「政治権力の無い上皇」から“思い掛けない反対”を受けて仕舞って、遂には「廃帝」とされた。
    この経緯を受けて、これを観た「編者の三人」も類が及ぶとして皆逃げて仕舞い失敗する事と成ったのだ。
    この事からも「孝謙天皇・上皇」も、兎も角も、此の様に、又、“世間の間尺に合わない感情的な行動”を採ったのだが、政敵は同じ出自であっても、「光仁天皇や嵯峨天皇」と「他の同じ出自の四人の天皇」から「廃帝の憂き目」を受ける可能性は無かったとは言えない。
    何故ならば、それは「桓武天皇・平城天皇・仁明天皇・淳和天皇の同じ出自の四人の天皇」から「格式化に対して猛烈な反対・政争」を受けていた事から、「上皇」に成っていたとしても「帝紀」に沿わずこの前例がある以上はこれがもう一つの「帝紀の基準」と成り得て、「廃帝の危険」はあり得たのだ。
    現に当に、「平城上皇」は「病弱を理由」に一時は譲位したとしても「病気は癒えた」として「嵯峨天皇の格式化・新撰姓氏禄偏纂論」に異論を唱えて来た。
    この為に「政争の場」だけでは無く、「伊勢青木氏」と同然で、“世間も何が災いとして飛んでくるか戦々恐々としてびくついていた”のではないだろうか。
    「信濃青木氏」のこの時の事を調べたが、「淡海族」には関係する処から読み込めば判る記録がある事は兎も角も、この時の事に付いての「詳細に記録や読み込める資料」は何も無く良く判らずにいた。
    精々、「伊勢からの資料」に頼るのが現状で、恐らくは“有るのは有る“と観ていて、現在に於いては幸いに「研究が始められた事・公表」は判っていて、あまり広範に進んでいないのが現状と考えられる。
    なかなか時代と共に難しくなっているが、兎も角もこの「研究」を待つ事にする。
    筆者の歴史館的な印象では、伊勢と血縁も深く関わり経済的にも深く関係していたにも関わらず「信濃」には云わばこの件に関しては、それなりに“蚊帳の外”では無かったかと考えられる。
    通常なら五家五流の一つである以上は、「話題の記録}には「記載」が有っても良いだろと思われるが、何故かそれなりのものは未だ無い。
    何故なら、「伊勢」と“婚姻を進めている事”が「曼陀羅帳」でも判る。
    それだけにこの件に関してはある程度に「信濃の余裕」が観られたと云う事だ。
    一方で、だから「伊勢」も“「信濃」と同じ”と考えがちであるがそうでは無かった。
    「五家五流」が創設された時の「信濃王」は積極的に前に出るタイプでは無く、「伊勢王とタッグ」を組んで生きて行く家の性格と云うか家の戦略でもあった。
    この「信濃の生き方」はこの「源氏化」が進んでも全く崩さなかった。
    当に「施基皇子が定めた氏の生きる行動指針の掟」、即ち、「青木氏の氏是」に相当していた様な気がする。

    注釈
    その比較対象として同時期の「三野王・美濃王」は、積極的に「天武天皇」に近づき、その“持前の優れた才格”を発揮して重用された。
    その為に「冠位」は「小紫」までの詰めて長くその位に扱われた。
    天武天皇在任中に、「帝紀」と「古事」を纏めて遺したが、これを更に「舎人親王」に命じて「日本書紀の編纂」となったが、此の「三野王」は他の者等12人の先頭に居て「各地の情報を集める事」を命じられて達成した。
    その中には、何と「信濃王」が存在しながらも、これを無視してでも足元の「信濃の地形」など「信濃国全体」を調べる様にこの「三野王」は命じられており、それを調査して報告していると云う才能ぶりを発揮している。
    然し乍ら、この「信濃」を与えるかの様にして命じておき乍らこの「三野王」に与えなかったと云う経緯を持っているのだ。
    普通ならその記録に遺る功績から観て、そうしていたであろう事が厳然として判るが然しそうしなかった。
    何故かであるが、それは片方に比べようもない位の“「伊勢の力」”にあって、「記録の状況証拠」から「伊勢と深く血縁関係に有った事」で出来なかったのだと観ている。
    「新都の設定」の「候補地の各地の地形等の実情調査」にも派遣してこの「三野王」は大いに貢献した位である。
    「三野王」も官僚と同行して、何度も「信濃国」に遣わされ、「遷都」に必要とする地形等を調べたとある。
    この「才能ある功績」を評価され、これが次の「持統天皇」にも評価され、何と「三野王」は破格の「浄広肆位」に破格に叙され、人にも良く知られる様に成った。
    そして最後は「筑紫大宰率」にも任命され大出世した。
    此処に記している内容には実は大きくある意味を持っている。
    それは対比される「信濃王」が、朝廷にどの様に評価され、一方、「三野王」はどの様に朝廷に評価されていたかは判る史実でもあり性格も判る史実でもある。
    この時、「二代目伊勢王の施基皇子」も居たが、この史実の計画には出て来ないが、負けじと劣らず「別の朝廷の計画・政治構造の改革」に先頭切って「律令の基本造り等」に専念して記録にもその功績として「飛鳥浄御原令」を先ず完成させた。
    其の後にこれに代えて「施行」に最終は「大宝律令」に持ち込んでいるし、改善した「養老律令」にまで発展させた。
    その「努力」が詳細に「全国を行脚して各地の律令を造る上での参考資料」を集め、最終は「大宝律令の基本」と成る“「撰善言集」”を完成させ、「天武天皇」に提出し報告した。
    その前に、「下記の事」を理解する上で知って置く必要のある大事な事がある。
    先ずそれを先に論じて置く。
    つまりは、ここにはこの“提出し報告した”とする「記録の文言」に意味があって、“それが「自前嗜好の考え」で編集した」と云う事では無く、「因事菅隷」に基く提出、又は、「特別令外官」に基づく提出、又は、「賜姓五役」よる提出の何れかであるが、この場合は、「記録の示す状況証拠」から間違いなく「因事菅隷に基く提出であった事」が判る。
    それは、「全国行脚」と言う言葉に「判断の元」がある。
    そもそも「施基皇子」とも成ると、「個人の事」で、都を離れ役職に大きな空間を造る事はあり得ず、「施基皇子の立場・浄大一位の者」が、勝手には持ち場を離れる事はあり得ず、格式上、「太政官の命令」は「格式上の上位」である以上は、届かず、間違いなく「因事菅隷による天皇の正式命令である事」に成り得る。
    既に「賜姓臣下族・647年」で「官吏」では無い立場の者に、「官吏」を超えて「重要な意味のある命令」を出した上での事であった事を意味する。

    注釈
    「日本書紀」の「巻第三十」による記載にもあるが、「善言という書物・逸話集」を編集する官職として、「689年」に、「施基皇子・57歳」に「随行者」として「7人・文官」を任命して発足させたとある。
    その目的は、「中国の南朝宋范泰」の“「古今善言」”に習ったとある。
    初期には「皇族や貴族の修養に役立てる教訓的な史書」を作ろうとしたものであるとされたが、後に、「皇子の教科書」にも用いらると云う事が起った。
    その「目的」は要するに広範囲に及んでいた事を物語るものだ。
    それが後の「新撰姓氏禄の偏纂」にも「元資料」として使われる様に成ったものだ。
    「記録」によると、初期には「641年から670年頃」までに「国内で起こった逸話や天皇などの遺言や逸話などを纏めたもの」を集めて、それを先ず「記録に遺そうとする計画」が起こったが、ところがこの「収録作業」は「目的範囲の非弱さ」により続かなかったものだ。
    結局、この計画は解散と成ったが、そこで、その「施基皇子の撰善言集の一部」が「天武天皇の皇子の舎人親王」に渡り、「日本書紀の偏纂」としても、更には主に「帝紀」にも使われたとする説もある。
    そこでその経緯は、一方でこの「教科書の解散」の後に、「天武天皇」は、この「正式な偏纂を改めたもの」を、それも“「身内の限定した範囲」”では無く、本腰を入れて「全国的な内容」にまとめたものを造る様に「伊勢の施基皇子」に命じた。
    其れには「律と令の法体系の元」と成るものをも期待したとある。
    それだけに「その取り組み」は「歴史を変える程」の「全国規模の詳細な物」と成った。
    従ってこの「撰善言集」は調査初期からどんな物にも活用できる物と成っていた。
    この「青木氏に関わる経緯」を歴史観として知って置く必要がある。

    さて、元に戻して、故にこの「撰善言集の報告」を得てのその後に於いては、初めての「日本の法体系の基本」と成る「飛鳥浄御原令」を先ず完成させたと成った。
    其の後に「撰善言集」を基本にした「飛鳥浄御原令」のこれに代えて施行した「大宝律令・701年」が纏められた。
    そして、「施基皇子死後・716年」に、其の後、これを基に「施基皇子死後41年後」の「757年」に「養老律令」が完成して結実する。
    このそもそも「基本と成る大宝律令」であり、更にはこの「養老律令」をも見直しているのだ。
    此の様に「施基皇子」は、他にも「内蔵任務、賜姓五役、因事菅隷、院屋号、特別令外官」「殖産業任務」や「貿易業任務」を持つ等して、「経済面」にも比較する者がいない程に大きく「内蔵の役割」と「斎蔵の役割・神明社等」をも兼務して「青木氏の役務」を果たしていた。
    そして、この「全国行脚」で、それまでに「全国の族の纏められた資料」が、これ以前には記録として無く、これで集められた「資料」が、「撰善言集の資料」の基の中に「各地の族の在り様の判明」が付随してあった事が判ったと成ったものであり、それが「編者たち・学者」の「新撰姓氏禄偏纂の資料元」と成ったと云われている。
    ところが、その「施基皇子の姿勢ぶり」は「氏是の通り」で、「天下の名だたる歌人」でもあり「周囲の怨嗟」にも配慮して活動し、比較できる者が無い程に「別格の文化人」でもあって尊敬されて扱われていた。
    それ故に、資料によると「伊勢郷士衆」にも「氏上さん」と呼ばれていたとある。
    又、「政府の部経済の差配頭・内蔵」として、その「財」は「巨万の富」を獲得して「朝廷の屋台骨頭」を担っていた。
    当時の実力は「別格者」でその「氏族の大きさ」も「比べる者」は居なかったとされる。

    余談だが、上記の、「撰善言集」を基本にした「飛鳥浄御原令」のこれに代えて施行した「大宝律令・701年」が纏められたとあるが、これも施基皇子の提案によるものが大きかったと観ている。
    これだけの「三つの書籍の完成」に「撰善言集が貢献した」とすると、周囲は無視する事は出来なかったのでは無いと観ている。
    何せ上記した因事菅隷や賜姓五役等の役務の実権を持っている以上から観ても無視する事は出来ないであろうことが判る。

    さて、話を元に戻して、この「屋台骨を担う施基皇子」と「美濃で精いっぱい生きる者」との差であった。
    この「万能の施基皇子」に、例え「三野王」であっても肩を張って並べて来る者は居なかった筈な。
    この「別格の施基皇子」は、「浄大壱位と云う天皇に継ぐ冠位の格式」を持って行動されれば、最早、「怨嗟など以て抗する者」はいなかった筈だ。
    それ故に、何の計画にも参加しなかった「弱い信濃王」は、この「施基皇子の伊勢王」を頼って深く血縁し、「伊勢」と共に“「皇女族」を多く引き取る事」と成り”、そして“「女系の一族化」して生き延びる事”を選ぶ事が出来たと云える。
    それも「当時の天武期」としては、これも否定では無い「青木氏族の一つの生き方」であったろう。
    そして、歴史的に後勘から観て、この“「皇女族を多く引き取り”の策の事」に「大きな意味」を持っていた。
    “「皇女族」を多く引き取り”は、「伊勢」と共に女系化するも、当時としては、“より皇族に物を言わせぬ策”でもあったと考えられる。
    要するに世に出て強く成るか、内に秘めて強く成るかの違いにあったと考えられる。
    “内に秘めて強く成るか”は、それは「氏族の辛抱」にあったと考えられる。
    それが、その「信濃の裏打ち」をしたのが、「三野王」では無く「伊勢王」であったとも観られる。
    この「信濃」に執っては「隣国」であり「積極的で有能な三野王に近づくと云う策」も充分にあったと考えられるが、「伊勢との繋がりがあった事」に此処に「意味」があるのだ。
    唯、一説では、゛「積極的な性格の三野王」には、“「信濃国」をも掌中に入れる”と云う考えがあったとする説もある。
    ところが「筆者」はこの説に賛成している。
    何故ならば、「天武天皇の大友皇子との政争・壬申の乱」の時に、一時、「大海人皇子」は「三野王・美濃に向かった」を頼っている事もあって、「信濃の件」は“無視するほどの事では元よりなかった”。
    確かに「天武天皇の三野王に対する命令」は其の様に観えている。
    何故ならば、「信濃国」には「遷都案が出ていての調査であった事」からも考えられる。
    ところが、「持統・妻で妹や伊勢王等の政治的な意見」がそれを阻止させたと観ているからだ。
    「伊勢王」と違って「三野王」は、「大津皇子の乱を乗り越えた天武天皇」を「政治的に動かす政治力」はそもそも無かったし、唯の追随者に過ぎなかった。
    ところが「伊勢王・浄大一位・最高位」には、「天武天皇の妻で後の持統天皇・姉」がいて「妻として天武天皇を側面から発言して政治を動かす力・持統天皇として天武死後に動かす」も「史実」としてあったとし、「兄の天智天皇の第七位皇子としての立場」を無視する事も出来なかった事も、前に一歩踏み出せない程に「三野王」には「圧力」と成っていた事であろう。
    現実に「施基皇子」を「天武天皇の皇子」の一人として「川島皇子・天智天皇の第六位皇子」と共に扱われていた。
    「三野王と信濃王と伊勢王の夫々の立場」が「歴史史実」として比較して観れば、如実に書き遺されているのだ。
    それだけに「継承外の皇子族」を多く受け入れて、「三野王の発言力」を高めようとしたのもその一つであると観られる。
    現実にしてみれば「堅実にこの継承外の皇子族を多く受け入れた策」は通常では「絶対的な強味」であった筈である。
    その証拠に「天武天皇の大友皇子との政争・壬申の乱」の時に、一時、“「三野王・美濃に向かった事”がそれを物語っているのだ。
    「妻の持統」は、流石に「美濃」に行かずに「適当な理由・疲れた」を着けて「兄の伊勢の桑名」に留まったのだ。
    寧ろ逆に、“「皇女だけ」”を引き取る事に、“「妹の持統」が大いに評価していた事”を意味する。
    この事は「三野王に対する一つの意味」をも歴史観として持っていた事だ。
    この事でも「三野王と天武天皇の妻の持統との立場関係」はあまり良く無かった事が記されていてこの事が良く判る。
    然し、それでも「伊勢王」は、逆に、“「皇女だけ」”を引き取りながらも、上記した様に、“それを遥かに超える力”で「三野行」のそれを阻止していた。
    その背後に「信濃王が付き従っていた事」に成る。
    歴史を観ても[伊勢王の施基皇子・668〜716とその裔系」に「青木氏の氏是」を定めていながらも、「政治力と格式と財力と権力に勝る者」は、「他の1000近い氏族」には以後平安期末期まで出て来ない歴史観だ。

    注釈
    「三野王」は「天武天皇の治政」に、所謂、「皇親族」として参加して信頼を獲得していたが、政治的に調べて観ると、それは「673年から686年の期間・天武期」に限定されていて、ところが、突然に「690年から697年・持統天皇」に成って、この時は、要するに「持統天皇の治政の時代」には、「三野王・708年の存在」は“「皇親族」”しても、且つ、「政治の場」からも何故か確認できない。
    明かに恣意的に「政治の場」から遠ざけられている。
    これの前兆が歴史の史実の中では、“天武系側が戦況不利となった「壬申の乱」の時の「三野行向」”の時に、「妻の持統一行」が、「兄の施基皇子の誘い」により「桑名」に留まって「三野行控えた事」の史実に通じ、これは、「天武後の政治の場」から“持統天皇から遠ざけられたもの”であり、ここで「三野王の皇親族の期間」はその歴史は終え歴史上から故に消えている。
    先ず儀礼的に「兄の伊勢」を無視して通り過ぎる訳にもゆかず、兎も角も“挨拶代わり”に「伊勢桑名」に“立ち寄った”ところ、それは“立ち寄った”のではのでは無く成り、説得に依って“留まった事”であって、それは正しく“「施基皇子・716年」に忠告された事”は間違いはない事である。
    それは「戦況劣勢の中」で、“「三野」に定住するかも知れない”とする「大海人皇子の逃避行」であって、場合に依っては、二度と会う事が出来ないと成れば先ずは「兄の伊勢桑名」に心情的にも立ち寄るだろう。
    そこでの“立ち寄った”ところから、それは“留まった”事に成ったと観るのが順当な経緯論としての歴史観と成るだろう。
    その理由が優れていて、其れは史実から“疲れた”とする記録であって、「三野逃避行」は当初から当然の事である筈である。
    「立ち寄る」のであれば、「大海人皇子」も「伊勢に立ち寄る」であろうがそうでは無かったのだし、「施基皇子」は
    「大海人皇子」よりの歴史的に記録にある様に中立を保っていた。
    「立ち寄る事」は何の問題もないし、寧ろ、「皇親族」の中でも段突のキーマンとも成っていた施基皇子なのだから、“味方と見せて置く為にも立ち寄るべき策”であったった。
    ところが、側を通過していながらも立ち寄ってもいない。
    「政争相手」が「天智天皇大友皇子」である事から「施基皇子」も同じ「天智天皇の皇子」である事を懸念したとも取れるが、そんな事を云えば妻の持統もそうである。
    史実として取り分け「施基皇子」は、「川島皇子・密告者」と違い「大海人よりの中立的立場」を保っていたのだ。
    その為に、それは上記した様に、“説得により留まった”事に成ったと観るのが順当な経緯論としての歴史観と成るだろう。

    注釈 「大津皇子と草壁皇子」は政治的に同格にて、「草壁皇子の皇位継承権」は無く成ったが、天武天皇崩御によって「大津皇子の親友」だった「川島皇子の密告」で「元皇位継承者と成っていた草壁皇子」によって「謀反」として「大津皇子が捉えられた事件」である。

    注釈 壬申の乱の経緯
    672年、近江宮山科で天智天皇は崩御した。
    「太政大臣」と成って「大友皇子」が後継者として定まる。
    この時、この事に依って「大海人皇子」は「吉野」を出てから、何と禁令の“「伊勢」の「名張」を焼いた”とあり、これは「謀叛の印と成った事」である以上は、「伊勢王の配下」の「名張郡司等」は意を汲んで「「大海人皇子」に同調する出兵を拒否した」とある。
    ところが、この時、「禁令破りの謀叛者」と成って「形勢不利」の中で、「大海人皇子」は、「伊勢、伊賀、熊野」を先ず通過して、そして上記の「三野」に入って「態勢」を立て直し「周辺の豪族」を次々と味方に引き入れて形勢を立て直した。
    この「勢い」で再び都に向かうとある。
    この「勢い」で再び「禁令の不倫」を犯して「伊勢伊賀」に入り、ここでは遂には「伊賀郡司」は判断した。
    「伊勢王は中立を宣言」しているので「伊賀郡司・伊勢王代理」を「味方」に引き入れた事に成り、「謀叛者の汚名」は消えたとし、ここで正式に「継承者としての態勢」を立て直して再び「近江の都」に入る事に成ったとある。
    「伊賀郡司・伊勢王の代理」を「味方」に引き入れた事で「伊勢神宮参拝」が叶う。
    要するに、この事は「謀叛者の汚名返上の仕儀」は「伊勢にあった事」が云える。
    どんな人物でも「伊勢」で「大儀を獲得する事」が必要であったのだ。
    その意味で、この経緯と成る為にも、「持統を桑名に留めさせる事」が是非にも必要であった。
    「持統が伊勢に留まっている事」で、「大海人皇子は伊勢を攻める事」が出来ず、更には「謀叛者汚名返上」と「継承者のお墨付きの獲得」もこの「伊勢」で逆に成し得た。
    これは「伊勢」とは、そもそも「伊勢神宮が存在する以上」に「天智天皇」に依って定められた「不入不倫の権」を持っていた。
    これがある以上は、この“「不入不倫の権」”は、この「字ずらの意味する処」は、そこは「神が存在する地」として、“「攻めたり税を採ったりとする事」を禁止する事”のみならず、それは”普通の事では無いとする不可侵の裏の意味”があって、それが「神」を意味していた。
    唯、“此処には神がいるよ”と直接云うよりは、“それを思わしめる事”に意味があるのであって、“故に神の宮が存在するのだ”と戒めている事になる。
    これは「韻訓の古来の戒め方」である。
    それ故に、「大海人皇子」は、「行きの名張」ではこの事に反して「火付け」をしたが、「帰り」のここでは「施基皇子」に「行動」を戒められ諭された。
    それを戒めたのは、「施基皇子だから」と受け取って、天武天皇が「皇位/」に着いたそれ以後は、「施基皇子」を「特別扱い」をしたのだ。
    「川島皇子の経緯」と比較すると「施基皇子の経緯」の「あり処」がこれで良く判る。
    「施基皇子」は「兄の天智の皇子」であったが、「自分の皇子」に加えると云う“特別の扱い”をし、其の上で「天皇に継ぐ冠位」の「永代浄大一位」に叙した。
    此の事でその扱いが良く判る。
    これには「意味」を持っている。
    “「伊勢」の「名張」を焼いた事”は、上記の意味で「施基皇子」は驚き、「持統」を「伊勢桑名に留め置いた事」と成った。
    「留め置く事」で「天武を伊勢」に戻させて「謀叛者汚名返上」と「継承者のお墨付きの獲得」を「伊勢」で「天武・大海人皇子・702年没」にさせた事に“「この意味の経緯」”と成る。
    それ故に「天武天皇」は、中立を保っていた「施基皇子・716年没」を、その後に前段でも論じた様に、“諭してくれる自分の兄”の様にも慕い、“「持統と自分の死後の葬儀委員長・造御竃長官」”にまで指名して重用する事に繋がって行くのである。
    此の生前に「自分の葬儀委員長・造御竃長官」に任命すると云う行為は、そもそも“何者にも換え難い信頼感”を示している事に成る。
    そこで本論に戻して、ところが、「施基皇子の事」のこの“「生き様の評価」”に、「反対説」を唱えて「源氏化説」を「イメージ良く推奨する歴史家」も居る。
    然し、「上記の経緯論」を検証すればそうでない事が良く判る。
    又、合せて「三野王の説・土岐氏」を特段にクローズさせている「土岐氏論の歴史研究者」も、常套手段として“「施基皇子の反対論」”を敢えて唱えている事をも知って置く必要がある。
    その意味で、当時の「対比する市原王の無様さ」も明確に説いていて「川島皇子の裔の近江佐々木氏の論」は、史実に基づいていて、「自らの後裔」に関連してそこから「青木氏の事」も正統に説いている。
    これらは「青木氏の歴史館」としてこの事も知って持って置く必要な経緯である。

    さて、そこでこの特徴ある「五家五流青木氏」の「生き様」の中でも、「三野族や淡海族」の様に、「皇親族を利用する族」を政治的に利用して「一族の格式と勢力」を高めようとした「族・A」と、「伊勢族や信濃族」の様に「皇親族の中」に居ながらも、「一族の格式と勢力」を敢えて高めようとしなかった「族・B」とに分かれる。
    そして、この「族・A」は「源氏化に走る族」と成り、「族・B」は「9つの縛りを護る族」と成る。
    「族・A」の「源氏化に走る族」は、「新撰姓氏禄を求める族」と成り得たのだし、逆に、「9つの縛りを護る族」は、「格式化に繋がる9つの縛りを護る族」であって、「新撰姓氏禄の高い格式」」を元より保有しながらも「女系化」を図り、結果として「受け入れなかった族」と成った。
    要するに、「族・A」の「源氏化」に対して、「族・B」の「女系化」で、「源氏化」は男系継嗣である故に、元より「女系化は無理であって、「源氏化と女系化の対立軸」を執っていた事に成り得ていた。
    これは「不思議な歴史的な現象」である。
    「族・A」の「源氏化」に対して、「族・B」の「女系化」であって、「族・B」には「猶子の現象」が起こらなかったのだ。
    「族・A」の「源氏化」で「家の格式化」を図ろうとしたが、結局、前段で論じた様に、“「猶子策」”で逆に「家の格式」は低下させて「乱れると云う現象」を起した。
    一方、「族・B」の「一定のルールに基づく女系化・四掟四門」である以上は、「家の格式」は「始祖の格式」で「一定を保つ事」に成って「乱れると云う現象」は無かった。
    そこでさてこれは何故なのかである。
    それは簡単な事に「男系と女系の差」にあった。
    先ず、「男系」は「多くの特定されない女性・A」から「男子・A」を産み特定し、その中から「継承者」を定めて分流させ、それが再び「非特定の女性・A」から「男性」を産み出すと云う「繰り返しの継承方法」である。
    ところが、「青木氏等が敷いた女系」は、「特定・四掟」でその「女性の範囲・B」を特定し、そこから必ず「女性・B」を求めて、その「特定の女性・B」らが産んだ「男子」が「継承する家・四家を継承すると云う継承方法}であり、この「特定の男子・四家」は他から求めない。
    要するに、「四掟の範囲の女性族・元は四家の女性」と「その女性が産んだ四家の男子」の「婚姻・一種四家での同族血縁族」である。
    依って「血液」は「四掟四門の範囲」に小さく限定され留まり、人種に必要な「新しい血液の介入」は「相手の四家先・女性は元は青木の四家の女の娘」から受け取る事に成る。
    現代医学に於いても「女系族/人間遺伝子の女性継承」にだけ「人間のミトコンドリア」を引き継いでいる事である。
    この事から「人の本種」は変わらない理屈である

    注釈 そこで前段でも少し論じた事であるが、その「女系化の論理性の有様の理解」を深める為にもう一度、「ゲノムの塩基配列」で詳しく論じて証明して観る。
    そもそもこの「染色体」とは、「塩基性の色素」で染色して観る事が出来る事から名づけられたものである。
    これが「細胞分裂期」に「棒状の構造形態」を示すが、この時のものを云うが、「ミトコンドリアのゲノム」をも含めて「染色体」とも云う。
    そこで、そもそも先ずこの「染色体」とは、「22種類の常染色体」と、「XとYの2種類」の「性染色体」に分類される。
    此処で論じるのは、この「XとYの2種類」の「性染色体の事」を論じる。
    そもそも「核を持たない赤血球」をのぞき、“「体細胞」”はこの「2倍体」で細胞分裂する。
    「同じ種類の常染色体」を「2本ずつ」を持ち、「性染色体」も「2本」で構成する。
    ところが、その構成形の「女性」は、「XとX」の構成とし、「男性」は「XとY」と構成の異なるもので構成する。
    此処が重要である。
    そして男女に「合計46本の染色体」を持っている。
    ところがこの「生殖細胞」は、「2倍体の体細胞」と異なり、「1倍体」であり、「常染色体」を「1本ずつ」と、「性染色体」も「1本ずつ」の「46本中の「合計23本の性染色体」を持っている。
    つまり「1細胞」当たり「約2000個程度」含まれている事だ。

    例えば「女性のXとXの構成」としては、「最大で2000以上の種」に分類されると云う事に成る。
    「性の異なる二つの生殖機能」の多くは、「二倍体 (2n) の体細胞」 と「一倍体 (1n) の配偶子」を持っている事に成る。
    そこで“「雄由来の配偶子イ」と「雌由来の配偶子ロ」”が受精すると、「イ+ロの二倍体の体細胞の接合子、即ち,受精卵ニ」を持つ事になる。
    この原理で、「体細胞分裂」を繰り返して「1個体」をつくりあげる。
    すなわち、この原理で行けば「二倍体の体細胞」を有する。
    この「2セットの相同の染色体」の内、「1セットは父親」から、もう「1セットは母親」からに由来する事に成る。
    「雄雌の二つの染色体」で構成される事で「2Nの二倍体の体細胞」が出来る原理である。
    比較参考に、「一倍体の配偶子」を造る為の「特殊な細胞分裂」は、「減数分裂」と呼ばれる。
    この「減数分裂の過程」では、「母親と父親」に由来する「同じ染色体」は、「交叉して細胞分裂」を起こしてこの時に「遺伝情報を交換する事」に成る。
    この様に「片親からの染色体」をそのまま「次の世代」に渡すのではなく、「世代を経るたび」に、「常に新しい遺伝情報の組み合わせた体」が幾らか渡され造られる様に成っているのだ。
    従って、故に「カタツムリの様な無性生殖で増殖する種の多くの染色体」は「1セット」しか持たない原理と成る。
    ところが「有性である人間」の場合は、「男性の持つX染色体とY染色体」の「二つを持つ配列」は、「その大きさや遺伝子の位置など」が異なる。
    「Y染色体」と「X染色体」とが異なる事から、従って上記の男性の「減数分裂時の遺伝子の組み換え」は起こさないのだと通常はされて来た。
    ところが、当初、「有性の人間の場合」は、この「減数分裂」で無いので「変異しづらい不活性なもの」とされて来たが、これを「覆する研究説」が現在に於いてこの説が生まれて其の事例が発見されている。
    つまり、男性の「Y染色体」においても、何と「X染色体との自然交叉による乗り換え」が起こっていると考えられている。
    つまり、「男性のY染色体内」で、「自身の遺伝子の位置が入れ替わっている事」が明らかになって来たのだ。
    実際には、“起さない”と考えられていた「男性のY染色体の変異」が、比較的に頻繁に起きている事が判って来たのだ。
    つまり、「女性のX染色体との交叉」を起さない場合でも、「男性のY染色体の変異」で、「女性のX染色体との交叉」に代わって、独自に興すと云う事が解かれる様に成った。
    これは俗に云えば、直接に「女性が少なく成った事」、又は、「激しい気候変動の事」で、「人口変動」が起こり、それをこの「ゲノム」が察知して、それを補う為に「ゲノム」で「性的」に察知した為に、「起る筈の無い変位」の「男性のY染色体の変異」が起こったと云う事に成る。
    そもそも、当初は「二倍体の体細胞」の「男性のY染色体」は、子孫存続が難しく成った為に「一倍体の女性体X X」から、「細胞分裂」して「男性体のみ」を外に生み出していた方法から切り替えて、「子孫存続の為」に選んだこの「男性の生殖方法」を「女性の機能」から特別に外に切り離した。
    その為に本来は「二倍体の体細胞の分裂」を興して「無精の自然交叉」をして「女性のX」を「Y」に特別変位させて「雄の媒体」を作り出していたも。
    それ故に、その「Y」が独自に元のXの女性に変位させたとする現象である。
    現在では「部分変位」で留まっているが、故に何時しか「無精の交叉」が起こることが予想されている。
    更に「女性が少なく成った事」、又は、「激しい気候変動の事」で、女性の人口減少が更に進めば何時しか「無精の交叉」で完全変位が起こる事が予想される。
    「男性から女性化が起こると云う事」を示唆している事に成る。
    兎も角も「子孫」を遺す為に「男性の遺伝子」がその役を一時的に仮に務めると云う事である。
    要するに、これは「女性の男性化」か「男性の女性化」であるが、これは「ゲノムの女性のXとXの配列」には、「XとXの配列」である以上は、そもそも「同じ塩基配列」である以上は、「変位性が無い事」から、「男性のYとXの染色体配列」から「変異性のあるY」が、「ある事情・環境」で特別に元のXに変位したものである事に成る。
    「男性の女性化」であって「Y」が特別変位したものである事が判る。
    そもそも「男性」は、元は「女性」が「X」を「Y」に変化させて出来たものであって、その「変位の名残遺産」として、「女性のみが持ち得る4つのパーツ」を「男性」に移して未だ持ち得ている。
    この4つの部位が突然に状況変化によって変位する「Yの媒体」である事に成る。
    これは明らかに「女性からの変異であった事」を示すもので、故に、単独に「Y配列を持ち得ている事」に成る。
    この「新しい学説」の「男性の女性化」では、この変位して出来た「Y配列」が逆にも元の「女性化」に変位しさせたものと成り得る。
    つまり、この「男性のY配列」が、「女性の配列変異」と「男性の配列変異」の両方を興すものである事に成る。
    この「新しい学説」によれば、その「外観」からは、その「見分け」がつかず、「性器」は其の侭の「女性器」にあって、然し、その機能はそもそも無く、「内部の女性ホルモンの分泌」は「本来の女性の持つ45%」が、「25%」に変化したに過ぎず、逆に「男性ホルモン」は「45%であった」とし、「卵巣」が「精巣」に特化していたとする現象である。従って全く女性が女性の性器に男性の精子を分泌をし逆転していいたとする例体と報告されていて、現在では4例が見つかっている。
    要するに「人間本来の女性ホルモンの分泌25%」は「Yの変異性保持」に依って逆転し、「卵巣の性機能」などがそもそも無く、内部で「男性機能のパーツ」に入れ替わっていて、「子宮」は僅かに縮小して存在し、「精子」が「卵子」の如く「卵巣の位置」にある「精巣」から生理の様に分泌され、その後に一定期間後に子宮外に流されると云う実例である。
    この事例が現実に何故か特定して人種が出現したとされるその「アフリカ」で多く観られる様に成ったとされるのだ。
    この事から、つまり、「女性が持つ変位」を起さない「X Xの塩基配列」の「2000種以上の中」から同じ特定の配列を辿れば、その「人種のルーツ」に辿り着けると云う論理である。
    然し、何時の世かこの「特異現象が」起こり続ける事では「ゲノムに依るルーツ」をたどる事は出来なく成る事を意味する。
    これは上記した様に「変位し得ないX X」の時の「塩基配列」に限られる。
    逆に云えば「変位性を持つY」が、もっと云えば「変異性の持たないX」が「ある進化の意思を持った突然変異」によって「Yに変位したもの」であるから、従って、僅かながらも「進化の存在」は別として「Y」は常時に於いて変位する事に成り得る可能性を持つ事と成る。
    故に、この「Yの配列」を持つ「男性のゲノムの追及」に依って「女性だけによる種の追及」は今の段階では可能と成り得ている。
    上記の「男性のYの特異現象」が起こり続ければ、「変位」によって異なる以上は今後その「ルーツを追求する事」は出来ない事にも成る。
    この「ルーツの追及」は「変位性」を持たない「女性のX X塩基配列」によるものと成り得る。
    この「変異性」を持つ「Y Xの塩基配列・元はX Xの塩基配列」は、そもそも「X X」で「X」で同じである以上は、「変位性」は無く、元来より海から上陸する前の男性では「Yと云う変異性の配列」に成っていた筈だ。
    故に、この「男性の変異性を持つY Xの配列」では、今はその「人種のルーツ」は追えない。
    そもそも「人間の場合」は、「女性の配列のX X」の「配列の内のX」を「Y」に変位変換させ「一つの役割」を持たせて、「変位させて子孫を多く遺す方法」を選択した。
    従って「この世の生物」には、「4つの生体で子孫を多く遺す方法」が存在する事に成った。
    先ず次の通りである。
    「人間などの哺乳動物」が持つ「雄雌の二体性による方法・A」
    「貝類やカタツムリなどの雄雌両性体・B」
    「一性体」から時期に応じて体を雄雌に分離して子孫を遺す方法」の「ミミズなどの雄雌分離体・C」
    元々、「雌雄の性体を有さない細胞や菌類等の生体・D」
    以上に依って現在も成り立っている。
    つまりは、「子孫存続の為」に「アミノ酸のDによるものからの変位」に依る進化である。
    この「Dの集合体」が、「集合固体化」によって出来た「Aの哺乳類」は、元々はAによるものからのものでは無く、BやCの変化を種々に繰り返す内に、その「環境」に適して「より子孫を確実に遺せる方法」へと変位変化したものである。
    つまり、上記した様に「環境変化」に依っては「A」」に於いても、これからも「Yを変位変化させる事」があり得る事を示している。
    云うまでも無く、今、急激に起こりつつある「気候変動」も、「Yを持つ限りその変位・変化」を起させるその要因と成り得るのだ。
    その意味で、これは「Yの大きな意味のある進化の研究結果」である。

    上記の注釈の通り、この「理屈」で行けば「四家四掟四門に基づく女系族の青木氏」は、「人間本来の遺伝子の族・Aタイプ」に基づく「X Xの塩基性配列のゲノム」を持つ婚姻をしている事に成る。
    それも「7つの融合民族の構成によって成り立っている日本人」である以上は、その「2000以上の範囲」の中では無く、もっと「極めて狭い範囲の四家四掟四門の範囲」で血縁している。
    「青木氏」は、上記した様に「変位し得ないX Xの時の塩基配列」に限られた「狭い血縁状態」と成り得ている。
    つまり、これは当初の目的通り、「女系に於いての純血性」を「令和の時代」に於いても未だ保持している事に成り得る。
    唯、この「四家四掟四門の女系制度」が終わった明治35年以後は、上記した様に「変位し得ないX X」の時の「塩基配列」に限られたもので、「四家四掟四門のルール」が崩れ始めた事である。
    「別のX Xの時の塩基配列の種」が入った事に依って、「青木氏の種の範囲」が確かに広がりつつある。
    それでもそれから「135年後程度」とすれば、「女系の母親」は「2〜3代数」に限られている事により、この事から現在でもかなりの「四家四掟四門女系による純血性」は、薄れたにしても「純血性」は高く保たれている事には成る。
    仮に「ルーツ」を今でも「ゲノム」で追うとしてもそう難しい事では無いだろう。
    依って現在でも、未だ「奈良期の四掟四門四家の女系」に辿り着けるのではないか。

    そこで「新撰姓氏禄の持つこの格式の意味」からしても、将又、同然に「光仁天皇」は、「・・・>「施基皇子・天智系―皇位継承権無の数式化」に表させられる事で、無理にも「ある特定した階層」に「格式化」を造ろうとした。
    この為に、又もや「大反対」を受けたのだ。
    それは、「当時の社会」では、「男系による格式社会」では無く、「女系による格式体系の社会」を造り上げるべきであるとする方が、「中国を見習う事」として良いと考えられていたらしい。
    この当時は「男系一辺倒」では無かった事が資料の行から垣間見える。
    現実に、故に「天皇」はこの「飛鳥・奈良の時期」に「女系」が特別に多く続いたのである。
    この中でも、「持統天皇と称徳天皇」は女性的で個性的な実政を敷いた。
    この事が後の「政治に大きな影響」を与えたが、下記の注釈の通り、「格式や習慣や伝統や掟」に拘らない自由でその場での「直観力」を駆使して感じた事を「考え方」として出して来たのだ。
    それは「事の良し悪し」は別として、「男性の本能から発せられる論理主観論・イ」では無なく、「女性の本能から発せられる個別性の感情主観論・ロ」であった。
    それだけに最も「安定性の強く求められる政治の場」に於いて、著しく“混乱”を招きそこを「宗教力」に付け入られたのだ。
    これは「上記の注釈」に論じている「ゲノム理論」からも、「論理主観論・イ・男性」と「個別性の感情主観論・ロ・女性」で証明される。
    この為に「神」は、この“二つの主観論で世を統治する様に”、「女性のX」を変位させて「男性にして変異性のあるY配列を持つゲノム」を持たしたのである。
    この「神が成し得た女性の感情主観」による「不安定さ」を無くす為に、「判断・特に政治」に於いて「格式化を促す必要性に迫られた事」に成る。
    これを「新撰姓氏禄」で表して、その「思考に依る判断範囲」を格式毎に決めたとする。
    先ずは「格式化で主と成るもの」を「男性の論理主観」で決め、そこから「女性の感情主観」を排除し、その「判断の差の不安定さ」は、その重要度から「格式の上位から決める方法」を考え出したのだ。
    それが「格式化の新撰姓氏禄」であったとされるのだ。
    それだけに「判断の自由さが限定される事」から、上記の「反対運動」が「格式の各層」から受けたのだ。
    「この反対運動」に「宗教力が食い付いた」と云う経緯だ。

    注釈 因みに女性天皇には次の8人がある。
    女性天皇は10代8人
    ・飛鳥・奈良時代
    推古天皇、皇極天皇、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇、
    ・江戸時代
    「明正天皇、後桜町天皇」である。
    そもそも「帝紀」に依れば「天皇は必ずしも男子、男系」とは明記されていない。
    鎌倉期より「男子、男系」が「公然の史実」として認められる様に成ったが、それは、「戦乱の世」の「変化の名残の継承」によるものが多い。
    然し、上記の様に「天皇の地位」に於いてもこの時代は「女性の活躍」は目立つものがあり、「飛鳥・奈良時代」の中では、「商人などの一般の社会」でも「女系・女性」による「商人などの活躍」は資料や記録からも散見出来る。「古来中国貴族社会の影響など」もあって未だ「女性」は求められ認められていた。
    この頃からその「活躍の場」は、そもそも“「政所・まんどころ・台所」”と書いた。
    「政治の差配」から離れ、「家や氏の内部の差配・政所」に「特性・X Xの塩基配列」を生かして限定される様に成って行く。
    「新撰姓氏禄」で「男性による格式化」を結局は招き、この事で女性は「排除された政治の場」から、“「政所・まんどころの範囲・台所の差配」と限定される様に成った。
    「後・江戸期」に、この「政所・まんどころ」の意味は、「政治の場の事」として呼ばれる様に変化したのだ。
    「新撰姓氏禄の反対」は、この「女性の政所・まんどころ」で、一部は改善に向かう事に成るが、主体は「男性の政所の格式化による限定」にあった。
    然し、「男性の政所・まんどころでの解決」は未だ成し得なかった。

    注釈
    何故に「女性の天皇が嫌われたかの理由」は、「斎蔵の京中の祭司を行う内掌」で、それを務める「役人の伝統・掟」の事から来ているが、何処にも「定め」としては明記されていないのである。
    これは「単なる官僚の作業要領」に記されている事に過ぎず、そこから来ているのである。
    「宮中祭祀」に限りこの「伝統を重んじて護ると云う習慣」が「官僚の中」では古来より出来ていた。
    故に、「官僚」のみならず「天皇」に於いても「何人たりとも常に清浄な状態でなくてはならない」とされる「習慣」を造り上げて仕舞った。
    この「宮中の祭殿」に限り「祭祀に斎蔵の内掌典・祭祀を司る規則を知る女性役人の事」は、例えば、外出時には「下界の穢れ」を宮中に持ち込まないよう「専用の衣服に着替える」までの徹底ぶりであった。
    故に、最もこの「内掌典の考え方」を用いられたのは、それは「死」の「穢れ」であるとされた。
    そこで、「女性の内掌典の務め」の中でも「身内が危篤」に遭遇した場合は、直ちに「宮中を離れる事」を求められた。
    この「斎蔵の官僚の女性の考え方」が行き過ぎて「天皇の地位」にまで適用される始末と成った。
    然し、この事は「帝紀などの物」には何も記されていない。
    これ等の事は「穢れに成るとする考え方」が強く起こり、最悪はその着用していた官服を処分すると云う徹底ぶりで有ったらしい。
    因みに上記した「ゲノムの論理」で行けば優れている筈なのだが理解されず「女性体の性現象」さえも、況してや、「子孫存続の出産」や「それに付随する生理現象」にさえも「穢れ」と見做される有様と成った。
    これが進み更に「神道」にも、この「強行過激的な考え方」が浸透し、これは「穢れ」であると決めつけられて、これを「仏教」にまで結び付き,それを“「魔気・まけ」”と呼ばれ、“「魔気・まけ」”、即ち、「最も穢れた状態」と見做されるまでに至った。
    そこで「天皇」は、「政治王」のみならず「祭祀王」でもあり、歴史的に見るとその「最も重要な務め」は、この「内掌典の考え方」を押し付けられて、先ず強引に「神事」であると決めつけられた。
    それが「穢れ」であるとされる様に発展して、「女性女系」は「天皇の地位」にまで避けられる事と成ったのだ。
    これは「女性の内掌典の考え方」でありながらも、そこで「女性天皇」であるとして、この「穢れの生理が定期的に生じる事」を以て「女性の天皇」は次第に避けられる理由と成って仕舞った。
    結局は、「女性の内掌典」が「女性の天皇」を「穢れ」であるとされるに至ったと云う経緯である。
    取り分け「江戸時代」に於いては、この「穢れの考え方」では「天皇継承問題」に於いて「男性継承者が無いと云う事」が起って仕舞った。
    そこで止む無く「女性の天皇」が生まれたが、「女性天皇による祭祀」は、「形式的なものであって不十分な形で行う様に成って形骸化した。
    然し乍ら、「地方」に行けば、昭和の初期頃までこの「魔気・まけ」は、“まけが住む”等として、「平安言葉としての方言」として、関西域に遺されていたが、決してその意味は“「穢れた状態」”ではなく、「仏教の人間が持つ本来の汚れの戒め」として、その「習慣の中」で用いられていた。
    筆者などが聞いた中では、「トイレや台所などの周りの清潔さ」を保もたないと「魔物・まけ」に取りつかれる等としての「戒め」として聞かされていた。
    その為に、トイレや台所には「魔気・まけ除け」の木札などを着けた。
    依って、これは「仏教の得度や神事の説得」の指導者等が此の考え方を利用して、その勢力を政治に反映させて「権力の獲得を策った事」が判る。
    この「考え方」が歴史的に強行に実行されたのは、「宗教・神教・仏教の政治への介入時期」に強く持ち込まれた事と一致している。
    遺された記録の中に「桓武天皇」は、「遷都」を2度に渡り行い最終は何もない地の「平安遷都」と成ったが、取り分け、「宗教政治」を行っていた「称徳天皇等」の「飛鳥の地」を離れ、この“「宗教・・神教仏教の政治への介入」”を嫌って「遷都」を行ったと云われている。
    恐らくはこの「穢れ思想」は、この遷都前のこの時に持ち込まれた考え方では無いかと思われる。
    そうすると、“「称徳天皇」は自らの持つ「魔気・まけ」を認めていた事”に成るし、「桓武天皇」、又は、この「神教仏教勢力を嫌っていたとする“「藤原百川」等”に、積極的に推された「白羽の矢の事件」であったとされ、「光仁天皇」が、前段でも論じた様に、先ず「神教仏教勢力排除に移った」と云うする経緯にこの「歴史の経緯の間尺」は一致する。
    「桓武期」から「女性女系の天皇」が出ていないのもこの事から頷ける。
    この事からも「魔気・まけ」に拘わらず「中国の貴族間の慣習」に真似ていた「青木氏に於ける四家四掟四門の女系氏族」が、この時からも、上記した“人間が持つ本来の生殖能力に基づく形”で進められていたものである事も頷ける。
    「神明社や密教清光寺の神仏道の考え方」を「氏族の中」で持つものとして、その中で“真実を探求する考え方”が相当に進んでいた事が頷ける。
    それが「四家四掟四門制度の女系族」を保つ「独特なエネルギー」と成っていたと考えられる。
    それが単純な期間では無かった。
    “「宗教・・神教仏教の政治への介入」”が、政治の進捗と方向を歪めるとしてそれを「新撰姓氏禄の一つの効果」として「三代の天皇が期待して進める事と成って行くが、これも紆余曲折して進める事と成ったが「社会の反対」を受けて失敗に終わる。。
    これは前段から何度も論じた事に成るが、概して次の通りである。
    前提として、そもそも「原本」は無く表紙のみのもので、其処から研究でこの様なものであったろうと推測した。
    「逸文・祖語・散文・乱文」が多くあって決めつけられるものではなく「元資料の侭」とされている。
    現在の筆者の研究では大まかに下記の物と成る。

    そこで先ず「皇別」を先頭に分けて編集する事に成った。
    これを更に二つに分けた。
    格式の筆頭には、下記の通り「皇別」を置いた。
    「天皇家から分離したとする氏族」を、先ずは全体を「335氏・28.3%」とした。
    その内、「真人族」を「98氏・29.2%」、「朝臣族」を109氏と、「真人族から賜姓臣下した族19氏」を「118氏・35.3%」の計226氏とし、 その他の「109氏・32.5%」と成るとした。
    「問題」なのは次の「404氏」である。
    その「神代の代」から深く政治に深く関わった経緯からこの「404氏族の宗教力」にあった。
    この「404氏族の宗教力」は、「単なる宗教力」では無く、上記の「皇別に血縁的に関わる宗教力」であった事に「真の問題」があったし、無視できない程にその「子孫勢力」は大きかった。
    そこでその「神別」は次の様だ。
    「神別」
    「神別」とは、「404氏・34.1%」は次の様に三つに分けられる。
    これは「神武天皇以前の神代に生じた氏族」の事である。
    404氏が挙げられる。
    「神別氏」は、次の三つに分けられる。
    「天孫降臨した際に付き随った神々の子孫」とされる「天神族・A」 60.9%
    その後に「規定の3代の間に分かれた子孫」を「天孫族・B」 31.9%
    「天孫降臨以前から土着していた神々の子孫」を「地祇族・C」 7.4%
    以上とした。
    以上に「3分類の力分布」で構成されていた。
    「天神族・A」に分類された氏は、「藤原、大中臣、巨勢、葛城、物部氏」など246氏
    「天孫族・B」は「尾張族、出雲族」など尾張や出雲に分布する128氏
    「隼人系の隋系渡来人の200万人を構成する氏族」は、前段でも論じた様に皇別との血縁にて拡大した事で「天孫族・B」に組み入れられる。
    「地祇族・C」は政権を構成する初期の飛鳥の初期に朝鮮半島から渡来した「安曇、弓削・気比」など30氏
    以上がある。

    この上記で「論議した問題」は、この「神別の中」でも、「天神族・Aの氏族」が古くから深く政治にも血縁的にも介入していた事に依って、この「絶大にして影の勢力から逃れる事」を目的とした。
    これ等の大勢力とは、「全く影響を受けていなかった施基皇子の裔系出自の天皇」はその柵から逃れる事が出来たのだ。
    「血縁的」にも「政治的」にも「経済的」にも、何にせよ中でも「血縁的にも関係を受けていなかった事」から、それだけに「思わぬ白羽の矢」で、より政治を行うとして鬱陶しく感じられて、排除に移ったのではないか。
    中でも「血縁的影響」が、その「排除の目的・井上内親王の事件等」で、その上で「煩い天神族・Aの氏族」を排除を試みていたが、中々思う様に行かなかったと云うのが、「真の経緯」であろう。
    そこで、先ず、これ等の勢力を遠ざける為にも、「神別」として“「括り」”を造り、その役職で活動を制限し、「政治への口出し」を減らした。
    更に、それらの「神別としての格式」を下げて「政治」から遠ざけた。
    それを「真人族・98氏」と、「単なる朝臣族」と「賜姓臣下族の朝臣族の118氏」を「2つに分断」し、これらの「神別との血縁性の関わり」を「皇別・真人族」に対して弱くした。
    それを「単なる朝臣族」と「賜姓臣下族の朝臣族の計118氏」を、この「118氏」より一段づつ「格式」を下げて、そこで「特別に格式」を造り、「一定の役職にのみ」に「神別の関わり」を抑え込み、限定させて封じ込めて「政治」から直接的に引き離そうとした。
    それが「新撰姓氏禄の格式化の策」であった。
    それだけにこれには「大きな矛盾」が生じた。
    そこには、“「皇別」とは深く血縁を持ちながらも”、その「扱い」は、最早、「皇別」では無く、「神別」として「彼等の格式」を「合計三段」も下げて、且つ個別にして全く外して「総合力」を削いでいたのだ。
    これが、前段でも論じた様に「花山天皇の神祇官の賜姓」に通ずる。
    それが、上記した様に「編集」に対して各層から強く反対を受けた事の理由に成り得た。
    「花山天皇」は、歴史的にこの「新撰姓氏禄の策の神別排除の策」を知り得ていた事に成る。
    「青木氏」としても、「四家四掟四門の女系の制度」を設けて、この「皇別」の二つのみならず「神別の血縁的影響」をも避けた。
    それ程に上記した様に「神別の穢れ等の考え方」の「政治の浸透」は激しかったと云える。

    参考
    335+404+326+117=1182 関西域と中部域のみ
    「諸蕃・全体比 27.5%」は参考として次の様だ。
    「諸蕃」の「姓」と「氏」とは、主に「渡来人系の氏族」で、「326氏」が挙げられる。
    「諸蕃氏族」の中には、次ぎの飛鳥時代までに渡来した「朝鮮半島系」の5分類もある。
    「百済系渡来人」として104氏、31.9%
    「高麗系渡来人」として41氏、12.5%
    「新羅系渡来人」として9氏、2.7%
    「加羅系渡来人」として9氏、2.7%
    「漢系渡来人」として163氏、50%
    以上それぞれ挙げられる。
    然し、ここにある「漢族」も上記の「百済」、「高麗」、「新羅」、「加羅」に組入れなかった「朝鮮半島系の氏族」である。
    その経緯では、「坂上苅田麻呂等」は、「東漢氏の先祖」である「阿知使主と阿多倍王」を「漢」から来たと決めつけたが、史実は「漢」に滅ぼされ滅亡したとする「漢から追われた将軍・王」が独立して「東の隣国」に建国した「隋国」である。
    この「隋」も618年に再度この漢に追われ「200万人の職能の民」を引き連れて「大和博多」に上陸し関西まで無戦で占領するも、後に伊賀の国を半国割譲を受ける仕儀と成った。
    これ以外に「分類に何れにも属さない氏族」として、「117氏」があるとするも、都から他にも中国域、九州域、東北域にも派遣されていた上記の「新撰姓氏禄」に記載されるべき氏族は沢山ある。
    その意味でも格式を受けられない「諡号の姓族」からも「反対」を強く受けた。
    編者達からも“問題が出る”として反対されていた。
    中国域、九州域、東北域の対象者を組み入れたしても、それが可能な事か別として、この「新撰洲姓氏禄の信頼性」は元より低かったと思われる。
    然し、上記した様に「新撰氏姓禄の経緯」を以てそれを押してでも編纂しようとしたのだが、遂には「姓氏禄の偏纂の原本書籍」をも「編者」からも隠されて失敗している。
    判り易く云えば、上記した様に「社会」は“自然にも執る”として反対していたと云う事だ。
    従って、「新撰姓氏禄の所期の目的」は、「民を格式化する事」で分断して、この「宗教力の排除」に有ったと考えられ経緯の間尺は一致する。
    だとすれば、「中国域、九州域、東北域の対象者を組み入れる事」はそもそも必要が無かった事に成る。

    「光仁天皇」と「同系の立場」に置かれていた「嵯峨天皇」は、同然に編者等も逃げるも強引に「未完成の侭」で、所期の目手の達成の為に、これを“強引に公表した。”と成る。
    これは簡単に云えば、三代に渡って反対されていた現実は、「事の本質を見失い無理が伴成っていた事」に成る。
    現実には、“「公表」と扱われている”が、「詔」も「令」も出ていない。
    これは、“外に出て仕舞った”と云うのが真実ではないか。
    故に、結果として、何時しか“行方不明にして隠されて”しまった。
    然し、更には表紙の一部が表に出て仕舞ってまでは何とか済んだ。
    ところがこれを嫌った「反対派」に依って、その重要な“「根拠と成る書籍」”の「行方」までも末梢・抹殺されてしまった。
    実は後に「青木氏に関わるある処からの原資料存の存在」を示す史実が判明する。
    この「強引に構成した格式化した社会の反対」の中には、「魔気・まけ」等に依る「宗教力の政治の介入」が「一つの特徴]として起こった。
    何時の世もこれを防ごうとして、「源氏化の中で起こった猶子」と同様に、引き起こすものであるが、同時に、最早、上記した様に「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の「真理の女系化」に対しては、「諦めの格式化」”は世に浸透して行った。
    結果として、幸いにも“「天皇の経緯性」”だけは理解され、再び「天皇の格式」はそれなりに取り戻した事に成った。
    こま「新撰姓氏禄の格式化」は、兎も角も、その子の「仁明天皇期・833年から850年」の「30年後」には、「律令制度の社会の根幹」だけは造り上げて出来上がった。

    この「青木氏の歴史観論」では、色々と青木氏に江戸期まで何かと影響を及ぼした「新撰姓氏禄の格式化」に付いて放置でできない事が起っていた。
    そもそも「新撰姓氏禄の格式化」は、「伊勢の裔系出自元の仁明天皇」に依って「律令制度の社会の根幹造り」へと「政策変更された」ものである。
    これには、当然に「自らの出自元の皇親族青木氏」は、「淳仁天皇の前例」もあり「嵯峨天皇」に執っては「邪魔」であった。
    そこで「嵯峨天皇」は、「反対を受けていた在位末期」に反省したのかどうか兎も角も”「妥協策」”を繰り出して来た。
    そしてこの「格式を護る為」に、「最上位の真人族」には、「嵯峨期禁令」に基づく「9つの縛り令」を「以後の賜姓族・11の源氏族」に課せた。
    然し、どの「源氏族」も最早これを護らなかった。
    「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の「賜姓族臣下族の青木氏族だけ」はこれを頑なに護った。
    検証としては割合で次に試みて観ると次の様に成る。
    「335+404+326+117=1182 関西域と中部域のみ」 に付いて、この割合を観ても「28.3%の335」は、「格式」に於いては、「マイナスの利害」を受ける筈だ。
    「残り」は「全体」の少なくとも「847/1182=71.6%」である以上は、「絶対に反対される事」は必定であった筈である。
    更に「335氏」の内の「真人族の98氏」は、そもそも元よりその「格式の位置」にあり反対の文句は無い。
    「朝臣族の118氏」の内の「賜姓臣下族19氏」は元より自ら好んで「真人族」から「朝臣族の格式」を求めたのだから「反対すべき文句」は無い筈である。
    そうすると、元からの「朝臣族」であった「109氏の宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の八族・八草の姓の族制」は、より「格式」を下げられる可能性があって、元より「家臣として出世を前提としていた族」である以上は、ここで「新撰姓氏禄」で「格式が確定される事」には抵抗があった。
    「109氏」には同然に「反対の文句」は生まれていた事であろう。
    後は何れにも属さ無い「117のその他の氏族」は、元より「氏として格式には無関係」であって「109氏」と同然に同じ立場にあった。
    依って、「反対をしない階級の氏」は、「真人族の98氏」と「賜姓臣下族の19氏」の「計116氏」と成り得ていた筈である。
    そうなれば「847+109/1182」とすると、「81%の氏族」が反対し抵抗を試みていた事に成る。
    とすると、この「新撰姓氏禄の目的」は、どうであり、当初から政策的にそもそも無理があった筈である。
    故に、これを進めようとした方法の「出自2人の天皇」とは別に、「桓武天皇の遷都策」は、この「81%の氏族の反対」を完全に躱す事の方法であった事に成る。
    これには「遷都策の成否の決め手」としては、「税」では賄えきれない「遷都費用の莫大な財の調達」が伴っていた事に成るが、それは心配なかった。
    つまり、「出自元の伊勢青木氏の部商いの財」にその「裏付け」が当初よりあった事に成る。
    現実に「桓武天皇」は、“税を駆使して行った”とする記録は何処にも無いのはこの事に依る。
    ところが「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄」の時には、「出自元の伊勢青木氏の部商いの財」は使われていない。
    その理由は「二人の出自の天皇」と「施基皇子の後裔の伊勢青木氏」とは「献納」を止める程にもとより仲が悪かった事が記されている。
    それだけに「新撰姓氏禄の原資料」も手元に無かった事が云えるし、その為に「真人族98氏」に対して「弘文五年」に出された“「詔勅禁令の内蔵出費の削減」”を理由として、「源氏」を賜姓して臣下させた「史実」もそうなのだ。
    但し、唯、参考として、この“「源氏の対象者」”は、前段でも論じた様に、上記する「純粋な真人族」とは限らず、「正規の源氏化」も含めて、意外に現実に“「階級の低い者等の源氏化、又は、猶子化”」が多かったとされ、殆どは前段でも論じた様に、「猶子による源氏か猶子朝臣族」が多かったと云われている。
    その意味で、この論じている「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄編集」に付いては、「後付け」が多いとされる。故にこの「真人族の98氏の後書き内容」には、「疑問」が多くあって、寧ろ、その意味で「階級の低い者等の後付け猶子」が多いとされている。
    「伊勢青木氏」も、この「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄」には、その方法として反対していた事が伺えるのだ。
    然し、「伊勢青木氏」は、この「桓武天皇の遷都向行」に従わず「伊勢」にその侭にいた。
    この「理由」は、「遷都向行に反対」では無く、「伊勢の商いの場」に理由があったと考えられる。
    その証拠に「桓武天皇の遷都向行」を拒否した「額田部氏の氏族等」は多く罰せられたが、中でも「桓武天皇」は「出自元の伊勢」を特別に罰していない。
    それは、「遷都に必要とする財源の確保の賄い」に有って、特別に「出自元」を除外したと考えられる。

    注釈 話は「新撰姓氏禄の格式化」から元に戻して、後にその意味で、「室町幕府と正親町天皇」とは、これを“「律宗族」”として「嵯峨期禁令」に基づく「9つの縛り令」の「格式の象徴」として、再び認め直して世に知らしめた。
    そして、この効果で「嵯峨天皇」に「賜姓外し」で存在否定されていたが、“「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官」”をも復元する事に成功した。
    然し、飽く迄もこの「上記二つの役務」は、「天智天皇の治世」に基づくものであり、「帝紀」に基づき「前代の天皇が決めた事」は“覆す事は出来ない”となれば、且つ、「永代の賜姓五役」は、そもそも“「永代」”と決められて居り、その為の「既成事実の賜姓族」と成り得ていた。
    その為に、そもそも“「無形の象徴役務」”でもあった。
    これは、“「前代天皇が決めた事は覆す事は出来ない」とする「帝紀事項」”でもあり、「嵯峨天皇の行為」は“帝紀を無視した事”と成り得ていた。
    この“「上記の二つの事を外すと云う事」”は元々無理があった。
    そこで、「帝紀を正した事」には「正親町天皇の律宗族指定の意味」が含まれていた。
    要するに上記の「注釈の事」と成り得た。
    況してや皮肉にも、現実は「桓武天皇と平城天皇の後裔系族青木氏」は、この「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官」を最後まで護る事が出来たが、「嵯峨天皇系族・源氏」だけはこの「帝紀」を無視してこれを全く護ら無かった。
    其処にも「自ら行う政治」にも「帝紀に基づく無理」が生まれた。
    彼等は「官僚族」から「帝紀違反のレッテル」を貼られる始末と成っていた。
    故に、「鎌倉期の源氏の府であるとしての認可」が、「帝紀を護る朝廷」からはなかなか下りない状況が生まれた。
    この事を追記して置く。
    この「帝紀違反」を知りながらも「実行し行き詰まった嵯峨天皇」は、“「妥協策」を以て挙げた拳を下ろす羽目”と成って仕舞った。
    その上で後に、この「帝紀違反」を正す為に「正親町天皇」の「律宗族指定の意味」と成り得た。
    それは、「戦い」までしていながらの「悪化」に発展したが、それ故に「平城上皇にすり寄る行為」を後に示した。
    「上皇」が居住する元の「飛鳥の都」に、「嵯峨天皇」が自ら「平安京」から出て「飛鳥京」に「逆に向行する事」で「争いの治まり/反省」を着けた。
    更に「上皇」には、「一部の治政の院政を敷く事」を認め、即ち、「天皇が持つの唯一の専権」の「信賞必罰の特権」を認めて仕舞って、“「最終決着」”を着けた。
    この取り戻した「平城上皇の信賞必罰の権/院政」で、「出自元の伊勢青木氏」は「四家四掟四門に基づく女系氏族」と成っていた。
    にもかかわらず、「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官役」は戻り遺る結果と成り得た経緯であった。
    この「皮肉の挙句」は、「嵯峨天皇の治政」の「賜姓した源氏族の混乱」、つまりこの「猶子の伴う格式化」を「無視した源氏族11氏」は、「皇族としての9つの縛り策」を「無視した事・武装集団化」でも、これを以て「朝廷の社会・天皇の治政」を潰して仕舞った。
    これが後にも続けて起こるが、これが「新撰姓氏禄の格式化」の「後の影響」であった。
    結果として、この「青木氏に関わる初期の歴史観」はこれで変わったが、「花山天皇の事件・神祇官の賜姓」の前段で論じた経緯で、「源氏1221年に自らも潰れる破目」と成り得た歴史観であった。

    筆者は、この「青木氏の歴史観」としての長い歴史的経緯に基いて観て、これは何度も論じている事だが、“「先の読めない思考の嵯峨天皇の大失敗」であった”と観ている。
    それを、何と「嵯峨天皇の子の仁明天皇」が、これを“「嵯峨天皇の失敗」と観て、「出自元の青木氏への修正策」を講じたが、これが「修復させた真の経緯・記録」である事を物語る。
    要するに、「青木氏族」に先々大きい影響を与えた「嵯峨期の新撰姓氏禄の政策・格式化/源氏化・猶子策の乱れ」はここでも失敗していた。
    逆に前段でも論じた様に、「四家四掟四門に伴う全ゆる制度」を敷いた。
    これに依って云える事は「四掟の青木氏族」は、「態勢を確立させて強くなった事」が「氏族存続の一つの要因」に成り得たがこれが「青木氏独自の歴史観」だ。

    注釈 念の為に、「施基皇子」が長い間を掛けて全国を歩き廻り集めた資料を「朝廷」に提出した。
    これを「撰善言集」は、「大宝律令と養老律令の基」に成ったが、それに基づいた中にあった筈のこの「全国に散在する姓氏の記録」から「抜き出した資料」を基にして、その原資料を基にして「新撰姓氏禄」が編集されているのだが、この「制度」の“「格式化の詳細」”は「青木氏の歴史観」より観て次の様であったらしい。
    「「新撰姓氏禄の格式化」の「青木氏」が調べた「青木氏の調査歴史館」
    その原資料を先ずは「格式別」にしたある。
    先ず「朝廷が認定した氏の族 イ」と、「国家が定める諡号の姓の族 ロ」とで、「二大格式別・イとロ」に先ずした。
    更に、これを次に「職業別に格式 ハ」を加えた。
    これに、「皇別と神別と諸蕃 ニ」にした。
    以上の「三大格式別」に分けて、合わせて「統合五格式別」にした。
    これを、“「八色の姓制」”を基にして、“「13色の姓の諡号姓別」”に区分して、“「13格式別」”に分けた。
    更に、この“「13の諡号姓の格式別」”を、“「959の姓範囲・奈良期の調査範囲」”に確定させたものに成る。
    それを「異なる数」で、“「13に配別」”して「格式化」を図った。
    つまり、これを“「律令国家の役職別」”までに、この「限界」を決めて割り振った。
    これに合わせて、「個々に官位を与えて格式」を、“限度化し権威化した”としている。
    この“「13格式別」”は、これを見分ける為に合わせて、“「帽子と服装と衣布の色分」”等まで格式を定めたものだとしている。
    最後には、上記のこの「三大格式別」には入らない“「一般格式を持たない姓」”には「否認定の雑姓・重要」、つまり、“「諡号」”とは別に、“格式を与える自己申告制」にし“「一つの低格式」”を加えたと成っている。
    この「皇別の格式別の真人族48氏」にだけは、更にこれを分別して“「二大別の細分化」”をしたとしている。
    それは、“「上位の13氏の尊属」と「下位の35氏の卑属」”として、その“「扱い」”を分けたとするのだ。
    そして、次の格式の「朝臣族101氏・98氏」に対しても、より“「皇族に近い族・賜姓氏族・a」”と、“「皇族に遠い族・家臣族・b」”と、“その「中間の族・aとbの血縁族・c」”の“「三つ族」”として、大まかに「格式・扱い」を変えたが、これが上手く行かなかった。
    当初はこれに対しては矢張り大反対を受けたが、「朝廷の懸命の協力的な努力の甲斐」もあって、ある程度に浸透し効果があった。
    然し、時代が進むに連れ必然的に起こる「現象・形骸化」が起こった。
    これが後に勝手にどんどんと細分化させて仕舞って、遂にはこれが「搾称等の格式化」に繋がり「平安末期」には「猶子現象」も手伝って「格式化の重要度」は殆ど低下した。
    そして誰がこの「原本」を持っているか判らなくなって紛失しているこの「新撰姓氏禄原本」に、“「平安末期頃」に勝手に「上記の低格式にも入らなない成り上がった族・室町期勃興族」”に依ってこれを書き加えられた様子である。
    つまり、「未完成の新撰姓氏禄」は、この「紛失したとされる原本」は、歴史的経緯から観て、先ず「藤原氏摂関家」の手に渡り、それを基に「勃興族等を引き付ける為の道具」として使われ、「賂と政略の代わり」に「書き加えると云う事」に使われ、又、「猶子の事」にも成ったと考えられている。
    そこで「上記の格式論」としてあり得ない族、即ち、最後には、“上記した、この「三大格式別」には入らない、“「一般格式を持たない姓」”には「否認定の雑姓」、つまり「諡号」とは別に、”「別の格式」を与えて、「自己申告制の“一代限りの一つの低格式」”を加えた。
    この「否認定の雑姓の認定作業」は誰がしていたのか「疑問・判明」が遺る。
    「新撰姓氏禄の格式化」の真のものは、以上とするものである。
    その着け加えられたものとするものには、全て“「地方の第二の姓の名」”である。
    「新撰姓氏禄の基本」とする「四家四掟四門族内の格式論」には入らないものであった。

    上記した様に、この真実の「新撰姓氏禄の青木氏の歴史観」から観て、「平安期の初期の目的」は、「室町期の目的様」にして付け加えられる事が起って仕舞ったと云う事なのだ。
    つまり、[前記の頼政の事」は、その境目の時期を利用して、「より高い格式を望んでいた頼政」が、この“「未完成の格式の新撰姓氏禄」を利用した形跡”があると云う事だ。
    この事から少なくとも「平安末期」までは、この「原本」は「藤原氏摂関家内にあった事」を物語っている。
    その後の「鎌倉期・新撰姓氏禄を嫌う政権」には、「格式を嫌うもの等の下剋上」が起こり始めた。
    「室町期初期」、即ち、「源平期の混乱期の以降期」には、この「弱体の摂関家」から、再び「下克上」で使われて紛失して「行方不明に成った。
    兎も角も、これで以て「律令国家の実質強化を図ろうとした事」は「その効果」は別として「確実であった。

    この「新撰姓氏禄集の原本」の「本体の紛失事件論」には、幾つかの説がある。
    仮に「紛失事件」とすれば、「現象・形骸化が起こり始めた時期」としてこの頃に起こった事が読み取れる。
    それは、反対者にとって“「新撰姓氏禄集の存在そのものが邪魔と成り得た時期」”に成る。
    その時期には、通常はこの「現象・第一期の形骸化」が起こるので、歴史観から「政治を握った平家の全盛末期頃」か、或いは「源平期の争いの時期以降」に成る。
    丁度、「前段の論」に絡んで「以仁王の乱の前後の時期」、つまりその“「格式化」”を「絶対的に政治的に否定しなければならない時期」であった。
    これは「勃興の武家政治の始期」に成り、「存在そのものが否定しなければならない時期」の此処で「紛失させる事」を恣意的にしたのだが、それが最も効果的と考えられていた。
    その「格式化の効果」が、「格式化」を前提として行う「信賞必罰の特権だけを持った天皇」にだけに、必要としたものであろう。
    この事から、それは「武家政治の始期・府を置かない時期」と成る。
    依ってこの「紛失期」は、「格式形と骸化期」「武家政治化期」「信賞必罰権分離期」が合わさった時期に成るだろう。
    故に、「筆者の論」は、「前段の論」に続き「以仁王の乱の前後の以降の近時期」であるとしている。

    注釈 室町期の中期には、一度、この“「新撰姓氏禄集原本」が見つかった”とする「研究説」もある。
    この「見つかったとする原本とする中味」には、「上記の格式別の判別化」には、“「元々無かった姓」”のものが加えられている。
    故に“「新撰姓氏禄集原本」が見つかった”とするその「原本」とするものには「大いなる疑問」が残る。
    現在では、「この説の原本」は信頼はされていない。
    これは「室町期の新興勢力の勃発期・第二の姓期」、つまり、「上記の格式別化の諡号姓」ではない「農民等の新興勢力勃興期等」と成る。
    つまり、「系譜搾称による格式化を図ろうとした事件」の頃に“「新撰姓氏禄集の原本らしきもの」が見つかった”ものは、当にこの「搾取行為のもの」であったと観られる。
    この“「搾取行為の原本」”とするものには、多くの「諡号ではない第二の姓」が書き加えられていた。
    それは一目瞭然で「上記の論じた判別方式」は、「構成」がそもそもが成っていない。
    その「書き足されている姓」から観て、「新撰姓氏禄の歴史観」を「知らない者の仕業」であろう事が判る。
    上記した「格式の歴史観」を無視している。

    ここから、再びこの「新撰姓氏禄の紛失」の「行方の詳細論」に話を戻す。
    この「原本」の“「格式化の分け方」”から観ると、人間社会の中で果たしてこれが使われるかは「疑問」であって、“相当に無理に格式化を図った事”がこの「分け方」でも判る。
    何故ならば、「当時の慣習」から観てこの「分け方」は違っている。
    「格式化の重要な歴史観」として知っておかなければならない事は、「当時の慣習」とは、これ程に「皇族方を細分化して出来た社会」では無かった。
    限定された下記の「ほん一部の為政に関わるトップ」のものであった。
    これだけの「新撰姓氏禄の様」に「氏姓」を細分化して、それを特定して、「細分化」していれば、“「社会が決め得る自然な動き」”が無く成り、動きは採れない筈で硬直化するものである。
    現在でもそうであるが、精々、「玄孫程度・自分を1とすると5代目」までが現実である。
    「奈良期から平安初期」としても「来孫」「昆孫」「仍孫」「雲孫」までの「4系」では、歴史的に観て現実に記録的には「雲孫」が「呼称」として「記録」に残っている。
    現実には、「実用の記録」から観ると、“「玄孫」”が「限界」であったとされている。
    古代には「三代規定」と云うものがあって、「氏家の格式」を始めとして「冠位・官位・役職」などの「世襲」も「帝紀」にある様にこの“「三代規定」”に全て従っているのだ。
    この「新撰姓氏禄の様」に「氏姓を細分化」してそれを「格式で特定する」のは、この“「三代規定の慣習」”に反してしまう。

    この「新撰姓氏禄の格式化」は、そもそも「天智天皇・大化改新」と「天武天皇の八色の姓の制・冠位官位制度]などにも離反した事に成っていた。
    この経験を長く官僚・反対者」に与えて仕舞っていた。
    それだけにこの「格式化」に限らずこの矛盾に対して「反対」が多かったと記されている所である。
    確かに彼等に執っては「実務上の扱いに困る事」であろう。
    現実は平安社会にこれが存在する限り「長く社会を掻き乱す原因」と成っていた。
    故にこれを「必要とする者」と「必要としない者」が、「隠したり出してきたりとする現象」として「長く紛失現象」が江戸期まで起こり続けた。
    一時、鎌倉期でこの現象は治まったされたが、それは「鎌倉幕府の吾妻鏡の偏纂の影響」によるものであったと云われている。

    そこでこの混乱に於いて乱されない為にも、「青木氏」に於いても「福家」で統一して「女(むすめ)制度」を採っていたが、ここでも矢張り、「玄孫迄を一族の子としての扱い」をしていて「女系養育」をしていた。
    これが限界であったとし、此れを顕著に表すのが「四掟」であって「女系の縁組先」を「血縁濃度」から「此処を限界基準」としていた。
    「相手の女(むすめ・青木氏の一族域)」は、「子域」は無いとしても「系譜」などから「女系」で「孫か曾孫」からであった。
    所謂、「四掟の女系」である以上は、「四掟四門で嫁いだ先」には、そこの「祖母以上」から「曾祖母」、又は、「母の高祖母までに当たる範囲」の「血縁の女(むすめ)」が「一族系血縁」と成る。
    そこが「格式を確認できる限界」であった。
    「中国」に於いてでさえ「四掟の範囲」で「子孫」を「区切り制度」を造って管理していた。
    この「新撰姓氏禄の範囲」は、この「四掟の4倍から5倍程度」まで「系列化」していて、果たして「CPの無い時代」にこんな事が出来たかの疑問である。
    「新撰姓氏禄」を造ったとしても、“どの様な「格式を造るツール」が有ったか”は疑問である。
    「真人族の範囲かその臣下の朝臣族か」の範囲である。
    そもそも「造り得る過程の問題」があった。
    この「ツール」とされるのは、上記した様に「原本」とされる基の元には、「撰善言集/施基皇子」を元としたのが「大宝律令」であって、“「全国」を歩いて調べあげた原資料の中」”には「記録されていた筈の氏姓の族関係原資料」を基に利用して「新撰姓氏禄」が編集されていた。
    だから、“作っている本人の官僚からも反対された事”も有った。
    筆者はここに「説く鍵の疑問」を持った。
    “作っている「本人の官僚」からも反対”の記述には、“それなりの意味を持たしていた”と観ている。
    「記録」を遺した「記述した者・偏纂者の一人」が、つまり“作っている本人・官僚からも反対”を強く云いたかったのではないかと説く。
    とすると、後勘から観ても殆どは実用は難しい「学問的領域の研究様」であったと成る。
    では普通では考えられない程に何故に此処までしたのかである。
    それには次の事が考えられる。
    一つには、実態に無理に合わせようとした事。
    二つには、一の逆の狙いがあった事。
    三つには、「原本」も含めた「家柄の偽物」を出さない為にした事。
    四つには、「信賞必罰」を臨機応変にこの複雑な判別の中で対応しようとした事。

    先ず、仮にこれを使うとすると、これでは“「専門の官僚・令外官式部・専門家」で無くては一般には「判別」が判らなかった”のでは無いか。
    これは「奈良時代」からもあって、この「嵯峨期」に於いても、「この複雑な政治課題」には、「既存格式制」に従わずに、“臨機応変に対応する役所の令外官も設置されていた史実”があった。
    「中国」もそうであった様に、「中国」より持ち込まれた“「特別職制・令外官制度」”が多数新設された。
    この者等がこれを担っていた。
    「桓武期の改革以降」には、当然にこの“「各種の式部職の令外官」”が、この「格式化職」をその都度設置された。
    「青木氏族」も「この一つの氏族」であって、幾つかの「令外官」を務めていた。
    所謂、その代表的な物として「賜姓五役・令外官的役割を果たす役務」がそれである。
    “臨機応変に対応する役所も設置されていたが、その「代表者」が「伊勢と信濃の青木氏」であったと云う事だ。
    この「賜姓五役以外」のこの「格式化に関わる青木氏一族の役務・令外官」には、「信濃青木氏」には「かなりの記録・研究資料」が遺されている事がある様だ。
    それには「重要な史実の事」があってその一つに「信濃」に於いては、この「伊勢」に比べて“「神明社の役務になる事”が多い事が判る。
    次の「特別役務」である。
    「新撰姓氏禄の後の経緯」に繋がる「史実」が「信濃青木氏」に何故か多く遺されていた。
    それは、「官僚反対」の「新撰姓氏禄の姓認証の指定役務」である。
    “その「認証の役務」を誰がしていたのか”と云う疑問である。
    「信濃青木氏」が、「青木氏の格式」を以て「特別な令外官」として「実務」で働き、その「重要役務」は、上記の“格式別の雑姓領域の姓の認証”に当たっていた事が、この「資料・記録」より「史実」として記されている。
    「賜姓五役外」にも、“特別永代令外官”としての「伊勢青木氏」にも、その“格式別の雑姓領域の姓の認証”の記録らしきものはある筈だが、何故か確定したものが見当たらない。
    これは「情況証拠」から割り出せるのだ。
    「伊勢」も「488社の祖先神の神明社を管理する立場」にあった。
    無い事、又は見つからない事は、そもそも「伊勢神宮のお膝下であった事」で、「憚られていた事」が原因している。
    それは「表向きの事」であって、「役目分けの範囲」では、「伊勢」と「信濃」は主にこの“因事菅隷に基く特別永代の令外官”を務めていた事だ。
    そもそも、「拳を挙げた嵯峨天皇」は、“挙句の果てに「青木氏」に頼る以外には最早道が無く成っていた”事を示している。
    「天皇の面子か権威」を護る為にも、土下座してでも「新撰姓氏禄の実行に必要とする事」があった。
    それが、“格式別の雑姓領域の姓の認証を誰がするか”であった。
    そして、その元は“「神明社・質・前段に記載」”に成っていたと実は記録されている。
    これは“「本論の全て」を語る程に「大きな意味」を持っている”。

    注釈 この鍵と成った「神明社の質」とは、前段でも何度も論じてきたが、何かであるがここで改めて説明して置く。
    「皇祖神の子神として位置付けられた神明社」は「中国の習い」に従って、「金山寺や寒山寺の様な寺」が、民の苦しみを救う為に食料や仕事や悩みや全ゆる事を受け止め世を安寧にする為に民に「施し」をしていた。
    これを「質・しつ」と呼び日を決めて実行していた。
    この「情報」を「貿易」で得て、それを「神道の488社の神明社」にここれを宛がい「青木氏の氏族の守護神」として「管理する青木氏」はこれを取り入れた。
    それを「越前・福井の神明社」に主軸を置いた。
    「戦い」で仕事を無くした者等まで救う事に成っていた事が記録されている。
    特に戦乱期から江戸期末期まで幕府に依って奪取されて「神明社」は荒れ果てたが、密かに「伊勢」を通じて「費用」を秘密裏に渡し「全国神明社」を「鎮守社の裏手・祠程度」に隠して保全していた。
    これを通じて限定して「越前の神明社」で密かに「神明社の質を続けていた事」が判っていて、明治9年まで維持されていた事が判っている。
    これが「神明社の質・しつ」、つまり「江戸の享保期以降の質屋」とは意味が少し違うが、「青木氏の神明社」のこれが元に成って「江戸の享保の改革」に利用した。
    この事で「江戸伊勢屋が経済対策の一環」としてこの意味の「質屋・伊勢屋の質屋と呼ばれた」が江戸に増えた。

    「新撰姓氏禄の実行」が全ての周囲から反対されていた。
    この「認定の役目」は、「式部の官僚」が行う事が決められていた。
    この実行を反対されていたが、「頼める権威を持っていた者」は「出自元の青木氏」に限られた。
    それは“「神明社の権威を使う事」”に成る。
    これ以外には無いし、「神明社の権威」と言えど漠然としたものである。
    “その「神明社の権威」の何を使うか”に話は成る。
    それが「質であったと云う事」に成る。
    「喧嘩していた嵯峨天皇派」」とすると、無理にも「伊勢と信濃」に対して、“矛を収める以外には方法が無かった”ので、故に、「賜姓を外した青木氏の力」に頼るには、桓武派のその元の「出自元の平城上皇にも妥協する事」しか無く、前段でも論じた様に、「嵯峨天皇からの仲介策を執ったとする経緯」に符号一致する。
    筆者は、この「窮地にあった嵯峨天皇派」は、「鎌倉期の史書・吾妻鏡の記」から観ても、単に”矛を収めたとする”のでは無く、「出自派の正良皇子・後の仁明天皇・810年-850年・30歳位」にあった。
    つまり、「父親の嵯峨天皇・786-842・第二皇子」に対して“「強い説得」があった”としている。
    そうすると、「信濃青木氏」が、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事は、その「雑姓の認定の先行きまで」を見越して、官僚の代表とする「太政官の反対」を受けていた以上は、唯単に命令する事には成らず、そこで「天皇の内密の令外官命令・因事菅隷」の「絶対的命令権の因事菅隷」を使って「特別永代令外官の役務として務めていた事」を意味していたのではと成る。
    そうすると、この“「因事菅隷の特別永代令外官」”は、“「神明社の神職」”と云う「図式」が成り立つ。
    それが「平安期」を越えてからは、「全国の488社の神明社の質」が行っていたものから、この形が前段でも論じたが、最終は488社全社で行う事が出来ず、前段でも論じた様に、「雑姓申請と格式認定」以外は「越前の神明社の質」に集約されて行ったのであろう事に成る。
    つまりは、当初から、“「青木氏の永代令外官」”=“「神明社の神職」”=“「中国原形の質」”の関係性があった事に成る。
    従って、「平安期」に於いては、「青木氏族=賜姓五役+令外官の格式の関係にあった事」に成る。
    「信濃青木氏」が、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事に成っていた以上は、全国の「488社の神明社」から密かに「雑姓申請と格式認定とそれ以外の質申請」を受け取り、それを「雑姓申請と格式認定」は「信濃の神明社」に送り、再び送り返す方式を執っていた事に成る。
    「それ以外の質申請」は「福井の神明社」に送っていたとされる。
    これを「伊勢の神明社が手伝っていた事」に成っていたとされる。

    つまり、その「永代令外官の格式」には、更にその「上位の格式」を確定させる「因事菅隷」や「院屋号の特権」が与えられていた事だ。
    それだけに「賜姓」を外された以降も、「普通の令外官で無かった事」が少なくとも云える。
    それは「個人」では無く「大組織体・青木氏の氏族」で進められていた。
    そして、それも「永代の特権」を以てしてであった事に成る。
    それだけに、その「象徴と成る権威」で以て「朝廷・天皇」に代わって「信濃青木氏の神明社」では、記録にある様に、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務めていた事とするのは充分に納得できる。
    恐らくは、それまでは「毎年の因事菅隷」に「信濃青木氏」は基いていたのではないか。
    要するに、これに応じるのがそもそも真の“「皇親族」”であった。
    それを“「嵯峨天皇派」”は、“この事の「特別令外官にある事」に異論を唱えて、強引に「賜姓外し」を実行したのだ”と観ている。
    然し、これ等の事で「兄の平城上皇との政争の末・戦い・薬子の変まで発展」に成り、遂には「嵯峨天皇」が折れて「妥協策」を執り、この「特別永代令外官」だけは、“暗黙の内で認めていた事”と成った経緯だ。
    これが平安期だけでは無く鎌倉期を経て室町期と江戸初期まで続いた
    この「時系列」で考えれば、上記の「新撰姓氏禄の格式化経緯を検証すればこれは納得できる。
    結局は、「源氏の賜姓」に依って「新撰姓氏禄」で目論んだ「源氏化の格式」は一部で進んだ。
    これを始めとして「他の格式化」は、即ち、「信濃青木氏」の、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事に依って進められる事に成った。
    それが「出自元を護った仁明天皇」による「嵯峨天皇への説得」が功を奏した事が云える。
    「鎌倉期の史書吾妻鏡」に依って褒められている記の「出自元を護った仁明天皇」は、当に記録が無いが「神明天皇」と読めるではないか。
    証拠はないが「青木氏の歴史館」として、その功を以て「正良皇子」はこの「神明社」から名付けられたとも観える。
    筆者は、結構、信憑性がある様な気がする。
    然し、「嵯峨天皇」は、「天皇家との距離を離す為」には、故に「青木氏族・伊勢と信濃」では、以後は“「影の特別永代令外官”として務めた経緯」と成っていたのだ。
    だとして、この“「影の特別永代令外官」”と成る以上は、その「実行組織とツールとその財源」が絶対的に必要である。
    これが前段で論じた様に、“「影の役務」”である限りは「賜姓五役」として「院屋の屋号の特権」を与えられた上で、それに基づく「因事菅隷・天皇からの密書」で「実行権を与えられた事」がそれに当たる。
    この「信濃青木氏の務めた史実」に基づくこの“格式別の雑姓領域の姓の認証”は、それでも「象徴と成る権威・皇親族」は、「賜姓外し」があったとしても、その「賜姓の権威」は急に消える事は無い。
    その為に、それからもこの役務は続けられたと観られる。
    「平安期末」までは此れを「暗黙の内に認めていた事」に成る。
    「平安期の諡号姓」に拘わらず、「室町期全般に勃興した農民など」から興した「雑姓領域の姓の第二の姓族」に付いても、この「信濃神明社の象徴権威」を大いに使って彼等は与えられた姓を名乗ったものであった。
    故に彼等は、この“「神明社の権威性」”を前提に世に対して憚ったものだ。
    「江戸幕府」は、朝廷は別としても幕府意外に超えるその権威を嫌った。
    それが「神明社に向けられた経緯」であり、其の上で「信濃事件」が起こった。

    ここで注釈として、“「信濃青木氏の務めた格式別の雑姓領域の姓の認証”に付いて、「伊勢の神明社」にも無かったのかと云う疑問がある。
    原則的には「伊勢」には無かった。
    それは次の理由に依る。
    伊勢には最上格式高い伊勢神宮がある事で「一般的な姓認証」は憚れた事
    伊勢は「北部伊勢郷士衆50衆」と「南部郷士衆50衆」とで全体を治めていた事
    伊勢は「北部200村主衆組合」と「南部200村主衆組合」で細部を統治していた事
    伊勢は奈良期から「不入不倫の権・天智期」で護られ、外部の武力集団が原則入れなく無くしていた事
    以上に依って「伊勢」には古くから「施基皇子の後裔系の青木氏」と云う「一定の高い格式を持った氏族」がいて「伊勢王」としても統治していた為に、「格式別の雑姓領域の姓の発生」は原則なかった。
    「認証権」が有っても「伝統の掟」を護らない事には上記の組織で潰される羽目に成る。

    注釈 桃山期・室町期末期には、この「伊勢」にこの「禁令破り」をして「武家貴族の畠山氏」が入った。
    この為に家臣に成ろうとして「各地の伊勢以外の周辺からの勃興族・国衆」が入り込んで来た。
    故に北畠氏は直ぐに勢力を持つが「信長」にその「家臣団の弱さの脆弱な点」を見抜かれ、「信長の調略」で簡単に占領され、この「禁令破りの北畠氏」は潰れる。
    前段で「伊勢での蒲生秀忠の論」でも論じた様に、「奈良期からの禁令地の占領と言う汚名」を受けずに「信長」は、自らの力で禁令の伊勢を責めずに「伊勢」を手に入れた。
    これと同時に、結局は「固められた伊勢」では「国衆」は存在し得ずに結局は飛散してしまった事に成った。

    この様に、主に「皇祖神の子神と云う格式」を持っていた「伊勢と信濃の神明社」ではあったが、外にもこの「認証の内容」が良く判らないが、「紀州日前宮」の様な「伊勢神宮の前の遷宮社・約64社の国幣社格」でも、「信濃以外」にも「地方での“格式別の雑姓領域の姓の認証”の権の様な役務」を担っていた事が資料に記されている。
    これに付いて検証したが、現在でもよく行われている「神社の御朱印の状」様なものであったらしい。
    これが上記した「信濃」の“格式別の雑姓領域の姓の認証”では無く、「一般の裏書き」の様な“「軽い補償」”であった。
    これは主に「武士階級」では無く、「農民などの一般の民」を対象としたものであった。
    この「格式化」を意味する「氏姓分別の時系列の歴史観」としては、そのもので無かった。
    ところが、後に「江戸期の第三の姓族・大日本史記載」が現れた。
    その結果で、“「神明社の権威・荒廃した」”を「青木氏」から奪い、それを「府内」に引き取った。
    その上で、この「姓認定の権威を持っていた神明社」を荒廃させた。
    明確に「青木氏の認証の権威」を「江戸初期の幕府」に低下させられた。
    その「神明社の権威性」も無視する程度に低下させられた。
    その代わりに「幕府」は、「青木氏の神明社・令外官の役目」に代わって、“幕府発行の「国印状/黒印状」”と云うものを発行した。
    これを前提として「家臣・媒臣・陪臣」と認定し「幕府の権威付け」をした。
    その「窓口」を「武士身分」に依って「幕府や藩」から「国印状・黒印状」を取得した「上位の者」から更に下位に発行する方式を採用した。
    「府が発行する事」で「藩主」と「御家人等」は新たに「任命権」を取得し、それを得た「藩主」と「御家人」は、その「家臣」にも「国印状・黒印状とも記する」を発行して「家臣」である事を証明した。
    それを獲得した「家臣とその媒臣」にも更に「黒印状」を発行させて、その「媒臣」からその「陪臣」にもこの「黒印状」を発行して「権威の連座性」を関連付けた。
    その理由は、それまでのこの「象徴権威の神明社・青木氏」を「府の存立の邪魔」として、その「存在」を否定された。
    故に「信濃の認証権威は高かった事」からは、「土地を奪う、職を奪う、権威を奪う、格式名を奪う、家人を奪う、神聖域を奪う等全ゆる事」をして、これでもかとして徹底的に否定した。
    これが前段でも論じた「吉宗の享保期」であって、その「吉宗に裏切られた様子」が、「信濃の記録」として公的に記されている。
    上記以外には、「伊勢」にも「伊勢詳細の事」として記されている。
    「幕府」に「撤収された社・488社」のその後は、完全放置されて、荒廃し続け、それに従ってこの「青木氏の賜名者の格式認証の権威性」も合わせて低下させた。
    その逆に「幕府の国印状の権威性」を高める為に、この「権威性の権利」を利用した事に成った。
    “「農民等の勃興」”で、この「格式力・格式化」は、全く意味を成さず必要が無く成った。
    その代わりに「武力」が主体と成って、その必要性は無く成った。
    この「連鎖性の権威」には、その前提となる「武」に対する「負荷・義務」を架けて護った。
    この“「武と成る前提・府」”が崩れれば、“「単純な人と人の繋がり」”に成り、“「武力の体制・府」”は崩れる。
    故に、「権威の移動を図る事」に伴って、“詳細に定めた「武力の義務化」”を図った。

    これが、「青木氏神明社」が大きく係わった「嵯峨天皇の新撰姓氏禄の格式化」から変化して、遂には「秀忠に依る武家諸法度」であって、「武の規範」を示して「権威性の確立」を図った。
    これでも「権威性」は充分では無く、追加として「寛永令」等を出して補完した。
    この詳細は「石高」に応じて「武器数や家臣数とその構成形式」まで詳細に決めた。
    だが、これで「第二の姓、第三の姓、第四の姓の権威性」は、「神明社・青木氏」から変位して完全に「府」に移動した。

    注釈 この「国印状・黒印状の発行」には、「大きな一つのトリック」が込められいていた。
    それは、発行と同時にそもそも「勃興族の発生があった事」から、彼等には「全く無かった権威性」を高める為に、その前提として、「元々なかった姓の系譜」を無理に求める様に成った。
    「第二、第三、第四の姓族」には「系譜/義務化」などはそもそも無い。
    そこで困った彼等は、「神明社の格式別の雑姓領域の姓の認証」の際に、その「権威の元に成っている情報」を利用して、「偽の繋ぎ技合わせの系譜」を、この「神明社」に造り上げて貰った。
    それを提出すると云う「裏商い・高額」を密かに行った。
    これで「府と認証者と姓の第二、第三、第四の姓依頼者の利害」が「系譜」で一致して最後は「神明社の裏認証」を黙認する事」と成った。
    この「系譜作成の元」と成ったのが、前段でも論じたこの時に使われたのが「紛失したとされた新撰姓氏禄」だと云われている。
    とすると、「「撰善言集の写し」か「紛失した新撰姓氏禄」が、何故か「神明社の中」にもその「写しの様なもの」が広くあった事と成る。
    「頼政と藤原氏が所有していたとする事」から、時系列から観て「神明社の青木氏・原資料」も持っていて、それを「格式別の雑姓領域の姓の認証」の際に「神明社」が使っていた事が判る。
    更に「四掟関係のある彼等」の「守護神の春日社」にも「配布した事」は充分に考えられる。
    この基を造ったのは、「撰善言集編集・朝廷に提出」の際に付け加えたとするこの「編集の基」と成った「全国の姓族と氏族の系統図譜の集録」であって、それが「施基皇子偏纂」とすれば、これは符号一致して不思議は無く納得できる。
    それが「格式別の雑姓領域の姓の認証」の際の「神明社が使用した」とすると理解できる。
    「格式別の雑姓領域の姓の認証」の「神明社」には、「純粋な意味」で認証として持つ必要があったかと考えられる。
    故に時系列としては、「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」の前の「光仁天皇・施基皇子の第六男・青木氏」の期の「第二の格式化の姓氏禄の編集時」の「紛失の物」であったとすれと納得できる。
    それが「青木氏に遺っていた」とすれば符号一致する。
    後刻、それが「府」にも渡って「系譜搾称」で上手く悪用されたと観られる。

    「戦乱の世の室町期」から始まり「安定した江戸期」には、この「新撰姓氏禄の格式化の効能」は、別の物と成って「下克上」で完全に消失した。
    ここで「重要な経緯」があった。
    ところが、この「格式化に依る権威性」が低下し始めた「室町期」でも、「神明社の象徴権威の伝統」を頑なに護っていた「神明社族の青木氏族」を以てして、今度はこれを“「律宗族」”として再認定した。
    再び「神明社の象徴権威の青木氏族」を認め高めた。
    “社会に「ただ一つの伝統を護る氏族・律宗族」として”、社会に「正親町天皇」は再提示した。
    これも、「府の思惑」でその元と成る「神明社の権威・皇祖神の子神の権威」を江戸期初期に弱体化せられた結果と成った。
    その前の「正親町天皇」が図った「朝廷の権威回復策」も合わせて失敗し、「律宗族の権威性」は向上する事は最早無かった。
    「江戸期から明治期」までにも、この“「律宗族」”には「権威性・格式化」は現実には低下したが、世間の中には今度は、「御師」から“「得宗家・徳宗家」”と呼ばれて変わっていた事が記されている。
    この「元神明社の青木氏」の“「徳宗性」”は、「氏族の中」では明治35年まで消える事はなかった。
    “「言い伝え」”では、「府」から奪われた「神明社・伊勢と信濃」は、“隠れて小さい祠を造り、「府が存在を認めた鎮守府神社・協力」の下で、「その裏手」に隠して護っていた”と伝わっている。現存
    恐らくは、未だ「“律宗族・室町期”」から「“得宗家・明治期”の呼称」に移り変わり、その通りに、それに連なって“「神明社の権威」”も、「国印状に縛られた高級武士」は別に、「庶民の中」には依然継続されていたものと筆者は理解している。

    注釈 この「鎮守府神社」は、「中国仏教の伽藍神」が起源とされる。
    それが日本にも伝わったものであり、そこで「源氏の八幡神社」と同様に、前段で論じた「源氏の守護神の成した事」と同じ様に、“「神仏習合」”が結果として「鎮守府神社」にも起こった。
    この別名で「鎮守府神社」は「鎌倉期」に於いては「神仏習合」から「鎮守府八幡神社」と呼ばれる由縁と成った。
    「江戸幕府の資料」から多くは「鎮守府神社・県格」としている。
    これは「鎌倉期の経緯」を其の侭に踏襲しなかったと云う事である。
    その「日本の鎮守府の寺院等」を護る為にも、この中国由来の“「鎮守府神社の考え方」”を以て護ったとする経緯である。
    この時には、未だ日本には歴史的に“「建造物や土地を護る神」”は無かった。
    そこで、この「鎮守府神社の考え方」を拡大させて、これに当てたとする経緯である。
    古来、“地方の豪族の間には既に個々に「地主神」”と云う神があった。
    これには問題があって、その上に建つ“「建造物」”には「神」は無く、この別にあった「地主神の考え方」を抑えてこれに当てた。
    「土地と建物の神」に対しては、結局は、「土地と建物の神」には、“「鎮守神の存在を認めさせた事」”にしたのだ。
    これが「日本の鎮守府神社の経緯」である。
    そこで「江戸幕府」は、言い分通りにこれを改めて統合させた。
    そして「逆転現象」を起させて“「鎮守府神社」が「地主神」をも護るもの”とした。
    その“「地主神」”よりも「霊威の強い神は鎮守神」として改めてた。
    これを「鎮守府神社側」に、新たに勧請し直しさせた。
    故に、先に祀った方が“「鎮守神の歴史」”であるとした。
    この結果として「建造物の鎮守神」に対して、“「土地の地主神」は「補佐役」に廻った”として「府の意思」に沿って「考え方」を纏め統一した。
    要するに、これは「地主神派の考え方の強い豪族」と「鎮守神派の考え方の強い豪族」との「争い」がそこには有った事を意味し、その「話し合いの結果」として「上記の考え方」に纏めたとした。
    結果として、「幕府の意思」に沿って「小さい地主神」が習合した上で消えて「大きい鎮守神」に統一されて、どこでも祀られる様に成った経緯である。

    さて、ここで比較するとその「一つの青木氏族の氏上社・守護神で皇祖神の子神」としていた事であって、「青木氏の神明社・488社・大日如来神・太陽神の事」であるが、然し、その“「組織の余りの大きさ」と「その権威の大きさ」と「その歴史伝統の長さ」”で、「幕府」が纏め上げた「鎮守府神社と地主神」のものと違って、「江戸幕府」にとって上記した様に「神明社の権威性」を邪魔視される様に成った。
    結果として「潰される羽目」と成った。
    “「邪魔な神明社」から「江戸の幕府が造った鎮守府神社」に切り替えた”と云う事に成る。
    江戸初期に起こった事である。
    この“「神明社」”は、そもそも「皇祖神の子神の格式」を獲得して、「一族神の氏族社・青木氏族血縁集合体の青木氏」であって、上記する様に平安期に於いては未だ大小はあったが、ある意味でこの「中国由来の「鎮守社・地主神」と対抗する立場に成っていた。
    江戸期の「神明社の権威潰し」で、結果としてこの「低い格式の鎮守府神社・地主神」に助けて貰う形と成った。
    鎮守府は大きく成ったと云う経緯である。
    故に現在も遺る「鎮守府神社の裏手の影」には、「鎮守府神社の力」を借りて「神明社が存在すると云う経緯」である。
    此処で疑問なのは、「地主神」を集合した「鎮守神の鎮守社」は、「大きくなる事」で「神明社の様に潰される危険」があった。
    この鎮守社は何故か「神明社の影の存在」を否定せずに保護したのだ。
    それは、この「神明社が完全に潰される事」は、次は自分達の鎮守府神社であると考えて、影でも良いからその「信仰の力を温存させる方」が得策として庇った。
    そこで「江戸幕府」は、「鎮守府神社」のこの態度までを潰す訳にもいかず、「神明社を潰す」が、“「影の存在であった事」”で黙認したと経緯と成る。
    その「黙認」の「裏の意」は、そのそうする事で「鎮守府神社」にも{青木氏の財」と「古来からの影の権威・庶民の信心」を獲得するに「利点」が有った。
    「幕府」からその責任を攻められれば、「知らぬ事」で逃げられるし、現実に攻められた恐れがあった事が記されている。
    「福井の神明社」や「伊勢・桑名」でもこの事が記録されている。
    結局、「桑名の記録」には現在も遺された資料には、“「幕府」も黙認の姿勢を採った事”が記されている。
    結果として、これが「伊勢」には「神明社の地」として「集中して19社」が遺った.
    その経緯では、現実には“権威性は低下した”が、現在も“「祠の形」”である事は別として、遺されている所以でもあった。
    この「神明社の扱い」は、古来、「伊勢王の権威性」であった所以でもある。
    「伊勢」より[より厳しい処置を受けた信濃」は、“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の役務の「神明社・18社の信濃神明社」も同然の経緯を持った。
    「伊勢郷士衆50衆の氏族」との関連を持った「伊勢の郷士の豪族」の「土地と建造物の地主神と鎮守神の社」の御蔭でもある。

    注釈 「秀郷流青木氏の春日社」も「神明社と同然」で、全段でも論じた様に「幕府から酷い扱い」を受けた。
    これには「秀郷流青木氏族の春日社」の「社格・361氏の大秀郷流一族一門・幕府の御家人」の「国幣社の社格式」を“「神社格」”に落としてでも一部は難を逃れた。
    当時は、“「春日社の社格」”>“一般の神社格」”であった。

    さて、それまでの“「第二の姓”の発生」に対するこの“「神明社の姓認定の権威」”は、上記した様に、今度は「江戸初期の第三の姓の発生・大日本史記載」でも、最初は“「信濃の神明社の姓認定の権威」”によるものとして認められていたが、これも「幕府の国印状」に代えた。
    続けて「第四の姓の発生・諡号を模倣した姓名」が起こったが、これには流石に「幕府」は「禁令」で以て別に「姓変更」を命じた。
    変更しなければ「認証の国印状・黒印状の発行」を認めなかった。
    そこで、その「幕府」に依って「青木氏の神明社の権威」が低下させられた狭間で、その「神明社の青木氏の歴史観」には、前段でも何度も論じて来た様に、「大きな変化」を来した。
    それには「一つの青木氏の事件・下記・享保期頃」が最終的に伴って来た。
    その「上記の経緯の過程」で確かに「神明氏の権威性」が無く成った。
    その事のみならずそれだけでは治まらず、それが「享保期の信濃神明社の聖域とされる土地の剥奪事件」と、その「神明社で行う全ての殖産の没収事件」と成って現れた。
    この事に「伊勢」は手厳しく反応した。
    「吉宗の青木氏に対する離反行為」として認め、それまで[莫大な投資]をして「吉宗の江戸の経済改革」を手伝っていた。
    滞在していた「江戸の伊勢青木氏・日本橋」にも「信濃への幕府の離反行為・隣りに住んでいた「近江青木氏の事前情報の獲得」で知り、同じ事が及ぶとして「即座・3日」に「伊勢に引き上げるという事件・最後の幕府との付き合いと成った事件」が発生した。
    そこで、改めてこの「信濃」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の役務は「信濃だけ」であったのかと云う疑問である。
    「伊勢」に於いても勿論の事で、「近江」に於いても「美濃」に於いても「甲斐」に於いてもそれを示す「確実な資料記録」は、「信濃神明社以外」には何故か出て来ない。
    勿論、この「信濃」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「認定の役務」は「因事菅隷」による「奈良期」からの「永代特別令外官としての役務」から来ているものだ。
    その「経緯」から、「伊勢」にも「別の因事菅隷」が多くあった以上は、少なくともそれを示す「資料記録」は、「伊勢」にもあったと考えられるが、ところが「伊勢19社の神明社」にも発見されないのだ。
    一つは「伊勢」には「神明社以外」に「伊勢神宮と云う権威」が別に存在していた事
    二つには、「伊勢19神明社」には、他に無い意味のある「特別な名」がつけられている事
    以上から「信濃の代理」を務めていた事が判る。
    この「古くからの特別な名」が何を意味するのかである。
    因みに、「五家五流の国の神明社]は、「近江の3社」で残りは全て時代の異なる神社格、矢張り前段でも論じた通りに疎遠であった「美濃」には0社、甲斐にも0社である。
    この「信濃」は「16社」であって、殆どは不思議に「山梨との国境西側」に存在する。
    この事から、「伊勢19社」と「信濃16社」であるとすると、「伊勢19社」には、“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「役務」は無い事に成る。
    少なくとも「信濃16社での役務」に成る。
    そうすると、この「伊勢19社」では、「伊勢神宮の上位の権威」がある事」から憚って、“「信濃の代理の役務」”で果たしてしていた事を意味する。
    ところがその「役務種」に依っては「伊勢の役務を持つ神明社」は、「社名」として「名を着ける事」で特別に仕分けしていたとしている。
    本来は、「神明社に名を着けない事」が、「古くからの決まり」であって、これは「青木氏の伝統」である。
    特別にこの“「格式別の雑姓領域の姓の認証の役務」”では、自然に判り易くする為に、一部に「俗名・全部ではない」を着けたのだ。
    然し、「伊勢の神明社」は、上記した様に「江戸幕府}に依って初期に剥奪されて「管理」までを「幕府」に移されたが、実はそれまでは「青木氏の商いの財]で賄われていた。
    その「管理費用が莫大にかかる事」が判ってから放置されてしまった。
    この事で荒れに荒れて、遂には果てた。
    然し、それでも“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「役務の権威剥奪の目的」、「幕府」として邪魔に成る「青木氏の権威」で、この「低下」には、その「「目的」に置いている事に合致していた。
    然し、「伊勢と信濃」は「幕府の圧力」にここでは我慢した。
    遂には前段でも論じた様に、幕府側は我慢できずに「信濃」に次の手を打って来た。
    「伊勢」は直ちに、事件発生後に「伊勢」に帰り「防御策」を採った。
    この時、「郷土史の記録」では、「全国の488社の神明社を信心している民」から「幕府に対して批判」が噴出したが、“押し潰された”と記されている。
    「信濃」は、最早、前段や上記した様に「信濃の家人」も含めた「幕府の奪取策」で根こそぎに奪われた。
    この為に何の動きも執れなかった事が判っていて、「記録」にも遣られるままであったとその様に記されている。
    前段でも論じたが、“何せ信濃の家人の多くが家臣として採用されて仕舞い口を出せなく成っていた”と前段でも詳細に記した。
    “伊勢は、「神明社の剥奪」から始まりこの「吉宗の裏切り行為」に対して我慢ならなかった。”
    そこで、“この「吉宗の裏切り行為」に対して「伊勢」は何かしたのかである”が、資料の行の表現に付いて参考に成る事が無いか詳細に調べた。
    そして「基本と成る判った事」があった。
    それが戦略として、前段でも論じている“「紀州藩を背景にした事」”であった。
    前段でも論じたが、「紀州藩・初代頼信から」とは「初代から付き合い」があって、前段でも論じた様に「債券」も「2万両以上から10万両とする記録」もあるが、故に「紀州藩の財政の立て直し」の為に採った「勘定方指導と云う立場の獲得」と「紀州藩の家老も含めて全ての紀州藩の家臣」は、全て「伊勢青木氏と縁戚関係」にある「伊勢者・伊勢藤氏」であった状態にあった。
    「吉宗の側用人の加納氏の伊勢本家との血縁」までもして「周り」を手堅くまとめて、吉宗にこれ以上の圧力を受けない様にした.
    この事から、「吉宗の幕府」は、「伊勢」は勿論の事、「信濃」に於いても先ずは手が出せなく成って仕舞った。
    更には「瀬戸内の水軍」と「紀州水軍」と「摂津水軍」と「駿河水軍」を以てして、「伊勢の山田奉行所」にも大圧力をかけた。
    次に幕府から派遣されていた「紀州藩付家老」の「二人の居所・白浜城と田辺城」にも「伊勢藤氏の武装勢力・郷士衆」が周囲を囲み「武力的圧力」を「背後」からかけて幕府派遣の「目付役の付家老二人の動き」を止めたと記されている。
    他には、それまでは「関西域の海運」を一手に取り締まる「山田奉行所」に対しても、「伊勢水軍」から始まり「海賊の紀伊水軍」や「摂津水軍」や「瀬戸内水軍等」が西側一斉に結束し、「摂津湾」に「摂津水軍組合」を作って、自らで「伊勢から瀬戸内まで」の「自己管理監督の仕事」をし始めたのだ。
    この事で、その「山田奉行所の存在価値」が弱体化した。
    その「勢力バランス」は「摂津水軍組合」に完全に傾いた。
    この域を警備の管理監督していた「伊勢郡奉行所」に付いても、これを仕切っていた「伊勢郡奉行所の事件」も「無理難題」を「伊勢」に出して来た。
    これに対して「家康」の「伊勢青木氏」に出した「伊勢の事お構いなしのお定め書」を提出して対抗したが、これをこの時の「奉行の大岡忠相がこれを無視した事件」が起こった。
    これを不服として提出するも、これは「正しい裁定」として「吉宗が追認した」。
    そこで「伊勢」では「郷士衆100衆の大騒ぎ」と成った。
    この時、収まりが着かなくなった末に、この「問題の奉行の大岡忠相」を江戸に引き上げさせてこの事件を治めた。
    これで「完全な犬猿の仲」と成ったが、「紀州藩」はこれに対し「幕府」に「異議・家康の尊厳・お定め書の尊重」を唱えたが無視した。
    結局は「紀州藩を巻き込んだ対立関係・家康の尊厳の無視」がここで生まれた。
    そこで「紀州藩」は、「吉宗の出自元」であったが、「家康の尊厳を無視した吉宗出自藩の印象」を打ち消す為に「安芸の松平氏」から「養子を迎える事」にして「吉宗の縁」を切った。
    この事で「吉宗」は「紀州藩に対しての発言力」を全く無くした。
    「江戸幕府」が最も嫌っていた「天皇家の力」を開幕時からその力を最低限に弱める策を執っていた。
    この期に、「財政支援」を「幕府の財政難を理由に打ち切っていた事件」が更に起こった。
    この様子が「記録」に遺るが、その「記録」が伝える処では、宮廷はお化け屋敷の如くで、これには到る処の壁が崩れている様に記されていて、その締め付けを更に強めて来た。
    そこで「鎌倉期より献納を控えていた伊勢」は、これを観かねて、ここで記録にある様に、再び「多額の献納を一次的に開始する事」にした。
    これ見よがしに「献納の車列」を態々大事に、大げさに組み、且つ、旗をなびかせ見せつけて対抗したと記されている。
    「旧来の南紀の旧領地・江戸期」にも「伊勢青木氏の土地・地権保持」に対して「難癖」を着けて奪おうとして来た。
    これに対して「伊勢郷士衆南北計100衆と村主衆の南北400村主衆」が一致結束して「一揆・集団反発」を起し、これに厳然と対抗したとある。
    この時は「紀州藩の管轄」でありながらも「この一揆」を「紀州藩」は“「本来の一揆」”では無いとして黙認したのだ。
    それは、所謂、「農民」が「宗教的背景」を以て「年貢」に対して「城主に不満」を起こすものでは無く、「農民」を含まない「伊勢郷士衆南北計100衆と村主衆の南北400村主衆」の要するに「伊勢を指導する郷士衆」であり、「一つの氏族」が起した「自らの改革運動」であって、「藩主」に対するものでは無く、且つ、「利害」を生むのものでは無いとして突張ねた。
    「幕府」は、この「紀州藩の反抗する態度・明治維新まで」に対して、この「一揆の取り締まり」を言い渡して来たが、これを「以上の言い分」で無視した。
    最早、「後ろでの背景」と成っていた筈の「裏の紀州藩」をも巻き込んだ様子で「表」に出る様子を呈し来た。
    ところが、突然、「幕府」はそれ以上に「紀州藩を背景とした行動」に対して、「伊勢青木氏の追及」を止めた。
    それは「吉宗の脳出血の病気・1645年と1651年の2度」でそれ以上は出来なく成った事件でもあった。
    「家康遺言と伊勢への裏切りと言う二行為」は、精神的に一番に「脳・精神」に残るものだが、子供の頃から育てられた「親代わりの伊勢屋の青木氏」に対して、“親と観られる人・育ての親”に対しての「武士の心や将軍という役目の立場」からの“「精神的なストレス」”は、人に云われ程に大きかったのだ。

    前段で「個々の事象」として論じて来たが、これ等を「以上の様に時系列」で読み込んで観ると、その時の「幕府に対抗した姿勢」が観えて来て、上記した「ある青木氏族物語」が出来て来る。
    要するに、上記に記した様に、「信濃や伊勢」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「奈良期から長年続いた役務の権利」は、ここで遂に剥奪はされたが、「肝心な処は抑えていた事」で無事に寸前で治まる事に成り得た。

    これが「平安期初期から始まった新撰姓氏禄」の「紛失後の経緯」であって、長年に渡って「青木氏の周囲」に多大な苦しみと影響を与え続けた。
    最後、この「変化」が「意にして求めた事」では無かっただけに、「青木氏族」に執っては、未だ遺るこの“「正親町天皇からの律宗族の権威と格式の授与」”は、“「余りありがたい事」では無かった事”とも読み取れる。
    つまり、今度は「江戸幕府」から、これが続けて警戒される要素に成った。
    何故ならば「商いが進んだ青木氏族」には、「神明社の象徴権威の必要性」は、最早、強く求めるものでは無く成っていて、「意識の中」でも薄くなりつつあった。
    その「意識の中」では、この「経緯」としては、既に「江戸期の中」に突入していた。
    前段で論じた「額田青木氏と駿河青木氏の論」の様に、“この「江戸初期の伊勢の事お構いなしのお定め書」”が未だ影にあった。


    >青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−53」に続く。


      [No.402] Re:「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/07/10(Mon) 09:41:11  

    >
    > 「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」の末尾
    >
    注釈 参考として、「薩摩藩の島津家の家臣の西郷氏」は、鎌倉幕府倒壊後、「常陸の国衆」は、「西」に先ず流れ、前段でも論じた様にそこで先ず「伊川津・三河」に入り伊川津国衆」と成ったが、「三河の国」が敗戦後に西郷氏は三河を診限りこの「伊川津」から離れ、その後に「薩摩」まで「流れ薩摩の国衆」として流れた経緯を持っている。
    抑々、この「国衆と呼ばれる者等」はその様なものを注し、特段の意味の事は無い。
    この様に、「出世を夢見る小土豪集団」は日和見的に東から西に流れて行く傾向にはあったが、この時期には西の端から東の端の方に流れる傾向はなかったのだ。
    精々、この「国衆の流れの大方」は「中部域・今川氏」で終わっていた。
    それだけにこれ等を抱えて大きく成ったのが「今川氏・国衆集団」であって、それだけに「武田氏等」と違って脆かったのだ。
    況してや、西の端の九州域でもその規模は低いが同然の事が興っていたのだ。
    この現象は「肝付氏」と同然の「伊佐氏」でもあり、この結果としてこれが「日向青木氏の経緯」と繋がっているのであり、東には何の因果も無く、寧ろこの「流れ」は逆であったのである。
    これを完全に結論付ける訳には行かないが、恐らくは関東より東域に流れたとする説は「江戸初期の国印状獲得の所以・後付け説の第三の姓族」であろう。

    「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」

    さて、話を戻して、「伊勢の50衆の郷士衆の氏人等」は、「伊勢青木氏の代理」として「三等官の高級官僚」と成り「南九州」に赴任した。
    然し、当に、「伊勢青木氏族の氏族の郷士族」が「福家」に代わって「三等官掾の高級官僚族」と成った後は、殆どは人気を終えて「伊勢」に戻ったが、この“「戻るまで経緯」”には、それなりに“「戻るまでの流れの変化」”が上記する“「青木氏郷士の掾の変化」”に沿っているのだ。
    この「伊勢青木氏」ならではのこの「独特の経緯」は、一部は其の後の「薩摩島津氏」に属して生き遺った者等がいたが、これは「青木氏族」に、“特記する珍しい時代変化”に抗し得なかった切ない一面でもある。
    故に、此処にその一つの事例である「元伊勢郷士であった伊佐氏」を以てして、前段では論じ切れなかった「詳細経緯」とその「周囲の環境」を、ここは誰も論じない処なので、丁度、時代性が一致する為に特別に此処で論じて置いた。
    ところがこの時期には、つまり、“「平安期の社会」には、合わせて“「源氏化」と云うムードで煽られていた”のだが、この「源氏化の社会」には、未だ良く調べると、余り知られていない「美化された処」が実は多いのだ。
    その為に正しい青木氏の歴史観が偏諱を興している。
    「青木氏の歴史観」としては、「源氏化の時期」は、“特別に知っておかなければならない面倒な時期でもあった”のだ。
    これを「青木氏の歴史館」としてここで関係する色々な歴史観の面からここでも検証して置く。

    この「源氏化の時期」には、取り分け、「青木氏」に大きく関わった“「大口村」”と云う所があった。
    そこには、「伊佐氏の様な明確な歴史と格式を持つ高官」としての、所謂、「三等官掾の高階級の位を持った郷士族」が赴任して存在していた事は他に余り知られていないし発見されないのだし、ところがこの事は歴史的にも珍しい事なのだ。
    それだけに、ここは「特殊な地域」でもあった事に成り、その「伊佐氏の成り立ち」に於いても同然なのだ。
    要するに、この「九州南部の地」は、本来ではあり得ない「三等官の掾階級を持った特別な者が治める地域」でもあったと云う事なのだ。
    この事は其れなりに“意味があった地域”と云う事に成るのであった。
    この所以は、恐らくは、この“「特別な地域」”には、過去は「伊勢」に居たもので、「伊賀半国割譲」と云いう経緯からその所縁で「伊勢王・施基皇子の裔系」に「特別に命じられた重要な役目」で以て、ここに定住し出したものである。
    それがこの時期では、この経緯の延長で「伊佐氏の現地孫」の「住み分けによる定住地」に成った事と考えられるのだ。
    普通は殆どは「国司代級の者」が出向するのが普通である。
    つまり、どういう事かというと、それは、ここは、“特別に周囲と違うと云う事”があって、それが「三等官掾の位と伝統」を持つ為の官吏赴任に「必要な特別な地域」”でもあったと云う事である。
    それ故に、ここに「伊勢郷士」が「特別に住み分けていたと云う地域]であったと云う事であろう。

    注釈 「国司」とは、地方の「行政単位の国」を「統治支配する行政官」として「朝廷」に代わって派遣された官吏の事、又は令外官の事である。
    位は「四等官」であり、「守、介、掾、目の4つ位」があり、「伊勢」から「伊勢郷士・家人級」が「代理官吏」と成って赴任していたこの「伊佐氏」は、この「掾の位」に当たり、「伊勢からの出向と云う事」から一段上の「三等官」であったのだ。
    中国では「中級貴族」に位置するもので、この「伊佐氏」は、態々、「伊勢青木氏」に代わって「伊勢郷士」の中から代理して赴任したと云う事もあって、これを以て「三等官掾」、つまり「中級貴族の扱いを受けていた事」を表すものだ。
    任期は4年から6年で事情によって現地に定着する者もいて、依って、「任期期間」は前後していた。
    その地域の「重要性や特別性やその成績」から「伊佐氏」の様にこの限りではなかった。
    この国司は、政務付いて「祭祀・行政・司法・軍事」を司り、「絶大な権限」が与えられていた。
    その意味で、「伊佐氏の三等官掾」は評価が高かった事を物語る。

    さて、そうすると、この「論じている事件・前段」、即ち、「頼政の1185年前頃」までには、九州のこの特別地域では、「奈良期の末期」から少なくとも「平安期の終期頃」までは、“「伊勢郷士の赴任期の頃」”であった事に成るだろう。
    それ故に、ここは「比較的に長い期間」にあって、この都から離れた「九州南部と云う地方」でありながらも、それだけにこの「南部の特定の地域」のここは、「朝廷から重要視されていた地域」でもあったと云う事に成るのだ。
    それは何故かであり、「何故か大きい事」が此処に起こっていたと云う事に成る。
    それは元々、ここは「奈良時代初期」には、「隋からの渡来人の首魁の"阿多倍王・隼人」とその「父の阿知氏王・阿知」が、「200万人の職能機能集団」を引き連れて「博多」に上陸し無戦して薩摩まで占領して此処に住み着いた地域であった。
    そこから云う迄も無く、後に彼等は「政権」を握った「清盛らの裔祖・桓武平氏のたいら族」に当たり、渡来時より九州全域に、主にここに定住していた所でもあった。
    後に「伊賀の国半国割譲」して首魁らをここに呼び寄せて「重要な伊勢に関わる伊賀」を与えられて「首魁の阿多倍王・伊賀王」は此処に移り住んのだ。
    その前に「朝廷」は、船団を出して九州の彼等を駆逐掃討しようしたが歯が立たずに敗戦した経緯があるのだ。
    そこで結局、「関西の手前」まで無戦で迫る勢いで占領されると云う結末と成ったが、此処で和解し、その代わりに首魁に「伊賀半国割譲と王位の位・敏達天皇の芽淳王の娘を娶る」を与えて「王族」に組み込み前段論の通り定住する事と成ったものだ。
    その子が有名な「坂上田村麻呂・長男」であり、「九州探題の大蔵を担当した大蔵種材・次男」であり、「内蔵を担当し北陸地域」を治めた「安倍氏等に繋がる内蔵氏」でもある。
    この様に前段で論じた様に、それだけにこの「地域」は、平安期に於いては未だ「彼等の氏」の「裔祖父阿知氏王」が、「伊賀半国割譲」と成った後にしても、未だその「裔祖らとその200万人の技能集団」が九州全土に多く住む「特定な地域」として重視されていたのだ。
    それだけにこの彼等が持ち込んだ進んだ「技能で発展したこの九州域」は、「特定地域」として指定され発展して政治経済共に名実供に「特定地域」と成ったものだ。
    別の意味でも彼等の持ち込んだ高度な技能で急速発展したこの地は、技能の面でも都より市場経済も栄えた事で、更に「半国割譲の影響」も受けて、「伊賀の青木氏・伊勢郷士の伊佐氏を派遣する程の経緯」として派遣される事と成り、ここが「朝廷」より認定され「正式な特別地域」と指定されたのである。

    さて、故にこれが「主な経緯」であり、所謂、このそもそも上記した様に、ここには「伊勢青木氏族の氏人・家人」の「伊佐氏の菩提寺」は、即ち、「江戸時代に浄土宗知恩院派と成る」が、故に此の全域は「浄土真宗東西派」が寡占で存在する事の中でも、珍しく「浄土密教の14派中」の“「白旗派」”で存在すると云う事に成った経緯なのだ。
    故に現在でもこの「浄土密教の寺」はたった「2寺」に過ぎないのだ。
    其処にこの「阿多倍王の裔系」が住む「伊賀に関わる者・伊賀郷士伊賀青木氏」を「伊勢王の関係」から、この「九州の地」に配置して監理し、その責任上からここを「宗教」でも「青木氏族が監理監督すると云う事」が起った経緯なのだ。
    それが「伊勢青木氏に関わる伊勢郷士・伊佐氏・伊佐氏の由来は前段で説明」であって、その「阿多倍の所縁」を以て「官吏三等官の掾官僚族」の「高官」として、この「伊佐地域」に特別に配置されたと云うものであるのだ。
    然し、「官吏三等官の掾官僚族」と云えど、そもそも更には、“この地方には「密教の菩提寺を持つと云う事」”が特別に珍しい事でもあり、それも、更には多少に「格式名」などに縛られらた「排他的な格式浄土密教」と云う「独特の宗派・白旗派」がこの地域に存在したと云う理由に成るのだ。
    そもそも「彼等の集団」が統一して帰依していた“「もとの宗派」”でもあって、それ故にも「排他的な格式浄土密教」と云う「独特の宗派・白旗派」で無くては成らなかったのだ。
    その意味でも尚、同宗である「伊佐氏の様な伊勢の青木氏族・伊勢郷士」で無ければならなかったのだ。
    この事は当時としては「極めて珍しい事」であって、「浄土真宗東西派」とその間には歴史的に元々、激しい軋轢があったのだ。
    現在に於いても、「九州全土の9割以上」は、この「歴史的な経緯」により「東西の浄土真宗派寺」が占めている「特別な地域」でもあるのだ。
    そこに、この「浄土密教の14派中」の「弱小白旗派」で、「最小派閥の白旗派の寺」がこの「大口」に存在していたと云う経緯であり、此れはどう見ても歴史的には何かがあっての事であるが、その起こった事は尋常ではない事であった筈なのだ。
    そして、この“「密教の菩提寺」”を調べて観ると、この「密教の寺」は「浄土宗14派中の最小派閥の白旗派」の寺は、つまり「浄光寺系」は「伊勢の清光寺の分寺」でもあると云う事なのだ。
    その「青木氏族が存在する地域」の所には、この「浄光寺」は必ず「伊勢の分寺」として今でも存在しているのだ。

    注釈 明治時代には全国的にも激しく「珍しい廃仏毀釈」がこの九州で起こったのだ。
    それ故にも尚の事で、そもそも「公家貴族しか帰依しない派の寺」がこの地に存在する事はそれさえもこれも極めて珍しい事であった為に「危険な事」であったのだ。
    それ故に、この「白旗派の格式と歴史のあるこの寺」は、「伊佐氏と云う事」も含めて「天皇家に繋がる寺」として「廃仏毀釈運動の浪」を幸いに受けなかったのだ。
    それは、最早、其処に住み着いたこの「渡来人の集団」と「伊勢裔系の高位族の一族の菩提寺だけの寺」と云う事に成っていたのだ。
    これには上記した何か他にも由縁があったと云う事で遺ったと云う事に成るだろう。

    注釈 改めて、これは「平安時代の古代浄土密教派・奈良時代に渡来人等が独自に中国から持ち込んだ古代仏教」を、「青木氏が国造頭であった監理する立場」からも、これに賛同してこれを「青木氏の中」にも「密教」として取り込んで「独自の教え」として「伊勢青木氏」は協賛して「独自の氏の教え・密教」としたのだ。
    然し、それを「古代浄土密教・浄光寺」として確立したものであって、それが後に「特定の武家貴族や公家の範囲・16家程度」で構成して「白旗派」として帰依されていたものである。
    それ故にこの「白旗派・大日如来の古代密教派」は、最小派閥を維持させるだけの「青木氏等の持つ経済力」で充分に持ち得ていたと云う事だ。
    然し、後の平安期には「派」として「密教浄土宗」に組み込まれて行ったのだ。
    それだけに、そもそも「三等官掾の官僚族の菩提寺と成る事」は、実に極めて珍しい事」であって、この「地域」ではそれにあって、「古代浄土密教」として「青木氏独自」に確立していたものであった。
    それに「武家貴族や公家の範囲・16家程度」で帰依させていたものと成れば、この「検証」としてはそのルーツを辿らなくても必然的に前段で、その経緯を論じた様に「青木氏に関わる事」と成り得るのだ。
    この「関わり範囲」で、この地に来た“「古代浄土密教の青木氏の住職の勧め」”を聞いて、「廻氏の裔系と成った仲綱の嫡子宗綱の裔」が、この場で「伊勢青木氏を名乗ったとする所以」と成り得るのだ。
    これには「青木氏の関わる事の歴史的な意味」が大きい。

    つまり、先ず初めに前段でも論じたが、これを以て云い換えれば、この“「注目のその住職の所在」”は先ず気に成るが、つまり、その「検証」として、「青木氏の菩提寺・清光寺の住職・密教の仕来り・白旗派・柏紋最高格位」は、“古来より「青木氏の者が独自に務めるという伝統の掟”」があり、これに従って、この場合はここでは、“「伊佐氏の菩提寺・浄土宗知恩院派・江戸時代に発展・浄光寺/清光寺/西光寺」”である限りに於いては、先ず、“「伊勢青木氏の所縁者であった事」”を更に結論付けられるのだ。
    この「伊勢郷士の伊佐氏の論・前段」と共に、これが「大口青木氏・日向青木氏の青木氏を名乗った経緯論・下記」として繋がり、更に前段で論じた通りの「その後の働きの経緯論」とも繋がって行くのだ。
    それが、「廻氏の裔系と成った宗綱の裔・その後に伊勢青木氏を名乗る」が、其の後に「日向」に来ていた「商船の伊勢の船/伊勢水軍」で以て、「伊勢」に連れて行き、“「伊勢青木氏の裔系」”として育てたと記録にある。
    これは偶然にも「叔父に当たる青木京綱」と共に育てられた事と成り、更には一人前に仕立てた後に「廻氏と宗綱の子」と成る「大口青木氏の関係の経緯」と成るのだ。
    この「検証」は「長い経緯論」と成る為に、此処では「追記の論」として書き遺して置く。
    そして、「平家の追討軍」は、この「伊勢郷士の伊賀青木氏の住職のこの話」を聞いて“止む無し”として「桓武派」として引き上げる事と成ったが、この上記する「伊勢との血縁関係の経緯」を既に知り得えていたのだ。
    この「平家一族の四掟の範囲」にあった「日向平家の掃討軍」は、上記する様に「伊勢」から来ていた「青木氏のこの住職の説明」を聞いて、この「浄光寺」から掃討もせずに、同じ「桓武派」として理解して引き上げた所以の経緯と成るのだ。
    この“「伊佐の青木氏の住職」に助けられた”とする「際どい経緯」を、「遺された記録」にある。
    この様に、先ず歴史的な経緯を持っていたのだ。
    そこでこの「経緯」を段々に下記に論じて行く。

    「注釈」 現在の「日向青木氏」とその一族の「大口青木氏のその裔」は、「南薩域」に現存し、その「商の拡大」と共に、その「商利」を生かして江戸期からは「黒田藩の傭兵・商船を持つ役割」として働き、江戸期末期までその子孫を拡大させて生きた。
    その後の現在までも、更に「大口の子孫」は拡大している。
    「北の日向」からも「南の端の薩摩の末端」まで「大口青木氏」として大きく子孫を広げているのだ。
    その「裔系の拡大」は総合的経緯としては、上記の経緯に依り“「青木氏」”を名乗り、明治初期には「3年の苗字令」と「8年の督促令」でその「子孫」は、「苗字の上」では「3つ姓」に分かれたと成る。
    それは「生存地域」に基づき「大口の山手に従事する者等」は、「農業」を主体として営み、“「上青木姓」”と名乗り、「日向灘の海に従事する者等」は、「日向水軍・水軍を持つ黒田藩の決め手」とし働き、その後に“「下青木姓」”として名乗ったと成るのだ。
    この「3つの地域の本家筋・大口地域」には、“元の「青木氏」とした”とあり、その「家紋」は「丸に笹竜胆」を使う事を「伊勢」から特別に許されたと成っている。
    その証拠は現在では墓所等にも見られる。
    この「明治初期の苗字令」では、この「三つの姓」に名乗りを更に変えて同地域で、西域は「長島町」から「阿久根」に、そして「大口市」に、東は「日置市」と「日南市」に、北は「日向市」を超えて「佐泊」までに伸びているのだ。
    明治期に名乗りを変えずそのままの「青木さん・主家筋・大口市」と「同系の三つの青木さん」がここには大きく現存するのだ。

    そこで話を追記論の前のこの「歴史」を左右させた「青木氏の独自の歴史観」として持つ「後家制度の論・源氏化で影響を受けた」にももう一度話を戻す。
    何故ならばこの論の過程で、その「経緯」が「青木氏」には「大きな繋がり」をみせるのだ。
    何度も論じている事ではあるが、先ず一つのこの「古い典型的な事象・後家制度」が他にもあるのだ。
    当時は未だこの“「後家制度・現在と仕組みと意味が違う」”は、「公家や高級貴族の氏間で行われる制度」であった。
    この事から、「社会」には未だ広がりを余り見せずに、この事例は他に無く、ところがそれは、この「源氏化・猶子策」と共に大きな社会変化を興していたのだ。
    それは「皇族臣下族としての品位格式」を護らせる為に、先ず「嵯峨期の9つの縛り・賜姓族としての伝統」を課せたが、それを最初からこの「源氏族」は全てに渡り護らなかったのだ。
    それは「源氏・正規11氏・源氏化」が、「源氏化の歴史」の中で、“「ある事」”が横行していた事が原因していた。
    彼等は、それを“継承して守って行くかの意思”が、元々、「源氏の彼等」にとっては「無理な条件・嵯峨期禁令の9つの縛り策」でもあった事から、最初からその意思は彼等に無かったのだ。
    その為に「源氏賜姓・源氏化」は、盛んになるに連れて、それには社会の中に「嵯峨期禁令の9つの縛り策」を護らなかった事で、「秩序」が充分に取れずに乱れ次第に“「ある慣習の乱れ」”が社会の中で生じて行くのだ。
    その「満たせられない原因」が、社会に蔓延ったのが、“「猶子と云う策」"であった”と云う事なのだ。
    これが、主に後の「村上源氏等」に依って、取り分け無秩序に盛んに乱用されたのだ。
    これに依って「源氏族の各式の根幹」が更に崩れ始めたのだ。
    この事に依って「青木氏等が持つ制度」の一つの「後家制度・皇位族や貴族間の制度」も意味が低下して崩れ始めたのだ。

    本論では、この「後家制度」と共にあった「猶子策の源氏化」も、その丁度、同じ「位置過程にあった事」から「歴史観」として、これを先ず論じて置かねばならない。
    「歴史観」として、この「後家制度」から観ても、「源氏化」が美化されたものだけでそれであればよいのだが、現実は「ある事、つまり猶子策」で、この「源氏化」も根幹から相当に乱れさせていたのだ。
    そして、それが一つの「ある社会現象」を引き起こす事に成っていて、「源氏に伝わる事とその実態」は相当に違っていたのだ。
    そこでこの「病原菌と成った猶子策の詳細・下記」をどんなものかをこれを先ず知って置く必要があるのだ。
    実は、それは「源氏化・源氏」や「後家制度・青木氏等の皇位族」の「社会の中・武家貴族社会」には、それを更には「社会秩序を乱す“知られていない「猶子策・下記」”が起こっていて、大きく「平安期の社会」が乱れていたのだ。
    何時の世も、これが起こる世は、“美化された社会現象の世”でもあるのだ。
    これは通常に歴史を勉強するとしても、あまり外に出て来ない「三つの歴史用語」である。
    何故ならそれは「歴史家」が、「自説」を導く上で、「美化の感覚の方」が強くて、「歴史研究者」はこれがあると「自説の論理付け」が難しくて、殆どはこの事を敢えて取り上げない、又は、書かないで「論理だて」するのが普通の事であろう。
    それが、「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の“「融合族」”の中にも、この「悪い事例」が起こっていて、この「族」を基として「奈良期初期」にも同じ事が起こっていたのだ。
    この現象が、「敏達天皇裔系春日王族の四世代族」の「近江佐々木氏・川島皇子の裔系と伊勢青木氏・施基皇子の裔系」にもあったが、ところが「近江佐々木氏の論」の中には、この「美化説」に付いては一行も何故か書かれていないのだ。
    この「奈良期」では、未だ「伝統・同宗四掟四門四族氏族の裔系」に基づき「同族・一族」の「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の「融合族の関係性」が、この“「後家制度・猶子策に代わる皇位族の伝統的な慣習」”等が未だ護られていたと共に、共に未だ社会の中にも安全に保たれていたからだ。
    この時代は、「施基皇子と川島皇子の兄弟」から始まり「三世代」に続いて「完全融合族」を保っていたのだ。
    この「初期の血縁」は、遺伝学的には良い事ではなかったが、「後家制度の悪弊」を防いでいたのだ。
    つまり、この論に於いて何処に重点を置くかに依るだろう。

    ところがそもそも「淡海族」とは、この頃は「伊勢族」とは「完全な血縁の相互血縁の仕来りの中」にまだ合ったとする記録があり、ここで云うのは、ところが「近江佐々木氏の方」が、この「縛り」を護らずに、この為か「貴族社会」には、寧ろ、「源氏化の方」に走っていたのだ。
    それだけに幾つもの記録にもある様に、「貴族社会/聖武期頃」からも疎まれる事と成ったのだ。
    これで「青木氏等の注意」に拘わらず、その後の「佐々木氏」は「源氏化」をして行く。
    その中で、「平安期中期頃」には、「近江佐々木氏」の中には、「上記の乱れた源氏化の現象」、つまり、“「猶子策」”が頻繁に起こり始めていたのだ。
    この「弊害」を伴った「近江の源氏化」が起こると供に、その「悪影響」は「信濃と共に青木氏の後家制度」にも影響して崩れ始めていたのだ。
    この事で「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の間には、「大きな亀裂・疎遠関係」が「記録」にある様に生まれていたのだ。
    それを何とか繋いでいたのが、この“「伊勢の嫁家制度等」”にあったが、ところがそれにもこの「源氏化」が進むに連れて“「亀裂」”が生まれ始めていたのだ。
    この「接着材的機能の後家制度」でもあったものに、遂にはこの「伊勢青木氏と近江佐々木氏」との間にあった「独特の“後家制度」”までにも、それが「中止する程の絶縁状態」と成ってしまったのだ。
    ところが、これには「煩わしい皇族系の縛り」を護らずに楽に生きられる様にと、「猶子策の源氏化と云う時代の変化」が淡海族にもより絡まって来ていたのだ。
    これが進むに連れて、“「源氏化の猶子策・下記/病原菌の様なもの」”も公家貴族社会にまで進行していったのだ。
    要するに、この「伊勢青木氏と近江佐々木氏」を繋いでいた「重複血縁関係」で成り立つ「後家制度」」は、そもそも「嵯峨期」から始まったものであるが、この“「源氏化と猶子策・下記」」”で次第に壊れて行ったのだ。
    そこでこの「源氏化」には、「社会的な乱れ」が起こらない様にと、「煩わしい皇族系の縛り」を「嵯峨天皇」は、当初、「詔と禁令」を出してこれを求めたが、これをも彼等は完全に護らなかった。
    この事から、更に「内部」には「破壊」に繋がる「病原菌/猶子菌」を持って仕舞っていたのだ。

    注釈 この時、歴史観として注意しなければならない事は、「天皇・朝廷ではない」は、「伊勢青木氏後裔」に対して、密かに“「因事菅隷・内密な命令」を以て、又は、「特別令外官」として、又は、「賜姓五役」としても秘密裏に求められて発せられていたのだ。
    それは「病む川島皇子の裔系の近江佐々木氏・淡海族一門」に対しては、そもそもこの「淡海族一門」を「維持して行くだけの経済力」は、元よりなく無かったと判断されていて、“それを助ける様に”と「因事菅隷」で命じて来ていたのだ。
    然し、それでも現実は「他の淡海族一門等の98氏」と共に困窮を極めていたのだ。
    そこで、責めて「敏達天皇系の四世族門の血縁関係」にある「淡海族一門の佐々木氏」だけでも救う為にも、密かに「院屋号の万能権を持って巨万の富」を有していた「伊勢青木氏・施基皇子一門」に対して、上記の様に「二つの因事菅隷」を以てして命じて来たのだ。
    その一つが、歴史的に観ると、「米作が困難な真砂砂岩土壌」の「琵琶湖東湖岸の灌漑干拓工事/20年」であり、その二つ目は「近江の鉄鉱山開発」であったのだ。
    それまでは「砂鉄での鉄」であったが、「大化改新に依る文化発展」と供に、「鉄の需要」が高まり、この「近江」にも「二つの鉱山開発・最終は4鉱山」に初めて「施基皇子の裔系」を以て「因事菅隷」で「国の殖産工事」として取り掛かる事を命じてきったのだ。
    その「利」で以て「近江氏」を豊かにし、且つ、「内蔵」を潤す為にも、この「源氏化の淡海族」を救おうとしたのだ。
    これには「国造頭の青木氏部」だけでは成し得ず、そこで当時の墳墓工事等一手を請け負う「最高土木技術・渡来人」を持っていた「臣の額田部氏の協力」を得ていたのだ。
    この「関連する記録」には、「渡来人」である為に「中国」から得た高度な技術を下に取り掛かった事が書かれていて、「施基皇子」が「国造頭」を司っていた関係から、“ある言葉”で以て、工事が充分に行える程に極めて仲が良かった事が記されている。
    この「渡来人」に付いて更に調べると、「出雲国に働く額田部氏・本流族」と、「大和朝廷に仕えるこれと袖を分かち合う支流族額田部氏の二派」に分流していて、「本流の方」は「遣唐使等の重役」を何度も務める「出雲国の高級役人」でもあった事が記されている。
    「祭司頭の施基皇子」とこの「工事関係責任者の額田部氏」に「天武天皇と持統天皇の葬儀」と「その後の墳墓工事等の差配等」の全てを以て任すとの「事前の命令」で造営していて、未完成の期間は死後一定期間は未だ別の所に保存していた事が記されている。
    そして、その後の「祭司と古墳工事等」の一切を任されていた事が示されている。
    これには、、“ある言葉”とは、この“「額田部氏」とは、「刎頸の友の関係」に有った”からだと記されていて、一切を任されていた事が記されている。
    この言葉で、“どのような関係に有ったかは非常によく判る。”し、「記録」は敢えて何故にこの言葉を選んだかは良く判る。
    当時の「大和朝廷」には、他に土木工事など行える「姓」は、そのレベルは別として他に「結城氏・専門道路」と「和気氏・水路」があって、この「額田部氏・総合土木」は他の二つの氏とは段突の差の「総合技術力」を保持していたと記されている。
    「施基皇子」は、この「額田部氏」とは、取り分け、“「刎頸の友の関係」”と難しい用語を使って書かれている限り相当に仲良かった事が特別に記されている。
    其の後、ところがこの「額田部氏」は、「桓武天皇の遷都に向行しなかったという事」で罰せられて「飛鳥斑鳩」を追われた。
    何故、向行しなかったかは、この“「刎頸の友の関係」”の言葉で判る。
    それは「施基皇子・青木氏の裔系族との関係」を遷都で崩したくなかったと云う事を表現したのであろう。
    そこで、そこの処を“「施基皇子」が密かに「伊勢・北勢」に囲い護り、その後に「桑名」に土地を与えて“「神明社の裏手」”に、この「額田部氏」を、何時か日の目が当たる事を信じて秘かに匿い興させた”と「記録」にあるのだ。
    そこで、“神明社の裏手に匿った”とする処に、「意味」が隠されていたとするがどういう事なのかである。
    最高高度な「神聖な場所」の「神明社の裏手に許可なく立ち入り廻る事」は、当時から「固い禁止事項であった事」が書かれていて、それで“神明社の裏手に匿った”とした事が読み取れる。
    其の後に、積み重ねた実績を以て、流石に出自元の「伊勢の言い分」を無視できず、その伊勢の「伊勢からの天皇への採り無し」で、現実に誰も成し得なかった被害の耐えなかった「飛鳥や伊勢の干拓灌漑工事・近江鉱山開発や溶解炉の開発や炭や和紙の開発や外にもある」を成しえたとして訴え、この「大功績」を以て「罰する事を出来なくなった桓武天皇」から特別に「罰」を解かれたとする記録がある。
    それどころか、「特別恩赦」を与えられ、「渡来人」では、“「造部の身分」ではあり得なかった事も、「破格の二階特進の宿禰族」までに上り詰めた”と記録にあるのだ。
    それどころか「額田部神社」まで「一姓族に建立する事」を「伊勢桑名の地」に認められたとあるのだ。
    先ずは歴史的にこれはあり得ない事が起っていたとある。
    これには「記録」があったと云う事は、「桓武天皇の出自元の伊勢の推薦」が密かにあった事を物語っているものだ。
    この記録から其の様に考えられる。
    この「経緯の事」が潰さに記録に遺っているのだ。

    注釈 「渡来人」のその「額田部の姓」は、先ずその「語源」に付いて知る事で判る。
    それは、「額・がく」は、顔上の部で、髪との生え際の間の事を意味する。
    これはそもそも、この部分は、“太陽の陽が良く当たる場所の事”をそもそも指す言葉としても用いられていた事である。
    語源の語は、「ぬか・ひたい」であるが、特にそれ故にここは、“陽の良く当たる場所とそれに田を加えて陽の良く当たる突き出た部位”を云い、つまりその「田圃を培う部人の事」を「ぬかたのべ」として昔は意味した。
    つまりは、その“田を特別に開発する部人”の事を意味したのだ。
    そこから発展して、“これに関連する工事や最終は墳墓工事まで手掛ける部人と云う事”に成ったものだ。
    このそもそもその意味では、元来は「田の開墾」やそれに伴う「その収穫などの管理」を担う「専門職の職能集団」の事であって、その事から「田畑の干拓灌漑などの土木工事」も伴う事からも、その「田畑の干拓灌漑の土木の技術」を生かして「墳墓工事」なども専門に手掛けたとある。
    おそらくは「此の時代の墳墓工事の一切の殆ど」は、桓武期の一時期を除き、この「額田部氏」に委ねらられていたとある。
    中には、その「土木技術」から「地質学」にも長け、国では唯一の“「鉱山開発等」”もした事が記されている。
    地質をも見抜き貴重な岩石発掘なども手掛けたとある。
    更には「その田畑の収穫などの管理技術」を生かして、これを行う「専門の分家」を出自させ、遂には「新穂氏・田畑の植え付け収穫保管等の管理術の発展の専門技術部門」をも発祥させたとある。
    彼等は、「嵯峨派」の「世間の風潮」に逆らうも、「桓武派」として「青木氏と供に生きた派」であって、「信濃と共に伊勢の後裔等」は、この時期はこの様に此れ一つとっても、“周囲と調和し発展関係を進展させていた事”が判っている。
    前段で論じた様に、額田部氏とは「諸々の事」があって何と明治9年まで付き合いがあった事が記録されている。
    さて、然し、「淡海族」は、その「格式の中」に閉じこもり、自らも自律して発展させようとしなかった事が判るし、其れを「伊勢」に生活を補完して貰っていながら「他力本願的な態度」に出ていたのだ。
    然し乍らも、更にはそれが卑屈になり、逆に「伊勢と信濃が伸長する事」をも「記録の文面」から観ても妬んでいた様でもある。
    それが、更には「伊勢や信濃との融合血縁の関係」をも一切断ち切った事にも表れていて、其れだけでは無く新しく出来た「源氏化・嵯峨期から花山期」に走った事にも成るのだ。
    結局は、最高格式を有していた「敏達天皇系の春日王族の四世門族の淡海族」は、「富士川の戦い」で滅亡するが、その他の「全ての源氏族・11氏」も「1221年」には滅亡するのだ。
    下記にその経緯説明するが、この事に付いの事だが、筆者は、定説と違って当時者の氏族から観た考えとして云いたいのは、“一見して社会は「源氏化」が正しい事”だとしている事だ。
    ところが、其の事に付いて詳しく調べて観ると、「一時期・正味30年間」には、その「源氏化」には真剣に目を向けていた時期もあり、実の処では「社会」も「朝廷」も、「嵯峨期詔勅禁令に基づく朝臣賜姓臣下族の品位の基本」と成る「9つの縛り掟の策」を守る事を「律宗族の伝統」を護る為にも、彼等に強く求め続けていたらしい。
    ところがそれを最初から無視していたのではないかと観ているのだ。
    「源氏の賜姓」を受けての「皇族臣下族のあるべき姿」を、この「掟」として「詔勅禁令時」に書き遺したものであるが、これは厳しすぎて護れる者は「11源氏全てが護らなかった」のだ。
    ところが、反面、「伊勢と信濃の二つの賜姓青木氏」はこれを「伝統」として護っていたのだ。
    そこに「焦り」が「嵯峨天皇」には有ったと考えられる。
    「伊勢と信濃の二つの賜姓青木氏」はこれを「伝統」として護っていたのに、“何故、自分の源氏は護れないのだ”と卑屈に成っていた事が考えられる。
    これには「ある経緯」があるのだ。
    ところがこの「賜姓源氏族」には、凡そ「嵯峨天皇期・850年期」から始まり、「花山天皇期・1009年期」までのほぼ「150年間」には、しっかりとその「欠点」に目を向けていて、「乱れた源氏化を止めた事」には経緯として成るが、それが、“「1221年」で終わった”のだと成ると、その「経緯期間」は「850+150=1000年/1221年」ではある。
    然し、つまり、「この時系列の差」の「221年間差」は、この「円融期と花山期」を「頂点」に山を描く様に、「下坂」に成り、「源氏化」は自然に限定化して行く事に成るのだ。
    「1221年の実際の経緯・北条氏等の台頭」から観ても、「源氏化」は、「約半分程度の150年程度であった事」に成る。
    その「歴史的経緯」は、「150年と150年の山」を描いたと観られるのだ。
    後の実質は、「150年」は先ずは「北条氏の世」であったろう。
    然し、その「経緯」は違った。
    つまり、「猶子策と云う弊害」を生じさせていた「源氏化」のその「頂点」には、「円融天皇と花山天皇の存在」があったと云う事なのだ。
    この「二人の天皇」が、“乱れた「源氏化」に何かを施した”と云う事に成るが、“その何かは何か”である。

    然し、この間、この「源氏化が終わる兆候」は、「頼政の事件」の通り未だ観えていたと云う事なのだ。
    その“「兆候」の最たるものは、「北条氏の政権乗っ取り」”であろう。
    要するに「北条氏」は下記で論じるがこの事を知っていたと考えられる。
    それは先ずは、「府の樹立」に、「朝廷」は、史実の通りに直ぐに「府としての認可」を下ろさなかった事なのだ。
    つまり、「朝廷」はこれには「内蔵と大蔵を抑えての経済的な圧力」を受けていた結果、遂に「圧力」に屈して認可を下ろす結果と成ったが、それは、当初から「認可する為の条件」が整わない為に、それが「絶対の帝紀」に照らしても、「朝廷の辻褄合わせ」には、“「絶対条件」”である為に、そこで、これも「経緯の美化の為」にも、“「頼政の以仁王の宣下の延長」”と云う事を「前提」に持ち出して来て許可しようとしたのだ。
    これで「朝廷」に執っては、最低限にでも「帝紀」に照らしてもこの“「宣下」”がある限り「辻褄が合う事」と成った。
    この様に「開幕と源氏化」に付いては、「歴史観」が史実を美化されており正しく伝わっていないが現状であり、現実に一般が、此処迄調べる者もいないだろうし、其処を突いて「源氏化の自説を美化して説いている物」が多いのが現実である。
    この事を知る知らないかは「歴史観」は大分違ってくるのだ。
    これは要するに「美化」に於いては、「邪魔な事」だからであって、「源氏化の美化論を目論む者」に執っては多少は「美化」が伴っても、敢えて「史実」を「あいまい」にして置く事の方が「自説の歴史観」を判断にするに於いては重要な事なのだ。

    注釈 絶対開幕条件」には「史実」として外にもあって、それは、そもそも“「棟梁」”である、その「棟梁」とは、元は建物の屋根の主要部分である「棟・むね」と「梁・はり」の事であって、「家の棟上げ」は、慣習として大工の頭がする事から、此れで以て「親方」と云う意味合いを持っていた。
    この事から「頭領・大工頭」と、“当初"は"呼ばれていたし条件の提示としていたのだ。
    これが、「家」に執っては、かつ「重要な部分」である事から、「朝廷」は、「頼朝」には“「宣下を持っている事で頼政の代理」”を前提としている為に、この“「棟梁の名」”を与えなかったのだ。
    与えたのは、史実は当初の“「頭領」”であって、“「棟梁」”を与えたとする記録は何処にもないのだ。
    ところが、この「頭領の表記」、又は、“「棟梁」”には、「日本書紀」には、「景行天皇」が「武内宿禰」に、“「棟梁之臣」”と表現している事」を以て、“「武家の頭」”とするとしてその結果として使う様に成ったとしているのだ。
    ところが「八色の姓」では、 「真人族、朝臣族、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の「姓の格式称号の事」であって、この「武内宿禰」は、そもそも「皇族外の家臣の称号・宿禰」であって、“「棟梁之臣」”と表現している事を以て“「武家の頭」”とするのには問題があるとする説が朝廷には出たのでもある。
    当時もその意見が鎌倉にも多く出ていたのだ。
    そうするとこの説によれば、それは“「棟梁之臣」”と表現している事を以て、“「武家の頭」”となるのは、少なくとも「賜姓臣下した朝臣族に値する格式の称号の者」と理屈では成り得る。
    依って、「武内宿禰」の“「棟梁之臣」”の意は、確かに「武家」ではあるが、それは「朝臣」では無く「宿禰」であって、その意味するのは「家臣」と云う事に成る。
    つまり、“「棟梁之臣」”の意味は、“「棟梁」の下の家臣”を意味したと取れて「朝廷」が示した「頭領の表記」の説は、間尺が合いただしいのだ。
    当時は当にこの議論が主流として出ていたとある。
    そこで、「頼朝」は勝手にこの説を逆手に採って、「頼朝」は、「頼政」を引き継ぐ以上は「頼政が朝臣族・正三位」である以上は、「頭領の表記の説」は間違いであって、「棟梁」だと「朝廷」に捩じ込んだのだ。
    そして勝手に「武家の棟梁」と主張したのが本当の経緯であった。
    何れにしても「瑕疵問題」がある。
    唯、ところが此れには「もう一つ難題」があって「朝廷」は引かなかったのだ。
    それは「河内源氏」は、そもそも当時は「類題三代罰」を受けていたので、「罪人」を「朝臣族」とするは問題であるとして、且つ、「頼政の延長の府・ここからはみ出る事はなかった」ので許可していると云う事でも、「頭領」と「棟梁」に意地の張り合いで決着はつかなかった。
    だが、「朝廷」はこれで正規の理論位置を獲得したのだ。

    注釈 ところが当時では、これには“決定的欠点”があって、この「頭領」と「棟梁」は、一般には当時は未だ使われていなくて、上記する「武内宿禰論」の様に「書物の範囲」であったとされていて、これも現実の正しい事である。
    そもそも「別の説」では、これは「平安中期以降にかけての事」であって、ところが幾つかの書物に依れば、全国的には、“「堪武芸野之輩」”とか“「武勇之人」”と呼ばれる「豪傑、又は人を引き付ける豪族」が現れて来ていたのだ。
    それまでは、これらは「寺の番人・侍」や「家や人の護衛人」や「豪族を護る家人」等を個々にしていたのだが、次第にこれらの「つわもの・兵者」等は集まり「徒党」を組む様に成ったのだ。
    それまでは彼等は、「朝廷の兵等」を務めていたが、その枠を超えて来る者等が増え始めたのだ。
    上記した「伊勢50人衆等の様に、つまり「伊佐氏の論」にある様に「実力」を発揮して此処に「官僚の中」で力を持ち、又、社会に一人飛び出て行ったのだ。
    その一人が朝廷の中で出世して上記した本論の「伊勢者の等官僚の武人と成り得た伊佐氏等」と云えるのだ。
    そしてこの様な「流れ」が、「武門の源流」と成り、それを「指導統率する実力の人物」を“「武門之棟梁」”と称したのだ。
    これが正しい経緯なのだ。
    従って、この“「武門之棟梁」”とは、“人とは限らなかった事に成る”が、その中でも名声が高かったのは「桓武平氏の平維時・維衡・致頼」や「清和源氏の頼光・頼信」等であったとされるのがそもそも論である。
    そこに「個人だけを指定して崇める称号」ではそもそも無かったのだ。
    これも史実である。

    注釈 そこで、「嵯峨期詔勅とその禁令」を破っての「武力集団の河内源氏」が出てきたが、その「祖の満仲」は「朝廷の忠告」を受けたにも拘わらず「武家の者」を集めたので、この罪で「累代三代罰」に課せられたのだ。
    ところが社会は、「河内源氏の次男の頼信の孫・源義家」等が称されたとして“「武士之長者」”と称されたとしているのだが、これは間違いなく「鎌倉期の後付け説」である。
    そもそも「重大罰」を受けているのであるから、この説は当に「美化の為の鎌倉期の後付け策」である事が明白に判る。
    これも同様の意味とされ、「罰を受けている家」なのに「義家の子孫(河内源氏)」は、史実は美化の為に特ったとして、“「天下第一武勇之家」”と「後付け」で世間では呼ばれたとしているのだが、故に上記した様に「朝廷」は“統一した称号”とは頑としてしなかったのだ。
    そもそも統一すると「承認してしまう事」に成り、これは「絶対帝紀に逆らう事」に成るとしたのだ。
    ところが、その後、「平清盛の伊勢平氏・桓武平氏」が、その「地位」を統一してこの「称号の統一化」を図った。
    この「称号」を権威化して、この称号は「桓武平家だけがう授かる事」に成ったのだ。
    この事が事の「将軍としての権威付けの称号の始め・史実の経緯論」であるのだ。
    従って、ところが「累代三代罰を受けていてそもそも「罪人」であり、その立場にない「源頼朝」が、それを“「宣下を持った頼政の代わり」として、先ず理由付けて「鎌倉幕府」を何とか先行して開かせたのだ。
    要するに、これで妥協して鎌倉では「罰家の汚名」を逃れようとしたのだ。
    然し、ところがこの「称号の始め・経緯論」が、上記した様に既に正式には“「平家」に依って統一化されていた”事の為に、どの様にしてもその後も「権威化された称号」も使えずにいたのだ。
    そこで困った「鎌倉幕府」が、自ら強引に定めた“「天下兵馬之権」”の呼称を作り出したのだ。
    それを前提にして、「平家」が使わなかったものを先ず掌握したのだ。
    そして、慣例に従い“「天下兵馬之権・源氏」を作り出して、平家の“「天下第一武勇之家・平家」”とで、対抗して、“「武家政権」を確立したのだ”と勝手に定めたのだ。
    この事の此処までの経緯が、すくなくとも“当の経緯論であるのだ”として歴史研究者は源氏化」を何とか「美化・後付け説が多い」したのだ。
    従って、その後に「頼朝の軍事的権限」は定まったとしたと勝手にしたが、実質の解決は無かったのだ。
    ところがもう一つの“「征夷大将軍の地位・朝廷に指名した証拠はない」”は疑問であったのだ。
    ところが、「源氏化の美化する過程」では、“次第に社会の中で結び着けられて世襲したとされた”と云うものに成ったと結論付けていたでのである。
    つまり、「証明できない処」は、“社会説に切り替えて研究者は美化した”のだ。
    最早、研究家に執っては「自説の源氏化の美化説」は何でもありなのだ。

    ところが、「記録」としては現実は、何も無くその「信賞必罰の決定権を持つ朝廷」が示す証拠も、況してやそもそも前段で再三に論じている「氏紋や軍旗」も「守護神」も「菩提寺」も、「朝廷」には、“「賜姓の青木氏」”に有っても、「源氏」には与えた記録は故に何処にもないのだ。
    その中で「頼朝」は騒いだと云う事なのだ。
    そもそも「氏紋や軍旗」も「守護神も菩提寺」も「整わない氏族」は、「府の開幕条件」はそもそも無い筈としたのだ。
    そこで、「朝廷」には、「頼朝の源氏」には、「氏紋・笹竜胆」や「軍旗・白旗」には「青木氏の賜姓時に授けたもの」を真似て間に合わした事が判っていた。
    然し、「守護神・神明社」と「菩提寺・清光寺」を急に真似て整わせる事は無理な事として認可しなかったのだ。
    そしてこの史実の記録を根拠に、再び、又「府の申請」に付いて無視したのだ。
    そこで、本来は、歴史の経緯を具に調べると、“「府の開幕条件」の「守護神も菩提寺」だけは無視した”と云う事には成って無い筈なのだ。
    何故かであるが、そこで、この事に付いて、“「開幕条件」の中には強くこれを指定する記録の様なものが「朝廷の中」にも無かった”のだ。
    この事から、「守護神も菩提寺もこの習合体」として、“独自に造り上げたもの”を自ら容認する以外に「落としどころ」が無く成ったのだ。
    本来は、その前提が「皇祖神の子神の神明社・488社・青木氏が守護し監理した」であるし、従って「開幕条件」もその様に成るが、これだけはどの様な理屈をつけても準備し美化出来なかったのだ。
    結局は、自ら「八幡観世音菩薩の守護神と観音菩薩仏の二つの神仏習合体」を造り上げたのだ。
    然し、「武家」を関東に於いて最初に統一したのは「平将門」であるが、これを以て勝手に将門を「武家の守護神」としたのだ。
    其の後に各地にこの「神仏習合の便利な八幡社」は「鎌倉武士の台頭」で建立される様に成った。
    「朝廷」は一部では、この「平将門」を容認するも、最後は、将門は゜反乱者」に仕立て上げられたが、「伊勢青木氏の者」と同じく、これは「桓武天皇四代の子孫」に当たるとした。
    要するにこれは正しく「桓武派」であり、「平氏の姓」を授けられた“「高望王の三男」”の“「鎮守府将軍平良将の子」”でもある。
    唯一、「朝廷」も、「平将門」には、「一族の者」としても、「平家」の“「天下第一武勇之家の者」”としても、これを認めていたのだ。
    故に、一時は「朝廷」からも、将門は“「鎮守府将軍・九州平定」”と称された「歴史的経緯」を持っているのだ。
    要するに「流れ」に依れば、“「開幕の将軍」とも成れる立場にいた”のだ。
    この「朝廷」からも、「反乱後・決めつけられた」も依然として信頼されて認められていた「将門」が、然し、「神仏習合の便利な八幡社」を、“関東に押し進めた唯一の人物”でもあるのだ。
    当にこれは「平家」が云うの“「天下第一武勇之家の者」”であったのだ。
    その事から「関東に於ける事」として、上記の様な「府に都合の良い美化論」が次から次へと生まれた。
    「決定的な否資格者」であるも、「類題三代罰の罪存在」も無視して、“「河内源氏の血」を引く人者」が、“「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」だ”という図式が社会に成立した”と勝手に決めつけていたのだ。
    これが「社会筋美化論の説筋」であるのだ。
    故に、この「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」を下に起こった「美化論」は此れだけでは留まらなかったのだ。
    この「美化説が説くこの図式」は、更に発展して「河内源氏嫡流断絶」のその後に於いても、未だ続けてそれを「形式的により美化」したのだ。
    それが、何とこの理屈は、“「征夷大将軍を継承した摂家将軍」や「宮将軍」の元でも、「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」は維持される事に成ったとしていて、何とか無理にこの「美化論の結末」を繋いでいるのだ。
    更には、飽く迄もこれ等は「社会や個人の感覚」による「理解」のものであったとして、この説の凄い所は、最後には、“それを以て“「武家の棟梁」と「征夷大将軍」が同一のもの”とする認識が、“何と「社会」に確立した”として勝手に「社会説」で結論づけているのだ。
    “「社会」に確立した”してもこれは意味の無い事であって、少なくとも「開幕時」に、或いは、少なくとも「施政中」にも「信賞必罰の権を持つ朝廷内」に明確に確立しなければならない「絶対的に必要不可欠な認可条件」であるのだ。
    決して「社会条件」ではなく、そして、それが「根拠とする記録」は、即ち、「帝紀」か「日本書紀」「日本後記等」、また最低は「類聚三代格史」に記載されている事が必要であるのだ。

    注釈 前段でも論じたが参考にこの「三代格」とは「弘仁格、貞観格、延喜格」を云う。
    これを内容別に「神社事」・「国分寺事」・「庸調事」などと「類聚・内容別」してまとめたものであって「朝廷の歴史の概要・根拠」はこれに記されている。
    従って、これを参考にして答えにする事が多く、「朝廷の諸事」はこの記録をこの「一種の帝紀の様な書籍」として扱われていたのである。
    この三つには歴史経緯の記録は、護られており重複しないが、ここで大事な事はこの成立時期1002年から1089年としている事であり、その時期は同じである。
    この「三代格」では、更に詳しくて「役職別・官の司別」に整理されている処である.
    故に、「法の基準」としては不備不便であるが、この「不備の処」が、この時代の「平安時代中期」には、当に上記した様に「歴史の見直し」が起こったとされる処である。
    その為にも「歴史の経緯」には、「朝廷」は鎌倉期の様に厳しく対応すると云う事が起ったのだ。
    従って、これらは、「朝廷内」では「法典整備の基本造り」として成立していたとされる「重要歴史書籍」なのだ。
    ところがこの完全本が現存しないし、「不完全な写本」が伝わっているのみである
    この「朝廷らの役人」が、「基本」とするこの「三つの史格」の「弘仁格、貞観格、延喜格」は、それ故に「「類聚三代格史」は、「当時の官僚」たちが利用した「古代法制の実態」を知るための「貴重な基準史料」でもあったのだ。
    「頼朝の源氏」は、これを基に導き出したこの「史実」に合わず振り回された事に成ったのだ。

    注釈 但し、この「経緯」を調べると、そもそもこの「武家の棟梁」も「時代」によって「やや異なる意味」を持っているのだ。
    そもそも、上記した様に“「武家の棟梁」”と成り得る者が、全国的に出没し始めた頃のその“「1000年頃以前」”の現象では、この頃の“「武家の棟梁・a」”とは、次の様な者を云っていたのだ。
    それが、「朝廷が動員した兵士」を率いて行動していた「下級貴族出身の軍事貴族や三等官上級官吏」の事であったのだ。
    当にこれが本論の「伊佐氏の様な者」を指していたのだ.。
    ところが、その「“武家の棟梁・a”とする根拠」は、「都」では飽く迄も「地方武士との間の関係」は極めて希薄であった為に、それは「地方」では無く、「都」に限定されていたものだのだった。
    この傾向は、少し進んで「源氏化の時代・初期」に成っても基本的には同じであった。
    そして、主に「主張する東国武士との関係」よりも、「中央政権」の「院門や摂関家等」の「朝廷」を構成する“「特定の権力集団」との繋がり”が、取り分け重視されていたのだ。
    ところがこうした傾向の中で、この“「武家の棟梁・a」”の中で、「突然に力のある者」が、この「地方の東国武士等」を糾合して、その「地域の武士たちの政治的利害」を代表する様に一般的に成って行ったのだ。
    これが要するに、“東から興った「源氏化」”であるが、その中に取り分け“「武家の棟梁・b」”と成る者が居て、それが、“50年程”遅れた「1150年頃の平安期の中頃」の事に成るのだ。
    従って、ここに、西国の“「武家の棟梁・a・伊佐氏等」” と、東国の“「武家の棟梁・b・坂東八平氏」”が生まれたのだ。

    注釈 それを歴史的に良く表したもので次の言葉がある。
    それは“「地下、地下人」”と云う呼称である。
    これは上記した日本における大枠で分けた呼称の「官人の身分」の一つである。
    つまり、「朝廷に仕える廷臣」の内の、「清涼殿の上の間」に上がれる者、又は「家柄の者」であって、この「上人・上家・堂上家」に対しては、そもそも「位、並びに格式」で「上がれない階位の者」を、“下に控える者”を、要するに大別して「地下・人・家」と呼んだのだ。
    大まかには、これを「五位以上」であるとしたが「四位」で厳しくした時期もあった。
    其の内、「鎌倉期末期から室町期以降」には、そもそも「官位を持たない名主、庶民」等も増え、これも「地下人」とも呼称したのだ。
    従って、そのどの位階にあるかどうかは別にして、「罪人」、又は、「過去に罪を得た者」には、そもそもこの「殿上人の資格」は与えられなかったのだ。
    これからすると、「河内源氏」はこの資格にはそもそも無かった事に成るのだ。
    此処に「朝廷」は、先ずはこれを以てして「頼朝の源氏」に「府の開府条件」にはそもそも無いとしたのだ。

    注釈 前段でも何度も論じた通り、“「頼朝の鎌倉府の成立の政権条件」が整っていない”として、先ずは跳ねつけられた。
    その結果として、その後に“「朝廷に圧力をかけた経緯」”を観れば、よりこの事が判る事であろう。
    「頼朝に対する府の設立の格式と条件」が、“色々な処で無い”として、「朝廷」から次の事が求められていたのだ。
    先ずその「無い条件」として目を着けられたのが、“「頼信の後裔」が「河内」で勝手に「禁手」で、その「武力・嵯峨期の詔勅と禁令の禁手」を破って周囲を侵食した事の史実としたのだ。
    そもそもこの「浸食自体」が犯罪であった。
    その「武力」は、「朝廷の警告」にも拘わらず「嵯峨源氏等」の里山に引き込んでいた者等を集めて「武力集団」を構築して「河内」に集めたのだ。
    最初は「藤原道長の駒」として、「朝臣族でありながらも殺生」を繰り返した。
    この結果として、この事から「周囲」から極めて疎まれ「朝臣族の信用」を失い、それどころか「朝廷の命」にもしばしば復さ無く成ったのだ。
    これには流石に「道長」からも最後は疎まれた。
    更には、その前には「朝臣族としての義務」であったもので、“「朝廷」が命じた「寺の修理等の役務」を前代未聞で拒絶していた”のだ。
    流石に、「兵」を与えていた「道長」も手に負えず、この「兵」を引き上げたのだ。
    遂には、これが原因で、全国に潜む源氏族に呼びかけて集めて「自らの兵」を持ち、何と“「三代罰・三代に渡って罪が子孫に及ぶ最高刑」”を受けて仕舞っていたのだ。
    これを受ければ、その「氏人や家人」は、“「流罪」”を受けて全ての資格を失い何も何も出来なく成るのだ。
    そもそも故に、「朝廷」に執ってはその“「当の罪人」”に「開幕などの資格」等を与える事等は以ての外の事であって、あり得ない事であったのだ。
    要するに今で云う「公民権剥奪」である。
    「朝廷」は、それだけに「満仲に血を引く者等がする強引な圧力の怖さ」に屈して、「頼朝の開幕条件」には、“摂津源氏の頼政の跡を引き継いだ者”として、「辻褄」を合わそうとしたのだ。
    そもそも、その「頼光系摂津源氏」は、「嵯峨期の9つの縛りの条件」の一つである“「四家”を構成する等」の最低限の「朝臣族としての誇り・9つの縛りの策」を護っていたのだ。
    だから、“摂津源氏の頼政の跡を引き継いだ者”として妥協したのだ。
    そうであったとしもこれは「前代未聞の事」であった事から「朝廷・関西域だけ武家集団」は驚いたであろう。

    注釈 日本の仏教伝来期は、「神道一遍」であったが伝来後は、「仏道>神道」に一時的に代わられたのであった。
    その「一つの現象」が、平安期までは少なくとも“「神前読経」”が主であったが、流石に「神に菩薩号を着ける事」はそもそも無かった。
    要するに頼朝は「仏の菩薩を神の姿にとする説」を発生させたのだ。
    そしてその代わりに「阿弥陀如来」を「八幡神」にして、「大日如来」「を伊勢大神」とする「辻妻合わせの説」を台頭させたのだ。
    その「始めの鎌倉時代」では、「考え方」として、これが当に更に逆転して、先ず先に「両部神道」が発生させたが、その「反動」として元の「神道」からは、「神道」が主で、「仏教」が「従」とする「逆説が唱えられる様に成ったのだ。
    「青木氏」は元より「神明社の神道」と「古代密教浄土」を両道に帰依して「本地道説」を採用したのだ。

    下記参考
    朝廷が「求めていた開幕条件」
    況してや、次の事も資格を有していないのだ。
    1として「嵯峨期の9つの縛りの遵守有無」
    2として「武の棟梁の資格・令旨」、
    3として「紋笹竜胆の紋所の有無」、賜姓時の賜姓紋
    4として「氏の旗印の有無・白旗」、浄土密教の白旗派の旗印
    5として「朝廷が認めた守護社の有無」、皇祖神の子神の神明社
    6として「阿弥陀如来の神門」、釈迦観音より上の阿弥陀如来

    「全11氏の源氏」には、“正式に天皇から賜姓時に「賜姓紋」を授けたとする「記録」は一切無い。
    従って、この残りのどうしても成しえない「4と5と6」に対しては、「八幡神社」と「八幡菩薩」の「神仏習合」を鎌倉幕府は新たに設けて条件を整えたのだし、そして理論づけの理屈を後付けしたのだ。

    以上、「6つの条件」を「朝廷」は次々に出したが、「4と5と6」に対しては「格式上」はどうしても「不可能な仕儀」であり、“「八幡神社」と「八幡菩薩」を習合して創設する事”で「不可能な仕儀」を押し通そうとしたのだ。
    この「源氏」には「4と5と6」の「不可能な仕儀」としてもう一つあった。
    それは「清光寺の寺紋」の「賜姓柏紋の獲得 7」と「賜姓神木アオキ 8」であった。
    これは「4と5と6」と共に、別に「青木氏だけ」に記されていて、これを「青木氏の伝統」として秘匿としていた事からこれを真似る事は出来なかったのだ。

    「頼政」も「青木氏」に近づいて来たのもこの条件の取得に有ったのかも知れない。
    現実に、故に、「失敗に終わった青木氏との関係構築」から、この「4と5と6」と「7と8」は、上記した「策」を弄した「頼政も頼朝も搾取する事」が出来なかった事に成るのだ。
    何処にも「頼政にも頼朝にも」、この事に関する一切の「正統化する記録」は無いのだ。
    今だに発見できないのだ。
    「4と5と6」と「7と8」は、そもそも“世間が「源氏化」に踊らされた結果としての悪い点”であり、従って、この様な事を配慮すると、上記した様な「正しい根っ子に当たる歴史観」が観えて来るのだ。
    そもそも、上記した様に“「八幡神社」と「八幡菩薩」を創設する事”・習合」が「完全な格式上の不合理」であって、それを満足させずに、最終は「朝廷」は「経済的な圧力・閉めつけ」に屈して、その時、“「1」を何とか護っていた事を前提に「摂津源氏の四家の頼政」に出されたのが以仁王の令旨・完全否定しなかった」”であった事から、これを基に起こした「以仁王の乱・令旨」を何とか無理やりに正当化して合理性を持たしたのだ。
    従って、その「1」を根拠に発せられた“「以仁王の令旨」を「根拠」”としてのその“「延長政権である」”として、無理やりにこれで「朝廷の体面・帝紀」も「鎌倉の体面」も保てたとしのだ。
    依って、“「頼朝の府/実質は頼政の府」を認めた”と云う事であったのだ.

    唯、ここにあっても、「もう一つの経緯」がここにもあった事なのだ。
    そこで、「4と5と6」だけを「京綱策」で得た「頼政」には、この時には足りなかった「3から6の条件」だけは、前段の「青木氏との頼政事件・京綱の件・伊勢の最高格式の獲得」を成す事に依って、これで“関係性を持った”として、これに「朝廷」は「妥協策」を出した「実質の経緯」なのだ。
    「青木氏」から観れば、「4と5と6」と「7と8」に付いては、「心棒して止まない源氏化説」を盛んに説いている者らには「揺さぶられない正しい歴史観」が観えて来るのだ。
    だから、態々、頼みもしないのに直ぐ後の「室町期」に成って「幕府も正親町天皇の朝廷」も、これを「源氏化のブーム」が終わった頃に、“「律宗族と云う形」”で認め直しているのだ。
    だから「1と2と3と4と5と6と7と8」を、“護らなかった「全ての源氏の裔系」は、滅亡した”という事に成り、“護った「信濃と伊勢」は生き延びられたという事”では無いか。
    「経済的に後押しをしていた吉宗の享保期」には、裏切られて確かに一度大危機が来る事に成ったが、紀州藩が間に入って救われたのだ。

    その中には「一つの事件」として、「大口青木氏の事件と伊豆の事件」をも含んでいて「頼政に関わる一連の事件」までも位置づけられていたのだと観ているのだ。
    この「青木氏の歴史観」としては、この「源氏化の時期」は、これらの「時事に疎い関東域での事」であってだけで、「関西域」は覚めていたと観ているのだ。
    だとすると、この時期の「頼政の事件」は、この時期の歴史の見方が変わって来る。
    「1と2と3と4と5と6と7と8」をより良い条件に仕立て様とした「頼政の策」であつたとも執れる事に成る。
    それが“「青木氏の格式と青木氏の財」に狙いがあった”のではないか。
    然し、この「源氏化の波」に動かされいたのが「特定の域」だけであって、世間全体はそれほどでも無く、故にこれに世間は応じなかったのだと観ているのだ。
    前後に於いて、そもそも“「頼朝の府」”と云っても実質は「北条の府」であったと云う事なのだ。
    念の為に、その証拠に「伊勢青木氏」は「記録」に遺る様に、「北条の府」に対し「鉱山開発とその開発途上の高炉の溶解炉の提供」を行っている事であり、それが「基」に渡って行っている「記録」があるのだ。
    「記録の行の流れ」から決して「源氏の府」に対して行っていたとする「書き込み」ではていないのだ。
    飽く迄も「北条氏」に対してである。
    これはこの事に付いては「源氏の心棒者」が説く範囲のものでは無かったし、そもそもそれの証拠には「大口青木氏の九州の活躍」に出て来るのは、「頼朝の府」では無く「北条氏との付き合い」の中での表現であったのだ。
    前段でも論じた様に、「九州での大口青木氏の活躍」は飽く迄も「北条氏」であったのだ。
    もっと云えば、そもそもこの「北条氏」は「坂東八平氏の支流族」であって、この「坂東八平氏」と云う族は、「大化改新」で、代々出る「第7位以降第四世族以上の者・王位外」にある者が、「朝廷」から「兵」を与えられて、本来は「坂東の護り」を固める為に配置されたものだ。
    この者らの名称も、元は「第7位以降第四世族以上の者・王位」であった者を「改新の目的」に依って、その位を“「ひら」の位”にまでに下渡した事でのものであり、その「経緯」の通り“「ひらの族」”に成っとしたしたもので、「朝廷の格式を有する統治族」でもあったのだ。

    そもそも、それ故に「三代罰」を受けていた「頼朝の無冠の第6位族」とは「格式上」では大した差は無いのだ。
    この“「坂東八平氏」”とは、その「範囲」を「武蔵」に於いては、「千葉氏」、「上総氏」、「三浦市」、「土肥」、「秩父氏」、「大庭氏」、「梶原氏」、「長尾氏」の「8氏」を云い、その「四門族」は其の後に族系から「天智系施基皇子の桓武派」に属するものとしていたのだ。
    そもそもこれは「青木氏族」とは同じ「桓武派」に当たり、その「ルーツ」を辿れば同系になるのだ。
    この「天智系施基皇子の桓武派」は、そこで同じ「清盛の裔系」に対しては、“「ひら族・坂東八平氏」に対して、“「たいら族・伊賀族青木氏」”と名称着けたのだ。
    結局は、歴史的にこの“「ひら族」も「たいら族」”も互に潰し合う事に成るが、「頼朝」が「府の政権」を取れるとすれば、この“「ひら族」”も充分にのその位置にはいたのだ。
    だから、過去には「征夷代将軍の呼称」を許されていたのだ。
    この様な立場にいた「坂東八平氏の梶原氏筆頭」は、初めは「開幕の条件」に比するとして府内に取り込み扱っていたが、皮肉にも「支流族の北条氏」に淘汰されるのだが、「たいら族」の「清盛が政権」を握った様に、「天智系施基皇子の桓武派」としては、その「筋目」を主張すれば「坂東八平氏・梶原氏筆頭」も格式上は、且つ、「出自上/第6世族以上」では可能であったのだ。
    だから早々と梶原氏等を潰しに掛かったのだが「軍攻め」では条件に傷が着くとして「暗殺」で抹殺したのだ。

    注釈 参考としてその「平清盛」に付いて記すと、「清盛」は、最終は“「検非違使の別当」”で、且つ、「行政一切を取り仕切る最高権力者・大納言」であった。
    そうすると、この「検非違使」とは、「令外官の役職」で、「不法で違法な者を天皇に代わって取り調べる天皇の特命の使者」の事である。
    この「天皇」に代わって「行政する令外官」として命じられた者であって、これを「特別に務める者」で、且つ、「警察権を持った特別の官人」と成るのだ。
    当然にこの「条件」は、“「武人」”である以上は、それには「位格」が伴い、“「佐と尉の階級の格式」”が着く。
    当時はこれに「出世する者」は、この「役職に成る事が必須の条件」であったのだ。
    だから、「朝廷」はこれを“「武人」である事”を前もって「頼朝」に求めていたのだ。
    これは歴史的には、「平安時代の弘仁期」が、最初とされているが、つまり、「嵯峨期の前期頃」に既に設置されていたとしていてるが、そもそも「記録」を観ると、それ以前にも「規則」は在ったものだ。
    これはそもそも歴史的には、「天智期と桓武期の朝廷」では、“「大化改新後による反乱」”を警戒して「武力軍団を廃止した経緯」によるものだ。
    その結果として、「後の桓武期」には、“特別に治安が悪化した。”としたのだ。
    既に、その前から「これに当たる者等」は、「役務の関係」から、先ずは“「武人」”である事を求められていたのだ。
    そこで彼等に「軍事・警察組織」を安全な形で担わせる為には、この「天皇」が命じる「信用の置ける朝臣族等」の「令外官・治安維持」”に命じたものだ。
    故にこれには乱用の危険がある為に、特別に、上記の信用が置ける新しく“設けた「検非違使・一定格式を有する朝臣臣下族」”に命じたものなのだ。
    だから「単なる武人だけの条件」では無かったのだ。
    然し乍ら、当初は、本来は前段でも論じた様に、「青木氏や藤原氏」がこれを務めていた。
    そして、「両門の衛門府の役人」と成って務めていたが、この「令外官の宣旨」によって、これを「兼務する事」と成ったものなのだ。
    これには「官位相当」はなく、主に「青木氏等の昇殿が許される殿上人・従五位以上の格式」と成るのが「最低の条件」であった。
    この為に、これが「武人と見做される者の出世目安」と成っていたものなのだ。

    経緯としては、「895年」に「青木氏等」が務める「左右衛門府内」に先ず「左右の検非違使庁」を置くように成ったものだ。
    ところが「947年」に効率化や迅速化の為にこれを統合した。
    そして遂には、「左右衛門府内の左庁」だけに「検非違使庁」が置かれるように成ったと云う経緯である。
    その事で「検非違使庁の格式立場」から、「司法や行政や治安」、将又、「関係官庁の職掌」をも試みて遂には奪う事と成ったと云う「経緯」である。
    その事でこの「検非違使の権力」は後に大きく成ったのだ。
    だから「府を開こうとする者」には、先ずは「全権把握」の為にも、先ずこの“「検非違使に成る事」”が、先ず「必須の条件」と成った。
    遂には「朝廷」からも「開幕条件」としてこれを求められる様に成ったものだ。
    「頼朝と義経の軋轢」は、「府の開幕条件」が全く整わない「頼朝」に対して、先ず「義経」が先にこの「検非違使に成って仕舞ったと云う事」から起った「争い」であり、要するに理屈上は「義経」に「府の開幕条件」を与えて仕舞ったと云う事に成ったのだ。
    そうすると、「開幕条件で苦しんで見込みの立たない頼朝」は、「義経・検非違使の権力把握・政権を握った清盛と同格に成る」が、先にその条件の大枠を「義経」が把握して仕舞った結果、「頼朝」は「義経」を誅殺しなくては「検非違使に成れない事」が起きて仕舞ったと云う事なのだ。
    経緯としては逃れ得ない条件の誅殺してでもそれを奪う必要が出て来たと云う事なのだ。
    「本論の期・平安時代後期」には、この様に「刑事職権行使の律令」とは別に、性質の異なる「庁の慣習法」をも掌握する様に「権力拡大」と成っていたのだ。
    それが「検非違使に代表される事」であったのだ。

    注釈 ところが「平安時代末期」、や「鎌倉期初期」には、一時的に、“「院政の軍事組織」である「北面武士」”と云う「武力集団」が生まれ、これに取って代わられた経緯を持っているのだ。
    更に「鎌倉幕府」が、この対策として「六波羅探題」を都に設置すると、この“「院政の軍事組織である北面武士」”が次第に弱体化したのだ。
    「室町時代」には、「幕府」が京都に置かれた事で、“「侍所」”に権限を掌握される事に成った。
    もっとも、この「検非違使・侍所」には、「犯人の追捕を行う機能」と、洛中の「行政や刑事裁判をも行う機能」があったが、これも“「侍所」”に代替される様に成ったのだ。
    そしてところが「1383年」を最後に“「侍所」”は確認できなく成るのだ。
    故に、この「検非違使庁の衰滅時期」は「1385年頃」と成る。
    参考として、「官職別当」とは「四等官の長官」に相当する。
    「中位の官吏」でありそもそも「開幕条件と資格」を持ち得ていない。
    実質は、「将軍相当」としては、古来より多くあるが、「伊賀の人」で「高野新笠の子の桓武天皇」の“「義弟にあたる人」であるとして、この「阿知使王の裔の嫡子」の「坂上田村麻呂」が正式で、最初の「征夷大将軍」だと任じられたと云える。
    これが更に「清盛の伊賀の裔祖にあたる事」から、「朝廷」は、此れで以て、“「坂上田村麻呂」”が要するに“「開幕の条件」の「征夷大将軍・武家の棟梁」に比する事”だとしたのだ。
    現実に、これに付いても「桓武天皇の談の記録」があり、“吾義弟の成せる事は府に値するとして褒めた”とあるとして、彼を「それ相当に扱った事・将軍」は記録からも判っている。
    この「判例」から、「武で以て全国制覇した事」を以てこの「基準」に成っているのだ.
    ところが、この時の「変の軍の統制」に、この「坂上田村麻呂の名声」を巧く使った「嵯峨天皇」が、「薬子の変」でこの「坂上田村麻呂・開幕の将軍」を巧く使い、「天皇の命令」とは云え彼に執っては「恩義のある平城上皇」を「飛鳥の古都」に入る道を封じて入れなくしてして封じ込めたのだ。
    これを“義兄の桓武天皇に恩を返せなかった”として、後でこの行動を恥じて「伊賀」から「丹後の奥」に引き上げて余命を過ごしたとして、その後の詳細は判らないとしているのだ。
    この事が世間に知れ渡り「嵯峨天皇の信用」は著しく世間から失墜するのだ。
    「朝廷」は、この時の「坂上田村麻呂の事」の「征夷大将軍=武家の棟梁」のこれを“「正式な物事象」として“外に勝る者がいない”として、これを引用して「開幕の条件」としたのだ。
    これがその「経緯」の先ず一つである。

    注釈 上記した「ひら族・坂東武蔵八平氏」と「たいら族・桓武平氏」としては、その「開幕条件」としては「頼朝や北条氏」等よりは充分にあったが、ところが「時代の流れ」はその様にならなかったのだ。
    それは「頼政と頼朝」が無理やりに「源氏化を引き戻した事」から、本来は「筋目」として獲得するべき「ひら族」と「たいら族」のその「時代の流れ」は、その様に成らなかった事を先ず「源氏化の歴史観・猶子策が蔓延って品位は低下した」として知って置くべきである。
    この「ひら族」と「たいら族」の「流れ」には、「ひら族の頭」の「梶原氏の煮えきらない優柔不断な態度」が、“「決定的な流れを引き付ける事」”に大きく左右してしまっていたと観ている。
    そこを北条氏に突かれた事と成り、「格式上」では低くその位が全くなかった「支流の北条氏を潰す時期」が充分にあったにも関わらずそれをしなかったのだ。
    そうすればこの「流れ」で行けば、「坂東八平氏等の天下」と成り、「天智系施基皇子の桓武派幕府」がいずれにしても誕生していた事が考えられるのだ。
    その場合は、「天智系施基皇子の桓武派の主幹」であった「伊勢も信濃」も「格式と財の面」での「源氏化の関わり方」は、又違っていただろう。
    これだけ「矛盾を含んだ府」であっても、その「流れ」は「関東から興る結果」と成ったが、この「11源氏族の主体」は、そもそもその「財と武の力の関係」では、先ず「関西」にあって、「11族・主流」の殆どは、「自ら財を生み出す力」が元より無く、結果として「琵琶湖より北端の丹後村域」に集中して流れ着いて衰退していたのだ。
    その期間は何と「125年間」である。
    「最初の嵯峨源氏」も全く同然であって、「清和源氏の二代目の満仲」が最も「源氏性の正統な嵯峨源氏・17皇子等の子孫」は、筆者は「猶子」が殆どと観ているが、これを各地から探し出して来て「猶子策」で、「清和源氏の武力集団の基礎・その裔とする村人等の結集」を下に、「嵯峨期の詔勅の禁令」に明記している「皇位族」としての「9つの縛りの禁令・賜姓条件」を破ってでも、「武力集団」を勝手に結集してその呼びかけに応じたのだ。
    それまで続けていた「嵯峨源氏」は、「約125年後」にははっきりと「9つの縛りの禁令・賜姓条件」を護る事を止めて仕舞っていたのだ。
    この時点で「清和源氏二代目満仲一族」と此れに賛同した「各地の衰退した残存源氏」は、「摂津」から「河内」に集結し移り住んで、この「武力」を使って周囲を浸食し拡大したのだ。
    これを以て朝廷より罰せられて、より“「最悪の厳罰の類題三代罰の刑」”を受けた経緯なのだ。
    これで何とか生き遺っていた「源氏族」は「滅亡の憂き目」を受けたのだ。
    この時点で考えれば、「府の権威等の条件」は、学問的には「全ての源氏族」には元よりない事に成るのだ。
    又、「満仲に応じた全国の源氏族」も、又、「頼政に呼応した新宮源氏等の他の関西域の源氏族」も、連座して1221年を以て滅亡したのだ。
    この「世間を知らない男女の源氏化の源氏族」には、「潜在的に生き遺る事」が難しい環境下にもとよりあったのだ。
    前段からも何度も論じている事だが、それは「武」で生きるか「商」で生きるかの差にあったが、「商の才」は誰でもが獲得できるものではなかった。
    況してや、「王の貴人」ともれば尚の事であろう。
    だから、「伊勢と信濃の青木氏」には、限定して「皇女」だけを引き取る事と成り得たのだし、元よりその様な「システム」と「受入施設」も「伊勢と信濃」に充分に揃えていたのだ。
    先ず、当時としてこの「姿勢」が大事であった。
    「近江と美濃と甲斐」の様には、「皇子だけを引き取るという事・美濃が皇子を多く引き取った」が起った事は、より「三野」には「源氏化の流れが進む事」は止むを得なかった事は判るし、「近江の勢い」を観れば当初よりこの「皇子皇女の流れ」が、元より無かった事があってその逆の事も云えるだろう。
    資料から観ると、「当初の三野王」の「美濃の姿勢」は、格式を高めて氏存続を獲得する考え方は判るが、「近江」だけはおかしいのだ。
    「四門族の淡海族」は、「融合族の伊勢」から出自の当初より経済的補完を受けていながらも「源氏化の波」に強引に乗ったらしい事だ。
    その「様子」が記録されていて、既に「近江」はその「出自と青木氏との融合族という超血縁的深い関係」から、況してや、敵方に廻る筈の無い立場に居ながら、彼等には「不得手な戦い」を挑んだのだ。
    「淡海族」は、「伊勢の反対」を押し切っても「源氏化の波」に乗って、唯戦い始めただけの形と成ったのだ。
    そして、結局は一度は「平家/たいら族」に潰されていたのだが、ところが立ち上がれない程に「桓武派の平族」に潰されていながらも、再び一族を纏め直して少ない人数で「中部の東域」まで態々出向き「富士川」で見事に完全に潰されてしまっているのだ。

    参考として、この時、「観る範囲の記録」では、「美濃勢」はこの「味方と成って合力した近江勢」を、“「戦略上の重要な位置」に置いて居なかった”と云われている。
    それには「近江」が持つ「歴史上の全ゆる経緯」に対して「信用」をしていなかったと謂われる。
    歴史観として、この“「美濃」が「近江」を信用しない”と云う現象は面白い現象でもある。
    これは「淡海族の出自の強さにあった事」が、世間にはこの「弱さ・記録が多い」は既に知れ渡っていた事を意味するのだ。
    これには「美濃族」は、「歴史的な淡海族の実質の強さの保持」に警戒していたという事だ
    つまり、「淡海族」には、「源氏化」などそもそもあり得ないと観られていたのだ。
    その「源氏化の実現の戦い」には、記録として伊勢から「そぐわない事」をそれとなく批判されている。
    この「世間の記録・後付け説」があるのだし、世間もそう見ていたと云う事だろう。
    それは、「皇子を引き取れなかった力の無さ・近江」/「皇子を積極的に引き取った氏の体質・美濃」の「評価の差」が、“すでに世間に広がっていた事”を示すものだ。
    「淡海族」は、“格式ばかりの源氏化”と見做されていたのだ。
    以上から当初から、「嵯峨期」からその「ムード」が始まった「源氏化」を、何とか止める様に「伊勢と信濃青木氏」が「近江」に援助などして盛んに示していた事が記録にもあるし判るのだ。
    それ故に、「桓武派」と「嵯峨派」に分かれさせて「源氏化」を始めさせて仕舞った「嵯峨天皇の施政の失敗」を「過去の流れ」にまで引き釣り込んだ事を筆者は何度も解いているのだ。

    この事は「青木氏」が幸いに賜姓時に「朝廷の部経済の造であった事」が全てを左右させているのだ。
    そして、「嵯峨天皇」が嫌っていた“「皇親族」と云われる氏族”の中でも、それが「青木氏だけ」に出された「賜姓五役の令外官、各種の院屋号の数々の獲得権、因事菅隷の権、殖産業権院」等がこれを補完していたのだ。
    「嵯峨天皇」が、この事によってこの“「皇親族たちの勢力」”が「政府内に強く成る事」を嫌っていたのだろう。
    その嫌う反面、ところがその結果として起こる事を彼には配慮が足りなかったのだ。
    つまり、その結果として「朝廷・大蔵」や「天皇家に入る献納・内蔵が減る事」を計算されていなかったのだ。
    つまり、「天皇の権力が低下する事」の計算が成されていなかったと云う事だ。
    それは、「皇子皇女の放出」や「王族の収入の減退」などを招く等が計算されていなかったのだ。
    例え、「伊勢出自の桓武派や平城派の天皇」は、「天皇家」であっても「自らの財・内蔵」を確保して置く事、更には高めて置く事が、「政治の最大の安定に繋がる」と考えていたのだ。
    つまり、逆に「桓武派や平城天皇や仁明天皇等」は、“寧ろ強めるべきだ”と考えていたのだ。
    「嵯峨天皇」は、強く成り「内蔵」を支えていたこの“「皇親族」”を除く為に、その「皇親族の賜姓」を「青木氏から源氏」に替えた結果と成ったのだ。
    これで「内蔵の矛盾」が放出したのだ。
    その結果、更に「嵯峨詔勅禁令・9つの縛り」を出して、この「内蔵の矛盾」が放出を食い止める「源氏賜姓」を推し進めて“「規則」で縛ろうとした。”のだ。
    そもそも「皇女等」にはこれを護る才能は元よりある訳は無く、「40人以上の皇子皇女」には挙句は「嵯峨詔勅禁令・9つの縛り」は誰にも守れなかったのだ。
    一度出された「禁令の令」は「帝紀」に依って縛られて、「11代続く天皇」には、この「悪政」にこれに逆らう事が出来ずにいたのだ。
    ここで論じておく歴史館は、然し、“此れに抗した賢い天皇”がいた。事なのだ。
    それが「三人の天皇」がいたのだ。
    その一人が「伊勢青木氏出自最後の仁明天皇」であり、政敵を顧みないこの矛盾を直そうと立ち向かって直し、一時的に「内蔵」は改善し「出自元との改善」を正した。
    この事は「鎌倉期の複数の歴史的記録」にも記載されている。
    もう一人は、「青木氏出自元」では全く無い「藤原系の円融天皇」がいたのだ。
    この「円融天皇」は、そもそもこの「賜姓」を「過去の皇親族」であった「青木氏」としてせずに、それは直接に「天皇家」には「嵯峨天皇期」に依って「詔勅と禁令」を発して禁じられた以上は、最早、「帝紀」により「青木氏の賜姓」を出せない状況にあった。
    その事から、永代に「伊勢信濃の青木氏母方であった北家藤原氏・始祖藤成」から、中でも「北家武蔵宗家の第三継嗣・千國の裔系」に対して、“「永代」で「青木氏」を欠かすことなく「継承する事」”を命じて、要するにこれで「永代賜姓する/116氏」としたのだ。
    これには、元より「青木氏には四掟と云う枠」がはめられていた事を知っての事であったのだ。
    この「四掟」がはめられれば、“「賜姓」”は何方から出たとしても同じある。
    それも「男系」では血筋が変わるが、「重要な歯止め」にはこれを「女系とした事」なのだ。
    これが「四掟の秀郷流賜姓青木氏」である。
    これで更には問題と成っていた「嵯峨期の失政の源氏化」を終わらせようとしたのだ。
    これで確かに「源氏化」は弱まり、逆に「秀郷流賜姓青木氏」は次々と増え、其の事で「献納」が増加して「天皇家の内蔵」は「安定の途」を辿ったのだ。
    この時に「円融天皇の施策」に賛同してもう一人の続く三人目の天皇が居たのだ。
    その天皇が、「三人目」の異色の「花山天皇」であったのだ。
    何が異色かと云うと、その策と人物の能力であった。

    注釈 全段でも何度も論じている事ではあるが、現在では完全に「ミトコンドリアゲノムに於ける女系の遺伝的論理性」は証明されている事は前段で詳細に論じた。
    要するに、「女子系の子供の遺伝子」だけを辿って調べて行けば「その族種」が判るという事だ。
    この頃はまだこの論理性は証明されていなかったが、中国からの口伝承でその「考え方」は既に「青木氏」には伝わっていた。
    現在では既に証明されている事ではあるが、「人間の発祥」も最初から“「女性」から生まれた”と伝えられていた。
    現在はこれが学問的な史実である。
    「青木氏の全ゆる女系制度」は、“「天皇家」との「関わり」を無くし、そこに一線を課す”とする固い目的も確かにあったが、それよりもこの「一つ」はこの事にもよるものだった。
    従って、「円融天皇」がこの事を知っていたかは調べていないので良く判らないが、上記の「円融天皇の青木氏の四掟に基づく賜姓」は、全ての面から考えても極めて優れていた「施政事であった事」を示すのだ。
    筆者はこれは「如何にも頭脳的な施政」であって、そして“「事の成り行き具合を既に知っていた」”と判断しているのだ。
    「円融天皇期の政争の事」を考えれば、「頭脳だけでは無かった」と判断している。
    今まででこれだけの事を、短期間で、且つ、激しい政争の中で、若くして成し得た「天皇」はないであろう。

    更に、此処にこの上記する「円融天皇の施策」に続いて、“「乱れた源氏化」を実質に止めた”もう一人の“「花山天皇・在位2年」”がいたのだ。
    この事に付いて更に次に論じる。
    この「花山天皇」は、“「円融天皇・秀郷流青木氏賜姓」」に続き即位した天皇”であると云う事だ。
    そして、この時に違っている事は、「源氏賜姓」した「最後の花山源氏・源氏賜姓を神職に賜姓」は、「普通の源氏化の源氏族」と何と意味が大きく違っていたのだ。
    この“「武力容認の源氏」に対して、何と、「武装禁止令などの職業条件」を付けた”事なのだ。
    此の事で「源氏賜姓」は止まるのだ.
    それは、そもそも「花山天皇の系」は、「冷泉天皇の第1皇子」である。
    その母は、「摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子」とする。
    そうして、この「円融天皇の系」は、問題の猶子策を広めた「村上天皇の第5皇子」である。
    その母は、「右大臣藤原師輔の娘・皇后(中宮)安子」とする。
    つまり、この「大改革」を続けて成したこの「二人の天皇」は、何れも「冷泉天皇の同母弟の系」である事に成る。
    この事の示す事は、“一族である以上はそんなに大きく考え方を大きく異なる事は無く、それが「冷泉天皇の同母弟の系」である以上は、「社会で起こる現象の対処方法」に対して、「考え方」を共有していた”と観ているのだ。
    この事で「悪弊を遺した源氏賜姓」は終わる事に成ったのだ。

    注釈 ではこれは何故かである。
    「花山天皇」は「荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革」等の「革新的な政治」を行わせたが、それだけにこの「革新的な政策」は関白の頼忠らとの確執を招いたが、それを押し通した。
    それだけに「在位」は2年と短い。
    崩御は1008年で40歳であって「二人の皇子」に恵まれたが、何故かその皇子の一人ではなく、その子、第二゛遺族源氏としての孫の「延信王」が“「令外官の神祇伯」”に成ったものである。
    そこでそもそも、この「花山源氏」とは、一説では、“「神祇伯」”を世襲した「伯王家」である以上は、後にこの「」裔系は当然に直ぐに“「神祇伯」”である為に、且つ、「孫の第二世族」に賜姓した為に、史実は子孫無く断絶する事に成る。
    然し、今までに「伊勢青木氏」と共に「神紋である柏紋」を“賜姓時に授かった神職”のと同じく、「当時の源氏化」の中では、同じく「神職に仕えた源氏」は他には無かったのである。
    本来はこの「役務」は古来より「藤原氏」が鎌足より「斎蔵」を務める事に成っていて、其処に源氏に似た様な「役職・神祇伯」が出来たと云う事に成る。
    それも令外官の役務である。
    此処に止む無く「帝紀」に従って、確かに「神祇伯とし源氏の賜姓」はしたが、然し、その「源氏」を何と“「神職・子孫を遺せない」”にしたのだ。
    ここに「源氏化を避けていた事」が、これで良く判り、“二世族の世代の神職”とした意味があるのだ。
    一代前の“「円融天皇」”が、「青木氏母系の藤原氏」の「下野大掾・藤原村雄の子の系・秀郷」に対して、要するにこれは「女系の賜姓青木氏」をしたその直ぐ後の事であって、それは、“単純な賜姓に留まらず、「ルール」を定めて確実にした”のだ。
    「嵯峨期の9の縛り策」と違ってこの「ルール」は護られた。
    「円融天皇」は執った重要ポイントは、この「ルール化」のこれを「藤原秀郷一門全体」、取り分け「藤成・伊勢藤氏」−「村雄の蒲生系一族」にその裔系を求めたと云う事なのだ。
    その「ルール」は、「武力保持」は認めるも、然し、その「他の格式・四掟四門等」の「ルールが齎す律宗性・格式」は「源氏族」と違って護らせたのだ。
    つまり、“「女系で伊勢青木氏や信濃青木氏」と同格血縁している事”がこれを証明する事と成ったのだ。

    注釈 そこでこの「神祇伯」とは、そもそもこれは“「令外官」”としてであり、これは“「神祇に関わる長官の事」”であり、主な役職は「神職」に当たる。
    この「令外官の神祇伯」は、つまり、「令外官の“青木氏が独自の氏族で務める賜姓の柏紋を有する神明社の神職」とは、その格式が異なるだけである。
    つまりは、この時に、“それに類する神職の官職を設けて武力化を止めさせた”と云う事に成る。
    これは、“「初めて官僚が務めた令外官の神祇伯」”を、「皇位の者が司る役職にした事」なのである。
    ところが「1165年以降・平安末期・鎌倉期」は、記録では「花山天皇の後裔」がこれに任ぜられたとする説がありところが、その「子孫であるとする白川家」では、この史実は「世襲した伯家」が、「第二世族の源氏」の「神職」である限り直ぐに途絶えて仕舞ったのだ。
    此の平安期では、何故ならば、そもそも“「世襲」”には、“世襲弊害”を考えて、“「三世代」までとしての「ルール」が定められていた。
    従って「世襲」はそもそも無い事に成る。
    取り分け、「令外官を含む官僚職位」のこの“「世襲」”には警戒されていたのだ。
    大抵の実情は、現実は、“実子で繋ぐ事は難しく多くは「二世代」で終わる。”で終わる「仕組み」であった。
    これを「隠れ蓑」にする為に、“「村上源氏」”が率先して「ルール破り・猶子策」をしたのだ。
    この「村上源氏」は、それが当に“「酔子策・上記」の元”であって、これを展開して勢力を拡大し経済力も獲得したのだ。
    この「酔子策・上記」は「源氏化の弊害」と成り「源氏化の世」は乱れたのだ
    つまりは、これは「神明社と清光寺」を司祭する「伊勢と信濃の青木氏」に合せて、又、新たに「下野大掾・藤原村雄の子の系・秀郷流一門」に対して「女系の賜姓青木氏の守護神」として認めた「春日社の設置と増加」に対して、それまでの「源氏姓の習合の八幡社」が増えた事で、 結局、「八幡社の神祇伯・令外官の役目」が増えた事であり、そこから得られる「内蔵の収入源の管理」が伴なる事が、ところが理由で内蔵は改善しなかった。
    故に、これを「武力」に走らせない為にも、「円融天皇の施政」に引き続いて、ここで「神祇に関わる賜姓」を「意味」を込めて敢えて実行したのだ。
    これが「源氏化の否定につながる施策」と成った事だし、「内蔵の収入源」は高まって「天皇という地位」は安定したのだ。
    先ずは霞の人間ではない「天皇の地位の安定」が施政に繋がる事にあった。
    「桓武派」はこれを主張していたのだ。

    元に返れば「嵯峨天皇派」は、判り易く云えば、この「内蔵」を潤す基となる「口うるさい皇親族」を排除しようとしたのだ。
    確かに「密かに動く令外官」と、「秘密裏の因事菅隷」と、主だった役をもつ「賜姓五役」と、「院屋号の特権」を全てを持ち、何にせよその行う「立場の格式」は「行政長官の太政官より上である事」である事だ。
    この事に絶えられなかったと云う感じでないか。
    それも「自らの出自元である事」に疑問を持ったと云う事だろう。
    当然に、記録から読み取れる事でも「近習官僚に何かと煽られた事」も確かであろう。
    そして、更には「部経済の商いで巨万の財」を持っていたのだ。
    反面、それが「内蔵の基元」でもあったとなれば、現実は手の施し様が無いと云う処では無かったかと思われる。
    これでは、「出自元の皇親族」に代わって、“新たに「別の族・源氏」を作って算段しようとしたのでは無いかと読める。
    「人」と云うのはこうなれば、「目先の事」を別にして何が何でも排除したくなるは必定かもしれない。
    この様に「反対を押し切って感情的になった嵯峨天皇」は、「弊害の産む源氏化・猶子策」を実行して仕舞ったという事であろう。
    然し、この「猶子が起こったと云う事」は、この「感情論」は矢張り失敗していたのだ。
    何故ならば、「賜姓したどの源氏」も、“「行動規範の縛り」”までも作っても、その様に思う様に動いてくれなかったと云う事だろう。
    「皇族賜姓族と云うべき立場の者」の「あるべき護らなければならない事」を「禁令」で定めたとしても後に続く「11源氏族」は、それを護れないものは護れないとして、“期待通りに護らなかった、又は実質護れなかった”と云う事ではないか。
    それどころでは無くも、“禁令中の禁令の武力化をして仕舞った”と云う事だ。
    そこに猶子が起こったと云う事に成る。
    物事は考えた通りには行く事は先ずは無いが、その後に続く「源氏化は思った様に向かわなかったと云う事」だろう。
    それは既に、「最初の嵯峨源氏」から思う様には成らなかったと云う事が判っていても、「嵯峨天皇」は「自らの賜姓」を「嵯峨源氏」とし出していながら、“途中で皇子の一人に先ず「甲斐蔵人頭掾・税担当」に任じた。
    ところが、最後はその「皇子」に、“「甲斐青木氏」を矢張り「賜姓」して何と発祥させている”のだ。
    これは「源氏賜姓」に、“「ある問題があった」”と云う事を示しているものだ。
    それは「嵯峨期の詔勅禁令の9つの縛りの掟」で、「青木氏の賜姓」の様に、その“「皇族としての立場や格式」を護ってくれるものだ”と信じていたからだ。
    「自らの嵯峨源氏」さえも少なくとも「皇子15人」に賜姓しながらも誰一人護らなかったのだ。
    そして、次第に「猶子」を産んで行ったのだ。
    最初から「賜姓源氏策」は行き詰っていたのだし、そしてそれが「猶子策」で爆発したと云う事だ。
    彼等は最初は、「丹波の奥」に挙って「村」を形成してひっそりと暮らしていたのだ。
    それが「清和源氏の二代目満仲」が、「嵯峨期の詔勅禁令の9つの縛りの掟」を破って呼びかけて最も禁止手の「摂津の武力集団」に加わったのだ。
    それを引き継いだのが、この「武力集団」を引き継いで「河内」に逃れた「三代目頼信の河内源氏」である。
    この結果、「二代目満仲」からもっとも「厳しい三代罰」を受けた「清和源氏」は、一時消えたかに見えた。
    これだけでは「源氏化」はまだ終わらなかったのだ。
    「社会」には「源氏賜姓」に伴って、前記した“「猶子策・下記」”と云う「社会の病原菌」が蔓延り始めていたのだ。
    それを復したのが、「仁明天皇」であり、「円融天皇」であり、最後は「花山天皇」であると成るだろう。
    これで問題と成っていた「施政の根源」と成る「天皇家の内蔵貧困」は先ずは復したのだ。
    「女系の賜姓青木氏」と共に「2年という短い期間」で合わせて行ったという処に意味があるのだ。
    それも「円融天皇の青木氏賜姓策」の施政の数年もたたない内の“「代続き」”の直ぐ後にである。
    つまりは、この「二つの施策」をあせて「猶子策の蔓延る源氏化」を効果的に止めたと考えらるのだ。
    そして現実に留まったが、賜姓だけは「後付け」の「正規でない賜姓」は「南北朝時代」まで続いたのだ。
    こうなればこれは最早、賜姓の姿を消しそのものでは無い。

    注釈 「秀郷の裔祖の村雄・915年」は、「4代目魚名の子」で初めて朝廷内で重要な官職を得た。
    この「伊勢守を務めた藤成の孫」でもあり、この「藤成」は「鎌足より5代目」で「806年の人物」である。
    「伊勢青木氏」とはこの「藤成」より前から「母方の血縁族」と成っている。
    この事から「藤成の806年/伊勢藤氏」はその任務の前から「伊勢」に関わっていた可能性がある。
    調べたが記録がないので確定は出来ないが、「806年の因果関係」は少なくとも「伊勢守」に成る前にあった事からの「700年代後半」にはその「伊勢王との痕跡」は遺していた可能性がある。
    これは「施基皇子・716年没後の関わり・84歳」ではないだろうか。
    この「806年代」は、時系列では「桓武期から平城期の頃」で、この「藤成」が「伊勢」に赴任してそこに定着後にその「子孫」が「伊勢藤氏」を発祥させている。
    その結果、「始祖の藤成の子孫の伊勢藤氏・秀郷の始祖」と「伊勢青木氏」との間には「伊勢藤氏系青木氏」が「伊勢に発祥していた事」に成る。
    この時期が、“「806年代」の少し前の「平城期」”であったのだ。

    注釈 この「平城天皇」は、「生存774年から824年」で、「在位806年から809年」。後に「上皇」としても権威を示す。
    だとすると「藤成の伊勢の在位・806年開始」と、「平城天皇の在位806年からの4年間」と「上皇としての25年間」を合わせると「29年間」と成る。
    「政治に関わっている期間の伊勢守護守」であった「藤成」と、その「関わり期間」は、或いは「伊勢王であった時期」の期間は、少なくとも“「約30年間」”として「付き合い」があった事に成り得て、「平城上皇」、或いは「伊勢青木氏との付き合いの期間」は、依って“「約30年間」”と見る事が出来る。
    この状況下での“源氏化・814年が起こる少し前の8年前の事”であったのだ。
    だとすると、これは「伊勢秀郷流青木氏・960年の前身」に当たる「伊勢藤氏系青木氏・発祥」である事に成る。
    つまり、「伊勢に居た藤成」も「円融天皇」もこの「源氏化」を“疑いの目”で観ていた事に成るのだ。

    注釈 前段から論じている様に、“「嵯峨源氏」”は、“「嵯峨期の詔勅禁令」”の「814年で賜姓臣下」したものだ。
    この「嵯峨期の詔勅禁令」とは、「皇子皇女」に対して大きく「内蔵」から「封戸」を支給されている事が、”「官庫の負担」となっていた事”から臣下する様に促したものである。
    この事から、未だ「親王号」を与えていない皇子皇女にでも先ずは「朝臣姓・賜姓」を与えて、その後に「臣籍降下」させて、「二世代限定に於いて「公務に限定して従事させる事」を「詔」として発したのだ。
    そして、“此の間に何とか生きる道を探せ”としたのだのだ。
    この時、“「賜姓臣下族のあるべき姿」”も示して、且つ、“護るべき掟”・ルール」を示して臣下させるとしたのだ。
    これが「嵯峨期の9つの縛りの禁令」であった。
    これにより、それが「源信・源弘・源常・源明」の「4皇子」と、「源貞姫・源潔姫・源全姫・源善姫」の「4皇女」にも「源朝臣姓」を与えられて「左京」に移されたのを始まりとする。
    結局は、これで上記した様に「丹後の奥」に集められて長く潜んで住んでいた事になるのだ。
    結局、最初の前例と成った「嵯峨天皇の皇子17・皇女15名」が、「源朝臣姓」だけを与えられて臣籍降下した事に成るのだ。
    この内の二番目の皇子の一人に「蔵人頭掾」として甲斐に送りその後に「甲斐青木氏」の賜姓を行った。
    ところが「掟」は生活苦もあってそれどころでは無く全く護られなかった。

    注釈 「伊勢秀郷流青木氏」は、武蔵から近江に役務に依って赴任してそこに先ずは定着したものである。
    そこで「土地の名」から「蒲生氏」を名乗った「初代定秀」は、戦国時代の武将である。
    この「定秀」には、「尭清、賢洪、秀洪、青木梵純」の4人の子供がいた。
    「蒲生秀紀の室・妻の馬淵山城守の娘の子」で、「近江の蒲生高郷・藤原氏」の子の「定秀」は、「六角氏一門」からの嫁を娶り、関係強化を図った。
    これで家中での地盤を固めた。
    これと共に、“妻の実家である「伊勢青木氏」”には「伊勢藤氏との青木氏」も既に存在していた。
    そこに「梵純」を「養子」として送り込んで「秀郷流伊勢青木氏」を「伊勢」で再興させたのだ。
    そして「近江蒲生家家老」として「伊勢秀郷流青木家の当主」が当たり、「伊勢藤氏の青木氏」に「養子」として、この「定秀の弟である子の養子の青木梵純・伊勢青木氏の娘の子」が入ったのだ。
    この「梵水」は、「非凡の域を超えた童」であったとされて、「子孫存続」に弱っていた「伊勢藤氏の青木氏の衰退」に対して再興する為に送り込まれたのだが、「伊勢青木氏の支援」も受けて再興した。

    注釈 そもそも「源氏11代」と成るが、先ず「河内源氏」だけが先行して「嵯峨期の禁令」を破り「武力」を以て栄えた。
    然し、筆者もこの内の「5代程度源氏の裔村」を探索した事がある。
    殆どは山深い山背を開拓し、そこに一族を祀る墓所と山背の平地に菩提寺の小寺を建て、その手寺の前は統一して大広場があった。
    この「一族当主の家」は、どこも一段高い石垣積みの上に建てられていた。
    その「宗家の家・村主」を取り囲む様に、「一族の村人が住む家」が十数軒と囲む様に並んで建てられていた。
    その周りには「生活用の大池」があり、その周りには「井戸」と共同の「流し場」の様な敷石があった。
    その池から下に、見晴らす様に棚田の田んぼが開墾されていたものが殆どであった。
    さして何れも大きいという村ではなかったし、今でもこの一つのこの村は古道の山のてっぺんにひっそりと遺されている。
    少し離れた隣には、「平家の落人の大きな村」もあって「相互間の交流」があった事を示す「形跡・山道」も見られた。
    これから観ると、「源氏化」は「清和源氏の河内源氏」だけに依って身踊らさせられた「一時期なブーム」であったと観ているのだ。
    何よりも、“「平家の落人の大きな村」が隣にあって相互間の交流があった事”を示す「形跡・山道」も見られた事だ。
    つまり、「他の源氏」も争う事なく先に追いやられた「平家の落人の大きな村」に寄り添うように政争のある都から逃れた事が云えるし、共に生き延びていた事が判る。
    この事からこの世間を騒がせたこの「源氏化」は、「清和源氏の事」と限定しても良い事が云える。
    確かに、「淡海族や美濃族や甲斐族」は平家との戦いに参加したが、多くの源氏族は一般的には上記の様に平家族の村人・落人と共に生活していた事に成る。

    注釈 そこでこの「花山源氏族」が成ったとする 「神祇伯」とは、上記の注釈の通りで、「以仁王の乱」の前の「源氏の1165年以降」は、この「花山天皇の後裔・孫の延信王」がこれに任ぜられたが、そのその「第一源氏世族・子」では無かったのだ。
    この経緯ではここに真の意味がある。
    ところがその「子孫の白川家・主張」では、これを細々と「神祇伯」と成った「伯家」の通りで、直ぐに結局は、「自立力」を持たない 「神祇伯の所以」を以て「孫の延信王の子孫」は途絶えて仕舞ったのだ。
    何故ならば、そもそもこの“令外官」”として「神祇伯のその令外官の役職」が、「永代」で無い限りは「役職三代までの規定」があり、史実はこの「三代の世襲限定制」以上は禁じられていた。
    恐らくは、“皇子が成る令外官」”に意味があって、ここから“令外官」”である以上は「自立力」を次第に無くして行ったと考えられる。
    この「三代までの規定」は、その意味では、“その間に自立する力を培え”と云う事でもあり、「絶えると云う事」とは、所謂、“三代後までに培えなかった”という事でもある。
    「生きて行くだけの力」を無くしたこの「令外官」は、“令外官」”である限りは「生きて行くだけの力」の持つ「神祇」と成り得ていなかった。
    又は、生きる力を持ち得ていなかった事に成る。
    恐らくは、「源氏の賜姓」で初めての“令外官」”の「神祇伯」と成った以上は、「神仏習合の八幡神社」の「神祇」だけに頼って仕舞った事に成る。
    「源氏滅亡期の1221年」には、例え「武力を持たない源氏」を名乗ったとしても、その「流れに抗する事」は「三代の規定」を待つまでもなく出来なかったという事であろう。
    現実にこの規定を護らなかった事にも成る。
    “令外官」”とは、特別にある目的を以て天皇から命じられて成る役目で「原則一代限りの役職」であった。

    註釈 本論とは少しずれるが、その歴史観の経緯を追記して置くと、これはこの当時の歴史観獲得には参考に成るだろう。
    本論の「1006年以降の事・花山期」である。
    「花山天皇在位」は「984から987年」の「実質2年間・政争」で、ところが「968年から1006年」の「38年の生存」であるが、故に「二世族源氏・孫」と成ったのだ。
    そもそもは、この「花山源氏の出自」とするのは、後の「後裔筋の堂上源氏・昇殿階級人の事」でこれを「殿上人」と云う事に成るが、これに成った者の内訳は、多くして上記した「猶子策」によるもので「村上源氏」に多いのだ。
    要するに、そもそも「対象する天皇」の「子供」では無く、「賜姓を受けられれない者」を見つけて来ては、先ず「格式ある家の貰子」にして、その「猶子」を更に繰り返して次第に「源氏姓の賜姓」を受けられるまでの格式を持たせる仕組みの事である。
    これを何度も繰り返す事で「源氏に成る対象者にする事」である。
    これに依って取り扱った「村上源氏」は、大いに経済的に潤い、尚且つ、その「勢力」を拡大させた「世間の風潮」の事であった。
    「花山天皇の孫・二世族王」の“「延信王」”が、「皇子・子供」では無く、孫に「源姓・二世族源氏」を賜り臣籍降下したとある。
    そして、この者は“「令外官」”として「神祇官の長官である神祇伯」に特別に任官されたと先ずあるのだ。
    この後に造られたとみられる「白川家の資料」と云われるものに基づくと、これには「平安期の前半と後半」としての「時系列・時代」が「21年」が先ずずれている事である。
    この「21年」をどの様に評価するかである。
    これ以降は、「猶子」でありながらも、彼等は主に「村上源氏」、又はその「子孫系列」と云われるが、平安期では
    「朝廷」はこの「弊害」を考えて歴史的には“「世襲」”は原則は禁止とされているのだ。
    にも関わらず、それも、“「三代」を超えても、且つ、一代限りの「令外官」でありながらも勝手に「神祇伯」を世襲する様に成った”とこの「21年のズレ」がある資料は説明するものである。
    然し、更にその「時系列の経経」は、「平安期末期」を超えて「鎌倉期」にまでも及んでいる事である。
    これの意味すると米は、“「後の慣習として仕立てた事」”であって、世間では“「伯家・鎌倉期以降に」”と云われたが、更に「平安期では無い「鎌倉期後期」にも、“先祖が「神祇伯」であった”とする事を理由にしている。
    そして、この事から「鎌倉期後期」に成っても「王位に関する規定に準じたとする」としいるが、彼等の資料には理解できない事が多いのだ。
    多分は、「21年ズレ」がある事を知り得ての別物資料として、これが主に「猶子策から来た事」であった事から、「後付け説」であろうと観られている。
    況してや、“それに復するのが慣例とした”と決めつけているが、「時系列」では既に「王位制は平安期までの事」であって、「鎌倉期」では既に制度の継続は消えている。
    そして、この「家」を更には、“「白川王家」とも呼ばれた”としているので、これは「平安期の事」では無く、「後付け説」である事も判る。
    然し、そもそも“「事態経緯」”が異なっていて、全く「平安期の王位・大化期に定められた規則」には当たらないのだ。
    この「鎌倉期の白川家の特徴」は、“故に「令外官の神祇伯の世襲・三代を超えている」とし、「令外官の神祇伯就任」とともに勝手に「王位」を名乗ったものだと成るのだ。
    この事は「神明社の柏紋の住職」に関わっていた「青木氏論」の「論外の事」であるが、敢えて、歴史観として参考に論じたが、「最後の源氏の花山源氏の賜姓の令外官の神祇伯の歴史観」として持っていてほしい。

    注釈 八幡神社の解説
    幕府が主張する説としては、 「奈良期の朝廷」が、「宇佐神社」に「鎮護国家の仏教守護の神」として「八幡大菩薩の神号」を「贈ったとする事・自説」から「八幡習合社」であるとしている一説である。
    但し、「説の設定している時期」が、「古い時期の事」としているので本当にあったのかは「説の確定」は出来ない。
    これによれば、理屈上は、「八幡神社」は、そもそも元は「寺」でありながらも、その「寺の鎮守神」とした事で、“「八幡神」がこの寺に勧請された”と成ったものだと理屈づけている。
    「史実」としては「神説」は先である事から、この説は当に「逆説」で「後付け」で府が真実性を確保しようとしたものである事が判る。
    これにより民はよりこれを信じて、この「八幡神」が「神仏習合社」として全国的に広まったのだが、これは「鎌倉の府」がリードした「鎌倉期の後付け説」である説」であることが判る。
    後に、これにて「仏の阿弥陀如来」が「八幡神の本地仏」と成ったとされたとしているのだが、逆せつである。
    その証拠に、ところが当然に「仏教の宗派」に依ってこの説に「反対論」が多く出ていた事が各種の記録に多くに書かれているのだ。
    例えば、前段でも論じた様に、先ずこの「阿弥陀如来説」を否定し、反対の「八幡大菩薩説・顕教」を補完する為に「仏」を、態々、「釈迦牟尼仏・観音仏・顕教」としているのだ。
    「鎌倉期時代」では、「河内源氏の武士の尊崇」で、「八幡神社」が「河内」に本請されたとし、これが「鎌倉期」にこの思想は「僧」にて突然に崇拝されたものであって、これを「仏僧形八幡神という事」で形どったと成ったのだ。
    前段でも論じたが、「青木氏等」は、「仏教伝来の無い時代」の古来より「守護神」を「皇祖神の子神の神明社」を主神としていた。
    其の後に、「仏教伝来」によりこれを拒絶せずにこれを取り入れて、他方で“「大日如来」”を「密教守護仏主観」として、「神教仏教」の「密教併用論」を唱えたのだ。
    要するに根本的に「後発の源氏の習合主観論」とは、その「形態」は根本から逆で原理も異なっていた。
    この事から果たして、此の様に「神仏説」が異なっている事から、「開幕条件が根本的に異なる事」に成るとして、これを以て、元よりその“資格は無い”とする説も朝廷では強く主張されたのだ。

    その様なそもそも「令外官に依る神祇伯の世襲・三代の身分制度」は「鎌倉期」には最早霧消して無かった。
    恐らくは、これは「後裔系の白川家の内部だけの書籍」として記して遺したものでは無いか。
    そこに瑕疵が出入るのだろう。
    そもそも、「王の身分」は「平安期の天皇との第四世族外の血縁関係」で決まるものだが、これをも「鎌倉期」に未だそれを何故か持ち出している。
    本来は「官職や役職に付随する性質」のものでは、「天皇との血縁関係」がそもそも決まる性質のものではない。
    況して、そもそも「令外官の神祇伯の世襲・三代の神祇に関わるもの」としては、つまり「非皇族」であり「王位」はそもそも「世襲」では無く、従って「正規の王」ではない事に成るのだ。
    その「経緯」には、他氏の事であるので、どの様に記するとも正しい歴史観として遺すには自由だが、「伯家内部のみに伝える」には、老婆心ながらそもそも「朝廷」が成す「伝統的な歴史観」としては「搾取の無理」が多い気がする。
    そこで、「花山天皇の在位期間」と「生存期間」は、「史実」は「伯家が主張する期間」を遥かに超えているのだ。
    更に、中でも「延信王の令外官の神祇伯」は、「彼等の記録」では[1025年」に「源姓」を賜り「臣籍降下」し[1046年・平安末期」に「令外官の神祇伯」に任ぜられたとあるのだ。
    そもそもこれは“「史実の21年後の事」”であるが、ところが本来は史実は、「1025年」に対して「孫の延信王」には「1006年」に既に賜姓している史実があるしを「贈ったとする事・もあるのだ。
    「伯家内部の書籍」とは随分と「時代」は違うし、そして「内容」も違う。
    そこで瑕疵部分を補完する意味から元より違うものとして遺したとも考えられる。
    「孫の延信王の神祇伯」が「令外官と神祇伯」により子孫を遺さずに絶え、何時しか「猶子策」など何らかの形で跡を事を継いだ事から、その時を以て、“「21年後の事」”と「1046年の事」の「二つのズレ」は其の侭として、そこに「ズレ」が起こる事を承知で「家の記録」に「時代の経緯」を合わしたものと考えられる。
    「令外官と神祇伯」ではそもそも子孫は必然に遺さない前提にある。
    だとすれば、この「神祇伯」は、そもそも絶えている「延信王」のものでは無く、後に「猶子策など」に依って生まれた「伯家」である事に成る。
    尚、「当時の呼称」は、「源」または「王」であるがその「位」には無い。
    その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれる様になったとあるので、「時系列」は違う別物である事に成る。
    況して、「令外官の神祇伯」に成った「延信王以後」には、この説では元々「「21年のズレの時期」はあるが、この「令外官の神祇伯」の時期は判らないが、「康資王、顕康王、顕広王」と「跡を継いだとする白川家の人物・後裔の説」がある。
    そもそも「令外官と神祇伯」は、「21年のズレ」は兎も角も、そもそも一代限りのもので世襲では無く説はおかしい。
    三代続いて「現実・鎌倉期」には、「神祇伯」に補任されているとしているが、正式には「天皇家の三世王格の三代格の原則」では、既に「花山天皇」で「延信王以後は既に正式に子孫は絶えていて、「曾孫域」”でも少なくとも「顕広王」とする人物でも既に絶えている事に成るのだ。
    そもそも本来は「子孫を持たない神祇伯・神職」であると云う事だ。
    本来は、何故ならばこの「神祇の役目」は、永代に「斎蔵の藤原氏や巨勢氏の専属領域」であるのだ。
    それも「あるルール」があるのだ。
    この「延信王の時」にもである。
    これは大事な歴史観である。
    これに「平安末期」には、永代に「斎蔵の藤原氏や巨勢氏の専属領域」にて、この突然に「花山源氏の源氏」が被さったと成るのだ。
    何故、態々、その「本来の役目の藤原氏や巨勢氏」に成っているのに、“被さった”と成るのかと云うと、其れにはそもそも、理解する上で「本論の花山源氏のそもそもの目的」が違っていたと云う事だ。
    そもそも、故に「源氏王格」は、「二世族源氏」が限界と定められていたのだ。
    この時期では、従って、「神祇」とは「天神地祇」の「神と祇」の略であって、「天神」は「あまつかみ」とよび、説では「天上」で生まれ、或いは、「天上」から降った神の事を云うとしている。
    そして、「地祇」は「くにつかみ」とよび、「地上」に天降った「神の子の事」を云うとしている。
    故に、「神」である以上は、本来はこの世に於いて“子孫を持たないもの”として、それを“「神祇」”であるとする言葉を使いしているのだ。

    「神祇伯」は、故に、まだ「世襲制度」とは成っていないのだ。
    「あるルール」とは、「源氏、及び斎蔵の藤原氏・巨勢氏」では、「世襲の定義」は、どの様に扱っていたかは記録にある。
    それは“時期だけは続けての「役代わり」”として、これに補任されたものと認識されていたのでそもそも“世襲では無い”として認識していたのだとしている。
    要するに“「役代わり」なのだ”として、維持されていたとし、それは「令外官」ではそもそも無かったと云う事になるのだ。
    事実は、「先の四名の間」には、“「斎蔵の藤原氏」が現実には重複して補任されている”のだ。
    従って、「延信王の神祇伯」は、「朝廷」では「別物として扱われていた事」に成る。
    従って、この次の「猶子の“王」”だけが、この「本来の姿」は、「花山源氏・村上源氏の猶子」である事に成り、即ち、実質は「村上源氏の猶子」である事を意味している。
    この「猶子」である以上は、全く理屈が合わず信用できない。
    又、歴史観として彼等の「伯家とする資料」には、「神祇伯就任」と供に「王氏と記している」が、「王位」は「氏」に補任されるものではなく、「個人」にある。
    又、これに復したとあるが、「王位」は「大化期の規定」により「第7皇子以上で第四世族以上」に任ぜられるものであって、それは「個人」にあって「氏」には「氏の資格」は無いのである。
    そして、この「王位の指定を受けた者」と云う事に成っているが、抑も「正規の規定の王位」とするものでは無く、且つ、従って「氏」には復さないと成っているのだ。
    少なくとも、此れで行くと「家」に相当するのだ。
    そもそも「神祇伯の退任後」には、“「源氏」に戻った最初の例と成った”と勝手にあるが、正しくは「源氏賜姓後」は“元の位に復するという制度”は、既に鎌倉期にも最早無く成っているのだ。
    「顕広王等の復帰の背景・王氏は疑問で王家に」には、「神祇」、すなわち、”神を祀るという、朝廷では重要な行為を行う「神祇官の長官の事」ではある”が、この書籍時期の指す「13世紀の鎌倉期」では、此れは未だ「西の朝廷の任命権」にあって、「府の権限」が及ぶものでは無い。
    あるとすれば、最大でも“「推薦権」”に成り、その意味は低下し異なっている。
    この「鎌倉期」では、「西の神祇官の長官」としては、「神明社」ではその「祭祀と監理」は「青木氏」に帰属するものであって、「源氏独自の八幡神社の管理」のみに関わる事だけではないし拘わらない。
    「朝廷」はそもそも「国幣社格」ではない「習合格の八幡社」には関わらない。
    「鎌倉期」に於いては、「国幣社に相当する皇祖神子神」としての「神明社」は、「青木氏」にあって、「春日社」は「藤原秀郷流青木賜姓青木氏」にそもそも専属的に委ねられていたのだ。
    そもそも「八幡習合神社」は、「源氏の独自の守護神」にある。
    「大中小の三つに分けられた国幣社格」には無く、一般視社格に相当する。
    従って、鎌倉期に独自に「八幡神社」の「神祇伯という職務の重要性」と、「源氏という血筋の由来」、及び、何より「最後の者とする顕広王説」が、有力な“「村上源氏の源顕房の猶子」”と成っている事が気に成る。
    最後の「源氏の賜姓の条件」に繋がっている者であろうか。

    論外に仮に遠く「花山期」から離れて、せめても「最後の者」と成っている「顕広王の子」であるとするのは論外と成る。
    その更に「論外の仲資王」が「顕広王の跡後」を継いで「神祇伯」と成ったとあり、この「仲資王の退任後」のその子の「業資王が「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとしているが、既にその期は「鎌倉期」にあり、この期に認められた「源氏の第二世族源氏の規定」は、正式には時代的に上記した「最初の者」の“「延信王」”が限界である。
    「源姓を賜り臣籍降下した段階」では、実質は「西の令外官の神祇官」である以上は、定説通りに「最初の者」の“「延信王」”の子孫は絶えているのだ。

    注釈 この「源氏化論」を説くには、「歴史観」として上記の「猶子の事」を説明して置かなければならない。
    これは「社会と歴史を虫歯わせた重要な歴史観」であるからだ。
    この「猶子」とは 、そもそも「実親子」ではない二者が、「親子関係」を結んだ時の子であるとし、これを訓読では「なほ子・ゆうし」と呼称していていたのである。
    その頃は、これを「・・のごとし・あたかも実子の様である」と読むとあり、中国では最早、「兄弟の子」を意味するとして「重要な処世術」として認められ扱われたものとある。
    それは「身分や家格の数種の高い仮親の子」に、“繰り返し位置付けられる事”によって、その効果として「社会的に立場が繰り返す度事に上昇し、「一家・同族内」、又は、「社会的に何らかの関係性」を貯めて有する「他氏族間の結束強化と上昇策」の為に使われたものである。
    つまり、「養子」より強いものとして、それには「官位の昇進」や「上の家柄の相手との婚姻等}を容易にしたり、これに依って「義理の親子関係を結ぶ事」で、{両者一族の融和や統制を強化するといった目的」で盛んに結ばれた「武家貴族間の源氏化の慣習策」である。
    一般的に「家督や財産などの相続・継承を目的としない事」では、これは“「養子」”と異なっており、「子の姓」は変わらずに、「仮親」が“一種の後見人」”としてのその役割を果たす等の「養子」と比べて、単純で、且つ、緩やかで擬制的な側面が大きいものである。
    それだけにこの「源氏化の管掌策」としては、これにより「金」が動く為に盛んに「猶子策」が「公家や武家貴族間」では頻繁に使われたものだ。
    この策では、「猶子の親に成る者」に執っては、金品で経済的に潤い、社会的発言力を増すと云う特典があったのだ。
    この「源氏化」にもっぱら盛んに用いられたものである。
    但し、その後の実際の用例では明確な区別はなく成り、「猶子」と呼んでいても相続がなされた場合もあり、「養子」と、その後「同義・同意」として使用される事もあったとされる「猶子策」であった。。
    要するに、この意味から、事に応じて「後見人の勢力拡大の道具」として大いに使われた。
    これが結局は、「源氏賜姓」に盛んに使われた事から、其処には世代数を超えて際限なく利用される事と
    成り、「第・・世族源氏・資格の有無は別」が生まれて、その様に呼ばれる様に成ったのだ。
    そこで、「朝廷」は、「第二世代源氏・孫域」までとこの範囲を定めたのだが、世間は「猶子策」で際限なく護らなかったのだ。
    例えば、この「清和源氏等」も「粗暴な父・暴君」からの「賜姓」すらもを受けられない事から、祖父縁に当たる「清和上皇」に頼み込んで無理やりに賜姓をして貰ったとする経緯である。
    これは、所謂、規則上から「猶子の形」で無理やりに頼み込んだものである。
    普通は、この為に「第一源氏世族・子」、そして「第二源氏世族・孫」の間での、“「縦の下系」”に「賜姓する事」が規則として定められていたものなのだ。
    然し、この「清和源氏」は、「祖父の清和上皇」に、既に上系の上皇と成っていたにもかかわらず、それ以上は、「帝紀」を破ってでも、且つ、現実に嫌がられながらも、「上の系の第二源氏世族」までに成る様に「猶子策」で図った。
    これには規則上に照らしても、先ずどこかの「猶子親」に頼み込んで「下系の“「猶子」”に先ず成り、そこで「数多い猶子親の誰か」を使って頼み込んで「賜姓を受ける事に成る経緯」である。
    これを当時は、「賜姓の規則に外れる事」から「清和源氏」と云えるかはそもそも問題に成ったもので批判されたのだ。

    注釈 この後に「花山期」から離れて、論は歴史観の参考として「鎌倉期説の経緯の検証」とする。
    この「歯止め」とする「第二世族源氏の規定」は、正式には“「延信王」”が限界であり、「子孫」は絶えているにも関わらず、この「猶子策」の故に例外で、“「延信王の繋ぎ」”を別に興したと云う事の例に成る。
    それが「第三世族子」であるとする「顕広王の子」であるとし、「仲資王」までが「顕広王の後」の継いだとして「神祇伯」と成ったとしていて、「第四世族の仲資王の退任後」、その子の「第五世族子」の「業資王」が、「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとあるのだ。
    既にこの期は「鎌倉期」であるが、歴史観として問題があるのでの参考として記した。
    その「業資王」が急死して弟の「資宗王(源資宗)」が「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとある。
    この為にこの「鎌倉期の記録」では、「源氏」から「王氏・?で王家」に復したとし、これらが先例とし、以後、「白川家」によると、永代ではないし「令外官位」であり「世襲は否」とされていたにも関わらず、「神祇伯の世襲化」で「神祇伯就任による王氏復帰」は果たせたとし、そもそも「王氏」では無く「王家である」が、継承は行われる様に成ったとしているのである。
    然し、これは「三代の習慣」からは歴史観はそもそも外れているのだ。
    そもそも正しくは「王氏は無く王家である事」から、「単位の小さい家」から「大きい氏族」の「源氏」に戻れるとした規定は、そもそも何処にも見つからないし、論理的に無理があり辻褄合わせの「猶子策の後付け説」であろう。
    「此の時代の源氏」は、この様に、最早、「猶子策」に依って悪用されて「南北朝までの源氏」では頻繁に行われ際限がなく広がり続いた。
    これと同じくこの時代以降は、最早、「猶子」は「源氏」ではないのだ。
    「花山期」のそもそも「源氏の王位/?」は「一世族源氏の族」に史実与えられたものと成ったものであって、これは「氏族に課するものではそもそも無く、その「一世族を保った家」だけに引き継がれるものであって、要するに「王位」は正しくは「王家の範囲」で終わるものと成るのだ。
    そうする事で、「伊勢青木氏の伊勢50衆の氏族・氏人族」を持った様に、この様に「氏の族を形成する程の源氏」は、そもそも「存在」は無く、「それに戻れるという理屈」はそもそも無く成るので、それを独自の中で勝ってに造り上げて「系譜」を「後付け」で錯綜したと考えられるものであろう。
    「筆者の11の源氏の印象」では、「伊勢の様」に「大氏族を形成している」とする検証はどこにもないのだ。
    全ては最大でも「摂津源氏」の「四家の源家の範囲」である。
    そもそも「大化期の規定」に基づく「王位の者」は、「第四世族以降七世族まで位にいる者」であって、それも「第七位以上皇子の相当族」に任じられるとしたものである。
    この範囲では「王氏」では無く、もはや単なるものでそれは完全な「王家」にあたる。
    依って「白川家の呼称」は、正しくは、「河内源氏の源氏姓」が復帰した「猶子策」が大錯綜した「南北朝」から「13世紀中期以降の代・鎌倉期」からである事に成るだろう。
    故に、そもそも「正式な令外官の神祇伯の代」は、「花山期」で正式に飽く迄も終わっている事に成る。
    故に史実は絶えている事に成るのだ。
    要するに「21年後の令外官の神祇伯」はそもそも「別物」である。
    後は、上記の注釈の「白川家の論・鎌倉期」の「猶子の有無」にあるが、この「花山天皇賜姓源氏・第二世族源氏」は、「一代限りの孫」の“「2世族の延信王」”がそれに当たり、ここで子孫を遺さず史実として敢えて終焉させた事に成るのだ。
    以上の論外のこの「鎌倉期の神祇伯就任」のこの検証では、この「平安期」では、“「孫の延信王」”の「規定の二世族・孫域」で上記した様に既に絶えているのだ。
    正しくは「斎蔵の藤原氏・巨勢氏」の「神祇伯」が重複して存在していた以上は寧ろ“絶えした”と言う事に成ろう。

    注釈 さて、此処で論外ではあるが、世を乱した「猶子」と共に“「神祇伯」”と云うものを理解する上での歴史観とし関わる事を念の為に論じて置く。
    「正式な神祇伯の代」は、この“「孫の延信王」”の「規定の第二世族・孫」で既に絶えている筈なのだが、「後の記録」で観ると、論外として「猶子族か支流族」が引き継いだかは良く判らないが、鎌倉期以降としている「後付けの神祇伯の裔系」の記録が遺されている。
    この「論外の記録」に依れば、それは「猶子策をリードした事」で有名な“「村上源氏の源顕房の猶子・血縁筋が不明な子」の「顕広王」”となって引き継いだとして成っているのだ。
    「猶子」であるかはそもそも「猶子」である限りは判らない。
    つまり、重要な歴史館として、これは「村上源氏中心」に、その以降にも頻繁に行われた「猶子策・源氏化は乱れた」であり、それに基づいて「系譜」を作ったものが多く、これもそれに相当するのではないかと成る。
    恐らくは、その「歴史の歴史観の間違い」から観て、その内容から相当後から、つまり、江戸期中期頃に偏纂されたものであろう。
    この中でも余談だが、この「猶子論」の「猶子策」を使って、その「源氏賜姓の位」、つまり平位で全く格式など無くても、どんどんと「村上源氏」は、「堂上源氏の末裔」として幅を拡げた「猶子策」なのだ。
    要するに、この現象は「円融天皇の藤原秀郷流青木氏」を「永代賜姓」したその直前の「源氏化の出来事」であったのだ。
    その意味でもこの歴史観は、「円融天皇」は、この「村上源氏の猶子策・乱れていた賜姓策」を嫌っての事であったとも考えられる。
    それは、つまり、「乱れた源氏化賜姓」を「円融天皇」が戒め、更に「花山天皇」が戒めてに二代続きで直そうとしたと考えられるのだ。
    現実に乱れた「源氏化」の大きな「猶子策」は、この「二人の天皇の策」で系譜上ではほぼ留まった事に成る。
    そしてその目的が終わったにも関わらず、其の後に、別の目的でこの「猶子に依る源氏の賜姓/目的が違う」は「南北朝」まで止まらなかったのだ。
    当時迄は、抑も賜姓のその範と成っていたのが「桓武派が主張する賜姓」であったのだ。
    この丁度、「村上期の時期」から「源氏化の猶子策・金銭的な賄賂の様なものも背後で大きく動いた」は盛んに使われ始めたものだ。
    「源氏姓・源氏化」を論じ観る時には、この「猶子論」の「猶子策」を適格に「歴史観」として読み解かなくてはならないのだ。
    それ故に、ここでそれを示す証拠は、「彼等の家紋」は、そもそも飽く迄も「笹竜胆紋」では無く、「猶子策」によるものである事から、「村上源氏等」は、正直に、“彼等の「家紋」は「五つ竜胆紋」”として使い違うのだ。
    元より「嵯峨期以降の源氏派」は、「八幡神社・八幡菩薩の習合体」である限りに於いては、絶対にこの「竜胆紋とするの経緯」にはそもそも無い事を「猶子策」を用いて論じた。
    従って「頼朝」等もその「家紋」は、「村上源氏」と同然に歴史的に此の範囲にある筈だ。
    よりともの「家紋」は、そもそも「八幡習合体」である以上は、「村上源氏」と同然に正しくは「笹竜胆」では絶対にないのだ。
    これを「朝廷」からここを突かれた「頼朝」は、「笹竜胆紋の笹と竜胆の花の間の軸に違いを着けて別物とした」のだ。
    現実に、「青木氏の元来の賜姓時の笹竜胆紋」との間には、“八幡神社などの根本的な違いがある”が、「軸の形の違い」を着けて、違うものだとして「朝廷」を黙らせたのだ。
    ところかが今やこの「工夫した文様」が、これも「正規の紋」として美化されているのだ。

    「最終の源氏」は、「1009年の花山源氏」とすれば、そもそも“「三代の規定」”を待つまでも無く、「10年程度の範囲」で論理的に何かを講じなければ終わっていた事に先ず成ろう。
    それは丁度、一代前の直前に「秀郷流青木氏の永代賜姓」が成されたばかりとすれば、「令外官の神祇役」の「花山天皇の源氏」は、これを生かそうとすれば、「伊勢の青木氏との繋がり・神明社」とも親密に連携は執れていた筈で有利であった筈なのだが、それも無かった様だ。
    つまり、これは「花山源氏」のみならず、「源氏」そのものを終わらせようとしていた事に成るだろう。
    これは明かに、上記の検証の注釈通りで、新しく起こった「八幡神社習合体」の「令外官の神祇伯就任の範囲・上記注釈」によるものであろう。
    これは「特別の話」では無く、この「三代規定」に絶えられなかった「高位族の話・源氏」は他にも沢山あるのだ。

    注釈 「社と神社」の「国幣社」とは、日本に於いて古来は「国と地方府・現在は都道府県」に「幣帛の至幣帛料を支給される社の事、又は国の神社の事」である。
    そもそも、「社と神社のその格式」には差があるのだ。
    従って、これに「格式」を設けて「官吏」に依る「監理」をしていたが、当然にこれがあればその「神社格式」が高くなる。
    この「平安期の令制時代の国幣社」は、「延喜式神名帳」にも記載があり、「格式」に依って監理されていたのだ。
    「皇祖神の子神の神明社」は、「伊勢と信濃の青木氏」が管理する「最高格の国幣社」であって、そもそも「特別格」の「社格」にあり、「神社格」ではないのだ。
    つまり「特別な社格」である。
    この「令外官の神祇伯の神社」は、「皇祖神の子神の神明社外・青木氏監理」であり、そうするとそれは主に「源氏の守護神」の「八幡習合社」の「神祇伯」に限られる。
    他には、「国幣社並みの大きいもの」としては「秀郷流一門青木氏の春日社」があり、「藤原氏の春日神社」が存在したが、これが「藤原一族の氏が監理するその守護神」の「神社格」が別にあったのだ。
    此処で、「・・社格」と「・・神社格」は「存在格式」が異なり、「社格」は原理主義を有しその上にある。

    以上の論から「桓武派」と「嵯峨派」の齎した後世に、この「源氏化の事件」は、筆者には論の通り明らかに“「桓武派」にその理があった”と考えている。
    「部の造の利」を生かして「925年」に「商い」を興し、「1025年」に貿易を興す総合商社を興して、“「内蔵」”を先ずその「賜姓五役の役務」や「院屋号の役務」や「因事菅隷の役務」として「令外官の役務」として豊かにし支えたのだ。
    筆者は、「部経済を熟す令外官役務」と云うよりは、資料の読み込みの行から、“生計を一にする「一族の稼ぎ頭」として勤めていた”と当時の青木氏族の一族の者は考えていたのであろう。
    要するに「皇親族の発言」とこの「内蔵を支える事」の是非論であろう。
    光仁期以降は、前段でも論じたが「部の国造頭」として“「内蔵」”を支える以上は、必然的に「皇親族」と成り得ていた事は否定はできないと考えているのだ。
    政治的に観ても「内蔵の潤い」は、そもそも「霞を食している天皇家」では無く「政治の安定」には直接に繋がるは必定理であったろう。
    そもそも「税」に求める「大蔵」と違って、何れかよりその「大きい糧の基」を求めなくてはならない。
    故に「桓武派」と「嵯峨派」として「政争の騒ぎ」を興してまでも、その「内蔵の大元・青木氏の賜姓を切った」を切り離した「嵯峨天皇の施策」は、筆者は青木氏の者として“後世に疑問と禍根を残した”と観ているのだ。
    然し、幸いに上記する「3人の天皇の出現」で、「帝紀」すれすれで何とかこれを正したと観ているのだ。
    其処にその「内蔵を保った」として「二つの青木氏族の裔系」はまだここに現存しているのだ。

    この証拠に、この「政争の騒ぎ」の中で、このある時を以て「青木氏族や近江佐々木氏族からの系譜」からも、何故か「血縁関係も含む全ての関係性」が、“全く無く成っている”のだ。
    この“全く無く成っている”という事は、先ず普通では起こる事はないだろう。
    ところがこれを物語る事としては、“「生きる社会環境」が上記した様に、「猶子」等の「複雑怪奇な源氏化」で互いに溝が出来て違ってしまった”という事では無いかと観ているのだ。
    それが「伊勢と近江という事」だけではなく「信濃と近江」ともに広がったのである。

    故に、これは「源氏化の経緯」には、その過去には、この「近江佐々木氏との内部事件」もあり、尚且つ、これが「源氏化の時代の渦に巻き込まれる事」をも警戒していた中での事であった筈である。
    だから、その事はこれを咀嚼しても、そうするとこの説で観れば、その後に「青木氏」では、“「後家制度」”と云う“「応急処置」”で、“この事件の処置をしたのだ”という理屈が生まれる。
    ところが、その後の例として、確かに「嫁いだ女」は、「後家制度」で「伊勢」に帰り収まりが着いた事があるが、実は次いでこの「後家処置・制度でも治まらない事」が続けて起ったのだ。

    それが、“「京綱の処遇」”であったのだ。
    この「猶子の源氏化の中」では、「青木氏族」に執っては「大変に厄介な事」であった。
    そもそも「光仁期」より「徹底した女系制度」を敷いて「天皇家・男系との関係性」との関係性に巻き込まれる事を絶っていたが、これがこの「女系制度にそぐわない事件」と成って仕舞ったのである。
    その「解決策」としては、「女系制度の慣例破り以外」に無く、結局は「出自来の四掟」に反するが記録と資料と口伝によれば、“「青木氏族の氏族合意」で乗り越えた経緯”なのだ。
    この「京綱」は、この「猶子であったか」は調べたが、そうでは無く、「仲綱の妾子・正式には四男」である事が歴史的に記録があり確認できた。
    その「京綱対策」が、「青木氏四家の福家」に最終は直接に組み入れたとしているのだ。
    これはどういう事かと云うと、何とか裏で行われていた「頼政との難題の話の進行」、つまり、「京綱の処遇の件・青木氏の家人跡目に入れる事」では、最初から“「後家と云う話」”の中で対応したのではないかと予想できる。
    その「伊勢の氏族」の中では、「後家の話の主体」の「条件」として出していたのは、そもそも「同環境に陥っていた事」からであって、その「騒ぎ」はその「伊勢や信濃側」にでもあった事と考えられる。
    それは「摂津源氏頼政の策」と成った「嫁・娘の対策」では、兎も角もこの“「後家」”で処理されたが、この「京綱」の「伊勢青木氏族の中の扱い」は、又別物であったらしい。
    そして、先ず「娘」を再び「氏族の郷士に嫁がせた形」を執り、そこから生まれた「優秀な男子」には、「伊勢青木氏」をそこで興させて、次いで優秀であれば「青木氏家人に戻すとする制度」があったがこれを京綱の策に使ったのだ。
    「京綱策」は、結局は、この“「家人の青木氏」”として先ず「四家」の一人に入れて、そこで経験させて「優秀」であれば「四家」から「福家に成る仕組み」の中に入れたとした事が判っている。
    「伊勢」も然る事乍ら、「信濃」に於いても同然であって、「女系の青木氏の四家の中で生まれた男子」は、先ず「四家全体の中」で育てられ、「何れかの四家」に先ず入り、そこで「経験」を積み、その後に何れかの「四家の差配頭の家人」に成り、そして「四掟の女系・女系の郷士か秀郷流青木氏」で娶り、「優秀」であれば何時しか「福家」と成り得る仕組みである。
    結局は、「京綱」は、最終は、“「福家に成った事」”が記されている資料が遺されている。
    「信濃の国友」も「京綱と同然に成った事」が判っていて、「国友」には「信濃」に定着せずに、最終は「伊豆を強固にする為」に秘かに「融合族の伊豆青木氏」に入った事が判っている。
    然し、その後の「伊豆の中での事」は、つまり「国友の事」は「源氏化の事件性」から判らなくされているのだ。
    「相互の血縁の関係性」から「伊勢や信濃」では「国友の事」は「京綱」と共に把握されていたと考えられる。

    注釈 「国友の経緯」には、別の資料から、「伊豆」に到着以後は「伊豆」を代表して「商い」で「伊勢との往復をしていた事」が記されている。
    ところがここで「四家の福家」に、この「京綱」は成ったとされているが、少なくとも「摂津源氏四家」に嫁いだ「伊勢青木氏の娘」は、「仲綱の妾」と成り、その「子の扱い」は「四男」ではあったとされているが、この「四男の京綱」は、「摂津源氏の血筋」を引いている事に成るが、“全く源氏に加担しなかった事”が判っている。
    「伊勢四家の福家であった事」では、判断次第では「滅亡の憂き目を受けていた事」に成るが、「氏族の伊勢の中」には「摂津源氏の源」も影も無い。
    この「頼政の件」で戻った「伊勢の女(むすめ)・後家」の「行先・匿先」は「犯すべからずの多気の斎王館・務先」と「清光寺・尼僧」とであった事からで、その「後の成り行き」は強く戒められた可能性がある。
    この時、少し連れて「事件・5〜10年以内程度」が「大口青木氏の事件」があった事から、「伊勢」では、この「二つの事件の扱い」は「同一事件と捉えていた事」が考えられる。
    この「大口青木氏」は、そもそも「摂津源氏宗綱の廻氏の裔・仲綱の嫡男」でもあり、突き詰めれば「伊勢青木氏の京綱」も、その「摂津源氏の仲綱の四男裔」である。
    「京綱」は、「仲綱の後裔/四男」であり、他方は「大口青木氏の廻氏族の裔の宗綱・仲綱嫡男」であり、何れも「仲綱の嫡男の裔」と「仲綱の四男」の裔差である。
    それが同時期、同一場所、同年代、同一人に育てられた結果と成っていて、最早、「義兄弟」であった筈である。
    つまり、この「二人」が偶然にも「一つの経緯」を経て、再びそれも“「伊勢に集合した事」”に成るのだ。
    ところが、この「二人」は血縁の深い縁を持っていながらにしても、「源氏化の流れ」の中でも、“源氏化”に全く加担しなかった結果と成っていたのだ。
    此処には何も無かったとは考え難いし何かがあったとも考えている。
    どの様な事があったのであろうか調べたが判らない。
    「予想する処」では、「財」に於いてもその形跡がなく、一銭も援助をしていない事から「女系族」である以上は、この「猶子策で腐敗化した源氏化」の中でも動じる事は無かったと観られる。
    百々の詰まりは、「頼政」はこれは「伊勢と信濃の氏族の同意」が、全く得られなかった事を意味し、「四掟の秀郷流青木氏の同意」が得られなかったと云う事であろう。
    それには「源氏社会」には、この「猶子策の乱」があって、「源氏」だとしても、“信用は出来なかった”のではないか。

    筆者は、そもそもこの「戦いと経緯」に備えて、上記する様に、“「財と武の獲得」”と“「子孫存続の確定」”、そして別の面では、“「皇族系で律宗性の強い二つの青木氏」に「、源氏子孫を遺すと云う事」では、より「猶子策」で乱れている中でも、“「源氏族のより格式化をより図ろうとしていた」”と観ているのだ。
    そこに「頼政」が、「青木氏の前に立ちはだかった」と云う事なのだ。
    彼等は、「平家族に超す様な格式」を確保して、全国に向けて「有利な立場」を保全して、「以仁王の乱」を有利に運ぼうとした”とも観ているのだ。
    つまりは、「頼政」は「朝廷の中」に流れるこの「猶子策の源氏化」を利用したと観ているのだ。
    そうする事で、前段で論じた「桓武平氏=青木氏族・桓武天皇派系の関係」に、“「楔を打ち込もうとした」”のではないか。
    それは「桓武平氏側」には、「天皇系」と成り得ていて、既に「金玉・安徳天皇」を有していたからだ。
    故に、「伊勢の京綱や信濃の国友」を、この史実の中に入れてこれを表に出す事で、「9つの縛り策に弱い処」を補完させ、且つ、そこでこの「桓武平氏側」にも「血縁的な繋がり」のある「格式のある青木氏族」を前面に押し出そうとしたのではないかと観ているのだ。

    然し、だから「青木氏の後家の策」を取り入れたのだろう。
    此れをせずに、抵抗すると云う手も在ったろうが、ところが「氏是に基づき敵対する事」は何とか避け「青木氏一族」はその手に乗らなかったのだ。
    当に「頼政の計算された騙しの策・事件」に巻き込まれそうに成ったのだ。
    その意味でも、この同時期に関連して「伊勢青木氏族の伊佐氏に関わった大口事件の処理」は難しかった事が云える。
    何にせよ前段でも論じた様に、そもそも「以仁王の乱の失敗後」の「摂津源氏の子孫の助命嘆願書を清盛に出している事」であり、これに動かされる事は、そもそも「桓武派」と云えど「極めて危険な事」ではあった。
    これは前段でも論じたが、何故、この「反対派の願い・助命嘆願」に対して、この様な“見逃す事の出来ない歴史的に遺る様な相当に危険な事”を、「伊勢」は態々したのかである。
    確かに、「京綱や国友の件」や「老母の高野新笠の関わり/伊賀の差の意味」等があったが、それだけでは無かったであろうし、「伊賀の平氏」の中には「摂津源氏」から来た「二人の妾」が居た事も判っている。
    この「二人」は、何もせずとも先ずは“「嘆願」”は一応はするであろうが、これが「時代性」が異なる「高野新笠派・青木氏説」を動かしたとも思えないのだ。
    然し、真偽は別として、前段でも論じたが「伊勢に伝わる処」では、“「高野新笠・伊賀の事を意味していた」を以て動かした”と伝わっているのだ。
    然し、かと云っても「伊賀の高野新笠系の意見」を聞いて、当然に、“「伊勢青木氏の福家」が何の利益も無いのに素直に直接に積極的に動いた”とも思えない。
    少なくとも、あるとすれば、“ある先の起こるべき計算があった”という事であろう。
    それは最早、ここまで来れば無視出来ない程の「助命嘆願をしなければならない流れ」が起こっていて、そこに何かが「青木氏の経緯」の中で、“必然性的要件が起こって仕舞っていた”と疑う事も考えられると云う事である。
    調べたが少なくても、この「青木氏の中」には「この必然性」は見つからないのだ。
    まさか上記した「源氏化の社会の乱・猶子策」が誘因していたのかとも疑うが無い。
    然し、「以仁王の乱」が失敗に終わっている以上は、この「猶子策の源氏化」がこれに左右し働いていたという事でもないだろう。
    この「猶子策の関わり」が「京綱の件」として、観えない処で「青木氏の中・条件」まで及んでいたのかと云う事であるが、先ずそれも無いだろう。
    兎も角も、理由は、“「高野新笠の意見/伊賀ルート・青木氏・桓武派の意見」として取り入れた”と云う事にしたのではないか。
    少なくとも「伊賀に関わっていた事」は、それなりの記録があるがこの限りでは確かであろう。
    兎も角も、「崇拝していた桓武天皇」の「母・高齢」であった「高野新笠派の意見・伊賀勢力の青木氏」は、「伊勢の青木氏」に執っては無視できず、“「桓武派の意見」”としては簡単に無視は出来なかった事は先ず判る。
    これに付いては、「伊勢も清盛」も、“その範囲の事としての考え方”の「扱い」でもあって、“起る先の結果も見込んでこの「流れの中」に、“「先事の事”として実行したのであろう。
    要するに、“先ずは治まる処に治まる”として、兎も角も提出し、「伊賀の平家側」も「嘆願書」を受け入れた事であろう。
    そして、「先の事」を見込んで、「伊勢青木氏も伊賀平氏」も、先以て、“その為の準備をした”と言う事ではないか。
    「清盛側」も受け取って置いて廻村に放置するよりは「相手」を誘い込んで潰す目的であったのであろう。
    当然に昔の「伊賀半国割譲の結果」としての「伊賀半国割譲を仕切った立場」もあって、「渡来人の里の南九州」には「伊勢の関係者・伊佐氏」を「朝廷の命」により「伊勢」から送り込んでいた事もあり、其の上で「事前の体制」を整えていたと云う事に成る。
    これは未だ「日向廻氏」まで及んでいない時期の事である。
    「平族/たいら族」は、「桓武派の伊勢青木氏の申し出」で、一応はこの「助命嘆願」を「史実」としてこの意味で先ず受け入れたのであろう。
    然し、その証拠に、流罪後に直ぐに「九州平家」が、間一髪入れずに何事も起っても居ないのに、これに応じて先に軍を南に動かしているのだ。
    即ち、これは「廻氏周囲の豪族等と組んだ宗綱勢力」が、“襲い掛かり潰しにかかって来る事”を先以て読み込んいたと云う事だろう。

    これに付いては、「宗綱が先に反乱を起こした事」は判っていないが、この時の「状況証拠」から史実は周囲に呼び込みを興している事は史実である。
    そんな事は問題では無く、これは「九州平家が内密に先に指令を受けての事」であって、「九州平家」に依って恣意的に潰す事を目的に引き込まれた「戦い」であったろう。
    それは時系列から「反乱の事態」が起こってから「九州平家が動いた時間」が、そもそも無さすぎるからだ。
    これで、この「助命嘆願」も「平家」も「伊勢青木氏」も、その「心算」を以て受け入れていた事は確かであろうし、「伊勢」も「暗黙の裡」に同然であったろう。
    そもそも戦略上では、「生遺りを遺して置く事」は、最も危険な事であり、「掃討作戦」は徹底してやるのもこの為で肝心な兵法であって、これを適当な理由を着けて軍師は必ず先にするものだ。
    それが「確定勝利の兵法の路」であるのだ。
    その意味でも、全段でも論じたが、「伊賀の半国割譲の経緯」もあって、「伊勢側」でも「伊佐氏等」にも声をかけをして、その「伊佐氏の菩提寺の浄土寺」に向けて、事前に「伊勢青木氏の住職」を事前に「寺に廻していた事」でも頷ける。
    史実は上記した「伊賀半国割譲」の経緯に依って、その「伊賀の関係」から「伊勢」から赴任遙任して「南九州」の「当地の現地監理」を任されていたものであった事から、「伊勢郷士」とそれに伴う「青木氏の柏紋の住職」を同時にこれに付する為に改めて重要な人物を赴任させていたとする記録もあり、これがこの事の史実であろう。

    前段でも論じた様に、同然に「同時期・平安末期」には「同族の信濃」でもこれが起こっていたのだ。
    「頼政の源氏化」に向けて、危機迫るのを逸早く悟り「信濃・国友」では、これを受けた後に「融合族の住む伊豆青木氏」に移動させて隠して上手く難を逃れていたのだ。
    「信濃」は、「“雉子懐に入りて鳴くずんば猟師これを撃たず”の策」に出て成功したのだ。
    要するに、「信濃」で隠すよりも「頼政の所領の伊豆」に直接に移動させたのだ。
    これで「源平の戦い」に引き出されずに「懐に逃げ込む策」を講じたのだ。
    其の後は表に出さず「商い・船」に従事させて、判らなくしたと伝えられていて、「伊勢」にも来ている可能性もあると資料・記録にある。
    つまり、その後の「後家制度等」が次第に「軋み」を生みながらも護り、「青木氏族」は“「四掟を護る手段」”に切り替えた。
    然し、そしてこの「後家制度等」は、「源氏化の猶子策」より先んじて、“「格式高い公家族との間」”で定着して行き制度化が進んだのだ。
    この時、「源氏化に伴う猶子策」も同時期に並行し貴族間では進んでいた事に成る。
    この時は、最早、「後家の意味・鎌倉期以降」も益々違って社会の中で変化して行ったのだ。

    前段で何度も論じた様に、念の為にこの論と繋なぐ為に系列を追記するとして、「賜姓伊勢青木氏出自」の「施基皇子の四男の白壁王の光仁天皇」の「妃」は、「桓武平氏の伊賀平族の裔の高野新笠・清盛の母系祖」であり、この関係は、「桓武天皇長子の平城天皇」まで続いた「桓武天皇派系・桓武平氏も同派」である。
    これは「賜姓や皇親族」を先ず排除しようとした「嵯峨派」に対抗して結成されたものであって、「政争」までして起ったのだ。

    同じ「青木氏出自系」でありながら「薬子の変」で、「嵯峨天皇派系」と「桓武天皇派系」の間で「皇族の在り方の考え方・新撰姓氏禄の制度化と皇親族青木氏の処遇」を巡っても、ここでも「二派」に分かれて「平安中期」まで分裂して実戦までして戦った経緯の中にあり、相当に一族間は割れていた事に成る。
    前段に重複するが、この様に上記の「頼政の後家の事件」は、それが遡って“「新撰姓氏禄」”までに起因していたのだ。
    つまり、これは「頼政の政的相手の桓武平氏の清盛」に対して、「摂津源氏」は「伊賀青木氏」に「二人の妾を嫁がせていた事・記録」を背景にして、“「桓武派として同派である事」を見せかけていた。”
    それを理由に利用されそうに成ったと云う事だ。
    “「財と武の獲得」”と“「子孫存続の確定」”、そして別の面では、“「皇族系で律宗性の強い二つの青木氏」により、そこに「源氏化の猶子策」で揺らぐ中で、「源氏子孫を遺すと云う事」が起っていたと云う事であった。
    それにより頼政側は「源氏族のより格式化をより図ると云う事」でもあったのだ。
    「源氏賜姓の結果」は、この「源氏化の猶子策」で崩れ始めたのだ。
    そこで「源氏族」は、「平家族に超す様な格式」を獲得して、“全国に向けて有利な立場”を保全しようとしたのだが、“「以仁王の乱」を有利に運ぼうとした”ものであった。
    然し、この「猶子策」で「源氏」は直ぐに乱れ始めたのだ。
    この「三つの目的以外」に、「過去の経緯・上記の縁」を知っていた「頼政・従三位」に、「桓武派として同派である事」を、“巧みに利用されようとされた”と云う事であろう。
    これには、その元には、この「頼政」のみならず「源氏化の動き・流れ」に執ってその根本には、“「新撰姓氏禄・格式論」”にあったという事だ。
    当時の「猶子策」の「源氏化」が起こっている「武家貴族社会」には、“「新撰姓氏禄」で定められた以上は「格式獲得の為」にも「猶子策」が蔓延り、その元にはそれを得ようとした「根深い格式論」が基本にあったのだ。
    別の面では、源氏族はこの世間に蔓延る「猶子策」を良い方向と捉えていた可能性がある。
    そして、「頼政」は、要するに、“「伊勢」に対して「此処・猶子策」を突いて来た”と云う事だろう。

    それを「詳細な経緯論」として改めて次の段で論じる。
    世間でいうこの「源氏化」は、そんなきれいごとでは最早無く成り、“「此処・猶子策」が渦巻いていた”という事を、「青木氏の歴史観」として知って置く必要があるのだ。
    だから何度も論じているが、それには「円融天皇の秀郷流永代青木氏賜姓策」があり、引き続いて片方では「花山天皇」は、「悪弊を出している猶子策の源氏化」を食い止める為に、「一代限りに成る令外官の神祇伯就任・孫の延信王に賜姓」にしたのだ。
    且つ、つまり、当時の「源氏化の猶子策」が蔓延る中で、「源氏賜姓の慣習」に従い「第二世族の源氏」で、「神職にして一代限りだけの子孫拡大」で止める策に出たのだ。
    これで「源氏化の悪弊」は現実には止まったのだ。
    この「源氏化」は、美化されて正しく伝えられていないが、現実には「猶子策などの悪弊」が蔓延っていたのだ。
    これを「この論の歴史観」として持ち、歴史を正しく理解するべきである。
    その内の一つが「青木氏」にも係わってきていたのだ。
    そこに、記録にもある様に、最後の「青木氏出自元の仁明天皇」の外に、この「二人の天皇」は位置づけられるのだ。
    「青木氏等の献納」に基づく「内蔵の問題」は変わり、初期の「鎌倉の府」が存在する限りは同時に未だ直ぐに解決は出来なかったのだ。
    「賜姓して皇族臣下族の者」として「守るべき掟」の「9つの嵯峨期の縛り策」を護るどころか、そもそも「雄略天皇以降」に決められたこの「皇族の者が護るべき役割の基本」さえも護らなかった。
    この「内蔵・大蔵」を支えたとする事も無く、「嵯峨期以降の源氏族」が、この「本来の役目」の“「内蔵を支えたとする記録」”はどこにもないのだ。
    「嵯峨期の事件以降」は、「朝廷内」は「源氏化と成った事」により、「伊勢青木氏」は、この「内蔵の献納」を敢えて止めているのだ。
    「伊勢」からの「鉱山開発や開発中の日本式な高炉の技術供与」が観られた時期でもあり、それから総合的に観て「北条氏の執権化の期」までは、「献納」は実質は記録的には大事には無かったと思われる。

    「献納の時」は旗を建て大きな献納の車列を仕立てて京に上っていたとする記録がある。
    “相当に豪勢な車列であった事”が口伝で伝えられている。
    これが証拠と成るかは別として、「商記録」にも「大きな出費の算段の記録」は一時消えている。
    恐らくは、この時ではないか。
    「伊勢と信濃」では、「院屋号や因事菅隷や賜姓五役」」としての「影の永代令外官」としてその「財力」は何れにも勝るとも劣らずに持ち得ていたが、だからと云って「青木氏に依る内蔵の献納」の「正式な再開」は、「猶子」が社会に蔓延った結果、その為に「二人の天皇の策」に依って「源氏族」が絶えた「1221年以降の事」である事に成る。
    それは「正規」に再開したのは、つまり、再び「内蔵掾・献納の形で」として貢献したのは、「正親町天皇と室町幕府に認められた律宗族の格付け期の直前期」ではあったと考えているのだ。
    史実として、それまでは「宮廷の壁」が各所で崩れ落ちている「記録」があり、「内蔵の悪さ」が物語っている。
    「室町幕府」はその力は無く、「正親町天皇」は「天皇家の権勢」を立て直そうとした唯一の天皇であった事から、青木氏の力を借りようとしたのだ。
    その為にも「律宗族」として世間に再び喧伝し、「格式」を世間に認め直したのだ。

    「青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」に続く。


      [No.401] Re:「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/04/20(Thu) 10:43:53  


    「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」の末尾

    暫く持ち続けた額田の銃」は、上記した様にその保持そのものをうやむやにする事にも意味があって、その後の「信長への牽制」にも充分に成りえていたと観られるし、それに背後にはこの「額田の銃力」が「松平氏にも都合の良い所」であったであのろう。
    それだけの簡単に攻める事の出来ない「牽制の意味・2万から3万の兵力」を拡げていたであるからだ。
    「長篠」ではこの「銃の存在」は無かったが,“「松平軍の背後」に「青木氏の銃」がまだ有るよ”と云う牽制で充分であったからだろう。
    現実に勝頼の陣の右横500mに陣取った松平軍は、既に国衆で゛は無く成っている「額田青木氏の銃隊の存在」だけを思わせる事で充分であつて、それ故に合力せずに一切発砲をしなかったのだ。
    余談として「傭兵軍団の火縄銃の銃の使用」は「織田軍」だけであったし、この「信長の本陣」は銃隊の遠く後方の豪族の館に置いた陣屋であったとしている。
    「額田青木氏の銃」は、其の後に、「人」は殖産業等に関わり、「牽制の道具」で使われたと云う事なのだ。
    そもそも、序でにその「銃の行方」に付いては、時には、これが「飾床間の片隅」に飾って置いてもおかしくは無いだろうとする程度の事だったとするが、それが責めての事として、これが「青木氏の氏是の根幹」と成っている“「青木氏の奈良期から9つの縛り・嵯峨期天皇・平安期」の「掟・否武力」と「抑止力」とに反する事”からであったからであろう。
    「銃を飾りとしてする環境」には無かっ到底無かったとしている。
    この様に「銃の記録と経緯を遺す程」であれば、責めて「政策期1640年頃から廃却期1740年の100年の間」では、「飾床間の片隅」にもあり得た筈であったが、これに付いても「口伝」もないし現実にはだろうそうしなかったのだろう。
    これを「成さしめたもの」は、上記から論じている“「長い青木氏の伝統」では無かったか”と考える。
    これが正しい“「青木氏の歴史観」”では無いだろうか。
    「上記の事」は要するに、“「青木氏」をクローズアップする為”に、ここにスポットを当てて観たかったのだ。
    「後勘の者」として云えるこの掘り起こした「歴史観の事」は、ここが「嵯峨期の9つの縛り策」を破った「武を建前としていた源氏族」と違っていて「生き遺れた所以」であったと云う事なのだ。


    「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」

    (注釈 「青木氏族の抑止力の為の試作改良銃の位置づけと当時の社会論」
    この事に付いての「詳細経緯」を論じていないのでここで論じる。
    この中の経緯を具に調べて観ると、そこから未だ論じていない青木氏に関わる「流れの中での歴史観」が観えて来るのだ。
    それを引き出したいのだ。
    これは、当時の“後付けの搾取偏纂や脚色”などに惑わされずに、「青木氏の正しい歴史観」で歴史を判断し判定するに必要とする為の重要な要素である。
    さていた。
    未だこの時代は、今川氏、足利氏等の主要大名も、“速射では銃よりも弓の方が戦法としては良い”と考えられていたとする記録があるし、「歴史的経緯」から観ても現在も含めて何事も現実にはそうであったろう事は頷ける。
    然し、この「時間と天候」に左右される「火縄銃」では無く、“「黄鉄鋼石」を使って擦り合わせて火花を出し火薬に転火して、間かな時間で爆発の反動を起こしている「手動回転式シリンダ」から弾丸を発射させる「フリントロック式の銃」”を、秘密裏に西洋より貿易で堺で獲得していたらしい。
    それを先ず観応真似で「青木氏部の鍛冶師」が居る「青木氏の起点の堺」で密かに「試作」を重ねていてたらしい。
    その後にある程度形に成った物を今度は多くの「青木氏部の技術者」がいる「松阪」に秘密裏に持ち込み、そこで最終の「改良銃の原形」を造っていたと云う事らしい。
    つまり、肝心な事は「額田青木氏の国衆にあう銃」を「堺商会・主要組合人と青木氏部」と共に密かに量産に持ち込もうとしていてたらしいと云う事なのだ。
    これを全ての「青木氏族の抑止力」として、先ずこの要するに「試作銃」を密かに「改善」も加えた後に渡して「各地の青木氏族」で試射していたらしい事の「行の記述」が観られるのだ。
    そこで要するに「改良の為の試作の試し打ち」を行ったいた様なのだ。
    ところが、この「改良銃」には「上記の冗談」で論じた様な幾つかの製作上の無理が伴い「暴発や銃身爆裂」も繰り返しあった様である。
    それも更には、欠点として“「相当な訓練無し」では使えなかった”とする事が資料の一部の行から読み取れるのだ。
    その主な原因は、先ず、“途轍もない反動であった事”の様である。
    これは「改良」に依る事から来る、これに耐えるには「屈強な体力と経験」が必要であった様である。
    それには、先ず相当に“「射撃した反動」を上手く上に逃がす経験”が必要であってある。
    これを駒復するには「体躯の強化」と「射撃の訓練」で克服した様である。
    “兵を集めて来て簡単に扱いを覚えさせる”と云う程度では使え無かったと云う事だろう。
    その「耐えうるに必要とする射撃するスタイル」があった様だ。
    それは、先ずは「膝付型・A」で射撃する事が必要であった様で、更に其のスタイルの侭で「腰側に構える形・B」で射撃する提案であったとある。
    「命中率」を上げる為には、最も良いのは、一歩前に半腰で脚を踏み出した「立型の目の高さに構える型・C」は、「反動を上にタイミング良く逃がしする」ので、「立型の目の高さに構える型・C」は命中率が変動しそれを上げるには相当訓練が要した様であったとされている。
    ところがこのスタイルでは「日本人」には向かないとして、採用されずにそこで、「日本人」、否、「青木氏族・抑止力」に向く様にする為に、「青木氏族が住む各地で行われている試射からの意見」を集めて、それを元に改良を加えて行ったらしい事が記されている。
    つまり、この意味する処は、「背の小さい日本人仕様・額田青木氏仕様」であると云う事だろう。
    それでなければこの「銃力の改良タイプのフリントロック式改良銃」を唯単に持つと云う事だけでは無く、銃を使う技能の意味が成さないと考えていた事だろう。
    それが形式的には、「射撃スタイルの型・ABC複合型銃」であって、更にはこの「改良銃」は尚当時でも難しい“「連射式」”であった様である。
    それはこれを採用したのには戦略的な目的があった様で、それ補完する意味で「命中率=C、速射と命中率=B、速射と連射=A」としての「3つの術」を持つ意味を高める為に“「特殊な訓練」を額田の山奥で重ねていた”らしいのだ。
    この「3つの様子」がこの資料から読み取れる。
    取り分け「C型で脇に抱える型の提案」が、読み込む範囲では「武蔵・秀郷一門」から寄せられた様だが、発射後の「熱と煙」に邪魔されて、その後の発射が難しくあった様であり、ところが「訓練の形」の中には、これを実際に採用された行は何処にも観られないのだ。
    然し乍ら、それだけに「射程距離と命中率と連射」が“「抜群」”であった様で、「貿易で入手した見本」の以上に優れていたと行の表現では読み取れるのだ。
    「煙の向きなどの事の気象条件」を考えて使用が望ましかった要だ。
    この「三つの型ABC」を“戦況”に応じて4年の歳月を賭けて訓練した様だ。
    「三方ヶ原の戦い」では、記録が無いが、基地建設の荷駄を引き連れた「山県軍」が南に向かって突然に「突撃態勢で来た事」から、これを゜額田の銃隊」は「荷駄の周囲」に隠れて囲まれて“北に向かって突撃を待ち受けた状況”であった事から、「突撃開始点」から当初より近づいて来る形に成った事で、つまり、当初より「充分に射程距離内に入った事」から、この事から採用したのは「指揮官の命令」は「膝付型・A」であったろう事が充分に読み取れる。
    上段で論じた様に「熱に対する改良点」を充分に加えていたが、それでも「煙幕と射撃熱」で「4連発」すると「必要程度の熱」を持ち、そこで「射手」には「荷駄隊も50・伊賀者等」も参加したとしているのだ。
    「開戦時」は「昼の4時の開戦」として「海から吹き上げる風・海風」と成っていた事が判る。
    つまり、“「爆煙」”は、この時は「海風・南の海から北の山向き吹き上げる風向き」に、丁度、変わった時間帯でもあって、「南の左の先端に近い所に位置していた額田の銃隊」は、戦う上で自ら発生させた「銃煙の影響」を受けずにいたのだ。
    これが「有利」に働き、「爆煙の強い銃欠点を補える態勢」にあったのだ。
    これが「逆の山風・北の山から海に向けて吹き下ろす強い風向き」の場合は、自ら発生させた「弾煙」で、暫くの間は前の敵が観えずに、これが更にこの「銃の特徴とする連射・4連発」をするとより悪化する事と成る。
    この時は「フリントロック式連射式改良銃」の場合のこの「利点」を生かせずに逆に「欠点に変わる事」も起っていた筈である。
    その意味で、この“「開戦4時」”に付いては、“「爆煙に依って隠して救い出すと云う作戦」”には図らずも“実にタイミングが良かった事”に成るのだ。
    此れを「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、「爆煙」に付いて事前に考えていたのかは、資料からも定かではないが、「美濃額田の山の中での訓練中」にこの事は充分に知り得ていて指揮官としては配慮していた筈であると観る。
    然し、“急に救出作戦をする”と成ったこの「三方ヶ原の経験のない環境」では多少の疑問が残っただろう。
    その前の「一言坂での遭遇戦」では未だ逆の「山風」であったのだ。
    これがこの「流れの中」で“良い方向に向いた”と云う事ではないか。
    この「爆煙と云う点」では、実際に「武田軍本隊に対して左斜め」に向けて、「山県軍の別動隊に対しては右やや斜め」の「位置」にいて、「額田青木氏の銃隊」にとっては“「有利の位置」”にいたのだし、此れも“「流れの中での利点」”と成ったのだ。
    前段から何度も論じているが、念の為に、要するに、“物事には「流れ」と云うものがそもそもあって、それを如何に正しく早く掴むかに掛かっている。”指揮官には必要としている。
    そして、これが「成功や勝利の源」に成るのだ”としているのだ。
    この為には、“「青木氏の氏是」からこれから離れてはならない”としていて、その外れた考え方や行動が、此れが、即ち、“邪念を産むから”としているのだ。
    この“「邪念」”が“「流れの方向を見誤る」”と説いているのだ。
    そして、“この「常の姿勢」がその「流れ」を見抜く「人間力」を生み出す”としているのだ。
    従って、この場合はこれがこの「流れの中」で“良い方向に向いた”と云う事ではないかとしていて、このこれが「資料の中」で捉えられているのだ。
    そもそもその「考えの下」に、この「流れの要素」の一つとして、「手動4連射式改良銃であった事」をどの様に捉えていたかによるだろう。
    依って、先ず「指揮官の人間力」は、この「流れ」を呼び寄せられるかそこから決まるのだ。
    この時、経緯から判断して、この“「300丁全部」”を使ったのでは無く、前段で論じた様に“「熱」に対して技術的に解決していた”としても、少なくとも「冷却用」には「数十丁」は「相手の数と戦術」に合わして「安全用」として、又「交換用」にしていた事に成るだろう。
    前段でも論じた様に、“「300丁全部」”は、“「手動4連射式改良銃であった事」”から一度にこの「銃の力」を発揮すると、前段の通りに少なくともまず「連射式」であるので、“「約40倍程度の兵力」”に成るとして計算すると、その「兵力換算」は「12000の兵力」に相当する事に成る。
    「銃隊を横一列に並べて陣形」を組むので、「並列の12000の兵力」に成り得るし、その「攻め向き」を自由に換えられるので、指揮官が指揮すれば、“一点集中”も可能だし、敵前の状態に合わせて“「兵力の角度に依る自由度」”は持っている。
    この前提で、一度に「武田軍本隊の12000の敵」が攻めて来る事は物理的に先ず無いので、仮に可能に成ったとしてとしても、「前面に出て来る兵数」は「三方ヶ原の広さ」から「最大でも1000」にもならないだろうが、仮にここで「1000兵」としても“「300丁全部」”を“「手動4連射式改良銃]であった”のであるから簡単に対応できる話となるのだ。
    従って、「爆煙の影響」は、絶対に不利に働く事はなく、“「手動4連射式改良銃での前提」の中で、これも「有利な点」として「流れの中」で働いていた事に成るのだろう。
    その前に、「武田軍の本隊」は、“銃隊の威力の経験のない山県軍の別動隊”と異なり「2回の経験」を通じて「危険・威力」を充分に察知して完全に進軍を止めているのだ。
    此処に「流れの差」が出たのだ。
    “銃隊の威力の経験のない山県軍の別動隊”は、“「額田青木氏の銃隊を敵と認識して遮二無に突撃した事」”で、この「銃弾の犠牲」を100%負ったのだ。
    つまり、これは「山県軍の別動隊と武田軍本隊との情報交換」が出来ていなかった事にあり、重大な“正しい流れ”を「両方の指揮官」は掴み切れていなかった事に成るのだ。
    これは簡単な事であった筈で、両方の軍には幌者と忍者が居た筈でそれが生かされていなかった事に成る。
    普通は、常時に動かしている筈であるが、届かなかった理由は何なのか、そしてどの経緯であったのかであるが気に成る。
    これを調べたが、そもそも常道とされる「戦い直前の情報のやり取り」は、この時に「幌者と忍者が動いた形跡」の「甲斐資料の読み込み」では、その「行の様な処」を見つける事は出来なかった。
    前段でもの「時系列」には少なくとも「両軍・本隊と別動隊」にその様な「ポイント」が無かった筈だが、仮にあったとすれば、上記した「三方ヶ原の到着時の時系列との間の瞬間」であろう。
    つまり、“到着してこの情報を受け取ったとしても既に遅い”と云う瞬間であろう。
    前段で論じた様に、“「額田青木氏の銃隊」は発見を恐れて手前で隠れて忍者の報告を待って「ぎりぎりの到着の行動」を採った事”は論じたが、この事があったとしてもこの時であろう。
    其れが、“山県軍の別動隊に現れた”と云う事だ。
    その「武田軍の本隊の時系列の点・疲労」でもそうだが、「武田軍本隊の態勢も勝利・魚鱗と鶴翼の差という点」では際どい処にあって、「山県軍の別動隊」に執っては[軍の目的や兵の質」は違うが、これを無理に突撃と云う形で本隊を救おうとしてい事に成る。
    つまり、この時、「勝利の流れ」を読む中にも最早無かったと云う事に成る。
    この「大事な流れ」を「掴む・読む」には、“既に遅いと云う時間帯であった”と云う事だ。
    又、逆に“「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、そこを目的として行動していたのだ。
    これはこの時、既にその目的が成功していたと云う事に成る。
    この「流れの読み込みの差」が、“「額田青木氏の銃隊の方」が優れていた”と云う事であろう。
    上記で論じている様に、此の「瞬間の処」で、“「両軍・本隊と別動隊」は「大切な流れ」を見失っていた”のだ。
    この「流れ」を見失って進軍し始めていた「武田軍の本隊」は、「額田青木氏の銃隊の救出劇・300丁の一斉射撃とその弾幕煙」で、「進軍を完全停止させられていた事」が「流れ」を見失った中でも、この「流れを取り戻す結果」と成っていたのだ。
    要は、「進軍の完全停止の指揮官の判断」が正しい流れを引き戻していたのだと判断できる。
    それが、「額田青木氏の銃隊の救出劇・300丁の一斉射撃とその弾幕煙」で終わらした事にあって、それが「両者の指揮官の無益な殺生を避ける事・共存共栄の精神にあって、取り分け、「額田青木氏の指揮官」に執っては「青木氏の氏是の影響」にあったのだとしている。

    注釈 「青木氏の氏是」
    ”世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”
    以上である。

    「額田青木氏の銃隊の荷駄隊」は、「弾丸の準備」をし「黄鉄鉱石の交換」は「射撃時間」が短かったのでその必要は無かったと考えられ、あとは「火薬の準備」と「冷却用銃の準備」であったろう。
    要は、「命中率」は、「開始時」より戦記よりると、既に“「100%の射程距離内」に入っている”ので、「速射と連射」であった事が割り出せるが、「相手・武田軍の本隊の騎馬隊の被害は何故か触れていないので判ら無い。
    然しが、「進軍の寸前で停止している事」で、「煙幕と爆音」で威嚇に換えて「救出」を主体に空に逸らしたと考えられる。
    ところが、武田軍側からは「敵・松平軍」と観られていた事から同時に射撃を開始したが、“「山県軍の別動隊の突撃隊を躱す事」が出来ず”と観た「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、“「味方の犠牲」を無くす事”の為に「本格射撃」を命じ戦いの行動は開始したのだ。
    目前の左右の「速射と連射=A」で起こる「煙幕と爆音」が凄く、「山県軍の別動隊」が潰されて行く惨状を目前で観ても、「武田軍の本隊の騎馬隊」も自由が利かず、且つ「煙幕」で「山県軍の補給基地築造隊の突然の突撃」に対して、この本隊も救出の為に近づく事さえも出来なかったと予想できる。
    ここでは本隊自らも危なく「救出どころの話では無かった戦況」が読み取れる。
    「武田軍本隊」もこの段階ではその様に読み取っていた筈だ。
    そもそも戦いの結果の「流れ」を変え得る「本隊の行動」一つで銃弾の惨劇が待っていたのだ。
    ところが「吉田城の籠城戦と一言坂の経験」が武田軍本隊の指揮官等のこの「流れ」を正しい方向に呼び止めたと云う事なのだ。
    従って「額田青木氏の銃隊」は、「武田軍の本隊側の前進」と「山県軍の別動隊の突撃」の「二つの方向」に向けて、戦況はこの“「煙幕の有無」”に関係なく西側と北側に向けてただ撃ち続ければ良かった事に成ろう。
    上記の検証で、「貞治隊救出の銃隊」から観た「山県軍の別動隊への攻撃角度の位置関係」は、資料から救出位置から観ると、少なくとも“「右30度以内にあった事」”が判り、「武田軍の本隊への角度」は、「救出の空間」を作り出す為に余り前進しない様に牽制していてその距離が生まれていたのであって、その角度は“「左約60度以内」”であったと観られる。
    それは、つまり「額田青木氏の銃隊の位置」から合わせて「90度の範囲・右向寄直角」にあった事に成る。
    だとすると、この「山県軍の別動隊の突撃の戦いでの出来事」で、「90度」である以上は「銃隊一列」では迎えられない事に成る。
    そこで、「額田青木氏の銃隊」は、直前に「山県軍の別動隊」が「北の山際に位置していた事」を観て、直ぐに「やや左とやや右向き」で、直前で“「二つに向きを分けていた事」”に成る。
    これに付いては、「銃の向きか銃隊の向きかの検証」からこれは「銃の向き」では困難であった事が判る。
    何故ならば、この「銃」は、そもそも兎も角も「フリントロック式改良銃であった事」から、反動と音が大きく隣の隊員に危険と成ろう事が判る。
    そこで「役割」を決めて、そこで“「銃隊の向き」を変えて射撃した事”に成るだろう。
    然し、迫りくる「山県軍の突撃隊」が、銃隊に近付くに連れて「射撃」が左側に位置していた銃隊の一部は射撃が出来なく成った事に成る。
    そこで、“最も右側に位置していた銃隊員による射撃のみ”と成ったと観られる。
    前段でも論じたが、「突撃隊の左」が、“「右側に位置していた銃隊員」の直ぐ横を通り抜けた”と「伊勢の遺された資料」には記されている。これを頷けられる。
    そして、更に記録にはこの時には“「銃隊側」には死傷者はなかった”とある。
    勿論、これは「松平軍の鶴翼の頭部分」を丁度突き抜けて行った事に成るのだ。
    恐らくは、「山県軍の別動隊の目的」は、「補給基地地築造隊」である以上は、「松平軍の死傷者を多く出して軍を弱める」と云う事よりは、寧ろ、突撃に依って「松平軍の陣形を崩すと云う目的」にあった筈であり、此れで以て「武田軍の本隊の窮地」を救おうとした筈なのだ。
    「山県昌景の頭」の中にあったのは、その「窮地」とは逆に成っている「12000の魚鱗と5000の鶴翼の点・持久戦に成ると云う先日の不利な点」にあったのだ。
    だからこそ、「鶴翼の陣形」を自らの犠牲を負って突撃でこれをただ潰そうとしたのだだろう。
    そうすれば「武田軍の本隊」は勝てると観て突撃したのだが、ここで思わぬ事が起ってしまったのだ。
    それは「額田青木氏の計算外の銃隊一列の存在」であったのだ。
    上記した様に、つまり、何を論じようとしているかと云えば,“「武田軍の間で情報のやり取り」”が充分に成されていれば、これは「額田青木氏の銃隊」はピンポイントに「射撃をしなかったと云う充分な経緯」である。
    つまり、これを知ってれば“突撃隊を横目で見ながらやり過ごしていた”筈だ。
    何故ならば、この「山県昌景の頭」には武田軍唯一の軍師で全国にも名を馳せていた一人で、「軍師を色々歴史を研究する中」で、最も筆者に合った考え方をしている軍師であったからだ。
    情報を欠く大した場面ではなかったので何故、ここで情報を欠いていたのかである。
    ここには別に歴史に遺されていない「経緯」があったからであり、普通は何かがあったのではないかと疑うところなのだ。
    この時に、「山県軍」が浜松城の門前に立ちながら“「無人の浜松城」も攻め取らなかったミス”をしているのだ。
    敢えて、「山県昌景の指揮官」として最も必要な「流れ」を読み取る事をしていなかったのかである。
    此の時の記録には山県軍には2000の負傷者と云う記録が遺されている。
    これは不思議な事で、なにもしないで2000の負傷者を出す事はない。
    この間かに「松平軍」は「陣形が総崩れ」になっていて「2000の負傷者を出させる戦い方}ではそもそも無かったのだし、そもそも家康が逃げ出しているのだ。
    但し、時系列からこの時は「額田青木氏の銃隊の射撃」が、“「武田軍の本隊への牽制」が効いていた”としての事に就いてであるが、その後に素早く「駿河の青木貞治隊」を無傷で救出している経緯の時系列の事を考えれば、「武田軍の本隊」のそれ以上の前進はほぼ無く、それが「定位置」であってそれ以上の前進は無かった事に成り得る。
    だとすると、ここで読めて来るものがある。
    それには二つある。
    その「一つの経緯」は、「山県軍の別動隊への突撃の攻撃」が、幾つかの記録を総合する「額田青木氏の銃隊」の右直ぐ横を突き抜けている事に成るので、「武田軍の本隊への牽制・進軍停止」はより効果的に効いていた事に成る。
    この「無傷の救出」では、「山県軍の別動隊」が“「松平軍の左鶴翼目がけて突撃中」であるので、「駿河青木貞治隊」とは「隊の東側隅」で瞬間的に交差するか接触する事に成っていた事に成る。
    そこで、この「救出劇」は、その前を交差する様に走り去る事は困難である事に成る。
    つまり、だとすると“「山県軍の別動隊が突き抜けた後の直後に救出した事」”が判る。
    その間、そして「武田軍の本隊への牽制の継続」は、「銃隊の左側での牽制弾幕」、そして「銃隊の右側」では「山県軍の別動隊の銃撃戦」に成っていた事に成るので、「救出」は困難であった事に成る。
    つまり、だとすると「右側」では「銃撃」を続け、「直ぐ左側の際の弾幕の中」から「救出」を続けていた事の最中と成るのだ。
    だとすると、「額田青木氏の銃隊との位置関係」からすると、この「銃隊の左」の「背後に貞治隊を導き救出した事」に成る。
    後は、「山県軍の別動隊」が抜けて行く過程であって、論理的には「貞治隊」が「東の盤田見附の西光寺」へ辿り着くには、この時には必然的に「山県軍の別動隊と交差する事」に成る。
    つまり、そうすると、これは極めて危険であった筈で、と成ればできる事は「額田青木氏の銃隊」の「背後の位置」に先ず留め置く必要が出る。
    「背後に救出した貞治隊」を、「山県軍の別動隊の突撃隊」が通り過ぎるまで、一定時間は一時的には匿う必要性があった事に成る。
    全てが通り過ぎなくても良いか、どうかは「別動隊の供給基地の荷台隊・戦力外」がこの「突撃隊」に参加していたかどうかであるが、どこにも別にしたと言う事はきされていない。
    そうすると、「記録の経緯」から後ろに着いて”走った事”に成るだろう。
    そこで、ここは一刻を争う場面であり事態がどう変わるかは判らないので、「貞治隊」に執っては山県軍の突撃隊が、前を“通り過ぎなくても良い”と云う結論に成り、時間の経緯から観て後尾かどうかは別にして、「突撃兵が途切れた瞬間」を見計らって「盤田見附の東の西光寺に向かって走った事」に成る。
    其の後の“浜松城に到着した山県軍”は、記録から観て「無人に近い浜松城」を攻めないで「甲斐」に向かって行った事から観ると、矢張り、この「行」からも“荷駄隊も後ろに従っていた事”に成るのだ。

    ここで、前段でも論じたが、“何故、山県軍の別動隊が供給基地の基地建設とまだ武田軍の本隊の居る三方ヶ原に戻らなかったのか”と云う大きな疑問が湧く。
    この「大きな疑問」が、“信玄が倒れたとするの情報”が書き込まれる事に成り、それに従って、この「一つの事」に依って、その後の上記した「山県軍の情報の有無の疑問・流れの欠落」に繋がったのだと読める。
    そして、それが「山県軍の別動隊の突撃隊への凶変の疑問・魚鱗と鶴翼の長期戦を避ける突撃戦法」へと繋がり、「浜松城の放棄の疑問・戦う時間的余裕が無くなる」等にも繋がって行ったのだ。
    全ての「三方ヶ原」のその後の「額田青木氏の銃隊の出来事」と、「駿河青木氏の貞治隊の出来事」に繋がって行った事に成るが、「流れ」としては良い方向に向いて行った事になる。
    中でも、其の後は「殖産と商い」に集中し、「長篠の戦いに関係しなかった事」にこの「流れ」を呼び込んだのである。
    「信玄の病気説]にはこれは関係は無かっただろう。
    「信濃・諏訪族青木氏」と「時光系甲斐の青木氏」が「武田側に関わっていた事・参戦」で、場合に依っては、「伊勢と信濃青木氏」も「流れ」に依っては「甲斐側」に関わっていたかも知れないのだ。
    何故なら、この後の「長篠の戦い」にも「源光系賜姓族青木氏」が「古来の伝統」に従って「間接参戦の姿勢」を見せていたらしい。

    さて、ここで事を左右する歴史観が「賜姓臣下族」だけには有るのだ。
    それは古来より、「賜姓族青木氏」には課せられた一つの「伝統的な慣習」があって「賜姓臣下族」に「戦いの様な存続を示唆し左右すると考えられる出来事」と観られた場合には、「互いに援助の手を差し伸べる事」が「賜姓臣下族内の古来からの伝統的習わし」である。
    これが「伝統的習わし」でありながらも、その場合はその「賜姓臣下族の中心と成る賜姓臣下族だけ」に対してのみ過去に於いて聞きなれない「天皇の因事菅隷」が密かに発せられているのだ。
    賜姓青木氏だけに秘かに発せられる秘密裏の天皇の意を組んだ内密書の事である。
    そもそも「賜姓臣下族」とは、前段でも何度も論じてきたが、そもそもその目的は「天皇の周囲を安全に固める策」の一つであって、それが「崩れる事の警戒」から上記の様な伝統的な慣習が密かに生まれていたのだ。
    例えば、この例としては前段でも論じた様に多くあるが、貧の困窮を極めていた「近江佐々木氏系四氏を救う事」を目的に、「伊勢賜姓臣下族青木氏・伊勢王で浄大壱位の格式」に対して「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」をして「米と楮の生産」が出来る様に秘かに「因事菅隷で命じた事/結果として源氏化して失敗する」がある。
    この様に、「時光系青木氏・嵯峨系」は、「臣下族」で無いので、それが無いとしても、「源光系賜姓族青木氏・嵯峨系」に対しての「援助を命じて来る事」は充分にあった。
    この因事菅隷の内密書は少なくとも室町期にもあったとしても永代である以上は、依然として「伊勢側」に執っては[格式]も然る事乍ら、「最高位の立場」に有り、「最高の財糸と最高の抑止力」をも有していた以上はあり得た令の発行であるのだ。
    「天皇」に対して「因事菅隷」を出さぬ様に「事と次第ではこの献納が崩れる事」を盾にして牽制していたと思われるが、それを気にしていた事では充分にあった筈と考えられる。
    これは「因事菅隷」である以上は断れないし、幸いにところがここでは無かったのだ。
    その時の天皇が,前段でも論じた積極行動で野心家で天皇権威不復活を試みていた事で知られる「正親町天皇・1597年」であったし、この時は「伊勢賜姓臣下青木氏」としては前段でも論じた様に相当に振り回された天皇であつたのだ。
    従って、その充分に危険性は「青木氏」にはあったが、「長篠に関わる事」は「天皇家の存続」に執っても「自らの自己財源となる献納」が無くなる事には成り得るとして「一つの賭け」に成るのだ。
    メリットも少ないし牽制に依る青木氏の説得もあって避けたと考えられる。
    筆者は、参戦は無くしても少なくとも“それなりの話はあった”と観ているのだ。
    前段で論じた様に、ところが、その「流れの方向」が「天皇に執ってメリットの少ない参戦」では無く「因事菅隷に依る「青木氏の15商業組合の結成」に向いたと観ているのだ。
    然し、それがこの青木氏に執って疎遠の嵯峨流源光系賜姓族であった事がこの「伝統の支援」は「第二次的位置」に置かれ、その一次は矢張り、その時の「伝統の習わし」は、「賜姓臣下族支援の因事菅隷」は「伊勢系と信濃系と秀郷流系の青木氏の「青木氏の15商業組合の結成と相互支援」に向いたと成ろう。
    つまり、この時の「流れ」は、「伝統の習わし」の「正規の方向」に流れずに、「嵯峨期から一切疎遠で通した事」が「良い流れ」」を呼び込んだのだ。

    注釈 前段でも論じた様に、「嵯峨系賜姓臣下族・後に源光系青木氏に引き継がれた」が、実質、「賜姓族」に付いて、「嵯峨天皇」は「賜姓」を「青木氏」から「源氏」に換えた事で、流石に対立していた上皇との間で「折衷策」が取れずにいたが、「青木氏の賜姓」を正式に「身内の皇子」に「青木氏賜姓外し」で出来ずに、「皇子の一人」を止む無く、先ず一段格下の「甲斐蔵人頭・令外官で天皇の秘書扱い」に任じて「甲斐」に送る事にしたのだ。
    その後に成って、この一族の「甲斐後裔の源源光」に「賜姓甲斐青木氏」を名乗らせて「上皇との対立」を避けた経緯を持っているのだ。

    注釈 青木氏には歴史が特別に長く伝統にまみれていた為に最古の歴史知識まで知り得ている事が必要である。
    これはそのそのものが「青木氏の歴史観」と成り得るのだが、「青木氏」と云うよりは「日本の歴史観」とも云えるものであり、そのものが難しい事なのだ。
    その中でもこの「因事菅隷」とは、奈良時代から平安時代に架けては「天皇の行政命令書」は「太政大臣」から発せられる原則であった。
    ところが、この「賜姓臣下族」は、その格式は天皇に続く高い格式を有している。
    依って、「太政大臣の行政官」からこの格式からは令外官の中でも最上位に当たり下から上への命令はあり得ないし、発せられない事が起る。
    そこで、令を発する事は格下の太政大臣の行政官からは発する事は出来ない。
    そこで、「因事菅隷」と云う形式で「天皇の内密書として発する事」に成る。
    当然に、それにはこれを書するには、誰もが犯し得ないそれなりの「力・行政力」と「財力と院屋号の特権」を有している事に成り得る。
    例え、これは天皇でさえも犯し得ない特権なのだ。
    要するに天皇の代行者であるのだが、一度発せられた場合は其の後の天皇でさえ犯し得ない内密書である。
    これが要するに「因事菅隷」として最大の格式を有するものでありながら秘密裏に発せられるものなのだ。
    その有無さえも確認を許され得る事は誰にも何度時期にも出来ないものであるのだ。

    さて戻して、この匿う為の一時は、左側では「武田軍の本隊牽制の為の弾幕」の為に撃ち続け、そして先ず釘付けした上で、右側の突撃して来る「山県軍の別動隊に対する銃撃」のその「役割の終わった者」から、今度はこの為に「周囲を荷駄と銃で囲んで固めていた事」に成る。
    そして、「駿河青木貞治隊の完全救出後」に、「武田軍の本隊への牽制」は、「額田青木氏の銃隊」が未だ「戦線離脱」するまでの間は、「牽制の射撃を続けていた事」に成る。
    その離脱の程度に合わせながら「牽制射撃は中止して行った事」の「流れ」に成り、それと同時に救出した「駿河青木貞治隊」も「東の盤田見附の西光寺」に向けて走り去った事に成る。
    そして、「額田青木氏と駿河青木氏の離脱後・銃撃が止んだ時」に、「武田軍の本隊」は、既に「総崩れ」に成っている「松平軍の本陣」を目がけて「赤兜の騎馬隊」が突撃を開始したと成る。
    恐らくは、「山県軍の別動隊への攻撃」で、この「突き抜ける間」は、上記で位置関係の距離から検証した様に、「短時間・約十五分程度」であった事が判る。
    その「15分間の間」のその直後に、「額田青木氏の銃隊の左荷駄の後ろの方の左側・安全な位置」に導き出した事に成るだろう。
    つまり、「駿河青木貞治隊の戦いの定位置の戦場」から観て「やや南斜め後方」に導いた事に成る。
    つまり、これは普通は「武田軍の本隊への牽制」が無ければ、直ぐに潰されれる位置にあった事に成る。

    そこで、「三河戦記」の「額田青木氏の指揮官の貞治の死傷の記述」に付いては、上記した様に「疑問の点」が多いが、仮にこの事が史実とすれば、恐らくは、この時に筆者の考えでは、“「救出後の一瞬の間隙」”を捕らえて、「松平軍・旗本」から「軍議の逆恨み・命令を断った」から、あったとすれば「特別に命じられていた狙撃兵・伊川津の旗本衆・この時は未だ国衆」から“「狙撃された可能性がある”と観ているのだ。
    その前に、この「狙撃兵」が銃の前で生きられていたかが甚だ疑問である。
    それ以外には「救出」が済み、そして「牽制の銃撃」が終わり、「武田軍本隊が攻め始めた事で、「総崩れの混乱の中の松平軍」にはその「タイミング」のそのものは絶対に無かった事に成る。
    記録から観ると、その「総崩れの混乱のレベル」は、次の様に記されている。
    「家康」は「最初200の旗本」に周囲を護られていた最後尾にいた。
    然し、瞬く間に20人から最後は5人にまで成って、「東遠回り」で先ず逃げ、其の後にゆっくりと様子を見ながら「浜松城」に辿り着いたとされている経緯である。
    この時、既に掃討作戦が組まれ追われていた事に成っている。
    何とか東に逃れて辿り着いて入城する時は、「僅かな数人の城守備兵の安全の合図・提灯を城門の前に架ける・事前に通知」で城に何とか入ったと記されている。
    この事から、そんな「記録にあるタイミングは無かった事」に成り、且つ、「武田軍」に攻められている真っ最中の中で、この時はその「狙撃兵とその命令者の命」はそもそも無かったレベルな筈で、三々五々に“「負傷兵・殆ど負傷兵」”が城に戻って来た事が記されている。
    依って、この事の詳細と人物の確認と認定等が出来た訳は無い筈で、それを「記録に遺す事」がそもそも出来るか疑問であり、且つ、「その事の詳細」をそもそも掴めていない事に成るだろう。
    これは体面を保つ為に、後に「旗本と成った者等」の「国衆の後付言」に外ならない。
    これを戦記祐筆が真偽は別として国衆の勘定の言い分に沿ってかなり後に書き添えたものである事が判る。
    そもそも「三河戦記類等」では、それを藩に記して遺す者は、その時期は戦後であって、「数人の祐筆役兵」が丘の上などの影から、“戦場を眺めて観て、後でそれを書き知るす”か、“生き延びた者らに聞き取りして記するか”によるが普通で、“戦場を観て、後で書き知るす”の場合は、主に「戦後の論功行賞」に主に使われ、大まかな結果に対して「戦術的な働きの評価」に利用されるものが多いのだ。
    そしてそれを聞いて「軍議」が、どの様に裁くかに用いられるのだ。
    「聞き取りによる情報」では、その戦場の中にいて戦った者からの「聞き取り」であって、当然にその主観や利害が大きく働き、余り信用が出来ないものなのだ。
    ここに、そもそもの「戦記ものの欠点」があり、矛盾なども生まれ結果として纏める際には「取り繕う事」に成るのだ。
    だから戦記物には時系列や矛盾が生まれるものなのだ。
    これは松平氏に限らず何処の藩に於いても同じで、これを基に後に戦記物語が造られるので更に矛盾が生まれるのだし、物語風などは尚更の事である。
    その中でのこの「指揮官負傷の記録とする情報」は、そもそも「自軍の者」ではそもそも無く、書き記したのも聞き取りに過ぎないのだ。
    況してやこの矛盾の更におかしい所は、「三河者」に執っては“敵に相当する者”に近いのだし、本来はまず記する事はそもそも無い。
    況してや敵の事までも判る事は無くそれ程に「三方ヶ原の松平軍の乱れた混乱の戦場」は、「指揮官」さえも何処にいたのかさえも、且つ、「家康の大将」さえも開戦時には東に逃れて既に戦場に居なかったのだ。
    つまり、「額田青木氏の指揮官等」は既に存在そのものが判らない冷静な状況では無かったのだ。
    依って、「殆ど造り事」に過ぎないのだし、況してや「自軍の西端の左」で起こった観えない場所の結果である。
    況してや、「爆煙で観える事等無かった筈であるし、荷駄で囲まれた中程での事でもある。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊の指揮官の名が判明しない」が、負傷していた事は「伊勢の記録」でも、判っていて、帰国後に時期は不明であるが、この「指揮官らしき者」が「寺の過去帳の記録」ではその後に死亡していた事が判っている。
    然し、ところそれが「三方ヶ原の怪我」が下で戦死した事かも判っていない。
    然し、「伊勢青木氏の資料」では、その後に「三河国」に残り、そこで「開発業の指揮」を執ったとあるので、同一人物とするとその後に何らかの理由で伊勢に戻った事に成ろう。
    恐らくは同一人物であろうと考えられるが、そうすると、この様な功績を挙げた者の「菩提寺での伊勢秀郷流青木氏としての扱い」が判らない様に祀ると云うのは低すぎる。

    これに付いての「詳細経緯」である。
    戦況が上記の通りであったとして、“では何故、指揮官は負傷し、その後に戦死したとする”かに「疑問」があって、それには、幾つかの大きな疑問が残る。
    そもそも前段と共に上記した様に「相当に安全な銃撃環境」であったのに、“何故、負傷するか”である。
    「山県軍の別動隊」が「北の鶴翼・右」から「南の鶴翼・左」に抜け切るのに、前段の検証で論じた通り、「数十分の範囲」であった。
    その直前まで負傷するに値する危険は無かった筈で、仮にあるとするとその間隔は「上記の経緯」から、“「通り抜けた寸前」から「抜けきるまでの間」の「数十分の範囲」”と成り得る。
    筆者は、然し、「停止する事の出来ない突撃隊」が走り続ける為には其れが邪魔して狙撃は困難であった筈で、この短い隙間の時間としてあるとすれば、この「抜けきった直後の静寂の一瞬」しかないだろう。
    それを誰かに弓矢で狙撃されたと観る事が出来るが、その“誰かは「この戦いの経緯の中」で、果たして敵意を持つ者が居たであろうか”と云う事に成る。
    それも突撃中の「混乱の中での弓」はありえず、その弓矢では高い確率で失敗は伴い。
    依って警戒されていない者として、この「銃隊の指揮官の場合」は、伊川津まで辿り着きそこで働きしている。
    それが“「負傷・怪我」をしていた”とすると、これを前提とすると、“隠れ潜んでこの為だけの一瞬を狙い「決死の突撃の槍」”だけがチャンスと成ろうが、そんな「チャンスの生まれる弓矢の環境」ではそもそも無かった。
    其の後はこの“「狙撃兵」”は、100%に於いて「敵・銃隊」に銃撃されたかは「味方・命令者」にその後に殺傷されたかであろうが、「松平の味方の説」は無いとすると「青木氏の記録」のだけにしか遺らないがそれが無い。
    この内、「敵・銃隊の中」に居た限りは、「犯人は即座に銃撃された事」は間違いは無い。
    だとすると、先ず松平氏側では遺る事は、そもそも無い事に成り、松平氏側の戦記には上記した様な経緯の虚偽が生まれる。

    この事が「虚偽」なりに、「一つの戦記類」に後刻に於いて遺したと云う事は、その「虚偽」にしても、その意味する処は、「強い遺恨を残していた事」に成るだろう。
    それもそもそもこれらの信用できない「虚偽記録」では、何と偶然ではない「額田青木氏と駿河青木氏の両指揮官の二人共」である。
    これを観ると、「浜松城の命令拒否」と「伊川津の国衆・後に旗本等」の「二つの遺恨」が元で、明かに“自分達の立場を良くする為にある物語を描いた「恣意的な虚偽と矛盾・後付け」”である事が判る。
    「恣意的な虚偽と矛盾・後付け」”の検証として次の事が云える。
    然し、仮に、槍を突き付けられたとして、「額田青木氏の銃」による「速射と連射=A」であるので、その直前に既に「狙撃兵」は射殺されている事に成ろうし、相手は目前であった事に成るので「銃隊の周囲の者」は「誰・松平軍」であったかは判る筈である。
    だとすれば「青木氏側の記録に遺る事に成るので、これは無い。
    とすると、可能なのは、“遠くから槍を投げられた”か、同じこの左側面に隠れ潜んでいてこの「一瞬の隙」を狙って飛び出して槍を突き出したかであるが、この際には上記した様に“そんな隙と空間”は既に無かったのだ。
    この説では、これが立って指揮している「指揮官」に間違いなく当たった事に成り、故に相当に“離れたの距離”で無くては成り立たない説であり、その場合は「銃の犠牲」か「突撃隊の犠牲」と成り、且つ「死説」”としているがそうでは無く“「負傷」”となるであろう。
    そもそもこれらは「突撃隊の事や銃隊の事やその時の時系列の事や戦場の在り様や武田軍や松平軍の状態の事等を一切無視している。
    元々も「三河戦記類」はこれらの事を無視しての物語説に成っているのだ。
    つまり、江戸の初期から歴史は「史実」より「面白可笑しく描いた説」が時代が求められていたのだ。
    そう云う歴史観で、「江戸期の歴史書類」ではこの「江戸の先入観」で先ず観る事から始めるべきなのだ。
    後に明治期に成って史実が求められる様に成ったのはこの反動であり、悪い事では無くそういうものであったとするものであろう。
    だとしても、仮に「怪我」をして「伊川津」に引き上げているとしても、「松平氏」とは既に「縁」を切っているし、そもそもネットも無い時代で、且つ「情報のやり取り」は無いのに、“何故、此れが元で死んだ事を後に知っているのか”である。
    そもそも「青木氏族」では、「四掟制度の掟」から「自らの氏族内での情報」はその立場上で外に漏らしてはならないし、出してもいないし、「伊賀青木氏等の活躍」で「族内の情報」は管理されている。
    前段でも論じたが「大商い」をしている限りに於いては、「氏是」を定めていたくらいで、何故ならばそれは「氏存続の成否に繋がる事」であった。
    それは次の事でも判る。
    古来依り「顔隠策・奈良期の部経済の処理人頭から始まる事」で全てが特定されない様に「族内の管理」に留めていたからこそ外にはあまり資料も無く、族内で何人も祐筆を置いて「歴史史書・明治35年失火消失」を纏めていたのだ。余談だがそれを今復元の努力をしているだ。
    最低でも明治9年頃までは管理されていたのだ。
    これは「不思議・疑問」である。
    だとすると、「伊勢秀郷流青木氏と伊勢青木氏の記録」とも共に一致しない。
    これらは間違いなく上記した要領で「後付けの虚偽」をした事に成るのだが、そして、そうすると「青木貞治の事」は当初は前段でも論じた様に「三河国衆」ではそもそも無く、まだこの時は「駿河国衆であった事」から、多少は知り得る事はあり得るが、「額田青木氏の銃隊の指揮官の貞秀」の方までは、何故、戦死した事にしていた事に成り得るのか、且つ、それを何故に態々「戦記」にまで記載し、その詳細を記する程にこの当時の情報として知っていたのかである。
    この事は“「狙撃の詳細情報」”までが少なくとも“「祐筆」までは知り得ていた事”に成り、詳細過ぎるだろう。都合よくしたものでそれ程の安定した戦況の状況にはなかつた筈だ。
    これが出来るのは、江戸期に流行した「後付け説」であっ事に成る。
    特に「江戸期の三河戦記類」は5つあってその内の一つを除いては物語風で仕上げているので元より信用できないが、残りの一つも江戸期の松平氏で仕上げた戦記類で徳川氏に都合よく虚偽で纏めたもので時系列などの史実の矛盾が多く信用は出来ない前提にある。
    然し、ここまで「青木氏の事」に食い込んできて書かれて遺されたと成れば後勘の為にも放置はできないので、その矛盾を突いておいたのだ。

    さて、話をもう一度戻す。
    「射手」等は「荷駄」を盾にして、「膝付型・A」であった事から戦場の真っ最中の中でのこの「危険性・狙撃」は無かった筈である。
    この後に、「負傷したとするの指揮官」は、「四人の差配頭」の内の「一人の者・頭目」がこれに当たっていた事がこの者は「伊勢秀郷流青木氏の者」であった事が判っている。
    従って、「青木貞治隊を救い出した後」のこの段階では、つまり、「突撃隊が通り抜けた直後」には、だとすれば、“この負傷したとする「指揮官」を荷駄車に載せ「戦線離脱した経緯・イ”」と成り得る。
    故に、但しこれが、この間に、「上記の経緯」で「青木貞治隊を救い出した」が、「盤田見附の西光寺」まで援護しなかった史実としてこれが、又は出来なかった事が判っている。
    然し、この「戦場の真っただ中の経緯・イの理由・指揮官の貞治負傷」は、「時期と状況」は別として、「最低限であった観られる」が、それがこの一つと成ったと観られるのだ。
    仮にこれが史実であったとして、「額田青木氏の指揮官の青木貞秀」では無く、「駿河青木氏の指揮官の青木貞治」であった可能性が強いのだ。
    然し、「伊勢秀郷流青木氏」では、「銃隊の指揮官の青木貞秀」は、青木氏の史実ではその後の「伊川津」で「開発業を営んでいる事・史実」に成っているのだ。
    だとすれば、恐らくは、「2日程度強」で「伊川津」に到着後のその後の、“「療養中・当時」は「戦死扱い」”は死亡したと成るが、何度も記するが松平氏の全くの家臣でもないのに、且つ、その「情報」がどの様に漏れたかによるし、それを「戦記に載せるとする矛盾の経緯」もこれにはある。
    故に、前段で論じた通りに、「伊勢での記録」では「指揮官」は先ず「伊川津」の「田原の西光寺」に祀られたと成っており、その「分骨」は「伊勢の松阪」の「四つの内の寺の西光寺」の何処かに納骨されたと観られるのだ。
    「研究調査」に於いて最も可能性が高いのが、その戦功から「伊勢」の“「御麻生薗町の寺・西光寺の本寺」”と観られる。
    そもそもこの“「御麻生薗町の名の由来・重要な格式名」”から「伊勢西光寺の4寺」の内の「本寺である事」は間違いは無いだろう。
    この「名」は、そもそも「寺」でありながらも、且つ「神に由来するもの」ものでもあり、“「おぅ麻。韻」”と呼称されていて、この「おお麻の繊維」は古来より「神に関わる物」をこの「おお麻の繊維」で造られたとし、且つ「包む物」としていて、現在では「大麻・たいま」としてその栽培は禁止され嫌われているが、奈良期より江戸期までは“「神物と薬物」”として扱われていたのだ。
    故に、「古来の慣習」では、その“「造園のある大字・周り一帯」”では「関係者以外は人の立ち入る事」は禁じられていた要するに“「聖域」”であったのだ。
    この事は当然にして、ここにある「神社や寺社等の建造物社」は、古来より“尊い格式あるものとして扱われていた”のだ。
    それ故に、この“「御麻生薗字・聖域」にある「西光寺」”は「一族の総本山の本寺」である事に成るのだ。
    これは、「青木氏に関わる処」の「伊勢の聖域」のみならず、「信濃の聖域」にもあるものであり、「聖域=御麻生薗」と成り得るのだ。
    「氏家制度」の中では、「秀郷流青木氏の一族」ではある事には間違いは無いが、「本家分家尊属卑属」も当然ながら「伝統」としてあり、これに「后妃嬪妾の四制度」も大きく左右されるので、“「青木・・・・」の「・・名」が確認”は困難で出来ないのだ。
    場合に依っては、この「指揮官」が「伊勢秀郷流青木氏の中」では「その扱い」は「妾子の場合」は、「本家筋の系譜」には記されない事もあって、当時の「秀郷流青木氏族の慣習仕来り掟の伝統の範囲」では、つまり、「四家の子孫存続の為の后妃嬪妾の制度」ではこれは充分に記載が無いと云う事が起こり得るのだ。
    然し、筆者は、“これだけの勲功を挙げていれば載せるだろう”と見込んではいるが、「指揮官の名・貞秀」からの「理由・妾子名である」があって載せなかったと云う事もあり得る。
    又は、長い歴史の間で“消した”と云う事もあり得て何れも定かではない。
    「貞秀のその勲功」でこの“「御麻生薗町の名の由来・重要な格式名」”の「伊勢西光寺の4寺」の内の「本寺であるこの寺に、筆者はここに「一族の神」として祀られたと考えている。
    然し、これが、「伝統・掟」である限りは「指揮官であった青木貞秀」は、特別に何かない限りは「上記の伊勢西光寺の4つの内の寺で祭司されていた事」には少なくとも間違いは無いだろう。

    注釈 因みに、「后妃嬪妾の制度」で現実に「伊勢青木氏」では興っている。
    故に“敢えて載せないと云う場面”から考えた場合のこの事に付いて、一つ考えられる事が、“「后妃嬪妾の制度の青木氏族の仕来り」”の史実の中にあった。
    この事の理解を深める為に念の為にここで記述するが、それは前段で論じた通り古来より「四掟」で護られた「女系族の伊勢青木氏」に載せないと云う事が初めて起こった。
    「四掟外」でありながらも「摂津源氏四家」の「主家の頼政の子・仲綱」に「伊勢青木氏」から敢えて「女(むすめ)」を嫁がせて、その「生まれた子」は“「京綱」”と名付けられて、そして直ぐにこの嫁いだ「女(むすめ)」は、“「後家・日本での初めての慣習」”として「四掟外である事」を理由にして戻したとされる。
    この「生まれた児・妾子の京綱」を“「連子」”として「伊勢」に戻し、「四家の福家の跡目」として育てた「唯一の男系の事例の経緯」があるのだ。
    この“後家”は、系譜上には載せず、「寺の尼僧」として位置付けて、「四掟の建前」を立てた経緯である。
    この“「女系制度」”によって起こる「世情の矛盾」を解消するが為に、この時、“「後家」”と云う「初めての習慣・現在の意味とは相当に違う」を造り上げて、「応急時の制度」として取り入れて、これを「正統化した経緯」である。
    それは「四掟範囲からぎりぎりの処」で起こる「女系制度の矛盾」を解消する為に、“「後家と云う習慣」”を始めて造り上げて逃げた「青木氏からの独特の初めての経緯」なのだ。
    ところが、「四家から嫁いだ娘」を「四家の中」で“後家”として系譜から消す代わりに、この「生まれた児・妾子の京綱」を「四家の子」として位置付けて辻褄を合わしたのだ。
    つまり、もっと云えば「伊勢青木氏の方」が「摂津源氏本家」より「家の格式」は上でありながらも、「嫁ぎ先」の「清和源氏頼光系の四家の範囲」、つまり、「四掟ぎりぎりの相手先」では、“系類が違う”として、「后妃嬪妾の制度」の片意地を張って、“「妾子に据えられる場合」”があって、この時には、“「嗣子」が少ない場合」”は「嗣子の一人」に加えられる事も起こったが、この“「京綱」”の時は、何と当にこの「妾子・四男」として扱われて仕舞ったのだ。
    従って、そこで「格式では上の伊勢青木氏」は、「摂津源氏四家」では「妾子・四男」として扱われて仕舞った以上は、そこで「対策・対抗策」として、“「後家と云う形」」”を始めて造って、その「娘の児の京綱」ともども「伊勢に戻させると云う形」を執って、「無かった縁組・婚礼」として扱う事にしたのだ。
    これが、「格式差・四掟外」のある「婚礼・血縁」の「一つの手段・辻褄合わせ手段」として“日本での初めての後家制度の始り”で処理したのだ。
    従って、結論として前段で論じた様に「伊勢青木氏」と同制度を敷いていた「秀郷流伊勢青木氏の額田青木氏の指揮官と成った貞秀」は、上位の格式を有していた「四掟の四家範囲」では、この「后妃嬪妾の制度」の“妾子”であった可能性があって、上記の伊勢の「西光寺の系譜」には遺らなかった事に成ったと云う経緯があり得る。
    然し、故に「伊川津の西光寺」には「記載が認められる事」に成り得たのではないか。

    注釈 余談だが、ここで「青木氏の歴史観」をより高める為に前段と上記の「后妃嬪妾の制度」に就いて再度追記する。
    実は最近の研究で、資料の一節の行に違和感を覚える表現があった。
    実は、何故、このような表現をするのか疑問に思ったのだ。
    これは前段でも論じたが、“「青木氏の祐筆」によくある癖の様なもの”で、「原稿」を書いて「福家」に見せて「承認」を得ようとした処、「氏に執って重要な所」を“微妙な表現に改める様に指示された所以”であって、この様な事がそもそも起こっていたのではと観ている。
    然し、これには「氏是や家訓10訓の影響」が大きく響いていて、「別物の美化脚色」は別としても、“「現実通り」に書くか否かの是非が多く働いた”のでは無いかと思われる。
    これには「祐筆本人の癖」もあるが、故に全ての傾向として、“微妙な表現と成り得ている”のでは無いかと云う事だ。
    そこでこの「摂津源氏の頼政四家との血縁」としても、「摂津源氏側四家」では戦略通りであろうが、「青木氏側四家」に執ってはこの事件は「四掟外」からの「極めて微妙な事件であった事」は後勘から観て判る。
    そこで、故に“前段で論じた通りの事”であったのかは疑問であった。
    単純に考えてもこの「青木氏の四掟外の事」は、「母方系の秀郷流青木氏にも影響を与える事」でもあって、「伊勢側四家の判断・福家」だけでは少なくとも行かなかった筈である。
    「母方系の秀郷流青木氏」に執っても、“「円融天皇の賜姓族」として「秀郷流一門主家の第三子」に累代に「青木氏」として継承させるとして「初代第三子の千國」から発祥させた”が、この時に、同時に「伊勢青木氏と信濃青木氏」と同然に「嵯峨期の禁令の9つの縛りの伝統を護らせる事・皇族系扱い」を所謂義務付けたのだ。
    当然に、この時の「義務の条件」には「四掟四家制度」は含まれるとすると、「母方系の秀郷流青木氏」からは、又、「秀郷流一門主家」からも、「四掟外の頼政の件」は例外な事では無かったのだ。
    況してや、「清和源氏本流の摂津源氏」であり、「話題の家筋」でもあり、その中の四家筋格の頼政系流」である。
    この事を考え合わすと、前段の「桓武派と嵯峨派の論」と「青木氏の財政支援論」と「四掟制度の概論」だけで円滑に事が流れたとは先ず考えられない。
    この事が、資料の一節の行の読み込みから、これにはどうも「血縁性・縁組」だけではない両者による“「騙し騙されの事件性」があった”と観たのだ。
    それは、この“縁組に伴って起こった事”として、概して言えば先ずは「後家の初呼称事件が起こった事・イ」と、「青木氏からの経済援助の記載無・ロ」と、「四掟の最大相手の秀郷流青木氏の記載無・ハ」の、この「3つの事」がそれを裏付けているだろう。
    先ず、次の推論が生まれる。
    (イ)の「後家の初呼称が起こった事」が、普通ならばこの「縁組」に付いてはこの「3つの事」が「契機」に同時に起こる事は先ず無い。
    (ロ)に関しては、この「縁組を進める以上」は、「青木氏の経済援助に関する何らかの記載」はあるだろうがこれも無いし、この「青木氏からの経済援助」が在れば「頼政」は、“「頼政の祖の頼光の上司の藤原の道長による建設」”、のつまり「宇治の平等院別院」の様な場所で、つまり「戦いに無関係な場所で切腹している事」は無い筈である。
    平安期では、歴史観として“「戦い=軍費の関係」で決まるとする通説”があった事から、これには頼政を通じて伊勢に対して“「経済援助の要求の事」”があった事は判る。
    (ハ)に関しては、ここには「秀郷流青木氏の記載無の状況」であった事から、当初は「前段の通り」に、ここで「予想外・思慮外の事」が興った事に成ろう。
    この「縁組」に関して、「四掟相手の秀郷流青木氏が賛成している事・記載無し」を前提として、この「渦中の摂津源氏四家との縁組」は、“危険を孕んでいるにも関わらず安心して組まれた事”を物がっているのだ。
    だから、ここで、“敢えて「伊勢」には異議なし”として“記載無しで進めた事”に成るだろう。
    少なくとも上記の「イ、ロ、ハ」に関しては状況諭として資料から左右する語句は散見できない。
    ところが上記する様にこの「縁組」を進める事に成ってその直ぐ後に先ずに、“ある異変の情報”が齎されたのだ。
    筆者は、これは「別の面からの論」として、それが、“「頼政の対抗策・妾と妾子扱い」”であったと観ているのだ。
    「嵯峨期の9つの縛りの禁令」の一つで、「四家制度を敷いている格式家」では「后妃嬪妾の制度」が先ずあって、「伊勢側の格式制度」では「后の位置に当たる扱い」を受けなければならい掟である。
    ところが、何と最初に起こった事は、“「妾扱い」”であったのだ。
    「最高格式を伝統的に持つ伊勢青木氏側」に執つては、これは格式外からの扱いで、且つ、「嵯峨期の9つの縛りの禁令」をまともに護らない家の格式下からの扱いであった。
    これは「青木氏氏族始まって以来の最大で最初の霹靂」であった。
    「「嵯峨期の9つの縛りの禁令を護らない摂津源氏」は、そもそも「四掟外」であって、「伊勢の永代浄大壱位・家」に対して「頼政一代限りの正三位・個人」である.
    格式では「貴族と武家の差の雲泥差」があり最低でも「階級として16差」はある。
    此処で、この事で“「事件・伊勢が騙された」”と成って、発覚しこれに対して“「対抗処理」を採ったとする事件”であった。
    そこで、“騙された伊勢青木氏側と信濃青木氏側”ではこれに対して次の処置を採ったとされているのだ。
    a 「後家の内策・1」で「嫁ぎ先」を消した。
    b 「辻褄合わせ策・2」を採る。
    c 「間一髪、伊勢に帰させる策・3」で縁組を切った。
    d 「無かった血縁として始末・4」をした。
    e 「娘と児を密かに引き取り策・5」とした。
    f 「伊勢の四家の児として入籍・6」を直ぐにした。
    g 「後家は寺に尼僧とする策・7」で氏内を纏め解決して消し込んだ。
    以上に伴い要するに“「上記のロとハ」”で相手に“「大打撃策での対抗策”を放った上で上記の「族内からの対策のabcdefg」を下したのだ。

    注釈 この「北家藤原氏の外孫王」の「以仁王の乱」は短期間で終わり失敗の結果と成ったのは、この「伊勢」が放った上記の「ロの財源」と「ハの武力」で以て影響させたのだ。
    「頼政」は、当初は「平家に対抗できる勢力・青木氏一族」として目論んでいて密かに婚姻を手段として繋がろうとしてきたのたが、結果として事の次第が露見して「伊勢と信濃の青木氏」は、勿論の事、この事件で離れた事でその「四掟女系血縁族」として存在する「全国に23地域に展開する361氏が存在する集団勢力・北家秀郷流一族一門の賛成」も得られなく成ったと観ているのだ。

    注釈 「以仁王」は、妻は「藤原忠成の娘」で、「後白河天皇の第三皇子・第二皇子」とされ母は「北家摂関家藤原季成の娘」である。
    その関係で故に「日本最大勢力の武家集団」の“「北家秀郷流一族一門は合力する」”と目論んでいたのだ。
    「戦い」に必要とするのは、「残す物」は要は「財」であったが、「伊勢青木氏の財」はこれで失敗したのだが、要はこの「二つの勢力」がこの“「事件」”から離れたのだ。
    要するに、「青木氏からの歴史観」から観て、“最初で躓いた「頼政の大失敗」”であったとされる。

    注釈 この「経緯論」として、論じる。
    これに対して「伊勢側」でも対抗して兎も角も「一定の策」を採ったのが、「上記の制度・辻褄合わせの後家制度」を先ず執った事の経緯であったと観ているのだ。
    そもそも、元を質せば「頼政の以仁王の乱」を始めようとした時、「清和源氏の摂津源氏」の「本家の子孫・四家制度」を「源氏以外の格式高い家」に血筋を遺させるの名目として「血縁」を申し込んで来た事もあったのだ。
    ところが「伊勢」は格式を前提に「四掟」で受け付けなかった。
    そこで「頼政側」では、「氏族を保つ為の四家」を「最低限の縛り」として敷いていたとしても、「嵯峨期禁令の9つの縛り」の中の一つである「四掟」は敷かなかったのだ。
    それは「武家・象徴の武力」を持っていた為に「自由」を利かせる為であった。
    故に、この「摂津側」では、“「強引に伊勢途信濃との縁組」を仕組ん”で、その結果として、“「伊勢側と信濃側」に強引に引き受けさせた。
    そして、「伊勢と信濃」に「子孫を遺し、引き込もうとした策」”であったと観ているのだ。

    注釈 「武力集団の氏族の伊勢50郷士衆」は、飽く迄も「女系に依る血縁」であって、「男系での血縁」ではなかったし、又、「奈良期の古来」より「四掟」を定まる前から「秀郷流一族一門を母方先」とし、並びにその「血筋」を引いた「秀郷流青木氏」とは、「四掟」が決まる平安期中期からの当に「賜姓を受けた母方系の女系血縁族」であった。
    依って、「嵯峨期の9つの縛り策」を故意に徹底して護らない「清和摂津源氏の頼政との血縁」とは違っていたし、「氏族」でも無かったし、長い歴史の中での「血縁を定めた族」の当に「四掟外・血縁のしない族」であった。

    注釈として、何か此処まで来るには、必ず、“二つの青木氏を動かし得る重要な仲介者”が存在していた可能性があると観ているが、血縁した以上は、故にこれに付いては「伊勢」も“暗黙の内に承知していた策”と観ているが、唯、どう出て来るかは判らなかったと観ている。
    何故ならば同じ事を「信濃青木氏」にも行っていたからだ。
    当時の縁組には従わざるを得ない重要な仲介者が立つのが氏家制度の中では掟である。
    従って、こんな「危険な四掟外とされる相手の縁組」ではある以上は、この“二つの青木氏を動かし得る重要な仲介者”に付いては研究したが限定されて予想はできるが確定する資料は見つからないし判らないし、見つからない事が当初より確定できる。
    血縁で在る限りに於いて、特定は敢えてしないが、“見つからない事が答え”であってそれが「正しい経緯・答え」であろう。
    故に「四掟外」であっても況や何かが起こる事も含めて“暗黙の内に承知していた策”と成り得たのだ。

    注釈 そもそも一般としては、「后妃嬪と妾の制度」の中では、この様に「嫡子・后妃嬪の継司」が居て「妾の妾子」として扱われた場合は、通常として「四家の詳細系譜」には記載されないのが一般的で、記録から観ても「当時の氏家制度の中」では「四掟制度・格式ある氏」のある中ではこの事が多く起こったのだ。
    依って、「四掟」から外れる処、又は、ぎりぎりの処では、故に、「青木氏側」では「この様な事態」に成る事が想定されていた筈で、重要な仲介者が入って詳しく取り纏めて進めるのが普通で、兎に角も直ぐに“「正式血縁」”を先ずする事は無く、これらの事象に付いては“「記録」”に散見できない程に少ないと云うよりは無いのだ。
    況や、その“「相手」”が渦中の「賜姓族の摂津清和源氏族・上三位家」であったと云う事で「重要な仲介者」が存在していた事に成っていた筈だ。
    つまり、先ず、“数段格式は上”で、且つそもそも“四掟外”であり、「格式高い氏家制度」の中では「一般的な慣習・掟」では、“「妾」は100%無い事”に成る。

    そして、仮にこの“「場合」”が現実に起こった時には、「嫁家先」では“「主家筋の系譜・尊属系譜」”には記載はされない場合と成り得るが、ところが伊勢側では「格上の四家側等の系譜・尊属と卑属系譜類」には実際に記載された所以と成り得ていて食い違いの“「場合」”が起こって仕舞ったのだ。
    「伝統に基づかない事」の「行き違い」がここでも起こっているのだ。
    そこで、それ故にこれに対応して「青木氏側」で採った「仕来り」、又は「掟」としたのが「後妻制度・子供が生まれれば直ちに実家に赤子ともに帰る」であったのだ。
    然し、「摂津側」ではこれは単なる血縁では無く、“「重要な仲介者」”が間に立ちながらも、この時の“「緊急時の子孫・赤子幼児」を何とか遺す必要に迫られていたのかその「混乱期の窮策」”を採ったものであったのかは不明である。
    故に、「通常の事」では無く、「四掟外」とする「摂津の上三位」と「伊勢の永代浄一位の格式」の「家差・格式差」を埋める為でも、「何らかの策」をこの血縁では打ち立てなくてはならない場合が後刻に両家に存在して仕舞った事に成るのだ。
    この“「後家・伊勢側」”には、「伊勢」では譲れない「伝来の女系制度」を敷いている中では“「男系の系を切る」”の必要性の意味もあったし、「摂津側」では「系譜に載せない為の仕来り」で応じたのだ。
    「摂津の上三位」>「伊勢の浄一位の格式」の「家差」では、本来では「后妃嬪妾の后位に位置する事」が「朝廷が定める掟」である。これがある以上は掟の実行は求められるが、“肩ひじを張っていた”かは判らないが“「重要な仲介者」”が在る中で「摂津側」ではそれに応じなかったのだ。
    そこで、空かさず“無かった血縁”として「後家・妾と妾子扱い」として「伊勢側」に返したのだ。
    「当時の慣習の掟」に応じなかったこれに対して、困った「伊勢側」では“後家”として“「辻褄を合わせた”と云う当に“事件”の経緯であったのであろう。

    これを「摂津側」で観て見ると、「四掟外と格式外」を意識し過ぎて、「間に入った人物」の“「摂津側の味方と成り得ていた重要な仲介者の格式」”と“「頼政の正三位の格式」”を下に「掟」を無視して“摂津側が上位”として突然に“后を妾にして仕舞った”と云う経緯ではないか。
    「間に入った人物」の“「摂津側の味方と成り得ていた重要な仲介者の格式」”とは誰なのかであって、この場合、つまり、以仁王の乱を興そうとしていた1年前の出来事であるとすると此れを務められる人物は決定的に唯一人である。
    それは、“「以仁王」の唯一人”に限定される。
    上記の通りに、「以仁王」は、妻は「藤原忠成の娘」で「後白河天皇の第三皇子・その後第二皇子に」とされ、その母は「北家摂関家藤原季成の娘」で。この事から、“「重要な仲介者の格式・第二皇子」”+“「頼政の正三位の格式」”から、“「摂津側>伊勢側」”と観ての行動であったと判断できる。
    何故ならば、「重要な仲介者の格式・第二皇子」の判断は、「乱」を興す場合には「摂津側の財力と格式」と、それに女系で深く繋がる「秀郷流一族一門の武力」に、頼りたかったもので「血縁させる事」に意味があって、そのものの中味には興味は無かったのだ。
    つまり、「掟通りに血縁が決まった処」で、その“「受け身」”には納得できず“「摂津側>伊勢側」”では、「態度」を凶変させたという事であろう。
    “「妾と云う扱い」”は、血縁と同時に行われるもので、「其処から1年間の間」で「不穏な動き」が続き、これを正す様に交渉を続けたが、然し“頼政はこれを改める事は無かった”の経緯と成った。
    そこで「摂津側の財力と格式」と、それに女系で深く繋がる「秀郷流一族一門の武力」もこれで成立は無く成った経緯と成ったと、資料の一節の行の表現に就いて読めるのだ。
    その「決定的な瞬間」が「京綱誕生の妾子扱いであった事」であり、これが「決定的な事」と成り、「1年間の交渉」は打ち切った様なのだ。
    そして、その「後の経緯」として、そもそも、“伝統的に青木氏の発祥以来に血縁後に破断して実家に帰ると云う経緯”の無かった「伊勢側」では、その始末は「新しい形」の“「後家」で「事件の始末」を着けて引き上げた”のである。

    注釈 そもそもここで云う「後家」とは、後に江戸期の社会に広く広まった“後家の意味”ではなく、「仏教的な要素」を持ち、「仏門に入る事」を意味し、その扱いは「尼僧、又は斎王館の女官とか守護神の神明社の権禰宜」と成る事にあったのである。
    つまりは、仏門や神や女官に成る事なのだ。
    従って、この行為は「賜姓青木氏族」にしか成り得ない格式上の処置に成る。
    当時としては、従って「女性」の、且つ、“一度嫁いだ女性”が「僧などの高い格式を得るとして「仏門にはいる等の事」は極めて珍しい事であってまずなかった、それも“一度嫁いだ女性”が成る事は掟として無かったのだ。
    一度嫁ぐ事に依ってそれなりの格式を得た事に成り、当然にしてはこれは一段上の立場と扱いを得た事を意味した。
    それが前段でも論じた様に、先ずは「一族内の独自の菩提寺の寺等」に入る事であった。
    後に武門ではこの後家を扱う制度゛が格式上から無かった事から、「比丘尼」と呼ばれる様に成った。
    此れを仏教の“「出家」”とせずに“「後家」”と呼称したのだ。
    「出家と後家」は何方が早かったのかを調べたが、次の様に成る。

    注釈 「仏教伝来」は「538年」としているが、その前に既に「渡来人」が古来密教の仏教」を持ち込んで「渡来人」の中で広く先ず広まっていたのだ。
    平安中期頃までにこの渡来人の呼称は書物から観て無く成っているので、この頃から既に日本人に成りきっていた事に成り、多くは官僚族に成って「朝廷内の重職・専門職」に就いて牛耳っていた事が記されていて、「日本人」がこの専門職に居ない事を天武天皇の早くから嘆いていて、官僚の下の者に命じている記述が遺されつつあるて、此の頃から渡来人の呼称は消えつつある傾向にあった事に成る。
    その一つとして「伊勢青木氏の仏教帰依・考え方に賛成」としては、そもそも「国造部差配の立場」にいた事から、逸早くこの「渡来人の部人」たちが帰依する独自に持ち込んだ「古代密教の仏教」に「密教・秘密裏に」として独自に帰依していたとされている。
    「大仏殿建立」で「朝廷」が「仏教」を正式に認めた形を執ったのが「752年」であり、「尼僧の出家」としては「最初584年」として記録が遺されている。
    一般的には正式に上記した“「比丘尼・びくに」”として「出家」するのは、つまり、それが「制度として確立」した時期は、「天皇崩御にその妃等が得度して正式に「仏教の立場」を得ていた時期であるので、それはつまり「出家した事」に成るので、その時期の記録からは「450年から500年後の年代」の“「1034年から1085年頃」であろう事に成る。
    そうすると、「皇族外の一般・公家や貴族」から出家したのは1100年代が現実の年代と成るだろう。
    これは「平安期の末期頃」と成る。
    つまり、青木氏との間で事件と成った上記の「頼政の以仁王の事件」は、丁度、この頃に成るだろう。
    前段でも論じたが、何故ならば、「比丘尼の尼僧」は少し意味が違っているので、「皇族外の一般・公家や貴族の時期」を以て相当と考えると、“「青木氏の後家」”の判断は、“「皇族外の一般・公家や貴族の時期の出家」”に相対して考えられた制度であった事に成る。
    この「青木氏の後家」の考え方は、独自の伝統的物で習慣であった事に成る。
    「仏教」に限らず、「神明社」、「斎王館」、「十二官吏の女官」、「菩提寺」、「祐筆」、女系であった事より「青木氏の玄孫娘・女(むすめにすべく学校)」たちを「福家」に一堂に集めて育てる制度の教官等、「女性が務めるべく専門役務」として全ゆる仕事に専従していた事に既に成るのだ。
    その一つの中に「尼僧」もあったとされるが、唯、この「仏教の尼僧」には青木氏では従って「尼僧」とは呼ばずに「比女様・姫様・ひいさま」と呼称して特別に崇めていたとされるのだ。
    その意味でこの「後家の意味」は「青木氏内の独自の慣習・掟」であった事に成る。
    この様に歴史的背景を以て呼ばれる様に成ったとして、そうすると、この「伊勢青木氏の後家を採用した時期」と「同時期に成ろう。
    これには中には、一つの経緯があって、一度、「賜姓近江佐々木氏・第六位河島皇子系」に嫁ぎ、その直後に「後家」で戻り、再び、この「後家」は、「嫁ぐ事・佐々木氏に四掟」に成ったとするの限定経緯であった事が記されている。
    但し、伊勢青木氏と近江佐々木氏は施基皇子と河島皇子の兄弟血縁族であった事から当当時として慣習からは通常の慣習としての血縁として扱われた。従ってその中での嫁ぎ戻り再び嫁ぎ直すと云う行為は特別な事では無かったのだ。
    従って、その中での事である事から、これはこの「青木氏の後家」も四家の中では「柔軟」に運用されていたと云う事に成る。
    この「後家」にはそういう意味も含まれていて悪い行為ではなく、敢えて行われる手順でもあった。
    中国の古来に発展した陰陽学の判断からの事が多くそれに従っていた事に成る。

    注釈 ここが「財と武の背景」が無く成ったのは「以仁王の乱の6月間で敗戦の決定的瞬間」であったろう。
    この乱は1179年11月から1180年5月の6月間は、「伊勢の後家と京綱の時系列」で年代的一致する。
    資料の祐筆のキーワードが語るには、この中に後で筆者が疑問をもったのは、「四家の氏家制度の四掟中での血縁」には次の「疑問・A〜K」を持っていたとされるのだ。

    A 「格式から仲介人の存在必要」
    B 「上位格式から妾と妾子扱いは異常」
    C 「四掟外である事の扱い」
    D 「摂津源氏からの申し込み」
    E 「後家である事・事件性」
    F 「以仁王の乱性の関わり具合」
    G 「青木氏の氏是」からは血縁は四掟外
    H 「秀郷流青木氏と伊勢氏族の同意有無」
    I 「信濃青木氏の国友事件の連動」
    K 「青木氏一族の賛否記載外」

    以上の事柄からは「祐筆のキーワード」は単純すぎると観られる。
    恐らくは、これは「福家の指示に基づいた祐筆」は、「青木氏の氏是」に基づいて「記録の中」にこの「争い事を明記する事」は、“祖先に禍根を残す”として「意味含みの表現・A〜K」として記述したとし、「子孫の読み手」には、“以上の事を充分に想起させ連想させ想像させる事”を試みたと考えられるのだ。
    当に上記の“疑問そのものであり、つまりその思惑通りに記述した”と考えられる。
    従って当時も、祐筆も周囲の関係者も“この「頼政事件・京綱事件」に付いて同じ事を思っていた事”と考えられるのだ。
    その「表現」が、“「格式と氏是」と「氏族と四掟」と「頼政と後家」と「信濃と類縁」と「青木氏族の賛否」”の「五分け制度」を使って「長い文章・起承転結」を「漢文」で構成したとしているのだ。
    当に、上記に近い事を考えていてこれを想起のさせる記述とした事であろう。
    「伊勢や信濃」に執ってはこの事件は初めての事であり「伊勢郷士50衆」の中でも話題になっていた事であろう。

    注釈
    この「記載している漢文」は、そもそも余り得手ではないが調べてみて判った事であるが、これは唐初期の形式であるとされていた表現形式であるとする。
    祐筆はこの時、敢えてこの難しい形式を使ったと観られる。
    幾つかの「摂津源氏の研究資料」に依れば、「京綱」を「仲綱の妾子」とせずに「嗣子四男の扱い」としている資料もあるが、「青木氏側」では“後家の記述”がある以上は“妾子”を物語るだろうと判断している。
    「嗣子、又は継嗣の四男扱い」そまものは、この「伊勢側」では「伊勢側の後家扱い」は「史実」として間違いはないが、この“「伊勢側の後家の前提」”を考慮しなかった説に成るだろう。
    つまり、要するにその母親を“「後家」”とするのには、「伊勢側の決める事」であって対抗策には成り難い、「摂津源氏側」では、はっきりと“「継嗣」”としないで“「妾子扱い」”とした事であり、つまり「嫁」は飽く迄も「後家としていなかった事」に成る。
    それを前提とした説と成り、「摂津源氏側の四家」の中には飽く迄もこの「乱」には「青木氏一族と秀郷一門の合力を強く求めていた動きがあった事」を意味している。
    だから、「頼政の思惑」と違った処に、この「「摂津源氏側の四家の折衷案」として「嗣子、又は継嗣の四男扱い説」が生まれた事に成るのだ。
    「嗣子、又は継嗣の四男扱い説」は頼政側では相当に譲った案であった筈だ。
    何故ならば、当時の部門に於いては「嗣子」と「継嗣」もそもそも概ね“「跡継ぎ」”を意味していたのだ。
    取り分け「継嗣」は、当に時の意味する如く「跡継」にしか使わなかった言葉である。
    ところが「伊勢側」では、全体の問題を子供ではなく妻と成る娘の“後家”で統一して対応したと考えられていたが、処が「摂津源氏側」では、“内部の四家内は二派に分かれていた事”に成ると観ていたのだ。
    「継嗣」では無く「嗣子」をも使っているところを観ると、「二派」に分かれていてうっかりと「嗣子する処」を発言して仕舞ったと云う事ではないか。
    子供がいない時は「正式な后妃嬪からの子供」でない場合は「妾子」であっても「嗣子」を「継嗣扱い」とするのが掟である。
    この時、「仲綱」には「継嗣」はいて男子では「当に四男」に当たり当時の慣習から「純継嗣の嗣子」になるだろう。
    子供生存率の悪い当時であった事から「継嗣」は充分に考えられた。
    その意味で「正式な后妃嬪からの子供」で既にあったとしても伊勢は格式は上である以上は后は兎も角も「正式な妃嬪扱いの子供」として出来たはずである。
    強硬派は別として「摂津源氏の四家の一派」はこの説を執っていたのではないか。
    其処に食い違いが生まれていた事に成ろうし、それに「格式上の伊勢の主張」を加えれば「食い違い」は更に広まったと考えられる。
    「四掟と格式差を重んじた扱い」を重視する「青木氏側」と、「肩ひじ」を張り過ぎて「戦いの勝利」に目を逸らし、「以仁王と正三位の格式」を前面に押し出した「摂津源氏側の鍔迫り合い・嗣子派ではない強硬派」もいたのであったのであろう。
    これは同時期に「伊勢と同じ事」が起こった「信濃青木氏への摂津側の丹後国の妾子国友の件・信濃から伊豆に逃れた」が証明するで事でもあろう。
    「摂津源氏側の主派」が飽く迄もこの「妾子に拘っていた事」がこれでも判る。
    要するに、“「乱」に勝利し「武家の府」を樹立する際には、この「伊勢との格式差の存在」が背景にある事”が我慢ならなかった事に成ろう。
    「伊勢の財と秀郷流一門の武」が「府の背景にある事」が、「傀儡政権と成る」として強硬派に押されて、結局は「肩ひじの格式差の存在」を無視したのだ。
    「青木氏側の歴史観」としては、「以仁王の乱の失敗」は、「青木氏側の一族賛成」が得られなかった事、「此処・後家=妾」にあったとしているのだ。

    注釈 前段でも論じたがこの「後家扱い事件」は、奈良期にもよく似た事がこの「格式差」で起こっていて、「川島皇子の裔系・河島」の「近江佐々木氏の市原王への婚姻・能登女王」の時にも起こっている。
    この時は「伊勢」からは兎も角も「代わり女」として嫁ぎ直して決着している。
    この相手となったのは「市原王」は「天智天皇の曾孫」でもある。
    その「天智天皇の子の施基皇子と川島皇子の孫の安貴王」の子が、この「市原王」であって、「白壁王」と「市原王の父」である「安貴王」が、「同世代の叔父と甥」である事、且つ、「白壁王の母・紀橡姫」と「市原王の母・紀小鹿」がともに一族の「紀氏出自」である。
    所謂、これは同族の“「種婚・青木氏だけに起こる血縁」”であろうし、その「種」のある「四掟の限界範囲」に留めて、「系・一切の腐縁」を切るのだ。
    「以仁王の乱の混乱期」の中で、「頼政」は上記の「財と武の背景論」に合わせて戦闘で「摂津源氏」を絶やさない為にも「本家の系譜には記載しなかった・別の系譜と資料では記載している事」で、“「伊勢青木氏にこの“「種婚」”とするものを入れて仕組んだ事」”である事は判る。
    「青木氏の資料・詳細に描いた資料」の「読み込み」からもこれは「史実」として判っている。
    そこで、では、この結果として「摂津源氏内」では「敗戦」で確かに子孫は支流まで絶えるが、そこで、最も考えられた事として、“何故、同じ清和の河内源氏の支流裔系に入れて子孫を遺そうとしなかったか”と云う疑問がある。
    それは前段でも論じたが、「嵯峨期の9つの縛りの掟」を護らなかったのは「河内源氏」であり、「摂津清和源氏」の様にある程度の「四家制度」を敷いて「嵯峨期の9つの縛りの掟」をある程度護ったとする「摂津清和源氏」であるが、「河内源氏」は全く護らなかったし、“四掟外の更に遂には更に外に置かれていたのであった”。
    朝廷はそこで二代目満仲に督促令を出したが言い訳をして護らなかったのだ。
    だから満仲は蟄居を命じられてしまったのだ。
    その命令は荒廃する寺の修理と新規の建設を命じたものであった。
    そもそも清和源氏には賜姓を何とか祖父の清和上皇から受けたがそれなりの力は元より無かったからだ。
    「満仲」は何とか一つの寺だけを修復して報告したが朝廷はこれを許さなかった。
    「賜姓を受ける事」は、「嵯峨期の9つの禁令」にある様にそもそもその前提にあったがしせいだけを受けてその役目を果たさなかったのだ。
    これを嫌った頼信系の清和・河内源氏は二代目満仲も受けて仕舞った事もあって不可能とみて三代目の頼信は河内に逃げて家を興せなかった「他の源氏族・丹後に集まっていた」を河内に呼び集め武装集団を構築して、その力で周囲の朝廷の荘園の土地を奪取して行ったのだ。
    「満仲」は許される事はなかった。
    この「苦しい摂津源氏」は、伊勢青木氏や信濃青木氏では無く、確かに三代罰を受けていた河内源氏に遺そうとしなかったのかである。
    ここに実の処は差があった。
    だから、「河内源氏」に、“河内源氏に入れて遺そうとしなかった”のだろう。そうする事は摂津源氏にしてみれば確かに格式は下がる事には成るが、今更の事でその方が自然であろうが、敢えて遺そうとしなかったのだ。
    その様な記録が系譜上にも全く無い。
    「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」はこれをよく見ていたのだ。
    当然の事として其れだけに両者は「疎遠の関係にあった事」も云えるのだ。
    「摂津源氏が起こした乱」が、其の内に“「河内源氏にも事が及ぶ”と云う事はあり得ても、その前に「嵯峨期の9つの縛りの掟」を護らなかった事で、既に“「掟の三代罰」”で子孫は悉く“「島流し等」”を受けていたのだ。
    結果としてそう成ったが、然し隠す事ぐらいの事は出来ただろう。
    そもそも「賜姓青木氏の伊勢と信濃」が匿う事は出来ているのだから、朝廷の見方は緩やかであった事は伺える。
    “隠している”と判れば危険は皆同じ事だ。
    現実に、歴史的に観れば「頼政の読みの通り」に「河内源氏」もある程度の経緯はあったにせよ全て“1221年”を以て「全ての後裔」は滅亡したのだ。
    朝廷も、「三代罰・源氏族」を受けていて、更には「嵯峨期の9つの縛り策」も護らない族には例え過去に賜姓をしたとはいえ根本的に許す事はそもそもなかったのだ。
    前段でも論じたが、唯、「違う処」は、そもそも「桓武平氏」だけは「伊勢伊賀の青木氏」を「祖」としている処で「桓武派」としてで同じであった。
    前段でも論じた様に、然しも、“「以仁王の乱」で子供の「仲綱の裔・3人」を「日向廻村に島流しにする助命嘆願」”を出したのは、それが「後家・京綱の事件」で何と仲違いしていた「伊勢青木氏」であっても、下記の関係があったからである。
    「光仁天皇の妃」、つまり、「桓武天皇の母」、敵方の「桓武平氏の祖の始祖母・高野新笠」は「伊賀の出自」で、且つ、「同祖の伊賀青木氏の裔」でもあり、且つ、「伊勢青木氏の裔」でもあり、元より「光仁天皇は伊勢青木氏の裔・六男」で、「始祖の施基皇子の裔」でもあるからなのだ。
    云わば、「伊勢青木氏」は「桓武平氏」にとっても「母方の始祖」にも当たるのだ。
    この「始祖に当たる高野新笠」を盾にしてその裔である「清盛」に「助命嘆願」を願い出たのだ。
    それの「仲介の役」を採ったのは、そしてこれを企てたのは何と「伊勢青木氏」であったとされているのだ。
    何と「後家・京綱の事件」の喧嘩の相手でもある

    注釈 前段でも論じたが、この「3人」は最後は「伊勢青木氏の仲介の役」を聞き入れて「日向廻村」に流されたが、ここでも「九州源氏」を呼び集めて「九州平家」に反乱を起こして再び失敗をする。
    伊勢青木氏に執っては「伊勢青木氏の仲介の役」の「立場・顔」は丸つぶれと成ったのだ。
    然り乍らそこで「日向廻氏」との間で子孫を遺したが、最後は九州平家の追討で「薩摩大口村の浄土宗寺・薩摩では2寺しかない浄土宗の寺・現在」で「三等官の五大官僚族の伊佐氏の菩提寺」に逃げ延びた。
    ところが、これに着き従った者は既に5人と成り、最後は助けを求められたこの「寺の住職の機転・伊勢青木氏」で「伊勢青木氏の裔」を名乗らせて再び助ける事と成ったのだ。
    「因果の繋がり」と云うか普通ではこれは有り得ない。
    それを兎も角もこの「機転を利かした住職」は、「古代密教浄土宗・現在の浄土宗とは違う・後・知恩院」から派遣されていた「伊勢青木氏の住職」であったとされているのだ。
    この当時は寺名は古代密教であった事から浄光寺の寺名が着けられていた。
    現在でも「法然の浄土宗・1175年」の中では無く、多いのは「浄光寺・又は浄土寺の寺名」としているのはこの流れに寺であり、現在では「時宗の中」に此の寺名が多い。
    それは上記で論じた様に、法然の浄土宗は1175年以降の事であり、その説は「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に「阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名」を唱えれば極楽往生できるとする思想である。
    ところが、周囲からこの説は攻撃を受けてそれ程の宗派とは成らなかったのだ。
    ところが江戸期に入って幕府の後盾を受けた事により広まった宗派であり、1180年頃は未だ古代密教浄土であったのだ。
    その意味でもこの寺の住職は長い歴史を持つ当初から古代密教の阿弥陀密教を説いていた白旗派がこれに代わって受け持つと云う事が起っていたのだ。
    これは「偶然の奇跡」では無いだろう。
    その後もこの「奇跡」は続くのだ。
    これは後勘から考えても決して普通の「奇跡」では無い。
    考えられた「準備された恣意的な奇跡」であると観る。
    続けてこの「奇跡の経緯」を追う。
    其の後に、この「住職の紹介」で、再びこの裔等を「伊勢青木氏」に船で連れて行き育て船乗りとして訓練させたとあるのだ。
    この時にこのキーと成る「問題の京綱」とは、この「日向の裔」と共に同年代であった事から、この「青木京綱」と共に「伊勢」で育てて、「日向青木氏・大口青木氏」を名乗らせたとするのだ。
    この「二人」は其の後、供に「青木氏」を背負って乱世を生き延びたと云う事に成るのだ。
    「大口の裔」とその付き従った「大口からの五人の家臣等」は、「伊勢青木氏の娘等」と婚姻して育ち、その「伊勢での子孫」は「伊勢の女系孫と成った事」により、元より「大口青木氏」に成り、彼等に「大船一艘」を与えて「水運業の商い」の基礎を覚えさせて「大口」に戻したとある。其の事が「伊勢の記録」にあるのだ。
    これが、この「大口青木氏の事」であって、その後、その子孫は故郷の日向まで「大口青木氏」を拡げる事と成ったとするのだ。
    筆者は、そこでこの「住職の事」を調べる事ができ得ればこの「シナリオの奇跡」は証明できると観る。
    これは、「助命嘆願時の青木氏のシナリオ」ではなかったかと観ているのだ。
    余りにも「造ったシナリオ」過ぎる。
    それはこの「助命嘆願」が[伊勢の格式ある立場」からは普通では考えられないからだ。
    これを本当に、[氏]を建てて清盛に[助命嘆願が申し込む事」は出来るかである。
    やる以上は、この時の青木氏のシナリオを組んでいたと考えられるからだし、同じ「桓武派の清盛」も求めたと考えられる。
    だから「青木氏の住職の証明」が出来るとしたのだ。
    この「シナリオ」は事を巧く運ぶには全てこの「青木氏の住職の存在」にあるからだ。
    最期に其の後の、「黒田藩の御用商人」と成り「黒田藩の水軍傭兵軍団」とも成り子孫を拡大させたとする史実と成るのだ。

    この事に付いての「記録」には、次の様にある。
    「配流者の摂津源氏の廻の裔」は、「日向廻村」から「肝付村」を経て「薩摩大口村・裔と五人・浄土宗知恩院派浄光寺」に逃げ延びて、「寺の住職の歴史の知恵」の勧めで、そこで“「母方伊勢の始祖の裔」として「伊勢青木氏」を名乗らせた”と「史実」として遺されている。
    恐らくは、「問題のこの住職」が「伊勢青木氏の事」を以て「九州平家軍」を説得したとする程に充分な知識を知っていた事に成るのである。
    そこで、この「浄土宗知恩院派浄光寺の住職」と成る者は、“「伊勢青木氏」と何らかの関係性を有していた者であった”と考えられるが、そこで、“何故、ここまで「浄土宗知恩院派浄光寺に「白旗派の住職・主に青木氏の重職・柏紋」が赴任していたか”の「疑問1」もある。
    それが「確実・証拠無し」には遺り解けないのだ。
    その前に、何故に「朝廷の上位の三等位級上位官僚族の伊佐氏の菩提寺・自らの寺を持ち得ていた」のこの寺に、そもそも派閥の違う「白旗派の青木の住職」が此処に来ていたのかと云う事に成る。
    そもそも「伊勢青木氏の格式」は、「密教である事」から「自らの一族の者が自らの一族の菩提寺・清光寺の住職を務める仕来りが普通である。
    そもそもそこで「浄土宗密教最小派の公家貴族などの高位の者の帰依する白旗派」は、所謂、「特別の氏族が帰依するべき派」がこの「白旗派」であり、その「格式ある住職」と成ると「賜姓時に与えられた賜姓紋の神紋の柏紋」を与えられるのが殆ど「伊勢青木氏から出自の住職に限られいた」のである。
    ここの住職が「白旗派の住職」もが務めるのだ。
    従って、「最高位の格式を有する柏紋」を以てして、「白旗派の菩提寺」と成っている各地に存在する「清光寺・青木氏の菩提寺」も当然ながらこの者らが務める事に成るのだ。
    そもそもその為にも「神職の神木の柏」は「賜姓」と共に与えられ「神紋の柏紋の使用をも認めらる慣習」であるのだ。
    この意味で、「青木氏、白旗派」は「神職」は「住職」にも通ずるところがあって、「伊勢」に限らず他派に存在する事もあり得たのだ。
    先ずこれが証明の一点にあるだろう。
    其処で何で「知恩院派の住職」と成り得ていたかにあり得る。
    未だこの時期は当然ながら「法然の浄土宗」は宗派を確立するのが先ず先決でそれも周囲から攻撃されていた時期でもあって、「寺の建造」すら出来ずにいた時期でもあり、そのものより「知恩院派」をそのものを拡げられるレベルに至っていなかったのだ。
    では何故、「知恩院派」と青木氏で記されていたかの疑問が遺る。
    そこで、次の一つの経緯がある。
    この「上位の第三位三等官の官僚族の伊佐氏の菩提寺」が、「浄土宗知恩院派浄光寺」だとすれば、そこは一時知恩院派が衰退縮小した時に、この「白旗派の浄土宗の青木氏住職が補完したとある」ので、時代性からこの時の事であった可能性があり、その「所縁]からここに白旗派の者が赴任していた可能性が認められるのだ。
    それにはある特別の経緯があったのだ。
    ところが現実にこの「最小派の白旗派」を維持して行くのは困難であった事が記されている。
    「知恩院浄土宗派」は、この時は何と「24派」から縮小して「14派」に成り得ていたのであったとされている。
    最高時では「24派」に成っていたとされるが、これは当時起こっていた「浄土宗内の派閥争い等/密教の考え方」で「14派」と成ったとされる。
    中でもその影響を強く受けたのは、その一つがこの「知恩院派」であり、従ってこの時は地方の知恩院派に住職を廻す程に特別に大きい派と云う事ではなかったと云う事なのだ。
    「財政的な面」は元よりその限られた範囲のこの派の「帰依族」は、平安期中期以降には財政的に豊かな白旗派知恩院派を財政的に補助する派は、「伊勢以外」にはどこも少なく成り、その「帰依族の子孫」も含めて縮小して行ったのだ。
    互に宗派争いで疲弊してその力を弱めていたのだ。
    記録では、「密教白旗派」に所属していた時期の最高は、「前後してはも「5族」に限られて、それは密教を前提としていた事で限られて格式を重んじられて「公家と武家貴族」であったとされているし、その「財財政的に豊かな伊勢青木氏」が「柏紋の自前の住職」を持ち負担していたとされているのだ。
    中でも当に「柏紋の青木氏の神明社の神職」であって、且つ、「清光寺の柏紋の住職」も兼ねていた事も一時期あったとされる。
    この時、多くは「知恩院派」以外に鞍替えしたとしているが、この「知恩院派」もそれが元で全ての「帰依族の寺」に「住職」を充分に廻せなかった事が記されているのだ。
    この時の事であろう。
    そこで「青木氏」から「密教性の強い白旗派」から、より近い「所縁の知恩院派」を経由して「清光寺の青木氏住職め柏紋の住職」を「伊勢」から送った可能性があるとされているのだ。
    恐らくは、支配下に置いていた「上位の第三位三等官の官僚族の伊佐氏の菩提寺」であった事もあり、この時に「商い」も通じて「最高格式を持つ柏紋住職青木氏を送った事」が充分に考えられる。

    注釈 「伊勢の京綱」にしろ「信濃の国友」にしろ一族内に隠せば攻められる事は100%無い。
    「信濃」では、一度は「信濃」で住まわせたが其の後に情勢を観て「伊豆」に移して隠したとある。
    この「頼政の事前の作戦」として「清盛」にとりつき「正三位」」に成った事で珍しく慣例を破って「源氏である頼政」は「伊豆守護・それまでは藤原氏の領域」に任ぜられたのだ。
    そこでこの「慣例外の伊豆」に「伊勢と信濃」の「青木氏の子孫」を「商い」で栄えさせようと一族の派遣を申し込んで来たとされるのだ。
    この結果として「伊豆」に於いては、両者は元々親族にあり同属血縁族であったが、最後は区別のつかない「一つの融合族の青木氏」が「伊豆全土」に“「伊豆青木氏」”として生まれたのだ。
    「伊勢と信濃」は、この“「伊豆青木氏」”を救う為に「生活路」を「海には伊勢水軍の路」として「陸は全国500社近くに及ぶ「神明社経由」を通じての「伊勢と信濃との路」を造り「生活ライン」を構築して行ったのだ。
    結果として、これが「頼政敗戦」により4年で崩れるが、何とか楮生産を基に「商いの伊豆青木氏」の「生活ライン」は維持して来た。
    これが「大口青木氏の発祥」と「伊豆青木氏の発祥」とは,,「頼政の事件」とで全く同時期で起こったのだ。
    これが後の「信長台頭」でそれまでの「海の路」と「神明社の路」は、破壊され脅かされて「伊豆青木氏」のこの「生活ラインと商業ライン」は機能を失って一時孤立したのだ。
    現実に「以仁王の乱の責任者・頼政」の「孫」を皮肉にも「配流者・2の孫と叔父」として助けたのも「母方始祖の伊勢青木氏」の「所以・嘆願書」を以てであった。
    この「筋目」を以てすれば、「京綱と国友」は間違いなく助けられる所以であった。
    ここの一点を「摂津源氏」は「京綱」をして「無理・」にでも頼ったとも考えられる。
    この様にこの経緯から観ても「伊勢側」では“「後家」”にして対応してでも、「頼政」は「戦い前の準備策」として青木氏を頼って来た事が判るが、ところが「伊勢側」では飽く迄も血縁性の強い「桓武派の伊賀青木氏との関係・伊賀青木氏と桓武平氏の清盛の血縁関係」もあり固く拒んだのだ。

    注釈 「経緯」としては「頼政系の摂津源氏」は「清和天皇の賜姓族・祖父からの賜姓族」ではあるが、「伊勢青木氏」は「仁明天皇」までが「伊勢青木氏の出自系の天皇」と云えるが、これ以後は完全に血縁性は切れていて皇族系は完全に「藤原氏系流」と成っている。
    そもそもその「青木氏族」から観て「無縁者の清和源氏系頼政」より「四掟」を超えて「伊勢と信濃の青木氏」に強引に策を弄して縁を求めて来たのだ。
    「伊勢と信濃の二つの青木氏」は、元は「賜姓臣下族」であったが、既に光仁期から完全な女系で繋がれ、それを更に「四掟」で固めて「天皇系流」を完全に切っていたのだ。
    「格式論」としては「天皇系の賜姓族源氏」を前面に押し出し格上を出してこの「縁組」を求めて来たが、「嵯峨期の9つの縛りの護らない源氏側」には、例え「賜姓族」と云えども「同じ賜姓族の青木氏」に於いては「永代浄大一位と云う最高の格式」を有し「永代賜姓五役」を果たしている「伊勢と信濃の青木氏」に執っては「この清和源氏」と云へども「無冠位の格下族」である。
    兎に角も「伊勢と信濃の二つの青木氏」は縁を繋いだが、矢張りその扱いが強気の「格下」で応じて来たとする結果であったのだ。
    その結果、「縁を切ったとする経緯」で「後家」で伊勢に戻したのだ。
    但し、この時は「信濃」は「妾」の侭で続け戻さなかったのだ。
    結果として、前段でも論じた様に、次の様な事に成ったのだ。
    この様に「伊勢を含む青木氏一族」は「特異な氏族の生死存続」を掛けてこの事件対応に前段で論じた様に追われたのだ。

    この「個々の詳細」は、「日向大口青木氏論」や「額田青木氏論」や「駿河青木氏論」や「伊豆青木氏論」、将又、「諏訪と信濃青木氏論」や「伊賀と甲賀と伊勢青木氏論」や「摂津青木氏論」や「佐々木氏論と近江青木氏論」や「伊勢秀郷流青木氏論」と「24地域116氏に及ぶ秀郷流青木氏論」と「361氏の秀郷流一門論」と「額田部氏等の関係族論」等で論じて来たが、これ等の事件の参考歴史観として今まで生きて来た「青木氏一族」を理解しなければならないだろう。
    この中には論中で述べる様に「全体の中に含まれる歴史観」だけでは無く、「独自だけの歴史観」も有していたのだ。
    少なくともこの二つの歴史観を理解しなければ「青木氏族論」は正しく語れ得ない。

    そこでこの「二つ歴史観」の内の「青木氏だけに有する歴史観を掘り起こして、この「上記の大口青木氏の住職の疑問」の解明の為に「検証」を行う。
    これを解けば完全な繋がりは解明でき全てが繋がる事に成る。
    然し、この「平安期の事」には「確実な明記した記録」を発見させる事は、一般的に難しく、通常はその「状況証拠の積み重ね」で「全体証拠」と成り得て解ける事の経緯に成り易いのだ。
    そこでこれは、“何故、伊佐氏の居た大口村の浄土宗の寺の浄光寺に向けて逃げたか”の「疑問2」の証明にも成る。
    この「疑問1と疑問2を解く事」で、「以仁王の乱の関わりから大口青木氏・日向青木氏までの「経緯の全体が解ける事」に成る。

    その「経緯の全体が解ける事」の為の「証拠探しの手掛かり」として次の論の事に成る。
    逃げ込んだここは、現在では小さい町の西の「伊佐」と、東の「大口」とが市町村合併して出来た市域で、西隣の「伊佐」は「平安期」には“「朝廷の六大高位官僚族・三等官」”の有名な一つで「日向域」に派遣されていた「伊佐氏の統括域」の一つであったのだ。
    そもそも、この「伊佐氏の祖」と云うのは、先ず一説では、“「藤原北家山蔭流」で「常陸国伊佐郡」を「本貫としていた一族」であるとされている。
    本筋はこの説とする「資料」もあるが、この説も「本論の時代性」では後の事」であるので、あまり参考とはならない。
    この説では、「その後裔の地・鎌倉期の分家」であるともしていて故に「本貫地」では決してない。
    少なくとも“「朝廷の六大高位官僚族・三等官」”の有名な一つであった事から、推測するとこの「史実」から物語る事とすると、その裔の一つが「平安期以後の鎌倉期」にこの役職を解かれてその朝廷から授かったその「国を
    管理する為の朝廷の武」で以て、ここに移り住んだ可能性があるとしているが、そんな事は当時の状況ではあり得ない。
    これはこの「伊佐氏を語る者の搾取」の「江戸期の黒印状」のその確率は高い。
    これを上記の「平安期の末期の時代性」に合わせれば、史実性の高い「唯一つの説」は、この「伊佐氏」は「桓武平氏・伊賀」の「大掾官の繁盛流氏族」であると成るのだ。
    それ故に、この史実を基にすれば“「朝廷の六大高位官僚族・最高位の大掾官の三等官」”に成り得ているのだ。
    この事を考えれば、このような「格式」を得られる事は先ず無くそれを基に史実とするは先ず間違いはないとなる。
    故に、更に追及すると「伊勢の多気郡の出」、つまりその出自の地は「伊勢青木氏の旧領地の地・多気の地にある斎王館の地付近」としているのが全体の史実に合致しているのだ。
    従って、ここでこの「薩摩・日向の平安期の伊佐氏」には、この「所縁」で、“何らかの形で「伊勢」と繋がっていた事”が最低限でここでも判る。
    では、其れはどの様な事であったのかであり、先ず間違いなく、“直接的に繋がる”のが、次の“「三つの事」”であると考えられる。

    一に、「桓武平氏・伊賀」である事
    二に、「大掾官の繁盛流氏族」である事
    三に、「伊勢の多気郡の出・伊勢青木氏の地・斎王館の地」である事

    つまり、これに依り確実に「伊勢の事の情報」は得られていた立場にあった事が先ず云える。
    そして、次にこの“「三つの事」”を総合的に勘案すれば、“「伊賀青木氏の裔系」”と成るであろう。
    だとすると、上記の割り出しから、“「伊勢青木氏の氏人の伊勢郷士衆50衆」”の一つであった事に成る。
    だとすると上記の事では、「住職との繋がり」はここからで解ける。

    これを更に進めて検証して観る。
    一は、前段で論じている通り「伊賀青木氏の繋がり」であって、つまりは「伊勢の青木氏族」である事。
    二は、「官僚族の役目の最上位の大掾官・上位国司に相当」である事。
    三は、当にニの支配は「伊勢青木氏/国造と伴造」そのもの役目からのものであった事。

    では、「青木氏系の氏名」では無く、“何故、三等官で大掾官の「伊佐氏」なのか”である。
    これを解けば、間違いはない。
    それは間違いなく、先ず“「女系による青木氏の氏族の一つ族であった”からだ。
    女系の縁繋がりにより姓は宇治族を形成する以上は家人以上は諡号の別性に成り得る。
    そもそも、この「三等官で大掾官・上位国司扱い」とは、「奈良期からの律令国家の上位の国司役に相当する役職」で、「大掾と少掾」に分けられる中で「上位官僚の一つ」である。
    相当な格式を持ち得ていなけれは成り得ないのだ。
    これは“朝廷から与えられる「最高級の名誉称号」”であって、そもそも誰でもが与えられる称号では100%無い格式の賜姓五役に相当する仕来りである事に成る。つまり、これれに関係していた族であったと成る。
    「伊勢青木氏の様な最高上位格式」を持つ「皇位族や公家族のその家族」に与えられる「官位官吏職」である。
    つまり、そうするとこの“「伊佐氏」は、この前段でも論じたが「特別令外官」として「最高上位の格式」を持っていたという事”である。
    これで、「この時の情報獲得の疑問」に対しては、これで賜姓五役として勤めていた「造主の荘園管理者と伴造の支配頭であったとする青木氏」との関わの具合の整合性に付いてが説明は出来るし、又、時には“伊勢青木氏・伊賀青木氏を名乗れる所以”とも成り得ていたいた事になるのだ。
    これは前段でも何度も論じた事である。
    どの様な関係に有ったかは上記した「伊勢郷士衆」の“直接的に伊勢青木氏と関係を有していた者”であった事はこれで判る。

    注釈 「造主の荘園管理者の支配頭」とは「大仏殿など朝廷が行う建造物等」を一切に於いて取り仕切る最高格式を有する家柄の者が成り得る役職の事であって、軍事財政的等に於いて取り仕切れる能力を有する者が成りえる。
    例えば、この役では「伊勢青木氏と縁者となる淡海族の市川王」がこれに成ったが、その勢力争いでその役を全うする事が出来ず引き釣り下ろされると云う事件がこれに於いて何度もおこっているのだ。
    それ程にこの役所に付く事は名誉な事であった。
    この「伊勢青木氏族」は、「因事菅隷」を以て「特別令外官」を務め長く務めた家筋で、故に恐らくは“「伊佐氏の諡号に基づく姓」に於いてはあり得る地位を有している事に成るのだ。

    では、そこでこれを追求する。
    更に検証すると、この“「伊佐氏の諡号」に付いて、その「諡号に基づく姓」”は、どの様に名付けられたかである。
    この時期は、「最高級官僚」の「大掾官」とあるとする以上は、「奈良期末期から平安期末期」までの事である事が先ず確かな事である事が判る。
    この「大掾官」は、鎌倉期に入るとその「名誉称号の意味合い」が広く変わって実は低下したのだが、この「伊佐氏の場合の時期」には、未だこの「九州」に於いては「武家政治に成る過渡期で変換期の事」であった事から、既に「九州日向から薩摩の官僚族」では、この「役職}が無く成るかの瀬戸際の“「独特の時代性」”にあり「経緯」としては「難しい時期の論」と成るだろうが、この時期にもこの「伊佐氏が派遺されているのだ。
    しかし、この「伊佐氏の場合」は、「九州・派遣者は三氏いた」と云うその「離れた赴任地の事}で、その意味合いが良く判るのだ。
    先ずは前期した様に「朝廷の政治的、且つ財政的、且つ軍師的に於いて極めても「重用であった事」が判るし、鎌倉時代に成っても「地頭」として引き続きその役割を果たした事でも判る様に政治的、財政的にもこのこの役目を果たしてくれる勢力は重要であったのだ。
    ところが、この「過渡期」であっても「変換期の時代性の経緯」を補完する事が大事で、この「過渡期」に「変換期の経緯の流れ」が全国的に一斉に起こったのだ。
    つまり、この役職の入れ替わりが大きく起こったのだ。
    然し、「伊佐氏」に於いてはこれがこの伊佐氏に於いてだけはこれが無かったのだ。
    それだけに信頼されていた事に成るだろう。
    さてそれは、当初は、「中央の主要な官僚族・三等官の六大官僚族がある」が、主にこの地方に赴任して「朝廷から預かった武力」を以て、「税徴収・弁財使」と「警察権・押領使」との両方で整理された機構でこの方式で「国」を統治されていたのだ。
    その力を与えられる「最高上位の官僚族」で能力的にも誰でもなれる族ではなかったのだ。
    従って、主に関東に於いては「藤原氏四家の者」が多くは命じられていたのだ。
    中でも有名な「青木氏」に最も関係の極めて深い関東に於いて「四掟四家相手の藤原秀郷」が先ずこれに成り引き続き、円融天皇から賜姓も受けてこの一門が務めていたものなのだ。
    つまり、「伊勢に関係のある者」が成った「伊佐氏」は、「六大官僚族であってその族の中でも信頼されていた「上級国司」として任じられていた事になるのだ。
    要するに、これは「伊佐氏の姓は諡号」であるので、その「姓の構成」から考えると、これを読み解けば「伊佐」の「伊と佐」で判るのでそれは下記で論じる。
    ところが僅かな歳を経てその後に一変して「武家政治に成った事・鎌倉期」からこの過渡期に「中央の主要な官僚族」の「武力のある者・朝廷から預かった武力」は、其のままに持ち続け、この「伊佐氏」の様に“「鎌倉期の地方豪族」とも続けて九州に於いて成った”のだ。
    これらの「歴史観の事」は、この判断に大きく左右する重要な事である。
    “引き続き「地方豪族」と成った”と云うよりは「善政」を敷いていた「中央の主要な官僚族」は、「地方の民」から「治安維持の為」にも敢えて求められた経緯の中にあったのだ。
    特にこの「伊佐氏の場合」はその強い環境下にあったのだ。
    その「伊勢との繋がり」など家柄等を評価され重用化されて信用されて善政を敷いていたと云う事が記録にある。
    つまり、当にこの「中央の主要な官僚族」であって「税徴収・弁財使」と「警察権・押領使」の「伊佐氏・三等官の国司以上」は、当に此れに当たり、その評価の下で「鎌倉期期」に入っても「地頭としての統治能力」を評価されて「南九州」でその役目の継続を求められたものの経緯を持っていたのだ。
    丁度、この「過渡期の事件」であったのだ。

    以上の“「三つの由来」”を持っていたとすれば、上記した「高位の者ら」にはこの役職は未だ平安期までの「姓に着ける制度や仕来りに従う事」に成っていたのだ。
    従って、この「過渡期の青木氏族の氏族の歴史観」よりこれを論じる事に成るのだ。
    そもそも、前段でも論じたが、更にこれを「諡号の歴史観」で検証するとより判る。
    この「諡号の伊佐」の「伊」は、先ず「伊勢の意」であり、奈良期からの慣習仕来りを保全する為に定められた「嵯峨期の禁令」に従って、「特定の格式範囲」で無くては、この「伊」と「勢」は使えないとする定められた「掟」であったのだ。

    注釈 前段でも論じたが奈良期の初期は国名や氏名等は中国に習ってその前は「漢字一文字制」であったが、其の後、713年頃に「二文字制・好字令」により全国一斉に「二つの文字」に名に及ぶものは変更されたが、従って「一文字制の時の国名には「強い意味」を持たしていたのだ。
    故に、そこで、この先ず“「伊」”には、元より「特定の意味」を持っていたのだ。
    そもそもそれは「特定の神」、「皇祖神や祖先神に由来するものに使われる称される呼称」であって、次の「五つのものに使用する事」だけに限定して許されていたのだ。
    それは、「固有名詞の国名」で云えば次の「五つ」に限定されていた。

    つまり、次の様に成る。
    「伊」の着く場合は「律令国家」の「国名」である事。
    従って「伊予」、「紀伊」、「伊勢」、「伊賀」、「伊豆」、以上の5つである事に成る。
    つまり、全て、この「五つ」は、これは「皇祖神の遷宮地」か、或いは、「それに相当する地域」である事であって、そもそも、この「伊・い」の意味する処は、「古代の言葉」で、主に「神社で用いられる韻語」であって、これを「単語の頭」に着けて「意味を強調する事」に用いられていたのだ。
    それは、現在の、唯一の“「一」の意”に近いものである。
    つまり、この「意味を強調する事」、「清浄さや神聖さを示す事」を示すものであって用いられた。
    つまり、「神聖な一字」として用いられていたのだ。
    これで先ず「伊佐氏」はどんな族に有ったかはこれで判る。
    更に云えば、この「伊の語源」は次の通りであった。
    「伊」の左の辺は、此れは「人」を意味し、この「人」は「丘の上に立つ老婆・占師」にあって,その右の旁の「伊」はこの「人」が右の旁から「杖を突いた世を導く占師」を形どっているのだ。
    つまり、「伊」は国を強く導く占師を意味している。
    一番に「政治の場に相当する事」を意味する。
    丁度判り易く云えば、「邪馬台国の卑弥呼」がこれに当たるものである。

    次は「佐」の語源である。
    「佐」の旁の「左」は、「神道」では、この「ひだり」の旁は、「人の部位」に於いて「右よりも最も神聖の位置や方向」」を示しているもので、これに「にん・人」の「辺」を着けて「佐・さ」としたのだ。
    この左の旁辺は、左の意味は社の屋根の形を意味し,その神がおわす社の屋根の形を意味し、その中の工は火を燃やす窯の形を意味している。
    占いを行う場所を意味しているのだ。
    つまり、どんな意味する語かと云うと、この社の「左に位置する人の意」を差し、これを以て「最上級の階級を意味する語」としたのだ。
    要するに卑弥呼であり、此処には桃等の芳香性を発するもの、要するに人を酔わせるものを集めて自己洗脳させて占うとする場所を意味していたのだ。
    要するにこれが「お社造りの原形」である。

    これは階級的には、人を導く最高の人、先導者とする意味を持っているのだ。
    そこで、「青木氏・施基皇子」は、先ず「最初に命じられた役目」として「大化の改新の事件」に依って反対勢力に依り「天皇の命が危険と成った事」に依って、「皇子の内、第六位皇子と第七位の以下」は、“「賜姓」”を授けて「臣下」させて、この「天皇」を「守護」する「近衛兵」として、「宮廷の左右の衛門」を護らせたのがその「役目」の最初であった。
    格の如しで、「佐」は此処を護る者としてこの意味を持つのだ。
    更にこの「衛門の左右」にある「宿舎・とねり」の“「舎人・門番・近衛人」として宿泊し「24時間警護」をしたのだ。
    この時に、「中国の制度」に習ってこの“「お社造り」の中にいる「舎人の役職」”の階級を重視し、次の「10の役職」に分けたとされるのだ。
    その意味でこの原形の「舎人の役]は「舎人親王の皇子名」の通り重要な役目とされたのだ。
    其れが資料に依ると、この「官僚族の階級」は次の通りに分けられたのである。

    督・従四位下相当
    佐・従五位下相当
    大尉・従六位下相当
    少尉・正七位上相当

    この上記で説明した「佐」がここに位置付けられていたのだ。
    同然にこの「武官」として「大尉・従六位下相当」と「少尉・正七位上相当」の役職に分けられこれを持つ事は上記した「最高級官僚」の「大掾官」の前に位置付けられていたのだ。

    従って、ここまでは「皇位族・高位族の者」が務める「役職と階級」であるのだ。

    ・以下はその下の「上級官僚族・三等官」かここに位置づけられるのだ。
    「最高級官僚」の「大掾官」である。
    「大掾官」の意味合いが判る。

    事務官としては次の様に位置付けられる。
    大志・正八位下相当
    少志・従八位上相当
    医師・(正八位下相当)
    ・以下は「一般官僚」である。
    門部 宮門を守衛
    衛士 宮門を守衛
    物部 通行人を検察
    使部
    直丁

    従って、「賜姓臣下族青木氏」は、「浄大一位・これ以上の格式はない・天皇に継ぐ位」であり、従って「官僚族」では無い事から、この「扱い}では上記の表から外れて「別格」の「左衛門上位大督」であって、後に記録に依れば「左衛門上位大佐」と成っていたとされる。
    「青木一族」はこれに従い「諱号」は、後裔の者は「・・佐衛門・・」や「・・右衛門・・」と名乗っていた事が遺されている。
    従って、上記の「伊」とこの「佐」との組み合わせは、「佐」は「最上位に用いられる格式語」であって、「730年頃の好字令・実質」に依っても、全ては「二字制」と成った事で「伊と佐」の「伊佐」の「諱号や諡号」は疎か「地名」もこれが「好字令」に依るものである以上は、他が使えない「最高の格式の組み合わせ語の語意」を持つ様に成ったのだ。

    注釈 先ず、そこで余談であるが、筆者の知り得る「官位の歴史観」に依る感覚からは、遺された伊勢青木氏の戒名からの資料や口伝では、一段階下に設定されている気がするが、兎に角もこれを論じて観る。
    そこで、「伊勢、信濃、近江」の「三家」に於いての「青木氏」は、「記録」から「以下の階級」にあった事が記されている。
    但し、最上位の「督・従四位下相当」の記録は、「青木氏族」には記録としては未だ見つからない。
    然し、「従四位下以上」の官位では、「青木氏族の最高位」は、以前も論じている様に「正三位の位置相当」にもあり、「日本書紀などの三代歴史書籍」の記する処でも、「冠位」では「浄大一位」の「天皇」に継ぐ「施基皇子の永代冠位」と成っている。
    この処を勘案すると、「賜姓族臣下族」である以上は、どんな事が有っても「青木氏一族」は「下記の2階級の通り」と成るし、伊勢の記録もその様に成っている。

    「格式上」からは「浄大一位」を想定していない事から、“相当”と云う表現でこの「資料のズレ」を修正しているのではないか。
    つまり、次の様に成る。
    「上佐」は 「従四位下」に相当と成る。
    「佐」は 「従五位下」に相当と成る。
    後に「上」が着く階級が加えられた。
    「上尉」は 後に「大尉・従六位下」に相当と成る。
    「尉」は 「後に「少尉・正七位上」に相当と成る。

    従って、「上記の官位と軍位」を持つ事から、「伊」にこの役職から「身分・格式」の「佐」を着けて、“伊佐”の諡号姓を与えられた事と成り、これを結局は「名乗った事」に成る。
    つまり、奈良期から平安期に掛けての社会習慣の中では、誰が観ても当時とては「上記の伊」と「特別格式の佐」と成れば、「伊勢賜姓青木氏族の者の裔系」である事を示していて理解していた事に成る。
    例え、「九州南部の地」であってもこれでその出自や格式は解ったのである。
    では、“「伊佐氏」であって「伊勢青木氏」では無いか”とすれば、飽く迄も「女系氏族」であるので「伊勢青木氏の氏人」と成り、それも「氏族」の中でも「四家の福家」に近い「家人相当の立場」にいた事を意味し、その「伊勢郷士50衆の氏人」が、伊勢格式を有して“「大掾官」を務めて、”南九州に派遣されて、その中の一族が上記で説明する「伊勢青木氏族の氏人の伊佐氏・女裔族」が、これが「後の浄土宗の浄光寺・菩提寺」の「白旗派に近い知恩院派浄土宗の仮住職」を務めていた事の経緯に成るのだ。
    故に、この「浄光寺」は、元はこの「伊佐氏の現地菩提寺」であり、周囲には現在も格式ある「伊佐氏を名乗る裔」が多く定住している地域でもあると成る。
    そもそも菩提寺を持つと云う事はそもそも「普通の格式を有していない事」に成るのだ。
    「朝廷派遣の官僚族」の「大掾官」で在りながらも「派遣地」では「押領使・警察権と弁財使・政治権と税」も兼ねる役職であった事に成る。
    故に「官僚族」で在りながらも「統治用の武力集団」をも有し「九州南部一帯」を統治していたのだ。
    鎌倉期以降もこの「武力集団」を以て地域一帯に豪族として統治し揺るぎない「諡号族・第一の姓」として「鎌倉期の役職の地頭の勢力」を張る事と成ったのだ。
    室町期に入り周囲は急激に「第二の姓側」が勃興する中でも、その「伊勢青木氏の裔系」で「諡号の姓の勢力・第一姓族」は其の財で衰え無かった珍しい「諡号族」であったのだ。
    上記の制度の成立当初は、「高位の立場」にいた「白旗派官僚族が成った役職」であった事に成る。
    然し、「鎌倉期」に入り「武家の府政治」と成る「時代」へと進むに連れて、この“「大掾官」”は、後に「名誉職」から遂には「押領使・警察軍」も「弁財使・事務官と税務官」も兼ねていた事から、この「名誉職」が無く成り、これが「一つの制度」として、それが更に「四つ」に分けられ、「国司の三等官」に当たる「官僚役職」へと変化したのだ。
    要するに、「上級官職」と成った事であり、当時はその「時代の変化の代名詞」とも成った。
    そして、遂には何と「室町期」には、行き就くところは、この「掾の格式」は「浄瑠璃の太夫」に与えられた「称号」とも変化して成り果てて仕舞ったのだ。
    室町期には、この平安期までの「伊佐氏の役処や氏族の格式」は完全に忘れ去られ外れ、遂には「諡号の姓族の三大豪族」として「九州南部」に生き延びた。
    唯、念の為にここで追記するが、この「裔の一部」は、“「源氏化の流れ」に沿って生き延びる為に「常陸」に流れて其処に「第二の子孫」を遺した”とする説もある。
    唯、これに付いて「信じるに値しない大きな疑問」があって、この“常陸に流れた”とする説には、この「伊佐氏」は西の端から東の端に流れなければならない所以程の「諡号姓族」では無かったと云う事なのだ。
    つまり、「南九州一帯」に室町はまでに[大勢力を張った伊佐氏」であって、同然に「血縁性を持つ九州北部までに及ぶ勢力」を張っていた「肝付氏」と共に、室町期に成って勃興した「島津氏」と争う程の充分な勢力を持ち得ていたのだ。
    この「伊佐氏」が東北に逃げなくてはならない理由は何処にもないのだ。
    この「伊佐氏」と共存して「九州南部一帯」を支配した「肝付氏」も、「勃興する島津氏」の軍門に下る「逆転現象」でも、この“「大掾官」の「中央官僚」の「格式のある諡号姓の伊佐氏」”も争いを避けて「氏の勢力」を温存してこれに従った時代経緯であったのだ。
    「勃興した役職を得た豪族」の中でも、この“「大掾官」の「中央官僚」の「格式のある諡号姓の伊佐氏」”は、羨まれる程の一段上の格式のそれも寄せ集めでは無い伝統を持った相当な信頼できる武力集団を備えた格式を有する豪族と成って行ったのだ。
    故に、そもそも「常陸に下る所以説・江戸初期」が薄いのだ。
    上記した様に、それ程に使われる「女系の伊勢の裔系の伊佐氏の名誉と格式の氏族」であったのだ。
    念の為に前段でも論じたが、この「伊佐氏」と同然に「肝付氏」も「伊佐氏」と同時代に共に同じ「中央の六大官僚族を務めた諡号姓の豪族」であり、「肝付氏の祖」も「五大官僚族の一つ」でその「始祖とされる伴氏」と「同系の諡号族」であった。
    「中央の六大官僚族を務めた諡号姓」の「肝付氏」も、将又、「伴氏」も後に「968年頃」に矢張り「薩摩の掾」として「官僚族」の一つに任ぜられた豪族である。
    この「伴氏系」は、翌年に「鹿児島郡神食村」に「館」を建てた。
    この「伴氏」は、「三代目」に遂に「大隈国の肝属郡の弁済使」とも成った。
    その子孫は、「伴氏」から「肝付氏」を名乗り、その祖にも成つた「上級官僚族」なのだ。
    以後、この「中央官僚族の伴氏」と「同系族の肝付氏」も「高山弓張城」を居城として大勢力を張ったのだ。
    そもそもこの「中央官僚族の伴氏」は、前段でも論じた様に、「伴造・とものみやつこ」を差配下に置く「青木氏族の配下・伴造」であって、「青木氏裔系」は「光仁天皇以来の諱号」を「伴・とも」とした事で、「官僚の伴氏」はその「伴の諡号」を名乗れずに、態々「大伴氏」とした経緯を持っている。
    この「伴」は「青木氏族の諱号」であったが、この「意味合い」が低下した「平安期末期・鎌倉期初期」には、今度はこの「伴氏の方」が、元の「大伴氏・九州に大勢力圏を持った事」から「伴氏に戻した経緯」を持っているのだ。
    この様に「九州の三官僚豪族」は、殆どはこの「大官僚族の伴氏・大伴氏の血筋」を有しているのだ。
    つまり、「伴氏」から「大伴氏」を名乗らずに「肝付氏」を名乗ったが、その時期」は「青木氏系の天皇の諱号」が、「伴・伊勢青木氏の支配下」とした事の時期に一致するのだ。
    結局、この「伴氏の肝付氏・小掾の格式」は、「青木氏の伊佐氏・大掾」、所謂、この「高級官位」を持つ「三等官役職を務める事」と成った「伊勢青木氏の家人」で先ずあった事であって、且つ、其の上で「氏族の差配頭」が「福家」に代わって「朝廷官僚」と成って務めていた事を物語る物なのだ。
    同時期にこの上記した「高級官僚族」として「南九州」に派遣されたが、同時に関係する「肝付氏」も「弁済使・税務官」、「伊佐氏」は「押領使・警察統治官」として、「平安末期」まで正式に働いた「諡号姓の氏族」でもあるのだ。
    鎌倉期以降はその「格式と勢力で其の侭に「地頭」を務めたのだ。
    共に「朝廷の役務」を分け合って補完しながら「南九州域」を統治した「朝廷の三官僚仲間」であったのだ。
    この「伊佐氏」と同然に「肝付氏」も「弁済使・税務官」で在りながらも、その税の保管の為に“「蔵人頭・財務」”として協力し合って「必要最低限の朝廷の武力」を持ち得ていたのだ。
    恐らくは、故に不思議な事に関西中部関東の三域と違って、この「三官僚出自の者等」は「鎌倉期に成っても争う事は無かった経緯」を持っているのだし、当然に「四掟の女系に於いて血縁関係」にあったと考えられる。
    故に、無格式の勃興族の「後発の島津氏」に対抗したのだし、最後は「島津氏」と互いに決着をつけずに、「島津氏」を主体として「肝付氏等の三氏」を「家老格」に向かえて血縁して格式を高めて存立条件を高め、「北九州の勢力」に対して「南薩摩の防護態勢」を確立させたのだ。
    後に、そしてこの「肝付氏」には「伊佐氏」が、「肝付氏の家老」に入り「融合族」と成って「室町期」を耐え抜いたのだ。
    故に、上記の関東出自説の様な事はそもそも無く、「肝付氏」が東に流れていないと同然にも「伊佐氏」も東に流れる謂れは全くなかったのだ。

    「伊佐氏の出自説論」からも「住職青木氏説」は説明できる.

    注釈 参考として、「薩摩藩の島津家の家臣の西郷氏」は、鎌倉幕府倒壊後、「常陸の国衆」は、「西」に先ず流れ、前段でも論じた様にそこで先ず「伊川津・三河」に入り伊川津国衆」と成ったが、「三河の国」が敗戦後に西郷氏は三河を診限りこの「伊川津」から離れ、その後に「薩摩」まで「流れ薩摩の国衆」として流れた経緯を持っている。
    抑々、この「国衆と呼ばれる者等」はその様なものを注し、特段の意味の事は無い。
    この様に、「出世を夢見る小土豪集団」は日和見的に東から西に流れて行く傾向にはあったが、この時期には西の端から東の端の方に流れる傾向はなかったのだ。
    精々、この「国衆の流れの大方」は「中部域・今川氏」で終わっていた。
    これ等を抱えて大きく成ったのが「今川氏・国衆集団」であって、それだけに「武田氏等」と違って脆かったのだ。
    況してや、西の端の九州域でもその規模は低いが同然の事が興っていたのだ。
    この現象は「肝付氏」と同然の「伊佐氏」でもあり、この結果としてこれが「日向青木氏の経緯」と繋がっているのであり、東には何の因果も無く寧ろこの「流れ」は逆であったのである。
    これを完全に結論付ける訳には行かないが、恐らくは関東より東域に流れたとする説は「江戸初期の国印状獲得の所以・後付け説の第三の姓族」であろう。


    「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」に続く。


      [No.400] Re:「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/01/31(Tue) 11:34:03  

    「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」の末尾

    「浜松城の攻め落としのミス」の「甲斐のセンセーション」から観ても、「三つの三河戦記の後付け説・好感引導説」であると観ている。
    然し、それが「後の長篠での武田軍を滅ぼすミス」と成って仕舞ったのだ。
    この時に、「勝頼」が反省していれば「長篠戦いの戦略的ミス」、つまり、「二拠点化で採った山県軍の別動隊の行動」、即ち、「本陣を崩されない為にも二極点化策の無視」は無かっただろう。
    然し、この「山県軍の別動隊の半数を無くす程の大きな犠牲」は、「額田青木氏の銃隊」の「駿河青木氏の青木貞治隊救出」の為に採った仕方の無い影響だけであったのだ。
    これ等は「現在の現実処理」に於いても学ぶべき「青木氏の歴史観」として、これらの関係する事柄を後の為にも正しく刻んで置かなければならないこれは「大事な史実」であるのだ。
    此の世の事は、直前の「事の勝敗、事の成否、事のリード」の「直前の状況」に拘わらず、“「事の流れを如何に早く正しく見抜いた者”が時間が経った「最後の真の勝利」を獲得するのだ。
    それには「人間」である限りは、その基点は「冷静に成る事を鍛える事」にあるのだ。
    それを獲得した者が「上記した流れを掴む事」が出来るのだ。
    これは「青木氏が求める古代密教浄土宗白旗派」の「仏教の密教経典般若心教の教える処」でもあろう。
    それが「青木氏の氏是」を正しく理解する処にあるとしている。
    そうでなければ幾ら“「青木氏の氏是」を護れ”としても云う程に簡単に決して護れるものでは無い。


    「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」

    前段で論じた「時系列の論」に於いて詳細を「青木氏の面」からより詳しく分析すると「独自の青木氏の歴史観」が観えて来るものがあるのだ。
    これを前段とは違い他の研究者が是帯にしない青木氏だけの歴史観が潜在していてこれを本論で炙り出す事にする。
    そうすると多くの「青木氏の歴史観」だけが観えて来るのだ

    そこで、前段に続いて、再び「三方ヶ原の詳細経緯の検証論」に戻る。

    先ず、その前に「注釈」として、ここで 「詳細経緯 松平軍が先に2時間前に三方ヶ原に向かった事の説の検証」をして置く。

    さて、そうすると「館山街道の湖東村の交差点」から「三方ヶ原」まで「徒士」で、前記した様に「約所要時間2時間半」であるので、「青木貞治」から少なくとも「軍議の最終情報」を得たのは“「朝明け」”であった事に成る。
    そう云う事の経緯なので、そうすると「タイムラグなし」として仮定して観ると、それは「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝明け頃」に成り、上記の「行動の経緯」からは、其の侭では「伊川津」に戻らずに、それは“「館山街道の途中」から踵を返していた事”に「この時の時系列」では成るのだ。
    そうすると“「時間的」”には、ここで“「仮寝程度の多少の休憩の時間」が有った事”に成るのだ。
    そして、従って、そこで、その仮寝後に其の侭に直ぐに「三方ヶ原」に向かったとして、「額田青木氏・国衆・銃隊」が、「12/22 10時半過ぎ以降」には計算では「三方ヶ原」に到着している事に成る。
    然し、この説では、「額田青木氏の国衆の銃隊」は「タイムラグなし」なので「夜通しの行軍」であった事に成るが、それは物理的に「疲労の限界」が起こり難しい事になる。
    この「時系列」では、「判り易くする為に、「タイムラグなし」の「最低丸二日の行軍の検証」であるので、絶対に休む必要があった。
    さて、そうすると、そこで“何処でその休息をとったか”と云う検証に成る。
    そこで「休息を採れる場所」に成るのは、「堀江城」の西に向かった「武田軍の本隊」と「館山街道の湖東の交差点」で分かれた時点からの間と云う事に成る。
    恐らくは、この設定ではこの「館山街道の湖東の交差点」と「三方ヶ原までの間」で“「休息」を採った”と考えられる。
    そうすると、それは「情報を受け取った時点・夜明け早朝」が「判断キー」に成るだろう。
    「額田青木氏の銃隊」が、「武田軍後尾を追尾している事」は、「青木貞治」も情報から判っているので、「三方ヶ原」に向かう程に要するに“「危険域」”は増す事に成るので、それは“充分に「情報」を伝えて相談して打ち合わせられる安全域”である事で決めるだろう。
    そしてこの「情報を確実に獲得出来得るポイントの限界」の位置は、それは“唯一”ある。
    そこは、間違いなく、“「館山街道の湖東の交差点の域」”であろう。
    物理的に地形的に観ても、「350の兵を休ませる安全な場所」としては、ここで無ければ成らないだろう。
    つまり、“いざ”と云う時には、「伊川津の西に向かえる場所」でもあるし、「貞治の駿河青木氏救助と云う流れ」に成った以上の時でも、「青木貞治からも会議の情報」を受け執り易い場所でもある。
    其れは更に「休息の為」と成れば、つまり、「水食糧と云う補給と云う事」に成れば、「浜松城からの支援」は、上記の経緯より無理であって、後は関係する処とすれば「駿河青木氏の盤田見附の西光寺からの支援」を受ける事が敵る場所に成るだろう。
    そして、ここは、一方で「駿河青木氏の青木貞治」の方から観れば、「館山街道の湖東の交差点の域」まで「徒士」で「約4時間の位置」にあり、「救助の為の新しい作戦に仕える情報」を提供する事には「ぎりぎりの所」にある。
    上記の通りであると、「休息」などの「タイムラグなし」での出発は、「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝」に成るので、つまり、「伊賀青木氏の香具師・忍者」の「情報伝達」にて、「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」は観える様に得ていた事に成るからだ。
    此処で、先ず間違いなく「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」は止めて休んでいた事に成る。
    前記で「タイムラグなし」として論じた場合は、“「急いで三方ヶ原に向かった」”としている「論調の詳細経緯」には、此処には“この「休息時間帯」が有った筈”である。
    だから、「松平軍の鶴翼の陣形」が整った後に、海側の“「左鶴翼の南側面頭部分の後ろに近い位置」に着けた”と成っているのだ。
    この上記の時系列ではここでは符号する。
    そうすると、北側に荷駄を壁にして「盤田見附」からの「供給・12/21 危険を避けて夜中10寺頃盤田出発」を待ち、到着後、そこで“食事や睡眠等を採った”とすれば、最低でも「8時間〜9時間」は所要した事であろう。
    「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝」より「8時間〜9時間」を戻して、されは「夜中の12/22 午前0時から1時頃」と成る。
    故に、此れには「情報の新しい伝達」が「前提条件」と成る。
    常時、「香具師の伊賀青木氏の忍者」を通じて「情報交換のやり取りや援護役」をしていたと観ているのだ。
    故に、この「軍議の内容」は元より、“「休息位置や出発時刻や救出作戦」等の詳細を常時に「青木貞治」と打ち合わせていた”と考えられるのだ。
    その程度の事は、前段でも論じている様に、秘密裏に随行していた「香具師の伊賀青木氏の存在」から観て充分にしていたし、その「組織能力・伊賀青木氏」は充分に有って優れていた。
    故に、それどころか筆者は、「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」に合わして、万が一の場合に備えて、“「伊勢水軍・食料や救出援軍」を「浜名湖の沖」に廻していた”と考えているのだ。
    この「額田青木氏や駿河青木氏」を左右する程の「重要な戦い」に「使える戦力」は全て使っていたと観ているのだ。
    その考えからすると、この執るべき作戦上は、そこからはそうなれば「小舟」を「大谷川の入り口」に廻して置けば「10分間」で「額田青木氏の休憩のタイミングを救える事」に成る。
    だから地理的にも、「館山街道の湖東の交差点の域」が最も「全ゆる行動の分岐点」の“「絶対条件」”であった事に成るのだ。
    「伊勢水軍」もこの「伊川津から盤田沖までの海域」に常に配置して廻していたと考えられる。
    「伊勢水軍大船6隻」と「伊勢青木氏の商大船3隻」と「駿河青木氏の1隻」の何と「10隻」を廻していたのだ。
    この「船籍不明の大船・青木氏」を海に観るだけでも「船を持たない武田軍」に執っては、「青木氏族」に対しては、“寝る子を起す様な馬鹿な真似はしない”であろうし、“それも当初から警戒して気が引いていたであろう事”は、これらの「状況証拠の読み込み」でも充分に判るし、この事は恐らくはこれらを観て先ず積極的に成る事は間違いないだろう。
    其れこそ「武田軍本隊」は、この「青木氏族に対する総合的な抑止力」のこの“「流れ」”を読めていなかった事に成るからだ。

    然し、さて「時系列論」に戻すとして、この時は、丁度、「軍議」がほぼ決まり、「野戦」に向けて「松平軍」は「三方ヶ原」に「到着すべく準備に入り始めた頃」である。
    そして其の後は、「鶴翼の陣形」を「時間・4時間」を「左下向きの「原・平均海抜57M-38M*100M」に何と西に向けて敷き始めた頃合いであった。
    要するにこの時には、「約最大で18時間のタイムラグ」が発生している事になるが、こんな事は先ずあり得ず、その「ロスタイムラグ」を吟味しても、少なくとも半分程度の「10時間程度のタイムラグ」はあった筈だ。
    そうすると、逆算すれば「武田軍本隊」が、「浜松城前」を「西」に向けて通過した「時刻・12/21日 17時半頃」としていて、そこから「額田青木氏の国衆の銃隊」は、“「武田軍本隊の動向」を“「最後尾」から「館山街道の湖東村の交差点」”までを「追尾していた事の時期」”に成る。
    恐らくは、「武田軍の本隊の最後尾までの所要時間」と、「その移動速度」等を勘案すると、計算では「堀江城付近・5〜7時間」まで追尾していた事に成る。
    然し、つまり、上記の「休息時間等」を勘案すると、逆に云えば寧ろ、間違いなく「館山街道中間地点の湖東村の交差点」で追尾を止めた事に成る。
    この「追尾中止」は、上記した様に「休息」と「情報収集限界点」と「行動の戦略点」であった事に成る。
    従って、「武田軍本隊」が、「堀江城へ出発・到着後12/21日 20時に開戦」なので、そこから、「翌日の落城後」に「現R65号の旧堀江街道」を経由し、「館山街道の湖東村の交差点」を右に折れて、「三方ヶ原・2時間半・16時頃」に到着した行動経緯と考えられる。
    恐らくは、「上記の計算」では、最低限で計算されているので、「大軍を動かす事」には最低では無理である。
    そこで「ロスタイムラグ」に、「額田青木氏の銃隊」の「休憩等の行動と行動中の陣形の編成」を見込めば、少なくとも「堀江に向かう事」が完全に確認できる「ポイント」は、“「館山街道」まで"であるとする。
    そうすると、此処までは間違いなく追尾し休息へと持ち込んだ事に成ろう。
    そして、「休息12/22 8時頃」が、「終わり」にして「堀江城」と「三方ヶ原」に向けて「第1回目の偵察」を出したと成る。
    「堀江城」が「落城間近の確認」と「三方ヶ原の様子」を確認し終えた時期である。
    そこで、この「状況把握後」に「三方ヶ原」に向けて「額田青木氏の国衆の銃隊」は、「三方ヶ原」に再び向けて開始した事に成る。
    そうすると、この時には既に「三方ヶ原」では「南に傾いた鶴翼の陣形」は出来ていた事に成る。
    上記した様に、「12/22 10時半過ぎ以降の計算」では「三方ヶ原」に既に到着している事に成るので、且つ、「4時間後」の「12/22 14時半過ぎ」に「鶴翼の陣形」は完成していた事に成る。
    そこで、「額田青木氏の国衆の銃隊」は、「伊賀青木氏の情報」で、「15時後半頃〜16時頃・開戦直前の16時直前頃」に、“こっそりと「鶴翼の左側面」に隠れて位置した事”に成る。
    ここが重要であって、“こっそりと「鶴翼の左側面」に隠れて位置した事”に意味を持っているのだ。
    「額田青木氏の銃隊」が「鶴翼の左側面」に着くのが、あまり早すぎると騒がれるので、開戦間際の「15時後半〜16時直前頃」だとすると、逆算すると「休息した後」の「朝の起床」から、「三方ヶ原の隠密行軍時間・2時間半」を計算するとして、「開戦後の行動の記録」に「無駄な行動」は無いので、又、「陣形の完成後の少し後・こっそり」が好ましいので、これを「15時後半〜16時直前頃」とした場合に、その「行軍開始時間・2時間半所要」で、「13時〜13時半頃」に出発した事に成る。
    つまり、、「武田軍の到着・16時の直前」をタイミングを図った事に成るので、起床から「額田青木氏の国衆の銃隊」は、“「約3時間程度の準備時間」”があった事に成る。
    この間、起床後、ここに停留しながら「偵察」を始めたとした場合は、「準備態勢造りと情報交換等」にこの時間を使った事に成る。
    そして、そこで「伊勢水軍」なども含めて「伊賀青木氏等の偵察行動・三方ヶ原や松平軍や武田軍や山県軍の動向や駿河青木氏の動向確認」も始まったのだ。
    そして、この間に「全て情報」を纏めて「南下国衆の銃隊の指揮官」は、「救出作戦の命令」を「銃隊」に詳細に出し、「駿河青木貞治隊」にも「到着時刻や武田軍の行動の全内容」を伝えた事に成る。
    この「全ての手筈」を完了させてから、「2時間半から3時間」を架けて三方ヶ原に向けて「進軍」を開始し、「13時半〜15時半頃」には、その「鶴翼の左側面・開戦の1時間弱前」に「様子を見る為」に“ぎりぎり”に着いた筈なのだ。
    筆者は、「三方ヶ原の戦場」の「鶴翼の左側面・開戦の1時間弱前」に行成り着いたとは思えないのだ。
    何故ならば、「松平軍」にその「行動を晒す事」は最も避けなければならない「救出作戦」だし、その「意味」が無く成る。
    要は、この「戦場の近くに潜む」か「やや遅れ気味に到着する」かにあったのだ。
    何方にも「長短のリスク」を持っている。
    先ずは「潜む事」にあるだろうが、広く、且つ、大勢の目があり発見される事は必定である。
    矢張り、“開戦ぎりぎりに目的とする救出に最適とした場所に着く事しかない無い”の事に成ったのだろう。
    そうで無くては、“開戦後やや遅れて”の「上記の救出劇」は難しいのではないか。
    然し、「戦記の幾つかの記録」から察すると、前段でも論じた様に“やや遅れて鶴翼の左翼先端の所に着いた”としている傾向にある事から、此れを正しいとすれば「問題」と成るのは、“やや遅れて”の「表現時のニュアンス」や「表現時の正確さ」に影響するだろう。
    仮に書くとしても、“やや遅れて・・・”とは書くだろうか。
    然し、この“やや遅れて・・”は「戦略上は重要な要素」であったのだ。
    だから“やや遅れて・・・”は、文脈からの「読み手の続解力・想像力に左右される事」に成るし、同時に「書き手」にも「表現力の差」が生まれる。
    だから筆者としては、そうすると、この“やや遅れて”の“「タイムラグ」はどの程度のものか”と云う事に成るが、そうすると、“「開戦開始時」”は「戦いの作法」として、「指揮者から軍配」を上げた時、即ち、「時の声」を“ワーとして両者は上げる”が、この「時の声」の“ワー”を合図に、「鶴翼先端の左側面」に着いてその直後に先ず「左の武田軍本隊に向けて弾幕」を張り進軍を牽制して、今度は左に位置していた「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」には、「山県軍の別動隊の突撃隊」に、やや右に向けて「行動開始を牽制する銃撃命令」を架けた事に成る。
    これで、「武田軍本隊」は、「銃撃の凄さ」を二度も経験している事からこの時の犠牲が無かった事を記されているので少し進軍をしたところで停止した事に成る。
    ところが、「山県軍の別動隊の突撃隊」にやや右に向けて銃撃を架けたが停止する事がなく「突撃」を続けた事に成る。
    それにはそもそも“「進軍の目的」”が違っていたからだ。
    「山県軍の別動隊」は、そもそも「物資の供給基地築城の目的」があったが、「武田軍本隊の置かれている位置」を考えた場合は、山県の指揮官は、“今は本隊を救う為”には、その為には“「突撃隊としての側面突撃攻撃」をして、その「松平軍の崩壊」にあり、それはそもそも「山県軍の置かれている位置関係」にあって、「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」のより「左の鶴翼の頭部寄りの北の位置」にいたからだ。
    「武田軍本隊」の目的は、上記した様に「松平軍の鶴翼東部にいる家康本隊の壊滅」にあった。
    当然に、それはその「目的とする達成の時間差」に問題があって、当初は「武田軍本隊は停止する事」に「時間」を求めていなかった事だったが、「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」により「進軍」を止められてしまった。
    ところが「山県軍別動隊の突撃隊」は開始すると止める事は不可能であり、進軍しかあり得ない状況が生まれたのだ。
    此処に「戦術的な差」が働いていたので、この「資料の表現」としては、“やや遅れて”は「戦略上の重要な要素」と成って働いていたのだ。
    此れを「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、この“やや遅れての戦術”を可能として彼には“既に読み込んでいたのではないか”と考察できるのだ。

    筆者なら、この「到着の時間の問題」は、先ず「陣形」が整い、「救出すべく駿河青木氏の位置関係」が「確認出来て」、且つ、それを「合図」で出来て、「救くい出す作戦の間」が採れ、且つ、「松平軍が騒ぐ事の出来ない寸前」が、“丁度良いとする”が、恐らくはその様にしたのは間違い事ではないだろうか。
    史実より「16時開戦」なので、そもそもそうすると、“「16時直前>16時半前頃」を選ぶのが作戦上は常道で、故に「上記の検証の時系列」からもどうしてもこの“「時間帯」”となろう。
    恐らくは、「武田軍本隊の行動の情報」は、「伊賀青木氏」に依って探り出され随時獲得していたので、“計画のズレ”が起こらないか、その「計画時期」を観てやきもきしていた可能性もあるが、然し、検証結果は、さて、所が違うのだ。
    それは要は、「武田軍本隊の動きを正確に抑える事」で、“計画のズレ”が起こっているかどうかは極めて簡単に把握できていたのだ。
    「額田青木氏の銃隊の指揮官」に執っては、その力は伊川津の国衆であったとしても遥かに「国衆の力」を超えて、それは、最早、その「潜在的な力」は少なくとも「額田国の軍」として扱われる様に、こんな事は「全青木氏族と伊賀青木氏の忍者」が連動している限りは、何の問題も無く、寧ろそれ以上であって、“朝飯前の事”であったのだ。
    そしてその中の「戦術師の香具師」を含めた「伊賀青木氏の忍者」は、「全青木氏の存在を左右させる作戦」である以上は、“「全忍者軍の投入であった事」”は、「全ゆる記録資料の読み込み」から間違いはない。
    中には「武田軍本隊の中」にも潜り込んでいて「情報」を入手していただろう。
    何故なら、この「武田軍本隊」の中には「記録」に依れば、「武力集団」では無い「神職の信州青木氏」には「武田氏に関わった「記録の散見」は無いが、その「親族の武力集団族」であった「諏訪の夕姫」で有名な「信州諏訪族」が、その「武田軍の中核に位置付けられていた事」の「史実」が遺されている。
    この事から、この「信濃諏訪族系青木氏の縁者族」が居たのだ。
    この事と「武田氏系青木氏3氏も存在した事」もを「歴史観」として頭に入れておかなければならない。
    「青木氏」としては「伊勢の情報入手源」としては、先ずこれを態々放置する事は無いだろう。
    戦う以上は、それを「額田青木経由」で伝えていた筈だ。
    故に、この「微妙な表現」のこの“やや遅れて”に成り得ていて、これが戦略上は容易に成り立っていたのだ。
    そもそも「350の銃隊」が動く以上は、「完全に隠す以上の事」は三方ヶ原まで同定の地形から先ず出来ず、筆者は「武田軍の本隊」もこの事に付いては事前に知り得ていた事だと考えているのだ。
    仮に、これ等の「伊勢までの縁者関係の矛先」が、「武田軍の中に入り得ていた事を知り得ていたとして、度外視はしていなかったと考えている。
    だとすると、この「全青木氏と戦う事の感覚」は、「武田軍側」には「呉越同舟の感覚の中」にあた可能性は否定できない。
    「伊川津の国衆」に成った時に、「特別の約定」が松平氏とあったとしても完全に「松平軍の国衆」としては観ていたかは疑問に成る。
    それが筆者は「一言坂から始まる戦い方」に現れていたのだと観ているのだ。
    この時には、即ち、「一言坂以降」は、「両軍・武田軍本隊と額田青木氏の銃隊」に執つて、確実に“「呉越同舟の関係」に成っていた事”に戦況の経緯から成ると観る事も出来る。
    故に、「武田軍本隊の最後尾の側面」に着いて密かに「平衡進軍していた事」に成ろう。
    「武田軍本隊」は、「最後尾側面を追尾して来る額田青木氏の銃隊の目的」が「駿河青木氏の青木貞治救出の目的である事」を、この事とで薄々気が着いていたのであろうと観る。
    故に、抑も、“一言坂の遭遇戦でも敵意が無い事を知っていた”し、「堀江城に向かう武田軍の本隊」の最後尾を銃撃で攻めずに放置していた等の事・武田軍の最も危険な事」を知れば、それは充分に理解し承知していた事に成ろう。
    そうすると、所謂、“「呉越同舟の関係」で黙認する事に成っていたのだ。
    だから、「三方ヶ原」で「武田軍本隊」に「弾幕」を張った時に「武田軍本隊の進軍」は「敵意の弾幕では無い事」を知って直ちに止めたのだ。
    これは「貞治隊を救出する目的」を知っていたからだが、ところが「山県軍の別動隊への銃撃」は「救出の目的を知らなかった事」と、「額田青木氏の銃隊の後部右側面」に向かって来た「突撃隊と云う宿命」で、「銃撃は止められなかった事」と、そうでなければ「救出の目的」は、兎も角も「額田青木氏の銃隊」そのものに「犠牲」が大きく生まれるからであったのだ。
    これは“最も避けなければならない考慮の点”であったが、これは其処まで「山県軍の別動隊への本隊からの情報伝達」が執れていなかった事でもあろうと観る。
    これは「戦時の中での事」では「やむを得ない事」ではある。
    一方、「山県軍の別動隊」としては、「鶴翼の先端左の隅」に突然に現れた軍を”「松平軍」として見間違えた事から来るものであった事”が「読み込み」でも判る。
    ところがそれが何と「観た事も無い威力の銃隊」であったのだ。
    「後ろに無力の補給基地築造隊を引き連れた隊」が前進して突然に突撃した以上は、後は其の侭に突っ込む以外には最早無く、「大きな犠牲」を「額田青木氏の銃隊」に依って払わされるう以外には最早無かったのだ。
    これを左横から観ていた「弾幕で停止中の武田軍本隊」は、「山県軍の別動隊の救出劇」を敢えて演じなかったのだし、出来なかったと云う事であろう。
    其れは更に「傷を深くする事」は間違いないので、それは「一言坂の遭遇戦の経験」で判っていた。
    そもそも、 これは「山県軍の別動隊の突然の行動」は「信玄の戦略」の中には全く無かった事なのだ。
    然し、結果は「大犠牲・1/2」を「山県軍の別動隊の方」で起こしたが、「鶴翼の陣形の弱い所を突いたと云う事」では大勝利に導いたのだ。
    その証拠に、「三方ヶ原後」の「国に帰った武田軍」の「軍議」では、「指揮官の山県」は、“その責任を問われなかった”と記されている。

    注釈 ここで気に成るのはある戦記では無責任にも「額田青木氏の銃隊」を「松平軍の銃隊」と記されている事である。
    この事に付いて補足して置く。
    その「銃の数の全て」を「松平軍としている通説」がある。
    そもそも全国的に観て、「松平軍」が当時この様な「多数の銃を持ち得ている事」はそのものがその「財力」から100%あり得ないのだ。
    これを注釈として、そもそも「銃の歴史観」としてこの時代の「火縄銃の銃」は全て殆どはその「生産技術」も然り、「雑賀根来の生産者の手」に及び生産されていたのだ。所謂寡占状態であった。
    これを「共同組合」を造り「門外不出」で入手はそもそもできなかったのであり、彼の「信長」さえもがした様に、この「雑賀根来の銃隊を高額の契約金で雇う事・傭兵銃隊」以外には無かったのだ。
    「信長」は、「楽市楽座」で得た「商いの利益」で、それを「高額の金額で何とか傭兵での契約をした事」は記録に遺っている。
    この“「契約」”も「裏ルート」に通じていた「蜂須賀氏」が「信長」に仕える前から「闇取引の支配人」を生業としていた豪族であって、これを通じて成し得た事も「史実」であったし、「信長」に「蜂須賀氏を紹介した」のは「元蜂須賀氏の子分であった秀吉」であった。
    従って、この「高額の3000丁の銃・1000丁の説あり」のそれも「近代銃等を獲得出来る事等は甚だしい歴史観の不足と誤認であると断じているのだ。
    この当時は他に「密輸入の火縄銃」は、初期は「2000両/1丁」であった事が明確に記されていて、然し、室町期末期には「4000両/1丁」と跳ね上がっている事も「史実」であったとそうした記録が遺っている。
    これでは幾ら「信長」でも買える代物ではそもそもなかったのだ。
    だから、「生産者」であって、且つ、「共同組合」を作って互いに護り「雑賀根来の銃傭兵集団」が成り立ったのであって、当時は“何とか銃の傭兵で銃兵力を獲得できたとする歴史観”であったのだ。
    そもそも「松平軍」が「銃兵力を獲得できた時期」は、その後の「秀吉の刀狩り」で多くの藩や豪族の持つ「銃力」は一時殺がれていて、これはその後の「長篠の戦いの直前」に得られた「輸入火力」である。
    「長篠の直前」には、「唯一の銃生産者」であった「根来族」が「信長の力の攻め」で先ず潰され、続いて「雑賀族・鈴木氏」が「信長の調略」で「仲間の土橋氏」と分裂させられた後に、その結果として衰退してそもそもの「国内の銃生産力」は無く成ったのだ。
    この時に「雑賀」と「根来」に所属していたここの“「鍛冶師」”は全国に飛散して、結局は、この「締め付け」が無く成り、勝手に「粗悪な火縄銃を生産する破目・砂鉄」に成った。
    そこで「財力に自信のある者等」は、我先にこの「鍛冶師」を獲得し、「火縄銃」そのものを「砂鉄の玉鋼」で「悪質な銃・粗製乱造」を製作し獲得したのだ。

    注釈 「松平氏」もこの時に「長篠の戦い仕様」だけに獲得していた事が記録から判っているのだ。
    「砂鉄の玉鋼」で「悪質な銃・粗製乱造を製作」に付いては、この「直前」に大阪に「砂鉄の玉鋼」の「市場の開設・店」を歴史上で始めて許しているのだが、これはこの時の全国に散った鍛冶師の求めに応じた「需要の為」にであった。
    「近江日野の鍛冶師の大半」は「伊勢の青木氏部に戻った事」が歴史に遺されている。
    “「松平氏」もこの時に「長篠の戦い仕様」だけに獲得していたのだ”の検証では、「家康」が天下を取ったその直後に、再び、秀吉に次いで弱まった「刀狩りの禁令」に継いで「銃の保持の禁令」を直ちに出しているのだ。
    これは、“「長篠の戦い仕様・現実に松平軍」は、然し、この銃をこの戦いでは殆どは使っていないのだし、即ち、「悪質な銃・粗製乱造を製作」であった事”の故に、、「この為だけに獲得した銃であった事」を示唆しているのだ。
    その後の「関ヶ原の戦い」でも、この「上記の火縄銃」を積極的には使っていないのだ。
    その「重大欠点」は、前段で詳しく論じた「額田青木氏が挑戦した鉄の欠点・論文」にあった。
    それが尚に「玉鋼の銃の鉄」には、「更に余計に出る質の鉄」なのであった。
    此処で、この事を知っていたかは前段で論じた様に、「長篠の戦いの雑賀根来の銃傭兵軍団」が示した「顕著に表した欠陥」であったが、その前後にも「火縄銃の欠点」は知り得ていた「史実」であった筈で、「松平軍」は「長篠」で「直ぐ横の500Mの所」に陣取ったにも関わらず「所持していたとする銃」に手を出さずにして、この「火縄銃の持つ銃」を使わなかったのだ。
    寧ろ、頼れなかったと云う事では無いか。
    これはこの「重大欠点」を知っていたからに過ぎない。
    その現象は、「信長軍」はこの「銃力に長期間に於いて全て任して頼った事」で起こった大事件であったのだ。
    前段でも詳細に論じたが、この時点では、「火縄銃の過信程度」であって、この「時点での欠陥点の欠陥そのものの認識」はそもそも無く、且つ、比べるもの比べる技術者が無い為に不明であった筈である。
    然し、この時、「伊勢青木氏」は、これを既に判っていて、それを起し難い「フリントロック式改良銃」で当に「欠点解決の挑戦」に「取り組んでいた時期」でもあったのだ。
    寧ろ、未だ世間はその「欠陥」を知らずに「銃の威力・10倍/1兵に驚いていた範囲」であった。

    「家康」は、これを「三方ヶ原の戦い後」に「駿河青木氏等」から「一言坂」や「三方ケ原」の「戦いの時の状況等」に付いては、その「成否」に付いては別にして、「三河戦後記」を三つも出している限りはこの事に付いて「伊勢青木氏」から具に聞いて知っていた筈なのだ。
    その後の「江戸初期以降の火縄銃の評価の経緯」は、開幕と同時に出された「銃禁令の事」もあるが、その「火縄銃に持つ銃欠点の事」も遂には世間に広まり、“長期間連続で使え無い事”も知り得た事もあって、何と一挙に“1/4000にまで「市場価格」が下がった”とある。
    この「市場価格」で観れば、この「欠点の事」もあって、「火縄銃の価値」は要するに全く無く成ったのだ。
    「額田青木氏の欠点改良の銃」は、前段で論じた様に技術的高さでそれを真似をされて製造される事は元より無かったが、「保持そのものの意味」も「安定の社会と成った事」で無く成り、「伊川津と三河」で営んだ「商い」や「開発業や運輸業や殖産業の安全」を維持する為にだけに暫くの間は保持していたとある。
    其の後、“青木氏一族の間で一斉に廃却をした”と成っているのだが、この「一斉に廃却したとする事」には意味を持つのではないか。
    何故ならば、“「家康が三方ヶ原の事を知った」”と成れば、「国衆」から家臣に成ったとする「駿河青木氏の後裔等・御家人近習衆の関係者等」にも手を廻して「額田青木氏の持つフリントロック式改良銃の事」を求めて来た事は普通に考えても充分に有り得た事として考えられるからだ。
    当然に「青木氏の氏是」からと「その政策の目的」から断った事は当然であり、故に疑念を持たれる事を避ける事もあって、“一斉の抹消焼却処理と成ったのではないか。”と観られる。
    この様な物が何らかの理由で世に出る事が起れば、「フリントロック改良の欠点解消の銃」は、それは「300=100/兵=30000の軍勢」と成り得る。
    これは戦略上では極めて拙い事であり、この事で後日に“「家康との話し合い」が起こったと観られる。
    そこで、当然の事として「松平軍が持つ」か、又は「青木氏が廃却」するかの議論に成ったと成る”だろう。
    天下泰平の為には、戦後間も無い時期でもあり、「家康の松平軍」に執っては「敵なしの松平軍」を造り出せる。
    筆者は、これで天下を完全平定させて、“家康は持つと考えた”のではないかと観る。
    然し、再び、「浜松城軍議」に続き、「額田青木氏」は“断ったと云う状況”に成り、その「条件」として「伊川津の殖産を始めた額田青木氏が警備の為に持つ事」は、先ず当然の事として当然に要求を避けて、“一斉に一族は廃棄”の結論に「双方話し合いの中」で落ち着いたのではないか。
    「家康の家臣」に「貞治の後裔・長男」は「武蔵藤氏の御側衆の御家人衆」と成っていたので、この「決定」の意思疎通は尚やり易かったと観られる。
    後は前段の「三方ヶ原の詳細経緯の通り」であり、上記の論は前段でも論じている「状況諭」とも云える「間に挟む追論」である。

    以上等の「追論の為の検証記録を総合」とすると、この考察は、唯一、「山県軍の別動隊の行動を全て読み間違えた事」からの物であって、つまり、これは「青木氏の氏是に反した事に成った事」であろう。
    つまり、それは、“何れの「戦いにも避ける」”事が「必要な戒め」であった。
    そこで、では、世の中はこの様に「掟通りには行かない」が、そこが「氏力全て」を使ってでも「掟通りにする」のが「氏是」である。
    ではそれを防ぐにはこの“「予兆」を「全能で察知する事」に「指揮官の務め」があって、では“その予兆は無かったのか”であるが、筆者は在ったとして次の様に観るのだ。

    先ずそれが主に次の様に成る。
    「山県軍の別動隊・補給基地築造隊」である以上は遅れた事・A」、
    そして、上記した様に副は次の様に成るだろう。
    「武田軍の本隊の三方ヶ原到着布陣時の危機の事・B」、
    最後は、その「“主副のABが連動した事以外・C”」、
    以上の「三つの事以外」には「予兆」は無かっただろう。
    予測としては、「AとB」は事前に考えられた事であろうが、“流石に連動する”の「C」とは考えは及ば無かったと観られる。
    要は先ず「主の予兆」は「A」であっただろうし、そうすれば結果としては「副の予兆」の「B」は連動しなかった筈である。
    つまり、「青木氏の氏是」に反して有史来上に於いて「全青木氏側」に於いて最大にして無駄な戦死者を出した事に成り得た事に成っていた。
    故に、戦後に、この事に付いて「伊勢の祐筆」は、“「事の次第」”を重く見て、「この時の額田青木氏の指揮官等の話」を良く話を聞いて「伊勢青木氏」では敢えて「記録」に遺して「向後の戒め」としたのであろう。
    そして、故に、主に「伊勢で記録や資料」を一部で遺し得たのだと考えられる。
    然し、「其の後」に於いて「全青木氏族」に於いて“「武田氏からの報復」”は無かったのだ。
    ここが「歴史観として重要な処」であって、上記した様に、「山県軍の別動隊の銃の犠牲」から考えれば、あり得る筈の「敵視」が、その「敵視をしていなかった事」を意味するのだ。
    一部の「三河の戦記」では、“「武田氏からの報復」”があったとしているが、この「報復をさせしめなかった程」の“「財と武の強大な抑止力」が備わっていた”と表現する事の方が正しいだろう。
    そもそも「三河の戦記」に家臣でも無かった「伊川津の額田青木氏の事」を語るのがそもそも変だ。
    そこで実際に、“報復を計画されていたのか”を研究したが、それを「物語る資料」は兎も角もその「行」さえをも見つける事は出来なかった。
    筆者は、“報復を計画されていたのか”に付いては、“そもそも計画そのものがされていなかった”と観ていて、それの最も、“その「表れ」”として出て来るのは、上記した様に「武田氏の統治下に置かれていた信濃国」の「信濃青木氏か、その縁者の「諏訪族青木氏の影響」として表れていた筈である。
    然し、それは記録から全く無かった事から、“報復を計画されていたのか”は、矢張り“無かった”と結論付けている。
    そこでその“一つとしての証”は、先ず、それは「伊勢と信濃と諏訪族の三氏の青木氏の血縁」は続けて成されている事にある。
    それは更に次の事にある。
    又、前段でも詳しく論じたが、そもそも「信濃諏訪族の夕姫」は、強引な政略婚に於いて「勝頼の母・諏訪御l料人」に成り、その「出自先」は、「伊勢や信濃」と変わらない程の歴史を持ち、それは「奈良期初期の渡来族の馬部」で「信濃」に入植し、「信濃王」と共に“「未開の地の信濃」を「放牧の国」に仕立てた”として、「天智期」にその「大功績」が認められて「信濃王」と共に都に呼び出され「叙勲」を受けて「高位の格式」を有する「神職諏訪の賜姓族青木氏」に任ぜられたとあったと書記等にもよく記載あり、「諏訪神社建立の権利」を特別に認められたしているのだ。
    故に、「諏訪御料人」と特別に呼ばれる所以であるのだ。
    従って、「諏訪族の縁者とされる伊勢と信濃の青木氏族」には「勝頼は攻撃する事」は100%無いのである。
    現実に、「長篠の戦い」にはこの様な歴史的経緯から「赤兜の騎馬兵の馬方」を務めていた「母の実家先」を実戦に参加させていないのだ。
    寧ろ、「吉田城、一言坂、三方ヶ原の銃に関わる戦績」から観ても、「武田氏の方」では、“敢えて戦域を広げる事も得策でない”としていたのではないか。
    この結果として、これは「予兆のAに重きを置いていた事」に成ろう。
    つまり、「額田青木氏の指揮官貞秀」と「駿河青木氏の指揮官の貞治」と「伊勢青木氏」との「三者連携の過程」で「予兆のAに重きを置いて行動していた事」に成り、「伝統の考え方」の“青木氏の氏是を護ろうと努めていた事”に成るだろう。

    念の為に上記の事も含めた「状況経緯の検証分析の追記」をするとして、前段でも論じているが、此処でも何度も記するが、「平安期初期」より一切の縁の無かった「甲斐の青木氏族」の「源光系青木氏・賜姓族系」にも変化があって、何れの上記の「二つの戦い」にも「甲斐時光系本家青木氏の2氏・滅亡」を除いて積極参戦はしなかったのだ。
    これが、然し、生き延びたが「甲斐凱旋時の信長」に、“「その格式権威」”を見せびらかせた”として嫌われて排斥され、最後は「甲斐の巨摩郡の北の奥」で衰退したのだ。
    然し、この時に参戦した「嵯峨期の令」に基づき出自した「時光系青木氏の本家筋」は積極的に敵対して完全滅亡した。
    ところが、この「分家筋の3氏の内」の「2氏」は、「中立」を護り積極参戦しなかった。
    この事で、「戦い中」に「家康」に秘かに救い出され「家臣の一人」の中に匿われながらも最終は「家臣」と成った。
    そして積極参戦しなかった「源光系賜姓青木氏」の2氏は、「武蔵鉢形・柳沢吉保の一族等」に刑として「移住・配流との形」を執り、遂には平定後に形式的なこの刑が解かれ「家臣」と成った経緯を持っている。
    そして、「本家筋の一部青木氏」でも逃げて「家康の家臣」に依って密かに匿われ、後に「松平の家臣」と成った者もいた。
    (記録では、信長に謀反を警戒されない様に極秘裏であった)
    「甲斐の分家の養子系青木氏」も「実家先・本家の安芸・安芸青木氏」に戻り、その後には「安芸松平氏・番方役」に主世したこの「甲斐の青木氏から安芸の青木氏」に成った後裔一族は仕えて生き延びたのだ。
    要するに、そもそも「伊勢青木氏等と馴染まなかった嵯峨天皇系後裔等」は結果として「徳川氏に救われている事」に成る。
    この様に、“「全青木氏族の浮沈」に大きな影響”を与えた後のこの「長篠の戦い」で、その後に上記の様に「他の青木氏族にも大きく変化」を与えていたのだ。

    一般論としては、性格的に“比較的にしぶとい持ち主の一族である事”がこれでも判る。
    これは、上記した様に潜在的に“「流れを読み取るとする性格的観念の持ち主の氏族」にある”と思う。
    当にこれは「青木氏の氏是」にあるからだろうとも思えるが、この「甲斐の青木氏」にはその概念は果たして遺伝的に未だ持ち得ていただろうか。
    そもそも「嵯峨天皇」は、「伊勢青木氏出自の光仁天皇」の子の「桓武天皇の子・孫」に当たる故に「施基皇子の曾孫」であり、「甲斐青木氏・時光系青木氏」は、「義弟の源光系賜姓青木氏の後裔」ではなく、“「義弟が青木氏と成った事」により「義兄である時光」がその裔に成るとして強引に名乗った族”とされているものである。
    故に、「嵯峨天皇系の男系族」とすると、果たして「遺伝的伝承」が「主に女系で依るもので無い為」に、その“「性格的遺伝は叶えられているか」は甚だ疑問”である。
    依って、そこでその可能性は「経緯」から低いと観るべきである。
    故に、これは「伊勢と信濃」は、勿論の事で「四家四掟四門」に依る「母系の賜姓秀郷流青木氏」とも疎遠であった事に由来している。
    仮に、この「遺伝的継承」が成されていたとする場合は、例え、武田氏の家臣であったとしてもその「分家・生存」の様に、且つ、「賜姓源光系青木氏・生存」の様に、“戦わずで組しないとする方策を執っていた筈”である。
    矢張り、これは今でも永遠に持ち得ている「遺伝」であっただろう。
    長かった人世の自分の性格を顧みても、“これは遺伝だなー”とつくづくそう思える。
    当に組したのは、その裔の異なる「時光系武田氏流青木氏の3氏・滅亡」であったのだ。

    これ等の「歴史観の事」を念頭に、「二つの戦いの結末論の事」を「経緯論・検証論」として知る事は必要だった。

    さて、ここで続けて、分けて更に“「布陣」”に付いても「詳細経緯論・検証論」を下記に論じて置く。
    先ず「武田軍の別動隊・三軍」も「戦後始末」も済んで「二俣」から川を超えて間もなく「三方ヶ原・3時間半で」に次々と到着して来たが、この時の「布陣」に付いて論じる。
    それが、前段でも詳細に論じた通りであるが、その時には、先ず、“本来あり得ない「陣形とその位置・鶴翼と川越」”の関係の「二つの事」であったとした。

    それの「布陣」は、前段と上記の通りであるので、ここでは、次に論じる「詳細経緯」は「布陣の位置」に付いて論じる。
    これを観て、「武田軍全体」が到着して、行軍中に「6000の騎馬軍団」を前に中央にして「魚鱗の鶴翼似の陣形」で次々と組んで行ったのである。
    ここが、上記の通り「勝負の分目」と成った。
    その川は、本流の“「都度川」”であった事が判る。
    その「戦場と成った所」は、「詳細に記した戦記」は無いが、「ある江戸期の戦記」では、“その「三角州の右手」の「東側の付近」とされていて、そこに敷いた事が大まかに判る。

    この事に就いて「陣形の位置」に対して「経緯論と状況諭」で読み込むと、“「ある意味・歴史観」”があるのでこれが正しいかどうかを検証する。
    この一つの「戦記」には、他の戦記よりよく読むと、「不思議な事の記載・陣形に詳しく高信頼性」が多いのだ。
    そもそも、「鶴翼」は、「陣形」を簡単に移動させられない「固定型」であるし、「陣形を組む」のにその必要とする時間が掛かるし、「配置の兵の数」も要るので、つまり、依って、当初、“「籠城」”と見せていたが、その「浜松城・12/22日の早朝」から城を出ているので、この時は「額田青木氏の銃隊」が「館山街道付近の西南の位置」に「布陣・休憩」していたので、そこから、“「宿営地としている三方ヶ原」に向かう「武田軍本隊の背後」を先ず突く”と云う「戦略」も陣形上から観て「松平軍側」に時間的に観てもあった筈である。
    この前記した「三河戦記の説」では、前記したが「三方ヶ原戦場」に向かう「1.5kの道の直ぐ西横」には「森」があって、且つ、ここは「浜松城」からは「真北1.8kの道の位置」で、“この右横の森に隠れて待ち、「武田軍の本隊の背後」を突く”と云う作戦もあった事が読み込める。
    ところが、この「甲斐の郷土史の説」で云うには、この“「背後を襲う説」”では、“敵が「徒士」であり「騎馬兵」はなかった事”とする説にも納得できる。
    つまり、要するにこれは「魚鱗の陣形」を進軍中に組んでいたとしているので、この時、既に、「進軍中の陣形の先頭」には、「騎馬隊」が「時系列」では既に到着していた事に成る。
    そうすると、この説では、この時の「額田青木氏の銃隊」は、最早、この「立場」には無かった事に成るし、唯、「額田青木氏の銃隊」が、「城に入る時間的余裕」も生まれていたと成っている事にある。
    この“江戸期に記したと思われる「甲斐側から観た郷土史らしきの説・日記形式」”では、この意味する処では、それが「額田青木氏が銃隊」であるかは別として、「額田青木氏の存在」を良く知っていた事に成る。
    これは「甲斐」に近い「美濃」から「額田青木氏の銃隊」が南下して「伊川津国衆と成っている事」を既に知っていた事にも成るのだ。
    後から得た情報とする事もあるが、これが「甲斐での江戸期後説・誰が編集したかの検証は後て論じる」である。

    故に、これに基づけば、「堀江城」に向かっていた「武田軍の本隊」が、急に「軍の向き」を南に向けて「松平軍・浜松城」に攻め掛かる可能性は低かった事に成るし、現実にその様に「陣形」を組んではいないので、これは正しい可能性が高い事に成る。
    「通常の場合の行軍する場合の陣形」では、“「殿軍」”は主に「護り兵や荷駄軍」で構成されているので、それを「戦い」の“「先頭・先駆隊に替える事」”は「軍としての力」は出ないのだ。
    その為に敗走する時は、「先頭・先駆隊」に向いた「本格的な先駆隊」を置いて、「敗走の時間稼ぎ」の為に“全滅覚悟で激しく支える戦い”をするのが作戦の常道である。
    従って此れの「役目と宿命持つ」のが「陣形」ではその意味で“「殿軍」”と呼んだのだ。
    故に、「追尾中の額田青木氏の銃隊」が、“安心して「城側・貞治隊との連携」に戻れた”し、「額田青木氏の銃隊の先入観」も「武田軍本隊側」にあって、先ずは、“傷口を癒す”の例えの通りで、「軍の立て直しをする事」に「先決」があった事に成る。
    つまり、「松平軍の後跡・城に近づく事」は決してなく追尾を追わない筈の状況にあった事にある。
    この「甲斐の説」でも、これには「軍議で物議を醸した」としていて、“「額田青木氏の銃隊が城に戻れる立場」には既に無かったとする事”も記されていて、「松平氏の説・三河説」は全く違っているのだ。
    この様に、「松平氏の三戦記物」と「甲斐の説」では大きく違っているのだ。
    従って、それでもこの「もう一つの懸念」では、「山県軍の別動隊」が遅れて来て、“「真南に向いた」”とする陣形では、未だ「相対する戦い」と成る可能性が遺されていた事に成る。
    と云う事は、「山県軍の別動隊」は、“これを不利と観ていた”らしいが、現実は「北側の山際」から其の侭で南に向かって突撃しているのだ。
    この「場合の説」では、飽く迄も、“「松平軍」は「武田軍本隊の背後」を突いた後は、そのまま急いで「浜松城の城」に戻って「籠城とする説」であったらしい”、としているのだ。
    これは確かに「理に叶っている甲斐の説」ではあるが、この“「甲斐の説」の「籠城説」”には、「第一次吉田城の籠城戦の松平軍の勝利・銃」を脳裏に描いていたらしい事が判る。
    つまり、「武田軍側」では「戦記に遺す程」に、“この「第一次の吉田城の印象」が強かった事を物語っている事”に成る。
    将又、或いは、これは「第一次の吉田城の印象・銃での籠城戦」では無くて、「一言坂の野戦の事の印象を説いている事」なのかも知れないし、「二つの事」であるかも知れない。
    兎も角も、「上記の二つの事の印象が強かった事」」を確実に物語るものだ。
    現実にその様に思えばそう成っているが、定かではない。
    この「陣形の説」では、全比較をここで論じるのは難しいが、やや違う処もあるが「流れ」としてはこれは大まかには「史実に合っている事」なのだ。

    さて、そこで先にその「布陣の説の論者」を予想して観る。
    それは青木氏の歴史観に執って重要な事なのだ。
    恐らくは、先ずこの「説の論者」は、条件として、この「戦略」を組めて、且つ、「発議」できる人物で、又は、直接には「経験者の吉田城城主の酒井忠次」であったのだろうか。
    将又、「後に書き遺した」として事を重く見ると、“「柳沢吉保の臣の者」”か、或いは、“その何某かの何れかの関係者であった”であったろう事が判る。
    記録では、この時の戦記を詳しく遺しているのだ。
    筆者は、「軍議での発議可能な直接の人物」では無く、「流れの雰囲気」から観て、最も“「青木氏」に近く親近感を持ち得ていた人物”か、それを聞き及んで、又は命じられてのその“「祐筆的立場の者」”であったろうと観ている。
    この「戦記」には、「人物の特定の表記」は無いが、「野戦」ならばその様に「軍議」では“「重臣」は主張したとする説の戦記の行”もあるのだ。
    筆者は、此れで唯、云える事は、この「戦記」と云うか「郷土記と云うかのこの説」には、“事実性が高く、親近感的な表現が観られる処を重く見ているのである。
    つまり、「多くの戦記物」は、「特定の氏」を戦記とし、それを中心として美化して描いている常道だが、この「記」は、「歴史の書」として肩に力が入っていない様に描いている”の処が違うと観ているのだ。
    そもそも、この「研究中の過程」で判った事は、それは、“「ある知り合い」を通じて偶然に借りる事が出来た書であって、「長く蔵の奥に保存されていた遺産」であった”とされている事である。
    これを保存していたのは、“伊勢の過去の「家人・遠縁者」であった「知り合い」”で、その者を通じての、“「奈良」と「伊勢」の「県境の青木さん”であった」”と云う事だ。
    つまり、なかなかこの“「青木さん」”としては確定するには「難しい地域の青木さん」である。
    この“同書を持ち得ていた”とすれば、先ず第一に「伊賀を含む同族の伊勢の名張の青木一族さん」か、第二に「奈良郡山」に移封と成った「甲斐の柳沢の青木さん」か、つまり、「有名な側用人の柳沢吉保・青木吉保」か、その縁戚と成る「鉢形から追随した一族で後に家臣として仕えた「柳沢氏・豊定系の青木氏」の「兄・甲斐時光系分家の青木さん」かである。
    他に、前段でも論じたが、小さい「三つの流れの青木さん」があるが、この「記を遺しえる歴史の青木さん」ではないので除外するとして、「柳沢氏の吉保の祖父」で、つまり、「弟・豊定系」の「青木さん」が、最も関係性が深い事に成る。
    然し、「兄・正定系の青木さん」も「弟の吉保一族の側用人」として傍に居て“補佐して遺しえる立場”にはあったとしていて、そこで、完全に特定は出来ないが、「伊勢青木氏・名張」も充分に有り得るが、これは「記にある「家紋」と「宗派」とが違うのだ。
    筆者は、「書き遺した事」を明確にしている「弟・豊定系」の「青木さん」が、最も関係性が深い事に成るの説に間違いは無いと観ているのだ。
    とすると、改めて前段でも論じたが、「三河戦記の脚色」は「旗本らの意見」を入れて都合よく書き直した事に成り得るものだ。
    然し、その「江戸期の美化の書き直しの反動」として、それを正す為に「吉保の主君の命・一族」に従い「一族の生き残りの話・口伝」を「柳沢氏の祐筆」が、この「口伝の描いた原石」の「それに近い戦記」を、“青木氏側から観たものとして密かに書き遺した”のではないかと云う事を前段でも論じた。
    故に、興味翻意に書いた物語風の伝記では無く、表に出て来ない「戦記」ではないかと予想できる。
    故に、その「証拠」として、“「伊勢側の資料」と共に合致する事が多い”のではないかと推定する。
    「今後のテーマ」として、何故、この所謂、“この「青木さんが持っていたのか”であるが、先ず間違いなく、奈良郡山に近い「名張の青木さんの説・四家の福家以外にはこの様な事はしないであろう」もあるが、其れよりも、確実に、“戦記を偏纂したとする記録」”のある事を重視すれば、「柳沢氏移封後の奈良郡山の甲斐時光系青木氏」である事には先ず間違いは無い事に成るだろう。
    然し、その「経緯」を辿ると、これには、後にその「記録の元持ち主であった家」の「家の系譜等」が明治期頃から判ら無く成った伝え聞かされているのだ。

    注釈 余談であるが、これは火災等では無く、歴史に関して良くある事例でもあるが、歴史的価値のある者に対して、当時、明治期から昭和に横行した「個人の持つ歴史上の価値」のあるものを、「研究目的と偽っての専門の寸借詐欺」が横行していたのであった。
    要するに、これを「富と名誉を何かで得た者」が、この“「寸借詐欺」”から「高額金額でこれを入手する事」で、「自分の家の格式の系譜証拠・宗教などの伝統が異なるが」として仕舞う風潮が、「明治期初期・他に室町期中期と江戸初期の3期」にも実は大変横行したのだ。
    現実には、これには「明治維新戸籍簿」と「宗派の違い」と「家紋の違い」と「出自元の違い」と「菩提寺/檀家寺の違い」のこの「5つの項目の査定」で違いがでるが、それでも「符号が一致しない姓」と成り、それを簡単に見分ける事も出来るのだが、名乗る者が多くでた。

    要するに「伝統のを持たない姓」の“「明治期」に起こった「第三青木氏」”である。
    これは「室町期と江戸期と明治期の3つの変革期」にも起こっているのだ。
    筆者の周囲にも数人のこの「第三青木氏」を知っていて、同じ氏族ですねと云われる事が良くある。
    これを論じる時には、この三期には、注意しなければならない歴史観である。
    これが前段でも論じた「明治期初期・苗字令・維新戸籍簿作成」に多く出た“「第三の青木氏の姓」”が出て来た所以でもある。
    「明治3年の苗字令と8年の督促令」で「進まぬ令」に対してこの伝統の歴史観を無視して政府自身が名乗る事を強引に進めた所以なのだ。

    恐らくは、この「資料」は、この注釈の“典型的なこの経緯を辿ったのではないか”と予想できる。
    つまり、兎も角も「経緯論」は別として、その元は「柳沢氏移封後の奈良郡山の甲斐時光系青木氏」である事には先ず間違いないだろう。
    然し、この「資料の存在」が、「伊勢青木氏」とこれまで論じて来た「額田青木氏と駿河青木氏と武蔵の秀郷流青木氏」の3氏による「前段の論」を、少なくとも間接的にも証明する物に成り得るだろう。
    それが「三方ヶ原から長篠まで」と「その後の伊川津の経緯」のものであるのだから。

    「上記の説の論」から「布陣について詳細経緯論」に戻す。
    この為には、確かに「戦略」としては、地理的にこの「大谷川」を少し先に超えて待っていた方が有利であり、この事から結局は、その“「常道説」”が先ず地理的条件として採用されずに、且つ、その様な「鶴翼の無理な陣形にした事」に成ったとも考えられるのだ。
    この様に「鶴翼と魚鱗の陣形の採り方」には「完全な間違い」はあったとしても、これも「常道説の不採用の敗因の説」に成り得る。
    唯、「多勢・鶴翼」に「無勢・魚鱗」の「基本原則」を前提に冷静に考えれば「上記の説」の「武田軍の勝利の可能性」は当初からあった筈である。
    天下の戦略家であった武田信玄は、この基本原則の違いに気づかぬ訳はないとして,敢えて魚鱗にしたかと云う疑問が遺るが、ここにには「武田軍の計2万」に対して「松平軍の5000」の「陣形の矛盾」を知っていた上で、「多勢の魚鱗と無勢の鶴翼の矛盾欠点」を突けば勝てると観ていたからに他ならない。
    もう一つは、「6000の騎馬兵で中央突破」を先に仕掛ければ「鶴翼の左右の働き」が「その速さ」から開閉が効かないと云う欠点を知っていたからであり、騎馬にの後に続く「徒士の兵」に対する開閉による攻撃は疲れて働かない事を知っていたのだ。
    鶴翼には訓練が必要である陣形ある事を無視したのである。
    然し、現実は「山県軍の別動隊」に「鶴翼の欠点である側面突撃」を受けて仕舞ったと云う事だ。
    これも家康が見抜けなかった「大不思議のミス」の一つである。
    これでも、仮に「額田青木氏」が“「軍議の命」を聞き入れていた”としても、前記した様に「銃隊の遭遇戦」と成った「一言坂」より戻って、「鶴翼の頭の部分先端の中央に仮に配置させられたとする事」を前提とすれば、“鶴翼も銃隊も移動しない”と云う点では「勝利の見込み」は確かに納得できる。
    然し、「額田青木氏の銃隊」は断った事により「上記の武田軍の有利性は一挙に出て来た」と云う事に成る。
    「鶴翼の頭の部分の中央」に「額田青木氏の300の銃隊」が構える事に成った場合は、先ず9割は武田軍の全滅と成り得ていた筈だ。
    それは前記した様に、この「フリントロック式の銃力」は少なくとも「兵力の100倍」とすれば「300*100≒30000」と成り、武田軍は長篠の様に三方ヶ原でもの全滅の憂き目を受けていた事に成る。
    然し、「額田青木氏の参戦」は無かったのだ。
    だから、「信玄の策」は生きたとすれば、“「額田青木氏の参戦」は無い”という事を何らかな方法で事前に知り得ていた事以外に考えられないのだ。
    それが「前記した信濃と諏訪親族」を通じての「呉越同舟の関係」が既に構築出来ていたとしか思えないのだ。
    筆者は、「前記した諏訪親族」が動かない方が問題であって、「額田青木氏の銃隊」や駿河青木氏の親族が生きるか死ぬかの時に動かない事の方が親族としては不義理に成るだろう。
    そもそも「四掟の女系縁者」であるのだから、況してや上記した様に「夕姫」が武田氏に深く関わっているとすれば双方に情報機関がないのであればいざ知らず「天下無双の者・伊賀者の香具師」が在れば放置出来ないであろう。
    「最も縁者の神職の信濃青木氏」が参戦出来ないとしても「口添え」は可能であろう。
    「信玄」は「一言坂の遭遇戦」でそれを確信したと観ているのだ。
    つまり、「額田青木氏の銃隊指揮官」は其の様に「軍議の拒絶」も含めて動いていたと観ているのだ。
    要するに「情報を基に信玄と指揮官の腹の探り合い」があったと云う事だ。

    そこで、戻してこれを、「多勢で移動型」を主体とする「武田軍の魚鱗」で突破されれば、「敗走する兵・松平軍」が、“「川・支流大谷川」”を超える事」は元より至難の業であって、「人溜まりも無い程の犠牲を負う事」に成る。
    況してやこの状況には、そもそも「武田軍の本隊」にはよく訓練された「優秀な次男坊だけの者」が成れる「赤兜の騎馬兵隊・制度」があったので、一極正面突破で突き抜けられて仕舞えば「松平の異常な鶴翼の陣形」は、そもそも「無勢」では消耗戦と成り働かないのだ。
    これで「松平軍」は更に潰され「壊滅であった事」は史実を観なくても当初から解る。
    その「鶴翼の中心」に「国衆である額田青木氏の銃隊を据える事」を断られた段階でその勝負は決まっていたのだ。
    唯、実はこれでも解決できない「疑問」が「もう二つ」あったのだ。
    これを歴史観として論じて置く。
    それは次の通りである。

    その疑問 1
    先ず一つは、大きな犠牲を出した「陣形や配置ミス」への「軍監役・監察の織田軍の指摘の有無」の役務である。
    次の二つは、「三方ヶ原の戦いの後」の「額田青木氏の銃隊の去就」である。

    先ず「一つ目」である。
    それは、「三河戦記」では、“連合軍とされていた「織田軍・現実には三人の軍目付・軍監だけの援軍」は、何故、この「陣形や配置のミス」を充分に「織田軍の力」の見せつけで指摘しなかったのか”である。
    そもそもこれが「本来の軍監の目的」である。
    この時の「織田軍の援軍の兵力説」には、「5説」があって、「内一つだけを除いた説」では、「連合軍の方」が「松平軍」より遥かに優位にあり、且つ、「真偽の兵数記録の事」は別としても、この説の記録と云うものに依れば、この時の構成は、数的には「織田軍の方」が「主軍」と成っていて、それも「松平軍の3倍」に成っていて、これは当に「織田軍」であり、明らかに「あり得ない説・後付けの美化説」である。
    「織田軍」は、西に圧迫を受けて西に勢力を注ぐ不利な状況にあって、そもそもそんな「兵数を出せる織田軍の状況」では無かったのだ。
    この時の兵数は、全ゆる記録を読み込むと「軍監の護衛隊数・200」であった事が判っているし、それも「戦い前の3日前」に夫々の守備の国に戻って仕舞い「戦い」に合力していなかったのだ。
    仮に、これで行けば、そもそも「同盟」であっても「織田軍の方」に「有利な発言権・決定権」はあった筈である。
    更に、中には、もっと「酷い説」には、この「鶴翼の陣形」を肯定する為に、「武田軍に引けを取らない兵力・2万」と成っている「酷い説」もあり、これ等の「4説・元よりその様な国力は無い」はあり得ず、「江戸期の後付け説」であって矛盾し全く信用できないのだ。
    この「信用の出来ない矛盾説」であれば、「鶴翼の陣形」と「野戦」は有利であり納得できるが、又、其の様に仕組んだ脚色説で、現実は「別の史実」で「後付けの脚色説である事」が明確に判る。
    後勘から観ても、これらの「4つの説」は100%あり得ず、これから導き出した史実に基づかない「根拠のない江戸期の興味本位の後付け論」である。
    そもそも、この「脚色の後付け4説」は、誰が観ても此処で論じる事では無いが、敢えて、そもそも「正しく見抜ける歴史観」からとして記述して置く。
    そもそも、これには「兵数の物理的な基本原則」が古来より定められていて、それは“「兵力」はその「国の石高」に比例し、これを超える事は物理的にも絶対に無いのだ。
    当然の事と云えばそれまでだが、それには更に「当時の基準」があって、それは参考として次の様であった。
    「1年=1石=1人の米の消費の原則」とし、「1頭・騎=1200兵の揃える前提」は変わらない事から、故に、“「兵力」は、「其の1/4〜1/5」と見做されて組む”とされていたのだ。
    これはそもそも「生きて行く為の糧の基準」でもあるのだ。
    それ以上は出せず、物理的にも無理だ。
    況して“「援軍」”とも成れば「政治的戦略」が必ず働くのが常道であった。
    これを考えれば、この「弱者の松平軍」に「強者の織田軍全兵力を差し向ける事」は100%無いし、それは「以西での激戦」が続いていたのだから尚の事でもある。
    そもそも「そんな数の兵」を差し向けられる程の未だ「織田氏の力」では無かったのだ。
    筆者の考えでは、「計算と記録の読み込み」から、“200にも満たない兵数・守備兵”であった事が判る。
    現実に、「差し向けた僅かな兵」の中でも、「織田軍の差配頭・平手」が一人戦死し、この事で窮地に追い込まれた「佐久間右衛門の指揮下」にあった「平手汎秀とその手勢」は、指揮官の考え方に従わずに頑固に私説論を引かずに行き詰まり、敢えて「戦死」を選んで死亡しているのだ。
    この「正しい歴史観」では、「主戦説の平手汎秀とその手勢」以外の「籠城説を唱えていた3人の軍監」は、「戦い開始の3日前」に早々と「持場の国」に引き上げて仕舞っているのだ。
    「軍監の3人の持場の国」も既に指揮官が留守の背後を脅かされていたのだ。
    この事は「主戦論を唱え続けた平手」は後に引けず、結局は残る結果と成り戦死したのだ。
    これに於いて後に、“「平手の差配頭」を護れなかった”と云う事と成り、それの兵は“「兵500にも満たなかった事」”を意味して死なせる結果と成って、「軍監の指揮官の佐久間」は「信長」に形式上で罰せられて「流罪」と成り結局は「京都」に流される事と成った。
    然し、これは形式上の事で、後に「京」で「信長の隠密として働いていた事」が判るのだ。

    注釈 念の為に、「1頭=1200兵の基準」は飽く迄も「室町期の基準」で、「江戸期初期」には「1頭=2100」と成っていて、この規制は時代に反映して厳しく成っていた。
    これには、「他の条件」として課せられていた事もあって、“「銃1丁」とそれに付随した「1騎=50兵」”も当てがわれていたのだ。
    そこで、「同盟」であったとしてのこの「佐久間」を「1頭」とすると、計算では仮に「1200兵」と成る。
    そしてこれには、「全ての農兵・荷駄兵も入れての数」として観れば、「平手」はその中の「10騎の内の1騎」であった事に成る。
    そもそも、「織田家」でも「重臣の佐久間」を「1頭」とすると、初めからこの「松平の軍議」では「鶴翼の陣形」や「野戦を行わす事」や「その実務・役務を負担させる事」は先ず無かっただろう事に成るのだ。

    現実には、前記した様に、何れの「三河戦記の論」に及ばずとも、「史実」から、何と“3日前に国に戻っている”のだし、この「史実」は大きい。
    後に、これに付いてこの「佐久間の行動」は、「表向き」で、「激怒した信長」からこれらの「一連の責任の事」を指摘されて、「織田氏」から「叱責処分」を受けたとなっているのだ。
    以上と成っているが「現実の歴史観」は異なっているのだ。
    「平手正秀・汎秀戦死」は、自害し、「佐久間信盛」は追放されてた、と「表向きの記録」で成っているのだが、「合理主義の後に信長の処置」から考えて、これは先ずあり得ず、この「罰則の事」でも判る様にある資料からも「裏の行動の事」が読み取れるのだ。
    これは、“平手を無くした”と云う事よりは、そもそも、“「三河の軍議」”に於いて「平手汎秀の興奮」を抑えられずに戦死させる様な仕儀の事」をさせて仕舞ったと云う事で罰せられたのであって、「佐久間信盛」の「軍目付・軍艦の将」が、そもそも「籠城戦」にさせられずに、“馬鹿な差配をしたから”であったのだ。としているが、ここでこの説は次の事でおかしいのだ。
    仮に「野戦」なら、“軍監のみの織田軍だけが城に遺る”と云う事は、そもそも考えられずこれは無いし、その“「選択肢」も無かった”のに、「平手を放置した事」にそれを指揮官として厳しく叱責したとするのだ。
    この説は、世間に対して「織田氏の名誉に関わる事」であったからだが、ところがこれらの行から「信長の心の内」は、この「戦い」に、“一兵たりとも関わらない事が得策であった”のだ。
    だから、そもそも「同盟」であるのに、「兵の援軍」では無く「軍目付・軍監」であったのだ。
    「同盟」であれば、そもそも「援軍を廻す事」にすくなくとも成るが、現実には、敢えて常識を超えて“「軍目付・軍監」でしか無かった事に意味を持っていた”のだ。
    そうでなければ理屈は合わない。
    これは上記した様に「3日前に守備している国に戻っている事」が物語っているのだ。

    全くその通りで、その方が「空」にするよりは「西で戦うの信長」に執っては全くに戦略的に都合の良い事であろう。
    この「4説・松平のメンツを保った江戸期の後付けせ説」だと、これは当に「織田軍と武田軍の戦い」であって、「同盟の援軍」として出すのであれば少なくとも「5000」は超えないであろう。
    この説は“賢い先ず信長”であれば先ずは無いし、「そんな兵数」は未だ「信長」には無かったのだ。
    それでも未だ少し真面な「残りの1説」では、「援軍3000」としているがこれでも多い位と考えられる。
    “利に長けた鋭利過ぎる程の信長”の頭で考えた場合の作戦としては、この場合の「織田氏の利害」を考えれば、寧ろ、「勝てる見込みの無い松平氏」に対して、「織田軍の援軍を送り込む事」より、“何時か迎える「織田氏と武田氏の決戦の事」”を考えれば、より一兵でも「援軍」を少なくし、より「被害」を少なくし、且つ、「同盟」とは云え、「松平氏の被害が大きかった方」が、“「西三河獲得と云う点・父祖からの係争地」”では「無駄な力」を注が無くても得られて都合が良かったのだ。
    そして、将来的には「得策」として「武田軍との決戦」でもこの結果の方が都合が良かった事に戦略としてあった筈である。
    結果として、この事で「青木氏の歴史観」から重要なのは、額田青木氏の将来の事を考えれば「松平氏の勝敗」はどちらでも良かったのだが、その「キーポイント」となる「松平軍」は予想通りに敗戦したが、ところが、これは「織田軍」に執っても、ここで“「大きな誤算」が生まれていた事”なのだ。
    それが、何故ならば、そこには「青木氏族側」には「商いとしての目的」が先ずあって、其の上での事であって、「戦前に結んだ国衆約定の実現」により「額田青木氏族の伊川津の渥美湾の制海権の利権獲得が叶えられる事」が先にあったのだ。
    その為には「松平氏の勝敗」は、勝ったとしても何時かはどんな形でも「武田氏」や「織田氏」との決着を着けなければ成らなかった筈であり、その意味では「松平氏の遺された道」は先ずは「富む事以外には無かった事」で有ったろう。
    そして、結果としての時系列としては、「敗戦した方」に傾き、これが元で、この「青木氏との約定から得られる利権益」が、“立て直しの為には是非に必要であって「より最大の目的」”と成って行ったのだ。
    その意味でも「伊川津国衆」であっても、「松平氏の敗戦に依る弱体化」は「約定実現」には「得策」であって「復興実現策」に効果が生まれると云うものであった。
    だから「三方ヶ原敗戦後」に“1日も置かずに「銃隊の軍団」を解いた事”であるし、直ちに「開発業と陸運業と殖産業の3事業」の“「復興実現策」に取り掛かったと云う事”に成るのだ。
    それも、「開発業と陸運業と殖産業の3事業」が何よりも「尾張よりも遅れている未開の三河」には必要であったのだ。
    この事に付いて、「伊勢の事前の敗戦後の行動」の為に「伊勢水軍を渥美湾に廻していた事」が判っているのだ。
    「額田青木氏の最悪の場合」を考慮して「救い出す手立て」として廻していたかは判らない。
    そこで、この事が「敗戦」からその「松平氏の勢力」を結果として「急速に盛り返すだけの財力を得させた事」に成ったのだ。
    これが、“織田軍に執っての大誤算”であって、普通であれば「先祖伝来の旧来の係争地」の「西三河程度」の「小さの領地・父祖伝来からの係争地」さえも「奪取出来ない程」に、「松平氏は急速に力を蓄えて回復可能と成って行った事」が云えるのだ。
    この“急速に”に意味が大きかったと観られる。
    逆に、それ程に「信長の思惑は叶わなかった事」とする「史実」であったのだ。
    さて、そこで、思惑の外れたこの「信長」は、この“急速の原因”と成っていた“「影の伊勢の力」が大きい”と観て、そこで“「伊勢湾勢力」に目を向けたのだ。
    それも「得意とする武力」では無く「調略」に出て来た”のだ。
    処が、「織田軍」には、軍をより強くさせるこの「便利な水軍は無かった事」から、「伊勢水軍とその勢力」を張りあっていた「南の惣国性の強かった“熊野水軍」”に目を着けて「味方」に引き入れ様として来たのだ。
    当然に、この「伊勢域を勢力範囲とする伊勢水軍」は、「勢力範囲を犯される事」を嫌って熾烈な戦いが始まったのだ。
    「伊勢水軍への調略」は、結束は固く、“尾張に近い一つの小さい水運業者が味方にしただけ”と成って「調略は失敗に終わる」のであり、結局は、「伊勢水軍]と「逸者九鬼氏が支配していた熊野水軍」との勢力バランス」と成る。
    そこで、「伊勢側」は「紀伊水軍」と「縁者の摂津水軍と瀬戸内水軍」を味方にして「組合」を作って、“両方から挟み込んで抑え込む作戦”に出た。
    そして、結局は「周囲の締め付け」に依って「熊野神社の神官六氏から成る正規の熊野水軍」は手を引くが、「熊野水軍強硬派」の「逸者九鬼氏」だけと成って、この「抑え込み作戦」は成功するのだ。
    「伊勢水軍と伊勢青木氏」と「古来から繋がり」を持っていた「本来の熊野神社の六氏から成る熊野水軍」は[信長の誘い」に乗らなかったのだ。
    その「調略に乗らなかった理由」としては、そもそも「神明社を基とする伊勢水軍」と同然に、そもそも水軍とは云えどそもそも「武力集団」では無く同然、同然に「由緒正しい神官職六氏の水軍の歴史」を保つ事にあったのだ。
    だから、全国から信心を集めている「熊野神社の体面」に傷が着く事に有ったのだ。
    結局は「海賊衆団逸者の九鬼氏・後に結果として排斥されて衰退」だけと成って、「信長の調略作戦」は浮いてしまう結果と成るのだ。
    結局は、「水軍の無い織田軍」は、「伊勢湾」にこれ以上の勢力範囲を広げる事は出来ずに見守るだけに終わり、背後にこの「伊勢勢力」を遺した侭に「三河の復興を見守る事」の結果と成って仕舞ったのだ。
    「駿河青木貞治と繋がる東の勢力・秀郷流一族一門」、即ち、その「全国に広がる一門の361氏の勢力」と「秀郷流青木氏116氏」の「総合力477氏」には、「取り繕う事の出来ない恐怖の勢力」の「今後の動向の事」を考えた場合、「まだ小さい信長」に執っては「戦う事の出来ない大きな脅威」に成って行ったのだ。
    要するに、「手の出し様の無い二つの勢力」が、前後から「三河」を支えその「勢力と財力」が背後に控えていると成れば、そう成れば「弱体化した三河」を今の早い内に、それを取り除くのが「常套手段」であっても、「潰しにかかる事」は出来なかったという事ではないか。
    一方で、前段でも詳細に論じた様に、「三河」で「開発業と陸運業と殖産業」も全土に進めた「青木氏・開発地には青木村を形成している」が「背景」としてこの「三河の盛り返し作戦」は「財政的」にも大成功と成ったのだ。
    これで逆に「信長が目論む潰し作戦」は難しく成ったと云う事であろう。
    この「青木氏族」から得た「財」に依って、その当時の「三方ヶ原後の兵数」は記録に依れば「2000弱にも満たなかった事」が判っていて、それを「各地から流れ来た国衆」と、「今川氏の残党」を、その「得た財」」で「三河」に雇入れて、その「財と兵力」を基に急速に盛り返した事が判っている。
    多分、これで尚、[思いも依らない事」に成った「信長」は焦った考えられるし、この「攻めてこない勢力」の「伊勢」に対して相当に警戒していた事に成ろう。
    別の資料には、「三河」には地理的に地形的に「殖産の魅力が元より多くあった事」が記録として遺されていて、そこにも「当初からの狙い」が「欠陥としての真砂土壌の伊勢」には充分にあったのではないか。
    「開発業と陸運業と殖産業も三河全土に押し進めた青木氏」の「先を観た狙い」も当初からここにあって、これを“「国衆の条件」”としてのいたのでは無いかと予想できる。
    「伊川津」に戻って時間経過の無い程に直ぐに「銃」を置いて関わっている事を観ると間違いは無いだろう。
    寧ろ、「額田青木氏」に執っては「銃」よりこの「土に関わる方」が彼等の性に合っていたのだ。
    だから、「開発業と陸運業と殖産業の3事業」は効果を発揮したのだ。
    要するに、そもそも「銃にしても戦いにしても先行投資」であった事と云えるのだ。
    この事で「伊勢」は、「当初の目的通り」に「伊豆までの海路ルート」は出来上がったのだ。
    これで「断たれた伊豆」との「関係の復活」と「武蔵秀郷流勢力との繋がり」のより一層の関係も復活したのだ。

    現実に、「長篠の勝頼の武田軍の指揮能力の低下」と、上記で論じた様に、「銃火力を得られなかった軍の状態・考え方」を招いた「勝頼の武田軍の長篠での敗退後」に、「勝利した信長」のその後の「松平氏への態度の凶変」が起こったのだ。
    これは、上記の“織田軍に執っての大誤算”であって、“「伊勢」を味方に引きいれてそれで得た財力を生かす”とした「三河の考え方」に対して、それを物語っているのだ。
    この“「信長凶変」”は、「上記の経緯論」からすると、「軍目付の行動」から観ても、「元からの戦略」であった筈であった事は確かであるが、それにしても“「戦いの勝負」の着くのがあまりにも早かった事”が、“織田軍に執ってはそもそもの大誤算”であったのだ。
    「長引いてより弱る事」をこの「信長」は目論んでいた筈である。
    そして、その「復興の活動・戦後」に目だった「駿河青木氏と額田青木氏の背後」には、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流青木氏」が「後ろに控えていた事」であって、それには「神明社の信長の破壊事件」や「伊勢水軍調略の事件」もあっての事を充分に承知していた筈である。
    その為に其の後の「駿河青木氏の貞治の後裔・長三郎一族」は、何と「御家人御側衆」として引き上げられて「3000石の大出世」をさせて、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流一門との関係性」をより強くして絶やす事の無い様に配慮したのであったのだ。
    こうする事で即座に詳細に具体的に「伊勢の背後勢力とのパイプラインの構築」が双方に出来上がったのだ。
    それも単なる「家臣」では無く、いつでも意思を詳しく伝えあう事の出来る「御家人御側衆」にしたところに意味があった。
    それが前段でも論じている様に、「伊川津の港の制海権の取得」と「国衆に成る時の約定の実現」として、“「伊勢の事一切お構いなしのお定め書」”に成って、「感謝状」を出して「約定の反映」と成って現れたのだ。
    だから、「信長」に執っては、その「復興・財と武」の「そのあまりの速さ」に就いては、“計算外であった”のであろう。
    寧ろ、“早くしなければならないとする判断が「青木氏側」にも「松平氏側」にもあった”と観られる。
    それは、「信長が食い込んで来る隙を与える事」に成るからであったのだ。
    簡単に云えば、“「松平氏・家康」に此処まで「青木氏族」が早くて強力に肩入れするとは、そもそも「信長」もそもそもも思つてもいなかった”と云う事ではないか。
    この事が「他の1説や郷土史などの研究資料の記録の一部」にも“間接的にも警戒を込めた表現”で珍しく記されているのだ。
    “「戦略的に影にある邪魔な勢力」は、早い内に潰して置くのが常道である”が、ここで「歴史的に物語る事」としては、当時の「信長」でも、“流石に「青木氏族の総合力の抑止力」を潰せなかった”と云う事であろう。
    これは「強大な武力の秀郷流一族一門を背景にしている事」にあって、手出しは出来なかったと云うこの「時系列で云える状況諭の歴史観」であるのだ。
    これは「三河」に於いてのみならず、其処には「単なる売り買いの商いの財力」だけでは無く、「全段からの論の殖産力」を基にした「総合財力にも有った事」なのだ。
    どうも時期は明確には判らないが、この時頃からどういう形かは判らないが「武蔵の秀郷流青木氏」は「商いを始めた事」が判っているのだ。
    それが記録に遺る「長島屋」で云えるのだが現在では最早詳細は良く判らない。

    注釈 現在の研究結果として判った事は、前段でも論じた様に詳細が判らない中で判っている事としては、上記した “「駿河青木氏の貞治の後裔」は、何と「御家人御側衆」として引き上げられて「3000石の大出世」をさせて、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流一門との関係性」をより強くして絶やす事の無い様に配慮したのであったのだ。”から、確かに記録に観られる様に、“上記の完成したルートを使って「商い」を「武蔵」でも開拓しようと試みたと観られるのだ。
    ところが、その後のこの「商いの行方」が江戸期に成ってから判らないないのだ。
    「武蔵の秀郷流一族一門衆361氏」が挙って「江戸幕府の御家人の家人衆」と成って徳川氏に仕えた事が、この「商いの必要性・長島屋」が無く成ったとも考えられる。
    伝え聞く処では、最終は“群馬県まで奥に流れ着いて消滅したと言い伝えられている説”もある。
    そもそも「店名」は、幾つかの店名の記録があって、一門の代表の「長島屋の説/永嶋屋」が多く資料から垣間見られるし、又、[伊勢青木氏・伊勢屋」が「吉宗」に江戸向行した後に、「店伊勢屋を200店舗」を江戸に張ったが、「信濃の闕所の件」などで「吉宗との仲違い」が起こり、それで「3日で伊勢・水伊勢水軍」に引き上げたが、前段でも論じた様に、“「江戸の伊勢屋」を番頭等に無償供与した”と伝えられている。
    然し、果たしてそれでは“店を正当に経営する以上は、そもそもこれでは“番頭等に無償供与した”だけでは済まない筈”であり、「契約等の信用の商い」の上では「担保と成る財産権・債権」などはどうしたのかという問題がある。
    それでなければ「大きな商い」は江戸では先ず治まらない筈だ。
    要は、「信用に値する財産権」である。
    これは「伊勢」では、“番頭等に無償供与で任した”として伝えられているが、それも「大きな商い」をすればするほどに必要と成る“「絶対要件」”であり、これは簡単に成り立つ話ではない。
    然し、ここがそもそもの「筆者の疑問」であったのだ。
    依って、そもそも「江戸経済に影響すると云う事」では、当の幕府はこれを巧く治めて置かなければならないが、これを背に腹は代えられないとして「幕府」がリードして、「伊勢の縁者関係」の「秀郷一門の元殖産業兼土木業の永嶋家・結城氏系永嶋氏」に、この「跡目」を引き継がせて、兎も角も“「跡目を治めた」とする説”にも納得できるものがある。
    そもそも、この「結城氏系永嶋氏氏」は、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の強い縁者関係にあり、例えば「秀吉に陸奥結城氏」を攻められた時も、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」が「秀吉の背後」から単独で攻め立て「秀吉」は「信越道の山道・狭い荒れた商道」を通って「大阪」に逃げ帰ったとする「戦歴史実も遺されている関係」にあって、その所縁は「一門の商い道」に関してこれを壊さない様にする為に動いたとするほどに浅くはないのだ。
    これ以上の事は「伊勢の記録の範疇」を超えるので判らないので論じる事をこれまでは避けていた。
    然し、「明治期まで開発企業」として残っている限りに於いては、“「現実の流れ」”としては「現実の円滑な解決の問題」として「後者の説」では無いかと考えられるのだ。
    もし、そうだとしたら、江戸期にも相当にも経済面でも「伊勢と繋がる秀郷流青木氏」も「駿河青木氏の後裔」と同様に「幕府・秀郷流一門は御家人衆として幕府の8割家臣団」となっている以上に於いては、「経済面」でも大きく食い込んでいた可能性があるとされる。
    「駿河青木氏の御家人御側衆」と「御家人衆として幕府の家臣団等」が、この「伊勢屋の江戸金融200店舗の問題解決に走った」とする説が成り立つ。
    だとすれば「四掟の女系で繋がる伊勢」も損得なしとして納得できるだろう。
    「秀郷一門の中でも「殖産業兼土木業に従事していた永嶋家・結城氏系永嶋氏」が、この「店舗跡目・株主」を「商いの殖産」として引き継いで「財産的跡目・信用度を治めたとする説」を裏付けられるのだ。
    今で云う「ファンドホルディングの企業のグループの一員」として扱ったと観ているのだ。
    其の後の「江戸伊勢屋金融業200店舗」の「店舗数と店名」も、暫時、「永嶋屋」に変化して行っている可能性があるが、これも「変化していて減ってる事」と「金融業の減少」は資料的に判るが、これも確定する程に定かではない。
    ただ、前段でも論じた様に、記録にある様に「薩摩藩」とも「商業取引・島津氏系永嶋氏」をしている限りは、「永嶋屋、又は長嶋屋・長島屋」が、前段でも論じた様に「史実」として室町期末期から江戸期中期に掛けて「関西の手前の名古屋付近」まで「商いは伸長している事・子孫も伸ばしている事」が気に成る事なるのだ。
    伸長する以上は、その「力の元となる財力」が無ければ成し得る事ではないとすると、これが「享保期の200店舗の財」にあったのではないだろうか。
    それが「伊勢の長嶋氏」まで繋がっているとすれば否定はできない事ではないか。

    さて、そこでそうでなければ「伊勢屋後見人」と成っている「紀州藩の反発」などの事を考えた場合は、「江戸の経済を救う為のスムーズな解決方法」は、これ以外には無かったのではないかと考えられる。
    何故ならば、それには前段でも論じた様にこの「享保期」に「300両しか無く成っていた幕府の御蔵金」のその「回復元」に成っていたとすると、この「伊勢屋の商業権を潰す事」は、仲違いしたとしても「吉宗」にしても確かに米市場でも儲けたしても絶対に未だ手放す事は出来なかった筈だ。
    そもそも、其の為の「応急経済策」であったのだから、絶対に放置する事は出来なかった事に成る。

    要するに仮にこの“「伊勢屋が番頭の個人化」”をだけを認めて仕舞えばすればするほどに、未だ達成されていないこの「御蔵金の目的」は、これは「叶わない非常事態の事」に成る事はだれが考えても判る。
    だとすると、突然の「伊勢と信濃の闕所事件・旗本の反発」が、「幕府の意思以上・吉宗の意思」にこの等の一連の事に就いても「反対勢力と成って大きく関わっていた事」が読み取れるのだ。
    更にだとすると、その「反対勢力」に付いては説明する必要も無く判るのだが、それは必然的に「信濃の聖地と殖産を奪った5人の旗本勢力」に成るだろうし、「伊勢で山田奉行所を仕切っていた嫌がらせ」をしたのも{有名な旗本連」であった事を裏付けられる事にも成る。
    「江戸期の青木氏の歴史観として此の期の史実の解明」には、ここの解明が是非必要としているのだが、処が前段から論じている様に、「肝心の武蔵秀郷流一族一門から裏付けられる資料」が少なく見つからないし、確定は困難な処なのだ。

    さて、注釈としてこれ等の他の「稚拙な4説論」では、これ等の歴史観は正しく語れず、それは江戸期に於いての余りにも「面白おかしくする為に物語風で誇張している事・販売目的優先」にあり全く信用できない。
    「上記の江戸期の稚拙4論」からは、信頼できるのは「経緯・日等の史実」に基づくもののみでこあって、それ以外は何れにも間違いなく多く「脚色」を加えている。
    江戸期のものは、そもそも「経緯と史実」だけでは読んでくれないと云う潜在的な江戸分化風潮があって、止むを得ない事ではあるが、それは「史実の探求心」を遥かに超えていたのだ。
    要は、「肝心の武蔵秀郷流一族一門から裏付けられる資料」にある。

    さて、次は上記の「二つ目の疑問」である。
    この「三方ヶ原の戦いの後」の「気に成る点」としては、何と云ってもそれは“「額田青木氏の銃隊の去就」”である。
    「兵ではない銃隊」としての事が其の後にどういう風に出たのかである。
    「伊川津」に戻った後は、直ちに「商い」に入っているのだとすると、この「兵ではない銃隊」が「社会・商い」に対応できたのかである。
    況して、「額田青木氏の銃隊の行動」に対しても、これは普通では間違う事の無い“「戦国時代の常識的な事」”であった。
    本来であれば、何れの陣形でも「陣形の中央に位置させる事」が「常套戦略」であったのに、それをさせなかったし、歴史的に有名に成っている「浜松城の軍議の結果」でも「額田青木氏の銃隊」は城外に放り出されたし、そもそも外に出された「後の命令」は、「偵察」を意味する「決死隊」でもあったし、況してや「偵察の意味」は既に「浜松城の城」から観えているので、「偵察の意味は全く無かった事」にも成る「無用の偵察」であったのだ。
    それでも「軍議」は、「呼出し後の軍議の命令」を拒否した「額田青木氏の銃隊」に対して外に出す事を態々選んだのだ。
    それも出した相手は、「兵として働く」のでは無く、「額田青木氏」が持つ「フリントロック式近代改良式の300丁の銃隊」に対してであった。
    当時の考え方は、飽く迄も未だ「戦いの戦術の中の一つのツール・弓矢的な使用目的」として扱われていたのだ。
    つまり、「戦略的使用」では無かったのだ。
    これは「三方ヶ原の額田青木氏の活躍」を観て後で評価していたのではないか。
    参考として「長篠」では「信長」はこれを「本来持つ戦略的使用目的で使った」のだろう。
    当時から、それでも「世間の評価」は、「銃の評価」として「10倍/兵」が一般的であったが、「フリントロック式近代改良式の300丁」は、その構造上から「100倍の兵以上」には相当しただろう。
    この「約20000から30000以上の兵に値する銃隊」を、「城から観えている処からの偵察」で、既にその「勢力の状況」を「松平軍」は、「すぐ先の一言坂の野戦でも戦って知っている軍」なのに、この「意味の無い偵察」を出したのであったのだ。
    ここから「銃の評価」も含めて「松平軍の戦術的な意味の失敗」が目立つのだ。
    且つ、そこは「城」からも観えている所でもあるし、そこに態々「偵察」を命じたのだ。
    其の込められた意味は判るだろう。
    それは「軍議の命令」に応じなかったからだが、そもそも「額田青木氏の銃隊」が「伊川津の国衆」であっても、「家臣にしてもらう為の国衆目的」では無く、その働きで、「渥美半島の制海権の取得契約の目的」としていたので、そもそもそこが根本的に違っていたのだ。
    そこで「額田青木氏の銃隊」は、「三方ヶ原の戦場12/22日」には、真偽は別にして「資料・伊勢資料」に依れば、この「額田青木氏の銃隊」は、“開戦ぎりぎりに間にあった“とだけ記されているのだ。
    これは「判断材料」としては「重要な時系列の記述」である。
    上記した様に、実際は「駿河青木氏の貞治隊を救助する事」の為だけのもので、この“「目的の異なる事」”に対して、「時系列」としては「額田青木氏の銃隊」が、“それを戦術的に間に合わした事に成る”のだ。
    つまり、この「ミスマッチの鶴翼の陣形の犠牲の多い中央」には、それを「別契約に依る国衆である額田青木氏の銃隊」にさせようとする「軍議の狙い」であったが、それは元より「陣形の中央」に位置するのは本来は「旗本」である。
    この時、“「旗本のプライド」は、それを許さなかった”と云う風に「物語風の江戸戦記の一つ」には真偽は別にしていて書かれている。
    但し、これは「後付けの編集」されて事実と異なるのだ。
    此処には、次の事が隠されて書かれているのだ。
    一つ目は「三河者の頑固さと嫉妬と羨望」
    二つ目は「銃の威力の知識の無さ」
    三つ目は「戦略的知識のレベルの低さ」
    以上3つが三河戦記と呼ばれるものには共通して編集して書かれている事である。
    ここではその戦記の一つに不思議には正直に書いている。

    そこでこの事に就いて、“「秀郷一門の背景・伊勢」に遺している「軍師役・指揮官の書」”には、つまり、「遺した忘備録の様なタイプの資料・発言録」には、次の事が書かれているので照らし合わせて観るとする。
    但し、この“「軍師役・伊勢秀郷流青木氏であったからか」”としたのは、「青木氏から観た全体的な立場」であって、且つ、「銃隊から観た立場」では、この「書」は“「指揮官」であった”として、故に「忘備録の形・老後での思い出しの記録」で記しているのであろう。
    これを前提にして要約すると次の様に成る。
    先ず、“彼らは元来は“「影の力」”を得意(ゲリラ戦)としていて、本来、“彼等は「直接戦闘力」は有していなかった”としているのだ。
    確かに、それを「補う為に採った作戦」が、この“「影の力」”を得意(ゲリラ戦)としている為に、それを補うものとして「フリントロック式改良型4連発超近代式300丁の銃隊の保持」で在った筈”と記されているのだ。
    「銃兵」と云うよりは「影の力で押し通す兵」であった事に成る。
    つまり、この「改良の成した意味する処」が、その為にあって前段で論じた様に「影の力」に負担を掛けない様にする為のもので、その為には「銃の欠点をより少なく良く解消した事」ではないかと成る。
    そうでなくては使え無かった事をも意味している。
    「影の力を得意(ゲリラ戦)」とする以上は、要するに「特段の訓練であった事」に成り、その為には「兵を動かす指揮官が特段に必要と成る論理で動いていた事」に成る。
    然し、そして、そこでこの「記録の事」を考えれば、“これだけでは「戦乱の世情」にて出て生きて行けないのは当然である”として、そこで「美濃の東山岳民」から“「伊川津の国衆」”とさせるまでの計画である以上は、彼らには“「それ相当の戦闘力・武器力」を持たす必要があった”としている。
    これに就いては明確に書き置きしているのだ。
    これは「戦記側の言い分」である。
    だから、飽く迄も“「影の力」を得意(ゲリラ戦)とする兵”である以上は、「軍議に於いても決然と断ったとする説」が成り立つのだ。
    つまり“「陣形の中での戦術兵」では無い”と云う考え方を持っていたと云う事になろう。
    それが「青木氏族の策」として、“「秀郷流一族一門の助成・伊勢」に依る「戦闘力の背景(軍師)」をより持たした”という事の意味であったのであろう。
    そして、この“「背景」”とは、“「軍師役」と「軍事力・銃の抑止力」”であった”としているのだ。
    此れでは、この「忘備録」から検証すると、「相当に意味合い」が異なっている事に成る。
    要するに、言い換えれば、“「伊勢と信濃」の「青木氏族」のその得意とするのは、そもそも“「経済的な力」”であって、「戦術力」では無く、その「経緯」では、故に、“「鉄砲・試作銃・堺」を先ず自らの力で獲得する事”としていた事である。
    それが、「額田青木氏」に「持たす以上」は、それは「火縄銃程度」のものでは無く、“「周囲の脅威」とも成り得る程の「超近代的な武力(鉄砲)」を与えた”として補完策としている事に成るのだ。
    故に、この説であれば、美濃の「加茂・木曽域の山間部」から出て来ても、兎も角も結果としては、“「伊川津の国衆の力」は成立した”としているのだ。
    つまり、「銃の兵力とは当初より観ていなかった事」に成るだろう。
    後は、“「訓練・フリントロック式改良銃の秘作銃の事か」と思った”としている。
    この「印象」としては、つまり、この「一忘備録の様な記録」としてでは、“目標達成の後として多少憤慨気味に記されている”のだろう。
    この「書の論理」で行けば、この「経緯の検証」では全てに於いて符号一致するだろう。
    然し、当地を治めていた「松平家康本人」に付いては、更に、この「一忘備録の様な記録の資料」を観ると、単に、“相当なこの「近代的な武力」には、“魅力を引かれていた様であった”とし、“ここだけは主観的に記されているのだ。
    これは戦い後に「伊勢と話し合っている事」を物語るだろう。
    然し、この結果として、実質は「伊川津の国衆」として成り得て扱われていたとし、この史実としての結果とし“「伊川津七党」の「青木氏党の四家」が、「土地の旗本等」に敵対されていた”するのであろう。
    然し、この「旗本」には、未だ“「銃に対する認識度」が極度に低く理解が得られい無かった”とされていたとしているらしい事なのだ。
    そうすると、論理としては「三河旗本」の「よそ者への村意識が強かった事」に成る
    客観的に、“「それ・嫉妬と怨嗟」が長い間も排除されなかった所以であろう”と、この「防護録」は記している事に成るのだ。
    それが「家康と仲が良かった」と成れば、彼等に執っては耐えがたい屈辱に近い怨嗟となる事は否めない事かも知れない。
    結果として、「戦い後」に戻った「伊川津」では、“莫大な供納金を治め渥美湾の制海権を獲得する”事に至ると共に、「三河での開発権や殖産権や陸運権」を、ここで一手に引き受けたのだが、これはその後の変わり身の早さだ。
    そして、それと共に「その開発業」と、並びにそれに並ぶ「陸運業と殖産業をも営む事」と成ったのだが、この「三河」では、「額田青木氏に向けての改良銃の銃」の「その後の行方」は、“まだ充分に安定しない社会の中では必要としていた様なのだ。
    「額田青木氏」は直ぐに「兵」では無く「商いの担い手」に成っていたのだ。
    「伊勢」は元よりそれを知っていた事に成る。
    寧ろ、それを当初の目的として彼等を鍛え「額田の山奥」から引き出して「青木氏族の力・武蔵の一族との繋がり強化」にしたと考えられるのだ。
    「信長の台頭」に依ってこれを壊されると云う警戒心が強く、結果としてルートが遮断されて「女系で繋がる青木氏族」は衰退し抹消の破目に至ると呼んでいたのだ。
    現実にこのルートの元に成る「神明社」がこの「尾張から三河」の間で壊されていたのだ。
    それだけに、この「抑止力」が未だ続く限りは、この「銃兵の印象」があって「伊川津の旗本衆」も手が出せなかったと云う事に成ったのだ。
    現実は、この「江戸初期の社会の中・他の国衆への脅威と商いの山賊盗賊対策等対策・松平氏黙認」としては前段でも論じた様に、「三河での開発権や殖産権や陸運権」を成すには未だ充分に「「武力的な力」が必要であって、そこでは、「銃の保持の禁令」にも拘らず、「密かに氏の存続とその警護の為」にも使われた事”に成っていたとしているのだ。
    そして、それ故に「額田青木氏の南下国衆を護る為の脅威に対する威力」は、この「銃力による脅威」は抜群であったが、ところが「現実の問題」としては前段でも論じた様に、“いざ他の者がこの「特殊な額田青木氏仕様の特殊な銃」を使うとすれば、反面に於いて、“相当訓練を要する「特殊銃」と成っていたらしい事”が記さされていて、そこから、“果たして使えるかの問題”もあった様なのだ。
    それには先ずは「技術的な面」として問題があったらしい。
    それが「日本国内」では、禁令に拘わらず黙認されていた理由の一つには、先ず簡単に銃を入手し模索され得ない事だったし、且つ、その「銃としての必要な資材」としては、「超高額な入手困難な黄鉄鉱・国産化は無理で貿易限る」の必要性であった事の「二つの難題」と共にあって、それが主な一般が使えない理由でもあったとしているのだ。
    「銃」は当初より「商いを前提とした護身用銃」であって、兵を前提とした銃では無かった事に成り、其の様に動いていた事に成る。

    前段でも何度も記したが、余談だが、其の後のこの「銃の行方」は、江戸初期では「銃としては利用価値」はあったが、「中期以降の価値」は、肯定は出来ないので筆者が観る処では、その「使用の影形」が無い所を観ると、「頃合い・秀吉」に次いで、「江戸幕府初期の銃規制令」を考えても、その後に密かに“氏族内で強制廃棄焼却等の処置処分等を一斉に施した”のではないかと観ているのだし、目的の為にもそそうしたのだ。
    この処分は「江戸期初期の火縄銃規制」の時か、やや其の「20年後内頃」では無いかと考えられる。
    この間の詳細は記載されていないのだが、“密かである限り”は飽く迄も“密かに処分と成った”と理解する事が妥当だろう。
    将又、その量から考えるとその処分は、“「300丁である事」と「一族内とする事」”から、その“最終処分の時期”は、「松平氏」がこれを黙認した以上は、遅くても「130年後の享保期の事件」、つまり、「幕府の難癖」と「国衆の嫉妬怨嗟」と、将又、この時期までに「豪商等」に頻繁に行われた「難癖の闕所の時期」を避ける事に、つまり「処分時期を重視した頃」までの事に成るだろうと観ている。
    それは、前段でも論じたが、“刀”の様に「昭和期30年頃」まで密かに「伝統品の数十刀の名刀」も“青木氏の格式を物語る物”として確かに所持していた。
    これと共に「銃の飾り・確認している」として持っていたされる事が、「先祖や祖父の忘備録」や「父の口伝」や「一族内の資料」ではこの事は明確に伝わっている。
    そして、その「銃に関わる物」は別として、「刀掛け等の伝来品等の物・現有」の「多くの古伝統品の物」は、現在も一部保有して「飾り」としている。
    この「類の銘刀等」も筆者も現実に目視している。
    然し、処がかと云ってこの「銃の関係品」だけは「格式や飾り」とは成らない事からか、この類するものは家中や一族内にも隠していた形跡は何一つ見つからないのだ。
    取り分け、「鉄・銃に関わる物」として「戦時中」に、そして「その戦後」に「危険物」として「飾り程度のもの」までも全て「供出令」が下ったが、その時の「憂き目を受けた事の印象と記録と口伝」も無いのだ。
    どこかに1丁位は隠し持ちしていたとも考えられるが、一族内にも“完全な影形”で見つからないし、これらの「廃棄の記録」も無いのは、「江戸期の中頃」までに全く遺していなかった「証拠」でもあるからであろう。

    兎も角も、そもそも、この「額田青木氏に与えた銃」は、現実には「訓練無し」では全く使えない代物だったとし、そして、「黄鉄鉱石の入手と硝石と鉛の入手」は、現在でも“「貿易」”に依ってだけ得られるものであって、現実には他人に渡ったとしても、“「伊勢屋との繋がり・貿易」”が無ければ使えなかったものたったとしているるのだ。
    唯、「何らかの形上・飾り」で遺されていても良い筈だが、「伊勢の四家と福家」にも影も形も無い。
    「1605年の江戸期の銃規制」もあって、“「飾り」”も含めて「銃の存在価値」が、江戸中期頃以前に「青木氏の氏是と家訓」の上からも好ましくない代物としていた事に成る。
    筆者の考える処では、「氏是の考え方」としてその「保持そのものが価値]として「一族内」で統一して「廃却を前提として否定されていた代物ではなかったかと云う事だろう。
    つまり、江戸期では“「銃の飾り」”が、「刀」の様に「戦いの象徴」の“「伝統品」”として扱われる事が「社会」でも許されなかったとしている事であった。
    この事もあって、「刀」と違って「青木氏の律宗族としての格式の立場」も相まって、“「飾りとしての持つ事の意味」”の「そのものの元の意味」が「否定されていた事」と考えられるのだ。
    現実には、従って、ところが「象徴としての刀類に関するもの」だけは、確かに「昭和期・20年」までは家中に存在していたが、「遺されている伝統の現在の遺産類」にはこの種の「氏是に反する物」は、最早、無いのだ。
    要するに「銃は戦う武器である事」には間違いは無いが、「刀」にはそれ以外に「族家の伝統の意味」を生み出し、「銃」にはその「伝統の意味」は無かった事に成るだろう。
    「青木氏族」の中では、これは、「考え方」として統一されていて、“「銃と刀の持つ意味」がハッキリと違った”と云う事では無いだろうか。
    それを意味する記録類がない事は、そもそも「青木氏族」に於いては、当初より“「否定的な伝統品として扱われていた事」”をも意味するだろう。
    要するにそれは、“「銃の殺戮性」”に関してでは、「青木氏の中」では「伝統的ではないとする否定的な考え方」を持っていた事に成る。
    然し、この“「超近代銃は苦難の末に欠点解決」までして完成されている”とすると、これは「格式ある氏族の行為」としては、その努力は「完全な矛盾」に当たるのではないか。
    つまり、では、これを“額田青木氏に持たすと云う決断”は、何れも製作段階では「高度な業物である事」には大した違いは無かった。
    だとしても、これは「福家の際どい処の判断・概念であった事」に成る。
    且つ、然すれば「青木氏の氏是に反している事」にも成り得るのだ。
    然し、前段でも論じた様に、「多くの処」で実用していて、“額田青木氏に持たすと云う決断”には、“何か大きな意味を持っていた事”に成る。
    だとすれば時代には必ず起こり得る「氏族生死の様な意味」を持っていた事に成るだろう。
    それが「647年の青木氏の出自来からの青木氏の氏是」に反してでも、“持たせた”という事のその「応えの目指す事」には、“それは何なのか”の疑問があって、その「答え」があるとすればそれは唯一つであろう。
    それは、“仮にそれが「青木氏の氏是を冒してでも持つ」と決めた”以上は、これは“「究極の二つの全青木氏一族の存続に関わっていた事」”と、判断されていたのではないだろうか。
    それが“「信長の台頭・天下」”が、成り行きに依っては「青木氏の生死に関わる事」と判断されていたと云う事なのだ。
    「以上の経緯」が「三方ヶ原の戦いの後」の「額田青木氏の銃隊の去就」に関わっていたのであって、その明らかな証拠」に三河西域端の「蒲郡」には、より存在をより強化する為にその「総合的な伊勢の活動拠点」を置いていたのだ。
    そこからの「開発業と陸運業と殖産業」の推進を図ったのであった。
    これには、元々、「兵としてではなかった者」の「額田の青木氏」が、直ぐに「開発業と陸運業と殖産業」に取り掛かれた故であろう。
    「兵であった者」には元来この様に変身の早い事は行かないであろう。
    それには、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏・開発業」と「額田青木氏・陸運業」と「駿河青木氏・殖産業」が手分けして従事した事が判っていて、そのそれぞれの「居住した地域」には現在も遺る「青木村」を形成しているのである。これが証拠であろう。
    その「生きた場所」を特定できるこの「青木村」は、「去就の結果の何よりの証拠」でもあろう。
    「石切り場の引き出し港」を先ず改良し、「伊勢水軍」も横付出来る様に港の開発した。
    この「港を持つ三河蒲郡の青木氏」は、「渥美湾」とは別にその「伊勢との直接の繋がりの場所」とも成っていたのだ。
    要するに、前段でも論じた様にここは「伊勢」からも近く住む等の事もあって、「連絡事務所の支店の様な所・活動拠点」であったらしい。
    ここに「額田青木氏の本家筋・伊勢の桑田青木系」が「伊川津」から離れて住み分けたと書かれていて指揮を執ったとしている。
    この蒲郡の港から直ぐ後ろに大きな館があったと記されている。
    恐らくは、「三河の松平氏と伊勢との連絡事務所」を兼ねていたのではないかとされる。
    「家康の近習衆」となった「貞治の後裔・長三郎」が、「家康の伝言等」を「伊賀者・香具師」を通して秘密裏にこの「蒲郡から伊勢」に発していたのではないかと予測している。
    そうする事で最も警戒しなければならない「戦後の三河への援助と復興活動」が「信長に漏れる事」が無かったと予想している。
    これが「信長」も「伊勢湾の調略事件」に観られる様に最も警戒していた事でもあったのだ。
    「貞治の後裔・長男の長三郎系」が「駿河の今川国衆」から「超出世の家康の3000石の近習衆」と成ったそもそもの「功績の所以」はここに在ったのだ。
    「信長」に漏れない「伊勢水軍や伊賀情報集団」を複雑に絡めた「伊勢とのルートの構築に成功した所以」であろう。
    「暫く持ち続けた額田の銃」は、上記した様にその保持そのものをうやむやにする事にも意味があって、その後の「信長への牽制」にも充分に成りえていたと観られるし、それに背後にはこの「額田の銃力」が「松平氏にも都合の良い所」であったであのろう。
    それだけの簡単に攻める事の出来ない「牽制の意味・2万から3万の兵力」を拡げていたであるからだ。
    「長篠」ではこの「銃の存在」は無かったが“「松平軍の背後」には青木氏の銃が有るよ”と云う牽制で充分であったからだろう。
    現実に勝頼の陣の右横500mに陣取った松平軍は、既に国衆で゛は無く成っている「額田青木氏の銃隊の存在」だけを思わせる事で充分であつて、それ故に合力せずに一切発砲をしなかったのだ。
    余談として「傭兵軍団の火縄銃の銃の使用」は「織田軍」だけであったし、この「信長の本陣」は銃隊の遠く後方の豪族の館に置いた陣屋であった。
    「額田青木氏の銃」は、其の後に人は殖産業等に関わり、「牽制の道具」で使われたと云う事なのだ。
    そもそも、序でにその「銃の行方」に付いては、時には、これが「飾床間の片隅」に飾って置いてもおかしくは無いだろうとする程度の事だったが、それが責めての事として、これが「青木氏の氏是の根幹」と成っている“「青木氏の奈良期から9つの縛り・嵯峨期天皇・平安期」の「掟・否武力」と「抑止力」とに反する事”からであったからであろう。
    この様に「銃の記録と経緯を遺す程」であれば、責めて「政策期1640年頃から廃却期1740年の100年の間」では、「飾床間の片隅」にもあり得た筈であったが、これに付いても{口伝」もないしそうしなかったのだろう。
    これを「成さしめたもの」は、上記から論じている“「長い青木氏の伝統」では無かったか”と考える。
    これが正しい“「青木氏の歴史観」”では無いだろうか。
    上記の事は要するに、“「青木氏」をクローズアップする為”に、ここにスポットを当てて観たかったのだ。
    「後勘の者」として云えるこの掘り起こした「歴史観の事」は、ここが「源氏族」と違っていて「生き遺れた所以」であったと云う事なのだ。

    「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」に続く。


      [No.399] Re:「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」
         投稿者:青木   投稿日:2022/12/04(Sun) 10:50:04  

    「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」の末尾

    > 然し、“「伊勢青木氏」が何かしているだろう”程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
    > 手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、筆者は""出したくても手も出せなかった“と観ている。
    > 一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
    > 「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
    > 筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
    > 「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
    > そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、この「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝しててた。
    >「全段の額田青木氏論」でこの「詳細」を論じたが、故に“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
    > ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げたその「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わった。
    >以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
    > 逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ


    「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」に続く。

    その頭角は、“「貿易に依り高い技術を求める事・中国貿易は超えていた」”には成っていたが、「鉱石と製鋼の技術」のみならず、「鉱山の火薬・爆破の技術・砂鉄には無い」にも繋がる事で秀でて、其の事に依ってその「技術の完成」が、「因事菅隷に依る近江の鉱山開発」に生かされた。
    前段で記した紆余曲折の末にこの技術を習得した「額田部氏」は「臣の官位」を獲得するまでに至ったのだ。
    別出自とされる「出雲国の額田部氏・臣」を遥かに凌ぐ立場を獲得する結果と成ったのだ。
    結局は「彼等の協力」を得て「鉱山開発の総合技術」は進み、結果として“「2鉱山から4鉱山」に増やした。
    この”事の意味は大きく成り、それが無ければ、“鉱山開発を増やしたの経緯”は無く成っていたのだ。
    其のままでの技術では「無理に繋がる事」に成り、その為にも先ずは「院の屋の商業化」であったのだろう。
    故に、「鉱山開発の院」のみならず「院の屋の号」をも獲得する事と成っているのだ。

    然し、考えて観るにこれには「二つの疑問」が湧く。
    その「疑問の一つ目」は、この時期に敢えて、天皇から密かに密書としての“「因事管隷”の院屋号」”を持っているにも拘わらず、「伊勢の別枠925年頃の商業化策」は「朝廷」に於いても「危険であった事」なのでは無いか。
    この「時期の事」では、慣例上では未だ、“これは朝廷が商いをしている事”と成り得得たのではないか。
    然し、寧ろ、「朝廷」はそれを敢えて“「院屋号を思うように許した」”のだか、「その時代が求める必然性」があったと云う事に成る。
    そもそもこ「因事菅隷」はその「扱い」は「青木氏だけの密書」であったので、周囲は知る術も無いだろうが。
    この凡そ、その“100年後に進めて更に「総合商社化」して「貿易」を本格化さしている。”のだ。
    「部経済」によって「朝廷に集まる全ての物」を管理し、それの「余った物」を「市場」に放出して裁き利益を獲得しそれを「朝廷の財源とする役目」を担っていたとすれば、寧ろ、“天皇家が密かに影で商いをしている考え”にあったのではないか。それを当然の事としていた事に成り得てこの一つ目の疑問は解ける。
    次は「二つ目の疑問」は、この時、“「女系で繋がる伊勢郷士50衆」はどうしていたのか”である。
    資料の一部から読み取るに、この「女系で繋がる伊勢郷士50衆」の「氏族集団」を下に幾つか組を組んでその役割を果たしていた“「特別な下部組織の伊勢衆」”がいたとされるのだ。
    それが、歴史上に残る有名な“「200人伊勢村主衆組」が南北に「二つの組」に分けられて「伊勢の民」を長く整えていたとしていて、この「因事菅隷」に基づくものは密かにこの「二つの処理集団」に依って処理され、これが「其れの始り」であったとされているのだ。
    この組が南北に二つに分けていたとされ、この組と「伊賀青木氏の情報集団」と連携していたとされているのだ。

    丁度、この時期に「嵯峨天皇に圧力をかけられた青木氏」を救ったのが「仁明天皇」であり、更に出自元ではない「円融天皇」から「北家藤原秀郷流青木氏・母方」を永代で、再び「青木氏を賜姓する事」に改めてこれを定めているのだ。
    この「円融天皇」はこの「因事菅隷に基くシステム」を知り得ていて、弱っていた天皇家そのものを基礎的に支える集団をより強くしようと試みたと考える。
    それが賜姓族を外された後の「因事菅隷の伊勢青木氏」が当に「商社化した時期の50年後」の時期にほぼ一致する。
    「鎌倉期の歴史書」にもこの事が書かれている。
    この事からも「全青木氏一族」には、“その時代が求める必然性があったと云う事”は否めない。

    それが故に、この「上記する経緯」を以てしても、偶然にも期せずして後に上記の様な「銃の鉄」に「良い結果を生み出したと云う事」に繋がったのであろう。
    又、それが「額田青木氏の銃の歴史」と成って現れたものであろう。
    上記の様に、この「摂津の範囲・秘密裏」で行っていた余りにも「銃に対する高度な技術」は、「上記の事」を充分に理解すれば、「他が真似する事等」は「財と技術と因事菅隷等を含む環境があっての事」で成し得たものであり、他がこの「銃の真似た生産」が「絶対に不可能で在った筈」であり、故に、「三方ヶ原とその後」にも世間には「存在し得ていない銃」と成り得たのである。
    「近江鉄の鉱山開発」に、“「因事管隷・賜姓五役」”があった事から「他が真似する事等」は薄々知ったとしても絶対に出来なかったと考えられる。
    将又、故に、この「戦後」にこの「殺戮性の高い銃」のそのものも「世間に出す事」は、「密かな護身用」で在る限りに於いては、「青木氏の氏是」に基づき永遠に憚られたものと成り得たのである。

    注釈 其の内でこの“「因事菅隷・密書」”を発している相手は、可能性として他に「川島皇子」の「後裔の近江佐々木氏」と「後裔の近江佐々木氏とその系列3氏」と、上記の「青木氏族2流の範囲」に限られるであろう。
    筆者はこれらの「献納を成し得ない財の能力」と、及び「因事菅隷財の成し果たし得る組織」の無い氏に対し“「因事菅隷・密書」”を発してはいないと考えている。
    これ等は「密書の類」であり処分される常として故にその記録が無いので限定できない。
    要するに、少なくとも「皇親族出身の令外官の立場」にあった者への、所謂、「密書の類」であるので「因事菅隷」を出している可能性はそもそも多くはない筈であり、又、遺している可能性も低いし、それを果し得る組織として「伊賀者の様な香具師・情報を担当していた忍者等を有する氏族」で無ければ、この「秘密裏の伝達と保持」は根本的に無理であろう。
    と云う事は何度も記する事になるが、「他の高位の氏族」では無理であり、且つ、「内密な密書」と成れば「全く信用の置ける賜姓臣下族」で、それも「血縁性の高い身内」としなければならない事に成り得て、「伊勢の青木氏」で無ければならない事に成っていたと予想できる。
    そもそも根本的に「財と秘密裏の情報伝達手段」が無ければ成り立たないのだ。
    その意味で、根本的に、所謂、「献納と情報集団」を持つ「二つの青木氏を含む青木氏族」で無ければ成立しなかったのではないか。
    取り分け、「経済力を有する事」が先ず前段で論じた様にその「前提の条件」にあり、「献納」に基づく為のそれが大前提条件であったろうし、この二つは「一対」であったろう。
    その意味で、毎年、季節的被害に見舞われていた「近江東域」は、その影響を受けて「どの近江族」も「経済力が極めて低かった事」により、「朝廷」もその「負担」で手の出しようが無く、「伊勢」からこの「近江東岸」に対して、「二つの干拓大工事」を「20年と云う歳月」を賭けて援助している所以を持っていたのだし依って無理であったろう。
    結局は、密かにこの「因事菅隷」で「伊勢青木氏」を動かし「額田部氏」を以てこの「干拓灌漑工事の完成」を成したのだ。
    然し、これは一見して、周囲から観れば“「朝廷」が計画実行している様に観えたかも知れない”が、“「ほぼ青木氏にだけの因事菅隷の狙い」”のひとつにはここにも有ったのかも知れない。
    然し、この「因事菅隷]とは別に、数々の「院屋号の特権」を認められていて、それも「永代賜姓五役の令外官」であった以上は、“これも止む無しとしていた事”があっただろう。
    そもそもその事に依って「巨万の富」を獲得していたと思えば不満は無かったとも思える。
    然し乍ら、これが当時としても片方で「皇位族であったその伝統とその格式」を保ち乍らも地方では「因事菅隷」に基く行動をすると云う不思議な氏族であった事に成る。

    注釈 何度も論じた事ではあるが、江戸期に於いては世間が安定し危険性が無く成り、「殖産と商い」にも「存続の危険性が無く成った頃・上記の享保期の事件もあった」を見計らって「闕所」を仕掛けられるような関係性を証明する全てを焼却したと「総合的経緯の分析」から考えられるのだ。
    その「銃の存在の発覚」が、世間に広く出して仕舞った以上は、その目的が達成した今に於いて場合に依っては「氏族をとんでも無い危機に陥れる事」にも成ると観て一斉に無くしたのではないか。
    つまり、「捨てる事」より「持つ事」のリスクの方が「社会の変化」で変わったと云う事だろう。
    恐らくは、その“「兆しが強く現れた」”のが、「青木氏族の事」を一番よく知っている「吉宗の享保期の事件」であったのでは無いかと観ているのだ。
    完全に「証拠を掴まれている人物」が居たと云う事だが然し信用していた人物でもあった。
    その様に途中で「吉宗は受け取った」のであろうし、そもそも「伊勢攻め」が無地に済んだと思う頃には、今度は「秀吉の刀狩り・1588年」が始まり、それに代わって今度は「吉宗」も「青木氏族の絶大な協力」を受けていたが、その「内心」は“その潰す機会を伺っていた”とも観られるのだ。
    「将軍に成る為の裏工作」、「江戸向行」、「江戸の経済政策の立直し」、「紀州藩への財政的救出」や「家康鈴鹿峠の救出事件」や「伊勢津泊の秘密渡し舟事件」で数々貢献したにも関わらず、その反面で「大岡忠相の伊勢の事お構いなしのお定め書無視事件」、「同山田奉行所の海域嫌がらせ事件」、「信濃青木氏の聖域剥奪と殖産没収事件」等の「・吉宗許可が要る裏切り行為」が続いた。
    丁度、「嵯峨天皇」が「皇親族の出自元の青木氏の行動」を妨害したのと同じである様に、これに依り遂に「人の内心」が露見したのだ。
    “秀でる者は潰される”の例え通りで何れも「最も青木氏と深く関わった者」からの「裏切り行為」であった。
    「青木氏の氏是」を遺した「始祖の施基皇子」もこの事を経験していた事であって、それ故の「氏是」であってこれを護っていれば知らねばならない事でもあった。
    此れを最後に、前段でも論じた様に「江戸資産・江戸伊勢屋200店舗」を其の侭にして「伊勢水軍の3日船」で「伊勢松阪」に急いで逃げ帰り「紀州藩の後ろ盾・歴史観」を求め「危機」を脱出したのだ。
    そもそも「伊勢水軍が湊先に控えていたと云う事」は、丁度、輸送の為にか、将又予想していた事なのか確認はできないが、記録に“「3日船」”と記されている以上は事前に何かある事を予測出来ていたのではないかとかんがえられ、それもそもそも“「信濃」に手を出した時に合わしての「タイミング」”とするとが良すぎる。
    筆者は「氏是」がある以上は、「荷物搬送を装って薄々用意していたもの」ではないかと観ているのだ。
    恐らくは、この時を「潮時」として、「伊勢」は「難癖を着けられるような物とその行動」を自らを以てそれを「証拠と成り得る因事菅隷・密書等」は特に疑われると共に一斉に青木氏一族全体で消しさったと考えられる。

    「伊川津青木氏・当時は未だ国衆」や「駿河青木氏」や「秀郷流一族一門」や「伊勢水軍」や「伊豆青木氏」や「日向青木氏」等には「試作品」も含めた「防護用銃・抑止力として配布していた事」が確かに渡ってはいるが、そのもの一切の時期は同じくして「享保期直後」に於いて忽然とその姿を青木氏族の中から消している。
    これは上記した「注釈」が原因と考えられるが、“何かがあって消した”と受け取れるし、消す以外に無くなったとも考えられる。
    それは他に参考として語れば、「江戸期」には「一揆などの騒動」が社会に多発して「銃が使われた事」にも成って、従って「幕府」に依って「二度の刀狩り令・銃などの武器保有の禁止」が成された。
    恐らくは、「紀州藩と幕府官僚族」であった「青木氏を含む秀郷流一族一門」は、これに伴い密かに「秀郷流の氏族全体」に影響する為に、「申し合わせて一斉一切」に廃棄して焼却させたとも考えられる。
    これに伴い、「各地の保有していた青木氏族」も同然に追随したと考えられる。
    この時に「秀郷流一族一門・府と藩の官僚族であった事も「影響・政治の中心にいた事」には、今だ「歴史的な関係する研究資料」も散見できないのは、確かにその後の「火災震災戦災」も考えられるが、この時の「令」にも関連して「他の疑われる物までも焼却」したのは前段で論じた通りであり、この様に「一切の焼却時期のタイミング」としては「享保期」で一致するのである。

    然し、「銃のみならずこれに関連する一切の書籍」までもが確かに焼却されたものの、僅かに、完全解明には足りないが、「伊勢のテリトリーの中・鎮守社の拝殿後ろ」に密かに「祠」を隠し、その隠した「祠の神明社」と共にその「床下」にも密かにその一部資料が遺されていたのだ。(史実)
    その所以もあって、それが本論のこの「芋蔓の様に解明の一口筋」と成っているのだ。
    「額田青木氏の銃」とは、全くその「経緯と学説」は異なる事と成るが、敢えて比較して前段で論じた「種子島火縄銃の学説論」での「時代の銃形式」を研究すると、「学問的な知識の到達」と「製造技術の到達」では、「額田青木氏の銃の経緯論」としては、ここまでで“「無理」”と成っていたのだ。

    さて、判り易くする為に再び「比較論」をする。
    そこでそれとしては“銃での戦闘論」”が最も判り易いので、再び「種子島火縄銃の戦闘論」に立ちいる。
    すると、この「射撃」に依って起こる「銃身通過時」の「摩擦高熱の欠点・三つの鉄の欠点」が表にに出て来るのだ。
    そもそも其の侭では“銃を銃として使えない”のだ。
    これを補う為には、この「摩擦熱」を持つと「銃」は“亀裂破壊”し必然的に最後は使え無く成る事から逃れられないのだ。
    その手前で仮に終わったとしても、結局は「冷えて使えるまでの一定時間」は、「徒士の兵」が柵から出て戦闘して、そして再び引き上げて、次の冷えた頃の「銃撃開始期まで待つ事」が必要に成っていたのだ。
    「信長」は、この「銃の決定的な欠点」が“不認識に依って計算外で兵力”を計算されていたのだ。
    現実に、「信長の雑賀根来の射撃団」でもこれを「計算外の出来事」として捉えていた節があって、これが現実に起こっていて「史実」としてこの事が詳細に記録として語られている。
    これには、“「3000丁の火縄銃」が思う程には効果は低かった”としているのだ。
    その後に結成された研究団の「実践的に研究した結果」では、使えたのは、その“「1/3程度」であった”としているし、更に、“「大きく銃撃団の犠牲が出た」”とする原因"は、この事にあった”と「雑賀の記録」には記されている。
    但し、ところが此れを“側面から「信長の武士団」はこれを補完せずに雑賀根来の傭兵軍団は自ら銃を置いて「刀で戦った事」”が記されているのだ。
    この事が元で、“信長と雑賀根来族と犬猿の仲と成った”と結論付けていて、この記録は筆者の検証結果と同じである。

    さて、次にでは“この「状況」はどの様なものであったのか”をこの「研究記録」から読み込んで観る。
    面白い事が判って来る。
    この“「銃撃の間隔」”は、「最低で1h/3000丁の3段階撃ち・記録史実」とすると、「銃の冷却期間・比熱」が「2〜3回程度/h発生」と成るが、その間は「弾幕は無しの状態」で「武田軍突撃隊」は前に進む事が出来る事に成る。
    この「間隔」を置きながらも、この「進撃」を受けながらで「引き付けて撃つと云う事」を「繰り返した事の戦い方」に成る。
    然し、それ故に「雑賀根来の銃の傭兵軍団の3000丁の銃」の内の「約半数・1500丁」は、銃身の「加熱オバー」で「銃」は最終的に使えなく成っていたと「専門的な検証・三つの鉄の欠点」として観られる。
    この「戦闘時間」が「記録」では、「最大で8h、最小で4hの説」があるが、この「銃撃戦闘時間の8h説」では、「三っの事、即ち、「疲労と未明と熱の三つ事」で、この説は物理的に「現実的では無い事」が判る。
    そうすると、この中を採って、「戦闘時間」が「4hから6h」とすると、「12〜18回の射撃回数があった事」に成るが、然し、この「銃身」には「冷やし乍らも熱以外」にも、実は次第にこの「鉄製品に起こる専門的な欠点」、即ち、「300度脆性の欠点」と「鉄疲労破壊の欠点」の先ず「不可避の二つ」が起こるのだ。この論点の間隔時間が研究されていないのだ。
    それと、もう一つ検証に於いて考えなくてはない事があって、この“「熱以外」”そのものの「鉄の熱の疲労限界・鉱物には必ず存在する」に近づく事に成るのだ。
    この上記した「三つの不可避の鉄欠点」が起これば「銃」は「冷却」どころか「破壊」で永久的に使えなくなるのだ。

    この懸賞点t゛欠けているのだ。
    これが、この時には、既に一方の「武田軍も戦力」も落ちてきている事に成るだろうが、この“「鉄の欠点の三つの事」”が「傭兵軍団の銃の限界」にも近づいて来ている事に成るのだ。
    結果としては、この為に“「アイドリング」”として、「銃撃停止の間」の「徒士の戦闘兵」を再び「棚枠内」に「引き上げる行為等」に、「手間取る事」もあり、又、「弾煙等のロス」が生まれて計算通りには行かないのである。
    故に、よく見ても「種子島火縄銃・特に雑賀銃に限定」では、「戦術」とは別に「物理的・当時は学問的な欠点は理解されていない」に観て、抑々、よく見ても「銃撃回数・6から10回程度以下」には確実に成っていただろう事は判る。
    これに依って、「武田軍の疲労した突撃」では、最終は記録の通りに「全滅の憂き目」を受けたと成るのだ。
    それの「是否」を幾つかの資料の説で観れば、「凡そ1万5千の兵」の内、この最後には「戦い中」でありながらも「勝頼の引き上げ命令」に付き従った「本隊守備兵250人」は、「敗残兵・負傷兵を戦場に残したままで逃げ延びたとする説」が史実として成り立つ。
    上記の「銃の鉄の三つの欠点の事」で、この説は史実と診られる。

    その「戦い方まで詳細である説」と、「郷土史・戦場の整理を担った地元の住人らが言い書き遺した逸話説」とを総合して観ると、これを“「妥当な説」”とすると、「1万2千の兵の屍」が「長篠原の戦場の北側半分」に在ったとしていて、これには「約2千5百の兵の合わない数」があって、これは「兵数の誇張」か、又は「逃亡者数」に数えられていた事になるだろう。
    記録に依れば「戦線離脱の逃亡者」があったとは確かで、その逃亡者は右側側面の隅から西に逃れて行ったとある。この数が合わない数であろう。
    然し、「これらの上記の数の違い」は、どの戦いや戦記でもあり得る事であって、合わせての数てあって、要するに「完全な全滅であった事」に成る。
    つまり、依って「銃撃回数・6から10回程度以下/3000丁」の論は、「1回2000兵の戦死」と成り、その「射撃法」が「3000丁の三段内」の「冷却済1500丁の三段内」と成ると、「1500弾の3倍」は「4500弾」が飛弾し、その内の実際に、「1/3の兵に被弾する事」に成るとすると、「1万2千の兵の屍」はこの「銃撃回数・6から10回程度以下」からあり得る数に成り、この説は「あり得た説」と成り得る。
    上記した「銃の鉄の三つの欠点の事」での「熱等による銃撃間」の間の「兵同士の戦いの数」が、「合わない数・致命傷では無く戦闘能力を無くした兵数、つまり「戦線離脱兵」に成っているのでは無いかとすれば一致する。
    要するに、これに依って「熱等による欠陥の銃撃間説論」が大きく左右した事の説は成立する。
    現実に、この「銃撃間説論」に依って攻め込まれて「銃兵」は死傷したが、「信長」がこれを「見捨てた事」で、後に「銃の傭兵軍団」から観て感情的に成って、「騙した」「見放した」「契約違反」として「雑賀根来の傭兵軍団」と「信長」とは「犬猿の中」に成ったとし、口伝ではの鮒が狙撃兵が編成された事が云い伝えとして紀州に残っていたとされる。
    挙句は戦後すぐに「紀州攻めを受ける事」に成った「史実の事」を考え合わせれば、「銃撃間説論」は充分に納得できる。
    要するに、「砂鉄からの来る火縄銃の必然的熱欠陥」が顕著に存在していた事を、この「長篠原の戦い・武田軍との戦い」に付いての検証した“「銃撃間説論」”では証明している事に成る。

    そてそこで、これに対して「銃の鉄の三つ欠点の事」を克服したこの「額田青木氏の超近代銃」は、この「火縄銃の欠点」を補いした事で、「一言坂の武田軍との遭遇戦」で、「武田軍本隊を釘付けにした史実」は、それまでの「武田軍が持ち得た銃撃間説論」の「火縄銃に対する発想・情報」を根底から覆した事を実戦で証明した事を意味するのだ。
    その意味で、「一言坂」の坂での「遭遇戦の武田軍の新たな印象」は大きかったと考えられるのだ。
    それには次の「二つの事」にあったとされている。
    「一つ」には「銃」には上記の「熱の銃撃間説論が起こる事・三つの欠点」、
    「二つ」には「飛距離と命中率」が3倍に在った事、
    この「二つの発想」が、「信玄」に衝撃を与えて何もする事なく、“本隊が「前」を向きながらも徐々に後退する”と云う「戦歴上に於いて前代未聞の事」が起こったのだ。
    「信玄」に執っては過去に経験した事の無い衝撃的な事であったろう。
    それが「三方ヶ原]にも影響していたと観ているのだ。
    「超近代銃を持つ300の銃隊」に対して「武田軍本隊の8倍の軍」が成す術無く、「“弓矢も火縄銃も届かない1K
    も離れた東坂下位置まで引くと云う事」”が興ったのは、このそれまでの「銃撃間説論」が「成り立たない事を知った事の所以の最初の事」であって、要するに、「額田青木氏の超近代銃」は、この「銃の欠点」を補いした事の所以の証明でもあるのだ。
    「吉田城の第一次の籠城戦」にも「額田青木氏の城内部からの銃撃」を受けているが、その時も「距離の疑問」は持ったかも知れないが、それが「城廓櫓からの銃撃で在った事」から「銃撃間説論」は感じていなかった事もあり得るのだ。
    だから比較的この“「銃撃間説論」を使えば崩せる”と云う発想をまだ持っていたと観られる。
    だから、前段でも詳しく論じた様に「坂の上」で遭遇し、「坂下」には「100の銃と3000の兵」を事前に廻して「待ち受策」を執り、それに加えて不足と観たか途中で坂途中にも「3000の徒士兵」を伏せて、この“「銃撃間説論」を生かそうとしたと考えれば、“「銃撃間説論」”で観れば情況は読み取れる。
    この事は、この時までは、「後」と「前」と「横」から「閉じ込め策」で、“「銃撃間説論」”を以て攻め込めば勝てると見込んていたのであろう事が説明できる。
    ところが、この「一言坂遭遇戦」では、この“「銃撃間説論」”は起こらなかった”という事に成る。
    「慌てた武田軍本隊」は、早めに「一切の閉じ込め策」を開放し、何と動きづらい後ろ向きの本隊も「坂下1Kまで下げた事・史実」に成った読み取れる。
    これは資料からも明かな史実である。
    其の後の「浜松城通過時」、又、「堀江城への追尾時」、「三方ヶ原の決戦時」も、この“「額田青木氏の銃隊」に対して一切対抗しなかった事と成った”と読めるのだ。
    然し、これが“「銃の鉄の三つの欠陥・上記の学説論/銃身の鉄組織の強化」で補った事”の所以であって、その為に「長篠」の“「銃撃間説論」は「三方ヶ原」では起こらなかった事”を証明しているのだ。
    そして、この“「銃撃間説論」は起こらなかった事”は、同時に“「銃の欠陥を上記の学説論」で補った事”の「逆説論」にも成り立つであろう。
    仮に、密かに「摂津を中心として技術開発して製作した銃」であったが、これだけの「戦歴の史実」を見せつけていたのであるから、「武田氏や織田氏」は前後の時期に於いて必ず「これを武力で奪う事」に走る筈であるが、ところがこの事が「読み取りの中の資料」では一切発見できないのだ。
    では、“これはこれは何故か”であるが、「額田青木氏に完成の近代銃を引き渡した時点」では、上記した様に、「匠、工人の伊勢への一切引き上げた事」と、「一切の資料を隠匿して世間に漏れる事」の無い様に「生産」のみならず「保持」さえも限定した故の結果である。
    「摂津商人、伊勢屋商人」をも「特定できない組織・摂津商人と伊勢商人・殆どは大阪商人として記録に遺る」として「明治期」までに至っているのは、この事に対する“「特定できない策」"であったと考えられる。
    この事の「史実」は、「室町期から明治初期」まで「大豪商・店名も主人も」は、“この「危険・全ゆる危険」が在った事”から、この“「特定できない影の策・奈良期からの伝統」”を講じたからであるのだ。
    追記して置くが、念の為に「青木氏の正しい歴史観」として、「伊勢の氏族」を除く民間の前では、“「テレビドラマ」などの様に、「超豪商は平気で世間の顔表に出て来る事」は実際は殆ど無かったのである。
    これは「重要な青木氏だけの歴史観」であって、この歴史観を忘却して歴史を観れば大間違いをする。
    そもそも、この「顔隠策」は、少なくとも「奈良期の賜姓五役」や「因事菅隷の天皇の内示・密書」を直接に受ける事に成った時点では、元々、この「顔隠策の路」を「必然策」として「伝統的行為」として実行していたのだ。
    何も「院の屋・商いを営むだけの事」では無く、「院に於ける事」に於いても「顔隠策の路」を必然的にも伝統的にも求められたものであって、これは「青木氏氏是」に全てが基づくものであったのだ。
    「賜姓五役の青木氏」に限らず、献納時に於いて「天皇に朝見する時も誰が何時あったかなどは秘密裏にしていた配慮の事」が「青木氏の資料の読み取り」の中から読み取れる。
    青木氏だけの「顔隠策」のみならず朝廷に於いても同然な伝統であった様で、賜姓臣下族に成った時点から天皇家から引き継がれた伝統であったと観られる。
    奈良期から「青木氏氏是の伝統」を少なくともミスなく守るにはこれが一番であったろう事が理解できる。
    この「氏是」がある限りは昔で無くても現代でも求められる事でもある。
    要するに、これは「古くからの離れられ得ない伝統であった事」に成る。
    要するに、「四家・福家」はこの為にあった事をも示すものであり、「四家」が交互に動けば成し得る組織であったし、これに追随して「伊賀青木氏等」もこれを補完していた事に成る。
    筆者は、「献納時の朝見」は、「四掟制度」も「四家制度」も「福家制度」も「元々の基本の考え方」はここに在った事では無いかと考えている。
    其の為の制度でもあったであろう。
    寧ろ、「青木氏族」は、これさえ守れば他から攻撃される事も少なく成り、此れで護られていた事では無かったかである。
    中にはこれを窮屈とも思われる「伝統の破目」を外そうとする者も現実には居た事も判っているが、「氏族の掟」と成れば当に、“出る杭は打たれる”の例えの通りであり、これを無視して生きて行く事は難しかったのだ。
    それが、それが長い間に、“「青木氏の絶対の伝統」”と成り得たと考えられるし、これが「幕府と正親町天皇」から再び、元の「皇親族」から“「賜姓臣下族」、「賜姓五役」、「令外官族」、「因事菅隷族」から、更には“「律宗族」”と認められる結果と成ったのだ。

    「*」印の 「青木貞治救出の検証論」

    さて、上記の「三方ヶ原と長篠の火縄銃の経緯」の鉄の特異性を持っているのだ。
    これを理解した上で、ここには「青木氏の歴史観」に執って重要な事が在る。
    その為に少し話を元に戻す。
    「青木氏の氏是」の前に「南下国衆の駿河青木氏の指揮官」は、“それ”を予測して見抜いていたのだ。
    この“それ”とは、何かであって後で起こった「銃の結末」である事なのだ。
    即ち、「長篠の上記の結末」を事前に“「予測・想像していたと云う事」に成り得る”と観たのだ。
    要するに、上記の様に「雑賀根来の銃の雇用集団・1000丁又は3000丁の結末」の事である。
    “「極度に殺戮性の高い銃を持つ事」”に依って、その保持者の「額田青木氏が合力する」として「兵力的・松平軍」には「6000+5000=11000+a」に成るが、その「フリントロック式改良銃/超近代銃の威力」は「間隔の無い4連発銃」であって、結果としてこれは「45000+aの兵力・銃数*4*10000」に匹敵値し、これに依って合力下場合は「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えて「銃隊への補足が効く事」に成るのだ。
    これは要するに、当に「陣形」からすると「魚鱗の陣形」になるのであり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が「遠くの相手」の前面に殺戮性良く次々と飛び交う事に成るのだ。
    故に、上記の事を配慮すると、「浜松城」では「額田青木氏の指揮官」は、咄嗟に“虫の云い馬鹿馬鹿しい話を持ち込んだものだ”と思ったのであろう。
    それは、況してや「本隊」が戦わすに“額田青木氏に戦わせて自分らは楽をする”と云う構図であった。
    要するにその結末は歴史的に“「後の長篠」”がこれを示しているのだ。
    そしてその「最後の行き着く所」は、「旗本の事」を考えれば、“「雑賀根来の信長の始末」”と同じ破目に成るのだ。
    其れならば、「武田軍」では無く「銃の実質兵力」では負けていない「松平軍」と此処で「城の外」で“一戦を交えるのも良し”とする構えを示した事の筈だし、現実にそれ程の「激論」に成ったであろう。
    然し、「武田軍との戦い」の前に、“額田青木氏と戦う事は100%ない”事”は判っている事である。
    筆者なら、「判断力を無くして激高する相手」に対しては、この「脅し」を先ず架けて先手を打つ、そして「全国の青木氏族」に対して「攻守の態勢」を執る様に「伊賀」を通じて通達を出すの段取りに入る。そうするだろう。
    然し、そもそも、その足元を見ても「松平氏」にはそんな事が出来る余裕等は最早元より無かったのだ。
    要するに、激高させて於いて「城の外」に出されるが、それがこの場合は「松平軍と関係性を断つと云う点」では「最善の策」だったからである。
    後は、「伊勢青木氏の財と抑止力」を背景としていた以上は「伊川津の国衆」と成っていた事から「主従関係」は元よりなく「自力で生きて行ける能力」を持っているからこそ問題は無かったのだ。
    元々は、「吉田城」から呼び出されて「約定」を無視破棄して騙されているのだ。
    然すれば、「浜松」から海に出て「伊勢水軍」で「伊川津」に簡単に戻れる。
    陸であっても恐らくは常に陰に成り側帯していただろう「伊賀青木氏」を呼び寄せれば「伊川津」に戻れる。
    「松平氏」には今この時に「兵力・財力」共に「青木氏とそのシンジケートを攻める余裕と力等」はそもそも無かった。
    それは、当に武田軍>「松平氏の直接兵力」<「青木氏の影の力・抑止力」=数段の差の数式の関係であったのだ。
    だからこそ、断固断ったのだ。
    結果として、「目論み通り」に外に出され「自由」に成った「額田青木氏の銃隊」は、「軍議からの情報」から「駿河青木氏の青木貞治隊」を救うべく、場合に依っては危険を伴う事に巻き込まれる事もあり得るが、「三方ヶ原に走る事」が自由に決定して出来たのだ。
    これは何故なのかであるが、それは前段の「軍議の四つの命」に従わなかったからだ。
    この「結果の決断」としては、「額田青木氏の指揮官を負傷させた事」に成っている「疑問の遺る三河戦記」には成っているが、「額田青木氏側の記録」では良い方向に向いたのだ。
    そこで、大きな「一つ疑問」がある。
    この証拠は何も無いが、「松平軍記の負傷者死者の記」とされるこの「資料」には、確かに「山県軍の別動隊の突撃」で左鶴翼の突破時に、「額田青木氏の指揮官」が負傷したと成っている。
    然し、これには筆者には「疑問」があるのだ。
    つまり、「軍議」で、“一戦交えるかのところまで行った混乱”の中で、これで“果たして無事に済んだのか”の疑問である。
    筆者はこの「要素」を重く見ているのだ。
    それは、“「負傷者」”に付いては、その「三河記録」にも記載されている所以の、“「指揮官ただ一人」”の記載であるからだ。
    突破時であれば、先ず“「指揮官一人」”と云うのはどうも釈然としない。
    その負傷後の事を確かにこの「記録」では、指揮は理由が判らないが“「額田青木氏の差配頭」に引き継いでいる事に成っている”が「伊勢」では「無傷の事」である。
    これを偶然とみれば偶然と観れるが、この事には資料には全く触れていない。
    これが、「流れ」から「軍議の恨み」に報いんが為に、東側から“「旗本の決死の弓矢で狙撃された可能性”があるからだと、それを思わせぶりの形で記録しているのだ。
    恐らくは、その「軍議」に出ていたこの「旗本」に依って、その時は「山県軍兵かの判別」が付かず「無差別に弓矢で狙撃された可能性」を思わせるかの様に記された事が確かにはある。
    然し、何で、「軍議で争うまでに激論」に成った「指揮官」で、且つ、直ぐに「伊川津」に引き上げている「指揮官」なのに、且つ、「伊川津国衆」であって「三河国衆」では無く、「戦線離脱している者の名」がこの「三河戦記の戦死者・負傷者の記載」の中にあるのかであるし、駿河青木氏を吸湿している弾幕間の中で松平の兵が入ってこられるかの疑問がある。
    これは何か間尺に合わない。
    普通は外すであろうし記載もしないであろう。
    確かに後で知って追記したと云う事でもあるが、時系列的に観ればその時は既に戻っていて「伊川津国衆」を即座に辞しているのに、書く必要はそもそも無い筈であり、これは“戦死か負傷かしたのを如何にも観ていたかの様に、又は如何にも知っていたかの様に書く事は甚だ疑問で”ある。
    そもそも国衆を辞している以上は、そもそも「三河戦記」には書かないであろうし、未だ「国衆」であったかの様に書き込んでいるのもおかしい。
    この事が釈然としないし、だから、「出身元の伊勢・伊勢秀郷流青木氏」では「指揮官の負傷記録の詳細」は無いのであろう。
    筆者には、仮に「伊川津国衆」であっても如何にも「三河国衆」であったかの様にして、“「三河戦記の辻褄の時系列の不都合・後付け」を合わした”としか思えないのだ。
    もっと云えば、そうと成ると同時のこの時間に起こった「二人の戦死者の戦記」にも記載がある“「有名な駿河青木氏の青木貞治の死・二俣城の敗北を恥じた死と記載?」”は、“違うかも知れない”とする疑問が生まれるのだ。
    “猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”を張って「青木貞治隊」を「武田軍の本隊」から救出したその中の目の前で、今度は同時期に、“その「銃隊の指揮官」が負傷している”のは不自然極まりなく「大きな疑問」を持つのだ。
    “戦場だから何が起こるかは判らない”と云われればそれまでだが、幾ら何でもそんな事は無いだろうと観ていて、筆者には、“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”の中で、果たして、“偶然にも青木氏の指揮官二人の死”と云うのはあり得るのかは納得できない。
    何れにしても、「この状況」を確実に「駿河青木氏の貞治隊員」と「額田青木氏の銃隊員」の「1000人の目」が観ていた筈だ。
    故に要するにこれは「典型的な後付け説」と観ている。
    「江戸中期・1738年享保期」に成っても、「三河旗本」からの「150年以上の嫉妬と怨嗟の拘り」を超えた様な「嫌がらせ」が続いていたのだ。
    「伊川津や伊勢」も然る事乍ら、「江戸・1603年〜1868年」に於いてでさえも「三河旗本との執拗な軋轢」が続いたのは、この「事・軍議」に依る「口伝による恨みの伝統・4代続き」ではないかと観ている。
    “本来なら4代も続けば忘れている筈であろう”が、これは“「軍議の逆恨みの揉め事」”は「伝統化していた事」に成るだろう。
    前段で主眼を置いて論じた様に、「青木氏族の古来からの伝統」にある「特異性・律宗性」や「特別性・格式性・賜姓五役の郷氏」に対する「拭い切れないもの・劣等感」が先ず潜在的にあって、且つ、その上に、更にそれを“自らも決して獲得出来得ない物”に対する「執拗な伝統的な嫉妬と怨嗟と苦悩」のものであったと観ている。
    仮にもしそれだけであるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」も無かった筈である。
    ところが、「紀州藩との青木氏の付き合い」は、「三河旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」にも関わらず、記録にも遺る「初代・頼宜」から引き続いて何と「大正14年」まであったのだ。
    「彼等・旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」が厳然とあるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」は果たして可能で在っただろうか。
    それを踏み切るには、「紀州藩」に執っては簡単では無かった筈であろうが、然し、踏み切っているのだ。
    其れも「勘定方指導の立場」であって、且つ、「俳句・歌・南画・茶道・庭造り」の指導もし、「親友の関係・この関係を“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」と「資料の二か所にある」”と云う関係にあって極めて「親密」であったのだ。
    故に、「彼等・旗本」に「嫉妬と怨嗟と苦悩」の以外のものとして、“「軍議の逆恨みの揉め事」”が、何時しかそれが「歪んだ伝統」として、“「三河者の旗本」にだけに限定されて遺ったと云う事であろう”と思う。
    それが「三河」だけと成れば、「伝統的な嫉妬怨嗟」を買うのは、この「額田青木氏」には「軍議以外」には無い。
    これが遂には、後で前段で詳細に論じた様に“「闕所」”までに発展するのだ。
    それ、つまり、「大商い」をすると疎ましい付きまとう「闕所」であるが、それが何と「信濃」までに及んだのだ。
    然し、この元と成った「三河旗本の怨嗟と嫉妬」が治まったのは、「江戸中期・享保期頃」であった。
    そして、「伊勢の山田奉行の嫌がらせ」も治まったのも同期であるとし、「伊勢・伊勢屋」が江戸から引き上げたのも同期であって、更には「信濃青木氏の聖域と殖産の奪い取りの事件」も同期であって、挙句は、それを「ぶつける相手」が無く成ったという事と成ったと思われる。
    それで、“「平穏」”を保てたとするならば、それは当に「軍議の逆恨みの揉め事の所以」でもあったと充分に見込まれるのだ。
    故に、「三河の伊川津」で「陸運業と殖産業」を営む以上は、その「防御論」は、勿論の事、初期の頃の「青木氏の銃」は「軍議の逆恨みの揉め事」から逃れる為の「相手を威圧する抑止力」として保持し持ち続けたのだ。
    故に嫉妬怨嗟の彼らに執っては、“恐ろしい陸運業と殖産業”であった筈である。手を出せば潰れるの恐怖があったのだ
    そして、それが「主君の松平氏」をも左右する程の「債権漬け」で政治的な勝負は着いたのだし、その叶う事の無い「各種の武力的な抑止力」と「商い・財力と云う力」を持っていたのだ。
    筆者は、上記した様に、「額田青木氏」と「駿河青木氏」、強いては「伊勢青木氏」の事を検証する際には、この“軍議と云う要素”が大きく働いていたと観ているのだ。

    「*」印の再び「救出の検証」に戻して。
    そもそも、この「救出」は「武田軍の本隊」の「魚鱗の陣形の先頭」が「騎馬隊」であったからだ。
    横に広く展開すると、その「騎馬の効果」は低下し集中して来るし、自由の効かない騎馬を狙い打ちに掛けれられるし、誘い込まなくても早く命中率の高い範囲に次から次へと勢いよく近づいて来るからだ。
    「騎馬」が前に進まなければ「徒士」は前に進めないとすれば「敵の威力」は「騎馬」に集中する。
    「騎馬」が全滅すれば、次は「徒士」を「狙い撃ち」にする事に成るし、「魚鱗」は「左右の鶴翼」に分散して「騎馬突撃の威力」は低下する。
    これが「長篠・12000戦死」は主に「火縄銃」ではあったが、その2年前の「三方ヶ原」では、当に現実にこの絵に描いた様な同じ経緯と成ったのだ。
    「織田方」には「3000の銃隊」の前には「防護柵の馬防柵」で表向きは護られていたとし、この時の犠牲は「雑賀根来傭兵軍団の約半数弱の多少」であって、「信長本隊」にはそもそも何も無かったのだ。
    「武田軍12000の全滅の犠牲」を出し、「逃げ出した残りの武田軍」に対して更に「追撃戦」で「武田軍5000の兵の犠牲」を出したが、兎も角もこの時、「長篠の信長」は、何と前段の通りで、この「戦場」では無く、この戦場から西に1km離れた「土豪の館・新庄市富永氏の館」を本陣としていたのだ。
    これは始めからこの「三方ヶ原の結果を描いていた事・研究」を示し、「銃の威力に対して自信があった証拠・現実は弱点を突かれて犠牲」でもある。

    ここで、さてこれを念頭にして「額田青木氏の南下国衆の銃隊」と「青木貞治との情報交換」に付いてどの様な事が起っていたのか深く踏み込んで観る。
    前段でも論じた通り、“「南下国衆の銃隊」を「鶴翼の頭の部分」に何故据えなかったか”と云う「疑問・軍議で拒絶」である。
    前段でも論じた様に、次の事が考えられる。
    そもそも、「伊川津の国衆に成った時の目的が先ず違うと云う事・イ」、
    到着時に「タイムラグの問題があった事・ロ」、
    且つ、「青木貞治隊を護り救い出すと云う目的の事・ハ」、
    額田青木氏に対して「元よりの旗本の嫉妬が強かった事・ニ」
    以上の「イからニの事」が「全体的な四つの事」として「理由」が潜在的に確かにあったろう。
    然し、この「全段も含めて詳細論の段」に於いて果たしてそれだけかである。
    これが疑問なのだ。
    筆者には何となく間尺が取れないのだ。
    それは、“一言坂の直ぐ横東1kに「駿河青木氏の菩提寺の西光寺」があると云う事”だ。
    この「検証」にはこれは「重要な要素」であって見逃せないがこの事が考慮されていないと云う事なのだ。
    どんな戦いに於いてでもこの「菩提寺の存在」は戦略上で重要なのだ。

    況してや戦場の近くにある彼等の「氏寺の菩提寺」である。
    要するにこの「菩提寺」にはそもそも「仏教徒の掟」があって、「寺内に武力を持って侵入する事」は古来より「厳しい掟」があった。
    その為には逃げ込んだ戦士を討ち取るには「寺の焼き討ち」して外に誘い出して、そこで討ち取ると云う事にどんな場合でも「戦術」として成るのだ。
    況してや「駿河青木氏の氏寺」とすれば「周囲の民衆・氏人」もこれを断固として護るのが古来から伝統である。
    「武田氏」はそれを攻めれば「秀郷流一門の東の361氏の勢力を西に呼び込む事に成り、それがどういう事に成るかは知っていた筈で出来なかった筈である。
    恐らくは、故に「三方ヶ原」で救い出して、ここに逃げ込み潜んだ事は間違いはないのだ。
    どの「資料の行」から観ても、ここで、“「隠した事の説」”は読み取れる。
    其れがここであったと観ているのだ。
    だとすると、「隊長の青木貞治」は戦死はしたかは、「戦記に滲ませている表現」の通りに少なくとも「全滅覚悟の死隊」では無かった事に成る。
    「貞治隊長」は其の気であっても「家康・軍議」から「二俣城の叱責」を受けても「決死隊」を命じられてはいなかったという事である。他に直接に家臣としての副将が居たのに何で駿河国衆の貞治が責任を取らなくてはならないかの矛盾が生まれるのだ。
    これは見逃す事の出来ない重要な事だし、そもそも「二俣城の叱責」を万に感じる立場に果たして居たかである。
    先ず、その「二人の副将」の内の一人であって、未だこの時は「貞治」は「松平氏の家臣では無く「松井氏配下の駿河国衆の立場」であったし、そもそも「もう一人の副将の者」は[松平氏の縁者の若者]であって、叱責も戦死も無いのだ。
    況して、そもそも「主将」は罰せられてはいないし、「戦死」もしていないのだ。
    故に、この「後付けの説」は大いに疑問なのである。
    だから、その経緯から「南下国衆の銃隊」に対して「情報」を提供し、且つ、「他の者を救い出して欲しいとの願望」を伝えたと考えられるのだ。
    その時、この「菩提寺に逃がす事」を頼んだだろう。
    そもそも、そこで「菩提寺があるという事」は、その「盤田見附地域」は「青木貞治の一族の父祖の先祖代々の駿河の知行地」であったと云う事に成る。
    つまり、距離にして「40k=10里」で、「徒士の道則」にして「50k・10hの東」の「神奈川の秀郷流青木氏とその一門」が護ってくれるだろうと云う範囲のぎりぎりの範囲の所にあって、その安全の期待があっただろうし、現実に遅れて入っているのだ。
    それには、「後付けの三河戦記」の通りでは無く、「青木貞治隊」は「自由な行動下」にあり「主戦の中央に位置する事」は絶対避けなければならない「自由な立場にあった事」が云えるのだ。
    「筆者の考え」は、この「条件を叶える」には「軍議の末端」に「参加できる立場」にあった「国衆の青木貞治隊200」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300」も、「軍議」では明確に「命令を拒否した」であろうと云う事である。
    と云うのは、“「軍議に参加していた」”とする「直接的な表現の記録」はないが、「三河四天王」と云われた「本多軍も大久保軍も酒井軍等」も夫々「200〜500兵」でこの「軍議」に参加しているのだ。
    「兵の勢力」では同じ立場に居たと云う事だ。
    従って、「青木貞治隊200・初期から」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300・呼出後」が「軍議」に参加させられなかったと云う「特段の理由」は無いだろう。
    間違いなく「参加していた事」に成ろうし、「吉田城・守備隊」から呼び出されたのもその証拠と成り得る。
    その「軍議の直後」に、「時間稼ぎの目的」の為の「籠城戦」を前提に「不合理な偵察隊」を命じられたりもするも、これもこの「軍議の参加」による影響のものだろう。
    そもそも何度も論じている様に、「浜松城・27m高」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の陣営の様子」に対してである。
    「そもそもの狙い」は、「時間稼ぎである事・織田氏の思惑と額田青木氏の銃の印象付けもあったか」は、「戦略」としては判るが、これも「武田軍の本隊の充分な補給体制」も整えない侭で、且つ、「野営」で「長期間の籠城戦」はあり得るのかと云うここにも何か釈然としないものがある。
    確かに、「武田軍の本隊」が「周囲の出城を攻め落とし」をしながら「二俣城からの供給」で「一言坂東」で「大軍の約1月間の停留」をしているのだ。
    それは前段に論じた通り、「三方ヶ原」では無く、「野営の此処・一言坂東」を「拠点」として「堀江城」より先に、「西域の脅威」を片付けて「織田勢の本隊」が「決戦」を求めて来ない内に、東から「浜松城」を先に攻め落とすつもりであった陣形である。
    「西の織田勢」と共に「三河勢・松平軍」もこの「東の背後の脅威」があった筈で、この「説・浜松城先攻め」は無いだろう事は判る。
    「今川氏の様」にそんな「危険な位置」に「準備周到の信玄」は「野営・一言坂」は絶対しないが、ところが何故かしたのだ。
    それには、「二俣城の陥落に時間が掛かった事」と、「二俣城で補給体制の構築に時間が掛かった事」での二つが在った事が記録として残っている。
    この間に史実として時系列では、「二俣城」からこの「野営場の一言坂」まで「山県軍の別動隊の連絡」が届いている事から。この理由はこの「二つ事」であった事に成る。
    それが「整った段階」で「目的の堀江城」に向かった事に成る。
    故に仮にこの「戦略」を採用したとすれば、間違いなく「堀江城の二極化論説」であった事になろう。
    この事は相当に余裕があった事に成り、「織田氏も松平氏」もこの「堀江の前」の「一言坂の野営」が最も攻める時期であつた事に成るが、そうせずに「無駄な弱腰の時間」を過ごした事に成る。
    故に、「籠城戦の戦略自体」がそもそも「空虚で在った事」に成る。
    其れならば、“「偵察隊」を命じられた事”は可笑しく成り、当に実に無駄であった事に成る。
    「額田青木氏の指揮官の貞秀」はこの間の「経緯」を情報から知り、この様に分析をしていたと思えるのだ。
    「織田氏」は「浜松城籠城戦説」を採っていたとしていて「時間稼ぎの理由」の外には、過去にも「第一次吉田城・籠城戦の戦績」の様に、その「経験」を通じて「南下国衆の銃隊を浜松城に留めて置く事」も、「最大の防御・時間稼ぎ策」とも考えていた筈である。
    故に、なのにこんな「三方ヶ原の愚策」と「一言坂偵察の愚策」の「二つの愚策」を考えた「その背景」には、“「ある問題」”が「軍議の中」にあったのではないかと観ているのだ。
    前記したがこれらの「上記の経緯の事」は、本来は「松平氏右筆衆・青木氏では祐筆」で詳しく調査されて遺されて「原石の侭」で遺されるものであるが、然し、それは消されいて無いのだ。
    要するに簡単に云えば、これ等を纏めたとする「三河戦記」は、開幕に必要とした権威を「後付け策」で「権威を必要とする徳川幕府戦記」を塗り替えた事に成り得たのだ。
    つまり、「後付けと成っている事・脚色」は、言い換えれば“「軍議の過程」に於いて「上記する事」の物議が交わされた可能性がある”と云う事だ。
    確かに、「額田青木氏」に依らずとも「銃隊」とは、「弓矢」に代わって「籠城戦」には絶対に必要であって、且つ、「野戦」に於いても「鶴翼の頭部」に据えて「弾幕」を浴びせると云う何れも「最大の戦術・弓矢に変わるもの」でもあった。
    当時は「資料」より「急激に短期間」で、急に“「欠かす事は絶対に出来ない戦術」に成った”と認識に至っていたのだ。
    然し、「浜松城の籠城戦論」ではそういう「重要な時代認識」はな未だ遅れてなかった様であり、それは「武田軍の第一次吉田城攻め」がその最初と云われているが、それが偶然にも「額田青木氏」が「伊川津国衆」としての最初の役目として詰めていた為に「銃による籠城戦」と成ったのであったのだ。
    その為に「武田軍」は「額田青木氏」に「思わぬ抵抗を受ける事」に成って一時は軍を引き上げると云う結末と成ったのだ。
    故に、「一言坂の偵察」は、勿論、論外の事ではあるが“「二度目の銃の威力」を示すと云う戦術”はあり得たが、寧ろ、「籠城戦」と成れば戦いの前は、寧ろ、“「銃の存在」を知らさない方がより効果的”であり、そうと成ればそもそもこの場合の「一言坂の偵察隊の銃威力誇示」も要するに「愚策である事」に成る。
    要するに、本格的に「松平軍の主軸と成って戦う事の拒絶」の前に、軍議の「諸々の物議の激論」とは、この是非の「此の処・偵察隊の銃威力誇示」にあったのだ。
    兎も角、故に「籠城戦である事」では止む無きとするも、「一言坂の遭遇戦」のみならず「三方ヶ原の野戦の直接本格戦・鶴翼陣形」では、“断固として国衆の立場として断る”としたのだ。
    これに付いて「額田青木氏の南下国衆指揮官」と「旗本衆」の間で“激論が交わされた”と観ているのだ。
    故に、「軍議の中」では「指揮官<旗本の関係」から“「愚策と実行」”と成ったのだ。
    この「旗本」とは、何と伊川津に関係する「東三河の大久保氏や本多氏等」等が主力であったのだ。
    それだけに云う事を聞くとしていた「東三河の旗本等」は、「約定のある事」も知らずに独りよがりで、“立場が無く成った”としたのだ。
    故に、そして、「偵察隊と云う形」で体よく“城から追い出された経緯”と成ったのであろう。
    当然に「城からの情報」が入らない侭で追尾する事には成ったが、最終的に危険が伴うとして、「青木貞治」は周囲に危険を冒してでもこれを補完して「軍議情報」を流し、「額田青木氏の一族を救う事」としたのだ。
    そして、「情報の途絶えた額田青木氏の南下国衆」に対して、「青木貞治」は「最後の軍議情報」を「秘密裏」に「額田青木氏」に提供して、且つ、万が一場合には「遠州秀郷流一族一門の救出援助・駿河相模の青木氏・史実」をも頼んだと成ったのだ。
    現実に時系列の記録から動き始めていたのだ。
    其れで無くしては、「伊賀者・伊賀青木氏の香具師等」で援護しながら「伊賀越え」で「家康」を救った若い「遠州青木氏の貞治の子孫・青木長三郎・貞治の長男・三方ヶ原より9年後」は遺らなかった筈であった。
    故に、「偵察としての城への情報」としては記録されていないのだし、「伊勢の資料」にはその経緯を辿れる程度に功績を遺しながらも、「三河」には適正な記録が無いのは「右筆の原石」が後に成って都合の悪い事は一切消し、そして「後付け」で都合よくこの「歴史」を塗り替えた事でもあるのだ。
    従って、「一言坂の偵察隊後の追尾」では、「最終軍議の参加・情報入手」には無理であったろう。
    そこで、「今後の事」も含めて密かに、“青木貞治から「軍議の情報」を獲得した可能性がある”のだし、故に、本来戦術の「鶴翼の頭部の位置に陣取る」と云う「命令」も無かった事に成る。
    これ等の事は、今まで「論調」が余りに複雑に成る為に論じて来なかったが、その「詳細部分」であって、然し、その「一族の青木貞治と云う重要要素」を勘案した場合に、この“「拒否説」”は放置できずにこの「追論」が出る事に成ったのだ。
    この“間尺に合わない問題”は、この“「拒否説」”にあって、「上記のイから二」に付いてもこの「拒否説論に始まる・物議に依る激論」と観ているのだ。
    これが、後の「戦線離脱」や「陸運業」を容易に成し、早期に得た「決断の基経緯」と成っているのだ。

    さて、続けて追論として、次に論じるのは“「鶴翼の銃の威力の理窟」”であるが、唯、これも、又、何とこの「通説」は異なっていたのである。
    然し、他方、「武田軍本隊」も「堀江城」で、“「一日」で墜せる見込みであった“が、実はこの「時系列」で観ると「二日の籠城の激戦と延4日所要」と成っていた事が判るのだ。
    それは二俣城から山県軍の別動隊の補給基地地築造隊か三方ヶ原に三日後に到着する予定であったとして、この侭では本隊が別動隊を三方ヶ原で補完できない事が起り、1日遅れる事は「松平軍5000」に山県軍の別動隊の実戦の2000の兵が潰される事に成るとしていたのだ。
    この「計算」が狂った「武田軍の本隊」は、其の後、「松平軍の二つの情報・野戦情報と鶴翼戦情報」を獲得して、そこで「武田軍の本隊」も慌てて「三方ヶ原への手立て」として「補強路確保と山県具への援軍」をする必要に迫られていた時系列と成っていたのだ。
    その為に「武田軍の本隊の大軍」も遅れて「堀江城開城の条件」を“城兵全て助ける事”で「1日分の短縮」を図ったのだ。
    この“堀江城の200の城兵は空の浜松城に入った”とされているのだ。
    そして、当初は“「三方ヶ原の北側」”に陣取る為に先にも慌てて「三方ヶ原の補給構築拠点」に向かったとする時系列であるのだ。
    ところが、そこで「三方ヶ原」での「松平氏の先取りの陣取り方・西向きの鶴翼の陣形」を知って、元はそこで「武田軍」は、当初からの作戦として「北から南に向かって陣取りをする作戦」であったが、西から東に向かっての「応変の結果」と成って仕舞っていたのであった。
    この事で、別動隊の合流が出来ず、これで「山県軍の別動隊の計画・北から南」は狂ったのだし、本体も鶴翼の陣形から相手が「予想外の鶴翼陣形・多勢の陣形」であった事から受けて立つ為には不利な「魚鱗の陣形・無勢の陣形」に行進中に変更せざるを得なく成ったのだ。
    武田軍に不利な条件が重なってしまったのだ。
    そこで止む無く、進軍中の「山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、「北の山際に停留する事・当初の計画の位置」を強いられたのだ。武田軍本隊と山県軍別動隊とが結局分離された結果と成って仕舞ったのだ。
    松平軍に執っては「山県軍2000の兵」を本隊から切り離しした有利な結果と成ったのだ。
    この「松平軍の有利な点」を「山県軍の別動隊」は本隊を救う為に有利にする様に知恵を働かせたと云う事に成ったのだ。
    そこで先ず「山県軍の別動隊」は、向後の憂いを無くす為に遅れて「二俣城の周囲・国衆軍団が反乱して騒ぐ」を改めて掃討し、「二俣城処理中の別動隊」が「補給路」を造り上げる為に急いで三方原北側に向かっていた。
    元よりこの「計画の打ち合わせ・三方ヶ原」であった事から、「武田軍の本隊」も、“これは危険”と観て、急いで「作戦」を変更して「山県軍の別動隊の救出」に急いだ。
    そこで「三方ヶ原の北側・山際沿い」に先ず向かい、そして「山県軍の別動隊」が着くのを待つ予定であった。
    ところが、結果として間に合わず東西に構える不利な形と成って仕舞ったのだ。
    戦術としては鶴翼の陣形>魚鱗の陣形であった事から本隊としては全て大軍でありながらも持久戦に持ち来れれば不利な条件に置かれていたのだ。
    そこで、「山県軍の別動隊」は合流する事は出来ず、後は元の計画通りに「北側に陣取る形を執る事」に成って仕舞ったのだ。
    この珍しい陣形となって「山県軍の別動隊の執るべき作戦」は唯一つと追い込まれたのだ。
    それが、「武田軍本隊」が魚鱗で対抗する前に、「山県軍の別動隊」が「松平軍の鶴翼の先端の頭の部分」に突撃する以外には本隊をより有利にするには戦いの始まる前にする事しては通常戦法では無く成ってしまったのだ。
    結果として、後は鶴翼の陣形を決死の覚悟でこれが「鶴翼の頭の側面」を突く事に成り、「戦略的な鶴翼の陣形の意味」が無く成って仕舞って総崩れと成ると考えたと云う事だ。
    経緯論として観てきた結果から其処に「思わぬ落とし穴」が有ったのだ。

    さて、この検証としてこの経緯の結果から、ここで「一つ目の疑問1」が出る。
    それは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「武田軍本隊」を追尾していた事を知りながら、“何故、「三方ヶ原」に向かったか”である。
    普通なら後ろを着いてくる筈と思う筈である。現実に隠れながら追尾していた。
    更に、「二つ目の疑問2」は、「松平軍=山県軍の兵力」として「兵数としては同じ勢力・築造兵含む」でありながら、何故、「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊の支援」に向かったのかである。
    勿論、築造兵3000が実戦兵で無い事は知っていた筈である。
    普通は行く行くは「本隊」が行く以上は向かわないだろうし、「松平軍」もその事は充分に認識できていた筈だ。
    「山県軍の別動隊」が、三方ヶ原に“早く着くと云う事”に成り「西側に位置する事」とすれば、却ってこの事で「二つの武田軍の陣形」が西側で整う事に成る。
    これは速く「三方ヶ原の戦場」に着いた「松平軍」には不利と成り得る。
    それと、「三つ目の疑問3」は、「松平軍の鶴翼陣形の向き・西向き」である事である。
    この「三方ヶ原の地形」は南の浜に向かって「下り坂の地形」にある。
    そこを西向けに陣形を採る事は活動としては斜めの地形であって好ましくない。
    本来であれば北の浜松城を背にして北向けて陣形を採るのが普通である。
    「一つ目の疑問1」は、勿論、直前でも経験した「南下国衆の銃力の威力」に「脅威」を抱いていた事である。
    「二つ目の疑問2」は、「別動隊」であるが、基本は「補給基地築造隊」が主目的であった事である。
    この「二つの事・疑問」と連動して、これが「一つ目の疑問の答え」でもある事だ。
    「三つ目の疑問3」は、西から来る誘い出した「大軍の武田軍の本隊と対峙する事」と、「松平軍の陣形」が西に向く事で遅れて来そうな「別動隊」に二俣の方から「背後を突かれる危険性」があった事だ。
    何れの「三つの疑問の1、2、3」には「松平軍」に執っては「三方ヶ原」と云う「無理な野戦を選んだ事」が左右しているのだ。
    そこで、これ等を補完する意味で、「額田青木氏の指揮官」の「自らの判断」で止む無く「南下国衆の銃隊」が、“「南左の鶴翼の付け根部」に「青木貞治隊の救出の為」に位置した”と云う事が先ず考えられる事だ。
    筆者は、寧ろ、“位置した”と云うよりは、「上記の物議の軍議の結果」から、“そこに居た”と云う事ではないか、又は、“居る事に成った”として、故に、“「家康の独自の判断」”で「陣形」を、急遽、「軍議」に基づくものでは無く、“戦場で西向きの鶴翼にした”と考えているのだ。
    そう成る事で、「額田青木氏の南下国衆の銃力」が“武田本隊と山県軍別動隊の左右の軍に対して「総合的な破壊力を示す事」が出来る”として、“「武田軍の本隊」に対して斜め西に向けた”と考えられるのだ。
    然し、「軍議」で「当初の思惑」は大きく崩れたが、最早遅いので当初の通り計画を実行せざるを得なく成ったのだと観ている。
    何故ならば、「家康側からの考察」から観ても、そうする事でもこの「上記の疑問の123」の「三つの問題」も解決出来る。
    つまり、突き詰めると結果として「山県軍の別動隊は遅れている事」もあるので、“絶対に戦闘に参加せずに、「様子見」してその「時期」を観て貞治隊を救い出すと観ていた”とする「遅れ説」の説に成るのだ。
    ところが、ここで更に「思わぬ事」が起ったのだ。
    それは、この「山県軍の別動隊」は、予想を超えて突然に“「補給拠点築造兵が突撃隊に凶変したとの云う事”であるのだ。
    つまり、「家康の咄嗟の決断」は、“両軍の全ての思惑は狂ったと云う事”の説に成る。
    もっと云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に依って、先ず結果として「山県軍別動隊2000以上の犠牲」を負ったが、「残る兵」は最後尾に着いていた「補給拠点築造兵の非戦闘員」が全てであり、「銃の難を逃れる為」に留まらずそのままの「勢い」で生死を掛けて「浜松城」まで走り抜けたのである。
    従って、これが下で「浜松城を攻める事は出来なく成っていたと云う説」に成るのだ。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この“2000の戦闘兵を狙撃した”が、「残りの非戦闘員」を銃撃せずに、先ずは「青木貞治の隊員」を先に救い出し、直ちに自らも「戦線離脱した事の説」に成るのだ。
    武田軍本隊は、「青木貞治の隊員の救出」の為に補完銃撃して「救出の手助け」をしているのを観た。
    そこで、又、「武田軍の本隊」も「一言坂銃撃の様な尋常じゃない威力の額田青木氏の銃隊」が救出後にも続けて「武田軍の残りの非戦闘員」を銃撃しなかった事」をも観た。
    続けて「武田軍本隊」は、「攻め込む事」もをせずに、且つ、「掃討作戦の為の武田軍の掃討本隊」と同じ方向に向かう「救出後の青木貞治の隊員の戦線離脱の黙認放置・盤田見附の西光寺に向かう」をも“無条件で許した”と成る説である。
    だから、幸いにも思わぬ事が乗した様に「両軍・武田と松平軍」に起こりながらも「青木貞治との約束」も「自らの行動の事」も円滑に成せたのである。
    これが両方の時系列から追った史実である。
    この中に挟まれて額田青木氏と駿河青木氏の生き残りの経緯が起こったのだ。

    ここで注釈として、故に、「家康」から、後の「伊賀越えの協力の事・1」も、「伊勢の事お構いなしのお定め書も獲得出来た事・2」も、更には、「紀州藩の初代」には「家康」が最も信頼していた「水戸藩主だった「優秀な頼宜・遙任」を、態々、「初代紀州藩主・大正14年まで親交」に挿げ替えた事・3」も、その後の「勘定方指導」などの「絶対的な協力体制」を築いた事・4」も、上記したこの「4つの行政事」の、これ等全てはこれ等の“「詳細経緯」”から始まっていたのだ。
    この“「1から4までの詳細経緯」”が無ければ、「青木氏の歴史観」としての「額田青木氏と駿河青木氏の正しい戦記」は成り立たないのだ。


    さて、もう少し論を戻して
    ところが、「上記の詳細経緯」では、「武田軍の本隊」が「三方ヶ原」に到着すると、既に「東側」に「松平軍」が何と“「鶴翼陣形・多勢系」”で陣取っていたのだ。
    「松平軍の軍勢・織田軍は軍監目付の形式合力たけ」の「戦力」は、「武田軍の幌者の情報」で知り得ているし、要は「織田軍の援軍の数・実際には軍目付け・軍監だけ」に依るが、“「織田軍」も西で戦っていたので多くを出す事は出来ないだろう”と「武田軍の本隊」は読んでいたし、又、「弱体の足利幕府」と敵対して「織田軍の利害」や「西に引き付けられている現状」の「二つの現状」を考えた場合は、“"松平軍は間違いなく少ない”と「武田軍本隊側」では確率よく観ていた筈である。(資料により史実)
    この事に就いては歴史観として配慮の一つとすると「史実」であって、「織田軍の軍目付・軍監の軍勢の偽情報」のこれは「三河東域と駿河西域を制圧しようとしている武田軍」を、これに対して「何とか策謀で動かそうとしていた織田軍側の裏策略」であった事が、全ゆる資料から判明している。
    依って、「この事を前提にした戦略の読み込み」では、“「野戦では無い・籠城戦・長期戦」”と観ていた「武田軍の本隊」は、“この「陣形の急変」に驚いた事になった”と「時系列」はで成り立つのだ。
    それは、そもそも「多勢が採る鶴翼の陣形」では無くて、「三方ヶ原」で「待ち受けている松平軍」は間違いなく「無勢が採る魚鱗の陣形」と観て“と執った行動であるからだ。
    「堀江の解放・敗戦」を見定めた「松平軍」は、上記の「時系列の経緯」では、この時に“「三方ヶ原の野戦」を選んでいた、そして12/22日、早朝に「浜松城」を出た”と事に成る。
    これは「武田軍の本隊」が、元より「別動隊を待つ計画」で、到着後に一斉に「浜松城攻め」で「北の三方ヶ原」に補給基地と本陣を構える予定であった事」が判るが、ところがそれが「齎された偵察の情報」では違っていたのだ。
    更に、以下の時系列について詳細な経緯の検証を進めると、「額田青木氏」に付いてもある事がこの時系列で観えて来るものがある。
    この「重要な時系列」は次の通りである。
    「堀江城 12/21〜12/22」 朝に落城 
    「浜松城 12/22」 朝出陣・三方ヶ原・2時間で到着
    「松平軍・鶴翼の陣形」 12/22・10時・昼前に構え終了
    「堀江城の結果・開城」 「12/22・早朝」に三方ヶ原で確認 
    「武田軍本隊」 「三方ヶ原 12/22」 昼過・2時間で到着 
    「武田軍別動隊」 「三方ヶ原 12/22」 15時に到着
    「武田軍全軍」 「魚鱗の陣形 12/22」 16時前・「陣形」を整え完了
    「武田全軍」と「松平軍」 12/22 16時 開戦・2時間・18時に完了

    さて、そこでこの「時系列」から観えて来るものとして、「一言坂の本隊との遭遇戦」には「額田青木氏・国衆・銃隊」に執って興味深いものが、この「時系列の中に一つある」のでそれをここで論じて置く。
    そこで、先ず、「武田軍の本隊」は南下して4隊に分けたとある。
    「守備隊の信玄本隊」は、「諏訪」から「東三河」の「武節−長篠−遠江−岩村」と全ての支城を落として後に、“「東の二俣」に向かった”とある。
    「他の3隊」の「秋山、馬場、山県隊」の夫々の隊は、「北三河」に続き「東三河」と「遠江の境」までの「出城の全て」を瞬く間に事如く落としたとある。
    そこで、これで「右側の勢力の憂い」を排除したので、そうすると残るは「掛川や高天神等の駿河との境城」は
    「戦略的に東西の秀郷流一族一門361氏と戦う事」に成るとして、これを時系列では後にした事に成っていて、先ず「浜松城に狙いを定めた事」に成る。
    その為にだから「武田軍の4隊」が、別々に「北の二俣城」に向かおうとしていたのだ。
    この時、この「4つの動き」に対する為に、「家康」は「不得意な一言坂の無理な野戦」に出て防ごうとした。
    然し、その結果は完璧に悲惨な敗退を期し「浜松城」に「家臣の身代わり」もあって命からがら逃げ帰ったとある。
    この時に、「劣勢の状況」を脱する為に「東三河の吉田城」から「家臣の守備兵」では無く、「国衆」の「額田青木氏・国衆の銃隊」を呼び寄せたとし、「41k東の浜松城」に向けて先ず「昼夜の徒士10時間半の道則」で到着させた事に成っている。
    ここで、では、“何で、呼び出しに応じたのか”の疑問が残る。
    そもそも“「軍議で命令を拒否する」”のであれば、その前の“「吉田城呼び出しの時」”に拒否しても同じである筈だ。
    然し、この「呼び出し」に応じたのだ。
    これには何かの配慮が「額田青木氏側」にあったとしか思えないのだ。
    それが、“「額田青木氏の救出」”に有ったと観ているのだ。
    この時、「三方ヶ原の戦況不利」は「青木氏の情報管理をしている伊賀青木氏」から「秀郷流一族一門、又は貞治本人」を通じて伝えられていた」と観ていて、「国衆の立場・契約条件があった」である限りはこの「救出の大義の機会」を伺っていたのだ。
    それは何かであるが゛、これは「軍議の内容の歴史観」でハッキリとしているのだ。
    丁度、この時、「武田軍の本隊」が「北の二俣城」から南に向かって「海寄り」の「東の一言坂入り口」に到着した処であった事に「時系列」では成る。
    この時、「額田青木氏の銃隊」は、「上段と上記の軍議」で「命令」を拒否した為に「城外」に放り出されていた。
    そして、その後に、「武田軍の動向」が城から見えているにも関わらず「意味の無い作戦」として何と「一言坂偵察」を命じられたのだ。
    “「軍議拒否」”で、“全滅するだろうと見込まれる命令”を敢えて出したのだ。
    ところが、ここで、当然に「額田青木氏・国衆の銃隊」と「武田軍の本隊との遭遇戦」が「史実の通り」に起こった。
    初めて「額田青木氏の戦闘」としての「近代銃の火蓋を切った事」に成ったのだ。
    この「遭遇戦」は、前段で論じた通りで「武田軍」とは「2度目」である。
    一度目の「第一次吉田城の銃撃の脅威」を知っていた「武田軍の本隊・銃に圧倒されて持久戦と成る」はその後引き上げる結果と成ったが、この「額田青木氏の350の銃隊」に対して、「坂途中3000」と「背後に廻った西坂下3000」に追随した形で「坂下に100銃隊」を配置して迎え撃とうとした。
    然し、何と「武田軍の本隊」は、「額田青木氏の一度目の銃撃の凄さの撃音」を聞いてだけで、あり得ない事に戦わずしてこの「射程距離外・約1k」にまで後ろ向きでずるずると逃れ後退したのだ。
    “余りの凄さに「坂の武田軍本隊」は、「完全無抵抗」で「坂道」を譲った”と云う「戦記の戦歴」であったとある。
    そして、そこで「額田青木氏の銃隊」は、敢えて「威力の銃撃」を停止して、「西の坂下」を牽制しながらも、先に通り越して降りて、“「浜松城の北東の小山裾の位置」で先に待った”とある。
    この“「待ったと云う事」”に意味がある。
    一言坂で銃撃戦を続けなかった事なのに、何で“「待ったと云う事」”に成ったと云う事なのかである。
    それは、“「武田軍の本隊の通過」”か、“「浜松城攻め」かの見極めをする事”のこの「二つ」にあって、これを“待った”として、「読み込み」では、“「見極めるとする事」”で観えて来る事なのだ。
    要するに目的以外の事はしないとしていたのだ。その「目的」とは世事情を出るとはの初期の目的達成であった「駿河青木氏の救出」に有ったのだから余計な戦いはしなかったと云う事であって、従って、敵は武田軍では無かったと云う事なのだ。だとすれば時系列は全て符号一致するのだ。
    取り敢えず、「意味の無い偵察命令」は、兎も角も終わらせ、「額田青木氏の銃隊のする事」はこの段階では最早後唯一つであった。
    「軍議命令を拒否」の為に「城外」に放り出された以上は、その後の「行動の決定」は「額田青木氏の銃隊」にあって、そこで「採るべき行動」は、それはこの時は未だ唯二つ遺されていたのであった。
    「武田軍の本隊」に対しても、「松平軍」に対しても、先ず一つは、“安全にしてどの様にして「伊川津」に戻るか”であった。
    然し、もう一つはその前に先ずは「駿河青木貞治隊の救出」があったのだ。
    この段階では敵・松平軍」と見做されていただろう「武田軍本隊」の前を、急いで逃げる事は背後を襲われ危険が未だあったのである。
    だから、そこで「武田軍の背後を追尾する事」にしたのだ。
    それは、“いざ襲われる”と成ると、「銃弾」を浴びせられる「北東の位置」とすれば、精々100m〜300mの小高い丘の上と成る。
    これが「史実記載の通り」であり符号一致する。
    これは「武田軍の浜松城の武田軍本隊の通過路」に関わる事だ。
    これが検証できれば、「潜んでいた位置」が確定でき、「その後の動き」も確定できる。
    「戦記」では、「小沢の位置」とされているが、この「小沢の位置」とは何処かであり、史実と一致させられるかである。
    先ず、「大軍」である限り「細い道」は周囲から狙撃されて通れない。
    当然に「大軍」である限りは「近道と云う考え方」は間違いで「大道路」と成る。
    「二俣城」より真直ぐに南下して「一言坂」を東から西に向けて通過したと成ると、「大道路」としては、「現在のR45号」と成るが、これでは「一言坂」は通らない。
    そうすると、「天竜川の東横」の「現R44号・真南・18k」を通り南下して、「一言坂」に東から到達し、これより「真東1.5kの位置」から西に直角に「旧道・県道現413号」に入り、そこから「天竜川」を渡り、その「5.5kの位置」から、その後、「旧道・現312号」を更に「西に向かう事」で旧道を通過する事が出来る事に成る。
    「武田軍の本隊」は、この「一言坂・坂下・12分・1kの位置」から「旧道・312号」を通り「旧道・152号・2時間半・12k」に繋ぎ、西の「浜松城」の「真南400mの所」を「城」を基点に円を描く様に半円で廻り、そこから「旧道・257号・1時間・5k」を北進した事と物理的に成る。
    又は、「城の北に廻る道路」の“「六間道路・1.5k」”を大通りを通り、“「館山街道」”に出る事もあり得るが、元はこの「道幅」が記録に依れば「4間程度・6m」で狭かったとあるので先ずあり得ない。
    「戦記通り」に「城の南に廻る道路」を通ったとすると、「城より北進約5.0k・1時間」を進んだところで、今度は「堀江」に向かう為に「直角」に「西」に「館山街道」を「旧道・320号・2時間半・11k」で「真西」に向かい最終は「堀江城」に到着したと考えられる。間違いはなないだろう。
    「戦略上の観点」から、これが「武田軍本隊」が「通過できた唯一の経路」であろ事である。
    従って、この「武田軍の本隊」が、この「ルート」で“堀江城に向かっている事”を知った「額田青木氏の300の銃隊と荷駄50」は、此処の事からこの「堀江城」は作戦上は直ぐに落ちる事を間違いなく充分に察知していた筈だ。
    そこで、「額田青木氏の銃隊」は、「武田軍の本隊」が「松城城通過」を知って確認した上で、「館山街道の交差点」を西に向かった事に成ったが、ここが「伊川津に戻る選択点」でもあったのだ。
    然し、ところがここで「情報」が救出しなければならない「駿河青木氏の青木貞治」から「重大な情報」がこの分岐点の処で入ったのだ。
    この時系列で「吉田城」から「浜松城」に向かった理由が、「駿河青木貞治隊の救出であった事」がこの「時系列の検証」で証明しているのだ。
    この時、初めて「決戦の戦場」が、「武田軍の補給基地として観られていた三方ヶ原」と知って、「駿河青木氏を救い出す為」に「時系列」として「堀江に向かう武田軍の交尾」を背後に観て走った事に成るのだ。
    然し、「4時間半」で「三方ヶ原」に到着した時には、既に「連合軍と観られる家康・実際に連合軍に見せかけていた」は、「三方ヶ原」に既に到着し、「上記の鶴翼の陣形」を何と西に向かって敷いていた時であったのだ。
    ここで「重要な問題」があって「救出目的」の「額田青木氏の銃隊」に発生したのだ。
    それは通常であれば、遅れて後から入れば、この「陣形」からすると「定着位置」として「着く所」は、「鶴翼の頭部分に位置する事」にしか無く成るが、既に陣形が出来ていた事から、この事では此れはそもそも「作戦に参加する事」に成り好ましく成る。
    それは「救出の作戦」は不可能と成り得てそもそも採れないのだ。
    そこで、これは「軍議でそもそも断った命令」でもあった。
    それは、「鶴翼左の最西端に位置する事/武田軍の最先端に近づく位置」の以外には「松平軍の無い所」は無いのだ。
    ゜時系列の検証」から、元より「三方ヶ原に戻った理由」は、「駿河青木氏の青木貞治隊を救う事」にあったのであるから、「駿河青木氏の青木貞治隊」の「執るべき救出の位置」は、何と最も危険な「伊川津国衆連}が配置されている「左鶴翼の先端の先」に位置するしか無く成っていたのだ。
    要するに、「額田青木氏が戦場に着いた時の位置」から、「救出の為に銃撃補完する」としても何と「最も難しい位置」の「斜め左最端西」にいた事に成るのだ。
    何故ならば、前進を阻む為に「武田軍本隊の先頭」に向けて銃撃するとしても、その「銃口」は「駿河青木氏の青木貞治隊」の「前進している左端」を掠めなくてはならない事に成る。
    且つ、その「弾丸」が「味方の額田青木氏の銃隊の斜め横」を斜め西に家て通過する事に成るのだ。
    この事は、「弾の補給」や「補助隊員・50人」の「補完行動の効率」の悪い「制限された身動きが取れない構えの陣形」に成る事は必定であった。
    そこで、「額田青木氏の銃隊の指揮官と副官の貞重と貞秀」は、戦後に「伊勢に遺された記録」では、この時に「その一案を案じた」とされているのだ。
    それが、“一斉に「武田軍本隊」に目がけて前進を阻む為に、先ずは「弾幕」を張る。
    そして、その「爆煙」に依って「前方」を隠す。
    次にその「隙間」に応じて、ここで「救助に当たる者・補助隊員・50人」が繰り出される。
    そこで「駿河青木氏の青木貞治隊」を「銃隊の方に導く」と云う事をする。
    この「作戦」を建てたとされている
    そして、それを「伊賀青木氏」が、“「館山街道の見附」”から走って伝えたとしている。
    これ等の事を「駿河青木氏の青木貞治隊」に事前に最終伝えたとされるのだ。
    さて、ここで「休憩」を執っていた“「館山街道の見附”の横」から「この情報を持った伊賀青木氏の忍者」を「三方ヶ原」に着いた頃の「駿河青木氏の青木貞治隊」に走らせたとある。
    その後は、「盤田見附の菩提寺の西光寺」に向けて走り逃げ込む事にした。とある。
    一方では、「額田青木氏の銃隊」だけは、「武田軍の本隊の直ぐ側面」」を「銃を構えて走り抜け」て、上記の通りに「西の二俣路に成る“「六間道路・1.5k」”を通り、その“「館山街道の見附”の交差点」を「伊川津」に向けて「怪我人を乗せた荷駄車」と共に懸命に走ったと概ねで記載されている。
    ここで、「特記する事」は、特別な事がおこっているのだ。
    「武田軍勝利後」に編成された「武田軍本隊の追討軍」は、予想外に何故か次の“「二つの事」”をしなかった事が記載されているのである。
    それは先ず「一つ」は、追討していながらも「盤田見附の菩提寺の西光寺」に逃げ込んだ「駿河青木氏の青木貞治隊」を寺から追討せずに黙認して本隊に戻って行った事である。
    「二つ」は、本隊の横を悠然と通過して行く「額田青木氏の銃隊」を攻めず追討もしなかった事である。
    結論から筆者は、「額田青木氏の銃隊の指揮官・貞重と貞秀」が「武田軍本隊」に対して「感情的」には、“全く敵意が無いと観て執っていた事”と、「戦術的」には、“「経験した銃隊の脅威を避けた事」の、この「二つ」が共通して「指揮官の青木貞重と貞秀」や「指揮官の青木貞治」には「敵意」を全く感じ無かったと観ていたのではないか。
    だからこの「救出作戦」は計画通りに成功したのだと考える。
    それは「額田青木氏の銃隊」にしても、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしても、要するに「三河国衆で無かったと云う事」に尽きる。
    「額田青木氏の銃隊」は「伊川津・渥美湾」を下に「伊勢との繋がり」の中で「殖産を築こうとしていた事」と、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしては、「国衆の立場」から「伊勢」と共に「殖産」を商い、それを元にして「松平氏の近習・家人近習衆」に食い込んで「駿河水軍の殖産を高める事」にあったのだ。
    共にこれは「大成功」を治め、「殖産をする企業家の青木氏」と成り得たのだ。
    この結果として、「伊勢水軍と駿河水軍」とを通じて、「三つ目の目的」の「伊豆の安定化とパイプラインの再構築」が成されたのである。


    さて、「三河戦記」での「時系列」をもう一度追って観ると、他に「青木氏の歴史観」に執って観えてくるものが有るので「読み込みの検証」をした。

    これが12/22日 「三方ヶ原」に向けて「早朝」に出発したとある。
    さて、ここで、まず「問題 1」に成るのが、「松平軍」が「夜明け」と共に発進し「三方ヶ原」に向かって「到着した時刻・12/22日 朝10時半頃」と時系列では成って来る。
    そして「武田軍の本隊」が、「浜松城」を通過した時刻・12/21日 17時半頃」である。
    ここにはある「疑問を持つ時間差」であるが、それは、何と“「17時間半差」”である。
    とすると、「額田青木氏・国衆・銃隊」が、この間、“「三方ヶ原」には未だ走っていない事”に成る。
    つまり、「12/21日 17時半頃〜12/22 10時半頃」は、「松平軍」は、この問題の“「17時間半差」を何を三方ヶ原でしていたのか”である。
    そもそも、“「三方ヶ原まで徒士で2時間半」で到着する”のである。
    従って、計算では、“「朝8時頃初期の発進」”であるが、ところがこれを「戦記」では、“「夜明け」”としているので変である。
    この「冬の1月25日」の“「夜明け」”では、速くても日本列島の「東の三河」では、“「朝6時頃発進」”と成るだろう。
    とすると、“「戦記の夜明け」の「朝6時頃」”と、“「計算」での「朝8時発進」”との間には“「約2時間差」”がある。
    つまり、「朝6時頃発進」〜「朝8時発進」に、随時、「松平軍」は「浜松城」を発進して行った事に成る。
    この「2時間のギャップ」は当然の事として起こるので、ここの部分の「戦記の記載」は正しいだろう。
    要するに、「松平軍」は、この「発進」の「朝6時頃発進の頃」の直前まで先ず延々として“「夜明けの朝まで城で軍議であった事」”に成る。
    然し、この「記録」では、この時、既にその「3日前」に「軍目付・軍監の3人」は、“「美濃尾張に向かって帰参中」”と成る。
    この間に、「武田軍の本隊」は、「堀江城」に到着次第、直ぐに急ぎ攻め掛かった頃に成る。
    「松平軍」の方は、「三方ヶ原」に最短で到着次第にして、「時間の掛かる鶴翼の陣形」と決めていたので「組み終わる頃」であった事に成る。
    つまり、「当時の陣形が組み終えるまで・戦記の記録を参考」にすると、“「最長では12/22 13時〜14時頃」”には、既に、“「戦う態勢を整え終わっている事」”に成る。
    つまり、だとすると、「開戦・16時としている」までの「約2時間程度の相当長い時間」をそもそも“何をしていたのか”と云う「基本的な疑問」が湧く。
    つまり、そうするとこの「寒い冬の三方ヶ原」で「武田軍本隊の到着」するまでの間」は、「松平軍」は「真冬の原で何もせずに“2時間程度”も待っていた事」に成るのだ。

    つまりは、最短で「12/22 “10時半頃”」には、到着し、何と夕方の「12/22 “16時頃”」には「三方ヶ原」で開戦しているのだ。
    一方、「武田軍の本隊の先頭」は、この“「12時頃」”に「落とした堀江城」を発進し、“「約4時間半」”を架けて走って、「魚鱗の陣形・赤兜の騎馬隊6000」を前に整えながら、「三方ヶ原」に到着している事に成る。
    何せ何れも“4時間走ると云う疲労は大きかった”と考えられる。
    「松平軍は冬の三方ヶ原で待つ疲労感・2時間」と、「武田軍は三方ヶ原まで走る疲労感・4時間」である。
    「堀江の落城」は「囲み三攻め」であるので余り労苦は使っていないとしているので計算外と観る。
    「三方ヶ原」に着いてから、“少ししてから開戦”と成ったとしているが、この時、上記した「駿河青木氏の青木貞治隊」を救出する為の「額田青木氏の銃隊の煙幕」で、「武団本隊の進軍阻止のタイムラグ」が発生している。
    然し、この“「進軍阻止のタイムラグ」をどの程度と観るか”である。
    つまり、これは要するに「救出時間」であり、この間に「武田軍本隊と山県軍の別動隊」は進軍を「待つ事」に成り、時間的には「疲労解除の有利な時間差」と成る。
    これをどの程度と観るかであって、それには「弾幕」は固定できるが、その「弾煙の消えるまでの時間」には幅が生まれる。
    それの「消えるまでの時間幅が働いていた事」に成るので、少なくとも実質は連続射撃であったとしても“1時間以上とはならない”であろう。
    「1時間以上」では、「日暮の時間や寒さの疲労等」が生まれて両者に執って好ましくない筈で、この“「無理攻め」が起こる事”に成り兼ねないが、それを匂わす記載は無い。
    従って、実質は、“精々0.5hで救出しなければならなかった事”に成る。
    “両者に0.5h相当のアイドリングが生まれていた”が、これは当に“疲労の大きい武田軍本隊に有利に働いた”と観られるのだ。
    故に、敢えて「勝負に関係のない救出劇」は“都合が良かった”し、「山県軍の別動隊の行動・判断力」に余裕が出来ていた事に成る。
    「不利な状態の武田軍本隊」」を「救うタイミング」が執れ、且つ、だからその「判断の結果」は「少ない兵力・2000」で「松平軍の側面・5000」を突撃で突くと云う事が出来たのだ。
    この計算からすると、「武田軍本隊の疲労感」は実に大きかった事に成る。
    とすると、“「山県軍の別動隊」は、この本隊の疲労感を気にしていた事に成る。
    この間どうしていたのか”と云う疑問の検証が全段でも論じた通りで、もう一度ここで必要だ。
    それは、「北東の二俣城・13.5h〜14.5h」から発進し、やや遅れて「武田軍の本隊の到着・16時頃」より「約0.5〜1.0h程・16.5時〜17時頃遅れ」の所で、「約3h〜3.5h」を駆けて「三方ヶ原の真北の山際」に到着している事に成る。
    この「山県軍の別動隊・5000/2000兵」も行軍に依っても疲労している。
    そこで「武田軍の本隊の開戦準備体制」に入ってている事を観て、「最大1h遅れの山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、この「本隊の危険」を察知した事に成る。
    そこで、突然に「北の山際道」から「隊が整うか整わないか間隔」で、“「命令外・使命外の行動」に出て突撃した事」”に成る。
    故に、この「時系列の読み込み」では、「本隊を助けた事・本隊が整うまでの時間稼ぎの行動」と読み取れるのだ。
    そして、更にこの「戦況」は、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の横腹を突く事・弱点」で偶然にも圧倒的な勝利に終わり前段で論じた通りと成ったのだ。
    その意味で、その後の「浜松城の攻め落としを成さ無かった使命ミス」は、兎も角も「主戦闘隊」ではない「山県軍の別動隊」は、額田青木氏の銃撃で約半数を無くす程の大きな犠牲」を払ってでも「本隊」を辛うじて助けた事と成るだろう。
    「武田軍本隊の戦場での陣形」を「充分に整える時間稼ぎ」が「駿河青木氏救出の弾幕・煙幕のタイムラグ」と共に、ここに「本格開戦までの1h弱程度のタイムラグ」が「流れの中」で有利に自然発生的に生まれたのだ。
    「以上の説の通り」のこの「武田軍の行動」を察知して、「松平軍が積極的に行動を執ったとするの説・後付け策」では無く、「上記の時系列の詳細経緯」では、「松平軍が先に2時間前に三方ヶ原に向かった事の説」に成るのだ。
    そうでないと「時系列」は符号一致しないのだ。
    ある意味で、今後の「重要と成った戦記」にある様に、「浜松城の攻め落としのミス」をした「山県軍の行動」に対してさえも、「これらの事/符号一の時系列論」を以て「武田氏の戦後の軍議で許された経緯・正しい臨機応変策」が記されているのだ。
    要するに、「事の戦略論」としては“何れの戦いにもこの「重要な基本と成る流れ」を見誤らない行動策”の事となろう。
    これはこの現代に於いてでも成り立つ策謀である。
    「今後の武田軍の見本と成る戦い」として扱われた可能性があるのだ。
    然し、前段でも論じた様に「信玄死亡後の長篠の戦い」では全く行かされなかったのだし、寧ろその逆であったのだ。
    「浜松城の攻め落としのミス」の「甲斐のセンセーション」から観ても、「三つの三河戦記の後付け説・好感引導説」であると観ている。
    然し、それが「後の長篠での武田軍を滅ぼすミス」と成って仕舞ったのだ。
    この時に、「勝頼」が反省していれば「長篠戦いの戦略的ミス」、つまり、「二拠点化で採った山県軍の別動隊の行動」、即ち、「本陣を崩されない為にも二極点化策の無視」は無かっただろう。
    然し、この「山県軍の別動隊の半数を無くす程の大きな犠牲」は、「額田青木氏の銃隊」の「駿河青木氏の青木貞治隊救出」の為に採った仕方の無い影響だけであったのだ。
    これ等は「現在の現実処理」に於いても学ぶべき「青木氏の歴史観」として、これらの関係する事柄を後の為にも正しく刻んで置かなければならないこれは「大事な史実」であるのだ。
    此の世の事は、直前の「事の勝敗、事の成否、事のリード」の「直前の状況」に拘わらず、“「事の流れを如何に早く正しく見抜いた者”が時間が経った「最後の真の勝利」を獲得するのだ。
    それには「人間」である限りは、その基点は「冷静に成る事を鍛える事」にあるのだ。
    それを獲得した者が「上記した流れを掴む事」が出来るのだ。
    これは「青木氏が求める古代密教浄土宗白旗派」の「仏教の密教経典般若心教の教える処」でもあろう。
    それが「青木氏の氏是」を正しく理解する処にあるとしている。
    そうでなければ幾ら「青木氏の氏是」を護れとしても決して護れるものでは無い。

    「青木氏の歴史観論」より


      [No.398] Re:「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/10/10(Mon) 10:29:41  

    「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」の末尾

    > 「摂津・堺」では、これに基づき、「試験用」として初期の時期・近江鉱山開発と同時期」からこれを選ばれていたと考えられる。
    > そもそもそうで無くては、態々、この鉄を熔融する事で起こる「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ製鉄」”では無く、先ずにそれには“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くす事を試みた。
    >それには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に論理的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
    > 「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、改良が進んだ室町期にはそれに近いものを採用したと考えられる。
    > 然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が時系列上は既に「伊勢青木氏部]にはあったとされる事とに成る。
    >それには「関西で使われていた砂鉄用の箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が、既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
    > 何故ならば、「関東」には「日本の地形の形成事」からの地質地形上で「砂鉄」は少ない地質であった。
    > そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
    > そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
    > 上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
    > ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉・竪型炉と予測」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
    > 「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
    > 理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
    > ところが、この「高炉説」を本名とする事が起こっているのだ。
    > これは「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
    > やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
    >当然にこれには炉の開発も進んでいなくてはならない。
    > そして、この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
    > この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
    > つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が「関東」でも使われたと云う事に成る。
    > 全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」であった事に成る。
    > 「近江」では「青木氏の炉、つまり開発した竪型炉」であって、「青木氏部の匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずにいたものが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされる。
    >これを「竪型炉」としていたと考えられるのだ。
    >「 関東」ではこれは「発展過程の炉」と云う事では無いか。
    > つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に「独自開発していた事」を意味する。
    > 実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、現鉱石を還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を「炉の高い先端」から投入する事が必要とする。
    > 専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は、「高炉の原型炉」と云えるものであって、「原理的」には同じ傾向のものである筈だ。
    > つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていて、この「炉底」には「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
    > 最後に、「炉全体」を壊してこの「二種の鉄」を取り出していたのだ。
    > これではこの工程で未だ「鉄」は使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
    > 更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
    > この「ケラ作業」は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
    > 「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させるべく長い間で「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
    > 実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
    > そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発/摂津」を試みたのだ。
    > それが「砂鉄に付か使う縦型炉」の「改良の竪型炉」であった。
    > 日本は最も高い効果を出す石炭の「還元剤の製造」には「伝統の掟」があって使え無かったのだ.
    > それは先ず「石炭」を「500度程度の蒸気」で熱して、危険な硫黄を取り除き「コークス」として使えば「最高の還元剤」となるが、これが「伝統の概念」で出来なかったのだ。
    > 其れは「超毒性の強い酸化硫黄の公害」に依るとして付けて戒めていたのである。

    「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」


    さて、ここで「近江鋼」を検証すると、この時の「製錬の原理」が 「竪型炉≒高炉」とすると、「摂津青木氏の青木氏部の匠」が、「砂鉄の玉鋼」では無い「奈良期・703年〜713年からの鉱山開発」からのこの「近江鋼」を製錬する場合は、まず何はともあれ「炉の改良」を行った筈である。
    そして、「鎌倉期」に「関東」での「鉱山開発の鉄鉱石」には、「上記の竪型炉」が使われていたとする遺跡の時代経緯からすると、同じ「鉄鉱石の近江鋼」にも少なくともこの「竪型炉」が使われていた事に成る。
    何方が先かは後に述べるとして、当然に、「奈良期・703年〜713年」からの「鉱山開発」から、「鎌倉期の鉱山開発」までには、「約480年間の時代経緯」があるとすると、「竪型炉」は「摂津青木氏の青木氏部の匠技」に於いて先に必然的に改良されていた筈である。
    それは「近江鋼」と「千葉の遺跡」とが「竪型炉≒高炉とする原理」であったからだ。

    では、「竪型炉≒高炉とする原理」であったとする事から“どの様な処を改良されていたか”である。
    少なくとも「還元剤の使用の有無」から「高炉」そのものでは無かった事が物理的に、時系列から頷ける。
    「高炉」に使う「高いコークス技術による還元剤」はまだ日本では使われいないからだ。
    故に、「高炉」に対して「改良を施した炉」を使っていた事が判り、それが「竪型炉」であって、この「竪型炉の改良点」は学問的に観て次の様な点があった筈である。

    筆者がもし「竪型炉=高炉」とするには、その「財」に問題が無かった事から、且つ、目的達成の為の「改良点」を導き出すとすれば次の様な事をする。

    1 「より良い銑鉄とタタラ」を取り出す為に、つまり「溶融温度」を高める必要があるが、この為に「竪型炉」を小高い丘などのより上部にして高くする事。(史実)
    2 品質と爆発を配慮して「二重底の炉形」を解消して、「原形のタタラ・溶かした鉄」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実
    3 「二度の不純物除去の炉の無駄」をなくし、つまり、先ず「タタラ」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実)
    4 「重要な還元反応」を高める為に、 「還元剤」として現行の「木炭」+「石灰石」に加えて、「古来からの熱源」で、且つ、「還元剤の石炭」(コークス・注釈)」も加えて「還元反応」を高めて「銑鉄純度」を挙げる事。(史実)
    5 炉の上に「屋根」を設けて全天候型にして保温する事。(史実)
    6 大きくする為に壁に煉瓦の使用を試みて壁強度と壁保温度を上げる事。
    7 「チタンやニッケルやシリコンの不純物」の「流し経路」を設ける事。

    注釈 飛鳥時代、奈良時代から、要するに瓦は使われていた。
    煉瓦は、“「磚、甎・せん」”と呼ばれてあった事が記載されていて「構造物」には使われたとする。
    その後に廃れたとあり、これは弱点の地震にあったとされる。
    中国では紀元前の秦の万里の長城に既に使われている。

    注釈 石炭は記録から奈良期から採掘が成されていたが、その採掘場所の地層から硫黄分が多く出た。
    この「猛毒の硫黄」が嫌われて使用は避けられていた経緯が記されている。

    注釈 上記6の「木炭高炉・14世紀」は、まだ「還元性」が不足はしていたが、既に「西洋」に於いて「木炭高炉」は一応は出来ていた。
    その歴史は、「14世紀初期」に「木炭高炉」、「17世紀初期」には「石炭高炉」、「1783年頃」には「コークス高炉」、の「以上の経緯」を経て開発されていた。(史実)
    それまでの「欠点」をこの「石炭」でこの「還元性」と「火力・炉温度」を高めたが、ところが「石炭高炉・17世紀」には“「硫黄分」”が強く、これが“「銑鉄」”には「最大欠点」の「脆さ」を出して「使えない事」が起こったのだ。
    高炉にも使えない最大の欠点がでて一時廃れる。
    そこで、多くは「約100年後」の「1709年」に、この「石炭の欠点」を無くす為に先に石炭を蒸して「硫黄」を先に取り除き、これで「コークス・炭素」を造る事で、これで「高炉の欠点」を解決したのが「1783年」である。
    この間、「74年間」も掛かっている。元から云えば「174年間」である。
    然し、これには「疑問」があるのだ。
    従って、時系列からこの「鎌倉期頃」には、つまり、既に「関東での鉱山開発」を始めた頃には、「木炭高炉・竪型炉・青木氏開発」として、「日本・摂津から千葉に移設」でもあった事に成る。(史実)

    注釈 この「青木氏開発」の「竪型炉」は、「銑鉄」からもう一度、「製錬する炉」などで溶かし直して「不純物」を完全に取り除いて最終は圧延しして使う方式である。
    現在ではこれを「転炉」と云う。
    「近江鉱山」から「480年の間」に上記の「改良点」を「青木氏部」で実現すれば、「竪型炉≒高炉」は成立する。
    上記の注釈の、「西洋」に於いて「14世紀初期」に「木炭高炉」がある以上は、「青木氏部の竪型炉」の「改良点」は示現していたと考えられる。
    従って「1500年代初期」には「堅固な改良型竪型炉≒高炉」は存在していた事が頷ける。
    況してや、「院屋号」を背景に「1025年頃に総合商社」に成っていたとすると、「中国・宋」のみならず「西洋との貿易」は行われていて、「最低限」でも「木炭高炉・14世紀・鎌倉期末期の原形」が日本に導入が成されていた事に成る。
    それが故に、「関東の鉱山開発」には最低でも、「史実」として「高炉」では無く「改良型竪型炉」が採用されていた所以と成るのだ。
    とすると、「青木氏部」がその「院屋号を持つ殖産」の「時・703年・713年」から「近江鋼で得た炉の技の使用」を「全国・関東」に広める事には、可能でその時点から「竪型炉の普及と改良」を重ねていた事に成る。
    自らも「銃の欠点の解決とその開発の完成」に至る事までは、それに依って、この「竪型炉≒高炉の改良点」は、「青木氏部」に執って必然急務であった事に成る。
    従って、時系列の経緯としては「14世紀」で「木炭高炉」に成ったとすると、上記の「額田青木氏の銃」に使う「近江鉱山の鉄」にするには、未だ「200年の開発期間」があり、それには「高炉の炉」としては「石炭高炉・1709年」から「コークス高炉・1783年」までに「仕上げる事の時間」があった事に成る。
    ところがこの時、既に「日本の戦国時代」は始まっていた。
    「額田青木氏を救い出す事」にはどんな炉にしろ「炉の開発」は急務であった。
    要するにそうする最先端の「コークス高炉・1783年」までには、「高炉開発の時間」が更に「180年足りない事」に成る。
    従って、この「180年間」は、「竪型炉≒高炉」であって、「貿易」があったとしても「木炭高炉・14世紀初期」<「石炭高炉・1709年」の間にあった事に成る。
    そこで時代は先ず「木炭高炉・14世紀初期」を脱し、更に「石炭高炉・1709年」からも脱しようとしていた時期で、ところがこの「コークス高炉・1783年」にはまだ年代的にも程遠い事に成る。
    「木炭高炉・14世紀初期」は、「竪型炉の炉低外」で「炭」を大量に使用し「外に流れでた鉄」を覆い、更には「還元剤」としても多量に使用する為に、製鉄には最も重要なのはこの「還元剤」であるがこの元と成る炭の「備長炭の使用の炭・殖産中の論」と云う点では符合一致する。
    時系列として「石炭高炉・1709年」は、「江戸中期以降の事」であるので、その「高炉を使うと云う事」では「青木氏の所期の目的」は既に高炉に至っていず終わっている。
    従って、「近江鋼開発と炉開発と銃開発の3目的」から「近江鋼用の高炉開発」は「竪型炉≒高炉」でも良い事であった。
    故に「高炉」に拘らなくても敢えて「独自の竪型炉の発展炉・改良炉」を成し遂げて使っていたと観ているのだ。
    その為の「財と技」は、充分にあって、それ故に「青木氏の氏是」に従い、この「過程」では「青木氏部」では秘密裏な事であったと観ているのだ。
    この「3つの目的」の内の「近江鉄の開発」は、時代は進み「青木氏部がその置かれている政治的立場」から、既にその「殖産の義務」は既に無く成り、「平安期/鉱山開発の炉開発」では終わっていたと観ている。
    故に、この「改良型の竪型炉」が「関東の鉱山開発の製鉄」に使われていた事に成る。
    丁度、「青木氏部の摂津での開発」は「一種の試験炉」であったのであろう。
    これらの周りに無かった「竪型炉の発展」と、「青木氏の義務の経緯」は一致していて、“「木炭高炉・14世紀初期」の段階”で終わらしていて、後は「記録」から「関東の鉱山開発と製鉄技術」の一部をその「青木氏部の匠技」は引き渡していたいた事に成るだろう。
    「関東」に於いて「箱型や平炉の歴史」が全くない所から観て、「青木氏の竪型炉の改良型」が「何らかの条件付き」で「引き渡された事は確実であろう。
    だからこそ「鎌倉時代の中期」まで、その「功績・見返り」に応じて「伊勢本領安堵策」にも繋がった要因の一つに成ったのであろう。
    中期以降も「伊勢の本領安堵」は、“「郷氏」”ではあったが「守護王・大名」で無く成った事を理由に「南勢の旧領地」を残して全て解かれて無く成った事があった。
    然し、ところが史実はこれを全てが“「地権者」”に変わっただけであったのだ。
    「買った」のか「買わされた」のかは判らないが、前段でも論じた様に「伊勢一の大地権者であった事」は判っている。
    後は、「室町期の戦乱期」では「額田青木氏の銃の完成期」にあったのであり、何も「高炉」で無くても「竪型炉≒高炉」で丁度良かったと云う事に成る。

    注釈 「竪型炉の改良点」の「強力な還元剤」であり、「強力な熱源」の「石炭」は、その「欠点の硫黄」を除去するのに何と西洋では「74年間以上」も要している。
    これは「青木氏部」にとっても「大いなる疑問」である。
    そもそも「石炭」は、石油同然にその典型的な「化石燃料」であり、地層より「硫黄」を含むは必然であり、そもそも「硫黄」は地中で「強力な硫酸塩鉱物」を造り「硫化鉄」と成す代表的な物で、常識では“「74年間以上」”は不思議である。
    そして、これを解決した方法が“蒸した”とするも当然と云えば科学者、又は科学知識のある者で無くても当然であって「不思議の極め」である。
    ストーブなどで「石炭の火力」を火中で強くするには、逆に「石炭」に水を吹きかけ蹴る事であり、これに依って熱せられた「石炭」から硫黄が蒸されて飛びだし、残りは「炭素のコークス」と成り、これが「酸素」と反応して「火力」が強く成るは「子供頃の知恵」であった。
    従って、「石炭」から「硫黄」を取り除けば「コークス」になるのは「子供の知識」であり、故に例え「74年間」は年代に関係なくおかしい。
    「西洋」では「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」の2つではあるが、日本に於いては「石炭」は「飛鳥の古来」よりあって当然に「加熱材」として使用されていた事は「記録」から判る。
    従って、少なくとも「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」には「74年の時間差」は普通は生まれ得ない事に成る。
    且つ、歴史を観れば、前段の「備長炭の論」からの「木炭高炉・14世紀初期」が在れば「石炭高炉」と「コークス高炉」はほぼ同時期に既に成立する事になり得る。
    そこで、「西洋」で「木炭高炉・14世紀初期」とする事には、日本では前段の「備長炭の論」から「900年頃」には既に「乳母女樫」に依る「良質の紀州木炭」は既に存在していた。
    そして、その「木炭で造った墨・青木氏部」は、前段や上記で論じて来た通り「奈良期」に於いて「殖産」を命じられて完成している事から、「木炭の竪型炉」では、「高炉」に至るまでに既に使用されている事に成る。
    とすると、「西洋」の「木炭高炉・14世紀初期」より前に「摂津の青木氏部」では「木炭竪型炉・平安紀初期」は完成していた事に成る。
    従って、この「上記の改良型」が「青木氏部」に依って既に成されていた事に成り得る。
    つまり、「石炭高炉」のみならず「コークス高炉・1783年」も同然と成り、“「石炭・コークスの竪型炉の改良型」” つまり、「竪型炉≒高炉」は成立していたと観ているのだ。
    「上記の改良点」は冶金学的に「財」さえあれば「目的の重要性」から比較してそれ程に難しい事では無いからだ。
    要は「竪型か高炉」かの呼び方如何程度のものに依ると観ているのだ。

    余談として、割きに続き「西洋の歴史観」は、「青木氏の歴史観」からすると、余談と成るが、何故、「硫黄」にこれだけの「時間・74年間」を要したのかである。
    「硫黄」は今も昔も「鉄を脆くする最悪の物」であるし、「猛毒」である。
    「流化鉄」は放置しないであろうが、恐ろしい物である事はあるのだが、逆に石では無いので“蒸して取り除く事”も至って簡単である。
    「石炭」は「高炉」の「最高の熱源」であって、且つ、「最高の還元剤」ではある事に目を着けた事は優れている。
    現在に於いてもこれ程の物は出て来ない。
    故に、現在は、この「厄介物のチタン等の鉱物」は、「高温」にして溶かして「単独金属にまでする溶解炉・高融点」に「コークス高炉」が使われている所以である。
    この「74年」は、「コークス高炉」に到達するまでの“「石炭高炉」で一時済ませられていた”と云う事では無いか
    「西洋の通説」と違って、「高炉中」に於いては「日本」では「硫黄」は問題とは成らなかったのでは無いかと観ているのだ。
    何故ならば「竪型炉」でも「石炭」を使えば出る可能性があるからだ。
    「硫黄の分子量32/酸素16/空気28.8」で炉中に発生したガスは重いので先ずゆっくりと「炉底」に沈む。
    そして、この「反応力」は酸化物中で最高で「ガスの状態」で吸い取り炉上に放出していたが、空気より重い事から「地表」に落ちて沈み「植物」を枯らし、人間に健康被害の問題を起こす。
    その為に「74年も放置無視されたという事」の原因となったのでは無いか。
    もっと云えば、日本での「石炭竪型炉の記述」を記録から観ないのは、この「毒性や鋼の脆性」などの「重大欠点」を嫌っていたものであり、故にこれを使わない「木炭に依る砂鉄の玉鋼炉」が明治の初期まで主流であった事でも云える。
    当時でも、だから「鉄の製鉄方法」は「砂鉄の玉鋼」から脱却できなかったのだが、だから「最大の欠点」は、「砂鉄」では「還元力」に重点を置くのではなく「炉の溶融温度が低い事・木炭」にあったのだ。
    兎も角も、古来より身近にある「石炭」を「硫黄と云う最大の欠点」を生み出す為にこの還元力と熔融での「最高の石炭」は、“敢えて使わなかった”と云う事ではないか。
    それを解決するのが「竪型炉か高炉・温度」であって、それが「コークス・温度・還元力」なのだが、そうすると、この「悪害の硫黄」を、何故、「植物化石由来の石炭」を「150度〜540度付近」で蒸して「硫黄ガス・120度程度付近の融点」で取り出して「無害」にして使わなかったのかである。
    そうすれば、「最高の還元力」と、「最高の温溶融温度」を簡単に獲得出来ていた筈なのだが。
    これはそもそも科学的に観て、「古来の日本」に於いてでもそう「難しい発想・知識」ではなかったのだが、それが理由で歴史的に明治初期まで使われなかったと云う事だ。
    実は、これには、「科学的の事以外」に、“何かの特別な古来概念が働いていた”と云う事ではないか。
    何故ならば、それが“「明治初期」に成って全ての熱源にも一斉に使われ始めた事”なのだ。
    この「概念」が突然に簡単に取り除かれたと云う事ではないか。
    それ程の物であった事に成る。
    これには、そうすると、“何かがあった”からだが、それは何なのかであり「発想の転換」を成すより強いものが明治維新に働いたと云う事になる。
    この“古代の鉄の時系列”では次の様に成っている。
    「砂鉄のタタラ製鉄、或いは、「その後の鉱山鉄」が、上記して世間、即ち、「伊勢神宮」に於いては<「薬用」<「禊用」の過程の概念に関わる物”として扱われていたと仮にすると、「上記の様な突然変化の事」が起こっていた可能性がある。

    そこで、「時代の進行」に沿って当時の「鉄の置かれている立場」がどの様に変化して行ったのかを検証して観る。

    1 昔は金属の鍛造に関わっていたものの総称を、「打物者」、又は「打物師」とか「居職」と呼んだ。
    2 大工の「番匠」に比べて「専業化の強い職種」であった。
    3 飛鳥期からの「鍛冶部・かぬち」と[鍛冶戸・かじべ」はその技を継いだ部であった。
    4 彼等は一時は「工人の身分」で「農業の傍での作業」であったた為に「農民」に区分けされていた。
    5 「12世紀」に成って「鉄の収容増大・需要」で分化して4は「職人格」に成長した。
    6 更に「金属処理加工の分化」が進み、「銀加工の銀鍛冶・細工の職人」が分化した。
    7 ところが「5の影響」を受けて「鉄の鍛冶師」だけは別の進化を遂げ「別格の技術者扱い」となった。
    8 「12世紀」には「刀鍛冶」、「15世紀」には「具鍛冶師」、「17世紀」に「鉄炮鍛冶と庖丁鍛冶師」は5より抜け出し「高い扱い」を受ける様になった。
    9 「砂鉄」は“「野たたら」”と呼ばれていて主に古式に原始的に精錬されてにいたが、「近世中期の18世紀」になって、“「たたら炉」による新しい精錬”と成った。
    10 「燃料」は「18世紀の最先端の燃料と還元剤」は、あくまで「木炭」であった事が明記されている。
    11 彼等は飽く迄も5の影響を受けたが、「区分作業の賃金労働者」であった為に「木炭」からの発展は留まった。
    12 古来には「鍛冶屋の職祖神」、又は「道祖神」を信じる職人は、“「金屋集団」”と呼ばれて「金屋子神・かなやごがみ・金山神」の組織の中に義務的に全員あった。
    13 古代では、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と、「八幡・はちまん信仰」に結び付く「鍛冶翁・かじのおきな」を主神としていた。
    14 古代では、その後は彼等の殆どは「稲荷明神」に入信する事と成ったが、「商人」などは「金山神」とし、組織化されていた。

    以上の「経緯の事」から観ると、上記した「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の概念の関係から、「伊勢の殖産」の中にはこれが無かった事が解り、「近江の鉄製品」に限っては「特別な縛り」は無かった事に成るのだ。
    そして反面、「砂鉄の事」に限ってはあった事に成る。
    だとすると、「砂鉄以外」の「全ての炉種」に対して“「石炭の使用」”には「縛り」は無かった事に成る。
    これにはただ一つ上記の「9〜14」に「答えに成るヒント」が出ている。

    先ず、“全ての鉄に纏わる者等”は、“「金山神」”を「主神」としていて、彼等の全ては“「金屋集団」”と呼ばれる「組織」に入っていたと云う事である。
    この“「金山神」”は、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」にその「流れ」を組んでいたと云う事であり、「最終」はそれが“「稲荷明神」”に繋がるとしていて、更に前段でも論じたが、この“「稲荷伏見神」”は、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”と成ったとしているのだ。
    つまり、辿れば、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”は、“「稲荷伏見神」”に戻り、古来の果ては“「金屋集団」”の“「金山神」”の、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」に戻るとしていたのだ.
    結局は、「古来からの砂鉄」に限っての概念には、上記の「4つの概念」に縛られていたと云う事に成るのだ。
    ところが、200年程度遅れた「近江鉄」には、この上記の経緯の「4つの概念」に未だ強く縛られていなかった事に成る。
    寧ろ、以前より在った「禊ぎ概念」の「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用」<「食用」の概念の関係が伊勢と近江では優先にしていたと云う事に成る。
    終局は、何故ならば「炉の加熱材、又は還元剤」は、その「彼等の木炭の使用」にあるとし、又は、この「石炭の使用の是非」も、この“「金屋集団」”の「4つの概念の掟」にあった事に成るのだ。
    つまり、“「砂鉄の鉄」”が、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念にも関わる物として“「伊勢神宮」では扱われていた”のだ。
    そもそも直ぐ真近にありながらも「古来からの石炭」は、「鉄、即ち炉」に対して“「是非の非の物であった事」”に成り、「古来からの木炭を超える事」の神聖差からは抜け出せなかった事に成る。
    故に、この「概念」が解かれる「明治初期」まで長く使われなかったのだ。
    尚の事、「伊勢青木氏の額田の近代銃の製作」には、この「縛り」から離れる為に「伊勢神宮の影響」から離れる為に「改良型竪型炉の固守」で完遂させたのだ。

    そもそも、「西洋」では、この「初期頃の高炉とされる主な目的」は、上記で論じている様に製鉄には「軍用の銃身とその弾丸の生産」にあって、「西洋」に於いても同然であって、それに伴って「発達させたとする炉」なのである。
    これは「額田青木氏の目的」と同じなのだ。
    故に、当然に当時は、「製錬過程」には「日本列島の形成構造上」で、宿命として「原鉱石」の中に「チタン」は多く潜むのだ。
    当初では、この「チタンと云う概念が無かった」と考えられるが、それが“「白くて溶けない堅い鉱物・炉の破壊」が、「炉口」で邪魔をして危険な物と成る”とする程度の認識しか無かったと考えられるし,その様に「砂鉄の記録」では記されている。
    その為に「砂鉄」では“何か炉に対して対策しようとする開発的の様な動き”はそもそも無かったと考えられる。
    要するに、この「不純物の鉱石」を取り除く為の「融点の高い炉」の「必要性の有無」であるのだ。
    故に、偶然にも「筆者の上記する専門学的な立場にあった者」から直視しても、「近江鉄に検証される事」からすると、多くの書籍にある「炉の時期に関する通説的な説」とは、「筆者の説」とは一線を画しているのだ。
    「日本における炉の上記の歴史的な経緯・青木氏部」とは全く合致しないのだ。
    上記の「石炭の使用の経緯」の様に、「炉と砂鉄の鉄」には彼等の守護神の金山神は元より「神に関わる「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念」が強く存在していたと云う事だし、それに縛られていたのだ。

    つまり、上記した様に「奈良期」からの「朝廷」より託された「院屋号を有する部経済の摂津の商い」と「青木氏部を有する族」に於いて、「近江鉄の殖産」とそれに伴う「鉄製品の殖産」の「経緯」から判断して、歴史の一般的経緯にはこの「青木氏部の記載」はなくても、“密かに高炉的な開発」もあった”と観ているのだ。
    そもそも、「鈩の砂鉄・500年頃の吉備域・主域」に換えて、「鉄鉱石・近江鋼・703年・713年」で行くと決めた時点で、前段でも論じた様に、「タタラ鉄」に用いられた「平炉と縦型炉と箱型炉・鈩用炉」では「鉱山開発の鉱石の溶解」は元々無理であった事に成り、其の様に思っていた事に成る。
    故に、“「鉱山開発を命じられた時点・因事菅隷」と同時に「炉開発」が「青木氏部」に求められた筈”であるのだ。
    これは「約200年後の事」である事であり、且つ「竪型炉」である事」である事に成る。

    「近江鉱山開発の703年頃・因事菅隷」には、「西洋」に於いても未だ「竪型炉」はなく、「日本」では信用できる「遺跡発掘」では、「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の3地層から「3基の遺跡」が発見されている。
    これらは明らかに上記の論より「遺跡」の様子から「竪型炉」とするものであった。
    これが「通説」として、この「遺跡の時期」を以て「竪型炉の開発時期」とされていたが、最近に成って「最古」とされる「千葉の遺跡」から、正しいかどうかの確認は別として、ところが「8世紀」と「9世紀」の「2基の竪型炉」が発見されたのだ。
    歴史的に「炉の経緯」が食い違っているのだ。
    この「8世紀の層からの竪型炉」は、「砂鉄の箱型炉」を上に起こして開発発展させた「縦型式の原形の竪型炉」と云うものであった事に成るらしい。
    これは現実に「地層」として観れば、「日本独自の開発炉」に成るが然し違うのだ。
    上記した「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は、納得出きるし、「近江の鉱山開発」と同時に鉱山用として「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は納得出きるし、これは「近江の鉱山開発と同時」に「炉開発」も急いで行われていた事に成る。
    「青木氏部」は大変な課題を背負わされた事に成っていた事を物語る。
    余談だが、これに依って先進的位置にいた「中国人も含めた渡来人の技能者」を呼び集めただろう事が判る。
    だから何度も論じている上記した「天武天皇の談」に成ったのであろう。

    さて、そこで“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「ある地層」から「3基」”に付いても発見されているが、この事に就いて、前期の通り「鎌倉幕府」が「関東」に於いても「財政的な面」から、「関西の鉱山に使われていた竪型炉の技術・伊勢青木氏」を「関東」に導入して、「鉱山開発」を盛んにして「経済の梃入れ」をしたとする経緯に合致する。
    この「遺跡3基」はこの「所以である事」から先ず問題はない。
    然し、“「千葉の遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の2基の「竪型炉」”は、上記とは時代性が全く合わないが、これが上記した「近江の遺跡」とすれば問題がないが、但し、これにはある「疑問」がある。
    先ず「竪型炉だとする炉形説」にしても、当に「砂鉄の時代」のものであり、これが「関東に伝わるのが早すぎる事」と、この「8世紀の炉」とするは、兎も角も、「9世紀の竪型炉」も早すぎて疑問なのだ。
    仮に「竪型炉」としても未だ「青木氏部」での「近江鋼用の炉の研究を始めた頃」の事であり、何が何でも疑わしい。
    「炉の完成」を無視しての前提とすればそうなるが、「砂鉄の縦型炉」から「近江鉱石の竪型炉」への「炉の開発の変化」は、「近江鉱山開発」から暫時行われていたとすれば「竪型炉の試作中の炉」として考えれば問題はない。
    現実に並行して「青木氏部」が全力を投じて専門的に開発していたとしているので可能である。
    「703年と713年の2つの近江鉄の鉱山開発」でも、「砂鉄に使われる箱型炉」よりも「砂鉄の縦型炉」を改良した「原始的な改良型の竪型炉」であるので、「同時期の炉」としては考えられる。
    唯、研究開発を進めながらも「完全な竪型炉」になるには未だ時間は掛かっている筈だ。

    だとすると、上記の「8世紀の炉」と「9世紀の炉」が仮に同時に存在していたとして、始めたばかりの「近江鉄用の原始的縦式竪型炉」が、その同時期に「上総」で使われていたとする事に成る。
    「初期の鉱山開発の時期」は、歴史的に「近江の鉱山二つ」が最初であるとすると、「上総」にも同時期に鉱山が拓かれたと云う事に成るが、これでは時系列が早すぎるし、且つ、其の「史実」は全くない。
    それは「奈良期初期」の「703年と713年の時期」に、「上総」にも「奈良朝の勢力」は未だ充分には及んでいないからだ。
    「鉱山開発と炉開発」の「関東での経緯」があるのはあり得ない。
    仮にあったとして、精々、「坂上田村麻呂後の事・平安期初期」になろう。
    つまり、「関西の者」が征夷を制覇する途中に、この「千葉」に長く立ち寄っている史実があり、それがその最初であって、それまで「炉を設置するなどの文明」は未だここには無かったのだ。
    「施基皇子とその後裔」が、「開発途上の鉱山開発」と共に、同じく「開発途上の炉」を「賜姓五役」として “「上総・移設」に移した”とする推論にこれは成る。
    移設するとしてもこの時期は「天皇の承認・因事菅隷」が必要であって、其の為の「伊勢青木氏」に対しては「因事菅隷下」にあったのだから、他氏がここに押し入る事は無理である。
    然し、「因事菅隷・内密な特別格式の有する者への特別命令書」の無いこの推論は、時系列的にも手続き的な歴史観より相当に無理だなのだ。

    後は、「成り立つ可能性の論」としては、矢張り、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「3地層への設置」からこの「3基」”の論に繋がる説と成るだろう。
    前段で論じている様に、総合的に「青木氏の立場」から観て、「11世紀・平安時代末期」で無くても「9世紀・嵯峨天皇前後期」は先ず無理としても、その後の「10世紀・殖産豪商期・平安期中期」の以降は成り立つだろうが「因事菅隷下」の話となるので無理である。
    この時期に「関東」に於いて、「殖産」として「伊勢青木氏」は、その「院屋号」に基づき「因事菅隷の令」を受けた「令外官」として「関東に鉱山開発」を試みたのではないかと云う説論に成る。
    然し、「記録」を観てもこの「史実」はないし、「炉の開発」は未だそこまで至っていなかった筈だ。
    だとすると、それが「開発途上の炉」で以て「11世紀・平安期」にはある程度の花が咲き始めたので、「伊勢本領安堵」された「鎌倉幕府の12世紀」と「北条氏の13世紀」への「見返りの裏」で以て「開発途上の炉」を移行して行った”と云う経緯が無理にも成りたつのではないか。
    つまり、「朝廷の命・因事菅隷」にて「関西・近江」だけではなく、「院屋号の特権」を持つ以上は「関東・上総」に於いても、“「初期の8世紀の炉」”ではなく「開発途上の炉」を、「建設場所」を「8世紀の地層」に「703年や713年頃」の100年以上経過した「開発中の炉」を建設したという事で「時系列」は成立するのではないか。
    但し、これには前提があり、それは次の経緯を辿る必要がある。

    現実に上記した様に、「小高い丘を削りその下から炉を積み上げて造る炉」である以上の事であるが、「8世紀から12世紀までの地層を削る事」は充分にあり得るし、また結果として竪型としては必然的にそう成るだろう。
    「近江鋼の様」に明確な記録はないが、「関西の近江」があれば記録は見つからないだけで、「関東の上総・安房」にも「鎌倉幕府の依頼」で、且つ「朝廷の命・院屋号の令外官・因事菅隷」として「青木氏」は密かに「因事菅隷」を受けていた事はあったのではないか。
    それが「今回の遺跡調査」で現場が発見と成ったのではないか。

    実は、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」は有り得るのだ。
    それは、この「近江鋼に使った竪型炉の特性」にある。
    「砂鉄の縦型炉」を基本に改良したこの「竪型炉」は、その「鉱石と還元剤と加熱材」を「炉の高い頂上」の上から投げ入れる事が必要であって、その為に「炉高」を先ず上に出したのだ。
    この「炉高」を「築炉」だけでは無理で、「炉の構造上」から「危険であった事」から2から3回使うとこの炉を壊して新たに築造すると云う方式を採っていたとする。
    ところがこの「炉高」を恣意的に高くすると、余計に「爆発などの事故」があったとされ、そこで「小高い丘」の「上下」を竪に削って利用して「竪型の築造」をしたとしているのだ。
    これは「雨水の風雨や温度の維持と炉の温度の平均化」で合理的であった。
    この「合理性」が功を奏して、それが次第に「竪型」を出す為により高く成って行ったとするのだ。
    其れで、その「小高い丘の上下」には、「一つの炉」で「時代の地層が変わる事」が起こったとするのが学説的に常説と成っているのだ。
    寧ろ、「地層が変わる事」がこの「炉」に対して「全体の温度」が「平均化」してよかったとされている。
    故に、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」の誤認は起こり得るのだ。
    寧ろ、「誤認」が起らなくてはこの「竪型炉」は成し得ない事であったのだ。
    従って、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層から「3基」の遺跡」”と「8世紀、9世紀の地層」からでの「竪型炉の2基の遺跡」と合わせて同時期に「5基の遺跡」と成るのだ。
    従って、この「変位部分」を修正すれば「竪型炉の史実」は無理なく一致するのだ。
    これは云い換えれば、何れにしても「伊勢青木氏」は、「因事菅隷」があったとしても「関東」に於いてその力を敢えて積極的に注がなかった事を物語る。
    それはこの間、「伊勢青木氏」では「炉の改良」は進んでいるにも関わらず、「関東」に於いて「技術の進歩の継承」が成されていない事から鑑みて、これは「青木氏の氏是」に基づくものであったろう。
    これらの「炉の工事主体」は、「伊勢青木氏の相方」に左右される話で、その前段で、何度も論じている「土木業者の額田部氏」にあったのだ。
    そもそもこの「関東の土木」は、「土木を専門とする氏の結城氏の本場」であったし、当時としては手を出さないのが掟であろう。
    「争いの元」を出さないのが「氏是」であるし、況して「結城氏」は「母系血縁族の秀郷流一門の主軸」である。
    「額田部氏」はまず間違いなく「上総]に手を出さなかったと考えられる。

    注釈 「額田部氏」は 「桓武天皇の二度の遷都造成」の「向行命」に従わず「官位剥奪の重刑」を受けて一族追放刑を受けていると渡来系の職能氏族である。
    然し、これを「施基皇子」が「伊勢」で密かにひの額田部氏の一族を「青木氏族」の中に入れて匿い助けたのだ。
    その後、「施基皇子とその額田部氏の後裔」と共に働き、「功績」を揚げて「50年後」に許されて元の位職に復し、更に「二段階昇進の破格の官位」を「桓武天皇」から受けている。
    共に「施基皇子」は「伊勢桑名」に彼等の「土地」を与え居住させる。
    当時の慣例として成し得ない民間事で職能人としては、「最高位で破格位の宿禰族の官位」を獲得し、その後、「施基皇子の後裔・青木氏」と共に働き「明治9年」まで「共同企業」として働く。
    其の後、「明治35年頃」まで共に発展し、その後、「土木会社」を「桑名」に起こし、その後に経営は現在に続く。
    だとすると、「近江鉱山開発とのその製錬溶解炉の開発」に「第二段階の目途」が着いた「11世紀の末期頃」には、「結城氏の根拠地」の「上総・安房」に、この「土木部の額田部氏」と共に、「近江での技術・鉱山開発のノウハウ」を移したと云う「シナリオ」が記録が無いが充分に成り立つ。
    そして、その後を「専門外の結城氏・道路の土木技術専門集団」の「結城氏」が引き継いで、「状況証拠の経緯」から「伊勢青木氏と額田部氏」は「上総・安房」から手を引いたいう事では無いか。
    然し、それが何時しか「技術の継承」がままならずに放置され廃れて鎌倉期末まで長く引き継がれなかったという事では無いか。
    再び、その後、「鉄の重要さ」を認識していた“「鎌倉幕府」が「伊勢」に頼んで来た”と云う事では無いか。
    その「見返り代償」が、「伊勢本領安堵と云う事・主張が認められている」ではなかったかと考えられる。

    注釈 この「竪型炉」には「一つの特徴」があって、この「重要な認識」を以て建設期ま判断をする必要があるのだ。
    それは「砂鉄の平型炉と箱型炉と縦型炉」は、そもそもその構造から「平地」に建造する。
    ところがこの「開発の竪型炉」は、「小高い丘」に建設し、丘を垂直下に掘り下げて「高さ」を獲得する。
    それは「丘の高い位置の炉口」から「原鉱石や木炭や還元剤」を容易に投入し、下側の「湯口と炉底」に「溶融鉄」を流し、「貯め冷やす仕組み」にして労苦を軽減する仕組みである。
    この為に「古い層の土地」を必然的に削る事に成るのだ。
    この事から「純粋な竪型炉」に限り「炉の遺跡」に於いては「時代査証」を間違い易いのだ。
    この「8世紀と9世紀の査証」は,この“「純粋な竪型炉」”に於いてもう一度検証する必要がある。
    もう一つは、まず「初期」にはこの「純粋な竪型炉」に関して、「たたら・鉄滓」を獲得するには「タタラの箱型炉の発展炉」であるが、「箱型炉」をより温度を高める為の「高さ」を獲得する為に「炉」を「縦」にしてそれを「鞴の位置」や「湯口の位置」を変え、「二つの改良」を行った。
    それが「改良点の一部」が記録に遺されていて次の通りである。

    1 「タタラ・ケラ・炉中・低炭素鉄」と「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」と「鉄滓・ノロ」の「タタラ鉄・3つの鉄」を、「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」だけにした。
    2 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を「二つの下湯口」に置き、大きくして炉熱を高めた
    3 「木炭・熱源」を多くして「溶解温度」を先ず増し、「炭素量」で還元力を増やし、「石灰」を追加して「還元力」を増した。
    4 「炉高」を高めて「炉外底」を無くした

    最初は、「砂鉄の箱型炉」から先ず「縦型炉」にして、鞴などのそれを改良して最終は「箱型炉」に似つかない形の違う「別型炉/初期の竪型炉」に成った。
    それは現在の「高炉に近い炉形」の「純粋な青木氏部独自の竪型炉」と成ったのである。
    この「査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の地層からの「2基・誤認」”の合わせて「竪型炉」の「5炉」に関しては、少なくとも、“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”としてでは断定できる。
    唯、「前者の炉形」と「後者の炉形」が、「竪型炉」としても全く同じであったかは定かではないが、現在この遺跡は分析されている。
    これは炉のけんしょうかのものであり、鉱山からの検証に於いては異なるのだ。
    では、この時期では「未開に近い関東」には、「鉱山」を開いたが「関東」に於いては「どの資料」からも「鉱山開発」は「鎌倉期」からであるとしている。
    それ以前のものは見つかっていない。
    それも「鉱山開発」には、「経済の根幹」を左右する「鉄市場」を統制する為に「院屋号・特別占有権」を持っての「開発」であって、この当時は「民間」は、「賜姓臣下族」などの「1等官上級令外官に出される令」の「太政大臣に代わって出される因事菅隷」に基づくものであって「民間」は先ず論外であった。
    これは「献納の源」にはならないからであるし、誰でもが「献納する資格や格式」を有していないからだ。
    「ある一定の資格なし」には、「朝廷」が乞食の様に「献納」を自由に受ける訳には行かない掟である。
    従って、それに伴う「炉などの開発に伴う製鉄方法」も、この「民間の中」には明治期まで無かったのだ。
    況してや、「政治と経済」を左右する「製鉄方法が絡む所以」は、この「院屋号の格式」を無くしては尚の事であった。
    故に当時から「炉と鉄の関係」は政治から切り離せない関係にあって、「鉱山開発と炉の開発の政策」は「院屋号の因事菅隷」で一体化していたのである。
    故に、それを持ち得ていたのは「民間」ではなく、長く関わって来た「永代浄大一位の最上位の格式」を有するのは「伊勢の超豪商紙屋院の号の伊勢屋の青木氏部」だけであったのだ。
    それ故に、「一切の資金等や技術の出所」は「院屋号が持つ事」に成っていて、それに「見合う献納」を義務として果たしていたものなのだ。相当な財を持ち得ていなければ元より成し得ない格式であったのだ。
    飽く迄も「殖産の利益歩合」では無く「献納の形」で明治初期迄続けられていたのである。

    故に「政治の執行官の太政官」が出さない「因事菅隷」に従っているのだ。
    当然に、この「関東の鉱山開発・資本投資」に於いても、この事から必然として「鎌倉期初期」と成り得るのだ。
    故に「因事菅隷」が、密かに令外官として出される以上は、「平安期末期迄」は、「703年と713年」に「施基皇子」に「永代役の賜姓五役・令外官」として「鉱山開発の院屋号」を正式に与えているのだ。
    「天武天皇以降による因事菅隷の役務」とその前の「天智天皇の賜姓五役」の「二つの特権」を保持していたのだ。
    従って、これがある以上は、その「権利」は少なくとも「平安末期」までは「権利」としても、「財力」としても、「技術力」としても、「土木能力・額田部氏」としても、どんな面を捉えても少なくとも持ち得ていた事に成るのだ。
    民間など入る隙間は無かったのだ。
    周囲はこの「因事菅隷」が「伊勢青木氏」にある限りは、先ずはお伺いを建具する事に成っていたし、行うとしても可能かどうかは別としても「氏族の下請け」と成っていたのだ。
    それ故に実際は「民間の下請け」は無かったとされていて、それは「献納の格式・誰でも献納はできなかった」の有無にあった。

    注釈 奈良期の「朝廷内の官僚の8割」は「後漢の技能集団の帰化人の役人・渡来人」で占められ、これが「問題」と成っていたとある。
    其処で「天智天皇」に継いで“「天武天皇」”は、これを官僚に尋ね聞いて、これを憂いて、出来たばかりの「太政官令」とは別に“「因事管隷」”を密かに発したのだ。
    この「太政官」は、「八省」のみならず、「神祇官等」も含む「全ての官庁(官司)」を動かしたが、この事をより効果的に動かす為には、「特定の令外官」にのみ“「因事管隷」”と呼ぶ「特定の令・内密書・密書」を発したのだ。
    つまり、「太政官令」に基づいて、この個別な正式な令に並ぶ「天皇から直接発せられる令・密書」を指す“「因事管隷」”に依って、「特定の令」を発したのだ。
    「施基皇子とその後裔」は、この「法・因事菅隷」に基づく“「因事管隷」”の「最初の範」として「特段の扱い」を受けた。
    謂わば、「永代令外官」による「天智天皇期・父・668年- 672年」から“「賜姓五役」”として、その役の“「模範例の前提」”と成っていた。
    然し、「天武天皇期・叔父・673年- 686年」では、具体的にこれに対して“「因事管隷」”を以て“「特例に発せられた令」”であるのだ。
    云わば、「特別の扱いをしていた令外官」を格式に於いて選別して特定したと云えるのだ。
    つまり、「天智天皇の永代賜姓五役」から「天武天皇の因事菅隷」に正式に代わったと云う事が云えるが、その後も、この「賜姓五役」の「令外官の令」も出され続けたのだ。

    それの一つが、“「因事管隷」” =「賜姓五役」=「殖産起業の伊勢青木氏」であったのだ。
    その前には、前段でも論じたが「部人制度」で造った「全ゆる製品」を一度朝廷に納めて、そこで「必要と成る分」を「朝廷」で取り除き「残りの商品」を裁かねばならなかった。
    そこで、これを「専門的に成す者」に「賜姓臣下族の青木氏」に命じたのが、「賜姓五役の始り」であった。
    これを「賜姓五役を受けた伊勢青木氏」では、これに依って商い事に成る事を以て最後には正式に「商いとする事」にまで発展して行ったのである。
    この「賜姓五役の格式」だけでは「天皇・朝廷の命令の全て」が裁く事が出来なく成ったのである。
    そこで、「格式充分な青木氏」に出す「是非特別にして出したい天皇の命令]には「限界が生まれる事」が常時発生したのだ。
    そこで格式上、「太政官」より「上位の青木氏・浄大一位」に「下の格式の官僚」が「命令」を出せない事の為にそこで「太政官」は、「天皇の意を伝える手段」として「天皇の意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を天皇に出してもらって発したのが始まりである。
    中には「官僚」にも伝えたくない「秘密の指示書・密書」も多かった為に秘密裏に「因事菅隷の書」が頻繁に出される様に成ったのだ。
    この「密かな命令」の為にいざ「殖産」と成っても「天皇側」が「一切の管財や協力」を出すものではなかったのだ。
    「伊勢青木氏独自の一切の力」で「意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を実行しなければならなかったのだ。
    況してや「密書」である限りはそれ以上の事は出来ない。そこで部経済の差配役を担ってそこで生まれる利を使う事でこの役を果たす事に成ったのだ。
    それには、この「奈良期の当初」は、「部経済での財としての商い」であって、「技としての集団・国造部」の「差配の青木氏部」であったのだ。
    それが本格的にこの「賜姓族令外官の開始」に入ってからは、大きい「因事菅隷」では「703年と713年」には、先ず「近江鉱山開発・元明天皇期」が可能に成ったのであって、これらの「功績」を「天武天皇」の“「因事管隷」”に依って“「権威付けたという事」”であったとされるのだ。

    注釈 「703年と713年の近江鉱山開発・元明天皇期」は、「鉱山開発」を実施した時期ではなく、「14年掛かって本格稼働に入ったとする時期」を指しているのだ。
    その前の「天智期・668年から天武期・686年」にこの“「因事管隷」”に基づいて「準備」をし「鉱山の開山開発の準備」を開始したのだ。
    「鉱山の開発とその採掘」には、「土木工事の専門職の部」が必要であって、「施基皇子」と仲の良かった「額田部氏等の協力」を得ていたのだ。
    「開発の山場所調査」からその「青木氏部の技術の習得等の調査の準備」が必要であったのだ。

    ところがこれが「密書」に於いてである限りは、以上の認識に朝廷も社会も「因事菅隷」に関しては別の所に置いていたのだ。
    「密書」である限り周囲は知らなかったと云うのが正しい表現であろう。
    確定はしないが、「浄大壱位の真人族」から、態々、「賜姓臣下族」に成ら得なければならない根拠には、この「天武天皇の重要策の目玉策」として、それを、つまり「内密書の因事菅隷」を「実行する氏族の特定の集団」が必要であったのだ。
    そして、それが最初に形として出て来たのが「殖産業」=「伊勢青木氏」=“「因事管隷」”があったのでは無いかと考えられる。
    それだけに「鎌倉幕府」に成る前の「平安末期」までは、この何人も侵す事の出来ない最高格式を有する“「因事管隷」”の下に「鉱山開発」はあったのだ。
    これ等を理解する上でこれが「最低限の歴史観」であるのだ。
    故に、鉱山に関してどんな「殖産」にも対応でき、それを叶えていたのは「奈良期からの青木氏部」であったろうし、「鉱山開発」もその一つであったと云う事だ。
    これらは、言い換えれば「伊勢青木氏の格式」だけではなく、即ち、密かに「法の前提・“「因事管隷」”に裏から守られていたという事である。
    これは普通であるなら「長い歴史の間」で攻撃され潰されるも「超氏族・超豪族・超豪商」として「攻撃されていない・潰されない・抹殺されない史実」はこの前提にあったからだ。
    当時は、平安期に於いては少なくとも次の様な関係式にあって引き継がれていたと云う事だ。
    「青木氏の格式・浄大一位」=「賜姓五役・天智天皇」=“「因事管隷・天武天皇」=「律宗族」”と成る。

    この“「因事管隷」”の中では、少なくとも「平安期末期」までは、この「鉱山開発」は保証されていた事は明白であり、“「因事管隷」”の届かなくなった時期、即ち、「関東の鉱山開発期頃」には「鎌倉幕府」は、未だ勝手には出来ず「伊勢青木氏に頼む事」に成った所以であろう。
    云わば、「現在の特許権」に相当するものであったのであろう。
    この「関東の鉱山開発」は、少なくとも「近江鉄」に対応した「伊勢での開発改良された竪型炉」が用いられたものであった事に成る。
    「嵯峨期」でこの絶大な権力を持つ事に成っていてそれに依って「皇親族を外された事」が、この「因事菅隷」に左右していた事なのかと云う疑問である。
    この論理で考えれば「嵯峨天皇の青木氏に対する過激な行為」は納得できる。
    つまり、言い換えれば「嵯峨天皇」はこの「因事菅隷を使わなかった事」にも成る。
    嵯峨期に於いて「皇親族」は廃止されたが、「皇親族」は当にこの「因事菅隷の族」であった事が云える。
    普通は「賜姓族から外された事」では、普通は「因事菅隷が出ない」と考えられるが、それが記録から鎌倉期にもこの「因事菅隷が働いていた事」なのだ。
    「因事菅隷が働いていた事」と云うよりは、それは「伝統的な特許権」と云うか他が犯し得ない得ない「進んだ技術力・改良型竪型炉のノウハウ」とで保障されていたからだろう。
    この「因事菅隷の事実の伝統」は、この「銃の欠点を補完するまでの室町期」まで「鎌倉期・関東に竪型炉を広めた時期」を超えて持ち込まれていた事が記録からも判る。
    少なくとも、「円融天皇」のこの「青木氏」を補完する為に「藤原秀郷流青木氏」を賜姓する時期までは密かに「賜姓」と共に「円融天皇の因事菅隷」は発令されていた事を意味する。
    「藤原秀郷流青木氏」を賜姓し、其の為の「何某かの因事菅隷」を密かに出していた筈でありその目的はあった筈である。
    その証拠に記録から、“秀郷流一門宗家の嫡子の第三子が永代に青木氏を名乗らせる”と云う「令・因事菅隷」が正式に出ている。
    この時から「母方の藤原秀郷流青木氏」は、正式にも母方系と成り得て、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」とは同格と扱われた事を以て”の格式は「浄大一位」と成り得て、それ以上は「太政官令」は出せなかったからだ。
    故に「賜姓族」のみならず当然に「円融天皇の因事菅隷」を発している事に成るのだ。
    その「因事菅隷」には、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」を武力的に補完せよ”である事は先ず判るが、その補完の一つは、「旧来通りに藤原氏北家」に代わって「北家秀郷流」で「青木氏を四掟で護る事」であるが、密かに別の「経済的で武力的な補完の因事菅隷」が出ていたのではないかと観ている。
    この点で研究は未だ充分にその点に及んでいないが、「銃の試作撃ちに関わっている事」から等何処かに「炉に関する補完」に付いて「因事菅隷の密書」があるだろうと観ているのだ。
    だから、「室町期の前」の「鎌倉期の武蔵に竪型炉の遺跡」が見つかっているのだ。
    これが所謂、「別の経済的な補完の因事菅隷」であったのではないだろうか。
    「銃云々と云う事」よりは“「近江鋼の開発とその炉の開発」がどれ程日本の経済発展に大きく係わるか”を知ったのではないか。
    其れが未だ開発途上であっても「青木氏」から移した「鉄鉱石で仕える竪型炉」の「千葉の遺跡・下記」ではないかと観られるのだ。
    「青木氏が行っている近江鉄鉱山」は、その意味で「朝廷」を揺るがす程の先進的な事物と成っていたのである。


    注釈 「額田青木氏の救助とその為の銃の完成」は、この「因事菅隷」に基づいているかは判らないが、「正親町天皇の律宗族追認」には、この「因事菅隷」に基づくものであった事は間違いはないだろう。後記

    それが「高炉」に近い炉形の“「純粋な竪型炉」”であったろう。
    何度も云うが、この「鉄に関しての査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基の遺跡」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の「2基の遺跡」の「竪型炉・開発途上」”の以上の「5炉」に関しては、故に少なくとも全ては“「13世紀であった事」”に成り、その「炉形」も調査記録では“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”と「関東」に於いても成る。
    これは「建設地の地層・丘を地中の下に掘り下げる方式・古い地層が出る」の「堀立地形に依る認識」に成るだろう。

    その所期の改良点は調査資料から判断すると次の通りであった。
    改良点の4つ
    1 度々の「築炉」を一度にし「炉外底」を無くした。
    2「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄・銑鉄」だけにした。
    3 「木炭・熱源・紀州炭」を多くし「還元力」を増し、「炭素量」を増やし、「石灰」で「還元力」を増した。
    4 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を二つの「下湯口」に置き、大きくして「炉熱」を高めた


    「タタラのケラは炉中にある低炭素鉄」と「銑のズクは炉外底にある高炭素鉄」と「鉄滓のノロ」の“「タタラ製鉄・3つの鉄」”に対し分けられ、「炉」を先ず縦に起し、「炉口」を上にし、「湯口」を下にし、「鞴」を足踏み込み型の大形にし、鞴風を下から上に吹き上げる様にし、「原鉱石」を坂の下から上へ運んで「高いロ口」から落とし込む。
    先ず「木炭の熱源」と「木炭の還元剤」と最後に「原鉱石」を投げ入れて「下の火口」から「熱源」を高温に上げて加熱する。
    「溶けた鉄」を「炉低」で固めて最後に溜まった「炉ロ」から纏めて「湯溶口池」に落とし込み「炭粉」で表面を覆い「鉄の酸化」を防ぎ、ゆっくりと冷やす。
    そうする事で「鉄の融点」を“200度上げた”と記載されている。
    「丘の地形」を垂直に切り落とし、其の垂直面に炉を据えた事で上記の作業手順は進んだとある。
    この為に、“「タタラ製鉄」”では出せない“「銑鉄」だけの「竪型炉」”に成ったとある。
    この「中間の炉形」の“「タタラ製鉄」”の「箱型炉」を「縦にした炉」が現実に発見されているが、ところがこの「縦型炉の砂鉄の鈩製鉄」は進まなかったのだ。
    何故なのかは判らないが、この炉には矢張り「破壊」が多かった事が記されている。
    これが「竪型炉の開発」の「中間過程炉」なのかは判らないが、これが「近江鉄・703年時期の炉」とするとこの「炉説」は考え難い。
    何故なら、だとすると「以上の4点」が既に「関東の遺跡炉からの内容」に於いても替わっていた筈だ。

    注釈として、この件に関する“幾つかの通説”とするものには、この「近江鉄から導きだされる論理的、且つ、冶金的、学問的な史実」との「複合的検証」は欠落しているので無視とする以外にないのだ。
    そもそも「文系範疇の歴史家」に取り分け難しい「冶金工学と金属工学と地質工学」を会得している者は皆無であろうし、尚且つ、「近江学」と「その歴史」をも習得している者は同然に皆無と成ろう。
    故に、そもそもこの“通説”とするものには「歴史の経緯からの目」で観るばかりに間違いは多いのであり、これは歴史全般に於いても是非に改めるべきであるとするがこの傾向は未だあるので今後も難しいだろう。
    故に、従って、筆者は「青木氏の歴史観」に関しての“通説の利用」”には「比較対象」のものとして警戒して扱っている。

    この「現実」に「青木氏族の近江鉄に関わった史実・青木氏の歴史観」に鑑みれば、この「長い間の製鉄の経験」が、「他の物・武器や生活用品等」にも「商いを生み出す事」に適用されていて、これらの“「青木氏の鉄の経験」"が「鍛冶部・摂津と日野の工人」にも存在していて引き継がれていた”と考えれば、それが「室町期」に成って「額田青木氏の銃の必要性」では、更にこの「新しい炉の開発」にも「青木氏部の匠技」が反映されていたと成る。
    その「経験」が「銃の試作と生産に向けられた」と考えられるのが普通であろう。
    この“「伊勢屋の商い」”とは別に、「伊勢水軍等の氏族一門と秀郷流一族一門と各地の青木氏族」への「必需必要品と器具」を「神明社」を経由して密かに供給していたので、「伊勢と摂津の鍛冶職」はその「近江鉄からの鉄製品」の「充分な生産」を求められていた事に成る。
    其の為にも「近江鉄の必要性」は、そもそも「本論の銃の欠点の解決に使用する事」のみならず、その事に関わらず「鉄製品の需要」は急激に本質的に高かく成っていたのである。
    この事を「青木氏だけが持つ独自の歴史観」として前段でも論じたがここでも併記する。
    この「近江鉄の需要」を叶えている「近江鉄の竪型炉の使用」で、「鉄の供給力」が一段と増し、これに伴って「需要」もそれ以上に増した事に成ったが、この範囲は「青木氏のみが知る竪型炉の使用」である限りに左右されるが、それを全て担ったのが「屋の号を持つ伊勢屋」であったのだ。
    それ故に、この「需要」は「伊勢屋」に左右されていたのだ。
    これが「青木氏だけが持つ独自の歴史観」である以上は、ここに詳細に記載し論じなければ何時かは消え去るのみの「近江鉄の史実」となるのみである。
    従って「近江鉄」は「青木氏族の中」に於いて使われていた事を示し、それだけに青木氏族は鉱山鉄の寡占を極めたのだ。
    「独特な竪型炉の炉の形」からの視点で観て、「近江鉄」から始まり「関西」に、そして上記した様に遅れて僅かな炉を「関東」に依頼されて「普及を試みた経緯」と成り得えたのであろう。
    「11世紀頃から13世紀」にかけて合わせて「6基の炉の遺跡」しか発見されていない処から観て、この「需要」は、「6基」ではその「供給力」は「関東」に於いてでも無理で、矢張り、全般的には“「関西の伊勢屋の範疇で限定して賄われていた」”と言わざるを得ない。
    「近江鉱山」は、先ずは上記した様に「2鉱山」からであり、「竪型炉の開発」が進むに連れて「最終近江6鉱山」が「青木氏部」で開発された。
    恐らくは、この「6鉱山」では「関西域だけでの供給」と成っていたのではないか。
    その「限界時期」が上記の「関東の6基の炉の遺跡」と繋がったと観られる。
    何とか最低にも「鉄需要に賄うだけの炉数」ではないが、これを先ずは「幕府の依頼」もあって「関東に設けようとした事」に成ったと云える。
    記録から観て見ると、この「13世紀までの鉄の鉱山開発」には、次の通りである。
    栃木に1鉱山、千葉に2鉱山、茨城に1鉱山と成っていて、合わせても「4鉱山」であり、実質は「上記の歴史の遺跡の史実通り」である。
    矢張り、この「関東の4鉱山」が「関東の6基の炉」に見合う「炉−鉱山」であった事に成るか。
    「近江だけの6鉱山−9基の炉」に比べれば極めて少ない。
    矢張り、「鉱山の鉱石を鉄にする」には、「その炉の開発に大きく関わる事」からこの「炉のノウハウ」を持ち得ていなければならず、この結果が関東に生まれていた事を色濃く物語る。
    因みに「砂鉄」では、関東以北から観て「8世紀とする鉱山」は、何と唯の「1鉱山」しか観えるだけであるのだ。
    「鉱山鉄」には「近江の鉱山開発」と「その炉の開発」、言い換えれば「その財力の有無」、又、「因事菅隷の立場の有無」、「鉱山を見つける山師の知識」と「開山の土木技術」、「その専門の部人集団の所有、将又、「その商力等」の「総合的な力の保有」が必要に成る。
    これ等が備わっている事が最低の条件となる。
    故に誰でもが直ぐにと云う事には成らなかったのだ。
    それ故に少なくとも「鎌倉期」を超えて「室町期末期」まで完全に無かったと考えられ、「記録」も上記した様に「明治期」まで記載は無い。
    「室町期末期の額田青木氏の銃の欠点」を解決した直前までは「砂鉄の玉鋼」を除き無いのだ。
    ところが、この「竪型炉の経緯」は、この「室町期末期」のこの時期を超えず見当たらないのだ。
    これは「青木氏の氏是」に基づき「世に遺さず炉」とて共に消したと考えられる。
    当然に“「社会発展の為」に遺せばよいではないか”と云う発想は生まれる。
    然し、遺さなかったのだ。
    「竪型炉の炉の存在」が、“世に悪影響を与える”と「伊勢青木氏」は判断した事に成る。
    だから上記の記録にもある様に「明治期」まで「砂鉄の玉鋼」であったのだ。
    逆に言えれば「近江鉱山」も「6鉱山」で終わっている所以であろう
    つまり、“「鉱山の鉱石を使って鉄製錬する事」が、「鉄の世の統制」が無ければ「社会に悪影響を与える」”と考えた事なのだろが、「炉の開発能力と炉の使うノウハウ」を以て「商い」とすれば、元々は「因事菅隷を持つ青木氏部と商人」である以上は、出来るし「因事菅隷の寡占」である以上は必ず「巨万の富」が得られる。
    然し、それを敢えてしなかったという事だ。
    何故なのかである。
    「鉱山開発」によって「鉄の生産」を拡張させれば「銃の生産」が「因事菅隷外の処」でもっと広い範囲で行われ世は乱れると解釈したのだろう。
    寧ろ、格式を有する「賜姓族・律宗族」で会った以上は逆の発想をしたと云う事に成る。
    “「砂鉄の玉鋼程度の生産範囲」で抑えて置けば世は乱れない”としたと考えられ、それが「因事菅隷を持つ格式の青木氏の氏是」と考えたのだ。
    その証拠に「鉄の主生産」は「明治初期の高炉の導入・軍事化」と以降と成るのだ。
    既に「巨万の富を持つ青木氏」が「企業殖産」でやろうと思えば何の問題も無かった筈である
    飽く迄も、「竪型炉の鉄の生産」は「室町期の額田青木氏の為の銃の欠点と生産の完了」で終わらしたと云う事であろう。
    何故なら、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」を成せば、間違いなく「商い」は寡占であった限りは、「巨万の富」を獲得させていた筈である。
    その「研究資料の発見」が出来たが、これは「下段」で論じる事と成るが、「青木氏の商い」が“どの程度の巨万の富を最終では獲得していたか”を調査し論じているが殆ど無限であったろう。
    これによれば「超豪商と成って呼ばれた明治初期の族に関する研究論文」と「筆者の論文」があるが、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」での「利益」としては出せないが「一時期に於ける総合力」としてこの「巨万の富・地権は含まず」は、「220億両・7万円/1両/御師制度の研究資料」とされる。
    「筆者の研究論文・350億両/伊勢屋」とはさした差はないが、日本国内にこれだけの金が存在したかは定かでないが、兎も角も額が大きいのでこの「積算数値」のこの相当額に相当し比するものである事は先ず確かである。
    この事は上記の「炉論に関わる経緯論」にも一致する。
    参考に関東には数えきれないほどの鉱山があるが全て「明治期の高炉」である。

    注釈 「幕末明治の豪商」と呼ばれる中でもはっきりとした「研究記録・御師制度について」が遺っていて、この「支店とする米商いの淀の屋の資産額」の記載がある。
    どの様に計算したかは判らないし、「伊勢」は少なくとも「北勢」は米が採れない国なので、余剰米の米を市場から買い求める必要があって、一時、それを「大阪の蔵」に運んで「蔵管理」をしていたが、それが「淀の屋の実態」であって実態は世間に知らしていないのでも良く判っていない。
    然し、それに依れば、この「米相場・儲け」を「伊勢に送る米」に換えていた。
    それを営む様に成って、この「伊勢屋の支店の蔵」の「淀の屋」が最高額では「20億両・200兆円/10万円〜7万円/両」だったされている。
    「金額」では無く「米の量」であったとされている。
    これに依れば「伊勢青木氏の伊勢屋・松阪、摂津、堺の主店舗」で、「豪商の街松阪」と呼ばれていた中でも比較すると、「淀の屋の米資産」に比して「約10倍」であった事に成る。
    この「米帳合相場の淀の屋資産」は、「全国の米帳合相場基準となる市場を設立したとある豪商」とされ、これに依る「米資産」とされるが、其の内、この「米資産の店と取引」は中止したとある。
    実は、「享保期に大阪の米市場」は、前段でも論じたが「伊勢屋」が紀州より吉宗に江戸向行して、「改革の吉宗・前段」に「経済改革の進言」をして設立されたものと「青木氏」では伝わっている。
    そうすると、この「米蔵の支店の淀の屋」は、「松阪の豪商の青木氏の伊勢屋」では「吉宗との対立」から「米蔵の支店の淀の屋」は、この時を以て「米市場」から引いたとされている。
    何故ならば「摂津と堺」にも「松阪の本店」と各地に取引を前提に「支店・20店舗」を設けていたとされる。
    前段からも論じているが、「総合商社」を営む以上は「古来より伝統的」に「顔を出さない、店を明かさない、」等の安全策として「特定されない策」を執っていた。
    この事から「店名等」は、「伊勢屋」ではない「堺」」では「米商い」に関しては「淀の屋」を名乗っていたとされていて、この「享保の時」に米取引から手を引いたのではないか。(資料消失)
    それ以後は「伊勢の米」は「米市場」では完全に「名を隠しいの商い」としたのではないか。
    先ず、その策の「目的」は、何事も特定されない事が前提であって、「総合的に危険である事」が「主因」であるが、古くから「因事菅隷を持つ令外官」としても「奈良期の部商いの伝統」を引き継いでいた事から、この主策を特別に使っていたとされる。
    そもそも「伊勢屋・総合商社」は、「天皇から商いに関する紙屋院の格式号の特権を授与された」の事を「始り」として、「和紙以外」にも「令外官としての因事菅隷」で以て「各種の商い」を許されていた事から、特別に名乗っていたものである。
    恐らくは、この「隠顔策」は、「因事菅隷の意味合い」から「因事菅隷を出された時期からの伝統」ではないか。
    「限定して令外官に出される秘密令の由来」から「この「隠顔策」を[伝統的」に執られていたと考えられる。
    依って、その「伝統」を護り「総合商社・1025年」と成ってからも、「商い」が大きく成り手広く成って更にその「秘密の意味合い」は強く成って行ったものであろう。

    注釈 「伊勢青木氏」は、前段で詳細を論じたが、「吉宗に向行し享保改革を江戸で主導する」が、その一環として「大阪に米相場市場を設立・具申」を促したとあり、この時に、“「青木氏の伊勢屋」が具申し主導し、率先して「米の商いを専門に商いする店」を「大阪」に設立した”とあり、この役を担ったのが「淀の屋・米蔵」ではないかとしているのだ。
    当然に上記した様に、“「伝統の影の策」”として、「各種の商い・総合商社」を営む為にその「各種の店主」を「松阪の伊勢屋」の「番頭の一人・家人・氏族の伊勢50郷士衆達」に“「番頭」”として任したとある。
    それが「公表されている少ない資料・系譜では、一切詳細は不詳」ではあるが、判る範囲では、「岡本の郷士・一番番頭名と牧口郷士・二番番頭名」と成っているだけであり、詳細はないが、これが「淀の屋の支店の店主」としている事だけなのだ。
    この資料では、結局、この“「店主・福家」”としながらも限定せずに“「番頭・家人」”と追記している処に注目している。
    「米相場・蔵の淀の屋」は、「総合商社の伊勢屋の専門分野」としてのものであったと限定され、必然的に「総合商社」である以上は「全店一人」では動かせられない。
    従って、必然的に「番頭/家人の一人を置く事」に成るが、これには何度も論じているが「家人・氏族の伊勢士50郷士衆達」を配置する「古来から仕来りの伝統」であって、これが云わば「支店長の証・蔵の管理人」と成ろう。
    何故ならば、「判る範囲の淀の屋の経緯」と「伊勢青木氏の経緯」が余りにも一致し過ぎているのだ。
    その一つに「幕末の闕所の嫌がらせ」を受けていて、その後の「明治期の経緯」も「青木氏」に遺されたものと極めて類似しているのだし、否定するものは何も無い。
    又、「財産を朝廷に献納する等」、又、「大阪湾の干拓事業等」をした事等、疑いをかけられて「偽装倒産させた等」、「本店をダミー店に逸らして逃げた等」の幾つもの経緯なども一致している。
    そもそも「淀の屋の淀・屋は授与される院・蔵人院」に対して「商いの特権」も許される場合に於いて課される格式特権の号」は、「伊勢青木氏」の「古来からの名跡名」とされ、引き継がれるべき「名誉の名」であって、簡単に使われるべきものではない。
    況してや、「江戸初期」には一般に対して「商いの格式の屋号」を名乗る以上は、「府の便宜上の許可}が必要であった。
    「伊勢青木氏」には「過去」に於いて「名跡名」を使っていて、其の内遺しているのは「戒名」であるが、これを調べると、その「戒名の読込名」にも「淀の名の字」や「字名の字」等の所謂、「名跡名・格式名を使った先祖」が「十数人・殆ど」もいる。
    そもそも、「名跡名・格式名を読む込む慣習」は、「古代浄土宗白旗派の仕来り」であった。
    「額田青木氏の祖」と成った「桑名の淀橋王や飽浪王」は「三野王」に嫁いで後に美濃で独立して「美濃青木一族」を「美濃一色の浪端・清光院」に「青木氏一族」を形成するが、その「淀」や「飽浪」や「一色」等はこの典型例であり、要するにこれは「松阪一色・当初は字名」に並んで「伝統青木氏」が持つ「伝統の名跡名」であるのだ。

    注釈 江戸期から明治初期に掛けて「院と屋」を伴った「院の特権」に対して、それを「商い」に広げての「屋の号」を獲得した「正式な屋号をも持つ豪商」は歴史上全くないのはこの事による。
    これが「正しい屋の号の名乗り」は「院の号」の下にあるのだ。
    「院の号」に対して成せる「屋の号」とは、そのような意味を持ち、「院と屋の号」は一対であるのだし、その名も一致する。
    要するに、「院」は「殖産」であり、「屋」はそれを基にした「商い」を「屋」としていたのだ
    それには、「条件」として「過去」からの「一定の期間」の「朝廷との親密な関係を持つ事」が必要であって、その為にはその「関係を持つ事」には、「それなりの上位の継続的な格式」が必要であった。
    それには「継続的な献納」が「一つの証」であって、“誰でもが関係を持つ事が出来る”と云う事ではそもそもないのだ。
    元々、「武士や庶民」は格式上無理であるのだし、況してや「士農工商」に於いて「商人」は論外であった。
    そもそも「直接に接見が出来る者」は「三位以上の公家」か「青木氏の格式」以外には無いのだ。
    従って、「院と屋の号」、即ち、「一対の号の獲得」は、「上位の格式」を有さなくては無理であるのだ。
    「院と屋の号を持つ事の事態」が「その格式を証明するもの」と成っていたのだ。
    例えば、故に江戸期に良く使われたのが、「院」の持たない「紀伊国屋の屋」がこの「条件」には合致していないのだ。
    更にはその意味で、「上記の淀の屋」が「闕所の疑い」を受けたとした時に、この“「献納」をした”とあるのはこの「一つの証拠」であり、そもそもこの「献納と云う行為」は誰でもが自由にできると云う事では無かったのだ。
    誰でも「献納と云う事」をできると仮にすれば、「天皇と云う品格を下げて仕舞う事」にも成り、「寄付さされる団体」に成り下がる事にも成る。
    仮に「ある程度の格式を有していた者」としても、この「献納」に対しては、そもそも直接は絶対に無理であり、「献納に比する格式を有する家」を先ず経由して、その「行為」と成り得て、依って「伝統的に公家など」の「一定の格式を持つ家柄の事」に成り得るのだ。
    この上記の「院屋と献納」は、少なくともの「伝統を護っていた所以」であって、誰でも「献納」はそもそも出来ないのだ。
    そしてその「献納」は、そもそも「継続的なもの」であって、仮に「献納できる者」であっても「突然に献納とする事」はそもそも出来ないのであって、従って、これはそれを「古来」より「継続的にしていた高い格式」を有する「伊勢屋の伊勢青木氏の様な格式を有する家柄・律宗族等の格式」で無くては出来ない行為なのだ。
    これが「献納」と云うものの「古い伝統的な外せない歴史観」なのだ。
    それを考えた場合、「米の殖産の院・米を酒造などの色々な形で扱う」に対してこの「伊勢の米蔵支店の淀の屋」は、「伊勢青木氏の伊勢屋の蔵米蔵」の「堺の大阪の店」であった事が此処でも云えるのだ。
    この様に、「献納の持つ歴史観」から観れば直ぐ判る事である。
    然し、現実にはこの様な物事の「伝統的な歴史観」を無視した論説が実に多い。
    この「蔵米蔵の支店の淀の屋」は間違いなく「伊勢屋の大阪支店・堺店米蔵」であった事は間違いはない。
    そこで、もう少しこの古い「蔵米蔵の支店の淀の屋・蔵人院」の最大限に判る範囲の事の経緯を調べて観た。

    注釈 「蔵人院」は、前段でも何度も論じた様に「奈良期の国造部の差配頭」であった事より、要するに「その役目・皇親族」は「蔵人院」にあって、「賜姓五役の役務の一つ」に数えられ伝統的に青木氏に与えられた号となり、「嵯峨期」に「嵯峨天皇の皇子」の一人にこの「蔵人院・甲斐」に別にして任じている。
    以下は「賜姓五役」から単独で別の役目として名乗る様に成ったが、その後も「伊勢青木氏」は「伊勢の蔵人院」であり続けた。

    注釈論
    「米蔵の支店の淀の屋論の米相場の経緯」は、記録によると、「1661年頃の大阪の蔵群」から「1673年頃(17世紀の中頃前)」から「店の前・事務所と蔵の前」で、突然に「米の蔵出し」に依って「帳合取引」として原始的に「市場」が始まり、その結果として周囲に“「米商人仲間」”が集まり「自然発生的に市場」が形成される様に成ったとある。
    つまり、初めて、米が「蔵出し現物帳合取引」が行われ始めたとされるのだ。
    然し、そもそも「奈良期の部経済」に於いて、先ず一度「朝廷に納められた米」を「必要分」を取り除き、残りを「庶民・市場はない」に放出するとする役目を担っていた。
    この事は前段でも何度も論じてきたが、そもそも「伊勢青木氏の商いに成る根源」であったが、この「初めて」とする処に疑問が残る。
    筆者は、この「伊勢青木氏の伊勢屋」は「淀の屋・蔵人院」に限らず「奈良期」から行われていた行為であって、初めてとする説には「完全な歴史観の不足の反論説」を採っている。
    故に「青木氏」では、「淀の屋・蔵人院」として呼称して記載されていたと観ているのだ。
    「淀の屋・蔵人院」は「上記の役目」を担った「青木氏の者」が「淀と云う地名・淀川」にその「役所」を置き、そこで「屋」、即ち、「院」に対しての「商い部」として「屋の号を呼称していた証」であると観ているのだ。
    要するに故に、“「米商人仲間」”とする処に意味があって、これを継続していた所に「同じ仲間が集まる所以」である。
    つまり、“「米商人仲間」”と記する処は、「各藩・国」の「周囲に米を貯める蔵群」があった事に成る。
    要するに「貯めた蔵出し」で「互いの融通」が成立し始めたのだ。
    何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述するが、台風や水害などの季節性被害で困った仲間に蔵から緊急を目的に「帳簿上での融通をし合う互いの習慣」が伝統的に信用を前提に歳出をする事が来上がっていたとしているのだ。
    それが「奈良期から務める蔵人院」であった事から中心と成ってこれを務めた事が「市場取引の起源」とされるのだ。
    これが前段でも何度も論じている「天智天皇」から授かった「賜姓五役の一つとされる永代の役目」でもあったのだ。
    故に「淀の屋」と呼称していたのだし、「美濃に飽波の王と一緒に嫁いだ淀橋の王」の「淀の所以」であるのだ。
    その意味で「淀の屋」には「重要な意味」を持っていたのだ。(詳細下記1)
    さて、それ故に、それが「30年から50年後」の「1730年頃」に、この「米蔵の支店の淀の屋」もこの「蔵出し現物帳合取引の取引」で、何故か突然に「相場」から退場したとし、それに従い「蔵出し現物帳合取引市場」も絶えたとある。
    何故に退場したか「疑問」である。(詳細下記2)
    ここより、この「帳合取引の動き」は正式に「堂島米会所」を新設として「堂島」に移され、前記の「蔵出し・現物取引」との取引は無く成ったとされる。
    この代わりにでた「市場取引」は、“「帳会米商」”として成立する様に「堂島」では成った。
    この「帳会米商」が「吉宗の享保の改革の一環」として承認されて「法・1730年」が制定されて正式なものと成った。
    其の後、この「取引方法」は改めて正式に全てが「帳会米商」に変更され「1863年」まで続いた。
    其の後は「幕藩公認」で「各所・各藩」にも開かれた。
    「先物取引」から「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わり、「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。

    注釈 そこで、先ず何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述する。(下記1)に付いて。
    先ずは「伊勢」には「米」はその真砂土壌から無かった。
    そこで「各藩の余剰米」を集める事にあった。
    より多く集めるには、一般的にはその「米の現物」を取引に出してその「利鞘」を稼ぎ、「調達資金」を高めて更に米をかき集める必要があった。
    同じ様な商人が他にもいた事が、“「米商人仲間」”の表現でも判る。
    互に、同じ状況にあって、「各藩の余剰米をかき集める事の競争」が起こったは必然で、「天候被害」などの事で
    不作と成ればそれは戦争であったろう。
    「伊勢」は其の立場にあって、幸いに「財」は有ったが、それは「各藩の余剰米の如何」に関わっている事であって、結局は「蔵出し現物帳合取引」に頼る事以外に無く成っていたのである。
    そして、但し元々、「米を獲得する」にあって、「利鞘の差益」を求める物では無かった。
    故に、「蔵出し現物帳合取引」とならざるを得なかったと云う事が実情であった。

    注釈 ところが、何故に退場したかである。(下記2)の疑問である。
    米相場が拓かれて、それは次第に「米を獲得する」から、「利鞘の差益を獲得する取引」へと変化して行ったと云う事だ。
    「蔵出し現物帳合取引」から“「帳会米商」”の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」の「先物取引」に変わって行ったのだ。
    「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。
    そして、遂には「帳会米商」を認めた「吉宗の享保の改革の一環」として「法・173年」に承認されてしまったのだ。
    「伊勢屋」が求めていた当初より「吉宗」に具申していた「米取引」は唯単なる「金銭取引」のものと成って仕舞っていたのだ。
    要するに、提言外で目的外の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わったのだ。
    ここに「青木氏の伊勢屋」と「吉宗との間」に「完全に考え方の違い」が生まれ亀裂が生じはじめたのだ。
    「青木氏が求める伊勢の米」の為の純粋な「蔵出し現物帳合取引」は、結果として「法的違反」となり亀裂と同時に引き上げる破目と成り得たのだ。
    この「吉宗」が許した「帳会米商」は庶人の幕府に対する「賄賂」を生み出し「享保期の悪の枢軸」と成って行って「享保の改革」は終わりを告げる結果と成って行ったのだ。

    要するに、この「淀屋a」とするのは、たった「30年から50年間の存在」であって、「米商いの期間」としてもこの「豪商論の淀屋論a」はそもそもおかしいのだ。
    「伊勢青木氏が吉宗江戸向行」の後に、「当面の改革」」として「幕府財政の蔵埋金・300両財政破壊」を「一時的にも増やす手段の為」に採ったとされるのはこの米取引である。
    その理由は、この「堂島米取引の米取引」での事であった。
    然し、この前に既に「商人」として「大阪/堺」として「米」を使って「蔵出し先物取引」としての「扱い」で「利益」を上げていたのだ。
    この方式を「伊勢青木氏の伊勢屋」は推奨していたが、吉宗は「空米の現物取引」を求めた。
    結果として、意見が異なり「帳合取引」から引く結果となってしまったのだ。
    これが「淀の屋b」であり、「1700年頃から1730年頃」を境に「現物取引の米の先物取引」から上記の通りに手を引き始めているのだ。
    ところが、当初は「帳合取引」で融通を受けた方式でこれにより「将軍にする為の裏金造り」と云う説が出て来ていたのだが、兎も角も目的は達成されたが事の事態は違ってきていたのだ。
    余りに「期間が短い事」から「何かの理由目的」があっての「商行為」である事は判る。
    そして「紀州藩の吉宗」は「1716年」に記録にある様に、「伊勢青木氏の後ろ盾」で「幕府」の「働き架け」で「将軍」と成るが、この「19年間」は「将軍」にする為の「裏の動き」を始めたとされる。
    遂にこれが「15年後」に兎に角も成功させたが、この為に「得られた利益」をこの「裏の動き」に使ったとする説なのだ。恐らくはこの説が間違いは無いだろう。
    そして兎も角も「目的達成」で「先物取引」から手を引いたが、「伊勢帳簿」からは直接出金は出来ない事から、この「この米相場の利益」を「将軍にする為の裏の動き」に使ったと考えられる。
    この「米の行き違い」が、「吉宗との行き違い」が感情的なものとなって現れたのだ。
    然し、「吉宗」は最終に「信濃」で裏切ったのだが、「伊勢」も危険と成って、これを以て「伊勢」に引き上げるが同時に「米相場」からもその必要性が無く成り引き上げたのだ。
    それでこの説で行けば、それで無くては「第三番手であった紀州藩・吉宗」からは先ず「将軍」に成り得ないし、この為の「将軍にする為」の「裏資金」は、この「現物先物取引の米取引」から得たものと成り得て仕舞うと考えられる。
    この「裏の金が動いた事」は明白な史実である。
    当時、「伊勢青木氏・伊勢屋」は「紀州藩勘定方指導」として「財政逼迫の折り」からは「裏の金」は「紀州藩」からは決して出す事は出来なかったし、そもそも「出来る財力」は元よりなかったのだ。
    だからと言って「伊勢」から再建にしてでも正式にはこれは出せないし前段でも論じた様に既に「10万両の債権」を持ち得ていたのだ。
    「後の手段」は、上記の「大阪・淀の蔵」から動く「現物先物取引の米取引」であったとするのだ。
    それを「堺大阪の支店の淀の屋b・伊勢の米蔵」としたのだ。

    注釈 ここには、「伊勢」は「明治中期の土壌改良」まで「北勢」では「米は真砂土壌」から殆ど採れなかった事から、“長い期間に於いて全国から「余剰米の米」を調達していた”。
    この事から、その「重要な役目」を担っていたのは「伊勢屋の堺・大阪の店のb・淀の屋」であって、此処には「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」があったと記録されいる。
    何とか遺された記録を手繰れば、この「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」のあった所在地を大方に割り出した。
    これに依れば、「川の船の接岸可能な場所」を前提と成るので、昔より「安治川の九条の川沿い」に「米蔵群」があって、そこの付近に「自宅・事務所」があったとされ、「現在の西九条附近域の北側」とされる。
    そもそも「奈良期」から「部経済の朝廷の担い手」として「賜姓五役」として任されていた事は何度も論じているが、古来よりこの付近にその「集荷品・米の集積場」があったとしてであって、要するにここで「伊勢の米と朝廷の米」を差配を一手に担っていたのだ。
    故に何れにしても此処の付近に「蔵米蔵群」があった事に成る。
    そうすると、これを“一時的に短期間に於いて「ある目的」の為に「室町期」に成らずとも歴史的に古来よりここで「蔵出し帳合取引」をしていた”と云う事に成る。
    これはこの事が急に始まったと云う経緯では無い事が判る。
    当然に、仲間もこの淀川の周囲にいる事に成り、長い間には「米の融通」も「帳合上で行う事」等は当たり前の事に成り得ていた事に成る。
    これは間違いなく史実に一致している。
    それが「国造部の部人の差配者」たる所以の「青木氏の歴史観」と成ろう。

    註釈 さて、この「淀の屋論の検証」で、「もう一つの矛盾」は、“30年から50年の短期間とする処の経緯”に問題がある。
    そもそも、これは「伊勢屋の家人」から派遣されている「二代の番頭の引き継ぎでの期間」とすると、実質は「10年から15年程度の期間」と成る。
    そもそも「番頭の呼称」は「伊勢屋・伊勢青木氏」では古来より云わない。
    主に「伊勢氏人・女系」の「青木氏を名乗る家人」である。
    この時の「淀の屋の家人・番頭とする者」が「蔵出し帳合取引・融通方式」をその役目として伝統として先ず成功させた者として、「次の番頭とする者の活躍」は、「最後の引手と成った事」からであり、「実質の期間」はもっと一割程度長い事に成る。
    この「淀屋a説」では、この「闕所めいた嫌がらせ」の受ける事の可能性の無いこの「短期間」に於いてでさえ、そもそもその「闕所を受けた」としていて、それが前段でも論じた様に、「伊勢青木氏の伊勢屋・淀の屋b」が「受けた嫌がらせ・闕所の内容の経緯」と一致さしている処に「疑問」が出る。
    況してや、「米の採れない北勢域の民用の米蔵」の「蔵出し帳合取引での成功」であって、これは法的に触れていず「闕所を受ける謂れ」はそもそも無い。
    況して、「淀屋a説」は「家人経営・番頭経営」であったとしていて「闕所の前提」にはない。
    「上記の経緯」から観て、「闕所を受け事」とは、この「淀屋a説」とするものには100%無いだろう。
    況してや、先ずそれが「限られた米と云う商人の限られた行為」であった事である。
    そして、先ず「短期間」である以上は、“「武士に直接に影響を及ぼした”」とするものでは無かった事である。
    更には、「合意による蔵出し現物帳合取引」であって、「空米取引」はしていない。
    「世間の経済」にこの「取引・融通」は、そもそも対象とする「武士社会」に「直接影響を与えるものでは無かった事」であり、況してや要するに「先物」ではない「蔵出し」の「現物の取引」の「直接的な帳合上の事」であって、「取引方法上」から観ても「武士の家の経済}に全く関係ない所で行われていたのである。
    以上等で「淀屋a説とする経緯とする事」には無理があり理解できない。
    この公に記載されている「公の淀屋論a説」は、そもそも「淀屋a説の詳細」は「以上の事以外」には全く判っていず、この「淀屋a説」と「伊勢青木氏の伊勢屋/淀の屋b」と「その経緯」を繋いで一致させていると云う事である。

    注釈 これは何故かである。
    それは、「aの著者」は「aもbの淀の屋」も「同じである事」を始めから知っていたからに過ぎない。
    確かに「闕所の疑い」を受けたのは、「紙屋院の伊勢屋の商いに対しての事」であることは記録から確かだが、何れも上記の「蔵米蔵事務所の淀の屋の事」では「闕所の理由」としては100%ない。
    仮に、この「淀の屋b」が「紙屋院の伊勢屋の商い」と見做されていたとすれば上記した様に「現実」であるので否定はできない。
    それが、「闕所」が突然に其れ迄に「誰もしなかった事」として、つまり、「合意による蔵出し現物帳合取引」を「無許可」でしたとして受けたとすれば、止む無しであるが、その時が少し遅れて「吉宗改革の末期」の「吉宗と青木氏との仲違いの時期」であるのだ。
    然し、「合意による蔵出し現物帳合取引」は「奈良期からの役目」として継続して来たものである。
    そもそも、「堂島の米相場」を正式に容認して、それに依って“「莫大な冥加金」”を一時的にも獲得する様に提案したのは、前段でも論じた様に「享保の改革」を「江戸経済」で側面から推し進めていたのは当に「江戸の伊勢屋・伊勢青木氏」であるのだ。
    飽く迄も「青木氏の提案の前提」は、「冥加金」であって、「取引の利益」では無かったのだ。
    「米の取引の差益を求める事」は「米は武士の給金を決める手段」である以上は「給金の変動」を意味し、その結果は幕臣の懐を左右する結果として現れる。
    これが武士をより弱くし賄賂が横行する世の中と成り得るとして反対していたのだ。
    それが「幕府」は突然に反対していた「伊勢屋の闕所にも及んだと云う事」なのだ。
    先ずそれの行為は、「信濃青木氏の養蚕と和紙の殖産」と、それだけに留まらず「信濃青木氏の神域の御領の半減没収」と「養蚕の殖産技能者の幕府召上」と「信濃青木氏の半額領地没収」を突然に無断で強行して来た。
    此れを聞きつけたた「紀州藩藩邸」から密かに聞いた「江戸伊勢屋・伊勢青木氏」は、これを“理由なき闕所”と観て、次は、“「伊勢青木氏の伊勢屋」に及ぶ”として「200の江戸伊勢屋を無償放棄」して「伊勢」に「3日で逃げ帰った」とする有名な事件であった。
    江戸での「享保改革の吉宗と青木氏の蜜月の関係」はそれもある日突然にこれで消えたのであった。
    後は「勘定方指導」をしていた「紀州藩の後押し」でこの「闕所」を無事に乗り切ったのである。
    この「時の紀州藩」は「安芸松平氏からの養子」が「藩主」と成っていて、極めて明晰なこの「藩主」は先ず「松阪」を「支藩」として成立させて、其の上で「伊勢屋・伊勢青木氏」と「殖産」と「商業組合」等を「伊勢屋が行う事」の一切を「紀州藩が行っている改革」として正式に認め自由にさせたのである。
    これの認定として「勘定方指導と云う立場」を与えたのである。
    其の上でこれで、「重要な事」は「味方の縁者」とする「紀州藩士」が何と「全て伊勢の藤氏集団」で占められて仕舞ったていたのだ。
    これでは「元紀州藩の藩主」であった「吉宗」でさえも全く口が出せなくなっていたのだ。
    この「重要な関係」は前段でも論じたが「大正14年」まで続くのだ。
    さて、この時を以て、「蔵米蔵の米帳合取引」から手を引いたと考えられるが、これが「蔵米蔵の淀の屋の闕所」とするものではないか。
    その直前には「江戸向行時の約束」と、及び「江戸改革時の約束」と違って「信濃の闕所」を「吉宗」は強硬に行ったが、これに対して「親族の伊勢青木氏」は、「江戸伊勢屋200店舗」を放棄して即座に船で逃れた事件だったのだ。
    「伊勢屋の本店」と「大阪の伊勢屋の米集積所・蔵群」、即ち、「合意による蔵出し現物帳合取引」の「店名の淀のの屋」を一体と見做して「闕所」があったとすれば、時系列等も含めて一致する。

    注釈 この「淀の屋論」に関して、ところが前段でも論じたがそれを「確定の裏付け出来る事」がまだ他にこの少し前にもあったのだ。
    「重要な事」は上記した様に「味方の縁者」とする「紀州藩士」が、何と「全て伊勢の藤氏集団」で初代から占められて仕舞ったていたのだが、これに合わせて、其れは、「全国青木氏一族」が行ったこの時の「大プロジェクト」、その「殆どの全国の青木氏一族」が一斉に経済的に結束したのだ。
    それが「全国15青木氏商業組合の結成」であったのだ。
    そして、それが「御師制度の構築・紙幣発行の独立経済圏」までにも発展して行ったものだった。
    何とこの「二つの集団」が「紀州藩の前後の歴史に「スクラム」として起こったのだ。
    既に前段でも何度も論じた事だが、改めて云わずとも、この「15の商業組合の結成」は「諡号族の日本全国の青木氏族の結成」であって、再度、一部記載するがそれは次の通りであった。
    前段でも論じたので、ここでは詳しくは論じないが、この「青木氏一族」が「経済的に結束する事」の為に「15組の商業組合」を結成したのだ。
    この「巨万の冨の凄さ」が世間に与える影響がこれで判るし、この裏には「361氏の藤原北家で郷流の武力集団」が「女系の縁者」として控えているのだ。
    そして、後にはこれらが「御師組合の御師制度と云う組合」を構築して結束し発展させたのだ。
    これは、「信長」が「伊勢松阪」に「楽市楽座を構築する事」を「蒲生氏郷」に命じた。
    それを実行に先ず移したのが「室町期末期の事」であった。
    この時、「伊勢青木氏の紙屋院の伊勢屋」が「古来より商人の氏族」であった以上は、「巨万の富」を獲得したのは、「当然の事であり、「松阪が豪商の街」と呼ばれるこれが所以なのであり、この「楽市楽座」に商人として合力したのだ。

    「伊勢郷士50衆の族と全国青木氏族」で「御師制度の15組合・豪商」を結成した何らかの「青木氏族の血縁世族」は以下の通りである。

    01「伊勢青木氏と摂津青木氏」と「伊賀青木氏と甲賀青木氏」
    02「信濃青木氏」と「諏訪青木氏」
    03「額田青木氏」「伊川津青木氏」と「伊豆青木氏」
    04「日向青木氏」と「大口青木氏」
    05「駿河日秀郷流青木氏」と「相模秀郷流青木氏」
    06「武蔵秀郷流青木氏」と「上総秀郷流青木氏」
    07「越後秀郷流青木氏」と「越後諏訪青木氏」
    08「越前秀郷流青木氏」と「越前青木氏」
    09「石見秀郷流青木氏」と「米子八頭足利系青木氏」
    10「讃岐秀郷流青木氏」と「藤原純友系青木氏」と
    11「印旛秀郷流青木氏」と「土佐秀郷流青木氏」
    12「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」
    13「越前(長崎)秀郷流青木氏」と「越前(佐賀)秀郷流青木氏」
    15「橘氏系青木氏・貴族」と「島氏系青木氏・貴族」と「卜部氏系青木氏」

    (血縁族では無い第一青木氏と第二青木氏と第三青木氏と甲斐時光系青木氏含まず)

    以上はもれなく「青木氏一族」である。
    この特徴は、大小は別として全てが「商いを営んでいたという事」だ。
    この「商いの種類」は、多種多様であるが、副業を含めて、所謂、全て「総合商社」である。
    これは結果として「付き合いの中」でそうなったと云う事ではないか。
    これを観ると、「経済的な繋がり・御師券の組合紙幣を発行」だけとしているが、実はそれだけではなかったのではないか。
    「時代的流れ」か「政治的な大きな流れ」もあって、“それに対抗する為に結束した”とも観えるのだ。
    これだけの事をこの時代に実行するには、筆者は裏で何か大きい事が動いていたのではないかと考える。
    つまり、何事も此れだけの事をすんなりできる事は政治的にも先ず無く、何か青木氏に「大義名分」があったと考えるのだ。
    だから「一族」であっても異議なく集まれたと観ているが、それが「商業組合と云う事」を前提にした名目で異議が着けられなかった観ていて、当然に「青木氏族」に対して「厳しい時代の流れ」が確かにあった事は前提ではあるが、では集まろうとするには何か世間が騒げないものがあったと観ているのだ。
    それが、前段から論じている「全青木氏一族」にしか発しない「天皇の因事菅隷」であった観ているのだ。
    故に、これを盾に「伊勢」が動き、且つ「全国の青木氏族」もそれも同時に動いたと云う事だ。

    それが前段でも論じたが、前提の「厳しい時代の流れ」では「商人」に執っては最も嫌う「府の闕所」も含めた「武士からの嫌がらせ」であった。
    「氏族の商人」として「巨万の富を獲得する事」は、そもそも「目立ち目」を着けられるからであり、この「闕所の行為」は、「鎌倉期」から顕著となり、取り分け「江戸期」に成っては、そもそも「闕所」そのものは主に当初は「武士に対する法的処置」のものであったが、それがその「目的」を超えて次第に専ら「商人」に対しての「財産没収の為のもの」と成って、それは「難癖」に近くその行為は苛烈を極めたのだ。
    この「異常な目的」は「力を出した商人の潰し策」と「その資産の獲得」であった。
    特にこの傾向が強かったのは、「大名が負債を背負い苦しんでいた時期」であった。
    「商人の力」が「商いの範囲」に留まらず、その「儲けの行為」は、上記の「武士の世界」までに及び、「大名の力」を左右する程に成ったとして、これを何とか理由を着けて留めようとしたのだ。
    それ程に「商人の力」は「経済発展」に依って急激に増したのだ。
    「経済発展」はそもそも「時の政府」にとって「政治の根幹に当たる部分で臨む処」であったが、いざそうなって観ると「武人の力」よりは「商人の力」が遥かに上に行っていた。
    「商人の力」が増せば「税と共に供納金」では増し潤うが、逆に「武人の力」には維持を前提として「進歩」は無く、「商人の力」には「維持」は悪に等しく「進歩」が目立った事であった。
    これがその差と成って目だったのは、それは先ず「秀吉の時代」に顕著に現れたのだ。
    ところがその前の「信長」では、そうは成らずに逆に「進歩の商人の力」を期待し、それに依って「税の制度」を確立させて「政治の潤い」を獲得しょうとしたのだ。
    そもそも「武力」は持ち得ているとすれば、後は「税の制度」に依って得られる「努力なしの制度」で「経済力」を「府」が獲得できるとすれば、合わせて「三権を握った事」に成るとしたのだし、それの「合理性」を「信長」は求めたのだ。
    「伊勢の領主の「秀郷流蒲生氏郷」も「松阪」にこの考え方の「楽市楽座」を求める程に同然の考え方を持っていたのであった。
    ところが、「秀吉」は「進歩の商人の力」を期待しなかったのだ。
    寧ろ、この主な「商人の力」を「市場」に放置するのでは無く、積極的に「政治の中」に取り入れようとしたのだ。
    「考え方」としては、これは有り得る考え方でもある。
    その結果、「府の中の商人の力」と「市場の商人の力」とに「二つ」に割れて仕舞ったという事である。
    「多くの商人」は「府の中の商人の力の傘下」に入って身を守った。
    これが「秀吉が期待する流れ」であって、それによって統一性を求めたものであったのだ。
    これでも「合理性の範囲」であろうが、ところがその「商人が巨大」に成り、その背後に「武力」をも獲得した「府の中の商人の力」よりも、「市場の商人の力」の方が勝って現れたのだ。
    それが「信長」が進めていた「楽市楽座の構図」であって、その「秀吉が最も嫌う伊勢の松阪」の「豪商の街」にそれが現れたと云う事なのだ。
    これが「伊勢屋」が居る「豪商の街」と呼ばれる所以であるのだが、それで、突然に実行されたのが「歴史上」に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた「伊勢攻めと紀州征伐」であったのだ。
    「秀吉」は、反省してこれ以後には「戦い」で庶民を殺戮はしていないし、実戦はせず「戦略的戦い」で勝負を着けて勝利していたのだ。
    この「2つの戦い」が未だ「地元・根来」で語り継がれているもので如何に苛烈極まり無かったか物語っているのだ。
    これに対抗して、有史来、最も危険を感じた「青木氏族・伊勢」が、「全国の縁者の青木氏族」に呼びかけて「族単独で結集した」のが、この「15商業組合の表れ」なのであった。
    「伊勢紀州の基礎の人」で成り立っている「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏」であった.
    「伊勢紀州の基礎の人」が無く成れば「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏・基盤は伊勢氏族」は無く成り、この逆の事も起る。
    それは全国に例の無い「伝統」にこの二つは培われていたからである。
    故に「歴史上に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた伊勢攻めと紀州征伐」で「伊勢者と紀州者」は一致団結して戦ったのだ。
    結局、この時、「最終の実戦」は、「葛城山の山道」を「伊賀者・伊賀青木氏等」がこの全山道を完全封鎖して抑えて「補給路を断った事」と、「ゲレラ戦」で、「秀吉」は飢えて慌てて大阪に逃げ帰ったのだ。
    これは「15商業組合の活躍」として語り継がれている。

    注釈 室町期に足利氏が楠木正成とここで戦いこの「葛城山の山道」を封鎖して抑えて「補給路を断った事」で2万の兵は餓死寸前に陥り敗戦を期した事があった。
    「秀吉」はこの事で長期戦は好ましく無いとして引いたのだ。
    同じ事が「伊勢長島の戦い」でも、「仮城櫓城の材木」を伊勢者に抑えられて「拠点の櫓城」が立てられず長期戦となり、その為に食料が不足して「苦労した経験」を持っている。

    注釈 前段でも何度も論じたが、記録の保存に関して、これまで「3度の主家の失火の記録消失」で「伝統歴史の公表」が出来なく成り、それを何とか「氏族の遺された資料記録」や「その他の一般の資料発見や記録発見」からの「読み込み等」で導き出した結論の利用であり、それで「青木氏の伝統歴史」の「復元」を試みている。
    取り分け、これには「正しい全体の歴史観の存在発見とその把握」が左右している。
    これ無くしては「正しい青木氏族の歴史観の復元」は難しい。
    「公開されている歴史観」には、期待しない「虚偽の導き」が殆ど占めていて、これには「江戸初期の幕府の国印状発行」が原因していて、「格式家柄の虚偽」でもいいから府とする処が「系譜を求めた事」が原因しているのだ。
    「室町期の戦乱」で「武士」は、「系譜の無い農民からの成りあがった者」が殆どで、其れも江戸幕府はこの末端の武士迄「系譜」を無理にでも求めたのだ。
    其れでなくしては「国印状」を発行しないとしたのだ。
    「国印状」が無ければ「武士」には成れない。
    実際にこの「国印状」を貰えないで「武士」には成れない者も多く出たのだ。
    中でも「国印状」がない元からの「武士の侍」であった「氏族の郷士等」は、「侍」であって「武士」では無いと決めつけられる云う事が起ったのだ。
    「郷士」には「主家」とする「郷氏」とは「主従関係」では無く「血縁の氏族の関係」であった事から「郷氏」から「国印状」は出せないと云う矛盾が生まれたのだ。
    然し、本来、最も古い「武士・侍」であっても「議論」が起こったし、「郷士−郷氏以外」にもあって、古来より伝統的に「寺を警護する役の当にその侍」も居て問題と成ったとあり、「平安期の各地」に守護して廻されていた「朝廷の官僚役人」で、「統治する為の武装集団」をも持ち得ていた「朝廷の役人」も「武士」では無いとしたのだが、これも本来は「朝廷に仕える諡号の持つ本来の侍」であった。
    結果として「侍とする定義」で決めると、「武士」は「侍」とならず、府が決める「武士の定義」とすると「侍」は「武士」では無く成ると云う矛盾」が生まれたのだ。
    「諡号」の持たない「室町期の勃興の武士」は、多勢に無勢で吾が身有利として大声を上げて主張したが、歴史の本来性が「諡号と云う歴史的な証拠」があって最終は侍が有利と成り、結局は「折り合い」をつけて「侍=武士」で「武士=侍」であるとして決着を着けた。
    その意味で、この「世間の歴史観」は、「青木氏族」に執っては「本来の諡号の侍」を以て優位に置かれたという歴史観を持っているのだ。
    それ故にこの「武士の中」でも「大小の格式の有無」が優先されたのだ。
    最終はこれを売買の対象と成ったのだ。
    この様な下での「江戸初期前後の歴史観」はあまり知られていないが、これは歴史を紐解く上で参考に成る事である。
    取り分け、「青木氏族」に対しては「郷士−郷氏以外」にも「寺を警護する役の侍」はどの位置に置くかはこの歴史観が必要に成るのだ。
    江戸期に成っての議論の末に、最終は「本来の侍」であった「氏族の郷士−郷氏以外」にも「寺を警護する職役の侍」も「武士」とすると云いう結論が出た。
    寧ろ、「格式」は上であるのに「下」から「上」を定めると云う逆の事が起こったのだ。
    そこで、「侍は氏族の郷士−郷氏の関係」を指し、「武士」とは「主君との関係の者」として収まりが着き、それが何時しか「侍=武士とする習慣」が慣れで起こり、結局は治まる処に治まったと云う経緯があるのだ。
    其の上でこの「青木氏と云う呼称」は、武士の間でも「特別の意味」を持っていたし、故にこの時の結束は世間では違った目で観られていたのだ。
    そして、それが「商い」もすると云うこの「マルチナな青木氏族」」には、世間から「特別な目」で見られていて江戸期の前であっても「秀吉」も同然であったのだ。
    上記の様に「院屋号の歴史観」に持つ「仕来り」の様にも、少なくとも「室町期までの歴史観」を正しく把握する事が必要であった。
    その役に立つ一つが、以上の「全ての血縁族で深い交流があった母系での青木氏族」が、結束してこれらを「ライン統合」した事だった。
    世間では強烈なインパクトを与えたのだ。
    つまりは、この「青木氏一族」が実行した「大商い・15商業組合の結束」は、世間を驚かせ結果としてそれが「単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事と成って営んだのだ。
    上記の歴史観を知るか知らないかで理解度が違って来るのだ。

    注釈 さて、其の上でこの「大商い・15商業組合の結束」の元となった「因事菅隷」も同然である。
    これは「一般の歴史観」には出て来難い事で「青木氏一族だけの事」ではあるが、ところがこの事は「NHKの大河ドラマ」にも成った程の詳細な「史実」であるのだ。
    筆者はNHKもここまて史実を良く調べ上げたものと驚いている。
    さて、そこで、「注目すべき事」は、この時の「史実」として、先ずそれは「“因事管隷”」に裏打ちされ、その下で「全ての青木氏の氏力」を結集していた事が上げられるのだ。
    つまり、この「因事菅隷」、即ち、何か「朝廷との思惑の中」で成された「政治的な事」を想像される。
    これは突然に「伊勢青木氏」に対して突然に室町期に成って改めて「伝統の氏族」を「律宗族」として追認した「正親町天皇の因事菅隷」であるので、これは「秘密裏・密書」に行われるのでその間の経緯の事は良く判らない。
    恐らくは、詳細に調べると、「ある目的」で「大商い・15商業組合の単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事で得られる何かをこの「正親町天皇」は目論んでいた事になろう。
    この「正親町天皇」は、有史来で唯一、「天皇の権威回復を狙った天皇」として有名な天皇である。
    その時は「上記した癖の秀吉」であった。
    それは何かである。
    その為には、「権威回復を狙う以上」はそれなりの危険が伴うが、古来から“「賜姓五役」”としても「献納を裏で続ける青木氏族の安泰」が、「天皇家を支える事・唯一つの味方」として、それを切に望んでいた。
    だが、これが「巨万の富」を獲得している「青木氏族の組合による結束」を急いで成された危険を回避する為の理由なのだ。

    注釈 この「目論見に依る結束」が、「経済効果は大きくなる事」は確かであり、これでも「秀吉」を躊躇わせたのだ。
    後は、その背後にある「藤原秀郷流一門一族の力361氏」を「敵に廻す事」は、その「武力」はもとより全国に散在するその「勢力」を無視できず好ましく無いと判断したのだ。
    次の「徳川家康」さえもこの力を避けていて、寧ろ、その「藤原氏の氏名を名乗るなどの近寄り」を見せ「味方」に取り入れて「家臣」にして勢力下に置くほどであったのだ。
    突然に組まれたこの「青木氏の15の商業組合策」に対して、「秀吉」は「伊勢勢力の潰し」を遂に諦めたのだ。
    そして、更には「青木氏族側」は、今度は「手を緩める事なし」に「御師制度を敷く結果・15組合圏内の独自の市場経済圏・紙幣発行」と成ったのだ。
    最早、「伊勢の商人の力を取り込む事」も出来ずに、潰す事も出来ずに「秀吉」は「攻撃」を諦めたのだし、「闕所の話処の事」では無く成ったのだ。
    最低限に、この「御師制度を敷く結果」として「・15組合圏内の市場経済圏・紙幣発行」を暗黙で認める以外に無く成ったのだ。
    「室町期の幕府と正親町天皇」は、この「勢力」の「古来からの伝統の青木氏族」を「賜姓五役の氏」から「律宗族」と認め直して、先ずはこの「古い伝統の格式」を世に質したのだ。
    「上記する秀吉の理屈」からすれば、何はともあれ「商人がこの「格式を持つ事」が「最も嫌う事」であって、これに依って「他の豪商等との扱いを変えなければならない事」が「納得の着かない処」であったのだ。
    それも「通常の格式」では無かったのだ。
    それが「古来からの伝統」だけに依るものであればいざ知らず直前にはその「全格式の総称」としての“「律宗族」”を「最高権力」の「府と朝廷」が「青木氏族」に改めて認めて仕舞っているのだ。
    そこで「秀吉」は「伊勢攻めと紀州攻め」としてその「勢力の弱体化、又は衰退化」を狙ったのだ。
    「古来より地に根付いている集団」の「勢力の弱体化、又は衰退化」は「伊勢と紀州」は思いの外に出来なかったのだ。
    故に「歴史にも遺る程の批判」を受けてのこれがすっぱりと「諦めた結果」であった。
    寧ろ、「陸奥結城攻め」では「伊勢藤原秀郷流青木氏・青木氏族」が「一族の陸奥結城氏」の「救助」に向かうが、これを聞きつけた「秀吉」は、「恐怖の紀州伊勢のトラウマ」に書きたてられたか様に突然に軍を払い「北陸道の商人荒れた山道」を一目散に大阪に逃げ帰ると云う媚態を見せた位である。
    それほどに「伊勢攻め紀州攻め」では「恐怖感を与え得た程」であったのだ。
    これが「15商業組合結成効果」であって2度と攻めてこなかったのだ。

    注釈 そこで何故、「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで逃げ帰ったかである。
    これは不思議な事である、
    この前には「武蔵の結城一族本家」がこの「陸奥の結城一族」を救う為に立ち上がっているが「秀吉」はびくともしなかったのだ
    更にその前にもより大きい「武蔵の本家の秀郷一門」も「陸奥」を救う為に攻めればよいではないかと成る。
    でも「紀州伊勢」のより小さい「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで不思議に逃げたのだ。
    それには「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」だから逃げたのだ。
    其れは先ず「上記の組合を造る程の青木氏」である事であって、「伊勢者紀州者であった事」、そして、その背後に「豪商の青木氏」が控えている事にあったりだ。
    「経済力」も然る事乍ら「伊賀者等三つの忍者」を配下にしている彼の苦しめられた「伊勢青木氏が控えている事にあったのだ。
    この少し違う軍団がこれが動くと成れば、当に前記した「伊勢紀州での秀吉のトラウマ」にあったのだ。
    そして、この「15商業組合の商い」に必要とする“「生産工場」”とする処には、「秀吉の台所」の当にこの「摂津と堺」であったのだが、そそれでもここでも手を出してこなかったのだ。

    注釈 この時の事が、上記する「NHKの大河ドラマ」の中でもこれに関する事が詳細に描かれていた。
    そもそもその「第一の目的」は、「一族一門の経済発展の事」である事は間違いは無い。
    では、“何で結束して一族一門が共に経済発展視しなければならなかったのか”である。
    “それもこの時代に密かに「永代の令外官・賜姓五役」に「時の天皇」が突然に「伊勢青木氏」に対して「律宗族の格式」を任じた上で、更に「因事菅隷」を発行してまでの事であったのか”である。
    筆者は、「朝廷」がこの「ある目的」を好んで、将又、積極的に画策してまでの事であったのかどうかでである。
    筆者の推論では、そうでは無かったと観ている。
    結果として、「朝廷の最大の財源・献納の定期収入・権威の維持」であった「青木氏からの定期献納」を「今後も安定させる事」に先ずあったと観ているのだ。
    つまり、その「定期献納」に対して「現在か又は先行きの事」として、「上記の事」で「秀吉の中」で、「天皇」は「権威回復」を試みながらも、その「不安」を抱いていたのではないか、其の為には、この顕著に成って来たこの「不安」を取り除く必要が生まれて来たのだ。
    それを「献納時」に「街の状況」を伝える「賜姓五役の軍略処の役目」で、この「不安の状況」を潰さに内密に伝えていたのではないか。
    この「不安」を取り除く為には、「青木氏族の持つ力」をより「不安をもたらす力」より大きくしなければならなかった筈だ。
    それは「通常」であれば上記した様に「上記の商業組合」を組むほどに此処迄大きくする必要は無かった筈で、「伊勢青木氏だけの経済力と世情力」で対応は充分に出来ていた筈だ。
    でも、その「経済力」は、勿論の事、「武力の事」、「政治力の事」のこの「三つ力」を兼ね備える事の必要性に迫られていた事に成るだろう。
    これが「伊勢青木氏に向けた密書」の「不安の因事菅隷」であったのであろう。
    それは「朝廷の今後」のみならず「青木氏一族の今後の事」でもあり、これが両者の「不安の因事」であった事に成る。
    では、“それは一体何であったのか”である。
    “手を繋いで輪に成って護りあう”為の「不安の因事」は何であったのかである。

    筆者は、これが「秀吉」が行う「闕所の様な事」であったのではないかと云う事だ。
    「政治の力」に対して「大身内の組合を結成して守り合うと云う事」はこれまでの歴史の中では無かった。
    初めての事である。
    つまり、“組合が闕所を呼びよせ闕所が組合を呼び寄せた”という事に成ったという事だ。
    「時代」が接合しているので何方とも云い難いが「組合」が先ではないかとも考えられる。
    「闕所」は「秀吉の時代前」からも既に起っていた。
    前記したが「青木氏の中」でもこの「近江で闕所」を「秀吉」より受けている史実がある。
    「組合」は「伊勢松阪での楽市楽座の時」より初めて「組合」を結成し始めている。
    「信長・蒲生氏郷・秀郷流藤原氏郷」は、寧ろ、「商人が固まりあう事」の「商業組合」を推奨してそれによって「冥加金の獲得の手段」としたのだ。
    「濡れで泡の策」である。
    ポイントは、然し、「秀吉」からは全く逆で違ったのだ。
    「秀吉」は「商人」が大きく成り過ぎる事を嫌った。
    其れで゛府の中にこの商人の力を取り込んだのだ。
    「朝廷と繋がり」のある「紙屋院で蔵人院の伊勢屋の伊勢青木氏」は、この時、「室町期の紙文化」で既に「巨万の富」を獲得していたのだ。
    「朝廷」はこの為に「献納」で潤っていたのだ。
    この「状態」は「信長の容認と推奨時迄」に続いたが「秀吉」で突然に変わった。
    それも急に「突然に」である。
    この時、初めて「朝廷」は「献納で潤い」を得たし「多くの院屋号」を持つ「伊勢青木氏」は「近江鉄」に始り「和紙」でも又「巨万の富」を獲得していた。
    然し、「秀吉」はこれを真っ向から露わに嫌った。
    取り分け、その基盤となる「紀州−伊勢の勢力」を悉く殺ごうとした。
    要するに、「紀州征伐と伊勢攻め」と態々名を打って攻めたてた。
    攻め立てられている「伊勢青木氏」は、この時、自らも「蔵の火付けや打ち壊しの攻撃」を受けながらも、「平城で寺城の堅固な清蓮寺城」を始めとして「菩提寺や分寺」に「庶民や僧侶等」を匿って「伊賀者等の活躍」で周囲を護ろうとした。
    この時も「紀州伊勢の衆徒連」は「全滅の殺戮」を受けた史実を持っている。
    通常は仏教徒である以上は「寺の中に攻め入る事」は、当時はタブーとされ、結局は外から「焼き払い作戦」に限られていて、結局はでて来た者から討ち取ると云う鮮烈極まりない戦いとなるのだ。
    「伊勢青木氏」はその為に「火の着けられない清蓮寺城や大寺」に囲い民を守ったもりであったたのだ。
    結局は、「伊勢の豪商の青木氏の抵抗」を受けて「紀州征伐と伊勢攻め・1577年〜1585年」は引き上げたのだ。
    「伊賀者衆」や「甲賀者衆」や「雑賀者衆」や「十津川郷士衆」や「龍神郷士衆等」の現地の要するに「紀州惣国者の忍者衆徒」の「反撃」も受けて引き上げたと云う「秀吉」に執っては「我慢の出来ない出来事」であって、「格式」を有する「伊勢の豪商青木氏」に対しては「敵意」を露わに示し続けたのだ。
    従って、この「突然の秀吉の政治的変化」に対して「組合」を組んで互いに護り合おうとしたし、「秀吉」に振り回される「朝廷」も、「密かに因事菅隷」を発してでも「全国の青木氏族」に対して「内密な強化策」を命じて来たのだ。
    それが「青木氏族による15商業組合の結束」であったのだ。
    時系列で観て見ると、この時、「正親町天皇・在位1517年〜1593年」は、「幕府の律宗族」を出してから、少し遅れて「1587年頃の伊勢攻めの頃」に、改めて「律宗族の容認」を出したが、反面、「秀吉」に取り入り「官位の授与」の連発で吊って、“「朝廷の権威回復」”を図った「正親町天皇」ではあるが、この時に片方では“「密かに因事菅隷」も発していた”と云う史実では無いか。
    何故ならば、「天皇の権威回復の目的達成」にはそれなりに警戒されて、又危険を伴う事に成る。
    それはやればやる程に増す。
    その時代は、丁度、「秀吉の室町期末期の事」ではなかったか。
    「正親町天皇・在位1517年〜1593年」は、この「目的の達成」の為に現実に「二面工作」を図っていたが゛、「唯一の味方」となるのは「古来からの付き合い」の「伊勢青木氏とその青木氏一族」であって、これに対しても「密かに因事菅隷の効果」にも改めて「重きを置いていた」と云う事に成る。
    つまり、「青木氏への因事菅隷」と「15商業組合の青木氏族の結集」は、時系列的に一致していたという事に成る。
    これには、「時系列」が完全一致すると云う事に成るが、それが「多くの事」を物語っている。
    先ず、この「室町期の時代」に成っても、“「因事菅隷」を密かに発していた”という史実である。
    「正親町天皇」は、唯一「朝廷の権威回復」を確かに試みたが、反面、「朝廷の存在」そのものまでに「危険感」を感じていたという事に成る。
    それは「朝廷の権威」に食い込ん出来た「秀吉」であったからで、「官位の授与の連発」は、結局はその前には「秀吉の推薦」によるとすれば、その「権威」は「秀吉」にあって「天皇」に無いとする「形骸化を招く事」に成り、現実に史実として成っていた。
    例えば、「天皇家の権威紋」の「五三の桐紋」に対して、「秀吉」は自分様の「五七の桐紋の権威紋」を造って、“「権威」は自分にあると思わせる策”を現実に執っていた「秀吉」であった。
    それが「朝廷の権威回復」で逆に現実化していたのだ。
    そこで密かに発したのが、この奈良期から使われていた「因事菅隷の策」であって、その前に室町幕府が出した「律宗族」を改めて見せつけるかの様に、先ず「律宗族」を出して「権威付け」て置いてたのだ。
    そして、その「流れ」として上記する様に、「秀吉」は「伊勢攻めと紀州征伐」を同時に実行したのだ。
    その意味でこれは「豪商潰し」と云うよりは、影で「朝廷の唯一の味方」となる「青木氏族潰し」では無かったかと観ているが、元より、「政権に靡かない豪商」もあっての事ではあった。
    然し、「秘密裏の因事菅隷」での「15商業組合の結束」が、功を奏し「秀吉」に「潜在的な恐怖感」を持たす程の「決定的勝利・大きな犠牲を払ったが」で退けたのだ。
    「朝廷」も「伊勢青木氏と信濃青木氏」のみならず、更には改めて「秀郷流の母系の賜姓族」の「15商業組合の結束の味方」を得て、且つ「朝廷への献納」も続く結果と成り、「秘密裏の因事菅隷」は思惑通りとなったのだ。

    注釈 「室町期の因事菅隷の策・天武天皇」を出すと云う事は、他にも未だ「天皇」は「天智天皇の永代賜姓五役」を信じていた事に成る。
    それが“「永代とする処」”に「天皇」は信じてあったのかは判らない。
    然し、兎も角も「天皇]が室町期に「因事菅隷を発したと云う事」はその様に成る。
    「律宗族の格式を認めて発したと云う事」もそういう事に成る。
    「賜姓族と臣下族の総称策」として「本領安堵策で応じた鎌倉期」の前の「室町期」には改めて「律宗族」として発しているのである。

    注釈 余談として他にもこの「思惑の込めた因事菅隷」を発した天皇」は居るのかと云う疑問だが、天皇家と疎遠できるだけに疎遠で通して来た「青木氏族」ではあり、考えられる天皇は余りいないであろう。
    そうすると「因事菅隷」を密かに発した「天皇」としては他に「仁明天皇」と「円融天皇」の二人と成ろう。
    「桓武天皇と平城天皇」が「親族でありながら「嵯峨天皇」に対しての対応」で発している事は間違いは無いだろう。
    「出自元の最後の人」としての「平安期の親派の天皇」の「仁明天皇」は、「青木氏の岐路時期」に居た「親族の天皇」で「親青木氏」であった。
    「円融天皇」はこの「青木氏を補完する勢力の拡大」を「賜姓と云う形」で対応した。
    故にこの「二人の天皇」は「因事菅隷」を発している可能性は充分にあり得る。
    何れも研究中であるが、判れば「因事菅隷と云う語句」からでも今回の様に「歴史に繋がっていた事」がより「詳細」に分析して判る事に成る。
    それには「秀郷流青木氏の歴史資料の発見」に頼る処が大きいが何故か出て来ないのだ。
    何かあったとしか思えないのだが、唯、この「因事菅隷」はその特質上は「限られたそれも特定の氏」にしか発しておらず、それもそもそも“「秘密裏」”であり、そもそも「遺る事」は「密書」である限り先ず少ない性質のものであり、慣例上は遺す事を「否」とするものである。
    もう一つは「伊勢と同然の賜姓族」で「永代賜姓五役の令外官」を務めていた以上は「信濃青木氏からの資料とその分析」に頼る事にも成る。
    「信濃青木氏」は取り分け「伊勢」よりも「殖産」を大きく進めていて、そこから生まれる利益の一部を伊勢と同然に「献納」としても行っていた。
    「今回の青木氏に対する秀吉論」では、「伊勢青木氏」と同じでありながら「信濃青木氏」に対して「特段の攻撃」を受けたとする資料は見つからない。
    「信濃青木氏」が「秀吉」が考える「豪商の大きさ」であったかどうかの事では、該当し無かったかと予想できる。
    然し、「伊勢青木氏・伊勢屋」を通じての事であったものでは相当に大きいものであったと筆者は観ているが、此れには何かあったとも考えられる。
    結論は「伊勢青木氏の商い」と「信濃青木氏の商い」は同然の一つと観られていたと考えられる。
    「伊勢青木氏の商い」を潰せば同時に「信濃青木氏の商い」は潰れると観られていた事ではないか。
    然し、「15商業組合のメンバー」の中でも「越後秀郷流青木氏の商い」は「全国豪商中の筆頭」でもあり、「酒業」として米どころでは歴史に遺る程の「日本一であった商人」でもあったが、同然に「秀吉から特段の攻撃」をこの時には受けていないのだ。
    この差は何処にあるかと云う事であり、筆者は「越後」では無く、天皇家を強める主体的に定期的に行っていた「伊勢青木氏の献納」にあったのではないかと考えている。
    そして、それが主に「伊勢であったと云う事」では無いか。
    「正親町天皇の権威回復策」を弱めて、「朝廷」に対して「秀吉の権力」を強めるには、先ずは策としてはこの「献納を弱める事」にあったと観る事が出来る。
    其れが「律宗族」と成って仕舞った「伊勢青木氏を潰す事」にあったし、その「古来からの固い地盤を破壊する事」にもあったのだ。
    然し、この「戦い」は「伊勢人紀州人の惣国精神」と「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」」とで「秀吉」に「伊勢紀州のトラウマ」を起す程に大失敗したのだ。
    要するに、全国各地で「闕所」を行って完全に潰して来た「秀吉の闕所的行動」に執っては、「伊勢紀州」では不入不倫の権で護られていながらも歴史的に大犠牲を負ったが失敗したのだ。
    そして、「正親町天皇の権威回復策」の「目論見」も、兎も角も「因事菅隷の初期の目的」は果たされたと云う事で経済的な保障は果たされたのだ。
    かといって、「青木氏族」と「朝廷との距離」は以前より近く成ったかと云う事では無く、飽く迄も「因事菅隷の範囲・献納の範囲」で終わっているのだ。
    「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」は、益々その「商業勢力」をも広げて行くのだ。
    当然に、「因事菅隷」が「15商業組合の結成」だけを先ず求めたものであった事かは「状況証拠」で判るが、将来の「御師制度まで発展させる処」まで指示し目論んでいたかは判らない。
    然し、朝廷の「献納の安定」を「目的」とすれば、「御師制度まで発展させる処」までは求めていなかったであろう。
    これに依って更に歴史的に繋がる「女系で繋がる四掟の青木氏族」は「より濃厚な血縁性も増す事」に成ったのだ。
    逆に失敗した「伊勢紀州」に対する「秀吉の闕所目的」は、これで益々手を出せなくなったのだ。
    余談だが前記した事で、恐らくは「時系列」から追うと「秀吉の出方」に対してこの頃から前段で論じた「店主の顔隠策・人と店は隠す」はより強化して始まっているのだ。
    この「奈良期からの因事菅隷」がよりこの「顔隠し策」を推し進めたものと成っていたと考えられる。
    それを示した初めての「物語」が室町期の末期策とし遺されている。
    その「物語」では、「軍需物資の調達」で「伊勢松山」で「「秀吉」と会って「商談」をする。
    この相手が矢張り「摂津堺の伊勢屋主人」であった。
    この時に「作者」は、この「店主の顔隠策の事」で面白可笑しく物語を書いている。
    恐らくは、当時には既にこの「闕所」を実行している「秀吉」に対抗する為に「豪商達」がいつ自分に降りかかるかを警戒していた事かを認識していた事に成る。
    この作者は相当に「伊勢屋の身近な人物」であって、それを知っていて少し後に「物語」にした事に成るだろう。
    多分、この「幾つか遺されている物語」の内容から、「商慣習」を良く知り得ていて、それはその「実態の詳しさ」から「家人か祐筆の範囲の者の作」であろうと考えられ、そうでなければ幾ら文才があろうともこの史実での事でこれだけの事は書けないであろう。
    例えば、「松山城築城」の交渉場面では、「材木と大工の調達の事・史実」まで詳しく書き込んでいる。
    そしてこの「物語」は書いた時より「江戸期初期」に成ってヒットとしているのだ。

    注釈 米相場を[吉宗の裏切り行為」で引き上げた後の「伊勢の米」はどうしたのかであるが、それは最早、「蔵」さえあれば成り立つ事と成っていたのだ。
    それは簡単であり記録にある。
    上記した「15商業組合」は全て「酒蔵を持つ程の大米所の国」にあり「伊勢の米」は賄う事が出来たのだ。
    それがこの組合で藩を超えて出来る様に成っていたと云う事だ。
    因みにこの「伊勢」とは、「北部の米の事・北勢」で「伊勢の最大の収穫量」は全体で57万石で、一時は40万石に足りなかったとされ、「北勢」では「陸稲の収穫」だけで表向き「5万石の小藩程度」のもので「伊勢藩」では無く親族の「支藩の松阪藩」や「高野藩」であった。
    この「伊勢国の石高」は、「米」だけに「拘わらず国の殖産物の生産額」を「石高」に換算してのものであって、その比率は石高より大きかったのだ。
    それだけに「市場」から求める「余剰米の米」は、必要であって米獲得の為に「藩主とその役人」が動くほどに「江戸の物語」にも成っている程である。
    此れを「歴代の紀州藩勘定方指導」の「伊勢屋」が奈良期の昔から一手に担っていたのだ。
    口伝でも伝わっている事である。

    さて話は変わる。
    話は「秀吉の闕所の同時期」に行われていた「二つの近江鉄の製鋼」では記録を追うが何故か何も影響はなかった様だが原因は判らない。
    「鉄を扱う商人で殖産人ある事」は歴史が長い事から「秀吉」は充分に知り得た筈だ。
    これが「闕所の対象」に成っていたとは思えない。
    「伊勢」を潰せば、その「莫大な利権」は「秀吉」に転がり込んでくるは必然である。
    然し、「伊勢」は攻めたが「近江」は直接に攻めていないのだ。
    これは不思議な事であり何故かである。
    攻められない何かがあったからであろう。
    それは確定は困難だが、「律宗族」と「因事菅隷」と同然に「朝廷の院屋号をも持っていた事」では無かったか。
    この「院屋号」を持っていなければ「鉱山に関係する人達」を動かす事は出来なかった。
    前記した様に「彼等の組合の金屋集団の抵抗・金屋神」を受けるからではなかったかである。
    「秀吉」はこの「上記の通り」で“「組合」”と云うものには一目を置いていたのだ。
    だから先ず手を出さなかったと観られる。
    そして、次は元より“密かに出されていた「因事菅隷」”にあったと観ている。
    だから、この「三つの事」から考えて“手を出さなかった”と云う事にも成るが、「伊勢青木氏」に「因事菅隷」を出していたかまでは秀吉は判らなかったと思う。
    うっすらと知っていた程度で在ろう。
    なぜならば「蜂須賀小六の家臣の時代」に今井神社系の影の役をしている。
    然し、直前で態々に凡そ「700年後」に「室町幕府と正親町天皇」が“「律宗族」”と改めて「格式を認め直しているの事」を洞察すれば、以上の事では、“密かに何かを出していただろう”の程度の事は「秀吉」は予想は出来ていたと読める。
    それまでは「秀吉を含めた世間の認識」は、総称として「律宗族」と追認されるまでは「永代賜姓族・臣下族」で「永代賜姓五役の令外官」、昔は「浄大一位の冠位」等を保有する家柄程度と、「忘れかけの認識程度」であったであろう。
    氏族の間で御師様の呼称が物語る。
    それが突然に、その「総称の様な格式名」で「律宗族」と再び呼ばれる事に成った。
    この事は「秀吉」も知っていた筈で、「そういう特別に限られた族」に対して密かに出す密書の様な命令書の「因事菅隷の存在」も薄々は知っていたと思われる。
    然し乍ら、「近江鉄の事」には「因事菅隷の族の存在」でも“手を出せなかった”のではないか。
    「攻めた事の本音の目的」が「伊勢全体の力を弱める事」であったとしてもそんな事では「上記した伊勢全体の勢力」は弱まらないからだ。
    「秀吉」は、“この「伊勢全体の勢力」の「この底力・観た事もない総合力保持集団」を見誤った”のだ。
    「伊勢勢力」を「普通の武力集団」と見誤ったのだ。
    だから「将来の秀吉トラウマ」に成る程の体で逃げ帰ると云う結果に終わったのだと読める。

    注釈 この「青木氏に対する密書の因事菅隷」は、定期的に納められる「献納時に渡す事」や、「伊賀者の情報伝達」でこれを担っていた事が判っている。
    中には、「香具師と呼ばれる伊賀青木氏」が特別に「香具・薬や生活常備品」の「入替え」でこの「朝廷内」に出入りしていたとされる。
    この「真の目的」は「情報の伝達忍者」であったからだが。
    これらの手段を古来から使っていた。
    従って、出したか出さないかなどは判らないのが原則の常で、況して「因事菅隷の内容」までは判らなかったと考えられる。
    「因事菅隷」に拘わらず「金銭の小遣いを始めとした生活の細かい依頼事」までも「伊賀者や香具師」に秘かに出していたらしい。
    これ等の事が「明治中程」まで続いていた事が京都に明治中頃までその役目の店を構えていた事が「香具師の遺した資料」からも判っている。
    「香具・薬や生活常備品の入替え」ではどうも「伊勢の無償」であったらしい。
    筆者の祖母も「京の公家出・叶氏」であり、この事から「天皇家のみならず高位の公家なども含まれ、「天皇家の調度品等」は、「伊勢屋が準備した事」が判っているが、これも「超豪商の伊勢屋・伊勢青木氏の無償」であったと考えられる。
    取り分け、この「室町期」を分けると「秀吉の時代」は、相当に活躍した事が「香具師の史資料」や「伊賀青木氏の資料」でも判る。
    然し、「伊勢」を攻めていながら「近江」には手を出さないのはこれは矛盾をしている。
    だとすれば「闕所の為」に「伊勢と紀州」を何故に潰しに掛かったかである。
    「伊勢の力・伊勢青木氏の伊勢屋」と「氏族の伊勢郷士50衆」とを合わせたものであるが「財力はあるが武力」は持ち得ていない。
    補完的に「女系で繋がる秀郷流青木氏116氏と秀郷一族一門の361氏の武力一門」で強く繋がっているのである。
    この「伊勢」を直接攻めれば、この「有史来の四掟の血縁族の補完族」を引き出す事に成るは必定である。
    だが、どの条件から検証を捉えても攻めている。
    それ程の「闕所の為」であったのかである。
    となると、「潰す」と云うよりは「弱めたい」と云う狙いがあったのかと云う事に成るが、「巨万の経済力」と「その地盤の強固さ」と「背後の武力」が在れば弱まる事は100%ないだろう。
    でも攻めたのである。
    確かに伊勢と紀州は鮮烈極まる犠牲を負った事は確かである。
    然し、秀吉の闕所の目的は全く達成されなかった。
    普通なら「伊勢」を目的として攻めれば「近江」」も攻め取らなければ意味がない。
    全く攻めていないのだ。
    「正親町天皇」は「朝廷の権威回復」を積極的図っていたが、これに「献納」する「伊勢勢力」に「牽制」を掛けたとすれば符号一致する。
    それには「唯一の勢力と成っていた伊勢青木氏・伊勢屋」への「因事菅隷の手段」を無くす事と成るが、「天皇」には「秀吉の立場」ではこれを命じる事も止められない。
    そこで“「伊勢」に的を絞った”と観えるが「伊勢」は屈しなかったのだ。
    それどころか“「青木氏族を結束する15商業組合」”で対抗して来たのだ。
    それがその嫌う“「因事菅隷」で行われた”と云う事に成る。
    そもそも“「因事菅隷」は秘密裏に成されるもの”である。
    その“秘密裏に行える手段”を上記した様に幾つも持っているのだ。
    恐らくは「秀吉」にはこれには「手の施し様」が無かった筈である。
    それが「天下の伊賀者の伊賀青木氏」であったし、「雑賀忍者」であった。
    この時は、「内部の考え方の違い・忍者の雇用形態」で「甲賀青木氏」は「伊勢青木氏」から既に手を離れていたのであった。

    注釈 さて、そこで「秀吉」はこの「近江の件で攻めなかった事」はそれなりの意味を成すだろう。
    「近江の鉄鋼」には未だ「魅力を感じていなかった事」を意味する。
    魅力があれば「伊勢」と共に「近江の利権獲得」の為に真剣に攻めていただろうが「伊勢」だけであった。
    「近江の鉄利権」は「秀吉の政治権力」で奪えばよかったでは無いかと思うが、実は上記した様にこの「近江の鉱山の鉄利権」には「院屋号を持つ因事菅隷」を朝廷は既に与えていたのだ。
    これを否定して「強引に奪い取ると云う事」をすれば世間の信用を低下させると思った筈である。
    何故ならば、「秀吉」は「天皇の権威」を背景に「自らの政治権力」を高めているのだ。
    従って、「院屋号を持つ因事菅隷」の何人も持ち得ない「最高の権威書」を持っているとすると「強引に奪い取ると云う事」の最悪の事に成り得て仕舞う。
    だから、手出しは出来なかったと云う事に成ろう。
    この事からこの様に「権威の物を持つ伊勢」に一目を置くにしても、「近江鉄」が「需要と供給の関係」に於いてその「要求に賄う量」を供給できていたかに依るだろう。
    つまり、「鉄の供給」が大きく金になる様であれば何か手を使って来るだろう。
    それ程の事が無ければ「秀吉」も手は出してこないであろう。

    注釈 其の事に就いて検証する。
    「世間の資料」では、これに加えて「江戸初期」までの「全国の神明社の質」でも「青木氏の人・処世に失敗した人の救助」を救う為に「社会の一角」で「独占的に鉄製品の商い」を営んでいたが、その時の「事・主に販売」が判っている。
    この「近江鉄」に付いて「重要な事」があって、“「全国の神明社のルート」を通じて裁かれていた事”が「記録」として遺っている。
    要するに「通常の市場に載せていなかった」と云う事だ。
    つまり、「神明社の裏の資金源」であったのだが、「近江鉄の生産量」が恣意的にその範囲に限定されていた事に成る。
    それも「神明社」、即ち、「青木氏族の中」で恣意的に限定していた事に成る。
    だとすれば、これらの「市場」に対しではなく、「全国の神明社からまとめて来る需要の要求を賄う量」としては生産し、それが相当なものがあった筈である。
    それは「神明社を使う者」が「一般人」では無く、上記した「15商業組合の範囲からの声・秀郷流青木氏一門」を下にしていた事に成るからだ。
    だから「秀吉」が恐れる程に、「15商業組合の結成」のそこには「近江鉄」が其の裏で存在していた事に成るのだ。
    現実には「秀吉」は「近江鉄に目を着けなかった事」、又は「着けられなかった事」は、ここにあって、故に、「鉄製品」に限っても、果たして「市場」では「充分に賄う事」ができ得ていたかは「疑問」を感じるのだ。
    当時は“鉄を握る者は天下を握る”と云われ始めていた時代であった。
    その「鉱山鉄の近江鉄」を「青木氏」はこのような形で握っていたのだ。
    「市場化」しないで「神明社化」で「鉄と云う危険な物」を限定して「青木氏族の範囲」で使うようにしていたと云う事だ。
    その「裏のツールとしての神明社」が使われたのだ。
    その時期化が戦乱の世であって、鉄で造る火縄銃の生産が戦いに比例して造られる様に成っていたからである。
    故にそして、「鉱山鉄の生産」のその「最終起点・神明社」が「青木氏族の逃避起点の越前の福井」として制限したのであった。
    未だ、この頃は、「竪型炉の開発」が「需要に賄えるだけの量」に未だ至っていなかった事は上段で論じた様な事でもあろうし、寧ろ、その「範囲の事でも良かった事」に成る。
    その分、「世の中の需要」は、未だ「砂鉄の鈩製鉄」に頼っていたし、「江戸期」に成って初めて「鈩鉄の公開市場」が「大阪」に開かれて続いていた事を考えると、「近江鉄」に目を着ける程に「神明社の範囲」で隠れた「魅力」は充分に未だ無かった事に成るし、この分でもシステム的に「権力介入する事」は出来なかった事になろう。
    「伊勢」を攻められている「青木氏族」に執ってはこれは都合が良かった。
    何より「15商業組合の結成」に上手く働いたのだ。
    更に「船を使っての商い」と成ると「院屋号を持っていた事」の限りに於いては、「二つの近江鉄の製鋼」では、世間の影で「フル稼働・限界に達する程」のものであったと見込める。
    故に、上記した様に「秀吉」から目を着けられなかった事で、「近江鉄の限定した神明社経由の使用量」から、更に“当初の「2鉱山」から最終は密かに「4鉱山」に増やした”のでは無いかと判断できる。

    注釈 「伊豆青木氏の救助」を果たし「独立させる額田青木氏」に「引き渡す近代銃の欠点の完成」は、前段の通り「1540年頃」に開始」し、「1560年頃」から引き渡している事になるので、「秀吉との関わり」と「正親町天皇との関わり」では、当にその“「後半の渦中」”にあった事に成る。
    「秀吉・1537年〜1597年」、「正親町天皇・1517年〜1593年」の時系列を観ると、つまり、「青木氏族」としては「難しい綱渡りをしていた時期」に成る。
    故に、何もかもに取り分け「一族を守る為に一斉に行動に出た事」に成った「15商業組合の青木氏での結成」は、その「総合策」としての一族存続の為にはこの事に大きな「意味」を持っていたと考える。
    何もかもが青木氏の存亡はこの時期に集中している。
    その「意味」でも、当時の「需要」に対して「供給」は、「砂鉄・鈩炉・閑散期の田水路を使う方式」だけでは、到底無理であった事は間違いは無いが、「近江鉄」を合わせても無理で会った事が判っている。
    この「比較される砂鉄の経緯」でも、「近江鉄の青木氏一族の全需要・必需品と商い・神明社経由」は、「フル稼働・限界に達する程の事」を説明を補完できる。
    これに依ってこれを補うには、「貿易に依り高い技術を他から求める事」に成っていた事が記録からも説明できる。
    然し、「青木氏の状況証拠の記録」から想像すると、「鉄を輸入すると云う事等」はそれをしていない様だ。
    と云う事は、「市場」は殆どが「砂鉄・鈩炉」に頼り上記した様に「近江鉄」は、「神明社の裏ルートからの供給」に限定されて直接は関わっていなかった事に成る。
    これは「青木氏族一門の戦略に成っていた事」に成る。
    つまり、「近江鉄の鉄を獲得する事」に依り「鉄などの軍需品の寡占」が起こり、これに追随する武装勢力はいなくなる事に成り、従って「戦乱」の中で「青木氏族の安定に繋がっていた事」に成るのだし、武力を持つ秀郷流一族一門は影では実質の勢力は秀吉より「無敵の勢力」であった事に成る。
    言わずもがな「近江鉄」に対して「鉄製品の寡占」を疑われて、場合に依っては「秀吉」の「刀狩りの令」に触れる事にも成り兼ねず、刀狩り令を出しながらも実際には手が出せなかったのではないか。
    その意味で「銃の欠点を無くす研究」は、実に危険性を帯びていた事に成ろう。
    然し、何かしているだろう程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
    手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、出したくても手も出せなかったと観ている。
    一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
    「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
    筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
    「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
    そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝して、「全段の額田青木氏論」で詳細を論じたが、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
    ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げた「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わり、以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
    逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ。

    > 「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」に続く。


      [No.397] Re:「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/08/26(Fri) 10:42:34  

    「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」の末尾


    > 注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
    > それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
    > その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
    > その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
    > 前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
    > そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
    > 「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
    > この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
    > この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
    > そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
    > 唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
    > この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。
    >
    > 注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
    > これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。


    「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」


    上記で論じて来た「植物絞り油の使用の経緯」の中には、この「注釈の事象」が繋がっていたのだ。
    この「注釈の事象」が「伊勢国の殖産を大いに開始させる事の発端時期」と成ったのだ。
    この事に就いて「伊勢青木氏の記録」と共に「御師制度の研究」にもこの事の記載が明確にある。
    この事の「注釈の事象」は、取り分け、重要で、この中では、例として「紙屋院の院号等の独占権」を「令外官」として与えられていた。
    とすると、「伊勢」で「賜姓臣下族」としてでは無く「青木氏部の部の殖産業」として「自由に行えた時期」はこの時以降である事に成る。
    それは「禊の条件」が効いていたのであろう。

    この時の“「伊勢の殖産」”は、「青木氏の商記録」や「幾つかの古資料」から漁ると「伊勢国と紀州の一帯」には、その「特殊な殖産の前提」があって「完全自由に興せたものでは無い事」が解る。
    それには、「一つの青木氏が護らなければならない絶対条件」が課せられていたらしい。
    それは、古来より、この「殖産」に関しては、この「伊勢」は 特別に“「禊(みそぎ)の地」”と呼ばれ、又、「食と産業を司る外宮の御祭神」の「豊受大神様」の「神地」にあって、従って、それに纏わる「禊の殖産」が主にして興されていたのだ。
    恐らくは、これには前段で論じた様に政治的には「特別な規制令・因事菅隷」、又は「促進令」が発せられていた事が垣間見られる。
    取り分け「青木氏が起こした殖産」にはこの「伊勢」に限ってこの「禊の条件」が課せられていた。
    これを“「禊(みそぎ)の地」”としてこれを「特殊の規制令・因事菅隷」と「伊勢」では呼ばれていたらしい。
    上記の「上記の伊勢王の事件」から考えても、実質は「施基皇子とその裔系」が「伊勢王」を「259年間・272年間続けられる実力」が備わっていて、初代云々では無かったと考えられ、飽く迄も「朝廷の政治的な思惑」の中で称されていた事が判る。
    だから、「禊殖産の促進令」が「特別な規制令・因事菅隷」としも「賜姓五役」としても「令外官の青木氏」に発せられていたのだ。
    要するに、「特別な規制令・因事菅隷」は伊勢青木氏に発せられる例出あった事に成る。
    故に、又、「伊勢に於ける不入不倫の権」が、「中大兄皇子」に依って発せられていて、「伊勢神宮の保全」と共に「特殊な殖産前提の地・禊の地」が構成されようとしたのだ。
    その「伊勢の地を護る令」として発せられる「特別な規制令」の「因事菅隷」は「伊勢青木氏の令」として用意されていたものと同じ意味を持つ事に成る。
    だから歴史的に知られていない「特別な規制令」、即ち、「因事菅隷」とは成っているのだ。
    逆に、これがあるからこそ「伊勢」で気にせずに「禊ぎ殖産の殖産を興せる所以」であった事に成り、それが正しく「禊ぎ殖産」であったのだ。

    それには、完全自由では無かったと観られ「特殊な殖産前提」として「二つの前提」があったと考えられる。
    「一つ目」は、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とした事。
    「二つ目」は、前段と上記する背景を持つ“「伊勢王の地・青木氏部・令外官・賜姓五役」”であった事。
    以上に依る。

    そこで、この「二つの前提の範囲」から“「禊ぎ殖産の殖産企業」”は、全国に先駆けて特段に「伊勢」だけに勧められていたものであって、そこで「朝廷」は、それを権威づける為に「紀伊国の日前宮」から、態々、遷宮した「伊勢神宮」の此処を、限定して“「禊(みそぎ)の殖産地」”として限定して取り分け呼ばせていた所以であろう。
    「紀州日前宮」からの「伊勢への遷宮」は、要するにその違いを際立たせる為に取り分け“「禊(みそぎ)の殖産地”にする事」であって、その為の”「不入不倫の権」”であったと考えられ、その為にそれを促進させる者としの「因事菅隷を与えた初代伊勢王」であったと観られるのだ。
    故に、前段でも論じた様に、“「不入不倫の権」”は、“「禊ぎ殖産の殖産企業」”を実行する「伊勢青木氏に与えられた特権」であったと論じているのだ。
    それ故に、後の「鎌倉幕府」は、「本領安堵策」で、「室町幕府」は「律宗族」で、「平安期朝廷」は「259年・272年の伊勢王」で、「家康」も、この「故事の史実」を認めたし、且つ、前段での「三河での額田青木氏等の活躍」などもあって、“伊勢の事お構いなしのお定め書”までを伊勢青木氏に発せられたと考えられるのだ。

    そこで、この前提で、ではそれを、「古来」、「殖産」、「産地」の「三つの条件」で観て見よう。

    前段から論じている「禊(みそぎ)」等の資料から読み取ると次の様に分類される。

    「和紙とその原材料と加工品」は、元より、「穀粉」「白粉」「伊勢木綿」「伊勢紙」「食料油」「薬」「茶」「食品加工品」「果物類」「木工品」「工業品」「絵具類」「備長炭」「墨」「組紐」「陶物」「漆器」・・・
    以上、「禊品約20品等」として記載されている。

    「古書の資料」からこれを観ると、以上と全て「伊の勢の国」の最も古い奈良時代から「禊(みそぎ)品」として扱われていたとするものばかりである。
    それが何と「江戸時代」まで続けていて、結果としてこの「神の禊(みそぎ)の品」が何と増えているのだ。
    室町期中期頃から江戸期中頃までの「禊(みそぎ)の品」は、そもそも「禊(みそぎ)の品」と云うよりは「伊勢詣での土産品」であって、殆どが「伊勢」と云う「禊(みそぎ)の品の格式」を利用したものばかりと考えられる。
    「伊勢神宮の「禊(みそぎ)の品」の条件に殆ど則わないのだ。

    これは「平安期末期」までは、「伊勢新宮の殖産品」として格式化する為に「令・因事菅隷」に基づくものとしての「伊勢青木氏」が「禊(みそぎ)品以外」は「その「伊勢の力・伊勢王」で敢えて認めなかったのでは無いかと考えられる。
    その「伊勢王歯止め」のこれが伊勢王で無く成った時からの「室町期」からは崩れ始めたと観られるのだ。
    これが何時しか「伊勢青木氏」から手を離れ、「禊(みそぎ)品以外」をこの「二次産業」と「三次産業」として「蜘蛛の巣」の様に組織的にそれぞれの「禊(みそぎ)品以外の長屋群」を通じて「伊勢以外の各地」でも出来るまでに広がって行ったらしい。
    この「経済の流れ」は「伊勢詣での品」に成って「禊品」としては抑えきれなくなったのであろう。
    主にこれらの物は「奈良に向かう川沿いの支流沿い」にあって、ここにはこの「類似品」を造る「類似の禊品生産長屋群」があった事が伝えられ、この「長屋群の人の呼称・ここでは記載しない」までもあったと成っている。
    既に、此れを観ても、「本来の禊(みそぎ)の品」の原則域を遥かに超えていたらしい。

    然し、前段でも論じたが「伊勢」では、「古来」に於いてその「殖産地の適正地・櫛田川沿い」には、今で云う「コンビナート」、即ち、全ての「一つの殖産に関する取引」がある限定された「一地域」で賄える「体系」の様にして、ここにこの「正規の長屋群と蔵群」が構成されて進められていた様だ。
    その「禊(みそぎ)の品1」の「生産の区別の特徴」は、古来では「一つのコンビナート」が「山と川と浜」に集中していた様で、要するにその「地形の高低」を使って「川」で流し、「舟」で「運搬」をして、「浜」に出て、そこから「二つ目の次のコンビナート」に運ぶ「システム」で、「港・泊」から「大船」で、「伊勢北部の集積地」に運び、「松阪の商業地」に運んでいたとある。
    その逆もあった。
    この「動力」は、「川の流れ」で「水車・青木氏部」を動かし、「水」で「洗浄」などしていたらしい。
    上記した「禊殖産の産品」は、この「コンビナート」のこれに「適合する物」が選ばれていた事が解る。
    取り分け、記録に遺るところでは、所謂、「禊の川・A」は、主に「北勢」に集中して「櫛田川」を始めとして「21に及ぶ川」が適度に分散し存在していて、当に「コンビナートであった事」が解る。
    故に、然し、「室町期」から興ったこの上記した「本来の(みそぎ)の品の域」のその「以外域品・禊ぎ品2」ではその生産場所が奈良域と限定されていて、主に「奈良県よりの北勢地域・B」に分散集積していた事が解っている。
    飽く迄も、「神に関わる禊」を前提としていた為に、この「川の事」を“「禊の川」”とも呼ばれていた時期があったらしい。

    さて、ここで論じているこの「禊ぎ品」の“「食用油・南勢・下記」”もその中の主な一つであるが、「伊勢」は結果として「全国の最大の殖産品」の「一大産地の国」に仕立てたとあり、取り分けにこれに「食用油の生産に力」を入れていた事が記されている。
    この「禊ぎ品の食用油」は、その域を超えて中でも「交易品」としても使われたとあり。その得た「利益」の代わりに当時としては「貴重な石油の卸問屋」も営んでいた事が判っている。
    この事は幾つもの記録にも記されている。
    「禊の食用油」が「禊ぎの域」を超えて「貿易」に繋がったとして珍しがったとある。

    「伊勢青木氏の院屋号」の「院」に対して、その「業」に対して「商い」をも行う時に与えられる「格式号・屋」があって、「朝廷の認可」を得て「・・屋」と公に号する事ができるのである。
    然し、この「禊ぎ品が交易に使われる事」への「疑問」が不思議に無かったとある。
    これはどう云う理由であったのか資料に残る筈である。

    注釈 資料を調べる範囲では、平安期までは「院屋号」は[朝廷の認可の公認物」であって、幕府期ではこれを乱発して「莫大な利益の獲得源にした事」で、その「認可公認の価値」が無く成り、遂には「ある程度の利権」を獲得する為に「金品を支払い」、且つその「届け出の範囲」で「身分格式無く勝手に使える様に」、遂には成って仕舞ったとあるのだ。
    江戸期ではそのに認可は幕府が行うものとしてそのレベルは無制限に成ったのだ。
    ここで云う「院屋号」は、室町期中期前の認識とするものである。
    これでこの「特権を与えられたこれを持つ部経済」から始まった「紙問屋の伊勢屋の商い」の「当初は「紙」を主として「業と商の屋の対象」と成って、朝廷が認める「業と商いの利権・殖産」を獲得し、其れを以って全国に販売されていた事に成る。
    そして、その「院・屋・号に合わした特権」で「収益」を挙げ、その何割かを献納する形を執っていたのだ。
    それが故に、当時では「摂津」や「大阪・堺」に「商いの場」が代わる前は、「伊勢」は、未だ「殖産地と販売地」の「現在の大阪の様な商地」でもあって、これで伊勢では古来では“「屋の地・禊の地」”と呼ばれていたらしい。
    恐らくは、前段でも論じている奈良期からの「7割株を有する伊勢水軍の発祥」も、この「殖産の地」の「屋の運搬の結果」から生まれたものであったものと考えられる。
    それが「摂津水軍」、「瀬戸内水軍」等と「販売地拡大」に伴い、その「殖産地」へと伝播していったものであろう。
    その「証拠」に其処には前段でも論じている様に必ず“「青木氏の裔系」”が存在するのだ。
    資料から調べると,流石に「院」は鎌倉期、室町期、江戸幕府に於いても乱発は観られない。
    それは一つには「院の号の意味合い」には、「皇族」の要するに引退に相当する居に対して付されたもので、それを以て一つ徳行を成した得た事を意味する事から、社会に対して「功績をもたらす業」、即ち、「殖産」を興した事に対して、「院の格式号・貢献」を与えるとするところから発している。
    従って、「院」は「殖産業・起業をもたらした者」に与えられていたので、誰でもと云う訳には成らず勝手に誰でもとは成らなかったのだ。
    そこに、「認可」は上記の由来より「府の時代に成っても認可は「朝廷」であって伝統的に格式を重んじたのだ。
    つまり、当然に青木氏に対しても「格式を重んじたと云う事」に成っていのだ。
    故に、「交易の理由」はその範囲で許された事に成ったのだ。
    百々の詰まりは、「格式の前」には「献納」が大きく期待されたからだ。それが有史来からの因の持つ伝統であったからだろう。
    要は「青木氏」とは事を起こさないで任すが得策であったろう。それは「院号」の朝廷との特権を持っているからだ。

    唯一つ、ところがここに「不思議な事」があって、この中には「古来」に於いて“「酒の殖産」”だけは「明治35年頃」まで「伊勢」ではその「殖産地」ではなかった事なのだ。
    “「お神酒」”とすれば、又、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とすれば、その「代表物」であった筈で、そうであったとしても何の不思議はない筈であるが、当時は未だ「禊(みそぎ)の物」の中には関連品も含めてもこの記載が無く、何故か「禊ぎの酒の殖産」だけは無かったらしい。
    と成ると、これは「伊勢の神」の“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事に成るが、果たしてこれは正しい事なのかであり、検証して観る必要がある。

    それは、“「禊(みそぎ)の地の前提」”として、そこには、「一つの意味」が潜在していたのだ。
    これには「解明できる要素」がある.
    それは、寧ろ、「禊ぎ」と云うりは、“「薬」と「茶・薬用」”が最も“「神の物」”として尊ばれていたとする記録に先ずあるのだ。
    これは「見逃せない当時の古来定義」である。
    それは「中国」に於いても「大和」に於いてもである。
    この事が重要であって、要するに、「禊(みそぎ)」のそれには先ず「浮き上がってくる条件」がある。
    それには、そもそも「禊ぎ」は、そもそも「日本古来の慣習」では無く、「中国の神の慣習」そのものであって、その為に「大和」では、“「中国の影響」”を大きく受けいて、その「禊(みそぎ)の主眼」が、中国の“「漢方薬」と云う点”にあったのであろう。
    それは、記する処では「中国」では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」であったという事だ。
    「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は、現在に於いても“医学と薬学」”が進んだ中に於いてでも、依然として「人間とウイルスとの戦い」である事は否めないが、その解決の一役を担っているのだ。
    古来、「中国の先史時代」の「三文明後」に、先ず「国の形」として「那の国」から始まり、その「那の国」が先ずは「国体の原形」を定めた。
    ところがそれを「秦」がこれを「完成した形」にしたのが中国では興った。
    その国では、“石は薬の諺”があつて、現在でも中国ではこの考え方の根幹としてこれは信じられている。
    事程左様に、要は全ては「薬」であって、これは「漢方薬の所以」であって、中国に於いてさえ「禊(みそぎ)」=「漢方薬」”には何の不思議もなかったのだ。
    そうすると、故に「奈良期の初期」の「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は納得できるが、唯、大和では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」だけの事では無かったのではないかとこれには「疑問」が湧く。
    その「疑問」が「禊(みそぎ)」であるとなれば、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は「全ての民の現実の問題」であったと考えられる。

    奈良期の「古来」に於いては、それがハッキリさせているのだ。
    “「薬」と「茶・薬用」”に考えられる事は、同源であって、それが、“神の「禊(みそぎ)の物」としては、“人を癒すもの”が「主眼」として考えられていた事に成る。
    ところが、そして、この“「酒」だは違った”と云う事に概念は成っていたのだろう。
    では果たして酒と茶がどこが違うのかである。
    当時は普通に「茶も薬であった事」が、これは「別の古書」にも幾つにも記されているので、“「薬」と「茶・薬用」”は同然の扱いであったと先ず考えられる。
    「茶」は「水の代わり」の様に“親しむ”ように、「薬」と同然の様に一部の階級で親しんでいた事から、“「薬」と「茶・薬用」”は成り立つ事であったと考えられる。
    これが「普通の感覚」で「医薬同源と云う事」であったのだ。
    現実に「茶」には「カテキンと云う効果」が現実にあって、「過剰摂取の脂肪」には「薬」である。
    要するに、「茶」が「薬」とするは、これは早く効くか遅く効くかの問題であって少なくとも間違ってはいない。

    問題は次の「酒の検証」である。
    確かに「酒」は、「茶」と同じであっても、その「質」は、兎も角も、「量」に起因しているが、「茶」はこの「量」にも「質」にも拘わらず「早い」か「遅いか」である。
    古代では、要するに化学分析能力の無かった時代では、「概念」は違っていて「アルコール=カテキン」とも成るであろうが、ところが「古代」では、それでも「酒」は違ったのだ。
    そこでこの「酒」が、そもそも「禊」には成らなかった「理由」は何なのかであって、この点にあって、「薬」としてはどのものに比べても「最大の効果」を発揮はすれど、先ずは「考えられる事」は、「人の物」としては別としても、“「神」”に「純粋に捧げる物・禊物」としては「純粋」に選ばれなかったのでは無いか。
    「天岩戸の事」から始まり歴史的には最初に出て来る色々な意味の「薬」ではあるが、ところが「伊勢神宮の禊」には選ばれていないと云う事なのだ。
    此の処が既にここが「中国」とは違っていたのだ。

    もう一つは、「遷宮の地」の伊勢以外は、別として、「伊勢」では、「米」も然る事乍ら、決定的に違う事は、“「よい酒用の米・明治初期まで」が採れなかった事”にあるのでは無いか。
    現実に気候と地質と土壌が悪くて「明治中期」まで採れなかったのだ。
    これが講じて「禊の条件・伊勢の産物」と成っていなかった事も考えられる。
    だとすると、ここには何かに正式な相当な記載があるべきものと成るがどうか。

    では更にここを「古書」で検証する。
    「上記の事」がハッキリと記録されているのだ。
    又、「朝廷」はこの「ある事で伊勢の事に悩んでいた事」を示す事にも成る。

    先ず参考として、「史書・古事記」の「経緯」に依れば、「天武天皇・673年〜686年」が「稗田阿礼」に「古事記」の「正しい記録」を誦習させた。とある.
    これに始まり、この「作業」が「天武天皇の崩御」でこの「誦習の事業」は一時中断したが、その後、「元明天皇(707年―715年)の命」で、再びこの「稗田阿礼」が“誦習した”とある。

    この“誦習した”の所に意味が隠されているのだ。
    何で何の為にどこを“誦習した”のかである。
    そして、この“誦習”とはどの様な作業であったのかである。
    そもそも、「古事記」そのものが未だ時代も過ぎてもいないし、ボロボロには成っていないし、内容も違って大きくは違っていないだろうし、故に、この“誦習した”には「特別な意味」が見いだせない。
    「漢字の間違い」を直した訳でもないし、然し、“誦習したとするほどに”、する程に大きな理由が生まれたのだ。

    筆者は、この事に就いて次の様に検証している。
    「伊勢神宮への遷宮」が、「天智天皇」に依って「紀州日前宮」より「帝紀に書かれている事」により“「環境条件」が整わない侭に、「紀州の日前宮」から移してしまった史実”である。
    何も「遷都」であっても「日前宮」より「遷宮」を直ぐにしなければならないと云う事ではない。
    「遷宮}は「安芸」から始まって「69回の遷宮」を行っているが、「遷都」と同時に「遷宮」も同時には必ずしも行っていない事例はあるのだ。
    「遷都が落ち着いた後」でも「遷宮を行っている事例」もあるのだ。
    この事は「別の記録」にも記載されている。
    「紀州日前宮」の場合は、この最たる例であって、「飛鳥」から「近江大津宮」に「5年間の遷都」にして「神宮」は「伊勢」であって、その前に於いてはその最たるもので先ずあったのだ。
    そこで、この「天智天皇が始めた未完成の遷宮事業」を引き継いだ「天武天皇」は、何とか「環境条件を整える事」に専念したが、それでも上記の通りで「誦習で出来ない事」が生まれていたのだ。
    これで、「遷宮の環境条件」に「矛盾等」が発生しない様に、先ずは「古事記の見直し」を二人の官僚に行わさせたと云う事である。
    それに合わせて、現実に「伊勢王」の「令外官を務める伊勢青木氏」に対して「因事菅隷」で以て合わせて「環境整備」を施させようとしたのだ。

    「天皇以外」に「伊勢王」に向かって、仮に「伊勢王」では無くても永代の格式があって「仕事を命じる事」は「永代の浄大壱位」である限りは出来ない。
    例えば、「伊勢青木氏」より格式の低い「太政官の一官僚が命じる事」等が出来ないので、取り分け「皇族賜姓臣下族」と成っている「賜姓臣下族の氏族」に対しては、この「面倒の命令」の「伝達方式」の「因事菅隷」で「天皇の言いつけを伝える事」と成ったのだ。
    その証拠に、この時、「因事菅隷」を「伊勢青木氏」だけに発しているのだ。

    「伊勢」ではこれに合わせて、前段でも詳しく論じた様に、この為に「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「尼寺の建立」、「伊勢神宮の整備」、「日前宮の処置」、「菩提寺の整備」、「分寺の建立」、「聖域の整備等」、この時期に「伊勢青木氏」は多く手掛けているが、これがその時の「神宮に対する環境整備」であったのだ。
    「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「女官の住まい」として「尼寺の建立」等のどれを執っても「伊勢青木氏」に直接的には関係はない。
    例え因事菅隷が出ようと関係は無いが出した。
    「賜姓五役」や「令外官」としても、又、直接に「神宮の事・国」であっても関係する事では無い筈で、例え伊勢の事であるとしても「国政の事」であって、これを「賜姓五役」を前提に「因事菅隷」で無理やりにやらせたと云う事であろう。
    これが“誦習した”の所に合せたとする所以なのだ。
    「朝廷の官僚」から観れば「青木氏」は便利な氏族であった筈だ。
    「天皇の言いつけ」として「令外官の因事菅隷」を出して形付けて置けば済み、「紀州日前宮の在り様」に合わせて「政治的」にも「経済的」にも何もかもしてくれる便利な「賜姓臣下氏族」であったろう。
    元々は臣下したとは言えそのような「不確実な立場」には生まれているのだから文句の出無いところであったろうし「院屋号」を多く持つ「伊勢の50郷士衆の氏族」である。
    文句の出せない処であった事は頷ける。

    そして、この「紀州日前宮の整った内容」を精査して、更に「見直し」をさせて提出しこれを改めて「太安万侶」が書き写し「712年」に再提出させたとあるのだ。
    そして、この「古事記」に初めて、“「酒の事」として「神饌・神の供物」”として申しでて、“誦習を意味して追記して書かれた事に成る。
    つまり、「重要な事」として「神宮としての環境条件」が完全に揃っていた「紀州の日前宮」から、余りにも整っていない「伊勢の神宮」に対して「伊勢青木氏」は「それなりの事をしなければ成らなかった」のだ。

    注釈 「紀州日前宮]からの「遷宮」には、「神宮としての環境条件があまりにも不整備である事」から、「時期は悪い」として「官僚や皇親族」には反対が多かったと記されている。
    この事が“誦習に走らせた理由なのだ。”

    そこで、これを“誦習の字の如く「追記した事」に成るのだ。
    そして、この事を「伊勢青木氏」が成した「環境整備の事」に合わせて、更に「類題三代格」の「平安中期の延喜式目録」にもこの事を記載し、この事を正式に「令を出した」として遺している。
    この事を新たに令として、“「神饌”の神事」として「追記する事」に依り「900年頃に改めて定めている事」に成るのだ。
    然し乍ら、主に「神宮移設の設備的な事」が「伊勢青木氏」に依って整えられて進められていたが、ところが「紀州日前宮」に比べて「絶対に整えられない事」があったのだ。
    それが、先ずは「米による酒」と「飽浪社の不整備」と「帝紀が定める聖域の条件」が遺っていたのだ。
    つまり、この「記録の示す事」には、「平安中期の延喜式目録」の記載の通り、「平安中期・900年頃・712年から約190年間」までは、「この事の示す処」は、飽く迄も、“「慣習」”で繋いでいた事と云う事であったとして、“「正式行事」”としては「定められていなかった事」が記されていた。
    これが歴史的な事には成るのだ。
    この事は、要するに、“「伊勢神宮時代」”にはまだ「酒は禊では無かった事」を意味するのだ。

    では、この“「正式行事」として暫定的に扱われていた期間は何時か”であるが、これには明記はされてはいないが、“「来米の赤米・原種稲」”であって、唯単に、これに「麹菌」を加えただけの“「発酵古来酒」”であった事を示していて、これを以て、取り敢えず“「伊勢神宮の「神饌」”としていた事を示していた事に成る。
    始めからではなく追記であって、「紀州日前宮」の様に「正規の酒の神饌」ではなかったのだ。

    そうすると、「紀州日前宮と同じ禊の条件」としては、「完全に成り立った時期」なのは、「正規の酒の神饌」が出来る「土壌改良で造った明治初期」と云う事に成るだろう。
    ここまでは「正式の神饌では無かった事」に成る。
    これを唯単に「伊勢神宮の儀式」では、「神饌」として“「来米の赤米・原種稲」”を伝統であるとして「こじつけていた事」に成るが、上記の記載の事実の通りなのだ。

    この「参考の事」に関して、“これは何故かである”が、それを次に証明する。
    それは「伊勢の土壌と季節性と地形」にあって、長い間、“「良質米の穀物生産」に向かなかった”と云う事にある。
    これは「多くの史書」にも記されている事であって、「列島の伊勢の地形・日本海から吹き下ろすくびれ部分」にあったので、「若狭湾から敦賀を通じて桑名」に「流れ込む乾燥する地形」にあったろうし、又、「列島形勢時の成り行き」から「典型的な花崗岩の地質・糸魚川線を境に左側の地質」であって、この「土壌」では「真砂土壌」であり、保水性が掛けていて、「米生産に向かなかった事」にあるのだ。
    どんなに騒ごうと「伊勢神宮」では、「紀州日前宮の環境条件に拭う事の出来ない物理的な条件に多く欠けるところがあったのだ。
    この事では、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は、「土壌改良工事」に「莫大な私費」を投じて行われた事が「青木氏の資料や口伝」でも伝わっている。
    つまり、この事は「伊勢」には、長い歴史の中で、唯一、「神饌を造る土壌に欠けていた事」を意味し、それを成す「公の財源」に長い間、「伊勢王・地権を7割」で無く成った時点の限りに於いて欠けていた事に成るのだ。
    「欠けている神饌」を獲得する為のその「財源」を誰が出すかにあったのだ。
    そして、その「工事」そのものを誰が行うかにあったのだ。
    前段からも何度も論んているが、「伊勢の事」を良く知っている「古来からの土木工事」は隣の「額田部氏」であって、経験も豊富で、「全国の青木氏との繋がり」は奈良期からで親子の様に極めて深い関係を保っていた。
    明治期に於いてでさえ「青木氏−額田部氏の関係」が成り立たなくてはこの工事は成し得ない事であったろう。
    明治期には、「額田部氏」は額田に「土木会社」を構えていたし、「青木氏部」も独立して「宮大工の会社」と「施工会社」の「二つの会社」を設立していた。
    やっとこの「条件」も私的に成立したと云う事に成るだろう。

    結論から、「資金と施工」は「伊勢屋の伊勢青木氏」からの「出資と施工」と成ったのだ。
    これを成す「額田部氏の施行工事業者」が引き受けてくれるかであった。
    先ず、「広大な地権」を「基本域」にして、それに伴う「干拓灌漑と土壌改良」を行い、問題はそれに接する地域の干拓灌漑をどうするかであってもその数は「約3割の地権者」であった事が伝えられている。
    この時、未だ「伊勢の大字の約7割・地主」は「青木氏の地権域」であったと伝えられ、これを主体として工事を行えば、後の残りの「約3割を債権補完の干拓灌漑」に成り続けて「帰依した事・約定」に成った伝えられている。

    注釈 「明治6年から明治12年」にかけて「地租改正」を行い、「地権者」を細かくして「土地売買を自由にする事」と成ったのだ。
    「伊勢」も同然であったとされ、そして、「地租の現金化」を実現した事が記されている。
    ところが、この時の「伊勢の 地租改正」には、「地権域」が多くとも3割と成っていたと記されている。
    全国的には「土地の私有制度」と「明治政府の財政的基盤」を確立させた事として効果があったとされるが、全国的には伊勢は低いものであったと記されている。
    この時期のこの「地租改正」には、「伊勢青木氏の干拓開墾」は当然にそれは「氏族・郷士関係」が働き、その「独立対策」の為にも先ず「伊勢青木氏の開墾と投資」で行われたのだった。
    「地権の7割」は元より「古来からの女系血縁の氏族50郷士衆」の管理下にあって、これに対してにも「干拓灌漑の工事や米種の開発等」を先んじて行ったとある。
    「残りの一般3割」は「伊勢村主200人衆」に解放されていたとある。
    其の後の経緯として大きくは、その後に行われた「戦後の農地改革開放」で、この「灌漑干拓が済んだ地権」ともに全てを「伊勢郷士50人衆の氏族」に「無償」で引き渡す結果としたのだ。
    「神饌」を獲得する為の「干拓灌漑土壌改良の効果」が、これで遅れて「戦後」に広く齎される結果と成ったのだ。

    これは「当時の流れ」としては「氏族であった事」から当然であった。
    要するに、「稲作を可能とする域」の「土壌改良工事/干拓灌漑工事」である。
    さて、そこでこの「伊勢での米生産の為の大工事」は、口伝とその記録と郷土史に依れば、「明治期の中期頃」に「筆者の祖父の弟」が「信濃と越後の青木氏の親族」に修業して帰り、「伊勢の土壌と季節性と地形・額田部氏協力を仰ぐ」に合う“「米種の開発」に先ず長年に掛かけて成功したとあり、この為に「倒産寸前」までの「莫大な私費・資本」を投入したとあるのだ。
    この時、「青木氏の中」で意見が大いに分かれ、結局、話し合いで「四家の福家」を「実行派の弟」」に譲ったとある。
    この時、合わせて「火災」にも見舞われ「先の福家・祖父」が責任を執ったと云う事もあり、又、「明治期の大富豪ら」に向けられた「体制側の嫌からせ」もあって、「福家の権利を窯の灰」まで譲ったとされる。

    それが“「米種の開発」に成功し続けて、その後に「日本」でも初めて「米と酒の早場米の開発」にも手掛け成功していて、その「米種等」には「実行派の弟・祖父の弟の名」が着けられている。
    その結果、それまでは、「お神酒の神饌」に就いては、古来では「伊勢」では「悪質な土壌・真砂」でも出来る「古来米の赤米・原種稲」であったとされ、それが、「唯単に麹菌を加えてだけの発酵古来酒」を造っていてそれを「神饌」とされていた事が書かれている。
    「伊勢青木氏」が「古来の伝統」としてこれを引き継いできていたが、これを「実行派の弟・祖父の弟の名」が自ら「福家」と成って、最後の一つとする大環境条件を変えたのだ。
    この結果、「伊勢」ではそれまでのこの「福家であった祖父への呼称」が代わり、「福家が代わった事」で「御師」や「氏上さん」から、新たに「徳宗家・徳宋家」と呼ばれる様に成ったと記されている。
    これには「長年の伊勢の願い」であった「米の出来る土壌改良」に「伊勢を変えた事による感謝」が基本にあったとされるのだ。

    この古事は、「712年とする古書の内容」の経緯と一致しているし、「900年頃の慣習」の経緯と一致している。
    それ故に、この「古来酒」は、“「禊(みそぎ)の品」とは成らず、当然に「神饌品の域を超える事」が「明治中期」まであり得なかったのだ。
    簡単に「伊勢の土壌と地形と環境」は替わる事が無く、「伊勢神宮」である限り「他の地の酒の神饌」に上がらう事も出来ず、必然的に「禊への品を超える事」は出来なかったのだ。

    では、どうして「平安中期頃」から正式に「神饌」と成り、「禊の品」へと近づいたのかである。
    普通では、「土壌改良をしなければ成し得る事」は無い筈だがそれが成っているのだ。
    それは、上記した様に「禊の品の前提」には、古来から“「薬用」とする大前提”が強くあった。
    「紀伊国」から「伊勢国」に遷宮した以上は、「お神酒の神饌」は「紀伊国」では出来ていたのに「伊勢国」からも出ていなければならず、「遷宮の環境条件」として「不整備」であった以上、それが「天皇の悩みの種」であったとしていて、その「切っ掛け」としていたのが、上記した「天武天皇の古事記の見直し」にもあった。て、その為に努力したが、結局は少なくとも「平安中期」にまで、「伊勢神宮の神饌」として「類題三代格の記載」の通り「正式決定を持ち越した」のは、この「定める根拠が無かった事」に依るのだ。
    「遷宮に於ける環境整備の不備」はここにあった。

    では、それはどういう根拠なのかである.
    そこで、取り敢えず「禊の品の前提」の“「薬用」とする前提”を古事記の“誦習で追記して補って使ったのだ。
    これを米どころの「紀伊の日前宮」で国で行っていた「神饌」を、“「伊勢神宮の神饌」”とは成らず、それだけに一段落させる事として、これを“「薬用」”とすれば、「伊勢米の赤米」の「良し悪しや量」に関係なく、“「薬用」とする前提”として、又「禊の品の前提」として「伊勢」でこれを“「殖産」”とすれば、兎も角も何の問題も無く成る事に成る。
    これが「上記の古書」に記載する“「慣習と云う形で引き繋がれた事」”を意味するのだ。
    つまり、この“「薬用」”にすれば、「良し悪し」は関係なく、「量」を多くし「殖産として生産」できるとしたのだ。
    これを「伊勢青木氏の殖産の末」に依って成されたという事である。

    ここで、“「この事」”で「大きな史実」に一つ気が着く事がある。
    “この「禊の殖産」を「伊勢」で進めていたのは誰か”である。
    これがこの「259年の間の伊勢王の務め」であったとすると、「神饌の位置」から「薬用の禊の品」に「帝紀などの決め事」を移させたのは、「施基皇子の後裔の青木氏」であったと云う事に成る。
    記録に観る様に「紀州日前宮・官僚の反対が多かった」から、まだ「日前宮」に比べて充分に「遷宮」に対する「環境整備」が整わない侭に、「不完全な遷宮とそれに伴う因事菅隷の殖産を無理に進め差した天智天皇」と、それに依って「歪み」が出たのだ。
    この事に気づいて「古事記等の誤りの修正を命じた天武天皇」と、平安中期に「神饌決定と薬用の名目と禊の品の殖産の前提」を、「施基皇子の後裔の青木氏」に「因事菅隷」として命じたのは「仁明天皇」であった事に成る。
    だから、「平安中期」なのであって、その役に立つ「青木氏の裔系」を再び「賜姓と云う形」で拡大させたのが「円融天皇・960年の賜姓」であったのだ。
    兎も角も、「賜姓族」と云う「天皇の繋がりとしての氏族」を身近に多く整える事に政治的にも経済的にも必要に迫られていた事に成る。

    注釈 だから、「青木氏の裔系」のこの論じている「青木氏の歴史観」の「時代の進捗」から「嵯峨期の策」は間違っていたと後裔の筆者は論じている。
    朝廷の周囲もそのような環境にあったにも拘わらず、逆に敢えて一時的に感情的に成って便利な賜姓族や皇親族を外したのだ。
    「紀伊日前宮」から「伊の勢の国」に移す事は「大反対」を受けていた事は多くの記録にも記載があり、この為に暫くは「伊勢神宮としての準備」が滞った事が記録されているのだ。
    一時、「放置された時期」があって、「天智天皇崩御後」に上記した様に「天武天皇」が「神宮としての体制」を整えさせ、その間に「神宮」に絶対に必要とする「浜の宮の海神の神」の「飽浪社・飽津社」も一端先ず日前宮から切り離し、「六十九の遷宮」の「神宮全ての絶対条件」として定められていた「日前宮の神域御領」をも半減させて、「神宮の資格・格式」を落として、「伊勢に移すと云う事」をして、「伊勢の神宮の体制限界」に合わせさせてこれを整えたのだ。
    「安芸から始まった遷宮社の約六十数社」の「元の遺った全神宮」は、「有史来」から元は「飽浪社・飽津社」が源である。
    もっと云うと、「人類の神の祭り」は元は「飽浪社・飽津社」から始まったのだ。
    それ故に、少なくとも「飽浪・飽津の岬」、即ち、「半島の先端の波うち際」の頂上に「海」に向けて「祠」を設けて祀り、ここを「神の居住」として迎え「満月の夜」に「お神酒・神饌」を捧げて歌い踊りして「神」を楽しませて迎え入れたのだ。
    其処が、「飽浪の飽津の岬と呼ばれた事」から後に「飽浪社・飽津社」と呼称される様に成ったのだ。
    この事がこの「帝紀」に書かれていた事から、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」とその「半島域を占める御領」は「神宮の最低条件」であったのだ。
    だから、当時はこの「飽浪社・飽津社・飽津の岬」の無い「伊の勢国の宮」は「天皇家の本来の宮」では無いとされていたのだ。
    「神宮の祭りの源」は、「飽浪社・飽津社・飽津の岬」から始まっているのだから「神宮の環境条件」では抑々無いのだと世間は騒いだのだ。
    又同時にこの「源の飽浪社を保護する杜」も「聖域」として「環境条件」とはなっていないのだ。
    此れが「伊勢」では大きく欠けていたのだ。

    未だ「決定的な条件」として「神宮」には「幾つかの条件」が完全に欠けていた事があった。
    例えば、「神宮は南の小山を背に北向きに建てられる事」
    「神宮の右傍らに神宮を清める小川が流れいる事」
    この「小川」を「紫の川」と呼ばれ決して「濁らない川である事」
    以上等の「細かい設置の環境条件」が帝紀などで定められているのだ。

    故に、この「伊勢の遷宮」に大反対を受けていたのだが、ところがそして、これを「二人の天皇」が「ごり押し」をしたので、暫くは「伊の勢国の遷宮」は進まなかったのだ。
    現在の「宇治館町1」にある「7世紀に建立された跡」は、この時の「不備の建物」であってこれを観ると確かに「上記の建設条件」は全く整っていない。
    それを直せる処は直しても少し横に建立したのだが、「決定的な上記の条件」の「飽浪と飽波社と飽浪祭礼」やそれを成す「聖域範囲」は依然として満足していないのだ。
    それを「天武天皇」に成って、兎も角も、「妥協の神宮」を造り上げたが上記する様な「矛盾」が多く出たのだ。
    そこでどうしても出来なかったのは、この「「飽浪社・飽津社の移動」であった。
    そこで、どうしたかであり、その策が「神宮としてよく無い・姑息だ」として批判を受けたのだ。
    この「飽浪社・飽津社」のある「日前宮」ある「紀州浜の宮大御領」を「日前宮から切り離す事」を先ず考えた。
    何と“「切り離し」”て「神宮の要件」を敢えて下げて、「伊の勢国の遷宮に移す事」に兎も角も書類の上では成功したのだ。
    「長い間の「神宮であった紀州日前宮」が、「朝廷の神宮」とされていたが、この比較する「神宮の存在が紀州では無く成る事」で、「大反対の官僚族」は別としても一般の民の反対をも避けたのだ。
    「西域に存在する御領域」は、「日前宮の方を小さく切り離する事」で兎も角も解決したが、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」の前提の「飽浪社・飽津社を切り離す事」でも妥協したが、「飽波社の存在」と「神饌」だけは無理であったのだ。
    それが上記に記した「古書」に記されている「900年頃」までは正式に決められなかったとする事由であったのだ。

    注釈 これ等は何度も角度を変えて前段でも論じた事であるが、実は「万葉集」にもこの事で何句にもこの「切り離しした浜ノ宮の存在」を「哀しげな歌」で読まれているのだ。
    これは平安期になっても長くこの事が人々の心に残っていた事に成るのだし、当時としても長く大変な話題であった事を示している。
    万葉集以外にも天皇等の熊野詣でも郷土史でも数えきれないほどに哀歌として詠まれているのだ。
    受け取り方では批判的にも詠みとれる。例として次の歌がある。
    ・・・和歌の浦 潮満ち来れば片男波 芦辺を指して 田鶴鳴き渡る・・・
    此処は日前宮も含めて名所旧跡の地で、歌の裏には哀歌の意味が込められているのである。
    後の世迄この様に批判されているのである。

    では「歴史の経緯」では、どうなのか。
    この平安期の“「900年頃」まではその後に全て決められたのか”と云うとそれは明確ではないのだ。
    この頃に関連して「伊勢の経緯で決められた事」と云えば、「円融天皇の藤原秀郷流一門の第三子に青木氏を永代に賜姓する事を義務付けた事」だけである。
    これが「伊勢神宮の神饌等に関わる物」なのかである。
    それまでに「伊勢」では、「多気の斎王館」とそれに関わる「女官などの管理システム」等を構築して「青木氏に依ってこれを補完する体制」を整えられている。
    これを「伊勢青木氏」から観ると、依然としてこの「神饌」は解決されていないのだ。
    「伊勢青木氏」だけに拘わらず「信濃青木氏」と「秀郷流青木氏」にこれに関わる補完が成されていたのでは無いかと観ているのだが、そこが歴史は定かではない。
    つまり、「朝廷」に於いてでさえ「伊勢での正規な神饌を造り出す為の干拓灌漑と米種の変更等」は、到底、「その全ての必要とする能力」が揃わなければ容易に成せる事では無かったのだ。
    鎌倉期、室町期、江戸期での「朝廷の力」は到底無理であるし,幕府も同であるかも疑問であった筈である。
    そうすると、既に「伊勢王」ではない「伊勢青木氏」しかない事に成るが、「3幕府期間」に於いて「巨万の富」があったとしても無理ではなかったかと思わせる。
    それは条件が揃っていなかったのだ。

    況して、「唯一これを成せるの専門土木業の額田部氏の協力」を得られなければ成す事がならなかったのだ。
    3幕府期間はこれは何故か無し得る条件は揃わなかったと云う事であろう。
    推測の域を出ないが、「奈良期後期・光仁期」に一時遣ろうとしたのではないだろうか。
    ところが期せずして「多くの皇族の者」が死去して「額田部氏は古墳群の築造」に追われた。
    そして、又、「平安遷都・桓武天皇」が行われたが、この時に事件が起こった。
    この「額田部氏」は、「平安遷都築造の命令」に従わず罰せられた。
    此れを密かに「伊勢青木氏」が北勢に一族を匿っていた。
    当然に、「匿っていた伊勢青木氏」も「伊勢の事」には手は出せなかったのだ。
    そして、遂には「伊勢青木氏」も「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」を外されたのだ。
    依って「伊勢神宮の事」は万事窮すであったのだ。

    注釈 この様に、“「余りにも長い間の神饌が無いという事」”は“それなりの「より良い妥協策」を青木氏の中では済ましていた”と言う「仮説」が成り立つ。
    その「仮説」が、「酒の本場の信濃・青木氏」から「代わりの神饌」とし密かにて運んでいたと考えているのだ。
    将又、「武蔵の秀郷流青木氏」から「伊勢青木氏に届いていた事」も考えられる。
    だから、「莫大な私財」を投じて「明治初期の祖父の弟の酒米と早場米の開発」を縁戚の「信濃と越後」から習い「伊勢」に広めて「初めて神饌」が成立したのだ。
    この事の詳しい事は直接詳しく口伝で耳にも伝わっている。

    注釈 「青木氏の伝統 33」-「青木氏の歴史観-6」や25等で多く論じている。
    「神饌の経緯」としては上記の通りであろう。
    こう云う事から「伊勢神宮」にも貢献して関わっていた事から、「賜姓族の格式」とは別に「伊勢青木氏」は、平安期には「氏上様」「御師」と、明治期には「室町期の律宗族」から“「徳宗家」”と呼ばれた所以と伝わっている。
    事程左様に、何度も論じるが、“「お神酒の経緯」”には“「神饌・神への供物」”で扱われていた事が事実だが、“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事だ。
    「奈良期の古来」では、「神饌扱い」ではあったが、「禊扱い」では無かったという事だ。
    そしてその「誤りの多さ」に気の着いた「天武天皇」が、「古事記全体の見直し」を含めて「帝紀」として見直す様に命じたが、その中でも「正式な儀式の事と禊の事」として定められたのは「900年頃」であり、それを遅れて「延喜式目に書き写した」と云う事なのだ。
    「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」は外されたが、「伊勢を含む信濃と武蔵の青木氏」はこの経緯を知っていた事に成る。
    もっと云うと、「有史来の神の式次第の供奉品の神饌」を「900年頃」まで中途半端にしていたのかと云う疑問がある。
    そもそも「賜姓五役の令外官」として「朝廷の内部の式典」だとして放置できるのかの疑問が残るのだ。
    それも「647年から900年までの253年間」の近くも「放置」は前段で論じた様に「伊勢」では実質の「伊勢王」であった以上としても、この「神宮の件」を放置は出来なかったであろうし、できないとする考え方に無理が無いだろうか。
    少なくとも何某からの補完をしたとするのが普通ではないだろか。
    例え、「嵯峨天皇からの賜姓族外し」に会ったとしても、これを「側面から補完する者」は「伊勢青木氏以外」に果たしていただろうか。
    「伊勢の青木氏」を無視してそれをする事が周りの者ができたかである。
    「永代の賜姓五役の役目を持つ令外官」であったのに伊勢に余計な事する者はいなかった筈だ。
    仮に居たとしても「神饌」である以上は、誰て勢も扱えばよいと云う事には成らない。
    それなりの格式を有する必要があって無理であったろう。
    そうすると出来る事は、「赤古米の蒸留酒」では無く「信濃の神饌」を「伊勢」に秘かに運ぶ以外には無い。
    「信濃の神明社の祭司」は、前段でも論じたが「伊勢神宮の御領」に負けじと劣らず広大な物で、其処でこの「信濃御領で神饌として造られていた」のだ。

    注釈 この「信濃御領」は、「享保の吉宗」に依って半分以上は奪われ、この時を以て「伊勢と信濃の青木氏」と決定的な犬猿の関係と成った。
    「諏訪−塩尻−松本−青木−上田−東御−小諸−佐久に至る囲まれる御領」であって「青木村で造られる米」から「神饌」を「信濃神明社」に奉納していたのだ。
    此れを密かに「伊勢」に廻していた経緯であろう。
    然し、「吉宗に神域の御領」を奪われれば、それもできなく成って仕舞ったのだ。
    「伊勢と信濃青木氏の親族の仲」で、「信濃」にもこの「神明社の神饌」があって、それを「伊勢に廻さなかったと云う事」は先ず無いだろう。
    不仲であったとするのならいざ知らず、「完全な四掟の前提を超える血縁関係」にあれば、「神饌に困っている伊勢神宮・伊勢青木氏・伊勢王でなくても」と成れば先ずいの一番に救うのは必定な事に成るだろう。
    それが「享保期のこの事件」で出来なく成ったと云う経緯では無かったかと想像は容易に着く。

    注釈 この事件もこの「天武期の紀州日前宮の前例」があったからではないかと思われる。
    「江戸期の朝廷」がこの信濃の聖域を管理管轄内であった筈でそれを容易く認める事は無いだろう。
    「朝廷・天皇家の生活に関わる程の圧力は脅かされる程のものがあったと考えられそれが「天武期の前例」を言い立てられた可能性があるのだ。
    だから、未だ「江戸の青木氏・伊勢屋」に攻撃の無い内に「3日以内」に船で伊勢に引き上げて籠もり「紀州藩の保護・家臣の伊勢藤氏」に入ったのだ。
    「紀州藩の勘定方指導の立場」にあって「10万両の債権」も持っていたし、「伊勢青木氏」は「蜜月の関係」にもあった。
    「10万両の債権」は吉宗を「将軍」に仕立てる為の「軍資金」と「江戸経済の救済金」等のものであった。
    「改革の30年後・吉宗死の直前・旗本騒動」には、ある日突然に「信濃青木氏」に手を出し「聖域や殖産や一族の者」を奪う凶変したのだ。

    注釈 丁度、この時期に「円融天皇の藤原秀郷流青木氏」を「永代賜姓」に及んだのもこれらの「環境整備」をよりよく整えようとしたのでは無いかと観ている。
    “「神饌」”であったものが“「薬用」”と成って行ったが、この同じ「薬用の植物油」に戻して、
    ところが下記の通り「殖産物」の「禊扱いの薬用の植物油」では、古来より「桑名の米油」が「神饌」として扱われていたのだ。
    これは逆に「良質の米」が採れず、その「貴重な米」を松阪域では無く、態々「桑名の米油・長良川」に一時は「飽浪社・飽津社の岬の条件」には外れているが「伊勢王」として考えたと云う事になろうか。
    「伊勢青木氏」は、それを獲得しようとしたか「三野王」に[飽浪王と淀橋王の二人」を続けて嫁がせている。
    ところが、「飽浪王」は「美濃」との「格式」から合わず別居独立し「飽浪院・清光院」を建てて、その地を伊勢の「施基皇子の字名」を用いて「一色」としてここに一族を構築した。
    同然で続けて「妹の淀橋」も嫁すが合わず清光院に入り一族として過ごす。
    これが前段で論じた「後の額田青木氏」が後裔である。
    もッと云えば、これはそれ故に「伊勢の米の収穫」より「北勢」より南勢に向かって下記の通りにより進んで収穫は「植物油等」に特化して行った事を示しているのだ。
    この「特化の植物油」はそれ程にいせ領域では重視していたと事に成る。
    当時としては「珍しい事」で他の資料には散見できない事だ。

    注釈 古来より「神宮」に奉納していたとするその「薬用の植物油」は次の通りである。
    「桑名の米油」
    「南紀の荏胡麻油」
    「伊賀の菜種油」
    「四日市の菜種油」
    「岡崎の椿油」
    「伊勢の魚油・海老油」
    以上
    この以上と「伊勢一国」に「神饌が無い事」からそれに代わり得る「植物油の殖産地」として成り立って行った事を物語り、これは「神饌が無かった事」を物語り、それに関連する情報とその後の経緯は実に多いのだ。
    当然に「薬用」とする以上は、「伊勢一国の販売」では成り立たない。
    そこで伊勢は「殖産としている禊の品」でありながらも伊勢だけに限らず「殖産した禊ぎの物」を全国に販売する伊勢詣での土産品に及ばず「全国的販売システム」を造ったらしい。
    新たに販売システムを造ったかは疑問で、前段でも論じている「伊賀者」をより「香具師・情報網」に育てあげて、全国に販売網をより広げたと考えられる。
    それがその古来より「青木氏の諜報機関」としてあった「香具師の存在」のシステムに載せた。
    だからその経緯から観て、「禊ぎ品」は疎か「禊ぎ品」がこの「全国的な殖産品」に成ったものである限りに於いては「全国の香具師の販売網」に載っていないので、「伊勢」には「適切な神饌・日前宮の神饌相当」は無かった事はここでも判る。
    此れだけの限られた「伊勢民の人員」を「植物油に割けた所以」は、「伊勢の米の収穫の無さと良し悪し」にもあった事が否めないが、それよりも“「薬用の油の禊(みそぎ)の所以」の方が強かった事に成る。
    「薬用と云う名」の下に「伊勢神宮の禊」と云う事に成っている事以上に“その効能は信じられていた事”に成ろう。
    これは「神饌が伊勢に無いと云う事」が、「禊の薬用に特化していた事」を示し、その間は確証は採れないが「信濃」からの「良質な神饌の補完・状況証拠」で賄っていたのであろう。

    注釈 この「食用油などの殖産品の販売」を影の仕事していた 「香具師」について、この「平安期初期頃」から「伊勢」からは「油売りと薬売りの者」が全国に廻るとした記録がある。
    そして全国各地に今で言う「チェーン店」を置いていたとする記録もされていて、「伊勢の伊賀青木氏の記録」にも遺る。
    これを担ったのが、「伊賀青木氏」で明治中期迄この組織が働いていた事が記録に遺っている。
    この「働き」をしていた「伊勢青木氏」を、“「香具師」”と呼ばれて「江戸期前後」では「甲賀者」と「江戸」でその「情報機関」としても「勢力争い」で張り合い、「情報収集専門の忍者」としても働いていたのだ。
    云うまでも無く、何故、「植物油」が「禊(みそぎ)の所以」であったかは、この資料から読み取るとこれも上記のそれは“「漢方薬」”と云う「括りの点」にあったのだが、この「禊(みそぎ)の所以」には、当時としては“「食用」”と云うよりは、殆どは“「薬用」”に重点が置かれていた事であった。
    その効果が「情報収集専門の忍者」とも成っていたのである。
    この「伊勢殖産物の漢方薬と禊の品と食用品と忍者」がこの全国システムの所以を必然的に構成していたのだ。
    現在では使われなくなったが「傷口や火傷や被れや腫れ薬等」として江戸時代から昭和の末期までは利用されていて、「香具師の呼称」からも「香具師と呼ばれる範疇・家庭常備薬」にあった事が解る。
    地方に行けば現在でも「植物油の椿油等」は、一般的に油紙に浸み込ませて「傷口の防菌剤」など多様な薬用剤としての扱いに成っていたのだ。
    其の後のこの「伊賀青木氏の香具師」は、現在に於いても関東以西に「漢方薬の薬屋・薬局」として定着した事が判っている。
    つまり、要するにこの「禊(みそぎ)の所以」は、この「香りする植物油」も、「薬用となった神饌のお神酒」も結局は「疫病の防疫であった事」に繋がっているのだ。

    注釈 その意味で、「伊勢青木氏の始祖の伊勢王の施基皇子」から始まったこの「禊(みそぎ)の所以」の“「殖産」”に対しても、この「植物油」も“背に腹は代えられず”に室町期には“「銃開発の冷却剤・魚油/殖産の工業化」にも使った”と云う事を物語っているのだ。
    当然に、これには「皇親族」で“「令外官」としての「特権」”を以てこの“「殖産」”を進めていたのだ。
    故に、この「薬用や食用油の歴史」は、その途中では「・嵯峨期」には抑えられたが、この「時代・7世紀頃」からの「伊勢青木氏の裔系」が画する「青木氏部の殖産品」であったのだ。
    この「禊の歴史的な経緯・流れ」から観るとこの「植物油」は「禊品の殖産」に対して大きな重要な位置を占めていたのだ。
    だとしても、「伊勢青木氏と平安期の嵯峨天皇との対立」も今この事で「青木氏の殖産をした後裔」として考えて観れば、この“「禊(みそぎ)の所以」”の「植物油」にも、「疫病の防疫の点」では古くから影響していたので、「嵯峨天皇派」に執っては「単純な事」では無かった筈であろう。
    その一時は「伊勢の出自元」に感情的に成って強硬に出たが、上記する「伊勢神宮との軋轢と問題噴出」もあって、結局は最終的には「伊勢青木氏の力・出自元」を借りなければ何とも成らず「妥協策」に出る以外には無かった事も考えられる。
    果たして、「嵯峨天皇派」にはこれらの殖産もしている青木氏に対しての“「賜姓族外し」”には、最早考える余裕など無く、思いつく侭に遣って仕舞ったと云えるのでは無いか。
    この「禊」がそれを物語る様だ。
    そもそも「伊勢神宮・朝廷」としての護らなくてはならない「疫病の防疫の点」とその「朝廷の権益」と、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に対して、「植物油への権益・伊勢殖産全ての権利が握られていた事」への「朝廷の反発・皇親族外し・怨嗟」も「嵯峨天皇派」の当時には強くあり過ぎたと云う事であったのであろうか。
    「伊勢神宮の神饌と禊の問題」と「伊勢神宮の環境整備の問題」が潜在するにも拘わらず、「院号・特権」とその「権益」とで、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に「独占されていた観」があって、それを無視した「嵯峨天皇とその派の官僚族」に頭から拭えなかったのであろう。
    この時、「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は、「伊勢青木氏の思惑・経済的」に一切が委ねられていて進まなかったのだ。其れなのにである。
    だから、もとより「朝廷自らが経済的負担をする事」であればいざ知らず、それを「伊勢青木氏」に任した侭で「嵯峨期後の900年後」まで青木氏に押し付けた侭で一切の解決は無かった事に成るのだ。
    伊勢青木氏に与えられていた「院屋号の特権と格式」はそこまでの物では無かった筈だ。
    歴史の経緯はつまりは見かねた「出自元になる仁明天皇」と「円融天皇」がこれを「政策」で補足してと云う事に成るのではないか。
    現実に「源氏」は「嵯峨期」からであるが、この「神宮の遷宮の環境整備問題}には一切に手を出していないのだ。
    この事に突いて「幾つかの記録」が遺されていて、「清和源氏の摂津源氏の本家の源の満仲」は近畿周辺の隣の「寺の荒廃の修復」と「院家の修復」を一手に修復する様に命じられたが、たった「一寺」だけを直して「命令の願下げ」をして最終は不興を架って「蟄居」を命じられる破目と成っているのだ。
    「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は「伊勢青木氏の思惑・経済的」に比較すればどれだけの物てあったかは物語りそれが現実だったのだ。
    現実に、「源氏」の居る前で「神宮の遷宮の環境整備問題}に苦労して取り組んでいたのだ。
    此れを観れば記録にある「摂津源氏の命令の願下げ」がどれだけの意味を持つかは判る。
    況してや味方とする「嵯峨天皇が下した源氏臣下族の9つの縛り策・禁令」を守らずにである。
    その意味で「伊勢青木氏」と「11の源氏」の間では「蟄居が出される程」に際立っていたと観られる。

    さて幾つかの注釈から「神宮の遷宮の環境整備問題」に取り組んでいた中で、上記の「伊勢殖産全ての権利」を握っていた「奈良期初期」から、「室町期中期」までには、この時点で「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・工業化・殖産化」<「食用」の「一連の流れ」に沿っていたりだ。
    更に「北勢」の「伊勢」では「下記の植物油の増産」にこの「神饌の代わり」に入っていたと考えられる。
    所謂、朝廷の態度に見切りを建てて、「伊勢」では早々と「モードの切り替え」が起こったのだ。
    その後にその「産量」に合わして大いに「食用」にも間口を広げ「関西」にも広げたのでは無いかと観られる。
    寧ろ、奈良期からの“「産量」に合わして”では無く、鎌倉期末から室町期までは“「需要」に合わして”に突然に変化したのでは無いか。
    それはこの「食用油の流れ」にあったと考えられる。
    何故ならばこの「造り出された流れ」には、「食用に到達するまでの要素」には、絶対に「消費者」が「購買」に飛びつく「信用できる絶対要素」を持っていなければならないからだ。
    それが、“「伊勢神宮」から発する「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”が伊勢を超えて関西域まで「食用に繋がる要素」があった事に依る。
    前段でも論じたが、この根拠が、“それが一瞬にして「大阪」「京都」「堺」に「食用」は宣伝もしないのに爆発的に広がった”と記録に記述されているからだ。
    そして、その「切っ掛け」と成ったのは何と“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」であったのだ。
    これが一挙に解決したのが「みかん畑の効果」であって、それが消費者の心に「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の補償を与えたのだ。
    そして、“流石に御伊勢様”・御師様」と成ったのでは無いか。
    その証拠に、遅れて「関東域・江戸」にもこの“「天害」”は拡がり起こったが「江戸」にはこの「食用」は不思議に広がらなかったのだ。
    これにはある理由があったのだ。
    「江戸」は“「50年以上」”の近くも相当遅れてやっと「薬用効果」も何とか認めて「食用」としても又広がったのだ。
    これには「伊勢の香具師の活躍」は最大と成ったとある。

    注釈 参考として前段でも論じているが、この様に「青木氏の歴史観」で観ると、「食用油への転用」は、「食文化の関西で広がった事」が最初に「記録」として出て来る。
    これには「ポルトガルのテンプラ」が最初であるとの「通説論」があるが、然し、経緯を観るとその前から「関西域」では、「薬用」として「油で炒めて食する事」で“「疫病が防げる”として、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”で既に広まっていたのであり、「時系列が合わないテンプラ説」は、極めて一般論であって、「江戸期の鎖国のポルトガル文化の伝来説」で引きずられたものであって、「時系列」では「70年弱」も合わないのだ。
    実際は「年代の時系列」を調べると、この「ポルトガル文化の伝来」では無く、矢張り、「関西」と同じあって、「場所」も「江戸での記録」が別にあって、“「関西の天害説」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」で引き興されたものである。
    依って、「ポルトガル文化」では無いのだ。
    それも「ポルトガル説」には、「薬用から普及発生した関西型」ではないのだ。
    「遅れての江戸」に成って、“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」が遅れて関東でも確かに起こるが、“「油粕の対策」を提案したが、暫くは採用されなかった”と資料には記されているのだ。
    だから、「関西と関東」では「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」の所以があって、「江戸のバッタ被害事件」は「70年の差前」があるので、この「ポルトガル説」は当たらないのだ。
    「関西」では、飽く迄も、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の関係式の根拠からであって、それは「食用」には、飽く迄゛も、“「味」を付けて「薬用」とされる処から、つまり、その行為は、元は“「食用油・薬用油」から揚げる”から、その名を以西域から鹿児島までに於いて、“「付け揚げ」”と呼称された由縁からのものである。
    元は、「油脂で熱する事で食物の菌を殺す事」にあって、先ず「薬用」を課せ食用にしたのだ。
    当時は、要するに「天麩羅・テンプラ」に拘わらず、“「疫病」”を恐れての「食用油・薬用油」を「全ゆる料理の使用」にあったのだ。
    それなので、総じて関西以西では“「付け揚げ」”と呼ばれていたらしい。
    関西以西は、今でも魚を崩して練って固めてするので殺菌をする意味からこの食用に食用油は使われ始めたのだ。
    この「元の意味合いの名残」が残っていて各地では「地名」まで遺っているのだ。

    飽く迄も、全ては「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”であったが、「関東」では当時以前より「日本全国主要生産地の80%」は「水戸」にあって、「関西域」には伊勢の様に「集中生産地」は無かった。
    それ故に、「食用にする種」は、関東では「胡麻油・縄文時代に呉国から朝鮮を経て出雲地域に渡来」ではあった。
    「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し、伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”でひろまったが、その為に「胡麻食用油」は関西域にはひろまらず「江戸」であったのだ。

    注釈 古書には「麻」とはそもそも“種より油を搾りだす食物”の事を云うとあり、これを「麻」と云うのだ。
    その事もあって、関東では当初より「薬用植物」として扱われずに「油用植物」として扱われていたのであった。
    本来、「漢方薬などの薬用」に使われた「菜種」とは元来違う処があるのだ。
    ここに、“根本から関西油と関東油では違う処があった”のだ。
    そもそも、絞り粕は「バッタ事件」に使っていたが、銃にはどうなのかと云う疑問である。
    その為に「伊勢」では次の「薬用油」しか生産されなかったのだ。

    「桑名の米油」
    「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
    「伊賀の菜種油」
    「四日市の菜種油」
    「岡崎の椿油」
    「伊勢の魚油・海老油」

    注釈 この「胡麻」は「日本」では「縄文時代の出土事例」があるが、既に奈良時代には「畑の栽培」で、「ゴマを圧搾」し、その「ゴマ油」を「食用油」として調理し、又燈油としても用いていた記録が早くから記録にはある。
    記録的には「平安時代の類題三大格式の史書」にも、「ゴマ菓子や薬用利用」に付いて記されている。
    その「効能」は「ビタミンE」であり、抗炎症作用、抗酸化作用、酸化ストレス抑制作用があり、所謂、「体のサビ取り効果」である。
    要するに薬用である。
    主に其の産地は「強いアルカリ土壌」と「温暖な気候」にあり、従って「鹿児島県と沖縄県」が産地に適しているとある。

    注釈 然し、歴史的に古い伊勢一帯には、上記の「油粕」が出ていた事に成り、これが「肥料の効能の良さ」を知らずに一帯に捨てられていた事に成る。
    云わば、これら「一連の事」で、「伊勢青木氏」が、「油粕の事」から「窒素リン酸カリの肥料三要素」を発見した事に成る。

    さて、話を戻して、
    「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・殖産の工業化」と云う目的が、更にはより「食用」の「流れ」に沿って「食用油」は使用される様になったが、この生産しても追いつかない程の中で、「室町期の銃の冷却材としの活用・工業化」と云う事に直面していたので、そこに難しいものがあったと伝えられいて、これを特記して置く。
    それは「薬用」から「工業化・殖産産業」への「切り替え期」でも、「銃にも使うと成った時」、「銃」に限らず「伊勢の工業化」に使用する事には、当時は未だ主に「冷却・工業化」に使うのだが、「可成りの発想転換」が「伊勢ならではの事では必要とされたらしい。
    これは「青木氏だけの問題」では無く「伊勢全体の同意」が必要であったろう。
    然し、それは「氏族の氏人」には同意が得られるとしても、「銃の事・工業化」が「世間の表に出る事に成る事」には好ましくなかった。
    だとすると、行き成り「薬用」から「冷却剤・工業化」への転換に、この間に「伊勢青木氏」には何かあったのでは無いかと予想できる。
    その侭では行かなかったであろう。
    「伊勢青木氏」ではこの「世の工業化の中」で、何れにしても「銃の欠点の最終の解決策」には、この「油の液体に関わっていた事になる」のである。
    だから、それまでは「備長炭の灰の灰冷却」であったものが、何れにしても再び「水」を試し、それでも駄目で、そこから「油と云う液体・食用油」に発想を向けたのであろう。
    丁度、その時期が既に「食用油の殖産期・工業化」に入っていて、余計にこの「食用油」に目が向けられていったのだ。
    この“「油の液体」がどの様に冷える”かは判っていなかったが、「冷却と云う機能」がどの様に転換する何かは判らなかったのである。
    「水」から「灰」、そしてそ、そこから再び「水冷却」に移り、そこで丁度良い液体」の「油に発想の転換」をしたのである。
    「液体」であれば、先ずは「水」、この「水の機能」が「油」にどの様に転換する為の何かが必要であった。
    その「違い」には、「資料と経験」から「冷却の速度」の「質の関わり具合」である事を知った様であり、此処にはその「媒体」が存在して、その「媒体」が“「冷却の熱」をどれだけ早く吸い取るかの問題である事”を知った事であったらしい。
    この事が資料の表現から読み取れるが、「初めての事」であって「大きな疑問点であった事」が判る。
    それは現在理論で云えば、その「冷却剤」の持つ「吸熱速度」とその「比熱」と云う事に成る。
    それが上記で論じた様に、「油の冷却」は「水と灰の中間の媒体」と云う事に成る。
    そもそも「水と油」には、「1/2の関係」にあり、「科学的冷却」には「論理的」であり、当時としては「食用油の使用の発想」は、「殖産をしている立場」から利用できるのではと判らない侭に飛びついたのでは無いか。
    それが「室町期初期から始まった紙文化」と共に、将来に「二回目の巨万の富を築く事」に「食用油の殖産」で成ったのだ。
    「銃の欠点克服の為」にもその「増産」の一つのきっかけに成ったのだ。

    注釈 「水」は「冷やす」のが「早い」が、自ら「冷える」のが「遅い」。
    逆に灰はこの逆である。
    とするとこの「中間に位置する液体」は「油」であろうと判断した様だ。
    然し、この「油」は「神饌」<「薬用」<「禊用」の前提にある。
    「青木氏の立場格式の範囲」では、「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物?工業化」では立場上は先ず使えないのが普通であろう。
    然し、ところが工夫して使ったのだ。
    どうしても「額田青木氏の計画」を「銃」で解決する為にも「伊勢の工業化」にも実現しなければならない。
    何よりも先ずは「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物・工業化」で、日夜努力している「伊勢郷士衆の説得」が必要であったろう。
    然し、事態はいよいよ「戦国事態」に入り「額田青木氏と伊豆青木氏」は危ない。
    「外国人技術者の指導/詳細不詳」であるとしながらも、「20年間の試行錯誤の期間」でもこの事は難しかった事が云えるのだ。
    結果として「増産」に務め結果と成ったが、これを「解決している処」を観ると何かがあった事には間違いは無い。
    それに「相当する出来事の記された当時の資料」では、発見できたのは「油粕の事件」の以外には見つからない。
    ところが思い掛けなく「食用油の活用に大きく拍車をかけた事」が一つあったのだ。
    それが何と「食用油の絞り粕」であったのだ。
    筆者は、この事に就いて当初は「殖産業も営んでいる事」や、上記した「油粕の事件の記述の事」からも、金銭に問題が無ければ、この「植物油説」を強引に採用したと考えていたが、ところがそれを詳しく書いた資料が観っかったのだ。
    この「金銭問題」は、「朝廷の紙屋院号・特別使用権を持つ伊勢屋」である以上は、「目的達成の銃・工業化」には「総力」を以て「秘密裏に躊躇なく注いだ」と考えられる。
    然し、此れを否定する資料が出て来たのだ。
    それには、この「大問題の事・バッタ事件と呼ぶ」を「伊勢」では解決する為に、何と先ずこの「殖産の食用油」を更に「増産」に務めたとあるのだ。
    これを更には「発想の発展」をして「交易」にも初めて使った事が記載されていて、その「交易」が大成功したとあり、遂には「神饌問題」は、外国から仕入れた「石油の卸問屋をも営む事」で、「世間と伊勢の工業化」を促したとあるのだ。

    注釈 「室町期の紙文化の紙での巨万の富」、そしてこの論で論じている「食用油・菜種油の交易と石油の問屋での巨万の富」、そして,危険を冒して「享保期の大阪米相場の投機の巨万の富」、等が、「伊勢の干拓灌漑土壌変更」で、「米生産と早場米と酒米の生産で蓄えられた巨万の富」、その数々の投資で「伊勢の禊の神饌問題」は解決したのだ。
    「戦後の農地土地解放」でそれを支えて来た「伊勢50郷士衆の女系氏族」に、「無償」でそれまでの「儲け」を全て振り分けたとある。
    その「巨万の富を築いた源」と成ったのが、ただ、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却」と云う点」<「食用」の「伊勢の殖産」にあって、そこには伊勢独特の不思議なものがあったのだ。
    それは「伊勢を調べる事」で判って来た事が次の中にあるのだ。
    これを生かした「伊勢商法」と云うものであったのだ。
    「桑名の米油」
    「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
    「伊賀の菜種油」
    「四日市の菜種油」
    「岡崎の椿油」
    「伊勢の魚油・海老油」
    つまり、ところが「伊勢」では、意外にも「工業化」には、以上の「伊勢の魚油・海老油」であった事が記されているのだ。
    これだけは「神饌」<「薬用」に当てはまらなかったからなのだ。
    然し、世間では「魚油・海老油の殖産」は、大々的に殖産として生産されていなかったのだが、この事を良く調べると、「伊勢の一部の地域」で書き遺されているのだ。
    この「歴史的な魚油の使用」は、「植物油・実用化/殖産と交易」より「20年程」遅れて本格的に生産されている。
    先ずは、その「使用の経緯」は「灯油や肥料」から使用される様に成っているが、古来に於いてはこの魚油生産には身分差別されていたのだ。
    これを「一つの言葉」を使って差別されていて、それはその匂から嫌われていたからだ。
    「植物と魚の概念」が「神饌」<「薬用」に合致していない事から来ているのだが、上記する「純粋な禊ぎ品」ではなかった事であった。
    「植物」は、古来よりその花や色で「人間の階級表示」にも使われるほどに敬愛され、「髪の整髪剤」にも古来より使われていた。
    それ故に、これに合致しない「魚油」は蔑まれていたのだ。
    理論的な事を述べる述べると、そもそも「魚油」は、化学的には本来魚から発するものでは無く、「魚に入った餌の微生物の塊」として入ったものが、悪臭の匂を発しそれを浸み込んだ油からの発臭に過ぎないのだ。
    依って、数日で「微生物で構成された脂肪酸」は、酸化して腐食して「アンモニヤ」に変わり異臭を発するのだ。
    それ故に、元より「嫌われた物」であって、「関西」で起こった「植物油の搾り粕」に代わって、「関東」では「70年以上」も後の事であり、この「魚油」を、背に腹は代えられず「民の灯油にした経緯」があって、「安価に売ると云う行為」に出て、「後にこの魚油粕」を「肥料とした経緯」もある位だ。
    その意味で「関東」では遅かったのだ。

    注釈 ここではの「伊勢」では、「伊勢商法との源」となった“何故に「神饌」<「薬用」として扱われたか”である。
    それは全て「伊勢青木氏族」にあったと考えられる。
    それは「生産地」が、「北勢の伊勢湾の海老」に限定されていたからだ。
    「伊勢湾の海老等の魚不良品処分」で、これを「肥料」にする為に、先ず絞り、「残粕」を「肥料」に、「絞り油」を集めて、一部の良い所は“「灯油」”として、残りはこの“「冷却材・銃・殖産などの工業化」”に使用してこれ等を「伊勢衆の合意形成」を図ったと考えられる。
    ところが、それにはこの「魚油の扱いの差別」があったが,その「利用目的」が賛同されて「大いに賛同」を得て、遂には、寧ろ、この「魚油の生産と殖産化・工業化」が「利益」を売るまでに成り、室町期の1500年代には「神饌」<「薬用」としての「殖産の扱い]として、上記の通り「禊ぎ品」と成っている以上は遅れて「伊勢の大儀」を得ていたらしい事に成る。
    この「生産地」は、その「悪臭」から「北勢西部の奈良に近い山手」に「20の川舟」で川上に運ばれていて、「当時の生産地」も判っているし、そこで「粕は山手の農業肥料」、「魚油は海手側の生活圏での全地産地消」としても使い、故に「伊勢」と「禊ぎ品」に魚油として全般名で記したと考えられる。
    それ故に、「関西の絞り・搾り粕事件」で、「魚の油絞粕」まで「関西」では「みかん畑等」が多い事もあって「植物油の絞粕」では全く間に合わず広く全畑地の「主に堆肥肥料」に用いられたのだ。
    最後には、前段や上記でも書いた通り、この「魚油の伊勢殖産」は、生産者は差別待遇を受けながらも「庶民の灯油」として「貴重品」に扱われ、「伊勢屋」は全国に「200以上の支店」を設けて「在庫の全国展開」をし、「伊賀の香具師」が、これを各家庭に“「常備薬」”として欠かさない様に見回り届けるシステムを展開したのだ。
    「生産から販売までの殖産」で「伊勢屋」が全国販売をしていたのだ。
    その結果、「伊勢奈良紀州の国境」で差別されながらも働いていた彼等は、「生活の糧の思わぬほどの安定」を確保していて、その「感謝の気持ち」で「伊勢屋の青木氏」は「御師様と喜ばれいた」と記されている。
    そして、「江戸の中期頃」には遂には「職業の差別」は無く成り、遂には「伊勢の禊用」としてまで「名」を連ねるに至ったのである。
    それが「関西」で起こった「魚油殖産での物語」を持つ「歴史的経緯の魚油殖産の流れ」とその「販売システム」であったのだ。
    それが「関西以西での香具師の活躍」もあって急激に広まって行ったのだ。
    如何に[禊ぎ品」が上記の交易以外にもこれの殖産からも「巨万の富」を獲得していたかが判る。

    注釈 何故ならばこれには他に「歴史的経緯」があって「紀州の漁法・ぱたぱた漁法・延縄漁法の原理・坂本氏・」が全国に広まった事からでもある。
    それ故に、又、積極的に「魚油を使う事」を許された称賛されていたのである。

    注釈 港に残った雑魚を彼等は掻き集め、それを絞って油にし、伊勢屋の買手」がそれを集めて全国の香具師の支店に運んでいたらしい。
    「伊賀青木氏の香具師等」は、これを全国の各家庭に定期的に届けて欠かさない様に「システム」を組んでいた。
    この時、「伊勢紀州奈良の殖産物」、例えば「油の灯油」に限らず「伊勢漢方薬」や「仏壇線香」や「蝋燭」「蚊取線香」や「椿鬢付油」等の「公家庭用品の常備品」としも販売していたのだ。
    この「時代考証」では一番古い物で「奈良期中期の記録」がある。
    「奈良期中期」と云えば、未だ「部経済の始まった時期」である。
    「青木氏が賜姓族」と成り、「近江鉱山の開発」が完成した事頃ではないかと予想される。
    その頃から「工業」とは別に、「地場産業」を一から興して全国展開に持ち込んでいた事に成るが、その「スタートの形態」が未だハッキリと掴めていないのだ。

    注釈 何度もこの事からの論説を論じているが。「伊勢青木氏には歴史的に三度の火事」があったが、内2度はまだ「貴重な歴史的記録」は遺されており、最終は「明治35年」には可成りの「祐筆などに依って書き遺された{貴重な歴史的記録」がまだあったとこの「記録」では考えられている。
    然し、一度は火事中から全て引き出したとあり、ところが、「家長・福家」が「安いポイ義侠心」を出して、再び“火の中に投じる事を命じた”とある。
    そもそも「記録」と云うものの「価値の認識が低かったもの」と考えられる。
    それが「有史来の青木氏の歴史を消し去った」のだと思うと残念であり、そしてこの「火事」も全く火の気の無い蔵の中から出火しているのだ。
    「長い伝統」として、「人間的個性」として、「氏是」にある様に「長く青木氏が生き遺る事」には「判断力」に於いてカーと成る性質を一番に戒めているのだとしたら尚更であろう。
    その意味でも反省して筆者は「青木氏の復元」を試みているのだが、するとしたら今だろう。
    恐らくは、これは未だ残る「明治維新政府の一部の過激派の者の火付・薩摩以降も」であろうと思う。
    何度も論じている様に、維新時の「青木氏の存在・青木氏を消し去る事」のそのものを否定していた「派閥の仕業」であろうと観られている。
    その間にも何度も「打ち壊しや火付け等」を受けていたらしいのだから是が非でも遺すべきであったのだ。
    「青木氏」は思い切ってこれを逸らす為に「松阪伊勢屋」を先ず「偽装倒産]させた。そして、その「商い」を「摂津」に移し、「公的な顔」を更に「誰で何処であるかをも隠す様にした」とあり、これは「室町期」から「秀吉や信長」に攻撃されない様にする為にも行っていたシステムではあったが、これが「明治期」にもこの「システムの緩み」が生まれ「松阪」が集中して攻撃されたのだ。
    これら対処するには「福家に立つ者の能力如何」であったろう。
    筆者はその「福家」の三世ではあるが、「明治期は最も隠すべき時期」であったと観ている。
    「明治維新」では、「維新政府」からみれば「天智期からの伝統ある格式の律宗族のレッテルを張られた青木氏」と云う「立場」を有し、「明治天皇家系を揺るがす余計な家系の存在」を、「維新政府から観ると邪魔な立場である事」を読み込み忘れた。
    最早、「時代が変わった緩んだとする心の緩み」が「薩摩藩派閥等に読み込まれた」と観ている。
    この時の「時代経緯」が、明治期であって古い事では無いので詳しく残っているが、「紀州徳川氏・2万両債権」が懸命に「仲裁」に入ったが「薩摩藩」はこれを認めなかったのだ。
    「明治天皇家系を揺るがす余計な格式家系の存在」を少しでも「薩摩藩は認めない」としての「方針」で観て攻撃して来たのであって、依然としても持つ「巨万の財の商い」では直接的な無かった事と考察している。
    然し、「薩摩藩」だけが伊勢青木氏を攻撃していたとすると、奈良期からの長きに渡り「献納」で支えて来た「明治天皇の後ろに献納していた超豪商の青木氏」が存在する事を嫌っていたと云う考察にも執れる。
    「紀州藩の付き合い」から観て「両方の考察」が考えられる。
    後に「華族制度」でこの「維新政府」は「公候伯男爵」を求めて来たが、事前に「紀州藩公」から「侯爵・貴族」での「連絡・正式な菊模様の桐箱に入った文箱・推薦状を書いたとする文」があって、これに対して明確に断っている言い訳の手紙写しも遺っている。
    「商いの青木氏」に執っては今更に何の意味もなかったと考えられる。
    明かにこれは必要以上の「薩摩藩との摩擦を避けた」のでは無いかと観ているのだ。
    この「流れ」から「紀州徳川氏」とは「大正14年までの個人的交際」があって、「献納」は正式には「明治9年」で終わらせているが、「実際」には「朝廷への献納」は密かに「明治35年頃」で終わっている。
    そしてそれ以後は無い様だ。
    「伊勢青木氏」では、「明治初期」では「薩摩藩の嫌がらせのイメージ」が強かったが、現実に「薩摩藩の力・明治10年」もこの時既に衰えているのだ。
    其の後も、「伊勢口伝」の通りに「明治35年頃」まであった”とすれば、これは「薩摩藩だけの過激派勢力」では無かった事を意味するし、既に「薩摩藩の過激勢力」は「明治政府内に145人居た・最終は一人」とされるが、「西南戦争頃」を境に全て去っていて、「長州と土佐」が全ての実権を握っているとすると、「薩摩藩の嫌がらせの時期」はずれている。
    寧ろ、「維新政府」とすると「長州」と成り、「長州勢力の過激派もあった事」をも物語る。
    その時期が「明治35年前の丁度」として見れば、「青木氏に関わった勢力図」は「紀州藩の陸奥宗光」の「維新政府改革」とも重なっている事になろう。
    「幕末の紀州藩の勘定方指導役」で「陸奥宗光親子」とは親族に近く深く関わり、「維新政府」をリードする「陸奥宗光」を「経済面」でも支援するも、「明治30年」に死すも彼の改革はより進んだが、「実力」を大いに発揮して「薩摩藩以後の維新政府」とは異なる「西洋に見習った近代化の政府」を構築し最大の功績を遺したのだ。
    然し、それだけに「政敵」も含めて敵も多く、取り分け、「西欧の軍制改革を導入する処」では、「長土肥の旧軍体制」とでの「政府二分する程の摩擦」を起こした。
    恐らくは、この時に「陸奥派の力」を弱める為に「長州」は「影で支援をしていた伊勢青木氏の伊勢屋」を攻撃してきていたのではないか。

    注釈 「維新後の青木氏」では、「この史実」は子孫に書き残せないであろうし、「大正14年以降の記録」は祖父が「忘備録」で遺した程度で終わっている。
    然し、故に「氏族」に遺された資料を何とか探し出してそものから繋いで読み取る以外には無いのだ。
    この「明治前後の陸奥家との深く長い親密な繋がり」は詳細に知り得ていた事ではある。
    「明治維新前後の豪商」ではその力を弱められた者が多い。
    夫々弱められた理由は異なるが、淀屋、小野組、小倉屋、加島屋、永嶋屋等数えきれない。
    然し、ところが「屋号」を朝廷より正式に与えられた記録は何処にもない。
    「伊勢松阪」より「本店」を「摂津」に移して、名を隠し家を隠し顔を隠し店を隠しして商いをしていたとされ、中には記録として判っているところでは、「伊勢屋の青木氏」は「大阪の商人」と「不特定の屋号]を幾つも名乗っていたとする記録がある。
    その中でも良く調べると大阪屋、摂津屋、松阪屋、津屋、淀屋、堺屋、長島屋等が観られるが、これ等は「明治維新」の時に全国各地に「香具師の香具屋」とは別に、「約200支店」を設けていた事が解っていて、この「支店名」を上手く使っていたとしている。
    伊勢から摂津や越後の組合で「御師制度・組合で紙幣」を組んで各元大名等への貸付や「米相場」などにも手を出していた事が解っていて、それだけに危険である為に人別は判らない様にしていたらしい。
    現在では全てが独立している。
    中には「鉄の製鉄」にも雑賀で「雑賀支店」を設けて私財を投入して手を出していたらしい。
    現在もここに「製鉄所」は存在する。
    其の後の事は次の様に変遷したとある。
    ところが、ここで「投資のために設けた金」で「1900年頃」に多くの「銀行投資/御師制度で」や「企業への投資」をしたとあって、「多くの関連企業」は設立されとあり、「政府の支援」もあったが乱立した事が記されている。
    これらは“「伊勢の御師制度」”から発展した「商人の銀行」が「大阪」にも「各地」でも生まれたとし、それが合わせて、記されるところでは、「23行の銀行」が新たに設立されたとあり、その殆どが「大阪堺摂津市内の商人」による「殖産の機関銀行・融資」としてのものであったとある。
    ところが、その多くは長続きせず、又、“「1901年に起きた恐慌」”もあって、それで、結局は設立した“「15企業行」”が最終的に廃業したと成っている。
    要するに「23企業行」の内で「15企業行」が破産したとして「伊勢の投資」は失敗したとあるので,「御師元の伊勢屋の青木氏」では、相当に「ダメージ」はあったのでは無いかと予想できる。
    「損害額」は不記載である。

    注釈 同様に、「原合名会社」をも多く設立し経営の合理化や近代化を進めて「8企業」を残す結果と成ったとある。(母数が判らない)
    一方でこれも「輸出業や殖産業」にも再び力を注ぎ直し参入し、特に経営難に陥 っていた「関西の4つの製糸企業所」を「伊勢}は買収した。
    然し、また一方でその「発展の阻害原因」と成っていた「基盤整備」にも手掛け、その「大阪港の拡張」や「鉄道網整理」にも「多額の私財」を資本投下して関わったとある。
    この様に、「地域の公的な事業・貿易拡大の為に」にも尽力しているが、其の投下総価額は不記載で判らない。
    「総資産額を調査したが、「筆者の試算と大きく異なり、明治中期期までには、下記の通り「試算額 約1億両」であったとする資料にあるが、それがどの程度の物かは判らない。
    「創設期以降の米相場」で儲けた「明治期の超豪商の一人であったとされ、その額は資料では「20億両」とあるが、「米相場」だけではあり得ないであろうし、実際はその1/100程度であろう。

    注釈 文化面では、残る財を「私財投資」して“「古建築」”を「山の谷部全域」を自然改造して、そこにこれを移設し、現在も残る「枯山水の庵・三つの谷渓園・尾鷲・熊野・田辺・和歌山」を「紀州」に造り上げたりしたとある。
    此処に、「禅宗修行僧」、「水墨画家」、「茶道家」、「彫刻家」などを志す若者を集めて無償で修行させていた。
    多くの「彼等の遺産」が現在も遺っているし、世に名を馳せた人も多い。
    筆者も幼い頃にこれらの一部とここまでは接して観ている。
    明治後期から末期にかけての「企業規模の変遷」は、「20世紀以降」に繋がるのともなるが、「他業」の多くは、その明治期までに造り上げた「莫大な資産・約4から5億両」を「低資本金の殖産起業」に投資したとある。
    現在もその跡姿は「摂津・大阪」にまだ未だ一部を遺すが、その「子孫への見返り」は「後勘の裔」から観ればあまり無かった事に成ろう。
    明治初期に「青木氏部」を「二つの低資本金の殖産起業」を独立させて遺したとある。
    それで良かったのかもしれない。

    注釈 「青木氏の資料」ではないが、「別の発見資料・御師制度の研究資料」や「明治期前後の商人の研究等」では、「伊勢の和紙問屋」が、「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、又「伊勢」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて、後にそれを元手に「石油の卸売」にも携わったともあり、青木氏の資料と重なる。
    何れも「莫大の利益・儲額を研究」を築いたとある。
    「明治に入る前」にも、上記の様に「米市以外」にも様々な事業を手掛けて莫大な財産を築いた事が記されているが、ところがここで“「大きな事件」”が起こっているのだ。
    幕末までは、その“「商人の財力・超豪商」”が、「武家社会」にも大きく影響する事と成った事を理由としているが、ところが「記録」をあの手この手で色々と漁ると、その「事件」が、「幕府・享保期以後」より起こっており、それには、無法では行かず「法的根拠」を設定しなければならず、それを “闕所(財産没収)処分・けっしょ”として決めて、それに晒されたと記されている。
    この「法的根拠」とする「闕所(財産没収)処分」は、飽く迄も「武士」にであるが、武士に影響及ぼしたとしてこれを「商人」に拡大解釈したのだ。
    確かに前段でも何度も論じているが、「享保期」に「吉宗と信濃の件」で「伊勢青木氏」は「3日で伊勢に逃げ帰った事件」があったが、これが他の資料の研究記録では、「信濃」への「闕所の最初」では無かったかと説いている。
    そもそも、この“闕所(財産没収)処分・けっしょ”とは、本来は“罪を犯した「上級武士の者」に対しての、その「財産を強引に没収する法令」であって、其れには「誰もが認める罪」が必要であった。
    然し、これは一致する処ではあるが、そもそも「上級武士の者の財産」を没収した処で、精々、「領土の範囲の物」であって、「幕府の闕所の目的の範囲」とするものでは無かった筈である。
    然し、現実には「武士」を対象としていたものが、其の殆どは「超大豪商」に対して向けられたのだった。
    「商人」は、「領土関係に無い事」からその「直接の闕所の理由付け」は成り立たず、「刑事事件」を起こす範囲での「刑量で罰する事」は殆どは無理であった。
    そこで、「財産没収」は「不随行為」であって、その史実では「行為の正統性が問われる事」が多かったのだ。
    これに関する「遺る記録」を観ると、裁判例が残り、あまりの理不尽さが観える。
    ところが、この「超大豪商」には、矢張り「罪を問われる事」は殆どなく、「貿易等」を通じて“密貿易”などと「難癖」を着けて「闕所」を一応は申し渡すのだ。
    ところが、多くは“「賄賂」で済まして金を「幕府」に巻き上げると云う策略”を何度も繰り返していたのだ。
    ところが、前段でも論じているが、「伊勢屋等」は、「伊勢の事お構いなし」の「長篠の戦い財政的協力・三方ヶ原後三河立直し協力・本能寺の変の救出等」に対して、この「過去の恩義」に報いる為に発行された「お定め書等」がありながらも、「幕府」はこの「恩義」にも従わず、「伊勢山田奉行所等・大岡越前守の時以来/享保期以来」は、盛んに「難癖」を着けて来て「闕所」を「伊勢青木氏・伊勢屋」に匂わせて来たのだ。
    其の典型的で決定的なものが「信濃事件・聖域と地権域の割譲と殖産の没収と人の家臣化」を命じられて強引に実行されたのだ。
    然し、「伊勢屋と信濃青木氏等」もこの「闕所処分」に先立ち、事前に「紀州藩」からこの事を「内密」に知らされていた。
    「記録」に依れば、「伊勢の事件」では、「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」を設け、前段でも記述した「摂津・本店を移した」のには、先ず「暖簾分け」した等で、「二つの支店」を開き、「朝廷への献納」を幕府に見せつけて牽制し、その後に再び元の「大坂摂津の地」に戻し店を再興したとある。
    「伯耆国久米郡倉吉の地」に関して何か特別な逃れ得る理由に成るものがあったのかと云うと無く疑問である。
    調査したが、ここには本当に不思議な位に矛先を躱すに効果的なもの、例えば誰かとの所縁とか何もない地域だとするのだ。
    この“何も無い事が果たして幕府の追及の矛先を躱せるのか”と云う事なのである。
    況してや、「闕所に向けた追及」を受けているのだし、それでも“躱せると云う事”なのかである。
    この「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」とするには、先ず“「倒産した」”と見せかける必要があったろうが、其の為に「摂津・本店を移した」では、現実には「暖簾分け」をしているのである。
    この「言い訳」は現実には成り立たないが、 「暖簾分け」は飽く迄も「内々の事」であって、それでこの「ダミー店」を強調したのであろう。
    実は、この事が後に江戸期末に物語に書かれて「小説」にも成っているのだ。
    他には実は、前段でも「讃岐青木氏の論説」の中で、「讃岐青木氏の後裔」がこの「宍道湖の横」迄に拡大したと論じて、「安芸の商い」は横の「足利系米子・八頭青木氏」との関係も築いているとした史実がある。
    ここに「ダミー店」を設置したとすれば、矛先の可能性は全く無関係の物ではなく成り、「あり得る事」に成るかもしれなかった筈だ。
    要するに、これが上記でも、又、前段でも論じている「影の店」であったと考えられるのだ。
    元々、「影の店戦法」を使っていたのだから騒ぐことは無かったのではないか。
    この様に、“「矛先」を変えてのこの「処置」で、「店を小さく見せる事」をしたり、「影の店」や「影の顔」や「影の店主」や「影の自宅等」さえまでもしても現実には護った”のである。
    後は「朝廷への献納」を見せて目を逸らした事などが資料から読み取れるのである。
    つまりは、「難癖の闕所」の「名目如何」にどの様に「商人」として対処するかの事であったろう。
    「殆どの狙われる超大豪商」は、この様な策や手を前もって使って駆使して特定を避けて逃げていて、一度見せても次は違う等していたらしい。
    事実を伝えているかは別としても、飽く迄も小説化しているので人気を博した「江戸時代の小説」にも成っているのだ。
    決して「超大豪商の現実」には、「小説やドラマの様な単純な顔や店を見せるような事」は全く無く、此処でこれを論じる以上では、現実には歴史を正しく調べれば、直接に自分や店をよりよく魅せる様な事は決して無く、飽く迄も「影」であって「表に観える等の事」は無かったと知るべきである。
    その意味で、「四家の構築した伊勢」での「四家制度」は誰が福家か判らない様にすれば都合が良かったと云える。
    また、江戸期にはそれまでも目立つ様に「朝廷・天皇家」には、「献納・奈良期から続ける」をし続けていた事もあって、それ故に、“「朝廷」は都合よく振る舞ってくれていた事等”も伝えられていて、この「闕所事件」では「格好の逃避策」ではあったらしい。
    「永代賜姓五役での献納の理由」は、云うまでも無いが、一部には「過去の格式伝統」はこの「闕所の格好の逃避策の意味」もあったのではないか。
    前段でも論じたが、「献納時」には「伊勢から御車」を大げさに仕立てて、それに「青木氏の随行者」を着け、且つ、到着後は「街中の事/噂話」を教える「軍略処の役務の令外官・青木氏」の祭りも負っていたと云うのだから、これにも「闕所対策の為の周囲の目を魅つける策」でもあったろう。
    これも江戸期から始まり幕末までその「目的の一環」であったのであろう。
    そもそも、「影」である以上は、「青木氏の各種の記録」には、これらの事の詳しい事は載せない事であったのであろう。
    実は、「享保期」からこの「伊勢青木氏に向けられた闕所事件・類似事件」は、江戸期に限らず「資料や記録の発見」から「新しく判った事」ではあるが、実は「明治期初期」にも明確に起こっていたのだ。

    注釈 実は「明治期」にも、そもそも「献納の相手」の「維新政府の政治的意向」から、“「薩摩藩」などが騒いで「闕所の嫌らせ・闕所の江戸時代に似せて」を受けていた”とある。
    それまでも、「四掟」で度々、「奈良期より下級公家族と何度も血縁していたと云う事」があり、これらの史実も「公家・叶家等」から「嫁・筆者からは祖母を迎えている事」も合わせていたらしく、これは「朝廷」では無く「初期の維新政府」を造った「薩摩藩等」であったろう。
    前段でも論じたが、「伊勢店や住居や蔵等の火付け焼き討ちや蔵の打ちこわし等」が何度もあって、それ故に「伊勢屋の活動本店を摂津に移している事」等に一致している。
    ただ「伊勢の福家・本家」は「寺の関係」や「郷士衆の氏族一族」が「伊勢に集中している事」もあって、暫くは「松阪」に置いていた事が判っている。
    これは「全ての“話し合い」”が直ぐに解決できる事では無かった事から来ているのではないか。
    江戸時代の「享保期と中期と幕末」と、それに「明治9年頃と15年頃と35年頃」にも、「摂津」から「福家・松阪」に届いた三度ほどの連絡の「虫食いのボロボロの手紙」が遺っていて、それ等に依れば、要約すれば次の内容で書かれている。
    内容
    「長く続く超豪商に対しての執拗な“闕所処分」”には、「伊勢屋」と「御師組合」は財産の一部を多くの機会を捉えて、観える様に「自らの申出」により「献納・朝廷」して「矛先」を先ず外して、目立つ米相場の等への「闕所の動き」を先ず第一段階は終えたとあり、更に、これにより次第に“闕所(財産没収)処分”に晒される事が少なく成り (イ)、この「第二幕」は閉じたとある。
    然し、「明治維新政府」の諸事記録からも、続き 「難癖」の“闕所(財産没収)処分らしき嫌がらせ”は続いた事が記されている。(ロ)
    先ず、それには“「第二幕」は閉じたとある”この (ハ)の事で、これは「第一幕」があった事を意味する。
    又、この等の記録は、“相当に事が落ち着いた後から「祐筆等」が書き記ししたものである事”が判る。これが(ニ)
    で、先ず、「青木氏・伊勢屋」から観たこの“「ニの第三幕」”は、本来の形の“闕所であったかは別として、”言うまでも無く、上記した「政治の場」から離れた頃の「明治35年まで」としてしていて、それは「明治期の嫌がらせ」であったであろう。
    とすると、「第一幕」とするのは何時としているのであろうかと成る、
    筆者には「第二幕のハと第三幕のニ」の事で、恐らくは「二人の祐筆」が書く記す際に「青木氏に降りかかった事」が、「明治期の難癖」の“闕所(財産没収)事件の処分”であったと認識していた事に成り、この事件の事で話題が一族内にも当時は充満していた事に成る。
    そして、又、その「闕所認識」が共有していて、同じ事が「明治期」にも続いて興ったと云う事に気が云っていた事に成る。
    だとすると、「過去の第一幕の事」が明治期に於いても同じ出来事であったとして認識していた事に成る。
    その「第一幕」は、「第二幕と第三幕」に“一致して同じ様な事が起っていた”と観てよい事に成る。
    然し、「足利幕府」とは「律宗族の呼称」でも判る様に、少なくとも「難癖」を着けられるような関係性では無かった事は確かである。
    「信長が足利幕府を追いやった時期」からと、その後に「秀吉が全国を統一した時期」までと、そこから「氏郷時代の良好な関係」の時期を経て、「豊臣徳川の関ケ原までの時期」と、江戸幕府の「享保期の山田奉行所事件直前」までの期間が「第二幕」と成ろう。
    その期間の模様は前段で論じた通りの「犬猿の仲での期間」であった。
    この「第二幕」が“一致して同じ様な事が起っていた”とすれば、“信長から秀吉の時代”と成り得る。
    「信長前」とすれば、「室町期の紙文化で巨万の富」を築いた時期からと成り、この「巨万の富」に狙いを定めた事に成ろう。
    「第二幕の典型的な例」を、前段でも既に論じたが、別にこの闕所の事件があったのだ。
    それを前段でも論じているが一つ述べて置くと、「東近江の青木氏」に於いて「本流と分流らの領地の争い」が起こった。
    それに於いて「仲裁の申請」が両者からあり、「東近江」には「巨万の富」を背景に伸びて来た「近江青木氏B」と、「元から東近江に居た青木氏A・本流の分家」とを「秀吉の面前」で戦わせて徹底的に雌雄を決せさせたとある。
    これは申請に基づく「本家分家の争いの仲裁」と、「その領地争いの仲裁」ではなく、「闕所の手段を使う事」を利用して、戦わせて一方先ず潰して、その「財と領地を奪い取る事」を目論んだのである。
    先ず「勝ち残ったB」のその「富」を利用した後で、この「近江青木氏B」を「富に対する難癖の闕所」で、“よく調べたらその富を奪った”として、後で潰す事にしたのだ。
    結局、「東近江」には「佐々木氏系青木氏」を除いてはいなくなったのだ。
    「伊勢青木氏は、結局は「東近江に居た青木氏Aの生き残り」」を救い出し、「摂津の西」に住まわせて保護した。
    「近江青木氏B」は、其の後に「兄弟争い」をして完全に潰れ、一部が千葉に逃れたと云われていて地元の「秀郷流青木氏を勝手に名乗って幕府に仕官している。
    他にも語り継がれていないが、郷土史に語り継がれる知る範囲では、この様な「紀州嫌いの秀吉の紀州伊勢征伐」での事で、この時、「小さい闕所事件」が取り分け多く起こっているのだ。
    取り分け、「南勢の伊勢50衆郷士衆中の氏族・湯川氏等5士」に対して記録に遺っているのである。
    殆どは「騙しの手打ちの闕所事件」である。
    当然に「第一幕」は、「嵯峨期の賜姓族外し・皇親族外し」である。
    最早、ここではもっと詳しく調べる術を考えて詳しく論じる事は必要だがここては語るに及ばないだろう。
    調べる中で関東には、この事件の左程の大きな事件歴史が無かった事が判る。
    「商人」が多くても闕所で目に着けられる程の商人が居なかった事が云えるのだ。
    そもそも敢えて江戸の政治域にその様な商人を造らせなかったという事であろう。

    さて、新しい資料が見つかったのでそれを加えて追記として論じる。
    少し「冶金学的考察」に戻して、これは「青木氏の資料」ではないが、「別の資料・御師制度の研究資料や明治期前後の商人の研究等」では、“「伊勢の和紙問屋」が「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、「伊勢殖産」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で「良質な植物油」として「大利益を上げた」”と記されており、後に、“それを資金の元手に「石油の卸売」にも携わった”ともあり、“何れも又「莫大の利益・儲額を研究」を築いた”とある。
    これは「伊勢青木氏の記録」と一致しているので史実である。
    「上記の経緯」もあって、「総合商社となっていた伊勢屋」は、「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて「石油の卸問屋・主に灯油」もしていても、「伊勢での実践・経緯」では、更に“「油・魚油」をメインに「冷却材に使われる結果・工業化」とも成っていた事”が書かれているのでここでも判る。
    そこで敢えて「冷却・工業化と殖産化」には、先ず最初に「備長炭の焼灰の中」として対応していたが、次に“「植物油か魚油の油」を使った”と考えられる。
    然し、論理的にも確かに「焼灰の中の方」が「冷却速度が緩いと云う点」では良い事は判っていたらしい。
    だが、「当時」は、概念的には、 未だ、“「マルテンサイトの有無の概念」”に拘わらず、 “何事にも「冷やすと云うだけの概念」と成っていた。”と云う事なのだ.
    そもそも「冷却の程度までの話」では無かったらしい。
    それは、当時は「砂鉄の玉鋼」にしても「陶器」にも由来していて、正確な温度把握は在ったかは疑問であるが“100度程度の低くて極めてゆっくり冷やす事程が良い”と云う「冷却概念」が当時にはあったとする。
    そこで、ところがこの事に就いては、“「マルテンサイトを獲得する冷却技術」”を獲得していたかどうかに付いては「玉鋼に関する資料」からは、全く散見できない。
    恐らくは、“「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」を、巧く調整して敢えて「変態が起さないところ」で「全行程」を止めていた”と、科学的に調べると判断できるのである。
    つまり、それが「変態」かは別として,“何か変な事が起こる温度域で、そこには悪い事が起るのだ”という「逃避概念」あったのではないか。
    ではこの「変態が起さない点」の手前とは、最も、「割れ、変形、等の品質欠点が起さないところ」でもあったのだ。
    現実にもその理論であるが、寧ろ、当時としては「この求めるべき点」と云うのは、「逆の点でとらえられていた事であったと云う事」だ。
    全くこの意識の無い事も記された資料があるが、少なくとも「技術的に避ける点」であったと云う事に成る。
    此れを「冷却とその後の処置」で上手く乗り越えれば、「逆の点のその逆に成ると云う事」を「伊勢青木氏」は“「銃の欠点克服の過程」で掴んだ”という事なのだ。
    それには、是非に「植物油の工業化・殖産化」に取り組まなければならないし、「伊勢神宮の植物油の禊品の事」もある。
    結局、上記の資料から、「嫌われている魚油の生産」を施し、「植物油の工業化・殖産化」をして、「禊ぎ品から量の解決」をして、更に「交易をして禊ぎ品の利益」を上げ、挙句はそれに代わる「魚油の代替品の石油を仕入れて卸問屋」を新たに営んで「伊勢の人の理解」を得て「巨万の富」を獲得したという事だろうの「経緯」であることは判る。
    この間に「銃の欠点の解決」の為にも、この為の「工業化」で「大量の禊ぎ品の油」を使うが、それに依って「マルテンサイトを獲得する為の冷却技術」を獲得していたのだ。
    「伊勢」では「額田青木氏を救う為の銃の製作」と、「それに使う油への批判・禊品に対する工業化」があったのではないだろうか。
    「禊ぎの品の殖産化と工業化」は、兎も角もそれを超えた「大工業化・銃」には「大きな批判」があって、そこで「交易から得た資金」で「石油問屋を営んだ事」ではないかと判断する。
    これで批判を躱したと考えられる。
    「金銭的な事と油植物油の使用率の事」では当面は解決したであろが「伊勢の禊品ぎと云う事」では解決が解決出来ていたかは確認が取れない。
    然し、じょうきした様に「額田青木氏の銃の欠点解決」で「冷却材として油を使う事」では結局は理解を得られていた事を考えれば、禊ぎ品に付いては小より大のもくてきではんだんされたので゛はないか。

    注釈 ここから「植物油と銃や刀の等の関わり」で論じる。
    専門的には成るが、これは、「工業化」に於いて「両者の事を専門的な立場」から観る事に役立つ。
    「禊ぎの殖産とその工業化」に付いてはそもそも「単純な動機」に依るものの、それが「意図的」だったとは考えられ無い事だ。
    度合いかと云うと、この「殖産化と工業化」には、室町期に「生死を賭けた伊勢青木氏による技術化」が伴っていたからだ。
    それには「額田青木氏を救うという大義」が大きくあったからだ。
    然し、そこには「技術的」に少なくともそれには、先ずこの「禊ぎ品」の「植物油」を使わないで “刀の処理工程では済ましている事であった。
    とすると、少なくとも当初より得られていていたとする「植物油」を使わないで「過去の冷却速さのパターン/水」では、専門的には「刀の内部組織」から観ると、“「類似ツルースタイト組織」”には少なくとも成っていた筈なのだ。
    そこで、場合に依っては、この「水の冷却の速さ」からでは、一段低い「類似ソルバイト織」”に完全に成っていたと考えられる。
    「水」は「冷却」が油の2倍に早いが直ぐに「蒸発の泡」が発生して「その速さに比例する冷却効果が得られないと云う欠点」を持っていて、「2度目の冷却」は水温が冷却に必要とする温度以上に上がり過ぎ同一のものが得られない欠点を持っているのだ。
    この欠点の発生は品質、つまり「製品」とは成し得ない事を生み出すのだ。
    だから、常時に一定に冷却効果が成し得る油が求められるのだ。
    「工業化」ではどうしても「一定に冷却効果が成し得る油」が必要であって、それには必要とするのが「植物油」と気付いた事であるのだ。それが奈良期から解決し得なかった銃の欠点解決から導きだされた成果であったのだ。
    それだけに上記する様に意味は大きかったのだ。
    要するに、“「刀」は「類似ソルバイト織・水」”より「類似ツルースタイト組織・水」”にするのが良いのだ”とするのが、これが「過去の普通の概念」であったと考えられる。
    例えば、「類似ソルバイト組織」”は、「バネ性を強く求める時に出す組織」で、これより「類似ツールスタイト組織」は「バネ性より硬くて強靭な組織」のものである。
    但し、本物のソルバイトやツロースタイトよりは何れもその特性は落ちる。
    そこで「水」を使い「植物油を使わない刀」の場合は、「専門的にこの資料を読んで咀嚼すると、「結論」は矢張りそこに陥る結論なのだ。
    つまり、“刀の処理工程”の場合には「砂鉄の玉鋼」を使用するが、要するに前段で論じた様に、「近江鋼の場合」の様に、元々使う鋼が「0.8%Cの共析鋼の処」であった場合と違って、そこで起こる“「変態・マルテンサト」を敢えて発生さしていない”のである。表現は正しくは発生しないがただしい。
    従って、この「玉鋼の刀」の“「加熱と鍛圧過程の二段階」では、「冷却の速さ」では、それなりに既に「硬くて柔軟な組織」に“「恣意的」ではないが、「偶然」にも成っていた”のだと専門的に観て考えられる。
    然し、この“刀の場合は、「上記した工程前後の処理の高度な知識」が、「未完”で在った事から、偶然に“「マルテンサイトの様な類似形」に成っていずに、そこでの「出来具合・類似的にツルースタイトかソルバイト」”が「何らかの形」で意図せずにこの「類似系組織」が得られていた可能性があったと推測できる。
    そして、“此れを良いものだ”としていたのだと考えられるのだ。然し、違ったのだ。
    決して、「変態」を起さない限りは、偶然にも、“「マルテンサイトの様な類似形」には絶対にならないのだ
    これを最近に調べた「刀の組織的・内部の研究結果の論文」があって、それには「内部の組織の良し悪し」では無く、「切れ味の刀の良し悪し」で表現されていたらしい。
    これは検査装置が無いので当然かもしれないが。
    当時では、従って、当然に「玉鋼の刀」に於いては、この「冶金的な結晶の構造」、つまり「マルテンサイト・ツルースタイト・ソルバイト・パーライ」の「4つの結晶組織」で、「強さ」をも表す「呼称の概念」は無かったと考えられる。
    然し、多くは「油の冷却過程」を得ずして得られるこの類似ソルバイト」であったと研究成果では結論付けている。
    後は、“「玉鋼の板を何層にも重ねて鍛えた結果」から得られる「強靭な物理的な強さ」”が、これを「補完している強さの正体」であったとしているらしい。
    仮にそうであったとしても、それはそもそも“「悪い出来具合」”と「砂鉄の玉鋼」では、「植物油冷却材として使わない事」と、「近江鋼の0.8%C共析鋼を使わない事」から、その「特性から脱却できるものではそもそも無かった」と云う事とされるのだ。
    当時としても、既に「近江鋼の0.8%C共析鋼」が一方で「伊勢青木氏」で使われていたにも関わらず、この限定された「その範囲の事が正しい事だ」として「刀の概念」が先行して断定されていたと考えられるのだ。
    何故ならば、これは「火縄銃の生産」も「刀の生産」も、「同時期にして同工程での概念」であって、「砂鉄の玉鋼」だけを使って「平衡して生産されていたと云う事」から来ているのだ。
    従って、「当時の青木氏部の匠の常識の凄さ」は、先進的に研究して「植物油を使う事」で「冷却問題」を先んじ解明し、“この「技術の壁」を「植物油の殖産と工業化」で打ち破っていた”と云う事に成る。
    そこには「伊勢の禊ぎ品と云う縛り」が伝統的にあったにも関わらず、寧ろ、「植物油の殖産化と工業化と交易化の積極策」で解決しているのである。
    その証が何よりも「額田青木氏の近代銃の鉄」は、“「近江鉄の鉱鋼」であった”と云う事なのだ。
    つまり、上記した「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理・冷却・植物油と魚油の冷却」で「銃の欠点」を克服していたのだ。
    普通なら長年に渡って「火縄銃の生産」や「刀の生産」も「同時期、同工程での概念」であって、且つ、「砂鉄の玉鋼」を使って平衡して生産されていたと云う事で在るのなら、この「工程に頼る」のが普通であろうがそうでは無かったのだ。
    「人間の成す事」と云うのはそんなものであろうが、ところが“全く違う「植物油と云うもの」を選んでいた”のだ。
    何故ならば、「刀の特性」には「切れ味」と「鍛する事」と、つまりは、「たたき合う事に依る折れない強さ」のこの「二つ特性」が「最優先」に先ず求められたのだ。
    現在科学では、この「切れ味」は、“「マルテンサイト」が最高”であって、これが「技術的に得られない事」から「類似ソルバイト」を「玉鋼の重ね板」で「何度も鍛える事」をして獲得したが、これでは「切れ味」は間違いなく落ちる。
    然し、特段に「バネ性」を獲得して「折れに対する強度」を補完していたのだと理解すれば、其れなりに納得出来る。
    つまり、故に「刀匠」に依っては、この“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係に油と云う冷却概念で差が出る事に成るのだ。
    それも“常時では無く時々の技物の出没”に成っていた筈である。
    何故ならば、原因はこの「類似ソルバイトの所以性の差」にあるのだ。
    当時の代表例として「刀」は次の関係に冶金的にあった事に成る。
    「類似ソルバイト」=「重ねたたき合う事」+「その鍛する温度」


    注釈 そこで此処からは「刀」に付いて論じる。
    「刀」は「類似」である以上は、以上の関係式に依って「刀の性質」は偶然に生まれるのだ。
    殆どは、この“「鍛する温度」の「最終温度」”にあって、これに依って「玉鋼」では決まる。
    何故ならば、この「狭い限定温度」を間違えると、「類似ソルバイト」は析出しないのだ。
    仮に何とか出たとしても、今度は“「切れ味」><「折れの強さ」”の「理想的な関係式」を保てずに「質の悪い使えない刀」と成るとする「冶金的に求めた研究報告」があるのだし、理論的ににもそうである。
    冶金的に専門的に合理的で理論的にもこの研究は納得できる。
    故に、この「技法」を使った「根来雑賀の火縄銃」は、“この関係性を持っている事”に成っていた事になるのだ。
    そこで、この「刀の高度な匠技・現在研究」では、“この「緩める事」と「冷却の事」を「同時に行う術」を把握していた事があり得る”ので、この「技法」を使って「名刀」とするものには、必ずこの「刃文・刃紋・玉鋼の板を重ねる事で起こる模様」と云うものが出る。
    そして、そこに出る「模様柄」、即ち「類似ソルバイ」の「光の屈折具合」のこれで「技量の高さの判別」が判るのだ。

    注釈 「類似ソルバイト」には「独特の波板の様な模様」が出る
    もし、そこで「青木氏部」に依って「額田青木氏の近代銃」に使われたとする“「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理」”で、仮にこの「刀」を造ったとすれば、“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係は、「最高の物」と成り得て、それは“名刀中の名刀”と成り得る。
    以上として間違いなく扱われていただろう。
    この事の証明は、この「検証の物理の実験」が成されていて「物理試験・アムスラー試験」でも証明されているのだ。
    つまり、この「刀技の匠」で得られたとすれば、「額田青木氏の近代銃」も同然の結果と成り得た事を証明できる。
    然し、「近代銃の研究と製作」は、「刀匠の根雑賀根来の鍛冶師」では無く、「青木氏部に所属する部人・松阪と摂津と堺」とその支配下にあった「日野鍛冶師」であったのだ。
    そして、元よりそれは「砂鉄の玉鋼」では無く、「殖産の近江鋼」のものを使っていたのだ。
    そもそも、「青木氏部」に「所属する部人・鍛冶師」たちは、古い「奈良期からの殖産の結果」から「鉄の鋼」が違うのだ。

    注釈 「鍛造後・砂鉄」、又は、「熱処理後・鋼鉄」に得られる「類似ツルースタイト<>類似ソルバイト」の関係には次の二つがある。
    1 「鍛造後・砂鉄」の場合は、「鍛える過程のそのエネルギー」で「類似ツルースタイト<類似ソルバイト」の関係で「偽の類似的組織」でそれに近い物理特性が得られる。
    これは「鍛する過程」で、「鍛圧エネルギー」と「適度な温度に下がる事」のこの「二つの条件」が揃えば「偽の類似的組織」が得られる。
    これは極めて「難しい二つの条件範囲」で得られるので、そこで当然に「匠技」に関わっていたのである。
    だから、「名刀」と云うものが生まれていた所以であるのだ。
    2 「熱処理後・鋼鉄」の場合は、「決められた特定の範囲・鉄種と炭素量と温度領域と冷却温度と特殊な後処理の5条件」が一致する事である「特別な綱変化」が起こる。
    これを、此の世に起こらない特別な変化である為に「変態・トランスフォーメイション」と云うが、これが起こり、この獲得した「マルテンサイト・鉄のダイヤモンド」を、「特殊な後処理で安定させる事・特殊な熱処理」で揺るぎのない「物理特性」を持つ。
    これでは未だ安定しないのである特定の温度範囲で少し下げて処理すると「正常なツルースタイト・又はソルバイト」だけが得られるのだ。
    これを使ったのが「額田青木氏の銃に起こる欠点」を取り除いた「超近代銃」かが生まれた所以なのであるのだ。

    注釈 この「変態結晶体の独特の光反射の色合い・薄青白いシアン系の光を発する」を示すが、ところがこの「偽の類似的組織のマルテンサイト系ツルースタイト、又はソルバイトを有する刀」には現実にはこれが観えない。
    この処を考察すると、一般的には「砂鉄の玉鋼」では物理的に無理と成るが、故に当時としては「変態現象の概念を有していなかった事」が間違いなく云えるのだ。
    其れが砂鉄の玉鋼であったからだ。
    結論として、それに伴う「刀にする為のある程度の冷却に必要とする程度」の「冷却の概念の重要さ」も一部でも「保有していなかった事」は先ず確実であろう。
    ところが「名刀」とされるものには、「筆者の見立て」では、これが一部確認する事が出来るが、ところが完全に概念として有していたかは定かでは無い。
    又、「製作過程」でも偶然に得てそれが「名刀として扱われる所以」と成っていたとも捉えられるが可能性は低い。
    然し、これはより「偽の類似的組織」の「ツルースタイト>ソルバイト」の関係で、“偶然に名刀に成った”と観ていてこれが「刀の筆者説」である。
    何故ならば、「鋼鉄と砂鉄の違いの事」は、勿論の事ではあるが、この「マルテンサイトの存在」を「確認する事」には、「屈折光」だけでは無く、「高度な顕微鏡とその為の化学的処理・ナイタールと硝酸液の処理と酸化クローム研磨」が必要であるからだ。
    ところがこれが当時は未だ確かに無かったと観ている。
    「奈良期からの飾刀の匠技」に伴う「高度な冷却概念」の中には、「密かにテンパー概念」があったとしている記載があるのだ。
    何故ならば、それは“玉鋼”ではない”「近江鉄」”であったからだろう。
    それを理由に「近江と摂津と伊勢の青木氏部の匠」の中では、「何らかな方法・貿易」で獲得され、この“「703年〜713年の前からの歴史を持つ近江鉄」”を使う以上は、「最初の試練」として「試行錯誤の中」で「額田青木氏の超近代銃銃」に「高度な冷却概念」を求められていたと見ている。
    寧ろ、そうでなくては使えず懸命にその「匠技」を獲得しょうとして“間違いなく応用された”と考えているのだ。
    そうでなくては「近江鉄・磁鉄鉱と褐鉄鉱」である以上は使えないのだ。
    上記の「近代的な検査装置の存在」は無かったにせよ、「屈折光」と「焔硝の存在」とそれなりの「研磨工程」があれば、「最低限のより高度な確認検査装置・貿易で得られていただろう」は「室町期」には最早在ったと考えられる。
    「屈折光」は、「当然の事」として、「焔硝の存在」は大和には既に奈良期からあった事が記されている。
    それは「白村江の戦い」から破れて引き上げた「天智天皇」は、中国が攻めて来るとして「山陽道の造成」と「周防國から奈良」までの間を、「硝煙狼煙」で「情報を伝達するシステム」を構築した「歴史的な有名な事件」が在ったがこれに既に使われているのだ。
    これ等があれば、「その概念の存在」は、兎も角も、少なくともそれなりの「マルテンサイトの存在・極めて硬い組織の感覚的存在」は稀にも経験していた事は否定はできない。

    注釈 この「マルテンサイトの呼称」は、そもそも「ドイツ語」であって「近代の物理学、即ち、冶金工学と金属工学」は、主に「戦い」に依って利用され進歩を遂げたが、この為に「戦い」に勝つ為に「古くなった西洋の火縄銃の近代化」を「切っ掛け」に「近代銃への発展」へと「発達経路」を西洋で遂げたが、これ等は全てはこの「ドイツ」から起こった事なのである。
    必然として「ドイツ」の「西洋での位置づけの結果」では「勝利」を収めたのだ。
    これを「伊勢青木氏・伊勢屋の貿易」を通じて得ていたと云う事に成るのだ。
    当然に、その「技術」は「青木氏部」を有していた限りに於いて一部分であったと云う事では無かった筈である。
    奈良期から始まった「近江鉄の製鋼技術」から「室町期の近代銃の完成技術」までを、この「貿易」に依って全部とは云わずとも獲得していたと認識しているのだ。
    確かに問題は「奈良期からとする処」に問題は在るが、そうでなくては「近江鉱山の鉱石」を「高炉・日本での歴史は、一般的に「江戸末期に利用」を使ってしか成し得ない筈だ。
    とすると「近江鉄使用論」は成立しない。
    逆に「近江鉄」が存在する以上は、其れなりの高炉に近い「高温に成る炉」があった事は否めない。
    これは「幾つかの記録」からも「歴史上は紛れもなく史実」で在る。
    以上は、「高炉」と「近江鉄の製鋼技術」から、「室町期の近代銃の完成技術」までの間には「高炉存在論」が成立する事に成るが検証か必要である。
    それは「奈良期からの近江鉄」は、「院号を有していた伊勢の殖産業」で興されたもので在った以上は、その「社会普及」を特段に敢えて辞めて、「高炉に等しい炉」が見つからない以上はその開発炉は“「伊勢・摂津の範囲に留まっていた事」”に成る。
    寧ろ、これは「氏是と家訓」に従っていた事であろう。
    其の事からこの「高炉に近い炉の普及」を“留めていた”と受け取るのが正しいだろう。
    これらは「院屋号を完全保証されていた平安末期」と、「伊勢本領安堵の号」としては限定保証されていた鎌倉期」と、「律宗族としての半資格での室町期」の「3つの経路の扱い」を受けていた。
    この事から、故に「上記の開発の完成技術」は、長い間を「青木氏部」の“「氏族内に留められた・青木氏部」”と考えられる。
    そして、前段でも論じた様に「江戸期」に成っても「氏是」に伴い、「銃」と共に「一連の物」が秘密裏に「抹消した経緯」を持っているのだ。
    但し、「上記の完成技術の経緯」としては、「三方ヶ原の戦い以後」に「伊川津」に戻り、「渥美湾の制海権」を松平氏から獲得してから、暫くして、「摂津と伊勢」では「銃のその必要性」は無くなり、密かにして治めた。
    然し、これが「江戸期」に成って、前段でも論じた様に「享保期末期の吉宗との事件」と「山田奉行所との争い」とを相手に「摂津水運組合と山田奉行所事件」で摩擦・闕所事件」が起こった。
    「紀州藩の後盾」を得ていながらも“「難癖」”を着けられない様に、これらの「銃に関する全ての技術」は完全に抹消したと観ているのだ。
    取り分け、「母方系の藤原秀郷流一門」が「幕府御家人衆」に組み入れられ、「伊勢藤氏の全て」が「紀州藩家臣」と成った経緯もあり、これ等に影響を及ぼさない様にする為にも「銃技術を含む全て」は、勿論の事としても「上記に論じた完成技術」も“「抹消処置の時期」”としたと観ているのだ。
    前段でも論じた様に「四家の桑名等」では、“「祠」にして密かに「神明社」までも鎮守社の裏に隠したとある。
    そして、その「床下」に「青木氏の手伝統の記録・資料等」を隠したとした”とする。
    この為に「青木氏の現実の記録」も遺されているし、「南勢の旧領地等の各地の青木氏」でも同然であったとしている。
    兎も角も、“「抹消処置の時期」”とした場合は、概ねこの時期しか無かったと観ている。
    この元には「奈良期からの殖産」で「鉱山開発の院屋号を持つ伊勢」は、偶然にも環境証拠として「近江鉄を利用したとある。
    この事では詳細が判っている。
    それには僅かに「アルミニウムとマンガン含む鉄の原鉱石」、即ち、「1246度融点での近江鉄」には「磁鉄鉱と褐鉄鉱」が含まれていたとある。
    この結果として、「近江鋼」は、砂鉄と違って“「味のある特性としての概念」”で引き出されていた事に成るのである。
    工具などに使えば鉄だけの物より特性の豊かなものに成ると云う意味である。
    とすると、「近江鉄」は一般の要求に鍛冶師として応えられる鉄であったと云う事だから相当に忙しかったと考えられる。
    当初は1つ目の鉱山、あまり時間を置かずして2つ目の鉱山と、開発途上の鉱山でありながらも広げていった事が判る。
    そしても何時しか「近江」には「4つの鉱山」が開山された経緯を持つのだ。
    如何に「近江鉄・近江鋼」が当に世間から好まれて奪い合いする様に求められていた事が判る。

    注釈 さて、そもそも故にこの「急激な需要・経済発展に寄与」に対して、この「経緯論」としては、先ずどの様な「溶解炉」がこの「近江鉄・近江鋼」には、使われていたのかである。
    これだけの「需要」に対して、応えられるのは現在科学から観ても「高炉」でしかない。
    然し、この「高炉」は日本では「明治初期の使用」であり、西洋でも室町期末期である。
    これでは「経緯」が合わない。
    「砂鉄の炉」は理論的に使えないから何か炉を開発した事に成る。
    結論は、それは“どの様な「高炉に近い炉」を開発していたのか”であり興味が湧く。
    「近江鉄」から炉高が高く無くてはならないし、新規の還元剤の開発も求められる。
    「砂鉄」では、「平炉、箱型炉、縦型炉の開発経緯」で三つが使われたが、要するに高炉型ではない。
    これでは「近江鉄のような鉄鉱石の溶融」は、そもそも物理的に無理であり、それは「砂鉄の砂鉄炉」では「溶解温度」と「還元剤」と「溶解容量」とが原理的にも合わないのだ。
    この爆発的な「需要量」に応え得る事は、論理的に無理な事では勿論であるが、取り分けそこには「還元剤」が「鉄」を獲得するのに無理であるのだ。
    現実には「鉱山産出と原鉱石にする量」は、この「需要」に応じたとしてもこれを「獲得する炉の開発」が必要であるのだ。
    上記した様に「砂鉄の三つの炉」は、原理的に無理であるのだから、何らかのこの三つ以外の原理的に可能にする炉の開発が「鉄の鉱山開発」とは別に同時に求めらていた筈である。
    其れでなければ「鉄」として進んだ「特性」を出す「近江鉄」は成し得ないのだ。
    そこで、大昔は「原鉱石」から風化で削られて河川に流れ着いてその鉄だけがその比重差で沈み込みそれを溝で浮かび上がらせて、これを浚って集めた鉄、即ち「砂鉄」のものである。
    然し、この「砂鉄による製鉄・1560度融点・蒸発最高点」である事からこれを「タタラ鉄」とも云われた。
    然し、その「タタラの砂鉄・ふいごを使った炉」には「弊害」と成る「高融点のチタン」を多く含んでいた為に、この「チタン」だけが溶けずにいて炉の出口を塞いだのだ。
    これが「砂鉄の進歩」を阻害した最大の欠点であった。
    然し、この対策として「考え出した炉・高炉らしき縦型炉の坑口」にも「詰まり」が発生し、結局はこの詰まりの為に「炉の崩壊」が度々起こり解決に至らなかった炉なのだ。
    これにより「三つ以外の炉形」は、“進歩に繋がる製鉄法”としては使え無かったのである。
    現在でも、ほぼ同然で、そこで、何度も「高炉での研究開発」が「青木氏部」で成されたが、結果は同然で、この「チタンの多く含むタタラ鉄」では無理で況してや、その「チタンの特性」を江戸期末期まで生かせずにいたのだ。
    「上記する元素」としては「同然の特性」を有するが、然し、「チタン」は「鉄を強くする五大合金元素」に含まれる可能性を持ちながらも、「利用」は「難・1668度融点」であった為に、現在でも「高度な真空電気炉以外」には「一般炉でも溶解をする事は出来ないのである。
    そもそも「チタン」は「鉄」より軽く「アルミ」より重く耐熱性が高く次の「鉄に代わる金属」と云われている。
    この経緯から当然に「古代のタタラ製鉄」は必然的に衰退して行ったのだ。
    そもそも「何処の砂鉄」にも、他に日本の地形の形成上から「ニッケルとシリコン」を含んでいるものである。
    然し、これ等は「高炉以外には取り除く事」が出来ずに「タタラ製鉄の砂鉄の欠点」として残ったのだ。
    そこで「伊勢青木氏の摂津」では、「砂鉄の縦型炉を改良した竪型炉」を開発したのだ。
    これでこれを機に「近江鉄を使える様な炉」を次第に開発したとあり、それが最後には室町期末期まで使われたとある。
    関東は砂鉄が少なく、「近江鉱山」を参考にして「鉱山開発」が「鎌倉期・室町期末期前後」から始まったとされ青木氏部は指導したとある。

    注釈 「鉄の融点」は「1560度・実質1230度で可能」とし、「高温では現実に蒸発が伴い爆発の危険性」があって、ところが、この「鉄」には「他の金属」と異なり、その「温度毎に特有の結晶構造」を持つのだ。
    それ故に物理的にこの高温は使えないのだ。
    即ち、それが「炭素の含有との相関」であり、「使用範囲の限界」は、「温度毎」に異なり、最低で「723度程度以上・オーステナイト結晶」に成る。
    最高で「1025程度にする事」で、「何らかの処理」で上記した「マンガン・融点1246度/鉄の限界融点1232度」との「相関関係」、つまり「鉄と炭素相関図」が成立する事に成る。
    この相関関係が成立する温度範囲で無くては鉄は使えないのである。
    この「鉄と炭素との各種の組み合わせ」により、「各種のセメンタイト・鉄と炭素の結合体が生まれる事」が可能と成るのだ。これ無くして鉄は使えないのだ。
    この“「融合と合成」”の為に、これが「比較的低い温度」の為に「上記の様な事」は可能と成る。
    だが、然し、逆に砂鉄の場合は、この「タタラのチタンの欠点が生まれ、利用は無理と成るのだ。
    故に、「砂鉄」は「平炉のタタラ炉」でゆっくりと行われる。
    その為に「炉の温度」に「低めの限界}があって、この「チタン」を溶かせずに、逆に「チタンの弊害・結晶」に対して「炉や加工品の破壊」などが頻繁に起こっていた炉なのだ。
    この「弊害・当時は理解されていなかった」を含有し、絶対に「物理的に不向き」であって、現在も「真空電気炉以外」には無理であるのだ。

    注釈 そこで、「前段の日野―松井―摂津の地理的往来の論」でも論じた様に、「朝廷」より「院屋号」で「殖産」を命じられた。
    この大和では「鉱山開発の経験」のないところで「伊勢青木氏の裔系」の「奈良期の殖産」として「因事菅隷」として開発されたのが、「古代の日本最初鉱山」の「大倉鉱山と高倉鉱山」等に依って採掘されたのだ。
    これが「近江鉄と呼ばれる鉄」であった。
    要するに「近江鉄・前段の砂鉄では鉄鉱石」であるのだ。
    これを使えばより多く、より「高温に溶かす事」が出来る事が可能に成ったと考えられる。
    「後の銃の試作生産時」には、即座に「青木氏部・摂津と伊勢の青木氏部の匠等」に依ってこの「近江鉄の原鉱石」と「高炉に近い竪型炉の使用」は、1400年代初期頃には密かに炉の原形が試されていたが、此れは既に奈良期からの試されたものであったと記録されている。
    この為に密かに逸早く「西洋」からその「炉の技」の原案理論は「貿易」で密かに持ち込まれていたとされる。
    「摂津・堺」では、これに基づき,「試験用」として速い時期からこれを選ばれていたと考えられる。
    そもそもそうで無くては、態々、この「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ鉄」”では無く、先ずに“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くすには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
    「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、それに近いものを採用したと考えられる。
    然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が既に「伊勢青木氏部]にはあったとされ、それには「関西で使われていた箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
    何故ならば,関東には日本形成事からの地質地形上で「砂鉄]は少ない地質であった。
    そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
    そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
    上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
    ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
    「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
    理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
    ところが、この「高炉説」を本名する事が起こっているのだ。
    「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
    やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
    この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
    この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
    つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が関東でも使われたと云う事に成る。
    全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」である。
    「近江」では「青木氏の炉・竪型炉」であって、「匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずいたみのが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされ、これを「竪型炉」としていたと考えられる。
    関東では「発展過程の炉」と云う事では無いか。
    つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に独自開発していた事を意味する。
    実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を炉の高い先端から投入する事が必要とする。
    専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は「高炉の原型炉」と云えるもので、「原理的」には同じ傾向のものである。
    つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていてこの「炉底」に「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
    最後に、炉全体を壊して「二種の鉄」を取り出していたのだ。
    これでは未だ使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
    更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
    この作業は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
    「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させべく長い間「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
    実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
    そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発」を試みたのだ。
    それが「縦型炉の改良の竪型炉」である。
    日本は最も高い効果を出す還元剤の製造には伝統の掟があって使え無かったのだ.
    それは先ず「石炭」を500度程度の蒸気で熱してコークスとして使えば最高の還元剤となるがこれが伝統で出来なかった。
    其れは超毒性の強い酸化硫黄の公害である。

    この原理の検証に続く。p48


    「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」に続く。


      [No.396] Re:「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/06/02(Thu) 09:44:52  

    「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」の末尾。

    参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
    この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
    従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
    そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
    故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
    この“「良い味」”には「高度な技術」が潜んでいたのだ。

    故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明であったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ[匠」にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
    他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、求めてめている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
    そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
    恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」に成る前の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。

    それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
    この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。


    「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」

    さて、戻して、そこで「鉄」に均等に「炭素とマンガン」のこれが“「結晶間に浸透すると云う現象」を上手く利用できていた”のではとする発想が偶然かは別として生まれて来るのだ。
    そもそも「進歩」などと云うものはそのキッカケは「偶然」によるものが多い。
    参考として、先ずその前に“「結晶とする知識の獲得」”は現実に「技術理論として把握していたのか」の疑問であるが、それは“「貿易か経験」”かで得られていたかは判らないが、それは実は「目視的」に解るのだが、故に外観的には「答え」としては“解っていた”と判断できるのだ。
    つまり、それだけの「経験力」とされを基にした「技術力」を周囲に比べて特段に持ち得ていた事に成る。
    何故ならば、その「試作の単片」を鏡の様に「砥石・日高砥石」の様な「超仕上げ砥石」で細かく磨き上げ、これに強い日光を当てれば「光の屈折」でうっすらとその「結晶の様子」が浮かび上がり、且つ、その「屈折」で僅かに「色合い・結晶の判別が可」も浮かび上がり観えるものである。
    これを更に「うすい2%程度の硝酸塩」に「2分程度浸して」それを拡大鏡で観れば凡その結晶構造まで観える。
    当時としては外国から輸入して「ある程度の拡大レンズ」はあつた事は解っているので、ある程度の範囲の「結晶構造」は観えていた事が考えられる。
    取り分け、前段でも論じたが「酸」の中でも、この「硝酸塩・硝酸カリウム・黒色火薬」は糞尿などを自然発酵させて変化させる事でも簡単に得られるが、故にその身近なものとして古代から既に「狼煙」などにも使われていて「火薬などの発達」と共に古代からあった。

    注釈 因みに 一般に聞きなれないこの「硝酸塩」とは、「硝酸類とアルカリ金属とアルカリ土類金属」との結合体の「塩類」で、古来から糞尿などから造られていたし、肥料にも使われていた最も人類に「身近な化学薬品」とされるものであつた。
    故に、「アルカリ金属類・リチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、フランシウム」と、「アルカリ土類金属類・カルシウム、ストロンチウム、バリウム、ラジウム、 ベリリウム、マグネシウム」であり、取り分け、「リチウムとナトリウムとカリウムとマグネシウム」は炎色の発火性を用いて「火薬等」にも広く多く用いられていて、従って「花火」と云う点では同然に「古代から身近な金属類」として扱われていた古い歴史を持っていたのだ。
    だから、上記の通り「鉄」を鍛える為に加えられる金属類としては身近なものであったのだ。
    上記で論じた取り分け「遷移元素のマンガン」は、「酸に溶けやすい金属」として有名で、性質は「野菜など採取できる身近な金属の亜鉛」にも性質は類似しいて、この「硝酸塩類」と共に古代から広く用いられている金属である。
    この様に後勘から観た「金属の歴史観・学問的知識」を承知すると、「銃の事」に関してにもより理解は深める事が出来るであろう。
    筆者は、大和に於いては「金属知識」は「局部」にではあるがそれなりに高くて広まっていたと観ている。
    それだけに「最先端の専門的知識」で以てこの様に検証する必要があるのだ。
    前段で論じた様に「奈良期から平安期」の「古墳建築や干拓灌漑」を手掛けた「額田部氏」の「土木建築工学的専門知識」は、唐に勝るとも劣らずの知識を持ち得ていたが、「金属」などの「冶金工学的な知識」や「額田部氏」と連携した結果から、「地質学的知識等」も「青木氏部」に依ってその知識は同然で高められて行ったと考えている。
    其の連携は、「青木氏部」は明治初期まで続いたとする事からその技量は「日本のトップクラス」にあったと考えられ、故に「近代銃」にまでのものに応用されるものであったのだと考えている。
    依って、明治初期の「伊勢屋の解体縮小の政治的圧力」では、「額田部氏の起業化・桑名」と「青木氏部の大工会社・2社・寺社大工」と共に「二つの企業化」を成したと成っている。
    然し、この辺の「青木氏部論の研究」も何時かは論じて観たいと考えて準備している。

    従って、この程度の事は「砥石の歴史・奈良期チャート」を観れば判るし、その「日高砥石」は技術の発展と供に歩んで来た経緯があって、その経緯は「歴史の技量」を物語る一品として有名で、「古代の何かの特別な技量」を物語るものには必ず「日高砥石」が出て来るのだ。
    歴史に使用されたものとして青木氏では長く保有して来た。
    これは「刀用だけではないもの」からも判断して技量の判定や確定に利用は出来るのだ。
    現在では、この砥石の代わりに「腐食液・2%硝酸ナイタール」を使ってすれば「顕微鏡等・最低で20倍最大で100倍」で万華鏡の様に綺麗に観えるが、故に、「顕微鏡」が無いにしてもこの「結晶らしき概念の概要」は密かに保有していた事が判るのだ。
    その事から「鉄と炭素とマンガンの関係の知識」とその「結晶的な概念」は「青木氏部」だけには充分にあったと経緯からすると確定できるだろう。
    ただ、この「マンガンに関しての知識」は「概念程度」で相関的な知識は無かった事は解る。
    尚且つ、上記したある程度の要領を記したものが、技量を統一する為なのか「要領書的な物」として「技量伝承の為」にか、「密かに氏人の床下に遺されていた形跡・世間に漏れる事を危険として嫌った」があって、「桑名地域の蔵の資料の一部」が読み取れるのだ。

    注釈 「明治35年伊勢屋解散・摂津に移籍」と共に「青木氏部」も解散し、一部が「桑名の額田」で工業所を創業、その関係する処の一部から資料が発見されている。
    この「多くの遺産物」は「失火消失・口伝・この頃の火事は疑問が多い」したと考えられるが、その様に伝えられている。
    それが前段で論じて来た「額田青木氏の銃の処の検証」であって、「古来・8世紀初期頃」には「近江鉄の生産703年と713年」は下記の通り歴史的に確認されている事から、そうすると「10世紀頃」には「伊勢青木氏」の中で密かにも硝煙は生産されていたと考えられる。
    その「名残の証」として「近江鉱山」に使う「火薬・焔硝の形」で遺されていたのであろう。
    その「名残」が「近江鉱山の近くの村」の「近江の床下・鉱山開発の爆薬」からも発見されていて、それに連動してか前段でも詳細に論じたが、偶然にもこの「要領書的なる物」が、「蔵等」では無く「思い掛けない所・神社の床下」から発見されたこれも「歴史的な由縁」なのであろう。
    つまり、この「発見カ所の床下」から考えると、この「要領書的な物の事・メモ的な物」は“何か特別なものとして観られて扱われていた事”を意味するだろう。

    そこで前段でも論じたが、歴史的には「天智天皇・大化期」には「朝鮮半島の百済復興」に出向き、それに「中国・唐」が朝鮮半島に進出し「白村江の戦い」で敗戦して急いで帰国し、「中国の大和侵攻」の“いざという時に戦える様に、“「中国道・現在の山陽道」を結城氏等に命じてこの工事を急いで完成させ造られたとする「歴史的史実」”がある。
    この時に下関の半島の先端からの「緊急の伝達手段」として「狼煙・焔硝」を使って都に「情報を伝える手段」を「構築・史実」したのだが、この事は既にこの“「焔硝」”は在って常時使われていたが、その為にこれは「皇親族」として唯一の「朝廷の国造の支配頭」をしていた「青木氏・青木氏部」で生産されていた事を示すものだ。
    故に、此の頃からの「青木氏部の存在」は、「近江鉄」に始りその時代の「技術的基礎・国の技術的基準」は「青木氏部」にあったと考えられ、当然に上記の事も含めて「硝酸塩の歴史」も「青木氏部」にあったと考えるのが普通であろう。
    つまり、この「顕微鏡」が無いにしても、この“「焔硝の存在」”に依って使っていたかは記録が見つからないので実録が見つからないので判らないが、“「結晶らしき概念の概要」”をそれなりに「鉄の表面」から、「より鮮明にして明確に確認できる環境に在った事」には成るだろう。
    筆者は完全では無くてもそれなりに使ってたと観ている。
    これは「奈良期からの青木氏部」には、「かなりの技術力が在った事」が云え、且つ、「氏族で独自の部・歴史的に確認できるのは四氏程度」を持ち、中でも総合力を持ち得ていたのは「青木氏部」であって、且つ、「朝廷の物造・国造の差配頭であった事」と「令外官・賜姓五役の事」からも裏付けられる事を示しているものだ。
    「青木氏部」は、要するに当時は「国の工学院的な立場」にあったと観ているが、「院号の確認」は古い為に資料がなく確定は出来ない。
    唯鉱山とその製鉄の技術を保有している限りに於いては技術の総合力を保持していたと考えるのが普通であろうし、青木氏部に比べて他に居なかったとすれば「国の工学院的な立場」の説は認められるであろう。
    況してや賜姓五役の令外官であったのだ。
    他に代わるべきものは無い事は頷ける。
    「青木氏部」の他に確認できる範囲では、記録として残る与えられた「院屋号」は「紙屋院、絵画院、墨具屋院、繪所預院,軍師処、等」が記録に明確に遺されている。
    この事から、一部資料からこの「鍛屋・かや」又は「鍛冶院・かぬやいん」と云う号名が出て来るがこれが「院号」では無かったであろうか。
    そもそも「青木氏部の位置・朝廷との関わり」づけから、この「青木氏部」の中にも「院や屋や号」に相当するものが必ずあったのでは無いかと観ているのだ。
    「近江鉱山を二つも興した青木氏」であれば何も無しはおかしく「院屋号」は少なくとも与えられるであろう。
    況してや「院屋号」を与えないと折角の鉱山の鉄もその販売も出来る事は無いだろう。
    現実にその「功績」を以て「伊勢」に「二度の大字」を与えられて功績を認められているのだ。
    「青木氏」は、自らも「青木氏部」を持ち、且つ、直接には「令外官」として「国造」を支配し、朝廷の「伴造」も「皇親族」として代わって差配下に置いていたとしている。
    故に、その名残として「光仁天皇」の以降は 「諱号」を「伴」にする事が多かったのだ。
    その関係する「青木氏部」の中の一つに上記した「鍛屋(かや)・鍛屋院では」と出て来る。
    この「鍛屋(かや」の号は、「近江鉱山開発の所縁」からの「院号・特区別占有権」を授かった「鍛冶屋(かぬや)の院、又は屋、又は号」では無いか。
    「鍛屋(かや)・「鍛冶屋(かぬや)」に「屋」が着いている処をみると、「紙屋院」と同様に「鉱山を掘る事」と共にそれを「売り捌くまでの事」に成っていたと云う事だろう。

    さて、再び技術論に戻る。
    その「上記の方法」でこの「概要」は少なくとも会得していたと考えられるが、この「炭素」と同様に、「記する処の筆者の読み込み」では、この「要領書的な物の存在」では“「光で映し出された粒の細かさが左右する」”として、その「光具合の技量」を会得していたらしく、それを「青木氏部の匠集団の中」で密かに伝えていたらしい事が解る。
    そもそも他と比べて珍しくも「青木氏の家訓10訓」にもある“「技術の重要性に関する事」”を説いているのはこの事に依る所以であろう。
    つまり「青木氏」の中にその「立場の関係者」のなかには「技量の伝承の義務」みたいなものが江戸期前までは長くあったのでは無いだろうが。
    余談だが、先ず、そもそも「家訓」に「技術の重要性」を説いているものは世間では皆無であろう。
    それだけに「商い・殖産」をしながらも、「技術の青木氏部の存在」が「伊勢と信濃の青木氏」の中では大きかった事を意味している。
    当時としてはこれでは普通で考えれば、世間からも“不思議な氏族である”と充分に観られていた筈だ。
    今で云えば、前段でも論じている事だが、“「販売」”もし、“「物造り」”もし、“「研究所」”も持つ「青木ホールディングス」であったのであろう。
    それでいて、一方で“「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷」”を重んじ維持し、将又、“「巨万の豪商」”と成りながらも、他方では“「質・施し」を「神明社」で施す”と云う処まで及んでいたのだ。
    一方では、“「律宗族」”と呼ばれ扱われていたとするのだから、その「歴史の中」にはその「独特の影響力」は深く「農業の分野」までに及んでいて、信濃と越後から進んだ技術を学び「伊勢の立地」からその「土壌と季節性」に苦手とされる「米の超早場米と酒米の開発・日本初」まで挑んでいたのだ。
    どう考えても、“不思議中の不思議の氏族”と普通に考えれば観られていた事には成る。
    確かに「奈良期の古来」よりその存在そのものが「普通」では無い事は間違いは無いが、これは前段でも論じた様に、「普通」では成り立つ事の無い「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷・院号の伊勢屋」と「賜姓族青木氏」の「二足の草鞋策を使い分けていた事の所以」である事は自明の理であるが、それが余りにも長い歴史を有し続けていた事から、これを世間ではこれが普通の事・当たり前の事と捉えられていた事に成るのでは無いかと考えられし、この事に就いてだけに明確に論じたものはないが、この説論は「流れ」や「状況証拠」から観て先ず間違いはない筈だ。
    だから、それらを纏められていたものが「家訓10訓」にも成り得ていた事は、“不思議な事では無い”し、そうでなければ「伊勢と信濃の女系氏族郷士50衆」からも異論は出て、「氏族存続・全ての事」のそのものが成り立たなかった筈だし、然し、「伊勢と信濃での連携」で成り立ってきたのだ。
    それ故に、当初、「青木氏の解明の研究」に苦労したが、「技術の重要性に関する事」は「大正14年」まで続いたと云える。
    その「科学の片鱗」が未だに「子孫の血液・理数系」の中に色濃くの遺し得ているのだ。

    元に戻して、“「結晶らしき概念の概要」”のそれは、「紀州姥め樫の備長炭・墨」では「細かい事」が良い事が解っていたからであり、それで無くては、“「良い品質の墨」からの「炭」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、略して、専門の呼称として「サイアナイド・浸炭効果」とこれを云うが,特殊な技術」が得られていたのだ。
    これを、“「浸炭としての効果」が出ない”として「青木氏部の中」では伝えて語られていたらしい事が書かれている。
    然し、「一般の技術・主に鈩鉄」では、“「良い品質の墨」からの「炭/炭素」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、「強く硬くすると云う概念」は全く無かったと観ている。
    唯、「幾つかの記録の表現」から「総合的」にあったのは、つまりは、「鍛して・叩いて強くする」と云う概念であったらしい。
    その証拠に「炭素の量」に「拘りの表現」が全くにして無いのだ。
    そもそも「鈩製鉄」では,「内炉の底にたまる鉄・0.10%程度・純鉄」と「炉外の炉低に流れ出た0.28%程度・低炭素」の「二つの鉄の塊」が出来て、それが「鉄表面0.2ミリ付近に侵入した鉄」が二つ出来るのだ。
    これを、“何度も加熱して鍛して折り重ねてそれを繰り返しで造った玉鋼」は出来るのだが、元より「炭素の量」に「拘り」が全くにして無かったのだ。
    ところが「近江鉄」は鉱山から掘り出した「鉱石」であって「砂鉄の箱型炉」では無く、新しく鉱石様に開発された「竪型炉」から出来る為に“「浸炭としての効果」を強く求めたのだ。
    両者の求める「技術の領域」が全く異なっていたとする「大きな技術の経緯」があったのだ。
    だから誰も真似は出来なかったと云う事があった。

    略して、「専門の呼称」としては「浸炭・サイアナイト」と成るのだが、要するに特別なのだ。
    この「一連の銃の研究」では、「約20年の試行錯誤の結果」から、その「温度に依って左右している事」を把握したとしていて、「内部の結晶・結晶の表現」としは、記録に無いが、但し、唯単に“「粗鉄・あら鉄」の「炭差」”の「意味合い」として記している。
    これは、況や、「鉄の細かさの温度に依る変化」として捉えていたと云う事に成るだろう。
    この様な「専門的な見地から記されている事」を要約すると、先ず「墨」の如くに極めて「粒を均一にして、更に「極めて細微」にして、それを先ず「熱・灼熱」して、「粗鉄・あらてつ・結晶を開いて」にして、これに「繰り返し」で「浸・浸透」させ、「鍛」し、これを以て「繰り返し」、その「技・熱処理」を施し、その後に「冷する」とあり、更に、不思議にその後に“「低く焼する」”と「添え書き」があり、「要領書・メモ形式的・古くて読み難い」に記されている。
    但し、この“「鍛」し”、は “「鍛える」”と云う「意味合い」だけでは無く、主に“「繰り返しの過熱」”に等しい「意味合い」で表現しているらしい。
    この「加熱を繰り返す事」に依って「墨、又は炭が浸みこむ事を促進させる」と云う意味合いで、“「鍛」し”、の呼称が使われていた事に成る。
    但し、この事は鈩鉄とは根本的違っている
    つまり、この事は近江鉄では「メインの作業目的」には、「墨、炭の量を微妙に調整していた事」に成るだろう。
    正しくは、この「工程」において「炭」では無く、最早、「細墨」を越えてであって、「炭素・Cの意味」を成している。

    それは次の理由による。
    1 加熱の炭
    2 鉄に付着している不純物の除去・還元作用・炉中で炭酸ガスに不純物は酸素に吸着させ、その代わりに炭素は鉄の結晶間に浸み込ませる。
    3 鉄にガス程に細かく成った「墨/炭素]を浸み込ませ浸炭する。炭では分子が大きすぎて浸みこまない。

    奈良期ではまだ「1の加熱炭」であったが、その平安期中期頃には「2の還元・入替」に気づき、平安期末期には「3の浸炭」へと進化を遂げた。
    兎も角も、上記の時期は捉え方で確定は出来ないが工程は次の様に推移して行った。

    「近江鉄の進化」=「1の加熱炭」→「2の還元」→「3の浸炭」

    つまり、この「20年の試行錯誤の経験」から、この前段でも論じた様に上記の数式の工程から既に「青木氏部」は、「墨の殖産の技術・墨・炭の経験」を持っていて、それを「高温に成る良質の備長炭の加熱材を使用した事」から、“偶然にも“「表面が少し固く成る事」”を知り得たと考えられる。
    要するに、「浸炭硬化」であった。

    ところが、その“「固さ」”と表現するものが、然し、実質のその特性は、“「硬さ」”であるのだが、これをより得る為に「何度」も上記の通りに、“「鍛する事」”と“「炭で加熱を繰り返す事」”で「得られる事」のこの“「三つの技」”を把握したのであろう。

    そして、「注目する事のもう一つ」は、その中には、「鍛する事の意味」が「鈩鉄」と違っていた事が理解した事が解る。
    この「鍛する事」で、「加熱によって拡大した結晶」が潰され、且つ、その「エネルギー」で「硬くなるの効能」では無く、「一度に炭素を継続して浸み込ませる技」よりも、「何度も加熱を繰り返す事の技」で、より「炭素を浸み量を増やす改善策」を見出した様であったが、これの進化が主であった様であり、その事によって「最悪の品質」を招く“「結晶の拡大」”を防いでいた様でもあり、その事が知っていたかは別として把握していた様だ。
    故に、この結果から、「要領書的な物の事の遺す重要性」があって記され、それにはその得られる性質を“「固さの表現」”と成ったと考えられる。

    然し、この「事実」はこの二つは下記の“「特別な現象」”で違うのである。
    さてところが、この“「固さと表現」”に付いて其の侭では、折角の“「欠点解消の処置が裏目に出る」”と云う経験をして仕舞ったのだ。
    この後で「収縮や変形や亀裂や炸裂等」の好まない「欠点の事・ロ」の顕著の特徴が、恐らくは、「試作中・試撃ち等か」に発生したのだと考えられる。
    つまり、文章の行を読み取ると、「何の為の試行錯誤経験か判らない事」が起こって仕舞っていたのであろう。
    故に、将又、更に「試行錯誤の経験・やり直しの過程」に入った様だ。
    兎も角も、工程を元に戻す為に行った「低く焼している事の過程」で、この「欠点の事・ロ」が何故か「消えて治っている事」に気づいたのだろう。

    これが、要するに“全ての熱を掛けて仕上げた物”に、もう一度矛盾するかの様にその「熱の影響を除去する為の熱の処理」が必要とする事に気づいた事に成る。
    これは当時としては当に「原理矛盾」である。
    ところが、それが,現在で云う「テンパーリング・応力除去の概念」と云う「高度な技術」なのであって、それを知らずか獲得していた事に成るのだ。

    抑々も“この世に於いて固くはなるが硬くもなる”という事は、この「自然界」に於いては原理的に無い。
    その“「硬くなったもの」”、そのものには、この世に於いて「一般的に得られない事象]であって、その「事象」を知っていて恣意的に人間が造り出さねばならないものである筈だ。
    従って、この様に「作り代えたもの」には、“何某かの次元変化を興させねば元には戻らない”筈だ。
    それが適用されたのが、この「金属にのみ発生する原理矛盾の熱処理」なのだ。
    故に、その上で結果として“「要領書的な物の事」”に示す様に「原理矛盾の技術理論」を纏めて遺し確立させ獲得したと考えられる。

    ここで、この“「固さと硬さ”に関する検証・概念では大きく違うのだが、然し、この「概念の解決」が必要と成ったとみられる。
    現在から観ると、先ずその概して云えば、その“「硬さの概念」”はこの事で完全とは云えないまでもある程度に掴んでいた様である事は認められる。
    然し、これを専門的に観れば未だ「大きな未熟の一点」としてあった事が確認できるのだ。
    つまり、それは此処では、当初、何度も「加熱―鍛えー再加熱ー冷しー繰返し」の「五つの工程事で得られた特質」と考えられていた様であるが、実はこの「昔の概念」は大事な処が一つ抜けていて違うのである。
    確かに、この「五つの工程事」では、「鉄」がある温度に依って「炭素」が偶然に「結晶」に浸み込み、それが「結晶の縁」に「浸み込み」が起こり、それが「鍛される事」で潰れて「原形」より「薄く」なり、これが「繰り返される事」で要するに「固くなるとする一般概念」として受け取られていたらしい。
    ここが違うのだ。
    これは降る程度の範囲では確かである事は完全に否定はしないが、然し、実はこれは“「固さ」”の「直接的効果」では無いのだ。
    飽く迄も、上記した様に冶金学では此れは、本来は上記した様に“「固さ」”なのであるからだ。
    ここには、何故ならば“「本来の硬さ」”から来るものには、必ずこの「自然界」では観られないある“「特別なあり得ない現象」”が起こっているものなのだ。
    これが起こっている限りは“「固さ」”では無いのだ。
    これでは、この時代では未だ当に「獲得し得ていなかった概念である事」は成る。
    それは、これには“「固さと硬さ」”に関係する「大事な結晶理論に伴う事」が起っているからなのだ。




    これは、「結晶の概念」に付いては、当時としては未だ“「鉄の細かさの温度に依る変化」”としてしか「概念」が無かった事の所以」なのだが、従って、それをこの「記録」では“「粗鉄・あらてつ」”と記されている所以でもある。
    “「粗鉄」”はで飽く迄も「鉄の域」を超えていない。
    「鉄」を「粗い」と「細かい」とに分類しているだけであってこれには「結晶の大小の概念」がない。
    要は、「鉄」には「粗い」と「細かい」ではなく、“「結晶の大小の概念」”が必要なのである。
    “「鉄の粗い」”は、必ずしも「結晶の大きい」に相当するとはならないのだ。
    何故ならば、「鉄の粗いの定義]としては、これには「均一性」が無く、この「粗い」の中に「細かい部分」も含んで「粗い」としている。
    「鉄」は「使用」に際しては、“ほぼこの「均一と細かい」で無くては使用に際しない”のだ。
    従って、「鉄」には「均一と細かい」が必ず求められ、この「均一」に「不均一としての不純物」が介在していればそれが阻害して「均一・又は均一性」は得られないのだ。
    故に、「不純物の除去。還元」が求められたのだ。
    結局は、「粗い」と「細かい」ではなく、それは「結晶の大小の概念」が必要と成って来たのである。
    何故ならば、この「不純物」は、この「結晶間」に存在するからだ。
    この「結晶」を小さく求めて行けば結果として「不純物」の「ノロとスラジ」も消えて行くのだ。逆の事も云える。

    処で、この「鉄の中]で、この「結晶を小さく求める事」は並大抵の事では無いのだ。
    「鉄を加熱する事]はそれは粗くなると云う定義に成るのだ。これを繰り返せば繰り返す程にその粗さはより増すのだ。
    「鉄の工程」としてはこれは「論理矛盾」である。
    「温度」を上げれば挙げる程に「結晶」は大きく成り、時間も長引けば長引く程に大きく成るし,その分だけ「鉄」は「結晶間の力」が弱く成り脆く成るのだ。
    ではどうするかであるが、この「鉄」には「ある特定の限定された温度域」で「適度に加熱する事」で「細かく成ると云う事」が不思議に起こるのだ。
    これは「論理矛盾の解決」である。
    この神が与えた「特定の温度」を把握する必要があるのだ。
    そうでないとそもそも結晶間に存在するものは何であれ「弊害物」と成り得ても脆く成るのである。
    これを「無弊害物」にしなければ成らず、同時に強くする物質に換えなければならない。
    ではそこでこの「結晶間に浸み込んだ細かい炭素」は、「不純物」として成り「炭素の効果」を発揮しないのだ。
    寧ろ、普通の理論では「浸みこんだ炭素」が逆に概して「結晶間の間」に入った「不純物」として「鉄の表面強度」を弱くして仕舞うのだ。
    結果として場合に依っては「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に全面に走るのだ。
    故に、当時としては「炭素」は「不純物」と観ていた筈だ。
    然し、ところが「加熱材」として、又「還元剤」としても使わなくてはならないのだ。
    「鈩製鉄」の「玉鋼」は、当に当初よりこの概念の中にあるが、「703年と713年の近江鉄」では「鉄鉱石」であって、ここから原鉱石を溶かして「鉄」を引き出し、「炭素と石灰」を使ってその反応強さで結合させて「各種の鉄を造る事」に成るのだ。
    故に、「玉鋼」だけには限定されていない。
    「不純物」と観られているこの「炭素」は、「近江鉄」に執つては逆で、つまり、「炭素と石灰」を使う「竪型炉」に執っては「必需品」と成り得るのだ。
    但し、この「近江鉄の竪型炉」に執っての必需品には、飽く迄も「不純物」である以上は「難しい限度」があるのだ。

    故に、「結晶間の不純物」と観られている「炭素の存在」は「鉄の性質」に大きく左右するのだ。
    従って、「鈩鉄」に比べて「近江鉄」ではその特徴を掴めば歓迎されていたと考えられる。
    とすると、この歓迎されている以上の「近江鉄」には、「不純物視」されていた「結晶間の炭素」を「コントロール」していた事に成り、逆に「炭素の少ない鉄・やわらかい鉄」から「炭素の多い硬い鉄」を生産する事に進化を遂げて行ったと考えられる。
    ところが上記した様に普通で考えれば「不純物」である限りは「近江鉄」には「限度」が存在する事に成る。
    この「限度」を掴まなくてはならない。
    それも「結晶間」に存在する限りは「破壊」に繋がるからだ。
    これを「青木氏部」は絶対に掴む必要があった筈だ。

    さて、もう一つこの“「限度」を掴まなくては使え無い”という事が起るのだ。
    そこで、それが「鉄」である限りは、先ず「加熱と冷却の熱処理」をすることが求めらる。
    「炭素量」が多く成れば成る程に、そもそも「炭素」が基本的に「不純物」である限りは相当に鉄の純度を上げない限りは「熱」に依って存在する「結晶間」で破壊するのだ。
    では、この「ノウハウの知識」が進んでいない以上はその限度の数値は「偶然把握」であり、どの様に「偶然の一致」がこの「近江鉄」に起こっていたかである。
    学問的に研究調査で後に判った事ではあるが、この「不純物の炭素」の「鉄の結晶間」に浸み込む程度は、「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」でこれは定まっている事に必ず気付くのだ。
    だと云いながらも、現実にはどの様にその限度を調べるかであってその方法が源るられていた筈だ。
    「最低で0.25%程度」、「最高でも1.3%程度」で限度は発生する。
    この「高い炭素」の場合は、「炭素の弊害」を無くす為の「特殊金属・マンガン等」を加えなくては使えないのだ。
    これは現在で判った知識であって、当時は「採取できる鉱石」に自然に含まれていてるもので、その量も決まってくるのだ。
    資料を読み取ると、「炭素」ではある程度の量で、それを「酸化する程度」で把握していたらしい。
    「マンガン」では含まれる「自然量」は、「鉄に含まれる金属の量」で「自然と鉄の反射色」が変わって来るので判る。
    採掘場所で異なるので、ここの「マンガンを含んだ鉱石」は「錆び難い鉱石の事」で判るし、「還元」を強くすると「炉の入り口に溜まる量」でも判るのだ。
    これで「鉱石を選んでいた事」が書かれているが、「炉の入り口に溜まる量」を集めて炉中に入れ直しても使えないのだ。
    何故ならば、「マンガンの融点」が高い為に「鉄の中に溶け込まず遊離して存在する事」に成るので、結局は不純物に成り破壊に繋がるのだ。
    従っても「マンガン等」は明治期の高炉でやっと使える様に成った事が書かれている。
    戻して、「炭素の量」はマンガンなどが除去された後の「酸化程度」で見極めていたらしい。
    その証拠に古来では、「箱型炉の炉低外に流れ出た鉄」は、「深い船底の様な穴」に流し、そこで先ず「微粉末の炭」に包んで保護していた事が解っている。
    これは「酸化を防ぎ目的」と、「炭素を表面に浸み込ませる目的」で行っていたものであるらしい。
    これを「二度目の加熱」で更に「炭素を浸み込ませる目的」であったらしい。
    最高で四度も「製鉄加熱」を繰り返していたらしい事が書かれている。
    これは当に飽く迄も「酸化防止を目的」とした「炭素の量の浸炭目的であった事」に成る。

    この「近江鉄」を「青木氏部」が「鍛冶院・かやいん・かぬいん/鍛冶院/かやいん」として「号」を以て扱う以上は、この「数値」を掴む必要に迫られていた筈だ。
    少なくとも、「自然の摂理の概要」に左右されている程度の事を「平安期中期」までにはその歴史的経緯から逆算して観て知っていなければならなかった筈だ。
    そうで無ければ当時としては、「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」も「偶然の自然の理屈」で決まっている以上は、つまり「論理的な理屈では導き出せない事」から下記の「温度域・723度」をも把握できていない筈だ。
    「近江鉄」は下記の「温度域・723度を使えない事」に成っていた筈だ。
    ところがこの「温度域・723度域を使う事」で解決するのだ。
    根気いる実験しか無かった筈だ。
    然し、結果論から「1540年〜1550年頃」には、最早、この「温度域・723度」は「銃の欠点克服の為」に「試行錯誤の上」で掴んでいた事に成る。
    この「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」に直接影響している“「鉄の理想的な結晶間の炭素量」”の「温度域・723度」であって、此処にだけに“「共析鋼」”と呼ばれる鋼にある事を、概して少なくとも掴んでいた事に成り、逆の事も云える。
    完璧な「偶然の自然の理屈」で出来る表の様で無くても「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」では、“それなりの「ポイントの繋がり」”としてを掴んていたと考えられる。
    それは「竪型炉の加熱時の備長炭の墨」の「木炭の加え方」と「石灰の投入の仕方と量と質」に「ノウハウの源」を府詰めしていた事に成る。
    少なくとも「無秩序な木炭と石灰の加熱と量」では得られないと心得ていた事に成る。
    これは「匠の極めた範囲のノウハウ」であったのかも知れない。
    これ等の事は「青木氏部」に秘かに引き継がれていた事に成る。
    だから、「鎌倉幕府に竪型炉による製鉄方式」を求められて「関東の鉱山}に拡大する事が出来たのだ。

    注釈として「伊勢本領安堵」の秘密裏に駆け引きに使われた事が考えられる。
    前段でも何度も論じたが、「青木氏部」から廻していた「鍛冶師の日野」の「ノウハウ」を薩摩藩等が秘密裏に「引き抜き事件」が1550年代に起きたが、この時には「伊勢の指示」に従った「日野の職人」の殆どは「伊勢の指示」に従い「伊勢」に逃げ帰って「青木氏部」に戻った事件があった。
    それ程に、「青木氏部の保有する銃の生産のみならず製鉄のノウハウ」にも興味が集まっていたのだ。
    取り分け、「近江鉄の4つの鉱山の製鉄」には「竪型炉のノウハウ」も含めてこれらは「鍛屋院の青木氏部」しか持ち得ない「製鉄ノウハウのかたまり」であったのだ。

    それにはどうするかであるが「以下の事」が同時に考えられていた筈である。
    「鉄」には「特徴ある特定の温度域」で突然に細かく成り、同時に不思議に「結晶」は丸く成り、「鉄」は四方からの負荷力が均一化して強くなると云う特徴を持っているのだ。
    その「加熱温度」が「600度〜650度」と限定されているのだ。この温度域に結晶と炭素に限り起こるのだ。
    これも偶然の原理でこの「不思議な温度」なのだが「不思議な温度」だけに色々な名で呼ばれている。
    「微細化温度、球状化温度、均一化温度、応力除去温度、安定化温度・・・等」の「全ゆる熱処理」で起こった欠点を克服する温度でもあるのだ。
    現在では結晶に限り「再結晶処理温度」とも云うのだが「金属の熱処理」としては、丁度、「中間の温度域帯」に位置するのだ。
    然し、この「金属の熱処理」の概念は「近代の新しい目的」から来た見つけられた熱処理で過去に於いては其処まで金属に対しての必要性も無かったであろうし、判らなかったであろう。
    では、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」に、ではこの“「特徴ある特定の温度」”で処理すればよいか”と云うと、問題と成るのは、“どの工程で行うか”によりそうでもないのだ。
    要はその効果の問題である。

    先ずその前に「この概念」はそもそもが未だ把握していなかったであろう。
    先ず「処理」が難しすぎるからだし、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」の「目標達成」には意味が大きすぎる。
    そこまでしなくても、ほぼ「額田青木氏に与えた銃の欠点除去の目標」は達成できたからだ。
    それは「近江鉄」が使った「竪型炉」から得られる「鉄鉱石」には、「特徴ある特定の温度域」は何も必要としないのだ。
    従って、下記にその「温度域・723度・共析鋼」を記しているが、偶然にも「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に走る事は起こらなかったのだ。
    だから、この「要領書の粗いの表現」からして書いた時のものは「完成時の物」では無い気がする。.
    「偶然」にも「凄い温度域」をこの「近江鉄」で見つけ出したと云う事だ。
    侭さに上記した「偶然温度」であるのだ。

    先ず「鉄の不純物」にはある「物理的な特徴・比重差」があって、これを「攪拌する事」で一か所に集中する性質を有するので、これを「く字型の道具」で取り除く事は「鉄の場合」は比較的に容易であるのだ。
    唯、「鉄」に科学的に付着しているものには、「石灰」と「木炭に依る炭酸ガス/加熱材にも成る」で「還元する事」で可能であるのでこれは一般の製鉄の工程通りである。

    以上の“「不思議な現象」”では、当時に於いては当然に「この概念に到達する確認できる術も無かった事」も頷けるが、さてだからと云って完全に無かったかと云うとそうでもないのだ。
    そもそも放置できない事だからだ。
    それは何度も論じている様に、これも“「紀州産備長炭の特徴」”にあったのだ。
    これをその「産地の紀州の藤白地区」から運んで来て、この「砂鉄」の「鈩製鉄手法の箱型炉」を、先ず「箱型」を「縦」に向けて、それを改良して、「炉溶温度」を上げられる様にし、それに合わせて改良を重ねた「竪型炉」を態々造って使っているという事なのだ。
    「鈩製鉄」の様に、単なる「木材」を「炉」に投入してそこから時間を掛けて「木炭」にしてでは無く、この改良した「竪型炉」では既に先に「備長炭」にして炉中に投入してから使っているのだ。
    「木炭」に成るまでの「無駄な時間と工程」を省いて直に「木炭効果」を上げる事で「木炭による還元反応」を高めた事と、「木炭(備長炭・墨)」を「鉄の表面」に浸み込ませて「硬く錆び難くする改良」を重ねたのだ。
    それは「鉄の表面層」に「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭・炭素」が幕の様に成って「浸みこむ事」を掴んだからである。
    「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭の炭素」は、化学組成上は「錆びない物質」であるからで、「錆びる鉄の物質」の表面層上にこの「錆びない物質の侵入」があれば、結果としてそれが「障壁」と成って「錆び難い物質」に代わる筈である。
    これで先ず「浸みこんだ微細炭」で「目的の一つ・錆び難い物質に変質」が達成されたのだ。
    序でに、他の「二つ目の目的」を先に云うと、この事は同時に“表面が硬く成る事”であり、この「硬く成る事」に依って「二つの原因(炭素が変化して硬化する=炭素が表面硬化を起こす」を起こすのである。
    更に他の「三つ目の目的」を先に云うと、この事で“表面が硬く成る事”で「摩耗性」が向上する事である。
    そして、この「摩耗性」が向上する事にも「二つの原因」が起こる。
    それは「炭素の高い滑り性と高温での結晶が変わり鉄組成の変化」があり「表面」は硬さで強さで改良されるのだ。

    注釈 そもそも 「還元反応」とは、「鉄」に外の物質が化学組成上で付着していれば「鉄」からこれを剥がさねばならない。
    これには化学組成上の結合である以上は、化学的に剥がさなくてはならない。
    この剥がす作業には「二つ」あって「酸化と還元」であるが「酸化」は「相手」も傷つけ壊して剥がす。
    相手に傷を着けないで剥がすには、この「還元」で付いている部分の化学組成に反応させてそっくり剥がして自分の方に付着させる手法で、これを使う。
    これらの事を科学的に把握していたかは別として何らかの形で使っている以上は古来から把握していたと云う事だ。
    一部の資料では「自然界に起こる偶然の結果を見習ったという事」であったらしい。
    その証拠に当初は加熱するのに「藁」を使っていた事から獲得したと観られている。
    「加熱の藁」は燃えれば「灰」に成り高い還元の効果を発揮する。
    これが「石灰石」に匹敵したのであろう。

    この手法の「良悪の問題」は、ここにあって「期待する効果」がそれだけなのかである。
    つまり、そもそも “何故にこの「細かい紀州備長炭の墨」が良い”と判断していたのであろうかである。
    “何かが在ったから良いと判断していた”のであろう。
    そしてこの「難しい疑問点・細かい墨」に、言い換えれば “「青木氏部の技術の概念」がここに到達できていなかったのか”である。
    その「答え」は、実は当初は青木氏部も“完全には到達できていなかった”のだ。
    何故ならば、この“「細墨の疑問」”に就いては、そもそもこの“「自然界」”に存在しない“未来の現象であって難しすぎるから”であった。
    これは「当時の事」としては「当然の事」であろう。

    そこで、“ではどの様な事の「未来の現象」が起こっていたのか”である。
    これを解く事が少し専門的で難しいのだし忘れ去られる可能性が高いが、「青木氏」がこの様な「銃と鍛冶屋院での鉱山開発の事」に関わったのだと云う事の「青木氏の将来の為」に誤解を恐れずにここで出来るだけ判り易く下記に解いて遺して置く。
    そもそもこのような立場に置かれていたのは当時としては「910程度の氏族」の中で唯一であったろう。

    確かに上記した様に、「五つの工程事」の様に、“「何度も鍛える事」”で「鉄」にはある「一定のエネルギー」が加えられ、その「エネルギー」が「鉄」に「何かの形」で残る筈である。
    この事で、この場合は確かに「要領書」に記されていた“「固さ・A」の概念”であって、それは確かに先ずは増すのだ。
    そして、「通常の鍛えた鉄物」は、確かにこの“「固さ・A」の概念”は先ず得られる。
    ところが、「火縄銃等の殆どの鍛物」のものには、この“「固さ・A」の概念”では済まされない何かが出ているのだ。
    然し、此れでは上記した「火縄銃等を含む銃に起こる欠点」を補えていないのだ。

    ところが「額田青木氏の超近代銃」に施されていたこの“「硬さ・B」”では、
    「紀州備長炭の炭・細かい炭素」と、「数度に鍛える事・加熱の効能」と、
    その「事の時間と温度」の“「三つの要因」”で、
    この「炭素の量」が“「結晶間に残る量」"としては増えるのだ。
    当初は「炭素が結晶間に残ると云う概念」がそもそも無かったであろう。
    それも「炭素」であり、この「細かい炭素」が鉄の中に残ると云う概念が無かったと考えられる。
    「途中の段階」までは “「鉄に浸み込んだ」”と云う風な程度に思い込んでいたらしい。
    でもそうだとすると、「鉄の何処に浸み込んだと思ったのかである。
    当然に「結晶の間という事」になろうが、この「結晶の概念」がそもそも低かったのであるからどの様に考えていたかである。
    ところがこの段階でも未だ「鉄が結晶の網」で出来ているとは思っていなかったらしい。
    「鉄」の何処に浸み込んだと認識していたのかである。
    餅の様にところどころに浸み込んだ程度で在ったのだろう。
    “水に墨が黒く浸みた如く”と思っていた様な事が書かれている。
    初期では「鉄などの鉱物」を「粘土の様な固い物」と同じと考えていたらしい。
    ところが、その途中で、「結晶の概念」を“何となく獲得した時」”があったらしいのだ。

    それが顕著に考えられる時期が来たらしい。
    それは「炭素」が浸みこむと鉄の表面の色が灰色に変化する事に気が着いたらしい。
    要するに、“「光の屈折”」で色が変化する事の認識を獲得した時であろう。
    この事は当然であり、「浸透した結晶間」の「難しい疑問点・細かい墨」、即ち、「炭素」が「光の邪魔」をして、その「炭素の結晶間での凹凸」で「光の屈折率が違う事」が起るがこの時の様だ。
    当にこの時に「結晶と云う概念・網」を「鉱物の鉄」に対して持ち得たのであろう。
    この「概念の取得」が「近江鉄の鋼の最も良い使い方」であったのだ。

    注釈 「結晶の語源説」には明治からの新しい学問であった為に外国語説が多いが、その言葉は元は「結晶」では無く「クリスタル」であり、ところが日本では違うのだ。
    「結晶の字形]から判断してでは,“三方からの「太陽の光」が結んだもの”としてあり、それは「石英・酸化シリコンの結晶」として判断していて、それが昔からある身近にあった「透明の水晶・シリコンの結晶」であったらしい。
    この「水晶」に当たる「光の行方」を観て定義したとする説もあるのだ。
    当に定義とするには「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」は「日本古来から存在する大変多い古来の宝石」として扱われそれの定義は適切である。
    筆者は、古来の人は、日本列島は地質学上で「石英列島」であって、山を歩けば直ぐに見つけられる結晶体である。
    この身近な何処にでもある「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「概念・認識」の根底にはあったと考えていて、だから、「鉱物の鉄」に含まれた「結晶間の炭素の屈折光」には、この「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」を観たのでは無いかと考えている。
    因みに、「ひすい]も「こはく」もこの「シリコンの石英の結晶体の一種」でその中に含まれ「微量のアルミかナトリュウム」かの違い色合いは起こるのである。
    この「珍しい事」による「宝石」とさせれる「結晶」は、殆どは「樹液や石や植物等」が地球の地下深くでの圧力で固形化したものでこれを「宝玉」と呼ばれる事と成ったものであり、「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「鉱物が結晶化して宝玉」となったものは少ない。
    況して、故に当初は「鉄と炭素の結晶化の認識」は無かったであろう。
    実は、「たたら製鉄の箱型炉」の「炉外底の炉池」には「溶融鉄が流れ出して来るシステム」と成って溜まるシステムとなっているが、この「炉底池」に「炭」が敷き詰められているのだが、これは、「鉄と炭素の結晶化の認識」からではなく、「高温の鉄の酸化を防ぐ目的」で上と下から「炭」を蒔いて覆い「酸化を防いだ事」が解っている。
    これ即ち、「炭素は「鉄の結晶に浸み込ませる目的」では無かった事」を物語っている。
    「炉中底」にも一部残った「溶融の鉄」もこの炭が敷き詰めた炉外底に最後は流されるのだ。
    つまり、「炭」は「酸化を防ぐ目的」にあった事に成る。
    だとすると、此れでは「酸化の認識」はあったとしても、その逆の「還元の認識の定義」を高める事の例に突きあたらないのだ。
    「箱型炉の鈩製鉄」にしても、「竪型炉の近江製鉄」にしろ「鈩では炭」、「近江製鉄では石灰石と炭」を「還元剤」とする化学反応を明確に意識して使っているのだ。
    ところがこれでは「還元の認識の定義」を高める事の例に合わない。
    それは「酸化」より「還元」の方が「常識」であったのかであるがそんな事は無いだろう。
    「確かに害の無い還元」であったとしても、「何れの製鉄」でも使っている以上は認識はあった筈である。
    「鈩製鉄」では、「加熱材」として「藁と木材」を大量に投入し炉の中で熱を籠もらせて投げ込んだ「砂鉄」を溶かす。
    その結果として「藁と木材」は、「灰」と成り、この「高温に成った灰成分」は「還元反応」を結果として招く。
    これが「メカニズム」である。
    飽く迄もこの時は“「加熱材」”であって“還元剤」”では無かった事に認識は成る。
    つまり、「還元の認識・概念」は当初は無かった事に成る。
    ところが、対比する「近江鉄の竪型炉」では、「加熱」は「木炭」で、「還元剤」として明確に加熱材を兼ねない「石灰石」を投入しているのだ。
    勿論、「木炭」であれば高温に於いて加熱中に先ず炉中で「鞴の酸素」と反応して「一酸化炭素」と成り、これが「鉄の表面」に反応して初期には「還元剤」として働くのだ。
    これが更に「加熱」が進むに従って、この「石灰石」が「溶融・900度」して「還元反応」を起こし「科学的な還元」を本格的に起こすのだ。
    その為には「竪型炉」はより溶融点を挙げる必要があって「改良の必然性」が高くなった一つなのだ。
    そこで、何故、突然に「石灰石」に意識が飛んだのかという事である。
    それは恐らくは、「鈩製鉄の箱型炉」に使う「加熱の藁や木材の灰」のその「効果」が大きく、その「灰」の「加熱の末路の凝固」の中には「炭酸カルシウム等・白い粉の塊」が多く含まれ冷えると凝固し当初は「邪魔物」として扱われていた。
    ところが「鉄鉱石に着いている付着物の撤去・邪魔者」は、結局はこの「白い石の灰の塊」にあると認識し、これが「還元」として働いているのではないかと云う概念を持つに至った筈だ。
    だとすると、「白い石の灰の塊」を獲得する為には、「青木氏部と額田部氏の協力」を得てその「専門知識」を生かして、その「山の同じ成分」と観た「山の石灰層の切り崩し」にあると観たのではないだろうか。
    「消石灰の原料」は、「石灰石・炭酸カルシウム)」である。
    この「石灰石」を砕いて「炉」で加熱した後に、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来るのだ。
    だとすると、「白い石の灰の塊」は、要するにこの“「消石灰」”である事に成るし、恐らくは「骨粉などの苦土石灰」も使っていたと考えられる。
    要するに、「石灰石」=「消石灰」=「白い石の灰の塊」として繰り返し砕いて使えば「還元効果」はより生まれる所以である。
    これはこの段階で、これは「竪型炉」に改良してそれに依って「溶融温度が高くなった事」に依る効果であって、その時に「還元と云う概念」をこのでの実績での事で明確に持ったという事であろう。
    そもそも、これは「箱型炉では得られない概念」で、「竪型炉で得られた概念」であった事に成る。
    つまり、これが年代的に竪型炉の開発と近江鉄の開発の「703年と713年と云う事」に成るのだ。

    注釈 「苦土石灰の成分」は、要するに貝粉や骨粉の堆積であり、「炭酸カルシウム}と「炭酸マグネシウム」が主な成分であり、 これに対してこの「消石灰の成分」は、「水酸化カルシウム」が主な成分である。
    何れも「日本列島の成り立ち」から無限にあって積極的に使ったと考えられる。
    ところが、「石炭」は、これに代わるものでありながら「古来」より列島にはその存在が多く認められて使われていた記録がありなから、それが「最大の加熱材」で、且つ、「最大の還元剤」を兼ねているのに「歴史・青木氏部」は何故か使われていないのだ。
    その「原因]は当にその「有毒の硫黄・亜硫酸ガス」であるからだ。
    この「石炭の硫黄」も、この「石灰石」を砕いて炉で加熱した後、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来る様に、同じ工程で「石炭も石灰」も元は地球上の生物の化石であって、故に「全く同じ工程」を踏めば出来る筈なのだ。
    これに依って「無害の石炭・コークスの名称」が得られ、「石灰=コークス」として使えている筈なのだし、「技術が無かった」と云う事では無いのだ。
    然し、この処理も知り得ていて敢えて使っていないのだ。
    何か「宗教上の掟」に依るものかであるが、それも記録が無く、この「記録}が特段に無いと云う事は他に「有毒の硫黄」の「宗教上の掟」としか考える事は出来ない。

    そもそも、その温度は「500度」だが50度+のそれだけの違いであり、これは全く「技術の有無」ではない。
    要するに処理後の呼称は「コークス」であり、それでも使わなかったのだ。
    「石灰石の処理」を知っていた限りは使えた筈だ。
    「明治期の高炉」までこの「コークス」は頑なに使わなかったのだ。
    それは「石灰石」などで「還元」は充分であったと云う事かもしれないが、然しながら「還元力」は、兎も角も高い温度が得られる「加熱材」等の「三つの高い効果を持つ」のには、現在もこれに代わる物は無いのだ。
    後は「青木氏部」である限りに於いて「積極的に使わなかった事」が原因して後世に於いて後段で論じる「神に捧げる物の定義」に扱われたのかである。
    つまりは、これが「鈩鉄と近江鉄の違い」から発生した結果かである。

    さて、話を戻す。
    「結晶論」の此の“「結晶間に残る墨量・炭素の量」”の「鉄の結晶間の縁だけに増えた量」が、「鉄の量」に対しては、「炭素・0.8%」に達した時に初めて、“「ある変化」”が「鉄の結晶間」で起こるのだ。
    理屈ではなく「自然が造り出す原理」である。
    何度も経験しなけれは得られないし「自然が成す基準値」である。
    これが当時としては、最大限に「難しい疑問点・細かい墨」であった筈なのだ。
    それが起こったのだが、「青木氏部」に執っては「何事も驚きの瞬間」であったろう。
    そもそも、それが何が起こったのかである。
    更にどんなに条件が整ったとしても、唯一つは“「墨・炭素に成る為の細かさ」が細かい”と云う点で、これも「偶然の事」で起こっていたのだ。
    唯、「細かい炭」であれば起こるという事ではないが、その“「細かさ」"が得られる「偶然の墨」だったと云う事だ。
    その確実に起こり得る「加熱中の偶然温度」が、何と不思議に、どんな条件でも“「723度・変態絶対温度と云う」”と云う点に限定されている事に成っていたのだ。
    つまり、この「温度に達した事・723度」で、「鉄と炭素」に、つまり、「細かい事の幾つかの偶然の条件」にある“「不思議な一致の偶然の変化」”が起こったのである。

    その“「723度」”は、「温度計」が無く、それも「高温」のものを計る事が出来ない時代に於いて、どの様に確認したのかであるが、この「不思議な偶然の事」が起こる「限定した鉄の温度」を覚えて置く事で可能と成ったのだ。
    これは「723度と云う特徴ある温度」である以上は、一度観ると忘れない「鉄の表面」が、「“波打つように輝く橙色”をしている」と云う色の特徴を持っていたのだ。
    これは何故起こるかと云うと、“「723度」”の「鉄の内部」では「特別な変化」を興す為に「色判定」には「ある5度程度の範囲温度で安定した特徴」を示したのだ。
    概して、先ず上記した持ちづらい概念の「鉄の結晶」には、「高温」に於いて「3つの色々な結晶構造」があり、それは「温度と鉄と炭素量」に左右されているのだ。
    そして、この「不思議な723度」がその「全ての鉄と炭素の結合点」であるのだ。
    「試し」に加熱して温度を下げて来ると、この「結合点」の「・723度」に於いて再び同じ点に必ず到達する「不思議な点」であるのだ。
    この「・723度の結合一致点」ではこの「鉄と炭素の結晶」は「3つの色々な結晶構造」で出来ていて、それが加熱を下げて来ると、「オーステナイト結晶」の「不思議な結合点」に到達するのだ。
    これには「物理的な原因」は無く「偶然の摂理」に基づき起こるのだ。

    注釈 「4つの色々な結晶構造」とは次の通りである。
    オーステナイト結晶
    パーライト結晶
    フェーライト結晶
    セメンタイ結晶(常温)

    そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”だからこそ、この世に起こらず存在しない“「トランスホーメイション・変態の温度」”と表現されるのだ。
    そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”に「ある特定のエネルギー」を加えると、世にも不思議な事が又起こるのだ。
    この「温度以下」でも起こらず、この「温度以上」でも、この「限定した温度以上」に達しない限りは起こらず、その場合は、その「温度の差の分」だけの “「歪み・欠陥を持つ事」”に成るのだ。それは「偶然」であるからだ。
    当然に、従って、「近江鉄」に於いて、この“「723度の温度」”を見極める「極めて難しい匠の目視技」が求められたのだ。
    云うまでも無く、この“「723度の温度」”の「偶然温度」に達しても「偶然温度である限り」は「幅・ユレ・3から5度程度」を持ち、この「偶然の幅」を獲得しなければ、この“「723度の温度」”の「良好な結果」は得られないのだ。
    「青木氏部の匠」はこの「偶然の幅の限界」を習得しなければならなく成っていたのだ。

    言って仕舞えば上記した様に、先ず、
    第一番目に「0.8%Cを偶然に見つけ出す事」に成功したが、
    そこで、次に第二番目に「723度」に「絶対的な偶然温度」がある事を知るに至る。
    これに対して「上記する偶然要素」を“「723度の温度」”を獲得するに必要とする「絶対の鉄」に含まれる数多くの要素を組み合わせて、「偶然の要素の影響を観る事」に成ったのであろう。
    この工程を踏まなければ「銃の欠点」を解決に至らなかった筈だ。

    要するに、これも「偶然の炭素量」が「0.8%C・(0.86C)」であって、この「二つを中心」としてそれぞれの「加熱」に対する「時間」。「細かさ」。「速度」。「質量」。「体積」。「面積」。「墨の素材」。「加熱力」。「融点」。「角度」。以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈である。
    当時に「冷却過程」に対する「冷却材」等に対しても以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈だ。
    「青木氏部」として「関係表」を完全な形で造る程度に得ていたかは判らないが、大筋でその目的の為の範囲にはできていたであろう。
    「処理後に対する把握」を根気よく出来て初めて「銃の欠点が安定よく排除する事」に成功したと考えられるのだそれで無くては「銃の欠点が安定よく排除する事」は出来ていない。のだ
    以上の様に、「数えきれない偶然」を「組み合わせ」で見つけ出す事に成った筈である。

    上記の「新しい鉄の持つ専門知識」を一度に得て総力を挙げて活気だったと考えられる。
    「目視」で凝視していれば一瞬ではあるが目に見えてに伝わって来るものがある。
    そして、「その時の鉄」の中では、其の「細かい炭素」と共に“「共析鋼」”と云う「偶然結果」として得られる総合品質の「良質な鉄のもの」に変化するのだ。
    そして、“この時、「ある変化」と共に飛びあがるような「不思議な事」が更に起こる”のだ。
    上記の“「不思議で偶然なある変化」、即ち、「この世では普通に起こらない特別な変化」、即ち、“「変態」”であって、「鉄の炭素との結晶」”では、結晶の呼称として“「オーステナイト」から「マルテンサイト」”と云う形に変化して起こるのだ。
    これを「銃の試作過程」で一度に「鉄の持つ不思議な複数の新しい知識」が関連して「偶然に会得したと云う事」に成ったのだ。
    それが言葉で纏めると“「共析鋼」”であって、その「結晶の変化」としては、先ずは「オーステナイト」であって「マルテンサイト」であるのだ。
    では、この「不思議な結晶の現象」の“「偶然な変化」”とは、一体何なのかである。
    これを何度か繰り返している時に、「ある温度・723度」で「炭素の量・0.8%/鉄」に達した時に、「偶然」に「冷やす工程」と成った時に、ある特別なこの「世では普通では興らない現象」が「炭素と鉄の結晶」を通じて“音を立てて瞬間的に起こったのだ。
    これは「可成りの偶然」な事である。
    これが、“「変態・不思議な偶然のある変化・鉄と炭素の結晶のオーステナイト」からの「マルテンサイト」”と云うものなのだ。
    「超硬く」て、この世のどんな物にも、例えば「ダイヤモント」と互角程度以上の強さを持ち、その強さは「どんな物理的で科学的な強さ硬さ」よりも優れているのだ。
    これは、当然に“「前段の銃の欠点」”を性質的に補う事に余りあるのだ。

    そこで、この通常では得られない「鉄と炭素の高温での結晶の状態」を専門的には“「オーステナイト」”と云う。
    全ての結晶の共通点である共析鋼でありながらも、この偶然にも得た一部の結晶の構造を全て一度「オーステナイトの状態」にして「鉄と炭素」の全てを「必要な時間」を掛けて変えて仕舞う必要が伴うのだ。
    その「時間」が長いと、「鉄と炭素の結晶の関係」に長いと「粗大化現象」と云う「取り返しのつかない欠点」を造り出して仕舞うのだ。
    当然に短いと、「不完全な鉄と炭素の結晶の関係・不均一現象」を生み出してし割れてしまうのだ。
    何れも大きな欠点を持ったものに成って仕舞うのだ。

    この上記の「温度・目視で把握・表面の色」も然る事乍ら、「時間・目視で把握・表面の色の流れ」にも「極めて難しい匠の目視の技」が求められるのだ。
    要するに、「鉄と炭素の結晶」を仲介して「一種の炭素の結晶に「ある独特の変化が起こるのだ。
    それは、「手に伝わる2秒程度の鈍音」と「震動」と「表面色」と「表面模様」と「油の冷却材の表面の踊り具合」でも判るのだがそれは一瞬で起こるのだ。
    判り易い近い例として、「マグマの中で溶けた炭素」が火山噴火等で外に放り出される。
    それまで「莫大な地球の高圧のエネルギ」が加わった時に「炭素の結晶体に変化」が起こり、それが「冷却等のある工程」を経て、「地球の冷却圧」とで「ダイアモンドと云う結晶体に変化する事」になるが、それはこれに類似する。
    そこに「高温に成った鉄が介在する事」で「鉄と炭素の二つの結合体の結晶体」が起こるのだ。
    これは、「ダイアモンド」と同じく、その「特異な状態のものが、つまり「・マルテンサイトと云う特異な形」を保つ為に、突然にこの「高温にあるオーステナイトの結晶」から「急激に冷やす事/1S以内」で「変態と云う特殊な現象・トランスフォメーション」が自然発生的にこの世に起こされるのだ。
    これで得た「あり得ない二つの結晶体の物体」を「マルテンサイト・鉄と炭素」/「ダイアモンド・炭素」と云うのだ。

    その「特別な特質」は「炭素の結晶体のダイヤモンド」に比して「鉄と炭素の結晶体のマルテンサイト」は決して劣らないのだ。
    寧ろ、「鉄との結晶の変態の結合体」と成るので「違った優れた特性」が導き出されるのだ。
    まあ、一般的に判り易く云えば「ダイヤモンド+鉄を造った」と云っても良いだろう。
    然し、此れは、解る様に「通常のこの世の事では無い事」の故に、つまり、その侭では「自然界」に無いものであるので、この“「マルテンサイ」”は、「自然破壊」して仕舞い「応力分散」が出来ずに割れ破裂するのだ。
    この「ダイアモンド」も「地中深く高圧の中」で「緩やかに冷やされ」て「ダイヤモンドと云う特別な特質の侭での状態で長く保たれ状た状態で維持された事」で割れないでいるのだが、それと同然で出来た侭の状態では「マルテンサイト」は、間違いなく「破壊」が起こるが、“穏やかに保たれていれば同然のものが得られ道理”であると考えた筈だ。
    その地球の“「穏やかさ」”を施してやれば「ダイヤモンド」と同然事と成るは必定である。
    その「穏やかさを施こすに替わる事」を考え出せばよい事に成る。
    そこで「青木氏部の匠等」は懸命に考えた。
    「穏やかさを施こすに替わる事」が、これが「この世に無い変態」である以上は論理的に解る事では無い。
    現在でも難しいが、当時でも直ぐには結論は見つからなかったであろう。
    つまり、これは簡単に見つかる事では無く、「穏やかさを施こすに替わる事のこの世の有無」も含めて試行錯誤の末に辿り着いたのが、それは思いも依らぬ「低温で加熱する事」で加熱して得たものをもう一度加熱すると云う事はそもそも「・原理矛盾」であったのだ。

    然し、「低温で加熱する事」そのものが定義的に変である。
    「マルテンサイト」は論理矛盾であっても「ダイヤモンド」はところが「・原理矛盾」では無いのだ。
    そもそも、「加熱」と云うのかは問題であるが、少なくとも「常温・20〜50度」を越えた「以上の温度である事・イ」には間違いはないが、この「常温以下の温度−40〜5度・ロ」に保つ事を「加熱」とはそもそもならない。
    然し、論理的には地球環境に似た環境に近い「このイとロ」に於いては、「+圧力」を加えてこの温度域に保てば破壊する事なく保てる筈なのだ。
    その「対策」として、初期には「ダイヤモンド」に合わせて何れも「地中深くに埋めた事」が書かれているが失敗している。
    それには、この世のものでない変態である以上は「マルテンサイト」の持つ「応力の大きさを解消する力」を持ち得ていなかった事に成る。
    論理的には「マルテンサイトに成るに必要としたエネルギー」に相当する「マイナスのエネルギー・打ち消すエネルギー」か必要である。

    これを求めるにはところがそれでは時間が掛かる事の欠点がある故に、事前に加熱後の灰配中に居れていた。論理的に「多少の変態の変化」は認められるも、何かで間違って、“「ある温度”に保てた「灰中に落とした侭」として放置して忘れていたいと書かれていて、ところがその結果として「破壊する事なく保てる事」を会得確認したとあり、それ以後は“「灰中・100〜150度」で「2日から3日程」に忘れて寝かしていた”とある。
    然し、これが結果として取り立ててその「銃の欠点を補う特性」に通常の変化はなかったのであろう。
    これは論理的に応力除去では納得できる良好な操作で、現在でも行っている「油中加熱」と共に「一つの方法」と成っているのである。
    当時としては「初期の頃」は「経験から獲得した理論」であったのだ。
    筆者は、上記した様に「近江鉄の製鉄法」にしてもこの熱処理にしても「日本特有の灰中冷却処理」で「より長く処理」が好ましいと考えている。
    其の後、「1540年頃」から始めてから「1560年頃のほぼ銃の欠点除去の完成域・1565年使用後」であった観ているが、「完成期」と考えられる時期の「室町期末期から江戸初期」に掛けては、「西洋」から「貿易に限られて」で「冶金知識」も合わせて「伊勢屋」を通じて入ったと観られる。
    然し、“「青木氏部」”ではその前ごろには「経験を通じて獲得している事」が判っていて、「独自の開発」による「竪型炉に依る技術」ではなく、これは「其の後の技術」はより進んだ「高炉の製鉄法との融合技術」であったと結論付けている。
    「竪型炉の発展経緯」から観て「外国人の技術導入」では無かったと観ているのだ。

    そこで、当時は上記した様に、飽くまでも未だ「何度も鍛する事」での“「固さ・A」”の概念」であったが故に、「硬さの概念」のそのものが無かった筈だが、この「概念のはっきりとした認識」の無い侭に、「額田青木氏の超近代銃の中、つまり「・摂津・青木氏部」では、「硬さの技・技術・処理」が経緯からすると何とか得られていたのだろう。
    と云う事は、それはそれまでの「巧みの技」を生かした「20年間の試行錯誤の過程での結果」であって、当初はその概念に付いては、その時は、それは“何か変だな程度の概念”であったろう。
    然し、「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」が在って、そこからこの「硬さの概念」が確実に得られていたのであって、その結果が上記した驚く様な「近江鉄の高度な技術に発展した事」に成る。

    注釈 「伊勢青木氏」では「家訓の技術を重んじられる家系の風潮・文化」は、この長い間のこれらの極める概念が色濃く遺された遺伝的な結果のものであろう。
    さて、「鉄」は高温に過熱するたびに「鉄の結晶」は粗大化するが、この「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」では、「高温の鉄の結晶」は逆により潰されて細かく成り、その「より細かく成った結晶」の間に、更に「微細炭素が浸みこむ」と云う過程が起こっている。
    そもそも鉄は加熱する事で粗大化するが、この結晶をそれを鍛して細かくすると云う技を駆使していたのだ。
    上記した「再結晶化温度の処理・600度〜~650度」は全く使っていないのだ。
    この代わりに「鍛する事」でこれに換えているのだ。
    この「鍛する事」で上記した「変態・マルテンサイトが起こる環境」が整えられて行って、「鉄に対して良循環が起こり続ける事」に成って行ったのだ。
    そもそも「再結晶化温度の処理・600度〜~650度を使う事で得られる結晶のマルテンサイト」と、「鍛する事」で結果として得られる結晶の上記した「変態・マルテンサイト」とには違いが生まれる。
    それは「鍛する事」で「結晶に受ける応力差」の違いである。
    「鍛する事」で受けた「大きく成る応力」を計算に入れておく必要がある。
    「マルテンサイトに成った時の鉄に対する影響」は無視できないのだ。
    これを如何に無くすかである。
    然し、この上記の基礎には「青木氏部」が古来より「専門部」として「朝廷に治める飾刀」から得た技がここに培われ続け引き継がれてきていたのだ。
    「朝廷に治める飾刀」は、「青木氏部を持った時期・647年頃」からとすると、「703年・713年の近江鉱山開発・近江鉄」を使っての「飾剣」であった筈で、砂鉄に依る玉鋼の「飾剣」では無かった筈である。

    注釈 大化の改新までは全て剣は中国からの輸入で朝鮮半島に攻める事に成った時に兵に全て刀剣を与える事と成り、中国と韓から「鍛冶部・かぬちべ」を北九州に迎えて全国がら部人を送り習わせたことが始まりであり、「飾剣・直刀」の製造は700年前後に入ってからの事である。

    ではそれは何故なのかであるが、それを下記に論じる。
    実は、前段で「駿河青木氏論との額田青木氏論の関係性」で論じた様に、「近江鉄の殖産の過程」で「琵琶湖から淀川」を経由して「原鉱石」を「内船」で「大阪湾」に出して、「摂津青木氏部」に「鉄の原鉱石を運び入れる道中」があって、その「運び込まれ得られた鉄」を「日野等」に先ずは支給して、「伊勢屋」は「鉄製品、最終は銃」を先ず生産していたのだ。
    これに薩摩藩などが密かに目を着けた。
    前段でも論じたが、そもそも「古代期」に「日野」は、「殖産の四つの近江鉱山」の「鍋窯の日用品等」の「鉄鍛冶屋」としての「鍛冶屋の摂津の影響を受けた有名な職域」にあって、そもそも「青木氏部の商いの範疇」にあった。
    その「殖産の背景」で室町期には、「銃の生産・限定期間中」にその後匠等は「全員伊勢に引き取ると云う事件」が興ったのだ。
    各地の豪族等は、「銃と云う事」に着目して「銃」よりもその元に成るその“「鍛冶職・かぬち」を摂津と日野で丸ごとに獲得する”と云う直接的な武力行動に出たと云う事に至ったのだ。
    この「歴史的経緯」があり、それで「摂津」ではこれ以上は無理であるとして「伊勢に引き取ると云う行動」で対抗したのだ。
    それからは前段でも論じたが「伊勢での銃の製作と云う過程」に入ったのだ。
    元々は前段でも論じたが、「伊勢の青木氏」では古来より「朝廷」などに納める「日野の飾刀/特定範囲」としても数は少なくも「朝廷用品の実用品物・供納品」として「賜姓五役」の一つとして「青木氏部」で造られていたのだ。
    それが前段でも論じたが、一時、戦乱に巻き込まれた時にこの「日野鍛冶匠」は「伊勢青木氏部」に一斉に逃げ込み組み、「伊勢の部」に組入れられた経緯があった。
    ところがこの一部が「伊勢」に組しなかった「非組合員の他の匠等」は、薩摩等に侵略され引き連れられていった経緯があった。
    この関係で「古来の飾刀鍛冶の技量を有していた匠等・青木氏部・鍛屋院」が「賜姓族の賜姓五役」から多くのいた事が判っている。
    恐らくは、当然にこの「賜姓五役の殖産の経緯」から観ても「この時の技量が生かされた事」と考えられる。

    そこで、では、“どの様な技量が生かされたか”と云う事に成る。
    何度も論じているが、先ず元を質せば、「院号を与えられた施基皇子とその裔系」は、その結果として「伊勢の五つの大字」を与えられた所以と共に、それに伴う「国造差配頭の位置」にもあって、且つ、「鍛屋院・かぬやいん
    」の「青木氏部を独自に持つ数少ない氏族」であった。
    その「伊勢と信濃の氏族」がそれを総合的に生かすその延長線上にはあって、故に当時の「技術水準の最高位置にいた事・令外官として国造支配」は頷けると共に、更には「それをリードしている青木氏部の立場」にもあった事」に依るこの“「二つの技量」”が生かされていた事に成る。

    注釈 筆者は、「天武天皇」が、“朝廷の高官の中には専門の官僚と成り得る優秀な大和人がどれたけいるか”と聞くと云う事件が起こったが、この事に注目している。
    “官僚に変わり得る高い技量の持つ部人を持つ氏族がどれだけいるのか”と問われたが、その答えは“いない”と云う「返答」が返って来たとある。
    殆どは、後漢の職能集団の帰化人であった。
    この時、「令」を発したが、この時の令の「因事菅隷」の通り、殆ど「施基皇子の後裔の伊勢青木氏以外」には専門家は居なかったと観ているのだが然し勿論に[官僚族]では無かった。
    この物語るところは百々の詰まりは、「伊勢の施基皇子とその裔系」は「因事菅隷の青木氏部を持つ氏族」を形成している事は既に重々に承知していた事である。
    然し、その中でこの発言を発するという事は大きく気にしていた事から発したと観ているのだ。
    つまり、「後漢人」に左右されない「青木氏部」の「独自の専門的レベル」が政界を騒がす程に高かったものである事を証明している。
    それだけにこの“「因事管隷」”は「青木氏の歴史」を知る上で忘れてはならない「青木氏に大きく影響を与えた事」に成る「史実」と成る。
    それには先ず「青木氏に与えられた院号を調べる事」なのだ。
    それに「最も有力な院屋号」は、この「伊勢」に最低で四つの大字を功績として与えられ、それを下に莫大な私財を投じた「近江鉱山開発の特別な院屋号」である。
    つまり、「近江鉱山開発の青木氏部が持つ院号屋号」であるが無いと云う訳には成らないであろう。

    そもそも、本来は、彼等に対して「朝廷の太政官」が「天皇」に代わってこの様な「令」を発するが、「奈良期の皇親族」ではこの「太政官」に代わって「永代の賜姓五役の格式」に於いての「永代令外官」として間違いなく「因事菅隷」を実施した事が書かれている。
    「皇親族=太政官=賜姓五役=「令外官」=「浄大一位格式」に依って「因事菅隷」があって、「令外官=永代浄大一位格式」は「太政官の上位」にそもそもあったと記されている。
    取り分け、「政治の事」は兎も角除きそれ以外の発言権に関して優先権を有していた事が「佐々木氏の研究資料」等にも記されている。
    故に、この事から「青木氏部・因事菅隷」は先ずはその「見本の様な立場」にあって「先導役」として走っていたと観られるのた。
    「青木氏部」は、要するに「奈良期から平安期」までは現在の「国立技術院・工学院の様な立場」として活躍をしていたらしい事は判っている。
    然し、ところが色々な資料を散見するが、それらしき確実に明記した「院屋号名」が表の記録に出て来ないのだ。
    これは「考え方」に依っては、この「因事菅隷」そのものが「青木氏」にある以上は、「工学院」と云う“院が別に存在したと云う事”では無く、「因事菅隷」を持つ「工学院=青木氏部」のそのものの呼称では無かったかと観ている。
    要するに「青木氏部」が「因事菅隷」を持つ以上は「青木氏部=院屋号」であったと云う考えも成り立つ。
    この「青木氏部に関する事」では、「近江鋼の鍛屋院の号等」の「幾つかの類似の記述」が観られるが、これが「総合の技術院や工学院の号」も得られていた可能性がある事を物語る。
    要するに当時は、「工学院=鍛屋院等の号」にあったと観ている。
    そうでなければ「日本最初の近江鉱山開発」は、「因事菅隷」として「青木氏」に命じ無かったであろうが命じているのだ。
    それが「賜姓五役としての令外官」であったのではないだろうか。
    筆者は、その「院屋号の前提にある事」として、因みにその「進んだ技量」の中でも、この「青木氏部の中」に論じている様に、つまり、一つの証明として古くから「朝廷に納める飾刀の工程」のこれが青木氏部の中にあった事を明確に物語る様に、「全ての技術の院屋号の所以の代表品」は、この「朝廷の飾刀・飾剣」にあったのでは無いかと観ているのだ。
    だから、「日本最初の近江鉱山開発」にも「工学院=鍛屋院の号・鍛冶院・・かやいん・かぬやいん」は下されていた筈だ。
    だとすると、第一に、「鍛屋院の号」が無ければ「鉄」を掘り出してもそれを裁いて「利益」に持ち上げる「商い」もしなければ成らないのであるとすると、これを認めている「占有権・独占権」も無くてはならものであるし、況してや、そもそも「因事菅隷」を出しているのだ。これがある以上は絶対に「占有権・独占権」は成り立っている筈だなのだ。

    この事で、故に後に基礎的に「飾刀の工程」が持つこの「青木氏部の基礎技量」が生かされたのであろうと考えられるのだ。
    それが「天武天皇の問の前提」にあったのであろう。
    その「高度な技量の詳細を語る事」にあるが、実は専門的にこれを論じると、下記の様にそもそもこれは「発想の域」を超えているのだ。

    当然に、上記のこの「結晶の変態現象・トランスフォメーション」、即ち、「高温に依って起こるオーステナイトと云う鉄と炭素の結晶体」での「結合体」が、一瞬にして突然に「全く違う「別の結晶体の物に変化してしまう現象」を云うが、これに依って起こる「変態した結晶体・この世では通常で起こる事では無い結晶の現象」、これを別に「マルテンサイト」と云うが、これが「鉄の表面に文様」として何らかの形で出て来るのである。
    それを以てこの「マルテンサイト」が起こっているかは、別として、それが「良い飾刀にもそれに近い模様が出て来ている事」に成るのだ。
    この「論理的で不思議な高度な現象」が起こっているその事が、この「奈良期からの賜姓五役の目的の青木氏部の高度な技量」に依る「飾刀工程の表れの文様」であるりだ。
    つまり、これを専門的に「刀文・刀紋」と云うが、これにこの「マルテンサイト」が相似すると当初では考えられていたのだ。
    然し、これに成るには、その前の概念としては先ずは“「奈良期の第一段階の基礎・飾刀」と成っていた”と考えられていたのだ。
    「飾刀・直刀」は、未だ奈良期初期までは「中国と韓からの輸入品」であって、殆どの物は「鍛冶物・かぬもの」はそうであったのだ。
    その後の事は上記した「天武天皇の因事菅隷による変革」で進められた。
    この一翼を背負わされたのは「青木氏部」であり、それが「近江鉱山開発」に始まる「大和の事・大改革事業」に成るのだ。

    さこで「銃の欠点の克服」の「技術的な経緯}としては次の様に成る。
    この「平安期まで飾刀工程の流れがこの「・第一段階」であった。
    更には、上記の「平安期の技量の第二段階の基礎・殖産」と成ったのだ。
    次には、上記の通りに相当に難しく成った「室町期の技量の第三段階の基礎・銃」と成った。
    その「技量の経緯」は「第四段階の銃の完成期」と成った。
    以上と次第に進んだと成るのだ。

    「銃の欠点の克服工程」は主にこの「第三段階}からであろう。
    そこで、その「概要のメカニズム」は、そもそも「この第四段階までの現象」には、この「奈良期から室町期」までを通しての「歴史的な飾刀の刃文・刃紋の進歩」と相似してそれが「表・銃身」に現れて来るのだが、ところがこの「第四段階までの現象」だけはこれを覆す様な現象が起こっている事に気が着く事に成るのだ。
    それが次の様な時に起っている事に成るのだ。

    そこで「鉄の製鉄基礎論」から「銃に対する概要論」をここから述べる。
    先ず「鉄の製鉄基礎論」に関わっていた時期の「飾刀・直刀期間」の経緯には、上記した論の「鉄の歴史」が伴うが、「初期・江戸期まで」は「砂鉄の玉鋼」と呼ばれる「金属原材料」で原始的に維持して敢えて全てが造られいたが、[青木氏部」では要するに上記した「後の近江鋼鉄の銃に使われた様な進んだ共析鋼」には、これに「近い鋼の原理の事」に相当するのである。
    そこで、「刀にする為に鍛える工程」で先ず論じて観るとする。

    そもそも、これらを「刀にする為に鍛える工程」とは、そもそも、その「鍛える度ごと」にその「表面」、又は、「断面の光の文様」や、その「板鋼の折重ね具合」を見定めて、その中でその「砂鉄玉鋼の性質」を見極めて重ね合わせて厚くして行く工程なのだが、「刀紋」はその過程の模様である。
    その数度の工程を以て幾重にも重ね合わせた状態にして加熱し叩いて鍛えて接着させて強くするが、「刀紋」はその強さを表す模様である。
    これ等は「叩く速さの時間と叩く力」に左右されて「刀」に成るかは決まり、それが正常にて出来ていなければ「その鍛えている刀」には「内外部に亀裂と剥離」が起こり「玉鋼の刀」にはならないのだ。
    そこで、その欠点を防ぐ為に「複雑に性質の違う幾種の違う玉鋼の鋼片」を折り重ねて、ある「高温加工の熱状態」、但し、「この・温度」を間違えると成らないので何度も鍛えるが、この時に「匠の技量の差」が問われるのだ。
    その「違う性質の玉鋼が重ねられる事」で、その「折重具合の断面」は“年輪状”の様に「折り重ねた鋼」と成り得る。
    この事が重要であって、「玉鋼の場合」に依って、要するに「折重具合の違う金属特性の複合特性」で「刀の長短の特性」を導き出す「製造方式」であるのだ。
    その「炭素の特性の性質が違う砂鉄」、即ち,「玉鋼」では「鉄で炭素との結晶の結合体の事」であって、そこには「表面」もその「断面」にも「折り重ねて鍛えた結果」として、「重ねた平鋼板の良し悪し」を見極める事が出来るのだ。
    それには、「重ねた平鋼板の良し悪し」は、その「平板の重ね具合」はこの「刀としての刃先形状」に全てを出す為に、その「刀の長手方向の刃先先端の断面」を「刀形状の三角に削り磨く」が、この時にその「重ね合わせた鋼の色合いの文様」が、この「長手方向の刃先先端の断面の断面模様」に出るのだ。
    これが「刃文」と成り共に「先端の刃先文」としても出るのだ。
    この「刃文」と「先端の刃先文」で「砂鉄の玉鋼」の「刀の良し悪し」が決まるのだ。
    多くは「先端の刃先文」で見極める事が出来る。

    要するに、「鋼にしたものを重ねる事」に依って「表層状態」に強度を増す様に成るのだが、「一枚の鋼」であるとその「内部は均一性に欠ける事」の為に、一か所に「応力・力」が掛かり弱いし折れる。
    そこで、この様に「玉鋼の日本刀の構造」は、「大樹の年輪」の様に、複雑に特性の違う“「玉鋼」”が造られ重ねられる事で強く成り、それが「外観の色変化」として「刀文・刀紋」と「先端の刃先文」」として二つに現れるてくる事に成るのだ。
    この「刃文」と「先端の刃先文」」は、“「適度な急速な冷却効果」”に依ってより現れるものであるのだ。
    取り分け、従って、この「刃文と先端の刃先文」を見分ける事、特に「刃先の先端に出る文様」で「匠・刀師の技量の良悪」と「その刀」のみ成らずその「工程の技量の良し悪し」も判る事に成るのだ。

    さて、そこでこの「良い刃紋を出す」には、その主に「熱の如何」が問われのが当然である。
    この「加熱」を一定の速さで下げる為の“「冷却」に伴う「良し悪し」”も判り、その「鋼の炭素と加熱と冷却」と、その「過程の模様・経緯」も僅か乍らも「刀の表面と破面」にも表れる事に成るのだ。
    故に、この「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」に依って上記した「マルテンサイに近い模様」は得られるが上記の工程の「・砂鉄」には結晶は得られない。
    然し、それに「近い模様」が「良い刀全体」にも表れて来るのだ。
    但し、上記した「近江鉄」に依って得られた「銃の工程」と違って、この「刀の場合」は、実はこの“「マルテンサイト」”は得られていないのだ。
    つまり、得られる為に必要な条件に到達していない物が多いのだ。
    殆どは、「玉鋼を幾重にも重ねて鍛える事に依って出る粘りと硬さの影響」で成り立っているものである。
    何故ならば、この上記した“「マルテンサイト」”が得られたとしても放置すればこの世の「変態」で在る為に「破壊」が必然的に起こるからで、此れを防ぐ「ノウハウ」にも「超高度な技術」に到達ししていなかった事にもあり、且つ、基本的にそもそもこの“「マルテンサイト」”にも、「砂鉄」から得られる「玉鋼」で在る限りは到達していなかったものがあったと考えられる。
    つまり、「砂鉄の玉鋼」では、必然的に「0.8%共析鋼」に成り得ていない事に成るからだ。
    ここが論理的な大きな違いである。
    従って、「銃の欠点」を克服する為には「初期」には先ずは「飾刀の経験・647年から650年頃に開始」から入ったと考えられるが、この「青木氏部」では、「近江鉄」として追及した「0.8%共析鋼・755年頃に完成」とは成るが、此処でこの「近江鉄・703年713年」を使いながらも「初期の初期」に「中国から直刀輸入640年頃していた」ので「初期に直刀・砂鉄玉鋼理論」を「製鉄」に参考にしたが、5年も経たずに直ぐに「近江鋼の開発」に入っているので、先ずは躓いたと考えられ、直ぐに「近江鉄の製法の確立」に入っている以上は「飾刀の経験・647年から650年頃」も「近江鉄」で入り直したであろうし、それが「銃の製法・基礎」に結び付いて行ったのだ。
    こと程左様に、平安期の当時は、この「技術としての確立した概念」を持ち得ていたかは定かでは無いが先ずは無かったと考えられる。

    この「刀のノウハウ」からは「刀の良し悪し」は、この「上記のマルテンサイト」にする為の「匠の技とその有無」が左右する事なので、だから、少なくともこの「マルテンサイト」を「自然破壊」から救い維持する為には、重要なのは「一定の冷却」と、上記した様に其の侭では「内部応力・自然界ではあり得ない別の物に変化する変態現象」に依り「自然破壊」が起こる。
    但し、「マルテンサイトの呼称・英とドイツの呼称」は何処にも記載は無い。
    この「変な現象を起す事」は、概念的に「青木氏部」では把握していた様ではあるが、そこで“何と呼称していたのか”を調べたが資料的には何処にも見つからない。
    後に「貿易」で「冶金学的な事」を江戸初期前後に把握している事からすると、「貿易」で伝わった何等かの呼称があった筈で、それが何なのかであり、「銃」に対して少し遅いが拘わりの度合いが判る。
    それを論じる。

    実は、“らすぅ”と云う言葉が一か所に確認できるが、これがその「呼称」として使われていたとも考えられる。
    その「根拠」は、そもそも外来語の“らすぅ”とは「トラスの原語」であって、“構造物を意味するもので物理学でもよく使われる。
    「呼称」としては、この「らすぅ・ラス」は、「マルテンサイトラス」、又は「らすマルテンサイト・ラスマルテンサイト」としも使われる事が可能な用語である。
    筆者は、この「らすぅ・ラス・トラス」と云えば、この「マルテンサイトの様なものの構造体」と訳していたと観ている。
    恐らくは、この「らすぅ・ラス」は、当時は輸入された「専門用語」であったと観られ、「マルテンサイト」に限らず「構造体」を指していた呼称であったと考えられる。
    その「構造物」とは、“原理的には幾つかの柱の様なもので結合し互いに引き合い強度を保っているもの”であり、例えば、“氷や雪の結晶の様なもの”もそれに当たるだろう。
    当にこの「密に成った複合的な構造物」の「マルテンサイト」も、その「元の鉄と炭素の結晶体」もこれに当たるだろう。
    “「らすぅ」”は遊園地にあるジャングルジムである。
    この記している呼称の“「らすぅ」”は、「一つの構造物」と認識して記していた事は間違いは無いと思うし、「貿易」に依って得た知識であった事が解る。
    と云う事は、“「鉄」が別の「一つの構造物」に成った“という事は認識していた事に成るだろう。
    そして、それが、“「氷や雪の結晶”の範囲」で観ていた事に成る。
    と云う事は、“砥石で磨いて光を当てて腐食させて観ていた”とする行為は頷ける。
    唯、この記述は一か所にのみに記されて散見されていたが、この事がどの様な意味を成すのかは色々な意味を持つ。
    「特別な言葉」なのか、「汎用的な言葉」なのかは判別が着かないが、少なくとも書いていた事の「らすぅ」は、“「銃の欠点」を補う工程のみ”として書き、それを「匠の範囲」では使われていたのであろう事が予想できる。
    依って、「古来よりの技」の「飾剣・飾刀の範囲」では使われていなかった事に成り、故に、日本語に無い言語の「らすぅ」に成っていると考えられる。
    何時頃にこの「言葉・呼称」が用いられていたかはその所以は「銃に関わる事」であり、且つ、「銃の欠点」を補完に成功した頃には既に「貿易」に依って入っていた事に成る。
    とすると、この記述から観ると、少なくとも前半の「1540年頃以降から1550年頃まで」であるので、そのそれを獲得する為に試行錯誤していた頃の事に成る。

    そもそも、筆者は最初は「全体の文書の読み込み」に苦労していたので、この「らすぅ」の「単語の言葉」までに気が着かず素通りであった。
    ところが、後に成ってふと気が着き、この“「らすぅ」”の言葉が何を意味するのか意味しないのか気に成って改めて読み直したが、その意味する処が暫くは判らなかった。
    つまり、「らすぅ」が“「トラス」に繋がる”と云う発想まで出なかった。
    この「トラス」は筆者の専門域の「物理の構造体の専門用語」である事である事が良く判っていたが、「らすぅ」と書かれていたので“ピン”と来なかった。
    よく考えて観れば、ある時、「トラス」は「ラス」として単語で使う事がある事を思い出した。
    其の使う時が、「ある構造体」の前に着けて「ラス・・・」と使う事がある。
    そもそもその「ある構造体」とは、普通は「トラス」は主に“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”の事で、ここで議論している「マルテンサイトの様な「変態で起こった構造体」は“「稠密六方晶」”と云う「特殊な方位の構造体」である。
    この様な場合は「ラス・・・」として“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”として表現する事に成っていて、この「マルテンサイト」は“「稠密六方晶」”なので「ラス・・・」として表現する事は学問上は正しい事に成る。

    そこで「らすぅ」は「日本語表現」で、スペイン語やポルトガル語の様な「母韻原語」ではないので、この「英語やドイツ語の場合」は「トラス」の「トのtの発音」は「子音の無音」の発音と成る故に、「青木氏部」では「らすぅ」と聞こえたと考えられるし、又、「ラス・・・」で「らすぅ」と受け取った事になろう。
    「らすぅ」の「ぅ」は「日本人特有の耳と口の癖」に依るものであろう。
    これを記述した者は「神明社の祐筆」であった事から、尚更に言葉に「韻」を含める使い方と成ったと考えられる。
    兎も角も、何れにしてもこの“「らすぅの表現」”は、「銃の欠点」を補完した「0.8%の共析鋼の変態構造」の事であった事に成ろう。

    この“「らすぅ」”では、「文献」で会得したものなのか、「指導の外国人技術者」を招聘したかは判らない。
    「貿易」をしていた事故に、「指導の外国人技術者の招聘」は充分にその能力は有り得たと考えられる。
    故に、この“「らすぅ」”の言葉からも、「銃を成功裏に治めた事」が云えるし、「近江鋼の使用の事」と「0.8%の共析鋼の変態構造の事」も納得できる。
    だとすれば、「フリントロック式改良銃の近代銃であった事」も証明できる。
    もっと云えば、「三方ヶ原後」に暫くはこの「銃」は保全していたが、その後完全にこの世から遺さずに抹消した事も頷ける。
    それは「指導の外国人技術者の存在と招聘」から、その「銃の西洋での殺戮具として使われた事」を耳にし、又、「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」も充分に考えられる。

    さて、そうすると「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」があったとして、“20年間の試行錯誤はの期間は長いのでは無いか”という素朴な事であるが疑問が湧く。
    その疑問に答えられる事がある。
    それは、前段でも論じた事ではあるが纏めてみると次の様な事が上げられる。
    1 「フリントロック式改良銃の近代銃であった事
    2 日本人にあった額田青木氏に合わせた銃であった事
    3 特別に4発式回転式自動銃にした事
    4 持運びの中型銃にした事
    5 火縄銃式では無く硝石型(火打式)でした事
    6 長距離銃にした事
    7 銃の欠点を無くした事
    8 量産型にした事
    9 近江鉄を使い玉鋼を使わなかった事
    10 准高炉型製鉄にした事
    11 反動型銃にした事
    12 立膝型銃にした事
    13 操銃に合せた編成隊を考案した事

    これ等の事が解決しなければ「額田青木氏としての銃」とは成らなかったのだがそれだけの[伊勢青木氏の要望]は高かったのだ。
    判る範囲で以上と成るが、これ等は「指導の外国人技術者」の「指導」だけで解決し得る範囲では無い事が判る。
    現に、「額田青木氏としての銃」の為に、この「銃での戦い方」で「伊勢の秀郷流青木氏」が担当しているという事は「青木氏の要望」が作戦の成功の為に「絶対的な必須条件」であった事を物語り、「銃の仕様」には「相当な要望」があった事が云える。
    故に「指導の外国人技術者」が存在していたとしても「20年間と云う期間」を敢えて要したと考えられる。
    「銃製作の要領書的な片鱗]のものが密かに遺されていたとしても「指導の外国人技術者」をものがたるものは何も遺されていないのだ。
    唯、「青木氏や伊勢屋の状況証拠」から考えれば充分に有り得る事で否定は出来ない。
    そもそも全国行脚の「僧侶や絵師や彫刻の匠等の修行者等」の長期宿泊する「特別の厨」がつい最近まであった事も、又、親族や店子や客等が慰安を兼ねて泊る「庵」も各地各所にあった事が確認されていて、筆者も子供の頃にここに宿泊した事がある。
    摂津や松阪や桑名には当然の事として外国人如何に拘わらず「指導の技術者」の宿泊はあったと考えられる。
    そもそも、これ以外に「神明社や清光寺の宿坊」もあったのだから「指導の外国人技術者」の存在は筆者は在り得たと考えている。
    上記した“「らすぅ」の記述の言葉”は間違いなくこれに関わっていただろう。


    話を更に戻す。
    そこで、この「砂鉄の玉鋼」では無い「近江鉄」での「0.8%C共析鋼」での「変態現象」で得た「稠密六方晶」の“「マルテンサイ」”を「自然界」で存在し得る様にする為に研究されたが、“「少し緩める適度な戻し作業」で、現在では学術的に確立していているが、「ある極めて低い温度範囲でのテンパーと云う処理」が必要に成るのだ。
    「近江鉄の銃の欠点の対策」では偶然結果で「灰中の長時間保存」で獲得した。
    この「ある極めて低い温度範囲」とは、一般で云えば「テンプラ油の温度」よりも低い「150度程度の温度」であり、[150度程度の低くてゆっくり冷やす程」に、その“「マルテンサイ」”の効能を下げる事なく高い効能で得られる事が解ったのだ。
    時間があるのであれば「150度程度」で「2日程度から3日程度・48時間〜68時間が良い事が判った。
    そうすれば“「完全な稠密六方晶」の「良質なマルテンサイ」”の範疇で得られるのだ。
    そして、上限は“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”を前提とするのであれば「灰中」であるので「150度・4日」と云う処であろう。
    後は、“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”をゆっくりと衝撃無く下げて行く事に成ろう。
    故に記録から観て、“「焼灰の中でという事」”であったので、“150度程度の低くて極めてゆっくり冷やす程に「マルテンサイ」の効能を下げる事なく高い効能で得られるの範囲”を使ったと観ている。

    これは「灰中150度3日の加熱」は温度のばらつきから難しかった様であった。
    当時としては、別の面で「灰中」以上に上記のばらつきを解決させる効果的な「植物油の利用」はあった筈である。
    それが高額であった事から食用等に限定してあったが、「青木氏部」も「殖産の工業等」には使っていなかった様だ。
    「殖産の関係」からその記録が多くは散見できないが、その僅かな記録を観ると面白い事が起こっていた事が記されている。
    それは「関西」からその「油使用」が、「食用類」などにもその関西人の性格から面白半分で積極的に使われ始めたのだが、その前はその絞った「絞粕」の捨てる場所も無かった事から、「ミカン畑等」に無造作に捨てられていたとある。
    然し、ある時にこの「和歌山や瀬戸内の周囲」の「害虫に依る田畑の病気」が関西域全域に大流行した。
    この時、この捨てていた「みかん畑」にはこの病気が不思議に起こらなかった。
    そこで、これをこの「害虫被害」の受けた「田畑」にも蒔き捨てた処、「田畑の病気」は完全に治まりそれと゜ころか大生育して効果がある事を確認した。
    その「生産」は、当初はその結果として「油の使用」よりその「絞粕用」として「生産が高まった経緯」があり、当然に其れに連れて「油の使用」が増えた。
    結果として「油は安価」に成り「食用」にも研究されて使われる様に成り、その果ては「工業」にも使われる様に発展して行ったのだ。但し、関西域だけであった.
    その時期が室町期中期から始まり、可成り遅れた江戸期に入っても「江戸・関東」でもこの「病気」は広まったが当初は「江戸気質]で毛嫌いして使われずにいたが、背に腹は代えられないとして使われる様に成ったと記されているのだ。
    要は、「窒素リン酸カリの有機剤」であり、「土中の微生物」を増やし、これで害虫と病原菌を減らすとともに、主に「チッ素肥料」として植物の栄養を多く供給すると共に、「害虫を遠ざける働き」も多く強くあり、この「絞粕」の中には「アブラムシ、ハダニ、コガネムシ等」を、取り分け当時の「椿油かす」には「ナメクジ、カタツムリ、バッタ」等を撃退する効果があるし、「もと枯れ病」や「バッタやイナゴ」もこの頃に大発生したとあり、このところから「窒素不足」が原因していたと考えられた。
    この時の記述はこの「微生物の増加」と「虫の撃退」の効能が働いたものと考えられる。

    「植物油の使用」は、人類起原にほぼ一致するが、「鉱物油」に関しては発見は江戸期初期の1690年代に発見されているが、「限定的な使用」はエジプトの古来に「アスファルト」として「接着剤」として工業的に使われていた古い記録がある。
    人類に多く利用され始めたのは「1855年」からで、生活に密着して使われたのは「1890年代」の「アメリカ」と成っている。
    従って、室町期中期頃には未だ「鉱物油での使用」は未だ無く、況してや「冶金的な物への利用」は「1890年代の事」で、勿論の事無く直接に冶金的な物への使用も無かった。
    従って、「冶金的な冷却材としての使用」は「植物油」に限られていたが、極めて高価で使用は困難であった。
    又、使えたとしても「冷却時」に「熱」に耐えられずに「油」が分解して「炭化してしまうと云う事」が起こり、「冷却材の使用」には耐えられなかった筈だ。
    つまり、「上記のマルテンサイト」を獲得する事は、元来、「砂鉄の玉鋼」は、勿論の事、「近江鉄」の場合にも難しい事であって、元より原理的に使っていない。
    後は冷却としては「水の冷却」と成るが、「砂鉄の玉鋼」は「マルテンサイト/変態」が起こらない為に、「ある技能の範囲」で使用は可能であった事が記録から解っている。
    では、その“「ある技能の範囲」”とは、どの様なものであったかを過去の資料の経緯を辿りその論理を考え合わせて考察した場合には次の様であった。

    先ず「水の冷却」には、その「冷却と云う点では大きな効能」はあるが、逆に逃れ得ない欠点もあるのだ。
    それは先ずは「一つ目」としては“冷えすぎると云う欠点”である。
    物理・冶金学では、“何でも冷えればよい”と云うものでは決して無い。
    「ある一定の冷える遅い速度」が必要であるが、それ以上に速いと「上記のマルテンサイト」のみならず、その「本体の鉄と炭素の結合体」に、更には、その「結晶」に異常を起こし、破壊するか、又はそれの破壊に相当する近い事が興るのだ。
    先ずは、それには少なくとも「約5S以上」に「緩やかに冷却する事」が必要で、これ以上に速く冷却すると、先ず間違いなく「強烈な破壊濁音を出して破壊」が起こる。
    この「季節変化」に伴うこの“「水の温度の冷却」”が、この「約5S以上」に保つ必要があり、そもそも極めて難しいのだ。
    何故ならば、ここにはもう「一つの理由」がある。
    それは、「春夏秋冬」には“「水の温度の冷却」”がかわり一定に保つ事には困難が伴う。
    夏の様に高ければ氷などで冷やさなくてはならないし、或いは「一定の冷温」を保つ「井戸水」が求められる。
    然し、“「水の温度」”が高いと水分中に含まれる「空気」が膨張して「大量の泡」を発生させてその「泡」が品の表面に密着し極端に「冷却能力」を著しく低下させ、“「水の温度の冷却」”に合わないのだ。
    最も嫌う事がこの“「水の温度の冷却」”で起こって仕舞う事に成るのだ。
    夏場で「水温」が高くなると、では冷やす為に「冷たい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
    「冬」もこの逆であり、「暖かい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
    秋と春も同然の事が起る。
    兎も角も、「水の温度の冷却」”の三つ目では、「焼入・冷却」の為に新たに水槽に水を入れると「焼入物・冷却物」の「強烈な熱」で「水槽の温度」は急激に上がるので「適切な温度・約20度・約5S以上・それだけの広さの水槽要」まで到達するのを待つしかない事に成る。
    出来得る事ならば“「使い古しの水・濾過」”が“「空気と不純物が少ない事」”から水が“「軟化・アルカリ成分が少ない軟水」”にして最も好ましいのだ。

    「上記の事」が「春夏秋冬に「水の温度管理」ができるかに関わるのだ。
    「砂鉄の玉鋼などの刀の処理等」では論理的に難しい事になるのだ。
    逆の事として、「近江鉄の0.8%C共析鋼」に於いては「青木氏部」では此れを克服する必要があった事に成る。
    その意味でも、「植物油」にしろ「鉱物油」にしろ「水」より好ましい事が解るし、冷却速度の比熱でも良い。

    因みに、「セルシウス温度」で、水1gあたり1気圧で1度の温度を上げるために必要な熱量の事で、水の比熱は1とすると、これに対する「油の比熱」は「0.5」である。
    結局は「油/水=1/2」であるので、「温度管理」では現実的には「油の方」が優れている。
    物質1gを1度上昇させる為に必要な熱量がこの「比熱」で、 この値が大きいほど温まりに難く成り、 水の比熱が1に対して、油は0.5である為、水に比べて早く温まる事に成る。
    然し、水と油を比べれば、水の方が温まり難く、冷め難いが、油の方が温まり易いが冷め易いのでこの2倍で冷め易く、「冶金的な冷却と云う点」では逆である。
    云い換えれば、「冷やされる方」に執っては「水は表面を早く冷やす」/「油は表面を遅く冷やす」の原理が働く。
    この事から“「室町期の中程頃」”では、「高価の件」は別として、「冷却能力」では油の可能性が出ていた事が解るし、「水の泡等の欠点」の少ない「油の使用」が検討されたのだ。
    上記した「油粕の事件の記述」は、丁度、この頃の事で、「氏族」の一部の中には遺したこの資料では、何故に記述して遺したのかは判らないが、「冶金的な冷却と云う点」では逆である事が解っていて、「殖産」として「油増産」に入った事が考えられる。
    「みかん畑」としていたので、「伊勢から紀州」の「みかん畑」に「油粕」を捨てていた事に成るので、未だあまり広まっていなかった。
    ところがこの突然の事は次の様な経緯を辿ったのだ。
    この「植物油の使い出だし」は、遺された資料より古来より細々と「食用への使用」であって、未だ「現在の様なテンプラ等の概念」は無かった。
    ところが、関西では室町室町期中期に成って「下記の経緯」で突然に広まったのだ。

    「植物絞り油の経緯」

    「植物絞り油の使用の経緯」 =「食用への使用」→・「害虫除去剤への使用」→「肥料への使用」→「冶金的な冷却材への使用」→「食用への大使用」

    その「切っ掛け」は上記した様に、関西で起こった・「害虫大発生の事件」からで思い掛けない事からその「除去剤」として急遽,“「大増産」”と成ったのだ。
    更には、それが「肥料」にも良いと成って、「絞り粕と云う事」の“「大増産」”と云う事だけでは無く、「植物油」そのものの“「大増産」”と成って行ったらしい。

    そこに、「食用油の使用」は、又、「比熱の点」で劣る「水」よりも、又、「焼灰」よりも、その中間にあり「目的」に適している事が解った「青木氏部」では、そこで、この“「大増産」”を切っ掛けに悩んでいたこの「冷却剤への使用」に、この「話題中の植物油」に「発想」を切り替えたと考えられる。
    「学実的な冷却理論」もあまりはっきりとしなかった「本論の経緯」の中では、それは「試し」に切り替えて観るしか無かったのではないだろうか。
    それは「伊勢の青木氏」としては「伊勢」に居るか限りは「長い伝統も立場」もあり、これは「世間へ義理を破る事に等しい事」であり、然しも世の中は、既にそれを迫る「鉄の汎用」と「油の汎用」と「肥料の汎用」との「切り替え転換期」に入っていたのでは無いか。
    筆者は、この「時期」がこれ以外に「神に対する3つの正義・「神饌」<「薬用」<「禊用」」、つまり、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の関係性がこの時期に変わって来たと観ているのだ。
    それだけに関西で起こった害虫被害の解決事件が社会に与えた影響は大きかったと観られる。
    それは、“何故この様な「資料の記述」が「南勢の家人の家」に遺されていたのか”に対するこの疑問であった。
    普通なら「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が記し、その「書」が当然に其れが何れかの「青木氏の蔵・3回消失」に遺されていた筈であるのに、「南勢の蔵であった事」に疑問点があるのだ。
    当然に、「植物油の原料の生産」とその「絞り工程」は、「南勢と南紀の殖産」として行われていて、その「粕の捨て所のみかん端」も「南勢と南紀」とすれば、「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が関わる書では無いだろうか。
    だからこの「植物絞り油の使用の経緯」は、記録に遺す程の相当な出来事であった事を物語るだろう。



    ではここからは「植物絞り油の使用の経緯」は“どの程度の期間で進んだのであろうか。”で論じる。
    次段でもこの論の続きを行う。
    上記に記した“「室町期の中程頃」”である事には間違いは無いのだか、もう少し詳しく論じる。
    そもそも室町時代中期頃までは、主に「作物]を育てるために使われていた「肥料」としては草木灰や刈敷等のアルカリ農法で焼き畑もその一つでこれを蒔く事が中心であったが、これでは害虫等を駆除できないでいた。
    この「室町時代中期頃の害虫事件」で「肥料三要素の窒素リン酸カリ」を多く含む「油粕事件・バッタ事件・銃開発期に一致」で、一度に関西では変化を来したのだ。
    ところが、「江戸・九州の方に先に伝わる」では「下肥」で済ませていたが何と「享保期飢饉・故に米も育たず害虫も大発生」まで使われなかったのだ。
    結局は、この「関西農法」を採用し、その結果として「食用油文化」と「果物農業」も関東に広まったのだ。
    最終、次段で論じるが、この貴重な食用油を殖産の銃開発に使ったのだ。

    その「経緯」を前段で論じたが、もう一度殖産の経緯を辿って観るとする。
    上記した様に「1540年頃」が実質の活用段階に入った事は解るが、では、それが「本論の銃での開始点」であるとすると、「植物油の殖産」は、「日本書紀」にも記されている様に「716年頃の前からの事・施基皇子没の2年後」で、「伊勢の裔系」は「令外官」として「部の国造(朝廷の命)支配」として働いていた。
    「近江鉱の二つ鉱山開発」もその一つで、この時期と当時に命じられて行われていた。
    この「大功績」に依って、“「伊勢の大字と民200」を「4回」に渡り「合計では民500・実質では民800」を得て、「土地・領地」ともに“「実質の伊勢の王」”と成って行ったのだ。
    この上記した“「殖産が自由に出来る領地」”としては、当時の「伊勢の有効面積の80%以上を獲得・地権域含む」し、「実質の伊勢の土地を殖産等で実行支配する伊勢王」と成っていた”と記されいる。

    注釈 ここで何か事件が興っていた様だ。
    実はそれまでは、“これだけの功績を掲げながら何故か朝廷から「初代伊勢王」とは認められていなかった”のだ。
    それまでは「第七位王位」であって「第四世族内の真人族」であり「冠位」は「天皇」に継ぐ「浄大壱位」で、「賜姓臣下族」と成っていたが他にこれ以上の冠位と官位を持つ者は例え皇族の皇子であっても存在しなかったのだ。
    この「大功績」も含めても「伊勢王」として認められていなかったのだ。
    つまり、「施基皇子」は「伊勢の王」とされながらも何か政治的なものがあって「初代の伊勢の王位」では無かったのだ。 来敵の孝徳天皇の第二第三皇子が一代限りの伊勢王に任じられていた。
    ところが任じられて直ぐに毒殺されていて,第三皇子がこれに代わろうとした。
    要するに「伊勢王」であるが「伊勢王」と成ろうとはしなかった。
    つまり、従って「朝廷からの国司」が「伊勢」を官吏して、その者が「初代の伊勢王」と一時呼ばれていたとされていて、「伊勢王」とは認められていなかったが、然し、この「近江鉱山開発等の功績」で「実質王」として、「伊勢への遙任」から、それ以降は、施基皇子は領国に「赴任・着任・647年」からが初めて認められたのだ。
    つまり、“「初代の伊勢王」が存在しながら「領国の伊勢の国」を管理し始めた”としているのだ。
    「遙任中」は「三宅連岩床の国司代」の配置の前に、この様に「初代伊勢王」がいたが「伊勢への遙任」に“「ある事件」”が起こり、それでその遙任の地位を「天皇」から解かれ、その「都の一族裔系」と共に「伊勢」に赴任し「着任」が許されたとしているのだ。

    実は“この伊勢に関わる「ある事件」”とは何なのかである。
    気に成る事なのでここで先に検証する。

    つまり、「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王」と成っていたのだ。
    この「孝徳天皇・在645年〜654年」の「失脚」と共に、この「その2人皇子・伊勢王の子供2人」の「突然の病死(政争)・伊勢王」で、「天智天皇の施基皇子」がら「領国の伊勢の国」の「伊勢王を勤める事」に史実は成ったのである。

    (注 斉明天皇・661年没〜中大兄皇子662年)

    「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は“「一代限り」”で任命されていた。
    「一代限り」である事と云う事でありながらも、「政治的な意味合い」で「初代伊勢王」と呼称されていたのだ。
    「天智天皇・在662年〜672年」の「第7位皇子の施基皇子・716年没」は「青木氏の賜姓」を受けたのは「飛鳥期の難波宮の都」で「647年の事」である。
    先ず、「皇極天皇期」に「中大兄皇子・後の天智天皇」から「645年の大化の改新後の2年後に「賜姓・647年・臣下族」をして「伊勢青木氏」で受けていながら、政治的には次の様に成っている。

    645年から「賜姓・647年」までの2年間
    654年までの7年間
    661年までの7年間
    以上の「16年間」である。

    一族が「天武期初期に移住したとする説」に従うと、「672年〜686年の初期」の約11年間の以上の後期の2期を合わせて、「賜姓時」より「27年間」は「天智天皇即位の662年」までの“「16年間」”は都にいた事に成る。
    表向きは遙任である。
    これは「伊勢青木氏」ではあって「伊勢王・第四世族内真人族の王位」ではあったが「伊勢」にいなかった計算に成る。

    これが、上記した「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で、「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」と成っていたとするのが「理由」と成るのだ。

    但し、「伊勢青木氏の記述」を借りると、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」の内の一人が死んだが、“もう一人が伊勢王”として続けたとしての事であり、記述はこの“もう一人が伊勢王”を“「施基皇子の中」”に組み入れて施基皇子「初代伊勢王」と成ったとしている。
    これは“「施基皇子の中」とは、“もう一人の孝徳天皇の皇子”を“「父親・天智天皇の政敵」でありながらも保護した”と云う意味であろう。
    そうする事で何事も無かった事にして、次は実質の「領国の伊勢の国」の「施基皇子が初代伊勢王」と成ったと云う事にしたのではないだろうか。
    と云うのは、最早、この“もう一人の伊勢王”と成った者は、「孝徳天皇の皇子」であるとすると、「天武天皇期」では、既に、この間に「3人の天皇」が即位しているとすると、「大化の改新・645年」で定められた「王位の定義」は、「第四世族外の第五世族位か第六世族位の皇子」が成る者として決められていて、この“もう一人の伊勢王と成る者”は、既に「王位」に無く、既にこの時は「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に居た筈なのだ。

    「大化改新の詔」では「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に成った者」は「関東・坂東」に配置される掟である。
    所謂、「大化改新後」は「初代の坂東八平氏の始祖」と成る筈であった。
    ところが「孝徳天皇の皇子」は「坂東」に流される前に政争で殺戮されたし、多くは自ら進んで政争を避けて「栗隈王の様」に一族挙って九州に臨んで配置されている。
    此れを取り分け「第六世族」と成った「中大兄皇子の政敵の孝徳天皇」の「元皇子」を“伊勢の中で囲い救ったと云う事”に成るのである。
    つまり、これ自体は大問題であるが「父の政敵の子」をこの「伊勢」で「施基皇子は匿った形」に成るが、“この時、何故か問題は起こらなかった”のだ。
    既にこれは「脅威と成る皇子」では無く成っている事もあり、「政敵の脅威」とはならないし、「伊勢」の中に囲い込む事で他の勢力も含めて抑え込む狙いもあったと考えられる。
    何れにせよ、これは今後の事を含めて丸く治めたと云う事であろう。
    この記述から読み取れる範囲は、「北部」、つまり「伊賀」に配置したとある事から観てこの者は密かに「伊賀の氏人の一人」として後に「伊賀青木氏と融合させたと云う事」に成ろう。

    さて、「伊勢」がいよいよ「施基皇子の第二世族王・真人族伊勢王」に成ったのは何時か”であるが、前段でも簡単に触れているがこの考察を序でにここでする。

    「施基皇子とその裔系」は、「伊勢」に「正式に移住できた年」は、「孝徳天皇失脚の654年・歴史経緯説」か、「天武天皇即位の672年・青木氏の記述」の「二時期の二つの説」が成り立つ事に成る。

    先ず、前者は、「天智期初期・654年」に“「遙任」”として「真人族王位の伊勢王」と成った。
    つまり、都に居て「伊勢」には国司代を置いたがこれが「三宅連岩床」である。
    “「遙任期間」”は“「18年間」”と成る。

    次に、後者は、「天武天皇初期・672年」に願い出て「一族」ともども「伊勢」に“「赴任」”をした。
    朝廷から派遣されていた「国司代」の「三宅連岩床」を都に帰した。

    「前者の前期」は、「孝徳天皇の皇子・二人・一代限りの真人族伊勢王」で記述から読み解くと、“後に伊勢で匿った”とする記述からすると、「遙任」では無く既に「赴任」であったと考えられる。
    この「赴任期間」は、「孝徳天皇・在645年〜654年」の「失脚」とすると、「真人族伊勢王の赴任期間9年間」である。

    仮に、前者と後者であるとすると、“何故、天皇の権限下で赴任にて一族を移住させられなかったのか”の大きな疑問が湧く。

    この「赴任期間」は、「嵯峨天皇期弘仁二年・811年詔勅」までとある。
    この「関係する詔勅」は、続けて「五年と七年と最後の十年の四詔勅」まで少なくとも「賜姓族」であって、“「伊勢王であった」”ので、“「139年間」”であり“「伊勢王」”であり続けた事に成る。

    然し、「施基皇子没・632年〜716年没・84歳」に依って「伊勢王」を解かれたのでは無く、これらの「四詔勅」に従えば、その内(湯原王、榎井王、白壁王、他三人)が「四家」を構成し補佐し、「後裔の福家嫡子・春日王」が「形式上811年」の「95年の間」までは“「伊勢王」”を続けていた事に成る。

    但し、ところが「嵯峨期」に成って「出自元を擁護する派」の「桓武派」と、「皇親族・青木氏」であった「出自元の勢力」を弱めようとする「嵯峨派」との間で“「同族の政争」”が起こる。
    つまり「桓武派」を推し進めていた「薬子の変」が起こった結果として「嵯峨派」が先手を打って勝つが、明らかにこれを“一族内の争い”と見做されていた「世間の評価・不評」で、「反発を受けてた嵯峨派」は、結局は譲り、「桓武派の代表の平城上皇」が、元の「信賞必罰の大権」を古巣の飛鳥の宮で握る事の「折衷案」で、「一族内の争い」は治まる。

    従って、「形式上811年・95年間」」のまで続けていた事は、「信賞必罰の大権」を握った事の「折衷案」で、つまり、「平城天皇806年〜824年」の「形式上824年」まで、この“「伊勢王」”は、更に“「13年間」”を延長され続けられる事と成ったのだ。

    「遙任期間・18年」+「赴任期間・三期の」=“「139年間」”+“98年間”+“13年間”
    =250年間

    では、「時系列に歴史的経緯」を観ると、以上と成るが果たして、「現実の事態」と云うと「時系列の歴史的経緯」では治まっていないのが世の常である。

    つまり、「824年以後」は、確かに「賜姓族」を外され「嵯峨天皇」から令外官の一部の立場を弱められ結果として、「伊勢王」では無く成っているが、本当にそうなったのかで在る。
    実はそう成ってはいないのである。
    確かに[250年の伊勢王」としては正式には終わらせられたが、唯の昨日今日と「朝廷から派遣された三等官の官僚族達」が「国司・伊勢王」と成っていた訳では無く、「伊勢郷士50人衆」を「氏族」として女系で血縁し、況してや「四掟」で「藤原秀郷流一門族316氏」と結ばれている「青木氏族の伊勢王」を外したからと云って、そう簡単に外れる訳ではない。
    当然に「嵯峨天皇」に依って「伊勢国司の官僚」が朝廷から一時廻されたが務まらず、僅かの地に「出自元擁護の仁明天皇」に依って「天智天皇の奈良期からの不入不倫の権」に基づき「出自元の伊勢王」は復されたのだ。
    その結果、「伊勢」には国司を置かず、「250年以降」は、南北に分け “「無足村主100人衆・郷士衆」”として「古来からの神域の伊勢」である事を以て自然発生的に「自治体の合議制」で治められる様に成ったのだ。
    この“「無足村主百人衆・郷士衆」”には「氏族の伊勢郷士50人衆」も含んでいるのだ。
    当然に「南勢」も「青木氏の旧領地」でもあり「北勢」と同然に“「無足村主百人衆・郷士衆」”は組まれたし、「氏族の伊勢郷士南勢50人衆」がこれに参加した。
    要するに「村主衆」であるので「郷士衆の者」が代々務めた。
    室町期には中には「府の役人」も務めていた者がいる。
    「青木氏の記録」を観ると、その“「無足村主百人衆・郷士衆」”の「財政的な支援」を影で「伊勢青木氏」はしていた事が書かれている。
    “「無足村主百人衆・郷士衆」”が「中央の政治圧力」に屈せない様に「独自性」を持たしていて「河川の修理等の工事」等にも「経済支援」や「技術支援」していた事が「商記録」等からにも書かれている。
    中には史実として「中央政府」に対して「犯罪者などの引き渡しなどの交渉」にも強く関わっていた事が書かれている。
    それは「鎌倉幕府や室町幕府」や「紀州藩との殖産等」で良好な関係が維持されていた事からの結果からであろう。
    現実に、幕末に起こした「南勢」からの“「無足村主100人衆・郷士衆」の「伊勢騒動」に対して「紀州藩」と交渉して罪人を出さずに済ませた事もあった。
    ところが、これに呼応して「北勢」の“「無足村主百人衆・郷士衆」”が動いたが「明治政府・薩摩藩等」が介入して「大伊勢騒動」に発展した。
    これに対して、「薩摩藩主体の維新政府」とは、蔵等を焼かれる等の「犬猿の仲」であったが、「先導者全員斬罪の条件」に対して、古来より「献納をしていた伊勢青木氏」が裏交渉してこれを取り下げさせ「一人の先導者」が責任を取る形で事を納めたのだ。
    これが「伊勢青木氏」が直接的に関わった「明治9年まで13年間の伊勢騒動・信濃を巻き込んでいる」であった。
    当に、これは「伊勢王」であろう。

    「250年後/272年」も間接的に「伊勢の事」に関わり、その「鎌倉期」からの伊勢の“「無足村主百人衆・郷士衆」の「自主の政治体制」は江戸末期まで続いたが、結局は、間接的であるか直接的であるかの「関わりの具合」であって、「支援」に関しては「政治」も[経済」でも「実質上の伊勢王」として勤めていた事に成るのだ。
    ここに第一に奈良時代から取り組んでいる「殖産の伊勢青木氏」があって女系で何度も深く繋がっていたとすれば、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「伊勢の民」も誰一人漏れなく「潤い」と「治政の恩恵」を得ていたのであるから、伊勢王期間の250年、又は272年後」に、突然に「伊勢王」で無く成ったからと云って“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「殖産」で「伊勢の民」等は誰一人左を向くような事は無かったと考えられる。
    ハッキリ言えば、「伊勢の民の指導者」の“「無足村主百人衆・郷士衆」は「女系の血縁族の伊勢青木氏の氏族」であるのだ。
    とりわけ、「純粋に氏族で形成している氏」は、日本に於いて「伊勢と信濃と秀郷流の青木氏」だけであるとすると、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、最早、「250年後/272年」以上の「何度も血縁を重ねた親族の一族」であった筈である。
    取り分け、「男系血縁族」では「親族でも主権争い」をするが、これは無く、「女系の血縁族」は「血の繋がり」を強くする。
    これは前段でも何度も論じたが「人類」は、「女系のみの継承」による「女性の遺伝子的繋がり」から出来ている。
    後勘から観てもどんな面から捉えてもこの“「伊勢王を外した”と云う「嵯峨天皇の判断」には「疑問」が残るが、そんな「伊勢王」の「伊勢」であった。
    其の侭に「伊勢王」であり続けていた場合に何か拙い事が起っている要素があったのかと云う疑問がある。
    「272年間」までが“「現実の伊勢王」”であって、それ「以後の明治9年」までは“「実質の伊勢王」”であり続けたと観ている。

    注釈 前段でもになども引用する処はあるがこれを前提にこれ等の論を続けて読んで頂きたい。
    確かに「伊勢青木氏]は「皇親族」として力を持ちすぎて「天皇の地位を脅かす力」はあったが、既にこの時はこの政治的争いに巻き込まれない為に徹底した「女系化」をして「青木氏側」から防いでいる。
    これで「天皇の地位を脅かす事」は出来ないしないし、寧ろ、「桓武天皇や平城天皇や仁明天皇」の様にその力を利用して「地位の安定・財源」を図っても何の不思議は無かった筈だ。
    突然に「天武系から天智系」で血の繋がる一族」と成ったとしても、そこは力を借りて安定を図るべきでは無かったか。
    要は、「嵯峨天皇」が一般的に嫌ったとする「皇親族」としてその度を過ぎなければ良い訳だ。
    それを既に見抜いて「施基皇子」が「氏是」にしているでは無いか。
    寧ろ、「天皇家の方」から近づいてきているのだ。
    それを信用するかしないかであって、「施基皇子」は歴史に遺る程に表の行動は「歌人」に徹しているのだ。
    後は「院号」を以て「殖産」を続けていれば良い訳であるし、それを続けているし「献納・内蔵」もしているし「院号代/大蔵」を納めている。
    要するに、現実には「天皇家の内蔵の方」が潤っていたのだ。
    「青木氏」を「皇親族で地位を保っている」として「社会」に「諂い」し見せたくないとする態度を採ったとも思っていたのか。
    然し、「施基皇子」は「歌人」として振る舞っている以上はこの説は当たらないだろう。
    寧ろ、「嵯峨天皇」は「伊勢青木氏」に卑下したかであるが、何故ならば「後裔の春日王」も歌人であり全てに優れていたとされる。
    「嵯峨天皇」に似て「初代の白壁王の光仁天皇」もその性質の傾向があった事が伝えられている。

    然し、この奈良期からの「伊勢」に「250年後/272年」もの間に、「伊勢氏族50人衆」で「強固な基盤」が既に築かれていて、そこに「朝廷国司」が来たからと云って務まるかの疑問が残る。
    現実には「経済基盤」と「支配の勢力基盤」と「軍事等の統治の政治基盤」が築かれているのだ。
    これ等の協力なしでは何も出来ないのが現実である。
    「朝廷としての税」にしても「伊勢弁財使」としても「税を都に送るだけの運搬の役目の官吏」であったろう。
    それ故に「250年間」で「伊勢郷士衆50衆の氏族・北部」で構成されている国では、最早、「押領使の役目や弁財使の役目」は唯、無かったであろう。
    従って、「824年」からは実質は「伊勢北部」は「伊勢国司不在」であったのだ。

    其の後、この“「738年間の国司不在の伊勢国」”は、元より「郷土史・無足村主100人衆由緒等」に依れば、“「無足村主百人衆以上の村主構成人・郷士衆」で保たれていた事が記録から判っていて、取り分け「伊勢南部」も「伊勢南部郷士衆50衆の氏族」で保たれていたのだ。
    この「伊勢南部」も云うまでもなく「奈良期からの伊勢青木氏の旧領地」であった。

    ところが「奈良期からの不入不倫の権」を破って「戦国期」に成って突然に「1562年から1576年」の「8年間」に渡りに「朝廷の学問処官吏・公家」だった「北畠氏」が「貴族の武力」を以て「伊勢・1415年」に強引に入り込み南北朝期に「伊勢国司」として振る舞い、最終は「信長」に1576年に潰されたのだ。
    約長くても「150年間」であるが、「伊勢国司としての役割」を果たした期間は実質無いのだ。
    矢張りは、古来から「伊勢一国惣国者国衆」として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主百人衆の郷士衆」であったのだ。
    彼等が参加しなかった後から甲斐と信濃から入って来た「工藤氏や神田氏や川久保氏等」との「伊勢の戦乱」であったのだ。
    唯、秀吉はこれを見抜いていたのだ。

    注釈 前段でも論じた様に、余談として、この「奈良期からの不入不倫の権」を自ら先鞭を切らずに「特殊な伊勢」に対して自ら手を下さず「北畠」に遣らせた「信長の策」に嵌まったのだと筆者は観ている。
    この注目の「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」は北畠氏に着いて行かなかったのだ。
    筆者は、古来から“「伊勢一国惣国者国衆」”として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」が従うと思ったところに問題があって、この「村上源氏を押し出した北畠」は余計な事をしたものだと思う。
    「村上源氏以上の格式」を有する「伊勢一国惣国者国衆」に対して{武力」では護れはしない「伊勢]である事を読み切らずに馬鹿な事をしたと思うし、「伊勢」は其の様に一定期間振る舞ったのだ。

    注釈 この“「伊勢惣国者」”で成り立つ「南北部の村主郷士の自治組織」は、江戸時代に成ってから政治的に利用され、「津藩の郷士の軍役の家臣」として利用され「政治の安定・取り込み政策」を図ったのだ。
    ところが「南北部の村主郷士の自治組織」の彼等には、元より「経済的」に安定する「擁護の支援者・伊勢青木氏」がいた為に、「津藩の働き掛け」に必要以上に靡かなかったのだ。
    中にはこの柵から抜け出せずに「軍役の役」を持ちながらも「無足村主百人衆」を捨てなかったのだ。
    「典型的な事件」として「伊勢騒動の指導者」の様に、「津藩の役人」でありながらも主張する処は主張し自ら責任を取った指導者もいたくらいで「無足村主百人衆」を守ったのだ。
    明治5年までの歴史が残っている。
    ところが江戸期に入って「伊勢」は、「多くの支藩・紀州藩」が乱立したが、どの藩の家臣にも成らず「無足の立場」で「自治組織」を形勢していた。
    又、この「土壌」を利用したのが「信長の楽市楽座」である。
    更には「伊勢秀郷流青木氏の梵純」の「甥の蒲生氏郷」が、この「伊勢の組織」を利用して「伊勢」を上手く治め「信長」より特別の褒章を得た史実があるほどの忘れてはならない「伊勢の事を左右する程の自治組織」であったのだ。

    況してや、「帝紀」で少なくとも「嵯峨天皇」は、「天智天武天皇の青木氏に下した命」は覆せないし、それを覆せない以上は「伊勢出自の光仁天皇・白壁王」と云えどこれを黙認したが、「桓武天皇と平城天皇」は帝紀を追認している。
    従って、この「帝紀の現状」は「絶対的帝紀」として覆せなかったのだ。
    つまり、「伊勢の領地と民」はこの「帝紀」に従う決定として「施基皇子の後裔地」として例え「天皇」であっても覆せなかったのだ。
    つまり、「伊勢王の国司事件」によりその後は“伊勢国司を置く事は絶対に出来ないと云う定め”に成っていたのだ。
    唯、累代の中で「嵯峨天皇」だけがこの「流れ」を嫌って「賜姓族と皇親族を外す事」で、「帝紀」に逆らったのだが、但し、晩年にこれに反省して自らが「賜姓族青木氏の制度」を甲斐に復活して「甲斐青木氏・税を司る役人の甲斐冠者」にしてから自らが復して「甲斐青木氏」として「青木氏の賜姓制度」に戻しているのだ。
    その後に「円融天皇」により既に「四掟」で「母方」であった「秀郷一門の嗣子第三子」に「秀郷流賜姓青木氏」に復する事を永代に命じているのだ。
    依って、この「考え方」に依れば一時的には成るが、「賜姓族」では無く成ってる時期もあった事に成り、同然に「伊勢王では無く成る時期」も起こったと云う事に成るのだ。
    「甲斐青木氏」として「賜姓」を復しているが、「制度」として復しているかは復したと明記している命が無い限り疑問であるのだ。
    天皇が正式に賜姓をするかは別として条件が揃えば名乗っても良いとしたのだ。
    これが「左大臣の島氏の青木氏」であったり「時光系回青木氏」であったり[橘氏系青木氏」等があったり証券の疑義はあるとしても「丹治彦流丹治氏系青木氏」がある。
    「秀郷流青木氏}は「円融天皇]より正式に条件に拘わらずに「賜姓」を永代で受けて別格である事は女系で云う迄も無い。
    まあ、「円融天皇」が「青木氏に依る賜姓制度」を正式に復した事にも成ると観ている。
    これは「賜姓族」を外したのは一時的にせよ「賜姓族と皇親族」ではあったとしても、“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだ。
    但し、「皇親族」では“外した”と云う記録はあるが、「仁明天皇」がこれを“復した”とする記録は「五つの朝廷史書」にもないし、これ等の「史書」から明らかに「賜姓」で「臣下」している限りに於いてだけでは「皇親族」は必然的には生まれてない。
    この“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだが、“無いと云う事”は外していないという事にも成る。
    つまり、「伊勢王」でありながら“「皇親族」では無い”と云う矛盾は生まれるのだ。
    又、同時に「伊勢王」である以上は「賜姓族」である事に成る。
    だとすると、「伊勢王」の「賜姓族」は、否定できない事実であるのなら、「皇親族」と成り得る事は否定できない。

    「記録の有無」は、兎も角も、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係は成立していなければならない理屈である。
    これを脅かした「嵯峨天皇の行為」は、矛盾するか否かではなく、「帝紀」に触れるか否かではなく、記録にあるか無いかではなく、この「出自元」でありながらこの「三つの関係」にある事をそれぞれを否定したのだ。
    そこで「特別令外官」だけに就いては、「3等官以上の官吏」であれば成り得るので「令外官」であった事は否めないし、況してや「浄大壱位の冠位」を持つ「永代賜姓五役」であった事は否定できないので、「永代令外官」は否定できずその侭の状態で放置した事にも成るのだ。
    つまり、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」でありながら、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係を否定してしまって「百々の顛末・始末」は矛盾した結果と成ったのだ。
    然し、結局は、この「嵯峨天皇の矛盾」を放置できずに「仁明天皇」が遂にはこれを修正したと成るのだ。
    この「歴史段階の結論としての証明」は、何はともあれは、“武力を前提としない氏族の青木氏”に対して、“「鎌倉幕府」は、「仁明天皇の修正部分」に基づいて、「鎌倉幕府」は「安堵策」を以てこれを認めているのだ。
    ところが、「歴史」では此れを正しく評価していて、この「伊勢」の「商いも営む二足草鞋策の裔系青木氏」に対しては、「伊賀域」を除いて、「伊勢全土本領安堵している史実・上記の関係式を認めた証拠」”があるのだ。
    「鎌倉幕府」は、「伊賀域を除いたとする事・地頭」からすると、「奈良期から平安期初期に掛けての詔」に従ったと云う事であり、又、「帝紀の有様」に従ったと云う事に成るのだ。
    「室町幕府」は、これを「伊勢北部」と「伊勢南部一部の旧領地」を二つに分けて本領安堵して全体を減らしたのだ。
    更に、その上でこの「地権策を多く用いたこの安堵策」は「奈良期の最も初期の状態」に限定した事を意味する。
    然し、この時は、限定と云う事は減らしたのかと思いきや「別の形」で処置して復しているのだ。
    それは、「青木氏の財力」を生かして優先的に「地権獲得・幕府には都合がよい」で本領を復して解決しているのだ。
    恐らくは、この「地権獲得」から得られる「大財源」を狙ったものである事は明白である。
    これ等の史実は、「伊勢王」では無く成った「824年」からも、“「武力を持たない豪族・秀郷流一門の抑止力」”を背景に「伊勢」を「実質に支配をしていた事」を示すものだ。

    次に、「伊勢王であった時期」としては、「賜姓前の“647年以前」はどうであったか”という事に成る。
    当時の「施基皇子15歳」で「成人」と成り、その為に「賜姓」を賜り、当然に独立した証として「姓」を持つ以上はそれなりの位に応じて「国・地域」も賜るのが「当時の真人族の者の仕来り」であった。
    この時に確かに「孝徳天皇の二人の皇子」の「伊勢王]として「一代限りの王」が居ながらも、「施基皇子」はその「伊勢の一部域・賜姓地は指定されていた」を賜っているのが通常と成っていた。
    然し、未だこの時は初代の「孝徳天皇の皇子の伊勢王・毒殺」が居た事から、「全域」では無かった事には成るが、そこで、この時、「伊勢」は果たして、「施基皇子の賜姓地」が決まっているのに、「初代の孝徳天皇の皇子の伊勢王」が存在し得ていた事に成り得るのかである。
    これは矛盾する。
    これは「孝徳天皇の皇子の伊勢王」に執っては「100%伊勢王としての立場」には無かった筈である。
    それでも「伊勢王・一定期」にしたと云う事だが、これは「中大兄皇子の政治策」であった事は明白であった。
    「歴史の経緯」からして、この状況の中では「伊勢王」は確かに「孝徳天皇の皇子」であった史実かも知れないが、現実は考え難い。
    「施基皇子」は、「賜姓」を「伊勢」に受け、且つ、「功績」に依って「伊勢の領国・4つの大字/80%」を受けながら、「伊勢王では無いと云う矛盾」が「一時期に続いていた事」に成るのだ。
    ところが、この「状態下]で、「中大兄皇子」は、「大化改新・645年6月12日」を実行しているのだ。
    「政権」を掌握した「中大兄皇子と中臣鎌足」は、「皇極天皇」を退位にし、「皇極天皇の弟」の「孝徳天皇」を即位させた。
    そして、その直後から「新たな時代の始まり」として、それまで正式に無かった「元号」をも「大化」と定めた年でもあって、「王位」も「第世族」までと決めた年でもあり、「日本」と「天皇」の「呼称」をも正式にこの時に定めた年でもあった。
    それまで「王位であった者」が「王位で無く成った者」が多く出て混乱し、これ等の者は坂東に配置されて「ひら族]と名付けられて流されたのだ。
    これが「後の鎌倉幕府を支えた坂東八平氏の始り・熊谷氏等」である。
    この「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は「斉明天皇」からは「第三世王」であり「天智天皇」となると「第四世族」と成り「施基皇子」が匿ったとしても必然的に「伊勢王ぎりぎりの位置」にあった事に成る。

    所謂、この「皇極天皇・在642年〜645年」と「孝徳天皇・在645年〜654年」の「中間・即位前」の中での起こった「改新劇」であって、「母親の重祚」の「斉明天皇・在594年〜661年」と「天智天皇・在668年〜671年」から「天武天皇・在673年3月20日〜86年10月1日」と繋いだ歳でもあった。
    当に「日本の社会状況」を含めて「状況」が大きく変わる「大化の経緯」であった。
    現実に、この時は「天智天皇」が「伊勢」に「紀州日前宮」から「最終地の遷宮地」として定め移した年でもあり、これを「伊勢神宮」と定めた歳でもあり、此れを「天武天皇」が正式に整えて最終決定して仕上げたのだ。
    だとすると、この「経緯」では、「伊の勢の国」は、「施基皇子」が15歳で成人し「賜姓」を受け、且つ、其の位から地を賜っている筈である。
    つまり、「年・647年の前」の「645年前頃前・皇極天皇期」の「伊の勢の国」は誰の支配下にあったかと云う事に成る。
    母親に代わって「中大兄皇子」が摂政を執っていた年の「伊の勢の国」は当然に神宮の事等もあって、「中大兄皇子」の支配下にあった事に成り、「15歳の賜姓を受けた施基皇子」には、「伊の勢の国の全域」とは云わずとも「ある域の領地]を与えた事に成る。
    でなければ「15歳での賜姓」は無い。
    ここが、“「旧領地」”と呼ばれていた「南勢域の尾鷲の域」ではないか。
    此れであれば、他は安堵され無く成っても、つまり「江戸時代」になっても「此処・南勢尾鷲域」は安堵されていた事から符号一致するのだ。
    つまり、「647年の前」の「642年の5年間」は、実質は「施基皇子の支配下」にあって「647年」に「正式に領地」と成ったとする経緯である事に成るのだ。
    つまり、この以上に検証した上記の「疑問」は、この状況の中で「中大兄皇子」がその「裔系」を以て「伊勢」を一時的に支配していたのではないかという事だ。
    「伊勢王の本領地の250年間」に、この“「5年間」”が加算される事を意味し、それは「255年間」と先ずは訂正される所以と成る。

    ところが、疑問としては、もめた「嵯峨天皇後」の「伊勢王の期間」は、果たして、上記した様に「賜姓族」を外された事で、要するに検証する“「伊勢王の期間」が此処で途切れたとする論”で良いのかである。
    つまり、これは「全ゆる殖産」は終わったとする事に成るが、この「殖産」は「伊勢王」であったかは別として「伊勢を代表する殖産の青木氏」として「紀州徳川氏」と共に明治期まで続けているのだ。
    これは何を意味するのかである。
    他に伊勢に同じ様な立場を保全している者があるのなら続けてはいない筈だ。
    「坂本竜馬の船沈没の事件の問題」も「伊勢の青木氏」が「勘定方指導役」として代わって解決しているのだ。
    本当にこれも何を意味するのかである。
    「伊勢」に「それなりの替わる者」が居れば出て来ている筈では無いか。
    要するに自ら伊勢松阪から摂津に身を引くまでの「明治期初め」まで「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は「実力のある実質の伊勢王」であったのだ。

    兎も角も、「時代経緯」がこれだけの事を示しているのに、それにしても「嵯峨天皇の出自元の行為」に対しては「純和天皇」も「中間の立場」を保ち無関心を装ったが、「仁明天皇」だけは、「嵯峨天皇時代の施政」に反して「反意の態度」を執って「出自元を擁護し復した」と幾つかの史書にある。
    「鎌倉期の史書」にも「伊勢青木氏の血縁筋の最後」は、「仁明天皇」が最後として記していて、ここまでの史実には「否定者」は、「嵯峨天皇以外」に無く、多くの者が良い「関与人物」として記している。
    この事から観れば「天皇」としては、後勘からみれば、「伊勢での青木氏の立場」を立ち直らせたのは「仁明天皇と円融天皇]であったろう。

    淳和天皇・在823年5月29日〜833年3月22日 10年間 嵯峨天皇の異母弟
    仁明天皇・在833年3月22日〜850年5月4日 17年間 嵯峨天皇第二皇子
    円融天皇・在969年9月27日〜989年9月24日 20年間

    とすると、「嵯峨天皇での青木氏賜姓の中止」で、その後は「伊勢王」は結果として停止し、「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」と成ったとあるが、「仁明天皇の復政」で「伊勢王の立場保全・実質は伊勢村主百人衆の上に立っていた」は戻ったとする説論が成り立つ。
    そうすると「伊勢王」が復されたのであれば「賜姓族」も復したと成るだろう。
    上記した「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である以上は、復する事は理窟の上では間違いは無いであろう。
    取り分け、この「説論」は「北勢」に於いては「青木氏の氏族」である「伊勢郷士50人衆の村主衆の氏人」で成り立っていた事を考察し、「旧領地の南部の伊勢郷士50人衆の村主衆」もこれに従ったと考えられている。
    とすると、少なくとも「北勢の伊勢王」であり続けた事が間違いは無い事が云える。
    そこでそもそも「南勢」は上記した様に「奈良期からの旧領地」であった。
    「北勢+南勢」に於いて、この関係が成立しているにも関わらず、そこで「実質伊勢王」を、「朝廷」は「嵯峨天皇の乱政」で掻き廻され、「帝紀を覆す事」は出来ない為に矛盾の進言もをせず“「積極的黙認」を続けた事”に成るのだ。
    取り分け、「南勢」に於いては明確に認められるのだが。
    その「証拠」に於いて「江戸期の伊勢での一揆反乱騒動・前段・伊勢騒動で論じた」は何とこの「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」での「南勢」から起こっているのだ。
    そして、「北勢衆・経済的な補完は伊勢青木がした」がこれを補佐したと記録にある。
    従って、江戸期まで働いていたとするならば、「北勢」は少なくとも「仁明期]までは充分に「実質伊勢王の威光」は働いていたと考えられる。
    従って、筆者は、250年間+5年間+17年間=“272年間” が“「伊勢王の期間」”としているのだ。
    後は、守護等を置かない「南北の無足村主百人衆の自治組織」が治めていた事に成る。

    「戦乱期の中」で「1415年」の「国司の格式」を得て「公家貴族の北畠氏」がこの「自治組織」を其の侭に「伊勢」に強引に入る事に成ったのだ。
    然し、この時も「公家貴族の北畠氏」の資格は「3等官以上が成り得る国司」であって「伊勢王」ではないのである。
    この事は、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である事が現実に認められる以上は否定は出来ず、“「積極的黙認」を続けた事”に依って「伊勢王の存在」を影乍ら認めていた証拠であろう。
    現実に「朝廷に執っては最大の献納・献納そのものが伊勢王の証拠」が行われているのだ。
    況して、「地頭と守護」のいない「南北の無足村主百人衆の自治組織」と「伊勢青木氏の支援」で治めていた「伊勢」の中で「国司」であったとすれば、「公家貴族の北畠氏の国司」は何の意味を成すかである。
    「南北朝の指金」に過ぎなかったと観ていて「朝廷を救うものでは無かった」のだ。
    況してや 「戦国時代1467年から1690年を戦国時代」とすると、「50年前の南北朝の朝廷」にあっては「公家貴族の北畠氏の国司」をこれをその格式とすれば「伊勢国司の意味」の成す処等はないのだ。
    実質は、この段階でも「伊勢王」は、伝統的にも実績でも功績でもどれを執っても“「伊勢青木氏に代わり得る者」が「伊勢」には存在していなかった”という事であって、「献納等の行為」も含めて公私ともに演じていたと見做せるのだ。
    その状態を再び室町幕府の公が形式的に時代に合わせて認めたのが「律宗族の青木氏」であったのでは無いか。
    平安期で“「積極的黙認」を続けた事”に対して、室町期では「正親町天皇」も巻き込んでの事であったと観ている。そうでなければ「正親町天皇・朝廷」を引き込まなかったであろう。
    “「積極的黙認」はこの時点で終わりを告げ実質伊勢王を認めた形を執ったのでは無いか.
    それが「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係であり続けたが、「伊勢青木氏」に執ってはそれがあるか無いかは別として大した意味を持たず、「南北の無足村主百人衆の自治組織」に囲まれた「奈良期からの伝統とその形を護る青木氏・律宗族」であったのでは無いか。
    最早、軌道に載った「殖産の青木氏」であったのであろう。
    要するに、[近江鉄の殖産」は「伊勢王の在り様」に大きく関わっていたのだ。
    それだけにその伊勢王の期間が問題に成る。

    「伊勢の国」の「伊勢王としての殖産」に関する事件は以上

    注釈 「伊勢の資料」には、恐らくは“「250余年間」”とするものもあるのはこの事に依るものであろう。
    要するに、“実質の限界値を何処に定めるか”にある。
    それにしても「奈良期初期の曖昧期の5年間」と、「平安期初期の曖昧期の17年間」を除けば、前段でも記述した様に、確実には、“「250年間」は「伊勢王」であった事”が認められる。

    注釈 そして、その後は、上記した様に鎌倉期には「御家人の地頭職・足利氏」を置いたが「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」を受けた様に、「平安期末期・1192年」までの“「368年間」”も、下記の政治体制としての「伊勢郷士衆南北百人衆」でまとめていた期間も、“「実質の伊勢王」”であった事に成る。
    この時の「伊賀域」は、伊勢松阪に代わって「足利氏の地頭職」を置いて外したが、「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」で、「鎌倉期初期・1220年」までは、「平安期の伊勢王」に相当する特殊な伊勢氏族」として保たれていた。
    然し、「鎌倉中期頃」からは「伊勢の態勢」は替わり「執権北条氏の政治策」で「伊勢の主な本領地」は無く成り、その代わりを「裏の形」では“「買い取る形・地権者」”としての「地位」を築いていたのだ。
    その古来から「立場格式を特別に有する“「郷氏」”、即ち、「豪族に相当する財力と抑止力を有している事」を前提として、「地頭」に相当する“「守護族・郷氏族・伊勢王」”として務めたとなる。

    注釈 「鎌倉幕府」の「頼朝」は、前段でも論じたが、天皇宣下が降りず「征夷代将軍」”とは直ぐには成れず、「頼政の以仁王の令旨」を以て引き継いだとして一段格下の「鎮守府将軍」に甘んじていた。
    従って、正しくは「鎌倉幕府」は、開けずに、「鎌倉の府」として振る舞っていた。
    この「鎌倉の府」の下では、「守護職」に代わって「地頭職の官僚」を前提として置く事を定めて「朝廷」に申請したがこれも直ぐには認めなかった。
    そこで、この樹立したばかりの「鎌倉の府」は、強引に「御家人」から成る「地頭職」を主要地に置き始め、「既成事実」で府の管理体制を造り上げたのだ。
    その為に前の「守護」と「地頭」との間で「争い」が続いた。
    その「地頭の最初の設置」が、「天智天皇の詔」がある為に「伊勢松阪」に直接に置けず、その代わりに「伊勢伊賀」に置いた。
    そして「美濃一色」にも置けず「美濃沼田」の二か所に先ず置いたのだ。これが最初であった。
    そもそも「一色の呼称」は「伊勢」於ける「伊勢王・施基皇子の大字の総称」として使われていたもので、「伊勢」から主要三か国・近江・美濃・信濃」に嫁いだ者等が故郷を懐かしんで住んでいる地域を「一色」と呼んだものであって、それが周囲から格式と見做され、乱れた室町期には無断で格式を高く見せる手段として使われる様に成ったものだ。
    要するに、第の氏名姓と云われるもので、足利氏や徳川氏は時と場所に依って足利氏、徳川氏以外に「名乗り名」を四つも使っている。
    この「名乗り名」を使う事には幕府の追認があったのだ。
    そこで、足利氏等の「名乗り名」に付いては次の通りである。

    例 足利氏・土岐氏等の「第三の名乗り名」 (一色に付いて)

    1 美濃国の戦国大名の「斎藤義龍」が「美濃一色氏」を称する。
    2 土岐頼益の養孫である「土岐成頼」の裔の「土岐頼栄の子孫」が「土岐一色氏」を称する。
    3 足利氏支流の「吉良有義の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
    4 足利氏支流の「吉良定堅の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
    5 藤原北家良門流の「犬懸上杉憲藤の裔孫の上杉教朝の子孫」が「上杉一色氏」を称する。
    6 足利義昭より偏諱の授与で「菅原流一色昭孝」を称する。
    7 足利在種の裔孫が「足利一色氏」を称する。

    要するに、これも「社会と周囲と朝廷と幕府」はその格式を認めていた事を示すものである。
    所謂、「施基皇子とそその裔系」に対して「伊勢王の権威」を認めていた事を示すものである。
    それは合わせて「格式を保つ為の古き伝統」をも維持していた事にも依る。

    注釈 そもそも、“「大兄」”とは、同母兄弟の中の長男に与えられた「大王位継承資格」を示す称号で、「中大兄」はその「2番目の大兄・皇子」を意味する語である。
    「大化の改新」とは、母の「皇極天皇期の645年に「乙巳の変」での国政改革の事で、その2年後に賜姓を授かり、「中大兄皇子」から「第7位の第四世族内の施基皇子」として臣下している。
    「孝徳天皇の子供の初代伊勢王」が、“「施基皇子の配下に入った」”とするは、“この二人の内の次に成り得るもう「一人の子供・皇子」が身を引き「施基皇子の配下に入った」”と成ったと考えられる。
    この事に就いて「施基皇子の功績」を以て、「天武天皇・在672年〜686年」も流石に放置できず、この時に「施基皇子の大功績」が有無を言わさずに「匿う事と赴任の事の容認」に踏み切る事に左右した事に成ろう。

    注釈 さて、“この「注釈に関わった時はと云うと,そうでは無かった”のだ。
    つまり、「初代伊勢王」は実は「施基皇子」であった。
    ところが、その「中大兄皇子の政敵」の“「一代限りの初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”は「伊勢王の施基皇子の配下の国司」として入って着任した形を執って「伊勢」に匿ったのだ。
    この為に政敵の「一人目の一代限りの初代の伊勢王・兄の皇子」は毒殺された。
    この為に、「一代限り」である事から次の「二人目の伊勢王・二人目の弟の皇子」に引き継がせる為には、この「二人目の皇子」には、飽く迄も、“「初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”の呼称としては引き継がせ様としたが、「実質の形」は「政治的立場」から「伊勢国司の形」として辻褄を合わせたのだ。
    この不思議な時系列を読み解けば、この「二人目の孝徳天皇の皇子」を救い匿う口実を造り上げていたとすれば理解は出来るのだ。
    そして、故に“「実質の形」”では、「朝廷」は飽く迄も“「初代伊勢王」と当初は呼んでいだ”の経緯と成るが、実の処は“呼んでいたと云うよりは呼ばしていた”のでは無いか。
    ところがこの「政争]とは別に、「施基皇子」が「朝廷」で「賜姓臣下族」として振る舞っていたが、それでいて余りの高い功績を積み重ねた為に、その侭では「朝廷」も無視し続ける事はできなくなったのだ。
    前段でも論じた様に、「賜姓五役」としての「功績」が誰よりも高く上げながらも、その様に振る舞わなかった原因である。

    注釈 「真人族」の中では「有名な歌人」として振る舞い「政治的立場」に敢えて出ず隠した形でおとなしくしていた。
    その為に上記した様に「冠位と官位と伊勢領地」とを「皇子真人族」の他の誰よりも獲得していたが、それ故に上記の様に「伊勢王呼称」には拘りを示さなかったのだろう。
    その「真人族」が何と初めての「第七位の第四世族内の真人族」が、最初の「臣下族」と成り、且つ、それが「賜姓族・647年」と成り、「天皇の親衛隊」と成った事で、その事象は過去に事例が無く、“「前例のない扱い」”であった事から、「天武天皇」とその「后・姉・持統天皇」は、その「扱い」に対して勿論の事で「朝廷」も困ったのでは無いかと観ている。
    此れは「父の天智天皇の大化の改新」で起こった初めての事であって、何事にもその「扱い」に極めて慎重に成ったと云う事ではないか。
    古来より上記している様に「帝紀」があって、“天皇が一度詔として定めた事はどんな事が有っても覆してはならない”とする掟があった。
    これに対する「三等官以上の官僚族」がこれに関われない“「政治的迷い」”があったからであろう。
    つまり、「浄大壱位と云う冠位」を持っていた事で、「兄の皇子」に対して“「天皇も裁けない出来事」”と成っていたと考えられる。
    その「最大の要素」は、「天皇に継ぐ冠位」と「真人族で賜姓族のその前例のない功績」であったと考えられる。
    これに「天武天皇」も「兄・天智天皇」で、その「后」も「天智天皇の娘」であり、「大化の改新の詔」と「帝紀の尊重」であるとすると、このそれ相当の“施基皇子の処遇に迷う”のは「自明で理」であるだろう。

    注釈 「施基皇子の功績に伴う処遇」に対して、「兄の川島皇子の処遇」は礎それ相当に評価されていないのは不思議で、「皇子順位」は川島の皇子の方が確かに上であるが、「近江への褒章の処遇」は同じと成っている。
    冠位と官位は施基皇子の方が上であるし、「領国の価値としては施基皇子の方が間違いなく上である。
    「賜姓」も「施基皇子」は「神木の青木」から当時の慣例から上で、「普通の当時の賜姓」の最低は「地名」であり、「川島皇子の賜姓」は単なる「近江の地名・神社名」であって「真人族の賜姓」の扱いではない。
    然し、以上の様に「青木氏のの氏是」にもある様に上位にありながら目立たない様にしていたのだ。

    注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
    それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
    その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
    その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
    前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
    そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
    「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
    この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
    この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
    そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
    唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
    この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。

    注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
    これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。


      [No.395] Re:「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/04/15(Fri) 11:21:52  

    「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」の末尾

    > 要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
    > 「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
    > それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
    > それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。
    >
    > この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
    > 当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
    > 筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
    > 「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
    > だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
    > 家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これの「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
    > 筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
    > それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
    > 「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
    > この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を以て立ち回った氏族であった事」が良く判る。
    > 上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
    > それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
    > この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
    > 「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。


    「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」


    さて、再び元に戻して、この様に「予定の籠城」をせずに再び「野戦」を選んだ処から「家康の判断」が「狂い始めた事」に成る。
    そこで「額田青木氏の銃隊」は「青木貞治の軍議の内部情報」を得て慌てて武田軍後尾を追尾するのを止めて「青木貞治隊の救出」の為に「三方ヶ原に走る事」と成ったのである。
    「籠城」は「吉田城」で観る様に、それの方が「銃隊の効果」が出ると考えていたし、「武田軍の本隊」もこの「銃の脅威」に対して、一度は、「第一次吉田城攻め・籠城」で経験しているし、二度目は「一言坂下の遭遇戦」で経験しているし、この「銃の威力」を生かすには“「籠城作戦」”が効果的作戦である事」を「両軍」ともに充分に認識している筈であった。
    それ故に「南下国衆の銃隊」を急遽、「吉田城」から呼び寄せたのだ。
    ところが先に論じた様に「軍議」では、初めから「援軍を送る心算」の無い「織田氏の軍目付・軍監達」は、飽く迄も「籠城とその為に依って起こる時間稼ぎ」を主張していた事が判る。
    「籠城戦を決定する」の為の「命令・三つの命」を駆け付けた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して命じたが、「軍議」では「額田青木氏の本来の目的」では無かった事でこれを蹴ったのだ。
    「松平氏の旗本」は勿論の事、命令を「勘違い・国衆約定を忘却」して受けるものとして観ていたし、「織田氏の軍目付・軍艦」もその様に聞いていて驚いたであろうし、内に秘めた「思惑・時間稼ぎの計画」は内心狂ったと思っただろう。
    と云う「事前の論筋」から呼び出す前に「事前の軍議」で検討され、決定してそれを伝えたと云う事に成る。
    「松平軍」としては「命令」を受け入れるものとして考えていたがその立場を軍監の前で失ったのだ。
    其れは「条件付きの伊川津国衆・約定」であって、それを「家康」が契約を破った以上は「額田青木氏」は断る以外には無かったし、この「危険リスクを負う事」は当初よりその「命令破りのリスク」はあったが、どう出るかは「指揮官の伊勢秀郷流青木氏・貞秀」と「額田青木氏の差配頭・貞重」は城から出て様子を見たが、「秀郷流駿河青木氏一族の青木貞治等」はどの様な行動に出るが緊迫して、外の行動を案じていた。
    「松平軍」は果たして「額田青木氏の銃隊」に対して攻撃に出て来るのかを観ていたが、答えは「時間稼ぎ・偵察隊・遭遇戦の命」であったのである。
    故に、外の「額田青木氏」にこの「命」を伝えに来たのは間違いなく、それは「秀郷流駿河青木氏・貞治」で在ったろう。
    そもそも、この時点で、最早、「額田青木氏」に執つては「松平軍の命」に従う必要があったかは疑問であるが、此処で「戦いを興す事」より「伊川津に戻っての事の方」が「リスク」は少なく都合が良くそのタイミングを計っていて我慢していたと云う事ではないか。
    何故ならば、そもそもこの「命」には「軍議の密かな思惑」があったのだ。
    「反発して来た旗本等」が直前に経験している“「一言坂に在る強い武田軍の本隊」に飲み込まれて滅するであろう”とする「読みの命」であったのだ。
    これは「自ら手を施す事」なく罰する事は出来るしと同時に、時間を稼げると観ていた。
    ところが、この“読みは見事に崩れた”のだ。
    この「詳細な経緯」を「城」から観ていた「松平軍」は、「額田青木氏の銃隊」は時間を経て見事に勝利し、故に、先に「西の坂下」に降りて再び「武田軍の本隊の浜松城通過の出方」を待ったのだ。
    その上で先ずは“「浜松城の右横小丘」”に着き、「両軍の出方を観る為に監視していた事」が資料から解る。
    では、この「詳細経緯」としては“これは何故か”である。
    最早、「命令を拒んだ以上」は「浜松城に留まる必要性」は全く無く成り、且つ、「伊川津国衆」として存在する理由は無くなったのだ。
    そこで、この行動はそれは“伊川津に戻るタイミングを計っていた”のだと成るだろう。
    「額田青木氏の銃隊の南下国衆」はそもそも「防御の銃隊」であって、「武田軍」に対して背後を突いて潰すのが戦略で無かった筈で、では「武田軍の前」を伊川津に引くのは「背後を突かれる危険」があり、故に「武田軍の本隊」が「浜松城通過の後」を「追尾する事」にして堀江城の手前のここで待っていたのだ。
    然し、兎も角も「額田青木氏の南下国衆の銃隊として」の形上は「軍議の命」を果たす様子を見せながらも待ったが、処が「松平軍は違った行動」を採ったのだ。
    それは、そこで、追尾中の「額田青木氏の銃隊」は普通なら得られる事の無い「軍議の密議の結果・野戦を選んだの情報」を、「後勘の経緯」を積み上げた事から観て、“間一髪に逸早く獲得した”のだ。
    それは「旗本からの非難」を受けながらも何とかこの「軍議」に残った「駿河青木氏の青木貞治隊」は、「追尾中の額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して“「重要な連絡」”を密かに採った事に成るのだ。
    そこで慌てて、「青木氏の資料記録から分析」では、「北の三方ヶ原」に向けて「額田青木氏の銃隊」は、「執るべき方針・目的」を定め直して「青木貞治の一族隊200」を護り救出する為にも、又、その後を見守る為にも、“「三方ヶ原に向けて懸命に走った”と成るのだ。
    “「三方ヶ原」に向けて懸命に走った”とする必要は、「伊川津」に戻る為の「様子見」をする為に、「タイミング・武田軍から伊川津に戻る背後を突かれない為にも」を計っていたので、「情報の必要性は元より無かった筈」でこれが初めての詳細結果だったのだ。

    ところが、然し、ここで「駿河青木氏」を救出せんが為の情報が入ったのだ。
    幸いにしてこの時に、ほぼ同時に「武田軍側」にも“「異変」”が起こったのだ。
    それは「堀江城の攻略」に手間取った事と、「別動隊の二俣城の手間取り」で、相互に「タイムラグ」が起こった事の情報である。
    「武田軍本隊」は、そこで「山県軍の別動隊」より先に三方ヶ原に来て「魚鱗・行軍中に」で陣取り、これに加わる様に成っていた。
    然し「別動隊との間」に何と「約1h〜0.5h時間の差」が発生して仕舞った経緯と成っていたのだ。
    既に救出の為に「魚鱗の陣形」を整えてしまつた「武田軍の本隊」には、最早、北の山際に着いた「山県具の別動隊」は西の本体に合流出来ず、更には「松平軍の野戦と陣形の形」を観てでも、予定より手間取る事となった。
    山際に到着し隊形を整える為に、そして「戦う為」には直ぐに「補給拠点の構築隊」を邪魔に成るので後ろに廻しながらも、「山県軍の別動隊」は「松平軍の鶴翼の陣形」の「右側面の山際」に到着した事と成ったのだ。
    「山県軍の別動隊の位置」が左右の軍の北側に位置する事と成って参戦する事はこの形では「異常な形の陣形の開戦」と成ったのだ。
    そもそも、「山県軍の別動隊」は「補給拠点構築隊とその守備兵」で構成されている事から参戦は無いと「武田軍本隊と松平軍の両軍」が観ていただろう。
    普通はそうなるだろう。
    そして、一方、此の両軍の態勢に対して、鶴翼の南側の右側に急いで到達した時には「額田青木氏の銃隊・目的」は、「貞治隊の救出に替わる」のだが、更にそれ以上に驚いた事が興ったのだ。
    それは何故か右の松平軍は「鶴翼陣形」が整っていたが、この「鶴翼面の左側面」の「翼面の隊」に「額田青木氏の銃隊」が仕方なく着いた事に成ったと「資料の一行」を想像するに断片的には解る。
    此処で、つまり、そうすると「青木貞治隊から秘密裏に得た情報」には「鶴翼陣形と云う情報」には無かった事に成る。
    これは「野戦」と決めた以上は、「陣形」も決める筈だが、決めていなかったか、得られなかったか、「家康」は「秘密にしていたかであり、「下記の時系列論」では「秘密にしていた事に成る」であろう。
    「普通」であれば、「野戦」と伝えたとすれば「陣形」も伝えたであろうと成る。
    「普通の陣形」は、「武田軍」に対して完全な無勢であるので「魚鱗の陣形」と成る。
    そうすると、「指揮官の青木貞治」は、「野戦=魚鱗の陣形」として伝えていた可能性が高い。

    この事に就いてもう一度、「時系列論」でここを考察して観る。
    況して、「松平軍」は半月程前に「二俣城の支援」で「無謀な野戦」を仕掛け、そして負けて「浜松城」を目がけて退避中に「武田軍の本隊」に「一言坂付近・11/3・三方ヶ原の1月19日前」で追いつかれ「野戦し酷い敗戦した」とする「歴史上の史実」がある。
    然し、この事に就いては、「松平軍に有利な他説・戦いを有利に進めたとする説」も多くあり、この日の事に付いては「大きく経緯と時系列」に食い違いがあって、「三河側の戦記の三記等・江戸期に脚色」にはあまりにも違いがあり信用できない。
    この「野戦」でも“「浜松城から出て野戦した”とする良い印象を与える説もあるのだ。

    この事に就いては「青木氏の歴史観」に直接に関係ない気がするが果たしてどうであったのであろうかこの「時系列」を追って観ると判る。
    此処で、「武田軍の本隊」は「軍の態勢」を立て直す為に、且つ、同時に周囲の「3つの出城」を落とした上で、何事も無かった様に12/21に西に向けて発進している。
    この「武田軍の本隊」には「赤兜の騎馬隊」が行軍中後尾に着いていたとある。
    つまり、この説では「松平軍と戦う態勢ではない行軍」であった事が判る。
    史実で「一言坂の野戦・松平軍は魚鱗」で「松平軍は完敗で負けている」のだとすると、そもそもこの事で“「魚鱗の陣形」では到底勝てる事は出来ない”と云う「先入観」が強く残ったのであろう。
    そこで、経緯としては、急遽、早く「浜松城」を出て「三方ヶ原」に到着して、そこで「独断・軍監の了解を得ず」で「魚鱗から鶴翼の陣形に突然に変更した事」に成る。
    何故ならば、この「陣形」にするのであれば「城」を出る前に「鶴翼」にしていた方が「戦術」としては「常道手段」である筈で、この事は、「三方ヶ原到着で突然に変更した事」を意味している。
    それは、将又、全面に押し出して来るだろう「同勢の「額田青木氏の銃隊」にも意識があったのだろうか。
    これに「打ち勝つ」には、両者が「魚鱗」で対戦すれば「松平軍」は「陣形の数」の上から観て、これに間違いなく負けるとして、そこで、“「鶴翼で包み込んで勝利する」”と云う「作戦」に切り替えれば“「陣形の上」では何とかなる”とした事が明確に判る。
    そうすれば、仮に勝てたとして、後はほぼ「同勢」と成った“「残りの武田氏の本隊・1万」との対戦する事が出来る”と急遽家康の中で成ったのだ。
    「堅固な堀江城を攻めていた武田軍の本隊」が、遅れて「三方ヶ原に到着する・情報を得ていた筈」と成れば、「武田軍の本隊」は時間の掛かる「多勢型の鶴翼とする陣形」は理窟的にも時間的にも執れない事に成る。
    恐らくは、「家康」にはこの思考でこの「勝つ為のシナリオ」を自らの頭の中でだけで密かに考えていた事が判る。
    何故ならば、それは「武田軍の本隊が鶴翼陣形を整えている間」を「松平軍に突かれる理由」からである。
    そうなれば「赤兜の騎馬隊・6000」の“得意の突撃型軍勢を生かす事は出来ない”と観ていた事に成る。
    普通の戦術では、“「鶴翼の翼部分を閉めたり開けたりして敵を弱らせた処で背後に控えた突撃型の騎馬隊が突撃して殲滅する”と云う「武田軍の本来の戦術」と成るであろう。
    故に、「鶴翼」さえ採らさなければ何とか勝てるとまでは云えないが、「それなりの見込み」は出て「互角並みに戦える」と踏んだ事に成る。
    それには、こちらが、先に“先ず何とか鶴翼にする事だ”と考えた事に成るのだ。
    それには、何故ならば「陣形の特徴」を生かす為には「鶴翼陣形を組む充分な時間」と「配置の為の良好な位置取り」が必要であったのだ。
    だから、“夜明け早くに「浜松城」の「北の三方ヶ原・+60mで南北平坦地」に向かった”の史実と成り符号一致するのだ。
    つまり、そして「武田軍の本隊」が未だ三方ヶ原に到着していないのを観て、故に、“これは戦略的に可能だ”として、「鶴翼の陣形」も「三方ヶ原」に「着いた時・直前に独断で決めたと云う事」に成るだろう。
    とすると、「家康」は「秘密が漏れる事」を恐れて“軍議にこの事を計らなかった”と成る。
    その「漏れて困る相手」は、そもそも「武田軍の本隊」では無く、その前に「織田軍の軍監・三人」であって、そもそも“負けて得をする”のは「織田氏」であって、「西三河の獲得・過去に清康が奪う」、果ては「南三河の獲得」に繋がる訳で、「西三河と南三河は織田氏」、「北三河と西駿河」は「武田氏」と「暗黙の色分け」をして「勢力を広げる信長の算段・目論見」で“「武田氏と戦わずして決着を着ける算段」”で在った筈である。
    それを顕著に物語る足る理由として、「肝心のこの三軍監」は「三方ヶ原の戦い寸前・3日前」に城を出て戦わずして戻っている史実があるのだ。
    唯、「軍監」ではない「軍監の守備隊の平手汎秀」だけは、この誰でも判る図面を読み取れ切れなかった事で、この為に“家康に馬鹿にされた態度を取られた”とした「通説の史実」が遺されている事に成るのだ。
    これは「家康自身」が、この「事・軍監の態度を事前に察知していた事」を意味し、故に「三方ヶ原の真の陣形」は「史実」として「口外」しなかったのだ。
    そして、何と「三方ヶ原の戦い後」にこの「勢力を広げる信長の算段・目論見」は実行されているのだ。
    この「家康の息子・信康に謀反の難癖」を着けて切腹に追い込み「二俣城」を実質は奪取する事の史実の経緯と進むのだ。
    唯、この時にこの「目論見を隠す為」に「見せかけの処罰」を「軍監の三人」に与え、此の「処罰の見せかけの理由」を、“「平手汎秀を見殺しにした」”として「追放の罰」を受けたかの様に見せたかけた。
    だが、現実には「軍監頭の佐久間信盛」は、“京都で諜報活動をしていたとする史実とする説”が遺されている。
    現実には、これだけの「理由・見殺しにした」では、そもそも“「古くからの重臣」を処罰はしない”であろう。
    そもそも「戦国時代」に「家臣」に対して「見殺しを理由」にすれば「武士団」は成立しないし、自らが「同じに近い事・佐久間を罰する事」をすれば「見殺しをした事」とに相当するではないか。

    そもそも以上の様に、ここには「信長が罰したとする論理の矛盾」が生まれているのだ。
    依って筆者はこの説には賛成しない。
    恐らくは、江戸期に入って作り上げた「物語風の戦記もの・江戸期に流行した」から「史実」かの様に引用したものであろうし、それが長く語り継がれる事で「史実」と成り得て行くのが歴史の常である。
    余談だが「歴史の研究」は一々確かめずして信じていると「矛盾だらけの歴史観」が生まれるが、これを「資料等の読み込み」で「見抜く確かな歴史勘の事」が必要で在るのだ。
    だから「家康」はこれを読み取っていたのだし、「京での情報」は得ていたであろうし、後に「家康」も「三人の家臣に同じ手・信康と本多氏と榊原氏等」を使っているのだ。
    そもそも、そんな「歴史の史実」は無いのであり、あったとしても多くは「ある目的を持たせた見せかけの策略・隠密行動」が殆どであった。
    これは「西国攻めをしていた信長」は、「そんな事」は「当初の目論見」が在る以上は、「そんな馬鹿げた罰」はしない事は「指揮官」たるものは誰でも判るので、この説は「史実」ではないであろう。
    故に、この事を「家康も見抜いていた行動」であり、「報復としての平手に・他の三人が引き上げた以上」は「無言で接した扱い」で挑んだが、「三方ヶ原の戦い」で“これが「どの様に出るか・戦死」をはっきりとさせた”のだ。
    そうなれば必要以上に「自ら声を掛ける事等」は決してないであろうし、放置するのが「最大の得策」であろうし、指揮官たる者の器の“始末は成り行きに任す”であろう。
    それよりも、筆者は“「他の三軍監に無視された事」”を恥じて「自滅の手段」を採ったのだろうと考える。
    それは、「前日の通り軍議」の中で「平手汎秀」だけが「時間稼ぎの籠城戦」では無く「三方ヶ原主戦論を強く唱えた事・史実」から「引き下がれ無く成った立場」に「置かれて仕舞った末の結末」なのだ。
    仮に馬鹿にされたとしても、この“「読みの無さ・判断力の低さ」”に対して“「軍監補佐として値しない」”とこの世に自然にあり得る事として見下されていたのだろう。
    そもそも、通説とする論に対しても、“「主君でもない者」に馬鹿にされた”からと云って、猪突猛進に武田軍に突っ込んで行く事の事態そのものに“「戦国期の者」”としての「酷い未熟さ」がある。

    筆者は、これはよくある江戸期に流行した「物語風歴史観の美化論」には同意せずこの様に観ている。
    「戦国の世の掟」として普通ならば「立場上」は「他の三軍監とその差配頭の佐久間信盛に従うが絶対上の立場」にあった筈である。
    要するに“「三軍監」と云うものをどの様に見るか”であってこれで決まる。
    時代と共にその「役目」は変化するものだが、そもそもは「室町期の古来の軍監・軍目付」とは、「同盟」に於いてその「同盟国の軍隊内での出来事」を「味方の主君」に報告し伝える将、又はそれに「近い役の上位者」が、「戦場の敵の情勢」を具に調査して自らの主君に報告する役目を主務としていたし、主君の為にどの様に有利に立ち回るかの役目であるのだ。
    決して「戦う役目」を負っていた訳では無く、「戦う直前・3日前」に引き上げて報告して「自らの軍に有利に成る様に前後策を講じるのが役目」である。
    その為には、「軍の三等官」、つまり、「副将軍の一つ下位に準ずる者」を派遣するのが「鉄則の常道」であって、要するに「自軍」に於いても「軍師役を務められるだけの能力のある立場の者」であった。
    この「派遣で同盟の強さの意味」が解るのだ。
    この場合は、「佐久間信盛・織田家旧来の重臣」と「その他の二人・主君の縁者」とその「警備役の者・平手」で構成されていた。
    決して、「同盟」であっても「援軍」ではないのだし、飽く迄も「援軍」は「援軍として派遣する習わし」であって其の場合は必ず「陣取り」をしたのだ。
    故に、この様に「織田氏の軍監・軍目付」はこの「当時の習わし」から一歩も外れてはいなかったのだ。
    故に、「平手」はこの「習わしの役目」のみならず「軍議の目的」とその「織田氏の目論見」をも全く理解していなかった事に成る。
    だから「戦国の世に生きる者としての知識の無さ・愚者」に「松平氏・家康と旗本・寧ろ旗本から」から「酷く馬鹿にされた事・常識の無さが特に低く見られたのだし、「氏家制度の武家風潮が強く求められた」は必然の事であり、のみならず、寧ろ、「織田氏からも強く疎んじられた筈」である。
    故に、両者から愚者にされた以上は「恥を解消する事」が出来ないので、当時としては「武士の立場・屈辱の作法」からすると、「面目なく生きて行く事」が出来ず、「切腹か自殺行為・武田軍に突っ込んだとする通説」はほぼ「史実であろう事」が判るし、「間違い」を悟って気が着いた時には「武士の作法で解決する事」しか無く成っていた筈なのだが“それであれば「切腹」が妥当"で、「主君に恥をかかせた事」からすると「より妥当な作法」であったと考えられ、その持つ意味も違って来るし、「織田氏の方」でもより良きように扱い方が違っていた事に出来る。
    そして「後世に別の意味として伝わった筈」であろうが、それもせずに唯単に「突っ込むの行為」は別の意味を持ち、其れさえも弁えていなかった事は相当に愚者で在った事が判る。
    「他の三人の軍監・軍目付」は、“無事に尾張に帰り着いている事”は「堀江城陥落の前日に脱出している事」に成り、その間の「3日間」に何とか出来た筈なのにそれもしていないと云う事は、「主君に面目に成る様な妥当な理由付け」をして脱出は出来ていた筈であろう。
    そして、結局は「脱出の説得にも応じなかったと云う事」に話の結末は成ろう。
    後勘から観ても、そもそも「自殺や切腹は主君の前での其の後の事」であろう。
    「平手」は「江戸期の通説通り」であれば、「戦国武士の主君・軽んじている事に成る」に対しての「最悪の手段を選んだ事」を意味している。
    歴史上でも言われている当に「・・・者」によくある“カーと成って仕舞ってやり過ぎて取り返しのつかない所まで陥った”という事であろう。
    それでも「主君の命を待つ事」が「家臣と成る者の掟」であって、況してや「織田軍の軍監の一員の守備者」とも成れば尚更の事であろう。
    とすれば筆者は「江戸期の通説通り」は疑問だと観ている。
    少なくとも「駿河青木氏の貞治」はこの「経緯と詳細」に就いてこの事を当然に知っていた筈であるとするとその後の行動に慎重に成るであろう。
    この「慎重さ」が未だ「織田氏軍監のいる中・3日前」で更に「額田青木氏の銃隊・貞秀」にこれだけの騒ぎが起こっている中では「情報提供の必要性を強く認識していた事」に成るだろう
    つまり、少なくとも「浜松城到着後の3日前頃から連絡のタイミングを計っていた事」に成り、それが「最後の詳細な情報提供」と、「上記の最終局面と成った段階」で、遂には「事態急変・負けると読み込み」で「救出依頼の打ち合わせまで」に至り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」に成って仕舞った”と云う「経緯」がここでも生まれる。
    つまり、このこの重要な経緯から「額田青木氏の銃隊」が「吉田城」を出て「浜松城到着後の直後」から「駿河青木氏の貞治」と密かに「打ち合わせに入っていた事・伊賀者の活動」に成り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」まで続いていた事を意味する。
    筆者は、「3日前」としたのは、「呼び出し命令を受けた吉田城出発前」から「到着まで浜松城到着」とその後の「三方ヶ原戦い後の戦線離脱後」と、「盤田見附の西光寺に回避の確認」と「最終の伊川津到着」に至るまでの間は、「伊賀青木氏の者」と「伊勢水軍」等の多くの者を駆使して同時に早く「警護と事前の情報提供に働いていた事」が解っている。
    この事から「呼び出し命令」から始まり「3日前頃・吉田城から三方ヶ原の間」とした。

    これは要するに、「青木氏の歴史観」から観れば、この「経緯論」は「他の三人の軍監・軍目付」の「時間稼ぎの籠城戦」に対して、「平手」は「軍監・軍目付」でも無いのに出過ぎて「三河旗本」と同じ「額田青木氏を用いた主戦論者」で在った事が云える経緯と成る。
    その相手が、丁度、「武田氏の軍であったという事」であろう。
    「織田氏の戦況の状況」の中で、既に「これ等の情報」を充分に承知していた「額田青木氏を用いた銃隊」を用いた主戦論は,好ましいものでは無かった筈であって、その証拠に詳細に上記した「2年後の長篠の戦い方」でそれが当に物語っているのだ。
    当に戦国の世間に対して、「氏家制度」の中で、これ程の「愚かさを露出した者」は「織田氏の恥・主君の顔に大泥を塗った・人材不足が低く見られた」と成るが、この時期の「歴史上のどの戦記類」を観てもこの事は珍しく他に余り散見できない。
    それ故に、これに影響を受けた「額田青木氏と駿河青木氏の行動」は、今後に、又、「伊勢や藤沢にも影響する行動」が求められていて、「実に適切で慎重であった事」に成るし、「伊川津に戻った後の旗本との関係」も「後世に泥を塗る事」とは成らず、寧ろ、「青木氏の歴史観」からしても「後世に見本と成る遺すべき行為」であって「重要と成る行為」で在ったのだ。
    故に、「後世に比較対象」と成る為にこれらに関わる史実の事を用いて詳細に論じて観た。

    さて、唯、更にこの「検証」を深めると、これにはもう一つ“「重要な事」”として、その「陣形の向きに欠点があった事」が読み取れる。
    要するに、ここにも「・・・者のカーの癖」が働いたのか、不思議にもより有利に成る筈の“「浜松城を背にしての陣形・北向き」では無かった”事なのだ。
    ここで念の為に「江戸期の脚色偏纂の定説」とされているものでは、“「武田軍の本隊」が先にこの「三方ヶ原」に到着して「魚鱗」で構えていた”としているので、故に、“松平軍の陣形はそれに合わして「鶴翼」とした”として、何時もの様に「後付けの美化」をしいるが、「江戸期前の記録」での「時系列の検証」でも、「堀江城の落城の経緯・延べ4日」から考えても、“此処までも「後付けするか」”と思われる様な程に全てこれ等には「辻褄」が合わず100%あり得ないので注釈する。

    そこでこれも「長篠の実戦」にも出ていてこれに付いて念の為に参考として論じるが、仮に「野戦」であっても、「武田軍が採用した移動型の魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の銃隊」が仮に「松平軍の頭の部分の先頭に着く事」があって、それが出来ていれば、「赤兜の騎馬隊・突撃隊」が前面に居たとしても、又、「山県軍の別動隊」が「北の山際・右側面の北に着いていた」としても、慌てる事は無かった筈だ。
    つまり、何故ならば近づいて戦う事の無い「勝てる見込みの銃」は充分に有ったし、間違いなく勝てたであろう陣形と成り得ていたと成る。
    ここが「額田青木氏の銃隊の南下国衆が断った所以の重要な処」であって、上記の「三方ヶ原の平手の事」に比しても「慎重な伊勢の裔系額田者の行動」、つまりは、“ゆったりとした伊勢者の性格」を採った事”なのである。
    前期で論じた様に、そもそもその前に交わした「実戦と成る事に対する約定の違い」も確かにあったが、次の事も又大きく左右し「青木氏の氏是に反する事に成る可能性」があったからである。
    それは、上記の様に「陣形」にも依るが、「銃の在り方」にもあった。
    つまり、前段でも論じた様に、この“「銃の威力・10〜20倍以上の戦力・超新型銃・フリントロック式改良銃」”を持っていたからである。
    恐らくは、間違いなく後の「長篠での信長軍・雑賀根来銃傭兵軍団」が実戦で示した通りの“「兵力・20倍以上」”には成るだろう。
    「古来中国の兵法」より、“味方の軍の犠牲が無く相手の軍を殲滅するに必要とする兵数は10倍とするのが常識とされていた。
    従って、戦記上では世にその威力を示し実戦としてこの「銃」を大掛かりに使ったのは「信長の長篠」であって、その「2年前の三方ヶ原」でも「額田青木氏の超近代銃」は使われたのではあるが、「銃」で在る以上は「古来中国の兵法」の更に2倍と観られるだろうし、「火縄銃」での「銃弾の充填の回数」と「熱などの使用欠点のロス」を持つ「火縄銃」を克服した「フリントロック式銃」ではその更に4倍と観るとして、最大では80倍と成り得る。
    然し、このロスを考えた場合には最小では少なくとも20倍は確実に保証できるだろうとして前段でもその様に論じた。
    この論の「一言坂の結果」はそれを証明するのであったと信じて論じているのだ。
    つまり、その「事前の銃の威力の情報を得ていた武田軍」に執っては、この「80倍」は「驚きの範囲」を超えていたと観ていて、それ故に、「伊勢」は前段でも学問的にも論じた通りに当時としては想像を絶する「超近代銃の開発」に密かに取り組み、「高投資で20年の開発」を掛けて完成させたとされるその意図がこれでも判るのだ。

    「青木氏族」は「これ・歴史上の戦歴」を避けたのである。
    これは当に「武田軍」と「額田青木氏の銃の戦い」に成り得るからだ。
    又もや、「第一次の吉田城籠城戦」に続いて「一言坂」でも、将又、「松平軍」は“楽して無傷で勝つの戦略”であった事に成り得て、「他の伊川津の国衆・伊川津国衆以外も」と違って「契約の伊川津の国衆の限定国衆・家臣として伸し上がる目的を持ってなかった」で在ったのに利用され続けていたのだ。
    「青木氏の氏是の前」に「額田青木氏の南下国衆の指揮官・貞秀」はそれを見抜いていたのだ。
    つまり、この「利用される事・300丁の近代銃の20倍の兵力・最低」で、その「兵力的・松平軍」には「銃隊の相当兵力の6000+松平軍の正味兵力の5000=11000」と成っていたのである。
    これで「武田軍の本隊」にほぼ近づく事で「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えさせて、“いざという時”の「銃隊への補足が効く事」に成るとしていた戦略の事に成っていたのであろう。
    これは要するに当に「魚鱗の陣形」であり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が相手の前面に次々と飛び交う事に成るのだ。
    要するにその「要求する根本」は、そもそも全く“「国衆契約」”とは違っていて、“「危険極まりの無い主戦隊の役」であった”のだ。
    経緯的には、それを「軍目付の関係者の主張・籠城戦」に反して「平手・野戦主戦論」が「軍目付警備の立場」を忘れて「酷く掻き乱された事」で、「伊勢青木氏」と「二つの青木氏の額田と駿河」に対して挑戦して来た事に成るのだ。
    そこで、当にこれは「百々の詰まり」は、当に「2年後の後の長篠の織田軍の戦い方と同じ事」に成るのだが、これは“「三方ヶ原の分析研究」を「信長」がしていたのではないか”と云う事を物語るものだろう。
    そこで「信長」は、先ず“出来たら「鶴翼陣形」が其の侭でも「鶴翼」を留めて「左右に弓矢」を持たせば「20000の兵」に無傷で対応できる”と考えた事に成る。
    これを数少なくしてするには“「火縄銃に替えたらどうなるか・新しい発想」”であったと観るのだ。
    そもそも、“「弓矢」には、「飛距離と間隔と命中率と殺傷力」が左右するが、「銃」に置き換えれば」とすると、この「欠点」を克服できる”と考えたに違いない。
    これは「勝負が着くまでの間」の「突撃型の騎馬隊からの犠牲・信長は非常に警戒していた史実」は、これで最低限で無くなるからなのだ。
    つまり、“「弾と硝煙が無くなるまで」”は無傷なのである。
    唯、「二つの郷土史が遺した研究」からこの行を読み込むと、ここには“「信長」が気にしていた「一つの欠点」”があった様だ。
    それは、史実として「戦場」と成った「長篠の戦後の江戸期の郷土史に残るこの研究」で注目したのは、“「弾丸が激しく変形して潰れ飛散している弾が多かったとしている事」”と、その“「弾の向きや変形弾が違うものが馬柵やその下の地面にあったとしている事」”のこの二つなのだ。
    これは「戦況を物語る重要な考察点」である。

    つまり、この事は、先ずその「物語る一つ」は、“余りの連続的な発射で銃身が熱を持ち爆発したのだ”とする事を用いた「柔らかく成った事での変形の説」があり、その「物語る二つ」は、“何か相当に固い物に近距離で当たった”と云う事であると云う説だ。
    この「物語る二つ」は充分に納得できる説論である。
    従って、この「物語る一つ目の経緯」からすると、「火縄銃の傭兵力・織田軍」は、「銃力と銃兵の力」が“「途中」”で激減した可能性があると云う事が読み取れるのだ。
    次の「物語る二つ目」は、「物語る一つ目」に続いて、「無理にも突っ込む武田軍の将兵・固いもので武装していた」に対して「近距離連射」を仕掛けたと云う事に成る。
    所謂、その「物語る一つ目」では、この“「途中」”が問題であって、それは「武田軍の兵力」が「織田軍の銃力」で激減した「後」のなのか「前」なのかである。
    「戦後に、直ぐの戦場調査をしたとする口伝からの郷土史研究」では、殆ど「武田軍の戦死者」は「銃」によるものだったとしている。
    時間的な処は具には判らないが、この事の「物語る決定点」は、「急激に落ちた銃力」と「武田軍の総攻撃攻防」の「何とかぎりぎりの処」の間で、“「勝敗が着いたと云う事」”に成る。
    つまり、前段の「弱点」を突いた「馬周りの北側際の場所・秀吉軍との間」から「武田軍」は、“銃撃間を狙って断続的に無防備にも銃弾の中に突撃して行った”とする「理由付け」はこれで読み執れる。
    「織田軍」には、所謂、この“「途中」がもっと早く訪れる”と観ていた可能性がある。
    それはどういう事かと云うと、「銃撃間の間柵を開閉」してそこから「徒士の兵」が討って出てまた引き上げ、これを繰り返しながらをしていた事に成る。
    つまり、これは当然に、「銃身に熱を持ち使えなくなる事」を知っていて「織田軍」もこの“「途中」”に賭けていた可能性があると云う事だ。

    次に「物語る二つ目」では、「武田軍側」でも「銃に対する策」として「鎧防御」では無く、「将兵の前に薄い鉄板の様なもの」を持たせ、それを「200の銃の突撃兵・勝頼守備隊」に事前に装着させていた事に成るか、将又、「弾薬等を運ぶ荷車」に「装甲車」の様に「薄鉄板」を張り、それを前にして隠れるようして速度を上げながら銃撃しながら突撃する決死隊としたのでは無いかという「証明され得ない仮設・状況証拠」があがる。
    何故ならば、上記した様に重視したいのはこの「館壁に銃弾痕があった事・重視」は、唯単に「銃で突っ込むだけ」では無く、この装着した「薄鉄板の装甲車の効果」で「銃弾痕が跳ねて当たった事」に成ったのではないか。
    それで無くては「200の銃兵の数/3000銃」では「銃弾痕があった処」まで届くのは先ず無理であろうし、大きく穴が開くまでに銃弾が壁まで届く距離に近づくには「銃兵」は一度に激減していた筈だ。

    そこで前段でも論じたが、これをもう一度念の為に「検証の角度」を少し変えて検証して観る。
    「銃の学術論」であり、どれだけ「青木氏部の学術的なレベル」が進んでいたのかが気に成る。
    「家訓10訓」の一つにも成っている位である。

    「鉄の比熱」は、水の1/5であり、加熱で使えなく成る温度は70℃とすると、連射すると、約1h程度で遂に[銃身の弾道管」は膨張して破裂するか、弾が飛散する事が理科学的に間違いなく起こる。
    「資料記録と実験記録」が遺されていて、では「1発撃つ」のに「最低で10〜15sec・単発動作」、「冷やしながらの撃ち方」で「最大で記録から5〜15min・連射動作」と諸条件と成りある程度ので幅があった事に成る。
    郷土史に依ると後に、この説を証明する為にこの実験記録が成されている。
    その結果として、この「間隔」が次第に拡がり、最後は「薬倉破裂と銃身破裂」が起こり最後は使えなく成ったとしている。
    この実証実験の結果は論理的に納得できる。
    何故ならば、理論的に「鉄の特性」には熱に対して「300度付近」に達すると“「300脆性と云う現象」”が結晶間で起こるのだ。
    1度目か、又は冷やしながらも何度もこの温度に達するとより「300脆性と云う現象」で「鍛えた鉄」であってもあればある程に「鉄組織」が破壊されて亀裂が起こるのだ。
    そして、最終はこの亀裂で爆発的な破壊が結晶間で起こるのだ。
    この為に、実際使うには絶対に「300度より低い温度」で冷やす間隔を置いていた事」に問答無用で成り得る。
    そうすると、仮に「三段構え」としていたとしても、この間は銃は使えなく成り、更にこの間には何も出来ないので、「銃撃間の間柵」から柵を開いて「徒士の兵が討って出た事」は資料に書いている様に間違いは無い事に成るのだ。
    一部の「実戦記録・戦記物」では「棚解放説」の此れを史実として記している。
    恐らくは、間違いなく「4回程度/h」では「全ての射撃」が先ず1回止まり、「徒士の兵」が柵から出て戦い、又引き上げる作戦を繰り返した事が判る。
    「戦い」では実際に4回起こっていた事に成る。
    そうすると、論理的にはこの熱を発生させない様にすれば何度も使えるがそれは論理的に絶対不可能であり、それでは「敵の進撃」に絶えられない事になる。
    間違いなく「戦い」で使う際は、この理化学的な逃れ得ない「300脆性と云う現象を興した銃」と成り得ているのだ。
    従って、「銃の寿命」は何時か来るのだ。
    「粗製乱造の銃・素材や造方如何」ではこれがより早く起こるのだ。
    「鍛え方の悪い火縄銃」は、“より危険と云う事に成る”と云う専門的な知識があるのだ。
    室町期の資料にも、「悪徳闇商人」がこの「粗製乱造の銃」を売りつけて問題に成っていた事が記されている。

    注釈として、「専門的な研究」によると、そこで前段でも論じた様に「額田青木氏の近代銃・摂津で密かに製作」によると、「西洋」では「新しい冶金技術・ドイツ」が高められ、上記するこれらの「銃の欠点を克服した進歩」でより「銃の威力」を高められたのだ。
    且つ、それが「携帯可能な銃」と成ったとしていて、且つ一段と「飛距離」を高めた「飛ぶ銃」で「強い銃」の「研究開発」が成されていたとしている。
    結局、軍隊で使っていた不要と成った「古い火縄銃」を買い集めそれをポルトガル人が「高額・2000両」で中国と日本の種子島に先ず持ち込んだと「経緯」となり、それを紀州根来と雑賀の鍛冶職が種子島に渡り学び持ち帰り類似品を開発した経緯と成っている。
    「青木氏の銃」ものはこの「西洋技術」を密かに取り入れたもので「試作」を繰り返し「額田青木氏用に取り入れた」とする史実のだ。
    但し、この史実とは別に「摂津」では「貿易」でこの冶金学が進んだ「ドイツの新型銃」を入手し密かに開発を進めていたのだ。
    そして、それを「近代銃としての根拠」としていたのだが、故に、西洋ではそれまでの銃は旧式と成り、それを「種子島」に持ち込んで高く売りつけて利益を上げ、「雑賀族と根来族」はこれを日本で広めたのが、未だこの「銃の欠点」を克服していない「種子島式の旧式火縄銃」なのである。

    要するに、この“「摂津銃」”と呼ばれる「非公式の近代銃」では、「最大の欠点」の「300脆性と云う現象」と「繰り返される事で起こる疲労破壊」のこの「二つの欠点」を起し難い様に「超高度な熱処理・3つ進んだ高度処理・下記の専門的な学説論参考」にこれに付いて下記に論じる「・額田青木氏の近代銃との比較」が施されているので「連射」が出来る様に開発されたのだが、そこで先ず、因みにこの「三つの進んだ高度処理」とは次の通りで在った事が「専門的見地の分析」から解るのだ。
    因みにそれを論じて置く。

    「学説論」
    「一つ目」は、鍛えなくても起こる傾向は元来鉱物で在る限りは特性として持っていて、尚更、外部から自然の状態に力を加えるのであるから「鍛えた鉱物」には必ず「欠点」が起こるのである。
    これを防ぐには、「300脆性と云う現象」では、次の技術が用いられる。
    それは「鍛えた後」で一度、「550℃から600℃付近・過熱する事だ。
    「加熱し過ぎると鍛えた意味が無くなる」で、“緩やかに過熱して緩やかに冷却する熱処理”を施す事で、この厄介な「現象」を止める事、又は緩める事が出来るのだ。
    これを「焼鈍処理・アニーリング」と云う。

    次に、「二つ目」では、「鍛える前の鉄」にはある「内部の特殊な結晶構造」を持っているがその温度でそれの「結晶構造」がそれぞれに異なるのだ。
    それが、上記した「300度の脆性の破壊の原因」に響いて繋がる傾向を増すのだ。
    そこで、「鍛える前」にこの現象を「起し難くする結晶構造にして置く事」が必要に成る。
    それが、その「結晶が起こる温度」が特定されていて、それが「600度付近」だけにあり、これは「元来の持っている特有な結晶・パーライト結晶と云う」を「球状化と均一化」にして「ゆっくりと冷却する事」で「球状化と均一化の結晶・元来この結晶構造は自然界に無い」を無理に造り出して維持されるのだ。
    故に、超高度な知識として「どんな鉱物」でも「近代的な構造物」に使われる際にはこの「処理」は絶対に必要と成るのだ。
    そうする事で、この「300度の脆性の破壊の原因」が、「繰り返される銃撃の熱」とその「銃に加わる衝撃力」が「球状化・均一化」で「分散される現象」が起こり極めて軽減されるのだ。

    「三つ目」では、「鉄を鍛える」には「加熱」して「約1000度以上の温度・オーステナイト結晶」にして、その温度中に叩いて鍛え、これを繰り返すが、この時、欠点が生まれるのだ。
    先ず、「850度から1000度・1025限界」では、この「内部の結晶」が「粗大化・一つ一つの結晶が大きく成り過ぎて仕舞う事」が起こるのだ。
    何事も「鉱物」は「結晶」は「小さくて均一で丸くある低温時の結晶に成っている事」が一番良いが、「鍛える事・ある形状に仕上げる事」には、どうしてもこの「逆を行く事」に成るのだ。
    「銃」は「常温」であるのに「1000度の高温での結晶の構造」と成っているのだから、そもそも「鍛えると云う処理」には「結晶と云う点」ではそもそも「無理」が伴っているのだ。
    だから、これを「常温」でも保てる様にしないと、その内に「時間の経過」と共に「自然破壊・自然に戻ろうとしてオーステナイトがパーライトに変化」して仕舞うのだ。
    つまりは変形してしまうとして仕舞うと云う事なので重は使えないと云う事に成る。
    更に困るのは、この「パーライト」にも「723度以下」では、「723度付近のパーライト」と「常温までの色々なパーライト類」があり、これに何とかして「自然の状態」に近づこうとして「自然変化・自然劣化に繋がる経緯」を繰り返して行くのだ。
    この事で使わなくても「脆く成ったり」や「銃身が変化したり」やして使えなく成るか、無理に使えば要するに「熱」に寄らずとも「銃身爆破・自然劣化の進行・疲労破壊の進行」が起こるのだ。
    使えば使う程に「鉄の結晶体」に「使用した衝撃などの応力」が吸収し残留し、この「自然による銃身破壊の現象」はより「進行」は速まるのだ。
    これを無くするには「特殊な処理」が必要と成る。

    それが「新しい技術」として「焼凖処理・ノルマライジング」が必要に成るのだ。
    上記した「大欠点」を無くす為に「鍛える鉄の場合」には、要するに「ノルマライジング・自然に戻す事の処理」を施す必要があるのだ。
    「自然に戻す事の処理」のこれには「色々な種類の処理方法」があり、どれにはどれとして専用的に適用されて効果を発揮する。
    従って、「銃身とする場合」は、表面にそれなりの耐え得る薄い層を造る事であり、それには「サアナイド」や「タフニング」や「メッキ・無数にある」もその代表であろうが、かなり「専門的理論」として「銅又は真鍮と組み合して造る事・応力を逃がす」もある。
    然し、これ等の冶金学は未だ発達していなかったと考えられる。

    そこで「額田青木氏の近代銃」には、何らかな形でこの「三つが組み合わされて使われていた事」が継続していた「後の研究・四つ目対策」で判っていて、「サイアナイド」や「タフニング」等、当時としても現在としても「超近代的な専門的な技術」が使われていた様である。
    取り分け、「サイアナイド・炭化処理」や「タフニング・窒化処理」は加熱の際に知らず知らずの内に使っていたと云う事がある。
    “何かいい味が出る"の程度の感覚で使っていたのでは無いか。
    それが敢えて「備長炭」を使ったと云う処が齎す効果であったのだ。
    これは外国に於いても最初は同じ使い道から得た技術であったとされ、それは「ドイツ」で開発されて「戦い」を通じて「ヨーロッパ全域」に広がり主に「銃兵器」に使用されたのだ。
    それがもとで「銃の鉄に起こる欠点」を緩和させて「西洋の戦い」は急速に変化して「殺戮性の高い近代兵器」として利用されていた事が歴史的に判っているのだ。
    これを「額田青木氏の伊川津国衆として南下する為の護身用武器」として「伊勢青木氏の指示」で「摂津青木氏」が「貿易から得た情報」で「銃見本を密かに入手していた事」が歴史的経緯と合致して解っている。
    これは見本の分解等をそれなりにしたと考えられる。
    更にその少し後に、この“「五つ目の対策」”として、更に西洋で開発された「超新技術の合金処理技術・真鍮化も」が施されたが、この「見本の二つの銃」として密かに入手していた様だ。
    この「五つ目の対策」の「超新技術の合金処理技術・真鍮化の実用把握」に相当に時間と苦労を要した事が記されているが、この技術は室町期には成功したかは判らないし、使っていない様だ。

    そこで最も最初に“「銃対策」”として取り入れたこの「四つ目の対策の超新技術」は、「摂津」では「サイアナイド」であった事が判っていて、それが「銃の欠点の原因対策効果」としては良い事が判って直ぐに取り入れていた事に成っている。
    判り易く云えば「備長炭効果」であったのであろう。
    開発して会得したと云うよりは、研究の過程で偶然に会得したと云う方が正しいだろう。
    何故ならば、その土壌とする基盤が「伊勢」にはあって、それは前段でも論じた「日本初の墨の開発」を朝廷から命じられて「紀州姥め樫の備長炭を用いた事・墨」を論じたが、この「墨の技術・炭素の細かさ」をこの「サイアナイド」に一番に用いた事が解っている。
    どういう「技術的な理論」が在るかと云うと簡単で端的に述べると次の様に成る。

    上記の通り「鉄の欠点」が生まれ銃として使う場合は、これが銃に耐え得る範囲を超えて破壊が起こる。
    そこで「鍛える際に加熱する火」をこの「炭の材・備長炭」で行い、この加熱時にこの「炭の細かさ」から上記した「加熱時の鉄の結晶と結晶の隙間」が拡大して、この細かい「炭の材・備長炭」が「鉄の中・表面部0.5m程度まで浸透させて行くのだ。
    させて行くと云うよりは加熱で自然にそうなったと云う事だ。これには但し「古い紀州備長炭である事」が前提である。
    「・過剰深さ」にならない様に「逆の欠点が出るまで」に浸透させて行くのだが先ず其処までに浸透は無理である。
    これを「適度の温度・723度以下」に下げて、再び「鍛える過熱温度」まで何度もこれを繰り返す。
    つまりこれは鍛えると云う行為である。
    ところがこれを一度にして加熱してこの一度に「備長炭の細かい炭素」を浸み込ませると、逆に結晶が粗大拡大して抑々使えなく成るのだ。
    ここには「理論的」な「難しい鉄と炭素の相関関係図」が存在していて「相当に会得した匠」で無いとこの「サイアナイドはする事」は出来ないのだ。
    この事を最低限に会得する技術で在ったろう。
    そうすると、この時、何度も加熱し鍛えられ何度も結晶間に「浸みこませた炭素」は「鉄の周り」に「0.5m程度の丁度良い厚みの層」が隙間なく出来上がる。
    「鍛えた最後」にはこれを「垂直方向」に向けて「水又は油」の中に「0.5S内」に素早く冷やし常温程度に成るまで「冷却」をするか、灰などの中に自然冷却の速度で放置しても良いが昔は現実はこの方法であったろう。
    この時に、この「鍛えた鉄と冷却を受けた炭の炭素」との間ではこの自然界に存在しない「特殊な途轍もない堅い結晶構造・マルテンサイト・ダイヤに近いもの」に「変化・別の物に替わるので正確には変態」するのだ。
    「これ・マルテンサイト」が「鉄の周りに薄い幕の様にして出来る事」に成る。
    そうすると、結果としてこの「鉄の周りの固い膜」は上記した「鉄の銃の欠点」の「防護用の干渉幕」が出来上がるのだ。
    つまり、ここで「銃の欠点」が「吸収幕で抑えられる事」に成るのだ。
    但し、この侭では未だ完ぺきでは無く未だ駄目なのである。
    「無理で急激」に「マルテンサイトと云う膜」を造った以上は、これにもある問題を持っていてこれを解決させなくては上記した欠点を完全には克服して使えないのだ。
    それで無くてはこの「マルテンサイトと云う膜」にも「無理で急激」で「鉄の結晶・鉄の細胞」の中に起こっている以上は拒絶反応が出るは必定で、この為に、これを更に克服する処理が矢張り伴うのだ。
    完璧と云う事であって施さなくても一定期間は持つ程度であろう。
    然し、この「マルテンサイトと云う膜」は「硬い・衝撃や亀裂や摩耗に猛烈に強い」、「滑り・摩擦にも強い」の性質を持つていて「上記の銃の欠点」を消してくれるのだ。
    然し、完璧にするのであればこの「拒絶反応」」だけは消しておく必要があるが、その為には更に「テンパーと云う処理」と云う処理を施すのだ。
    現実に弾丸を撃つ事で熱を持つので問題はない。
    論理的には上記の「マルテンサイトと云う膜を造った鉄」を少し「自然界に無い別の新しい結晶体」に換えて存在させる事をやらねばならないのだ。
    それは現在では「鉱物油」に「約180度から250度までの温度・テンパー」に穏やかに長く保つ事で「ツルースタイトと云う結晶構造・マルテンサイトの更に変態物」が得られるのだ。
    昔は色々な種類の灰を用いていたらしい。
    この「テンパー処理」を施さなくても問題なく「全ての特性」は一応は得られるが、これは「上記のマルテンサイト」よりももっとより良い「硬い・衝撃や亀裂に強い」、「滑り・摩擦に強い」等の「全ての特性」が得られ、それが「銃に対しても良い性質を持って仕舞うのだ。
    但し、この時に上記した様に「300度脆性」では「厳禁温度手前である」ので注意をしなくてはならないので、「極めて注意を払う温度調節」が必要に成るのだが、然し、それだけに意味を持つが「300度脆性」が一度程度起したと云ってもびくともしない。
    この「マルテンサイト」を獲得するには、「鉄と炭素と温度の相関関係」が微妙に働く。
    昔はこの相関図は得られて無く「匠の感覚の領域」であった様だ。

    現在では関係図的に解明され、「横軸に加熱温度」、「縦軸に炭素量」、「横と縦には鉄の状態・結晶」の相関を採ると、この「三つの要素の相関図」が生まれる事が学問的に判っている。
    図の横軸に「鉄に対して0.8%の炭素量」を中心に「723度」を上に超えて左に動くと、この「マルテンサイト」は「正常なマルテンサイト」は得られず欠陥の持った「マルテンサイト」と成り得て、ここでは通常は使えない。
    それが左に「0.6%の炭素ポイント」では、「正常な充分なマルテンサイト」は得られず、右に「1.0%の炭素ポイント」では、「マルテンサイト」は「特別な金属・主にNiで微小化して」を混入させない限りは即座に強烈な爆発的な破壊が起こる。
    同時に、左では「マルテンサイトが獲得できる温度」が「高温」と成り過ぎて「鉄の結晶体・処理温度が高くなりすぎて、先ず「結晶が粗大化」して別の意味で脆く「0.6%付近」ではその「硬さ等の特性」が得られない。

    そこで「上記の合金五元素を低率で混入させる事の効果」でそもそもの「処理温度」を下げて、それに従って「マルテンサイトの変態点」を下げて「少ない硬さなどの特性」を補完してその上で「獲得出来る様にする。
    其の侭ではこの「結晶の粗大化」と「マルテンサイトの破壊」を招き「熱処理」は成さない。
    図右では「723度・上下に限界値」にあっても「鉄だけの金属・合金では無い」であれば「変態時のエネルギー・応力」が過大と成り過ぎて間違いなく破壊が起こり、一般的には「熱処理に依るマルテンサイト」は獲得できない。
    そこで、現代では「求める物理特性」を得る為に「上記の五合金元素」を少量加えて溶かし「マルテンサイト」を獲得する事無く使える様にし、この為に鍛する方法があるのだ。

    「炭素8%」より左側の要するに「中炭素鋼」には、「充分なマルテンサイト」は得られないが、その代わりに「マルテンサイトと異なる近い変態組織」が得られるが、これを其の侭では上記した様に「破壊」に達する為に「特別な熱処理」を加える事で、それは鍛する事なく「ソルバイト」と云う「特異な組織」と成り得る。
    要するに、「硬さ」は少し不足するが「鉄と炭素の結合体・セメンタイト」の単独でも「バネ組織・耐摩耗性・耐衝撃性・耐熱性等」を獲得で出来るし、これに「熱処理の補完」の為に「加えた五合金元素の特性」が共析して来てよりこの特性は向上する事と成るが、勿論に室町期ではこの「高度な処理」は当然に無理であったのだ。

    然し、上記の「額田青木氏の超近代銃の欠点を補完する充分な特性」がこの処理でも得られるのだ。
    調査すると、「額田の銃」はこの左側から得られる「中炭素鋼」では無かった。
    「右側・高炭素鋼・通常お茶を煎じた様に炭素の濃度が高いので煎鉄とも云われる鋼」は、「高炭素・右側」に成るに従って「オーステナイトと変態点723度の間が狭くなる現象」を起し、「焼き入れ」では無くてもそれなり温度を加える事でその「変態エネルギー」を与えれば其れなりの「マルテンサイト」は得られるのだ。
    従って、「右側の高炭素鋼・現在ではSKS・SKD等の合金鋼で焼き入れは可能」は「マルテンサイの破壊」をできるだけ防ぐ為に、「鍛造で鍛える程度・鍛いて得られる」でも「それ相当の硬さが得られる事」に成り現代ではよく用いられているのだ。

    つまり、故に「古来の砂鉄にも原鉱石」の中に上記の「五合金元素」が僅かに自然で含んでいて、それが「鍛造の差・鍛え方」で、その「品質特性」はバラックのだが、この概念は昔は“味と云う表現”で持ち得ていた可能性はあったらしい。
    「数多くあった鉱山の原鉱石の名」が記されている事は、その差が無ければ何処の原鉱石でも同じと成るので、“味と云う表現”のそれを用いて意味しているのだろう。
    但し、何れにせよ「凄い変化である変態・焼き入れ時に吊るした具を通じてグァーンと云う鈍音とガクンとする衝撃が耳と手に伝わる程度」で、その「破壊の危険」は伴うので、その「破壊」を起させない為の「結晶の粗大化の防止策にNi加える」か、或いは「五合金元素」を少量に加える必要があるのだが個人では出来ない。

    実は、「各種各地の鉄鉱石」にはその「自然界のNi・ニッケル」を多く含む物もあり、“あそこの原鉱石の鉄は割れない”等の「破壊」に対する“味と云う表現”での概念で、「秘密裏のノウハウ」として匠等に生まれていた事に成ろうし,現実にもそうであった事が記されている。
    然し、ところが「近江鉄・大倉鉱山や高倉鉱山・最終は奈良期710年から1560年代まで」には、この「Niと五合金元素の存在の記述」は古い為か強くは散見出来ないのだ。
    然し、前段でも論じたが「近江地域の地質学的な成り立ち」からは充分に存在は考えられるが無かった様だ。

    そこで少しここで地質学を論じる。
    そもそも,「滋賀県地域の地盤」の成り立ちは、「二つの時代の陸盤」から成り立っていて、それは「中生代」と「新生代」からである。
    この「中生代」では、「丹波帯付加複合体」と「花崗岩類」と「湖東流紋岩類」との「三つ岩類」で成り立っている。
    其の後に出来た「新生代」では、この上に「第一瀬戸内累層群」と「古琵琶湖層群」と「段丘堆積物沖積層」の「三つの層」から構成されている。

    参考資料より要約
    ・「中生代」とは、定義では初期の地質時代の一区分で、化石に残りやすい生物が出現した以降の顕生累代を三分したのが「第2の地質時代」という。
    これを放射性同位体による絶対年代の推定としては、「約2億4800万年前から約6500万年前まで」の「約1億8300万年の期間」に相当するとしている。

    ・「新生代」とは、定義では中期の地質時代の一つで、「顕生代」の大きな区分の一つである。
    「約6,500万年前から現代まで」に相当し、陸上では恐竜が絶滅し、海中ではアンモナイトと海生爬虫類が絶滅した後、哺乳類が繁栄した事で特徴づけられている。
    この「新生代」は、「第四紀・新第三紀・古第三紀」の「3つの紀」に区分される。
    この「新第三紀」と「古第三紀」の「二つを合わせた地質」を特徴づける「地質時代」を云うとしている。

    ・「丹波帯構成岩類」とは、そもそも「チャート・石灰岩・砂岩・泥岩・礫岩」などの「海底に堆積した堆積岩類」と「海底に噴出した緑色岩(玄武岩質火山岩類)」で主に構成されている。
    「海洋プレート」の上に噴出した「玄武岩質火山岩類」は「海底や火山島(海山)」を形成して、その上に「チャートや石灰岩・珪質泥岩」などを徐々に堆積させながら大陸へ向かって年間数cmほどの速さで移動していくが、これが「丹波帯構成岩類」を構成している。

    ・「超丹波帯」とは、近畿地方において「丹波帯・中部地方に美濃帯もある」とその北側にある「舞鶴帯」と呼ばれる「3構造帯」との間に存在し、この「丹波帯」が「中生代・ジュラ紀」に「付加作用」を受けて形成された「付加体堆積物」で構成されている。
    これに対して、主に「古生代ペルム紀」に「付加作用」を受けて形成されたのが「付加体堆積物」で構成されている「古生代地質帯」である。

    ・「海洋プレート」では、「海溝部」で大陸の下へ沈み込んでいくが、この「堆積物」は一緒に沈み込む事ができず剥ぎ取られ、「大陸側」から運び込まれた「砂岩・泥岩」等と共に大陸側へ押し付けられ、これが混じり合って「付加体堆積物の複合体」を作りあげて行く。
    この作用を「付加作用」といい、それにより形成された「堆積物」は「付加体堆積物」と呼ばれるがこの堆積物には「鉄分」を多く含むが、その結果として「五合金元素の存在」が認められる鉱物体」は「高比熱、高耐熱性、高比重」から付加体堆積物とその複合体には残り難く分離されて行き「深い堆積層中に巻き込まれて含まれる事と成り易い。

    故に、この「丹波付加体堆積物と複合体」には「鉄分」だけは多く含む事に成るのだ。
    だから無いのであろう。

    この主体と成るこの“「丹波帯付加複合体」”とは、要するに「石灰岩等の海洋底起源に依って起こった岩石」と、元からあった「泥岩・砂岩等の陸源破砕岩」が圧迫されて陸に隆起し「混合した地質形成性体」で形成させた。
    つまり、結局は「琵琶湖」を挟んで「東〜西〜北部の三つの基盤」から圧迫して形成しているのだが、その「経緯」としては、次の通りである。

    ・「中生代」に「ユーラシアプレート」から「日本列島全体」が南東に向かって先ず分離して、其処に横に海水が侵入して日本海が出来、その「分離した地形地質」が今度は「糸魚川構造線」を東西を境にして分裂し、其処の海峡に土がが重なり海峡は埋まり「原形日本列島」が生まれる。
    その「原形日本列島」も「三方からの圧力・現在でも掛かる」が掛かり、ここを中心に当初は「西と東と北」の「三つの島」で構成された。
    その時に「中央の位置」に対して「左右からの圧迫」が加わり、先ず西側に浮き上がって事に依って出来た「島の窪み」に山水が流れ込みここに「元琵琶湖」が先ず出来た。
    更に、これが常に圧迫を受け続けている「北側・現日本海陸」からの突き上げを受けていた「原形日本列島の南陸側」は「南海」に繋がる事に成ったのだ。
    この時に突き上げられた結果として、「中国陸・神戸層」に繋がっていた「淡路陸」が突起し分離し、更に続く突き上げは「西側と南側」に陸が移動させて縞が出来たがその「縞の窪み」に「瀬戸内湖」が形成された。
    西に押されていた「瀬戸内湖底」が右側に下がり、南からの海水の侵入して分断されて「淡路島」と成った。
    然し、更にこの「圧迫」は動き「東〜西〜北部の3基盤」に圧迫された事で、「西側の陸」が「西」に更に押しやられて移動して「四国陸」が隆起し、其処に更に「窪み」が出来てこれに「瀬戸内湖の南の水」が流れ込んで「段差のある瀬戸内湖」が出来た。
    然し、これがに更に続く圧迫で、「中国陸」がより浮き上がりその結果として「西側の西端」が下がり、ここに「北域と南域」と「瀬戸湖」からの海水が流れ込んでそれが「下関の開門海峡溝」まで到達して「内海」が発生して西に広がり突き抜け続けた。

    これ等の「地質の形成経緯」から導き出せた結論は、奈良期に「施基皇子の裔系の青木氏」が「院号」を与えられて「鉱山開発の殖産業・奈良期の大倉鉱山と高倉鉱山」の「近江鉄」は、上記の通り、「丹波帯付加複合体」と「花崗岩類」と「湖東流紋岩類」との「三つ岩類」に含まれる「鉄類」であった。
    この「丹波帯構成岩類」の中でも、「鳥取砂鉄」とは当時から「有名な古来の奥日野地域」と連動している所以もあって、取り分け、「酸化シリコン系」の「花崗岩類によく含まれる鉄・砂鉄系」と「地形的」に「丹波帯と丹波帯付加複合体」とは連動している為に、「五合金元素・主に糸魚川構造線の以北に多く含まれる傾向」を余り多く含まない「同質の鉄鉱石が産出された事」に成るのである。

    要するに、この意味する処は「額田青木氏の超近代銃」はその「鉄」を使ったのは「0.8%の共析鋼」であったと云う事なのだ。
    勿論、上記した「刀の様な玉鋼・原鉱石の酸化鉄に葉や木材等を加えて一酸化炭素を発生させて還元して、その「還元鉄」だけを取り出して玉の様に砕いて「塊にする鉄」だけにする事でも無かった事に成る。
    何故ならば「五合金元素の存在」が認められる「鉱物体層」では「砂鉄の平炉・箱型と竪型」では、溶融しない為に「炉口」が詰まり使え無く成る。
    つまり、上記の様な工程を経る玉鋼にはする事は出来なかった事を意味するのであり、「砂鉄の平炉・箱型と竪型」は使え無かった事に成るのだ。
    故に、「糸魚川線」を「東西」にその「鉄の種類とその炉の違いの発達過程」が起こったのだ。

    つまり、上記の「青木氏の地質技術論」から考察すれば、「砂鉄の平炉・箱型と竪型」では無くて「近江鉄の高炉」から得られたものであって、「備長炭の微細な炭」を浸み込ませて加えて「五合金元素」の少ない「共析の炭素鋼を造り出した事」である。
    「鉄と炭素と温度の関係」では、丁度良い結晶的バランスを保つ位置」に成るのだ。
    この「高倉鉱山と大倉鉱山の院号に依る殖産業・青木氏部」と「その近江鉄の使用」から始まった「額田青木氏の超近代銃」の「経緯論」からすると、この「高炉の通説の開発使用時期」は、「炉の開発と使用」に関してはそれが「青木氏部」で密かに行われていたので、公式とは云えないが速まる事に成り得て、それだけの意味を持っていた事に成る。
    その事は、「摂津での殖産炉」は、「西洋の近代銃」と共に密かに持ち込んだ「西洋からの高炉・世間では未だ専ら砂鉄のタタラ炉」に成る前は、それに近い「古来からの竪型炉の応用炉」を「摂津」で既に使っていた事に成る事が予想出来る。
    それは「限定した300丁の生産に必要とする炉であった事」に成り、且つ、「難しい技」ではあるが「0.8%の理想的な鋼の前提を求めたものであった事」に成り、「銃だけの欠点を補う理想的な物理特性を求めたものであった事」に成る。

    さて、では「Niと五合金元素の存在とその知識」を全く知らなかったのかと云う事であるが、筆者はその「基礎的な知識」としては充分に知り得ていたと考えている。
    それは、全て前段でも論じたが、次の事から導き出されるだろう。

    イ 「貿易」を営むほぼ「有史来の伊勢屋の925年の商社化と伊勢屋の総合商社・1025年頃」であった事
    「部経済」から特別に授かった占有権と専売権の院号を獲得した事で「全ゆる詳細な情報」を容易に掴む事が出来ていた。

    ロ 「青木氏部・摂津と松阪」を有している事
    朝廷の国造の技術の総支配権を持ち、且つ、独自にも青木氏部を有していた事から鉱山開発の知識もそれなのにあつた。

    ハ 各地の「山・鉱脈」で「特殊な岩絵具の開発等」を「額田部氏と共に殖産開発」をしていた事
    「岩絵具」は「七色の着いた岩石」からは掘り出され粉にするが、これは当にそれが「Niと五合金元素の存在」を証明している証拠から成り立つものであり、この知識なしでは何処の鉱脈に何があるかは獲得出来ないのだ。

    ニ 「伊豆青木氏、額田青木氏、日向青木氏」で論じた事
    糸魚川構造線より東の伊豆、糸魚川構造線の上に在る美濃、西のチャート域帯を泊としていた「日向青木氏の阿久根泊」は、「七色のチャート」と呼ばれる上記した「地球の変動」に依って起こる有名な「全ゆる堆積層岩帯」にある。
    これ等は「白鉱石のSi」を始めとして、そもそも極めて固く、これ等の「チャート」には、「白色、赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色等」の様々な色のものがあり、「明るい色系」のものには、酸化鉄鉱物等の鉱石に起因している。
    又、暗色系のものには、鉱石の硫化系や炭素系の化合物に起因して黒く発色している。
    「緑色」のものには、「緑色の粘土性鉱物」を含む為に発色する。
    これ等は、「堆積した環境」によって「色・鉱物を粉状にして燃やし酸化の炎色反応」で見分けられるが、これは上記した「五合金元素の鉱物」に所以する見分け方の方法と成るのだ。
    要するに、「岩絵具」もこの所以であって充分に専門的にも知り得ていた事に成るのだ

    故に、取り分け、「阿久根との関わり」と「上記の青木氏部の知識の伊勢青木氏との関わり」で「日向青木氏の黒田藩の水軍傭兵の役目」の一つには密かにこの「鉄の闇商い・銃商いの有無不明」が秘密裏に関わっていた事が顕著で明らかである。

    ホ 「日本全国各地での廻船・水運業の商い」で「鉄を始めとした情報」を堺で獲得していた事

    ヘ 「玉鋼の鉄」を伊勢屋が「直接商い」にしていたかは確定は出来ないが、「砂鉄の販売の記録」では、江戸初期の頃の「摂津や大阪」に集められて「鉄商い」が成された事が解っているが、それまでは「土豪の所有物の占有権」で扱われ、その「所有物」を「各地の豪族」に「横流し」で商われていた「僅かな記録」が遺されていて、この「僅かに遺された資料」から読み取ると、「砂鉄のボール位の塊」を単位としてそれを単位にして幾つかを纏めて「秘密裏の売買」で引き渡していたらしい。

    この「鉄を扱う小さい土豪」でも「莫大な財産と影の利権」を確保していたらしく、それだけに秘密が漏れるとそれを狙って「侵略される事の危険・記録」が起こっていたのだ。
    故に、その「鉄塊」は「莫大な財産」として扱われ、これを隠し持ち、その「所有」そのものが危険であったらしく、「商人の顔」も隠されての「闇商い」であって、「市場商い」とは成らなかったらしい。

    つまり、これは「奈良期からの部経済」の「名残」を引き継い来たもので、古来からの長い歴史の中であっても、「江戸直前」までの「玉鋼の鉄」は「闇商い」で行われていたのもその証拠である。
    “鉄を制する者は天下を制する”の例えの通りで「秀吉と家康」もこの「利権獲得に動いた事」は記録からも明らかである。
    その意味で「額田青木氏の三方ヶ原の戦い後」に「伊川津で家康に協力する事」で「渥美半島の制海権・利用権の見返り」として「鉄の利権獲得」は容易と成ったのであるが、反面、この秀吉からは「蔵の焼き討ち等の仕打ち・記録」を受けた。

    「伊勢青木氏の商記録」でも考察すると、「鉄の取引」の其れに関する「詳細記録」が敢えて無い事は古くから「摂津店・鉄は秘密裏での商い・記録消失」で行われ、これは「鳥取日野の砂鉄」と「近江鉱山の鉱鉄」に近い「摂津域」で扱われていた事を物語っている様だ。
    「淀川を使っての運搬」と「近江日野・近江鉄の製鉄工場・ここが額田青木氏の松井氏に関わる処」は、この所以を以て「鳥取の砂鉄の工人等」が移住しての「近江日野」と成ったとされている。

    これ等に関して「資料と記録」が多く遺されていないのは、この「闇商いの所以」であったろうし、当初は「近江日野の事」と「摂津の事」とは、「室町期の中期・額田青木氏の銃」を造り上げるまでの間は「隠されたものであった事」に成る。
    ところがその「日野の情報」が室町期末期直前に漏れて「薩摩等の豪族・記録」が密かに「日野の匠・工人等」に対して「引き抜き・略奪」が行われた事が記録に遺されていて、前段で論じた様に「他の日野の匠・工人等」の「青木氏部」は、この事から「出自元の伊勢松阪に大量に逃げ込んだ事」は「記録」からも判っている。
    この段階で時系列から前段でも論じた様に「摂津・鉄に関しての闇製鉄と闇商い」だけにし、危険性の増した「近江」から引き上げた事に成ったのだ。
    この「摂津と伊勢」だけで、「上記の所以」を以てして前段と上記する様に時系列は上記の通りであるが、その「鉄と銃の取り巻く環境」も難しいものがあったのだ。
    然し、それでも続けて「難しい近代銃の試作銃に取り組んだ事」に成るのだ。

    これ等の事を専門的見地から勘案すると、この「鉄鉱石」と共に、「五合金元素の鉱石に関する知識」、即ち上記した様に、「五合金元素の鉱石は「地球のプレートの変動」に伴って「日本列島」の「海底深部か地下深部の堆積鉱床」に在するものであり、これ等は従って「地球の熱や圧力の影響」で変成するが、この事で「特徴的な岩石の色・専門的知識が在れば判定できる」を示すのだ。
    これらの「鉱物」、例えば、一般的な「Mn・マンガン・主に赤紫」に例えると「バラ輝石やテフロ石やハウスマン鉱石」や、変成に依って変化した「緑マンガン石」等があり「鉱石色」で判別できるのだ。

    そこで「山を見る目・石を見る目・土を見る目」の「熟練した知識」があれば可能となっていたのであり、故に奈良期の古くから「紙屋院」と「繪所院」と「繪所預」の「朝廷の院号・専売権と専業権」を授かっていたのであり、その事から、「国産和紙」とそれに纏わる「墨や岩絵具開発」に携わり「青木氏部」を有していたのだ。
    それと共に、これ等の「山に関する知識」は、前段で論じた通りで「山師」であり「土木師」であった「親交の深かった額田部氏との関係」で充分に補完されていたことが判る。
    故に、その「基礎的な知識としては無かったと云う事」は先ずあり得ず「青木氏部としての保有」は充分に考えられる。
    筆者は、「伊勢」は「院号」を有して「額田部氏との日本産の岩絵具の開発殖産」に関わっていた事は、この「全ての知識」が無ければ無し得なかった筈であると観ている。
    唯、知り得ていてそれを敢えて「銃に使わなかったという事」では無かったかと考えている。
    つまり、専門的に観れば上記した様に「近江鉄による銃」には「共析鋼の特徴」を充分に生かし使ったと云う事であろう。

    余談だが、偶然にも筆者が先祖の血筋を引くのか専門職にあって、「施基皇子とその裔系の高倉大倉鉱山の殖産業の歴史」から始まり百々はその「銃の所以」までを調べるに至ったのだ。
    他にも専門的にも関係性を幅広く調べたがここではこの程度として置く。
    最後にその一つを下記に付随して論じて置く。

    次に「四つ目」の「第二のタフニング」である。
    これも上記の「結晶と炭素との処理・サイアナイド」とよく似ている。
    要するに「炭素」の代わりに「鉄の結晶の表面に窒素を浸み込ませる処理」である。
    この事で若干に「サイアナイド」とは出来る特質は違う。
    上記した様に此れには全く「マルテンサイト等の結晶構造の変化・変態」は伴わない。
    形成されるのは「鉄とチッソの結合体・窒化・低温処理と高温処理の二つがある」のみである。
    要するに、「鉄とチッソが結合」すると、「鉄」は「窒素」に依って安定化を施され、表面に「窒化物」が形成されて上記の「サイアナイド」よりは固くは無いが、それなりの固さと柔軟性を有し極めて摩耗にも強く、衝撃にも強く、さびなく自然に対して安定している。
    そもそも何よりも「銃の欠点の熱」にもその「全ての有した特性」が変化しない程に強く、「処理に必要とする加熱工程」は変わらないが、「炭素の場合の様にその「効果を導き出す」には「加熱と後処理」は働くが窒化は働かない。
    より大きく採るとすれば兎も角も必要だが、其れなりの効果としてのものであれば、「窒素の場合」は全く不要と成るのだし、「窒素の特徴」は上記した「変態」を起こして「特性を導き出す」と云う事は原則的にない為に「油などの急冷却・割れと変形」は不要と成るのだ。
    これで「銃が起す欠点」が克服できるのだ。

    但し、ところがこの「窒素」を浸み込ます「窒素材の選択」に関わるのだ。
    何故ならば、「この世に存在する窒素材」は、「備長炭の炭の炭素」の様に「自然界」では「窒素を持つ合成物質」としては、「高温熱処理に絶えられる程の物質」が少なく、「窒素そのもの」は「無害」であるが、「人工的な形成物・劇薬品・リン酸カリ」からしか得られないとする「処理欠点」があり、全ゆる生物を瞬間に殺傷する毒性を出す「シアン化窒素の様な有害物」が多い傾向にある。
    この「化学物質」を上記の様に「鉄と炭素」の様に加熱するが、冷却時は「ゆっくりと冷却」すれば「炭素と同じ上記の特性・耐酸や耐熱も伴う」を出す「窒化物・安定化する」が僅かに表面の層に得られるのだ。
    全ゆる物に「適用度が高い」がその反面で「リスクは非常に高く危険」である。
    但し、「銃の場合」には「サイアナイド」の高温の中でもこの「窒化現象」も同時に多少なりとも起こっている事もあり得るのだ。

    それは「加熱炉の土中に自然物として浸み込んだ場合」や「備長炭等に浸み込んだ窒素の加熱材の場合」で起こつている事が学問的探究で確認できている。
    当時は学問的追及が出来ていずに、“あそこの土は良い味を出す”、“あそこの加熱材は良い味を出す”などの言葉で知らず知らずに使われていた事があって、その資料の表現にも出ている。
    「加熱材の紀州の乳母女樫の備長炭」だけは「合言葉」の様に知られていて、その炭の効果は知られていたのだが、では、“鉄はどうであったか”は記録にもはっきりしていて、前段でも論じた「伊勢青木氏の天皇から命じられた最初の殖産」は「鉄の国内生産」であって、それを「近江」で発見したとしてその「功績」で「院号と伊勢の領地」を賜った経緯を論じたが、その当にその“「近江鉄」”が未だ「室町期」でも広く認識されていたのだ。
    それ故に、「摂津での銃の試作」は都合が良かったのだ。
    窒化も知らず知らずの内に加熱の過程で近江鉄の場合には起こっていた可能性がある。

    さて、この「近江鉄の優れている所以」は、「六つ目の対策」にあったのだ。

    それを一応解いて置く。
    「炭素」に依って「銃の欠点」を補う為に基本的に「鉄を炭素で強化する」が、これも当時としては矢張り、上記の“あそこの土は良い味を出す”、“あそこの加熱材は良い味を出す”などの言葉で知らず知らずに使われていた事にあって、今では学問的には解明されているがそれは「鉄鉱石の中に含まれる不純物の鉱物」に在ったのだ。
    「鉄の中に含まれる不純物の鉱物・当時の資料では」としているが、とんでも無い事で「希少合金元素」が含まれていた事なのだ。
    それは、「マンガン、マグネシウム、モリブデン、タングステン、クロム」、「五大合金元素」と「部枠の銅とNi」であった。
    これを含まれている「原鉱石の鉄」にあったのだ。
    何れもこの「五大合金元素」は、「鉄」を全ゆる物理的強度を非常に高め強くする「不変の元素」で、何ら熱処理を加えずとも、唯単に含む事でその「全ゆる物理的特性を高める効果」を「自然に生み出す」のだ。
    但し、その量に関わり多く含んでいれば良いという事では無く、多いと「逆効果と成り得る物質・量的な事は其の物質と特殊元素の関係相関図は判っている・専門的高度な知識必要」なのだ。
    取り分け、その中でも「マンガン」は、その「鉄の特性効果を一番に高める」のだが、前段でも論じた「近江鉄・4鉱山の総称」には、この地質学的に「マンガンが多く含まれていた事」があって、前段でも「詳細に論じた淀川を使っての運送」と、その「近代銃の開発に好んで銃生産に使用した可能性の所以」を以て観ると理解出る。
    然し、実際は使用していない様でその形跡は観られない。
    現在では含有していなければ「製錬中に加えるという事・そう云う特殊鋼材もある。・マンガン鉱」をするが当時では未だそこまでは無かった。

    さて、そこで因みにこの認識されていなかったと思われるこの「マンガン」では、どの様な事が「近代銃」に生まれて来るのかである。
    これを現在に於いて、このマンガンの効能に於いて“いい味を出す”として翻訳して解いて置く。
    結論は上記した「銃に起こる全ての欠点と成る原因対策」に成るという事だ。
    これを「適時適量に加える事」で「耐高度性、耐摩耗性、耐経時性、耐衝撃性、耐腐食性、耐酸化性、耐疲労性、耐イオン性、等」の挙げればきりがない程である。
    故に、「銃の製作中の鉄に加える事・自然に鉄鉱石に含まれている場合もある」で、「銃に起こる全ての欠点と成る原因対策」が「製錬中、加熱中、製作中、使用中の欠点」を防げるのだ。
    「額田青木氏の近代銃」は、「近江鉄」に限定し「共析鋼」にしそれに伴う加熱過程で表面層に偶然に「サイアナイド化・炭化」を施し、時には「窒化・タフニング」が興していたと云う過程で出来きあがっていた。
    此れで「銃の熱の欠点」をクリヤーしていたのだ。
    現代の冶金学から観てほぼ「マンガン効果に似た現象」を起していた事に成るのだ。

    注意として、最後の「耐イオン性」に付いては、専門的で理論的ある為に深く理解でき難いが、その要点だけの概要を下記に述べて置く。
    それは、「上記するマンガン等の鉄に対する合金元素」に付いては、「昭和期までその特性が解明されていなかった特性であって、そもそも「戦乱期」では「解っていなかった事・何か不思議な事が起こる程度に把握」であった。
    それは仮に、「鉄とマンガン」とすると、「鉄の−0.44」に対して「マンガンは−1.18」と成り、この「マンガンのイオン力」は「約4倍」にあり、その差が大きく互いに「イオン力で引き合う力が大きいと云う事」に成る。
    普通は、“「約5倍程度の差」"が「物理学的に適正値」とされるが、この数字は何とか「鉄とマンガンの結合状態」には「物理的欠陥の問題」が生まれ得ない程度の範囲にあると云う事なのだ。
    この世に存在する「全ての物質」は、この「イオン力・電位力」で結合し「一つの結合体」で形成されているし、この「イオン力・電位力の力」で「地球の持つイオン力・引力」とで引き合い「地球の表面に付着している事」に成るのだ。

    参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
    この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
    従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
    そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
    故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
    この“「良い味」”には高度な技術が潜んでいたのだ。

    故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明で在ったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ匠にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
    他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、めている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
    そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
    恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。

    それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
    この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。

    「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」に続く。P21に続く。


      [No.394] Re:「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/02/23(Wed) 10:08:32  

    「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」の末尾

    > 前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世であっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論になせない程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、同場所、同目的」は充分に有り得て、故にその絆を史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
    > 但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
    > 唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすれば、この「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
    > 「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
    > これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み中」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。


    「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」

    (注釈 「二つの青木氏に影響した武田軍の時系列の詳細経緯」)
    この検証の為に前段より少し話を戻す。
    先ず、もう少し「武田軍の詳細経緯」を「青木貞治の行動と額田青木氏の行動」に影響している事があるのでそれに関する重要な歴史観を論じて置く。
    実は、ここで「青木氏の歴史観・額田青木氏の貞秀の目と駿河青木氏の目」として注目して置かなければならない事があるのだ。
    それは、「堀江城落城後」に、必ずしもこの時点で、「戦後の戦略」として「宿営地・二極化拠点」とするだけで、時系列から調べると、「堀江城の武田軍の本隊」が「三方ヶ原に来る」とはかなずしも決まって居なかったと読み解けれるのである。
    先ず、例えば、何故ならば「三方ヶ原の2年後」の「長篠の戦い」でも「織田軍」は“「本陣」”を「長篠の戦場」より「別の所・4k真西・茶臼山」に置き、そこから指揮し、この「野営上の戦場」は別にした経緯の史実があるのだ。
    それを研究として見ると次の様に不思議な構えに成るのだ。
    そして、先ず「信長の本陣」からここより「南1k横に家康本陣」があった。
    「信長の本陣・豪族館」を除いて全て本陣は「寺」であった事が解つている。
    そうすると「秀吉の陣」は「信長本陣」より真北に「500mの上の所」に置いて安全を期した事に成る。
    つまり、「信長本陣」を中心にして「南北に家康秀吉の二人の本陣」を構えて万が一の安全を期している。
    この時、「敵方の勝頼本陣」はこの北部の「長篠の戦場」より「真北1k」に「本陣・寺」と「軍」と共に配置して「秀吉の陣」と何と「500m離れた所」に並行して置いていたのだ。
    つまり、この位置より「真西4kの位置」に対峙して「信長本陣」があった事に成るのだ。
    この配置は「長篠」を中心に、丁度、「辺1kの三角形の位置形状」で配置されていた事に成る。
    これは「いざ徒士での開戦と成った事」を配慮しての事であるだろう。
    そして、「信長」はこの「長篠の戦場」には「周囲・北と東」にかけて事前に「固定の馬廻り柵」を「くの字」にして張り巡らして、その後ろに「信長本陣」を背後にして「傭兵の雑賀の火縄銃隊」を配置して「敵の攻撃」を直接に受けない様に保護していたのだ。
    つまり、敵方が「三つのどの位置」から崩しに掛かるかを観て、どの位置からでも応戦が叶う様に構えていたと云う事に成り、中央と北か東かどちらの三方からでも「銃撃戦を繰り返す事」が出来る様にしていたのだ。
    ところが「勝頼の本軍の陣形」は、この「くの字」の「右上の先端部分の500m右側」に配置したのだ。
    不思議な何か意味のある配置で在る。
    普通なら左右、つまり「右の秀吉軍」、「左の徳川軍」を睨みながら「くの字」の「弾丸」が届かないぎりぎりの位置の「中央の1km程度離れた位置」に対峙して配置する筈である。
    ところがそうでは無く北の「秀吉軍の右500m真横」に位置したのだ。
    これから観ると、先ず「一つ目」は明らかに「武田勝頼方の総合軍勢・2万5千説」が少なかった事を意味する。
    無勢であるが故に何か戦略的な位置とした事に成る。
    「二つ目」は「信長軍の傭兵火縄銃隊3000」を恐れて逸らす位置に配置した事をも意味する.
    そして、「織田軍の傭兵銃隊」に届く前に、「三つ目」は「左右の秀吉軍と徳川軍」に挟撃される可能性があった事を意味する。
    この「三つのリスクの事」の事だけを考えた場合でも、この「リスクを出来るだけ下げる配置」とする必要があったと考えられた筈だ。
    だとすると、「勝頼軍」は必然的に「くの字」の右上の先端に位置した「秀吉軍の真横の右上」に配置する以外には無かった筈だ。
    そして実際にその様に配置したのだ。
    だとすると、これでは「戦術」としては普通は「信長本陣を直接に攻撃する戦術」は採れなかった筈だ。
    この配置の通り、先ず、戦略的には「直ぐ左に位置する秀吉軍」を崩して様子を見る必要があった事に成る筈である。
    なぜならは、「信長軍」の前には「銃の傭兵軍団用の馬周り柵」を前に採っている。
    況して「信長軍」は「くの字」に囲んで「本陣」を護っているし、そうすると「徳川軍」はその「織田軍の銃隊の前」を横切って前に出て戦う事は出来ないし,そうすると本来の「徳川軍の戦略の目的」は「織田軍の本陣を護る位置」に在った筈で、この目的は崩す事は出来ないので、先ずこの「二つの軍の配置」は崩さず「秀吉軍」を援護の為の配置するものでは無かった筈だ。
    そうすると、この配置から「秀吉軍と徳川軍」が崩されても「織田信長軍」は動かなかった筈だし、「くの字の馬周り柵」が邪魔して自由に動けない位置にいた事にも成る。
    それは、「雑賀族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」は、当時の常識では銃を兵力に換算すると10倍以上に相当すると云われ「恐ろしい戦力」と読まれていて、そう云う常識にあったので、これでも「最低3万の兵力」と成り兵力的にも「勝頼軍2万5千より未だ上」であったと計算していただろう。
    「銃隊の傭兵軍団3000の戦力」が仮に破られたとしても、未だ「織田軍独自の軍」が「本陣の周り」を固めていて、これで「無傷の勝頼軍」としても勝負は決まらないだろうし、現実にはその前に「銃隊」に叩かれていて戦える状況では無かった事に成り得る。
    仮に「秀吉軍」が真横から攻められて敗退としても「徳川軍」が「1k左」から前面に出て来て既に「傷ついた勝頼軍」と対峙する事に成る。
    故に、飽く迄も「信長軍全体の配置を崩す事」は始めからしなかった筈であるは出来なかった事に成る。
    要するに、「勝頼軍の戦術」は「織田側の三軍」に対して「確個不抜の攻撃」を仕掛けるべきであったし、其れしかなかった筈だ。
    当に上記の「長篠の戦い」では「織田方の三軍」はこの「三方ヶ原の武田軍略」を先取りして「二つの拠点造りの戦略」を採ったと云う事に成るのだ。
    要するに、「信長」はこの陣形配置を考えた場合に「信玄の三方ヶ原の戦い」を参考にしたと観ているのだ。
    それに「傭兵軍団の雑賀族根来族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」を本陣が攻撃されない為にもその直前で「圧倒的な戦力向上を目的」として利用して「殲滅作戦を採ったと云う事」に成るのだ。
    これは「直前の父の戦略」を事前に理解せずに無視して戦ってしまったと云う事に成る。
    あまり「将としての器では先ず無かった事」に成り、要するに戦う前に負けていたのである。
    だから余談だが、史実に遺されている様に、“武田方の指揮官達は戦いの前に分かれの宴を躱した”とする史実が遺されているのだ。
    唯、何故に「くの字の先端に位置した秀吉軍」の直ぐ「横500mの位置」に位置したかと云う疑問が残る。
    此れには上記の位置にいた「苦しい勝頼軍の唯一の勝つ為の唯一つの秘策・信長軍の配置の欠点」が観える。

    前段でも論じたが、二つの郷土に遺る逸話を元にした「郷土史の記録」には次の二つの資料が遺されている。
    一つは、「信長本陣の館壁」に銃弾痕が無数あったとする事と、「雑賀族の銃隊」の後にも“酷く潰れた弾丸”が"多く畑に遺っていたとしている事である。
    そこの処を掘ると、集中して一か所周囲に多数に遺されて出て来た事の記録である。
    これは「史実である事」が後の研究で証明されている。
    この事は見逃す事の出来ない重要な事である。
    これは「通説」と成っている「騎馬隊が先頭切って突っ込んだとする説」を覆す事であり、この事が興るという事は、先ず先頭切ったのは「勝頼軍の数少ない銃隊・200の守備隊説」が「3列」に整列して突っ込んで来た証拠であり、それが「信長本陣の館300m程度・弾丸の飛距離」まで「馬周り柵の北側の右柵・秀吉の陣の際」を破って接近していた証拠と成り、且つ、その後、「信長の傭兵軍団の銃隊」の中の「くの字の右側」から侵入して来た事に成る。
    つまり一時的に、この「くの字」の「北外側の右柵が破られていた事」。つまりこれは{秀吉軍と北側柵の間」に成り、それが当に「真西」にある「信長本陣の置いていて館」の近くまで侵入していた事を「壁の弾丸跡」が物語っているのだ。
    つまり、「勝頼軍の銃隊による守備隊の決死隊が編成された事」を意味し、これが全滅した事に成り、「戦い」の後を農民などが戦場を整理して兵を軍別に分けて葬った事の記録が遺されているのでこれはそれを纏めたもので史実である。
    この時の「記録・1万2千・銃による戦死」から「勝頼の武田全軍の7割近く・2万5千比」が戦死していた事に成り一致する。
    但し、「双方の祐筆が遺した公表している戦記」からの数字とは合わないが、当然に何れも極端に少な目であるが、「長篠の戦い後の勝頼逃避行の記録の数」は脱落者や死人や掃討作戦での犠牲者から最後の村に到達したのは「当初200人で最終は100・数人の説もある」にもなら成らない数に成っていたとされている。
    その戦場の総合墓地と逃避中の墓所も発見されている。
    この時の「農民の口伝」を下に江戸期に入り「数人の郷土史研究家」が取り纏めた資料の書籍が遺されている。
    その解説に依れば、その遺された「多くの弾丸の潰れ方・平坦に潰れていた」から「流れ弾」では無く何か固いものに当たっていた事に成る。
    「郷土史の説」に依れば暫くは畑から弾丸以外にも「戦歴を物語る物」が出土していたらしい。
    つまり、それらの事を読み込むと、一時には「右側の柵に完全に柵の中に入り込んでいた事」に成り、「数は少ないがその弾丸」の「潰れ方」から「銃などの鉄製」に当たっていた事に成るとしているのだ。
    「戦場での潰れ方}ではそういう事に成る。
    この考察から、上記の陣形から「戦法」に行き詰まり「決死隊」を「勝頼の守備隊の銃隊」で編成した事を意味する。
    そしてこの「銃隊」のちょっとしたチャンスを生かそうとして全軍を突破作戦に無理に切り替えた事に成るだろう。
    恐らくは、勝頼軍は「信長軍の馬周り柵の中の様子・銃隊の実際の数や三段構えの戦法態勢」が実際に掴めていなかったのだと考えられる。
    通常は「武田軍の隠密等」も探っていた筈で「通説」とは違って「信長」はこれらを当初から敢えて「何らかの方法・戦記には車に蓑の表現が出て来る」ので隠していた可能性がある。
    「勝頼の陣」からはこの「信長本陣」は、丁度小高い丘を影にしていた事から詳細が観えず、この「勝頼の決死隊の功績」で銃隊の勢力を低く見たのでは無いかと予想できる。
    つまり、これはこの「隠していた状態」の時に「決死隊」が比較的に簡単に「右の柵・秀吉軍の左際」に沿って突っ込んで来たと云う経緯と成ろう。
    そこで「信長のくの字の馬周り柵を伴った陣形」の「最大の弱点」は「右側のくの字の縁」に沿って「直線的に走れば「信長本陣館」に到達する。
    これが「弱点」であるからこそ「くの字」の真ん中では無く、この「右にある秀吉軍」に対して「勝頼本陣」を極めて接近させて「即応態勢」で防ごうとしていた事に成る。
    その「弱点」を「勝頼本陣に直接所属していた守備隊」を「決死隊の銃隊」に仕立てて先ず先陣を切らせて攻めさせたと云う事であろう。
    これが「信長本陣」の近くまで到達した事を観て、この「くの字の弱点」を確信して「赤兜6000騎馬隊」を次に突破させようと突進させたのであろう事が「郷土史の後の経緯研究史」でも判る。
    ところが、そうするとこれに「本来の配置の役目」を持つ「秀吉軍」は阻止する為の即応が出来なかった事の史実と成り得る。
    これは何故かである。
    それは「勝頼軍の本陣」そのものが「くの字の右際に沿って直線的に移動するとこの「くの字の戦棚」に沿って陣を敷いていた“「秀吉軍」にはどの様な事が興るか”である。
    「勝頼軍の本陣」が「秀吉軍の正面に向かって攻めて来る」と開戦前の当初は観ていたが、それが「くの字の隙間」に沿って「200の突撃隊の銃隊」が先ず突っ込み、次に「赤兜6000騎馬隊」が「猛スピードで走った事」で「秀吉軍は軍の向きを柵側の南に変えられず、且つ、仮に攻めたとすると、この行動は「くの字」の「馬周り柵内の傭兵軍団の銃隊の陣形」を壊す結果と成り、右横から向きを変えて秀吉軍に攻められた「赤兜の騎馬隊」が左横に逸れる事で「戦域幅」が広く開き、その事で「くの字の馬周り柵」は壊れ、この結果として「信長本陣の館」は危なく成り、却って「勝頼の赤兜6000騎馬隊の目的に利する事」と成る筈であった。
    そして、下手をすると「勝頼軍の4軍の徒士軍」が正面から「秀吉軍」に向かって決戦を仕掛けて来る事と成ると、「秀吉軍」は南側と東の正面側から攻められて壊滅する事に成る。
    だから「秀吉軍」は敢えて「史実」は動かなかったのだ。
    ところが、ここで「幾つかの史実」を組み合わせると、このタイミングでここで「思わぬ事態が興った事」に成るのだ。
    それは「くの字の内側右側」にいた「馬周り柵の傭兵軍団の銃隊」は「赤兜の騎馬隊」の余りの早さの攻撃に態勢が崩れそうに成った。
    然り乍らも、これを盛り返し再び「銃弾幕の激しい銃撃」を開始し始めた事に成る。
    問題はここに在るのだ。
    そこで、「200の銃の突撃隊」で「くの字の北側」を崩して進入路を造った後に、「山型陣形の赤兜の騎馬隊」は、「郷土史の研究記録」などの記録・弾丸と死傷者の集中位置等」から観て、「くの字の馬周り柵」の真ん中より内側の中心よりに押し出して進軍していた事に成りる。
    それが、つまり、一時、「くの字の北側」が崩れてその「傭兵軍団の銃隊の立て直し」がその後何とか出来て、その間に「傭兵軍団の北側の銃隊」に犠牲を負っていたのだ。
    つまり、この事はその北側に犠牲を負っている「傭兵軍団の味方の銃隊」が未だ居る中に向かって何と「くの字の中心と南」に位置していた「傭兵軍団の射撃」が止む無く突然に開始したのだ。
    つまり、「味方の銃隊」が「味方のいる北側}を射撃した事に成るのだ。
    当然に「味方の犠牲者」は出るがそうでなければ「くの字の中は総崩れ」になるところであった。
    これは同時に「信長本陣」も危なかった事を意味する。
    この結果として、これで「山型陣形の赤兜の騎馬隊の先頭」が「くの字の内側横・中心側に広がる結果」と成って仕舞ったのだ。
    つまり、この時、敵味方の双方に多数の犠牲を負う事と成ったのだ。
    然し、この時、傭兵軍団の銃隊に異変が起こったのだ。
    それは織田軍側は「傭兵軍団」だという事だ。
    そして織田軍と秀吉軍はこれを救わなかったという事だ。
    この二つを合わせれば何が起こったかは判る筈である。
    然し、傭兵軍団はこの戦場ではg:yを伴う為に織田軍に対して態度を露わにしなかったのだ。
    その頃より、結果として今度は中心より「左のくの字」の「傭兵軍団の銃隊の弾幕の範疇」に入り一時途絶えた弾幕は再び開始された結果、「山型陣形の赤兜の騎馬隊の陣形」が史実の通りに「総崩れ」と成ったのだ。

    これを救おうとして「山県軍の徒士軍団4軍」が「くの字の右内側横」に押し出した結果と成って仕舞ったのだ。
    「郷土史の研究記録」の「弾丸や死傷者の位置等」から余り犠牲者が出る筈のない「傭兵軍団の右横の銃隊」にも多く犠牲者が出た戦歴と成っていて多く弾丸が残るのは、この経過を物語っているのだ。
    結局は、「傭兵軍団のくの字の左横の銃隊」の横からの態勢を整え直した「三段攻撃の総攻撃」を受けて「赤兜の騎馬隊」のみならず「4軍の徒士軍団」も「全滅・1万2千」した事の史実の経緯が「郷土史の研究記録」からも裏付けられて判るのだ。

    この様に「勝頼の本陣の位置・秀吉軍の左500mの配置」は「織田軍とその三つの軍」と「馬周りの柵」とその兵力から、その弱点と成るこの位置を採った事が判り、当初よりその「弱点」を突く戦略で在った事に成る。
    そして、それを証明する為の「200の銃隊による決死隊・本来の勝頼の守備隊」を敢えて前面に出して崩す配置をした事が判る。
    そして、「4軍の家臣団」の全てから「反対・記録」を受けながらも強引に「勝頼の独断」でこの「少数の銃隊・勝頼の守備隊」で「突撃させてしまった事・それなりの戦功はあった」に成る。
    要するに、この勝頼は「三方ヶ原の二極拠点化」の「六稲三略から来る常套戦術」を参考にせず「弱点攻撃」に切り替えた事にし、護らなかったのだ。
    然し、現実はこれしかなかったのでは無いかと考えられる。
    要はその成否の境は、「くの字の馬周り柵」に沿って配置された「傭兵軍団のくの字の北側の味方」を「自らの銃で撃ってしまう」と云う耐え難き悲惨な事の「判断の差」で事は決まったと云う事に成る。
    史実はこの悲惨な代償に信長は全く応えなかったのだ。それどころか戦い後直ちに「傭兵軍だの攻撃」を開始したのだ。
    故に筆者は勝頼の戦略にはこの「非」は通説と違い無かったと観ている。
    然し、これに従えばより良くするには「勝頼」は先ず「秀吉軍の拠点」を打破して「くの字の弱点」を先ず抑えて「二拠点化」にして有利にし、其の上で「くの字が崩れた信長軍」の「次の出方」を先ず観るべきであったのだ。
    「信長軍の全軍」はそもそも「傭兵軍の銃隊」が「命綱」である以上は「くの字の陣形」を崩せなかった筈であり、この「信長の採った二拠点化」は痛手で在った筈である。

    ここで、注釈として後に事件が興ったのだ。
    この「見方が味方を撃つと云う事・助けを出さなかった事」が原因で長篠後に紀州征伐が起こり「信長と犬猿の仲」に成る。
    この機微を勝頼は戦場で見抜けなかったという事に成る。
    この「銃隊による決死隊・勝頼の守備隊の突撃」で「くの字の外側の右側」が現実に崩されたが、この時、「秀吉軍と織田本軍と徳川軍」はこれを救わずに記録では黙って観ていたのだ。
    この時、「主に雑賀傭兵軍団の銃隊」は崩れながらも「自らの力」で「態勢」を立て直し、味方のいる右に銃口を向け直して何とか「応戦態勢」を採り始め、結果として“「味方1200の犠牲・傭兵軍団の半分の犠牲の史実」”を出しながらも盛り返した。
    そして、この状況を観て「くの字の南側・左側の銃隊」は弾幕を張って柵から出て自らの力で犠牲を出しながらも味方を救助し開始した。
    最早、「長篠の郷土史の伝説」では、この時は「軍団の銃隊の指揮官」は「織田氏の指揮官」に従わず自らの身内を護る為に「雑賀族が指揮を執った」とある。
    そして「長篠の戦い後」に、「この事」が元で「雑賀族と信長―秀吉」とは逆に「犬猿の仲」に成って、「銃隊の傭兵軍団」は「信長」に一切味方する事は無かった。
    前段でも論じたが、「長篠の戦いの戦後始末後」に、[信長―秀吉軍団」は史実として「大紀州征伐」を長期間で実行し「雑賀・根来傭兵軍団」は「分断」される始末と成り瓦解に到るのだ。
    前段で論じたが、改めて「信長の軍」は、この時、「雑賀族三軍団の征伐・鈴木氏族・根来族・土橋族」に矢張り「銃の軍団」に大失敗し、大阪に一時逃げ帰ると云う経緯と成っていて、そこで「信長」はこの「雑賀族三軍団」に対して「調略作戦」を開始したのだ。
    「紀州の紀の川」の川を挟んで「北側の土橋氏族」に「調略」を仕掛けて成功するが、「鈴木氏族」は譲らず続けられていた戦いに応戦した。
    そして「根来氏族」に対しては、「秀吉に歴史」に大きく残る「焼き払い殲滅作戦」で一族を焼死で殲滅させたのだ。そして「伊勢青木氏」に逃げ込んできて匿う事が興ったのだ。
    「孤立した雑賀氏族」は、飽く迄「戦い」ながら子孫を遺す為に「三つの裔系・鈴木氏本家と分家の鈴木氏の雑賀氏と土橋氏との血縁族」に分けて戦う事に成った。
    「現海南藤白地域・鈴木氏発祥の地」に在した「鈴木氏本家族」はその支流末裔が存在していた「紀伊山脈の山の中」に「山族」として逃げ込み、「平家の生き残りの龍神族と十津川族」と組んで「織田軍」に「銃のゲリラ戦」で対抗したのだ。
    「分家鈴木氏の雑賀族・現雑賀地域」は、「紀の川の南側」の平地でゲリラ戦で死守して譲らなかったのだ。
    後に少数でも強い敵に立ち向かう者を「紀州惣国者」と呼ばれた。
    信長調略に応じた「土橋の血縁族」は、「一族内・川南との」に内乱が興り、最終は「川北の土橋族」が信長に着いたのだ。
    この状況の中で「土橋族の持つ銃を獲得した事」を下にして「秀吉の第二次紀州征伐」が興り、「ゲリラ戦・紀伊山脈の山と紀の川南側の聖地のゲリラ戦の二つ」が続いて起こったが、他の「南紀の紀州土豪達・青木氏の旧領地の家人や氏人」に対して、「子孫存続の為に伊勢青木氏説得」もあって仕方なく「秀吉側」に靡いて一応は平定された。
    この後にこの状態で「秀吉の刀狩り」が興り、「彼等が保有していた多数の銃」は。「三つの生産地」も含めて「秀吉の手中・支配下」に入って「秀吉軍」はこれが下で銃を獲得し急速に強く成ったのだ。
    この時、合わせてこの「秀吉の奪い取った銃」での「兵力」を高めない様に「伊勢青木氏」は「摂津で管理していた近江の生産地」を即座に廃止し、この「銃工人等」を「伊勢」に呼び寄せて「青木氏部」に入れて保護したのだ。
    一部に従わなかった者等がいて「薩摩と秀吉」に密かに吸収されたとある。
    この時、これを「薄々見破った秀吉」に「伊勢の蔵を焼かれる事」が興ったが「伊賀」がこれを「ゲリラ戦」で撃退し阻止したが、この様に「雑賀事件の影響を受けた経緯」を持っているのだ。
    この時、この「雑賀域・鉄の生産地・現住友金属」に「伊勢の出店・伊勢屋を持った事・現地との調整する連絡事務所」が史実として判っている。
    そして江戸期に入ったが、「本家の鈴木族と分家の鈴木族」は「紀州藩の銃を持つ雑賀忍者集団として組する事・歴史的に有名な史実が多く遺る」と成ったのだ。
    この事件発生から歴史観を観ると、結局は「くの字の南側に位置した徳川軍・紀州藩」が恨まれずに得をし、「大量の銃と雑賀忍者・元平家族と融合」を得た事に成る。
    後々、「伊賀忍者の紀州藩、甲賀忍者の徳川氏等」とその路で競り合うのだ。
    「長篠の戦い」には、「三方ヶ原の戦術」により関連する掘り起こせる史実があったのだ。

    この様に「今川義元・武田信玄以降の戦術」に習って「歴史上の本陣」を決して「実際上の戦場」には置かつたのであり、「1里・4kから4里・16k」の「位置・当時の活動圏」に配置するのが「当時の歴史的な常道戦術」であったのだ。
    つまり、要するに「秀吉の本陣の配置」がいざという時のキーに成っていた事に成る。
    「敵方の勝頼本陣」が動けば「秀吉の本陣の配置」で側面を突いて牽制する戦術で在った事に成る。
    「固定の馬廻り柵」を攻撃してくる前に「秀吉の本陣軍で攻撃して崩すと考えていた事に成る。
    「南1k横に在った家康本陣」は、「信長本陣」とそれを背後にした「傭兵の雑賀の火縄銃隊」が崩されそうに成った時に「勝頼の武田軍本隊の左側面」を突いて攻撃して救うと云う配置形態に在っていた事が判る。
    現実には上記の通り「勝頼」は「弱点を見つけた事・銃による守備隊による決死隊で実証」で上記した様にこの様に成らなかったのだし、これが下で「銃の傭兵軍団の雑賀族との事件」に発展して行ったのだし、「伊勢にも影響が出て来る事」に成ったのだ。
    「額田青木氏等が関わった三方ヶ原」はその「直前の出来事・2年」であった。

    さて、「二拠点化の論の検証」に戻して、其れもが何とか「額田青木氏の新型銃の長距離銃」と違って「火縄銃の銃弾」が本陣から届くと云う「命中率低い・流れ弾程度の距離の500m」の位置に「敵方の勝頼本陣」が存在すると云う事は動けば撃つと云う態勢にあった。
    況して「くの字の陣形」を採る織田全軍の配置形態に対して、然し、この常套手段を無視したのだ。
    況してや、「馬回り柵の3000の銃隊」に対峙するには無視も良い処で子供でも判る攻撃でもあるのにだ。
    ところが、「長篠の戦いの場合」もほぼ同じ配置形態に在り乍らも、「勝頼の銃隊200の守備隊」と共に「武田本軍の赤兜騎馬隊6000」で、先ず「秀吉軍」と「馬周り柵」の間を「側面突破」して直線的に「信長本陣を目指す」と云う「戦術上・六稲三略」ではそんな状況では無かった筈であったが、処がその是非は別として「考えられない行動」を執ったのだ。
    「戦う」とすれば「基本の戦術」は先ず「秀吉軍と戦うと云う事」に成るだろう。
    何故ならば、誰でも判る事だが「信長の本軍」は自分から先に仕掛ける構えではなく待つ構えであった。
    そもそも「銃隊」を前に置いて、且つ、「馬回り柵」で前を「くの字」で囲んでいる以上はそもそも「徒士の本隊」を戦う為には前に出す事は出来ない。
    例え「秀吉軍」が突かれ敗退したとしてもこの戦形は物理的に崩せない。
    否、崩してまで出る事は100%出来なかった事は自明の理であったしその意思は信長には無かったと云える。
    だとすると、この「陣形」から観ると「上記の突破作戦しかない事」に成る。
    現実に「くの字の北側・右側・秀吉軍の南側面と馬周り柵の間」は崩されているのだ。
    ここで様子を見る事が信長がどの様に出るか待つ必要であったと後勘では観える。
    それは、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」に異変か起こっていたのだ。
    勝頼もその「異変」を感じていた筈である。
    「勝頼軍の突撃」で現実に「北側馬周り柵」が崩れた。
    この「総崩れ」になりかけている「くの字の態勢」を護ろうとして、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「味方のいる混乱した柵側」に向かって何とか救い出そうとして射撃を開始し始めたのだ。
    この為に「味方1200の/3000の味方」を犠牲にしたのだ。
    そして「秀吉軍」は救出しなかったのだ。
    これが現実に起こったのシナリオだ。
    この時、「郷土に残り続けた逸話」では、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長と秀吉に対しての怒り」を示したのだ。
    現実に紀州では伝説としても「信長と秀吉に対しての怒り」の通りに人気は良くないのだ。

    この「長篠の戦い」は結果として半日で決着が着いたが、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長に対しての怒り」を表す為に“「紀州」に向かって直ぐに引き上げて仕舞った”と伝わっているのだ。
    この「逸話」が真実だとすると、「勝頼軍の徒士隊4軍」は“一時様子を見る事が必要では無かったか”と云う考えが生まれる。
    つまり、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「銃先」を信長又は秀吉軍に向けた可能性があったし、「戦線離脱」していた可能性もあり得た。
    筆者は、見方が味方を撃つと云う異変のこれだけの事が興れば戦場と云えど普通では無く何かこの時に「異変」が戦場に起こっていたのでは無いかと観ていてこれを敢えて捉えなかったのではないかと観ている。
    そしてそれが家臣団の信頼を失うきっかけと成ったのであろう。
    これを利用すれば「万が一の勝ち目」が武田側に傾くのだし、それだけの意味のある事件であったのだ。
    何故ならは、彼等は「武田軍に対して敵への怒り」は元より無かった筈で、要は「傭兵軍団」であったのだ。
    この様に、世情はこの様に「見殺しされるという事」は傭兵軍団に執っては今後も信長の元では次も同じ破目に成り得る。
    現実に、その証拠にこれが下で間一髪を置かずして「長篠後」に「歴史に遺る残虐極めた紀州攻め」が実行されているのだ。
    「郷土の逸話」の通りに、史実の「間一髪」を考えれば、何もなくしてはいきなりに「紀州攻め」は無いだろう。
    確かに、信長の「銃への恐怖」と「自らも銃を持ちたい」とすれど、「史実の間一髪」は無いだろうし、そもそも世間に対して「戦う大儀」が成り立たない。
    そもそも「銃」は「市場制」の中に無く飽く迄も「傭兵制」の中にあって銃のシンジケートを形成していたのだ。
    後は密かに影ルートで入手する以外には無く必然的に数は護身用程度で数丁単位で在って戦用と云う事には成らず、飽く迄も銃組織のシンジケートを形成していたのだ。
    この中の中心に青木氏族は摂津を介して存在していたのだ・
    これは「銃」に限らず「砂鉄の玉鋼」そのものがこの範疇にあって、そもそも「商用」と成ったのは「江戸初期の摂津と大阪」であってそれでも寡占であったのだ。
    それ故に、この「雑賀根来族のシンジケート」は独立性が強く、そもそも「紀州人」は穏やかな処に根に元来「古来より惣国者」としての気質を持っていたのだ。
    故に、この「異変」にはこれには「味方1200の/3000の味方を犠牲」に対して戦場で「銃先を変える可能性」だけの「相当な怒り」が在った事が云えるのだ。
    観ていれば戦い中のこれだけの状況では「異変」を読み取れていた筈だ。
    筆者は、異変の間隔を待つべきであったとし、利用するべきで在ったし、然し、現実は待つ事は無かったのだが、これが「勝頼軍の徒士隊4軍」の歴史に遺る「家臣の信頼を失った・死の宴とする原因」に成ったのであろうと考察する。
    「勝頼軍の徒士隊4軍」の突撃は待つべきで在ったと観ている。
    通説の“勝頼は冷静さを失っていたの説”にこの意味では合意する。


    「長篠の戦い・陣形論の経緯」と、その「青木氏・伊勢と駿河」までに及んだ「結末論」を例えとして論じたが、そこで再び「拠点化の論」に戻す。
    その意味で「三方ヶ原の信玄軍本隊」は「戦術の基本に沿っていたと云う事」に成るのであって「三方ヶ原で決戦すると云う考え」を持っていた訳では無く、そもそも「戦い」は元々自在変化するがそれにしても「三方ヶ原」を「軍の拠点とする事」は無かった事が判るのだ。
    飽く迄も、「三方ヶ原を起点・補給拠点」にして、「堀江城、二俣城の二拠点化」とし、その「敵方の浜松城」はこの「戦略の範囲内」にあったのだ。
    もっと云えば、「家臣の犠牲」の下で早々の体で逃げ帰った「一言坂の野戦の敗戦・本陣は戦場」としたのも、考えれば、元からこの「範囲内・浜松城より真東11k・二俣城から南16k3里から4里内・浜松城は南向きの三角形の頂点」に置かれていた事からなのだ。
    依って「一言坂や三方ヶ原」にしても、この辺では戦略上の位置に置かれてるにも拘わらず「戦い」を無駄に仕掛けた「元々の松平軍の戦略の低さ・家康」が見えていたのだ。
    況して勝てる見込みのない「狭い一言坂の野戦・時間稼ぎ家康説もある・江戸期の後付け」の「戦い」を仕掛けた理由も凡はその処は判る。
    更に、「三方ヶ原」に於いても「額田青木氏と駿河青木氏」が合力と参戦しているこの「松平側」に「戦略の低さ」が目立ったのだ。
    上記した様に「雑賀根来の傭兵軍団の憂き目」と同じ憂き目を「額田青木氏」にも「指揮官の戦略の低さ」から巻き込まれる可能性があったのだが何れにしてもその心もとなさが目立つものであった事に成る。
    それが「浜松城軍議の命令拒絶」で「牛族を左右する憂き目」を免れたのだ。
    後勘から観れば「長篠の傭兵軍団と同じ流れ」を踏んでいた事に成る。
    この「活動圏の範囲」と「陣形の向き・北向き」に依って「陣形」を選ぶのが「戦いの常道」なのであったが、其れを「松平軍」は、何と「南向きの三角形の頂点・自分の城に対しての左向き」で“「西向き」”に執ったのだ。
    本来では「浜松城」を背景に「北向きに採るのが常道」であった。
    然し、これであれば松平側に執って「長期戦と成った時の補給路を断たれる事」は始めから判っていたのだ。
    これを「武田軍側」から観れば、その「補給路」は「二俣城と堀江城」にあって困らないが、速くに「浜松城を攻め落とすと云う点」からは「今後の戦略上」では「最終補給拠点」の「三方ヶ原」は早期に是非に必要であった事に成るが、然し、その意味ではこの「陣形」では都合が良かった事に成る。
    「浜松城落城後の西三河攻め」にしても、この「三方ヶ原」はその「補給中継点」としては絶好にいい位置にあったのだし、その為には「補給拠点・三方ヶ原」の近い「堀江城」は「西三河攻めの指揮の拠点の本陣」とする戦略でもあったのだ。
    其れは、同時に既に、「3っの別動隊」に依って「背後の北三河」もほぼ手中に収めていたが、それは「足利将軍の信長征伐命」で「西」で引き付けられて苦戦している「織田軍の動向」にもあった。
    つまり、この「織田氏の西の戦い」が解決する前に「本陣と補給点」を前提にして先に「東に拠点を構えて置く必要」が「武田軍側の戦略」にはあったのだ。

    では、この「不思議な陣形を採った松平軍」は、これに対して薄々の「武田軍のこの行動」を読めていた「家康」は、これをさせまいとして「一言坂の野戦を仕掛ける事」で「武田軍の進軍」を留めて「軍監の織田軍の意思」を入れた“「時間稼ぎの行動」を示す事”で、つまり、「時間稼ぎ」を主張する「軍目付・軍監の圧力」の「賛同」が得られる様に敢えてしてしまった為に、その様に「陣構え」を「山県軍の別動隊の動向」も在りながらも、敢えて北向きでは無く、“「西向き」”にしたと読み取れる事にも成るのだ。
    この「西向き」は、「山県軍の別動隊・二俣城の行動の情報から」を「補給実戦隊」と家康等は軽く見ていて計算に入れていなかった事にも成る。
    これを計算に入れていれば、この「陣形」は「浜松城を背にして北向き」にする筈であった。
    これであれば「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊の動向」も「空の浜松城」をも「戦いの中」に組み込める事と成る。
    そもそも、「織田軍」が「援軍」を廻そうとすれば、「都田川の姫街道・8k−2h」を通過しなければならない訳であるから、その「三方ヶ原」の前に織田軍は「堀江城の武田軍の本隊」と「側面」を突かれて決戦をしなければ成らないし、又、下手をすれば「山県軍の別動隊の動向」に「正面を突かれる事」もあり得て、更には「山県軍の別動隊の動向」で「松平軍」は浜松城から出て「織田軍に合力すれる事」にも成れば、「山県軍の別動隊」に「浜松城を取られる事」もあり、「浜松城を出る事」は絶対に戦略上は出来なかった筈である。
    従って、史実の通りに「織田軍の援軍」はあり得ないのであるし、無理に「浜松城の援軍」に向かえば「北三河」が落とされている現状では、北から「織田軍の左横腹」を突かれて進む事に成る等で現実は出来ないのだ。
    つまり、この「自明の理の戦略状況」から元より「織田軍の援軍説は無かった事」に成り、当初より「信長」は「軍目付・軍監」だけで「南三河と西駿河の事」は治めて「時間稼ぎ」をする「目論み」であった事に成る。
    其れも「織田軍」の「浜松城援軍の時間稼ぎ説」では無く、「織田軍」の為の「西三河攻めの時間稼ぎ説・昔からの領地続き争いの西三河」であった筈である。
    つまり、これは「家康の思考」の中には「織田氏の援軍は無いもの」として、然る事乍ら、最早、余りにも「西三河」に「視点が行っていたと云う事」であるのだ。
    その結果として「額田青木氏」が無理に呼び寄せられた「浜松城軍議で妥協案が出た事」から、これを読み切る事が出来なかった「美濃守備軍の平手軍・汎秀戦死」は、「信長の命に反して合力する事」と成って「平手一族」に対して「信長から強い叱責を受ける事の始末」と成ったのだ。
    この「筆者」、即ち「額田青木氏の指揮官の考え」の「経緯の分析説・陣形の分析説」から観ると、故に「武田軍本隊と別動隊の大軍」も「北の三方ヶ原・補給拠点」にして、上記の「二拠点化戦術の常道手段」の通り「浜松城を陣取る事」にして構える事に成っていた筈であると説いている。
    唯、確かにここを「本陣とする説」も考えられるが、地理的や地形的に「遠江の入り口の堀江城」を超えて「中に入らせる戦略」は常道ではないし、そもそもそうであった場合は「堀江城攻めは無駄に成る事」に成り、その意味が無くなるだろう。
    そもそも既に、「浜松城の周囲全域の出城」を落とされていていれば、自然と「補給路を断たれ事で「浜松城は落ちる事」は「時間の問題」であって、「攻め落とした西駿河の安定の補給路」と「北三河攻めの補給路」を「三方ヶ原」に「大規模な補給拠点を造る事」さえ出来れば「総西攻めの為」にも「無駄な戦い」はしないであろう。
    後は、「孤立した松平軍」に執っては密かに「海からの補給支援・南」に頼るしか無くなるのだ。
    当然に「信長」も同然にこれを救う「強い水軍も持っていなかった事」の為に「充分な補給路の無い所」に「援軍を出す事は自らの首を絞めるだけ」で当初よりその「心算」は無かったのだ。

    注釈として、前段でも論じたが、故に記録にある様に、この時、「伊勢水軍・伊勢衆は調略を受けなかった」が一部の小さい「尾張衆の知多衆」だけは受けたのであり、それと「熊野水軍・調略を受けた」に「調略」を掛けて来たのだ。そして最終は「熊野水軍」は調略に乗ったのだ。
    此れには一つ問題があって、当時の水軍にはその「厳しい縄張りの掟」があって果たしてこれを破ってまでも浜松沖まで行くかは不可能な問題であった。
    それは他の水軍から掟を破った事で「総攻め」を受ける事に成る。
    背後から「伊勢水軍など軍団」から突かれればそれこそ戦わずして壊滅で憂き目を受ける。
    何故ならば出過ぎた「熊野水軍の補給路」を接水運組合ので前段で断てばよいだけである。
    通説が解いている「熊野水軍説」は100%あり得ず、又その勢力からも「紀伊水軍」や最大勢力を誇っていた「摂津水軍」の「組合連合軍を敵に廻す事」は不可能であった筈である。
    当時は「堺に事務所を置いていた水軍組合」は一熊野地方の熊野水軍が幅を利かせる程では無く「絶大な権力とその勢力」を持っていた史実があるのだ。
    従って、「熊野水軍の利用」は「信長のデスチャー」で現実的では無かったのだ。
    さて、だからところが、「武田軍」には山国であった為に「陸揚げ」を遮るだけで「海での水軍・最大の欠点」は無かったのだが、そもそも“海で戦うその必要性は無かった”のだ。
    結局はこの「水軍説」を根拠としている「熊野水軍説の通説」は合わないのだ。

    さて、ここで「伊勢水軍の保護」の下で「摂津の水軍組合の一員」と成ったとする「本論」の「駿河水軍の青木貞治」の「キーポイント論」が出て来るのだ。
    「駿河水軍の主」として育った「二俣城の副将の青木貞治の存在」は松平軍が求める「海からの支援・南」に執って“最大の重要ポイントの役目”であったのだ。
    だとすると、「松平軍」には「駿河水軍の青木貞治の存在」は、「戦略上」では極め大きかった筈であるが、ところが「旗本の羨望」で実際上は「二俣城の副将の扱い」まででそれ以上の「その正統な扱い」を受けていなかった事なのだ。
    「副将の青木貞治の存在」のそのものでは無く、その「異様な影の背景・旗本」はこれを敢えて認めようとしなかった事」にあったのだ。
    そもそ、海から最も遠い「二俣城」に追い込めていたのだし作戦上からどう考えても変である。
    史実の判っている後勘から考えても「軍としての指揮官の能力」を疑っていただろうし、駿河青木氏の貞治は当然の事として、「額田青木氏の指揮官の貞秀」から観ても大きな疑問を持っていただろう。

    当然に、この「三河旗本羨望」とも成っていた「背景の一つ目」には、「青木貞治」に繋がる「額田青木氏の南下国衆の銃隊・伊勢の裔系」にもあった。
    更に「背景の二つ目」には、「伊勢青木氏の財力」とその「伊勢シンジケート」と「伊勢水軍」は「海からの支援・南」を可能に成ら占めるにもあったし、その「実質の武力行使」では「秀郷流一門の抑止力の存在」が厳然とあった。
    次の「背景の三つ目」には、「海」では「青木氏族」として「東は伊豆相模」まで「西は摂津瀬戸」に繋がっているのだ。
    この総合力があったとして、この「三つの背景を実現させしめる手段・イ」は次の様に成っていただろう。

    その「手段・イ」が果たして可能ならしめるのか検証して観る。
    先ず、地形的には「馬込川・最狭川幅60m」より入り北に船で8k遡上し、そこで、陸路の真西に「六間通り」を1.5k経て真っすぐに「浜松城」に入れる。
    故に地形的には「補給路」として充分に可能であった。
    然し、ところがこの「三方を囲まれている場合」のこれを「可能ならしめる警備・武力」に付いての事も「松平側」には全くなかったのだ。
    「武田氏」はこれを抑えれば「補給路の断絶」は可能となるし、奪取する事も容易に可能であった。
    ところが、こんなに「重要な事」なのに「商記録」や「資料」や「手紙の行」や脚色編集されていると云えども「三河記録」にも、全くこの事に付いての影も形もが触れている処が全く無く、且つ、そもそも資料記録が遺されていないのだ。
    間違いなく、「青木貞治の手」で駿河水軍・伊勢水軍の支援」を使ってこの「補給路作戦、又は計画」を実行していた筈である。
    それは「東からの秀郷流一門からの補給路の作戦」も考えられただろうが、それに関わる様な記録や資料とそれを物語るような語句や行等は不思議に全く何もないのだ。
    この「松平氏の恥辱と成るような資料一切」が後で消された可能性がある。
    つまり、筆者が論じたい事は次の事である。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300銃隊+50荷駄隊」を「吉田城の守備隊」から、突然、「当初の国衆約定」と異なり「浜松城」に呼び出した。
    そして「軍議」に於いて「二つの事」を命じられそうに成った。
    その目的の「一つ目」は、「籠城戦」を止めて野戦と成った場合に、その「陣形・鶴翼」の中心に「南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」を「実戦隊の中心」に据えて「不利な形勢」を変えて勝利出来る様にする事であった。
    確かに、これでは「鶴翼の陣形で効果を発揮し勝つ見込み」はあったが、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」にも、「雑賀根来傭兵軍団」と同じくそれなりに無傷では行かずに「大きな犠牲を伴う事」は必然の理であった。
    然し、これはそもそも「国衆と成った時の約定」とは違う。
    結果は、前段でも論じた通り、これを断り、「城」より放り出され、意味の無い「一言坂偵察」として派遣された経緯と成ったのだ。
    目的の「二つ目」は、「籠城戦と成った場合」に本論上記した「伊勢と武蔵の協力」、つまり、「水軍に依る補給路の確保」と「補給の態勢造り」にあった様でこれも断ったのだ。
    確かに「水軍を持ち得ない敵である事」から「戦場域」では襲われる危険性は少ない。
    然し、既に「武田氏の手中」にあった「同族の信濃と諏訪の安全」と、片脚を掛けていながら「中立」を見せている「伊勢の安全・掟に依り直接侵攻は無い」は保障できない。
    取り分け、「信濃と諏訪の安全」は、そもそも既に「武田軍中」にあって侵されている事から、これを盾に脅して来る事は充分にあった。
    既に「筆者・額田青木氏の指揮官の考えとしてみる」は「脅しや牽制」に付いては「信濃」を介して事前に有ったと観ている。
    筆者は、「松平氏の戦い」に必要以上に肩入れする必要も無い故に即座に断ったと観ているのだ。
    目的の「一つ目」を遣らないのであれば、目的の「二つ目」も遣らないのが「理」であって、この逆の事も云える。
    ところが次の目的の「三つ目」があった。
    それは、「額田青木氏」の「基」に成っている「西」の「伊勢の影の勢力・伊勢シンジケート・伊勢屋を含む」と、「駿河青木氏」の「基」に成っている「東の武蔵の秀郷一門の勢力・地場産を扱う商い・長嶋屋等含む」とを、「背景」にする為には、この「二つの抑止力」を「松平軍が獲得・合力」が成立出来得れば、「浜松城の籠城戦」は充分に勝てると確かに見込める。
    そもそも、「軍議の為」に態々三河の「吉田城の任」を解き呼び寄せたのであるのだから、「松平軍の基本戦略」は、その“「二つの象徴を味方にし呼び寄せたいと云う事」”では無かったかと観ているのだ。
    そして、そこに「額田青木氏・伊勢青木氏裔系」と同縁族の「駿河青木氏・秀郷流青木氏裔系」を「背景に着ける戦略」であったのではないか。
    然し、この「三つの何れ」も断ったのだ。
    「結果の答え」は「旗本との軋轢・前段論じた」が在った以上は論じなくても解る。
    この「軍議の末」の「籠城戦」は、これで論理的に崩れ、「野戦を選ばなくてはならない事」と成ったのだと考えられる。
    その表れが、「補給基地の三方ヶ原」にあって、前段で論じた通り「密かに助け合う額田青木氏と駿河青木氏の行動」と成って現れたのだ。
    これ等の「統一した行動」は、「伊勢青木氏裔系」と「秀郷流青木氏裔系」の「女系族の裔系の青木氏存続の氏是の所以」から成したものであったのだ。

    ここで余談だが「浜松城の軍議」では、「青木貞秀・指揮官」も「青木貞重・額田青木氏の差配頭」も「青木貞治・額田青木氏」も「青木・・のこの三人の指揮官」も「嫉妬羨望の旗本」からの「相当な身の危険」もあったのではないかとまで観ている。
    その最悪の場合には、「額田青木氏の銃弾」は「城」に向かって一斉に炸裂していたであろうし、其の「後の事」として「松平軍」は最早無く成っていた事にも成っていただろう。
    そして「額田青木氏」も「駿河青木氏」も「安全な伊勢」に近い「三河伊川津」と「秀郷流一門」に近い「遠江・駿河」に直ちに戻ったであろう。
    「三方ヶ原」での「上記の経緯の結果論」は、上記の「三つの何れの結果と同じであった事」を考え合わせると、この「歴史観」は先ず間違いでは無かった事に成るだろう。
    そもそも、「武田軍」も「織田軍」もこの場合の方が傷を得ずして何事も無く都合は良かった筈と成る。
    ところが結果として、「額田青木氏の銃隊」を呼び寄せたが「思惑」が外れて「額田青木氏」だけは“「城外に出された事に成った・史実」”のだ。
    この直前までは「武田軍・早期奪取」にしても「松平軍・時間稼ぎ」にしても両者ともに戦略的に「同じ考え・籠城」であった事に成る。
    然し、「額田青木氏」を訓練させて「近代銃」を持たせ「信長の戦略」で消失した「伊勢と伊豆間の中継点」の「再構築」を目論み「伊川津・渥美湾の制海権獲得」で行おうとして、その「権利」を獲得した「伊川津国衆としての約定」にも反して「呼び寄せられた軍議」で決然として断ったのだ。
    ところが、当初は「通常の考え方」からすれば「野戦」では無く「籠城」と観ての「時間稼ぎ・松平軍」であったと観ていた。
    この為に「紛糾した軍議」から外された「額田青木氏の銃隊」も、最初は「情報」の無い中で作戦的には予想通りに“「浜松城での籠城」”と考えていて、外された「軍議の結果の命令」を受けて、事を荒立てて行き成りに「伊川津・吉田城」に帰る事もせずに駿河青木氏の事もあって「様子見をする事」と成ったのだ。
    そこで何れにしても、兎も角も「武田軍の動向を探る・意味無」の為にも「偵察隊としての名目の任」を受けて仕方なく「一言坂・前段の遭遇戦」に向かったのだ。
    其の後、その「堀江城の途中」まで後尾に着いてそれを「追尾する形での過程」で、そのつもりで「様子見の追尾」では居たが、その途中で、“其の後の浜松城で軍議に異変が起こっている”のを、「余りの速さ」で「内部機密情報・駿河青木貞治から忍者を通じて」で情報を逸早く獲得し「異変」に気付くのである。
    この「意外な展開の経緯」から、一応は「偵察隊としての名目命令」を受けた段階で、それを“断った以上は「籠城戦に成る」と把握していたので、武田軍本隊の追尾途中では、「駿河青木氏の青木貞治隊」を護る為に未だ「浜松城周辺に戻る予定・額田青木氏」ではあった。
    然し、そこでこの「情報」を得て「駿河青木氏を救う」のは「三方ヶ原」しかないとしてそれに向けて踵を返したのだ。
    この「青木貞治の情報」の中には、「三方ヶ原と指定していた可能性」があるからだ。
    何故ならば、「青木氏族の将来の事・子孫存続」を考え合わせれば、“「浜松城・激戦」”よりも、“「三方ヶ原決戦」”を選んでいた可能性があるからだ。
    結果として、その様に上手く運んだのは、「この駿河青木氏との情報の打合わせ」に依るだろう。
    そうでなければ「戦場で無傷で救い出す事」は出来なかった筈だ。
    結果として、「軍議の拒絶反発」での「偵察隊として命令・表向き」を受けていながらも、寧ろ、この「表向き命令」で「自由行動を採れた事」が幸いしたのだ。
    そうでなければ、「伊川津国衆」と云えども「軍議の命令」に縛られていた筈である。
    だから「三方ヶ原から伊川津」に直接戻った「額田青木氏」は「国衆」を直ちに辞し「開発業と陸運業と殖産業」に勤しんだのだ。

    (参考として「上記の経緯」から観て、「絆の貞秀・貞治・貞重の呼称の経緯」は起こらなかった筈だし、「前段の額田青木氏の銃隊の差配頭の貞重の呼称の推論」に付いては、“「貞重の呼称」”がこの「状況証拠の経緯」の中で出て来る事は無く間違いは無いと考えられる。
    故に此処では貞重を使う事にする。)

    唯、未だ、「陸運業等の形」は整えたとすれど「松平氏の行く末」に依っては「渥美湾の制海権の獲得の行方」は「2年後の長篠結末」までには「既成の事実」としながらも夢中の中にあったのだ。
    「名目」は「籠城戦の為の情報収集の偵察隊であった事」に成るが、そもそも「一言坂の武田軍の本隊の動向・城から見えていた」が、その「目的」と成るが、前段の検証でも「海抜300m城の天守閣」からは充分にその行動は観えていたのだ。
    だからこの「名目偵察」は「完全な名目で在った事」が解る。
    そもそも、この「目的」はそれが「本来の偵察隊」であり、一度、「松平軍」は「野戦・一言坂」に出て戦って敗戦しているので、「本隊を動かす事」は出来ず「吉田城守備隊」にいた「伊川津国衆と成った銃を持つ額田青木氏」を呼び出して、それも「銃力のある南下国衆」にこの「命令」を出したという事に概要の経緯は成る。
    其処にこの「重点」があって、そもそも、検証ではその「一言坂・17m上」は「10k先」の「浜松城・天守37.5m」からは「20m下」に障害物無くはっきりと見えていた筈なのだ。
    間違いなく「偵察の意味」が違っていたのだ。
    「偵察隊を名目」に「城」から放り出されて、その「松平軍」が既に「野戦」で負けていた「武田軍の本隊の存在する一言坂」に先ず向かったと云う事であるのだ。
    この「呼び出した後の軍議」では、「三つの命令」に従わなかった「南下国衆の銃隊」に向かって“「意味の無い偵察隊」”としたのは、そもそも“「意味の無い」”に意味があって、「武田軍に殲滅される命令」を「罰として下した事」なのではないかと観ているのだが結果は逆に何とその銃力で勝利するのだ。
    一度、家康は「野戦」をしてその実情は命の危険から脱して敗戦し、故にその力は充分に知っているし、「城」からも観えている各所で戦った「武田軍」でもある。
    「今更の偵察」では無いだろう。
    ところが、その「結果」は逆であって「勝利」してゆっくりと警戒をしながら坂を下りて「浜松城の斜め横の丘」に陣取った「史実」と成るのだがこれも城から観えていたであろう。
    「額田青木氏の銃隊の今までに経験してこなかった威力」を知って「武田軍」は追尾して来なかったのだ。
    当然に松平軍も「城」からこの「銃撃の状況」も充分に見えていた筈である。
    「城から追い出した張本人の旗本ら」は、内心、「南下国衆の銃隊」に対して「初経験の恐怖」を抱いていたのではないか。
    「筆者・額田青木氏の指揮官の目」は、これを観て「城の東の丘」に隠れた「南下国衆の銃隊」を、再び「野戦の三方ヶ原の陣形」に加えた時に、旗本達は「やり返し」を受けて“自分たちの命が危ない”としたのではないか。
    当然にそうなるだろうしならない方が可笑しい。
    これが「軍議の事の出来事・命令拒絶」もあったが、この「恐怖」から初めから「三方ヶ原の不思議な陣形」などに一切に加えなかった理由もここにあったと観ているのだ。
    故に、その「陣形」の中で「額田青木氏の銃隊」が「青木貞治隊だけを救い出した事」にも口を出せなかったのだ。
    普通なら他も救い出すだろうし、其れもせずに直ちに「戦線離脱」してそれも「吉田城・国衆の本来の役目」では無く「伊川津」に引き上げて仕舞ったのだ。
    この意味は大きい。
    これは、今後、「松平軍」に「伊川津国衆として関わらない」とする姿勢を示した事と成るだろう。
    そうなれば、今度は「伊川津」で「弱った松平軍との戦い」と成るが、それは起絶対に起こらない理屈に成る。
    それは次の四つの事だ。
    一つ目は「三方ヶ原の敗戦」の後に余力は無い事。
    二つ目は「銃隊の威力」に対する恐れがある事。
    三つ目は「家康の配慮」でこれを止めた事。
    特に、この三つ目が重要で、寧ろ、「国衆としての名目だけの武力」ではなく「周囲」に対して“「敗戦後の三河」には未だ「銃の威力」があるぞ”とするもので、「織田軍と武田軍」に対しても「その誇示をして利用しよう」とし牽制したのでは無いか。
    四つ目は「額田青木氏の背後」にある「秀郷流青木氏の武力」と「伊勢青木氏の財力」の「誇示と今後の利用に在った」と観える。
    その為にも、「敗戦後」の直ぐにも如何にも「三方ヶ原の功労者」の様に見せつけて「伊川津の国衆・額田青木氏で伊勢をも誇示」をも目的として、そして「渥美湾の制海権の利用」と「三河の開発業と陸運業と殖産業」を許可して、この関係性を松平氏は世間に対して強く見せつけたのだ。

    その後の現実には、検証すると「三方ヶ原の敗戦後」にこの様に「四つの経緯」は動いて行くのだ。
    「三方ヶ原の戦い前と戦い後」に「三河旗本」などは、“自分たちにも銃口を向けられるのではないか”と、「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍以上」に「恐怖」を抱いていたのではないか。
    この事は、兎も角も「伊川津」に戻ったが、何と「羨望の先頭を走っていた伊川津国衆」から伸し上がった「下級旗本」が、なんと「田原と豊橋間に住み着いた事」から、尚更の事と成った。
    そこで「古神明社」を境にして東西を東に向けて「壁」を造りここ「銃を構えた防衛線」を敷く事に成ったのだ。
    これ以上に「無駄な摩擦を避ける意味」でも「額田青木氏の思惑」にもこの感覚は強くあったと観ている。
    現実に、その後の「旗本の羨望」は下火と成り、その後の「額田青木氏」の三河に貢献する等でも、この「旗本等」は物が言えなく成り、この「思惑」は非常に効いたのだ。
    唯、この「羨望」は「享保期・享保の改革先導」に成って再び噴出する事と成ったのだ。
    物を云えば、「主君行動に異議を唱える事」に成るなどの風潮が享保の幕府内に興ったのだ。
    その「不満の捌け口」と成ったと云う事だ。
    唯、一人だけ恣意的なのか本気なのか「織田領地との係争地の西三河で反発・宗教一揆など興す・額田青木氏が伊川津国衆に成っている時から」をした「旗本」がいた。
    この時、一時、家康の不満から「三河から引き下がる事をした者」が居て、其の後にこの「者・本多・蜂屋等」は、「旗本重臣の大久保氏・伊川津元田原」の「計らい・参謀に」で「三方ヶ原後」に「影の活動家の参謀・意味あり」と成って、こっそりと「旗本」に戻った者が居た事が判っている。
    筆者は、江戸期に成って再燃するも一時的に通説と違い恣意的に動いたと観ているのだ。
    「額田青木氏が伊川津の国衆」に成った事を観て、“これは拙い”としてこれに「圧力」を加える為に「織田領地との係争地の西三河」に、「織田氏」は「宗教戦争・口実は別」に見せかけて「圧力」を掛けて来たと考えられる。
    それ程に「伊勢青木氏の財力と水軍力」と「額田青木氏とその銃力」と「秀郷流青木氏の武力勢力」は、無視できない「絶対的な勢力」として「織田氏と松平氏」には浸みこみ、更に「伊川津の国衆と成った事」で無視できない「脅威」と観て一目を置いて数年燻っていたのだ。
    それ故に興った「旗本を巻き込んだ関連の一揆」であって、この時の感情が「浜松城の軍議・軍監の意中」の中に在ったと観ていて、始めから「織田氏は援助や大きな犠牲を払らう事」のつもりは無かった筈であったのだ。
    その為にも「織田軍」に執っては、先ずは「武田軍の二拠点化」を防ぐ為にも、又「補給の陣形・織田軍」を充分とさせる為にも、「最低限に西三河・最大は南三河」を制しておく必要があったのだ。
    だから「松平軍」には、これをさせない為にも「三方ヶ原後」に上記のこの「青木氏の三つの勢力」を「南三河の伊川津に留め置く戦略」が必要であったのだと考察する。

    さて話は戻って、だとすると、「額田青木氏の銃隊」は「武田軍」をそもそもの「敵」と観ず、「山県軍の別動隊」は直ぐ横の「鶴翼の側面」から突破して来た事から止む無く、「自らの身を護る為」と「青木貞治隊を救い出す為」にも「額田の近代銃の銃口」を彼等に向けた所以と成り得る。
    結果は、再び「一言坂で経験している武田軍」に向かって「弾幕」を張って「無事に救い出す事」は出来たが、「山県軍の別動隊」に仕方なく「大犠牲を負わした事」には成ったと云う詳細結末と成るであろう。
    だから、「救い出した後」に「武田軍の本隊」に向けて、更に「銃口を向ける事」も充分にあり得たが、それもせずにすぐさま「戦線離脱」をした所以なのだ。
    更には、故に「三方ヶ原後の掃討作戦」でも、逃げ込んだ「駿河青木氏の盤田見附の西光寺の検索」も、又、経験した「銃の危険」を避ける意味でも無事に避けられたのだ。
    「銃に対する危険」を考えて深く捜索を敢えて避けたと観ているのだ。

    次に更に、ここでも「詳細経緯」として「南下国衆の青木氏からの疑問」があるのだ。
    それは「天竜川の圷」に出来た「浜松城」から同じ圷内の「真東11k先の坂下・一言坂―盤田」にいた「武田軍の本隊」を「浜松城」からはハッキリと「敗戦後の動向」は目で観えていた筈である。
    この「敗戦した一言坂」から「盤田の西光寺・青木貞治菩提寺」までたった真東1kにあるのだ。
    要するに「一言坂の戦場内」である。
    其れなのに、経験し観えていたのに、且つ、敗戦しているのに、今更“「偵察隊」とは何なのか”である。
    そもそもこれでは「偵察のそもそもの意味」は無い。
    つまり、詳細経緯としてこれが疑問を解く最大の解明点なのである。
    結局は、結論として、「松平軍」では「兵に依る時間稼ぎは無理」と観て、当初は“「銃隊」で「時間稼ぎ」をする予定”であったとも考えられるが、然しこれも断ったのだ。
    上記が「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」である。
    果たしてこれもそうであろうか、これも検証する。
    確かにこれであれば間尺は合うが、「青木氏側の断片資料」から観た処では、これは「後付けで脚色した事」に成り、この説はあり得ない。
    そこで、この時の「詳細の状況」を戻って検証して観た。
    つまり、「軍目付・軍監の意見」の通りの「籠城戦」に近い「時間稼ぎ」をして「同意」を得ようとしたとするのは経緯からしても充分に考えられる。
    それにしても「家康命拾いの野戦・1度目の一言坂」も、且つ、二度目の“「銃力で押し返した銃隊」”も史実であって、それは当初より危険な事ではあった。
    其れなのに、直ぐその後には、「武田軍の本隊」が「山県軍の別動隊」より、先に「松平氏側の補給拠点確保と云う野戦を選んで仕舞った事・上記の三つの行詰」であって、今度は流石に「同意・織田軍軍監の同意・上記の意思無し」は「史実の通り」に得られなかったのだ。
    この様に「松平軍」は三度も失敗しているのに「軍目付」としてはそもそもOKは出せないだろう。
    要するに「無理な一言坂の時間稼ぎの実行」で、これを主張していた「軍目付・軍監・3氏の援軍・1.5〜0.3万説は無理・後付け説」の「安易な興味本位の援軍説」もあるが、そもそも、「軍監」とは「援軍」を以て参加するのではなく「意見の具申」と「謀叛の見張り役」として参加するものである。
    この点から考えて、これは「織田軍の軍監の守備隊」としては納得できる充分な程の多すぎる軍勢説であったが、これがそもそも「尾張国元・お膝下」の「尾張と美濃」に遺した「二つの守備隊・記録に記載・この説では国元が空に成る」であった。
    然し、ここから果たして「三河・駿河」に「援軍」を割いて「戦記通りの兵数を送る事・1.5〜0.3万」は120%無いだろう。
    精々、この「100から200程度の守備兵」で当時の世間の原則通りの「1騎2将の兵数」にした筈である。
    現実には「三軍監」にもされていない「平手汎秀・意見が違った」だけを残して戦い3日前に去ったのは事前の建前を実行したに過ぎずこの限りにある事に在る。
    そもそも、この「援軍」も「美濃・尾張の留守中にする始末」では無く、それこそ名目上とすればこの「通説の数」は勿論の事で、その「援軍」そのものが「本末転倒の援軍」であった筈であり、この通説論は間違いなく「後の脚色論」であるだろう。
    筆者が「武田氏」であるのなら、つまり、「浜松城」を牽制しながらも外に誘い出して、其れなら空と成った同然の「背後の尾張と美濃を攻め落とす方」を先にして、戦略上ではその後に「浜松城を攻める方が有利」と考える。
    要するに「誘出作戦」である。
    「史実」はそれをしなかったのは「軍目付の守備隊を一兵も動かしていなかった事」にも成るのだ。
    同盟を結んでいる以上は、「三軍目付・軍監・林秀貞・佐久間信盛・水野信元」として「代理の者」を差し向けた程度であろう。
    それが重要な事は「戦死したのは平手汎秀であったと云う事・病弱でこの後父は早々と汎秀を残し撤退し後に信長に追放されるも、本人もその能力で家康から侮辱を受けたが、この後に“汎秀を見殺しにした”とするは「信長の大義の名目理由」に間違いなく成る。
    然し、「松平軍」に「本末転倒の援軍を送る事」は出来る事は先ず無く、実際は「軍監」を護る為の「100にも観たない数・一騎の50との説も」だったと考えられるのだ。
    現実に多くなれば成る程に、それだけ「援軍」を「浜松城の中に居れる事」は「面積と補給などの点」から考えても無理であって、そう成っていれば「武田軍一言坂母待つの通過時」には「外の野営」では潰されていた筈だが、どの戦記にもこの事は一切触れられていない。
    筆者は、故に殆ど「代理の軍目付・軍監」だけの100より少ない「数十名・50」に過ぎなかったと考えている。
    殆どはこれは当に江戸期の「軍記戦記・脚色漬け・面白おかしくする為・流行した」の「後付け説」である。
    筆者は、「吉田城の守備隊」としていた処を呼び出され、「軍議」で「初期の契約目的」を考え「国衆契約の条件の違約」から、間違いなく「軍勢の中心に据えらる事等の三つの命令」を拒絶したと考えられるのだ。
    故に、この事で外に放り出され「半殺し目的の疑問の偵察隊」と成ったのだ。
    然し、「額田青木氏の近代銃」で「武田軍の本隊」に完璧に勝ったのだ。
    その様を城から観えていたのだし、「旗本」はこれでも「恐怖」を抱いたと考えられる。
    上記の「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」は、自分たちが何度も負けている「武田軍の本隊」に対して、この「額田青木氏の南下国衆」の「一言坂の完全勝利」で、「松平軍の時間稼ぎの思惑」は完全に無く成ったのだ。
    要するに、「南下国衆の犠牲」で“銃撃戦で時間が稼げる”と観ていた事も潰えたのだ。
    これは「命令拒絶」では無く、「独自行動」で解決したのだ。
    其の後に「旗本」は、「銃口」を自分たちに向けられた場合の“身の危険と恐怖そのものを間違いなく抱いた”であったろう。
    「其の後の行動」も、“記録通りに自由に行動している”のはこの所以であろうし、「戦線離脱」も、そして「伊川津」に戻ったのも、「陸運業・殖産業・開発業」にすぐさま転身したのも、この事による“「自由行動」”に基づいているのだ。
    故に、「絆での結ばれた青木貞治」も情報提供し続けたのだ。
    そして「誰の命令」でも無く“「命の危険を冒しての自由行動」”として「貞の絆の救出」をしたのだ。
    それも、普通なら、戦線からの救出後、盤田見附まで届けて引き下がるが、「三方ヶ原救出」だけで留まり、「盤田の西光寺までの救出」では無かったのだし、更には普通なら、“「青木貞治隊以外」にも救出したらどうか”と云う考えも起こるが、「壊滅混乱の中」でも旗本を救出せずに引き上げたのだ。
    「自由行動」であったとすれば、当然に、「三方ヶ原の停戦後の2年間」の間に「青木氏族」は、罰せられるか、「旗本」から「口述攻撃」をされていた筈である。
    でも、全くその逆であった。
    そもそも、「罰する事」は、「国衆」で無くても「三河」に居る限りに於いては出来た筈だ。
    実際には松平軍にはその力は無かったし、筆者は家康の計算が合ったと考えている。
    然し、「額田青木氏」に執っては国衆から抜けて「伊川津」に居続ける事は彼等に執つては“「恐怖」”でそもそも出来なかったのであろう。
    それは「彼等の脳裏」には、「拭う事の出来ない銃の脅威」と、「弁解の着かない青木氏族の格式」があったからなのだ。
    「国衆」から辞しても「護身用として持ち続けた銃」は、この“いざと云う時の「抑止力」”を働かせたのだ。
    だから、この「背景」があるからこそ手放さなかったのだし、その後の事にもこの「銃の抑止力」を持たせたのだ。
    「三河旗本」に執っては「歯ぎしりの限り」であったろう。
    此れらの根底には、「約定」を破り「呼びつけて置いて外に放り出した事」があった事も否めない。
    但し、寧ろ、後勘から観れば「青木氏族」に執つてはこれの方が良かったのだ。
    先ず、それには「伊川津国衆」を辞めて「陸運業等の商族・企業家」に転身していた事にある。
    つまり、「抑止力の強い民間の商人と成った事」で、「表向き」に罰し攻め立てる事は出来なくなった事である。
    寧ろ、それには、戦後、「敗戦で弱った松平氏」を「強める効能の方」に「家康自身」は舵を切ったのだ。
    寧ろ、「秀郷流一門・青木氏の抑止力」と「伊勢青木氏の財力と抑止力」を味方に着けたかった事であった。
    それには、“「青木氏族」にそれ相当の実利を与える必要があった”のだ。
    「伊勢青木氏」には、要求通りに「渥美湾の制海権」を認め、「伊勢秀郷流青木氏」には、「三河の開発業の権利」を認め、「東の秀郷流青木氏・駿河青木氏」には、「青木貞治の裔系」を「家臣」にして引き上げると云う「策・御側衆旗本」に出たのだ。
    その事で、「三河の民」は富み、「松平氏」には当然の事として「莫大な税と献納金」が入り、「急速に松平氏の復興を遂げさせる事」が出来、結果として他国から「商いの流れを呼び込む事」が出来ると踏んだのだ。
    当然に、「青木氏族」にも「同じ事・相互利益」が云えたのだ。
    「駿河青木氏」のみならず「一族の相模青木氏等」は「水運と陸運の復元」で「商いの還流・長嶋屋が窓口」を「武蔵・越後まで波及」に呼び込み栄えて富むのだし、現実に富ましたのだ。

    「三方ヶ原の軍議の命拒絶」をし「額田青木氏を救った後」に「伊川津に独断で戻った事」が、この時に、弱っていた「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」が考えられたが、上記の通りに無かったのだし、寧ろ、「逆のシナリオ」と成ったが。
    では何故なかったのかである。
    記録が見つからないが、恐らくは、普通のシナリオからは伊川津国衆として命令拒絶の形が出来ている以上はあるが、筆者は次の事で「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」は最早無かったのだと考えているのだ。
    当然に「事前の銃の恐ろしさ」を経験していて無理だと云う事は判ってし、「家康の命」は違っていて、それ以上は出来なかったと云う事は判るが、その経緯の中には次の事があったと観ているのだ。
    それは、一つは[渥美湾に伊勢水軍を配置した事」と、二つは「藤沢まで秀郷流青木氏を主軍として秀郷流一門の軍を廻した事で牽制したと観ている。
    これは「伊勢青木氏の資料」の何処かにその中にしか遺されない記録である故に解明は難しい。
    其の上で、明治35年まで3度の大火を被っているし、「室町期の2度の紀州攻め」と「江戸期の神明社・春日社と清光寺・西光寺の幕府没収」で記録資料は飛散している現実もある。
    これには「伝統の大事な記録」を隠す為に南紀と南勢の「旧領地の家人や氏人の家」に移されていた現実があって、故にこれ等に関する資料と記録は未だ見つけられていないのだ。
    然し、筆者はこの時の「青木氏一族」が「非常事態の経緯」として普通に考えれば「上記の二つの事」を採ったと観ているのだ。
    「額田青木氏」と「駿河青木氏」を再興して力を持たせ「三方ヶ原と云う災難」に巻き込まれた事態に何もしない訳では無い筈だ。

    この詳細は前段を参考にして頂くとして、そもそも「伊川津と云う土地」は「有名な不毛の地」であり、「奈良期からの神明社の関係」で維持していた「伊豆まで補給路」を信長に寄って寸断されたとしても、依然として松平氏との間で「渥美湾の利用権」を獲得し「渥美への糧の補給路・片道2時間」を構築していた。
    この事を以てすれば、「非常事態には対処しない事」は100%あり得ないだろう。
    急遽、「伊勢水軍」を渥美湾内海田原に廻して補給も含めて態勢を構えたと考えられ、「額田青木氏」は「渥美半島の細長い半島」の「田原と豊橋の境界」にこの「銃隊」を東向き構えて防御策を執った事も判る。
    この「田原の古神明社」の内海側には三方ヶ原の前には「3人の土豪・後に旗本・大久保氏等・羨望の主導者」が田原城を築いて入植していたのだ。
    従って、この僅か西側に「銃隊の防御策」を東に向けて半島を南北に横切る様に構築し、背後に「東三河の駿河青木氏」と「藤枝の秀郷流青木氏」を「牽制策]として構えたと考えられる。
    この「三方ヶ原後の牽制策」は、それもわざとらしく無く、それでいて「見せつけ効果を狙ったもの」であったと考えられる。
    これでは「羨望の塊の旗本」は元より「松平軍」もその気であって何も出来なかった筈であり弱体と成っている「三方ヶ原後事」とすれば到底出来る事では無かった筈で、家康は「浮薄な旗本の力」を抑えて、「額田青木氏のこの力・銃力とその背後の財力と東の秀郷流青木氏に繋がる一族一門の勢力」を利用する方向に現実的に舵を切ったと考えられる。
    「三方ヶ原の後頃」に「額田青木氏の四家・四神明社」の「渥美半島の西側域」に「居住していた地域」と「古神明社付近」の「御屋敷と云う役所・現地役所・地名」には「これらに関する関係する逸話」が遺されていて、その“「家康」がよく訪ねて来ていた”とあり、これは「奈良期からの青木氏の守護神の古神明社を名目上で訪ねた事・裏意は額田青木氏を訪ねた事に成る」を意味する。
    前段でも詳細を論じたがこの様な事もあり、「長篠までの2年間」の経緯ては「驚くほどの復興・信長警戒」を遂げたのだ。
    何時の世も「莫大な経済的背景」が無ければこの様な事が興らない事は「自明の理」である。
    「三方ヶ原の直後」から「三河」で「開発業と殖産業・前段で詳細」に携わり、この為に「伊川津」とは別に「古神明社が存在する3カ所」を「専属の居住地・前段」として「北側の青木村」を始めとして「11カ所・地権を認められた定住地」までも認められているのだ。
    これも「伊勢の事お構いなしのお定め書」に繋がった所以の一つでもあるのだ。

    要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
    「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
    それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
    それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。

    この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
    当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
    筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
    「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
    だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
    家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これが「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
    筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
    それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
    「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
    この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を持って立ち回った氏族であった事」が良く判る。
    上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
    それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
    この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
    「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。

    「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」に続く。(118P)


      [No.393] Re:「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」
         投稿者:青木   投稿日:2021/12/24(Fri) 15:42:48  

    > 「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」の末尾


    > 筆者は、「皇親族としての商い」に「品位疑義・禁令」があって、これに対して「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」が在ったと一部の資料では記されて信じられている様だが、これは実の処は「表向きの記録」であってその「裏の本意」は周囲は「出自元の筋目格式の疑義」であったと観ているのだ。
    > この「表向き」は、「朝廷」としては「今後続く天皇家の品格・皇統に傷を着ける事」に成るので、記録としては「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」として遺したと観ているのだ。
    > それが「桓武派と嵯峨派の争い」を引き興し、これ対して根本的に基を質して「仁明天皇と円融天皇」が原因を元に戻したと云う事に成ったが、これが世間では「円融天皇の頃・960年頃」まで燻っていた事に成る。
    > これにより現実に以後問題はかき消された事から以上の歴史観と観ているのだ。

    「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」



    此処から伝統 68に続く


    “何故かの「疑問a」である”。に論を戻す
    これらの事を前段とは別の面で検証する。

    つまり、何故、「白羽の矢」であったのかであって、つまり、この「白羽の矢」が“何故、青木氏だったのか”であるが、“明らかに「正統性では無い」”とする事を前段では論じた。
    それには、そもそも「青木氏以外」に“「存在する継承族の対象者」は「数十人」と成っていた事なのに、その「矢先の決定的な違い」が何処にあったのか”であり、従って、この数からすると必ずしもその理由付けの“天智系にしなければ成らない”とする「正統な理由」はそもそも無かった筈だ。
    とすると、然し、実行したこの「隠れた原因」、寧ろ「隠された原因」が「白羽の矢の答え」であった事に成る筈である。
    そもそもこの事は「伊勢青木氏」に執っては全氏族内に「求めない無いゴタゴタ・呼称する」を招くからである。
    この「ゴタゴタ」を避けていた事は、公的でも、且つ、氏族内の記録としても史実として遺されているからだ。
    それ故に大きく「青木氏の行動」に影響したのは確実で、その為に慎重に成っていた。
    なので、これに関する以下の事等が、取り分け、前段で論じた「大口青木氏・日向青木氏の商いの前提」も、この少し後のやっとこの「ゴタゴタ」が治まった頃であった事から、未だ「慎重な行動」がこれらに関わって来ていたとするのだ。

    後勘から観て比較すればこの頃の行動の様子が違っていて「違いの差」が直ぐに出て来るのだ。
    それらの「違いの差」は、唯一点、925年から正式に自立し、1025年の総合商社にした「貿易と殖産の商い」から得られた「伊勢青木氏の財力」にあった事は先ず一つ目としては間違いはない。
    これだけは歴史的にどの様に観ても「格段の差・財力の事」であった。
    逆に、これが「白羽の矢の原因」と成った「称徳天皇期の弱点」と既に成っていたし、少なくとも速くても臣下族であった「伊勢青木氏の財力」で、「改善に向かう仁明期」、遅くても「改善した円融期」までは何処にも助けを求められなかった「朝廷の財政難」では苦しんでいた事は史実であったからだ。
    つまりはこの「賜姓族の青木氏」に無理に矛先・矢先を向けたと捉えられる。
    「白羽の矢の目的」がこの「財」にあったとしても全面的には無理であったとしても元々は「青木氏」に執っては「伊勢青木氏の財力・献納と貢献」は、「影の令外官の賜姓五役」からしても補助する程度の貢献は「朝廷」から求められる前の「氏族の前提・宿命・献納と具納程度」でも立場に少なくともあったのだ。
    この様に「氏族の宿命」と「白羽のゴタゴタ後遺症」から離れたい心情の難しい立場にあったが、然し、先に結論から云うが前段でも論じた通り「天武系」の天下の中で「これ・天武系に取り込まれる事・財政的援助」を「天智系」であるとして拒んでいたこの「苦しい心情」から、その「仁明天皇・出自元との調和」と「円融天皇の青木氏賜姓復活」の「二人の解決努力」で救ってくれたのだ。

    それで「歴史上の経緯」を元から考察して観る。
    そもそも、先ず「行基和上・668〜749」―「鑑真和上・754〜763」の歴史でも知られる様に、「聖武天皇期」は「世の混乱期・政治経済軍事」で人は疲弊していて、其処からそもそも一連の事が始まった事だ。
    最終的にこれを救ったのが要するに「上記の二人」であった。
    つまり、前記で論じた「神道仏道の文化格式の違い」が生じ始めて、これを解決しようとした「新撰姓氏禄」でこの「違いの矛盾」を解決しようとしていたが、朝廷内に関わる範囲では完全に解決し切れていなかったのだ。
    この中に既に「神道仏道を格式化していた元賜姓臣下族」として事で「伊勢王の施基皇子の裔系の青木氏」が巻き込まれていて、それが時系列や経緯から「前期の財の他」には先ず「白羽の矢に成った経緯の発端」の一つでもあった事にも成る。
    それ等を「出自元の立場の保全を修復した仁明天皇」と、これを決定付けた「賜姓青木氏の仕来りを母方であった秀郷流の青木氏賜姓をした円融天皇」が救う事で、未だ「源氏賜姓」が在る中でも社会に公然と再び格式化したのだ。
    これで当然の事として停止していた「大掛かりな献納と具納」は再び始まったのだ。
    然し、この「二つの賜姓青木氏」は互いに「四掟での女系制度」を敷く事で、再び徹底して「天皇家に組する事」をしなかったのだし、「白羽の矢」の様に二度と組される事を出来なくした。
    その上で「賜姓族」では無く「律宗族」として二人は位置付けたのだ。
    この「二人の策」で「円融天皇」の直ぐ後の「花山天皇・968年から1008年」は、「円融天皇・960年」の「賜姓青木氏をした事」で、まぎれもなくこの「11代続いた源氏賜姓・律宗族にはしなかった」を中止した事に成ったのだ。
    経緯から「円融天皇」に依って「四掟で結んだ秀郷流青木氏の再賜姓化」で格式化された為に“中止と云うよりは出来なくした”と観た方が正しい。

    そこで、参考例として関係する事を時系列で始めから改めて纏めると次の様に成る。
    飛鳥時代から奈良時代にかけての僧。
    「仏教の伝来伸長」で「国家機関と朝廷」が「寺や僧の行動」を規定規制して締め付けた。
    そして「民衆へ仏教を直接布教することを禁止」していた。
    この「禁令」を破って「行基集団」が出来限り禁令に抵触しない様に「世の難儀」を仏教で解決する「布教の集団行動」を形成したのだ。
    先ず畿内(近畿)に民衆や豪族など階層を問わず広く人々にこの行動型仏教で説いた。
    それは記録に依れば「困窮者のための布施屋9所」、「道場や寺院49院」、「溜池15窪」、「溝堀9筋」、「架橋6所」
    以上の設立などの「数々の社会事業」を各地で成し遂げた。
    「渡来人の職能集団」が持ち込んで自然普及させ、其の後に彼等の力を借りて行基らの草の根運動で仏教の土元からの伝播が広がりこれで更に蔓延する様に庶民社会に興った。

    注釈として、この「行基の行動・749年没」の中に常に「渡来人の職能集団の頭の男」と、その「技能集団」が専門的な知識が必要とする土木工事に積極的に関わっていた事が記録から判っているが、この「男とその集団」は「施基皇子」と関わった「額田部氏・前段で論じた」では無かったかと考えているのだ。
    この頃き、土木工事一切は三つの大集団で統制されていて、それが「第一の額田部氏」、「第二の結城氏」、「第三は和気氏」であった。
    「伊勢青木氏」は「国造の差配」として独自に「青木氏部・殖産事業を進めた」を持っていたとあり、額田部氏と関わり乍ら「明治9年」まで続いた事が判っている。
    「施基皇子の青木氏との関わり」や「仏教の関わり」から「平安遷都・出自元の山部王の桓武天皇794年」に同行する事を拒絶し、朝廷より排斥された経緯を持っていて一切の官位格式を排除されて「施基皇子」」がこれを匿った史実の経緯・後に破格の冠位を与えられ復する」もある。
    従って、当に行基の事や額田部氏の事は当に同時期の事であり関わる経緯としては完璧である。
    つまり、仮にこの「土木技能集団の額田部氏」であったとすると、前段でも深く関わっていた「施基皇子とその裔系」が浮かび上がる事に成る。
    橋を掛けるにしてもそれに関わる人の糧とその資材の財源をどうしたかであり、必然的に「額田部氏」であれば「施基皇子とその裔系の商いの財源」と成ろうし、「大仏殿建立」としても「大財源」と「高度な技能と技術」が必要と成るは必定で、未だ「皇親族」であった以上は「施基皇子とその裔系の財源の援助」が先ず最初に宛がわれるのが当然の事と成る。
    と成れば、その後の「孝謙天皇の頭」に浮かぶ「白羽の矢の矢先」は「流れ」としては何よりも目前で華々しい実績をあげていた「施基皇子とその裔系の財源」と向かうは当然の流れであろう。
    これは大きな証拠に成るので研究している。
    時期も完全に一致しているのだし、彼等を通じて「古代浄土密教」を信じていた以上は援助は先ず間違いは無いと観ている。
    同時に「額田部氏」は平安京遷都に同行しなかったが、その後の「伊勢青木氏との経緯・施基皇子・716年没の裔系」も考えればこの理由も更に解けてくる。

    この「古代浄土密教」に「施基皇子の青木氏・647年賜姓」は「賜姓族」でありながらも「職能集団の国造差配であった事」から強い興味を持っていて神明社を守護神としながらもこの中に居たのだ。
    つまり、「朝廷の3度の新撰姓氏禄の発想」の元に成った「神道仏道の融合化策の原因」と成った「神道・神明社」と「仏道・古代浄土密教」の「格式文化」の狭間に居たのだ。
    要するに危険な中に居た事に成る。
    ところがこれが思わぬ「白羽の矢の原因」の一つと成って仕舞い「神道仏道の融合化策の根拠付け」をして仕舞ったのだ。
    当然ながら、「元賜姓青木氏」もこの渦中には居たし、これには当初は「朝廷」から度々弾圧や禁圧を受けていた事が判っている。
    ところが突然に「聖武天皇」から始まり最後は「孝謙天皇」がこの「神道仏道の融合化・神明社と清光寺」に舵を切ったという事だ。
    これが「白羽の矢」を打ち出す為の根拠としたと論じている。
    当時では最も「神道仏道の融合化」を実践していた為に、「伊勢青木氏の裔系」にこの「白羽の矢」を打ち出すには必要で「違い差」が出ない様にそれに合わしてこの「融合化策」を講じたのでは無いかと考えられるのだ。
    これが「嵯峨天皇」に依っては賜姓族でありながらとして気に入らなかったのだ。
    この考え方の違い差が顕在化して「桓武派と嵯峨派」に分かれて「出自元」が同じとする者等で「政治的な戦い」が始まったのだ。
    だから特段に外す必要が無かったのに「皇親族と賜姓族」を外したのだ。
    「皇親族」から追い出し「賜姓族」を外せば普通の氏族と成り得て「神道仏道の融合化の問題」は解決するからだ。
    筆者はこの様に観ていて、故に、嵯峨天皇没後にこの「ゴタゴタの歪み」を解決し始めたのが「仁明天皇」であって、解決したのが「円融天皇」であってこの「二人」という事に成るのだ。
    だから、「円融天皇の秀郷流青木氏」は「清光寺」に対して「西光寺」と云う事に成るのだ。

    然し、この「行動型仏教の普及」が民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して急激に逆境を跳ね返したのだ。
    その後、ところがこの余りの強い民衆の力を恐れた「朝廷」は止む無く「最高位である大僧正の位」を与えて逆に利用しようとしたのである。
    故に、とりあえず「仏教の布教を認めた上で民衆への布教を禁じた」のだが、この最初の扉を開いたのが「行基仏教」が最初であった。
    結果として、「民衆側からの行動」で求めていた朝廷の当初の目的の「神道仏道の合体・習合策」が成し遂げられたのである。
    その二なの行動の証拠として「聖武天皇の招請」により遂に「奈良の大仏と東大寺の造立」したのだ。
    これが「天皇の意思の証」と成ったのだ。
    以上の実質上責任者として招聘されここで「仏道」は正式に承認された形を執った。
    この功績により「東大寺の四聖」の一人に加えら「行動型仏教普及の行基」は加えられ数えられた。
    「仏道」はこれに依り完全に全階層には浸透した事を意味したのだ。
    然し、当然の事として「朝廷内部」、取り分け、「天皇家の内部形態」は現実にはこの「神道仏道の合体・習合」に追いついて行けなかったのだ。
    「神道仏道の合体・習合策」が成し遂げられたとして、それ故に「同線上に存在する事」に成った「賜姓青木氏に白羽の矢先」を向けて近づこうとした「理由・根拠」の一つと成って行ったのだ。

    さて、「白羽の矢の理由の背景と成った経緯の検証」はここからである。
    「孝謙天皇」は「吉備真備の補佐・過程を熟知していた」を得て、この時の皇太子に成る過程を経て前代未聞難しい立場の天皇に成るのだが、其処に賜姓を授かった「伊勢王の施基皇子の裔系」は「朝廷の部経済」を進める為にの朝廷に代わって「商い」を営み始めたのだが、それ故に「伊勢青木氏/施基皇子」に関わる問題に関わって来るのだ。
    この事で判る様に、「聖武天皇の上記の大仏殿建立」で二つの事が興った。
    「拠出金での朝廷の財政難」と「仏教徒全階級の民衆の力を使って寄付等」での建立であったとされる。
    その為に、仏教に帰依する著しく庶民の力が強く成ったのだ。
    此処にこの「天皇継承問題」が絡んで仕舞ったのだ。
    天下の最大事でもあるこのの「天武天皇系継承の正統性を担保する事」が出来ない程の事が興り、「天武系の称徳天皇期の弱点」ともなり「思惑通り」には運ぶ事が出来なくなったのだ。
    その現状は“朝廷には「財力」は無く「借財を前提」として、そこに付け込んだ「藤原仲麻呂」に牛耳られて、当に術なく「藤原朝廷」と成り「無力」であった。”のだ。
    それがその前の「藤原系外孫王の淳仁天皇・天武皇子の舎人親王系」の「出現・廃帝事件」で当にその危機に落ち至っていたのだ。

    そこで「慌てた称徳天皇」は「財政問題と仏教勢力浸透」の「二つの難題」を先ずは「先送り」にして、先ず先にこの「系内の外孫王天皇」でさえも廃帝し、淡路島に島流し抹殺してしまう程の慌てぶりの策を執ったのであった。
    「系内の南家外孫王と云えど正統性を主張する持ち主」であったが「財政問題と仏教勢力浸透と藤原氏の天皇座の乗っ取り」との「三つの難題」は「継承問題以上の事」と成り得ていた事が判る。
    ではどうするかであって、「同系の外孫天皇の廃帝」までしてこの「三つの問題」を一挙に解決するには
    要するに「本題の白羽の矢以外には無かった事」に成るのだ。
    如何にも論理的にはこれで解決する。
    後は「慌てた称徳天皇」がこの「三つの事」で「固辞していた主張・天武系」を取り下げる以外に無く成って仕舞った事を示しているのだ。
    筆者はこの「考え方を変えた行為」が「表向き行為」は公式非公式で何度か行った「称徳天皇の伊勢神宮向行」であったと観ているのだ。
    同じこ事として「嵯峨天皇時の平城上皇との揉め事」の末も「伊勢神宮向行」で治めているからだ。
    当時ではこの「伊勢神宮向行」が説得の一つの手段と成っていたのでは無いかと観ている。
    「伊勢神宮向行」は要するに「伊勢青木氏との治め方・納得のさせた方」であったのであろう。
    上記の全ての経緯を承知・熟知しいた「吉備真備の指導」で取り下げたと観られるのだが、この「称徳天皇白羽の矢策」は実質はそれ故に戦略的であり「吉備真備の白羽の矢策」であったろう。
    朝廷内は不満で在ったろうが後に朝廷の三つ苦境をすくうのは一応はこの「白羽の矢・財の意見」で纏りを見せさせこれで解決した様であったが、問題は「伊勢青木氏内」に持ち込まれ移された事に成って、「光仁天皇と嵯峨天皇の出自元への反発」で生まれた上段で論じた通りであって、これが「約200年近くも伊勢青木氏内での揉め事・ゴタゴタ」と前段でも論じた様に変化して変わる事と成ったのだ。
    実はその範囲が四家の宗家だけではなく研究過程で見直して観ると、「女系氏族」の「青木氏の氏族の伊勢郷士衆内」でもこの「ゴタゴタ」が持ち込まれていて、その影響が出ていた事が最近判った。
    どんな形にせよ相当に「天皇家・朝廷に関わる事に反対意見・女系の意見」があった事に成る。
    それが前段でも論じた様に「難波王」や「美濃王に嫁した浄橋や飽浪ら」の意見と成って現れていたと考えられる。美濃の源氏化も然る事乍ら、「浄橋や飽波」が一線を課して美濃で「一色一族」として独立して行動した行為などもこの事に由来していると観ているのだ。
    要するに、これは「施基皇子の戒めの青木氏氏是を護ろうとした意見」であったと考えられる。

    「同系の外孫王を否定する位の正統性を主張する主」が、「天智天皇・38代から48代の10代目の事・100年目の事」であるとすれば、定説として称徳天皇が突然に「天智系」に主張を変更しているのは全く考え難く、「朝廷大儀」として「何か正式に云えない理由があった事」に成るだろう。
    それが「天智系の施基皇子の裔系の財力」にあったと説いている。
    朝廷は然る事乍ら「天皇家」として「財を表向きに理由にする事」は出来ないであろう。
    「天智系のより上位で正統なの継承対象者」は上記した様に「近江川島皇子・近江佐々木氏」を始めとして大勢いる中である。
    但し、「嵯峨期の詔勅」でも「賜姓」を「源氏」とするが、その替わりに「指定する皇位族」としてのあるべき「慣習仕来り掟・格式・9つの縛り」を定めたのだ。
    「源氏の権威付け・格式化」を策したのだが全く守られなかった。
    「詔勅の中」に明確に記されている様に「財の裏付けのない賜姓」が無いのではそもそも生きて行く事さえも出来ない皇子たちには無理であろう。

    更にこれに、即ち、「格式」を与える為に「中国の仏教戒律」を取り入れて「十誦律」に似たものにしたとする資料説もあるが、兎も角も「九重戒相伝・通称9つの縛り」として「嵯峨天皇」は「縛り」を「賜姓源氏」に加えたのだ。
    然し、「11賜姓源氏」はこれをも一切守らなかったのだし守れなかったのだ。
    其れは寧ろ、下記の理由で守れなかったと云えるだろう。
    それは、「源氏族の直接武力」と「青木氏族の間接抑止力」にあって、「源氏」には「九重戒相伝・通称9つの縛り」と「直接武力」との間には「論理的な大矛盾」が生まれていたのだ。
    因みに、「摂津源氏・頼光系だけ」がある程度これを「四家の範囲」で護れたのは、問題の「直接武力・藤原氏の力を借りた」は「朝廷の借物」として「考え方の矛盾」を解消させていたのだ。
    ところが引きづっていた問題が後の「嵯峨天皇の計算・思惑」は狂ったのだ。
    更にこれでも未だ事の治まりが着かず結局は、武力を持たさない為に「財力を与えない賜姓族」とするとして詔にこれを明記して折衷したのだがこれも守らなかった。
    結局は、この「無視の緩み」で「賜姓源氏」は「11流11家」も生まれたが、何れも格式を有する事は出来なかったのだ。
    何れも要は「源氏化の問題・青木氏から観れば財の問題」もこの「財」に在ったのだ。
    「嵯峨天皇の苦境」の「対策の九重戒相伝・通称9つの縛り」は「格式化の効」を全く奏しなかったのだ。
    源氏化は「財」を担保しない「格式化の苦境策」は当然の事で「縛りの保全」どころか武力化の方に向かうのは必然の事であったろう。
    兎も角も、つまり「後勘」から観ても裏付けられる。
    この「嵯峨天皇の格式化の苦境策」にはそもそも「根本的なもの」を忘れていたのだ。
    それは、「最大最多の格式の象徴」の「神明社の伝統・律宗族とその裏打ち」を忘却していた事に成るのだとして故に「青木氏の資料・先祖・氏是や家訓など始めとして」では周囲の圧力には抑止力でにげその抑止力を担保するのは「財と四掟・女系で秀郷流一門で繋がる。
    この結果として「賜姓秀郷流青木氏等の武力で抑止力」にあるとして、これを護る事を「青木氏の戒め・氏是とか訓と四掟の女系制度」として解いているのだ。

    追記として、本来は「十誦律」とは、中国仏教教団における規則や作法、戒律などをまとめた「中国律書」の一つで、他に「四分律・五分律・摩訶僧祇律」が四つがある。
    然し、日本ではこれ等の戒律を“「仏界」”にだけに留められず、咀嚼させ変化させて「高位族側・臣下族の朝臣族18氏」」にも利用伝統化させていたのだ。
    その例の一つが、これが“「青木氏の家訓十訓」”に代表され咀嚼されて遺されたものだ。
    “「青木氏の家訓十訓」”には、「奈良期の生い立ち」の「伊勢衆の氏族」の「商いと青木氏部の影響」を受けての考え方が色濃く滲んでいる様だ。
    ここにも忘れては成らない歴史的経緯の「律宗族の格式化の名残・伝統」を持っていたのだ。

    この代表的な立場が「天皇家を想起させる賜姓族」では無く「伝統の律宗族の所以」の故を以て、「皇位臣下族の朝臣族18氏」の「最高位の中」には入れずに、「武力を背景とした事・9つの縛り」を護らなかった事から永代に「源氏族」だけは、“「単なる朝臣族”の区分け」にして「身分格式」を留められて分類されて仕舞ったのだ。
    それも、「源氏族の始祖とも成る嵯峨天皇」の「新撰姓氏禄・過去の二つの氏禄あり」に依って皮肉にも正式に決められて仕舞ったのだ。
    止む無くその代わりに「仕掛け人の嵯峨天皇」は、「賜姓」は、「青木氏」を辞めて、「皇位族に居た事」の「裔である事の証明」があれば、「青木氏を名乗る事」を「詔勅禁令・争いの末の妥協案・その後に仁明天皇と円融天皇は修正している」で許したのだ。
    その場合にも「賜姓青木氏に於ける慣習仕来り・9つの縛り」を護る様に求めたのだ。
    然し、「賜姓源氏」には矢張り武に頼り当然に守られなかった。
    その証拠に平安期初期には、例えば“「島左大臣」”等の様に「公家の三代目の裔・天皇家と外戚の藤原氏」は、殆どはこの「身分格式の伝統」を重んじてこの敢えて「源氏」を名乗らずに態々“「青木氏」”を名乗ったのだ。
    これは「武」では無く「財と格式・伝統」に周囲は求めた何よりの証拠であろう。
    これが「伝統を護らない源氏」に対しての「公家である事」を重んじた典型的で代表例である。
    要するに、「公家から低く見られがちの財」にあったとしても「公家」から青木氏族が出て、「公家」から「より低いとしていた「武の源氏族」は発祥しなかったのだ。

    注釈としてこれに関連して何度も論じている事ではあるが、この事に類する事として敢えて思起こす具としてここでも述べる。
    この寧ろ「源氏化」でその系譜を可能性があり搾取していた立場にいた筈の「武蔵七党の丹党の青木氏」には、「配流者の多治彦王の裔説・イ」と、「島左大臣の裔説・ロ」と、この「二つイロ」を組み合わせた系譜偏纂裔説の「三つの青木氏」が存在するが、「島左大臣の裔説の青木氏」は丹党とは歴史的因果関係が無く別である。
    そもそも、「坂東」に配流された若い罪を犯した「多治彦王」は、3年後に京の都に既に戻されていて、且つ、若くて子孫を遺しえる能力を未だ持ち得ていなかったし、「彦の呼称」が示す通り青木氏を名乗れる「四世族内の王位」ではなかった事を示し、「配流の重罪を得ている事」からも「嵯峨期の禁令」に基づく「青木氏を名乗れる立場」にはそもそも無かったのだ。
    念の為に、“「彦」”とは「未成年・15歳以下」を指し、「彦」は「神道」が使う呼称であって、「王」のそのものは「四世族内の皇位族の者」でも無かった事を示すのだ。
    依って、そもそもこの「彦」と「王」の「二つを連結させた呼名」が先ず問題なのだが、「彦の段階」の年齢では「王位」にはそもそも未だ成り得ないのだ。
    上記の通り「彦」はそもそも「神明社の神道系の呼称用語の忌名」であって、且つ、「皇位族=神明社の者」の中に無い者であり、そもそも「慣習仕来り掟の矛盾の疑問」が余りにも多すぎる。
    更には、この「二つを組み合わせた系譜偏纂裔説」にはあり得ない事があって、その「丹党が示す系譜」は「繋目」で終わっているのだ。
    「武蔵七党の国衆の丹党」が「関ヶ原の戦い」で摂津藩を取得した際の「江戸初期の国印状取得での搾取偏纂」である事には先ず間違いは無い。
    但し、「島左大臣の裔説」の「青木氏」に関しては正統であるが、その裔の詳細な行方は未だ判らないが、「左大臣」とも成れば「京の公家中の公家」の中に存在していた可能性は充分にあり、「近江青木氏との判別」が付かなく成っている可能性もあるし、明治期の公家の「東京への移動」で「武蔵青木氏との判別」が付かなく成っている可能性がある。
    他に、「橘の諸兄」の「宿禰族の橘姓賜姓青木氏」はあるが、そもそも「宿禰族」は「青木氏」を名乗れる資格は無いが、「諸兄の母」の「三千代」は後に「藤原不比等」に嫁し、後の「光明皇后」を産み、結果として「青木氏を名乗れる所以」を得たのでこの「橘氏系青木氏」は「正統・現存」である。
    「橘系青木氏の子孫」は大きく遺してはいないが「橘紋」を有し現存する。
    この橘氏も青木氏族に成ったが間違いなく源氏化する立場・格式にいた処を源氏化はしていないのだ。
    これは「財と賜姓の青木氏」に執って何を意味しているかである。
    少なくとも「河内源氏の鎌倉期初期」まででも「武の源氏」より「財と賜姓の青木氏」の方が、実質は「財と伝統の青木氏の方」が上位に扱われていた事を意味し、滅ぼされず「伊勢と信濃」は「奈良期末期の元を本領安堵」されている事もその「財の青木氏の証拠」であろうし、室町期は求めずとも「律宗族の扱い」で正式に「幕府と朝廷」で態々認められているのもその証拠であろう。
    筆者は、この上記の証拠事例の様に「孝謙天皇の白羽の矢」に限らず、後勘でも「財の青木氏」>「賜姓の青木氏」の図式は重く捉えられていて、その上でもこの格式は認められていて「周囲・社会全体」は認めていた事を示していると観ているのだ。

    他には実際は「甲斐で大きく子孫を広げた時光系青木氏」もその「嵯峨期詔勅が求める証拠」と成り得る物を有していないが、一方で「嵯峨天皇」は「皇子・嗣子の一人」に、「源氏の賜姓め・峨源氏」とは別に、「薬子の変」の「争いの別の収拾妥協策」として、「甲斐青木冠者蔵人・遙任」の「官位・税務担当」を授けていて、「賜姓同等の仕来り」として「9つの縛り」を護らせようとした史実が存在する。
    この「裔系の甲斐賜姓青木氏」は、「清和源氏頼信系河内源氏4代目」が同じ「甲斐冠者」に任じられ、以降10代目に遂に「甲斐守の守護」に任じられていて、「11代目・源光」がこの「甲斐青木冠者蔵人」の「家の跡目」に入り「源光系青木氏」が誕生するのである。
    唯、確かに「源光」は「源氏隆盛時」の「河内源氏」であったが、態々、「源氏」から「甲斐青木冠者蔵人」としての「律宗の伝統」を護り続けた「異色の青木氏」である。
    この事も見方に依れば「武の源氏」より「財の青木氏」の方をげんじそのものが重視していた証と成るだろう。
    この「源源光」は「源時光の弟・異母弟」であるが、「源氏化」で敗退して衰退して、「信長の甲斐凱旋時」の「出迎え」に出た時、この「律宗の伝統儀式」に則り「白馬白衣の乗馬姿」で「信長の反感」をかい、その時、「酷い暴行」を加えられ「信長家臣の制止」と説明で何とか留まった史実があるが、その後は「甲斐の山奥・北巨摩郡」に押し込まれひっそりとその余生を過ごし後絶えた。

    「円融天皇の青木氏賜姓復活・母方秀郷一門に」にも拘わらず「室町期の経緯」では、上記の事が影響し、遂には「皇位族に居た事」の「裔である事の証明」として、偽の「脇差・短刀」を持ち出して、その裔であるとして名乗る者まで出て「搾称」が頻繁に出たのだ。
    中には、上記した通り「平安期の公家・彦」等の「皇位族の配流罪人」が一時坂東などに配流された事を以て、記録から探しだしてその時の裔であるとして「朝廷の承認無し」に勝手に名乗った者も数多くいる始末と成った。
    故に、平安期末期では名乗ったもののこれ等の食い詰めた「青木氏の裔系」は、結局は「近江佐々木氏」や「近江青木氏」や「美濃青木氏」や「甲斐青木氏」に雪崩込んで家臣化して生き延びたとされているのだ。
    これを「鎌倉期末期」まではこの「慣習仕来り掟」もまだ多少は護られていたが、「下克上」の起こった時期の戦国時代では最早無理であった。
    故に、これを留める為にも室町幕府は「律宗族の明確化の所以」と走ったのだ。
    この「室町期・足利氏・河内源氏の卑属」と、「姓族の国印状取得」の「江戸期・徳川氏・第二・第三の族」の発祥では、最早、意味の無いものと成って、挙句は「第二次の系譜搾取」までに至り、「氏族に関する制御」が効かず横行したのだ。
    つまり、これはそれだけ乱れていても、この時でも河内源氏の室町幕府は「財の持つ律宗族」でも「青木氏を格式化しようとしたと云う事」に言い換えられるだろう。
    当然に、これは自らの格式化を「青木氏の律宗族」を対象にして「源氏・幕府の格式」を浮き上がらせようとした事は間違いは無い。

    但し、江戸初期に「源氏族」に属さない「徳川幕府」は、流石に「伊勢の事お構いなしのお定め書」にしている限りである。
    そして「青木氏の搾称を禁じる令」が出て、これ等に対して「葵木、青樹等に変更する事」を「幕府・大日本史以降では「第三青木氏として命名・別枠にしている」は命じたのだ。
    「律宗族の所以・格式権威の保全」を以て「追認の形」であったが、ところがこれに「大反発・旗本」し、「伊勢の事お構いなしのお定め書」や律宗族の格式は無視」は享保期には幕府も同調し青木氏を潰しに掛かったのだ。
    これに「伊勢・信濃青木氏は大影響・聖域を奪われ殖産を奪われる・影の戦いの寸前まで陥る」を受けながらもこの旗本の行動・旗本に遣らせた」を認めたのだ。
    「青木氏族」が好まない侭にしても「律宗族の反面」としてのこの様な経緯を持っているのだ。
    然し乍ら、前段でも論じているが、「嵯峨期詔勅の青木氏を正統にして名乗った氏」は結局は「数氏」に留まり、現存し子孫を大きく伸ばしている。

    さて、この様にして「更に律宗族を追認した・賜姓と同じ意味に成る」室町期では、「嵯峨期の禁令」に基づく「青木氏」の「搾取偏纂」が横行し始めていて、「嵯峨天皇の施策・新撰姓氏禄」は後に「律宗族の混乱」を著しく招いた結果と成って行ったのだ。
    その意味でも、室町幕府が出した「浄土宗白旗派を以ての律宗族の追認」と、「朝廷の正親町天皇の追認」と「江戸幕府の青木氏の使用禁令」と「伊勢の事お構いなしのお定め書」があって、「律宗族・青木氏族・賜姓」を確定させ明治9年まで何とか護られたのだ。
    これが幸いにして「律宗族の所以」を以て側面からも「青木氏の四掟の範囲と成る根拠」とも成り得たのである。
    流石に、この経緯は明治35年頃から大正14年頃ではこの「律宗族の所以」は次第に無く成り、その代わり「徳宗家、得宗家、御師家、氏上様等」と呼ばれていたと記されていて「口伝」でも伝えられ、筆者も昭和の初め・20年頃の幼い時に未だ聞いた事がある。
    要するに、この「律宗族の認定」は上記で論じた「宗教力の格式論説」と「青木氏の再格式論説」であったと観られる。
    これには「青木氏から仕掛けたとする抑止力の説」、つまり、「青木氏の再格式論説」も上記で論じたが、この経緯から観ると「仕掛け説」は考え難い説と成る。
    「賜姓族」にせよ「律宗族」にせよ「徳宗家、得宗家、御師家、氏上様等」と呼ばれていた事にせよそこには確かに「奈良期からの古式伝統の維持」の古氏族の前提があったが、それが明治9年まで続いたがそれだけ長く続くにはそこには「良い意味」での「殖産の財の影響」は垣間見えるのだ。
    「奈良期からの古式伝統の維持」の前提だけでは到底無理であったろう。
    その「認められた財・朝廷も認めた民に幸せを与える殖産の財」は「地域に影響を強く与えた殖産」にあった事には間違いない。
    「白羽の矢」の時に、特に「朝廷の貴族や官吏等の反対」を受けなかったのは、この氏是と家訓に裏打ちされて実行されている「民に幸せを与える商い・殖産」で在ったからであり、「武」より低く扱われていた「唯単の商い」では無理であったろう。
    だから「室町幕府」も躊躇なくこの「律宗族」を自発的に認め「朝廷」もこれに追随したのだ。
    それだけに「氏族も関わる認められた財に溺れる事」なく上記の経緯の通り珍しく「伊勢と信濃の氏族」と共に生き遺れたのであろう。
    この様に「後勘の経緯」からもそれを物語り「白羽の矢の疑問」は「財の前提に在った事」は疑う余地はない。
    この「律宗族でも財の前提に在った事」は、前段でも論じたが、「旗本の範囲・藤原秀郷一門の近習御家人衆の旗本は律宗族を肯定」がこれを否定し吉宗が黙認する事件が「伊勢と信濃」で起こり、それが皮肉にも「江戸期享保期末期・吉宗の享保の改革」までであろう。
    唯し、「紀州藩」だけは飽く迄もこの「律宗族・財の前提に在った事・手紙の中の文面での資料で遺る」」を擁護し、それが体制が一変した「明治9年・実際は資料から大正14年まで姿勢を貫いた」まで正式に緩やかに西側では続いた事に成るのだ。


    上記の「律宗族論」は中断して大きく元に戻るが、論は跨るが、故に、「源氏の論」として「前段の論」で論じ遺した件の追論記として、此処で論じて置く。
    「美濃の駿河青木氏の論」である。
    この「山城の河内源氏との絆の所以」が、「河内源氏」が「律宗族」で無いと成るならば、「松井氏に関わる河内源氏説」は無くなるのだ。
    現実に「八幡菩薩・八幡神社の習合の守護神」であり、「祖先神の神明社の守護神」にして「臣下族と特定の公家」が必ず帰依するごく少数派で構成する「浄土密教の白旗派」ではそもそもないのだ。
    「決定的で最大の歴史観の差異」なのである。
    これを敢えて違えて、或いは知識不足の歴史観で論じているものが実に多い事に注意する必要がある。
    そもそもそれどころか「摂津源氏が存在する処の山代」に、「嵯峨期の9つの縛り」や「律宗の掟」も一切護らなかったどころか、「武力」を主体とする「河内」に「追放された河内源氏」が存在する所以も確かによく見かける説ではある。
    然し、これは間違いなく「系譜繋合わせの系譜搾取偏纂の証」であり、歴史観として其処までそれを許す程に「朝廷と公家と貴族と規律を求めた社会」ではなく緩んではいなかったのだ。
    殆どは後勘の世間,又は当時の世間の歴史観の低さを見抜いての搾取偏纂であって、そもそも、歴史観として当時の「掟・律」では、「河内源氏・満仲の隠居罪や頼信の放免罪」の様に「罪を犯した者の一族」とその「罪みを得た族」は、“「誅族」”と呼ばれ“「三族の罪・永代の罪?
    9」”をそもそも課せられていたのだ。
    それ故に、「河内源氏」は「縛りをある程度護った摂津源氏の周辺に存在する事」がそもそも無く、「冠位・官位・官職」のみならず「婚姻」すら「三代・義家義光まで」に於いて正常に許されなかった考証と成るのだ。
    「摂津源氏の律宗の縛り」もこれでは無くなるどころか次の歴史観の様に「河内源氏と摂津源氏の事の歴史的始末」も無く成って仕舞う事に成る。
    “「摂津源氏の以仁王の頼政の令旨」を以てその跡を引き継いだ”として「9つの縛り」を護らなかった事を理由にその資格なしとして扱われ譲らなかったのだし、後に既成の事実を造り上げた事で朝廷は止む無くその代わりに「右大臣左衛門大将の冠位」を与えて「西の朝廷」の「許し」を何とか得て、「東の府・朝廷の出先機関」を築いたのだ。
    そもそも、その「幕府とする呼称の記録」は決して正しい歴史観としては無いのであって、飽く迄も「武士団を統制する東の府・朝廷の出先機関」としての認可であったのだ。
    当時は、「格式や冠位授与や信賞必罰の大権」はあくまでも「西の朝廷」に任され、この「東の府」は「武士や御家人」を「統制する府」であるとして呼称され任じられていたのだが、最終の「東の府」の勢力が及んだのは「東の府」の「執権」と成った「北条氏」の鎌倉末期頃である。
    この「正しい歴史観」は、正式には「頼朝」がこの「西の朝廷」から「右大臣左衛門大将に任じられた事・征夷大将軍では無かった」でその権を以て始めて「東の府」と正式に成ったのだ。
    この「冠位に叙される前の初期」は「9つの縛り」をある程度護っていた事からその「資格」はあるとして「摂津源氏の頼政の代理人論」として「東の府」を開くとする前提にしていたのだ。
    然し、この時、西には「東に属さない武士団」と「官吏から武を獲得した勢力集団」が未だ多く西域に居て「東の府の勢力」は及んでいなく「西の朝廷の支配下」にあったのだ。
    然し、ところが「西の朝廷」の許可なく勢力の及ぶ範囲・東の関西域まで「守護職と地頭職」を勝手に置いて「東の府の政治体制」を敷いたのだ。
    歴史観としては、「江戸時代」に成っても上記の通り「西の朝廷」と「東の府」の関係性は全く変わらなかったのだ。
    故に、「徳川氏・松平氏・下野土豪得川氏の出自」で「源氏族」では無かった事に依り「武士の棟梁」の「称号」は「宮廷の壁」が崩れるまでに「経済的な圧力」を掛け続けた末に、流石に頑として得られず最終は「武士の頭目・実質統治者である」としての「妥協案」で決着が着き「関東の府」は成立したのだ。
    「正しい歴史観」は飽く迄も「幕府」では無く「武の東の府」であってものなのだ。
    この「徳川の府」は、そこで「古来からの西の武士の集団」を壊し、「西と東の入れ替え」を図って統一して統制できる様にして、「府としての態勢・東の府だけではなく成った事に依り自ら「幕府の呼称とした」を整えたのだ。
    だから、「朝廷の認可」を前提とすれば「幕府」で無かった事に「徳川慶喜」はより正しく伝統を護り「府の政権・政権奉還で」を朝廷に返還したのだ。正しくは朝廷に代わり「全ての信賞必罰までの政権の「幕の府」では無かった事により政権奉還として済んだのだ。
    故に、この様に「正しい歴史観」としては「西の朝廷」は、記録を探して観ても飽く迄も「・・幕府の認証」を正式にはしていないのであって、故に「・・幕府の幕府の呼称」はそもそもないのであり、「徳川氏の府」が「全国の政治体制」は整ったとして勝手に「幕府として呼称した事」に成っているのだ。
    恐らくは、故に、その「河内源氏の頼朝」が「鎌倉の府を拓いた所以」から、それを利用した「江戸期の武士への国印状取得の系譜偏纂の搾取・府は武士だけに国印状は出せる」ではあるが、そもそも、最早、“律宗族では無い“として、「河内源氏の頼朝」東のは開府に際しては「朝廷の認可」は降りていず、止む無く「以仁王の乱の主導者の摂津源氏頼政・三位」の「継承幕府・頼政戦死の代理人」として「朝廷の府認可」を取得した史実としての歴史的経緯を持っているのだ。

    注釈として「武士外の庶民」は“全て武士の統治下にある”としてその前提として平安期までの習いとして「武士の政治の支配下」と成るが「徳川の府」は故にこれを「農工商・対して意味が無いのに」と態々階級付けして分けて類似させた体制にする事を明示させたのだ。
    前段でも論じたが、この体制は「施基皇子」が「伊勢王」と成った奈良期の時にも「土地」と共に「伊勢の民500戸の民」も朝廷より賜っている。
    これが、「平安期までの体制]として続いたのであったがこれを江戸では再び明確に仕手詳細化させて採用したのだ。
    この事には「朝廷」はそれまでと違ってより「昔の制度に近づいたとしてその採用」に対して「大きな好感」を持ったと考えられる。
    要するに「徳川の府」を「江戸の府・江戸幕府」として「より黙認する姿勢」をこの時より採ったのだ。
    「正しい歴史観」はこの前提下にあるのだし、故にこの別枠として特段に「律宗族の位置づけ・源氏の否定」は「重要な格式を持っている事」に成ったのだ。
    この時から、それまでは使い分けして主に「源氏の朝臣」と名乗っていたが、今度は「藤原の朝臣」を名乗る傾向が強くなったのだ。
    徳川氏と同然に「主だった格式を重んじた武家」もこりに準じてその系譜の成否は別にとて、どれと云う風に決めずに状況に応じて「源平藤橘の裔」として使い分けていたし、それに対して周囲は自らもそうである事から異論は唱えなかった社会気風が出来上がっていたのだ。
    記録を観ると、その中でも「徳川氏・家康」は「府の頭と云うは立場」もありこの傾向は特に激しかったのだ。
    だから[室町期の戦乱」に乗じて「農民庶民・武士の約8割」から伸し上がった者等の゜武家とする末端」まで「黒印状制度」で格式化させて真偽は別にして「系譜づけ提出・寺や神社の専門業者が横行」を先ず条件にして制度化したのだ。
    その意味で、こんな中でも「正統な律宗族」は特段に「周囲から目立った環境」が室町期より成立したのだし、これが上記した様に「「農民庶民・武士の約8割の旗本」の「根強い反発・145年間」を招いたのだ。
    この「反発」の中には「律宗族を構成する郷士衆の氏族・武士では無いとする否定の反発」で僻んで歴史を否定するまで揺り返して来たのだが、然し、これも旗本側の反発は不利として引き下がった史実がある。
    最終は、前段で論じた「享保期・吉宗」の「伊勢青木氏は江戸伊勢屋の引上げ」と「信濃青木氏の聖地没収と殖産の奪い取り事件」で「収束・紀州藩が擁護・旗本と吉宗は手が出せなくなった」を観た経緯と成ったのだ。

    西の朝廷」は上記の経緯の様に「思いの方向に向かう「江戸の府」に対してこの事でも更により好感を持つ様に成ったのだ。
    これ等の積み重ねで「朝廷の承認」を必要とする「幕府の呼称」に対して「西の朝廷」はより黙認する事と成ったのだ。
    「西の朝廷」が反対をし続けた「源氏の呼称・源氏の棟梁より頭目に格下げ」で反対を解いたのだが「藤原朝臣の名乗り・事実では無い」で事実上の大儀が得られ解決したのだ。
    古来より「藤原の朝臣は「朝廷の摂政」である事から「朝廷の臣・朝臣」であるとすれば「摂政」は可となり「幕府の黙認の大義」はこれで成り立ったのだ。
    そして、その「藤原の朝臣の根拠」を「東国の藤原秀郷流一族一門」をごっそりと「御家人衆」として「家人衆旗本の位置」に据えて、それも「江戸の府の官僚族の扱い・実際に上級事務官僚を務めた」としたのだ。
    そうなれば、その「頭目であるとして妥協策」で許された「徳川氏」は成否に拘わらず「朝廷の藤原朝臣族とする根拠」が生まれたのだ。
    「西の朝廷」はこれを以て否定する事が出来なく成ったのだ。
    他にもあって「格式」を決定づけた「嵯峨期の9つの縛りや新撰姓氏禄の制定」に対して「武家諸法度や公家諸法度の制定」で「西の朝廷の思惑」に「同じ政治歩調を合わして実施していると云う印象」を醸し出して強化してこれに合わして「幕府呼称の黙認」を完全に引き出した「江戸期の経緯」と成ったのだ。
    然し、「鎌倉期と室町期の府」にはこの「政治歩調」は無かったので「単なる武士への行政府」に成ったのだ。
    最早、「江戸の府」に対してこれ以後は「西の朝廷」は何も言えなく成ったのだ。
    この時、前段や上記で論じている様にこの「妥協の政治歩調」に対して「三河御側衆の旗本の反発・律宗族の伊勢と信濃はこれでトバッチリを受ける」では猛反対をしたが押し切られた経緯の歴史観と成ったのだ。
    この「旗本の不満」は独自性が強く幕末の後々まで引きずられた経緯と成ったのだ。
    「妥協の政治歩調」に関して研究すると「奈良期から平安期までの政策」と見比べてみると「江戸期の政策」には詳細は別の論とするが確かに「類似性」が多く観られるのだ。
    念の為に「農民の立場」からであった事より搾取で脚色する事は出来ず直接に「豊臣とする朝廷の格式」を得た「豊臣秀吉の政権」は「自らを金品の献納」で「武家貴族・公家族の格」を獲得して「政権の前提」を強引に構築して「摂政の立場」を造り上げたので論外である。
    この事に「西の朝廷」はより他の二つの府よりもより好感を持ったと考えられ、「江戸の歴史観の根底」にはこの様な経緯が流れていた事を知って置く必要があるのだ
    これで「上記の源氏に関する疑問点の解消」はこれらの史実に基づく歴史観で出来るので、以後、再び論はどれだけ「正しい歴史観」の下で論じるかであって、それ故に「bの疑問のより正しい歴史観の解消」の為に次のその所に戻す。


    「額田青木氏と駿河青木氏の論の追記」
    故に、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
    何故ならば筆者には「駿河青木氏」の「桶狭間の参戦期」に合わしての経緯の歴史観が気に成るのだ。
    これの「関わり」を「青木氏の歴史」を遡って検証して置く必要があると思う。

    上記の格の如しで「源氏説」は成り立たないので、「青木氏族の二つの氏族」は、「摂津源氏」でさえも「四掟」で関わろうとはしなかったのである。
    だから、「松井氏」では無い事は判るし、当然に「河内源氏に対する「正しい歴史観」は、当時の歴史観には未だ社会に遺されていて、この「松井姓」も「当時の一般常識」としてこの事は知ってはいたであろう。
    然し、「松井姓」に関しては明らかに「青木氏族との四掟の範囲・律宗族の所縁」では無かった事が判る。
    それは,真偽は別として、「山城や近江」は古来より「天領地や公領地」であり、従って其処に隅管理する者はその“御家人としている事”であり、このでも判るが、然し、筆者は、「源氏や御家人」は別として、「日野―松井―摂津の地理的往来」から来る「所縁優先説・近江鉱山とそれに関わる殖産ルート」ではあったとしその説を取る。
    最低限、「二つの青木氏一族」が「律宗族」であり得ていたのだから、その恩恵を受けている「近江の松井の庄の者等」はこの事を知り得ていただろう。
    まあ何れにしても「駿河水軍」を基にして復興を遂げた「駿河青木氏」が「遠州の国衆」に成り得た所以は意外にここにあったのだ。
    筆者は当初、「伊勢青木氏」と「駿河国の藤枝の秀郷流青木氏」の連携によるものとして観ていたのだが、「遠州の国衆に成り得る為の直接的な繋がり・今川氏」のここの「詳細な解明」に時間が掛かったのだ。
    まさか“「今川氏の家臣」に成っていた「松井姓・本流」にある”とは考えなかった。
    参考として、この「松井姓の本流」は「桶狭間」で完全に滅亡した史実があり、それでもこの僅かに遺された家族の「分流族・卑属」は伸長し“「徳川、武田、今川」”の三方に生き遺り分裂したと記録にある。
    この事が「決定的な重要な検証要素」である。
    結局は、「今川氏の家臣」からその分流卑属が“徳川家臣と成った要するに「近江の流れの者・松井氏」”が江戸期には、戦国の世でも無いのに何故か「3000貫≒7500石」を獲得し、それも「旗本の大身」を獲得すると云う事に成るのだ。
    然し、同時にここには「青木貞治の裔系の運命」と同じである。
    ここが解明できなければ「詳細経緯」の「青木氏の正しい歴史観」として前には進めなかった。

    さて、そうすると上記の事から、「Bの疑問」であるが、筆者は、先ず、桶狭間後に、衰退しながらその中で「松井姓の家臣・今川氏」であった者等の分流卑属が、其の後に“「徳川、武田、今川」”の「三方」に分裂したが、その最大の原因の一つが、つまり、余りにも徳川氏からの扱いの「この事・3000貫≒7500石と旗本の大身の理由」にあったと観ているのだ。
    「三つに分裂した」のを纏めて結局弱小な徳川氏側に靡かせたこの「戦略的な功績」に在った事が判ったのだ。
    そうするともっと云えば、「一つ目・イ」は、三つに分かれた中で“何故、徳川氏・松平氏であったか”と云う事に尽きる。
    未だ「弱小の松平氏」に着いたのだ。何故かである。

    その前に、この事に関わっている事がある。
    この後の「三方ヶ原の戦い」では、この「状況の中」で「松平軍の本隊」と共に「松平の国衆」に属し、「青木貞治隊・200」は主将を失う程であったが、ところがその「子孫・一族」は滅亡する筈の処が不思議に多く生き残っているのだ。
    然し、これは先ず何を意味するかでありこの「重要な経緯」を説いて置く必要がある。
    さて、では“何かの手立て”が無ければこれ程に完全に多く生き残る事は難しい。
    ここの「詳細経緯」を探る。
    では、それは何かである。
    筆者は、全段でも論じた通り、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「山県軍の別動隊」と応戦しながらも「武田軍の本隊」に目がけても「青木貞治隊・200」を救い出す為に「弾幕」を浴びせて張って救った事だったと観ているのだ。
    これは「一言坂の様」に、「強烈な弾幕」で「武田軍の本隊」が怯んだ隙に、何とか救い出して「東・西光寺」に逃がした事の「連携の経緯」より成る戦記の史実にある。
    そこで、上記の「内部情報」を得て「初期の目的」を達して深入りせず直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に向きを変えたのだ。
    この「怯んだ隙」には、この「二つの事」を成し得る“其れだけの行動する時間・銃力があった”と云う事だ。
    単純に戦線離脱したのではなくこの事には大きな「意味・鍵」を持っているのだ。

    「二つ目・ロ」は、こんなに「見事な裁き」を見せた「額田青木氏の南下国衆の銃隊の行動」にある。
    それは折角育てた「駿河青木氏の補完」にあったと考えられる。
    さて、更に追記として、史実の時系列から「山県軍の別動隊」が、“三方ヶ原補給拠点を確保されたと云う事”の「情報」を掴んだのはそれより遅れていたと云う事に成る。
    故に、この「経緯」としては「二俣城」から「12.2kの位置・直線 徒士14.5k≒3.2h」にある「三方ヶ原」にも「重要な到着」は遅れたのだ。
    「堀江城」より「三方ヶ原」までは「8.4kの位置・直線 徒士10.2k≒2.2」にあるとすると、“同時に「情報」が入った”として、「約3.8k・直線≒徒士4k≒1h≒1里・1時間」の「時間・距離の差」が生まれていた事に成る。
    然し、実際に「武田軍の本隊」は「堀江城の陥落」と「三方ヶ原」までの「魚鱗の陣形に軍編成・編成しながら行軍」に手間取っていたので、つまり、「三方ヶ原の西側」には着けず「南・右から左」に向けて「山県軍の突撃」が可能と成っているので、「最大1h以下〜最小0.5h」は遅れていた計算が成り立つ事に成る。
    「山県軍の突撃・本来は突撃隊ではない」としてもこれ以上の「遅れ」は無理であろう。
    この「突撃した事・突破・本隊との交差避ける」を観て、「武田軍の本隊」は先ず「赤兜の騎馬隊・6000」から「松平氏の本陣」に目がけて進軍突撃しただろう事に必然的に成る。
    だとすると、そこで「青木貞治隊・200」を「救い出す」とすれば、残された作戦は「山県軍の最後尾」とこの「赤兜の騎馬隊・6000」とに「弾幕を加える事・史実」に成る。
    「徒士」では無く、自由の効かない「赤兜の騎馬隊」であれば、離れて撃ち掛けれらて「弾幕を加えた事・最大射程距離1k」は「最大の効果」を導いたと断定できる。
    「弾幕とそのその煙」が無くなるまで近づけなかった筈である。
    要するに「青木貞治隊・200」を充分に救い出せたのだ。

    「三つ目・ハ」は、これ等の「救出」は前段でも「情報に依って成された」と論じたが、如何にもこの「救出の行動経緯」が一面計算されている様に見える。
    つまり、これは、つまり「救出」は「当初からの目的」であったのではないか。
    これ程に「史実」に等しい「青木氏の歴史観」があったのに、これ等の事が歴史的に過去の「3度の消失・青木氏側」もあったが、これらの「伊勢の詳細な資料」は、勿論の事、「松平氏の資料・駿河国衆であった事が原因」の中にもここだけが崩れ落ちて不思議・恣意的に遺されていないのだ。
    「専門の祐筆」が徳川氏に居たのなら何処かに在ってもいいだろうと思う。
    「松平氏の中の資料」には、例え「駿河国衆」であったとしてもこれだけの功績を松平氏の中に遺したのだから、何れの「青木氏の国衆・三河と駿河の事」に就いても、「無いと云う事」はこれも大いなる疑問である。
    況してや、この後の江戸期には、「3500石の御側衆・上級番方」に出世しているので、そこにも「徳川氏の右筆衆・徳川氏この字を使っている」と「駿河青木氏の祐筆」に依る「記録・失火の消失は無い菩提寺と春日社」が遺る筈だが散見できない。

    ここで念の為に「歴史観」を深める為に参考として「祐筆」に就いて合わせて追記して置く。
    何故ならば実は、古来奈良期より「青木氏」では「菩提寺と神明社」には「必ず氏の祐筆と云う役職・事務官」があって、「一切の出来事」を記録に留めていた。
    室町期の時には同じ習慣を利用されて「氏姓の祐筆又は右筆」は、「戦い」にも参加して「戦記状況」を詳しく遺す事が定めとして行われていた歴史観があったのだ。
    これを「鎌倉期頃」からは「右筆衆・祐筆衆」と称し「戦記」も遺していたのだ。
    取り分け、「室町時代」にはこの役職が家臣化が進みこの制度が取り分け重視され、その中でも「信長と秀吉」は、この「右筆衆」を重視して、戦場に「多くの右筆衆」を各所の重要拠点に何人も配置して、「正しい状況」を把握して“「家臣契約の者・雇用契約制度」”に対して正しく「論功行賞」をするのに利用していたのだ。
    そしなければ“「郷士や土豪の集団と家臣契約の者・雇用契約制度」と「主従制度」”は成立しないのだ。
    「血縁や所縁などに依って氏家制度の集団・氏人で固まる集団」とは異なっていたので、故に、“「家臣契約の者・雇用契約制度」”では、この「右筆制度」は「欠かせない制度」と成っていて「記録などの事」はここに頼っていた歴史観なのだ。
    それだけに「右筆の書様」では「記録」は書き替わり「主君や家臣の利害」が生まれていたのだ。
    中には正しく書か無かったとして首を打たれる者も出た程で難しい役職であったのだ。

    参考として、筆者が良く論じている奈良期から「伊勢青木氏の資料・“祐筆”に依る」等は「福家・四家」のみならず主な「家人頭」や「差配頭」、時には、「女系で繋がる伊勢郷士衆の大郷士・氏人」にも居て「何らかの資料・清光寺や神明社」が「その役柄」を決めて何らかの形で補完が行われていたのだ。
    故に、但し、多く脚色されずに「祐筆の所以の違い」を以て遺されているのだが、これを務めていたのは「祐筆・神明社の神職と菩提寺の住職」で事務範囲の役割を決めて行われていて、故に、論じている様に奈良期からの長い間の「四掟や嫁家制度や妻嫁制度」の詳しい「血縁先」や、その「状況把握」までが「明治期」まで保存され遺す事が出来ていたのだ。
    当然に「伊勢屋」にも同然で“「商記録」”とすれば何処かに遺されている可能性があったのだ。
    この二つを突き合わせれば何らかの答えの手掛かりが得られる。
    故に、この「Bの疑問の解明」に関しても、「青木氏の資料以外」を読み解く事で「答え」を導き出す事も出来ないのだから、ここまで論じている本論の様に「それ・青木氏の根拠・祐筆」を探し出す事に「総力」が注がれるのだ。
    後は、「得られたちょつとした情報」を繋ぎ合わせられるかの「ひらめき」に関わって来る。
    唯、見つけ出した「青木氏の資料」には「脚色」は伴わない「原石そのもの」であるので、「世の美化論・格式化論・脚色化」に流される事なくより「正しい歴史観」を常に獲得する事に関わるのだ。
    故に、「Bの疑問の答え」には「松平氏の戦記」が「脚色部分」を削ぎ落として働くのだ。
    例え「第二の姓族」と云えど、天下を揺るがす程の豪族には、必ずこの「原石」成るものがあって、そもそも“記録が無いという事”は無いのだ。
    況してや、この「三方ヶ原の戦い」や「長篠の戦い」の「関連の戦い」では両軍に於いてこの「右筆衆の活動」は盛んに行われていたのは有名な事なのだ。
    中には、「戦場の戦いの状況」を適当な安全な位置から絵に遺して説く事も行われていた。
    中には「忍者衆」を雇い「右筆の仕事」を契約していた事が遺されている。
    恐らくは、「五つの内」の「三つの三河戦記」なるものは江戸期直前までは少なくとも「原石」で在った筈である。
    その「原石」を曇らせたのは、上記した様に「三河旗本の嫉妬・羨望・反発」が江戸期初期にこれを消したと考えられるのだ。
    取り分け、「松平氏」が正式に出した「三河戦記」は「幕府の権威付け」を図る大義の為に曇らせたのであろう。
    これ「等・脚色」を消さなければ、「上記の様な詳細な各所の論」から、「有利に描いた三河戦記」に記している事柄に引っ張られて、“「脚色での崩れ」”が生じて仕舞うからである。
    それには歴史的に変化した「慣習仕来り掟」から成る「正しい歴史観」がどうしても必要と成るのだ
    「上記の立場」、つまり、「伊勢青木氏」が受けた“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」の様な「家康との関係性」の中でさえ、この「脚色」も「旗本の嫉妬・羨望・反発」は否定できず、通用しなく成っている事が起こっていたのだ。
    因みに、執拗の様だが「享保期の彼等の行動」が、表に出て来た「旗本の嫉妬・羨望・反発の行動」等は充分に有り得た「史実」なのであるが、それだけに完全否定はしないが「原石」を磨かず「史実」を有利に脚色し歪めたのだ。
    恐らくは、この「享保期中期」までが「青木氏の様な歴史的な経緯を持つ族」には「旗本の嫉妬・羨望・反発の行動」は「最高潮」であったが、皮肉にも逆に前段でも論じた様に「徳川家との関係性」も「最高潮」であったのだ。
    「人の世の中の起こり」はこの様なものであろう。
    故に、この渦から逃れられる様な箍は「青木氏の氏是」と成り得るだろう。

    「四つ目・ニ」である。
    両者は同じ頃から「伊勢・青木氏族の訓練所」では「伊賀の忍者と雑賀の忍者と伊勢水軍」が「氏族内」に氏人として存在しているので「訓練・差配頭」を受け始めた事だ。
    史実として「伊豆青木氏の殖産」と「大口青木氏・日向・交易船」と「額田青木氏・美濃・銃」と「駿河青木氏・遠江・大船」が「伊勢の指導」の下で“戦乱の世に出る為の訓練”を受けた。
    そして「駿河青木氏・駿河水軍再興」は、「一足先・9年〜10年前」に「今川氏の国衆」と成り、その輩下の「松井氏の家臣」と成ったが「桶狭間」で敗退した。
    折角の「伊豆までの海路の拠点構想」は崩れ架けた様に観えたのだ。
    さて、その前に判断に要する「青木氏だけの歴史観」として論じて置く事がある。
    筆者は、「初期の研究過程」で、「額田青木氏の南下国衆」を指導し、「指揮官」であった「伊勢秀郷流青木氏」が、「三方ヶ原」で「山県軍の別動隊」が「左鶴翼」を通り抜ける際に交戦と成ったが、この一瞬に怪我をし、後に死亡した者がこの「青木貞治」と考えて推論していたのだ。
    要するに、「青木貞治一人説」であった。
    これの詳細を解決して置かなければ「Bの疑問」は前に進まない。
    然し、どうしても何故か間尺が合わない。
    それは、確かに「三方ヶ原で討死にした事」は、「三河戦記」にも明確にも記載在り、「史実」でどの「三河戦記」にもその「戦い様」が記されている程に「有名な人物」であった。
    先ずその疑問は、果たして「額田青木氏の南下国衆」を指導した「指揮官」を、“何故、これ程に「三河」では詳しく名誉の様に語るのか”から疑問が始まったのである。
    “家臣や譜代の者は別として「国衆であった事」からそこまではしないだろう”であった。
    それは突き詰めると、次の様であった。
    1 「敗戦した二俣城の副将」
    2 「浜松城に入場の史実」
    3 「盤田の西光寺の菩提寺」
    4 「本能寺の変の家康の逃亡事件・伊賀越え」
    5 「伊勢秀郷流の通名」
    6 「青木貞治の行動経緯」
    7 「伊勢への連絡の手紙」
    8 「二つの西光寺存在」
    以上の「8つ疑問」に加えて、この時の「指揮官の名」がどうしても明確には判らなかったのだ。

    「近江蒲生家・近江藤氏」より「伊勢藤氏の秀郷流青木氏・梵純・伊勢青木氏の母系」を興し、これを継承した「通名」は、「定」と「忠」に成っている。
    なので、「此の一族の指揮官」も少なくともこの何れか「二文字」を引き継いでいる筈である。
    ところが「結論の最終の決定」は「菩提寺の違い」の中にあった。
    歴史は「平安期」には「秀郷流青木氏」は、「全国24地域・116氏」に「子孫」を広げ、「鎌倉期」には「青木氏族の永嶋氏・主要五氏」等が、取り分け更に勢力を高め最終は「伊勢域」まで「藤氏青木氏族」は勢力圏に治めた。
    ところが「室町期」に成り「下剋上」で「中部域の秀郷流主要一門」は再び元の東に押し込まれ元の「藤沢神奈川伊豆近郊域」まで勢力を引いた。
    結果として、「西の最先端」に存在していた「駿河青木氏・駿河水軍」が「山越え」の「遠江」に遺された形と成って遂には支えきれず衰退したのだ。
    然し、「片喰州浜族と云われた一部」は、何とかこの「駿河・藤枝―鶴見」に遺したのだ。
    「伊勢青木氏」が「駿河青木氏の生遺り・支流末裔卑属」を探し出している事から観て「伊勢側・女系ルートで」に「何らかの情報」を遺していた事が考えられる。
    そして、これが「伊勢での訓練」を経て「遠江」に「駿河水軍」を再興し、「桶狭間敗退」の「今川氏の家臣松井氏」からの誘いで、「松平氏の勢力圏」に入り「国衆」として仕えた経緯であった。
    そして「二俣城の副将」まで「国衆」として勤めたのだ。
    結果として、殆ど引き上げた「秀郷流青木氏の菩提寺・盤田見附の西光寺」を「遠江・駿河」にたった一つ残す状態と成ったのだ。
    これが上段の論の通りで、「盤田市見付」のこの「駿河」の唯一つの「菩提寺・西光寺・復元」であるのだ。
    ここに何か「探し出しの伏線」が残されていたのであろう。

    ところが一方史実は、「三河」には「西光寺」は、“「伊川津田原の西光寺」”を「本寺」として「江戸期」に架けて「子孫拡大」で「11の西光寺」を「三河」に広げる結果と成ったのだ。
    これが、所謂、「菩提寺の過去帳」から、「駿河盤田市見付の西光寺・駿河秀郷流青木氏」と「伊川津田原の西光寺・伊勢秀郷流青木氏」の“「二寺」”であった事が判ったのだ。
    これは「当時の慣習」から照らして、この「二寺の西光寺」のあり得ない疑問なのである。
    「伊勢」で「訓練」を経て「駿河青木氏」を「遠江」で再興して「15〜20年程度」で、「二つの菩提寺を持つ事」は幾ら子孫繁栄と云えども先ずあり得ない。
    つまり、「伊勢秀郷流の指揮官の青木氏」と、一族の「駿河秀郷流青木氏」の「駿河水軍の青木貞治」は「別人説」が「二つの西光寺の説」から生まれる事に成っていたのだ。

    そこで先ず、この名を「Bの疑問の解明」に関わるので検証して観る。
    現在は個人情報秘匿の為に、「寺内部に関する情報」は詳細に書き記す事は難しいが、そこで「青木氏貞治の方」は、「盤田見附の西光寺」の「曼陀羅や過去帳、及び墓所の可能な範囲の調査記録」から判明する結果と成ったのだ。
    つまり、先ず先に調べた「額田青木氏の南下国衆の銃隊の指揮官」は、「遠江の駿河青木氏貞治」では無かったと云う事に成った。
    要するに「指揮官の名」が「青木貞治」では無かった事に成る。
    然し、何れも「三方ヶ原で戦死している事」は史実ではあるが、「伊勢」では「銃隊の指揮官」の名は、「資料の表現」が「短文で確定的な表現・筆者の読解力の低さ」と成っていて、「通名以外・定か忠」は正しくは遺されてはいず判らないのだ。
    この「指揮官」が、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・伊勢青木氏母系」の“本家から又は分家から派遣されたか”も解っていないのだ。
    これに依っても「通名」は違って来る。
    主には「伊勢の西光寺」か「田原の西光寺」か、「三河11の西光寺」の何処かにある可能性がある筈だが確定できていないが恐らくは「前者の二つ」であろう。
    「伊勢」には「西光寺は20寺・秀郷流青木氏」あるので「一族の者の誰か」であった為に、「本寺本墓の仕来り」もあって、間違いなく「何処の西光寺」で祭られている筈だが然し特定は出来ないのだ。

    「指揮官の青木氏」と「額田の青木氏」から送られた「伊勢青木氏へ報告された手紙等」は「四家の福家」と「氏人の家人の差配頭の家」で、一部がぼろぼろの状態で見つかっているが、これ等も「伊勢秀郷流青木氏の四家」の何れかにも送られている筈だがこれでも判明しない。
    恐らくは、「指揮官を務めるだけの者」であって、“一族の戦いの経験ある一族の上位の者である事”には間違いない。
    然し、故に「松阪・5寺」では無いかとして墓所等を見て廻ったがここでも判らない。
    この「指揮官の青木氏」は「三河」に「11寺の西光寺・子孫」をも広げた始祖でもあるのだ。
    「駿河青木氏の青木貞治」と共に、「室町期の乱世」を乗り越え「青木氏一族」を良い方向に導き、「江戸期」に繋いだ当に“神に匹敵する偉人”であるのだ。
    これは「青木氏族」に執っては、“ロマンの極め”であり、何としても研究して何とかのヒントを得て「その名」を見つけ出したいと考えているが、別人である事と「本寺・戒名なので」までは判っているが未だ「指揮官の青木氏の俗名」は見つからない。
    因みに、歴史を遡ればその経緯では「始祖」の「伊勢秀郷流青木玄蕃充梵純・駿河守」は、「秀郷」より「宗家22代目の高郷の子」で、「伊勢青木氏」より「四掟」で「正妻」として嫁いだ「女(むすめ)」の「四男」に当たり、「近江の蒲生」に住み「朝廷との役務」を果たしていた者の子である。
    「伊勢の仕来り」に基づき「女系族の優秀な男子一人」を「伊勢」で「母系族青木氏」を興させ「家人」として務めさせる「家人制度」があった。
    その子の「四男の梵純」には「母方の伊勢青木氏」を「家人」として継ぎながらも、「伊勢」に「伊勢秀郷流青木氏」を興したのだ。
    「四家で繋がる女系の秀郷流青木氏を継げる立場」にもそもそもありながらも、「伊勢青木氏の家人」として「青木氏」を継ぎ、且つ、「女系の秀郷流青木氏」としても継いだとする「完全融合族の青木氏」を樹立し出自した事に成るのだ。
    何れも要するに「女系族で重婚血縁の青木氏」であって、更に「伊勢賜姓臣下族青木氏」であって、且つ「伊勢賜姓秀郷流青木氏」でもあると云う「二つの流れ」を持つ象徴する「重複融合族」である。
    その「末裔の指揮官」である。
    要するに、歴史の経緯では何処かに違いなく存在したと云う事である。

    そもそも「伊勢の歴史」も融合していて、この「蒲生の高郷・1460年〜1530年」の「長男の子の孫」に当たる者が「織田信長」に寵愛され「信長の娘」を娶ったが、秀吉もその才に恐れた「蒲生の氏郷」であり、「難攻不落の伊勢」を攻め落とし「伊勢藩主・1569年〜1590年」と成るのだ。
    つまり、これが「青木玄蕃充梵純・1480年〜1550年」の「兄弟・叔祖父」に当たる者なのだ。
    その者が「伊勢」を攻め「藩主」と成ったと云う何とも不思議な差配である。
    要するに、“叔祖父の居る「伊勢」を「孫子に当たる者」が上手く伊勢族を潰さずに攻めた”のだ。
    唯、「親類・叔祖父の梵純」を親族の対立を興させない為に直接攻めた訳では決して無く、更には奈良期大化の古来より「不入不倫の権」で護れていたのに「室町期」では、最早、これを無視され「国衆と成り易い伊勢」に入り込んでいた「国衆等との戦い」と成っていたのだ。
    それを追い出したと云う形を形成して信長にその知恵の良さを褒められると云う事が興した人物なのである。
    寧ろ、「城主に成る事」に依って「一族の氏郷」に依って「伊勢」は、「伊勢嫌いの信長」よりも上手く護られたと云う皮肉な事に成ったと云えるのだ。
    そうすると、その「祖父の兄弟の一族の子孫」が「額田青木氏の指揮官・訓練も」と成ったと云えるのだ。
    「松阪藩の藩主」と成っていた「氏郷・1556年〜1595年没」は、「上記した詳細経緯」のこの「一連の行動」を知り得ていたと云う事に成るのだ。
    丁度、この時系列では、この「室町期末期の時期」は、何と敵味方に成りながらも「叔父」と「甥」と「叔父の母方」で「伊勢を治めていたと云う事」に成るのだ。
    「環境論」はこの様である。

    この時の「美濃と三河と遠江と駿河」で起こった「第一次伊勢長島攻め」から「1573年4月の鯰江城攻め」までの「青木氏族内の事件」であったと云える。
    この「環境論の経緯等」から導き出し考えると、「青木玄蕃充梵純」の予想される「最初の菩提寺・西光寺本寺」は、「伊勢松阪・4寺に絞られる」の内の「御麻生薗町の西光寺」ではある事に先ず間違いは無いかと考えられる。
    その「寺の構え」は自然を生かした「古来の仕来り」に一致していて、「他3寺」は後に埋め立てられた「伊勢湾の櫛田川の圷野」に建立されているので該当しないであろう事が直ぐに判る。
    この「3つの寺」は江戸期に「御麻生薗町の西光寺」を菩提寺としていた本家筋の子孫拡大に依って建立されたものであろう事が判る。
    これは「当時の慣習」としては、「浄土宗寺派」は「森林の際」に建てられ「南の杜」に面して構えて「北向き」に配置して建立されるのが「重要な氏の仕来り」であった。
    そうすると、「額田青木氏の指揮官の年齢」は、「青木玄蕃充梵純・1480年〜1550年」の「40歳頃の者」とすると、「1573年」から遡れば「1533年頃」と成り得て「子供域」として生まれる事に成る。
    又、例えば、「指揮官が50歳代」とすると、「1573年」から遡れば「1523年頃の子供域」と成る。
    「指揮官が60歳代」とすると「1573年」から遡れば「1513年頃」と成り得る。
    つまり、「40〜60歳」では、「青木玄蕃充梵純の1480〜1550歳」に対して、「1513へ1533年」であるので、「梵純子供域の説」は充分に成り立つ。
    当時は、「青木氏」は「四家制度」の「女系尊属の子孫」を絶やさぬように、且つ、発展を護る為に「后、妃、嬪、妾の制度」を執っていた。
    当時は、「賜姓青木氏族・賜姓族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」の相互には、「15歳を成人」として「婚姻する習慣・女性は8歳と記述あり・早熟・妻嫁制度で教育」にあったので、「1480+15〜1550歳の範囲」では充分に「子供域であった事」に成る。
    従って、その者は「戦いの経験」はあり「指揮官」は成り立つ。
    「三方ヶ原後」に、この「指揮官の裔」が「開発業と殖産業」を営み「三河」に於いて「11寺の西光寺」と「3社の春日社の建立」に至った事に成ったのだ。
    それだけに「指揮官の特定」が難しいのだ。
    つまり、「御麻生薗町の西光寺」が「伊勢にある始祖墓」のある「20ある菩提寺」の内のこの寺に成る事に成る。
    その他の「寺の経緯」で観ると、未だ「賜姓族秀郷流青木氏の格式」に付いて充分ではない「疑問の処」があるのだ。
    実は、「伊勢青木氏の菩提寺の本寺」の「清光寺」には「氏族の四家の墓所」と成っていて、その中の真ん中に位置する一つが、周囲も大きいのだが、取り分け中央付近には「相当に大きい白構えの様な大墓」があって、これが「本宗墓」と称されていて、「一族全体の墓所」と成っているのである。
    この詳しい事の「伝統の慣習仕来り掟に関する詳しい事」は未だ解明されていないが、「四家」は四家で「大墓」が存在するが、その中の「福家の墓」と特定している訳でも無ない様で、これを「氏族の総墓」としていたと考えられる。
    従って、恐らくは、「青木氏族」である限りは「御麻生薗町の西光寺」にもこの様な「伝統」と云うか「仕来り」と云うか働いていたと考えられる。
    とすれば、「個別の指揮官の特定の墓所」は「渥美半島の伊川津の田原の西光寺・200m離れて新旧の二寺がある」にある事に成る。

    この「指揮官」と「青木貞治」とは違うとすれば、上記の「四つ目・ニ」の論は前に進められる。
    その上記の「四つ目・ニ」である。
    前段でも論じた通り両者は同じ頃から「伊勢」で「訓練・」を受け始めた事が史実として判っているのだ。
    その「二人の人物」は「額田青木氏・美濃・銃・貞秀」と「駿河青木氏・遠江・大船・青木貞治」が「伊勢の指導」の下で、“戦乱の世に出る為の訓練”を同時期に受けたとされる「郷土戦記」が遺されている。
    先ずここに注目するとでは「この二人の貞秀と貞治」は「郷土戦記・逸話論」では「兄弟」と表現し記されている。
    参考としてこの「郷土戦記・逸話論」ではこの逸話が遺されたかと云う疑問であるが、当時は伊勢青木氏と秀郷流伊勢青木氏の中では「有名な事・功績をあげた者」として「両方の一族内」で語り継がれていて、それを一族の者が消えて行くのを惜しんで書き遺し、後に語り継がれたものであろう。
    云うまでも無く、二つの青木氏には神明社と春日社・清光寺と西光寺には「祐筆制度」があり、この様な「歴史の経緯や逸話などの話を遺す制度・江戸期以降は記録資料飛散」がある事を理由に「一族の者・福家の差配頭・社や寺の行事を差配する者・交代制」が書き遺す様に差配したのでは無いかと考えられる。
    故に、これは「伊勢側を中心」に記していて「貞秀」が記され同時に「貞治・駿河側の記録も判る名」と成り、両方で一致する事と成り得たものである。
    この「兄弟の表現」は、「一族の者・福家の祭祀役の差配頭・社や寺の行事を差配者」が書き遺す様に言った事では無いか。
    果たして「貞」が同じであるので同じに訓練を伊勢で受けて事から「兄弟」と成るだろう。
    果たして、そこで資料が観っかった処で「実の兄弟か」であるが、「伊勢側の兄弟」か「駿河側から呼び寄せた兄弟」なのかである。
    「全く同時期で同年齢で同場所で同訓練・目的である事」に間違いはない。
    筆者はこの二人は戦記・逸話の通り「兄弟」では無かったと観ている。
    「年齢も近い事」から「兄弟の様にして訓練を受けた」と考えていて、だから一人は「額田青木氏」を、一人は「駿河青木氏」を目的の違う事を担当した事から「義兄弟の契りを結んだ」と観ているのだ。
    それでなければ、「駿河青木氏の者の方」が「額田青木氏の訓練」は担当はしないであろうし、額田は「銃で兵士の訓練」で、駿河は「水軍の訓練と氏の再興」に目的があった。
    だとすれば、「額田は秀郷流伊勢青木氏の者」で「駿河は秀郷流駿河青木氏」であってともに秀郷流青木氏の処刑の縁戚関係に在った事に成り、故に義兄弟の契りで在ったとし、それを後に書き残した「郷土戦記・逸話論」では「兄弟と書き記した」と考えられる。
    「兄弟とする事」には何の問題もないし、「通名の貞」は「秀郷流伊勢青木氏の者」が名乗っていたものを「駿河の弟分の者に名乗らせた」と考えられる事が出来る。
    だから、前段と上記した「三方ヶ原の戦場」でも違和感なく歩調が採れたと考えられるし、その後に「弟分の裔たち」が居る「三河と駿河」に「殖産」で遺ったと考えられる。
    つまりは、「秀郷流伊勢青木氏の額田青木氏を指導し指揮した者の俗名」は「貞秀で在った事」に成る。

    そして、「貞秀の額田青木氏の訓練中」に大船一艘を与えられて地元に帰った「駿河青木氏・駿河水軍再興」は、「一足先・9年〜10年前」に「今川氏の国衆」と成り、上記の論でその輩下の「松井氏の家臣」と成ったが「桶狭間」で敗退したと成るのだ。
    然し、一応は「駿河水軍の構築」はその裔等で再興出来たものの、生きる為に止む無くして「今川氏の国衆と成った事」で「折角の伊豆までの海路の拠点構想」はここで“「充分な初期の目的崩れ」”が起こったのだ。
    当時に当たっては「今川氏に対する青木氏族全体の計算違い」であったのだろう。
    これは結果としては、前段と上記の通りの経緯でこの「三方ヶ原での波乱」を起こしながらも何とか良い方向に収まりが着いたが、戦乱の世であった事に依り「伊豆の事」を含めて「伊勢の計算違いが興った」と観ているのだ。

    そこで、「五つ目・ホ」である。
    「伊勢」は、「伊豆の計算違いと戦乱状況」から「額田青木氏の銃隊の訓練」を早めて、南下して蒲郡に指揮拠点を置き、「伊川津田原の古跡神明社の定住地」に家族を移住させて「四家」にして移動させて「拠点造り」を至急にして固めたのだ。
    そして、「地元豪族との七党・伊川津七党」を結成させ地盤を三河で先ず築いた。
    この時、「桶狭間」で敗退し衰退して行く「今川氏」と共に「松井氏―駿河青木氏青木貞治」も衰退していった。
    当然の事として、「遠江の駿河青木氏の青木貞治」も西からの危険に晒されて弱体していたのだ。
    「折角の伊豆」までの「海路の拠点構想」は、この「駿河青木氏の弱体」で一時中断したのだ。
    そこで、「伊勢」と「南下した額田青木氏」と「一門の駿河・相模の秀郷流青木氏」とは「渥美湾の制海権の獲得」に動いたのだ。
    前段までの「額田青木氏の国衆南下説」には実はこの「上記の背景」があったのだ。

    「六つ目・ヘ」である。
    その上で、「桶狭間」で「伊勢シンジケート」に依って救われた「遠江の駿河青木氏の青木貞治」の「伊勢」と「駿河相模の秀郷流青木氏」とで再々復興に取り掛かつたのだ。
    「今川氏の衰退」に伴い「松井氏」も“「三派・武田、徳川、今川」”に「内部分裂」を興していた。
    ここ、即ち、“「三派の内部分裂」”が重要なポイントであった。
    ここで、問題なのは、何故、海千山千の徳川氏に組したのかである。
    これがキーである。
    本来であるならば、未だ一定の勢力を保持していた「今川氏―松井氏」に組するだろうし、その「恩義」はあった筈である。
    場合に依っては、最大に天下を取る可能性のあった武田氏に着いていた可能性も高かったが何故か味方しなかったのだ。
    「勢力」からの可能性を観れば、武田氏>今川氏>・・・>徳川氏であったでろう。
    場合に依っては、形勢的に「織田氏」でも良かった筈であろうが、「織田氏にしても武田氏」にしても何れも「伊勢伊豆のライン・織田氏」と「伊勢信濃ライン・武田氏」を壊された「一族の宿敵」でもある。
    然し、この最も何の可能性も無く低い「弱小徳川氏」に組したのである。
    故に、ここには当時としては伊勢では判断の“大きなキーポイント”に成っていた筈だ。
    それには、結論は「五つ目・ホ」の「美濃」からの「三河南下国衆と成った事・額田青木氏の南下」によるだろう。
    「伊豆までの海路を確保する事」は、先ずは「渥美湾の権利取得にある事」は「自明の理」であり、欠かす事の出来ない絶対的条件と成り得ていて、戦略的に放置出来ない状況であった。
    当然に、これを獲得するにはここで最も可能性の低い「弱小の徳川氏」と成り得る。
    とすると、「武田氏>今川氏>・・・の説」は、敵方と成りどんな事があっても無くなる。
    だとすると、必然的に“「伊勢」”は「渥美湾獲得」の為にも「三河」に「莫大な資金・冥加金」を投入して裏から支えるであろうし、「摂津」も含めて「伊勢シンジケート・全ての裏組織」も必然的に「青木氏族の命運」をかけて動かす事に成るであろう。

    「7つ目・ト」である。
    「六つ目・ヘ」の敢えて分裂の中で「徳川氏」に組したのだ。
    故に、「今川氏」が瓦解した時に、「二俣城の副将・発言権」にする為に、「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏と相模と駿河青木氏の一族一門」は、「後押し」をして「兵力数・倍」を態々高めたのだ。
    其の後の「駿河青木氏の青木貞治の活躍」はこれを証明する。
    単なる「兵力200」には、これに留まらず、その裏には「伊勢・財力」と「摂津・商力」と「伊賀・情報・影の勢力」と「額田の銃力」と「武蔵秀郷一門の勢力」等の「数万の兵力に値し象徴する力」を見せつけていたのだ。
    因みに、その後に「家康」は、「武蔵」に「転封の憂き目」を「秀吉」から受けるが、逆に上記した裏のその「秀郷流一族一門の勢力」を以て高めて「天下を取るに及んだ事」はそれを証明しているのだ。
    注釈として、何度も「青木氏族との苦い経験」をしていながら、これが「秀吉の読み」の「天下分け目の差」と成った「甘かった処」であったであろう。
    故に、それを「家康」は理解していたが故に、“伊勢の事お構いなしのお定め書”の所以でもあったし、「黙認の幕府の官僚族・家人衆旗本・秀郷一門」と「紀州藩との付き合い」や「紀州藩の藤氏家臣団」に繋がって行ったのだ。
    要するに、今まで論じて来た「青木氏の歴史観」に繋がっていたのだ。

    結論は、「Bの疑問の1560年」は、この歴史的な「絶妙な頃合いを狙った事」に成るのだ。

    前段の「額田青木氏の南下国衆の論」の「1560年」は、論調を判り易くする為に、「伊勢側論説」で論じたが、この後段には「青木貞治」が関わっていたのだ。
    況や、“家康を作ったのは「青木氏族」である”と云っても過言ではないだろう。
    その「1560年」はその当に「基点」であったと云える「青木氏の歴史観」である。
    然し、「額田青木氏の国衆の差配頭」が、上記の様に「伊勢」で同時期に訓練を受けた事は判っているが、前段と上記の「貞秀」では無く「別名の青木貞重論もあった事」が未だ解明されないでいる。
    念の為に簡単に追記する。
    この「貞の通名」が、「秀郷流伊勢青木氏と駿河青木氏の通名」でありながらも、「額田青木氏の差配頭」とされる「貞重である事」から「伊勢や信濃の青木氏」に無い通名の「貞・・である事・秀郷流青木氏の通名」が気に成るのだ。
    これが判れば、“「1560年」”は更に解明できるだろう。
    つまり、「額田青木氏と駿河青木氏の関係/秀郷流青木氏」を複縦的に解明する糸口に成るのだが。
    これに関する「筆者の推論」は、「伊勢での訓練中」に意気投合して「貞・・」を貰った等の色々なケースが考えられるが、これには「伊勢で訓練中」の「駿河青木氏の青木貞治の兄であった可能性」があるとしているのだ。
    この「貞重」は、「駿河青木貞治」と当時に「額田青木氏の差配頭にも貞秀が与えた名」では無いかとも考えられる。
    「義兄弟の契り・訓練中」を結んだと云う説に成り、この三者は「同時、同時期、動場所、同目的」で「総合訓練を受けた経緯」から「額田青木氏の訓練を任された指揮官」であった「秀郷流伊勢青木氏の兄貴分」から他の二者にも「今後の結束」を約して「貞の通名」としたのでは無いかと推測しているのである。
    然し、これでは「青木氏の伝統の慣習仕来り掟」、つまり、この「通名」では「女系族」であるが故に「嗣子は移動しないとする掟」に反するのだ。
    然し、「訓練で今後の結束の通名・目的」がはっきりしている為にと戦国の世として何時か会えば義兄弟として協力しようと約束した為のものとしてすればこの「伝統の掟」は問題はなく、他の二人は当然の通名とし問題なく従って「額田青木氏の差配頭の俗名」を「通名」とするだけの問題と成る。
    後は「伊勢側の裁量の問題」であろうから「同時、同時期、動場所、同目的」で「総合訓練」を目論んだのだから通名とするに異論は起こらないであろうし、「額田青木氏の差配頭の意思次第」と成ろう。
    とすると、「貞重論はあり得る事」と成る。
    これが解明できれば「額田青木氏の差配頭」も一時「伊勢」に「同時」に呼び寄せていた事を確定出来得る事に成り得る。
    前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世出あっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論にな内程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、動場所、同目的」は充分に有り得て、故に史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
    但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
    唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすればこの「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
    「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
    これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。

    「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」に続く。(102P)


      [No.392] Re:「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/10/25(Mon) 09:06:54  

    > 「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」の末尾


    > 注釈として何度も前段で記したが「古書・史書」には、「現在文」と違って前後の経緯を知り得ていると云う前提で記されていて、歴史観を得た上での理解できる記録であるので、この「力量」が絶対条件として求められる。
    > この「力量を持ち得た者」のみが「読み取る事」が出来る様にし、現台文の様に誰にでも判る様に事細かに書かれてはいないのだ。
    > 殆どが「字の読み書き」が出来ない特別社会の中であって、そう云う「文化状態」であったのだし、況してや漢文であり、故に「漢字の語一つ一つに持つ原語意」を知り得て、現在人ではその深意を知るにはこの歴史経緯まで到達して置く必要があるのだ。
    > この時期に発達した歌や俳句はその最たる手段のものであろう。
    > 歴史が好きであった為その理解力を深める俳句は、家の書籍は漢文だらけではあったがそもそも若者には無理であったが、その環境もあって小学五年頃から始めた。
    > 「俳句」は「情景と情緒と訓韻」の3つを持っていなければ「俳句の意味」は無いと教えられたし、「俳句」は古くからその意味での「総合の伝達手段」であったと教えられた。
    > 当にこれは歴史書を読み切る能力に通ずるのだと教えられた。
    >

    「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」

    ここから67に続く

    さて、本事件も斯くの如しで、最長で平安末期まで「東甲賀の坂上族」に実質350年間の間、「経済的な圧力を掛け続けた事}に成るが、然し、歴史的にはその圧力の必要性が無くなった「寺尾生産の以降期」までの間であろう。

    「青木氏」に執っては「裏切りの坂上氏」が朝廷内で宿禰族として権力の幅を利かされている事は好ましくは絶対に無い。
    世の常として「信用のおけない族の存在」は絶対に影響のない程度まで排除しておく必要がある。
    それは「嵯峨天皇」に依って「賜姓」を先ず剥奪し「冠位」を外された事にあったろう。
    それでなければ「賜姓五役」と「令外官」は務まらないし、そもそも「専売権を持つ殖産等」を始めとした「商い」は無理である。
    丁度、この時に「嵯峨天皇」から形式上は確実に「賜姓族と皇親族」を外されている事に成るのだ。
    これは偶然ではない。
    これは「嵯峨天皇の対抗策」であったとも考えられる。
    それには「青木氏」は対抗して「献納金・&#20465;納金・冥加金」を停止して応じたのだ。
    然し、当然に「予想できる対抗策」では、「青木氏」に与えられた“「先帝等が出した専売権の剥奪」は出した”とする記録はどこにも散見できないのだ。
    その理由には三つある。

    一つは、当時は未だ「市場経済」ではなく「部経済」であった以上は、「献納停止の対抗策で専売権剥奪」は朝廷内の経済が麻痺する事。
    要するに「剥奪令を出す事」でその荒波が自分にも返ってくると云う危機感である。
    二つは、「先帝が出した勅」は覆さない事の掟がある事。
    「平城上皇」が「遷都令」で覆したが、この行為は「自己の勅の信頼度」を弱める事に成る。
    三つは、上記の「薬子の変」で論じた様に「完全決裂」を望んでいなかった事。
    これは「臣下が興したとしたする大義」が自ら崩す事に成る。
    四つは、「自らの出自元」を破壊すれば、それこそ「天皇家」を揺るがす「骨肉の争いとして泥沼の戦い」と発展する事。
    これは「自らの汚名」に成る。
    この「第三の大義」も崩れるし、そうなれば「天皇家」も二つに割れ、「青木氏」も「抑止力」を最大現に使って生き残ろうとするだろうし、結局は「権威と財力の戦い」と成り、勝負の結果は「権威」をも持つ「桓武派・上皇派の青木氏」が勝利する。
    従って、以上の「四つの判断」から“「予想できる対抗策」は出せなかった”と考えられるのだ。
    それを見越せば「嵯峨天皇に味方した坂上氏」は、“素直に甲賀から引き上げる事”が子孫を遺す意味で「最上策」と成る。
    上記で“「田村麻呂」は覚悟した”とするのは、要するに、“ここに帰する”と考えた事に間違いは無いが、その「歴史の経緯と結果」は当にその様に成っているのだ。

    筆者なら「上皇・824没」の「命」に従うが、つまり、“田村麻呂は判断ミスをした”と観ているのだ。
    そもそも、興る事と云えば、取り敢えずは「遷都と云う事」に収まるだけであり、飽く迄も「4年在位後の院政・1年」である以上は、何時かはその権力は「嵯峨天皇」に戻る所以であろう。
    元々、「平安京」に都があって「平城上皇」は元の「平城京」で住んでいたのだし、「信賞必罰の院政の大権」を敷いた以上は「平城京」でも何の問題もない。
    記録から、「平城京」に住んでいた時から「嵯峨天皇」の「朝貢と朝覲行幸」を数度既に受けているのだし、これは認めていた事を意味するし、それに近くには「伊勢神宮」もあるのだ。
    つまり、通説で云う様に,これでは「平城上皇」が“政権を奪い戻す”と云う説の事にはそもそも成らないだろう。

    記録に依れば、「坂上氏」は既に変の時には引退していて、「桓武天皇と平城上皇」とその「出自元」に恩義があり、「宿禰族」まで引き上げられ「甲賀」を領地として獲得していたのだ。
    然し、抑々、何のその恩義も無い「嵯峨天皇」に請われて「自軍」を廻して道を塞ぐ行為を執ったすと云う事にある。
    「桓武派」を「田村麻呂の名声」で引き込む作戦であった事は記録にもあり、要するに「坂上一族の今後の安寧」を願って「桓武派の病弱な平城上皇」より「現天皇側」に日和見で着いたのだ。
    「青木氏を含む桓武派が対抗して来る事」は、充分に読めていた筈でありながらも、ここで「田村麻呂」は更に取り返しのつかない次の「二つの読み違いのミス」をした。
    一つは、「変」は臣下が起こした変とされた事
    二つは、「地位」を失うと思われた「平城天皇」が院政を敷いた事
    要するに、その「院政」が「天皇の持つ大権の生殺与奪」に繋がる「信賞必罰の大権」を握った事にある。
    これで結局は「甲賀」を失ったし、「甲賀」を失えば「宿禰族の冠位」も失う破目と成った。
    其処に「青木氏の経済的な対抗策」が相乗的に効いたのだ。

    「嵯峨天皇と伊勢青木氏との争い」は記録的に観ると「845年」まで続いた事に成る。
    その後に[桓武派であった嵯峨天皇の子供」の「仁明天皇」に依ってこの修復を図って関係性は正常な状態に戻したのだ。
    これは「朝廷の経済的な復興」から観て、その原因と成る一つは「殖産増加からの発展」と二つは「献納の復活経緯」から読み取れる。

    そこで「坂上氏の甲賀での経緯」は判ったとして、「伊賀、甲賀と別れた」とする前に、既に「平安期」には「伊賀」から「伊賀の北域に住んでいた坂上氏一族・北伊」が「東甲賀」に移動していたとしていて、更にもう「一つの移動事件」が起こっていた。
    「武家社会の鎌倉期直前」には、「伊賀域」と「西甲賀域」では再び「生き方の路線・傭兵と雇用」の事件が発生した。
    平安期では「坂上氏一族の裔系」は上記の事件で「東甲賀」に、更に「滋賀と敦賀」に完全に移動していた事に成るのだが、室町期では「雇用・仕官」を前提に起こった論争事件では遺された一部共存組の「西甲賀の裔系」も「東甲賀」に移動したのだ。
    結局は、「北伊賀の者等」は記録に遺る様に「西甲賀」に移動したのだ。
    その「記録」が遺っていて「信長の妾」となった「北伊賀に住んでいた甲賀青木氏者等」も結局は「西甲賀」を経由して「近江に流れた」がその後の「経緯・全貌」は判らない。

    これが、要するに「一族の関係族を伊賀域から追い出す手段」と成っていたのでは無いかと観ているのだ。
    この事で「伊賀」と「西甲賀」は、「敏達天皇の芽淳王の娘」との間に出来た「渡来人・二世族坂上氏の裔系」では無い「元祖の完全な渡来人」の「後漢阿多倍王の裔系の定住地」と成ったのだ。
    つまり、上記した様に「伊賀」に朝廷から受領された「伊勢国の半国割譲」で定住した「阿多倍王―高尊王―高見王」とし、その「后妃嬪妾」は全て「光仁天皇から桓武天皇」までの「伊勢の青木氏の女(むすめ)」であり、彼女等は「追尊王女」として「後付け・追尊」されている事が判るが、歴史的に判るのは「妾子の高野新笠・伊賀族以外」には全く判っていない。
    然し、筆者は「伊賀青木氏」が存在する以上は、「仲介する事」は間違いは無い筈で、その人は「伊勢伊賀郷士50衆の娘の妾子」であったと考えている。
    その証拠に「後の信長の伊賀攻め」でこの「伊賀者」は徹底し籠城し「総攻撃の前夜」に「伊賀青木氏と伊勢青木氏」とが、「伊賀郷士21士中の3士」は「信長」に味方し裏切ったが、必死の覚悟で「残りの伊賀18士中11士」を何とか救い出して、「伊勢青木氏の清蓮寺城・平寺城」に匿っていたこの「史実」は「血筋」を繋いでいた何よりの証拠ではないか。
    「伊賀郷士」が「伊勢郷士衆50衆の中」に在るのもそれを物語るし、前段でも論じた様に「伊勢殖産」でも資料の表現の一部に遺る様に、要するに「家族の一員」でもあったのだ。
    これは先ず間違いは無いだろう。
    要するに、「伊賀に嫁いだ娘」は「青木氏の女系の中に在った」という事だ。
    つまり、「青木氏」から観れば「氏族である事」に成るのだ。

    因みに前段でも論じたが念の為に追記して置くと、だから、「以仁王の乱の失敗」で「頼政の子孫の三人宗綱と有綱と叔父高綱」の「助命嘆願書」を「伊賀の女・老女と記されている」のこの“「老女”を仲介にして届けられた」として記されているのだ。
    この“「老女」”とは「確定の研究中」であるが、検証の結論は「伊勢平氏維衡の妾・源満快娘 1」では無いかと観ている。

    その検証は次の通りである。
    系譜は、「維衡・推測980年~1065年頃―正度・生没不詳―正衡・生没不詳―正盛・?~1121年―忠盛・1096年~1153年―清盛・1118年~1181年」と続くのである。
    つまり、この事から時系列では「維衡」は「正盛」が生まれた頃まで生きていた事に成る。
    「桓武平氏の清盛」からすれば「伊勢平氏の始祖の維衡」はそんなに遠い人では無かった事に成り、「85歳の長寿・現在で云えば146歳に相当」であった事から、「噂程度の口伝と始祖」でもあったのでこの「伝統」は在った事に成る。
    要するに“老女は知らない先祖”と云う事では無かった筈である。
    必然的にその「若い妾・源満快娘 1」は「清盛の祖父正盛・?から1121年」の「老女の人・姥程度」に成り得る。
    故に、その「絆」から「仲介の役」を担ったのだとされる。

    更に検証を進める。
    その「根拠」は、この者は、「清和源氏の始祖源経基の五男」で「満仲の異母弟満快」であり、「桓武平氏・伊勢平氏の清盛」から云えば、「伊賀の伊勢平氏と繋がった源氏の娘」とは、この「娘の者」と次の「4娘の者」である事に成る。
    この「4娘の者」が、「伊勢平氏維衡の子」の「伊賀}に住した「平國香の妾」で「源護娘 2」とあり、これは「嵯峨源氏」であり、「老女」とするには「清盛の時代」に近いが、「河内源氏」からすれば、「疎遠の摂津源氏」では無く、「助命嘆願をする程の縁」は系譜からは最早無い。
    後には、「清盛の祖父」に当たる「正盛・1121年没」の「妾の源義忠娘 3」と「妾の源有賢娘 4」と、「父に当たる忠盛・1096年から1153年」の「妾の源信雅娘 5」があり、これ等は年代的に極めて近い。
    そこでこの五者が「伊賀」に住したかであるし、この者等はそもそも「疎遠の河内源氏」であり「摂津源氏」ではないので無関係である。
    「清盛の父の忠盛」が「1145年」に「播磨国」を「知行地」として任じられ、「伊賀」を離れて一族移動定住したので、「清盛の父の忠盛・1096年から1153年」は、この事から初期は確かに「伊賀」に住んでいた事に成る。
    「助命嘆願書の事件」は、「1180年の宇治平等院の戦い」で自決で敗死し、早期に鎮圧されたが、この時の事であるので、「忠盛の妾の源信雅娘 5」は全く当たらない。

    そこで「正盛」は「1121年の以前」は間違いなく「伊賀国」に住していた事に成るが、,この「3人」は[河内源氏の政略婚」である。
    従って、少なくとも「老女」とするには、「正盛の妾の源義忠娘 3と源有賢娘 4」の二人に絞られる事に成るが、「河内源氏の最盛期の人物」でありこれも当たらない。
    つまり、「維衡から4代目」に当たり「清盛より3代目前の叔父」に当たる事に成る。
    この“「源義忠」”は歴史的に極めて「有名な人物」で、「平家との和合策」を積極的に執りその為に「味方から暗殺」を受けた「歴史的に遺る有名な人物」である。
    この「3と4の2人の娘の妻嫁」は時代的に符号一致するが、これも「和合策の所以」ではあるのだか、そもそもこれも「最盛期の河内源氏」であり「助命嘆願の条件」にそもそも当たらない。
    依って、検証の結果は「伊勢平氏維衡の妻・源満快娘 1」だけに絞られる事に成るが、これも[時代性」としては多少はずれている。

    そこで念の為にこのズレを確かめて観る。
    「清盛」に執つては、「2〜5」にはそもそも「助命嘆願の条件」には当てはまらない。
    然し、「伊勢平氏の桓武平氏の始祖」とする「維衡の妻」には心は動くだろう。
    その「老女の人物」が「清盛」に執って生存しているか否かよりも、その「人の名」を使った「助命嘆願書」には「個人的感情」では無く、先ず「桓武平氏の始祖とする大きな大義」が生まれる。
    故に、筆者は「記録」には「匿名・特名」とせずに「青木氏祐筆」は「老女とする表現」を使ったと観ているのだ。
    そうすると、この「助命嘆願書の記載」には、「維衡の妻・源満快娘 1」の事に付いては、「伝統」に則って「女墓」に刻まれている筈で、「浄土宗の戒律」に則って「院殿居士の伝統の戒名」を必ず記したと観ているのだ。
    然し、現在の処では「一族の平氏播磨移動の際」に墓所も移されてそれは不明とに成っているのであるし、「伊賀の所以」は上記した様に時代と共に変化した。
    「伊賀」は、上記の「坂上氏の事件」と共に、この「助命嘆願の事件」にも関わり、後に論じるが時代と共に期せずして“「伊賀青木氏化した」”と云えるのだ。
    故に、その後の事も上記した様に「青木氏祐筆」に依って「歴史的な史実」を追跡されて「経緯の詳細」が記されているのだと観られる。

    要は、先ず条件として「清盛との近い所縁」にあり、「大儀」が得られない限りは「情」だけではそうでなければ動かないだろう。
    だとすると、「998年から1185年」までの「維衡・85歳没の若妾妻・源満快娘1」にどうしても成る。
    「摂津源氏の歴史的経緯」から観て、「若妾妻・源満快娘1」は確かに「時代性のズレの事」もあるが、それも相当に若かったと考えられ、それ故に史実として「摂津」から再び「伊賀に嫁いだ事」に成る。
    ここで「重要な事」は、「摂津源氏」は、「河内源氏」と違い「嵯峨天皇の9つの縛りの伝統・真人族に課せた必要条件」をある程度に護りながら、「青木氏族」とは別の範囲の処で、中でも「四掟と四家の二つの制度」を唯一に敷いていたのだ。
    つまり、朝臣族では無く摂津源氏は「真人族扱いの源氏・頼政の正三位昇格が証明」とされていた事に成る。
    上記の通りに、その「摂津源氏の四掟」の中に、この「伊賀の伊勢平氏」が入っていたと成るのだ。
    その意味で「青木氏」とは「伊賀」で「初期の氏族形成時」から「伊賀青木氏」は勿論の事ではあるが、「摂津四掟四家」での「伊賀接点としては繋がっていた事」に成る。

    つまり、「伊賀青木氏」と「伊勢青木氏の出自元」で繋がっていたのだ。
    唯、それが、全て「正妻」ではなく、「后妃嬪妾の制度」の「妾階級扱い」であり、故に伝統に基づき「歴史的記録」は遺され難いのだし、但し、ある条件下で記録としては遺される場合もあった。
    ここに「繋がりの意味」があり、その「摂津四掟の繋がり方」が「ぎりぎりの処」で繋がっていた事を示すが、要するにこの「四掟」は「全て政略婚」ではあるが、これは「軽度の政略婚」と成ろう。
    その「妾の意味」で「軽度の政略婚」とすれば「助命嘆願の清盛の扱い」も違って来るだろう。
    然し、「清盛」がこれを認めた限りは、「重軽の政略婚」とは別の処で認めた事に成ると云う事に成る。

    同然に実は証とする事がこれ以外に興っていて、この時期、前段でも論じたが「伊勢青木氏の京綱事件・摂津源氏」と「信濃青木氏の国友事件・摂津源氏」の二つの事件が同時に興っていて、前段でも論じた様にこれには「伊豆事件」も連動しているのだ。
    それはこの「源満快」は、記録には「下野守を務めた後」に、「信濃にその裔は土着した」とあり、これを所縁で「源平戦で負けた場合の子孫存続の為の策」として「国友」を「正三位の頼政」は「信濃に預けた経緯」であったのだ。
    記録にもその様に記されている。
    「信濃」には、更に証として「北の摂津源氏」と「美濃よりの南の河内源氏」とが土着したとあり、その「裔系之記録の時代性」から観て、これの「真偽」には「後付けの疑問」が強く残る。
    同じ地域に犬猿の仲もあるが「摂津源氏」と「河内源氏」が住む事は住み分けの掟としての考え方の違いもあって本来は無い
    然し、「北の摂津源氏の裔」に付いては間違いなく史実であろう。
    これに「系譜偏纂の為に後付け利用」で「美濃に近い事」から「南の河内源氏の系譜」を託けたと観られる。
    だとすると、「源満快の裔系」の「北の摂津源氏の信濃土着」は、この経緯から「生没不明と成っている維衡・85歳没」の「若妾妻・源満快娘1」は相当に若い事が云える。

    そして同時期で同然の事が絡んで興っていて、因みにこの「四掟の制度」を破って「伊勢青木氏」に入籍した「摂津源氏の仲綱の京綱・嬪子四男」も「乳飲子」であった事が記録には記されていて、その母は「入嫁後の2年程度」で「後家・初めて後家という言葉が使われたとしている」として「伊勢青木氏」に戻っている。
    つまり、これは「以仁王の乱」を控えた「頼政の子孫保全の為の策」であった事が云えるが、その「青木氏からの四掟」では無い「摂津源氏の四家の主家の仲綱の嬪」として入った「伊勢青木氏の女(むすめ)」が直ぐに「後家で戻った」とすれば、「嬪妾扱い」から観てもここでも相当に「若かった事」が云える。
    「源満快」は「娘」を「嫁・妾」として差し出している以上は、「乱1180年前」で、尚且つ、「没1081年前」での「妾の娘」とすると、「当時の平均寿命55歳」からすると、少なくと「妾を迎えられる可能な範囲」では「30年前の1050年から1060年頃」と成るだろう。
    この時、「若い」とする「当時の女の最低年齢の限界」を、何度も伝統で論じているが、史実として「最低で8歳・平均寿命55歳」で「早熟」であったと「青木氏の資料」でも記されている」とすると、仮に「老女・85歳程度」として記されている以上は「1060+85=1145年の没」と成り、丁度、「播磨に移動定住する前の時期・直前」まで生きていた事に成る。
    この「老女の1145年」は「忠盛1096年から1153年」の時代である。

    この検証の「嫁ぎ年齢8歳」としては「清盛・1118年から1181年」からすると、“「知らない人では無い事・認識あり」”に成る。
    「青木氏の女(むすめ)の資料」では、嫁家制度の「女(むすめ)」では最高で「13歳から15歳」が「通常の年齢」であったので、どんなに考えても「1137年頃」と成る。
    当時の「平均寿命」から計算すると、現在では、「23歳から24歳」と成るので適格性から観て「1137年から1145年の検証の「清盛・1118年から1181年」は正しい事に結果として出る。
    「清盛19歳から27歳の時」にこの「老女に会っていた居た事」に成る。
    この「検証」は、「記録の老女記載・現在寿命133歳相当」を前提として符号一致して矛盾が無いだろう。
    この「老女との記載」は、現在の133歳に相当とするとして、当に「神に近い白髪の老女」と成り得て、「当時の習慣仕来り掟」から、「氏族に執つての尊敬の対象」として「神扱い」であった筈である。
    念の為に奈良期から平安期の過去の慣習では、「女(むすめ)」の「嫁ぎ年齢」は必ずしも「女(むすめ)」の適齢期に達していなくても嫁する事は盛んにしてあったとされ、中には江戸期の記録にも散見できる程なので、必ずしも適齢期には拘っていなかった事がある。

    上記で検証した様に、「維衡・85歳没」も「伊勢平氏の始祖」であり、且つ、同然に共に「氏族に執つての尊敬の対象であった事」がこの事から云える。
    「清盛」は少なくとも、この「大儀」としては、この「老女の扱い・助命嘆願」について「氏族に背くような扱い」は出来なかった事が云える。
    それだけにその「扱いは慎重にした事」が云える。

    そうすると、さて、次にこの「助命嘆願書を書く事」を誰が企んだかである。
    筆者は、「青木氏の資料」にこの様な「余りの詳細な経緯」が遺る限り、「平等院で自決し滅び、若い子孫を密かに逃がした事」を既に知っている者と成る。
    それは「逃がした者」であろう。
    これを「必然的に成し得る者」としては、この資料には「薩薩摩までの実に詳細な経緯を遺している事」の以上は間違いなく「伊勢青木氏である事」に成る。
    この「詳細な経緯」は、内容の時代経緯から「以仁王の乱の事件後」−「日向」―「薩摩」までの「全体の経緯」が事細かく書かれている。
    という事は、これは「青木氏に関わる事」として一度に書かれたものでは無く何回かに依って「祐筆」に依って「経緯に従い追記された事」に成る。
    その記録には、最終には、「黒田藩の傭兵」と「下青木、上青木の呼称」まで書き留めている処を観ると、「1180年から1620年頃までの歴史的な関わり具合」を「歴史の幅」として記していた事に成るのだ。
    但し、「三つの地域部位の由縁」として「伊賀、日向、大口の青木氏に関わる事」として纏められ何度かに追記されているのだ。

    但し、この関係する「日向青木氏・大口青木氏」に付いては必要なので下記で論じる。

    それを筆者が「行の読み込み」をして総合的に解釈して論じている。
    記録は何も態々、「伊賀の事に付いての事」であって、「摂津源氏の事」を書き記しているものでは決してない。


    では、これが「伊賀の事に付いての事」であるとすると、「伊賀青木氏に関わる事として」と成るので、この「助命嘆願の件」は、多少なりとも「伊賀青木氏に関わっていた事」にも成るだろうがそれがどうもそうで無い様だ。

    さて、“どの様に関わっていたのか”であるが、「史実を含む詳細」は「四掟の範囲の血縁接点」はないのであるから、“無い”は当然で「糸口を見つけ出す事」には全く判らない。
    然し、「助命嘆願」と「大口村の浄土宗寺住職・特定できる」にだけは関わっている事は「文意の行」から確かである。

    では、それは何なのかである。
    導き出される当然の答えは、「京綱事件だけ・伊勢青木氏には記録されている事」と「公的資料でも確認できる事」である。
    つまり「頼政の乱の直前」にこの「二つの事件の策」が不思議に実行された云う事なのだ。
    そもそも乱の混雑の前にこんな面倒な事は普通はしないであろうがしたのだから其れだけの意味を持っていたと云う事だ。
    恐らくは、「流れ」としては、この「京綱の継嗣」は「女系の青木氏」では「青木氏の伝統」からして「異例事」であり、その「異例事」は「630年間無かった事」である程だ。
    従って、その「異例事」に付いては、「四家の嗣子」が「青木氏以外」から出自していないが、然し、話が決着したのは、「継嗣の母」は、確かな事は「嫁家制度の青木氏の女(むすめ)」であって、それも「氏族の伊勢郷士」に嫁いだ「女(むすめ)」が「優秀な嗣子」に対して「青木氏」を興させて「福家の家人」として「四家」に入れると云う「家人仕組み」があるが、この「家人仕組み」として、「氏族の伊勢郷士」から「氏族では無い四掟外の摂津源氏」にと考えてこの「異例事」の「話し合い」は最終決着したのではないかと予想している。
    摂津源氏が「四家の氏族では無い」としても、元は「皇位族の朝臣族同士」とすれば「一つの朝臣氏族」と考えれば、「嵯峨期の掟」に基づき摂津源氏は何とか最低限の処で「四家制度」を敷いている。
    それ故に「氏族相当」として考えて、「氏人の氏族伊勢郷士50衆」の「一族同意」を得たと考えられる。
    然し、隣の「伊賀青木氏」もいる「伊賀」には、「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「摂津源氏源満快娘1が嫁していた事」は知っていたとすれば、この「京綱の事件に含む内意」も既に読み取れていた事に成る。

    それは「乱の決意の失敗時」に何らかの形で「宗綱等の裔の救出」を内意として依頼していたのではないかと云う事なのだ。
    その時に、「以仁王の令旨」を廻したが、「王位の令旨であった事」もあって初期には思い掛けなくも「他の源氏一族は動かなかった史実の事・初期段階・新宮源氏が全国を説得の為に廻った」に原因があったのでないだろうか。
    前段でも論じたが、「戦う前」に既に「失敗を決意していた・源氏族蜂起の切っ掛けを造る目的」と観られるが、筆者は更にその前に敢えて「失敗覚悟で起こした乱」であったと観ていて、その為にも「京綱と国友の二つの事件」があって、それ故に「三つ目の事件」として「宗綱等の裔の救出の依頼」が一連にしてあったと観ているのだ。
    然し、其処まで「青木氏がリスクを請け負う必要性」は何もないし、応じなければならない「摂津源氏に対して義理」もない。

    では、何故、「伊勢青木氏」は「宗綱等の裔の救出」の「助命嘆願書の作成」に動いたかである。
    「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「摂津源氏源満快娘1の老女」が独自に動く事はそもそも不可能であるし、周囲は敵であるので、そんな動きは勝手に絶対に出来ない。
    では、それをさせたのは何かであって、それが「福家を通じて伊賀青木氏」では無かったかと云う筆者の説である。
    何故ならば、それは上記で論じた様に、「伊勢平氏の始祖の維衡」の「桓武平氏の始祖の阿多倍王、高尊王、平望王、高見王」との「伊賀青木氏との血縁繋がり」であろうと観ている。
    況や、「伊勢平氏の祖」の更に「始祖の族」でにである。
    何を云わんとしているかと云えば、これは「伊賀青木氏の位置づけに関わる事」であるからだ。
    それは、「桓武天皇の出自元」であり、「前段からの高野新笠の出自元」でもあり、「伊勢平氏の祖」からしても「氏上様、御師様」で呼ばれていた様に、突き詰めれば「律宗族の祖」の「始祖の始祖の始祖である事」に成る。
    要するに、当時の「古来の氏上制度」からすると、「神の領域の筋目」と成っていたのだ。
    これで充分だが、そもそも「不毛な山郷の真砂の村での糧・伊賀」だけでは一族は生きていけない。
    古来より「伊勢伊賀」は資料にもある様に、そもそも切っても切れない「糧の運命共同体」であって、そこに前段でも論じたが「殖産の商い」で「富を獲得している運命共同体」でもあったのだ。
    だから奈良期の古くから「氏上様、御師様、律宗様、得宗家」と呼ばれていた所以である。
    この呼称がこれを証明している。
    「国幣社の神明社を守護神としている事・神職の柏紋の青木氏」を一つ捉えても「尊敬対象の…神様」であった筈である。


    此処で、詳しく歴史観を論じるので話は外れるが、予備知識として「御師様」に付いて前段でも論じたが「歴史観」として誤解の無い様に改めて記する。
    そもそも、「御」は兎も角も、それは先ず上記した様に「師の語源」にあって、「師の意味する処」はその「語源の下」で奈良期から室町中期まで使われていたが、江戸期に成ってこれが「別の意味」で使われる様に成った。
    寧ろ、成ったと云うよりは“使われる様にした”と云う事の方が正しいだろう。

    さて、そこでそもそも「文字の生まれた中国」では、「師の象形文字」は「左の偏」は「段」を二つ重ねたもので「平坦な丘の形」を意味を成し、「右の旁」も「小高い土地」の上に建てられた「風向きを知る旗」の形を表す。
    即ち、「吹き流しを表した形」を意味し、この「二つの平岡」を象形する事で、歴史的にここには「見張りの効く岡の上」、突き詰めれば「近衛軍を置く位置」として決められ、初期に中国ではこれを意味し扱われていた文字であった。
    そして、この「小高い丘の上の近衛軍」には、当然に「名誉」があって、それを「格式ある指揮する者・尊敬する指揮者・指導者」をこの「象形の師」を使って表現したのだ。
    これが「御師の真の語源」だ。
    だから「賜姓朝臣族の臣下族の青木氏」は「御師の呼称」に成るのである。

    そこで、最初はこの上記の「中国の制度」に学んで「奈良期の天智天皇の近親の者」から「賜姓臣下朝臣族」が成り得る「近衛軍」を作った経緯と成るのだ。
    前段や上記した様に、そこでこの「近衛軍の師」は「天皇の寝所」に「近侍・さぶろうから侍のサムライの語源」したが、これをこの「賜姓五役の一つ」として「伊勢青木氏」の「四等位最上位の左衛門上佐」の「最高位にいた事」に成るのだ。
    故に「四家の福家の継承者」はこの「・・・左衛門上佐」を襲名としている「伝統」を持つのだ。
    更に、其の上に「伊勢神宮を護る伊勢王位」にもあって、それ故に「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を「守護神」としていて、「皇位族朝臣族」としての「伝統・9つの縛りの掟の律宗族」を頑なに護り、これらの「格式所以」を以て、上記する「師としての位置」にいたのだ。
    この事から、「伊勢郷士衆50衆の氏族」から「衆の師」として崇められて「御師様」と長く呼ばれるに至っていたいたのだ。
    この「御師様の格式」は「嵯峨期」に強引に打ち消されたが、依然として永代であった事に依り「御師様の呼称・」は江戸期末直前まで続けられたのだ。
    況や、此処で云う“「御師様」”とは、「青木氏の歴史観」に基づく呼称を意味するのだ。

    ところが、この「江戸期」に成って、この「格式呼称の前提の歴史観」は世間では完全に忘れ去られ無く成り、この結果として、この「御師様の呼称の意・商業の長意」は替わって行ったのだ。
    寧ろ、「幕府の都合」によって変えたのであろう。
    故に、「各地・24地域」に散在する過去に同じ「近衛軍の御師の立場」であった「秀郷流賜姓青木氏とその一門等」に声をかけて、前段でも論じた様に「15の商業組合を造った経緯」を持つのだ。
    必然として、この最初にスタートした「全国15組合員を一つの円圏」として「伊勢・伊勢神宮」を中心としての「15の経済圏」を造ろうとしてこれは成功したのだ。
    遂に、それを拡大して「摂津・大阪までの経済圏」として拡大させたのだ。
    この時、この中心となった「伊勢屋・青木氏」が担保する「御師券」と呼称する「信用幣・紙幣」を発行して、「一大経済圏」を構築したのだ。
    この事から何時しか誤解されて、「伊勢神宮参詣に関わるのみの経済圏」の「店の事」を「御師・おんし」と成ったと通説しているのだが、これは明らかに間違いであって「江戸期の時代の語意」が「奈良期平安期の語意」と成り得る事は100%無く、よくある「通説の間違い・歴史観の勘違い」である。
    飽く迄も、此処で云う“「御師様・おんしさま」”とは、「奈良期、平安期中期頃の語意」である。
    念の為に、その証拠に上記の「奈良期の歴史的経緯」から論じると、「出雲朝廷」でも同然にこの制度は中国から伝えられていて歴史的にあったと記録され、矢張り、「御師・おし」と呼称されていたとする論説記録がある。

    そこでこの「御の語源」は、「偏の複数人」とその中央の象形文字の意は「走る」と「右旁の車」で、「皇帝を乗せる牛車」を意味し、其れを以って「尊敬字」として扱われた「漢語」であって、日本に伝わった段階で、尚、「敬語としての意味合い」が強く成り「大・おお」を着けて使用する様に成ったのだ。
    語源的に当初は、韻語として「おほみ」から「おおん」と成り、其処から「おん」と「お」を使い分ける様に成ったとされる。
    「出雲朝廷」では「中国からの使者」から伝わったとされ、その後に「和語」として「神明社の詔に使う韻語」を使わず先ず略されて使われたとしていて「お」でつかわれたと記録されている。
    それがその後に「大和朝廷」に入り、「神社の韻語」として「おほみ」から「おおん」か「おん」に変化した経緯と成ったとされる。
    故に、先ず「出雲」で「御師のおし」から大和で「御師のおんし」と成った事に成るのだ。
    「伊勢の記録」では使い分けされているので「おし」として記されているが呼称で伝わったのは「おんし」である。

    実は、この「御師様」には、「福家様」や「律宗様」や「得宗家様」や「氏上様」等の呼称と共に並行して使い分けして呼称されていたのだ。
    これは、つまり、「呼ぶ人の範囲」に依って使われていた事が判っている。
    恐らくは、漢字から判る為に明記されていないが、「福家様」は「四家の人」、「律宗様」は「全国の青木氏神明社神職の人々」、「得宗家様」は「家人の人々」、「御師様」は「伊勢全体の人」で、「氏上様」は「氏族の長」としていた事に成る。
    この「氏上様」は「伊勢郷士衆50衆の人々」に限定していたと成っていたと考えられる。
    では、因みに「秀郷流賜姓青木氏116氏の人々」から「女系親族・母方族の伊勢青木氏と信濃青木氏」はどの様に認識呼称されていたかであるが、これは「相手側の書籍」に頼る以外に無く、こちら側からの資料記録の行からでは良く判らない。
    然し、総称は通して“「伊勢殿」”では無かったかと思われる。
    家人の家に遺された資料にはその様に記されている。
    又、依って「秀郷流賜姓青木氏116氏の人々」からは、「親しみ」を込めて「松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿」と呼んでいたとも考えられるが、何せ「24地域に及んでいた事」から正確には判らない。
    「伊勢秀郷流賜姓青木氏」に付いての呼称は、「伊勢側」では「梵純殿の名・又は一時期は駿河殿」がある事故に、前段でも論じている様に「代々の俗名」で呼んでいた可能性がある。
    「駿河守の記録」も一時期にはあったらしい。
    兎も角も、上記の通りに「御師の歴史観」はここで質して置く。

    戻してその「伊賀青木氏の仲介が入ったと云う事」に「伊賀」では成ったのでは無いか。
    そして兎も角も「助命嘆願を出して観る」と成ったのでは無いか。
    それには「伊勢平氏の始祖」の「維衡の妾」として「僅かな繋がり」を持つ「摂津源氏源満快娘1の老女」の名を使う事」に成ったと観られる。
    この「老女」そのものには、最早、その策を考える能力とその意欲は無かった筈だし、「6代先の宗家筋の頼政の子孫の事」に「口出すつもり」も無かっただろうし、況して過去の事は幼少でもあったので知らなかったであろう。
    間違いなく「周り・伊賀青木氏」が、「福家」と協議して動いたものである事には間違いは無い。
    では、「助命嘆願」を出しても「伊勢側」にどんな「理利」が在ったかと云う事であるが恐らくは無かったでろう。

    結果として、この「助命嘆願」に依って「配流先」が「日向国廻村」であった事から、この事が「日向青木氏の歴史観」に繋がって行く事に成るのだが、今までにその詳細に就いて論じていなかったのでここでそれを下記に論じて観る。
    つまり、その「日向青木氏」、又は、「大口青木氏」と「伊勢青木氏との関わり」に繋がって行くのだ。
    それにしても、不思議な事に「伊勢青木氏の名を使う事」を「大口村の浄土寺の住職に伝える利益」は無かった筈であるが、然し、万が一の場合に備えて現実に伝えているのだ。
    この事は「二つの記録」から判る。
    それも最後は、「廻村」から「軍」を興して「日向平氏」に敵対し敗退して逃亡の最終は「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」まで逃げた事を記録として伝えているし、それ以外の寺は無理としてこの行動と発言がこれも余りに用意周到の言である。
    最終、この「寺」に最終的に「日向平家追討軍」が直ぐに後を追って到達して来たとある。
    その逃亡の結果としてぎりぎり辿り着いたのは、「廻氏の血筋を引いた宗綱の子供と合わせて廻氏の土豪侍5人」に成っていたと記されている。
    「日向平氏」に「戦いを挑んだ経緯」では、「配流元受け入れ」と成っている「廻氏」が「周囲の南九州の土豪達」に呼びかけ、そしてその「戦いの背景」を援護したのは「南九州全域」を長く勢力下に置いていた「朝廷官吏族の大豪族肝付氏」であって、結果として二度も戦ったが、敗退し「肝付氏の勢力下の大口まで逃げ込んだ経緯」であるとして記されている。
    それが前段でも論じた様に、嵯峨期直前までは「助命嘆願から支援した伊勢青木氏」は、「令外官」として代々「国造の伴造差配」であった「誼」で、「朝廷官吏族伊佐氏」や「朝廷官吏族の大豪族肝付氏」に繋がっていたとしているのだ。

    この繋がっていたとする「青木氏の祐筆」の記した「誼説の根拠の行の表現」は史実であり理解できる。
    故に、この「大口村の寺・浄土の寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺・現存」の「住職行動の詳細経緯」も史実として理解できるし、この「寺での騒ぎ」も記されていて、「生き残った末裔と侍五人」が寺に到着後、息の着く暇も無く「日向平氏の追討軍」が追いつかれたとされる。
    「記録」はこの瞬間に住職の指示で“「伊勢青木氏だ”と名乗ったしていると記されているのだ。
    これが、「南九州域の強いアクセントのニュアンス」で見抜けるが、ここも恐らくは「都から六年交代で来ていた伊佐氏の住職」が「日向平氏の追討軍」に直接に答えたとされているのだ。
    だとすると、この記録から「伊勢青木氏との誼」は先ず解決する。

    この「伊佐氏の住職」は、「官吏」として「伊勢平氏と伊勢青木氏との血縁性」を充分に承知していて「言い逃れ」で先ずは回避できるとして咄嗟に答えた事と観える。
    然し、この「伊佐氏の住職」が「伊勢青木氏の名」を何故タイミングよく断りもなく答えたものだと疑う。

    この事に付いて、情報が住職に伝えられていたとする原因は下記にするが別の処でも詳しく判る。

    こに祐筆は次の事を「添書の形」で追記の形で記している。
    到着後、「日向青木氏・呼称とする」は、“「伊勢青木氏だ”と名乗った事」に対して十分な詮議をせずに引き上げたとしている。
    それは「引き上げた原因」は、「伊勢平氏と伊勢青木氏との血縁性・桓武派」を充分に承知していて「追及」が出来なかった事とし、又、何せ「肝付氏の勢力の領域」に「懐深く入り込んでいた事」のこの二つであろう。
    「配流処置と成った嘆願書」に背任して「戦いに及んだ事」で、「日向平氏の追討軍」には許し難い事もあったが慌てて引き上げたとある。
    その原因は、「祐筆の添書」には無いが、それは上記の通り主に“「肝付氏の勢力」にあった”と観ている。
    この事に付いて、「物語風の記録・ある郷土史」によれば村人に「引き上げなければならない理由を述べている」が遺されている。
    つまり、正しく「肝付軍」に背後を突かれれば全滅であり、だから「伊勢青木氏」に執っては何の関係も無い「肝付氏の事まで」も書き記したと観られる。

    其の後、 「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺・現存」の中でこの「裔系の日向青木氏・後の呼称」が「大口村」から最終は元の故郷の「日向の廻村」までその子孫を拡大して行くのである。(下記)
    因みに、この事に就いて「近江佐々木氏の青木氏一族の研究資料」には、この「朝廷官吏族伊佐氏・弁財使の事」や「朝廷官吏族の大豪族肝付氏・押領使の事」と、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺の事」も記されていて、何れも「地域の安定の為に統治用の朝廷軍」を預けられていたとされる。
    それも「秀郷流賜姓青木氏族の薩摩永嶋氏」に関連に付いても記されているのである。

    結局は、「伊勢側が執った助命嘆願書」は、思いがけなく「日向平氏への戦い」で背任され「面目丸つぶれ」と成った経緯事件なのである。
    その後の「裔系の廻氏系摂津清和源氏の仲綱系の裔」は、「日向青木氏」としてその子孫は大繁栄したが、これ以上は「伊勢側」は何も出来なかった事に成ろう。
    然し、「これだけの情報」が記されているその所以は、「青木氏の氏是に反した戒め」としての「伝記」で詳しく後世に語り継がれる様に遺したと観られる。

    「面目丸つぶれの伝記」には、念の為にもう一つ疑問が残っている。
    それは、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏菩提寺」への「情報伝達手段」はどうしたのかであり如何にも早い。
    「何の所縁も義理も無い住職」が自分の危険も顧みずに、機転を利かすにしても余りにも適格であった。
    これは何らかの連絡なくしては余計な事は出来なかった筈である。
    実は、色々研究の末にその元が比較的に簡単に発見できたのだ。
    それは「二か所からの史実」であった。
    その一つは、上記の「近江佐々木氏の研究資料」の「秀郷流青木氏族薩摩永嶋氏」の処と、「1180年頃の青木氏の商い」にあって、前段でも論じた様に、「925年」に朝廷から離れて本格的に「殖産と合わせた商い」に及び、「1025年頃」には「総合商社」を「伊勢」と「摂津」で営んでいるのだ。
    そして、前段でも何度も論じている事ではあるが、その後、直ぐに「大船三艘」で伊勢と摂津で「北宋貿易」を開始しているし、「伊勢水軍」も7割株の水軍主であったのだ。

    そもそも歴史的には「平安時代」には「北宋」との間で公式ではない「私的貿易」が行われいたが、「南宋樹立後」に「平氏政権」も非公式で「宋貿易」を担った。
    その後、「鎌倉時代」にも「民間レベル交流」があった。
    この「日宋間の貿易」は飽く迄も元より非公式のものであって、「私権の獲得」に過ぎず利益を獲得して「桓武平氏の発展」を遂げた原因と成った事は公的な記録でも明らかである。
    これに依って「宋銭」が入り、「貨幣経済」が発達した経緯を持っているのだ。
    「清盛」はこの「私的貿易の宋貿易」を振興する為に各地に「朝廷の市舶司役人」を設置したとある。
    その結果として、「宋商人」は、「博多」や“「薩摩坊津」”、「越前敦賀」まで来航し、この“「私的貿易」”が盛んに行われていて、これを許していたが、「1173年」にその為にもこの“「南宋貿易」”を「博多」から「瀬戸内」を通って「摂津」の「拡張福原の大輪田泊・突貫工事」に直輸させて「利権」を一人締めしようとしたとする「騒動の記録」さえある。
    この為に、突貫的に博多から瀬戸内経由で「各地の数十の船泊」を改修して摂津に引き込んだのだとされる。

    さて、「伊勢青木氏」もこの「総合商社・1025年頃後」に既に開始していた「私的な北宋貿易」は、「1170年頃」に「北宋貿易・1025年から1127年まで」で得た「貿易知識」を以て、この「南宋貿易」をも始動しその商法を「清盛」に指導したのは「摂津の伊勢青木氏」であったと記されている。
    更に「伊勢青木氏から受けた貿易知識」を「源義経」にも教えたとする記録がある。
    その「伊勢青木氏の知識」は「北宋貿易」だけでは無かった様で、「伊勢水軍」も盛んに使って「琉球や周辺の島々」等もあったらしい事が資料より読み取れる。

    その後、因みに上記した様に「清盛」は「義経」にもこの「南宋貿易の商い」を我子の様に優しく教えて「政治を始動する事」を教えたとする記録も遺っていて、この事で考え方の違いが発生し「頼朝と仲違いの原因」と成ったと記している説もあるが、この「史実の経緯」から観て納得できる説でもある。
    その元は「伊勢平氏との所縁」を持つ「伊勢青木氏」であったが、「南宋貿易の事・1190年頃〜1277年頃」には記されていないのは何かあったと考えられる。
    これは「鎌倉幕府の樹立期」である。
    つまり、この「上記の史実」から、「伊勢青木氏が助命嘆願で興してしまった大失敗」をしたが、「大不義理を興した伊勢青木氏」に対しては、この時、次の二つの事が読み取れる。

    一つは、「宋貿易での清盛と伊勢との関係性」の「時代性経緯」が、この「不義理の時期」と一致している事である。
    つまり、ところが「伊勢の不義理」に対して「清盛」は何の変化・処置もしていない事にある。
    寧ろ、「貿易と云う点」で指導していて「伊勢平氏を強くした事」に繋がったと考えられ、「清盛」は感謝していた可能性がある。

    二つは、この「伊勢交易・伊勢屋・青木氏」の「日本各地の交易泊」として、又、「北宋貿易の経由地泊」として「薩摩坊津泊」が記されている。
    此処が日本から離れる時の「最初の泊」であったとされ、「大口村の寺・浄土寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」から約北東に「100k(25里)の所」にある。
    この事で上記の「情報伝達の仕組みの疑問」が解決する。

    「伊勢」からの「情報伝達手段」と「糧の物資輸送手段」は「伊勢の大船3艘と伊勢水軍」に執って見れば特段に何の問題も無い。
    特段に「宋貿易」でなくても「総合商社」としては、「九州伊勢の物資輸送・交易」としては当たり前の事であった。
    上記に記されている「伊勢側の詳細な経緯の内容」は、この事で得られていた事に成り、「祐筆の書」は納得できる。
    現在でも、何はともあれ証としてこの「坊津泊の地名」も「大口の浄土寺の寺」も現存しているのだ。

    この件と離れて、「奈良期からの泊」で調査して観ると、次の事が出て来る。
    それは「五つの自然条件」が整っていた所が「泊」として選ばれていたらしい。
    それは、次の順であったらしい事が資料に記されている。

    一つは、黒潮の通る所 黒潮の力を利用できる事
    二つは、水深がある所 深く黒潮の流れに乗れる事
    三つは、風が在る所 一定の良い風が吹く事
    四つは、地形の良い所 停泊が出来る事
    五つは、大きな河川のある所 泊の奥に荷駄を送れ安全に船が逃げ込める事

    これ等は「帆船」であった事からの条件であろう。

    さて、本論のこの「五つの条件」に合致する「坊津」は古書にも記されている通り、「貿易」の「大和から外洋に出る最初の拠点」であったらしい事が判る。

    九州で「古くからの奈良期からの泊」であった所があって、この「坊津」から海沿いに北に向かって西域に「約96k・26里」の域に、「上記の五条件」が整っている「阿久根」云う「自然泊」があって賑わっていた事が記されている。

    この“「阿久根泊」”から「真東の内陸」に向かって直線的に「68k・17里で徒歩12H・1日到達」の所が、「大口村の寺・浄土寺の浄光寺・朝廷官吏族伊佐氏の菩提寺」がある地域なのだ。
    此の“「阿久根泊」からこの「浄光寺」”までは比較的平坦な河川敷(九州全土を廻るR3)を経由して到達するのだ。
    記録が無いが、この“「阿久根泊」からこの「浄光寺」”に向かって、「情報と物資の伝達」が成されていたと観ていて、「交易・貿易」の為の各地の物産を運ぶ為に「伊勢水軍等の青木氏の大船」を使ったと観ているのだ。
    現在もこの「阿久根までの摂津の航路」は現存していてあるのだし、「摂津」から「室戸泊・四国」を経由し、「坊津泊・南薩」や「阿久根泊」を経由して「中国」に渡っている史実がある。
    他には、古書には「佐多大泊・佐多岬の記録」も出て来て、「宋貿易」のみならず「中国交易の黒潮を利用した中継点」と成っていた事が判る。

    丁度、この少し前に歴史的にこの航路を使っての「鑑真和尚・吉備真日等に観られる様な史実」、難破して九南九州の多くの泊に辿り着いとする史実が多く残っている史実がある。
    だから、上記の通り「助命嘆願策の実行」と、その「詳細の経緯を記す事」が出来たと観ている事もあり、然る事乍ら、「宋貿易の経路」でもあった事もあって、「青木氏の氏是」を破ってでも比較的簡単に「情報提供と伝達」を請け負った事も考えられる。
    そこに「裏切り」が起こり「青木氏として興してはならない不義理」の「落とし穴」があったのだろう。
    「歴史的な大失敗」と成ったが故に、事例として詳細な記録を「後世の戒め」として遺したと考えられる。
    ところが消えるのみと成っている処を纏めて繋いでそれを筆者が未来の裔の為に更に「復元・復興している事」に成るのだ。

    唯、この「復元の中」で一つ一寸した疑問がある。
    何故、「伊勢からの示唆」であるとして「住職の忠告の結果」で、「伊勢青木氏」を名乗って、その後も更に引き継いで名乗っている事だ。
    これを説いて置くと本来であるなら、「伊勢青木氏との血縁」は元は無いのだから「廻氏を名乗る」のが妥当と云う事に成るだろう。
    宗綱の廻裔とすれば「嵯峨源氏以降の朝臣族の摂津源氏系」なので、「奈良期の慣習」として「元皇位族の名乗り」としてあったのだから、但し、「青木氏の名乗り」も完全否定は出来ないが、「平安末期の事」とすれば矢張り「名乗り」は当然の事して「廻氏」であっただろう。
    そこで、この何にも「確かな記録のない疑問」を探るとすると、其の後の詳細資料を遺した以上には「謂れ」として何かがあって、「救出直後の糧」としては「大船を廻す等の過程」で何かがあったとする「推測・勘ぐり」が出る。
    つまり、「大口村の救出生活・生き残る糧の獲得」の「一定期間の糧を獲得する過程」で、実質、「青木氏を名乗る事」が興ったとも考えられる。
    そうでなくては「平安末期の混乱の時代」に実質的に生けて行けなかったであろう。

    それは筆者は、前段でも論じた様に、後に興った「駿河青木氏」の様に一度、先ず「伊勢」に引き取り育て一人前にして「糧と成る大船」を1艘与えて復興させて駿河に帰した経緯がある。
    この様な事が必然として興ったのでは無いかと云う事だ。
    要するに、「家人説」である。
    つまり、「廻氏の裔系とその廻氏家臣5人」を「伊勢」に先ず交易船で引き取り育て、「5人の家臣」に「操船技術と商い」を「伊勢水軍」で教え、一人前に成った処で「大船一艘」を与えて、この「廻氏裔系と5人の家臣」を先ず「日向」では無く「大口」に帰えしたのではないか。

    そもそも、上記の通りに「伊勢」は「宋貿易や琉球交易」をしていて「廻船」をしていたとしているので、この「伊勢の仕事」を手伝って「南九州の産物」を「伊勢」に、「伊勢の産物」を「南九州」に運んで糧を建てていたと考えられる。
    当時は、「神明社ルートや秀郷流青木氏等全国各地のルート」、「青木氏族の定住地のルート」とすれば「伊勢―伊豆間」、後に「駿河」でも交易は行っていたのだからこれは「難しい事」では無かった筈だ。
    記録に「大口・日向青木氏」は、後に「日向」にも裔を戻したとされ、「大口―日向間」の「流れの早い難所」で「有名な日向灘水軍の記録・この「海運一族」を「下青木組」と呼ばれていた事もあり、これは、上記の「家人説」を裏付けるものであろう。
    後に、「黒田藩」に「山族の上青木・上青木組と呼ばれていた」と「海族の下青木・下青木組と呼ばれていた」のこの二つは「二つの力」を買われて、「傭兵と成った事」は記録で証明されている。
    恐らくは、元々、「商人出自の黒田藩」は、「傭兵」は勿論の事、黒田藩に無かった「海軍・名目」をこれで持てた事と、「上青木組と下青木組」と呼称させるほどの「取り組み」から観て、この「商力・財力・伊勢屋の財力も」に目を着けていたと考えられる。
    これは「裏」で「伊勢屋・青木氏」が背後にいて、「日向青木氏と黒田藩の商い」で「大子孫拡大の鍵」と成ったのだ。
    そこで「青木氏家人説」では、先ず「廻氏の裔」を「伊勢」で育て、「男子15歳成人」として「妻嫁制度の仕来り」に沿って「福家」で育てられた「青木氏の女(むすめ)」を嫁して、女系である故にその「生まれた優秀な男子」に伊勢で「青木氏」を興させて、「家人青木氏」として「大口」に戻したと観られる。
    筆者は「廻氏の5人の家臣」にも「氏族の伊勢郷士衆との血縁」を繋いで「女系青木氏・氏人族」としたのでは無いかと観ているのだ。

    上記の「商いの経緯」で「糧」を充分に得られ、それを下地に「地権」を獲得拡大しながら、その「家人青木氏」が「大口と阿久根の出水と日向」に子孫を広げたと考えられる。
    唯、子孫を勝手に増えたからと云って住み分け制度で戦わない限りは平安末期から室町期末期に掛けて「子孫拡大の生活圏」を、強い武力の略奪で無ければ勝手に広げられる社会ではそもそも無かった。
    それが「戦い」で日向まで広げたとする記録が無い事から「財」を下地に地権獲得で広げたのだ。
    筆者は、当初、「上青木と下青木」が「廻氏裔の青木氏・本家分家」で分けられていたと考えていたが、飽く迄もこれは「傭兵の軍制」の都合の発端から分けられたものであって、「黒田藩の資料」の中にこれが出て来るので、「地域・つまり特徴」で分けた軍制であった筈だ。
    この為に二か所の墓所等を調べた結果、「本家筋とみられる大口青木氏」がある事が判った。
    それは、一つは前段でも論じたが秀吉が「天皇家の式紋・五三の桐紋」を模写して作った「五七の桐紋」が、「墓所と資料」にあって、これは「勲功のあった大名やその家臣等」に使用を許したが、黒田藩から大口・日向青木氏に与えられた事が記されている。
    その「五七の桐の式紋」と共に思い掛けなくも「丸に笹竜胆紋」を使用した「古い墓所」があった。
    家紋を墓所に刻んでいる事から室町期以降の墓所であろう。
    「丸に笹竜胆紋」は前段でも論じたが「本来賜姓族の格式を持っている事」から丸紋は掟として無い。
    然し、唯一、この上記の家人の「大口青木氏」にある事から、「宗綱の裔とする廻氏の裔」は根本は「卑属」である限りは「丸」は勿論の事で「笹竜胆」は無い。
    然し、黒田藩時代の時には「丸付き紋」を使っている資料があるし、古い墓所にもある処から「伊勢」が、「丸付き紋」も「伊勢郷士・戦い等で一族の総紋として使う事がある」には許していない紋を許した事が考えられる。
    それは「氏族の伊勢郷士衆」との違いのこの「丸付き」は「廻氏系の伊勢青木氏の家人であると云う前提」であったのかも知れない。
    これには以下の二つである。
    一つは、「女系である事」から男子を四家の一族の者から出す前提である事。
    この事から、「廻氏・子供」を先ず「養嗣・養継嗣」とし、その後に「伊勢の女(むすめ)」が嫁し「一族の者」とし、「家人青木氏」とし、「生まれた男子」を「青木氏」とした経緯 1。
    二つは、「廻氏の若者」と「女(むすめ)」との間に生まれた「優秀な男子」に「女系の青木氏」を興させて「家人」の「青木氏」とした経緯 2。
    以上の「二つ」が考えられるが確定するそこまでの資料が出て来ない。

    さて、この一つ目は「四掟の前提」からかこの前例は見られないので、恐らくは「二つ目の通常の方法」を慌てる事なく採ったと観ている。
    そう成ると、「廻氏の子供の年齢」であるが、宗綱配流後に廻氏との間で子供を産み、その後に「日向平氏」と二度戦ったとされていて、敗退して大口に逃げたとする経緯から検証すると、そもそも、「配流」は「1180年、頼政敗戦」の後に「1185年頃」から「頼朝」が立ち上がり先ず敗戦し一度目が敗退し、「1192年の二度目」に平家に壇ノ浦で勝つが、「仲綱の長男宗綱」は、「従五位下、左衛門尉、肥後守。源宗仲の父」としているので、少なくともこの時には「30歳程度の年齢」で「配流と成った前の事」に成る。
    そうすると、「日向平氏」に「戦いに挑んだ時期」は、「頼朝に呼応しての事」であったので「1183年頃と1190年頃」の二度目として、再度、「南九州の土豪勢力」を再結集して「日向平氏」に挑んで敗退した事に成る。
    そして、その後にその「廻氏裔」が「大口」に逃げ込んだとすると、少なくとも時系列の計算では「5歳位から9歳」までであった事に成る。
    それを「伊勢」に呼び寄せたと成るのだ。
    そうすると、最低でも「成人15歳」までの「5年から7年間」は育てられたと成る故に、後者の考察説では、「廻氏の裔の若者・15歳」と「伊勢の女(むすめ)」との間に生まれた「優秀な男子」に「女系の家人青木氏」を興させて「家人青木氏」とした「経緯 2」に成る。
    そうでなけれは時系列から「伊勢青木氏は名乗れない事」に成る。
    これは「生きる糧」として身に着ける訓練としても最低であり得る期間と成る。
    そもそも生き残った「廻氏の侍の家臣5人」だけでは「大船」は動かせられないし、「伊勢との商い」を始動させるには「伊勢水軍と伊勢郷士衆」を「5人から10人」を暫くは帯同させた筈だ。
    その上で先ず、その後に「伊佐大口」に近い「阿久根泊」に戻った事に成ろうし、此処で「廻村」から「下記の事件の事」があって、「一族や村人等」を急いで「大口村」に呼び寄せた事に成ろう。
    この「時代の時系列」は、「伊佐大口」に戻って一族を呼び寄せたのは「1195年から1205年頃の10年間の事」に成ろう。

    丁度、「日向廻村・現在の小林市細野付近」はこの事件に巻き込まれていたのだ。
    この「日向の廻村」から西国境を超えて「えびの」を中間にし、「薩摩伊佐の大口」まで真西に真直線で「11里・44k・徒士1日の約9時間程度の範囲」の小山一つを越えた「平野部の所」に両村は在った。
    船で「阿久根泊」に到着後、更に東に「68k・12h・17里・徒士」に移動して先ず「大口」に到着後、其処から更に「11里・44k・徒士1日の約9h」で「廻村」に到着する事に成る。
    合せて、「79k・21h・28里」であった事に成り、「2日から3日架かり」で到着する道程であった。
    到着後、時を同じくして、“村人等は恐れて飛散した”の行から、「廻村」から「一族と村人」を段階的に「大口の浄光寺・伊佐氏の菩提寺」に先ず集め、「阿久根」から陸路で東に荷物を運び入れて先ずは「生き延びる糧」を造って得た事が考えられ救い出した事に成るだろう。

    そこで「伊勢側」では前もってこの「危険な情報」を得ていた事が上記の交易手段で得ていた可能性が充分にある。
    筆者は「伊勢」を出る際には、この事を既に想定していたのではないか。
    「一族を救い出す事」と「最低の生活基盤を築く事」に当面はあっただろう。
    だとすると、この仮定では「伊勢の大船2艘程度」を重ねてで無くては無理であろう。

    先に注釈として記するが、因みに、この直前の「逸話・史実」が「日向」でも物語風で語り継がれていた事が判っている。
    時は、「鎌倉時代・頼朝三代1219年・1221年淘汰され源氏完全滅亡期」の3年前であり、「北条氏の台頭事件」の有名な一つである。
    この直前で「日向平家」が滅亡し、ここに「惟宗忠久・1203年・清和源氏裔名乗る者」が「日向地頭」として入って良政を敷き土着したとある。
    ところが「比企能員の変・1203年・謀略」が起きて、“廻村の村人等は関わりを恐れて飛散した”とあり、その「忠久」もそれに連座したとして罰せられて「鎌倉幕府」から「呼戻命」が届き死を覚悟して「鎌倉に戻る語り」が地元の歌舞伎としても遺されている。
    「惟宗忠久」は、「朝廷の記録」にもある様に、“惟宗”の呼称である以上は「渡来人秦氏の裔」で「賜姓」を受けて、「宿禰の惟宗朝臣・姓の賜姓」を名乗ると「史実の記録」があるので、「秦氏」が史実として正しいので、「源氏とする説」は「国印状取得」の為の「江戸初期の後付け」である。

    そうすると「阿久根泊」に着いた彼等は、直ぐに東の「大口」から更に「廻」に走った事に成る。
    “村人等は恐れて飛散した”とありする処から、「廻村の一族」とその「村人」を間違いなく1日も早く「大口」に救い出した事に成る筈である。
    その「村人救い出し」としては、「廻村」から真東の同距離の「小泊・赤江泊」は資料の地形から“河洲が広がり水深が浅く”の記述あり、この事から「大船の泊」は昔は無理であった様であり、従ってここからは「救出」は無理であったろう。
    この事は、「救出後の生活基盤の構築具合」でも判る。
    「一族と村人を救い出す」と云っても、そう簡単な事ではない。
    「大口を拠点にした事」は判っているので、「船泊の阿久根・住居は出水」を「物資の拠点」として東の「定住拠点の大口村」に「第一段階の定住地」を先ず構築した事がこの「行」でも判る。

    この当時の構築劇を検証して観ると、「伊佐全域面積では80000反」で、その「羽月川」の流れる1/4の「大口村の未開の約20000反の原野・羽月川・川内川支流」を開墾して、そこに是が非でも「住む所と田畑の開墾」を行う必要があった。
    「阿久根泊」から「448m山上りし、そこから654m下る位置」にあり、「段差175m高い位置の高原」にあり、この「窪地の平野」が、「朝廷の官吏伊佐氏が赴任していた土地」として考えれば、ここを「定住地」としては適していた事に成る。
    この「広い河洲の平野」では、「原則1反1石1人1年の原則」は成り立つとして、それで救出したとして、「隠れて生き遺った一族と村人の数」を少なくとも「総勢仮に100人」とすると、先ず「食料の100反=3万坪」を開墾しなくてはならないし、「住む場所の確保」として「山手・台地」に、「100人/4」として「25軒分・50坪=1250坪=40反」として、少なくとも「合計150反」は開墾しなくてはならない計算に成る。
    後は「地権獲得の財」と成り、これは「生活費」と共に水運で稼げるし、当初は「伊勢が支払う事・支援」に成ろう。
    「財」は「伊勢からの大船1艘の水運」で「伊勢」と繋がっているので「交易」で容易に稼げるだろう。

    第二段階として、「子孫」が広がり、「上青木と下青木氏」のある「呼称記録」がある通り、此処から拡大子孫が次第に「日向灘の行文」がある様に「真東の赤江泊・下青木・現存」に降りて行った事に成る。
    この「赤江の生活」は基本は「漁業」であったと記されいる。
    最後は「流れの早い日向灘での漁業」としているが、筆者は、「伊勢水軍の支援・熊野灘」もあって誰もが避ける“「日向灘水運」を手掛けた”と考えている。
    この事から、「小舟漁業」から「日向灘大船水運と日向灘大船漁業」の「二つの操業経緯」を辿って持っていたと観ていて、だから「黒田藩」にこれを買われ「傭兵軍団と成った事」でもあり、「御用商人と成っていた事の証」と成る。
    そもそも「漁業」では「傭兵軍団」とはならないだろうし、だから、「大口青木氏」に伝えられた「五七の桐紋の使用許可の口伝・墓所などにも使用している」が出たと観ている。
    結局は、この「財」は、「大船1艘の水運」から始まったものであったろうし、その経緯は「大口村の経緯」と同然であろう。
    「祐筆の表現不足」に在ったのであろうがここまで「青木氏の記録」の読み込みであり祐筆は書く必要は無かったであろう。

    そこで、だとするとここで「疑問」がある。
    何故、「大口」から「真東外れの赤江」と行き成り成ったのかであって、言い換えれば「大口」を東に、又は「西の阿久根泊」に当然の事として伸びなかったのかである。
    「地権獲得」では西にしろ東にしろ何れにしてもこの時期は未だ「肝付氏の圏域」であり、良好な関係を保っていた。
    何で「赤江」では無く「阿久根」では無かったのかであり、将又、「大口より東域」に伸びなかったのかである。
    「傭兵」であるとしても飽く迄も「傭兵」であり、「積極的武力を使っての事」では無い。
    「利」からすれば、「原点が交易もある事」からどう考えても「大口の一族の生活」からも「阿久根泊」である。
    実は調べるとこれには「大きな欠点」を持っていたのだ。
    「良好な大船の泊」は、“水深が深い事から地形も狭い”と云う「地形的な宿命」でもあった。
    大河洲が無く「大口の東域」は「赤江」まで伸びていて制限はなく、「1反1石1人1年の原則」の「伸代」は拡大次第で充分で成り立つが、然し、「阿久根泊」には「伸代」は「地形地層」から「岩層」で固定の「5から7平方km以内・現在も同」でこれは全く成り立たない「地形的な欠点」を持っていたのだ。

    「阿久根」は、そもそも「地層」の専門的学的にも極めて「有名な地形」で知らない者がない程で、「鹿児島」は勿論の事、九州、日本で最も古いとされる“「阿久根古生層」”と呼ばれる「固い地層」が海岸の一部に露出した珍しい地層である。
    「古生時代」に「大洋底に堆積したチャート」が地表に突き出した珍しい地形」で、その「岩石」は「五色岩」と呼ばれる「色チャート礫」と「凝灰角礫岩」とで形成されたものであるのだ。
    現在でも「阿久根層」として地私学的に有名だが、当時としても「水運を操る者」としての「海層地形の常識」であって故に西に延びる事が出来なかったのだ。
    此処からも意味する事は、明らかにこの事が判る「伊勢と伊勢水軍が深く関わっていた事」が判り、「現地訓練も行っていた事」をも証明するものであるのだ。

    上記とすると、ここで更にこの事から後世として記述に及んでいない解明して置くべき「疑問」が又浮き出る。
    それは、“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”と、それに反する“「日向灘水運」を営んだとする事 2”の二つである。
    この1では、「大口」が密集度としていっぱいに成り、一部がそこから出て行って「赤江泊」で「地権と漁業権」を獲得し移り住んだとすれば何の問題も無い。
    然し、この2の「日向灘水運」が伴うと成るとこの1に問題が生まれる。
    それは2を行うと成れば、「大船の泊の問題」が浮き出る。
    「大船の泊」は、当時の記録から、この南薩では「佐多岬泊」か「坊津泊」か「阿久根泊」かの3泊に成るが、「物・資供給を必要とする大口」の「常宿泊」としては、「前者二つの泊」は「寄港泊と成る事」は否定できないが大口までは遠すぎて適さない。
    そうすると矢張り「大船の泊」としては「阿久根泊」で無くてはならない事に成る。
    「日向灘水運」を行う以上は、ではそもそも一々、「阿久根泊」に戻ったのかという事であり、半島を「一回り・440km」とするとそんな事は到底無理だ。
    どこかの「赤江付近」に「常宿泊」が無くては「水運営業」は成り立たないが、当時は原則として「泊を建設する事」は無く南薩海域にも無く、主に「自然泊」としていた為に当初は「水深」が浅く「自然泊」は無かったのだ。
    この時期の「平清盛の宋貿易」の「大船用の泊」も「自然泊」を水深等を深くするなどの急造の改築して建造しているのだ。

    ところが記録に依れば、「鎌倉期」に入ってから「志布志泊・水深50mから70m」が開発されたと記されている。
    それは、“「1205年から1210年頃には交易が盛んになり始めた事”で「志布志泊」は“「鎌倉幕府」に依って開かれた”と公的な記録では成っている。
    そうすると、それまでは、、“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”と成っていた事を物語るし、“「日向灘水運」を営んだとする事 2”は、「志布志泊」が「交易用の大船泊が可能と成った事」で、つまり「日向灘水運が営まれる事」と成り、これは「灘水運の開始時期」を物語るものだ。
    「上記した伊勢の記録」とは、当に丁度、その時期に合致していて、先ず、“1で始まり2に直ぐ移行した事の経緯”とする「行」と書き換えられた事に成るだろう。
    恐らくは「伊勢青木氏祐筆」は、この事があって添書としたのであって「書き添えた」のであろう。
    では、「大口での救出劇」は、1203年」の“赤江泊で漁業を営んだとする事 1”の記述は、何の為にしたのかである。
    ほぼ「3年にも満たない時期」に2が始まっているとすると、「1203年の比企能員の乱」に伴い「廻村の一族等」を救出したのだから、1は短期間であった事に成る。
    これは大した意味は成さなかったのではないかと云う疑問に発展する。
    其の侭でも、1をしなくても2に入れる事に成るだろう。
    この事は「赤江の小舟漁業」は同時と見做す事が出来るだろう。

    筆者は、意味が無いと観られるこの「リスクのある1の行動」は、「2の行動の策」の為にあったと観ているのだ。
    「阿久根泊で開いていた大船海運・上青木」を「志布志泊・日向灘水運・下青木」にも拡げる為の「鎌倉幕府」と「地頭肝付氏」への「政治工作の策」であったと観ている。
    先ず「新たに開設された志布志泊」を「常宿泊」として「日向灘水運」を始めるその為には、上記した様に「阿久根泊」から「大口」に「船人」を廻せない。
    そこでその為には、「志布志泊付近」に「定住地」を新たに開設する必要がある。
    それが「赤江泊・小舟」であったと考えられ、それには先ず「業業権」を獲得するには「定住地とする権利」を獲得せねばならない。
    「日向灘水運の業」を前提としたのではこの「権利」は降りず獲得できない。
    そこで、「赤江での小舟での漁業権の獲得」を先ず狙う必要があった。
    この「漁業権の獲得」に依って「定住地の地権獲得の条件」が整う事に成る。
    それが得られれば、「日向灘水運の業」を前提とした「常宿泊の定住地」が獲得でき「志布志泊の条件」にも合致する。

    恐らくは、「日向灘水運の業の事務所」を設置しなければならないし、それらの「大船の船員家族の家」も必要と成るし、その何もしないで過ごす事も無いと考えら、「その間の少しの糧」としても表向きとして「小舟漁業」を営んだと観られるのだ。
    筆者は、「小舟漁業に関する記述」は、「資料読み込み」から主に「家族の名目労働の事」を記したものであったと観ている。
    これで「泊役人」や「何れの周囲の組合人等」からも文句が出ない様にしたのであろうし、後は、「赤江泊と志布志泊と阿久根泊と大口村」との「商いの連絡事務所の開設」であったと観られる。

    因みに「平安末期から鎌倉期」までは「各種の役人」を九州域に置いて「取り締まりを強化した事」が記録にある。
    例えば、一例として次の様な役人が勢力を張っていて恐れられていたと記録にある。
    この事で、「船主」は、“何もしない”と云う訳には行かず、“裏表に取り分け気を配った事”が「鎌倉期の東鏡」などに記されている。
    取り分け、「鎌倉期」には次の様な「海事に関する三つの奉行」が「北条氏世襲の鎮西府下」で急遽設置されたとしている。
    それだけに「海事」が、「清盛」が先駆者と成って開き、その後の「鎌倉時代」には、急激に「交易が盛んに成った事・史実」で「簡単な規則」を作り盛んに成った事を意味している。
    歴史上の「義経と頼朝の軋轢」はこの考え方の差にあったとされている。

    記録に依れば次の通りである。
    それは次の三つとしている。
    一つは、「舟船奉行」は、「各地大泊」に配置した泊税役人
    二つは、「船手奉行」は、「船舶・海路・水運の運航管理の諸事」を主に扱った役人
    三つは、「港泊役人」は、「泊管理や交易船取り締まり」を扱った役
    以上の様な通称“「三役人」”を最初は九州から次第に「全国各地の泊」に配置して「幕府の税収益や冥加金の
    「裏表」をあげて「海事権力を高めていた」と記録にあるのだ。

    つまり、「船主」と成るには、この「大壁」を乗り越えなくては成らなかったのだが、それだけに「利益も大きかった事」が云える。
    大きく成り過ぎれば成る程に警戒をされる等の事が「幕府や周囲の豪族地頭勢力]からあったのだ。
    その意味で、「伊勢を背景」として「大口青木氏・日向青木氏の水運交易」は、「小舟漁業を主体とする商いの糧」では無かった事が明確に云えいて、飽く迄もこれ等の大きな壁を超える為の警戒されない様にする為の「見つからないようにする策・手立て」であった事を意味するのだ。
    明確に言える事は「日向水運の事業」は、況や「大口青木氏・日向青木氏」は「伊勢を背景」として当にその位置にのし上がろうとしていた時期だったのだ。
    未だ周囲が余り開かれていなかった「平安末期の交易水運」を「伊勢主導」で逸早く取り入れ、「伊勢の指導の下」で、「大口」にも一族・大口青木氏と伊勢青木氏」を集中拡大させ、「阿久根泊を常宿泊とした水運」と「志布志泊を常宿泊として水運」の何と「二つの水運業」を鎌倉期に持とうとしていたのだ。
    当然に、「大船」も増やしたであろうがこの祐筆は書き記していないので「船数」は判っていない。
    唯、この「文章の行の一節」に、「伊勢水軍の単語」が入っているので、「伊勢青木氏が7割株で親方と成っている伊勢水軍」とまでは行かなくても、「志布志泊の時」には「大口青木氏の方」では「5隻から6隻程度」は所有していたと考えられる。

    上記の「三つの海事奉行の設置」は、主に「第一回目の元寇の役・1266年」を機に幕府が執った「海事の強化策・処置令を出している」とされていて、それは先ず「南九州」に於いて施されたとされている。
    これは「約62年から63年間程度」は経ているので、検証としては「志布志泊の時」には「5隻から6隻程度/60」と成り 10年に1隻」はあり得るだろう。
    つまり、だとするとこの時期では未だ「大船を使った交易業」は当時としては少なく、「清盛に「大船の交易業」を教えた経緯がある位で「伊勢」を背景とした「大口青木氏の交易水運業」は、恐らくは「トップ域」にあったと考えられ、「途轍もない財」を背景に共に恐れられていた事とも考えられる。

    因みに前段でも論じたが、これは「江戸期の事」ではあるが、「伊勢」でもこの様な「事件記録」があった。
    「全国五奉行所」の一つの「関西区域」を管轄する「海事奉行」の「山田奉行所」が伊勢にあった。
    そこで「家康の伊勢の事お構いなしのお定め書」を持つ「莫大な財を持つ伊勢青木氏」と、大きくなり過ぎた為としてこれを敢えて無視した「山田奉行所」から無理難題を押し付けられていた事が「伊勢青木氏の記録と公的記録」にも記録されている。
    「摂津商船組合・物語風に記録あり」と組んだ「戦い寸前・享保期初期」まで陥ったが、前段でも論じたが、「伊勢・伊勢屋」は、この時、「莫大な債権」を「松平系支藩・安芸藩等の3藩」と「紀州藩」と「幕府」とに、抑え込めるだけの「大債権」を持っていたのだ。
    これが大事に成れば、幕府は破産と成り信頼失墜するは必定で大きな武器を持っていた。
    「山田奉行所は「伊勢と摂津組合」を飽く迄も無視した。
    この事が「吉宗の耳」に入り「伊勢」と共に「享保の改革」を共に推進したにも拘わらず「吉宗」も「山田奉行所]のこれを黙認した。
    此処から「吉宗との関係」が崩れ始め最後は「信濃青木氏の財を奪う事」が引き金と成って「江戸」を引き上げる結果・200店舗を残す」と成った。
    この件は「紀州藩」が間に入り取り敢えずは治まった「有名な事件」があった程であったと記録されている。
    然し、この「鎌倉期」では、幕府から「伊勢本領安堵」が成され、「平安期の領地と地権」が認められた「経緯・安堵奉行が審査」があって、「良好な関係が維持されていた」とある。
    ところが、それでも「交易の要衝の南九州」でも「北条氏の代々赴任勢力・横暴な勢力」が広がり、記録では「北九州別府域」からの圏域で、「日向」から「肝付氏の勢力」を押しのけて南に広がり「志布志泊」までの「交易泊の利権等の剥奪」で「気の抜けぬ状態」ではあったと記されている。
    つまり、「出方次第」では変わっていた事が判る。

    さて、戻して次は、「志布志泊」まで子孫を拡大させて「下青木」が生まれ、「志布志交易水運業」は順調であった事が判るが、「大口青木氏」から「日向青木氏」と云う呼称が、「伊勢の資料記録」に在る以上は、此処から更に北に伸長して行って別の地域で拡大した事を意味するのか、将又、「下青木氏」が「日向青木氏」を意味しているのかがこの祐筆は語っていないので解らない。
    つまり、「大口青木」を「上青木と下青木」に呼称分けをしたのかである。
    この事に就いてその歴史的経緯から検証をしてみるが、筆者は、「下青木氏」は「日向青木氏である事」で、「上青木氏」は「大口青木氏」とするのが正しいと観ている。

    では、その解く鍵は、室町期には「交易水運業での黒田藩の傭兵・実践軍団では無かった可能性がある」と観ているからだ。
    これを「祐筆の表現の行」から読み込めば判る筈である。

    確かに“「軍」”として記されてはいるが、“「傭兵」”とする以上は何も戦うだけが「軍」では無いだろう。
    筆者は、平常時も然る事乍ら、「商い」としての「戦時の食料や武器の輸送」や「調達」を専門的に担ったものであったと考えている。
    もし、“「戦う軍」”であるのなら、「室町期の雑賀根来の銃傭兵軍団」の様に何時かは警戒されて潰されるか少なくとも「争いでこの様に子孫拡大」は果たせなかったと考えられる。
    然し、そうでは無かったとすれば、「普通の考え方」としては「交易水運業」を前面に押し出した「傭兵としての関係」を持っていた筈であろうし、背後に「伊勢青木氏」もあったとすれば“「戦う軍・青木氏の氏是」”は無かっただろう。
    そもそもその必要性は認められないからだ。
    これに「大口青木氏と日向青木氏が氏是に逆らう事」をすれば、「交易の糧」を絶たれて大勢の一族の者を養う事は出来なかった筈で、ここまで「海運水運業」で「子孫拡大」は望めなかったであろう。
    そもそも「上記した経緯を持つ青木氏」であった以上は、「青木氏氏是に反する事」は出来なかったであろう。
    間違いなく「交易水運業の傭兵」であったであろうし、前段でも詳しく論じた様に「室町期の雑賀根来の銃傭兵軍団」も「銃の生産業」からこれを生かした「銃の傭兵」であったのだ。
    「特技を生かすと云う点」では違っていないのだ。

    「日向灘と云う語」と「黒田藩傭兵の語」の「二つの語の意味」からすると、少なくとも「大船」を黒田藩に近い所までは運んでいた事は判る。
    そうすると、この「二つの語句」から「当時の泊の検証」が必要に成る。
    当時では、「自然泊」としては「佐伯泊」は記録にあった。
    この「佐伯泊」は古くから“「幌筵泊・幌を休める泊」”と呼ばれ、「日向灘の難所の大船の筵幌・むしろの幌を下ろし逃げ込み休む泊」で有名であったと記されていて、ここに幕府は「小さな警備府」を置いて「水難事故等の管理をしていた泊」であったと記されている。
    (現在は自衛隊の軍港である。)
    水深は丁度大船が入れる15m程度を持っていたとしている。
    「日向灘」とする以上は此処までは少なくとも来ていた事を意味している。

    次は「黒田藩・1600年の関ヶ原の戦いで福岡藩と成る」の「交易水運の傭兵の事」であるが、「1600年以降」では、「水運等の傭兵」であったとしても、その後には「荷駄運搬」を必要とする「内戦の戦い」は現実には無い。
    従って、この事から「伊勢側の記録」として遺した「傭兵とする語句」は、「黒田藩のお抱商人・交易水運業者」であった事に成る。
    「江戸」から離れた「福岡」である以上は、「交易水運の役」は無くてはならない「藩策」であったのだ。
    「素早く運び」、「良質で」、「何でも揃えられ」、且つ、「大量に運搬獲得できるの手段」が「黒田藩を救う唯一の策」と成り、それには「日向灘と云う難所」を越えられるだけの「人時場所の条件を揃えられる大商人」と成り得ていた事を示し、且つ、「祐筆」はそれには「優秀な日向青木氏が選ばれていた事」を示す為に「二つの語句」に「それ・傭兵」に込めたのでは無いか。

    そうすると、次の二つのルートが考えられる。
    先ず一つ目の、「佐伯泊」に入り、其処から「陸路」で北の湾岸沿いに博多に入る経路。
    これが「最短」で「平地」を経由する「約200km・50里・徒士42H・現R10号線ルート」
    次の二つ目は、「佐伯港」から出て其の侭で「海路」で下関通過して、奈良期古来より「日本最大良好泊」の「博多港」に入る経路で、「約240kmの水路」を移動する経路。
    この二つが考えられる。

    古書には、「一つ目の経路」が「二つ目の経路」よりも良く積極的に使われていた事が記されている。
    恐らくは、一つ目は「荷駄の積み替え」は起こるが時間が短い。
    「二つ目の経路」とは「約40kmの差」が起こるが、「博多泊」では「荷駄の積み替え」が起こるので、結局は差し引き同じで「古書」での「陸路選択の史実」は矢張り「安全」であったのであろう。
    然し、史実は別の資料ては両方がその目的に応じて頻繁に使われていた事が記されている。
    この「祐筆の記述」には、「二つ目の記述」は全くなく「佐伯泊の所」まである。
    だから、「佐伯泊」は上記した「筵幌休めの呼称」が遺っていたのであろう。
    その証拠に「佐伯泊」は「戦時中の軍港・現在も」としても使われた程の「筵幌休泊」であった。

    さて、これには上記の事で祐筆の何時もの一寸した面白半分の「表現差」が出ていると観る。
    筆者は、これに再び食い着いた。
    つまり、上記の「日向灘と黒田藩の一対の語句」からの「二つの経路」が在るのだが、祐筆は、何故か「日向灘だけに拘っていないのか」と感じる「行」としたのかと云う事だ。
    「黒田藩」とすれば、「下青木の志布志泊」からすると「日向灘」は位置的に「必然の場所」であろう。
    そこには、既に「阿久根泊の事」は記述しているので、とすると「日向灘」は何かに足して比較しているのではないかと「青木氏祐筆独特の語り調」と筆者は感じた。
    直接、「歴史書の様」に書くのではなく、何時も「匂わせる物語風」に面白く語り調の癖がある。
    記録を子孫に読ませようとする手段であろう。
    又、考えればある程度、そのような「目的・一族の者に言い語り遺す事」もあった事は否めない。
    そうすると、この「日向灘」にはこの「目的」を潜ませて記したとすれと、其れは何かである。

    「志布志泊に日向灘」とすると、当然に対比的に「阿久根泊」と成り、此処から北に向かう海路という事に成る。
    先に「阿久根泊の事」を書き記している以上、再び興して「阿久根泊の事」を書く訳には行かないだろう。
    そこで、これを潜ませて記したとすれば、「目的の行の流れ」は成り立つ。
    「阿久根泊・上青木・大口青木氏・?」と「志布志泊・下青木・日向青木氏・日向灘」の「対比語り」であるので、この「?の解明」と成る。
    とすると、「東周りの日向灘海路」に対して、「西回りの・・・回路」が在った事に成る。

    この「西回りの・・・海路」の{?}を次に検証した。
    前段でも何度も論じたが、その指摘した経緯があるのだ。
    {奈良期・618年」に「後漢」が「隋」に滅ぼされて、「第21代献帝」の時に、「父の阿知使王」と「子の阿多倍王」が「職能集団200万人」を引き連れて「大船団」で、「現北九州市・泊」と「現福岡泊」に上陸したとある。
    他の一部の「船団」は、「大和人の船先案内人」を載せて、上記の「二つの泊」から「西回り」で「南九州西」に上陸し、この上下で「職能」を伝導して「阿久根泊」から「福岡博多泊」までの航路を「無戦制圧」したとある。
    「数日程度で無戦制圧」して「枕崎に入った」としていて、そこから「父の阿知使王」は「現在の薩摩阿多地区」を拠点に、「子の阿多倍王」は「東の隼人地区」を拠点に住み着いたとある。
    ここから、更に船団は「瀬戸内」に入り「摂津播磨の手前」まで「職能伝導」で瞬く間に「32/66国」を制圧したとする「歴史的史実記録・伊勢と薩摩の半国割譲」が在る。
    これはこの時に「大和人の船先案内人という語句」から既に使われたこの「海路」が「古来より在った事」を証明している。
    つまり、「奈良期」より「阿久根泊」から「福岡博多泊までの西回りの北上航路」が出来ていた事に成る。

    そこで、この「古い阿久根泊」から「福岡博多泊までの西回りの北上航路」」は「約224km・49h」であって、そこから「枕崎」まで約100kmで、合わせて、「324k・70h」である。
    とすると、「制圧の記録」にある「数日程度の短期間・4日で制圧した」とあるので記録は合致する。
    古い「阿久根泊」から「福岡博多泊」までの西回りの北上航路」の問題の航路は、「約224km・49h」にこれに沿って「陸路の国道」が奈良期より在ったとしていて、それは「現在のR3」の西回りの「北九州−福岡―鹿児島間・現存」に成る。
    この「西回りの北上航路」の「海路と陸路」のそれに沿って「職能を伝導した」とある事から、「船の泊」からも都度上陸し、「陸路・R3」でも渡来人は移動した事に成る。
    この史実は、「阿久根泊」から「福岡博多泊」の「西回りの北上航路」の「海路・水運」が働いていた事を示し、「日向灘・佐伯泊」よりも何と“「1000年前に在った」”事になるのだ。
    それも「短期間」で「便利」で「安全な古来からの当然の海路」であった事に成り、史実も多く残り、故に「祐筆」が態々、「語るに足りずの事」であったのであろう。
    取り分け、「伊勢水軍」と「船を有する伊勢青木氏・伊勢屋」に執ってはこれは「衆知の史実」であったのであろう。
    況してや、その前段で論じた「後漢の渡来人」が伊勢半国割譲で伊賀に入ったのだから何の不思議も無かった筈である。
    つまり、この史実の事は、「西の海路・大口青木氏・上青木」と「東の海路・日向青木氏・下青木」の「組み合わせ」でも働いていた事を意味する事に成る。

    「黒田藩」は遠く後の「1600年以降の事・江戸期以降の商い」であるので、「東の海路・日向青木氏・下青木」には、その前は「黒田藩」は「豊前中津1587年」から二代に渡り「秀吉」より与えられていたと成る。
    この時には、「日向灘の佐伯泊」を利用していた関係で「交易水運の傭兵」と成り、その為の所縁で「秀吉時代の五七の桐紋」を「秀吉」から「中津藩時に獲得した黒田氏」は獲得していた。
    「江戸期1600年」に成って、黒田藩は「豊前中津藩・1578年」から13年後に「筑前福岡・1600年」を領地として「大藩」を与えられた。
    然し、「日向青木氏の墓所等」にある「五七の桐紋の家紋・明治初期の墓所造り」から観て、この時の「22年間の勲功」で「五七の桐紋の使用」を許されていた事に成り得て、これを「大口青木氏・日向青木氏」に与えたとしているのである。
    其の後、「黒田藩」は隣の「佐賀藩鍋島氏」と1年交代で「上記の問題・北九州泊の管理」と、「幕府領の長崎警備」を任されていたのだ。
    然し、ところがその後の「江戸期」は「九州地域」は「代々旗本に依る賂政治の悪名で有名な長崎奉行」の「支配下」に置かれていた。

    上記の様に、この「賂政治の悪名の事」は「歴史史実」としても有名で、「冥加金」の下で「九州域の海事の奉行差配」は行われ、「黒田藩」が「長崎警備役」に1年交代で任じられていたとしても「幕府支配下」にある以上は難しくこの悪政を黙認し、「商い・日向青木氏と伊勢青木氏」に執っては行動は非常に難しかったのだ。
    従って、この「九州海事の歴史」は、「秀吉」がこの「重要な交易拠点」を「大内氏」に任し、その後に「1580年」に「イエスズ会」に与え、「1588年」にこの利益が上がる「長崎」を「豊臣家直轄地」とし、ここに「鍋島氏・肥前佐賀城主」を「代官」として置いたのが始まりである。
    その「3年後」の「1592年」には「奉行」として「寺沢氏・肥前唐津城主」が任命されたもので、これが所謂、有名な「長崎奉行の前身」である。
    つまり、経緯としては「商いの日向青木氏と伊勢青木氏」この秀吉の時代は何も動けなかったのだ。

    前段でも何度も論じたが、「重要な史実」は、「青木氏側」から観れば「秀吉」とは「伊勢や摂津や紀州」で「戦い」をした「犬猿の仲」であった事から、その「重要拠点の隣」に監視の為の「黒田氏の福岡藩」を移封するまでのこの「1587年・23年間」までは、「大口青木氏・日向青木氏」は「交易海運の許可」を得ていない事に成る。
    つまり、「佐伯泊」までの「交易水運であった事」に成り、「西の海路・大口青木氏・上青木」の中で働いていた事に成る。
    「1600年関ケ原後」で無くては「交易海運の許可」は認可される事は先ずあり得ず、従って、「黒田藩」からすり寄って来ると云うよりは「黒田藩との繋がり」を「伊勢摂津側」から強く求めた事に成るのだ。
    これで「阿久根泊の西回り」と「佐伯泊の日向灘の東周り」の「二つの航路許可」が得られた事に成る。

    そこで。従ってその為には、態々、「御用商人」では無くて、この安定社会に成った「江戸初期」では、「傭兵」はそもそも疑問であり、その時期から名目上は先ずは「黒田藩の傭兵と云う立場」で「交易水運業」は行われていた事に成る。
    ところがこの「傭兵とした処に意味」があって、「1年交代の長崎奉行」に対して「傭兵を名目」に“黒田藩だ”と強調させる意味が「大口青木氏・日向青木氏」にはあったのではと考えている。
    従って、「この時期の傭兵」は、要するに「准家臣扱いである事」に成る事から、この「長崎奉行支配」が「日向青木氏」に及ばない処に「伊勢と大口」は「政治的に置いたという事」では無いかと観ている。

    更に、筑前中津藩時の25年前程前に「秀吉」から与えられていた「五七の桐紋の使用」を黒田藩に、そして更に「黒田藩」からこの「自由通商の証明木札・監察券」を名目としてたのではないか。
    「大口青木氏・日向青木氏」はこの「黒田藩」に対しては、この「自由通商の証明木札・監察券の見返り」として「冥加金名目」で,、且つ、「交易の利の以外」に「使役金」を支払っていただろうと考えられる。
    だから、この関係が長く正式に「明治初期・9年」まで続いたと事に成る。
    「伊勢商記録」や「祐筆記録」や「遺産資料」でも、その「前後の事」はどの様な差配で使っていたかは判らないが、「西海路と東海路」には「時代性と場所性がある事」から何かその差を着けたか、何れにしろ「伊勢と摂津」が「商いの元差配・政治的差配」をしていた事は間違いは無いので、両者の何れにしろ「リスク差」はあるが、筆者はこの史実は「その差は無かった事」を意味していると観ている。
    その「水運交易の利」に対して大きくなく「満遍ない物資の供給の商いをしていた事」が「最大の利」と成っていたのであろう。

    上記の様に、最早、「伊勢」とは一体であって「青木氏族」であって「廻氏」ではないとして「一族の関係性を持っていた」ので「大口青木氏・日向青木氏」であるのだ。
    この間には「伊勢との女系血縁を結んでいた事」には「血縁の記録」が「3度の失火」で消えているのが間違いは無いだろう。
    これには「大口青木氏・日向青木氏」であった以上は「四掟の伝統の適用」は最早無かった事に成る。

    そこでこの時系列の経緯から話を再び「大口青木氏発祥の原点」に戻して。
    この事に就いて歴史的に遺した「二つの意味」が含まれていて、その一つは、“伊勢に呼び寄せたとする意味”を持っている事、つまり、「呼び寄せる程」で無ければ「丸に笹竜胆紋を使う事」を許さなかったであろうし、「女(むすめ)」を嫁して「氏人の伊勢郷士衆50衆」と同様に「血縁一族扱い」までして可愛がった事に成り、且つ「商い」まで教えて「船」を与えて重視していた事に成る。
    二つは“「廻氏」に拘らずに「青木氏家人扱いにした事」”を以て、「廻氏再興」を忘れ去らせ、その為にこの「丸付き紋笹竜胆紋の説・青木氏の系列化」にしたのが「証」となろう。
    この二つの「隠された意味」として物語るのは、“「戦い・再興」から「商い・発展」への転換”の此処にあったと筆者は評価し観ているのだ。
    その為に「四掟」に反して「笹竜胆紋の丸付き紋」に与えたのだ。
    当然に、況してや「宗綱の源氏」も同然にあり、確かに「40年間は源氏の時代・」1221年滅亡」と成ったが、「伊勢」は長年培ってきた「商人の先を見通す眼力」からその様に観ていなかったのだ。
    それを「言葉」では無く、「行動」に移したのだ。
    それが「伊勢で育てる事」であって、「大口青木氏にする事」であり、その「シンボル」を「伝統と四掟」に反してでも「丸付きの笹竜胆紋にする事・青木氏家人扱い」であり、これに目を引きつけて「廻氏の家臣5人」を納得させたのだ。
    そして、「その為の条件を整えてやる事」であったろう。

    だから上記した様に、普通はこの時代では消えて行くのが「運命・宿命」なのに、“「その後の発展」が「後に戻る事」も無く、上記した様に目覚ましいもの”と成ったのだ。
    この「宗綱の血筋を引く若い廻氏裔系」を、“「伊勢」に一時的に成人に成るまで引き取った事”と「女(むすめ)」を嫁がせた事が「大きな流れ」として考えられるが、最早、「源氏云々の宗綱」も無いだろうし、恐らくは「廻氏」も無いだろうし、あるのは「伊勢」では無く「故郷・大口」で発展した“「大口青木氏・日向青木氏」”であっただろう。

    前段でも論じた様に、この時、前段でも論じたが、実は「伊勢と信濃」でも同じ事が起こっていたのだ。
    恐らくは、だから「5年から7年程度の訓練期間中」には、「伊勢青木氏の京綱・少年・17歳程度」と「廻氏の裔系の少年・15歳程度」が、「同年代の少年」として確実に同じ「伊勢で顔を合わせている筈」である。
    当初は、この充分に考えられる事として、上記と前段の「伊勢の青木京綱」が「廻の裔系の少年」であるかも知れないとして研究をしたが、とうも違う様で「近江佐々木氏の青木氏研究資料」や「祐筆資料」や「嘆願書」や「他資料」にも完全に違う者として史実があるので研究調査を断念した経緯があった。
    「伊勢青木氏の資料」にも「後刻・相当前・平安末期頃」の「先祖が描いた書」を「掛け軸・江戸期」にして「漢書」で遺しているし、「口伝・家人でも伝わっていた事」が判ったので違う事が明確と成った。

    他にも「小さい疑問」があって解決して置く。

    先ずは上記の「大口青木氏と日向青木氏の経緯」の背景には、次の様な事が「伊勢青木氏と信濃青木氏と伊豆青木氏」にあって、夫々の「郷土に遺る口伝」では「幾つかの説・口伝」が生まれているのだ。
    従って、これを知る事でその「次の疑問の経緯」がどの様な意味を持っているかが判るし、理解が深まりその「小さな疑問」も解けるだろう。
    この「助命嘆願の異例時」の「直前の出来事」である以上は、「京綱の話だけの問題」だけでは済まなかった筈で、その「経緯と目的」から、「乗りかかった船」として現地調査等をして研究に本気で取り掛かって見た。
    その結果では、そもそも「薩摩国」には、「押領使や弁財使」を兼ねた「四等官・守と介と掾と目との四役目」を一度に熟す「国司並官僚族用の菩提寺・2寺・現地の治安等も熟す」が「薩摩」にはあって、これには彼等の「古代浄土寺がたった2寺しかない事」は「伊勢側」は既に知っていた筈である。
    全ては薩摩は「東西の浄土真宗寺」であるのだ。
    その中で「古代浄土寺住職・浄土寺の浄光寺」の「用意周到の救出発言」までを事前に伝えられていた様子とすると,これは計画的であって「一時の出来事では無い事」が判る。
    この事で他の発想・仮説も出て来るのだ。
    だから「寺名」も「浄光寺・伊勢信濃は清光寺」で類似するのだ。
    この「薩摩の寺の事」は、天皇から秘密裏に処置命令を受ける「令外官・前段・賜姓五役」として「ある範囲の官吏を差配する国造の差配役」に任じられていたのだから「一切の経緯の情報」を事前にも知り得ていた事に成るのだ。
    故に、何かがある為に解き明かして置くべき「伊勢青木氏の関わり」は、絶対に見流す事は出来ないのだ。
    そこで、では何故かである。

    先ず、伊勢と関わりの深い「信濃の国友の経緯」は、「1159年頃」に「配流の宗綱の祖父」の「頼政の伊豆知行地」と成っていた。
    この「丹波の母の妾子の国友」は、「21年後・21歳」に、一度、この「信濃・養継嗣」に入り、上記した「源満快の裔系が土着している場所」の「北信濃」に移されて定住しているのである。
    その後に前段の論の通り「頼政領地の伊豆」に「乱の直前・1180年頃」に移動して定住している史実である。
    此処に「伊勢青木氏と信濃青木氏」が「頼政」に頼まれて一族の一部を移住させていて此処で二つの完全な融合族を形成した。
    そこで「一部の兵と商い」を以てこの「頼政の伊豆」を護った記されていて、其処にこの「国友を護る形」で入ったと成るが、「其処からの行動」は未だ若いのに消えているのだ。
    これが疑問を招いているのだが、そして現地に「仮説らしき口伝」が生まれているのだ。
    これには他に「二つ程の説」が語り継がれていたらしく、先ず検証するに値するし信頼できるこの説は「国友伊豆説」である。

    そこでこの説を検証すると、直接的に決果として、「源満快から6代目」の「頼政の孫」の「助命嘆願の仲介」として動けるのはこの人物だけであろう。
    故に場合に依っては「この絆」を使って「嘆願書」を出して受け入れられたとする「国友説」も成り立つ。
    この「国友説」に従えば、更にこの「経緯」で「商い」に伴い「伊豆」から船で経由地として「伊勢・訓練」に一度入り、その後に「大口に入ったとする説」であるが、「宗綱」とは伊勢に入った「京綱・妾子四男」とは共に何れも「摂津源氏四家の妾子・国友である事」なのでこの「国友説」は考えられない事は無い。
    [伊豆から消えた人物」として全く資料は無いので何とも言えないが、それ故に「国友説の仮説・現地口伝」が生まれる。
    「伊豆」から忽然と行動が消えたのは、この「大口青木氏・日向青木氏に入った事」で消えて「宗綱の裔廻氏との裔」と成ったのでは無いかという疑問を産んでいるのだ。
    「宗綱の裔系」としてすれば同じ「清和源氏の摂津源氏・頼政・仲綱の裔系」であるので、全ての「伊勢青木氏を名乗るなどのストーリーの筋」が年齢の検証は5歳程度違えど通り得るだろう。
    但し、筆者は飽く迄も上記した様に「伊勢の祐筆資料」からの「伊勢伊賀説」を採っている。

    つまり、「維衡の妻の源満快娘1・老女説」を通じて「清盛」に出して叶えられ「日向配流・廻村」で先ず住んだとする「青木氏の詳細な言伝記録」があるので、「上記の国友説」は除外しているのだ。
    上記した様に現実に其の後に本論の再び「日向」で「挙兵・史実」し、敗退し「薩摩大口村の浄土宗寺・鹿児島県伊佐市大口小木原」に匿われ、其処の「住職の機転・?」で「伊勢青木氏の裔系」として名乗る様に諭され難を逃れたと成っている。
    上記の「国友説」は、ここに「国友が入ったとする説・摂津源氏説と成る」である。
    これが先ず「伊勢青木氏との血縁」で「伊勢伊賀説」とすればある程度は繋がるが確定は出来ない。

    後に「日向青木氏の発祥・黒田藩傭兵」とする「伊勢側の詳細な資料」がある。
    この「日向青木氏・大口青木氏」は「山手に住んだ青木氏」を「上青木・薩摩の山族」、「海手に住んだ青木氏」を「下青木・日向灘の海族」と呼称されていたとし、現在もその「裔系」は南九州で大拡大している。
    「廻氏との裔系・摂津源氏の国友とすると疑われるので」であると記されていて「通説・伊勢伊賀説」」とは異なるがある程度は史実に近いともと考えられる。
    「国友説」にしても「廻氏裔系」にしても平家の目を避ける為にも「源氏」は元より「摂津源氏」は絶対に名乗れなかった筈で、それは鎌倉期に成っても同然な状況であった。
    これは「清盛の伊勢平氏」とはこの様な関係に在った証拠でもあるのだ。

    故に、「伊勢伊賀説」では、「平清盛」は「桓武平氏」と呼ばれ「桓武派」であって、「伊勢と信濃の青木氏」とは同派であり、前段でも詳細に論じた通り、その結果で平安末期まで潰されずに生き遺る事が出来ているのだし、取り分け「源氏化に反対した立場の経緯」でもあるのだ。
    それ故に「伊勢伊賀説」では、それ以後も安全であったのだから納得できる。
    「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」に沿わしたものの筈である。
    従って、鎌倉期に於いても主体は「河内源氏」であったので、同じ源氏ありながらも敵視していた所以で「摂津源氏を名乗る事」は危険であった筈である。
    何れにせよ「伊勢系を名乗る事の所以」を以て「中立と安全」は保たれ、その証拠に「伊勢と信濃」は「伊勢の本領安堵・鎌倉期」を逸早く史実として獲得しているのだ。
    同然に故に鎌倉期には、いの一番にその「伊賀」に「地頭・足利氏の5年間」が入った事もその証拠である。

    結局、若干時代を遡れば、「清盛の初期の時代」には、未だこの時も「伊勢」と「近江、美濃、信濃・甲斐は別」を加えた「賜姓青木氏族」と、「嵯峨天皇系と坂上氏の組み合わせ」との「激しい対立関係の継続の結果」で「二つの派」が継続して出来上がりつつあったのである。
    その「810年頃の段階」では、未だ「能登と名張の「女(むすめ)」が嫁した「近江・市原王」や、「浄橋と飽浪が嫁した美濃・三野王」との関係は維持できていたのだ。
    この「薬子の変・平城天皇との政争事件」の「直後の814年・4年」に「17皇子の源氏、15皇女の源氏」として、「詔と禁令と掟・弘仁五年」」を発して「朝廷の経済的な逼迫」を理由」に「財政削減の理由付け」で、“「全て皇位」を外すから、「一般の官吏等」として働き生きて行け・自由にせよ”と「嵯峨天皇派」は財政難から突き放した。
    然し、その前にこの時、「嵯峨天皇」は同時に「青木氏」に対しても「賜姓族と皇親族」を外して来たのだ。
    これは、この事件に依って「青木氏族」が、同時にやり返し、“「嵯峨朝廷に対する貢納・献納を中止した事」”に依り「朝廷の経済的な逼迫」に更に拍車がかかり追い遣られていたのだ。
    それが後に「常習的な朝廷の経済的圧迫」と成って出たとして、これ等の各地に散っている「官僚族」からも大きな非難が噴出していたと記録されている。
    この各地に散っている「四等官吏族等」も従って自ら糧を得る為に預かった「治安用の軍事力」を使って土豪・豪族化して略奪を行ったのだ。
    それでも「嵯峨天皇派ら」は強引に実行したのだが、その「反発と圧力」に屈し結局は最後は「中和策」に出て兄の「平城上皇と仲直りをする羽目」と成った。
    然し、「出自元の青木氏」とは「皇族である証拠」を示すものがあればそれを示して「青木氏を名乗っても良い」とする「妥協案」をだして「兄・平城上皇」を納得させたのだ。
    この時、「賜姓五役」としてこれ等の「官吏等を統率する令外官の役目・国造差配等」を命じられていた。
    これが「嵯峨天皇の平安期に発祥した青木氏」である。
    結局は、「賜姓青木氏の掟以外」のところで名乗る事が出来るシステムが出来あがったのだ。

    「大口青木氏・日向青木氏」はこの「嵯峨期の青木氏」では無く、「伊勢と信濃青木氏」の「伝統下での家人青木氏」として発祥させたのだがイメージとしては「賜姓系の青木氏」である。
    これには前段で論じた通り「時光系青木氏や島左大臣系青木氏や橘氏系青木氏や丹治氏系青木氏等」があるが、この大影響下を受けて、「賜姓源氏」にしても結局は、「32の源氏」も生まれたが、最終は結局の処は例えば「嵯峨源氏」は「10年後」には「官吏に就けた4源氏」しか残らず、更に「20年後程度には2源氏」に、「30年後の三世族」では生きて行けず全て「経済的理由」から絶えて“「皆無」”と成ったと記されているのだ。
    更に最終は「清和源氏」も含めて「正統な源氏とする賜姓族」は「対抗した青木氏の朝廷への貢納献納の停止」では、この「賜姓源氏族・勝手に名乗った賜姓源氏の方が多い」は「1221年」には影も形も無く成ったのだ。
    丁度、これはこの「大口青木氏・日向青木氏の件の35年前の出来事」であった。
    何れにしても「源氏を名乗る事への危険性・それだけ厳しい環境下・平家と経済」ではあったのだ。
    「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」にしても、つまりは是が非でも「安全な策」を未来に対しても執るには「禁じ手の伊勢の名を使う必然性」に迫られていたのだ。

    当然にそうなれば「嵯峨天皇派等の勢力」は、「賜姓族と皇親族」を外せば「資格を示す令外官の院号を持つ伊勢側の商い」も止めて来る筈であったが、「資料と記録の行」から調べて観ると、「令外官としての朝廷との商い」は「継続関係・停止の表現行は無い」に未だあって、「四等官以上の官僚族等」はこれを“「内々の争い」”として扱い「天皇の云う事」を聞かなかった事に成り「資料・記録」もその様に記されている。
    それ程に「商いを外す事」が出来ない程に、他に「賜姓族の令外官」としての「信頼できる代わり得る者」が居なかった事に成り、且つ、始まったばかりの「部経済下」で「天皇家・内蔵」を支える「殖産業を含む大商い・賜姓族形式的には「院号を持つ御用商人」をしていた事に成り、ここが「判断の見どころ」であったろう。
    「809年位」から「院政842年没」までの「33年間」で、「源氏の基源と成る族」は一応は消えた事に成るのだが、これを盛り返し「河内源氏」が「武器を持つ事・禁令を破る事」で「略奪で遺った事」に成り、反対にこれをしなかった「官僚としての摂津源氏一族」は朝廷内の立場として衰退していた。
    内々では「正三位」という「朝臣族」では普通は成り得ない「最高の冠位と領地・富裕」を得ていながらも「乱を興す結果」に追い込まれていたのだ。
    然し、「朝廷の底入れ」で何とか生き残った「摂津源氏・正三位頼政」にも「伊豆・国友説の起源」に初めて「朝臣族」でありながらも「略奪」では無い「冠位の正三位に成る事で正式な領地」を与えられながら,それにも関わらず「頼政の乱」が興って仕舞ったのだ。
    故に、「天皇や平氏」のみならず「朝廷」をも敵に廻した結果と成ったのだが、「地方の四等官の官僚族・国司階級」までも「信頼・支持」を失っていたのだ。
    故に、この「伊豆の国友説の場合」も「伊勢伊賀説の場合」も、そもそも「周囲の信頼」を事石く失い、そもそも「名乗る諡号の姓」さえ無かったのだし、密かに先ずは「廻氏の裔系」として呼称させ、且つ、その後に「伊勢に肩を寄せる事・家人青木氏を名乗る事」の以外には、そもそも「上記する平安期の古くからの歴史的経緯」すらでも「摂津源氏系・名乗り」には「生きる策・道」は最早無かったのだ。
    況してや室町期とは違い平安期末期に乱を興しての事である。

    然し、「資料の行」から観て、この発生した「嵯峨期までの三十数名以上と妾や女官や宮人等」を「伊勢と信濃」は引き取ったとされるが、然し、女系とした以上は「皇子」は「施基皇子」の時より一切引き取らなかったとされる記録がある。
    前段でも詳細に論じた様に、この「三十数名以上と妾や女官や宮人等」を「多気郡の斎王館と清光寺分寺と神明社等」に匿ったとしている。
    これが「伊勢と信濃の青木氏の立ち位置」に「大きな影響」として働いて来たのだ。
    中には、その「出自格式差」を基に身分を「12階級の女官扱い」として、その後の身分を確定させた事が記されている。
    但し、「伊勢の嫁家制度」の「女(むすめ)」に組み込んだかは記録が無いので定かではないが組み込んだであろう。
    但し、実質、「皇子族」は「近江と美濃」に流れたと考えられ、「佐々木氏の研究資料」にもこの事が記されているが「経済的な理由」から「近江」は少なく「美濃」が殆どであろう。
    それ故に「美濃の格式」は「伊勢・施基皇子の裔系以上」と肩を張る様にして伸し上がった理由に成ったのだ。
    これが所謂、「源氏化への原因」と成ったのだが、これに反して「伊勢と信濃」はこの「源氏化」に一切走らなかった一つの要因と成っていた。
    反して「伊勢と信濃の青木氏」には「女系族としての掟」があり「皇子族」は徹底して阻害し続けたのだ。
    これが元で「裔系の格式」に「美濃」には「伊勢と信濃」との「格式差の短縮・伊勢桑名から浄橋と飽波が嫁して中和策を執ったが上手く行かなかった・地名一色の発祥原因」が起こり、この「青木氏族の関係」の「近江と美濃の関係」も、それ故に「源氏化」が進んだ事」で「清和期」から極度に悪化して行ったのだ。
    「伊豆の国友説の場合」も「伊勢伊賀説の場合」もこの「中・源氏化」にあって難しい経緯にあったのだ。

    その後の「天皇家」に「対抗した青木氏の朝廷への献納貢納停止の影響」は、「近江と美濃の関係の悪化」へと繋がって行くのだが、然し、「嵯峨期の跡目」を継いだ「子供の仁明天皇・施基皇子からは玄孫」は、「出自元の里との関係修復」に必死に働き、「対抗した青木氏の朝廷への貢納停止」を中止させるまで持ち込み、その代わりに「嵯峨期の処置の令の一切の中止・廃止はできない」とし、再び「天皇家への献納」として限定した事が判っている。
    各地の「源氏化と武力化」と「四等官までの官吏の汚職」で、「天領地や蔵人攻撃等」が各地で盛んに起こり奪われ「各地からの貢納・弁財使の反抗」も低下して、「武力の持たない天皇家・内蔵」のみならず「朝廷・大蔵」も貧したのだ。
    それだけに「青木氏からの供納献納・朝廷の財」には大きな意味を持ちその多くを占めていたのだ。
    やっと「仁明期」に依って「事件の解決」を観たのだが、これには「直前の一時的に興った源氏化事件」が伴っていて、この事から生き遺った「青木氏の伊勢と信濃」は前段でも論じたが「各種の院号・専売権」を得て「殖産業」を邁進させ、「大口青木氏・日向青木氏の経緯」として発展して行くのであって、その「大きな起爆剤」と成っていたので「歴史的経緯」が「大きな背景としての意味」を持っていたのだ。
    この時期までは、この様に「伊勢青木氏も苦しい時期と経緯であった事」には間違いはなかったのだ。
    「伊勢伊賀説」も「伊豆に語り継がれた伊豆国友説」もその「名乗りの裔系の時系列の経緯」は、歴史的に微妙であった事が判る。
    結果として、上記した様に何れの説も「伊勢の裔系としての策・それしか無かった」を講じた事が判るのだ。
    それも「古来からの経緯」を引き継ぐ「伊勢青木氏の格式を持ち出す事」では無く「商いの前提」に重点を置いた経緯であったのだ。

    更に「大きな背景としての流れの意味」を続けると、そう成ると、「青木家の四家と福家」と「白壁の間」には経緯から基礎的には「青木氏の内部」では「亀裂が発生していた事」に成っていたのだ。
    「父親の白壁・光仁天皇」に対して、「子の山部王・桓武天皇」は「実家元の意見」に賛成していた構図と成る。
    「桓武天皇の子の平城天皇・当時」も「父親に賛成・反対派」していたが、その後の同じ「子の嵯峨天皇」が「賛成派」であった。
    それを「光仁天皇」から観れば「孫の嵯峨天皇」が賛成して「光仁天皇の意思」を継いで「格式化・新撰姓氏禄・振動と仏道の習合策」を世に出した事に成る。
    この「二人の賛成派の狙う処」は、“全く同じであったかは議論の分かれる処”である。
    「桓武平氏・伊勢平氏」も「反対派の桓武派」であって「50年程度」に渡って「骨肉の争い」は起こっていた。
    分ければ「伊豆の国友説の場合・賛成派」も「伊勢伊賀説の場合・反対派」の位置づけにいた事と成る。

    つまり、ここが“「疑問aの答え」”に繋がる処だと観ているのだ。
    この事に注目する事は、「青木氏一族」の中でも「賛成反対の争い」が継続して起こっていた事に成るのだが、「伊勢と信濃の青木氏」は「反対の態度」を明確に執っていたのだ。
    簡単に云うと「桓武派」は、「伊賀」は「母親・祖母の里」であり、それは「青木氏」に執つても、「伊賀青木氏の里」にも成るし、そもそも「庶人化し商いの格式化の中にある事」ではそもそもその必要性はないし、「源氏化を進めた嵯峨派・賛成派」は「賜姓・皇親族を外した派」でもあるのだ。
    「桓武天皇派・反対」の「反対派の主張と危機感」は、「格式が無くなる事」や、「皇親族では無くなる事・商いの前提の院号の喪失」では判るが、然し、そもそも「父親の光仁天皇・賛成」や「孫の嵯峨天皇派・賛成の主張」は記録の上ではその差は一見してはっきりとは判らない。
    「伊勢と信濃」では“「皇親族で無くなる事」”は、“「自らの足元を失う事”の危険性」では同じであり、“失なわないと云う保証”はそもそも何処にも無い。
    現実に「献納」や「商いの承認」も最終は復するが形式上は既に一時的には失っていた。

    そもそも、追記するが「嵯峨天皇」が「青木氏を皇親族から外した事」には次の手順が必要であって、さうしなければ「朝廷の制度」に依って簡単に外せない。
    その要素は、「禁令813年>皇親族>源氏詔勅814年>令外官>院号の順」で「手続上」としては外して行かなければ矛盾が生まれて出来ないのだ。
    「令外官」は,表向きは「皇親族で外している事」には成るが、明確に外すとした訳では無いのでこれは正式ではないとする。
    「令外官・賜姓五役の一つ」そのものが、何れの「族・従四位以上」であっても多くは「天皇の内示」で「秘密裏に行われる体質」のものである事から外れていない事に成るし、そもそも「賜姓五役」を外さなくてはならない理由はない。
    原則は、「天皇家」では「前天皇の施政策は否定してはならないとする絶対掟」があり、これを断行するとすれば「別の何らかの他の名目大儀」を着ける必要があるのだ。
    後はその「内示」が有るか無いかであり、無ければそれまでであり、現実には何処にもそんな記録は無い。。
    依って、歴史的に無いのであり、又「何らかの他の名目大儀」も無いので、正式には「賜姓五役は遺る事・令外官」に成るのだ。
    だから「永代・明治9年まで」とされているのだが、この「権威を示す院号・許可書の様な資格」は、「天智天皇と天武天皇と桓武天皇と平城天皇」の「前四代の天皇が継続して与えた号」である限りは、「外すとした命令」を出さないと外れない。
    何れも出されていないし、そんな「強引な詔勅」は「先代の天皇を否定する事」に成り、それは自らの立ち位置をも否定する結果と成るからで現実には出せないであろう。
    一時的に「嵯峨天皇」が「青木氏の賜姓を中止した事」があったが、これも「周囲の圧力・四等官以上の官吏等以上」で「中和策」を執り別の形で最終は復している.

    これを観ると、「青木氏の慣習仕来りの禁令」と「源氏詔勅を出す事」で、「皇親族を実質外した事」に形上は成るのだが、然し、「賜姓」は「源氏に変更して外した事」には実質は成る。
    然し、最後は「中和策」で「真人族」を証明とその証拠を示せれば「青木氏」でも「源氏」でも名乗っても良いとしたが、「賜姓五役」だけは「永代」と名目されているので外せていない事に成るのだ。
    後に960年頃に「円融天皇」がこれを覆し「藤原北家秀郷流宗家の三男族」に「青木氏の賜姓をした事」で永代に「青木氏の賜姓」は復活した事にも成る。
    その意味で「青木氏の賜姓」は生き帰った事に成るのだ。
    更に「1180年代」では、「伊豆にある国友説」もこの「伊勢伊賀説」の「諡号の姓名の名乗り」は、論理的に形式的には「伊勢の諡号姓の青木氏の発祥」は「正式な事に扱われる事」に成り得るのだ。

    但し、これ等の論理は「院号を持つ商い」をしていないと云う前提であり、「925年頃」に「商いを主業」とする「氏族に変えた事」で、世間の目は別として「伊勢と信濃の青木氏の中」ではそれらは既に格式意味の無いものとして扱われていたのだ。
    然し、ところがこの「二つの社会との乖離」で「世間」では依然として「鎌倉期から室町期」にはそれでも「律宗族として扱い・賜姓族から律宗族」に替わって行ったのだ。
    「伊勢と信濃の意識」と「世間の意識」とは「大きく乖離していた時代」であった事に成る。
    それは「各種の院号を持つ事」で「正当な商い・二足の草鞋策」と成った事であったと考えられる。
    この時の「大口青木氏・日向青木氏」の件を、要するに時系列で観れば、その直前で興った事に成るが、その後の「鎌倉期から室町期・400年程度の間」には「世間の律宗族の位置づけ」で「大口青木氏・日向青木氏」の「立ち位置」にしても「商い」にしても都合が良かった事に成る。
    それを示す「紛失している嵯峨期の新撰姓氏禄・木々の点も多いが凡そ復元か」でも「敏達天皇・春日皇子族四世族」としての「真人族」に分類記載されているので外してはいない事にも成る。
    その意味で、その「主な理由」は「桓武派であった事」もあるが、故に「別の理由」では「伊勢青木氏を名乗る事」では、その意味で「格式上の上位」にあって流石の「日向平氏も手が出せなかった事」もあり得たと考えられるのだ。
    故に、「大口青木氏・日向青木氏」のこの「家人の姓名」は、この意味で「賜姓青木氏の制度」の中では「家人青木氏」とは成るが、「嵯峨期で定めた制度」の中でも「正統な姓」として見る事が出来る。

    この論には「二つの矛盾・疑問」している処がある。
    それが下記の二つ目の「疑問b」である。
    つまり、「嵯峨天皇の行為」は、「青木氏側」から観れば“「自らの足元」を失っても「格式順位を定めた新撰姓氏禄」なのか”と云う事だ。
    幾ら何でもそんな馬鹿な話は無いだろう。
    そもそも、「上記の経緯」では思い掛けなく「出自元」に「白羽の矢」が当たり「皇族」に成ったのだ。
    これは何しろ「170年後に引き戻された事」に成り、兎も角も「院号を持つ商い」もしているし、この「二つの事」は「朝廷の掟」からあり得ない「白羽の矢であった事」に成る。
    そもそもそういう事・皇族の煩わしい扱い」を避ける為に男系継承を避け「女系制度」にしていたのにである。
    故に確実に「世間の目」からは、「新撰姓氏禄」のこれに“「疑問b」”を持たれ「足元」は間違いなく揺らいでいた「天皇家」であった事は間違いなく、前段でも論じた様にこれは記録からも確かであるし、「編集作業をしていた四等官以上の官吏等」にも三回とも大疑問を持たれたのだし、編集を放棄されていたものだ。
    世間でも反対が多く、疑問も多く、何しろ「周囲の環境」は「正当な天皇の出自と格式」を疑われていたのだ。
    それ故に「編集一度目の挑戦」は失敗したし、更に「編集二度目の挑戦」をした「光仁天皇期の新撰姓氏禄」に依っても、上記した様に「神道仏道の概念の矛盾の解決の事や賜姓を換える事」もあって「白羽の矢」として成立させて仕舞った以上は、上記の経緯での「足元の緩い天皇」に成っていた事は間違いはない。
    且つ、「正当な直系尊属・170年経過では最早卑属系」では最早無く成っていた以上は、この「自らの足元を失う事の危険性」を帯びていたし、現実帯びたのだ。
    然しながらも、これを少しでも無くす目的でも、事と次第に依っては「神道仏道の格式化を施す事や青木氏の賜姓から源氏の賜姓に換える事」で、“副産物”として「揺らいでいた天皇の地位の格式化も図られる事」は充分にあり得たのだ。
    この可能性は重要であって、要するに「揺らいだ天皇の格式」に成った以上は、“「三度目の賭け」”として遺された道として「神道仏道の格式化策」で「天皇の地位を安定させようとした事」に賭けた事には間違いは無いのだ。

    それには「新撰姓氏禄の18氏・真人族」の中に、この「神道仏道の格式化策」などの“何某かの説明要素が組み込まれていれば、“「天皇としての格式」”は保てるし、且つ、“「自らの足元の揺らぎも無くなる事」”にも成る。
    それが「世間の反対の目」は逸らす事が出来るとした事に成るだろう。
    それを探し出せば「父親の光仁天皇・賛成」や「孫の嵯峨天皇派・賛成」の「賛成の主張内容」は解決して矛盾している「疑問b」は解決するのである。
    答えは、“あった”である。

    さて、その前に余談であるが、「足元の緩い事」に就ては「資料」によると、三度目共に“編者に身の危険が迫る程の反対”を周囲から受けていたらしい事が判っている。
    然し、この時、“反対”をしている世の中に対しても、“「折衷案」”を示して、この為に“「青木氏を賜姓する事」を中止し”、“「格式化」の「最高位・皇親族」から外した”とする説が当時には有力であった。
    そこで、これを同じ賛成派の「父・光仁天皇」では無く「孫・嵯峨天皇」が強引に遣って仕舞ったのだ。
    筆者もこの「失政説」を採っている。
    故に「天皇としての地位の揺らぎ」は、恐らくは「白羽の矢の光仁天皇」より「孫・嵯峨天皇」の方がより大きく成っていたのであろう。
    この記録に記されている様子の史実の「父・光仁天皇」<「孫・嵯峨天皇」=「地位の揺らぎ」の関係式は、“何故起こったか”は、「嵯峨天皇の施政」を潰さに検証しても「揺らぎ」を「顕著に興させる事は無い。
    当然にこの失政の様を記録として遺す事は皇室の中ではあり得ないが、「伊勢青木氏側等」にはそれなりの疑われる記録は散見できる。
    然し、唯一点、政策の為には構わず「出自先を否定した事」は、公然とした史実として“世間が許さなかったのではないか。”と考えられる。
    何時の世も「大儀の理屈」では無く「世情の仁義」に「判断の重点」を置くが常道であろう。
    これは“大事を成す時、上に立つ者の辛い処”である。
    上記で論じた「九重戒相伝・通称嵯峨9つの縛り」として「嵯峨天皇」は、故にこの「縛り」をしっかりとした皇族の品位の者としてする為に「賜姓源氏」に義務として付け加えたが、その後の「11代の賜姓源氏」にはこれを一切守られなかった事を捉えても判る。
    要するにこれは「世情の仁義を失っていた事」なのだ。
    この「余談」が「伊勢青木氏の家人」として「大口青木氏・日向青木氏」とした「諡号の姓名の判断」の理解の要素には成り得るだろうし、「家人青木氏」で無くても成り立つ由縁でもあろうと考えられる。

    ここで従って、“鎌倉期直前まで「格式化の律宗族氏」では一時無くなる”のだが、然し、「鎌倉期」では「伊勢と信濃が本領安堵された事」は「格式化の前提と成る律宗族」に「青木氏は戻った事」を意味するだろう。
    それは「律宗族=本領安堵の証明の前提」であるからだ。
    この「事・賜姓では無く律宗族で」、これは要するに先ずは、「世の中」を納得させようとしたのであろう。
    それでも平安期中期から末期までは遂には“「収まり」”が着かず「光仁天皇の子の桓武天皇と平城天皇」の派との「一族内の政治争い・薬子の変等」の政争事件までが遂に始まつて仕舞ったのだ。
    然し、時系列を追えば経緯としては、「律宗族=本領安堵の証拠の前提」で鎌倉期ではこの「政治的な扱い」として治まったと云う事に成ったのだ。
    結局、「嵯峨天皇」は「収拾策・中和策・仲介策」として「弘仁五年の詔勅と禁令」を出して、「禁令」としては、この“「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用を禁じる”とする事で先ず「格式化」を施した。
    これで「表向き」は「賜姓も認めた事・真人族を物語る伝統品の朝廷への提示」を意味するだろうとした。
    その上で、更に「青木氏」を「皇位族の者の臣下先」として指定しこれを補おうとした事に成る。
    これを「証明する物の提示」を朝廷に提示してその前提として容認すると云う形にするとしたのだ。
    再び、「青木氏」がこれを採用するかは別としても、これで「格式化の親族」として復帰させた形を整えた事に成ったのだ。
    現実は、「青木氏に移る皇位族」と「賜姓の無い源氏を名乗る事」に走ったのだ。
    「120年後の朝廷」は、この問題を持った「賜姓族」ではなく「律宗族」で政治的には整えたとしたのだ。
    その代わりに「円融天皇の藤原秀郷流・青木伊勢青木氏と信濃の母方:系」を「賜姓の青木氏」として正式に永代にして興させて「嵯峨期の失政」を正式に復帰・修復させ正した事に成ったのだ。
    これは、つまり「出自元の問題」は上記した様に「仁明天皇」が修復したが、その後にも[朝廷の中」では「嵯峨天皇の失政」を燻る様に気にしていた事に成るだろう。
    この「時系列の経緯の意味」でも「大口青木氏・日向青木氏」の「家人の諡号の姓名」は、「伊勢」が「家人として関わった事」で正当に成ったと云える。

    それが「古い言い伝え」に依れば、「当初の嵯峨期の新撰姓氏禄の原本」には、“春原朝臣天智天皇皇子浄広壱河島王之後裔也”と記されていたとされるが、この 「川島皇子・河島皇子」と共に、遺された「青木氏の資料」の行から判断しても「光仁天皇期の新撰姓氏禄・仮称」では、文意を要約すると“「敏達天皇之系にして同祖同門同族同宗の四掟裔也、 故以四世族天智天皇皇子浄大壱位施基皇子後裔也」”と記されていたとされるのだ。
    それらの事を「書にした長尺物」を室町期頃に「巻軸」にしその一部を江戸期頃に「古額」にして伊勢に遺こしている。
    従って、この事から「川島皇子」と同じ「天智天皇の皇子の第七位施基皇子」は同然にこの「嵯峨期の新撰姓氏禄」に記されていた事に成るのだが、これが「光仁天皇」と共に「追尊春日宮天皇・施基皇子」に成り、この事に依ってその「後裔族の賜姓伊勢青木氏・律宗族」はこの「嵯峨期の新撰姓氏禄」から先ず抹消され、書き換え修正してされていた事に成る。
    この「修正策」の実行は「朝廷内での事」では無いかと推論している
    「追尊春日宮天皇・施基皇子」とすれば「賜姓を外す外さないの議論」は霧消に成るが、「嵯峨天皇」は上記の通り「賜姓を外そうとした事」は、本来は出来ない事に成るので「周囲の四等官以上の官僚族」から強い反対意見が三度も共に噴出したのだ。
    そこで「三度目の嵯峨期」では「折衷案」として、その替わりに「春日王族」としての下記の通り記載があるのだ。

    「嵯峨期の新撰姓氏禄」では次の三つが記載されているので検証する。
    1 香山真人 敏達皇子春日王の後裔也
    2 春日真人 敏達天皇皇子春日王之後裔也
    3 高額真人 春日真人同祖 春日親王之尊属後裔也

    1の「香山」とは、現在の三重県伊賀地方付近一帯
    2の「春日」とは、奈良県大和高田市付近一帯
    3の「高額」とは、同付近一帯

    同じ族が三つも記載がある事はそもそも無く、「敏達天皇の春日」は「親王」、即ち、「第二皇子」である。
    「王」とは、「大化改新・645年」より「真人族の内」のその「第四世族の位」を云う事に成った。
    従って、この「2の表現」は当時期の「嵯峨期での記入」とすれば「歴史観」が無く正確では無くあり得ないのである。
    3はその「2の後裔」とするならば、「皇子」としながらも「王としている事」は「歴史観」がそもそも食い違っている。
    2は正しくは「敏達天皇皇子春日親王之後裔也」と成る筈である。
    故に、この2と3は正しい知識の歴史観が無い事から後から筆を加えられた事に間違いは無い事に成る。

    1は「敏達天皇」より「第四代目の天智天皇の裔系」と成り、「施基皇子」の「長男春日・天智天皇前の三世族」であり、「基準の敏達天皇」より数えると「施基皇子の裔系」は「六世族」であり「王位の基準外」である。
    「天智天皇」は四世族、「施基皇子」が五世族、その裔系は六世族、追尊王は七世族である。
    当時では、これを「覆いを外れた者」を「ひら族・平族・第六位を含む第七世族」と呼ばれて坂東等に配置されていたので天皇が第代わりする度にこの平族は増える事に成る制度と大化改新で敷いたのだ。
    且つ、そこで「施基皇子」はそもそも既に臣下しているので、その「裔系」は既に「王位」ではなく成っているのだ。
    「天智天皇第七位皇子賜姓臣下族」と成った「伊勢王」の「施基皇子の四男の白壁」が「孝謙天皇の白羽の矢」で、何と54歳で「聖武天皇の井上内親王」を娶らされ「光仁天皇」に無理やり押し上げられた事は完全な枠外であった。
    この事で「光仁天皇の一族・伊勢青木氏」は、好まない「追尊王位」を授かる「仕儀」と成り、「9人の男子と7人の女子供等」の「第四世族」までが「王位を授かる前提」と成って仕舞ったのだ。
    然し、その時、「施基皇子の長男の春日」が「春日王」と成り、「伊勢青木氏四家一族の長」として「施基皇子の裔系一族」を「嵯峨期の新撰氏禄」の中では背負う事に成ったのだ。
    ところが「政争の世界」に取り込まれる事を恐れて「辞退者」や「逃隠者」も多く出たとある。
    要するに「記の1」は当にこの「春日王の裔系・四家」である事に成る。
    「施基皇子・716年」は、没後に「追尊春日宮天皇・770年」の名称を授かりと成り、その結果、「追尊春日宮天皇の裔系」であり、「光仁天皇の裔系」の「二つの事由」からの「施基皇子の一族四世族」までに逃れ得ない侭に「追尊王位を授けられる仕儀」と成って仕舞ったのだ。

    そこで、「嵯峨期の新撰姓氏禄」では、急遽、「修正」を余儀なくされたのだ。
    それまでは「光仁天皇期の新撰姓氏禄」を原稿としていたのが「嵯峨期の新撰姓氏禄の稿」では次の様に成っていた。
    当初は、同じ「天智天皇皇子の第六位皇子」の「近江王の川島皇子」には、“春原朝臣天智天皇皇子浄広壱河島王之後裔也”と記されているのに対して、「施基皇子」には、“田原・志紀朝臣天智天皇皇子浄大壱位施基皇子之後裔也”と記されていたとされるからなのだ。

    以上の経緯から「光仁天皇」と「追尊春日宮天皇」の「天皇追尊事由」で「嵯峨期の新撰姓氏禄」には、この「天皇家の記載・真人族まで」がそのものが困難と成り、その「伊勢の裔系」を「長兄春日の真人族」として「修正記載する事」に成ったとされるのだ。

    世間ではこれを疑問視されていて反対されていた故に、これを以て「天皇系」を正当化して基に戻して、「足元の揺らぎ」を無くして、「格式化と正当化」で「根強い世間の反対」を押し切ろうとした事が判るのだ。

    念の為に、この“「四掟」”は、そもそも中国の初期の「朝廷国の華の国」から始まった制度で、「中国の皇室伝播血縁掟」から由来するものであり、「大和朝廷」ではこれを取り入れて「二つの賜姓青木氏族・女系適用」だけに古くから適用し採用されたものだ。
    この「中国の制度を取り入れた事」に依って「伊勢と信濃」がこれを「伝統」として採用した「四掟四家の制度」は、制度的には当に「賜姓族所以・律宗族」そのものを示す証拠と成るのだ。
    これで「疑問b」を解決させたのだ。

    ところがこの事から、「嵯峨天皇」としては、本来は「賜姓を外す事」は本来は出来なかったのであり、規則に拘る官僚族から強く反対を受けていた所以でもあるのだ。
    そこで「嵯峨天皇」が、「賜姓をした源氏」に対しては「9つの縛り」を義務付けて、これに対応しようとしたが「11源氏」の全てはこれを護らなかったのだ。
    この「四掟四家」さえも護らず、あまつさえ「義務とする9つの縛り」をも守らなかった「嵯峨期詔勅の賜姓」はこれでは「賜姓源氏」では無い事に成る。
    その何とか生き残った「河内源氏」は禁じ手の「武器」をも以て「略奪の行為」に出て品位を失い糧を得たのだ。
    これ等の歴史観は、「近江佐々木氏や伊勢信濃青木氏以外の伝統」と比較する事で判って来る事であってあまり知られていない事に成り、今度は官僚側に反対される事が無い為に「賜姓源氏の正統性が突っ走る事」に成って仕舞っているのだ。
    但し、「清和源氏の三代目以降の摂津源氏・頼光の裔系」は「最低限の四家制度」を敷いて何とか「賜姓族の範囲」に留まったのだ。
    然し、「伊勢と信濃青木氏」はこの「摂津源氏を四掟の範囲の族」と認めなかったのだ。
    中には「、「笹竜胆紋の家紋や白旗派の白旗の旗印・古代浄土宗白旗派族のもの」も「清和源氏の河内源氏」ものとして思い込まれている間違った歴史観になっしまっているが、そんな与えたとする記録は何処にも無いのだ。
    「源氏」は上記の事では、前段で何度も論じているが、そもそも「課せられた白旗派の浄土宗」では無く「八幡菩薩の神仏習合・神道と仏道の統一宗」であって、「笹竜胆紋の家紋や白旗派の白旗の旗印・古代浄土宗白旗派族のもの」は論理的に資格としてはあり得ないのだ。
    「四掟四家」さえも護らず、あまつさえ「義務とする9つの縛り」をも守らなかった族に与えられる事はあり得ないのだ。
    これを理由に幕府樹立を認めようとしなかった朝廷は、頼朝が次の様な苦し紛れの言い訳をして返した。
    「幕府は権利を何とか有していた「摂津源氏の頼政の乱」を引き継いだ事を以て「笹竜胆紋と白旗」を証明する使用の開幕の条件・源氏の頭梁と成り得る権利を有しているとしたのだが、確かに「頼政に王位の令旨・1」も出ているし、「摂津源氏も最低限の真人族の条件・正三位の冠位・2」に叙されているし、「真人族の9つの縛り・3」も最低限の処で維持しているし、何とかこの3つの条件がある以上は嫌々ながらも開幕を認めざるを得なかったのだ。
    それでも「以仁王の王位の令旨は有効かと云う議論」と「笹竜胆紋と白旗の使用は有効かという議論」が朝廷内で興っていたのだ。
    筋論としては確かに筋が通っている処から「頼政引継論」で決着は着いたのだ。
    結局は、上記の「3つの資格条件」は、飽く迄も「天領地などを略奪した河内源氏の頼朝」ではなく、「朝臣族として働いていた摂津源氏の頼政」に与えたものだとして認めたものとした。
    従って、後の「時系列の経緯」としては「頼朝三代」を潰せば「頼政引継論」は成り立たなく成った。
    然し、そこでこのこの「北条氏等の坂東八平氏」は、唯単なる地方豪族では無く、元は「大化改新期からの発祥族」の「皇族朝臣族の第7世族集団・坂東八平氏・ひら族と呼称させた・大化前は王族位」であった事から、「頼政家の執権」としての「資格・家老」を難なく「北条氏」は「執権としての立場」で政治的立場を問題なく獲得したのだ。

    筆者の論では「頼朝三代」より「北条執権説の方」が「開幕の歴史観」としては筋論に妥当性があると考えている。
    「河内源氏」も「坂東八平氏」も「武器」を持ったが、ところが「坂東八平氏・王位族」には「武器を持つ大義名分」が朝廷から「坂東の治安維持の命令」が正式に出されていて、その「集団」に「平族・ひらぞく・天智天皇令」とする呼称にも「賜姓」されているからだ。
    「清和源氏の河内源氏」には「嵯峨天皇9つの縛り」を「賜姓朝臣族の品位義務」として義務付けたにも拘わらず護らず、且つ、「禁令の武器」を許可なく持ち、其れも「天領地略奪」を繰り返した。
    明かに対比的であるが、「資格」に問題は無くその得た時代が「天智期」と「清和期」の「時代差」だけであるので「坂東八平氏」もその様に認識していた可能性がある筈だ。
    時期を観て「頼政引継者」の「頼朝三代」よりは、これを潰して「皇族朝臣族の第7世族集団・坂東八平氏」に取り戻す行動に出たと観ているのだ。
    つまり「頼朝利用説」である
    「摂津源氏・頼政四家一族」はこれらの事を最低下で護ったが故に「正三位であった事等」を以て「開幕条件」は成立したのだ。
    斯くの如しの歴史観で以て始祖を「摂津源氏の宗綱の廻氏裔系」とする「大口青木氏・日向青木氏」は「頼朝三代の鎌倉期・1221年」を過ぎた頃には「摂津源氏の宗綱の廻氏裔系」の「名乗り」は難しく成っていたのだ。
    故に、「大口青木氏・日向青木氏の論」はより正統性を持ったと「北条氏の鎌倉幕府」から認められていたのだ。
    だから「日向灘の海運業」は前に前進したのだし「不当な攻撃を受ける事」はなかったのだ。
    この事を「大口青木氏・日向青木氏の論」を借りて「後段での歴史観・時代背景」としても参考に成るので追論して置く。

    さて、「疑問bの経緯」が判ったとして、論が外れる事に成るが「大口青木氏・日向青木氏の論」と同じく歴史観として「次段の論」を解決する為に敢えて次の事を先に論じて置く。
    先ず、“では、故かの「疑問a」である”。が起こるのかである。
    つまり、それには追論として前段で論じ切れていなかったので、先ず何故、「白羽の矢」であったのかであって、つまりこの視点を変えて「白羽の矢」が“何故、青木氏だったのか”である。
    それを検証する。
    上記した様に、正統に「天皇家の准継承者」は、周囲から疑問や反対者が出ている「施基皇子系」で無くても他に寧ろ資格者は未だ多かったのだ。
    必ずしも「伊勢青木氏」だけでは決して無かったし、伊勢であるのなら「信濃青木氏」もいた。
    「聖武天皇裔系」は「称徳天皇」まで、少なくとも「天皇家内」で、「四世族内」で、「第四位皇子内」で、「直系尊属の内」で継続して行われていた。
    「孝謙天皇」から観れば、直系とすれば「文武天皇42」と「元明天皇43・女性」であり、「継承という事」に成れば「直系」は、「天智天皇38」では無く、直系尊属と成れば「天武天皇40」の「嗣子」に成る。
    「追尊の弘文天皇39・大友」を除き「元正天皇44・女」、「元明天皇43・女」、「持統天皇41・女」は「女系嗣」であるので、「天武天皇40」の「直系嗣子」は「7人皇子と8人孫子と5人曾孫子」にあり、間違いなく「継承権のある者」は確実にあった。
    この前の「持統天皇期」には、態々、「継承を定める為の規則」を議論する為の問題と事件・史実」が起こつている位なのだ。
    この「考え方・継承を定める為の規則」が後に「大宝律令」に反映されたと云われるものだ。
    それは「文武天皇697年〜707年」の「15歳の即位時の事」である。
    従って、未だ、それから「50年も経っていない時期の事件・白羽の矢」であり、且つ、自らも「皇統の正統性」を強く主張していた「孝謙天皇769年〜758年・称徳天皇764年〜770年」はこの事に強く縛られていた事は「史実・記録」から明らかであるにも拘わらず「突然に変更した事」である。
    この経緯は「不思議な事件・疑問c」である。


    ここで序でに、前段で充分に論じていない事に就いて、且つ、次の論に繋がる事なので先に「注釈」として論じるが、、この時、「称徳天皇の異母妹・井上内親王」を妻とした「施基皇子の四男、又は六男」の「白壁」は、「称徳天皇の嫉妬」を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていたとあるが、「伊勢青木氏」で伝えられる処では、これは「皇位継承」の為に「皇位にある内親王」を押し付けられ、それで「皇統の正統性」を高めようとして避けたものと解釈している様だ。
    光仁天皇に成った「後の事件」では無く、その「前の事件」として記されている。
    この「後の事件とする説」には不合理がある。

    さて、その「継承事件」とは要約すると次の通りである。
    この様な「孝謙天皇15歳の若さ」で即位したのには何か「理由」があると観られる。
    これを説明する為に「皇太子になった経緯」を辿る。
    「漢詩集である懐風藻・751年頃」に次の事が記されている。
    これは「史書」では無いがそれに依ると、次の様に成る。
    「持統天皇」が、“「皇位継承者」である「日嗣(ひつぎ)」を決めようとした。”
    この時に、群臣等がそれぞれ自分の意見を言い立てた。
    この為に「利害が絡む意見の対立」で決着が着かなかった。
    その際に“「葛野王・大友皇子の子・大友皇子は天智第一皇子」”が、次の様に言い立てた。
    “「わが国では、「天位」は「子や孫の直系尊属」が継いで来た。
    もし、「兄弟」に「皇位」を譲位すると、それが原因で乱がおこる。”と強く主張した。
    そこで、“この点から考えると、「皇位継承予定者は己と定まる」”という主旨の「発言・天智系に」をした。とある。
    ここで反論の為に、“「弓削皇子・天武第二皇子」が何か発言をしようとした。”
    然し、これを観た「葛野王」が高圧的にこれを叱り付けた。
    この為に、その場では“そのまま口を噤んだ”とされる。
    そこで「葛野王・天智系」と「弓削皇子・天武系」との間で「皇位継承の対立事件」が起こったのだ。
    再び“「弓削皇子」が自らが{正統な後継者」である”と主張したのだ。
    ところが、逆にそこで「持統天皇」は、“この一言が国を決めたと大変喜んだ”、とある。
    「持統天皇」は、「葛野王・天智系の主張」に賛成していた。
    これは矛盾するが、これには裏の意があって、つまり、これは「天智派が巻き込まれる事」を嫌って、“正統はそちらの天武系で決めてくれ”と云った事を意味する”と解釈したのだ。
    これは何故かであって、「葛野王・天智系の主張」を自らこの主張を引下げれば「弓削皇子・天武系」の主張だけと成る。
    現実に直ぐにその様にした。
    一方的に結論を導き出すと「自らの一族の天智系の者ら」が騒ぎだすと観て先手を打ったのだ。
    この先手策を読んで喜んだとしたのだ。
    そして、重ねて「弓削皇子・天武系」は、“「皇位継承の立場にあるのはそれは私だ”と主張したという事に成ったのだ。
    この様な「論争が起こった事」には、「天武・持統両天皇」が元々、「自分達の後継者」を「草壁皇子」と定め、「皇太子」に立てたにも関わらず、即位目前の689年に没してしまったからだとしている。
    この為に、「持統天皇」は「草壁皇子の子である皇子・珂瑠・文武天皇」に「皇位」を継承させようとしたのだ。
    そしてその為に、その成長を待つ間は自ら皇位に着いた。としているのだ。
    これには、要するに、「持統天皇」が、昔、「軽皇子・孝徳天皇」を「皇太子」にしようとしていた際にも、「王公諸臣の意見が纏らなかった事件」が起こったという事が、三度も起こって仕舞った事に気にしていたと云う事で、それがこの「一言」で解決したとして喜んだ事に成ったとしたのだ。
    つまり、この「事件」は、“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”でもあったのだ。

    先ず「一つ目の事件」は、「軽皇子・孝徳天皇・芽淳王系」と「中大兄皇子・天智天皇」との争いである。
    兎も角はこの事件は「中大兄皇子」が引き下がって解決した。
    次に「二つ目の事件」は、その後の「孝徳天皇の皇子の有間皇子継承問題」の「藤白坂絞殺事件」も「孝徳天皇系が引かなかった事」で実権を握っていた「天智天皇」は「孝徳天皇側が引かない為に結局は争い」と成って解決した。
    最後に「三つ目の事件」は「大友皇子・天智系」と「大海人皇子・天武系」の争いである。
    「大友皇子」は「戦い・壬申の乱」で決着し敗退した。
    「敏達天皇の裔系」のこの「三系」で「皇位継承の四度目の対立事件」は以上の事としているのである。
    要するに、この「皇位継承事件」は四度共に姿勢としては「天智系」は引いて治まっているのだ。(重要)
    それ故に「持統天皇」は、この「全ての経緯」を知っていて「天武系を主張していた事・宣言」に成る。
    「聖武天皇系の孝謙天皇・称徳天皇」も自らも「完全な天武系」であり、且つ、「皇位の正統性」を主張していた「天皇」の一人で在りながらも、この「上記の立場」に置かれていた「賜姓臣下した施基皇子系」に「白羽の矢を立てる事」、そのものが先ず一番に「おかしい事・疑問・主張の矛盾」に成ったのだ。
    「主張と行動の食い違い」が「孝謙天皇」に起こっていたとされるのだ。
    その上に、「四度目の事件」としても引いていたのだ。
    「大化改新の詔」で規則に沿って「天智系の施基皇子の皇子の立場」は「第七位皇子」であった為に「賜姓臣下」していたし、況して「院号を元に真人族」としては「禁じ手の商い」をもしているし、一族は「女系」と成っていたし、その「血筋縁」は既に「四掟」で「皇族系」で無くなっていたし、その後も皇族に「還族」もしていないし、「天武系の正統性の者」が上記した様に大勢にいなければいざ知らず「継承族の対象者」は「数十人」にも及んでいたのだ。何よりも伊勢側は再び「天皇に成る事」のみならず「皇族系に成る事」も望んでいなかったのだ。
    政治に関わる事を望んでいなかったのだ。
    況してや、その「無継承者としての正統性」はこの段階で「50年」も経過していたのだ。
    相当無理してこれだけの「リスク」を以てして「白羽の矢を立てた事・殆ど無理やり」に成る。
    故に、上記した様に記録にある様に、「光仁天皇への世間の評価が低かった事」がこれで判るのだ。
    前段でも論じたが、この経緯からしても、上記した“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”の様に「天武系だけで継承する事」にすれば「継承者の政争」が起こると考え直した「称徳天皇・孝謙天皇」であったが、其れだとすると「近江系」が「伊勢系」より正統性は数段に高い事に成るが然しそうしなかったのだ。
    そこで、「近江佐々木氏との格式差」は確実にあるとするが、「白羽の矢」に成る程の「近江と伊勢の違い差」は源氏化までは「相互血縁」が行われていたので「血縁差」はない。
    とすると、突き詰めれば比較にならない程の「大経済差・殖産財力」と成り得る。
    これを前段で論じた。

    つまり結論はこれが「疑問a」であり、それに繋がる「疑問c」である事に成る。
    そうすると、前段と前記した「光仁天皇と嵯峨天皇」が採った「青木氏への賜姓排除排斥策」には矛盾が生まれるが、これはこれを「白羽の矢」で期待した以上は当然に起こるこの「財力を使った皇親族の政治的で財力的な絶対的な勢力の排除」に尽きる。
    それが「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」と成り、「政治と経済・基盤」に「狂い・矛盾・疑問」が出たと云う事に成ったのだ。
    唯、「青木氏側からの言い分・反対の言い分も」が、飽く迄も朝廷が認めた「二足の草鞋策・賜姓五役・院号獲得」を前提としている事で分けて考えていて大儀名分はあったし、そもそも「白羽の矢・献納で貢献」を望んだ事では無いし、当たらないとしていたのである。

    筆者は、「皇親族としての商い」に「品位疑義・禁令」があって、これに対して「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」が在ったと一部の資料では記されて信じられている様だが、これは実の処は「表向きの記録」であってその「裏の本意」は周囲は「出自元の筋目格式の疑義」であったと観ているのだ。
    この「表向き」は、「朝廷」としては「今後続く天皇家の品格・皇統に傷を着ける事」に成るので、記録としては「世間と官僚の反発を喰らったと云う経緯」として遺したと観ているのだ。
    それが「桓武派と嵯峨派の争い」を引き興し、これ対して根本的に基を質して「仁明天皇と円融天皇」が原因を元に戻したと云う事に成ったが、これが世間では「円融天皇の頃・960年頃」まで燻っていた事に成る。
    これにより現実に以後問題はかき消された事から以上の歴史観と観ているのだ。

    次に論じる事に就いて、上記のこの「歴史観・観点」を念頭にする事が必要である。


    「大口青木氏・日向青木氏」の論は次の段に続く。

    「青木氏の伝統 68」−「青木氏の歴史観−41」に続く。(88P)


      [No.391] Re:「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/08/15(Sun) 10:06:01  

    「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」の末尾

    つまりは、天皇を含む天武系の朝廷は「青木の騒ぎ」を見抜いていた事には成る。
    言い換えれば、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
    つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
    然し、「54歳の白壁に白羽の矢・54歳」には、「当時の平均寿命55歳」であり、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題」は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
    これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
    史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの「二つの事実」を“承知であった事に成る。
    この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
    筆者は、天武系にしないで「天智系」にしたとと云う事云えば最も近いのは「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中でも「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば、「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「婚姻した井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
    それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「伊賀から嫁いだ妃の新笠」に与えたと観ているのだ。
    ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って、「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
    そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く、「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
    故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
    だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
    この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は「口伝や噂」を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
    だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。


    「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」

    筆者は、この上記の全経緯を観ると、筆者は、「伊勢青木氏」は「四掟に基づく氏是」では無い、飽く迄も「天皇家との血筋の断絶」と「天武系の血筋との断絶」と「藤原氏南家の血筋との断絶」の3つを図って、止む無く「孝謙天皇の白羽の矢」を「744年」に受ける事と成って仕舞ったと観ているのだ。
    そしてそこで、この「難題の災い」のこれを排除しようと画策する事を考えたのでは無いか。
    然し、ところがそれが「白羽の矢」だけでは無く、忘れた頃の「26年後」の「770年」に“「天皇」”と云う「施基皇子の氏是に反する事」を遂に招いて仕舞ったのだ。
    間違いなく「福家と四家の失策・読み間違い」であったと考えられる。
    その「失策」は、「井上内親王の性格と狂行から来る出来事」を、青木氏の為に最小限の犠牲として“「四男の事」”として「放置した事・見放した事」にあったと観る。
    結局は、故に本来は「青木氏の氏是」を護れば「伝統」として動かない筈の“「律宗の福家」と、「商いの四家」は最低限の処で動いた”と云う事に成ったのだ。
    そして、「施基皇子・青木氏」が護って来た「青木氏の氏是」に反して、「政争」に巻き込まれる可能性のある「天皇位を招いてい仕舞った事」は、如何せん「失策」として止む無いとしても、今後の事を考えても最低限の「四掟に沿う相手」を選定したと云う事だ。
    それが最も問題の無い「高野新笠と山部王」であったと云う事なのだ。
    実は、この時、史実として「伊勢青木氏」は止むを得ないとしても「天皇家との乖離策」も図っているのだ。
    一族の者が天皇家と成って仕舞ったので、その「関わりと血筋を薄める事」を図ったのだ。
    前段で論じた青木氏の数々の女系制度である。

    この時、「伊勢」は次の策を講じている。
    この時、「近江川島皇子の裔」との血縁が「四掟の範囲」として進んでいた。
    この「川島皇子の裔」とは「同族相互血縁の状況」を造り出していたのだ。
    丁度、「{伊勢と信濃との関係」と同じである。
    その相手の「市原王」は、「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
    これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・追尊能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
    既に、ここで「川島皇子の近江佐々木氏」では、当然に大きな「血縁に依るトランスポ-タ」が蓄積されていた。
    同然に「青木氏族の所以」もである。
    ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「追尊能登王女」の「子女・娘」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入っていた。
    ところが、この「母親の追尊能登王女」が共に「娘」と「伊勢に戻ると云う事」が今までに無かった事であるが、それが慣例外で突然に起こるのだ。
    当時としては前代未聞であったろう。
    これは要するに前段でも論じた様に「後家として戻った事」に成る。
    これが「日本の後家制度の始り」であると云われている。
    つまり、ある理由があって、“正しくは離縁して「関わる一族と娘」を引き連れて戻った事”に成るのだ。
    そして、この「後家と成った追尊能登王女」も「青木氏の四家」の「叔父に嫁した形」を採っているのだ。
    当時の習慣ではこの様な例は無い。
    この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等内血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポ-タ」が蓄積される事と成っていた。

    処が、ここで更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもあるが、既に、この「曾孫・市原王」のここに更に今度は「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「追尊名張王女」”が「後妻」として嫁したのである。
    何故に、この様な事が起こったかと云う事だが、当時の「皇親族」の中にはこの慣習は無かった。
    それ故に、これだけの事をする以上には「それなりの理由」があった筈である。
    従って、この事に付いて「家人の家」か「何処か」に行けば何らかの形で推測できる程度に書き遺されている筈と観て調べた。
    調査の結果、判って来たのは、先ず“後家”と云う当時としては全く珍しい言葉であり、そして「近江佐々木氏」、「市原王」で、「四家の名張殿との関係」であった。
    当時,この「桑名殿」には“「能登」”と云う「女(むすめ)」がいた事が判っていて、この「「女(むすめ)」の“「能登」”は、「佐々木氏の研究資料」から「市原王」がこの「桑名殿の女(むすめ)」を娶った事が判った。
    ところが、この事が後に“「能登」”では無く、「名張殿」の「女(むすめ)」の“「名張」”と成っている。
    要するに、“人が入れ替わっている”のである。
    つまり、この「入れ替わり・すり替わり」に意味があって、ところがこの「青木氏の歴史時系列」より「市原王」は「764年頃」を以て歴史から消えているのだ。
    これは資料の読み込みからの「専門的な青木氏の通説」では、色々の説があって、「政争死亡説や加担配流説や失脚説等」があるとしているが、最も有力な説は次の様に成っている。
    そもそも「彼の出世」は史実として「藤原仲麻呂」のにて成し得たものであり、乱にて「仲麻呂派」に属して失脚した説が有力であるのだ。
    然し、その結果として、故に、“「桑名の能登」が「青木氏の関わり」を避ける為に「伊勢」に引上げてさせて「後家・当時としてはこの慣習は「無く珍しい事」と成った”としていのだが、「青木氏の資料」の中からの行でよく調べると、その後に「名張殿の名張が嫁いでいる事」の「行」があるので、この説は当たらないと考えられる。
    つまり、関わりを隠すために「後家として引き上げる事」の「珍事」を行った後に、「名張を嫁したという事」はこの事に何かが在った事に成る。
    つまりは、「後家の珍事を打ち消す行動」を両氏は執ったと云う事だ。
    「白壁」が即位するとそもそも「伊勢」の中ではその様な「過激な事」は氏是で出来ない。
    これ等の「状況証拠」より「764年〜769年までの出来事」と云う事に成る。
    そう成ると「白壁」が770年に即位した「直前の事」に成るのである。
    「白壁」が「伊勢」で「744年」に結婚して「30年〜35年後の事」である。
    これが「結婚話・a」が進み「井上内親王の兇状・b」が激しくなり始めた時期と観ると、とすると、「伊勢側と近江側」では、「施基皇子の氏是」に伴い「どの様な態度」を執るかである。
    上記した様に「嫌々ながらの井上内親王との関わり」を持った以上は、aとbから唯一つ「嫁家制度に係わる女(むすめ)」を「四掟の範囲で護る事」である。
    もう一つは、「能登の嫁ぎ先」の「近江佐々木氏が関わっていた政争」から逃れる事であろう。
    この「二つを解決する手段」は、「能登を伊勢に下げる事」、「名張を伊勢から逃がす事」で解決する。
    そうすると、「名張の女(むすめ)・追尊湯原王の娘・名張殿」を「伊勢から逃がす事」の「近江側の通説」に関わるだろう。
    参考として「・松阪殿―春日王」、「名張殿―湯原王」、「桑名殿―榎井王」、「員弁殿―一志王」である。

    「名張」が嫁いだとすると、「政争死亡説や加担配流説や失脚説等」の前二つは成り立たない。
    ここで「名張が嫁した史実」は確実なので、「失脚説」で「能登」を下げ、暫くして失脚の所に「名張」を嫁せさせれば、「伊勢としての近江への縁戚関係」は、事を八方荒立てる事は無く穏便に正常に保てる筈だ。
    この奈良期の時期は、未だ「近江佐々木氏」は「源氏化・嵯峨期以降」していないので「伊勢」とは良好な同族血縁関係を保っていて、これは「記録」に遺るものである。
    そもそも「770年の即位期」を以て以降は、「出自元」となった以上はこの様な「過激な事」は出来ないだろうし、つまり、これは「764年〜769年までの出来事」であり、「白壁」が「伊勢」で「744年」に結婚時には充分に予測できた筈であるし、そして史実として「伊勢の四家の男女者等」を問わず避ける様に動いたのだから、その「最後の直前の事」と成る。
    「名張」が「15歳程度の適齢期」に達していた事は判っているので、この時、朝廷の中では「朝廷の称徳天皇の後継者・阿倍内親王・孝謙天皇」が即位しても、その次の「皇位継承の見通し」が立たず、「彼女に代わる天皇を求める動き」が「彼女の崩御後・770年」まで続く事に成っていたのだ。
    つまり、そこで「施基皇子の孫の名張」を迎えて、「後継者に建てようとする動き」が「朝廷の中」に元々あったのでは無いかと観る事が出来る。
    つまり、それが次第に大きく成り、“これを「事前」に察知して、「苦肉の策」として「能登」を下げて「近江」に「適齢期の名張」を嫁がせて逃がした”とする「伊勢の歴史観の説」である。

    だとするとこれには、「近江の賛同」が必要であった。
    そこで「伊勢と近江間で密かに協議していた事」に成る。
    つまり、「近江」、即ち、「天智天皇の異母兄の第六位皇子の川島皇子・691年没」の「佐々木氏・齋齋木氏の賜姓族」でありながらも、「大津皇子の謀反密告の史実」から「日本書紀に記載無し」の「扱い」を受けた程度で、「天武―持統系の朝廷」から無視されて、「苦しい経済的な立場」に史実として陥っていたのだ。
    この「近江の佐々木氏」を「血縁族」として支えていたのは、当然に「四つの院号の格式」を獲得して「朝廷の殖産」で「二足の草鞋策」を一手に営む「伊勢青木氏」であった事から、「「近江の賛同」が得られ易い環境下にはあったのだ。

    その証拠に、この関係が「光仁期」から続いていたが、「最後の仕上げ・自立」の様にして「平安遷都の直前」に「伊勢の私財」を投入して「真砂土壌の近江の干拓灌漑開墾・楮和紙生産」を「額田部氏の協力」の下に成して財力の無い「近江の経済力」を嵩上げした史実がある。
    これ等の事は前段でも論じたが、然し、其れにも拘わらずこの直前には、「天智系の裔族」であったにも関わらず、前段で論じた通り「近江佐々木氏生き残り」の為に「天智系」でありながらも「天武系の裔孫」と成ったのだ。
    ところが、更には「桓武派」と「嵯峨派」に分かれた「嵯峨期」を境に、「源氏化」して「伊勢との関係は悪化」し、遂には「血縁関係と経済協力」は結局は「764年〜769年までの出来事」から「約30〜35年後」で歴史的に完全に無くなっているのだ。
    従って、だとするとこの事件の実質時期は、上記の「764年〜769年」の頃に「情報」を得て「名張逃がしたとする説」は納得出来る。
    故に、「伊勢・白壁」が「天皇筋と成る事」には、最早、避けられ無かったが、少なくともその後には「天皇家」へ婚姻で“「伊勢から絶対に入れると云う事」”はしなかったのである。
    入れたとしても、上記した様に「光仁天皇の娘・酒人内親王と孫娘の朝日内親王の二人」で終わらしたのだ。
    故に、「伊勢青木氏出自の天皇」は「血筋的」には、「天皇家と云う繋がり」では、「光仁天皇」より「四掟の規定通り」に考えると、「第四世族・曾孫」の「仁明天皇・嵯峨天皇の子」までと成るのだ。
    それ以降は現実にも「外孫王の血筋」も「天皇家」では強く成っているのだ。
    つまり、「血筋の繋がり」は無くなったと云う事に成る。
    「伊勢青木氏」でも、「妻嫁制度」に依っては「玄孫」までとしているが、「施基皇子」からは「第五世代・玄孫」の血筋外と成る。
    つまり、内外に於いて消えている事に成るが、これが「嫁家制度」の「第五世代・玄孫」とした理由であり、これに依りの血筋外としと成る原因だろう。
    つまり、何にを云わんとしているかと云うと、何れから観ても、「仁明天皇」までと成り、この「光仁期での判断」としては、「伊勢」では「光仁期の娘の範囲」で混乱を留めれば、“「天皇家との繋がりを避けられると判断していた事」”に成るのだ。
    そして、この「無関心」を装う「伊勢青木氏の出自元の姿勢」が、“嵯峨天皇には気に入らなかった”と云う事もあったのでは無いかと考えられる。
    更に、それ以降は、「天皇家の政争の場に引き込まれる事」は無いだろうとしていたと云う事に成るのだ。
    その「桑名殿の追尊榎井王の浄橋や飽浪等」と共に、この「最後の血縁の仕上げ」が「市原王の名張・追尊湯原王の娘」であった事に成る。

    此処で解決して置く「疑問」が一つあるのだ。
    それは「焦点」と成り疑問の多い人と成っている「市原王」の事である。
    これを解き明かせば、白羽の矢が伊勢に飛んできた理由が成る程と納得して判る筈だ。
    そもそも「近江の川島皇子」は、「施基皇子」と同様に「天智天皇の賜姓臣下族」であり、「近江の斎斎木」の地名」を貰って「賜姓」を受けている史実が遺るし、佐々木氏の研究資料と青木氏に付いての研究資料にも記載されている。
    「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は、神道で使う「青木の神木」から採って「賜姓」と異なったもので最高の格式名である。
    これに対して「地名の賜姓」は、「近江の斎斎木の佐々木氏」に限らず「当時の仕来り」として「一段低い格式の扱い・宿禰族以下の臣・従五位以上」を受けた皇子程度に与える「仕来り」である。
    然し、「川島の皇子の第六位皇子」でありながらも「第七位の施基皇子の賜姓」より相当に低く扱われた事の格式史実が遺る事に成る。
    唯、「近江の斎斎木」は神職の地名に由来する由緒ある地名ではあるので、普通の地名では無く天智天皇はその意味で賜姓したと予測でき、「神木の青木」に継ぐものである事も判断できる。
    然し、地名は地名であってここに差を着けたと観られる。
    賜姓臣下した事で「王位」は、「施基皇子」の様に臣下後に「伊勢王」の様に「守護王」に成らないと無く成る仕来りである。
    仮にあったとしても「孫の市原」には「王位」は追尊が無い限りは本来は着かないのだ。
    そもそも「近江」には「天皇に成った人」は「伊勢の白壁」とは違い居ないので「追尊」は無かった筈である。
    では何時ついたのかであり、そこで唯一つ考えられる事はある。
    それは「光仁天皇」に依って「没後の施基皇子」は「追尊春日宮天皇」を正式に受けている。
    とすると、「市原」は「施基皇子の外曾孫」でもあるとしているまで王位の追尊は受けられる事が判るが、但し、だとするとその「父の安貴王」は「施基皇子の孫」と成るので伊勢の者と同様に「追尊王」と成る。
    然し、これにはそうでは無いとする否定説もあり、孫説と曾孫説がある。
    この追尊は「伊勢」でもあった様に、「二世族」まで受けるが例外的に「第三世族」まで受ける事もあり得た。
    「第四世族」では「伊勢」でも「追尊の史実」は無かった。
    「市原・能登の子」は、「追尊春日宮天皇の施基皇子」からは「第四世族」であり追尊と成った理由から例外である。
    もう一つは「即位光仁天皇」からは「第三世族」と成る。
    そうすると、「川島皇子」には「二人の嗣子・三室王745没と高尾王749没」が居て、「市原の父の安貴王の父」はこの「二人」では無く、「施基皇子の春日王とする説」があり、系譜が有り得ない程に混血で混濁している。
    この事は当時としては混血の混濁は史実である。
    「安貴王」は、「施基皇子の孫では無いとする否定説」も当然の事として正しい事に成り、その「経緯と年齢」から「三室王」が「安貴の父」と成る。
    実は、この「安貴王」は「不敬之罪・不倫」に問われ、「安貴王」は「官位剥奪・自宅謹慎の刑」を受けていて、正確では無いが、「川島皇子三世王の叙位を受けている事」から再び「無位」に成った後に「従五位下」に叙爵されたとしているのだが、これは朝廷の当時の仕来り上はあり得ず間違いなく「後付け」であり信用できない。
    その根拠は、この前提を紛失した後の「新撰姓氏禄」に在るとしているからだ。
    「後裔と主張する者等」が、この「不名誉」を逃れようとして仕組んだ「後付けの細工」であろう。
    この「間違い」は、前段でも論じたが「安貴の子孫とする裔の春原氏等」としながらも、然し、「市原の子孫」とはしていない事から大きな矛盾で「後勘での錯綜か錯語」と思える。
    「川島皇子の裔」は「近江の氏族」であり、「姓」を出さない「佐々木氏」であるのに、何故、「姓の春原氏」なのかは判らない。
    「青木氏」と同然に「裔は青木氏」であり「姓」は出さないで「郷士族」として「氏族」を形成していたのだ。
    「諡号の姓」は「新撰姓氏禄」でも「敏達天皇四世族の天智天皇」の「真人別」の「淡海朝臣」であり、「近江の諡号姓」の「春原朝臣」は「朝臣別」に存在するが出自は「真人別」とするところであり矛盾している。
    この「諡号の姓」が両方に存在するのは「淡海朝臣」を根拠に「紛失後の後付け」に利用されたものと解釈できる。
    何故ならば、もし「真人別と朝臣別」に持つ事が編集時に成っていたとすれば「伊勢」も同然に出来ていた事に成るが、「敏達天皇の四世族・春日皇子系・21と37」に成っている。
    正しくは、史実は「天智系の川島皇子」も「天武系の裔系族」からも阻害されていたが、これを観て「持統天皇」に同情したとする史実がある。
    「賜姓臣下族」と「皇位族」を外れたとしても、「持統天皇」から「二世族と三世族の叙位」を正式に受けた「川島皇子の裔」は、この「三室王・745年頃没」と「高丘王・749年頃没」の「従四位下の三世族」までの「二人」と、―「安貴王・745年頃没」と「市原王・763年頃没」の「記録」から観て、「正式叙位」は授かっていない。
    それ故に、そもそも普通は出さない「四世族の王位」は疑問であるのだ。
    且つ、「後者の二人の官位」は「従五位下」であるので、「王位の官位」の受けられる立場ではそもそも無い。
    つまり、「市原の段階」で「近江佐々木氏族」は、衰退をしていた筈で、その意味で「能登―名張」の「婚姻の背景」の「疑問の状況判断」が判るのだ。
    「川島の皇子と施基皇子の孫」であった史実の事から「施基皇子の追尊」によって得られた王位である事が判る。

    この事からも「近江の川島の皇子の裔系」に「白羽の矢」が向かわなかった事が「前段の財力の論」もあって判る。
    この「白羽の矢」の飛ぶ方向を朝廷内で最後の会議が成され、前段でも論じた様に「川島の皇子の三世族」が一族を引っ張って伊勢の白壁を推す展開の史実が記録されていて、結局は近江で意見は分かれて一族争いが興った事が記録されている。

    ここで念の為に追記するが、「伊勢青木氏の施基皇子」から「二世代と三世代の約33人」は、確かに「770年の光仁天皇即位」による「追尊王位」を得ているが、「近江佐々木氏」の様に「世代叙位」を誰一人受けていないのだし、寧ろ、「白壁」と同じく逃げたのだ。
    これは「伊勢と信濃の青木氏の生き方の姿勢」を適格に物語るものである。
    要するに、これが「施基皇子」が示した「青木氏の氏是」なのだ。
    「氏の人格」、況や、「氏の氏格」で「近江佐々木氏」と根本的に違った点であった。
    「五家五流青木氏の内」の「近江美濃甲斐の三つの青木氏」は源氏化し、「伊勢と信濃の二つの青木氏」は源氏化しなかったのだし、此処に「生き方の姿勢の差異」がこの時に生まれていたのだ。
    「近江佐々木氏の縁籍の近江青木氏」は、結局は主家を裏切る事は出来ずに源氏化したのだ。
    要するに、近江に嫁した「能登―名張の女系」で「近江に青木家を興した家人青木氏」として派生出自した「二つの近江青木氏」は源氏化して消滅する。
    これも前段で論じた様に「嵯峨天皇の失策」が「青木氏」を消滅させてしまうのだ。
    同時期の同例に「桑名」から「浄橋と飽波」は「美濃」に嫁したが、「主家の三野王の生き方」に賛成せずに「美濃の額田青木氏・一色」を興し源氏化で隠れ偲んでいた。
    遂に、「伊勢」はこれを救い出す事に成功するのだ。
    そして、前段でも論じた様に「三河渥美に額田青木氏」を「殖産」で大発展させたのだ。
    この差は歴史が物語る様に「生き方の姿勢の差異」であって、尽きるは「青木氏の氏是」を護るかどうかの差異に通ずるのだ。
    これをよく示しているのが、“「二世族三世族の叙位を求めたかの有無に在る」”のだとしている。

    戻して、従って、上記した「764年〜769年までの出来事」から「約30〜35年後」で、゜近江系との関係性」は、歴史的に完全に無くなるとした事は、「王位の無い立場」の「市原・763年頃没」の「記録」は符号一致しているのだ。
    だから「婚姻先」として目立たぬ様に、「能登の処置」と「名張の処置」を一度に策した事に成り、これが成功した事に成るのだ。
    そして、前段の論の通り“「見返り」”として「窮していた近江佐々木氏」に何とかして立ち直らせる様に、これに対して「琵琶湖東の真砂土壌の干拓灌漑開墾の20年大プロジェクト・大難工事・額田部氏」を実行したと観られるのだ。
    筆者はこの事があって「長岡京遷都・784の工事と平安遷都・794年」を断った理由の一つしてと観ているのだ。
    この直前にも、「天武・持統の野口王墓の古墳増築管理」に関わっていたとする記録があり、「知古の施基皇子の人柄」を記憶していた「額田部氏の裔」はこれを重視し、例え「天皇の勅」とは云え「出自元の青木氏」を重視した事から、「遷都工事」のそちらの方に先ずは手が廻らなかった、否、廻さなかったのだろうと観ている。
    その遷都直前の「野口王墓の古墳増築管理」を重視し、その元の「築造と葬祭と築墳の一切の責任者」が「施基皇子」であった事から、「額田部氏」と「施基皇子の二世族と三世代の裔・福家」とも「知古」に成っていたのだ。

    注釈としてこの状態は明治9年まで続いていた事が記録から判っている。
    然し、「遷都同向を断った事・額田部氏の遺志も伴う」で「桓武天皇」から罰を受け「飛鳥斑鳩追放」と「全官位剥奪」と「守護神額田神社の廃社」と成った時に、「伊勢の施基皇子・716年没とその裔」は、「桑名で密かに匿った事」を「四家の二世代と三世代の裔等」は手伝っていた事から身を以て知っていたのだ。
    この事は「累代三大格式の歴史書」と「青木氏の資料の行」にも合せて記されている。
    この事は史実で、「桓武天皇」は流石に「出自元を追求する事」が出来ず、無事に「伊勢」は庇護した事が出来たとあり、且つ、その後の「近江の事等」の「額田部氏の殖産工事の活躍」で何と歴史的にも例を観ない「額田部氏」は「冠位」を「破格の三段階特別叙位」を受けて「隠してあった守護神の額田神社」の「祭司」までも伊勢額田に許されているのだ。
    この事等は、前段でも詳しく論じているが、「上記の事」、即ち、「施基皇子の氏是」に基づき、「四掟」や「律宗性の仕来り」や「女系制度」を設けてでも、「青木氏の血筋が天皇家に入る事を避ける策」の「能登の処置」と「名張の処置」が成功裏に及んだが、歴史的に「過去の出来事」と逆に繋がっていたのだ。
    これでは後勘から観ても逃れられないだろう。
    後勘からすれば、一時期に「白羽の矢で掻き廻された事」と「身内の嵯峨天皇の過激な行動」で、「90年〜100年間」は大いに「絶対視しなければならない氏是」に反して乱れたのだ。
    それも、正しく「外要因での事」であった。
    元を質せば、「神道仏道の融合策の問題」から齎された「白羽の矢」にあった。
    この事に依って、“一つ狂うと大きく狂い長く続く”の「人生訓・家訓」を「伊勢」は持つ事と成ったのだ。
    つまり、「氏是」はもと「より細かい事」が氏族内に入り込ませない為にもこの“「家訓10訓を護る事で防げる」”と考えたに違いない。
    故に、「賜姓臣下族の青木氏」が敷いていた「一切の制度とその身分格式の伝統」が無く成った現在でもこの「家訓10訓」は生きているし、今後も生きさせたい。

    さて、前段や上記の論の通り、「伊勢と信濃の青木氏」は、先ずこ「皇位族であると云う事」を好まずその「血筋の影響」を排除して「格式と伝統」だけを重んじた「氏族」に徹したのだ。
    その意味で、上記した様に「近江佐々木氏の氏族」にこの「白羽の矢」が向けられるのが「天皇家」としては条件的にも最適であった筈であるが、そんな「天皇家」から向けられたとする「記録」は、何れにも“「近江佐々木氏から自ら進んで繋がろうとした記録」”は、仮に後に見つかったとしてもそれは上記の経緯から観ても本来発見され得ない理屈と成るのだ。
    つまり、何時ものように歴史に興味のない人たちには騙せるが論理的に「後付けの搾取」に外ならない事に成るのだ。
    つまり、その「近江と伊勢の生き方と伝統の差」が、「伝統・律宗族に関わる事」の「神道仏道の融合策の問題」に在ったと観ているのだ。
    もっと簡単に云えば、「氏族の生き方」として、「其れなりの伝統」は近江にあったとしても“「近江佐々木」は「律宗族の伝統」では無かった”と云う事であろう。
    丁度、これが同然に“「嵯峨期の源氏等」が「9つの縛りの掟」を守らなかった事”に通ずるのだ。
    だから、「嵯峨源氏も近江佐々木氏」も「同じ考え方」であったから「源氏化したと云う事」に成って滅びたのだ。

    その前提で、この「伝統・律宗族に関わる事」に就いて根本的に三代に渡る「天皇家」の「神道仏道の融合策の問題」をもう一度振り返って検証して観る。
    「孝謙天皇・称徳天皇期」の「天皇家崩壊の条件」は、「裏では仏道帰依説」では条件的に完全に揃っていた経緯と成る。
    さて、ここに「神道の神明社」の「施基皇子の裔系・白壁王」が不幸にして引き出される所以が此処で起こったのであり、つまり「神明社」であった事に成る。
    「孝謙天皇・称徳天皇」が、この環境の中で「退位・749年」し、その後継者に「藤原仲麻呂」は「藤原系の外孫王」を「天皇」に押し出し、「淳和天皇」として権力を手中に収めた。
    ところが、この「思惑」を察知した上皇は、再び「外孫王天皇」を淡路島に流し廃位して重祚して「称徳天皇・764年」として返り咲き、要するに「青木氏」で云う「孝謙天皇の白羽の矢の事件」が起こしたのだ。
    この「火中の栗」を拾う様な「白羽の矢」を嫌がっていた「施基皇子の裔系の賜姓青木氏・白壁王・54歳・770年」にこの矢が不幸にして刺さったのだ。
    この時の「定説」では、「天智天皇の裔系であった事」と成っているが、既に、「皇子位」を外れ「賜姓臣下」してから何と「123年後の事」であるし、「施基皇子没後54年の事」であるのだ。
    先ず普通はこんなことは無いであろうし、「商い」を主体とした「二足草鞋の郷氏」と完全に成っていたと云える。
    既に、「伊勢と信濃での青木氏」では「裔系三代目から四代目」に達し、「二足の草鞋策」の「殖産を中心とした院号で働く商いの真最中期」にあったのだ。
    故に、「伊勢での定説」での「資料・漢文書を額にして保存」には、「天智天皇の裔系」では最早無いだろうとしているのだ。
    そもそも「殖産商い」は、「9つの縛り」、仏道の「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族の関係式」の「慣習仕来り掟の伝統中」にもあって、「院号を持つ令外官としての商い」をしていたが、「表向き」は当時の氏族の在り方の仕来り」では「禁令を破った氏族」に成り、当に「後継族」では無かった筈だし、そもそもこの事を嫌った事の「完全な四掟の女系族」であったのだ。
    これだけのはっきりした事があるが、この事には「称徳天皇」は充分に知っていた筈であると観る。
    そもそも、「大所帯の天武天皇の裔系」が既にあり、「小所帯の天智天皇の裔系」であるとするならば、確かに「天智系」でありながらも、結果として「天武系の血筋」を持った「天智系の川島皇子の佐々木氏」が「近江」に居たのだし、上記した経緯から、この「裔系の近江青木氏」も現存していたのだし、「四掟の天智系に近い信濃青木氏」も現存していたのだ。
    「伊勢」にも何度も下向しているのだし、多気には斎王館もあったのだから「知らなかった事」は絶対に無いと観る。
    もっと云えば、この「時期・764年頃」であれば、皇族に成り得る「出雲国の裔系・200年後」も「大和国の融合族の裔系」もいた筈である。
    「新撰姓氏禄」を正しいとしての前提としては、考えて観れば「天智系に戻る事以外」には「敏達天皇系」などの適任者族も沢山いたのだ。
    そもそも、「出雲国風土記」が「733年」に偏纂されている事から年代も違わないのであるから「大和朝廷との血縁付き合いはあった事」は確実に「証拠立て」られる。
    故に、「定説」の“「天智系と云う理由建て」”には、「血縁と云う流れ」からすると「天智天皇の裔系の伊勢に白羽の矢が来る事」がそもそも疑問であるのだ。
    「藤原氏とそれ以外の外孫王」では、答えは“「排除」”で明確であっても、兎も角も「内孫王としてのより対象者」は、「直系尊属」に最早無いとしても他に「天武系の直系卑属」には「適格な者」は多くいたのだ。
    そもそも、この事からも「伊勢青木氏に戻る事」が必ずしも“「天皇家の大儀」”として「直系に戻す事」には論理的に成らなかった筈だ。
    だから、当初、史実として、学者の“「吉備真日が猛反対をしたのだ。”

    そうすると先ず、“では何故かの「疑問a」である”。
    つまり、“何故青木氏だったのか”である。
    何故、「白羽の矢」であったのかである。

    その前に前段でも触れているが、この「疑問の理解」を深める為に歴史的に解っている事を論じて置く。
    そもそも、「孝謙天皇期・女性」、この「孝謙天皇・継承者不在」に依って「白羽の矢」を建てられた「臣下族の伊勢青木氏の出自」の「白壁の光仁天皇期 2」にも、そして、その孫の「嵯峨天皇期 3」にも、この上記する「二つの分離した格式」を「統一した格式に定める必要の状況」に就いては「是」であった事だ。
    そして「外孫王の淳和天皇期 1」と考え合わせると、次の様に成る。
    実質、それはそれぞれ「神道仏道の融合策」ではあったが「思惑の異なる事」が試みられたのだ。
    それが「新撰姓氏禄・嵯峨期の名称」であると論じている。
    これを判断する上では、これは欠かせない要素となるのである。
    然し、既に、“「170年も経た後の天智系賜姓臣下族の朝臣」”でもあって、「170年経過の賜姓族からの出自という事」もあって、三期共に「姓氏禄の編集の反対」、のみならず「制定のそのものの反対」が社会に興った事は後世に記録に遺る程にあったのだ。
    この「格式の社会の確立構想」に対して、“上層階級の全体に統一して「格式化を施すと云う事」が社会に波及して、既に冠位十二階制度や八色の姓制等のある程度の「格式社会」でありながらも、結果として、「身分的な事」が「固定し決めつけられる事等」を嫌う「激しい反対反論」も史実としてあったのだ。
    恐らくはその「決定される範囲」が「朝廷に関わる範囲」だけではなく社会全体に及ぶもので相当に広かったと云う事に在っただろう。
    それが貴族や官僚の範囲にだけではなく「族の末端範囲」にまでの範囲に及んだからだ。
    この事も然る事乍ら、思わぬところから成った「白壁の天皇としての最高格式」に対する「社会が持つ大疑問」にあったとしていて、その疑問では“それで良いのか”と云う「世間の風当たり」も現実には強かったと記されているのだ。
    それは“過去に第七位皇子であったとしても、既に賜姓臣下して「170年後の事」である限りは、その「裔系」は飽く迄も「臣下族」であるべきだ”とする「諸臣族」からの「猛反対があったらしい事」に成る。
    つまり、この事にはその時に生きていてれば筆者でもそう思うが、諸手で賛成を得られていた訳では無いらしい事は史実からも判る。
    その事で「伊勢と信濃の青木氏族の氏族」では「閃々恐々としていた事」が「伊勢の資料の行」や「公的に成っている記録」からも判っている。
    少なくとも「伊勢と信濃」に執っては「青木氏族」から観れば「自ら招かなかった災い」と成る。

    例えば、この事で一族の中には男女ともに狂者、疎者、大酒者、逃出者、酷者、出自を消す者、氏人に身を隠す者等が現れたと記されていて、中でも「員弁殿」では激しかった事が読み取れる。
    取り分け、「伊勢郷士50衆」は冷たかったと表現している。
    その理由は、「天皇家」に戻った場合に自分達にも「氏族の郷士の行動」に求めていない「締め付け」が及ぶと考えられていたらしい。
    この行を観て、「四家の福家」は逃れる事が出来ないと観て、「白壁」だけを犠牲にして極力天皇家と関わる事が起こらない様に、前段の論や上記の様な対応策を採ったと考えられるのだ。
    それに、一族の「妻嫁制度の女(むすめ)」を盛んに「郷士衆」に入れて「氏族化」を強化して「女系で造り上げた族」に変化させて、「天皇家に引き込まれる対象者」を悉く逃がしたのであろうと観る。
    そうなれば「伊勢郷士50衆」も納得したのであろう。
    そうして前段でも論じた事へと経過を辿って行ったと云う事である。
    この事で、「天皇家から遠ざかる伊勢」と「天皇家に近づく近江美濃」との「差」がこの「神道仏道の融合策」で生まれたのだ。
    もっと云えば、「伊勢と信濃の氏族の郷士衆の反対」と「近江と美濃の氏族の郷士衆の賛成」の処にもその「行動の差」が出ていたと云う事に成るのだ。
    この「行動の差」が、「伊勢と信濃」では、既に「三世族か四世族」では、「白羽の矢の失策」も何とか「人策」で逃げ、そして「後の事」も既に、少なくとも“「仁明期で終わる・桓武天皇の孫・後人手納の曾孫・施基皇子の玄孫」”だろうと見込まれていたと考えられるのだ。
    何故ならば、その当時では「仁明天皇」だけが「出自元の考えに近かったからだろう。
    未だ「天皇」に成る前の「皇子の時代」からそれが観えていたのではないか。
    結局は、この時は、「桓武派」と「嵯峨派」に分かれて争っていた時期でもあり、「嵯峨派の天皇家」は、「青木氏からの献納」を停止され、「財源・内蔵」に困っていたからであるし、これを観ていた「仁明天皇」は「父親・嵯峨天皇の政策・青木氏を賜姓族から外した事等」に否定的であったからだ。
    これには「仁明天皇の在り様」が史実として記されているので間違いは無い。
    現実に、「天皇家」はこの時でも「直系尊属」は終わり、再び「外孫王」に全て変わり、「白羽の矢の失策」は「仁明天皇」の彼が終止符を打ち終わらせたのだ。
    聖武天皇期と孝謙天皇期の南家藤原氏の外孫王に成って仕舞って以来再びである。
    後に「後三条天皇」で「藤原系外孫王」は終わったのだ。
    刻の如しで「仁明天皇」は「出自元の青木氏の乱れ」に「終止符」を打ったのだ。
    ここからは「殖産の青木氏族」と突き進んだのだ。
    少し後の「母系の秀郷流青木氏」も含めて「青木氏族」から観れば「恩人の祖」であるのだ。
    「近江佐々木氏の研究論文」にもこの事が浅く論じられている。

    何故ならば、「仁明天皇」は其処から「伊勢青木氏等」を「朝廷の煩わしさ」から切り離し、そして其処からは「商い」に邁進させた方が良いと考えたからに過ぎない。
    故に、そこから「青木氏の行動・殖産事業等の行動」が活発に成って行くのである。
    この時に、つまり、「考え方」が「次の三つ・ABC」があったと考えられる。
    A 「桓武天皇派の考え方」は、「出自元の青木氏」を「賜姓族」とし「賜姓五役」で「令外官」としながら院号を与えて「商い」をさせて内蔵の利得を獲得させる方法である。
    出自元が望む様に天皇家とは分離しながらも出自元を大事にした派である。
    B 「嵯峨天皇派の考え方」は、「桓武天皇派の反対の方法」で利得を獲得しようとした方法であった。
    然し、そこには「嵯峨天皇の厳しさ」があって「源氏を賜姓した事」が「青木氏の否定に在った事」で「出自元の献納」を中止された「計算違い」が興って「朝廷・大蔵と内蔵の財政」は貧した。
    C 「仁明天皇派の考え方」は、一度出した「嵯峨天皇の考え方」を表向きは追認しながらも、上記の通りで「伊勢青木氏等」を「朝廷の煩わしさ」から一切切り離し、そして其処から“「商い」に邁進させた方が良い”と考え出自元を擁護した。
    この「Cの考え方」が「青木氏の考え方」と一致したと云う事に成った。
    そして、故に一度留めた筈の献納が、再び、「商いから生まれる青木氏の献納」として、記録から大蔵に献納していないので、それを「内蔵の範囲・天皇家の財政に留める事」で話が着いた事に成るのだ。
    そして、故にこの「Cの献納」は明治維新期まで続いたのだ。
    「仁明天皇と青木氏との話し合い」の中で「総合の合意条件として執られた処置であった事」が良く判る。
    この「仁明天皇・833年−850年」から「約100年後」に「円融天皇」に依って「藤原北家秀郷流藤原氏」に「青木氏の賜姓」を永代に授かった前段の通りの経緯と成る。
    これは先ずそれまでは「四掟の母方」であったことからの経緯であろう。
    一度、「南家の藤原氏」と絶縁していながら、今度は北家の藤原氏の関東押領使であった藤原氏の中でも格下の勢力を持った地方藤原氏と母方血縁しているのであり摂関家筋では無いのだ。
    これは「青木氏の経緯」としては見逃せない。
    これは「行動矛盾」の様に観られるがそうではない。

    この「秀郷流青木氏の事」に付いては前段で論じてきたので詳しくは論じないが、要するに、天皇家の内蔵の「裏打ち」をしたかったと考えられ、その為には何かの原因で起こる「伊勢と信濃の青木氏の衰退」は避けねばならないとし、更にその為には「四掟」で「母系筋」であった「北家筋の秀郷一門」に「白羽の矢」を当てたと云う事であろう。
    この「白羽の矢」は母系の一蓮托生の両氏に執っても「最高の格式」を正式に得られる「賜姓」は悪くは無かった筈だ。
    「北家」の中で低く見られていた事から一族一門に執っても良かった事なのだ
    それは一門に執っては今後の事として、摂関家に対しても格式上で争う上でも良かった。
    それも一時的では無く「円融天皇の白羽の矢を立てた条件」が良かった事で、「116氏・24地域」まで拡大して両氏に執って期待しない目的も達成されたし、何よりも官僚として朝廷の中に食い込む事が出来た。
    摂関家を追い越すまでになったし、この様に以後の経緯を観ると目覚ましいものがある。
    四掟としても妻嫁制度や嫁家制度等で完全な青木氏族の確立が成されたのだ。
    現在あるは全国の「青木氏族の裔系」には「仁明天皇と円融天皇に救われた事」に成る事を歴史的経緯として認知しなければならないだろう。

    さて、反して、この「神道仏道の融合策の問題」に依って齎された「全青木氏族に与えた全ゆる現象」が、「孝謙天皇期、光仁天皇期、嵯峨天皇期」には「反発の社会現象」も三度も起こりその青木氏に対しての反動は顕著であった事が史実で証明されている。
    史実として書き遺されていると云う事は相当のものであった事が想像できる。
    「古史書」に記されている様に、「完全相互同族血縁」であったと記録される「近江佐々木氏」でも、「伊勢や信濃との血縁や縁」を打ち切った事も記されていて、その結果、「後家」まで出して関係性を消そうとしていた事が公私記録ともに判っているのだ。
    「始めから巻き込まれる事」を「近江側と青木氏側から嫌っていた事」が判る。
    「白壁王・光仁天皇」の「避けていた姿勢事・疎者と大酒者」にも明確に詳細に記されているくらいなのだ。
    然し乍ら、後勘から観て、その論筋と違い「白壁」が歴史上は「最大の犠牲者」であったろう。

    それ故に、この様に「氏族の格式付け」に焦って「社会全体で大反対」を受けながらも、これを鎮めようとして強引に押し進めようとしていたのだ。
    その結果、中でも何とか「未完成」ながらも「嵯峨天皇」が、「世の格式・身分」」を定める為に反対を受けた為に未完成の侭でも“「新撰姓氏禄」”の名称として強引に定めたのだ。
    「二派に分かれた五家の青木氏」だけでは無く「皇位族と政界と社会」が「桓武天皇派・反対」と「嵯峨天皇派・賛成」とに分かれている。
    後勘から観てもそれだけの意味があったかどうかは判らないが、後世にも於いても大いに混乱を招いたと観られる経緯なのだ。
    結果として、「嵯峨天皇派・格式化の賛成」で前段でも何度も論じている様に、この時、「律宗の族」にありながらも、出来たばかりの未完成の「新撰姓氏禄の定め」の中に無いとして、つまり、勝手に“統一した格式化の中には無い”として、「賜姓族・皇親族」からも「賜姓青木氏」を名目上でも外したのである。
    これがその「正統な根拠」とされたのだが、現実には「敏達天皇一門春日王の四世族真人族」として明記されている。編成中に編者が“これは拙い”として編成順位から観ても追記された経緯であろう事が判る。
    然し、「出自元の光仁天皇」は、この“格式化の編成”を試みた一人でもあるので、「賛成派」であったのであろうし、これを「嵯峨天皇」に執っては「救いの根拠」としていた事にも成る。
    その意味で云うと、同じ「賛成派」でも嵯峨天皇程には不満を持っていたかは判らないが、“「白壁は青木氏の犠牲とされた事」”に「不満を持っていた事」はこれで否めない。
    そもそも、「永代賜姓五役」を任じられ「律宗族」として「院号を持つ令外官」の役務を全うしていた「大義」が在る「青木氏」であるにも関わらず、「皇位族」を外し「賜姓族」をも外すと云う理に合わない事を「社会の面前」で遣って退けた。この過激な事を天皇自らが行い、しかもそれが「出自元」であると云う破廉恥な事を「嵯峨天皇」はしたのだ。
    だから尚、「青木氏族」は嵯峨天皇を支持しなかった事になろうし現実には無理であろう。
    これは「五家五流青木氏」の内の「伊勢と信濃の青木氏」の「社会的な体面立場」を無くしてしまう程の行為であったし、戦いに成ってもおかしくない事であったと考えられる。
    然し、経緯で「氏是」で思い留まったのだ。
    然し、そこで献納の一切を中止して対応したのだ。
    それでも、全てを捨てるかと云う事はせずに、「賜姓五役・伝統と9つの縛りの掟」と「令外官・殖産事業」と「律宗族の役務・祖先神の神明社の創建維持管理」を護っていたのだ。
    所謂、「伝統」は氏族のものであり護り続けたのだ。

    果たして、これを世間はどう見ていたのだろうか。
    つまり社会の目は「嵯峨天皇の仕打ち」を是として「青木氏の姿勢」を否としていたのかである。
    「歴史の経緯」がこれをはっきりと物語る。
    要するに、語る処の最たる処は「平城天皇の尚侍」の「薬子の変」と呼ばれるものであろう。
    我慢しきれず痺れを切らしたのは「桓武派」であったと通説は成っている。
    この時期の資料に関する「行」を寄せ集めて「青木氏の歴史」の「化石の出土品」の「繋合わせ」の様に接着して復元したのが「上記の論」と成ったのだが、そもそも「青木氏の歴史観」から観ると、この「尚侍の薬子の変」、実際は「平城太上天皇の変」と呼ばれる「政争」は、結局は反対派の「代理戦争と云う事」に成っていたのであろう。
    その証拠に、「平城上皇」が再び政権を取り戻す為に、「嵯峨天皇のいる平安京」にいる事は不利として「出自元の近い平城京」に上皇令で遷都して戻ろうとした。
    そこで先ず、最初の作戦は「平城京」に関係のない地域の「五家五流の内の信濃と甲斐」を除いた「伊勢国」・「近江国」・「美濃国」の「三国府」とその関を「嵯峨天皇」は先手を打って固めさせているのだ。
    歴史的経緯とその行動からこれで如何に敵視していたかが判る。
    然し、これは変だ。
    そもそも、京の「平安京」から飛鳥の「平城京」に移動するには、現在の「国道1号線」か「国道24号線」の「真東大路の2通り・徒歩8時間」しか無く、そもそもその固めた「三国府とその関」はこのルートからは全く関係は戦術上無いのである。
    そもそも、地理的距離では「平安京」から真東に「近江国」に2里、そこから「平城京」に真東に9里、そこから「伊勢・名張」まで真東に6里、そこから「美濃」に北東31里の距離にあるのだ。
    然し、歴史の史実では「三国府とその関」を固めたとあり間違いなくこれは変だ。
    この何気ない史実の点に注目すると、考えられる事は、ただ一つである。
    これは「出自元」とのその「能登名張の近江」と「浄橋飽浪の美濃」の「嫁ぎ先」の「青木氏一族を牽制した事」がその位置から明らかに考えられる。
    つまり、通説の「平城上皇の行動」には関係が無い事に成る。
    もっと云えば、よく知る「出自元の伊勢青木氏の動き」を気にしていた事に成る。
    それは「近江と美濃」には伊勢から嫁しているからで、「財力と抑止力を動かされる事」を警戒して「三国を制される事」を嫌ったのでは無いか。
    「伊勢と信濃」には禁令上即戦力は無いが、然し、「即戦力」は縁戚の伊賀に在った事を忘れてはならない。
    これを要動的に動かされると、「京の東からの物資食料の補給路」を絶たれ、且つ、「平城京に移動で東からの補給路」が出来れば「元の平城京」は成り立つのだ。
    「平城上皇の平城京の上皇令」は成功するのだからこれを嫌ったのだ。
    だから、それをできるのは「東の青木氏族ライン」である。
    この「出自元の青木氏族ラインが動かれる事」を極力嫌い、それは「嵯峨天皇の大義」を失う事に成り兼ねないからであった。
    故に、「国道1号線」か「国道24号線」の「真東大路の2通り・8時間」の「平城上皇の移動」にはそのものには全く関係がないのにも拘わらず、そして「人流物流の関」までも止めたのだ。
    現実に、「近衛軍」を廻して「平城上皇の移動」を阻止しているのだ。
    このは「阻止の仕方」が有名な史実で、“「裏切り」”"で出来たのだ。
    其れしか戦略上は無い。
    それは、「桓武天皇の義兄弟の坂上田村麻呂の有名な裏切り」であり、桓武天皇の恩義をとるか天皇の権威をとるかの判断に迫られた事に成り結局は坂上氏の先々の事を考えて説得された事が記録に遺っている。
    結果はこの事で一族一門は「裏切り者」として社会から批判され与えられた領地に居られなくなり琵琶湖の北の地の縁戚を頼って逃れ本筋は潰れたのだ。

    参考として念の為に前段でも色々な事に関わって来るので何度も論じている事ではあるが、「伊賀の平望王の孫裔」に当たる「高野新笠と光仁天皇」の「子の山部王・桓武天皇」と、「後漢阿多倍王」と「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」と血縁し、「准大臣」に成り、その「長男」が賜姓受けて「坂上氏」を名乗り「桓武天皇」に依って「征夷代将軍」に任じられたのだ。
    この「桓武天皇」は「母の高野新笠」の里の「伊賀半国割譲の後漢阿多倍王」のその裔の「平望王・たいらの望王の姓の賜姓」を祖父としている。
    この「伊賀のたいら氏の裔の高野新笠の子の桓武天皇」と「阿多倍の直裔の坂上氏」は「阿多倍王」を始祖とする「義弟の子」であるとして、親交と信頼は深く「渡来人」でありながらも「征夷代将軍」まで引き上げた経緯を持つのだ。
    「八色の姓」の 真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の「連」に引き上げられ、その後の「征夷討伐の功績」で「宿禰」にまで上り詰めていた。
    結局は出自元を重視した「仁明天皇」はこれを放置できず田村麻呂死後に処罰しその立場を奪い「裏切り者」として失うのだ。
    これで「平城上皇の政変劇の問題」は解決させたのだが、「青木氏族に降りかかった光仁期から引きづった嵯峨期の難題」も解決したのだ。

    更に参考として、「桓武天皇の母」の「高野新笠」の「高野真人族」として賜姓して「真人姓」を与えたが、この「高野」は、そもそも「孝謙天皇の諱号」でもあり、俗称「高野天皇」とも呼ばれたもので、「伊賀の阿多倍王と平望王の裔」として、この「高野」を執って「出自元の格式」を飾ったのだ。
    「白壁の妃」としての格式化する為に「称徳天皇の意向」があったと「青木氏口伝逸話」では表現を天皇の事である為にあやふやにして匂わしている。
    相当に「称徳天皇」は、この「白壁と井上親王」に気を配っていた事が伺えて、恐らくは史実で正しいのでは無いか。
    そうすると、「井上内親王の乱行の原因」がこれで観えて来る。
    「妹・阿倍内親王の称徳天皇の仕打ち」が、この「青木氏の環境の中」で苦しんでいるのに「気に成る妃の立場」にあった「新笠」への「高野の賜姓」で、それも「真人格の叙位」で「自分の諱号を与えた」と成るのには全く納得が行かない事で「井上内親王后」は無視された感覚に陥った事は間違いは無いであろう。
    それだけに「自らの子供・他人親王の皇太子」の今後の成り行きも危ないと観た事は普通では「猜疑心の精神状態」は極度に昂った事もあるであろう。
    これは普通に考えられる事である。

    さて、次はそこで何で「高野真人族の格式」を態々与えたかである。
    この行為は「与える事」は間違いなく角を立てる事は間違いはない。
    取り方に依れば、「母親に真人族格式の叙位」は、その子の格式も「真人族との子」と成り、“皇太子は高野の子だ”と云っている事にも成る。
    自分は、確かに「聖武天皇第一王女」ではあるが「出自元から継承位の嗣子」には無く、母は「夫人県犬養広刀自」の「県の格式」しかないし、自らも「伊勢斎王」であるとすると、“皇太子は高野の子だ”と考えるのも格式社会の中では無理のない事ではある。
    そこで、それを仕組んだのは、“伊勢青木氏の政所を仕切っていた難波だ”と邪推したとも考えられる。
    仮に、この時、后の井上内親王は、「天皇の子の内親王」であったとしても、「青木氏」が既に臣下していたとしても、「永代に持ち得ている伊勢の格式」に勝る家筋は他に無い現実をこれで知った筈である。
    故に、どうしょうも無いその「現実の不満の持って行き処・無力感」を「難波」にして「呪い」をかけたのであろう。
    現実的にも、「高野の事」が史実なので恐らくはそうであったろう事は充分に予想できる。
    要するに、「世の矛盾・無情」を強く感じたのでは無いか。

    717年生で744年で「神宮斎王」を退下し、その年の27歳に結婚で、7年後の34歳で「他人親王誕生」とすると、当時としての「女性の寿命55歳」から考えると極めて晩婚であり、「34歳/55」とすると現在で云えば51歳位と成るので、そもそも子供を産める歳では無いし、例え埋めたとしてもその卵子は間違いなく老化していて「健全な子供・水頭症等の欠陥」の出産は医学的に観て困難であろう。
    この様に「井上内親王の37歳出産の高齢出産説」もあるので、生理遺伝学的に健全子は大いに疑問である。
    念の為に色々な資料から当時は、その意味で多くの記録から早くて「8歳結婚」も通常であったとされる。
    例えば「青木氏の妻嫁制度」の中で「女(むすめ)教育」として使われた教本では「8歳」を前提として行われていた事が判っているので、この「晩婚説」は「適格性の問題」を持っていた事は間違いは無いし、「青木氏の中」では当然に、「妻嫁制度」に従ってこの「女(むすめ)教本」の中で例え「井上内親王」であっても「770年の即位」までは「青木氏の伝統」の中で処置されていた事に成るし、取り分け、「高齢婚であった事」から例外なくその難しい「出産」は注目されていた事は間違いは無い。
    「白壁」も「通常説54歳」で結婚したと成っているので、これも限界に近い高齢婚であるが男子の場合は、生理学的に3日に一度睾丸に貯めた精子を入れ替えてするので、高齢化は「精子の場合」は無いが「量的な問題」と「体力の問題」が伴う。
    史実、「伊勢青木氏の資料」から読み取る範囲では直接生んだかは別として、要するに「子供とされる者」は「当時の高位の慣習」から観て「養嗣の様な者」を含んでいて最低で「13人」とされる筈である。
    念の為に、記するが「青木氏族」は例外なく遺伝的に高齢寿命者が多い族で最低でも「平均寿命55歳」の世の中で「74歳以下(当時では135歳相当)」は極めて少ないのが現実である。
    これは前段でも詳しく論じたが「仕来り・伝統」として先ず「女系」で「良い卵子・選びやすい」を選び、且つ、「非弱な嗣子」は生まれた直前で選別していた「隠れた仕来り・伝統」があった様であり、それは「明治期まで続いた事は事実である。
    これは「四掟に基づく血の欠陥」を取り除く為の「合理的で宿命的な手段」として採用されていたらしく、それが「高寿命系の血筋」と成ったと考えられ、現在でもその特質は消えていない。
    この事から考え合わせると、唯一、「白羽の矢」で「女系で繋がる四掟範囲」から外れ「例外女系」と成った「白壁の実子の問題」が在った事は間違いは無いだろうし、当に上記の高齢婚であったのだ。
    だから、「政所を差配していた難波の動き」が在った事は間違いのだ。
    その証拠に、「四掟の伊賀青木氏と繋がる高野新笠の子の山部王を選んでいた事」は何よりも間違いは無い事だろう。
    「770年即位」までの「36年の間」は「伊勢青木氏四家の子」として「山部等を育てる事」に集中していた事が云える。
    「近江の市原王」に嫁した「青木氏の子の能登や尾張や湯原」を「光仁天皇の養嗣・つぐしの形」を執り、現に「山部王・桓武天皇」が、天皇に成った時点で「伊賀青木氏」と繋がる「四掟の高野新笠の子の早良」を皇太子に据えているのだ。
    その経緯から、これは青木氏等に執っては「子々孫々に響く不名誉な事」である為に記録的な物はない。
    然し、「健全子では無く、且つ、女系から外れた他人親王」は「青木氏から阻害されていた事」は充分に考えられる。
    その他の人と云う意味のありそうな名が物語る。
    他の人と違うと採れる青木氏の資料ではこの字を使っているのだ。
    この事で「令外官」として「朝廷」に代わって「商いを営む青木氏」は、最早、「律宗族の伝統」は護りながらも意識的にも「天皇家」に咀嚼忖度する立場には無かった事が云える。
    「氏是」にも思いを込めて可成り意識的にも庶民化していた可能性がある。
    施基皇子没より96年も経ち「青木氏氏是」を徹底すれば、必然的にそう云う経緯を辿る事は必定であろう。
    この事を考えると、裏を返せば、「750年〜765年の青木氏の中」では伊賀の出の「高野新笠」に期待が集まっていた事に成るだろう。
    この意味でも、この上記の「高野新笠の高野真人説から来る混乱」と、その「他人親王への疑問」はあった事は先ず間違いは無いだろう。
    それを仕切っていたのは、「気侭に世間知らずで聞き分けなく育った者・井上内親王」から「呪われた難波」であった事は充分に考えられる事だ。
    これを後勘から観れば、「他の3つの青木氏の源氏化策」とは真逆であったが、「皇位族」に拘らない「意識的な庶民化策」は「良い選択と判断と実行力」であった事がこの事からも云えるのだ。
    それは突き詰めれば「賜姓五役の令外官・院号を持つ商いに左右していた事」であろう。

    さて、もう少し掘り下げて観るとここからである。
    ところが、「平城上皇の平城京への移動」が、この「坂上田村麻呂」を「父桓武天皇の味方・義兄」として信頼し切っていた「平城上皇」は、「政治路線の違い」から「嵯峨天皇との決別」をする為に「平城京移動」は可能と信じていて、これを実行に移したのだ。
    ところが、「坂上田村麻呂」が途中で裏切った事で「平城上皇」の「平城京移動」は頓挫し、引き返す羽目と成り、命を守る為に剃髪して僧に成り引き籠もったのだ。
    これで「伊勢青木氏と信濃青木氏が推していた桓武天皇派」は衰退する。
    これはこれで要するに、「家臣等・810年の薬子の変」が興したとして大儀を繕い取り敢えずは終わったが、然しこの「後遺症」は残り終わらなかったのだ。
    当然に「伊勢青木氏」はこの「裏切り」を氏存続の為にも放置しておく事は出来なかったのだ。
    これに反発してこの“「坂上氏」と犬猿の仲”と成ったと想像できる。
    筵、記録されない事に違和感がある。
    然し、これに関わる資料や記録は、不思議に青木氏は勿論の事、公にも出されていないのが現実である。
    「天皇家に執って不名誉な事であり公的に成る資料」は無い事には如何にせよ、兎も角も、「伊勢青木氏」には無いのは当然の事であろう事が判る。
    「青木氏」から観れば、当時の「時代性・習慣仕来り」から、実は“「裏切り者」”に対する評価は下の下で人間的な扱いとして「厳しい掟」で死を意味したのであったのだ。
    故に、何事にも大儀を必要とし、極めて低く扱われているあるからで、「記録に載せる前の問題」であったのだ。
    坂上田村麻呂にはこの人を説得するだけの大儀が低かったのだ。
    「桓武天皇との義兄弟恩義と氏族の存立の大儀・桓武派」に対して「嵯峨天皇の命だけの大儀・嵯峨派」であって社会は前者を採ったのだ。
    だから宿禰族まで成った坂上氏は京には居られなくなり琵琶湖の北の外れの田舎に逃げ延びて隠れ住んだのだ。
    普通なら「嵯峨天皇」は庇うであろうが、庇う事は出来なかった位に嵯峨天皇と坂上氏に批判が集中したのだ。
    この時、「伊勢」はこの「裏切り」に対してどう動いていたかであるが、献納を中止する経済封鎖を嵯峨天皇に、坂上氏に対しては前段でも論じたが、淀川から大阪湾に運ぶ「殖産品の運搬等の利権の停止・鉱山開発の運搬等」で対抗しているのだ。これで糧を失った坂上氏は衰退したのだ。
    この事を後の古書に顛末書として記されている位で是非に歴史観として知って置く必要がある。

    例え、さて「神明社の祐筆」に依って「青木氏の歴史」として必然的にこの事に就いて一時記録に遺されたとしても消されている行く宿命を帯びているので遺こらなかったのであろう事が判る。
    故に坂上氏に付いては「大蔵氏や内蔵氏」の様に“何某かの記録らしきもの”もないのだ。
    つまり、一族を庇いきれなかったと云う事だろう。
    「青木氏の氏是や慣習仕来り掟や制度」から観て、この「裏切り者」を認めれば「律宗族で賜姓五役の青木氏」は成り立たないであろう事が判る。
    況して、「伊賀に繋がる桓武天皇の義兄の者」がその“「裏切り者」”であったとすれば許す訳には行かなかったと観られる。
    「抑止力」を持つが直接武力を持たない律宗族としては遺された手段は伊賀と圧力しか無いだろう。
    つまり、歴史的にハッキリしている事は「坂上氏との同祖縁戚関係」にあった「伊賀のたいら氏」も「坂上氏」に猛反発したのだ。
    当に四面楚歌の状況であった事に成り、嵯峨天皇も裏切り者を造り出した事から社会の信認は無く成って行ったのだ。
    「九州族の始祖と成った弟賜姓大蔵氏」と「陸奥族の始祖と成った三男賜姓内蔵氏・安倍氏の祖」とは遺ったが、長男坂上氏族には戦略的に「伊賀」を使う以外に無かった筈だろう。
    当然に「伊賀青木氏」も反発したと成れば、この「一族の関係族」を「伊賀域」から追い出す以外には手段は無くなるだろう。
    結論からすると、それの派が伊賀から離れて行った「甲賀族」では無いかと云う事だ。
    前段でも何度も論じた様に、室町期には「生き方の路線」で「伊賀と甲賀」に分かれたと成っているが、何も無い「甲賀の山奥」に甲賀系の者等がいきなり逃げたとするには問題がある。
    その前の大きな経緯があったと観ていて、「坂上氏一族」は歴史的に「784年からの長岡京」に関わり古書などの資料から、その一族が「約14里南の甲賀域」に住んでいた事が黒くから判っている。
    その「甲賀」は「厳浄寺付近」を中心に東西に「西甲賀」と「東甲賀」に分かれていたとされる。
    この「北伊賀地域」に隣接する「西甲賀・森林域」の外れに「青木氏菩提寺清光寺」が存在していたとされ、現在でもこの環境は変わっていない。
    直接、「現在の国道1号線」でその西外れで止まる「長岡京」に繋がる「東甲賀・近江に繋がる平地域」には忍者屋敷が集中していた事が判っている。

    「坂上田村麻呂の一族」が大きく係わったとされる「長岡京」が出来ると、「伊勢」からの「街道整備」が計画され、「長岡京」から「近江」を経由して「北伊賀の入口の鈴鹿峠」を越えて「伊勢国」に入り「亀山街道」を経て、「桑名街道」を通って「伊勢」に入る、これが「現在の関西域の国道1号」で「古来」はここを「斎王行路」と呼ばれていたのだ。
    更に遡り「奈良時代」には、平城京から東の幹線道路は、「大和」から「木津」を遡り、「伊賀」を経て「加太峠」から「伊勢」に入る「主要の大和街道」があった。
    これが「奈良時代の斎王行路」と呼ばれていたとある。
    三大実録の史書に依れば、これは古来の上記の「伊賀域―長岡京―近江―甲賀域―伊賀―伊勢」に関わる「坂上田村麻呂の歴史」を物語る地理であって一致しているのだ。

    前段でも何度も論じたが、618年に隋に追われ「後漢の阿知使王と阿多倍王等」は「200万人の職能集団とその家族」を連れて北と南の九州に入り、無戦で九州と関西の手前まで32国/66国を占領して拠点とする薩摩の隼人と阿多に戻ったとある。
    朝廷は「阿知使王と阿多倍王」を呼び出し「勢国」の「半国割譲」してこの「阿知使王・阿多隼人定住」と「阿多倍王・伊賀定住」に与えて住まわせ、「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を「阿多倍王」に娶らせその裔を賜姓して拡大させたが、これが上記の三人等とされる。

    さて、此処で、もう一度歴史を改めて検証する。
    「647年」に「賜姓」を受けて「青木氏」を賜り「勢国」を賜る。
    この後に発せられた「好字令714年」に依って地名は全て二字と成った。
    「半国割譲」の時は、この時は「勢国・伊勢の前の国名」は、現在の「東甲賀域」までとされた。
    この「西甲賀」から「東甲賀の域」を「半国割譲」し、ここを「渡来人の阿多倍王に与えた事」に成る。
    結局は「好字令714年」で「甲賀」としたのだが、これには実はその経緯があった。
    そもそも、この「甲」には意味があって、これは「八香木」の一つの「甲の神木」でもある。
    この神木を以て甲の国としてのだが、更にこの甲には経緯があった。
    「三国時代の北魏の八姓」の一つで、「後漢の安帝の父・清河孝の王」が、この「甲の神木の所縁」を以て「劉の姓」から「賀の姓」に変えたと「魏書」にある。
    これが半国割譲後に「渡来人の阿多倍王に依って祖先の賀姓から「賀の国」と定められた。
    この「賀の国」を西域を上記で説明して「伊勢の伊」から「伊の賀の国」と呼ぶようにしたのだ。
    当然に東域を「甲の賀の国」と呼ぶようになったのだ。
    伊の賀の国は伊から聖者が護る国とし、甲の賀の国は神木なる聖の国として何れも「聖なる国」としたのだ。
    そして、当時は、字画数が「12画数が陰陽説で延喜が良いとされた。
    これが「後漢の安帝の父・清河孝の王」の「21代献帝」の時に滅び「阿知使王と阿多倍王」の経緯と成っていて、「半国割譲」で「勢国」の北側を所領としたと成るのだ。
    そして、ここを「賀国」としたのだ。

    その後にこの「四つの裔系」は分かれて、「伊賀」、「甲賀」、「滋賀」、「敦賀」等にその裔が住み着いた。
    其の後の「好字令」で地名は「二字」に成ったが、この時、「伊賀、伊勢」の「伊の字の語源」は、そもそも「伊」の「象形文字」に意があって、「伊」は、そもそも「神を呼び寄せる聖者」の意があり、その右手で「杖」を持ち、その「杖の道具」で「神を導く物」とされた。
    つまり、左辺の偏は「神を招く人・聖者」、右辺の旁は神を招く道具の杖の象形文字との「合意語」である。
    「右手、杖、人」をこの「三つを組み合わせた象形文字」で、「治める」に繋がる意味を持つ。
    つまり、この「伊」の「勢国」で「伊勢国」としたのだ。
    もとより「勢の語源」は、「古文書」らに依れば、「神の許にあるその力で世俗の汚れを祓う」の意を持ち、その「祓う事」で「万物のいきおいを益すの意」として捉えられて使われていた。
    上記の「伊の意味」と「勢の意味」を組みあせた要するに「好字」にした事に成る。

    同然に、「西の賀の国」で「伊にある賀国」で「伊賀国」とした。
    その語源は、そもそも「出雲の神」が用いた「神のお告げ」を占う「亀の甲羅」より発したもので、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の十干は、「中国五行思想」から来るもので「生命消滅」を分けて説いたものである。
    日本に入るとこれを「陰陽説」に使われたのだが、本来は「甲」にすれば最も良いお告げに分類された。
    この「甲」を上記の「賀」と組み合わせて「好字」としたのだ。
    「長く続く甲の国」を意味したのだ。
    因みに、「滋賀」に付いて付け加えると、その象形文字の語源は、左辺の「草」が二つ並んだ処に、上に木冠を着けて、その左辺に「さんずい辺」を着けて流れるを表現したものであり、「育つ」を意味させた文字である。
    これを上記の「賀の意味」と育つ・繁栄するの組み合わせて「賀の国の人民の子孫繁栄」を意味させて好字としたものである。
    伊賀、甲賀、滋賀、敦賀にはこの様に統一した国としての意味を持たしたのだ
    要するに渡来人のこの「坂上氏一族」は、この4つに分流し3代に続いたとされるが、その裔系を多く遺したその一族の主な定住地は、つまり「800年代の主流の定住地域」は、この事から「守護神とする田村神社」が存在する現在の「滋賀県甲賀市付近・本家」だったとされるのだ。
    だとすると要するに、「甲の賀国」では「坂上氏同族」の「二つの分流(伊の賀、甲の賀)」が興っていた事に成る。
    そして、その「始祖の阿多倍王」は、前段から論じている様に「西の甲賀・北伊賀」に隣接する「伊の賀国、即ち伊賀国」に住む事と成ったとする歴史的な経緯である。

    突き詰めれば、「山部王の桓武天皇」と義兄とされる「坂上田村麻呂の坂上氏」であり、その「桓武天皇の母」は「高野新笠」で、「阿多倍王の二代目の高尊王・高望王」で、桓武天皇より「母の祖父・高尊王」に「平望王」の賜姓を賜ったのだ。
    要するに、この事は「平望」の「たいら氏の初代」と成る。
    この後に、「たいら氏の平國香―平貞盛―平維衡とし、それから・・・4代目平清盛」と歴史は続くのだ。
    「伊賀に住していた高野新笠」の父は、「二代目高尊王」とされているが定かであるかは確定できない。
    年齢から判断して「高尊王の娘」とすると、当時としては年齢的に極めて高齢と成るので「一族の娘」では無いかとする説が有力であるが、その一族とする説ではこの「三代目の高見王の説」もあり、年齢的にはこの説には合理性があり筆者も賛成している。
    つまり、「桓武天皇・山部王」が「天皇」と成った事で、その「母の父」を「一族の者」から「直系尊属」として系譜上で「追尊高見王」とした可能性が高いのだ。
    「施基皇子の追尊春日宮天皇」に応じて後から追尊されたとする説もある。
    何れにせよ、この「追尊の3説」にせよ「一族の者である事には間違いは無い。
    そうすると、論理的にこの「伊賀の裔系」は「西甲賀」までが、上記の「坂上氏」から「桓武賜姓」で「たいら氏」と成った事に成る。

    さてそこで問題は、ではその前は「坂上氏」であったのかと云う事に成るが、つまり、何時頃まで「坂上氏」であったのかと云う事である。
    これが「薬子の変・810年」での「坂上田村麻呂・811没の裏切り」の「伊勢青木氏の対抗策」に影響したと観ているのだ。
    この時点で先帝の桓武天皇の「坂上氏の賜姓」を「平城上皇」は外したと観ているのだ。
    「冠位官位」は勿論の事で当然の事であろうし、この「賜姓」は「天智天皇」によるものであって、その賜姓を外す云々は平城上皇にあり、嵯峨天皇の口出しの出来る範囲では無かった。

    実はその証拠が遺されていのだ。

    その変後も「平城上皇」は「平城京」に滞在した侭でいたが、「嵯峨天皇」は兄の「太上天皇の称号」はそのままとされた。
    兄に傷を着けなかったのだ。
    更には其の後も「嵯峨天皇の見舞いの行幸」も受けているし、この時、罰を受けた「大宰権帥に遷された親王」や「廃太子と成った親王」も居たが、この「2人皇子等の近親者」にも「四品親王の位」に戻す等の「冠位官位の授与権」を保持していたのだが、要するに何も事件は無かったものとして治め直したのだ。
    つまり、「院政の相応の待遇」は保障されていた事が許されていたのだ。
    又、本来あり得ない「禁じ手」の「先帝の勅を覆する事」まで行ったのだ。
    平城上皇の院政を認めた事に成り、「上皇令」は効果を発揮する状態と成ったのだ。
    「出自元の青木氏族」からの圧力を受けていた事に成るのだ。
    その一つとして例えば、平城上皇は、“平安京より遷都すべからず”との「桓武天皇の詔勅」を破り、「在京貴族」に対し「平城京への遷都の詔を出す等事」や、「冠位官位の授与の取り消し」や「賜姓や褒賞した者の臣下の者の取り消し」までも「変の措置」としてを盛んに行ったのだ。
    信賞必罰等の相当の権力を上皇は握った事に成る。
    この様に「変に対する措置」を、あった事はあっとして措置し、上皇にせよ天皇にせよ兄弟は如何にも無かったかの様にも措置した「表裏一体の政治的な措置」を講じたのだ。
    出自元の経済的な圧力があったと観ている。
    そして、その「証・保証」として「嵯峨天皇」は、この様に「平城上皇」には「ある程度の政権の掌握・院政」を握らせて「政権の安定」を図ったのだ。
    恐らくは、総じてこれらの経緯には「出自元の動き」を見計らったと観ているのだ。

    要するに恐らくは、「坂上田村麻呂」はこの「裏切り」で「平城上皇の罰」を覚悟したと考えられ、他の「二人裔系の歴史・大蔵氏と内蔵氏」に遺る栄転に比べ、この「坂上氏」には「3代で終わる」と云う不幸が待っていたのだ。
    何よりもこの「変」では最も勲功のあつた「田村麻呂の裔」に対して「嵯峨天皇」は褒章どころか身分さえもこれを補償しなかったし、「平城上皇の行動」を防がなかったのだし、何の勲功もしなかったのだ。
    つまり、「表向き」は「薬子の変の扱い」を「臣下が興した変」としたのだ。
    だからこの理屈から「田村麻呂などに対する処遇」は出来なかったのだし、一度罰した「近親者の処罰」も元に戻す事を余儀なくされて「平城上皇」に委ねて仕舞ったのだ。
    普通ならこれでは「嵯峨天皇の立場」は無くなるし、「天皇としての権威」は低下する筈である。

    つまり、「変」は「周りの者」が政治的思惑で興したものとして始末し、その「周りの者」の一部が復権を果たしているのだ。
    「平城上皇の信賞必罰の権限保持」で出来なかった事が真実本音であろう。
    上記の周囲の国が出自元の関係する国々の中で、この歴史経緯を度外視できず、この事から観て、その背景は「出自元の影響・献納の停止」と観ているのだ。

    そこで、これ上記の等の「嵯峨天皇と平城上皇の行動論」から観て、“「坂上氏」には「3代で終わる」”の史実は、“果たして3代で裔系が終わった”のかと云う疑問の検証である。
    青木氏の歴史観から念の為にして置く。
    確かに、変後の「平城上皇の行動」で、「坂上田村麻呂」は「裏切り行為」で罰せられて“「賜姓族を外され坂上氏を返上した」”のだが、「3代の語句表現」は外された事で確かに3代であって、“子孫繁栄は3代で終わった”と云う事では無い筈で、賜姓を外された以上は「別の姓に替える必要が出たと云う事」であろう。
    「伊賀、甲賀、滋賀、敦賀の4カ所」に広がっている「渡来人の賀族」は、通常論からそう簡単に裔系が絶える事は先ず無いだろう。

    “抑々、「田村麻呂」は「薬子の変・810年2月」の約一年半後の「811年6月没・758年生・53歳」であり、天武期に直、連、忌寸、そして、聖武期に正四位、桓武期では従三位、大忌寸、大宿禰まで上り詰めていた。
    その上記の諸流はその裔の許で「宿禰」を賜る”とある。

    これで「完全に絶えてはいない事」が判るし、その「裔系」は「嵯峨期」には「甲賀全域」に於いても存在していた事に成るが、然し、その変後の「坂上の姓と冠位」は事実確かに散見できなく成る。
    裔系であるかは未確認であるが、「平安期末期頃の二つの歌集」を調べると、「五人の歌人」が確認できるが、「賜姓臣下朝臣族の青木氏の繁栄等」と比較して「宿禰族」まで成っていた「その裔系の子孫繁栄」は、直接に源平戦等に巻き込まれない限りは普通は遺ると考えられるし、史実は巻き込まれている。
    然し、間違いなく衰退している事は判るし、少なくと「政治の場と甲賀域」には無いのだ。
    現に現在にしても名を遺すほどに同じ道を辿ってきた「九州全土の大蔵氏と北陸全土の内蔵氏」は姓名を変えて枝葉は大繁栄しているのだ。
    いざ、宿禰族まで昇進し「族の格式」とそれに伴う「経済の糧」を得て、これから子孫を拡大させ様としたその「ポイント・薬子の変」でその出端を挫かれ抑え込まれた形と成ったのだ。
    つまり、その原因と成ったのが、隣の国にいた「青木氏の策」であったと観ているのだ。
    政治的には策は「上記の平城上皇の行動」と、経済的には「東甲賀の経済の道」を断つ事であった。
    要するに、紙屋院として専売権を持つ「楮生産」と、その「買上げ」を停止を掛ける事であった事が判る。
    前段でも論じたが、丁度この時、「長岡と甲賀 米原と甲賀 甲賀と伊勢」とを繋ぐ「交通運搬の要衝点・米原 R1」の「米原―甲賀の杜の全域での楮生産の和紙の停止」が歴史的に起こっていてその時期が一致しているのだし間違いは無い。
    一つは「美濃の源氏化への圧力」とされると前段でも論じたが、「米原」が生産が中止後には「美濃の中央の寺尾」の山に「楮生産」は切り替えられていると論じた。

    そこで問題は、“ではこの「米原域の楮生産」が「紙屋院の専売権」が認められていた「平安末期」まで本格的に再開されたか”と云う事の解明と成る。
    末期の「頼政の1159年の伊豆の問題」が起こり、「伊勢信濃」はここに「融合族」を送り「商いの拠点」を造り、「伊豆楮の生産」を開始した。
    つまり、史実として「米原楮が生産中止」に成ったが、その「理由」と、その後に「米原」は再開していないのだ。
    「紙屋院」として「専売権」を持っている限りは、引き取らないとすれば「自由市場経済」では無く「部経済下」では「和紙生産」は絶対に出来ない。
    明かに「米原楮が生産が中止された事」は、記録に遺る確実な史実であり、特別な生産に関する障害は発生した訳では無いとすると、後は「政治的で恣意的な原因」とされる。
    「判断材料」としては、丁度、この少し前には「伊勢青木氏の財」で「近江東側域」を「額田部氏」に依頼して「長期間の干拓灌漑開墾」をして「和紙の原材料の生産」の為の計画を立てその調査が始まっていた。
    ここには例え「干拓灌漑開墾」を施したとしても「花崗岩の甲賀の山」から流れ込む「永久真砂の土壌質」には、「楮が適さない事」で、そこで紙屋院の研究から「沈丁花の原材料等」の「上級和紙の画仙紙」が適する事が判明していてその開発に取り組んでいたのだ。
    つまり、結局、「雁皮の靭・外皮下の柔らかい内皮」の繊維を中心に使う事と成って、それの生産に適する様に記録では「長期間・20年以上」とあるが、「和紙生産」と「干拓灌漑開墾」が「行の文意」から並行して行われと考えられる。
    遂に「近江生産が始まった時期頃」と「米原楮の中止」と上記した「薬子の変の坂上氏への圧力」の重複しているのだ。
    「裏切りに対する坂上氏」への「青木氏の圧力」は、「米原楮の中止」と「近江和紙生産」と「美濃寺尾の楮生産の開発」と「後には伊豆楮の生産」は計画的に「一貫した戦略策」として並行して行われたと観ているのだ。
    当然に、前段でも論じたが其の後も「伊勢信濃青木氏」を巻き込んだ「桓武天皇派と嵯峨天皇派の戦い」は続いていたと考えられるが、この「青木氏」の「坂上氏裏切りに対する圧力」で「甲賀坂上氏」は「東甲賀」から彼等の「二つの裔系」が定住地とする「滋賀と敦賀」に去ったと観ているのだ。
    その証拠に、「東甲賀」には全く無いが「北伊賀」に繋がる「西甲賀」には、「甲賀青木氏」が定住し「清光寺」も「神明社」もその所縁が存在しているのだ。
    「坂上氏」が平安初期に住んでいたとする彼等の「守護神の田村神社・宿禰族以上に与えられる権利」は、「東甲賀の東端」に存在したとし、その後に再建されているがここには「坂上氏の尊属の裔」は確認できない。
    天智天武期に阿多倍王の裔に三氏の賜姓が成され、最終は宿禰族までに成ったとすれば「賀国・甲賀の差配」は知行地としてその運営は任され、その結果として「知行の糧」として「米原から美濃の国境の東側域まで横に広範囲」に「楮生産を営んでいた事」とされていたとある。
    だから、「土壌質」の替わる「美濃の寺尾の森」であったと考えられる。

    上記した様に記録に依れば、その「土壌」から、“その「和紙」に対する「楮の質」と「生産効率」は低かった”とあり、故に上記の長期間を掛けて土壌改良までしている事はその証である。
    故に、遂には初めて「良質の和紙・画仙紙」と呼ばれる高級で良質な表面とその滑らかで光沢がある紙に仕上がり、墨や岩絵具が滲み難い特徴を持つ「画仙紙の和紙」を造り出したのだ。
    この「雁皮の和紙」を「絵画院と繪処預院」の名の下に「青木氏部の長年の研究」で「真砂の土壌」に適した「和紙」を何と編み出したのだ。
    そして、それを「近江米原域・甲賀域」で生産させていたと云う経緯を持つのだ。
    要するに、ここに目を着け“「圧力の許を見出した”と云う事だろう。圧力を掛けたのだ。
    そして「停止後の生産」は、「干拓灌漑開墾」が済んだ「西甲賀」で行わせたと成ったのだ。
    この歴史の経緯には合理性がある。
    これで院号を持つ青木氏のこの「質と量」を理由に「青木氏の生産中止の届け出の大儀」は成り立ったのだ。
    当然にその得られていた糧は低くなり、これが無くなれば坂上一族を生かして行く事は不可能と成り得る。
    当然に米穀物は真砂である限りは極めて低いとすると、坂上氏の本家の裔は必然的に滋賀と敦賀に避難して行くだろう事は必然である。
    況してや、上記した様に裏切った以上は、「平城上皇」が依然として「院政」を敷く以上は、朝廷内に遺る事は宿禰族であったとしても何の意味も持たず難しくなるも必定である。
    故に、「記録の表現」が、“実質3代”としたと考えられる。
    記録は「昔方式の意味含み」でそれを相手に悟らせる表現で、「適格に歴史の経緯の状況」を表現できていると観るのだ。

    注釈として何度も前段で記したが「古書・史書」には、「現在文」と違って前後の経緯を知り得ていると云う前提で記されていて、歴史観を得た上での理解できる記録であるので、この「力量」が絶対条件として求められる。
    この「力量を持ち得た者」のみが「読み取る事」が出来る様にし、現台文の様に誰にでも判る様に事細かに書かれてはいないのだ。
    殆どが「字の読み書き」が出来ない特別社会の中であって、そう云う「文化状態」であったのだし、況してや漢文であり、故に「漢字の語一つ一つに持つ原語意」を知り得て、現在人ではその深意を知るにはこの歴史経緯まで到達して置く必要があるのだ。
    この時期に発達した歌や俳句はその最たる手段のものであろう。
    歴史が好きであった為その理解力を深める俳句は、家の書籍は漢文だらけではあったがそもそも若者には無理であったが、その環境もあって小学五年頃から始めた。
    「俳句」は「情景と情緒と訓韻」の3つを持っていなければ「俳句の意味」は無いと教えられたし、「俳句」は古くからその意味での「総合の伝達手段」であったと教えられた。
    当にこれは歴史書を読み切る能力に通ずるのだと教えられた。

    「青木氏の伝統 67」−「青木氏の歴史観−40」に続く。(P60)


      [No.390] Re:「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/06/25(Fri) 15:08:22  

    「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」の末尾

    > 前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
    > これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
    > 幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
    > 斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
    > 筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
    > 「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
    > 殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
    > 当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
    > 況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
    > 故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
    > これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
    > これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。


    「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」

    さて、「律宗族論」を続ける。
    この「歴史的な詳細経緯」を青木氏の歴史観を獲得する為にももう少し論じて置く。
    「詳細な当時の経緯」であるが、更にこの「律宗族の意」を前提に、世の中に「仏教」が興隆し始め、「皇祖神の神道」を前提としていた「天皇家・孝謙天皇期」までも、のみならず「民」にまで深く浸透していて、この「仏道の概念」を「神道の朝廷」もこれを見逃す事が出来ず「受け入れを認める事」に迫られていたのだ。
    その「受け入れ方」で悩み難しかった。
    「吉備真備・公家・学者・朝臣・正二位・右大臣」に「聖武天皇の第一皇女・阿倍内親王の個人指導者・家庭教師の役割・母は光明皇后」」を受けて、天皇自らも個人としての心の中で、この「仏道の概念」に傾注していたのだ。

    因みに、この「光明皇后」は、「宿禰族の橘の諸兄」の「母・三千代」が「藤原不比等」に後家として嫁し、「光明」を産み、その「光明」は「聖武天皇の皇后・光明皇后」と成り、「阿倍内親王」を産み「女系皇太子」を経て「孝謙天皇」と成る。
    そして、この「橘の諸兄の母・三千代の子」から「宿禰の橘青木氏・現存」が同時に出自していて、この「光明皇后」とは「従姉妹関係」に当たり「孝謙天皇の祖母の里先」であって「所縁の深い関係」にあったのだ。
    それ故に、「内親王と皇太子の時代」に密かに何度か「伊勢松阪の里」を訪ねたとする記録があり、行動力のある皇太子であったとされ、全ての事に興味を持つ性格の「阿倍内親王・皇女・皇太子」の時にも、何度か“「伊勢松阪を訪ねた」”とする「青木氏の口伝・逸話」の「史実・761年8月29日」もあり、この説としては故に可能性は低いと観られるが「孝謙天皇の白羽の矢」が「伊勢青木氏」に来たとする説もあるのだ。
    故に、「姉の井上内親王」が嫁ぐ直前まで務めていた「斎王」であったが、その「斎王の面倒」を「多気郡の斎王館」で看ていたとする「伊勢青木氏」の間にも面識が浅からずあったとされる。
    故に、「54歳にも成る白壁」に「伊勢の斎王」も務めたする「井上内親王」を嫁がせたとしている「伊勢の資料の説・逸話説」である位なのだ。
    「阿倍内親王」も天皇に成ってからは記録的に初期に一度伊勢行幸があり、その天皇に成る前にも当然に松阪や伊勢神宮を何度も訪ねていた事に成ろう。

    この事に関しては何も無しに突然に「姉の井上内親王・母は県犬養広刀自」が嫁したとする事」では、少なくとも無かった事は頷ける。
    つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、「孝謙天皇」が「通説の天智系天武系説」に係わらない「女性・感情主観」である限りに於いてこの「里絆説」を重く見ていた可能性があるのだ。
    これには否定する要素や疑問は何も無い。
    そもそも、「青木氏族」が「二つの神道と仏道・律宗族であった事」が、「伊勢青木氏と天皇家の間」に「感情のそれを遮るもの」は嵯峨期までは何も無かったのでは無いか。
    確かにこれは「最もな逸話説」であり、普通であれば全体を占めている「天皇家族の天武系」に傾く筈の処に、「家庭教師でもあって政治の場にもあった吉備真備」も敢えて「反対」をした記録が無いし、逸話的には陣頭に進んでいたのではないか。

    それには、それに「相当する格式」が無ければ無理であって、前段で論じた「二つの神道と仏道・律宗族」との「奇異な二つの文化」には、上記したそれぞれの納得させるだけの「独特の格式」”と云うものが「青木氏」には潜んでいたのだ。
    そこで「朝廷」は、この「“異なる独特の格式」”が社会に浸透して仕舞って存在する以上は、社会が二分する危険性が潜み、“これにより混乱を招く”として、先ずその「前提」と成るこの「統一した格式を定める必要」に迫られていたのだ。
    其れが「伊勢青木氏の裔系の天皇家」であったとすれば、問題は無い。
    然し、「川島皇子の後の裔系の近江」を始めとして「天武系」には、「天皇家」であったが所以で「仏道・律宗性を取り入れる事」は出来ず、元々、その「片方の仏道・律宗性」は無かったからであろう。
    何故ならば、その「朝廷の採った策・方法」は、「古来からの神道族」と「概念・格式」の異なる新しい「仏道族」との間に「決定的な争い」を起こさせぬ様に、歴史の経緯は先ず融合させようとしていたのだ。
    その史実としての根拠には次の様な事が最近発見された。
    既に、「仏教導入」に対して「蘇我氏派の賛成派」と「物部氏派の反対派」の二派に分かれて「激しい争い・政争」を起こしていた事は史実なのだ。

    ところが念の為に注釈すると、「最近の研究」では両者ともに裏では「神道」を中心としながらも「仏道に帰依すると云う姿勢」を採っていた事の「証拠」が文献や仏像などが大量に発見されているのだ。
    然し、「政治の場では違っていた姿勢」を執っていた事が判明していて、現在ではこれが「定説のイ」とされる様に成っている。
    「蘇我氏と物部氏の争い」は表向きの事であった事に成る。

    故に、その事を考えると、上記した様に「阿倍内親王・孝謙天皇」の「青木氏への白羽の矢の突然の行動」は、「神道族と仏道族の格式の壁が天皇家以外には無く成っていた事」に成るのだから、「賜姓族で皇親族の伊勢青木氏との間」では、「背景・青木氏の逸話の里絆説」としては普通に納得できるのだ。
    要するに、前段でも論じた様に、「天武天智系説の通説」<「青木氏財力とその格式の利用説・律宗族」<「孝謙天皇の里絆説」との関係式があるが、「神道族と仏道族の格式の壁」が実質無く成った現在では、「青木氏財力の利用説」=「孝謙天皇の里絆説」の「総合説」に傾いている。

    故にこれを解決するが為に、「淳仁天皇の時の策・第一段階」と「光仁天皇の時の策・第二段階」と「嵯峨天皇の時の策・第三段階」の「三度の策」が参考にしながらも執られようとしたが、「神道族と仏道族の格式の壁」に付いては相互に参考にしながらも、「夫々の融合の策」には「大きな違い」があった。
    「神道族と仏道族の格式の壁」の「融合の手段」としては次の様な政策を採ろうとしたのだ。
    この「三つの策」が嵯峨期には「新撰姓氏禄」として反対を受けながらも強引に世に出された。
    この「三つの統一する内容」としては、「朝廷」は全国に分散していた世の中の「氏族に相当する者・認定氏・全910族」の先ず「拾い出し・第一段階」をした。
    それを「4つの分類・第二段階」に分けた。
    それに「身分と格式」を「第三段階」に分けそれを系統化して与えようとした。
    この様に「矛盾」が生じない様に融合させようとしたのだ。
    然し、史実は、この「第一段階から第三段階」までその先の結果が「社会に与える利害」を見通せられた事から、どの階級からも「猛反対」を受けたのだ。
    そもそも、「選出した編者衆」からも「猛反対」を受け無視どころか纏めようとしていた案文をこの三度共に編集中の案文が隠されてしまうと云う破目に成ったのだ。
    これを「約40年弱の間」に行われたのだ。
    「三つ共」にその利用しようとする「編集目的」が違うが、結果として「格式を決められると云う事」には同じであり、世の中はそれを嫌ったと云う事に成ろう。
    元々は「世情の中で身分格式の社会」でありながらも、それを「書類で正式に決められる事」に反発したのであろう。
    そもそも、それまでは「冠位十二階の制」や「八色の姓の制等」で身分格式を決められてはいたが、「格式身分」であって「神道仏道の融合」の自由を規制するものでは無かった。
    つまり、既にこの時代に於いても「神道仏道の融合」は「自由であるとする概念」が社会全体に根付いていたのだ。
    「重要な事」は「神道」に於いても「仏道」に於いても「宗教概念」は違えどこの事には差異は無かったのだ。
    結局は、「前二つの編集」は完全に失敗に終わり、結局、「嵯峨天皇」は「未完成の案文」を編者衆が逃げる中でも強引に社会に出してしまったのだ。
    然し、「完全に格式化される事」を嫌う「世の中の反発」を激しく招き、この為に編者等が「雲隠れすると云う事態」が起こり結局は頓挫したのだ。
    それが「新撰姓氏禄」であり、その原本すら隠されたのだ。
    そもそも、何も「諡号範囲」の「新撰姓禄」でも良かった筈で、そこに「数少ない朝廷認定の氏禄・真人族48氏・全体の1/20」までも態々反対の中で敢えて付け加えたのだ。
    其処には初めから「八色の姓の制」などでその「格式の程度」は判っている「真人族」を、何故、付け加えたのかであり、ここには“見逃せない意味”がある。
    そしてそこで、「嵯峨天皇」は更に「賜姓」を「青木氏」から「源氏」に変更して勢力の財力の持った「出自元の伊勢青木氏・祖父の実家」を「単なる皇位系の氏族」にして仕舞ったのだ。
    この「嵯峨天皇の行動」は、「青木氏の歴史観」から観れば“何か矛盾している行動”である。
    普通であるなら、「神道仏道の融合策」を成し遂げた「出自元」であり、且つ、自ら編集した「新撰姓氏禄」にも「真人族」の「敏達天皇四世族系(春日王裔系)の天智天皇四掟一門族」と指定しながら、「賜姓族」から外して「単なる皇位系氏族」にしたのは矛盾であり、寧ろ、「源氏」を賜姓するにしても、これだけの条件を揃えている「賜姓臣下朝臣族」であるのなら「賜姓源氏」に対して、それに代わる“模範と成る賜姓族だ”と権威着けるべき事であろう。
    「政治の場の策」としてはそう成る筈だ。
    だから、「桓武天皇・平城天皇派」と「嵯峨天皇派」に「激しい戦いの政争」と成る醜い見っともない「一族争い」が起こったのだ。
    「出自元の伊勢と一族の信濃の青木氏」は困ったであろうが、然し、「桓武派」に明確に着いたのだ。
    後勘から観ても起こる事はこの程度の事は読み込めるし、事は必然であろうし「後勘の者」としては、「新撰姓氏禄」が「源」と成る「嵯峨天皇の一連の策」はこれは「嵯峨天皇の失政」と観ている。
    「賜姓した五家五流の青木氏の模範の存続」を其の侭にして「弘仁五年の詔勅と禁令」の「賜姓源氏」を行い、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高めた方」が「神道仏道の社会の混乱」は免れた筈である。
    其の上で、“「9つの縛り」を出すべきであった”のだ。
    そうすれば、“「矛盾は生まれなかった」”し、「伊勢信濃青木氏」は朝廷から大きく離れて行かなかった事に成ったのだが、結果として最終は「平家・たいら氏」も潰れたが、自ら進めた「源氏策」を潰す「源平戦」へと繋がって行ったのだ。
    最後は、「天智期の大火の改新」で生まれた坂東に配置された「元第七世族の平族・ひら族」が天下を取って仕舞ったが、その後もそれが「河内源氏と坂東八平氏」の「一つの融合裔系の足利氏」の室町期まで続く結果と成ったのだ。
    青木氏の歴史観かの後勘から観て「嵯峨天皇」は自分で自分の首を絞めた事に成ったのだ。
    つまり、結論として「孝謙天皇」が執った「神道仏道の融合の策」が、結果として「嵯峨天皇の矛盾を孕んだ失政・美化されている」で「成功の方向」には向かなかったのであると「青木氏の歴史観」では説いている。
    問題は、「嵯峨天皇の跡目」を継いだ「仁明天皇・ここまでは青木氏の血縁の出自元」は、「嵯峨天皇の子」であり「修正」は無理であろうと思われたが、この修正を敢行したのだ。
    「桓武天皇の子」の兄の「淳和天皇・在位10年」がこれを修正しなかった事にある。
    故に、その後の「賜姓」は乱れ、正式には11代であるが、賜姓無しの勝手に名乗った源氏族を加えると20位上にも上る事と成り、元々、「9つの縛り」を護らなかったが「賜姓」そのものの意味は無く成るのだ。
    たった一つ真面に遺ったのは「清和源氏」だけであり、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高める策」と云う「政治目的」は霧消する事に到ったのであり、「仏道が当たり前の社会」と成って仕舞ったのだ。
    「仁明天皇の執政」はこの事に気づいて「証拠」である。
    結局は、この「失政の流れ」で「朝廷の力」は弱く成って仕舞い、結果として「神道」は「青木氏・律宗族と呼ばれる」にしか「伝統」されず、「9つの縛りと融合」を護らなかった「鎌倉幕府へと移行する事」に成って、挙句は「融合ところの話」では無く成り、「神道」は社会から消え「第二の姓族が発祥する事」と成ったのだ。
    況や、「神道が消える事」は「朝廷が衰退する事」に成り、伊勢と信濃の青木氏が支える神明社だけが遺る結果と成った経緯である。
    そして、遂には“「子神の祖先神の神明社・青木氏」”の“「親神の皇祖神の伊勢神宮・天皇家」”の事も忘れ去られる結果と成って仕舞って、江戸期に成って遂には「青木氏」から「祖先神の神明社」を剥奪し、その結果、荒廃した「神明社」が明治期に成って「天皇家の守護神」と、“誤解される結果”と成って「子神と親神」が同一と成って仕舞ったのだ。
    そもそも「天皇家」には“「皇祖神」”と云う「天皇家独自の守護神の神」があったのだ。
    「青木氏の各地の定住地」には「神明社」が多いのはこの事に依るが、唯、本論の「伊勢青木氏出自の光仁天皇」の「神道仏道の融合の策」に依って、そのそもそも「出自元」が、“祖先神の神明社であった”とする事から、その血筋を受け継いでいる天皇家とすれば、「皇祖神の伊勢神宮」でありながらも「祖先神の神明社とする事」にはその一理は確かにある。
    唯、それにしても「青木氏の血流の血筋とするの根拠」は、遺伝子的には、精々、「光仁天皇」から「仁明天皇」までのものであり、「四代目の六人」とされるし、「祖先神の神明社」と仮にする以上は、同然の「清光寺」も「天皇家の菩提寺」であるとする理屈に成るがそうでは絶対に無い。
    「天皇家」は上記する様に「孝謙天皇期」には本論の「律宗の融合策」を執って、一時は「仏道に傾いた時期」も確かにあったが、かと云って「神道」であるから当然の事ではあるが「天皇家の菩提寺」は無い。
    現在に於いても「神道」だけでその戒律の中にあり、「天皇家の全ての伝統」は「神道」に限られている。
    決して、「孝謙天皇期の融合策」には現在に於いても至っていないのだ。
    「祖先神の神明社」であれば「密教の清光寺」なのである。

    さて、ここで参考として、「唯、不思議な言い分」があって、“「天皇家」は「神明社」であっても、「祖先神」では無い”とする「明治維新期の言い分」を唱えているのだ。
    恐らくは、「維新政府」をリードする薩摩藩などの「政治的な思惑・天系一途の原則」から、上記した「皇祖神の伊勢神宮」がありながらも、これを認めていながらも訳の判らない「矛盾した言い分」が出来上がったのであろう。
    「施基皇子の伊勢王と成った存命中」から始まり「光仁天皇期」までには、既に「女系態勢」をほぼ造り上げ、「伊勢衆の氏人」の「氏族関係」を構成し、「藤原北家秀郷流一門」とも「中国の古来の制」を採用して「四掟範囲」に基づき「母方族」として繋がり、後に「北家の秀郷一門と繋がる」として「独特の限られた賜姓臣下族の女系」と成っていたのだ。
    これが「施基皇子」が「伊勢王」と成った最初に、「伊勢衆を含む裔系一族」に示した「青木氏の氏是」であるのだ。
    故に、「明治期の祖先神の神明社」が、「天皇家の守護神とする説」は飽く迄も「皇祖神の神宮」であって、「女系で繋がる青木氏の神明社」では絶対に無いし、その証に「神明社の神職」の全ては奈良期から引き継いだ「伊勢と信濃青木氏の子孫の裔系」であり、現在の多くもその「裔系」とするは、「明治維新期に造り上げた策」は「矛盾」に満ちているのだ。
    江戸期直前まで「伊勢と信濃の青木氏の莫大な財と管理維持の許」で、且つ、「一族の青木氏による神職」で、維持管理されていた「史実」をどの様に解くのかである。
    「明治維新の神明社の言い分策」であるとすると、「男系の天皇家」と「女系の青木氏」は「同系」と成って仕舞うでは無いか。
    つまり、且つ、「明治維新」に打ち立てた「天皇家に類する格式族の排除」の「天系一途の原則」は矛盾するでは無いか。
    「今も遺されている伊勢と信濃と秀郷流の青木氏族」に執っては、この説は「施基皇子からの氏是」に基づくと、現在は最早「守護神の概念」は無いし、「神明社に拘る訳」では無いが、迷惑ない事であり、「歴史の学者」が公的に情報媒体を通じて云う時には、本論を良く読んで「歴史の経緯」を知って“是非訂正して欲しい矛盾説”ではある。
    もう一度言う、「祖先神の神明社」では無く「皇祖神の神宮」である。
    全国の各地に「68の神宮を有している伊勢神宮」があれば、「・・社では無い事」は直ぐに解る筈だが、「社」であって「宮」では無く、「神社」とは違うのである。
    簡単に云うと、「・・社」と「・・神社」とは違うと云う事であり、「神明社」と「神明神社」とは「神明の神概念」が、前者の「・・社」は奈良期初期からの「単なる神概念・融合・神明社」、後者の「・・神社」は「仏道の概念」をある程度取り入れた「神概念・習合・神明神社や八幡神社」で分けられていると云う事である。
    故に、「四掟の女系」で「血縁続き」と成った「秀郷流青木氏の守護神」は「春日社」であって、「春日神社」では無いのだ。
    「春日神社」は上記の通り「習合概念の影響」を受けた「室町期以降の村各社」なのであり、決して「秀郷流青木氏の守護神」では無いのであり見分けが着く。
    「秀郷流一族一門」が建設したかは疑問であるが、その判定は朝廷から受けた正式な「社格式」で判る。
    主に江戸期に多く建設されたもので「無格式社と村社格式と郷社格式」では、「利を追求した民間一般財の神社」であり、「秀郷流一族一門の氏族」が独自に「一族の守護神」として建設とした場合は、「国幣社格式又官幣社格式・大中小に分類」では無く、相当に財を有する一門であり、特別に許可を得た「氏社格の別社格式」に当たるであろう。
    従って、「伊勢と信濃の青木氏の神明社」と「秀郷流青木氏の春日社」は、「独自の氏社の格式」に当たるが、「光仁天皇期」と「円融天皇期」には「融合の社」としての「社の格式」を特別に「朝廷から神社で無かった事」から「最高格式の准国幣社並みの格式」を与えられていた事が記録から判っている。
    つまり、それは「神明社と春日社」が、朝廷が奈良期から求めて来た“「社」”であって“「神社」”ではない「9つの縛りの掟を護る律宗氏族の社であった事」であろう。
    上記する「明治維新の騒ぎの矛盾」はこれだけを捕らえたかも知れない。

    現実に「紀州・和歌山市」にある「元天皇家の神宮・伊勢への遷宮の前はここに在った」が存在していて、それが現存して広大な地で古式豊かに国祭司されている「日前宮・伊勢の前の宮」であったが、それを「天智天皇」が「伊勢」に移して、「伊勢神宮とした歴史の経緯」を知れば違うという事が直ぐに判るのだが。
    「光仁天皇の経緯」から来ているとしても、上記するような直ぐに解る様な多くの矛盾を孕む事が判れば、「青木氏」とは別に「神明社の史実に基づく歴史観」として何でこんな間違いを起こしているのか不思議である。
    飽く迄も、「聖武天皇から孝謙天皇期」、更には引き続いて「光仁天皇から嵯峨天皇期」までには、「神道仏道の融合策」を「政治の場の策」で確かに執ろうとしたが現実には頓挫しているのである。
    「伊勢と信濃の青木氏」が「神道仏道の融合策」を「伝統」として執って「律宗族」として維持して来たが、だからと云って「祖先神」が「皇祖神」に絶対に成る事は無く、且つ、「神明社」が「神宮」とは成る事ではないし、「施基皇子の時」から「天皇家とは血筋・血流」の完全に異なる「女系族」と成って仕舞っているのだ。
    その為に「四掟を定めての女系氏族」としたのだ。

    元に戻して、そして、その上で「彼等の賜姓源氏族」に「皇位族である格式」を保たせる為に、つまり「律宗族」にする為の「9つの縛りの掟」を負わせたのだ。
    そもそも、「新撰姓氏禄」にして「真人族」や「臣下朝臣族」を付け加えた以上は、「上位の格式」は定まったものであり、「9つの縛りの掟」を負わせる必要は無い筈だ。
    必然的にその位置にある以上は「9つの縛りの掟」を護る義務を負う事に成る。
    此処で、「新撰姓氏禄」を観てみると、「嵯峨源氏の朝臣族」としての「確定下した記載」は無いのだ。
    時系列的に検証しても、「源氏の朝臣族」としては「101氏」の中の唯一つであり、男子は一族内では「好字名」を使っているので「第一代目の四人」である事を示している。
    「831年」にこの「四人の朝臣」が「朝臣族嵯峨源氏の賜姓」で臣下と成るが、そもそも「新撰姓氏禄」は「816年」に定められたとするので「時代」が合わない。
    この「四人の嵯峨源氏の唯一つの臣下朝臣族」は、故に、「15年後に追加された事」に成るのだ。
    唯、「嵯峨天皇の在位」は「809年から823年」であり、「没年」は842年である。
    「退位」から「没年」までは「19年間」で「院政」を敷いたが、この「831年から842年」の院政後の何れの年にか書き加えた事に成る。
    然し、在位開始から「7年後」に定められたとするとその「記録」は無いし、その前に紛失しているし、結局は「院政後の説」は消える。
    要するによくある「後付け追加」であり、論理展開に於いては充分に検証しなければならない事に成る。

    尚、参考としてこれも前段でも何度も論じたが、つまり、「嵯峨源氏朝臣族」の唯一つの「皇族賜姓臣下族の氏族」は当初は記されていなかった事に成るのだ。
    果たして、「新撰姓氏禄」が紛失していないとしても、「桓武天皇の第7皇子」の「兄の次の淳和天皇(823〜833)」がこれを許すかであり、例え「9年の院政」であったとしても恐らくは無理であろう。
    前段の通りに「紛失後の鎌倉期から室町期初期頃」までに書き足された事」は充分に考えられる。
    「書き足す事」が出来たとして考えると、それまで誰かが隠し持って保管していた事も考えられる。
    そもそも公的に成っている本が、「原本」ではなく研究推論から導き出されたものであろうから深く検証は難しいのだが、“「嵯峨源氏朝臣族の記載」は原本の元から無かった”とする可能性が時系列から導き出せると筆者は観てるのだ。
    書き足しているのは「11源氏の内の最初の嵯峨源氏」だけとすると、平安期と成るが、実は書き足されているのはこれだけでは無く、「諸蕃類」に時代性と格式が違うあり得ない"「第二の姓族」"が実に多い事から観て確実に室町期と成るだろう。
    合理的な時系列と合理的な青木氏から観た歴史観から先ず間違いは無いだろう。

    つまり、そうするとこの検証から、「嵯峨天皇」は、“律宗族の「9つの縛りの掟」を護る義務を必然的に護る”と観ていたが、全く護らなかったのでので、考えられる事としては後から「新撰姓氏禄」から削除したという事になろうか、将又、最初から書いていなかった事に成るが判断は分かれるが、筆者は実は、この“「律宗族の9つの縛りの掟」を定めた”以上は、“これで行ける”と観て、“最初から書いていなかった”事と観ているのだ。
    つまり、「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせる様に負わせたのだ。
    然し、この「天皇の命」を「賜姓源氏族」は違えた。
    何と、それどころか流石に「神明社」で無く「清光寺」では無く、「八幡神社と八幡菩薩の習合」で果たして護ったのだ。
    「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせるとかいう以前のこれは完全な「天皇への裏切り」であろう。
    然し、何とこの四人にだけは「朝廷・嵯峨天皇」は重役職を与えたのだが、「従三位、参議、右大臣、左大臣と成り、他の者には公卿とも成るのだ。
    但し、三世以降は好字の慣例上で貴族や公家としては後世に子孫が伝わらなかった。
    つまり、好字慣例だけでは無く流石に見かねた「仁明天皇」は、「嵯峨源氏」が「律宗族の9つの縛りの掟」を護らなかった事から「嵯峨源氏の子孫の存続」さえをも許さなくして仕舞ったし、自らの「仁明源氏」も賜姓しなかったのだ。
    「嵯峨源氏」の「子供の仁明天皇」に依って「子孫」が絶えて、その内の「妾子孫の二人」が地方に流れ着いたとして名乗っている「姓名」は「藤原氏の地方裔の姓名」であり「後付け」である事が判るし、これは「満仲の偽策」であった事が判る。
    結果は、二代後の「清和天皇」の直前まで「律宗族」を出さなかったのだが、この「清和天皇」は、「賜姓」のあり無しの「12人の源氏」を出した。
    然し、この自らの子供では無く、「子供の陽成天皇」が精神異常を来していた為に、その子の「孫の経基王」の「再三の懇願」で、遂に折れて「清和源氏」として「無格式を条件に賜姓」を許したのだ。
    これが「嵯峨源氏」より悪かった。

    「律宗族の9つの縛りの掟」を護る護らないより「禁手の武器」を持つだけでは無く「周囲」を侵略して「徒党」を組み「武装集団」を形成したのだが、最後には最悪の事態が生まれ「有史来の政権」を朝廷から奪い取ると云う破天荒を遣って退けたのだ。
    然し、最早、誰一人、“「仁明天皇」の様に”、「律宗族の9つの縛りの掟」を破らせる行為を止める事は出来なかったのだ。
    その意味で、「青木氏の最後の出自血縁」の「仁明天皇」は賢明であった事を後勘としての歴史観で子孫に遺せられる評価が出来る。
    「光仁天皇・桓武天皇・平城天皇と桓武天皇の孫の仁明天皇」の「青木氏の血筋を引き出自元と成る5人」は「律宗族」の「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」の礎を築いたのだ。
    その意味で「嵯峨天皇」が採ろうとした「律宗族の9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」は評価できるが、「青木氏の賜姓」を外し、「皇親族」からも外し、「令外官」からも外し、「出自元の律宗」を否定し、その「出自元の伊勢信濃青木氏」に圧力を加え、「政争」を超えて「戦い」を伴う「一族争い」を興し、挙句は「殖産と献納金」までを否定した事は、最早、普通ではない。
    そして、「源氏」を賜姓しながらも、その「源氏」に「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」を無視され、これを否定した「賜姓源氏策」で重職に着けると云う破天荒を遣って退けたが、つまり、全てを根底から自らが崩す矛盾を興して混乱を招いて仕舞ったのだ。
    その「影響」は「実家元で出自元の青木氏の存亡に関わる事」までに及んで最後は「始祖とする天智天皇の思惑」は潰えたのだ。
    確かに「嵯峨天皇の策」は錯綜していて矛盾していたが、それを救った子供の「仁明天皇の採った策」は後勘から観て正しかったのだが、結局は朝廷を衰退させ政権をその河内源氏に奪われる「始末の源」と成ったと、「青木氏の歴史観」から美化せずに説いている。
    その後の天皇は「青木氏の出自・血縁元」では無く「外孫王の藤原氏系」であるので「青木氏の歴史観」からは検証するのは控える。

    然し、「賜姓族青木氏の神明社の概念」と「浄土白旗派仏道の清光寺の融合」の「密教概念」を図ったのだ。
    だから、その証拠にどの「11代の天皇」も何れの「11家の源氏族」にも、「融合」と成る為の「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「氏の青木の神木・神道」と「白旗の御印・仏道」と「賜姓物の護り本尊・仏道」の「四つ」を与えなかったのだ。
    「9つの縛りの掟」を護らなかった「河内源氏の頼朝」は、摂津源氏の以仁王の乱を起こした“「頼政の跡目を継ぐ」”と云う「大義の名目」で、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「白旗の御印・仏道」の二つだけは兎も角も引き継いだとしたのだ。
    ところがここに矛盾が生まれたのだ。
    参考として、「11家11流の賜姓源氏」の内のその「何よりの証」が「最も純粋な源氏族である嵯峨源氏」の「残存末裔等・現京都府京都市右京区嵯峨天竜寺地域・実際は資料より北側日本海側の山手に在って密かに農業をして住んでいた事が判っているが、経緯から移動したのではないか」の「家紋」は実は「笹竜胆紋」を家紋としていないのだ。
    これはこの「嵯峨源氏」に限らず「残りの末裔」と観られる「9つの源氏」も同然であるのだ。
    これは何故かであるが「賜姓と云う朝廷の仕来り」を正式に受けた者には「賜姓五物」と云うものが与えられる。
    「賜姓」を受けないで「源氏族を名乗った者」も多いが、この者らは「平安期の混乱期」を生き抜く事は実質は出来なかったので論外とするも、正式に「嵯峨期の詔勅と禁令が定める仕来り」で「正式賜姓を受けた者の生き残った者」には、この「賜姓五物を与えたとする記録」はそもそも全く無いのだ。
    それは、「嵯峨期の詔勅の文面」とそれを「詳細に条件づけた禁令」には、この「賜姓五物を与える事」のみならず、前段でも論じたが「禁令の中」での「青木氏への取扱い」の中に、“「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統」を類してはならない”と記されているのだ。
    従って、この事から「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統に係わる事と成り、「賜姓」は、「嵯峨天皇が9つの縛りの条件付きで認めた」とするものの、この「禁令」から「賜姓五物を与える事」は出来なかったのである。
    故に、「賜姓五物の一つ・象徴印号」は当然に持つ事は出来無かったのである。
    そこで、どうしたかと云えば「賜姓源氏の者」が、この“「象徴印号」を持たない”という事は生きて行く上で出来ないので、「生き残った初期段階の10源氏」は「揚羽蝶紋、下り藤紋、橘紋等」の「皇位族とは女系血縁筋・外孫族・支流卑属」の「宿禰族の高位族紋」を使ったのだ。

    それはどういう事かと云えば、「嵯峨期の詔勅」で明記している様に、“「生活の糧」を与えない”としているので、かといってこの「生活の糧」を自ら獲得できないので、先ず考えられる事としてこの殆どは「宿禰族の高位族・公家」に「婿養子」として入り糧を得て、その家の「家紋」を「格式号」としたのかであるか、「鎌倉期」か、将又、「室町期中期の姓勃興期」か、「江戸初期の国印状取得」の「後着け策」が殆どであり,そんなに「伝統」を「400年」もの長く「格式の伝承」を「逃げ惑う戦乱」の中で「正確」に保って生き続けられるものでは無い。
    そこに論じている「伊勢と信濃青木氏と秀郷流青木氏」の「違い」が「11源氏」のその差と成って出て来たのだ。
    参考として、何度も論じているが筆者の青木氏の歴史観の調査研究では、「殆ど後者」と観ていて、仮に「記録は菩提寺や守護神で祐筆保管しているので「11賜姓源氏」としては無くす事は無いと考えられるが、仮に無くしたとしても、「姓名、家紋、宗派、菩提寺、墓石、過去帳、曼陀羅、密教、発祥地域、家の慣習仕来り掟の伝承、神道の形式、戒名、院号等の五重相伝、定住地・・等」で、それは上記の「嵯峨源氏」の様に、又、「河内源氏・八幡神社八幡菩薩」の様に直ぐに判定が出来るのだ。

    故に、「嵯峨源氏の様な家紋が無い事」が起こったのだ。
    「賜姓氏名、象徴紋、象徴物、象徴神木(青木と柏)、冠位官位(浄大一位、正一位)などの格式と院号」と、これに伴う「副役物」の「賜姓五役」・「令外官」・「伊勢守護王」・「9つの縛りの掟」、つまり、「嵯峨期の禁令明記」の「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」が加えられた。

    現実に、「11賜姓源氏」にこれだけの「賜姓時の特典を与える事」は「天皇家」には最早その「力・財源」は無かったしそれ以後も無かったのだ。
    無かったから、「嵯峨期の詔勅」と成り、それに明記する様に“「賜姓源氏をした」”のだから。
    然し、元の「賜姓青木氏」には「伝統」で論じている様に「令外官」として「大商い」をし、充分に「糧・殖産等の巨万の富」を蓄えてあった。
    賜姓を外されたが「影の令外官」であって外す事は出来ず、且つ、「献納が起こる財源元」を外す事は出来なかったのだ。
    その「青木氏の皇親族の力削ぎの限度」は此処まであったのだが、「賜姓」を外された、「令外官」を外された、「皇親族」を外されたの以上は、「天皇家への献納」は最後は当然に停止する以外に無く成ったのだ。
    では、「賜姓源氏」がこれを補填する力が在ったのかであり、「武力」は有っても「財力」は無い。
    何度も論じているが、ではその彼等の「禁じ手の武力」で「青木氏の商いの財」を奪うか潰すかであるが、ところがその「武力を上回る抑止力」を既に構築していたのだ。
    それは「四掟に依る藤原氏の一門とその秀郷流青木氏とその一族一門」が控えていた。
    この様にしてこの「賜姓臣下族のリスク」の環境の中で興った「賜姓源氏」の「上記の天皇から賜姓物の授与」が無かった「清和河内源氏」で、「幕府を開いた事」で「格式獲得の格式矛盾」を含んだ「河内源氏の暴走」が興ったのだ。
    これが「律宗族論の神道仏道の融合の策」に係わる「笹竜胆の院号論」であり、「青木氏の伝統の矛盾論」である。

    この事から「幕府樹立した河内源氏」だけが「笹竜胆紋」としているのは「権威付け」から上記の「摂津源氏頼政の引き継ぎ」を前提とした「樹立大儀である事」である事は明らかで、これは「虚偽の無い朝廷の中での記録」が無い限りはこの事で判る。

    「白旗の御印・仏道」は、「密教浄土宗の白旗派の御印」であるのだ
    上記した様に、そもそも「密教浄土宗」ではない「八幡神社と八幡菩薩の習合概念」と、「神明社と清光寺の神道仏道の融合概念」とには埋める事の出来ない大矛盾が生まれたのだ。
    これで「白旗」は使えない事は、同時に「笹竜胆紋」も使えない事を意味し、この逆の事も云える。
    そこで「頼朝」は、立場上、「白旗と笹竜胆の前提」と成る“「9つの縛りの掟」を護らなかったとした「朝廷の反対」”にも拘わらず、これを「頼政の代わり」として「樹立した幕府の権威と大義」の為にも「一つの奇策」を講じたのだ。
    それは、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」の「紋の一部を書き換える」と云う「策・類似紋・花柄軸を替える」に出て「朝廷の反対」を“これだと文句は無いだろう”と躱したのだ。
    それは、「青木氏が持つ象徴紋の笹竜胆紋」の「竜胆の花と笹」は同じとして「花柄の部分・軸と花の間を換えると云う策」に出たのだ。

    「密教浄土宗派の白旗の御印・仏道」に対しては、「浄土密教の皇位族の帰依する宗派」を意味するこの「白旗の扱い」を、“「統一的象徴」として「王党派としての団結」を遂げた事”として言い逃れたのである。
    それには「根拠」を見つけて来た。
    それは、「日本書紀に記載がある白旗の意味合い」であった。
    そもそもこの「白旗の意味」には、「日本の文献」では最も古いのが「降伏の意味」での「素幡・きぬのはた」を「白旗」の通常の書例・イではある。

    ところが、別に「日本書紀や風土記等」の「古書」にもある様に、「白旄・中国の慣習」では、「一軍の将軍」が「軍の指揮」を執るのに用いる「白いヤクの尾毛」を「竿の先端に着けた中国の慣習」がある。
    この事を利用して、この「旗印」を「王位制」、即ち、「君主制の象徴・ロ」として言い換えたのである。

    このイとロの「二つの言い換え」に「朝廷」は流石に怒り狂ったが「日本書紀や風土記等」の「古書」を逆に言い出された事に「朝廷の反論」は詰まり、結局は黙視する以外に無く成ったのだ。
    然し、「源平戦での白旗使用」にはこの理屈は通らず、ある程度の「9つの縛りの掟」を護っていた「摂津源氏の四家の頼政の代行」で押し通したのだ。

    然し、唯一つ、言い逃れが出来なかった事は、河内源氏の「八幡神社と八幡菩薩の習合の概念」である。
    「白旗」は「神明社と密教浄土の融合の概念」である。
    全く違う状況の中であるのに直さない通説は「変な話」である。

    つまり、上記の事例が後の時期に興ったが、これは、最早、「神道と仏道と云う話」であり、「融合か習合」の話であり、この事から引きつられて「社会}は「格式化の賛成派」と「格式化の反対派」の「二派の権力闘争」にすり替えられていた事を裏付けている。
    故に、真実は、「巻き込まれる事」を嫌った両方の編者等は、逸早く命の危険を感じた学者達の編者は、史実の通り「雲隠れした事」と成ったのだ。
    「神道と仏道の問題」は、上記したやや後の「源氏行動とその言動」から考えると、「朝廷」としては「伊勢青木氏」と同然の「融合導入の前提にあった事」が云える。

    然し、それよりも「本命の問題」は、「導入の基盤造りにあった事」に成る。
    上記した様に「導入」には「社会」にそれを受け入れる「基盤の醸成」が必要であって、それには“「独特の二つの格式」”を「統一した格式」に改めて定める必要があった。
    然し、これが無い侭に「仏道の浸透」が「皇族内で進んでいた事」に成るのだ。
    この侭では、「神道の朝廷」は瓦解するは必定であった状況に陥っていた事に成る。
    その証拠に「最近遺跡の発見」で「二つの派閥の領袖・蘇我氏と物部氏の館跡」から、既に裏では帰依していた遺跡が出て来たのである。
    つまり最早、「時間の問題」であったろう事に成る。
    故に「蘇我氏」に依って「物部氏」が潰され、その後に「天智天皇の乙巳の変」で「蘇我氏」を一掃した事が既に興っていたのだ。
    更に、この「仏道の浸透」が進み、「乙巳の変」で力の持った「藤原氏」に何方にしても「天皇家は乗っ取られる事」は必定な状況であった事に成る。
    既に「外孫王・藤原氏系」が「淳仁天皇」と成っていた現状では猶予は無かった。
    況して、「天皇家・聖武天皇系」には「男子皇位後継者が不在」であり、且つ、其処に朝廷が進んで自らが「仏道の大仏殿建立」であったのだ。
    「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に、「藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」が割り込んで入り、「漁夫の利」を得ようとして「三つ巴の攻防戦」が続く破目と成るが「仲麻呂の思惑」は寸前で「自滅」し「危機の難」を逃れたと観える。
    「三つ巴」の一つが消え、「二つの危機問題」を解決する模索が続いたと観える。
    つまり、その解決手段が「孝謙天皇の白羽の矢」であったと「青木氏の歴史観」から観れば成るだろう。
    この「最終の決定過程・吉備真備」に於いて上記した様に「里絆策の感覚・孝謙天皇」は働いたのだ。

    実は、この時の「騒ぎの証」として「青木氏の逸話」が遺されている。
    其れは、「追尊白壁王」に嫁した「井上内親王」の后は「青木氏の孫裔系・四代目」までに呪いの呪詛をして殺そうとして、「自らの二人の皇子の安寧」を狙ったとした。
    当然に「賜姓族」とは云いながらも、最早、「天皇の里」は「殖産化した商いの氏族」と成っていた。
    その間では「伊勢青木氏」が面倒を看ていた「伊勢の斎王・井上内親王」であったとは云え、感情的には「天皇家の中で育った井上内親王」であると云う感覚を持つ事は自然である。
    感情的に成る以上は、そう云う事に成るであろう事は頷ける。
    それだけに「井上内親王」には「殖産家の伊勢青木氏」として映っていたのであろう。
    “映る”と云うよりは”知っていた”と云う方が正しいかも知れない。
    “自らが取り込まれてしまう”と云う「脅迫概念」に取り込まれてしまっていたのかも知れない。
    其れの感情が行き過ぎて“だから子供も護ろうとした”のでは無いか。
    青木氏を呪詛する事に到ったのだろう。

    注釈乍ら、「青木氏の伝えられている伝説事」と実はこの「井上内親王の奇行」とが違うのだ。

    通説の経緯
    744年井上内親王27歳に結婚
    754年37歳の時に酒人内親王
    761年47歳の時に他人親王
    764年政争始まる
    770年称徳天皇・孝謙天皇は没
    770年に他人親王立太子
    770年に白壁王が即位、后と成る
    772年に光仁天皇を呪詛
    772年に酒人内親王は斎王
    773年に追尊難波王を呪詛・没
    773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
    775年に二人は没
    776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
    776年まで政務
    778年に没・86歳

    以上と歴史では通説と成っているが、それに依れば、“「744年までの政変で多くが粛清されて、その「飛び火」が伊勢に及ぶ事を嫌って「四男・54歳・又は六男」の一番若い「白壁」は酒飲んで暗愚を装った”と成っている。
    {54歳と云う処に全ての経緯の意味」が籠っている。
    当時は平均寿命年齢であるからだ。
    然し、781年没(778年没説もある)の84歳の2年前まで政務を執っていたとされる記録が遺る。
    とすると、「青木氏に直接及ぶ政争」は「34年間」も続いていた事に成る。
    実際には、その後の「仁明天皇期の末期・850年」までの「最低100年~最高106年間」も続いていたのである。
    これは「研究」が進んでいる「信濃青木氏」にも「同族血縁していた事」から影響はあったであろうし、「信濃」に於いても更に手に取るような詳しい総合実態がその内に明らかに成る事を期待している。
    兎も角も色々な遺されている各地の「資料の読み漁りの行」から、「仁明期から円融期の賜姓・960年・平安期中期」までの「100年間」は、「前期の90年間」とは異なり、凡そは「平和」に成り、“施基皇子」”と云う「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたと観られる。
    だから、「円融期の秀郷流青木氏の賜姓」に繋がったとも考えられる。
    つまり、「朝廷の院の務め」から「正式に独立した925年の商業化」を「史実」、所謂、「商いの殖産家」で「庶人化していた事」に成るが、但し、「天皇家との間の繋がり」では未だ「献納と云う形」では関係性は維持していたらしい。
    況や、逆に「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたから「庶人化した事」に踏み切った事になろう。
    然し、そこから「円融期の秀郷流青木氏」が関わる「正式な賜姓」に繋がって行くのであり、遂には更に「100年後の1025年」には「庶人化した事」の証としての「宋貿易等を行う総合商社化」が成されていたのだ。
    完全に「過去の院号」に頼らない「庶人化していた事・独立していた事」、つまりは「世間からの印象」は既に完全に近い形で薄れ消えていた事に成る。
    此処で「青木氏のその歴史観」から観ると、この幾つかの「歴史観」には「疑問」が残り、これを解決しないと面白おかしくする為に「青木氏の歴史観」は歪められるばかりで、誰も正しく解いてもらえないのだし、歴史とはそう云うものだし、故に「伝統の危うさ」なのであるが「正しい歴史観・伝統」を解析しているのだ。
    少なくとも「判る範囲」で、先に「過去の伝統」も踏まえた「状況証拠を集めた推論」でも遺しておく必要があるのだ。

    さて、この時期の「青木氏の歴史観」のその「歪められた疑問」について検証して論じる。
    論点は次の通りである。
    「青木氏だけ」に遺された疑問が次の通りである。

    772年に光仁天皇を呪詛
    ・1 何で呪詛されたのか?
    772年に酒人内親王は斎王
    ・2 何で斎王にされたのか?
    773年に追尊難波王を呪詛・没
    ・3 何で妹が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?
    773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
    ・4 何で廃位して、更には庶人になったのか?
    775年に二人は没・自殺
    ・5 何で名張に移され自殺したのか?
    776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
    ・6 何で暗愚を装う必要があるのか?
    776年まで健康に政務
    ・7 何で6の史実に矛盾しているのか?
    781年没

    1 何で呪詛されたのか?
    二人の子を残した后から夫の追尊白壁王を呪詛したのかである。
    少なくとも味方と成る筈だ。
    744年で結婚、754年と761年に二人の子供、770年で即位・后とすると、16年間と呪詛とするまでの2年間の計18年は正常に生活をしていた事に成る。
    それが突然に夫呪詛に到るまでには「ギャプ」があり過ぎる。
    「夫呪詛」と成ると、「夫呪詛の殺意」の「相当な理由」が必要であ.る筈であり、その「1年程度の間」に何かが興った事に成る。
    その原因が「四家青木氏との間」で存在した、それが「青木氏の一族の人との付き合い・人間関係」に在った事に成ろう。

    何故ならば「呪詛」に至るまでに「即位」までしているので、先ずは「井上内親王の実家元の天皇家」、即ち「聖武天皇の第1皇女の格式」である。
    その母は「夫人県犬養広刀自・県で身分低い・地方の市長」であるが、一方、「聖武天皇の母は藤原不比等の娘・宮子で藤原系」での身分に係わるものはないだろう。
    又、「称徳天皇・孝謙天皇崩御」の際に重臣に依って青木氏に嫁す事で協議が行われたと記されている。
    この「協議」で幾つかの歴史書では、「天武天皇系の外孫王」を推す吉備真備と、「白壁王」を推す「藤原氏系・南家」で対立し、「藤原氏暗躍」によって「白壁王の立太子」が実現したとする経緯があるも、これは直接に呪詛に繋がらないだろう。
    然し、ここで矛盾する事が興っている。
    それは、白壁に「白羽の矢」を立てた「孝謙天皇の家庭教師」で要するに「相談人」の「吉備真日」が、「天武天皇系の外孫王」を推すと云う事の「矛盾」が興っているのだ。
    千来であれば白壁を推している事に成る筈だ。然し、何と逆で違ったのだ。
    と云う事は、「藤原氏に押し切られた形の事」に成るのだが、史実は逆で前段でも論じた様に「天智系に戻す」と云う前提で「白羽の矢」を立てたのだから、“決して押し切られた訳では無い"事に成る。
    要するに、「吉備真日の行動」に「裏の意味」があった事に成るだろう。
    つまり、“押し切らせて誘導した”と云う事にしたと成る。
    史実は、「井上内親王」は斎王の身分ら固執し「白壁に嫁す事」を反対していたのだから。
    既に「100年も経った商いの伊勢」も一族の「酒浸り」や「暗愚」を装う事や「逃避り行動」の資料にある様に、又、そもそも「氏是」からも嫌っていたのだ。
    だから、“反対して於いて押し切らせて「目的」を達成させる"と云う策の「吉備真日の不思議な行動」と云う事に成ったのだ。
    前段でも論じた様に、“これの方が「理と利と系と金の思惑策」が実現する事"に成るからだ。

    「押し切らせて実現した」とすると、「天皇家」と「四家青木氏」との間の事と成る。
    つまり、「格式の有無」と成ろう。
    「天皇家の井上内親王」とは云え、父も「藤原氏系」で母も「藤原氏系一門」と成ると「藤原外孫王」でありながら「県の犬養広刀自・身分低い」と云う事に成る。
    「青木氏」は賜姓臣下したとは云え「血筋」と云う点では「施基皇子の四男・六男の説」とすると、「相当な格式身分の差」があった事に成る。
    “天皇家から嫁す”とは云え「白壁の母」は妃であり、それも「紀諸人の女橡姫(とちひめ)」で、「天皇家の血筋源の五大血筋の紀族」であり、何れに執っても「格式」は数段上位に位置し、従って、格式社会の中では「二足の草鞋の商人」と云えど卑下していた事に成る。
    つまり、「皇位朝臣族・青木氏」と「神別朝臣族・犬養氏」の差に成るし、この「格式差」で卑下していた事が考えられるし、況してや未だこの時期では「財政不足の天皇家」は、100年経っても「永代賜姓五役の名目」で「青木氏」からも「献納・史実」を受けていたのだ。
    だから、この「嫌々の即位」までは「青木氏に嫁いだ形」に成っているので、「自らの産んだ酒人王も他人王」ともに「子の格式差」もあって、「白壁」を除いた「他の青木氏の8人の息子」と「7人の娘・実際は30人程度の記録に載らない子供がいた」ので、それを卑下していて「青木氏の中に溶け込む事」が全く出来なかったと考えられる。
    青木氏がその見下す態度に出ていたかは上記した様に嫌っていたとしているので無かったと出来る。
    「井上内親王の卑下」にあったとしていて、それが歪んで「呪詛]と成ったとしているのだ。

    其れが、所謂、対応したのが「四家」であり、「伊勢50衆の氏族」であり、「妻嫁制度」であり、「嫁家制度」であった為に尚、その「青木氏の制度」の中に溶け込む事はバリヤーの様に成って更に相当に無理で出来なかったと考えられる。
    況して、その夫が「妃子の四男・六男」であった為に周りに頭が上がらず尚の事であったと観る事が出来る。
    それの不満を「夫」に向けたが、夫は振り向かなかったと成るだろうし、次の「2の疑問」の「夫の4人の姉妹達・施基皇子の娘」、つまり、「姉の追尊の海上女王・従三位」、「姉の追尊の難波内親王・二品」、「追尊の衣縫内親王・従四位」、「姉の追尊の坂合部内親王・従四位下」、「姉の追尊の能登内親王・四品」の「全体を仕切る最高格式の二品を持つ難波」にも先ずその矛先を、そしてその「姉妹等」にも更に向けたと、「青木氏の資料」等に遺る様に成ったのではないか。

    注・上記の「四男の白壁」が突然に別系で「光仁天皇と成る事」で「青木氏の兄弟姉妹」は、その「格式を合わす為に追尊された者」と、その「父の施基皇子」が「追尊春日宮天皇」と成る事で「子の追尊と成る者とならない者」に分かれ、其れはその「母の血筋差」で分かれたとしている。
    その結果として、「伊勢青木氏」に居ながらも「難波」が子の誰よりも「最高位の天皇に継ぐ二品の格式・施基皇子以外には歴史的に二品は無い」を与えられたのだ。
    つまり、その「血筋差で父と同格と成った事」に成るのだ。
    故に、これが「3の答え」にも成るが、その矛先は、「男女の姉妹に係わらず「青木氏全体」を仕切る追尊の難波内親王・二品」に向けられたのだ。

    「天武系」で「藤原氏系の外孫王の子」でその「天皇家」に居たとした「井上内親王・即位後二品」と、この賜姓臣下したとは云え「天智天皇の孫娘の直系難波内親王・二品」とには取り換える事の出来ない「上位の血筋の格式差」が潜在していたのだ。
    「賜姓臣下朝臣族の二足の草鞋」を敷き、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度」や「伊勢郷士衆の氏族」の環境の中での「青木氏の生活」では、即位されるまでは女系である以上はその「女系で仕切られている家の差配の頭の難波」から煩く「嫁としての振る舞い」や「氏上や御師の生活」に馴染む様に当然の事として注意されていたのではないか。
    其処に「絶えられない矛盾」と「大きなギャップ・自尊心」が生まれ精神状態が鬱に成っていたのであろう。
    やっと「26年間」を経た「770年の即位」に依って、それは解消されたかに見えたが、然し、その現実は変わらず即位するも「青木氏には差配力の及ばない四男の白壁」にも「2年後」にその「不満」が向けられたと成るのではないか。

    772年に酒人内親王は斎王
    2 何で斎王にされたのか?

    天皇に成った以上は、娘の酒人は内親王と成り、母親の経緯の通りに斎王に成るだろう。
    唯、結果として全ての皇女が斎王に成ると云う事は無く、{白壁」が天皇と成った以上は、「伊勢青木氏」の「白壁の姉妹に当たる二世族の者」、又は、その「三世族の者」も対象に成るし、「信濃青木氏」も「斎王に成り得る事」に成るが、然し、母親の様に「酒人内親王」に向けられたのだ。
    そして、「三品」に叙せられたのだ。

    要するに「呪詛の事件」の中で、突然の経緯として19歳に達していた事から斎王に指定され、身を清める為に「春日斎宮」に籠もるが2年後に伊勢に戻り、更に1年後に母親が「名張の幽閉先」で「他人皇太子」と共に自殺した。
    この為に、再び「伊勢」に戻る。
    帰省後に「自殺した他人皇太子」に代わって、「妃の高野新笠の子の山部親王」が「皇太子の座」に着いた。
    そして、この事で「酒人内親王」は「斎王」を退位したが、この後に、「異母兄の山部王・桓武天皇の妃・」と成り、7年後の779年に「朝原内親王」を産み、「山部王」は781年即位する。
    そして「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”に成る経緯を持つが、この「経緯・イ」が重要である。

    そこでこの「経緯・ロ」を「通説」としているが他には、次の説がある。
    「伊勢側」が、“「聖武天皇系と血筋」を融合させ様とした”として「光仁天皇や桓武天皇」が合作した、とされる「経緯・ロ」の説と成っている。

    参考に。史実とは出来ないが、鎌倉期の「水鏡」に次の事が書かれている。
    故に「光仁天皇」が「娘の斎王」と成っていた「酒人内親王の立太子」を検討していたとする「経緯・ハ」の「後付け説の記述」の「記録」があり、史実の云々は別として確定しない「推測の記述」がある。
    これが、仮に「経緯のハ」が事実であるとすれば、「桓武天皇」やその周辺にとっては警戒すべき存在でもあった事には成るが、「酒人内親王の上記の経緯・イとロとハ」の通りにこの記述は史実に反する。
    この「朝原内親王」も後に「斎王」に成り、「井上内親王・酒人内親王・朝原内親王」と、“親子3代で「斎王」を勤めた”とする「史実」もある事から、「経緯の通説」は違うだろう。
    「斎王と云う伝統の習慣」は「伊勢」ではそれ程に次の意味を持っていたのだ。

    先ず、「斎王の伝統」の「経緯・イ」である。
    次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」である。
    更に、「立太子の検討」の「経緯・ハ」である。

    「斎王の伝統」の「経緯・イ」であるが、前段でも論じている様に「天智期からの仕来り」で引き継いでいた。
    そして、「伊勢や信濃の青木氏」では、多気郡に「斎王館」を建て、これを「多気の館」と名付けて多気郡で多くの女官等を侍らせて面倒を看ていたのだ。
    当然に、「斎王に成る皇女」は、一定期間、「清めの館」で身を清め、その後に「斎王」に着くが、これには「斎王に成る事」での政治的な制裁は無い。
    何時かは事情により戻る事があり、又、仮に政治的な思惑で「斎王」にされたとしても、その侭に「斎王館」に遺る事もあり得たので、「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”の「記述」には制裁的な意味が無い。
    寧ろ、将来は、本人が好むか好まないかは別として「皇族の中での生活」を保証される。
    然し、「好まない時」は「伊勢青木氏の斎王館」か「伊勢青木氏の中」に溶け込んで「女(むすめ)」として「四掟と妻嫁制度と嫁家制度」で普通に「女(むすめ)」として生きられるが、現実は、「青木氏出自の桓武天皇」の「子の平城天皇」に嫁したのである。
    つまり「経緯・イ」は、この「既成の経緯」を辿るパターであり、「伊勢青木氏」に殊更に覆い被さって来る「災い」は無い経緯である。
    例え、皇女から斎王に追いやられたとしても「皇女」に多くを望まなければ「正常」で居続ける事は、寧ろ、無理であり、「斎王」に成る方が安全なのであった。
    従って、斎王であった「井上内親王・親」にしろ、斎王の「酒人内親王・子」にしろ、斎王の「朝原内親王・孫」にしろ「第一皇女の斎王」であった方が、「政治に巻き込まれる事」は少なかったのである。
    夫々が同時に、「光仁天皇・親」、「桓武天皇・子」、「平城天皇・孫」の一族や同族を超えた「青木氏出自の完全な家族婚」である。
    この現象の傍に「伊勢青木氏」は居たのだ。
    この例に観る様に、歴史的に「斎王や斎宮等」の多くは何らかの形で「青木氏に入り込んだ」でいたのである。
    故に、「伊勢と信濃青木氏」では「皇女等・300人程度」だけの「逃げ込み口」であったのだ。
    この前段でも論じている様に「流れに入る入口」であったのだ。
    この様に、「青木氏の歴史観」から観た場合、「通説や水鏡説の様な逸話説」はそもそも伝統的に無かったのだ。

    次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」であるが、これは逆である。
    先ず、「白壁が光仁天皇に成った経緯」では、上記や前段でも論じた様に、全てを物語るのは“「白羽の矢の結果」”である。
    そもそも、「天皇家」と云えど、「血筋と家筋と冠位官位品格と財力」等の一切を比べても「伊勢青木氏の全格式」の上では、上記や前段でも論じた様にこの時点では未だ遥かに「上の格式・皇親族」である。
    それでも「賜姓臣下朝臣族」と「二足の草鞋策と殖産家」であって「天皇家と関わる事」を「氏是」として禁じ、「伊勢の氏族」と成って「四掟、妻嫁制度、嫁家制度等」の独特の関わらないシステムを採用し、況してや「女系化」していたのだ。
    其れを既に繋がっていた「天皇家と繋がる等の説」はその必要性が無く「氏是」で禁じて、当に「研究の怠り」に外ならない。
    そもそも「青木氏」に限らず「伊勢の歴史」を知ればこの説は100%出ないし、「日本書紀等の数種の歴史書」を読んでいればこの説は出ない。
    面倒であるのでこれ以上はこの説の検証は終わる。

    「酒人内親王の立太子の検討」の「経緯・ハ」であるが、770年には「他人親王」が既に「立太子」に成り、772年に「酒人内親王」は「斎王」と成り、773年に「他人親王」は廃位に成っている。
    この4年の間、「酒人内親王」は時系列からあり得ないし、仮にそうだとしたら再び「女系の天皇」と成って仕舞う事に成る。
    「白羽の矢」が「天皇家女系であった事」で「90年後」には「完全な氏族」を持ち「商い」をし「御師様」の庶人化した「天智系の裔系の者」が「女系を求める事」の事態がそもそもあり得ないし、これは「青木氏の出自元に災いを招く事」は必定で、例え、「白壁の天皇」であろうともそれを許す事はそもそも無かったであろう。
    「青木氏の氏是にも悖る事」である事は、「白壁」も痛い程に知っていたであろう。
    そもそも「施基皇子・716年没」が没して未だ「54年後の殖産の商いが軌道に載った時期の事」でもある。
    全くあり得ない事であるし、この段階では他に皇子が「7人」も居たし、17歳も年上の「737年生まれの山部皇子・高野新笠の子」も居た。
    だから敢えて17歳も若い「754年生まれの酒人内親王の女性を立太子にする事」は后の先ず子であったとしても当時の仕来りからは先ず無かった。
    現実に、大病を経ても「山部皇子」が「桓武天皇」に成るのだ。

    「鎌倉期の水鏡」としては「鎌倉初期の歴史略記」とすれど書き記す程には「史実性」がおかしい。
    唯、それにはこの青木氏の事件に関して一つ気に成る事があり追記する。
    其れは「伊勢青木氏の出自元・血縁筋」の最後の“「仁明天皇・出自元派」”である。
    この事件に近い事が「歴史略記」に留めている事であり、且つ、その内容に関して「伊勢青木氏の歴史観」に“「類似する様な事」”を上記の様に記している事である。
    この「編者」が確定し定まらないので、これ以上の追及は困難ではあるが、編期が「1195年頃」としているので「400年程度経過した歴史・逸話の段階」である。
    つまり、「鎌倉幕府の樹立」には「9つの縛りを護らなかった頼朝」と「それを認めないとする朝廷」との「悶着」があって、成立後に「略史の水鏡が幕府におもねて書き記した可能性がある。
    これは「光仁期以降の天皇家の歴史」は兎も角も、それに伴って秘密裏にする「伊勢青木氏四家の内部のゴタゴタ」が連ねて表に出るという事はあり得るのかである。
    仮にあるとすれば、「神明社」か「清光寺」か「女系嫁家先の藤原秀郷流青木氏」か「伊勢郷士衆」か「信濃青木氏」からであろうが、この「編者その者」が編集した訳では無く、「独自の主観」を加えながら「皇円略記・戒話」を更に参考にして「手を加えた書」であると観ていて、それを「平安京付近での編」で書き記しているのだ。
    仮に「漏れる」とすれば、「伊勢青木氏」から「嫁に行った近江秀郷流藤原高郷」を里としている「伊勢秀郷流青木氏以外・梵純系」には可能性は低いが、然し、現実には「光仁期から仁明期」まで続いた「青木氏のゴタゴタ話の類似話」が載せられているのだ。
    「青木氏」では知られていないとしていても、「天皇家のゴダゴタ」に連れられて「比叡山の表」に「青木氏のゴタゴタ」も「戒め例話・浄土宗の編者・伊勢からの関係者・白旗派の者」として出ていた事も充分にあり得る。
    だとすると、実態はそれ程に「隠せない程の騒ぎであった事」に成っていたと筆者は観ている。
    何故ならば、「伊勢と信濃青木氏」は「賜姓五役と令外官」を熟し、「9つの縛りの掟」を「氏族の伝統」にし、「五重相伝で神道仏道の融合」を図り、それで「伊勢郷士衆」で「氏族」を形成していた「律宗族」であった。
    それがこの様に「恥の失態」を「称徳天皇から嵯峨天皇」までの約100年間の恥事を外に曝け出し続けたのだ。
    故に、この編者の「天台宗の皇円」は元は「浄土宗法然の師」でもあるとすれば、「律宗族の戒めの例」として捉えられ事は充分にあったと考えられる。

    「伊勢青木氏に伝わる口伝」では、その「自殺した井上の呪い」の様は、「逃げ惑う青木の玄孫域の女達」は、「福家や四家や神明社や清光寺」等に隠れ、又、「尾鷲の旧領地の各地」に散り隠れ、子供が生まれても隠したとされる位であった様だ。
    中には、松阪の「追尊難波王等の二世族の娘」は逃げ惑い、又、桑名の「追尊浄橋王や追尊飽浪王」は「美濃の三野王」に嫁したとする程の話もあって、「青木氏の福家」はその為に「一族の氏族」がこの「政争事」に巻き込まれない様にする為に、「女系の伊勢郷士衆」を含む「女(むすめ)」等を「福家の一か所」に集め護り教育を施したとする「実話」が遺っていて、それが後に「四掟の強化や妻嫁制度と嫁家制度」へと発展して行ったとする「青木氏の重要説」もある位であり、恐らくは「学問的な証」は無いが、「感情の根底」にはあったと観ているのだ。
    つまりの処は、「施基皇子から200年弱」の「後の事」として、「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に遭遇し、その上に「南家の藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」の「経緯の政争」が絡んで、「青木氏族」は右往左往した事を後世に遺し伝える為のものであったとされるのだ。

    そして注釈として、この「伝統のシリーズの筆者の論」も「後世のロマン」として正しく繋して書き記しているのだが、其れと同じくそれを「家人の青木氏祐筆」が書き遺した事が何時か永く語り継がれ、「光仁天皇期の伝統の逸話と口伝」に成ったと観ているのである。
    それだけに、既に、「臣下」して「商い」で「糧」を得て生きていた「庶人化・民化・殖産化していた族」に降り注いだ思いがけない「大きな出来事」であった事を物語る。
    この「青木氏の中での騒動」は「90年から100年近い後」の「新撰姓氏禄」の”嵯峨期まで続いた”という事では無いか。
    普通では耐えられないであろうが、然し、耐え偲んだのだ。
    「政争」とは如何に恐ろしいものであったかは判るから、故に既に「賜姓族」でありながらも「庶人化・商民化・殖産化」していた「伊勢青木氏」は逃げ惑ったのだ。

    この「青木氏の逸話と口伝」によく似た事が「上記の水鏡」に記載されていて、恐らくはこの事を間接的に指しているとも考えられる。

    参考に、それを経緯を要約すると、次の様に成る。
    770年の夏、「異母妹の称徳天皇・孝謙天皇」が崩御、その後を受けて、「追尊白壁王」は、8年後に「藤原氏の推挙」によって、「光仁天皇」に即位、この時、この「井上内親王」は「皇后」に成る。
    他人王は若年で「皇太子」に、「光仁天皇」は、身の危険を感じて酒乱と成り、馬鹿を装う。
    ところが、「光仁天皇即位」を拒んだ上記の立場にいた「吉備真備」は、結局は政界を退く事に成った。
    そこで「2年後」に、この「后の井上内親王」は、密かに「巫女・神明社」に、天皇の呪詛をさせたとして、「皇后の位」を剥奪される。
    皇太子と成っていた「他戸皇子」も「廃太子」と成る。

    これは鎌倉時代期の「歴史書の水鏡」に書かれたものであるが、此処に真実は別として “「后は呪詛し、呪物を井戸に入れさせた イ“と、観ていたかの様にある。
    “「光仁天皇の早死」を願い、「我子の東宮」を位につけようと願った ロ”と書かれている。
    “「井上内親王」が「光仁天皇の姉の難波内親王・追尊」を「呪詛罪」により、「現奈良県五條市・名張の西」の「館・清蓮寺城付近か」に幽閉された。 ハ”とある。
    “奈良に追いやられた時に「難波内親王」は懐妊しており、「五條市・名張付近か」で「男児」を出産した ニ”としている。
    “「男児」が「母の怨み」を晴らす為、この「子」が「雷神」と成った ホ”とする。
    この辺は神話的である。
    以上が「水鏡」の関係する「五節の逸話説」である。
    恐らくは、これは「神話的」に書いているが、「青木氏の福家等に伝わる上記の混乱話」が何処からか漏れて、それを神話的に表現して「言い換えたもの」として表したものであろう。

    唯、ところが、「伝わる事」と「異なる処」は次の6つの通りである。
    1 二人に呪詛したのは逆の井上親王である事。
    2 他人親王を東宮にしていたのは白壁も同じである事。
    3 呪詛したのは井上内親王である事
    4 呪詛して奈良に追い遣られたのは井上内親王である事。
    5 「追尊難波内親王・770年」は773年に二品に叙されている事。
    6 結婚していない。ニとホは史実と違う。一族が密かに敵を討った事を意味するか 

    この様に「水鏡」は史実と逆で違い過ぎるし、従って「皇円の律宗族の戒めの例」であろうとしている。

    773年に追尊難波王を呪詛・没
    3 何で姉が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?

    この件は「上記・下記」した通りであり、その矛先は、「男女姉妹に係わらず「青木氏全体の政所」を仕切る「追尊と成った難波内親王・二品」に向けられたのは確かだ。
    兎も角も、何度も論じているが「伊勢郷士衆」を含む「女系の氏族」なのであり、家の中は全て女系で流れて必然的にも「女性」が、「商い」は別として「政所は仕切る家柄」と成っていたのだ。
    だとすれば、「追尊難波王が仕切る形」と成っていたし、「男勝りの頭の切れる特段に優秀な女性」であったとする「言い伝え」もある位であるし、確かに先祖を辿るとその血筋が地に流れている様だ。
    「天皇家の祖の5大血筋源」の一つの紀族の「紀橡姫の同母姉」であり、「773年没」であり「白壁」とは4歳年〜5歳上であったとされるので、「即位の770年時」は「62〜65歳の独身」であった事に成る。
    白壁の4同母姉で「海上女王>坂合部内親王>衣縫内親王・722年没>」であり、年齢も近く高齢で没している。
    「追尊海上女王」が最も高齢で「追尊難波内親王」が下であった様だ。
    若くして「元気で利発な難波親王」が仕切っていたとされる事は確実である。
    「難波の忌名」は「伊勢青木氏の女墓」に「祖の母」として刻まれているが、当時は前段でも論じたが「神道であった事」に成るので、「皇位族の者」には生前中でも刻むと云う習慣があったので、これから観ると「65歳以上であった事・75歳以上の口伝資料もある」に成るだろう。
    この事から、果たして「呪殺とする事」が出来るかであり、先ず「呪殺」そのものが科学的に有り得ないし、前段でも論じた様に、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度での関係」を上手く維持する上で難しく極めて忙しく「青木氏の政所」を一族を代表して仕切っていた筈である。
    依って、そんな「呪殺等の悪事」を「伊勢郷士衆を含む氏族の周囲」が放って置かないであろうし、現実に、「難波」が死亡した年齢の前後に、何れの姉妹も年齢も近い事や長寿であった事もあり「同母の姉妹」は没しているのだ。
    そもそも、これを不吉とした可能性があるのだ。
    「二足の草鞋」で「商い殖産を手広く営む青木氏」が、「不吉とする概念」を持ち込む等としていてはそもそも成り立たない。
    当時は、全体が「50〜54歳」が「寿命」であったとされていて、少なくとも相当に長寿であった事に成るが、現在でも長寿系にあって、依って、「姉妹」は充分な歳を得て没した事に成る。
    仮に、呪詛であったとしてもそんな事を「伊勢青木氏」は四男の白壁に任して置く事は絶対に無い。
    この説だと「伊勢青木氏」は無能という事に成り得るではないか。
    そうだとしたらここまで生き延びてはいないだろうし「二足の草鞋」は成り立たない。。
    現在まで絶える事なく続いている「氏族の氏上の御師族」であるのだ。
    其処までの歴史観で以て公的な通説とするには疑問を抱いて欲しいもので、安易さに怒りを感じる。

    773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
    4 何で廃位して、更には庶人になったのか?

    だとすると、通説としている説では「追尊難波内親王を呪殺した事」で罰を受けた事に成っているが、誰が罰を下したかに問題はある。
    先ず「廃位させている事」なのだ。
    少なくとも皇位に着いた以上は「朝廷の中」で行われるものだ。
    然し、天皇の白壁に30年近い付き添った「光仁天皇」の自らの后と皇太子である。
    簡単に「ウン」とは云わないであろう。
    其れは「自らを否定された事」に成り得る。
    それも「追尊難波内親王」と「自らへの天皇呪詛」とされる。
    どの様にしてそれを「呪詛=呪殺=殺人」と確定させるかである。
    何時の世もこれは確定は無理で、だとしたらそれを押し通すだけの誰か「天皇よりも大きな力」が働いた事に成る。
    「天皇の声」は「絶対」であるが、この場合は「我子」までに結果として害を及ぶ事は誰でも判る。
    依ってこの「絶対の声」は絶対に出さないであろう。
    「白壁の光仁天皇」より「自らを否定された事」に成るとしても、それ以上に現実に「大きい声」はあった筈だ。
    それは「普通の経緯で天皇に成った訳」では無いのだから「伊勢青木氏の福家」である事は間違いはない。
    そもそもそうでは無い「青木氏独特の絶対権」を持った「神仏道の力までを持つ福家」である。
    この「福家制度の大権」が在る以上は、「氏族」を護るにも「白壁」を安定にさせるにも降りかかった「災い」は間違いなく取り除くだろう。
    それが、例え「藤原外孫王系の称徳天皇の関係者」であったとしても排除して「白壁」を護ろうとするだろう。
    つまり、まあ、今と成っては「藤原外孫王系の勢力」を低く見ていた事を物語る。
    場合に依っては「戦いが起こる事」さえもあり得えた。
    然し、史実は「南家藤原系」とは戦っていないのだ。
    その直前で、“その「藤原仲麻呂」が直前で滅亡した事”が在った事が実行できた原因と考えられる。
    この事に就いては「不義理の事」である故に「記録らしきもの」は当然に遺さないであろうが、以上の状況証拠は充分に考えられ、「呪殺的な事」は無かったのであり、要するに「廃位」に追い込んだ上で庶人にして無ければ、「天下の大罪」が「氏族」に降り注ぎ取り除く事の出来ない「汚名」を「後世に遺す事」に成る。
    その上で「災い」を取り除いたと観ている。
    それが結果として「孫の命を奪う事」に成るとしても「災い排除」を選択したのではないか。
    出自元の「朝廷の天皇」が、「上の者」を「廃位」し「庶人化」させる事は出来ないしその権限はない。
    「福家」は苦しい選択であったろうが、その意を白壁に裏で伝えたと考えられる。

    775年に二人は没・自殺
    5 何で名張に移され自殺したのか?

    上記の通り「廃位」にし「庶人化」させる事は、生きて行く糧を失い、必然的に自殺する以外には無く成る。
    この事は伊勢は承知であったろう。
    問題はその「場所」であろう。
    それが「「名張であったという事」では無いか。
    廃位して庶人にし直ぐに死んだとした場合は殺したとする批判は躱す必要が出る。
    これを避ける為にも一族の管轄下の「名張」で匿う形であれば結果としての目的は同じでも「大義の対面」は保たれる。
    故に、「3年後」であったのであろう。
    従って「牢獄」に入れられていたとする説は当たらない。
    そんな事をすれば「伊勢衆」からも世間からも間違いなく不必要な批判を招く事は必定で、そんな手を使う馬鹿はいないであろう。
    恐らくは、「名張の清蓮寺か清蓮寺城」であった筈である。
    「青木氏の清蓮寺城と清蓮寺の事」を知らない者はこれを「牢獄」としたと観ている。
    誰が遣っても「后」「皇太子」であった以上は絶対にそんな馬鹿な措置はしない。
    少なくとも「一族内の処置」として「尼僧と成った3年間後」と「名張」で看て一生の寿命までを世話する計画で扱ったのでは無いか。
    然し、彼等は「内親王」とし「后」としての「自負心」を捨てずに「将来」を悲観して耐えられなかった事に成る。
    然し、結果としてはその様な環境を生きてきた人物がこの「絶望の環境」を耐えられるとは一族の者は当初から考えていなかったであろう。
    意味する処はそこにあった事は判る。

    776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
    6 何でこの時に暗愚を装う必要があるのか?

    「酒飲んで暗愚を装うと云う事」は、当初の「白羽の矢」の時にもあったし、「伊勢青木氏」の中では「口伝」や「逸話」で、「白壁」だけでは無く、四世族までの一族男子の全域子孫域まで何らかの形で装うか逃げたかとされているのだ。
    「二世族」では「白壁・54歳(正式4男の説と嗣子6男の説)」が、「井上内親王・717年から775年」が「伊勢神宮の斎王」が解け「帰京・744年」したその「27歳の井上内親王」と結婚したとある。
    これに対して、中でも二世族では最も「白壁」が一番若かった事もあるが、「玄孫域」でも年齢適任者は大勢いたが殆どは隠れたとしているのである。
    女子は一族の一員に加わった「井上内親王の奇行や怨念」を恐れていたらしい。
    兎も角も「妻嫁制度」で護られていたらしいが、中には「神明社巫女」や「斎王館の十二官女」や「菩提寺の尼僧」に成って凌いだと青木氏の中では伝わっている。
    この様にその「隠れ方」等が「逸話」で伝えられていて奇抜で興味を持つが、何か「精神的なストレスから奇行」に走っていた事が予想できる。
    だから、“触らぬ神に祟りなし”で男女ともに感じ、取り分け「男子」はその術が無かった為に「酒飲んで暗愚を装うと云う事等」に成っていたのではないか。
    「政変と云う事」には、仮に暗愚を装っても立場がある以上は巻き込まれる事には変わりはない筈で、この説はそもそも「疑問」であり、上記の様に「口伝や逸話で伝わる話」が真実ではないかと考えられる。
    「井上内親王の一族内での精神的なストレスからの病的な奇行」が原因していたのではないか。
    つまり、「聖武天皇の第一王女の立場」と「伊勢青木氏の伝統」の「格式の差」に納得が行かなかったのでは無いか。
    仮に「天皇家の内親王」と云えども、「施基皇子の二世族・天智天皇の三世族で冠位官位官職・永代浄大一位・賜姓五役・皇親族・律宗族・令外官・家筋等」、挙句は「財力」等一切」のどれを執っても劣るものは無く、寧ろ格段に優れていると云う差があった。
    「出自元の母」は「夫人県の犬養広刀自」であるとして、「内親王である」としても「県の姓」は地方の低官僚で極めて低位であるが、一方、「白壁等の兄弟姉妹」の多くは「太政大臣紀諸人の娘の紀橡姫・とちひめ」で「施基皇子の妃」である。
    参考に上記したがこの「紀氏」は「飛鳥政権構成五王族の一つ」である。
    精々あるとするなら、「賜姓臣下朝臣族・敏達天皇第四世族であると云う事」であろう。
    「井上内親王」はこの「解決し得ない格式差」に一族の中で「36年間」、共に生活して悶えたのであろう。
    「内親王とする自負心」がそれを解決する事が出来なかったのであり、同じ「母・紀橡姫」とする「青木を仕切るやり手の難波」に勝手に奇行を向けたという事であろう。
    それを一族から厳しく排斥に近い形で叱責されていた事に成ろう。

    776年まで健康に政務
    7 何で6の史実に矛盾しているのか?

    記録では、史実の記録では没する直前まで健康に光仁天皇は机に向かって政務していたとするのに、6で何で暗愚を装う必要があるのか?は、矛盾の極まりの疑問であり、天皇は矢張り高齢で781年(778年没説もある)に没している。
    そもそも、暗愚を装えば政務は正常に執る事等は出来ない。
    確かに、上記した様に「青木氏の資料」では、「744年の結婚前後」には確かに「酒に依る暗愚を装っていた事」は幾つかの文章の行で遺されている。
    781年に没する突然の3年前にも又遣った云う事か。そんな事はない。
    744年結婚、この時、最低説「54歳・青木説」であるとし、776年の32年間+54歳とすると86歳と成るのだ。
    故に「酒の暗愚」そのものが不可能であるし、「井上内親王の件」も既に「775年没」で解決しているのだ。
    又、86歳で酒を飲まなければならない程度の人格かと成るし、この程度の人格と云う疑問がありそんなことは無いだろう。
    「過去の人生を憂いての事」か、だとしても高齢で没するまで「政務・山部王781年譲位」を譲位せずに熟している以上はこれは「疑問」であるし、“今更この歳で”と云う感じがする。
    この「通説からの検証」では、「結婚前後の青木氏の騒ぎ」を捉えて面白おかしくしたとしても、そもそもその「時系列」が間違っているのだ。
    せめて「青木氏の歴史観」もあると予想できるのだから、「時系列」でも矛盾の出無い様に合わして貰いたいものだ。

    筆者のこの「経緯の結論」は、「伊賀の平族の裔孫」の「妃の高野新笠」の子の「山部王との皇位争い」に巻き込まれていたと観ていて、それを770年以降に「青木氏が推す姿勢を採った事」から発生した事では無いかと観ているのだ。
    然し、「青木氏」に伝わるこの「高野新笠のルーツ」と通説とされる説とでは少し違うのだ。
    それを参考に追記して置く。
    「天智期」に渡来し「伊賀の里」に住し「半国割譲」で住んだ「たいら姓」を賜った「阿多倍王」の「裔孫女」で、その「伊賀青木氏との関係」からその「女・新笠」を「白壁の妾」として迎えたとし、「二人の妾子」を宿すとあり、重要な記述は,"光仁期に「妾新笠」は「高野朝臣」を賜る"とする行がある。
    「阿多倍王」は前段でも論じた通りであり、歴史の経緯鳩史実は「天智期の史実」と一致するので、依って「伊賀の女(むすめ)」は「白壁の妾新笠」に相当するのだ。
    「宮人」は「妾」に一致していて、且つ、「伊賀女」に相当し、この「伊賀の女(むすめ)」は「半国割譲の伊賀住人の阿多倍王の裔」に相当し、「伊賀女」は「新笠」に相当し、この「妾」に相当して、後の「光仁天皇の宮人」に相当する事に成り、「同一人物」である事に成る。
    正式に「白壁の妾」は依って“「光仁天皇の790年に宮人」に成る”は一致している。

    そこで「通説との問題」は、「始祖」は「百済系渡来人の和氏」であるとしているがここが大きく違う。
    「和乙氏・和気氏」、母系は「宿禰の土師氏」としている。
    然し、この「和気氏」は「百済武寧王の子孫」とされるが、歴史的に「伊勢の施基皇子の伊賀領を半国割譲し与えた」とする「阿多倍王以外」には他に記録は無い。
    つまり、“「和気氏」の「百済武寧王の子孫」”は明らかに間違いである事が判る。
    又、「阿多倍王の別名の「伊賀の高見王 高尊王・平望王」の別名を持ち、「桓武天皇」の「祖父の里」として「伊賀を訪れたとする史実」は「和気氏」には無い。
    依ってこの「和気氏」は、「結城氏や額田部氏」と共に「朝廷の三大技術集団」であり、この「土木技術系の和気氏」は、史実は「百済系である事」と、この「一族」は「出雲朝廷」とも関係していた史実とで、「伊賀との繋がり」は別にして、その内容には異論が無いし、従って「伊賀」には歴史的に関係していないので、よくある「和気氏の姓」に繋げる「系譜繋の後付け策」であろう。
    この「渡来人の和気氏の通説」は、何れにしても「日本書紀」にも明記されている様に「和気氏には伊賀記録」は全く無く、何かの目的から「渡来系の技能集団」で恣意的間違い敢えて起こして欺いているのである。
    この様な事が、兎角、「通説」と云うものには付きまとうのだ。
    「室町期中期か江戸初期の後付けか明治維新」で実に多いので此処を以上で先ず質して置く。
    こう云う事は歴史で実に多いので良く歴史観を検証してからの説の使用とする必要がある。

    注釈として同様な例として、此処では「たいら氏・桓武天皇の賜姓族」と「ひら氏・天智天皇期の大化の改新」で「坂東に配置された第7世族裔系」との混同である。
    この「坂東のひら族・坂東八平氏と呼ばれる」に対して、賜姓で「たいら族・桓武平氏と呼ばれる」とし、「天智天皇・ひら族」と「桓武天皇・たいら族」は、その「違い」を賜姓時に明確にする為に命名したとする「記述・記録」があるのだ。

    「阿多倍王」も「32/66国無戦制覇」した「後漢の技能集団・618年200万人渡来」であり、「日本書紀等の史書」にも「伊勢の伊賀」と「薩摩の隼人と阿多」を「半国割譲」され、「敏達天皇の孫芽淳王の娘」を娶り、「准大臣」に任じられ、「3つの賜姓・坂上氏と大蔵氏と内蔵氏」を受けている史実があるのである。
    この「伊賀」に住した「本家の裔系」が、「桓武天皇」から「たいら姓の賜姓」を授かり、その「長寿阿多倍王の裔系」が「長男の国香・935没―子の貞盛・989年没」であり、後の「平清盛・1118〜1191・たいらのきよもり」と繋がるのである。
    この「清盛・高尊王より7代目か」は、「1153年」に「伊賀」より「播磨国」を領し、一族は移住したが、この「1153年の段階」で残るは「伊賀青木氏」と「元伊賀族」と「元渡来系族」の「3族」と成っていた。
    この3族」を以て通称伊賀者と呼ばれる族である。
    従って、「光仁期の段階」では、「妾の新笠」は「618年渡来後の阿多倍王の孫」に当たるが、その人物は時系列より「國香の前」と成り得るので、「長寿阿多倍の異名」として遺るとされる「平望王・高見王・高尊王」と成るのだが、“この「平望王」に「桓武天皇」が土産を持って伊賀に見舞いに行った”とする「史実の記録」があり、「別人」と確定できない。
    「阿知使王の子」として「阿多倍王」が「618年」に渡来後に指揮して活動する年齢を15歳とすると、これを「本人」とはするのは年齢的に「人間の寿命」としては無理であり、この「別名・異名」とする「賜姓平望王」と「高見王・高尊王」は「同一とする考え方」は、無理と成る。
    そこで「高見王・高尊王」は、その「高齢後の本人別名」として分離すると符号一致する。
    筆者はこの「高・・」に着目していていて「高・・を着けたとする根拠」があるのだ。
    それは、「白壁}が770年に「光仁天皇」と成った時点で、この「妾の新笠の身分」を引き上げて、この「平望王の父祖」の「高見王・高尊王」の「高」を使って、これを復活させる為に「高野の朝臣姓」を与えたのは史実であるのだ。

    唯、別の説もあるので紹介する。
    この「高野」は「白羽の矢を立てた孝謙天皇の別名」で、「高野皇女」と呼ばれ「高野朝臣」とした時期が在った事が史実にあり、この高野を新笠に与えたとする説が伊勢にある。
    この説は伊勢に執っては重要な意味を持ってくる。
    それは、「孝謙天皇」は、「白壁の妃」であった「伊賀の新笠」に、この「高野」を与えた事で、高野新笠と呼称する様に成ったとし、「高野朝臣族」から嫁いだとして格式を引き上げた事に成る。
    つまり、この説であると「孝謙天皇」は嫁がせた姉の「井上内親王」を無視した事にも成り、同時に信用していなかった事に成る。
    これが後の井上内親王の鬱を招いたとする事にも成る。史実の前後の経緯が一致しているので必ずしも俗説とはならない。
    「高見王・高尊王」の「高」は息子の桓武期の後の経緯の事と成るので「高野朝臣説」が正しいと観ている。

    「高見王・高尊王」には、既に上記の通り「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を娶り「准大臣」にし,その子に賜姓して「三つの賜姓」をして「天皇家の一門」に加え「格」を与えている。
    つまり、従ってこの「無格式号の平望王・この王名は後漢の王位」も「高齢」と成った処で「本人の号」としてのこの「別名」を与えたのであった。
    この「平の姓」から「たいら族」と成っている。

    そして更に「光仁天皇」はこの「平望王」に日本の「姓の朝臣姓の高野氏」を与え、その子孫で「白壁の妾」と成っていた「新笠」には、この「父一族の賜姓の高野」を名乗らせた事に成るのである。
    これは現在でも「格式ある家筋」で行われているもので「当時の習慣」であった。
    つまり、時系列から追えば「桓武天皇」と成った訪問時に「賜姓」をしたが、矢張り高齢と成っていた“「平望王」”が「新笠の親」であった事に成るのだ。
    つまり、故に「たいら氏の賜姓の平」と成っていると観ているのだ。
    然し、前段でも何度も現在も論じたが確定はされない。
    此処では、時系列と状況証拠が一致するので先ず間違い無いと思うが、「新笠」は“「平望王の娘」”とする。

    733年に追尊能登女王
    737年に追尊山部王・桓武天皇
    (744年に白壁は井上内親王と婚姻)
    750年頃に追尊早良王
    以上を「妾」として3人を生む。

    「白壁」が「天皇」に成った「770年即位」の「前の事」である為に、この「3人」は未だ「青木氏の妾子」であり、その「皇位の継承権」はこの段階でも全く無かったので「追尊王」と成る見込みも無かったのだ。
    要するに、「最高の格式の伝統」は有すれど「普通の商いをしている四家の青木の子供」であった。

    この様な状況から、「井上内親王の事件と混乱」は、「白羽の矢」から始まり。遂には「婚姻と即位と云う事」に発展して、益々、激しさを増す中で、未だ「皇親族であった青木氏」としては放置できなく成っていたと観られる。
    これは「施基皇子の氏是に反する事」ではあり、「律宗族」に反し、「賜姓五役」、「9つの縛りの掟」、「四掟の信頼失墜」、「妻嫁制度の品位低下と混乱」、「嫁家制度の失墜と非難」、「伊勢郷士衆の氏族の信頼と非難」、「氏上御師様の信頼失墜」に繋がる事として「介入する事」の以外に無く成っていたと考えられる。
    それが、上記した措置であったのであろう。

    念の為に追記するとこれを観ると、「孫域」では「天智天皇系」からすれば「曾孫域と成る桑名殿」などは選ばれている筈の「適任者」であったが、「天智系説の理屈」や上記した様に「そうでない他説」としても、矢張り、「称徳天皇の考えの根底」では、「吉備真備」などから報告され、且つ、自らも伊勢に何度か赴いている事から、彼等が「白羽の矢」に逃げ惑っていた事は当然に知っていた筈で、然し、この「歳を取った暗愚を装った白壁以外」に「彼等が思う適格者」は居なかったのでは無いか。
    つまりは「青木の騒ぎは見抜いていた事」に成る。
    つまり、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
    つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
    然し、「54歳の白壁に白羽の矢」には「平均寿命55歳」、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
    これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
    史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの事を“承知であった事に成る。
    この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
    筆者は、「天智系」で云えば最も近い「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中で「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
    それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「新笠」に与えたと観ているのだ。
    ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
    そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
    故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
    だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
    この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は口伝や噂を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
    だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。


    「青木氏の伝統 66」−「青木氏の歴史観−39」に続く。(43P)


      [No.389] Re:「青木氏の伝統 64」−「青木氏の歴史観−37」
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/03/25(Thu) 14:46:40  

    > 「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」の末尾

    > 「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
    > 何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
    > 「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
    > これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
    > 前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
    > 上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4〜5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
    > だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
    > その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
    > ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
    > そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
    > 況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
    > 要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。


    「青木氏の伝統 64−「青木氏の歴史観−37」

    (注釈 「前段の当時の慣習の理解」
    前段の疑問の、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”に付いて続けて論じる。
    つまり、先ず時期が「駿河青木氏・青木貞治の桶狭間の戦いの時期」に合わせている事である。
    前段では、これに付いて「額田青木氏の銃隊」の「単独の論としての1560年」を論じた。
    然し、前段では論が複雑に成り得て論じるのが難しく分けて論じたが、ここまでは「駿河青木氏・青木貞治の論」を「詳細経緯として論じる事」が出来たとして、故に、ここでは「この二つの因果関係」を「B」として論じる。
    先ずその前に何度も論じている事ではあるが、それを正しく理解する為に次の事を先に論じて置く。
    つまり、前段で論じた通りそれは「伝統」として「青木氏族の異質な事柄・異質性」が“「生存の大きな枷」”に成っていたとしていた。
    その中でも、この「伝統・異質性」に付いては奈良期から室町期までには「慣習仕来り掟」が室町期の戦乱に依っての社会変化と共に徐々に変化した事である。
    この「変化の中」で未だ霧消する事なく「根本的なもの」は遺されていたのだ。
    この「根本的なもの」には幾つかあって、これを理解しなければ「正しい青木氏の歴史観」は導き出されないのだ。
    それは「青木氏族」は、他氏と違って「特異な立場であった事・伝統・異質性」で生き遺るには「苦しい環境」に置かれていたと云う事なのだ。
    この「特異な立場であった事・伝統・異質性」について未だ「下克上で姓化・第二の姓」をした「社会一般」は充分に認めていなかった事だ。
    その「特異な立場であった事・伝統・異質性」を持ち続けていた事では、代表的なものとしては「足利幕府」が「白旗派の浄土宗・原理主義」を認めた事と共に、“「伊勢と信濃の賜姓青木氏」が「律宗族」”である事をも認めた事であった。
    この時代の「特異な立場であった事・伝統・異質性」を含有する認定であった。
    それは姓化する社会の方向性に対して、真逆の認定をした事であった。
    これを一般社会は驚いたであろうし、どの様に扱うか迷ったのではないか。
    これが「社会と青木氏族との間の矛盾」と成って現れたのであろうが、それをここでその視点で論じて置く。
    念の為に、その前に前段の論に追加して、“「室町幕府・義満」が「律宗族」として認めたのか、この事に付いて”将又、“「青木氏」が認めさせたか”であるが、これに依って論の結論は大きく変わる。
    この史実を両方の資料から読み込む経緯としては次の様に成って行く。
    「室町幕府・河内源氏族」には、「各宗派の争い」と「宗内部の派閥争い」が激しく起こっており、且つ、又、武力勢力とも結託して「政治に影響力を及ぼす宗教」と成っていたが、これを鎮めるべく決定を下した事であるとしてこれが「一つの定説論」と成っている。
    これが「宗教力の格式論説」である。
    「伊勢信濃の青木氏」は、この唯一持ち続けた「特異な立場であった事・伝統・異質性」と、「社会との乖離の解消」と、「一族生き遺り」を成すが為に「朝廷には献納」をし「室町幕府には冥加金」で働き架けをした事が「商記録からの史実」があって、この説に依っての「格式擁立論説」が成り立つているのだ。
    当時のこの状況証拠から「以上の二つ」から読み取れるが、何れに於いても「青木氏側」に執っても“利に叶うもの”があって、少なくとも最低、「青木氏側」は “両者に対して合議には及んでいた事”は充分に考えられる。
    「青木氏族の歴史観」の側から考えれば、これは「青木氏の再格式擁立論説」と成り得る。
    それが奈良期より長期に於いて「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」であったとされるのだ。
    「現実の史実」は、室町幕府は自らの「幕府の権威の低下」からも「朝廷」を再び前面に押し出すより「律宗族として宗教力」を使って「幕府の権威低下」を補完しようとしたのだ。
    一方で「青木氏族」は「紙の生産と鉄生産、及び各種の殖産」で「巨万の富」を獲得していたのだ。
    果たして、室町期に於いて「青木氏側」が「律宗族」と成り得なければ成らないかの「利」に対して「疑問x」がある。
    因みにこの「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」に付いてその経緯を改めて下記に詳細を記述する。
    恐らくこの「疑問x」は判明するだろ。
    「室町幕府」には、「浄土宗14派」の中で「超最小派で白旗派」があっても、「聖聡等」が世に出て何故か興隆させて何時しか短期間で他派と他流を圧倒していた時期があった。
    この「白旗派」には、「皇位性」とそれに基づく「宗脈・戒脈相伝の伝統」があるとして、つまり、奈良期から固く護り続けて来た「伝統・9つの縛り」の中に“「五戒の相伝論・律宗論」”があるとして、その「位格式」を前面に押し出しその「位」を以て信頼を勝ち得て他派と他流を圧倒したのだ。
    これが要するに“「律宗族」”に繋がるのだ。
    これに基づき僧侶でもあった「三代目足利義満」は、これの「白旗派律宗論」を認め、その「皇位性の相伝」の「伝統氏の青木氏」を「律宗族」として認め、これを相伝するも廃れていた「知恩院・1548年」を再興建立を命じたのだ。
    これを「1575年」には27年遅れて「正親町天皇」よりこの「再興した知恩院」を以て「正式な浄土宗本寺・足利幕府承認」に伴い「正式承認・追認」を受けたのだ。
    これに依って「浄土宗」へ「統一の格式・香衣付与」と「剥奪不可の権限・毀破綸旨の令」を授かったのだ。
    況や、「奈良期・天智天皇の勅令」から保持する「伊勢信濃の青木氏への不入不倫の権」を改めて930年後に正式に「朝廷」よりも追認されて与えられた形と成ったのだ。
    「家康の江戸幕府」ではこれを更に追認し、幕府に依って正式に確定させる為に「浄土宗諸法度・1615年」が制定されたのだ。
    この経緯を経て「知恩院」を「門跡寺院・皇位族・律宗族院の本山」と認定されたのだ。
    これを受けて「幕府の格式化」を図る為にも利用され「徳川氏の菩提寺の増上寺」をその「知恩院の格式」を借りてこの「知恩院の下位に置く寺」と定めたのだ。
    「利」に対して「疑問x」には、上記の「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」を成すと云う詳細経緯があって、「念願の青木氏族の目的」が遂に再び蘇って達成されると云う事に繋がったのだ。
    つまり、「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」は裏を返せば「青木氏族の格式化を蘇させた事」に成ったのだ。
    果たして、筆者には“その必要性があったのか”は最早必要であったのかが疑問であって、それに比するものを全てを獲得しているのに何故か伝えられているのだ。
    その時の「四家の福家の考え方」を聞かなければ解らないが、戦乱の中での事であるので、それを咀嚼すると、矢張り、残るは「抑止力の強化」にあったのではと考えられる。
    得られる「全ての抑止力」を持ったが、残された後の抑止力は唯一つで、それはあやふやと成っていた「過去の格式化」を蘇らせて、「伊勢」と共に「青木氏族」の「不入の権を獲得する目的」が「福家」には在ったと考えられるのだ。
    現実にその戦々恐々とした「福家の懸念」は的中したのだ。
    それは当初は「戦乱」であって、後にはこれらの考え方を全面否定する「織田信長と秀吉の出現」であった。
    「伊勢」が破壊されれば「青木氏族全体」に及ぶ事は必然で、先ず伊勢では官僚の「北畠」が奈良期からの「不入の権」を無視して入り、これを「信長」が潰しその後、「紀州伊勢攻め」が始まり、「秀吉・紀州征伐」が続き、江戸期では「外枠の格式」を外され、最後は「明治維新」で薩摩藩などのゲリラで本体に「焼き討ち・打ち壊し」を仕掛けられたのだ。

    さて、そこで“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”の疑問の解決の検証に戻す。
    上記の斯くの如しである「特異な立場であった事・伝統・異質性」の「律宗族の所以」を以て、ある程度の“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”を護った「摂津源氏四家・頼光系」の一族の中には、兎も角も「姓族・第二の姓」は無いのだからとして、「摂津源氏・清和源氏系」は「四家構成の氏族」とも云えると云う立場を保全していた。
    況や、「准律宗族と云える格式」にあったのだ。
    余談だがところが、後世の「河内源氏」はこの「里・摂津の格式」を利用して、こっそりと知らぬ振りして「准律宗族的振る舞い」をした事に成るのだ。
    注としてそもそも「新撰姓氏禄」では、「頼信系源氏」は“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”で、「対象族」として編集から「資格的に外されている事」から、当初から「真人族」の中には入れずに、「朝臣族だけの格式」にされて外されていた事に成る。
    将又、根本的に「朝臣族」にも加えられていなかった筈である。
    この史実は、「満仲蟄居事件」と「嵯峨期の9つの縛り」で明らかに判る。
    「新撰姓氏禄」は当初より「朝臣族」は「嵯峨期の9つの縛りの前提」にあった事に成る。
    其の後、「賜姓源氏」は「摂津源氏・頼光系」を除き、この「嵯峨期の9つの縛りの前提」を遵守しなかった史実があるのだ。
    と云う事は、元より書き換えられたとする説もあったが、この「嵯峨期の新撰姓氏禄・715年」のそのものは、現在は原本が紛失しているが、「1106年・満仲より4代目」で「後の1197年頃・義家期」の頃に「1039年頃に“「朝臣族」”に書き換えられたとする「可能性・書換説定説化」があるする説が今では定説と成っていて、従って、「原本紛失」そのものは室町期説はこの時期前後と云う事になるか。
    確かに「時代性」から観てこの説には反論する為の無理がない。
    つまり、その大きな根拠は、一時、“「立場格式・名誉回復」”を「河内源氏の義家」が成し、最も復興させたとされるが、それがその時期が「院昇殿を許された時期の白河法皇期」に当たる事に成るだろう。
    つまり、「昇殿の格式」を得た事でこれを笠に着た「義家傍若無人期」の行為でもあるだろう。
    「昇殿の格式」を得た事は確かに「朝臣族」には返り咲いた事には成る。これを以て「書き換えたとする説」であるし、「書き換えた」としても無理はない事に成り、恐らくは河内源氏としては書き換えたのであろう。
    そして要するに、“一族に執って拙いこの原本を隠匿した”との「隠匿説」もが成立するのだ。
    其の後の室町期に入って「姓族を書き足した事」が根拠に基づかない脚色段階に入り「完全隠匿の行為」に繋がったのであろう。
    他にもこの説を裏付ける証拠がある。
    そもそもそれはこの「原本」には本来無いと観される「河内源氏系の卑属族」が、そもそも「時系列の時期」が「異なる一門裔」として追加されている事である。
    「嵯峨期の原本」に「室町期の姓」が書かれている事は時系列からあり得ない事であり見破られているのだ。
    そもそも「朝臣族」が限定されていた「新撰姓氏禄」であるのに、その満仲期で朝臣族から外された裔系が記載される事そのものが有り得ない事でもあるのだ。
    そこで、その前に「律宗族」に成り得てその基と成った「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」の処で論じた「理解の要素」と成り得る「注釈イ」と「注釈ロ」を先に追記する。
    これは「鎌倉期」を除いて「奈良期と平安期と室町期」の「三文化の広範」に及んだそのものであって、中々、纏め上げるには難しいが敢えて試みる。
    前段でも論じたが歴史観を高める為にも論じる。

    ・「注釈イ」は、そもそも上記の通り「姓の判断」には、「嵯峨期の新撰姓氏禄」を根拠とする「諡号の姓・第一の姓」と、「諡号族から外れた民」を根拠とする「姓・第二の姓(室町期に発生)」のところの二つがある。
    多くはそこを同じ様に混同されている処があるが、実は「奈良期―平安期―鎌倉期―室町期初期頃」までは「諡号の姓」と「諡号無しの姓」が比率を変えながら混在していて、徐々に「諡号無しの姓」が戦乱で戦う者が必要として増加して行くが、処が本来は別々のものであって「使い方・格式」は違っていたのだ。
    「910氏程度」の「諡号の姓・第一の姓」を持つ族は、その「出自の格式」を意味するが、一方で「民」などが戦乱期で「武士」に伸し上がり「土豪・国衆」と成り、勝手に名乗ったか、買い取ったか、弱体した「諡号の姓」に入り込んで「血縁」で血筋を獲得したかの「姓」は、この三つの何れかに依って「姓名・第二の姓」を自助努力で獲得したのだ。
    この三つが室町期からの「下剋上の第二の姓」であり、又、別に「新撰姓氏禄」にある「第一の姓族」の生き遺った殆どは、「統治用に持ち得ていた武力」を生かして生き残った「官僚族や押領使や弁財使等」であったのだ。
    ところが「諡号の姓族」の中でも「新撰姓氏禄」に加えられる程に別格であったこの「摂津源氏・嵯峨源氏との融合族」は、「皇位族の臣下朝臣族としての純血性血縁」を護る為に「四家制度」を一応は構成はしていた。
    然し、朝廷が認める「正式な氏族・9つの縛り・五戒相伝・賜姓五役」と云える程の格式相伝も無く、更に「限定された氏人・単独男系血縁族」を持っていなかった事でそれ故に直ぐに消えたのだ。

    ・注釈ロ 「青木氏族」は臣下した時から皇族内の政争に巻き込まれない様に「女系血縁族・四掟範囲で純血保持」に変換したのであって、先ず「血縁の面」でも「慣習仕来り掟の面」でも故に女系としての統一した「律宗族」と成り得ていたのだ。
    「嗣子」は他氏から入らない為に、全て「母の子・嗣子・男子」が「氏の四家の何れかを継ぐ事」で統一して変化しない「伝統・純血性と慣習仕来り掟」は保たれた。
    これが確定した伝統の「四家の前提」と成り得て、且つ、「五戒相伝の律宗族」と成り得ていたのだ。
    例えば、「伝統の異なる男子」が「青木氏の氏の跡目に入る事」や、「女系が四掟で護られていない事」等で持ち込んだ“「男子の家の伝統」”のみで一時的に統一されたりする事で、その継承毎に「伝統」が混濁して保てない事に成り得る。
    ところが、ここが異なり故にこの女系の範囲を限定する為に設けた「四掟」も「律宗族の所以」の大きな一つと成り得ていたのだ。
    だから、「臣下朝臣族の立場」にあり乍らも、この何れにも属さない衰退していた「三代目以降・二代目まで公家族」等は、「初代源氏の嵯峨源氏・神野・賀美野に在郷」を京に呼び寄せて融合して「朝廷が認める氏族の格式」を構成していたのだ。
    然し、その「格式を保つ手段・条件」として「皇位族としての縛りの最大の禁じ手の一つ・武力保持」を破り、「清和源氏と嵯峨源氏」は身を守るために共に融合して「武力」を持った。
    それ故に「源満仲の事件」の様に蟄居されて追放されて“「律宗族の資格」”を失って仕舞ってのだ。
    つまり、「嵯峨源氏」も「満仲の清和源氏」もここで「五戒相伝の氏」としての「最も重要な戒の資格」を失い消え失せたのだ。
    この事で、この「父満仲の失敗」を取り戻すべく、所謂、この「資格」を取り戻すべく「長男・頼光」は「藤原道長」に近づき各地の国司代を務め「五戒相伝の氏」として再び認められるに至ったのだ。
    この時、その「国司代」を務めるべく「禁じ手の武力」は、「道長に命じられた公務」を「果たすべく手段」として認知されて、「五戒相伝の氏」として「四家を構成する事」を許された。
    当然に、その為に「四家」に伴い頼光系には「四掟の戒」が課せられたのだ。
    この「五戒相伝の資格」は「頼政―仲綱」まで引きがれ頼政は「従三位の公家貴族の資格」まで破格に取得し戻したのだ。
    ここで「武力賛成派・三男頼信・河内源氏・縛り無視・姓派」と「武力反対派・嫡子頼光・摂津源氏・ある程度の縛り賛成・氏派」の二派が起こったのだ。
    それにより、「二代目満仲・武力派」の賛成派は「公家・武家貴族資格」も消失に及び、朝廷より厳しく排斥され遂には「蟄居刑」を命じられた。
    そこでその子の賛成派の「三代目三男の頼信」は、河内に逃げ延びて「武力」で定住地を確保したのだ。
    「次男頼親は大和源氏」と成るも荒れて「再三の事件」を起こし遂には土佐に配流と成り、「最も重要な戒の資格」をも失う結果と成ったのだ。
    然し、この「河内源氏」は開き直りこの「縛り」の一切を無視し勢力を高める為に尊属卑属に関わらず「姓族・第二の姓」をどんどん作ったのだ。
    最後は系譜系統も判らない程になったのだ。
    故に、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の保有する「正統な源氏」であるかは疑問なのであって否定される所以と成っているのだ。
    つまり、此処で明らかに「律宗族」では無い事に成ったのだ。
    上記の通り、この「資格」を有しない事から朝廷から拒否されたので、そこで「鎌倉幕府の樹立」の為に、「准資格有する頼政の跡目」として言い立てたのだ。
    依ってこの「五戒相伝の資格・9つの縛り」は鎌倉以後に有名無実と成り以後無視されたのだ。
    然し、「室町期」に成って上記した様に「五戒相伝の資格・9つの縛り・四掟」の「伝統」を護る「女系族の青木氏族」に対してのみ「神明社と春日社」、「浄土宗白旗派の清光寺と西光寺・密教原理主義」の「伝統」を長く護る「四掟の氏族」として、又、改めて「賜姓族・賜姓五役」としも守り続けたこれを以て“「律宗族」”としての「格式権威」のこれを復活させたのだ。
    この本来、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の無い「足利幕府」は、“「律宗族」”を認める事で自らも正当な格式があるかの様に振る舞ったのだ。
    その証拠にこの「戒めの名」、即ち「戒名」は「浄土宗・密教浄土宗・原理主義」の「白旗派・皇位族・高位族が帰依」に帰依する「律宗族」には、「生前に持ち得る資格」として与えられ特別に許され得度としたのだ。
    要するに、古来からの“「院殿居士」”の「仕来りの権威化・格式化」であった。
    因みに、この「消えた名誉な号の伝統」を蘇させるとして、「院」は「院号」、「殿」は「誉号」、「居」は「戒号」、「士」は「位号」に相当させ白旗派の族に許可したのだ。
    つまり、古来より「密教」であった頃より「帰依する皇位族の仕来り」として用いられている「密教浄土宗の戒・戒号」は、次の様であった。
    「五戒相伝」の「伝統」を維持している事に依って、「新撰姓氏禄」に記されている「48朝臣族/910の氏族・平安期初期・48/110」の「他氏」と異なり、その「戒」に基づき「生前の格式」として「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」を格式として持つ事と成っていたのだ。
    取り分け、「皇位族の伝統」の「五戒相伝」にある様に、この「戒の号」は、「号の格式」が低下して無くなり鎌倉期頃からはある程度の身分階級に一般化してこれを戒めの誉の号を“「戒名」”と後に称される様に成ったのだ。
    これが上記する「鎌倉幕府の源氏の所以」で起こった仕儀であったのだ。
    この時、「戒の号の習慣」が遺る事は、「頼政系を利用した頼朝系」を疑わせる事に成り、これの印象を排除したい為に、もつと云えばつまりこれの関係者に従わせる為に、「白旗派」に「鎌倉幕府」から強引に圧力が掛かった事が平安期より他派よりも更に衰退に繋がったのだ。
    「48の帰依族」から「青木氏等の10程度」の極めて弱小派と成って仕舞い、故に室町期では「律宗族」としたのだ
    「奈良期からの原理主義の概念」が衰退し「日蓮宗等の他流派」が逆に隆盛を極め始めたが、「皇位族の伝統」に依って引き継がれて来た「五戒相伝の衰退」も「白旗派」に「鎌倉幕府からの強引な圧力が掛かった事」がこの根本原因であつた事は頷けるのだ。
    然し、ここには「大きな矛盾」が潜んでいたのだ。
    それは「鎌倉幕府」と云うよりは「頼朝」に矛盾があった。
    それは、「頼朝」はこの「白旗」を「軍の旗印」とした事であった。
    当然に「白旗」なら「神明社・神教」であり、「浄土宗・仏教」である「神仏分離の享受」であるが、頼朝にはところがここに無理があって違ったのだ。
    この上記の「五戒相伝等の矛盾」をかき消すかの様に、その信じる処を「八幡菩薩・仏教」とした。
    それは同時に「神明社」では無く「八幡神社・神教」で且つ「神仏習合の享受体」、つまり、「仏教擁護の神」と云う「無理な概念」を造り出したのだ。
    ここが正当な伝統を守っていなかった事が「矛盾の大きな違い」として出たのだ。
    ここが世間から非難され「鎌倉幕府の基幹の権威」が低下した故と成ったのだ。
    「北条氏等の坂東八平氏」、つまり、元皇位族7世族以上は坂東に配置されたその族」で彼等に執ってはこの「矛盾」は「執権制・政権奪取」を敷く上で都合が良かったのだ。

    その「根拠」を、論外であるが追記する。
    そもそも「清和天皇の即位・859年」に、「南都大安寺の行教」が「宇佐神宮」に参詣し、その時に「御託宣」を受けたとし、「男山に移座し国家を武家で鎮護せん」としたとすると云うのだ。
    この「清和天皇の命」で上記した様に「石清水八幡宮の神仏享受体」が創建されたのだ。
    この「石清水八幡宮」は、其の後「国家鎮守の神」として崇敬を集め、取り分け「清和天皇の河内源氏・源頼信系の姓族」は崇めたのだ。
    「武家社会の許」で「武家の神と仏」として「鎌倉鶴岡八幡宮」はこの「信仰」を集めたのだ。

    話は都合よくまとめられているが、要するに「天皇家」はそもそも「皇祖神」であり、「仏教の事」のみならず、況してや「武家を推奨する事」は、自らの天皇家を否定する事に成り、「矛盾の極み」であり、この上記した「矛盾」を克服する為に、その中間の「八幡の神仏享受体」を頼朝は造り上げたのだ。

    「欽明天皇と用明天皇」 「飛鳥寺と法隆寺」 「蘇我氏と物部氏」が基点と成って朝廷内で信仰して興つたものであり、上記した様に「庶民の仏教」はずっと後の鎌倉期の事である。
    その間の「朝廷の考え方」は矛盾から脱出する為に「詔の発出」に迫られていた。
    この様に、“国家として「仏道」にはその必要性を感ずるが、「神道」を根幹とするは変わりは無い”として詔を出して「豪族間の争い仏教派と神道派を鎮めるに躍起に成っていた。
    故に、鎌倉期では「八幡神社・神教」と八幡菩薩・仏教」で「神仏習合の享受体」が都合よく河内源氏の幕府に執っては成立したのだ。

    此の反対側に居た「五戒相伝の青木氏族」に執っては「社会の流れ」とは反対側に居て難しい立場に置かれていた。
    然し、仏教も積極的に取り入れる立場を保っていた事に成る。
    寧ろ、これも「青木氏族の自らの矛盾の期」でもあった筈だ。
    「伊勢」で「青木氏族」が当に世に引き出される「直前・白羽の矢・孝謙天皇期・聖武天皇期」の時期、つまり、この「東大寺大仏の建立」と「鑑真招来による律宗概念の導入」が原因していたのだ。

    「青木氏族」では調べると、この「鑑真律宗の法界の戒律」が、遂には上記したその「朝廷の考え方の影響」を受けて、「神明社と古代密教浄土の仏教」の「古式豊かな神仏融合の原理主義の伝統」を守って来た「青木氏等」にも適用される様に成って仕舞ったのだ。
    その結果の影響を受けて「律宗族」と成って仕舞ったと云う経緯である。そうでなければ氏是゛に依って「律宗族の指定」とは成らなかったであろう。
    その大きな原因は「守護神の神明社の神職」や「菩提寺密教の清光寺の住職」は「自らの氏の者」が務めるとした「伝統の事」にあったのだ。
    故を以て室町期に「律宗族」と再任される結果と成ったのだ。
    要するに、“理利に反する”としても「再認される事を拒む根拠」は「青木氏側」には何も無かった事なのだ。
    そのターゲットが伊勢信濃に置いていたとしても「秀郷流青木氏」も同然であったろう。
    故にその証拠として、この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は依然として「伝統」として頑として保たれていたのだ。
    これに付いて本来は反対し圧力を加えて来る筈だが「鎌倉幕府」は何故か黙認した事を意味する。
    興味深いのは、社会が替わろうと何故かこの「頑なな伝統」だけは現在でも遺るのであるし、この部分に於いてはこの資料関係を遺している所以であろう。
    ここで重要なのは、前段でも論じている事でもあるが、「律」は「全体の行動の戒め」であって、「戒」は「個人の戒」と定義されている事に成っている。
    「青木氏の資料」から読み解くと、「律」は「刑の事」であって、「令」は「民の事」と定義して明記している。
    とすると、「青木氏族に於ける律宗族」は、「律」である所以である以上は「青木氏族全体」に課せられた「戒」であって、「戒宗族」とは成っていない。
    故に氏が定めるところに於いて反すると罰が下る定義である。
    要するに「個人の戒」で無かったと云う所以と成り、「青木氏」に課せられた「戒」では無かった事に成るだろう。
    つまり、「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」はこの時代に於いても未だ「一族全体が護っていた伝統」と成り得る。
    これは「伊勢信濃の青木氏族」と「女系で繋がる秀郷流青木氏」の「二つの青木氏族」に課せられていた「五戒相伝の伝統」であった事を証明するし、これが「格式」と成り前段で論じた論説に符号一致する。
    逆に云えば、何れの源氏族にも「五戒相伝の伝統」は適用されていなかった事を意味し、河内源氏系の頼朝等が主張する格式は有していなかった事に成る。
    それを「河内源氏系足利氏の幕府」が、「二つの青木氏族」を「律宗族」と認定したのには興味深いものがあるし、「正親町天皇」が70年後の相当遅れて追認したのは歴史的に意味を持ち頷ける。
    この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は、「賜姓五役」の任にも通ずる事に成り、「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」と成り得るのだ。
    「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」の役務の時系列は同じであり、イがあってロが成り立ち、ロがあってイが成り立つ相関関係にあるのだ。
    故に、「足利幕府」と「正親町天皇」の「律宗族認定」は、「五戒相伝の伝統 イ」は兎も角も「賜姓五役の伝統 ロ」をも認めていた事を示すものだ。
    もっと云えば、「青木氏族」が「古来より持つ伝統」の全ては「イとロ」に相関して成り立っていると観て居るのだ。
    決して「律宗族」の格式認定だけでは無かったのだ。
    「大義」はイにあり、「目的」はロにあったと考えられる。
    ロに持つ「経済的潤い」に狙いがあった気がする。
    幕府や朝廷が「経済的潤い」を受ける以上は「非難される点」を除かねばならない。
    この「当然の務め」として「賜姓五役のロ」にあったと考えられる。
    「昔の永代の務め」を廃れているのに今に成って「ぶり返して来たと云う事」であろう。
    「足利幕府」と「正親町天皇」は、その様に考えていたかは定かではないが、少なくとも「正親町天皇」は思っていた可能性は充分にあり得る。
    何故ならば、前段の「殖産の論」の「献納の処」で論じた様に、裏で「賜姓五役」の「令外官」として「紙屋院」に始り「絵画院」・「繪処預」等を務め、「鉱山開発・硝煙開発」等は平安期初期までは「伴造と国造りの統括支配の役」で務めていたとされるからだ。

    この時の支配下にあったが「役務名」に付いては詳細では無く「院名不記載」である。
    これは恐らくは、敢えて特別に「院号」を与えられず「伴造と国造りの統括支配」の許で“「令外官」”として務めていた事が間違いなく考えられる。
    「幕府」は兎も角も「朝廷」には無理がない事が云える。
    何故ならば「平安初期」からは「嵯峨期の詔勅禁令」で「皇親族・賜姓族」を外されたが、“「令外官」”で「国造や伴造」を配下にし、且つ、自らも「専門技術を有する青木氏部」を有し、又、当時にその「殖産の専門技術者集団の額田部氏」と連携もしていたのだ。
    鉱山開発には額田部氏との連携があったと考えられる。
    そして、「途方もない大財源」を必要とする「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」では、朝廷内ではたった「18氏しかない臣下族朝臣族」では果たす事は到底出来ず、これを「青木氏族の独占上」であって務めていた背景があり他の氏は無理であったろう。
    そうでなければ「朝廷の大きな財源となる献納金」は獲得は出来ない背景にあった。
    幾ら「嵯峨天皇」が「自らの出自元」に反抗してもこの事に関しては無理であったのだ。
    「出自元の青木氏」を「皇親族」から「賜姓族」からも外したのには殖産で力の着き過ぎた皇親族を政治の世界から外したかったからであろう。
    その証拠に「永代の賜姓五役と令外官」は外していないのだ。
    兎も角も」経済力を持つ事」には朝廷は潤うし、自らの首を絞める事にも成り外すわけには行かず、従って否では無く、要するに「青木氏の政治の場」に対する「政治的立場」を排除したかったのではないか。
    自分の思う様にしたかったとと云う事であろう。
    然し、思う様に一族や青木氏は動いてくれなかったのだ。
    桓武派と嵯峨派が生まれて政治的敵対したのだ。
    前段でも何度も論じたが、この「殖産状況」は正式には政治体制が変わる明治9年まで続いた事が記録されているが、「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」は基本的には「影の令外官であった事」が「献納」で証明できる。
    これに関わった「鉄穴部・鉄安部・かんなべし」を何時、「青木氏部」に加えて、何時、「青木氏部」から何時、「鉱山開発と硝煙開発等の殖産」から手を引いたかは判っていない。次第に低下して行ったのであろう。
    然し、「鉄」に関わる以下の状況証拠と大体の時系列から割り出せる。
    大倉鉱山の産出量が低下し古く成った時期・1540年
    摂津堺店が日野支援を打ち切った時期・1550年
    銃の開発が済んだ時期・1557年
    薩摩などが日野鍛冶師を雇った時期・1558年
    採掘の額田部氏が滋賀より引いた時期・1560年
    近江で松井氏と再関係を持った時期・1562年
    額田部氏が穂積氏とが疎遠に成った時期・1565年
    日野から伊勢青木氏部に鍛冶師が逃げ込んだ時期・1567年
    高倉鉱山が盛んに成った時期・1568年
    雑賀に伊勢の支店を置いた時期・1569年
    雑賀で鉄鉱石輸入で製鉄が盛んに成った時期・1570年
    渥美湾の制海権の獲得した時期・1572年
    伊川津で殖産を開始した時期・1573年
    雑賀根来が信長と秀吉に敵対した時期・1576年
    根来衆が雑賀衆と疎遠に成った時期・1577年
    信長が近江丹波を獲得した時期・1579年
    信長から秀吉政権に移行した時期・1580年
    青木氏の伊勢と紀州の殖産が軽工業に移行した時期・1582年
    秀吉刀狩りを実行した時期・1588年年
    青木氏部が宮大工等の建設業に移行した時期・1590年

    以上等の総合的な事柄が左右している「ある一定の時期」には「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」から手を引いている筈で、そもそも「続ける事」がそもそもが困難で「商い」としても得策では無かった時期があった筈だ。
    その基準は、次の通りであったろう。
    経済的な財力や開発能力の有無には総合的な問題は無かったのである。
    第一次的な理由は「殖産」に関わる事
    鉱山開発の「意味・目的・理由」が総合的に無くなった時期
    鉱山開発の「排他的な続行」が総合的に困難に至った時期
    鉱山開発の「政治的な配慮」が総合的に必要と成った時期
    第二次的な理由は「鉄」に関わる諸々の事
    第三次的な理由は「総合的な理由は幾つか重なった事」であろう。
    故に突如辞めたのでは無く「一定の短い期間」を経て引いた事となろう。

    これ等の事は「商記録」に最も反映される事柄であるが何故かこれには記録や資料がないのだ。
    何なのかは良く判らないのだ。
    この「鉱山開発の資産」に付いての「日本書紀などの歴史書での書き方」には記録や資料がないのだ。

    686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸を加えられている。
    703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と「役務」を与えられる。
    704年1月に封100戸を伊勢に加増されている。
    714年1月に封200戸を伊勢に加増されている。
    持統上皇御葬送の際に「造御竈長官」を務む。
    706年9月から10月に架けて「文武天皇の難波行幸」に従う。
    707年6月、文武天皇崩御の際、殯宮に供奉する。
    708年1月、叙品し、三品を授けられる。
    715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。(判断として重要)
    716年8月11日、薨去し、「六人部王」らが葬事の監護に派遣され、この薨伝に「天智天皇第七之皇子」と記されている。
    770年11月6日、「光仁天皇」は「春日宮皇子」を「同族同祖同門同宗の四掟」とする「父の施基皇子」を追尊し「春日野天皇」を追尊した。
    「三笠山の野辺」に「宮」を営む、とあり「高円山」に葬送したとあるが、「御墓山陵」は別に「田原西陵」と称され、現在の「高円山の東南、奈良市須山町・名張から真西19.5k」にある。
    「施基皇子の祭事寺」は現在の「奈良市白毫寺町白毫寺・びゃくごうじ)」に祭寺があり、「名張」から真西23kの線状点にある。

    703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と記しているが、「役務」を与えられたとしているだけで「本領で無かった事」も考えられ、この事からこの近江の開発した「二つの鉱山」そのものが「伊勢青木氏」のものでは無かった事も考えられるがどうであつたのかである。
    そこでこの前後関係の経緯を判断して“賜る”をどの様に判断したのかである。
    その判断する根拠と成る歴史観は何処にあったのかでこの「文章の意」は決まる。
    否、寧ろ、此の頃の文章に云えるのだ。
    それは、当時の制度レベルにあったのだ。
    つまり、当時はこの“鉄穴・鉄安”とは“かんな”と呼称し、要するに“鉄の穴・鉄の安の事”、即ち、“鉱山の事”で、「土地と民」を以て「封と戸」で功績時は恩賞を賜る仕組みであった。
    従って、この“鉄穴・鉄安”は、「鉄と民」が「封と戸」に値するのだ。
    当時としては全てこの評価基準が「米」に相当して評価する社会で税とし、その「米」を生み出す「民」と合わせて恩賞は与えられた。
    とするとこのあたらしい「鉄」はどの様に評価するかは未だ決まっていなかった事に成る。
    これから「鉄の社会」に入ろうとしていた時期であったのだ。
    つまり「米」>「鉄」であった。
    「紙」も木簡や竹簡に頼っていた時期である。
    「紙」は「紙屋院の称号」を与えられて「青木氏族」が開発し「特権」を獲得して市場に貢献したのだ。
    そして、今度は「鉄・かんな」であったのだ。
    当然にそうすると“「鉄穴院・鉄安院」”の様な「特権」が与えられていたかの問題である。
    さて、そこで働く「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」が「戸・民」であって、「鉱山・鉄」はそもそも神道の世界では「山・神」であるので「山を売る事」は叶わず、「売るもの」は「鉄」に及び、これは「土地の米」に値する。
    要するに、「封戸」は本来は「土地・民」に替えて「米・民」に値するのだ。
    「土地」は原則、神、即ち天皇からの「貸借のもの」であったのだ。
    つまり、それまでは未だ正式にはこの「鉱山」による仕組みは初めての事で、「鉱山」は、実質は「貸借」のものであって、その代わりを以て「米」、又はこの場合は「鉄」を「税」として換金して治める仕組みとして「施基皇子の裔の青木氏」は取り組んだのだ。
    元来、これが「中国の周の斉」から統治手段として採用し、それを始めて「太公望」に依って治められて「封建社会の原理」と成った。
    この社会原理が日本に新しく浸透して来た時代であるのだ。
    前段で何度も論じている中国著書の「六韜と三略の戦略」は、「呂尚・太公望・、紀元前11世紀頃」に依って採用されたものであるが、丁度、「唐・618〜907年」の「731年」に「呂尚の記念廟」が建立された時代でもある。
    この「新しい考え方」が「大化の改新」に依って「皇位族の者・賜姓臣下朝臣族」に限って採用されたのだ。
    その中でも未だ「鉄・鉄穴・鉄安」は余り例に観ず新しかったのだ。
    取り分け、「近江の大倉鉄穴」は開発時のものであった。
    其の後に需要の爆発で「近江の高倉鉄穴・鉄安」が開発されたとする経緯を持っているのだ。
    従って、この“近江の鉄穴・鉄安を賜る”の「賜る」の書紀には「意味」が多く「封建社会」に入る「初期の天皇家の処置」と成り、それを「皇位族・皇親族の青木氏」に遣らせる判断は初めての事であったと考えられる。
    寧ろ、その様な時代であった事から都合よく「賜姓臣下朝臣族」に遣らせた、又は遣らせる為に「臣下させた事」も考えられる。
    最も「信頼於ける身内の者に委ねる事」の判断が強く働いていたと考えられる。
    「蘇我氏の失敗などの事」を含めて「近衛兵」も然りであり、この将来を占う「鉄穴・鉄安・かんな」も他に任せる事は出来なかったのであろう。

    そこで「鉄穴・鉄安・かんなの役務」を賜ったのか、この文章の直前の686年に「200戸の封民」を、その直後の704年1月にも「封100戸」を伊勢に加増されている。
    「封」を与えられているので、功績としてあるので「鉄穴部・鉄安部の民・青木氏部」をも賜った事に成る。
    それが前段でも何度も論じているが「国造」として「青木氏部」に属した「鉄穴部・鉄安部」であろう。
    後にこの「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」がこれが後に「鍛冶部・かじやべ」と成った事が記されている。
    “686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸”とあるが、原文記載の文章の記述を良く観ると“「・・も」”とある。
    つまりこれがある以上は、文章の行から、それ以前にも「初めての封戸」が在った事を示している。
    この「686年8月」は「天武天皇の崩御後10月1日」の「大津皇子事件10月2日」があった年の10月の翌日に成る。
    この年の8月9日 「実妹の持統天皇」に成り「政・まんどころ」を執り主な政務を皇太子に託す。と成っている。
    8月14日・16日 32年間断絶していた日本の元号が再開、新元号朱鳥に成る。
    686年8月にも「実兄・施基皇子」に「封」を加増され、伊勢に200戸を加増されたが、これは「持統天皇即位」に依り授かるものだ。

    さて、「・・も」のものは何なのかである。
    つまり、従って、その前の「686年の前」にも記載は無いが“「・・も」”の表現では少なくとも「100戸程度」は受けている筈である。
    それには別に気に成る記述があるのだ。
    715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。とある。
    気に成るのは以上の記述である。
    「施基皇子」の「没・716年8月」の前の1年7月前に上記の「全封戸」が支給されていたという事は、それまで一切の皇子にも支給されていなかった事に成り、事実もそう成っている。
    これは「施基皇子」の「没・716年8月」に関わりなく支給されていなかった事に成る。
    それも「伊勢王の施基皇子・遙任・国司代三宅連岩床」にのみならず「全皇子の封戸」にである。
    従って、「賜姓」に依って「647年」に「伊勢」に「青木氏」を興した。
    そこで、“どの様に「糧」を得ていたのか”である。
    これが「・・も」に関わっていると観られるのだ。
    この時、「国造」から上がって来る全物品を先ず朝廷に納め、「朝廷の余剰品」を市場に下ろし裁き、この「利鞘」を「朝廷」に納める「部経済」であったが、この「役目」を「伊勢王の施基皇子」は一切担っていたのだ。
    これに依って「伊勢王の役料」と「市場放出の令外官の役料」に依って「二つの糧」を得ていた事に成る。
    「商い」である以上その仕方で可成り大きいものに成っていた筈であり、朝廷からの務めの役料以上であった事は間違いはない。
    その延長線上に「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」が下り「開発成功」とその殖産の生産に及んでいたのだ。
    結果として、後の「925年頃」に「商いの二足の草鞋策」が朝廷より「施基皇子の裔」に認められる経緯を持っていてそれ程であった事に成る。
    「647年伊勢」に「青木氏」を興してから、「686年の前」までの40年間には、評価に値する世の中に果たした何れも「新しい経済システムの確立」であった。
    それは「余剰品を市場放出の成功例」と、この「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」の「二つの成功例」の「三つの功績」があり、「686年の前の記録」では記述が無い事が判る。
    “715年1月、二品に成る。
    この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”の以上の記述に原因していると考えられる。
    つまり、この「三つつの功績」に対して715年まで朝廷より保留されていた事に成る。
    故に、これらの「二つの功績」を取り纏めて、“二品に成る”とあるのであろう。当時としては最高位である。
    念の為に、「701年に制定した大宝律令」と「718年の養老律令」のこの「二品の評価」であるが、没する「1年半前」にはここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得した事に成る。
    注・官位は「政務職」、「近衛」、「令外官」の三つに分けられている。
    「青木氏族」は「近衛」か「令外官」のどちらかの「品位掌職」に就いていた。
    先祖の戒名や襲名名や 諱号や諡号から間違いなく両方に就いていた事が判る。
    これは前段や前記でも論じている通り「令外官の二品・正二位」であった事から「内大臣・現在の特命国務大臣」に扱われていた事を示すものである。
    そもそも上級では「国司」までが朝廷より「俸給」を受けていたのだ。
    従って、この時、「令外官の親王の二品」は、つまり、「諸王の正二位」に相当するが、「最上位から三番目」で「最高の官位とそれに相当する俸給」を功績として得ていた事を示すのだ。
    現実には「親王一品の位」は空席にするのが当時の慣習である。
    そこで、「施基皇子」は、最終は、“715年1月、二品に成る。”の直ぐ後に、「元明天皇・在707年8月〜715年10月」に依って「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品」を獲得したのだ。その根拠と成るのだ。
    そこで「施基皇子」が貢献したその他の功績の経緯を記す。

    689年に「撰善言集」を編集した。
    701年に作られた「大宝律令」を整備し運用した。
    701年に平城京第一次大極殿を復元した
    708年7月に「秩父」より「銅の産出」があり、「和同開珎」を鋳造させた。
    710年に「藤原京」から「平城京」に遷都した。
    710年に「荷役就民の詔」を伊勢国司に出した。
    710年に「古事記」を献上させた。
    713年は「風土記の編纂」と「好字令・諸国郡郷名著好字令」を詔勅申請した。
    715年には六人の参議の協議で「郷里制」を敷いた
    以上の事等の整備に努力が成されたとしているのだ。

    これらは経済的には「鉄銅の産出」と、社会的には「律令体制」の確立した経緯とが進み、「大化期からの財政不足」で保留にされていた「以下の事」が実行に移されたのだ。
    そして直接的には、“「荷役就民の詔」を国司に出した。の令”が以下の記述と成ったのだ。

    結果として、センセイにる個人採決の判断では無く、”「律令」で判断する「大宝律令の制度」”に従った事と、「荷役就民の詔」に従った事」とで、今までの慣習を打ち破り過去の保留されていた褒章・功績も一斉に以下の文章に遺る様に施行されたのだ。
    “この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”との以上の記述に成ったのだ。
    その前には、“708年1月、叙品し、三品を授けられる。”がある。
    つまり、それまでの「功績の評価」を纏めて官位で受けているのだ。
    この時の功績評価は、次の「イロハの三つ」である。
    一つは、「持統天皇」は、645年〜702年崩御 在位690年〜697年である事から、「持統天皇」と「天武天皇の墳墓構築」とに直接責任者・イとして関わったり、707年6月には、「文武天皇崩御」の際には「殯宮」に供奉・ロし、その後、この「三人の天皇の葬儀と墳墓構築」を指揮担当した事・ハを示す。
    前段でも論じた様に「孝謙天皇の白羽の矢」で誕生した「父施基皇子」の「四男」の「光仁天皇・后井上内親王」は、この「三つの功績」を評して「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品・令外官一品位」を追認して獲得したのだ。
    つまり「追尊天皇」に成り得た人に成る。

    参考として、“「・・も」”に就いて前段での検証で論じたが、上記の「封戸」の全ての積領を算出すると伊勢と近江の「大字」は、4又は5の数授説もあるので仮に5とすると、「伊勢王」であった事から、ほぼ「伊勢全域弱の有効な積領」を持っていた事に成る。
    故に、これ以上に「有効な積領」の「封戸」を「功績として与える事」は出来なかった事に成り得る。
    従って、これをそれに相当する「品位」に換えて「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を追認したと観る事も出来る。
    「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を獲得した事で、「伊勢と信濃の濃厚血縁青木氏族」はその格式を背景に前段で論じた”「色々な事」”が出来たと考えられる。
    要するに、「室町期の律宗族」に繋がった「永代の賜姓五役」であったのであろう。

    次に、「銅の鉱山開発の疑問・秩父」である。
    この時は未だ「伊勢青木氏」は「秩父」までその「経済的勢力」は及んでいないし、且つ、「過去の記載の散見」は一切無い処から、「銅の鉱山開発に関わった者」は誰であったのかは確定する記録が無い。
    然し、結論はこの「銅の産出」には一切関わっていない事は確かであろう。
    では誰なのかである。
    そこで余談だがこの検証の為に、前段でも論じたが「青木氏」と深く長く関わった「連」「臣」「宿禰」と大出世した「大和朝廷系の額田部氏」とは違う「渡来人系の別の額田部氏の職能集団・出雲国臣系」が在った事は記録で判っていて、「出雲国」が「大和国」と合体して以降はその集団は「各地の鉱物の開発と生産」にも関わっていた事は判っている。
    史実、「出雲国」から唐に船を出してこの「技能集団」を態々招いている記録が遺る。
    「大和朝廷系の額田部氏」も元の出自を質せば、この「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団」からの出自であった事も考えられる。
    但し、「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団に鍛えられた大和人」とする説もある。
    筆者は、前段でも論じたが「日本書紀等の史書」にも明記の記載がある程に、「天武天皇」が「大和人の全ゆる技能者・官僚族含む」が少ない事を嘆いて、“積極的に招いて大和人を鍛える様に”と命じているのだ。
    故に、この事で養成された「額田部系の職能集団・土木」のこの「大和人説」を採っているのだ。
    更に、何故ならばこの「大和朝廷系の額田部氏」の当時の分家に当たる「穂積氏」と呼称する「分流集団」があり、彼等は共に“稲の専門技術を以て保存管理して連携して働いていた事”が判っているからだ。
    つまり、前段でも論じた様に「大和朝廷系の額田部氏」は、記録から主に「米の干拓灌漑工事」や「地質と地形等の技能技術」を駆使して「墳墓建築工事」や少し後に成るが「墨・硯・砥石・岩絵具等の生活用品の開発と採掘工事」や「遷都時の排水工事」や「神社建設などの基礎土木工事」等にも関わっていた史実の事から「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事が判るのだ。
    其の後、「桓武天皇の遷都時・784年・794年」に「平城飛鳥」より遷都への同行命令を拒否して事件を起こして罰せられ朝廷から離れて「伊勢青木氏」がこれを桑名で保護し、その後彼等と連携して生き延びているのだ。
    依って、恐らくは、このその後の「銅の鉱山開発・708年」〜「遷都事件・787年」の間は「三大官僚土木業」の一つで「武蔵域の土地の結城氏等」が請け負い、787年以降は「出雲国系額田部氏の職能集団・部制度の強化」に依るものでは無いかと推測される。
    その証拠に参考として「魏志倭人伝」によると次の事が書かれているのだ。
    それは「出雲国」では「稲作農耕」が良く行われ、その祭祀に用いた「銅剣や銅矛盾や銅鐸などの青銅器」が生産され、「弥生人」が持ち込んだその「中国・朝鮮文化」の進んだ文化が華が咲いたと書かれている。
    そして「卑弥呼の邪馬台国」は「狗奴国」と争ったと記され、この「狗奴国」がこの「出雲国・疑問」とし、この「出雲国」は「大和国」に“「350年頃」”に滅ぼされたとする説の「滅亡説」と、「古事記」では逆に「国譲り説」が見える。
    筆者は定説と成っている「出雲朝廷」の国が「大和朝廷」と融合したとする説を採っている。
    争っていればもっと記録が遺されている筈だが無い。
    ところが現在では、「関西の発掘調査」では「縄文人の村」と「弥生人の村」はたった「300mも離れていな地域」に「村」が「共生」で構成され、相互に文化の遺跡品が混在していた事が採掘で新しく判ってきているのだ。
    ところが逆に、最近の「九州の遺跡調査」では寧ろ「闘争的民族」が住んでいた事が判っている。
    この「狗奴国」は「邪馬台国」の西隣の「熊本県」とする説があり、「邪馬台国」に滅ぼされ、この「邪馬台国」は南薩から来た「太平洋民族」と「南アジア民族」の「二漂着民族」と「薩摩原住民族」の「三融合民族」に依って滅ぼされたとし、「邪馬台国」に戦い勝利したが占領せずに引き上げたとする説に成る。
    そして「狗奴国・不戦民族」は中国地方を経て「出雲国」で戦い中部地方を経て「蝦夷国・アイヌ民族」にと到達したとしている説がある。
    筆者はこの説を採っている。
    それは「出雲国=狗奴国の説」では、「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事の歴史的史実や「魏志倭人伝」は成り立たない事に成る。
    「出雲国」は「亀甲・こおら」を「神」と崇め、「狗奴国」は「狗・くま」を崇めている。
    そもそも「崇めの物体」が異なり、「出雲氏族集団」は室町期まで「亀甲集団」と呼ばれていたのだ。
    「崇めの物体」が異なる事は同一の国ではない事に成る。

    この事から、この「350年以降」を契機に「出雲国」と「大和国」は“「国譲り」に依って融合して行った”とされているのだが、この「国譲り後」のこの専門知識を有した「銅の鉱山開発」に関する時期は、これより“「704年」”に「大和国系額田部氏・大和人」の工人に依って「鉄」が「近江・大倉・書紀」で発掘されていたが、再び、そのすぐ「後・4年後の関東」で“「708年」”に「出雲国系の額田部氏・出雲人」の工人に依って「銅」が「秩父」で発掘されていた事に成るのだ。
    この「額田部氏」に付いては間違いを起こしやすいのだ。
    丁度、この708年に「大和朝廷」が「関東」を何とか制圧下に治めた時期であって、当にこの「708年・出羽国・国府の設置」の時期でもあり、その統治下に入った「秩父・武蔵」では要するに「制圧直後・358年後」に「銅鉱山発掘」と成っているのだ。
    この経緯では時系列の整合性が採れる
    余談ではあるが、従ってこの「語る処事」は、関西では「703年の近江で鉄鉱山開発」を、”統治下に入った関東では当時に「708年に銅鉱山開発」にも直ぐに入った”と云う事に成るのだ。
    それだけに、当時は、「鉄」は勿論の事、“銅の必要性も高まっていた事”を示すものだ。
    つまり、青木氏が命じられた近江での「大和国系額田部氏・大和人の工人による鉱山開発」は「関東」では無理であり、元より彼等の本職である「上記のイロハの墳墓建築」で「施基皇子」と共に桑名で関わっていたし、従って其処まで「彼等の活動範囲」とその詳細は及んでいなかった事にも成るのだ。
    それ故に、中部域から東の関東域では「額田部氏の子孫」は遺していないのだ。穂積氏は中部関東間である。
    前段でも論じたが、「施基皇子の伊勢青木氏と共に運命共同体として生きた事・桑名」により当然の事と云えば当然の事ではあるが、江戸期に成っても関東は疎か中部域以北には「彼等の痕跡」は全くない所以なのだ。

    話は戻って、上記の“「施基皇子没・716年」の「1年半前」には、ここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得”していた事に成るが、この“「令外官」”としてその後も身内の「嵯峨天皇」に依って「皇親族」を外された立場ではあったが、「令外官の上記の品位」は一度与えられた義理は外れる事は無く、続けて密かに「軍務処」や「学問処」として任命追認され、「社会の状況」を「献納・定期」を機会に「天皇」に伝えていた事を前殿で論じたが、この「密かな役務・令外官・一品」は明治直前まで務めていた事が「青木氏の資料の行」で読み取れる。
    それはつまり、この「上記の事」は「献納・朝廷」と「冥加金・幕府」の「裏打ちが在った事」にも成る。
    この事から「公家や貴族を含む上層階級」の間では、未だ「青木氏族」に於ける「五戒相伝の伝統」=「賜姓五役の伝統・令外官の親王の一品・最高位」の格式は、この時代に於いても家康が、「伊勢の事お構いなしのお定め書」で認めた事の様に「衆知の事」であった事を意味しいている。
    要するに、これが、つまり、「戒」が世間に一般化していた事を示す。
    この「格式の号」に代わって、「浄土宗知恩院派の白旗派」では「戒」に「名」を着けられて「・・の号」として持つ事も「格式の一つ」と成り得たのだ。
    これが一般化した証拠として「戒名」として「戒による格式」は無くなった事を示すものなのだ。
    「朝廷様式」を重んじた「鎌倉期・安定期」では、この“「律宗族の格式呼称」”は、何故か無く成った、又は消えた、消れたが、故に逆に格式を取り戻す樽に「室町期・騒乱期」には、再び「律宗族と呼称しての格式」を再興された所以の一つと成ったのだ。
    それには、二つ考えられ、先ず一つは、「北条氏」に執っては「西の文化の発展」は好ましく無く、且つ、「各種の宗派の勃興」で「浄土宗だけの格式化」は好ましく無かったのだ。

    以下にその号の詳細を記する。
    ・1 「院の院号」は、「門跡院」に代表される様に、「退位した天皇」、或いはそれに相当する立場の「者・皇子皇女と皇位族・皇親族」に与えられる「最高格式の号」である。
    ・2 「殿の誉号」は、「院号」に次ぐ「五戒相伝の族」にあってそれに基づく「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」に与えられる格式である。
    「誉号を持つ事」に依って「・・殿」と呼称され其れを表す「殿」を建立できる。
    この「殿の語源」は、そもそも「左部首の象形」は「椅子」で、それに右の「股」を組み合わせて要するに「椅子に座っている人」を指し意味する。
    つまり、「皇位や天皇の高位の者」であってその人が住む「館」を意味する。
    況や、「誉号」を持つ事で「殿・館に住める事・名誉な館」を意味する。
    ・3 「居の戒号」は、「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」が持つ「慣習仕来り掟」の「伝統」を有した者に「格式号」として与えられるものである。
    ・4 「士の位号」は、「貴人・皇位族と高位族」の「天皇」より与えられた「身分」を号として表す「格式号」であり、そもそも「天皇」に仕える「侍士・近衛の士」の「格式号」である。
    要するに、この四つは全て“「住まいの形」”であり、中でも古来の「士の語源」として、“地上・つまり一に+を立ててこれを杭を立てた様”として使われていた。
    後に、この「様」が「戦士階級の身分」を表す「儀器」と成ったのだ。
    それ故、「兵士の意味」に用いられる様になったもので元は物を支える「杭」なのだ。

    従って、「住居の環境」を「院→殿→居→士」の「形」を「格式化」して順序良く並べたものである事に成る。
    「士」の「杭」が集まると「居」に成り、この「居」が多く集まると「殿」に成り、「殿」が多く集まる所を「院」と云う事だ。
    つまり、全てがこの“「杭の数」”に由来して「階級格式」は出来ている定義と成っているのだ。
    もっと云えば、“「杭の数」”は“「士の数」”に由来している事に成るのだ。
    況や、“「士の数」”はその「階級」に成り、この「階級の数」は「格式」に繋がるとしているのだ。
    この格式数のそれを以て「号」とするとしているのだ。
    この逆の事も然りであり、これが「古代社会の社会定義」である。
    更に詳細には、当時の「青木氏の立場格式」を理解するには次の様に成る。
    例えば、以上の事は次の様に成る。
    ・1に付いて、「二つの青木氏族」に執って云えば、「院の号」は「清光院や西光院」である。
    「光仁期の桑名殿」の「浄橋や飽浪」に与えられたのは「美濃の清光院」や「伊豆の伊勢信濃青木氏の融合族の清光院」等がある。
    「清光寺と西光寺」が「清光院と西光院」と成り得たのはここにあるのだ。
    ・2に付いて、「施基皇子の冠位の浄大一位」等がある。
    ・3に付いて、「賜姓族の賜姓五役・令外官」や「皇位臣下朝臣族」に課せられた「9つの縛り」等がある。
    ・「居の語源」はそもそも「古の古いもの・固い」と「戸・家」との「意味の組み合わせ語」の語源から来ていて、初期は「古・ふるい」の「者や物」に使われていたとされる。
    つまり、「古い戒め・伝統・慣習仕来り掟」の「者物・伝統を持つ氏族」と云う事を意味している。
    ・4に付いて、「官位」の「正一位〜正三位」や「伊勢王や信濃王」の「役職・位」等がある。

    この様に「古代密教の浄土概念を持つ教え・導き」を如実に表す「院殿居士」の“「院」”は、「格式の最上位の位置」にしてその“「号」”に値すると云う事に成る。
    当然に格式を持った時点で「生前」でも持つ事は当然とされたのだ。
    況や「号を持つ事」が出来るそのものがそもそも「高位格式の表れ」であって、誰でもが持てる「号の呼称」では決してなかった。
    この所以を以てこの「院」と「号」の「格式呼称様式」は、古くは「皇位族・貴人」にのみに付けられていた事になるのだ。
    極めて「墓石・砂岩、又は青石」とその「古き墓所の上記の刻印」の二つを観る事で歴史の隠し得ない「真の由縁」が判るのだ。
    この「仕来り・各種の号の呼称」が変化し一般化して平安末期から鎌倉期頃に掛けては「浄土宗に信仰心が篤い事」、且つ、「寺院や地域社会への貢献に優れた人達」にも贈られる様に成ったのだ。
    然し、この「一般化した仕来り」をこの“「律宗族」”として改めて格式化して復元したのが室町期であって、この「一般化し変化した慣習」を嫌って「古来からの元の仕来りを維持している極めて少なく成った正統な氏族」に対して、要するに“「律宗族」”として称して改めて区別した事に成るのだ。

    但し、現在では最早、上記した「格式や伝統」に対して無関係に「浄土宗に帰依する立場のある人」に贈られて再び「平準化・一般化」したのだ。
    所謂、金銭を出せば、「院殿居士・白旗派」以外の「院誉戒位」を与えられる「消えた格式呼称」と成ったのだ。
    現在では「院殿居士・白旗派」もこの「伝統の格式」が「白旗派」ではなくても「金銭」で買える状況と成って、要するに最早今では「白旗派」は無くなり忘れ去っているのが現実である。
    況や、「院殿居士・白旗派」の「院」のみならず「律宗族」を如実に表現している「呼称の存在」も知る人は最早、「歴史上の事」として無い。
    “「白旗派」の「院殿居士」”とその他の“「知恩院」の「院誉戒位」”とには、「・殿居士」の語と「意」が異なる。
    「誉」は「ほまれ」であって前提条件として「誉」と成り得る「殿」を持つ事に限定されず、単に「誉・ほまれを持つ事」を許された者に相当する。
    「特別の立場・格式」に由来せず限定せずに「誉・ほまれ」は得られる。
    要するに一般化したものと成ったのだ。
    「戒」とは、要するに「いましめ」であって、そもそもその族に「慣習仕来り掟の伝統」を既に有している事が前提であって、それを元にして「戒め・いましめ」が起こり罰せられたり行動を制したりする事が起こるが、その範囲に無くても「戒」の号は無関係に得られた。
    「位」とは「官位の八位」までのものを云うが、次の三つに分けられ更に実務は「職掌」に小分けされていたが、次第に「名目の職掌」と成り、資格外や対象外の者もそれこそ実務の伴わなわない「名誉職」と成り得たし、朝廷も金銭獲得の為に与えた。
    その結果、この「位」も「誉・ほまれ」の一つとし「二つの位」が起こったのだ。
    言うなれば、「慣習仕来り掟の伝統」の無い「誉」も「戒」も「位」も、「誉」=「戒」=「位」の関係にあって形骸化していたのだ。
    参考として次の「三つの官僚機構・大宝律令」から成り立っていた。
    「官省職寮司の高官吏・政治」
    「坊監暑台府国司の中堅官吏・軍治」
    「官所職寮司府使の令外官・経済 特命」
    上記の「三つの官僚機構」に依って授与されていた“「知恩院派」の「院誉戒位」”に、「院殿居士」の“「杭の数」”の「原理に由来した階級格式」の「定義」が存在せず成立し得ていなかったのである。
    つまりは、この現象は早くも平安期末期から始まり「幕府社会・第二の姓武士」に成って「西の朝廷の縮小された三つの官僚機構」の中では、最早、「慣習仕来り掟の伝統の原理」が働か無く成り基より形骸化していたのだ。
    これは「青木氏族」に執ってこれは「重要な歴史観」なのである。

    故に、「白旗派の律宗族」を如実に表現している「呼称」に付いて更に論じて観る。
    以上が「白旗派・知恩院の相伝・五重相伝/五戒相伝」であるのだ。
    ところが、現在においても、「白旗派・知恩院派」が「浄土宗・権威付け」と定められてはいるが、これに納得せず、「浄土宗」には元々「14派」もあって、「流派争い・主導権」が矢張り続き、統一されずこの流派に依ってもこれ以外にも他にも色々な「号の格式」を使っているのだ。
    其れを「重要な歴史観」として次に参考として一応追記して置く。
    これは「白旗派・院殿居士」であったかの「判別・格式判別」に使えるだろう。
    先ず、“「知恩院」の「院誉戒位」”では、流石に「最高格式の院号」の格式には変化は着けていず使わずにいる。

    次は「誉号」では、浄土宗僧侶のみにならず、「五重相伝を受けた檀家・信徒」にも他流派でも授与されたが、今日では得度を受けていない人にも与えられる様に成った。
    又、取り分け、「浄土宗の主流派・現在でも主流」であった「西山派」では、「授戒・得度」を受けた人には“「空号」”が与えられ、更に“「道号」”も着けられる様に成った。
    「名越派」では“「良号」”が与えられている。

    「戒名」はそもそも「仏教」に帰依したものに付けられる「忌名・いみな」の名前であって、本来は出家して得度者となった時に与えられていたものだ。
    白旗派は帰依する事で得度したと認められ、その院殿居士を生前手も獲得できたのだ。
    その前提と成ったのが朝廷から与えられた格式にあってそれが得度を得たとされたのだ。
    其れだけの社会への貢献を果たしたと見做されて得度を得たと考えられたのだ。
    当に施基皇子の様にである。
    故に、後には「出家者」に限らずとも「在家の人々」もその前提に在れば形の上で「仏門」に帰依し「授戒」を受ければ授かるようになっていたのだ。
    「授戒」に限らず室町期中期頃から「第二の姓族」が下剋上で勃興し格式を獲得する為に莫大な金銭を以て帰依し一般化して多くの人はこれを使っていたのだ。
    莫大な金銭を以て得度したと評価される様に成ったのだ。
    この帰依が浄土宗であっても先祖の格式云々に限らず事の次第では死後の忌名としても使っているのだ。
    最早、「格式」では無く「金銭」で評価する慣習では、これでは「忌名」とのみならず判別の歴史観としては何の意味も持たない事に成ったのだ。

    「位号」たけは、他の流派も使うが「年齢や性別」、「信仰心の篤さ」等によって付与されていたが、中でも「禅定門・男」や「禅定尼・女」のこの「位号」は、そもそも「浄土宗に深く帰依した人」にのみ付けられた「格式称号」ではあった。
    然し、「白旗派」の「居士・男」や女性だけが持ち得る“「大姉・女」”に次ぐ格式とされていた。
    要するにこれは唯単に格式では無く「信仰者の対象を広める事」で細分化していったのだ。
    ところがもともとは上記の通り「五重相伝の受者/五戒相伝の格式保持者」の「格式氏・公家・四掟範囲」に限って与えられていたが、現在ではもともと数少ない「限定的な白旗派以外」には見られなく成っている。
    「朝廷」が認めた「正統な氏・18氏/48の存続」が、下剋上で潰され「白旗派」に帰依していた「数氏・青木氏族等・居号」に限られて始末している現在である。
    然しそれは、その「格式の有無の存在」は意味をなさなく成っている。
    ここで、歴史観として忘れては成らない事は、何度も論じている事ではあるが、この「仏教・古代浄土密教」としての「律宗族の五戒相伝格式付け」の裏には、「神教の皇祖神の子神の祖先神」の数少ない「神明社族」であると云う事が含まれていたのだ。
    所謂、その「基盤は神道・祖先神」であって、且つ、「仏道・密教浄土」の「二つの路」も持つと云う「特異な立場」を保持していたと云う所以にあった。
    それ故に、この「二つの路」にはこれを保つ為には「戒律と云う厳しい伝統」を頑なに室町期に成っても未だ保持していたと云う事に繋がるのだ。
    「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族」の関係式が室町期に成っても成り立っていたのだ。

    そもそも、「律宗の族」の「本来の意味」は次の通りである。
    「律」の語源は「慣習仕来り掟の伝統の戒」にある。
    「宗」の語源は「物事の始まりの塊」を意味するにある。
    「律」+「宗」=「慣習仕来り掟の伝統の戒」+「物事の始まりの塊」
    以上の関係式が成立するのだ。
    つまり、この「二つの組み合わせ語」の意味は、所謂、“「物事の始まりの塊」を「慣習仕来り掟」として、それを「戒めの伝統」として受け継いで行く”の「族」と成り得る。

    必ずしも、「宗」とは、今では「仏教」と成り得ているが、確かに「鎌倉期以降」は「仏教」が興隆してその「仏道」もその一つとして成り得たが、「平安期前後」までは、神道も含んでの語意であり決してそうでは無かった。
    依って、奈良期以前からの「神道・祖先神・社」は、「仏教」よりも先に概念そのものが「律+宗」と成り得ていたのである。
    言わずもがなそれを奈良期から「伝統」として維持して来た代表する「賜姓臣下族の青木氏」は、「神明社の神道」を主軸としながらも、この「古代仏教の白旗派・密教原理主義・即身成仏の大日如来の伝統」を「氏の行動指針」として維持して来たのだ。
    この「時期」に付いては前段でも論じたが全ゆる記録や資料から読み取れる範囲では初期は「光仁天皇期」であるだろう。
    「光仁天皇期」と云えばその「経緯・孝謙天皇の白羽の矢」からも「仏道の導入」は大仏殿の所以もあって社会的には止むを得ない事由があった事は否めないし、将又、「出自の氏」としても「二足の草鞋策」を敷いている「柔軟な考え方」から考えても頑なに拒む事はしなかったのであろう。
    その「証拠」に「伊勢」には「神明社」が「12社」あるが、その時の「名残」としてこの全ての「神明社の後ろ」には「仏道に関ったある地名」が加えられていたのだ。
    現在でも幾つか遺されている。
    これは「神明社全488社の内の伊勢の神明社」にだけに限る事なのだ。
    但し、これが上記した様に「平安期初期」にも「朝廷」は世間から「政治的立場」を質されて、矢張り、“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”と“コメント”を発した所以にある。
    この「背景の経緯」には、「聖武天皇の大仏殿建立」に関わっていたのだが、この「姿勢の概念」を引き継いだ「光仁天皇」が、「出自元の青木氏」がそのその「神明社」を守護神としながらも、且つ、「神明社の神道族」で在りながらも、「古代浄土密教の浄土概念・大日如来概念・天智天皇賜姓時の賜物」にも独自に確かに帰依していた。
    その後、それを「桓武天皇」や「平城天皇」が慣れ親しんだこの「生活環境の状態」を黙認していたのだ。
    この「聖武天皇の大仏殿の件」もあり、更には「孝謙天皇の白羽の矢の事件」の経緯もあり、「ステイタス」とした「賜姓物の三つ」の内の一つの「大日如来坐像」は、「天智天皇の賜姓物の件」もあり、「清光院の建立の件」もあり、最早、ありと全ゆる事が簡単に言い逃れ難い状況に陥っていたのだ。
    所謂、「皇親族」であったのだ。
    依って、ところがこの事で「出自元の伝統」を「二人の天皇」も追認したかに見えて疑われ、それが「天皇家の疑い」と成って「政争の道具」として持ち込まれたのだ。
    この「解決策」は唯一つ、この「疑い・政争の中心」と成っている「伊勢施基皇子系青木氏」を「皇親族・賜姓族から外す事」にあったのだ。
    これが藤原氏外の同じ出自元の「桓武天皇派と嵯峨天皇派の争い事件」の「薬子の変」であったのだ。
    上記の「天智天皇の賜姓物」に発端し、そこから遂には“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”の“コメント”で解決したのだ。
    「青木氏側」では、前段の論調である様に、この時、天皇家に寄り添う事なく、“「四掟・妻嫁制度・嫁家制度等の変革」”で“「女系氏族」”を構築して貫いて完全に矛先を躱し、“「商い」”も営み最早誰から観ても「天皇家」と一線を画して逃れたのだ。
    この時が「嵯峨期初期頃」であるのだ。
    但し、この時でも秘密裏に動く「永代の賜姓五役であった事」から“「令外官」”だけは頑なに維持していたのだ。
    その為にこれが「室町期」にもこの二つの「神道と仏道」の「律宗の族」と成り得ていて、故を以て「室町幕府」と「天皇・朝廷」から追認された由縁と云う事に再び成り得たのだ。その様に持ち込まれた観がある。
    「神仏」の「奇異な二つの文化」を何と“「伝統」”として取り入れ「融合」させて来たのだ。
    その「全ゆる点に尽きる処」は、「永代の賜姓五役であった事・令外官の概念の伝統」が再び”「律宗族」”と成り得たのである。
    “「律宗族」”を維持させしめた根幹は「柔軟な思考力」を兼ね備えた“「商い」”にあったろう。

    歴史的に観ても前段の論の通りこれがの信長・秀吉等に敵対され、明治初期には薩摩藩などから「”天皇の格式を脅かす族」として存在する事を否定されて攻撃された。
    我々に口伝でも伝えられる程に、「格式存在族」を否定し同調する世間からも「密教である事」さえも「攻撃の言葉」を受けていたと伝えられている。
    遂には、現実に各地で何度も「焼き討ちや打ち壊し・記録」を受けながらも「青木氏族」の方から明治35年頃に「自発的解体・分散策に至る事」で事は治まった。
    要するに摂津に移す事で伊勢での伝統を消し去ったのだ。
    「当時の環境」としては「青木氏族」に執っては、“それなりの利する処あり”として「幕府等との工作」で対処したのであろうが、後勘として筆者の思う処では、この“「律宗族の騒ぎ」”は結果として”何んの野心も無い「青木氏族」に執っては「利する処」は何も無かったと考えるし、寧ろ「害の方」が大きかったと観ている。
    唯単に“史実は史実だけ”でありそれ以上の美化論の事は無い。

    念の為に、「現在の経済機構」で云うとすれば、「青木氏族」とそれを実行する「商い」の「基本定義」は、“「市場の独占価格・A」を形成する為に「生産から販売・B」までを統制して「グループ化・C」を施して、それ根幹とした「殖産カルテル・D」を基礎にした「自由活動性・E」を制限する「トラスト・F」を構築した「コンツェルン・G」であった”と考えられる。
    要するに、これを「自発的解体・分散策に至る事」にしたと云う事だが、結論は“「グループ化・C」だけの部分を解体したという事”に成るだろう。
    世間の豪商もその様にした。
    百々の詰まりは、「室町幕府と朝廷」が「律宗族・1450年頃・紙文化・」として呼称し直して権威化して近づいたのは、ここで生まれた“「巨万の富」に魅力”があったと後勘の筆者は観ているのだ。
    それは前段で論じたが、「鎌倉期の徳政令・永仁129年・武士」と、「室町幕府の徳政令・八回以上・武士」と「江戸期の棄損令・武士」と「明治初期の債権放棄令・民」に影響を受けた事が判っている。

    この「青木氏コンツェルン・伊勢屋」が持つ「全ての債券と担保」に対して「政策」に依って「四期の放棄令・徳政令」が発せられ「全債権」は霧消に期したとされているのだ。
    取り分け、中でも特徴的なのは「室町期の頻発する徳政令・八回以上」で「室町幕府辞自体」に及ばず「各地の国」に於いても頻発させて「財政」を保とうとしたのだ。
    「徳政令幕府」とも云えるこの状況では、「格式の律宗族の再呼称」はこれと控えに担保したとも観ているのだ。
    前段でも論じたが、「額田青木氏の三河の南下国衆論」で論じた様に、その論理で云えば、「江戸期の伊勢お墨付き・お定め書」も同じ「裏事情」はここにあったのかも知れない。
    「青木氏の資料と記録」に明確に遺るのは、「明治初期22年から28年」に架けて何度も発せられた「法律・28号等に依る債権保放棄の令」である。
    更にこれに関わる「担保・土地」の「秩禄処分」と「地租改正」と「累積債務処理」の「放棄令」が出たのだ。

    前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
    これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
    幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
    斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
    筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
    「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
    殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
    当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
    況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
    故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
    これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
    これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。)

    > 「青木氏の伝統 65」−「青木氏の歴史観−38」に続く。


      [No.387] 「青木氏の伝統 62」−「青木氏の歴史観−35」
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/12/15(Tue) 08:46:22  

    「青木氏の伝統 61」−「青木氏の歴史観−34」の末尾

    そもそも、氏家制度の社会の中であり、その様に考えるのが普通である。
    寧ろ、筆者なら大いに利用したが、ところが「青木氏の氏是に基づく信念」を貫き、「提供」が結果として「青木氏に危険を招く」として、「資金の提供」はあったとしても「銃の提供」に関してだけは応じていないのだ。
    又、「銃の保持」は、「青木氏の氏是」に関わらず、「銃」は「銃シンジケート」に依って掟の範囲で隔離され、仮に「金銭」が有っても「仲間の約束」は護り「調達」は難しかったのだ。
    そもそも「青木氏の銃」は「貿易と財力と高度な熟練」を無くして手軽に保持できる「銃型」では無かった。
    ハッキリ言えば、この「三つ要件」を身内に備える、況や“「青木氏銃」”であって「青木氏族」にしか使えない銃であったのだ。
    それだけに飽く迄も「保持の前提」は、「額田青木氏の南下国衆の護身用の改良銃」であって、「松平氏・この頃から徳川氏を頻繁に名乗る」は、それを「国衆の戦力」として観てこれを「味方に持つ事」と引き換えに、「渥美湾の制海権の獲得の条件」を認めたのだ。
    その意味では、“戦力と云うよりは抑止力的効果を期待していた事”も一部では読み取れる。
    況や、この意味でも、「青木氏族の一員」の“「青木貞治とその子孫の松平氏の内部の活躍具合」”が読み解けるのだ。

    「青木氏の伝統 62」−「青木氏の歴史観−35」

    (注釈 「駿河青木氏と額田青木氏の銃隊の関係」
    この二の一族の青木氏の関係の中に存在する疑問を詳細経緯として解いてみる。
    重要な幾つかの疑問があり、これが判れば青木氏族はより理解され歴史観と成り得るだろう。
    そこで何故、「駿河の青木貞治一族」に、、「額田青木氏」と同じ様にこの「特殊銃」を与えなかったかと云う事の「疑問」が残るが、それは”「実戦銃」”を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であったからだ。
    「青木貞治隊」は大いに希望し、且つ「秀郷流一族一門」からも求められた事は間違いなく考えられるが、上記の「三つの要件」を備えていながら頑固に然し渡さなかったのだ。
    結論から、それは「額田青木氏」は確かに三河国衆と成ったがそのそのその”国衆目的が戦う集団では無かった”からだ。
    ”「護身用」”としているのはそこにある。戦う集団では”「戦う武器」”である。
    ここが決定的に違ったのだ。
    と云う事は「国衆」はある目的を達成させる為の「一時的隠れ蓑であった事」に成る。
    勿論、「伊勢」から観れば、「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であった事ではあるが、もう一つは”「戦う武器」”であれば「松平氏の中での位置関係」に「歪みが生じる事」に強い懸念の配慮があったと観ている。
    この事が、「額田青木氏の南下国衆」の「伊川津での例」に漏れず、”「旗本との軋轢」”を受ける結果と成って行ったのだろう。
    それは「銃の威力を持つ事」に依る「権力闘争の歪み」である。
    小さい国衆で在りながらも大きい発言力を持つ事への「旗本の苛立ち」にあったのだ。
    それ故に、「壊滅状態の三方ヶ原」で無理にでも近づく事の出来ない「弾幕」を張って「銃力」で以て「青木貞治隊」を救い出したのだし、救い出せれば「秀郷流一族一門」に対する「伊勢の立場」は保全出来るし、旗本への牽制にも成ったのだ。
    故に「2年後の長篠後」でも「貞治の子の青木長三郎隊」は生き残れているのだし、「旗本への牽制」にも成っていたのだ。
    尚、其の後の「江戸期初期」に入ってでも「秀郷流青木一族」は、「伊勢」に於いても「徳川氏」と血縁し、中でも「家康の孫娘・勝姫末裔」が、「忠元家の青木氏・伊勢秀郷流青木氏」と「信定家の青木氏・伊勢青木氏」の融合族の「二つの血筋」に加わり娶り、「青木氏の四掟の伝統」から外れた「徳川氏の血筋・立ち葵紋・姓族」が「四家」に加わり、改めて「五家目融合族」の「姓血縁の伊勢四日市殿」と成ったのだ。
    新たに「徳川氏の姓血筋」を入れたが、「平安期からの融合の青木氏族」の「四日市殿」と云う一族を「姓血縁の四日市殿」として構築し直しているのだ。
    こう成れば最早、「駿河青木氏」に対しての「旗本の口出す場」は少なくなったのだ
    「伊賀越えの事件」で逃亡中に、「徳川氏との血縁族」の「伊勢の四日市・四日市殿」にて一時休息したのもこの事から来ていると観られる。
    この様に、この「青木貞治の内部の活躍具合」が無ければ、前段で論じた様な「青木氏の氏是」を護り通し、この様な「活躍・繁栄」は無かったと考えられる。
    これが、即ち、「青木氏一族の鍵」であったとも云える。
    「三河国衆に合力する事」も始めとして相当に「渥美湾の制海権の獲得の条件」の時にも「秀郷流青木貞治一門」の「内部での一連の活躍」はあったと観ているのだ。
    さうで無ければ、これだけの事を急に「好条件」に導く出すには「伊勢との直接交渉」だけでは難しかったと観ているのだ。
    「青木貞治」が「家康との仲介の役」を執ったと観ている。
    そして「情報獲得の面」でも、何と云っても「籠城戦」から「野戦に変更した事」を「短時間」の間にこの極秘の「内部の情報」を掴んでいるのだ。
    つまり、何と云っても尾行中の「浜松城」から「館山街道の湖東町交差点」の「短い間」でこの「内部事情」を掴んでいるのだ。
    そして、「理由・目的」は兎も角も「東の三方ヶ原」に踵を変えさしたのだ。
    この直前で、「二俣城開城」で「城の兵・1280」は「浜松城」に帰されている。
    この事、二俣城を護れ通せなかったとする苦しい立場の中で”「ある決断」”をしたのだ。
    「東の三方ヶ原」に踵を変えた理由には、「伊勢側の資料」では「様子見」であったとしているが、つまり、この「決断の実行」には、この「青木貞治」と情報提供時に「何かの交渉・接触・密かに救出策」があったのではないかと観ている。
    「救出策」は「南下国衆の銃隊の指揮官」からであったろう。
    この後、「情報提供の後の三方ヶ原」で「南下国衆の銃隊の指揮官」とその一族」であった「駿河青木氏・伊勢との血縁もある」の「青木貞治」が、共に「戦死している事・戦記では覚悟としている」を考え合わせると、「青木貞治」は「松平軍の情報」を詳細に示唆した。
    そこで、その情報を聞いて「南下国衆」は、「救出後」に始めから「伊川津に戻る事」を計画し示していた事が予想できる。
    この「救出劇」は、「青木貞治隊の配置」の位置に左右されるが、「青木貞治の隊」はどの位置に配置されていたかは正確に描いたものはないが、「駿河国衆青木氏・四騎200」であるので、記録からは右か左かは不明だが「鶴翼部に居た事」は充分に予想できる。
    でなければ救い出せなかった筈である。
    先ず右であれば弾幕で牽制して「武田軍の進軍」を一時阻止し、その間に左に急いで廻る事に成るだろう。
    根拠は無いが「時間的な状況証拠・時間的余裕は無い」から幸い「左鶴翼」に居たと推測する。
    そこに突然に予想外に「山県軍の別動隊」が右前方から突撃して来た事で「時間的余裕」が無かった筈だ。
    この貞治隊の「少し東の付け根の左の位置」に隠れる様に「銃隊が位置していた事」から観て、資料の記述の通り”「様子見」”ではあった事も判るが、これを「補完し助ける意味」でも、”情報を得ていた事”からこの隊の少し「東の付け根の位置」に隠れる様にしていたのではないかと観ているのだ。
    そもそも資料行の記述に付いて、”何の為の様子見”であるかが判らない。
    普通なら救出の為のタイミングを計っていた事の”タイミングの様子見”であろうが、上記した様にタイムラグからしてこの”様子見”は山県軍の別動隊の突撃で無かったと考えられる。
    この”様子見”は、「武田軍と松平軍の勝敗」の事を意味した記述とも受け取れるが、既にこの勝敗は「軍議の争い」が原因して、「青木貞治の救出」と云う最終目的に代わっていた事から、「無関係の立場」に成っていたのであるので無かったと観られる。
    そこで“一族である”のなら放置する事は先ず100%無く何よりも優先して救出はする。
    この”様子見”は、いざと云う時には、額田南下国衆も生死を掛けて「武田軍の本隊」に対して「銃射撃の弾幕」で助け出す事を目論んでいたと観る。その一点の見極めと捉える事が出来る。
    結果は、「左翼面に居た青木貞治隊」を「東の付け根の左位置」から「左斜め」に向かって「銃の連続弾幕」を張っての煙幕の中から救い出した事に成る。
    この時、同時に「前方右鶴翼側面のやや斜右方向から「山県軍の別動隊」が突然突撃して来たのだ。
    そして、左方向と右方向の左右に弾幕を張る難しい結果と成ったのだ。
    現実にはこの方向の流れに動いた。
    然し、其処までは良かった。
    「山県軍の別動隊が突撃して来たという事」で「銃隊自らも危機」と成り、応戦して撃退したが、この同じ位置関係の混乱の中で「駿河の青木貞治」も「伊勢の青木・・の指揮官」も共に戦死したのだ。
    故に、その”様子見”と云う語句には可成り混乱していた可能性がを暗示したものであったのであろう。
    この論には、唯、共に結果として”偶然の様に両指揮官が戦死する”と云う「最悪の事態」が起こったが、これが筆者には疑問を持つのだ。

    其れを先ずは論じる。
    これには筆者は「狙撃説」を採っている。
    それも「救出直後の一瞬の狙撃」であったと観ていて、当然にこの救出時の一瞬の状況証拠から「松平軍からの狙撃」である事は判る。
    その狙撃の原因説は「戦闘前夜の軍議」にあったと観ているのだ。
    「吉田城守備隊」から急遽、「浜松城」に呼び出され「軍議」に参加してこの下された「軍議の命令」を拒否した。
    その結果で、そして「城外」に放り出され「城」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の偵察」と云う意味の無い命令を受けたのだ。
    所謂、条件をを付けられた「特異な国衆」であった事に依って「打撃」とはならず、そこで「武田軍」と激突させての決死隊の命令であったが、あわよくば「打撃をと図った事の命令」であったが「銃隊」は結果は勝ったのだ。
    結果として、最早、「松平軍」にはここまでとして「自由」」に成ったのだ。
    だから、上記の様に「青木貞治隊」を自由に救出できたのだ。
    故に,「密命」を帯びた隠れていた「狙撃兵」に「二人」は一瞬の隙間の間隙を使われ狙撃されたのだろう。
    「銃隊」はこの混乱で其の後は、「次の差配頭・伊勢秀郷流青木氏の者」が「指揮を執っていたという事」に成っているが、故にこれが「伊勢の資料」では「一族の二人の戦死」が重複するような「不詳の内容の原因」と成っているのだと観られる。

    恐らくはこの「筆者の読み違い」は、歌や俳句の様に「文面の表側より内側」に秘めるものを察すると云う「当時の言葉の使い分け慣習」があって、それでそれを会得していない筆者には読み切れなかったのであろう。
    「駿河の青木貞治の一門の隊」は、後に、上記した「堺からの逃亡・伊賀越え事件」で「戦功・勲功」を揚げている事から観て、「青木貞治」を除くの「一族全員」が救出に依って生き残ったと観られる。
    「山県軍の別動隊」が突撃して来て「銃」で応戦したが、この時、「銃隊の一部」が「駿河の青木貞治の一門の隊」を護る為に、「武田軍の本隊」の先端に「銃弾」を浴びせて「事前の打ち合わせの計画」として「開戦」より相当に早期に「200兵の全部」を救い出したのではと考えられる。
    山県軍の突然の突撃して開戦と成ったが、「救出」が全部とすると「開戦と同時であった事」が云える。
    相当に慌てた事になったろうが、「青木貞治隊」は東に逸れて天竜川沿いに「盤田見附の西光寺・菩提寺」に目がけて走ったのだ。
    故に、「伊川津の西光寺・現存」より「54k・船1日」の「真東の盤田見附」に「菩提寺・西光寺」が今も遺しているのだし、唯この時、“見捨てて逃げる”だけでは、それ以後も「一族関係」が保たれている訳はないが保たれていたのだ。
    当然に、これは「副将青木貞治の子孫」に於いても云えるものである。
    そして、「示唆の通り」に「予定通り」に「戦線離脱」して「伊川津に戻ったと云う事」に成る。
    この時の状況には、確認しておく必要がある事がある。
    それは、直接、「二俣城の副将・青木貞治」であって「二俣城開城後」に「浜松城に戻っている事」の史実からすると、この「大きな犠牲の敗戦要素」と成った「山県軍の別動隊の事」に付いては、既に「二俣城」で「青木貞治」は山県と面識している事に成り承知していて、この事から“何れの日にか「武田軍の本隊」に合流する”と見抜いていた事にも成る。
    そして、直に「詳細な内部情報」を掴める「作戦会議」には「副将」であるので参加していた筈である。
    問題は、未だ「山県軍」が「三方ヶ原」に“何時来るのか”の「時間の問題」は判らなかったのであろうし、「参戦するかの事」も判らなかったであろう。
    それは「別動隊の使命」として「補給路の確保」があったからで、「戦う」と云うよりは「二俣城の戦場処理・戦後処理・補給体制」に重点を置かれていた筈で、「武田軍の本隊」だけでも戦っても“松平軍は負ける”と「副将青木貞治」は観ていた可能性は充分にある。
    但し、この前提は先ず「籠城戦である事」だった。
    つまり、"戦いに参戦しない"と云う固定概念が有った筈である。
    そこで、「別動隊の使命」として、「三方ヶ原に補給拠点を構築する事」の為に何時かは早い内に来るだろうと観ていたのだ。
    ところが「二俣城開城後」は開城であって落城で無い以上、周囲の勢力は未だ抑えきれていなかったのだ。
    これに大分時間が掛かったのだ。
    そこで、「松平軍の夜通しの作戦会議」では、「青木貞治」は良く知る「山県軍の別動隊の行動」を詳細に論じた可能性がある。
    それを聞いた「家康」は、この「補給拠点を破壊・確保」の為に「籠城作戦」を急遽、変える決心を密かに決めたと云う事であろう。
    従って、「一言坂」で野戦し敗戦して「家臣の犠牲」のもとでやっとの体で「浜松城」に逃げ帰ったと云う経験がありながらも、「堀江城の落城」を聞いて「冷静さ」を無くし、これの「経験」を生かさずに再び異常にも「野戦」に変えたとする定説には一類の疑問を感じるのだ。
    そもそも、「家康」が「心の内で密かに決めたと云う事」がそもそも周囲から判る事は無く、「冷静さを無くした」も同然で定説に導く様に判断されたのであろう。
    故に、この「作戦変更」で、「三河戦記」にも記されている様に「二俣城の開城の敗戦の責任」を執る為に死を覚悟したとする定説に導いたのであろう。
    そもそも、この「戦記の定説」が、これも「青木貞治の個人の心の中」をどうして判ったのかであり、信用できない。
    では、最も責任を取らなければならない人物が居たのだ。

    その時の「二俣城」の「譜代家臣の主将・中根正照」ともう一人の「副将の松平康安」はどうしたかであるが、三河戦記の中に戦死者としてこの二人は含まれていないのだ。
    故に“副将の青木貞治だけが死を覚悟したとする定説”は疑問で、もつと責任を執るべき二人はこの様に居たのだ。
    では、そこで「軍議の中」で“青木氏貞治に何が起こったのか”である。
    戦記でこれだけの事を定説として記されている以上は、何も無かったと云う事には成らない筈である。
    「戦記に残す右筆衆」が「戦場の全体を見下ろせる安全な所」から観ていた筈だし、且つ、戦後、「三方ヶ原の生き残り者」に聴取して正確な資料を纏めていた筈で、これを当時の「戦国の仕来り」では家康に「論功考証の為」にこの「右筆衆」は報告をしている事に成っているのだ。
    この「右筆衆の原石」はこの様には書いていなかった筈である。
    筆者は、「詳細経緯」として、確かに当初は「責任を採った事」は有り得る事で間違は無いと観ていたが、ところが「史実と時系列」を良く調べると、その「責任の取った理由」、将又、「採り方」に問題があったと観ているのだ。
    上記した様に、「青木貞治」は「額田青木氏」に「一族の者・200の救出」を「内部の情報提供」の時に依頼したが、そしてこの救出の際に弾幕を張って救い出した。
    然し、当初は、騎馬上から「混乱の中」で敵の目を自分に引き付けたと筆者は戦記が匂わしている様に観ていたのだ。
    敵の目を引き付けるに付値する「青木貞治」は「有名な将であった事」は否めず、「武田軍の本隊」も「二俣城」で承知していて、そこで筆者は、敢えて突然に敵前に向かい、この間に「武田軍の本隊」が近づけない様にし「南下国衆の銃隊の弾幕の誘導」で救出したのであろうと考えていた。
    然し、この考えは詳細経緯と時系列を良く考察すると不自然だ。
    そもそも、「6000の騎馬隊全体」を一人に引き付ける事はそもそも不可能であり、これは江戸期の明らかに美化の為のストリー化である。
    要するに明らかに「物語風戦記」ではある。
    この説であると、既に騎馬隊は突撃している事に成り、味方の山県軍と交差する事に成りあり得ず「銃隊の存在」のみならず「無傷の救出もあり得ない事」に成るし、更には「銃隊の弾幕も無かった事」に成り得る。
    そもそも、「南下国衆の銃隊の銃撃や戦線離脱の経緯」の全体も無くなるし「伊勢資料も無い事」に成る。
    この「物語風戦記の行」を使う事には問題が生まれて来たのだ。
    何故ならば、「青木貞治」もこの弾幕の中に包み込めば救出は容易であった筈である。
    ところが然し、筆者は「向後の憂い」を無くしこの事で「弾幕の中に入る事」はしなかったのだと思い込んで仕舞ったのだ。
    それを詳細な時系列は留めたのだ。

    つまり、何を云わんとしているかと云うと、「松平軍の軍議」に於いて相当に「二俣城の無戦開城の責・水攻め」を「三河旗本衆」に問われたのではないか云う事だ。
    「全員戦死の覚悟」で「二俣城」でも「時間稼ぎ」を求められていたが、「譜代家臣の主将の中根」の責を問うのでは無く、「旗本」ではない「副将の青木貞治」に非難が集中したのではないかと予想しているのだ。
    その前に最も責を負う人物が居たと云う事だ。
    それは「松平康安・18歳初陣」である。
    この人物は「大草松平氏の出自」で「曾祖父」は「家康に反抗した者の裔」であり、副将級の「軍目付・軍監」として「二俣城」に派遣されていたのであった。
    その前に、この「二俣城」は、そもそも元は「今川氏の輩下の松井氏の居城」で、この領土の盤田見附の土地に「縁・前段」あって、「青木貞治」は「遠州国衆・経緯下記」としてこの臣下と成った経緯を持っていたのだ。
    恐らくは、「旗本との間」でこの「関係」に「糸を引いていた事」と考えられる。
    然し、この事に就いて「右筆衆等」が、「何かの形・郷土史や手紙や寺や一門記録」で残しているかと観て調べたが遺されている資料は無かった。
    「無いと云う事」に就いて、これは後に「家康の用人」として「青木貞治の子孫・長三郎」が重用されている立場として、“江戸期に成って「幕府の権威」を下げる様な「史実」を世に遺すのは好ましくない”として消し去った可能性が高いのだ。
    それは、実はこの事に及ばず殆どの事に付いての「秀郷流青木氏の資料」が、その研究にも具する程のものが遺されていないのが現状で、その「残念な理由」の一つとしても此処にあるのだ。
    その「残念な理由」とは、「秀吉天下の対応」で「徳川家康」は「武蔵転封・1590年」と成ったが、この際、土地の大郷士集団であった「秀郷流一族一門・316氏」を味方に着ける為に、「一族一門の者の一切を家臣・官僚族・旗本家人衆」に抱え込んで味方に着けた。
    そして、自らも「藤原の朝臣」とし「氏名」を名乗る程に扱ったのだ。
    其れも、「平安時代の習い」に従い、「徳川氏の御家人・天皇家の家人扱いと同じ格式」として扱い「特別な格式・家人扱い」を与えて「旗本」とは別に幕府で「事務官僚・本領安堵」として重用した経緯を持っているのだ。
    当然に「格式の無い旗本・近習衆」は猛烈な反発をしたのだが、それ故に、「幕府の権威を下げる資料」などの保存は悉く抹祥されたのだ。
    これが所以の一つなのである。
    ここに至る「詳細経緯の始点」も“「駿河青木氏の貞治」”に始まっているのだ。
    上記の後の事を
    を考察すると、故に責は「松平康安」にあったが、「青木貞治に押し付けたと云う経緯」があった事で、この史実の経緯を抹殺しようとしたと考えられるのだ。
    その為には、「青木貞治を救出される事」は逆に「旗本に執っては拙い事」であったのだ。
    それで狙撃して戦死と見せかけようとしたのだ。

    次の疑問として更に論じてみる。
    そこで、この行の“「一族一門の者の一切を家臣・官僚族」に抱え込んで味方に着けた イ”に付いての疑問があるのだ。
    それは、“「徳川氏」が何も無しでこの「状況イ」を作り込んだか”である。
    それは無理でありこの「氏家制度」の中ではこれはあり得ない事で、「藤原秀郷流一門の者」が勝手に個々に「家臣に成る等の事」は一切出来ず、もし、それをすれば一族一門から排他され滅ぼされる始末の世の中であった。
    要するに「互いの結束」に依って「吾身」を護っていたのが「氏家制度」であるのだ。
    当然に、この制度に於いては今論じている「額田青木氏等」と「伊勢」を始めとして「全青木氏族」も同然であった。
    故に、「武蔵入間の総家」との「繋」が無ければ成り立たない「時代事」であったのだ。
    とすると「繋」が必要であった筈である。
    筆者は、この「徳川氏の繋ぎの役目」を果たした、又は出来た唯一人の人物は「青木貞治の子の長三郎」であったと観ているのだ。
    其れは青木氏貞治の裔のその後の事に関わるのだ。
    この「貞治の子の長三郎」は、その後、「家康の御側衆・上級側衆・最終は上級番方に成る・3500石・1400貫・国衆から旗本」に破格の出世をしていたのだ。
    「状況イ」を作り込んだ人物”としては何せ役柄と云う点からもピッタリである。
    そもそも、この歴史上に遺るこの人物は、「本能寺の変頃の伊賀越え」で大功績を掲げ「家康の命を救った人物」であるのだ。
    それらの事から「江戸期初期」の「長三郎の役目柄とその子孫」もその様な立場にいて、「最終」は「名誉格式を持つ上級番方頭・家人旗本」に成っているのだ。
    その彼が、"宗家と紐付けた"と考えているのだ。
    「本論の詳細経緯」の特筆するはここにあり先ず間違いは無いだろう。
    後勘から観ると、更にはこれが「伊勢青木氏等の青木氏族」に執っても「生き方」を「良い方向」に向けた「所以の起点」とも成ったのである。
    唯、その「起点」を作った「初代・青木貞治」には「波乱万丈の人生」であったと云える。
    何事もこの世は初代は、波風の人生を送るは世の常庸であった事は理解できる。
    この「波風の人生」を物語る徳川氏の出現は、「長篠後」に奪還したこの「二俣城」を彼の「青木氏」が苦しめられた「最大旗本の大久保忠世」に任しているのだ。
    これを観てもこの「東三河の人物の旗本衆」には、「駿河青木氏」のみならず「伊川津の額田青木氏」に於いても「同じ仕打ち」を受け続けた事が判るのだ。

    それだけに「松平氏・1563年改姓の徳川家康・上野国土豪得川」の先祖から「徳川」と解明したが、注・これを長篠後に大いに使うが、この様にこの「松平氏・徳川氏」に執っては、「二俣城の敗戦」は厳しく「戦略上の重要拠点」であったのだし、その旗本の「不満の矛先」を「軍議」の中で表したのだ。
    それが、「主将中根」や「軍監の松平康安」に向けられずに理不尽にも国衆の身分の「青木貞治に向けた」と考えられるのだ。
    然し、「所以の起点 イ」を造り出した以上、つまり、後の「江戸期」では、この「御家人と旗本と御側用人と上級番方頭・家人衆旗本」と「格式のある家筋の立場・秀郷流青木氏」に成った以上は、「旗本の不満の矛先」を向け難く成ったと考えられる。
    然し、前段でも何度も論じたが、それでも「大久保・本多氏の旗本」からは江戸中期までは伊勢や信濃の青木氏にも未だ執拗に受け続けたのだ。
    そもそも、「吉宗」を裏で将軍に「仕立て・親代わり」仕立て、共に「江戸向行」し、「享保の経済改革」を市中で実行した「伊勢青木氏・伊勢屋」でさえ、矢張り、「不満の矛先」は向けられたのだ。
    「伊勢」に限らず「信濃青木氏」にも同然に酷い仕打ち「本領の割譲」を受ける結果と成ったのだ。
    流石に「信濃も受ける羽目」と成り、「晩年の吉宗」も遂にはこの「不満の矛先」に加わりこれを止める事さえも出来せず、結局は「青木族」は裏切られ、江戸で「危険が生じる事態」と成り、急いで「伊勢に戻る羽目」と成ったのだ。
    然し、其れだけではこの「不満の矛先」は依然として治まらず、「奈良期の天智天皇」より「伊勢の永代不入不倫の権」と「伊勢の事お構い無しの家康のお定め書」をも無視され、結局は「青木氏族・伊勢屋と伊勢シンジケート」と関西を仕切る「伊勢の山田奉行所・吉宗も同調・史実記録」との間でも有史来の「戦い寸前・ゲリラ戦・関東秀郷流青木氏が動き見せる」までに及んだのだ。
    「三河旗本の嫉妬怨嗟」は、此処までも続く事象は斯くの如しであって、「軍議」の「青木貞治」にも向け背れていた事は後勘から観ても充分に考えられ先ず間違いは無い。

    結局は、追記するが上記の「伊勢の件」は記録の通り「紀州藩・伊勢の青木氏一族が全家臣」が強力に介入し、間に入り「治まり」を着けたが、今度は、この「紀州藩」に「謀反の嫌疑」が架けられたが耐え偲んだのだ。
    「格の如し」で「青木貞治」だけに及ばず「青木氏族全体」に「不満の矛先」は向けられ先鋭化していたのだ。
    世の中で殆ど消えて行く中で今未だ比較にならない程の「格式力と財力と抑止力」を持ち正統に活き、それを背景に「政治」も裏で動かす「唯一の氏族」には「姓族の姓社会」では我慢が成らなかったのだと考えられる。
    この「嫉妬・怨嗟」は、「人間社会」では人間である限りに於いて変わらないし否定はしないし、無くなる事は無いのだ。
    「青木氏族自身」もそれを特段に取り立てたものとして考えていなかったのだ。
    「青木氏の氏是」や「家訓10訓」を観れば、それが良く判り「普通の人間が生きる範囲」であったのだ。
    故に、「青木氏族以上」には「過去」を周囲が意識を高めた行為であったのだ。
    取り分け、「一向宗を概念とするこの三河族」に対しては青木氏族はその教義をやや高めたと云う事であろう。

    さて、話を戻してそこで、更に詳細経緯を論じる。
    この「苦しい環境の中」で、「青木貞治」は次の手を打ったという事だ。
    この時に上記した様に「堀江」に向かい始めた「武田軍の本隊」を「額田の南下国衆の銃隊」は追尾していたが、そこで急いで「南下国衆の銃隊」に「情報提供した」と考えられる。
    然し、この時の詳細経緯として「青木貞治」は、何故、自由の身と成った“南下国衆の銃隊が武田軍の本隊を追尾していた事を知っていたか”に掛かる。
    それは“「何かの連絡網」”が「青木貞治との間」に構築されていた事に成るからだ。
    云わずも乍らそれが、「伊勢」から派遣されていた「南下国衆の銃隊」に影に成りながら帯同していた「伊賀青木氏の忍者衆・香具師・隠密商人」にあったと観ているのだ。
    つまり、「青木貞治隊」と「連絡」を取れる様に「伊賀青木氏の忍者衆・香具師」が隊の中に隠れて入っていたのだと云う事だ。
    筆者は、寧ろ、「二俣城開城後」に「青木貞治隊200」に「兵」として「「伊賀青木氏の忍者衆・香具師の援軍」を送っていた事が考えられるが、この事は「定石として打つべき策」であって先ず間違いは無いだろう。
    其れは次の事で証明できる。
    「浜松城に呼び出された時」の「記録」では、「訓練」を受けたのは「額田青木氏の南下国衆の銃隊300」であったが、突然に「記録」は「南下国衆銃隊350」と替わっていて、「荷駄隊50」が加わっていて、これは「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷一門」の「合流隊」と前段で説いたが、この事は当然に「青木貞治隊」にも云え、且つ、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」と「伊勢からの援軍・伊賀青木氏の香具師」の「援軍」が加わったのではないかと「必然的な流れ」から「当然の事」として考えられるのだ。
    とすると、その時期であるが、「伊勢からの援軍」は、時系列から可能な時期は、矢張り“「浜松城に呼び出された時」”であろう。
    従って、時系列から「二俣城が開城した後の事」に成る。
    又、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」の場合は、時系列から当初から兵の数を整えて「副将」として入った「二俣城の時期」と成るだろう。

    そもそも、その前に論じる事があるが、それは“何故副将と成り得たか”と云う事である。
    その「副将」とする為には、「当時の慣習」から「青木貞治の兵数」を先ず増やし、それを「武蔵の秀郷流一門からの援軍」を求めた可能性がある。
    寧ろ、求めたと云うよりは援軍は必然であったと考えられる。
    何故ならば、因みにこの検証として、「駿河青木氏」の「今川氏の時代の国衆の知行」は次の様であったらしい。
    検証して観ると、「江戸期」での記録を観ると、上記した様に基準は「3500石で家臣数200で1400貫」と記されている。
    ところが、これに比較して「室町期」の国衆時の当時の「圷の野」であった「盤田域の庄面積」は、次の様であった。
    約1800反程度弱≒1800石程度≒6000平方坪程度以下と成る。
    そうすると当時は、1貫≒2.5石 7貫≒1兵 1反≒1石≒300坪≒1人の原則があった。
    1家を5人として360家、この内の「農民等の家」は記録から8割として288、残りが武士の172家であり、「戦いに参加出来る者」が「最低家1人」とすると、「ave(172)≒約170人程度」と成る。
    この「最低の基準」の「ave(172)≒約170人程度」に達しない場合は、農民の次男三男が「農兵・荷駄兵」として事前に金を渡され駆り出される仕組みであった。
    記録では、その様な専門のバイヤーが居たと記されている。
    そうすると「戦線に義務付けられた基準」は先ず「720貫 兵102人:1800石」と成る。
    つまり、兵としての「兵数」が「約68人程度」が増えていた事に成る。
    然し、これでは「副将」とは成り得ないのだ。
    つまり、この差が「援軍・68+X」であった事に成るのだ。
    当時は、「1将に対して4騎」が着き、「1騎が50兵と云う基準」があったので、「200の兵」で「将」と扱われ、「軍議に参加できる基準」であったし、故にこれを整えれば”「副将扱い」”に成ったのだ。
    これ、即ち「援軍」であった事を示し、それを「秀郷流青木氏・第二の宗家」が中心と成って「援軍を送る事」で「松平氏の中」で「副将扱い」に成る様に「秀郷流青木氏一門」は計らった事に成る。
    故に「X=28」と成り、「合計98人以上」を「援軍」として送る必要が出て来たのだ。
    敢えて、少なくとも「約100兵程度を援軍」として送り「発言力を着けさせた事」が判る。
    これを当に「数字」が物語っているのだ。
    故に、本来なら軍議に参加できる「額田青木氏の南下国衆の銃隊300+荷駄50」が外に放り出された以上、は、残った「青木貞治隊」は「軍議の情報」を城外の額田青木氏の銃隊に流し、これらの「援軍」と共に「救出」を依頼したのである。
    本来は残る必要が無く「軍議の命」を拒否した以上は国衆を辞める目的で其の侭に「伊川津」に戻ればよかった筈である。
    それを留めたのが、「情報」と共にもたらされた「一族の救出依頼」であったのだ。
    「額田青木氏・指揮官伊勢秀郷流青木氏」としては、「情報の救出依頼」があったとしても必然的にも「両者の援軍」を救出する事は、「四掟」に基づいた「嫁家制度と嫁家先制度」であった以上は「一族として義務」も負っていた事に成り得る。
    救出する以上はそれには絶対的に「戦術的な内部情報」が必要であって無暗には手は出せなかったのだ。
    それが「義務であった」としても下手をすると「銃隊に大変な犠牲を負う事」に成り得る。
    故に、これ等の「確実な詳細の内部情報」を獲得する等の事を成すにはそれには少なくとも”「副将格」である事”が必要であったのだ。
    「詳細経緯」としては、この義務を果たす為にもこの「銃隊の指揮官」も「青木貞治」と共に、これでも“相当に際どい戦いと成った事”が判り、故に「両方の指揮官」が「戦死したと云う事・狙撃」にも繋がったのでもあろう。

    前段で“「堀江」に「本陣」を置いて「二極化拠点」として構築していた可能性もある”と、説いたが、戦略的に考えて「追尾行動」をしていたこの「南下国衆の銃隊」に対して、故に、「青木貞治」は、“これは危険”と観て得た「軍議の内部情報」をも提供出来ていたのだ。
    そもそも、「負けると判っていた戦い」に「一族の者を援軍として送る事」は先ず無いだろうし、この「援軍」は「戦うと云う勢力」よりも「将にする事」に依って「内部情報の獲得の手段」を「主目的としていた事」と云えるのだ。
    其れならば、「籠城戦」から「野戦」と成り得た前提は異なるので、「籠城戦」から参戦し「野戦」と成った以上は「青木氏族」には後は救出しかなかったのだし、つまり又もや「計算」が狂ったと云う事に成る。
    それには、両者ともに安全で「無事に救い出す事」を成し得るには最後は「額田青木氏の南下国衆の銃隊の銃力に頼る」と云う事以外に無くその「流れ」は成り得たのだ。
    其処に、「山県軍の別動隊」に対しては良しとしても、結局は3h〜4h経てば「武田軍の本隊」が「山県軍の救出に来る事」は必然で、「青木貞治隊も南下国衆の銃隊」に執っては「愚策の鶴翼の陣形」とも成ればこんな危険な事は先ず無かっただろう。
    「伊勢の勢力」も「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「援軍の秀郷流一族一門」も「青木貞治隊」も全体が慌てたであろう。
    そもそも、この事は「開戦」と同時に「問答無用に救出の必要性が迫っていた事」に成り、故に「南下国衆の銃隊」も救出後には、即座に「初期の目的通り」に「戦場離脱に迫られていた事」にも成るのだ。
    何故ならば、「補給拠点での野戦・三方ヶ原」と成れば「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊」を救う為に「堀江城」を出て「三方ヶ原」に向かうと当然に観たのだ。
    そうなれば、救出の為に動いていた「額田青木氏の銃隊」は、「三方ヶ原」で「山県軍の別動隊」との「挟み撃ち」に成る可能性が出て来て、「300の銃隊」と云えども、再び「一言坂の遭遇戦」を再び呼び起こす結果と成り“「危険」”に陥ったのであった。
    この時、ここで上記した様に「安全策」の一つとして「西の伊川津に戻る策」もあったが、そもそも「一族を放置する事」が掟上も出来ず、一族の「駿河国衆の青木貞治の隊」を「何とか護り救出する為」にも、且つその為の「様子見の為」にも湖東村の交差点で休息後、急いで「三方ヶ原」に向かったのだ。
    ここに「青木氏の記録」に記されている語句の「様子見の意味」」があったのだ。
    そもそも、そうなれば「急いだ事」は、物見によって“救出に適した位置取り”の点にあった事と成ったと観られる。
    その「位置取り」は唯一つであった事に成る。
    それは直ぐに「伊川津に戻る事」が出来、且つ「三方ヶ原に向かう事」が出来て、「安全」で「様子見」が出来て、「休息」が出来て、「三方ヶ原に徒士3h」の域で、最短での「青木貞治隊とも連絡が取れる事」が出来る「適切な位置」と成り得る地域と限定される。
    それが「湖東町の館山街道の交差点付近」と成り得るのだ。
    ここで余裕のある時間で先ず休息したと観られる。
    そして、「三方ヶ原」では「松平軍の陣形」にも「武田軍の本隊」にも目立たなく、且つ引き上げに容易な位置取りが必要であったのだ。
    其処が要するに"様子見の位置"だと観られ、全体的な意味合いを表現していたのだ。
    然し、そこで前段でも論じたが「事態」は急変したのだ。
    予想通り、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、「武田軍の本隊」でも充分に戦えるとして「山県軍の別動隊」が、「補給拠点築造の使命」で北の山際に待機すると観られたし観ていたが、ところが強引にも合流せずに開戦と同時にこの「挟み撃ちの作戦」の様な「位置取り」と成って突如巻き込まれたのだ。
    そこでその前にこの「位置取りに関わる判断要素」として次の様な物がある。
    因みにそもそも、主に「戦い方」には、中国由来の「八陣形」と呼ばれる陣形が平安期からあってそれは次の通りである。
    「魚鱗、鶴翼、雁行」の三形
    「彎月(偃月)、鋒矢」の二形
    「衡軛、長蛇、方円 」の三形
    他には「決死隊の長滝等」の一形
    以上の「九形」があったが、一般に「陣形八法」と呼ばれていた。
    取り分け「武田軍」には「赤兜の騎馬隊・本隊用」を持っていたので、これをそれぞれの陣形に合わして配置して特徴を出して独自に陣形を強めたのだ。
    故に”武田軍は強い”と云う評判が付いていたのだ。
    ところが「赤兜の騎馬隊」を持たない「山県軍の別動隊」は、それが逆に「戦力の弱い補給基地築造隊」も含んでいた事」から、これが上手く行けば「戦力の弱い補給基地築造隊」を戦わす事なく護れると考えたと観られる。
    それは、「鶴翼に強い長蛇の陣形」であったからだ。
    そこで、これを「背後」に廻して、又は、廻った事で一列に並んだ戦記通りの「長蛇陣形」の「鶴翼突破型の全軍側面突撃」を取らした結果、又は「山県が採った結果」と成って故に「突撃の形」が自然と出来ていたのだ。
    ところが、突撃開始直前には作戦通りに「長蛇陣形」で良かったが、突撃すると前段でも論じた様に「思い掛けない事」がここで起こりこの陣形が違って仕舞ったのだ。
    弱点と成って仕舞ったのだ。
    何と強力な「銃弾」がとぎれる事無く、其れも先頭から後尾までに一斉に遠方左から命中率良く浴びせられたのだ。
    寧ろ、これに依って逆に「長蛇の陣形」が「全滅に近い痣」を成した形と成ったのだ。
    一度、経験している「銃隊の存在」を強く意識していれば、「鋒矢の陣形」で「補給基地築造隊」を包み込む様にして「敵中突破の突撃」を仕掛ければ犠牲は少なかった筈であったし、救出していた「南下国衆の銃隊」には逆の事に成り得ていたのだ。
    つまり、ここでもこれでも「銃隊の存在を読み違えた事・下記」が判るのだ。
    「三方ヶ原の補給拠点」を、急遽、「野戦」に出て「松平軍に確保された事」で、この情報を得た「堀江」に居た「武田軍の本隊」が、「三方ヶ原の奪還」と「山県軍の救出」を目指して東に向かい、この「山県軍の別動隊」も遅れて何とか到着したのだが、「異変」は起こった。
    この事で、「三方ヶ原の補給基地」を築造後はここの「守備隊」として「山県軍の別動隊の使命」として着く予定であった事は「当然の事」としてこれで判る。
    戦略上では、「先に守備隊として確保したものを奪う戦い・奪還作戦」は難しいのは何時の世も「戦略の常道の知識」である。
    故に、「家康」は、突然に「籠城」から秘密裏に「野戦」に変更し先に位置確保しようとしたのだ。
    それには「家康の考え」は取り敢えずは成功したかに見えた。
    「別動隊の使命」に基づき「補給拠点構築隊」も引き連れていた「山県軍の別動隊」は、「本隊」に合流せずに、或いは出来ずに、そもそも荷駄などで動きの悪い「援護守備兵であった事」で遅れた事もあって、「鶴翼の右側面の山際」に開戦ぎりぎりで陣取った事に成ったのだ。
    この「拠点の三方ヶ原」を「先に奪取された事」で「山県軍の別動隊」の「使命の達成」が出来なく成って仕舞ったのだ。
    そこで本来であれば「武田軍の本隊と松平軍との戦い」に成ると計算されていたが、「遅れた事の道中」で「山県軍の別動隊・目的が違う」は「北の山際」まで突撃をするかどうかを考えていたのではないか。
    ところが、到着して観れば、「二つの事の異変」に気づいたのだ。
    一つは、「弱小の松平軍」が何と「予想の戦術・魚鱗の陣形」では無く「鶴翼の陣形」を採っていた事である。
    二つは、「西向きに陣形」を向けていた事である。
    本来であるなら「三方ヶ原の平坦地」の中にある「浜松城を背景に陣形を北向きに採る」のが常道である。
    西から来る「武田軍の本隊」と東から来る「山県軍の別動隊」が合流して「北を背景に陣形」を組むのが常道であった。
    この「陣形の向き」であれば「武田軍本隊」も「松平軍隊」も何れも両軍に執って「有利な位置取り」である。
    つまり、ここで遅れて来た「山県軍の別動隊」に執ってだけに「不利な事」が起こったのだ。
    それは、「西向きの鶴翼であった事」に依り“武田軍の本隊と合流出来ない”と云う事が起こったのであった。
    「遅れた事」に依って「北側の山際」に“単独軍として離された形と成った事”であった。
    これが逆に「松平軍の狙」でもあったかも知れない。
    要するに「松平軍・家康の命令」はそれを狙っていた事にも成る。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して、そこで「予想していた事と違った事」の二つが起こって、それは「戦況」を観ているか、さもなくば「武田軍の本隊」より前に行動するかに迫られいたのだ。
    そこから「山県軍」はそもそも「別動隊」である以上は、状況に応じて「独自単独」に移り、今度は何と「松平軍」に執っては「予想外の行動」に出たのだ。
    “「援護守備兵」で「鶴翼の右側面」に「武田軍の本隊」よりも先に突撃して行った”のだ。
    何れも「虚を突いた形」と成ったのだ。
    「山県軍の別動隊」に執っては、「武田軍の本隊の態勢」に執ってこの状況は”これは「得策」では無い””として、先に、最早、「三方ヶ原」が先に奪われた以上は、“「使命達成」は当面は不可能”と判断したのだ。
    その「行動の判断」は、「同時」に「後の行動」に執っては、「武田軍の本隊の行動」を遮る事に成った。
    且つ、「敵が鶴翼陣形」であった以上は、「松平軍」にも著しい混乱を招く事にも成ったのだ。
    そして、「二俣城からの移動の行列」が、丁度、「長蛇の陣形」であった事から「鶴翼側面」を「後尾の補給基地築造兵」を護る為にも「一点集中の突撃突破」で攻撃に入ったのだ。
    これを観た「武田軍の本隊」もこれに引き続き「魚鱗の陣形」で「総崩れ」と成っている「鶴翼の松平軍」に向かって前進し最終は完全掃討し勝利したのだ。
    唯、この時の間、復もや「山県軍の別動隊と武田軍の本隊」とに「思い掛けない事」が「南側」で起こったのだ。
    それは、「南下国衆の銃隊の存在」であった。
    この「南下国衆の銃隊」は、「一言坂」とその後の「追尾」であったと承知していたが、まさかの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦いへの参戦」であったのだ。
    「武田軍の二軍」は最初はそう見ていただろう。
    恐らくは、そこで「牽制程度の事」はあるとは判っていて、“本格参戦は無いであろう”と見込んでいたのだ。
    それを示す「三つの証」として、そもそもその「破壊的威力の持ち主の銃隊」でありながらも、“攻撃をして来ない意思として、それが「一言坂からの追尾」”まで終わりと思い込んでいたのだろう。
    それは「松平軍としての堀江城への援軍攻撃」が無かった事の思い込みが左右したのだ。
    ところが、「三方ヶ原」に到着して観れば、「銃隊」に執っては、“攻撃の仕難い「鶴翼の位置取り」”とに成っていたのだ。
    要するに「武田軍の本隊」は前の一言坂や堀江城の関わり方の「戦い方」から観て、「南下国衆の銃隊」が少なくとも“攻撃的で積極的ではない”とその様に考えていた事に成る。
    この事から考えても、「銃隊」としては「鶴翼の付け根部に隠れる様に位置していた事」が判っているので、射撃すれば味方も撃つ事に成る「相当難しい位置取りにあった事」が考えられる。
    然し、「青木貞治隊の救出」の為にいたが、「山県軍の別動隊の思いもかけない突撃」で、止む無く「銃の攻撃」を仕掛けたのだ。
    何方にも、“思い掛けない予想外の一瞬の出来事が起こった”のだ。
    そして、「武田軍の本隊」に向かって「弾幕」を張って何か弾煙の先の中から「救出作戦を起こしている光景」が「信玄の目」に入ったし、先に突撃をした「山県軍の別動隊」の「山県の目」には累々と「戦死者の山の光景」が目に入って来たのだ。
    「信玄」に執ってはどうしようも無い「開戦の一瞬の出来事」であったであろう。
    つまり、それは「予想外の事」が「勝利の武田軍」にも、「敗戦の松平軍」の「両軍の目」に入ったのだ。
    「弾幕の煙」で一時戦場が観えない程に成ったと予想できる。
    開戦は午後の四時頃であったので「谷風・海風」が吹いていて、南から北に向かって谷筋に三方ヶ原の戦場に向かって吹いていた。
    なので、「弾煙」が消えては、又、「弾煙」が出来ると云う光景が起こっていて、その「武田軍の本隊の混乱中」の間に、この「救出劇」が起こって東に逃がしたと「詳細経緯」としては考えられるのだ。
    「山県軍の別動隊」に執っては射撃音以外に何処から弾が飛んでくるかは正確には判らなかった筈だし、「武士道」の通じない生死の「経験のない恐怖・銃弾」が先行して「逃げ隠れの出来ない処置無しの状態」であったと考えられる。
    故に、比較的に「救出」は容易に犠牲も無く成功したし、「北・戦場」に向かっても連射しながら「荷駄隊」と共に、無事に西に後退する「戦線離脱」も容易であったと観られるのだ。
    「近づく者」は居なかったと考えらる。
    恐らくは移動しながらの「空砲の煙幕」でも充分であったろうし、「一言坂の経験」の様に100%居なかったと考えられるが、執拗に近づけば実弾連射して撃滅戦を繰り返しながら「戦線離脱」したと考えられる。
    この「戦線離脱した南下国衆の銃隊」を「仮・現実には無理」に追撃したとしても「館山街道の例の交差点付近」までであろうし、此処からは「武田軍の本隊」としても戦略上踏み込めなかったと考えられる。
    史実は何れの戦記にも記されていない事から“追撃は無かった”のではあるが、ところがその前の「やるべき事」が「武田軍の本隊」にあったのだ。
    それは「戦場の掃討作戦」と「山県軍の別動隊の支援」にあった筈で、「補給基地の三方ヶ原築造を使命の別動隊である事」を前提にしながらも、「軍事行動」を起した事、且つ、「別動隊として浜松城を陥落させる使命がある事」も考えると、これを支援しなくてはならない「本隊としての役目」が「戦いの流れ」としてあった筈である。
    現実に、史実の詳細経緯は「脚色された三河側の多説」が多いが、「掃討作戦と別動隊支援している事」には間違いは無い。
    「救出後の武田軍の掃討作戦」も、「青木貞治一族」が隠れていたこの「西光寺」では、「武田軍の本隊の2度の印象」の中には、“銃隊の一部が未だ居るのでは”と連想し近づく事は出来なかったと考えられるし、命令なしに掃討が出来ない寺であった事は間違いは無い。
    何故ならば、そもそも「寝る子の東の秀郷流一門361氏」と、「第二の宗家の位置づけ」の「秀郷流青木氏116」を起こして仕舞う危険性があったのだ。
    「青木貞治隊」が「逃げ込んだ盤田見附の西光寺・平城館の大寺」が不思議に戦記上では掃討された事は記されていないのはこの事に依るだろう。
    そもそも逃げ込んでいるか否かは別として、「一言坂の此処」で一時停留しているので確実に「掃討の確認をすべき拠点」である事は知っているし、「青木貞治隊」に限らず位置的に観て「松平軍の残兵」が少なくとも一時的にもここに潜んでいる拠点である事には間違いは無い。
    この様な「一族の菩提寺の西光寺」から「青木貞治隊」が再び“城に入った”と云う記録は無い処を考えると、「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めた場合とか「掃討作戦」で「西光寺の方」が「平城館」の様にして「寺の周囲」を固めれば安全であると考えたのであろう。
    故に、「生き残れた一族の勢力」は、江戸期には「御側用人衆・上級番方」として出世して禄高を史実の通り1800石から3500石に倍増させて「駿河青木氏の子孫」は栄えたと成るのだ。)

    (注釈 「額田青木氏と駿河青木氏の生き遺り」
    さて、上記の詳細経緯に至る先に論じる。
    「三方ヶ原の戦い」に勝利した後、ここに当初の目的通りに「補給基地」を築造せずに堀江城と二俣城などの出城に「守備隊」を残し「甲斐」に全軍を引き上げている。
    2年後の「長篠の戦い」の際には、この二つの出城の「守備隊等」は松平軍に対して「善戦をした事」が何れの戦記にも記されている。
    つまり、そこで「周囲」がまだ「武田軍の守備隊」に囲まれているこの2年間の「西光寺の駿河青木氏の動向」が気に成る。
    この事に関する記録等を探ったが、唯一つ何かを物語る行が「伊勢」にあった。
    それは「伊勢水軍」であった。
    「出城に居たの「山国の武田軍・少数」には「水軍」を持っていないので、伊勢側は「渥美湾に船を廻す事」がある程度可能に成って、「駿河水軍」と連携して「伊豆」まで廻る「商い等の運搬に盛んに従事している「行」が「商記録」にもあって共にこの史実に付いては一致していのである。
    つまり、これは何を意味しているかである。
    「南下国衆の銃隊」が戦線離脱して「三方ヶ原」から「伊川津」に戻り、「陸運業」に逸早く転身した。
    そして「縦の陸路1と2」を構築して「信濃」に繋いだが、戦後、「三方ヶ原」より「武田軍」が予想外に甲斐に戻った事」と、「織田氏の西三河への伸長浸食」で「武田軍の脅威」は三河では低下して「渥美湾の制海権」は何とか獲得出来た。
    この時、この為に「松平軍」が「力・財源」を持つ事に警戒した「織田軍」は、「伊勢」で水軍を造ろうと懸命であって、その結果、遂に「熊野水軍の九鬼水軍」を味方に引き入れた。
    そして、「伊勢青木氏」が「7割株」を持つ「伊勢水軍の伊勢衆・50衆」に対し「楔・調略」を打ち込んできたのだ。
    「伊勢衆の掟」を破り「4組」がこの「織田の調略」に落ちたがこれを「伊勢青木氏」は「掟と財源・株」で食い止めた。
    然し、結局は「1組・現在も水運業として遺る」だけが調略に応じたのだ。
    そもそも、「伊勢衆」は「伊勢青木氏の女系の重複血縁の古来からの氏人」であった。
    最も尾張に近く縁の薄かった「東の知多一族」が落ちたのだ。
    然しながらも、当然にこれに伴って結果として「陸運業」と「海運業」は動ける様に成った。
    そうなると、「松平氏の敗戦」に依って「青木貞治の彼等の糧」は失う事は必然であった。
    そこで、「駿河水軍の裔の駿河秀郷流青木氏の一族」は、この「伊勢と伊川津の陸運業と海運業」にも関わる事」で一族を生き延びさせ、且つ、「武田軍の追及を逃れる事」も出来たのだ。
    「駿河水軍・1艘の廻船」を「伊勢・伊勢水軍と伊勢屋4艘」からの「海と陸の中継点」として「伊豆や武蔵」にも繋げる事が出来て糧を戻したのだ。
    この「2年間の彼等の糧」はここにあったのだ。
    これは「元駿河の国衆の強味」の所以でもあった。
    そもそも、「敗戦し弱った松平氏の家臣」の中に、「自らの水軍」を持ち「財を持つ御側衆」は他にはいなかったのだし、「東の大勢力の秀郷一門」を背景にした「家臣」はいなかったであろう。
    それが「松平氏・徳川氏」には「強み」と成ったのだ。
    松平氏の旗本の中では、”三方ヶ原、云々等”と云っている場合では最早無かったのだ。
    寧ろ、金銭的に助けられた事だってあっただろう位の位置に押しやられたのだ。
    この事で身分以上に力を持つ「旗本扱いの家臣・秀郷一門の関東家人衆」に対して、「三河旗本・近国衆」には叶わないとする「嫉妬怨嗟の渦の波」が「額田青木氏」と同じ様に押し寄せていた筈である。
    「三方ヶ原後の浜松城の松平氏」は、危険な隣の織田氏に近い「西三河」を残し、「北三河と東三河と遠州での糧」を失っていた。
    その「衰弱した松平氏」の中でも、この経済的に劣ない身分以上に「力を持つ家臣・関東家人衆の御側衆・青木貞治の裔」は誰一人居なかったであろう。
    ところがこれが三方原戦後に「伊勢勢力」を背景とした「額田青木氏」の「三河での商い」と共に「松平氏の強み」とも成って行ったのだ。
    敗戦被害を受けなかった「西三河の軍勢」には「2000人」を与えられていて無傷で残っていた。
    そこでこの時の「松平氏の力」を検証する。
    そうすると、「尾張」に隣接する「西三河」だけが遺っていたので、その三河は次の様に成る。
    「1貫≒2.5石 7貫≒1人家来」の「軍制の仕来り」から、最大で1万4千貫≒3万5千石となるが、「信長と秀吉」に依ってこの「弱み」を突かれて「国境沿いの西三河の浸食・三好域まで」が浸食された。
    これで「2万石」にまで減石されていた状態と成っていたのだ。
    これではどう考えても「旗本以外には養えなかった事」に成る。
    「三方ヶ原」で全滅に近い敗戦をしているので、どの記録を観ても最大時に「国衆」を掻き集めてやっと合わせて「兵5000・脚色戦記」に成ったとしているが、検証では実際はそんな力は無かった。
    戦後は「敗残逃亡兵2000程度以下」には成っていた筈である。
    先ずはこれでは「旗本程度」を養える事と成るが、「国衆等」は「自らの糧」を「何らかの力」で得なければ生きては行けない事に成っていた。
    「駿河青木氏」は未だこの時期は、「松平氏の三河」では上記した様に一族から援軍を得て「駿河国衆の副将レベル」であった。
    上記した様に長篠後に成って「旗本・家人衆」に加えられたのだ。
    故に、「駿河青木氏」は「伊勢の青木氏の経済力・商い」を背景に「元の駿河水軍の糧」に勤しんでいたのだ。
    そもそも「伊勢青木氏」に依って平安時代には「女系で繋がっていた事」の所以で、「駿河青木氏の末端の裔」を何とか探し出され、相当に「駿河青木氏」は「伊勢」に依って呼び興されて訓練を受け成長した。
    そして、最終は「船一艘」を与えられて、再び、その「裔系」は「水軍・水運の商い・伊勢―伊豆に運送」で拡大して行ったのだ。
    それがこの「裔系の長」がこの「青木貞治」であったのだから、「江戸期・長三郎」に成っても「旗本の上級御側衆・上級番方」を務めながらも、この「水運の商い」は辞めていなかったのだ。
    この様に資料では、「相当に豊かな駿河青木氏の裔」を構築して繁栄していた事に成っている。
    そこで、この詳細経緯として、江戸にも子孫を広げているだろうが、彼の「盤田見附」に「菩提寺・浄土宗西光寺・再興」の「大寺・伊勢青木氏部使う」を持てるまでに「子孫」を拡大させていた。
    其れなのにその割には「青木氏とその類証」が、「水運業」を生業としているこの地域に矢張り少ないのが気になるのだ。
    何故だろうかここで検証して観る。
    天竜川と太田川の二つの大川の間に挟まれた「圷の野」と、この「ほう僧川」の支流を合わせて、「砂丘」の中で出来た「唯一の港・西光寺より南東8k」の地域に「大船が停泊できる港」は、「天竜川」から東に離れて「圷の影響」が無くなる「福田地区」、ここから「海底深度」が良くなる大船が停泊できる“「福田港」”がある。
    「伊勢資料の行」から、ここに少なくとも「仮泊」を置いて「駿河湾・34k」と「伊勢湾・白子泊」を常用していた事が判っている。
    つまり、この「福田港」の此処からは「伊豆青木氏」と「秀郷流青木氏・本拠地」を含む一門の勢力領域と成る。
    この地域には「青木氏に関わる地名などや春日社」も全く無かったのだ。
    つまり、全て、この「福田港」から「34k離れた地域」から東に急激に「青木とそれに関連する地名」も含めて大量の所縁の何もかも出現して来るのだ。
    つまり、ここには「平安期と鎌倉期と室町期初期」まで「青木氏や永嶋氏等の勢力」が伸長していたが、ところが、室町期より勢力を東に押し返されて引いていたのだ。そのために所縁のものがなくなっていたのだ。
    この時の「名残の先端」が突出したのが「遠州西光寺域の庄域」であって、厳しい乱世の中でここを遺し得たのは「水軍衆の所以」であったと考えられる。
    其れを逸早く裔を救って呼び寄せて訓練して戻して「伊勢」と繋いで「生きる力」を着けさせて遺し、其の後は前段の論に成ったのだ。
    結果として全体は、「駿河の青木氏」の「名籍」が「存在する所・藤枝」まで勢力を引いたと云う「歴史的経緯の事」に繋がるのだ。
    これは「家紋分布や地名」でも判る。
    大まかな時代性としてはその「引き際の処置」で遠州に駿河青木氏が遺った事であったと考えられる。
    それだけに「源平化した事」から狂い出し、遂には「源平戦敗退」により「子孫」は元より「遺物」も遺し難かったのだ。
    「近江と美濃の源氏化」にした様に「伊勢信濃の忠告」は女系で深く繋がる「駿河」にも当然としてあったと考えられる。
    と云う事は、その証拠は「駿河青木氏の子孫」の多くは、現在名の静岡県静岡市駿河区の「青木の地名・現在も青木・盤田見附から東54k」が遺る所にあったと云う事に成る。
    「伊勢」が「盤田見附」から「駿河区青木」の庄の何れから「支流末裔」を見つけ出して「額田青木氏」と同然に世に出したと云う経緯であった事に成る。
    「一族の藤枝の秀郷流青木氏・集中」では無く、再び、“「母方の伊勢」”に呼び出して「商いや水軍」等の訓練を受けさせてから「30年後〜40年後」には、室町期初期から「消えていた盤田域」に「一人前の青木貞治が出た・100裔人」と云う事に成っているのだ。
    唯、ここで検証しなければならない事は、「盤田見附域の元の庄」を再び獲得するには「財力と武力」が要るし、「菩提寺」を建立し直し維持するには“「相当な財力」”が要る。
    其れを如何したのかである。
    この「財力と武力」を以て「庄の民・農民」は信頼して従う。
    「武力」は「財力」で補完できている社会である。
    問題は、「青木貞治」が元の庄を獲得するには次の事が必要に成る。
    上記した「盤田域の庄面積」の「1800反程度弱≒1800石程度(≒6000平方坪程度以下)」の“「地権」”を買い取る必要が先ずあり、奪還する程の武力は未だ無いしそれ以外には無いし、これは「青木氏族の氏是」に反する事で出来ない。
    それには、「駿河水軍の水運」だけでは「元の庄の獲得」は無理である。
    この時期としては必然的に「今川氏の国衆と成る事」が最善策の前提と成る。

    その前に論じて置く事がある。
    「青木氏族」とは全く縁が無いが、調べた範囲としてこの事の解決に導いてくれた者、況や、「松井氏」に付いて記して置く。
    元今川氏の二俣城主であった「松井氏」は、「山城国の御家人・松井氏一族」が建武政権を離脱し「足利尊氏」に味方し、足利氏一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げた。
    その恩賞として「建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市・青木氏定住地)」に「地頭代職」を与えられてここに移住したと成っている。
    1513年には「今川氏」から「遠州鎌田の御厨領・盤田見附から真東3k・同庄内」を「領」として与えられ、1528年には「平川郷堤城主・盤田見附から真東21k」とも成ったとある。
    この「近江から来た国衆の松井氏」は、最終的にこの「天竜川から菊川」の「南一帯の豪族」と成ったのであった。
    この時に「秀郷流駿河青木氏」等もとより「永嶋氏などの青木氏族」等も東に追いやられたのだ。
    「地頭代職時代」にこの「松井氏」はこの「藤枝」に定住する「郷氏の秀郷流青木氏・賜姓族の格式」を当然に知り得ていた筈である事と、系譜通りの「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義」であったとすると、「源平戦」で衰退はしたが過去の「近江青木氏二氏・賜姓族格式」を完全に知り得ていた筈である事に成る。
    そもそもこの「近江青木氏」と「川島の皇子の裔の佐々木氏」とは奈良期末期まで「相互重婚の一族」であって「伊勢」と「近江4氏」とは「皇位族の重血縁の縁」で繋がっていた。
    「松井氏の祖」が「山城の御家人」とするならば「駿河青木氏」とも少なくとも縁は深い事に成り得るがそこまでは縁を追えない。
    主張する系譜通りの「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、「近江戦」と「富士川の戦」の源平戦で共に源氏化していた一族として味方と成って戦っていた筈である。
    先ずこれだけの縁があるとすれば間違いは無いだろう。
    正しいかどうかは判らないが、それが共に再び“遠州で会った”と云う経緯の行事に成り得るのだ。
    且つ、その前提で行けば、ここが「室町期末期」まで「秀郷流蒲生青木氏・伊勢秀郷流青木梵純の出自元」でもあって、恐らくは「縁の鎖」の様に何らかの関係を確実に持っていた事に成る筈である。
    要するに、それ故にこの「縁」を以て「国衆」と成ってこの「松井氏の配下・家臣株獲得」に入り、そこで「元の盤田見附」を「地権で獲得した事」に成る経緯であると説が生まれる。
    そして、その「国衆と成った証拠」として「今川氏の最西端」の其処に「平城館・寺閣城」と成る「菩提寺を再建した事」を意味するのだ。
    つまり、「国衆に成る事」にしても、「家臣に成る事」にしても、「菩提寺の平城館・寺閣城を建造する事」にしても、「地権料を払う事」にしても、「家臣を養う事」にしても、「水軍を維持する事」にしても、そもそも「水運業だけで得られる糧」では到底無理で駿河青木氏にはその「大財源が必要であった事」に成る。
    当然に、その出処は「伊勢青木氏」であって「武蔵青木氏宗家・江戸長島屋」かであるが、主に「伊勢青木氏・伊勢屋」が「額田青木氏」と同然にこれを賄ったと考えられる。
    要するに戦略的には、経緯として同時期に“西に「額田青木氏」、東に「駿河青木氏」を興した”のであった。
    そして、「信長」に依る「尾張域の神明社破壊」や、この事で起こる「伊豆や信濃との連携」が難しく成る事を防ぐ為に、これは、つまり「駿河青木氏の復興」は“「当初からの戦略」であった”とも考えられるのだ。
    その結果、その証拠にこの地域には「神明社」も「春日社」も「清光寺」も「西光寺」も全く無く成っていた「遠州」に於いて、「伊勢」にしても「武蔵」にしても、ここに「青木氏の拠点の復元」を成さねば成らなく成っていた事に成る。
    それで「乱世の中」で「東西の青木氏の同族」が生き抜けて行く為には、再び途切れた「西と東」が繋がり“強大な抑止力が働く”と考えていた事に成る。
    その為の「財源拠出」は問題は無いと観ていたのだ。
    「室町期の紙文化開花」で「巨万の富・紙屋院」を獲得した「財源」を遺憾なく此処に投入したのだ。
    それには、「青木氏族」に執っては「相手」は当面に「武田氏」であって「織田氏」でもあったのだ。
    そこで、筆者が感じる処では、「伊勢信濃系列」を始めとして「青木氏族」に執つては疎遠であった「武田氏の青木氏の関与」の有無に就いては、もう少しの「関係性」を見つけられるのではと観ていた。
    然し、唯一つの「二俣城の浄賢」だけであった事は何か間尺は合わない。
    それは、「武田氏」が完全に滅んだ「長篠」より、「甲斐には五つの青木氏」が在ったがその内の「3氏」だけは「伊勢」では無く「相模の秀郷流青木氏」を頼ったのだ。
    確かに「甲斐青木氏・甲斐冠者系の源光系」と「嵯峨期詔勅に基づく時光系」の二つは「嵯峨天皇派」であって「伊勢信濃」の「桓武天皇派」とは「犬猿の仲であった事」は否めないが、それ故にこの「伊勢信濃」には全く来ていないのだ。
    このすっきりしないのは「史実」である。
    そもそも「武田氏系」には、「源光系青木氏・1氏」、「時光系青木氏・5氏」、「諏訪族系青木氏・3氏」があった。
    「源光系青木氏・1氏」は不参戦で甲斐でその後信長に圧力を掛けられて衰退した。
    「時光系青木氏・5氏」は、「分家2氏の正定と豊定」は徳川氏に味方し一族全体が武蔵鉢形に移住させられ家臣と成り、「1氏」の「分家養子・安芸」は戦線離脱後に「安芸に戻り後に「松平氏の家臣」に成る。
    そして、「本家筋2氏」は完全滅亡した。
    「諏訪族系青木氏・3氏」は、その内の「武田氏族系の1氏」は衰退、「諏訪族系の2氏」は「相模の秀郷流青木氏」に救出され、其の後1氏の一部が下野に配置に廻り、残りの一部も相模から「越後秀郷流青木氏」を補佐する為に頼り、「4流」」に分流した。
    「長篠後」にこれだけの「関係性」を保持しているのに甲斐との関係性に付いての資料が何もないのは腑に落ちない。
    当然に「三方ヶ原前」にもあったと観るのが普通であろう。
    現実に、江戸期にはある程度の関係性は出来たと考えられるが、敗退した「甲斐青木氏」が「秀郷流青木氏一門を頼った事」で「血縁の繋がり性」は出来た事も「史実」である。
    平安期と鎌倉期には確かに「伊勢青木氏出自の嵯峨天皇の皇子」が“「甲斐青木冠者蔵人・源光系」”として「甲斐」に配置されたがそれでも基本的に無かった。
    極めて疎遠で「犬猿の仲であった事」は資料からもはっきりと解る。
    上記した様に、室町期末期の戦乱期に「青木貞治と主従関係」に成ったとされる「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義・河内頼信系源氏」と、「甲斐青木冠者蔵人・源光系」として「甲斐」に配置されたが、この「源の源光系青木氏・嵯峨源氏」とは「源氏族」では無関係では無かった筈であるが、「繋がりの詳細経緯」に付いてはこれ以上は今も資料は見つからないし判らない。
    「賜姓伊勢青木氏と賜姓近江青木氏」とは、奈良期から平安期まで「相互血縁の同族」であった事と、「近江青木氏の定住地」とはほぼ同じの「松井氏との関係性」は否定できないだろう。
    間違いなく「源氏・11流」とすれば「皇族としての嵯峨源氏9つの縛り」を護らなかった「源氏族」と、「源氏化しなかった伊勢と信濃の青木氏・9つの縛りを護った」とは「四掟の範囲」では無い事に成り、頼る事は出来なかった事には成る。
    その意味では、「円融天皇賜姓族藤原秀郷流青木氏・伊勢信濃とは女系で血縁」は「同じ青木氏」として頼り易かったとは云えるが、「松井氏との血縁性の有無」は辿れない。
    そもそも、「正式な源氏賜姓・11家11流」は「花山天皇」で終わったが、この「花山天皇」の前に「冷泉天皇の発狂事件」が起こり、これに代わって異母弟の「円融天皇・11歳」と成り、それまでの「源氏賜姓」を止めて「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を永代に賜姓させる事と宣言した。
    「外戚の藤原氏内紛」で16年後に「冷泉天皇の嫡子・花山天皇」に譲位した。
    この「花山天皇」も「外戚の藤原氏の内紛」で2年も待たず退位した。
    ここで「嵯峨詔勅に基づく皇族」の「正式な源氏」は歴史的に途絶えたのだ。
    つまり、其の後の「正式な賜姓」は「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子・始祖初代千国」を永代に「青木氏の賜姓をさせる形式」と変わったのだ。
    その「皇族との血縁の基」は、「賜姓」を権威づける為にも「混血融合」を避ける為に「四掟と云う縛り」を設けて、代々に「伊勢信濃との青木氏の母方の女系族である事」で権威格式付けたのだ。
    これが「藤原秀郷流青木氏116氏・第二の宗家」に及んだのだと云う「歴史的経緯」を持っているのだ。
    況や、この「賜姓青木氏族」は「四掟前提としている以上」は、「四掟の範囲外の甲斐」との「血縁性は無い事」には成るのだ。
    唯、この「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷一門内部での血縁族の主要五氏」とはこの「嵯峨期の9つの縛り」は適用されない。
    従て、この「四掟の範囲外」での「甲斐青木氏との血縁・時光系」とはあり得る事は否めないのだ。
    厳然とした史実があるのに資料が無い為に然し判らないのだ。
    唯、「賜姓諏訪族」とは「信濃青木氏との重婚族」であり、古来より「諏訪族青木氏・立葵紋」であってこの「裔系・抱き角紋」が「武田氏系の血縁族三氏」を構築していて、「相模に逃げ込んだ事」も史実であり、頼った事には何の問題も無い。
    「秀郷流青木氏―伊勢と信濃青木氏―信濃青木氏と秀郷流青木氏―信濃と諏訪族青木氏―諏訪族と武田氏」であれば、直接血縁無くしても「血縁の濃度」は別としても、「間接血縁族」として頼れる事は可能である。
    現在筆者はこの様に観ている。
    そして、それが何と本論の長篠後の「駿河青木氏の裔祖の相模青木氏」であったのだ。
    これは、「三方ヶ原―長篠」の後に興したより「青木氏族」であった一族の歴史の“自然が興した再結集現象”と成り得たのだ。
    この「不思議な自然の血筋の流れ」は江戸期に向けて濁流の如く留まらなかったのだ。

    但し、その基と成った「駿河青木氏」を家臣として抱えてくれた「松井氏」は山城の「河内源氏」であるとする事にもう少しその根拠と成る歴史観を説いて置く。
    それは間尺に合わない処があるからだ。
    そうすればこの「松井氏の位置づけ」がより判り、「駿河青木氏の青木貞治との関係性」も詳細経緯として理解が出来るだろう。
    「松井氏の祖・平安期」は「山城の何処かの天皇家・公家・賜姓族・皇位族の家人」であったとしていても、その「家人」と成り得る「氏」としては「頼信系の河内源氏」であるとしているかも知れないが、“「松井」”としての「第二の姓名」を名乗っているので「傍系卑属の支流族」である事には間違いは無いのだ。
    そもそも、「河内源氏」は「嵯峨期の9つの縛り」を護らなかった事でその「家人」である事にはそもそも疑問でその資格はない。
    「9つの縛り・嵯峨天皇が後に纏めた」に依って「天皇家・公家・賜姓族・皇位族」は「諡号の姓・第一の姓」は持つが「第二の姓」はそもそも持たない掟なのだ。
    従って、「天皇家・諡号と諱号」を除き「氏名だけの範囲・青木の氏や藤原氏」だけで名乗ったのだ。
    唯、例外として「秀郷流一門」は「361氏」と成り、「氏名や諡号や諱号」では「一族一門の系統」を「格式管理」できなく成り、その替わりに「仕来り」として「三つの縛り」を設けてこれを判別する様にしたのだ。
    其れは、次の通りである。
    ・第一に、「役職名」を藤原氏の氏名の藤の「上」に付けて名乗る。
    斎藤氏・工藤氏等・結城氏
    ・第二は、「地域名」を藤原氏の氏名の藤の「上」に付けて名乗る。
    伊藤氏・加藤氏 長沼氏・永嶋氏等
    ・第三に、「特徴名」を藤原氏の氏名の藤の「下」に付けて名乗る。
    藤田氏・藤井氏等
    以上この三つより更に拡大して派生した氏は「同名の字名」に替えて名乗った。
    長嶋氏、長島氏等
    これを以て総称は”「藤氏」”と呼び、地域事に「伊勢藤氏・讃岐藤氏等」等として大別した。
    これで「系統や格式レベル」を判別するようにしたのだ。
    唯、「秀郷流青木氏24地域・116氏」だけは秀郷一門に劣らず「賜姓族である事」により氏名のみの諡号名と決められたのだ。
    「賜姓青木氏」であり、且つそのものの「氏」が大一族に成ったが、「賜姓族の特別の格式を有する事」で、「嵯峨期の9つの縛り」に基づき「伝統の仕来り」として「氏名」だけ、つまり「青木氏」としたのだ。
    要するに本論の「駿河青木氏」もその一つであるのだ。
    ここで、更に「皇位族の賜姓臣下族の朝臣族」には、もう一つの判別する「仕来り」があったのだ。
    それは 「諱号・諱名」であった。
    其れは、「直系尊属の本流」のみの「仕来り」として「氏名のみを名乗る事」と共に「青木氏一族」には、朝廷から与えられた「地領の字名」があり、それを使う事を許された。
    其れを「字名・あざな」と呼び、これを「判別の一つの方法」として「氏名」にこの「字名」を付けて「格式・レベル」を表現する方法が許されていたのだ。
    その「表現方法」には、次の条件が定められていたる
    「本流である事」
    「格式を有する事」
    以上二つを表す「中国の皇位族の慣習」を見習った手段があった。
    それが、つまり”「好字」””であった。
    つまり、「格式の高い意味を持つ字」を「氏名に着けて名乗る事」とし、それを「一字」として名乗る事であった。従って、「二文字以上の字名」は「本流」では無く、且つ、「嫡流」では無い事を表現する手段としたのだ。
    これは「青木氏族を判断する重要な歴史観」と成ったのである。
    例えば、「賜姓源氏」で「諡号の姓」が「朝臣族」であれば、「嵯峨源氏」と「清和源氏の摂津源氏の四家」だけがこの「仕来り」が適用された。
    「元皇位族」であったとしてその格式を護るためにある程度の「9つの縛り」を護った上記の二つの賜姓源氏のみに適用され、その「本家の嫡子流」の「三代目」まではこの「好字・一字名」を名乗る事が出来たのだ。
    例えば、「源融・とおる」は、「平安時代前期の貴族」で「嵯峨天皇の第八皇子」である。
    つまり、「嵯峨源氏の賜姓融流初代」であって、”「河原」”と云う格式の「院号」を持ち、”「河原大臣」”とも呼ばれた人物がいた。
    この「融」の「好字・一文字」の慣習は「本家の嫡子流」の「三代目」までと成る。
    それ以後の裔は血筋の低下で「好字・一文字」の「仕来り」は「二文字」に成り使えなかったのだ。
    後に、全ての地名までの名に及ぶ「好字・二文字令」を朝廷は発して「好字・一文字の権威化と区別化」を図ったのだ。
    同じ「清和源氏」であっても「頼信系の河内源氏系」は、「本家流」で無く「嫡子流」で無く「三代目」で無く、「嵯峨期の9つの縛り」を全く護らなかった事で、この「格式伝統の仕来り」の「好字・一文字」は使え無かったのだ。
    この「好字の仕来り」は、遂には「地名」までに及び、「713年」には「好字二文字令の制度・仕来り」が出て郡郷までに至ったが、「諡号の名」に関してだけはなかなか「格式の伝統」として存在する以上、治らずに平安末期まで護られた。
    それは、「嵯峨天皇」が定めた「新撰姓氏禄・諡号の定め・815年」との「地名と姓の整合性」が取れずに結局は権威化され残ったとされるのだ。
    これは青木氏族だけの歴史観である。
    さて、これらの「慣習仕来り掟」を前提に、ここまでを「氏族・諡号の姓」と云うか「姓族・第二の姓」と云うかは、この「朝廷の決まり」の中では「松井氏」は「氏族」とは云わないのである。
    少なくとも「慣習仕来り掟論」からは「平安期の慣習仕来り掟」を無視され始めた「室町期」の「姓族・第二の姓」と成り得るのだ。

    「松井氏の呼称」には次の通りである。
    1 為義流の源維義を祖とする松井氏(松井冠者)
    2 源満政流を祖とする松井氏

    但し、2の満政流の松井氏は、源満政6世孫で源頼朝の御家人となり、山城国綴喜郡の地頭職となった「重行の系統」がある
    3 同郡に「渡来人系(百済人とも)の松井氏」
    以上の二系統があるがこれとは別系統である。

    さて、これらの事の歴史観を前提に、松井氏のそのルーツを探る。
    第1の説
    そのルーツは始祖は先ず「河内源氏の源維義・為義の14男系譜無」であるとしている。
    この「始祖の維義」が、「松井・京田辺松井地区」の「冠者・六位無冠・下級官僚」を任命され「松井冠者」と称されたとしている。
    この「松井の地名」を取って「維義の子・季義」が「松井姓」を名乗ったされるルーツの前提である。
    この「松井姓の裔」が「遠江に移住」、「近江に移住」、「丹波に移住」の三カ所に移住したと成っている。
    この「遠江に移住」が本論の「青木貞治」に関わった「松井姓」であるとする「第1の説」がある。

    第2の説
    次は、「摂津源氏源の満政・始祖経基の次男」をルーツとする「松井姓」で、この満政を始祖とする「6代目裔・?」が「鎌倉時代」の「頼朝の御家人」と成り、「山城の綴喜郡の地頭」を命じられて「松井姓」を名乗ったとし、更に、この裔の子孫が「三河」に移住し「三河旗本」と成り、「松井姓」を名乗ったとする「第2の説」がある。
    但し、この史実に関わる「問題の今川氏」ではない。

    第3の説
    室町時代に「今川氏の家臣」に成り、「遠江の松井姓」を名乗り、後に「三河松井氏」と成ったとするが、室町期前の裔系の事は全く不明である「第3の説」である。

    第4の説
    「綴喜郡」に渡来人(時期不明・室町期?)が入り、その祖は「地名の松井」を採って「松井姓」を名乗ったとする「第4の説」がある。
    この「地名の松井」は「綴喜郡より18k真西」に在る。
    この説は「第2の説」の「綴喜郡・琵琶湖真南14k」に譜を恣意的に合わしている。
    尚、「渡来人」とすると、奈良期の「後漢の難民」では無く、朝鮮征伐前後に職人を連れて来た近江と丹波に入った「朝鮮難民・百済」と成る。
    この「朝鮮・百済難民」は「近江の鍛冶屋・龍源寺銃等の鍛冶職人」と成ったとされる説がある。
    恐らくは、此の民が「松井姓」を名乗ったとする「職人説」である。

    先ず、第1の説から第4の説までの検証である。
    「共通する点」は、何れも“「国衆」”と成って「各地」を渡り歩いた先が「三河」か「遠江」であって、そこで「松井姓」を名乗っている事がポイントである。
    本論の「駿河の青木貞治」に関わった「松井姓」は、凡そ「第3の説」に近い事に成るが、但し、「過去の事」は判らないし、約400年後に「国衆と云う立場」にあり、即ち、「全国」を渡り歩いてより良い仕官先を見つける「土豪集団」であったのだ。
    故に、「過去」を造る為に、その「過去の系譜」を「第1の説」に繋いでいると云う典型的な搾取のパターンである。
    そして、更に「辻褄を合わす為」にそれを「第2の説」に繋いでいるのだ。

    ところが、「第1の説」は「河内源氏」の「松井姓」、「第2の説」は「摂津源氏」の「松井姓」である。
    系流がそもそもが異なるのだ。
    次に、ところがこの「源維義」は、「為義の14男・本来12男」であるとしているが、ところが「妾子含めて12男」しか無く「この系譜上」には載らない「架空の人物」である。
    よくある「系譜の繋手法」である。
    更に「満政」は「始祖経基王」の「次男・満仲の異母弟」としている。
    「1000年代前後の歴史上人物」であるが、その「裔の6代目・10人」として人物特定されていないので、「所在が不明人物説」であり、且つ、「最低で1120年〜最大で1180年頃」の「平安末期・保元平治の乱・1156年〜1160年」の時代の人物と成り得て、そうすると「美濃源氏」と成るのである。
    これも出自元が一致しない。
    そもそも歴史的に「系譜の名」が明確に成っている「6代目の裔名」も不明だし、「鎌倉期」ではないし、この「満政ルーツの裔」は「出生の姓等」は全く「松井」に関していないのだ。
    この様に「辻褄合わせ」の「第1の説+第2の説」の「繋ぎ」にも更に「理解不能の大矛盾」があるのだ。
    因みに、源氏一族全ては1221年で完全滅亡しているのだ。
    そもそも、「駿河青木貞治」に関わった「今川氏の家臣の松井氏の一族」は「桶狭間」で滅亡している。
    依って、「二俣城の城主」は「松平氏の家臣の中根氏・主将」であって、「今川氏の遠江松井氏」と「駿河青木貞治」とに関わっていないのだ。
    要するに「三河松井氏」は基本的に無い事に成るのだ。
    恐らくは、結論は「400年後の山城の松井庄」から出自し、身を興して「国衆」と成って「駿河」に移り、「今川氏の国衆―家臣」を経て「二俣城の城代」と立身出世した者であろう。
    そもそも、故に時系列から「400年後の山城の松井庄」は、最早、「源氏云々の地」では無い。
    「平安期の土地の所縁」を以て「国衆名」として名乗り、果ては「今川氏の遠江松井氏」と成り得たとするものであろう。
    要するに、前段で論じた「四国の庄・阿波説と讃岐説」より出でて「国衆」と成り「伊川津七党の牧野氏等」と成った「経緯・地頭職等も」と全く同然である。
    戦乱に依る「第二の姓の勃興」と「下剋上」で消えた「諡号の姓の搾取」のタイプA
    「初期の系譜繋合わせ」の搾取横行時代と「後期の系譜繋合わせ」が起こった「江戸初期の国印状取得」の「搾取横行時代」のタイプB
    この「ABの二つのタイプ」の何れかである。

    では、「駿河青木氏の青木貞治」と「駿河・遠江松井氏の所縁の接点」は、上記では「近江・山城」を「共通の所縁」としていたが、上記の「国衆論」だとすると論は一致しない。
    唯、確かな接点はある。
    「出自の山城」は、「一門の蒲生秀郷流青木氏」と一致していたし、「伊勢青木氏の血縁先」の「近江青木氏との血縁の所縁地」でもあった。
    この「出自元」が“「松井の庄」”としていて、「駿河」では「国衆」と成り得ている事が、「青木氏族の時代性」を「過去400年〜700年」に遡り、「近江山城との関係性」は「伊勢信濃側青木氏」では衰退しているが「所縁」に関して何かあった可能性がある。
    そもそも最早意味の無い源氏族であるかは別として、「松井の庄の出自である事」では間違いは無い事なので、この事から「他の所縁の有無」の検証をして観る。
    結果として「所縁と成る繋ぎ目」が「青木氏族」との間にあった。
    先ず、それは「地形の点」である。
    「琵琶湖の南」の左に「松井の庄」があって、約2.5平方k程度の庄
    「琵琶湖の東」の右に「蒲生の庄」があって、約9.0平方k程度の庄
    要するにここは前段でも論じた「火縄銃の経緯」から論じた「後の日野庄」である。
    ここは「松井の庄」の北東55kの位置にあり、大戸川を挟んで左右の中間の位置にある。
    この「松井の庄」から「信楽の山」を一つ挟んで隣に「蒲生の庄・日野」がある。
    先ずここが「第一つ目の繋ぎ点」であり「隣の庄」としては関係性は強くある。
    次に「血縁の点」としては次の様に成る。
    この「蒲生氏」は「秀郷流一門」で朝廷関係に派遣されていた一族であって、この「一族・高郷」に嫁いだ「伊勢青木氏の女系・梵純の母」で、その「伊勢の里・母の里」に「秀郷流青木氏」を興し継承したのであり、唯、「松井」には四掟にて血縁の関係は無い。
    その周囲は「近江青木氏、佐々木氏系青木氏、甲賀青木氏、血縁族の近江佐々木氏等」の定住地である。
    山を一つ越えた「松井の庄」の住民であるとするならば、ここからは「東隣の成り行き」を知り得ていた事は充分に考えられる。
    「松井の庄の場所」の点に付いては「決定的な重要な論点」であり、それは次の様に成る。
    室町期の「日野の庄」は前段でも論じた様に「堺支店」より「財源と資材と青木氏部の工人」を供給して「火縄銃の生産拠点」にした地域でもある。
    この「物資・後に火縄銃等」を「松井の庄」に運び、そこから「隣の淀川」を経由して大阪湾に運び出し、そこから「堺店」を経由して販売をしていた。
    ここはその「長い間の歴史的中継点・淀川真西4k」であった。
    更に、その「所縁」を以て「蒲生の庄」から「松井の庄」の「周囲・均等」には何と青木氏の菩提寺の「清光寺」が何と「5寺」も存在していたのである。
    この「青木氏の一族」の「菩提寺の清光寺」は「定住地」のそのものを意味するよりは、「堺との関わり」に依る「一族の現地在住の菩提寺」でもあり、尚且つ「青木氏に関わる事務所的要素を持った寺」でもあったのだ。
    「七つの寺が菩提寺」と云うのは青木氏族がそれだけ定住していたとする数は多すぎる。
    それよりは前段でも論じた様に事務所的要素が大きかったのだ。
    このこの事が示す様に「松井の庄」が「中継点の役割」を果たしていたとすると、この「5つの清光寺の寺と分寺の清蓮寺を加えると7寺」は「荷駄」などの「一時保管場所的要素をも持っていた事」に成る。
    当然にその結果として、「松井の庄の民」にもその「役割」は必然的に生まれていたであろう事が予想できる。
    この域には、注目する点は定住地外のその「役目」としては「菩提寺の数」に比して当然に「神明社」がある筈だ。
    それが無いのは、「事務所的要素と一時保管場所的要素」を重視していた事を意味する。
    「事務所的要素と一時保管場所的要素」を置く事に依って、「寺」は「寺」では無く「寺」でもあり、「寺」と云う「寺閣・平城館」を利用して室町期出ある以上は「周囲への防御」に置いていたと考えられる。
    例えば、「伊勢」の西入り口の地の「伊賀の戦い」で有名を覇した「名張の清蓮寺城・平城館」と同じ意味を成しているのだ。
    だから、清蓮城寺があるのだ。
    「伊勢青木氏」は奈良期よりこの戦略を採って来たが、「伊勢と堺の防衛上の歴史的な重要拠点」でもあった事にも成る。
    その意味で、「松井の庄」は、「蒲生の庄」と堺までの「中間点」にもあり、淀川平野に出た「利便性の高い位置関係」に在ったのだ。
    この事は青木氏論に関わらず、故に山間部の国の「近江滋賀山城」から観れば、「松井の庄」の地点は、上記の「第1の説」から「第4の説」に説く様に、古来より「冠者や地頭職」を置くほどに「重要な位置関係」を成していたのだ。
    記する処は「第4の説」などは、“何故ここに渡来人の工人が?”と成る所以であるのだ。
    「松井の庄」と「第4の説」と共に、ここ無くして「山奥の日野の火縄銃の生産」が「資材や工人の条件」と共に成し得なかった事でもあったのだ。
    当にこれは室町期に関わらず奈良期からでもあったのだ。
    「蒲生の庄」、「日野の庄」の人間全てに執って知らない者はいなかったであろうし、「松井の庄」からも同じ事であったろう。
    故に、「伊勢との関係」は上記の通り同然のものとして、この「伊勢の二つの青木氏」と深く血縁で繋がる「駿河青木氏・青木貞治」に執って見れば、「松井の庄の出自の者」と成れば親密感を共有する事に成り、同然に「遠江の松井氏」に執っても同じであったろう。
    戦国の世に於いて「遠江」に「国衆」として出てくる前の「松井の庄」で「若い頃を生きた者」に執っては懐かしさもあったと考えられる。
    もっと云えば、「駿河青木氏・青木貞治」は伊勢で5年間ほど鍛えられ船で摂津に赴く等の事は充分にあり「松井の庄」に赴いた事もあったのではとも考える事は出来る。

    この「遠江松井氏」に付いては遠江での譜は次の通りである。
    宗能1―義行―貞宗2―信薫3―宗重4―宗恒5―宗親6―宗直7
    1 御厨領家の土地を授与 1513年
    2 宗能より平川郷堤城主  主要家臣 1528年
    3 二俣城城主 1529 病死
    4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
    5 宗恒・弟 二俣城家督 1560年
    6 宗親・一族 二俣城城主 徳川氏調略・飯尾氏謀反で今川氏謀殺する。1563年
    7 松井氏衰退 武田、徳川氏、今川氏に分裂後衰退 徳川氏旗本 1590年
    そうすると、「駿河青木氏・青木貞治」は「伊勢」にて1540年〜1545年に「訓練・5年間」の後に「大船一艘」を与えられ、「駿河」で「駿河青木氏・伊勢より嫁す」を「再興・1550年頃」し、「糧」を得て「子孫」を拡大、遠江―駿河―伊勢―「渥美・三河」―伊豆―相模で「活躍・1550年〜1555年頃」し、「財」を成す。
    以上の経緯を持っている事に成る。
    この経緯から「松井氏」との「繋がり」は、先ず判断として「宗信〜宗恒〜宗親」に持ったという事に成る。
    「早期の経緯論」としては、「活躍・1550年〜1555年頃」し、「財」を成している段階で、「国衆の段階」を経て「松井氏家臣」に成ったのは「1555年〜1560年」で、この経緯が成立するかである。
    「中期の経緯論」としては、「5の宗恒」であるが、病死で直系尊属者無く「一族の者」の「6の宗親」に家督継承されている。
    ここで、今川氏と決裂し、徳川氏が関わって来る。
    「終期の経緯論」としては、「7の松井氏」の「衰退・分裂」が始まり、徳川氏方が勝利し、徳川氏家臣と成る。)


    「青木氏の伝統 63」−「青木氏の歴史観−36」に続く。


      [No.385] Re:「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/09/19(Sat) 14:53:31  

    「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」の末尾

    結局、「三方ヶ原」に到着するに必要とした時間は、「青木氏の銃隊の偵察隊と追尾」が「所要4時間」であり、「松平軍の浜松城から出陣」が「所要2時間」であり、その「2時間差」が結果に出た事に成った。
    「武田軍本隊」は「前日」から手こずり「一夜後の朝」に落城した「堀江城」から、そこから「軍態勢」を整えて「昼前」に出発したとあり、「三方ヶ原」に向かって到着したのは、“「夕方の時間・昼4時頃」とあり、遅れた”と記されている事から、計画と違って合計「5時間位所要していた事」に成ったが「陣形と山県軍の遅れ」から勝利を得たのだ。
    そして、「三方ヶ原の戦い」の「戦闘時間」が「2時間・昼6時頃」で終わったとある。
    「別動隊・山県軍」が「浜松城・夜8時前頃」に到着した時は、「浜松城」には“「篝火」”が焚かれていたとある。
    この「篝火」に意味があった。
    そうすると、以下の検証は次ぎの様に成る。


    「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」

    「伝統シリーズ」で、「注釈」として論じて来た「伝統56−3〜59」までの事が、実は「研究」が進むと「青木氏の歴史観」として、別に論じ切れない事、又は、論じ得ない事が多いのだ。
    これをここで分けて更に続ける。

    (注釈 「二軍の経緯」
    「全ての資料」からの「読み取り」で、“「時系列」”から検証して観ると色々な事が判って来る。
    この「美濃の額田青木氏の歴史観」を解く事で他に観えて来るものがあるのだ。
    開戦時、直ぐに「二俣城の戦後始末」を完了し「武田軍の本隊」に合流する為に「西の三方ヶ原合流地点・計画は宿営地」に向かって急いでいた「山県軍の別動隊・5000」は、「当初の作戦計画」とは「様子」が違う事に「情報」を得ていたので、東沿いに南下する案もあったらしいが、然し、「北の山際」から先ず西に向かい「松平軍の鶴翼右側面」に着こうとしていた。
    「武田軍本隊」に合流する作戦が二俣城で決めた「元の作戦」であった。
    ところが、「作戦のずれ」と「松平軍の行動のズレ」が起こって仕舞ったのだ。
    そこでこの「二つの作戦ズレ」で「別動隊」として「独自の行動作戦」により有利に臨機応変に出るしかなかったのだ。
    「当初の計画通り」に「武田軍の本隊・魚鱗の陣形に入り込むのは危険」に合流せず、山際で様子を見ようとした事もあり得るが、然し、「経緯」から観て「合流する充分な時間的余裕」がそもそも無かった事が判る。
    結果として「北山際の鶴翼右側面」の少し離れた位置に着いたのだ。到着したのだ。
    ところが「時系列」から観て、「東の街道沿い」を直に南下して「松平軍の背後」に着き「武田軍本隊との挟み撃ちの態勢を執る事」も時間的には出来た筈であるし、その案も実際には出ていたのだ。
    此れの方が軍を動かす上では確かに円滑である。
    それは「天竜川沿い」に「二俣街道−飛龍街道・16.8k−5.5h」を経て「三方ヶ原」に入る事は出来るのだ。
    確かに「北の山際」に沿って「三方ヶ原」に入るには、「15.2k−5h」を所要する。
    要するに、これを考察すると、余りこの差が無い筈で、そこで、「判断の分かれ目」は「情報」による「鶴翼の陣形」にあった事が判る。
    この「松平軍の鶴翼の陣形」であれば「右側面を突いた方」が良いか、「背後を突いた方」が良いかに関わる。
    「選択の理由」では、「時間差」と共に「地理地形」には問題差が無い。
    そこで「背後を突く事」には、「武田軍の本隊」と「山県軍の別働隊」での“「挟み撃ち」”に成るが、これでは「両方のタイミング差」が起こる。
    「タイミング」が狂えば「武田軍側の2軍」のどちらかに「大被害」を興す。
    少なくとも、この場合は「武田軍の本隊」が先ず「戦闘態勢」に入り、「山県軍・徳川軍と同勢」が「背後」を突けば成功する。現実には「二つの作戦ズレ」でそんな「打ち合わせの時間」は無かったのだ。
    「武田軍の本隊」は「魚鱗」、「松平軍」は「鶴翼」とすると下手をすれば、先ず「武田軍本隊」に犠牲が大きくなる。
    其処に「山県軍の別働隊」が「背後」を突けば、確かに最終は「武田軍本隊」と「山県軍本隊」での「挟み撃ち」で勝利するだろうし、「山県軍の別動隊」より「武田軍の本隊」の「犠牲」の方が大きくなる。
    これは「別動隊としての使命」から「逆戦法」である。
    然し、「北の山際」から「タイミング」を見計らって南に向けて準備の無い弱点の「鶴翼の右側面」を突けば「鶴翼の陣形」は先ずは本隊に犠牲無く時間差に問題なく崩せる。
    其処に「武田軍の本隊」が攻め込めば「武田軍の本隊」には犠牲は少ないし、「山県軍の“別動隊”」の「本来の目的・使命」は達成される。
    然し、そこで青木氏の歴史観に関わって来るのだ。
    この「作戦」には「南下国衆の銃隊」の配慮は無いのだ。
    “右鶴翼の側面を突いて成功した”と「山県軍の“別働隊”」は瞬間は思ったと考えられる。
    ところが、違った。
    突然に突撃の瞬間に「突撃の前面」に観た事も無い「凄い弾幕の銃力」が迫って来たのだ。
    最早、突撃し始めた”「山県軍の別動隊」”の「突撃の勢い」を止める事は出来なかった。
    それは「敵中に留まる事」に成り、左の松平軍の本陣の攻撃を受け、且つ、防御しようもない遠方から「銃弾」を浴びせられる事に成り、下手をすれば「全滅の憂き目」を受ける。
    最早、より早く突っ込む以外に無かった筈である。
    「凄い弾幕の銃力」の前には全くの“「無防備の戦い」”と成ったと観られる。
    故に、「両軍の全戦記」には統一して短い戦闘の時間で「2000の犠牲・程度・少な目」が出たと記されているのだ。
    結果としては、然し乍ら、突撃し「鶴翼の横腹」を突かれ「総崩れ」に成って「松平軍の敗戦」は一瞬で決定的と成ったのだ。
    不思議な光景である。
    「大将の家康」が時間的に観て「右側面」を突かれた時点で早くも「戦線離脱」していたのだ。
    そして、「家康の本陣」が楠ずれたのを横目で見ながら、ところが一方で「山県軍の別動隊」は、この思い掛けない「弾幕の大きな犠牲」を負いながらも、その侭に“「浜松城」に目がけて突進した”とある。
    筆者は、「青木氏の歴史観」として、この“「浜松城」に目がけて突進した”事には「意味、疑問」があったと考えている。
    「浜松城」に目がけて突進した“「山県軍の別動隊の面目」”が働いたと観ているのだ。
    勿論、再び向きを替えて南から「波状攻撃」を「南下国衆の銃隊」に向けて何度もかけて「自らの別動隊の使命」として「全滅」に至る作戦を実行すると云う手もあった。
    それは、「武田軍の本隊」の「犠牲」を少なくする為でもあって、又は、「救う」と云う「別動隊の本来の使命」もあった筈で、それをもせずに、且つ、「波状攻撃・全滅」もせずに、「浜松城」に向かったのは「別動隊の使命」の全てをそもそも逸脱している。
    「命のやり取りの作戦」を実行する戦場で「全滅覚悟」で「使命」を果たすのが通常である。
    これは勝利した後、「戦後処理」で“「誹り」”を受けるは必定で、それを敢えて“浜松城”に目がけて「計画の無い作戦」として南下したのだ。
    南下したのは、勝利を確認する目的」で、そうでなければ「城」を落とすのが「別動隊としての使命」である。
    もし、ここで、“「南下国衆の銃隊」が追尾して来る”とした場合でも「銃力の戦力の違い」で近づかずして別動隊は全滅に至るは必至である。
    これは「別動隊の使命」でもあるが、「臨機応変」に「計画の無い作戦の形」を執る事で本隊を補完するが、其れから考えると、”「体裁」”を整えた事となろう。
    又、その時、「南下国衆の銃隊」が思いがけずも「追尾してこない様子」が見えたので城検視するだけ引き上げで「体裁」を執ったのではないか。
    それだけに「別動隊の被害」が大きかった事も云えるのだが。
    否、然し、地形と距離から「南下国衆の銃隊の行動」は観えていた筈であるので採れた行動であったとも観える。
    これを観て、それ故に「体裁」を整えたし、「もぬけの殻の浜松城」を攻めずに引き上げて仕舞ったと云う「不思議な行動・判断ミス」を執ったと観ているのだ。
    「もぬけの殻の浜松城」であってさえも「山県軍の残兵」を「当面の守備兵」として置き、「別動隊の使命」には「掃討作戦」が待っていた筈で、「本隊の到着」を待って残しておくのが「戦いの常道」である。
    其れさえしていない。
    この一説では、“浜松城に「隠し兵力」が未だ居るかも知れないとする事で引き上げた”とする擁護説もあるが、つまり、これが「定説」にも成っているが、それでも「別動隊の使命」は、「本隊」に対して「全滅覚悟」でその「障害」と成るものを「取り除く事」が「本来の使命」である。
    そもそも、「石高」で凡その「兵力」は決まるし、「戦場」を観れば馬鹿で無ければ「兵力数の限界」は直ぐに読み取れるし、「情報」も得ている筈である。
    それが「武田軍唯一の軍師の将軍」であれば100%そんな事は無いだろう。
    「都合よく江戸期に間尺を合わした擁護説・脚色」としか観られない。
    仮に、「2000の兵力」が無く成っても、未だ「3000の兵」はあるし、「別動隊の使命」としては「城兵」が同程度の「3000もの兵」がある事は無い。
    「織田軍の援軍」の3人の「軍目付・軍監」は、「織田氏の狙い」である「時間を稼ぐ籠城戦」から、家康が突如、「開戦」に作戦を変換した事で3人が持つ援軍は引いた。
    従って、「松平軍の5000」だけで「無謀な野戦」を仕掛けたのに、そもそも「3000も城に残す事」は絶対に無い。
    そもそも、「野戦」とは「勝負の決戦」であり「前哨戦」ではないのだ。
    であれば「城」に詰めているのだから直ぐに判るし、「8000もの兵力」を国衆をかき集めても確保する能力は松平氏には無かったし、そんな力は無かった事は後勘で無くても解った筈である。
    他に「織田軍の援軍説」が、「後付けの多説」ではあるが、筆者は「織田軍」は況や”「西の信長包囲網」”で西に逼迫した戦況下にあり、元々負けると思われる勝負に「多くの援軍を送る事」は100%無い。
    故に、「織田軍」に執っては「東での時間稼ぎ」であった筈で、それには「籠城」が最適で「籠城戦の城」の中に多くの「援軍を送る事」は無い。援軍を結果として廻さなかったとするこの説を論じている説もある。
    ところが、「野戦」を遣って仕舞ったので、それを止められなかった3人の「軍目付・軍監」の「援軍の将」はそれでも後に「信長」に「無能者」として叱責を受けている史実がある。
    「佐久間、平手、水野」が「多くの軍記」に記されている「者・織田家の旧重臣・3人衆」ではあるが、実際は「尾張美濃への配置」に遺していた軍とする説が主流であり、状況に応じて判断する立場にあつてこの「三者の援軍」は明らかに形の上でのものであった事が云える。
    要するに、言葉の通り”「軍目付・軍監」であった事が判り、状況次第で援軍を送るかを決める立場にあって、「時間稼ぎの籠城戦」では無く、「開戦」を選んだと成れば「軍目付・軍監」としては「援軍」は送くる馬鹿はいないと観ているのだ。
    筆者は、現実には送らなかったと観ていて、敗戦状況から観てこの「軍目付・軍監」の三者も命は危なかった筈で、現実には無傷であった処を観ると代理を送り、意見が通らなかった「野戦」と成った時点で3人の「軍目付・軍監」も引いたという事であろう。
    当然に「軍目付・軍監」の「代理」や僅かな「援軍」も意見の違う「戦い」に合力する事は無く引き上げたと成る。
    織田側の「一つの戦記」の「尾張美濃への配置説」の「軍目付・軍監の説」は正しい。
    故に、「軍目付・軍監」は「旧重臣」であったのだ。
    故に、、この「軍目付・軍監」とも成ればその「意味」は違って来て、「戦記」ではここの「知識のずれ」で多説の生まれる処の所以と成ったのである。
    従って、故に此処で論じ着れていない「一つ青木氏の歴史観の疑問」が生まれるのだ。
    それは「時系列の記録」では、「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って「篝火」をたかせ疲れから茶漬けを食した後に寝たとある。
    さて、本論でも一部論じているが、とするとそこで“家康は何時逃げたか”であり、その「逃げる時間・タイムラグ」は「戦いの状況・経緯」から無かった筈である。
    少なくとも「山県軍の別動隊の方」が「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍の本隊」を護り引き付ける為に、「波状攻撃」をしなかった事は判っているので、先に「浜松城」に到着している筈である。
    “開戦開始から2時間で戦い”は完全に終わったとある事からすると、連続的に観て「山県軍の別動隊」の「右側面の突撃」から「左側面」に到達して、更に、そこから「浜松城」に到達するには「徒歩・徒士」でほぼ「2時間」である。
    そして「右から左りに突き抜ける」には、少なくとも「5000の鶴翼の軍幅」は地形からどう考えても「750m〜800mの最大範囲」にあり、「勢い」を着けて「戦い」ながら「前進」するとすれば、「徒歩」を基準として「最低でも15分程度」で抜ける事は出来る。
    そうすると「浜松城」まで「2.3h〜2.4h」と成り、先に「家康」が「浜松城」に逃げ帰っていたとすると、「戦い開始」のこの「15分の間のタイムラグ」の間にしかなく、考えられるシナリオは「山県軍の別動隊が突撃する前に既に逃げ始めていた事」に成る。
    つまり、城に着いて「篝火と茶漬けと寝る」と云う時間は少なくとも無かった事に成る。
    仮に、“「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って”とすれば、「山県軍の別動隊」が右側面を突く勝敗の決まらない相当前に逃げ帰らねばこの説は成り立たない。
    「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」は、そもそも「負けると云う事」であり、戦う前にそれを知って逃げた事に成る。
    それ以外に「時間的余裕」は生まれない。
    つまり、この事から「二俣城」からの「山県軍の別動隊の情報」が全くなかった事に成る。
    然し、記録では「二俣城の戦闘と落城」は知っていた記録と成っているのだ。
    「開戦の前」から北の山際に「山県軍の別動隊」が居た事は山手の地形からして観えていた筈である。
    それも「別動隊である事」、且つ、「山県軍である事」は「二俣城の敗戦の情報」からも知っていた筈である。
    開戦直前には合流せずに「武田軍の本隊」とは違う事をすると云う事は認識していた筈である。
    又、「一言坂の偵察隊・南下国衆の銃隊」からの情報もあった筈である。
    そもそも、「戦い」の場合は「情報の獲得」が戦いを左右し制すると云われている。
    そうと成れば「忍者」を含む“「幌者”と呼ばれる者」を各地に配置して「情報」を獲得し、又、命令等を伝え戦うのが普通であり、これはあり得ない事である。
    事前に間違いなく知っていた筈であり、そうでなければ「籠城戦」として「野戦」には出ない。
    だとすると、「戦闘時間」が何れの戦記でも「2時間」であったとし、「三方ヶ原」から「浜松城」まで「徒歩2時間」とすると、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右横腹を突いた瞬間」の直前の更に前で逃げ始めた事に成る。
    既に知っていたのに開戦すると逃げた事に成る。
    この「タイムラグ」では、「山県軍の別動隊」が「左横腹・鶴翼の軍幅」を突き抜けるまでの時間と成り、つまり、「指揮官の山県」は横目で「家康」が逃げ始めた事を知っていた事に成る。
    だとすると、「山県軍の別動隊」が「額田青木氏の銃隊」に「波状攻撃を加えて来る事」は、既に「勝利が決まっている事」に成り、無く成っている事に成り無理はしない事に成る。
    「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱していた」としても、少なくとも「波状攻撃」は別としても「武田軍本隊に掃討作戦の使命で合流する策」もあった筈である。
    「額田青木氏の銃隊」も「波状攻撃の考え」は同じで無かったと考えられるのだ。
    現実のには史実では、そもそも「兵の居ない篝火の浜松城」を攻めずに”検視”しただけで、「使命の掃討作戦」もせずに「本隊」に戻っているのだ。
    だとすると、“疑問は何故攻め落とさなかったのか”が「大問題」であろう。
    筆者は、「青木氏の歴史観」として、先ずは「精神的なダメージ」として“「額田青木氏の銃隊」から受けた「犠牲」にあった”と観ているのだ。
    要するに、余りの犠牲の大きさに質と量で「空城」に対して“戦え無かった”と云う事だ。要するに「戦意喪失」である。
    そして、それには「精神的ダメージを加わったという事・判断ミス」になろう。
    「武田軍の戦記」には「犠牲2000/5000」とあるが、「戦場」を整理始末するのは「勝利した側の役目」である。
    そうすると、「味方の銃による犠牲」は正しく確認出来た筈で、この「額田青木氏の銃隊」の前にあった「犠牲2000」は少なくとも記録を残す心理として少な目に記録するだろう。
    筆者は、到底、「犠牲2000」では無かったと観ているのだ。
    「武田軍本隊の犠牲」は、殆どの「松平軍の大将」の無くした「崩れた中」に攻め込んでいるので僅かと観られ、「山県軍の別動隊の余りの犠牲」の多さに驚いた筈である。
    だとすると、「750m〜800m」ではそもそも「フリントロック式改良銃」では「射程距離内」にあり、その「飛距離」と「命中率の良さ」から「鶴翼の右横腹」に突撃した時から撃ち始めているので、命中率100%として時間的に考察から「3000」は遥かに超えていたであろうし、それも「相当な訓練」を要する「改良銃」であった事に依り、「火縄銃」に比べる事の出来ない程の「銃の特別な威力」で「ケガ」では無く「戦死」であった筈である。
    「南下国衆の銃隊」が遅れて陣形の敷いた後の「鶴翼陣形の左側面」に着いたとされているが、恐らくは「鶴翼」は開け閉めして動く事から、「銃隊」が「移動式」と云っても鶴翼と同時に様に動く事は無理で、故に「南下国衆の銃隊」が着くとした場合は「付け根部分」に位置した事が考えられる。
    其れで無くては“銃は味方を打つ事”に成り論理的に「付け根部分」で無くてはならない。
    と云う事は、「南下国衆の銃隊」が記録では、僅かに“右に向きを替えた”としているので、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面の山際」から突撃して来たとされているので、「付け根部分」より更に右という事は「松平軍の鶴翼」の「頭部分」と云う事に成る。
    つまり、“旗本が護る本陣の先端”を目がけてやや斜めに突撃した形と成る。
    「付け根部分」と「旗本が護る本陣の先端」とは完全に右向く程度の大きな距離差は無い事に成る。
    だから、「旗本」は崩れ「本陣」に居る「家康」は少なくとも「突撃」と同時程度に逃げ出した事は符号一致するし、「15分の差」で「命拾い」をして逃げだした事に一致する。
    では、どの方向に逃げたかと云う事に成るが、「山県軍の別動隊」が向かう同じ南に向かう事は不可能であり、先ず「東の天竜川の飛龍街道」に向かって逃げ、其処から南下して更に西の城に戻る算段と成る。
    そうすれば、最も敵から離れられ安全で、其処から城に戻るとすると、完全に「山県軍の別動隊」の方が先に城に到着する事に成るし、引き上げた後を見計らって「城に入ったという事」に成る。
    従って、「篝火策の説」は「山県軍の別動隊」が「城」を攻めずに「本隊」に合流した後という事に成る。
    この「篝火策の説」はその後の「武田軍本隊の城攻め」を警戒してのものであった事に成る。
    ところがここで意見が分かれる。
    「武田軍本隊の城攻め」をしたとする「江戸期の説」と、其の侭に「三方ヶ原」から「甲斐」に向かって引き上げたとする説があり、途中で信玄は死亡したとある。
    経緯から「後の説」が正しい。
    さて、そうするとこの「15分の差」は、「山県軍の別動隊」にも言える事であるので、この侭に「浜松城」に「家康」と「山県軍」が向かえば「家康」が既に城に入り、「篝火」と「茶漬け」と「寝る」という事は、城の前に「山県軍が居たとすると時間的余裕」では無理な事である。
    要するに「直前説」はあり得ないと成れば、「山県軍」が城前から引き上げたのを見計らって入り、「武田軍の本隊」が「詰め」として攻めて来る事を予想しての為の「篝火」と「茶漬け」と「寝る」で「諦めの策」であったと考えられ、これであれば「時間的なタイムラグ」は一致する。
    だとすれば、「城引き上げ後」の“敗残兵が城に入り込んでいる”とする「思わせの篝火」であった事は頷ける。
    「家康」に執っては、“傷ついた山県軍の別動隊の使命を果たさずに引き上げた事”が幸運であった事に成り、それは偶然にも、「家康」が重視しなかった「戦力の“南下国衆の銃力の御蔭」である”と説いているのだ。
    更には、「南下国衆の銃力」が「山県軍の別動隊」を目がけて「追尾作戦」をしていれば更には「家康」には「幸運」を招いたであろう。
    「山県軍の全滅」と、「南下国衆の銃隊」が「城」に入り「籠城戦」とも成れば、「兵力差」は無く成り、「籠城戦」を選んだ方が勝利する事もあり得て、場合に依っては全面勝利して「武田軍」は撤退していた可能性もあったと云う事に成り、「家康最大の幸運」と成ろう。
    何故なら「籠城戦」で時間を稼げば、西で戦っていた「織田軍の援軍」が来て外と城とで「挟み撃ち」にして勝利出来ているし、「武田軍の兵糧」は底を突く事になり、「長期戦」は無理である状況にあった。
    又、その心配をして「武田軍の長期戦」は絶対に避けるであろう。
    現実には、西の「信長討伐軍との戦い」は解決せずに、恣意的に援軍を向けなかったとも観ているが、要するに「援軍」は来なかったが、「山県軍の別動隊の使命」を果たさずの「判断ミス」が、再び、西の「信長討伐軍との戦い」に織田軍は勝利して、更に伸長した事で結果として2年半後の「長篠」まで待ち込むまでに「松平軍」を急に大きくさせて仕舞ったのだ。
    「急に・2年半」という処に意味がある。
    敗戦している中でこれには「大きくなる為の財力・軍力」が必要であった筈で、それは其の後の「額田青木氏の陸運業と開発業と殖産業と渥美湾の制海権料」の「冥加金」にあったと観ているのだ。
    「伊勢青木氏・伊勢屋」は「相当な支援・財力」をしたと考えられる。
    其れで、近隣の国衆を集め兵力を高め、「輸入の火縄銃を含む武器」を買い求め勢力を高めたと考えられる。
    況してや、「南下国衆の銃力の脅威・2度の経験」もあったので、「青木氏等」に良い方向に傾いた元と成る「判断ミス」としては、その考える事は人間はこの方向に走るは必定である。
    つまり、「信玄死亡」が原因では無いと観ているのだ。
    「武田軍」としては、「第一次吉田城の経験」もあるのだから、先ずは「城攻め」を諦めて「甲斐」に引き上げると云う判断となったのであろうが、戦略的に観た場合はこの行動は違い戦い時での判断が要求されるだろう。
    其処にも「判断ミス」があったのだ。
    「南下国衆の銃力」が姿を変えて「松平氏の財力」の面で支援して逆に大きくしてしまったのだ。
    後ろに「伊勢青木氏の伊勢屋」が控えていた事が忘却していた山県であったのだ。
    “「山県軍の大犠牲」”があり「武田軍の本隊」も「200の死傷者」を出しているとすると、引き上げは兎も角も、「武田軍の全軍」は「信玄死亡」であっても”「戦略的」”には「浜松城の集結」は常道であろう。
    現実に「信玄死亡」は「2年間」は伏せていたのだし、戦略的に観て秘匿して戦場から甲斐に戻せばよい事に成るだけで要するに「戦略」は完遂するのだ。
    実際には信用できる「武田軍の戦記」の殆どは「引き上げ説」が主流で、「松平軍の戦記」は「浜松城集結説」で「追い払いの勝利説」を唱え江戸期にこれを脚色している。
    実際は「引き上げ説」が正しいが、後勘から「素人」が考えても、「松平軍も武田軍もその戦術」には疑問であるのだ。
    これを「信玄病気説」でこれ等の「戦場行動の疑問」を霧消させていて「辻褄」を合わせているが反論はし難い。
    この「信玄病気説の検証の確定要素」は調査したが「可能性」があるが上記で論じた様に「平時の事」では兎も角も「戦時の戦略」としては無い。
    だとしたら「15分のタイムラグ」しかなかったにも関わらず「家康」は逃げ込んだとする「浜松城」の可能性の低い説は、兎も角も、輪を掛けて、“浜松城に逃げ帰った徳川軍”が、“崖に布の橋を掛け、「武田軍」をあざむき追い落とした”とある説は「後付けの脚色」の何物でも無い。
    動物的反応で生き死にを掛けた緊縛した中ではそんなものに騙される者は居ない。
    この説では、そもそも、“山県軍の別動隊の右鶴翼から突撃の戦歴”も無く成っている事にも成り得る。
    これでは、“「武田軍」は引き上げていない”し、“「山県軍の別動隊」の軍より早く城に入った”と成るし、“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」がかっていて「後付けの脚色美化」をし「物語風」にして楽しんでいる感がある。
    実は注釈として、「歴史観」として、「江戸期」とは、そもそも「真実探求書」と云うより、「面白く物語風の歴史書」を好む傾向があって、「史実の探求」よりも、”これを「社会」が求めたのだ”という事を決して忘れてはならなく、「現在の感覚」では正しく推し量れないのだし、通常は時代が進めば歴史は美化されるものなのだ。
    ところが、如何せん「後勘・現在」でも、「面白く物語風の歴史書」をこれを前提に「史実」として論じているものが多いのだ。
    それだけに、大変な時間を掛けてより「多くの歴史観」を以て「矛盾を探し出す力」が無駄ではあるが必要であるのだ。
    さて“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」では、「2時間」と云う極めて短い戦い時間で「総崩れ・大将逃げた」の説では、“大将が逃げたが全滅は無かった”と云う事にも成るのだ。
    そもそも、これも“「15分のタイムラグ」”は「南下国衆の銃力が造り出した戦歴」であるのだ。
    そして、「山県軍の別動隊の使命」の「波状攻撃」もせず、「南下国衆の追尾」もせずの異変行動は、「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した結果」が齎したものだったのだ。
    「織田軍の雑賀根来の傭兵」の「火縄銃の長篠での結果」では、「全滅の20000」と記録されている事から考察すると、筆者は「三方ヶ原の戦い」は「完全全滅」に近かったと観ているのだ。
    兎も角も、この「事象」は其れこそ「家康の大将の戦線離脱」であるが、「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」で逃げた事は確実である。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊」にはその国衆と成った目的から「山県軍とのやり取り」も有ったし、敗戦の決まった戦場に遺る義理も無かったし、もう一つの決め手は、「家康の速い戦線離脱」を鶴翼の着け根部分にいて「右に向きを替えた事」で知ったのでは無いかと考えられるのだ。
    そこで、「武田軍本隊と山県軍の別動隊の行動経緯」を追って観れば完全に判る。
    「時系列」
     9/29 本隊より「別動隊の行動開始」
     9/29 「山県・秋山・馬場隊の3隊」 出陣−諏訪−東三河−武節−長篠−遠江
     9/31 「馬場隊 分離」 犬居−高遠−吉村−三河
     11/3 「馬場隊」 二俣城 到着 

     10/3 「武田軍本隊」 出陣−「諏訪・・・遠江」−犬居(馬場隊合流)−三河
     10/16 二俣城 到着

     10/9 「馬場別動隊」 武田軍本隊に合流
     10/13 「武田軍本隊」から「馬場隊 再別動隊」 犬居−只来
     10/13 「武田軍本隊」 「二俣城」 到着
     10/18 「二俣城」 「戦場状況見分」
     10/18 「武田軍本隊に馬場隊」 到着 開戦
     11/3 「山県・秋山隊」 二俣城 到着
     11/4 「全軍合流 開戦」
     12/19 落城 開城
     12/21 本隊 朝頃一言坂発進 銃隊到着−額田青木氏の銃撃戦
     12/21 17時半頃浜松城通過
     12/21 20時頃堀江城到着・開戦
     12/22 堀江昼前頃開城
     12/22 昼過ぎ(15時頃)三方ヶ原に出発
     12/22 昼4時頃到着・開戦

     12/21 「額田青木氏銃隊」
     12/21 早朝・5時頃に「浜松城」を出る
     12/21 「一言坂・3時間半」で9時頃に到着
     12/21 早朝 「額田青木氏偵察隊」は「遭遇戦・4時間以上(14時頃終了)」
     12/21 17時過ぎ頃に「浜松城の北東横近く」に再入場せず戻り陣取りする

     12/21 「武田軍本隊・馬場隊」
     12/21 13時半頃昼過ぎ 「一言坂通過(無抵抗)」
     12/21 17時半頃「浜松城」通過
     12/21 浜松城牽制後、「堀江城」へ出発・到着20時頃・開戦
     12/21 一言坂遭遇戦後、「額田青木氏偵察隊」の追尾受ける
     12/21 堀江城に夕方到着−開戦

     12/21 「武田軍本隊・馬場隊」 堀江城 包囲 調略・開城開始
     12/21 「包囲 夜半から作戦開始」
     12/22」 「堀江城 朝に落城・開城」
     12/22 「堀江城の結果」を朝に全体把握」 「三方ヶ原」に出陣する。
     12/22 「三方ヶ原」に「昼過前出発・2時間」で到着
     12/22 「情報で陣形を選択」し整え行軍

     12/22 「松平軍の出陣」 「浜松城 早朝出陣・2時間」で到着
     12/22 「松平軍 三方ヶ原西に移動」 「野戦陣形・4時間・12時頃」を整え待つ。

     10/13 「馬場隊 只来城」を落す
     10/13 「武田軍本隊」 「天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城」落とす
     10/15 匂坂城を攻略
     10/15 掛川城や高天神城 孤立

     10/14 「松平軍 浜松城孤立」
     10/14 「一言坂の戦い・松平軍」 野戦で敗戦
     10/16 「武田軍別動隊・山県軍」 朝から「二俣城」攻める
     12/19 「武田軍別動隊・山県軍」 二俣城落城させる
     12/20 「二俣城で掃討作戦と三方ヶ原に向けて補給路確保」

     12/22 「武田軍別動隊」 昼12時過ぎ 西に向けて移動
     12/22 「別動隊 三方ヶ原・15時過ぎ」 山際北側に到着
     12/22 「武田軍全軍」 「三方ヶ原」 「16時 集結」 「魚鱗陣形」で構える。
     12/22 「16時頃 開戦」 「18時過ぎ松平軍崩壊始まる」 勝利決定
     12/22 「16時過半頃」 「青木氏銃隊」と「武田軍別動隊 突撃」「肉白戦の激戦」
     12/22 「17時前頃 「青木氏銃隊」 戦線離脱 伊川津に向かう
     12/22 「17時過ぎ頃」 「武田軍山県隊」 波動攻撃せず其の侭「浜松城」に直進
     12/22 「20時頃を浜松城検視」 ・確認し城攻めずに「本隊」に引き上げる。

    (注釈 「・印の疑問 銃隊の威力と篝火の策」
    上記の「時系列」に「全ゆる戦記」などの信頼出来る「状況証拠の情報」を組み合わせれば「正しい歴史観」が生まれる。
    「武田軍の別動隊・山県軍」は北の「二俣城」より「旧道(391号)」を移動したと考えられる。
    当初、「籠城戦」を予想していた「武田軍の宿営地」としていた「三方ヶ原」に到着してより「戦いの陣形・配置」を整えるのに「大軍の場合」は歴史資料に依ると「2〜4時間」を所要したとする記録がある。
    そうすると「戦場」には、「三方ヶ原」に向かう途中で事前に齎された情報により、急遽、「魚鱗の編成」をしながらとあるので「2時半頃〜3時頃」には到着していた事に成る。
    史実は「三方ヶ原の戦い」は「所要2時間」とあり、「4時頃」から突然に「山県軍の別動隊」の「右側面」を突破して突撃する事から始まり、その時、「敵大将・家康」が逃げ出す事で「指揮系統」が無くなり、一瞬で「総崩れ」が起こり「夕暮時」で終結したとある。
    「松平軍の戦記」から戦死者は、真偽は別として「武田軍200程度・本隊」で、10倍の「松平軍2000程度/5000」とある。
    これは疑問であるが、「家康」は「数人の供回り」で「敗戦前に浜松城」に単独で逃げ帰ったとある。
    「勝った方」が「戦場清掃をする紳士協定」があり、「兵の死者」などは敵味方に分けて引き渡した。
    その他のものは農民などに請け負わさせて始末したとしている。
    「松平軍の敗残兵」と「負傷兵・3000/5000」は「浜松城」に夜半に「城篝火」を頼りに都度逃げ帰るとあり、「山県の別動隊の城検視」とには、「時間差」があったか黙認したかであるが、直ぐに城から引き上げたとある。この事から、だとすると後から「戦意を失った者や負傷者」がぞろぞろと来る者を「山県昌景」はこれを黙認していた事に成り得る。
    これを観ていれば、「城に戦える程の守備兵」が居たかは「一目瞭然」で落とせるか落とせないかは直ぐに判断は着くし、右側面から突破しているのであるから「松平軍の戦闘能力」も判断は着く筈であり、これは「完全な判断ミス」であり、寧ろ、「判断ミス」と云うよりは筆者は大変珍しい「勝者の敵前逃亡・戦線離脱」であったと厳しく見ている。
    「家康と敗残兵」が、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面」から入り左側面で犠牲を負いながら通り抜け、その侭に「浜松城」に到着した事に成っているが、其れより前に入ったとする「説・とんでも無い脚色説」もあるが、「時系列分析」からこれは100%あり得ない。
    最終の「戦場の細かい清掃と処置」は「農民」に金を渡して行ったとされているが、普通は慣例としてそうするの事に成っていたので「武田氏の資料」が信用性がある事に成る。
    唯、この「山県軍の部動態の行動」が不思議の一つで、「敵将の首実検」をせずに城を攻めないで本隊に引き上げた事に大疑問が残る。
    唯、「山県軍の別動隊」も「武田氏の別の戦記」では「2000」としている事から「青木氏の銃隊」に依って「犠牲」が大きかったと云われ、「城攻めの余力」は最早、無かったと考えられる事も出来るが、それでも「城」に向かって走ったとすれば、未だ「余力」はあった事に成り、「城」を落とす戦力があった事に成る。
    「別動隊としての使命」を果たす事が出来ない程の全く「余力」が無ければ「城」には行かないで本隊に合流するだろう。
    どう考えても「城」は完全に落とせた筈だ。
    「本隊」は「犠牲200」と納得する記録もあり定説の様に扱われているが、「山県軍の犠牲」は何れの資料にも「2000以上の記録」は「遺された資料」からは散見出来ない。
    そもそも、弓矢では無く、「四連発の銃弾」で、且つ、「1k手前から命中率」が90%としている事から、これを受けたとすれば少なくとも「10倍の犠牲」はあったと考えられ、結局は「負傷兵」も含み少なくとも「残兵1000程度以下」と成り、故にこれに「疲労している事」を考えるとせめて「城攻め」は無理だったと考えたとも云えるが、確かにこの「疲労説」もあるが、右から左に「突破しただけの時間」と、「城までの距離・2h」とするとこの説はあり得ない。
    「篝火説」では無いが、何も無理して「城」に入らずとも「城」に戻って来る「敗残兵を掃討する事で「城」は簡単に落とせるのだ。
    そもそも、戦い後、必ず行われる「掃討作戦」は本隊では無く「別動隊の使命」でもあるのにこれもしなかったのだ。
    「別動隊の使命」から観れば、「残り」で「裸の城」を攻めておく必要が戦略上あった筈で、ここを拠点に周囲の出城を落としているので、「三河の西・尾張」に向かって進軍する事が出来た筈である。
    筆者は「軍師の山県」は「信玄病気説」でも全滅覚悟で「後の事」を考えても「浜松城」を確保して、その後の事は「後者に託す事」の「判断ミス」をしたと考えている。
    「信玄病気説」は“人間死のうが一定”が「武士の定め」であり、「信玄病気説」は記録では「甲斐」を出陣する際にも資料から「病気説」はあったのだ。
    とすると、これは予想出来ていた事であって、「浜松城」を確保して「山県昌景」も命を捧げる「本来の使命」で覚悟するべきであった。
    それを、後に「勝頼の出陣」の際に、“死を覚悟して酒を仲間と密かに躱す”等の史実は女々しく「三方ヶ原の判断ミス」“に対して「いいわけ」をしている”としか見えない。
    唯、だとしてもこの時、この敗戦後の「浜松城」には「50人程度以下の守備兵・一説」しか居ず、「山県軍の別動隊」の「残兵」で攻めれば勝てる可能性は充分にあった。
    場合に依っては、「青木氏の銃兵」を幾らか城に遺していたと考えたのでは無いかとも考える事も出来るが、目の前で「戦線離脱」して早々と「伊川津」に戻る態勢を採っているのを観ている筈で、仲間を置いて伊川津に引き上げる事等あり得ない。
    だから「波状攻撃」を掛けなかったのだ。
    そうすれば、残るは「判断ミス」で無いとするならば、「山県軍の戦況」は後勘から観ても最悪であった筈で、残すは、“諸々に「山県昌景」は城に2時間もかけて行っていながら「戦える状況では無かった事」”に成り、「引き上げ」を「別動隊」に命じた事だけに成る。
    上記の通り少なくとも「残兵1000程度」の計算は、後の「長篠の戦い」の「織田軍の傭兵の銃隊3000」の「結果・12000戦死・火縄銃」を考慮しても未だ多い方であったと考えられる。
    そもそも「火縄銃」では、当時の資料から「兵力」に直すと最低でも「10倍」とされている事から観ても、「戦い方の状況」に依っては「20倍以上」にも成ると記され、「兵力・火縄銃」に相当するとした場合でも、「不思議なフリントロック式改良銃の威力」を直前に観ているので、これを「20倍の兵力以上」とすると、「少なくとも残兵1000程度以下」では、「城守備」として「50人の銃兵」を残して置けば「1000の以上の兵力」と成る。
    然し、現実には遺していない事は早々と戦線離脱して伊川津に向かっているので、「山県軍」はこれを観ていて確認しているのでこの説は成り立たない。
    だとするも、仮に、「銃」を配置していたとしても、ここでも「山県軍の残兵」で「籠城戦」で戦うとすると、「別動隊の使命」としても少なくとも「全滅に近い事」とは成るが、何も「守備兵」と戦わなくても「城」は落とせる。
    それは、要は「落したと云う形」}を作れば「流れ」として勝利しているので必然的に堕ちる。
    上記した様に、それは「三方ヶ原の敗残兵」が「城」に戻って来る時を以て「山県軍の別動隊」が「掃討作戦」を展開すれば、「本隊」も到着するか「本隊」からの「掃討作戦の支援の援軍」を待って簡単に勝利出来る。
    何れにしても絶対に“命を賭して「浜松城」を全滅覚悟で落とすべき”であったのだ。
    つまり、何れの考察でも、「別動隊の使命」を無視して、「判断ミスの汚名」を避ける「口実」として、“全滅を避けたかった”とする「言い分」としたと観るしかない。
    筆者は、そもそも、“武田軍は甲斐に引き上げる”と云う「選択」に対しても、感情的に成り過ぎて「戦略的」に観て疑問であると考えているのだ。
    三河の隣の駿府まで支城全てを抑えたのであれば、「拠点の浜松城」を抑えて居れば西に対して勢力を確保でき、且つ、「指揮官の信玄病気死亡説」が仮に起こったとしても、後は「勝頼」なりを据えて構えた方が、「甲斐軍の勢力」は保全出来る。
    “京に上る”と云う「大戦略上」を前提とすれば、「信玄そのものの病気・死」は「位置づけ」としては小さい。
    何せ、“信長が天下をとり幕府を開く”と云う「名目の苦労」より、「甲斐源氏の幕府」は容易であるのだ。
    「鎌倉幕府」と「室町幕府」は全て「河内源氏の支流」であり、例え甲斐が末端の支流であっても「甲斐源氏」としてはその「前例はある事」であって、「信長の様に全国制覇」をしなくても、「足利源氏」に代わって「甲斐源氏」が東側勢力を抑えたのであるから、「朝廷の宣下」は得られやすく「幕府」は簡単に開ける。
    後は、その後の行動で逆らうものは滅ぼせば幕府は樹立出来る。
    先ずは、世の常として「源氏と云う格式・格式問題はある」を前面に押し出せば豪族は“靡く筈”である。
    何故ならば、豪族や信長は自らは「幕府の名目のお墨付き」は「朝廷・宣下」から得られないのであるから、「豪族の勢力」をそれなりに認めてやれば天下は落ち着く。
    これが「尾張の信長の弱点」であったのだから。
    各所の拠点に山県等の将を配置する事で「次の尾張」を潰せば、これで「天下の幕府」は開けるのだ。
    筆者は「山県昌景」は「最大の判断ミスをした事」を説いている。
    要は「大戦略の流れを造り出す事」であった。
    それが「南下国衆の銃隊」で「大犠牲を負った事」で「正常な判断」が出来なく成ったと説いている。
    それに反して「南下国衆の戦線離脱の判断」は逆に“実に正しかった”と説いている。
    だから「武田氏」と違って生き遺れたのだ。
    その“「判断ミスの山県」”が存在する「長篠」では「武田氏を潰す源」を造っていたと云う事なのだ。
    「青木氏の歴史観」を正しく理解して遺すには、この様な深く関わっていた処を解明して置く必要があるのだ。
    何故ならば、“「歴史」”は時代が進むと“美化され都合よく偏纂される”のが常道であるからだ。
    それは「歴史」には、時代ごとに、氏ごとに、地域ごとに「慣習仕来り掟等の伝統知識」があるのにそれを把握しないで論じる者が多くなるからである。
    そこで、もう一つ論じて置く必要がある。
    「青木氏の銃隊の数」が「300丁」とは、「吉田城の籠城戦」と「一言坂遭遇戦」と「三方ヶ原での経験」をしていたとしても、概略でしか知らず、「正確な数」は「武田軍側」は、況して、遅れて来た「山県軍側」は正確には知っていなかったであろう。
    この事による「判断ミスの可能性」である。
    当時、「火縄銃で10倍」と評価されていた事が記録から読み取れる。
    「青木氏の遺された訓練の手紙や商記録の出費や堺の生産力や南下国衆の数」から割り出した数の「秘密裏の数」は「300丁」である。
    ほぼ「3度の失火」で「正式な記録」は消失してはいるが、「遺る資料」を継ぎ足して行けば間違いは無いだろう。
    もう一つの推論として、「武田軍本隊」は「南下国衆の銃隊」がこれを「松平軍の銃隊」と観ていた事の可能性である。
    「山県軍の別動隊」の右側面からの突撃時に「300丁の銃」を、仮に精々、「50丁前後の読み違い」はあったとすれば、「五つの三河戦記の記録」でも、「山県軍の別動隊」も「「50丁前後=1000人の兵力」が「浜松城」に居ると考えた可能性があって否定は出来ないのだ。
    然し、史実は「南下国衆の銃隊」は「戦線離脱」しているので、これは成り立たないが、そもそも、「第一次吉田城の籠城戦」や「一言坂の遭遇戦」で「松平軍」として戦っているとすればその様に理解した事は否めない。
    その様に「渥美湾の制海権を獲得する条件」として「伊川津の国衆」と成って合力している「詳細な経緯」を知っていたかは疑問の方が大きいので、この「推論」も成り立つが、知る必要も無かったかも知れない。
    そもそもこちら側の事である。
    但し、「総崩れ」と成った「松平軍」を尻目に「戦線離脱」している処を「山県軍の別動隊」や銃声の「しなくなった戦場」を「武田軍の本隊」は観ている以上は、例え「松平軍の銃隊」と観られていた「南下国衆の銃兵の仲間」を「城」に放置して見殺しにして「伊川津」に逃げないであろう事くらいは直ぐに判断できる。
    そうすると、この推論は低いが余りの犠牲の大きさに“「山県昌景の判断力」は低下していた”とする上で成り立つ推論ではある。
    そもそも、“戦略的に城を落とすべき”と云う“別動隊としての使命感”も無くしているのだから戦線離脱したとしても「松平軍の銃兵」かは論外であった事にも成る。
    そして、尚悪いのは未だこの「判断力の低下」は続き、史実にある「甲斐」に帰って“「最後の盃」を躱す“などは「武将」としては言語道断であり、「勝頼」に「無能の責任」を押し付けて、「自己の判断ミス」に薄々気づきながらも「大義の立つ死に場所」を考えたと成る。
    その「死に場所」と成った「長篠での戦い」の銃弾の前では、「火縄銃の時代」に旧態依然として「先陣を切った騎馬隊」は全員戦死し、その後に無謀にも突っ込んで来て戦死した「“山県隊”・馬場隊・内藤隊・真田兄弟隊・土屋隊」や、撤退し乍ら傷を得た「穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊」が全滅に近い状態であったとすると、最早、論外で「銃の威力」をどれ程のものであるかをそもそも経験していながら、未だ旧態依然として「山県昌景の判断ミス・死滅」しても「浜松城を落とす事・別動隊の使命」は続き、大きく「武田氏」を潰したと云わざるをえない。
    ここには「美濃の額田青木氏」のみならず「青木氏族」の「時光系甲斐青木氏」が居たのだ。
    そして滅亡に近い状態にさせているのだ。
    況して、「南下国衆の銃隊」が追尾していれば兎も角も、掃討作戦もせずに早々と“戦線離脱”して甲斐に向かっているのだ。
    確かに被害は大きかったかも知れないが、例え「信玄」が戦死・死亡していたとしても“絶対にどの様な場面を考えても、「当初の戦略の目的」の通り「浜松城」を陥落させる必要があった”のだ。
    後勘の「歴史の説」は時代が進むと共に殆どは「美化論」に左右されて行くが、筆者は「正しい歴史観」を獲得する為には、少なくとも「青木氏の歴史観」に関わって来る事に対しては、「山県昌景」を美化する訳には行かないのだ。
    況してや其れが、“「籠城戦」”とも成れば、「第一次吉田城の経験」の通りに、“より「銃力」は「無限の兵力」と成ろうとする時代に成っていた”のだ。
    将としてのあるべき「時代の読みと経験」をしていながら其れさえも読み間違えていたのだ。
    故に、この「判断ミス」に依って“「山県軍の別動隊」は「城」から引き上げた”と充分に考えられるのだ。
    つまり実際には、“城には戦えるほどの「守備兵」は居なかった”のだ。
    「三方ヶ原」から「勝敗」が決まる直前で「額田青木氏の南下国衆」が“戦線離脱している事”は、「城」には「南下国衆の額田青木氏」の「銃1丁」も遺してはいなかった事の証拠であるのだ。
    そもそも、「山県昌景」は有名な「武田軍の緻密な近習軍師」でもあったとされるが、「緻密」ならその「緻密な判断の情報」を獲得し成し得ているし、「上記の事」を最も気にしなければ成らない人間であった筈である。
    何故ならば、実は此処にもう一つ江戸期での「後付け・脚色説」ではあるが、その説には「山県軍の別動隊」の「引き上げ判断」に傾いたものがあったとする説がある。
    一応、参考として論じて置く。
    それは“城の門には明々と「篝火をともしていた事」”は「史実」であって、実は、これは唯単に「篝火を焚いていた」と云う訳では無いのだ。
    つまり、「後付け脚色説」では、この“城には家康が居た事にも成る。”のだ。
    そもそも、これは「中国三国志の軍師」の“「諸葛孔明の篝火の策」”であるのだ。
    大軍の「敵将の仲達」はこれを観て何かの策を警戒して引き上げたのだ。
    この「中国故事の戦略に習った事」を何と「家康」は窮地に知ってか知らずか実行したとも考えられる説なのだ。
    恐らくは、城に入っても安全だとする「敗残兵への合図の印」であった事
    「山県軍の別動隊」が浜松城に到着した時に城には「家康」がいた事を示す事
    以上の二つにも成るが、「15分のタイムラグ」に「山県軍」より「家康」が先に城に到着する可能性が低いのにこの「篝火の策説」がいまだ定説として成っている。
    つまり、この説だと上記の通り先に入るには、「タイムラグ」からして「山県軍」が「鶴翼の右側面」を突く直前に、戦わずして先に逃げた事に成るのだ。
    裏を返せば「後付け脚色説」にした事は、「山県軍」が「浜松城」を落とさず引き上げた直ぐ後に、「家康と敗残兵」が「城」に入って「篝火」を焚いて「残りの兵」に安全を合図告知した事と成り、故に安心して茶漬けと就寝がて来た事に成り得る。
    「城引き上げの判断ミスの行動」が「美化の隙間」を与えこの様な多くの脚色説を生み出す結果と成っているのだ。
    つまり、何を云うかと云えば、この「篝火の策」が直前に「山県昌景」が経験した「銃の威力・隠銃力」を連想させたと成るのだ。
    本来であるのなら、「青木氏の南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した事」は確認しているが、追尾してくる事もあった筈で、それを恐れていた事もあるが史実はこれを否定している。
    そもそも、逆に「山県軍の別動隊が城を落とせた事」を示す証でもあるのだ。
    一時的であっても証としては成り立つ。
    これらに関する「史実」は今も無い。
    そこで検証して観る。
    実際は「浜松城」からは、この“「三方ヶ原」”は、南の海から少しくぼんだ「丘陵の窪みの位置・標高50m・18mの段差上」にあり、「戦線離脱した事」が観えなかった事もあるが、「山県軍の別動隊の残兵」を1000としてこれを並べた場合の「最後尾」が南下国衆の戦線離脱が見えていた筈であり、「戦線離脱の報告」は充分に出来ていた事に成り、且つ、だから「波状攻撃」もしなかったのだ。
    唯、この「篝火策の説」は、「松平氏側の戦記」のもので「武田氏」のものでは無い。
    あったとすれば少なくとも多少成田も行で読み取れる範囲で戦記として書かれていたであろう。
    先ずは、「山県軍の別動隊が城を落とした事」を示す証説を別にして、仮に、この説が有ったとして、これは「敵」を「油断させる策」である事は「軍師の山県」も充分に承知である事は疑わない。
    突撃中、「家康が戦線離脱した事」は左に見えているので、寧ろ、筆者は直前の印象から“「城に隠銃隊」を配置しているのでは”と考えさせて仕舞った事とも成ると観ていたのだが、然し、「南下国衆の銃隊の戦線離脱」ではこの説は成り立たない事に後で知ったのだ。
    これは別の意味で正しく“「篝火の策の延長」”であるのだ。
    この「篝火」が「敗残兵の道案内」として事前に点灯させていたとして、「直前の銃撃」で死傷者を多く出した「山県昌景の理性」を無くした感情から、“「篝火策」”に合わせて「銃」を連想させたと説く事も出来る。
    四時から始まり2時間で終わったとする多くの戦記から判断して割り出すと、「山県軍の別動隊」が「浜松城」に到達した時刻は、鶴翼右側面から左側面までの突撃時間は約0.2〜0.4hで、「三方ヶ原」から城まで徒士で2.2〜2.3hとして、合わせて2.4h〜2.7hと成り、「負傷者」を運ぶ「タイムロス」を考えた場合、「合計3h」は要する事に成ると、1月の7時頃となり、「篝火」は策でろうが何であろうが必然的に必要である。
    浜松城の所在地は明白に成っているので、殊更に「篝火策と云う程の事」は無かったと考えられる。
    この説はやせ我慢の「後付けの脚色」である事は否めない。
    そもそも「篝火」を灯す灯さないではなく、「城」を確認できれば大方は研ぎ澄まされた「戦いの野生本能」として判るし、その場で調べる事さえも出来る。
    視点を替えて「青木氏の歴史観」から検証すると、この様に「江戸期の作文・脚色」とは、検証では「史実として違う事」が相当に見えて来るのだ。
    一般から観れば其処に「歴史の伝統の面白み」が生み出させ夢が引き起こされるのだが。
    但し、「額田青木氏」にとっての結果としては、「青木氏の歴史観」を構成する上で「山県昌景の浜松城の判断ミス」は、その後の「渥美湾の制海権の確保」や「陸運業の転身」や「開発業・殖産業への路」を開けた事で実に都合は良かったのだ。
    “松平氏の生き延びられた事が良い方向に働いた”と云う事である。
    それ故に検証している。
    況や、この事らは「青木氏の氏是」として「良い事」なのだが、それ他家にろんじてはいるが、「一部の記録以外」に表立って「歴史上の記録」には載って来ないが、その全てを決めた行動は、「三方ヶ原の早期戦線離脱」が左右したのだ。)

    (注釈 「上記の経緯の追加再考察」
    これ等の「経緯」から更に次の事が読み解ける。
    「堀江城・朝より開戦・調略・激戦」とで、全体の計画より相当時間が掛かった事が読み解ける。
    もう一つは、「武田軍4軍が揃う」のを待って「三方ヶ原」を「宿営地・当初の目的」にして北から南に向かって「浜松城を攻める計画」であった事も読み解ける。
    結果として思い掛けなく「野戦」を選んだ「家康」に依って「宿営地であった三方ヶ原での戦い」には成ったが、その「集結場所」が偶然にも「宿営地」とする処の「三方ヶ原」であった事も読み解ける。
    何れの軍を動かすにも必ず「食事や武器」などの「補給隊の荷駄隊」が最後尾に伴う。
    取り分け、松平氏にはこれが無かったと考えられるが、「武田軍の本隊」には史実として確認されている。
    それ故に「宿営地」が「戦場と成る事」には、「武田軍の本隊」には「多くの計画の崩れ」が生まれた筈であるし、「武田軍の本隊」に執っては「若干の弱み」とも成った事であろう。
    然し、この「若干の弱み」は直ぐに解決された。
    それは「松平軍」は「鶴翼の陣形」であった事で、「魚鱗」の様な「移動型の陣形」では無かった事なのだ。
    「最後尾」に詰めていれば安全であったので、勝負は実戦に至らずとも既に此処で決まっていたとも考えられる。
    参考として、「武田軍の本隊の計画」では、「一言坂の遭遇戦」に依って「軍の行動」が一時止まり、軍が大きい程に時間が掛かるので「編成立て直し」で、“予定より「4時間〜6時間程度の計画」は先ずは「ずれ」て居る”事に成る。
    「武田軍の戦記」と「三河の戦記の五つの戦記」と「伊勢青木氏の資料・手紙等」を総合するとその経緯は次の様に成る。
    「青木氏の銃隊」の「一言坂の偵察遭遇戦」では、前段でも詳しく論じたが、「武田軍の本隊」は「北の二俣城」から南下して、東から「堀江の西」に向かって「一言坂」を東から上って坂上に到着した。
    一方、「吉田城」から「呼び出し」で到着して、「浜松城」で「命令」を受けて「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」から出て「東の見晴らし」が良く、必ず「武田軍本隊」が通過する「一言坂」に西から向かい「西の坂下」に入り「坂上」に上った少し東で遭遇したとある。
    此処で初めての「敵対の実戦」の「銃による遭遇戦」が始まるのだ。
    そこで、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、実戦のしない「偵察隊」ではあったが、「西の坂下」に逃げると東から西に向かっている「武田軍本隊の騎馬隊」に背後を追撃され全滅と成る。
    そこで、「偵察隊の使命」と異なり「東の坂途中の武田軍」に目がけて前段で論じた「銃撃戦」を開始し、果敢にも徐々に「銃弾幕」で「武田軍の本隊」に近づいたと戦記である。
    そして、この「武田軍の本隊」は「弾幕」で押し込まれ止まるとある。
    そこで、「武田軍の本隊」が更に徐々に東坂下に押し帰されると、逆に「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は尚に「東の坂下」に向けて降りる事に成り、其の侭では地形上では「坂の左右の道幅」が狭い所に達する為に、且つ、「大軍の後退」は難しい為に、「武田軍の本隊」は次第に前面に「崩れ・乱れ」が起こり始めた。
    結果としてこれでは「離れた遠く・300m」から連続的に撃ち掛けて来る為に手の施しようが無く全滅して行く事に成り得ると判断したとある。
    そこで、「武田軍の本隊2万」の内、「3000」を「坂の土手下」を通り、先回りして「西の坂下」に配置させて「僅かな火縄銃」で挟撃しようとしたとあり、これが「南下国衆の銃力」が勝り「効き目」が無く、そこで「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「東の前進」を止めたとある。
    そこで「東の武田軍の本隊」と「西の3000」に左右に向けて「南下国衆の銃隊」を二つに分けて当に「坂上頂上」から「西の坂下」にも「弾幕」を浴びせたとある。
    そこで「西の坂下の分隊3000」は余りの「銃隊の威力」で戦う事を中止したとあり。”道を開けた”とある。
    これを観た「武田軍の本隊」は、更に「坂の中腹の左右」に土手を通り向けて「3000の兵」を追加してこの「坂下分隊」を救おうとした。
    要するに「物量作戦・弓兵力」で囲んだつもりであつたらしい。
    ところが「余りの弾幕」は止まる事無く激しく、犠牲が多く出ることを懸念した「中腹分隊」も戦う事を遂に中止して仕舞ったのだ。
    これは「フリントロック式改良銃」で「黄鉄鉱」で「4回転シリンダ」であるこの事から、「火縄銃の様に10〜15分の間隔」では無く「弾幕間」は空かないのである。
    この時の記録として「300の銃」の「銃身に熱」を持った為に「三段式・銃身に熱」に分け、冷やしながら「前後左右の銃兵」に、「弾を用意する補足兵・50と荷駄兵」が付いての編成で打ちかけたとある。
    この時、「荷駄兵50」は「疲れた銃兵」に代わって入れ替わりながら撃ち掛けたとある。
    この事の意味が重要で、要するに「50の荷駄兵」は「高い経験・熟練度」を要する「フリントロック式改良銃」であった事から、「試射打ち」を経験している「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏の混成隊」であった事が考えられるし、熱を持つほどの激しい連続射撃であった事が判る。
    これであれば、全く間隔の無い弾幕の雨嵐であったし、「命中率と飛距離と破壊力」は「火縄銃の10倍以上・約20倍」であった事から、驚いた「東の武田軍の本隊」も編成を崩して「東坂下通り」に徐々に後退し始めていた。
    この「遭遇戦」は飛距離に問題が無い為に「命中率」は100%であったと伊勢の資料では記されている。
    この結果、「武田軍の本隊」は「軍編成」を崩し、「凸状の坂道の下両方向」に崩れたとある。
    「赤兜の騎馬隊・6000」が「武田軍の本隊」に存在していたがどの戦記にもこの事に一切触れていない。
    何故ならば、この「赤兜の騎馬隊」が先頭に居た場合には後退するにはこの「赤兜騎馬隊」は馬は「後ずさり」が最も難しい筈である。

    この事に付いて何も書いていないと云う事は「軍の最後尾」に位置していた事に成る。
    この「遭遇戦」に「二時・4時間」が掛かり、「西の堀江」に向かう為には「坂上で本隊の態勢立て直し」に「一時・2時間」を要したと記されている。
    この事には「赤兜の騎馬隊」が原因していた事が云える。
    恐らくは、記されている事の事実は、別としてもその程度の事に成る事は充分に予想できる。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊」はこの結果から何とか「無傷・無抵抗」で徐々に「西の坂下」に降りたとある。
    そこで、其の後、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の判断として、“これは「浜松城の戦い・籠城戦」に成る”として、西に走り「西の坂下の北東側・城の北東付近」の一か所に潜んで「銃」を構え密かに陣取ったとある。
    これはこの行動から観て、「武田軍の本隊が浜松城の城攻めの有無」を確認していた事に成る。
    然し、「城攻め」をせずに「城の門前」を悠々と牽制しながら「武田軍の本隊」は先に「堀江城の方向」に向かって悠々と進軍したとある。
    従って、結果として「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この後ろから徐々に西に向けて「武田軍の殿軍・荷駄」を「追尾する形」を採った事に成ったとある。
    これは、もし、「浜松城の戦い」と成ると、城に入らずに小高い丘の“「北東の後ろ」”から再び「弾幕を浴びせる作戦」に出る計画であったと観られる。
    「大軍」である為に「地形的な面」から「陣取り」をしないと「主城・浜松城」を無暗に攻める事は先ず無い。
    この「武田軍本隊の移動の状況」を把握する為にも、「浜松城北東」の「銃隊」に執って良好な「近くの場所・地形的な良好な場所」に先回りして「偵察隊としての使命」から隠れていたのだ。
    これは、仮に「浜松城を攻める様子・牽制の攻撃」が伺えれば「使命」を超えて坂の上での様に「丘から銃弾」を浴びせる予定であったと観られる。
    故に、この事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」に入ら無かった事が判る。
    ところが、この上記の「時系列」から観て、未だ、この時は「松平軍」は「浜松城」に居たのだ。
    この時まで“籠城戦を覚悟していた”と「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は判断していた事に成るのだが、「武田軍本隊」も「籠城戦と観ていた事」に成る。
    そこで堀江城を潰して「三方ヶ原で宿営する予定の行動」であった事に成る。
    つまり、恐らくは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この為の「武田軍の牽制攻撃程度」の行動が城に向かってあると観ていたのだ。
    暫くして,故に、何事も無く「浜松城」を通過して「堀江城」に向かう事が解ったので、確認の為に「陽動作戦」を警戒して追尾したのだ。
    これは、「武田軍の本隊」は攻める事も無しに、唯、「後ろ・殿軍」を追尾し来て備えている一方では、「武田軍の本隊」は「追尾している事」を知っていたので、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「300の銃力の威力」を以て、“何時銃撃してくるか”を恐れたと考えられる。
    何事も無く「堀江」に到着したが、この時、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「追尾」を「西と東の街道の交差際・湖東町付近」で武田軍の本隊が戻る事が無いとして「追尾」を止めたとある。
    ここから「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、結局は城に戻らずに「東の路」を採り「三方ヶ原」に向かっているのだ。
    宿営地に事前に向かったのか、将又、松平軍の野戦の情報を掴んだのかであるが、後者であった事が経緯で判る。
    ここが「野戦のタイミング」と「浜松城出陣のタイミング」の狭間であろう。
    そこで、「武田軍の本隊」は「西の端の堀江城」に向かい「堀江城」を潰して、「別動隊」を待つ為に遅れて慌てて「三方ケ原」に向かったと成った考えられる。
    この時、既に「松平軍」は城を出て「野戦」を選んで「三方ケ原」に向かっていた事に成る。
    「三方ヶ原への到着のどの程度の時間差」があったかは、正確には判らないが「堀江城」から「三方ヶ原」と「浜松城」から「三方ヶ原への差」があった事は考察できる。
    問題に成るのはそれは「野戦を選んだタイミング」である。
    「松平軍」からすると「家康」は「情報」を受けて「最後の砦」の「堀江城の陥落時期」を観て「冷静さ」を失い「野戦」を選んだと考えられるからだ。
    仮に先ず相互の出発点に「タイムラグ」が無いとして、距離的にほぼ同じ程度であるが記録では「松平軍の方」が記録ではやや早く着いたとされている。
    後から遅れて到着した場合は陣形を整える前に襲い掛かられて負ける。
    然し、ここで武田軍に味方する「三つの事」が起こった。
    それは、一つ目は、「三方ヶ原」に向かう行軍の途中で、後ろにいた「赤兜の騎馬兵」を前に出して、且つ、「魚鱗の陣形」の「三角形の編成」をしながら進んだとある。
    二つ目は、「移動型ではない鶴翼の陣形」を松平軍は敷いたのだ。
    この「二つの事」で遅れて到着した「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」で攻められずに無事であったのだ。
    「出発点のタイムラグ」は最低で0.5h、最高でも1hであろう。
    主説と成っている経緯では、城を「未明・夜明け前」に早く出て、早くに「三方ヶ原」に「到着・バイアス8時頃〜9時頃」したと記している。
    この事に付いては「早く出ている事」は確実であるが、未明に関しての判断の意見の分かれる処で「松平軍」は「未明・朝方・夜明け前」に「城」を出たとしている説が通説と成っている。
    これ等の説は「鶴翼陣形は時間が掛かる事」を理由にしている。
    「上記の経緯欄」からそんな「時間差」は無かった事が判る。
    三つ目は、「山県軍の別動隊」の「三方ヶ原への到着の遅れ」である。
    この「遅れ」で「鶴翼の側面を突けると云う利点」が起こった事である。
    当然に「鶴翼の陣形最大の弱点」である。
    この「三つの事」が二つ欠けたとしても「三つ目」がこれを救い「相互補完の形」が出来ていた事に成るのだ。
    「山県軍の別動隊」が先に着けば「本隊」が後からだと、中央に位置するべき「本隊の置く場所」を何処にするかで定め難く成り、「陣形の組み方」が難しく成る筈であった。
    止む無く、合流できず右側面に着く形と成った。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「松平軍の動向の情報」からその事を見極める為にも、「堀江と向かう街道」と「三方ヶ原に向かう街道」の「交差点」で追尾を中止した事に成る。
    因みに、この「青木氏の手紙の資料」から読み取れる記述には、「情報と云う言葉」が入っている事に意味を持っている。
    つまり、「伊賀青木氏の集団」がこの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に寄り添って「独自の諜報活動」を側面からしていた事を意味する。
    更に云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「荷駄隊の50」は少なくとも「伊賀青木氏の伊賀者・香具師・日用品を全国に販売しながら情報を集め諜報活動をする役目」であった事を意味するのだ。
    「伊勢青木氏の一族」で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を補完していた事に成り得る。
    その事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「三方ヶ原・当初は城に向かう予定」に着くのが相当に遅れる結果と成ったのである。
    速く到着していれば「鶴翼の頭」の所の中央に据えられ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の威力で「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊」を少なくとも全滅に至らしめるまでには成っていた事に成り得る。
    そうなれば、「全国の目」が「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に向けられて必要以上に警戒される事に成って「松平軍が勝利の形を得る事」に成り、歴史は替わり「渥美湾の制海権」どころの話ではなく成っていただろう。
    この「遅れた事」が歴史に記録を遺さない「施基皇子の遺訓意」の「青木氏の氏是」の結果を引き寄せたのだ。
    ところが、「12/22・早朝過ぎ」には、「松平隊」は、何と“「野戦」”を選んで既に「浜松城」を出て「三方ヶ原」で迎え撃つ為に「陣取り行動・鶴翼の陣形」に出ていたのである。
    この情報を掴んだ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、「武田軍の本隊の行動」と「松平軍の行動」を知った事で、予想外の“「野戦」”と成れば「城」に戻らずに慌てて「三方ヶ原」に向かったのだ。
    「国衆としての当初の目的」から「三方ヶ原」に向かう必要が無かった筈であるのに、向かったのだ。
    この理由を「青木氏の色々な資料の行」から読み解くと、「松平軍の戦闘の結果」に依っては、“渥美湾の制海権の夢は潰える”と云う「危機感」が「指揮官の脳裏」に走ったのである。
    元々はその為の「偵察行動」であった様で、故に戦うのではなく、「戦いの行方の偵察」の為に左側面に着いたのだ。
    ところが、突然、思い掛けなく右側面から「山県軍の別動隊」が北の山際から突撃して来た。
    応戦するしかなく右側面に入った時に「火蓋」を切った。
    右側面の突撃時は射程距離内であった事から「山県軍」も驚き兵はバタバタと倒れ、最早、動きの流れからブレーキが効かず引き上げる事も出来ずに「額田青木氏の南下国衆の銃隊」のいる「左側面」を突き抜けたのだ。
    「松平軍の状況」を偵察する行動であった事から直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に戻ったのだ。
    そして、「武田軍の三河攻め・伊川津攻め」が起こる事を予測してこれら対処する為に戻ったという事に成る。
    然し、「伊賀の香具師の情報」から南下した「山県昌景の残軍」は「城を攻め落とさなかった事」を知ったのだ。これで先ずは救われた。
    次の「武田軍の三河攻め」に対処する為に「三河の国衆」を止め「陸運業」に転身して「攻撃の対象」から逃れる準備を「伊勢」と共に急いで張ったと云う事に成ろう。
    「東の秀郷一門」と全国24カ所に点在する「秀郷流青木氏116氏」と共にシンジケートを張りこの「抑止力」の為にもこの「銃」は保持していたのだ。
    後勘から観ると、一切の対応に理する処があり、その根拠は「青木氏の氏是」に通じているのだ。
    当然に「魚鱗の陣形」を予想していた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も、又、これを観て更に驚いた。
    「魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「陣形の先頭」に出れば陣形は整い「銃の効果」は出る。
    「20倍の戦力」と成り無勢でも「武田軍」に勝利出来る事と成るが、“然し史実は違ったのだ。”
    「松平軍」は「東の戦況・悉く支城が潰された事」で戦況が悪化していた。
    そもそも、急遽、「額田青木氏」を「伊川津」から出て「吉田城」に入り、そこから「東の浜松城」に呼び出されたのであるから、これは否を観るより明らかで誰が観ても「軍力」は低下しているし、この事に対して「情報」を得ていて、「武田軍の本隊」も「見誤る事」は100%無かっただろう。
    そもそも、「最後の砦」の「西端の堀江城」が攻められているのに、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を使って「背後を襲う事の行動作戦」を採るのは「当然の戦略」であろう。
    然し、其れさえもしなかったのである。
    筆者は、この様に緊急策として浜松城から呼び出しはあったとしても、この事から、「国衆としての位置づけの違い」が「家康」に執っても「銃の信頼」はそれなりにあったとしていても、違約状況であった事から「遠慮があった」とも考えているのだ。
    筆者は、「偵察隊と云う目的」には「銃の威力」のみならず、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」の能力も期待していたのではないかと観ているのだ。
    そうすると、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」のみならず「伊賀者全体」をこの「戦い」に注いで強力化していた事が云えるのだ。
    だから“「浜松城に隠し軍」を残すような事はしなかったし、それをする訳がない“と観られ、「額田青木氏の銃隊」が動いている事を「一言坂」で知って、当然にこれに伴い「伊勢」が動き「伊勢者」が動いている事は、「武田軍の本隊」は先ずは思うのが普通であろう。
    然し、「別働隊の山県昌景」は浜松城では「軍師であった事」もあって違っていたのだ。
    要するに、“余りの思い掛けない「銃の攻撃」と「その被害の大きさ」”に「冷静さ」も失っていて「篝火の計」に却って翻弄されたと云う事もあろうが、然し、そもそも戦っていてどの程度の軍力を持っているかは判っていた筈であり、「織田軍の援軍・説が錯綜」もどの程度で在るかは「関西の戦況」から観て判る筈で、其の隙を突いての「駿河三河攻撃の戦略」であって読めていたし、且つ、何は兎も角も「別動隊の基本中の基本」の「使命感」さえも失っていた事にもなる。
    「使命感の喪失と判断ミス」が、「青木氏の氏是」に沿う行動が取れ「青木氏」を救ったのだ。
    故に「江戸期の作文」では、「別動隊の山県昌景」は城から引き上げたのは“「信玄病状悪化説」”が主流と成っているが、そもそも、故にこの説は「青木氏」から観れば大いに疑問なのだ。
    何故ならば、「三方ヶ原の戦い」でどれだけの「連合軍の軍勢」であったかは観て判っている筈で、況してや「軍師」であってこの事は“見誤る事”は先ず無いだろう。
    「開戦」は「2時間」であったと「武田軍側の戦記」と「松平軍側の戦記」でもこの事では一致している。
    「浜松城の守備隊」が“「銃隊」”でない限りは、「別動隊の余力」でも充分に攻め落とせる範囲であり、仮に「後付け」の「信玄病状悪化」であったとしても、死んだとしても少なくとも「1時間程度」で簡単に落とせるだろうし、“そんな時間が無かったとは云い難い”し、「今後の事・尾張織田氏決戦」を充分に予測出来ていた筈で、「青木氏の歴史観」からすると逆ではある。
    この事を考えると“落としていた事の方が絶対的に得策”であったろう。
    「家康の首を落としていた方」が、つまり、「今川勢力」が衰退している中では「東三河」を完全に落としていた方が、「武田軍」に執っては簡単に「西三河と尾張」に掛かれるだろう。
    背後から上杉から牽制されてはいたとする説があったが、「駿河と三河」を手に入れ東から西に向かって「織田勢との戦い」に成っていた事も考えられ、北たから南に向かって通して治める事で「莫大な財」を得た「武田勢」に対しては、「上杉」もそう簡単には手は出せなくなるし、「向後の憂い」を無くして有利であった筈である。
    「海の幸と陸の幸」の「財を得る事」は要するに「銃を得る事」に繋がるのだ。
    この様に後勘で検証して観ても、現も実にも「長篠」に至るまでの「勝頼の行動」はそうなっている。
    唯、「山県の判断ミス」が「武田氏」を二派に分けてしまったと云う事で「勝頼・武田氏の行動」は狂ったのだ。
    「松平氏の勢力如何」に関わらず「伸長し始めた織田氏勢力」を“間断なく東・西三河」で抑えて置く必要”が戦略上は絶対に必要であった筈であろう。
    「浜松城」を起点に「三河を制圧する拠点」であった事は「甲斐の複数の戦記」にも統一して記されているし、現実にも「武田氏の一連の南下政策の戦い方」はその様に行動していた。
    そもそも「松平軍の採った行動」が、「堀江城支援無し」と「銃隊を使わなかった事」から考えれば、“「大軍の城守備隊」が「浜松城」にあった”とは実に考え難いし、「三方ヶ原」が一瞬で壊滅状態に成っているのに、仮に守備兵の中に銃隊の一部が居たとしても「城守備隊」が「援軍」として向かわなかった事もおかしい。
    「城」は負けては元も子も無しである。
    なのに「山県昌景」はこの「基礎的な誰でも知っている戦略」からも逸脱して「判断ミス」をしていたのだ。
    そもそも、「額田青木氏の南下国衆」と「伊勢青木氏」からすると、当初の「国衆に成る条件」からして「守備隊」と云う「国衆の立場・家臣化」には無かった。
    「国衆に成る条件」を知らない「銃保持の守備隊説」は「青木氏の歴史観」からすると無いのだ。
    仮に居たとして「三方ヶ原」が「完全敗退」に成り掛けているのに「城」から出て「武田軍の背後」に廻れば未だ崩せていた事も考えられる。
    だとすると「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も引き上げてはいなかった筈である。
    「引き上げ」そのものが難かった事になろう。
    況してや、「青木氏の銃隊」が「城守備隊」として「城」に残していたとすれば、早めに「城」から出て「背後」に廻れば充分に勝てていた事は考えられるが史実は遺していなかった。
    「南下国衆の銃隊」にこの「役目を負わす事」の範囲が約束上出来ていなかったと観られる。
    「青木氏の資料の行」から観て、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」とは「渥美湾の制海権の補償」と「三河の商いに於ける補償」を前提としての「契約」であり、「家臣と成る契約」では無かった。
    だから本来は“「吉田城の守備の範囲」”が限界であって、それを超えての「一言坂の偵察隊」であり、「三方ヶ原の目的外の働き」であって、その後はすぐさま「戦線離脱」して「伊川津」に戻り「陸運業の準備」に入ったのだ。
    “「城」に残してほしい”との話はあったのかも知れないが「城などに入る事等」は元々無かったし、あったとしても拒否していたであろう。
    筆者は軍議の中で「城に一部を遺す事」の「松平側からの話」はあったと観ているのだ。
    「三方ヶ原」に長時間に戦場に遺るのでは無く、思わず面前に現れた敵の「山県軍の別動隊の突撃隊」を打ち壊したが、この“「開戦」”と同時の「戦線離脱の行為」はそれを裏で証明している。
    恐らくは、兎も角も、「南下国衆の銃隊」みならず「伊勢」も“「建前」”だけを執り“勝敗には関わりが無かった”のではと考えられる。
    唯、先ずは「渥美湾の制海権の獲得」にあって、最低限に「松平氏の三河域の保全」にあったのであろう。
    「駿河の浜松城」の次は誰でも判る事だが「東三河と来る事」は読み込んでいただろう。
    その為にも、逸早く、「伊川津」に戻り「伊勢の得意の情報網・香具師」を張り“「防備」”を整えようとしたと考えられる。
    その「防備の方法」にはいろいろあると思うが、先ず、「三河国衆」を辞して「陸運業」に転身して、「武田氏」とは「戦歴」を造っている以上は、「攻撃の対象」から免れる「戦術」を執った。
    それ故に、「土豪3氏の分家」の「陸運業への参加」は「疑いを招く事」が強い事もあって、且つ、「内部問題も招く事」として「問題」と成ったのだ。
    そこで、「商い」でありながらも万が一の場合として、社会が安定せず盗賊や山賊などが頻繁に横行する中で、この「銃で抑止力」を高めたのだ。
    「籠城戦」から「野戦」に作戦変化した事で「一言坂の遭遇戦」で、一応は「目的・命令」は終わっていて、故に、“堀江の近くまで追尾した”のであって、「三方ヶ原の鶴翼の左側面」に着いたのは「将来の事・渥美湾の制海権獲得」を考えれば「様子見の建前」を果たしていたのだ。
    筆者は当初、「追尾」は「使命が果たされた事」で「「伊川津に戻る過程」にあったのかとも推測したが、資料を読み込む過程で「三方ヶ原」に向かっている事が判ったのだ。
    ところが、「二俣城」からの「山県軍の別動隊」の「鶴翼右側面」からの思い掛けない突撃にあい、取り敢えずは「目の前の敵」に「応戦」に及んだと成ったと観ている。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「一言坂と三方ヶ原」は「初めての交戦経験」であった。
    これを「戦線離脱」と云えるかは別として、故に、「今後の事」を考えて「戦況」を確認して「交戦」を終えると、行き過ぎの無い様に直ぐ様に“「踵」”を返し、必要のない場から「戦線離脱」をしたのだ。
    確かに“「戦線離脱」は恥ではある”が、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「当然の行動」であったのだ。
    故に、「山県昌景の判断ミス」で「浜松城」で生き延びられた「松平軍」が再び拡大しても咎められる事なく、「伊川津」に其の侭に居られたのはこの所以でもある。
    寧ろ、「咎められる処」ではなく、「伊勢の青木氏・伊勢屋」を背景にして「陸運業、開発業、殖産業」と経済で「三河」を大いに替え豊かにする事に成り、それに伴て「子孫」は拡大し、それでこの「三河の財力」を以てしてその後の「長篠」から「甲斐」へと迎えたのだ。
    筆者はこれは過言では無いと観ている。
    それ以後、「家康」とは、その後の紀州藩とは幕末まで“「水魚の交わり」”が続いた事が何よりの証拠である。
    「伊川津」のみならず、それ故に、一部は「桑名」に帰したとしても「額田青木氏の主家の蒲郡青木氏」の「蒲郡」に「事務所」を構えて遺る所以と成ったと考えている。
    それだけにこれ等から判断すると、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・銃力」には、当初から“「軍に与える影響の威力」”には「密かな自信」を持っていたのだ。
    現実には、「城」には「山県昌景の恐怖感」だけあって、「銃隊」は無かったが、将又、「別動隊の背後」から猛追して来る可能性の事も考えたかも知れないが、現実にはその様な立場には無ったのだ。
    寧ろ、「別動隊の使命感達成」では、「浜松城を攻める事」以外に「武田軍の本隊」を護る為にも、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を「別動隊に引き付ける事」の考え方もあったが、この為にも、逆に死に物狂いでの「別動隊の波動攻撃」を受ける事を「南下国衆の銃隊」は予想覚悟していた事にも成る。
    故に、「南下国衆」から観れば、逸早く、「戦線離脱する方」が得策と観たのだ。
    然し、「波状攻撃」をしようとして偵察すると、「伊川津」に向けて「戦線離脱している事」は確認できているので、結局は「向後の憂い」を無くして「城」に向かったのであるし、然し、城を落とさなかったのだ。
    どの様に考えても「別動隊」と云うよりは、“百々の詰まり”は「山県昌景の行動」が可笑しいのである。
    “信玄の病状悪化説”としても「勝頼・後継者」等もいると考えれば「城も落として置く方」がどう考えても良い。
    兎に角もどの様に可笑しいのかと云えば、良い方に観たとして、“落とさずにいた”のは、筆者は、“敢えて家康を遺した”とも「一つの考え方」としては考えられるが、其れならば「三方ヶ原」で突撃しなければ良く、当初の予定通りに先に「武田軍の本隊」に合流する手は疑われずに済む事にも成る。
    「陣形の採り方」から観て「勝敗」は「時間差」に依るもので勝利している。
    「城を落とさずに引き上げた事・判断ミス」には、後刻、「甲斐・武田氏」の中で議論が分かれた筈である。
    「勝頼」は、戦略上最も重要な「別動隊と云う使命」を果たさなかった「原理主義」を以て「山県昌景」を間違いなく信用しなかったのであろう。
    其れなりの「知恵・判断力」は「勝頼」には充分に有った筈で、故に武田氏は二分したのだ。
    筆者はこの説を採っている。
    「使命」を果たさなければ各自思い思いの行動を執れば「軍略の意味」はそもそも無いだろう。
    故に、その後の「武田氏の中」で「長篠」に対して「軍勢」を纏めるのに「国衆・豪族・史実」は割れたのだ。
    この様に江戸期の「家康擁護説」もあるが面白おかしくして物語にした脚色説である。
    何度も云うが「青木氏の歴史観」から観ると「山県昌景の判断ミス」が全てを左右したのだ。
    その「判断ミス」を起こさせたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」であった。
    更に、その「判断ミス」を助長させたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦線離脱」であったと説いている。
    事程左様に、幾つかの歴史史観は、この「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の歴史観を考察の中に配慮していない事で起こる「後付けの搾取や偏纂説」で「誤り」を起こしているのだ。
    取り敢えずは「後勘説」とはなるが、一応、検証して観る。
    それは、信玄死亡後、「織田勢の伸長」が益々著しく成り、西三河は元より「東三河」も完全に手中に納め、「駿河」も手中に収める可能性があった。
    だとすると、「武田氏側」は「織田勢を抑える」には「家康を生かす事」で“歯止めに成る”と「山県昌景」は考えたていたのではないかと云う「江戸期の説」もある。
    要するに、興味本位の「後付けの我田引水説」ではあるが、其れならば“浜松城を攻め落としていた方がより確実”であろう。
    つまり、「武田氏の中」で「三方ヶ原の後」に「山県昌景の判断ミス」を隠して、そうすれば、「今後の勝頼の東三河攻め」が容易に成るとする説を考え出したとしたのではないか。
    「勝頼の能力」にも、“山県昌景等の重臣等は疑問を持っていた事”は「戦記」でも書かれていて、同時に勝頼からも重臣たちへの「信頼・判断ミス」が薄らいでいた環境の中で、「長篠の戦い」を避けて撤退を進言したが、「決戦に傾いた」としたとする説である。
    この時、旧来からの旧臣達は“「織田の勢力の伸長」を憂いて、最早、「勝ち目」がない”として「別杯」を交わしたとある。
    この「別れ杯」は実際に躱された事は史実であり、これに其れなりの意味がある。
    つまり、「苦戦して負ける事」を覚悟していた事を意味する。
    「武田氏の戦記」の幾つかでは、この時に「松平氏の調略」を進言したが「勝頼」は聞き入れなかったとしているので、上記の「山県昌景の戦略・判断ミスを隠す」は崩れたのであり、これ等が何よりの証拠と成るであろう。
    それには、「山県昌景の軍師の脳裏」には、「三方ヶ原の苦い経験・判断ミス」があり、そもそも、自信のある軍師の”戦い方の善悪の勝敗・判断ミス”では無く、「軍略」に関わらない“銃の有無の勝敗”だとして「軍議の争点・山県派」を逸らしていたと云う事に成ろう
    確かにそうであり、既に、「武田軍」は「三度」も銃に経験しているのだから、この事を意味するのは当然である事は否めないが、“「山県昌景の判断ミス」”は“「銃の威力」”から来ている事を軍議で示し、この様な「判断ミス」を犯さない様にするには、「責任転嫁」か「非難覚悟」で“銃の有無の勝敗”を主張した事に成ろう。
    「銃の有無論」としても、そもそも、「三方ヶ原」のは「松平氏の銃」では無く「南下国衆の限定した戦いの銃」であった。
    武田氏が三方ケ原後に「火縄銃」を獲得しようとしても「信濃甲斐」に於ける「税に対する国衆の不満」が高く、「高額な銃の獲得」は「銃生産量」は元より「銃シンジケート」で仕切られていたルートでは根本的に無理であった。
    そもそも「織田氏」でさえも「火縄銃」は「雑賀根来の傭兵軍団の銃」に頼っていて、信長は「長篠後・1575年」に「雑賀根来との関係性・発言力を増した」は「悪化・1570年〜1576年」して調略や戦いを開始し、「1577年・長篠2年後」に遂には「信長」に依る「雑賀根来潰し」が本格的に起こったのだ。
    要するに、「三方ヶ原の3年前」から既に獲得の為の「調略作戦・7年間」が展開していたのだ。
    呉越同舟で兎も角も「傭兵」としていたが極度に警戒していた事が判る。
    そして遂には、これに決着をつける為に「秀吉」に依る「銃獲得作戦・1585年」が開始された。
    結局、15年間で完全に「銃とその銃組織」は手中に収めたのだが、既に「三方ヶ原の傭兵銃の威力」も裏では「銃獲得の戦い」が行われていた史実なのだ。
    この「雑賀根来の傭兵軍団の銃」の獲得に向けて大きな犠牲を払って「紀州征伐」を行ったくらいである。
    その程度の事は情報で武田氏が掴んでいただろう。
    この環境の中で裏ルートで多少の銃が入手出来ていたかも知れないが戦力には成らなかったし、「銃獲得」が容易ではない事位は、「税の問題」に依らずとも「無理の判断」は武田氏側では出来ていただろう。
    そこで、この事から考えれば何せ「戦線離脱している事」は知っていれば、この「国衆の力は違う」の位の情報は掴めていたと考えられるし、2年5月後の「武田氏」にも「情報網の存在」は当然にあって、「三方ヶ原後」に「陸運業に転身している事」はこの期間であれば噂では無く「情報」として充分に掴めていた筈である。
    故に、其の後の状況証拠から“責任転嫁であった”と筆者は観ているのだ。
    だから「甲斐・武田氏と甲斐の国衆」は「三方ヶ原後」に二つに割れていたのだ。
    つまり、「武田軍」には三河以上に「旧態依然の古い感覚」があり、「銃の認識」に極めて低いものがあり、「銃の数」にも「戦うだけの数」は到底無かったし、例え、「調達の充分な財」があり、且つ、「銃の認識」が強くあったとしても「生産量とシンジケート」から無理であったのだ。
    この「当時の外国製」は「銃身の爆発」が多くあり、高額ばかりで信頼されていなかったし、「貿易」は限定されていたのだ。
    「外国製の火縄銃」は、そもそも「西洋で新しい軍用銃」が開発され、そこで不要と成った「中古の火縄銃」を高額で最初に種子島に持ち込んだのだし、「貿易」で新しい幾つかの「軍用銃の見本」も秘密裏に入っていた事も史実である。
    従って、それ等の「全ての諸事情」を憂いた「別れの杯・杓別杯」であったとし、これを美化であろうが、「戦記」ではこの様に定説化にしているのだ。
    「山県昌景・判断ミス」を裏返しする程に、反省し恥てそれほどに「強い銃の感覚」を「三方ヶ原」で持ったし、「武田軍本隊」に居て「吉田城や一言坂」で経験した多くの他の将も「長良川の情報」や「自らの三度の経験」を通して、「強い銃の威力感覚」を持っていたから、「憂いの別れ杯」と成ったしているのだ。
    然し、そもそも「長良川・1556年」で初めて使った事で「自信や確信」を持った「伸長する信長の感覚・雑賀根来の銃傭兵軍団」は全く反対であった。
    「長篠」では“それが決め手と成る”と感じ執っていた事を「憂いの別れ杯」は意味するのだたろうか。
    それは、「三方ヶ原等の戦い」等で経験していたので、、「山県昌景の軍師の脳裏」にはこの事が走馬灯の様に浮かび、矢張り「雑賀根来の銃傭兵」が「決め手」と成ったのだ。
    「長篠」では「織田軍の火縄銃の威力」が統一して記録されているが、「松平軍の銃力」は全く記録されていないのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、既に、「三方ヶ原」で逸早く「戦線離脱」して「伊川津」に戻り、「陸運業」に入った事で、「フリントロック式改良銃」は「青木氏の記録通り」に「松平軍」に渡していない事に成る。
    これを使うには、「高度な熟練」と「弾丸や黄鉄鋼の入手」等の「貿易による調達」が必要であつて、且つ、「手紙の行を読み取る事」でも判るが、未だ「安定しない社会」では「陸運業の護身用」として「伊川津」で生き延びて行くには、“「抑止力」”として持っておく必要があったのだ。
    仮に「松平軍」にこれを渡して入れば、「織田軍の火縄銃以上」に記録に成っていたであったろう。
    現実には、「危険極まりない銃の勢力」が隣にいると成れば「織田氏」はこれを許さなかったであろうし、当然に戦いと成っていただろう。
    そうでなくても現実にはこの方向に動いたのだ。
    「三方ヶ原の戦い」とは別に、この「改良銃」を「松平軍に渡す事」で、「織田軍の火縄銃の傭兵銃・1000丁・10倍」と「松平軍のフリントロック式改良銃・300丁・20倍」の「対決」と成っていただろう。
    因みにこの仮説では、「勝負」は「火縄銃の非移動式と弾幕の間隔差」と、「可動式」で「連射弾幕の差」と「命中率と被弾距離」で、「松平軍」は近づく事なく勝利していたであろう。
    要するに、最早、其の後の「南下国衆の銃」を「松平氏に渡さなかった理由」は、「唯単なる撤退・判断ミスの経緯」だけでは無かった事が判るのだ。
    「渡す事」で戦略的に何が起こるかであり、それが「青木氏」に於いての「利」にあったのだ。
    渡して「松平氏」が「銃による兵力」を拡大させて伸長する事を良しとしては居なかったと観ている。
    「織田氏との勢力争い」を起こし「渥美湾の制海権の獲得」が成し得なくなる危険性があったからだ。
    現実にはそう成って行ったのだ。
    筆者は、「武田軍の銃の感覚」が「経験」から強く成って行った時期の過程にあって、ところが逆に「武田軍・勝頼一派」にはこの「銃の感覚」は未だ薄く「山県昌景への判断ミスの不信感」と共に増幅し、家中ではこの「感覚差」とで争う中にあったのだ。
    従って、共に「戦力と成り得る保有数」も無かったのだ。
    「武田氏の中」では故に「三方ヶ原後の軍議」では激しい議論があったと予想できるし、「武田氏側の戦記」もこれを記している。
    「信濃も獲得していた武田氏」には、信長の様に金に糸目を着けず「銃の獲得」は出来ずとも、「生産地の雑賀根来のシンジケートの傭兵」を「高額の金銭」を払って雇ってでも、「勝利」と云う一点に焦点を合わせ戦った事に違いが出たのだ。
    勝利さえすれば元は取り戻せると云う「合理主義」にあった。
    故に、直前の「信長」も「長良川の一件」が無ければ、ここまでは「銃への信頼」は無かったと考えられるのだ。
    この様に、“「銃の存在」が「戦いの勝利を左右する事」”から「銃の戦記」として江戸期に書き添えると云う事が頻繁に起こり、その為に「松平氏の銃」は要するに「額田青木氏の銃」であったと誤解された。
    「江戸期の戦記」では上記したような銃の環境下にあって「銃を獲得する高い経済力」も無かったにも関わらず、これを「松平氏の銃」と見間違えて描いた事に成る。
    「1573年」に既に「南下国衆」が引き上げて離脱して銃力は無くなっているのに、未だ“保有している”と勘違いしていた事に成る。
    念の為に史実は、次の様に成っている。
    「銃の最大生産力」とその「一丁当たりの金額」と銃を外に漏れない様にして「銃のシンジケート」を構築して「傭兵需要」を保全していたので、「入手」そのものが難しかったのだし、「2000両/1丁と云う高額・初期は4000両」でもあって、「輸入」も同然で「秀吉の刀狩り」までの事であるし、「織田氏」でも「生産地の雑賀根来の傭兵」であったのだ。
    仮に、戦記の意味の様に獲得できても「銃隊」を編成出来る程はそもそも無く、「近江からの横流し」からの獲得量が関の山で少量あったのだ。
    後にこの事が「伊勢青木氏」に発覚し、「堺」を経由して近江には「資材の供給」を停止している。
    この為に、「近江銃・龍源寺銃」は崩壊し、「真面な鍛冶師」は殆どは「伊勢青木氏・青木氏部」に引き取り、「横流しをした一部の者」は史実として「薩摩」に逃げ込んでいるのだ。
    「殆どの戦記」は、この事の史実に間違えていて、入手出来たのは「信長の紀州攻め後の事・織田氏が獲得」である。
    そう云う意味で、「三河戦記の五戦記」には、「額田青木氏の事」が「戦死者や戦場や伊川津の事」も含めて記されてはいるが、江戸期初期には「幕府の銃規制」があって「戦記」に書かれている程に「大量の銃の期間・刀狩りまで」は極めて短く、「銃の意味」が無ければ態々「書き足す事」は無かった筈である。
    故に、江戸期に成って「多くの戦記」には「後付けの銃の事」を書き足したものであるが、「額田青木氏の事・南下国衆の銃」は「書き足される事」は無かったのだ。
    これが「青木氏の資料」には遺されているとしてもである。
    「長篠の戦い」がこの期間内であって、その後に「雑賀と根来の傭兵軍団」は上記した様に「銃の持つ惣国」の集団として「紀州征伐・信長と秀吉」で潰され、直ぐ後の“「秀吉の刀狩り」”で「銃」は「法度」に成ったのだ。
    更に、「家康」が江戸初期初期に“「銃規制」”をして封じ込めて全く意味が無く成り、「銃の価値と値段」は底を突き無く成って仕舞ったのだ。
    仮に持ったとしても貿易に関わる程の勢力との繋がりがなけれは銃は使えなかったのだ。
    丁度、この“狭間”に「武田氏の銃事情」は置かれていたのだ。
    故に、「入手の事情」と云うよりは当時は“「傭兵への事情」”として扱われ、「武田氏の中」では「議論が別れる処」と成ったのだ。
    「信長の長良川の印象・火縄銃」と「3度の実質経験・南下国衆の銃」が「武田氏」を二分し、その基は「山県昌影の判断ミス」が引き起こしたものであったと「青木氏の歴史観」としてはどうしても成り残しておく必要があるのだ。
    然し、これが「額田青木氏と青木氏族」に執って「良い方向」に事は運び「永遠の運」を掴んだのだ。
    因みに、この時、「南下国衆の銃の陸運業」は、完全放棄せずに実質に使われる事は無かった様だが、「護身用・抑止力」として一部を密かに保持し、残りを「伊賀」や「秀郷一門」に「大量の備品・弾、黄鉄鉱」と共に「下げ渡している事」が読み取れる。
    この「南下国衆の銃の陸運業」の「戦歴の持つ威力の事」は瞬く間に全国に密かに拡がり襲うものは居なかったであろう。
    資料の陸運業の事の行には、「国と国を渡る運送」には「宿」で密かに隣のシンジケートと交渉をしていた事が記されている。
    この経緯に依って「伊豆や信濃との道」は出来て「青木氏族」は生き延びられたのだ。
    此れさえ出来れば「下げ渡す事」をしても「効果」は認められ、生き遺っている「全青木氏族」は護られるのだ。
    「青木氏の歴史観」として「三方ヶ原の経験」は無駄ではなく「良い方向」に向いたのだ。
    何を兎も角も、躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」が効果を奏したのだ。
    同じ「一瞬の判断」でも「銃」に頼らない「青木氏族」は、生き延びて子孫を拡大させ、疎遠であった「甲斐青木氏」を含む「武田氏」は滅亡したのだが、この「山県昌景の判断ミス」とは相対的であるのだ。
    これが「青木氏族」に遺した「始祖の施基皇子の教訓」の「青木氏の氏是」の意味する処なのである。
    躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」では無く、其の侭に「山県軍の別動隊の追尾」や「武田軍の本隊」に向けてこの「銃口」を向けた場合は、間違いなく「歴史」に名を遺し、周囲から警戒されて其の侭では済まなかった筈で、泥沼化していた事は間違いは無いのだ。
    これは「青木氏の氏是」の「発祥以来の伝統」に反するのだ。)

    「青木氏の伝統 61」−「青木氏の歴史観−34」に続く。


      [No.384] Re:「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32
         投稿者:青木   投稿日:2020/08/05(Wed) 15:02:35  

    > 「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」の末尾。

    > 「生き遺りと自由」を求めた「分家筋」が、「伊勢側の了解」を得たので「陸運業」に参加した事に成ったのだ。
    > 確かに「伊勢側の主張」も納得できるが、損得で云えば必ずしも損を危惧する事だけでは無かった筈である。
    > “船頭多くして船山に登る”の諺の通り「利」はあったのだ。
    > 「額田青木氏の三方ヶ原の戦線離脱」は「罰則中の罰則」であるが、この罰則は受けずに「伊川津と蒲郡」に定住しているし、「豊橋、豊川、岡崎等」に定住もしているし、「陸運業と開発業と殖産業」もしている。
    > これは要するに「上記の位置にあった事」を証明している。
    > 「松平氏」に執っては事情により違約はしたが、「神明族」と共に「最初の約定」の通り居ついてほしかった事に成るだろう。
    > 故に、江戸初期の”「伊勢の事お構いなしのお定め書」と「頼信との良好な関係」がこれを証明する。)
    >

    「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」

    (注釈 「土豪3氏の中の激論で落着」。
    更に掘り下げて観る。
    その証拠が「陸運業」に従事した「渥美から豊川までの5地域」に遺る「土豪3氏の裔」は全て「分家筋一統・後段で証明」として生き延びているのだ。
    上記の通りその典型が「牧野氏の分家」であった。
    そもそも、「全国五地域・21地域」に分布存在している「牧野氏・江戸期」は、何処が本家筋かは判らない位なのだ。
    室町期からの「国衆」として「阿波牧野村」から出て来た処迄では系譜は一致するが、三河の「系譜の5地域」の内容、更には「渥美から豊川までの牧野氏の系譜も家紋」も全く違っているので、「本貫」を辿れない有様なのだ。
    恐らくは、これは何処の国衆の事でも同じであって、「牧野氏に限らずの事」であるのだが、これは“各地の本家筋の分家筋が戦乱で何とか生き延びた差の”証拠であろう事が解る。
    又、戦乱で生き残る為の考え方、取り分け、「本家筋と分家筋の分裂の結果・後段」もあったのだ。
    要するに、江戸期に向けて「激しさを増す戦国時代」には、その「激しさ」を増し、まだまだ続いていたので栄枯盛衰で変化して判らなくなったのである。
    従って、「伊川津」も同じでより安全な策を執った「分家筋」が<繁栄し子孫拡大が起こり子孫的には本家筋を遥かに超える「勢いとなった事」で起こった現象である。
    つまり、それは「青木氏」と伴って「陸運業で生き延びた事」を意味していて、その事で江戸期に「分家の5地域の系譜」を大きく遺したと観る事が出来き、これが各地に広がったと云う事と成る。
    この現象は、「本家筋の子孫・大久保氏・本多氏の田原藩の准家臣」から「松平氏の譜代家臣」に成った事も然る事乍ら、この僅かな享受を嫌い「分家筋」の中でも「土豪3氏の中」では、記録には無いがその経緯から“それぞれの「家」で激論に及ぶまでの「激しい議論」があった事”が予想できる。
    然し、この「陸運業」に「分家筋」が「三河5地域」で参加し、「別行動」を執ったにも関わらず、同じ「藩域の地域」で「子孫を遺せた状況」には「青木氏外」であるが関わった族としては改めて検証を要する。
    それは「当時の氏家制度の慣習」としては、「本家分家の関係・氏家制度」は「主従関係」に近く「本家の路線」に従わなかった場合は、普通ならその地域から出て行くのが普通であったし、少なくとも罰は受ける。
    江戸期には幸いにも「土豪3氏の本家筋」は「徳川幕府」と成ってからは、「牧野氏や戸田氏」に関わらず「各地の藩」に仕官していて、「5地域」に定住していなく縛られていなかった。
    従って,この為に「分家」に執っては却って「5地域に住める事の意味合い」は増したのである。
    その為の「糧」と云う意味では、細々と本家からの「分部・わけぶ」で生きるよりは「陸運業」での「商いの糧」で生きる方が「子孫」を大きく遺せる所以と成ったという事である。
    「本家の譜代の田原の糧」ではその「絶対量」から観てここまでは「子孫」を広げられなかったと考えられる。
    それが「陸運業に従事した事」に依って「分家の子孫」が「全国の5地域に広がった」と云う事であろう。
    これらは前段でも論じた様に“「5地域の家紋分析」”で判るのである。
    この様に「履歴」を詳細に各処で掘り下げて行くと、その「一役」を“「伊勢の額田の裔系青木氏」と「伊勢青木氏」が担っていた”と云う事が判り、ここに幅広く「青木氏の歴史観」と云うものが観えて来るのだ。)

    (注釈 「「銃隊の青木氏の戦線の行動と離脱」
    そこで、少し遡ってみて観るとする。
    それは実は「三方ヶ原の戦線離脱」から観えて来るものが他にもあるのだ。
    その間に「松平軍本隊・3000兵と西三河軍・1200兵」は「三方ヶ原」に先に到着して陣形を組むと云う戦略であった事が判っている。
    「戦い」と云うのは、そもそも「第一の戦略」は、多勢の「大軍(25000兵・騎馬兵・6000)」に向かうには、先ずは「無勢」であっても“「有利な陣地取り合戦に勝つ事」”であった。
    その「第一の手順の事」は先ずは成功している。
    然し、ところがその“「陣形」”が「多勢無勢の場合の構え」としては逆と成るのに間違えてしまったのであった。
    要するに、「地形取り」も含めて元から負ける「陣形」を採った。
    つまり、その「武田軍本隊・魚鱗の陣形」を引きつける「時間稼ぎ」にさせられたのである。
    此処で「第二の手順」が間違えたのである。
    「松平軍5000」は、本来は「無勢」であったので「魚鱗の陣形」を執るべきなのに逆の「多勢の陣形」の「鶴翼の陣形」を執った。
    これを「三方ヶ原」に向かう準備の途中で報告を受け観た「武田軍本隊」は、その途中で「鶴翼の陣形」から直ちに「魚鱗の陣形」に直して「赤兜の騎馬兵」を前面に押し出した配置にしたとされている。
    “何故、松平軍が間違えたか”は判っていないが、“「武田軍が魚鱗の陣形を採る事」は無い”と見込んでいた事もあり得る。
    それは「堀江城の落城」に手間取り、そこから「三方ヶ原着陣」に更に手間取り、その過程で“魚鱗の陣形にする時間的余裕は無い”と観ていた可能性は否定できない。
    「三方ヶ原」で陣形を組み直して混乱している間に「鶴翼」であっても左右の鶴翼が中央に前に集まり、前進突撃すれば完全に攻められると云う事もあり、先ず無いと考えていた事もあり得る。
    実際に歴史上の記録には「鶴翼」と見せかけてこの戦法を採って勝利した記録も他にある。
    然し、「三方ヶ原」に向かう途中で陣形を魚鱗に組み直したとあるのだ。
    それには、「武田軍本隊の赤兜の騎馬隊」が有名で、これがあると云う事は「鶴翼」でも「魚鱗」でも何れでも出来る事に成り得ると云う事だ。これを失念していた事になるのか未だ判らない。
    何方かと云うと、「大軍」で在り乍らも「鶴翼の陣形」より「魚鱗の陣形」に合っている事に成るのだ。
    だから「赤兜の騎馬軍団」が強いだけでは無くて恐れられたのだ。
    もう一つあって、「山県軍の5000」の「大軍の別動隊」が、東の端の「二俣城」から「三方ヶ原」に来ると云う事であるし、「松平軍の鶴翼の背後」を突かれる恐れも充分にあったのだ。
    現実にそうなった。
    一瞬にして「総崩れに成った原因」は「大軍の別動隊」に鶴翼の側面を北側から突かれて付き抜かれた事にあった。
    そもそも、現実に背後で無かったがこの「山県軍の別動隊」の「鶴翼の右側面」を突かれた事に依る「総崩れ」の敗因であった。
    更には、「武田軍」はこの北の平地の「三方ヶ原」を「宿営本陣」としてここを「拠点」として「南の籠城の浜松城を攻める作戦」であった事が判っている。
    何れにして戦略では“信玄の方が一枚上と云う事”であった事に成る。
    「物語風の戦記」では、無謀にも“家康が頑な主張した”と成っている。
    恐らくは、筆者は前段で論じた事とは別に、この詳しい経緯は、「好感を以て見る」とすると次の様に観ている。
    これは後勘から観ても当時から観ても誰が考えても「無謀である事」は間違いは無い。
    とすると、其処まで間違えるかであり、何かの考えがあったのでは無いかと観る事も出来る。
    それは、次の通りとして「青木氏の歴史観」を読む。
    当初は「家康」は「家臣の反対」を押し切つて、「額田青木氏の偵察隊の300丁の銃の威力」を想定して、「鶴翼の中央に据える計画」では無かったかと観ているのだ。
    そうであれば、「武田軍・25000」に対しても“「火力を前提とした軍力」では「銃20倍=10万」で勝てる事”と成って、「鶴翼の陣形」で行けると踏んだと考えているのだ。
    ところが、「浜松城の松平本隊」は、「野戦」を2度も試みて「武田本隊」と遭遇して「一言坂の戦い・元亀3年10/14」で一度、敗走しているのだ。
    なので、この「陣形」で行けるかを確認する為に、「武田軍の本隊の様子」を「三方ヶ原の決戦・元亀3年12/22」のその前に、更にもう一度、「一言坂・元亀3年12/22」の2時間前頃に、「伊川津」から突然呼び寄せた「額田青木氏の銃隊」に「偵察隊」として出して見に行かした「戦歴」に成っている。
    ところが、「350の銃隊・額田青木氏の南下国衆」の「偵察隊」は、記録では「一言坂の坂上」で深入りして見つかり武田軍本隊と「遭遇戦」と成って仕舞ったのだ。
    此処からは、記録に詳細にある通り、兎も角も「前段の史実」の通りの「銃撃戦」が発生し、その「銃の威力」で圧倒して勝って「西の坂下」に無事降りて、「浜松城の北側」に一度隠れ、其の後に浜松城の城の周りを通過した「武田軍本隊」の最後尾を追尾したとある。
    「堀江城の陥落」の前に、「三方ヶ原」に向かって走って何とか「開戦ぎりぎり」に本隊の鶴翼の左側面に辿り着いた事と成っている。
    この「松平本隊」は「三方ヶ原」には既に到着をし、「松平本隊」は史実の通り早く着き過ぎて「鶴翼の陣形」を敷いてしまっていたのだ。
    従って、時間的経緯より「額田青木氏の銃隊」が中央に配置する時間にまでは間に合わなかった事に成り、結果として「左側鶴翼に着いた結果」と成ったのである。
    そして、「松平軍右鶴翼を貫いた山県軍の別動隊」と左側鶴翼にまで到達し決戦と成って仕舞ったのだ。
    然し、それにしてもここで何故、「松平軍」は「三方ヶ原」に「野戦」を選んで出たのかである。
    「籠城戦の方」が「350の銃隊・額田青木氏」で護れば、「第一次の吉田城の戦績」の通りに有利で時間が稼げるし、背後を「織田の援軍」が突く事は充分に可能と成るのである。
    「武田軍」は戦略上は最もこれを恐れていたと考えられる。
    普通、「浜松城の籠城戦」は1ケ月は掛かるので、「織田勢のより大きい支援」を受けられる。
    「攻める側」は兵力が大きければ大きい程、時間が掛かると「兵糧や兵の疲れ」で不利と成る。
    この時、史実は確かに「織田氏本隊は北の脅威」で戦っていた。
    「1ケ月程の時間」を稼げば「支援」は受けられる筈であるが、ここでは受けられないと観ての事であろう。
    「戦記」では、理由は書かれていないが、「家臣の反対を押し切って野戦」に出たとだけある。
    その「理由付け」に「松平軍を大きく見せる事」を理由に「野戦の鶴翼の陣形」を敷いたと江戸期の「後付けの理由付け」をして脚色されているのだ。
    さてところが、「武田軍本隊」もこの事の堀江城で計画より遅れていた。
    「三方ヶ原」に着いた時には、相手が「鶴翼の陣形」であった事から事前の情報にて「三方ヶ原」に向かう途中で「応戦の陣形配置」を正確に執り直し、「赤兜の騎馬軍団」を前に出して「魚鱗の陣形」にまず似せたのだ。
    そもそも「赤兜の騎馬軍団」は「籠城戦の堀江城攻め」には役に立っていないのだ。
    従って、無役の「赤兜の騎馬軍団」は邪魔に成らない様に「本隊の東先端」に位置していた筈である。
    だから、「魚鱗の陣形」が簡単に採れた事が云えるし、その侭に鶴翼でも「赤兜の騎馬軍団」を使える。
    これに遅れていたので「山県軍の別動隊」が先に着陣していれば、この「別動隊」と同勢力の「松平軍の鶴翼」との戦いに成る事もあった。
    勝敗は判らなかった筈で何方かと云えば「別動隊の疲れ」から松平軍に成った事にも成る。
    「武田軍本隊側」は何れにしても遅れて着いたが、陣形変形中に攻めせれれば指揮系統が乱れ「総崩れ」に成るが全てが良い方に向いたのだ。
    逆に松平軍側にはこの逆であった。
    その為、そこで、この「遅れのリスク」を少なくする為に「赤兜の騎馬軍団・6000」をより先ず前に出して相手を牽制したのだ。
    この時、「武田軍本隊側」にも「二つの計画」が狂っていた。
    それは記録では一つは「山県軍の別動隊」が北の「二俣城」から駆けつけて合流して「松平軍」を牽制する予定であったがこれが遅れた。
    もう一つは「堀江城の落城」が遅れた事だ。
    結局、このままで「開戦」と成り、記録では本隊に合流できず暫くして「北側山際の松平軍本隊」の「鶴翼陣形の中央」の右側上の少し離れた道路脇に到着した状況であった。
    これでも「松平軍本隊」より「以北の位置」にあったので、この間隙を突けなかったのだ。
    然し、これが結果として幸いしたのだ。
    松平軍は驚いた筈で「鶴翼の陣形」は正面には強いが側面には弱い。
    この「右側面中央」を突かれる結果と成って仕舞ったのである。
    「開戦開始」は左正面から「赤兜の騎馬軍団」の騎馬隊の突撃、右側面から別動隊が突進してきたのだ。
    そもそも、戦記通りに全く「戦い」には成らなかった筈である。
    「右側面の別動隊」は其のままに左側面を直線的に貫通する形に成った。
    ところが此処で「武田軍側」に予期しない事が起こったのだ。
    それは「左側面」に就いていた「額田青木氏の300の銃隊の存在」であった。
    「記録」では「別動隊の突撃」は「額田青木氏の300の銃隊」の「やや後方側」を突き抜ける形であった事が判る。
    空かさず「銃隊の筒先」を右側に向け直して一勢に「弾幕の切れない連発射撃」を三段で繰り返したとある。
    「別動隊」はバタバタと倒れ、それでも突っ込んで「銃隊の右側」を突き抜けて行ったとあり、更に「銃隊」は向きを変えて「別動隊」に向けて移動せずに「銃撃」を繰り返したとある。
    この時、「別動隊」は、踝を返して「波状攻撃」を繰り返さずにその侭に直線的に「浜松城」に向かったとある。
    然し、「銃隊」はこれを追わなかったとあり、直ちに「戦線離脱」して「伊川津」に向かって走ったと成っている。
    この「別動隊の戦死者」は「武田氏側の戦記」では「武田軍の別動隊」の殆どを占める「2000/5000}と成っているが正しくは「5000弱」である。
    ところが、この「別動隊の兵力5000」とするものもあり、少なくとも脚色されて「約半数以上」は戦死した事に成る。
    この事から「別動隊の波状攻撃」や「移動式の銃隊の追尾」があれば、「別動隊」は完全に全員戦死と成っていたであろう。
    ここで「青木氏の関わった歴史観」は大きく変わっていたであろう。
    そうした場合、「額田青木氏の銃隊」は大きく「歴史の戦歴に名を遺す事」に成ったであろうが、その様には敢えてしなかったと云う事に成る。
    これは青木氏側では”何故か”であり答えは簡単である。
    それは奈良期からの「青木氏の氏是」にあったのだ。
    それは、次の氏是にあった。
    ”世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”
    以上である。
    つまり、不必要に「歴史の戦歴に名を遺す事」を禁じていたからである。
    要するに”無駄な事はするな”であろう。
    話を戻して、「山県軍の別動隊」は本来は包む様に「本隊」に合流して「二番手」に控える「総崩しの突撃軍の役目」の役にあったとある。
    「一番手」であると「騎馬隊」との「速度の差」で「本隊との距離差」が出て脆く成るのだ。
    「総崩しの突撃軍」で「松平軍の鶴翼の中央」が脆く成る欠点があり、「武田軍」の「魚鱗の中央」にも「騎馬隊」が前に出た事に依り前が脆く成る欠点もを持っていた。
    「魚鱗の陣形」は全軍を一斉に前に動かせるのが特徴で、速い「騎馬軍団」が勝利しながら前に出れば時間稼ぎに成り「本隊」も前に出られる。
    これで何れが勝つかは必然的に成る。
    この「欠点」を補う役目が別動隊にあったのだ。
    欠点の持った「無勢の5000の鶴翼」と、同じ欠点の持った「多勢の魚鱗の20000の鶴翼似」の衝突と成ったのである。
    これに「山県軍の別動隊」が北の右側面に結果として着いた事に成る。
    「欠点」を持ちながら「武田軍本隊」は前進したが、この「別動隊の右側面の攻撃」が大犠牲を負いながらも攻を奏したのだ。
    結果としては、「多勢>無勢の差」が出て遂には無勢が疲れて一挙に負けたのだ。
    「動くと陣形が乱れる鶴翼」は、何度も「鶴翼」を開閉をする「固定型の行動性のある戦い」をする事から、この方が疲れて不利と成るのだ。
    “騎馬兵が効果的に戦えば、「鶴翼似の魚鱗の陣形」が「突破力」は勝る”と「信玄」は咄嗟に考えた事に成る。
    「現実の史実」は“突破された”とその様相を両者の戦記で記録している。
    「額田青木氏の銃隊」が踵を返して「南・浜松城」に向かって別動隊を銃撃で追えば別働隊は完全に戦死と成っていたが、既に「大きく傷を負いながらも別動隊」に依って崩された「松平軍」は勝敗は決していたので歴史は変えられなかった筈である。
    「額田青木氏の国衆」としての大きく犠牲を負う義理は、最早元より無く、この「勝敗の決定」で戦線離脱したと考えられるのだ。
    もう一点は、「松平軍のミス」にあった。
    「鶴翼の陣形」を敷く場合は、「背後」が無くなるので“川を超える事は厳禁である”のに対して越えて陣形を敷いた“とする資料がある。
    「吉田城」に居た「額田青木氏の銃隊」に対して急遽呼び寄せて「偵察隊」を命じて「一言坂」で「武田軍本隊」と遭遇している史実で判断すると、「浜松城」を素通りした「武田軍本隊」がその時には攻略した「二俣城」から先ず南下して、「西の堀江城の攻略」の為に向かって西に移動中で、「一言坂の丁度東の坂下」の域に隊を整える為に留まっていた事に成る。
    「額田青木氏等の銃隊」が「呼び出し」に応じて「吉田城」からは「東海道」を通って「約11時間弱は掛かる事」から「命令通り」に先に出発して「浜松城」に入り、「偵察の命令」が出て慌てて「一言坂上に向かう事」と成った経緯である。
    この時、時系列では「動き出した武田軍」と「同時刻頃に偶然に一言坂に到着した事」に成る。
    「西の堀江城」に向けて「浜松城の南横」を素通りする「武田本隊」を観た「浜松城の家康」が次の様に思ったとする筋書きを描いている。
    「流れ」から観れば、全ての「東の支城」を潰され、「東三河の護り」の西側の護りの「堀江」が攻められれば、“全て終わり”と観た家康は、感情的に成り、“最早、これまで”として「野戦」を選んで仕舞ったとしているのだ。
    そして、「二度の野戦」を選んで「三方ヶ原」に向かって出発し到着したのは時系列では「4時間半後の事」であった。
    この説に対してだとすると、そこで「地形の位置関係」に「野戦の有利性」があるのかを先ず観てみる。
    「三方ヶ原」は「一言坂」からも「4時間半程度の位置」の「三角洲の洲原」にある。
    「北の三方ヶ原」と「南西の浜松城・徒士3時間半」と「東の一言坂・徒士4時間半」は丁度、「底辺・三時間半」の「南向きの逆二等辺三角形」の位置関係にある。
    「西の堀江城」から「三方ヶ原」までは、「徒士2時間」の東の「山間部の位置」にある。
    そうすると「三方ヶ原」は、「松平軍本隊」に執って特段に「野戦を選ぶ程の地形・位置の有利な戦場」では無い事が判る。
    やや、「堀江城」から「三方ヶ原」に向かうには「武田軍本隊」の「大きい軍と山間部」は地形上から西側から向かうには可成り「不利な状況」ではある。
    又、これが「堀江城攻略」も遅れた事も不利に成っていたし、「陣形」も「魚鱗」に変更しなければ成らなく成っている。
    但し、「武田軍本隊」が早く「戦場」に着けば、「松平軍」は「鶴翼の陣形」を敷くのには時間は掛かるので「不利」に成る。
    「武田軍の陣形を組む事」に付いては「魚鱗」である為に、到着次第に段階的に積み重ねて行けば「陣形」は出来る事から「有利」である。
    この「不利と有利の狭間」にあって苦労して遅れて「戦場」に着いてみれば、情報の通り確かに東側に「松平軍」は「鶴翼の陣形」で構えていたのである。
    一説では軍を大きく見せたとする説があるが、偵察情報や土地の事等を考えればそんな騙しは直ぐ判る愚論である。
    既に、戦場に着く前には、敵状偵察に依って「情報」はもたらされていた筈で、「魚鱗の陣形の準備・騎馬隊を前に」を「戦場」に着く前に始めて向かったと考えられる。
    これが「不利」を無くす「手立て」と成り、結果として全て「有利」に働いた事に成ろう。
    そこに「山県軍の別動隊」が遅れて北の中間に到着した。
    当然に、「松平軍」にも「敵状偵察」に依って「情報」は入っていた筈で、“疲れている”と観て、又、遅れると観て「鶴翼の陣形」で整えられれば「戦いの定法通り」で“包み込む様にすれば勝てる”と観たと戦略的に唯一として考えられる。
    要するに「浜松城」からは「三方ヶ原」はやや平地を通れる「真北の位置」にある。
    「堀江城」に向かった「武田軍本隊」が「最後の砦の堀江城」を落すのは、“時間の問題として間違いは無い”と観た「家康」は、”最早、これまで“として、この「多少の有利性」に期待して早めに出て間違った「野戦と鶴翼」を選んで仕舞ったと観る事も出来る。
    問題は「偵察隊」の為に「一言坂」に向かっていた「額田青木氏の銃隊の威力」をこれを観ると「銃隊の威力」を多少考慮していたかに成る。
    「額田青木氏の銃隊の威力の配置の位置関係」がこれが「武田軍側」と「松平軍側」の何れにも云える事であった。
    その意味では、「二度の実戦的な経験」をしていた「武田軍本隊」には「有利に働く事」に成っていたであろう。
    「松平軍」がこれを考慮していたとすれば、“「野戦と鶴翼」を選んで仕舞った事”には、「銃隊の威力を中央に据える事」では一部に合理性があったが、そうさせなかった原因は“「旗本」”はそうさせなかったのだと青木氏の報告の手紙にはある。
    「決め手」は別の意味で「旗本の理解」にあった事に敗因があったと観える。
    然し、結果として“現実には中央に据える時間に間に合っていない事”から、考えていなかった事と命令が無かった事の方が確かであろう。
    何故ならば、「武田軍」が「堀江城攻め」に手間取つていた事から、途中まで追尾していた「銃隊」が「松平軍に戻る事」には、元々、その可能性は低く「武田軍」と共に同時程度に成る事の方が公算が大きい。
    更に、ぎりぎり間にあっていたとしても、「鶴翼の陣形」に着いた時に“「旗本」が中央を護るのだ”と云う「古い考え」が先行して、「銃隊の威力」を排除して「中央に入れなかった事」の方が確率は大きい。
    ところが「武田軍」は「吉田城籠城戦と一言坂遭遇戦」で、その「銃隊の威力」を経験で認識を新たにし充分に知っていた事に成る。
    ここに「武田軍勝利」は先ずこの「有利の差」に出たのだ。
    場合に依っては、「武田軍本隊」は「堀江城陥落時」には「浜松城籠城戦・三方ヶ原野営」を考えていたとする可能性の方が強かったのだ。
    ところが、「齎された情報」ではそうでは無かったのだ。
    そして、「浜松城の背後」の「北から南へ攻める作戦・浜松城の弱点」であった事に成る。
    それが「三方ヶ原」に向かう途中で「情報」に依って突如「作戦を替えた事」に成ろう。
    それは、「武田軍本隊」としては「額田青木氏の銃隊」が三方ヶ原に間に合わないか、「松平軍」が「鶴翼の中央」に受け入れなければ、「銃隊の威力」を“それ程に受けなくても良い”と云う判断に至っていた事も充分に考えられる。
    それは、追尾して来ていたからだ。
    つまり、「旗本との軋轢」は知らないとしても遅れて「鶴翼の中央」に配置できないと考えたのだ。
    その証拠が「二俣城」からの「別動隊・山県軍」にこの情報が無かったと観られ、「武田軍本隊」に加わらず、遅れた事もあったが、到着次第、配置されている側の反対側の「北の山際」からいきなり「鶴翼の陣形の腹」を突いたのだ。
    これは「銃隊」が遅れるとすれば左側面に着いていた事に成り、“これを知らず”に故に突撃したのだ。
    何故ならば、「山県軍の別動隊」は「額田青木氏の銃隊の威力」の過去に経験をしていないのだ。
    初めてここに知った事に成ったのだ。
    これは矢張り、弓矢の延長程度で「認識の甘さ」にあった事に成る。
    「長良川の信長の火縄銃の情報」や「三方ヶ原の2000人の戦死と云う結果・経験」から、故に「長篠の戦い」では出陣の軍議の最後に「別れの盃」を躱したと記録されているのだ。
    唯、「山県軍の別動隊」は、“「鶴翼の腹」を突くだけでも陣形は崩れる”と観ての事でもあっただろう事も判る。
    「2000の犠牲を覚悟しての事」でもあったかも知れないが、「弱小の松平軍」を攻めるにはここまで覚悟する事は無かった筈である。
    矢張り兎も角も、“経験のない「山県軍の認識の低さ」にあった”のであろう。
    山際に到着した時点で、その後に「武田軍本隊と合流する事」も戦術的には問題は無く可能であった筈である。
    そうする事で、「銃隊の威力」を「武田軍本隊」に受けずに済み、西に向いていた「銃隊の右側面を突く事」が出来、「銃隊」は直ちに慌てて「攻撃の向き」を「北の山際の方向」に向ける必要が出た筈だ。
    然し、突撃を続けて歴史に遺る大きな犠牲を負ってしまったのだ。
    然し、結果は此処に「タイムラグ」が起こり、この「タイムラグ」を使って「別動隊・山県軍」は南に向かって「突撃の態勢」を執り続け、「鶴翼の混乱する腹幅」を突き抜け「銃隊の威力」を全面的に受けて大犠牲を負って仕舞う失敗をしたのだ。
    そして、「余りの大犠牲」の為にその侭に直進し「浜松城」に向かった史実と成ったのだ。
    故に、「銃隊の青木氏」は前面で指揮していた「差配頭の犠牲」を負ったのだ。
    然しながら、必要以上に犠牲を出さない様に判断して、「追い打ち・別動隊の波動攻撃」を受けない内に直ちに、其の侭に「伊川津」に向かって敗走して逃げ帰ったのだ。
    ところが、南に抜けた「別動隊・山県軍」は態勢を立て直して再び北に向かって「波動攻撃」をせずに「浜松城」に向かった。
    この時の資料には、この一度の「腹幅を突き抜け作戦」で「別動隊・山県軍」は銃撃に依って「2000人/5000の負傷者」を出していた事が判る。
    吉田城や一言坂で経験して認識度を高めた「武田軍本隊」は知っていても「山県軍の別動隊」は知らず突き抜けたのだ。
    認識の甘さにあった事は間違いは無い。
    これだけの犠牲を負えば普通はしないとは考えられるが、ところが「青木氏の銃隊」を引き付けて「武田軍本隊」を護る為にも「別動隊・山県軍」は「犠牲」になって何度も「波動攻撃」を掛けて来ると「銃隊の青木氏」は判断したのである。
    資料に依れば、「銃隊の青木氏」が構えていた処は、北の山際に向かって兵站に上昇している丁度、「陵の際の位置・現R261と「R251の交差点付近・山際から南2k」の位置であったと記されている。
    影に成って見えていなかったのであろう。
    つまり、「額田青木氏の銃隊」は「別動隊・山県軍」が全滅覚悟で態勢を立て直して何度も「波動攻撃」を受けやすい位置にあったのである。
    要するに、「額田青木氏の銃隊」に執っては「不利」と見たのであろうし、「初期の目的」から全滅に至らしめられる程の「松平氏に対する犠牲」を負う必要性は無いと判断したのだ。
    「差配頭の犠牲」は極めて大きかった事を認識して「指揮官」は、「地形」と「別動隊・山県軍」の戦略的目的からこんな無謀な攻撃を仕掛けて来る事は「波動攻撃」は充分に有り得るとして警戒したのだ。
    だとすると、これは極めて「短時間の時間差の判断」と成ろうし、これが「タイムラグ」である。
    寧ろ、筆者は、逆に「銃隊の青木氏の行動」を観て「別動隊・山県軍」は「波動攻撃」を中止して「浜松城」に向かって南下したと考えているのだ。
    何故ならば、「移動が出来る連発式の銃隊の青木氏」が向きを替えて「別動隊・山県軍」を銃撃しながら追随し南下してくる可能性もあったからだ。
    西に向いていた「額田青木氏の銃隊の威力」の東北側から攻撃を掛けられていて、これを直ぐに向きを変えて「射撃を開始した事」は「火縄銃の認識」だけしかないので驚いたのではないだろうか。
    「別動隊・山県軍」に執ってはこれは「最悪のシナリオ」であろう。
    「移動式の銃隊の威力」は、「武田軍本隊との遭遇戦の一言坂」で聞いた居た事も考えられるが其処まで情報が二俣に届いていなかった事の方が大きい。
    「固定戦術」ならば「別動隊」を周囲に分散さして周囲から突撃すれば「波動攻撃」では多少の犠牲が出るが、これは「戦術」としては可能であろう。
    然し、「別動隊の先頭」を常に「集中攻撃」をしながらも、「額田青木氏の銃隊」でじわじわと「連発銃」で攻撃される事は避けねばならない態勢であり、そもそも、「武田軍本隊の一言坂の遭遇戦」がそうであった。
    「移動式・フリントロック式改良銃」と「固定式・マッチロック式の火縄銃」との差が夫々の行動に出たという事に成るだろう。
    そもそも、そんな「詳しい銃知識」は100%無かったであろう。
    要するに、「銃隊の青木氏の戦線離脱」は「別動隊・山県軍の犠牲」に執っても「利」が一致した事に成ったのだ。
    結局、「三方ヶ原」に到着するに必要とした時間は、「青木氏の銃隊の偵察隊と追尾」が「所要4時間」であり、「松平軍の浜松城から出陣」が「所要2時間」であり、その「2時間差」が結果に出た事に成った。
    「武田軍本隊」は「前日」から手こずり「一夜後の朝」に落城した「堀江城」から、そこから「軍態勢」を整えて「昼前」に出発したとあり、「三方ヶ原」に向かって到着したのは、“「夕方の時間・昼4時頃」とあり、遅れた”と記されている事から、計画と違って合計「5時間位所要していた事」に成ったが「陣形と山県軍の遅れ」から勝利を得たのだ。
    そして、「三方ヶ原の戦い」の「戦闘時間」が「2時間・昼6時頃」で終わったとある。
    「別動隊・山県軍」が「浜松城・夜8時前頃」に到着した時は、「浜松城」には“「篝火」”が焚かれていたとある。
    この「篝火」に意味があった。
    そうすると、以下の検証は次ぎの様に成る。)

    「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」に続く。


      [No.383] Re:「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/21(Sun) 14:33:32  

    > 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」の末尾
    >
    > (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
    >詳細の検証は更に次段に続く。

    > 次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
    > 此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
    > この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
    > 美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
    > この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
    > これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
    > 全体では「440の判別紋」がある。
    > これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
    > 念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
    > 「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
    > 奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
    > 中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
    > この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
    > この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
    > 墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)


    「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」

    (注釈 「国衆の最終目的差」
    さて、その「目的差」が生まれたその根拠は、「伊川津青木氏である事」は、勿論の事、「土豪3氏」も「戦乱の中」で生き遺る為には“「何らかの傘」”の中に入らなくては成り立たない。
    それが、当面は互いに同地域で結束し合って護りあう「結合体・党」の「伊川津七党」と成ったのだ。
    相互に全く関係性の持たない各地から集まった「国衆の集団」であった。
    この時期は伊川津に限らず全国各地で「土豪」等が生き遺る為にこの「党」を結成した。
    そして、その土地で「国衆」と成ったが、こんな“小さな伊川津”でも同じであった。
    だが、この各地の「党の結成目的」はそれは全く千差万別であった。
    この「伊川津」の「七党」の中でも、元々、「額田青木氏の南下国衆」には「伊勢の背景」や「秀郷流一門の背景」もあっが、「彼等の目的」に執ってはそれは完全なものでは無かったし、寧ろ、無かったと云える。
    普通は「血縁性」などの「一族性の高い土豪等」が集まって「党」を結成する。
    例えば「有名な出雲亀甲集団」の様な「党」を組んでいたが「伊川津」では違っていた。
    故に「国衆」であっても、彼等には「国衆」から「家臣化する事」に「最終目的」があったのだ。
    この「最終目的」の違う族が「七党」を組んだが、「額田青木氏の南下国衆」とはそもそも相当にこの「目的」が異なっていた。
    然し、その途中でも彼等には未だ先の見えない「松平氏の国衆」と成っていたのだ。
    その「弱い傘笠」の中に最終的に遺る「目的の道」があって、結局は、様子を見てそれを選んだ「彼等の本家筋・未だ国衆」は、未だ「旗本」では無いが「田原藩大久保氏の配下の准家臣扱い」と成っていた。
    「土豪3氏」に執っては、その「東三河軍・吉田域」までの「酒井忠次/300の東三河の配下軍門」に入って先ずは「初期の目的」が達せられた。
    ここで「目的の異なる七党」には「亀裂の発生」が此処から観られたのである。
    ところが、この様な時に、「額田青木氏の南下国衆」にも同時に同じ「東三河の酒井氏の軍政下」の「吉田城詰め」を命じられて仕舞ったのだ。
    当初は、「国衆と成る条件」としてより「伊勢」に近い「西三河の軍政下に入る予定の話」に成っていたらしい。
    一方、そもそも、形上は少し後にはなるが「三河の東西」は別としても間接的ではあるが、「東三河の土豪3氏」に執っては、結局は「西三河を本貫とする松平氏」に、彼等は「松平氏の譜代と云う立場」を獲得して、先ずは「初期の目的」を獲得し生き延びられる事に成った。
    然し、ところがここで彼等の中で「ある事変・本家分家の生き方」の「路線争い」が起こった。
    当初から三河に「一族一門全員の参加」とは成らなかったのだ。
    何時の世も牛家制度の中では「本家」が良い目をするし、「犠牲」は何時も「分家」と成る仕組みだ。
    それが「三方ヶ原の戦い」後に一挙に噴き出した。
    故に、この「乱世の三河」では「伊勢青木氏の抑止力」の「額田青木氏との連携の道・商い・陸運業」を選んで身を護った「分家筋も居たと云う事」に成ったのだ。
    ここで「伊川津七党」の「目的の差」が吹き出し、「土豪3氏の分家筋」は、「伊勢や伊川津の青木氏・四家」に執っては「土豪3氏の生き方の違い」が、思い掛けない事にこの「額田青木氏の目的」に賛同したと云う事に成った。
    「額田青木氏側と伊川津青木氏」に執っては、此処で「路線争いの事」が出て思い掛けない事に成って仕舞ったのであろう。
    然し、この時、この「分家筋」に執っては「陸運業をすると云う事」は、当初、決して“「武士・国衆」を捨て「商人」に成る”と云う事だけでは無かったのだ。
    資料から観て、この事で相当悩んだ様であり、当初からの「路線争いの事」がここで「分裂離脱の決断をさせた原因」では無いかと考えられる。
    この時、簡単には「分家筋」は転身出来た訳では無かったのだ様だ
    資料によると三方ヶ原で「彼等の戒め」か分家が前に出されたのだ。
    それは更に「伊川津青木氏の四家」でも、兎も角も「伊勢青木氏」と「額田青木氏」が組入る事に付いて「反対の態度」を表明していたのだ。
    要するに、今までに無かった掟でもある氏族以外の”「よそ者が青木氏に入る事」”への危惧であった。
    「当初の目的」がここで完全に顕在化したのである。
    この「分家筋」に執っては、この「三河国衆」の時の様に「商いの銃の護衛団」として生きる事を選択した事に成り、“より「身の安全を図る事」は出来る”と判断したとも「別の意味」としては考えられる
    筆者は、「大犠牲を負っての決断」でこれは無視できない事であったと考えたと観ている。
    そもそも、「彼等の分家筋」の「利害の計算」は否定はしないが、それが判り易く云えば当時としては「転身だけの意味」では無く、「国衆化」か”「青木氏化」”かであった筈である。
    要するに、当初から「路線争いの元」には彼ら分家筋には「青木氏化の道」を選んでいたとも執れる。
    即ち、恐らくはこの態度が「将来の陸運業の中での分裂の危機」を呑んでいて、この「態度・姿勢」が「伊勢・額田側の反対の態度」を和らげる事に成功したと云う事に成ったのであろう。
    故に、その「態度」は現実に昭和期までこの「青木氏化の道の約束」を護り続けたものと成ったのだ。
    つまり、其処に「本家―分家」のこの「利害の計算」が出て来ていたと考えられる。
    長い間、「額田青木氏」に執っても「自由性のある青木シンジケート」として生きて来て、「土豪3氏」に執っても、その彼らがこれからの明日も知れない「自由性の無い国衆」として生きて行くかの選択であった。
    取り分け、「氏家制度」の中では「分家筋」はその意向は通り難いし弱い。
    もっと云えば「本家筋」は「国衆」に依って「当初の目的」の通りに「武士化」に、そして「分家筋」は元の「民・庶民の路」を拘りなく選んだ事に成る。
    この点では、何時も最前戦に居て犠牲に成る「分家筋」としては「路線の考え方」として一致していた事に成る。
    “本家筋に着いて行くと云う考え方”は、この時、最早、絶対に無かった事に成る。
    それは、「三方ヶ原の戦い」の「惨めな様」にあったのであろう。
    結局は、両者ともに今後も、「自由性のある青木連携族・陸運業」で行けば「糧と子孫繁栄」は未来に完全に保証されるのだ。
    一方で「室町期末期の松平国衆」としてはどうなるかは保障は無かった。
    そこで、彼らは薄々に「未来の姿」を感じ執っていたのだろう。
    これも後勘から観れば、「本家の家臣化の発展」も「分家の糧と子孫の繁栄」の「両方の目的」は達成されている事に成ろう。
    「信長の脅威の背景等」もあって激戦の続く「松平国衆」の中では、目的の違う「本家」と違ってこれ以上は生きられないと判断し、それに「渥美半島の糧の低さ」も働いて、寧ろ、“生き遺れない”と、「本家分家」であろうが、況してや「分家」では悲観的に感じ執っていたのである。
    結局は「土豪3氏」の「本家と分家の目的の差異」が「伊川津の流れ」を造ったが、然し、「蒲郡青木氏の本家」と「伊川津青木氏四家の分家筋」の間では、この「目的差異」は頑固な程に生まれなかったのだ。
    それは「伊勢からの支援」があったからであろうし、「伊川津」は「古跡神明社の定住地」でもあり、“南下国衆と云う感覚”は元々無かったと観られる。
    寧ろ、「他の国衆」よりは”「原住民的感覚」”を持って観られていたと考えられる。
    故に、其の後も矢張り、「伊勢の裔系青木氏」として頑なに「伊川津」から移動もせず、「豊橋、豊川、岡田、岡崎、豊田」と子孫を広げているのだ。
    これが何と「昭和20年」まで結束し続けていたのだ。
    そして「陸運業、開拓業、殖産業」として、“三河の各地に地名を遺す程に”根付いたのだ。)

    (注釈 「南下国衆の戦歴」
    念の為に「国衆戦歴」を記録から論じて置く。
    これを論じれば、額田青木氏の目的が浮き上がる。
    幸いにこの「時期の記録」が多く世間に遺っている。
    この「多くの資料」から読み取れる事は次の通りである。
    中には、この「五記録」を結構信用できるものとして基に文章が「半物語風」にして江戸期に記録したものがある。
    又、これらを元に「三河の青木氏等に付いての事」も記して再現しているものもある。
    それらによると、「国衆」として最初に「活躍の場」が現れたのが、「伊勢青木氏の資料」の「読み取り」からは、1545頃から「銃の訓練」を開始し準備段階に入っている。
    「三河国衆」と成つたのが「南下国衆・1560年」と成っているが、この「記録」から観ると「最初の活躍」は、次の通りである。
    「桶狭間の戦い・1560年・?」―「第一次吉田城の奪取・城主・1564年」―「姉川の戦い・1569年」―「第二次吉田城の戦い・1572年」―「一言坂の戦い・1573年・偵察」―「三方ヶ原の戦い・1573年」
    以上の「6戦」であった。
    但し、「桶狭間の戦い・1560年・?」は「南下国衆・1560年」とは“「同年のズレ」”がある。
    この「物語風の記録」の中に“「銃」”と云う表現があるが、未だこの時期には、その「生産量」と「シンジケート販売」と「高価格」であった事から、“松平氏は銃を持っていない”と云う史実がある。
    この検証から配慮したもので、この「銃の表現」は疑問である。
    何故ならば、「桶狭間の戦い」には、そもそも広義では「1556年の説」もあり、その前の「桶狭間の戦い」に至るまでの「長い勢力争いの戦い・1542年へ1548年」があって、これには「南下国衆」は果たして正式に参戦していたかの疑問があるのだ。
    「弱体化した松平氏」の「米生産の三河平野」を「織田と今川」の「争奪する戦い」では、大まかには「第一次と第二次の小豆坂の戦い」に成っている。
    そもそも「桶狭間」は、この「今川氏勢力」の「三河」を超えて尾張国境が不明瞭に成っている時期があって、その「不明瞭な尾張東部」に侵攻して、「争奪戦の最終決着」を着けた戦いである。
    その前には、「織田信定、織田信秀」と領土を広げて、「今川氏と三河・尾張両国の国境地帯の支配」を巡って争う小競り合いの状況に成っていたのだ。
    これが要するに、「決着戦」と成った「1556年とする桶狭間」であって、「最終決着戦・1560年」に「額田青木氏の国衆」が即参戦していたかは「時間差の疑問」がある。
    筆者は、要するに「南下国衆」は、そもそも「桶狭間・東尾張」は「今川と織田の戦い」であって弱体化していた「松平氏」は「今川氏側」に組み込まれて、ここには未だ関与して来ないのだ。
    従って、未だ間違いなく“1560年最終決戦に参戦しなかった”と観ているが、然し、この「三河」を接収されていた為に「今川方」としての「1556年とする桶狭間」には「銃の傭兵」として「合力・傭兵」をした可能性があったと観ているのだ。
    それは、「江戸期の資料」から直接は明記はしていないが、「第一次の小豆坂」で「銃使用の表現」がある。
    然し、未だ「織田氏」も「今川氏」もこの時期に「銃の軍制」を敷いて居なく弱体化しているのに、「松平氏が持っている事」は100%あり得ない。
    然し、戦記では「銃を使った事」が書かれている。
    「南下国衆」は額田でそもそも「1540年」に編成しているが、これは編成して「2年後の事」である。
    初期状態の「1556年とする桶狭間の時期・4年前」は、まだ三河は「今川方」であったと観ている。
    「銃を使った事」があったとして、「訓練中の額田青木氏」の「実地訓練の形」で「傭兵的」に合力した事に成るだろう。
    然し、「銃の訓練」は「青木氏の資料」では正式には「1545年」としているので、これには「3年の差」がある。
    貿易で得た「銃の見本」を種子島銃より先に堺で「フリントロック式の改良銃」を密かに作り始めていた時期と成り得る。
    「記録」から読み取る範囲では「種子島より10年程度前」の様にも読み取れる。
    そもそも、「種子島の火縄銃」は西洋で新しく「軍用銃」が改良され古くなった「火縄銃」を売りつける為に1545年に持ち込んでいる事情である。
    「伊勢青木氏の貿易」で「西洋の軍用銃」と成った「フリントロック式銃の見本」は種子島より前に入手出来ていた可能性は充分にある。
    依って、「3年の差」は次のシナリオで解消できる。
    「種子島・1545年」より前に既に改良作業に入り試作生産が行われ、「資料の行」から観て少なくとも「1542年頃」には、既に「額田青木氏の国衆用」に合う様にある程度の「改良銃の試作」が成され、秀郷一門などでも「試作撃ち」が成されながら進めていた事になり得る。
    これを「伊勢秀郷流青木氏の指導」の下で「額田青木氏」とが「第一次小豆坂の戦い等」で数は少ないが「試し打ちの合力」をしたと考えられる。
    さて、この説を「裏付ける出来事」が「伊勢と渥美」で起こっていたのだ。
    それが、ところがこの時期に、「伊勢青木氏の死活問題と成る事」が「伊勢湾と渥美湾」で「非常事態」が起こっていたのだ。
    つまり、それは「額田国衆の目的」も「達成不可能に成る非常事態」が起こっていた。
    この「二つの湾の支配権」が「今川氏」に依って握られてしまっていたのだ。
    これを至急、且つ緊急で対応しなくてはならない事に成っていたのだ。
    そこで、「試作中の銃」を以て急ぐ事から「試し打ち」と「青木氏の誇示」を図ったと考えられる。
    ところが、「改良」が進む中、「相当に威力」は「火縄銃以上」に増し、目的に適合したが、それに反して「訓練」を伴わなくてはならない程の「使いづらい銃」と成ったと考えられる。
    これは資料の一部の行からも読み取れる。
    故に、「1545年」から慌てて訓練に入ったとする経緯であったと観られる。
    勿論に、「時の時代性」も然る事乍ら、「国衆としての訓練」もあって、「生産する銃の数・350〜400丁」が次第に整い次第に「秀郷流青木氏の指導・試し撃ち」の許で本格的訓練に入ったと考えられる。
    その最後の仕上げが1560年と云う事に成ったのだ。
    従って、「南下国衆の合力の傭兵」は「今川方の依頼」か、「松平方の依頼」かであるが、当然に、「松平方」と成ろう。
    それが、「今川の圧力」かは判らない。
    この時、「水軍力」の弱かった「織田方」に対して「今川方」は「海からの包囲網」として「伊勢湾海域から知多・渥美湾の制海権」を握って仕舞っていたのだ。
    この為に「織田方」も懸命に「水軍力・史実記録」を着けようとした。
    そこで「織田方」は「伊勢衆」に「調略」を掛けていた事が資料からも史実として判っている。
    丁度、この時期には「三者三様の形」でこの“「水軍力」”を握ろうとしていた時系列と成っていたのだ。
    仮に「傭兵」として活躍していたとすると、これからそもそも、「伊勢湾」と「渥美湾」の「制海権獲得」で南下して抑えようと訓練していた最中でもあり、このままでは全てを失うと考えた可能性が充分にあり、対応次第では「南下国衆の意味」も無くなる事に成っていた。
    従って、そこで「伊勢側」は、先ずは「伊勢湾の制海権の保全・7割株保有の伊勢水軍の強化」を試みていたのだ。
    同時期に「源平戦で敗戦し衰退していた駿河水軍」に、「伊勢」は船を一艘与えて「伊勢水軍」で実地訓練させ急いでいた事が記録からも判る。
    「尾張の調略」と「今川の制海権」に対して必死であったのだ。
    そこで、「弱体の松平方」からも何らかの「南下国衆を目的としている事」を聞きつけて、これに対する「伊勢側や額田側の目的」もあり、「裏の特別な依頼や配慮」があって要求に応じたとも考えられる。
    「松平氏」に執っては、“三河に「銃で武装する国衆」が南下してもらえれば「弱体化の歯止め」どころか「20倍の勢力増強」に繋がり、独立性は高まると観た事もあり得る。
    その「条件」として「表向き」は、「渥美湾の商用利用権」を認めるとすれば、「今川氏」も簡単には手は出せなくなる利点もあった。
    「抑止力」として「裏」は銃で武装していたが「青木氏の行為」である以上は商用である。
    現実に後に「渥美湾の制海権とその利用」は認められているのだ。
    何にせよ無償ではあり得ないだろう。
    その為には「銃の威力・示威行為」を周囲に大いに見せつけて置く必要が両者にあったと観ている。
    とすれば全ての記録と一致する。
    これが南下しようとしていて訓練をしている「額田青木氏の国衆の情報」を“国境の三河が掴んでの依頼”があったと観る事が出来る。
    それは「1540〜1560年」までの「伊勢側・額田側の利益・目的」と「松平氏の将来の利益」が一致していたと観ているのだ。
    故に、「今川氏」が「桶狭間」で幸いに負けてからの「敗戦衰退」が始まつた「1560年」を契機にして、”「南下の絶好の期日」”とする「一つの大きな要素」とした考えられるのだ。
    無暗に、「南下1560年」とはしないであろう。
    「人時場所と理由目的手段」を整えるのが「基本軍略」である。
    つまり、「美濃・1540年」で訓練をしていた「額田国衆の銃の情報」を国境の隣の松平氏は既に掴んでいて、“「松平氏」から「傭兵的な依頼」があった”とする可能性もあり、「物語風の戦記の銃の行」以外に何処にも「銃に関する記録」はないが、この事は完全否定はできない。
    そもそも、「銃の訓練」をしていれば秘匿はなかなか出来ないであろうし、隠しても漏れるは必定である。
    唯、この「物語風の銃の行」は、単に“「桶狭間”の表現」であって、必ずしも「桶狭間の戦い」そのものを言っているのでは無く、広く「三河域」で起こった「織田方と今川方の決戦・争い」である事も考えられる。
    「当時の慣習」としては、常時戦いの中にあって、今の様に”桶狭間”と云えば、歴史的な”桶狭間の戦い”と連想するが、当時は単なる場所に過ぎない事であった。

    歴史を研究していると、どうしても今から昔を観る陥り易い癖があって間違える欠点でもある。
    「江戸期の資料」の発見と研究が進んでいない時代には、これは起こり得る事も考えられ「第一次の吉田城の戦い」の「籠城戦」から根拠なく想像して、その前の「桶狭間」にも“「松平氏は銃を持っていた」”と考えた事もあろう。
    とは言え、その前に起こった「美濃長良川の戦い」で「同盟国の信長・雑賀根来の傭兵」が初めて使った事も「史実」として江戸期でも知られていた事である。
    だとすると、「籠城戦から想像する」と云う「筋書き・想像」は無いであろう。
    「裕福な織田方」が「傭兵」でやっと持てているのに、「衰退極まりない松平氏」に持てる事等100%無い事は判るし、銃を持てば疑われるは必定で危険極まりない事なのである。
    「銃の生産地」が「雑賀・根来」と限定され、そもそも「銃販売」は「シンジケート」で縛られ「市販」は全く生産量も無かったのだ。
    「高額な火縄銃を買える事」もあり得ない事も「当の作者」は想像できていた筈である。
    そんな事を書けば記録としての価値は否定される。
    そもそも「織田方」には、歴史上では、「火縄銃の生産地」で結成された「雑賀根来の火縄銃の傭兵軍団」を大金を叩いて初めて雇い込んだ事は「史実」として知られているのだ。
    従って、「織田方や今川方」には「額田青木氏の300の改良銃」が幾ら何でも合力して味方する事は無かったし、「二つの湾の事」は「青木氏の存続」の意味でも絶対に放置できなかったであろう。
    従って、「銃の行」は、「三河」で全体的に起こっていた「小豆城の事等」の「小競り合い」を指していたと考えられる。
    だとすると、上記した切羽詰まった「伊勢の状況」と史実が一致して来るのだ。
    この時は、「三河の松平氏」は弱小で「今川方」であるが、だからと云って「松平氏」に「傭兵」で「今川方に付く事」も記録もないし無いだろう。
    「今川方の戦記」の中に、「戦い」で盛んに「火縄銃」を使ったとした記録も見つからない。
    あったのは「京」に出向いて、「銃の興味の調査」で鍛冶師に働きかけていた事は記録にあるが、「大量の銃が調達できた事」とそれを使う「銃の軍制」の記録はない。
    そもそも、前段の検証でも論じた様に、「同盟中の武田氏」にも「戦力と成る銃数・三方ヶ原」は持っていなかったのだ。
    従って、どんな大名でも、当時、未だ持ち得られていない効果で「貴重な火縄銃」、況してや「300丁の超近代銃」で構築された「国衆」であった事から、「三河」は「傭兵」として「三河国衆の額田青木氏」に、“銃を獲得する”と云うよりは「変な傭兵の国衆軍団」に興味を示していた事は確かであろう。
    ある資料に「火縄銃の事」に就いての「行」があり、「強力な弓矢の感覚」程のものであって懐疑的であったらしい。
    それは主に、そもそも「入手」が難しく、「価格」が高く、「天候」に大きく左右され、「移動」は出来ず、「発射」の準備時間が長くかかり、「威力」を出すには「大量の銃」が必要で、「馬防策」が必要でいざ戦いには障害と成り、「軍制下」で無くては使えないと云う否定的に認識されていた事が書かれていて、実は「銃の理解度」は極めて低かったのだ。
    「弱小の松平氏」がどんなに金を積んでも到底買えないから、故に傭兵の様なつさもりで「国衆と成る条件」として「渥美湾の制海権・使用権」を認めた事に成ったのであろうし、これで「伊勢の資料・伊勢湾の侵略の件」との「間尺」はこれで合う。
    この「変な傭兵の国衆軍団」とは、彼等が持っていた「火縄銃の感覚」とは違い、この「近代銃」は「フリントロック式改良銃」であり、「戦い」は「移動式銃」で、「荷駄」を引き連れて「移動を伴う方式」であり、上記の欠点を大きく替える「変な銃の国衆」と観ていたと考えられる。
    要するに、寧ろ、「殺傷力」のある「強力な弓矢の感覚」にあったと観ている。
    その彼等土豪3氏が、「弱小の三河の国衆」を目指しているとも成れば、不思議に成り興味を持つ事は間違いはない。
    「渥美湾の制海権を狙っている事」も含めて少なくとも「家康・松平氏」は興味を持っていただろう。
    寧ろ、「三河」に執っては好都合であり、織田方や今川方に抑えられるよりは歓迎する事に成ろう。
    そして、彼等が奈良期からの「伊川津の神明社族・律宗族」であると云う事にも「親近感」を抱いていただろう。
    仮に、「南下国衆」を「伊川津」に配置したとしても言い訳が着く。
    筆者の説では、「変な銃の国衆」は、当初は都合よく「今川氏」に利用される可能性があり、隠しても隠し切れないが余り強くは出していなかったと観ている。
    然し、この「変な銃の国衆」の銃は、「移動」は肩に担いでのもので、「戦い」では「防護柵越しの固定銃の火縄銃」では無いのだ。
    移動で銃撃する時は、荷駄を前にして「膝座式の三段構え」で連射するのだ。
    再び移動前進するし、移動しながら連射もするのだ。
    現物は遺されていないが資料から読み取れる範囲では、「ショットガンの一発連射式」か軍用で使われる「ボルトライフルの類似式」の「中筒銃」であった様と観られる。
    「火縄銃の様な長筒」では無く「ピストルの中筒銃」と考えれば判り易い。
    特徴として「銃全体」として「少し丸み」を帯びていたらしく、何せ「射撃の反動」はすごかった様だ。
    そのために、この「反動」を真上に逃がし、静かに肩口まで下ろして連射し、命中率を上げるには「練習・訓練」が相当に必要であったらしい。
    表現からすると、「射撃の反動」が強すぎる為に「熟練度」に依っては「腰横に据えて構えるスタイル」もあったらしい。
    この場合の構えでは「三段撃ちの場合」は「前後入れ替え」であったらしい。
    当にこれは「弓矢の構え」であり、「矢」の代わりに「強力な弾」が遠くに飛ぶのであった。
    そして、そもそも「撃手」は、「農民」では無く「郷士国衆」で、且つ、移動式であるので同時に「刀と銃」とかで「戦い」もするとしているのだ。
    従って、「火縄銃以上」に戦術的には、移動すると云う事が枷にもなって“誰もすぐ使える銃”と云う事では無かった様だ。
    恐らくは、当時は、周囲は、”あんなもの使えるか”であって、未だ“変な国衆”と観ていたのではないだろうか。
    筆者は、従って、この「銃を含む国衆の威力・試射」を示す為にも「桶狭間の戦前」の「織田氏」との「8年間の小競り合い」のどれかに其れなりに「傭兵・示威行為」として参戦していたと観ているのだ。
    それが「第一次小豆坂の戦い・1542年」と「第二次小豆坂の戦い・1548年」では無いかと観ているのだ。
    これを表現として判り易く「地名の桶狭間」で表現したのでは無いか。
    何故ならば、此処は、そもそも「岡崎古跡神明社の青木村」より「真南8kの位置・2里」にあり、そもそも「岡崎城」に近く、昔は「三河国額田郡小豆坂」で行われた合戦でもあるのだ。
    先ずは「伊勢の神職族」が住んでいた地域であり、危険に晒される事を放置出来なかったのでは無いか。
    又、今川氏に依り「伊勢湾の制海権と渥美湾の制海権」の二つを奪われている事への何れも「示威行為」で無かったかと推論できるのだ。
    そうでなければ「今後の南下国衆」としての「本来の目的」は達成され得ないだろう。
    その為にも「変な国衆としての示威行為」を「松平氏合力」で見せつけたと考えられる。
    「火縄銃の知識」が有っても、「近代銃の知識」は無かったであろう。
    それも当に「弓矢の様に使う短い銃」であり、その「便利さ」に驚いたであろう。
    さて、然し、「第一次」は勝利し、「第二次」は松平氏側は敗退しているし、幾つかの資料の記録に依れば「銃に依る威力の表現」、又は、「銃を使ったとする表現」は何処にもない。
    では、一体これはどういう事であろうか。
    筆者は「二つの目的に依る事前の示威行為」と書いた。
    「改良銃の試射」を請け負い、「北陸の戦い」にも使用した経験もある「伊勢秀郷流青木氏の指導」の下に「国衆」として「上記の訓練」を開始して未だ「2年目の事」である。
    「実戦をする程の銃と撃手を出す事」は「示威行為の範囲」としてそれ以上の事はしなかった筈である。
    “この様な物を持っているよ。!だから「二つの青木村」には手を出すなよ。!「伊勢の制海権」を犯すなよ。!と示威をしたと観る。
    それは「織田氏」と「今川氏」に対しての「示威行為」であった。
    だから、「織田氏」も「今川氏」も驚いた。
    「織田氏も今川氏」も、「武田氏」と違って「火縄銃の威力」には興味を強く持つていた事は記録からも判っている。
    「織田氏」は、「今川氏の勢力圏」に入っていた「伊勢湾の制海権」に、これを壊し「制海権」を自分の手中に納める為に、この時期に「伊勢水軍・商業水軍」に「調略」を掛けたが、「伊勢側の引き締め・伊勢衆持株増」で失敗し、必要以上に手を出すのを止めた。
    史実、この「伊勢衆」から離脱し、この「織田氏」に味方して裏切った「一衆」も居たし、遠く離れた武田氏に味方した者まで現実に記録として出ていたのだ。
    念の為に注釈として、因みに信長に味方した「九鬼水軍」は、「熊野水軍の裔」で「海賊軍」であって、この「海賊軍」とは一線を画していたし、「伊勢青木氏の伊勢水軍・伊勢氏」は「堺組合」に所属していた「商業水軍」でもあった。
    「水軍の衆」を分けるとすると、そもそも古来より「海賊衆」、「警固衆」、「船手組」、「船党」などの「四衆」があった。
    「水軍」と称するものは、「船手組」、「船党」の「二つの衆」を意味する。
    「伊勢衆・伊勢氏の伊勢水軍」は、奈良期より存在し、「船手組」と「船党」の二つの役割を合わせ持つ「本来の水軍」を意味する。
    「海賊衆」と「警固衆」は、平安末期から鎌倉期に発生した要するに当に「海賊」である。
    その一部の「警固衆」が「海賊も傭船」の「二役」を演じたのである。
    「海賊」そのものの「紀伊水軍」もあったが、然し、この「紀伊水軍」は不思議に「伊勢との繋がり」を「平安期・奈良期末」の古くから持っていた。
    結局は「調略」に乗ったのは「九鬼水軍」とそれに関わった「一部・一氏・匿名現存」だけであった。
    上記した「伊勢」に大きく関わった「九鬼水軍」は、元来は、づばリ「熊野海賊」そのものであり、「室町期末期」には記録にもある様に「信長」に味方して「傭兵」もしたのだ。
    然し、「伊勢地域」は古来より温暖であり「気候や風土や物産」にその豊かさがあり、「伊勢衆」を「温厚な性格」にした。
    従って、「伊勢氏等の伊勢衆」はこの「環境の恩恵」を壊す事無く護って来たのだ。
    「伊勢屋の青木氏」が「織田氏や武田氏や今川氏」の「外からの調略の手」が伸びた時、真っ先に「伊勢水軍の内部の結束」を固めたが、この効果は高く乱れる事は無かったのだ。
    結果として、動いたのは「海賊衆」だけで、その「九鬼水軍」はこの環境に馴染まず結果として“「伊勢衆」”から強く排斥されたのだ。
    「伊勢湾の北勢」に近づけなかった事が記録されている。
    従って、「尾張」などに入る際は、一度、太平洋に出て、再び尾張の知多湾に入る必要があった事に成る。
    この“「海賊衆」”と「警固衆」に属する「二衆」は、その後も「尾張国」と「甲斐国」との関係を持ったのだ。
    後に「織田軍」に入った衆は、その後も昭和期まで「水運業」を営んでいるし、現在も「水運業」と「陸運業」として遺っていて有名である事を追記する。)

    (注釈 「「銃の威力を誇示する狙いの目的」
    独自に入手した「西洋の新式銃のフリントロック式」に「日本人体格・青木氏族」に合う様に改良を加えた事に依って、「相当な訓練」を施さなくては使えない様な「独特な個性」の持った「改良銃」が出来た。
    然し、その為に逆に「弓矢の様に使える移動式」のものとし「銃の威力」も増したのだ。
    そして、試作の生産量を次第に増やし、これを事情の持った「額田青木氏用・南下国衆」にして引き渡したのだ。
    結果として「威力誇示」の為に「第一次の小豆坂の戦い」で合力して「多少の銃の威力」でも「非弱な松平氏」は「銃の威力」と云うよりは「恐怖」にあって勝利したのだと考えられる。
    この時は未だ初期の「訓練中」であった事から、全面的に「300の銃」を持った使ったとは考え難い。
    仮に「脅かしの範囲」であるとするならば、「数丁」で良い筈であるし、又、訓練中とするならば「犠牲」を負わない範囲としてそうしなければならないであろう。
    「伊勢」や「額田青木氏」に執っても「威力誇示の目的」は過剰で在っては成らず「適度に知られる範囲」で良かった筈である。
    この時期には、「額田の北の背後」の“「縁戚の信濃」でも「5度の戦い・武田氏・1555年まで」”が起こっていて、又、“「尾張では1558年までは5度の戦い」”が起こり、「第二次」までには合わせてこの周辺で“「10度の戦い」”が起こっていたのだ。
    依って、暫くは「国衆」として訓練している「額田青木氏」は合力しなかったし、出来なかったのだ。
    「縁戚の信濃での5度の戦い」に「威力誇示」として使用していたかは判らないが、「第一次の小豆坂の戦い程度」には加勢していたと筆者は経緯から考えたい。
    「考え方」に依っては「信濃青木氏」にも「試作銃」として渡していた筈であろうし、充分に有り得ることである。
    「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」には「試作撃ち」を頼んでいた事は判るが、其処までの詳細は記されていないが「行」から何となく読み取れる。
    だとすると、僅かながらも「武田氏の一部」ではこの時に「実戦的な感覚」ではないが、初めてその存在を知っていた事も考えられる。
    「5年から10年前の事」として「小豆坂と信濃の戦い」で、まだ出始めた「火縄銃の存在意識」の方が強く、「額田青木氏の改良銃」は、”忍者が使う「単なる火薬弾」”の様に観られていたかも知れない。
    因みに、「火薬」は「黒色火薬」で古来では「焔硝」と呼ばれていて、歴史は古く618年〜907年に観られ、日本人はその存在を実際に経験して知ったのは「元寇の役・1281年」の時とされている。
    参考として、筆者の子供の頃に、「木の又の形状」に成った物にゴムパチンコを張り、これにこの「5ミリ程度の市販の焔硝玉」を挟んで飛ばして、物に打ち付け爆発音で鳥など脅かして落下させ、網で捕らえると云う楽しむ悪戯をした事がある。
    この様に弾力性のある物で跳飛ばす「単なる火薬弾」の「知識と道具」は鎌倉期後半には実際に「戦い」に使われた記録が遺す様に既にあったのだ。
    要するに、敵を「火傷」させるか「脅かし」としての道具が使われていた。
    ところが、”丸い堅い「弾」が飛んで来て死なせる”と云う「弓矢」に勝る「殺傷力の道具」が「火縄銃」であったが、「火縄では無い道具」で何処からともハッキリと観えない遠くから「弾の様なもの」が飛んで来て、不思議に突然に死ぬと云うものとして受け取っていたのだ。
    資料に依れば、「火縄銃」は飛距離は500m程度で命中率は50mとされ、「改良銃」は1500mで命中率は500mであったとされる。
    だから観えない処からの「流れ弾の被弾」とすれば“判らない”と記される事と成ったのであろう。
    そもそも「人の感覚」とは、「焔硝→火薬弾道具→改良銃→火縄銃の過程」で先ず直ぐに「過去の感覚」に捉われ、この時は「火縄銃」までには至っていなかったと観られる。
    要は、「焔硝」から「弾」に、「脅し火傷」から「死」に替わった事にあって、「第一次小豆坂」から“何か変だな”と成って行ったのである。
    だから、「青木氏族」に執っては「威力誇示、示威行為」の目的は達していたのであった。
    ところが、その「地元の美濃」では、「1556年」で「長良川の戦い」で歴史的に「実際の火・火縄銃」が用いて河中で使用されたのだ。
    従って、「南下国衆」が合力していないこの「第一次の小豆坂」より「6年後の第二次の小豆坂・1448年」では「松平氏」は敗戦して極度に衰退している。
    そして、この「第一次小豆坂の戦い・額田青木氏の国衆の銃の実地訓練」で、それを観て「織田氏の経験」が学んだ事は、「銃を使う戦闘に発想」は切り替わったのだ。
    そして、「織田氏の経験」が行動に移したのだ。
    これを証明するのは、その事が起こった戦いがあった。
    その記録では、「長良川の戦い・1556年・斎藤家の内紛」に「援軍」として合力し対戦したが、この時,「道三側・父」が「敗戦」と決まった時、最早、これまでとして「信長」は対岸で特異な行動を採ったと記されている。
    それは「信長自身」が「最後の切り札」として、「雑賀根来の火縄銃傭兵軍団」を破格な金銭で雇っていた。
    この「切り札の火縄銃」の一部を川の真ん中に「数隻の船」を繋いで浮かべて「川岸に迫る敵」に向かって「数丁で射撃」を繰り返したとある。
    「敵」は矢張りこの「行動」に驚き、「向川岸の背後」にこの「雑賀根来の火縄銃の軍団」が構えている事を想定し、恐れてこの侭に進軍すれば全滅すると考え対岸の川岸で進まなかったとされる。
    結果として「信長」は、無事に対岸から「殿軍」を逃がす事に成功し、又、自らも引き上げる事に成功したとする史実がある。
    この時の「火縄銃」が、「雑賀根来の火縄銃の傭兵」で事前に雇っていた事は「道三家・1553年・正徳寺の面接」には既に知られていたとされる。
    故に、この「火縄銃での威力の知識」が既に「美濃」でも何とか感覚的に持ち始めていたからこそであって「川岸」で留まったのだ。
    これを暗に「甲斐や信濃や三河や美濃や尾張や駿河」の周辺国に知らしめる必要があっての行為であって、「額田青木氏側」には其の後にも世間に「青木氏の存在」の為に「銃の威力を誇示する狙い・抑止力」があったと観られる。
    “こちらからは決して手は出さないが出すと怖いよ”とする「威力行為・メッセージ」を発していたのだ。
    この事を事前に合理的思考で感じ執っていた「信長」は、これを利用してこの「網」にかけて「最後の仕掛け」の「全滅誘い込み戦略」を採用したのだ。
    そうでなければ、「額田青木氏の実戦的史実」を世間に知らしめていなければ、この「信長」も然る事乍ら、“「斎藤義龍側」も引き上げる事”は無かっただろう。
    故に、この様な経緯に成るのには、「江戸期の三河の事」を書いた「戦記の火縄銃の表現の行」から検証した事として、“「銃の実戦的威力」”を最初は「第一次小豆坂の戦い」で誇示していたと考えられるのだ。
    他にこれ以前に「銃の実戦」は歴史上では無かったのだ。
    その「長良川の戦い」で“デモンストレーション”として見せた時期は、「第一次小豆坂の戦い」から「11年後の事」であったのだ。
    つまり、「額田青木氏側」に執っては世間に「銃の威力を誇示する狙い」は成功していたのだ。
    当然に、この事に依って「伊勢湾の制海権」と「渥美湾の制海権」に「微妙な影響」を与えていた事に成るのだ。
    さて、この“疑問”に付いては、ところが“風吹く川の中”で果たして「火縄銃の欠点」として“火縄銃が使えたか”であり、「無条件に使える」のは「青木氏が持つフリントロック式改良型」だけであって、然し、「第一次の敗退時・対岸に撤退時」に「使われた可能性」もあるが、少なくとも「火縄」に限らず「銃の威力」として「感覚的」に感じ執っていた事は充分に考えられる。
    筆者は、この「長良川の信長の銃」の使用は、概ね史実として受け取っているのだ。
    又、故に、「威力の印象」を目的とすれば「川の中」で、「信長一人と家来複数」で夕刻の凪時に何とか「火種」を保護して撃った可能性も充分に考えられると観ているのだ。
    そもそも「信長」が「長良川」で最初に「威力行為」として使った理由にはもう一つある。
    それは「銃」でも同じ「堺・伊勢青木氏の銃製作」との「付き合い」のあった「銃の傭兵軍団の雑賀根来族」にある。
    この「雑賀根来族」は摂津堺の組合員であり、地元に店を構える事や銃を試作している事や資金先として堺から拠出している事や傭兵軍団を編成しているやシンジケートを組んでいる事等から「伊勢青木氏の行為」を充分に知っていた筈である。
    それは何よりもそもそもこの「雑賀地域」に「伊勢屋の店」を構えていた事が判っているのだ。
    恐らくは、「鉄製鉄の取引の為の店」であったと考えられ、明治初期まで続いていた。
    この時期に「銃の生産」のみならず「傭兵軍団」でもあったとすると、“「金のある雇先」を探していた”と云う事に成る。
    「重要な事」は他に「雑賀根来を使った雇先」は資料から無い処を観ると、それが最初に「雇先」と成ったのは先ず「信長」であったと云う事だ。
    つまり、未だ「傭兵の金額」が手の届くところには無かったと云う事だ。
    「市販の銃の生産」をしない「雑賀根来衆」に執っては「雇先」が無ければ其れで無くては「雑賀根来」は成り立たない。
    「伊勢屋」は「雑賀」に「小店」を出していた事は記録としてあり判っているし、江戸期には「鉄の販売」に関わっていた巨額の儲けを得ていた事も判っている。
    つまり、この時、「雑賀根来衆」は「信長」に「伊勢と額田の情報」を流していた可能性は高い。
    だから、未だ「南下国衆」と成っていない時期には、「伊勢や三河や額田」には「銃の存在」を警戒して「信長」は「長良川の後」までは「斎藤家」が潰れるのを待って手を出さなかったのだ。
    兎も角も、決定的なのは「歴史的な本格的実戦」として「第一次吉田城」と「三方ヶ原の戦い」と「第一次小豆坂から其の後22年後」の「雑賀根来の傭兵軍団」に依る「長篠の戦い・1575年」であった。
    「三河側」の「今川氏・松平氏連合」と、「尾張」から侵攻してきた「織田氏との間」で、「第一次と第二次」の「2度」に繰り広げられた小競り合いを除く「戦い」では、要するに「三河の弱体化」に両氏に組み込まれた「三河平野」を獲得しようとする「典型的な争奪戦」であった。
    未だ、「額田での銃兵の国衆」として編成されて訓練に入って間の無い頃であった。
    要するに、この様な「周囲の環境」の中で、改良に依って相当に訓練を要する銃であっただけに、“訓練だけの何にも無し”では現実に戦乱下では済まないであろう。
    仮に、「物語風の記録史」の「この実戦説」は、「銃を使った行」が「史実」として確定されれば、「訓練中の実戦・示威行為・伊勢湾と渥美湾制海権脅威」とも考えられる。
    同時に、前段でも論じた様に、この事から「額田の家族の3度移動」は、「資料の状況判断の行」から観て、「第一次と第二次の期間・1442〜1448年」の後に「美濃と三河の空白期間」が起こったが、これが「額田の伊勢の裔系の青木氏」に執っては「移動に伴う絶好の時期」と成っていたと考えられる。
    この為にも「威力行為の示威行為」を強く示す必要もあったのだ。
    これらに付いて、「幾つかの郷土史」も含めて総合すると、「松平氏の火縄銃保持」と書かれている「行」には、この「第一次の合力」を捉えて「後勘・江戸期」で「印象付けられた事」である事が判る。
    「銃の経緯」は上記の通りであって、後勘から観て「矛盾」だらけの「江戸期の脚色の歴史書」がそれが引き継がれ「長篠の戦いまでの行」と成って仕舞ったのであろう。
    「正しい歴史書」と云うよりは、“興味を引き付ける物”でなくては江戸期では売れない。
    従って、江戸期では現在と違い「適度の脚色も妥当な範囲」として常識としていたと考えられる。
    「酒井氏の東三河の兵力・二連木城・吉田城の戦い」からは、現実に「国衆としての合力」ではあるが「松平の銃隊」と成っているのは現実である。
    要は、「持ち主の問題」であろう。
    当初は、「南下国衆の銃隊300と荷駄50人・伊川津土豪衆」と「牧野氏等の国衆の兵300」と「酒井氏の手勢200」であった事が解る。
    形勢不利で援護に駆け付けた「家康の三河本隊」と共に、「支城・二連木城の全兵力」は「吉田城」に敗走し逃げ込んだが、現実にはここで「実戦」として「吉田城」で「銃」で押し返したのが最初であった。
    其の後は、「350人の300銃隊と荷駄隊」は、合力ながらも「一言坂の戦い・偵察隊」と「三方ヶ原の戦い」では、「銃隊としての単独行動」ではあったのだから、そもそも「江戸期の記録通り」の「松平軍の銃隊」そのものとは言い難い。
    ところが「江戸期」では、其処まで「検証能力」があったかは甚だ疑問で、この事がこの「物語風記録」を元にこれまでを「松平氏の銃隊」と都合よく脚色されて仕舞ったのだ。
    本当に江戸期では、“其の後も三河の伊川津に定住し続けたのである”からその様に解釈していた可能性も充分にあり、仕方のない事かも知れないのだ。
    これが「一般の歴史観」と成ろうが、関わった「青木氏の歴史観」からするとこの様に違うのだ。)

    (注釈 「南下国衆の立場」と「牧野氏等の国衆の兵300」
    この戦記の記載には、疑問があり、検証を要する。
    当時の標準は、「1年=1反=1石=1両=1人」とし、それに基づいて「子孫拡大式の4nの2乗」が働いたとしていた。
    更に「1騎=50人」と「1頭=1200」等の「当時の軍規基準」とその他全ゆる「社会の一般原則」から照らしても、「渥美・伊川津・田原・吉田」の前期した様に「石高5000石」は妥当と見做される。
    ところが、記録に遺る戦国中の「松平氏の標準軍規」から考察すると、「土豪3氏で300兵」と云う事は、この原理からすると「土豪3氏の手勢」には、少なくとも「6人の騎馬」が居た事に成り、且つ、「夫々の土豪3氏」から「各2人の准指揮官・差配頭」が居て、合わせて「6人の戦場准指揮官・現場」の「軍編成」と成っていた事を示すのだ。
    其の上に「1人の戦場指揮官・現場」で構成されて動いていた事に成る。
    同然に前段でも論じた様に、「額田青木氏と伊川津四家の銃隊」は「350の銃隊・荷駄含み」で「300丁の射撃兵」と「50人の補足兵・射撃の補足」が着いていた事に成る。
    当然に、この「6人の戦場准指揮官」で「敵の動向」に依って「6つの配置編成」で動いていて、「1人の全体指揮官」で指揮統制されていた事に成る。
    それに対して「吉田城の酒井氏の作戦本部」からの「情報や命令の伝達伝令係」が置かれて動いていた事に成る。
    この「額田青木氏の射撃銃隊」の戦闘方式は、資料に依れば「隊の前面」に出て「城壁・廓櫓」から「武田軍の動向」を観て射撃した事に成っている。
    この「吉田城」で観れば後ろは直ぐの川である。
    「三つの郷土史や絵図」から総合すると、「城」は後ろに川をして、そこに「本丸」を中心に「二の丸、三の丸」の二つを配置していたとある。
    それを「堀」が「城」を囲む様に不思議な”「円形」”に取り囲様な”「円城構え」”であったとされる。
    ところが「平城の館城」の様に「吉田城」には珍しく「天守閣」はなかったとされ、「櫓」は後ろが川であった為に、前面に「当初は2基」であったとされる。
    ところが「酒井忠次」が「城主・1564年」と成ってからは、「三層櫓の5基」に改造されて護られていた事に成っている。
    そして、この「三層櫓の5基」は、当時の「城構え」としては珍しく「弱さ・武田軍を予想」を必要以上に補強していたのだ。
    実は、この「特別な改造」が、当時としては「兵と2基の櫓の弓矢で護る構え」で充分であって、“いざ”と云う時には寧ろこの「櫓廓の存在」が邪魔をする。
    然し、この事から敢えて「弱点」とも成り得る「特別の改造」をした事を考えると、最後まで“「籠城スタイル」の「弓矢で護る城に替えた事」”に成るのだ。
    つまり、それを「額田の南下国衆」の「弓矢に替わる銃隊」を配置したと云う意味合いに成る。
    「松平氏」に執っては「南下国衆」が「ある条件下」で「合力した事」で、この時は未だ「強力な弓矢に替わる銃」と感覚的には捉えられていた事に成る。
    「額田青木氏の銃隊」は「移動式銃隊」として「最大の効果」を発揮するが「強力な弓矢程度」と捉えていた事が判る。
    そこで、仮に「前面6カ所」で応戦すると成れば、その「構え」はこの「櫓5基」に夫々上記の通りに「銃隊」が配置され、後ろの川側に予備として「1騎の銃隊」が配備されていた事に成る。
    普通は、「城櫓」は、その目的から「2〜3基」で普通で「5基」と云うのは大変に珍しく先ず無い。
    つまり、殺傷力の小さい「弓矢の意味」はここにあるのでだあって、「弓矢」で敵を死滅させるものでは無く、城に寄せ付けない様にする「牽制策」にあったのだ。
    「平城」で「弱い勢力」のこの城を護ろうとしてこの力をより強めようとして「5櫓」としたのだ。
    要するに、この「城白構え」は”時間稼ぎ策”に過ぎないのだ。
    其処に「忠次」は「弓矢」の代わりに「南下国衆の銃隊」を偶然に置いたと云う事で、結果として遂には「時間稼ぎ策」から「死滅力があり撃退策」に替わり得たのだ。
    当初の国衆条件は「東の軍政下」では無く西軍制下であった。
    この約束を破って、吉田城に詰める事を命じたのは、時間的に観て呼んでから「城改造」をしたのではない事は判っているので、この「酒井氏の作戦」であった事に成る。
    恐らく、この時に初めて「彼等の感覚」は、「弓矢の代替」から「死滅力があり撃退策」の感覚へと大きく変わった事を物語っている。
    この作戦で、一番小さい城が何と”「武田軍」を何と追い返した”と云う大事件を起こしたのだ。
    唯、ところがこの事が「額田青木氏の南下国衆」に「ある被害」をもたらしたのだ。
    それは、この勲功は「旗本の立場」を脅かす程の事であって、「彼等の大嫉妬」を招いてしまったのだ。
    その「旗本の嫉妬」は「西三河軍」では無く、案定の「東三河軍の中」にあって「酒井氏と大久保氏の中」に起こったのだ。
    この「二つの旗本」は何と定住地の「伊川津の田原城」の者等であった。
    中には、当然に「旗本」では無い「国衆の土豪3氏・譜代」も含んでいただろう事は判る。
    恐らくは、そもそも「吉田城」は、「二連木城の土豪」と対抗する為に建てられた普通の「土豪同士の対抗城」であった事から、「2基」であった事に成り元来「特別な城」ではなかった。
    とすると、これを「忠次」が「東三河の土豪等」を「1564年」に攻め落として、その功績から「家康」からこの「東三河軍の防御城」としてを与えられたものである。
    この為に、恐らくは、この事を筆者は次の様に考えている。
    この時の「1560年頃」に「額田青木氏の銃隊」が「国衆」と成って、「伊川津」で約束違反で「東三河軍」に組み込まれていた。
    「青木氏の資料」には「西三河軍編成」に入ると考えていた「行」が記されている。
    これは「伊勢との繋がり」からより近い「西三河軍制」に入る方が得策だと観ていたのである。
    恐らくは、これは「当初の国衆条件」では無かったかと判断され、だから青木氏に遺されている資料には「不満」を抱いた手紙の「行」が記されているのだ。
    これを無視され「松平側の理由・状況」を前面に押し出された。
    この事から、「額田青木氏の銃隊」の様に「櫓廓」を上記の検証より弓矢より強力な感覚を持たれた事で「5基」に変更したとも考えられるのだ。
    「青木氏の歴史観」からすると、これが“改造の根拠であった”と考えているのだ。
    その「証拠」は、当初は「戦記」に依れば「家康と忠次」が、“城から出ての「戦い」”と成っていた事が記されているが、現実に隣の「二連木城」で本隊が救援に駆け付けて「野戦」をして敗退した。
    結局は敗退して、この「吉田城」に「二連木城兵」と共に「籠城の戦い」と成ったとある。
    これには「誘い込みの戦略」と記したものもあるし、筆者も伊川津から移動した銃隊が既に入場している処からそう見ている。
    これが「額田青木氏の銃隊」の「国衆」が、「東三河の軍制」に約束を違えて組み込まれた理由であろう。
    始めから、武田軍の攻め込みを考えて「約定を護る心算」は三河軍に無かったと観ている。
    恐らくは、ところがこの時に「土豪3氏の手勢・300」と「忠次の手勢の200」と「家康の本隊3000」で、実際に史実ではその「前の戦い」と成った「野戦・二連木城等」に出て配置され応戦した事に成っている。
    ところが、この「戦い」には「額田青木氏の銃隊」の「国衆」は参戦していないのだ。
    然し、当然に「二連木城」では多勢に無勢で敗戦して「吉田城」に籠もる結果と成り、「城」から「5基の櫓廓」から「300丁の弾幕の銃撃戦」で応戦した事に成っている。
    この時に、「第一次の吉田城の史実」に基づけば「銃の持たない武田軍」は、犠牲が多く直ちに“勝ち目がない”として「戦う事」を諦めて引き上げたと成っている。
    ところが少しこの「史実の戦術」には一概に信じられない事があり変である。
    筆者は、これは「吉田城と二連木城」から出た「勝ち目のない野戦」と云う事は、「櫓廓」からの「銃弾」が効率よく「弾幕を敷ける距離」まで「武田軍」を“城に引き寄せる「忠次の作戦・事前の廓櫓改造」”であったとも考えられる。
    「郷土史」でも「有利な銃撃戦」に持ち込む為の「戦略」であったと記されている資料もある。
    つまり、その目的は犠牲無く「東三河の全ての兵」が「逃げ込んだ事」から考えると、「額田青木氏の銃隊」が「国衆」の「後方支援」として「吉田城」に入った事から来ているのであろう事で理解できる。
    故に、ここでも「銃の存在」ははっきりと明記されているのだ。
    この事は合わせて「6の郷土史類」にも記載がある。
    「二連木城」と合わせて最高で「吉田城」では「3850の兵力・兵の集結作戦」と成ったのだ。
    此処からである。
    然し、ここで疑問は、“これだけ「小さい城」に「3850の兵」を詰め込んで集めて何をするのか”であろう。
    戦略的に「銃隊説」があったとしても可笑しい。
    寧ろ、後ろが川であるので「飲料水不足の危険」は兎も角も「兵糧不足の危険」があった筈である。
    故に、この疑問からすると相当に「銃隊の効果」を理解していてこれによる「短期の攻撃」を狙っていた事にも成る。
    突如、その「約定」は見つからないが「額田青木氏の南下国衆」に執っては、「伊勢と繋がり」を採る事に有利な「西三河軍制」を望み、この「当初の約束」を破ってでも「東三河軍制」に組み直して「短期決戦を狙ったと云う事」になろう。
    つまり、この推理では少なくともこの時は「南下国衆の銃の威力」を最低でも「強力な弓矢」として高度に評価していた事を意味する。
    その評価はなんと「武田軍の撤退」で更に変わり、「強い羨望を生み出す程」のものと成ったのだ。
    それは、「マッチロック式の火縄銃」では無く、「フリントロック式改良型」であった事に依るだろう。
    誰が考えても、「全方位の周囲の5基の櫓廓」から間断なく撃ち掛けられれば「全員死滅の事態」と成り、早期に勝負は着くと見做されて、「全兵力温存の意味」からも採った「止む無き作戦」であって、松平氏側としては思い掛けない程にこれが成功した事に成る。
    ところがこれらの記録に依ると、これが「1556年〜1572年までの戦い」に依る「兵力変化」では、最終は、然し、結果としては「羨望」からか「奇襲隊として任務」を与えられた事に成ったのだ。
    然し、「青木氏」に執つてはその目的から良い事であった事に成る。
    「南下国衆時の約定の違反」に意識した事も充分に考えられる。
    最終目的の「渥美湾の制海権の獲得」を意識していたと云う事だ。
    「青木氏の氏是」に伊勢から指令が届き、それに基づきだから我慢したのだ。
    本来であれば「吉田城の戦功」からもっと積極的に使われる事で弱体化した態勢を替える事もあったであろうし、「今川氏も見直した事」もあっただろう。
    寧ろ、「伊勢の指令」は、この「今川氏に使われる事」を警戒した事も考えられる。
    この時の「東三河軍の兵力」はある戦記では「500」と成っている。
    少なくとも、この計算では、「350の銃隊」が存在するも「東三河の兵力・酒井忠次軍」は実質は減少している事に成るのだ。
    本来は、「酒井の手勢200」+「土豪勢の300」+「350の銃隊」=850と成っている筈である。
    ところが、記録では「500」と成っている。
    要するに、この江戸期の戦記の記録では「350の銃隊」が計算されていない事に成る。
    「吉田城の戦いの扱い」では、「東三河軍制」に組み込まれていながら、「吉田城の戦い後」は組み込まれていない事に成る。
    つまり、これは「吉田城の戦い」の後、直ちに「東三河軍制下」に無く「伊川津に戻つていた事」に成る。
    筆者は、「羨望説」や「約定説」では無く「今川氏に使われる事」を気にして「伊川津に戻した事」の説を採っている。
    “「弱く見せる事」”に依って「身の安全・松平氏」を保ち必要以上に「織田氏や今川氏」に対して“「戦力の威力」”を隠したのであろう。
    そもそもこの時、「西三河の軍・1200」は「石川家成」を「頭」としている。
    この時までの兵力は、「松平軍の本隊・3000」と合わせて、「合計5000の兵」としている。
    この兵力の数字は正しい。
    「南下国衆の銃力・20倍」を以てすれば「5万以上の戦力」と成り得て、その「戦い方」では「織田氏や今川氏」を凌ぐ兵力と成る。
    「銃力」に対する「松平軍の認識」は高くは無かったが、「吉田城」で観ていたのであるから少なくとも「弓矢以上の威力の認識」は「酒井氏や家康」には有ったのではないか。
    上記の記録に依ると「吉田城の戦い」での「吉田城の兵力・酒井忠次軍800/500」は「額田の南下国衆の銃隊の数」を合算すると検証と一致する。
    そうすると結論は、東三河の独自の「酒井軍の兵力・300」の「吉田城の戦い・1571年」の後に、そもそも「土豪3氏」と共に“「伊川津に戻っている事」”で一致するのである。
    取り分け、「額田の南下国衆」は戦い後直ぐに戻っている事に成る。
    これは「土豪3氏と南下国衆」とには「家臣化を望む者」と「渥美湾の使用権を望む者」とのその「目的の違い」があったからであろう。
    資料から「三方ヶ原・1572年」で、急遽、「伊川津から呼び出しを受けた事」の行でも一致する。
    この時、記録に依れば「土豪3士等の国衆」は「数からする事」と「その事を匂わす行」から既に参戦している。
    この事の物語る事は、軍制下にあったとしても更には“「東三河軍制」に正式には組み込まれていなかった事”を証明する。
    これは「第一次の吉田城の戦い」の後に、“「350の銃隊」に何かがあった事”に成る。
    それが、「額田青木氏側」の「350の銃隊」に何かあったのか、「松平氏側」に何かあったのかである。
    「伊川津」は、「大久保・本多氏の田原藩・1560年」であるが、「酒井軍制下・吉田城・1565年」には既にあった。
    それを共に、この「6年間の戦いの任務」は、“「350の銃隊」では「先鋒隊、偵察隊、奇襲隊の任務」であって、「大久保・本多氏の軍政下の3土豪等」では「3つの城を護る役目」にあった事が判っている。
    この「東三河の田原城」と「二連木城」と「吉田城」の3城である。
    「武田軍の本隊」との最後の一戦の「青木氏の一言坂の戦い・1572年偵察隊」までは、この「三つの役目」、つまり“「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊」”の位置に据えられていた事に成る。
    「土豪3氏」とは違い固定された「城の防護役」では無かった事に成る。
    要するに、記録から総合して考えると、その様な「あやふやな意味」の「最前戦の決死隊の事」の様で、強いて云うならば「危険な位置に据え置かれていた事」に成るのである。
    これは「松平軍を救う位置」にある事を認識しながらも、実態は「計算にも入れない」、且つ、「兵力数にも入れない」の立場に置かれていた事に成る。
    逆に云えば、確かに良い方に考えれば、これは明らかに「銃隊を認識し生かした事の証」でもあるのだが、それが「固定式の火縄銃」では無く、それは唯単なる「強力な弓矢」に替わる「フリントロック式の改良銃が魅力」であった事にも成る。
    これは「概念」としては“「兵力」では無く、未だ「銃力」に対する「排他的概念」”があった事に成る。
    これが拗れて「記録」にも遺される程の「東三河の旗本・大久保氏との軋轢」の原因と成っていたと読み取れる。
    寧ろ、「銃先」を「旗本」に向けていた事位の軋轢であった事を意味する。
    「三方ヶ原の戦い」の「引き上げ方」はそれを物語るだろう。
    それを知った上での事で、其れで無くては「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊」は心理的に危険に任務を務まらないだろう。
    それだからこそ、早々と「三河国衆を辞した理由」と成った一つなのである。
    前段でも論じたが、「激しい戦歴」では、結局は主に「伊川津の手勢」には全体として「350の兵の減少・記録犠牲者」があった事にも成っている。
    記録では「土豪3氏の手勢」は「300」と成っていたので「全滅に近かった事」に成る。
    「吉田城の忠次の手勢・300」には、其の後の「戦歴の経緯の変化」は依然として元の「200」と成っている事から考慮すると、東三河域の「豊橋・豊川の今川国境の国衆・周囲の国衆の100人以上」の減少と成り、「大被害」であった事に成る。
    これは「三河戦記の三記」にも「今川国境域・元今川国衆」の「国衆の戦死」が多かった事が書かれていて、その「戦いの激しさの事」として「記録」として遺されていて「有名な記載部位」がある。
    江戸期の身内の記録であるので悪くは書かなかった筈である。
    とすれば、“「第一次吉田城の戦いの功績後」に「伊川津」に戻った”と云う記録の疑問は、「第一次吉田城の戦い」の後に“「先鋒隊と偵察隊と奇襲隊としての役目」”は既に終わっていた事に成るだろう。
    故に、「吉田城の兵糧等の問題」もあり、「必要性の低下」で「伊川津に戻つた事」にも成る。
    そして、ところが、その経緯としては、「浜松城の野戦」で「城自体の存続」が危ぶまれ「形勢不利」と成り、「伊川津」に戻って「三河国衆を抜ける準備」をしていた処に、突然、呼び出され止む無く合力し、この「流れ」に従いそれが「三方ヶ原の戦い」までに繋がって行った事に成るだろう。
    故に、無理に「鶴翼の陣形」の「左側面」に付き参戦し、「三方ヶ原の敗戦」が決まった処で躊躇なく「戦線離脱」して、急いで「伊川津」に戻って、再び「三河国衆の離脱の準備に入ったと云う事」に成るだろう。
    この「記録」に依れば、“「額田青木氏の差配頭等」も戦死している”と書かれているのだ。
    とすると、「三つの戦記の記録」から「額田青木氏の国衆差配頭」の「三方ヶ原での戦死」からも「犠牲」はあった事が記載されているし、「額田青木氏の差配頭・名も記載」からも「二人戦死している事」に成る。
    合わせて、この記録から読み取る処では、「土豪3氏の手勢・300」等も「桶狭間の戦い・1556年」と「吉田城の戦い・1564年」と「東三河一揆・1563年」と「姉川の戦い・1569年」と「三方ヶ原の戦い・1573等」の「以上5戦」で、全体として「17年間」で「土豪3氏約300の兵」の「全滅に近い戦死の事」と成っていたと記録している事に成る。
    恐らくは、その中でもこれは無理に執った「鶴翼の陣形」の敷いた「松平軍の翼面」に他の土豪3氏の国衆も共に着けさせられていた事に依って「犠牲」を多くしたのであろう事が判る。
    注釈として、本来は「銃隊」には「無理な陣形」であって」旗本の居る中央の最前線」に配置されて「銃隊の弾幕効果」が出るのだ。
    然し、「本来の形」にしていれば勝敗は変わっていたかも知れないがそうでは無かった。
    恐らくは、この「300の兵の伊川津国衆の戦死の事」を「土豪3氏の分家筋」は、“先ずこの事を念頭に置いた”と考えられる。
    “このままで「土豪3氏」の中でも前戦の最前面に出される「分家」では何時か全滅する”と考えて深慮したと観ているのだ。
    そもそも、鎌倉期末期から室町期中期に架けて関東や四国から流れて来て「三河」に住み着き、「三河国衆」として「伊川津の土豪と成った3氏の分家筋」は、遂に決断し「陸運業に成る事」に傾いていたのであろう。
    この「伊川津の分家筋」が、「陸運業に加わった事」は「田原の古跡神明社族青木氏」と、その背後に「伊勢の存在」を強く認知し、安定性が担保されていた事を知っていた事に成る。
    つまり、後から「伊川津に来た勢力」と云うよりは「伊川津の原住民性の族」を認知していたのである。
    この上で「陸運業と成る事」に決断した時の約定とか、反対していた「蒲郡青木氏・桑名」と共に「伊勢との契約書」なるものがあった筈であるが、発見できず未だ見つからず遺されていない。
    それは“遺されていない”と云うよりは“遺らなかった”と云うのが正しい。
    それは「伊勢」で起こした「3度の失火も含めての消失」で“遺らなかった”である事は間違いはない。
    「3度中の消失」のどれかも解らないが、最後の「明治35年の消失」では「曾祖父と祖父の忘備録」には、“全ゆる物改めて火中に放り込んだ”と書かれているので、「執事役」を務めていた「菩提寺清光寺」も消失した時で、遺されていたものが消失したとすればこの時であろう。
    然し、例え、これ等の事を「より詳細に描いた記録」が遺されていたとしても、又、「土豪3氏」の国衆の“「300の兵の戦死の事」”は知り得ていたとしても、「渥美伊川津の土豪3氏の本家筋」は、「一族の筋目を遺すと云う宿命」と「松平氏への恩義」と「初期の目的の立身出世」の「三つの狭間」でそういう訳には行か無かったのであろう。
    「生き遺りと自由」を求めた「分家筋」が、「伊勢側の了解」を得たので「陸運業」に参加した事に成ったのだ。
    確かに「伊勢側の主張」も納得できるが、損得で云えば必ずしも損を危惧する事だけでは無かった筈である。
    “船頭多くして船山に登る”の諺の通り「利」はあったのだ。
    「額田青木氏の三方ヶ原の戦線離脱」は「罰則中の罰則」であるが、この罰則は受けずに「伊川津と蒲郡」に定住しているし、「豊橋、豊川、岡崎等」に定住もしているし、「陸運業と開発業と殖産業」もしている。
    これは要するに「上記の位置にあった事」を証明している。
    「松平氏」に執っては事情により違約はしたが、「神明族」と共に「最初の約定」の通り居ついてほしかった事に成るだろう。
    故に、江戸初期の”{伊勢の事お構いなしのお定め書」と「頼信との良好な関係」がこれを証明する。)

    「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」に続く。


      [No.382] 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/05/24(Sun) 09:59:18  

    > 「青木氏の伝統 56−4」−「青木氏の歴史観−29−4」の末尾

    > (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
    詳細の検証は更に次段に続く。
    その疑念は明治初期に消えた。
    > その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
    > その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
    > 中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
    > 紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
    > この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
    > この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
    > これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
    > これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
    > この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
    > そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
    > 後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
    > 後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)


    「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」

    (注釈 「巨万の富と伊勢青木氏のその後」
    それは奈良期から始まった。
    「紙屋院の紙の製造・朝廷の認可・勅命」からこれを基に自ら氏力で開発した「和紙」の「余剰品の市場放出の権利・商い」を「925年頃・紙屋院伊勢屋の号」を与えられ認められ手始めた。
    そして平安期の「1025年頃の総合商社・献納金」を設立し、遂には、「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得た。
    更にそこから「室町幕府」には「白旗派・原理主義」を「浄土宗」と認めさせ、結果として唯一の“「律宗族」”と呼ばれるまでに至った。
    それを「源・大儀」に、これを「共存共栄共生の概念・青木氏の氏是」で確率させ、要するに室町期の戦乱の中で“「紀伊半島の民」”を護ったのである。
    当に、これが既には「平安期末期・嵯峨天皇期」からは「高位族の務め・皇親族・令外官」では無く成っていたが、然し、「伊勢青木氏・信濃青木氏の協力」の範囲では、その概念を頑なに「伝統」として持ち続け、「明治9年」までのその「行動」は矢張り、“「賜姓五役」”であった。
    つまりは、”「隠れた令外官」”に徹したと云えるのだ。
    「明治期まで続いた天皇への献納」は何よりのその証拠であろう。
    況や、「共存共栄共生の概念」に徹していたかは、「明治35年以降」の「富の蓄積」の有無に表される。
    そもそも、この「明治35年以降」は既に「普通の富の範囲」にあり、決して最早、「巨万の富」と云えるものでは無かった様だ。
    それは「幕末」から起こった「伊勢信濃の全域の庶民が興した伊勢騒動」が明治9年までの「11年間」も続き、これを背後で補完していた為にこれにより「巨額の富」を放出したのだ。
    「何万と云う民の糧」を全額支援したし、その「後始末」に明治政府に対してあからさまに「巨額の献納」をし、「騒動の事・始末」の「処罰者」を「差配頭」だけにして「民全員」を穏便に済まさせた。
    「地祖改正」で「伊勢の地権域の民」に全て「無償」で「地権」を譲り「富」は遂に底を突いたとされる。
    更に、維新時の大名に貸し付けていた「債権放棄・計10万両・主に紀州藩」に合い、富の底の底を突いたとされる。
    最後は、「明治35年の松阪の失火」で「松阪福家」は責任を取り、全てを売り払い賠償したとある。
    この事から「松阪」より「福家」を「摂津・紙問屋伊勢屋・現存」に移し、「松阪」は「殖産・早場米の開発と酒米の開発」のみにして、「員弁と桑名の四家・現存」に営業の差配を移したとある。
    そして、「青木氏部」は「大工職人・宮大工」として支援して独立させて「桑名額田」に夫々の会社・二社・現存」を設立させたとある。
    祖父の代の「明治維新から昭和20年」までは、「四家との繋がり」は有りながらも、最早、「富」では無く、“「律宗族」”から“「徳宗家」”としての「呼称の名誉」だけが遺されていた事は事実であった。
    「青木氏の資料」と「明治期の郷土史」にもこの記載が遺る。
    最後の「福家」であった「祖父」は、後始末を着けた其の後「尾鷲の旧領地」に引き上げたが、「多気と熊野と田辺と海南の庵・一族氏人の保養地」だけが残った事と成った。
    「祖父と父」はその間に得た「教養」を許に、これ等の「庵」で「多くの弟子や僧侶・禅宗」を養い、世間に輩出した。
    江戸期に「廃れた南画の復興」や衰退していた「彫刻・華道・茶道・歌道・禅門道・俳句道の普及」にも努め、「職業弟子」を世に無限と云える程に送り出した。
    現在もその弟子の子孫が受け継いでいる。
    これが認められ、「明治期の華族制度」の推薦に続いて、二度目の大正期に徳川侯爵より「文化功労」により推薦され、政府より感謝状を贈られるとするが「氏是」に従い何れも再びこれを辞退した。
    「共存共栄共生の概念」に従い関係者で築き上げた「巨万の富」の「分配・地租改正等」は全てこれで終わったのである。
    筆者は、未だ、一部の「資料や遺品」と共に「口伝」でも伝わり、その「伝統」は「松阪」や「旧領地等の尾鷲」にも遺り、丁度、その「末尾の経緯」を具に観て来た事に成るのだ。
    それ故に、未だ何とか興せるこの「伝統の経緯」を遺そうとしている。
    「長野青木氏」でも興し始めたと聞く。)

    「前段」で述べきれなかった事柄をここで少し話を元に戻して論じて置く。

    (注釈 「雑賀根来を潰した後の銃の行方の印象」
    さてそこで、最後は潰そうと思っていた「信長」の「松平氏」に対しての思惑である。
    雑賀族等を潰した後、彼等が持っていた「雑賀根来の火縄銃」のその配分の問題」には、直接は「割分」として「松平氏には渡す事」は戦略上は不可能であったであろう。彼等の戦力を強くして仕舞う事になり「潰しの思惑」は難しく成る。
    従って、長篠後の「信長―秀吉の紀州征伐・1577年〜1585年」には「松平氏」は参戦させていない。
    つまり、思惑から敢えて参戦させなかったのではないか。
    と成ると、要は「信長」が渡さねばならない「条件下」としてでは「参戦への義務責任」があるかである。
    つまり、それは「雑賀討伐の貢献」に対して「家康の功績」があったかに対してであろう。
    実は、この「第一次から二次と、最終の三次の雑賀攻め」に関して「松平氏」は参戦さしていないのだ。
    「1570年の石山攻め」と、「1577年から始まり1582年までの雑賀攻め」には殆ど関西勢で攻撃している。
    「三河の家康」に「信長」から「同数の火縄銃を渡す事」では簡単に済むが「雑賀の銃」は上記理由で渡っていないのであり、戦利品もである。
    又、引き続いて「紀州全体の惣国勢力」を潰す為に起こした「秀吉の紀州征伐・1581年〜1585年」でも参加はしていないのだ。
    現実に、確かに「信長」は「雑賀攻め」に梃子づった。
    その「原因」を象徴するのが、「雑賀川の戦い・1572年2月」であった。
    「寺山城・雑賀城」から「銃」で狙い撃ちされ、「3万の織田軍勢」は手も足も出ず「壊滅状態」で一度京に引き上げている。
    然し、果たして、「信玄」によらずとも「信長」も、「三方ヶ原の戦い・1573年・ホ」の「直前・1572年・ニ」に「雑賀川」のこの「大量の銃の攻撃・威力」を体験して観て驚いているのだ。
    又、その前の「1570年」にも「石山本願寺攻め」でも「雑賀衆門徒の銃攻撃・ハ」を受けていて失敗し「銃の威力」を知らない筈は無いのだ。
    「長良川の戦い」で、現実に雑賀・根来族の銃の傭兵を雇っていて其れで九死に一生を得ている。
    従って、「吉田城の戦い・イ」や「一言坂の遭遇戦・ロ」でも「銃の情報」は既に得ていた筈である。
    信長は「5回の史実」として経験しているのにそれ程に疎かで無神経では無かった筈である。
    結局、故に、これ等は止む無く「信長」は「兵糧攻めと凋落」で収束させて、最終は「雑賀銃」を「傭兵・1575年長篠の戦い」で獲得しているのだ。
    この様にして゜雑賀根来の傭兵の火縄銃を「獲得した銃」を観ても、凡その「簡単な事」では無かったかを察するであろう。
    そもそも、この様に「松平氏に銃が渡る歴史的経緯」は無いのだ。
    寧ろ、「信長の性格」から“「銃を渡す事」は何を意味するか”を即座に察した筈である。
    それは間違いなく「松平氏を強める事」に外ならない。
    それ程に万来の信頼をする「和議・織田氏」と「松平氏」では無かった。
    寧ろ、「弱める事に裏の狙い」は在った筈で、歴史的にもこれは史実で証明されている。
    ところが、実は、「雑賀根来の銃」の「一部・500丁」を「松平氏」に渡したとする説が有るのだ。
    筆者は、この説に反対で、この時の一部の火縄銃は、上記に論じた通りの「雑賀族の逃亡者・鈴木氏系・500丁・紀伊山脈」が山に持ち込んだものであると観ているのだ。
    何故ならば「雑賀族」とは云えその内情は壱枚岩で無かったのだ。
    元々、「鈴木氏の本家筋・藤白穏便派・藤白神社神職族」は「分家筋の鈴木孫六の行動」には反対していたのだ。
    そのその住んでいる地域も違っていた。
    それ故に、”いざ戦い”となった時、雑賀族と見做される事に警戒して、いち早く山に潜りこんで忍者的な生活したのだ。これが「雑賀忍者」と云われるものである。
    地元ではこの時、持ち込んだ「武装兼猟銃用の物」と云われている。
    「現地での雑賀族の情報の知らない者の説」の単なる推論に過ぎないと観ている。
    恐らくは、これも間違いなく「江戸期の修正」で、“雑賀族の銃としたくない”とする「旗本の書き換え」であろう。
    確かに、「織田氏との関係」に付いては美化した方がこの方が「犬猿の仲」を和らげる効果はあるし、「今後の事」では都合は良い筈であったし、「織田氏との長篠後の争い」では「織田氏への悪者の転嫁」としては、「松平氏」に執っては都合が良かった事になろう。
    確かに「紀州攻め」をしている中での出来事としては、歴史を後勘から観ても「松平氏の印象」としては、一つの“「緩衝材」”には成る筈で納得が得られやすい「美化事」になろう。
    「伊勢や紀州の歴史史実」を現地の詳細に掌握している「青木氏の歴史観」から観て、この事に付いてはこの様に見抜いて観ている。
    「雑賀根来の銃」の「一部・500丁の説」に付いては、「現地の史実」を調べずその様に江戸期に成って「旗本」に依り都合の良い様に、“「徳川歴史を仕組んだ」”と観られる。)

    (注釈 「江戸初期の銃の必要性」
    そもそも、「1605年に銃規制」があったのに、江戸初期以降に「銃の必要性」があったのかと云う疑問が湧く。
    確かに、“計算に入らない数の銃の残り”、つまり、「秘匿品の戦利品」の「約100丁〜150丁程度」は戦い時に少なくとも「単体」で獲得した筈である。
    そうすると、「秀吉などの家臣」を含む「織田軍」が持ち得る「火縄銃の限界」は、どんなに見積もっても、「雑賀根来の傭兵銃隊」は「1000丁」と成っているとすると、「約500〜650丁程度」が限界に成る。
    「紀州」では、兎も角も「保有量・生産量」は「1500丁・生産量限界」が最大であったとされている。
    それは、これは「傭兵が持つ銃」だけでは無く、「雑賀族衆と根来族衆」の個々に生活に使い持つ銃が「500丁」であったと口伝ではされているのだ。
    つまり、「傭兵用は1000丁限界と云う事」に成る。
    現実に、「秀吉」が紀州征伐後の「紀州の刀狩り」で門徒衆も含めて庶民や農民や郷士等が持っていた「秘匿火縄銃」が郷土史等に依れば「100丁程度」を差し出されたとする記録もある。
    これ等は表向き「紀伊族」からの「侵略防御」のみならず「イノシシやシカ等の猟銃」に使う銃であったとされているし、現実に「鈴木氏の本家裔」が持つ絵図にも遺されている。
    従って、これは史実であろうし、そもそも、つまりはそれ以上に生産されていないのである。
    「紀州征伐」の前後をして、「堺のブロック」に依って“「近江」には、最早、「生産能力」は殆ど無かった”筈で、「雑賀」が遣られれば、“今度は「近江・日野」である”として「伊勢」などに逃げ込んでいる始末であり、カウントには当たらない事に成る筈だ。
    そうすると、正式に「生産」に及んでいたかは別として、「銃を生産する能力」を持ち得ていた「最後に残った堺」は、伊勢の資料に依れば、現実には実際は早めに「危険が迫った為」に「伊勢の指示」で中止しているのだ。
    中には、「堺の銃生産・火縄銃」を“明治期まで続いたとする説”があるが、これに付いては「伊勢の資料」では、「元の鍛冶屋」に其の侭に転身しただけの事とされていて、「銃の生産の事」では絶対に無い。
    そもそも、「1605年」に徳川幕府に依って「銃規制」が掛かり「生産」は無くなったので論理的に無い。
    況してや、そもそも「伊勢・摂津・堺」が「財源や発注」を引挙げれば、そもそも、「銃生産を続けられる事」は100%無く、又、「商業組合」の「7割株の組合組織」の中にある事から「別の商人」が密かに入る事の「空き」もない筈である。
    仮に、密かに「別の商人」が間に入れば、そんな「危険な事を許す事」は無く、そうなれば結果として間違いなく「別の商人」を「伊勢は潰す事・シンジケート」に成るし、そんな「組合人」も居ないであろう。
    史実を無視した「無根拠の説」である。
    つまり、江戸期では、残るは、「西洋」での無用と成った「旧式兵の用火縄銃」だけの売りつけで、「西洋の近代銃の発達」で、不用で古く成った「西洋の火縄銃」を「貿易」で秘密裏にオランダやポルトガル等から入った可能性が高く、前段でも論じた様にその「貿易量」で既に「銃規制範囲の基準量」を超えているのだ。
    「青木氏」が持った「試作銃改良型の原型」は、所謂、「フリントロック式の近代銃・改良銃」は、その元は飽く迄も「フランスやイギリスやドイツ」の開発国での事であって、「周辺国・欧州」はこれに何とか切り替えていた時期である。
    日本に古くなった「火縄銃」を高く売りつけて、その「資金」を獲得していた史実と成っていたのだ。
    そもそも、「日本の火縄銃」の「最古」のものは”「1588年製の厳龍寺銃」”と成っているのだ。
    その為に、この17年後の「江戸期頃の火縄銃」は、江戸期に入り「銃規制・1605年」も重なって極端に史実として低下しているのだ。
    因みに、「総合的な資料の分析」に依れば、江戸期中期までは「火縄銃」の旧式の価格は、「35石〜80石」/丁に相当し、当時は1石=1両であって約35両〜80両に成っていた。
    既に当初よりは約1/10程度以下と成ったと記されている。
    これは「銃規制」に依って必要性が極端に低下した事に依る。
    「一頭1200人に1銃の規制」の中では、「一万石以上の大名」には殆ど所持していなかった事に成り、「銃力に相当する火縄銃」はそもそも無かった筈であるし、そんな「財政的余力」は他の事でも既に限界で、世情安定期では「無意味な銃」ではあった。
    その意味で、「価格の低下」が在って「抑止力」としても効果は無かったのである。
    然し乍ら、室町期から「伊勢を含む青木氏族」は、現実に資料の中では、表現として明確にしていないが、「資料の行」から「読み取れる範囲」では、“いざと云う時の抑止力”としての為に秘匿に保持し続け、上記の様に「銃の価値の低下」は、逆に「青木氏族」に執っては、寧ろ、その「抑止力の無意味合い」が高まり、江戸期でも密かに確実に「改良銃」は持っていた様である。
    因みに、前段でも論じている事ではあるが口伝でも、「紀州藩の藩主」が「尾鷲」で鷹狩りの際に「銃」を使って腕前を民に誇示披露したとある。
    この時、「尾鷲」で保養中の「福家の先祖」が「自分の銃」を持ち出して「遠くの柿」を打ち落として見せたとあり、「家臣」が怒って先祖を叱責した。
    その後、この「先祖」は「和歌山城」に呼び出され切腹かとして袴の下に白衣を着て出仕したが、逆で「上座」に導かれて座り、藩主は下座で挨拶をしたと伝えられている。
    「元皇親族の伊勢松阪の青木氏福家」で紀州藩には「債権・2万両と勘定方指導・2度」をしていた事から格式が上であるとして上座を譲ったとある。
    江戸末期には「紀州藩の財政危機の勘定方指導」として活躍した「伊勢松阪の青木氏の福家である事」や「吉宗育ての親であった事」等を知っての事であったとされるが、その後は、初代藩主に「水墨画」や「俳句」や「和歌」や「茶道」などの「素養指導」を大広間で家臣も交えて行ったとしていて、この「慣習」は「祖父の代の大正14年」までこの関係は続いたとしている。
    これは「銃の密かな存在保持」を「裏付ける証拠」でもある。)

    (注釈 「1500丁の検証」
    さて、明治初期には、“「50万丁」と「世界最大の銃保有国」であった”とする公的な資料があるが、この事に就いて疑問が大いにあり触れて置く。
    そもそも、日本にはこの「火縄銃用」の「発火薬の硝石」と「弾丸の鉛」の生産は極小で殆ど「貿易に頼る事」以外には無かったのだ。
    確かに、西洋で不用と成った売りつけの「古式火縄銃」は多く「一般の商人」に依って密かに仕入れられていたが、これに伴って「硝石と鉛」も輸入しなければ使えず「飾り銃」であって、況してや、「銃規制・1605年」で持てば「お縄」であるし、安定化した世の中では「銃」は不要で「抑止力」にしか使えなかった筈である。
    依って、攻撃用以外に「一般の大名や武士」や、況してや「民」には不要である。
    「50万丁」とはそもそも一般の民も持たなくては成らない数である。
    そもそも全国でそれ程に「武士」は居なかったのだ。
    江戸期初期ではほとんどの記録では、一万石以上の大名264人、旗本5200人、御家人17000人、その他480人と武士の家臣だけで、「媒臣の数」は含まずの合計は実質は53900人であったとされる。
    そうすると、平均204人/大名と成り、同じ「江戸初期の1605年の銃規制の基準」から53900/1200では単に「約45丁」と成る。
    大名を大まかに「一頭として264人」で、これに「戦時の義務兵数の平均1200人」として計算して観ると、「総勢の兵・316800人」が集まる事に成る。
    これと合わせると「家臣数」は「約37万人」と成る。
    江戸初期の持っていても構わない「戦時の火縄銃」は、規制に関わらず持っていたとしても「媒臣数」は、「264人の大名」で「平均一騎の兵数50人」としているので、「最大一頭は4騎まで」が義務つけられていて、これが「媒臣の陪臣」と成るので、「264・4・50」と成り、最大で「52800人の数」に成る。
    合わせると「約43万の兵」が、「50万丁の説」で計算すると「家臣と媒臣の全員の兵」が何と1丁ずつを持つていた事に成る。
    あり得ない数に成る。
    そもそもそんな「財力」を持っていなかった。
    「銃規制」からすると、別の計算を元にすると、「264人の大名の媒臣数と陪臣数」は、江戸初期の人口は「平均2700万人」とされ、「家臣媒臣・陪臣の数・武士」は、国印状発行でこの「7%」であったと記され、これは明治期まで“抑制されていた”のである。
    従って、この基準から観ても「385700人の計算」に成る。
    この基準からの計算でも「上記の37万人」にも一致する。
    記録に見る処では1割弱としているので、正しい数であろう。
    「人口増加」を「食料生産量・米収穫・」以上、つまり「1反=1石=1人の原則」に超えない様に抑制していたのだ。
    「火縄銃の持ち得る計算の数」は、故に「1500丁前後」と成るのだ。
    この数は、故に「室町期の最大生産」の「1500丁の経緯」にも一致するのだ。
    又、「戦」が起こらない限りは「武士」には「無用の長物」で「藩の持ち物」であった。
    藩としての「最低限の幕府からの義務」に過ぎなかった。
    本音では藩財政から「金のかかる物」は持ちたくない筈である。
    この「驚くべき数字」が公的に資料としている江戸中期からの「火縄銃の量」としているが間違いである。
    では検証して観る。
    「銃規制」の「1頭=1200人=1丁の基準」からこれを護ったとしても、当時の人口が「4000万人」として「国印状を取得した正式な武士」は約7%であったとされる。
    現実にはこれにも規制があった。
    そうすると、「400万武士/1200≒3330丁」である。
    これがこの「基準に適合する量」である。
    上記で検証した「火縄銃の貿易で搬入した量」と加算したとしても、「規制の合法的な量」は「3330丁程度」は妥当であろう。
    上記で論じた「火縄銃」の「生産地三カ所の経緯」から「国内最大生産量」は「1500丁〜2000丁」としても、「外国からの銃」は凡そ「1330丁〜1830丁」と成る。
    検証の結果としては、「50万丁」は「刀狩りと銃規制」を配慮されていない飛んでも無い量と成る。
    これでは「銃規制」など忘却して全くなかった事に成る。
    これから割り出すと「三カ所の経緯」を無視して、且つ、「生産量の経緯」を無視して下記の様に「年数の単純計算」をした事に成る。
    最大で「国内生産1000丁/年+輸入1500丁/年」・江戸期中期前・200年≒50万丁と成る。
    こんな事は絶対にあり得ないのだ。
    何故、この「50万丁」が一人歩きして公的数として成つたかにはそれなりの理由が見える。)

    (注釈 「50万丁の行方の検証」
    これは幕末からの維新にかけて紀州藩士であった「陸奥宗光・1844年〜1897年」は「明治維新の政治体制造り」に貢献した人物で、殆どは政策は「彼の発案と努力」に依るもので、版籍奉還、廃藩置県、地租改正等、数を挙げれば暇はない。
    そして「徴兵令」もである。
    中でも、本題の「徴兵令」では、彼の努力により「徳川幕府紀州藩」が他の二藩と行動を別にして「維新政府側」に着いた。
    この時、「御三家の紀州藩」は「維新政府」がまだ実行していないのに率先して「近代軍制」を敷いて「維新政府の後ろ盾」と成った。
    これを観て「維新政府」は彼を政府に招き、「維新政府軍制の構築」を任したのである。
    この時、全ての古い刀等一切を捨てさせ、武士に関わらず「銃に依る西洋式軍制」を執った。
    彼は、「坂本龍馬の下で海援隊」の一員としてとして働き、「彼・龍馬」を神髄していて、彼の進んだ教えを推し進めた。
    この時の「兵力」が「陸軍力24万と海軍力25万」で「49万」であり、中でも「陸軍」は「村田銃・国家予算の20%」をかけて編成したものでこれを「主力」としたものであった。
    恐らくは、「50万」とするは単純に推論的にこれから来ていると考えられる。
    これ等は「1883年・明治16年」から「8年計画」で近代化を推し進め、この体制で「1877年の西南戦争・明治10年」の実戦で成果を上げ、其の後の「明治20年代・1887年」に完成した。
    この事は「陸奥宗光の活動」で「薩摩との主導権を争い」が起こり、彼は何度も投獄や失脚に追いやられたが、「伊藤博文等の海援隊の仲間」が彼を何度も救い上げた。
    結局は、「彼の造った軍事組織」で「西南戦争」で「薩摩」は「維新政府」から抹殺一掃されたのだ。
    其の後、「日清戦争」で「弱いとされていた海軍」は、「陸奥宗光の造った軍事組織」で相手が「数段の兵力差」であっても「勝利」を得たのだ
    この事は世界に有名を馳せたのだ。
    実は、この「紀州陸奥家」とは「伊勢青木氏」とは無関係では無く、前段で論じたが「幕末の紀州藩勘定方指導」をしていたが、この時の「宗光の父」が「紀州藩の勘定奉行」であって親交が深かったと記されている。
    幕末に「紀州藩が犯した操船ミス」で「海援隊の船の賠償金」の支援で、「伊勢屋・2万両・摂津支店・大阪豪商」が支援に動いたが、この時の「勘定奉行」であった。
    これは「陸奥宗光の優れた交渉力」として「公的な記録」として遺っている。
    資料にも「重要な逸話」として遺されている。
    明治9年で「伊勢青木家」からの「天皇家への献納・925年開始」は「幕末から始まつた伊勢騒動の件・明治9年」で打ち切っている。
    結局は、「伊勢屋」はこの為に「打ち壊し」や「火付け」等で長い間、維新政府から攻撃されたが、何とか残ったのは“「陸奥宗光の御影だ」”と「伊勢青木氏・伊勢屋」はしているのだ。
    注釈として、余談であるが、「伊勢青木氏」はこの「打ち壊し」や「火付け」の「裏の組織」は上記の経緯から「薩摩藩」に依るものであったとも考えられる。
    つまり、「陸奥宗光派」と「献納中止」と「武士に頼らない銃の軍組織改革」とそれに関連する「軍費支援・国家予算の20%・支援」と「伊勢騒動・明治9年終結」に在ったと観ていて、これは「薩摩藩」に執っては“「裏目に出る利害関係」が大きく働く”と観ての行為であったのであろう。
    結局は、何とその「陸奥宗光の銃軍事組織」で「西南戦争」に持ち込まれて薩摩は敗退したのだ。
    「西郷」が「第九回御前会議」で大声をあげ机を叩き席を蹴って勝手に退席し、「大久保の制止」に関わらず「薩摩」に勝手に帰り、その結果、11の身分は剥奪されたのもこの「明治9年の事」であった。
    これを契機に維新政府内で「薩摩藩」は勢力を失い「西南戦争」へと突き進む経緯と成るのだ。
    ここでも「紀州藩の家臣」の殆どは「伊勢藤氏」であり、「上記の仕儀」から「致し方無しの経緯」とは考えられるが、直接的では無いにしても「政治に関わる事」に対しては「青木氏の氏是」を間接的にも破っている。
    唯、「紀州藩藩士の陸奥宗光」とその仲間の「海援隊の裏工作・維新政府の重鎮と成る」で「多少の被害」があったが無事に済んでいる。
    この事は「伊勢青木氏」だけに及ばず「青木氏族全体の事」として「伊勢藤氏の力」を借りて成した事に過ぎない。
    前段でも詳しく論じたが、「影の首謀者青木氏の伊勢騒動」は「伊勢」だけに及ばす「信濃青木氏」も背景と成っていた事は資料としても遺されている通りの事である。
    「伊勢騒動」に対して「維新政府」の「罪に対しての寛大な対応」で応じたのは「紀州藩藩士の陸奥宗光等の働き」があったものと考えている。
    「献納・明治9年」も中止し、この「1年後に西南戦争・明治10年」が起こり、している事から考察すると、“「青木氏族」としてはこれ以上の事は危険で出来ない”として「維新政府」から離別したと考えられる。)

    (注釈 「近江への再支援の疑問」
    飽く迄も、「生産者」でもあって「雑賀・根来の衆」を“「銃傭兵軍団」だとして存在させて置いて「銃の拡散」を抑えておく必要があったのだ。”
    当然に「近江」に対しても「堺」からの資材や財源の支援供給で行動を抑制していた。
    何故、又しても「難しい近江」に「財源と原材料と職能」を「堺・七割株」から提供したのか、又、当時の「伊勢青木氏の福家」は判断したのか不思議でならない。
    これでは「和紙殖産の苦い経験・源氏化」が生かされていない。
    筆者なら絶対にしない。
    その意味で「銃」は「公的記録」としては、上記した様に「1543年に種子島」に入ったが、実際には、その「40年後」の「1583年頃の近江」から広まった事に成るのだ。
    その「意味」では、余りにも「殺戮度の高い銃」は世に存在する事の危険度を察知した「秀吉の刀狩りの判断・1588年」と「家康の銃規制・1605年」は手早く正しかったのだ。
    「家康の銃保持・1583年の説」としては正しかった事に成る。
    上記した様に、「青木氏の堺銃」は「秘密裏・約100年弱前」に「1543年前からの試作段階・ホイールロック式」を経乍ら,随時適時にて一族一門に「生き残り抑止力・1545年頃」として渡して、最後は「フリントロック式銃・1560年・額田青木氏」に実際に「第一次吉田城・一言坂」で使用したのである。
    合わせて「生産元の功罪」の「青木氏の銃」が「近代銃」で「高額」で使用に際しては黄鉄鉱や硝石等特殊な交易で無ければ手に入らない事、又、相当な「熟練」を要し、且つ、銃そのものがそれが漏れたとしても広まらず、最早飾りに過ぎない事に成り得て、故に「身内」で「抑止力の概念」を護り確実に秘匿出来た事も評価できる。
    敢えて当初より「火縄銃で無かった事」は「広まらないこの事」を意味していたのだと観る。
    惜しむらくは前段でも何度も論じたが、「火縄銃の乱れ」は又しても「近江の事」であったし、「江戸初期前後の松阪での近江商人との軋轢」でも苦労をしているのだ。
    「青木氏の全ゆる資料」では、「その説明の一行」が無いが「子孫」としてここに敢えて筆者が遺す。
    「青木氏の歴史観」としての後勘としては、矢張り、その原因は、又しても「近江・日野の無節操な行動・抑止力の無効化」にあったのだ。
    結局、乱れを食い止める為にも「堺・支援供給」も「中止する破目」と成った。
    故に、「火縄銃の銃の歴史」は遅れていて「近江の龍源院銃・1583年」が「銃の事の始まり」として正しいのだ。
    「長篠の戦い・雑賀根来火縄銃」での「松平氏の銃保持説」は「誇張の何物」でも無いのだ。
    公的に良く「絵巻」でも華々しく描かれている様なものでは決して無かったのだ。
    これは「秀吉の刀狩り・1588年」の「5年前の事」に成る。
    この事からは「松平軍」は未だ“「銃の調達」”は出来ていなかった事に成る。
    恐らくは、上記した様に「銃シンジケート」がしっかりと未だ効いていた事に成るか、高額で手が出せなかった事にも成るが、「家康側近」の「西三河の旗本衆」が“極めて保守的”であった事かにも成る。
    筆者はこの「注釈説」から「三河の保守説・嫉妬癖」を更に採用している。
    念の為に論じて置くとすれば、この「三河の保守説・嫉妬癖」の性格が、前段で論じた様に「吉宗の頃」にまで続き現実に「史実問題」を起こしているのだ。
    如何に「額田青木氏」の「国衆の300丁の近代銃・フリントロック式改良銃」が保持も含めて全ゆる面で如何に「考え方や行動力や判断力」が進んでいたかは判るのだ。
    然し、「銃」は例え“「抑止力」”であったとは云え「青木氏の氏是」を超えている事は否定できない。
    それだけに「下克上と戦乱」とで「子孫存続」が緊縛していた事にも成る。
    「伊勢」のみならず「一族一門の血縁族」により「高い抑止力」を着けて全体で護ろうとしていたのだ。
    実際にこの「抑止力」を「伊勢の梵純軍等」は「伊勢の梵純軍等の資料」で使った事は判っているが、青木氏側の確実な記録は見つからない。
    「多少の牽制で使った事」もあろうが、全体としては「抑止力の情報力」を高める為に「抑止力・デモはしただろう」であったと観ている。
    故に、前段や上記した様に「信長・秀吉・家康」はこれを“「噂」”で知っていたのだ。
    つまり、抑止力は働いていたのだ。)

    (注釈 「国衆南下の後半」
    改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a−1の一部)」は完全に滅亡した。
    長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a−1)と(a−2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a−2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
    所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」であった。
    そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と信濃青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
    そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺い実行した。
    要するに、「歴史的な集結」であった。
    取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
    これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があったらしい。
    この時の「額田の南下国衆」の行動は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く「幅の狭い縦の陸路1・東山稜」の“「直線勢力圏」”の構築に限定していたのであった。
    ここには当時にあったこの付近には、“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
    これは「一般道」では無く「一定の物資輸送」や「兵の移動路」等に使われる道で、この様な「土豪」が抑えていた「商業道の物・近道」であったらしい。
    「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「戦力差・銃」に依って「戦い」には成らなかったのではないかと観られる。
    寧ろ、「党の様な軽い連合体」の様な形で「合力を申し合わせた事」が書かれている。
    彼らは、元々、別の面で美濃と信濃路間の「一種のシンジケート」であった事を知っていた。
    近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事は既に知っていたらしい。
    何せ武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であったかららしい。
    「額田の青木氏の国衆」には背後には「伊勢信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えていたのだ。
    これを噂なりに知つていたと云う事であろう。
    従って、この「商業通路1」の「土豪集団」は一切戦わなかった。
    寧ろ、彼らに執っては{南下国衆}に近づいていた方が全ての面で利得であった。
    明らかに資料と戦記の「記録の通り」である事が判る。)

    (注釈 「「商業通路の検証」
    現在でもこの様な商業道が全国に多くあって、特に「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての路が遺されているが、この道は歴史に名を遺す商業道であった。
    因みにこれには「面白い実話」がある。
    前段でも論じた様に室町時代末期に「秀吉」は、「奥州結城氏・永嶋氏」を攻めた時、内部混乱が起こりこれを「奥州結城」に養子に入った一族を護る為に、「背後」を一族の「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した。
    「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしていたが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められる事を恐れた。
    「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする記録が遺されているのだ。
    何故、「秀吉」が「伊勢の秀郷流青木氏」を恐れたかである。
    それは、「改良銃による戦歴」を情報として入っていた事を示す証拠でもある。
    「銃力」が「非接触による10倍力」を知っていた事に成る。
    必死に「商業道」に隠れて逃げたと云う事であろう。
    この様に、この頃、“「商業道」”なるものが土豪衆に依って密かに造られていたのである。
    この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、これには“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
    この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
    この「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
    後は元住んでいた「山間部・R152R}は{2ルート}もあった様だから「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから、この「商業道・縦の陸路1」に付いては”問題は無い”と観察できた。
    「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
    ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
    それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こされ、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こされた。
    「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始されたのだ。
    そこで、伊勢は全体青木氏族の事を考えて信濃との命綱である”縦の陸路を造ろう”と決断したのである。
    これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、この東南の「商業通路」の「利権を持つ東と南三河の土豪連」は、幸いに「信長方」に付かなかった為に何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にしても繋がり、兎も角も、再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
    後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ東・南三河の山際の「商業通路」は信濃―三河間は容易に通れたらしい。
    「今川氏の勢力圏」と「信長の勢力」圏の丁度狭間にあってここまでは及ばなかった。
    従って、元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させたのだ。
    そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa−2」と「血縁性を持つ官僚集団」を先ずは「田原の古跡の神明社」のある「渥美半島・伊川津」に差し向けたのだ。
    そして、この奈良期から「古跡神明社の青木氏族の神職族」が住んでいた地域に「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
    「渥美」にはそもそも、奈良期の古来より神明社があり、「伊勢青木氏」より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当先に「額田の家族」をも移し、その後に「蒲郡と伊川津」に「国衆」が移動した経緯であった。
    然し、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とにはある種の違う事が起こっていた。
    この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければ成らなかった事が判ったのだ。
    そこには明らかに次の事が違っていた。
    この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a−1)と(a−2)の一部の族」であった。
    ところが、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、「二つの説」が有って記録的には、はっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東・南の端の「商業通路」では無く、別の西三河の「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
    この一部が「伊勢桑名」に帰り、残り「蒲郡青木氏」が残った。
    さて、この「期間差」がどの程度であったかである。
    この「信濃の青木村」から塩尻を経由し「縦の陸路2」の「ルート2上」には当に直線状に、丁度、真ん中に「青木村」があり、其処には「古跡の神明社」もあり「清光院」もあり現在もあるのだ。
    この歴史を調べれば判るが、先ず「この古跡神明社」も田原と同じく奈良期からである。
    この「縦の陸路2」の「神明社」が存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、少し後の同時期に近いと考えられる。
    何故ならば、この「西三河の神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成っている。
    これは完全な伝統の「奈良期の構え」である。
    この事から、これは「神明社」と「青木」に執っては「証拠」と確定できる。
    然し、この「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に完全な同時期とは確定できないが、少なくとも「平安期末期か鎌倉期」である事には間違い。
    何故、「蒲郡」かに付いては「桑名の言い伝え」ではあって、資料的には何も物語るものはないが、何かを考えられるとしたら、「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものがあったと考えられる。
    「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
    少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が定住していた筈で、現在も「青木氏」はこの村と共に存在するのだ。
    そうすると、この状況からも「蒲郡と伊川津の青木氏」は同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって、別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東・南の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
    そして、「蒲郡の額田青木氏」は「縦の陸路2」で南下したと考えられる。
    「縦の陸路1」と「縦の陸路2」の多少の違いの「時間差」があった事に成る。
    その後の「裔系の統一」が起こり、その経緯は次の様であった。
    そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ているのだ。
    前者が「a−1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
    後者が「前者の血縁族の裔系」の「a−2族」とした。
    前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
    この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が認められる。
    この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
    そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
    これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
    以上と成る。
    そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)

    (注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
    其の後に、「美濃の南下国衆の二氏(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏・四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだが、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
    これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
    「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
    何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
    その結果がここに出たのである。
    それを物語る記録があって、この事から、一つは「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
    その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の「行の表現」と成っている。
    どうも同時に、「三方ヶ原の戦い後」に直ちに離れた様では無かったらしい。
    「多少のタイムラグ」があったと観える。
    その「タイムラグ」は、「地元3土豪・国衆・四国」との「伊川津七党の絆」があった事からの「時間差」では無いかと観ている。
    「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
    この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
    「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事から「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
    この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて「土豪間の話し合い・本家と分家」が着かなかった事が「読み取りの行」から読み取れる。
    「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
    それは、一つは「伊川津の土豪・3氏」を引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏の異論」があったと観ている。
    それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に元は4氏であった。
    然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
    “1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
    恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
    因みに「西郷氏」は三河の戦いにも参加しなかった事が判るが「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
    これに成し合いに時間が掛かったのであろう。
    結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
    「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
    この「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
    この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
    だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)

    (注釈 「七党の脱党の西郷氏」
    「伊川津七党」から逸早く抜けた気に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に三河に入りその後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、この一部が「三河の伊川津」に入った族である。
    又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
    これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた島津氏である。
    この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
    要するに、何故に不毛の地の「伊川津」に入り込んだかは判らないがこの「国衆」の一族である。
    筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
    「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
    それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
    然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
    恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
    況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
    恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
    然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
    それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
    だから、「二つの条件」を下げて「伊勢」は納得をしたのである。
    これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得わしたのである。
    以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
    寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つは独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
    その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
    「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
    遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は未だ危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
    それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、「伊川津四家の青木氏の陸運」は「美濃忍者の原士」でもあった。
    それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
    故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
    「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
    ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
    “二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
    つまり、この事から、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
    ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
    前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
    「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
    「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
    この「二つの疑問」を解決していない。
    上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
    「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に大きく強く関わっていたからである。
    つまり、「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
    つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
    「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」なのである。
    元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「四家」を構成していた。
    「蒲郡青木氏」の一部は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
    其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
    この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されている。
    “「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いたかは確実である。
    江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
    「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
    「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
    後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に出ていて、記録にも明確に遺つている。)

    (注釈 「二つの縦の陸路の創設」
    では、先ず前段でも論じたが、もう少し追論すると、はっきり云える事は上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は、「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
    注釈として、「1510年〜1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
    この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・銃」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
    この前提で論を進める。
    従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆としての成った目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より三河そのものに“「国衆」”として遺る理由は無かったと云えるのだ。
    そもそも、何れも「(a−1)(a−2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景」の保護下に入る事が出来る所以でもある。
    然し、「a−2の裔系」である以上は「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“渥美四家”は“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
    必然的に「蒲郡の額田青木氏」にはその「目的」が達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事になるだろう。
    つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事には成っただろう。
    だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
    ところが再び、事を興し先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的により強固な「勢力地・縦の陸路2」を張ったという事に成ろう。
    これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った間の無い頃の「1560年頃であった事」に成る。
    これが「東の山際の商業陸路1」の後に成る。
    そうすると「東の山際の商業陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた陸路であり、それを「東三河国衆」として無許可で使える短絡路として設定したのであろう。
    東からは金銭で造り上げた既存の「商業陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2」を少し遅れて設定した事に成る。
    これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
    但し、この「縦の陸路2」は、資料の調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地」で「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であってこれを改めて強化して繋いだとされているのだ。
    「伊川津の田原の古跡神明社」と同じであったのだ。
    故に、その史実を承知していれば「南下後1560の頃」の直ぐに出来る仕草であった様だ。
    恐らくはこれは当初からの「伊勢の情報と作戦」であったと考えられる。
    この「二つの縦の陸路の創設」は「国衆の銃と財力」に保障されたものであったろう。
    だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は完全では無いが最早無く成っていた筈であるが、然し、「12年間」も続けた。
    これは何故なのかである。
    一つは松平氏と織田氏への牽制にあったのだ。
    「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
    「商業陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
    これには、両者に対する牽制として“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せて置く必要があったのだ。
    そうする事で戦国の世の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れていた。
    さて、それに就いてであるが“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった様だ。
    それを裏打ちするだけのもっと“大きい背景”が必要でそれには問題があったのだ。
    ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らは、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
    それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
    主に「額田青木氏(a−1)と、(a−2)」の中には「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」であった。
    これを「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」に入っていただけの事に結果として観えた事になっていたのであろう。
    これを「伊川津四家として見做す事」に「不満をもっていた事」が「資料の行」から読み取れる。
    要するに、「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
    然し、「伊川津四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
    ここに「地元の土豪勢力」の「感覚差」が出ていた事に成る。
    この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」に「揺らぎ」が生まれたのだ。
    この「行の事」から鑑みれば「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
    「伊川津青木氏四家」だけで信用せずに「伊川津7党」を構築していた訳では無く「影の一党」を後ろに描いていた事になる。
    何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東からの「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に承知していた筈である。
    室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は元の関東に勢力圏は押し込まれ桃山時代まで「秀郷一門の背景」は維持していた。
    この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事に成る。
    「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
    それ故に、”七党を組んでも若干心もとない”ものを持っていた事に成ろう。
    「細かい歴史観」としては「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に何某かの魅力を感じていた事に成る。
    そもそもこれは「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって無理のない処かも知れない。
    更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのも「仕方のない事」かも知れない。
    寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」は時代が進んだ事に依って「国衆」と云うものが生まれ、彼等から観れば従って「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
    逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類するのである。
    平安期は「元官僚族類」の支配下にあった庶民である。
    全国的に観れば「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この渥美半島の室町期後半の最後まで生き残った4土豪の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば「下・農民」であった。
    然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
    ところがこれは「家紋類」には、明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らないが、「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類」が多い事からでも判る。
    「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
    つまり似せていると云う事だ。
    因みに、「片喰紋類」には125紋あり、「州浜紋類」には43紋ある。
    三河に関わるこの「3土豪の家紋」はこの中には無く、あるのは渥美半島の田原藩主の本田氏の本田片喰と東三河の酒井氏の酒井片喰での二つであり、恐らくはこの「3土豪」は、二つは「本多片喰系の類似紋類」ともう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。
    この事で「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保氏・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し「類似紋を使う事」を許可されたと考えられる。
    尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門」に従って陸奥から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
    鎌倉期に秀郷一門の勢力の西への伸長にともない「関東屋形」として三河域に一部の「支流子孫・卑属」を遺したものである。
    江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
    そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
    この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
    この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
    だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が事に成り、「分家筋」に執っては“「抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が得策であると考えたのであろう。
    現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に入って行った事」は判る。
    この様に「伊川津青木氏」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
    故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったのでこの一点も気にしたのでは無いか。
    現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
    これは「秀郷流一門の背景」が色濃く出て来た証拠でもある。
    分家筋は「読み」の通り相当に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
    要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河にも「広げられる地盤」があった事に成る。
    「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は貢献したのであろう。
    「永嶋氏」は平安期と鎌倉期に四国徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
    これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
    そこで「牧野氏の出自説」には大まかには二説あり、共に四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいているが、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
    「前者・イ」は「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
    「後者・ロ」は「阿波」から出て来て「乱の功績」で三河宝飯郡の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元は「牧野」では無かった事に成る。
    何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違い差にある。
    「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「家紋」を持つ事から、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
    「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、豊橋に讃岐神社を造っている事から「讃岐」から一度「三河」に入つた国衆団であったと考えている。
    「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて、現実にこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
    間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
    筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
    「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
    因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
    「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、20に近い一族の家紋がそもそも統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
    又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも無いのだ。
    明らかに「国印状発行と系譜」には何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
    この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は阿波の「農民であった事」に成る。
    前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
    少なくとも其処の民であったのであろう。
    それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
    そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
    現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
    「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
    それによれば「片喰・州浜の家紋類」の江戸初期頃の物と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
    流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
    「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a−2)の族」の一部が、「(a−1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
    従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から、伊川津では「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
    結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
    つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a−1族の裔」は兎も角も、「a−2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
    然し、「南下国衆」として「a−1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a−2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ伊勢の裔系である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
    次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
    此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
    この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
    美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
    この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
    これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
    全体では「440の判別紋」がある。
    これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
    念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
    「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
    奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
    中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
    この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
    この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
    墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)

    「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」に続く。


      [No.381] Re:「青木氏の伝統 56−4」−青木氏の歴史観 29−4」
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/04/30(Thu) 15:13:57  


    「青木氏の伝統 56−3」−「青木氏の歴史観−29−3」の末尾
    >
    > (注釈 「紀州雑賀忍者と伊勢伊賀忍者」
    > この「左右の忍者衆」による「勢力争い」が無かったのかである。
    > 上記の注釈の通り、「紀州雑賀忍者・紀州藩」が「紀の川の紀北域・伊勢神宮の最後の遷宮社の日前宮社の宮前地区・南地区・中地区の郷」に居て、「紀伊山脈」を境にして伊勢側の全く「反対の位置・100k・北東30度」に「伊勢伊賀忍者・幕府」が居たのだ。
    > つまり、「紀伊山脈北部域の山陵」を隔てて左右に「忍者勢力」が活躍していた事に成る。
    > そして、「紀伊山脈の南部域」には「平家の原士衆」が勢力圏としていた事に成る。
    > この「南部域の左・西域」は「紀州藩」が抑え、「北部域の左・西域」も「紀州藩」が抑えていた事に成る。
    > 右域は「伊勢伊賀忍者・幕府」であった。
    > そして、前段でも論じた様に「伊勢青木氏」は古来よりこの「伊賀との関係」を深く持っていた。
    > 更に、これも前段で論じた様に、「京平家の落人」は「桓武平家」であり、「伊勢青木氏との関係」を古来より持っていた。
    > 「伊賀」は、この「桓武平家の里・桓武天皇の母・光仁天皇の妃高野新笠の里」である。
    > だから、「紀伊山脈南部域」に住んでいた「平家落人の郷士衆」は「北部伊賀衆」との「繋がり・絆」もあったのだ。
    > 江戸初期の殖産には大いに貢献した。
    > それ故に、「江戸期前の紀伊半島」も「江戸期の紀伊半島」も「京平家の落人」を基軸として「繋がり」を持っていて、一声出せば「彼等の三つ衆」の「郷士衆・忍者衆・原士衆」は「伊勢シンジケート」して動いたのである。
    > 要するに、北部の左に「雑賀」、右に「伊賀」、南部の左に「平家落人郷士」、右には「伊勢郷士」、そして最南端は「熊野六宮司勢力」で「惣国」を固めていたのだ。
    > それには、この「五つの惣国衆」を固めていたのは、矢張り、「伊勢青木氏の財政的支援」があったのだ。
    > 前段でも論じた様に、故に、「近江職人を匿った事」は当然の事して、「京平家の落人の支援」や「信長の伊賀攻めの救出」や「紀州門徒衆を匿った事」や、最後は「明治初期に掛けての伊勢騒動を支援した事」等を挙げれば暇がない位である。
    > 「紀伊半島」は全てこの「五つの何らかの絆」で繋がっていたのだ。)
    >
    > 詳細の検証は更に次段に続く。
    >


    「青木氏の伝統 56−4」−「青木氏の歴史観−29−4」

    「前段56−3」で「注釈」が多く続いて「歴史の経緯」は敢えて前後しているが基に戻す。
    前段で「側面的な詳細論・経緯」があって本論で論じ切れないのでその部分の詳細に付いて明らかにする「不詳文の事」にある。
    そこで先ず、「国衆」としての「準備期間(前期 後期)」の事である。
    前期の事は前段でも論じたが、その「後半の事」である。

    (注釈 「国衆南下の後半」
    改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a−1の一部)」は滅亡した。
    長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a−1)と(a−2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a−2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
    所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」の事であった。
    そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と額田青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団・銃」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
    そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺いこれを実行した。
    要するに、これが350年間の「歴史的な集結」であった。
    取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
    これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があった地域であった。
    この戦略は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く、「幅の狭い縦の陸路」の“「直線的な勢力圏の構築」”に限定していたのであった。
    ここには、当時にあったこの付近には、土豪等が抑える近道の“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
    これは「一般道」では無く、「一定の物資輸送」や「兵の移動路」の様な「土豪」が抑えて安全を保障する「商業道の物・近道」であったらしい。
    三河の海から美濃を通じて信濃に通ずる“「商業通路」”であった。
    「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「経済力」と「戦力差」に依って「戦い」にはそもそも成らなかったのではないかと観られる。
    寧ろ、「党の様な軽い連合体の様な形」で「合力を申し合わせていた事」が書かれている。
    彼らの「額田青木氏の国衆」は、元々、「別の面」での「美濃と信濃路間」の「一種のシンジケート・党」であった。
    その近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事に付いて充分に知っていたらしい。
    何せ元々、「原士」として活躍し武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であった。
    この「額田の青木氏の国衆」には、背後には「伊勢と信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えているのだ。
    従って、この事を知っていたこの「商業通路」の「土豪集団等」は戦わなかった。
    寧ろ、彼らに執っては近づいていた方が全ての面で利得であった。
    依って、比較的に簡単に東三河の山際にあったこの「商業道路の縦の陸路1」は構築出来た事が判っている。
    もし、構築するのに戦い等で苦労していれば何らかの形で「青木氏の資料」に記録されている筈であるが何も発見されない。
    明らかに「記録の通り」である事が判る。)

    (注釈 「「商業通路の検証」
    現在でも「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての古路が遺されている。
    これには実は面白い実話がある。
    前段でも論じた様に、室町時代に「秀吉」は奥州結城氏・永嶋氏等の北陸勢を攻めた時、これを護るために「背後」を「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した事が記録に遺っている。
    この時、「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしてが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められるし、「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする実話の記録が遺されている。
    この様に、この頃、“「商業道」”と成るものが周囲の土豪衆に依って密かに造られていたのである。
    この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
    この様な商業道は各地にあって土豪等に依って抑えられていたし、「通行料」を払う事で安全に使用できたのだ。
    この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
    この「縦の陸路1」の「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
    後は元住んでいた「山間部・R152・Rは2ルートあった様だ」から「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから問題は無いと観察できた。
    そこに「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
    ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
    それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こり、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こった。
    「神明社」を含む「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始された。
    そこで「伊勢」は決断したのである。
    これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、「商業通路」の「利権を持つ東三河の土豪連」は「信長方」に付かなかった為に、何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にして、兎も角も、「縦の陸路1」で再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
    後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ「東三河の山際」の「商業通路」は信濃―三河間は通れたらしい。
    確かに「神明社の陸の情報網」は消されたが「南の渥美湾」に到達できる様に成ったのだ。
    元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させた。
    美濃国衆に留まらずに「南下する為の国衆の結成」であった。
    そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa−2」と「血縁性を持つ官僚集団」を渥美半島に差し向けた。
    そして「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
    「渥美」には、経緯としてはそもそも、「情報網の元」と成っていた「奈良期の古来より神明社」があり、伊勢より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当早期に先ず「額田青木氏等」の「国衆の家族」を移し、その後に「国衆」が移動した事に成ったのだ。
    然し、国衆として南下して観ると、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とには違う事が起こった。
    この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければならなかった事が判ったのだ。
    この事が記されている。
    そこには明らかに次の事が違っていたとある。
    この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a−1)と(a−2)の一部の族」である。
    ところが、二つ記されている資料からの観ると、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、次の「二つの説」が有って記録的にははっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東三河の端の「商業通路」では無く、「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
    筆者はこれを「縦の陸路2」と呼んでいる。
    つまり、「東三河の商業道の縦の陸路1」と「額田から蒲郡までの縦の陸路2」があった事に成る。
    この「縦の陸路2」は「商業道」では無かったらしい。
    要するに、この「二つの縦の陸路」のこの「期間差」がどの程度であったかである。
    この「信濃の青木村」から塩尻を経由し、縦の「ルート2上」には直線状に「青木村」もあり「神明社」もあり「清光院」もあり現在もある。
    この歴史を調べれば判るが、先ずこの「神明社」は奈良期からである。
    この「縦の陸路2」の「神明社」には「古来の神明社の構え」が遺されているのだ。
    この「神明社」が奈良期頃に存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、同時期に近いと考えられる。
    青木の地名も遺され、現在も岡崎に村もあるのだ。
    何故ならば、この「神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成って遺されている。
    この事から、「神明社」と「青木」は証拠として確定できる。
    然し、「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に、同時期とは確定できないが、「平安期末期か鎌倉期」である事には間違いはない。
    相当な前から住んでいた事に成る。
    何故、「蒲郡」かに付いては何も物語るものはないが、何か考えられるとしたら「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものが考えられるが判らない。
    「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
    少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が奈良期からここに定住していた筈である。
    そうすると、この状況からも同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東三河の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
    そして、「縦の陸路2」の方は「額田青木氏」が移動し、依って、この「蒲郡に移動した事」に成ったのだ。
    「縦の陸路2」の「岡崎の青木村」に定住しなかったかは恐らくは初期の目的は「渥美湾の制海権」の確保にあった事から「蒲郡」としたと成るだろう。
    その証拠に、「蒲郡」はこの「縦の陸路2の岡崎の青木村」とは直線で当に寸分も違わない「真北」に位置するのだ。
    そして、ここは古来より「石切り場の運び出し港」なのである。
    故に、此処を伊勢水軍の大船が入る事が出来る「伊勢と伊川津と信濃との連絡事務所」として選んだのだ。
    さて、この前提で、その後の「裔系の統一」が次の様であった。
    そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ている。
    前者が「a−1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
    後者が「前者の血縁族の裔系」の「a−2族」とした。
    前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
    この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が一部に認められる。
    従って、この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
    そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
    これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
    以上と成る。
    そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)

    (注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
    其の後に、「美濃の南下国衆の二氏:(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏等の四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだ。
    然し、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次の吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
    これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
    「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
    何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
    その結果がここに出たのである。
    それを物語る記録があって、この事から、一つは、「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
    その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の行の表現と成っている。
    どうも同時に、これに依ると「三方ヶ原の戦い後」に直ちに一斉に離れた様では無かったらしい。
    「多少のタイムラグA」があったと観える。
    その「タイムラグA」は、「地元3土豪・国衆・四国」との間には「伊川津七党の絆の問題」があった事から、この「タイムラグA」はこの「時間差」によるものでは無いかと観ている。
    つまり「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
    この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」の中で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
    「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事からそうすると「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
    この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて、「土豪間の話し合い・本家と分家の路線問題」に決着が着かなかった事が「行」から読み取れる。
    「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
    それは、一つは「伊川津の土豪・4氏」を陸運業に引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏からの異論」があったと観ている。
    それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に「4氏」である。
    結成当初の初期は「6土豪」であったが抜けて行って「4土豪」に成り、最後は「3土豪」と成った。
    然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
    “1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
    恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
    この「西郷氏」とには「戦い」にも参加しなかった事が判るが、「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
    これの「話し合い」に時間が掛かったのであろう。
    結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
    「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
    「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
    この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
    だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)

    (注釈 「七党の脱党の西郷氏」
    「伊川津七党」から逸早く抜けた事に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に入り後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、一部が「三河の伊川津」に入った族である。
    又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
    これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた「島津氏」である。
    この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
    要するに、何故に「不毛の地」の「伊川津」に入り込んだかは判らないが、この「国衆」の一族である。
    筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
    「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
    それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
    然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
    恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
    況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は、非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
    恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も境遇は「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
    然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い・大久保氏」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
    それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等と「伊川津青木氏四家」の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
    だから、「二つの条件」を下げて「伊勢・蒲郡」は納得をしたのである。
    これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得をしたのである。
    以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
    寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つの土豪分家は独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
    その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
    「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
    遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は何処でも未だ盗賊山賊等で危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、ところが「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
    それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、何はともあれ「伊川津四家の青木氏の陸運」は元は「美濃忍者の原士」でもあった。
    それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
    故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
    これには記録があって、伊川津の陸運業で勢力圏の宿場まで着いたが、そこで差配頭が宿で次の宿場までの安全の為の密かな話し合いをしていたとあり、この様な形で北陸までの経路を造り上げていたらしい。
    その事に依るのか「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏等四家」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
    ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
    “二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
    つまり、この事から意味する処は、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
    つまり、今で云うファンドのグループ化であろう。
    ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
    前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
    「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
    「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、三方ヶ原後に「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
    この「二つの疑問」を解決していない。
    実は上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
    「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に「出自元」として大きく強く関わっていたからである。
    つまり、奈良期の「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
    つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
    「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」を地名として名残を遺した事なのである。
    元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「青木氏族」は「四家」を構成していた。
    「蒲郡青木氏」の「一部」は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
    其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
    其の後の伝承では、この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されているのだ。
    そもそも「青木氏族」には、“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いていた事は確実である。
    江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて、この事も「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
    「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
    「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
    後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い・偵察隊」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に表に出ていて、記録にも明確に遺つている。
    その為にも「蒲郡」から一部が引き上げて、残りの者で「事務所程度の存在」としていた事も判っている。
    要するに経緯としては「伊川津の青木氏」は「伊勢青木氏の初期の目的達成」が成され、「伊勢屋の商いの延長」として「陸運業」と成った事で、「蒲郡」と連絡を取りながら「商い」を続けたのだ。
    そして、「伊豆までの生命線」を「陸と船」で復元したのだ。)

    (注釈 「二つの縦の陸路の創設」
    では、先ず前段でも論じたがはっきり云える事は、上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
    注釈すべきは、「1510年〜1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
    この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・試作銃保持」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
    この前提で論を進める。
    従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆」としての成った「初期の目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より「三河」そのものに“「国衆」”として遺る理由は何も無かったと云えるのだ。
    そもそも、何れも「(a−1)(a−2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、これは「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景の保護下」に入る事が出来る所以でもあるのだ。
    然し、ところが「a−1の裔系」では無く「a−2の裔系」である以上は、「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“「渥美四家」”は、“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
    必然的に「蒲郡の額田青木氏」には、その「初期の目的・縦の陸路1」が一応は達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿の膝下}に先ずは帰る事になるだろう。
    つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「初期の目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て上記の様に一部が先ずは帰る事にはなるだろう。
    だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
    ところが再び、其の後に「陸運業」を興し、先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的に「勢力地・縦の陸路2・南下時の通路」を「独自の商業道」として改めて確実に安全な道として構築し直した事に成ろう。
    これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った「間の無い頃」の「1560年頃〜1565年迄」であった事に成る。
    これが「東の山際の商業陸路1」の後に成るのだ。
    そうすると「東の山際の商業道・縦の陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた「陸路」であり、それを「東三河国衆」として「無許可で使える短絡路」として設定したのであろう。
    東からは金銭で造り上げた既存の「商業道・縦の陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2・南下進軍路」を少し遅れて設定した事に成る。
    これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
    但し、この「縦の陸路2」は、調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地・岡崎」で、「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であって、これを改めて強化して繋いだとされているのだ。
    「伊川津の田原の古跡神明社」と同じで古跡神明社は田原に定住地は豊橋にあったと同じ様に岡崎の古跡神明社と青木村と蒲郡にも僅かながらの定住地としていた事に成る。
    それは「大船」が着く港に奈良期から別に居を構えていた事に成る。
    「神明社」のある「岡崎の青木村」も「田原の青木村」も「神職の生活」を支援する伊勢からの港が必要であったと云う事に成る。
    故に、その史実を承知していれば「南下後・1560年の頃」に直ぐに出来る仕草であった様だ。
    恐らくは、これは当初からの「伊勢の情報と作戦・復元」であったと考えられる。
    そして、この旧来からの「二つの縦の陸路の構築」は「国衆の銃と財力の威力」に保障されたものであったろう。
    そうすると「初期の目的」が達成されていたのだ。
    だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は、完全では無いが最早無くなっていた筈であるが、然し、其の後も「12年間」も続けた。
    これは何故なのか理解しにくい処である。
    その一つは、未だ「戦乱」は終わっていなく不安定で何時「二つの陸路」が崩されるかも知れないと云う恐れがあった。
    従って、これには「松平氏と織田氏への牽制」にあったのだ。
    「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
    「商業道の縦の陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
    これには、両者に対する牽制として、“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せ着けて置く必要があったのだ。
    そうする事で「戦国の世」の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れている事に成るのだ。
    さて、それに就いてであるが、“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった事が記されている。
    それを「裏打ち」するだけのもっと“大きい背景・「秀郷一門の背景」”が必要であってそれには問題があった。
    ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らには、一応、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
    それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
    主に「額田青木氏(a−1)と、(a−2)」の中には、「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」が組み込まれていたのであった。
    この事を「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」にただ入っていただけの事に結果として観えた事に成っていたのであろう。
    これを「伊川津四家として見做す事」に不満をもっていた事が「伊勢の資料の行」から読み取れる。
    要するに、「土豪3氏」は「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
    然し、一方では「伊川津青木氏四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
    ここに「地元の土豪勢力」との差が出ていた事に成る。
    この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」にあって「揺らぎ」が生まれたのだ。
    この「行の事」から鑑みれば、「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
    「伊川津青木氏四家」だけでは信用せずに「伊川津七党」だけで構築していた訳では無く「影の一党・秀郷一門の背景」」を後ろに描いていた事に成る。
    何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東から移動してきた「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に充分に承知していた筈である。
    そもそも「秀郷一門の背景」は、室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は、元の関東に勢力圏は押し戻されたのだ。
    桃山時代まで「秀郷一門の背景」は関東域でも未だ厳然として維持していた。
    この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事にも成るし、「秀吉」に依って関東に移封された徳川氏が地元の「藤原朝臣」を名乗っていた事でも判る。
    「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
    それ故に、「近代銃」を持っていても未だその「銃の感覚」が強くなく、「軍力に頼る感覚」が勝り「伊川津七党」を組んでも若干心もとないものを持っていた事に成ろう。
    この様に「細かい歴史観」としては、「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に「何某かの魅力」を感じていた事に成る。
    そもそもこの事は「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって、無理のない処かも知れない。
    更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのもこれまた「仕方のない事」かも知れない。
    寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」等は時代が進んだ事に依って”「国衆」”と云う力のある誰でもが立身出世できるものが戦乱の世の中に新たに生まれ、彼等から観れば、従って「官僚族(bとc)」を「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
    逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類する「諡号族」である。
    「官僚族(bとc)」側は相当に下と観ていただろう。
    平安期は彼等土豪は「元官僚族類の支配下」にあった「庶民」であった。
    全国的に観れば、「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この「渥美半島の室町期後半」の最後まで生き残った「4土豪」の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば全く下の農民であった。
    然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として、一時期は「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
    ところがこれは「家紋類」にも現れるが、家紋詐称は明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には、「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らない。
    この事を前提に「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類系」が多い事からでも判る。
    「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
    つまり、似せていると云う事だ。
    因みに、片喰紋類には「125紋」あり、州浜紋類には「43紋」もあるのだ。
    「三河」に関わる「3土豪の家紋」は、この中には無く、あるのは「渥美半島の田原藩主」の「大久保氏」の片喰紋」と、「東三河の酒井氏」の「酒井片喰紋」での二つであり、恐らくはこの「3土豪」のものは、この二つに類似し「大久保片喰系の類似紋類」と、もう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。江戸期初期に合わして類似紋にしたと云うことである。
    これは「国印状取得の為の搾取の疑い」は充分にあるが、元よりの土豪族の「本多氏の片喰紋類」もある。
    何れも元の「秀郷流一門の家紋類系」の固有のものなのであるのだ。
    「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し系譜搾取の為に「類似紋を使う事」を幕府から暗黙の中で黙認されたと考えられる。
    尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門・青木氏系」に従って「陸奥」から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
    鎌倉期に秀郷一門の勢力の「西への伸長」にともない「関東屋形」として「三河域」に一部の「支流子孫・卑属」を史実として遺したものである。
    江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
    そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
    この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
    この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
    だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が異なり、「分家筋」に執っては“「一族から抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が「得策」であると考えていたのであろう。
    現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に進んで入って行った事」でも判る。
    この様に「伊川津青木氏四家」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
    故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったので、この一点も気にしたのでは無いか。
    現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
    これはこの「開発業」を受け入れたのは「秀郷流一門の背景」が地元に色濃く出て来た証拠でもある。
    ところが「分家筋」は「読み」の通り相当に後に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
    要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河域にも「広げられる地盤」があった事に成る。
    「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は「関東屋形」としてリードし一門に貢献したのである。
    「永嶋氏」は四国の徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
    これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
    そこで,例として挙げると「牧野氏の出自説」には、大まかには二説あり、共に共通点は四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいている。
    然し、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
    「前者・イ」は、「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
    「後者・ロ」は、「阿波」から出て来て「乱の功績」で「三河宝飯郡」の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元はこれも「牧野」では無かった事に成る。
    従って、何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違差にある。
    「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「姓」を持てば「家紋」を持つ事に成る。
    この「家紋」を持っていないか、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
    そこで「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、「彼等・牧野氏」が江戸期に「三河の豊橋」に「讃岐神社」を造っている事から、「讃岐」から一度は「阿波」に移り、その後に「三河」に入つた「国衆団」であったとも考えている。
    そもそも、「国衆」とは、弱い地域に移動しながらそこを略幕して住み着き土豪と成り、「うだつ」が上がらなければ、又別の地域に移動して行く武力集団で必ずしも土着の土豪と云う事ではない。
    「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて疑問である。
    現実に乱世ではこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
    間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
    筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
    室町期末期の国衆の殆どはこのタイプであった。
    「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
    因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
    「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、そもそも各地に分布している「20に近い牧野一族の家紋」がそもそも全く統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
    又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも全く無いのだ。
    明らかに「国印状発行と系譜」には、武士と成る以上は何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
    この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は「阿波の農民」であった事」に成る。
    前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は、「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
    少なくとも「其処の民」であったのであろう。
    それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
    そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
    現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
    「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
    それによれば「片喰・州浜の家紋類」の「江戸初期頃の物」と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
    流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
    「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a−2)の族」の一部が、「(a−1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
    従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から伊川津では神明社の「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
    結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
    つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a−1族の裔」は兎も角も、「a−2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
    然し、「南下国衆」として「a−1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a−2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ「伊勢の裔系」である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
    次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗の寺・匿名」としてある。
    此処には、「18の真宗の寺」があって、その内の二つと観られる。
    この寺から「真南1kの所」に「真宗の西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
    美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって、「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ている。
    これは当時は、「草・しき」で以て表す「官僚族の格式を表す仕来り」、或いは「掟」であったのだ。
    これを観る事で、「階級や属姓」等を簡単に判別できる仕組みであったのだ。
    元々、この「官僚族の殆ど」は奈良期の「中国からの渡来人」で構成されていて約8割を占めていて後漢等から持ち込まれた「官僚の仕組み」である。
    「日本書紀」にもこの事が書かれていて、「官僚族が知識を多く持つ渡来人」で占められている事に「天武天皇」は憂いていて、制度を造って「倭人の官僚族」を育てる様に命じている。
    これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋・草」として扱われ、次第にそれが「家紋」と成って行ったのだ。
    この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」には、この「草・しき」による“「判別紋」”を持っていたのである。
    これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
    全体では「440の判別紋」がある。
    これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
    念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
    「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は「2寺」存在するのだ。
    奈良期では「五都計画」の一つであった事から、朝廷から派遣され勢井治安等を管理する「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
    中位格式以上は「都に帰る事・遙任制度」に成っていた。
    この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
    この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
    「墓所の家紋」から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)

    (注釈 「3土豪の不毛の地の環境」
    「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」のは内の五都の美濃に派遣されていた者らは確かに「伊勢裔系」の「保護下に入っていた事」は判るが、此処で多少の疑問が残る。
    それは、江戸期には「三河の松平氏」、つまり、「幕府の徳川氏」は彼等3氏の本家筋を「准家臣扱い」から「譜代家臣」として最終は扱った。
    この「保護下に入っていた最終の三氏」は、“一体誰なのか”に成る。
    これを確認調査した。
    「渥美の定住地」の伊川津域範囲、「家紋と墓所と宗派」とを細かく調べた。
    何を導き出そうとしていたかと云うと、「本家、分家、傍系、支流の関係」である。
    この「渥美湾の範囲」で「地形土壌」から、先ずその「土壌」が根本と成り、それがどれだけの家臣等を養えるかである。
    調べると成ると、江戸期の資料と成り「江戸期の資料」には搾取偏纂が必ず伴うが、この「搾取のエラー」を取り除くには、生きて行く為に必要とする「絶対条件」の「地形土壌」で検証する必要がある。
    これ以上は絶対と成り得る「人の糧」は得られないからである。
    1説では、江戸初期には「田原藩と大久保氏」でも判るが、「12000石とする説」もあるが、これは実質無理であろう。
    精々、「5000石以内・1石時代」であろう。
    この「12000石」は、この「三土豪」を「国衆」から「准家臣」、そして“譜代までに取り立てる為”に仕立てた「虚偽の石高」であろう。
    探訪から「古来の地形地質」から、ここは「真砂の多い土壌」であって、花崗岩の土壌は米は不作である。
    実質は、「漁獲等の産物」を加えた「合算石高」であって、「米高」は「5000石以内」であるだろう。
    前段でも論じた「伊川津四家の人数」は「1500人程度・蒲郡500人」の様に、「1石1人/年の原則」から「伊川津青木氏四氏・1500石最低/5000石」であり、これを「伊勢からの支援」で「糧」は成り立っていた事に成る。
    ここに、元々は「阿波や相模や越後」から入った「国衆」があって、そこに「4氏・最大6氏」が入った経緯である。
    その「6土豪の族人数・約6000石最低」を加えれば、「計7500石/5000石」ではその「差1500石」は明らかに足りない。
    ここでは「渥美と伊川津と田原と吉田域・1500石」と「6土豪分」では足りない上に、更に「豊橋と豊川の青木氏・800石」が必要で、これで「差2300石分」が不足し生きて行くには無理である。
    総合結果は「7500石/5000」と成り、精々、「本家位の人数」に限る事には成る。
    「子孫拡大原理」の「4nの2乗の原理」から観ても、「分家、傍系、支流」が「武士」として生きて行くには到底難しい。
    現実に、最終にはこの「3土豪・元」と成り得たが、これ等は元からの「定住民・原住民」では無かった。
    四国や関東から立身出世を夢見て、無理に“弱い地域処”に押し寄せて来た各地からの「農民族で構成された国衆」であった。
    それ故に、恐らくは室町期初期には生きて行く為の争いが史実の通り長い間この渥美半島域で起こったのだ。
    最終的に遺った「土豪3氏」の代表の一つが「牧野氏」であって、この「牧野村」に入って横領して「牧野氏」を名乗ったのではあるが、同然に争いに勝った「戸田氏」も「鎌倉期信濃大河内村」より「国衆」として「尾張国海部郡戸田村」に移動した来た集団であったが、上記した様にこの中部域は全国各地、主に「5地域・阿波や越後や相模や信濃や美濃」に一時的に分散して流れ込み、そこから、又更にこの中から、そもそも「脆弱な渥美」に「国衆」として流れ込んで来た族である。
    東三河域のこの「地域・宝飯・豊川、渥美・豊橋、八名・豊橋」に武力を以て「土豪」として割り込み住み着いたものである。
    そもそも、「国衆と成った土豪」と「青木氏四家の国衆」とは、時代的に「青木氏の方」が「古跡神明社の伊勢青木氏神職」の事の所縁もあって、「吉田域以西」ではより早期に、つまり、「家族・1530年代」には神職裔系として入っている事に成るのだ。
    「古跡神明社」とすれば、「奈良期」であり、「伊川津の国衆」に執ってみれば感覚的には“「原住民」”に相当するのだ。
    「国衆であった4土豪」に執っては、当初は舐めてかかっていただろうが、突然に「伊勢周り」の「美濃の伊勢の裔系」の家族が移り住んで来た事に驚いたであろう。
    そして、暫くして「東回り・縦の陸路1」で「青木氏四家の国衆」のとんでも無い近代銃で武装した大集団が、押し寄せて来た事に成ったのである。
    彼等の執っては従って“「後から来た国衆」”とは観ていなかった可能性がある。
    突然に神職族が膨張したと観ていて、故に「戦い」も無く入れて円滑に「伊川津七党」を結成できたのである。
    「戦いの記録」は全く発見されていない。
    「国衆」としても少なくとも「前段で論じた通り「1550年・南下期〜1560年前・吉田期」前には入っている事に成るので、大した違いは無い。
    そこで、だとすると「疑問」が一つ起こる。
    「渥美の土豪等」が、この「古跡神明社の所縁」で「額田の南下国衆」の「家族」が「伊勢経由」で前もって入ったとして、これ等の土豪に潰される可能性もあった筈である。
    それは、「渥美の国衆土豪等」が何時頃入ったかに関わって来る。
    「額田の南下国衆」の「家族」は、前段でも検証した様に、入らなければならない時期があって入っている。
    それが「1540年前頃」に「美濃の空白期」があって、これを見計らって入っている。
    それが、3回に分けて入っているが、これが「1500年前後の頃」である。
    「渥美の国衆土豪等」の系譜では、“「江戸期の資料」”に依ると「1430年頃〜1450年頃代」だとしている。
    そうすると、「50〜70年程度の差」がある。
    ところが、ここには上記した様に「江戸期の資料」には「国印状取得の搾取偏纂の問題」があって一概に信用できないのだ。
    恐らくは、この年代は、「戸田村や牧野村の原住民」と成っている「庄屋の発祥年代」であって、必ずしも彼等の「渥美の入植出自年代」では無いのだ。
    「戸田村の戸田氏」や「牧野村の牧野氏」の家を乗っ取って名乗っているので、「渥美の入植出自年代」はこれより後に成る。
    そもそも、「1430年代」は「室町幕府の力」がまだ強く、「関東制覇」に於いて“「結城合戦・秀郷一門」”を興し、「室町幕府」と「結城氏ら関東の諸豪族」との間の戦いが勃発した時期である。
    この時、「敗退した多くの土豪」が「国衆」として中部域に流れて来たのだ。
    「1430年代」までのここは、先ず「半島外」は、”「海食崖」”と呼ばれ浸食されていた地域で全く使えず、「湾内の内海」は、中部域から「大陸帰化人の由来」に依って「新しい技術」を持ち込まれた。
    「奈良期からの陶器や瓦」を焼いた“「渥美窯」”と呼ばれていたものがあって現在でも出土している。
    古来には「六連(むつれ)」や「百々(どうどう)」と呼ばれていたのである。
    要するに此処は、「真砂の沼地」で米より「真砂と粘土の混在地域」であったのだ。
    ところが、上記の“「結城合戦」”の「敗退した多くの土豪」等が関東から流れて来て米の採れない地域を何とか住めるようにした“「歴史的経緯」”を持つ地域なのだ。
    「江戸期の搾取偏纂」によるものであって、決して「讃岐の農民や阿波の農民」や「信濃大河内の農民」ではないのだ。
    「上記の疑問」の「額田青木氏等の家族の安全」は、時系列から「敗退した多くの土豪」等との関係があって、奈良期からの”「古跡神明社」の「神職裔系家族」”として敬っていた事から確保されていたのだ。
    それは「室町幕府」には、「密教浄土宗の原理主義の白旗派」を「浄土宗」として認めさせ、「伊勢裔系族」を”「律宗族」”として認めさせた。
    この事からも彼等土豪等は敬った事から従ったのである。
    更には元々、彼らは「関東の秀郷一門の傍系支流族」に従っていた血縁した土豪であったからだろうし、讃岐でも「秀郷流讃岐青木」が確固たる勢力を持ち定住していたのだ。
    故に、何よりの証拠としての「彼等の菩提寺」の“「西光寺」”が「古跡神明社」の直ぐ近くの「田原」に並んで存在するのだ。

    (注釈 「5000石の検証」
    そこで上記の検証の通り、この「3氏の土豪」と「青木氏の四家・1500人」が検証の通り「渥美郡域」で生きて行くには、この「5000石以内」では限られていて「本家程度」と成る。
    此の検証から、“「額田青木氏」と共に陸運業”に結果として加わったのは「分家筋一門」に成る。
    恐らくは、「陸運業に転身する前」のこの「三氏の土豪」は「戦い」で参戦して生きて行けたが、「三方ヶ原」より「陸運業」に転身した後の「少しの期間・準備期間と話し合い期間」では、「渥美湾域の青木氏の護衛・蒲郡青木氏」の支援を「糧」として「伊勢の支援」で生きていた事に成った事が判る。
    それは「商記録」の中の「運搬の支払い状況・伊勢水軍の動き」が一時的に活発化しているのでこれで読み取れる。
    その意味でも、この「糧の少なさ」を解決する為には、「土豪3氏」の中での「話し合い」には時間が掛かっていたと考えられる。
    つまり、上記の「タイムラグ」は、要するに「青木氏側だけの問題では無かった事」に成る。
    そこに、「女系の伊勢裔系」との「格式の事」でも問題があったらしく、それが「松平氏の旗本・西三河」とは、「銃の有無・戦力」に関わらず、「格式に対する相当な軋轢」があったらしい事も判っている。
    「土豪3氏等」もこの狭間に絡んでていて、「本家筋」は「三河側」に着いたとしても「分家筋」は「最後の糧」には、「三河側の旗本」が補償してくれる訳でも無し、充分にない限りは生き抜けなかったと考えられる。
    「三河松平氏の今後の事」を考えると、戦乱の中では「分家筋」は最前線で間違いなく犠牲に成り命を落とす事は必定と観ていたのであろう。
    この「格式差・律宗族」と「戦力差・銃」がある「伊勢の裔系側・陸運業」に着く方が得策と見た事に成り、其の侭では「三河での発言力」では「分家筋」は「本家筋」に従うしかなく間違いなく「削がれる立場」には成ると観た事に成る。
    兎も角も、これは言葉にしなくても「三河の旗本」は闇雲に「自ら卑下していた事」に成ろう。
    然し、因みに「国衆離脱・1573年」でも「伊勢に直ぐに帰る事」はせずに蒲郡に一部が残ったのだ。
    分家の土豪等は本家に追随するのでは無く、「三河旗本・大久保・本多氏系・田原城主・1564年・〜1590年関東」が入ったが、それでも「伊川津・国衆1560年・家族1530年頃」に其の侭に居着く事に成るのだ。
    普通は本家に逆らった場合は居られないのが「氏家制度の掟」であるが、それでも居られたのは奈良期から居た「伊川津の神職族の裔系」に組み込まれた事によるのであろう。
    「神明社に対する敬い」は当時は未だ「民衆の間」では絶対に「犯しべからずの立場」に居たのだ。
    江戸初期から幕府に引き渡されてから荒廃し変わったのだ。
    それだけに御蔭で美濃安全だけは保たれていた。
    その「大久保・本多氏の旗本」とは、結局は「国衆の9年間」として「陸運業の21年間」の「付き合い」と成り、合わせて「30年間」と成った。
    つまり、その「嫉妬怨嗟の旗本」とは「大久保・本多氏とその家臣」であった事に成るのだ。
    この「大久保・本多氏」は藩主と成ると同時に「東三河軍制の吉田城の酒井氏」の配下に入ったのだが、経緯から三河元来からの保守的な旗本だけに「額田青木氏等」には軋轢があったと考えられる。
    ところが更に不幸かこの軋轢の中で「額田の南下国衆」の「300の銃隊」も「東三河軍制下」に入れられ、同時期に「武田軍の南下」に伴い急遽「吉田城」に「編入・1565年」を命じらると云う事が起こつたのだ。
    注釈だが、筆者は条件として「渥美湾の制海権の確保の役目」として「特別任務」が与えられていたのでは無いかとみているのだ。これが約束であったと観ているのだ。
    そして、ところがこの「約束むを違えて皮肉にも「南下国衆の初戦」の「第1期の吉田城の戦い」に引っ張り出された事と成って、「武田軍」を押し返す程の勲功を挙げたのだ。
    「蒲郡青木氏と伊川津青木氏四家の国衆離脱」とこの“「5000石の影響」”が「周囲の行動」を根本的に替えさせたのだ。
    因みに、この「5000石」に付いて、“「大久保」に「家康」が「7000貫の所領」を与えた”としている詳細な重要な記録があり、これを説としているものがある。
    この説では、「1貫=2石の説」では14000石、「1貫=1石の説」で7000石と成る。
    「時代と地域」に依って「1貫で買える米量」が替わるので「7000石〜14000石」と云う事に成る。
    この「時代と地域」では、「7000石程度」であるが、当時は威力を示す為に多めに云うのが慣習であった事から、それを咀嚼すると「5000石」であった可能性がある。
    況してや“「石高」”で云うのでは無く、“「貫高」”で与えたとすると“「海産物等」”も含めての「石高」であった事に成る。
    ここは、上記した様に「黒潮の海食崖」の域にあって「海産物の高」は元より高かった。
    要するに、間違いなく米高は「5000石程度であった事」に成る。
    そもそも、彼等の“「旗本」”とは言え戦国の世の民から出た「第二の姓族」である。
    然し、一方の彼らの“「額田の南下国衆」”は「諡号の第一の姓族」である。
    然し乍ら、「第二の姓族」に執っては、“出世を前提とする「国衆」と成った限り”は、一族を護る為にも「意見」を通す事が「最大の安全」に近づき、且つ、一門を率いる「指揮官」はそうする事が疑い無く当然の「義務」であって、これ等の事は充分に予想できる事で「何時の人の世」も間違いなくそうなるだろう。
    然し、「額田青木氏の南下国衆」は違ったのだ。
    何方が、「格式」を前面に押し出していたかは記録からは判らない。
    筆者は、「青木氏の氏是」もある事でも判る様に「格式」は世間に押し出さず自然を護り通す掟がある。
    従って、世間がどう受け取るかにあって、「勲功」か何かで何もない処から格式を得た訳で無いのであって与えられた格式ではない。
    故にこれが「青木氏の氏是」の基源に成っているのだ。
    元から「旗本側」に強く「卑下の意識」があったと考えている。
    それは次の注釈に論じる「状況証拠・目的」からである。)

    (注釈 「疑念の検証」
    そもそも、「本幹・本命」とも云える“「神明社の遮断」”が「信長」に依って成された事から、結局はこの「命」に係わる「本幹の復元策」として、「信濃青木氏」と共に、「蒲郡と吉田」に結束して「国衆」として入って、「渥美湾までの縦の防護ライン」を形成したのである。
    つまり、「渥美湾の制海権と支配力の確保・信長に水軍はない」と「信濃まで縦の陸路の連絡網」を「縦のライン構築(専用商業道)」を成し遂げたのである。
    結果として「伊勢」から「渥美湾」から「伊豆」までの「陸路と水路の復元」も出来た事に成った。
    改めて「3土豪の国衆」との「国衆としての目的」がそもそもが異なっていたのだ。
    この様な関係にあっても、「伊川津七党の青木氏・吉田青木氏等四家」とは「彼らの独立性・3土豪の国衆」も担保してしながらも「不思議な関係」にあったのだ。
    上記した「伊川津七党の土豪」のこの「土豪の国衆3氏」は、「松平氏の伸長」と共に「松平の准家臣・後に譜代家臣に格上げ」と成って、互いに護りあい「一族の安全」や「渥美湾の支配力」の関わりを担保していた事も七党にはあったのだ。
    故に、上記した様に「額田青木氏・蒲郡青木氏」が「彼等土豪3氏」を「陸運業に加える事」、又、「出自元との関係性を担保する事」に当初は反対したのだ。
    前段で論じた様に、「松平氏との関係性」を敢えて「組織の中に引き込む事」に“「大きな疑念」”を抱いていたのである。
    つまり、これは「青木氏の氏是の考慮」にあった。
    「伊勢も信濃」も同じ意見であったと考えられる。
    結果として、この“「疑念」”は後に捨てた事に依って、「吉田城や一言坂や三方ヶ原の勲功」があって江戸期に「家康の天下統一」が成されて、更には「陸運業」や「開拓業」や「殖産業」で゜三河発展」に貢献した。
    尚且つ、「伊勢の権威」を尊重し、「本能寺の変」の「堺からの逃亡」にも貢献し、「家康お気に入りの紀州藩主頼宜」に貢献している等の諸々が事の「家康の意識」に訴えて、この“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」の発行に成った。
    結局はこれを獲得でき、その後の「紀州藩・二万両の債権・2度の勘定方指導」にも貢献したのである。
    然し、其の後に「紀州藩」はこの「家康のお定め書」を認めているのに、「三河旗本」は依然として何と「吉宗の享保期」までこれを認め様としなかったのだ。
    遂には、「吉宗と伊勢青木氏との関係・親代わり・後見人」を知っていながら「伊勢の幕府役所」の「山田奉行所の難癖」で「二度」も「伊勢」との「係争事件」を起こしているのだ。
    他にも前段でも論じた様に、「信濃」でも難癖の「同じ事件」が起こり、「吉宗」はこの「山田奉行所の件」も旗本側に着いた。
    これが元で最後は「吉宗」とも決別したのだ。
    “如何に執念深いか”と「伊勢」では資料や口伝に遺す程に「戒め」として観ていたらしい。
    つまり、この「旗本疑念」を掘り下げれば、この点を持っていて、「伊勢側と蒲郡青木氏」は「陸運業の運営」に“「善い事」が起こらない”と観ての「不吉な疑念」であったのでは無いかと筆者は観ている。)

    (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
    然し乍ら、その疑念は明治初期に消えた。
    その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
    その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
    中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
    紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
    この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
    この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
    これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
    これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
    この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
    そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
    後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
    後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)


    > 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」に続く。


      [No.380] Re:「青木氏の伝統 56−3」−青木氏の歴史観−29−3」
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/04/01(Wed) 09:21:17  


    > 「青木氏の伝統 56−2」−「青木氏の歴史観−29−2」の末尾
    >
    > (注釈 尚、記録に依れば、「滋賀県近江」と「滋賀県日野」で「火縄銃」は造られていたと論じているが、この何れにも「厳浄寺」があって、その所縁から「彼等の菩提寺」としてこの寺が遺されている。
    > 琵琶湖の中央部に位置して直ぐ東横にこの「滋賀県近江の厳浄寺」があり、此処から「滋賀県日野の厳浄寺」が南東方向に22k、この「日野厳浄寺」から北東に10k、「日野厳浄寺」から「近江厳浄寺」まで北西に20kのほぼ「二等辺三角形の位置」にある。
    > ここで、「近江銃、即ち、厳浄寺銃」が造られていたのだ。
    > 「厳浄寺銃の説」はこれでも信用できる。)
    >
    >
    > (注釈 即ち、鉄には「フェーライト」と「パーライト」と「オーステナイト」と云う「結晶組織の違う鉄」があり、これらは「加熱温度」に依って「炭素の結晶構造」が異なる事に依って起こる。
    > これをある程度の速さで冷やすと常温でもその結晶構造が得られる。
    > この「炭素量の多くしたパーライト状態」に「硫黄」を多く加えると「黄鉄鉱」と呼ばれる「極めて脆い金属」が出来て、叩くと簡単に「酸化火花」が出る。
    > 「硫黄」は「鉄」に執っては「不純物」であり、「結晶の間」に食い込んで来る為に弱く、打つと結晶が破壊されて「空気中の酸素」と反応して酸化して「火花」が飛び散るのである。
    > 「黄色の色」をしていて摩耗する。
    > これを「火打ち石の代わり」にして「硝煙」に火をつけ爆発させる仕組みである。
    > 従って、「専門的で進んだ論理的な銃」と云う事に成る。
    > これは「火縄銃の仕組み」としては疑問である。)
    >
    > 要するに、「資料不足」の“「美化の2年の誤差」”を無視しての論説と成る。
    > 「青木氏の歴史観」から観ても「長篠の戦記」には問題が多い。
    > これも「江戸期の書き換え」であろう。


    「青木氏の伝統 56−3」−青木氏の歴史観−29−3」


    (注釈 「武田軍の読み取れる史実」
    さて、前段に続いて、これは次の事も云えるのだ。

    この「研究資料」には、“「織田軍後方陣地」に遺っていた「鉛玉」は変形が激しく「四角」に成っていた”としているのだ。
    本論は此処に着目している。
    これ等の判断に至った多くの「資料や記録の見直し」の「前提」に付いて「注釈論」として論じて置く。

    (注釈 「銃弾の変形から読み取れる史実」
    これは、つまり、「弾丸の変形」に付いては、“「武田軍」が「僅かな火縄銃」での「接近戦」でも果敢に死ぬ覚悟の突進応戦した事”を示しているのだ。
    この事に大きな意味を持っている。
    恐らくは、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」の事は情報戦で武田軍は既に知っていたと考えられる。
    それでも、「僅かな火縄銃」で応戦したと云う事は、一つは”未だ「火縄銃の効果」を低く観ていた”か、或いは、”調達出来なかったか”であり、筆者はこの両方であったと観ている。
    何故ならば、「赤兜の騎馬軍団への信頼」と「風林火山の概念の強さ」にあったろう。
    戦いは、要は、”風林火山にあると云う概念”が余りに強すぎたのであろう。
    だから、一発撃つのに15分も所要する火縄銃である以上は「固定して戦果を揚げる火縄銃兵」でありながら、何と突撃すると云う事が興ったのであろう。
    弓であればこれでも何とかなるだろうが、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」が目の前にあるのに何かの戦いの概念が間違えていた事を示すものである。
    これは「銃兵」に対して「騎馬軍団」と同じ考え方にあったと観ているのだ。
    且つ、これは同時に“「数少ない銃であっても風林火山でやれば戦果を掲げられる”と真剣に考えていた事」を示すものである。
    況して、この「変形具合」の意味は、体では無く何かの“「堅い織田軍の防護壁」”に当たった事を意味している。
    “「堅い織田軍の防護壁」”のこれを物語る資料が遺されていない。
    「櫓と防護柵」を設置したとする事は記録されているが、これは騎馬軍団の突撃の防止と最前線にいる銃兵の保護にあった。
    これは“「堅い織田軍の防護壁」”には成らない。
    「石柵か鉄板」以外に無いだろう。
    防護柵以外に「銃兵」の前にこの二つの何れかを「盾」にして置いていた事に成る。
    この事は「織田軍」の「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」が「武田軍の銃」を事前に予想していた事に成る。
    筆者はこれは「製鉄の地の雑賀地域」を重視して「鉄板」であったと観ている。
    「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」だからこそ「近江と日野の銃」の「裏ルートの移動先」に付いて「情報」を得ていて「武田軍が僅かながらも銃を持っていた事」を事前認識していた事を示している。
    「武田軍の少ない銃」でも「常識」を破って突撃をしてくれば、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」に「木の馬防柵」を貫いて超えて当たるから、これを防ぐには鉄板の盾の様な物を前に置く必要があった筈である。
    「武田軍」はこの「銃の固定式の常識」を戦術的に敢えて超えて使ったのでは無いか。
    何故ならば、下記の様に「三つの起伏の丘」が間に有りその「距離が約2kある」とすると、「銃の固定式の常識」は使えない。
    「織田軍」は西で動かないと成れば、東の武田軍がこの「2kの間」を詰めなければ成らなくなる。
    この「睨み合い」の中の期間を利用して後ろに酒井軍を廻して弓と少ない銃で前に進む様に仕向けたと考えられ、故に、これ等の行動を執ったと考えられる。
    そもそも、然し、だとすると「武田軍側の三カ所の銃弾跡」は、「織田軍の1000丁の銃」の数にしてはそもそも少なすぎる。
    これは「弾丸」は「馬や人」に食い込んだ事を意味するのか。
    「二万軍の7割」が「銃撃で死んだと云う事」はこの事を意味するのであろう。
    将又、「織田軍前戦」の「弾丸」は、「赤兜の騎馬兵」より前に前進していた「武田軍」の「数少ない銃隊」に当たった事を意味していて、それは「決死の抵抗戦」があった事を示している事にも成り得る。
    そこで、そもそも戦場と成った「設楽地域」は「起伏の多い地形」であった事から、「武田軍」を「銃弾の確実に届く位置」まで引き出そうとする戦略を駆使していたのかである。
    つまり、何故に、「戦い難い地形」のこの「波打ち地形」を態々選んだかである。
    それは別の資料で「信長」は進んだ「西洋の事」を知る為に宣教師から講義を受けていたとする記録があり、その「講義の資料」の中に、この中で「イタリアの戦いの史実」を宣教師から教えられていたとする記録がある。
    それによると、「起伏地形を利用する戦術の事」が欧州であったらしく、当時の日本の戦い方の中にはこの考え方は全く無く、前段でも論じた様に「魚鱗陣形」や「鶴翼陣形」等の寧ろ河原などの「平坦な地形」で戦う戦法であった。
    そこで「信長」がこれに驚いて「宣教師」に執拗に詳細に聞いたとする記録である。
    そこで「地形」は東西に先に来て配置し、西には織田軍、東には武田軍で配置し、この間の1.5kには小山が3つあり、「信長軍の本陣」は「戦地本陣」より西寄りの大きな平地1.9kに置いていた。
    そして、「戦い」と成った位置は「信長ー勝頼の陣地」より織田軍方西より7割の位置の南寄り0.5kの小山と小山の間で決戦した。
    かなり「織田側」は引き付けた事がこれで判る。
    銃弾が確実に届く600mまで引き付けていた事に成る。
    そうすれば、後ろに回った東三河の酒井別動隊の効果も出るし、この効果も出たのであろう。
    要するに「武田軍側の銃」は前に出るしかなく無くなった事に成る。
    この「二つの記録」を合わせると「長篠の戦い」は、「なだらかな起伏の多い地形」を選んで待ち受けた事では符号一致する。
    然し、史実では「少ない銃隊」の後ろに控えていたされるその「赤兜の騎馬兵」が、記録に依れば“「後詰め」で有りながらもほぼ全滅であった”としている事から、「武田軍本隊15000」の内の「僅かな突撃銃隊」は、間違いなく「全滅であった事・武田軍1万の戦死」に成る。
    とすれば「弾丸」は余り戦地に遺らない事に成るが、この作戦は、「東三河の酒井軍の銃に長けた者2000隊」に「織田軍自身の500の銃」を加えた「別動隊・酒井軍」を「武田軍」を挟み撃ちにする様にして攻撃したとされている。
    「東三河の酒井軍の弓銃に長けた者2000隊・イ」に「織田軍自身の500の銃兵・ロ」に付いての記載では、イには「銃兵」とは書いていない。
    これは「吉田城での経験」から始めて「銃撃戦」を経験した「銃経験者の事」を意味しているのだろう。
    この時、既に「額田青木氏の銃隊」は三河の国衆を辞していた。
    イに付いては、要するに“銃を持っていた”とする前提の記載では無く、「弓と経験」を意味しているのであろう。
    ロに付いては、「織田軍の500」なのか、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」を割いたのかは書いていない。
    前段でも仮に「織田軍の500」があるのなら「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」はいらない筈で、そもそも、「近江・日野」からそんな数の銃を裏ルートで調達どころか生産能力も無かったので先ず無かった。
    更に「火縄銃」はそもそも高度の経験を要するので、簡単に出来るものでは無く、「貿易」で獲得できる数では無いし、経験も得られない。
    だとすると、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」を二つに分けたと考えられる。
    これで以て「銃による挟み撃ちにした作戦」であった事に成る。
    つまり、二つに割くと云う事は,”武田軍側の銃の数が多くない”との「情報」を得ていた事に成る。
    多ければ二つには割けないし、だから、割いたのであり、これが「弾丸の数」に表れているのだ。
    これに付いて興味ある記載があって、「信長」は「武田側の銃の数」から判断して徹底して「兵の死傷者」を無くす作戦に出たとする記載があり、「無防備の銃兵」の死傷は著しい戦力の低下を招く為に、取り分け、発言として“銃兵の死傷者を出すな”と命じたとある。
    それは、「長篠・設楽の波打つ地形」を利用して、この「へこみの地形部」を「掘り」に見立て何重にも「柵・馬防柵」を巡らし、「へこみ部」には兵を隠し分散させて、ここの最前線に「無防備の銃兵・雑賀は製鉄」を幾つかに分けて配置して護ったとある。
    この最前線に「無防備の銃兵」の為に、それ故に「柵・馬防柵」に「鉄板・雑賀族の所以」を設けたのであろう。
    これが「変形の弾丸」と成ったと考えられる。
    極めて合理性が出ていて理解が出来るし、恐らくは「史実」であろう。)

    (注釈 「龍源寺銃・厳浄寺銃の火縄銃」
    この説では、この時に使われた「火縄銃・マッチロック式」は、「長篠1575年」の後の「8年後の銃物・1583年」であって、この銃は歴史的に遺されたものとしては、“使用された最古であるとする研究結果”がある。
    これは要するに「龍源寺銃」・又は「厳浄寺銃・近江日野の菩提寺」と呼ばれるものであるとしている。
    つまり、「時系列が違う」と云う説である。
    そうすると、この研究説によれば、「松平軍」は「長篠の戦い」の時には、未だ「火縄銃」は持ち得ていなかった事を示していて、持ち得たのはそれが「8年後の銃物・1583年」の“「龍源寺銃・龍源院銃」”であったとしているのだ。
    理窟上は、この時に両軍が使った銃は、「武田軍」は兎も角も「松平軍」が「長篠で使った銃」は、持っていなかったか、将又、日本製では無かったと云う事に成るか、後に入れ替えたかである。
    つまり、「松平軍の銃」は日本製でこれが要するに「近江・日野の銃」と呼ばれるものであった事に成る。
    この“「龍源寺銃・龍源院銃」”とは、要するに「近江銃の事・厳浄寺銃」であるのだ。
    この「厳浄寺」は、「二か所・近江と日野」にあって、共に「近江と日野」で「銃」を造っていた地域にある寺である。
    ここが「彼等の菩提寺」であった事も資料から判っていて現存する。
    室町期に「近江」には「生産地・連携」が「二か所」にあって、且つ、「菩提寺」であった事は、彼等は「血縁族であった事」を意味し、「近江郷士衆であった事」の「職人族」に成る。
    この「生産地」は「別の資料」では、「近江と日野」は「独立した生産地」では無く、一族の「分業生産」であったとしている。
    「菩提寺」が同じならこの説が正しい事に成る。
    そもそも、「独立した生産地」であるだけの「財源力と資材の供給力」は元から無く、「堺」からの「資材と財源の供給の態勢」であった事が記録から判っている。
    更に、「重要な事」は、この「龍源寺の方」は、関西地区の特定の地域には「11カ所」あって、当然に全て歴史的に「室町期」の“「火縄銃の生産関連地」”であって、その寺は現存するのだ。
    それは、次の「四地域」に分類されるのである。
    A 「雑賀」、「堺」、「伊勢」
    B 「田原」、「渥美」、「豊橋」、「豊川」
    C 「近江」、「日野」
    D 「姫路・摂津」、「松江」
    以上の「A〜Dの四地域」である。)

    (注釈 「A〜Dの四地域の持つ意味」
    これは結局は、前段でも論じた様に、「銃のシンジケート」を意味し、この「シンジケート」に依って見張らてブロックされていて、従って、前段でも論じた様に「近江・日野」からしか「銃」は「抜け穴」として得られなかったと云う事になるのだ。
    前段でも少し触れたが、この「近江・日野」を「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」で見張っていた事が判っていて、最後には実力行使した様である。
    この「龍源寺」とは、抑々、当時、室町期には“「寺」”と云うよりは、寧ろ、“「銃シンジケート拠点」”の「役割」の為に存在していた事を意味するものなのだ。
    筆者は、この「近江・日野の銃」を“「龍源寺銃」”と名付けられていた説には「大賛成」であるし、その中でも「近江・日野銃」を“「厳浄寺銃」”としている「青木氏の資料」を採用している。
    「青木氏の中」では、彼らの独自の呼称として呼ばれていた「火縄銃」を採用して、資料には態々その様に呼称して遺していた事に成ろう。
    「龍源寺銃」の中でも「厳浄寺銃」を別に何らかの理由で呼称を使い分けていた事を示す。
    この呼称は、「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」の影響が強かったと考えられる。
    恐らくは、これだけの「拠点作り・龍源寺」は、「財源的」に観ても、将又、全国に張り巡らされた「神明社的」に観ても、これを成し得るのは「伊勢屋・伊勢青木氏」しか出来なかった筈である。
    取り分け、「AとBとD」がそれを如実に示している。
    Dに付いては、「搬入港・伊勢屋の支店」であった事は間違いない事で、Bは前段からも論じている「額田青木氏の国衆」での「渥美湾の搬入搬出港」であった事に成る。
    Bは銃を生産していないのだが、何か「銃に関する役割」を「伊勢」を通して果たしていた事を示している。)

    (注釈 龍源寺の役割」
    この寺の「詳細な役割」を現在より調べてはいるが、判っている範囲では、そもそも、「銃に関する龍源寺が情報拠点であった事」だけは判っている。
    然し、Cを除いて「厳浄寺」が無い処を観ると、「情報」のみならず密かな「補充材の供給の拠点」でもあったと考えられる。
    前段でも論じた様に、「青木氏仕様の改良」の為に「秀郷流青木氏」にも「試作銃」を「当面の抑止力」として渡している以上は、此処を利用したと考えられる。
    その「証拠」に、前段での「伊豆の論」でも論じた様に、実は次の拠点にも「龍源寺」はあったのだ。
    1 「伊豆青木氏の拠点」の近くの「伊豆・2カ所・神明社近隣・梅木」
    2 「神奈川・藤沢・2カ所・神明社近隣」
    以上の2カ所にもある。
    何とこの他に3と4としても存在する。
    3 「伊勢名張青木氏の館の清蓮寺」の「4k東」に所にある。
    ここは他と違って、特徴としてまさしく“「神明社」に取り囲まれる様”に「龍源寺」が存在するのだ。
    4 全く同様に前段で論じた「神奈川」の「秀郷流青木氏の拠点」のある所にも「神明社・4カ所」に囲まれて同様に「近隣2カ所・隣接」に存在するのだ。
    これは単なる偶然で無く、「恣意的な必然」である。
    そもそも、前段でも論じている様に、「青木氏の菩提寺名」の「本寺」は「密教清光寺・院・せいこうじ」であり、別に「分寺」として「来迎寺」がある。
    「秀郷流青木氏」は「西光寺・せいこうじ」である。
    「上記の事」から勘案すると、この「厳龍寺」は、何か“「特別な目的」”を持って配置していた事に成る。
    其れも特徴として全て「神明社の近隣」にであり、且つ、「神明社二社」に依って囲まれているのだ。
    筆者は研究した状況証拠の分析の結果から、これは「表向き」の“信仰の対象の寺”と云う事よりは、「裏の役目」は「室町期の情報と供給の拠点」であった事に成るだろう。
    そして、その近隣に「神明社の二社」があると云う事は、これは“神明社と厳龍寺は補完し合っていた事”に成る。)

    (注釈 「龍源寺である理由」
    では、そこで、「表向き」のこの「神明社の補完寺」とすれば「龍源寺」は、普通なら「密教浄土宗」と成ろう。
    然し、全てが違っていた。
    「密教浄土宗」と考え方を類似する「永平寺」を「禅宗総本山」とする“「曹洞宗」”であり、中には同系の「臨済宗」もある。
    つまり、“これは何故なのか”である。
    そもそも、この「曹洞宗の裏の活躍」は、歴史的にも有名でそれは“「役行者・修験道の僧侶」”などに表現される様に、全国各地を廻って心を鍛える修行をしながら「情報を基にする諜報活動」をも行っていた宗派でもある。
    この事から、「伊勢」はこの「龍源寺」を「神明社や清光寺の役務」とはし難く、「曹洞宗の寺」としての「表向き」を造り上げていて、同時に「曹洞宗を補完していた事」が考えられる。
    現実に、この“補完を証明する物”として存在するのだ。
    前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」では鎌倉期から伊勢に「曹洞宗の高僧」の多くを長く逗留させていた実績があり、この状況は昭和20年まで続いていた。
    この「鎌倉期から昭和期」までの間の「曹洞宗僧侶達」が遺した「書画彫刻陶器」が今でも多く遺されている。
    中には「室町期の永平寺貫主の書・額」もある。
    これは、前段でも論じた様に、「密教浄土宗の白旗派」の「律宗族」として「室町幕府」から“特別に原理主義を浄土宗とする認定”を受けたが、この時から、「密教浄土宗・律宗族」で在り乍らも、“「永平寺の曹洞宗」”を支援していた事を意味しているのだ。
    これがその「名残・補完」を証明する上記で論じた“「龍源寺」”でもあったと考えられるのだ。)

    (注釈 「二か所の龍源寺の存在理由」
    そこで、“何故、傾向として「隣接二か所・2k〜6k」の隣接域に存在させたのか”である。
    現存している「龍源寺」もそう成っている。
    この事に「大きな意味」を持っている。
    確かに“特定した地域である”と云う事もあるが、そもそも「寺の目的」であるのなら「建造」は1寺でもよい筈であるが、上記の通り不思議に「隣接2寺」なのである。
    この「隣接2寺」は「宗教的役目」の“「信者の囲い込み」”にもあったと観ている。
    「座禅や修験道」で“心を鍛え悟りを得て「大日如来」に導かれる”と云う概念は、そもそも農民などには取り入れ難い概念であって、主に、「郷士や原士等の武士階級」に取り入れやすい概念と成る。
    従って、「信者獲得」には、「地域限定の囲い込み」が必要があったのだ。
    現実に、「中国生まれの儒教の影響を受けた概念」であって歴史的にも信者はそうであった。
    この事はそもそも、「地域性が強く出た結果」と判断できる。
    この傾向が、“伊勢青木氏に執っては都合が良かった”と考えられる。
    故に、積極的に「伊勢青木氏」は「補完目的」として建造したのであろう。
    仏教伝来以降は「密教浄土宗」は「高位族の対象」であった事もあって「曹洞宗」を補完したと考えられる。
    取り分け、Bに付いては、「情報・供給」は元より「郷士や原士等の武士階級の信者獲得」のその意味合いも強かったと考えられる。
    これに依って“「地域との絆関係」を高める手段”ともしていたと考えられる。
    そして、ここから出される「貿易」によって得られる「黄鉄鉱や硝煙」を含む「火縄銃の事」を以て「龍源寺銃」と呼ばれたのであろう。
    必死に成って「近江・日野から出される裏の銃」や「外国から持ち込まれる火縄銃」を、“無秩序に社会に使われる状況に成る事”を牽制したのであろう。)

    (注釈 「近江・日野の掟破りの背景」
    上記した様に、この様な「シンジケート」で固められた「龍源寺銃の組織」のある中でも、「火縄銃の掟・龍源寺銃・厳浄寺銃」に反して、「社会に悲惨な結果を招く様な武器」を「横流し」してでも、況して香具師に見張られていながらもこの様な「勝手な行動」を敢えて執ったのだ。
    それは富に目が眩み無秩序にした「金銭の取得」であった。
    「厳浄寺と云う組織」が「龍源寺と云う組織」に見張られながらも「銃の堅い掟」を破ったのだ。
    その結果、この「近江・日野」も「堺」に「財源や資材」をブロックされて飛散する結果と成ったのだ。
    兎に角にも、論点は逸れるが、「銃のシンジケートのブロック・龍源寺銃」は「戦乱」を拡大させ「被害」を拡大させる「銃の武器」を統制していた事では賛成出来る。
    且つ、この組織は「武器を持たない青木氏族」に執っては「抑止力を最大に高める手段」でもあった。
    これが世間に広まつた場合は「青木氏族の抑止力」は無くなる。
    故に、「銃のシンジケートのブロック」に「巨万の富の全財産」を注ぎ込んでも必死で「最新の貿易情報」を掴み取り組んだと考えられる。
    その意味では。「額田青木氏の国衆に与えた近代銃」は飽く迄も「武力」では無く、伊勢の裔系の「額田青木氏」を護る牽制銃であった事に成り、「額田青木氏の300の銃」に付いては「歴史的経緯」もそうなっているのだ。
    筆者は、「青木氏の抑止力」を無くす“「室町期の貿易」”に依って無秩序に持ち込まれる「火縄銃」を、この「龍源寺の力・シンジケート」で何とか抑え込んだのではないかと考えている。
    況してや、「銃を持ち込まれる事」は、中国の例に観られる様に、外国に侵略される前提であった。
    それ故に、「水軍や伊勢シンジケート」と補完し合った「龍源寺シンジケート」で威圧して「貿易」を側面から抑制し牽制したと観ている。
    それ故に、「財力」で横から買い取る意外にも、密かに、「水軍」で外国船や密貿易船を攻撃する、又は、「陸揚げされた銃」を「香具師」等で攻撃する程度の事はしたと考えられる。
    「奪い買い取った銃」は廃棄する等の事もしたと考えられる。
    「近江・日野」から約35年後の「秀吉の刀狩り・1588年」と、「江戸期」では「銃規制・1605年」で「禁令」と成って「抑制」は、更に働いて「抑止力」は護れたのだ。青木氏の抑止利欲はま)

    (注釈 「堺の近江への戒め」
    資料の読み取る範囲では、“100年弱程も前から「情報」を掴み何時しか「見本」を取り寄せて事前に「抑止力」の為の「銃の研究開発」を進めていたと考えられる。
    故に、その様な「戦国や下剋上の乱世」の中で、「青木氏の抑止力」を弱める「銃の武器」を敢えて「松平氏」には渡す様な「矛盾した判断と行動」はしないと成るだろう。
    「平安期の源氏化」と「奈良期の額田部氏の干拓灌漑」に反して、又しても「勝手な行動」を執った「近江族」を“「堺・支店」”を拠点として「伊賀青木氏・香具師」を使って戒めたのである。
    結果としては、この「伊勢青木氏の背景」とした“「堺の戒め」”が「近江・日野の崩壊解散」と成り、各地に「銃職人」が飛び散る結果と成って仕舞ったのだ。
    ところが、「堺の戒め」に対して、この事で恐れていた“「危険な状態」”と成って仕舞った。
    この「近江・日野の鍛冶職人」を「伊勢に引き取る事」で解決できると観ていたし、その様に事は進んだ。
    ところが、又しても「日野から裏切り」が出たのだ。
    この「日野」は、「青木氏の存在した近江の域」より「北東に20k」の位置にあり、更に「甲賀青木氏の域」より「10kの北東」にある。
    つまり、「日野」は「青木氏域の域・定住地で在った所」にないと云う事である。
    「近江・日野」が離散した時、殆どの「銃職人・鍛冶職人」が「伊勢」の「伊賀・香具師」に護られて逃げ込んで来た。
    そして「青木氏部」に組み込まれて「殖産の機械」を造ったのだ。
    この「近江たけの事」は、平安期で滅亡したが「何らかの支流傍系」が生き残り、「銃職人」として「堺・摂津」から支援を受けて僅かながら生き延びていた事を意味する。
    その「絆」を頼って「伊勢」に庇護を求めて来た事に成り、「青木氏部」の中に庇護したとしているのだ。
    取り分け、「伊賀青木氏・香具師集団」が「支配頭」と成って「殖産・和紙等」の「青木氏部の服部」に組み込まれたのだ。
    然し、この「近江」と「日野」との“「厳浄寺・菩提寺」”で示す様に、相互に「繋がり」があったとしても「伊勢」とは繋がりはなかった。
    これが先ず「日野からの裏切り」と成ったのだ。
    前段でも論じた様に、「伊賀青木氏」は、この為に「香具師・情報や諜報を行う忍者・露天商に変身」を近江に廻して抑え込みを図ったのだ。
    当時の慣習では、止むを得ない仕儀であったかも知れないが、「日野の職人」は薩摩等の四か所に散ったのだ。
    これが世に旧式の火縄銃が拡散する結果と成って仕舞った。)

    (注釈 「銃のシンジケートの縛力」
    「雑賀・根来の銃のシンジケート」が、「近江・日野の行動」に依って、「火縄銃」を無制限に販売放出する事は、「雑賀根来の防御のブロック・銃の傭兵軍団」が効かなく成る事をも意味した。
    その意味でも、絆を維持する為にも「放置」は出来なかった。
    今度は、この事に依って逆にその「為政者等に依る反動」が、“危険極まりない集団”として「名目」を着けられて「雑賀・根来・堺の傭兵軍団」に向かって、「弾」が飛んで来る事に成ったのだ。
    「伊勢」も同じでその「抑止力が無くなる事」を意味したのだ。
    史実は「信長との争い・1577年」から「秀吉の紀州征伐・1588年」としてそう成って仕舞ったのだ。
    そこで、「雑賀・根来の連合郷士集団」はこれに対して自らが自らの「銃武力と集団力」で護ろうとした。
    それが出過ぎた為に「雑賀・根来」は耐えられ無く成ったのだ。
    弱点であった絆も弱さが「裏切り」として出たのだ。
    これが何と「長篠の戦い・1575年」から「2年後」に始まり「13年後」にはこの決着が着いてしまったのだ。
    この“「2年後とする事」”は、織田側に執っては「長篠の始末」が着けば、次は危険極まりない恐ろしい惣国集団の「雑賀根来を抑え込む事」にあって始めから考えていた事に成る。
    結局は「雑賀・根来」は、信長は「武力」では犠牲が大きいと判断して、「瓦解させ時」は始めは弱点を突く「調略」に依るものであった。
    「忍者系の要素」を持った南部の「鈴木派・2派」では無く、北部の「土橋派」を調略した。
    「鈴木派2派」は更に2派に分かれていた。
    この1派が其の後に「紀州藩の忍者・諜報」と成って其の後活躍した。)

    (注釈 「雑賀根来の銃生産の経緯」
    「雑賀・根来の銃生産」は、元より「彼等のシンジケート」の持っていた「火縄銃」、或いは「生産した火縄銃」は、最低でも「1000丁」と云われいて、最大でも「1500丁」と成ると記されている。
    前段の検証でも「生産力」から「最大1500丁」は超えないであろう。
    記録や郷土史の論などから観て観ると、「種子島」に渡り「1543年から2年弱の期間」で学んだ「津田監物」が持ち帰ったとする「銃技能」とその為の「資材と投資」を得てから「生産」までに到達させ使い熟すのに「計4年掛かった」とされている。
    そうすると、「堺の鍛冶職人」に「模倣品」を作らせ「1547年」に根来で分業生産開始と成り、その後、当時の「大製鉄地の貿易港」を持つ「堺と雑賀」にもこれが広がり「量産」に至ったのだ。
    この時が「本格生産・1549年頃」と成るとしている。
    2年後であるが、これが「1552年頃」には、「堺・近江」と「雑賀・根来」で年間で「最大で100〜200丁程度」で在ったとされている。
    「堺の生産分」は、その後に「別枠・フリントロック式改良試作銃」で全て「伊勢」が引き取ったとしているので、「近江・日野域と根来・雑賀域」が「火縄銃の主な生産地」に成る。
    恐らくは、それまでの「堺の火縄銃」とされるのは「堺からの資材と財源」の供給をし、「近江」に生産を委ね、「近江」は「日野との連携」で分業生産したと観られる。
    ある郷土史ではその様に書かれている。
    従って、結局は、未だ圧力の受けていない「長篠の戦い」の時までには、「火縄銃の総合生産量」は、「23年の期間」を得ているので、単純計算では、2年後の「1577年」で「雑賀の火縄銃」だけと成る。
    この時は、既に「根来」は、「信長」より間接的に「強い宗教圧迫」を受けていて、且つ、「仲間割れ」に依り弱り、況して「北紀の奈良に近い寺町」でもあった事から「生産」はしていないので、結局は半減している筈で最大でも「50丁程度」と観られる。
    そうすると「23年・50丁≒1150丁」と成る。
    注釈として、前記した様に勝手な振る舞いをした「近江・日野の銃生産」は「堺の圧力・伊勢の圧力」を受けて衰退に近く数は計算に入れない。
    とすると、「長篠の戦い・1575年」では「雑賀・根来の銃傭兵集団の1000≒1150」は数的な検証から納得できる。
    結局、「信長との争い・1577年」、「秀吉の紀州征伐・1588年」と「1588年頃・刀狩り〜1605年頃・銃規制」に依って、この「銃の経緯」は、全国に「1000丁銃とその傭兵」は飛散したとされている事に成る。
    「公的記録」では、「近江」と同じ様に、“一端、「伊勢・伊勢屋青木氏」に移動した”とある。
    郷土史等では、「雑賀根来の火縄銃」は没収されているので、「1500丁」は無い筈なのだが、「約500丁の火縄銃」を「雑賀の鈴木派の1派」が紀伊山脈に逃れて持っていたとされ、これで忍者活動や猟銃に使用されていたと記されているのだ。
    そして、この1派が「紀州藩の忍者」と成ったと地元では云われていて、「吉宗の伝記」でも「雑賀忍者」は「甲賀忍者」と競り合いをしたと伝えられている。
    そして、「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」も「幕府の甲賀の情報収集」に対抗して「紀州藩」に着いたとされているのだ。)

    (注釈 「雑賀の経緯・松平氏の銃の検証」
    そして、その後、滅ぼされた「雑賀氏の一部」は、元の「忍者集団・雑賀忍者」に戻り、山に入り、更には、“紀州徳川氏」に「忍者・銃兵」として仕官した”とある。
    この史実からすれば、上記から論じている様に「徳川氏の火縄銃」は、“この銃であった事”にも成るがこれに付いての確認は状況証拠しか取れない。
    つまり、この事は「長篠の戦い」の後の「2年後・1577年」には「紀州藩」を通じて密かに“徳川氏に流れた事”を示しているのだが、然し、御三家で在り乍らも幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられる等してこのような関係には少なくとも無かった筈で500丁の銃を渡せば益々嫌疑は高まる事に成る。
    この事では、“「紀州徳川氏が持ち続けていなかった事」”に成るが、史実は紀州藩に火縄銃は秘匿して留まつていた事に成る。
    これが密かに漏れて「謀反の嫌疑」に成っていた事も考えられる。
    「謀反嫌疑の表向き理由」は、「伊勢藤氏の大量の家臣」として雇いこんだ事と成っている。
    果たして、「初代藩主頼宜」が「水戸藩主・1603年、駿府藩主・1608年、紀州藩主・1619年」と云う経過から、仮に、「雑賀忍者の銃500丁」が准仕官して血かとして「紀州藩」に渡った事としても、そもそも「1577年」とは年代が違う事に成る。
    これはどういう事なのかである。
    「徳川氏の火縄銃の銃力」は、別の資料の史実では「計500」とあり、「200」が「東三河の酒井軍の奇襲隊」にあり、「300」が「本隊」に配置したとしているのだ。
    多分、「後付けのシナリオ」であろうがその様に記載がある。
    ところが、「松平軍の銃のタイプ」は、ある説では「1588年厳龍寺銃」とされている。
    では、「織田軍」が獲得したとする「雑賀・根来の1000丁」は、「本能寺の変・1582年」から「小牧長久手の戦い・1584年」で権力を握ったとすると、この「織田軍の1000丁の銃」は「徳川氏」には未だ渡っていず、殆どは「秀吉側」にあった事に成る。
    この「1000丁の銃」を「織田軍の中」でどの様に分けたかにも依るが、少なくとも「徳川氏」には未だ渡っていない事に成る。
    「小牧長久手の戦い」の後の「4年後」の「刀狩り・1588年」の中で密かに「密貿易」で「火縄銃」を獲得したとする考えもあるが、「500丁の火縄銃」を果たして獲得できるかにある。
    「絶頂期の秀吉」がこんな松平氏の「大量な火縄銃の獲得」のこれを認めるかにあるが先ず無いであろう。
    其れこそ、秀吉から家康は謀反わ掛けられる破目になるだろう。
    この様な「大量の火縄銃」の「密貿易の銃の限界値量」が「刀狩りの警戒」の中で“「松平軍」に全ては行く事は先ず無く”、そもそも、これだけの量では疑われ警戒される。
    史実としてその様な「事件」は無い。
    それこそこれは「秀吉の基盤が崩れる事」を意味する。
    そうすると、「松平氏・徳川氏の500丁」は、何なのかと成る。
    「1000丁の行方・織田」と「残りの500丁の行方・雑賀」である事は判っているとすると「密貿易説」は無いとして、“何処から調達したのか、将又、殆どの「徳川氏に関わる記録」が「修正脚色」された現実から「江戸期の修正」なのかに成る。
    第一、「17年後」に「銃規制・1605年」が「徳川氏」に依って行われているのだ。
    筆者は「銃規制後頃」に、直ちに「徳川氏に関わる記録」が「修正脚色」が行われたと考えている。
    この事に依って、幕府は“各大名を牽制した”と観ている。
    そこで、次の疑問は「織田軍の1000丁」が「秀吉」に全て渡ったのかである。
    「本能寺の変・1582年」から「長久手の戦い・1584年」までの「2年間の戦記」では「火縄銃の使用」は「山崎の戦い・1582年・明智」と「賎ケ岳の戦い・1583年」の二つであるが、「戦記」では何れも銃は使われている事に成っている。
    特に、「明智軍」は「銃の使い方」が上手かったと記されていて、軍勢で倍の勢力を持っいたが「秀吉」は、この“「光秀の銃」”を警戒していたと記されている。
    この「二つの戦記」が正しいとすると、「信長」は「織田軍の中で分けたと云う事」に成るだろうが、どの様な形で分けたかは判らない。
    「長久手と山崎の二つの戦い」で、結局は“「火縄銃」が「戦利品」として全て秀吉に渡った”と云う事に成る。
    凡そ、「雑賀・根来の保有の1000丁」、つまりは、「2年間の間隔」で矢張り「織田軍」から「秀吉」の手元に渡った事に成るだろう。
    「自然の流れ」は、つまりは、「長篠後」は、“傭兵軍団を雇っていた織田軍”から「秀吉」に渡ったと云う事に成ろうから、この“「銃の威力」”で「秀吉」は天下を取り「家康」はこれを恐れたと云う事の原因説が生まれる。
    この「銃の威力」を高める為に、「秀吉の天下」をより確実にさせる為に「刀狩り・1588年・刀や銃などの許可なく武器の保持の禁止」を行ったと観ていて、家康もこの「銃の威力の自然低下」を待つしかなかったと読み取れる。
    それが、「銃の威力を上手く使い熟す光秀」と同様に、これを観ていた「家康」は、又、「秀吉」に対しても「銃の威力」を上手く使い熟す為に、最後の策は「秀吉の死」であったろう。
    唯、ところが、「記録類」をよく精査すると、どれも「織田軍1000」と成っていて、それが「秀吉」に渡ったとして、残りの1/2に当たる「500の銃」は何処へ行ったのかと云う恐怖感が「秀吉」にも「家康」にもあった筈である。
    「刀狩り・1588年」では、集まった「火縄銃」は「100丁程度」であった事が記されている。
    その前に、「第1次・1570年・信長」から「第4次・1591年・秀吉」まで行われた「紀州惣国の討伐」で、この「500丁の火縄銃の存在」を徹底的に掃討したのであろう。
    「刀狩り」で「100丁もの火縄銃」が出て来る事が証明された以上は、「紀州惣国衆」が持っていたと判断されて、徹底的に潰されたと考えられる。
    戦利品としてこの「火縄銃」が凡そ確認されたのであろう。
    何処に潜んでいるか判らない為にその証拠に高野山も攻められているのである。
    然し、結果は歴史的に後で判った事であるが「雑賀衆の一部」が密かに山中で隠し持っていた事に成るのだ。
    これが上記した様に後で判った事ではあるが、その行方は「紀州藩」に組した「雑賀忍者の銃の根源」であったのだ。
    歴史は、全てを秀吉は探し切れなかった事に成るのだ。)

    (注釈 「500の銃の行方と松平氏の銃の根拠」
    上記の検証でも、「生産状態」に入った段階での最大で「3年間1150」と成っているので、それまでの銃を勘案すると、銃は「1500」と成り得る。
    この「500の差の銃」である。
    そこで、更に「郷土史等の記録」から観てみる。
    紀州は「惣国性が極めて強かった事」から「郷土史等の地元の資料」から読み取れる筈である。
    「紀州討伐」では、結局、「雑賀衆」が全員潰された訳では無く、「鈴木系の雑賀衆の北部一派」は“山に逃げ込んだ”とされていて、地元でも「ゲリラ作戦」で「山の戦い」を挑んだと伝えられている。
    筆者も地元の口伝で聞いた事があるし、現実に「雑賀氏の子孫」は現在の「鈴木氏の発祥地」でもあり、且つ、この「雑賀氏」は今でも「宗家・藤白」のある「海南市」に多く住んでいる。
    筆者には「雑賀さん」の「知り合い」もいるし、学校の旧友の中にも居る。
    口伝では、“紀州征伐後に山から下りて来た”とされている。
    地元の山の真言宗高野山本山にも逃げ込んだと伝わる。
    恐らくは、この「鈴木氏系の裔系の雑賀衆」と「宗教集団の根来衆」が団結してこの「500丁の銃」を持って山に逃げ込んだと考えられる。
    要するに、「紀州藩の銃」は、江戸期初期では「紀州藩」に組したこの「鈴木氏系の雑賀氏の忍者集団の500の銃」と成るのだ。
    つまり、「信長」が「雑賀根来」を潰した時は、「紀伊山脈」に逃げ込んだ「雑賀氏・鈴木氏」が保有していた事に成る。
    そもそも、「紀伊山脈」は、元より歴史的に「鈴木氏」、即ち、その裔系の元と成っている「日高氏・熊野宮司六氏」の許下にあるし、平安期には「紀伊山脈」に逃げ込んだ「京平家の末裔」の「原士化した十津川郷士や龍神郷士等の住か」でもあって、「長い間に血縁族」と成っていたのだ。
    地元でも、この「原士族」を江戸期に活躍した有名な“「雑賀忍者」”と呼ばれていたのだ。
    「紀州藩」は「幕府の伊賀・甲賀忍者」に対してこの“「雑賀忍者」”を使って対抗した事は有名であるのだ。
    「元紀州藩主の吉宗の逸話」の中にも「雑賀忍者」は出て来る。
    「享保期の事件」として、「吉宗の地元の紀州藩」での「事件」が起こった。
    その「事件」は、この「雑賀忍者・監視役」が「准家臣・家臣扱い」として「土地の土豪や郷士等の動き・惣国性質が強い土豪」の「監視役」をしていた。
    ところが、「紀州藩の家老職の家臣」が「不正・癒着」を働き、「雑賀忍者」に見つかったが「藩主」が凡庸であった為に改められなかった。
    そこで「雑賀の組頭」は危険を犯して「江戸」まで出て「目安箱」に直訴した。
    これを知った「吉宗」は、「自ら仕上げた組織」が機能しなく成っていた事を知り、直接密偵を差し向けて調べたところ事実が発覚した。
    そこで、「雑賀忍者の組頭」に「お墨付き」を託して「藩主」に改めて報告する様に命じた。
    結局、藩主は退き、家老は切腹して「紀州藩の騒ぎ」が治まったとある。
    これは当に「ドラマの様」であるが地名や人物も明確に成っている「享保期の史実」でもある。
    「残存の雑賀衆」とすれば、「火縄銃」が有っても「硝煙と鉛玉」は簡単に入手出来なければ「宝の持ち腐れ」であり機能しない。
    その意味で、この「雑賀地域」は江戸期までは「貿易の地域」であって、前段でも論じた様に潤沢に手に入つたのだ。
    「残存の雑賀衆」の「雑賀族」は享保期まで「雑賀屋・長兵衛」を営んでいたとされ、「吉宗」に付き従い「江戸」に移り、その後に「浦賀」に移り、「明治30年頃」に倒産した事は史実として判っているので、これで、「伊勢青木氏の伊勢屋」の「歴史の史実」と間尺は合うのだ。
    実は、この「雑賀屋の実態」は明らかに成っていないのだ。
    筆者は「雑賀屋」は和歌山に置いた要するに支店の「伊勢青木氏の伊勢屋の事」では無いかと観ている。
    その根拠は、「松阪伊勢屋本店」は江戸初期「前後に於いて「各地・15地域」に「出店・支店・商業組合」を持っていたが、その内の「摂津」は平安期より本店並みの別格の「摂津支店の伊勢屋・独立」としてを「店」を構えていて、この「支店」が「堺」にも店を出していた事は判っているし、そこから「紀州藩との殖産連携」の為にも江戸初期には既に「和歌山店」等を出していたとある。
    実は、この「出店の仕方」に特徴があって、「伊勢青木氏の商いの特徴」は、享保期の江戸の伊勢屋を除いて先ず「松阪の伊勢屋」を直に名乗らない事なのだ。
    それは、前段でも何度も論じている様に、何かが起こった時に連座する事を恐れての「平安期からの仕来り」で、この事は逃れ得ない「悠久の歴史を持つ由縁の宿命」であったのであろう。
    その為に、「地域の地名・15地域」を「店名」としていた事が判っている。
    唯、「共通な点」は前段でも論じた様に、「平安期からの役名」の「近衛軍の差配頭」から「長兵衛・・宮廷の衛兵の長・宮廷を護る衛兵・近衛兵」から名乗る「格式名」があって、これを「襲名」として着ける「仕来り」であった。
    この「仕来り」を各店舗にはこの「四家の福家の長兵衛の襲名」を着ける習慣があったのだ。
    「伊勢本店」との「繋がり」が判らない様にしながらも、唯、「地名店」の店長を長兵衛としたのだ。
    悠久の歴史を持つ摂津店も同じである。
    室町期にはその史実として「信長の伊勢攻め」の時の「松ケ島城消失」の大阪商人としてシンジケートを使った活躍がある。
    享保期の江戸に広めた「200以上の伊勢屋の店舗」にはこの「・・・店・・・屋長兵衛」が着けられていたので明治期まで江戸には伊勢屋が遺った。
    唯、これが「吉宗との軋轢」で江戸に一切遺して来た事から「商いの象徴」として「伊勢屋」と「長兵衛・・・・兵衛」は爆発的に全国に広まる結果と成ったのだ。
    従って、この「・・・兵衛」を除いて概ね「嵯峨期の勅令の禁令」で「青木氏の慣習仕来り掟」を一切使っては成らないとする令は、原則は「明治3年」まで概ね護られたとしているのだ。
    前段でも詳しく論じたが、唯、護られた「伝統」としては「青木氏の伝統の慣習仕来り掟」で存命中は敢えて仕来りとして「名」を変更させて「幼名、俗名、字名、通名、諱名、襲名、戒名、諡号」と替えて行く習慣を持っていた。
    総合的に成人に成るとこの全てを持っている事に成る。場合に依って使い分けていたのだ。
    この襲名の名で諡号の名の「長兵衛」は店名の後に敢えて着けられていたのだ。
    享保期以降の江戸期にはその効果は低減したが護られていた。
    「神明社の神道」でもあったので決められた年代で「諡号・諡」も替える習慣も持っていて、これを前提で調べればその「店の成り行き」が判るのである。
    従って、上記の「戒名・仏教と諡・神道」等は生きている内で持つ「仕来りと習慣」であった。
    ところがこれが「・・・衛」とか云う「奈良期と平安期の官職名」が「江戸享保期の伊勢屋の事・200店舗」の事で、世間に知れ渡り拡がり、遂には江戸期中期以降からこれを無視して「庶民の店」でも使う名として広がってしまったのだ。
    唯、結論としては、これ等の「慣習」から調べると同時に、恐らくは、「雑賀屋」は、「雑賀の店・雑賀屋・長兵衛」として「番頭を置いていた和歌山店・摂津の支店」では無いかと観ているのだ。
    それは、「上記の慣習仕来りの事」と合わせて、次の事が云えるのだ。
    「慣習の実態」と「襲名の長兵衛」である事
    「吉宗に江戸同行」している事
    「失火明治35年倒産」させている事
    「伊豆」と「浦賀」にも支店を置いていたとする事
    「安田の姓と木村の姓」と関わっている事
    「雑賀店」は「江戸中期以降の店」として「紀州藩の殖産」に関わっていた事
    以上のこれ等の事は「伊勢青木氏の記録」にも一致し、そもそも「火縄銃の雑賀」で無く、「忍者の雑賀」で無く、時代も大きく異なっているし、況してや「雑賀衆」は既に衰退しているし、この頃は鈴木氏は「大きく店」を出す程の土豪では無く、且つ、「・・衆」と云えるものでは最早無かった。
    従って、和歌山・海南のこの「雑賀屋」は「紀州藩との殖産」に依る「伊勢の伊勢屋の支店」として遺されたと考えられる。)

    (注釈 「近江の逃げ込み先の伊勢」
    さて、ここで、「近江の鍛冶職人」が、“一端、「伊勢・伊勢屋青木氏」に移動した”とする記録には、重要な見逃す事の出来ない「伊勢青木氏」の「歴史的な意味」を持っているのだ。
    当然に、先ず「史実」の通りに「近江の事」も同じで、「七割株の支配先・投資先」の「伊勢屋に逃げ込む事」は必然である。
    其処からが、この「史実」に隠されている問題で、彼等を“どの様に誰に「伊勢屋・伊勢青木氏」は振り向けたか”に成る。
    “それを任された事”に結果として成る難しい問題であろう。
    「戦乱」の最も激しい時の事であり、「事の次第」に依っては今までの「1000年以上の苦労」は水泡に期す事にも成る。
    この様な「難しい立場に成る事」を予想出来ていたかは疑問である。
    確かに、前回の平安期の「近江の事」は「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して「圧力」を掛けたのであるから予想していただろうから、上手く配置したし、「平安期の古来」より「近江」とは「犬猿の仲」と云うか「堺の間接的支援・摂津支店の支援」の中にあった。
    従って、“彼等の一部が各地に散ってくれると云う事”では難は逃れられたし、左程の戦線では無かった。
    平安末期の「近江の事件」は、「青木氏部」の「殖産機械を造る集団」、即ち、「伊賀青木氏の支配下の服部」に配置し、「彼等の鍛冶職人」の残りは「堺」に廻したとある。
    然し、ところが、「室町期の事件」の今回は、前回と違っていて、そもそも「銃」であった事に対して“周囲には事実は公然としていた”としていたのだ。
    矢張り、今回も「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して「圧力」を掛けたとある。
    室町末期の今回は、この「圧力」は「強力」で要するに「近江と日野」を実力で潰したのだ。
    「近江」は、「近江青木氏の支流傍系」の生き残りの地域であり、何らかの因縁はあったと観られが、「日野」に関しては何もない。
    然し、彼らの「近江と日野」の「菩提寺・厳浄寺」は同じと成っている。
    恐らくは「日野」は「近江」のその後の室町期に何らかの゜関係性・血縁性」を持っていたのであろうが近江の詳細は判らない。
    何れにしても「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して掟を破つた為に「圧力」を掛けて潰したのだ。
    そもそも、江戸初期前後にも前段で論じた様に、「秀吉の紀州征伐」で「伊勢」に逃げ込んだ「紀州門徒衆」を匿った史実もある。
    この時は、「殖産」に密かに従事させたが、「伊勢」が「匿った事」に付いては利害の一致するその後の「紀州藩初代藩主頼宜の黙認」で事は「伊勢」だけでは済んだ。
    これには「紀州藩の家臣」と成った「伊勢藤氏の後押し」もあった事で「伊勢」では事は上手く運んだ。
    兎も角も、「近江・日野の件」は「伊賀青木氏の香具師・忍者」が事の次第を救った事に成ったのだ。
    前段でも触れたが、「伊賀青木氏の香具師」とは、そもそも「露天商の事」で全国を露店商に身を替え乍らで廻りながら、「情報や諜報の活動」を行う「忍者の事」で、各地にある「神明社組織」や「伊勢屋の支店」を通じて廻り、「露天の品」を調達すると共に「伊勢」に情報を送り、又、命令を受けて実行する「青木氏」の「影の集団の事」である。
    取り分け、「吉宗」の「江戸向行」で「青木氏」は、江戸に「伊勢屋の店・200」を敷いたが、この「青木氏」を影で護る為に歴史上に出て来る位に活躍し有名に成った。
    取り分け、従って「甲賀忍者」とは対抗した事であろう事は判っている。
    「紀州藩の青木氏を通じた伊賀忍者」と「幕府の甲賀忍者」とは激しい戦いを裏で繰り広げたのだ。
    其処に間に入って「紀州藩」に味方する「伊賀青木氏の香具師の忍者」が活躍したのだ。
    「激しい鍔迫り合い」が影で行われた事が記されている。
    「甲賀」にも「甲賀青木氏の伊勢の裔系」が存在し、依って「甲賀忍者」も目に見えて直接的には攻撃は出来なかったであろう。
    従ってこの様な背景があって「伊勢屋の店・200」を「伊賀青木氏の香具師の忍者」が護ったのである。
    「享保期末期の吉宗の裏切り・信濃の件」は当にこの「伊賀青木氏の香具師の忍者」の活躍で情報が齎されて、江戸から伊勢に引き上げる際も「伊賀青木氏の香具師の忍者」が甲賀から護ったとある。)

    (注釈 「500の火縄銃の行方の検証」
    “「織田氏」とは室町期の「神明社遮断」で「犬猿の仲」”であったが今回は違った。
    「三河徳川氏」とは、「額田青木氏の国衆の事」と、その後の「渥美、田原、吉田、豊橋、豊川、豊田、岡崎の開発業と殖産」と、「縦の陸路の保全」と「陸運業の根拠地」と「蒲郡の拠点等」では実に「世話」に成っている。
    絶対に「三河国衆・1573年」から、つまり、“「旗本」とのいざこざ”から外れたと云っても、「家康との関係」は記録では「商い」では正常で繋がっていたのだ。
    「家康」と云うよりは「三河」と云った方が良いだろう。
    「三河国」に「開発業と殖産」を広げた。
    結果としては、「三河での商い」は「家康の承認を得る事」に成るのだが両者利得相まって同じ事ではある。
    これは「権威保全」から「伊勢の格式を護る事」も然る事乍ら、史実にある様に「本能寺の変の逃亡に関する伊賀者での支援」や、「一言坂や三方ヶ原の貢献」等を含めて、更には江戸初期には直ぐに、“伊勢の事お構いなし”の“「御定め書」”が「伊勢青木氏」に出されている事もあって、これが「伊勢と家康との関係性の証」と成るのだ。
    これが何よりの証拠であろう。
    紀州藩の家康に信頼されていた「頼宜との関係」や「伊勢藤氏の仕官」や「紀州藩との連携殖産」も証である。
    これ等を護る為にも、本来であれば「三河」には”「陸運業や開発業や殖産業」”を始めたのであるが、その「頼宜に繋がる関係性」から云えば、この「銃300丁と銃兵」を先ずは普通は廻すであろうが実際は廻さなかった事が判っている。
    恐らくは、確かに「上記の事」もあるが、「天下安定」には“実に優秀な戦略家の家康を見込んでの支援の事”ではあったとは観ているが、上記の通りの資料検証から仮に「松平氏の火縄銃500丁と銃兵」が存在したとしても、「額田青木氏」のものとは「銃の形式・フリントロック改良型」が違っていたのだ。
    「徳川氏の火縄銃・厳龍寺銃・マッチロック式」と「青木氏の銃・フリントロック式改良銃」で根本的に異なっている。
    この事は「家康への見込み」は其処まででは無かった事に成る。
    つまり、歴史的には観て観ると、初代藩主の「頼宜の雑賀衆の扱い」と「伊賀衆の支援」から紀伊山脈に潜んでいた「残存の雑賀衆」のものであった事に成って来るが、史実の流れは違っている。
    つまり、これが直接に「江戸幕府」に対してでは無く、“「紀州藩に対する伊勢の行動」”として出たのだ。
    何故ならば、これは「家康自身」は「青木氏の氏是」に近い「主観の持主」であったからであろうが、「旗本」とは全く違っていたからだ。
    これが「江戸幕府」と「紀州藩」との差に出た。
    そして、その「姿勢」は引き継がれ「御三家」でありながらも「明治維新の慶喜の行動」とは全く違う行動を執ったのだ。
    それが紀州藩家臣の「陸奥宗光の行動」と成る。
    実は、「其の後の事」とは成るが、「信長の本能寺の変」の時も前段で論じた様に「家康逃亡一行の警護衆五人」の中に「伊賀との繋がり」のある「三河国衆の青木氏長三郎」の「家臣・国衆仕官」が居たのだ。
    これは史実と成っているこの「所縁」を持って「伊賀者」が支援し、家康は「三河」まで辿り着けたのだ。
    「供回り34人」の「警護衆五人」の中の一人が「青木氏・長三郎」であった事で「伊賀との繋がり」で救ったのだ。
    従って、「額田青木氏の近代銃の引き上げ」の「代わり」とは云い難いが、「残存雑賀衆の火縄銃500丁と銃兵」を「紀州徳川氏に廻したと云う事」は、「幕府」と隣の「伊勢伊賀との利害」が出たと考えている。恐らくは幕府の命で「甲賀」に睨まれたと考えられる。
    問題は、ところがこの「鈴木氏系雑賀衆の火縄銃500」は「三河」へなのか、少し後の「紀州藩」なのかの「時代確定」を表現したものが郷土史以外に読み取る資料は無いのだ。
    然し、「郷土史類の研究書」では「本能寺後」に直ぐに後に「鈴木氏系雑賀衆」が山を下りてきている事は史実であるので、これを前提とすれば、「紀州徳川氏に渡った事」、「鈴木氏系雑賀衆」が「紀州徳川氏の500の銃隊・秘匿していた」として組み込まれた事に成る。
    そうすると、「紀州藩の雑賀忍者衆」と成った史実は、この「秘匿500の銃隊」であった事に成る。
    だから、「明治維新の紀州藩士・陸奥宗光」が、「維新政府」に先駆けて最初に採った処置が、「兵の銃に依るイギリス式軍制式」であった事がこの事を物語るのだ。)

    (注釈 「雑賀衆の検証」
    では、その「雑賀衆」の“何処の雑賀衆なのか”である。
    実は、「雑賀衆」は、「鈴木派」と「土橋派」が先ずあって、前者は紀の川を境に北部側と、後者は南部側があった。
    更に、この「鈴木派」は更に二つに分かれていた。
    その内の一派は地元でも伝えられている様に紀伊山脈に「火縄銃」を持って逃げ込んだと成っている。
    その住んでいた地域も地元でも有名であり、今では「雑賀さん」は多い。
    その紀伊山脈には先ず「紀州藩の忍者衆」には、前段でも論じた様に、別に「平安期の落人・京平家」の山岳部で生きて来た「平家郷士衆・龍神衆・十津川衆・北山衆」も住んでいたし、現在も住んでいる。
    「紀伊山脈」はそもそもその様な「歴史的な事件」の「歴史的な巣窟の山」であり、今でも「・・・村」と云えば、「奈良期からの族の巣窟」と云えるのだ。
    元々、江戸期前・奈良期からの「紀州」は「惣国」と呼ばれ、「惣国衆」と云われ有名で、伊勢の伊賀と同じで何処の藩にも所属せず、決して「家臣など」に成らなかったのだ。
    その中でも、「鈴木氏系の子孫の雑賀衆」は有名な“「惣国者」”と云われていた。
    ところが、江戸初期に「紀州藩の准家臣」と成ったのだ。
    この事は「1000年以上の霹靂」であるのだ。
    先ず、「信長」に完全に潰された「殲滅の根来衆」と共にこの滅亡した「雑賀衆」であったが、ところが遺った「雑賀衆」には、それには「江戸幕府に仕えた雑賀衆銃隊・a」と、「紀州藩に仕えた雑賀忍者衆・b」があったのだ。
    この「a」と「b」が何処が違うのかである。
    先ず、「b」が「紀伊山脈」に逃げ込んだ「鈴木氏本筋系の海南の雑賀衆」で、次の「a」は「鈴木氏系の分家筋の和歌山の雑賀衆」と云える。
    「a」が「信長の掃討」でも一時的に山に逃げ込んだ生き延びた「生き残り」である。
    「b」が元々、「藤白神社の宮司」であった「鈴木氏」の「発祥の地付近・海南市藤白」に住み、「鈴木氏の伝統」を護りながらそれ程に戦闘的ではない「亀井氏や日高氏」らも含む一族であって、「雑賀衆のと党首」であった「鈴木孫一」に引きずられて「雑賀衆」で括られた族であった。
    この「b」は「熊野神社の宮司六氏」と繋がる族であるので、それ故に「紀伊山脈・熊野山系」で生き抜く事が出来たのだ。
    念の為に、これ等の判断に大きく関わる「鈴木氏」に付いて論じて置く。
    そもそも「鈴木氏発祥」は、「熊野詣」で「後醍醐天皇」が、この「熊野権現の第一の藤白神社・熊野古道」の「第一の鳥居・社領の端」にある「藤白神社」に到達して宿泊し、歌会を催した。
    この時、「宮司」は「日高氏・熊野権現宮司六氏の一つ」で神社の直ぐ横を流れる「谷川・紫川」の歌を詠んだ。
    この歌の出来が良く歌会の一位を獲得し、天皇から「鈴木氏の賜姓」を授かった。
    ところが「宮司日高氏」には子が無く、近隣の農家の氏子の家から「養子・三男」を迎えてこの「鈴木氏」を継承させた。
    この後、「日高氏の鈴木氏」が「宮司」と成って122代継承したが、平安期に平家に追われて「弁慶」と共に「義経」は、この「熊野神社」に保護を求める為にこの「熊野神社の藤白神社」に立ち寄りここで「義経」は逗留した。
    「弁慶」は「日高の宮司日高氏の出自」であった。
    この「所縁」で「熊野権現」に「義経保護」を求めて「熊野・1月」に旅に出た。
    この間、「神社の邸・鈴木屋敷」で「養子・鈴木氏」と「養子の弟の六男」とで「身の回りの面倒」を看た。
    義経に魅了された「二人・三男と六男」は家臣にしてもらった。
    その血縁で繋がる神社の氏人衆が鈴木氏衆を形成した。
    「六男」は「義経」から「神社」の境内の真中にある「井戸の青石蓋の形」が亀の形に似ていた事から「亀井氏の賜姓」を授かった。
    ところが、義経保護は熊野神社から断られた。
    そこで、熊野から戻つた「弁慶」と共にこの「鈴木三郎と亀井六郎」の兄弟は鈴木氏子孫を置いて「義経」と共に「北陸の旅・平泉」と成った。
    其の後、源平合戦で義経は活躍し平家を破つたが兄頼朝に疎んじられ、再び奥州の逃亡と成るのである。
    この「紀州藤白」の「二人の子孫」と「鈴木氏氏人衆」が爆発的な広がりみせ、最後は、戦国の世を生き抜く為に「鈴木孫一」が「紀州惣国衆・土豪集団」を纏め「雑賀衆」を結成する。
    従って、この「雑賀衆の鈴木派」には、紀伊山脈から紀の川南側までに「本家と分家筋尊属派」と「支流族卑属派」に分かれていたのだ。
    故に、「雑賀衆」の窮した「最後の行動」は、先ずこの二派に分かれ、更には本家派と分家派の二派に分かれたのだ。
    「鈴木派」が急激に子孫を拡大させたのは、上記した様にその「出自」にあり、「氏子の農家・現在の姓は秘匿・A」の周囲の繋がりがあり、Aは亀井氏の様に兄弟姉妹親戚縁者の「氏人の幅広い血縁関係」があり、これらが「鈴木氏と亀井氏で繋がつた由緒ある姓の賜姓鈴木氏である。
    この「爆発的な血縁の輪」は当然に全国に「鈴木氏」で広がる事に成ったのだ。
    そもそも、その「伝統継承の概念の差」を基本に分かれたと考えられる。
    この事は、この「紀伊山脈」の村々には「鈴木氏系の姓」と「惣国衆の雑賀の姓」が遺つていないかで判る。
    つまり、史実は、「三好勢に味方した雑賀衆・鈴木氏系・a」と「足利氏を押した信長勢に味方した雑賀衆・南郷と宮郷・土橋系・b」がいた。
    結局は、「雑賀衆同士」で何度も戦い、「土橋氏系・b」と「鈴木氏系・a」は何度も勝負を分け合い戦ったが、最後にはこの「鈴木氏系雑賀」も潰された経緯を持つのだ。
    “「雑賀衆」”と呼ばれ乍らも、歴史的に観ればその体を成していなかったのだ。
    一体化して「雑賀衆」と呼称されていたのは「長篠の戦いの銃の傭兵軍団」の期間だけであった。
    では、そこで疑問なのは、“「雑賀衆」の全てが「銃」を持っていたか”と云えば、そうでは無かったのだ。
    つまり、「銃を持たない雑賀衆」が他に「南郷と宮郷域・紀の川の南」に居た事に成るのだ。
    そもそも、「雑賀衆」とは当に「惣国土豪」が住む地域で、「五郷衆・十ケ郷、中郷、雑賀郷、南郷、宮郷」に住む土豪の事である。
    前2つは紀の川沿いの北側、後3つは紀の川沿いの南側にあった。
    現在もある。
    前2つは「土橋派」、後3つは「鈴木派」である。
    元々、後3つは上記した様に「鈴木氏発祥の地域」である。
    現在の地元でも矢張り、“雑賀”と云えば後3つの事である。
    現在も、“雑賀崎の地名・雑賀崎港”として遺っている。
    前2つは“「雑賀」”とは現在でも云わない。
    さて、この「銃の持たない雑賀衆」は、「雑賀郷の内部」の「派」にあり、上記した熊野権現の“藤白地区の鈴木氏発祥地域の派”に成るのだ。
    これを証明するのが、現地に現在でもこの藤白地区に「雑賀姓」が現在も遺されているかにあり、実は確かに遺されているのだ。
    そもそも、“雑賀”は「鈴木孫一」が住んでいた「雑賀郷」を採って「土豪惣国衆団の呼称」としたのだ。
    「雑賀郷」は「紀の川」を渡った直ぐ西側の「海沿いの地域・漁村」である。
    ここに「鈴木孫一」は住んでいた事に成るとすると、「藤白鈴木派の本家筋」の者では無かったと云う事に成る。
    その意味で「鈴木氏」を「統制する力」は弱かった事に成る。
    要するに、単なる「統治力」が前提と成っていた事に成る。
    つまり、その力は一時は「鈴木孫一の雑賀党の支配力」が「紀の川」を超えて「北側域・前2つ・土橋派」まで及んでいた事を示すものである。
    上記した様に、従って、この「鈴木派」と「土橋派」は数え切れない程に何度も敵味方に成って戦って「主導権を奪い合う集団」であったのだ。
    この意味からすると、「雑賀族・雑賀党・雑賀衆」と云えるのかである。
    そもそも、先ず、「血縁性」がないので「族」とは云えないだろうし,「概念」を統一している「衆」とも云えず、「利害」を一致させる「党」ではないか。
    故に、地元では「雑賀党」と呼ばれているのだ。
    そして、「銃の持たない集団」とも成れば、「由緒ある伝統」を重んじる「藤白の鈴木氏派」と成る。
    この「銃の持たない雑賀衆・b・鈴木派の藤白派」は、「信長―秀吉」後に「紀伊山脈」に逃げ込んで姿を替えて「原士化」して生き残ったのだ。
    中には、「藤白神社の氏子」の侭で遺った「藤白派」と、山に逃げ込んだ「藤白派」と連携をしていたとする説もある。
    確かに、この県道の「山道R18」と「山道R424」の村々には、「藤白神社」の「鈴木氏」の出自元の「氏子の裔姓」が現在も多くあるし、そもそも現在もこの「藤白神社の宮司」はこの村から赴任した姓の人・鈴木氏系である。
    この様な複雑な形態を持つ「雑賀衆の鈴木派」であったが、その後の「紀州藩の雑賀衆忍者」に成ったのである。
    「江戸幕府の銃隊に成った雑賀衆・紀の川南域・2派の城域・和歌山域」と、「紀州藩の忍者と成った雑賀衆・海南域2派の藤白派」は、元々、「雑賀衆」の中でも「系列と定住地」が違っていたのである。
    これは同時にこの「鈴木派」の中でも“「出自元」が違うと云う事”なのである。
    これは「3つの家紋」で見分けが着くのである。
    「前者」が「銃」を持ち、「後者」は「銃を持つ派」と「持たない派」があったと云う事で「2派」に成ったと云う事である。
    「平安期の鈴木氏」の「全国の活動」と、上記の「雑賀衆の室町期の活動」と、「江戸期の活動」とに分かれる。
    平安期は「鈴木一族」は集団で、「熊野詣の宣伝」を名目に「全国行脚」をして「各地の情報」を集めていて、「忍者の原型」を構築していた事は有名である。
    中には「紀伊山脈の長峰山」の様な「険しい山道」で修行して「役行者の姿」で全国旅をしたとしていて、元々、その「忍者の原型」と「役行者の原型」であったとする説があるがこれは確かであろう。)

    (注釈 「紀州雑賀忍者と伊勢伊賀忍者」
    この「左右の忍者衆」による「勢力争い」が無かったのかである。
    上記の注釈の通り、「紀州雑賀忍者・紀州藩」が「紀の川の紀北域・伊勢神宮の最後の遷宮社の日前宮社の宮前地区・南地区・中地区の郷」に居て、「紀伊山脈」を境にして伊勢側の全く「反対の位置・100k・北東30度」に「伊勢伊賀忍者・幕府」が居たのだ。
    つまり、「紀伊山脈北部域の山陵」を隔てて左右に「忍者勢力」が活躍していた事に成る。
    そして、「紀伊山脈の南部域」には「平家の原士衆」が勢力圏としていた事に成る。
    この「南部域の左・西域」は「紀州藩」が抑え、「北部域の左・西域」も「紀州藩」が抑えていた事に成る。
    右域は「伊勢伊賀忍者・幕府」であった。
    そして、前段でも論じた様に「伊勢青木氏」は古来よりこの「伊賀との関係」を深く持っていた。
    更に、これも前段で論じた様に、「京平家の落人」は「桓武平家」であり、「伊勢青木氏との関係」を古来より持っていた。
    「伊賀」は、この「桓武平家の里・桓武天皇の母・光仁天皇の妃高野新笠の里」である。
    だから、「紀伊山脈南部域」に住んでいた「平家落人の郷士衆」は「北部伊賀衆」との「繋がり・絆」もあったのだ。
    江戸初期の殖産には大いに貢献した。
    それ故に、「江戸期前の紀伊半島」も「江戸期の紀伊半島」も「京平家の落人」を基軸として「繋がり」を持っていて、一声出せば「彼等の三つ衆」の「郷士衆・忍者衆・原士衆」は「伊勢シンジケート」して動いたのである。
    要するに、北部の左に「雑賀」、右に「伊賀」、南部の左に「平家落人郷士」、右には「伊勢郷士」、そして最南端は「熊野六宮司勢力」で「惣国」を固めていたのだ。
    それには、この「五つの惣国衆」を固めていたのは、矢張り、「伊勢青木氏の財政的支援」があったのだ。
    前段でも論じた様に、故に、「近江職人を匿った事」は当然の事して、「京平家の落人の支援」や「信長の伊賀攻めの救出」や「紀州門徒衆を匿った事」や、最後は「明治初期に掛けての伊勢騒動を支援した事」等を挙げれば暇がない位である。
    「紀伊半島」は全てこの「五つの何らかの絆」で繋がっていたのだ。)

    詳細の検証は更に次段に続く。


    「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」に続く。


      [No.378] Re:「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/01/23(Thu) 08:55:20  

    「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」の末尾

    > これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
    > 「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
    > 「地元の土豪郷士・4土豪」に執っても安全は保たれる事にも成る。
    > これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
    > 「松平氏」に執っては「豊橋の東三河の不安定地域」を安定化させる一つの拠点と成った。
    >
    > (注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目・冥加金」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
    > 何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)
    >
    > つまり、「水路の戦略(1540年〜1545年)・第1期」と「陸路(1560年〜1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
    > それでも「伊豆−美濃」の関係性から「戦闘的な復興戦略」を実行した。
    >
    > (注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56−1」で詳細に論じる。
    > 「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)
    >
    > その前に、前段でも実戦状況に就いて詳細に論じたが、別の面から「予備知識」を次の段に論じて置く。

    「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」

    さて、「戦闘的な復興戦略」を論じる前に、その背景を前段に続き少し論じて置く。
    その事で「準備期間の戦略」の実行(第1期・第2期)も含めてこの「戦闘的な復興戦略」が大変なものであったかが判る。

    「額田青木氏の存在経緯」に大きく関わるこの「一色の検証」は、「足利氏傍系の者(斯波氏)」が「三河の西域(西尾・上杉氏)」の「地頭守護」と成り、約通算80年の期間、ここに住み、「地名の一色・本貫名」を、“「格式の印象」”を挙げる為に名乗ったと云う結果と成る。

    現実には「縛り」を護らなかった「河内源氏系の傍系族」で、且つ、その「傍系支流」が、元は「皇族系であると云う事」だけで如何にも「伊勢の青木氏族との所縁」であるかの様に「見せかけ」を以て“「一色」”を名乗ったと云う事なのである。
    それを基準に「上記の検証」と成っている。

    ところが、もう一つ「一色の地名・伊勢の本貫名」が、現在の豊田市の「真南の14kの位置」の「岡崎地区」に「一色・額田一色系の青木氏」の地名があるのだ。
    これには上記の「西尾一色(権威利用)」と「端浪の一色(本命)」の「二つ以外」にこの様に「もう一つの一色」があるのだ。

    これを先に上記の“「二つの一色」”と誤解を招かぬ様に解明して置く事が必要だ。
    これから論じる「国衆南下」の後の「青木氏」に大きく関わって来る事なのだ。

    さて、この「岡崎の一色(額田一色・青木氏)・本貫」が「戦闘的復興戦略の論」に関わるので更に検証を続けて置く。

    そもそも、前段でも論じているこの「額田の一色」は、「伊勢の施基皇子の所縁・追尊春日宮天皇」・「追尊50年後」にこれを由縁に着けられた地名であるのだが、それは「伊勢の二世族・額田裔系」の「浄橋と飽浪」が嫁いだ「美濃青木氏の本庄」に嫁いだ所縁から「伊勢の本貫名」を付けられたものである。

    ここ「岡崎の一色」の地名は「額田―蒲郡」の「間」の「丘陵・山沿い」の直線上にあり、真南の湾間地域の「蒲郡」とは直線で「20キロの位置」にある。
    「額田」から真南14kで「蒲郡」から真北の位置にある。
    要するに、この「一色」は「額田と蒲郡」の真南の線状の丁度、「中間の位置」にある。
    これは余りにも恣意的である。
    これは何なのかである。
    答えから先に云う。

    それは前段でも論じた「渥美湾から信濃までの縦の陸路」の跡なのである。
    つまり、「中継地とした所」であろう。
    「国衆」として「南下を果たして跡」のその「縦の南下陸路・陵道」であり、「信濃」を護る為に「一つの固定ルート」の「中間点」に「人」を置いて、そこを「一色」と名付け造った「山際の陵の拠点」である。
    そして、「渥美」からも「豊橋−豊川−豊田」から「R1」で北に上ればこの「山稜線」に交差し、これを辿れば、後は「旧中仙道・R19」を「塩尻」まで上れば「信濃青木村」に達するのである。
    現地調査でも現在も可能であった。
    このルート上に入れば前段でも論じた様に、「土地開発(伊勢秀郷流青木氏)」と「殖産開発(伊勢裔系の青木氏)」とで入った「開発地域の真中」を通れる事に成る。
    ここが「信濃」までの「縦の陸路」として造り上げた「固定ルート」なのである。
    その為の「中継点」である。

    さて、そこで「西尾の一色」とは、「岡崎の一色」へ斜線で東に30キロの位置にあり、「岡崎の一色・額田一色系」から知多湾に向けて「真西に18キロの位置」にある。
    「西尾の一色」と「岡崎の一色」と「額田の一色・端浪一色」は、真西に10キロ、真南に21キロ、斜線で30キロの“「直角三角形の位置」”にある。

    この「土岐域」から直線で「真東に45キロ」の「丘陵・山沿いの位置」にある“「岡崎の一色」”は、「圷の問題」は全くない地域である。
    上記した「土岐―大垣―揖斐」の「三角洲の野」に“「三野王」”の「本庄」はあったとする「古書の記録」からは、可成り距離的に近い事が云える。
    直ぐにでも「岡崎の一色」の「伊勢本貫名の地名」を着けられる位置にあった事が云える。

    そうすると、愛知県の「西尾の一色(本巣郡)」と、同じ愛知県の「岡崎の一色(額田郡)」とには、“どんな違いがあるのか”である。
    「斯波氏系足利氏の地頭」の「一色」との明らかな違いがあるとしても、他にもこれを知って於く必要がある。

    北部の「土岐」から直線で真南に愛知県境まで7キロ、この県境から「岡崎一色」まで33キロ、 合わせて「40キロ(10里)」と成る。
    「当時の生活圏」としては「丁度良い位置にある事」に成る。

    先ず、地理的に観れば、次の様に成る。
    「岡崎の一色(額田郡)」は、39キロから40キロの「丘陵山沿いの域」にあり、「三野の土岐―大垣のライン」から「40キロ」として「10里の真南の位置」に在る。
    要するに、ここは「古書記録の三野王の本庄」があったとする位置には「古来の生活圏内」に在った事に成る。

    「古来の生活圏」は、「9里(36キロ)から10里半(46キロ)」がその限界であって、この範囲で「宿」を取るのが普通であった。
    これに合わして宿場があった。
    従って、「三野王の本庄・美濃青木氏」と「額田青木氏・端浪一色」との「ずれ問題」は「許容の範囲」では問題は無かった事に成る。
    「本庄の位置」と「端浪一色」は嫁いだ直ぐ後から、“丁度良い位置”に離れて生活をしていた事を暗示している。
    この“丁度良い位置”に意味を持っているのだ。

    (注釈 古来はこの「10里・40k」が「生活環境」における「考え方の基準」であった。)

    つまり、ここの二か所に滅亡する前の「美濃青木氏」が「隣合わせ」に定住していた事に成る。
    「伊勢の二世族」の「浄橋と飽浪」の嫁いだ地であるが、この「隣合わせ・距離観」の持つ意味は、「浄橋と飽波の源氏化での抵抗」の「距離観」であり、「源平戦の前」に既に「別行動」を起こしていた事を意味する。

    そして、「40k東の離れた位置」のここに「伊勢の本貫名の一色と名付けた事」に成ると前段でも論じたが、この様な説が生まれた所以である。

    次に「西尾の一色(本巣郡)」は、「三野の土岐―大垣のライン」から「71キロの位置」にあって、「18里の位置」にあって、ほぼ「二倍の生活圏の位置」にあった。

    これは「古来の生活圏」としては、「この距離」は「円滑な意思疎通」は絶対に無理であり、「三野王の本庄・美濃青木氏」の可能性は無い事に成る。
    当然に、この「二つの一色」では、「圷の有無の問題」があって、「西尾の一色(本巣郡)」には決定的な「圷のハンディ」があり、「古書記録」の「三野王の本庄の一色」では更にない事にも成る。

    従って、鎌倉期の「西尾の一色(本巣郡)」は以後、前段でも論じた様に論外とする。

    歴史的に観れば、この「圷の検証」から、ここには、「三野王の時代」から最低でも「150年〜200年後」までは“「本庄」”と云えるものは、この「西尾の一色(本巣郡)の地域」には無かった事が云える。

    「三河の事」を書いた遺る「古書」には、「西尾の一色(本巣郡)」の「圷の野」を埋め立てたとする記録が見える事から、鎌倉幕府の正式な「地頭職設置令(1195年〜1232年)」までの間に、「荘園の埋立権」が「地頭のみ」に許されていて、盛んに行われ「地頭荘園の呼称」の「圏域」を当に広げていた事に成る。
    つまり、それが「西尾の一色(本巣郡)」と云う事に成る。
    そもそも、「西尾の一色」と「時代性」が「額田一色・岡崎の一色」とは異なるのだ。

    これの「圷野の埋立」を行ったのが、記録から当時の「初代地頭」と成った「西尾一色の祖」の「足利公深」である事が判っている。

    (注釈 室町幕府の時代には遂には、「嵯峨期の縛り」が無視され外れて、この「一色」を姓にして名乗る家臣まで出て来た事が起こった。注意する必要がある。)

    其の内にこれ等は先ず全て共通して「清和河内源氏支流」にその系を求め搾取して、その上で「6つ」の「伊勢の施基皇子の本貫名」の「一色」を何と「姓」としているのだ。
    そして、その「本人」では無く、「要領」を得て上手く「搾取者の裔系」が名乗っているのだ。

    前段でも論じたが、調べ上げれば「主種の記録」から以下の通りである。

    「斉藤義龍の裔」 「土岐頼栄の裔」 「吉良有義の裔」 「吉良定監の裔」 「上杉教朝の裔」 「唐橋左通の裔」
    名乗ったのは全てこの裔系の以上の6姓である。

    「本人」は世に憚るが「裔系」は信じて仕舞うであろう。

    (注釈 但し、この姓を「明治3年の苗字令」でも名乗ったのだが、これは「第三の姓」と観られる姓は除く。
    これだけに「伊勢」に無関係のそれも「第二の姓」が使うまでに「嵯峨期の仕来り・9つの縛り」が「室町期」では最早無視されて護られなく成っていた。
    誰も彼もが例外なくこの「9つの縛り」を護らなかった源氏姓を名乗った。
    名乗っている数だけに、「皇族」としての「縛り」を護れなかった「源氏族」にはそれ程に「子孫」を遺してはいないのだが。)

    さて、「西尾の一色(“本巣郡”)」は、「30キロ以上」も離れた「岡崎の一色(額田郡)」の地名を使ったのだが、「三野王の本庄」、又は、「額田端浪の一色」の「権威と象徴」を連想させるこの「一色名」の「地名」を、勝手に「地頭所在地」のここに移した事に成るのかである。
    或いは、「斯波氏系足利氏の目的」は、「地頭の所在地」に「統治」の為に「権威と象徴の一色名」を「本巣一色・鎌倉期初期」と、「額田端浪一色・平安期初期」との二つに態々分けたのか何れかである。
    要は当時の呼称がどうであったかであるが、郷土史などでは、“西尾の一色”と記されている。
    恐らくは、分けて読んでいた事を示すものである。
    然し、「額田端浪一色・平安期初期」には無い。
    「岡田一色」は室町期の中期後であるので別枠である。

    余計な事かも知れないが、前段でも各所で論じたが、改めて「青木氏の歴史観」として釈然としないので、これを検証としては先に解決しなければならないだろう。

    実は、この「疑問」を解決するものがある。

    それは、「権威と象徴の一色名」を判別する「西尾の一色(本巣郡・鎌倉期初期)」と「岡崎の一色(額田郡・室町期末期)」には、それぞれ、「古来の状況」の物語を遺す“「字」”を持っているのだ。
    前段でも詳しく論じた「字・あざ」が持つ意味からすると、“「地名」が全てを物語る”と云う事である。

    当時は、「字の使い方」に於いてこれを「見抜く慣習」を庶民は知っていて何方が「本庄」とするかは知っていた筈である。

    「岡崎の一色(額田郡)」には、「27の字・あざ」があって、「字名・あざな」は、例えば、「池神(1)、大神田(3)、神谷、奥添、入洞(各2)」等の全て“「神」”に纏わる「字名・あざの名」が殆どである。
    「神に纏わる字名」は、当然に美濃では「始祖の三野王」を指す事に成る。

    ところが、「西尾の一色(本巣郡)」には、「26の字」があって、「字名・あざな」は、例えば、「新田(3)、船入(1)、塩浜(2)、浜田(1)」等の全て“「圷野の埋立」”に関わる「字名・あざな」が殆どである。

    これは「初代の地頭」がここを「荘園」とする為に「圷」を「野」にする為に埋め立てた所以でもある。

    従って、この「字名・あざな」が遺る状況は、「岡崎の一色」と「端浪の一色」と、「西尾の一色(本巣郡)」の「三つの地名」を遺した事に成る。
    間違い無く「古来より在る名」は「本巣一色・鎌倉期」よりは「端浪一色・平安初期」の方を「本当の本貫名一色」と“地元民”は字の存在で使い分けの呼称をしていたと考えられる。

    そもそも、つまり、「平安期の頃」では庶民は、未だ「語源の意」が遺り、この「語源」からでも判別出来ていたと考えられ字名で意味合いを充分に知っていたと事に成る。
    従って、「西尾の一色」には左程の興味を示さなかった状況であったと考えれ、故に足利氏も平気で使ったのではないか。
    つまり、何を云わんかと云うと、“民に「守護の在所」を慣習として「権威付け」の為に「一色」とするものだ”と思い込ませた可能性があると云う事だ。

    それは、先ず「額田端浪の一色」はその様な「守護的な高位の者」が居る処を民は「一色」とすると思い込んでいた事にも成る。
    見方に依れば、「伊勢の一色も志紀も色も一志」の「字」も間違いなくそうであったし、「美濃の額田端浪の一色」もそうであったからであろう。

    (注釈 前段や上記で検証した様に、「三野王の在所」から「浄橋飽波の在所・額田端浪一色」までは「40k真東の位置・10里」にあって、この「位置」は源平戦後は「当然の事」として「室町期の1560年の南下」までは厳然とここに定住しているのである。
    年数にすれば、「800年近く」にこの「高位の立場」にあった「浄橋・飽波」の「在所・額田端浪一色」は、「守護的な高位の者が居る処」を指すものと成っていた事を考えると、寧ろ、それが自然であろう。)


    さて、ここでこの「美濃や三河」に関わらず、そもそも「本巣」とは、“「元は洲」”と云う言葉から「新田開発の代表の言葉」とされて来た経緯があるのだ。
    この「呼称」でも証明できる。

    平安時代より各地の荘園等の「河洲の圷」を埋め立て、そして「野」にした「新田開発」の地には、必ず「‥洲」や「‥巣」とか使われている。
    この“「巣」”も「洲」に繋がり「小鳥の住処・巣」の意味も含まれて使われていた。
    「本」は「元」と同意である事から、「元の巣(元洲)」や「本の巣(本洲)」等の多くの形で「もとす」と各地では呼称されていた。

    そこで次に「額田一色」に付いてでも証明できる。
    「岡崎の一色(額田郡)」が「伊勢の裔系の室町期中期の本庄」とする「決定的根拠」が未だ他にも在るのだ。

    (注釈 「三野王の本所」は前段でも上記でも検証した様に、「西尾の一色」の斜め右北側に在り、其処より東に「端浪の一色」の西側の「額田の40kの位置」にあった。)

    実は、「伊勢の桑名」に「額田」の「大字の地名」が奈良期中期の古来より在るのだ。
    これは「平安末期の美濃青木氏」が滅亡するまでに「桑名の額田大字」があった事は「伊勢青木氏の資料」でも判っている。

    これは、然し、これはどちらが先かで変わって来る。
    「三野王の本庄の額田」が先か
    「桑名の額田」が先か
    実は以上を決定づけるものがある。

    その前に、「呼称の語源」として導き出した証が在る事を知って置く事がある。
    古来より「額田の語源」は、「ぬかるんだ田(額るんだ田)」、又は、米の「糠の田」と云う意味で、要するに当時は“水利の良い土壌の良い「肥沃な田」”と云う意味を以て使われていた。

    そこで、先ず「桑名の額田」は、「揖斐川の入江口」の直ぐ西(6.6キロ)に位置し、「員弁川(0.3キロ)」に沿い、その「揖斐川沿い」の「桑名(0.3キロ)」の直ぐ西に位置する。
    前段でも論じたが奈良時代よりこの「額田の名」が遺す通り元から「良好な圷の野」であったのだ。
    要するに「額田の意味」としては「良い意味」を持っていたのだ。

    そこで、どちらが先かの問題を解決する為にこの“「額田」”を更に掘り下げる。

    この「額田の諱号」を使っていた歴史的人物の「額田王」は、「鏡王の女」で、「天武天皇」の寵愛を受け、その子は「十市皇女」、この「十市皇女」は「天智天皇の後宮」である。
    そして、更にその子は「大友皇子の妃」と成る。
    「有名な歌人」でもある。

    この地には「額田王」を祭る「額田神社」がある。
    この「額田神社」は、一説では「額田部氏の祭神」(五世紀・允恭天皇期創建)であるとしているのだ。

    そもそも、この「額田王生誕とその地」には諸説があるが、一概に「桑名」がその「生誕地」とは決められないのだ。

    実は、「新撰姓氏禄」によれば、「彼女」を始祖とするこの「額田部氏の子孫」とは、この地の「桑名額田」の「守護社」とするとある。

    唯、そもそもこの「額田の地名」は、“「額田王」に関係するか”は奈良期初期である為に古すぎてそれを証明する記録がない。(後付け説)

    この為に、「史実」は別として、この「桑名王」の「伊勢青木氏」との「額田部氏との血縁」は否定できないのだ。

    つまり、どういう事かと云えば、上記の通り「施基皇子」と「額田王の孫大友皇子」とは「異母兄弟」にあって、歴史的史実では“「吉野盟約」”で関係があった。
    この事から、「額田王」と「桑名王」の関係性が見つかれば”「同門の高位族」”である事から関係性は否定は出来ない。
    そうすれば、「額田神社」が「額田部氏の祭神」とする事には論理的道筋が生まれる。
    前段でも論じたが、施基皇子との関係があって平安遷都に同行しなかった事から罰せられ、特別しゅせの与えられた「平群の額田神社」は廃社とされる。
    そこから平群村から「伊勢青木氏の手配」で「桑名の額田」に匿った。
    この時の廃社の額田神社は一時、御神体を桑名の鎮守社で嫁していた。
    こういう経緯がある。

    要するに、従って、この「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」と成れば、大きく「青木氏」と繋がって来る事に成り、美濃の額田青木氏と繋がる。
    つまり、「青木氏の始祖」の「施基皇子」も同時代に生きた「同じ都の高位の歌人」でもある事からも、この「伊勢の桑名」は「美濃の額田」とこの経緯の下で重複的に繋がる事に成る。

    では、そこで、検証の一つとして「桑名の額田神社」の他に、もう一つ「額田神社」がある。
    「桑名の額田」、「美濃の額田」、「岡崎の額田」が在る事に成り、各々、「額田神社」が存在する。
    この「三つの額田」には「伊勢青木氏」が深く関わっている。
    これを検証して観る。

    つまり、「岡崎地域一色近く」にもこの「額田神社」があるのだ。
    この事で「古来の慣習」から鑑みれば大方は解決する。

    そこで、この“存在の有無の問題”であるが、実は答えは、「桑名の額田」は別として、「両方の額田神社」には、後勘から観て、形の上では“「歴史的なズレ」”があって無かった事に成るのである。

    とすると、この「岡崎の額田」の「一色」は奈良期から平安期に架けて、その「所縁」が存在していた事に成る。

    そもそも、前段でも論じている様に、仮に「青木氏の重要な歴史的年代」である“「800年頃」”を設定して観て、この「岡崎」に既に何らかの形で“「一色の地名」”があったとすれば、当然に「古来の慣習」に依って「額田の地名」も同時に着いていた筈である。

    「施基皇子の没年」が716年であるので、何らかの所縁が在れば「本貫名」の“「一色の地名」”を「岡崎」でも使え得る。
    問題は、「岡崎」にその「所縁の有無」にある。
    「浄橋や飽波」の様に「端浪一色」と「額田一色」の様に「根拠」が見つかれば問題はないが、現在はその「所縁」は室町期中期依然のもの依然とし見つかっていない。
    「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」あるとして、それは「伊勢側」からのものか、「額田や端浪」のものかである事に成る。

    現在の筆者の推測では、“あった”としてその可能性から「伊勢側」では無いかと考えている。

    当時、古来より肥沃の地でここは藤原氏が治めていた。
    ここを元に「藤原氏」は「勢力」を拡大したとする程に、“藤原荘園”とも呼ばれ、「藤原氏の土地」で奈良期以前からの「古墳群地」で、ここに「一色」なる「地名や名乗り」をする事は普通では出来ない。
    出来るとすれば、ここの「藤原氏」に嫁して、その裔系が「一色、一志、色、志紀」の「4字名」の何れかを名乗る事以外にはない。

    そして、それが「伊勢」とすると、「桑名殿の裔系」か、「員弁殿の裔系」かに成る。
    「肥沃な美濃域」には「浄橋と飽波」が「美濃青木氏」に嫁した。
    当然に、「肥沃な岡崎域」にも青木氏が無いがあり得る事であろう。
    当時としては、未だ「四掟の範囲」で定まるので、嫁家先は「藤原氏」である。
    其の後、「美濃の様」には成らず、「伊勢本貫名」が「岡崎」に遺らず「子孫の滅亡の憂き目」を受けたと考える事が出来る。

    (注釈 当時の「四掟」は前段でも論じた様に、「妻嫁制度と嫁家先制度の掟」により嫁家先で優秀な者がいれば「青木氏」を興し「家人」として務める事が出来る。
    それだけの格式を「女(むすめ)」には持つていた。)

    然し、何らかの形で地元岡崎に記憶されていて、それを室町期に呼び興したとも考える事も出来る。
    然し、それを物語る資料が見つからない。
    従って、前段と本段では「下記注釈の後者のロ」として論じているが、最早、室町期中期に幾ら何でも「格式」を誇示して「額田青木氏」が、態々、”一色の地名”を着けるかにある。
    無いであろうし、仮に着けるとしたら“元あった事からの所縁”に依るだろう。

    その「所縁」とは次の通りである。
    この「岡崎の一色」には、その町の中央には“「神明社」”が現在もあり、元は「額田郡」に所属し、この“「一色町・3里」”より「真西の13kの位置」に岩津地区の“「青木町」”があるのだ。
    そして、上記で論じた“「額田の額田神社」”もあるのだ。
    これで室町期や江戸期のものでない事は良く判る。
    恐らくは、「神明社関係」で「神職青木氏の関係」が「一色の地名」を遺した「所縁」では無いかとし、ここが後の室町期に「地名」を引き興したものでは無いかと観ている。

    (注釈 「額田」は、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」と、「青木氏の所縁の額田」のあり、「青木氏の所縁の額田」を仲介して他の二つと関係性が認められる。
    但し、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」の間の直接的な関係性が、現在では「状況証拠」でしか証明できない。古来にはあってねそれが両者ともに子孫拡大が大きくなかった事で消えたと観ている。)

    (注釈 三河東端の「山稜沿いの縦の陸路 イ」と、三河中央の「岡崎一色を中心に結ぶ縦の陸路 ロ」を論じている。
    「前者のイ」は、「初期段階」、「後者のロ」は、「後期段階」と成る。
    それは前段や上記でも論じている様に、「戦況の変化」により切り替えざるを得なかった。
    前者は、第一次の武田氏の攻撃と第二次の攻撃で奪われ使えなくなった。
    後者は、「陸運業」に転向してからの「縦の陸路」と成る。
    最終は、両方を使った事が記されている。)

    そもそも、この「額田端浪一色の地名」は「追尊春日宮天皇・施基皇子の二世族」の「桑名王の子」の「浄橋と飽浪」とが嫁いだ「美濃青木氏の本庄の地」から「10里東の位置」にあった。
    それが「830年頃」に既に名付けられている。

    従って、“何らかの所縁”があったとして、これが歴史的に消えたとすれば「鎌倉期までの事」に成るだろう。
    「額田」には、少なくとも「天智期むからの「額田王、額田部氏、青木氏との三者関係性」があった事が読み取れる。

    そもそも、「額田部氏」は飛鳥時代に遡るほどの「伊勢青木氏」より「古い職能族で官僚族・当時は連」であった。
    そうすると、時代は異なるが、“共に何で「額田の地名(桑名と岡崎)」が着いたか”である。

    考えられる事として、次の「三つの事」が考えられる。
    イ 「伊勢青木氏(桑名殿)」(「一志・一色の地名」)との所縁。
    ロ 「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」から呼称されただけ。
    ハ 「職能集団の連」の「額田部氏末裔」が額田に移住した。

    先ず、判り易いので「ハ」に付いて解決する。
    彼らは次の様な経緯を持っている。

    「穂積氏の臣」と「額田部氏の連」を祖とした同族である事
    「穂積の語源」は、「額田の語源」と同じである事
    「額田部の連(後に破格の昇格・宿禰に成る)」は、その「額田の役目」、つまり、「米」を作る為の「技能」を専門とした事
    そして、共にその「役目」を負う「官僚族」であった事
    同じく「穂積氏(額田部氏の分家)」は「部」が無い事から「米」の収穫と、その一切の管理を任された「事務官僚族」であった事
    以上と成る。

    (注釈 「穂積」が有っても「穂積部」は無いのだ。これは穂積氏が「連」の「姓・かばね」として認められていなかった事を意味する。)

    つまり、「額田部氏」の許に共に、一族の「一連の米収穫の為の官僚族(本家分家の関係)」であった事と成る。
    故に、史実は、これを以て“「祖」として「同族」である”としている所以でもあろう。
    つまり、これは「額田部氏」からの末裔が「穂積氏」が出自したと考えられる。
    要するに、「分家」である「穂積氏」も「連族」であったのだ。
    後に、その功績を認められて、この「額田部氏一族一門」は「朝臣族」に継ぐ「宿禰族」に破格の昇格するのだ。

    故に、「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」から「額田部氏」は、その「役目の神社を持つ事」を「朝廷(天武天皇)」から特別に許された「唯一の高位の官僚族」であったと考えられる。

    「桑名」の「額田神社」が「豊作を願う神社」として「最高格式の国幣社」として許可され、それ故に、それを「伊勢神宮」の「伊勢・桑名」に平群(廃社)から置く事を許可した事が考えられる。
    これは歴史的に観れば見逃す事の出来ない歴史的な「相当な所以」である。

    「伊勢神宮外宮」の「豊受大御神」(五穀豊穣の神)と共に「伊勢桑名」に設置を許され、それも古来より最も「肥沃な土地」の「現地」に置いた事に成る。

    従って、この論理から、これ程の「高い神格のある神社・額田神社」が「三野域」に二か所に建立される事は先ず無かった筈である。
    それは「伊勢」であるからこそ認められたのである。

    ここで「重要な事」で、当時の慣習から「不思議な事」は、“「額田部神社では無い事」”であり、“「社格では無く神社格」”である事だ。
    「個人の村格式」と成る「額田部氏の神社」で在り乍ら、「公的な額田神社」の扱いに成っている事であるのだ。

    そして、その結果、「額田部神社」は「額田部氏の分家」の「穂積氏」に依って「美濃西域」に「村格式の神社」として相当後に建設された事に成るのだ。

    要するに、「額田部氏」は「格式の高い特例の国幣社」を名誉高く与えられ事の由縁を以て村格式社の「額田部神社」は掟上で最早、建てられない事に成るのだ。
    故に、分家の「穂積氏」が「氏神社」の「額田部神社」を建てたと云う事に成る。

    (注釈 「穂積氏の身分格式」が低いので、恐らくは、この「縛り」が緩んだ室町期では無いかと考えられる。)

    (注釈 「朝臣族」か少なくとも「宿禰族」までの高位でなくては「氏神社」でも許可なく建てられない。)

    「額田神社の額田部氏」は、「神明社の青木氏」にも劣らない各式を有する事を意味したのである。
    この「違い差」は「社格式」と「神社格式」の差だけと成り得えたのである。

    (注釈 その後、事件が起こった。
    実はこの「額田神社」は当初から「桑名」に建立されたものでは無かったのである。
    これは後段で記述する。)

    次はロである。
    「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」は、各地にこの意を持つ「古地名」では、殆どは“「糠田」”としている。
    つまり、これは「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」であった事から「額田」を使っていないのである。
    つまり、「奈良期の禁令の範疇」にあった。

    この事も重要である。
    そもそも、「糠」は「米糠」で「糠」が良く出る事は「豊作」を意味し肥沃な土地である事をする。
    つまり、「糠の良く出る田」として余りにも「格式の高い額田」に替えて「糠田」としたのである。
    これには、理由があって奈良期からの「慣習仕来り掟」で、前段でも論じたが、「神、天皇、神社,高尊族」等の「高位の品格を持つ名」を勝手に使用する事を禁じていた。
    「嵯峨期の詔勅」でもこれを追認して徹底させた。

    従って、前段と上記で論じている「一色」と同様に、この「額田」そのものも勝手には使えないのである。
    そこで「同意の糠田」として使用したとされ、全国に多いのである。
    そもそも、そこでこの「高位の格式」を持つ「額田の地名」があるのは、「桑名」と「岡崎」と「美濃」を除いて、次の通りである。

    「奈良平群郡」
    「近江野洲郡」
    「出雲一意宇郡」

    以上の「三地域」である。

    これには「歴史的な意味」があるのだ。

    これには「ある事件」が含んでいたのだ。
    極めて限定されている。
    そして、この「事件」の関わりで、「伊勢青木氏との深い繋がり」に成り、強いては「美濃の事」にも関わってくるのだ。
    避けて通れない事件なのである。

    上記の「三つの郡」は何れも「高位の格式」の何物でもない。
    この何れもが合わせて「額田部氏の末裔の分布域」でもある。
    且つ、「伊勢神宮」に関わる「神の品格の地」でもあるのだ。

    これで、「額田の地名」の「存在有無」はこれで「決め手」に成るのだ。
    そもそも、「桑名」は、上記の通り当然の事として、取り分け「岡崎の額田」は「三野王の地」として、又、「天武天皇」の「五都計画の朝廷の天領地」でもあった。
    従って、「三野の米」の「五穀豊穣の管理」が必要であり、「豊穣の祭司」が伴う場所でもあった筈である。
    これで、「額田の地名の存在有無」は、この「官僚族の額田部氏と穂積氏」が派遣されて、そこに「現地孫」を少なくとも遺したと考える事が出来るのだ。

    唯、「特別高位の宿禰族」である限り「青木氏」と同じく「額田部氏」は「現地孫を遺す事」は許されなかった。
    遺したのは故に「穂積の形」で遺したのである。

    故に、ここに「額田神社」が無いのは、「五穀豊穣の祭司」を「伊勢神宮の子神」として「桑名」に古くから建立されている以上は、「二つもの同格式の神社」を「三野の天領地」と云えども創建は出来ない事に成る。

    (注釈として、後は「呼称」を変えているので「嵯峨期の禁令」から「後付け」である事が判る。
    ところが、実は歴史的にその様な時期があったのだ。
    元禄期に神社経営を良くする策として盛んに禁令を無視して命名した史実がある。
    「神明社」も「神明神社」として、又、神明社の前に地名を着けたもの等のものが出た。
    これ等の「社格式」は「国幣社」では無く、何れも最低の「無資格社」である。
    正式なものでは無く、商い的な格式でのものである。)

    では、そこで最終的に検証して置かなれればならない事は、他の主要な「信濃と甲斐の天領地」にはどうなのかである。
    答えは“無い。”である。

    唯、何か「額田神社」に「替わる神格の持つ神社」が存在するかの疑問がある。
    結論から云えば、答えは簡単である。

    「五都」の二つの「信濃と甲斐」の「二つの天領地」には「額田の地名」と「額田神社」は“無い”である。

    有りそうなものであるが無いのだ。
    然し、ところが「五都」の一つ「美濃」には、「額田の地名」と「額田神社(額田地区 額田杜 本命」)」があったのだ。
    この事は意味が大きい。
    この事は「古書」より判っている。

    その現在では、ここは「西美濃」」に当たるが、「平安期」までは「三重桑名の近接地区」にも、「本命の他」にも「額田神社(増田地区 員弁川沿い・「後付け」)」があるので問題は無いのだ。
    これは古来は美濃と伊勢の線引きの位置が西側に寄っていたのだ。

    「伊勢桑名」と現在名の「美濃増田」にと二つ並んで在るのだ。

    この「美濃増田」が上記した「ある事件」を解決してくれるのだ。

    (注釈 この「後付けの神社」に付いては「江戸初期の神社経営難期」があったが、この時、「増田」のある「村格式の神社」が、この「額田の格式権威」を使って呼称を変更した可能性がある。
    これはある程度の何らかの「地名などの所縁」があっての事ではないかと考えられる。
    これは後に解明する。
    現在は「三重県の桑名」域であるが、古来は「美濃の西端域」であった。
    その為に、この「額田地区と増田地区」の「二つの神社」の間は、“「1km程度 真南北の位置」”にある。
    然し、愛知県に「三河額田地名」があるが、ここには「氏格と神格を示す神社」は一切無いのだ。)

    唯、「美濃と甲斐」には、前段でも論じた様に、「石橋山の戦い」と「富士川の戦い」で巻き込まれて「額田部氏の子孫・穂積氏」は壊滅したとも考えられる。(源氏方に味方した。)

    「美濃」はその意味で、後の「増田地区の額田神社」が「圷野の干拓灌漑」の感謝から祭司した「鎮守神社」であろう。
    その意味で「古来の慣習」に従った「神社の位置づけ・北側」に「杜」を祭祀し、その麓に「社」を構えた形式に適合している。

    そもそも、本来であれば「員弁川」から北の「128mの圷野」に「社」を構える事は先ずは無い。
    従って、「額田神社(額田地区・桑名)」にある「額田の杜」にある「社」が「古書記載」の通り「本命」と目される。

    (注釈 「増田地区の額田神社」との関係については後述する。ある事件の解明の処で論じる。)

    然し、そこで「信濃と甲斐」に「額田の地名」と「額田神社」が無いのは不思議である。

    これは、この「五都」の二つに「額田部氏が関与しなかった事」を示す事に成る。

    然し、「信濃」には、「南佐久郡」に「額田部氏の子孫」である“「穂積村」”が存在しているのだ。
    この“「穂積村」”は、「青木村」とは、直線で北西に「40キロの位置」にある事は、「額田部氏」に代わる「穂積氏」の「官僚族・米の管理」が明らかに配置されていた事が判る史実である。

    但し、「役務」を“マンツーマンで行う同僚族”で、尚且つ、「穂積氏」は「額田部氏」とは「分家の同族」であるので、従って、次の様な分布を示している。

    「伊勢の額田と穂積」
    「近江の額田と穂積」
    「美濃・三河の額田と穂積」

    「信濃の穂積」(額田部氏無し)
    「甲斐の穂積」(額田部氏無し)

    以上である。

    依って、「五都計画の天領地」は、結果として「伊勢、近江、美濃」を除いて、当時は「信濃と甲斐」(盆地)は「穂積氏」だけで管理されていたと云う事に成る。

    では、そうすると「伊勢の額田と穂積」、「近江の額田と穂積」は当然の事として考えられる。
    然し乍ら、「美濃・三河の額田と穂積」に、「額田部氏と穂積氏の同族官僚」の両氏が存在していたかと云うと疑問である。

    それは、上記でも論じた様に、「四つの河(揖斐、長良、木曽、土岐)」に恵まれた無限に近い「圷の野」にあった。

    上記の検証で論じた様に、この「四つの河」に依って「圷・あくつ」はどんどんと広がる。
    当然に、この「圷」が出来てそれを「埋め立て」て行けば「四つの河」から運ばれる栄養のある「肥沃な五穀豊穣の野」が出来る。

    従って、「圷」の「埋立」と、これを適切な「野」にして、「田」にする「灌漑技術」と、「豊穣の田」にする「経験と技術」、土壌に適合した「米種の選定」等をするには、当時としてはどうしても「総合的な専門技術」を持つ“「額田部氏」”が無くてはならい「絶対的要件」と成る。

    そして、これだけでは未だ「米」には成らない。
    「額田部氏が創った野田」から「稲穂」を収穫して、それを「米糠」を取り、使える様に「保存庫」に納め、「収穫量の管理」と、これを管理して「農民の分配とその手配」と、それを「都に搬送する手配と管理」の一切等も、これ又、「穂積氏の官僚の力」が試され無くてはならない存在と成る。
    両者相まって成し得る「大事業」と成るのだ。

    当時は、「職能部の者」が成り得ない「宿禰族」に「破格の昇格」を果たした事は、「額田部氏」では無くては無し得ない環境にあった事を示すものである。(後にこれが崩れる。)
    「墳墓増築」や「干拓開墾」に関しては「独占的な部」であった事を示している。

    其れも短期間ではない。上記で検証した様に、「100年―20キロ」として「揖斐川西域」までの「圷」は、東西90キロ、南北70キロの範囲が「圷」で次第に広がる。
    計算では縦の南北で350年、横の東西で450年と云う年月を要する。

    然し、これは、「100年―20キロ」としての「干拓灌漑事業」であって、「縦横の面積」が絡んでくる計算と成ると、そう簡単ではない。

    この事は「額田部氏と穂積氏」が同時進行と成ると、「800年頃」から始めたとして、「干拓灌漑」が終わるには、「1250年頃以上」と成り得るのだ。(この時期が重要である。)

    現実に、上記した様に、「本巣の一色氏」は、その後、地頭として鎌倉幕府に命じられて「圷の灌漑の埋め立て・鎌倉期・結城氏が開墾」をしたとある。
    「足利氏系斯波氏・西尾氏・一色氏」が「地頭」として派遣され、ここに住み着いた(80年間)が、上記した様に「鎌倉期初期に地頭」を任じられた事から考えると、ほぼ一致している。

    「朝廷の守護制度」とは別に「地頭制度」を朝廷に認めさせての「初めての地頭(「圷の干拓灌漑」の)」であった事が書かれている。
    それだけにこの地は「重要な地」であった事を示していて、この時でもまだ「圷の干拓灌漑」はより進めていた事に成る。

    参照
    80年/縦の南北で350年、横の東西で450年≒1/(4〜6)
    「100年―20キロ」/80年≒16キロ

    故に、「額田氏部と穂積氏」の末裔を、「桑名」から近く「圷」に繋がる「美濃・三河」のこの地に子孫は遺した所以であり、「地名」の「額田」(一色)も同然でもある。

    上記した様に、何れの「額田の地名」と「一色の地名」の「遺る位置」も、「北の土岐域」から「東の額田」の「丘陵線」にあるのも充分に頷ける事である。
    つまり、「東の丘陵・山沿い」のここに「管理施設の事務所の館」を設けていた事に成る。

    これで「干拓灌漑」は、「東の額田域」から「桑名の西」に向かって進行した事が伺える。

    ここで重要なのは、上記で記した様に、「額田の地名」と「一色の地名」と“「飽波の名」と「端浪の一色」(端浪は飽浪の変意語)”も含めて史実を観るように検証される。

    「伊勢桑名側の干拓灌漑」は、5世紀頃に「揖斐川沿いの300mの域」に「額田神社」が建立されている事から、「縦の干拓灌漑」では無く、「揖斐川沿い」から「員弁の北側の圷」を横方向に「青木氏の財力」と「額田部氏の技術」で「野」にして行ったと考えられる。

    「五都計画の天領地」が拡大する事は、「朝廷」に執っては都合は良かった事から許可は出たのであろうし、当時としては「賜姓五役しての役務」から「当然の事」と考えていた筈である。
    当然に、ここは現在の「濃尾平野の西域」である。

    「額田前域」の「木曽川河岸の丘陵体」
    「各務原」等の「三野の扇状体」
    「圷野の本巣域」の「中央原地」
    「伊勢湾三角州」

    以上の「四つ圷野」で出来ているのだが、「伊勢の三角洲側」は「木曽川丘陵体」の域よりは「高い位置」にある。

    従って、この「地理的要素」としての「伊勢三角州の野」は、「干拓灌漑」が容易で「氾濫性」が低く、「肥沃性の濃度」が高く、「東の圷」より古来より見込まれていた事が「史実の通り・額田神社の存在の所以」と成り得るのである。
    ここは共に「桑名」から近く「圷で繋がる地域帯」であった。

    それ故に、ここには、「額田部氏と穂積氏」が早くから配置されていた所以なのである。

    更に、伊勢の「不入不倫の権」で安定して居た事から、安定して職務に取り組める環境があった。
    これらは「伊勢神宮の遷宮地」である事も含めて、「額田神社」が「存在する大きな所以」とも成っていたのである。

    然し、「穂積氏」も、「額田部氏の“額田神社”」と共に、古来より“「穂積神社(伊勢四日市・桑名南近隣・村格社)」”が祭司され、且つ、「額田神社」の真西の「16キロ(4里)」の「近隣の地(三重郡菰野 現在社跡)」に在る事も見逃す事の出来ない所以でもある。

    但し、記録から“「穂積神社(村郷社格)」”に付いては「相当後の時代」に創建されたものであろう事に成る。
    「1250年頃の干拓灌漑」が終わった後の室町期に「穂積氏の子孫」がこの「所縁の地」に創建したのであろう。

    (注釈 「穂積氏」は「額田部氏」と違って「分家格」である為に、「朝廷」から正式に「氏神の神社建設」を認められる「管理族の格式」を有していない。
    これは上記の検証の通りで、ここは「長期間の工事」の為に必要とする「館等の事務所」であった可能性が高いのだ。)

    当時の「生活圏10里」とすると、「連絡の範囲(4里)」として「穂積氏と額田部氏」の間の同族が「事業の連絡の距離感」としては「社跡位置」は充分に納得できる。

    この時期は、ここを「差配の基点」にして「天領地等の事業」を朝廷に代わって差配をしていたと考えられる。
    それにはこの「距離感」は遠くも無く近くも無く絶対に必要であっただろう。

    以上で、「額田部氏」が関わった「史実経緯」と「三つの額田神社」、「青木氏」と繋がる「額田王」との関わりが青木氏を経由して「状況証拠」では間接的には繋がる。

    (注釈 一説にある上記で説明した様に、“「額田王」”が“美濃の「額田神社」で祭司される”と云う説があるが、それほどの「尊厳と権威」を持ち得ていたかは疑問である。
    そもそも、「額田神社」とは、「伊勢神宮」の「外宮・大豊受神・五穀豊穣」の祭祀する「額田の神社」であって、これを、大きく「務め」としてなす「額田部氏」に「祭司」を専門に任したとする考え方であろう。
    故に「宿禰族扱い」であって、それを成した五都の内の「伊勢と美濃と近江」に存在する故である。
    「信濃と甲斐」には無い所以である。
    「額田神社」は「額田部氏」であると云う事に成る。
    丁度、「青木氏の神明社」に同義する事と成ろう。
    又、「伊勢神宮の外宮の祭司」の経緯と成った「庶民」が淀川で祭祀する「稲荷明神社」も子神としては同義である。
    その役目を果たす「額田神社」と「稲荷明神社」であって「奈良期初期からの時代性」も変わらないのだ。)


    さて、「伊勢の計画の許」で進められている「額田部氏と穂積氏」が関わる中で、ここから、次にこの「美濃」の「浄橋・飽波の時期」に入り、「美濃青木氏の源氏化」で「浄橋・飽波の裔」は「別行動」を執って、その「拠点」を要するに前段で論じた様に、「額田部氏」に依って新たに「開拓された土地」”を「一色」”と名付け、「三野王の本庄」から真東に「10里の位置」に“「拠点・一色」”を置いた事を論じた。

    (注釈 「出自元の伊勢」の「開拓地」である事から「一色」としたとも執れる。
    新しい土地とすれば、これでは「三野王系」も文句は付けられないであろう。)

    然し、ここで一つ解決して置かなければならない事がある。
    それは、当時、ここは未だ「圷」であった史実である。
    この「拠点」とするには、「干拓灌漑」をしなければ住む事は出来ないし「野」にする事も出来ない。
    そんな「財力と技術」は「浄橋・飽波の裔」には当然に無い。
    先ず、この事を解決しなければ「浄橋・飽波の裔」の”「別行動」”は出来ない筈である。

    そこは、「伊勢の裔系」である以上、「桑名の東横」の「圷」を「干拓灌漑」した様に、「伊勢の力」を借りる以外には無い。
    又、源氏化が進む以上は「伊勢」もそうするであろう事は判る。
    上記した様に、この「伊勢」と深く関わっていたのが「額田部氏」である。

    つまり、上記でも論じた様に「額田の地名」と「穂積の地名」が物語る様に「額田部氏と穂積氏」がここに入った事に成るのだ。
    これは「穂積氏の裔」と「穂積神社」がこの地域に遺った事で示しているのだ。

    更に、「室町期」に入り「額田青木氏の国衆」が南下して戦い、そして「三河国衆」から離れ、後に「陸運業」を始め、且つ、その後に子孫は「豊田・岡田の開拓業」と「豊川と豊橋の殖産業」を始めた。

    未だ、この域も、「河川の圷」を埋め立て「野」にして全て「本格的な干拓灌漑工事」が伴うのだ。
    然し、これにも「額田部氏」が関わらないと成し得る事ではないのだ。
    故に、室町期末期迄には、「信濃までの縦の陸路 1と2」を確立させる為も含めて、ここには「伊勢の裔系」と血縁族である「伊勢秀郷流青木氏」の子孫が多く定住している由縁でもあるのだ。

    「信濃の青木村」と同様に、「縦の陸路 2」に「青木氏の諸条件」を揃えて「三河の青木町・青木村」がその中間地点に現在でもあるのだ。
    「神明社、一色、青木村、山神、額田等の諸条件」である。
    現在も山間部で過疎地であり、此処に「古来の由緒」を求めて室町期に改めて「拠点」として住み着いたと考えられる。

    「端浪と岡田の二つの一色」の持つ意味には、この「額田部氏の所縁」が含んでいるのだ。
    この事を逃して決して語れないのである。

    この「三野王・美濃」に関する「予備知識」を前提に、「準備期間」と「予備戦」が終わり、遂に前段でも論じた様に「本戦」と成って行ったのだ。

    「額田部氏の詳細」は前段でも論じたが後段でも詳しく論じるが、この時期でも活躍していた事に成るのだ。
    「国衆南下」に対して「額田部氏」がどの様に動いたかは未だ詳しくは解っていない。
    恐らくは、「蒲郡と伊川津の埋め立て」に移動した可能性がある。
    現実に、多くの移動に伴う糧確保の為に「記録」からも「蒲郡も渥美の伊川津」も干拓灌漑されている。
    「伊勢の裔系」が住み着くのに額田部氏以外に頼む事は無いだろう。
    其れも前段で論じた様に、移動の前では無いかと考えている。
    それは「家族・1500人」が伊勢に移動した後に船で渥美伊川津に移動したと成れば、筆者ならそうする。
    現実に埋め立てしているのである。



    注釈として、ここで敢えて「額田と端浪の一色の地名」の「そもそもの成り行き」を論じる。

    果たして、先ず「額田」や「一色」と名付けた「本貫名の字の大きさ」はどの様なものであつたかを記して置く。
    「施基皇子」は「古書」に依れば、最終的に、その功績の大きさは「500戸」であった。

    この「500戸の基準」は、次の基準で「税と格式」は計算される。

    7世紀中の「口分田・班田収綬法」では「一里―50戸の基準」であった。
    「6年1造戸籍」から、その後、申請方式の「1年1計帳戸籍」に替わった。
    1戸は「15〜20人」とし、「3〜5人の男子」の基準であった。
    そうすると、「500戸」は、「10里で40k」と成り、「民は1万人」居た事に成る。
    そうすると、「一色の字」は「10里四方・40k四方」の面積と成る。
    これを「伊勢」には、「一色」に相当する大字を「志紀、壱志、色、一色」の四つを待っていた事に成る。
    つまり、{「10里四方・40k四方」の面積}・4倍と成る。
    これに依って、凡そ「青木氏の地積」は「1616162反」・4=「6464648反」である。

    そこで「伊勢の全面積」は古書の記録では「6034875反」である。
    「6464648反」≒「6034875反」で明らかに「伊勢国一国相当」を示している。
    故に奈良期には「伊勢守護王」であった事に成る。

    奈良時代の「伊勢国の人口」は「幾つかの古書」の集積から研究計算された人口は「37300人」であったとされ、725年頃には「103200人」や「92600人」と成っていたとされる記録もある。

    ここでも「伊勢人口」が「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」の貢献で、徐々に人口を増やしていた事がこれでも物語る。

    故に、「額田部氏」は前段から論じている「宿禰の特別昇格を授かった事」がここでも判る。
    逆に、「11100人」とした記録もあるが、「志摩域と熊野域を除く・青木氏の旧領地」とあるので、問題視しなくても良いであろう。

    そうすると、上記から「一色の大字」の「500戸・1万人」で「伊勢」では「4つの大字」を持つていた事から、「4万人近い民」を有していた事に成る。
    「40000人/37300人」は正しい事に成る。

    (注釈 「伊勢の人口」が少ない理由は「不入不倫の権」で抑制されていた事から来ている。
    然し、平安末期にはこれが緩み「約92600人」と増加させている。
    前段で論じた様に、「伊勢青木氏と額田部氏による連携」で「桑名域の干拓灌漑開墾」によって「米策の生産量」と「殖産」とで「糧」がより生まれ増えた事に依る。)

    因みに、「美濃」は725年頃には「163900人」で、奈良期初期は「103400人」で、次第に「115000人」から「126900人」と増加している。
    そうすると、約100年で50000人増加した事に成る。

    明らかに、これは「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」を「和紙殖産」から始まり、「源氏化阻止の対策」に切り替えて「伊勢一国並みの人口」を増やすだけの事をした事の証明に成る。
    つまり、上記で論じた「500戸・1万人」で「大字の4つ分」に相当する。

    故に、「美濃」の「伊勢の裔系」の頃、つまり、「伊勢青木氏と額田部氏の連携」に依って、「50年後頃の奈良期末期」には「25000人の人口」を増やし、「188900人」に迄に増やしていた事に成る。

    これは、「糧=人口の自然摂理」から「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」以外には成しえず考えられない事を意味する。

    さて、参考に「近江」であるが、前段でも論じた様に、当然に「額田部氏」を入れて難しい「真砂」の「圷の干拓灌漑の工事」を期間を架けて行って、「和紙の楮対策」を苦労して成功させたと論じた。
    然し、その後に離反して源氏化に邁進して行った。
    当然に、この「人口」は増加している筈であるが、実は増加していないのだ。

    奈良期初期には比較的多い「112800人」であったが、平安期直前には「85700人」に次第に減少させているのだ。
    何と「100年」で「27100人」もである。

    この原因は、折角、「額田部氏の管理の手」が引き上げて「手入れ」を施さないままで「時間経過」と共に進む「真砂土壌の悪化」で「圷土壌」が悪化したのである。
    そして、これは「米生産」では無く、「楮生産」での「和紙の生産と販売」であったからであった。

    然し、これでも依然として「源氏化」を中止せず、何と「同族に近い血縁関係」で在り乍らも恩義を忘れ「伊勢」とは一線を企して仕舞ったのである。

    逆に、この事が原因で「源氏化に走った事」もあり得る。
    この事での「和紙の専売権」は当初より一手に“「紙屋院の称号」”を得ている「伊勢青木氏」だけにあった。
    又、「造部支配・穀物等の販売権」と共に、「朝廷の商社権」をも授かっている「伊勢青木氏」から離反すれば「糧を失う破目」と成るは必定であった。
    これが「人口」を減らす原因と成ったのである。

    (注釈 前段でも論じた様に「屋の称号」と「院の称号」を与えられたのは「伊勢青木氏」が歴史上始めてであったし、歴史上無い。)

    「美濃」は「浄橋・飽波の伊勢の裔系・桑名殿」の存在があった。
    恐らくは、「三野王系」も「近江と同じ憂き目」を直接に受けていた可能性があるのだ。

    故に、前段でも論じたが、「美濃西域(米原東域の隣接域)」で和紙生産されていた。
    然し、矢張り、「源氏化」を中止しなかった事から、必然的に「近江」と同じ様に販売権を持たない以上は「生産」を中止せざるを得なかった。

    そして、その「源氏化」が完全瓦解した事から、前段から論じて来た経緯から、室町期中期頃の後に「美濃北域の山間部」の”「長尾の域」”で「和紙生産」が再び起こった事もこの事から来ている。
    これは「準備段階の経済的裏打ち」の「伊勢の策」であったと考えられる。
    この直前に、この事にも乗じて「美濃の伊勢の裔系家族」を「額田」から下ろして「渥美」に移したと考えられる。

    そもそも、「美濃人口」が増やせたのは、「前期・伊勢裔系」と「後期・国衆」の「額田部氏の干拓灌漑の長期間の結果」に及ぶのだ。
    「東山間部の開墾」は、「楮生産」で、「西南の圷の干拓」は「穂積氏の存在」が示す様に「米策」であった事が記されている。
    「信濃までの縦の陸路・初期路・1」に沿って「東西の地形」に合わせて「干拓灌漑開墾」が進められた事が判る。

    これから判断すると、「額田端浪の一色の地積」は、「本貫名の字名」が「地名」と成った事から考えると、凡そ、これに「近い地積」を有していて、「一色」の一つの「字名」であるので、この約1/4程度であった事に成る。
    上記の系さんの通り如何に大きかったかを示している。

    然し、これが「元からあった野」を「一色の地積」としたのでは無く、当然にこれだけの大きさの地積を生み出すには「圷の干拓灌漑開墾の面積」で生み出したものである事が良く解る。

    「源氏化の方針の違い」から「別行動」を執った訳であるから、これだけの「地積の分部」を「三野王の本裔」から貰える事は無い。
    寧ろ逆であったろう。
    それを「浄橋・飽波」が無し得る「力も技術」も無いとすれば、「出自元の伊勢」にして貰う事以外に無いし、そもそも「出自元伊勢」も当初より「源氏化阻止」を目論んでの嫁家であった事から「充分な計画」を準備していた可能性が高い。

    恐らくは、その「名目」は「持参金」成らずとも「持参地」として「圷の干拓灌漑開墾」を手掛けていた可能性がある。
    この「名目」には「持参地」のみならず「和紙生産の楮生産地」としていた可能性がある。
    (然し、美濃西域の米沢東の楮生産地は別行動で消える。)

    この時期、矢張り、「源氏化阻止」を目論んで「近江」にも「圷の干拓灌漑開墾」を進めていた事を考えれば、「美濃」だけの「圷の干拓灌漑開墾」では無かった事に成る。
    これの為に「伊勢」から「額田部氏」を指し向けたと考えるのが普通であろう。
    故に、「地名」だけが記録に遺ったのである。(現在は消えている。)

    「上記検証」での「圷野」にする為の「圷の干拓灌漑開墾」は年数が掛かる事は論じたが、故に「工事中の額田」と「工事後の一色」の地名が遺され、所縁のある象徴の「神社」と「本貫名」が遺された所以とも成る。

    古代の「額田の地名」には、「額田部神社と穂積神社・室町期」があって、「一色の地名」には「清光院と神明社」という事であったと云う事は史実であるのでこの事に成ろう。
    「当時の慣習仕来り」からすれば「地名と神社」は同時に遺すのが「普通の習わし」であった。

    「地名」では無く、現在の愛知県の「額田郡・字・50戸1里・4k」は、「岡崎」から真南に3k、「蒲郡」から真西に2kの位置にある。

    ここは「歴史的な経緯」から考察すれば、「昔の圷の地域」であった地域を室町期末期に「干拓灌漑を行った地域」である。
    それ故に、それが前段でも論じた「国衆南下独立後」の「圷の干拓灌漑開墾」を行った事から古来の由来を以て名付けられた「額田の郡域の広さ」である。

    因みに、この「額田郡域の地積」は「約57平方キロメートル・(57500石・50000人/1年)である。
    これで「100年50000人の理屈」は成り立つ。

    上記の経緯より、この事から「端浪や岡崎の一色」は「伊勢の出自元」が「当初よりの計画」により「額田部氏」に依って「圷の干拓灌漑開墾」が先に並行して行われていた事が判る。


    注釈として、更に追論すれば、この「額田部氏」が“何故に「美濃伊勢近江」の「三つの地域」に関わる事に成った”かには、「朝廷内の職能部官僚族の勢力争い」があったのだ。

    そもそも、奈良期と平安期には「土木職能部の官僚族」には「3氏」があった。
    先ず初期は、最も古い族としては「天智天皇」に重用された「結城族」で、「道路や築城」を専門としていた。
    ところが、「天武天皇」には「額田部氏」が重用された。
    「墳墓や干拓灌漑」を専門としていた。
    そして、「桓武天皇」に重用されたのが「和気氏」である。
    「水利事業」を専門としていた。

    この三氏相まって「一つの土木事業」が成り立つ事に成っていた。

    ところが、此処で衝撃的な「ある事件」が起こった。
    それまで重用されていた「額田部氏」が、この「勢力争い」の中で「飛鳥」からの「遷都」に同行して行かなかったのだ。

    この為に、「朝廷」より厳しく罰せられて「平群の里」にあった「額田神社」を廃社された。
    管理していた額田部氏を罰して管理手が無くなり、朝廷は結局見せしめの為に廃社したのだ。
    つまり、“額田部氏を認めない”と云う「厳しい罰」を受けて仕舞ったのだ。
    この結果、「結城氏と和気氏」が遷都事業を熟す事と成って伸びた。

    これを観ていた「伊勢青木氏」は、「皇親族」と「賜姓五役」と「令外官」の役目を名目にして、この「額田部氏」を救い上げた。
    天武天皇と持統天皇期の葬儀に合わせて額田部氏は墳墓を創建したが、この時の「葬儀」で“「施基皇子」と「額田部氏」が会った”とする記録が「日本書紀」や帝紀や他の古書一冊に遺されている。

    この結果、飛鳥の「平群の里」を追い出された「額田部氏一族」と密かに「平群の額田神社の御神体」を持ち出し、共に「桑名」に移して「伊勢青木氏」は擁護した。
    そして、この「御神体」を「桑名の地元」の「鎮守社」に隠したのである。(後に判った史実)
    そして、「伊勢青木氏の職能部」の「青木氏部」に「額田部氏」を組み込んで護った。

    その「五都の干拓灌漑の働き」が上記の論であるが、その後、この働きの「伊勢青木氏との連携」が高く評価を受けて、「伊勢青木氏」を出自元とする「仁明天皇」に依り「額田部氏」に与えられていた「社格式」が戻されると云う事に成った。
    つまり、「額田部氏の存在」が復帰し、「額田神社」は「桑名の鎮守社」から戻して「桑名の額田」に建立祭祀する事が認められたのである。
    この事から大手を振って「伊勢青木氏」と共に働いた。
    ただ、この時には最早朝廷には戻らず「伊勢青木氏」と連携して「民間の土建業」として独立した。

    「官僚族の和気氏や結城氏」と違って、この時に正式に日本の初代の「造部の民間の土木業者」として独立したのだ。
    「伊勢青木氏」と「同じ生き方」を選んだ事に成る。

    そもそも、「造部」は「朝廷の中」にあり、「伊勢青木氏の統括(造・伴の二つの諱の号を持つ)」で「青木氏の殖産事業」と共に働いたのである。
    この関係は明治期35年まで続いたとされる。

    其の後の栄枯盛衰は、「和気氏」に付いては鎌倉期に衰退し、結局、「藤原秀郷流の永嶋一族」としての「結城氏」が残り「民間事業者」としても明治政府まで続いた。

    尚、前段でも論じたが「伊勢青木氏」は、「鎌倉幕府期」には「旧領地の部分と北勢域」は「本領安堵」され、残りは「地権域」として獲得している。
    ところが、「室町幕府期」には「本領安堵域」は「旧領地の多い南勢域」に限られ、「大字のある北勢域」は「全て地権域」と成っている。
    これで「額田部氏」も「民間の土建業」の地位も確立する事に成った。
    「信濃」は前段で論じた通り「伊勢青木氏」と共に生きたのである。

    何れにしても、この「青木氏の在様」を示している「地権域」に付いては、「幕府の政治的施策」に依り「金銭の支払い」で「地権域を買い取った形」を示した事を意味する。
    江戸期は殆どが「地権域」と成っている。
    江戸期には「尾鷲の旧領地」だけが遺されていたと伝わる。

    その意味で、「額田部氏」は「信濃」も含む「総合商社の形態」を執り、その三氏の内の「構成氏」と成って生き残ったのだ。

    余談とは成るが、余り「額田部氏の活動」に対して意外に「子孫」を増やしていないのはこの変の事が影響してると考えられる。
    且つ、「遷都時の行動」にも観られる様に「天皇家より古い格式伝統」を重んじ過ぎた所以では無いかとも考えられる。
    当然に、「宿禰族」でもあり「四掟」としては問題は無いし、「青木氏部」に組していたとすれば「伊勢や信濃や額田」との間には、「嫁家制度に基づく女系に依る血縁関係」があったと考えられる。
    然し、何故か「表」には出て来ないのだ。
    「氏人の伊勢衆の郷士衆」との間にも確認は出来ないのだ。
    「子孫」を大きく拡大させられなかったと云う事もあるが、「戦国時代下剋上」も「青木氏」と同様に組していないし、「抑止力」で護られていた事なので、”表に出ないと云う事に何かがある”様に思える。

    「額田神社の神道・神職」に関わる「宗教」なのかも一つの疑問で研究を続けている。
    それだけにその「伊勢信濃の青木氏」と共にする「行動」は徹底していたと云う事でもあるだろう。
    その「伝統に類する氏」は「天皇家」までも含んで周囲には居なかった事に左右したのであろうか。
    それだけに上記で論じた事は「五都に関わる地域」の「美濃域や三河域」への関わりは頷ける。

    (注釈 尚、「施基皇子と額田部氏との付き合い」に付いては、「天武天皇崩御の葬儀祭司総裁に「施基皇子」が選ばれた時からの事である。
    この時、「額田部氏」は「臣の造の身分」から本来は昇格は「造部・みやつこ」は「臣」まである。
    この「仕来り」からあり得ない「三階級昇格で、且つ特別計らい」で「宿禰族・朝臣族相当」に引き上げて貰った「天武天皇へのその恩義と寵愛」から「墳墓築造一切」を任された。
    この事を観ていた「二人天皇の葬儀主宰」の「施基皇子」から特別に命じられて、そこからの「付き合い」と成ったと書記にある。
    「編者の舎人親王」がこの事を態々特筆しているのだし、「帝紀」にも記載がある。
    「天武天皇墓」は「野口王墓 明日香村」である。)

    「額田部氏」が「遷都」に同行しなかったのは、「天武天皇への恩義」と、それへの「墳墓の護り」にあって、「明日香の平群」から離れたくなかったとされる説もあり、更には、その「平群」には「彼等の守護神」とも云える唯一の「額田神社」が別に在ったとする「合体説」があるのだ。
    「後付け説」であろう。

    恐らくは、「額田部氏の伝統や格式」から考えて「付き合い」の深かった「伊勢青木氏」も確定資料も無いが、この「合体説」が正しいと考えている様だ。
    唯一つ、前段でも論じたが、「桑名額田」には、現存するが「宮大工の会社」が二つあり、幾つかの土木業の会社を「額田」で営んでいたとする史実が「伊勢青木氏側」にもある。
    “「青木氏部」も明治35年に解体したが、その後、員弁や桑名で「宮大工業」を営んでいた”とする「確実な言い伝え」が「口伝」で遺されている。祖父からも聞かされていた。
    然し、「額田の姓名」は何故か「額田部氏」ではない。

    「穂積氏」は大きく子孫を各地に遺したが、この事から考えると、その差は主家と分家の掟の差と云う事に成る。
    「額田神社」は格式は高いが対象神社が三つとする範囲であり、最終は「江戸期の統制」の対象外と成って「額田部氏が護るべき神社」と成った。
    従って、つまり、“「額田神社」を永久に主家が護る”と云う義務があり、これに「縛られての差」であって、「神道の宗教・神職・神道」に関わる事と成った。
    それ故に、「子孫」は本家分家共に「姓違い」で遺せたが、「主家の神職」としての「由緒ある筋目の額田部氏」は正統に遺せなかったと云う説が生まれる。

    「青木氏」と同様に、主家が「神職族」であると云う格式から、つまり、高い「宿禰族」であると云う格式から、本来は「姓」は広げられない。
    従って、「額田部氏」だけを何とか護ろうとしたが、結果として「神社」は遺せたが「氏名」は遺す事は出来なかったと云う説が頷ける。
    「青木氏」は、「神明社」が有りながらも「由緒ある柏紋の神職・青木氏」を別に作り、これを徹底して「女系の四家制度」で切り抜けたのだ。
    故に「神職青木氏」は各地で遺ったのである。

    恐らくは「神職と云う事」から長い年代を「男系」だけでは難しかったと考えられる。
    ここに差が出たのではと考えられる。
    筆者は全国に広がる“穂積氏で繋ぐ”と云う選択肢もあった筈なのに其れもしていない。
    それだけに「伝統を重んじた氏」であった事に成る。

    (注釈 江戸初期の「神社の統制令」の内に入り「で500社程度を有する神明社」を幕府に引き渡した。
    江戸幕府は財政的にも管理し切れず荒廃は極端に進んだ。
    但し、「伊勢と信濃と美濃と伊豆」では密かに「祠」で隠して護り通した。)

    「額田部氏の系譜」の中まで入れないので、この「推測論」に成るが恐らくは間違いは無いだろう。
    それの遍歴が、現在は姓名が違うが「伝統」を護った「額田の宮大工」として遺ったとしているのだ。

    だから「施基皇子の裔の青木氏」には,当に、“「墳墓からの付き合い」”と記されているのは、“この事を察して護った”とする暗示の「青木氏の説」があるのだ。


    > 「青木氏の伝統 56−2」−「青木氏の歴史観−29−2」に続く。


      [No.377] Re:「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/12/20(Fri) 10:03:26  

    > 「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」の末尾

    > (注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
    > 中の良い関係を続けていた。
    > 然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
    > 余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
    > その為に源氏化で生き残ろうとした。)
    >
    >
    > 敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
    > この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。
    >
    > 然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
    > 恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)・縦の陸路」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。
    >
    > それには二つあった。(前段でも論じている。)
    > 第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
    > 第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興の危険性」で既に存在していあったのである。
    > この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。
    >

    「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」

    続けて「伊豆ー美濃論」である。

    さて、この「二つの事」が無かった事に依って、前段から論じている様に「信濃」には「一色の格式」は必要無かったと云う結論に成る。

    そうすると、ここで先に論じて置かなくてはならないのは“「近江の事」”である。
    その前にもう一度、お浚いをして置く。
    前段でも何度も論じたが「近江」には、抑々、何度も論じているが「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」に「近江佐々木氏」の三氏が「同族の血縁族」として存在していた。
    最初は「近江始祖の川島皇子」の裔の「近江佐々木氏」が発祥し、そこから皇子族が近江に移り「伊勢の施基皇子の賜姓」に倣って「青木氏」を名乗り「近江青木氏」が発祥した。
    そして、この両氏が血縁して「近江佐々木氏系青木氏」が発祥した。

    (注釈 筆者はこの説には疑問を持つていて、「伊勢の施基皇子」と「近江は川島皇子」の「異母弟族」は「同族血縁」をしていた事から、正式には「賜姓」は「伊勢」が受けているので、「近江」にも「伊勢の青木氏」を興したと考えている。
    「伊勢」にも嫁家先に優秀な子供が生まれた場合には「青木氏」を興させるその仕来りはあった。
    この事から近江の青木氏が生まれたと観ているのだ。
    それが後に、「皇位族の五家五流」には「仕来り化」して「青木氏」を名乗る事と成ったと観ている。
    そもそも、「美濃には浄橋と飽波以外には無く、「甲斐」には全く記録が見つからない処からこの二つはその後に「政治的な仕来り化」に依るものと考えている。)

    上記の注釈からも記録からも「近江佐々木氏」は「青木氏族の一員」としても考えられる。
    「近江佐々木氏」もその様に考えていたし、異母兄弟の「伊勢の施基皇子」の裔と相互血縁した様に「奈良末期の血縁」では間違いなくそうなる。

    (注釈 「近江佐々木氏の研究記録」もその様に観ていて「青木氏族の定義}の中に入れて詳細に論じている。)

    つまり、「青木氏族」はその所以を以て発祥している。

    概要は次の通りである。
    前段でも「血縁弊害の処」で論じている様に、奈良期の「伊勢青木氏からの血縁」で嗣子の一人に「近江の青木氏」を興させた。
    これが「近江青木氏」で、この「近江青木氏」と「近江佐々木氏」との三つ巴の重血縁で「近江佐々木氏系青木氏」が発祥して子孫を拡大させた。
    従って、この三つは「三つ巴の起点」の「近江佐々木氏」が主縁(リード)と成っている所以である。
    故に、記録に依れば当時は「近江三氏族」と云われていたのだ。

    この「近江三氏族」は地理的要因でその存続の「経済的な裏付け」が弱く、従って、「伊勢」は奈良期には「額田部氏や穂積氏」を投入してでも「干拓灌漑の工事」をして同族と観て「和紙の殖産」を促したのだ。
    ところが、史実としてこれが「逆の効果」を生んだ。
    「近江佐々木氏」にリードされた「和紙」で経済力が着いた所以を以て「二つの青木氏族」は「伊勢と信濃」から離れて「甲斐」と同様に「自立の道」を選んでしまったのだ。
    要するに「同族離れ」をした事を意味する。

    「近江佐々木氏」にリードされた事から「伊勢」とは疎遠と成って仕舞った。
    ところが、更に「嵯峨期」に入っても「縛り」の外れた「嵯峨源氏」が当に近江の地元で起こった。
    当然に、その傾向にあった「三つの族」は更に「源氏化」が極端に進んだ。
    「近江佐々木氏」に全て引っ張られていたと云う事である。
    これが経緯である。

    「近江」には「源氏化」で最早、当然に「伊勢の権威と支援」は必要なかった。
    要するに「近江族」には、「信濃」と「甲斐」と共に、“「一色の格式」”に付いて「別の意味」を持っていた。
    「近江佐々木氏」にも「源氏化」が起こった事に依って相反する意味を持つ「一色」を拒絶するそれを「他の近江二氏」と共に共有する事を成し得ていたのである。
    これが「近江」に「一色の地名」の無い所以でもあるのだ。

    従って、この「三つの青木氏族」は「経緯と云う過程」で「一色の地名」に於ける「権威」は必要とはしなかったのである。
    況や、「近江族」に執っては当に論外であった。

    (注釈 「近江」でこの「一色」を必要としなく成った事が、「神明社の情報紋の遮断の主原因」と成ったのである。
    「近江」は「佐々木氏と経済力」が主因であった。)


    「一色の論」から再び「美濃の論」の元に戻して。
    然し、「美濃」は要するに、これ等の事と比較すれば、前段でも詳細に論じた様に主因は次の為の事であった事が判る。

    前段で論じた事を「別の視点」からこれを観て観る。
    「青木氏の歴史観」としては「興味深い経緯」が見えて来る来るのだ。

    第一段は「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が起こったのである。
    第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の「神明社の情報と物流の遮断化」であった。

    「第二段の事」はそもそも「青木氏」である限りは「神明社族」であり、然しながら「源氏化」に依って「八幡社族」と成って仕舞った。
    結局は「神明社」と「八幡社」は「密教と顕教の差」にあり、その「教義」は相反するものと成ったのである。
    故に、「神明社の存在否定する結果」と成ったと云う事である。

    (注釈 「密教と顕教の差」は前段で論じた。
    「9つの縛り」と「原理主義の白旗派・律宗」の意味する差である。
    端的に判り易く云えば「水と油」であるだろう。)

    これが「美濃域」にも「神明社」が少なく成った所以であって、それが「源氏化と姓化」に合って、それが「源平戦」と成って「神明社」が無くなり、上記した“「第一段の遮断」”が起こったのである。

    これが当然に「伊勢と信濃」に大きく影響した。
    前段で論じた様に「源平戦」で敗戦し生き遺った「所謂、一色族」は前段でも論じた様に「信濃までの山間部」に逃げ込んだと云う形である。
    然し、此処で彼らの一部は「生遺路線」を選択して「源氏族」から逃れ「一色の青木氏」を旗印に「伊勢信濃のシンジケート」と成ったと云う経緯である。
    この時、「青木氏の財力」を使って彼等を保護し「美濃−信濃間域」に「神明社の再興・情報網(第1期)」を成し遂げた。

    (注釈 この時の「神明社再興」には“「神明造祠社」”が多かった事が「桑名の資料」には記されているし、現在も「桑名と美濃の西地域一帯」には集中してこの「神明造の祠社の神明社・9社」は遺されている。
    その管理は「伊勢の青木氏神官族」で成されていたが、何方かというと「社」というよりは寧ろ此処に「青木一族」が集合して「情報交換・中継点形式」をしていた事が記され、その内容が詳しく判っている。
    「室町期の御師制度」の「情報交換の中継拠点化」と成っていた事をも示す。
    「全国から集めた情報」をこの「桑名域に集めていた事」にも成る。
    つまり、「桑名殿」が「情報交換の係」を担当していた事にも成る。
    これは「商いの情報」と「戦況の情報」であった事にも成る。
    「美濃伊豆の戦況」も然る事乍ら「商い」も大きく成っていた所以であろう。
    これは前段でも論じた様に「伊勢」では「桑名」に全て「神明社・9社・北東向きに26kの直線上」が一括集中させていた事でも判る。

    それ故に、前段の「御師」から集めた情報から「移動時期」を見据えていて、「伊勢の裔系の集団移動・1500/5集団」は、先ずはここに辿り着けば先ず「第一段階」では安全であって、元よりそれは「桑名殿の裔系」であった事にも依る。
    此処に美濃の「伊勢の裔系」の「二つ目の清光院」と「二つ目の清光寺」を木曽川長良川を隔てて戦略的意味合いで右に隣接する様に建立しているのである。
    前段でも論じた様に「額田端浪の一色」から「現在のR19」で全く直線的に最短で移動した事に成る。
    集団として「御師制度」での「お伊勢参りの名目」は当に疑われる余地は無かった。

    前段で論じた「移動経緯」から「水路」では一時それなりに回復する「第2期」が起こった。
    「伊勢−渥美−駿河−伊豆」と繋がった事に成ったのである。
    次は、これを起点に「国衆の南下策」を促進させる為に「縦の陸路」の「伊勢−三河−美濃−信濃の情報網」を造り上げる事にあった。

    ところが室町幕府との「白旗派の浄土宗承認」や「伊勢神宮信仰」に合わせた「神明社の庶民信仰・御師制度」等の「政治的策謀」や「御師制度」等の策で、「桑名と尾張」の間の「空白地・空白期」では「伊勢−美濃−信濃の情報網・R19」で一時的に無事に繋がったかの様に見えた。
    然し、これも「15年程度の短期間」で「空白地」と「空白期」は同時に崩れたのである。

    これで再び、「室町期の戦乱」で「信長勢力」に依って恣意的に「神明社の情報網・中継点形式」が遮断される結果と成ったのである。
    要するにこれが「第3期」である。
    これで再び「伊豆との連絡網の遮断」と成った。

    然し、「平安末期の伊豆の結論」は、それぞれ違う経緯で「近江と美濃と甲斐」が敗退したのである。
    その「時系列の経緯」では、この事から上記の通り「1159年」から「伊豆入り」し、「1221年の直前・源氏滅亡」までの「約60年間程度」で、それなりに「神明社の情報網・中継点形式」は回復させた事(第3期)が「人と神明社の構え」から判る。

    いよいよ「国衆の南下策」を急いで動かそうとしていたその時に、然し、再び、記録から観てみると“「鎌倉時代」の「伊豆内部の混乱」”で「第3期の神明社焼失」の事と成っている。
    要するに今度は「鎌倉幕府の滅亡の混乱」に巻き込まれて「伊豆の神明社の焼失」が起こって仕舞ったのである。
    「伊豆」が滅亡寸前であった事に成る。
    これらの「室町期前期」の「3期の経緯」を経て、結論は「1540年以降の室町期後期」に、再度、前段で論じた様に「国衆の南下策」で回復させた事(第4期の経緯)に成っている。

    そこで、この時「3期の経緯」は、「室町幕府」が「法然浄土宗14派中」の「最小派」の「白旗派の密教浄土宗・原理主義・青木氏の律宗族」を「本貫本宗」として強引な決定を下した。
    背後に「政治的な動き」が「伊勢との間」であった事は否定できない。
    同時に「原理主義一体」のものとして「神明社(青木氏の守護神)」も認める等の決定を下し、「青木氏」を擁護した。
    これがこの際の「幕府と青木氏の政治的策謀」であったと観ている。
    これで、「神明社の情報網・中継点形式・水路」は「藤枝・富士宮・三島と駿河」までの再建立(第3期)が成し遂げられたのである。

    これで「浄土宗」が「白旗派の原理主義の律宗族」と成った以上は、つまり、「伊勢と信濃の青木氏」の「政治的立場」が公に認められたも同然と成った。
    これで「1560年期の松平氏・三河で独立」が「三河国衆」として認められより「国衆の南下策」が容易と成ったと考えられる。
    当然に「国衆」に成るには単なる南下策だけでは成立しない。
    「足利氏との政治的策謀・裏工作」と同様に「松平氏との政治的策謀・裏工作」は否定できない。
    この戦乱の世の中でそんなに簡単に上手く行く事は無い。

    (注釈 この第4期の「藤枝の四つの神明社」にはその「第4期なりの特徴」が出ているのである。
    それは「神明社の社構え」であるのだが、この中に「特徴」を顕著に表している「神明社」がある。
    それは「呼称」の一つだけに表れている。
    その「社名の構え」が“「伊勢神明社」”と云う「神明社の情報網・中継点形式」を適格に表現しているものであるのだ。
    実は、この「伊勢神明社の命名」は同時期に「信濃と美濃」にもあるのだ。
    敢えて、「第4期」の混乱期であるが故に、「足利氏背景」と「律宗族・遺された皇族系族」であるとする「其れなりの意味・誇示」を持たして名付けたと考えられる。)

    「伊勢と云う呼称」のその背後には「伊勢の抑止力」を「伊豆」にも宛がえたと観られる。
    将又、同時に「仏教の象徴族」の「律宗族」であって、且つ、明らかに全国庶民信仰と成った「神明社・御師制度」の「神明社族」であるとして、その族の「神明社の情報網・中継点形式」の「拠点である事」をも周囲に誇示している事に成るのだ。

    これは同時に、「神明社」を分散させるのではなく「伊豆」から離して「藤枝、三島地域、富士宮地域」の「三カ所」と隣の「駿河市東町」の「一地域」に集中させているのだ。

    そもそも本来であれば「庶民信仰」であれば平等に「分散」させるのが常道である筈だ。
    ところが極めて一か所に集中させているのだ。
    明らかに「伊勢の呼称」と共に「ある種の目的」があっての事である。

    この上記の「計四ケ所の神明社の創建期」と「伊豆内部の神明社の創建期・平安期」が現地調査に依れば、その「構えの内容・平安期の様式変化」から判断して大きくずれていて、前者が「室町期初期」である事が判る。
    「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆」の経路を再興して「伊豆」を護ろうとした場合は、「伊豆の人」が先ず移動してそこに「守護神社・神明社」を建てると云う経緯を辿るだろう。
    つまり、「室町幕府の擁護」もあってそれなりに補完出来た「第4期」でこれを実行したと云う事に成る。

    それ故に、「伊勢の呼称」は「室町幕府の擁護」があった事も相まってあってその「格式」を誇示しての事もその一つであったであろう。
    「室町幕府の擁護・白旗原理主義」が「全国の神明社」をも護った事もあったと考えられる。
    つまり、普通ではあり得ない仏教の「菩提寺」が神教の「守護神」を護ったと云う事である。
    これは、特定される”「律宗の氏族」”であるが故の事であろう。

    この様に「室町幕府の権威」が失墜し始めた室町期末期までは兎にも角にも「神明社の情報網・中継点形式」は何とか維持出来た。
    これが上記した様に「特別な変化」である。

    (注釈 そもそも「神明社の建設」は、「社格」は「官幣社」で在り乍らも「賜姓五役・令外官」であるとしてその「財源と建設と維持管理」は「青木氏部」で江戸初期まで行われていた。)

    さて、これで「伊豆側」の「神明社の情報網・中継点形式」は回復した様に観えた。
    唯、ところが「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆の経路」は、「伊勢−美濃−三河」の間で上記した様に再び断絶したのである。

    これは「戦乱期の信長」で「尾張域の神明社」は再び「神明社の情報網・中継点形式」の「神明社」が今度は「信長勢」に敵視され遮断される結果と成ったのである。
    「室町期中期」には遂には「情報交換・中継点形式」は、又もや「伊豆」には届かなく成って仕舞ったのである。

    今度は「青木氏の対処」は違った。
    再び、「渥美への裔系の移動」は前段の通り成功した。
    そして、次の段階として「1540年頃」から「ある行動」に移したが、今度はその戦略は゜青木氏の氏是」を破り「戦闘的」であった。

    そもそも、この行為は奈良期からの「青木氏の氏是」に反する。
    然し、問題は、何故、この「青木氏の氏是」に反する行為を執ったかである。

    その理由は、実は「伊勢から伊豆」までの「情報交換(中継点形式)」には「大きな欠点」を持っていたのだ。
    この「欠点」が「戦乱と云う状況」の中で「氏全体の致命傷」に成る欠点であったからである。
    それまでは問題では無かった。

    「伊勢−美濃−三河−駿河−伊豆の経路」を観ればすぐ判る。
    それが「−三河−駿河−」には「青木氏」は存在しないのだ。
    要するに、この間は「二つの血縁族」の「定住地」では無いのだ。
    然し、それでもそれまでは「人間の血管」に当たる“「神明社」”と云うものがあって生きて行く事が出来ていた。

    (注釈 歴史的にはこの域を支配する「今井神社系のシンジケートの連携」で何とか助けられて繋がっていた。)

    ところが「戦乱と云う状況」では“これをも絶たれると云う事”が起こった。
    適格に言い換えれば“「人間の血管」だけでは駄目”に成ったと云う事である。
    要するに「体」を造らなくては成らなく成った。
    その「体」が「氏の人」のものであって、其処に置かなければ効果は出ないと云う事である。
    「神明社」が「血管」であって、「心」であり「体」と一体にしなければ成らなくなったと云う事である。
    この「−三河−駿河−伊豆」の間に何らかな方法で「体」を置かねばならない。

    そして、それだけでは無かった。
    「伊勢−美濃−信濃・縦の陸路」が「信長」に壊されようとしていたのである。
    現実に「体のあった美濃」が小さく成って「山間部」に逃げ込んだ事で「空いた隙間むを見事に壊された。
    「神明社の血管の破壊」と「美濃氏の体の破壊」も興り「形」が無い事に成って仕舞ったのである。
    「伊勢−(美濃)−信濃・縦の陸路」でも「信濃シンジケートと云う形」で繋いでいたが無理と成っていた。
    それは「伊豆」が成り立たなく成っていた事を示すものであった。
    この「空いた隙間」を何とか現地孫で埋めていた「伊勢秀郷流青木氏族」も補完して「美濃」まで僅かに張り出していたが、その「頼みの勢力」の一つと成っていた「永嶋氏」も衰退し「結城」に引き始めていたのである。

    そこで「伊勢と信濃」は「戦闘的復興戦略」(下段で論じる)を採った。
    つまり、此処に「陸路と水路」の「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築しなければ「廃墟と復興の第5期」が必ず起こると考えたのだ。
    「伊豆の背後」の「頼みの綱」の「秀郷流青木氏」に“「助太刀」”を頼むとしても「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」が欠けていれば「即戦力」には成らず間に合わなく成っていた。

    そこででは、どうするかであった。
    簡単な事である。
    「美濃」をもう一度興して「美濃」から「三河の湾岸域」に引き出して「青木氏の拠点を新たに作る事」と、破壊された「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を造りなおす事以外に無い筈である。
    これで「血管と体と心」が「伊勢−美濃−信濃」と「−三河−駿河−伊豆」を造る事が出来る。
    「伊勢−美濃−信濃−三河−駿河−伊豆」(駿河には第4期で構築した)は完成する。
    これで「伊豆」は護れる。

    前段でも論じた様に、問題は上記の“「美濃・額田一色」を「三河」に南下して来る事が出来るか”である。
    つまり、「信濃シンジケート」と成っている「美濃の額田青木氏」を「シンジケート」では無い「三河の青木氏」にする事である。
    これは「山岳民」を「湾岸民」にする事に成る。
    これは「人,時、場所」の「三要素」が揃わなくては成り立つ戦略では無い。

    それには「陸路と水路の両面のルート」を構築しなければならない。
    「縦の陸路」は“「美濃」を「三河」に南下して来る事で出来る。
    そうして、これが出来れば「三河の港」を確保していれば「伊勢と三河」までの「水路」は「伊勢水軍」と復興させた「駿河水軍」で成り立つ。
    「水路」は「伊勢−(美濃−信濃)−三河−駿河−伊豆」の上記で論じた様に「駿河」には「第4期」で構築したので「駿河・駿河湾」と「内浦湾」では出来ている。
    後は「三河と駿河間の完全な水路の構築」にあった。
    未だ左程に「子孫力」の出来ていない仕立てた「駿河水軍」に「充分な力」を持たせる事にあった。
    これには「伊勢」が地権獲得などの「経済的な支援」をして「子孫力」を「現地域」に回復させる事にあった。
    当然に、その為には先ずは゜干拓灌漑開発の額田部氏に頼る事」に成るだろう。

    (注釈 前段でも論じたが、「駿河」にはこれ等の経緯から「伊勢と伊勢水軍との血縁族」の「駿河青木氏」が存在した。現在も存在している。
    「静岡県静岡市駿河区」に「青木の地名」が遺されていて、「約370334平方メートル・374反・11200坪」の面積を持っている地域である。
    「青木公民館」もある位である。
    凡そ「380人が養える地域」である。
    ここは本流を「安倍川」とし、支流を「丸子川」で駿河湾に注いでいる。
    何れも元は二つの川洲で西端には山が控えている。
    記録に依れば、室町期中期にこの山から東に向かって川洲を埋め立てたとしている。
    当然に「伊勢青木氏」に基づく「額田部氏の干拓灌漑開発」である。
    つまり、「美濃域とほぼ同時期」に戦略的に行っていた事に成る。
    安倍川の「西側の洲域」と「東の洲域」に分かれ、「東の洲域」にこの「丸子川の洲域」がある。
    この「西の洲域」は8k平方メートルである。
    現在の「青木地域の面積・380人・西1/4は森」では十分な子孫を養えない。
    恐らくは、地形から、駿河湾に向かって「1.5kの距離」があり、湾口を使う以上は少なくともここまでの「地権域」を有する必要がある。
    現在の青木地区は「居住域・山間部の陵域」であったと観られ、「田畑」を「南の湾口」に向かって開墾して「地権域」を得たと考えられる。
    実はその「地形域」が現在も遺っていて、この「地形域」から「現在の湾口」までは「約0.5kの位置」にある。
    この「0.5k」は其の後の江戸期か明治期に埋め立てられた事が判る。
    その「地形域」が「約547反・547人」と成る。
    これを合わせると「374+547≒920反」=「920人程度の駿河青木氏の人口」が室町期のこの「作戦期」には「伊勢の支援」を受けて「子孫力」を拡大させ存在していた事に成る。
    当然の事として「約2k程度北の山手」には、現在も「賜姓族」では無い「妻嫁制度」に基づく女系の「伊勢との血縁族」の「駿河青木氏」の「青木神社・一族の集会所」があり、その右横には「額田部氏の分家の穂積神社・事務館」も存在するのだ。
    伊勢より派遣して額田部氏一族に依って干拓灌漑されたのである。
    「青木神社・一族集会所」あたりも「其の後・寛永期」の「地権域」であった事が解る。)

    (注釈 この「青木神社」は「和気命・応神天皇」を祭祀する神社である。
    「応神天皇」は実在天皇の初代で「飛鳥王朝の五大豪族連合国家の初代の大王」である。
    「伊勢青木氏」の「妻嫁制度」に基づく「嫁家先の女系の駿河青木氏」で嫁家先で生まれた「優秀な男子」を以て「青木氏を興させる制度」である。
    「上記の美濃論の経緯」より復興させた。
    この「伊勢」の「神明社の祭神」の「皇祖神の始祖」の「和気命・応神天皇」を祭祀している事に成り、「駿河青木氏」は「神明社を主神とする事」は否である為に、守護神を「始祖の応神天皇」とした事に成る。
    室町期の1540年〜1560年代に再興した事に依り、「青木氏の檀家寺」は禅宗寺派で臨済宗で地権域内中心より150m真西の山際に在る。
    独自の干拓灌漑地である為に「菩提寺」にしていた可能性も否定できない。
    当時は、「水軍などの海族・海人」は「鎌倉期以降の影響」を受け帰依は臨済宗か曹洞宗であった。)

    そもそも、さて「水路」とは、その「圏域・海域権」が「水運組合と海運奉行」に依って昔から決められていて変わっていない。
    要するに「伊勢水軍」が勝手に駿河に入る事は出来ないのである。

    ではどうするかであった。
    「伊勢の尾鷲」の「伊勢水軍の差配」の家に資料が遺されていて、この一節にこの事に付いての「行」がある。
    要約すると、「摂津会所の・・・駿河殿の件の御差配に付いて承知致し候故に御安堵下される様に・・・尚、・・・を御手配お頼み申し候・・・」とある。
    恐らくは「福家からの指示」があって「水軍」が何かをしたと考えられる。
    この時期は「準備段階」に入った5年後の「1545年」と成っている。

    同時に前段でも論じたが、「伊勢」が「千石船の大船」を更に一艘を建造し持ち、「熊野水軍」と「摂津の寄合組合」に対し「海路の水利権」を申し出て獲得している。
    「商記録」にもこの「支払添書」の一行の事があり一致している。
    これは恐らく「組合員の会員権の取得費」であろう。
    「摂津」までの四艘目の「海路の水利権」を持った事が判る。

    さて、そこで、前記の「駿河水軍の経緯の事」ではあるが、「駿河水軍」には「平家水軍」に対抗する為に「駿河源氏」に頼まれて参戦するが滅亡する。
    この「駿河水軍」と「伊勢青木氏」と「伊勢水軍」は相互に血縁関係を持っていた事を前段で論じたがこの「源平戦」で「美濃族」等と共に滅亡する。

    この「駿河水軍」が逃げ延びその「生き残り」の其の後の傍系支流が「海路の水利権」だけは依然と宝の様に傍系に預けて持っていたと考えられる。
    筆者の分析では、「伊勢の福家」はこの時の「差配」を「伊勢水軍の差配頭」に考えを述べたのでは無いかと観ていて、上記の資料はその時の打診であったと観ている。

    そして、「1540年の準備段階」の五年後から「伊勢水軍」に「駿河水軍の支流末裔の者(血縁族の駿河青木氏滅亡)」を呼び出して訓練し、其の後に「伊勢」が建造した「船一艘」を与えて、「血縁族の駿河水軍」を復興させようとする考え方を述べたのでは無いかと考える。
    その為に取り敢えず、経済的に成り立ちさせる為にも「摂津会所(堺)」に先ずは「海路水利権」を申し込んだのでは無いかと観ている。
    先ず直接は「駿河水軍としての申請」では無く「伊勢の申請」として扱ったという事に成る。
    「伊勢の仕事」を彼らに与え「摂津支店」までの「荷駄の搬送」に従事させて経験を着けさせたと観ている。
    この事を「血縁族」でもあった「伊勢水軍の差配頭」にこの事を相談し伝えて了解を得たという事ではないかと観ている。

    (注釈 訓練の為に「熊野沖の荒波」と「淡路の早潮」を経験させたと考えられる。)

    さて、その「後の事」ではある。
    「駿河域の会所(府中)」に「駿河水軍」が組み入れられるかであろう。
    唯、「組合の株券」は保持している筈である。
    「源平戦」で負けただけで既に幕府は室町期にあるとすれば、「出自を証明」できれば「復権」は出来る筈で、後は「商人」である以上は「組合の株券」を買うと云う「名目の裏の手」で解決は可能である。
    この「証拠」と成るものは無いが、「状況証拠」である。

    (注釈 この「状況証拠」に付いて、現実に「其の後の事」ではあるが、「駿河湾」と「内浦湾」に「伊勢からの荷駄・商記録に四か所の記載有」が入り、「藤枝、三島」を始めとする「地域・八カ所の青木氏」の「青木氏の商い」が復活しているし、「下田」と「稲取」にもである。
    当然に、「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築も復活しているのである。
    これが何よりの状況証拠である。)


    先ず、そうすれば「水路」では「三河・渥美湾」から「伊豆・駿河湾」まで成り立つ。
    前段でも論じた様に「後の事」は「陸路の創設」が「戦い」を伴ったもので大変であった事が「松平氏の戦記等」の複数の記録で詳細に判っている。
    この様な「多くの死者」を出した「実戦事」は「伊勢」と「信濃」の「青木氏の歴史」の中では初めてである。
    それまでは全て「抑止力」で済んでいる。
    ところが、この時の記録に依れば「額田青木氏の差配頭」等が「激しい銃弾戦・本戦」で戦死しているのである。

    尚、注釈として、「伊豆の現地調査」の印象の一つは「イ地域からリ地域」までの「青木の地名」の「青木氏」には現在も「何らかの商い」を営む「青木さん」が実に多い事であった。
    この事に「大きな意味」があって、1159年に「伊豆」に入ったが当然に其れまでには「伊豆の土地への繋がり」は全く無かった。
    「伊豆」は実質は「頼政の所領地の守護の警備」としてではなく、「山岳地の伊豆」を豊かにする「管理人的な目的」で「頼政」に頼まれて入った経緯である。(清盛の圧力か)
    従って、「伊勢や信濃」の様に「土地の郷士との繋がり」で「氏族」を形成していた訳では全く無かった。

    「伊勢信濃の融合族」として「管理人的な目的」では「商い」が主体で管理するだろう。
    「頼政」は遙任であって実質の格式は表向きは「伊豆守護代」である。
    「地域の治安」と「地域を豊かにする事」の「二つが目的」であって、「武力的に統治する形態」ではそもそもなかった。
    「平家」に執っては「源氏」が隆盛してくる事はそもそも好ましくない筈で「正三位」にして「伊豆守護代」を与えたが、これは「清盛の思惑・上げて置いて下げる戦略」と見える。
    故に、「伊勢や信濃との繋がり」の中で「殖産を含む商い・伊豆楮や海産物」を興して統治する事が主眼であったのだ。
    この産物が全て「伊勢」に送っていた形態であった事が記録に遺る。
    これ等が「良質な為」に中には「和紙の伊豆楮」と呼ばれていた位である。
    それだけに、「伊豆の商い」は、「独自路線での伊豆」では無く、飽く迄も「伊勢や信濃との繋がり」が切れれば滅亡するのである。

    当然に「伊勢や信濃」はこの「命の繋がり・血管」を切る事は見殺しに成る事は充分に承知の上である。
    前段でも論じた事柄は必死に成って「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」を構築してこれを護ろうとした事の表れなのである。

    「管理人」として入った当初は「土地との繋がり」の無い地域である。
    故に「国友」を「信濃青木国友」として入って管理している者等に配慮し、且つ、「地元の者」には実は「頼政の孫」を隠して「信濃の青木国友の事」を誇示して上手く「バランス」を保ったとも考えられている。
    その経緯が現在に成っても“「何らかの商い」を営む「青木さん」”の形に成って表れていると考えられるのだ。

    (注釈 実は、前段でも論じたが、「伊勢」に、この時、「伊勢秀郷流青木氏」の出自元の「秀郷流蒲生氏郷」が入り、「近江商人」を呼び寄せて「管理方式」で「国を富ませ統治」に替えるとする考え方を採用した。
    この方式が平安末期から鎌倉期にかけて芽を吹きだしていた。
    「清盛」も「同様の形式」で「九州の北部域太宰府」などを統治しようとした。港の泊開港等)

    当の「青木氏」から観れば約300年後の「宿敵の信長」も「楽市楽座・自由市場」の方針を示している。
    つまり、「伊豆」は既に1159年にはその考え方を実行したその「先駆け」であった筈である。
    「伊豆」に執つては300年経ってもこの環境下にあってこれまで上記した様に「四度の復興」で生き延びて来た。
    ところがこの「管理方式の立場にあった事」がこれが「一種の弱点・欠点」でもあったのだ。
    「伊勢と信濃」は「商いをしている事」からもこの「一種の弱点・欠点」を「神明社に依る情報交換点(中継点形式)」で必死に補い救おうとした構図と考えられる。

    然し、それが「四度の再興」で何とか逃げ延びられたが今度は簡単では無く成ったのである。
    それが皮肉にも「同じ考え方」を持ちもっと進んだ考えの「信長」であったのだ。
    唯、「彼の考え方」には「伊勢信濃の律宗族」に執っては「相容れない勢力」があった。
    それが「青木氏」が「補完の手段」としている「神明社に依る情報交換点・シンジケート」の「寺や神社などの勢力」も含む「影の勢力」であった。
    「伊勢」でも「影の勢力」として観られ、同時期(1568年〜1576年)の8年間に渡って「信長勢力(秀吉含む)」とも争っているのである。
    然し、緊迫していたのは「伊豆」だけではなかったのだ。

    当然に「伊勢」も対象として観られていたが、「伊勢シンジケート・ゲリラ戦」で対処して「伊勢の五つの戦い」で勝っているのだ。
    ところが不思議な事に、この「勝った背景」には、前段でも論じたが「信長」から派遣されていた「信長の重臣」の「青木氏血縁族」である「蒲生氏郷」があったからだ。
    何故に「信長」は敢えて「伊勢」にこの「寵愛する血縁族の氏郷」を配置したのかである。

    普通ではしないであろう。
    歴史では”優秀な戦略家であったから”と成っている。
    然し、「青木氏側」から観れば、「表向き」は整えていても左程潰そうとは見ていなかったのではないと考えられる。
    其れで無くてはいくら何でも「伊勢五戦」にゲリラ戦で勝つ事は無いだろう。
    彼はそれを配慮し、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の「出自元・氏郷の曾祖父の兄弟」でもあり、故に彼は“上手く立ち回った”のであると観ている。
    一部の資料では裏で情報を流し丁度良い処で事態を短期で治めたと考えられる。
    「氏郷」は「美濃や伊豆の事」も配慮して「大きな傷」に成らない程度に収めたと観ている。
    それ故に「伊勢の背景」が出来た事から伊勢では戦いながらも、早期でも「美濃と伊豆」に手を出す事が出来たのである。

    前段でも論じたが、一説には、“「1540年頃」には動き出した”とする記録があり、これには「美濃」で起こった「斉藤氏等の争い(美濃尾張を制する)」に「シンジケート」が多少は何らかの形で関わったとする説では無いかと観る事も出来る。
    然し、上記の時期では「伊勢」では「駿河水軍」を興す為に「船の調達」に関わる「伊勢水軍」との「やり取り」が「1545年頃」であった。
    そうすると、この説ではこの「5年間」で並行して何か伊豆に関わる事も含めて既に「美濃域」で動いていたのでは無いかとも考えられる。

    実際には「初期の戦闘行動」があったのは「1545年〜1560年代」であったので、この間の「25年程度」は時系列的に“準備期間であった”と云う事にも成る。
    この「準備期間」は当然に「美濃尾張を抑えていた斉藤氏」に疑われる。
    然し、記録から「斎藤氏との間での争い」に関するものは何も発見できない。

    先ず、国衆南下の為の「三河の松平氏との調整」の前に、手順としては現場でのこの「斎藤氏との調整」を果たさなければならないであろう。

    そもそも、この「斉藤氏」は「1432年」から始まり「1542年の最盛期」を経て最終は「1573年以降」は衰退し、そして江戸期には「米沢藩の平侍」までに落ちる事に成るが、これは「国衆」が南下して「一言坂の戦い」の「1年前」と成る。
    そうすると、少なくとも国衆南下に入り「三河松平氏の国衆」と成った時期の「1560年以前」ではこの「美濃」では未だ「斎藤氏の影響・1567年」を受けていた時期である事は間違いは無い。
    「超近代銃の集団」を訓練しているのに警戒もされず何も無かった訳では無いだろう。

    (注釈 この「斉藤氏」が勃興する直前には「美濃の西端」から「尾張の桑名東域」に架けて天武期からの「五都計画の不入不倫域・天領地」であった。
    その為にここは1542年頃までは「空白地」であって、相模より国衆の五藤氏がこれを無視して入ったのが始まりでここから雪崩の様に崩れ「不入不倫域」は護られなく成って、遂には丹波から「国衆山内氏」が入って来たのである。
    「空白地」の「空白期」は崩れた経緯があるのだ。
    この空白期を利用して「額田の青木氏」の「家族の移動作戦」が実施された事は論じた)。

    その為には二つ考えられる。
    一つ目の策は、一時的に「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」に入っていた事
    二つ目の策は、斎藤氏に「裏の策(金策)」を使った事
    この「美濃国衆(斉藤氏の国衆)」は公的な記録に遺されているので現実である。

    国衆として「美濃」を離れて「三河国衆」として南下するには「斉藤氏」に対してそれなりの策を講じる必要がある。
    無事に南下するにはそれが「二つ目の策」であった筈である。
    故に経過としては南下出来たと考えられる。
    「1567年」に「稲葉城」を「信長」に依って滅ぼされ「1573年」に逃亡した事に成る。

    (注釈 この「時系列の結果」から観ても、「犬猿の仲」の「信長が入る前の時期」に「上記二つの策」で南下している事(1560年説)の資料は間違いはない事に成る。)

    「本戦の戦闘行動」は前段でも詳しく論じた様に「一言坂の戦い(1572年)」で始まり、続いて「三方ヶ原(1573年)」であった。
    実は「額田の南下の国衆」はここまでは関わったのである。

    実はこの時期は上記した様に「伊勢」でも「激しい戦い(1568年〜1576年 実質は1578年)」に成っていた。
    ところが、記録を観ると、“「ある事(詳細は後段)」”で「其れ成りの目的」を完成してか「1574年以降」は「三河」から手を引いている形に成っているのだ。

    唯、この「資料説」が史実とすると、“「1540年〜1560年の行動(準備期間)・(準備戦)」と「1568年〜1578年の戦い・(本戦)」がどんなものであったのか”は「詳細」は判らないが気になる事である。
    後者は前段で論じた様に、「三河記録の通り」、当に「戦い」のそのものであった。
    問題は「前者の期間の行動」である。

    “「ある事(詳細は後段)」”が「伊豆」に関わる事であるとすると、この「信濃シンジケートの元」が「第4期の再興の事」と成り得る。
    然し、この時の少し後には、既に「美濃」では「神明社の情報網」は切れていたので、「戦闘的復興戦略の作戦行動」の本戦とは異なる。
    別に、要するに“「初期作戦」”が取られていた可能性は否定できない。
    「伊勢(前半はゲリラ作戦・後半は本戦)」でも戦っている時期でもある。
    この「環境の中」で「後者の戦い」にいきなり突入する事は無いと考えられる。

    そうすると、「前半と後半」とには”「8年間の差の期間」”があるが、つまり、「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」である。
    この期間が“「初期作戦・前哨戦・記録にない」”説としは正しい事に成る。
    前段で、「1540年の少し前」には渥美への「家族などの移動作戦」が実行された事は論じた。
    然し、この”「8年間の差の期間」”は何なのかである。
    少なくとも何かが起こつている筈である。

    では「どんな作戦」で「戦い」は繰り広げられたのかではある。
    ところがこれには「青木氏側」にも「三河側」にも、又、他にも詳しい記録はない。
    「三河国衆」に組み込まれた時期なので何かある。

    そこでこれを読み解くには、「戦闘的な復興戦略の作戦行動」には何が考えられるのかである。
    つまり、「シンジケートの額田青木氏」を「国衆」として「蒲郡」まで南下させて引き出して「土壌」を作るには「美濃」と「三河」に“どのような行動を取らす必要があるのか”である。

    それを一応、次の様に考えて観た。

    イ 「準備の財源」には問題は無い事を保障している事。
    ロ 「伊勢と信濃」が説得に掛かっている事。
    ハ 「一族の生活保障」を約束している事。

    ではこの「三つの事」に就いてどの様に手配するかであろう。

    0 シンジケートの目的と説得 (神明社復興 伊豆救出)
    1 シンジケートの内部の意思統一 (「a族とb族」の利害統一)
    2 シンジケートの「差配頭」をどうするか (美濃青木氏の末裔)
    3 この「組織」をどの様に分けるかの決定 (「a族とb族」の二つに分けた)
    4 その「組織の形」を何にするか (「国衆」として結束)
    5 「戦略の提示」とその「作戦会議」 (最大の課題)
    6 「軍師の決定」 (伊勢秀郷流青木氏)
    7 「作戦実行」を何時に開始するか (美濃を出る時期)
    8 「合力相手との関係性」の決定 (松平氏)
    9 「松平氏(国衆)」との調整 (伊勢が担当)
    10 「戦略実行後の処置」 (伊勢信濃が補完)
    11 「土地の郷士との説得」 (国衆として入る地元説得 蒲郡と吉田)
    12 「駿河青木氏」の復興 (駿河水軍の再興)
    13 「駿河水軍と美濃族との関係性」の復活 (平安末期決別 水陸の経済的繋がり)
    14 「渥美湾の利権」の取得 (美濃の陸運と水運の融合)
    15 「駿河水軍」との結合 (伊勢湾−渥美湾−駿河湾の航路)
    16 「神明社」の建設開始 (桑名−渥美−駿河−伊豆)

    筆者ならば少なくともこれだけの事は事前に決めて係る必要があると考える。
    その「問題の決め手」は、仮に「戦い」を前提とすれば「主要な事」は「5と6の事」であろう。
    これを“1590年程度までに「最終目的・南下定着」に到達させる”とすると長くは無い。
    何せ「伊勢」も「戦い」に入っているのだ。

    「伊勢と信濃」が「実戦力」を持っていないと成れば、“「伊勢のシンジケート」の「抑止力」”をフルに使って側面から牽制して、且つ、「財力」で抑え込む以外には無いだろう。

    前段でも論じたが、現実に「伊勢の松ヶ島戦い」の「二戦」では幾つかの記録には完全にこの「伊勢のシンジケート」の「抑止力」だけで勝利して「最小限の負担」に軽減している。
    これに「秀吉の長島の戦い」を入れれば「伊勢五戦」である。
    全てこの策で「伊勢」はとりあえず勝利している。
    後は、これを「三河」に全力を投入するかと云う事に成る。

    現実には、作戦通りに「伊勢信濃が出来る事」は、上記の通り見事に「伊勢のシンジケート」の「抑止力」を派遣してフルに使って側面牽制して、且つ、「財力」で抑え込んだ事に成った。

    片方の伊勢で戦い、片方の美濃では国衆南下をさせたのである。
    実戦に近い「伊勢シンジケート」の「ゲリラ支援」を受けて「南下国衆」を使って先ず“「三河の山間部・東側・東三河」”を獲得する事であった。

    これは「松平氏」に執っても「東側の脅威」が無くなり、且つ、反発していた「東側の土豪」を味方に固定させる事に成り得策と成ろう。

    それには「伊勢シンジケート」は次の事をした可能性がある。
    「戦略物資の輸送路の遮断」
    「戦闘物資や食料調達の買い占め」
    「周辺域のゲリラ作戦の展開」

    「伊勢」と全く同じ作戦」を「三河・東域」にも採った事が「商記録の添書・商取引・時系列」で読み取れる。
    これが“「初期作戦の実行」”説の根拠に成っている。
    「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」の事である。

    (注釈 時系列で追ってみると、この時期は、武田軍は“「東三河」”に侵攻し、制圧し、東側の弱い地域に東から攻め入った。
    要するに、「1571年の二連木城の戦い」であった。
    この時、「南下の額田国衆の銃隊」を東域に配置して武田勢を牽制した。
    と同時に、観た事も無い「近代銃の額田青木氏の国衆」を観て安心させ「東三河の土豪勢力の抱え込み」を図っていたのである。
    「西三河」は「生粋の松平氏の旗本」、「東三河」は今川氏等の「残存兵で編成された2000程度の軍勢」であった。
    それだけに不満などで一揆などが頻発していた時期である。
    其処に配置したのである。
    故に、前段でも論じた様に「松平氏」は、「西と東の二軍の軍制」を執る中、本来は西に所属する処、家康は「額田青木氏の南下国衆を「東軍・東三河」に配置した所以であろう。
    最終は武田軍は「東三河」に侵攻し、先ず「二連木城から一言坂の戦い」へと始まる。
    とすると、「一言坂の戦い」では、東軍域に配置された「額田青木氏の超近代銃の威力」を東域の「二連木城」の「小競り合い」の中で知っていた事に成る。
    そして、その後の経緯は,「東三河の東軍の酒井政次の吉田城」を攻めてたが落とせず甲斐に戻つた。
    つまり、この東軍に所属していた「額田青木氏の南下国衆」もこの城に入っていた事に成り、「300丁の銃」で抗戦した事に成り、結果として武田勢は“これは叶わぬ”として引き上げた歴史史実の事に成る。
    故に、「一言坂」では「350の兵」に対して何と「坂下3000兵」と「坂中3000兵」で「武田軍・20000兵」の本隊から割いて「軍構え」をしたのである。
    これは「額田青木氏の南下国衆の威力」を事前に知っていた事に成る。
    結局は、前段で論じた通り「一言坂」でも「武田軍本隊」は戦いを諦めて兵を引いた結果と成つたのである。
    これが、「上記の疑問の答え」であり、”「8年間の差の期間」”であったと観ているのだ。
    “何故、簡単に引いたか”にこの「答え」があったのである。
    この「東三河の二連木城め吉田城」は前段でも論じた様に「伊勢の裔系の青木氏」が多く定住する事に成った地域の「青木氏の地名」の遺る「豊橋の中心」に在る。
    現在は「縦の陸路」を設定した所から「真西に2kの所」にある城で廃城と成っている。
    当に、「信濃」までの「縦の陸路の設定確保」と「東三河の戦いの最前戦」に在ったのだ。
    参考 この「東三河」は267000反の面積を有し、浜名湖より3.5kの位置に在り、西に渥美に繋がっている地域である。)

    その「国衆南下のルート」は「本庄の額田」から「蒲郡」までの「真南に60k」の「圷と山間部の境目」を降りて来る事に成る。
    降りて来るにはこの「縦の陸路域」を「国衆」として制圧する必要があったのだ。
    この“「南下の初期作戦」”の目的は改めて次の二つにあった。

    「国衆」と成って南下して「渥美湾域」を抑え此処に「伊豆」までの「陸路水路の拠点」を築く事
    「伊勢の信長勢力」に絡み乍ら「三河」での「信長勢力への牽制」である事

    この「初期作戦の二つの目的の達成」であった。
    この「二つの目的達成」は「信長」に執って「戦略上好ましくない事」であったと考えられる。
    然し、「松平氏」にはやっと「三河」を結果として「今川」から取れたもので、これを「信長」に取られる危険性は歴史が物語る様に充分にあって、それを「三河」に執っては「国衆の立場」から側面から牽制してくれるのには実に都合はよかったのだ。

    それは誰も入手できない「超近代銃」を持つ事で「単なる国衆」とは見ていなかったのであろう。
    それは「歴史的な史実」として「雑賀衆」に信長は入手を断られそれだけに困難さは知られていた筈である。

    (注釈 商いで同舟の「雑賀族」に「伊勢」は手を廻した事も考えられる。)

    (注釈 「雑賀衆と根来三千の銃傭兵」で取り敢えず解決した史実が在る。
    そこで、「信長の松平氏への牽制」は、歴史的にもこれは「現実の事」として激しく動いていた事はこれは史実である。)

    何しろ「ゲリラ作戦の国衆」で、且つ、“「超近代銃300丁(下記)」”で「武装する国衆」であり、後ろに「財力の青木氏」が控えていると成るとうっかりと手は出せない。
    既に、少し前に「伊勢の事(伊勢五戦)」で「痛い目」にあっているのだ。
    抑々、信長も「額田青木氏」と云えど「普通の国衆」では無い事は知っていた筈である。
    何せ背後に「伊勢」と「秀郷一門」が控えているのだ。
    「信長」に執つては直近に「武田氏との決戦」を控えている中では「三河の国衆側」から動かなければ取り敢えずは「黙視」が常套手段であろう。
    現実に三河松平氏は「額田青木氏の国衆」を使って西の護りには動かなかった。東の護りに集中した。

    家康は「戦い」も無く「蒲郡域」と「渥美吉田域・豊橋域・東三河」を「今川氏衰退(1560年・岡崎城敗退)」のすれすれ(「1560年〜1568年」の「準備期間の後半」の記載)に手に入れる事が出来たのは、この「強力な背景・額田青木氏の国衆」があった事に間違いはない。

    恐らくは、この「信長」は「岡崎城奪取のチャンス」を狙っていたと考えられる。
    松平氏に執っては単独での「蒲郡と吉田の奪取」は目立ちすぎる事から得策ではない筈で、従って「松平国衆」としての「蒲郡と吉田の奪取」であれば、「信長」を含む「衆目の理解」が得られた筈であった。

    (注釈 既に「額田青木氏の一族一門郎党の家族」は約30年前に「渥美の古跡神明社の存在・伊勢神官族」を前提にここに入っていた。伊勢の裔系が入る事には武力に依らずとも何の問題も無かった。
    寧ろ、“彼等を護る”と云う「正統な名目」が成り立っていた。)

    これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
    「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
    「地元の土豪郷士・4土豪」に執っても安全は保たれる事にも成る。
    これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
    「松平氏」に執っては「豊橋の東三河の不安定地域」を安定化させる一つの拠点と成った。

    (注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目・冥加金」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
    何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)

    つまり、「水路の戦略(1540年〜1545年)・第1期」と「陸路(1560年〜1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
    それでも「伊豆−美濃」の関係性から「戦闘的な復興戦略」を実行した。

    (注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56−1」で詳細に論じる。
    「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)

    その前に、前段でも実戦状況に就いて詳細に論じたが、別の面から「予備知識」を次の段に論じて置く。


    「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」に続く。


      [No.376] Re:「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/11/09(Sat) 10:21:25  

    > 「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」の末尾

    > 現地調査には、 この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
    > 時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。
    >
    > 注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
    > 奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
    > 中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
    > 故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
    > 「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。
    >
    > 取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
    > 「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。
    >
    > 従って、上記の「2〜4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
    > そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。
    >
    > 上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


    「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」


    そこで「伊豆」の「伊勢美濃信濃との繋がり」の問題である。

    先ず「伊豆」にその「関わり」の届くまでの経緯がどうであったかである。
    それには「伊勢と美濃の間の事」を明確にして置く必要がある。
    大きく関わっているのだ。

    前段で「伊豆」には「抑止力のシンジケート」が及ばなかったと論じたが、実は「伊勢の桑名」から「美濃の土岐」までの間には、「シンジケート」は無かったと観ていて、それを補うには「神明社の存在」であったと観られるのだ。
    「伊勢桑名」に集中する「神明社」は、この間には「小牧」から「知多」に向かって当に一線上(当時の正式な神明社はたった4社)に在った。
    平安期中頃にはこの両サイドの「桑名」と「土岐」との両間には“「不思議 1」”な事に全くなかったのである。
    この「美濃」に「神明社経路」が無く成れば「伊勢」から「伊豆」には当然に「青木氏の情報のルート」が途切れ「情報や物」が届かない。
    ところが、「尾張」に何故か不思議に存在しているのだ。
    そうすると「尾張―三河」と行けば「伊豆」に届く筈である。

    では、“何故に、「美濃」に無く「尾張」では一線状に遺っていたのか“と云う素朴な疑問が残る。
    やるなら、平安末期では「神明社」は全部潰すのが常道であろう。
    然し、戦略上それは出来なかった様である。

    「神明社」は、「青木氏の守護神」で「重要な連絡網」ではあるが、平安期やせめて鎌倉期までは「美濃―尾張」の全ての「民の信仰の対象」でもあった。
    本来は「全滅」は其処を「治める者の責任」であり、失う事は「自らの領地」には負わなくてもよい「政治的な傷」を負う。然し、「美濃」には無く成っていた。
    そもそも「民の信仰」の「最高の信仰対象・国幣社」が無い事は「民の信用を失う事」に成る。
    然し、放置する訳には行かなかった筈だ。

    では、どうするかである。
    要は、その目的は「美濃―尾張間」の”「情報の遮断」”であった事が遺された資料の一部に記されていて判っている。
    だとすると、つまり、その推理は「勢力者」は「青木氏の力」を削ぐ為には「伊勢―信濃」の間に「神明社の空白地」を作る事であったろう。
    且つ、それを観察できる様にするには、両サイドから中間地に縦に固めて一線上に監視すれば「ある目的」は叶えられる。

    これは平安期末期から室町期初期までに「力のある影の神明社の存在」が「美濃―尾張間」の「統治者」に執って戦略上好ましい事では無かった事に成る。

    これが「不思議 1の策」と下記の「不思議 2の策」であった事に成る。

    これは、「上記の経緯」から「平安末期から室町期」の「戦乱」で「神明社」が「戦いの城郭」と成った事で故意に潰されたのである。
    それ故に「青木氏」としては「神明社連携」が以降採れなくなったのである。
    その証拠が青木氏の資料の一説に下記の様に記されている事であろう。
    明らかに「青木氏が持つシンジケートの力と情報の遮断」が狙いだったとみられる。

    それには考えられる事として「青木氏」に対して「戦いの為の金・戦費」を要求されていたと観られる。
    此の拒絶した事の結果として、後に「伊勢での青木氏との激しい戦い」と成った。
    これは明らかに、次の「二つの事件」が「美濃―尾張間」の「神明社の破壊」を起こしているのだ。

    先ず一つは、平安期の平家に依る「富士川の戦いと石橋山の戦い」で「戦い拠点」を破壊された事。
    次の二つは、「室町期の伊勢攻め」の時の「織田氏の仕業」と「神教と仏教の力の排除」をした事。
    更に三つは、「平安末期の美濃の源氏化」で「美濃側の方」で「伊勢の影響の強い神明社」を取り壊した事も考えられる事。

    三つ目はこれに関する行の資料記載がない事と、民の為の格式を持つ「国幣社」である「神明社」を壊す事が自ら「源氏化を否定する事」に成り、且つ、「民の信頼を失う事」に成って仕舞う。
    そうすると遣すとしても「直接的な破壊」は先ず無いだろう。

    従って、以上の二つと主に云える。

    (注釈A 平安期末期(1178年〜1180年)にも「神明社」が“「戦い拠点」”とされた為に現実にここでも「破壊」が起こった。
    「伊豆」に流されていた頼朝は「以仁王令旨」で挙兵し、「伊豆の目代」の「館」を襲撃して殺害した。
    ところが「石橋山の戦い」で頼朝は「平家」に惨敗してしまい「安房国」に逃亡する。
    この時に「戦いの拠点」と成って「尾張―三河―伊豆の神明社」は消滅したと記録にある。
    其の後の駿河の「富士川の戦い」でも「尾張東と駿河間の神明社」は消滅したとある。)

    (注釈B 「比叡山焼き討ち」や「今井のシンジケートの排除」や「蓮如への攻撃」や「根来の焼き討ち」や「雑賀族の攻撃」や「紀州門徒衆の討伐」等でも遺ったのに「美濃尾張間の神明社」は消滅した。)

    結局は、「伊豆の神明社」は鎌倉期に多くが消滅するのだが、これが原因して「伊豆」には「祠の神明社」が多い所以なのであって、上記した様に「遺跡」が多い所以でもあるのだ。
    その後、「伊豆」に入った「青木氏の財力」で「神明社」は再興されたが、江戸初期の「神明社の放棄」で「幕府の管轄」と成った結果、「幕府の財力不足」で再び荒廃した。
    殆どは、「江戸期の荒廃原因」ではあるが、「伊豆」では密かに伊豆青木氏が独自に「祠」で祭司していた。
    この事は、「桑名から美濃の西域」は「祠の神明社」で「伊勢青木氏」は祭司していた事を示すのだ。
    然し、「平安期末期」からは「美濃から駿河」と「伊豆までの間」は遂に対策が出来なかったのである。
    つまり、「神明社を経由する情報網」と「美濃から駿河」の「シンジケートの構築」は切れてしまったのである。
    これが「伊豆」まで及んで「商い」で生きていた彼らには生きる死ぬかの大きな痛手であった。

    その「美濃から駿河」の「シンジケートの構築」の断絶を物語るものとして、「織田氏の膝下の岐阜」にあったのだ。
    つまり、それの答えは「信長」である。

    この「信長」は「過去の歴史の履歴」から「青木氏」が「戦い」に裏から絡んでいた事を知っていた。
    それが「神明社の事(今井神社も敵視された)」に成る。(前段で記述・記録有)
    室町期末期には、美濃域で僅かに遺し得ていた「神明社網」が「伊豆」までのその元を断絶された事に成るのだ。
    「伊豆の命の綱」である「神明社」を遮断されたのである。

    それには、「神明社の存在の実情」は、更に、室町期末期の「美濃」には、「不思議 2の策」の事に成るのだ。
    それは「三つの野(青野、揖斐野、各務原野)・三野」にしか「神明社(一社ずつの3社)」は無いのである。(神社含まず)
    これも、「情報網の遮断」であり同様である。

    本来であれば「肥沃な三野である事」からその目的から最も多く有っても良い筈である。
    全国に500社弱あったとする「神明社」である。
    前段でも論じた通り「伊勢の桑名寄り」に集中してでも「19社」あったとすると、少なくとも平安期中期までには、この「三野」にも「天武期の五都計画」でそれなりの数の「神明社」が充分にあったと考えられる。

    そこで「尾張―駿河」の域は再興し得る能力の持つ「青木氏族の存在する地域」ではそもそも無い。
    従って、「美濃の事」でこれを論じて観る。
    元より平安期末期以降は、この間は「神明社」は無かった事から、連携先の関係の深かった「今井神社の情報網」を何とか使っていたのであろう事は充分に判る。

    筆者が行った「シンジケート族」のプロットも「縦の線上形」であったとは云え実はこの間で全く切れているのだ。
    故に、筆者はここまでをこれが「伊勢シンジケート」としたり、「伊勢信濃シンジケート」と書いたりしている所以なのである。

    これは明らかに、実は「信長」に依って「伊勢―信濃間」の「シンジケート」が遮断されていて警戒されていた事に成る。

    これは裏を返せば、ここに「(a−1)(a−2)の様な族」が美濃を逃れ「信濃寄りの山間部」に逃げ込んだとする根拠ではある事になるのだが、これは同時に「信濃のシンジケートの根拠」と成り得ていた事にも成る。
    資料でもそうなっている。
    そこでこの「シンジケート」とは、単なる「経済的な契約」のみならず「青木氏族」とは切っても切れない関係にあった事を当時は一般に常識であった事に成る。

    つまり,何故ならば上記した様に元々は「神明社の繋がり」のあった「美濃と尾張」である。
    そもそも、「設楽」を除いて、この地域は「7世紀の古来」は全て元は「野」であった。
    「古書」によると、その「尾張」は、“尾の張りたる地”と記され、“肥沃で土地厚く天領の国”と記されている。
    その「裕福な農業生産力」で「機内への地理的な背景」から「天領地」として支えていた事が記されている。

    その「尾張の名」の当初の語源は「ヤマト王権」の持つ東の「権力の端(野の尾)」を意味していた。
    この様に「三野と張野」の「広大な野」は「逃げ込む所」は無いし、「野の富」を求めて「武力」が働く。
    今昔共に、「平和」でない限りは、「生存競争」に依って「武力」に弱い「(a−1)(a−2)の様な族」が此処では単独では生き延びられる事は不可能である。

    (注釈 “尾の張りたる地”とは、”元気な動物は尾がピンと張っている”と云う事で、「肥沃な土地」の事を意味する。)

    故に、上記の通り、当然に「平安期末期の戦い」では遂には「両サイドの山間部」に逃げ込む事は必定である。

    では、次に逃げ込んだずっと後の「室町期」のこの「断絶遮断の問題の解決の糸口」の問題である。
    つまり、言い換えれば「室町期以降」は「伊勢と信濃の青木氏族」はどの様にしたのかである。
    何かをしなければ「命の綱」が遮断されたのであるから「信濃の衰退」と「伊豆の滅亡」が目に観えている。

    ところがそれには「最も安全な連携手段」があったのだ。
    それは「神明社の断絶」の起こった「伊豆」でもそうであった様に要は“「船」”であった。

    前段でも何度も論じたが、「伊勢青木氏」は、「紙墨硯筆」等の「宋貿易」で「大船」を平安期初期(925年朝廷の許可で「商い開始」)の頃から持っていて、「1025年頃」には「総合商社」をも営むとある。
    更に「伊勢水軍(七割株)」も持っていた。

    これは「伊豆」に「青木氏融合族」が入るほんの少し前(1159年)の頃の事である。
    従って、「信濃」から「塩尻」の「木曽路」を経て「美濃の土岐」まで出て、そこから「山伝い」に真南の「駿河の渥美湾」に出れば事は事は済む。
    これでここを抑えれば「船の策」は成立する。
    「伊勢水軍」も配下にあるので「伊勢」からのこの「渥美湾」までの「暫定の経路・2時間」は成立する。

    そして、この「美濃の土岐」からの「暫定の経路」の「縦の線状域」には「神明社」や「特定の寺」が「戦い」から逃れて僅かに遺されていて存在分布する。

    後はこの「渥美湾」を海路で獲得するにはその域までの「縦の経路」に「守備隊」として誰を引き出すかであろう。
    「信濃自身」が勢力を前に出して出て来るのか、或いは、「信濃シンジケート」を引き出すかの「二者拓一」であった。
    何れにしてもリスクは大きい。
    「武力」を持たない「信濃」も自らの聖域が「国衆」に依って脅かされている。
    その答えは「何方のリスク」がより現実性があって柔軟に対処できるかであろう。

    その前に、南に出て来る以上はその「縦の環境の如何」であろう。
    この域の多くは、記録で観れば当時は未だ“「三野」”の名の通りに「土岐域の周辺部」は未だ「山間部」であったと観られる。

    「日本書紀の記述」等に依れば、「木曽川」を境に現在の「岐阜県南部」と「長野県木曽郡」の中間地付近に歴史的考察から「三野王の拠点(美濃青木氏)」があったと読み取れる。

    この「拠点」は「木曽川」を挟んだ「各務原野の右域」、つまり、「土岐域付近(土岐氏)」との間にあった事に成る。
    従って、時系列的にここの「三野」に渡り、「(a−1)(a−2)の皇子族」も初期には点在して定住していたと考えられる。
    平安期末期までは「三野王」を始祖とし「氏族」を形成していた「美濃青木氏」、土地の「土豪土岐氏」との血縁族の「土岐氏系青木氏(「各務原野の左域定住)」の「三氏」が住み分けしていた地域と観られる。

    そこで「神明社」に替わる「情報網の復元」の為に「渥美湾の船の対策」には次の手を打っていた。

    ここでこの「重要な注釈」として述べる。

    前段でも論じたが、一説では 「土岐氏系青木氏」の「傍系の流れ」を汲むと考えられていた“「伊川津七党の青木氏族」”が、室町期末期に「三河国渥美郡の土豪集団」として集団化して勃興した事が「古文書や資料」にも記されている。
    この「古文書(郷土史)」の説には実は「青木氏の資料」とは異なっているのだ。
    そして、「三河徳川氏の資料」の中には室町期末期の「三河の戦記等」としての内容の一部に、更に、「額田郡」にも「山間部」から出て来て「美濃の青木氏(額田青木氏・蒲郡青木氏)」を興したと記されている。
    この後の説と「青木氏の資料」とほぼ一致する。

    そこで内部を解明すると、「伊川津七党」の「内部の構成」は実は二つに分かれているのだ。
    「伊川津の土豪の集団」には「古文書」が記する様に、干拓して入植して室町期初期の頃から定住した者等が豪族化して「4つの土豪」があった。
    又、前段の経緯の通り、戦乱期の室町期末期に入った「美濃の青木氏(額田青木氏・蒲郡青木氏)」があった。
    この「二つの族」が互いに護りあう集団の「党」を構築したのである。
    これが「伊川津七党」と呼ばれる集団である。
    この内の「三つの青木氏」に関わる族が入り「伊川津七党」を構築したのである。
    前段で論じた「a−1の青木氏」と「a−2の青木氏」とこれ等と血縁した「bとc族」の「三つの青木氏」が室町期末期に入り、そもそも「合計七党」を構築したのである。

    (注釈 「郷土史」には「郷土」をよく見せようとして、この様に大雑把に表現して真実かの様に見せかけれる手法は目立つ。
    この{江戸期の郷土史}は、信用性を高める為に”「古書」を前提として書いた”としているが、過去の経緯をよく調べないで記述している。
    そもそも、この「郷土史」は「徳川三河の戦記集」には「三つ」あって、この「三つの三河記録の史実」と異なるのだ。この事を敢えて認知しなかった事に成る。)

    「渥美湾」を境に真北に「額田郡」と真南に「渥美郡」がある。
    全く直線的な「真北南の対岸」の位置にある。
    実はこれは偶然ではないのだ。

    そこで、何故、「美濃青木氏」が源氏化して、源平戦で一度、敗退してその裔の一部が「美濃の加茂−木曽の山間部」に逃げ込み「シンジケート」として生きてきた。
    その彼らが、室町期末期に「真北にある額田郡」と「真南にある渥美郡」に恣意的・故意的に出て来たのかである。

    そもそも「一郷士」が出たくらいでは無理であり、当然に「戦国の世」の戦場に出る位である。
    それには、相当な「次の条件」を整っていなければ成し得ない。
    これは「青木氏」にしか解き明かし判らない真実の経緯なのである。



    話は若干逸れるがそれをここで解く。

    一つは「相当な経済力」
    一つは「相当な集団力」
    一つは「相当な武力」

    この「三つ」を裏打ちする事が先ず必要である。
    その上で次の事が叶えられていなければならない。

    「相当な背景力」
    「背景力の権威」

    以上が叶えられれば、「戦国の世」に突如出現する事が可能と成ろう。

    況してや、「尾張の隣三河」である。
    世にも有名な「戦国中の戦国の地域」である。

    此の突如出現する元と成つた「情報網の切断の対策」は、先ず「伊勢と美濃」、「美濃と信濃」の「経路を立て直す事」であった。
    そして、先ずはその上でその経路で「尾張の隣三河」と「伊豆」に繋がる「駿河を繋ぐ戦略」であった筈である。

    「駿河」に繋がれば後は「藤枝、三島、富士宮の伊豆青木氏」に繋がる。
    重複して「今井神社系シンジケート」との連携も可能に成る。
    そうすれば、「伊豆」の「繋がり」は護れる。
    然し、これは簡単な事では無かった。

    それは「最後の決定的条件」は次の事であった。
    それが矢張り、記録には無いが全体の経緯から観て「決め手」は”「船」”であった様である。

    当時の「廻船の裏の仕組み」があってそれには、勝手に「出入り」は出来ないのだ。
    その「海域」を統括する「商人の差配頭(船主組合)」との「繋がり」を持っていなければならない。
    この「繋がり」は「組合株」を入手できるかにあった。
    これらを入手できる事で、「商いの裏表」の「圧倒する力」で、以上の美濃の額田の「二つの国衆」が突然に出現出来上がる仕組みである。
    先ずこの条件を叶える必要があった。

    (注釈 「伊勢海路」での「摂津の組合株」は持っていた。
    然し、未だ突如出現の前は「三河駿河域」の「組合株」は持っていなかった。
    当時は、時の政権が財源を獲得する為に「太平洋側の海域・瀬戸内まで」に「4つ奉行所」を設けこれの管理を商人に任し、そこから「莫大な利権」を獲得していたのである。
    「商人等」は「組合組織」を作り固め、その「組合人」に「株券」を発行して安定を図った。
    「時の政権・武力」を背景にこの組合の差配頭等は政権に勝るとも劣らずの金の力を持っていたのである。)

    室町期までの「紙文化」に依って「巨万の富」を獲得していた「伊勢信濃の青木氏」は、前段でも論じた様に「二足の草鞋策」で、これを当時の大大名以上等比べる事の出来ない程のこの「総合力」を持ち得ていた。

    前段でも論じたが、1545年頃に「伊勢青木氏」は、源平戦に参加し衰退した「駿河域の株券」を持っていた「海運の駿河青木氏の支流族・血縁関係」を呼び寄せ、「伊勢水軍」で再び訓練させ「船一艘」を与えて「伊勢と信濃の商い用」の「駿河水軍」を復興させた。
    つまり、この「駿河青木氏の組合株券」を以てして「渥美湾の利用権」を獲得したのである。
    これで「伊勢」から「伊豆」までの「商いに依る航行権」を獲得した。

    そこで問題に成るのは「渥美湾の中継点」の「確実な構築」であった。
    これ無くして伊勢水軍と駿河水軍を繋いだルートは中継点が弱ければ成功しない。

    そこで「伊勢信濃の青木氏」は「二つの国衆」の背後にいよいよ就いて「大戦略の準備」に入った。
    記録に依ればこれも「1545年頃」に「準備」に入ったとある。
    然し、これは「捉え方」に依っては「武力に関わる禁手」であった筈である。

    その「青木氏族」が、要である「神明社とシンジケート」を遮断された以上、この「禁手」を止む無く外してそこで「織田軍の弱点」を突く事に成ったのである。

    それだけに重要であって一族生命線の「伊豆」を救う為である。
    唯、それは流石に直接に「禁手」を使えなかった。
    そこで「額田」の「信濃シンジケートの族」にこの役目を持たせようとしたのである。

    同時に美濃に居る信濃シンジケートを務めていた「伊勢の裔系」を「300年の時」を経て引き出すチャンスでもあった。

    (注釈 前段でも論じたが「伊勢青木氏}の「額田の裔系・桑名殿の浄橋飽波の裔」にである。
    「彼等」を再び興し、且つ、「伊豆」が救える一挙二策であった。)

    その為には、この域に勢力を持つていた「織田軍」の「彼らの弱点」を突く事にあったのである。
    つまり、歴史的にも有名な「水軍(弱体)」にあった事は有名である。
    以前より勢力を拡大する為には「織田軍」は中部域を抑えるには「織田水軍」が必要であって、伊勢湾の「水軍伊勢衆・9衆」の“「仲間割れ」”をさせて一つの「小水軍」を味方に引き入れた事に奔走したと「三河の記録」にも記されている。

    この事を充分に事前に承知していた元締めの「伊勢水軍」はその前に「伊勢青木氏」と共にここを当に突いたのである。
    ここに「楔を打ち込んだ」のである。

    (注釈 「熊野水軍の九鬼氏」に繋がる「志摩水軍の嶋衆・弥富族」があったとされ、これが伊勢湾の水軍衆の一員であったが、結束を裏切って信長に着いたが然し未だその勢力は弱かった。
    現在も海運業として遺る。)

    筆者は、この「記録」の「行の表現」から観て、「神明社の力」と「情報の遮断」で、相当にぎりぎりに困った末に採った手であったと受け取れる。

    何故かである。それは「青木氏の禁手の氏是」にあった。
    普通はこの「氏是」を破らないと成し得ない事は充分に理解できる。
    要は「氏是」か「伊豆」かの選択で在ったと読める。
    然し、そこで「伊豆」を選んだ。
    つまり、歴史上初めての「実戦」を選んだと云う事に成る。

    そう決まればそこで次の手を打った。
    「信濃シンジケート、つまり、額田青木氏等・伊勢の裔系」を呼び出す前に、記録では、“「1545年頃」に「準備」に入った”とする「行」が直接表現ではないが読み取れる部分がある。
    然し、これには「説得」から始まり「移動」までの「準備」が必要で在ったと観られる。
    「約300年間」も「シンジケート」の中で生きて来た「二つの族」を一つにして「差配頭」を定めて結束させなければならないし、「国衆」としての訓練も必要に成る。
    「訓練の指導者」を「秀郷流青木氏」に協力を求めなくてはならない等多くあった。
    仮に“「1545年頃」に「準備」に入った”とすると、「実行」は三河の記録から「1560年頃」と成っているのでこれまでには「準備期間は15年間」かかった事と成る。

    そこで、この「国衆」にとして仕上げて「呼び出し」には次の様な経緯があった。
    それを複数の資料の時系列を纏めて観ると次の様に成る。

    先ず、次の様に成る。
    1 「木曽と賀茂」に潜んでいた「(a−1)(a−2)の美濃の額田青木氏」、つまり、「信濃シンジケート・とそれに付き従っていた「bとc族等」に力を与えて呼び出した。
    2 そこで呼び出した「美濃の(a−1)」の彼等に「渥美湾」を挟んで「真北に額田郡」に配置した。
    3 「真南の渥美郡」には「美濃の(a−2)の青木氏」と「bとc族」を配置した。
    4 この「海の防衛ライン(渥美湾と伊勢水軍)」を「国衆の武力」で作り上げさせた。
    5 「渥美郡の青木氏」には「伊勢屋信濃の青木氏」であると云う事を前提に”「四家」”を構成させた。6 「伊川津の土豪」等と「伊川津七党」を構築させた。
    7 此処には奈良期初期の古来より神明社(古跡)があり、伊勢より「神官青木氏」が配置されていた。これを基に地元と結束させた。

    (注釈 そこで「国衆の武力」にはある驚くべき誰も出来ない特徴を持たしたのだ。)

    この「史実」に依って、筆者は“「伊勢から信濃までの連絡網」を再構築出来た”と考えている。

    後は、「駿河水軍」と「船での横のライン」を造れば「神明社網」が亡くなった「伊豆」に到達する。
    「陸の神明社替わり」の「船のシンジケート」は出来上がる。

    (注釈 「記録」に依れば、この事に依って「三州街道 R153」を経て、もう一つは「R19」で、凡そ「200キロ」であるが、ここを「三河蒲郡」から「信濃塩尻域」に真っすぐ縦に入った可能性がある。
    「三河の国衆の合力」を得て「武力」に依ってこの「縦のライン」を構築できた。三河三記録)

    そこで、「三河の国衆の合力」の事である。
    「伊豆」までの「海の横のルート」と「信濃」までの「陸の縦のルート」を確立させるに「必要な事」は「三河の松平氏の勢力」に何とか関わる必要があった。

    この「時期の三河」は、主に「今川氏弱体化」と「徳川氏勃興」と「織田氏伸長」の「戦乱の混乱期」にあり、「各地の豪族」が入り混じって「国盗り合戦下」にあった。

    そこで、この上記の「二つの戦略」を実行するには「青木氏族」は、「(a−1)(a−2)」として潜んでいた「美濃の額田青木氏族」を一つに「集団化(国衆化)」して表に出したと云う事に成る。
    記録から「美濃国衆」の45衆の中に二つの「青木氏」が見える。

    (注釈 これは一つは「300年前」からの「伊勢の裔系」の「準備段階の青木氏の美濃国衆」である。
    もう一つは「土豪武蔵七党の丹治氏系青木氏」で、美濃に室町期に入り、森、長井、松平、豊臣、松平の臣に成り、次々と主君を替えて「国衆」を大きくした。最後は摂津1万石の大名と成る。)

    それには、次に「三河松平氏の国衆」に先ずは成る事であった。
    其れも飛びつくような「相当な魅力」のある「国衆」で無ければ成らなかった筈である。
    そうでなければ「松平氏」は信用しない筈である。

    現実に、三河国衆に成る事は出来たが記録に遺る処では「東の三河衆」は信用したが「西の三河衆」は信用しなかったとある。
    その結果として「西の国衆」で在り乍ら「東の三河衆」に組み込まれた。
    「東の三河衆」に組み込まれる事は、「青木氏の描いている戦略」には「違い」が生まれた事に成る。

    「重要な事」は、”美濃から彼等を出す以上は「集団化を壊されない絶対的条件」”を付加しなければならなかった。
    先ず、その為に、そこは「国衆同士」で、「必要以上の戦い」を避ける為に、肥沃な「活用野」ではない“誰も目に着けない「不毛の土地”」であった「二つの域(今川の土地)」に限定してここを確保する事であった。
    「二つの域」と限定して記されている。

    この「二つの域」が次の地域であった。
    ・現在の「蒲郡町付近」(未開の沼地)
    ・湾対岸の「伊川津町付近」と「田原・吉田町付近」(海を干拓した土地)
    以上と記されている。

    その為にこの訓練された「二つの美濃集団」は以上の地域に「直下で先ず南下」したとある。
    当時の「蒲郡」は、未だ「額田一色側の山間部」に向かって地形的に食い込んでいて、何れも「小さい漁村と石切り場」であったらしい。
    記録に依ると、“額田郡蒲郡の「横川(西田川の事)」より「引小舟」で北に遡った“と記されている資料もあり、従って「奈良期の美濃王の本拠」は現在の「額田の一色町」にあったとあり、これが「額田の事」に成る。



    さて、ここで次にその前により理解を深める為にも、先に重要なのでこの「一色」の“「成り立ち」”を説明して置くとする。


    そもそも、この“「一色」”の「地名」は、「伊勢」にもあって、「施基皇子」の「しき」を“「一志」“と”「一色」”との「二つの地名」に変化した事と成っているが、別の資料では「志紀」と「色」もあるとされ、現実にこの資料の通り、現在もこの後者の「二つの地名」も伊勢にある。合わせて「四つ」である。
    この「資料の分け方」に意味があると考えられるが判らない。
    然し、筆者は、語源から観て「地名・大字の古さ」に依るのではと観ている。(下記)

    この「地名の呼称・本貫名」を「地名」や「第二の氏名」として使う事は、直接に「施基皇子名」を使う事には憚られ、且つ、「嵯峨期の詔勅」で禁じられている。
    従って、そこで「施基皇子の権威」を誇張して良く見せようとする場合は、この「一色」等を使用した。
    つまり、「額田青木氏」は「施基皇子」の「子の桑名殿」の「二世族王の裔系」であるとして、「額田の端浪の定住地」にこの「一色」をある理由で使用したのである。

    注釈 この「本貫名」が「足利氏の裔系」に鎌倉期から室町期には乱用されたが、本来は中国から伝わった「古来の習わし」で、その「姓の発祥地」を「本来の姓」の「戸籍名」として、この「権威名の一色等」は、「本貫名」、又は「第二の姓名」と称し、「権威や象徴性」を「搾取的」に高める為に用いた。
    「足利氏の裔系」には、そもそも、この「本貫名の由来」は全く無いが、恐らくは源氏支流性を誇張する為に搾取しても用いたものである事は判る。

    さて、そこで「額田郡の事」に付いては、前段でも論じたが、「青木氏の記録」では「一色殿」、又は「額田殿」の「二つの記録」が遺る。

    明らかに「蒲郡」と「伊勢の地名」と、同じ“一色”の「地名」を使っている事は、彼らは「(a−1)と(a−2)」の族(「美濃の原士・信濃シンジケート」)であった事に成る。

    そして、彼らは「伊勢信濃青木氏」と血縁性の強い平安期初期の「美濃の額田青木氏」か「土岐氏系美濃の青木氏」であって、平安期には「皇子皇女族」の多くが「三野王族系」に入った。
    つまり、確かに過去には「嵯峨期の新撰姓氏禄」の「族区分け」の「(a−1)と(a−2)」の族(「美濃の原士」)であった事には成る。
    然し、ここに「天皇としての裔系」の無かった「光仁天皇・施基皇子の四男」は、止む無く「光仁期」に出自元の「伊勢の青木氏」を「追尊」をして受けて「二世族と三世族」が王位等を意思に反して追尊された。

    この時、「桑名殿の女」の「浄橋と飽波」の「二人」がこの「美濃王」に嫁いだが、この「二人」は「氏としての路線の違い」を理由に「女系の裔系」を美濃の額田に構築した。
    実質は、「伊勢青木氏」と「美濃王の青木氏」の「裔系差の争い」が「三野の内部」で興ったと見られる。
    所謂、「源氏化の路線争い」である。

    この「現れ」の一つの証が「一色の地名」であって、その中には、「“一色”の地名」と「“額田”の地名」まで遺した事と、“「一色殿」と「額田殿」”の「二つの記録」が遺る事を勘案すると、これはより「青木氏族」に近い「追尊皇女族の子孫(a−1)」が居た事を示しているのだ。
    つまり、間違いなく「伊勢青木氏の裔系」であったのだ。
    そもそも「三野王族系」には決して使えない「清光寺や清光院の存在」が明らかにこの事を証明する。

    (注釈 念の為に「前段の記載」を重複すると、(a)は「皇族真人族系」で、 (a−1)は「皇子皇女の朝臣族系」で、(a−2)はその「末裔の朝臣族系」で、その「区分け」は「新撰姓氏禄」に依る。
    「美濃の(a−1)族」は、「光仁天皇期」の「伊勢青木氏の桑名殿」の「追尊二世族」で「浄橋王女と飽波王女」による「直系の女系子孫」であり、「伊勢青木氏の裔系」である。
    「(a−2)」はその「伊勢青木氏の裔系」の子孫族である。
    (bとc族)はこの地に赴任していた「官僚族」であったが、(bとc族)は二派に分かれるも後に「(a−2)族」との血縁で繋がった族系である。
    「源平戦」で「三野王の美濃族」が滅亡し、これに参加しなかった「伊勢青木氏の裔系」、つまり、「浄橋と飽波の女系の裔系族・a−1、a−2、bとcの族系」が「信濃シンジケート」と成って「額田・一色・端浪の以北の山間部」に逃げ込んで、「伊勢信濃」との「繋がり」を持ち生き延びた「伊勢青木氏の裔系の族」である。
    但し、「早期説」としてとして云うならば「源平戦・1178年」より少し「早期の時期」に逃げ込んでいる可能性がある。)

    注釈として、 何故なら歴史的な経緯から考察すると、平安期(関東屋形)に「秀郷流一門の結城永嶋氏」の「勢力圏の最西端」にあった事を前提にすると、この域を利用してこの「額田郡」と対岸の「伊川津」の「国衆としての獲得」はこの「勢力圏」を「梃子」に周囲を牽制する為に此処を選んで張り出して来ていた事をも示す資料でもある。
    つまり、この域が一つの理由として「後の国衆」として「安全な戦略的域」としては都合が良かったと観られる。

    要するに「上記の早期説の前段説」である。
    後記でも論じるが、三河の三史の一つ「戦記物語」の一説に本格的な「国衆」と云うよりは「家族の様な集団族」が「美濃」から降りて来たような表現が観られるが、「物語」であるので事実は判らない。
    「武力の国衆」として本格的に降りて来るのではなく、「足掛かり」として先ず降りて来たか、「伊勢の裔系族」が「源平戦の影響」を避ける為に一部を「渥美半島の古跡神明社・伊勢神官族青木氏」を頼って逃がしたとも採れる。間尺が一致する。

    兎も角も「伊勢と信濃青木氏」は、「伊勢藤氏」やその一族の「伊勢秀郷流青木氏」や「秀郷流伊勢長嶋氏」を始めとして、この「情報遮断の事」に付いて、彼らに「戦略的な協力」を求めたとも考えられる。
    とすれば、当然にこの域に影響力を未だ持ち得ていた「青木氏族秀郷流五氏の永嶋氏」にも協力は求めたであろう。
    それは、「永嶋氏の丸に片喰紋」の「家紋」を、この「額田青木氏」の中に引き継いでいる事でも判る。

    つまり、彼らの中に「美濃青木氏の笹竜胆紋(美濃の原士)」と、その「血縁族」の「揖斐氏と土岐氏(土岐氏系青木氏)」の「家紋」があり、この「土岐桔梗紋」である事から考えると、この彼らの中には「別系の秀郷一門」の「丸に片喰紋の家紋」が見えるのだ。
    どの程度の裔系であるかは判らないが、確かに彼等の中に小さいながらも「現地孫」を遺していた事は判る。

    (注釈 「州浜紋」もあるとする「近江佐々木氏の研究記録」に散見できる。
    これは「秀郷流青木氏」がここまで張り出して来ていた確実な証でもある。
    これ等の「歴史的な見地」からして、「秀郷流青木氏」、又はその一門の「永嶋氏」等が「伊勢域」まで張り出した時期は次の史実からも判るのだ。)

    (注釈 「鎌倉幕府の頼朝」に合力した功績により特別に「秀郷流宗家の朝光・結城の出自」が、「平家の所領」として奪われていたものを、「結城等の永嶋氏所領」として認めて貰った。
    この史実からであるが、結城氏が天智期に「山陽道の建設」に関わった事が「日本書紀等」にも記されている事からも、秀郷一門の前の氏族の元は奈良期初期のこの時期からである事に成る。
    それが「将門の乱」でも判る様に「平家」に奪われていたのである。)

    この上記の「注釈の事・結城域の奪還」から結果として、「青木氏族」の「永嶋族」は「力」を獲得し「関東屋形」と呼ばれる様に成って、その「勢力」は中部域まで確実な形で張り出していた事に成る。
    ここ事から「四国等の守護職」までも務めているのだ。
    この時に、この地域に一門の片喰紋と州浜紋の家紋が広がったのである。
    この時期が鎌倉期から室町期までの「1245年〜1540年頃」までである。
    故に、この事から「片喰紋や州浜紋」は、この時の「永嶋氏の印」であり、「三河国衆」の中に分布する「秀郷流青木氏一門」に「早期説の前段説」の”「準備段階」”で協力(国衆としての訓練)を得ていた可能性は否定できない。
    先ず間違いは無いだろう。

    戦略的には、この「美濃や信濃」の「山間部」に逃げ込んでいた「元美濃の浄橋と飽波の女系族・(a−1)(a−2)の信濃シンジケート」を国衆として三河に「単独で押し出させる」には僅かに残る「秀郷一門」の「地元の協力・地域の状況把握・繋」が必要であった筈である。
    その「押し出した先の地域」が「古跡の神明社」がある「蒲郡と吉田・田原」であるとすると、「家紋」の通り「三野の洲域の植物」の「片喰族と州浜族」の定住地であるので、時系列的にぎりぎり符号一致する。

    丁度、張り出していた「永嶋氏の勢力」が落ちて来た時期に、この前哨戦の「情報・運搬ルート奪還作戦・シンジケート」を敷いた事に成る。
    「伊勢青木氏」等は「永嶋氏の勢力」が落ちて来た時期のこの時以外に無いと観た事にも成るだろう。
    この時期を逃したら“相当の犠牲を負う”と観たと考えられる。
    敢えて、戦乱期を選んだ方が成功率が高いと観たのである。
    従って、既に「早期説の前段説」が事実であるとすると、その年代からも矢張りその「1540年頃の直前」であった事が判る。
    現実に「奪還作戦の顧問役」として「伊勢秀郷流青木氏(秀郷流近江族の左衛門太夫高郷の末子の玄蕃梵純)」が「美濃三河」を経由して軍を移動させ「結城」を護る姿勢を示しながら、「秀吉の奥羽攻略」に対して背後から「奥羽結城を護る戦略」を「事前」に採っていて、確実に「動いた史実」があり現実はそうなっている。
    そうする為には、この「三河の勢力圏」をある程度一族で抑えて置かなければ「玄蕃梵純の軍」は進められない筈である。

    明らかに、それまでは「平安期末期から室町期」まで「加茂―木曽」の山の中で「美濃の原士」として静かに暮らしていた事で、彼等にはこの「秀郷一門との血縁」はこの間には先ず無い筈である。
    それ以前の平安期と成っても、「時系列」と「家紋と永嶋氏の経緯」から観ても無いと考えられる。

    単に「家紋」から観れば「秀郷一門」(「永嶋氏か小田氏」)が、確かにこの時、一見して「張り出してきた事」の様に観えるだろうが実はそうでは無かったのだ。

    (注釈 つまり、「伊勢青木氏」が直にこれに追随するのでは無く、これは「信長との摩擦」を敢えて避けていた事に成ろう。
    それの方が「美濃三河の戦略・国衆作戦」に執っては事を殊更に大きくせず都合が良かった筈である。風林火山である。)

    唯、先ずは、この「初期の目的」は、「信長との敵対」では無く、「神明社の排除策」に対する策ではあった。
    その為のこの「情報・運搬ルート奪還作戦」は周囲に対して「牽制の戦略」であった事は充分に解る。
    然し、果たしてそれだけなのか、ところが“違うとしたらどの様な働きの役目をしたか”は分かっていない。
    又、この「永嶋氏」が記録からそもそも「一族の伊勢の長嶋氏」であったかも分かっていないのだ。

    唯、これは記録に頼らなくても次の「状況証拠」で判る。

    仮に「伊勢長嶋氏」であるとすると、少なくとも「青木氏族」の「秀郷流青木氏族との血縁」は、直接の「原士との血縁」では無かった事から、「美濃の氏族と成り得ていた原士」はその「対象」とは成り得ず無かった事に成る。

    この「情報・運搬ルート奪還作戦」の策として「額田と伊川津の青木氏(a−1)(a−2)」、つまり,約300年を経過して支援は続けていたが「美濃の原士」と成り得ていたのである事に対して、何とか“「青木氏族」”に難しい事ではあるが再び組み入れる様にした事にも結果として成る。

    (注釈 「三野王の裔系の美濃青木氏」が「源氏化」で敗退し衰退し滅亡して完全に「青木氏」から離れた。
    「伊勢青木氏の四家の桑名殿」の「二世族の浄橋と飽波」はこの「嫁家先の源氏化路線」に反対して敢えて自らの「女系の伊勢の裔系」で一族を造り離れ山間部に逃げ込んだのである。
    この逃げ込んだとする説とは別に上記の「早期説の前段説」の如く「三野王族」とは離れたとする説もあり、これには「美濃木曽の山間部と渥美」には離れたとする論説に成っている事に留意。)

    この為に、そこで「早期説の前段説」の事も含めて、兎も角も「伊勢と信濃の青木氏」は、「15年間の準備段階」として彼等を積極的に同時進行の形で「前段の妻嫁制度」を用いて、先ずは「伊勢の裔系」の彼等を「組織の強化・結束力の強化」をしようとしたのだ。
    この事には変わりはないだろう。

    元を質せば、その出自は「(a−1)(a−2)の族関係」にあったが、そもそも「伊勢」はこの「四掟の関係」を無視して「美濃の原士(伊川津七党の青木氏に成る)」に対しては、その為(源氏化防止)に急いで改めて敢えて「妻嫁制度に依る血縁」を進めたと考えられる。
    要するに「300年の溝」を埋める為にである。
    つまり、より「血縁」に依る元の「伊勢族にする策」を採ったと云う事に成る。
    この「血縁」の一つが、「額田」から「三河の伊勢族」に入った「丸に片喰紋の所以」(州浜紋)に成ったと考えられる。


    (注釈 「美濃原士」とは「四掟範囲」では無かった為に本来は「血縁相手」とは成り得ず「300年の時」を経た。
    然し、「準備段階の範囲」に於いて「国衆」として引き出すには、「絆関係」はあったとしてもこの「四掟」が「大きな隔たり」と成っていた。
    そこで、「(a−1)(a−2)の族」が「伊勢の裔系」である以上、「美濃原士」を「伊勢郷士格」として見做し、「女系の嫁家先制度の血縁関係」を敷いたと考えられる。
    それが上記の家紋に出ていると観ているのである。
    「美濃原士」は「都の下級官僚族」であった事から「秀郷流永嶋氏の裔系」ではあり得ないからである。
    唯、血縁するとして「嫁家先制度の前提」と成る妻嫁制度を敷いていたかは良く判らないが、「清光院・女墓」がある事からある程度の「妻嫁制度」を敷いて「女(むすめ)」を養育していた可能性がある。)

    (注釈 「伊勢と信濃」は「賜姓五役」や「9つの縛り等」の「伝統」を護り「家紋・象徴紋」は「笹竜胆紋」以外にそもそも無く、「額田青木氏」にだけは「青木氏のこの伝統の縛り」を外して改めて「伊勢の血縁族」として「片喰紋と州浜門の青木氏」を「三河」で持った事に成る。
    当然に上記した「氏是の禁手」も外したのである。
    そして、一方で「古い伝統」を外しながら「矛盾」と成るが「伊勢の裔系を強める策」に出た事に成る。
    「伊豆や美濃の原士」等を救う為に“柔軟に対処した事”に依る。)

    そもそも、「(a−1)(a−2)の族関係」、つまり、「原士(伊川津七党の青木氏)」は「信濃シンジケートの一員」であったと云う事は、「伊勢と信濃の青木氏」は、最低限その「内部の続柄の変容」を掴んでいた事に当然に成る。
    とすれば、「丸に片喰紋の所以」(州浜紋)の「美濃族」に成り得ている彼らに対して、「妻嫁制度に依る血縁」は「周囲に目立たない最低限の範囲」で進めていた事が考えられる。
    「内部の続柄の変容」を掴んでいる以上は其れの方が自然であろう。
    だからこそ「情報・運搬ルート奪還作戦の策」に彼等を説得して引き出せる事が出来たと観られる。

    唯、それには「大きな条件」があると上記で論じた。
    それは、ある意味で「300年の時の安定」から「変化」を急激に与えるのである。
    故にこの「説得」には現在と将来の彼等への「完全な保障」と「今後の戦略」が必要であった。


    「完全な保障」と「今後の戦略」には大きな歴史があった。
    多くの資料にこの事が記録として遺されているのだ。

    それが、先ず、“「青木氏の商記録」”に依れば「信長」などにも出来ない「伊勢と信濃」だけが成せる「超近代的な保障」であった事が判る。

    それが「受け取り方」に依っては、「商記録むは”「別の商い」”であるかも知れないが、この時期に「大量の銃調達の計上(300丁)」がこの商記録にあるのだ。
    前段でも詳細に論じた様に、それだけの「近代銃」が大名の歴史史実の中にこの時期に抑々無い。
    其れだけに未だ「銃の調達」は金額的にも汎用的では無かった。
    記録としてあるのは「美濃の原士の国衆」にあるし、三河戦記の三記録にこの事が記されている。
    これは「青木氏の商記録」と一致する。

    これだけの「銃調達」を出来る大名は「信長」でも無理で、使うとすれば「銃の傭兵」の程度で、「雑賀族の銃の傭兵」を雇った史実もある事でも証明できる。
    「銃」は松阪の隣の「和歌山の雑賀族・鈴木一族」で生産されていた。
    「堺の支店」の隣である。


    ここで更に先にその「答え」を明かして置く。

    この「計上」は上記した様に後の「松平氏の戦記録」にも類似の記録が記載されているので「商記録」はこの事であった事が判る。
    つまり、「額田青木氏の二つの国衆」が「銃隊の編成」であった事が記されている。

    それは「額田青木氏等」に対する「超近代的な保障」は、この「経済力」に依る“「大量の超近代式銃の供与」”であった事に成る。
    彼らを「引き出す保障」として、これは成立する条件であろう。
    「国衆」は未だ見た事もない銃であり、それも超近代銃であれば驚くであろう。
    その当時としては“「信長」でさえ持ち得なかったもの”であった。

    (注釈 この事は詳しく前段で論じた。)

    さて、元に戻して「秀郷流青木氏」との血縁であれば、武蔵まで行かずとも「伊勢青木氏」と「同族並みの血縁」を進めている「伊勢秀郷流青木氏」や「伊勢伊藤氏」や「伊勢長嶋氏」が近くに現存していた。
    この「家紋」は「伊勢長嶋氏の家紋」でもある事には間違いないが、同紋で血縁を進んでいる「伊勢秀郷流青木氏」でも「片喰紋の家」もある事は同じであり当然である。

    「情報・運搬ルート奪還作戦」は何も武蔵までは話を持ち込む必要は無い筈であり、第一、この策の話を持ち込んだのは「伊勢と信濃」であり、リーダシップを執るのは当然である。
    従って、「伊豆」を含めた「青木氏族」を固めるのであれば、「伊勢の方」が良く充分に目的は達成出来る。

    これに依って、この事を知れば「周囲の武力勢力」は、この“「美濃の原士」”だけの行動とは観なくなり、青木氏の国衆に対しても有名な「背後の抑止力の形成」が出来る事に成る。
    中でも「伊勢秀郷流青木氏」はこの前後に「軍」を動かして「結城」を護ろうとしていた事は有名であった。歴史の記録にもある喰らいで、「信長も其の後の秀吉」も警戒していたのである。

    そうすると、「周りの勢力」が「美濃の原士」等に手を出せば「青木氏族の影の力と背後の力」で、逆に潰されるか怪我をする事は誰でも知っている。
    要するに「抑止力のシンジケート」である。
    その上に「超近代式銃」で武装した特異な「国衆」であった。
    従って、確実に安全を確保出来る。

    もう一つは、「伊川津の七党(四土豪と額田青木氏等の裔系三氏)」が結束して、「一つの武力集団」を結成したのだが、この「七つの豪の族」の中身が全て「美濃の原士」だけであったのかは記録的には良く判っていない。
    然し、それは下記の通り「状況証拠」で判る。

    「古書」にも“「貝塚の事」”と、「古跡の神明社の事」と江戸期に“「伊川津の田原」”に港を開いた事だけが記載されているだけで他に詳細な記載はない。

    (注釈 唯、「近江佐々木氏の研究記録」には、「伊川津七党青木氏の資料」はあり、「伊勢青木氏の商記録の資料」と一致している。)

    そこで、然し、前段でも論じた様に、「武蔵七党」の例がある。
    これから「手繰れ」ばそれは簡単に判るのだ。
    そもそも、「力の持つ惣領」が「武士」を集めて「命令の武力集団」を結成するのに対して、「党」は、「弱小武士団」を「和合の集団」により集まり、互いに「同族的結合」を成し護りあう「共和的結合」を云うと成っている。
    鎌倉時代末期から、室町期にかけて勃興した「地縁的血縁的集団」を云うともある。
    中国地方の亀甲集団もある。

    この定義からすると、「古書」にある「伊川津七党の青木氏の三氏」とは、次の事が云える。

    第一は、「七党」は「青木」の「諡号の姓」を有している事。
    第二は、「氏」と明記していて「姓族」では無い事。
    第三は、「七党」の相互は完全同族では無い事。
    第四は、「何らかの血縁性」を有している事。
    第五は、「何らかの地縁性」を有している事。
    第六は、「七党の勃興期」は同一であった事。
    第七は、「和合集合」であった事。
    第八は、「共和的な結合」であった事。
    第九は、「平安期」では「武士相当(bとc族)・武力を持つ官僚集団」であった事。

    この「九つの条件」を成立するに相当する集団は、何れも「美濃の原士」と成り得る。
    然し、「渥美の四土豪」はこの「渥美を護る武力を持つ官僚集団」であったかは判らない。

    そもそも古くは、奈良期末期から室町期初期まで、「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「(a−1)(a−2)の朝臣族」とその「官僚族の数族(一部bの族を含む)」と成り得る。
    「美濃の原士」の其々は、「蕃族系」の「同宗同門の族」ではあるが、濃い血縁性を有していない限りは「同族」では決してない。
    「約700年間の間」に興った「(a−1)(a−2)の101族」に従い朝廷から派遣された「下級地方官僚族」の「(bとc)の官僚族」に近い「美濃付近域」に集まった「同宗同門の族」と云う事である。

    (注釈 この「下級地方官僚族」とは、況や、「(bとc)の官僚族」ではあるが、この「姓」には「2系統」があって、先ず歴史によく出て来る「地名」を「姓」とする「県主・村主」,又は、「稲置」などの土地の「領首的性格・政人と武人」を持つものと、余り知られていない「職名,部曲名」を「姓」とする「伴造的性格・職能部人」を持つものとがある。
    これ等の官僚族は「首人・おびと」、又は「首」と呼ばれていた。
    これ等が全国各地に「実務官僚」として配置されたが、多くは主に前者が武力で以て統治していたので取り分け「美濃域」には多く配置されていたと考えられる。
    後者はその土地の産物や鉱物の発掘や家屋建設など「作業的な仕事」に従事していた要するに「部人」である。
    「美濃国」は元より「天武期の五都計画」の地にあり、彼等の様な多くの「下級官僚族」は「三野王の配下」に置かれていた。
    「三野王」は遙任して国司代を置かず自ら現地で統治したとある。
    それだけに美濃は「現地性と内の色合い」が強いのである。
    これは「平安期の末期までの前後の事」であるので、結局は「美濃側に味方する者」と袂を分かち合った「浄橋飽波に味方する者」に分かれた事に成る。
    どの様に別れたかは判らない。
    普通はこれ等の「官僚族の姓名」が地名に遺るのが庸であるが、「現在の地名・42」からはそれが読み取れない。
    「五大都の制の地」であるので、「都の五大官僚族」の姓名が遺る筈であるが見つからない。
    何故か、「戦乱の影響」から「地名に纏わる伝統」が消えたのであろう。
    それだけに平安末期から室町期までの混乱と戦乱は激しかった事に成る。)


    さて、そこで前段でも論じた様に、この官僚族は兎も角もこの「101族」の内、「皇族の皇子系朝臣族」は、「伊勢や信濃や近江や甲斐」に入り生き延びる事が出来た。
    然し、「皇族の王系朝臣族(第五世族以降・官僚族)」は、この「美濃の地(美濃の原士)」に隠れた。
    その他の王族系の多くは死滅した。

    当然に、他の一説によると、上記の通り「平安末期と室町期初期」まで多くは滅亡したが、この「美濃の原士の族」が自発性であるかは別として、「300年の歴史」を経て「三河の末端近辺」に出て来て事前に「伊川津七党」と呼称して結束していたと成るとこの「事前説」が成り立つ事もある。
    「七党説の根拠」からこの「事前説と云う説」も成立する事は確かである。

    「美濃」は上記した様に、「地名に纏わる伝統が消えた」ほどに普通では考えられない程に「混乱と戦乱の影響」が激しかった事を考えれば、此処にも「子孫」を遺す為にも分けて逃がしていた事の「事前説」も納得出来る。
    但し、問題は「出て来た後の呼称」と成るのか「事前の呼称」と成るかがこの他説で明確に成らない。

    そうすると、この他説で行くとここで「額田郡の青木氏」とは「違い」がここで生まれる。

    この先ず「大きな違い」は、「額田郡の青木氏」は、対岸の「伊川津」の様な「党」を結成していない。
    「半島の伊川津」に対して、歴史の史実にも出るこの「額田郡の海」に面した「野」に出て来ている。
    そして、この記録から考察すると、「本庄本貫の地名」を「商記録の添書」にも観られる様に、“「額田殿」”として、又は、“「一色殿」”としている。

    これは明らかに「額田郡の青木氏・額田青木氏」であり「蒲郡青木氏」と呼称されている。
    そうすると「蒲郡青木氏」は(a−1)族であった事に成り、「伊川津」は(a−2)族と(bとc)の血縁官僚族であって、「二つ」に分けた事に成る。
    これであれば「室町期説の後期説」と「平安期説の事前説」も成り立つ。

    とすると、対岸に存在する「伊川津七党・田原・吉田地区」は、「額田郡の青木氏・額田青木氏・蒲郡青木氏」の「二つの呼称」が明確であれば、必然的に「伊川津青木氏」と「田原・吉田青木氏」との「二つの青木氏」で当時は呼称されたいた事に成る。

    「渥美郡の伊川津」は、古来より「田原・吉田の地」の中央の森林地帯から「真北の湾」に向かって「伊川の流」とで湾海流に依って砂地が集まり「津」が進んで拓かれた地域である。
    そもそも、「貝塚」のある古来より「津の開墾」が進んだ地域である。

    前段でも論じたが、幾つかの古書に依れば飛鳥期から奈良期初期に改めて此処に「六つの郷・地域」に「住む者等(飛鳥期の磯部族)」に依って互いに護りあう「磯部族」の「郷」を形成したとある。
    その後、此処に「北の山間部」から降りて来た族・「(a−2)と(bとc)の原士」がこの「六つの郷」に入り、「七つの郷」を造り、結社して「伊川津七党」と成った事に成ると記されている。

    その証拠としては、「奈良期の最古の神明社」がこの田原地区の中央に「遺跡」として現存しているし、「貝塚」もある。

    「日本書紀や古書」に依れば、「信濃や土岐等の地域」が古来から「山間部の物」と「塩や海産物」との交換をしていたと記されている。
    それを仲介していたのが「後漢の渡来系」の「磯部族」と記されている。

    (注釈 この「磯部族」の「六つの郷(六つの党名)」であったかは確実には良く判らない。
    然し、「流れ」からして充分に有り得る事である。
    「日本書紀」に依ればこの「磯部族」は中国系の「初期の渡来人」であったと明確に記されている。
    後に子孫を遺しここに住み着いた可能性がある。
    この域に遺る「磯部」の名が多い所以であり、海産物を加工する「下級官僚族の職能部人」の部類であった事に成る。
    最終、古書に依る通り戦いに世判つた所以で逃れて磯部をしながら土豪と成ってここに住み着いたと考えられる。)

    (注釈 更に詳しく「日本書紀等」に依れば「信濃」から「美濃三河」に物資を輸送し帰りに交換物資を「大型馬で搬送した事」が記されている。
    それが「馬部」であったと記されている。
    この「磯部」と「馬部」は共に交易をしたとあり、この東海地方の海の物を加工する事を命じられた「磯部族」と同じの「渡来人の馬部族」は「朝廷の命」で「信濃路一帯」に「牧場の開墾」を命じられている。
    この「信濃一体の馬部族」と「美濃三河駿河一帯の磯部族」とは相互に物々交換をして血縁関係を保っていたとある。
    故に、これが渥美の此処には「飛鳥期末期か奈良期初期」の朝廷に依って置かれた「古くからの祠」があった所以であって、ここに古跡に類する「初期の神明社」が存在したのだ。
    伊川津には奈良期初期の「磯部」の活動した「貝塚古墳」もある所以であるのだ。
    其の後、奈良期後期に「伊勢青木氏」に依ってこの「古祠」を護る為に「一族の専属の柏紋の神官青木氏」を配置して新たに「神明社」として創建し祭司したのである。
    これが記録の読み解く由来である。)

    上記の経緯や注釈の様な「史実の背景を持つ事」から「伊川津青木氏の経緯」が判る。
    何よりも「神明社の古跡」とその隣に「新たな神明社」が存在する事は、時代性は兎も角も「美濃・額田」から出て来て「所縁の地」としてここに居を構えた証でもあるのだ。
    ここに「神明社」が在った事は、賜姓(647年)を授かり「神明社を守護神とする事」と成った時期より、「神官族の青木氏の存在」を古くから証明するものであり、隣の「新神明社」も「神明社」としては古く、「神官族の青木氏の所以の地」であり続けた事に成るのだ。
    それが何時しか「豊橋までの域」であったと考えられる。

    (注釈 「豊橋の事」を物語る青木氏の資料が一部あって、これによるとこの「神明社の神官族の生活の拠点」としていた事を示唆している。
    恐らくは、「647年〜660年」の当時はこの{田原の古跡神明社付近」は相当に「生活拠点」とすることが困難であった事を物語るもので、「豊橋」に生活拠点を置いて一定期間祭司に籠もり定期的に交代しながら務めていた可能性があるのだ。)

    従って、この事から上記の「事前説」では、何も急に無関係な地の「渥美郡」に美濃から飛び込んで行った訳では無いのだ。それなりの由縁が在ったのだ。
    注釈の通り「豊橋」までとすると「吉田まで所縁の地」の幅であった事にそもそも成る。
    故に、現実に「伊川津青木氏」と「田原・吉田青木氏」と二つで呼称されている所以なのである。

    従って、この「上記の史実」から導き出した結論は、「奈良期後期」の「早い時期」の「事前説と云う説」は「美濃からの移住」は先ず論理的には無い事には成るが、問題と成るのはその後のその「二つの時期」であって、上記の「室町期説の後期説」と「平安期後期の事前説」は「注釈」から導き出せばあり得る事である。

    下記の1の「奈良期後期説」は、現実には「伊勢からの神官族の活動説」と成るのである。
    そもそも、奈良期の後半の桓武期直前の「浄橋飽波の子孫説」は未だそこまで「裔系」を派遣させられる程に拡大させていないであろう。

    恐らくは、「事前説」が1を以てして根拠とするとすれば、奈良期に伊勢から派遣された「神明社の青木氏」の「神官族の史実」を以てして、この江戸期に記された「郷土史説」が史実を読み間違えて我説を造り生まれた可能性があるので否定出来る。

    然し、「青木氏の由緒ある柏紋の神官族」は、「3年から5年」に一度、伊勢に帰り交代する掟と、青木氏の本来の掟として「現地孫を遺さない堅い掟」と成っている事と、「四掟の掟」と「神道の神官族」である事から合わせてあり得ない事である。
    況してや、江戸初期の神明社の幕府に引き渡しの後に興り得る事であって、室町期には起こり得ない話である。
    「青木氏」では「現地孫」は青木氏では無くなる。

    この平安期初期前後までの早い時期の「事前説」は成り立たないのだ。
    あり得るのは、下記の2の「平安期末期の説の事前説」と成るだろう。
    この「源平戦の頃」では「浄橋飽波の伊勢の裔系」は「4Nの2乗」の論理から400年では充分に拡大している。
    戦乱に巻き込まれない様に、「a−2の裔系」と関係する「bとc族等」をこの「神官族の要る所縁の地」に一部を避難させた事もあり得る。
    然し、この場合、この「田原」は「圷の沼地」で大勢が住める地域では無かった。従って、移動するとすれば上記注釈の通り神官族の生活の拠点の「豊橋」と成り得るだろう。
    2の事前説は、「伊豆の事」や「京綱の事」や「国友の事」から観て「2の田原」は先ずあり得ない。

    次に、「国衆」と共に南下した「直前説」の更に前の「1540年の準備段階」の前の「事前説」はあり得る。

    然し、「3の事前説」であるが、下克上と戦乱期初期は、寧ろ、額田から木曽路の山間部で生活していた方が安全である。
    郷土史では、「田原の圷」は少し埋め立てられた記録があるので、生活はある程度可能であった。
    全国の国衆が入り混じって戦っている地域である。
    青木氏の記録から「南下の時期を見計らった事」が書かれているのでこの時期には必然性はない。

    残るは4と5である。「事前説」は別として現実にはこの何方か、将又、両方かである。
    答えから云うと、筆者ならは「移動のウエイト・主副」は別として「両方説」を採る。
    それには「一色」の本貫名が左右すると観ている。

    1 奈良期後期の浄橋飽波の嫁家した直ぐ後の源氏化路線での決別期
    2 源平戦の頼政の事件の平安末期の混乱期
    3 室町期の混乱期

    4 国衆の準備段階の前期
    5 国衆の南下期の直前期

    唯、然し、この「5つの判断」には、そもそも“南に降りて来る拠点”と成った「一色」の「地名と族」に関してその「呼称」には二つあるが、これが大きく左右していると観られる。

    そこで、これを検証しておく必要がある。

    ここで、この「愛知県西尾市」の「一色」は、歴史的に1406年までは「一色氏・斯波氏系足利氏」の「本貫」とするものであった。
    ところが、この「一色氏」は、本来は、「清和河内源氏」の「傍系足利義国の子」であり、「西尾の地」に「鎌倉幕府の地頭」で始めて派遣され住み着きそこで「本貫名」として「一色」を名乗ったとしている。
    そもそも地容器で論じた様に「本来の格式を持つ一色」の「出自」では無い事から「時代性」が異なる。
    「傍系足利義国の子」の「一色」は「9つの縛り」を護らなかった「源氏、取り分け河内源氏」には
    更に、その格式と謂れは元より無く、そもそも「一色」は伊勢の「本貫名」であり、諡号ではない「姓名」である。

    (注釈 守護職 1376年からの1476年間 変遷実質80年間)

    上記で論じた「氏是の添書の書」に記載されている様に、本来のこの「一色」は、上記した様に「奈良期」からの「伊勢」から発祥した「一色・716年頃」である。
    この「一色」が使われる理由とは「施基皇子・追尊春日宮天皇」を所以とする「伊勢の青木氏の格式」にあった。
    それは何時からこの「一色」を使う事の「格式」が生まれたのかである。
    そして、何処に「一色の地名」があるかである。

    「一色の地名」
    「三重」と「岐阜」と「愛知」と「京都」の四か所である。
    つまり、ここは「五家五流青木氏の定住地」である。
    ところが「信濃と甲斐」には無いのである。(それなりの理由があった。・源氏化)

    「伊勢の青木氏 五地域・本貫地」
    三重県伊勢市一色町。
    三重県津市一色町。
    三重県津市久居一色町。
    三重県四日市一色町。
    三重県桑名市一色町。

    「美濃の青木氏 三地域・浄橋飽波の裔」
    岐阜県瑞浪市一色町。
    愛知県一宮市一色町。
    愛知県稲沢市一色町。

    「額田の青木氏 四地域」(三野の青木氏系4氏・伊勢の裔系)」
    愛知県蒲郡市一色町。a−1の裔系
    愛知県豊田市一色町。a−2の裔系
    愛知県岡崎市一色町。a−1の裔系
    愛知県豊橋市一色町。(吉田系・神官族・a−1の裔系)

    「青木氏外の一色」(斯波氏系の足利氏 四地域)
    ・愛知県刈谷市一色町。
    ・愛知県西尾市一色町。 斯波氏系足利氏
    ・愛知県名古屋市一色町。
    ・京都府京都市上京区一色町。(斯波範光が京都所司代。)

    以上の様に「一色の地名」は内容別に四つに分けられる。

    「愛知県」は上記の通りの「北域の額田の一色」から「蒲郡の西域までの地域」に掛けての「北南の広域の地名」である。
    「愛知県豊橋」は「吉田・田原の右隣」に位置し、「伊勢の神官族」と「伊川津青木氏(田原青木氏)」の領域であった。
    この事で「額田の一色」が南に下がって行く過程がこの「一色の分布」でも解る。

    但し、「愛知県西尾市の一色」は上記の通り鎌倉期に地頭として清和源氏傍系を名乗る「足利(斯波系)氏」が使った「一色」であり異なるし、及び「・印」は「西尾の一色の域」であり異なる。
    中には彼の有名な一商人から出世した「美濃の斉藤氏」が「斉藤の姓名」がありながらも「一色氏」を名乗るなどの事が起こっている位であり、この時期から出自元を搾称誇示して「本貫名の搾取」が横行していった。

    この様に、「一色の格式」を室町期に勃興した「諡号のない姓族・第二の姓族」は、この「本貫名」を利用して「権威と象徴」を搾取誇示する為に恣意的に搾取して用いて誇示しようとしたものなのである。

    つまり、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、衰退したと云えども「美濃の青木氏を名乗る事」は出来ないのだ。
    然し、そこで「美濃の青木氏族の様な氏名」を直接は使えない為に、この「権威や象徴に肖る」として「伊勢」からの「志紀、色、一色、一志」の「古来の地名」を利用して「本当の姓名」を名乗らず「一色の地名」を採って、如何にも「所縁」があるかの様に見せかける様に「地名・本貫」を「第二の姓名(第三の名)」として名乗ったのである。格式の搾取誇示である。
    庶民から這い上がった「斉藤の姓等」はその典型である。全く無縁である。
    「清和源氏河内系の足利氏の斯波氏」も直接的な所縁は全く無い。

    (注釈 無理にあるとすれば、「青木氏を出自元」とする「仁明天皇」までの源氏であろうが、「仁明天皇」は未だ「桓武論説側」にあり故に「源氏制」を執らなかった。
    源氏制は「嵯峨天皇の詔勅」からである。)

    「志紀、色、一色、一志」の地名を使って「権威や象徴に肖る」為に、「第二の姓族」としては「藤原氏、菅原氏」等を始めとして「3氏族、3姓族」の「六つ」が使われているのである。

    三重県は全て「四家の地域」であり、「伊勢市」から始まる。
    「岐阜の端浪」は前段でも論じた通り「伊勢青木氏の領域」である。
    「飽浪」の王名が変化して後に「端浪」と成ったとされ、「飽浪の飽の語源」と「端の語源」は意味合いとして一致する。

    そもそも、この様に「伊勢の一色」の「格式」を利用して名乗った「第二の姓族」がある事が判る。
    決定的には「(a)と(a−1)(a−2)と(bとc)」では無い族であって、600年以上の時代経緯の異なる「一色氏」を名乗る「諡号を持たない姓族・第二の姓族」には因みに次の「五姓族」が名乗っている。

    上杉氏、斉藤氏、土岐氏、足利氏(斯波氏)、菅原氏の以上の五氏がある。

    (注釈 上記の姓は氏是の添書に関わる「本来の氏族」とは異なる。
    そもそも、「氏の族」ではなく、「諡号の無い第二の姓族」である。
    後に、彼らは「氏の族」に成る為に系譜を搾取編纂して名乗れるようにしたまでの事である。
    何故、この「五氏」が「本貫名」の「一色氏」を名乗ったかの「所以」は、三河の「本来の一色」は上記した「施基皇子」の“「しき」”の「色」による所以から来ているが、つまり、この「五氏」は“「地名の権威と象徴・格式」”で名乗ったのである。
    そもそも、「嵯峨期」で改めて定めた「正式な氏族」と云うものでは無く、要するに「第二の姓族」であり、「諡号族」ではない。
    従って、本来の「本貫名」の「一色」である事は100%無い。況してや「本貫」ではないのだ。)

    (注釈 前段でも何度も論じたが、“「地名の権威と象徴」“を「姓名」とは別に「公的な呼称とする慣習・本貫名」が鎌倉期から興ったのである。幕府も緩やかにこれを黙認し許した。
    「氏名や姓名」では無く、当初はその住んでいる「地名」に格式を与えようとする習慣であった。
    そもそも、「朝廷の許可」に依って「名」を持てる「全ゆる族・910の諡の号」には、「名字、姓名、苗字、氏名」の「四つ格式」があり、これは「時代の経緯」で生まれた。
    その結果、鎌倉期には其処に「名字、姓名、苗字、氏名」の「四つの名」の全てに「統治する権威」を保持する為に「地名」に「格式」と「意味」を与える必要に迫られたのである。
    これが鎌倉期の「地頭制度の所以」である。
    故に「地頭としての権威」の為にこれを最初に使ったのが「斯波氏系足利氏」であった。
    そして、朝廷はこの「奈良期から仕来り」として「四つの名」には「意味と格式」を持たせたのである。
    この「五氏」は本来は正式には古くは豪族・土豪であった事から「朝廷許可」の無い「名字か姓字」である筈である。)

    ところが、室町期初期からは「戦国時代」で、「下克上」が起こり、この「地頭の族」に預からない者が生まれた。
    この者等の「本貫名の乱用」に依ってこの「意味合いや格式」が異なるものと成って行ったのである。
    逆に「正式な氏族」は「伊勢信濃の青木氏等」を始めとする「数族」に限られて仕舞ったのである。
    つまり、この「時代の流れ」の結果として「存在」が限定される事に成ってその「氏の姿勢教義」から「白旗派の原理主義・律宗族」と呼ばれる様に成った。

    取り分け、本来の「氏名を持つ者」は、何度も論じている様に、「嵯峨期」からは「縛りに適合する族」としては「青木氏」を始めとして「正式な子孫」を遺したのは「律宗族」しか無く成ったのである。
    故に、字の如く多くの意味合いを持つが「律宗族」なのである。
    この「本貫名」を使える「元の族の48氏の皇族臣下族」が遂には時代の変遷に依って淘汰されて行ったのである。
    要するに、この原因は元を質せば「新撰姓氏禄の制度」では「958族」もあった族に与えられたその「各種の格式」が子孫に対しても決められて仕舞ったからである。

    これを「嵯峨期の朝廷」が、「特別の範囲の身分格式の制度」を堅持する為に仕掛けた“「9つの縛り」”を、それ以降の朝廷は厳しく管理する事を放棄して仕舞い、その上で、これを護れず武力化した「姓化した源氏族」等は、これをどれ一つも護れずに厳密には「氏族」とは言い難い「無秩序な族」と成って仕舞ったのである。
    そこで、護れない以上は止む無く彼らは「元の名(名字か姓名)」の何れかを持つ様に成ったのである。

    然しながらも、そもそも元から“姓を持たない「名字・第二の姓族」は元から違った。
    「一段上の諡号の姓」を持つ「姓名・官僚族」よりも、「地名」に「権威や象徴の格式」の影響力を持つ「本貫名」と、その「本貫名」に所縁のある“「苗字・朝臣族の名・氏名」”を搾取して名乗ると云う「習慣の流れ」が(一部は鎌倉期から)室町期初期から生まれたのである。

    平安期と違って「武家社会」に成ってこれを「統治する政治力」は既に無く成っていたのである。
    寧ろ、同じ立場を持つ政治家に執ってはこの「積極的なムード」を煽ったのである。
    然し、流石に「青木氏」等の「真人族の氏名」だけは名乗れなかったのである。
    搾取が見え見えで「効果」が無かったからである。
    そこで、「施基皇子の一色等」の大田に名付けた「本貫名」なら何とか所縁があるのではないかと思われるかも知れないとして使ったと云う事に成るのだ。
    「嵯峨期の詔勅の禁令」ではここまで禁じて居なかったからである。
    この「禁令」では“「青木氏の習慣」”として禁じてはいるが、その「大田の字・あざの名」、即ち「本貫名」までは禁じていないとしたのである。

    従って、これが「格式のある地名」などから「元の名・名字、姓名」を其の侭にし乍ら「公的な場」では勝手に誰にも文句の云われない「苗字・氏名」を名乗るという事に成って仕舞ったのである。
    然し、流石にこれには「場所や人」に依って「使い分け」していたとする確実な記録資料があるのだ。

    注釈 「大田の字・あざの名」、即ち「本貫名」までは禁じていない。
    「場所や人」に依って「使い分け」していた。
    この二つから明らかに「文句の出ない線引き」を「朝廷の暗黙の了解」があったと云う事に成る。
    そうで無ければ「朝廷からの文句」が出ればその者は世間に対して「朝敵行為」として立場は無くなるだろう。
    然し、「一色」を公然と使えているのである。
    それは「鎌倉幕府」が「朝廷の許可」を得て「守護制度」の下に最初に「地頭制度」を用いたその最初は「斯波氏系足利氏の地頭」からであり、この所謂、「西尾一色」を使ったのである。
    明らかに、権威性のある「一色の使用」には政治性が観られる所以である。


    つまり、ここで話は元に戻るが、上記の通りこの代表的なのは「伊勢」の「志紀と一志と一色と色」に関わる「権威の一色」であったと云う事である。

    つまり、行く就くところはこの「地名・本貫」に「格式」を持たせ、それを「名乗る慣習」が広まり「苗字、氏名」は「権威の場・朝廷の場での使用」と成って行ったのである。

    中には、「農民・庶民」から「武士に成る者」が全体の大半を占め、更にこれが行く就くところまで行った事に成った。
    これが「江戸期」には全く朝廷が認める「9つの縛り」の中に無い「第二の姓族」でさえ「氏名」や「本貫名」を勝手に名乗る者さえも出て来たのである。
    完全に”「名字、姓名、苗字、氏名」の「区分け」”には、最早、「歯止め」が効かず無くなったと云う事に成ったのである。

    「朝廷・西の政権」はそれでも飽く迄も「氏名」の「構成要件が整っていない」としては推薦された殆どを認め無かった。
    ところが、それでも認められなかった「有名な件」では、前段でも論じたが、遂には「幕府の威力」を背景に勝手に名乗った典型的なものが「松平氏の徳川氏」であるし、「源氏の朝臣」や「藤原氏の朝臣」や「源氏の棟梁」等の「権威名」も名乗った。
    それも「場所場所」で「使い分け」していた事が最近の研究で判ったのである。

    この結果、最後には「西の政権」は「激しい経済的圧力」を掛け、「宮殿の塀」が崩れるまで締め上げて、「西の政権」は根を揚げる始末と成って妥協したのである。
    然し、「源氏の棟梁」だけは決して認めず、「源氏の長者」で事を治めた経緯を持つ程であった。
    上記の「五氏」も同然でもあったとされる。

    (注釈 「江戸期の朝廷」は「西の政権」と呼ばれ、この様な「権威名等の格式の称号」を与える範囲で存在を認められた。
    江戸中期には「西の政権」は遂に「経済的締め付け」を怖がり、結局は「幕府の推薦」で幕府に金銭を積み上げて猫も杓子も認められるまでに至った。
    実質は「幕府の推薦」が「決定権」を持って「西の政権の存在」は無く成って仕舞ったのである。
    「無用の長物」と成っていたのである。
    この時、「伊勢と信濃の青木氏」だけが「幕府の黙認の許」で「献納」と云う形で朝廷を支援していて生活が成り立つ状況であったのである。
    従って、明治初期には、政権を取り返した朝廷は「江戸期の全ての決定」を”認可していない”として破棄してしまったのである。
    その最たるものが「藩」である。
    これを抑えれば幕府の政治機構は無かったと云う理屈に成る。
    [西の政権であった維新政府]は「藩」と「それに関わる全てのもの」は認めていないとしたのである。
    従って、「江戸の期の藩」は”「政治機構」”では無く、あれは単なる”「家」”であったとして決めつけたのである。
    現実には、「藩主と家臣」は契約に基づく関係にあり「家の中の関係」であったので、そうであろう。
    この論理で「江戸期」に与えた「江戸幕府の権威」は全て「無」と成った。
    依って、”正式な形で「西の政権」は続いていた”としたのである。)

    「朝廷」は、そもそも、「嵯峨期の詔勅」と「新撰姓氏禄」と「9つの縛り」の「掟」に合わない「氏族」を構成していない。
    それにも関わらず、そもそも「姓名を持つと云う形態」は論理的にあり得ず、「第二の姓族」である故に、「正しい氏族」は「諡号五姓の氏」のみであるとしたのである。

    この様な例にもある様に、抑々、「本貫名」の「一色」とは「最高格式の苗字」として使われたのである。

    (注釈 「施基皇子」は「天皇に継ぐ浄大一位の格式」であった事から「春日宮天皇」と追尊されたが、「天皇の格式を有した者」でこの「本貫名」を使ったのは「四天皇」が居たが、結果的には最終は「施基皇子・追尊春日宮天皇」だけである。
    「天皇位」は、明大一位・明広一位・明大二位・明広二位の四階級があり、この直ぐ下が「浄大一位」であり、「皇子」では「歴代最高位」であり「皇太子」より三階級も上位であり、この様な事例は歴代には無い。
    それだけに「施基皇子の本貫名」は天皇に継ぎ「格式」が高いのである。)

    注釈として これ等に関して伊勢に「書」がある。
    この「書」の下記に論じる事は「青木氏の氏是」に添付されていた資料で、研究過程では全く難しくて歯が立たず判らなかった。放置していた。
    それはそもそも筆者の苦手な「古代漢文」で記されてあって、当初は「般若経の添書」かと観ていた。
    つまり、「施基皇子」が「伊勢王」と成って臣下した事に依る「賜姓青木氏の心得」を定める際の「経典」かと余りに解釈が難しい為に観ていた。
    「漢文の解釈」は「漢字の語源の理解度」で大きく変わるからである。
    其の後、筆者の研究が進み「青木氏の家訓十訓」の「解き明かし」とかが進む事で、この「書の意味」が違うと気づき始め、更に「漢文」を勉強し、「視点」を自由にして解こうとした。
    最初に気づいたのは、「経典の解説書」では無い事は直ぐに解った。
    それは、「青木氏の氏是」を定めた「施基皇子」はそもそも心根は「文化人」で政治家では無かったし、大宝律令の基本と成った「撰善言司」を務める研究者でも歌人でもあった。
    これは当然にまだあまり普及していない「中国から入った経典の解読研究者」でもあった。
    この事からその先入観を筆者が持っていた所以である。
    然し、この「書らしきもの」がそこから芋づる的に「青木氏の氏是」を定める必然的な前提である事に気づいたのである。

    その「書の成り立ち」はそもそも「理解の土台」の無い処に「青木氏の氏是」を急に定めても長い間には護られる事は補償出来ないとして、描き遺したものである事が解った。
    そこで、「光仁期」か「嵯峨期」の所で、前段でも論じた様に「政争」から逃れる為にその「絶対的な必要性」を認識して、「施基皇子」の直ぐ後の祖の人物が「施基皇子の性格や生き方」から咀嚼して「青木氏の氏是」に付け加えて遺す事を考えたと観られる。
    筆者は、この時期が「白羽の矢」の後の嵯峨期の政争期であったと観ている。
    つまり、「桓武論説」と「嵯峨論説」の政争である。
    この時から、伊勢と信濃は前段でも論じた様に「桓武論説側」に着き、「政争」から逃れる為に、二度と「白羽の矢」を受けない様に「女系の妻嫁制度」を執って「皇族」と一線を画したが、この時の戒めに在ったと観る。
    そこでこの「書を書いた祖」は強く”「青木氏」は「青木氏」で行く”と云う「氏是」であると考えた。
    唯、その時に、生きて行く上で「桓武論説側」である為に「伝統」として強く「氏是の前提」を遺す必要性に迫られたと云う事では無いかと考えられる。
    「氏是の前提」を消えない為にである。
    又、その「前提」を時代により変化しない様に子孫に「難しく書き記した」と云う事では無いか。

    その「前提」で「書にある漢字の語源」を調べ一字一句を「足し算」の様に読み解いた。
    これには「相当な歴史観」が必要とされた。
    それが「下記の論説」の結果である。


    さて、前段でも何度も各所で論じたが、「漢文」で書かれたこの「難解書」を改めて「氏是の前提」なるものを筆者なりに現代風に判り易く咀嚼して「要約する」とすれば、次の様に成る。

    ただし、「漢文」とはそもそも「基本と成る解釈方如何」ではその「意味合い」が「古来の中国の漢字」の持つ「意味合い」で大きく変わる事が起こる。
    そもそも漢字は時代の変遷で意味合いが異なって来る。
    況して、この「書」は奈良期や平安初期のもので、「漢字」そのものが「古い語源の意味合い」を持ち、「現在の漢字の意味合い」とは一字一句相当に異なって記されている事に成る。
    到底、完全解読は筆者では無理で「般若経の解読」とよく似ている。
    依って、是非に「語源の習得」が必要と成ったのだ。
    それでなければ「古い青木氏の書」から「青木氏の歴史観」を導き出し解明は殆ど無理である。

    先ず、その歴史観の一つの「本貫名」の「一色」とは「最高格式の苗字」として存在する。
    それは次の理由による。

    要するに、後にこれを「苗・なえの字・あざ」、つまり、この二つの漢字の意味を以て「苗字・みようじ」と云う事に成ったのである。
    この「苗・なえ」はそもそも「縄・なわ」と云う意味があり、「なえ」は「なわ」に通じ、「苗のある域」、即ち、「縄の張る域」、即ち、「田の域」を確定する時に「縄張り」をしてその範囲を決めていた。
    これがその夫々の「苗のある範囲」、即ち、「縄張り範囲」、つまり、これを「字・あざ」としての「単位」で区切られて名付けられた。

    そもそも「大きな字・あざを持つ事」を前提として「氏・うじ」が存在し、許可され「氏の諡号」を賜姓された。
    「大きな字・大字」を持たない事は「氏」を名乗る事は許されなかったのである。その前提である。
    古来ではこの「大字」は「その者の功績」の大きさを意味していたからである。
    「子字」以下では「氏」を名乗る事は許されないと云う事である。
    それだけの「功績が無い」と云う事に成る。

    そして、これを「格式の呼称」として区別する為に、判り易くするためにこの「氏の字・あざ」に「名を着ける事」が興こったのである。
    これを「縄張り」の「苗の字・なえのあざ」、即ち、「苗字」と呼んだのだ。
    そして、その「縄張りの範囲・字・あざ」が、「功績」に依って更に大きく成ると、遂にはそれが「地域」と成ってこれを「本貫の地名」と成って行ったのである。
    故に、「本貫名を持つ事」は「大字の氏」である事が前提と成るのだ。

    そこで、例えば、「氏の前提」の「字・あざ」には次の語源と由来があった。これを理解しなければ深意が判らない。
    中国の象形文字から「字・あざ」は「ウの冠」と「子の脚」に依って構成されている。
    「脚の子」は「男子の子供」の事で、「冠のウ」は「家」を指し、従ってその「家」の「ウの冠」は“高貴の先祖を祀る廟”を指していた。
    この「廟の家」に「男児」が居る様を表したものである。
    この合成象形文字で、この合成文字は「廟の家に男子」で「一つの族」を表し、この事から先ず「諡号の姓」の外にこの「族」を表す「「諱号」を「あざな」として「高位の者の習慣」として「字・あざな」を持つ様に成ったのだ。

    それが更に進み、「ウの冠」は「冠位」を持ち、「脚部の子」は冠位を持つ者の尊称として使われる様に成った。
    例で観れば、荘子,孟子、孔子の様にである。
    荘子の荘は諡号の姓で国から与えられたものと成る。
    従って、「字・あざ」は元来、「族位」、即ち「氏」と成り、この「氏」が持つ「田の縄張り」を「字・あざ」と呼称される様に成ったのである。
    「大田の縄張り」が「字」であって、この「大田」を持つ「廟の家に男子」の「字・あざ」は「氏・うじ」である前提と成りこの逆も云う事と成って行った。
    「字・あざ」は古来は「格式の初期の尺度」であった。

    (注釈 古来の中国では「廟の家に男子」、つまり、「字・あざ」は「最大の誉」としたのだ。
    この「慣習の流れ」が「字・あざ」・「氏・うじ」と成って儒教伝来されたものである。
    「廟の家」に「男子がいない事」は「氏」としては成り立たない前提と成る。
    要するにこれが「男系の理」である。)

    故に、上記に説明する通り、「浄大一位」の「最高功績を挙げた施基皇子」がその「功績の表れ」としてこの由縁の「大字・おおあざ」を与えられ持ち、「氏に成り得る資格」を持ち得たとするのであるとしている。
    これ等の「由縁の種」を以てこの我らの「氏是の根拠」と成り得ていて護らなければならい「絶対掟」であるとしているとこの「書」は説いているのだ。

    古来、日本の飛鳥奈良期での経緯は「格式」を表現する手段として、「飛鳥期から奈良期初期」に於いては、その「者の功績」に依って「朝廷」より与えられた上記で意味する「田」の「縄張りの範囲」とそれを耕す「民の数」の「二つ」で以てその「者の格式」を表していた。
    ところが、この「格式表現の方法」に限界が来た。
    それが、「功績の積み重ねに依る拡大」と「官僚の増加数」にあった。
    そこで、この「格式表現」の「田」の「縄張りの範囲」と「民の数」の「二つ」を基本にして「十二階」に分けて「格式の名称」を着けた。
    これが、「推古期」の「冠位十二階の制度」であった。
    その後、「大化の改新」を経て「天智期と天武期」には「官僚族」も著しく増大し、「功績に応じた褒章」も増え、「二つを基本」の範囲が広がった。
    それで、これを「二十六階」、「四十八階」と増やされたが常にトツプの位置に存在した。
    更に、それでは済まず、「格式」までのみならず”「服装の色」”までも決めて階の「格式の区分け」をしたが、「祖・施基皇子」は常に「濃い赤紫の色・黒紫」であったとされる。

    そして流石にこの「グループ分け」のこれでは「格式の官僚機能」に「障害」が生まれ、これを「八の服装の色」で「グループ分け」をした。
    これが「八色の姓制・やくさのかばねのせい」である。
    後に更に「十二の草の色」に色分けされた。

    中でも「浄位族・真人族・継承皇子族」は特別として区分けしたのである。
    そこから、「天皇位の特別枠」の「明大一位から四位」と「明広一位から四位」に加え、この「浄大一位から四位」とか「浄広一位から四位」とかの以上の「十二階の冠位」が生まれた。
    この時も祖は「浄大一位」であったとされる。
    つまり、これは「祖の冠位」のみにあらず「永代の冠位」を示す。

    従って、結論として、そこでこの「祖」の「施基皇子」の「浄大一位の格式の示す処」は、「最大の縄張りの範囲の字」と「民の数」を持つ者としての況や「苗の字」であり、つまり、それが我々裔の「青木氏」なのであると説く。

    (注釈 その「八の草色」は「真人」。「朝臣」。「宿禰」。「忌寸」。「道師」。「臣」。「連」。「稲置」に曰くとある。)

    (注釈 この書はこの事から「施基皇子期」に書いたものでは無い事に成ると筆者は読み取る。)

    我々の「青木氏が持つ地権田」の「縄張り」がこの様に「広大」とすると、当然にそこには上記の通り「田の範囲を示す苗字・みょうじ」が生まれた事に成るのだ。
    そして、それが余りに大きい為にこの「苗字」を「諡号の姓名」とするのでは無く、更に大きい特別の「氏名」として権威づけたのである。
    故に、依って中でも「伊勢の青木氏」だけは「諡号の姓名」を持たない「氏の形で構成された大きさの族」なのである。
    況や「正統な氏族」なのである。
    これにより当然に「諡号の姓」は持たない事に成るのだ。
    これが「浄大一位の族」である「特定の条件」なのである。
    この「当然の事」に加え、所謂、「氏名の持つ族」である為に「諡号の姓名」の「識別紋」も無い事に成るのだ。
    あるのは、所謂、「浄大一位」だけの「格式紋の象徴紋」と成るのだ。

    況や、「浄大一位」であるが故に「神に仕える僕族」に必要とする「神木」をも持てる「唯一の氏族」であると成ったとするのだ。
    それが「神木」の「青木の木・イ」であり、「神木の柏・ロ」であり、「笹・ささ・ハ」である。
    そして、この「笹」は、「万の神々」の「百々・ささ」に通じ、「竜胆・ニ」は「八色の姓制の最高色」の「黒紫・浄大一位」の「浄・きよらか」に通じ、依って、これを「神に仕える氏族」が持つ由縁から「神の具」のこの色の持つ「笹竜胆」を「神の象」としているのだ。

    故に、最早、これは「格式の家紋」では無く、「神に仕える僕族・氏族」の「象徴」としているのだ。
    以上と説いているのだ。

    (注釈 「具・とも」とは、その古来の語源は「とも」と意味し、古書に「神、宮の御人の唯一の供」としている。
    つまり、「神明社の神供」にして「笹と竜胆」は「神の唯一の具供」である事を意味する。
    平安期には遂には「牛車」などに乗り「高位の者」に左右に弓矢を持ち付き従う者を「具の者・ぐのもの」と呼び、これが「さぶろう者」・「侍・サムライ」と呼ばれる様に成った由縁でもある。
    要約すれば、「神木の青木」、将又「神木の柏」に相当する木では無く、「神の草」の「笹と竜胆」は「神の具供」であるとしているのだ。
    依って”「神草」”と云う事なのであろう。
    況や、それが転じて「八色の姓・八草の姓・や草の姓」と呼称しているのであろう。
    要するに、この「八色」は「神の草の色」であるとしている由縁である。
    結論は、この「色を持つ者」は「神の子」であると定義づけている事に成るのだ。

    つまり、それが故に「禁令」である「諡号の姓名」が無い為に、特別に「本貫名」として「志紀、色、一色、一志」と「大田の地名」として「裔の者が持つ田」には「苗の字」が「着けられる事」に成るのだ。
    そして、これが余りに広大である為にこの「地権田の域」を「志紀、色、一色、一志」と名付けた所以である。

    筆者の考えであるが、余りに大きかった為にこの「四つの本貫名」は「四つの田」に「個別の呼称」として名付けられたものと理解している。
    故に未だ「伊勢」には現存するのだ。
    この「四つの田の本貫」を合わせる「桑名」「松阪」「伊勢)」「多気郡」と「南勢旧領地の尾鷲域」を合わせると粗に「伊勢の全域」に近いのだ。

    (注釈 別の資料に依れば「地域」だけでは無く、古書の中にはこの「田」そのものにも「権威」を持たせ「一色田」と書いたものもある。
    これでこの「田」がどんな「田」か判る事に成る。)

    「伊勢」には時の変化と共に地名が祖名の「志紀・施基」から「志紀」の「一志」と、「施基」の「一色」と、「浄大一位の役服」の「色」の地名と変化したのだ。

    結論として、それが、その「伊勢の裔・青木氏」が「五家五流に拡大する所以」を以て、先ず、「伊勢の一色」は勿論の事として、桑名殿のこの「三野」の「伊勢の裔系」の「額田の地」だけに名付けられたと考えられる。

    其の後の「他の一色」は、前段で論じた「三河等の子孫拡大」で広がったが、「青木氏外の一色」は搾取に依る。
    従って、「9つの縛りの条件」には適合していない「三つの裔系」が、何時しか血縁して「土岐氏の一色氏」とか「足利斯波氏の一色氏」の系譜では、それなりの「所以」を持っている事では妥当であろう。
    詳しくは「厳密な一色氏の考察」は論外とするが、これらの「一色」は元は一色では無く、干拓に依る「大きい田の表現」として用いられたと観られ、その「大きさ」が「字」より遥かに大きい「最大田」の「一の単位の大きさ」を「一つの表現」としていたと考えられる。

    (注釈 兎も角も、然し、何度も衰退を繰り返した「足利氏斯波氏系一色氏」は、丹後に復興したが、「細川忠興」に依って1579年に完全に滅亡させられているので、この「一色の地名」は問題外でもあるし意味合いも少し違っていると考えられる。
    既に、この時は「斯波氏」は「行動」を起こしている時であるので「時代査証」は違う。
    「後付け説」とも考えられる。)

    (注釈 前段でも論じたが、この様に「地名の一色」と同様に「権威や象徴」を持たせようとした他に典型的なものには、例えば「天皇家の式紋」の「五三の桐紋」を変紋して「秀吉の五七の桐紋」と同じ意味合いを持つ。この様な搾取は歴史的に無秩序に多くあるのだ。
    この事は歴史観として留意する必要がある。)

    依って、そもそも、この「書の説く処」は、この「祖」の曰く「青木氏の氏是の前提」は「浄大一位の諸々の由縁」を以て、その「裔系」は絶対的に護らなければならない「掟・前提・根拠」であるとしている。

    (注釈 ところがこの後に「裔系の嵯峨天皇」に「賜姓族と令外官」を外された。
    従って、この「書の前提・根拠とする処」は弱まったが、これを以て故に敢えて先祖はこの「一枚の書」を遺したか、その直前の「桓武期」に遺したかの何れかである。
    直前では「桓武論説」と「嵯峨論説」が「醜い激しい政争」と成っている時期で、臣下間もなくの時期であるので、「皇族の影響」を何とか避けて生きようとしていた時期でもある。
    この事からも筆者はこの「直前説」を採っている。
    それは、この解きたく無くなる様な「難しい書の前提、根拠の書」の中で物語る”「神明社」”を裔系が守護神として護る以上は、それには”「賜姓五役」”が依然として「青木氏の施基皇子族の裔系の役務」として付きまとうが、この「役務」が遺されているからで故に「直前説」をとっているのである。)


    唯、追記して置くとこの「書の前提、根拠」の「一つ」としての「一行」には、重要な事が記されいる。
    それは「賜姓時の象徴」として授かった「大日如来坐像の所縁」が見逃すかの様に簡単に記されている。
    ところが、実はこの「行」が大きく「青木氏の歴史観」に左右する程に問題があるのでここだけは「別書き」にする。


    上記の「4と5の検証」の「一色の影響」の答えの前に、これを後にして先に「書」に関連するものとして「歴史観の繋がり」として:研究した事を追論して置く。

    この「大日如来坐像」は、実は「最大の伝統物」として厳格に護られて来た現存所有するが「最大の形」として遺る「書の前提、根拠」のものに成るのだ。

    これは「二尺の紫檀・宝木」で造られた「木像坐像、台座付」であり、「司馬達等の裔」の「鞍作止利」の作と刻まれていて、「作製年月日」が「大化1年末」と共にある。
    本来は「木像坐像の仏像」としては「一尺六寸」が基本であるとすると規格外で疑問である。
    これに「敷台、台座、光背、藍、如輪・・等」が付け加えられ相当大きいものに成る。
    然し、「青木氏の鞍作止利」の「大日輪の木像坐像」は二尺である。
    四寸(12センチ)も大きい。
    「敷台」や「座台」や「光背」や「藍」や「如輪」を加えると裕に「七尺五寸程度」と成る。
    全く規格外であり変である。

    そもそも、「施基皇子の裔系」の「伊勢の青木氏」は「647年」に「第二世族第六位皇子」として「賜姓臣下朝臣族」と成った。
    「仏師の鞍作止利」は「623年」に「30代の若年」で「仏師」として選ばれて「法隆寺金堂の釈迦三尊像」を「天皇の命」により作ったとされ、この時の「逸話」が幾つか遺されている。
    そこから、「24年後」に「祖」は「賜姓臣下」して、この「大日輪の木像坐像」が「賜姓象徴物」として授かったとある。

    それが、丁度、「作製年月日・大化1年末」のこの二年後に「天智天皇の大化改新」に依って「七色十三階の冠」が定められ、「天智天皇の皇子」の「祖」は「第六位皇子」として「臣下」して「朝臣族」と「最高冠位」を賜り、「賜姓」を授かる。
    時が確かに一致する。

    そうすると、然し、この時は未だ「伊勢の青木氏」は「神明社の神道」であった時期である。
    当然に「仏教」に帰依していない。
    帰依したのは記録から「嵯峨期の後」に「清光寺の菩提寺」を持った時である。

    とすると、この「大日輪の木像坐像」は「仏像としての物」では無かった事に成る。
    つまり、「書の行」にある様に、これは単なる「大日輪の木像坐像」は「賜姓象徴物」であった事に成る。
    故に、「仏像木造の規定尺」が合わないのであるし、上記のこれに「付属する具物」が「仏像の体」を成していないのだ。

    従って、「神道」であった頃の「青木氏の氏是の前提」としのこの「書の行の一つ」として書き込んだものとして採れる。
    仏像では書き込めない筈である。
    とすると、「賜姓象徴物」の「大日輪の木像坐像・紫檀・宝木」は「浄大一位(赤紫の冠位色)」と”「同じ格式」”を有しているのだとして書き込んだ事に成る。

    恐らくは、この「書の伝えたい処」は、この「紫檀」は「最高の貴財木・宝木」で極めて高額で相当な天皇等の「高位の者」しか使えない、所謂、「貴財木」であった。近代や現在でも不可能である。
    且つ、それが「天智天皇」が「大化の改新」で定めた”「七色十三階の冠」”が定める当に”「紫」”なのであるとしたのだ。

    そして、更に、この「色階」に従う「七色十三階の冠」で「臣下」し「賜姓」を授かり、その後の「天武天皇」の「八色の姓」と「冠位十二階の制」で「最高位の浄大一位」と成ったとし、そして、「大日輪の木像坐像・紫檀」が是を以て根拠づけたと「書」は云いたいのであろう。

    現在では到底得られない「高級な貴財木・宝木」であるのだが、「賜姓象徴物」の「大日輪の木像坐像・紫檀」は、「神とする大日」と「最高位の色を表す紫檀」と「仏師の最高位の鞍作止利」とを誇示したものと査証される。

    何しろこの「紫檀」は極めて大木には成り難く当時では中国でしか僅かに植されず「貴重木」で、況して、この「大日輪の木像坐像」は「横幅」でも「台座」を含めても二尺以上の「紫檀の大木」から出来ていて何と夫々「一帳木彫り」である。
    台座の表面の全体は兵站であるが、「長方形の陵」は「葉の葉脈」を形どっている。
    台座の裏は完全に「神木の青木の葉形」か「神木の柏の葉形」の形状をしていて「葉脈」がくっきりと刻まれている。
    そして、この「台座の敷座」は「長方形」ではあるが「完全な長方形」では無く、「葉形」である。

    実は、筆者宅には、これ以外に、この「大日輪の木像坐像」に隋する「紫檀の敷座」は他に三つもある。
    この「書」には、記載がないが、これ等を「一対」として保存していたと別の資料に記している。

    先ず一つは、「畳一畳分の紫檀の大敷座」の一つと、その「半分程度の敷座」が二つがある。
    「大敷座」は「6寸・約20センチ厚み」で中を「3寸・10センチ程度」に刳り貫かれ形は、「長方形の何かの葉の形・青木か柏」で、この「大敷座」はこの「大日輪の木像坐像」の「元座」であったと観ている。
    この「紫檀の大敷座」の上に「大日輪の木像坐像」が鎮座していたと口伝で伝えられている。
    今は「大日輪の木像坐像と台座」だけが安全な場所に別に保存されている。

    そして、他の「紫檀の二枚の敷き座」は、「5センチの厚み」で「青木葉か柏葉の同形の半畳程の座」である。
    この同形の「紫檀の二枚の敷座」は「大日輪の木像坐像」の「紫檀の大敷座」の上の左右に納めて、この上に「飾り」と見られるものを「置く台」であったと観ている。
    この二つに付いては「口伝」では残念ながら伝えられていない。
    現在は「紫檀の二つの葉形の小敷座」は「二尺半程度の大花瓶の敷座」として利用されている。
    非常に大花瓶とマッチングしていて違和感は無い。その為の物としか見えない。
    然し、この「二つの敷座」が「大花瓶の花の飾り」に使用されていたのかは記録が無いので定かではないが、「伝統」として「大花瓶の敷き座」としては用いられて来た事は判っているし観て来た。

    そこで筆者は「大日輪の木像坐像と台座」を中央に「大花瓶の左右」にも象徴する何かを据えていたと観ているが発見できない。

    実は、更にこの「大花瓶」は「大小の対」で共に同色の実に「綺麗な青磁」である。
    「対の花瓶」に「一尺程度の青磁の花瓶」が「対」として存在する事に成りこれも伝統として観てきている。
    この大きさは最早花瓶では無いだろう。
    この「大花瓶」そのものが「飾り」であった事が伺える。
    この「花瓶類」が「賜姓象徴物」であるかは今は「記録」が見つからないし口伝も無かった事から判らない。
    後に売買で獲得したのであれば「商記録」に載る筈である。
    実は、{古来の中国の歴史}を調べると、この「青磁」には「歴史的決まり」があるのだ。

    そもそも、この様な「青磁」は元来、“持っては成らないしもの”とし、且つ、超々高額な「玉器」を持ち得ている者として扱われるとされる。
    要するに、「持ってはならないとする事」は「ある種の象徴物である事」を意味する。
    これは規律の厳しい「儒教の決まり」であるとしている。
    これを「中国の儒教」もそれに準ずる「仏教」も「所持」を禁じ、且つ、「天皇」も禁じていたとすると「象徴物」である事に成ろう。

    「花瓶の形状」から「年代」ものである事は素人の筆者が観ても判る。
    筆者は物理学が専門でこの種はある程度の知識を有する。

    その根拠を説く。
    この「青磁」は、紀元前(新石器)からのもので、中国や北アジアなどで造られたもので、4種類ある。

    「緑釉(中温性銅イオン・酸化第二鉄)」
    「天青釉(コバルト)」
    「果緑釉(高温性銅イオン)」
    「青釉(アルカリ性銅イオン)」
    以上で造られる。

    これ等の四つはその金属の化学反応の炎色反応での発色で起こる事である為に「青磁の色合い」で見分けが着き、従って、その青磁の貴重度も解るのだ。
    金属であるが故にその土の産地も解り生産地も解る仕組みであり、その金属である為に発色に必要とする「温度」も解り、「高い温度での発色」はそれだけに難しく,高低の温度でその「青磁の貴重度」も解るし、その金属の生産時代から時代性も解る事に成り貴重度に大きく左右するのだ。
    当然に温度に左右してその「青磁瓶の形状」でも難しさが変わるのだ。


    それぞれ「時代性」が異なり「生産地」も異なる。
    日本には「平安初期」に貿易により盛ん入る。
    日本の生産はかなり遅れて「江戸中期」の「有田」で生産が始まる。
    ところが、この「有田の青磁」は、日本の土壌はケイ素酸が多い為に「色合い」も異なり「音」も違うし、形も「水仙型」が主流で低温性に近く「陶磁・無釉」に近く簡単に見分けは着く。
    つまり、品質は低く中国の古来の青磁には数段劣る。

    そもそも、「青磁」は中国では「儒教」だけで使われ、その「儒教」では「尊厳の象徴」として扱われそれを意味し、将又、「玉器」として扱われ、玉器、即ち、「貴族のみ」に用いられるものとして扱われた。
    日本には「奈良期初期」に「渡来人の阿多倍等の後漢人」より青磁物が伝わる。

    即ち、従って、「奈良期の大和」では、これを「持つ事」は「高位の貴族のステイタス」とされ他の者には禁じられていたのだ。

    従って、「大日輪の木像坐像と台座」と同様にこの「青磁」は「大日輪の木像坐像と台座」とセットで用いられたものである事が解る。
    恐らくは、セットとすると、「賜姓時の象徴物」であった事に成る。

    筆者の家の「壺口狭型の青磁」は見立てではその色合いから間違いなく上記の「青釉(アルカリ性銅イオン)の青磁」である。
    依って、時代的には4つの中で最も古い「青磁」と成り貴重度も品質も良い事に成る。
    取り分け、「青釉の花瓶」の「瓶」の「壺口狭型」は古く中国の製である。

    故に、「賜姓象徴物」であった可能性が高いのである。
    (花瓶類は後に「遺品シリーズ」で論じる。)

    この「花瓶」とは別に、この全ては「紫檀の三つ」も現存するが、仮に「仏像」では、そもそもこの様な「扱い事」、つまり、「三重の形式」は採らない。
    「大日輪の木像坐像」を含めて明らかに「賜姓の象徴物」として授かった事は、この同じ「三つの紫檀の敷座」と合わせると、「仏像」そのものでは無かった事が「状況判断」できる。

    仮に「浄土密教」であって、「大日如来」を崇めるとすると、顕教の「釈迦如来」の「仏像形式の様式」を抑々有していない事が問題として挙げられる。
    様式的には何れにも明らかに違っているのだ。

    (注釈 この「紫檀の賜姓象徴物」の「一対」はどの様な所に安置されていたかを述べる。
    その事でも、凡その「祭司物」として扱われていたかは判る。
    先ず、「民家」でも無く「武家屋敷」でもない事が判る。
    筆者は全く記憶が無く、祖父の親族とその縁者から説明を受けその状況を再現した。
    明治35年に家やこの家に保管されていた遺産などのものは消失した。
    幸いに「福家の家」の細部に渡りよく覚えていた。
    そもそも「家」と云うよりは当にそのものの「館」である。
    氏と氏人の「政治館」の様な役割を果たしていたと云う事である。
    その前に、この「館類」には前段でも論じたが、先ず一つ目は「松阪城」を中心とした「中町の侍屋敷群(現在の殿町・御城番屋敷)」に「蒲生氏郷」から「九番から十一番の三区画」の邸を与えられていた。
    更に、櫛田川北側(松阪・現在の中町)にも「自前の館」を持ち、松阪(現在の京町)には「菩提寺と来迎寺」に近くに「福家の館」を持っていた。
    そして、「松阪(現在の本町)」には「紙屋伊勢屋の本店」を持っていた。
    その他にも殖産などに関する館を持っていた。
    ここに述べるのは最も「青木氏を物語る福家の館」である。
    他は夫々の目的を以て「館形式」は構成されていた。
    取り分け、「九番から十一番の三区画」の邸は「伊勢の政治」に関わる決められた「間取りとの様式の体」であったとされる。
    これを「三区画」に分けて「城との関係事務所」を三つに分けていたらしい。
    一つは「城との殖産」、「城との商い」、「地権域の政治」であったと説明を受けた。
    それだけに大きかったと云う事である。
    「櫛田川の北側館」は殖産関係の事務所」であったとされる。
    最も上記の状況証拠と成り得るのは矢張り「福家の館」であろう。
    そして、ここは他と違って説明に依れば「大きな寺の様式に似ている事」は判る。
    その説明を完全に表現できないが縷々述べるとする。
    そもそも、上記した遺産のこれ等は当家の「仏間」と云う処に安置されいた。
    その間は、右には相当大きな「仏壇」の安置の間と、左にはこの「賜姓象徴物」の安置の間に分かれていて、此処には紫檀の敷座の上に「青磁の花瓶」が据えられていた。
    夫々、東西に「一間の幅」と「南北の奥行き」が「四尺の奥行きの安置場所」を持ち、ここに納められていて、「残りの二尺・後ろの北」は関係する物の収納庫であった。
    その前は「板敷の間」であった。
    この「板敷の間」は二間・一間の板間を持っていた。
    この「板敷の間」に連なってこの南側には「二間・二間の大広間」があって、「祭司の際」は襖を全て外して、此処に一族が参集する仕組みとなっていた。
    この南側の大広間は「大客間」と呼ばれ、東には南北に二つの床の間があった。
    尚、客は、先ず、四畳半の「玄関の間」に上がり、次は四畳半の「控えの間」に移り、その次は「仏間」に移り、最後にはこの「大客間」に南向きに入る仕組みであって、「控えの間」では客に抹茶を持て成すのである、
    此の控えの間が「書院造り」であり、常に「四季の軸」が掛けられ「茶道用具の漆器の茶箪笥」があり花瓶の壺に一輪の「所縁の花」が飾られていた。「接待の間」と呼ばれていた。
    この「玄関の間」は二つに分かれていて、先ず、南から扉を開けて入る客は「石敷の四畳半の受付の間」に入り、ここで「正式な挨拶」をして、そこから「四畳半の玄関の間」に上がる。
    この「玄関の間」と「受付の間」の高さは「半間」あり「二段の階段」で上がる事になる。
    この「玄関の間」には東に低い棚があり、ここには所縁の物が置かれていた。
    その後の北の間は、此処は「畳敷きの控えの間」に成っているが、合わせてここを「仏間」等の呼称で幼少の頃は呼称していた。
    周囲は全て襖で仕切られていた。
    二つの床の間には青木氏を物語る所縁の物(遺品シリーズ)が二つに分けて祭司されて、南床の間には軸が掛けられていて、全ての周囲の欄間には「横軸と額」が掛けられていた。
    この「大客間の西側」には同じ大きさの間でここは「談間」と呼ばれていて、これが左右に在って、これを半間の廊下で連なり客は最後にはここに移り、庭の「枯山水」を愛で和歌や俳句等や俳画や水墨画を書いて楽しむ間であった。
    最後は、更に南の西六畳の間に移り、枯山水の青石や紫石の石畳みを渡り裏門から帰る。
    生活や家人や家の者は東別棟に住し、これらの間は更に北側と西側の四つの間に連なり、客は東門から入る者は同じ様な仕組みの間に入り団欒する。
    客は自ら何れの客層かを判断して正門の南紋か西か東の門から入る事に成る。
    北門は無かった。
    北の間の四つには「控えの間」があり、此処に数人の執事が控えていた。
    西別棟には弟子等の別棟があった。ここから執事が北の間に入る仕組みであった。
    この別棟で内弟子等に絵画和歌等を教えていた。
    一般の教養で習う弟子等もこの西別棟に入った。
    「紀州の別低」も筆者の「記憶と口伝と調査」でもよく似ている事は判る。
    全体としての印象は平等院の様な感じである。)

    実はこれらの内、「賜姓象徴物」だけに危険が生まれた事から平成10年10月15日にこの「賜姓象徴物」だけは「安全な場所」に保存され祭司されている。
    青木氏氏研究室 NO222 青木氏のステイタスの論に写真記載) 

    (注釈 相当以前に前段でも論じたが、渡来人の「司馬達等の孫の鞍作止利」の像を、其の子孫である「歴史小説家の司馬遼太郎氏」が勤め先の「産経新聞」を辞した後に、予約を取り筆者の松阪の家を訪ねて来て、この「大日輪の木像坐像」を観に来た事があって、現存する彼の先祖の作を観て感心して帰った。
    其の後にこの事に就いての「歴史の単行本」を限定して関係者に発刊した。筆者の家にもある。)

    (注釈 「法隆寺金堂の釈迦三尊像」を「飛鳥寺の金堂」に入れる際に「規定尺の仏像」が入らず「鞍作止利の発案」で何とか入れたとする逸話が遺る。
    当初、前段で「仏像・ぶつぞう」として論じてきたが、この論を論じると、訳が分からなくなる恐れがあって、此処で、敢えて”仏像では無い”と論じている。
    この上記の「氏是の書の事」も同然である。
    研究している過程で各所の歴史観が替わって行き修正に苦労努力している。
    勿論、「書の解明」が可成り後の歴史観を得た研究結果である事も含めて、此処に記した。
    この避けていたこの「書の研究」で「青木氏の歴史観」は大いに替わり全てを見直す羽目となった次第でもある。)

    (注釈 一部前段で触れた事があるが、この「氏是の書」の後にも、更に別に「青木氏の由来」を書き記した「由来書」が在って、「平安期末期までの由来に関わる事」で、当然に、室町期の中頃の先祖に依って書されたものでその期日も書き込まれている。
    この「由来書」も何しろ漢文の解読困難な草書で、みみずが這った様な「超難解極まるこの書」である。
    又、この「書」からその一部を抜き出して「軸」にして飾られている。
    何故一部を抜き出したのかは判らない。
    極めて「達筆」で近所の「書道の心得」のある人に解読を依頼したが、この「漢文」は苦手と云う事から充分な読み取りは現在も出来ていない。
    恐らくは、何らかな青木氏に関わる「歴史的由来」そのものより「達筆性を競った軸書・悟り」であると考えられ、「禅宗の僧侶との競い書」であったのではないか。
    「数人の禅僧の書」もある故に、「書の競い・即ち、悟りの境地」の会のものであろう。
    この頃、この「書」を通じてのこの様な「慣習の禅宗書会」が室町期にはあった事は歴史観として承知していて、「永平寺の高僧」の「書」を後に額にして欄間に架けられている。現在もある。
    何度かの挑戦で凡その「読み取り」は出来ているが、充分な研究には至っては居ないが、其れなりにその一部は「歴史観」として本シリーズで活用して論じている。
    何れにしてもこの「二つの難解の書」の解説の一つをここに記した。)



    「美濃の経緯」に付いて元に戻して。
    上記の残りの「4と5の検証」である。
    (重複)

    1 奈良期後期の浄橋飽波の嫁家した直ぐ後の源氏化路線での決別期
    2 源平戦の頼政の事件の平安末期の混乱期
    3 室町期の混乱期

    4 国衆の準備段階の前期
    5 国衆の南下期の直前期

    この「4と5」の時期の検証には「一色の本貫名」が「決め手」として関わっていると説いた。
    美濃の中で、額田に伊勢の本貫名を使う事は滅亡する前では普通は当時の家族制度の中では「仕来り」として「嫁家先」では許されず難しい事である。
    桑名殿の子供の「浄橋」は790年没、「飽波」は787年没である。
    少なくとも「伊勢の本貫名」である以上、この間に「一色」を名乗る事には成る。
    当然に奈良期の末期か平安期直前までである。
    其の後に、合わせて時期は別として「清光院と清光寺」が創建されている。
    「追尊二世族の別居の家」としての「清光院」を建造するとした場合はこの期間内である。
    「神道」であった時期から「仏教」にも帰依した「伊勢」のこの二人の「伊勢の裔系の菩提寺」の「清光寺・密教仏教帰依・律宗族」は嵯峨期の少し後に成る。

    「美濃族の拠点」であった「額田」に「本貫名の一色」を公然として着けられるには「鎌倉期の西尾の一色」より前の時期と成るが、歴史に遺るのは室町期に入ってからに成るだろう。
    「墓所」」を伴う「一色の清光寺」は、美濃の「伊勢の裔系」が拡大した「後の事・10代目頃・裔係数500人前後」に成り、「青木氏の伝統の掟」から「住職」も「伊勢」から求めなくてはならない。
    そうすると、3は無理と成り4の直前期に成る。

    (注釈 伊勢と異なり嫁家先の美濃では「墓所持ちの菩提寺」は「伊勢の裔系」の一族で最低でも初代から10代目位・約400〜500人で当時の平均寿命50歳から500年で成り立つとされていた。
    子孫拡大率の数式論からもそうなる。)

    そうなると当然、4と成る。
    これ以前に渥美に大勢の伊勢の裔系が降りて「神明社所縁の地」の定住する事はそもそも危険である。
    取り分け、(a−1)は先祖の清光院と清光寺を護らなければならないし、「裔の本筋」は動かす事は無理であり、(a−2)族とその関連族としても「大人数の大移動集団」で無力であり目立ちすぎ危険で無理であろう。

    そうすると、4と成ると何にしても「a−2の裔系の家族」が「神明社所縁の地」に先に行く事に成るだろう。
    これを護るために一部の「bとcの族」等一族郎党が付き従う事に成る。
    そうすると、誰が考えても何らかの策が取れれば1540年とされている「国衆」としての「最終的南下の準備段階」の前に行うべき策と成る。
    それが「国衆」としての戦士ではない者等(家族とその一統一門等)を先ず“「何らかの形」”で移動させるべきである。
    それでなければ後にする策は武力の無い者が間違いなく犇めく他の国衆に晒される。
    つまり、これ等の事から考察すると5では無い事は直ぐに解る。
    5は飽く迄も「国衆の戦士の移動」であり、これを前期と後期に分けている可能性がある。

    そこで問題に成るのが、“「何らかの形」”であり、つまり「大人数の大移動集団」を移動を完全に安全に解決できる手段があるかである。
    どの様に目立たずに「額田」からどの様に移動させるかである。
    然し、その経緯を記したものが何故か見つからない。焼失か。

    そこで、筆者は前段でも論じた来たが、一つの過程を持つていた。
    これは「伊勢」が執った特別な行為がある。
    それは“「御師様 A」”とそれに関連した“「伊勢信仰 B」”と“「神明社の方針転換 C」”が物語るのだ。
    これに関連して「浄土衆の白旗派の律宗の幕府の決定 D」であった。

    これ等は前段で論じた事であるが、当時の状況証拠をもう一度考察して観る。

    当時、「熊野信仰」に押されて衰退していた“「伊勢信仰」”がある事で復興しかけて未だ何とか下火で続いていた。
    それは、要するに“「御師様」”と“「神明社の方針転換」”に関わった。

    結論から言うと次の様に成る。
    これが筆者が考えている「過程」である。

    これ等の要素を利用して、一度、「伊勢シンジケート・伊賀」の「手引き」で護られてまず「伊勢」に行きそこから「伊勢水軍」で渥美に一挙に移動させたと考えられる。

    さて、丁度、この頃、伊勢湾でも“「伊勢の水軍衆の混乱」”が「信長の指金」で起こっていた。
    この「二つの混乱事」を利用した可能性がある。

    先ず、「伊勢信仰の考察」である。
    「足利幕府」に依って推奨され、下火に成っていた「伊勢信仰」は「熊野信仰」も凌ぐ程に成り、遂には「庶民の信仰」として許されるまで成って行った時期でもある。
    これを契機に同時に「伊勢青木氏」は「御師・おし」と呼ばれる「神明社の神職組織・隠密情報組織」が全国を廻って“「庶民信仰」”を呼び掛けた当にその時であった。

    それまでは「青木氏」が管理する全国にある500社弱に上る「神明社」はある一定の格式を有する族の「信仰対象」であった。
    この時、足利幕府は浄土宗を青木氏の白旗派と定めた。
    これを契機に「伊勢」はこの「神明社」を「庶民の信仰対象」に切れ替え「青木氏の神職」を動かして「大宣伝戦」を繰り広げた。
    室町幕府の許で「庶民信仰」に切り替わった「伊勢信仰」と連動させたのである。
    これに伴い「神明社信仰」も動いたのである。

    そもそも、この「御師・おし」は「御師様・おんしさま」と呼ばれ「守護神としている伊勢青木氏」の支配下にあり、その様に呼ばれていた。
    「御師組織」とこれに相まって「伊勢シンジケート・伊賀衆」と相まって「桑名」までの「約70kの距離(32里・3〜4日・徒歩15時間)」を「大集団の彼等」を保護した可能性が極めて高い。

    注釈として 集団を幾つかに分けている可能性が高い事である。

    (注釈 室町期初期に幕府の「原理主義の白旗派」を「浄土宗と決めた事」に対して、同時期に「御師制度」を態々、組織した事は「何らかの政治的な関係性」が在ったと考えられる。
    そして、その「伊勢と信濃の青木氏」を「律宗族とした事」には「浄土宗の権威と象徴」の頂点を決めた事に等しいし、「律宗族」として呼称して「権威性」を持たしたとも考えられる。
    その代わり、同時に「伊勢神宮」も「神明社」も「信仰対象」を「幕府」も「青木氏」も同時に「民衆の信仰対象」として決めた事は偶然では無いだろう。
    それには青木氏側には、「この件の思惑」が働いていて「政治的行動」を幕府に働きかけたと観ている。)

    注釈 弱体化するも「足利幕府」と「浄土宗徒」を味方に着けた可能性があるという事での駆け引きであったのではと考えている。
    それを証明する記録はないが、歴史が物語る。
    1467応仁の乱勃発
    1470年頃から1490年頃まで一揆が各地で多発する。
    1490年〜1532年間では移動通路と成る美濃ー尾張間は木曽川に挟まれた地で「一種の空白地」であった。
    1540年松平家康は今川氏に人質。
    1542年に斉藤道三は土岐氏を倒し美濃奪う。

    当初は「暗黙の禁の地」に相模の国衆が尾張に入り「五藤家の居館」を建てた地域である。
    ここにこの後の1532年に丹後の国衆の山内氏が入る。
    五藤氏は山内氏の家臣と成る。
    その後、山内氏は勃興する織田氏の家臣として「城代」と成った地域であった。
    これ等から1542年までは「一種の空白期」である。
    その後に遂にこの「空白地」には「美濃と尾張」を制した斉藤氏勢力下に置かれていた。

    この「美濃ー尾張間の戦況」を「御師らの情報」を基に敏感に呼んだと観られる。
    この事からも「移動」はこの「空白地と空白期」を利用したと考えられる。

    (注釈 この空白地と空白期は朝廷の天領地から幕府の幕領地に替わり、肥沃な土地を荒らす事を周囲の豪族は避けた。ところがこの「暗黙の禁」を五藤氏が破ったと云う事である。
    雪崩の様に争奪戦が起こった。
    「庶民信仰」は元より「国幣社格」であり名目であった。)


    ではどういう事かと云えば次の様に成る。
    況して、「AからD」を以て「名乗り」を「一色の伊勢の裔系」とすれば「御師様のお墨付き保護」と「伊勢シンジケートの影の保護」で安全に移動できたと考える。

    後は海運では最大規模の安全に武力の持つ「伊勢水軍」で「渥美」に移れば良いだけに成る。
    誰も襲うも者はないだろう。
    伊勢がその後の糧を保証する。
    全く問題はない。これらの時期を見計らったのが4の時期であったと観ているのである。
    これが何らかの形の策である。

    これで「4と5の問題」は検証できたと考える。
    1540年から始まつた「準備段階」の前の「渥美移動の準備計画」であった。


    1159年に入った「伊勢と信濃の融合族」の「伊豆」に対してその後に「脅威」が三度起こった。
    一度目は入りたての時期に「源平戦の影響」での「駿河伊豆間」の「神明社シンジケート」が遮断された。
    二度目は信長により「美濃三河間」の「神明社シンジケート」が遮断された。
    三度目は江戸初期の「神明社引き渡し」に依る荒廃で「神明社シンジケート」が遮断された。
    以上の三つであった。

    その大きな元は前段と上記とで「美濃」にあったと説いた。

    「源氏化した美濃」が滅亡して、結果として美濃の「神明社シンジケート」が遮断された事にあった。
    この事から「伊豆を護る」にはこの「早急な修復」が「一族の喫緊の課題」であった。
    取り敢えずは「伊勢水軍」と「残存の駿河水軍」の「ルートの水路」で何とか「伊豆」を補完していた。
    その為にも「伊豆」は必要な「三つの湾(内浦、下田、稲取)」に「一族の四家(福家 湯ケ島)」を配置して、そこから何とか細々と「情報を含む生きる糧」を内部(梅木等)に補充していた。
    そして、「伊豆の入口(イ地域 三島等)」には「陸路の拠点」を置いて、「陸路の繋」と「水路の繋(藤枝)」として充分では無かったが取り敢えず急いでの「伊豆態勢」を整えていた。

    ところが、「戦国時代」は益々激化して「伊豆」も「情報網」と「生活の糧」と「商品の入手」が困難に成った。
    「伊豆」には「秀郷流青木氏」が後ろに控えていたとしても喫緊性に欠けていたので危なく成った。
    「室町期末期」の「秀郷流青木氏族」の「主力の永嶋氏」も背後に「三つも戦い・織田軍と秀吉軍」を抱えていた。
    「水路」があったとしても緊急には間に合わないし「抑止力」は小さい。
    元の様に繋がった「シンジケートの強い抑止力」が何としても必要とした。

    それが、上記で論じている「美濃の修復作戦」と「神明社の修復作戦」なのである。
    これを「氏是」を破ってでも「上記の作戦戦略」で一度に行おうとした。

    「陸路と水路の両面」から「大作戦」が「伊勢と信濃の連携」で開始された。
    室町期は「紙文化」で「巨万の富」を獲得していて「財力」には全く問題は無かった。
    「美濃作戦」はこれを生かした「伊豆救出作戦の経緯」の一つであった。


    さて、上記の事を再び考慮して、そこで「断絶の元」と成った「美濃の件」の経緯を進める。

    その後、この地を領国として治めていた「今川氏(駿河)」が滅亡し、三河松平の家康が“「1560年」”に信長に味方して「三河・遠江」を抑え獲得した。

    (注釈 「伊豆」は関東官僚の上杉の統制下にあった。)

    前段と上記でも論じたが、「伊勢と信濃の戦略」で、従って、「加茂木曽の山間部」に潜んでいた「三野王の子孫」の“「美濃の青木氏(額田青木氏)」、”、つまり、”「(a−1」(a−2)」”と「bとcの族・元官僚族」が、先ずこの「額田の地」にまでに押し出せた事に成った。

    それには、それなりの「重要な経緯」があり、先ずはその時期は次の様に成る。
    唯、実は歴史はこの前に動いていた事が判るのだ。

    先ず、一案としては「1560年の直後(本能寺1582年)」である事に成るとした。
    ところが「注釈」として、実際は“「1540年代後半の早期・準備」に進出していた”とする記録があるのだ。
    恐らくは、これに従えば、“「国衆」”として「家康」に認められて組した時期が「1560年の前後の頃」と判断できる。
    「準備段階」からすると「約20年後」である。

    そこで、資料類を繋ぎ合わせて検証して観る。
    つまり、「伊勢と信濃」は、先ず「額田青木氏」として「三河一色の地(額田一色)・松平の支配地」に下ろして来て入らせた。
    この事は、既に、「加茂木曽の山間部・シンジケート」に潜んでいて、「伊勢と信濃」はその「子孫の成り行きの事」、つまり、「額田青木氏、一色青木氏、美濃端浪の青木氏」」を把握していた事に成る。

    もっと云えば、存在していた「土地の問題」である。
    「伊勢と信濃」は、この「一色の地」にこそ、源平戦で滅亡したがここは元は「美濃青木氏の地」であった事を知っていた事に成る。
    そして、源平戦後にここを「額田青木氏の拠点」として「(a−1」の「浄橋飽波の裔系」が住んで「加茂木曽の山間部」に潜んでいた「(a−2)や(bc族)」に差配していた事に成る。

    そうすると、下記の検証より「美濃青木氏」の始祖の「三野王」の「戸籍上の本貫」は、「北の揖斐域」と「真南の大垣」とを「縦の直線」で結び、この「真南の大垣」と「東の土岐」を結ぶ「直角の三角州の野」の中にあった事に成る。

    つまり、この「直角三角州」の「北の斜線上」には「各務原の野 1」が在って、「大垣の野 2」と「土岐の野 3」を結ぶ直線上には「小牧の野 4」が存在すると云う「四つ構造の野」に成っていた事に成る。

    これを紐解けば、「奈良期の美濃」とは、「額田」を入れたこの「5点の間(額田)」に、北側には「揖斐川」、中央には「長良川」、東側には「木曽川」と「土岐川」の「四河」を挟んだ領域に囲まれた「周辺一帯の地域」であったとすると、「古書の記録」と一致する事に成る。


    更に、これを検証して観る。
    「大垣と真東の土岐」との間は57キロ≒60キロ
    「大垣と真北の揖斐川」の間は17キロ
    この大垣を起点とした「三角形の面積」は、凡そ、510Ku
    以上と成る。

    そうすると、「古書の記録」とには、「額田の蒲郡」と「西側の一色」との位置には南側に少し“「ずれ」”が起こる事に成る。

    「蒲郡」と「土岐入口」とは真北に70キロ
    「蒲郡」と「一色」とは真西で真直角に20キロ
    以上の位置にある。

    この「古書」に依れば、結局、次の様に成る。
    「入江」は「北の山側」に凸に食い込んでいた。
    「圷の野」は大きく南方に広がっていた。
    以上という事に成る。

    これは「三野王の時代」から既に「700年後」である。
    つまり、これは次の事に成る。
    70キロの「圷の野」が広がったという事
    つまり、100年で10キロ進んでいる事
    以上に成る。

    そして、これを「地形的」に観ると次の様に成る。
    「土岐―蒲郡」の間は、「丘陵・山沿い(海抜200〜300m)」である。
    「土岐」から「蒲郡」まで南に70キロと云う事に成る

    これで「700年前」より東には地形的には変化していない事に成る。

    そこで、その「丘陵」から真西に直角に20キロの位置に、この“「額田の一色」”があったとすると次の様に成る。
    20キロ/60キロ≒1/3と成る。
    美濃の「1/3の圷の野」は、「三つの河の影響(土岐川は丘陵・山沿いに流れる。)」で「尾張側」に広がった事に成る。
    以上に成る。

    とすると、「額田の一色」は、「三野王の頃」から最低でも「150年後」の「800年の平安期初期頃」、つまり、「施基皇子没後、85年頃」には、「額田の一色の土地」は、先ず、「土岐」よりの「山沿い側」に在った事と成る。

    つまり、“「100年で20キロ」”と云う「圷の経過期間」を経て居る事である。
    これで「額田の一色の圷」は、既に「野」として存在した事が充分に云える。
    この事から「額田の一色」は「野」であった事から存在し得ていた事に成るのだ。

    故に、上記した様に「施基皇子」の「伊勢本貫の格式」の「一志」「志紀」「色」、又は、「一色」の「地名」の「格式由縁」を以て、没後80年後はそれと同時に、「三河国」にも「しき」の「一色の地名」として、額田後に“「地名」”として名づけられたと考えられる。

    これは「血縁族の美濃の青木氏」の「存在の由縁」であった事に成る。
    そして、それが「滅亡した美濃青木氏」では無く、「額田の青木氏」であった事に成り、「伊勢の桑田殿の裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」であった事に成り得る。

    「美濃青木氏の源氏化」に反対して「裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」で源平戦で別行動を執り「加茂木曽の山間部」に潜んで「伊勢の支援」を受けて「信濃シンジケート」として「300年間」を生きていた事に成る。
    そして、その「拠点」が「端浪一色であった事」に成るのだ。

    従って、上記で多くを論じた様に、「伊勢」の「一志」「志紀」「色」、又は、それに準ずる「一色の地名」は、少なくとも「当時の慣習」で「天皇名等の皇位の名」を「地名等」に使う事を禁じられていた。
    その「光仁天皇」や「追尊春日宮天皇」の裔であった事から「本貫名」を使った事に成るのだ。

    故に、「施基皇子没(716年 追尊770年)」後の「三野王の裔の美濃」としては「一色の地名の命名」は原則的には無かった筈である。
    可能なのは「裔系の浄橋飽波」の「女系子孫」が使える事に成り得て、この場合は「美濃裔系」では無く「伊勢の裔系」としての「独立した立場と格式」を執る必要があった事に成る。
    それで無くては「地名一色」は使えない事に成る。

    そう成ると、先ず、「美濃(額田)」でも「第一次源平戦終了・1180年」まではこの間は「一色の地名」の命名は避けた事と成るだろう。
    「平安京の遷都期(795年)頃」には、「始祖で祖父の施基皇子没716年」で80年後である為に論理的には「一色の地名」の命名は可能と成るが、それ以前は「三野王の美濃族」には「桓武天皇」は認めなかった筈である。

    つまり、凡そ「800年頃」には「一色の地名」は論理的には使えた事に成る事が、上記の様にこの検証から定められる事に成る。

    要するに、「800年頃」のこの時期は、「青木氏族」に執っては取りも直さず前段でも論じたが、「賜姓族や皇親族」から外され、その結果として「四家制度、四掟制度、四六の概念、女系の妻嫁制度、嫁家制度」等が構築されて行き、「皇族との決別」して「政争」から逃れて生き残るために強力にこの制度が推し進められていた時期でもある。
    この時期は「青木氏」を巡って「桓武論説と嵯峨論説の激しい政争」も起こっていた。

    この時期は、言い換えれば「信濃青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、甲斐青木氏」とは、未だ「四掟の範囲」では血縁し得たが、然し、反面これに「女系の妻嫁制度」にして、朝廷に関わらない様にする為にも切り替えようとしていた時期でもあった。
    「伊勢と信濃」を除いた「三つの青木氏」はどんどん「源氏化」を進めて「路線の違い」で、実質、「四掟」は無縁のものと益々成って行ったのである。

    当然にして、「美濃」に嫁いだ「二人の伊勢の裔系」は、出自元が「源氏化」に組していない以上はこの時から既に「源氏化に組する事」は出来ず、嫁ぐ間もなく子孫を遺した後に「別の行動」を執った事に成るのである。
    その「表れ」は「清光院と清光寺の存在」である。
    「光仁天皇」や「追尊春日宮天皇」の「直系の裔系」であるからこそ使える「格式号」である。
    上記で論じた「書の所以」が物語るものである。

    つまり、「伊勢族」ではない「美濃族」には絶対に使えない「格式の院号」である。
    そもそも、前段や上記で詳しく論じた様に元より「美濃族の青木氏」は「朝臣族」であったとしてもその「浄位の格式」の中には無い「青木氏」である。

    恐らくは、「二人の伊勢の裔系」が生きてる間に「別の行動」を執った事により「院」に入った事を示す証拠でもある。
    「何かの理由」があって「浄位の者」がその「役務や立場」から離れ院生を送る事の「習わし」である事から「清光院の院号」は「門跡院」と同然にある。
    つまり、「浄橋と飽波の姉妹」は生前中に「美濃族の生き方」とは「別の行動(役務や立場)」を執って院に入った証でもある。
    故に「本貫名の一色の地名」の命名はこの「短い時期の間」である事に成るのだ。

    前段でも詳細に論じたが、この直後から「嵯峨論説派」が主導権を握り、それに沿って「嵯峨論説派」(824年頃)の「近江、美濃、甲斐」は「源氏化」を進めた。
    「795年〜824年の間」の「30年間」が「一色の地名」の命名の間と云う事に成る。

    (注釈 その証拠に其の後に「嵯峨期の詔勅の禁令」を出してまでも、この「浄位の青木氏」に関する「一切の慣習仕来り掟の使用」を正式に禁じたのである。
    それだけに平安期以降はこの本貫名は無視される傾向が強かった事に成り、鎌倉期頃からは止められない程に横行していた事が云える。
    それが更に、「新撰姓氏禄」と云う事に成った経緯であり、その族の範囲を「4−11」に区分けしてその範囲で定められた「古来の格式」を護らせようとしたのである。
    それでも、「臣下朝臣族・源氏化」には止まらなくて「九つの縛り」を掛けて止めようとした。
    然し、「初代の賜姓源氏」の「肝心の嵯峨源氏」そのものがこれを護らなかった。)

    要するに、「嵯峨論説と桓武論説」の「桓武論説派」に在り乍らも「二つの青木氏」はこの何れからも逃れようとしていた時期でもある。
    事態が「785年〜824年の間」の「30年間」が仮に「一色の地名」の「命名期間」で在ったとすると、「額田の一色の地名」がよく遺ったと云える。
    「浄橋と飽波」は光仁期の「青木氏桑名殿二世族」であるので、「美濃」に嫁した年齢は「飽波王の祭司王」を務めた後であるので、最高で18歳と成る。
    「浄橋と飽波」は記録から「82歳の極めて長寿」を全うしたとしているので、「785年〜824年頃の間」は最高でも83歳程度となる。
    「浄橋」は2歳年下であったので、81歳程度と成り、未だ「清光院」に入ってから41年間は生存中であった事に成り得る。
    充分に裔系に差配が可能であった年齢と成る。取り分け「飽波」は色々な役務を熟し「才女」であったとしている。
    故に美濃の源氏化を防ぐ者として差し向けたのであろう。
    故に、その後に於いて「浄橋と飽波」の子が「女系の伊勢の裔系」として大きく拡大させたと考えられる。
    これは論理的に納得できる。

    滅亡せずに「美濃」に「源氏化」が更に進んでいたとすれば「額田の一色の地名」が遺す事は無かった筈である。
    「785年〜824年頃の間」に“「別の行動」”を執ってたとしても当然に美濃内部で「勢力争い」が起こっていた筈で生き残れたかは判らない。

    それは「賜姓青木氏の一色」と「賜姓の源氏」の存在は「嵯峨期の9つの縛り」から観て「護っている側」と「護らなかった側」では「一つの族」の中では「相反する事」であるからだ。
    この「9つの縛り」を巡って「伊勢や信濃」と「近江美濃甲斐」の間で「争い」が起こっていた可能性が高い。
    源氏化を積極的に進めた「近江美濃族」等が「源平戦」で早期に滅亡した事によりこの「表向きの争い」は避けられたのである。


    ここで追論として「源平戦」は「青木氏の歴史観」から観て世間で論評されるものでは無かったと筆者は観ているのだ。

    「別の行動」と「相反する事」に関連して、ではそれはどういう事かである。
    それは当に、「嵯峨期の9つの縛り」の「護っている側」と「護ら無かった側」の「代理戦争」であったと観ているのだ。
    つまり、言い換えれば「桓武論説側と嵯峨論説側との戦い」であったと云う事である。

    「護るべき源氏側」がこの「立場のストレス」に耐えられ無かった発露が心の中に強くあったと云う事であろう。
    勿論、「桓武平家・伊勢平家」と呼ばれるその「母方の出自元・高野新笠・伊賀」が「桓武論説側」にあった由縁である。
    「9つの縛り」を持つている立場の「伊勢信濃の青木氏側」は「抑止力」は在っても「直接武力」は持ち得ていない。
    そこでこの決着を身内で着ける事が出来ず戦えないので、利害や出自も何もかも一致する「桓武論説側」の「平家」が「代理戦争」をしたと考えている。
    要するに当事者の立場にいた「青木氏の歴史観」から観れば「単なる勢力争い」では無かったと観ているのだ。

    だからこの「戦い」は「立場のストレス」の力に耐えかねて「源氏側」から「時の政権」を握つていた「平家・桓武論説側」に「戦い」を仕掛けたのである。
    其れもある「程度の縛り」を護っていた「摂津源氏頼政」であるのだ。
    これは「河内源氏の頼朝」に「以仁王の令旨」を出していなかった所以でもあるのだ。
    「平家」が勢力が在ったのであれば寧ろ「平家幕府」を企てても良かった筈である。
    でも「平家」は「朝廷」を護り反逆をしていないのだ。
    これは「完全な桓武論説側に居た事」に成るのだ。
    平安初期に興った「嵯峨期で起こった政争」の行方は、平安末期には「桓武論説側と嵯峨論説側との戦い」として再び起こった事であったのだ。

    故に、是の「経緯の流れ」の中にあった「伊勢」は彼等を「信濃シンジケート」して「商い」などで支援しながら「300年の時」を経ていた。
    然し、「伊豆の事」もあって遂には表に「伊勢の裔系」として時期を観て引き出した由縁でもあるのだ。

    「美濃」に居た「伊勢の裔系」や「伊豆」を含む「伊勢と信濃との青木氏」を固める為にも採った「ある行動」なのである。
    この戦国の時期は「信濃」も国衆が暴れ苦しかったが、それ故に一族が固まればだから「信濃」も生き残る為にも敢えてそれに力を貸した形なのである。

    (注釈 何度も論じている「光仁天皇の子の桓武天皇・山部王」の「母方・高野新笠」は「伊勢伊賀の曾祖父」は「阿多倍」であり、「曾祖父は所謂、平家の始祖」である。
    「桓武天皇・没806年・69歳」は「曾祖父(後漢の阿多倍王)」には態々、高齢乍ら「伊賀」に出向いて「高尊王や平望王」の「追尊王」を贈っているのだ。
    定かではないが「桓武天皇60歳弱の頃」とされているので、計算から「曾祖父」は100歳位の極めて長寿であったとされる。)

    (注釈 前段でも詳細に論じたが、「近江」の源氏化を防ぐ為に「伊勢」は私財を注ぎ「額田部氏」を頼んで干拓灌漑をし、研究を重ねて「和紙の生産」まで漕ぎつけたが、その為に「財力」が出来、「伊勢の恩」を裏切って「源氏化むに走って、この源氏化防止策は失敗した。
    それまでの「同族血縁の絆」も全く消えた。
    「美濃」も「浄橋と飽波の策」で源氏化を防ごうとしたが失敗した。
    後は、これではこの「源氏化」が膨れ上がり果ては「同族争い」と成るは必定であった。
    そこで、これに「歯止め」を仕掛けるべく「信濃との連携」で「出自元の親族の平家」に頼ったと観ていて、「清盛」に依る「頼政の正三位の特別昇格」はこの策の「第一段の手」であったとしている。
    そして「伊豆」を与え、それを「伊勢と信濃」に護らせた上で「頼政」を誘い出して潰す戦略に出た。
    現実に頼政は2年も経たないうちに「以仁王の乱」を起こした。そして、これを2年後に潰した。
    ここまでは良かったが、「河内源氏」が「平家(たいら族・桓武平家)」の対抗馬の「元の平家(・ひら族・坂東八平氏・第七世族)」を便り。「旗頭」と成って「本戦」に発展してしまった。
    平家と青木氏側は逆に出て又しても失敗であった。
    この様に成るかも知れないとして「頼政」は源氏を潰さない為にも「頼朝」に令旨の辞を発していなかったのである。
    結局は誤算は「第七世族の裔系」の「坂東八平氏の参戦」であったが、然し、頼朝源氏は2年後に無くなり11家11流の全源氏は「1221年」に完全滅亡する結果と成った。
    結局は「頼政の嫌な予感」が当たった事に成った。
    失敗では終わつたが無傷の「伊勢」では結果として目的通りに1221年で源氏化は終了した事に成って安堵していた可能性がある。
    意図せずに「伊勢と信濃」が「一人勝ちした事の形むに成ったと観ている。
    そうすれば、後は「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出す算段であって伊豆を救う事にあった。
    其処に「室町期の戦乱」で“「伊豆の事」”が更に拡大し起こったと観ているのである。
    それまでには、結果として「伊勢」は紙文化で「巨万の富」を獲得した経緯と成る。
    つまり、「伊豆」を助け、且つ、「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出すに「充分な力」を着けたと云う事に成る。
    これに無駄ではない「300年の時・信濃シンジケート」を経て仕舞ったと云う事に成る。)


    然し、上記の通り、これは世の中の「当時の常識」から観れば、「伊豆」を助け、且つ、「美濃に遺した伊勢の裔系」を引き出す事は、「青木氏の立場」に対して「別の行動」「相反する事」が大きく左右して彼等を遺している事に成った経緯と所以と成ったのである。

    これは一体どういう事なのかである。
    筆者は、「青木氏」から観れば、今まで多くの経緯を論じてきたが、これ等の経緯が間尺に合わない事が多すぎる「世間の論評」と違っていて、その動きの元と成った「平家の動き」は違っていると観ているのだ。

    その前に、「源氏化」を防ぐ「最後の策」と成った前段でも論じたが「美濃の経緯」は次の注釈の通りである。

    (注釈 それは「近江、美濃、甲斐の青木氏」が滅亡したとされるのは、先ず歴史的には「近江の戦い」で敗退し、その後、「石橋山の戦い」と「富士川の源平の戦い」とで滅亡したとする記録に在る。
    「甲斐」はその生き方として鎌倉幕府に対して「権威」を主張し過ぎて「鎌倉との軋轢」で更に徐々に衰退する破目と成った故に別格である。
    元々、「平家」は、先ず、「以仁王の令旨」が「近江、美濃、甲斐の源氏化勢力」に出されたのを受けて「母方出自元の伊勢青木氏」の「密かな期待」に沿ってこれを「源氏化の勢力を削ぐ計画」であったとみているのである。
    当然に「出自元」である以上、且つ、「桓武論説」を支持している以上は、世の常で密かに「平家と伊勢」が同じ利害と同じ路線上にある事から談合していた可能性が充分にあったと観ている。
    その為に、先ず「播磨」の近くの「近江勢」と、そして「美濃勢」と「駿河勢」が「石橋山の戦い」で潰された。
    立ち上がり間もなく「頼政」は宇治に逃げたからであるが、「摂津域の源氏の総元」を掃討するのでは無くて、明らかにこの「源氏化の三つ」を先に潰しに掛かっている。
    つまり、これが、“「1180年8月の滅亡」”と成る。
    この「五家五流」の内の「伊勢」と「信濃」は完全に「桓武論説側」にあって、且つ、「氏是」もあってこれに全く参加しなかった。
    そもそも、この出来事は偶然と思えない程に「伊勢の京綱」と、「信濃の国友」が「伊豆」に移った直後でもあるのだ。
    「伊豆」に「伊勢」と「信濃」の「青木氏」が入った時期は「滅亡の21年前」の「1159年」である。
    然し、「摂津源氏系の源頼政」は、「河内源氏系の頼朝」には、この「令旨」を出していなかった事が最近に成って判明し「公的な論評」と成っている。
    この意味する処は「青木氏の歴史観」も含めて大きく歴史を大きく替える。
    学者により時系列的に研究された結果、「鎌倉幕府の大儀を獲得する為の後付け」であった事が判明したので、今後の歴史観は大修正が伴うだろう。同然に青木氏もである。
    然し、届いているとして頼朝は日和見的に動いたのである。
    この事が「平家の計算外」と成って「富士川の戦い」と成った。)

    この疑問は簡単に解ける。

    (注釈 この「800年頃」から「1180年」までは「血縁続きの氏族」として、「(a−1)の美濃青木氏・末裔」と「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」は「美濃」に存在していた。
    注釈の通り、「(a)の美濃青木氏・末裔」と「(a−1)の一部の関連族」はこの「源氏化」に賛成して完全に滅亡した。)

    そうして、ところが「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」が「平家」に「桓武論説側」と理解が得られていないので、「美濃の血縁族」と観られて「逃げ込んだ族」は山間部で生き遺った。
    然し、その「平家の疑い」は直ぐに「伊勢の努力」で解けた。
    それは、「頼政の孫二人と叔父一人の助命嘆願」を「平家母方の出自元の伊賀」に頼み込んだ事があったが、この時、「(a−1)(a−2)の族」と「bとcの官僚族」の事を説明したと観られる。
    それが前段と上記の経緯で理解を得たのである。
    全く戦わずして早めに山間部に逃げた事が理解に幸いしたと云えよう。

    そこで、では何故に表に出て来ずに、長く“山間部で生き遺った“と云う事はどういう事かと成る。
    抑々、源平の「三度の戦い」でも“徹底抗戦して戦わなかった族”と成る。
    つまり、{源氏化に反対していた血縁族}が他に美濃に居た事に成る。
    つまり、それが残りの「血縁族の(a−1)と(a−2)の族」と「bとcの官僚族」であった事に成るのだが、ところが中でも「bとcの官僚族」は「美濃の青木氏族」で無い為に当然に「源氏化」には無関係である。
    然し、「bとcの官僚族」の美濃族に関わりのある一部は参加したとする記録があり滅亡している。
    これは「当然の事」であるだろうし、疑われるだろう。

    とすれば、「血縁族の(a−1)」は兎も角も少なくとも「血縁族の(a−2)の族」はより近い位置にいた「bとcの官僚族」に引っ張られていた事に成ろう。
    近いだけに血縁も進んでいた事は頷ける。
    「伊勢の裔系である(a−1)」は兎も角としても、これ等の「二つの血縁族」が「平家」に疑われる可能性が充分にあったのだ。

    「平家の動き」は「青木氏の歴史観」から観れば、「世間の論評」には間尺が合わないのである。
    「頼政」が「正三位に成った時点」から始まり、「伊豆」に至るまでの期間は全ての出来事が余りにも唐突単純過ぎる。
    「世の出来事」は一切唐突には起こらない。
    原因があって結果があり、裏があって表があるのだ。
    歴史の論評は、一つ一つを継ぎ足した様には起こらないのが人の世界の常道である以上、「平家の動き」も同じ「桓武論説側」に居た「青木氏の歴史観」には大きく影響していた筈である。
    「論評の継ぎ足し」では無かった事に成る。
    良く調べれは「頼朝」には出していない事の様に、「頼政の目的」が違っていた「以仁王の令旨」が大きく物語るのだ。
    「後白河天皇の第三皇子」の「以仁王の令旨」は。そもそもその「令旨の資格」を持たず「権威」は低いのだ。

    (注釈 筆者は「平家」は源氏の本元の摂津源氏等を先ず潰せば事は収まると観ていたと考える。
    その為に急に「頼政」を潰す事は「世間の批判」を浴び得策では無く、先ず、「正三位・1178年(従三位)」に突然上げて置いて、「世間の批判・反勢力派」をかわし、その後に潰す計画であったと観ている。
    そもそも綬位1年も経たない内の直後に「乱の計画」に入っている。
    平家としては「源氏を潰す方向」にあるのにわざわざ昇格をさせる事はしない。
    そして、これらが前段で論じた様に「伊豆」「京綱」「国友」にも影響して行くし、「美濃の裔系引き出し・別の行動」にも「室町期の事」にも繋がって行ったと観ているのだ。
    重要な事はこの時、「河内源氏」は内輪もめしていたのだ。)

    故に、「(a−1)族」が「額田の端浪の一色」の元の地に定住するも、それにより近い族の「血縁族の(a−2)の族」と、「三野王に縁」のある土地を管理していた朝廷の「bとcの官僚族の他の一部」が「山間府に逃げ込んだ族」であって、それ故に「山間部」で生き遺って、「信濃シンジケート」の「原士」を構築した事に成る。
    そして、「(a−1)と(a−2)の族」の「主家末裔・額田一色」を中心に、「bとcの官僚族」の「原士」が「額田の青木氏」の支配下に入りこれを護ったと成る構図である。

    仮に、この「三つの族」が「源氏化の末裔」だとしたら「伊勢と信濃の青木氏」は手を貸さなかったであろう。
    それは又、「滅亡の憂き目」を見る同じ事が起こるからである。
    全く「源氏化」の無縁の「血縁族の(a−2)の族」と「bとcの官僚族」で構築したからである。
    それは、前段と上記した事が、矢張り、伊勢から「浄橋や飽波」が「源氏化の前」の「初期の美濃」に嫁いだ事に大きく関わっていた事から来ていると考えられるのだ。
    要するに「別の行動」を早くから取った事を証明するものである。
    遅ければ「伊勢の裔系」とは成り得ないであろうし、「伊勢も救いの手」を差し伸べなかったと観られる。
    差し伸べると云う事は、嫁いで子供が出来ての直ぐの事であろう。
    そして、この子孫を「女系の伊勢裔系」として育て上げて「別系」を「美濃一色に作り上げた事」に成る。
    それが、「端浪一色」の「清光院」であって「本貫の一色」なのであろう。
    ここを「伊勢の裔系の拠点」としたのである。
    「創建の経済的支援」は当然に「伊勢」から出ていなければ無し得る事ではない。
    桑名の直ぐ横にも「二つ目の清光院」を創建し、嵯峨期の後にも「清光寺の菩提寺」を桑名の隣に創建している。
    蒲郡にも清光寺を創建している。
    経緯に応じて物語るものが多い。

    そして、その象徴として「源氏化の族」では無い「伊勢の一色の所縁」のある「伊勢の本貫名の一色」を「三野王の定住地」の「額田」に態々名付け直して「(a−1)(a−2)の族」の「主家末裔」を「差配頭」に据えてここに構築し直した事に成る。

    前記したが「シンジケートとの関わり」を持っていた事はこの事を充分に「桓武論説側の平家」は後に承知していた事に成る。
    彼等は「桓武論説側に居た裔系」であった事の「美濃の詳細」を光仁期より時代が過ぎていた事により何時しか何処かのタイミングで「美濃の詳細」を知っていた事に成り、それが乱後の「助命嘆願の時」かその前の「2年弱の前」の「京綱の時」であると観ている。

    (注釈 「青木氏の歴史観」から「歴史」を組み立てなおして直せして観れば、「伊勢青木氏」の乱の前の「京綱の件」を以てしても、「頼政」は「源氏の天下」は期待していなかったし、「頼朝」に「令旨」も出していなかった事の由縁と成り、「乱の失敗」を予測していた事に成り、「追い込まれた末の結果」であった事を物語る事に成るのだ。)

    「古書」や「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏の記録」から経緯を読み取れば、「五家五流の美濃青木氏」と云うよりは、“その末裔族とする”と記する事から“「一色青木氏(記述は額田青木氏)」”での呼称であった事が資料から判る。
    決して他の資料では「美濃青木氏」とは記していない。

    要するに、故に資料は「美濃青木氏」で無く、古い歴史を持つ由縁から「一色青木氏・額田青木氏」と「その血縁族」と記した所以なのであろう。
    それが「伊勢を意味する一色」に存在した「額田の地名」から遂には「額田青木氏」と呼称されて行き、結果として。最後は「蒲郡青木氏」と呼称されて行った事に成る由縁と経緯なのである。
    そもそも「源氏化の美濃青木氏」であれば「上記の氏是の書」で論じた様に「伊勢を意味する一色」は使わないし使えない。


    地形から検証して観る。
    その頃には、「美濃の圷」と「一色の地名」とには、「500年の経過期間」があり、「土岐−蒲郡の丘陵・山沿い」は、「圷野の速度」が上記検証から、真西に「100年−20キロ」とすると、5・20=「100キロ真西」に「圷の野」は確実に広がっていた事に成る。
    従って、「一色の地名」の西には、最早、10キロ西に「知多湾域」にあった事に成る。

    そうすると、「土岐―蒲郡の丘陵・山沿い線」から西に20キロ、そこから「知多湾域」に直線で10キロ、合わせて30キロと成り、「圷の進行速度」の「100年―20キロの数値」から計算すると掛かる期間は「150年」と成る。

    つまり、「三野王」から「150年の頃」は、つまり、これでも「800年の頃」と成り、検証結果は一致している事に成る。

    この「歴史的経緯」から観ても、「地形」から観ても、「一色の地名」の着けられる事の可能性のある期間は、地形でも「770年頃」から「嵯峨期の詔勅(823年頃)」までの間に着けられたと考えられる。

    それが「約30年〜50年間程度の間の地名」で、即ち、この間に、「伊勢―美濃の間」での「妻嫁制度の血縁」がまだ進んでいた事が云える。(浄橋や飽波が嫁いだ。)
    従って、これは「美濃」の「圷」が「野」に変化した「初期の頃」と成り得る。

    これで「美濃の元の事」は検証が済んだ。

    そうすると、此処で何で「甲斐」は兎も角も、「信濃」に「一色の地名の論」として無いのかと云う疑問が湧く。
    「伊勢との充分血縁に依る事」からその格式は充分にあり得る。
    何故かその確たる証拠が美濃の様に出て来ない。

    そこで「考えられる事」として次の事が上げられる。
    ここで本貫名一色の所以である。

    1 「一色」は「美濃との関係(三野王)・上記の経緯」にのみに区別する為に使われた。
    2 「伊勢と信濃の関係」から、最早、「一色の格式」は必要なかった。
    3 「独自の生き方」をする「甲斐」にも無いのは「一色の格式」を敢えて拒絶した。
    4 「信濃」には「足利氏系斯波氏・源氏傍系族」が室町期初期(1387〜1402)に赴任した。

    筆者は、この「四つの事」が総合的に重なっていたと観ている。
    主は肯定的な意味として1と2である。

    副は否定的な意味として3と4である。
    つまり、「信濃」は「一色の格式は当然の事として補完とする必要が無かった。
    そもそも「伊勢」と同様に「源氏化を進めない方」の「桓武論説側」に当初より在ったからであり、その問題を誘発する事は無かったからである。
    甲斐はそのもの拒絶してしたし、「伊勢の裔系」は嫁していない。
    4の「足利氏系斯波氏・源氏傍系族」とは「信濃」はそもそもその「格式差」は比較対象の中には無かった事から敢えて「一色」で誇示する必要性は全く無かった。

    「美濃との関係改善」を「伊勢と信濃」は「800年前後」に「伊勢の青木氏」から“「二人の女(むすめ)(浄橋と飽浪)」”を嫁がせて「血縁」も含めて懸命に図っていた「史実の経緯」がある。
    前段でも何度も論じているが、これは「天皇家・光仁天皇と追尊春日宮天皇」の「皇女を引き取る事」により起こる「縛り無視」に対する「源氏化の策」であったと予想する。
    然し、彼らは「浄橋と飽浪」と対立してその生き方を変えなかった。
    又、あり得る事として「信濃から策」としても「美濃」に嫁した記録は見つからない。
    「伊勢」と異なり「美濃」は「信濃」との国境を持つ族であるとするとあり得る事であるが、何故かかけらもない。

    次の注釈が物語る。
    それは確かにその元の経緯を当初から持っていた。

    (注釈 「日本書紀」等の三古書でも、その意味で美濃始祖の「三野王」は「信濃王」が在り乍らも「天武天皇」の「五大都の制度の案」で命じられて調査に入り詳細に答申している。
    一時、信濃に在して「信濃王」に成ったかの様に進んだが、無役の四世族王であった事からその守護の国は持てない王位であった。
    然し、その「調査の功績」で何と「最も肥沃な三つの野」の「三野王」に任じられたものである。
    「信濃在住」は調査の為として「三野王」と成った。
    そして、結局は、この時、「激しく有能で野心的な三野王」に対しても「争い」を起こさなかった「おとなしい信濃王」が「信濃国」に落ち着いた経緯を持つのだ。
    「五大都の制度の案」は、結局は、「伊勢」は「浄位の施基皇子」に、「近江」は「浄位の川島皇子」に、「美濃」は「四世族の無役の三野王」に、「信濃」は「四世族の在住信濃王」に、「甲斐」は「四世族の無役甲斐王」に、夫々任じられて発足した。
    「近江と伊勢」は元より「五大都の制度の案」では「浄位」であった為に別格であった。)

    (注釈 当初、「近江」と「伊勢」は前段でも論じたが、「川島皇子」と「施基皇子」の異母兄弟の時代は女系での血縁は完全な同族血縁の一族であったほどに相互に行き来していた。
    中の良い関係を続けていた。
    然し、「嵯峨天皇の源氏化が起こる事」に依って「決定的な溝」がうまれ、疎遠と成ったのである。
    余談であるが、「川島皇子の裔」系の「近江佐々木氏」に引きずられた縁戚の「二つの青木氏」は「真砂不毛の地」で「財力の無さ」と「天武期の「反抗行動」から「朝廷の中」で立場を失って行った。
    その為に源氏化で生き残ろうとした。)


    敢えて、追加して上記を論じた様に、「信濃」は「伊勢」と共に「女系」で「青木氏族の体制」を確立していた為に、これには是非に「美濃の源氏化」を進めない様にする事が戦略的に必要であった。
    この為にも「信濃」には同族並みに充分であった為に「伊勢の一色での格式」は必要が無かった事に成る。

    然し、「美濃」にこの「生命線を壊す事」が起こって仕舞ったのだ。
    恐らくは、この時までは“「伊勢と美濃と信濃のライン(神明社で繋がる族)」”は、戦略的に「青木氏族の生命線」と判断していたと観ての事であったと考えられる。

    それには二つあった。(前段でも論じている。)
    第一段の「皇子」を引き入れる事に依る「源氏化」が多少起こっていたのである。
    第二段がその「源氏化」が引き起こした「姓族勃興」の危険性で既にあったのである。
    この二つにより「神明社の情報と物流の遮断化(本論)」が齎す危険性であった。

    「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」に続く。


      [No.375] Re:「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/10/16(Wed) 14:45:41  

    > 「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」の末尾
    >
    > (注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、これは「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
    > これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
    > 取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)
    >
    > (注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏」に嫁いだ「伊勢の浄橋と飽波」で生まれた゜伊勢の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41−R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
    > 結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
    > 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」の彼らは「額田一色」にその拠点を置いて伊勢と信濃の支援を得ていた。
    > 「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」に従ったこの「二つのルート」(「(a−1)(a−2)の原士」)には「氏族の氏人」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成って生き延びたと観ている。
    > 故に彼等も「神明社」を守護神とする族に成ったのである。
    > そもそも考え方として、“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
    > 目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入って支援を待つ事を選んだのである。)


    「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」

    さて、そこで「伊豆の国友の件」に戻す。
    丁度、この上記の時期の直前に、即ち「以仁王の乱」の前に「頼政の件」が起こった。
    上記の「前知識の説明」で、「国友」は先ず「信濃」に入り、そこで「信濃の青木国友」と成ったとある。

    この「青木国友」は「国衆」の多い「信濃」では危険であった。
    そこで、「融合族の伊豆」に入り、「伊豆の青木国友」と成った。
    これで「信濃青木氏と頼政の策」は「平家の追及」から逃れられ「危機」は無く成り成功する事に成る。

    「皇族臣下族」としての護るべき「9つの縛り」を護らず、且つ、「四掟の範囲」を逸脱した源氏族に対して「信濃」はこの「迷惑な話」に対して上記の様に目論んで臨んだが、幸い現実にそう成った。

    そもそも、そこで「頼政の所領」の「平安末期の伊豆」はどの様に成っていたかである。

    この”「所領」”であるとされる「伊豆の青木氏」は現在では次の「通りである。

    「所領」と成ったとして「頼政」に頼まれて「伊勢と信濃の青木氏」が「伊豆」に入った。
    当初の大義は「所領の守護」であって入ったが、現実には少し「本来の所領」では無かった。

    「頼政の所領」の「名目」の前は「藤原一族の守護代」が4〜5年毎に入れ替わって務めていた国であった。
    「清盛」に「正三位」に推薦された事から、その位に相応しく「名目上の所領」を、急遽、「藤原氏の守護代」で治めていた国を与えられたものである。

    そこに「伊勢と信濃」は「守備を名目として入った事」に成る。
    ところが「名目守護であった事」から「伊勢と信濃の青木氏」は「商い」で”「融合して住み着いた」”と云う経緯であった。

    (注釈 この時代は伊勢と信濃の連携で「宋貿易」も営んでいた。この「商いの拠点」の一つとして生きた。伊豆の地形上、湾が良く商いに向いていた。)

    その結果として、「伊豆」には次の様な「青木氏の分布」が出来た。
    この定住地は「商い」を前提とした定住地と成った。


    イ地域
    静岡県三島市青木 
    静岡県富士宮市青木

    以上の「二つの青木村落地」から「南部域(下記)」までに架けて存在したのであった。

    そして、そこには記録から観てみると上記の「青木氏の条件」が存在する。
    第二の「菩提寺の来迎寺館」は「沼津市」に存在していた。(現存する)

    ロ地域
    静岡県沼津市内浦青木 (来迎寺・分寺存在)

    第一の「菩提寺の本寺A(清光寺から後に清光院)」は「賀茂郡の湾際」に存在していた。
    (一度消失し室町期中期に清光院として再建した。)

    ハ地域
    静岡県賀茂郡東伊豆青木

    その後、この「伊豆青木氏」は子孫を拡大し、次の通り駿河湾沿いに「東海道の西域」に定住地を広げている。

    ニ地域
    静岡県藤枝市青木
    静岡県静岡市駿河区青木
    静岡県藤枝市東町青木

    以上の「三つの青木の村落地」は何れも「陸路の東海道の要衝地」である。

    ホ地域
    静岡県三島市青木 
    静岡県富士宮市青木

    以上の「二つの青木の村落地」は何れも北部域の「陸路の東海道の要衝地」である。

    ヘ地域
    静岡県伊豆市土肥
    静岡県伊豆市八木沢

    以上の「二つの青木の村落地」は何れも東部域の「水路の湾岸要衝地」である。

    ト地域
    静岡県賀茂郡河津
    静岡県賀茂郡東伊豆(菩提寺・本寺・稲取湾)

    以上の「二つの青木の村落地」は何れも「伊豆中央部域東の地」である。

    チ地域
    静岡県下田市青木
    静岡県下田市吉佐美青木
    静岡県南伊豆町青木

    以上の「三つの青木の村落地」は何れも南部域の「湾岸水路の中継要衝地」である。

    唯、「古書」では「南部域の三村落・下記 リ地域」にも「青木村」があった事が記されていて、その痕跡は確認できている。

    (注釈 そもそも、何故この様な分布域に成ったかと云えばそれには次の様な理由があった。
    そもそも「伊豆」は山間部を殆どを占める為に過疎化か最近の市町村合併で消えているのでは無いかと思われる。
    筆者の若い時の訪問調査では、この「南部域の二村落」に限らず「北部域の六村域」や「中部域の四村域」や「東部域の二村落」の全てに「墓所や祠」や「館痕跡」等が「聞き取り」でも確認出来ていて、取り分け、判るのは全てに共通して「墓所の笹竜胆の家紋」で、「墓所全体」が「笹竜胆紋の青木氏」の墓所であった。
    この「集落の大きさ」とその「村落の在り様・一族性」が「伊勢と信濃」を遥かに超えていて、「伊豆の国全体」が「青木氏の分布域」に成っている。
    筆者の印象では、“笹竜胆紋の青木氏”が伊豆全体に存在したと云う印象であった。
    「土地名」は勿論の事、「店名、宿名、会社名・・・」等、当たりを見渡せば「…青木」であった。
    「伊勢」ではここまではないし、徹底していた。
    守護神の「神明社」までもが、“「伊勢神明社の名」”が着けられている。
    如何に結合性の高い伊勢と信濃の融合族であった事がこの事で判る。)

    さて、そこで「伊豆」の「菩提寺の本寺A・清光院」も含めて何れも「商い」が出来る「沿岸の港町」に集中している。
    此の湾港は「相模の秀郷流青木氏の拠点」と、三河の「額田青木氏の蒲郡青木氏」と「伊川津青木氏の吉田青木氏」のほぼ中間点に位置している。(両者の血縁族も存在か、商いで定着か)
    「墓所」や「家」や「祭」や「祠」等には何れも「神明社と笹竜胆と白旗」を象徴としているのが確認できる。

    然し、「伊豆」の「上記の地域・イ〜リ」には「頼政の象徴」を示す「八幡神社(神道)」と「八幡菩薩(仏道)」と「官位と位階(三位)」を示すものは何もない。
    「伊豆」の全ての「八幡」は、鎌倉期以降のもので、且つ、殆どは「村社格」で格式低いのである。つまり「神明社」の様な「官弊社」は全くない。

    要するに、「青木氏」が運営する「官弊社」の「神明社(賜姓五役)」では無く、況してや、「頼政」が経営する「源氏運営の八幡社」でもないのである。
    青木氏以外に存在を示す最大の要素は無いと云う事である。

    (注釈 そもそも「神社」には前段でも論じたが「社格」と云うものがあって、これは「延喜式目」で決められていて「三社格」に分けられている。この事を知って置くと研究は進む。
    この「社格式」を分ければ、「官弊社・国」は次の三社類と成る。
    官幣大社>国幣大社>官幣中社」
    以上と成る。
    一段下の「社格式」の「国幣社・地方」は更に観つつに分けられ次の様に成る。
    国幣中社>官幣小社>国幣小社に成る。
    最後は「無資格幣社」と成る。
    そこで、「村格社」は「鎮守杜社(民間社)」等であり、殆どは「無資格幣社」に近く、その運営の「神幣料」は「民間の供進」に基づくものである。)

    これで「伊豆」が「頼政の所領地」とされているが、現実には矢張り「守護代での遙任」であった事が判る。
    つまり、当時よく使われた「名目守護」であった事が判る。

    そこで、この「伊豆」に「国友」が「信濃青木氏」としても1178年頃に「潜り込んだと云う事」である。
    この「所領地」であって「所領地」では無い「伊豆」に“「青木国友を入れる事」”は大いに「頼政の望む所」で「隠す事が出来る場所」であったと考えられる。

    さて、一方そうすると伊勢の「幼い京綱」を「青木京綱」として「伊勢福家」に入れたが、問題はこの「母親の後家」の始末と成ろう。
    「伊勢」にその「存在の形跡」が何処にも無いという事は、残る「最高の策」は「国友」の様に「伊豆に隠す事」であろう。
    上記の通り「伊豆全体」が最早、「青木氏の村」である。

    「経済的な問題」や「護衛の問題」も「住み方」も何の問題もない。
    そうなると「後家」である以上は「菩提寺の二社に入る事」か「神明社に入る事」であろう。

    そうすると、「隠す」と成ると伊豆の何処かの「神明社か清光院」と云う事に成る。
    「神明社」は「伊豆」には現在は「四社」あるが、「伊豆の青木氏」の分布状況から次の様に成る。

    1 静岡県伊豆市梅木   神明社 総社格
    2 静岡県静岡市駿河区  伊勢神明社 分社格
    3 静岡県静岡市清水区  神明社    分社格
    4 静岡県富士市       神明社    分社格

    「伊豆青木氏」が「イ地域」から「リ地域」の「9地域」に分布し住み分けていたとすると、「官弊社」の「神明社」、「賜姓五役・実質は「青木氏の財源で運営」は、この「四つ」に限らず少なくとも「9地域毎」に存在していた可能性があったと考えられる。

    「伊豆」には「伊勢信濃」と共に「陸路と水路」で連携して「商い」を大々的に行い続けた事から江戸期直前まで荒廃する様な事は無かった筈である。
    但し、調査しても「融合族」であるので「伊勢信濃の区分け」は出来ない状態であった。
    筆者は「来迎寺等の分寺」と「本寺の菩提寺」もこれに沿っていたと考えていのである。
    「祠の痕跡」等が確認できるが何故に亡くなったかは良く判らない。
    恐らくは、主に江戸期の「顕教令」と「神明社の引き渡し」で荒廃したと考えられる。

    そうすると、「引き渡し」と「顕教」で「伊勢以上の事(表と裏の事)」が伊豆にもあった筈である。
    答えは何れも減少しているので資料の公開は無い。
    「神明社や来迎寺(菩提寺)との資料」は室町期後期以降しか遺されていない。

    この様な良好な環境を見逃す事は無い。
    寧ろ、「伊勢以上」であったであろう。
    「後家」を周囲の目に付かずに、且つ、早く運ぶには「水路」で運びここに匿ったと成る。
    そうすると、「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」か、遺された「稲取湾」の近くの「賀茂郡東伊豆の本寺」という事に成る。
    安全を期するとすれば「稲取湾」から「賀茂郡東伊豆の本寺」から「静岡県伊豆市梅木・中央部域」の「神明社」に運ぶとする手がある。

    資料が無いので判らないが、この「本寺」が室町期中期に「寺」から「院」に変更している。
    この「意味」は前段でも説明したが、その「格式」は同じとしてもその寺の持つ「特徴範囲を限定した事」を意味する。
    取り分け、「院」は「天皇家の様な高位格」に繋がる「ある種の特徴」を前面に押し出す時に使う「号」である。
    「天皇」が譲位して門跡僧に成るとその「寺格式」は「門跡の院」と成る。
    この「院の格式」は「特別の者」に与えられる格式の呼称である。通常は「院格」と云う。
    この「元寺」であった「清光寺」が室町期に「清光院」と成る事はある意味で限定して「寺の格式」が挙げられた事を意味する。

    そうすると、この「伊豆」のこの「本寺・清光院」では室町期にこの「伊勢の総宗家」の「京綱の母」の「後家の比丘尼僧」が住んでいた事を以て「院」に変更したとも執れる。
    院に変更する事は単に変更したのでは何かがあっての事と成り得る。

    「イ地域」から「リ地域」の「9カ所」に「神明社が四社」で、且つ、「東部の本寺と北部の分寺」が二つとすると、「融合族」である以上は尚更に「伊豆族全体」が、元来の「神明社の神道」を貫いていた事も充分に考えられる。

    この説を証明するには「墓所」には「寺か院」が在る筈である。
    筆者の「イ地域からリ地域」の当地の調査から「笹竜胆紋の青木氏の墓所群」は多く確認できるが、
    「寺院」は確認できなかった。
    つまり、その意味する処は伊豆全体の青木氏族は「原理主義」の「神明社神道」であった事に成り得る。

    そこでこの「神明社の神道」に付いて「神道の墓所」には仏教より前に「ある習慣」が古来よりあった。
    それを観る事で「神道」であった事が判るのだ。

    それを先ず解説して置くとこの「神道の事」が解明できる。

    仏教の「墓所」に対しては「奥津城(おくつき)」
    仏教の「戒名」に対しては「諡号(おくりな)」
    仏教の「位牌」に対しては「霊璽(れいじ)」

    以上と成る。

    「神明社の神道」は「仏教の前」からの「習慣仕来り」であった。

    この刻まれる「諡号(おくりな)」は次の通りである。

    大人の場合は、「・・・・大人・おきな」(男性)、「・・・・刀自・とじ」(女性)
    子供の場合は、「‥‥彦命」(男)」、「・・・・比売命」(女)

    この「諡号」では年齢に依って異なる。

    男で幼児では「稚郎子(いらつこ)」 女では「稚郎女(いらつめ)」
    男で少年では「郎子(いらつこ)」 女では「郎女(いらつめ)」
    男で青年では「彦(ひこ)」 女では「比売(ひい)」
    男で大人では「大人(うし)」 女では「刀自(とじ)」
    男で老人では「翁(おきな)」 女では「媼(おうな)」

    これ等は伝統の前段でも論じたが場合にはよく使っていた。
    この事を知っていなければ現地調査では役に立たない。

    「二つの青木氏族(五家五流青木氏と秀郷流青木氏)」にはそもそも「神明社と春日社」を「守護神」としているので「神道」が多く「青木氏の歴史観」にはこの知識が是非必要である。

    前段でも論じたが、「皇祖神の神木の神紋」である「柏紋の使用」を許されたと云う「最高格式の神明社」の「神職青木氏・神道」の「氏族」である。

    「神明社」だけではなく「浄土密教」の「清光寺(五家五流青木氏)と西光寺(秀郷流青木氏)と来迎寺」の「柏紋の使用」も許された最高格式の「二つの氏族」である。

    結論は、現地調査では、紛れもなく「神道」であった。
    故に、「伊豆」では「密教系の菩提寺」はこの「二社・清光院と来迎寺」しかないのである。

    「神明社」は「伊豆」では、1の「一社」しかないのである。(江戸期には荒廃している)
    子孫拡大に依って東海道沿の「2、3、4の神明社」がこれを物語っている。
    「2の伊勢神明社」はそれの証拠である。

    さて、「伊豆に入った時期」である。
    「伊豆」に「融合族」を形成したのは「頼政(1180年没)の所以である事」からすると、「従三位昇進期(正三位)」に成った事(1174年頃)で上記で論じた所領(形式上)を持てた事からである。
    それまでの「遙任の守護代」の“「伊豆」を所領とした”(1159年)とあるので、この時の直前に「伊勢と信濃」は「伊豆」に入ったと考えられる。

    そうすると、「守護代」とはそもそも3年から5年程度を「一期」として、一期ごとに一族の者に代わって9〜15年の「三期」務めるものと成っている。
    そして「5年毎」に一度都に戻る制度である。
    「頼政」の「伊豆国」の「摂津源氏族の初代の守護代」は「1159年」からで、その後に一時「仲綱」に引き継がれた。

    少なくとも、その少し前は頼政は「従五位」であって、「1158年頃・平家守護」のこの時には未だ入っていない。
    「1159年」に「従三位・正三位」の「伊豆の守護代」に成った事に成っているので、「伊勢と信濃」の「青木氏族」はその時に「伊豆」に入った事に成る。
    そこから、そうすると「京綱の母の後家」は「1178年頃・仲綱遙任守護期」には、既に「伊豆稲取の清光院」に入っていた事に成る。

    伊豆の青木氏が「神明社の神道」であるとすると、「東伊豆の稲取」の「清光寺(清光寺−清光院)」に一度は入り、其の後に「神明社の神道」の上記の「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「1の神明社」に入った事に成ろう。(境内と跡地ありね現在は「廃社跡」である)

    ここが「現地調査」で分かった事として、この付近が過去は「伊豆の青木氏の勢力中心地」であったからだ。

    (注釈 「神明社の設置条件」は「皇祖神の子神」の「神の社」なので「杜」として中心の南の山間部際に存在する事に成る。)

    「伊豆の青木論」を更に展開する。

    室町期に「伊豆」の「菩提寺清光寺」から「清光院」に変更した理由は、周囲が「八幡菩薩」と「八幡神社」を兼ねる「低格の村格社(14)」が多く「伊豆」に創建されて、「青木氏の菩提寺の清光寺」の権威が低下した事に依ると考えられる。
    その「根拠」は「伊勢(賜姓五役の青木氏の権威・格式・象徴)」から「京綱の母の後家」が平安期末期に「比丘尼」として入った事を以て「権威・格式・象徴の差の特徴」を前面に押し出したと考えられる。
    前段でも論じたが「美濃や信濃」でも全く同じ事が起こっている。
    例えば、それは「光仁期」に「伊勢」から「追尊王の飽浪王女」が「美濃清光寺」に入り、その後に「清光院」に変更している。

    この例に持つ意味が「伊豆」にもあった。
    それは、危険な「下剋上と戦乱」の「室町期中期」に成ってもまだ依然として「伊勢の青木氏」が「仁明天皇期までの出自元」であり、「新撰姓氏禄で示す志紀真人族」で、「賜姓五役の数少ない氏族」であったと云う「認識」が未だ「民衆の記憶」の中に漠然として僅かに遺っていた事を物語るものである。
    然し、これが後に「白旗派の原理主義」に対して「世情から攻撃」を受ける結果と成っていた。

    これは「村格供進の源氏社」で創建して居た伊豆の中でも、未だ「清光院」にする事でその「権威と格式」を保たれた云う事に成る。
    都に近い伊勢や信濃に比べて「伊豆」には最低限タイムラグがあった事に成る。
    これは何を意味する事なのであろう。

    これは“「伊豆」にも「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」をしたと云うことであろう。
    それは「伊勢や信濃」の様に元からいた族では無く、1159年に突然に入って来た族で、それも「高位族」と云う立場の族である。
    その様に受け取った「伊豆」であったからだ。それまでは鎌倉期の源氏族に関わった伊豆であったのに源氏が滅亡すると、其れより「院の号」を誇示できる「格式高い族」が来た事に驚いたのではないか。

    その庶民のこの「驚き」が「排斥の様な形」へと向いたと考えられる。
    その証拠に「村各社の八幡神社」が「室町期」に成っても実に多いと云う事で証明できる。
    判り易く云えば、周囲は「源氏贔屓」で一辺倒であった事に依る。
    「村格社」と云う事は、それには大きく「利害関係が働いていた事」を示すものであるからだ。
    平安末期1159年に入り、応仁の乱で頼政は平等院の別院で死亡し、この事で1178年には定住根拠が無くなり戸惑った。
    然し、鎌倉期の「頼朝保護」を受けて安泰であったが、それも「室町期の1340年頃」までには要所要所に「官幣社の神明社」が建立され、「清光寺・清光院」が建立されて来てた。
    「幡万社」と「神明社」、「八幡宮と清光寺」の「攻めぎ合い」が激しく起こったと観られる。

    然し、「神明社と清光寺」は勝利を得た。
    それは格式が「八幡社と八幡宮」の上に居たからであった。
    その証拠に、「八幡社関係」は全て「伊豆の最東部域」に移動集中し、又は、東部域を除いて「神明社域」と成っている。

    この様に、「室町期」には「周囲との絆」は「190年後」であっても充分に形成されていたとは思えないのである。

    そもそも、古来から”「伊豆族」”と云われる族は「海洋族」で占めていた地域であった。
    「伊豆」は古来より「山岳部」が中央部に多く、「平地定住族」では少な無い。
    「紀州熊野地区」と同様に地形も類似し、その「先住族」は長い間「海洋族」であった。
    その意味で、此処に入った平安中期・800年代からの「国司・守護」は、その時の「都の勢力図」に従っていて,「統治」は難しく独立性の強い海洋族であったと云われている。
    その為に守護代は「頼政」まで「約30の低位の官僚族」から成り立っている。

    歴史の変異を観ると、「初代期の国司・800年」から「頼政」までの「約350年間」は、平均11年間/国司が務めていた事に成り、この「約30の低位の官僚族」の子孫・現地孫は「頼政」と同様にこの「伊豆」には大きくは遺し得ていない事に成るのだ。

    丁度、「伊豆」は「紀州熊野神社の海洋族」と土地の支配年代も全く同じである。
    「熊野一帯」は「神官族・海洋族の六氏」から成り立っている。
    これから観ると「伊豆」も「現地族」は「六氏程度」と成っている。
    都に近い「紀伊半島」と都から遠い「伊豆半島」の差を考えれば現地族が少ない事は当然に考えられる。

    「他の伊豆研究」を観ると、「現地族」は「太平洋族」で、その基は「台湾族」であるとしていて、台湾語の古い言語が遺されている地域である。
    つまり「伊豆」にはこれと云った土豪が勢力を張っていなかった事が云える。
    これは「権威・格式・象徴の青木氏」が存在しているのだ”と「危険な誇示」は周囲に対して可能であった事に成る。
    熊野では成り立たなかった。隣の尾鷲で留まつた。
    この事は寧ろ、「伊豆」の「伊勢信濃融合族」が「190年間の子孫拡大」で「一大勢力」と成り得ていたのでは無いかと考えられる。

    但し、「伊豆」では「源氏の利害」と「海洋族の絆勢力」であった事から、「武力」では無く、「権威と商い」であったと考えられる。
    それが「商いと云う手段」と「元皇親族と云う名声」の様なものがあって、「世情から攻撃」は相当遅れていた可能性が高い。

    現実に、「イからリ地域」に観られるように「伊豆の上下、左右、中央域」とその前線域を「青木氏の定住地」としているのは何よりの証拠では無いか。
    「武力」を持っていないにも拘わらずである。

    従って、この様に「危険な誇示」を敢えてすると云う事は、「武力」に依る「危険に冒されない力」が地元にも背後にもあった事に成る。
    その一つが「相模の秀郷流青木氏の抑止力」と「伊勢信濃との連携の商い力」が彼等を「後押し」していたという事であろう。
    こけが大きい要素であった事は理解できる。

    然し、この中でも室町期に建立された「源氏の八幡社寺」は上記した通り「村格式・民間」ではあるが全て東域に入り込んでいる。
    それだけにこの時期はまだ「世情」は、源氏が1221年に滅亡したのに”「源氏」と云うもの”に人気があった事を意味している。

    そこでこの難しい族の「伊豆海洋族」はこの「頼朝の源氏」に対して鎌倉期前期は従順に従っていたのかである。
    この「東部域の村格式の八幡社」はこの「海洋族の末裔・六氏」が寄進供進元とするものでは無いのであり、「一財を持つ者」の営に基づく「村格社」である。
    要するに、「利を観た個人経営」である。
    それだけに、”八幡は利になるものであった事”を意味し、滅亡後でも世情には「人気があった事」が云えるのだ。

    逆に、矢張り、「伊豆」でも「原理主義の青木氏・神明社」は人気が無かった事を意味する。
    「世情の人気」は無かったが、「象徴権威の尊敬」は未だ潜んでいた事に成る。

    それは源氏族等に無い上記で論じた関係式の「商いの力」に他ならないであろう。
    「象徴権威の尊敬」よりは「商いの力の恩恵」が伊豆には及んでいた事に成る。
    前段でも何度も論じている様に「紙文化」で室町中期は「巨万の富」を「青木氏族」は獲得しているのである。

    (注釈 これで以て「伊豆との連携」を維持していたのである。
    ところが実は後にこれを壊されそうになるが。)

    これは「伊勢青木氏」が「天皇家」への「影の賜姓五役の献納」が「莫大であった事」の「裏返し」である。
    幾ら1221年に完全滅亡した「縛り」も護らなかった「源氏力・八幡社寺」を「伊豆」に誇示建立した処で、最早、何物でも無かった。
    「源氏族」では無い民間が「儲け主義」から世情に滅亡したとは云え人気のある「八幡社寺」を建立したのである。
    「嵯峨期からの源氏」に「庶民の人気」があったからとしても“「天皇家・朝廷」から「高い格式」が得られるものは何もない。”
    だから「認可」も何も得られない「民間の無資格社に近い村格社」なのである。

    多少は伊豆でも「商いの青木氏」>「賜姓五役の青木氏」=「権威・格式・象徴の青木氏」の数式論が庶民の中に働いていた可能性は否定できない。
    だから思い起こさせるように“「院に変更したという事」”にも成る。


    そうすると、この「伊豆の背景」の中で、次に「伊豆の入り口・沼津市内浦」にある「北部域」の“「来迎寺の分寺の館」は何であったのか”という事に結び付く。

    その「答え」は、その「氏の館」としての目的から「伊勢氏族の信濃融合族」の「家人館」であった事に成る。

    (注釈 来迎寺論は依然少し論じたが、後段でも論じる。)

    現地調査では、その証拠と成る「笹竜胆紋を主とする墓所・家人墓」が上記の各地にあった。

    「伊豆」も「福家」を始めとして「四家」で構成していた事から、「福家(主家)」は「神道」、「家人」は「来迎寺館」としていた可能性があったが、現地調査でも矢張りこれを現実にしていた。

    前段でも論じたが、そもそも、「福家」とは元は「古来密教系浄土宗の氏墓」の「差配頭の名称」であった。
    それが後に四家の主家と成って行った。
    その主家が「守護神の神明社」と「氏寺」を差配する事から必然的に「氏族全体の差配頭」と成って行ったのである。

    それだけに共通する「神仏の概念」で結び付いていた事に成る。
    「福家を務める者」は四家の中から選ばれる為に相当に「氏族全体を統制する能力」に長けていた者が成った事が判る。
    青木氏の守護神の「神明社」は「社形式」の「神仏同源とする古来の信仰体」であったが故に、私的仏教伝来後もこれを融合させる氏族としての組織形態を執っていた。
    これが「福家形式」である。
    つまり「福家形式」を中間にして「神仏の同源」を維持した形式である。
    これが後に「氏の組織形態」と成ったのである。

    この形態は「藤原秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」だけである。
    もっと云うと、前段で論じた「来迎寺館の形式」」もそれを明確にした「神仏同源の会所」としていた“「組織館」”であったのだ。

    つまり、これは「青木氏族」に執ってはその立場から「氏の寺・分寺」であって、「氏の館(平城・家)」であって、「氏の社」であって、「氏の会所」の「四つの意味合い」を持たせた「建築物・城」とした云う事である。
    これは周囲から観れば「古来の歴史」を持つ「特異・特殊な形態」であった筈である。
    従って、「青木氏の存在する所」には「来迎寺」と云うこれらの「連携した形態」が必ず存在するのである。
    伊豆の「来迎寺」もその証である。

    そこで、「伊豆の現地調査」ではこの「福家の存在した位置関係」を調査した。
    これで「伊豆の青木氏」の「存在の環境」を芋づる的に網羅できる事に成る。

    これを検証して観た。
    その結果、次の様に成った。
    「福家」は北部域の「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊)」から「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」の「西よりの位置」にあった事が確認できた。

    「沼津市内浦の来迎寺」より東南の「梅木の神明社」までは「約11k・2里の位置」にある。
    此処から「稲取の清光院」までは「約20k・5里の位置」にある。
    この位置から「福家の位置・湯ケ島」までは北西に「約20k・5里の位置」にあった。
    この「福家の位置・湯ケ島」より「沼津市内浦の来迎寺」までは「約11k・2里の位置」にある。

    丁度、この4点を線で結ぶと、「西北−東南」に長く「菱形の形」をしていて「便利な位置」にある。
    約2里半から5里である。充分な「1日の生活圏」の中にあった事が判るし、計算されている。
    「道路」は「静岡県沼津市内浦青木(来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m)」まで通っていて地理的には「最高の位置」にあった。
    伊豆観光名所の「浄蓮の滝の近く」であった。

    「福家の館・湯ケ島」は、平安期には「約1万坪以上の土地」でこの隣に「元神明社(鳥居の形式)」と観られる「杜と祠社と鳥居と石垣」の「址」がある。

    この東の後ろの「杜(約2万7千坪程度」(聖域)も含めて「域全体(約4万坪)」が「福家の館・湯ヶ島」であったと考えられる。
    「聖域」がある事が神明社が在って、且つ、「福家存在地」の“「構え」”の一つである。

    この「福家の館の湯ヶ島周辺」には「八幡社(半径10k圏内)」は全く無く、逆に「元神明社」と観られる「無名の神社(山を祭祀する神社)」が何と「六つ」も周囲を円状で「半径5k圏」で囲んでいる。

    「山を祭祀する社」は、古来より“「山神」”と称して「神明社の存在」を証するものであり、且つ、この「六つの山神」が囲む範囲を「聖域とする証」でもあるのだ。
    その様に陰陽で六つの方向の位置に存在させるものと決められていた。
    従って、「神明社の聖域」が在る所には「山神社」は必ず存在する。
    ところが源氏族の拡大で平安末期からは「伊勢と信濃」に「山神社の存在むが減少しているのだ。

    (注釈 然し、「美濃」にもその「形式の址」が確認できるが現在は聖域の痕跡は無い。
    「近江」にも「青木氏」の存在した「二つの地域」には夫々に「二つの神明社・祠社」が存在する。
    山は約750k平方メートルの面積を有していて、「山神社」は一つである。
    現在では「聖域の形跡」は見られないが六方向にあった事は「神明社」とその「面積」とその「位置」から確かであろう。
    「甲斐」は信濃国境の北部域・北杜市に「五つの神明社」が集中して存在し、「一社の山神社」の社のみである。
    これは実は「甲斐の聖域」は「信濃論の処」でも詳細に論じるが「信濃の大聖域の末端」でもあるのだ。
    この「北部域の北杜市域」は古来、元々「甲斐青木氏の定住地」では無かったので判らない。
    ここは信濃域の南部末端域であった。)

    そこでこの事等を念頭に「伊豆」の「村格社、或いは無資格社」の「八幡神社」は上記した様に「北東部」に集中している。
    この事は「室町期中期の混乱期」に成っても依然として「伊豆」には「伊豆青木氏」が「商業的な勢力」を保持していて、前段でも論じたが、どんな勢力も入り込めなかった事を示している。

    この伊豆の「無名の神社(山を祭祀する神社)」の示す処はここは“「聖域」”であった事を示しているのだが。
    更に、「福家の館の位置」を「拠点(0番地)」に「現在の番地」が周りに広がつているのだ。
    明らかにここが「伊豆青木族の統治」の中心地の「福家の館跡」であった事を証明している。

    (注釈 当然に伊豆は上記で論じた様に「武力的では無かった事」である。
    「武力」で抑えるのでは無くて、その出来る方法は「伊勢」で証明している。
    つまり、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」 である。
    この「青木氏族」に執って「重要な関係式」が「伊勢と信濃」のこの「矛盾を解ける鍵」であったのだから当然に、「融合一族末裔」の「伊豆」もこの関係式を維持していた事に成る。
    「武力」で「伊豆の9カ所の土地」を獲得したのでは無く、「経済力」、即ち、「地権」で時の幕府から獲得した事に成る。)

    要するに「商いの地・地権」であり、「家人の館(青木氏の情報館)」である「来迎寺館・分寺・内浦湾近郊・170m」の境内は、南東に54mで、北東に41mの「長方形の敷地」にあり、後ろを「広大な社領の杜」が控えている。

    さて、そこで問題に成るのは次の「二つの所在地」である。

    「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
    「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」

    この「二つの湾」に近い「二つの最高の位置」から観ても、“船で伊勢と繋がる「商い」”が成されていた事に成り、「福家の差配」は「伊豆の湯ケ島」から行われていた事に成る。

    (注釈 参考 「修禅寺(頼朝の子の二代将軍が北条氏に依って幽閉誅殺された寺)」は、「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」よりの「南西の位置」にあり、「R12に沿い7k」で、「R18 南西方向の1.5kの位置」にあり近隣である。
    「神明社」からも近いし「福家の館」からも北西に直線で11k 路で17kであり「1日の範囲」にあり近い。
    無視できる範囲では無いので「青木氏との関係」が無かったのか気に成る所である。
    記録は無いが、「国友の存在した位置」が判らないので議論が発展しない。
    唯、筆者は「国友」は「来迎寺館付近」に住んでいたと想像している。
    何時でも船で移動させて隠す事が出来るし、「商い」をさせて移動させて晒さない様に出来る。
    その意味でも「頼朝の子頼家」とは関係を持たない方が「摂津源氏であった事」から「鎌倉幕府との関係・北条氏」も含めて都合は良い筈であった。

    「京綱」の様に「福家に入る事や四家」に入れる事は、最早、年齢的にも無理であり、「青木氏族」はそんな簡単な組織体では無く、簡単に「人」を「福家に入る事や四家」に「引気入れる事」は出来ない筈であった。
    恐らくは「商い」を学び「船や陸路」で頻繁に移動する身元を隠した「営業マン(家人)」と成ったと考えられる。
    「伊豆」に入ったとする「二つの記録」があるが、“その後の事が判らないという事“は「信濃青木氏・伊豆青木氏」に成りきっていたと云う事では無いか。)

    伊豆の「福家の館」は「浄蓮の滝の東側」の「約390mの位置域」にある。
    この「福家の館」から「修禅寺」まで通路を経由して「16.5k・4里の南西の位置」にある。

    「清和源氏の分家」の「河内源氏の鎌倉幕府」と「伊豆青木氏」との関係である。
    「本家の摂津源氏」の「妾子の国友」が「信濃青木氏」と成って上記の経緯で「伊豆」に入った。
    これが「1178年頃」の事であった。
    「頼朝の子頼家の没」は1204年であるとすると、「26年後の事」に成る。
    「国友」が「伊豆福家」に成ったかは記録が無いので判らない。
    唯、「青木氏の仕来り掟」からは「女系制度と四家制度等」を敷いていた事から無かったと考えられる。
    「頼朝の子頼家」の幽閉没は1年間である。
    「1203年修禅寺入り」であるので、「坂東八平氏との関係」は「福家の館」からの極力接触は避けたと考えられる。

    (注釈 そこで「各地の青木氏」が存在する「現地調査」では、「事前調査」に伴って知っていなければ成らない「青木氏の歴史観」がある。
    これで調べて行けば紐解けて行くのであり、また「資料や記録」では判り得ない「本当の意味の調査」は出来ないのである。
    それは「時代の変異」が大きく変えてしまっているからだ。
    それを基に歴史観を戻す事に意味がある。
    上記の様な確率の高いと考えられる推理も成り立つ。
    そもそも、この「頼政」の後に「仲綱(長男)」が「伊豆守護代」を引き継ぎ、「1180年」の直前まで「摂津源氏族(「頼兼(次男)」までが「遙任」で務めている。
    従って、「信濃青木国友」も入り易く成り、「同時期(「1179年頃前」)」には既に入っていなければならない事に成る。この前後は無理であろう。
    この様に現地を観て確率の高い推論が出て来て資料が無いか調べる。)

    (注釈 実質、記録では「伊豆の守護」は「鎌倉の河内源氏(頼朝系)」がその後の「1185年直前」まで勤めている。その後は一般の守護に成っている。)

    唯、これには一つ疑問があった。
    確かに、「伊豆」は観ても明らかに「地域全体が地形防御の要衝地」である。
    「相模の秀郷流青木氏の背景」はあったがそれが他家で済んだのかである。
    「伊勢信濃の様な抑止力」の「シンジケート」が必要では無かったかと云う疑問である。
    「商い」をする場合はこれは取り分け必要である。
    此処を解決しなければならない「現地調査の疑問点」であった。
    これには何かあった筈である。

    それは何かである。
    それが平安末期から室町期末期までの長期間必要なものであった筈である。
    これは行く前からの疑問でもあった。
    答えは現地調査の一寸とした事から見つかった。
    それは「水軍」である。
    その「水軍」は「伊勢水軍(7割株)」を持っているが「伊豆」には常駐は当然に無い。
    然し、前段でも論じたが縁戚関係にあった「駿河水軍」が「駿河湾」を拠点としている。
    上記している様に、陸は「天然の要害」であるとすると、少なくとも「伊豆半島の入り口を護る事」が戦略上で肝心な事に成る。それは湾湊である。

    上記の「9つの地域」に「伊豆青木氏」は分布している。
    これは仮に攻められたとしても一族は滅亡しない。
    「イ地域の青木氏」が攻められても「内部の青木氏」が攻められていなければ時間稼ぎが出来、「秀郷流青木氏の援護」が背後から来る。
    「背後」を攻められれば敵は殆どは全滅するは「戦略の常道」である。
    「イ地域からリ地域」まで「要害の地」でありながらそれでも一族を「要所に分布させている事」が「答えの元」であった。
    一か所に集中させても良い筈である。

    一族を分布させている以上は、それは“「四家」が何処なのか”と云う疑問の調査が必要であった。
    それは次の通りであった。

    「福家」は「伊豆市湯ヶ島の聖地」
    「四家1」は「内浦湾 170m東の来迎寺館の所在地」
    「四家2」は「稲取湾 166mの西の清光寺院の所在地」
    「四家3」は「静岡県伊豆市(梅木)」にある「神明社 総社」
    「四家4」は「静岡県下田市青木の港湾地」

    以上であった。

    これ等の「発見のポイント」は要するに「青木氏の伝統」で生まれた“「伝統の構え」”である。

    「青木氏族」と「神明社」は守護神とは前段でも論じてきたが切っても切れない関係があって、これから生み出される「特徴」、所謂、何事にも他氏と異なる“「構え」”と云うものがあった。
    「青木氏の歴史観」から滲み出る「特異な形や現象の事」である。
    この“「構え」”で見極める事に在る。

    例えば、上記の「福家の所在の確定」である。

    「福家の構え」

    「所在地」にはある「面積(2万坪程度以上・長方形)」がある事
    それが何らかの「囲い(石垣や土塁)」で回りを保護していて「館様式(痕跡の有無)」である事
    「場所的」に「移動の良い処」にある事
    周囲が「歴史的な風格」がある過去からの「土地柄(奈良期からの歴史性がある)」である事
    必ず「背後」に必ず「神明社の聖域」が在る事

    「神明社の構え」

    その「神明社」には独特の“「神明造り」”の「鳥居や祠、社殿」等のものが存在する事
    必ず「古びた石段・砂岩造り」があり、「平地」には「神明造」から無い事
    この特徴ある「神明鳥居」は「社領の入り口(仮鳥居)」と「本殿の入り口(本鳥居)」の二つある事。
    「祠、或いは本殿(神明造り)」の「南側」には「広大な杜(聖地・神が坐杜)」が位置する事。
    この「聖地」を護るために「杜の六方向所」に「山」を護る通称、「山神の社」を配置している事。

    現地調査には

    この「福家の構え」や「神明社の構え」の「二つの構え」が備わっている地域で確定できる。
    時代が変化しているので「風化」していてもこの「二つの構え」は遺されているもので、それを「見抜く力(直観力)・歴史的知識」が必要である。

    注釈として、 前段でも論じたが「神明造」は、「三大造」の一つで他に「大社造(出雲)」、「住吉造(住吉)」が古来からある。
    奈良期より一切この「三大造」に真似て造る事を禁じられていて明治期まで完全に護られた。
    中でも「神明造」は「皇祖神の子神の祖先神」である為に、「時の政権」に厳しく管理されていた。
    故に、「神明社」を守護神として管理していた「青木氏族」に執っては上記の様にその痕跡を調査する事で「判明の構え」が執れるのである。
    「八幡神社との区別」が完全に現在でも就くのである。

    取り分け、「上記の注釈」に従って、“「社格式」”でも異なって来るので如何に搾取してても判別できる。
    「伊豆」はその意味で「伊勢の不入不倫の権」で保護されていたものと違って、「自然の要害」と「水運路」で保護されていたのである。

    従って、上記の「2〜4の四家」の「区域の判別」も「福家の判別」に従うものが大きいのである。
    そこには追加として、「福家の構え」と「神明社の構え」に「商いの構え」と「古代密教の構え」の二つを加えれば間違う事は無い。

    上記の「伊豆」の「福家と四家」の「信濃や美濃との違い」の「凡その生活環境」が蘇させる事が出来るのである。


    > 「青木氏の伝統 54」−「青木氏の歴史観−27」に続く


      [No.374] Re:「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/09/20(Fri) 10:14:07  

    > 「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」の末尾
    >
    > さて、これで「同位」の「四掟」がある程度が叶ったとして、これを結果としては押し切った事に成るだろう。
    > 「伊勢と信濃の青木氏側」は“「源氏化では無い」”として妥協したと云う事に成る。
    > 1178年頃から「以仁王の策 (1178年) 乱(1180年〜1182年)」は進んでいたとされているので、少なくとも直前に「頼政の説得」を受けて「1176年〜1178年頃」に「頼政子孫残存策」として「青木氏側」から嫁した事に伊勢では成る。但し、誰に嫁したかは解っていない。
    > 「信濃」は女を嫁家せずに「国友」を入れた事に成る。
    > 従って、伊勢の場合は「妾子の京綱」は最低でも「1歳か3歳」に成っていた事に成る。
    >
    > そもそも「妾子」は「青木氏」の方が「官位格式位階」で何れもにも上位であっておかしい事から「当初からの策」としては「裏向きな嫁ぎ」であったと観られる。
    >
    > つまりは「四掟を護る原理主義」の「伊勢青木氏側」では「影の策」で逃げたと考えられる。
    > 「信濃」は「伊豆」をつかった別の策を講じた。
    > この「低年齢」での「頼政側」から観れば「青木氏への子孫残存策」と成るが、「伊勢青木氏側」から観れば、これで“「桓武平家」を納得させられる”と考えた事に成る。
    > つまり、“「源氏化・姓化」では無い”とする姿勢で表向きには見せた事に成る。
    > 上記の「桓武平氏と青木氏との血縁の関わり」は、検証の通りで明らかに“「桓武平氏側」にあった”のであるから、「京綱の年齢」からも納得は得られた事に成るだろう。
    > 現実に、この「2年後」には「以仁王の乱の敗戦」に依って「頼政の孫」の「宗綱・有綱等」の「助命嘆願」(廻村配流)を聞き入れられているでは無いか。




    「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」

    さて、次は「信濃」が関わった「伊豆の問題」である。

    「1159年」に「伊勢と信濃」が「伊豆」を管理する事を目的として「頼政」に頼まれて入り、その後、20年の間に「融合族」と成った。
    そして、「商い」で「伊豆」を治めようとしていた。

    「信濃の国友策」
    そうすると、殆ど同時期に行われている「信濃の国友策」も「経緯と事情」は同然であったであろう。

    この「国友」の事では判る範囲としては、一部の記録では、「若狭」の生まれで「妾子」で表には出て来ていない人物であるとしている。
    そのルーツは「摂津源氏四家」に在るとしている。
    但し、別の「国友」に関する資料では時代性が大きく一致しない。
    然し、「青木氏の資料」では「信濃は国友」と成っている。
    恐らくは、実態は殆どは同然であったと考えられる。
    唯、この別の「国友の資料の真偽性(時系列が余りにも違い過ぎる・300年程度)」が疑われるので参考にならない。

    「信濃」のこの事に関する研究が難しい為に「経緯」が読み込めない。
    然し、実は前段でも何度も論じているが、これには「頼政と仲綱の所領」の「伊豆」にあると観られる。

    それはこの「伊豆」は、前段でも何度も論じた様に、「伊勢と信濃の融合族」で守護し固守したとする「青木氏の記録」がある。
    筆者は、結論から先に云えば、此処の「信濃の跡目」に入ったのは「頼政の一族」で「若狭」から廻された「国友・妾子」が、ここから更に「伊豆」に入ったと観ている。

    「京綱」の様に若くは無かった事も解っているので、先ず間違いは無いだろう。
    「伊勢の京綱」と「信濃の国友」とには「措置」が少し違った事に成る。

    (注釈 この時期の「伊豆」には「仲綱の子有綱」がいたとする説もある。
    この説は「以仁王の乱」に参加せずに生き残ったとする説である。
    この説では「義経」に従い北条氏に大和国で打ち取られたとしている。
    これは間違いなく江戸初期の「搾取偏纂説」である。)

    筆者は、記録のある様に「廻村配流説・日向青木氏説」を採っていて、「以仁王の乱」に参加して「平等院」に追い込まれ「伊勢の嘆願」で「配流」と成った説である。
    現実に「廻青木氏・日向青木氏」を遺している。現存しているのである。

    「伊豆守護の有綱説」の搾取は、「2年程度の相当準備した乱」を起こそうとしているのに、そんな時に「実子の次男有綱」の「伊豆偶然説」はおかしい。
    そもそも、「摂津源氏」が「自分の勢力」で護れるのであれば、1159年に何も「伊豆」に「伊勢信濃融合族」が配置される事が無い筈である。
    抑々、「頼政」は京に遙任しているのであるし、且つ、そこに「祖父の所領地」に「孫」が赴任する事がおかしい。
    もし、「有綱」が奈良に居たとするならば平家は決して放置しない。

    実は記録では「頼政」は「乱の2年前」に一度伊豆に出向いている。
    そもそも、「父の頼光」でさえ「三天領地の守護代」で済んでいて「所領地」は持っていなかったのである。
    確かに「頼政」は「正三位に成った事」から「清盛」に推薦されて「伊豆所領地」を与えられている。
    これは「珍しい事」なのである。
    つまり、「所領地」であっても記録からは「完全な所領地」ではなかった。

    (注釈 「伊豆の守護代」は「1159年から数年間・遙任」で「藤原氏系の守護代」と「平家一門の守護代」で何度も変わっている。
    「頼政より摂津一族の二人」で続けて務めていたが、乱後は頼朝幕府の家臣で務めている。
    これは「所領地」としては完全に認めていなかった事に成る。)

    そもそも、この事で、故に、「自らの軍」を置く事を禁じられていたのであって、「清盛」は「伊豆」を拠点に関東で反乱を恐れて、その「所領地」を「軍」では無い「伊勢信濃族」に護らせたのである。
    この事に就いての記録が遺されている。
    明らかに史実は完全な所領地では無かったのである。
    其処に有綱説は可笑しい。

    この「軍」では無い「伊勢信濃族」に護らせた理由は「伊豆を拠点に貿易」をさせて治めようとしていたのである。
    つまり、平族は「伊賀」で伊勢青木氏と関係があり、青木氏出自の「光仁天皇」の妃の「高野新笠」が「伊賀出自」であり、平家の祖でもある。
    その青木氏が摂津港で「宋貿易」をし、「殖産」をしている「伊勢信濃青木氏」に管理させようとしたのである。
    「清盛」も同じ事で同時期に「湾湊」を造る等をして「商い」を以て「大宰府域・九州北部域」を現実に治めている。

    (注釈 1025年頃には「伊勢と信濃」は「殖産」を通じて「宋貿易の大商い」をしている。
    前段でも論じたが、「清盛」に「殖産」から「貿易」を教えたのは伊勢資料では「伊勢と信濃」であると語っている。
    この「伊勢と信濃」はそもそも軍は待たない「抑止力」であった。
    又、「960年頃」から始まった「補完役の秀郷流青木氏」との「繋がり」も「220年後」のこの時点には「大富豪の商い」で氏族は出来ている。
    これの意味するところは、当然に「賜姓五役の莫大な献納金」が「天皇家」に入って来る事に成るのだ。
    これを態々小さい事で目くじら立てて見逃す手は朝廷には100%無いだろう。
    故に「記録通り」の“「伊勢信濃青木氏」に管理させた”とするのが正しい。
    「武蔵」を拠点に全国的に子孫を広げていた「補完役の秀郷流青木氏」の意味を理解すれば充分にこの説は証明し理解が出来る。
    “「伊勢信濃青木氏」に管理させた”とするは同時にこの「補完役の秀郷流青木氏」の力が背後にあると云う事でもある。
    「伊豆」の隣は当に相模・神奈川であり、「補完役の秀郷流青木氏」の勢力圏である。)

    この様に注釈での時系列が一致する。
    上記の注釈の故に、「以仁王の乱」が起こっても「摂津軍」で無かったから攻められなかったのである。
    仮に、「摂津軍」であれば「関東に常駐していた関東守護の平家軍・桓武平氏・たいら族」に今一番に攻められていた筈である。
    「乱」を起こそうとしている時に「伊豆」に「主力軍の伊豆守護軍」を置く事の事態がおかしいし、「神明社一社も直せない摂津源氏」がどうして「摂津外の伊豆に軍を置けるのか甚だ疑問で、「有綱説の稚拙さ」の搾取が見える。

    「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の資料」でも、その証拠に「融合族」を送ったとしている事と、現在も「伊豆」には現実に「信濃」の様に「村全体」に「青木氏・青木村」を形成しているのである。
    「村」が遺されているこの事を理解すれば「伊豆の位置付け」は判り、これを明確に論じている。
    この「伊豆の青木村」などの事は詳細に論じれば証明できる。

    注釈の結論は、要するに「系譜」に出て来ない「妾子国友」にあるとしている。

    恐らくは「有綱説」はこの「国友説」を混同したか利用して搾取したと考えられる。
    利用して国印状取得の搾取説に間違いはない。
    だから「論理の矛盾」が生まれているのである。

    多分、「源氏傍系ルーツ説」を名乗る為の「江戸初期の国印状取得の後付け説」であろう。
    これを使う事で得をした豪族が居た事に成る。
    想像は着くがそれは議論が広がる為にここでは誰かは判らない事とする。

    さて、「伊豆の事と国友」の検証から、更にこの「国友の出自と信濃」について検証を進める。
    実はこの「国友の母(妾)」は「若狭(国友の出生地・妾の里)」である。
    つまり、「近江の最北端・京の右横・福井の最西端」には「清和源氏系の源氏の勢力」がこの時代に一部存在したとする「記録説」があり、その「土豪の領域」があったとしている。

    (注釈 史実はここには「嵯峨源氏の末裔」が土豪化して細々と住んでいた。この史実を利用したと観られる。
    この土豪化した「嵯峨源氏の末裔」を摂津に呼び寄せて「清和源氏の満仲」は武力集団化を始めてしたのである。この「妾」もその流れから来ている可能性がある。)

    ところがこの説に従えば、その「領域の若狭」には「幼少期の国友」は長くは居なかった筈で、恐らくは「妾の里」であろう。
    従って、下記の検証でもこの「若狭」は直接の関係性は無いと観られる。

    この「国友の母」の「妾」の事を考察すると、「摂津清和源氏の四家」の一つである「頼綱系」の「三男国房」の「妾」であった事が史実として判っている。
    その「妾子」で、この「妾子」が「頼政」の「養子」か「義詞」としたとする説がある。
    「頼政一族」には「実子の三人」の他に、「養子の三人」と、「義詞の数人」が居た事が判っている。
    「国友」はこの「義詞」に成ったと考えられる。
    「養子の三氏」は「四家の子供」が「頼政」に入ったと成っている。

    筆者は、間違いなく「妾子」である事から、記録には大きく載らない所以はこの「義詞説」であると観ている。
    「近江佐々木氏の資料」にも簡単であるが、「青木氏の資料」と共に「信濃青木氏」の段で、“「若狭国友の跡目記載」”がある。
    間違いは無い。

    さて、ここで「若狭」に遺された「郷土史」の「寺請文記録」の中に“「国友」”の名が出て来るので取り敢えずこの真偽を査定して置く。

    これは、これには「河内源氏」とあって「源氏説」であるが、ところが此処はそもそも住み分けから「摂津源氏域」であって「河内源氏」では無いので先ず全く違っている。
    昔は続柄や路線が異なると「争い」を避ける為に「住み分け」と云う手段で知恵を出していた。
    これはこの答えから「郷土史の江戸期初期」の「後付け」の「間違い」であろう。
    更に、又、一部の資料には「国友」は「群馬にいたとする説」もあり、何れも利用された「後付け説」であろう。

    そこで、先にこの二つの事を始末検証する。
    兎も角も、「群馬の事」は笑止で別として、もう一つの上記の「源氏説」の「国友の存在」を示すとする「寺請文」とするものがあって、これを証拠にしている。
    これにはその證文は「大疑問」がある。

    この「寺請文」とするものには、先ず、その「寺請文」をよく観察すると、これには“墨が掠れていて中央に縦に消した跡”がある。
    これを「崩書」で「正安の四年」と「郷土史」では読み込んでいる。
    そして、これを「1302年4月」と「別段後書き」で追記している。
    そもそも「正安」は、実体は「1299年」までである事で何と“「4年」”も「後書き」の100%の間違いを起こしているのだ。
    そもそも、西暦を「別段後書き」の「添書」で入れるという事は「明治後の事」である。
    そして、ところがその「ずれ」は1年は未だしも「3年」も「ずれ」ているのである。
    この「ずれと間違い」でも充分に「ある目的」の為に先ず「後付け」と「添書」の二つの方法で「郷土史に手を加えた事」が判る。

    この時、時代は「改元」が時代的に珍しく少しずれて1302年12月に行われている。
    それは「4月後の事」である。
    この事を知らずに書き込んで仕舞ったと云う事だろう。
    「郷土史」が相当後に成ってこれを説明するに及んで「西暦」に表示するのは「後付け説の証拠」でその思惑が判る。

    次に、更に「決定的な間違い」を起こしている。
    「源氏族」、「国友」は上記した様に「清和源氏」で「摂津源氏」である事は確実に判っている。
    としているので、「源氏族」は、抑々どんなに生きていたとしても歴史的に、一切、“「1221年」”に完全滅亡している。
    そうすると「1221/1299年」では「78年」、仮に「1221/1302年」にしても「81年の前」に「国友」も含めて滅亡しているのである。
    「国友」の判る範囲の年齢から観れば、「120年のずれ」が起こる。
    明らかに「後付け説」である。

    更に、未だある。
    この「寺請文」には「恣意的説」とも執れる「かすれ気味」にして、その中央を二本の太線で消している。
    この様に成っている「崩書」を「正安」と読める様にした事が間違いである。

    これは明らかに“「治承」”の記載である。
    「治承」とすると、その四年は「1180年(頼政没)」であり、「治承寿永の乱」の通りに「1180〜1185年」である。
    「治承」は「1177年〜1181年」である。
    「治を正 承を安」と恣意的に、且つ偏纂して読んでしまった事の大間違いである。

    「国友」に依らず、”「河内源氏族」”そのものが完全滅亡しているのに、搾取にしてもよくも「偽の寺請文」を造り上げたなと思う。

    検証は未だある。
    「国友」の“「寺請文記録(年貢と村統治に関する報告書)」”は間違いだらけのものである。
    そもそも、“「寺請文」”とは「村寺の寺領」の「委託管理状態」に対する「寺への報告書」である。
    「寺領」を管理してもらっていた「農民か村の代表の組頭か庄屋」が行う仕事である。

    前の検証の通りの間違いだらけではあるが、これは「上塗りの間違い」で「源氏の国友」がそもそも行う事は100%無い。
    「読む」と云う前の何かに利用された「後付けの搾取書(大変多い)」である事が判る。
    「江戸期初期の系物」はこの様に「矛盾だらけの後付け」であるのだ。

    これは、各地の「神職や住職」がプロとして裏業で行った江戸期初期に横行した「家柄証明の国印状取得」の搾取であろう。
    「第二の姓」から身を興した者の「家柄証明の国印状取得」の為の搾取で、この「若狭の妾子」の伝記を利用したものである。
    「河内源氏説」も都合よく合わしたのであろうが記録と違っている。

    これ等の「搾取」は、“周囲が歴史的な事を知らないだろう”として「弱み」に付け込んでの行為であった。
    「上野」のものは読むにも値しない「矛盾」があり「若狭」も斯くの如し同然である。


    そこで、これらを前提にして、「信濃の国友の正しい経緯」は次の通りである。
    「若狭」の「妾子の国友」を一度「信濃の跡目」として入れて、それを今度は「伊豆」に「頼政指示(義詞の理由)」で廻して「信濃青木国友」で護ったと考えられる。
    これで「信濃」は「源氏化の影響」から「平家」からも「疑い」を持たれずに逃れられ、「伊豆」も「伊勢信濃と観られる事」で逃れられるとした。

    現実に「伊豆」は「頼政守領地(遙任地)」でありながらも、この伊豆先の直近まで2度に渡り「平家軍」が来ているのに「全く攻める事」は無かった史実があるのである。
    そもそも「伊豆」は平家軍に執っては「戦略的位置」としては先ず攻めて「関東の足掛かり」を着ける位置域にあった筈である。
    上記した様に「国友」が居るとしても、「子孫存続策の者」で「防御の国友」では無かったので充分に協力は得られた筈である。
    この時は「信濃青木国友」であった無関係であった筈である。

    上記した様に形式的には「信濃青木氏の者」として扱われて「伊豆の信濃者」に成っていた事に成る。
    「戦略的位置・拠点」とそうすれば「弱点」を突かれて「鎌倉軍」は手も足も出ない筈であった。
    「平家軍」はでもそうしなかった。
    「史実」はこの直接に、「鎌倉の浜」に目がけて直進した。(史実)
    ここに三日後に「大島水軍・源氏方」が迫っても「伊豆の足掛かり」が有れば「大島水軍」も手も出せなかった筈である。
    ところが逆に、戦後に「伊豆」はその後「大島水軍」に乗っ取られたのである。

    (注釈 その後、「大島水軍」は「頼朝」と「そり」が合わず一週間で「大島」に引き返した。)

    其の後の「国友の足取り」は判らないが「伊豆外」には出て行っていないので、遂には「伊豆青木氏」に溶け込んだと観られる。
    この「信濃」に一度は入り、その後に「伊豆」に移った「妾子国友」を「実氏有綱」として「後付けの搾取」で「家柄搾取」で利用したと観られる説を造り上げた者がいた事に成る。

    「頼政」の「義詞」で「妾子国友」で「信濃跡目の伊豆青木国友」では、「後付けの搾取」としての信憑性は、その「搾取の根拠」が低いし「現実」があり搾取は出来なかった所以であろう。
    つまり、「伊豆国友」では「頼政と青木氏の範疇の事」で、これを搾取しても「国印状の認可」には直接繋がらなかったと考えられる。

    (注釈 「伊豆」には「大島族の姓」が多く、「富岡・富田等」の「富」の付く姓名が多い。
     「伊豆青木氏」は「神奈川の秀郷流青木氏の庇護」を受けている。
    尚、「国友に関わる情報」を獲得出来得るには、“「神明社か青木氏菩提寺」からの情報”検証すれば、“「信濃に関わる範疇」”と考えられる。
    且つ、それが“「有綱」が奈良に入った”とするこの「有綱説の資料」を造り上げるのに都合の良かった江戸初期の者と成る。
    「搾取の者の答え」は直ぐに出る。

    それは「信濃の四藩」、つまり、「真田藩 上田藩 小諸藩 岩村田蕃」で奈良に関わった藩の者という事に成る。
    この者が搾取して造った「有綱説の資料」と成ると「S藩」であって、且つ、多くの「国衆」で構成されて、且つ各地を廻った藩と成る。
    更に、江戸期初期に大大名に成って数多くの藩士を抱えた藩で、自らも「国衆」であった「S藩」で、最も自らも「搾取の系譜」を持つ藩と成れば、矢張り「S藩」である。
    系譜上でもあり得ない「搾取摂津源氏説」が公的に定説に成っていて、「搾取の藩」として「有名な藩」ともなれば矢張り「S藩」である。
    つまり、「S氏」そのものである。

    更に、江戸期初期に「信濃青木氏」は「地権地の大半」を幕府に「殖産地没収」と「新規四藩」に与える為の土地として没収されたが、この時、没収された地に定住していた「殖産能力の持った信濃青木氏」が「真田藩の家臣」に成った。
    「青木氏の氏是」を破って「契約家臣」に成った事が記されている。
    恐らくは、この「有綱説の資料」は「S氏」が搾取編纂した事に間違いは無いだろう。
    これを以て定説と成っている「搾取の摂津源氏説」を唱えたとされる。
    以上の経緯の条件に完全に100%符号一致する。)

    恐らくは「平家」がこの「伊豆」を攻めなかった理由は、上記の「伊豆青木氏の事」、つまり「桓武天皇の論説側(平家側)」」もあるが、それを補完する「武蔵秀郷一門」を敵にしたくなかったのであろう。
    又、「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事から「平家」は信用して「信義」を貫いた事に成るし、潰せば「献納金」は入らなくなり、「青木氏の影の抑止力」を敵に廻す事にも成る。
    そもそも「最大の勢力」を張っていた全国の24地域に分散する「補完役の秀郷流青木氏や永嶋氏等の青木氏族」を始めとして、「背後」を突かれる恐れが充分にあった事で「戦線が拡大し過ぎる事の懸念」が強かった筈である。

    この様に「伊勢と信濃と伊豆」は「上記の検証」で論じた様に「同族」の「同然の立場(血縁と絆から平家側)」であったからだ。
    「伊勢と信濃と伊豆」は「難しい舵取り」を迫られていたのである。
    これを失敗していたら現在は源氏族と同じに成っていただろう。
    ところが、この後、伊豆は何度も危機を迎え、伊勢と信濃は「青木氏の氏是」を破ってまでも救出に懸命に成った。後段で説く。)

    (注釈 上記の注釈の藩も真田藩だけでは無く搾取の源氏説を唱えているのだが、全て流れと時代と祖が異なるのだ。
    然し、源氏化していない「信濃」には念の為に他説には「河内源氏」を祖とするとしている「源氏説」が「6流」あるとしている。
    この説の地域は、「問題の搾取偏纂の真田藩」の「北部の青木村」とは反対の「南部信濃」である。
    この全域かどうかは明記が無い。
    この「狭い山間部の南部信濃」 (約190k平方)」に「6流(1流 35k平方≒1万坪)」の「祖が異なる河内源氏」が存在した事の説が異様である。
    先ずこんな事は無い。
    中には、「時系列」が異なるし、「6流の各始祖」とする「源流の始祖」は1221年に既に完全滅亡しているのに何故に存在し得るのかという事に成る。
    中には「1600年代(江戸初期)の資料」とするものもあるし、「6流」とすると「河内源氏の傍系流れ」の丁度全てである。
    一か所に「傍系の流れが違う族」が「住み分け制度」の中で存在する事は100%無い。)

    注釈として、検証する。
    「源氏」が生まれたのは824年で、全て滅亡したのは1221年である。
    この間約400年と成る。
    当時の寿命は50歳であるとすると子孫を興せる年代を25歳とする。
    400/25=16代 仮に平常時で最大「4のn乗」の前提とする。
    然し、これには時代性が共なうので、乱世としてこの1/2〜1/4成ろう。
    現実に「河内源氏」は武力化したので、歴史的に観ても子孫の多くを無くしている。
    前提の「4のn乗」は最低の1/4として「1のn乗」、最大の1/2として「2のn乗」と成る。
    論理的にはこの子孫拡大式は「1のn乗」は成り立たないので、1/3とすると「3のn乗」とする。
    次は、400/25=16代も「乱世の影響」を受けるので、最大の1/2で8代、最低で1/3で5代と成ろう。

    先ず「2のn乗」では、最大の8代では516 最低の5代では64
    次に「3のn乗」では、最大の8代では19613 最低のでは5代では729
    従って、結論からすると「64と19613」は無いだろう。
    抑々、歴史的史実からそれだけの子孫を養う力は無かった。



    この代表するパラメータの一つとして「源氏の守護神」とする「八幡神社と八幡仏社」は格式は「村格」であるし、「独自の軍事力、」は「5000程度」で後は殆ど「合力」であった。
    「壇ノ浦の源平戦」の「義経の一族の自軍」は2000とする資料もある。
    仮に、「直系尊属と卑属」と「支流の尊属と卑属」と「傍系尊属と卑属」の「三つの族」を集めたとしても、「516〜719」が妥当と考えられる。
    64は兎も角も、「2万の軍」を集めたとする資料から最大で「19613の計算」に付いては次の様に成る。
    最大の「19613」はこの「三つの族外」の「源氏ではない縁者族」とする勝手に縁者を理由にして名乗ったとすれば成り立つ話であろう。現実には名乗っている。
    「歴史上の軍力」とは殆どは「日和見の合力軍」である。

    現実に「頼朝」が「以仁王の乱後」に「自軍」として集めたのは「500程度」と成っていた。
    全て「日和見の合力軍」であった事が歴史が物語る。

    「日和見の合力軍」の殆どは「源氏族」として名乗る事を許されての「日和見の合力軍」で歴史上の戦いの通例である。
    負けると決まった時には、”蜘蛛の巣を散らす様に去る”が常道で、「平の将門の乱」もそうであった。
    この事から「第二の姓族」の「源氏系と名乗る数」が殆どでそんな数は論理的にあり得ない数なのである。
    「源氏でない族」を調べるのが難しい位である。

    (重要な注釈 筆者工、そもそも江戸期初期の「徳川幕府の国印状の政策・権威醸成策」は歴史を歪めたと考えている。
    「諡号族」では無い「第二の姓」の「徳川姓」は「上野の得川の土豪名」から来ている。
    「得の川」を「三河」で勢力を獲得した時に変じて「徳川」としたのである。
    この「得川」は、通常時は「農民」で働き「戦い」と成ると「傭兵業者」が村にやってきて来て「農民」から兵を集めた。
    この時に「傭兵」に応じる「農兵の土豪集団」であった。
    上記の「源氏の軍」もこの形式で拡大する軍力であった。
    最後には、完全に「傭兵」を職業とする事にした「農民」が出て、これが「第二の姓族」であるのだ。
    代表的なのは「黒田藩の全て」がこの形式から成り立っている。
    江戸期に成っても同然で、「日向廻と薩摩大口の青木氏」は江戸期末期まで「黒田藩の専属の傭兵軍団」であった。
    これは「家臣」を最小限にして「出費」を抑えて「財力」を蓄えた「黒田藩の戦略」であった。
    この様に「源氏族」と誇示するのはこの「日和見の合力軍」の「戦いの原理」から来ているのだ。
    例外は無い。)


    その「始祖とする南部信濃への経路」を「証明する資料」は何処にあるのか、あるのであれば「源氏族の経緯」をもっと判る筈であるし、中には考えられないのもある。
    「源氏」が完全滅亡した「1221年代滅亡」から何と「400年後」に信濃に「1600年代の資料」として見つけ出してそれを表に出して来たのかを明確にしていない。
    その「6つの源氏説」は全く別系としている。
    そもそも、この「系譜の途中」に突然に見慣れない人物を引き出して、それを「系譜繋ぎ」のその人物に上手く系譜を繋げている「プロ」が使った「江戸初期の最大の手」である。
    「ある系譜」と「別の系譜」を接着剤的につなぎ合わせる架空の人物を入れて繋ぎ合わせるのである。これが常套手段であった。

    更にもっと云えば“何で南部なのか”でもある。
    「伊勢の源氏説」も同様であり流石に実によく似ている。
    何故、源氏種が「6流」かと云うと、重なると偽である事が暴露するので「六流」に広げてごまかしたのである。

    (注釈 そもそも、「滅亡」とは山岳を逃げ延びて「追討軍」の「掃討軍」に掃討されて「出自元の子孫」を含めて“「全ての物」”も事石滅しされる事である。
    一切の寺などの資料も含めての事である。遺る事はないのである。
    その掲げるその系譜をどの様にして「正当な経緯での系譜」に造り上げられているのかその真偽は疑われる。
    こんな「信濃青木氏」には関係は全く無いが念の為に「矛盾を持っている信濃源氏」があるとして主張しているので説明して置いた。
    この「6流」の「信濃源氏と呼称する系譜」は「江戸初期の国印状交付の系譜搾取の偏纂」である事は先ず間違いはないし、流石に「尊属」とはしていないで「傍系族と支流族」としている。)

    (注釈 歴史を好む人間としては、この様な「江戸初期の搾取偏纂」は大変に時間を要するものでこれは愚痴であるが。
    載せる事、信じる事は自由であるので“載せるな”とは言い難いが、何時も正しい歴史観で論じる為にはほとほとこれで苦労させられるのだ。
    せめて “仮に・・・としたら”と書いてほしいものだ。
    調べる時間がもったいないし、間違えば本元に辿り着けないのだ。)

    「青木氏の氏是」として「摂津源氏」でさえも、「上記の論説」の通りであり、「四掟の範囲外」として「血縁族」の中に「源氏系」は入れない事に成っていた。
    それ程に「原理主義」を貫く為にも“「源氏化を嫌っていた事」”を意味する。
    それにも関わらず、「京綱と国友」の「搾取偏纂説」を取り除き論じているが、“「伊勢と信濃に入った事”として、検証した。

    この“1の頼政の「圧力・説得」に屈した“の論説に対して、更に他にどの様な経緯が考えられるかである。
    これを次に検証する。

    2 「政争」から子孫を逃す事が出来る。注釈の通り「子孫遺策」である。

    そもそも、「女系の妻嫁制度」を敷いている理由には、前段でも全ゆる面から論じているが、この「女系の妻嫁制度」のもう一つの「大きな理由」があった。
    それが「天皇家」が「男系の定め」である。
    「白壁王」に向けられた「孝謙天皇の白羽の矢」が二度と起こらない様にするには、「青木氏」の中を「女系の妻嫁制度」にすれば、「男系の定め」に適合しない事に成り、二度と「白羽の矢」は飛んで来ない事に成る。
    要するに、“「桓武天皇説と嵯峨天皇説」の違い”である。

    「桓武天皇説と嵯峨天皇説」のこの「二つの説」には「男系が前提」と成っている。
    何方かと云えば「伊勢と信濃の青木氏」は上記している様に「桓武天皇説>嵯峨天皇説」に成ろう。
    そこで、この「男系の前提」を崩し「女系の妻嫁制度」にすればこの「二つの争い」から逃れられる。
    つまり、“「政争」から逃れられる”と云う事に成るのだ。
    故に「子孫」は長く存続できる。

    従って、「伊豆」に関する1178年頃は既には「女系の妻嫁制度」は完成している。
    目的の通り完全に外れているし、「天皇家」は仁明期後は「男系」が続けられている。
    最早、心配はいらない。

    「経済的」にも「商い」は「日宋貿易」でも勝れ、「抑止力」でも「平家や源氏」に比べても「抑止武力」を裏付ける「経済力」でも勝れていた。
    何れの世も「武力=経済力の関係」で成り立っている。
    「経済力」の上に「武力」が成り立ちこの逆はない。
    つまり、「商いの経済力」は「抑止力の裏の力」を物語るものであり、依って「青木氏」には「充分な力」は出来ている。
    況や、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で出来ている「氏族」でありながらも、「世情」は“表裏のある恐れる氏族”と厳しい目でその様に観ていただろう。

    「天皇家の血縁」でも「仁明天皇期」で「青木氏族系」は既に完全に終わっているのだ。
    「伊豆の事」で、仮に「源氏力との繋がり」を持つとしても「血縁的」にも寧ろ「平家側>源氏側」と成っている。
    「経済的」にも殖産で「平家側>源氏側」と成っている。

    当初は「青木氏=源氏」であっても上記の通りこれは飽く迄も「仁明期までの事」である。
    「1178年頃」では「平家側>=青木氏>源氏側」が既に完全に確立していた。
    この「青木氏の扱い」に関する「政争」の「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の傾向が大きく「1178年頃」では答えが出ていた。

    つまり、「扱い」をうまく遣れば「京綱と国友の件」は大きな事は起こらないとする「青木氏側の読み」であった。
    つまり、「政争」から逃れられると云う事に成る。
    「頼政」からすれば「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」での立場からそれを利用すれば、“隠す事が出来る”と観ていた事に成ろう。
    仮に“隠す事が出来た”としても「源氏再興」には決して成り得ない。

    つまり、「原理主義の概念」が大きく氏を左右させていた事に成る。

    「平家側>=青木氏>源氏側」と「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の関係式から観たら「再興」は100%無い事は判る。
    再興しなければならない「理由」は「青木氏側」には100%無い。
    寧ろ、厄介な「潰すべき族」であった事に成る。

    そもそも「原理主義」が元々そんな事は考えないから「原理主義」なのである。
    とすると、「頼政」は“単なる子孫を遺す”と云う事に目的は在った事に成る。

    これで「三つの血縁源」に迷惑はかける事は無いし、筆者は「平家」にしても「源氏」にしても、仮に「無縁の河内源氏」に敵対されても「三つの血縁源」で対処すれば勝てると観ていたと考える。
    「武力」にしても「経済力」にしても「政治力」にしても「血絵で結ばれた補完役」が背後に入れば“「大義」”は獲得できると観ていたと考える。

    現実に、それを証明する様に「信濃」でも「伊豆」ではそうなったではないか。

    「平家」は、飽く迄も戦略上は「敵対する相手」は「源氏」に絞るだろうし、「源氏」も「女系の妻嫁制度」を執る「青木氏との関係性」は無かった事から敵対しなければ、「平家」は「戦線拡大」は敢えてしないだろう。
    従って、「頼政の策の程度(妾子での子孫存続)の容認」と成ったのであろう。

    「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「平家(4流or7流)」も「源氏(11流)」もありながらも、現実に平安期の「9つの縛り」から「四掟の血縁相手」には決してしなかった。

    そもそも、「神明社」であって「古代密教」であったとすれば、この「原理主義」を敷く以上は「野心的」では徹底して無かったと云える。
    「青木氏の氏是」(古書に遺る「施基皇子の生き様」)を考えればこれは当然である。

    地理的な歴史観
    そこで、「頼政の件」で、例えば、「伊勢と信濃」が「この状況」を乗り越えられるのには大きく「地理的要素」も絡んでいた。

    そこで重要と成るこの「地理的な歴史観」を詳細に説明して観る。

    先ず「伊勢」から先に論じる。(信濃は後段で詳細に論じる。)

    伊勢の松阪地区以外の「北域」(員弁域、桑名域、四日市域、名張域を除く)には、上記した様に、「松阪」に隣接する「明和町」、「玉城町」、「多気町」、「大台町」、「渡会町」の東西に帯状に「青木氏」が定住していて現在も多く分布している。

    これが「四家の松阪殿」の「福家の一族」が「北域のよりやや南側域」に分布する定住地であった。
    この「松阪域の北側域」に隣接位置する「四日市殿」との「棲み分け」が成されていた。
    従って、主に「松阪郡域」と「多気郡域」のこの二つの全域は「松坂殿と絆青木氏」が定住していた。

    そして、その為に起こる事は「寺の在り様」であった。
    この「寺の在り様」が系譜上から縁者関係にある「平家から疑われる要素」と成るのだ。

    「平家側>=青木氏>源氏側」が既に完全に確立していて、「桓武天皇説>嵯峨天皇説」の立場にあったにも関わらず、「平家から疑われる要素」は納得できなかった筈ある。

    そこで、「松坂の本寺(総寺・清光寺)」(松阪市中町)と合わせて、この“「松阪市多気郡明和町佐田」(「斎王の里の館域」)”にも「分寺A」の「青木氏菩提寺」を建立したのである。

    (注釈 「二つの寺名」は「来迎寺」と「清光院・寺」と記されている。
    古くから存在する「清蓮寺」は「寺」を兼ねた「平館・集会所」で在ったと記されている。)

    この事は、“「周囲の郷士」との「血縁族の青木氏族(家人)」”があった事からであり、「青木氏族一族一門の寺」として「分寺(B)」を建立し、“「松阪市中町の本寺(A)」”とは別に建立した事が伝えられている。
    ところが、この「分寺(B)の存在」が疑われる事に左右したのである。


    (注釈・「分寺の二つの寺名」は「分寺A」は「清光院」、「分寺(B)」は「来迎寺」で在ったと経緯から考えられる。)

    (注釈 現在の「本寺(A)・清光寺」は、「青木氏の菩提寺」の元合った位置よりやや少し東寄り(2m)にずれている。
    然し、「江戸初期の顕教令」に依って「密教」が「禁令」と成った事から、「本寺の菩提寺」の維持は難しく成った。
    その後、この「本寺(A)・清光寺」は、三度目の「松阪大火」で焼失した。
    更に、この「本寺(A)・清光寺」は、「顕教令」で江戸初期に「紀州徳川氏の支藩の伊勢菩提寺」として接収された。
    この事から「現在の寺」は建て替えられたものである。
    ところが「寺名」は紀州藩の配慮で同じと成ったものである。)

    (注釈 特別に紀州藩が同じ寺名としたとする明らかな「紀州藩の記録」がある。
    更に「青木氏族の墓所」もこの寺に特例として同じとして使用を許されたとある。
    現実に一族の墓所は元のままで、相当な「墓構え」である。
    「紀州支藩の墓所」より比較にならない程に大きい。
    紀州支藩の菩提寺と成ってはいるが、関係者の墓所で主だった墓所は和歌山にある。
    長方寺と報恩寺と東照宮の三寺に分かれている。
    これは「顕教の檀家寺」では無く「菩提寺扱い」としても特別に許された事に成る。
    実質は江戸期でも青木氏の菩提寺で現在も同じで「青木氏の歴史的宝物」を納められている。)

    (注釈、但し、明治後「第14代の紀州徳川氏」が、「紀州」から「東京」へ、そして「伊豆」に移動後は現在も「徳川氏」から外れ「一般の顕教寺」として存在している。
    賜仏像の根拠寺として存在する所以から「特別扱い」の「菩提寺扱い」と成ったと記されている。)

    (注釈 ところが、この注釈の“「伊豆」”に好んで紀州徳川氏が移動した理由があった。
    それは「上記の論」にあった。)

    (注釈 家康の“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」に従い、故に、この「松阪本寺」は江戸期でも“状況を変えなかった”とされている。)

    (注釈 ところが其の後も「松阪の別家筋の青木氏:四家」と「絆青木氏の寺」としても扱われていた。
    この事は「本寺の経緯」から「勿論の事」として、「伊勢衆との血縁族 青木氏族」の「菩提寺の分寺(B)」もその後に「顕教」に成った。
    然し、それでもこの「分寺(B)・来迎寺館」を上記の多気郡等にも建立出来たのである。
    この「特例の事」は、「伊勢」に如何に強く結ばれ「青木氏血縁族(氏族の氏人)」が多かったかを物語っているのだ。
    だが、「本寺の寺名(A)・清光寺」は前段では敢えて匿名としていたが、ところが「古代密教の青木氏族」だけの「密教菩提寺」は、江戸初期の「顕教令」に依って尚更に「表向き」には維持が出難く成っていた。)

    (注釈 実は、これには鎌倉期から始まった「浄土宗派争い」で「密教浄土宗」は殆ど無く成って居た。
    その処に、更に「顕教宗教派」が増加して「派争い」と「教派争い」が加わり、益々「青木氏の密教」は難しく成って行った事に成る。
    西山派系 東山派、嵯峨派、西谷派、本山派、深草派、時宗派
    鎮西派系 白旗派、石城派、藤田派、一条派、三条派、本幡派、一向派
    長楽寺派系 
    九品寺派系
    「14派中」の「鎮西派」の中の「最小派の白旗派」の「原理主義」を概念とする皇位族が入信した「古代密教派」である。
    尚更にその為に周囲からは完全に無視され「排除の圧力」を受けていた。
    その後に、ところが「室町期初期」に「足利幕府」に依って「原理主義の白旗派(14派の中の最小派)」だけが強引に「浄土宗本貫」と決められたのである。)

    「氏族の概念」を表す「宗教・宗派」にはこの様な大経緯があったのだ。
    唯、結果としては「原理主義の白旗派の概念」が認められたが、それだけにすべての「派争い」と「教派争い」の「羨望を向けられる事」に成って仕舞ったのである。
    遺されている「青木氏の資料」の一部にこの「行」がある。
    それに依れば、此処から「原理主義の白旗派の密教」である事に対して、“「世間の羨望」”は「暴力的要素」を含んだ攻撃を示す様に成って行ったとある。

    これは宗教でも「氏への尊敬」から「攻撃的羨望」へと変わって行った事になるのであろう。
    取り分け、「信濃と伊豆」では大変であったらしく、「攻撃を受ける恐れ」がある様に「密教である事」をも極力隠す様に成ったと記されている。
    信濃では昭和の初期まであったと聞き及ぶ。

    「伊勢」も「多少の変化」は認められていたらしく、唯、「伊勢神宮」と云う「原理主義的な思想概念」と「神明社族の印象」が古来より根強くあった事からも、「菩提寺」が直接的に攻撃されると云う事は無かったらしい。
    これが江戸期まで持ち込まれた。

    ところが明治期にはこの「攻撃」は再燃したとある。
    今度は「密教の原理主義的な思想概念」だけでは無く、奈良期から平安期初期までの「青木氏と云う象徴的な立場格式」と「巨万の富を獲得した氏への羨望」の「三つが絡んだ羨望攻撃」と成った。
    恐らくは、これには「裏での政治的思惑」が働いていたと考えられる。

    前段でも論じたが、そもそも「明治の民主化」により「天皇家」に継ぐ程度の「格式族の存在」は否定しなければ成らなくなった。
    況して、「献納」を明治9年に中止した事で益々、険悪と成って行ったと観られる。

    (注釈 この時、「紀州徳川氏の仲介」で華族制度に推薦されたが、「伊勢と信濃の青木氏」は断った。
    この「断りの根拠」は徹底して「青木氏の氏是」であってそれを護ったと記されている。
    その時の「天皇の側近右大臣からの手紙」と「徳川氏の手紙」が遺されている。
    この事で、東京に出て直接に謝罪をし「紀州の景色」を書いた「南画」を献納している。
    この時の「天皇家からの返納品」は「所縁の藤白墨」であった。現存している。
    「臣籍降下の元皇親族」の“「皇親華族」”に列せられる推薦であった。)

    (注釈 そもそも「華族」には「皇親華族」の他に「公家華族」と「大名華族」と「勲功家族」があった。
    その「皇親華族」の格式は最高位であった。)

    この「歴史的経緯の事」で「伊勢」では、「分寺 Bの来迎寺館の存在」は、この「使い分け策」として逃げた事も合わせて考えられる。
    つまり、どう云う事かと云えば、「本寺(A)・清光寺」が「青木氏族の定住地」には先ず必ず“「菩提寺」”として在って、更に、夫々に“「ある目的」”を以って「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺」が存在させたと云う事である。

    実は「顕教化する宗教界」に対応する事のみならず、もう一つここに「注釈の答え」があったのだ。
    この「分寺(B)」、即ち、「来迎寺城館(分寺Bの寺名)」には、「青木氏族」に執って「多くの意味」を持っていたのだ。
    唯の寺ではなかった。

    これから先ず論ずる事に成るのだが、「信濃」や「伊豆」でも伊勢と寺に関する防備として「同然のシステム」を執っているのだ。
    つまり、防備のこれは「青木氏と云う限定した族」に対する「攻撃」であった事に成る。
    その原因が「密教と顕教の差」がその「引き金」と成っていた事に成る。

    「室町期中期」から発祥した「第二の姓族」が「全体を占める社会」と成れば当然に「顕教の力」が強く成る事は否めない。
    逆に云えば密教は認められないと云う事に成る。

    それは後の「江戸初期の顕教令」が物語っている。
    みんな同じにしようとする「社会の流れ」である。
    それは「密教的要素の伝統」を発祥時から持たない「第二の姓族」社会であるらこそ起こる事である。
    必然的に「密教」は浮き出る事は必定であって、その現象を社会が心豊かに容認しなかったのであろう。
    これは「日本人の特性」と云っても過言ではないだろうか。

    そこでこの事は、青木氏に執ってはその特別性の期が無くても社会は無意識に攻撃する。
    その為に、「青木氏」は「菩提寺」にその防御の目的を持たせたのだ。
    其の事が最も明確に出て来る「菩提寺」にである。
    そこで夫々に“「ある目的」”を以って、「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺館」を存在させたと云う事に成る。
    「平安期末期」にも「限定した地域」にもこの社会の「攻撃」が起こっていた事に成る。
    そしてそれが宗教の「密教論争」と云う事まで興した。

    上記した「白旗派の古代密教」の「浄土概念に基づく原理主義」を巻き込んだ「争い」が平安末期から鎌倉期を経過して室町期初期まで、遂には「他の宗派」も加わって醜い”「160年論争」と云う宗教争い」”が続いた。
    勿論、室町中期以降も続いた。
    これが上記した「浄土宗の分派」と云う形で手出来たのである。
    何とかこの社会の攻撃に少しでも教義の中で修正して対応しようとした。
    その最たるものが浄土宗から飛び出した「親鸞の浄土真宗」で完全に密教性を排除した。

    「青木氏の伊勢と信濃と伊豆」にはこの影響は大きく働いた。
    「密教から顕教」への変化が「氏存続」の「大きな脅威」と成っていた事に成る。
    「密教」が「顕教」に替えられるかと云えばそれは無理であろう。
    これには「青木氏の伝統の基礎」と成っているからだ。

    そうとなれば、それを示すのが上記の伊勢青木氏が執った「分寺策」で在ったと考えられる。
    同然に、「信濃」にも「伊豆」にも、将又、「美濃(後段で詳細を論じる)」にもこの「分寺策の形跡」がはっきりと遺されて観られる。

    「分寺(A)・清光院」と「分寺(B)・来迎寺館」では、従って、後者の「分寺(B)・来迎寺館」は「武力的攻撃への対処策」であった。
    要するに「直接的攻撃防御策」であった。
    前者の「分寺(A)・清光院」は、“「院」”に示す通り「天皇家への権威の象徴」であったので「権威に依る牽制策」であった。唯一、「院」を行使出来るのは伊勢青木氏である。
    つまり「、間接的権威牽制策」であった。
    この“「二つの策」”で対処し護った事に成るのである。
    これで、“ある目的”の意味合いが判る。

    上記している様に、世情の「青木氏への尊敬」から遂には社会の流れの変化で「攻撃的羨望」への変化に対して、「分寺B」を攻撃から逃れさせる為に“「来迎寺城館」”としたのである。

    つまり、世情には“「密教寺」”ではあるが「寺」では無く“「館」”なのだ”としたのである。
    「館」なのだが「寺」だとする苦肉の策である。
    この「館」は「住まい」では無く、要するに「城壁を持つ平城」なのである。
    これは平安期初期からあって「伊勢青木氏の清蓮寺城館」と同じである。

    上記でも何時の世もこの密教の「原理主義・白旗派」を貫く以上は「世情」は厳しく成ると説いた。
    世情の「顕教化する宗教界の社会変化」と、「攻撃的羨望への社会変化」に対応したのである。

    「名張」の「清蓮寺城館」も「平安期初期の古来」に於いてこの「二つの事」に近いものがあったのでは無いかと考えられる。
    つまり、それは「平安期初期」には上記で論じている「桓武論説と嵯峨論説の影響」があったという事に成る。
    この「政争」からの「防御」と観える。
    その証拠に、これに合わせて、平安末期の「薩摩域・大口青木氏・日向青木氏」までの「伊勢」を含む「青木氏族系の定住地」には、必ず、「同宗同派同名」の「ある寺(館)」(「来迎寺城館」)が少ないが定住地の近隣に必ず一つ存在しているのだ。
    現在も存在する。
    取り分け、南の端の「薩摩大口村」と「日向廻村」にも存在するのは典型的な例である。
    この「薩摩の分寺(B)」も、本来は「青木氏の家城」で「城郭・館」と「寺」とを兼ねたものであった。

    (注釈 「寺」では無く「館」として建立した。これが「表向きの策」であった。
    後は「館」での「寺的な行事」の「集会所」とするだけで事は済んだとしている。)

    この他にも存在は別として次の域にも現在でも存在する。
    「美作国吉野郡」
    「越後国古志郡」
    「佐渡国賀茂郡」
    「三河国渥美郡伊川津」
    「三河国額田郡」
    「因幡国八東郡」
    「豊前国下毛郡」
    「越前北ノ庄と坂井郡」
    「加賀国」
    「岩代国安達郡」
    「磐城国袋内」
    「伊豆国沼津郡内浦」

    以上の地域、即ち、「青木氏の定住地」であるこれらの地域には、この「ある寺(B寺)(館)」(来迎寺城館など)が必ず存在した。(現存)

    これは、「伊勢名張」の“「清蓮寺城館」”と同じ様に、この“「来迎寺城館」”にも“「ある意味」”を持って共通して存在させたのである。

    研究中により{青木氏の所在地詳細}などは秘匿するが、「青木氏」と大きく関わっている事は間違いの無い事実である。
    江戸期以前の「密教の浄土宗」の置かれていた環境から勘案して明確に判る。

    この様に「ある寺(B寺)(館)」(来迎寺城館など)が「存在する共通環境」は、「浄土真宗の環境」の中に於いても「知恩院派の浄土宗寺(鎮西派系の白旗派原理主義派)」がぽつんとある事なのだ。

    上記した様に、この「鎮西派系の白旗派原理主義派」は「青木氏の所以」そのものである。
    「古代浄土密教の系列」であり、平安期初期以降では「青木氏」以外にはこれを引き継いでいない。
    「信濃と伊豆」にもこの怪しき伝統は引き継いでいる。

    更にそれは何故かである。
    これが判れば先ず上記の「伊豆の事(「伊豆国沼津郡内浦」)」も解って来る。
    伊豆の国友の件も読み込める

    それから先に論じる。それは次の注釈で判る。

    注釈として、先ず「伊勢」には「ある寺(分寺B)(館)」(来迎寺城館など)の「来迎寺」は、二つある。

    一つは、「天台宗寺」で「伊勢」を侵食した「下級公家官僚」の「北畠氏の菩提寺」である。
    他方は、「(a−1)(a−2)の郷士」と成った「菩提寺」である。

    つまり、ここが過去には「浄土宗寺の城館形式」に成っていたのである。

    従って、「来迎寺」のある所には、この「(a−1)(a−2)の郷士」があったと云う事に成る。
    依って、「伊勢」からこの「来迎寺城館等」の「来迎寺の形跡」を追い求めて行けば、「(a−1)(a−2)の郷士」の「移動定住の跡」が判ると云う事にも成る。

    これに依って何と「伊勢−信濃間の縦の線」、つまり「移動定住の跡」と云うものが生まれているのだ。

    (注釈 美濃を経由して 且つ、伊豆の平安末期の生活も環境も判るのである。)

    この事は「平安初期」には「氏族の存在」と「宗教の概念」が伊勢と信濃と伊豆はすくなくと一致していたと云う事に成る。
    だから、「氏族」と云うのではあるが。

    (注釈 美濃の詳細は別段で論じ、此処では論外とする。)

    そこでそもそも、この「移動定住の跡」の“「来迎寺館」”とは、元々は、「上記(bとc)」の地方に赴任した「高級官僚族が入信する寺」でもあった。
    依って、この結果、「高級官僚族」は次の様に分かれていた。

    「天台宗(公家等の官僚族)」の派
    「浄土宗(武家貴族の官僚族)」の派

    以上の二つの「両方の寺」と成っていたのであった。

    ところが、「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」の「移動経路」は「線状」として全く成立せず少なく無いに等しい。
    又、天台宗(公家等の官僚族)」の派はそもそも最澄概念から「館」では無かった。
    つまり、天台密教を唱えながらも顕教として信者を多く獲得する戦略に出た。

    (注釈 「最澄」は当初は「緩い密教」を唱えていた。その後、「顕教的密教の概念」に替えた。
    この「概念の変遷」から「原理主義」では無いので「館の考え」は生まれない。)

    つまり、これには「宗教概念の違い」があった事から起こっていたと観られる。
    故に「浄土宗(武家貴族の官僚族)」は「白旗派の原理主義の概念・律宗族」の経路と云えるのだ。
    殆どは「(bとc)」と同様に、前段でも論じている様に、「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」は平安末期の「戦乱の世」に出て滅亡したのである。(近江美濃甲斐の様に)

    「浄土宗(武家貴族の官僚族)」は下記の様に「館策を執った事」で生き残ったのである。

    然し、「(a)族」と一部の「(bとc)」の「浄土宗派(武家貴族の官僚族)」は、「武力」を持って「赴任地」を統治し、「土地」に根付いていた彼らは「下剋上の戦乱」でもある程度生き延びられたのである。
    ここに「違い」があった。
    これが「館の所以差」であるのだ。
    当に、「上記の薩摩」がその典型例であるのだ。

    この事は「天台宗(公家等の官僚族・平安期)」を帰依する故に「氏族の存在」と「宗教の概念」が一致していなかったと云う事に成る。
    だから、彼らには「氏族」と云う「存在性」が薄いのではあるが。

    つまり、宗教的には「(a−1)と(a−2)の郷士」と、「(b)と(c)」の「浄土宗帰依族」の「武家貴族の官僚族)」とが、この“「来迎寺」”の「寺」を「菩提寺」にし「館形式」にしたと云う事に成る。
    この「菩提寺の在り様」が違ったのだ。

    前者は「来迎寺城館等」の「館」で、他方は単に「来迎寺の寺」であったと云う事に成る。

    そして、何方もその元を質せば、「朝臣族」の族の「身分秩序の諡号の姓」であった。
    確かに「位階と諡号の姓の差」はあるが、“「高位の族」”に類するのである。

    (a)族と一部の「(b)(c)族」の「浄土宗帰依派の武家貴族の官僚族」が平安期末期までは全国各地に分布し、赴任して現地に根付いた。

    「鎌倉期」にはこの任が無くなり、この「元官僚族」が「時代の変化」に敏感に即応して館を基に「武力」を前提に「豪族・土豪」と成って生き延びた。
    その彼らが現地に建てた、つまり「菩提寺」が、「武力集団」を収容する「来迎寺の城館」であったのだ。

    唯、彼らの「来迎寺」は、「本寺A」が在る事が故に「分寺AB」で執った「来迎寺城館等」の“「館の形式」”では無かった。
    然し、彼ら「(a)族と一部の(b)(c)族」は「高位族」である以上は、多くは「都の近隣の天領地等」に配置されていた。

    ところが一方、平安期初期から室町期に架けての長い間に「生き延びるに必要とする力」を持ち得なかった「皇親族系(皇別)」の「(a−1)(a−2)の官僚族」は、生き延びる為に必要とする武力と財力が非弱であった。
    この為に衰退滅亡し山岳地等に潜んで生き延びた。(美濃は別段で詳細に論じるので注目)

    彼等には当然に「菩提寺(来迎寺等)」を建立する事は必要で、潜んでいる以上はそれは不可能であるし、その力は元より無かった。
    然し、「古い所縁」を得て幾つかの種類の「シンジケート」に入って「経済的な裏付け」とその「抑止力」の傘下に入り「糧」を得て、「他に侵される危険性」が無く成った時、これらは始めて「シンジケートを支配していた青木氏族の協力」を得たのだ。

    そして、元の帰依する「浄土宗密教の菩提寺(「来迎寺城館)」を建立し得るに至るのである。

    唯、ここで注目すべきは、「(a−1)(a−2)の官僚族」の由縁で、彼等には「持ち得る伝統」があって、その「習慣仕来り掟の最低限」のものを持ち得ていた事であった。
    中には、「官僚族の所以」を以て「学問処(事務方)の郷士」も居て、それが「シンジケートの力」に大きく幅広く反映した。
    彼らの「学識の高さ」のそれが、「青木氏の神明社組織」をより高いレベルで生かす結果と成ったのだ。

    この「(a−1)(a−2)の官僚族」の由縁の中には、一部「神明社」を「守護神として崇めた族」もあって、「シンジケート」と云うよりは、寧ろ、彼等を“「神明社族」「来迎寺城館族」”とも云っても過言ではない族と成っていたのである。

    (注釈 唯、他氏と違って「青木氏族」「神明社族」「来迎寺城館族」に執っては“「影の組織である」”に意味があって、その「意味」を強調して筆者は“「神明社族」”と云うよりは敢えて筆者は「シンジケート」と呼称しているのだ。
    この「シンジケート」とはそもそも「やくざや暴力や武力の集団」では決してなかった。)

    (注釈 例えば、消失から遺された一例として、「青木氏に関係する資料」の中には、この「シンジケート」に付いては秘密にするものである為に明確には触れていないが、唯、「宗家の商記録」の方には、一定額が「神明社」に定期的に振り込まれている。
    この事に合わせて、「護衛荷駄搬送等の勘定」で記載され、「送り先」が地名で「‥殿」とした記録が数多くある。
    「尾鷲の差配頭の家人の資料」には、「・・・原士の事・・御任せ頂き候故・・」とある。
    この時は、室町期末期の「秀吉の長島攻め」で、この「シンジケート」を動かして、「伊勢紀州の材木の買い占め」と「工人の雇攻め」と「山岳地のゲリラ活動」で対抗した史実がある。
    この時の「伊勢の家人」と「尾鷲の家人」との「やり取り」が「影や原士・・」と云う隠語で遺されている。
    この「影の作戦・伊勢長島の戦い」を知った「秀吉」は、やむなく「家来」を使って谷川から材木を自ら流した記録と成っている。
    この記録は、「軍略組織」であって、“唯単なる「シンジケート」では無かった事”を意味する。)


    (注釈 「伊勢攻め」の足掛かりと成った「松ヶ島城」の時も、「伊勢の家人」と「摂津の支店」との「やり取り」で、「・・の影」の隠語で「伊勢信濃の影組織の連絡」の一部が遺されているし、どこから漏れたか外記録にも成っている。
    これが後に、この「時の事」が江戸期に物語化されている。
    この種の“「その時々の秘密裏の云い廻し」゛での手紙が多く「伊勢の家人」の家にもある。
    「九度」等の「地名」とを組み合わせた“「九度の影」”とか「影九鬼」「影員弁渡り」の隠語を使っている。)

    (注釈 興味深いのは、中に“「今井影」”とあるが、「美濃」で活躍し信長を「影の組織」で苦しめた有名な「今井神社の影の組織」との「やり取り」を匂わせている。
    これら「青木氏」が持つ「資料の全て」、「地名や代名詞」等をプロットとすると、「南勢」から「美濃加茂郡」を経由して「信濃」に「縦の線」(美濃ではR41、R62、R19の山間域)で繋がるのだ。
    取り分け、平安期末期の当時としては、「美濃」の「土岐氏系青木氏・滅亡衰退」の存在が大きく左右して、「土岐」から当時の路の「R19線」を経由して「信濃」に繋がっていて、逃亡時は、ここを通じて「信濃」に逃げ延びたし、この「山間部」に逃げ込んだと考えられる。)

    (注釈 又、「三野王の末裔」の「美濃青木氏の浄橋と飽波の裔系」は、平安末期の平家との戦闘でこの「シンジケート」を頼りに「R41−R62の線上」を「信濃」に向かって逃げたと考えられ、この山間部に逃げ込んだと考えられる。
    結局は、「伊勢桑名の出自の浄橋と飽波の裔系」がこの「信濃シンジケートの一員」と成ったのである。
    彼らは「額田一色」にその拠点を置いていた。
    この「二つのルート」の「(a−1)(a−2)の原士」と成った「元高位の官僚族bとc」は、「神明社」を介して「信濃シンジケート」と成ったと観ている。
    故に神明社を守護神とする族に成ったのである。
    そもそも考え方として“「伊勢」に向かって逃げ込む理屈”もあるが、これは“火に入る夏の虫”と成り得る。
    目立ちすぎて無理であろう事は明白でこのルートに入ったのである。)


    > 「青木氏の伝統 53」−「青木氏の歴史観−26」に続く。


      [No.373] Re:「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/08/13(Tue) 15:28:16  

    「青木氏の伝統 51-1」−「青木氏の歴史観−24−1」の末尾

    > 注釈から、最早、「原理主義」で「源氏化」に応じなかった「伊勢と信濃」の範囲で留まったが、平安末期の「皇女、王女、宮人」の「受入口」は、「血縁性」も「役務」も含めても当然に無く成っていた事>に成る。
    > それ「以後の事」は「正しい資料」が見つからないので判らない。
    > そもそも「受入口」をしていれば「原理主義」は崩れる。
    > つまり、原理主義を貫いてきた「青木氏族」は潰れると云う事に成る。
    > この事が「生き残り」に繋がったのである。
    >
    > (注釈 「斎王」は、「嵯峨期前」に既に終わっていた。
    > その後、前段でも詳細に論じたが「嵯峨期後」からはその格式は「斎院」等であった。
    > 「巫女的なもの」で何とか鎌倉期までは形式的に続いた。
    > この事でもその後の「受入口」は「234」で終わっており判る。
    > 「嵯峨期以降」は記録から受け入れている証拠は「伊勢と信濃」には無い。
    > 「信濃」にも前段で論じているが、「伊勢神宮」に近い様な「大聖域」なるものを持っていて、「伊勢」と同様に「何らかの祭司制度」を持っていた事が最近判っている。
    > 同様に、「234の受け入れ」は連携で行われていた事が証明されている。
    > 「信濃青木氏」として「原理主義族」である以上、明らかに「伊勢」と同様に「祭司王」や「物忌」等の「役務」を果たしていた事が予想が着く。
    > そして、最近その研究と記録が発見されている。)
    >
    > 「信濃の聖域の詳細」は今後の研究に成る。



    「青木氏の伝統 51-2」−「青木氏の歴史観−24−2」

    さて、注釈として、理解するに「重要な事」は他にもあった。
    それは、「皇女、王女、宮人」の「受け入れ」で興った事の「此処での違い」である。
    つまり、「伊勢と信濃」と「近江美濃甲斐」の唯一つの違いは、「出自」は「氏族」でありながらも「姓の有無」であった。
    「近江美濃甲斐」は「縛り」を護れなかった以上は「正式な氏族」ではない。「姓族」である。
    何れもが「氏の名」は持つが、一方は「伊勢と信濃」は「郷士関係」とで、正式な氏族を構成されていた。
    つまり、「氏人と皇位族の(a−1)・(a−2)」での構成であった事である。

    他方の「近江美濃甲斐と(b・c)」は「姓関係の繋がり」にあった。
    この「近江美濃甲斐と(b・c)」は「皇子・(皇女、王女、宮人)」の「受け入れ」を利用して興った「姓関係の繋がり」である。
    これは判り易く云えば「源氏化の差(縛り)」と論じている。

    当時は、「縛り」を護らなくても「皇族系であった朝臣族」であると云う「名誉の風潮」が社会に大きくあった。
    世間には、“「平家」にあらずんば「人」にあらず”、されど、“「源氏」であらずんば「武家」にあらず”であった。
    “「9つの縛り」”は守れなかったのに、世間はそんな「縛り」などは気にしないで囃子たてた。
    逆に、この風潮に載り「近江美濃甲斐と(b・c)」は、「140年間〜160年間」の間に「家柄の格式」は低下していた事が起こった。

    そもそも、「美濃の始祖」は「三野王」で「浄広四位の冠位」であって、「朝廷」きっての有能で「筑紫大宰率」を務め、その後に出世して「美濃王」に成る。
    ところが其の後の末裔の功績は無く、永代で無い事から低下した。
    そこで、元の様に「家柄の格式」を引き上げる為に「美濃末裔」は逆にこれ「皇子・(皇女、王女、宮人)」の「受け入れ」を利用したと考えられる。
    それが安易な「源氏化と姓化の路」であった。

    そもそも「社会」は嵯峨期から「賜姓源氏」は「花山源氏」までの「11家11流」の「盛流」の中にあった。
    この「11家11流」は「9つの縛り」を無視して解放されて「自由な生活」を獲得して“飛ぶ鳥落とすの勢い”であった。
    この「原理主義」と成る「9つの縛り」を守っていれば「源氏族」は「縛り」に潰されて存在し得なかったであろう。「美濃」も同然である。


    ところが対比して「伊勢と信濃」は「9つの縛り」の「原理主義」を貫いたからこそ「生き抜けたと云う事」が逆説として云える。
    唯、果たして“「原理主義」だけで生き抜けたか”と云うとそうでは無い。
    何時の世も「原理主義」で生きている者は世情からは排他されるは必定である。
    それは「人間の本能とする自由性」が無いからであろう。
    比較すれば、この義務付けられた「原理主義・縛り」から「自由性を求めた源氏族」には「世情の人気」があって、それに頼ったのが「近江美濃甲斐」であった。

    然し、「自由性を求めた人気族の源氏族」には何れも底が浅いものがあり、「強かな者」に見抜かれて、結局は300年程度で「滅亡の憂き目・1221年」を受けている。

    (注釈 「円融期の補完役」はこの「不人気状況・原理主義・縛り」を観ての策で、それには「血縁と抑止力の強化」も一つの要因で在ったと考えられる。
    「世情の源氏化」と「不人気状況・原理主義・縛り」は逆比例していた事に「天皇の危機感」を持ったという事であろう。)

    「天皇家」とほぼ同じ「原理主義」を貫く「世情人気」の無い「伊勢と信濃の青木氏」は、“それを消し去る策”を持っていた。

    そこには「氏族発祥期」からの「商いの裏付け・二足の草鞋策」があったからであろう。

    これには、自由性を発揮する「商いの自由の裏付け」と「氏の維持概念の原理主義」は一見して矛盾する処がある。
    然し、この「矛盾を解ける概念」が「伊勢と信濃」にはあったのだ。

    それが「氏族発祥期」からの「共生共存共栄の概念」にあった。
    この概念は次の関係式が成り立っていた。

    「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」

    この関係式がこの「原理主義」の「矛盾を解ける鍵」であったのだ。

    更に注釈として、この「原理主義」を維持していた「aの族」を、三つに分けるとすれば次の様に成る。
    「(a)、(a−1)、(a−2)」のこの三つに成ると前段でも説いた。
    「a族」には三つ分けられる血縁的要素を持っていた。
    これに繋がる「何れの郷士」も次の様な経緯を持っていた。

    (注釈 嵯峨期の新撰姓氏禄はこの基準で格式の分離をしている。)

    因みに、判り易い例として「伊勢」の「氏人の伊賀郷士(甲賀含む)」を例にすると次の様に成る。

    前段でも論じたが、そもそも、「伊賀」は「伊勢の半国伊賀」であった。
    後漢の「阿多倍王」は博多に入国して「32/66国」を支配し「関西の手前」までを無戦で制圧して、そして大隅に住していた。
    朝廷は三度に渡り「制圧軍」を薩摩に派遣しも敗退する。
    朝廷は結局は「調停」を選び「阿多倍王」を都に呼び出す。
    そして「渡来人後漢の阿多倍王」に「伊勢の伊賀」を半国割譲する。
    「阿多倍王」は「芽淳王の女」を娶る。
    「准大臣」と成り「坂上氏、大蔵氏、内蔵氏」の賜姓を授かり三氏を輩出する。
    其の後、「称徳天皇の白羽の矢」が伊勢王の「施基皇子の末裔賜姓族」の「青木氏」に当てられる。
    この「伊賀の阿多倍王」の「孫女高野新笠」を「白壁王(光仁天皇)・青木氏」が妃として娶る。
    「子山部王」は「桓武天皇」と成る。
    「伊賀の桓武平氏(たいら族・賜姓)」を輩出する。
    「桓武平氏」と「伊勢青木氏」とは「縁」では「光仁天皇」、「血縁」では「桓武天皇・甥」で繋がる。

    注釈として、ところがこの経緯を持つ「伊賀」には、そもそも、「阿多倍王の入国前」には“「伊賀原士」”と呼ばれる上記の「(a)、(a−1)、(a−2)」の「一部の族」が存在していたと云う事である。

    「阿多倍王の族」と「伊賀原士(a−2)・(一部の族)」とが共存共栄していたという事に成る。
    記録的な確認は取れないが恐らくは血縁があった可能性が高い。

    ここで、「伊勢青木氏」は、更に時代を遡ると、“「芽淳王の子(第三の説)」“の「第四世族春日王」を祖として、「系譜」ではこの「伊賀」の「芽淳王の女・阿多倍の妃」に繋がる。
    全段でも論じた。

    「桓武天皇」は、「阿多倍と芽淳王の女」との間に出来た子の「桓武平氏の祖」の「坂上田村麻呂(北陸域を統一した征夷大将軍)」とは、“兄弟だ“と公言したとする記録が残る位である。
    そして、「施基皇子の四男」の「白壁」は「伊勢青木氏」である。
    明らかに血縁性を保持している。

    更に、「白壁王の光仁天皇」と「阿多倍王」の「孫の妃高野新笠」と血縁して、「子の山部王の桓武天皇」で繋がるとすれば、この系列からすると、「高野新笠の血筋」の「始祖 阿多倍王の桓武平氏」から「七代目の末裔」の「清盛(約300年程度)」と成る。
    つまり、ここで全て「芽淳王」で繋がっている事に成る。

    注釈 系譜は次の様に成る。

    (注釈 平高望・高望王・高尊王には多説あり・矛盾説もある。)

    高尊王(阿多倍)−平国香−平貞盛−平維衡−平正度−平正衡−平正盛−平忠盛−平清盛

    「阿多倍」の処では「芽淳王」の「女」で「系譜」で繋がる。

    「芽淳王」と「青木氏」は繋がつているのでここでも繋がる。

    結局は「伊勢青木氏」と「光仁天皇」は「出自元」で繋がる訳であるから、「平国香−高野新笠」の処で、「縁」で「光仁天皇」で、「血縁」で「桓武天皇」と繋がる。


    とすると「青木氏」から観れば、「伊賀」は次の様に繋がつている。

    「白壁王−妃高野新笠のルート」と「春日王−芽淳王の子のルート」

    「桓武天皇のルート」−「阿多倍と芽淳王の女のルート」−「桓武平氏のルート」

    「血縁の関係性」は斯くの如しである。

    要するに“「芽淳王」”を起点に短期間でこれだけの「血縁の輪」が出来ていたのである。

    (注釈 上記注釈の通りで、従って、「春日皇子真人族の由縁」もあって「施基皇子の子」も同じ「春日王」を名乗っている所以なのである。
    但し、「春日」の「皇子や王」を名乗る者は3人もいた事に注意)

    そもそも、そうすると「伊賀」に於いては、次の様に成る。

    「(a)、(a−1)、(a−2)」の一部から成る「伊賀原士(伊−イ)」
    清盛移動後の「伊賀郷士」と成った「残存郷士(伊−ロ)」

    「伊勢の族階」は伊賀では以上の二つに分けられる。(但し、鎌倉期の地頭足利氏は除く)

    そして、下記参考の「(a)、(a−1)、(a−2)」の一部に族階する事に成る。

    参考(前段記載)
    (a)真人(48)、朝臣(101)  ・「三分類* (a)、(a−1)、(a−2)」
    (b)宿祢(98)、忌寸(50)
    (c)臣(66)、連(258)
    (d)首( 93)、造(80)
    (e)公(63)、直(42)
    (f)史(28)、村主(20)、県主(12)

    合計=810

    この記録から観て「郷士か原士」と成った全国的な「族階順表」は以上の様に成る。
    (注釈 「郷氏か原士」かの説明は前段で論じた。)

    上記の「伊賀の経緯」の例で論じた様に、「伊勢」では「(伊−イ)と(伊−ロ)」の何れも「郷氏の青木氏」とは「血縁郷士」と成っていて「氏人族」であった事に成る。

    (注釈 この事は間違いは無いが、この判別が今ではつかない。)

    この「伊−イ」と「伊−ロ」の「郷士か原士」は、「(a)、(a−1)、(a−2)」で「伊勢青木氏」とは関わっていた事に成る。

    「伊−イ」と「伊−ロ」の「何れの郷士」も、「室町期初期」まではこの様に「血縁の輪」を広げていたと考えられる。

    注釈として、 資料が乏しいので証明は出来ないが次の様に成る。
    「郷士」には大別すると2流あり、小別すると4流ある。
    この大別は発祥時期である。
    ここで云う「郷士」とは、「室町期から江戸期までの郷士」、即ち「第二の姓」から成った「在郷農士」とは別であり本論外である。
    本論は、次の郷士を云う。
    奈良期末から平安期末期までの「上記の族階表910氏」で示す「官僚族」として地方赴任、又は、特定地域に定住していた「官僚族の末裔」から成り立ち、「朝廷の衰退」に伴い「第一の姓」から成った「在郷武士」の事である。
    その「官僚族の役立場」から「統治の為の武力勢力」を持つ事を許されていた「官僚族」であって、結果として「武士」と成ったのである。
    元より「武士族」では無かった。
    彼等は「aの郷氏」と共に生き、「特定地域」に定住して生きた者らを指す。
    「郷氏の氏族」の「氏人家人」などを形成した「元官僚武士族」を云う。
    中には「高位官僚族」、且つ、「武家の立場」を有する族も居たし、この「第一の族」の「下級官僚族)」とその陪臣は「農業」に勤しむ傍ら「郷士」を助ける「原士」とも成った。
    これが「伊賀原士」や「美濃原士」等をいう。 )

    そこで、故に、上記の「伊勢の例」でも判る様に、上記の注釈を改めて前提にして、前段でも「伊勢と美濃と信濃間」では「伊勢−美濃−信濃」の「縦の線のシンジケート」が存在下した。
    それは要するに、「(a)、(a−1)、(a−2)」」の「三つの族」と「bとcの族・官僚族」とで構成されていたと説いた。

    そして、この「縦の線上」にあったこの「伊賀の二つの郷士(「伊−イ」と「伊−ロ」)」とも含めて、「(a)(a−1)(a−2)」の”「影の郷士」”と成っていたのである。

    (注釈 詳細は個人情報に関わるので匿名するが、「伊勢シンジケート」で関わった「伊勢での郷士」の姓名は確認できている。)

    「上記の族階表910氏」の内の「(a−1)、(a−2)」の「101の族」で関わっている事は、組織化されて効果を発揮する。
    「(a−1)、(a−2)」の「101の族」の「彼らの守護神」は、当然に「祖先神の神明社」と云う護り神を持つ事に成る。
    「(a)族」を中心とした、「(a−1)、(a−2)」の族は「全国500社近くの組織」で全て統制されていたと考えられる。

    「室町期以降の第二の姓の郷士」とは違い故を以て強かったと云えるのだ。

    「経済的繋がり」は当然にあるしても、元を質せば、「(a)と(a−1)、(a−2)」の「古来の血縁の繋がり」も認められるし、「支払や指示や計画」などの全ては「神明社」を経由して処理されていた事に成ったとしている。

    つまり、これが「伊勢−美濃−信濃の縦の線のシンジケート」であり、故に「シンジケート」が成り立っていた事に成るのだ。
    ここには「神明社」が鍵であった事に成る。要するに「神明社族」と云われる密教の宗教概念の強い「原理主義」の「律宗族」である。
    彼らはその様な「神明社概念」と云えるものを強く持っていたのである。

    「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」と共に、「神明社概念」の実に「不思議な共同体」であった事が云える。

    (注釈 唯、この関係を解明しようとしたが、ある所までは「家人や差配頭などの記憶」を辿り可能と成ったが、どの様に「系と譜」の詳細な関係を持っていたかの証拠は、「1716年の松阪大火(1614年の大火含む)」で消失してどうしても確定できない。)

    そこで少し「伊勢郷士の詳細」たけが判っているのでこれを先に論じて看る。
    最近、判って来た「信濃の歴史と伝統」も同然であろう。

    この内の「伊勢の郷士」の「4氏」/50氏」が、”伊勢青木氏の末裔で郷士だ”と今でも公的にも主張している。
    恐らくは、これはその位置づけからと口伝から観て、「伊勢衆の11郷士衆」であると観られる。
    つまりは、「(a)と(a−1)、(a−2)」の説から観ればこの「裏付け」と観られる。


    その「4氏」の内の「2氏」は、「土豪」として「玉城地区周辺」と「櫛田川沿い北域」の住んでいた様である。
    この事から、前者は「絆の青木氏」、後者は後に絆を結んだ「射和の郷士衆の商人」ではと考えられる。
    後の「2氏」は「南紀勢地区」で「青木氏の旧領地」であるので、「職能集団の郷士・家人」ではと考えられる。

    この事から、現実に伊勢には、“「青木氏族」だ”と名乗っている「郷士」が今も居ることから、後から成った「射和の郷士衆」も含めて、上記の考察からも「(a)と(a−1)、(a−2)」で“間違いなく繋がっていた”と考えられる。

    この事では上記の論と合わせて「4氏」は起こり得た事は充分にあり異論は無い。

    そもそも「末裔」と云う事は、限定される「氏族と云うもの概念」の捉え方に依って変わるが、少なくとも「伊勢青木氏の四家の掟」から何れも少ない中の「皇子(a−1)」が「家人」と成って「郷士の跡目」に入った事か、「氏人」に成った事を意味している。
    「氏族」である故に「総称」と捉えれば、「関わった郷士」は全ては「青木氏」である。

    然し、「氏族の総称」とは云えど、明治期3年の「伊勢と信濃」での「苗字令」では「郷士や農民」は「青木氏」を名乗らなかった史実はある。

    普通、「青木氏」と密接に関わった血縁性の無い農民などが、明治期3年と8年で「第三の青木氏」として区分される。甲斐などに多く発生した。

    これは、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で結ばれた「信頼性が伴う氏族」であった「長い間の由縁」であろう。

    (注釈 伊豆でも同然の事があった事が判っている。)

    (注釈 最も「明治の苗字令」で「青木氏」を名乗ったのは、皮肉にも逆で「氏族」は崩れていた「甲斐」であった。
    「嵯峨期の詔勅」を使った賜姓族の「源光」の兄の「時光系の第三青木氏」に関わった農民たちである。
    つまりは、「甲斐」は「歯止め」が効いていなかった事を意味する。)

    (注釈 後段でも論じるが「美濃」は「額田青木氏の蒲郡青木氏」と「伊川津青木氏の四家・伊川津・田原・吉田青木氏」と成って「国衆」で再興させた。
    「近江」は「傍系末裔」が「摂津青木氏」として「商い」で再興させた。)


    ここで、何度も論じたているが、「路線差」からもう一度観てみる。
    「上記の事」から「伊勢と信濃」と「近江と美濃と甲斐」とにははっきりとした「路線差」が観える。
    「伊勢と信濃」は血縁関係を強化して同一路線を採った。
    故に、「桓武天皇と嵯峨天皇の青木氏の論争」では、上記の「芽淳王の論」から明らかに「桓武平氏側」に血縁関係があった事に成る。
    「青木氏側」からは「二代目の甥域」であった「桓武天皇の論説側」に有った事に成る。
    同じ出自元でありながら「嵯峨論説側」には無かった。

    然し、論じている様に「近江美濃甲斐」は「多くの皇子」を引き入れて「源氏化と姓化」したし、従って、この「源氏化と姓化」を否定した「桓武天皇の論説」との繋がりは「近江美濃甲斐」には観えて来ない。
    「源氏化と姓化」は「嵯峨天皇の論説」の側にあった事に成る。
    然し、此処で「嵯峨天皇の論説」は「姓化」を決して認めていない。
    寧ろ、「9つの縛り」で姓化を防ごうとした。

    とすると、「近江美濃甲斐」は「直近の勢力・世情」に迎合した所以である事は明らかである。

    「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」では無かった。

    確かにこれで「近江美濃甲斐」は「約250年近く」は生き延びられた。

    ところが「以仁王の乱」より「源平戦」が起こると、脆さが「近江美濃甲斐」に出た。

    この時、「桓武天皇の論説側」のこれで「伊勢と信濃」は「9つの縛り」を護り中立を採った事は理解が出来る。

    「以仁王の乱」の後、「近江」も「美濃」も「甲斐」も将又、「源氏」も滅びたが、この時、「伊勢」から出した「頼政の孫の助命嘆願」では「桓武天皇の論説側」に在った事が理解され受け入れられた。

    (注釈 結果は日向廻村に配流と成った。)

    「白壁王−妃高野新笠のルート」と「春日王−芽淳王の子のルート」
    「桓武天皇のルート」−「阿多倍と芽淳王の女のルート」−「桓武平氏のルート」

    以上の上記の“「芽淳王の繋がり」”を以て「日向廻村配流」の処置で「無理な嘆願」は聞き入れられた。

    (注釈 後に再び九州平氏と戦うが敗退して薩摩に宗綱の廻氏との末裔と共に家臣5名が逃げ延びた。
    「市来の浄土宗の寺」に辿り着き其処に「平氏の追討軍」が追い着いた。
    そこで、「伊勢青木氏の裔」である事を名乗る様に住職に勧められた。
    そして、「日向青木氏と大口青木氏」が発祥した。
    後に「黒田藩の傭兵」と成り功績を得て子孫を拡大させた。)

    筆者は何度も前段でも論じたが、ポイントは「伊勢と信濃の青木氏」が「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事と、上記の論説通りに「源氏との繋がり」が無かった事が大きく影響したと考えている。
    直前の「頼政の京綱や国友の策」があったにも関わらず平氏に聞き入れられたのである。

    これは「伊勢と信濃の青木氏」では「氏是」を破る初めての事で前代未聞の事であったが、「頼政の孫」を「伊勢(源京綱・四男妾子・多田)」と「信濃(四家の源国友・妾子・若狭)」を「青木氏」に入れて「源氏子孫」を遺そうとした。それが主目的であった筈である。

    それなのに「無理な嘆願」は聞き入れられた所以は、強く「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった所以と観られる。


    さて、ここで前段でも論じたが、次は「桓武天皇の論説側(平家側)」の面から論じるとする。
    ここで疑問なのは次の事である。
    この事を解かなければ前段までの論説は崩れる。

    前段まで論じているが、「桓武天皇の論説側(平家側)」の論説で検証する。

    そもそも、「桓武天皇の論説側(平家側)」では「京綱・国友」は矛盾した行為である。
    何故ならば、上記通りの系譜からも「平家譜論」である。
    なのに、「京綱・国友」は間違いの無い「源氏譜論」である。

    これは一体どういう事なのだ。
    当然に「青木氏の氏是」とも矛盾する。
    この「二つの矛盾」を押し通した事に成るのである。認めて仕舞った事に成る。

    当然に「二つの矛盾」を押し通すには、何かそれをしなければならない「絶体絶命の理由」があった筈である事は簡単に解る。
    「伊勢と信濃の青木氏」としては見逃す事は出来ない事由である。
    其処には、次の説があった。

    「伊勢の京綱説・国友説の解明」

    「桓武天皇の論説側(平家側)」にあった事にも関わらず、何故に同時期に「伊勢と信濃」は「源氏」を入れたかである。
    頑なに護ってきたこれは始祖からの「青木氏の氏是」である。

    (注釈 この”「共存共生共栄の氏族」”である事の為には「青木氏の氏是」として、
    ”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し 世に憚る事無かれ 何れにも一利無し”
    以上の意に通じ、結果として、”「「共存共生共栄の氏族」であれ”と宣言している事に成る。)

    明らかに「京綱説・国友説」はこの「源氏化」に繋がるような「矛盾する行為」である。
    何の得にもならない策であるし、そんなに「摂津源氏」とは近縁でも無い。
    寧ろ、「氏人郷士」に対して「裏切り」の「危険行為」である。

    さて、そこでその「伊勢の記録」で辿ると判る範囲では次の様に成る。

    先ず伊勢で判る事である。

    「京綱」を「四家の福家」に入れている事。
    そして、“血縁をさせていない”と云うか「嗣子」を遺していない事。
    嫁いだ「女(むすめ・京綱の母)」は「四家」には入れていない事。
    「女(むすめ)」の記録も無い事。
    「京綱」は「四家」の「元」からいた人物では無く「福家」に突然に入った事。
    そうすると、理屈では「福家」は空席であった事に成る。
    以上と成る。

    そもそもそんな事は無い筈である。
    どの位の年齢であったかは判らないが、“若かった”とする記録がある。
    年齢不詳である事で、恐らくは、「1〜2歳程度」と観られる。

    公にしていたかは判らないが、「摂津側の資料」では次の通りである。
    「源京綱・四男・妾子・多田」とする記録が遺されている。
    「妾子」であって「仲綱の子」の「四男」とする記録と「六男」とする記録がある。

    これは研究で解決出来た。
    「頼政」には「仲綱」を始めとして以下の通りである。
    「5人の実子、養子」が居た。
    「四家一族」から5人が入っている事。
    合わせて10人居た事に成る。
    この他に「妾子」と「義詞」の存在は確かにあったかの証拠は判らないが、当時の慣習からいたと考えられるので、10人は超えていたと考えられる。

    (注釈 当時の慣習として四家宗家には「実子、養子」以外に一族から多くの継嗣を引き取る仕来りがあった。
    丁度、「女系の青木氏」の「女(むすめ)」と同じで「主家」で養育する仕来りがあった。
    宗家の摂津源氏だけは「青木氏」と同じ「四家制度の縛り」を伝統として守っていた。)

    ところが「頼政の子」の「仲綱の子」には「摂津源氏の四家」の「親族一族」から「三人の養子」を態々入れている事である。

    つまり、先ず「宗綱、有綱、広綱」の「3正子(配流後死亡)」が居た。
    それに「3養子(解除)と3妾子」が加わっている。
    以上の計9人であった事。

    従って、仲綱の子の「妾子の京綱」は男では「四男」、年齢的には「六男」と成る事。
    問題の「嗣子」では「七男」と成る事。
    「3妾子」の内の「2妾子・(伊豆か)」が存在しているが詳細は不詳である事。
    これには更に「計算外の義嗣(外孫子・不詳)」が有った事

    最終的には、仲綱の子には「12人の男子」が居た事。
    (「頼政の子」を入れると22人以上いた事に成る。)
    乱後は「嗣子」が「京綱」と成っている事

    以上の事も判っている。
    以上に成る。

    そこで、「青木氏の氏是」として前段でも論じたが「四家制度を敷く摂津源氏」でさえも「源氏系」は入れない事に成っている。
    前段でも論じたが、源氏は世情の人気の的であった。
    「近江や美濃や甲斐」の様に人気中の源氏化をすれば、”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し 世に憚る事無かれ 何れにも一利無し”に反して媚びた事に成る。

    「律宗族の白旗笹竜胆紋の密教原理主義」を唱えながら明らかにこれは大きな「氏是違反」である。

    この解く鍵はこれにも関わらず「京綱を入れた事」として、どの様な経緯が考えられるかを検証する。

    1 圧力に押された。

    明らかに成っている事は、「以仁王の乱」をリードした「頼政」は初戦で先ず敗退するとして“「摂津源氏一族」を絶やさない事”の為に同じ「賜姓族朝臣族(四家制度)」であるとして「青木氏」に入れた。

    上記で論じた様に、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で「氏族」で既に確立している「伊勢と信濃」である。
    この段階では、この「京綱と国友の事」は、「伊勢と信濃」も「摂津源氏の四家」も「桓武平氏に敵対する事」は充分に解っていた筈である。

    とすると、「伊勢と信濃の青木氏」はその「説得」に“無理にでも応じたと云う事”であろうか。
    そうすると“応じた理由は何なのか”である。

    「前例の経緯」を観れば「伊勢と信濃の青木氏」には“利益的なもの”は何も無い筈である。
    寧ろ、「不利益」であろう。

    そこで唯一つ考えられる事は、次の事に成るだろう。

    それは「妥協案」として、「青木氏の女系の妻嫁制度」に従って「摂津源氏頼光の四家」に「女(むすめ)」を嫁家させた事が考えられる。

    そこで検証としては、「清和源氏の頼光四家」は「青木氏の縛りの四掟」に入るかであるが、原則的には入らない。
    前段でも論じた様にこの場合、「嵯峨天皇」が定めた「9つの縛り」には「四掟の二つ」は適合しない。
    それを強引に嫁家させたと考える事が出来る。(強引は何なのか)

    それ故に、先ずは「女(むすめ)」を「記録」の載らないで「伝統」の関わらない「妾」として「伊勢と信濃の青木氏」は「嫁家の形式」を執ったと考えられる。

    「伊勢」の場合は、「乱の直前」にその嫁家した“「女(むすめ)」とその「子供(京綱)」と共に「伊勢」に戻させた”と考えられる。
    それがこの「京綱の福家入りの狙い策」であったと観ている。

    「信濃」は「国友の年齢」が記録から高かった事が判っている。
    「信濃」も伊勢と同じ伝統を敷いているので同じような扱いと成ったと考えられる。

    ではその「伊勢」の「女(むすめ)」は誰なのかである。

    この「女(むすめ)の解明」に付いては調査したが判らなかった。
    「女(むすめ)」は福家で養育するので、「執事の差配」で判るが室町期に消失している。

    判らなかったと云うよりは、この「平安末期(1176年〜1178年)」までの間に「後家」に成って、又は「尼僧」に成っている事に少なくとも成る。
    そして、「俗世」から「出家している事」であり、「俗名や履歴」を遺さないのが「仕来り」であるので、判らないのである。

    時代的には「神明社の巫女・比丘尼」では無い筈で、且つ「多気の館」の「十二司女」でも無かった筈である。

    問題はこの「後家の扱い」にあったと成る。

    つまり、「伊勢(信濃も含む)」がどの様に扱うのかという事である。
    「その場の状況判断性」が大きく左右したと観ている。
    この「始末」を間違えば「大変な事に成る事」を知っての事であって、それは「頼政の思惑」の本音であろう。
    最も裁量策はこの段階では「後家」だから「比丘尼の尼僧」としたかである。

    前段でも論じている様に、「単純な事」であって「後家」として戻ったとすれば、「青木氏の嫁家制度」の「仕来り」にて「後家」として受け入れて、「多気の館」か「分寺」を含めた「三つの菩提寺の尼僧」に先ず成ったと観られる。

    そうすると、その「幼児の子供(京綱)」は「四家」では無く「福家」に入れたと成る。
    現実に「福家」であった。
    “「四家」では無く「福家」であったと云う事”は「福家の強引さで行った事」があった事に成るだろう。

    そもそも、これは「共生共存共栄の概念」からして「氏族を左右する事」で「四家や家人や氏人の納得」を充分に得られていたかは甚だ疑問で経緯から得られ難い事であった。

    何度も云うが、「商いの自由概念」+「氏の原理主義の概念」=「共生共存共栄の概念」で「氏族」で確立している「伊勢と信濃」である。先ず無い。

    それ故に、そこで“「福家」として充分に配慮して処置する様に”との「条件」を「氏人」から突きつけられたのではないか。
    「仕来り通り」の“単純な事では駄目だよ”という事である。

    それが、先ず嫁ぐ際は実記録として遺さない様に「女(むすめ)」を「妾」としての「嫁家の形式」で嫁がせ、戻す際は“「後家」として、その「子供(京綱)」と共に密かに「伊勢」に戻させる”の条件であったのであろう。
    そして、戻した後は「後家の扱い」で、その「措置」は判らない様に「行動記録」を消す。
    以上が条件であった筈であろう。
    私ならそうする。
    これでは「四家や家人や氏人」を何とか納得させられるだろう。
    何はともあれ先決は“「四家や家人や氏人」の納得”であろう。
    これが「絶対条件」であった筈である。

    実は、“戻した後の「後家の扱い」のその「措置」”では、下記で論じるが、“ある出来事”が「信濃」にも起こっているのである。
    つまり、「伊勢と信濃」はこの措置で連動していたと観ている。

    「信濃」では少ない資料から、それは何と此処に“「伊豆」”が出て来たのであった。(記録下記)

    そうすると、その前に“その時期が何時であったか”と云う疑問を解決する必要がある。

    先ず、「四家や家人や氏人」の「反対する根拠」は「氏是」に反し「四掟」にあった筈である。
    この「策の根拠」はこれをクリヤーする事に有って、それには「同宗と同位」をクリヤーしなければならない事に成った。

    「9つの縛り」について完全に護っていなかった「四家の頼政」は「清盛」に媚び入り「1178年」に「正三位」に先ず成った。

    (注釈 従三位・後に正の制度は無く成った。天皇に拝聴出来る立場)

    これで「四掟」の「格式の位」では先ず一つクリヤーした事に成る。
    後は「賜姓源氏」は特異な「八幡神社・八幡菩薩」の”「二神仏併用」”としている為に「青木氏の大日如来」と「神明社」では「同宗」とは成らない。

    (注釈 「源仲綱」は「1179年」に「従六位」に何とか成って位階を持った。高位の官僚族の位階である。
    「公家」は従四位以上である。)

    (注釈 「浄土宗」でも「主流派(四派 14流)」に分かれていたが、最も「鎮西派」の一つの「原理主義」の「最小の白旗組(古代密教浄土の如来概念  原理主義 現在の浄土宗の祖)」と称する派に所属する「青木氏」であった。
    「律宗」を基本概念とする「律宗族」と云う。
    「摂津清和源氏四家」は「浄土宗進歩派の西山派」の「八幡菩薩・「二神仏併用」」の「主流に所属する源氏」であった。)

    宗派では「同宗」では無かったし、記録から中には「天台宗」もあった。

    この「原理主義」の「律宗の白旗組」は、「青木氏等」の「古代密教浄土如来の宗」で「密教浄土を概念」とする「真人族系」が帰依する「原理主義の概念」の最小派であった。

    (注釈 そもそも念の為に記載して置く。
    「源平合戦」で「源氏」が「白旗」を掲げたのは、この「青木氏等」の「白旗派」の印を真似て「戦いの権威」を付けたとされ、定説と成っているが現実には異なっている。
    そもそも「旗印」を持たない「浄土宗進歩派の西山派」であるし、「律宗」ではない。矛盾している。
    奈良期からの「当時の慣習」として「旗印」と「白印」を持てる事は「皇別派の真人族の証の仕来り」であった。
    「真人族」では無い「朝臣族の源氏族」は「9つの縛り」を護らなかった事もあり朝廷より序されていない。故に本来は無い。完全な搾取である。
    更には、序でに前段でも論じたが、「源氏の総紋」を「笹竜胆紋としているが、「源氏」にそもそも、この「律宗の神紋の笹竜胆紋」を「使える立場」には無く、「神紋族」ではない。
    朝廷より「賜紋の記録」は無い。
    況して姓化しているし、「9つの縛り」は護れていない事から「神紋」は使えない仕来りである。
    「9つの縛り」を護らなかった「姓化」している族にはそもそも朝廷が認める「神紋」は使えない。
    「神明社の神紋の象徴」である「笹竜胆紋」は「八幡神社」では使えないのである。
    且つ、「八幡の神社」は格式外であって「笹竜胆紋」は使えないのである。
    そもそも、「嵯峨期の詔勅」で「青木氏の慣習仕来り掟」の「一切の使用」を禁じることが明記している。
    これは「桓武天皇と嵯峨天皇の論戦」の末の「結末策」であった。
    要するに律宗族で無い限りは「白旗も笹竜胆」も使えないのである。
    仮に無理に使えるとした場合は、「青木氏の出自元尊属」であった「嵯峨源氏」と「淳和源氏」と「仁明源氏」の三源氏までであろう。
    後は「青木氏との直系尊属の血縁性」は無く成っている。
    この「三源氏」は結局は「禁令や皇族朝臣としての縛り」に絶えられなかったが、「摂津清和源氏」の様に完全に「朝廷の縛り」を無視はしていない。
    一応の初期では「四家」と「無姓化」と「四掟」は護っていた。
    ところが「清和源氏が使える理由」があるのだ。
    それは、「清和源氏」の「賜姓」を無理に受けた「経基−二代目の満仲(摂津)」が、この嵯峨の山奥にひっそりと土豪化して住んでいた「上記末裔の三源氏・「嵯峨源氏」と「淳和源氏」と「仁明源氏」を集めて「武力集団」を形成し「同族血縁」をした「確実な記録」がある。
    三代目の「頼光の摂津源氏」がこの「武力集団」を引き継いだ。
    従って、「完全縛り」から外れるが使えるとした理屈と成り得るだろう。
    然し、「白旗」は明らかに同宗でないので無理であろう。
    これも、理屈を捏ねれば成り立つがそもそも「時系列」が異なる。)

    (注釈 それは、室町期初期に「浄土宗の宗派の争い」を無くす為に「室町幕府」は、この「弱小の原理主義の白旗派」を「律宗の浄土宗の本貫」として決定したのである。
    以後、統一されたが「時系列」は違っているが、「傍系族と称する族」は「白旗」も「源氏」のものとし搾取した。
    公にされている論説にはここを黙認して「源氏説論」は、「象徴紋」であり「神紋」の「笹竜胆紋」としている。
    敢えて、「白旗に関わった事」なので、何度も論じているが、「縛り」と「四掟」とする本論には大きく関わるので論じて置く。
    公論説は必ずしも正しいという事ではない。)

    さて、これで「同位」の「四掟」がある程度が叶ったとして、これを結果としては押し切った事に成るだろう。
    「伊勢と信濃の青木氏側」は“「源氏化では無い」”として妥協したと云う事に成る。
    1178年頃から「以仁王の策 (1178年) 乱(1180年〜1182年)」は進んでいたとされているので、少なくとも直前に「頼政の説得」を受けて「1176年〜1178年頃」に「頼政子孫残存策」として「青木氏側」から嫁した事に伊勢では成る。但し、誰に嫁したかは解っていない。
    「信濃」は女を嫁家せずに「国友」を入れた事に成る。
    従って、伊勢の場合は「妾子の京綱」は最低でも「1歳か3歳」に成っていた事に成る。

    そもそも「妾子」は「青木氏」の方が「官位格式位階」で何れもにも上位であっておかしい事から「当初からの策」としては「裏向きな嫁ぎ」であったと観られる。

    つまりは「四掟を護る原理主義」の「伊勢青木氏側」では「影の策」で逃げたと考えられる。
    「信濃」は「伊豆」をつかった別の策を講じた。
    この「低年齢」での「頼政側」から観れば「青木氏への子孫残存策」と成るが、「伊勢青木氏側」から観れば、これで“「桓武平家」を納得させられる”と考えた事に成る。
    つまり、“「源氏化・姓化」では無い”とする姿勢で表向きには見せた事に成る。
    上記の「桓武平氏と青木氏との血縁の関わり」は、検証の通りで明らかに“「桓武平氏側」にあった”のであるから、「京綱の年齢」からも納得は得られた事に成るだろう。
    現実に、この「2年後」には「以仁王の乱の敗戦」に依って「頼政の孫」の「宗綱・有綱等」の「助命嘆願」(廻村配流)を聞き入れられているでは無いか。



    > 「青木氏の伝統 52」−「青木氏の歴史観−25」に続く。


      [No.372] Re:「青木氏の伝統 51−1」−「青木氏の歴史観−24−1」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/07/18(Thu) 14:46:08  

    > 「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」の末尾。


    > (注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
    > 結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
    > 従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
    > この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
    > 「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
    > 故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
    > 「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
    > 故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
    > そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
    > この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
    > 要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
    > 然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
    > それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
    > 然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)
    >
    > (注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
    > そして11流も発祥している。
    > これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
    > 故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
    > この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
    > もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
    > 「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


    「青木氏の伝統 51-1」−「青木氏の歴史観−24−1」

    さて、前段の注釈を前提として、「真人族48氏」を基に論じてきた。
    前段でも論じた通り果たして、“これが正しいのか”と云う疑問があるのだ。
    上記した「真人族の数の疑問」である。

    そこで問題と成るのは「真人族の定義」である。
    当時は「大化改新からの定義」が世情では乱れていた。
    その為に最終は「嵯峨天皇」はこの定義を明確にして「身分格式」をはっきりさせようとした。
    その最初が「孝謙天皇期」であるが、この「孝謙天皇期」と云うよりは「藤原氏の孫」の「淳仁天皇期の事」である。
    天皇家に男系継承者が絶えた事を見計らって藤原氏の「外孫王」を「天皇」に仕立てて「政権の奪取」を図った。
    そうすれば「天皇家」は「藤原氏」と成ると見込んだのである。
    その為にこの「定義」を「藤原氏」に有利に成る様に「姓氏の範囲」を統制する「族系図」を作成しようとしたのである。

    その策は成功したかの様に観えた。
    然し、女性の「孝謙上皇」はこれに気づき「淳仁天皇」を廃帝にし淡路島に流し、再び「孝謙上皇」は重祚して「称徳天皇」として即位し実権を握った。
    この時の「族系図の編者」等は゜政争の恐ろしさ」を恐れてこの「系図の作成」に途中から放棄して「族系図」そのものを不明にした。

    この「称徳天皇」(「孝謙天皇」)は今後の「藤原氏の策」に警戒して、この「乱れた定義」を「本系の天智天皇系」に戻そうとした。
    この事で定義は安定すると見込んだのである。
    ところが、「天武系」は聖武期には男系は断絶していたので、更に一代遡り「敏達天皇春日王系真人四世族」に戻せば本流に戻ると見込んだ。
    ところがこの「天智系」は「二人系列・川島皇子系と施基皇子」を遺す事と成っていた。
    その一つの「伊勢の施基皇子・716年9月没」も既に賜姓臣下して下俗していた。
    ところが「近江の川島皇子・691年没」には「天智系」でありながらも「天武系」に近づき過ぎ、又、「天武崩御後の政争」で「密告者の汚名」と「人格的批判」があり、「称徳天皇770年没」は堅い意思から避けたとされる。
    それは「施基皇子の中立性の生き方」に賛同していたと観られている。

    当に、この「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は前段から論じている様に「人格的評価」も高く「青木氏の生き方(氏是)」に一致している。
    「孝謙天皇・称徳天皇764即位」では、下俗し「商い」もしていたにも関わらず「皇子の末裔・二世族」に「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は拘り「白羽の矢・765年頃」を放ったのである。
    既に「施基皇子没後の48〜50年後の事」である。二世三世時代の事であった。
    当時としては、「二世代の寿命期間」でもあり「下俗」して相当後の「二世代か三世代」に入っていた事になる。
    もっと云えば「四世代目」が生まれていた事が判っている。
    既に「商い」も進んでいた時期でもあった。
    この「白羽の矢」はこの「二世代目」に当てたのである。

    この時の事は前段でも論じている。
    当然に、この時、「天武系の自らの血筋」を「天智系に入れると云う策」を執ったと云う事である。
    それわより確実にするには「姉の井上内親王・717年〜775年」を「施基皇子の二世末裔(青木氏・白壁王・実質の四男)」の「妃・745年」にする事であった。
    但し、この「井上内親王」は727年〜744年の「17年間」は「伊勢神宮の斎王」であった。
    その「伊勢神宮斎王」を退下させて帰京させての「血縁策」であった。

    兎も角も、「施基皇子没後」の前段でも論じている様に「女系妻嫁制度等の体制・四家制度」を次々と強化している「最中の事」であった。
    社会には「藤原勢力の意」を汲んで、この下俗した「施基皇子の末裔・伊勢青木氏」に対しての批判が高まるのを恐れたのである。
    「社会」では「最早50年後の氏」と云うのは「民間人の何物」でも無かったし、「高位族の禁じ手」の「商い」もしている当に「民間人」に観えていた筈である。
    この策は明らかに「下俗」と「商い」に対する「世情批判」を躱す目的があった。
    兎も角も、これで「政争」を抑え込もうとしたのである。

    「白壁王・光仁天皇」も、この「藤原氏の力の低下」を狙うと当時に、依然としてその根幹と成っている「族の定義の安定」が定まらず政争が続いていた。
    そして、矢張り、「族系図」を定めて「定義の確定」を施そうとした。
    この時は、その「偏纂の目的」は「淳仁期」、つまり「藤原氏系」の「外孫王」を「正統化する目的」に比べてやや異なっていた。

    今度は「下俗していた50年後」の「施基皇子族系」を天皇家として「正統化する目的」で纏められようとしていた。
    然し、又、この「族系図」は「編者等の反発」により矢張り失敗するのである。

    この事から観ると「世情」は「青木氏」に対して完全には肯定的ではなかった事に成る。
    正統な「井上内親王・717年〜775年」が「青木氏」に入ったとしても充分に認めていなかった事に成る。

    その主因は次の事が考えられる。

    1 「貴族」が「商い」をすると云う「禁じ手」が大きく働いていたのでは無いかと考えられる。
    2 「50年〜54年と云う期間」が「施基皇子の記憶」に戻せなかった事も考えられる。
    3 「世情の感覚」は「施基皇子」では無く「伊勢郷氏の青木氏と云う感覚」の方が強く働いた事もあり得る。
    4 「族系図」の「最高位が青木氏である事」で「定義の確定」は成らなかったのかも知れない。

    「1〜4の事」を勘案すると、それ故に、「追尊の春日宮天皇」の策を歴史的に始めて打ち出したのであろう。

    この「追尊」に付いて幾つかの説があるので触れて置く。
    その内の「主な二つ」に付いてである。
    抑々、「追尊」とは“亡父に対して贈る尊の号”であると定義されていて利用されていた。

    (注釈 念の為に「光仁期以前の過去(淳仁天皇期)」には「一人の追尊天皇の事例(父の舎人親王)」があり、桓武期には実弟の「相良親王」があるだけである。
    平安期以降は「准・・」が着けられて「追尊である事」を明確にする「天皇家の仕来り」とした。)

    「施基皇子没後716年」に「追尊」と成っている説もあるが、この説では「白壁王・709年〜775年」は54年後に「天皇770年即位・61歳」に成っていて論理的に「追尊」に成る事は無い。

    仮に「追尊期」が「716年没」とすると、この期間は「元明天皇・715年10月〜724年3月期」の以外には無いのである。
    「元明天皇」との間には「追尊の定義」に関わる事は何も無く、当に「追尊する程の高いもの」は無くそもそも「無縁」であるし、既に「臣下している者」でもある。
    定義の「追尊の権利を持つ天皇」としては「光仁天皇」だけであり「父を追尊した説」が正しい。

    恐らくは、この「716年追尊説」は「称徳天皇・764即位」時の「白羽の矢」の「根拠付」の「後付け説」である事が明白である。
    この前に「注釈の通り」の「追尊の舎人親王の事(正式系図には無い)」があってこれを「後付け」で利用したと考えられる。
    この「後付け説」で以て「伊勢系列」に繋がる様にした「江戸初期の搾取偏纂の可能性」が高く、大体予想が着く。

    「追尊」から戻して、「世の族系の定義」を質す為に「族系図偏纂」に取り組んだ「三度目」は「嵯峨天皇」であるが、前段でも論じた通りである。
    「族系図」は「編者等の反発」も同じようにあったが、その内容に対して周囲が反発をした。
    今度はこの「族系図」に依って「身分格式が定まる事」への反発であった。
    然し、「嵯峨天皇」は一策を講じて強引に押し通した。

    この為に過去の二度とは違う処で造り始めていたのが、それが“「族系の縛り策」”であった。
    この「族系の縛り策」でも、“「皇位継承」に問題を興すのではないか”と云う「光仁期」と同様に「疑念」が出た。
    これが「政争の元」と成ったのである。
    この様に「族系図」の実現の為に三度挑戦された。
    これが「嵯峨期」の最終の「新撰姓氏禄」の基になるものであった。

    つまり、それが「皇位継承の定義」が原因であった。
    当時の政権は「孝謙天皇期」までは、“男系継承者が絶えた”とする主因と観ていたのは「皇位継承の定義」であって、その基の議論と成っていた。
    何方かと云うと「族系図」では無く、引き継がれてきた「大化期の改新の定義」に在ったと観ていたのである。

    それを検証して観る。

    そこで、先ず「皇位継承の成す為の数」としては、そもそも「内蔵の財力」が問題であった。
    「皇位継承族者」を「存在させる範囲」として、仮に「その財力」で出来るとしても「半分程度(家族 100人)」の「20氏の真人姓諡号」の程度の範囲であったろう。

    その為に、「新撰姓氏禄」の基で「9つの縛り」を掛けた。
    現実に最終的に「11流の賜姓源氏」も結局は、この「9つの縛り」に耐えられず「姓」に成ったそもそもの族であろう。
    依って、「近江佐々木氏の研究記録」も正しいと観ている。

    故に、当時としては、「編集」に当たって「三代天皇」の「編者等」そのものから「その矛盾(9つ縛り)」を突かれた事も「反対の一つ」であったのであろう。
    つまり、「数と質の範囲」に「天皇家の誇張」の問題が興ったのである。
    「純仁期の記録」では、世間だけでは無く「表向きの理由」として「編集者に選ばれた者」等から、“これでは編集しても意味が無い”と訴えたとする記録が遺されている。

    (注釈 故に、「三回」ともに「編者」に指名されながら「編集途中」の侭で放置された等の事が起こった。
    この「三回の放棄」は上記の通りに夫々理由が多少異なっていた。)

    これは、つまり「嵯峨源氏」が生まれる前から「族系」の「縛り等に対する矛盾」が潜んでいた事に成る。
    「嵯峨天皇」はこの為にもこの「縛りをより強化した事」と成ったと観られる。
    それが遂には「詔勅の結果」とも成ったと観られる。

    (注釈 これ等が記されているこの「類聚三代格」にしても「新撰姓氏禄」にしても、この後に弄られた書である事に留意する必要がある。
    つまり、「公表されている記録」が全て史実とは限らないからで、その当時の政治環境に大きく忖度されている事が多いのである。)

    筆者は「淳仁天皇、光仁天皇、嵯峨天皇」、取り分け、「嵯峨天皇」はこの「皇子皇女の数と質等の矛盾」に対して「皇族の反発」や「世間の反発」等に忖度して「数や質の格式身分」を合わしたのではないかと観ている。

    つまり、そもそもの共通点は「天皇家の血縁範囲(真人族の範囲)」を「9つの縛り」で改めなくては「数と質」は変わらず「継承は不可能」であるとしているのである。
    「編者の理由」は論理的で現実的であったと考えられる。

    そこでこれを検証して観る。

    「文徳系13」+「光孝系40」=「皇族15」
    「嵯峨系9」+「淳和系9」+「仁明系9」=「皇族27」

    以上から「842年没の嵯峨天皇」の間までには「正式な数」として“「42人の皇族」”が生まれた事に成る。

    そうすると「新撰姓氏禄」の(a−1)の「真人族48」にはこの「皇族42」が少なくとも含まれている事に成る。
    然し、この「5人の天皇」には公式に全て“「源氏族」”を「皇子皇女」に関わらず「賜姓」か「無賜姓」かで「朝臣の姓」で臣下させている。
    従って、「(a−1)の真人族」は、計算上ではこの段階で(48−42)=「6人」だけと成っていた事に成る。

    「光仁系13」+「桓武系22」+「平城系5」=「皇族40」
    以上と成る。

    「施基皇子の後」にでも「真人族の皇子皇女の数」は「82(42+40)」であったと史実として記されている。
    然し、「新撰姓氏禄」は「真人族48氏」なのである。

    「大化改新」で「施基皇子の前」は「第四世族内の第四位」までを「真人族の皇子皇女」としての「縛り」を掛けていた。それ以外の「第六世族」までは「王」、順次起こる「第七世族」は「王位」は無く成り、無位無冠で「坂東(坂東八平氏・ひら族)」に配置される。
    従って、この「仕来り」から「天智天皇」からの「真人族」で「子孫」を遺していたのは次の通りである。

    「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」

    但し、「天智天皇の皇子」は「4人」であるが、2人は没で「施基皇子と川島皇子」は「賜姓臣下族」として「真人族」から外れた。

    3回の「新撰姓氏禄の編集」に選ばれた編者から観れば、要するに“これは明らかに多い”と観たと考えられ「継承者」は絶えて“「質」も低下した”と判断していたと観たのであろう。

    従って、結局は、この「真人族48」の中には上記の「5人」が含まれている事に成る。
    然し、「文武」で絶え「女系」が続き、又、子供の「聖武天皇(文武の子)」から「皇子の真人族」は「女系」と成り絶えているので、継承のカウントはこの期では0である。

    故に、ここでも検証の結果は、(82−48)=34(皇子皇女)が少なくとも「真人族の受け入れ口」であった「五家五流」に入っている事に成る。

    この「34の内」、「青木氏の直系尊属」であった(「文徳系」+「光孝系」)+「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」)は、「賜姓の有無」は別として何れも「賜姓5源氏族」と成ってはいる。
    つまり、「(34−5)=29」が「真人族」であった事に成る。

    然し、これも「(a−2)の清和源氏」に組み込まれた「嵯峨源氏(縛りから外れた)」を除いて子孫を遺していない。

    (注釈 殆どは傍系支流か搾取偏纂である。)

    又、この「賜姓5源氏族」は「縛り」から外れているために「真人族」でもない。
    もっと云えば、「縛り」から外れていて「格式」は低く成り、本来は唯の「武力集団」に過ぎず「朝臣族」の定義の中にでもない。

    ここでも、従って、殆どはこの「真人皇女族の34」であって、これが「五家五流」に入っている事に成る。
    「青木氏と近江佐々木氏の資料論文(皇子17皇子15の説)」は正しくその通りに検証されている。

    念の為に「青木氏の歴史観」として、「平安期の応仁の乱(1467−1477)」の前までには「近江、美濃、甲斐」は滅亡しているので、ここでも「真人皇女族の最大で34(最低で28)」は「伊勢と信濃」に遺ったと云う事に成るのだ。

    故に、「新撰姓氏禄」の「(a−1)真人族48」は、計算が合わず少なくともこの時は上記の「真人族 6」以上には無かった筈である。

    そこで仮にあったとすれば、理屈上は何も「孝謙天皇の白羽の矢」は、「臣下族、朝臣族」に成って仕舞っている「施基皇子の子孫」に、飛んで来なかった事に成る。
    その「48」もあるのであれば、「真人族48」の所に「白羽の矢」を飛ばす事にすればよかった事に成り、これは矛盾する。

    又、伊勢に「白羽の矢・770年」を向ける前に、この時期は「川島皇子族(近江佐々木氏)・657年〜691年」とは、「春日王皇子四世族」と「安貴王の孫族」を共通とするほどの「完全な同族」であった。
    だとすると、こちらに「白羽の矢」を向けても良かった筈である。
    これも矛盾する。

    (注釈 他に「川島皇子族(近江佐々木氏)」には、追尊王の「名張王女や尾張王女」等も伊勢から嫁している。)

    抑々、この理屈からすれば「真人族48」も有るのなら「聖武天皇」の後の女性の「孝謙天皇」が即位しなかった事にも成るだろう。
    つまり、この「論理矛盾している「(a−1)真人族48」はおかしいのである。
    これが「3回ともの編者の反抗」と成った所以の一つであろう。

    他の「三史書」も同様であろうし、要するにこれを認めた天皇家に対する「忖度書」である事に成る。

    (注釈 但し、“「第二姓族」”は、これらの「諡号の規則(格式)」に一切関わりの無い「身分秩序の単位」の単なる「名」として室町期中期に発祥したものである。
    この「応仁の乱」を契機に「(a−1)(a−2)の族・第一の姓」は衰退し、「第二姓族」が生まれるきっかけと成った。
    それが「安芸地方域」に発祥した「渡来系海部氏」が記録に遺る最初の「第二姓族」であるとされる。

    (注釈 逆にこれが契機に「末裔子孫」を引き出し「美濃額田青木氏」等を再興させた。)

    では、この様に“明白な真人族の無い史実”もありながら、又、「編者の反発」も受けながらも、何故、「(a−1)真人族48」と成って仕舞っていたのであろうか。

    これも「疑問」であるので検証して観る。

    基本は、次の通りである。
    一つは、「桓武天皇と嵯峨天皇の青木氏の扱い論争」にベースがあった。
    二つは、「第1回目編集」は主に「質」に対する反発が興った。
    三つは、「第2回目編集」は主に「質と数」に対する反発が興った。
    四つは、「第3回目編集」は主に「数」に対する反発が興った。
    五つは、「910の族柄と格式が確定してしまう反発が興った。

    「第1回目編集(淳仁天皇)」では、次の通りである。
    「絶えた朝臣族」を補う方法を「藤原氏の外孫王」に基本軸を求めて「真人族」を構築しようとした。
    それには「数と質」には問題が無かった。
    然し、ルート外での「藤原王朝」が出来る事に成る。
    「指名された編者等」はこれを放置し、遂には問題を噴出させると云う行為(政争)に出た。
    ところがこの議論に気づいた「孝謙天皇(上皇)」は、「外孫王の淳仁天皇」を「淡路廃帝」とした。
    そして、「政争の後」に自らが「称徳天皇764即位」と成って実施実権を再び握り、上記の「白羽の矢」で事は治まった。

    「第2回目編集(光仁天皇)」では、「第1回目編集」で纏まらなかった事を“「青木氏の追尊王」”を巻き込んだ「光仁天皇族・50年後」で「真人族」を構築しようとした。
    「白羽の矢」で急に「光仁天皇」と成った為に周囲を固めるその「真人族」は無かった。
    既に、「臣下族」で一族は治まっていた。

    (注釈 この時、「皇親族」として「紙屋院の令外官」の「商い」に力を注いでいた。
    「出自元」と成った「伊勢青木氏の四世族」までは何とか政争から逃げようとした。
    「白壁王等」も必死に成って「闇愚」を装い「白羽の矢」から、その後の「追尊扱い」からも逃げようとした事が判っている。
    「白壁王」は「王位」と成っているが、賜姓を受け臣下した「施基皇子の子」は「大化期の規則」でそもそも「王位」では無い。
    それを「四家全体」の「三世族」までもが追尊で「王位」と成って仕舞ったのである。)

    そこで、上記注釈の通りに、この「出自元(青木氏)」を追尊し再び格上げして、「大化改新の規則」に従い「第四世族」の一部まで無理に「王位」を与えて「真人族」を構築しようとしたのである。

    「皇女」として扱われたのは正式には4人/5人である。
    正式には「妾子」を入れると「9人」であった。
    然し、実質は「妾子」を入れて「二世族9人」と「三世族まで13人」は「追尊族」、つまり、これらは「青木氏の女(むすめ)」であり、「皇族」では決してない。

    この様に「彼女等」に依って「真人族」を強引に構築したが、これを権威づける為に「孝謙天皇」の姉の「井上内親王」を組み込んだ。
    この「井上内親王」の反発(光仁天皇の后)・聖武天皇の子」を受けて「青木氏・実家」に「17人」は殆ど密かに保護を受けて逃げ込んできたとある。
    つまり、この様に「内示の真人族」の内容に「数と質」に問題が興って反発が興った。
    この為に編者は編集をサボタージュして放置した。

    「第3回目編集(嵯峨天皇)」では、「第1回目編集」と「第2回目編集」で纏まらなかった。
    この事から、「光仁期から仁明期」と「嵯峨天皇の目(光仁天皇の孫・施基皇子の曾孫 生存中であった)」の届く「文徳と光孝系」までを組み込んで、要するに「嵯峨一族」を以て「真人族48」とした事に成る。
    この事に「編者の抵抗」を受けたが強引に「縛りの策」の一つとして発行した。

    この時、「祖父の光仁期」では「青木氏」を組み入れたのに、「嵯峨期」では入れなかった。
    この所以は上記の「基本の論争」にあったからである。
    つまり、この時、「嵯峨天皇」は「政治路線の事」で「父兄」との間で激しい政争を起こしていた。

    それが次の事であった。
    「桓武論説(平城天皇派)」と「嵯峨論説」であった。
    結局、「薬子の変(現在は薬子は間違いと訂正)」を起こした。

    「桓武論説」で「真人族」を構築すれば「青木氏」がベースに成る事から、上記の検証から「真人族48氏」は成立していた事は確実である。
    「五家五流青木氏(天智期からの皇子皇女族の集約系)」で「真人族(敏達天皇第四世族春日皇子系一門)」は確実に確立する。
    「孝謙天皇の白羽の矢」も「天智系春日皇子系真人族」の「四世族」で繋がり「大化期の規則」にも従う事に成り、何の問題も無く成る。

    (注釈 「四掟一門の近江佐々木氏」も含む。 要するに「青木氏族」で構築する考え方であった。)

    然し、「嵯峨天皇」は我節を曲げずこの論説を執らなかったのである。
    「幸い血筋(嵯峨天皇系)」としては、その後は「青木氏外の文徳と光孝」で「天皇家」は「男系」で繋がった事になった。
    これにより、「青木氏族等の反発」を受けながらもこの議論は消えた。

    つまり、「桓武論説と嵯峨論説の争い」は消え、「新撰姓氏禄の論争」も消えて治まったかに見えたのである。
    この時を境に、更に「氏族としての制度改革」を進め「青木氏族(伊勢と信濃)」も上記に論じている様に「女系」で二度と「白羽の矢」を受けない様に「天皇家との乖離策」で一線を敷いたのである。

    (注釈 「青木氏」から云えば、つまり「血縁的」に云えば「光孝系」であるが、その前の「女系的」に「仁明天皇」で直系的な尊属は終わっている。
    「女系」に依らずとも「男系の天皇家との血筋」は切れた事に成る。
    「青木氏(伊勢と信濃)」は、この時、既に「女系」に切り替えているので、既に論外と成っている。
    「追尊の影響」を受けた「信濃青木氏」も「女系」を採りながらこれで乖離は可能に成った。
    これも「商い」を含む「同じ路線を採る事」で「伊勢と信濃の結びつき」が更に強く成った原因である。)

    「筆者」も「近江佐々木氏の研究記録」も、“「桓武天皇論説」の手前で、「論争の集結」を狙って「嵯峨天皇」は「折衷案」として最悪の場合は、「苦し紛れの真人族48(実質6)」で逃げようとした“と観ているのである。
    故に「矛盾」が出るのである。
    然し、「伊勢と信濃の青木氏族」では期待していなかった。
    「近江、美濃、甲斐」は「9つの縛り」を護らないのに「源氏化」で「天皇家」に近づこうとしたのである。
    つまり、「伊勢と信濃」は「女系」で「天皇家」から絶対的に離れて行き魅力は無かったのである。
    彼等の「三氏の青木氏」は、“「氏の権威と象徴の力」を獲得する為に「源氏化」で近づこうとした”と云えるのである。
    然し、「三氏の青木氏」の実体は「9つの縛り」から離れていたのである。
    「嵯峨天皇」が定めた「皇族系」では皮肉にもなく成っていたのである。

    これらは上記の検証の通りで証明できるのである。

    そこで、そもそも「桓武天皇論説(兼平城天皇説)」とはどの様なものであったのかである。
    それは次の通りである。

    始祖の「施基皇子」は、「没716年」でその「二世族の子」は「女7人 男9人」を遺した。
    「白壁王」を除き先ずは「四家」を形成し「四掟」を設けた。
    これが「氏族」に統一した基本概念の「四六の概念の設置」である。

    前段でも論じたが、「春日皇子系の真人族」は、青木氏の資料から次の通りである。
    「春日王(745年没)」
    「湯原王」
    「榎井王」
    「桑原王」(生没不詳)

    以上の「四家」で先ずは構成していた。

    これに次の二人が四家の下に加わっていた。
    「壱志濃王」
    「光仁天皇」(白壁王)

    以上の「6人」とである。

    (注釈 歳の順位から「四男」の「61歳の白壁」は、「四家」から外れている事から「白羽の矢」が当たった事に成るだろう。
    「青木氏との鍔迫り合い」が在った事に成るだろう。
    本来なら、「伊勢の四家の四人」に「白羽の矢」は行くであろう。
    又、「近江や美濃や甲斐」にも「白羽の矢」が向けられても不思議では無い。

    ところが「近江」は「始祖川島皇子」で天智系あるが問題があった。
    又、「美濃」は「始祖三野王」で天智系では無い。
    「甲斐王」も天智系では無い。

    「日本書紀」等にも盛んに出て来る「三野王」は冠位が「浄広肆位」である事からそもそも「皇子並み・王位」である。
    とすると「天武系」と成るが不詳で、可成り「有能な妾子」であった事が伺える。)

    ところが、後にこれに「伊勢の三世族」が加わっていた。
    「鴨王」
    「神王」
    以上の二人(父母不詳)であったとされている。

    更にこれに妾子と観られる「1人・不明」があり、更に同じくこれに妾子外の「4人・宮人子」が続くとある。
    計5人と成る。

    合わせて”「男子合計13人」”が「青木氏の四家の継承者」が居たとしている(青木氏の資料)。

    「青木氏の四家」を形成していた上記の「春日王(745年没)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)
    「「壱志濃王」「鴨王」「神王」「不詳王」の「四人の二・三世族」は、議論の分かれるところではある。
    然し、最早、この時には「春日真人族系四世族」からは当に外れていた。
    「七世族」か「八世族」に成るだろう。

    つまり、「皇族」の中から外れている「青木氏」の「氏族」である事から、「生没等の記録」はそもそも「公」には無い事に成る。
    あるは「伊勢青木氏の記録」だけと成り、他の「四家四流青木氏」も同じ扱いと成ったと観られる。

    上記に論じた様に公的に成っている系譜には次の四説がある。
    A 敏達天皇−春日皇子−舒明天皇の敏達天皇の子供説
    B 敏達天皇−・−舒明天皇−春日皇子の敏達天皇の曾孫説
    C 敏達天皇―・―芽淳王−春日皇子の敏達天皇の曾孫説
    D 敏達天皇―・―芽淳王=春日皇子の敏達天皇の孫説

    これでは「施基皇子(伊勢王)」は、「敏達天皇」からは「五世族」である。
    然し、「春日皇子の真人族」としてはでは「四世族」に入る。
    「大化改新」に依って「天智天皇」から観て、「四世族内の皇子」の「近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」も「天智天皇二世族の施基皇子」と同様に「春日皇子の真人族」として扱われたと古書にある。

    注釈として、これには「二つの事由」があった。
    この様に「皇位系諸族」から外れていた。

    イ 「多くの皇子皇女(34)」が逃避先として「五家五流青木氏」に入った事に依り「春日皇子の真人族」として扱われた事が云える。

    ロ 「五家五流の相互間の血縁」にてその差が無く成り、「天智天皇四世族内」として認められた事が云える。

    以上の「二つの事由」があった。

    唯、問題は、「春日王(745年没・施基皇子の子)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)の「伊勢青木氏の四人」は「敏達天皇」の「春日皇子の真人族」からは原則外れる。

    然し、「春日皇子の春日真人族」からは「青木氏」は次の様に成る。
    上記のA〜Dは次の様に成る。
    A−五世族
    B−四世族
    C−四世族
    D−五世族

    (注釈 前段でも論じたが、実質、「春日皇子の真人族」としての「奈良期の継承族」は、直接に「身分保障(a)」も無く、且つ、「生活の保障(b)」の得られない事だし、元より「生活力(c)」等が無いから、「賜姓臣籍降下」せずに其の侭に全て「五家五流青木氏」に入った。
    依って、彼らはこの(a)〜(c)が基本的に無い事から「三世族扱い」とされた。
    然し、この奈良期の時は未だこれも“「賜姓五役の務め」”であった。当然の務めであった。)

    然し、平安期では、「17皇子15皇女 32(検証 34)」が降下したが,全ての「皇女」は「青木氏」に入った。
    そして、「17の皇子」の多くは「賜姓源姓」を求めたが、叶わず「姓」を遺せずに没落して「近江美濃甲斐」を頼った。
    これが「源氏化の元」に成る。

    (注釈 この「没落皇子」を使って「系譜継合わせ」に依る「搾取編纂」に多く使われた。
    又、「没落皇子」の名を「姓」にして「搾取偏纂」にも使われた。
    この「二つパターン」がネット上の説明の「姓」に良く出て来る。
    そして、「酷いもの」では「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」には、何と室町期の時代の異なるこの「姓名(第二の姓)」が記載されている。
    そもそも、その理由は「新撰姓氏禄」の存在は、一時不明の時期があり、その為にあり得ない事を書き添えられた形跡があるのである。現在も内部は不明
    現在も全てが網羅されていず「出自元」である事から「伊勢青木氏」では遺された資料より関係する様な「行」を読み取って研究して論じている。)

    恐らくは、あるとすれば元は「神明社関係」のどこかに“「関係する資料・写本」”があった筈であるが、筆者もそれを基に調べていた。
    「神明社」は「江戸初期」に全社を幕府に引き渡し、その後に「幕府の財政不足」から著しく荒廃している。
    この時に「神明社」から「何処か」に持って行かれた可能性が高い。

    そもそも、一般に判らない筈の「没落皇子」の名を「姓」にして江戸初期の「国印状の取得」の為に利用され「搾取偏纂」にも使われた位である。
    筆者は「青木氏」の「神明社」にしか与えていない「神職の柏紋」を「神紋」としている「神明社」から流失していると観ている。
    何故ならば、“「関係する資料・写本」”は「神紋」を与えられた「格式の高い神職」にしか扱えないものであった筈である。
    それも「古く格式高い神明社」と成り、且つ、「伊勢域」と「信濃域」と奈良期初期からある「神明社(武蔵)」の「三つ域」である筈である。
    且つ、その「神明社」は「大きな聖域」を持っていた「天領地の神明社」と云う事に成る。
    元より「伊勢」では、「江戸初期」には無かった事が、「幕府引き渡し」で資料より「相当な騒動」が幕府とあった事から解っている。

    その時の経緯ではね次の様に記されている。
    「派遣された官僚(山田奉行所)」との間で「争いと裁判」までした事が書かれている。
    結局は、「一切合切引き渡し」であった事が書かれている。
    “「関係する資料・写本」”はこの時に「引き取る事」が出来なかったのである。
    この時の「争い」で前段でも論じたが、紛争を治める為に”「家康のお定め書」”が伊勢に出された位であった。
    これで「立場」は保たれたが、山田奉行はこれに従わず、「一切合切引き渡しの裁定」は変わらなかったとあるのである。

    後は前段で論じている様に、又、「青木氏の掲示板」に論じている様に「信濃」と「武蔵」の“「四社の神明社」”で何れも奈良期からの代々の高格式の柏紋神職であった。
    ここに“「関係する資料・写本」”があったと考えられる。
    ここも「伊勢」と同然以上の「一切合切引き渡し」であったらしい事が判っている。
    後に柳沢吉保・甲斐青木吉保が自費で再建したと記録がある。

    「信濃」では相当に厳しいもので「幕府不満」が高かったらしく、「伊勢」は裁判で終わったが「信濃」では「一揆(宗教性の無い郷士階級らの騒動)」を起こしているのだ。
    だとすると、幕府膝下の「武蔵の神明社・四社」から「旗本家臣」等に「国印状」の為に「ある官僚」が漏らしたと未だ証拠は無いが筆者は観ている。

    (注釈 伝統36を参照 「甲斐の時光系青木氏」の「分家の次男の柳沢の青木氏」の「柳沢吉保」か、抑々、彼は「武蔵四社の内」の最も古い一つを「守護神」であるとして「自費」で修復している。
    二度に渡り移封している地に「神明社」を創建修復しているのである。)


    この事から「紛失」は江戸初期と観られる。
    従って、このはっきりしている「搾取偏纂」なので、正しく世に出て来る見込みは無いだろう。

    前段でも論じたが、もともと、「淳仁天皇」、「光仁天皇」の二代でも「編集化失敗」に終わっている。
    これを更に「未完成」の侭で「嵯峨天皇」は、「縛り策の一環」を目的としていた事からも嵯峨期の「偏纂者の反対」を押し切って慌てて世に出した記録である。
    ここの「不備」を不明期に狙われたのである。

    これらの事(賜姓朝臣の姓化)が「類聚三代格の記載の詔勅内容」に“突然に無封降下させた事”が記載されている。
    「嵯峨期の詔勅」はそのものは正しいが「内容」に忖度と観られる傾向があり疑問である。
    何故ならば、「天皇と成り得た者」でさえ、単族で「諡号」としては何処にも属さない最高位の“「すめら真人族」”を形成し、退位後門跡したとある。

    従って、「信頼性の高いBとC説」から観ても、「青木氏」は「春日王系(皇子)の四世族内」の「同祖同門同族同宗同位であった族」と位置付けられている。
    前段でも論じたが、A〜Dの何れにしても「光仁期前」では明確に「真人族め50年後」から外れている。
    その延長期として観ていて、その様な「生活(賜姓五役・令外官・市場放出権)」をしていたと考えられる。
    然し、「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」が「生活」を大きく変えてしまった。
    「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」は、これに依って前段でも論じた様に、「青木氏の縁戚族」と「皇女の逃亡先」としても公然と可能にさせて仕舞った。
    且つ、奈良期では「近江、美濃、信濃、甲斐」も含めて、“「同族」”として「追尊の志紀真人族」の「間連族」に仕立て上げられた。

    (注釈 平安期からは、彼らは「伊勢信濃」とは全く別の路線に入り、「近江、美濃、甲斐(「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の確保・男系」が起こり、結局は上記した様に「考え方の違い差」が出て分離して行った。
    「近江、美濃、甲斐」に「源氏化と姓化」が起こるという事は、光仁天皇期で50年後、「源氏化」が深刻化した900年頃代から190年頃後には、「青木氏族」に対する「世間の目」が「真人族や賜姓族」としては既に低く成っていた事にも成る。
    低く成っていたからこそ「近江、美濃、甲斐」は「過去の栄光」を取り戻そうとして躍起に成っていた事に成る。
    「9つの縛り」を護らない人気絶頂の「単なる武力化勢力の河内源氏」に憧れた事に成るのであろう。)

    その「伊勢と信濃」は、光仁期から完全に「A〜Dの何れの説」からも既に外れていたのにその「二世族、一部は三世族」までも含めて「追尊の志紀真人族」に巻き込巻き込まれる事に成って仕舞ったのである。

    この事から逃れる為に、「近江、美濃、甲斐」とは全く反対の行動を執っていた。
    つまり、「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く方針の“「反対策」”である。
    況や、“「皇女引入策」”で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。

    (重要な注釈 全てを捨てるのでは無く、「朝廷、天皇家」との「完全決別」を目論み乍ら、本来の「賜姓五役」の「令外官役」だけは「商いの為」に護ろうとしたと云う事である。(後に論じる)
    この「氏族としての生きる概念」で考えれば、明治期までの「一切の行動」はこれに符号一致する。
    筆者は、これを“「共生共存共栄の概念」”と判断している。
    「青木氏の氏是」や「家訓10訓」をこの「共生共存共栄の概念」で考えれば外れている事は全くない。
    恐らくは、「光仁期の混乱期」の時に「信濃」を含む「福家と四家と氏人」等は、一族を一同に集めて協議したと観ている。
    この時に再確認し決めたの事が「青木氏の氏是」や「家訓10訓」であった。
    そして、「総合的な考え方」として新たに「氏族の生き方」として、この“「共生共存共栄の概念」”であったと観ているのである。
    そもそも「皇親族と賜姓族」を外されたとしても、「氏族の伝統」である「本来の消すことの出来ない役目」、即ち、“「賜姓五役」と「令外官役」”も護ろうと合わせて議論されて決められたと云う事である。)

    「上記の注釈」から後勘からすると、「伊勢、信濃」と「近江、信濃、甲斐」の「生きる方向」は真逆であった事に成る。


    そこで、この「真逆」であるとすると次の事はどの様に解釈するのかである。

    然し、平安期の「近江の和紙殖産」の為に手を差し伸べた「額田部氏の干拓灌漑工事」と、「室町期末期の美濃を三河に引き出して復興させた事」の二つは、果たして「共生共存共栄の概念」によるものであったのかである。
    筆者は違ったと観ている。後に詳細に論じる。
    「8割程度」は「商いによる戦略」から来ていると観ている。
    大まかには“「過去の繋がり」を利用したと云う事”であって、それが「彼らの利益」にも成るとしていたと観られる。

    「美濃」に関しては元々「シンジケート」で繋がっていた事も働いたのが2割であろう。
    結果から先に云えば、現実に、「室町期末期」に「徳川氏の国衆」から離れて彼らは「シンジケートの経験」を生かして「大運送業(伊勢と信濃の商いと連携)」を営んで自立している。
    (後段で論じるが明らかに突き詰めれば「商い」である。
    氏是を破って戦闘的な戦いで道を切り開こうとします。)

    「近江」は平安期末期に滅亡している事から「傍系族」を引き出して「伊勢の支店」の「摂津」に定住させたとある。
    然し、その「近江の行動」は「傍系」であるが故に、且つ、「美濃の様な連携」の中に無かった事で、生き方に落ち着きが無く、過激であって手を焼いた事が判っている。
    これ等の「二つの救済策」は、当に、「共生共存共栄の概念」に合致している。


    ここで再び検証に戻す。

    この結果として、結局は、「初期の(a−1)」は「伊勢」は「18氏・皇女族」、「信濃」では「4氏・皇女族」が「郷士・家人」に入ったと観られる。

    (注釈 前段でも論じたが、平安期初期までは「伊勢と信濃」の「避難してきた皇女族」は「女(むすめ)」として先ず入り、その後に「郷士・氏人」に嫁すか、「伊勢の多気の館」などに収容された。
    又、先ずは「女(むすめ)」で養育された後に、「四掟」により「公家一門」に嫁している事もあり得る。
    その後には、どの「郷士・家人」に入ったかは判らないが、「家人」に成っている「氏人」に入ったと観られる。)

    それが、何れでも「子孫拡大」を興し、「伊勢」は「不入不倫の権」で保護された事で最終は減る事は無く、遂には最大の「50士(氏人)の郷士」に成った。
    「信濃」では、前段でも何度も論じたが、江戸期まで「時代の変貌」に大きく振り回された。
    それでもこの「避難族の4氏・皇女族」が「実質の関係郷士・家人・氏人」に入り、そして、それが拡大して「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」の「氏族」と成ったと云う事である。

    つまりは、少なくとも「(a)(a−1)」と、多くしても「(a−2)の一部」が「何れの郷士」もこの中に入る事と成ったものである。
    元を質せば、この「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」は上記で論じている様に「(a)(a−1)」で“「真人族の由縁」を持つ”という事には成る。
    これが元の所で「血縁根拠」と成り、「信濃」では「郷氏と郷士の関係」が出来上がった事に成る。
    「伊勢」とは少し異なるが、「信濃」にはこの形で「氏人と氏上の関係」や「郷氏と郷士の関係」が出来上がったのである。

    要するに、上記でも検証した様に「最低でも82以上」の「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」と成ったのである。

    (注釈 奈良期から平安中期(仁明期)までの間に、その可能性はあったと観られるが「234程度の皇子皇女」が入ったとする一説もある。
    「234と82の違い」は「正式記録と実体との3倍差」であろう。
    これは「妾子」や「宮人子」は実際には「朝廷の古書の記録」には載らない。)

    この注釈の事は「青木氏の歴史観」に繋がる事なので論じるが注釈のその証拠がある。

    「光仁天皇の族」とされた「正式記録」の中には、「青木氏族の追尊皇女」が記録の上でも「4人」は居る。
    そして、更にそれには「妾」にも含まない“「宮人」”の子とする「子女の扱い(数は不明)」で多く含まれている。
    つまり、ところが「天智期」からの他の天皇にはこの“「宮人・十二女司」”は含まれていないのである。
    「光仁期」では主に「青木氏の三世族」までが「追尊王女」であった事が判っているが、この“「宮人子」”は記録には記載しないのが慣例である。
    「大化の規則」では「第四世族〜第六世族の元王女族」、それと「お手付き」の「十二女司」の「女(むすめ)」の身分のその「女」が記録には入らない。(慣例)

    つまり、「上記の検証に入らない女」が「234」にも及んでいた事を証明しているのである。
    「后妃嬪妾」の子供、つまり「女(むすめ)」と、この記録外の“「宮人」”と記載されている「お手付き」の「女(むすめ)」の子供があるのだ。
    数字的には、実質/記録=2.5倍であった事を認識する必要がある。

    「五家五流の青木氏族」には「32(34)」では無く、「第四世族内」を前提としていた検証数字 34・2.5=85(82)でも解る。
    この差が記録外の“「宮人子」”が入っていた事に成る。

    (注釈 立場上は、この記録外の“「宮人子」”は「天皇家内」には居られる事は無い。
    当然に「逃避受入口」が必要に成り、それを「伊勢と信濃」が務めていた事に成る。
    「古書の一節」にもこの事が記載されている。
    「中国の古書」にも“「宮人子」”の悲劇が遺されている。)

    これを「第六世族」までとした場合は、「二世族」が増えるとすれば、凡そは、85(82)・2≒170はあり得る。
    更に、これに上記の「妾と宮人」の「皇女扱い」されない“「宮人子」”を入れると、「234」はあり得る。
    これが「青木氏の中での実態・皇女数」であったのであろう。

    注釈であるが、「逃避受入口」の「青木氏」では「妾子」と“「宮人子」”は、「青木氏の中の呼称表現」では 、「記載」では「女(むすめ)」であって、「呼称」は「ひぅいさま」であったとされていた所以であろう。
    「234皇女」が「氏人を含む青木氏族」の中に入り込み、その「青木氏の女(むすめ)」の「子孫」が「氏族全体に増えた事」による「体質」と成った所以と理解される。
    故に、これが「女系による妻嫁制度」の「所以」とも成ったし、これらの「システム」に「氏族全体」が何の疑問も持っていなかった所以でもある。

    この様に、“「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」”の論は、結局は故に「女系の妻嫁制度」、「女(むすめ)」の制度を構築したとする「青木氏の資料の一説」に成っている。
    取り分け、「伊勢」と「信濃」に執つては「234皇女」は「青木氏に深く関わった皇女事件」であって、その関連しない「別の出来事」では無かった。

    (注釈 「皇女」は上記の通りとして、念の為に論じると「皇子の受入れ」は「美濃や甲斐」のそれと大きく異なっていた。
    上記で論じた様に、「近江、美濃、甲斐」は積極的な「皇子引入策」では「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く寧ろ方針・方策であった。
    この反対策、況や、「伊勢と信濃」は「皇女引入策」で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。
    「伊勢と信濃」の「皇子の受入れ」は、“「神木の柏紋の使用」を許された「神明社の神職」と「菩提寺の住職」で受け入れた“とする資料の説もある。
    筆者はこの説に大いに賛成である。
    「資料の説」がある位であるので当時は観えぬ処で受け入れたのであろう。
    故に、「皇女族(皇子)」が「伊勢と信濃」の全体に組み込まれた組織体、況や「氏族」であったからこそ、「一氏族の血縁族」の「氏人の郷士や家人」までが、「青木氏の氏是や家訓10訓」は勿論の事、「四六の古式概念の制度(共生族の氏族)」等を護り、それが明治期半ばまでの長く護られたのであろう。)

    (注釈 明治期に「伊勢と信濃」の「青木氏」に掛けられた“「社会や政治の圧力」”が無ければもっと長く維持していた可能性がある。
    明治9年まで続いた「伊勢と信濃の青木氏」を影とした「氏人の伊勢騒動」はそれを顕著に物語る。)

    (注釈 この「青木氏族」に向けられた「政治や社会の反動」は強く昭和の初期まで「密教」であった事さえも「敵視の目」で見られたのである。
    明治期3年頃まで「献納」で朝廷を支えていたにも関わらず「青木氏」から観れば「天皇家」は「道義」を通さなかったと観える。
    この時から「献納」は終わったとある。)

    そして、更に、そこに、前段でも論じた様に、この「234人の皇女の入籍」を「女(むすめ)」として、又、年齢に依っては「多気の里館」等にも「青木氏」が受け入れた事が判っている。
    それが上記で検証した様に、「複数回の女系の妻嫁制度」で「郷士」と繋がり、「氏人と氏上の輪」は更に広がりを見せたのである。
    「伊勢と信濃の青木氏」はこの様な「特別条件」を成し得ていた「氏族」で長く形成されていたのである。

    (注釈 これを「奈良期末期の朝廷」は、「真人の姓諡号」とは別に、「氏族」として特別に認定したと云う事に成ったのである。)

    ここに、平安中期から「補完役」として「秀郷流青木氏」が「真人族」と同じ「冠位位階と賜姓臣下朝臣等」を一切同じとして与えて、この「氏族」と血縁的に結合させ、「青木氏族」の「氏族」として認定したのである。
    「神明社」を守護神とし、「賜姓五役と令外官」を護り、この「二つの前提」で、「縛り」を護り「姓化せず源氏化せず」の態勢にいた。
    この「伊勢と信濃」の二つに成った「原理主義族」を「天皇」は「補完役」で護ろうとしたのである。
    元々、補完役は母系族であった。

    (注釈 「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。)


    此処からは、上記の「天皇家」に大きく関わる「234の立場」と「神明社」と「賜姓五役と令外官」を護ろうとしていた「伊勢と信濃の青木氏族」の「原理主義族」と、それを何とか維持させ様とした「補完役・秀郷流青木氏」に付いて論じる。

    これには前段でも色々な面から論じたが、要するに「原理主義」であった事に成る。
    この”「原理主義」”を利用しょうとする充分な”「朝廷(天皇)の計算」”があった。

    敢えてこれに追加するとすれば、この時期は既に“「女系化が進んでいる」”ので「白羽の矢」の役は無く成っている。
    とすれば、此処での「原理主義族の補完役」も排除できないのでは無いか。
    そもそも、この「原理主義」とは「朝廷・天皇家」に執っては無くてはならない「基本概念」である。
    これが崩れれば当然に「原理主義」で成り立っている「朝廷・天皇家」は崩れる。

    つまり、「伊勢と信濃」の「皇女引入策」と「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした“「原理主義族」”を一応認めてこれを補完させようとしたとも考えられる。
    この「補完役」は寧ろ「朝廷」から接近してきた事に成る。
    元々、「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。
    何も「補完役」とする必要が「青木氏側」には無かった筈である。
    つまり、従って、「青木氏側」から観て「過去の経緯」からこれには充分な「朝廷(天皇)の計算」であったと考えられる。

    (注釈 「青木氏」の「氏族を形成する制度」や「神明社の社」や「古代浄土密教の概念・白旗派」等の何を執っても全て“「原理主義」”に基づいている。
    これから外れているものは無い。
    「780年頃」の「光仁期」から「円融期」の「960年代の頃」までには、「氏族としての制度」が確立し、周囲から観ても完全に「原理主義族」と観られていたと考えられる。
    そもそも、何時に成っても「原理主義の原点」の「神明社族」である事は変わらない。)

    ”「神明社族」”とは別に、それを物語るものが「青木氏族」だけが帰依する「古代浄土密教の概念・白旗派」であった。
    前段でも何度も論じてはいるが、「14もの法然宗派」の中の「超最小派」であって、それも“「原理主義派」”として“「無視される立場」”にあった事が記録として判っている。
    つまり、「円融期」の「960年代頃の以降」には、この「原理主義族」は「社会」はその存在さえも認めない風潮の中にあった事が云える。
    取り分け、「原理主義族」を貫いている「伊勢と信濃」はその渦中にあったのである。
    相当に世情は厳しいものが在ったと考えられる。

    前段でも「特異な伝統」と説いたが、これが当に「原理主義族」と結びついているのである。
    筆者は「円融期の補完役」の一面には「朝廷(天皇)の計算」があったにせよこの「原理主義族」を護ろうとしたものがあったと観ているのだ。

    ここで「青木氏の総括的な生き方」、況や、敢えて“「原理主義族」“で考えて論じるとする。
    この事を理解する事で「青木氏の歴史観」は大きく違って来る筈である。
    何時の世も「原理主義」は良し悪しは別として融通性が無い為に排他される。

    現実に、「嵯峨期」より「皇女引入策」は、そもそも「青木氏」が「皇親族」から外された以上は「皇室内」では何処も「救済制度」としての「皇子皇女受入口」は無く成っている。
    この現状は「天皇家」では遷都を二度もした現状であるしその「財政の面」では「皇子皇女の存在」は無視できないでは無いか。
    それまでは「234人」もの「皇女引入策」であった筈である。
    この数は「天皇家」では大変な事であり、それは「莫大な財力」と、その吸収し得る「組織力」に関わっている。
    誰でも出来る事で無い。
    「藤原氏北家」でもその立場からも却って政争の問題が興る。
    どんな条件を執っても「青木氏」だけであろう。
    だから全ての関係者が同じ立場であったからこの事で「政争」が起こらなかった事が云える。
    「救済制度」としての「皇子皇女受入口」があったからに過ぎない。

    これは「嵯峨期以降」であっても「234人」程度の「皇女」が出る事は間違いない。
    この「救済制度」を急に無く成っては困るのは「天皇家」である筈だ。決して「青木氏」では無い。
    幾ら「賜姓の有無」は別としても「賜姓源氏」で臣下させたとしても「皇女」である事には変わりはない。
    「皇女」は「自活力」は無く、「皇子の様」に「源氏化」で救済してくれる訳には成らない。
    「嵯峨期(820年頃)から円融期(960年頃)までの間の「140年間〜160年間」には仮に「234人」程度の「皇女」が出ていたとすると、その処置に問題が興っていたと考えられる。
    しかし、ところがこの「140年間〜160年間」はこの「原理主義族」はこれをブロックしていたのだ。
    それは「嵯峨論説」の影響であった。
    「嵯峨論説」が世情にある以上は「青木氏」としても「血縁性」の無い「皇子皇女受入口」と成る根拠も必要性も義務も無い。

    注釈として、「青木氏」での「234人の皇女、王女、宮人」の「扱い差」に於いての記録が相当探したが見つからない。

    そこで、これを「青木氏の歴史観」で以て検証して観る。

    「氏族」としては「234人の皇女、王女、宮人」を受け入れる以上は、そこに起こり得る「支障」と成る「仕来り」とも思えるものが無い。
    これは「女系の妻嫁制度の概念」の「成り立ちの所以」かとも考えられるがそれにしても変である。
    「支障」があってもおかしくはない筈である。
    何処かの資料の一節の「行」に出てもよい筈である。
    前段でも論じてきたが、それの答えは、“「女(むすめ)」”の「養育扱い(格式身分)」には“一切差はない”とする「掟」として存在していたではないか。
    「光仁期」から「仁明期」までは少なくとも「青木氏の直系尊属・血縁族」である。

    そこで、要は「皇女、王女、宮人」は「宮廷内の格式身分差」である。
    それがその「尊属ルート」から「青木氏の氏族」に入る以上は論理的には「皇女、王女、宮人」の扱いでは無い。
    全ては「青木氏」に執っては「四世族内(最大で六世族内)」の「女、又は「女(むすめ)」までに過ぎない。
    つまり、これは言い換えれば、例えば“「子と曾孫」に格式身分として差をつけるのか”と云う理屈に成る。
    当然に、「格式身分差」を着けないであろうし、着けるとしたらそもそも「女系の妻嫁制度」は崩れる。

    「施基皇子前後」の事に就いては、「五家五流」では、次の様に成っている。

    上記の検証で、「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」であった。

    この記録に載る「皇女、王女」は出ていない。
    そして、そもそもこれは「青木氏」では無く、出自元は全て“「藤原氏」”である。
    「救済制度」としての「皇子皇女受入口」は青木氏にはそもそも無い。

    そうすると、「藤原氏」に関わりの無い「宮人(十二女司)」の「女」は、原則、地元(地方)に帰る事に成る。
    ところが、この「宮人(十二女司)」の「女」に付いては、実は「伊勢と信濃以外の三家三流」は、積極的に「宮人(十二女司)」に関わっていた可能性があるのだ。
    寧ろ、“出していた”とする事が「資料記録」から読み取れるのだ。
    従って、「公的記録」に載らない「宮人(十二女司)」の「女」を「伊勢と信濃以外の三家三流」は引き取っていた事に成ろう。

    「伊勢と信濃」は、家柄として「永代浄大一位・天皇次位」で「賜姓五役」である以上、皇室には“「皇女、王女」も「宮人(十二女司)」も出していない”と考えられる。

    と云うよりは、「伊勢と信濃の二家」はどの「天皇」よりも「身分、格式、官位、位階」は上位であった為に出さないし出せない。
    朝廷側からすると「面倒な氏族」である。
    “「原理主義の概念」”が働いていた筈あるし、「天皇家の方」もその様に観ていた筈である。

    従って、これを「救済する概念」の”「比丘尼制度」”が確立しておらず未だない時代でもあった事から、恐らくは、前段でも論じた様に引き取るとした場合は、「斎王や祭司王」等を多気の「斎王の館」を通して引き取る事に「務め」として成っていた筈である。
    一種の「救済制度」としての「皇女受入口」(「多気の斎王館」)であった。
    然し、この「管理維持」は伊勢青木氏であった。
    「伊勢青木氏」は釈然としなかった筈である。

    (注釈 「比丘尼の仏教戒律」が完全に世間に広まったのは「大乗仏教の宗派・法華経」が広まった同時期と成る。
    従って、「最澄や法然の死後」の10世紀半ばであろう。
    最低限は、この範囲であった事は納得できるが、この時期では「制度」として造り始めていた「女系の妻嫁制度」には[関わり]は無かったであろう。
    「施基皇子没前後716年頃」の事に就いては、その「扱い」は単なる「神明社の巫女」の“「比丘尼という女」”に成っていた。
    「光仁期」頃からは、精々、「仁明天皇」、或いは、「仁明天皇の皇子」の「文徳・光孝期 32(34)」までは、「神明社比丘尼」から「仏教比丘尼」への過渡期であったであろう。
    それ以後は、“「9つの縛り」”があって「三家三流」にも“「源氏化」”で生きようとしていた為に「血縁性の無い者」までも受け入れて生き残りを図ったと考えられる。
    これが平安期末にはこの「源氏化策(皇子の受け入れをした)」で「近江、美濃、甲斐」は「氏族」としては連なって共に平家に淘汰されて滅亡した。)

    注釈から、最早、「原理主義」で「源氏化」に応じなかった「伊勢と信濃」の範囲で留まったが、平安期末の「皇女、王女、宮人」の「受入口」は、「血縁性」も「役務」も含めても当然に無く成っていた事に成る。
    それ「以後の事」は「正しい資料」が見つからないので判らない。
    そもそも「受入口」をしていれば「原理主義」は崩れる。
    つまり、原理主義を貫いてきた「青木氏族」は潰れると云う事に成る。
    この事が「生き残り」に繋がったのである。

    (注釈 「斎王」は、「嵯峨期前」に既に終わっていた。
    その後、前段でも詳細に論じたが「嵯峨期後」からはその格式は「斎院」等であった。
    「巫女的なもの」で何とか鎌倉期までは形式的に続いた。
    この事でもその後の「受入口」は「234」で終わっており判る。
    「嵯峨期以降」は記録から受け入れている証拠は「伊勢と信濃」には無い。
    「信濃」にも前段で論じているが、「伊勢神宮」に近い様な「大聖域」なるものを持っていて、「伊勢」と同様に「何らかの祭司制度」を持っていた事が最近判っている。
    同様に、「234の受け入れ」は連携で行われていた事が証明されている。
    「信濃青木氏」として「原理主義族」である以上、明らかに「伊勢」と同様に「祭司王」や「物忌」等の「役務」を果たしていた事が予想が着く。
    そして、最近その研究と記録が発見されている。)

    「信濃の聖域の詳細」は今後の研究に成る。

    取り敢えず「伝統46や伝統48等」を参照。


    > 「青木氏の伝統 51−2」−「青木氏の歴史観−24−2」に続く。


      [No.371] Re:「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/06/19(Wed) 14:35:58  

    > 「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」の末尾。

    (注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
    これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

    ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
    ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
    「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。


    「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


    「氏族」として、「福家(氏上)」として、「四家」として、“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”を興していた「郷士の氏人」としての関係は、「完全な相互関係(共生共存共栄)」が確立していた事がこの事でも判るし、前段でも論じた種々の内容でも証明される。

    (注釈 筆者が幼児期にこの「南紀の縁者の何軒かの家」を父に連れられて旅した事がある。
    その時に、何が何だかよくは判らなかったが、未だ“「福家の・・・の若様」”とか呼ばれた「薄らいだ記憶」がある。
    この時、「伊勢北部の伊藤氏本家」の「縁者」で、“格式ある様な家構えの家”に泊まった記憶もある。「家人」であった「南紀の周参見の家」にも泊まった記憶もある。
    更には、「南紀湯川の家人」であった大きな旅館業を営む家にも何度か訪れた記憶がある。
    又、「南勢の尾鷲」の父が育った「加納氏出の祖母」が住んでいた家にも薄らいだ記憶として幼少時に訪れた事がある。
    この様に「南勢の遠祖地」との関係は父の代まで続いていた。)

    北部から遠く紀州南部域に定住していた「伊勢青木氏」と関係していた「郷士筋の末裔の家」(氏人)であった事から、この事は「昭和の20年頃」までは、未だ「50」とは云わずとも「20位の郷士との親交」が未だあった事が云える。

    「北伊勢に本家」があった「伊勢藤氏」の「伊藤の分家」の「南紀勢」の“「旅記憶」”が未だ筆者にあった等の事からすると、「伊勢郷士衆」と共に「伊勢北域」の「櫛田川付近」の「郷士の射和商人」等との「親交」は充分にあった事が、「数字の考察」以外にも記憶で証明できる。

    この“「親交」”とは、そもそも「氏家制度」のある程度の「古い習慣」が未だ遺っていた地域であり、この事は“「縁組」”を半ば意味する。
    この事からも、正式な譜系が消失して無く成ったとしても「血縁の有無」は多少とも証明できるだろう。

    上記でも論じたが、「青木氏」で判っている「シンジケートの郷士」には、資料で分かる範囲としては「伊勢域」では「18程度の郷士」(「氏人」は除く)の名が遺されている。

    「青木氏」と「経済的契約」に於いては「大小の郷士」で組織されていた。
    これらは全体で次の様に成る。
    「伊勢全域」から「南紀」−「伊賀甲賀域」―「員弁桑名域」―「美濃域」―「木曽域」―「諏訪域」―「信濃小県域(後段で詳細に論じる)」―「小諸域」
    以上の「縦の線」で結ばれていたことが判っている。

    注釈として、前段でも論じたが「戦国時代で潰された豪族」を山岳部に「避難村」を形成させて、「経済的契約」に基づき支援をした。
    これに対して、彼らは「抑止力、荷駄の搬送と保護、他のシンジケート」の「横との関係」に従事した。

    筆者は、この「縦の線の関係」を持っていた「伊勢−信濃シンジケート」は、実は、奈良期から平安期に「青木氏族」と血縁を含む何らかの関係を持ったと観られる(a−1 48氏)(a−2 101氏)、或いは(b 148氏)であったと考えている。
    そして、その「直系族別と尊属族別と傍系族別」の「原士や郷士」であった可能性があると観ている。

    前段でも論じた「伊賀原士衆」や「甲賀原士衆」との関係の様に、だから、「山岳部の民」と成り得ていたとしても「900年以上」の「経済的契約の関係」だけでは無かった”「特殊な行動」”を執ったのであろう。
    実は、その論処は、「真人族48氏」の内の「敏達天皇の四世族内」の「同祖同門同宗同位」で「春日王系の皇子族」の「真人族の末裔」の多くは、前段でも論じた様に「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだ歴史的史実がある。
    「孝徳天皇との軋轢」や「斉明天皇重祚」や「壬申の乱」や「吉野の盟約」等で皇族内を含めて「政争」が起こった事で、彼らは「四掟の元先」の「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだのだ。
    それが「平安期の仁明期頃(青木氏出自の直系尊属の終)」まで起こった。
    又、これに関連する「(a−1)と(a−2)の910族」は、この庇護下に逃げ込んで生き延びようとしたのだ。
    中には、少数であるが「讃岐、安芸、淡路」等にも逃げ込んで土着したとする記録もある。

    前段で論じた様に「五家五流青木氏」以外の「(a−1)」は「郷氏、又は郷士」に、土着化した(a−2)は「郷士」と成って生き延びたとする史実がある。
    本流論では無いが、これが室町期初期の「下剋上と戦乱」で激減し、その都度、「血縁性」が低いが一部は「青木氏族」に救われたとする資料もある。
    (江戸初期の搾取偏纂か)
    「近江佐々木氏の研究記録」には一部は少数であるが密かに「伊勢信濃のシンジケート」の組織に加わり、その「経済的な保護下」で生き延びたとする真偽性が低いが記録もある。

    前段でも論じている様に、「五家五流青木氏族」内の「四家」に「初期の皇子皇女」に入った者等は、間違いなく「(a−1)の48氏」中の一つ「敏達天皇の春日王系」の「同祖同門同宗同位の四世族内」にあった「末裔」という事に成る。
    何故に彼らは「青木氏」の「家人化」しなかったかと云えば、(a−1)(a−2)であったからである。
    唯、結局は平安末期に「近江と美濃(源氏化)」は滅亡し、その地の「郷士 (a−1)(a−2)の族」は共に消えた。
    「甲斐」も衰退しその地の「郷士(a−1)(a−2)の族」の殆どは消えた。

    又、「伊勢青木氏」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇(聖武天皇 井上内親王)」を輩出し、追尊で「志紀真人族」に戻った。
    血縁関係をより深めていた「信濃」と共に、そして「拡大する経済力」と共に、この地の「氏人の郷士」と共に、「(a−1)(a−2)」の「影の郷士のシンジケート」と共に上記した「縦の線上」で存在し拡大させたのである。

    これが、筆者が考える「伊勢−信濃の縦の線」に出来た「シンジケート説」の経緯である。
    前段でも論じたが、疎遠であった「甲斐」で「(a−1)(a−2)の郷士説」を証明する事件があった。
    「武田氏」を滅ぼした「信長の甲斐視察」である。
    つまり、「象徴権威」を嫌う「信長事件」である。

    因みに、「(a−1)(a−2)末裔」の“「古式伝統」”を守っていた源氏化した「甲斐の一郷氏」が「白衣着用と白馬乗馬での殴打事件」である。
    実は、別の面から観れば、前段でも論じたが「源氏化と姓化」していた「甲斐」がそれほどの伝統を守っていなかったのに、何故、“「古式伝統」”を態々「信長」に見せたのかが疑問なのである。
    取り分け、「甲斐」は殆ど「信長の先祖が持つ格式」と「甲斐の源氏化と姓化の格式」には差異は無いのである。

    それはそもそも「信長」も元を正しく辿れば「平家傍系族」である事は解っている。
    一般化している“「象徴権威」を嫌う信長”と云う説の公説で説いているが、「青木氏の歴史観」から観ると「甲斐の源氏化と姓化の格式」と差異が無ければ、この説は崩れる。
    この説の「甲斐の源氏化と姓化の格式」の前提は「上位の格式の源氏」であると云う事から来ている。
    この「源氏化と姓化」をし更に「郷士化」した「甲斐の源氏」は果たして「格式ある源氏」であるかのと云う事である。

    前段で論じた様に「格式」を保障する「縛り」から逃避したそもそも「河内源氏の傍系族」である。
    「甲斐の格式」の前提は、そもそも「五家五流の賜姓青木氏」であったとする前提であり、「後付けの源氏説」で論じれば違うという事に成る。
    寧ろ、「出自先」を辿れば「信長の方」が搾取偏纂が多少はあったとしても「揚羽蝶紋で木瓜紋」である事の方が搾取は少なく、且つ判り易い。

    公説は「青木氏」から観れば「信長」の方が上である。
    況して、「摂津源氏」と違い”「縛り」”から外れた唯の豪族の「姓化の傍系源氏」では無いかと云う認識があっての事であったと観ている。
    その意味ですれば「織田家」の方が「桓武平家」と云う正統性があると云う自負が在ったと観ている。
    つまり、”格式は上だ”とすればここで”白馬から引きずり下ろす”が常道と成る。
    故に、「甲斐青木氏の態度」を必要以上に誇張する態度に感情を高ぶらせたと観ている。

    (注釈 話は逸れるが、{格式の論}として参考に論ずる。
    又、南北朝で活躍した「楠木正成」も実はこの「(b〜e)の影の郷士説」と云われている。
    何れ存在は認められるとしても、「彼等との何らかの関係」を証明する記録は「大阪府南河内郡千早赤坂村」の「楠木正成」が「影」であった事は史実であり、この限りでは否定は出来ない。
    実はこれを解く鍵はこの“「楠木」の姓”にあるのだ。
    別論なので詳細は論じないが、紀州一帯でのこの「楠木姓」は実に多い。
    これは「熊野宮司六氏の支配下」にあった「熊野神社に由来する土豪」が使う姓である。
    そして、「900年頃以降」からこの子孫は拡大した。
    その「土豪」は前段で論じた「b〜eの810の中」の「第一の姓」の「宿禰族等の上位の官僚族」に従った「低位の官僚族・家臣」の派遣子孫である。
    900年頃以降に此の「現地孫の末裔」が土着し、「熊野神社の神姓」を名乗ったものである。
    要するに「熊野神社族」である。
    この「熊野シンジケート」が「伊勢シンジケート」や「雑賀根来の紀州シンジケート」との連携であった事が判っている。
    「熊野シンジケート」はそもそも紀伊山脈に逃げ込んだ「平家の落人族(史実)」である。)

    (注釈 紀州では「高野村」、「大峰村」、「有馬村」、「龍神村」、「十津川村」、「北山村」等は有名な史実である。
    「楠木姓」と共にこの「村の土豪姓」も多い。
    後に彼らは「シンジケート忍者」と成って「紀州徳川氏の媒臣」と成って「伊賀」と共に働いた。史実
    前段でも論じたがそれが「熊野神社」と連携して生き延びたのである。
    「青木氏に関わる伊勢紀州一帯の研究」からは紀伊半島では「一般的に成っている説」とは異なる。
    「影の郷士説・シンジケート」は「彼等の実際の戦歴(シンジケート戦術)」の史実で証明できる。
    「ジンジケート」とはこの様な経緯から興る)

    そこで、前段でも論じたが、筆者は、「郷士」には次の様に分類されると考えている。(原士も含む)

    (a−1)に依って「土地の郷氏又は郷士」と成り得た族で、僅かながらも「氏人関係」が成立している。
    (a−2)に依ってある地域の「影の郷士」と成り得た族で、「氏人関係」が充分に成立し得なかった。

    何れも、後に郷士やシンジケートと成り得た「(a−2)」は系譜上では次の様に成る。
    1 元は祖「敏達天皇」の孫「芽淳王」と、同孫「舒明天皇」は「異母弟:(母のロ)」
    2 「敏達天皇」の妃「春日老女子:イ」の「第二皇子(異母:ロ)」が「春日皇子(王)」
    3 「舒明天皇」の子で「妻不詳」の子が「宮処王」、即ち、「春日皇子(王)」

    以上、「(a−2)」の「始祖」と考えられるのは以上の「3系」であると考えられている。
    ここで、これは「伊賀との関係性」を考察する上で「重要な事」に成る事があるのでそれを先に論じる。

    先ず、この系譜では難解であるが、「敏達天皇」の「妻のロ」が「舒明天皇の妻(妻のロ)」と成った。
    従って、系譜では「舒明天皇の子」と成る。(妊娠期で何れの実子かは判らない。)
    即ち、この系譜の「天皇家の純血の慣習」は、「后(母)」を除いて「妃嬪妾」が“「次の天皇の妻」として引き継がれる事”が通例であった。

    (これは「純潔性の保持」の「天皇家の当時の「財産的仕来り」であった。)

    この場合は多くは慣例に依るが、この場合は“「妻不詳」”と記されている。(記録上の当時の仕来りであった)
    この様な場合、「医学的進歩」が無かった時期では、“「妊娠期」”が何時であったかが問題と成り、且つ、未だ「比丘尼制度」が充分に整っていなかった時代では「比丘尼」として「天皇家」から外れる仕来りは無かったしその概念も無かった。

    (注釈 後に「比丘尼制度」でこの「仕来り」を上記の「財産的純血性の保持の「仕来り」は廃止した。
    矢張り、「血縁弊害」が大きく響いたと考えられる。)

    従って、当時としては官僚が行う事務的処理は「不詳の記載」は「当然の事」であって、「子」であったり「孫」であったり「兄弟」であったり、時には「親」と成り得る事もあった。

    後勘としては、この古き時代の「記録の不足する事」を勘案すると、「記録一致」を証明する「複数記録」が無い限り、どの説を採るかに依って変わり「多説」が起こる所以でもある。

    (注釈 その意味で”「比丘尼の概念」”を獲得する事は重要と成る。
    そもそも、「比丘尼の概念」は「仏教伝来」によるもので、「公的」に扱われたその時期は「欽明天皇期頃」である。
    唯、「日本書紀・720年」には“「天皇信仏法尊神道」”と記載がある。
    “天皇は「仏法」を信じ「神道」を尊ぶ”と記載されている。
    この頃には徐々に浸透している事が判る。
    つまり、これは「敏達天皇」の前に成るが私的には「仏教」は「職能集団の渡来人」の「密教」として伝来している。
    この経緯からすると、「尼僧の概念」が確立したのは「仏教概念」が確立した「平安期795年」に入ってからであるので、「仏教の戒律」から「妻のロの様な慣習」は直ぐに見直された。
    然し、未だこの奈良期では「普通の事」であった。
    ところが「尼僧」が「比丘尼の概念」に到達するのは「後の事」である。
    直ぐに概念化したのでは無かったのであり「尼僧=比丘尼僧」では無かったのである。
    この返還の「経過過程」では、「比丘尼」は「巫女」と同様に「神社の役務」を務めていたのである。)

    「敏達天皇の孫」の「芽淳王(後勘の渡来人の阿多倍王はこの別娘を妾に迎える)」から観ると、「舒明天皇」と「異母弟」である。
    この「芽淳王の女(吉備姫王)」が「舒明天皇(斉明天皇)の后」と成り、「天智天皇」が産まれるのである。
    つまり「異母弟」の娘が「異母兄の后」と成って、「天智天皇」が産まれた事に成る。
    「異母」とは云いながらも「姪」を嫁にした禁じ手の「二親等血縁」である。
    これには当時の「皇族内の血縁の概念」があった事に成る。
    それは“「女の財産」”と“「異母」”である。
    父から譲りうけた「女の財産」は継嗣の「女の財産」であると云う「基本概念」である。
    これを前提に「血縁弊害を無くす事」が出来る「親等」では無く、無くす事の出来ない“「異母」であれば問題は無い”と云う「基準概念」である。
    もっと云えば、「血縁弊害」より「純血優先」であった事に成る。
    「純血優先」にしても「優先」とはそもそも「血縁弊害の理屈」が判っていて「優先」と云う考え方に成るので、「血縁に依る弊害」は判っていなかった事に論理的に成ろう。

    現在から観れば、この「基本概念」は“異常ではないか”と考えられるが、未だその様な概念は殆ど無かったのであろう。
    それより、“「純血で系統を維持させる」”のが「正統であった事」と、「血縁弊害の出る原因」が判らない以上は「人間の生殖行為」では「血縁弊害が出る事」は「当然の出来事」と考えられていた様である。

    そもそも、その「基本概念」を変えさせたのが「仏教の概念」が「天皇家(720年前後)」に浸透した事であろう。

    前段でも論じたが、「仏教伝来」は「公伝(538年頃)」を境に「公伝前(513年頃)/3説」と「公伝後(571年頃/3説)」に分けられる。

    概念の経緯は「蕃神・神道」から「仏神・仏道」へと「概念」が変わって行くのである。

    「800年頃(平安期初期・天台宗・浄土宗・真言宗)」に「3つの仏道」が出来て「蕃神・神道の力」=「仏神・仏道の力」へと移動して行き浸透する。
    この「800年頃」を境に人々は「仏神・仏道」を概念の中に取り入れて云って、例えば「血縁の概念」も大きく変わって行ったのである。

    その大きなきっかけが、上記の”「比丘尼」”である。
    つまり、「血縁の元と成る女性」の「概念の変化」であった。

    これは前段でも論じたが、行き成り「比丘尼の概念」に移った訳では無い。
    「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の経過期間に沿っているのである。
    「約290年程度の経過期間」があった事に成る。

    「800年頃」に“「比丘尼」”で「約290年程度の経過を経ながら次第に上記の「女の財産」は「倫理悪」として、「血縁弊害」も「道義悪」としの概念へ変化して行ったのである。
    この「比丘尼の概念」が「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の「両方の経過」の中にあったからこそ「概念の変化」が起こったのである。
    そして、「比丘尼が女」であったからである。
    そもそも、「概念の変化」と云うが長年に渡る染み着いた「人間の思考基準」であるからこそ簡単には変わるものでは無い。
    それが、この“「二つの条件」”が伴い何と「約290年程度」で変わったのである。
    現在でも「日本文化の概念」が未だ延々と続いている事を思えば短期間である。

    さて、この「800年頃」を考えて頂きたい。
    「青木氏の光仁期」の後の「桓武期」である。
    この期を境に「青木氏」も同時に大きく変化した事を前段でも論じた。
    取り分け、「四家。四掟。女系の妻嫁制度」等の多くの制度を敷いて「氏族の尊厳」を守りながらも「皇族」と完全決別した。

    つまり、「皇族」も「概念の変化」をさせた時期、つまり、「仏教の概念」、「純血性の血縁の概念」とそれに対する「比丘尼の概念」に変換した時期でもあるのだ。
    「出自元」が同じでありながらも、「青木氏の決別概念」と「皇族の概念変化」があったからこそ、その差が広まつたし、決別出来た事が「青木氏の氏是」にも成った筆者は分析している。
    故に、「800年頃」に「賜姓五役」や「令外官の役目」からも決別して行く過程を観えたからこそ「影の役目」は成し得たと考えられる。
    近づいていればそれこそ「墓穴」である。
    「決別」を「氏族の目標(氏是)」であるのなら幾ら何でも本来は何もしない筈であろうし、余計なそんな事はしなかったと観られる。
    それだけに「青木氏の氏是」であったのかも知れない。


    次の問題に移る。
    先ず、それらを判断するに必要とする知識として前段でも何度も論じている事ではあるが、下記の「注釈」で改めて記する。

    (注釈 「春日皇子(王)」は、「異母弟の舒明天皇の皇子」であるとすると、「芽淳王」とは「異母弟」に成る。
    つまり、「従兄」であって、「芽淳王」の「女の吉備姫王」と「春日王の父の舒明天皇」が婚姻する事で「春日皇子」は「芽淳王の義嗣」と成り得た。
    「春日皇子(宮処王)」の実母「妻のロ」が「芽淳王」に絡んだかは確定は出来ないが、あり得るとした説も観られる。
    そうすると、ここで「義詞子説」と「義兄弟説」が生まれる。
    ところが「芽淳王の子説」は、「義嗣」では無く、「妻のロ」が絡んでいたとして「子」と明記している。
    然し、これは”「妊娠期」”を証明できない限り確定は無理である。)

    (注釈 この一方で、「芽淳王の別の女(四世族内の王女)」と「阿多倍王」とが婚姻し上記の妃(妾の説もある)の正式な三子を産む。
    これが半国割譲で「伊賀」に住み着いた「阿多倍王」の「嬪妾」が”子供を産す”の記載に結び付く。
    人数不詳で、 坂上氏、大蔵氏、内蔵氏の賜姓三氏外に 伊賀に平国香を生むの。記載に成る。
    この「子供の子(孫・貞盛かその子の維衡か不明)」が「高野新笠」であり、「白壁王(光仁天皇)の妃」と成り、その子「山部王」が「桓武天皇」と成る。
    この「桓武天皇の孫説」の「平高望―国香―貞盛・維衡」と成るが、「高望王(平高望?高尊王)」から時代考証が入り乱れている。)

    (注釈 「国香の父」の「高望の名」は「阿多倍王」に与えられた「追尊名」を名乗ったとする説もある。)
    「伊賀」に居た「阿多倍王」は、別名では「高尊王、平望王、高望王」の三名を持つ。
    後漢名の「阿多倍王」は、伊賀で100歳近い長寿であったし、「桓武天皇」は「曾祖父」に当たる「阿多倍王」に、記録では「伊賀」に行幸して追尊して「日本の王位」として「平望王」等の王位を与え、「平姓・たいら」を賜姓したとある。
    正式には「追尊」である事から「平姓・たいら」は「宇多天皇の賜姓」とされる説が生まれる。
    「長寿・95歳以上」であった事、
    「妃嬪妾」の「上記の入り組んだ慣習」である事
    「孫や曾孫」と云っても現在の「累代性の概念」の中には無い事
    当時の平均寿命が55歳の事を勘案すると、追尊時にはぎりぎりで生存していた事
    以上が通説と成ろう。
    筆者は前段からもこの説を採って論じている。)

    (注釈 始祖と成る「春日王」には同名の王が「二世族の王」と「四世族の王」と二人いるので注意、
    他に「施基皇子の春日王皇子」があるが、これは上記の「2の春日皇子」の「四世族の青木氏」である事から名づけられた。)

    (注釈 「芽淳王のルーツ」の「伊賀の平姓・たいら」と「春日皇子・王」の「四世族の青木氏」の関係から観ると、「芽淳王」と「高野新笠」と「桓武天皇」の「三つの要素」で由縁があった事に成る。
    故に、この由縁を以て「以仁王の乱」の「青木京綱」から「伊賀」に求めた「宗綱らの助命嘆願」は聞き入れられたと考えている。)

    (注釈 この「桓武平氏・たいら」の「清盛」は、「伊賀」から播磨に一族全て移動するが、「遺された者」等が「伊賀原士」と成って「伊賀郷士衆」を形成した。
    そして、遂には「伊勢郷士衆」に組み入れられた。
    そのご血縁して「伊賀青木氏」(甲賀青木氏含む・家人)まで輩出した。)

    上記の「注釈」から考証すると次の疑問が出る。
    それでは、“彼らは一体誰達だったのか”と云う疑問が湧く。

    その「桓武平氏」が去った後の伊賀に「遺された者等の系譜」は何なのかである。

    この「重要な点」の解く鍵は、「高野新笠・桓武天皇の実母」の里から“「伊賀青木氏」”が発祥しているという事である。

    仮に、「桓武平氏」との「伊勢青木氏との血縁族・伊賀青木氏」は、当然に「桓武天皇の母」の伊賀の「高野新笠」の「由縁」を以て間違いなく起こるであろう。
    然し、「伊勢青木氏」が「女系の妻嫁制度」を執る以上は、「男系の青木氏」で無い限りはこの「伊賀青木氏」も「平氏」として播磨に移る筈である。

    では、「移らない者」としての説はあり得るのかである。
    検証して観る。それの答えは、“ある”と成る。

    日本書紀に依れば「九州全土」を無戦で平定後に「薩摩大隅」にいた「阿多倍王」に対して、「朝廷の軍船団」が「薩摩での数度の戦い」で敗戦した。
    そこで「朝廷仲裁」が成り立ち、阿多倍王は「呼び出し」に応じたとある。
    そもそも、「薩摩大隅」から「伊賀」に移り、都に遙任して、「芽淳王の女」を娶り「坂上氏、大蔵氏、内蔵氏」の「3氏」を発祥させた。
    その後に「伊賀の里」に戻り移るが、「妃嬪妾」を娶り、平氏以外に「子孫」を設けている。
    この「平氏・たいらの母」と成った「妃」以外に、そこで考証としては「複数の伊賀の嬪妾」は、「伊勢青木氏の女」や「伊勢郷士の女」であった筈である。
    これが前段でも論じた様に「青木氏の家人制度」に依って発祥した「伊賀青木氏」であると成る。

    そうすると、前段で論じた「女系の妻嫁制度」で観れば、「伊勢青木氏」からは「伊賀の阿多倍」の別和名「高尊王、平望王、高望王」は位階の「王位」を授かった。
    そうすると「白壁王−桓武系」に相当するので、「四掟」に適合する事と成る。
    従って、「嬪妾」は「妃族」の「平氏・清盛系」とは根本的に「伊賀青木氏」は「族系」が異なる事に成る。
    故に、「播磨」に行かずにその子孫は「伊賀」に残留する事に成り得たと観られる。

    (注釈 これが「伊勢青木氏」と血縁に依る連携をして「伊賀郷士の青木氏(伊賀原士)」として播磨以後に発祥する事に成ったのである。
    つまり、「四家外」の「伊賀の青木氏(甲賀青木氏もある)」という事に成る。
    前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」より「伊賀郷士」に「女(むすめ)」が嫁ぎ、そこで「優秀な外孫嗣子」に「青木氏」を別に興させ、「家人」として受け入れる制度を使った。
    そして「伊賀」を「氏族」として組み入れられたものである筈。)

    (注釈A 上記した「春日皇子(560年頃)の族系」が、始めて「天武期の八色の姓制(684年)」で、年数からすると「120年後」に“「春日真人族」”を形成する事に成るのだ。
    然し、ところがその間に「春日真人族」を形成したとする当時の記録は何処にも無い。
    実質は、記録から「160年後」に「施基皇子(天智天皇の皇子)」に依ってこの「春日真人族」が発祥させた事と成る。
    「天智天皇」はこのぎりぎりの「敏達天皇系」の「第四世族の春日真人族・2」であった事に成る。
    恐らくは、既に、「四世族」から外れた「臣下族の朝臣族・賜姓青木氏」と成り得ていたにも関わらず、実質的には直前で絶えている。
    この「春日真人族・2」を「元皇子」であった「施基皇子族」と云う形で形式上で興させたという事で成り得る。
    筆者はこれは「孝謙天皇の策(白羽の矢)」であったと観ている。)

    (注釈B、その後、この策で「孝謙天皇の白羽の矢」でこの「発祥の理屈」を造り上げて「光仁天皇(二代目の春日真人族の白壁王・朝臣族に)」が誕生したと成ったと観られる。
    何故ならば「発祥の理屈」は、「大化の改新」の「定め」から外れる為に、これを無視する訳に行かず、既に「臣下族の朝臣族」と成り得ていた事に対する「定め」の「苦しい引き上げ策」を打ち出して於いてその上で「白羽の矢」と成ったと成るだろう。
    更に「54年後(214年後)」に“「追尊」”で、この形式上(孝謙天皇の策)の「春日真人族」から新たに独自の追尊の“「志紀真人族」”を造り出して「正当化した事」に成ったと云う経緯と成ろう。
    故に、追尊の「志紀真人族」と成った「青木氏の氏族」に「所属する者」等は、「八色の姓」に依って「真人族」以外の「姓」、つまり、別に「諡号の姓族」を発祥させてはならないと云う「皇族の掟」に組み込まれて仕舞ったのである。)

    (注釈C 更に、この「二つの追尊(「春日宮天皇」と「志紀真人族」)」に依っての「天皇家の系に載った志紀真人族」に成って仕舞ったのである。
    この事に依り、その「子孫」は本来はあり得ない「賜姓族」として授かっていた「青木氏(天智天皇)」だけが名乗れる所以と成って仕舞ったのである。
    従って、同時に、これまで一時期まで「五地域」に散っていた「名の持たない皇族朝臣族(a−1 48氏)」であった者や、一時は「源氏(賜姓族ではない源氏)」に成った者等も「源氏」を外しても一斉に集結して「五家五流」に雪崩込み「青木氏」を「諡号」として公然として名乗って広まった経緯である。
    「嵯峨期以降」の「源氏」には「賜姓の有無」の「源氏」がある事に注意。 
    「11家/26家」と成っていて殆どは無賜姓である。この内15人が「五家五流」に流れ込んだとする経緯である。

    (注釈D 記録に依れば「嵯峨期前」(施基皇子期)では「約240人と云われる皇子皇女」が当然の事として「五家五流」に流れ込んだとある。
    「皇子族」は「近江美濃甲斐」(源氏化・姓化の原因)に、「皇女族」は「伊勢と信濃」(女系制が原因)に流れ込んだのである。
    その後もこの傾向が続いた。)

    以上の注釈に付いて「氏族の制度」以外に、「伊勢信濃」には前段でも論じたが次の理由があった。

    市場放出権での経済力
    都に近い地理的な優位性
    「不入不倫の権」で護られての安全性
    「祖先神の神明社」の救済策
    「伊勢神宮」の膝下
    「斎王や祭司」などに成った後の「館の救済策」(元々の役目)

    以上の理由で流れ込んだ。但し、取り分け、「皇女」が一番多かったと考えられる。
    この事は「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の研究記録」から判る。

    但し、「伊勢」では「四家」に入れずに僅かに入った「皇子等」は「500程度」の「神明社の宮司・家人」に成った事も書かれている。
    この読み取り記録から完全に「皇女族」だけでは無かった様である。
    唯、「扱い方」が違った事があるのだ。
    つまり、「伊勢と信濃」は「源氏化するような扱い方」では無かった様である。
    これが「第二の象徴紋」の「神木の神紋」の”「柏紋の使用」”を許されている所以なのである。
    この「扱い方の所以」は「青木氏の守護神」の「神明社の神職」は「柏紋の青木氏」であった事に依るだろう。
    要するに「賜姓五役の役目」がその全ての立場にあった事が理由であろう。

    「皇子の逃避先」は「日本書紀」や「他の歴史書の三古書」から観て「美濃」が多かったと観ている。
    「信濃」は伊勢と同制度にあった事から「皇子」は多くは無理で有ったと観ている。
    最近、記録から判った事であるが、「信濃」は「不入不倫の権」に近い侵してはならない「広大な神明社の聖域」を持っていた事が判っている。
    西は「現在の青木村域」から東は「佐久域」までの「東西距離25k 幅は45k」の面積の「聖域」のものであった事が判っている。
    これは平安期は「五大天領地」の一つであった事に依ると考えられる。
    そこの「聖域地」として、つまり、これを「神明社域の聖域」として「信濃青木氏」が護っていた事に依るものであろう。
    「江戸期の享保期」まであった事が判っている。
    (後段で論じる)

    (注釈E 「近江」はそもそもその力が無かったし、「甲斐」は独自性が強く山間部と云う事もあって「皇女」は少なくとも嫌った事が判っている。
    然し、「皇子」は「醜い政争」から逃げると云う意味では都合は良かった筈である。
    何にしても男女の「救済策」は伊勢が整っていた。)

    (注釈FE 前段でも何度も論じているが、復習として、尚、念の為に歴史の知識として知る必要のある事は、何らかの資料に「志紀真人族」から「姓発祥」があるとするは、それは、室町期末期か江戸初期の「系譜への継ぎ合わせ」での搾取偏纂に他ならないのである。
    この時代に横行した「プロの搾取偏纂者(神職や住職の復職として)」に依る仕業である。)

    (注釈G 復習として、そもそも、“「姓」”とは、“「身分の区分秩序を分離する単位」”の事。
    その「複数化した単位」を更に“「諡号(縛りの条件付帯)」”を使って判り易くした。
    この「諡号」が「区別の名」と成り得て“「固有名」“として使われたのが、要するに”「姓名」“である。
    その”「固有名」“を持つ族を”「姓族・(第一の姓)」“と称する事と成った。
    従って、「真人族48氏以外」の「朝臣族等の七色(色で身分階級を区別)」は、「固有名の諡号」を持つ事を公然と許されて“「第一姓族」”が正式に誕生した。)

    これらの「注釈」を前提として、そして、“「身分の区分秩序」”の「第一の諡号」の「真人族」を構成した中で「朝廷」が示す一定の「特定条件」を叶えた者を「真人族」と認定した。
    「朝廷の認定」を受けたこれを「諡号」して“「氏族」”と定めたのである。
    これが“「我々の青木氏族」”なのである。
    其れの「特定条件・縛」が前段までに論じているものである。
    簡単に云えば、「真人族系」の「青木氏の氏族」である事から「氏名」以外にはその他の「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持たない論理と成るのだ。
    もつと云えば、この理屈からすれば「朝臣族系」の「特定条件」と「認可」を叶えた「氏族」は「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持っても良い事に成る。

    その典型が、例えば“「藤原氏の四家」”であり、遺った北家主流は「25流137家」と、「青木氏族」と関わった「秀郷流 8流361家」に成るのだ。
    この様に「藤原氏の氏族名」と、その「氏族」の内の「判別用の姓名」を特別に持つ事が出来るのだ。

    つまり、唯、ここには「真人族系の青木氏の氏族」と「朝臣族系の藤原氏の氏族」には全く違う点が一つある。
    「真人族系の青木氏の氏族」は「氏人との構成族である事」である。
    つまり、「郷士族との構成族」である事である。要するに「絆族」である。
    「郷士族との構成」は、“その数を限定し増やさない”で「女系で血縁構成する族」であり、「血縁性」は「数度の血縁」で繰り返す族でありながら、氏人は「独自の姓名」を持つ構成族である。
    この限定される中での血縁である為に「血縁性は高まる形態」と成る。
    況や、「主家(福家と四家)」と「氏の人(家人・氏人)」との関係である。
    つまり、当に、「氏の中の人」である。所謂、「共存・共生・共栄」の族である。

    「朝臣族系の藤原氏の氏族」は「血縁性の薄れる一族」を最大限に増やし、更にその「主流族」に更に「薄い血縁性で繋がる支流族」の「姓族」との「二つの構成族」の「枝葉形態」で構成する。
    この「支流族」は「独自の姓名」を持つ「構成族」ではあるが、「男系の主流族」には拘束されない。
    この「支流族(男系・女系を問わず)」は、従って、「拘束性の低い事」から「他の族との血縁族」とも成り得る。
    要するに「傘下族」と云える。
    この「笠の人」は「他人の笠に入る事」もあると云う事に成る。
    この「笠の人」が「氏族の氏人」と云う事に成る。

    「真人族系」と「朝臣族系」とには「氏の人」となる「独自の姓名」には意味が違う事に成る。
    「家人の姓名」と「族人の姓名」には「氏族の構成力」が異なるのである。

    この「二つの種類」の“「特定条件」”の「氏人−氏上が物語る特定の血縁」で結ばれて固められた族を”「氏族」”と云う。
    この「真人族系」と「朝臣族系」の「関係の氏の人」が、「(a)、(a−1)、(a−2)」の「何れの郷士」もこの中に入る。
    これが「氏族」として朝廷より「特別条件」として認められた「重要な要素」なのである。

    要するに、「時代の経緯」に依って、「真人族の衰退族」や「皇族系に分別される官僚族(位階族)」の「郷士」と成った「氏人族」である。
    況や、(a)、(a−1)の多くは「真人族系」に入った。
    そして、(a−2)以下の地方に多く分散していた「官僚族」は「官僚族」であった「朝臣族系」に入った。
    物理的に立場的にも“入った”と云うよりは入り易かったのである。

    この地方に分散していない「氏族、氏人と成り得る族」の殆どは、先ずはその系の基が「真人族(48氏)であった事」を前提とした。
    そして、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族」にのみが氏族に入り得たのである。
    唯、この事から、「真人族(48氏)(a)」の全てが成り得たという事には成らない。
    「真人族」となった「皇子の者」等でさえも、「力」が無ければ、「諡号」、つまり、“「一人立ち」”が出来ない限りは、「権威と象徴」だけでは「氏族」は成し得ない。
    当然に、「朝臣族」以下の「皇別系」の「諡号の姓」の保持も尚更に無理であり、且つ、「賜姓」を授からなければ尚難しい。
    故に、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族・氏の人」に入るしか無かったのである。

    上記の「青木氏の諡号」を、「真人族系」と「朝臣族系」の「二つの青木氏」の各地に散っていた彼らは、「注釈A〜Gの経緯」により公然とその根拠付けられた。
    この事で、「青木氏を名乗る事」が出来たと云う事に成る。

    「日本書紀」によれば、天智期以降から桓武期までには、多くが「青木氏外の賜姓」を受けているが、現実に平安期末期までに生き延びて「諡号」を獲得した「姓」は、「新撰姓氏禄」から観れば、1/20にも満たないし皆無に近いのである。
    「室町期」では、最早、皆無であり、全てを捨てて奈良や京の都付近域の土地(土豪)に根付いたか、絶えたかである。

    況して、「平安期末期」では、「新撰姓氏禄」に記載されている「真人族」が、「族」として「諡号の姓」を守った「族系」は、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」を除いて、次の通りである。

    「天智皇子族系」の「近江佐々木氏系族の2族」
    「天武皇子族系の7族」
    「春日族系の2族」

    以上と成っている。

    合わせて、「11族」で、「青木氏族」を加えると「16族」と成っている。

    (注釈 「春日真人族系四世族の五家五流の青木氏族」は、「近江佐々木氏」と同じく本流では「天智皇子族系」と云える。
    然し、上記に論じた様に、「初期の段階」で「賜姓五役の役目」を与えられた。
    多くの「真人の皇子」を「族内」に抱え込んで「五家五流の青木氏族」が形成されているので、 「大括り」の「春日真人族」としている。)

    さて、詳細にはこれから観ると、「新撰姓氏禄」の「真人族48氏」は、実際は“「16氏/48氏」”=1/3 と云う事に成る。

    つまり、残りの”「32氏」”は、「五家五流の青木氏族」に入ったか、衰退し土地に根付いて「郷士」に成ったか絶えたかに依る。

    そこで、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」に入った「真人皇子の数」は、確定は出来ないが、論理的には次の様に成る。

    「伊勢青木氏に入った数」の内、「四家」そのものに入った数は、「5〜7人程度」と読み取れる。
    後は前段でも論じたが、「伊勢郷士」として関わった数が「11氏」であろう。
    合わせて、最大でも「伊勢」では、前段でも論じたが、その「賜姓五役の役目柄」で基本的な数としては「18氏」と成る。

    そうすると、「伊勢外の四家四流」には、1家で3〜4人程度として、゜12〜16氏/32氏」と成る。
    「平安末期」では、「近江と美濃」と、「甲斐」が滅亡したので、「信濃の3〜4氏」だけと成る。


    「真人族」は、「公表の記録」には全国に散ったと成っているが、彼らの「皇子」の生い立ちから全国に散る事は先ずない。
    そもそも、そんな力は無かった筈である。
    論理的に欠ける。
    精々、奈良や京を中心にして近畿か中部域である。
    現実に「新撰姓氏禄」も「近畿か中部域」として限定しているのはこの事から来ている筈で歴史的に証明される。

    「坂東に移動したとする説」は間違いである。
    当時、「坂東」は「流人や罪人の配流地」であった事から、自ら進んでそんな地には行かない。
    間違いなく「新撰姓氏禄」から外れた「地方の土豪」の「家の格式」を高める為の「後付けの搾取偏纂」である。

    (注釈 同じ「真人族の位階等」を持つ特定の「氏族」で、態々、「逃避の受け口」が、あればそこに入るが世の常である。
    「青木氏」から観れば、「坂東に散ったとする説」は、殆どは、この「真人名の系譜」を使った「搾取偏纂の説」にする為に過ぎないと観ている。
    そもそも、「多治彦王説」と「島王説」があるのだが、これを名乗っている「関東の豪族・武蔵七党系等」がある。
    ところが、これには矛盾がある。
    それは、「・・彦」とは「彦・ひこ」は「神道の諡仕来り」で10歳程度の「少年期」の命名に使われる。
    未だ「彦の少年」が子供を造れる能力の無い者に使われる。
    従って、3〜5年では子孫を現地には遺せないのである。
    然し、「軽罪」を得て3年後に未だ少年だとして都に返されるのだ。
    この「多治彦王」は正式な記録では3年後に罪を許されて都に戻っているのだ。
    例え、「子供」であっても「現地孫」と成り「子孫」とは公的記録ではカウントされない仕来りでもある。
    これを「嵯峨期の詔勅」に従って30年後に子孫だとして系を造り上げているのだ。
    矛盾が多い。)

    これが、室町期初期には、「賜姓臣下朝臣族」と成った「真人族」では、「伊勢と信濃青木氏」を除いた族は最早無い事に成る。
    「皇子皇女の朝臣族」の「逃げ込み先」として存在していた「近江佐々木氏」は、「近江青木氏」と共に「平家」に敗退し少ない傍系を遺して滅亡に近く衰退した。

    (注釈 「近江佐々木氏の研究記録」には「青木氏の逃げ込み策」の「人数やその形態」まで論じていながら「自らの族」にこの「皇子皇女の逃げ込み策」の記録の記載は無い。
    これには明確な原因があって後に論じる事になるが、「近江の環境に依る財力」の低さにあった。
    「伊勢青木氏」と「額田部氏」の連携で派遣して干拓灌漑工事で彼等を救済した。後に論じる。)

    ここで、更に付け加えて論じたいのは、この「新撰姓氏禄」に記載された「48の真人族」である。
    これを今は「正しい」の前提として論じてはいるが、実はこの「48の真人族」の中に、「飛鳥王朝初期の天皇の真人族」だとする族数が何と「9族」も記載されている。
    況して、「真人の姓の諡号」は、そもそも、「684年制定」で、この「神代時代」のこの主張する「真人族」は、「450年頃の事」で、「235年後に真人族だと名乗った事」である。
    つまり、「235年後」に“どの様な根拠でその「天皇系譜の真人族」だ“と云っているのかは甚だ疑問である。
    そんな「日本書紀」よりも相当古い「神代の時代の系譜」を示す資料があったら示すべきだ。
    これは、「新撰姓氏禄」が「紛失した時期」を利用しての「自らの出自」をよく見せる為の「大胆な系譜搾取偏纂」の「始末の所以」であろう。
    従って、「嵯峨天皇期」に編集されていた「真人族数」は少なくとも「41氏以下」と成ろう。

    そして、更には上記した様に、この「41氏」の中には「室町期の第二の姓」が「真人族」だとして侵入している事は確実である。
    「810の第一の姓族」には入らないその数は調べても少なく観ても「4姓」、多くて「11姓」が散見できる。
    厳密にはもっと多いと観られ「後付け」である事は明白である。
    この差し引き「30〜37氏の真人族」は、「歴史的な考察」から充分に論理的には理解はできるが、まだ完全に納得は出来ない。

    筆者は、もっと少ないと観ていて、「近江佐々木氏の研究録」による数は、男子では「17皇子(20以下 皇女で15)」と記載されていて筆者も同じ意見である。
    何故ならば、大化期から嵯峨期までに朝廷が「41氏の真人族(家族を入れると200〜250人)」を養えるのであれば、「嵯峨天皇の詔勅禁令(類聚三代格にも記載)」を出す事は無かった筈である。
    大化改新期でも「六世族」を「四世族内」に狭めて「皇子範囲と数」や「王族範囲と数」を態々、限定したりしなかった筈である。

    (注釈 これを記載している「類聚三代格」は、そもそも、「律令の書」である。疑問である。
    その「律令の書」の中に「皇子の範囲と数と経費の事」の「詔勅」を記載するはそもそも「範囲外の事」である。
    何か変である。
    これは「世間の評価」に対する「時代性の変化」を敏感に反映して恣意的に手を加えられたとも考えられる。
    それだけに、「皇子の範囲と数と経費の事」を減らしたいとする「天皇家の当時の意思」が大きかった事を示している。
    「嵯峨天皇」が「詔勅」で現実に書いてもいる「48」を、「41や31」にしたところで「内蔵の財政」にはそもそも何の意味も持たない。
    少なくとも半分以下にしなければ、その「天皇家の当時の意思」は解決したとは成らないであろう。
    現に、「春日真人族」から「志紀真人族」に替わった「青木氏」さえもが、「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」と「真人の賜姓元族」が廃止されて外れているではないか。
    何をか況やである。
    そもそも「嵯峨天皇の出自元」であるのにも関わらず外したのである。
    それだけの財政改革をしたのである。
    だとしたら、「真人族 48(a−1)」の数字は多すぎる。
    当然に、「朝臣族 101(a−2)」の数字も極端に多すぎる。)

    (注釈 公表の“「皇子皇女(皇子17皇女15)」を「朝臣族」や「源氏族」にした”ところで「政務」に付ければ「大蔵内蔵の財政の負担」は変わらないではないか。
    故に、「天皇家」が出来る唯一の「変える方法」はそれは次の一つである。
    「出自元」を含めて「天領地」を守護領としている「五家五流(自活)」に入れる事であった筈だ。
    つまり、上記で論じた「青木氏に吸収される機能」に入れる以外に無かつた筈である。
    又、その為の「五家五流青木氏」に「嵯峨天皇」は、「政争の変」を起こしてまでも「桓武天皇との妥協案」の模索の上でそもそもしたのではないのか。
    何度も云うが「近江佐々木氏の研究記録」は、故にその考証から“「皇子皇女(皇子17皇女15)」は「五家五流」に入った”としているのである。
    但し、筆者は「伊勢」では「少数皇子説」は「家人」と成ったと観ている。
    そもそも、「伊勢」では「四家制度や妻嫁制度等」を敷いていた事は、充分に「出自元」であるので知っていた筈である。
    「出自元」でありながらも入り難い事に成ろう。
    故に、「出自元」を根本して入った者は、“「家人覚悟」”で来ている筈であるし、「伊勢」も敢えて「家人制度」を敷いたと観ている。)

    注釈からすると、殆どの皇子は「美濃と甲斐」に入って滅亡したと考えている。

    そこで「出自元」ではない「美濃や甲斐」に入った理由は、次の事にある。

    「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」までは「出自元」ではある事は認める。
    然し、「縛り」を護らずに「源氏族化」して行った為に、「伊勢と信濃」には入り辛く、結局は「美濃と甲斐」に救いを求めた事に成ろう。
    その結果として、「美濃と甲斐の青木氏」は、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれた所以でもあるのだ。
    故に、「以仁王の乱」から「源氏族化した美濃と甲斐」は「清和源氏主体の戦い」に参加した所以でもあるのだ。
    これが理由と成る。
    そもそも決して我々「青木氏族」は「源氏族」ではないのだ。

    本来、「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」 +「文徳系」+「光孝系」の「前の皇子族の集団」の「青木氏族」である。
    「源氏族と称する集団」は嵯峨期からである事は云うまでない。

    (注釈 下記に改めて検証するが、この「真人族の皇子皇女82」と「新撰姓氏禄の真人族48」との差の主因が、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれるはここにあると考えられる。
    逆に云えば、「出自元」であって「前の皇子族」であっても、論理的にはそもそも「伊勢源氏と信濃源氏」はあり得ないのである。
    将又、「光仁天皇」と「追尊の春日宮天皇」の「主家」と成っていたのであるからだ。
    この「青木氏族」から観れば、論理的に「源氏族」は「分家族(分家の持つ意味が重要)」である。)

    (注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
    結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
    従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
    この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
    「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
    故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
    「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
    故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
    そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
    この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
    要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
    然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
    それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
    然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)

    (注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
    そして11流も発祥している。
    これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
    故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
    この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
    もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
    「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


    「青木氏の伝統 51」−「青木氏の歴史観−24」に続く。


      [No.370] Re:「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/05/15(Wed) 10:07:04  

    > 「青木氏の伝統 49−1」−「青木氏の歴史観−22−1」の末尾。


    > つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
    > “否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
    > これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
    > 結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。
    >
    > 然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
    > 結局は、二世族として「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
    > この「醜い政争」で子孫が政争で絶えるとしたのである。
    >
    > 歴史的に後勘として観れば、この懸念は充分にあり得た。
    > これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
    > 解決策の一つはこの「令外官」にあった。
    > 「皇親族」を外されたのであるのだから慣習仕来りの論理的には令外官」でない筈である。
    > 然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は、出自を前提としている限り変わらないのだからこの事から外せない。
    > 依って、難しい所ではあるが「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
    > つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。
    >
    > 此処には確かに歴史的に観れば「表」では皇親族から外れたのであるから「脱落家の氏族」であった。
    > ところが、そこでこれを160年後(円融天皇)には、「補完役の秀郷流青木氏」の出現の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。
    >
    > つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているのを「円融天皇」は認識していた事に成るのである。
    > 況や、これが後に唯一と成った”「氏族」”の故であろう。



    「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


    さて、この「時の事」を血縁で観ると、その時の「避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)は止むを得ない「時の差配」であった。
    つまり、「政争」から逃れる為に「四掟の純潔性」からシフトして、「パラメータの差2」で「血縁性を薄める事」で「出自族」から逃れようとしたのである。
    これは「賜姓五役」の一部を緩めた事をも意味する。
    「女系の妻嫁制度」は、「純潔性の男系制度を敷いている天皇家」との決別を意味した。

    「青木氏族」に執っては「象徴」でもあり「権威」でもある“「賜姓五役」の一部を緩めた事”と云う事は、勇断でこれは「皇別族」の「四六の古式概念の仕来り」の「ぎりぎりの所」であった。
    然し、「女系制度」を執ったとしてもこの時(血縁的には仁明期頃)までは「ぎりぎりの所」であるとするが、ところが「血縁弊害の限界」の「パラメータ3」(四の法則)に対する「確固たる自信」は未だ無かったと観られる。
    結果としては、これを進めるには「避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)は「ぎりぎりの所」の外側の「外れる処」では未だ無かった事に成る。

    従って、通常は、「パラメータ2」(三の法則)以下では、「仁明期頃」までは確実に行われていた。
    然し、「女系」にすればすべてが解決するとは成らず、「女系」で観れば同時に「経験」に「改善」が加えられ乍ら、結果として現実には「パラメータ3」の「四の法則」から「完全避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)までの間を採った処と成り得ていた事にある。
    それを叶えたのは「女系」だけでは無く「独特の妻嫁制度」にあった。

    この間を詳しく観れば「パラメータ3」「四の法則」から「完全避難策」としての「パラメータ5」(六の法則)に成るまでの間には、つまり、この「160年程度」の間は「過渡期であった事」を意味する。

    ここで、この「過渡期であった事」から超えて、「経験則の160年後」は初めて「青木氏」としての本当の「四六の古式概念」は成立させて行ったのである。

    「慣習仕来り掟」は当然の事として、つまり、「氏族存続の前提」の「血縁」に関しても「正常な概念」と成り得て行ったと考えられる。
    それまでは、「パラメータ3」「四の法則」が「血縁弊害が起こらないとする限界経験値」と充分には成り得ていなかった事に成る。
    これは「記録」から読み取れば、その間に“「嬰児の発生」”があった可能性が充分にあったからだ。

    (注釈 そもそもここで「氏族」に課せられた「重要な慣習」があった。
    それは”「嬰児」と云う習慣”である。
    これは「習慣」と云うよりは寧ろ「掟」であった。
    これは記録に乗せない習慣であった。
    「奇形児等の弊害」の「嬰児の処置」には「決められた掟(作法)」があった。
    「奇形児」とは成らずとも「精神障害の弊害児」が成長期に判ればこれも同様の処置が成された。
    「嬰児」とは、「血縁弊害」に依って「障害のある稚児」が生まれた瞬間から「濡れタオル」で窒息させて、直ちに無かった事として始末する掟であった。
    当時は血縁弊害に関わらず「死産」も多かったのである。
    これは「氏族」に課せられた「絶対的な掟」であった。
    「奈良期・平安期の天皇家」にはこの掟を破った為に後に問題が起こった史実が多くある。
    その一つが我々の「青木氏族」に関わる始祖にあった。
    始祖の「施基皇子」はその為に第六位でありながらも皇子順位は第七位と成り、その後に障害児の死亡に基づきに第六位に戻つた。)

    「注釈の掟」の通りそうなると、「パラメータ3」「四の法則」では未だ駄目であり、「パラメータ3」「四の法則」では無くて「パラメータ5」(六の法則)が「正常な経験値」であった事に成る。
    「パラメータ3」「四の法則」では医学的な論理的判断では問題がない筈なのだが、後勘から観れば「遺伝子学的な領域」であった事に成る。
    「パラメータ2」「三の法則」までの環境の中から「パラメータ3」「四の法則」に移る過程では一つ起こる遺伝子的問題がある。
    それは「血液型」と「隔世遺伝の法則」で「パラメータ3」「四の法則」でも出て来ると云うことである。
    「パラメータ3」「四の法則」の環境が続く中では「パラメータ3」「四の法則」のこの「血縁弊害の現象」は起こらないと云う保障の事に成らないと云う事に成る。
    それを解消できた期間が、「160年間と云う事」に成る。

    つまり「160年」が「経験則」で獲得したと云う事である。
    医学的には「隔世遺伝」が消滅して起こらないと云う事に成る。
    その「時期の経緯(仁明期頃 「始祖施基皇子」より約100年後)」までは「安全な法則」に直ぐに切り替えられたとは判断できない。
    従って、この時の「猛烈な経験」を得て「鎌倉期から室町期初期」に掛けて、「パラメータ2」から「パラメータ3」(四の法則)の「限界経験値」の方向へと切り替えられて行ったと考えられる。
    当然に、「養育制度」の「女(むすめ)」の範囲もこれに従ったと考えられる。
    恐らくは、「室町期初期から室町期中頃」まではその方向性が充分にあった。
    としても、より「良い方向」の完全に「パラメータ4」、又は「パラメータ5」(六の法則)に切り替えられたかは疑問で、それは無理であったであろうと考える。

    (注釈 「青木氏族の歴史的経緯」から観て「パラメータ3」「四の法則」は「ある程度の血縁弊害」が何とか除かれた時期の「限界経験値」であった筈である。
    そして「パラメータ5」(六の法則)は「血縁弊害」の起こる時期の「限界経験値」と成っていた筈である。
    その様に掴んでいたと考えられる。)

    実質は別としても、資料から読み取る範囲では研究から来る状況判断として、筆者は「彼らの概念」としては”中間の「パラメータ4」(下記4)では無かったか”と云う印象を持っている。

    「パラメータ3」>「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)
    以上の関係式から、従って、詳しくは次の様に成っていたと考えられる。

    「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)

    以上の範囲で留まっていたと観ている。
    (伝統―40に記載 追記)

    つまり次の範囲で区切られるのだ。

    通常の範囲
    1 子、
    2 孫・
    3 曽孫(ひまご)
    4 玄孫(やしゃご)

    特別の範囲
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    注釈の通りの「概念」としては次の様に成る。

    「パラメータ3」>「パラメータ4」(下記4)=1〜4

    「通常の範囲」を使おうとする方向に「血縁弊害」を避ける様に「概念」が働いた事と成る。

    当面は「血縁弊害の管理」を厳しくして行けば以上の関係式でも良い事に成る。

    「パラメータ4」(下記4)>「バラメータ5」(下記5)=5〜7

    従って、問題が興れば「特別の範囲」を使おうとする方向に「血縁弊害」を避ける為にも「血縁の概念」を変えようと働いた事と成る。

    然し、実体は期間がかかっている事から観るとこの逆から努力するもなかなか逃れられなかった様であったらしい。
    つまり、“「女系の妻嫁制度の改善」”が「確立する過程」までは「以上のプロセスの例」に物語るものが大きいと考えられるのだ。

    つまり、「三つの血縁源の効果」が発揮するまでは、所謂、「氏族」が完全に構築できるまでは「大変な事」であった事が伺える。

    実は、それを物語る証拠の一端が遺されているので論じて置く。
    それに触れて置くと明らかに上記の「血縁弊害の原理を獲得した事」を証明出来る事にも成る。

    「青木氏族」(伊勢や信濃等)は、その為にも、これらの事の「知識」を“「女の得本(「血縁弊害の原理を獲得した事」)」”として纏めて持たせていた。

    「三つの血縁源」に対しての「嫁家先」にも嫁ぐ「女(むすめ)」を通じて「同じ範囲の概念」である様に指導し教育し導いて行ったのである。
    それには、これら全てを明記した「確たる内容の物」、つまり、“「女の得本」”が編集されていた事が判っているのだ。

    「青木氏族」を健全に保つ上でも、考えると「光仁期から仁明期の立場」は非常に重要であった事に成る。
    これらを「本」にまでして纏められたのは「他の青木氏族」には経験し得なかった「知識」であった筈で無理であっただろう。
    前段から論じている様な「確たる制度を敷いていた事」からこそ得られた「知識や概念」を集約出来たのである。

    (注釈 筆者は「商い」を通じて「貿易」も影響していたと観ている。又、500社から得られる神明社から全国の情報もあったと観ている。
    そもそも「施基皇子の撰善言司」の家柄である。)

    恐らくは、故に「嫁家先」には、この“「女(むすめ)の教育」”を受けた「嫁の立場(家の慣習仕来り掟に於いて)」は相当なものであったと予想される。
    何故ならば、当然に、その「嫁家先」には、一族の「祖母(パラメータ2)」か「曾祖母(パラメータ3)」が存在し、古い彼女等は、元は「伊勢や信濃」の「女(むすめ)」であった筈である。
    「嫁家先の四家の範囲」に「大きな影響の基盤」が出来つつあったと考えられる。

    つまり、それには「経験則」か「何らかの医学的知識」を獲得して「影響」を与えたのは“「女の得本」”であったと説いている。

    参考として、後勘から観ればそれはかなり綿密でそうとうな「医学的知識」を獲得している。
    それを「養育時の作法の本」として使われ、且つ、嫁ぐ時の“「女の得本」”の所持品でもあった事も解っている。

    実はこの“「女の得本」”は何とこの「現在の医学的立場」からも間違ってはいないのだ。
    (下記に解いてみる。)
    当然に「嫁家先」から「女」が嫁ぐ際には、恐らくは、この経験を積み重ねた「伊勢青木氏」の「女の得本」なるものの「写し」を持たした筈であろう。
    又、それを熟知する「侍女」が付き従っていた筈である。
    取り分け、「伊勢」とは血縁関係が深かった「信濃青木氏」も記録は消えているが同然であった事は間違いは無い。

    とすると、「位階や四掟」を敷く「他の嫁家先(血縁源)」にも確実に広がって行った事が充分にある。
    且つ、これが「女系の妻嫁制度」の「広がり」へと繋がって行ったとも考えられる。
    少なくとも「最低限の基幹の制度」が広がった可能性がある。

    そもそも、その「嫁家先」も「位階」を持つ故に何もないという事にはならない。
    それは「嫁家先」が「位階」等を持つ以上は、何らかの「最低限の家の維持する確たる制度」を朝廷から「義務」として求められた事に成る。

    それで無くては「朝廷の格式」に拘る「位階官位」は与えないと云う逆の事も云える。
    何らかの「最低限の家の維持する確たる制度(氏族)」を持たなければ、朝廷から「位階」等は与えられないと云う事に成る。
    現実にはそうであった。

    それが制度として確立させたのが後段で論じるが”「縛り」と云う厳しい掟”があったのだ。
    多くは「光仁期から嵯峨期」の間に定められたものである。
    「朝臣族」とは云え「源氏族」はこの「縛り」に耐えられず「低い位階」のものであった。
    この「縛り」を無視して与えればそれは「位階の権威」を下げる事に他ならないからである。
    「朝廷の権威」が低下する所以とも成る。

    (注釈 但し、江戸期には遂には{権威}では無く背に腹は代えられず{金銭}で与えて仕舞った。下記)

    寧ろ、「女系の妻嫁制度」を執りながらも、「官位と位階」は元々は「福家と四家」は永代に持っているが、「福家」は「氏人の位階」を獲得する為には積極的にこの「女の得本」を求めた。
    その為に「妻嫁制度」に依って「血縁をより深くする戦略」に出たと考えられる。
    依って、「家内の慣習仕来り掟」はこれに従った所以と成る。
    つまり、「伊勢や信濃」からこれ等のものが“広がった”と云う前提に成る。

    然し、「近江」を始めとして「美濃も甲斐」も平安末期には朝廷から求められる格式ある「家内の慣習仕来り掟・縛り」を捨てて姓化して源氏化して行ったのである。
    結局、ここで彼らの血縁に関わる「伝統」は消えた。

    因みに、これらを始めとした“「青木氏の伝統」”は勿論の事、「青木氏の氏是」、「浄土密教の考え方」、「嫁家先の関係」、「冠位位階等」の事が「女の得本」のこれには纏められて書かれていた。
    取り分け、”「密教」”であるが故に、「青木氏の捉え方」で「般若経の語句」の「意味の解説」なども書かれていた。
    故に、これらを習得した「女(むすめ)」の「嫁家先」も「四掟の同宗」で無くてはならない事に成ったのだ。

    例えば、ここには嫁ぐ身の「女(むすめ)」の「「女の心得」として重視しなければならない事が書かれていた。
    因みに、「色即是空」とは、「女」として陥り易い”「拘りの性」”に付いて、“決して拘るな”と説いている事や、「色不異空、空不異色」は「彼世(空)、現世(色)」は“同じ”と敢えて説いている。
    つまり、“極楽は在るとは思うな“と、「無」である事こそが「極楽」であると、「大日如来信仰の密教説」を説いている。
    何故、説いたかと云えば、「血縁弊害の一助」にしようとしたと考えられる。(医学的に説いた理由は下記)

    (注釈 下記で論じるが、これ等の教えは「四掟」に依って起こり得る「血縁弊害の軽度の精神疾患」と、「女系」であるが故の「強く成る性」を抑える為の「戒め」でもあった事も考えられる。)

    これら「青木氏の密教概念」の「伝統」は、当時の「顕教の考え方(観音信仰)」とは著しく異なっていた。
    故に、後の統治者の家康は、この独自性を持つ「密教」を完全に禁止し全て「顕教・顕教令」とした事に成る。

    事程左様に、この「本の詳細」に至ると、又、それには、「血縁時の最たる証拠」となる「初夜の作法」の事までも書かれている。
    当に「女系」であるが故の「女の得本」である。
    本論に記される範囲でも下記の通りである。

    風呂を浴びる事、
    その時、体毛を剃る事、
    湯殿女に処女検査を受ける事、
    初夜時の白襦袢は洗わず「福家(寺)」に送り届ける事、
    現在と違い暖房設備がない事からその体位が重要で妊娠するに必要とするその作法等の事、
    生理の25日型、28日型の事、
    月と関わる事、生理前の6日前の行為の事、
    男性の3日の欲情生理の事、
    生理道具や行為の道具の事等・・・等

    以上の「青木氏の「女(むすめ)」の掟(作法)」が書かれていた。
    (もう少し他面に渡り相当に詳しく概念として書かれているが、卑猥になるので記述しない。)

    現実に、これらは江戸期の大奥や大大名家にも伝わったものであろう。
    これは「性欲の括り」では無く「血縁」に繋がる「生殖の知るべき正式な作法」としてのものでもあった。
    現実には現在でも通用する程に“「女の得本」”は相当に「人の摂理」を把握していたものである。
    江戸期の大名家のそれは「青木氏の妻嫁制度」の一部の「古来の作法」が広まってそれを真似たものであろう。


    さて、「女(むすめ)」の“「女の心」の持様を表した「得本」”からは論を戻して。
    以上、実は更にこの“「女の得本」”で「血縁弊害の原理を獲得した事」を証明出来るのだ。

    そこで先にこの「同族血縁の弊害」とはどんな「論理的な理屈」で発生しているのかである。
    これを説く。
    これを先に論じる事で合わせて“「女の得本」の「目的」や「すごさ」が判るので”解明して置く。

    注釈として、そもそも、現在医学では、結論として「同族血縁の弊害(奇形は除く)」は、これを「同族血縁」を繰り返す事に依り「脳」に次の様な問題を起こす。

    それは基本的に「脳の自立」を保っている「ドーパミン」と「セロトニン」の「ホルモンバランス」が崩れる事にある。
    そして、この「バランス」を保つ為に多く成りやすい「セロトニン」を食う“「トランスポータ」”と云う細胞があってこれが働く。
    ところが、「同族血縁を繰り返す事」に依って、この「トランスポータ」がその「子孫の脳」に不必要に大量に蓄積される。
    そうするとこの結果として、遺伝的に「セロトニン」が一度脳に放出されたものがこの“「トランスポータ」”に多く食われる事に依って「脳内」で低く成り、「ドーパミン」との「バランス」が崩れた状態が遺伝的に恒常的に起こる。
    そして、実際には「脳内」には潜在する「セロトニン」と「ドーパミン」が増えてはいないが、「脳内の再取り込み」のところで「バランス」が恒常的に崩れた事に依って「ドーパミン」が増えた形の状態と同じパターンが起こる。

    つまり、この「アンバランス」が「パニック症(不安)」や「躁鬱性症」、「自閉症」の「精神障害」等の「精神障害」を引き起こす事が判っている。
    これを現在では「SSRI」と云う。
    「自閉スペクトクル症候群」と云う色々な面倒な症状が出る。

    取り分け、高齢化に依らずともある「事象範囲」でも起こるのだが、「年齢化の進行」により歳をとり「自立神経」に「低下の症状」が出始めるとこの現象が益々出る。
    そうすると「交感神経」のみが低下して「副交感神経」との間に「隔離現象」が起こって仕舞う。
    そうすると「スペクトクル・脳の神経連鎖反応」が起こる。

    例えば、たった「三粒の雨」に濡れたとすると、其の事に依って「副交感神経」が過敏になり過ぎ、私は「風邪をひく−熱が出る−咳が出る−死ぬ」と云う風に連想する。
    そうすると、「自立の副交感神経」である筈が過敏に反応して、「風邪」では無いのに実際に「熱(最大38度位 不安定)」を出し、「咳」を出し、「震える」と云う風に連鎖して行くのである。
    この様な事が「弊害」として起こる。

    これを医学的に一時的に直すには、唯一つある。
    そもそもこれは「副交感神経」の「過剰反応体質」から来ているので病理現象ではない。
    そこで、神経が過剰反応している事から来ているので先ずは”「安心させる事」”が「唯一の方法」で最も効果的で、無反応の「栄養剤等の点滴」を施し「安心させる事」や「医者の癒し」等の処置で全ての症状は10分程度で治まる。
    「風邪の病理」ではないので薬は「ショック現象」を興すので与えられない。

    つまり、”医者と云う専門家に依って看て貰っているのだ”として自分を脳内で安心させる結果と成る。
    そうすると「過剰に反応した副交感神経」が”死なないんだ”として今度は逆に働き安心して直ぐに落ち着く。
    ここで、ところが入院をさせたとすると、”あぁ、自分はそんなに悪いのだ”として、更に興奮状態のスペクトクルが起こる。

    この「トランスポータの蓄積量」にも依り「症状に大きな強弱」があるが、何事にもこの様な現象が興す。
    手の付けられない強いものもあり恒常的で完全な精神病と成る事もある。
    「同族血縁の弊害」の多くはこの「パターン」が多いのである。
    昔はこれを「精神が衰弱した」と判断していたものであろう。

    (注釈 青木氏では「女(むすめ)」の過程で成長して判る場合は「女(むすめ)」の養育過程で見抜く事が必要になる。
    然し、その前の過程で「掟」として選抜していたらしい。)

    普通は「自律神経の低下」で「交感神経」も「副交感神経」も同率で低下して「認知機能」の全体が低下するのが普通で8割程度であるらしい。
    例えば、同率で低下すると何が起こるかである。
    「肺炎」を起こしてもこの「脳の認知機能の低下」で今度は逆に「熱」も出ないという事にも成る。

    然し、この「トランスポータの蓄積」の場合は、「脳内」に取り入れた事に依って「副交感神経」が強く働きすぎ、”考えられない様な神経質”に成る。
    中にはこの事で「脳の攪乱状態」を起こし「大声」を挙げたり、「不可解な行動」を採る事も起こる極めて取り扱いが難しい。

    (注釈 「トランスポータの蓄積」はこの「血縁蓄積」だけでは無く、上記の状態が続くと、「トランスポータ」では無くその「ストレス」が脳に蓄積され、結果として「恒常的なストレス」にも大きく左右している事がある事も解っている。
    最近は同族血縁は少ないのに若者にも軽度の症状が多いと考えられている。)

    昔では「血縁障害(血縁の弊害)」の殆どは、このパターンの精神病や高濃度の場合は「亜子」が生まれる事も起こっていた。
    現代医学から観れば、その「家柄のストレス」も代々に渡り引き継がれるので「血縁弊害の問題」だけでは無くても起こっていたのである。

    (注釈 当時は「亜子」もこの「症状の延長」と観られていたが、最近の医学では亜子の場合は「卵子の老化(35最以上)」が原因と云う事が判っている。
    然し、「青木氏」では同じと観ていたらしいが、前段でも論じたが「女(むすめ)」の年齢が18歳以下であった事から、この現象は少なかった事が判る。)

    そこで、従って「トランスポータの蓄積量」の「低下対策」は、その「血縁源を増やす事」が必要と成る。
    これで必然的に低下するのだが、この様な病理であるので、「遺伝子的な欠陥」では無く「一種の血縁障害の病気」と云える。
    然し、「同族血縁する」と蔓延的に蓄積が起こるので結果としてなかなか消えないので「遺伝的欠陥」と見做されやすいのである。

    これは「同族血縁の濃度」に大きく左右されるが、唯、一度、起こると「人遺伝子(女系継承原理)」として潜在して引き継がれる事に成る。
    つまり、「血縁濃度を下げる事」で隔世的に無くなる論理である。
    隔世であるので世代を跨るような上記の様な長時間が掛かるのだ。

    上記の「青木氏の血縁弊害」は「青木氏族の初期」はこの論理の病理に悩まされていた事が判るのである。
    「正常な血縁範囲」の血縁でありながらも「パラメータ3(四の法則)」でも無くせなかった時期はこの上記の原理に従い次第に減少しながらも長く続いた事に成る。
    「(パラメータ4(五の法則)」で始めて完全に消えた理屈は上記の摂理に依っていたからである。
    従って、「トランスポータの蓄積」の元が「(パラメータ4(五の法則)」で霧消した事に成る事は理解できる。
    隔世であるが故にこれが最低で「160年と云う期間」を要した事に成る。
    一代を「約25年」とすると最低でも「6代〜7代」を要した事に成るだろう。

    故に、「女の得本」は各所から情報を獲得して、それを基に恐らくは医学的な合理性を感覚的に把握して、これを取りまとめたものであろう。
    これに近い事を説いて「女の得本」で「弊害」に対応したのである。
    これ等の事は「神明社か菩提寺」の「執事役」が纏めていた事が判る。

    最終は「6代〜7代」を経て「女系」に依る「三つの血縁源の対策」からのその効果で遂に消えたと云う理屈に成るのである。

    これは、現代の遺伝学では「人の遺伝子情報」は「女子」は直接的に直接遺伝し、「男子」は潜在的に隔世的遺伝する。

    そこで、後勘から観ると、この論理で「女系の妻嫁制度」で成功したのだが、更に「男性」では果たしてどうであったのかを検証する。

    そこには先ず「人遺伝子(女系継承原理)」は「男系の場合」は母親から引き継いだ「潜在的人遺伝子」は「隔世遺伝的・潜在的」に引き継がれる。
    然し、「隔世遺伝」である為に「二代続き」で「女子」が生まれなければ「女系の持つ遺伝子」は遺伝学的には遺らないで消え去る。

    これを「三親等から四親等の同族血縁」を繰り返すと、この範囲で三世代以上繰り返すと「トランスポータ」が蓄積されて徐々に「精神障害」が発症して来ると云われている。
    古来は血縁は二親等もあった。

    「男性の男系」ではこの「トランスポータ」の蓄積が「女系継承原理の人遺伝子」で潜在的である為に「血縁弊害の現象」を読み切れず改善出来ない事に成る。

    従って、上記の遺伝原理に従い上記の数理論でも検証した通り「女系」で無くては成らないのである。

    故に、近代学的にも「四六の古式概念」の上記の「青木氏の女系の妻嫁制度の策」で採った「青木氏」の「パラメータ3」(四の法則概念)が「血縁の弊害」を防止する事が出来る「限界値」であった事と成り得るのだ。
    後勘的に観ればこの原理を「青木氏族」は知ってか知らずかこの方向に向けていた事に成るのだ。

    依って、「不明な隔世遺伝的要素」を持つ「男の嗣子」を「四家の範囲」で固定して外に出さず、「女子」をある範囲で区切り、「出と入」を監視すれば「血縁弊害」の「持ち込み」は防げる事に成る。
    何故ならば、この「三つの血縁源の監視」でその「血縁弊害」が「其のルート」の「表(女子)」に出ているからである。

    「三つの血縁源」の中で「一つの氏族」を構成している「氏人の血縁源」は、要するに「女(むすめ)」で「氏族内管理(掟)」されているから「弊害(嬰児などで)」は排除出来ている事に成る。
    この課題は「氏人の血縁源」から“絶対に男子を入れない事”である。

    そこでその「難しさ」は、“四家の範囲で男子を調達する事”が出来るかである。

    つまり、それが況やその「出来る範囲」が”「四家制度」”であるとしているのだ。
    「青木氏の範囲」での「四家の男子の数」を「20人」として確保するとしているのだ。
    そうするとこれには「妻の数と質」が前提と成る。


    これをできるかどうか検証して観る。
    前段でも何度も論じている事ではあるが、この「20人」を確保するには「妻」を「四人(実質3人)」としていれば「嗣子20人」は確保できるとしたのである。

    [(福家1)・4+(四家4)・4]・3=60人の妻 と成る。
    {60・(4〜2)}・50%(産)≒60〜120(子) の子供が生まれる。
    この内、出産男子:50%≒ 30〜60人 と成る。
    世継ぎまでの生存率≒50% 15〜30人≒23人 と成る。
    計算バスアス10%最低≒6人 とすると
    故に「20人」は確保できる事に成る。

    実に適正であった事が云える。

    「計算バスアス10%」が時系列で変化したと変化と成るだろう。

    「青木氏」が、これ程の事を読み切れていたのは、この「医学的根拠(遺伝学)・経験則」を何らかの方法で見抜いていた事に成る。
    どんな方法で知識を獲得していたかは判らないが、筆者は「貿易」とそれを「神明社」が解釈していたと観ている。

    次はこの「見抜き」は果たしてどの様にして獲得したのかである。
    それは恐らくは、「女(むすめ)」から養育時に教わった「外観上の男女の性の差異」の「人の生態摂理」で引き継がれていたと観ている。

    元々、この事が「女の得本」に記されていたからでもある。
    これが広がった「重要な原因」でもあって、「青木氏族が一つの慣習仕来り掟」に依って「血縁関係」が構築された原因でもある。
    この逆はあり得なかっただろう。
    「青木氏族の血縁弊害」の出ない「氏族」を周囲は凝視していたと観られる。

    {光仁期−仁明期の経験>「女系の妻嫁制度」={女の心得本>嫁家先制度}  1
    「弊害原因」<「慣習仕来り掟」>血縁関係  2
    1+2=「青木氏族」

    故に、 「通常範囲」+「特別範囲」=「青木氏族」

    この関係式を見抜いていたと云う事である。

    以上の関係式が先ずは成立していたと考えられ、これを時系列的に時代に合わせて上手く使い分けていた事に成る。

    この「通常範囲」と「特別範囲」を差配する事で上記の「青木氏族の関係式」は成り立っていた。

    ところがこれでは「四家の範囲」では成り立つが、然し、「氏人を含めた氏族管理の範囲」では弊害は起こり充分ではない筈である。

    その答えは、上記の検証の通りある範囲の”「氏人の伊勢郷士数」”が必要に成っていた事に成るだろう。

    この「伊勢青木氏の例の考察」から観ても、「最大時の伊勢の50郷士」としても、この関係式の成立ではぎりぎりに成り立っていた事に成る。

    「伊勢の青木氏」の「本領安堵の地権域」が、「遠祖地の南紀」までの範囲である事(a)
    そして、その地域には、必ず、「家人や氏人」の「四家の絆青木氏」を含めて定住していた事(b)
    恐らくは、この「元の郷士の数」の「50の郷士」まで、つまり、隈なく「伊勢の全域」まで「何らかの形での縁組」が出来上がっていた事(c)
    これが1000年以上(江戸初期)で築きあげられていた事(d)
    そして、「氏族」として及んでいた事(e)

    以上の5つが働いていた事が充分に理解できる。

    恐らくは最低限、「信濃」までは同然であった。

    {「四家20」+「50郷士」}・X=「伊勢青木氏族」

    {光仁期−仁明期の経験>女系の妻嫁制度}={女の得本>嫁家先制度} 1
    弊害原因<慣習仕来り掟>血縁関係 2

    二つの関係式の「1+2」=「青木氏族」 が「青木氏族」である事に成る。

    故に、「通常範囲」+「特別範囲」=「青木氏族」

    これらの関係式で「パラメータ3(四の法則)」でも後半には少なくともほぼ完全に成立していた事に成る。

    更に検証して観る。

    単位年を「100年」として、「四家20家」で養育する「女(むすめ)」の数が「玄孫域」までとする。
    例えば、男子/女子≒50%として、子=10〜12、孫域=5〜6、曾孫域=2〜3、玄孫域=1〜2とするならば、「玄孫域」で「15年単位の区切り」で観れると次の様に成る。

    最低で「19の縁組」 最多で「23の縁組」 

    これを「1000年」とすると、これの比例として「10倍」が嫁す。

    (注釈 計算を容易にする為に「毎年の血縁」を一つの「区切り」として観る。)

    そうすると、最低で「190の縁組」、最多で「230の縁組」が起こる。

    「郷士数 50」では、最低で「3回周りの縁組」、最多で「5回周りの血縁」
    以上の「血縁回り」が起こる事に成る。

    「血縁回数」=3〜5回周り

    以上と成る。

    これで「原士」を含めて「伊勢郷士」が、完全に「青木氏の氏人化した事」は証明出来る。

    「奈良期から平安初期」には「信濃や甲斐や美濃や近江」も同様の理屈がほぼ成り立っていただろう。

    「伊勢王」として遙任してから「施基皇子(716年 四家形成期)」から「子孫拡大」を見せたとして次の様に成る。

    「一回目の縁組」は、上記の検証の通り「最低で19、最多で23」として、「郷士との縁組(家人差配頭)」はこれの1/3〜1/5とすると次の様に成る。

    「4〜8との血縁組」が“「780年頃」”に既に起こっていた

    以上と考えられる。

    この「4〜8の傾向」が、「15年単位(女子の血縁年齢)」で区切るとして「累計的」に増えていく事に成る。

    「100年の単位」で、「単純比例」では、「28〜56」(一周り)と成る。

    現実にはこれが次第に「累計的増加(1.3)」として観れば、次の様に成る。

    「37〜73」=AVE55/50と成る。

    「施基皇子没後の100年後」の“「816年頃」“には、“「氏人」”が完全に構築され「氏族としての条件」は完全に成立していた事に成る。

    この「816年頃」は、何と「嵯峨天皇期の頃(嵯峨期詔勅)」で、丁度、「新撰姓氏禄」が出された時期でもある。

    全く「青木氏の歴史観」と「数理計算」とは、「伊勢」では完全に符号一致する。

    何度も云うが、この時期では「信濃、近江、甲斐、美濃」でもまだ全く同じ事が何とか起こっていた事に成る。
    問題はこの後からである。

    唯、「信濃」に於いて「郷士数」が「伊勢の5倍から9倍位」はあったとされている。
    「新撰姓氏禄」に記載されている「原士(e)と郷士(d)〜(f)」とすると、次のように成っている。

    (注釈 「伊勢の郷士数」は「不入不倫の権」で流入する事は無く少なかった。)

    但し、鎌倉期から勃興を始め室町期に発祥を興した「姓族(イ)」や、「移動する国衆」等や「姓族から郷士と成った者(ロ)」等を除く。

    (a)真人(48)、朝臣(101)
    (b)宿祢(98)、忌寸(50)
    (c)臣(66)、連(258)
    (d)首( 93)、造(80)
    (e)公(63)、直(42)
    (f)史(28)、村主(20)、県主(12)

    (a−1)の「真人族48」は「青木氏等数氏」を遺して全て下剋上で淘汰され滅亡した。
    (a−2)の「朝臣族101」も殆ど淘汰滅亡したが、「傍系族」が地方に姓族化して土豪化して生き残る。

    この記録から観て「郷士か原士」と成った「族階順表」は次の様に成る。

    (b)=148
    (c)=324
    (d)=173
    (e)=105
    (f)=60

    合計=810

    この「810」が、「近江、美濃、信濃、甲斐」の「平安期の主要天領地」であったこの「四地域」に分布した事に成る。

    矢張り、「日本書紀」にもよく活躍して出て来る様に「臣と連」(c 324)が多い。

    これには歴史的に其れなりの理由があり、「臣と連」(c 324)は「中級官僚族」である。

    この「族階順表」から更に検証する。

    A 関西域と中部域の郷士予想数

    国数=13/66とする。
    当時、「天領地」は「810の約65%」が関西と中部域に集中していた。
    810・0.65/13=41 郷士数/国

    そうすると「平安初期の四地域」には、 正規な41の郷士数/国 と成る。

    これに(a−2)の「101(朝臣族)」のBが加わる事に成る。


    B 天領地に赴任族で姓族化した傍系族。

    (a−2)の「101の朝臣族・傍系姓族」/4=25/国
    41+25=66 正規な郷士数/国(近江 信濃 美濃 甲斐) と成る。

    「平安期初期」には、矢張り、「主要天領地」では次の様に成る。

    「伊勢」とほぼ同じ程度の「原士と郷士数(50〜66):(A+B)」

    以上であった事が云える。

    (注釈 重要 「伊勢」は、結局は室町期に北畠氏や織田氏等に侵されて乱れるが、結局は「元来の原士や郷士数」は変化しなかった事に成る。
    「伊勢」は言い換えれば護られた事に成る。
    「信濃」は国衆などに浸食されるが抑止力効果で所領地権域の1/4程度は護った。後段で論じる)

    時系列として、平安期末期には、然し、「近江と美濃」は滅亡し、「甲斐」も大打撃を受ける。

    (注釈 取り分け「近江」は「美濃」まで逃げた事が近江の全てを失った。)

    これに鎌倉期から次第に増え室町期中期より「勃興の姓(イ)と(ロ)」が加わる。

    然し、この「勃興の姓(イ)と(ロ)」は「新撰姓氏禄」に記載される正規な「原士や郷士」では無い為にこの計算には入らない。

    (注釈 「正規」とは朝廷が認める族 「族階順表」の記載)

    従って、「(a)〜(f)に記載されている族」が一族化して一部は「郷氏」に、多くは「郷士」に成り得ている。
    依って、その「ルーツの位階や官位」は、「勃興の姓」の「武士の時代」に成っても「郷士>武士」であって彼らは「誇り」を持っていた。

    江戸期には、従って、「勃興の姓(下記のイ)と(下記のロ)」の「姓族(第二の姓)」はこれを卑下して、この「郷士>武士の関係」を「郷士<武士」の関係に変えようと醜い論争が起こった。

    基本的には重要な歴史観としてはこの「族階順表」からも読み取れる。

    「(a−2)〜(f)の900」に近い「全国の郷士」は、そもそも「奈良期から平安期」の“「官僚族」”であって基本的には“「武士族」”ではない。

    要するに、「官僚の務め」を全うする為に「武力」を行使していた“「官僚族」”である。
    つまり、「補完役の秀郷流青木氏(初期)」の様に、地方の「押領使の令外官(警察や軍隊や治安)」の役務を果たしていた族である。
    判りやすく云えば、「藤原氏や大蔵氏の傍系族の下位の官僚族」である。

    “「官僚族」”の「位階」は「従四位下の以上の官僚族」である。
    「最高官僚族」では「大蔵氏」の「錦の御旗族(大蔵氏・内蔵氏・安倍氏)」でもあるくらいである。
    「源氏」と云えど「上記の縛り」から外れた限りでは位階・格式は数段で下位である。

    (注釈 この様な意味で清和源氏分家の河内源氏系の頼朝が「摂津源氏の本家」でない限り幕府を開く資格は無かった。
    そこで、平家討伐の「以仁王の宣下」を「頼政」は頼朝に通達は出していなかった事が公に史実として最近に証明され判明した。
    「新宮次郎」がこの「宣下」を各地に通達したが、頼朝は受け取っていたとされていたが、これは幕府を開く為の「後付けの口実」であった事が判明した。
    そもそも「縛り」を放棄している「姓化した河内源氏」には「以仁王の宣下」は権威上から出さなかったこ事が証明されたのである。
    「以仁王の宣下」の「権威」に付いては「賛否両論」で、頼朝は軽く観た可能性が高い。)

    因みに例えば、「九州鹿児島の本土末端」に派遣されて、その後、「島津家の郷士」と成った「市来氏」等も元はこの「朝廷の六大官僚族」の一つである。

    歴史的に現在まで正式に「錦の御旗」を唯一与えられた「大宰府大監」で「九州全域の自治統治」を任された「阿多倍王」の末裔「大蔵氏」の「大蔵種材の末裔説」でもある。
    殆どは九州では元は「大蔵氏系の官僚族の末裔」が「郷士化」したものである。
    然し、この「大蔵氏」の彼らの「高位の官僚族は「郷士」とは成ら無かった。
    例えば、「青木氏と関係」のある「伴造」から「九州全土に広がった豪族」と成った「大伴氏」もこの「派遣の官僚族」である。

    この事前知識を前提に、元に戻して検証を続ける。

    取り分け、前段で論じた様に「信濃と近江」では、奈良期までは「血縁関係」が相互間で起こっていた事から“「伊勢」と連動していた事”が資料からも判る。
    又、この「族階順表」からも伺える。

    この状況が、「100年単位」を一つの区切りとしてで観れば、江戸期初期まで「比例的」に血縁は10回繰り返されていた事に成る。

    「比例的増加(2)」の「37〜73」=(AVE55/50)・10回≒550

    以上と成りこの数は現実にはあり得ない。

    但し、「平安初期からと江戸期初期」までは、前段でも論じた様に、「血縁の相手の数」が数倍に異なる故に比例計算は先ず論外で出来ない。

    上記の「1000年での数理計算」の“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”では納得できる。
    この間の「郷士数の変動などの歴史的経緯」の「変動値20%〜30%」を勘案して観ると次の様に成る。

    550・「1/2〜1/3倍」=270〜180=3〜5

    以上として成立する。

    「室町期の下剋上と戦乱」に巻き込まれた元々「対抗する力の弱い官僚族・押領使等の令外官」であった「郷士の960」は、例えば、次の様に成った。

    「真人族」の「(a−1)の48」は、1/5(≒5氏)程度に成った。
    「朝臣族」の「(a−2)の101」は、「豪族の家臣(≒68士)」に成った。

    (68士は滅亡して殆どが「傍系族」の姓化した。)

    「郷士」に成ったとされる「朝臣族」の「(a−2)の生き残り」は、「秀郷一門の庇護」を受けた。
    その存在はその「主要地域の24地域」に観られる。

    これはその「家紋分析」より凡そ確認出来ている。

    イ 「郷士数」は(68士・1/3)≒「33士程度」と成った。(氏人族と成っている。)
    ロ 「家紋分析」以外に「郷士」に成った「士・原士含む」には、「諡号の姓」を名乗っている。(「当時の地名」を使っている。)

    この「イとロ」が彼らの「官僚族の判別できる特徴」である。

    この「二つの特徴(家臣化と郷士化)・イとロ」から「朝臣族」の「(a−2)の生き残り」が系統的に明確に読み取れるのだ。

    この「読み取り」から「朝臣族」の「(a−2)の生き残り末裔 101」の内の「郷士の氏族化」は、次の様に成った。

    “「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”/(50士〜55士)

    以上と成った。


    平安期から比べれば、要するにこの「氏族・(50士〜55士)」の数は激減している。
    然し、これが江戸期初期、又はその直前では恐らくこの範囲にあった事が頷ける。

    (注釈 但し、上記の計算の「氏族化の変動値」は、これから「10%〜15%」と計算している。
    前段の検証でも「一国・6〜7郡」の中で住める「郷士の数」も「50前後」とした。一致した。)

    (注釈 前段でも論じたが、つまり、当時は、「天智天皇の川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」が住んでいた「神・神木」に関わる「佐々木郷(「斎斎の木」)」を以って賜姓したと「日本書紀」に在る。
    又、「日本書紀」や「嵯峨天皇の詔勅の禁令」等の古書にも、「青木氏」の様な“「神木名」”を使った「皇族の朝臣族」が在ると記されている。
    「青木氏の氏名」は「あおきの木」の葉は常緑で、木も浄木地で育ち緑で、実は血を表す赤で、奈良期は「柏の木」と共に最高級の「神木」とされていた。
    「青木氏」は更にこの「神木の柏の木」も「神明社の象徴紋」として与えられた事が「日本書紀や三代格書」などにもと記されている。)

    (注釈 従って、これらの「三つの族」の「諡号の姓化」には「神地名」と「神木名」と共に使用を禁じている。
    「嵯峨期の詔勅の禁令」は「奈良期からの慣習」を追認して禁じたものである。
    「特別地名の諡号の名」と「神木の諡号の名」は、「真人朝臣族」以外の族には、「地名の姓名」と共に、その「慣習仕来り掟」をも一切を使用を禁じている。
    当然に、「48氏以外の朝臣族」、即ち「賜姓源氏」も含めて使用を禁じられているのだ。)

    そこで、「嵯峨期」まで「上記の注釈の様な乱用」が無秩序にあった事から「新撰姓氏禄」では、それまでの「血縁」が無秩序に入り乱れて区別が付か無くなっていた。
    この「状態の子孫拡大」を改善して国体の基礎として「正常な秩序ある判別性」を持たす為に次の事を行った。

    これがそれまで無かった「910の族」の社会環境に”「縛り」”と呼ばれた「格式制度」を確立させたのである。

    先ず、上記の「(a)〜(f)」を「12−6」に分類した事である。(縛り 1)

    その上で、更に「真人族48氏」を除く「911氏」に付きこれを次の「3つの族」に分けた。(縛り 2)

    (a)真人(48)、朝臣(101)
    (b)宿祢(98)、忌寸(50)

    (c)臣(66)、連(258)
    (d)首( 93)、造(80)

    (e)公(63)、直(42)
    (f)史(28)、村主(20)、県主(12)

    この「3つの族」は更に次の様に区分けした。(縛り 3)
    (「皇別族」は含まず)

    「朝臣族」
    「神別族」
    「蕃別族」

    以上の3つに区別して「血縁性の確立(縛り 1〜3)」を押し立てたのである。

    そして、更に、この時、この「区分け」を明確にする為に次の区分けを定めた。(縛り 4)

    「特別地名の諡号の名」と「神木の諡号の名」の範疇にある族の全てに対しても縛りを掛けた。
    (縛り 5)

    「皇別族・皇族別48氏での判別」も、次の三つに分けるとした。(縛り 6)

    「直系族別」 (判り易く云えば主家族 : 卑属と尊属に分ける)
    「尊属族別」 (判り易く云えば親戚族 : 卑属と尊属に分ける)
    「傍系族別」 (判り易く云えば縁者族 : 卑属と尊属に分ける)

    以上、「3つ」が「6つ」に成り、この関係で「子孫」を区分けしては拡がらせる事を定めた。

    この「六つの縛り」に依って「格式化」を促したのである。

    これが更に「子孫拡大」に伴って{「2の2乗」*3}の法則で広がる。
    然し、”拡がり過ぎる”と元の{「2の2乗」*3}の「元の状態」に戻させた。

    つまり、この「一族管理」が出来る範囲の限度の「縛り」を設けたのである。

    これが「総家−宗家−本家」の「区分けの原則」として戻されたのである。

    「族内の一切の決め事」が「総家」が認めなければ、「宗家」が認めなければ、「本家」が認めなければの「認可制度」を確立させたのであった。
    上え上えと”何事にもお伺いを立てる掟”である。

    その「区切りの範囲」を「分家」と云う言葉で区切ったのである。

    (注釈 青木氏は姓を持たない為にこの「総家−宗家−本家」が無く当然に「分家」は無い。)

    つまり、この「分家の言葉」には大きな「格式の違い差」を持たせたのである。

    極端に云うと、「総家−宗家−本家」までが”「家」”と云う範囲であった。

    「氏族である秀郷流藤原氏一門・361氏」は、この「仕来り」を「家紋と家号」に表す程に徹底して強調した。
    故に、「秀郷流一門一族」の「位置づけ」は「家紋と家名」で現在でも見抜けるのである。
    当に、この「縛りの効果」であるが、「秀郷流藤原氏一門・361氏」はこれ等のことが評価されて「特別な縛りを護る氏族」として認められていたのだ。
    「家紋や家号」からも「総家−宗家−本家」の位置づけが格段と違う。
    逆に云えば、「秀郷流藤原氏一門・361氏」は常に比較対象と成るが、この「縛り」に従わなかった「源氏族」はこれが全く無いのだ。
    ただ「単なる賜姓族」であると云うだけで、そこには格式を示す他のものは無いのだ。

    (注釈 理解を深める為に「縛り」の例として次の事がある。
    そもそも「源氏族」が「笹竜胆と白旗」を象徴としているが、何処に朝廷より与えられたとする記録があるのか、そんな記録はないのである。
    在るのは「光仁天皇」に於ける「皇別の青木氏との繋がり」からの搾取に他ならないのだ。
    そもそも、”「八幡宮社」”と”「八幡大菩薩」”の守護神と菩提寺を有する「源氏」が「笹竜胆である事・(神明社)」は無く、且つ、この事は同時に「密教浄土宗原理主義派」の印の「白旗」とも矛盾している。
    14もあった「法然後の浄土宗の派別」から「宗派争い」が起こり「最小派の白旗組」の「密教浄土宗原理主義派・青木氏派」を”「浄土宗」”とすると突然に決めたのは「室町幕府」である。
    「源氏」は「鎌倉期・1221年」までであり、且つ、「縛り」を無視した族であり、「顕教の浄土宗」である「源氏」が「白旗」である筈が論理的に無いのだ。
    従って、「白旗」でない限りは「笹竜胆」でもない事に成る。
    「白旗と笹竜胆」は一対のものであり逆の事も云える。
    更には「賜姓紋」として与えられた「笹竜胆」であるとするならば、「青木氏」から観れば曾孫域の「嵯峨源氏だけの出自元」が「伊勢青木氏」であったとする事だけで精々云えるかも知れないのである。
    従って、「嵯峨源氏の範囲」であれば何とか理解は出来るが、「嵯峨源氏」でさえも結局は「縛り」を護らなかったのである。
    更に、これも一対としての「笹竜胆紋」に添えられた「賜姓守護像・ステイタス像」、つまり「鞍作止利作の大日如来坐像」を持つているのかという事に成る。無いのだ。
    そもそも「如来信仰」は「青木氏等の密教」であり、「源氏」は「阿弥陀信仰の顕教」である。
    前段でも何度も論じたが根本域に違いがあるのだ。
    念の為に再記するが、「如来信仰」は彼世から「人に悟り」を求める密教で、「阿弥陀信仰」は釈迦を現世に下ろして「人に教え」を伝える「顕教」である。
    「皇祖神の子神の祖先神の神明社」では無く、「八幡菩薩」で「八幡の神教」と「菩薩の仏教」を合わせた「信仰体」である限り、そもそもこれらはあり得ないのである。
    上記した「以仁王の宣下」の事も含めて、これ等の矛盾を隠すために明らかに「頼朝の権威後付け」であった事に成る。
    「摂津源氏」ならば未だしも「繋がり」は多少認められるが、要するに頼朝らはそもそも上記の「分家」である。
    故に、この様に「歴史」とは、「権威の為の後付けの搾取」が多く横行し、よく調べないで公的な記録とされているのが現状で根本的な間違いを起こすのである。
    「青木氏の研究」から観ると、この「頼朝の笹竜胆紋」は「搾取の矛盾」があり過ぎるのだ。
    つまり、この朝廷が定めた「縛り」が無ければ問題はないが、論じている「史実の縛り」から観ればである。
    故に、「摂津源氏の四家族の頼政」等は、”事を興す大義”を何とか造り上げる為にも「伊勢と信濃」に「子孫」を送り込んだとも執れるのだ。
    これならば、「笹竜胆も白旗」も頷ける。
    確かに前段で論じた様に”子孫を遺すと云う大義”もあったであろうが、この事も大きかったと観ている。
    「正三位」がこれを証明し、「分家の頼朝」に”「宣下を出していなかった」”とする史実も理解できる。)

    この「注釈の様」に「嵯峨期」までは無制限に無統制に成っていたものを「縛り」で統制しようとしたのである。
    無制限は「天皇家の形態」が崩れる事に成り兼ねないからである。
    つまり、思わずも「孝謙天皇の白羽の矢」から発している所以を以て「秩序ある国体」を造ろうとしたのである。
    ところが皮肉にもその期待する結果はその後も嵯峨源氏や河内清和源氏の「自らの子孫」がこれを破った事であるのだ。

    この様な事を無くす為にもこの「八つの縛り」を掛けて「血縁の範囲の明確化」をして「族の拡大を防ぐ制度」が確立する様にしたのである。(縛り 7)
    「子孫の無秩序な拡大」がこの様な事を生み国体は乱れるとしたのである。

    この「真人族の区分けの原則」も、「総家−宗家−本家」を「四家制度」にして採用して「分家・支流化・姓化」を食い止めて「格式の確立」を求めた。
    「青木氏」では「四掟の原則と四家制度と女系妻嫁制度」に枠を固め「氏族」で統制した。
    従って、「尊属族別」から「傍系族別」へと移行して行く過程を無くして「四家の範囲」で留めて行く原則とした。(縛り 8)

    当然に、「朝臣族」「神別族」「蕃別族」の「3つの族」の910族もこの「血縁原則」のこれに従う事に成った。

    これで「青木氏」では「血縁関係の乱れた原則」を統一したのである。
    これが本来の「新撰姓氏禄の政治的な目的」であった筈である。
    然し、「清和源氏の二代目満仲」がこれを壊して朝廷から蟄居を命じられたのである。
    その「分家の頼信」の河内源氏も意地に成って徹底的に無視した。
    「11流ある源氏」もこれに追随した。
    結果としては、生きて行く為に「八つの縛り」を守り切れず「近江美濃甲斐の三流の青木氏族」も破ったのである。

    前段でも論じた様に、「天皇三代」に渡り確立しようとしたが、然し、これ程に「910の諡号姓族」からも「猛烈な反発」を受けた。

    つまり、所謂、この「八つの縛り」、これが“「氏家制度」”の始まりである。

    (注釈 後にこの「氏家制度」が確立し始めて、江戸期で完成して世は「安定期」と成ったのである。
    「第二の姓」がこれを成し遂げたとするは皮肉な事ではある。)

    「910の諡号の姓族」に対して“「総家−宗家−本家」”を中心とした制度を確立させ、何はともあれその元と成る「血縁制度」を確立して、「血縁弊害」を無くし「良い子孫の国体」を造ろうとしたのである。

    (注釈 最終は「氏」は「縛り」に耐えられず消え、限られた数氏に成った。
    然し、「家」は810〜906の範囲で出来た。)

    唯、そこでこの「縛り」の範囲で遺った「真人族48氏」には更に“「特別の義務」”を押し付けた。

    「縛り1〜8」までは、勿論の事、更にこれを護らない以上は、“「真人族」とは認めない”と云う「厳しい縛り」である。

    次の3義務である。

    1 「四掟」の「縛り 9」である。
    2 「氏族(姓化しない)」を形成する事の「縛り 10」である。
    3 基準とする「位階と官位と格式」を授かる事の「縛り 11」である。

    以上、3つを課せた。

    「真人族48氏」は焦った。
    そもそも、世間性の無い「真人族」である。

    前段でも論じた様に、平安末期までに、鎌倉期では一時保護した事により増えたが、これで「真人族」は激減した。
    「室町期の下剋上や戦乱?1333年頃から」では影も無く消えた。

    然し、「青木氏族」は生き遺ったのである。

    次にそれは何故なのかである。

    何度も論じる処の“「商いの経済力 1」”とこれを使った“「抑止力 2」”と“「補完役の出現 3」”である。
    当然に朝廷が示す「縛り」を護った。

    (注釈 「補完役」そのものがこの「縛りに対する補完」でもあった。)

    当然に、以上の上記の「3つの課題条件」は元より、上記の「血縁の縛りの制度」にも適応した。

    そこで何が興ったかである。

    「滅亡する事」は解っている「皇子皇女」は、「真人族に成る事」を避けて、「皇族賜姓朝臣族の五家五流青木氏」に流れ込んだのである。
    これが「伊勢域」から始まった「青木氏族の所以」でもある。
    これも「青木氏」を彼らの「逃げ込み口」にする「補完役の意味・960年頃 平安期の中頃まで」でもあった。
    「伊勢と信濃」は「皇女」のみにして「血縁の弊害」を概観より取り除いた。
    但し、何度も云うが、常に比較対象とされる「賜姓源氏・最終1008年・花山」はこの「全ての縛りや課題の条件」に適合できなかった。

    (注釈 ここで、唯、興味深い事があるのだ。
    故に、「新撰姓氏禄・815年」にはそもそも「嵯峨源氏・814年」が、この時、「嵯峨源氏」は「真人族48氏の中」には入れられなかった。
    これはどういう意味か、賜姓して発祥させたにも、既に、定めた「縛り」を遵守されなかったと云う意味かである。
    この「嵯峨詔勅」は814年である。
    それまでは桓武期までは”「一世皇子制の賜姓」”であったものを、「賜姓青木氏」に真似て「賜姓源氏」と云う「氏名」を限定賜姓して「名誉」を与えるがその代わりに「経済的保護」をしないとする制度に替えた。
    つまり、「桓武期の賜姓・一世での身分保障」と「嵯峨期の賜姓・否保障」と比べれば始めから”勝手にせよ”という事で突き放している事に成る。
    故に、「縛り」には当初から彼らは守る意思が無かった事に成る。
    だから、「新撰姓氏禄・815年」には載せなかった事に成る。
    とするならば、「河内源氏」の「分家の頼朝」の「権威の後付け搾取」や「青木氏の家紋や旗の象徴搾取」は理解できる。)

    唯、然し、「摂津源氏の3代目源頼光−7代目頼政」は「四家制度や四掟制度」を何とか敷きこの課題をある程度護る姿勢を示しているのだ。
    「皇族の者」が「家臣の家臣」に成ると云う前代未聞の事の「仕来り破り」して逆道して、「北家藤原氏の道長に臣従して保身したのであった。
    この事から「桓武期の賜姓・一世での身分保障」の制度を護ったという事にも成る。
    変を起こす程の政争にも成った「桓武論説」と「嵯峨論説」の「桓武論説側」に着いたという事に成った。

    この様な苦労をしてある時期まで「四家と四掟」を構築した為に「真人族並み・正三位」(「氏族」は形成できなかったが)に扱われたのだ。
    そして、破格の「3天領地の守護代」を務め、朝廷より「伊豆の所領」までも正式に与えられた。
    つまり、「河内源氏の武力による奪取」では無かった。
    「嵯峨期の詔勅」は所領を与えないものであったにも拘わらず所領を与えられた。

    (注釈 この事に乗じて朝廷は荒廃した神社の建て直しを摂津源氏に命じた。
    ところが、なんだかんだと言い逃れして実行しなかった。
    あまりの追及に「一社の改築・改修」をして逃げようとしたが出来ず、見放された事が史実として遺されている。
    一国の所領の力では無理な事であった。)

    ところが「頼信系河内源氏」は敢えて始めからこの「一切の縛り」に従わなかった。
    一族が「姓化する事」は一見して血縁弊害が低下する様に見えるが、そうでは無かった。
    寧ろ、「一族の結束力」を強化する為により近い血縁を繰り返して弊害を生んだ事が資料から読み取れる。

    (注釈 寧ろ、逆らって姓化して武装化して奪取して領地を拡大させた 
    故に朝廷から観れば河内源氏は何ら「第二の姓」と変わらないのである。
    寧ろ、「810の官僚族」の方が当時は「権威性」はあると考えられていた。
    「朝臣族」であるとは云え、後の徳川幕府と何ら変わらない事になるのである。
    それ故に「分家」でもあり「権威と象徴」が欲しかったと考えられるのである。
    朝廷が「縛りの制」を敷いた事は彼らは充分に知っていた筈であり、この為にも「後付け搾取」をやってのけたと云う事なのである。)
    故に、「頼政の正三位」に比べて「真人族」では無く「朝臣族」に留まり「位階も官位」も低いのである。)


    注釈として、この“「縛り」”の為に「賜姓源氏族の子孫拡大」は限定された。
    「真人族の朝臣族」には組み入れられず、殆どは「傍系族別」に部類される事に成って仕舞った所以でもあるのだ。
    従って、「賜姓源氏と名乗る族」の殆どは、本来はこの「傍系族別」以上は歴史論理的に起こり得ないのである。
     (世間の風評資料と記録は殆どは搾取偏纂)

    「禁令と区別(縛り)」でこの結果として以上に分ける事が出来るとして、これに更に次の様な事が興った。

    血縁の経緯から必然的に「(b)〜(f) 810」が次の様に成った。

    「室町期の豪族」の「支配下に入り生き延びた武士」 姓化
    「氏族」と共生する「誇り高い伝統を護り得た氏人」  郷士

    この「二つに成り得た族」が興ったのである。

    この「二つの間 810」には更に結果として“「格式を示す姓名」”に「違い」が起こったのである。

    どんなに誇張搾取しても「禁令の差」と「格式の判別」と「縛りの判別」や「姓名の違い」で判別できると云う事なのである。

    唯、ところが「真人族を入れた959」のこれ等に関わらない“「新たな姓族(新興族・第二の姓)」”が室町期に勃興した。
    それが「第二の姓」であるのだが、これで「縛り」などの「社会の秩序」は大きく変わって仕舞った。
    この為に「室町期中期頃」からは“「格式を示す姓名」”が遺り得てもこの「禁令」と上記の「身分格式制」が元より完全に無視された。
    この「第二の姓」の「新興族の比率」が急激に逆転し、その比が室町期の中程(1500年頃)から急激に増し、遂には短期間(140年)でその「勢い」は室町期末期には8割以上までを占める事と成った。

    筆者の調査で検証して観ると次の様に成る。
    「武士(上級下級含む)」は「約130万人・士族」であった。
    (明治3年苗字令の士族を基準に計算 徒士と家族含む)

    130万/4人≒30万 4%(戦闘員)

    「第二の姓」/「第一の姓(910族)」≒8:2
    「第一の姓(910族)」は「6万人(家族含まず)」いた事に成る。

    30万・0.8=24万 3.2%
    24万/140年≒1714人/年

    「増える事の無い姓」が庶民から毎年「2000程度(人、家、族」が「実質の士族」・「第二の姓」に成って増えて行く事に成る。
    (軍は大半は「荷駄兵等の農民」や「傭兵」であるのでこれは除く) 

    「室町期中期(1500年頃)」を境には、「第一の姓(910族)」を一挙に追い越し、既に、毎年4倍化して行った事に成る。

    これでは、「縛り」も何もあったものではない。
    これに合わした新制度を新たに構築しなければ社会は安定はしない事は充分に解る。
    上記の「イとロ」の「第一の姓(910族)」の立場も殆ど無く成っていた事に成るだろう。
    「苦しい環境」であった事に成る。
    取り分け、「信濃」は苦しい環境にあった事が判る。

    これが「第二の姓(24万」の上記の「氏家制度」を模倣し踏襲した江戸期の「武家諸法度」である。

    (重要な注釈 歴史的に関係する令として出されたものを観てみると、「元和、寛永,寛文、天和、宝永、享保」の6令を以て出されている。
    これが追加集約されて「武家諸法度」として確立し大名に一定の秩序を課した。
    その内容を観て観ると、主に「元和」がその「縛りの趣旨」に近く「幕府許可制」で「幕府の思惑」で統制した。
    「嵯峨期」の様な「縛り条件」を確定して明示せずにそれを参考に判断して許可を出した。
    「幕府思惑」に外れた場合は「取り潰し」で厳しく処理した。
    「裁量権」を強化して「複雑な血縁関係」を「柔軟」に対処したのである。
    実は朝廷と繋がりを強く持った「豊臣政権」でも同じような事が模倣されていた。
    これは「血縁の許可制」に重点を置いている事から「縛り」に近いものである。
    矢張り、「血縁濃度」が高く成りやすい「一族の結束力強化」に懸念して「国体の在り様」が考えられていた事に成る。
    当初は主に一万石以上の「大名」に対しての掟であった。
    それは上記した様な血縁弊害から「痴呆の指導者」が出来る事で族内外で戦乱・混乱が起こり易く成る事を懸念していたのである。
    特に「元和の令文」を読み取ると、「7つ縛り」の散文形式には成っているがこの内容が組み込まれている。
    これを観ると、明らかにこの「監視の元」をこの「縛り」を見本にしたのである。
    そして、「第一の諡号の姓」ではなく「第二の姓」の「氏家制度・血絵統制」として確立したのである。
    享保期以降には「大名」に限らず「5000石程度の家」、つまり「第二の姓」の「家」が構成できる限界と観ていた。
    彼等にもこの制度を適用して統制したし、後にはこの概念が末端の武士にも引き継がれて行った。
    江戸中期以降には「縛りの変形」が要するに遂には「天下の宝刀」として怖がられたのである。)


    (注釈 江戸時代に「西の政権・権威を与える朝廷」は金銭で「官位官職」を「幕府の推薦」で「武家(5000石程度以上の家)・第二の姓」に与えた。
    然し、与えた「官位官職」を調べると一応これにはそれなりの朝廷側の「基準」があった。
    「第二の姓」が「武家の証」を造り出す為に「搾取偏纂」で「第一の諡号姓・910」の「武家の系譜」を求めた。
    そして、この搾取での「福家の証」として発行されたもので「国印状」を取得した。
    この国印状で得られた「搾取の武家」でも良いから、先ずはこれの前提で上記の「縛り1」「縛り2」「縛り3」の基準で与えたのである。
    「大名格の高位」の場合に依っては、更に「縛り4」「縛り5」「縛り6」)に適合しているかで「官位官職のレベル」の「振り分け」をして与えていた事が判る。
    従って、「大名格の高位」の場合は「系譜の搾取」にボロが出ない様に絶妙に行わなくてはならなかった。
    推して知るべしで、この「搾取系譜」が数代経過すると「尾ひれ」が着いて証拠も無いのに本物と思い込まれて行くのが歴史である。
    「新撰姓氏禄」の中に全く時代の異なる、且つ、「慣習仕来り掟」の合わない「矛盾の第二の姓名」が記載されているのはこの事から来ているのだ。
    「後付け」の最たる見本である。
    この現象は「青木氏」にもあって、「上記の縛りの理屈」からも「青木氏」は「姓」を出さない「氏族」なのに「姓化した甲斐」では横行しているのだ。)

    何事も多勢に無勢の論理から「嵯峨期」からの「禁令」と「身分格式制(縛り)」は上記の検証速度で崩壊して行ったのである。
    壊したのは確かにその意思の無い“「新たな姓族(新興族)」”ではあるが、「縛り」を無視した「河内の源氏族」も自ら壊した張本人であろう。
    「第二の姓」の「勃興の兆し」もあったのにこれに気づかずに「自分で自分の首を絞めた所以」と成ろう。

    (注釈 「摂津の嵯峨源氏」も最終は耐えられず「清和源氏」の「初期の武力集団」に組み込まれた。)

    然し、ここで云いたい事は、この様な環境の中でも「青木氏族」の中には依然として「青木氏の氏是」を護りながら「禁令」と「身分格式」は大変な苦労の末に「伝統と云う形」で、且つ「氏族と云う形」で維持していたのである。
    求めない「身分格式」がありながらも現代的な”「共生共存共栄の伝統」”で生き抜いたのである。
    明治9年まで続いた「青木氏」が主導した「伊勢騒動」はその「典型」では無いかと観られる。

    (注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
    これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

    ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
    ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
    「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。

    「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」に続く。


      [No.369] Re:「青木氏の伝統 49-1」−「青木氏の歴史観−22-1」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/22(Mon) 10:41:57  

    > > 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」の末尾。

    > 注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
    > 故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
    > そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
    > そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
    > これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。
    >
    > 時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
    > 内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」
    >
    > ∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」
    >
    > 以上の論理が成り立つと観ている。
    >
    > 更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
    > この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
    > 云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
    > 当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
    > この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。
    >
    > 故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
    >
    > この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
    > 故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
    > これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
    > これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。
    >



    「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−22」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    然し、ここで、先ずは一つ疑問がある。
    それは、“この「後家の表現」を「青木氏族」が使っていたという事を、又、何処でその資料と成る物が世間に漏れたのであろうかである。”これが「疑問−1」である。

    この疑問に触れて観る。
    そもそも、これは上記した様に「青木氏族」の「四家の中だけの制度」であり、この事は当時の「ある書物の記録」(不記載とする)として記述されている。
    この「後家の処置」は、元より、「青木氏族」としては知られたくない一種の「隠れ蓑の策」であった筈なのだ。
    確かに、「光仁期(770年)」から「仁明期(847年)」の「約80年間程度」は、少なくとも「直系尊属の氏族」として前段でも論じたが「政争」に巻き込まれない様に「青木氏の氏是」を護って何とか遠ざかろうとしていた。
    従って、「四掟の血縁」に依ってこの「政争」に引き込まれる可能性が高まるが、これを避けようとすればこの「後家の隠れ蓑の策」は是非に必要であった。
    期間的に観てこの“「後家の隠れ蓑の策」”を使用するとした場合の期間を、検証すると長く観ても「天皇家とその周りの族の政治的混乱期」が続いた「清和期(960年代頃)」までの間の事であろう。

    前段でも論じたが、歴史的には「清和源氏(経基―満仲)」そのものがその「張本人の一人」であった。
    この時、歴史的に「秀郷一門(青木氏族の秀郷流青木氏を含む 960年頃)」が敵視され大きく影響を受けた。
    注釈として、「関東での政争・将門の乱等」と「瀬戸内の純友の乱」が代表的である。
    この様に、二つの「青木氏族」はこれらの「政争」から何とか逃れようとしたのである。
    故に「関東の秀郷流青木氏」、「讃岐の秀郷流青木氏」は逃れられなかった事に成り巻き込まれた。

    この「政争」に“何が起こったか”と云うと、取り分け、秀郷一門の「青木氏族」と成った「主要五氏」に対しては、「円融天皇の補完策(960年頃)」により「特別優遇」され「最高の位階や官位」を次々と与えられた。
    然し、「清和源氏(経基―満仲)」にはこの特別優遇は無かった。(羨望と嫉妬)
    それが故に、この「青木氏族」の「弱者の女性」(位階を持っている)は、「他の氏族」から「絶好の婚姻策の相手」と定められて“「政争の具」”と成って巻き込まれる事と成って行った。
    この時、この結果、矢張り、光仁期の「五家五流青木氏」と同じく、この“「政争の具」”に使われる事を嫌って、上記の様に「女系の妻嫁制度」をより充実させてより確立させている縁戚の「伊勢や信濃の青木氏(救済策)」に逃げ込む事が多く成った。

    ところが、未だ「伊勢の秀郷流青木氏」を除き「他の主要な青木氏族」にはこの制度は未完であった。
    それには、「嫁家先制度」に関わらない場合には、「女(むすめ)」として入る事、将又、即座に「入妻」として入る事の二つは、「掟」の上では困難であった。
    そこで、どうしたかと云えば、“「隠れ蓑の策」”として造り上げていた“「後家制度」”で隠れて、その制度の中で何とか“「青木氏族」”として生きようとしたのであった。

    これは「源氏族の様な朝臣族」に執つては「羨望」と云うか、寧ろ「嫉妬」に近いものがあって、更にこれを「政争の具」と云うものにして引きずり込ませ様とする「煩わしい環境」の中にあった。
    高い位階と官位を与えられる同じ賜姓朝臣族でありながらも、彼らは「嵯峨期の詔勅」で冷遇されていたのである。
    だから当然と云えば当然なのだが。況してその「補完役」までも自分たちを超えて厚遇されていたのだ。

    この為に「伊勢、信濃の青木氏」と血縁関係の深かった「位階の持つ嫁家先(四掟)」の「秀郷一門の主要五氏の青木氏族(青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏)」は、「戦乱や政争」に明け暮れていた事から空かさずに「女系での子孫存続」に懸けて大いに救済を伊勢らに求めてきた。

    (注釈 この事は、「青木氏の資料」は元より「佐々木氏の資料」にも、「純友の乱の研究記録」の一環として、「讃岐秀郷流青木氏等の青木氏族」の行でこの「混乱の様」が記載されている。
    これは「秀郷流青木氏116氏24地域の分布」にも大きく影響を与えていた様である。
    それは「現地孫の増加」と「家紋分布の変化」に顕著に観られる。)

    事程左様に、「光仁期(770年頃)」から始まった「緊急策」であった「後家制度」は、90年間を経て「女系の妻嫁制度」に組み込まれた。
    そして他の関係する「青木氏族」からも積極的に利用される“「正式な隠れ蓑策」”に替わって行った。
    この経緯が「疑問−1の答え」である。
    つまり、この様な環境から「秀郷一門」へと間口が広がりそれが更に一族一門に広がったと云う事に成る。
    これが元で先ずは広まったのである。

    ところが、この「疑問−1」にも「疑問−2」が伴う。

    この「正式な隠れ蓑策」に付いて、「朝廷や摂関家などの権力者」が、この公然と行われる「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(第一段階 770年頃〜870年頃の100年間 更には第二段階960年代頃の100年間まで)に、“何故に政治的な権力や圧力を行使しなかったのかと云う疑問の「疑問−2」が湧く。

    当然に何時の世も世の中の周囲では起こる”「反動」”であり“出る杭は打たれる”が世の例えである。

    少なくとも、取り分け、「政治、政争」の中心にいて「利害」が伴った「北家で藤原摂関家」が、台頭する「秀郷流青木氏族」等に対して同じ「北家」でも少なくとも「口を出した筈」である。

    (注釈 そのひとつの証明に成る事がある。
    現実に「北家の摂関家」は衰退気味の中で「下がり藤紋」から「下がる」は忌み嫌うと云う事で「上り藤紋」に「総紋の家紋」を変えた。
    この「先祖伝来の下がり藤紋」を急に替えるという処に意味を持つ。
    然し、秀郷一門はこれに追随せずに「下がり藤紋」を貫いた。
    これにも証拠と成る意味を持つ。)

    必要以上に「宗家の勢力」より大きく成る事を「四家」で構成していた内の同じ藤原一族でも「南家藤原氏も西家も」の様に潰されて勢力拡大を嫌った筈である。
    当然に「皇族賜姓臣下族の青木氏」に対しても、然し、記録上では「口出し」は全く無かった。

    何故なのかである。
    それは、次の「六つ事」にあったと考えられる。

    「光仁天皇の尊属」であった事。
    「朝廷の大献納者」であった事。
    「抑止力の大氏族」であった事。
    「経済力の大氏族」であった事。
    「不入不倫の権の公的な保持者」であった事。
    「摂関家藤原氏」を遥かに超える「身分、冠位、位階の氏」であった事。

    他にも、前段でも論じたが、嵯峨期に「皇親族と賜姓族」を外されたにも関わらず「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処、賜姓五役)」を務めた。
    更には、「商い」を通じて「献納」の際に「天皇」に「巷の情報提供」をする“「戦略処(青木氏の表現)」“と云う「秘密裏の務め(令外官)」をも実行していた事が判っている。

    これらの務めは、前段の通り、元からの「施基皇子の役目(「撰善言司」)」でもあった事から、「青木氏族」がこれらを“「戦略処」”の言葉として捉えていた事が「青木氏の資料」に記載されて遺されている。
    これは「日本書紀の記載」の「施基皇子の編纂」の“「撰善言司」(「撰善言集」)”の「司」の「範疇(役目)」がそれに当たるだろう。
    歴史的にも証明できる。
    これ等の事も大いに働いて「疑問2」の答えとしては、「表向き」には簡単には「口出し」が出来なかったと観ている。

    「疑問2」の「口出しの出来ない理由」に対して、「疑問1」はだから「裏向き」を使って「讒言」で「政争」に巻き込んだと云う事であろう。


    そこで話が変わるが、そもそも、上記の「司・(つかさ)」に就いて「青木氏の歴史観(「撰善言司」)」として知って置く必要があるので先に特記する。
    これが「口出しの記録」が遺らなかった事を理解する事に役立つ
    その「言司」に込められている意味の“「司」”とは、これを咀嚼すると現在で云う「司の意味」と大部違っている。
    つまり、当時の“「司」”とは、“「朝廷(天皇)の一つのプロジェクトの役目」“を云う定義で、その「権能」は「天皇から与えられる令外官的意味合い」を持っていたものと考えられる。

    最低限、「室町期頃」までは、取り分け、記録から観るところでは少なくとも「鎌倉期の頃」までは「司」とは、「朝廷の仕事を務める下級の役人」の事を云っていた。
    それ故に、更に後には、「朝廷」、或いは、「幕府」より依頼されて「ある物」を専門的(令外官=司=匠)に作り、納品する「庶民の匠(たくみ)」の事も指す様に成ったと考える。

    これを「青木氏の歴史観」から観ると、筆者は“「朝廷(幕府)」の本来の「司の使用」”は「日本書紀」にも記載がある様に「施基皇子」の“「撰善言司」”の頃が始まりでは無いかと観ている。

    この前提は奈良期頃から始まった「渡来人」に依って興した“「経済システム」”にあったと考えられる。
    それは現在の様な「市場経済」ではなかった。
    歴史を考える場合はこの前提を知って理解を深めるべきである。

    その「古代の経済」は、何度も前段で論じているが“「部経済」“と呼ばれるものであった。
    それは“「全ての物造り」”の者は「朝廷の管理下」に置かれ、そこで造られた一切の物は先ず朝廷に納められ、「必要量」を収納し、「余剰品」を庶民に放出すると云うシステムであった。

    この「役目」を「朝廷の令外官」が担っていたのだが、つまり、これを「賜姓五役の一環」として共に「令外官の役目」として「皇親族の施基皇子とその子孫(青木氏)」が果たしていた。
    ここに大きな意味がある。
    この「各種の物造部の頭」の事を「匠(たくみ)」として呼称し「朝廷の末端の役人」として扱われていた。
    この「匠頭の役人」が「朝廷内の呼称」として「司」(役目・役人)と成った。
    つまり、「・・部司」(かきべのつかさ)である。
    つまり、この「司」は「物造り部の頭」の事である。

    (注釈 「青木氏の資料」によれば「物造りの人」を「部人(かきと)・部民(べみん)」)と書かれている。
    これらを「匠司」を束ねていたのが「上級役人・官僚」の「造(みやつこ)」である。
    「伴」、即ち、「束ねるの意」の「伴(とも)」に「造」で「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれていたのである。
    但し、「大豪族等の者」にも一部これを認め分けて「部曲(かきべ)、又は、部民」(かきべ)と呼んだ。

    (注釈 そこで当然に、「青木氏」に執っては「民に放出する役目の立場」として全国の「伴造」を配下にして、これを「総合的に総括する立場」としても独自に”「青木氏部」”をも保有していた。
    従って、「総合的に総括する立場」を使って「光仁期」から「仁明期」までの「青木氏出自系の天皇」はその本来の「諱号」は「伴・とも」に関わるものを名乗った。
    故に、この経緯から、この時から元の支配下にあった「官僚の伴氏」は「大伴氏」と変名した事は歴史の有名な史実である。
    平安初期は「諱号」により「伴氏」から「大伴氏」に、この「諱号」の影響が無くなった平安後期には地域的には「大伴氏」から「伴氏」に官僚の諡号姓名を変名した経緯がある。)

    (注釈 この「部司(かきべのつかさ)」に繋がる後の朝廷官僚、即ち、「五大官僚族」としてこの「伴造」の「伴氏」は「物造り」の「立場の重要性」から朝廷内にその勢力を拡大させ力を得て、そしてその部が盛んであった九州各地に配置された。
    九州各地に「大伴氏とその末裔族」が多い所以はここにある。
    前段でも論じた様にここが「渡来人の定住地」である。
    従って、多くの子孫の官僚族を九州各地に遺しているのだ。
    この子孫が名乗った者の多くの地名(例・鹿児島の市来・市来氏)が遺されている。
    九州全域に「物造りの匠(たくみ・つかさ)」と呼ばれる「司(つかさ)」が多い所以なのである。
    これがこの「匠司」から「たくみ」が「つかさ」と呼ばれ、「司」の「つかさ」が「たくみ」と呼ばれる所以はここから来ている。)

    (注釈 「青木氏」に神明社等の建造物を建造し管理維持する為に独自に「青木氏部」を持つていた事に成っているが、筆者はこれら「朝廷が抱える全ての部人」を青木氏部と呼んでいたのでは観ている。
    それは、これらの「部人の統括」は元より「その物の処理」まで任されていたのだから「全体呼称」を「青木氏部」と呼称していたと考えている。
    その証拠に市場放出権を任されこれを以て余剰品を一手に「商い」までに発展させられる「権利」を朝廷は認めているのであるから、その「総括権」から「青木氏部」としていたと考えられる。
    これが嵯峨期から「単独の青木氏」の「青木氏部」と替わって行って約60年後に独立して行った事に成ろう。
    何故ならば「60年と云う猶予期間」があるのは「祖先神の神明社」は依然として「青木氏」に委ねられているのであるからだ。
    天皇家に「祖先神の神明社の維持」のそんな力は無かった筈である。嵯峨期の詔勅が徹底する程に青木氏には影響は直ぐには来ていなかった事が云える。)

    この「部人(かきと)・部民(べみん)」の殆どは「後漢の阿多倍王」に引きつられて来た「職能集団の200万人の渡来人」である。
    薩摩の「阿多」や「大隅」などがそれに当たる。
    これが、本来の「司の語意」であり、「匠の語意」であるのだ。

    ところが、この「部の経済」は「市場経済」が発達し「鎌倉期頃」から次第に崩壊し、一部の物を「専売品」として定め、後は全てを「民が営む市場」に放出し始めたのである。
    そこに「貨幣経済」(中国から貨幣を輸入する)が浸透し、室町期中期には完全な「市場経済」へと移り始めたのである。

    重要な事は立体的に観察すれば、「青木氏」も連動して「市場放出権」や「伴造」を支配下に治めたことから「商い」は拡大した事で「疑問1と疑問2に打ち勝つ力」を持ったのである。

    (注釈 これに連れて次第に匠と司の語意の変化が起こった。)

    前段でも何度も論じている様に、「嵯峨期」から、「皇親族や令外官や賜姓族」から外れた後も、注釈の通りで「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処の実務)」と「賜姓五役」の「影の務め」を矢張り果たしていた事も解っている。

    それ故に、「疑問−2」の答えとしては、「周囲の勢力」は、上記の「六つの事」は勿論の事、「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(770年頃〜870年頃)に対して、“何故に「政治的な権力」を行使しなかったのかと云う疑問には、天皇家も摂関家にしても“一切何も言えなかった”ではないかと云う事であろう。

    依って、「司の役目」としても秘密裏に「令外官」を続けていた事を示す証拠等とも考えられる。
    寧ろ、戦略的には「表向き」は兎も角も「裏」では積極的に利用していたと考えられる。

    この“「匠司」”は“「言司」”と共に正確な知識の上に「青木氏の歴史観」として歴史の史実確定の上での見逃してはならない言葉なのである。

    (注釈 「青木氏の伊勢と信濃」は、「皇族賜姓朝臣族」、「伊勢(伊勢王)」の「冠位」は永代浄大一位、「信濃(信濃王)」は浄高二位 伊勢の官位は永代正二位、唯、信濃の官位は従四位上であった。
    何れも「皇族の四世族内の王位」に与えられる「冠位と官位と位階」である。
    これは「大化の改新」で「王位の範囲」を「第六世族」から「第四世族内」に改められた事から来ている。
    「伊勢」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇」を出した事から、同時に「敏達天皇の春日真人族の四世族(天智天皇)」の「同族、同門、同宗、同位」であった事から、「賜姓臣下族朝臣族」から、再び、「真人族」と成り得て、独自の「志紀真人族」を形成するまでの事と成る。
    そして、遂には再び「最上級の冠位位階の氏族」と成った。
    故に、「天皇」に「面会」が許され、且つ、「意見」までを述べる立場に永久に成っていた。)

    この事を考えれば「疑問1と疑問2の答え」は鎌倉期には最早「無駄な抵抗」と成り得ていた事であろう。

    (注釈 祖父の口伝では、祖父や曾祖父・先祖代々にはこれに関係する慣習が引き継がれ、「徳川時代の紀州藩藩主との接見」でも藩主より何時も上座に位置したと聞いている。
    従って、「令外官」として「献納時の挨拶」では「巷の情報」を「天皇に対する提供」する事は異議なく可能であった。
    これも前段でも別の面で論じたが、この「永代の冠位位階」を持ちながらも「朝廷の衰退」で、「慣習慣例仕来り」と成った「江戸期末」までは「将軍家」、「大正期」までは「紀州徳川氏」にも「上座」で面会が出来た事が「記録と口伝」と、又、実際に扱いを受けた「祖父の話」も聞けている。)

    (注釈 筆者の祖父は、明治から大正期まで「紀州徳川氏の茶道や南画や歌や禅の師匠、況や「素養指導」を務めた。筆者も一部確認している。)


    そこで話を初めの「後家制度」に戻して。
    この様な“「普通の立場」”でなかった「背景」があった為に、要するに「摂関家」を始めとして他の氏族は“「口出し」”は「表向き」には出来なかったと考えられる。
    従って、その結果から「公然とした隠れ蓑策」の「後家制度」と成り得ていた。
    そして、後にこれが「秀郷一門」から「表」に出て広まったという事に成ろう。
    「関東の秀郷一門」は挙って江戸初期に「徳川家の御家人」として、又、「官僚族」として活躍した事で「一般の姓族の武士」にまでに広まりを見せた事に由来しているのである。

    其の内に、「他の氏族」にも、これは「都合の良い策」として、「後家」は一般化して行って、これが範囲を広げて、何時しか「多くの意味合い」を持つ「庶民手段」に成ったと考えられる。
    故に、昭和中期頃まで使われたのであろう。
    そもそも、「嵯峨期の詔勅禁令」で「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用は禁じたが、この「後家」だけは早期に広まっている。
    これは他家に都合の良い策であった事が由縁と云える。

    注釈として、然し、庶民まで使われる様に成った事には、これらの「史実の事」を知り得ていた「青木氏族」の「伊勢、信濃の青木氏」も「秀郷流青木氏」も驚いていたと考えられる。
    「世情の安定期」に入った「江戸期」には取り分け使われた。
    これは、矢張り、「女系の妻嫁制度」の制度に付随するそのものの「隠れ蓑策」は別にしている。
    「享保の改革」を実行する為に「吉宗に同行した伊勢青木氏」と、「幕府の家臣」と成っていた「武蔵の秀郷流青木氏」の“「二つの力の影響」”が世間に一度により広がりを見せたものでふろう。
    取り分けに「武家諸法度」を護る為にも「武士の社会」に「都合が良く」、この“「影響」“を「社会慣習」として捉えて印象強く与えたと考えられる。
    昭和期まで続いたのはその証明である。
    逆に云えば、「便利な慣習」であったのであろう。
    これは「後家の呼称」の多さを観れば判る。
    「後家と云う言葉」を使う事に依って、それまでに無かった「社会慣習の区切り」が付けられたという事であろう。

    広まりを論理的に観れば、伝わった当初は、それほどに“「差別的な悪い意味」”では用いられてはいなかったのであろう。
    これは「江戸社会」が「享保の前後の頃」から社会は「安定期」に入り、「姓」から伸し上がった者にも「歴史や伝統」がそれなりに生まれ“「武士のお家感覚」”が広まった事に依るだろう。
    これは、つまり、更に、「黒印状」に依って社会に「権威に依る差別化」が起こり、それを容認する「武家諸法度」が制定された事が起因し、「姓の武士」にも「氏族」と同じ様に“「家感覚」”が起った事に成るだろう。
    この「家感覚」が起これば今度は必然的に「武士の家の慣習化」が起こりそれは複雑化する。
    ここに、「青木氏族」等の「後の家」の「上記の便利な慣習」が真似られて用いられたと成る。

    これは、明らかに他の「姓族」には無い「青木氏族」ならではの完全な「青木氏の歴史観」である。
    注釈として、この時期には「大括り」には「青木氏族」である「近江佐々木氏」も遂には耐えきれず「姓化」が起こり「氏族」は「伊勢と信濃青木氏」のみと成っていた。
    故に、「後家の伝統」の「青木氏の歴史観」である事さえも忘れ去られたのである。

    (注釈 「近江佐々木氏の青木氏の研究」の中にはこの「後家の現状」の行が記述されている。
    念の為に、これは「近江佐々木氏」も「青木氏族」であった事を説いている事に成る。
    筆者は「青木氏族」であると考えている。
    但し、全国に広まった「近江の宇多佐々木氏」は異なる。)

    この「後家の言葉」の“「広がり」“が、最初は、「特定の身分を持つ階級」に使われた事から、その”「便利さ」“であったからだと考えられる。
    「便利さ」を例えれば、「行ず後家」、「戻り後家」、「遺り後家」、「添え後家」、「妾け後家」、「隠し後家」、「不義後家」、・・・「後家倒し」、「酌婦後家」、「擦鉢後家」等、
    以上、最早、全ての「女の人生縁」に繋がる事に宛がわれている。

    この用語は、矢張り、関西に多く、北に向かうに従いその語意は限定されて使われて行く面白い傾向にある。
    それは、何をか況や「伊勢から始まった言葉」であったからであろう。


    さて、この事に付いて「青木氏の歴史観」として元に戻って少し詳しく「内部の事」を論じてみる。

    当然に、「位階」などを持つ「入り先」も、この「四六の古式概念」に基づく「妻嫁制度」ではその「掟」に従わざるを得なかった。
    又、古来の「古式の慣習仕来り掟」を持つ「入り先(高位の武家貴族)」である以上は、況してや、「神経を最大に働かせる血縁(公家階級)」に於いては、「大きな差異」は「伊勢」や「信濃」とはそんなに無かったであろう。
    当然に歳を得た「熟女」は「嫁(行ず後家)」に出さないであろうし、「青木氏」も「入り嫁」としては受け付けなかったであろう。
    ここが、双方に執って「妻嫁制度の掟」を納得させる為の「住職神職の腕の見せ所」であったであろう。

    今から考えれば、これは「女の人権を無視した事」には成る。
    然し、「子孫存続と云う大前提」を達成するには、「四六の古式概念」の基で執った「妻嫁制度」「嫁家制度」では「当然の仕儀」と成り得ていた。
    それは「氏家制度」の中では社会と異なる特異な制度であった。

    そこで、資料を見て行くと「面白い掟」の「伝統」の様なものが出て来る。

    先ずこの事から論じる。
    例えば、“嫁ぐ際に、その準備を誰がしていたのか”と云う事なのだが、これにも「女性の性」を抑え込んだ「掟」があった。

    当然に、「嫁ぐ準備」は、「女(むすめ)」に対して「口出し厳禁の掟」と「養育平等の掟」と成ってはいる。
    これが、その「母元」と「女(むすめ)」に執っては「見栄の性」としては気に成る事ではある。
    これを、「平等」に扱う事を前提に「養育所の住職」に任していた。
    “「養育の一切」”と“「出と入りの手配」”の「下計画」を当然に「福家」が決定していた。
    これに対して「住職」が「実務」を務めていたが、「福家と母元」は「女(むすめ)」の事には「口出し厳禁」であった。


    そこで「面白いもの」があって、これに触れて置く。

    これも「女系の妻嫁制度」を「適正に守る方法」で確立されたものであろう事が判る。
    何故ならば、これを司る「執事の差配」が「何らかの間違い」を興した場合、常に「6のパラメータ」であれば良いが、この「4のパラメータ」が狂い「3の領域」に入ったとすると、「血縁の弊害」を興す可能性が否定できなかった。

    この時、「執事」は、常にこの「6のパラメータ」にあるかを確認して、「妻嫁制度と嫁家先制度」を管理していた。
    従って、これで行くと、上記した「三つの血縁源」から「入妻」として入る「女」が「3のパラメータ」に成らないか先ず「確認注意する事」に成る。

    (注釈 「出と入り」の「女系譜」、又は「女過去帳」の様な「一覧表」を作っていた可能性がある。
    それでなくては「管理」は到底無理であろう。
    故に、「女墓」が出来ている所以であろう。
    この一覧表は明治35年の災禍で消失した。存在した事は確認できる。)

    どう云う事かと云うと、解りやすい例が直近で起こっていたのである。
    それは、上記した「冠位と位階」を持つ「近江佐々木氏(地名から賜姓)」は、「施基皇子」の弟(兄とする説もある)の「川島皇子」の出自であり、「佐々木郷(奈良期は斎々木の地名)」の「川島皇子(色夫古女)」は、「施基皇子(越道郎女)の息子の「白壁王(後の光仁天皇)」は「叔父」にあたる。(パラメータ1)
    その「叔父の家」に、「光仁天皇の女(むすめ)」の「能登王女」が、「川島皇子の男子」の「市原王」に嫁す。(パラメータ1)

    ここで「いとこの三親等の血縁」に成る。
    且つ、この「市原王」は「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
    これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
    既に、ここで「近江佐々木氏」では大きな「トランスポータ」が蓄積された。(青木氏族の所以)

    ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「能登王女」の「女(むすめ)」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入った。

    (注釈 「能登王女」も共に伊勢に戻る。これは要するに前段でも論じた様に「後家」として戻った事に成る。
    正しくは離縁して娘を引き連れて戻った事に成る。
    「能登王女」も「青木氏の四家」の叔父に嫁した形を採っている。)

    この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等の血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポータ」が蓄積される。(パラメータ2)

    処が、更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもある。
    既に、「曾孫」のここに更に「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「名張王女」”が嫁したのである。
    この段階で、その“「名張王女」”の「近江佐々木氏」の「女(むすめ)」に「血縁弊害」が必ず起こっていた筈である。

    つまりは「血縁弊害」の起こらなかった「女(むすめ)」が、再び、「伊勢青木氏に嫁した事」に成る。
    これは可成り大きな「トランスポータ」が「伊勢青木氏の四家」にも蓄積されていた事は否めない。
    女系で継承される「ミトコンドリヤの基本遺伝子」が元に戻ったと云う事である。
    「女同士の近親婚」は生理上あり得ないので、これをどの様に考えていいか良く判らない。
    この時期では、未だ、この様に相互に「女(むすめ)」の「交換の血縁」は常態化していた。

    従って、この時の「執事の差配」は、この「嗣子」と「佐々木氏に嫁した能登王女」の「女(むすめ)」との「入妻」は既に絶対に避けなければならない事に成っていた筈である。(パラメータ3)
    これは「女系」で引き継がれるこの「人の遺伝子」は、それも「二重」に元に戻って仕舞う事に成る。
    これは最早、「近江佐々木氏=伊勢青木氏」と成って仕舞った事を意味する。(青木氏族である。)
    況して、この「嗣子」が、当時の「相互血縁の仕来り」で「近江佐々木氏の女」(むすめ・いらつめ)の「入妻の男子」であった場合は「トランスポータの血縁弊害」は最悪と成る。

    (注釈 不詳だが、あった可能性が充分にあった筈。)

    これでは「男子」が母親から引き継いだ同じ「人の遺伝子(潜在性遺伝子)」が同じ家内で血縁すると云う「最悪の現象」が起こる。

    (注釈 「人の遺伝子」は直接に女系に繋がれる。)

    更に殆ど訳の分からない「近親婚」に近い事が起こる事に成る。
    確実に、この時、「伊勢」にも「近江」にも「血縁弊害」が何かが起こっていた事に成る。
    だから、一方でこの時期の「政治没」や「生誕不詳」や「消息不明」の記録が実に多い事の一つであろう。
    故に、そしてそれは、「青木氏族」や「佐々木氏族」の「掟」のみならず「弊害子・嬰児」は「普通の仕来り」を超えた事として「抹殺される事」が「位階」の持つ「貴族社会」での「社会の掟」と成っていたのであった。

    従って、この事があって、“「良い子孫存続」”の為の「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「伊勢青木氏」は、この時の経験を生かして「最悪の血縁」が生まれると云うどの様な「人の遺伝子」を持ち得ているか判らない「男子継承方法」を避けた。
    そして、「人の遺伝子」を明確に引き継いでいる「女系」で管理して、「最悪の血縁」を避け「良い子孫存続」の方法をこの時に採ったと考えられる。

    この時、「青木氏」には「女性」による「人の遺伝子」を引き継いでいるという「漠然として概念」に到達していたと観られる。
    当然にこの当時では、「遺伝子と云う概念」は無かったが、“「経験」”から「女性の持つ特異性」を感じ執っていたのであろう。

    それの経験とは、筆者は、「男女の両性」にあって「男性」のものが機能していないと云う事に気が付き、その次の「四つ事実」に着目していたと考えている。

    大部前の前段でも論じたが、男性には「へそ」と「ちち」と「子宮」と「生殖器の一部」は保持しながらもそれが“機能していない”と云う現実に気づいたと云う事である。
    当時、「子宮」の位置には未だ「男性」にも「親指程」のものが「なごり」として機能せずに遺されていた事が人類学の研究で判っている。
    「交配の進む民族」にはこれが「進化の過程」で無く成ったとされ、未だアフリカや交配の進まない山岳民族に現在も観られる。

    その「生殖器の一部」とは、「女性の膣」の「子宮の入り口」に“「ちんこう」”と云うものが現在人にもある。
    これは「子宮の入り口」を閉めているもので同形の機能を持つ。
    そもそも、「男性の生殖器」は「女性の生殖器」の単に外部に突き出たものに過ぎない。
    この「進化の過程」で女性にある恥骨が男性には消滅した。
    又、女性に無く男性に在る「喉仏」もこれを物語る一つである。
    これらを「総合した能力」から「女性」が「人の継承の源」である事を外見から見抜いていた事に成ろう。

    (注釈 人間で無くても虫や小動物の雌からの分離で雄が出来て生殖を行いその後死滅や母体に戻る等の変異を起こす。
    これでも解る。
    中には余談で海中や小動物に「ブルーの光」を雌に強く当て続けると雄に替わる等の事も解っている。)

    (注釈 昭和の中頃まで、“娘は母親似、息子の娘は祖母似“と云う「言い伝え」があった。
    つまり、「息子の娘」には、「祖母似(息子方・潜在型)」と「母親似(直系型)」の「二つの系統」が起こり引き継がれると云う事であるから、相当前にこの真実を既に分かっていた事を示す。
    つまり、上記でも示す様に外見でもこれは現在の「ミトコンドリヤの遺伝子」の摂理を既に云い充てていた事に成る。)
     
    即ち、前段でも論じている「女系の妻嫁制度」では、他の氏族とは異なり、上記の「社会の掟」に従うのではなく、この外見上の経験則の経緯からも最低でも“「パラメータ3」(四の法則)”に成る様に改善を加えて行ったのである。
    そして、常時は「パラーメータ4」(「パラメータ5」)に成る様に「女系の妻嫁制度」を改めたのである。

    この「血縁制度」は「氏族の命運」を左右する要素であって、それ故に、“「四の法則」”に従う必要があった。
    かと云って、平安期は当然の事として、鎌倉期も未だ難しい状況下にあった。
    「下剋上や戦乱」と云う中での室町期中期頃までは“「六の法則」”は、「三つの発祥源の役務」を崩す前提に成るので、先ず執れなかったというのが現実であった筈である。
    執れ始めたとしても、「江戸初期過ぎの安定期」に入った頃からの話と成っていた事に成る。
    唯、「パラメータ5」の「六の法則」を取り入れたかは別問題であろう。

    (注釈 「青木氏の四六の古式概念」は、「資料」より読み取ると、「始り点」(原点)を「影響の出ない点」としてそれを「−」として計算、「パラメータ」は、影響の出る「開始点」を「1」として計算する。
    数理学上は「パラメータ」は原点を「0」としている。
    この原点を「0」とする処に「古代浄土宗」と「神明社の融合」の「宗教的概念」があった様である。)

    この時、この「天皇家や公家族や氏族内」で起こるこの「血縁弊害の現象」を観て、「青木氏の執事」は、「四の古式概念」で防いでいた事が資料より読み取れる。
    そして、防ぐ為にはその“「発生源の範囲」”を確実にする事により改善したとされる。

    それが、如何なる理由があろうとも、「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式を導き出し確立させて行った事に成る。
    「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式で、経験則で「パラメータ4」(五の法則)で差配すれば、「血縁弊害」は完全に解消される事に成ったのである。

    (注釈 但し、これには一つの「特別な掟・前提」があった。それが“「嬰児」”と呼ばれる掟である。)

    この「嬰児の掟」(別記)を護る事が大前提とした。
    従って、この「関係式」を維持するには、相当に“「執事の管理に依る差配」“が左右したと考えられる。


    ところが、上記の例に観られる様に、「パラメータ2」の内で「嫁家制度」を未だ敷いている「位階」の持つ「三つの血縁源(近江佐々木氏等)」があった。
    ここから入る「伊勢の妻嫁制度」の限りに於いては、「福家と四家制度(4+4*4=20)」のこの「関係式」を敷いたとしても、「人の遺伝子の弊害」を持ち込まれる可能性は未だあった。
    これには“「四掟を基準とする付き合い」”を続ける限りは防ぎきれないものが絶対に起こる。

    さてそこで、考えたのが、「人の遺伝子」を直接引き継ぐ“「女(むすめ)」の範囲」を広げる事”にあった。
    このシステムでは、「人の遺伝子」の“「種と量」“が「氏族内に増える事」に成る。

    (注釈 男系の場合は、息子が引き継ぐ母親から「人の遺伝子」は隠れていて「息子の娘」にどの様に出るかは判らないし、娘を二代続きで生まれなかった場合は、「母系の人の遺伝子」は消える事に成る。
    つまり「血縁濃度」は高く成る。
    「重要な事」は論理的にも「男系嗣子の交配」は上記した様に「潜在型」である以上は外見からは管理する事は出来ない。
    娘が二代続きで生まれなかった場合の確立弊害の防止は男系では出来ない。
    その点では「女系」で管理すれば「直接型」であるので外見からは管理は可能である。)

    これは前段や上記で何度も論じている事である。
    「氏人からの血縁源の導入」と、それを補完する「女(むすめ)」の「養育制度」との二つであれば、例え「嫁家先制度の相手」が「位階の持つ三つの血縁源」であっても問題なく出来る。
    それは「女(むすめ)」の範囲を広げた「女」を差し向ければ、どんな事があっても「パラメータ3(四の法則)」、或いは、「パラメータ4(五の法則)の数式論」は完全にクリヤー出来る。

    何故ならば、この「三つの血縁源」から、再び、仮に「伊勢青木氏」に入ったとして、広がっている範囲で云えば次の様に成る。

    それは既に、「パラメータ2」(三の法則)で嫁いでも、そこから、更に、「三つの発祥源」の「女(むすめ)」を「入妻」として迎えても、この過程では更に「パラメータ2」が加わり、最低でも、「バラメータ4」(五の法則)に成り得る。

    直接、「自分の子供」の「女(むすめ)」を差し向ける事は、「名張王女の例の場合」でも「曾孫域」(パラメータ4)であったので、現実として、これを踏襲するとすれば、例え、「氏人との血縁性」があったとしても可能に成り、恐らくは、「パラメータ5」(六の法則)に成ったであろう。

    それが「玄孫(「夜叉孫域」)」の「女(むすめ)」とも成れば、確実に「パラメータ5」(六の法則)に成る。血縁弊害の可能性は極めて低く成る。

    つまり、恐らくは「女(むすめ)」の範囲を「玄孫」までとしたのは、「相手との血縁状況」が、何らかの「近い血縁」が結ばれる運びに成った可能性がある。そこで仮にあっても、「一つの方法」として「玄孫」を「嫁家先制度」に組入れておけば解決する事と成ると判断した事に成る。

    では、そこでこの「嫁家先の相手」は、「何処の氏族」かと云う事に成る。相手次第だ。
    これが、あり得るとしてら「伊勢秀郷流青木氏」か「秀郷一門の伊勢の伊藤氏(伊勢藤氏)」の範囲と成り得るだろう。

    注釈として、 「信濃青木氏」は、既に「四掟の範囲」を超えた殆ど「同族(四親等内親族・直系尊属)」に等しく、「伊勢青木氏」と同じとして考える必要があった。
    「信濃青木氏=伊勢青木氏」の関係式である。
    上記の「近江佐々木氏の事」を考えれば、最早、その隙間は無く「伊勢青木氏」で論じる場合でも、それは何もかも「伊勢青木氏=信濃青木氏」と成るに等しい。
    現実に「系譜」を観れば、又、「口伝」でも明治9年まで現実にそうであった。

    然し乍ら、当然に「信濃青木氏との血縁」は、「伊豆の融合青木氏」に観られる様に、「他の青木氏族」とは異なり頻繁に行われていた。

    では、だとするとこの「青木氏族の組み合わせ」の「信濃伊豆」との「血縁の弊害」はどうしていたのかである。

    それが出来ていたのは、「伊勢青木氏=信濃青木氏」である事より、其処には、最早、“「位階」”と云う「バリヤー」の存在を超えていたもの何かの事があったからである。

    この「位階」が、「四掟」が、「嫁家制度」の「バリヤー」が、存在しない氏族はどの様であったかである。
    全く同様の「四家制度」と「女系に依る妻嫁制度」、や「後家制度」、「多気の里、神職、住職、物忌、支女、斎院、斎宮、」等の制度一切も、「伊勢青木氏=信濃青木氏」であると云う事に成っていた。
    依って、「同じルートの中」にあった。

    これを解決できるキーは「氏人の郷士の血縁源」であった筈である。
    最早、「氏人―氏上」、「御師」も同じと成ると、「女(むすめ)の制度」も同じであれば、必然的に“「信濃の小県郡の郷士衆との繋がり」”も双方が血縁で結ばれていた事に成り得る。
    これが血縁の弊害防止の策と成し得ていたとする答えである。


    これを検証する。

    注釈として、江戸期初期前は、「小県郡の青木村」は「六郷」に依って構成されていた。
    後段でも詳細に論じる。

    そうすると、「伊勢」の「女(むすめ)」を「信濃」に、「信濃」の「女(むすめ)」を「伊勢」にという事が興る。
    「伊勢」の「女(むすめ)」の「氏人の郷士」の「自由な血縁源」と、「信濃「女(むすめ)」の「氏人」と成っている「限られた郷士」の「自由な血縁源」が交互に、「伊勢と信濃の青木氏」に入る「仕組み」と成り得ていた事に成る。

    そもそも「信濃青木氏」の「氏人の郷士」は「小県郡青木村の郷士数」に限られていた。
    「信濃」にも、初期には「移動する国衆」も含めて変動する中でも「500以上」はあったとされる。
    ところが当初の平安期の頃と比べると「氏人の郷士衆」は1/10程度に激変化した。

    注釈として、平安期末期頃までは、
    現在の地名で云えば次の様に成る。

    長野市 1郡
    大町市 3郡
    小県郡 2郡
    上田市 1郡

    以上の四か所の7郡までを「郷氏」としての「勢力圏」として治めていた。

    「信濃国」は「10郡 67郷」にて構成されていて、当時としてはこの内の「4郡程度」を勢力圏にあった事に成り相当な勢力を保持していた事に成る。

    昔は1郡に「平均50郷士」が存在し得る限界数であって、これ以上は面積的な事からも無理の様であったらしい。
    この事から、当初は「200程度の郷士数」を支配下に治めての「巨大な郷氏」であったと考えられる。
    然し、記録から実際はこの時の「氏人」と成り得た「郷士数」は「100に満たない数」であったと考えられる。

    江戸期初期に成ってこの「勢力の支配地」は「殖産可能な肥沃な土地」であった事から「江戸幕府」に依って「幕府の財政確保」の観点から「幕領地」として接収された。
    従って、この経緯から最終は住む域が分断された事に依って次第に衰退し「小県郡域の一郡域(青木村)」と成った。
    「郷士数も50以下」と成ったのである。

    然し、「信濃青木氏」は「接収の結果」として、この元の「聖域の4郡の連携域」では「7郷が確実な村範囲」として広く「地権」が認められていた。
    結果として、この「地権域」まで含めると「合計12郷域」までにも分布している事に成った。

    下段に論じる様に、ここに江戸期初期の主に享保期には「大変な出来事」が起こった。

    (注釈 伊勢青木氏と吉宗との関係はこれで最悪と成った。)

    この事に就いては小県郡の青木村の「青木村歴史館」にも記録が遺されているし、公に成っている研究論文にも詳細に論じられている。

    さて、この上記の「注釈の範囲」に於いて、それが「玄孫(パラメータ4・五の法則)の範囲」として血縁すれば、既に、「玄孫域」では「パラメータ4」を超えている事に成り得る。

    故に、「伊勢=信濃間の血縁」は、「玄孫の更なる目的」として先ずは「玄孫域を原則」と定めていた根拠に成る。
    これが「郷士数」と「玄孫域」の「二つの防止策」で先ずは「血縁の弊害」を防いでいたのである。

    この「玄孫域」を用いる疑問は、「研究の過程」で資料から読み解けた範囲である。

    「資料」には、四度も「玄孫」の「女(むすめ)」が相互に時期は多少異なるが、「出と入」が起こっていた。
    「伝統−40の末尾」に記した下記の「女(むすめ)」の範囲は、「玄孫域外」の次の域と成る。

    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    以上は、資料から散見できる範囲では、何らかの“「特別な事情」”により養育した事が考えられる。

    この「5〜7の範囲」の「女(むすめ)」が実際の「嫁家先制度」に乗せたかは定かではない。
    然し、あった事は事実であろう。
    因みに、「筆者の父」の従弟は「伊勢郷士」の出自であり、別の従兄は「信濃郷士」である。


    そこで、検証の問題なのはこの“「特別な事情」“とは何であったかは定かではない。
    唯、これは「青木氏側の事情」と云うよりは、「室町期末期の混乱期」の、前段での「伊賀の件」の様な「氏人の家」に「氏存続」の“「特別な事件」”が起こった事が主な事も一つとして考えられる。

    「伊勢=信濃間の血縁」は上記した様に「玄孫域」で解決出来ているので、それ以上と云う事に成ると、論理的に「信濃」や「伊豆」と「秀郷流青木氏」の「伊勢や近江や武蔵」の「関係性の深い青木氏族」のところに「特別な事件」があった事と成る。
    故に、「青木氏の資料」には確たるものとして多く散見できないのであろう。

    それらの事が原因して「伊勢内」では、
    先ず考えられる「一つ目」は、「青木氏の四家」では無く“「氏人の家の断絶や跡目」”が途切れて保護した等の事であろう。
    考えられる「二つ目」としては、上記した様に江戸期初期の前後に「信濃の小県郡」等は「富裕な土地」として「幕府殖産地政策」の一環としてとして「幕府領」として接収されたがこの事に依るものであろう。

    この二つの事に依って上記した様に、「信濃青木氏」が「4郡の連携域」が「7郷」から「12郷域」の5域に分散させられた。
    そして、「自由な絆の血縁」が制限される結果と成った所以であろう。

    この「5域」に対しては「地権」、つまり、「庄屋(郷氏)」が認められたかは定かではないが、「青木村付近」で興した「五つの大一揆」から観て「庄屋」ではなかった事が考えられる。
    一揆の首謀者は全て村を藩から派遣された「組頭」であるからだ。

    筆者の見解では、一揆の事も含めてこの「5地域の青木氏」を「家紋等や伝統」などで調べた範囲では広く認められていなかったと観ている。

    「上田藩」に下げ渡された段階までは、「殖産の指導(和紙と養蚕と酒造り)」と云う範囲で認めてられていたが、「幕領地」から藩領に成った時点の頃から家紋が変化している。
    「和紙と酒造り」は「7郷」でも主と成って殖産していたので「変化の境目」が出難い。

    殖産をさせる為に分断された「青木氏の者」が「真田藩、上田藩、小諸藩、岩村田藩」の「四藩」に本来あり得ない筈の家臣化しているのである。
    つまり、家臣化、即ち「姓の血縁化」が起こった事に成る。
    この事は「庄屋」では無く成っていた事に成る。

    故に、そうすると突き詰めるとした場合、信濃では分断されたことで「血縁」が「5、6、7の事」と成ったと考えられる。

    (注釈 その後、「幕府の殖産政策」が「青木氏等の努力」で大量の生産態勢が立ち上がった事を契機に幕府は「上田藩」に下げ渡し、管理させて「殖産利益」をフィードバックさせていた。)

    この時、「地権のあった土地」を奪われ、当然に貧した「信濃青木氏の氏人」の子孫を遺す為に、「伊勢の福家」は「7郷以外」の「女(むすめ)」を「伊勢の妻嫁制度」の「女(むすめ)」として引き取り、「伊勢」に保護したという事が充分に考えられる。
    「信濃」は相当に貧していた。(全国唯一一か所に集中して五大一揆が頻発している。)
    それが、農民では無く「組頭の武士」である。
    これは大きな意味を持つ。
    藩から派遣され「藩に味方する武士」が「一揆の首謀者」である。
    如何に藩の治世が悪かったかは判る。
    言い換えれば、「青木氏の氏族」は如何に貧していた事かを物語る。

    (注釈 「正規な資料」が遺されていないが、その「経緯」が遺されていてその経緯からも充分に判る。
    「幕領地としての接収」と「国衆の侵入」が大きい。)

    「幕領地の接収根拠」は「4郡12郷」は「天領地」であった事が「接収の理由」と成っている。
    江戸初期に全国の天領地の多くが幕領地として接収された。
    「伊勢」も「青木氏の旧領地」と鎌倉期の「本領安堵地の地権」は江戸期でも認められたが、その「他の本領地」は「接収」と成り例外では無かった。
    唯、前段でも何度も論じたが、「紀州藩との殖産共同体」や「勘定方指導」や「貸付金」や「朝廷への献納金」や「伊勢神宮の協賛」や「徳川氏との血縁族の四日市殿」や「莫大な財力」の等があった。
    これで、「本領地地権を接収する事」は“却ってこの「ツケ」が自分に振り返って来る事”から幕府に「紀州藩」は働きかけたのである。
    そもそも、「紀州藩の家臣」の殆どは、「伊勢青木氏」との血縁関係にある「伊勢藤氏」と「伊勢の秀郷流青木氏」等で占められていた事の経緯がある。
    これが良い方向に動いたのである。
    然し、周囲との手前から「接収無し」とは行かず「中伊勢域の接収」を形式上で行われた。
    結果としては、その「管理元は紀州藩」と成り、「青木氏の財力」に依って結果として「殖産地・地権」として利用している事から実質は同じであった。

    唯、ここに「山田奉行所管轄の幕府役所」が置かれていた事は事実であり、後にこれが「伊勢青木氏と揉める事」と成ったが、家康の“「伊勢の事お構いなし」”の「お定め書」で優位に立った。
    つまり、「信濃」にはこの経緯が起こらなかった。

    結局の処は、この「根本」は「伊勢」は奈良期からの「日本書紀」に書かれている「天智天皇の不入不倫の権」が伊勢では大きく左右したと考えられる。

    これは「女系の妻嫁制度」のそのものの為に執られた範囲たけではないだろう。

    この「5〜7の範囲の事」は、「執事」が専門的に判り得たとしても幾ら何でもそもそも「正式な記録」の中にこの様な事(「特別な事情」)は遺し得ないであろう。

    注釈として 検証するとして論理的に「女(むすめ)」での「子孫の拡大力」と、男での「子孫の拡大力」はその比ではない。
    前段の「人の遺伝論理」の通りで、「男性5」に対して「女性1」=「人の数1」であるが、「女性5」に対して「男性1」=「人の数5人」の以上と成り得る。

    そもそも「人の形態」では、この摂理は「男性」は「女性の分離体」としてで出来ている所以でもある。
    因みに、みみずは、雌が主体で、生殖時、メスが体を二つに分離し、雄を作り、生殖後は、その雄は再び雌に変化する。
    この様に、「生物」に依りその生殖構造は異なる。

    故に、注釈の通り、「5〜7の範囲の処置」は、「子孫拡大」には“「女(むすめ)」”を保護する所以であって、「女系の妻嫁制度」もその所以の一つでもあった。

    そもそも、この「5〜7の範囲の事(特別な事情)」は、平安期から江戸期初期頃までの時代とは云え、そこまで解る範囲であったのかが疑問である。
    然し、そこは伊勢も信濃も「執事の差配処」であったらしい。

    (注釈 現在ではこの範囲は全く他人の範囲であって、精々、田舎では「口伝の範囲」であろう。
    然し、平安期では「伝達手段」が低いにも関わらず少なくとも「5〜7の範囲の事」は「執事の範囲」では把握できていた事が「旧領地の家人の家の資料」の中に散見できる。
    然し、それが「女(むすめ)」の範囲として「常時の範囲」では無かったであろう。)

    そもそも、「時代の経緯」としては、平安期では上記の「尾張王女の例」の通り、確実には「伊勢の範囲」では「子域」、「孫域」、或いは、「曾孫域の範囲」で行われていた。
    「玄孫域」は、「信濃」を除いては、当に、「5〜7の範囲の処置・「特別な事情域」」の事と成り得ていたのである。
    それが、鎌倉期、室町期と時代の変化が進むに連れて、「玄孫域」までが、「通常の仕来り掟の範囲」として「女系の妻嫁制度」として採用される様に成ったのである。
    当然に、「嫁家先」も、この「時代の経緯の環境」の中(四掟)にあった事は云うまでもない。
    ところが「時代の経緯の環境」は、当初からの「5〜7の範囲」とは成らなかった。

    然し、平安期では、「玄孫域」は、未だ“「特別な事情域」“で、室町期末期や江戸期初期では、それが変化して「5〜7の範囲」が“「特別な事情域」”と成ったとする経緯である。

    当時は、「系譜」を「氏人の家」にも、当然に「青木氏」(菩提寺)にも備えてあって、それを突き合わせれば「容易な事」であり、全く問題は無かった。
    「幼名、俗名、戒名、通名」などを読み込み書き記し、観るだけで大方は解る。
    これはその証拠としてその「出自」等を読み込んだ「曼陀羅絵」や「過去帳」や「女墓」が出来る所以でもある。

    (注釈 江戸期は、一般の系譜は何度も論じてはいるが「搾取偏纂の系譜」で信用は出来ない。)

    唯、「玄孫」は筆者の代でも何とか確認できて知り得ていた。
    故に、「玄孫域」では「専門に扱う住職の執事」は、「50の郷士の中の事」の域では、全て記憶の中にあって、即座に答えられ判断され全く問題は無かったと考えられる。


    何故ならば、「伊勢青木氏」の「女系の妻嫁制度の権威」を、例え「女(むすめ)」の事に成るとしても、「位階」の持たない「伊勢郷士」の「氏人の男子の血筋」の入った「女(むすめ)」が嫁す事を容認したかである。
    と成れば、「嫁家先の彼ら」はそれをそもそも「許容するか」である。
    どんな理由で許容するかである。

    その答えは、“「権威」”に関わらず、「伊勢」や「信濃」に“「根付いた範囲の氏族」と成り得る“と判断していたからに外ならない。
    それは、郷士族であったとしても“「1千年と云う歴史」の「血縁の力」”に他ならない。
    伊勢も信濃もである。

    “「1千年と云う歴史」の「血縁の力」を”言い換えると、次の様な経緯と成る。

    論理的には「女系の妻嫁制度」には、“「人の遺伝子」を引き継ぐという概念”があった。
    これに対して、「四掟」で限定された「嫁家先」では、少なくとも“「ある程度の理解」(「1千年と云う歴史」の「血縁の力」)”を示していた事が云える。

    そうで無ければ、「一方的な押し付け」と成り、幾ら「女系の妻嫁制度」を敷いているかと云って「押し付け」を可能ならしめるレベル状況では無かった筈である。
    従って、その「理解の前提」は、上記の「外観差異の生態的な認識」の下にあって容認していた事に成ろう。

    現実に、「四日市殿(秀郷流青木氏との融合族青木氏族)」が「四家外」に誕生している事がその証拠と成ろう。
    又、幾つかの資料に依れば、この時の「四家の継承者の嗣子」には、「京の位階の低い公家」より「入妻」を配置している。

    (注釈 公家の名は避ける。位階があったが、従五位下で「妻嫁制度と嫁家先」の「血縁頻度」は低い。
    然し、光仁期から明治期初期まで三度もこの「公家族」と血縁をしている。
    この「公家」の一つは、筆者の父方祖母の家で、その血縁の最後と成るのはこの祖母は血縁の三年後に明治33年災禍で死亡と成る。)

    (注釈 「桓武期」から「嵯峨期」に掛けて「出自先の青木氏」の「取り扱い」に対して親子で政争と成る激しい論争が起こった。
    然し、この時、「桓武天皇」の「青木氏賜姓」の「存続論」と、「嵯峨天皇」の「青木氏」を「賜姓族」から外す「除外論」が対立した。
    この「論争の争点」の一つがこの「女系の妻嫁制度」にあった。

    つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
    “否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
    これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
    結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。

    然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
    結局は、「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
    子孫が政争で絶えるとしたのである。

    歴史的に後勘として観れば、これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
    解決策の一つはこの「令外官」にあった。
    「皇親族」を外されたのであるのだから「令外官」でない筈である。
    然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は出自を前提としている事から外せない。
    依って、「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
    つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。

    此処には確かに歴史的に観れば「表」では「脱落家の氏族」であった。
    そこでこれを160年後(円融天皇)は、「補完役の秀郷流青木氏」の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。

    つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているを認識していたのである。
    況や、これが唯一と成つた「氏族」の故であろう。
    :

    「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」


      [No.368] 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/21(Sun) 14:47:28  

    「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」の末尾

    「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
    然し、これが出来ない。
    だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。

    如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
    故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
    この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
    これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。


    「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」



    「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
    そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院や比売さまや妃御さま」等も、本論で論じている多くの「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。

    これを証明する言葉としての注釈は、最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
    つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
    恐らくは、これは「青木氏」が「神明社に依る影響」から独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。

    (注釈 そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
    関東の「宗家筋の秀郷流青木氏」にも「資料関係」が多く遺されていないのは「大戦の火災」よりも明治期から昭和期までの“「攻撃」”が主因と観ている。
    これは「首都の関東」であるが故の「伊勢信濃等以上の災禍」と云える。)

    ところで「光仁期の中期頃」から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
    「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいたと論じたが、時代と共に世間にも都合が良かったのか広まって意味が少し異なって行った。

    この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族の制度」では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。

    ところが注釈として、この「後家」に対しては青木氏の中では「分別する呼称」は無かった。
    依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」の事を云っていた。

    確かに上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家 ロとハ」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
    結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて「人を説き」、「導きをする事」は至難であったらしい事が読み取れる。
    然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事が「青木氏」では必要であったらしい。

    取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
    そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
    「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
    従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
    例えば、衰退した「近江佐々木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「美濃土岐氏系青木氏」、や「四掟の青木氏に近い公家」の「後家」を引き取る事は充分にあった筈である。

    云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味でも戻る事があったらしいが、但し、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。

    そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
    然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、ところが「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
    そこで、「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)の範疇」に合ったとしても其処には“「生女」”ではないと云う基準がある。
    従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。

    前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
    この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
    従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
    この場合の処置が難しかった事が読み取れる。

    それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
    この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
    「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
    資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
    これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
    この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
    「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。

    (注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に、世間から観れば「記録」から垣間見れる「恐怖の青木氏の抑止力」であった。
    それ程に恐れられていたのだ。
    故に、「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が絶対に可能と成っていた。
    尚、「室町期」までは「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。無かったと云う事は少なくとも無いだろう。
    「恐怖の抑止力」もあるが、“「不吉」”として記録しなかったと観られる。
    但し、「江戸期」は「神明社」を全社を幕府に託した為に無い。それ故に幕府に依って消されたと観ている。)

    況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも「保護施設」として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
    従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。

    そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
    「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
    多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって、「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
    然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
    「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
    それは、「斎王の里の館」にである。
    そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い“「女人(女官)制度」”があった。
    凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
    この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。

    況して、そもそも、「平安期」には「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅と禁令の文面」の通り「源氏賜姓」にもある様に保護せずに突き放した。
    「四掟の範疇」の「四家の家」にも「朝廷の保護」は無く同然であった。
    更には、元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」から始まり、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」をも支える「その力」が既に無かった。
    当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。

    (注釈 「天智系青木氏」の「直系尊属の仁明期後」は「斎王に関わる事」の「祭司」さえも無く成った。)

    前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは、「賜姓」を外れた事で「賜姓五役」等も)を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。

    (注釈 これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)

    これを最低限にして、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。

    「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
    この“「多気の里(青木氏の呼称)」”は、“「斎王の里(郷土史の呼称)」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
    この段階(嵯峨期以降)では、最早、“「斎王」の云々”では全く無かった。

    (注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)

    だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。

    「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない)」を出していた。
    従って、「青木氏の概念」としては「光仁期から仁明期前の斎王」は「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。

    (注釈 そもそも、「斎王」は、「王族」やそれに準ずる者から嫌われて「仁明期以降(青木氏の直系尊属)」から成る者は少なく成っていた。
    筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期−嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
    記録的にも、この「政争没」は「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
    そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、“「世にでない記録」”として遺さない様にする為の「奇策」であったらしい。)

    (注釈 此処で云う「後宮」とは「后妃の事」を指すが、「后妃が住む宮」を云う事もある。
    皇室では、「后妃」と「嬪妾」には「ある身分格差」があり、「嬪」は「ひ」と「ひん」と「ひめ」の「三つの呼称」で分けられる「格差」があり、「ひ」と「ひめ」は皇族内の「「女(むすめ)」:娘の位置」にあった。
    「ひん」は「純潔制度の同族血縁」の中で生まれた中間の位置にあった。)

    従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
    当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。

    つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(呼称:十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
    松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
    “「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わさせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
    「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
    「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。

    ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
    それは、この“「後家」”そのものなのである。
    前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。

    この“「言葉(後家)」”が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
    この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、“「家」”と云う言葉にある。
    その前に当時として、“「家」”とは、「公家(公の家)」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語(格式の言語)」である。
    当時は“「家」”は「高い格式を持っていた言語」であった。
    要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。

    ところが、江戸期に「姓族」が「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
    唯、現実には、「氏族(武の家)」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
    その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。

    (注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)

    “「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族等」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄の格式を示す用語」であった。
    当然に「家」に着く“「侍」”も同然である。
    「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
    「公・きみ」の「斎・いつき」の「立場や役務を表現する言語」である。

    前段でも何度も論じた様に、「斎」は、朝廷を構成する「三つの政治体制」の「三蔵」の「大蔵・内蔵・斎蔵」の「斎」であって「祭事」を意味し、即ち、「政治」の位置にあった。
    この「政治の位置」を司る「朝廷の集団」を「公(く・きみ)」として「公」の「集団(家)」で「公家」と称した。
    この奈良期に於いては、「軍事を司る集団」は「政治体制」の「三つの中」に無かった。
    「大化の改新」で信頼できる「皇族」より「賜姓」され「臣下」して「近衛の親衛隊」を構築した。これを「朝臣族」と称した。
    この「武」を以て「近衛」の「賜姓臣下朝臣の族の集団」を「武の家」と称し、「公家」に対して「武家」とした。
    後に、「大蔵氏」から出自した「坂上田村麻呂(桓武天皇)」の「征夷大将軍」と「近衛軍団」を「三つの政治体制」に加えて、「三蔵」に「武家」の「軍事集団」を加えた。
    この時、「斎蔵の家の公家」には「蘇我氏の事」を顧みて安全を期する為に個々にこの「軍事集団を持つ事」を厳禁した。
    この「近衛軍団(武家)」と共に「軍事集団」を「天皇」に帰属させて互いに牽制させて「政治の安定」を図った。
    これが「武の家」の由来であり、「武の家」とはその「立場の格式」を意味する。
    「家」とはその意味で使われたが、「姓化」が進んだ室町期中期から江戸期ではこれを無視した。


    「施基皇子」を始めに「賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
    そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」を「家」とされた。
    この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。

    「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家」、即ち「20家」と「郷士族50(氏族)」で構成していたと云う事に成る。
    従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
    「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「血縁族の郷士集団
    (氏人)」を持つ「氏族」として朝廷に認められた事に成るのである。

    唯、ここで「武家貴族」を認められながらも「家」を興す以上は「公家の禁令」に従って「武の朝臣族」であっても「賜姓族臣下族」ある事を前提に「表向き」には「武」を持たなかった。
    但し、「影の抑止力」を持った。
    ここが「補完役との違い」(「姓」と「武力」の「保有の容認」と、「身分格式の同格扱い」を)としたと成る。
    そうでなければ「補完役」は務まらないであろうし「当然の朝廷の認知」である。

    当然に、これは「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以でもある。
    従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成り同然に「姓族イ」と成る。
    当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
    つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。

    「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」

    以上の関係式が出来る事に成る。

    (注釈「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」に依れば、「嵯峨源氏」は「単なる朝臣族」の「姓族イ」に所属し「皇別」の中でも「皇別の真人系48氏」に組み込まれていない事は興味深い。
    「嵯峨期の詔勅の文言」を厳しく実直に反映している事に成る。
    この「嵯峨源氏」を含む「賜姓源氏族11流」はこれに従う以外になかった。
    従って、この厳しさから「源氏」には「賜姓を受けない源氏」が多かった事に留意が必要である。
    つまり、「上記皇別の48氏」に組み込まれるには相当厳しいものがあって、「賜姓」を受けられない侭に「源氏」を名乗つても「賜姓源氏」に成っても全て滅亡した。
    「清和源氏の満仲−頼信系河内源氏」だけが「一切の朝臣族の柵」を排除し、「姓」と「武力」の「保有」と、「身分格式の同格扱い」の「欲望」を捨てて「姓と武力で生きる事」を選択したと成る。
    上記の関係式を捨てたのである。)

    「秀郷流青木氏」は、「青木氏の補完役の策」として「特別賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」としても認められた。
    その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏」の“「家」“が認められた。
    そして、尚且つ「冠位と官位」でそれを補填して証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に、「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」と「格式身分」とを与えられたのである。
    つまりは、「賜姓源氏」を超えた扱いを受けた事に成りその意味は大きいし、「補完役」と云う「意味合い」も大きいし、「賜姓青木氏五家五流への配慮」が高かった事に成る。

    (注釈 然し、結果として観方に依れば平安末期には「近江」「美濃」「甲斐」はこれを裏切り源氏化した事に成るのである。)

    従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
    「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
    つまり、上記の「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の「関係式」が姓族には成り立たないのである。

    そもそも、そこで「姓族」には、前段でも論じたが、次の「二つ」がある事を知って於く必要がある。
    (a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族(新別に分類)」
    (b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族(諸潘)」

    (a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
    天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
    但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
    この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。

    「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の関係数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
    故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
    これがその論理的証拠である。

    つまり、上記の「氏族」の「家」に起こる「血縁制度」であるからこそ「後の宮(高位の人)」の「家」であるのだ。
    前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
    この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。

    注釈として、結局は「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」のそのものを認められていないから、従って、残るは「分家」として発展せざるを得ず、つまりは、「一つの家」を“「分身の様」に分ける“と云う理屈と成る。
    故に「分ける家」なのであって「家・氏」を別段に興していない理屈に成る。
    “「分家」”ではない「独立した四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」として成立する故なのである。
    依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。
    「主君−家臣」を何れが「契約関係」を破棄すれば「主君−家臣」では無く成るが、「血縁関係」が存在する以上は「氏人・家人・郷士」から離れる事は永遠に出来ない所以である。

    「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の関係数式は付いて廻る事に成るのだ。

    従って、この独立した「四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」に起こる「後家」は「姓族」には論理的には「起こらない言葉」と成るのだ。

    そもそも、“「後家」”は、皇室の“「後宮」”に通ずる言葉であり、皇室の「宮(高位の人)」、即ち、「皇別の氏族」の“「家」”であり、この“「家」”は「青木氏族」の様な「氏族」のみに“「後家の言葉」”(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。

    (注釈 「公家」は「斎に位置する家」であるので「政治的」には力はあっても「経済的」にも「武力的」にも力は無く、「斎に関わる権威を貸す荘園制」に頼っていた為に本質は弱体であった。
    「氏族」としてでは生きて行けない為にこの「公家」には「姓族化する傾向」は大変に多かった。
    「荘園」を下に「姓化」して禁に反して「武」を持って生きた「公家」は殆どは100年未満で潰された。)

    この結果として「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
    この場合は、上記の関係数式は無く成り「氏族」を朝廷より外される事に成った。公家も同然であった。

    (注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う「高位の特別の格式」を有する事により「公家の関係族」にありながらも「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
    そして「361氏」と云う「姓化した族(現地孫末裔)」には「分家」が特別に認められた。
    依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍らも”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)

    従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
    当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様:特別に「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「青木氏の神職」には「神紋の柏紋」の使用を許された)」だけなのである。

    (注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
    庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸国の渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
    庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた「数々の氏」と「家を構成する制度」が異なっている。)

    故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」/「4000家紋」に成り得たのである。

    この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
    当然に“「後家」”もである。

    (注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
    少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。
    明治期には家紋と称される文様は8000と成った。)

    「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家(施基皇子の伊勢青木氏)」の「天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
    これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」:無理やり宣下)として、「皇室の後宮」に因んで、皇室は「宮を興す事」に相当する「家を興す」の故を以て“「後家」“と云う呼称を使って「皇室」に対して「公然」とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。

    (注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
    「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を”「巫・かんなぎ」“と呼んでいた事が判っている。
    この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
    当然に「後家」も務められた。
    どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。)

    そこで、上記の注釈に関して、だとすると、「500社弱の神明社」等に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
    「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。

    この注釈に関して「五家五流青木氏」は、勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
    「116氏の秀郷流青木氏」にも「宗家筋(四掟の範囲)」では「同様の制度」を敷いていた以上は、一族一門の「女(むすめ)に対する処置」も同様に起こっていた事があり補完されていた事は解るが、この事に就いての補完は“どの程度のレベルでの補完であったか”は定かではない。

    唯、「116氏の秀郷流青木氏の24地域」にも「宗家筋(四掟の範囲)」で「春日社」が「守護神」であった事も考えると、「かんなぎ」は存在し得ていたので、実質は「協力関係の程度」かと観られる。
    筆者は、「361氏の秀郷一門」が当初は「春日社」を主幹していたので、「第二の宗家」としては算数的表現とすれば「361/116の義務範囲」であったと観ている。
    後に、前段でも論じたが、「興福寺事件以来」は「361氏の守護神」は「春日神社」に変革したので、「116氏の「宗家筋(四掟の範囲)」(宗家筋(四掟の範囲)」は「春日社」を主幹する経緯と成った。

    それでも何しろ、「平安期」では、「家的」には「116/5」と観れば、「地域的」には「24/5」と観れば、「500の神明社」だけでも運営するには難しい事は歴然としていた。
    「室町期」では、殆どは「伊勢と信濃」と成り得ていたので「宗家筋(四掟の範囲)」の補完無くしては無理であった筈である。
    但し、「伊豆」は独自運営し、衰退した「近江と甲斐(美濃は暫くは伊勢と信濃青木氏が支援を出来なかった)」ではその力を無くし停止していた。

    (注釈 「美濃青木氏」は室町期末期に「別の形」で「伊勢と信濃の力」が隠れていた「美濃青木氏」を引き興した。
    「一色域」に隠れていた「美濃青木氏の末裔一族」を「経済力」と「強力な武力」の支援で引き興して「蒲郡青木氏」として、「伊川津七党の青木氏」の「田原青木氏」として興す事に支援し「徳川氏の国衆」として成功した。)

    「江戸期初期」には、「幕府へ神明社の引き渡し」と「菩提寺の顕教令」で全て「青木氏」からの「かんなぎ」等は停止したとある故に、「116氏の秀郷流青木氏」からの「補完の必要性」は無く成った事が判っている。


    注釈から話を戻して、それが最初の“「後家」の呼称”であった。
    正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の中にいた場合に於いては“「後宮」”として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から“「後家」”であった。
    (言語的に「宮」と「家」は同意で格式的意味合いが異なる。)

    そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない事で、明らかに「救済策(逃避の便宜策)」であった事が判る。
    これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来て、「青木氏族」の中で生きる事は出来たのである。
    将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官」”とそれを支える“「采女(上記)」“として生きて行く事かの、この“「三つの選択肢」”が広げられて行った。

    奈良期の「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初の頃から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事も”「後家」“と伴ってその存在は判っている。
    「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
    これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
    そして、ここから「福家の支援」に依って「郷士・氏人」に「嫁」に向かったのであろう。
    これらの「独特の青木氏の呼称」から観ても「四家の政所の制度」の多くは「女系」で占められていた事が明らかに判る。「女系族」であった事が判る。

    恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここでも同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
    これは「氏人の底上げ策」であろうし、「強力な絆構築策」であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
    上記の通りの氏族全体の「数多くの女の力」で以て、これも「男系」では成し得ない「女系の妻嫁制度」ならではの「堅い絆」が構築されていた事が判る。

    注釈 青木氏の中での「十二女司(十二司女と書かれているのもある)」は、次の様な役目であった。
    「内司」、「蔵司」、「書司」、「薬司」、「侍司」、「単司」、「殿司」、「掃司」、「水司」、「膳司」、「酒司」、「縫司」の「12の役目」を指し、「青木氏の保護施設」の「日常の雑務・庶務」を12に分けていた。
    「意味」は読んで字の如くであり、「奈良期の天皇家の伝統の継承」であったと観られるが、取り分け、「伝統」と云うよりは「雑務」を分ければこの様に成るのは当然で、そもそも「皇室の伝統継承」と云う感覚は無かったと考えられる。
    「斎王の館」などでのこの様に分けていたと考えられる。
    「多気の家人の家の資料」に遺された損傷激しい読み難い資料から公的資料と査照して再現した。
    これを要約すると、次の様に成る。

    1「内司」は「妃嬪妾」の「入妻や後家」等の女系制度の人の「内回り」の仕事、
    2「蔵司」は「金銭の財務関係」の仕事、
    3「書司」は「手紙代筆」や「文書の保管管理」の仕事、
    4「薬司」は「薬医回り」の仕事、
    5「侍司」は「身辺警護」の仕事、
    6「単司」は「簡単な雑務」や「外回り」の仕事、
    7「殿司」は「寝所回り」や「便所回り」の仕事、
    8「掃司」は「掃除」などの「清掃」に関わる仕事、
    9「水司」は「水回り」の仕事、
    10「膳司」は「食事の準備」とその手配の仕事、
    11「酒司」は「酒宴」やその手配の仕事、
    12「縫司」は「衣服回り」の仕事

    以上と成る。

    この「十二の役務」には、更に「実務の下働き」をする者がいて、例えば、記録に遺る者としては、6には「下働き」の「仕女(しめ・かがりめ)」と、10には「下働き」の「炊女(かしきめ)」が別にあった事判っていて、これには「階級」は無く、「青木氏」と関係する「地域の民」がこれを務めていたらしい。
    この「二つ」は、“務めていた”と云うよりは「通いのパート」の様な契約にあったらしい。
    必ずしも、「女」に限らず中には「男」も居た様な表現である。
    前段でも論じたが、総じて彼等を「男子衆:おとごし」と「女子衆:おなごし」と呼ばれていた様である。
    この「呼称の語源」は、「男子:おとこ」の「おとこ衆(おとこしゅう)」から変化して「おとこし」、「女子:おなこ」の「おなこ衆(おんなしゅう)」から変化して「おなこし」と成り、これが昭和の頃まで「伊勢」から「奈良や紀州」に遺る方言として紀州では「こし」が「ごし」と呼称した。
    筆者の子供頃には使われていた方言で、筆者の家にも二人の「おとごし」と「おなごし」と呼ばれる人が雑務全般を担っていた。

    この「伊勢青木氏の伝統」が強く地域に根付いていた為に「方言」と成って遺されている所以である。

    (注釈 筆者はこの「おとごし」の人から「植木の手解き」を受けた記憶が事がある。
    明治期の鎌倉の縁者の家では「支女」に当たる人が10人いた事が判っていて、この頃までこの「伝統」は何とか引き継がれていた事が判る。)

    上記で論じている様に、“「皇室の後宮」”に仕える「女官」に対して、これに相当するのが“「青木氏の後家」”等であって、従ってそれに仕える「青木氏の女」に関わる「役目柄」である事に成る。
    訳して、“「皇室の後宮」”≒“「青木氏の後家」”の関係式が成立する。
    故に、「皇室の十二女司」≒「青木氏の十二司女」と成る。

    元々、「中国の王朝」の「宦官制度(男子の官僚)」に対しての制度を、「奈良期の朝廷」に持ち込み天「皇家の後宮」の制度として敷いた。
    この制度は変化して、「平安中期」から「後宮制度」の「身分格式の立場」を持たして「内の政所」の「女性の発言権」が整い、「外の斎蔵(政治)」に対しても「発言力」を増した。
    更に「10世紀初期頃」から整理され充実した「後宮制度」が出来た事に依り改めて「後宮以外」にも「女官」にもこの制度を敷いて力を発揮させた。

    ところが、ここに目を着けたのが「摂関家」であって、この「摂関家」が「斎蔵の外政」に対して「勢力拡大」の為に「内の政所」を掌握する事で「内外の両方」に触手を伸ばした。
    「内の政所」と成った「後宮」を引き受けて「政治の斎蔵」の「一つの仕事」して掌握し「内外の政治の権力」を広げた。
    この為には、「内の政所」の内容を「摂関家」に都合の良い様に変更し、「内の政所」の「格式や身分」を下げて「内の発言力」を弱めて「摂関家の発言力」をより完全に確立させたのである。
    この為にも「天皇家」に対して「内の政所の発言力」に及ばず“「血縁」”を入れて「摂関家の血縁の浸透(例えば、上記の許嫁等)」を図った。
    この段階で、「十二女司の内容」は「原型」を留めない程に完全に権力に浸潤する様に変化したのである。

    この「歴史的経緯」から観ると、「青木氏側」は「光仁期の前頃」からの事であるので「青木氏の十二司女」の方が早く「原型」を保持していた事が判る。
    「青木氏」では、この「原型」が上記した様に「五家五流青木氏」に「妻嫁制度」や「後家制度」が確立して行く過程で生まれた時期に採用されていた事が判っている。
    この「古い制度」の「采女・うねめの呼称」が「多気」に遺っていた事がこれを証明している。
    青木氏の資料の一部に「十二女司の内容」の変化に伴って“「十二司女」”の違いの呼称があるのはこの事の証明に成る。
    この事から「青木氏」は「十二女司の内容の変化」で敢えて変更したのでは無いかと考えられる。

    注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
    故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
    そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
    そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
    これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。

    時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
    内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」

    ∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」

    以上の論理が成り立つと観ている。

    更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
    この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
    云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
    当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
    この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。

    故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。

    この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
    故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
    これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
    これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。

    > 「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−23」に続く。


      [No.366] Re:「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20 
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/02/03(Sun) 17:08:40  

    > 「青木氏の伝統 46」−「青木氏の歴史観−19」の末尾
    > 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    >
    > それが最初の“「後家」の呼称”であった。
    > 正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
    > そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
    > これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
    > 将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
    > 「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
    > 「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
    > これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
    > ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
    > 恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
    > これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
    > これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
    > 故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
    > この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。




    「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    更に「青木氏の歴史観」に関係する「呼称」について更に論じる。
    先ず、前段の「後家の呼称」に関係する「比丘尼」に付いてである

    「紀州藩」の代々の藩主の「比丘尼寺」が筆者の家の近くにあって、それをサポートしていたお家があった。
    これは恐らくは「伊勢青木氏との付き合い」から「初期の紀州藩」はこの制度を敷いたと考える。
    この「比丘尼の寺」は小山の西の下は直ぐ海岸沿いに面し、東と北の下は小さい湖で、南は急な山手にあり、この小山を「比丘尼山・びくにやま」と呼称していて、その南の山手に世話をする「農家の人」が住んでいた。
    そして、この寺に通ずる道は狭い道一本であって、子供の頃の昭和20年初期の頃は未だこの「古びた寺」に「老女の比丘尼僧」の二人が住んでいた。
    この農家の息子と友人であった為に見学をした事がある。
    祖父と父からこの時の「経験」を話し、「伊勢青木氏の比丘尼寺の事(松阪の寺名は匿名にする)」を聞いて不思議に思った事がある。
    その後に「伊勢の歴史」に興味を持ち勉強し始めた。)

    (注釈「祖父・先祖」は、「紀州藩の14代の方」までの「初代からの長い付き合い」が続いていて、「歌や俳句や詩吟や茶道や禅問や南画や書道等」の「素養の師匠」もしていた。
    この故あって、「代々徳川氏からの贈り物の遺品」が多くある。
    「比丘尼寺の事」もその後に「松阪の寺」と合わせて良く理解が出来た。
    前段でも論じた様に、「女墓の慣習」が無い限り「姓族」には「比丘尼寺」は普通は無い。)

    (注釈 当時の江戸初期の慣習では普通は“「分寺」”を持つと云う「仕来り」は「氏族の菩提寺」があっても少ない。先ず経済的に持ち得ないだろう。)

    筆者は、「後家の比丘尼」が起こる原因の一つは、前段でも検証した様に婚姻の可能な年齢差のこの「10歳」が婚姻の際の「仕来り」か「掟」と成っていたと観ているので、これが原因であろう。
    これは、「入り妻側」に執っては「四掟の範囲」では「厳しい掟(10歳)」に有ったと考えられる。
    「無制限の入妻」に執っては、「10歳の年齢差」が合っても「有制限の嗣子(48歳引退)」に比べれば、「40年間」は「長い事」に成り、又、直ぐに婚姻できない「煩わしい入妻の掟」があったとしても、間尺に合い「比丘尼僧」として「下界から隔離される掟」は「苦しい掟」とは成り得なかった筈である。
    故に、「比丘尼」が起こる原因と観ている。
    殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は、多少の「母性の情愛」が合ったとしても「女系の妻嫁制度」の「掟と仕来り」での原則は無いのであるから、それはそれとして「氏族の定め」の「当然の享受」として理解すれば「40年」と合わせれば「比丘尼」には「寺に入る事」への理解が出来ていたと観られる。

    何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる事を知っていたし、その様に「入妻」として教育されて来た筈である。
    「四掟の氏族での血縁ある事」を前段でも論じた様に「女系の妻嫁制度」が浸透していてこれを知っていて「入妻」として入って「妻嫁制度の伝統」があった筈である。
    「嫁家先制度」で「祖母(出妻の先祖)」からも充分に教育されていた事は確実である。
    故に、云うまでも無いが「女系の妻嫁制度を壊す不理解」が起こらない様にする「四掟」を前提する血縁なのである。
    「四掟」を合わせれば「不必要な不理解」は起こらいは必定である。
    この事を理解していた上で「後家」や「比丘尼」に成るとするならば「入妻」に成るとする「当然の心構え」が必要と成ろう。

    ではこれを如何していたのかである。

    そこで注釈として、考えられる事として、「四掟の範囲の青木氏族間」では、“「入妻の決定(許嫁)」”は定まりやすい“と上記した。
    然し、そうすると、”「早熟」“と成るならば、この「早熟」に対して何もせずに座視するは得策ではない。
    その為に「何らかの策」を構築したと筆者は観ている。
    “「入妻」として{待つ期間}”を「相手先」は“「許嫁」“と云う「制度」で早期に補完していたと考えられる。
    然し、例えば、「伊勢や信濃の青木氏側」ではその「許嫁の制度」があったかは疑問である。
    唯、だとしても「全ての相手先」が「許嫁の制度」を持ち得ていたかも疑問である。

    奈良期に執った数々の制度から観て、取り分け「妻嫁制度と嫁家先制度」から奈良期に「入妻」が成立している事から考えると、必然的に“「許嫁」”もこれに「連動する制度」として「特定の階級」には合ったとは考えられる。

    上記の検証から考えても、「入妻」と「許嫁」は「対の物」として咀嚼しなければ成り立たない。
    故に、これは「青木氏の歴史観」として考えられる。
    これが後に「青木氏」から世間に広まったと観ているが、ところが、この“「許嫁の文字」”が存在する資料からは何故か散見出来ないのである。
    これも何故なのか大いに疑問である。

    その事に就いて先に考えて観た。

    「青木氏」からの「許嫁」は「出妻」に関わる事であるが、次の事が考えられる。

    1 「四掟の相手の血縁源」への「出妻」には「許嫁の制度(公家族)」が無かった事。
    2 「青木氏側」に文書の中で「許嫁に代わる呼称」が無く別の呼称があった事。
    3 「若年婚姻(女性)」の概念」が浸透し、元々、「許嫁の呼称」がなかった事。
    4 「許嫁の概念」が実質は「武家貴族」には格式から低く考えられていた事。
    5 「賜姓五役と云う役目」に「呼称」が沿わなかった事。

    以上の事が考えられるが、「青木氏」にはこれが全て適用される。

    そもそも、そこで「青木氏」から離れて、「公的に成っている記録」から観て使用された時期は”「平安期中期頃」”からと成っている。
    その理由は「政争」から「摂関家」が「天皇家」に対してその「勢力」を伸ばす目的から「天皇家」に対して「后妃嬪妾」として「事前に送り込んだ政略」から起こったとされている。
    その「許嫁の呼称」の記録は、その少し後の”「平安期末期」”に観られると成っている。
    その後は、「摂関家」も”「平安期末期(三条天皇以後から後三条天皇で隔絶)」”には「天皇家との血縁関係」が無く成り、「摂関家の許嫁の制度」は一時衰退したとされる。
    その後の”「室町期」”には、「姓族の豪族(室町期)」が政略結婚で勢力拡大に使われたとされる。
    ”「江戸期の中期」”に成って「力のある民(庄屋、豪商)の領域」まで広く使われたとされる。
    然し、ところが「許嫁の意味合い」は違って使われる様に成って行ったとある。

    これが許嫁の歴史的経緯であるとしている。

    従って、最初の「許嫁の言葉と制度」としては「平安期中期」から使用される事に成った事に成るので「青木氏族」には無いのであろう。

    ところが、時系列として観て「青木氏族」に於いては、「光仁天皇期頃以降」に「女系の妻嫁制度」等を敷いた事に成るので、「許嫁システム」としては存在するも「許嫁の呼称」を使用していなかった事にも成る。

    では、“どの様な言葉が使われていたのか”と云えば、「青木氏側」からすると、”「女(むすめ)」”という制度の字句で記録されていたと考えられる。
    そうすると前段でも論じた様に、その「実際の呼称」は、「青木氏」では「比売さま(ひうぃさま)」であった事に成る。
    つまり、この「女(むすめ)」と「比売さま(ひうぃさま)」の「二つ」が「青木氏」に存在するのに「許嫁」の「制度と呼称」が存在する事は「制度的な論理的矛盾」が起こり合わない。

    そもそも、「比売さま(ひうぃさま)」には、元より「許嫁の意味」も含んでの呼称であった筈である。
    何故ならば、「女(むすめ)」の「比売さま(ひうぃさま)」は、元々は「その立場」に合って「福家」で養育を受けていたのである。
    従って、「養育を受ける」と云う事は、何時かは相手は兎も角も「嫁ぐ事」には間違いはないからであり、そのための準備期間であった。
    そこで、“個々に相手が既に決まっていたか”は確定する資料がないので定まらない。

    然し、筆者は大方は定まっていたと考えている。
    その根拠は、「青木氏族」である「補完役の秀郷流青木氏116氏(960年頃)」と「秀郷流一門主要五氏の血縁源361氏」の「大血縁源数」を考えれば、「補完役の掟」として「四掟制度」を敷いている限りは、少なくともその都度では間に合わない事は明々白々の事である。
    この為には「相互の執事役」は「相互調整」を常時執っていた事が制度の一環として伺える。
    そうでなければ、「女(むすめ)」の「養育制度」と「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度」は成り立つ話ではない。
    これは、「女(むすめ)」の養育制度を敷いている限り「氏族の絆」を固める「氏人への血縁制度」も同然である。
    従って、「四掟の制度」を大前提にする限りは、「許嫁の呼称」は、兎も角も「大方の嫁家先」は「執事間の間」で「調整」が「公然の事実」として行われ出来ていなければならない。

    つまり、前段でも論じた様に、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”という事もあり得た事もあるが、ここに「4」の「玄孫域」とか、「5、6、7」域までの「女(むすめ)」の養育をする必要は無い筈である。
    明らかにこの「4〜7の域」は「執事間の調整」のその「結果の表れ」が原因していると観ている。
    唯、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”と云う事に関しては、その可能性は低い。
    何故ならば、下記の事が理由として云える。

    上記の「性に依る発育過程」から“少ないと云う事”は補える事。
    平安末期までは「五家五流賜姓青木氏」から、鎌倉期からは信濃と一部近江からも補える事。
    「伊勢の50の氏人」と「信濃の50の氏人」と、未だ「四掟の範疇」に遺っていた「近江佐々木氏と近江青木氏の宗家」から補える事。

    以上の「三つの事」を鑑みれば、“氏族の中に少ない”という事は無かったと観られる。

    これを検証して観ると、「361氏の全て」を「嫁家先」とするのは別として、「同族補完役の青木氏族」の「116氏」の「嫁家先」に対して次の様に成る。

    仮に氏=1として、116氏/(50伊勢+50信濃+10近江)≒1

    以上の関係式が成り立つ。

    上記の計算は、「子供=1とした前提」であるから、つまり、この「嫁家先=1の数式」が成り立つ様に、「女(むすめ)」の養育範囲を「4の玄孫域」までを基本とすれば充分に成り立つ事に成る。

    この数式論から、次の関係式が導かれる。

    「116氏+公家範囲(20)」+(361氏/5氏:主要五氏限定)≒208

    「玄孫域」までとして「4の倍数」と成るが、この「3地域」のその「子孫力」が「4の均一倍数」とは成らず、それを見込んで観ると次の様に成る。

    「伊勢4+信濃2+近江0,5」/3≒2

    以上の関係式で平均=2と成る。

    従って、平均の子孫力=110・2≒220

    「全体の子孫力」の相互バランスは、∴ 208/220≒1

    以上でほぼ成立する事に成る。

    これが「青木氏族の氏族としての血縁力」に成り、上記の数は“少ないと云う事”は無かったと考える事は出来る。
    そうでなければ「玄孫域の理屈」は成り立たない。

    この検証の関係式から観れば、「女(むすめ)」の養育域は「孫域」でも充分に良い筈であった。

    もっと云えば、「伊勢と信濃」の域で、「孫域:2」≒「平均子孫力:2」の数式論で何とか成り立っていた事に成る。

    仮に「曾孫域」までならば、「曾孫:3」で、次の数式が充分に成立する。

    (伊勢の50+信濃の50)・「孫域:3」=300

    故に、300>208が成立し、“少ないと云う事”という事のみならず、「許嫁の制度」のみならず、その「呼称の必要性」は、「比売さま(ひうぃさま)」の「呼称に持つ意味合い」で充分であった事が証明できる。

    但し、そこで「玄孫域」までの制度を現実に採った事は資料からも明らかであるので、これは「近江域10」と「信濃域50」に、“ある事”で賄えなくなった事を意味する。

    では、同時にこの“ある事”が起こった事に成るので、それは何かである。
    それは、室町期の「下剋上と戦乱」にあったと観られる。

    「平安期末期の近江域と美濃域の青木氏の参戦後の衰退」が長く続き、「衰退」は室町期末期まで持ち込んだ事、
    それと同時に室町期の「信濃域の国衆の侵入による弱体化」が「信濃青木氏」を弱めた事、

    以上の「二つの事」が起こって仕舞った。

    そして、「伊勢青木氏」だけが無傷で生き残り、逆に、「室町期の紙文化」に依って「巨万の富」の勢力を確保した。
    その「巨万の富の事」で以て、「信濃域」を引き上げ助け「青木村」に独立させ、「近江域」は「末家の分家」を引き出し「近江域」と「摂津域」とに蘇らせた。

    (注釈 この「美濃域」では、「伊勢」と持ち直した「信濃の青木氏の勢力」が「青木氏の旧領地の一色イ」から「塩尻の山間域ロ」にかけて隠れていた「美濃青木氏の主家の末裔イ・蒲郡青木氏」と「美濃の土岐氏系青木氏ロ・伊川津七党の田原青木氏」を引き出して「国衆」に仕立てて「経済力の支援」と「生きる為の近代武力:鉄砲」を与えて成功している。)

    前段でも論じたが、「秀郷流青木氏との関係」を継続させる為にも、この間の「伊勢域だけの子孫力」に頼らざるを得なかったと云う事である。
    これが「4の玄孫域」であり、非常時の「5、6、7域の顛末」にあったのである。

    参考 特別の範囲
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    以上と成る。

    そうすると、上記の検証から「相手」を固定して「許嫁」までして「女系の妻嫁制度」を敷く必要性がなかった事に成る。

    従って、後はその相手に応じてどの「比売さま(ひうぃさま)」を嫁がせるかに依ると考えられ、その「養育具合」を見定めながら「許嫁先・執事の差配」が凡そ決まって行くシステムに成っていたと考えている。

    注釈として、そもそも「比売さま(ひうぃさま)」が大きく関わっていた事に成るとすると、この“「比売さま(ひうぃさま)」の「語源」が何処から来たのか”と云う事を知る必要がある。

    そこで、これを紐解く。
    先ず、古代の“「売る」“の「韻の語源」は、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云うものであって、貨幣経済が深化するに従ってその結果から「対価の有無」は別にして、”物を相手に渡す行為として使われる言葉“にも成って使われて行った。
    決して「売り買い」が主の語源では無かった。
    それは「市場経済」が未だ成立していない世界の中でこの意味合いは無かった。
    飽く迄も、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云う単なる単語であった。

    更に、「比」の「敬いの言語」も、“「ある物」に対して「別の物」の方が良い”とする行為が「別の物」を「優位に至らしめる言葉」として用いられる様に成った。
    これがある物に対しての差を以てして「敬いの言語」と成った。
    この「比」の源は、前段でも論じた様に、人間に言葉が生まれた「母音(アオウエ):母韻」に対して「イ」が含まれていない。
    これは「イの音韻」は「父音(チイキミシリヒニ):父韻」に含まれ「ヒとイ」は「父韻」に所読する別格の韻音なのである。
    つまり、「イ」と共に「ヒの父韻」は「父の尊厳」の「語意」を持った「初期の語源」なのであって、「優位に至らしめる言葉」=「敬いの言語」として用いられていた。
    後に、この「二つの意味を持たせた造語」の「韻音」が「青木氏」にだけ遺された“「比売」”と成り、「父韻側」を強め「後側」の「母韻」を添えて「売」を「韻」にして弱め「比」を「主」にして出来た「祖先神」に伝える「神への言語」と成った。
    従って、この「二つの意味を持たせた造語」には、“「相手」に「優位」に至らしめ「認知」に至らしめる“と云う「意味合い」を持った言語であった。
    つまり、元よりこの「造語の語源(比売)」には、「許嫁の様な意味合い」を含んだ「古来の呼称用語」であったのだ。

    (注釈 これは「青木氏の歴史観」であるので、この事を知るか知らぬかで大きく意味が異なり、「真の史実」を見逃す事に成るのだ。)

    (注釈 「青木氏」はそもそも「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を「守護神」とする“日本広し“と云へど「唯一の氏族である事」を知り、これを「前提とする事」を知る必要があり、全ての解釈はこれに依って変わる。
    全ての歴史的事項に関して「神明社の概念」が左右している。
    「青木氏に存在する言葉」の語源はそれだけに難しいのだ。)

    つまり、「女系の妻嫁制度」の如く“「女性」”が司る「神」への「呼称用語」であって、その役目の「皇祖神の斎王」と同じく「祖先神」の「比売(ひうぃさま)」も同じ位置にあったのだ。
    従って、前段から論じている「女系の妻嫁制度」は必然で同然に「神明社(神仏同源)の概念」なのであり、突然に「女系の妻嫁制度」を敷いた訳では無く、「氏族」として存在する以上は「男系」は論理的にあり得ないのである。
    何れにしても「氏族」としては特異なのである。

    要するに「光仁期から仁明期」までは「斎王・いつきのきみ」も「比売・ひいぅさま」も「青木氏」から出ている所以である。
    「王・きみ」は「様・さま」と「同源の意」である。

    つまり、「許嫁」に関する論議は、「神明社の概念」を思考の中に入れれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁=比売さま・ひいぅさま)」であった事に成る。
    従って、「連動するシステム」はあっても、“態々、「許嫁」と云う呼称は無かった”とする結論であって、且つ、“その必要性はなかった”と云う事に成るのだ。
    もっと云えば、「神明社の概念」を思考すれば「許嫁」と成る制度は、本来、「品格を落とす所以」と考えられていた事に成る。
    「賜姓五役」からも「許嫁の意」はあり得ない理屈であり同然であるのだ。

    唯、「藤原北家一族」の主幹の「補完役側の青木氏族(主要五氏)」には「許嫁の呼称」は、「三条天皇期(976年)」〜「後三条天皇(1034年)」から無いとする。
    「秀郷流青木氏(960年)」にも、「犬猿の仲であった摂関家」にはその「公的な資料」の「許嫁の呼称」が「摂関家に合ったとする研究記録」がある。
    この説と照合すれば、「許嫁の呼称」は「補完役側の青木氏族(主要五氏)」にはあった事が考えられる。
    「神明社」では無く、「賜姓五役」ので役務は無く、強いて「許嫁の呼称」を排除する必要があったかは疑問である。
    然し、前段でも論じた「神明社=春日社(摂関家菩提寺の「興福寺事件」のきっかけ:神仏同源の採用事件)」の関係からすると、充分に避けた事もあり得る。
    「神仏同源の事件」である以上は先ず避けるであろう。
    唯、「妻嫁制度での概念」が「嫁家先に浸透」が起これば必然的に消えた事もあり得るが、確認できない。

    筆者は「消えた説」である。
    敢えて、「後宮制度」の様に「摂関家の衰退の原因」と成った「摂関家の真似」はしないであろう。
    仮に「許嫁の呼称の有無」が、「北家秀郷一門」にあったとすればそれは「近江」に赴任していた「秀郷流近江一門」と「秀郷流脩行系青木氏」の「二つの氏」にはあった事が伺える。
    取り分け、「摂関家」と大きく繋がっていた「秀郷流脩行系青木氏」にはその可能性が高い。

    (注釈 後の平安期末期に「摂関家」と「秀郷流青木氏の主要五氏との血縁」を考えれば、その影響から考えればある筈の「証明する資料」が見つからないが,“無かった”とは云い難い。)

    それは何故なのかである。
    「秀郷流青木氏」には、特別に「116氏に繋がる姓族の存在」が「現地孫」としてある以上はこの「現地孫の姓族」を一門として引き付けて置くには、又、組織を維持するには「姓族」に向ける「嫁」は必然的に必要に成る。
    但し、「宗家筋」には、「純潔性を保持する義務:高位の立場」があった事から考えると、「現地孫を設けない掟」があった事から“「許嫁制度」は無かった”と考えられる。
    この為に、「分家筋の傍系尊属族」の中では「許嫁の制度」は「室町期の資料」の中には認められるがそれ以前は判らない。

    では、「秀郷一門」の「青木氏側との血縁時」には「許嫁の呼称」は使っていたかは疑問で、「四掟の範囲」での血縁であった事から筆者は使っていなかったと考えている。
    「物理的な視点」で考えれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁)」の“「システム」”が別の形で相互に敷けている以上は、「比売さま(ひいぅさま・下記)」で充分に成り立って行けていたと観ている。
    つまり、「妻嫁制度」と「嫁家先制度」がある以上は論理的に矛盾が生まれる為に「入」と「出」も重複するような「許嫁制度」としては無かったと云う事に成る。

    「ひうぃさま」の意味に含まれる「許嫁の考え方」が「氏族」としては「初めての事」であって、「呼称」とその「制度」は「青木氏族」には無かったと云う事に成る。

    「妻嫁制度」と「嫁家先制度」のこれは「奈良期の末期(770年前頃:記録から第四世族が認められていた)」から始まった事で、「公的な記録」にある「藤原氏摂関家」の「許嫁制度」は「平安中期の頃(890年頃)」である。
    そうすると時系列的に観れば、これには「約100年の差」があり、「四掟の範囲の公家族」と「青木氏」との間で盛んに行われた「慣習仕来り掟」が、「摂関家」の中にも「許嫁の制度」として取り込まれて行った事に成る。
    これが「960年以降」に「補完役の秀郷流青木氏」との血縁にも採用されたと云う事に成る。

    (注釈 「公的に示されている記録」には、“「許嫁」”と云う文字は出て来ないで、説はあやふやな表現と成っている。
    「青木氏」と同じく「血縁の基本概念」(神明社の概念)として採用されていたと観るのが正しいと観られる。)

    この記録には、“「天皇家の后」に対して「摂関家の権勢」で先に決めていた“とする「摂関家の中の記録」に依るもので、”「摂関家」の中でも「家」と「家」の間で「男系」の基で「女子」を「政治と権勢の具」として用いられて行われていた“とする記録である。
    「青木氏」の「賜姓臣下朝臣族の五家五流の間」と「公家との間」の「四掟」にて「女系の妻嫁制度」の基で行われていたとする事と制度的に少し異なる。
    つまり、”「100年後」”に「青木氏の基本概念」だけを用いたと観ている。

    (注釈 「嵯峨天皇」が編纂した「新撰姓氏禄」やその他の「三代格史書」には、「敏達天皇第四世族春日真人族」の「四掟の真人族」として位置づけされているのに対して、「藤原氏摂関家」は「神別格」に位置付けられている。
    この事から、少なくとも「血縁に関する慣習仕来り掟」に於いては「皇別格」の「青木氏の慣習仕来り掟」が優先され、「神別格の摂関家」は「平安期初期の嵯峨期の詔勅禁令」に依って「家の制度」として用いる事が出来なかった筈である。
    故に、「青木氏の直系尊属」の最後と成る「仁明期:850年」の後の頃からこの「禁令」が緩み「血縁の基本概念」を使用するように成ったと考えられ、時系列の検証と一致する。
    依って、その少し後の「平安中期の記録:890年頃」に採用したと成っていると観られる。)

    (注釈 元に戻して、「青木氏族」には上記の検証は、「継承年齢」や「停年年齢等」を「要領化とした本」があった筈であるが、恐らくは、この「要領本」なるものは「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられいる。
    一番最後の「明治35年の松阪大火」のこの時の「戒め」として「口伝」でも、重要な記録等を一度外に出したが他の類焼した「他家」が「丸焼け」に成っているのに「失火元」が「資産」を遺す事は「道義」に反するとして、再び火の中に入れさしたとある。
    「曾祖父」はこの時、改めて「青木氏の由来書・伝記」を“復元せよ”と云い残したとある。
    それを最終、筆者が何とか復元した事に成るが、解明できない事は筆者の伊勢も含めて多い。
    遺るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて「読み込み」をしその中での散見で紐解いた事であった。
    そこに「論理的な計算」を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)

    そこで「注釈」を更に検証するとして次の事が挙げられる。

    この「妻嫁制度」で「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれたとある。
    この「重要な呼称」と成る“「義母(ひごさまの呼称)」と「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。

    次に、「光仁天皇の后」と成った「井上内親王」は、「妃嬪妾」と「二世族や三世族」に対して「厳しい軋轢(怨念説)」を起こしていたらしく、これを恐れて「後家」等に成る等の「人生の選択」をして「上記の保護支援の施設」に入る等の策を選んだとする資料も一部の資料からも読み取れる。
    その後のこの「怨念事件」の「公に成っている記録」、つまり、「政争から来る怨念説」には、この事からの影響に依る「後家の類似の論説」が記載されている。
    「光仁期」の「朝廷で起こった政争事件」と「青木氏で起こった影響・後家等」が一致している事から「前者の朝廷の怨念説」と「後者の青木氏の軋轢説」の事は否定は出来ない史実と成る。

    更に次に「青木氏の歴史観」として「義母(ひごさまの呼称)」と「後家の呼称」と同じくもう一つ「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。

    筆者の研究では、奈良期の古代は、「義母(ひごさまの呼称)」も「女(むすめ)」も「元の発韻」は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えている。
    そして、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。

    ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母(ひごさまの呼称)」」と「女(むすめ)の呼称」を分ける必要が生まれ、「ひ」に対して「「義母(ひごさまの呼称)」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
    そして、「女(むすめ)」に対しては「ひうぃさま」の呼称で遺した。
    「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。

    「神仏同源の立場」からであると考えられるが、「扱い等の差異」は左程なく、従って、その呼称は「比(ひ)」に対して「義母(ひごさまの呼称)」が俗世から離れて成る”「比丘尼」”の「丘」は「韻」を踏んで「きゅぅ」と成り、「比丘」は「ひきゅぅ」と呼称していた。
    つまり、「比売さま」は「ひうぃさま」に対して、「比丘さま」は「ひきゅうさま」と呼称されていた事に成る。

    「女(むすめ)」の「比売さま」が務める「巫女」も「比丘」も同源であり、次の様な「同格の位置」にあった。

    「女(むすめ)」=「比売さま」=「巫女さま」=「比丘さま」=「神仏同源」=「神明社」

    何故、この様に成るかは同然の事で、「皇祖神」の「内宮の天照大神」と「外宮の豊受大神」は「女性」である。
    この「子神」である「祖先神の神明社」である限りは「神仏同源」とすれば、「義母(ひごさまの呼称)」の“「比丘」”は「女性」と成るは「同然の事」である。

    (注釈 ここに平安期末期頃から「世間との隔離」が生まれ、「特異性が際立つ事」と成って行ったし、「賜姓五役の務め」も「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」も一切に「世間との隔離」が出て来た。
    これは、“「青木氏が興した」“と云うよりは、「世間の変化」が「青木氏の世間との隔離」を起こさせたと考えられる。)

    注釈として、因みにその「世間の変化」が顕著に成り、結局は“「青木氏の氏是」と「家訓」”をより強硬にして「世間に出る事」に対して護ろうとしたのである。(A)
    「世間」に出れば益々起こるこの「差異の特異性」から「潰される」が落ちである。
    これが「室町期(姓化)」にはそれが「最大」と成った。
    幸いにして「紙文化」が起こり「商い」を前面に押し出し「巨万の富」を獲得し「青木氏」を影にして生きた。)(B)

    「結論的な説」としては、「世間」とは逆に「有形の氏」を極力抑え、「無形の商い」の「伊勢屋」を前面に押し出した。
    この「二つのAB」が「伝統の青木氏」を救ったと云う事であろう。

    それだけに江戸時代初期頃には未だ世間にも僅かにその「存在と権威(“伊勢の事お構いなしの家康の「お定め書」”)」は知られていた。
    然し、現在に至っても世間には歴史に相当に見識のある人以外は「青木氏とその歴史」は知られない所以である。
    「江戸期」に出した「歴史学者の近江佐々木氏」の「自らの氏族の研究記録」と共に「近江佐々木氏の青木氏の研究記録」も世間には出さずに「非売品」としていた意味合いが良く判る。
    この「非売品」は少なくとも「二つの青木氏族の宗家筋」には存在していた筈であるが消えている。

    (注釈 「近江佐々木家宗家」に遺されていた書籍を1690年頃に一度見直したとあり、その後に明治期(明治10年)に「近江宋家の佐々木氏(東大教授)」が「過去の研究記録」を更に復元したとある。
    これが「国の史書」として保管されている筈である。)

    この「佐々木氏」の「江戸期の研究記録」には遺されている事から「入間の遺品」も空襲で殆ど焼失したと観られる。
    兎も角も「サイトの意味合い」はここにある。

    上記の「青木氏の各種の呼称」は、これは「嵯峨期の詔勅禁令」に依って「同じ語意」のものの使用が許されなかった所以である。

    そこで室町期から使われた誤解を招いている“「姫」”の基は、「中国南北朝」の頃(440年頃〜590年頃の間)の「王朝の姓」で、その後も専ら「中国」で使われていたものである。
    それが「大和」では「ひめに類する言語」としては皇室内では一般に“「嬪・ひめ」“が長く用いられていた。
    「皇別(真人族)」に類する「祖先神」を有する「青木氏」では、上記している様に「比売・ひうぃ」が用いられていた。
    ところが「武家社会」と成った「鎌倉期頃」からその「慣習仕来り掟」が踏襲する事は出来ず、況して、「姓族イ(主に神別)」には「比売さまの呼称」は到底に無理であり、結局、「中国の王朝の姓」を用いて「権威性」を持たせて「姫」を使う様に成った。
    「室町期」に入り規制の無い「民」から身を興した「姓族ロ」もこの「姫」を盛んに使用した。

    それは、どの様な根拠に基づいて使われたかは、初期の頃の「姓族ロ」の元は、「後漢の第21代献帝の孫の阿多倍王(589)年」が引き連れて来た「職能集団の渡来人の末裔(姓の初代は「海部氏・陶部氏」である)」であった事に依る。
    この「中国の王朝伝統」を引き継いで来た「帰化民族(姓族ロ)」が、初期に使い始め「姓族イ」もこれに準じて「姫の呼称」を踏襲した。
    要するに、「姓族イ」は「嬪」と「比売」を「嵯峨期の詔勅禁令」で使えなかった事に依り「姓族ロ(主に諸蕃別)」に準じたのである。

    つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはそもそもなかった。

    同然に「特別賜姓族」で「補完役の秀郷流青木氏の主要五氏」も「春日社」を守護神とする為に「宗家筋」に於いては「姫・ひめ」は無い。
    (「現地孫の姓」は認められている「分家筋」にはあった。「春日社」は「春日神社」ではない。)

    これらの「青木氏族の独特の呼称」を咀嚼して、注釈の前の「後家の話」に戻す。
    そして、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成る。
    結果としてその「プロセス」は同じ事に成るからである。

    上記の注釈の「姫」では無い事の二つとして、この「斎王の館の存在」がそれを証明し、「姫」が「斎王の館」に入る事はどの様な「仕儀の変化」があったとしてもあり得ない。
    依って、「姫」は「後家」に成り得ないのであって、「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる事に成る。
    形式上、“「後家」”に成ったとしても、その「後の扱い」は、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
    「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無く、且つ、「神明社の概念」に沿わない。

    それは「伊勢」とは異なり「信濃の周囲」は、「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って「弱い処」を狙って渡り歩く“「国衆」”の多い地域として知られる程に安全では無かった。
    「信濃」は、平安期はそれなりに「天領地」であった事から一時は「不入不倫の権」で護られていたが、室町期の「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
    この時の「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは前段でも論じたが「伊勢と信濃間」の間には「衰退した美濃域」があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。
    室町期では「美濃域の神明社などの中継点」が排除されていたことが原因している。
    室町期末期にこの為の対策を採った。

    (注釈 それは一色域で隠れ潜む「美濃青木氏」を「経済力と武力」を持たせて引き出し「蒲郡青木氏」を置き、同様に対岸の田原に「伊川津七党」として再興させて「美濃土岐氏系青木氏」の「田原青木氏」を「国衆」として置いて再興させ、「伊勢」からの「海運の要所」として湾内を占有した。
    そして、「近代銃」で「国衆の傭兵」で完全武装させた。この「銃」で三河の松平氏は拡大する。)

    この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃):青木氏の直系尊属」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
    その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。

    これは恐らくは、「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」から外れた「二つの事」が大きく原因していると観られる。
    つまりは、「後家の隠れ蓑策」が、「天皇家」に於いて「男系の皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。
    「青木氏族」から「天皇家に関わると云う事」が無く成ったと云う事にある。

    ところが、然し、「伊勢青木氏」の中では、この「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、「口伝」で伝えられる範囲では“「ある程度の形」“を変えて明治35年まであった事が書かれている。

    この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。

    先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成り、その後に成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。

    次の二つは、一度、「出の嫁家先制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この呼称の「後家さん ロ」。

    以上の「イとロ」の「後家さん」で、後は「尼僧」に成るかして通すかにあった。

    この「ロの後家」に付いては、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの「若い者(上記検証の範囲)」であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
    但し、そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
    これには“「無い」”と云うよりは、一度は「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上、その「後の人生」を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。

    つまり、「戻す事の方」が両者に執って何かと都合が良かったのであろう。
    それには「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者も多く居た事が記されている。
    但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様である。
    これは「女系の妻嫁制度」の「信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。

    この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。

    この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも「後家の呼称」の「使われる範囲」は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が「便利な呼称」として使われていた。
    それには、資料の読み取る範囲で咀嚼すると、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていたと観られる。
    つまり、「青木氏族の呼称」であった事に依る「社会の憚り」であったと考えられる。

    然し、明治期(13年頃を境に急激に変化)の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は「平等主義」に託けて「揶揄」へと変化して行った。
    「主家の存在」と云うものそのものが次第に“庶民”から敵視されて行ったのである。
    「明治政府の方針」であった事は否定できない。
    この時、「青木氏」でも、最早、この「憚り」は無く成って、同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で記録にもある。
    当然にこの“「後家の呼称」”も青木氏の資料の中の記録から消えている。

    その消えている中でも、但し、「殖産の恩恵」と「氏人との過去の関係」から、更には、元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、もっと云えば“「地権」”を無償で払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ、「御師様」や「氏上様」から「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていたと「伊勢青木氏の記録」に遺る。
    又、この事に就いては「松阪郷士の氏人」であった方からの「お便り」にもある。

    端的に云えば、「地租改正や農地解放等の政策」に依って「氏上様」や「御師様」からの関係が消えて、「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。


    この様に、「呼称に関する伝統」は歴史的に大きく関わっている事が判る。
    然し、その「呼称の伝統」も「青木氏」の中で維持するにはそう簡単な事では無かった。
    「世間の影響」が大きかった様であるが、その「苦労の実記録」は残念ながら遺されていない。
    資料から「読み取る事」以外にはないのが現実である。
    取り分け、「伊勢」以外には「伝統の史実」でも乏しい現実の中では尚の事である。
    戦乱等の「消失や紛失」の事で「乏しい事」は判るが、「伊勢」と共に「目に見えない苦労」が現実に合ったのだ。


    この事に一度触れて置きたい。

    注釈として、幸いに「伊勢青木氏」に「明治35年頃の変化の記録」が詳細に遺されている。

    恐らくは、「他の青木氏族」にも合ったとする証明に成ろう。

    それは次の通りである。

    口伝で伝えられたのであろう「信濃の青木氏宗家の方」からの「お便り」にも「以下の事」に似た事があってこの所以を明確に記載されている。

    「酒造」や「早場米」の「殖産」を新たに興した事が「徳宗家」や「徳農家」の変化に力を添えたと考えられる。
    筆者の祖父の叔父に当たる人がこれを成した。

    その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられた。
    そして、「台頭する社会主義的勢力」の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
    これに付いては、「伊勢青木氏と信濃青木氏」では、この「勢力の制裁」は驚くべきか“「攻撃」”を意味するものであったらしい
    この「攻撃」は「それまでの経緯」からかなり手厳しく遣られた事が判っている。

    それを物語る証拠として、次の事があった。
    筆者は、「明治35年(祖父の代)に起こった「伊勢屋の大失火」は「失火の原因」と「その後の処置」に疑問を持ちこの「攻撃」によるものでは無いかと観ている。

    その「後の処置」には、その「後の処置と失火の原因」には、疑問がある。
    父や祖父らは敢えて、昭和の初期まで「紀州徳川氏」等との付き合いがあり、「伊勢青木氏の立場」もあって、要するに「知名人」であった故に「周囲との関係」を悪化させる事のない様に配慮したものと聞いている。
    その様にするのが、「攻撃」たるものがあっても、「何事も無い様に振る舞う事」が「青木氏の品格であり宿命」と信じていた様がある。

    然し、敢えて、最早、筆者にはそま「柵」は全く無く成っている故にこれを公表する。
    そもそも、本サイトの公開の意思はここにある。

    「記録」に遺され得ない「伝統を誇る青木氏族」には「目に見えない軋轢」があったのだ。

    そこで、この分析を述べる。

    本来は「失火類焼」は「貰い損」が原則であるが「全面損害賠償」をしている事、
    「商い」の全てを摂津に移している事、
    「松阪」にはその後に「二つの大プロジェクトの殖産・酒造と早場米」を施している事、
    必要以上の「地権の放出」をしている事、
    「青木氏の福家」を「四家」に移して「福家」は「尾鷲」に引き上げている事、

    この事から、この”「攻撃」”を何とか逸らしたと観られる。

    父からは飽く迄も「オムツの乾燥」とする「失火」として伝えられているが、「土蔵の蔵群」の中で外に失火しない事、
    その後の「遺品の隠し方」が異常である事、
    「明治9年で政府への献納金」を中止している事、
    「伊勢神宮への支援」等は打ち切っている事、
    「明治9年の伊勢騒動」を裏で支援していた事、
    「権威性を持つ氏族の存在」を政府が否定し一掃した事、
    「大名・華族等への貸付金」を返還無効にしょうとした事、
    「生活苦では無い」のに「生活の拠点」を恣意的に移動させている事、
    敢えて、態々「福家の見せかけの副業」を前面に押し出した事、
    「信濃」も失火に関わらず影響を受けている事、
    前段よりの「青木氏の制度」の一切を突然これを契機に打ち切った事、
    河を隔てた「燃える事の無い地権地」の「玉城域の南側」も一部類焼している事、
    「関東の秀郷流青木氏との関係」も不自然に以後打ち切っている事、
    「華族制度への誘い・紀州徳川氏の内示」に対して「青木氏」ではなく「伊勢屋」を前面に押し出し断っている事、
    これに対して「名目」を変えて謝罪してその「返答」を右大臣から直筆で受けている事、
    政府は「一応の手続き」を採ったと観られ、それに依って「献納金」を中止し、その後の失火事である事。

    以上等が挙げられ明らかに「不自然の失火」である。

    以上の事で、筆者は「社会的反動の徒」を煽った「政府の仕掛け」であって、「見せしめの攻撃説」を採っている。

    簡単には「青木氏の存在否定の所以」であろう事がこれだけの「不自然な事」で証明できる。
    先ず間違いは無いだろう。

    唯一「権威と象徴」を有していた「氏族の存在」は「政府」と「天皇家」に執つて、好ましくなかった事に成ろう。
    落ち着いて考えて観れば、少なくとも明治期の祖父の代までは「四掟」をそれなりに何とか維持していたのである。
    これを見方に依れば”「正規の天智系」を維持していた”と成れば、「政治的な国体」からも「排除」と成るは必定であろう。
    これは今でも云えるだろうし、「孝謙天皇の白羽の矢」で騒いだ事の逆であろう。

    この様な事は、歴史的に他にもあった。
    江戸初期の「伊勢の事 お構いなし」のお定め書」である。
    これは裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」に対して周囲が文句をつけた事に他ならない。
    そうでなければ「お定め書」を出す必要は無かった筈である。

    「信長の伊勢攻め」である。
    信長に対して、「伊勢」は反抗していない。
    なのに「無防備な庶民」への「焼き討ちと虐殺6000人」を繰り返した。
    同じく裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。

    「室町期初期の下剋上」である。
    「姓族の支配下」に置かれ、鎌倉期の「旧領地の本領安堵の地」に対して「地権」が壊滅状態に成った。
    これを「巨万の富の獲得」で「商いの力」で「地権」を買い戻した。
    なにも青木氏側は土岐の政府に対して反抗した訳では無いし、不入不倫の権で護られた伊勢であるのに。
    幕府はこれを無視した。
    これも裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。

    前段で論じた様に、平安期初期に於いても、鎌倉期中期に於いても同然である。
    典型的な事象は云うまでも無く「嵯峨期の事件」である。
    「嵯峨期の詔勅と禁令」が出されると云う事は何もなければ出す事はない。
    出すと云う事は、裏を返せば「青木氏の存在」が「当時の政治体制」に問題に成ったと云うことであろう。
    突き詰めれば周囲から「存在の異論」が出て「源氏」で逃げたと云う事にも成る。

    鎌倉期でも、「青木氏」に対して「周囲の反対」を押し切ってでも「本領安堵」を出した。
    ”反対を押し切ると云う事”は、そもそも、「権威と象徴性」を兼ね備えた「氏族」に必要以上に「力」を与えず「本領」を与えない方が良いとする意見が合った事である。
    恐らくは、「頼朝」はこれらの「反対を押し切った事」で暗殺されたのであるから、「青木氏の存在否定」である。
    それが、語るも面倒、「第七世族の坂東八平氏」の反対である。
    「義経の件」も「頼朝」を悪くしているが孤立無援の中で親族を抹殺する事は自らの存在を弱くする事に成り「頼朝の意思」では決してない。
    つまりは、良く似た事であろう。

    要するに、全て「時代の変遷期」に、この「攻撃」が全て起こっている。

    「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
    然し、これが出来ない。
    だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。

    如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
    故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
    この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
    これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。

    > 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」に続く。


      [No.365] Re:「青木氏の伝統 46」−「青木氏の歴史観−19 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/12/31(Mon) 18:15:42  

    > 「青木氏の伝統 45」−青木氏の歴史観−18」末尾
    > 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    前段でも論じていた様に、例えば、「出の嫁家先」が、「位階の持つ氏」や「摂津源氏」や「嵯峨源氏」であるとするならば、そこには「女系の妻嫁制度」や「四家制度」が敷かれて行くか、生まれて行く故と成り得ているのである。

    そもそもは、何故ならば「家の政所(まんどころ)」は、「女性に任される事の仕来り」があったからであり、この「政所」の基の語意の「まんどころ」(政)はこの意味であり、「家政婦」とはこの語源を持つ言葉である。
    当然に「位階の嫁家先」には、従って、「女(むすめ)」が仕切る「政所」は最低限に於いてもこの「女系の妻嫁制度」が敷かれている所以でもある。
    つまり、これは前段から論じている様に、明らかに「四六の古式概念」の「四掟の前提の範囲(血縁の条件)」にある事にも成るのだ。



    「青木氏の伝統 46」−「青木氏の歴史観−19」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    さて、この上記の考察の「年齢」とでは、「入りと出」の「政所(まんどころ)」の「女の性の主張」は左程強くなかったと考えられる。
    これを出来るだけ排除する為に、”「妾の子孫(四家20家)」”の死亡時の「代替わりの掟」があった。
    この時の「母の処置の掟」(尼僧寺に退く掟)が幾つか定められていた事が判っている。
    取り分け、この中でもこの「尼僧寺に退く掟」の「比丘尼寺」ではこれらの下界との一切の繋がりを遮断し切っていた。
    例えば、少しの「出入り」も「重罪の厳禁の掟」である。

    「福家」と「四家20家」には、多くの“「比丘尼」“が「代替わり」毎に出る。
    これが下界(世俗)に出て「不倫不浄」を働けば、「青木氏の沽券」に関わり「四家の信頼を失う事」になり、強いては、「女系の妻嫁制度の信頼を失う事」に成る。
    これの「災い」は絶対に避けなければならない。
    取り分け、次第に広まって行く「女系の妻嫁制度」ではこの「女の災い」は「伊勢」だけに及ばず「青木氏族以上」に際限なく広がる事に成る。
    これは「賜姓五役」の「権威」からも絶対に避けなければならない事であった。
    この口伝や資料の一節を観ると、その「厳しさ」から相当な「決意の掟」であった事に成る。

    この時の「比丘尼寺」には先ず「小山」に合って「下界」から疎遠であって、その寺との疎通で唯一人も入る事は出来ず、老下男一人が食料等を毎日運ぶ「仕組み」と成っていて周囲は堅く囲まれ、その生活は裕福では無く一生を「継承者の仏(青木氏全体の仏)」のみに念仏を捧げる「厳しい掟」であったらしい。
    今から思うと間尺に合わないと感じるが「比丘尼僧の現実」はそうであったらしい。

    検証して観ると、「四家の嗣子の寿命」が55歳として、15歳に嫁ぎ55歳の40年間のそれ以上に長生きすると、「菩提寺の分寺の尼僧」か「比丘尼僧」として、生きて行かなければならなかった。
    「青木氏族の菩提寺の寺名」、その「分寺の寺名」は、又、「秀郷流青木氏の菩提とその分寺」の寺名は判っている。
    そもそも「分寺」があるという事は、「尼僧寺(一族の女)」か「比丘尼僧寺(一族の女)」があったという証に成る。
    強いて云えば、この分寺があると云う事は、当然に「女系の妻嫁制度」かそれに近い制度を「嫁家制度の拡大」で敷いていた事をも意味する。
    つまり、当時はそれが当たり前の事で、“「女の宿命」”でもあり「武家貴族の社会」に於いては疑問の出る処ではなかった。

    そもそも、「尼僧」にも「戒律と掟」があったが、主にその主眼は「戒律」にあって、一族の「菩提寺の分寺」で「人を導いて行く事」に成るのが「分寺の尼僧」の普通だが、然し、「比丘尼僧」は違った。
    取り分け、「比丘尼僧」は「四家の継承者」のみの「菩提」だけを弔い、「密教の概念」の許に「氏人」の「仏」と「人」を導かない。
    依って、「分寺の尼僧」は役目の無い「比丘尼僧」の程の厳しさの程では無かった。
    然し、「比丘尼僧」は優先して「女墓」には刻まれるが、これは「当時の慣習」では「誉」であったのだ。
    それだけに、「代替わり」を待つまでも無く、「代替わり」直前で許可を得て自ら進んで「入妻」から「尼僧」に成った「入尼僧」と成る者も多くあった。
    これと共に、或いは、「女(むすめ)」から直接、「若尼僧」に成る者と共に、養育する「女(むすめ)」を導く「養育係の役目」に成る事も多かった事が書かれている。
    これで「女の性の主張」と「不必要な災い」を防いでいたのだ。

    これ程に、長い間に改善を加えられて「女系の妻嫁制度」は、如何なる「氏族や姓族」にも見られない「生き残りの策」を確立していた。
    これだけの並々ならぬ「努力」は「普通の氏力」では絶対に出来なかったであろう事が判る。これは「氏族と云う絆」の所以に依る。

    更に、付け加えるならば、子供を産めなかった「入妻(いづま)」は、「馬爪」(産まない女・産まず女)、要するに、“馬の爪の様に役に立たない”と揶揄した呼称で呼ばれ、「尼僧寺」に入る厳しい「定めの掟」であった。

    (注釈 「生存時の代替わり」の「継承者」は「隠居扱い」と成る。)

    そこで、「四家20家の継承」は、“「代替わりの空き」”を待つ事に成るので、その「年齢」には制限が無く、依って基本的に高く成り、これに連れて「母扱いの年齢状況」も高くなる。
    即ち、「妻」と逆に成る。
    これで継承の「嗣子の数」を調整していたと観られる。(隠居策もあった)
    これは上記の「男女の本能の差」もあるが、兎も角も、「嗣子」に「仕事の経験させる目的」もあるが、「嗣子」は継承するまで、“「妃、嬪、妾」の「妻」は持てない。
    「嗣子の四家20家」の「仕事の年齢」を若くしても、その「仕事を熟す能力」は若いからと云って、「女性の性の様」にはならないし、「男性ホルモン」を喚起させても女性の「女性ホルモン喚起」の様に早熟する性を持ち得ていない。
    飽く迄も、「三段階の体の成長」を遂げないと、その「仕事も性」も「男性の能力」は喚起され得ない。
    従って、「嗣子の継承年齢(四家20家)」を敢えて定めていなかったのである。
    つまり、「妻を持つ事」は、「四家」を「継承しての権利」である事に成る。
    これも「入妻の掟」と成る。
    結果としての傾向は、「嗣子」と「入妻」のその差は、次の様になり「女系の妻嫁制度」にはある一定の重要な意味を持つ事に成る。

    例えば、「入妻」は、上記の検証の通りの様に「15歳〜20.5歳」であるとすると、「嗣子の継承年齢」は、「寿命55歳」とすると、男性は「三段階の成長(初夢)」を遂げるのには、上記で述べた様に、「女性の脳」での反応では無く、「前立腺の成長」が起因しているので「進化の過程」では早くなる事は低い。
    現在では、「初夢」は、定まった「三段階の体の成長」が無い限りは最低で「15歳頃以上」と成っている。
    ここが「三段階の体の成長」が無いところが「女性」と違うところである。
    従って、女性に於いては上記の様に「脳の刺激」に依って、「女性ホルモン分泌」が高く成り、「体の成長以上」に早くなる事は起こるが、男性にはこれが無い。
    簡単に云うと、「女性ホルモンの分泌」を「脳の刺激」に依って促せば、その「女性ホルモンの分泌」に沿って「生殖可能な全ての体」がそれに合わせて備わって行く事に成る。
    「生殖に関する年齢の分岐点」が無い事を意味する。

    判りやすく云えば、「脳の女性ホルモンの分泌」の「刺激方法の強弱」にも依るが、際限なく早く起こる事も云える。
    外国資料に依れば、「5歳児」で起こった史実も資料も観られる。
    この「初潮の有無」を別にすれば、0歳児からもその意味の理解は別にして、「初期の行為」の発表もある位で、これは内外を問わず一般に認められている事でもある。(体内に於いてもその行為が観られる。)
    この「初期の行為」が「初潮」を早める結果とも成る。
    因みに、豊臣秀頼の妻、「家康の孫の千姫」は、「初潮の有無」は資料では明確ではないが、政略的意味合いは別にしてその「能力」を保持し「9歳」で嫁ぎ、その後の「妻の役目」を果たしている記録があるは、上記の事斯くの如である。

    逆に、男子はこの「生殖に関する年齢の分岐点」があって、「男性ホルモンの脳の刺激」などに依って「生殖能力」は生まれない。
    脳に遺伝子的に記載された変化する事が無い「人体プロセス」に依って、即ち、「三段階の決められたプロセス」に従って、これに達しない限りは「生殖能力」(初夢)は起こらないのである。
    従って、この「年齢差」は極めて少ない事に成る。

    そうすると、この事を前提に、計算すると、「現在の平均寿命(生殖能力の精子の老化限度)」は、男子65歳以下とされ、「栄養分の改善」などに依って、その「体の成長の過程比」に影響され、それは、65歳/55歳=1.2と成る。
    当時の寿命の55歳は、「人体プロセス」に従う事より、65歳以下の年齢と成る為に、寿命と成り得ていても、「精子の老化年齢(数は影響)」には無く、この比は成立する。

    即ち、15歳*1.2=18歳  と成る。
    つまりは、「18歳頃(上限)」が、現実の生殖可能な「初夢」と成る。

    そうすると、上記の「女子の初潮年齢」は、「10歳」として「20歳」以上が計算の上では「卵子の老化年齢」であった事に成る。
    「卵子の老化年齢」は、男性の「精子の老化年齢」とは少し意味が異なり、確かに、「精子の老化」は多少は起こるが、主に「精子の生産数が激減する事」の意味の方が大きい。
    取り分け、男性の場合の「精子の老化」は、「生殖」はあっても「無精子」という事が老化に依って起こり、「三日に一回毎の精子の畜生産」はこの傾向が強いのである。

    「夢精の初夢年齢」は「三段階の成長(初夢)」が必要な為には、当時は、「初夢の有無」は別として「大人」として扱われる「元服」は、「15歳」と成っていたので、「生理的な年齢」の計算の上では、この事から「15歳」から「18歳」という事に成る。

    然し、「生殖」は可能かどうかは別として、恐らくは、資料から鑑みると、「男性の三段階の体の変化」の内の「二段階くらい」は終わったのが、「15歳頃」として「三段階目」が始まる事があったのであろう。
    故に、ここを「元服15歳」としていた事が考えられる。
    実際は、計算の通り「18歳頃」にあったと観られる。

    この「成人期(大人・一人前・男性)年齢」の計算値の「18歳」は、「四六の古式概念」でどの様に考えられていたかと云うと次の様に成る。
    「四の倍数」では「16歳」、「六の倍数」では「18歳」と成り、「基準」としては矢張り、「18歳(〜16歳)」であった事に成り合致する。

    この「四六の古式概念」を敷いていた事もあって、「15歳」を超えている事から、又、「人の差」にもよる為に、「何らかの理由」があり「確認」の上で、「16歳」も「特例」としてあり得たと観られる。

    参考 原則、「精子の老化」は65歳頃とされていて、「性欲の限度年齢」は76歳頃であると成っていて、従って、当時の平均寿命55歳は、未だ65歳には達していないので「男性の生殖能力」は、「寿命」に変化はない事から充分にあった事に成る。
    「卵子、精子の老化」の限界年齢は、「亜子の可能性」と、「生殖の成功率」に大きく左右し、「妊娠出産能力の限度年齢」とも成る。

    従って、「寿命55歳」として、「四家継承の年齢」は、計算では最低でも「18歳」と成るが、ここからあらゆる「継承」に必要とする“「経験期間」”を「最低5年」と仮定し、「空き」が起こる期間を待つとすると次の様に成る。

    当時の寿命の「55歳」が限界で、「停年」が現在では60歳/70歳(活躍年齢)=0.85の比と成る。
    つまり、計算値としては、「55歳*0.85」=「47歳」が「停年の限界値」と成る。

    この「停年の47歳」に「四六の古式概念」を宛がうと、「4の倍数」では「48歳」、「6の倍数」では「48歳」と成り得る。
    従って、恐らくは、「当時の四家の停年年齢」は「48歳」であった筈である。

    さて、この継承は、「20家」に分散適用されるので、その確率は、一斉に起こったとして、「係数0.05」と成る。
    従って、「47歳」*0.05=2.35年〜2.75年と成る。
    つまりは、「約2〜3年程度の空き」を最短で待つ事に成る。

    故に、18歳を基準に、結果として、「修行期間」が5年+3年=「8年」と成り得る。
    結果として、遅くても18歳+8年=「26歳の継承年齢」と成る。

    さて、そこで「入妻」は、15歳/55歳で、「嗣子の継承者」は、26歳/55歳と云う事に成り、「答えのその差」は、15歳−26歳=「約10歳」の差と成り得る。

    故に、「妻と継承者の間」には、「約10歳の差」があった事に成る。

    さて、そうすると、この「継承年齢」の「基準」はどこにあったのかと云うと、計算の「26歳」は、「四六の古式概念」を宛がうと、「四の概念」で云うと「24歳」か「28歳」と成り、「六の概念」で云うと、「24歳」か「30歳」かに成り得る。
    結局は、当時の「継承年齢の基準」としていたのは“「24歳」”と云う事に成る。

    そうすると、「入妻」として「最長で40年間」は「妻」と成り得て、(又は比丘尼僧)、「最低で32年間」は「母」、(又は尼僧)と成り得る。

    尚、殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は原則は無い。(女系の妻嫁制度の掟と仕来り)
    何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる。

    飽く迄も、つまりは、「女(むすめ)」も「義母」も、「四家20家の全体」の“「母」”であって、特定の「四家20家の個々の母の扱い」ではないのである。

    (注釈 上記の継承年齢や停年年齢等を要領化とした本があった筈であるが、恐らくは、「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられる。
    残るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて、その中での散見で紐解いた事であった。
    そこに論理的な計算を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)

    この「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれた。
    この「重要な呼称」と成る“「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。

    同様に、「公的な記録」としては、例えば、「光仁天皇期」の「斎王」や「王女」等に成る事を拒んで、故意に「伊勢青木氏の四家」の”「後家」”に成ったとする事が公に二件記録されていて、一人は「叔父の後家」、もう一人は「兄の後家」に入ったとされている。
    そもそも、幾ら血縁性を重んじていたとしても、「叔父」や「兄弟」との”「後家」”による「近親血縁」はあり得ないが、これは明らかに「政略結婚」や「その政争」、又、その「斎王や王女の人生」を拒んで“「後家」”を「隠れ蓑」にしていた事を意味する。
    「青木氏の資料」には、逆に「女(むすめ)・ひいさま」の段階で、「斎王」、或いは「斎院(斎宮)」を積極的に希望して逃れた記録もある。

    ここで注釈として、先ず、この「後家の表現」がこの「公的な記録」として出て来るのは「伊勢青木氏の光仁期の事件」が最初であり、「伊勢青木氏の資料」ともほぼ一致する。
    これは重要な「青木氏の歴史観」である。

    次に「青木氏の歴史観」として「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。

    「青木氏の資料」で垣間見ると、本来は、「公的な記録」では「ひいさま」ではあるが、“「ひさま」”であり、「い」は「青木氏の守護神」は「神明社」である事から呼称は「韻の発声」として使われる「慣習仕来り掟」があった。
    依って、「主韻」の「ひ{敬いの意}」と、「韻」の「い」とで「ひいぅ」となる。

    次に“「ひごさま」“に付いては、上記の「ひ{敬いの意}」と、「ご」は矢張り「韻」で「御・こぅ」としている。
    「御」の「ごの濁音」は「韻」に連動して「言葉の品格」がないとして、「こぅ的か、おぅ的」に「韻音」とする発音で「ひこぅさま」か「ひおぅさま」と成るとある。
    依って、「ひ御」は、要するに「御母の漢文的表現」となる。
    但し、そこで「ひ」の漢字は、古代では“「ひ」”の語源は“「妃、又は嬪」”から来ていて、“「御」”の語源は“「后」“から来ている。
    何れも「妻嫁制度の后妃嬪妾」の制度から来ているのである。
    平安用語では「嬪」は「ひ」、或いは、「ひめ」と呼称する。現在でも同様である。
    筆者の研究では、奈良期の古代は「義母」も「女(むすめ)」も元の発音は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えていて、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。
    ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母」と「女(むすめ)」の呼称を「ひ」に対して「義母」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
    「女(むすめ)」に対しては「ひぃさま」の呼称で遺した。
    そこで漢字の宛がい方では「義母」に対しては「ひ」には「妃か嬪」に「様」を付けるとしていた。
    然し、「女(むすめ)」の宛がい方は、古来の漢字表現は“「比売」”としていて“「比売様」”と宛っていたとしている。
    「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。

    注釈として、これに付いては「青木氏」で無くては判らない「重要な青木氏の歴史観」を述べる。
    上記の「比丘尼(びくに)」は「サンスクリット語」ではあるが、仏教伝来時はこの「比丘尼の役目」は「巫女の役目」と同じ務めをしていた。
    「女(むすめ)」の古来語は、上記の通り”「比売」”で”「ひいさま」”としていたが、この「神明社の巫女役」に近い務めの「仏教の比丘尼僧」も”「比丘(びく)」”と呼称して「比」の「ひ」を使っていた。
    前段でも論じたが、「仏教伝来時」は「社も仏」も「同源(神仏同源)」のもので、「皇祖神の子神の祖先神の神明社」は、「巫女(生女)も「比丘(女)」も”「神に仕える役目」”としては区別は無かったし、そもそも「区別の概念」も無かった。
    従って、”「比売」”も”「比丘」”も{同源}と考えられていて、そこで「神に仕える身」から「敬いの意」の「比(ひ)」が使われ「韻」の「売」も「丘」も共に使われた。
    この「古来の伝統」が「女(むすめ)の意味する伝統(神に仕える身)」としてM「青木氏」に最近まで伝わっていたのである。
    但し、この「比丘」に対して「比丘と比丘尼」は「比丘は男性」、「比丘尼は女性」の得度者と云う風に「鎌倉時代」から一般ではその体質を元の差別的な方向に変化させて行った。
    元々、{釈迦の比丘尼}の{発祥経緯}から仏教伝来時の奈良期と平安期までは、この「古来の伝統」を引き継いでいる「青木氏の比丘尼・巫女」の様にこの差別的概念は消えていた。
    「青木氏」の「女系の妻嫁制度」に依る「基本概念」と、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の神明社」からの「基本概念」からと考えられる。
    これは「青木氏の概念」に、沿って、寧ろ”消した”と考えるのが妥当と考えられる。

    注釈に鑑み、何故に「青木氏」だけが”「韻を踏む」”かと云うと、当然に「賜姓朝臣族」で、「皇族系の伝統」を形を変えながらも引き継いでいる事には間違いは無い。
    然し、皇族とは何もかもが同じと云う訳では無かった事が判る。
    上記の「妻嫁制度」や「四家」などの制度を特別に構築している事から変わる事が起こる。
    然し、この「韻を踏むと云う事」に関しては上記注釈の様に「伝統の継承」をしているのだ。

    つまり、そもそも、「韻を踏む」は、前段でも論じたが、「人類の言葉の初期の発声」は「母音の四音・あおうえ」と「父音の八音・ちいきみしりひに(ヰ音の横の段・奇声音」との「32音の組み合わせ」から「初期の言葉」が起こった。
    その「初期の言葉」の元は「母性の性交時の発声類音」が「母音の元」と成っている。
    「父音」は「猟時の仲間との暗号」としての「奇声音」が発露と成っている。
    この「母音と父音」の「組み合わせの音」が「韻音」として成立する故に、「皇祖神の子神の祖先神の神明社」は「民の神の道祖神」と「稲荷社」と共に「最も古い社」であり、「祝詞」はその語源は結局は「韻を踏む発声」と成り得ていたのである。
    故に、この「伝統」を色濃く引き継いでいる事から「母音に繋がる呼称・母性系の言葉」には「韻を踏んで発音する仕来り」と成っている。
    恐らくは、この「伝統」は最終は「伊勢と信濃の青木氏」だけに遺されたのであろう。{伝統−4と伝統−24に記載)

    ところがその後、室町期中期以降に民から身を興して{姓族}の豪族に席巻された。
    この時、「姓族の豪族」の「女」に対しては「ひ」の「姫の語」の適用を室町期に成って起こった。
    豪族と家臣との間には「契約」に基づく「臣下契約」が果たされ、この事で「主君の女」に対しても「それ成りの礼節」が求められた。
    「姫」の字は「女辺」に「臣」が着いているが、「臣」の字体は「人のひれ伏す形」から来ていて、この事から「女と臣」の結合語は室町期初期の字体である。
    「姫」に「平安期の慣習」を用いて「ひ」と表現させて「ひさま」と呼称したのである。

    つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはなかった。
    これは「賜姓臣下族青木氏」に於いても同様で、その「古代の皇族の慣習仕来り掟」をそれなりに引き継いでいる事により、「女・女(むすめ)」に於いては「女と臣」の位置にはなかった。
    「女(むすめ)」の処で論じた様に、その「女と臣の概念」がそのものが無かったと云える。
    「女系の妻嫁制度」のシステムを考えれば「郷士、氏人、家人」から「福家の女(むすめ)」に成って養育する事から明らかに「横関係の家族の位置」に合って「家臣の位置」には無い。
    従って、「青木氏」には「女(むすめ)の概念」がある以上は、この「姫の用語」は使われる概念ではなかった。
    もつと云えば、「女系の妻嫁制度」が敷かれている以上は論理的にも「姫の概念」は「青木氏」には当然に起こらないし、資料や記録からもこの「姫の用語の使用」は発見出来ない。

    仮に「姫・ひめ」として観るならば、「青木氏」では「神明社」である為に「姫」では無い事は明らかであり、且つ、必然的に「韻」を用いる事に成り、この為に「き」であり「きさま」と成りあり得ないのである。

    注釈の前の「後家の話」に戻して、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成り、結果としてそのプロセスは同じ事に成るからである。
    上記の注釈の「姫」では無い事の一つとしてこの「斎王の館の存在」がそれを証明し姫が斎王の館に入る事はどの様な仕儀の変化があったとしてもあり得ないが、依って「姫」は「後家」に成り得ないのであって「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる。
    形式上、“「後家」”に成ったとしても、その後の扱いは、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
    「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無い。

    「姫」との違いはこの程度として「斎王の里の館」の中でも、「福家の養育過程」の中と同じ環境で、且つ、全て一族の「女(むすめ)」の姉妹なのである。
    従って、「特別な違和感」が無かったと考えられ、「政争」からの「逃避地」としてはこれ程に都合がよく安全で格好の良い「隠れ蓑」は無かったと考えられる。

    一方、上記した様に「斎院、斎宮、物忌、支女」と成る事は、「必然の定まった道」が出来ている事に成る。
    この「物忌」を務めれば、多くは最終は「斎院・斎宮」や「支女」として「斎王の里の館」に入るのである。
    「青木氏族」に執っては何の問題も無い。

    この「制度の状況」は、「四世族」まで適用されるので、平安期初期の前後(770年頃)は、「伊勢」を始めとして賜姓族の範囲の「近江、信濃、美濃、甲斐」まで、適用されていた可能性があった。
    現実に近江にもあった研究記録があるのでこの事は云える。

    その後、「最盛期の光仁期(770年頃〜780年頃)」では、「四家制度」を敷いてその制度が徐々に改善されて行き、「伊勢」を中心としたものと成って行って、「女系の妻嫁制度」が改善され確立するに至った。
    そして、先ずは、「位階の持つ青木氏族の嫁家先」に広まって行ったのである。

    そして、その当に「光仁期」からは、「青木氏族の子女(「女(むすめ)」」は、「伊勢の範囲」からは「四世族(王女宣下の範囲)」と成るので、当然に「伊勢−信濃間の血縁」のより進んだ「信濃の四家の妻嫁制度」の「女(むすめ)」にも「王女宣下」が適用される事に至り、この後の「政争」から逃れようとして「後家の隠れ蓑策」は「青木氏族全体」に及んでいた事は確実である。
    記録からは観る事はできないが、「斎王の館の存在」や「親族である事」からも「女(むすめ)」や「妻嫁制度」の中に組み入れられていた可能性が充分にある。(散見無し)

    (注釈 資料を読み解くと、この「信濃」では先ず第一に「数少ない神明社」を「隠れ蓑策の設備」に使った可能性があり、第二は伊勢に逃げる事に成ったと観られる。
    それは「伊勢」とは異なり信濃の周囲は「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って弱い処を狙って渡り歩く「国衆」の多い地域として知られる程に安全では無かった。
    「信濃」は平安期はそれなりに「不入不倫の権」で護られていたが、「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
    「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは間には衰退した美濃域があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。)

    この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃)」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
    その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。
    恐らくは、これは「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」が外れた「二つの事」が原因していると観られる。
    「後家の隠れ蓑策」が、「皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。

    ところが、然し、「伊勢青木氏」の中ではこの「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、口伝で伝えられる範囲ではある程度の形を変えて明治35年まであった事が書かれている。

    この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。
    先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。

    次の二つは、一度、「出の嫁家制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この者は「尼僧」に成るか、「後家さん ロ」として通すかにあった。

    この「ロの後家」は、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの若い者であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
    そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
    これには「無い」と云うよりは一度、「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上その後の人生を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。
    つまり、「戻す事の方」が両者に執って都合が良かったのであろう。
    「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者もいた事が記されている。
    但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様で、これは「女系の妻嫁制度の信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。

    この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。

    この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも使われる範囲は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が便利な呼称として使われていた。
    それには、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていた。

    然し、明治期の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は平等主義に託けて「揶揄」へと変化して行った。
    「主家の存在」のそのものが次第に庶民から敵視されて行った。
    この時、「青木氏」も同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で、その中でも但し、「殖産の恩恵」と「氏人の過去の関係」から、更には元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、「地権」を払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていた。
    端的に云えば、「氏上様」や「御師様」から「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。
    (明治35年頃の変化の記録がある。)

    その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられて、台頭する社会主義的勢力の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
    「伊勢青木氏」ではそれまでの経緯からかなり手厳しく遣られた事が判っている。

    (注釈 この様な言葉は、当然に、「四六の古式概念」に基づく古来の「古式概念に依る制度」を確立させる為の「重要な欠かす事の出来ない仕来り」であった。
    この様な「歴史的用語」は、この「後家」も含めて「青木氏族の慣習仕来りの掟」の中にも多くあり、その「青木氏族の伝統」そのものが敵視され、その「思惑の対象」と成った事が口伝でも明確に伝えられている。
    その一つの例としては「四六の古式概念」等を含む“「密教の概念」”であった。

    (注釈 お便りで「信濃青木氏」でも起こった事が伝えられている。
    これはまさしく特異としての「氏族」の「青木氏そのものの否定」であって、「後家」から始まった否定は「青木氏の伝統や慣習仕来り掟の否定」でもあった。
    極端に云えば、大正期には家の中にある「伝統に関わるもの」は全て隠した事が伝えられ、昭和20年初め頃には筆者も天井に何故か先祖の遺品の骨董品や多くの資料があるのを確認している。)

    「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
    そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院」等も、本論で論じている「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。

    これを証明する言葉としての注釈は、 最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
    つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
    恐らくは、これは「青木氏」が独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。
    又、そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。

    ところで光仁期の中期頃から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
    「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいた。

    この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族」の制度では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。

    (注釈 「後家」に対して「分別する呼称」は無かった。
    依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」を云う。
    上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
    結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて人を説き、導きをする事は至難であったらしい事が読み取れる。
    然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事は必要であったらしい。

    取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
    そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
    「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
    従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
    云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味で戻る事があったらしいが、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。

    そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
    然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
    「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)」の範疇に合ったとしても其処には「生女」ではないと云う基準がある。
    従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。

    前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
    この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
    従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
    この場合の処置が難しかった事が読み取れる。

    それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
    この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
    「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
    資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
    これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
    この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
    「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。

    (注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に記録から垣間見れる「恐怖の抑止力」であった。
    それ程に恐れられていたのだ。
    故に「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が可能と成っていた。
    尚、室町期では「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。)

    況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも保護施設として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
    従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。

    そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
    「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
    多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
    然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
    「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
    それは、「斎王の里の館」にである。
    そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い「女人(女官)制度」があった。
    凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
    この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。
    況して、そもそも、「平安期」には「四掟の家」は「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅の源氏賜姓」の禁令文面にもある様に、更には元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」を支える「その力」が既に無かった。
    当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。(仁明期頃)

    前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは賜姓を外れた事で、「賜姓五役等も)」を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。
    (これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)
    これを最低限に、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。

    「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
    この“「多気の里」”は、“「斎王の里」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
    この段階(嵯峨期以降)では、最早、「斎王」の云々では全く無かった。

    (注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)

    だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。

    「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない」を出していた。
    「青木氏の概念」としては「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。

    (注釈 そもそも、「斎王」は、王族やそれに準ずる者から嫌われて仁明期以降(青木氏の直系尊属)から成る者は少なく成っていた。
    筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期−嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
    記録的にも、「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
    そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、「世にでない記録」として遺さない様にする為の奇策であったらしい。)

    従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
    当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。

    つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
    松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
    “「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
    「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
    「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。

    ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
    それは、この“「後家」”そのものなのである。
    前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。

    この「言葉」が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
    この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、「家」と云う言葉にある。
    その前に当時として、“「家」”とは、“「公家」”の「家」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語」である。
    「高い格式を持っていた言語」であった。
    要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。
    ところが、江戸期に「姓族」が、「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
    唯、現実には、「氏族」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
    その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。

    (注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)

    “「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄を示す用語」であった。当然に「家」に着く「侍」も同然である。
    「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。

    「施基皇子の賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
    そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」(家)とされた。
    この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。

    「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家、即ち20家と郷士族50」で構成していたという事に成る。
    従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
    「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「氏族」として認められた事に成るのである。
    当然に、「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以である。
    従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成る。
    当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
    つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。

    「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」

    以上の関係式が出来る事に成る。

    「秀郷流青木氏」は「青木氏の補完役の策」として「賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」として認められ、その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏の家」が認められた。
    そして、「冠位と官位」でそれを証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」を与えられたのである。

    従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
    「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
    つまり、上記の「氏族=家=武家=氏上=氏人=家人の関係式」が成り立つのである。

    そもそも、そこで「姓族」には、次の二つがある。
    (a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族」
    (b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族」

    (a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
    天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
    但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
    この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。

    「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
    故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
    これがその論理的証拠である。

    前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
    この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。

    (注釈 「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」を認められていないから、従って、「分家」として発展し、つまりは、「一つの家」を「分身の様」に分けると云う理屈と成る。
    故に「分ける家」なのであって「家」を別段に興していない理屈に成る。
    依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。)

    従って、この「後家」は「姓族」には論理的には起こらない言葉と成る。
    そもそも、「後家」は、「後宮」に通ずる言葉であり、皇室の「宮」、即ち、「氏族」の「家」であり、「家」は「青木氏族」の様な「氏族」のみに「後家の言葉」(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。

    「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
    この場合は、「氏族」を朝廷より外される事に成る。

    (注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う高位の特別の格式を有する事により「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
    361氏と云う「分家」が特別に認められた。
    依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍ら”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)

    従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
    当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様)」だけなのである。

    (注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
    庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
    庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた数々の氏を構成する制度が異なっている。)

    故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」に成り得たのである。

    この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
    当然に「後家」もである。

    (注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
    少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。)

    「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家の天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
    これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」)として、“「後家」“と云う呼称を使って、公然とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。

    (注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
    「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を「巫・かんなぎ女」と呼んでいた事が判っている。
    この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
    当然に「後家」も務められた。
    どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。
    だとすると、「500社弱の神明社」に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
    「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ女」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。
    「「五家五流青木氏」は勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
    但し、江戸期初期には全て「青木氏」からの「かんなぎ」は停止したとある。)

    それが最初の“「後家」の呼称”であった。
    正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
    そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
    これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
    将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
    「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
    「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
    これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
    ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
    恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
    これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
    これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
    故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
    この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。

    > 「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」に続く。


      [No.364] Re:「青木氏の伝統 45」−「青木氏の歴史観−18」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2018/11/21(Wed) 15:27:53  

    「青木氏の伝統 44」−「青木氏の歴史観−17」の末尾
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


    つまり、「現在の概念」で云えば、「出」の「嫁家」から「養女(実際は娘の概念)」として、再び、「四家の青木氏」に戻し、そこから、再び、「出」の「嫁」として出るというシステムである。
    この「女系で繋がる縁戚関係」が無限に増えるという「仕組み」である。

    注釈として、「遺伝子」のレベルでの理論では最も「正統な血縁」の「仕組み」と云える。
    それは、前段でも何度も論じている事ではあるが、「人の遺伝子」は「女」が引き継ぎ、母から引き継いだ「男」の持つ影の「人の遺伝子」はその子の「女子」に引き継がれる。
    と云う事は、「女子」に全て引き継がれ、「人の遺伝子」は「族の範囲」で融合して行く事に成る。
    結論としては、「遺伝子的」に云えば、「女子」で繋がる方が論理的には「族の結束力」は、意識するかしないかは除外され、高まっている事に成る。
    但し、この説は、その「族の娘」に「婿養嗣、或いは婿義嗣」を迎える「女系」ではない。
    つまり、況や、「女(むすめ)」)の範囲で成り立つ論理である。
    況や、「女系」と云えども、飽く迄も、「四六の古式概念」の「四掟」の「妻嫁制度」と「四家制度」の範囲で制限を求めて成り立つ論理と成る。
    これが、「青木氏族」が執っていた制度という事に成る。

    従って、本人の意識外の外で、好むと好まざるに関わらず「同じ族内の遺伝子に依る結束力」が発情する所以と成り得る。
    これが他と異なる「青木氏族」と云う所以であり、周囲からは「異様」と成り得るのだ。

    故に、これを考えた「施基皇子の血筋」を持つ「女系子孫」の「青木氏の氏是」と成る。
    何度も色々な面から論じているが、「青木氏の氏是」が徹底して長く守られた所以である。

    要するに、但し、「四家」は純然とした「嗣子の男子」で継承し、それを「女系」で補うという「特異なシステム」に成る。
    「娘」に「無縁の義嗣(婿取り)」を迎えて「家」を継承する「女系」ではなく、「最小限の血縁の四掟」を守れるシステムと云える。
    これの前提は「氏を構成していると云う前提」に依って成り立っている。



    青木氏の伝統 45」−「青木氏の歴史観−18」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    「氏の構成条件」とは、つまり、上記で論じた「氏の条件的な血縁の論理」に基づいての「氏の中」での「出と入りの仕来りの制度」という事に成る。

    然し、筆者は、この「室町期の血縁」に於いて、この「制度維持」に於いて、この難しい時期は、同時に「血筋を豊かにする必要期」にも入っていたとの考えを持っている。
    どう云う事かと云うと考察すれば、そもそも、「四掟」に依る「妻嫁制度」を、“「青木氏」の制度として義務付けていた”としても、この「対象の氏族」の「位階」から観ても、確かに平安期初期の嵯峨期(「新選姓氏禄」から)には最大時は「150の氏族(皇族ではない朝臣族含む)」に限られていた。
    この記録上では、「150氏族」であっても殆どは衰退して滅亡していて、「妻嫁制度の対象」と成り得るのは、恐らくは1/4以上(40氏族・記録は48とある)はあり得ないだろう。
    これであれば現実に「男系の妻嫁制度」は論理的に「氏族」としては取り得ないであろう。
    そもそも、「男系の妻嫁制度」は論理的にはあり得ない話であるが、「妻嫁制度」は「女系」にて成り立つものである。
    一時、経緯としては「平安期」に向かって倍化し、鎌倉期には5倍に増加し、室町期中期には平安期程度に戻り、室町期末期には半減以下の激減した経緯があり、「氏族」からも観ても大差はない。
    現実的には可成り難しい状況であった様である。

    当然に上記した「氏の定義」(「新撰姓氏禄」では48氏)からすると、それを守れる制度を敷いているのは、半減どころではなく数える程(5氏程度)に成っていたであろう。
    筆者は、そもそも「氏の制度」を守ると云っても、先ずは「無償」で出来る訳では無く、これに「経済的裏付け」が無ければ成り立つ話ではないと観る。
    依って、現実には“「商い」”を奈良期から興していた「青木氏族」の「1氏族」しかなかったと観ている。
    「大きな武力」を持たない、或いは、「強い抑止力」を持たない「公家族の北家摂関家の藤原氏」も乱れる「荘園制」で、この「経済的負担」に責められていた事を考えれば無理であったと観ている。
    そもそも、「天皇家」さえもこの「経済的負担」には喘いでいたのであり、その証拠に明治まで永遠と「青木氏」が「献納」を続けていたのはこの証拠でもある。

    (注釈 前段でも詳しく論じたが、「皇親族、令外官」から外され、密かに「献納の形式」を護る為に明治期まで「紙屋院」、「繪所院と預処」を務めていた。)

    現実には、この「氏族維持の血縁」の「難しい状況」は「奈良期からの事」であって、「青木氏の始祖」の「伊勢王の施基皇子」の母は「人質」として入廷していた「妾」の越前の「地方豪族の娘」の「越道君郎女」である。
    この「対象族の40族」であったとしても、「四掟」等の「掟」に叶う「対象の氏族」は、嵯峨期以降の「生活力」から観て、同じような「家系制度」を敷き得る「氏族」は,1/2〜1/4程度以下と考えられる。

    (注釈 現実に、「嵯峨期詔勅」には、“朝廷では賄いきれないから「賜姓」はするから自分たちで勝手に立ち行く様にせよ”と「皇位の者(「源氏族」)」に云っている。)

    結局は、「四掟等の仕組み」を保とうとすれば、「仕組み」としては「20程度の氏族」との何度も「繰り返しの血縁」と成り得る。
    当然に、ある年数が経つと「同族血縁の弊害」を生み出す事は当然の結果と成り得る。
    そこで、これが、「四家制度と家人制度」を補完する「同族血縁の弊害」を無くす「影の制度」、即ち、「四家制度の前提」と成る“「妻嫁制度(女系)」”であったと考えられる。

    (注釈 「人の遺伝子の継承」から起こりにくい。但し、一度、「悪幣の遺伝子」が持ち込まれると永遠に「女系」の中で引き継いでしまう事に成り得る。
    それだけに、「入りと出」の「悪弊のチェック」が先決事項と成る。
    「女系の妻嫁制度」でも然る事乍ら、「男系の氏家制度」の中でも江戸期の末までこの「亜子の始末」は「周知の約束」として生誕時に公然と行われていた。
    従って、この「女系の妻嫁制度」でも「掟」として、その母は「比丘尼寺」などに幽閉された。
    「優性保護法」はこの概念の名残である。)

    これはあくまでも、最初は「原則の掟」であった様で、良く調べると、中には、「位階六位の家筋」(宿禰族 「新撰姓氏録 参照」)も可成り含んでいる。
    主にこれは「家人」と観られるが、資料に「准氏上」とあるは、この「位階六位の官位」を授かった「氏人の家人」であろう。
    筆者は、「朝廷との繋がり」の「主執事を務めた神職」も含まれていたと考えているし、「家人」を務めていた可能性がある。
    そうすれば「位階」を持つ事には違和感は無い。

    (注釈 例として「橘の宿禰族」があるが、この一族は「橘諸兄系の青木氏族」であり、「敏達天皇の四世族同門同宗同族」に当たり、同じ系列の「青木氏族」であるが衰退はした。
    然し、この一族には「神職の位階の持つ者」が多い。
    従って、同様に、「真人臣下族で朝臣族」であった事から、「皇祖神の子神」の「祖先神」の「神明社の神職」などを務める「青木氏族」と成れば、将又、「朝廷との調整役」の「執事」を務めていると成れば「位階」を持つ事には疑問は無い。
    「家人」であっても「同様の務め」を果たしていたので、不思議はない。)

    この場合は、「永代の従四位下までの家筋」か、或いは、「青木氏四家20家」に、妻嫁先の、一度、「稚児」の頃から子(「義嗣の養女」は除く)として入れて育て、「優秀な女子」を選択して原則を護っていた様である。
    取り分け、位階の持つ「入りの妻」は元よりこの「掟」が公然としていたが、そうでもなかった男系から持ち込まれる可能性のある「妾子族」には「厳しい掟」として充てられた。
    奈良期からの「位階の持つ族の掟」で多くの記録が遺されている。

    (注釈 例えば、前段で例として論じているが、念のために「大化期の軽皇子」も「亜子」であったが、祖母が懇願して遺したが、短命で死亡した。
    多くの事例が記録されている。)

    この“「優秀な女子」(女 むすめ)”が其の侭に「妾」として位置づけられる事が起こった。
    つまり、これが「四家制度の女系化」であろうし、「妾子の族と成る所以」でもあろう。
    これで行けば、「江戸期初期」を待たずしても「女系」では、充分に「血縁出来る能力」が未だあり、最速で「1385年頃の室町期初期」には「対象族」として「血縁」が行き渡っていた事にも成る。
    最遅でも、「1495年の室町期中期過ぎ頃」には、「妻嫁制度」と「女系策」に依って「伊勢郷士衆との血縁関係」は「伊勢域の全範囲」では行き渡っていた事を論理的に示す。

    数理的に観てみると、これは「四六の古式概念」の「4の最大」としても、「1の最小」でも「江戸期初期」まで充分に成り立っていたので、「2の中間」として考察すれば、「室町期中期頃」には、「35/50の伊勢郷士衆」との少なくとも「1回の血縁関係」は済んでいた事に成る。

    「35の伊勢郷士衆」の「妻嫁制度」の「女系策」等により「枝葉関係との血縁関係」、つまり、「複数の血縁関係」としても、江戸初期頃には、既に、郷士との間では全て「血縁済み」として終わって居た事に成る。つまり、何重にも血縁に依る氏人関係が出来上がっていた事に成る。

    「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」も「四家制度」を敷いていたので、両家の「四家の20家の嗣子」を補完した上で、且つ、「相互の跡目」に入る事はあった事も考慮して計算しても、「位階」の「有り無し」に関わらず、“「家人」”としての「三つの組織」の「郷士」の「跡目や嫁」に入る事は、「4の倍速」から観ても、「江戸期初期」は勿論の事、「室町期末期前頃」には既に完了していた事に成る。

    これが、他の国の「500−250と云う郷士数」からでは、成り立つ話では無かった事に成る。
    上記した様に“「伊勢の環境」”であった事からこそ成り立っていたのである。
    「結束力」が国の中で来ていた全体に「氏族」として出来上がっていたのである。社会科全体が最早、全てが「姓族の中」でである。
    注釈として、それだけに、他国と違って「敵対する郷士」が無く、“結束は固かった事”を示し、「伊勢シンジケート」の構築や、「殖産興業の進展具合」が比較的円滑に進んだ証拠とも云えるのである。

    上記の「伊勢郷士」や「伊賀者(甲賀含む)」との「血縁の繋がり」は、この様な「女系による妻嫁制度の論理性」が成り立っていたのである。


    尚、ここで、もう一つの「重要な掟」と成るは、「青木氏の四家の嗣子」が、“「家人」”と成って、独自に「家」を興して「別姓」を名乗って「郷士」と成るケースは、「姓族の原因」と成る為に「純血性を護る四家制度」の「禁じ手」ではあった。
    これは「氏族」がその「構成の前提」にあったからである。

    それは、論理的には「四掟」と、即ち、「同世男系」「同祖祭祀」の「補完掟」に合致しない事にあった。
    あくまでも、「嫁家先の制度」に依って「既成の家人」から先ず「青木氏」を興し、そこから「四家の養女」(「女(むすめ)」)として入り、そこから「郷士の跡目の嫁」に入る「仕組み」(「女系策」による「嫁家先制度」と「妻嫁制度」)に成っていた。
    現実には、上記で論理的に論じた様に、「福家と四家20家」に跡目を入れて、その上で「嗣子」では「氏人の郷士の跡目」に入る余裕はそれ程に無かった。

    つまり、「四家青木氏」から観れば、“「出の仕来り」“として、奈良期から必ず、”「家人に成る前提」“の形を採っていた。
    これは前段でも論じた様に、「四家20家の青木氏」に執っては、”「入の仕来り」“として、「皇族出身者」、或は、同族の「賜姓源氏や佐々木氏や母方族の藤原氏や公家(叶氏)」等から、「男系の場合」に於いて「四掟の格式の立場」を護って、”「跡目に成る前提」”の形を採っていた。
    然し、現実には「京綱以外」には無かった。「禁じ手の掟」であった。

    平安期末期までは「京綱」を例に見る様にあったが、鎌倉期以降は、「上記の理由」により「男系の入りの仕来り」は無理と成り得ていて、執った制度は“「四家の範囲」”で男系を繋ぐ「仕来り」へと変わって行ったのである。
    現実には、「皇親族」や「令外官」や「賜姓族」から外される以前の孝謙天皇期から光仁天皇期にかけて、「白羽の矢のトラウマ」もあって、「四六の古式概念」があったとしても、「改善」を加えて「女系に依る妻嫁制度」を強く認識し積極的に採用し始めていた事が判る。

    そして、その代わりに「妻嫁制度の女系」の「入りの仕来りの掟」で補完し、且つ、「出の仕来り」として「女系」で「四家に戻す方法の掟」へと転換して行ったのである。
    この「妻嫁制度」の「出入りの掟」は「女系」と成った故に「男系の入りの掟」は完全に消えた

    この事に対する「青木氏族」の“「反覆の掟 :純血性保全の掟」“であって、「男系の入の仕来り」は、以後は確かに「禁じ手」に成った。(「姓化」が起こる理由。)
    然し、“「出の仕来り」”と呼ばれる血縁は、「入の仕来りの欠点」を補完する目的があって、”「家人に成る前提」“を”「家人掟」の「仕来り」“と呼ばれて行われていた。
    明治期の資料にも出て来る。

    要するに、「出」と「入」の「仕来り」を、”「跡目」”として同じくすると、「四家制度」の範囲で区切っている「仕来り」は、無制限に広範に広がり成り立たなくなる。(「姓化」が起こる理由。)
    と同時に、名目上の「賜姓族」としての「三つ発祥源」と成る「純血性の保全」は保たれなくなる事から来ていた。(これも「姓化の前提」に成る)

    つまり、「男系跡目」に於いての「四掟等の格式の立場」は、「四家20家」の中で厳しく護り、「女系」に依る「嫁家先制度」や「妻嫁制度」等による“「位階などの格式」”の「仕組み」は、形式上はある程度に護るにしても緩くしていた事に成る。
    これは、矢張り、要するに、「同族血縁の弊害をなくす事」から、「女系に依り新しい血筋を入れる仕組み」に切り替えて採っていた事に成る。
    これならば「厳禁の掟の姓化(氏是)」は起こらない。

    (注釈 この「青木氏の氏是」を破り「男系の入りの仕来り」を外した事には他にもあった。
    それは、「乱世」であって、その「男系の入り」の先の状況に巻き込まれる“「危険性」”があったからである。
    例えば、何度も例に挙げるが、「頼政の孫」の「京綱」も「伊勢青木氏」に執っては、止む無くも「男系の入り」の「最後の仕来り」とは成ったが、「源平戦」に巻き込まれる寸前であった事は間違いは無かった。)

    唯、この注釈の事件も、大化期よりの“「平家の里」の「伊賀との付き合い」”や、「青木氏より出自の光仁天皇」の妻は、「平家の出自先」の「伊賀の高野新笠」であったからこそ巻き込まれずに助かった事でもあった。
    又、この事を「平家」は、「頼政の京綱跡目」の件は見逃す筈はない事は明々白々であったが、そこは上記の論の通りに大化期からの「伊賀郷士衆との血縁の繋がり」もあって助かった。

    この「伊賀郷士衆(原士・氏人)」は、「青木氏族の殖産」にも携わりながらも、「室町期」にはどこの国にも属さず「金銭契約の特殊防御技能を持った傭兵軍団」とも成ったが、「伊勢青木氏との血縁の繋がり」も然る事乍ら、「経済的な契約」による「伊勢シンジケート」でも繋がっていた深い関係にあった。

    この事は、上記した「女墓」や「曼陀羅帳」や「郷士の資料」や「商記録」などでも充分に読み取れる。
    然し、これは「伊勢青木氏」のみならず「青木氏族全体に及んでくる事」を危惧して、相当に“「危機感」”を感じていた筈である。

    筆者が考察するには、結果として、ところが逆に、この“「危機感」”を果たして感じていたのか疑問な点がある。

    「青木氏族の歴史観」を紐解く為にも、これを考察してみると、そもそも、この時、「伊勢青木氏」は頼政の孫の「宗綱や有綱の助命嘆願」で、“「事件の逆手」“を使ったが、この”「逆手」“以外に、この時の「対応状況を物語る資料」は、「伊賀郷士衆」や「伊勢郷士衆」の中にあると観たが何故か見つからないので確定は出来ない。
    然し、この“「危機感」”は、「平家」は「伊賀郷士衆の血縁の繋がり」等の事を鑑みて、矢張り、手を出せなかったと観られる。
    「信濃青木氏」も「源国友」が、「信濃青木氏の跡目」に入ったので同じ「危機感」を抱いていた。

    こと程左様に、「青木氏族」が執っていた「女系の妻嫁制度嫁や家先制度」などの「特異な制度」は、それだけに前段や上記でも「男系の入りの跡目」には「世情の混乱」に巻き込まれる可能性があった。
    それが、常時でも無く、たった一度の「妥協の掟破り」でもある。
    「青木氏族の立場」が、その様な位置に好む好然るに及ばす「光仁天皇期」より押し上げられていた事になる。
    故に、「青木氏の氏是」なのであるが。


    さて、その「特異な制度」の「論理的な原則」は、上記した様に、「入の仕来り」>「出の仕来り」=5>、或は、「4以上の関係」が「青木氏の基本的概念」としてあった事に成る。
    「4以上の関係」を保ったのが本論の「女系策(「嫁家先制度」と「妻嫁制度」と「四家制度」と「嗣子制度」)」であった事に成る。

    依って、「入の仕来り」=「出の仕来り」では、その意味は低下したものの、江戸期以降もこの「過去の三つの仕来り」を頑なに維持し、明治初期まで護ったものであった。
    つまりは、「女系制度」が左右したのであろう。
    ここには前段や上記していた様に、“「掟」”と云うものが存在していた。

    唯、この「女系に依る妻嫁制度や嫁家先制度」は簡単には完成した訳では無く、都度に「掟」を作り“「改善」”を加えて行った事が資料からも読み取れる。
    つまりは、「掟」は「改善」なのであった。

    取り分け、男社会の中では無く、「女性」と云う独特のその「性」がに依る社会である
    この「性に依る社会」を確立させるには「掟」=「改善」が必要であった。
    例えば、今まで論じてきた「掟」としては次の様なもの掲げられる

    「亜子処置」の掟
    「養育制度」への「口出し厳禁」の掟
    「女(むすめ)」範囲の掟
    「入りと出」の掟
    「位階と四掟」の掟
    「妃から妾」までの扱い掟
    「女(むすめ)」の平等掟
    「嫁家先」の「口出し厳禁」の掟
    「四家嗣子」への「口出し厳禁」の掟

    以上は、「母性本能」と元来の「女(むすめ)」の「性」に関わる事柄が共通点で、これを「掟」で縛って抑え込んだが、その基の概念は「四六の古式概念」の中での“「平等」”にあった。

    他に、次の様な「掟」があった。

    「福家と四家20家の代替わり」の「掟」に於いて、「四家20家」の其々の「入り」として入った「母」は、つまり、“「妃、嬪、妾」の「母」は、その侭に「母」として存在する。
    何故ならば、その「四家の嫡子(継承者)実子」とは限らないからである。
    「母」の存在は、「四家全体の母の位置」にあって、仮に「四家」に「妃」の位置の全て「母」が居たとすると、「妃の位置」の「20人の母」が居る事に成る。
    「四家20家の継承者」は、「四家全体の継承者」であり「四家の独自の継承者」ではない。
    他の四家の内から次の「継承者」が廻ってきてその「四家」を継承する。
    「嗣子」は「女(むすめ)」と同じ概念で養育される。
    その「四家」に次の“「妃、嬪、妾」が入った時点で、それが、「位階」で定まる「妃」であった場合は、その「母(妃)」は寺に「尼僧」として退く。
    この様な「仕組み」にする事で、「口出しの機会」は無くなる。

    要するに、これが「実子」であれば、「厳禁の掟」であっても抑えられない「女の性の本能の情愛」が働き「口出し」は確実に起こり働く。

    その「ある四家」の「代替わり」が、死亡した場合の“「妃、嬪、妾」の「母の処置」は、全員が「尼僧」として「青木氏の比丘尼(びくに)」として「尼僧寺(青木氏の菩提寺の分寺)」に退くのが「掟」である。

    (注釈 「継承者」と成った時点で、「妻持ち」と成るのだが、必ずしも“「妃、嬪、妾」の「三人の妻」を持つとは限らず、「子供の数」に従って、或いは、「政治的な事情」に従って、“「妃、嬪、妾」の順は別として持つ事に成る。
    これが、「入りの位階」に従って定める事に成る。
    「福家と継承者と執事の相談」によると観られ、「執事の情報」での「福家の指示」が大きい事が判る。
    これも「諸般の状況」、取り分け、「時代の状況」で変わるが、室町期後半を境に基本的に平均的に「妾」が多く成り、「嬪>妃」が次に成っている傾向がある感じがする。
    従って、「位階」の持たない「入妻」の「妾」は、「絶対要素」としての「嗣子の数」を基本に、要するに「諸般の状況」に従う「掟」である事が判る。
    「安定期の世情」で無い「諸般の状況」とも成れば、必然的に「妾」が多くなる事は否めない。
    故に、「青木氏」は「妾子族」と成り得るのである。)

    さて、追記するなのらば、「女(むすめ)」と呼称するが、「男(むすこ)」とは、呼称していない。
    何故ならば、「女(むすめ)」は、「青木氏族」を超える広い範囲の「女で縁続きの家」から集めた「女系の女」であるが、「男」は「四家の範囲の嗣子のみ」であるからだ。
    つまり、「嗣子」は「女系の女」として「氏」を跨ってはいない。
    この「嗣子の全数」が「四家20家」に対して、溢れた場合は、「四家20家」の何れかに「空き」が出来るまで、「寺の養育所」で待つ事に成る。
    唯、歳を得すぎると、「本人の意思」で「神職(各地の神明社)や住職(各地の菩提寺)」、将又、「家人」と成る事もあり得た事も記述されている。

    念の為に、記述する。
    前段でも論じてはいるが、「神職や住職」は別組織であるが、「皇祖神の伊勢神宮の子神」である「祖先神の神明社」であるので、「普通の神社形式」とは別の「神官組織形態」を執っている。
    その「神官」には、前段や上記で論じた様に「位階」を持つ。

    参考として、その「神官」には、「浄、明、正、権、直」の位階があって、「青木氏の神明社」の場合は「浄の位置」にある。
    更に、「神明社」の中は、「祭司」、「大宮司」、「小宮司」の「三位階組織」で成り立つ、一般職は「禰宜、権禰宜,官掌の三位階組織」で成り立っている。
    「嗣子」から「神職」に成るとすると、「青木氏の位階」は「浄の位置」にあるので、当然に一般職の三組織の位階を経てのある「一定の修行」を経て、「祭司」の「位の神職」と成る事が出来る。
    従って、「全国の神明社」の「神職」は、この最高位の”「浄の祭司の青木氏」”である。
    この事から鑑みれば、「神職の陣容」としては「相当の嗣子の数」が必要で、この数も計算に入れての「神職の執事」の仕事と成る。
    結果として、「四家の継承」から一時外れて「神職」に成る事は別に恥とはならない。
    「四家」に行くか、「神職」に行くかのただの「違いの差」であった。
    中には、強いて望む者もいた。

    「青木氏の密教浄土宗」の「菩提寺の僧侶の位階」は、「奈良期の律令制の官僚」として扱われていた。
    それには「僧官制度」と云う「古い密教」に基づくもので、その「宗教」に宗派が出た事に依って、且つ、「顕教化して行った事」に依って、全く異なるものが出来た。

    「伝来時の古式仏教」を基本として「青木氏族の独自の概念」を以って密教化をした。
    これが朝廷に採用されて、「僧官」と云うものが生まれた。
    この時の「流れ」を「江戸期の顕教令」まで敷いていた。
    一般には、三階級の「僧正、僧都、律師」に分かれる。
    これが「僧正は5、僧都は6、律師は3」に分かれる。
    更に、これが3,4、3に分けられる。

    ところが「青木氏の菩提寺」では、古式の侭の「三階級」の「僧正、僧都、律師」に成っている。
    これは「独自の青木氏概念を持つ密教」の所以であって、同じ「浄土宗」に縛られない事から、「階級」を分ける必要性は無く「三階級」の侭であった。
    これを全て「青木氏」で務める事に成る。

    記録には、「僧正と律師」が出て来る。
    取り分け、「密教の謂れ」として、「青木氏の概念」を「律師」の「自然の律」、この「世の律」を導く者(師)として、この「律師僧侶」が多かった事が資料の各所に散見され判る。

    「菩提寺」では、この「僧侶の三位階の組織」で賄うが、何れにしても「神職や住職」は、「青木氏族の嗣子」が「継承する権利」を江戸期初期まで有した。

    (注釈 初期の頃の記録から幕府側に渡した神明社は住職の継承は暫くは伊勢などから送り込んでいたが、途中から記録がないところからその社の神職の末裔に引き継がれて行ったらしい。
    中には跡目継承が出来ず、且つ経営が不可と成り荒廃した事が判る。)

    そこで、「青木氏」では「女系の妻嫁制度」の「女(むすめ)」に依る神職や住職はある時期にいた。
    前段でも論じたが、「神明社」は、奈良期、仏教伝来時からのものであるが故に、そもそも、「神道と仏教の概念」を融合したものとして、“「社」”として成り立っていて「神社」では決してないのであった。
    「神道」と「神社」は異なる。
    従って、「女子を排除するという概念」は元より「青木氏族」に無かった。
    それは「女系の妻嫁制度」であって、「男系の氏家制度」では無かったからである。

    「伊勢神宮」は、“「物忌」”と呼ばれる「女性の神職」である。
    そもそも、この「神宮の物忌」については、「神明社」が「青木氏」から離れる江戸期初期まで廃止されるまでの間、「伊勢神宮」と「青木氏」で維持された経緯はある。
    どの程度の範囲で、「神明社の物忌の神職」が居たかははっきりしない。

    唯、「伊勢神宮の斎王(斎宮)の件」で、「日本書紀」にも記述がある様に、天武期に始まり、その後に衰退し、嵯峨期で復興の形を示したが、鎌倉期では再び衰退を続け絶えた。

    「青木氏」は、この「賜姓五役の役目」として「斎王の館(多気館)」を護る役目があって、その「斎王」の身の回りを務める「支女」として、この「神明社の神職」を務める「物忌」の「女(むすめ)」をこの「支女(ささえめ)」として仕えさせたとある。

    「光仁天皇期」から「仁明天皇期頃」までは、「斎王」と共に同じ「志紀真人族」の「直系族」であるとして、この「支女」として仕え復興を果たそうとした。
    然し、その後、「青木氏の援護」が途切れて衰退し断絶した経緯がある。

    この「青木氏」の「女(むすめ)」の「支女」が仕えた場所は、松阪の隣の海よりの「南伊勢の多気郡明和の里」にあって、ここに「斎王の館(多気館)」があった。
    この地は、光仁天皇期から仁明天皇期、そして、鎌倉期初期までは「伊勢青木氏の本領安堵の地」でもあった。
    この「本領地」でもあって、江戸期には「伊勢青木氏」の「地権の範囲」にあり、「殖産の地」でもあった事から、「地権」、及び、「青木氏の経済的な支援の届く地域」でもあった。
    この「斎王の館」は、「伊勢青木氏の保護下」にあったのである。

    「青木氏側」から云えば、「斎王の制度」が続いた「仁明天皇期」までは、「妻嫁制度の「女(むすめ)」から役務に就いた「神職の物忌」−「支女」−「斎王」は、同じ一族の「女(むすめ)」の関係にあった事を認めている事に成る。
    この「支女」に付いては、“「斎院」“と書いた資料もあって、当時は、「同族の女」と「女(むすめ)」と同じ「一族の位階の役目」として観ていた事が判る。
    これは「門跡院」の「・・院」と同じの意味として、この「青木氏の支女」を「斎院」=「斎王」としたと観られる。

    需要な注釈として、「伊勢神宮」系の関西にある「六十六の遷宮地の社」もこの「斎王」に当たる「位階の持つ女」を「斎院」とした。
    この「青木氏の資料」の「皇祖神の子神」の「神明社の物忌」も「斎院」と記したのは間違いではない。
    「斎院」は、「物忌」よりも「支女」よりも正しい呼称である。
    恐らくは、「その役目の見方方向の違い」があったと考えられる。
    「位階」を基にその役目は「斎院」と成り、「位階」を無視した役目からは「物忌」や「支女」としたと考えられる。

    何故ならば、「位階」の無い「女系の妻嫁制度」の「女(むすめ)」から「物忌と支女の立場」に成ったからである。
    「斎王」は、そもそも、「内親王の位階宣下を受けた皇女」の「未婚の処女の女」を前提としていたからで、「位階」の無いものは、「斎院」か「斎宮」と呼んでいた事から由来していると考えられる。

    然し、これは「志紀真人族の青木氏」のみの「女(むすめ)」に当てはまる「重要な役目」と成る。
    その意味で、「物忌、支女、斎院」と成り得る「女系の妻嫁制度」は、「福家や四家の範囲」には留まらなかったのである。
    「賜姓五役」はこの様に影で続けられていた事に成る。

    筆者は、「伝統−14」で、「施基皇子」の「青木氏の子供」が「光仁天皇(白壁王)」に成る事に依って一度外れた高位から「王位」を意思に反して得たが、この結果、“「政争」”に巻き込まれた。そして、その結果の記録は”「早没」”と成っている。
    然し、筆者は、取り分け、「王女位」を得た「女の早没」の記録には疑問があって、「施基皇子」の「女性の二世族の9人」の多くは「斎王」に成ったと考えていて、「王位」を敢えて受けなかったこの「記録」から抹消された「女(むすめ)」は、「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)と成って逃げたと観ている。
    記録に遺る事として、中には、
    「王位を外す事(a)」を正式に願い出て認められ「青木氏族」に戻って、“「青木氏の後家」”と成ったとする「現実の記録」もある位である。
    中には止む無く嫁ぎ、離縁を願い出て早期に「伊勢青木氏」に戻った記録もあり、この時、初めて”「後家」”と云う言葉が使われたと記されている。
    又、更には、「王位」から逃れる為に“行方知れずの「女(むすめ)(b)」”もいた記録も史実としてあった位である。
    「伊勢青木氏」のみならず、奈良期末期の「信濃、近江、美濃、甲斐」の「女(むすめ)」(c)も、恐々としていた事が資料より読み取れる。

    筆者は、この「光仁天皇期から仁明天皇期までの斎王」には、この(a)(b)(c)の「伊勢青木氏の四家」が中心とは成っていたが、然し、「斎王」を賄うためには伊勢だけでは足りず、再び、近親の皇族位に成った「信濃、近江、美濃、甲斐」の「王女位の持てる立場」にあった「青木氏族」の「女(むすめ)」では無かったかと考えられる。

    未だ、この時期は、「女系の妻嫁制度」をこの「王位」から逃れる為の一つの策とも執った状況下であったと観られる。
    「男系」では、この「孝謙天皇の白羽の矢」で巻き込まれた「政争」からは逃れられる事が出来ないと考えたからに外ならない。

    「施基皇子」の定めた「青木氏の氏是」は、まさしくこの「時期直前の状況下」で定められたものである事を考えると、この「状況や環境」は充分に判る事でもある。
    「青木氏の氏是」からもこの事が察し得る。
    「天智天皇より賜姓を受けた臣下族青木氏」を名乗り、「五家五流の青木氏族」に成って、再び改めて「王位を持った皇族」ばかりで、この「光仁天皇の事件」は、「晴天の霹靂」と受け取られていた事は明らかである。

    ところが、「読み取れる資料」や「史実の記録」は、筆者が調べた範囲では「青木氏族」には詳細には見つからない。
    「神明社」の「江戸期の荒廃」と「数度の戦戦乱の消失」から消えたと観られる。
    取り分け、「斎王館の事」も然る事乍ら、「斎王」に始まり、「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)の事は、敢えて、江戸初期に「幕府の意」(伊勢奉行)に依って消した事もあり得る事も考えられる。
    筆者は、むしろ、「後者説」を採っている。

    唯、一部、「近江佐々木氏族の青木氏族の論」の中には、「光仁天皇期」の行の中の一節に「斎王と成った青木氏の王女」(伝統−14の中程)と「伊勢多気郡の館の事」が書かれている。

    (注釈 例えば、「光仁天皇」の王女の「能登王女」は、この「政争」から逃れて、「近江佐々木氏」の「市原王」に嫁した事もあった。
    更には、「尾張王女」等、「采女の女の扱い」として「青木氏の後家制度」で多気に隠れた。
    「弥努摩内親王」も、叔父の四家の「榎井王」・「名張殿」の「神王」に形の上で嫁し、その後、この後家制度に載って多気に隠れた。
    この様に史実が遺るが、それ程に、「青木氏族」には「白羽の矢」は思い掛けないことで混乱した。
    この混乱から「救済策の隠れ蓑策」が敷かれたのである。)

    この「後家制度」と「多気の里制度」が無ければ、相当に混乱し、「女系の妻嫁制度」も維持が難しかった事が判る。

    「青木氏のこの記録」は、「神に仕える身」の「斎王」と成る事で、「記録」は「消される仕来り」の事から見つからないとも観える。
    早没の記録はこの混乱の証である。

    ここは、その後の「女系の妻嫁制度」等をより詳細に論じるには、「初期の経緯」と成ったこの「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)の事は、その「女(むすめ)」の「役目」として「重要な要素」と成り得るのだが、「資料と記録」が無い事からここからは研究は前に進まない。
    「神明社の神職と執事」、「菩提寺(比丘尼寺と分寺)の執事」、には見つからない。

    「青木氏」が関わった「斎王の館」からその「光仁天皇期からの経緯」はある程度を読み取れるだろう。

    これも「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)の事は、「掟の基礎」と成った一つである。

    「女系の妻嫁制度に成った経緯」から、「時代」が進むに連れて、「改善(掟)」が必要と成り、故に、四家の“「妃、嬪、妾」の「入りの調整」にはこの配慮が是非に必要と成った。
    これを上記した様に「家人」の「執事」が調整する経緯とも成った。

    (注釈 「神明社の神職」も同様に「執事」を内容別に分け合っていた事から同じ事に成る。
    それ故に、この「家人の執事(住職と神職)」の「入り先との調整力」と「情報収集」が重要に成る。)

    故に、「光仁天皇期から仁明天皇期までの経緯」から観て、「位階」が有るか無いかでは、「斎王」(斎宮−物忌−支女−斎院)の点では「高貴の入り先」ではその「扱い」は異なる所以と成る。
    つまり、この事を左右させるには、「位階」を持つ「住職と神職の家人」が多くなる所以でもある。
    これも「掟」の一つである。

    従って、「入り」の“「妃、嬪、妾」の「母」は、「住職や神職」に左右され、「掟」を守ろうとする環境と成る。
    そして、その「入りの妻」(「入妻・いづま」の呼称)、つまり、「後に母と成る年齢」も若く、「16−17歳」を少なくとも超える事は先ず無い事に成る。
    何故ならば、下記の「馬爪」(うまづめ)とされてしまう可能性(根拠の掟)があるからだ。

    当時は、若年齢での妊娠は通例で、上記での養育所での正しい「女の心得本」で教育されていた事もあって、「入りの妻」(「入妻・いづま」の呼称)にもこの教育は無いと観ると、「無駄な年齢」は踏まない様に「青木氏側」でも配慮されていたのです。
    「青木氏の今後」を占う上でも、「女系の妻嫁制度」を確実に維持する為にも、「嗣子出産」にしろ、「女(むすめ)出産」にしろ、“「早期妊娠のテーマ」“は重要であった。

    例えば、現在の閉経年齢を40歳〜45歳とすると、出産可能年齢は30歳〜34歳であるとされていて、それ以後の「卵子」は老化して妊娠と共に「亜子」が生まれる可能性が高くなる。
    これは現在で云われている基準の75%(30/40〜34/45)である事に成る。

    とすると、当時は、「早熟」は別としても、「寿命の平均年齢」が55歳として、(40歳/80歳〜45歳/86歳)の理屈から、「閉経年齢」が55歳*50%=27.5歳と成る。
    その27.5歳*75%=20.5歳以下が「出産年齢の限界」と成る。
    従って、15歳/20.5歳=73%は、「初期出産の限界値」である事に成る。
    「卵子老化の亜子」を確実に産まない「年齢」と成れば、残り、精々「3歳程度」と成る。
    故に、この「15歳」を限界として「馬爪の掟」が定められていた事に成り、流石に、この「女の心得本の内容」は、「女系の妻嫁制度」を続けてきた「経験値」のである事に成る。
    この様な「女(むすめ)の知識」が、「青木氏族の女(むすめ)」に「教養」として躾けられ、これが「出の嫁家先制度」に生かされていた事に成る。
    何をか云わん、この「青木氏族の掟」が「他の青木氏族」にも伝わっていた事をも意味する重要な事に成る。
    恐らくは、この様に、「嫁家先の掟」とも成り得て行った事に成る。

    「出妻(でづま)」と成る「女(むすめ)」の年齢も必然的に「15歳」を超えていない。
    当時の「平均年齢」が55歳とすると、1/4として現在より5歳は早い。
    早い記録では、最低年齢で何と「9歳」の「女(むすめ)」から、「11歳」でも嫁いでいる。
    これは「養育所」で明らかに「女性ホルモン」を刺激して「早熟に育てた事」が判る。
    下記の「女の心得本」等はこれに当たるであろう。

    女性は現在医学でも男子と違い、「女性の性欲」は元より「脳による性ホルモンの刺激」に依るもので、当然にも「成長」もこれに従うのである事から、「女の心得本」は当を得ていた事に成る。
    「性欲」は、「脳の刺激」によるものであって、「子を産むと云う原理」に従って、何度も脳を刺激して「毎日の数度の性交志向」が可能と成り得ている。
    現在では、女児は生まれる前から「体内での行為」が医学的に確認されているくらいで、「脳の発達と共に起こる能力」と成り得ている。
    この「脳の学説」は科学的に確認されている。
    科学が発達すれば、1〜2歳という事も起こる可能性もある事が動物実験で確認されている。
    「月移住論」から、この「女(むすめ)」の「科学」が必要論と成る事から研究は進んでいる。

    話を戻して、「女の心得本」にもよく似た事が書かれていて、これを成す為の体位とその作法等華詳しく書かれている。
    これに依れば、「脳の刺激に依る早熟」は充分に考えられる。
    それ程の必然性があったという事であり、「性の理屈」を経験値なのかは判らないが、驚異の本と成り得ている。

    そこで、因みに、男性は「前立腺」から起こる「3日毎の性欲」であって、「脳から起こる刺激」では全く無く、従って一度の性の目的行為で終わる。
    それは、前立腺には全神経の50%以上の関係する神経が集まっていて、これが約4000と云われている。
    つまり、その「性の質と目的」が、根本的に異なるという事に成る。
    従って、「三段階の体の成長」と「前立腺の成長」を経て得られる「性能力」と成る。
    これを見据えた「女系の妻嫁制度」と成り得ている。

    即ち、上記での「四家の継承」は、年齢に関係なく成長を待つ体制が出来ているのである。
    これを崩せば、「女系の妻嫁制度」そのものも成り立たない。
    そして、「嗣子」を他氏に出すのでは無く、「四家内」で納め、継承させる年齢を待って、効果を上げる「掟、制度」と成り得ていた。
    これがの「嗣子制度」が無い所以でもあり、「嗣子」も「女系の妻嫁制度」に従う由縁とも成り得ているのである。

    これも見えない「重要な女系の妻嫁制度の掟」である。

    前段で「論じた「嫁家先制度」もこの「女系の妻嫁制度」に影響を受けて成り立つ制度で、この影響を受けた「嫁家先制度」で他家に「女系の妻嫁制度の浸透」を果たしていた事に成る。
    つまりは、「青木氏族に関わる家の制度」は、必然的にこの「女系の妻嫁制度」に成って行く所以なのである。
    前段でも論じていた様に、例えば、「出の嫁家先」が、「位階の持つ氏」や「摂津源氏」や「嵯峨源氏」であるとするならば、そこには「女系の妻嫁制度」や「四家制度」が敷かれて行くか、生まれて行く故と成り得ているのである。

    そもそもは、何故ならば「家の政所」は、「女性に任される事の仕来り」があったからであり、この「政所」の基の語意の「まんどころ」(政)はこの意味であり、「家政婦」とはこの語源を持つ言葉である。
    当然に「位階の嫁家先」には、従って、「女(むすめ)」が仕切る「政所」は最低限に於いてもこの「女系の妻嫁制度」が敷かれている所以でもある。
    つまり、これは前段から論じている様に、明らかに「四六の古式概念」の「四掟の前提の範囲」にある事にも成るのだ。


    > 「青木氏の伝統 46」−「青木氏の歴史観−19」に続く。


      [No.363] Re:「青木氏の伝統 44」−「青木氏の歴史観−17」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/10/15(Mon) 08:16:09  


    「青木氏の伝統 44」−「青木氏の歴史観−17」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


    「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」の末尾
    >筆者には、前段や上記の事も含めて史実に関わっているこれ程の族を論じない方がどうかしているとも云え、本サイトとも成っている所以でもあると考えている。
    >それ故に、「遺される資料」の殆どは、搾取性の疑い高い「姓族の資料」を中心としたものに関わるものであって、「自力の研究」に頼らざるを得ない状況にあった。
    >前段からも詳細に論じている様に、「四六の古式概念」を基本とする「妻嫁制度」で繋がる幸い「稀に見る氏族」であったからこそ、「資料」も多く確実に遺されている所以が「掘り起こし」に付いて良い方に大きく左右したと考えられる。

    本論

    合わせて、「青木氏の福家」から観れば、「四つの血縁源」と成っていた。
    前段で、「四六の古式概念」の「内部の詳細」を論じたが、これは一般から観れば、或いは、常識的に観れば、将又、現代感覚から観れば、この「青木氏の概念」は、上記した様に確実に“「異様」”と観えるかも知れない。

    前段でも何度も論じたが、注釈として、大化期からの「四六の概念」に基づいた「四掟」をベースとする「血縁の源流」、その後、960年頃から始まった「外部の秀郷流青木氏の補完策の血縁」と、これから論じようとする”「内部の三つの補完策の血縁(地元郷士との絆関係)」”で強化されたが、これが「青木氏族」に執って有名な「四定以成異性不養之固掟也」”の文章の一節となっているのである。

    そもそも、この「四掟」は、「賜姓朝臣族」、並びに、「敏達天皇」の「春日真人族の四世族」の「志紀真人族」に成った時点からの「青木氏族の独自」のものと観ていたが、調べるとこの「四掟の一節」は、中国の皇帝の紀章文の中にも、「・・異性不養・・」の節の文言が観られる。
    恐らくは、「大化期の四掟」とは少し違うので、それと「似たものの概念」を持ち込み踏襲しているのかも知れないので、従って「異様」であるからも知れない。

    「宋貿易」を始めた925年頃から1025年頃までに、この「中国の古代概念」を密かに持ち込んで「青木氏なりの改善」を加えて体制化したとも執れる。
    既に、この頃には、「嵯峨天皇期」から「賜姓五役、令外官の役目」は正式には解かれ、且つ、「皇親族」からも外され、その「立場保全」の「血縁的な純血性の責任」は無くなっている。
    恐らくは、「青木氏族」はこの時点から「血縁の概念」は直ぐには出来なくとも大きく切り替えたと思われる。
    それが、「中国で云う四掟」の「青木氏族」に「適合する吹き替えの制度」を作り上げようとしたと考えられる。
    「中国の四掟の件」のみならず、上記で論じた「時代性の件」、前段で論じた「殖産商いの件」、などが複合的に重なり、「四六の古式概念」や「四家制度や妻嫁制度」などを含む「多くの制度」の「改善と確立」を図らざるを得なくなった時期でもあった。
    故に、考えても「体質や制度」は急には変えられないが、925年から1025年という期間は異なっていた。
    従って、「氏の構成の根本」と成るこの「四掟」も大化期からのものを改善し「青木氏族様」としたと考えられる。

    前段でも論じた様に、「殖産に通ずる商い」もこの100年の期間からの変化であった。
    全て「青木氏族に関わる事」はこの時期を起点としているのである。


    さて続けて詳細に論じる。
    従って、前段でも論じたし、上記の通り「青木氏族の血縁の制度」が、100%に成り得た「姓族」の周囲から観ると、「異様」ともなるのだが、この「異様な概念」の「影の制度」とは、”「四家の20家」”と「縁続き」と成っている”「氏人の家」と「家人の家」“にも、”「永代の従六位までの家筋」“から“「四段階の妻嫁」”を迎える制度を敷いたともある。
    これは「数人の家人」の家には”「永代の従六位までの家筋」“があった事を意味する。
    但し、大化の改新で天智天皇が敷いたものとは一致するかは疑問。
    唯、これは「青木氏族」を解く上で大変に重要な見逃す事の出来ない記録である。
    この「位階」を「家人(氏人)」が持つという事は、「四六の古式概念」に基づく「四掟」による「妻嫁制度」に大きく「氏人と云う事」だけでは「完全な対象」として成り得る。

    これを敷いた「青木氏族」では、上記の通りこれを“「妻嫁制度」”と呼び、「天皇家の制度(大化期)」(后、妃、嬪、妾)と「中国の四掟」に真似て持つ事を制度として「四家の範囲(20家)」に義務付けていた事になる。
    現実には、これは「大化期」から始まり「室町期初期頃」には「嬪」までが限界であった様で、「永代の従四位までの家筋」以下の「入りの嫁」は「妾」として「特例扱い」であった様である。
    元より「系譜などの記録」の多くは、この範囲までの記録が多いが,前段でも論じたが、現実には、「青木氏の子孫存続」に大きく働いたのは、殆どは、”「妾の子孫」”の様であり、これは「室町期以降」より「江戸初期」にかけてより進み、「四段階の妻嫁制度」を超えて、「周囲の郷士衆」とも、最早、「上記の(A)(B)(C)の女系族」の「完全な状況」と成り得ていた。
    依って、この「女系族」と「妾子系」は、「始祖からの形態」と成り、その後にもこれらの「システム」を敷く以上は、大方は「青木氏族が持つ宿命」とも成っていたのであろう。
    絶対とは云えないが、「伊勢」で云えば「伊勢の青木氏の女墓」や僅かに「遺された曼陀羅帳」から観るとその様に読み取れる。
    注釈として、前段で論じた「天智天皇、施基皇子の子供」は共に「妾の子孫」であり、「施基皇子族の青木氏」の後の嵯峨期からの賜姓族の「摂津源氏の四家」から特例として「伊勢青木氏の跡目」に入った「跡目源京綱」も「妾子の嗣子」である。

    この「四掟」と「四家制度」とを敷いていた以上は、本来は「男系の跡目」では直接に源氏族等から入る事は「論理的な原則」では成り立つ。
    然し、ところが、「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「入と出」の「妻嫁」に反する事に成る傾向が起こり、この結果、制度は崩壊する。
    従って、「男系の養嗣、況してや、義嗣」が「氏族に入る習慣」がそもそも入る事は無いが、下手をすれば、この「乱世」に「子孫」を遺そうとして「衰退の源氏族」が安定している「青木氏」に付け込んで次々と「跡目」を入れて来る事もあり得た。
    それなのに、その付け込んだ”「流れ」”が、「崩壊」にも繋がるかも知れないのに、「京綱の件」では、「伊勢青木氏」が“うん”と云わざるを得ない「仕儀」に成っていた事に成る。
    この「仕儀」には、「青木氏族」に執って大きな意味を持つ。
    本来であれば、避ける筈である。
    注釈として、そこで若干余談には成るが、この“「流れ」”は記録に依れば、「伊勢青木氏」のみならず「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」にも現実に送り込んで及んでいる。
    この現実は見逃せない。

    「伊豆と越前」には記録は無いが、「頼政の本領」であった関係から「伊豆」はあったと観られるが、記録は見つからない。
    筆者はこの「伊豆」が大きく絡んでいると観ている。

    恐らくは、「頼政」は「本領」も最も危ないと考えて「子孫存続の手」を態々「伊豆」には施さなかった事が考えられる。
    現実に施していないし、将又、「秀郷流青木氏」に護られた史実もある。
    後の「武田氏滅亡の影響」もあったが、何よりの証拠に、その結果、「女系の妻嫁制度」のそれが無かった「甲斐青木氏」は、「衰退し滅亡の寸前」まで立ち至っている。
    それは、「宗家」が「それなりの古式概念」を敷きながらも、「甲斐青木氏」や、引きずられた「諏訪青木氏」の様に、結果として「乱世に巻き込まれた事」のみならず「内部制度の崩壊」をも意味していたのである。

    現実に「傍系源氏の武田氏」に巻き込まれて、この「甲斐と諏訪の二つの青木氏」の「宗家」が霧消した事から、「最低限の伝統」を守りながらも、「制度の崩壊」は起こった。
    「逃亡した事」から大化期から引き継いだ「氏としての古式概念」に依る制度は崩壊したが、「諏訪大社の伝統」だけは守った。

    「越前」は「神明社の質」の統括下にあって、「伊豆青木氏」に似て「全青木氏族の融合族」であった事から、「氏子」に依る“「青木連」”を作り、何れの時期に於いても警戒されず直接は攻撃される事もなく生き遺れた。
    当然にして「青木氏連」である以上は「統一した氏としての制度」は無く、且つ、従って、「神明社の質」の規則に基づき「商い」を主体として存続した。
    「青木氏族への支援」は、「質」としてあって保護していたが、これはこれでその状況を生かした「生き残り策」であった。

    それでも、甲斐や諏訪や越前に対して、「伊勢と信濃の青木氏族」が連携して「流れ」を極力防いでいたが、それ故に、ここに「摂津清和源氏四家の頼政」の“「歴史的な思惑」”が強く働いた事を物語る。
    つまり、「以仁王の乱」の「歴史的背景」が「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」には強く働いていた。
    然し、この「伊勢と信濃」の「二つの青木氏」は「氏是」を守り結束して「守備網」を構築し、且つ、「氏人らの伊勢と信濃の郷士衆団」と「伊勢信濃シンジケート」をより強固に構築して対応してその結果が違った。

    上記の「氏」で成り立つ「強固な血縁制度に基づく組織」を守り、これを前提に「伊勢の秀郷流青木氏」のみならず、全国に及ぶ「秀郷一門の勢力」を背景に守った。
    取り分け、史実にある様に「主要五氏の青木氏族」は直接的に囲い込んで護った。
    何度も云うが、例えば「伊勢郷士衆団と伊勢信濃シンジケート」は、「足利氏の二万の軍」を餓死させた「公に成った史実の実績」がある位である。。
    この様に、「信長や秀吉の伊勢攻め」でも勝利したのも「伊勢郷士衆団と伊勢信濃シンジケート」が前面に出てこれを排除したからである。
    これ程までに「結束できる組織」は、上記した様に全て「氏としての女系の妻嫁制度の血縁組織」にあった。
    「自らの存続に繋がる事」と考えたからである。

    前段からの論説の通り「女系に依る妻嫁制度」の基に成る「青木氏族」の「四つの血縁源の力」が働いた所以でもある。

    当然の様にこの事に疎く、「氏是」を軽んじ破った「近江と美濃」は完全に滅亡した。
    然し、特質すべきは、最も見事であったのが「頼政の伊豆の本領」に「流れ」に引き込まれて「護衛団」として入っていた“「伊勢と信濃の青木氏融合族」(頼政の策)”である。
    これは、「青木氏族」としの血縁性の強い神奈川の「秀郷流青木氏の勢力の庇護」を受けて、「氏是」を守り続けて生き遺った事にあり、「青木氏族としての四六の古式概念」より「それなりの制度」を敷き、この伝統を守り続け現在に至っている事にある。
    まだ多くの資料を菩提寺などに遺し「古式概念を表す祭り」まで保存されている。

    そこで、そもそも「頼政本領」でありながらも「平家」は、先ず最初に潰される筈のこの「伊豆の青木氏」に手を出せなかった「史実」がこれを物語る。
    これは何故なのかであり、「頼政の策」の答えはここにある。
    これには「秀郷流青木氏の大きな背景」は否定できないが、「氏族としての結束力の所以」でもあろう。
    ここで、上記で「重要な事」として記した「頼政の策」の事に触れて置く。
    前段で論じた様に、「避けるべき源氏族からの跡目」は、「伊勢と信濃の青木氏族」に及んだ。
    「頼政」にしてみれば、「四家制度」と「妻嫁制度」を採っている「京綱や国友」を「跡目」として受けさせるには、この「二つの青木氏」を、「頼政の目的」と同時に解決し、「頼政の源氏子孫」を遺す策が必要と成る。
    それには、平家が絶対に論理的に手を出せない事、子孫を護り通せる力、絶対的な経済力と抑止力が必要な事、この「二つの条件、又は目的」を永久的に絶対的に叶えられる策が必要と成る。
    その策はただ一つある。
    それは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の“「青木氏の融合族」”を形成して「伊豆」に繰り込む事で成り立つ。
    「伊勢と信濃の経済力、抑止力」は元より、「妻嫁制度」による「秀郷流青木氏」とその背景にある「秀郷一族一門」の「主要五氏の青木氏族」は、「平家」と云えども無視はできない。
    これは当然に、平家の里の「伊賀での血縁族」で、「高野新笠の血縁の所縁」もあり、攻める事は先ず出来ない。
    ここを見抜いた「見事な頼政の策」であった。
    故に無傷で遺れたのである。
    現実に、平家は壇ノ浦の海戦で敗退したが、再び水軍を立て直し鎌倉湾に迫った。
    水軍の持たない鎌倉幕府は背後を責められて崩壊寸前であった。

    では、この時、「伊豆青木氏」は、「秀郷流青木氏」は、「青木氏族の配下」にあった「伊勢水軍や駿河水軍」は鎌倉幕府に全く味方しなかった。
    すれば、味方にすれば「平家」を直ぐに潰せた可能性はある。
    又、「平家水軍」も、この「伊豆」を始めとした「青木氏族」に手を出さなかった。
    場合に依っては、「伊豆青木氏」は「滅亡の憂き目」を受けていた事も考えられるが、「上記の青木氏の氏是」を護った事に依る。
    そもそも、この「青木氏」と「平家」は「所縁や戦略的な立場」から「阿吽の呼吸」が働いたのであろうが、両者がこれでは当然に「戦い」にはならなかった。
    これは「上記の説」を物語る事に成る。

    (注釈 結果として、「源為朝の伊豆大島の源氏水軍」が急遽駆けつけて、激戦の末に平家水軍は滅亡する。
    場合に依っては、逆に、その所縁から、先ず「伊豆青木氏」を味方に着け、「伊勢信濃の青木氏族」、「伊勢水軍や駿河水軍」を、将又、「秀郷流青木氏族」を味方に引き入れていれば鎌倉幕府は無かった。そもそも、「坂東八平氏」を中心にした「鎌倉幕府」には「青木氏族」は味方する程の所縁と義理は無かった。
    故に、所縁としても「四掟の範囲」にはあっても、「源氏族」の様な姿勢は、「青木氏の氏是」はこれを許さない。
    唯、「皇族朝臣族」とするだけであって、「中立」を守ったのではあるが、ここに歴史を左右した「青木氏の歴史観」があった。
    故に、この「重要な中立」を執った「全青木氏族」に、鎌倉幕府、取り分け、「北条氏の反対」を押し切った「頼朝から本領安堵」が得られたのである。
    同じ「朝臣族」として「力のある青木氏族」を温存させておく事は戦略的に必要であった。)

    「伊勢青木氏と信濃青木氏」は、大した所縁も義理も無い「頼政の申し出」に「青木氏融合族」で妥協した。
    現実に「女系の妻嫁制度」を敷きながらも、「四掟の範囲」に最も近いこの「河内の源氏族」とは関係を持たなかった。それは“戦闘を好む彼らの族”が発祥時から「青木氏族の氏是」に反していたからである。

    この事は、「平家水軍」も承知しての事であるからこそ、「頼政の策」とは知りながらも平家は必要以上に、“寝ている猫を起す様な事”を避けて、中立性を持たせる為にも果たし得なかった事に成る。

    (注釈 「秀郷流青木氏」と「秀郷一門」は、周囲を固められていて、「坂東八平氏の古来からの仇敵」であり、これを取り除かなければ「彼らの勢力拡大」は無かった。
    逆に、「頼朝」は、この勢力を味方に引き付けて「将軍としての立場の保全」があった。
    「頼朝」は身の危険を感じてでも「本領安堵策」に出た。

    (注釈 現実にトリカブトで暗殺死す。「頼朝」は、この件はもとより、義経、為朝軍等の多くの失政を繰り返した。)

    これは、「女系の妻嫁制度」に繋がる「氏族」であるからこそ、その「結束力」は揺るぎ無いものと成り、誰一人結束を乱すものは出なかった。
    もしここで乱れていた場合は「青木氏族の存在」は疑問であった。
    「男系」では、前段と下記の「人の遺伝子論」から観ても、この様に成らなかった事は明々白々である。
    これも「青木氏族」に関わる大きな歴史観であろう。


    何はともあれ、「歴史に残る厳しい掃討作戦」がありながらも、「諏訪青木氏」も「庇護」を受けて生き延びた。
    これらは「氏族を形成する程の血縁制度」の下であって「偶然」ではなかった。

    (注釈 確かに伊勢郷士の結束力は高かった。)

    然し、前段や上記でも論じたが、現実には、「伊賀の郷士衆」(青木氏に関わった24郷士が居た)に「3郷士」が信長に寝返り、「伊勢青木氏族」に裏切りが出た。
    結果として、「伊勢青木氏の宗家」は、この内、「18郷士」を護る為に「中立を守る姿勢」を採り続け信用させていた。
    それまで頑なに守っていた「青木氏の氏是」を破り、「織田軍の襲撃」の前夜に「名張城と清蓮寺城」の館城の平城から出て、夜間に餓死寸前の伊賀城(比自山城)に侵入し、「11郷士」を救い出したとある。
    その後、信長は、「氏人を含む11郷士と青木氏族の掃討」は無かった。
    上記した様に、これは室町期に「史実」を遺す「青木氏族の持つ背景」を恐れたと考えられる。
    「秀郷一門の背景」とその一門であり、この「伊勢の指揮官の蒲生氏郷の働き掛け」もあったと観られる。

    この「史実」は、要するに、この「乱世に珍しい血縁で深く結ばれた氏族」であったからこその所以でその証拠と成る。
    これは全て「四六の古式概念から制度」の「結びつきの結果」に依る。
    唯、「血縁の割合」として観られる事があった。

    ここでその「疑問」の一つを解決して置く。
    前段でも詳細に論じたが、ここで「伊賀郷士衆の24士中」の「3士」が裏切り、「18士」が敵対したとあり、この内の「11士」を二つの館城に救い出したと記録にある。
    (注釈 「中立3士」の事は上記)

    とすると、「24士」−「中立3士と裏切り3士」=18士と成り、今度は、“18士−11士=「残りの7士」は何なのか”と云う事が疑問に成る。

    前段で論じた様に、“自分で逃げ出したと云う事”もあるが、これは「記録」として残るのであるが、初めから逃げ出せるのであれば、餓死寸前までいないで「中立3士の様」に逃げるであろう。「伊賀掟」から観て大いに疑問である。

    確かに「青木氏の軍(伊勢信濃シンジケート)」で一緒に救い出したとあるが、この経緯からすると「残りの7士」は、「縁戚関係」に無かったかという事に成る。
    確かに救出後、記録では「飛散した事」に成っている。
    現実に、“「飛散した事」”は記録にあり、「中立3士の滋賀青木氏の件」で「近江佐々木氏の研究記録」の中にも触れている事は事実である。
    江戸期に成ってこの「伊賀の7郷士」を“「殖産」”で呼び寄せた事が判っている。
    つまり、室町期末期には「伊賀郷士衆」とは、先ず、少なくとも「11士/24士」、即ち、約半分まで血縁に依る「氏人の関係」は確実に出来上がっていた事を先ず示す。
    勿論に、「女系に依る妻嫁制度」に依ってである。
    そうすると、「呼び寄せている事」は明確であるとすると、“それは誰がやったのか”という事で解決する。

    先ず、彼らを“「呼び寄せる」”には、先ず、その匿っている「行き先」が判っていた事(イ)、次に、呼び寄せる全国的な組織を独自に持ち得ていた事(ロ)、呼び寄せた以上はその生活を保障する能力を持ち得ている事(ハ)、その家族を誰が養っていたかという事(ニ)、逃亡先での生活を誰が保障していたかという事(ホ)、紀州藩に話を通せる者である事(ヘ)と成る。
    少なくとも、この“「(イ)から(ヘ)の条件」を「充分に果たせる力を持っている者」“でなくてはならない。
    それは、「青木氏族と神明社と秀郷一門」の「青木氏族」でなければ成り立つ話ではない。

    とすると、「残りの7士」は、「妻嫁制度」に依って江戸初期から「青木氏」と「後の血縁族」と成り得た事を意味する。
    前段で論じた「伊賀域」で「和紙の殖産」に関わった「伊賀原士の氏人」は、先ず、この「11士」に当たり、その後の「綿花の殖産」に関わったのが、この「残りの7士」であった事に成る。
    何故ならば、前段で論じた「伊賀の経緯」上は、この「残りの7士」は「伊賀掟」から「伊賀」には住めない筈である。
    少なくとも、前段で論じた様に、「殖産の工程の流れ」から、「名張と西連寺」と「伊賀を結ぶライン上」に住む事に成る。

    何故ならば、その「残りの7士」の「家族の養い場所」(ト)が必要で、「何かの糧」(チ)を与えて、未だ乱世が終わったとは云え、「身の安全」(リ)を確保して保護し、「伊賀に近い場所」に住まわせる「適切な施設」(ヌ)が必要であった。
    そして、そこが「青木氏の地権の働く場所」(ル)である事が必要であって、「青木氏」がそれを「熟し得る組織(四家制度と伊勢屋)」を持ち得ている事(ワ)が必要であるからである。

    「青木氏族」が(イ)から(ワ)を満たしている限りは、上記の「残りの7士説」は正しい事に成る。

    次に「疑問」になるのは、「氏家制度」の中で、果たして、「男系の跡目制度」との繋がり関係とはどの程度の差があったのであろうか。
    徹底した「父方での繋がり」と「母方での繋がり」としては、筆者の論では次の様に成る。
    “「徹底」“と云う前提で論じれば、“「母方での繋がり」が強い“である。
    それには「父方の繋がり」では「欠点」がある。
    その「欠点」とは、一つは「逃れ得ない本能の闘争心」にある。
    況してや、「男系」の場合には、「母が異なる系列」(異母兄弟)には「族」、或いは「属」としての
    情愛」は世の常で薄れる。
    この結果、「姓化」が起こり、広範に広がりその属性は薄れ「独自性」が出る。
    この広がる「独自性」を「掟と武力で抑える仕組み」で防ぐ様にするが、破ればこの本能の「闘争心」が働く。
    これを「差=A」とする

    ところが、「妻嫁制度の女系」に依れば、「人の遺伝子」の継承は、「母方」(「女(むすめ)」)に継承される。即ち、「人の遺伝子の融合族化」が生まれる。
    「男系」では、「人の遺伝」を引き継がない以上はこれは起こらないで、その「意思」に関わらず「遺伝子上での結束」が生まれない。
    ここには、「妻嫁制度による女系」では「闘争心」(嫉妬程度はあるが掟で抑え込める。)は生まれない。
    これを「差=B」とする。

    結局は、何れもその「意思に」関わらず、次の差が生じる。
    「差=A」<「差=B」に成るだろう。

    この「差=A」<「差=B」の「差=C」が、「結束力」、即ち、「意思」に関わらない「結束力」と云う事に成る。

    「四掟に基づく妻嫁制度に依る女系」は、この“「結束力」”を産むと云う前提に成る。
    何はともあれ、周囲が、「男系に依る氏家制度」の中で、「青木氏族」だけが独自に「妻嫁制度に依る女系」を執った事にある。
    ここでは、「氏家制度」;「妻嫁制度」と云う数式論が生まれる。
    「青木氏族」は、結局は、「氏家制度」<「妻嫁制度」の「数式の概念」を持った事に成る。
    これでは普通ならば、生きては行けない。潰されるであろう。
    これは「異様」であった事は間違いは無い。
    然し、この「異様」で「異端な血縁」を、周囲は、“「青木氏族」”として観ていたからに他ならない。

    (注釈 潰す事の出来ないあらゆる面、即ち、「経済、政治、武力、権威」の「抑止力」が働いていた。それも、「表裏の抑止力」であった。)

    現実に、「政治と権威」では、「お定め書」を出した「家康」も「青木氏族」として観ていた事に他ならない。

    さて、注釈より本論に話を戻して、前段でも論じた様に「次の差の疑問」が生まれる。
    この「妻嫁制度の中での必然的に生まれる差」の事である。

    そこで、“「后、妃、嬪、妾」と成る差”にこの「疑問」を持つが、その資料から読み取れる範囲としての答えは、「入り」の先の「位階」と、その系の“「直系本流と傍系支流の末裔の差」”で決まる様であった。

    現実には、この「四段階の制度」は、主に「福家」のみが採られる制度で、「福家」以外の「四家」は、原則として「妃(ひ)」、「(嬪・ひめ)」、「妾(しょう)」の範囲であったが、前段で論じた様に室町期以降は、もっと遡れば、「光仁天皇期」以後は、「后」は完全に「特例扱い」で、「(嬪・ひめ)」、「妾(しょう)」の範囲であった様で、明らかに「四六の古式概念」を外している。

    (注釈 これには、“「后」”に対して「青木氏存続に関わる重大な理由」があった。
    これは「孝謙天皇期の白羽の矢」の「心的外傷、トラウマ」、或いは、「戒め(青木氏の氏是)」と考えられる。)

    そもそも、前段でも論じている様に、「青木氏族」に、この”「妾子」”が多く組み込まれた理由は、論理的には、”「入と出」の「妻嫁」”であるのだが、現実には何が理由か確定はできないが、間違いなく「経済的理由」では無い。
    又、確かに、「上記の注釈の要因」とも考える事は出来るが、それだけでも無く、「妻嫁制度の論理的な仕組み」にもあった様である。

    「主な原因」としては、先ずは「青木氏との繋がりの範囲」、所謂、「永代の従四位までの家筋(四掟)」が「平安期」と違って、取り分け、室町期以降は「下剋上と戦乱」で「氏族」は前段で論じた様に激減した事から少なく成った事が云える。
    その為に、熟慮し改善して執った策であると観られる。

    この「下剋上と戦乱の時期」では、“「四掟」”は現実には難しかった筈で、「位階」を外した範囲での「入り」の「后、妃、嬪の制度」も難しくなっていた事が解る。
    結局は、この「四六の古式概念」に基づく「論理的な制度」を敷いていた以上は、「位階」の無い「妾の妻」と成らざるを得なかった事に成る。
    従って、これに応じて当然に相対的には「出」の「嫁」も難しい事に成る。
    然し、ここには頼るべき少ない「妾」の「妻」と、「出」の「嫁」の差が起こり、この「妾」の「妻」><「出」の「嫁」の差を埋めるには、「女系の妻嫁制度」を敷いている以上は、「出」の「嫁家先」から、再び、必然的に「四掟の四家(20家)」に「女(むすめ)」として補う以外に無くなる。

    「女(むすめ)」、つまり、前段で論じた「妻嫁の女子の娘孫」を「青木氏」に戻し養育して、「出」の「嫁」を多くして「縁戚」を多くして補う以外に無くなる。
    前段から論じている「青木氏族」の「女(むすめ)」の概念である。(*に続く)

    ところが、中には、「出」の「嫁家」から「優秀な男子の一人」に「出の先」で「福家の許可」を得て「青木氏」を一度興させて、そこから「本人または嫡子」を「四家」に戻すと云う「補完策」の特例を執った事も書かれている。

    実は、これには「青木氏」の「歴史に残る戦歴」による「妻嫁制度のその強さ」の証明があるので敢えて外れて下記に論じる。

    これは、前段で論じた「人の遺伝子説」の論理には薄らぐ結果とは成る。
    「女子の子の女子」は「人の遺伝子」では、同じ「人の遺伝子」を継承する。
    従って、完全な女系族からは出ない。依って「妻嫁制度」は成立する。
    然し、ところが、「嫁家先の男子(a)」の持つ母親から引き継いだ「人の遺伝子」は、その「男子(a)」の「女子(娘)」に引き継がれる。
    然し、その「女子(娘)」が「四家」に要するに前段で論じた“「女(むすめ)」”として戻る事には、「妻嫁制度の論理性」は崩れない。
    これには「女(むすめ)」の「福家に於ける養育制度」には影響はない。

    然し、この件の様に、この「男子(a)」が、直接に「禁じ手」で、「四家」に入ると、「妃、嬪、妾の制度」の「直系男子」では無く、別の嫁家先の傍系尊属の「男子の遺伝子」を持ち込む事に成る。
    「妻嫁制度の女系」では、元より「男系の遺伝子のある枠」(男系の血縁源)を超える事に成る。
    これは、「掟外」である。

    然し、「掟破り」で実施された記録がある。
    これは、態々、「掟破り」をしてでも行った事は、“そこには何かがあった事”の疑問が起こる事に成る。放置できない。
    少なくとも、“「相当な人材の評価」”があった事は頷ける。
    従って、「特例」なのであって、それも「福家と嫁家の了承」があっての特例事であろうし、それも「位階を持つ家人」等の「掟破り」で、上記の「氏族の中での事」と当然に成るだろう。
    この「特例」が、「何らかの大きな事情」が起こったものであって、この特例が常時に起こっていた事を示すものは何も見つからない。

    筆者は、その「ある事情に応じた対応策」として、これは「氏族の中のバランス」を執る為に、特別に「不必要な競争心」を無くす事から“「家人からの補完策」であったと観ている。
    これは「室町期の末期の資料」である事から、「氏族内」に何か「乱れ」が起こり、これを鎮める為に執った策であろう。

    先ず、「殖産」に於いてではない筈である。
    何人かいる中の「家人」である事は確実で、この「家人」であるとするならば、この時期の前後に前段でも、「青木氏族存亡」に関わる織田氏による「4つの伊勢攻め」がある。

    その4つの内の2つは「伊賀に関わる戦い」で、「家人」の「女(むすめ)」を「氏人」であった「伊賀の者」に嫁がせる戦略を執った。
    今回は、「南伊勢の家人」であるとすると、4つの内の「大河内城の戦い」と成る。
    「福家」と「南伊勢の家人」がリードした「伊勢北畠氏の大河内城攻め」であった可能性が強い。
    (注釈 1569年に南伊勢を所領する北畠氏が信長に攻められる。)

    この時、「伊勢青木氏}は、「青木氏の氏是」を破り陰日向で「北畠氏」に合力する。

    (注釈 「貴族の北畠氏」は、そもそも「不入不倫の権」を破り「伊勢」を攻略した。「青木氏」に執っては好ましくない相手でもあった。)

    然し、この「南伊勢」は、「青木氏の旧領地」で奈良期からの多くの「氏人の定住地」でもある。
    放置はできない。この「旧領地の家人」は妻嫁制度の血縁でも深く繋がっている事は明らか。
    そこで、「伊勢青木氏」は、止む無く「伊勢シンジケート」を直接投入して「彼らの氏人」を護ろうとした。

    又、この「旧領地」は、「墨や和紙の原料の楮」の「最大生産地」でもあった。
    ここを奪われる事は、「伊勢青木氏の存亡」、強いては、「信濃青木氏」にも影響する大問題であった。
    つまり、「青木氏族の今後」を占う「戦い」と成っていた。
    恐らく、激戦を予想できる事から、この「氏人等の家人」の「跡目」を絶やさない様にする為に、「優秀な嗣子」を選び「福家」に「掟破り」も承知で預けたと考えられる。
    「家人の嗣子」か「氏人の嗣子」かは確実には判らない。

    奈良期からの「青木氏」を物語る「青木氏の旧領地」である事から、「氏人」と云えども「家人」に相当する血縁関係は構築されていたものであり、所謂、故郷や実家先に相当する。
    結局、この「記録」では、「大河内城」が落城寸前に「伊勢シンジケート」が、彼らを救い出し「南伊勢の尾鷲」に逃がしている。この時、「福家」も「尾鷲」に約1年間避難している。
    織田軍は「大河内城」の周辺に火をかけ「氏人」等を含む「住民全て」を城に追い込んで圧力を掛けた。
    「青木氏」の「氏人等の住民」を全滅させる事は、必然的に「青木氏」等に敵対される事は必定で、結果として同じに成り、北畠軍は瓦解し開城する。

    織田軍は、背後には、歴史的にも過去にも有名な「青木氏のゲリラ戦の戦歴」があり、この戦いに於いても「妻嫁制度に依る独特な結束力」のある「青木氏族」が潜んでいる事は「周知の事」であり、戦略的にこれを狙ったのである。

    既に、「伊勢シンジケート」が周囲に配置されていて、軍事物資を経済力で抑えられれば、直前に経験している「田丸城と松ヶ島城の二の舞」に成る事は「経験済みの承知」である。
    「伊勢水軍」もいて「海と陸」を封鎖されれば水軍の持たない織田氏は全滅する。
    物資を抑えられれば「無理攻めする事」は100%無い。
    「足利氏の餓死二万」の二の舞である。戦わずして負ける。

    「青木氏側」からすれば、当然のこの「戦いの構え」をした事に成る。
    そして、「織田軍」が攻めて来る筈のない「尾鷲」に住民を館に保護したのである。
    何故ならば、「尾鷲」は、「伊勢青木氏」と「氏人の伊勢郷士の里」でもあるのだ。
    前段でも論じた様に、「女系の妻嫁制度」で繋がる「小林氏や加納氏や玉城氏や玉置氏や山尾氏・・の里」でもある。
    つまり、この「里」とは、「伊勢郷士らの休養地」でもあり、且つ、「尾鷲港」は「天然の湾」として「奈良期からの交易港」で、ここに身内を置いて「事務館」を設けていた。
    下手をすると信長に敵対している、熊野六氏や雑賀氏、根来氏、北山氏等の「武装ゲリラ軍」が動くこともあると、周囲を固められると織田軍は全滅する事もあった。

    この様な、「掟破り」には「伊賀」と同じく「歴史的に残る経緯」があった。
    これは「妻嫁制度の何者かを物語る由縁」を顕示している。
    「南伊勢からの嗣子」はその後に戻されたかは判らない。
    然し、筆者は、注釈として、この「南伊勢の嗣子」を戻さなかったと観ている。
    前段でも論じたが、それは江戸幕末から明治9年までの南伊勢から起こった「伊勢騒動」に「青木氏」が大きく関わった事からも考察できる。
    明治政府との掛け合いで「過去からの献納」を配慮したか「伊勢の騒動」の一揆は、処罰人を出したが、“正当である事”を「維新政府」は認めた。

    この「女系に依る妻嫁制度の結束力」は、「歴史的な事象」から見ても「時の政権や最大勢力」をも動かすものと成っていた。

    「血縁制度」では「異様」と云う事に成るだろうが、「歴史的な観点」からは“形の見えない「脅威」”と観られていた事には成るだろう。
    然し、これだけ「歴史に残る実績」を持ちながらも、「青木氏の氏是」に従って、明治期までこの「影の脅威」を以って「青木氏族」は決して前には出なかった。
    明治期の「華族制度」の叙勲と勲位時も、「紀州徳川氏の推薦」もありながら丁重に断り受けなかった。

    (注釈 「断りの品」を添えて返信している。これに対しての、この時の「維新政府とのやり取り」
    で、「左大臣から桐の菊絵紋(直筆)」の気品のある文箱に入った手紙が遺されている。
    「文箱、直筆、菊絵」は、“「最大の礼」”を示している。
    他の華族にはこれ程の扱いは無かった筈で、始祖施基皇子、光仁天皇族、直系族は仁明天皇青木氏族、志紀真人族であったからであろう。
    この位に徹底していた様で、「口伝」でも「戒め」として伝わる。)

    (*は下記から)
    つまり、「現在の概念」で云えば、「出」の「嫁家」から「養女(実際は娘の概念)」として、再び、「四家の青木氏」に戻し、そこから、再び、「出」の「嫁」として出るというシステムである。
    つまり、「女系で繋がる縁戚関係」が無限に増えるという「仕組み」である。

    注釈として、「遺伝子」のレベルでの理論では最も「正統な血縁」の「仕組み」と云える。
    それは、前段でも何度も論じている事ではあるが、「人の遺伝子」は「女」が引き継ぎ、母から引き継いだ「男」の持つ影の「人の遺伝子」はその子の「女子」に引き継がれる。
    と云う事は、「女子」に全て引き継がれ、「人の遺伝子」は「族の範囲」で融合して行く事に成る。
    つまり、「遺伝子的」に云えば、「女子」で繋がる方が論理的には「族の結束力」は、意識するかしないかは除外され、高まっている事に成る。
    但し、この説は、その族の娘に婿養嗣、或いは婿義嗣を迎える女系ではない。
    つまり、況や、「女(むすめ)」)の範囲で成り立つ論理である。
    況や、「女系」と云えども、飽く迄も、「四六の古式概念」の「四掟」の「妻嫁制度」と「四家制度」の範囲で制限を求めて成り立つ論理と成る。
    これが、「青木氏族」が執っていた制度という事に成る。
    従って、本人の意識外の外で、好むと好まざるに関わらず「同じ族内の遺伝子に依る結束力」が発情する所以と成り得る。

    これが他と異なる「青木氏族」と云う所以であり、周囲からは「異様」と成り得るのだ。
    故に、これを考えた「施基皇子の血筋」を持つ「女系子孫」の「青木氏の氏是」と成る。
    何度も色々な面から論じているが「青木氏の氏是」が徹底して長く守られた所以である。

    要するに、但し、「四家」は純然とした「嗣子の男子」で継承し、それを「女系」で補うという「特異なシステム」に成る。
    「娘」に「無縁の義嗣(婿取り)」を迎えて「家」を継承する「女系」ではなく、「最小限の血縁の四掟」を守れるシステムと云える。
    これは「氏を構成していると云う前提」に依って成り立っている。



    「青木氏の伝統 45」−「青木氏の歴史観−18」に続く。


      [No.362] Re:「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/09/16(Sun) 14:11:16  

    > > 「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15日」 末尾
    >
    >
    不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。
    >
    > さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。
    >
    > これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
    > 前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
    > 「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
    > 矢張り、「殖産」の主軸は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
    > 上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
    > 「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。
    >
    > (注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
    > 筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)
    >
    >
    >

    「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    さて、この「絆の関係」を構築しているのが、これ即ち、「四六の古式の概念」や「四掟等の掟」は、この「絆の関係構築」の為の「一つの方法」ではあった。
    依って、この事の「血縁」等の「弊害」を充分に見定めた上で、「譲れない氏族」としての「四掟等の掟」と成っていた事なのであって、これは重要な「青木氏の歴史観」であった事に成る。

    (注釈 前段の「孝謙天皇」の「青木氏」に対しての「白羽の矢」は、この「(A)(B)(C)の条件的な血縁」を前提として点てられた事を意味した。
    本来であれば「入りと出も男系と云う前提」で「天皇家の血筋」は成り立つ前提であろう。
    然し、「青木氏族」は「入りと出」は、基本的に「入りと出」の「男系」では無く、全て「女系」で成り立っていたのである。
    然し、未だ「氏族の構成」があまり進んでいない時期ではあったが、「孝謙天皇」の放った「白羽の矢」が不幸にして当たったのであった。況してや「妾子族」であったのに。
    前段でも論じたが、「白羽の矢」の当たった「伊勢青木氏の嗣子」等の夫々は、「公的な史実」として、“飲んだくれ”等を装い避けた事が書かれている。
    「氏是」に従い懸命に「氏人を含む青木氏族」を守ろうとした事が判る。)

    故に、今後、この様な事が起こらない様にする為に、これが前段で論じた基本の「四六の古式の概念」をより強化して改善を加えて持ち込み、その為に独自の「四掟」等の制度が定められた所以でもある。

    (注釈 「后の入り」を執らなかった唯一の理由はここにあったと考えられる。)

    然し、唯単に、「四六の概念」に基づいた上記の(A)(B)(C)は、「氏族保持」と「家柄保持」と云う事だけではなく、上記で論じた”「殖産」”などを含めた「広範な体制保持」に欠かす事の出来ない「絶対的な概念」であった。
    従って、これは、「殖産」=(A)(B)(C)の関係が成り立たなければ、不可能だと観ていた事に成ろうし、これが”「青木氏の強味」”でもあると認識していた事に成る。
    この「青木氏の強味」を生かさない手はないだろう。

    (注釈 しつこい様だが、上記の「大岡裁定」の「三河者の大岡」は、言い換えればこの“「青木氏の強味」”を必要以上に意識し過ぎたと云う事にも成ろう。)

    又、「市場放出の余剰品」の「和紙と墨」を「殖産」と「商い」として成立させた時期の925年頃には、「青木氏部」と共にこれを成す事に「力を貸した郷士」とは、既に、この「(A)(B)(C)の条件的な血縁の関係」が一重くらいには出来上がっていたと考えられる。
    少なくとも、この頃から衰退を極めて行った「近江」、「美濃」、「甲斐」を除いては、出来上がって行った事に成る。

    (注釈 故に、前段でも論じたが、「平家に圧迫」をうけて「近江、美濃、甲斐の衰退」を見た「円融天皇」は、憂慮して「平の将門の乱」を利用して功績のあった「俵源太」に「青木氏」を補完賜姓し、960年頃からの「秀郷流青木氏の補完役」の「出現」を成したと観られる。)

    筆者の感覚は、「奈良期」から始め「江戸期」までの「殖産」に於いては、この「絆の関係氏との保持」の為の「青木氏の概念」が、上記の制度を構築した「四六の概念」に基づいたものであった。
    依って、その「主流の概念」であったと観ている。

    従って、奈良期から続けられ江戸期まで続いた上記の「女系の入りと出の振り分け具合」が、どの様な程度と成っていたのかが気に成る。
    然し、探すが資料にはそこまでは物語るものが見つからない。
    「商記録」は別に、上記した様に「入りと出の情報源」を掴んでいたところにあり、それは主なものは「青木氏の執事等のあらゆる事務」の執事を司っていた「菩提寺や神明社」に遺されている資料と成るが、上記した「江戸初期の令(後段で論じる)」で消滅している。

    下記にも論じるが、結論的に云うと、「四六の概念」を敷く以上は、「入りのキャパシティー」と「出のキャパシティー」の差から生まれると判断できる。
    これは「奈良期からの時代性」と「青木氏族の繁栄力」に大きく左右される。
    仮に、筆者が執事に成ったとして、とすると、これは明らかに「答え」は次の様に出る。
    上記や前段でも論じた様に、次の数式が生まれる。

    「入りのキャパシティー」<「出のキャパシティー」

    つまり、この「青木氏のキャパシティー」の5=5の数式は成立しない。

    故に、これが要するに「青木氏」では、”「4:6の比(四六の古式概念)”」という事に成り得る。

    では、仮に、これが「3:7の比」であったとして、「福家と四家20家」を補う為の「「嗣子」と、「出」になる「女(むすめ)」は賄えない。
    そこで、「四六の古式概念」に依って「福家と四家20家」を賄う為に「妻嫁制度の妻」は、要するに「四段階(后、妃、嬪、妾」)」に成っている。
    但し、この「掟」により課せられていた事は、「妃、嬪、妾」は、「后」は無く、且つ、各々が原則1人であるとしている。
    従って、「3の比の妻」から生まれる子供は、標準二人としても「四家20家の合計」は40人である。

    (注釈 当時は死亡する比率が疫病等により高かく、平均寿命の短命55歳であった事を勘案する。)

    この内、「男女の差」が「現在の標準比」から考えると「5:5」である事から、「嗣子の20人」と「女(むすめ)の20人」と成る。
    標準的に「嗣子20人」としては何とか賄えるが、一度に「全四家」に跡目が起こる訳では無く、「四家20家」には必ず「代変わり」がある。
    この「代かわり」が、最大で「四家20家の半分」の5:5で起こるとする。(長寿系であった。)
    「20の最大」でも賄えるが、現実には、種々の理由で5:5とは成り得ない事が起こる。
    それが仮に「嗣子と女」の「比」が2〜「4」:8〜「6」と成った場合は、最低でも2・5=10と成るので、5:5であっても何とか賄える事に成る。
    従って、検証では「男系の継承の嗣子」には問題は無い。

    さて、そうすると、この場合の「女の比」は、最低で6・5=30 最高で8・5=40と成り充分と成り得る。
    「伊勢」に於いては、「出の先」が「郷士衆」は50であるとすると、最大で30〜50は成り立つ。
    「郷士衆」、つまり、「氏人」に対しては一斉にしても成り立つが、この様な事は先ずは起こらない。
    即ち、余裕が起こる。
    「郷士衆・氏人」の50の半分としても25であり、「女(むすめ)」の「出の嫁家数」としては成立する。

    充分成立するとしてでは、次に、この「女(むすめ)」」の「余裕分」を放置できない。
    当然に、後の「妃、嬪、妾」の「入り」の「三つの血縁源」、つまり、上記の通り「京等の位階の血縁源」と「秀郷一門と秀郷流青木氏」と「信濃、甲斐、越前、伊豆等の血縁源」に、最低でも5、最大でも25が振り向け戻せられる。

    (注釈 「后」は「特例扱い」で現実には採用されていない。
    そもそも、「后」があると、この「三つの血縁源」を嫁家先を差別化する事に成り、「三つの血縁源」が同列としている概念の「四六の概念」には問題が起こり好ましくない。)

    そうすると、考慮しなければならない事は、生まれる「嗣子と女(むすめ)」の比が、上記の3:7の3から生まれるとすると、このパラメータには、当然に「バイアス」が含まれるが、これをどう見るかである。
    即ち、常に、この「数字のバランス」が続くとは限らない事に成る。
    これを何かで補わなくてはならない。
    時には、「入り妻」に「子」が生まれない事、或いは、男ばかりであったりする事、又、逆の事も起こる。
    この事も配慮を要する。
    それを「バイアス」として1と見做せば、3+1とすると、矢張り、「4の概念」が生まれる。

    では、「4の概念」のこの1を加える事を「バイアス」として持っておく必要がある。
    そもそも、他氏の様に、“「入りの妻」の「人数」”を「一人ずつ」とする事を止めて、“複数化すればよい”とする考えもある。
    然し、「青木氏」はこれを執らなかった。

    何故ならば、上記で論じた「入りの妻」に課せていた「掟」、所謂、「女(むすめ)」への干渉」や「入り妻同士の争い」が起こり、「統制」を執れなくなる事を懸念したからに他ならない。
    前段でも論じたが、この「制度の模範」は、そもそも「中国」にあって、”中国の「国の短命」(専門家の定説)はここにあった”とする事を「貿易」を通じて情報として持っていた。
    従って、複数化は「青木氏」としては採れない。
    では、“どうするのか”と云う事に成る。

    この「複数化」を抑えるには、これが、「バイアスの採用」と成ったのが、”「女(むすめ)」”の「定義の変更」であった。
    つまり、上記で論じた「郷士衆、氏人」との間で結んだ「伝統の決まり事」、況や、上記した「定書き」の経緯と成った事であった。
    況や、「孫から玄孫」までを取り敢えずは、「区別、差別、位階、格式」の無い“「女(むすめ)」とする制度”としたのである。
    こうすれば、「何らかの変化」に依って「不測の事態」が起こっても、何時、「女(むすめ)」が不足しても、「バイアス」には対応できる事と成る。
    この「掟」を以て「孫から玄孫」を「バイアスの1」としたという事に成る。

    然し、ここで云える事は、この「1のバイアス」を「三つの血縁源」に求められる事は不可能である。
    そこまで、「青木氏族」とは云えども、つまり「族の関係」にあっても「氏人と同じ関係」には無かったであろう。
    唯、「信濃」とは、「商いの関係」もあり、大化期からの血縁を繰り返して来た「同族の生遺り」でもあって、「バイアスの融通」は利いた筈で記録には遺る。

    この「バイアス」を常態化すると、普通は、取り分け、「玄孫」の「女(むすめ)」と成れば、「氏人の嫁家先」は別としても、他の「三つの嫁家先」と成れば、場合に依っては「嫁家先の信頼」を失う事に成りかねない。
    三つのその一つである「京などの位階先への嫁家(「入りの妃の家」の関係族)」は、100%無理で信頼は確実に失う。

    では、この「バイアス」を作る場合は、次の様に考えていたと思われる。
    「福家と四家20家」の「女(むすめ)」の「孫」は、「入りの嬪」で、「曾孫」と「玄孫」は「入りの妾」の「二つの原則」が生まれる。
    それは、そもそも、社会は「氏家制度の仕来り」に依って成り立っていた。
    従って、取り分け、「血縁(婚姻)」ともなれば、勝手に自由は効かない。
    「青木氏」が「氏族」を唯一形成する族もと成れば、それも「伝統ある氏族」である。
    依って、”ある程度に従うと云う事”にはならない。
    「青木氏族」は冠たる「氏家制度の見本」以外には何物も無く、「異様」ともみられる「家の制度」を大化期から敷いていた。
    故に、これは「氏家制度の以前の問題」である。
    何はともあれ”「妃、嬪、妾」の「妻嫁制度」を導いていた事”はその最たる所以と成る。

    そこで、この「玄孫」を含む以外の「女(むすめ)」の、前段で論じた(5)〜(7)」(下記)は、この「バイアス」が無くなり、「氏家制度」の中とは云え、数理的に考えれば“「特例」”と成り得ていた事に成るだろう。
    然し、詳しい記録が消滅しているので確たるところが云えないが、バイアス=0とは成り得ていたとは到底に考え難い。

    1 子、
    2 孫
    3 曽孫(ひまご)
    4 玄孫(やしゃご)
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    それは次の資料から読み取れる。

    これは室町期末期頃に掛けてのやや風化した資料である。
    「青木氏部の差配頭」の「郷士衆の家(家人)・(A)」に「遺された手紙」の「福家とのやり取り」の資料の一文節には、(5)の「女(むすめ)」としての「養育」を願い出ている文節がある。

    これは、「この家人の郷士の家・(イ)」と「他の氏人の郷士との家・(ロ)」の「縁組」を、“「何らかの理由(ハ)」”があって、これを解決する為に“「(5)の養育願い」”を出したものであるらしい。
    この「家人の差配頭・(イ)」の縁続きの差配下の別の「氏人の郷士の家・(ロ)」」との(5)に当たる「女(むすめ)」を、「他の氏人の郷士の家・(ハ)」に嫁がせると云うものの様である。
    その為に「福家」の「女(むすめ)」として養育して、それぞれ、「(イ)の家」を中心にて「(ロ)の家」と「(ハ)の家」を「血縁と云う方法」でより結び、「青木氏」の「女(むすめ)」として嫁して、(ロ)と(ハ)の間に“「ある問題」”を「氏としての血縁」で深くして解決しようとしたと考えられる。

    この“「ある問題」”とは、何なのかはこの文節には書かれていない。
    (イ)も(ロ)も(ハ)も何れも「氏人」である。
    「福家」はこの「ある問題」を既に承知していた事が“文節中に無い“と云う事で分かる。

    筆者は、「殖産化と商業組合を推し進めた時期」で、世情は「混乱期」で、且つ、「伊賀郷士との絡み」と観ている。
    そもそも、「伊賀郷士(ハ)」は、普通は「郷士」とは呼ばれず、“「原士」”と呼ばれた。
    この「原士」と呼ばれる所以は、「農民」であり、「郷士」であり、「技能士」であり、「契約戦士」であり、「万能職」を熟す人の事であった。
    要するに、今で云う「忍者の事」で、その「定まった姿」を明かさないのがこの“「原士」”であった。
    この「伊賀郷士の(ハ)」は、奈良期の古来より「青木氏の氏人(郷士)」と成っていて、「青木氏部にも職人(技能士」」として加わり、時には「伊勢シンジケート(戦士)」として加わり、「田畑を耕す農民」でもあった。
    室町期末期は、「織田氏」の「伊勢への侵攻」で、取り分け、「織田氏」には、「原士の礎情(支配関係を排除)」があって“「権力」に立ち向かうこの「伊賀の人」”に対しては、敵意を示していて、前段でも詳細に論じ、下記にも論じるが、「織田軍苦戦の伊賀の戦い」が起こった。

    この時期には、同時に「青木氏族」は「殖産」を拡大していた。
    その時、「信長への敵対」は、「伊賀郷士の存亡」に関わる重大事であり、何とか思いとどまらせる様に、「伊賀郷士(ハ)」(伊賀の差配頭か)に対して、この「殖産」に加わる様に説得をするよう試みていた。

    さて、ここで、前段でも一部論じたが、「青木氏族」とどのような関係にあったかをもう一度解説する。
    ここでは、上記の「妻嫁制度での繋がり」がどの様に動いたかを証明する事が出来る。

    「織田と伊賀の勝負」は「多勢に無勢」で勝敗は決まっている。
    「青木氏族」の全てが、何とか「伊賀の原士の氏人(11士/18士/24士)」を何とか救うべき説得を繰り返していたと考えられる。
    それには、「職能」でより繋がっていた「青木氏部の差配頭(イ)」が適任で、「血縁の氏人」である以上は、「青木氏の懐」の中に誘い込み「保護する戦略」を「福家」と内々に打ち合わせていた。
    勿論、「青木氏族」にも直接、危険は迫っていた。
    「伊賀の一角」が潰されれば、「青木氏族の抑止力」は低下し、「青木氏族」を興す「殖産」のみならず「商業組合」は崩れる。
    これは「青木氏族の衰退化」を意味する。
    筆者は、「莫大な経済力と強力な抑止力」を持った者には、信長は敵意を示し天下取りに邪魔と観ていた筈で、その手始めが「北畠や伊賀等への侵略」であったと観ている。

    公的に史実と成っている事を時系列で並べて考察すると、この「青木氏族の強さ」が観える。

    「信雄の田丸城攻め(改修)と松ヶ島城(仮城」」の二つでは、「青木氏族の軍事物資買い占め」と「伊勢信濃シンジケート」で、築城を遅らせ、最後にはやっと完成した城を燃やした。
    その後の「松ヶ島城の仮城」でも「青木氏族」は同じ手を使った。

    「伊勢秀郷流青木氏」も「秀郷一門」を動かして全国的に織田氏に牽制を掛けようとして、一門を率いる「青木氏族の結城永嶋氏」に話を通していた。
    「結城永嶋氏」は動いて「織田」と敵対し始めていた。
    秀吉による「陸奥結城永嶋攻め」では、「結城の本家」が「秀吉の陸奥攻めの背後」を攻め立て、「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢から陸奥に向けて背後を突き、「結城本家」を助け、「秀吉の戦歴」に遺る3000人の死者を出す大敗北で、自らも東北道の商山道を逃げて大阪にやつと辿り着くと云う事に成った。

    「伊勢長嶋攻め」でも、「青木氏族の集結」と「伊勢信濃シンジケート」に抵抗され軍事物資が調達できない「枯渇の戦い」と成った。
    「信濃青木氏」も、「平家との戦い」で「近江、美濃の滅亡の失敗」を繰り返さない様に、勿論、側面から「陽動作戦」を展開し「信濃シンジケート」を伊勢に差し向けた。

    そこで、伊勢での「妻嫁制度」では、事前にとった「伊賀」の為に執った「強力に推し進めた血縁」は整ったが、然し、現実は歴史に残る「有名な戦い」と成った。
    「信雄の4つの伊勢攻め」の内、この「伊賀の総攻撃」の前夜で餓死寸前であった「11原士とその一族」を「伊勢青木氏の平城館」の「名張館」と「清蓮寺館」に仲間の「伊勢信濃シンジケート」を使って救い出したとある。

    (注釈 参考の為に、多説の中で公開されている「一般説の記録」では、矛盾が多く、“「柏原城」(名張・伊賀)に投げ込んだ“とあるが、この説は「伊賀の平城の柏原」であれば「織田軍の攻め先」を変えればよい筈でそもそも「逃げ込み先」とはならない。
    又、簡単に逃げ込めるのであれば始めから四方を囲まれていて「餓死寸前の籠城」等する事は無い。織田軍に抵抗する事も又無い。
    そうであるのなら当初より抵抗などすることもそもそも無い。

    (注釈 但し、「掟の考え方」の違いで「伊賀の別れ」となったので、この「甲賀掟」であればその様にすることも「掟破り」ではない。
    そもそも「伊賀掟」とはそう云うものでは無かった。
    取り分け、“「裏切り」”は「最大の掟」で身内でも処罰される厳しい掟である。)

    これに依り「青木氏の説得」にも関わらず「全滅覚悟」で臨んでいた筈で、「餓死寸前の体力状況」では幾ら織田軍が油断していたとは云え、簡単に体力の低下した状況では「四方堅め」では逃げられない。
    先ずは、「絶対条件」としては“「誰かの救い」”があって、且つ、“家族を含む「逃げ込む先」”が事前に確保され、“「身の安全」”を保障される場所で無くてはならない。
    そして、その場所が、「一族も住める近くの広い生活の出来る場所」である事で、「織田軍の敵対場所では無い相手」である事、且つ、氏郷が絶対に敵対して「責められない相手」である事に成る。
    筆者は、これらの「絶対条件」を満たし、家族も含めて長期に匿う事が出来て、今まで通りの「原士」であって「今後の生活」も成り立ち、救い出した後の殖産等の「史実の事」も整っている事と成れば「血縁」で繋がっている事が必要であり、それ故に「先祖の説」を採っている。
    この余談からも「上記の手紙」は当にそれを物語る証拠である。
    一般説は甲賀側の伊賀者では無かったかと思われる。

    下記でも詳しく論じるが、一般説の論処11士は、「青木氏」が保護した11士とは別の、全24士(青木氏説)とされる内の「裏切りの3士」を除く、「不明の3士」と、「18士」の内の「7士の事」に成ると観られる。
    これであれば、一般説は矛盾なく成立し「青木氏説」と一致し齟齬は無い事に成る。
    一般説の「名張の柏原城」もその意味で、近くの「青木氏」の「名張館と西連寺館」で逃亡先も一致し、一般説の「平城柏原城」の「開城和解説」にも一致する。
    筆者は、「近江秀郷流蒲生氏郷」は、「伊勢秀郷流青木氏」のと「嫁家制度」の近い親戚で、当然に、「秀郷流伊勢青木氏」とも「嫁家制度の血縁関係」にあれば、「氏郷」は故意に演じたと考えている。
    つまり、「青木氏」と繋がりのある「伊賀者の救出」に裏で「青木氏の説得」に応じて密かに参加していたと考えられる。
    「信長の軍師」でもあった「頭の良かった氏郷」がこの様なミスをする事は先ず考え難い。
    直前の「田丸城と松ヶ島城」の築城に影で「ゲリラ作戦」で邪魔をして置きながら、肝心な餓死で落城寸前の「伊賀郷士」を救い出さない訳が無く、直前まで説得作戦を継続していたのに、“駄目だった”として諦める「青木氏」ではない。
    既に、「青木氏(「松阪の福家と摂津伊勢屋が商いで介在)」も信雄に「ゲリラ作戦」で抵抗している「攻撃されない仲間」でもある。
    「残された手」は、「氏郷」を「氏郷の立場」を立つ様に「秘密裏に説得する事」に成ろう。
    そもそも、「氏郷」と、攻撃する「伊賀郷士」と「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢青木氏」の「青木氏族の関係」は、「信雄」も「充分に知り得る範囲の事」であつた筈である。
    むしろ、「周知の事実」である。
    その「氏郷」を「伊賀二次の攻撃の主将」にする事、そのものがおかしく、この「結末」は始めからの「計算済みの事」であったと考える方が正しい。
    故に、前段でも論じた様に「演じた説」を採っている。


    この文脈より「氏人の郷士(ロ)」は(伊賀郷士と関係の深い)「伊勢郷士の氏人」であったらしい。
    これらの「時系列の史実」から観ても、「伊勢の事」は「青木氏の資料を基にした歴史観」から観ると変わる。
    これは、「重厚な一つの血縁族」でなければ果たし得ない「結束力」が証明でき、これらの事は前段から何度も色々な視点から論じてはいるが、この「妻嫁制度」から観ても、有効的に働き、「戦いの氏族」では無かった「青木氏族を守った事」の大きな証明となる。
    以上は、「公的な史実」と成っている事であり、「四六の古式概念」に基づく「氏族の独自の制度」が「青木氏の歴史観」をここでも構築している。

    さて要するに、この「バイアス」は、臨機応変に主にこの様な場合に使われていた事が「歴史的な史実」により判る。
    「青木氏族の血縁族」は「足利氏の南北朝期の戦い(「伊勢シンジケートの一員の楠木正成)」で有名なゲリラ戦で2万人の餓死者を出す程の結束力を示している。

    この「4つの伊勢攻め(大河内城、田丸城、松ヶ島城2、丸山城)」の「信雄の行動」の「信長の叱責」は、「独断」と公的に決めつけられているが、筆者は、「青木氏の歴史観」で論じている様に、上記の「過去の青木氏族の戦歴」の「抑止力」を重く見ている。
    この様に「姓族」から観ると、「四六の古式概念」による“「異様」”とも観えるこの「固い完成した血縁制度」に結ばれた「唯一の遺された氏族」を相手に、“下手に動くと失敗する“と判断して叱責したと考えている。

    現実に、その後の史実では、「雑賀攻め」や「根来攻め」や「紀州攻め」でも、勝利はしたものの何れも、「経済的支援」と、「青木氏族のシンジケート」で、邪魔をして最後には「青木氏族」が救出して、歴史上は「完全勝利」には成ってはいないのである。
    前段でも論じたが、「伊勢の騒乱」や「伊勢と信濃」で起こった「三つの宗教一揆」にも加担して犠牲は出たが一揆を成功裏に導いている。
    これは何故か、疑問と成ろうが、答えは、「四六の古式概念」に基づいた「血縁組織」とそれを「支える制度」がこれらの「結束力」を増し、「姓族」には想像もし得ない完成した「一揆への影の力」を発揮した事の所以である。

    注釈として、「伊賀」と「甲賀」は同族である。
    「伊賀」は支配を避けて「契約傭兵族」で生き、「甲賀」は支配の「契約傭兵族」で生きようとした。
    この為に一つ山を越えた地域で分裂した「原士」であり、この「考え方の違い」や「統制の違い」が表に出て1540年代〜1550年代頃に分裂したと云われている。
    唯、前段でも論じたがその前の「前兆」は既に前からあった。

    そこで前段でも何度も論じている事ではあるが、認識を新たにして頂く為に次に概要を期す。

    そもそも、「伊賀半国」は、「青木氏の始祖施基皇子」が守護を務める「伊勢の国」から割譲して出来た。
    この半国は、九州全土を後漢滅亡で200万人を引き連れて渡来し、無戦制圧し、渡来人の「阿多倍王」が薩摩の阿多や大隅地区にその一団は住み着いた。
    朝廷よりの呼び出しで、この「伊勢の伊賀半国」を授かり、「伊賀」に定住し、「敏達天皇の孫の芽淳王の女」を娶り「准大臣」と成り、その三人の子らは「朝廷の政治組織」の「三蔵の内、大蔵、内蔵と征夷大将軍」を務め繁栄した。
    その付き従って来た「技能集団の一団」は、「高度な技能を持つ官僚族」(日本書紀にも記載)と成った。
    これより、「阿多倍王の孫」の「高野新笠」が「施基皇子の四男白壁王の妃」と成り、「白壁王」は「光仁天皇」と成り、子の「山部王の桓武天皇」が「伊賀の阿多倍王の子孫」に“「たいら族」”として賜姓し、「平望王、高望王、高尊王等」の「日本の王位」を「桓武天皇」より母方に追尊で与えた。
    この「平家(たいら族)」が誕生し、ここより「平清盛」が誕生したのだ。
    その後、「太政大臣平清盛」は政治的な理由で「伊賀」より「播磨国」に移る。
    多くは付き従ったが、渡来人であった「伊賀に残された一団」はそれより「原士」として生き延びた。
    「青木氏族」が興す「殖産」や「商い」や「シンジケート」とに大きく関わって生き延びた。
    この「伊賀半国に遺された一団」が「伊賀の郷士」の基と成った。
    この事からも「伊賀郷士」と「伊勢青木氏」との「繋がり」は「絆以上」を超え、「奈良期から繋がる血縁族」と成り得たは説明に及ばすとも「自明の理」であろう。

    (注釈 前段でも論じたが、この「伊賀の郷」のはずれの「上田郷の原士」の一部が上田を離れ、滋賀に渡り、盗賊などで土豪と成り、平家に討伐された「近江青木氏の」(傍系)は、滋賀に移った。
    「近江青木氏傍系の滋賀青木氏」が後に再び「近江」に戻り、「近江青木氏の本家」を興し名乗るが、この「跡目の絶えた分家の一部の母娘」が残り、この「跡目の絶えた家の跡目」に「伊賀上田郷の原士」が先ず「上田姓」を名乗り、その後、勢力を拡大して「略奪」で強引に入り「滋賀青木氏」を名乗った。
    その末に、「近江青木氏の本家」を興した「傍系の近江青木氏」との「本家争い」に成るが、これも「伊賀での青木氏との繋がり」を主張して「滋賀青木氏の分家」を奪った事件でもある。
    参考として、この「滋賀青木氏」は、後に、兄弟系による「主家の相続争い」が起こり衰退し、静岡に移動定住し「駿河青木氏」を名乗る、又、一部は更に千葉に移り「下総青木氏」を名乗った。
    何れも「やくざ並みの青木氏」であった。
    中には、「青木氏」である事から、上手く利用して地元の「駿河、下総の秀郷流青木氏」を名乗り、「国衆」を装いとして幕府に旗本として仕官した者もいた事が判っている。
    こと程左様に、この「滋賀青木氏」も必ずしも「青木氏」とは無縁でも無く、「伊賀での女系での繋がり」と「滋賀での青木氏での強引な繋がり」もあって、「近江と伊勢の青木氏の繋がり」からも必ずしも「無縁」とは云い難いものがある。
    「滋賀」から「近江」に帰った「近江青木氏傍系」が「近江青木氏本家」を名乗り、「秀吉」に訴えを起こし、秀吉提案でその面前で「戦い」に敗れる始末。
    注釈として、これが「公的な史実」と成っているが、「略奪の滋賀青木氏」だけであれば、上記の様な「戦いの裁定」は秀吉は出さないであろう。
    それには最低限にそれなりの「青木氏の根拠」があったからこその裁定であった事が考えられる。
    それが上記の根拠と成る。)

    この「滋賀青木氏分家」を略奪し名乗った「滋賀青木氏」(伊賀上田郷の元上田姓)とは、秀吉の面前で戦い、勝った者が「滋賀青木氏」を名乗ると裁定が下り、現実の史実として戦い、結局、「滋賀青木氏」が勝利して正式に名乗る事が許された経緯がある。(公的な史実)
    百々の詰まりは、筆者は、上記の逃亡の「中立の3士」はここに繋がっていると考えている。

    その「根拠」は、この「中立3士の上田郷の原士」は、戦い前に、“何故、「滋賀」に逃亡したのか”と云う疑問である。

    それは、以下の事で解ける。

    「滋賀」には「源平の戦い」で滅亡した「近江青木氏」の僅かな傍系が「滋賀」に逃れて「滋賀青木氏」を興している事(a)。
    そして、近江に帰り「近江青木氏」を再興した事(b)。
    その結果、滋賀には残された跡目の無い衰退を極めた母娘の分家らが残っている事(c)。
    先ず、ここに目を付けたと考えられ、この「中立3士」も、「11士の氏人」とは別に、「何らかの形」で「伊勢青木氏の女系の血縁(d)」である事。
    この事を受けているとすれば、この「滋賀」に逃げ込みを弱体した「滋賀青木氏(e)」の事。
    これを略奪すれば、同じ「青木氏」としての「所縁の者(f)」の事。
    以上の事として扱われれば、「伊賀11士」からの「裏切り者の追及(g)」の事。
    からも逃れられる。
    「四掟に基づく妻嫁制度」では、「近江青木氏」とは「源平戦の以前」は盛んに「青木氏族」として血縁を結んでいる事(h)。
    この事から、「滋賀青木氏」を略奪すれば、「伊勢青木氏の自らの女系血縁」でも、共に正統に「伊賀の原士」にも「青木氏族」を主張できる事(i)
    この事にも成る。
    「近江」に戻って「近江青木氏」を再興した「青木氏の主張」にも対抗する事(k)。
    この事が出来る。
    つまり、最も、「最善の方法の生き残り策}を執った事(l)。
    以上の事にも成る。

    この(a)から(l)に至る事は記録に明確に遺されている「史実」であり、明確に解ける。

    この「伊賀」に関しての「青木氏の資料」によると、もう一つ疑問がある。
    それは、何故に、「中立3士」に対して(不詳)として記し、詳細に遺さなかったのかという事である。

    別の資料関係を組み立てれば、上記の様に解るのには、この「中立3士」の「滋賀での行為」が粗暴で、多くの略奪を繰り返し、現地の山賊や盗賊等を糾合して勢力を拡大させた経緯があり、且つ、伊勢に関わる「青木氏族の経緯」に「不必要な傷」が着き「他の青木氏」にも迷惑等の影響を及ぼすと考えての配慮であろう事が判る。

    「伊賀別れ」の「甲賀」は別にしても、この時、「伊賀」は全体で「24士」が存在したとあり、この内、「伊賀」より「3士」が裏切り、信長に味方、更に「3士」が中立し逃亡飛散(?)、「11士」は「青木氏族」に関連する「氏人の伊賀郷士(救出)」であり、「7士(救出)」は逃亡飛散し、戦後、伊賀に戻り、「殖産」に参加としたと読み取れる。
    但し、「中立の3士の行方」は、資料から充分に読み取れないので判らないとしながらも、「上記の疑問」には、その経緯を時系列的に並べれば読み取れる事があってほぼ解明はできている。

    そもそも、“「伊賀の掟」”から「中立」は許されないので、「裏切り3士」と同じに観られたと判断されるが、実は、これにはこの「中立3士と目される原士」には、「上記の注釈」の様な「生き残りを果たせる方法」、つまり、「追及を逃れられる方法」があって、それを示す経緯が「上記の注釈」であったのだ。
    敢えて、「経緯の時系列で判らせる方法」であった事から、「不肖の事」は伏せたと考えられる。

    (注釈 実は、「伊賀別れ」の「甲賀」にも「甲賀青木氏」が存在する。
    この「甲賀原士の者」は、「女系の青木氏血縁の所縁」を以って「武士」に成るに及び、「青木氏」を名乗り「武田氏」に仕え、その女は「武田氏の妾」と成る。
    この「妾」は子を孕み、その後、「近江」に移動して子を産み、「近江甲賀青木氏」を発祥させ、その後にその子は「秀吉」に仕えている。)

    この注釈の「公的な史実」には、「青木氏」に執って「妻嫁制度の範囲」に「大きな意味」を持っている。
    つまり、「伊賀11士」のみならず、「青木氏の血縁」は「甲賀域」にも及んでいた事に成る。
    「伊賀別れ」の時代は1540年代〜1560年代に起こった事件である事から、その事件の相当前の「青木氏との妻嫁制度に依る血縁」と観られる。

    何故、伊賀の北の甲賀の里に戻らずに、近江国の滋賀の湖東の伊賀上田郷の元上田姓の「滋賀青木氏(中立3士)」の勢力圏に移動したかは疑問の点である。
    筆者は、その素行は別にして救ってくれるのは、「中立3士」であったからではないかと観ている。
    或いは、この「中立3士」とは、「伊賀の血縁族」か「青木氏の血縁族」であった可能性があるが、確定は出来ないが、筆者は、「青木氏を名乗った経緯」と「滋賀青木氏のいる地域に移動した経緯」から観て、移動できるのは“何れにも血縁していた”と考えている。

    という事は、この「中立3士」とは、“「青木氏と血縁族」であった“とする新説が成り立つ。
    つまり、「青木氏血縁族」の「11士」+「中立3士」=14士と成り得る。
    故に、「上記の説」の江戸初期以降の「7士」を加えると、「青木氏血縁族」は「21士」と成る。
    「裏切り3士」は血縁族として決める未だ資料は見つからない。
    唯、「裏切り3士」の中の「首謀の山下姓」は、「伊勢郷士」の中に観られるので、「青木氏血縁族」であった事も考えられる。

    この様に、「後勘の者」が紐解けば解る事、即ち、例えば、歴史に明確に反映する「伊賀の事」等からも、「歴史に残る史実」にも観られる様に、一朝一夕では出来ない長い間の「期間と経験」をかけて「適切な改善」を加えて、「四六の古式概念」を基本とする「青木氏族」を維持させた制度である事が判る。
    これは、「論理的に成り立つ固い制度」と成り得た事に成った。

    (注釈 故に、上記に論じる事にした「伊賀の事」もこの「適切な改善の過程」の中にあって、敢えて後勘で知らしめるとしたと観られる。
    研究していると、この傾向が「青木氏族の歴史」には多い。
    これは「青木氏の氏是の影響」であろう。
    要するに、事を殊更に表にせず、「後勘の者」に必要事項を網羅し知らしめ解かせると云う手法であろう。
    「青木氏族の研究」に大きく影響した「近江佐々木氏の研究記録」もその様に見える。
    始祖を質せば同じとする事から、矢張り、「佐々木氏の氏是」の様な「掟」が当初はあった様に考察し得る。
    言わずもがな、勿論、本論の「妻嫁制度等の血縁制度」では、明治期までは「近江佐々木氏系青木氏」で繋がってはいるが。)

    故に、稀に見る「唯一の氏族」として現在に生き遺れたとする説が成り立つ。
    それも、確かに、潰された仲間もいたが、これ程に数量でも「自由な血縁制度を持つ他の姓族」にも劣らない「氏族」は他に無く、大化期から始まって明治期まで「歴史上の事象」に関わった族も少ない。

    この様に、取り分け、「青木氏族」が「四六の古式概念」を敷くにより、「女系に基づく妻嫁制度」を敷くに及び、史実にもその状況が語れる程により血縁は深く成り得たのも「自然の利」であろう。


    筆者には、前段や上記の事を含めて史実に大きく関わっているこれ程の族を論じない方がどうかしているとも云え、本サイトとも成っている所以でもあると考えている。
    それ故に、「遺される資料」の殆どは、搾取性の疑い高い「姓族の資料」を中心としたものに関わるものであって、「自力の研究」に頼らざるを得ない状況にあった。
    前段からも詳細に論じている様に、「四六の古式概念」を基本とする「妻嫁制度」で繋がる幸い「稀に見る氏族」であったからこそ、「資料」も多く確実に遺されている所以が「掘り起こし」に付いて良い方に大きく左右したと考えられる。

    > 「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」に続く。


      [No.361] Re:「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/07/31(Tue) 10:36:01  

    > 「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14日」 末尾


    > 上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
    > 殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    > つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。
    >
    > さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    > それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    > そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
    >
    > 従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
    >
    > この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    > 矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。
    >
    > 余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    > これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    > 然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
    >
    > この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
    > これは史実にもある。


    「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しく根拠ある「黒印状の発行」を求めた。諡号の持たない姓族(第二姓族)は、結局は殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、次に続ける。

    さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    そこで、他の「青木氏族」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例にして考察してみる。
    そうすると、上記した様な「殖産に纏わる事件」などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「、「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
    従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
    この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

    余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    これは「施基皇子」の、異母弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
    この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。

    (注釈 前段でも論じたが、{近江佐々木氏」は、近江蒲生郡安土佐々木荘 沙沙貴の地名を天智天皇の賜姓、 「近江青木氏」は近江犬上郡青木村、「近江佐々木氏系青木氏」は近江の南近江甲賀郡青木村、「滋賀青木氏」は滋賀の右京区大秦、「伊賀分裂の甲賀青木氏」は「甲賀郡青木村」の伊賀寄りを出自の地とし在所であった。)

    前段でも論じたが、「伊勢秀郷流青木氏」と「跡目縁戚の関係(叔父)」にある「蒲生氏郷」が「近江商人」を松阪に呼び寄せたが、この中には「近江佐々木氏系青木氏族」の「商人」は居なかった事が「佐々木氏の記録」や「青木氏の記録」からも解る。
    「女系で血縁関係があった事」は解っているが、「近江佐々木氏」が「研究記録の青木氏族」として定義する関係にあったかは、江戸期前の「近江商人」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」が居なかったという事から疑問でもある。
    「松阪」に差し向けると云う事からすれば、まず最初に「松阪の青木氏と伊勢秀郷流青木氏」がいると成れば、最初に優先して選ばれる筈だと考えられ、戦略的にはその方が上手く行く筈である。
    現実に前段で論じた様に、「伊勢の青木氏族」の「二つの青木氏」とは「犬猿の仲に近い状況」であった。
    つまり、「近江商人の近江佐々木氏系青木氏」は居なかった事に成る。

    「近江佐々木氏の研究資料」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」は灘域に「酒蔵商人」がいた事は書かれている。
    要するにこの事は「氏郷の呼び込み」に参加しなかった事に成ろう。
    それは、「伊勢の二つの青木氏族」との「不必要な競合」が起こる事への配慮かとも考えられる。
    現実に、前段で論じた様に、「信濃と福井と越前」から「青木氏の酒蔵の杜人」を呼び寄せて「酒米と松阪酒」を造っている。
    従って、「近江佐々木氏」が「青木氏族」として記録として遺している以上は、上記で定義する「氏族の関係」までは至っていなかった事が考えられるが、「別の形」では繋がっていた事は大いにある。
    筆者の考えとして、確定は出来ないが、上記する「嫁の出の女系」も然る事ながら、「四家の中」から「嫡子外の嗣子」が出て、「近江佐々木氏」はもとより「近江佐々木氏系青木氏」の跡目に何度か入るという事があったのではと推測している。

    (注釈 「四家20家」に男子20家の男子の嫡子を切れ目なくそれぞれに世代交代をしながら宛がう事は可成り難しい事で、「近江佐々木氏族」まで跡目を入れる契機を持ち得ていたかは疑問である。)

    それは、平安末期に「近江佐々木氏」と「摂津源氏(伊勢の京綱、信濃の国友とも青木氏の跡目)」とも同時に繋がりがあった事から起こり得る事ではないかと考えられる。
    確かに親密な関係にあった事は下記の事でも解る。


    唯、江戸時代に「近江佐々木氏」とは「伊勢青木氏」の「江戸屋敷」が近隣であった事、脩行系を含む「近江秀郷流一族」と「伊勢秀郷流青木氏」とは同門同族にあった事、この「伊勢秀郷流青木氏」とは「四家」の「四日市殿」とは縁戚関係にあった事、などを含めて少なくとも「近江佐々木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」は本家に於いては「四家制度や妻嫁制度」を敷き「氏存続」を図っていた。
    この事からも「近江佐々木氏」の「研究幅」が「青木氏族」にまで広がったと考えられる。
    「近江佐々木氏」の「青木氏族の定義」は、補完役の「秀郷流青木氏116氏」までとしている。
    問題は、「近江佐々木」は「傍系族」が拡大し、「姓族」を広げて「氏族としての存続」に失敗している。
    全国的に広がったのは、矢張り、「補完役の宇多佐々木氏(近江蒲生郡西湖面より出自元)」である。
    ところが、この「青木氏族」の「五家五流の青木氏」は、「五氏」から「三氏」には成ったが「姓族」は出してはいない。
    当然に、「補完役の秀郷流青木氏」は、確かには「皇族系」では無く諡号が「「朝臣族」にある為に縛られないので、「姓族」を出してはいるが、「24地域に116氏の子孫」を広げている。
    違うところは、この遺った「三氏」は互いに連携を執り、取り分け、甲斐を除く「伊勢と信濃と伊豆」は、飽く迄も「氏族の範囲の血縁関係」を保持し貫いている事にある。
    つまり、基本的には「氏族」とは、「新撰姓氏禄」にある様に「朝廷が認めた族」となるが、認める以上は当然に“「ある範囲にある事」”を前提とする。
    無暗には認定はしない。この課せられた「血縁的な条件」が「氏族の定義」にある。

    これを守ってきた「伊勢や信濃や伊豆」で云えば、上記、下記で論じるように「郷士衆との血縁の関係性」にあり、上記した様に、「単なる血縁関係」には無く「一定のルール」、つまりは「血縁的な条件」に従っている。
    「女系」と云えども前段の“「四六の古式概念」”に依って「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、この“「条件的な血縁」”を結び、決してその血縁は「傍系の縁戚範囲」のものでは決して無い。
    確かに一見して“「女系という範囲」”という傾向にはあるが、“「条件的な血縁」”は「出と入りの範囲」で「両軸」で「相互」に繋がっていて「単なる女系」ではない。
    「青木氏」の「福家と四家20家」は、先ず「嗣子の男子」で繋げ、前段でも論じたこの「三つの血縁の源流」を「両軸相互の血縁範囲」で繋がる族なのである。

    先ずはこれが「条件的な血縁」の一つ(A)である。

    当然に、「青木氏」に務める「家人」も単なる「無縁の家人(家臣)」では無く、「家の中の人」、即ち、「族人」(「氏人」)であり、要するに「臣」ではない。
    つまり、これを支えるのが「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、「条件的な血縁(B)」をした族を「氏」と云う。

    つまり、「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」にある「一族」で構成されているものが「氏」なのである。

    論理的に云えば、(A)は(B)に依って支えられ、(B)は(C)に依って支えられ、(C)は(A)に依って支えられ、「氏族」は構築されると云う事に成る。

    要するに、片方だけでは「氏」としての「条件的な血縁」として成り立たず、上記の「(A)−(B)−(C)−(A)」が成り立たない血縁では、「氏の定義」の中に無い。

    その時、「出と入の両軸相互の血縁関係」の「血縁」の「時間的間隔」には問題はない事に成ろう。

    「青木氏」との間に何時か「入り」があって、何時か「出」がある事で成り立つ事で「氏」が成り立つ事を意味する。

    「四掟」の説明の中に、「氏」とはこれを”「両軸相互の血縁関係にある事」”と定義されている。
    それが、要するに下記にも論じる”「四定以成異性不養之固掟也」”の意味するところと成ろう。
    「両軸相互の血縁関係にある事」が”「絆の関係」を構築する事”と成りこれを指すだろう。

    問題と成る”「時間的間隔(a)」”は、「青木氏」に於いては「大化期」からと成り、一重二重にも「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」が成立していた事に成ろう。

    この「氏」を構成する以上は、短時間では難しく、且つ、「妻嫁先」が血縁的にある程度安定している必要がある。
    (短期間でない方が好ましいだろう。)
    つまり、「出の嫁家先」が「豪族」であるかどうかは別として、小さくてもある程度の”「族としての力(b)」”を保持している事が必要に成る。
    簡単に云えば、「力」は持っていても「武力」を持たない「名主や庄屋や豪農」などを含む「郷士程度」も含むという事に成るだろう。
    そして、無くなったり飛散したりする事なく、”「定まった地域(c)」”に長く定住している環境にある事が必要であろう。

    「氏」としての「血縁の(構成)条件」の(A)(B)(C)が成立させるには、この「(a)(b)(c)の条件」が成立している事が必要と成る。
    この「血縁の条件」、即ち、「氏の構成条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」が成立するとなると、この条件を成り立っている地域は限られて来る。
    考察すると、「京、伊勢、信濃、伊豆」だけと成るだろう。

    (平安末期に美濃と甲斐は「青木氏の氏是」を破った事からこの例から漏れる事と成った。)

    何故ならば、この「地域以外」は「郷士衆の数」が250から400と云う地域ばかりで、且つ、その「郷士」には“「国衆」”と云って、占有割拠にて移動し「力」によって日和見的に一時的にその一部の地域を占有して存在し、更には「郷士の数(姓族)」が多いと生存競争により「戦い」が起こり地域は安定はしない。
    従って、到底、「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」の関係は成立しないし、根本的にはつまりは「姓族」である。

    故に、この視点から観ると、「大化期」は勿論ではあるが「平安期末期前」と、「鎌倉期中期」までは対象とする「氏族」がそれなりに存在し得た事にも成る。
    それ以外の時代は、唯単に「戦乱で滅びたという事」のみならず、そもそもこの「血縁の条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」とを構築できる環境下には無かった事が云える。
    然し、これが江戸期の末期までは「青木氏族」は「氏族」を「奇跡的に続けられた由縁」でもあり、これを「力(「青木氏の強味)」にして「殖産」と云うものが成し得たと云えるのだ。
    当に「奇跡の氏」であろう。
    この「奇跡の氏」の下には、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を構成する古式豊かでありながらも前段や上記に論じた“「合理的な改善」”を加えた“「青木氏の制度」”が続けられていたと云う事だ。

    (注釈 この概念的と云うか「精神的な歯止め」は「青木氏の氏是」にあった事は云うまでも無い。)

    そこで、上記のこの(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を更に詳しく論じるとして、故に、多くの位階の保持者が存在する「近江」を始めとして次の様に成る。

    「近江、伊勢、信濃、美濃、甲斐」などの“古くから土地に住するこの「氏人の郷士衆」(イ)”
    その土地には常に定住でき得る能力を備えていて、且つ、その「官位官職の程度」は別として、土地の“「官位族」(ロ)”

    以上が、「妻嫁制度」の「入りの相手」と成り得る事に成るだろう。
    況や、簡単に云えば、これは「妻嫁制度」の“「妻」、即ち「入り」”は原則としては「官位族(ロ)」であって、“「嫁」、即ち「出」の先は、「郷士衆(イ)」と成っているのだ。

    注釈として、唯、「郷士衆(イ)」は、“「出の先」”となるが、“「入の先」”とも成り得ていた。
    上記で論じた様に、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)とで成り立つも、兎も角も「土地の官位族(ロ)」と云っても、室町期の「下剋上と戦国状態」のこの状態の中で、地方で「官位を持つ族」は激減し衰退し、殆ど「入り妻」としての「形態」は無くなっていた事は事実である。

    ここに行き成りそもそも「女系の妻嫁制度」の「入りの先」を求めたかの「疑問」が残る。

    然し、現実には求めているのである。
    では、“どのようにして「入」を求めたのか”という事である。

    そこで、この疑問解決に執ったのが、その「位階」は低いが「官位を持つ家人と氏人」からの「入り」とする以外に、主には「入りの先」は室町期全般には概して無くなっていた筈である。
    然し、「家人や氏人」にだけ求めたとしても「四掟の条件」を満たす「低い官位」を元から持っていたとは考え難い。

    そこで、研究すると「家人の家の資料(尾鷲の家人)」の中の文節によると、“「従六位下」”と云う文節が出て来る。

    そこで、左右の大臣などの「政治にかかわる特別職」(4段階で正従で8位階)を除き、当時の官職に関わるこの「朝臣族の武家」に与えられる「官位の位階」は「10位階」あって、それを上下に分け、一番下は「従八位下の位階」である。
    「家人」に与えられた“「従六位下」”は下から三番目と云う事に成る。
    「青木氏族の氏人・家人」の位階は、朝廷が認めた範囲は相当に高かった事を意味する。
    これは、 「(A)(B)(C)と(a)(b)(c)」の関係を朝廷は認めていた事を示す。

    (注釈 ここで云うこの「武家」とは、「公家」に対しての「武家の呼称」であって、「江戸期の姓族」に与えた武家は、「本来は武家の呼称」では無く「武士の呼称」と成り、且つ、安易に朝廷の財政保持の為にそれに与えたその「安易な位階」でもない。)

    とすると、この「資料の家人」に与えられていたのは「従六位下」であるので、つまりは、「青木氏族の家人」に与えられる「位階」としては「妥当な位階」である。
    氏人と成る」「家人、又は、差配頭」が何かの理由で授与されたと成るのだが、果たして、何人が授与されていたかであろう。

    「家人」が「六人居た」とする一部の資料があるが、「差配頭」は「青木氏部等(詳細後談)」も入るので少なくとも「朝廷貢献」と云う事から勘案すると「15人程度」は居たであろう事が判る。
    然し、これら全てが授与されたとはならないし、時代の経過もあるし、授与される理由の有無も伴うので特定は難しいが、「10人程度の家人や差配頭」が常時に授与されていた事は考えられる。
    時代的には、「身分格式や和紙等の殖産の貢献(詳細は前段と後段)」から、嵯峨期を除いて「光仁期から仁明期・円融期」までが最も多く、そして、「室町期から江戸初期」では「献納金(前段)」で助けた事の理由が考えられる。

    (注釈 これらの関係の資料は三度の松阪大火の消失で遺されていない。)

    参考として、「伊勢王の施基皇子」に与えられた「宗家の青木氏の位階」は大化期に与えられたのは「天皇」に継ぐ身分を示す「冠位」は、「永代浄大一位」で、位階は「永代正二位」で最上級である。
    因みに「清和摂津源氏四家の頼政」は「正三位」である。
    従って、この事から勘案すると、「青木氏族の家人」に与える「位階」としては相当なもので、与えられた理由と云うかその背景には“「相当な実質の評価」”があった事を示す。

    そもそも、江戸期の様に「金で買える位階」では無く、つまり、唯単に与える評価では無かった事を意味する。

    そこで、「高級官僚」や「公家の末端」の「貴族」として扱われる為には、最低限に「従四位下」から上位が基準と成るので、これから考えると妥当である。
    この「従四位下」の「位階」を持たない限りは「上級官僚」には成れない。
    その意味で、「官僚的貢献」ではなく、「社会的貢献(朝廷の財源)」であった事が云える。

    従って、何で「青木氏の家人」が、「青木氏家人と云う格式」も含めて、この「位階」を持っているかの理由は、前段でも論じたが、恐らくは、「格式・殖産・献納での貢献」のこの三つにより与えられたものであろう。

    そうすると、何で「青木氏の福家」が授与されなかったのかと云う疑問が起こるが、それは無い。
    それは、既に、「冠位と位階」等は永代としての最高位を持ち得ている。
    従って、「貢献」に寄与した場合は、「氏族の氏人」の「青木氏の家人や差配頭」と云う事に成る。

    という事は、「献納」は「和紙墨等の余剰品」を裁いた時期の奈良期の末から始まり、明治9年までの期間を持続的に続けていた事から考察すると、これを理由とするならば「相当な人数」が居た事に成る。
    取り分け、「余剰品」から始まった「献納」であるとするならば、天皇家に執って一番苦しい時期の「室町期の乱世」の中で、「巨万の富」を築けたその「恩義」からは「巨額の献納」を続けていた。
    その事からすると、「相当数の家人の位階者」は居た事に成ろう。
    「従六位下の位階」は兎も角も一人では無かった筈であり、「家人」は時代、世代ごとに代わるとすると、この260年間に「家人の数(5人程度・5)」やそれに「相当する氏人の数(3人程度・5)」としてこれを鑑みると、最低でも、“「15人から25人」”は居た事に成ろう。
    「永代」であるかは「従六位下の献納」とすると「永代」を授かるは普通ではあろう。

    「青木氏族」に中の「家人」にこの「従六位下程度の位階」を持っていた者が何人居たかは残念ながらポイントで在り乍らも「資料」が見つからないので史実としての研究は前に進まない。
    従って、「女系の妻嫁制度」の対象としては、鎌倉期頃迄にはこの関係は崩れていないので、「近江」を始めとする「五地域」からの「出と入」の「四掟の条件を持った血縁の関係」は相当成り立っていたと考えられる。
    つまり、室町期は上記の論理性からも「伊勢の郷士衆」との「出と入りの関係」はそう問題は無かったと成る。

    今では推論は着くが、それが「永代での官位の位階」であったかも、確実にする事は、最早、できない。
    だとすると、この論理的な考察から、江戸初期までは少なくとも乱世を超えて”「家人」”を含む「伊勢郷士衆」の「氏人」との「氏」としての「出と入」の「血縁条件」は成り立っていた事に成る。
    故に、「伊勢と信濃」は、当然の事として「三つの源流説」は成立する。

    そうすると、そこで戻って「四掟の範囲」で「入り」をどの様に求めたのかが疑問と成る。
    「京や近江や信濃や甲斐」などに「四掟の範囲」で持っていた「氏族」や、都で「政治的な問題」で行き詰まり、この「三つの地域」に「逃亡や避難した真人族」や「高位の公家族・貴族」が居て、生き残りの為にも、彼らの「貴族」から多少は「入り」として入った事は充分に考えられ否定はできないし、一部記録に残るところもある。
    その「国是」に近い形で保障されていた「安定した地域」の一つが「伊勢」であった事は云うまでも無い。

    「時の政権」が「伊勢」には公然と権力を振りかざして捜索が出来なかった事が「入りの形」を偶然にも保全したのである。
    これは前段や上記した様に、「大化期の不入不倫の権」から始まり「江戸期末期」まで引き継がれ、「家康発行」の“伊勢の事 お構いなしの「お定め書」”でも解る。

    ところが、何度も論じるがもう一つ「同じ地域」があった。
    「伊勢」も然る事ながら、「青木氏」が定住する「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」もこれに近いものがあった。
    江戸期中期までは少なくとも保障された。

    (注釈 前段の殖産でも論じたが、「江戸期」には「幕府」がこの「天領地」を「幕府領」として奪い「優秀な殖産地」として取った。)

    故に、「四掟の範囲」の「位階を持つ者」が、平安期までにはここに逃げ込んだのではあるが、この末裔が「血縁条件の対象」と成り得たのである。(後段記載)
    従って、「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」は「伊勢」とほぼ同じ環境にあったのである。

    残るは、「青木氏の逃避地の越前(神明社が保護)」がある。
    ここは前段でも何度も論じたところであるが、要するに、何らかの問題を起こし「青木氏族の逃げ込む場所」で江戸期初期まで「神明社の質」で維持されていた。
    前段で論じた「神明社」が、江戸幕府に引き渡すまでの江戸初期まで、「神明社組織」が保護して「質」を施す地域であった。
    依って、室町期全般は「四掟の範囲にある末裔」が「現地孫」を作り「血縁条件の対象」と成り得ていた。
    この「越前青木氏の末裔(酒造商人)」が成功して、「青木氏族の入り」と成って戻ると云う事とが起こっていたのである。

    前段でも論じたが、「越前」は「信濃」と共に、「伊勢」の「酒米と酒造りの杜師」として働き「入り末裔」を遺している。
    これは一度のみならずこの地域との「同じ族」のこの「入」の「血縁の証拠」である。
    元より新たに成った訳ではない「家人、氏人の氏族」にあった。

    次は思い掛けないところの“「善光寺」”がある。
    ここは、元来、天台宗のここは「門跡や皇位継承に外れた高位の官位位階」を持つ「真人族や貴族」が僧侶と成って入山し、或いは、その貴族の門外嗣子が入山するところでもあった。
    そこから、この「善光寺」に移籍する「還俗僧侶の定留地」と成っていた。
    又、同じく「浄土宗密教」に帰依する「高位の位階を持つ皇位の門外嗣子」がこの「善光寺」に入山した。
    この「善光寺」は、史実にある通り、従って「天台宗密教派」と「浄土宗密教派」に分かれ「別院」を作り「勢力争い」を繰り返していたところでもある。
    この「二つの派」の「高位の位階を持つ僧侶」が再び還俗して信濃に子孫を遺して根付いた。
    この中の「浄土宗密教の子孫」が「四掟の対象」と成り得ていた事は解っている。

    現実に、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」の「六人の嗣子(実質には9人と女子は7人)」には「京の貴族」から入っている。
    現実に前段で論じた様に、「白壁王、光仁天皇」の后は「井上内親王」である。
    少なくとも「850年頃の仁明天皇期頃迄」は「直系の青木氏族」であった事から「四掟の範囲」で「入り」は最低限で保てていたと考えられる。

    「福家と四家20家」を保つ為には、「京や近江や信濃や甲斐」の「四掟の範囲」を満たす最低の「官位を持つ青木氏族」が、その縁戚関係と成っていた事は否めない。
    とすると、この「氏族」が現実に存在したのは、「摂津源氏四家の頼政」による「以仁王の乱」の以前の”「1100年前頃(詳細後段)」”までと先ずは大まかに絞れる。
    そして、流石に「平家の専横時代」を除くと、「女系の妻嫁制度」の「高位の血縁(四掟)」という事では「1050年頃まで」と成るだろう。

    論理的には、最も「青木氏族」と「四掟の範囲」で近いのは各地に分散していた「源氏族の直系尊属」と成るのだが、この「氏族」が、然し、「源氏族」の殆どは「傍系尊属で姓化した姓族」であったとすると、「四掟の範囲」の対象から外れる。
    だから、「摂津源氏の四家」以外は「姓族化していた事」から、「11流の源氏族」とは「男系継承が禁じ手」と成り得ていたが、その「摂津源氏の頼光系四家で頼政の孫(仲綱の子)京綱」を除いて、故に「入りの女系」で「源氏族」とは血縁を示すものが無いのであろう。

    結局は、「入り」の「四掟の範囲」を満たす「氏族」は、位階の多くを持つ「秀郷一門一族」であって、その「目的の為」に「補完役」として任命された「賜姓族の秀郷流青木氏」が「血縁の源流」と成って引き継がれた事に成る。
    当にその象徴が「四日市殿」である。

    故に、「近江佐々木氏の研究記録」の「青木氏族の定義」が、前段でも論じた様に「秀郷流青木氏」とその一門一族の「永嶋氏、長沼氏」と「長谷川氏と進藤氏」までと定義されているのである。
    残念ながら、「伊勢」では永嶋氏の一門の「長嶋氏」と繋がっている資料があるとしても、「伊勢」では「長沼氏と長谷川氏と進藤氏」との資料は見つからない。
    筆者の持つ「青木氏族の資料」の中には無いが、「近江佐々木氏の研究記録」に詳しく論じられている以上は、「佐々木氏の持つ資料」の中にはあったと考えられる。

    従って、明治期までは「入りの源流」は勿論の事で、「出の源流」も絶えなかったとする結論に成る。

    そこで「入り」は、主に「三つ」と成るが、それは次の通りと成る。

    一つは、「京」を始めとする「四つの地域」の「位階の保持家」
    二つは、「秀郷流青木氏」を始めとする「秀郷一門の青木氏族の五氏」
    三つは、「位階を持つ家人衆」で、「嫁ぎ先の地元郷士衆の氏人」

    以上の「三つの入り先」と成る。

    これを「女系の妻嫁制度」では、「四つの地域からの位階保持者」と「秀郷流青木氏族」を中心に、その位階を基準に次の様に成っていた。

    先ず一つは「妃」である。
    そして、「位階を持つ氏人の家人衆」を「(嬪、妾の中の「嬪」)としていた。
    最後には「氏人の無階の地元郷士衆」から「入り」と成れば「妾」としていた。

    以上の「入り」の「三つの妻の立場・階級」に成るだろう。
    (下記の「女墓」にその例がある)

    そこで問題なのは、「后」は基本的に室町期以降には資料からは見つからない。
    これは、室町期には「四掟」に叶う「入りの対象者」が無かったという事では無く、「青木氏族側」からの「入り」を執らなかったという事が正しいだろう。

    何故ならば、次の事が云える。
    「下剋上の混乱期」の世情の中で「皇位から入りを執る事」は政治的に好ましくない事。
    つまりは、「政敵」とみなされる事もあり得る事。
    「青木氏族」としては、兎も角も、奈良期から「御用商人的商い」を避け「均等性」を堅持してきた「商い」に影響する事。
    「四掟」に基づき「四家制度や妻嫁制度」を執る以上は、「后」に相当する「入りの先」は他の「入りの先」との「身分や冠位や位階」に基づく官位等が、他の「三つの入りの先」とはその差があり過ぎる事。

    以上四つのこれが「妻嫁制度を崩す事」に成り得て、結果として”「四家制度の争い」”を招いて成立しないと判断したのである。

    そもそも、前段や上記で論じた様に、「中国の歴史」を見ても「独自の改善」を加えてこの制度が成り立っているのだ。
    つまり、后を入れた形の其の侭では成り立たなかったという事である。
    中国は次々と政権が代わるがその「政権の寿命」は50年程度と短いのである。これが所以であると中国は説いている。
    これが最も、その「知識」から編み出した”「入り」”で起こる”避けなければならない「氏の最大の戒め」”であるという事に成る。

    「白壁王の井上内親王」の様に、「特別枠とする考え方」の為にあった事も考えられるが、「皇親族」や「令外官」から外れた「青木氏族」には、最早、その「機会」は起こり得ない。

    では何故、この「妃、嬪、妾」の「入りの三階級」を定めたかと云う疑問が湧く。

    それは、「入りの階級」を無くす制度とする事は、当時としては無理であっただろう事は疑う余地はない。
    それは、未だ、全ては「階級社会」で決められる「封建的な氏家制度」の中にあったからである。

    上記の「三つの入りの先」では、言わずもがな、”この掟を求める事”は必定と成る。
    況してや、「婚姻」である。
    「世間の目」はあり、今後の事を考えれば無視する事は絶対に出来ない。
    だとすると、最も合理的な方法は、「官位に基づく官職の如何」は別として”「朝廷が授与する位階」”であろう。
    その「家の官職」の「有り無し」に関わらず、持つ「位階」に応じて「入り」の「受け側」も対応する事で収まる。

    然し、「入りの受け側」、つまり、「青木氏族」では、人の世情の常、あまりの身分格式の差のある「后の差」の様に、”「階級による見栄の争い」”が起こるは必定である。
    そこで、「青木氏族」が考えたのが、前段で論じたような制度を敷いた。

    「青木氏族の女(むすめ)養育制度」
    「福家の統制」
    「寺での養育所」
    「違反による罰則掟」
    「出から入りに戻す制度」

    以上の制度(掟)で、この階級による差を削除させたのである。

    この事から、ほかの「入り先」が決して持ち得ない「后の冠位を持つ特別差」は、当然の事として避けられる事に成るだろう。

    そもそも戦略的に観て、「冠位の入り先」は恣意的に絶対に避けれるべきものであった事に成る。
    この「冠位の差」は「上記の掟」では無理と成るだろう。

    それは推して知るべしで、前段から論じた様に、「孝謙天皇期」の「白壁王の井上内親王の経緯(期待しない白羽の矢)」に繋がる事に成り得るからだ。
    つまり、この事で「青木氏族」は「青木氏族で無くなる所以」とも成る。

    そもそも、唯一の「最高位の冠位と位階」と、「職務の官位」と、「賜姓と志紀真人族、朝臣族」などの全てを持つ「氏族の青木氏族」である。
    「高位族」は「孝謙天皇」の様に「入り」の「白羽の矢」を立てたい相手である。
    況してや、「孝謙天皇」でなくても「朝廷」を安定させるには、「巨万の富を持つ青木氏族」(15地域の青木氏族)ともなれば喉から手が出る程であったろう事が解る。
    これは何も「入りの位階の相手」だけではない。いずれの「豪商等(武家)」も婚姻の相手としては同じであったろう。

    然し、「青木氏族」はこれに絶対に載れないのである。
    従って、「后」は元より、他の「三つの差」も「入り」を受けた後は制度と掟に依って無くす事が「絶対的な戦略」と成っていたと云う事である。

    但し、この「出と入り」から生まれる「嗣子の出入り」は、兎も角も、「福家と四家20家」に全て入り、「嗣子の出」は「禁じ手」と成っていたし、当然に、「入りの養子(養嗣)」は当然の事として、「義子(義嗣)」は厳禁の手であった。

    従って、「男系の禁じ手の原則」が守られれば、「四掟」によって入る「妻」の「妃、嬪、妾」には、下記の「良い一族性」、即ち、「血縁性の連携」が永続的に生まれる。
    「出」の「娘、孫,玄孫」などの要するに「青木氏族」で云う”「女(むすめ)」”は、「妃、嬪、妾」の「福家」で養育を受けた「実の女(むすめ)の概念」である事から、そこから再び、「福家」に戻される「実の女(むすめ)」の二代目、或いは三代目の「女(むすめ)」は、「愛児」として繋がる完全な血縁下にある。(ここで疑問(女)がある。)

    それは「妻」を「妃、嬪、妾」に分けている以上は、それぞれの「女(むすめ)」の「立場の差」等の「関係性の差」が左右するが、これを「福家で養育する事」の「女(むすめ)」の「掟」にその差は一切削除され、全て「女(むすめ)」である以上は“「平等とする掟」”に成る。
    「妃、嬪、妾」の子は、勿論の事、「長女次女」などの区別する差さえない掟であった。
    依ってこの「関係性の差」は解消されていた。

    これには「福家の威厳」と、「寺などに隣接した養育所」に、「幼児より入れる事」で、この「養育所」に余計な「差し出口を入れる事」などの「行為の弊害」を防ぎ、この「関係性の差」を排除していた事が解っている。
    一切、「親の手」を離れた事を意味し、この「掟」を破った妻は処罰されることに成っていたらしい。
    飽く迄も、「青木氏の女(むすめ)」であって、最早、「妃、嬪、妾」の「子や孫や玄孫」ではない事に成っていた。
    簡単に云えば「青木氏の支配権」を持つ「福家の女(むすめ)」であった。
    同様に、「四家を引き継ぐ嗣子」にもこの掟は採用されていた。

    そこで、上記の疑問の「女(むすめ)」である。
    その疑問は「嫁家先の娘」を強引に戻すと云う訳には行かないだろう。
    ではどんな「方法」と云うか「掟」と云うか、何か問題を起こさない様な方法でなくてはならない。
    いくら「家人」であろうと「氏人」であろうと「嫁家先」にも事情があり無視できない。

    この解明に時間がかかり難しかった。
    「郷士衆の差配頭」に遺された「手紙の一節」にこの事が書かれていた。
    それによると、「我が尾鷲小林の幣家・・の方の娘の妃児・・は三歳にして優秀賢美にて育ち・・に依存無く・・・に依れば福家のお定めによりこの娘を‥寺の養育所にお預け致しく候故御差配宜しくお願い申し上げ・・・云々」とある。

    この経緯から読み取れる事は次の事に成る。
    「福家のお定め」である。
     これに依れば「要領書」の様な「定書き」を配布していた事に成るが、果たして、「定書き」が出ていたかは他に調査したが明確ではない。
    恐らくは、嫁いで来た「女(むすめ)」は「福家」でその「嫁としての教育」を受けているから、その必要性はあったかは甚だ疑問で、「氏人の家」がこの要領を「既成の事」として周知して“「定書き」”として捉えて書き込んだものと読み取れる。

     「優秀にて賢く美しい児」である事が条件の様に成っていた事を意味する。
    福家から「氏人の愛児」に対して三歳の誕生日祝いが出た。
    これは「福家が行う慣例」で準備を寺の執事が行い「福家」が「氏族」に出していた事は解っている。
    この事は「福家の女(むすめ)」として如何であるかを暗に問い質している事を意味する。
    そして、「相手の意思」を尊重している事に成る。強制は無い。
    要は、「嫁家の判断」に委ね、「福家との繋がり」を重んじて「女(むすめ)」として入れた方が得策と判断した場合は「入り」と成り、「嫁家の存続の事情」も鑑みて「嫁家」が判断していた事に成るだろう。
    「福家の女(むすめ)」の事情が貧し急務を要した場合は、後は「嫁家と福家の話し合い」であったらしい。
    それが、現代感覚では、「福家」側では、「女(むすめ)」を「孫」までは解るが、「玄孫」までに「女(むすめ)」として求めている史実は、明らかに「出」に対して貧し急務と成っていた時期があった事を示す。
    故に、依って、「話し合い」が原則であった事に成る。
    更には、「玄孫」とすれば「嫁家側」でも他家に嫁がせていた事が判るし、娘が多ければ「優秀賢美の娘」を「福家」に入れて、他は嫁がせる事と成り、嫡子が居なければ養子を執る成りした事は解る。
    「養子」という事に成れば、二代続きで「氏人」からは離れる事に成り、其の侭では保護などは受け難く成る事から、是非にも「福家」に優先的に入れて置こうと云う計算が嫁家側に生まれるは必定である。
    そうすれば、男子を「氏内の郷士」の家から迎えれば離れる事は無くなる。
    その手筈も安易に成り立つ。
    彼らには、氏外の「他家からの養子」は「氏存続」のみならず、前段でも論じた様に殖産などの枠から外されて「生活の糧」を失いかねない問題でもある。
    上記の「三つの入り」から入る中で、「家人と氏人」はこの逃れざるを得ない「絶対的な宿命」を負っていたのである。
    「秀郷流青木氏一門」からの「出と入り」にしても、「青木氏族」の「青木氏の氏」を別に構成している。
    「四掟」に適合した「京」などからの「高位の位階を持つ貴族」からの「出と入り」も単族の「族」を持ち得ている。
    小さく成ったが「近江の氏」や「甲斐の氏」、「伊勢の氏」、「信濃の氏」、伊勢と信濃の融合族の「伊豆の氏」、越前の「全青木氏融合族の氏」は、それぞれに再び結合して「青木氏の氏」を構成しながらも、且つ、これらの「五氏の連合体の青木氏族」と、「秀郷一門と秀郷流青木氏の氏」の、これら全てを「女系」で血縁し合した「青木氏族連合体」を形成しているのである。
    従って、例えば「伊勢の氏」からは出る事は出来ない前提に成り、当然に「氏存続」として安全は全く保障され得ない事に成る。
    「乱世の中」でそんな選択は絶対にできない事は自明の事実である。
    前段でも論じたが、「諏訪族青木氏」が「神奈川横浜の秀郷流青木氏」の中に逃げ込んだのも、この「女系の血縁の関係」が奈良期から深く続いていた所以でもある。
    越後も同然である。

    故にも、手紙の中の一節の「定書き」の「発想の概念」が染みついているのである。

    従って、「定書きの有無」に関わらず「子孫存続」とも成れば、先ずは「嫁家の事情」を優先する事が必要に成り、「定書き」に拘る事は「氏存続」という点で好ましくない。
    故に、「定書き」は先ずは無かったと云う判断に成ろう。
    大化期からの「嫁家制度の長い仕来り」の結果から、重ねて「氏人全員の自然の概念」と成っていたと観ている。

    何れ在ったとしても、「福家」に無いからこそ「氏人や家人」が「重大な間違い」を起こさない様に「家の掟」(氏人の掟)としてこの「定書き」を子孫に伝える為に遺したとも論理づけられる。
    然し、実は、下記に記すが、可能性が高いとして「執事を務めた菩提寺」の「養育時の指導書的なもの」としては必ず遺されているとして調べたが、資料は「三度の消失」と、最終は「江戸期初期の顕教令の撤収」で「伊勢松阪の菩提寺」には遺されていず発見は出来ていない。

    さて、続けて論理的に考えれば、「嫁家」側としては、結果として「福家」に「女(むすめ)」として入れて「出」の「嫁ぎ先」が定まれば同じ事であって「損得」で云えば「得」はあっても「損」はない事に成る。
    「福家の女(むすめ)」である以上は、「出」の婚姻に関する準備一切は「福家」で持つ事に成るのであるから、後は「心情の問題」だけと成ろう。
    然し、これさえも元を質せば「出自先の実家」であるし、他家から「氏」に入った者でもない。
    この「心情」は「掟」にて大きく表に出せないが、何れにしてもその範囲を弁えれば其れなりの事は認められる状況ではなかつたかと考えられる。

    後の「嫁家の判断」は、抜き差し成らぬ「嫁家と他家との事情」と成ろう。
    それ以外は寧ろ「嫁家の嗣子」に重点を置いた存続方法が、「氏人」として維持して行く上で優先的に嫁家側には求められよう。

    「福家」から「女(むすめ)」の「出(嫁ぐ)」の際には、古来より「元の血筋」と重らない様に「執事」を住職が務め、且つ、「養育所」を寺で管理していた「菩提寺の管理下」に置かれていた様で、遺された資料の一部から読み取れる。
    当然に、「女墓」を管理していた事からもこの事は頷ける。故に「女墓」が創れるのであろう。
    更には、合わせて上記の「妻嫁制度」を敷いているからこそ、前段で論じたが、その「青木氏族の住職」の「執事の役目」も「最も重要な要」と成っていた事に成る。

    では、この「出と入りの血縁先」を「適時」、「適格」に「選出してくる仕組み」はどの様なものであったのかが疑問(仕組み)と成る。

    これは、この「執事の役目」(身内の青木氏の住職)に大方はあったと観ていて、確かには、「福家と四家20家」の多くの「付き合い」と「紙問屋の伊勢屋」から情報もある事は解っているが、各「近江や信濃や伊豆や甲斐や越前」の地に存在する「青木氏独自の菩提寺からの情報」、24地域の「秀郷流青木氏の菩提寺からの情報」の相互交換、5百数社に上る「守護神の神明社からの相互の情報」を互いにやり取りしていた事が解る。
    これを基に「出と入りの妻嫁制度」を網の目の様に構築していたのである。
    これが無くては「青木氏族の子孫存続」はそもそも論理的に無理であったろう。
    これらは「完全な詳細な情報源」であり、誰が考えてもこれを維持するには「経済的な裏付け」が無くては出来ない事は明白である。

    論理を敢えてひっくり返す様ではあるが、「出と入りの四掟などの概念」や「無形の権威や位階」やそんなものでは決して得られない。
    故に源氏族の様に衰退し滅亡する所以となっていた。
    注釈として、然し、この情報の二つが抹消された時期があった。

    それは上記にも記したが、前段でも論じた江戸初期に出された「宗教に関わる事柄の独自保有の禁止令」である。
    つまり、「神明社の幕府帰属令」と「菩提寺の顕教令」である。
    そして、幕府は財政難からこれらを放置し荒廃させた。

    この「二つの令」は上記の通り「絶対的な情報源」である故に。「青木氏族」に執って片手をもぎ取られたものであった。
    この時、「遺されている情報源」は唯一「紙問屋の伊勢屋」の情報源だけであった。
    「青木氏の情報源」は上記の「二つの令」で論理的には消えている。
    この儘では、「源氏族」に成り得る。

    ところが、そこで、より「青木氏族の力」をつけたのが「殖産」であって、室町期末期から始めて江戸初期に完成させた「15地域の商いの組合での構築」であった。
    これに依って、「殖産」「商い」は元より「青木氏族存続」に絶対的に関わる「重要な情報源」も再構築され戻ったのである。

    それでも上記した様に「青木氏族の存続」に関わる事である事からは「氏」を纏めて行く上で、「菩提寺」は絶対的に必要不可欠である。
    そこで、何をしたかという事である。
    それは規模を縮小して目立たない様に密かに建立した。
    「神明社」は、内部の内容は同じにして幕府令に違えない様に一般性を装い、守護神を表す「社」から「神社」にして「神明神社」と変名する事と、「青木神社」として何れも密かに「小さな山祠」を建立して守ったし、元の位置からずらして「大鳥居」をそのままに遺した。。
    これらは現在も遺されて「青木氏族の氏人」らに依って祭られている。
    ところが不思議に幕府はこれを黙認した。

    (注釈 「神明社」はそもそも「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の社」である。
    全国に五百数社もある「民の社」でもあった。民からは「道祖神」と同じに親しまれ信仰されていた。更には、「紀州藩との繋がりの事」も含めて、「朝廷への献納の事」もあり、厳しく当たれなかった事が考えられる。)

    (注釈 「残りの神明社の荒廃」については流石に見かねた元甲斐の青木氏族の柳沢吉保は、武蔵深谷に「民の反発」も恐れて古来より存在した歴史ある「神明社と寺」を自費で公然と再建した。
    そしてその周囲には青木氏族の神職や住職が現在手も定住している。
    如何にその「荒廃の影響」は大きかったかを物語る。
    従って、上記で論じた様に本来は菩提寺と神明社に資料と成るものが遺されている筈なのであるが、結果として無い。)


    さて、話を基に戻して、これらの「入り」の「伊勢」での「青木氏の証明」となるのは、残るは「女墓」と「菩提寺の曼陀羅帳」等に成る。又、「家人や氏人」や「庄屋、豪農、名主、村主」の資料の中に読み取れる範囲のものでしかない。
    これには、「俗名と戒名」があり、「俗名」にはその大まかな「出自元」、又は、「系譜、戒名」には「四段階の戒名」があって「生前身分と位階程度」が判別できる。
    恐らくは、「信濃」にしても「伊豆」にしても「甲斐」にしても、将又、「秀郷一門の主要八氏」は判別できる。
    彼らの密教であるので゜菩提寺」は統一していて、「信濃、伊豆、甲斐」などと「秀郷一門と秀郷流青木氏」の「菩提寺」はその定住地の主要地に必ず「同一名の菩提寺」で存在する。
    (注釈 「二つの青木氏」のそれぞれの二つの統一した菩提寺名は匿名とする。)
    比較的簡単にその「血縁元の内容分析」が可能である。

    後は「青木氏の福家と四家の資料」、「家人と主要の郷士の氏人の資料」の中に求められ、これらを紐解いて行けば年月が掛かるが判明する。
    どの様に繋がっているかも分かってくる。

    不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。

    さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。

    これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
    前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
    「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
    矢張り、「殖産」は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
    上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
    「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。

    (注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
    筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)



    > 「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」に続く。


      [No.360] Re:「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/06/10(Sun) 14:18:49  

    「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」の末尾
    >(注釈 近江佐々木氏の「青木氏族の段」でもその様に定義され「青木氏族」として認めて論じている。と云う事は同じ「青木氏族」も然る事ながら「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」もその「掟」を大方で採用していた事を意味する。)


    「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    では、本論の続きの問題であるが、上記の注釈を前提とすると、室町期に成ってこの「掟」を何時緩めたのか、どこまでを緩めたのか、何で緩めたのか、等の「理由目的手段」、と「人時場所」を明確にしなければ前段の「江戸初期の殖産」の論は不充分になるだろう。

    (注釈 これが本段の江戸期前から江戸中期までの殖産を進める上での後に於ける採った手段であった。
    そろそろ、その務めとしては「有名無実の状況」とは成り得ていた事は解り、自己満足の「青木氏の独自のステイタス」に近いものと成り得ていたであろう。
    これが”「伝統」”というものの本質であろう。
    つまりは、「賜姓五役」としての「務めの転換期」と成っていた。)

    しかし、現実には、「天皇家への献納金」の形で明治初期まで密かに、或いは、「幕府黙認」の形で貢献していた事は事実である。
    ここでも「青木氏の歴史観」として認識して置く事がある。

    これは、前段でも論じたが、「家康」が「伊勢青木氏」に執った ”伊勢の事お構いなし”の「お定め書」でも理解は出来る。
    つまり、「家康」は、「表向き」には、”宮廷の外壁が崩れても放置する程”に「天皇家」を締め付けたが、裏では行き過ぎて「信長」の」様に「民の反発」を招かない様に「青木氏族」に遣らせていたという事でもある。
    これも「青木氏族」にしか判り得ないてい「重要な歴史観」である。

    その前に一言、この「青木氏の歴史観」を以ってして更に悪く云えば、この為にも江戸初期には「商いの面」で本論と成っている”「殖産」”を進めなければならない破目に陥っていた事にもなり得るだろう。
    この事から云えば、この時代に成っても未だ、形は変わっていただろうが、”「賜姓五役」”は明らかに存在していた事にも成る。
    否、社会的にさせられていた事もあり得る。

    更には、江戸幕府は、「権威の象徴である天皇家」に「圧力」を掛けながらも、一方では「権威」を重視し「天皇家」を体よく利用し、”「二極両面」”を利用する態度を執っていた事に成る。
    結局は、その「幕府の矛盾」を「青木氏族」で補っていた事にも成る。

    「室町期の紙文化」のおかげで、「青木氏族」が、「紙文化の遺産」と「殖産」で「巨万の財」を成していたから良かったが、これを「青木氏の歴史観」から観れば、仮に無かったら如何していただろうかと、場合に依っては「天皇家の存在」も危うかった可能性もある。
    つまり、「青木氏」に執っては、この期待もしない「時代ずれ」のある”「賜姓五役」”を都合よく使われたと云う事も云える。
    唯、云える事は、「青木氏族」のその「殖産を含む商い」は、、何時の時代にも”「幕府の御用商人」”では無かったという事である。

    だからこそ”「伊勢の事 お構いなし」”の「お定め書」を公に「家康」が出せたという事でもあろう。

    「青木氏の歴史感」を想像しているこの「お定め書」が、果たしてどれ程に「青木氏族」に執って効いていたかは甚だ疑問ではある。
    前段で論じたが、「江戸初期の殖産」では、確かに効いていた事は確かであるが、「前段の殖産」を進める為に「紀州藩」が「山田奉行所」に申請した件では、つまり、「七割株」を持つ「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」では、「山田奉行所」の奉行時代の「大岡忠相」には、これを否定された事は有名である。

    この事に付いて一族内や関係族の内に「遺されている書物」を読み取るには、その「存在」は認めているが、その「お定め書の効能」を大きく特記する記述は特に目立たない。
    故に、この事では「青木氏族」の内には、取り分け”「影響」”はなかった事になるだろう。

    これは大化期からの「永代不入不倫の権の存在」を族内で代々認識していた事を物語るものとして判断できるし、その「認識」と云うか「概念化した知識」と云うものが、「お定め書」を当然の事として捉えていた事に成ろう。
    判りやすく云えば、”何を今更”であったのであろう。
    「青木氏」に執っては、この「概念「」と云う意識と云うものが無いにしても、合ったとしても”表には出せない”が、周囲はそうでは無かった筈である。
    つまり、「青木氏」に執っては、故に「時代のずれ」を感じながらも、更にはこれも「時代のずれ」のある「永代不入不倫の権」の出処の「賜姓五役」であり、且つ、それを表す一つとして「献納」を続けていた事になるのではないかと考えられる。

    はっきり云えば、「伊勢郷氏」であっても、、傍らで「商いや殖産」を生業とする以上は「永代不入不倫の権」も今と成っては「青木氏」には「何の効能」も無かったであろう。
    「商いや殖産」は、「権威や象徴」に頼っていては成り立つ話ではないのは当然であろう。
    唯、何度も云うが、上記の資料からも左程に記述が無いし、「青木氏の氏是」もあり、「権威や象徴」を振りかざす程の「氏のすさみ」も無く、「青木氏側」にはその「意識」はそれほどでも無かったであろう事が解る。
    要は、、”周囲の目が違った”という事に成ろう。
    この事に就いては、確かに読み取れる。

    つまり、故に、これも「青木氏の歴史観」から観れば、「山田奉行所」は意固地に「青木氏族」に対して「意地(妬嫉に似たもの)」に成っていた可能性もある。
    「下剋上」は進み「下級武士の、姓の時代」に成ったこの江戸の初期に未だ「青木氏族」のような「氏族」が残されている事の事態が気宇であったので、その様に観られるのも不思議では無かった。
    むしろ、「意地(妬嫉に似たもの)」は「普通の事」であったであろう。

    何故ならば、況してや、この時期は「将軍吉宗」と「伊勢青木氏」は、江戸では「江戸伊勢屋」を置いて「享保の改革」を推し進め初めていた時期でもあり、前段でも論じたが、、養育元として幼少期より「吉宗とは蜜月の関係」を維持していた筈であり、「家臣」ではないが「重臣」か、「仲間」「かそれ以上の”「布衣着用の身分」”でもあった。
    「大岡忠相」は、「高石の旗本の身分」とは云え、不必要に強い「本旗本の武士意地」の”「三河者の大岡」”に執っては、”目の上のタンコブ”、”何するものぞ”の「裏の感覚」は持っていた筈である。
    唯、表に出さない程度の事であったであろうと推測する。

    大化期から平安期にかけて「志紀真人族」であり、「直系の四人の天皇」を出した「郷氏」でもあり、その果ては「家康」も「お定め書」で一目を置き、「吉宗育ての親」で、裏で経済的な支えとして「将軍」に仕立てたのも、「享保の改革」を進めたのも、江戸市中で200店舗以上の「伊勢屋」を営み、永代の「お定め書」を持ち、紀州藩を「勘定方指導」で経済的に支えているその「伊勢青木氏」に対しては、これほどの自然が創り上げた「権威を持つ氏族」に対して、人間である以上は表に出せない「屈折心」も否定はできないであろう。
    兎に角、「大岡」の様な「有名な人物」にはありがちな「作られた評価」、つまり「公的な記録」では「美化」されているが、「青木氏の歴史観」からすると、この「美化」を取り除くと「上記の事」や「下記の事」はこの様に観えてしまう。

    (注釈 前段でも論じたが、ここで「青木氏の歴史観」の一つである」世間で云う「質屋」は、そもそも、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」が庶民に対して、生活に困る者に「施し」をし、そして「職」を紹介」し、「厚生の道」に導く功徳を行っていた。
    これを奈良期から「質」と呼んでいた。
    中国の金山寺が行っていた習慣を持ち込み「朝廷」に代わって全国500社に及ぶ「神明社「」が行った。
    これが、江戸享保期のこの「伊勢屋200店舗」でも行った。
    そして、それが「無償の施し」から「低利の施し」として「享保の経済」を活性化させた。
    これが、「質屋」の呼称として広まった。
    享保末期に「江戸伊勢屋と青木氏」は、「吉宗との不調和」が起こり、200店舗の権利を放棄して店子に譲って伊勢に引き上げた。
    これが、「質屋」の始まりで、江戸に「伊勢屋の質屋」が多いのはこの事から来ている。)

    そもそも、この筆者は研究を進める中で分かってきた事で、この”「美化」で固められた歴史”等には、”何の値打ちも無い”と信じている。
    故に、「青木氏の歴史観」として当然にこの説を採っている。
    恐らくは、「青木氏族」に執っては、幕臣の家臣ではないが「布衣着用の身分」には、彼らには「相当な軋轢」が「人の世」である以上はこの時期からあった事が伺える。
    これは「人の世の常」であり無い方がおかしい。
    どこでも起こる事ではあるが、”伊勢者 何するものぞ”であろう。

    前段でも論じたが、それが「享保期末」に周囲から強く噴出して仕舞い「吉宗との折り合い」も着かなくなって、”「伊勢」に帰るという結末に成った事”でも解るし、そもそも、この時代に成っても、これだけの事の「権威性」を未だ持っていたとすれば、世の中は利用し放って置く事はないから、だから未だ「青木氏の氏是」にも成っている事でも解る。
    普通は何れに於いても意味の無い「氏是」は消えるは必定である。
    然し、明治九年まで消えていなかったのである。

    後勘から観れば、“「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」”は、特段に「当たり前の申請」であろうし、況してや、”誰もできない「紀州藩の殖産」を推し進めていたのに”である。
    そもそも「否定される謂れ」は無かった筈である。
    あるとすれば前段でも論じたが、「青木氏の資料」より読み取れる「讃岐青木氏」の「瀬戸内の廻船問屋の利権」に重なる事だけであろう。
    或いは、当時、綱吉が執っていた「御三家への牽制策」から引き継がれて、享保に成っても吉宗の出自元の「紀州藩」を富ませる事への「幕臣の反発」とも執れる。
    「二万両の借財体質」を維持させる事で「政治的な圧力」を掛けていた事からも分る事である。

    末梢とすれば、この「伊勢水軍」を始めとして「熊野水軍」「紀伊水軍」「鳴門水軍」に「瀬戸内水軍」と海域を分け合ってバランスよくその利権を守っていた。
    何れも共通する事は、保守的に成ってこの「利権を壊す事への不安感」が否めない。
    「伊勢水軍」に、「青木氏族」に、つまり、「紀州藩に認可の裁定」を下せば、「利権域」は乱れるは必定であり、紀州藩を富ませる事が起こり、「政治的な圧力策」は霧消する。
    筆者は、「山田奉行所」は、つまり、「乱れる事への責任」を問われ、「大岡」は裏では「保身」を狙ったと観ている。

    そもそも、”「廻船」”と云う点から観れば、「紀州藩」は「熊野水軍」や「紀伊水軍」でも良かった筈で、でもそうしなかった。
    それは、何故かである。

    そもそも、「紀州藩」には常態的に前段でも論じた様に「毎年二万両の借金体質」があり、其の侭だと潰れる。
    それを解決するには何かを興さねばならない。
    それには「殖産」とその「資金」の課題があり、然し、それを興させるには「熊野水軍との軋轢」「紀伊水軍の素行」が問題と成っていて出来なかったからでもある。
    又、「七割株の青木氏の伊勢水軍」と「讃岐青木氏の瀬戸内水軍」には、「古来より強い絆」がある。
    当然に、「松阪経由で瀬戸内」までの「廻船」ができ得れば、「松阪」で「四日市殿」と「秀郷流青木氏」と縁戚関係にある「駿河水軍」と繋げれば、関東、中部から中国域先端までの「大プロジェクトの廻船路」が出来る。
    筆者は、「青木氏の進言」で「吉宗」は初代からのこの「計画の推進」を進めようとしていたと考えられる。
    これは「紀州藩と青木氏族」に執っては「経済的波及効果」は測り知れなかった筈であった。
    (幕府御蔵金は300両しかなかった。)
    況して、「紀州藩の家臣団」は「伊勢秀郷流青木氏」である。
    これを当初から「初代からの殖産」をより大きくする為に狙っていた事は間違いはないだろう。
    「紀州家臣団」としては計画を進めない方がおかしい。

    そもそも、「讃岐青木氏(伊勢水軍)」と「瀬戸内水軍」を単独として見做しているが、「伊勢水軍の廻船」と繋ぐとする思惑があれば、横浜から防府の先まで一廻船が成立するのである。
    こんな「大廻船」が出来れば「大岡」が警戒するのは当然であろう。
    将軍と成った「吉宗」は承知していたというよりは密かに「目論んでいた事」であろう。

    その証拠として、そもそも後に、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」は、「三陸より駿河」までの「東周り廻船」が認可されている。
    そこで、吉宗は「大岡」に否定されたので、この「当初の計画」を示現する為に、何の関係も無い圏外の遠い「瀬戸内廻船」に態々これを認めたと観られる。

    そもそも、「圏外の廻船問屋」に認可するというのは不思議で恣意的としか考えられない。
    そこで、つまり、否定された「切れたルート」の「伊勢水軍の域」を「青木氏族の大船四隻」と足りない便域を「伊勢水軍域」で繋ぎ完成させたと観られる。
    否定された以上は、そこでそれをいきなり繋ぐと違反と取られかねない。
    そこで、飽く迄も,”「青木氏族単独の商船」”であるかの様に見せかける必要があった。
    その為に、密かに執ったのが「摂津港」に「大船二隻」を係留して松阪まで「ピストン配船」させ、松阪からも矢張り、「大船二隻」を同じく「ピストン配船」させ、それをカモフラージュに「伊勢水軍」を「摂津」までの「往復回路」を作れば、「完全な廻船」は出来上がる。
    「紀州藩」はこれで「関わり」が無くなる。
    解ったとしても「山田奉行所」は文句の着けようがない。

    筆者説はこれに基づいているが、これほどに「史実としての戦略」が出来上がっている事そのものが不思議で、恣意的であるとしか考えられない。
    明らかに「神奈川」から「讃岐」までの「青木氏族」が力を合わせて”一致して仕組んだ事だ”と観ている。
    思い思いにはこれだけ「統一した戦略」は出来ないだろう。
    そもそも、この「戦略」には「日本の経済の発展」と云う「次元の高い思惑」が課せられていた。
    「大岡の否定」は、”次元は低すぎる”と観ていて、筆者説のみならず「青木氏族の共通の認識」であった様に資料から読み取れ、故に「青木氏族の戦略」と成り得ているのだ。
    故に、「大岡」に次元低く否定された以上は、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」を態々持ってこなければならない事に成ったと成る。

    江戸に出た「伊勢屋の伊勢青木氏」を始めとする「青木氏族」は、前段でも論じたが、これらの「対応策」を幕臣を交えずに密かに”「吉宗と談合した」”と考えられる

    (注釈 「佐々木氏族の江戸下屋敷」の直ぐ近隣に幕府より屋敷を与えられていた事は解っていて、ここで吉宗と談合を重ねた事が解っている。
    「伊勢屋の屋敷」と「青木氏の自邸の屋敷」は前段でも論じたが、主な伊勢屋の屋敷は「問屋街の小伝馬町」と「日本橋界隈」や「横山馬喰町等」にも複数あった。
    「江戸伊勢屋店舗」は200か所以上に上る)

    確かに何れも其れは云えるが、然し、この「否定された案件」には、細かく観るとそもそも「往路廻船と復路廻船の違い差」が出ているだろう。
    それは、「伊勢水軍」は別として、「熊野水軍」には「熊野宮司六氏」が背景として絡み「通行」には「利権」を主張する「海賊的水軍」であったとされる。
    これを守らないものには容赦なく鉄拳を加えたとする資料もあり、その「海賊の村」とされる所の資料説もある位である。
    然し、どちらかと云うと”「海族」”と云うところかと考えられる。

    又、次に「紀伊水軍」は、平安期から”「海賊」”そのもので、「利権」がどうのこうのでは無く、海を荒らす純然たる要は”「海賊」”なのであって、その記録は「義経の壇ノ浦の戦い」の時にこの「海賊の存在」が最強を誇った「平家水軍」との「海戦の勝敗」を決めるとして、義経は執拗にコンタクトをとった記録が遺されている。
    つまり、この背景には「雑賀一族」と「根来一族」の「海の族説」があって、それを「背景」に勢力を持っていた”「海賊」”でもあった。

    「鳴門の荒波」を制する「鳴門水軍」は、淡路島を根拠地とする「海洋民族」と、その「土豪」であった「淡路島の鳴門族(後の蜂須賀族)」を背景としてその勢力を張っていた。
    この様に何れも一癖のある単なる水軍では無かった。

    (注釈 「義経の海戦」の時に”「摂津水軍」”と書かれている資料がある。
    この「摂津水軍」は源氏方であったと書かれている事から、「嵯峨源氏」を含む「摂津清和源氏」を主体とした「青木氏族」や「近江佐々木氏族」等の「混合隊の水軍」で「小水軍」であったと書かれていて、「義経の海戦」が始まった段階で直ぐに「摂津港」に引き上げた事が書かれている。
    恐らくは、「荷駄を搬送する役目」と戦略上の「船団のダミー的役割」を負っていて事であったらしい。)

    兎も角も、当時の「暗黙のルール」は、この「三つの海域」を通行する廻船は「通行料」を払い”「堺会所」”で認可を取らなければならなかったとある。
    “「堺会所」”には「支配頭」がいてこれらの「全水軍」に渡りをつけての事であって、「山田奉行所」とは云え、「実質の実力的差配権」はこの「堺会所」にあって、「山田奉行所支配」の「自由横行の運航」ではそもそも無かった。
    従って、然しながら「紀州藩」としては「幕府の支配下」にある以上は「山田奉行所」であって、且つ、紀州海域にあるとは云え、「一種海賊的水軍」を「紀州藩」としては使う事は出来ない状況でもあった。
    飽く迄も「政治的な支配権」でのその様な「山田奉行所」であって、それに基づいた申請であったと云える。

    本音を云うと、故に「上記の低次元の裁定」と成ったのである。
    だから、「青木氏族」は”馬鹿らしい”と云う感覚に成っていたのであり、「紀州藩」から出された申請である限りはこれに従わざるを得ない事に成る。
    当初から「青木氏族」にとっては、大化期から定住する「氏族」で「摂津」に店舗を持っていた関係からも「堺会所」は知っていたし、「宋貿易」をしていた事からもこの「堺会所との付き合い」は当然にあつた。
    又、「伊勢屋」で「伊勢水軍」を統括していた事から考えても、この事は事前に間違いなく”計算済みの想定内”にあったと考えられる。
    故に、時間の掛かる”「大船建造」”を事前に進めて「殖産計画」に間に合わしたのである。
    それで無くては「運搬問題」が発生し前段で論じた「殖産計画」は成功しなかった筈である。
    大掛かりな「船の建造」を伴う時間の掛かる「讃岐青木氏の東周り廻船の設定」も間に合わなかった筈でもある。

    江戸初期の紀州藩初代から始まったこの「江戸殖産(創業平安期より)」は、当初は伊勢域は「伊勢水軍」で行い、「商品」を売り裁く為の摂津大阪などへの搬送は主に陸路に頼っていた。
    ところが、この「殖産」は大きく進み、「墨と硯」、「和紙と製品」、「綿と布」、「漆と漆器類」、「海産物と加工品」、「菜種油」、「海産物加工」、「白粉」等々の「殖産」は発展し、「陸路の量的な搬送」は無理と成った。
    この間、「搬送先」、つまり、「販売先」は拡大し、「大量」で「遠距離輸送」は日本全国と成っていった。
    この時期が、丁度、100年後の享保期初期に当たり、「殖産」は、紀州藩初代頼信から吉宗まで「勘定方指導」で「紀州藩の借財体質」を改革し、最終的に上記するこの輸送問題が勃発したのである。

    そこで「将軍と成った吉宗」は、紀州藩のみならず「三陸」から始まり、「防府」までの「一廻船体制」を確立して「経済の発展」を支え様として、この為に上記の「旧態依然の利権体質」を改善すべく途切れている「松阪から摂津」までの「統一廻船」を作ろうとしたのである。
    つまり、「駿河と瀬戸内」は何れも「青木氏族との絆」のある廻船である。
    そして、「三陸部」から駿河までに「瀬戸内廻船」を持ってくれば、「一つの絆廻船」が出来上がれば「利権」に振り回されない「安定した廻船」が出来上がる算段であった。
    100年目にして仕上げる「頼信ー吉宗」の”「思い」”であったのである。
    然し、低次元の「大岡の裁定」を無視してまでも「幕府命」で「押し通すべき算段」では無かったかと思われてならない。
    恐らくは、「幕府命」と「幕府機関」の裁定が異なる事は、「権威の低下」を招く為に執れなかった事は解る。
    そして、「将軍」に成りたての頃である以上は未だそこまでは「幕臣」を統括出来ていなかったであろうし、次元が低いが出自元でもあり裁定に口を出せば「要らぬ誤解」を招く事にも成り兼ねず、遠慮した事も考えられる。

    江戸に「吉宗」に同行して「江戸出向」していた「青木六兵衛等や青木氏族等」には、「江戸屋敷での談合」では「大岡裁定」には「吉宗」は「猛反発」を受けていた事が伺える。

    (注釈 「青木六兵衛とその息子一族」は、「吉宗」と享保期末には「折り合い」が悪くなり、「江戸商い」は「店子」に譲り「江戸伊勢屋・青木氏」を「伊勢(伊勢秀郷流青木氏や信濃等の青木氏族関係者含む)に引き上げるが、この時の始末に「青木六兵衛とその息子」は、「六兵衛は病死」でその「息子は江戸で跡目が絶えた」と成っているが、「青木氏の資料」では確実に引き上げている。
    「兄の長兵衛」の「四家の福家の跡」を継ぎ、「享保期の重責」を全うしたことが判っていて、逸話まで遺されている。
    この事に付いて、「近江佐々木氏の資料」にも記載があり、江戸での「六兵衛とその息子の所在」は不詳としている。
    これには「吉宗と幕府」に警戒されない様に仕組む位に「関係悪化」があった事が伺える。)

    注釈の通り、これは「吉宗との関係悪化」は否定できない「青木氏の歴史観」ではあるが、「大岡裁定」に観られる様に「江戸の幕臣の反発」は間違いなく、この「青木氏族」や「江戸伊勢屋」に向けられてあった事は間違いはない。
    それは「江戸屋敷」を隣接する「近江佐々木氏」の「青木氏族の研究記録」にも確認出来る事で、目に見えてあった事に成るだろう。
    記録に遺す程であるから、「享保の改革」を裏で支えてきただけにその落差は大きく映り、相当のものがあった事は「間違い」は無い。

    つまり、この「一つの絆廻船」を「青木氏の戦略」で押し切った事が、「幕臣の執拗な反発」を増幅させていって、「吉宗」も「最大の味方」との「蜜月の関係」を続ける事は出来なく成ったと考えられる。

    さて結局は、「青木氏族」から観ると「最悪のシナリオ」の「切欠」と成った「大岡裁定」だが、この「一事不再理の原則」から「吉宗」も動かしに難く成ったが、この様な「事前承知の背景」から「青木氏族」は力を合わせて「摂津」に「千石大船二隻、松阪に大船一隻」を追加建造して名目は”「商船」”として、自ら「四隻の運用態勢」を整えて対処した事にある。
    虚を突かれた幕臣側は色々と裏で画策を試みた事であろう。
    それは、「陸路運送」と「江戸販売の認可」にあったと観ている。
    (「陸路運送」は「伊勢シンジケート」が秘密裏に「横の関係」を使って安全に輸送した。)

    「青木氏の伊勢屋」の「商い」の細部に普通ではない「事件記録」が遺されている。
    この「陸路運送」では、「青木氏の資料や商い記録」に遺されている事件としては、一例として前段でも論じたが「鈴鹿峠部の通過事件」がある。
    ここは「四日市殿の地権域」にあったが、「支配権」は鈴鹿関所として幕府に統治され、「京、大阪、摂津」に出るルートを地元地権者でありながら「関所の大義」を理由に厳しく抑えられたとあり、これで、「陸路搬送の輸送量」が遅退したとある。

    「大船建造」は「上記の経緯」と「輸送利用の増大」からもあるが、この「鈴鹿通過事件の件」も大きく影響していたと考えられる。
    故に「資料から読み取る史実」や「商記録」に、放念できずに態々記載されているのであろう。

    享保の時代中には、「江戸販売の認可」の件では、「菜種油」と「海産物加工品」と「海産物を利用した飼料」を殖産していたが、これを江戸に卸そうとしたが、すぐには認可が下りなかったとある。
    中には他の「商人」には下りても、「早出しの伊勢屋」には「認可」そのものが下りなかったものがあったとある。
    当時、「害虫被害」が関西で起こったが、これに効く薬が無い事から、「菜種油」を薄めて散布したところ被害が納まった。
    ところが、この被害が関東にも及び急拠関東にこの菜種油を送ろうとしたが「認可」は下りなかったとされる商記録もある。

    「海の干物、(ほしか)」を粉状にして畑に蒔く事でみかん畑や綿畑などで大収穫が得られた。
    当初は使用の出来なくなった「乾物」をみかん畑に廃棄したが、この「廃棄」が効いたか旨くて大収穫が得られたとある。
    そこで粉状にして蒔いたところ効果覿面で、それ以後、畑にも蒔いたとあり、商品として関西域に販売して好評を得たとある。
    そこで、、江戸伊勢屋にて販売しようとしたが認可はすぐに下ろさなかったらしいことが書かれている。
    認可後も、「伊勢の殖産」が広がり各地の漁場の「ほしか」を買おうとしても嫌がらせを受けてなかなか要求量が入らなかったと記載されている。
    又、それまでは食物として使用されなかった海藻類を煮出してその液を凝固させて作る寒天などを開発し、これが関西で大流行と成り関東にも送ろうとした。
    ところが、これも認可が直ぐには下りなかったとあり、50年以上も後に成ったとある。
    事程左様に、「伊勢の射和殖産」も含めて「江戸を含む伊勢屋」には厳しかったとある。

    これらには、「圧力という表現」は流石に使ってはいないが、恐らくは、「大岡裁定後の幕臣圧力」であろう。
    このような事が積み重なり「青木氏族側」では、「莫大な資金」を投じて「享保の改革資金」を調達しながら「吉宗の優柔不断さ」に対しての「「不満」が沸々と募って行ったと観られる。

    さて、上記の事から”「伊勢屋」”を使っての「関東への陸路販売」は流石に難しかった事は否めない。
    然し、それでも前段でも論じた様に「質屋」を含む200店舗以上」(チェーンストア)で営業を営んでいた。
    「江戸」への「海路の運送」は、「伊勢水軍」を使っていたかは資料が無いので定かではない。
    恐らくは、享保期の「伊勢水軍の規模」から考えて「関西域で海路輸送」が限界で難しかった事が充分に予想できる。

    然し、依って「江戸の伊勢屋」では、「商品の入荷」は「伊勢シンジケートの陸路運送」で行っていた事から充分では無かった事が予想できる。
    然し、一方、享保期前後の「伊勢の伊勢屋」の「殖産」の「製品の販売体制」を瀬戸内までの間を三日毎の「四隻態勢往路復路の入れ替え方式」で行った事は解っている。
    中には「人の運搬」も影では行っていたと読み取れる。
    史実として”「商船」”としての実績を証明するものとして「浅野家取り潰し」の「蔵出し買い取り」をこの「商船」で一手(大船三隻)に引き受けた事が書かれている。
    関西域での「伊勢水軍と四隻態勢」が暫くは続いていた事が解る。(船数は増加)

    享保期前後には「駿河水軍との連携」は未だ成立していなかった事が解るし、これからも「伊勢水軍」は「関西域の専用廻船」であった事が証明出来て「江戸」に廻していなかった事に成る。
    「陸路運送」は、「陸路の縄張り」と云うか「権域」と云うか海路と同じくグレーの体質があって、これを「シンジケートで通す場合」はその「縄張り」に「渡り」をつけて搬送する必要があった。

    結局は「伊勢シンジケート」に執っては適任であり、その「警備と運輸と渡り」に全面的に頼っていた事に成る。
    「青木氏族」に執っては、「海路運送」の「伊勢水軍」も「七割株の契約関係(血縁関係もあった)」にあり、「陸路運送」の「伊勢シンジケート(信濃含む)」の「経済の契約関係」にあり、何れも「警備力と渡り力」を持った「運輸力」にあった。
    「他の商人」にこれほどの「運輸力」を持った「古い関係」を持ち続けている「犯しがたい氏」での「商人」は全く無いであろう。

    これの事実を知れば恐れられる程の「脅威に近い運輸力」に「幕臣」には観えた筈である。

    一度、事が起これば「戦力にも成り得る運輸力」である。
    室町期までは現実にそうであった。
    そこに、「郷氏としての象徴力や権威」があり、「一絆廻船の戦略」を敷かれ、「大船四隻」を持たれれば、最早、「幕臣の政治的権力」の及ぶ範囲には無かった筈である。
    そして、況して、幕臣が裏の手を使って「脅迫」などを「伊勢屋や青木氏族」にするものなら逆襲を受ける。

    つまり、「伊賀者」には”「郷士の縁戚者」がいる”と成り、室町期初期に「二万の軍」を餓死させた戦績を持つ「関西中部域」に及ぶ「シンジケートの力」と、関東北陸までその勢力を保持する旗本御家人の「秀郷流青木氏の縁戚族」の存在ともなれば、「山田奉行所等の幕臣」には既に「危険域」を超えていた事になろう。
    下手に幕府の中で口を開けば、情報は洩れる事に成り、気の休まるところはなかったであろう。
    そうすれば、後は「世は必定」で”嫌がらせ”しかない事に成る。

    従って、上記の背景から観ても、そもそも、「三日毎の四隻態勢の往路復路の入れ替え方式」で行うのであれば、初めから何も上記の「紀州藩の案件」は煩い「山田奉行所」に出さなかった筈であろう。
    決まって「嫌がらせの裁定」が下りる事は必定なのであって、然し、「青木氏族」として出していなく「紀州藩」としては出したのである。
    「紀州藩」として出したから「山田奉行の否定の大岡裁定」が出せたと観ている。
    それも「御三家」と「将軍吉宗」に対してである。
    普通に考えれば「認可」と成ろう。
    従って、普通に考えれば、上記した様に、「紀州藩」「御三家」「将軍吉宗」でありながらも、裏には”「三河者」”に執っては、「家康のお定め書」も然る事乍ら、”腹に据えかねる「羨望嫉妬の青木氏族」”が居た事に成ろう。
    何度も云うが、「青木氏族」であり乍らも大化期からの「伊勢屋の商人」である以上、上記の様な「高飛車な意識」は毛頭無かったのであって、そもそも其れであれば「商い」は出来ないだろうし、「相手方の持つ否定できない自然の意識」と成ろうし、問題はその「意識の大小」と成るだろう。

    従って、「青木氏族=伊勢屋」が執るべき手順としては、戦略上、先ずは、”「紀州藩の申請(ダミー策)」”〜”「大船建造(事前建造)」”〜”「東周り廻船の申請(事前交渉)」”の過程を踏んだと観られる。
    この「戦略の手順と過程の差配」を違える事は、「幕臣の反発」をより喰らい「殖産計画全体」が成り立ち難く成り得ていたとも考えている。
    何故ならば、この「大岡裁定」は、「殖産」に執ってはそれなりの影響は否定できないが、「次元の低い裁定」と観ているからで、その「低い思考能力」からすると、「船の建造」を進めていたとしても「影響」だけではなく「運搬」で円滑に全体を動かせなくなる可能性があった。

    依って、筆者は奉行所が「案件」を否定したのは、上記の「周囲の意識説」は間違いは無いと観ている。
    “伊勢の事 お構いなし"の”「お定め書の事」を気にせず「正しい裁定」を「山田奉行所の大岡」が下した”とあるは大いなる疑問である。

    「伊勢のお定め書」の原型は、元々は、「伊勢の国の守護王」であった「施基皇子」に対してもので、「日本書紀」にも記載のある「不入不倫の件」の「伊勢」に下した「大化期のお墨付き」のコピーでもある。
    つまりは、「美化の典型」の「大岡裁定」を左右させなかったとある”「お定め書」”は、恐らくは「献納」に対する「見返りの追認」ではないかと考えられる。

    これは「家康」が、“バランスをとった”云う事であって、記録めいたものが事更にないと云う事は、「青木氏族」に執っては、”「今更の件でもない」”の程度であっただろう。
    つまり、これを「根拠としての裁定」とは、「青木氏の歴史観」からすると、当時としては”何をか況や で馬鹿らしい”であっただろう。

    この様に「大岡の一件」を捉えても、「青木氏の歴史観」から観ればこの様に変わり、そもそも、先ずはこの様な事は、普通は「一氏」からの”「史観」”で見る事はしない。
    故に、少なくとも「青木氏族」の周囲に起こっていて、或いは関わっていて、「公の史実」と成っている「史観」にはこの様に大きく変わる為に、一度、「遺された史実」を調べ疑問を持つ必要があるのだ。

    そもそも、「青木氏族」と云うのは、その様な「特異な立場」(青木氏の歴史観)にあったと云う事である。
    少なく遺されている「氏族」の中でも「史実、史観」として掴んでいるのは、「青木氏族と近江佐々木氏族」くらいではないだろうか。
    この「二氏に関わる事の歴史観」は大きく変わる事を知る必要があるが、「藤原氏の場合」は各所に遺されている資料が多すぎて、その結果、他説が多すぎて散在し過ぎている気がする。
    「氏族」のみならず、「下剋上」で勃興した「姓族」のこれをうまく使われて、それには「搾取偏纂」が多すぎて又論じ難い。
    それはそれなりに楽しめば良いとされる論法もあろうが、「姓族の場合」は「氏族」の様な「歴史観」は無い事でもあるが、「最低限の歴史観の辻褄」を合わしてもらいたい。
    筆者はあまり採用したくない論法でもある。


    上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
    殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。

    さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。

    従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。

    この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

    余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。

    この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
    これは史実にもある。



    > 「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−14日」に続く。


      [No.359] Re:「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2018/02/19(Mon) 10:06:17  

    >「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」の末尾


    当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
    云うまでも無いが、この「血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
    これにて「何らかの血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
    そして、それが、況や、“「女系族」”であったと説いている。

    その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
    逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

    次の段では、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
    「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
    これに付いて次段で論じる。




    「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」

    「女系族」の「四六の古式の概念」

    さて、話を少し戻す事に成るが、「上記の女系族」の「清らかな血縁性の源流」の為にそこでより考えられたのが、これが前段で論じた「四六の古式の概念」であった。

    つまりは、“四を保ち六を入れる”とすれば論理的には「純血性」は保てる事に成ると云う考え方である。
    それには、この「四六の古式の概念」で得た“「純血性」”、つまりは、「青木氏族」ではその「歯止め」と云うか「指針」と云うか「基準」とするかそれを定めたのが“「四掟」の事”に成る。

    然し、「現在の概念」で考えてみれば、「六」が「四掟(六掟か)」で縛り、「四」が「入り」に成っての以上程度が、「完全純血」が無い以上は、始めて“「純血性」”と云える論理だとも考えられる。
    然し、これでは前段で論じた様に「血縁性の弊害(唖子等)」を出す所以と成っていたと云う事であろう。

    (注釈 これが「六四の概念」以上を保とうとする「天皇家の理屈」であろう。)

    筆者は、「青木氏族」はこの時期の頃から既に「血縁性の弊害」のこの「経験値」を獲得していたと観ている。
    そして、そのより「弊害を薄める方法」を今までの「男系」に頼るのではなく、前段の論理性で“「女系」で行う”と云う方向に舵を切っていたと云う事なのであろう。
    当時としては、「皇族朝臣族」とは云え未だ「妾子族」への「社会の見方」はそれほどでも無く、より「妾子族」であるが故に「血縁性の弊害」には神経をとがらせ「経験値」を得ようとする姿勢が強かったと考えられる。
    現在医学から考えて、当時としては充分な医学的根拠なくしても、「経験値」で「雄」があくまでも「補完役」であって、主は「女系(雌)」が「人の類」の「遺伝情報」を引き継いでいるという事を知っていた事にも成る。
    そうすると「男系の継承」を逆の前提としている「社会の中」で、或いは、もっと限定すれば「皇族系の中」では、この「考え方」は明らかに「異端」であった事に成る。
    これは、恐らくは「宋貿易」をしていた事に依る「知識の吸収」の影響ではないかと観られる。
    そして、「宋貿易以外の知識」を補完するものとして、それは「経験値」のみならず「人の類」(雄雌)の「外見上」からの「雄」が持つ身体上の「四つの不要な差異(前段で論じた)」を分析して見抜いていた事にも成る。

    「歴史観的」にもっと云うと、その「分析の知識」、或いは、「確たる鋭利な感覚」が強く「青木氏族の中」にだけあったという事にも成る。
    そんな「異端の考え方」が果たして「志紀真人族」の中にだけ許されたのであろうか疑問に成る。
    然し、何故か現実には成り立っていたのであった。
    そうすると、“何かがあった”から「賜姓五役の立場」の「志紀真人族」には許されていた事に成る。
    その“何かがあった“とするものが何なのかである。

    そこで、更に云うと、「宋貿易の知識吸収」のみならず、中国の紀元前の「華国の時代」の「国王の歴史」を始めとして、そこで起こった「知識」を獲得していた事にも成り、大和では「天皇家」が「権威と象徴」を保つ事の為にだけ「純血と云う事」で、この“「六四の掟」”に拘っていたからこそ「青木氏族等」はこの”危険性”を感じ取っていたのではないかと考えられる。
    そして、「志紀真人族」はこの”「危険性」”から鑑みて、「孝謙天皇期」では、最早、“「純血性」が保てなく成った”と云う事を事前に読み解いて知っていた事にも成ろう。
    それは、「華国」を始めとして中国に興った国々の歴史期間を見れば約50年程度で滅びている事の知識であった。
    この様に「純血性」に拘り過ぎると「国王、或いは、天皇」の「権威の象徴」を消失する事にも成り得る「世の掟」であろう。
    つまりは、この「経緯」から観ればすぐ近くで“滅びる”と云う前提にあった事に成る。

    (注釈 この時期迄に百済を経由して「王仁等の渡来人」の「中国人の学者」が多く渡来して大和に「中国文化と歴史」を伝えていて知り得ていた筈であり、「国家体制」を確立した大化期では是非に知り得なければならない進んだ国の情報であった筈である。)

    それなのにでは何故に、「国王や天皇」は「権威と象徴」の為に例外は無く「純血性」に拘ったのであろうか。
    それは、それ以外に方法が無いからであって、「武力と云う方法」もあるが、それでは「武力」によって潰された者の「恨みの輪廻」が増幅する事に成り、「人」を束ねる事は何時かは出来ない事を「経験値と情報」で知っていた事に過ぎない。
    故に、「蘇我氏」等を危険を顧みず苦労してこの「周囲の力」を集めて「武力」で取敢えず抑えたからこそ、「天智天皇の大化の改新」では、研究書では「天皇を凌ぐ蘇我氏の専横」と結論付けられてはいるが、確かにその事(武力の脅威の心)もあった事は否めないが、「武力」に頼らない「制度的な対応策」を考えた事に成る。

    (注釈 この「皇族」は勿論の事、或いは、「公家族」や「武家貴族」の考え方には、”「武」を持たない”とする「ステイタス」が、江戸末期まで保たれた所以でもある。
    ”「武」を持つ事はその位格を傷つける”事とする「暗黙のステイタス」があった。
    表向きの理由は別として、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”と成ると考えていた筈である。
    現実には、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”から逃れようとして室町期にはこれを破った平安期の「源氏」を始めとして室町期の公家族の「北畠氏」、「西園寺氏」、「一条氏」等は結局は滅亡した。)

    唯、元々、「武力だけへの対応」は、「ある条件」を除いて何時の世も論理的に無理であろう。
    「武力を持たす姓」が今度は蘇我氏の様に成れば元の木阿弥である。

    では、この”「ある条件」”とは、一体何か。それが次ぎの事に関わるだろう。
    然し、そこで「天智天皇」は、不思議に、それも唐突にも突然に「后妃嬪妾の制度」を「国の制度」に取り入れて実行した。
    この事は、先ずは「権威と象徴」の為の「純血性の維持」に依って、“「天皇家を弱めると云う危惧」”を抱いていた事に他ならないと考えられる。
    この侭では「蘇我氏」の様な「象徴と権威」だけに拘らない「自由な血縁性を持つ豪族」にその「天皇の立場」を奪われると危惧したのである。
    そして、その上で目の前に起こっていたその「きっかけ」と成ったのが、”「純血性」から起こる「唖子(軽皇子の事)」に象徴される事にもあった”と認識していたと云う推論である。
    つまり、「数多くの唖子の現出」が「天皇家の権威性」が低下させると認識していた事に成る。
    故に、”外からの脅威の「武力」”と、”内からの象徴を脅かす「純血性の弊害」”から逃れられ、且つ、これらに頼らないで「権威と象徴」を樹立する事にあり、この為にはこの”「ある条件」”を確立させる事に気が着いたのである。

    そこで、この”「ある条件(妾子を利用する事)」”を確立させるに必要とする事の為には、「国家成立」後初めての「政治の大改革」、つまり、「大化の改新と云う制度の創設」などに依る改革を決断したのである。
    何としても「激しい抵抗」を受けながらも断行し推し進めるしか無かったという事に成る。
    故に、先ずその為には、”先ず隗より始めよ”であって、”「妾」”を”隗”と見立てて制度として唐突にも「公」に取り入れたのである。
    これが先ずは”「ある条件の対策(妾子の環境造り)」”としたと読み取れる。

    これは勿論の事、「純血性(イ)」を緩和し、且つ、「豪族との繋がり(ロ)」をより一層強化する事に意味があった事は云うまでも無い。
    ところが当時の「貴族社会」としては、そもそも“「妾」を制度化して採り入れる事”のそもそもが極めて“「異端」”であった。
    確かに「青木氏族等」も「四六の掟」で、“「異端」”のところがはあるが、親元の「天智天皇」も元より「異端」を演じていたのである。
    これでは「四六の概念」を持った、或いは、「四六の概念」を持たされたとしても「非難される筋合い」は必然的に無く成る事と成る。

    それが、(イ)や(ロ)だけであるのならば、「后、妃、嬪」と「妾」の系譜や「三つの身分制度」から観ると、そもそも、何も、「后、妃、嬪」の階級だけでも済む筈であり、これは判るとしても、態々、“「妾」”を制度に明記する必要性は何も無くそもそも一見してこの制度としては「変」である。
    普通では、“「妾」を持った”としても補助的に「子孫を遺す目的の為」として「高位の者」が持つ事は「何処でもあり得る仕儀」で放置して置くものであり、それを態々制度して書き込んだとする事には、そこの“「異端」”には“「何らかの意図」”があった事を示すものであると観る。
    そもそも、その環境として、つまり「天皇家の基礎環境」としては、それ以前は「六四の掟」ではなく「七三の掟」位以上であった事が判る。
    然し、後勘として観ても、この何も対策を採らない侭の「純血性」であるとするならば「七三の掟」にしても「六四の掟」でも、どう考えても「血縁性の弊害」を防ぐにはこれでは無理である事は明々白々である事が判る。
    結果としては、その「権威と象徴」は低下してその行く末は目に見えている。
    だから、この上記の様な切羽詰まった「天皇家の中の基礎環境」があり、そもそも「制度」として「妾を制度化」し、その上で“「妾子を賜姓」”して、且つ、「臣籍降下族」としたと成るだろう。
    「妾子族」では無く、「后、妃、嬪」の「嗣氏族」ではこの周りには「姓族の傍系尊属」が付き纏いその「天皇の立場」を侵されるは必定である。
    そこで、この「遠隔の地方の土豪を外縁」とする事で心配は無く成り、その上で”「妾子族」”とする事にすれば、これ成らばある程度に納得できる。
    然し、それだけでは済まい事は明らかである。

    つまり、この為には「后、妃、嬪」の族から護る為には、”「周囲の策」”を固める必要がある事に成る。
    この経緯を先ず「お膳立て」をして、そこで生まれるその「施基皇子族」や「川島皇子族」の様に、その「経緯の最終」はこの“「妾子ルーツ」”に頼る事にする、或いは、頼らなければならない事にして行くその様に運んだと考えられる。
    然し、故に、この「二つの欠陥」をあまり持たない「四六の概念」を持つ”「妾子族」”であるがこそ「頼る事」としたと観られる。
    ”「周囲の策」”を凝らした上で頼る以上は、この「四六の概念」が「必須の条件」と成ったと云えるのである。
    これが「青木氏の歴史観」から観れば、”「大化の改新」の「大きな背景」”ともしたとも又云える。

    注釈として、現実に、そこに至るまでには”「周囲の策」”、即ち、多くの”「成すべき手立て」”が必要であった。
    そこで、先ずはそれまでは「真人族の皇子」は、「第六世族迄」であったがこれを先ず「四世族迄」とし、「真人族」は「第四位迄」として制限して、これから外れた四世族までの元皇子を王位に下げて遠隔の主要各地に遥任を認めない「守護王」(a)として配置し固め、そして「第六世族」以降は例え元は「嗣子族」であっても無冠の「ひら族・(坂東八平氏)・(たいら族では無い)」(b)として下げて「坂東の警護」に廻した。
    当然に”「遥任」”でない以上は土地に根ずき「末裔」を遺す以外に無く成ったのである。

    つまりは、これが「天皇家が恐れる姓化」であったが、「姓化に成る事」を事前に承知した上での「恣意的な配置」をした事を意味する。
    遠からず「嗣子族」が必然的に姓化に成るとするならば、「都付近の姓化」よりも、「遠隔地の姓化」と成る方が”より安全である”と判断した事に成る。
    そして、その代わりに「四世族内の第六位皇子の妾子族」には、「都の天皇の警護」と「都を囲む主要五天領地の遥任の守護王」として配置して固めたのである。
    例え、「遠隔地」に配置され、”「ひら族扱い」”に成った「第六世族以降の嗣氏族」から観れば、”何が妾子族ぞ”とする「蔑視の感覚」はあったであろうが、「妾子族」であっても「第六位皇子とする制度化」に依って抗う事が出来なく成った、或いはその様にしたのである。

    この状況は以降、「天皇」が変わる度に起こる事には成るが、その度に全ての「姓化に成る嗣子族」が都近くにいる事はそれだけで危険であり、これを避ける為には先ずは「遠隔地」に追いやり身を護る策を採った事に成ろう。
    普通ならば「嗣子族]だから「身の周り」に置いて固めるとする策と成ろうが、然し、この「常識的な一般策」を採らなかったのである。
    そこには歴史が教える”「嗣子族」”の”「外縁族の影響」”での”「姓化」”が必ず起こる事を学習した結果の対策であった。
    当然に、外縁族が都の周りに増え続ければ、その発言力は増し、天皇の立場を侵される事にも成るは必定で、そこで嗣子族を遠ざけた事に成る。
    これらから観ても、明らかに「四世族内で第六位皇子(妾を制度化する事で皇子に成る)」の”「妾子族」”で身を護り、且つ、それに必要とする第二弾の「順次改革」を進めたのである。
    これで、その後裔が広範に広がり「姓族化」に成り安い”「嗣子族」”で固めずに”「妾子族の身内」で固め頼った事はよく判るし妥当だと考えられるのである。

    そこで、「青木氏族」を客観的に観れば、この経緯から観ても避ける事の出来ない”「嗣子族の姓化」”で、次第にこれに対抗する「青木氏族等の妾子族に掛かる負担」は難しく大きく成った事は充分に予想できる。
    要するに、ここには「第六位皇子の妾子族」が持つ「四六の概念の有無の基準」が存在したという事に成る。
    この「四六の概念」を持たない「自然発生的な姓族化」は防ぎきれ無い定めに有っても、そこで、「四六の概念」を敷きながらも「賜姓五役」を務めるという事は至難の業であった事に成ろう。
    普通なら、”そんな「面倒な四六の概念」なんか捨てよ。「妾子族」であろう。”と成るだろう。
    然し、「青木氏族や佐々木氏族」は捨てなかった。
    つまりは、「姓化」はしなかったという事に成る。
    そこには、「大化の制度化」に依って、本来であれば”「妾子」”で終焉する筈であったが、「天皇の意」に顧みて「第六位皇子と云うプライド」がそれをさせ占めた事に成る。

    (注釈 然し、後には「aとb」は、姓族化した事で、矢張り、遂には「逆の事」と成り失敗に終わる。
    その「失敗の終焉」は、見事に「鎌倉幕府」の後ろ盾に成った「姓化した坂東八平氏の勃興」であった。
    即ち、「四六の概念」を捨てた「第六世王族の末裔の姓族化」であった。
    つまり、この姓化で結局はその「招いた事」は「蘇我氏の専横以上の事」と成ったのである。この姓化の結末は矢張り「世の定め」と捉えられた。
    所謂、「武に頼る嗣子系の姓族」と「四六の概念を済に求めた妾子族」とには、その「生き方の差異」は生まれていた。
    然し乍らその最終の経緯は、室町期終焉では”「姓の武」と「氏の済」の勝負”と成って行き「四六の概念」を敷く「氏の済」が勝利を得たのである。)

    (注釈 然し、さて、これだけの「改新の改革」を立て続けに実行する事は現在でも難しい。
    これを「取り巻く勢力(蘇我氏など姓族と姓化の姓族)」が黙っていない事は直ぐに判る。
    況や、「世の定め」として大きな「立場上の利害」は生まれる。
    それだけに「世の定め」とは云え「天皇の身辺」は元よりその膝元の「要害と成る都を護る事」は高まり、この”「妾子族」(氏上と氏人の族)”で護る必要性は高く成り、「主要五天領地の警護」も「妾子族の青木氏族」等に委ねたと成る根拠である。
    「姓族」では無く「妾子族」に任した発想は、「三相」を得て戦略的にはよく考えられているだろう。
    唯、「妾子族の四六の概念」に護られた「氏上と氏人」に依るこれの「防護態勢」には、「姓族化の進捗」が大きく影響する事と成り、そこに限界が生まれるは必然であろう。
    そこで、平安期中期前頃から室町期末期までにかけては、「妾子族」は「四六の概念の縛り」から、敢えて逆の手を使って「戦国で滅びた姓族」を集めて「経済的契約に依る防護体制」、即ち、「影の武力組織」の「シンジケート体制」を構築して、「氏上と氏人に依る防護体制」の「自らの補完策」を採った。
    当然に「藤原秀郷流青木氏の補完役」の上により強固にする事で対抗した。
    従って、「妾子族」の「自らの武」は「四六の概念」の上で絶対に執らなかった。
    つまり、「直接威力」では無く、”「抑止力」”であった。
    この意味で「四六の概念」=「抑止力」の関係が成立していた。
    「氏人の関係」は兎も角も「四六の概念」の中の「補完役の青木氏との関係」は「青木氏族全般」を形成する上で絶対的条件の中にあった。
    この「二つの抑止力」は”「姓族」”に執ってはこの上ない”恐怖”であった事は予想できる。
    況してや、この「二つの抑止力」の上に「上記の済」が伴うのである。
    済に依る持久力があり、且つ、何時、何処から攻め込まれるかもしれない”「お化けの様な影の力」”を持ったものに襲われるかも知れない「抑止力の勢力」にこれに適う「姓族」はいないだろう。
    そして、「天皇のお墨付き」を持つ「妾子族と云う権威」が着いている。
    逆らえば、例え姓化した「嗣子族」でも「逆賊の汚名」を着る事に成る。
    この「恐ろしい勢力」が「天皇を護る」とした場合は、当時としてはこれらは”考えられない発想”であったと考えられ、周囲は唖然とした事の様子が目に映る。
    これらの事の一切は、「妾子族の四六の概念の所以」と成り得るのである。)

    (注釈 「姓族」では無い「補完役」の「藤原秀郷流青木氏の補完役」を作っただけではその「抑止力の効果」はない。
    そこで、「天皇」、即ち、「朝廷」は、「秀郷流宗家」以上に「藤原秀郷流青木氏」を広く「24地域」に広げ、且つ、多く「116氏」にしてこの「抑止力」を高めた所以であると観ている。
    普通ならば、賜姓して補完役を命じたとしても、その秀郷流宗家以上に力を持たす事は無かった筈である。これが前段でも論じている「第二の宗家」と呼ばれた所以でもある。
    所謂、これが「永嶋氏」や「長沼氏」や、将又、広く「長谷川氏」や「進藤氏」を含む「青木氏族」である。
    ここまで「補完役」が広がれば「外縁族の北家藤原一門」を含むどの様な勢力であっても「妾子族」には手を出せないであろう。)

    (注釈 「佐々木氏族」が「補完役佐々木氏」とどの様な関係を構築していたかは良く判らない。
    唯、「近江宗家佐々木氏」が出している研究書から観ると、「宇多源氏佐々木氏の補完役」との関係が観えず、むしろ、「青木氏族」に関する「秀郷流青木氏族との関係の研究」が目立つ。
    これが歴史的にどの様な意味を持っているのかは研究は行き届いていない。
    不思議な疑問の一点である。
    これに付いては予想の域を脱しないが、各地に余りに姓族化して散在する「補完役との関係性」が良くなかったのではと考えられる。
    それはあまりの「補完役の姓化」で「近江宗家が持つ四六の概念の域」を超えていたからであろうか。
    それは、研究書によく出て来る「近江佐々木氏系青木氏」に表れている事であって、「四六の概念」を敷く「青木氏族」の「近江青木氏との連携」を執っていた事からも凡そは読み取れる。
    「補完役の宇多佐々木氏」よりも近くにある「近江青木氏との関係性」を重視したと云う事に成るだろう。
    それは、「近江宗家佐々木氏」と「近江青木氏」とには、固い”「共通する点」”があって、”「天智天皇の妾子族」で「同祖」として、同じ「四六の概念」を敷く一族と観ていた”と云う事に成るのではないか。)

    だが、この「妾子の賜姓」には、「天皇家の基礎環境」の中では、要するに「目的」が上記の二つ(イとロ)、言い換えれば「天皇家の保護」と、「純血性の維持」にあって、その“二つが上記の”「妾子の事の目的」”とも深く連動していた事”に成る。
    況や、これが発祥時から「青木氏族や佐々木氏族」の中には、この「連動目的」から逃れられない”「宿命があった(「四六の概念」)」”のではある。
    だが、そこで「天智天皇」は「大化の改新」で「青木氏族」と「佐々木氏族」を”「妾子族」”でありながらも、この”「宿命」”を持たす為にも、前段でも論じたが“「直系尊属(皇族の朝臣族)」”として発祥させた事の所以にも成るだろう。
    当時としては、本来であれば、”「系譜」にも抹消される立場”にもあった筈である。

    (注釈 「嵯峨天皇の詔勅」に依って「青木氏」に代わって賜姓を受ける様に成った「源氏」には賜姓を受けない源氏も実に多かった。
    歴史的な記録からに観て、全源氏22源氏と称される内のこの「賜姓有無の基準」は、「皇位に残れる事の差」、即ち、大枠で「嗣子と妾子との差」にあってその約半分に当たる。
    嵯峨期以降で、「嗣子族」を含み「妾子族」として遺れた族は「姓族」や「氏族]としても皆無である。
    正式に「源氏族」としては、「花山源氏までの11流」を最後にその”「正式な目的」”は終えている。
    「各地の源氏土豪」とする説は、この「正式な目的」から逸脱していて、到底、「源氏」とは云えず「江戸期の後付けの偏纂(黒印状)」であって、殆ど”「僧侶」”としてその族を遺さず一生を終焉している。
    その「食」に苦しみ「天台宗寺院、門跡院、善光寺、真言宗」の記録を観れば、その「源氏と成り得た人数」からも数は合わない。
    それは、前段でも論じたが「善光寺の内部の組織」を観れば一目瞭然である。)

    この「注釈の事」を配慮すると、外から観れば、同じ運命にあった「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族の妾子族」は、これはまさしく世に示す特別な”「妾子の権威付け」”であった事に成るだろう。
    つまり、「天皇家の基礎環境」には、「妾子を権威づける絶対的必要性」があったと云う事である。
    「嵯峨期以降の賜姓族」は、その「四六の概念」等を始めとする”「正式な目的」”は霧消している事である事から比較すると、その大化期の「妾子族の位置づけ」は比較に成らないものとして証明できる。
    その「決定的な所以」として位置付けた上で、その上で「四六の概念」等を敷く事を前提して”「賜姓五役」”を与え、”「皇位の准継承族」”と更に位置付けたものでもあろう。
    これで、後の「源氏族」の様に「無役」では無く、”「妾子族」”であってもこれで「絶対的存在価値」を世に示した事を意味する。
    ここから「大化期の妾子族」は、”世にその存在を認められる様に成った”のである。

    その最たる経緯が、「妾子族の青木氏族」は嫌ってはいたが、「孝謙天皇期の白羽の矢」”という事に成る。
    その意に反する「経緯の状況」は、同じ「青木氏族の嵯峨天皇」に依って「打ち止め」された。
    長く云えば、その経緯は「仁明天皇」迄と成ろう。
    「四六の概念の論」を結論付けてしまうが、「始祖と後裔」の”意に反していた”とする処から観れば、「青木氏族」に執っては一時は「嵯峨天皇」に苦しめられたが「子孫繁栄」では縛られることも無く却って良かったかも知れないとも考えられる。
    前段でも、論じたが「嵯峨天皇」の「隠された真意」はどこにあったかは今と成っては判らないが、「青木氏の歴史観」からすると後裔としてはここにあったのかも知れないと思いたい。


    (注釈 「妾子族」を系譜から外す慣習は武家社会に成っても長く存続する概念でもあった。
    因みに、「清和摂津源氏宗家の源の頼政」の孫、「仲綱の子の系譜」には、「伊勢青木氏の跡目」として入った「妾子の京綱」を一部で記載しない古書籍もあるくらいである。)

    (注釈 前段でも述べたが、”「妾子族」の「青木氏氏是」”は、この「権威付け」で「施基皇子の青木氏族」と「川島皇子の佐々木氏族」に限っては「妾子族」は世に強く認められる様には成ったが、「天皇家を護る族の範囲」を超える事無くこれを前提として、”頭に載って前に出過ぎるな”とする”「絶対的戒め」”である。
    「物語る事」はこの「氏是」に尽きると筆者は観る。
    唯、「佐々木氏族」にはこの「佐々木氏氏是」になるものがあったかは、「佐々木氏の宗家の研究書」を観る限りに於いて明確ではない。
    然し、研究書から読み取れる範囲では当初はあったとも採れる。
    唯、「補完役」として出自の「宇多源氏の佐々木氏」の出現で消えてしまったのではないかと考えられる。
    「近江佐々木氏の宗家末裔」の「剣豪佐々木小次郎の書」を観ると、衰退していた「近江家宗家の御家再興の行」から「氏是の様な行動規範」で動いていた事が読み取れる。
    この事から「青木氏族」と同じ境遇にあった事から、当初は、つまり、平安初期頃(中期頃か)迄は「宗家」だけには確定は出来ないが受け継がれていたのではないかと想像できる。
    何をか況や、「近江宗家の佐々木氏族」には、仮に「佐々木氏氏是」が細々と宗家だけに受け継がれてあったとすれば、江戸期頃までは「四六の概念」も受け継がれていたするパロメータにも成り得る。
    筆者は、「宇多源氏佐々木氏の姓(890年代頃)」が出自の段階で、単独の「総宗本家」だけは別としても、「佐々木氏族全体」として霧消したと観ている。
    少なくとも「青木氏族」も大きなダメージを受けた「嵯峨期の詔勅頃迄」はあった事は充分に頷け「四六の概念」の形を変えて江戸期直前まで維持していた事は前段でも論じ事である。
    その「佐々木氏氏是」、将又、「四六の概念」の存在の証拠は、「佐々木氏系青木氏の出現」にあると観る。
    そうでなければ、「四六の概念」の基となる「四掟による血縁」は起こり得ず、「佐々木氏系青木氏の出現」も成し得ないからである。
    つまりは、「佐々木氏氏是」、「四六の概念」、「四掟」も「佐々木氏系青木氏の出現」迄は存在していた事を意味するものであるからだ。)

    (注釈 そもそも、追記するが”「源氏の呼称」”の原点は、中国の「魏」の皇帝が他国を滅ぼし、その国の王を上記した儀式で家臣にした時に、その「祖」は同じとして、その者に「源」と名乗らせた。
    この「中国の経緯」から「天智天皇の妾子族の青木氏族」と同じとして「源」の氏名を「嵯峨天皇(志紀真人族・青木氏族)」は与えた事に依る。
    この「源の意味」を知った上で、その「生き方」は上記や下記に論じている様に違ったが、「青木氏族と源氏族の関係」を理解する必要がある。
    尚、「源の呼称」として、目的から観れは「花山源氏」、ルーツ的にみれば「仁明源氏」迄であろう。
    後は、その「目的とルーツ」から正確には”「源」”とは言い難い。「慣例に依る呼称」であろう。
    「青木氏の歴史観」から観れば、「青木氏族」と繋がる「源」が「源」なのである。
    故に、「嵯峨天皇の親元の青木氏族の象徴紋」の「笹竜胆の継承」と成った。
    つまり、「目的とルーツ」からは「仁明源氏」迄は正しい事に成り「笹竜胆紋」は納得できる。
    唯、「清和摂津源氏」の「宗家の四家」の「頼政との繋がり」を「青木氏族・伊勢と信濃」が持った事では、「目的とルーツ」では「源氏と笹竜胆紋」は納得できる。故に使ったのであろう。)


    さて、そこで「華国」の様に、“初めて執った「国家形式」”の、“初めての「妾子族」に対する「酒瓶に基づく家臣儀式」”だけでこの事が済むのであればいざ知らず、その侭では必然的に生まれてくる「家臣力(官僚族)の拡大」は防ぎきれ無い。
    そこで、「中国の華国」等の「滅亡に至る結果」を観る様に、これを「事前知識」として知っていた「天智天皇」はこれを避ける為にも、「大和」でも「家臣の蘇我氏等」に対抗できる“「直系尊属」を「天皇家の外に造り上げる事」”で対応したと観る。

    故に、その為に「絶対信頼できる身内」の「妾子族の皇子」に「一定の規則(四世族内第六位皇子)」を宛がい、その「皇子」に“「賜姓」”と云う手段を始めて使ったのであり、「家臣の豪族の朝臣族(高位の官僚族)」に、「皇族の朝臣族」を加えて創設し、「華国の習わし」を用いて“「酒瓶」”を交わし与え、権威付けの「象徴紋」を与え、「氏神木」を定めてその行事を神格化し、「賜姓五役」の「令外官の役目」までを与えると云う事までは行わなかった筈であると観ている。
    明らかに、これは正式で完全な「二つの目的(イとロ)の為の儀式」である。
    この“正式で完全な儀式(賜氏の儀式)を世に見せる事”で、「妾子族」であってもこれは明らかに蘇我氏等の様な「豪族に対抗し得るだけの権威のある力」を着けさせた事を世に示した事に外ならない。

    そこで、この上記の通りに、この様な「天皇家」の中にも、この様な“「下環境(基礎環境)」”があり、「異端(四六の概念の保持)」な「皇族賜姓臣下族」だけに文句をつける筋合いは、「天皇家」は元より“「周囲の官僚族」”にも無かった事に成る。
    この“「異端」”とも観られる「四六の概念」を敷く事には、そもそも“「異端」”どころか、「違和感」そのものが無かったと観られる。
    百々のつまり、この「青木氏族や佐々木氏族」の“「四六の概念」”は、「皇族賜姓臣下族」として「当然の事」として認められていた事にも成り得る。

    (注釈 これらの「賜姓時の儀式」に授与された「遺習物品」のものは「記録」を含めて「伊勢青木氏族」に現存保管されている。
    「近江宗家の佐々木氏の研究記録」に、この「遺習物品」に付いての記載がないので「佐々木氏族の近江宗家」に存在するかは確認が取れていない。)

    (注釈 そこで飛鳥期から始まり奈良期の当時は、そもそも、歴史的に“「賜姓」とはどのような位置づけに成っていたか”に成るのだが、その「日本書紀の記録」に最初に観られるものとしては、つまり、先ず“「賜姓」”に付いての「最初の歴史」に観られるものとしては、「垂仁天皇期」にあり、“敦く湯河板挙(ゆかわたな)に賞す。則ち、「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”とある。
    これは「中国の華国」に観られる様に「家臣(官僚族)」に成る儀式に対しての「姓の賜姓」によるものであって、且つ、「氏名の賜姓(皇族)」の最初は、同じ「日本書紀」にも見られる様に「天智天皇期」にあり、これら「家臣(官僚族)」に対する「姓名」と、「皇族から臣籍降下した皇子」に対する「氏名」を二つに分けて正式に制度化した事に成る。
    この意味は「青木氏族」や「佐々木氏族」に執って大きい。)

    「姓名(官僚族)」と「氏名(皇族系朝臣族)」との違いと、その「目的の違い」からすると、前者は当に「賜姓」で、後者は明らかに「賜氏」である筈である。
    然し、「日本書紀」では、「賜姓「の「二つの事例」で「賜姓の言語」を使っている。
    この事は、且つ、「天智天皇の意」を引き継いで上記で論じた様に「二つの目的」で制度化したのは、「八色姓制度等の政策」にある様に「天武天皇期」にある。
    つまりは、「姓族の賜姓(官僚族)」と、「氏族の賜姓(皇族朝臣族)」とは、「考え方」を別にしていた事に成る。
    これが後に、上記の“「周囲の官僚族」“として記した「朝廷内を構成する姓族」に対するものを、その「目的」はさて置き、兎に角はその違いを明確にしようとした「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」(下記に論じる)に繋がって行くのである。

    (注釈 然し、ここで考察として、その前に、記したいのは「垂仁天皇期」のそれを“「姓(かばね)」”としている以上は、「中国の華国」に見習って「家臣・官僚に対する制度」を前提としていて、「賜姓」は「酒瓶の儀式制度」と連動した制度あった。
    従って、当初は「家臣(官僚)」に対する「儀式の一環」で、少なくとも「氏名」とする「皇子」に対する「臣籍降下の賜姓」では無かった事に成る。
    「天皇の立場」から観れば、儀式化に依って、「姓」は、他人の「家臣又は官僚」、「氏」は、「身内の同族」と見極めていた事に成る。
    「他人の姓」は元より、この「身内の同族」にも、”二つに分けて観ていた”という事に成る。
    その「判断基準」が、「姓化の有無」、即ち、「四六の概念の有無」、将又、「嗣氏族と妾子族の差異」との三つにあったと観られる。
    この「天皇の三つの判断基準」からすると、残るは妾子族という事に成ったと云う事である。)

    そもそも、その「賜姓の目的」は異なる。
    上記した様に「本来の意味」、又は、その「目的」からすると「賜姓」では無く「賜氏」であるのだが、それを明確にしている証拠が「日本書紀の天武天皇の発言」(前段でも記したが改めて記す。)にある。
    後に、「ある種の問題」が出て、敢えて、ここでこの「官僚族に成る賜姓」、つまり、「姓族に成る賜姓」と、「皇族の臣籍降下の賜姓」とを明確に分けようとした、或いは、分けて違いを明確にしたものである。
    然し、判る範囲では、この「違い(「ある種の問題」)」から始まって、「三代の天皇」が正式に手掛け、遂には「新撰姓氏禄」たるものがまがり乍らも編纂されたと考えられる。

    筆者は、この計画は正式には「最初の淳仁天皇」の前の“「持統天皇期」”から既に企画されていたと観ている。
    「官僚族に成り得る姓族の賜姓」とは別にして、この新しい「皇族賜姓臣下族の賜姓」、つまり、「臣籍降下の賜姓」を始めた「天智天武の意向」を継承した「持統天皇期」にあると観ている。
    その「根拠」と成るのは、「日本書紀」にも記されている“「天武天皇の発言」”にある。
    それまでは、「朝廷内の高度な専門性の持った官僚族」は、殆どが「蕃別」に記された「後漢からの渡来人」であった。

    (注釈 改革を進める上で、「天武天皇」は「進む改革」に対してのその進捗状況を官僚から聞き、「家臣・官僚」に厳しく問いただしていて、その「問題点」を指摘され、その事に対する「命令」を下している行である。)

    つまり、前段でも何度も論じられた「阿多倍王」に率いられた「後漢の部の族」と云う族で、その専門域を「・・部」と云う呼称で括り、「極めて優秀な官僚族」で占められていた。
    “「大和の民の官僚族」が育っていない“と云うその事を憂いた「天武天皇」は、官僚の部下に”「大和の民」にも「優秀な民」を選んで早く「姓(官僚族)」にしなくてはならない”と命じている。
    「後漢の部の民」は、「高級官僚」としてその能力を発揮し、「朝廷の三務」、つまり、「大蔵、内蔵、斎蔵」の「部造(べのみやつこ)」として「賜姓を受けた姓名の持つ官僚族」が殆どを占めていた。
    最たるものは「伴氏]や「秦氏」や「物部氏」や「鞍作氏」等多くいる。

    (注釈 これが「新撰姓氏禄」の「蕃別」に所属する「姓族」の事であるが、「斎蔵」が「神別」に所属する「藤原氏等の姓族」の事である。)

    「後漢の渡来人」の「阿多倍王」の長男はこの「蕃別」に所属し、且つ、「賜姓族」でもある「征夷大将軍の坂上田村麻呂」もそうであるし、三男の「賜姓族」の「安倍氏に繋がる内務大臣・財政の内蔵氏」、次男の「賜姓族」の「九州域の後裔に繋がる全政務と財政の大蔵氏」は、最たる「渡来系の姓の官僚族」である。

    この「日本書紀」にある「天武天皇の命」より、「大和の民の官僚族」に成る為の「姓の賜姓(本来の姓族の賜姓)」を受けていたのである。 
    中国では「華国」のそれに見習い、「官僚」と成り得る「宦官制度」と云うものを敷いた。

    (注釈 中国のそれに見習い「官僚試験」に受かり「賜姓」を受け「官僚」に成る過程を経る。)

    この「天武天皇の命」を受けてから発祥した「大和の姓族」に対して「持統天皇」は、「華国の失敗」を招かない様に、その多く成り「勢力」を持ち始めた「官僚族の姓族」を整理していたのである。
    この証拠は、「新撰姓氏禄」に記されている「蕃別族 404」と「神別族 326」と云われる間違いなく「姓族の官僚族」のその多さがそれを示している。

    (注釈 「数値の信頼度」は別として、但し、分けて問題のある「皇別の姓族の多さ 335」は下記で論じる。)

    故に、「垂仁天皇期」には、未だ「四六の概念」を敷く「氏名の賜姓の概念」はそもそも無かった事を示す。

    故に、この「四六の概念」のそのものが、当時では”「氏族を表す象徴」”と成っていたのである。
    況や、同じ「朝臣族」でも「四六の概念を持つ氏族」と、「持たない姓族」との「大きな違い」と成っていた。
    従って、「四六の概念」を論じる上では、これを編纂した「新撰姓氏禄」と「氏姓制度」とは避けて通れない「青木氏族の歴史観」としては論点と成るのである。

    (注釈 更に進めてそもそも、そこで「日本書紀」にある“「鳥取造」”とは、「鳥取の守護王(遥任)」の代わりに「鳥取」の国に赴任する「国司」の事であり、“「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”のこれを「姓の賜姓の原型」とする「後期の研究論説」には少し無理があると考える。
    それは先ず「姓」に「官僚の役職」の「造(みやつこ)」を着けるのは当時の「官僚の慣習、又は掟」からしておかしい。
    況して、一般の会話の中で使うのは吝かではないが、官僚が作る「日本書紀」と云う正式な公的な書物の中では疑問である。
    先ずあり得ない事である。単に「姓」なら“「鳥取」”で良い筈である。)

    (注釈 筆者は、次ぎの様に「守護王の施基皇子」の「伊勢の国司代」であった「伊勢造三宅連岩床」と同じ様に、“「鳥取造」”は、「赴任先の役職名」であり、依って「朝廷」が出す「赴任命令」であって、本来の正式なものであるのなら「三宅連」の様に「鳥取造・・・・」とし、冠位の後ろの「姓」の後に「連」か「宿禰」等の「八色の制等の官職位」を着けて「名」を入れる事に成ると観る。
    依って、単なる「赴任命令」であったと考えている。
    従って、“「姓」を賜いて“の文言は、「姓名」の「賜姓」を受けた上での”鳥取の国司に任じられた“とする表現であろう。
    この研究論文では、例え、「垂仁天皇期」であっても既に完成していた「中国の冠位制度」に習い「賜姓」には、必ず「冠位」が伴う事の知識が欠落している。)

    (注釈 少なくとも当時には、「家臣」、つまり、「姓の官僚(家臣)」に対しての「厳格な朝廷の掟」であったとするならば、上記の「慣例」に依って「鳥取の国司並み」に成るには、「賜姓を授かった事」と同じ結果を意味するのであるから、その「姓」は「湯河(ゆかわ)」であって、その「名」は「板挙(たな)」とすれば上記の例に観る様に、唯、「八色等の冠位」は無いが「伊勢造三宅連岩床」と同じ事に成る。
    つまり、「鳥取造湯河・板挙」と成り得る。)

    (注釈 何故ならば、国司、又は国司代に成るには、そもそも、既に、先に「姓」を持っていた位にいて、「連」か「宿禰」等程度の冠位を獲得していなければ、且つ、無冠であっては、成れない掟の朝廷の「官僚の役職」であった。
    つまりは、「姓」を持たない「官僚の者」には”「造」”は無いという事である。
    そもそも、「官僚」である限りは「姓」が無いという事は無い。
    先ずは先に「姓」なのである。中国の「華国の家臣に対する儀式」も同じである。)

    (注釈 「聖徳太子」の「冠位十二階制度」、「七色十三階冠制度」、「八色の姓制度」等の施行は「聖徳太子前の政権」や「王朝や朝廷」から引き継がれてきたものを纏めて「律令の下」で正式により確実に制度化したもので、これらの元は急に出来たものでは無い。
    「垂仁天皇期の記録」にも「・・宿禰等の冠位」が散見できるが「造」は上記の冠位では無くその「官僚族の下位の階級」を示す。
    そして、その「造等の役務」とは別に、「冠位」としての始まりは「聖徳太子期」にあり、これに「律令」を加えて完全に正式化したのは「天智天武期」にある。
    その中で「それまでになかった概念」の「特別な意味(「賜姓五役)・「四六の掟」・「四掟」)を持つ「臣籍降下の賜姓族」の発祥であった。)

    以上の「注釈」に依って“「賜姓と云う前提」”と“「新撰姓氏禄」”の「予備知識」を持った上で、更には論じる。
    そうでなくては「下記の論の意味合い」の理解に差異が生まれるだろう。

    さて、これならば「天皇家」自らが「権威と象徴」を保つ為に「武力や純血性」を充分に保持しなくても、“「臣籍降下の賜姓族」がこれを裏打ちしてくれる”と云う手段(安心の“保障手段”)を用いた事に成るだろう。

    逆に言えば、「中国の華国」より始まった「家臣に成る姓の賜姓の儀式制度」には、「中国の史実(50年経緯)」の事を学んではいたが、ところが「大和」ではその「高位の家臣(官僚族」」に対しては中国に比べてそれ程に「信頼」を持っていなかった事にも成る。
    故に、「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して信頼のおける「家臣(官僚)の儀式制度の確立」を特別に図った事にも成る。
    これが「天皇家の権威と象徴」を裏付ける「純血性の保持」にも繋がるものと成ったが、それを「天皇家」の”「六四の掟」”より下げて「臣籍降下の賜姓族」として”「四六の掟”」とした事は、裏を返せば、ある程度の「純血性の保持」を、或いは、引き継がせていた事にも成る。
    そして、天皇家自らが「賜姓する事」だけでは無く、「権威性を保させる事」の為にも近い「純血性の掟(四六の概念)」を「引き継がせる強い意志」を持っていた事にも成る。

    だから、この結果として「青木氏族や佐々木氏族」が引き継いでいたのであるから、「権威と象徴」を保てる「天皇家の純血性」は、「孝謙天皇期」の「直前」までは何とか「六四の掟」以上のその程度には保てていた事にも成る。
    唯単に、「現在の定説」、即ち、これは“「皇位継承者」が「直系尊属内」に居なかったという事”では済まされない事態に成っていた事なのである。
    「純血性の保持」の「自体」が、形式上は「傍系尊属の外孫王」の中にあったとしても「天皇家」の中には、最早、出来ていなかった事に成る。

    注釈として、重ねて云うと、「孝謙天皇期」には、「中国の歴史」の例に漏れず「外孫王の背景」、即ち、「傍系尊属(家臣)」、或いは、「傍系卑属(家臣)」、将又、「姓族」が、「天皇家」より力を持ち過ぎた結果の所以でもある。
    「孝謙天皇期」では、最早、それを続ける事が出来なく成った事をも意味する。

    結局は、「中国の歴史の経緯」とは違い、既に「四六の概念」を敷く「四世族」を遥かに離れ「直系尊属」では無く成っているにも関わらず、依然として「過去の経緯」から頑なに「四六の概念」を敷いている「青木氏族」に「白羽の矢」が立てられた所以とも成る。
    それと共に、その「特別な意味」を持つ「臣籍降下の賜姓」の「キー」は「四六の概念」とも成ったのである。
    然る事乍ら、それよりも、「四六の概念」を敷く「妾子族」のそれに裏打ちされた“「絶対信頼」”にあった事を意味する。

    「青木氏族からの歴史観」として観れば、この様に考える事が出来る。

    然し乍ら「白羽の矢」の当たる「青木氏族等」に執ってみれば、それは単に、“「賜姓」と云う事”だけでは済まない事なのである。
    つまり、そこで授かった「賜姓」に何かを持たせる事に成らないと“「裏打ちの手段」”とは成らないからだ。
    その事が「青木氏族や佐々木氏族」にそっくり任されていた事に成る。
    この「何かを持たせる事」の如何に依っては「妾子族の行く末」が決まる事にも成り得る。

    (注釈 況や、「佐々木氏族」にはこの”「何かを持たせる事」”の如何に狂いが生まれたと観られる。)

    もし、仮に唯単に、その「出自」が「直系尊属」と云う事だけであれば、「嵯峨期の詔勅」に見られる様に「源氏族」の様に「賜姓」だけで済む筈である。
    これが無い「源氏族」と「その経緯」がそれを証明している。
    上記した様に、「妾子族」に与えられた”「権威付け」”などに代表される「天智天皇や天武天皇等の行動」があったからこそ与えられる「象徴紋」等であって、全くこれが無い「源氏族」に「象徴紋」等の「権威付け」を与えられる訳けが無い。
    所謂、「冠位役職」=「権威付け」=「象徴紋」であって、「詔勅の文章」を観ても判る様に「権威付けの行」は全くない。
    何時の世も「権威」の無いものに「権威を象徴する象徴紋」等は論理的にあり得ないし、そんな政治は自らが「権威」を否定している事に成り出来ないだろう。行く末は判る。

    故に、「令外官の様な役職」は元より「象徴紋」も与えられなかった「源氏族」は、結局は、他の「慣習仕来り掟」は別としても「嵯峨期の詔勅と慣習の禁令」に依って「青木氏の象徴紋(笹竜胆紋)」だけを上記した「源の呼称由来」の言葉通りに理由づけて用いた事に過ぎない事が判る。
    ところで、そもそも、「理由付け」したこの「用い方」に問題があったと筆者は観る。

    先ず、この「青木氏族」の様に「源氏族」にはこれらの「権威付け・習わし」が、“「天皇」に依って与えられた“とする記録はどこにも無いのである。
    むしろ、上記した様に「嵯峨期の詔勅とその慣習の禁令」の中の文章がそもそもそれを証明している。
    つまり、「妾子族の権威性」を高める為に“「青木氏族の慣習仕来り掟」を何人も真似てはならない”とする「禁令」が記載されている。
    “何人も”とある以上は、当然、「賜姓」を授かった「源氏族」であっても例外ではない。

    注釈としてこの事は何度も論じている事ではあるが、唯、論理的には、「志紀真人族の青木氏族」の血筋を引き継ぐ「嵯峨源氏」だけには「慣習仕来り掟」の中でも「笹竜胆の象徴紋」だけは最低では使用は認められるだろう。
    然し、その「嵯峨天皇の自らの詔勅」がこれを否定している事には間尺が合わない。
    少なくとも「目的と血筋」として観ても、「仁明源氏」までと成ろう。
    後の源氏は「目的と血筋」からもそもそも論理性が無い。

    同じく「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている「近江佐々木氏」は勿論の事、嵯峨期以前の「賜姓の妾子族」であった「伊勢青木氏、近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」は当然に「嵯峨期の前の賜姓の妾子族」である以上は、「象徴紋の笹竜胆紋」を使えるし、その間も使ってはいるが、「佐々木氏の補完役の宇多源氏等」は「嵯峨期の詔勅」以降の源氏であり、且つ、「目的性や血筋性」からも論理的には使えない事は明白と成る。
    これは筆者から観れば、これは明らかに”こじつけ”以外の何物でもない。

    この「注釈」として、「笹竜胆紋」はある説では「源氏の家紋」としている説もあるが、仮に「源氏の家紋」とするならば、それ以前の発祥の「伊勢青木氏」を始めとする「近江佐々木氏、近江青木氏、伊勢青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊勢と信濃の融合の末裔の伊豆青木氏」が「源氏族」でないので「無紋族の賜姓の妾子族」であった事に成り得て、「笹竜胆紋」では無い事に成る。
    又、「源氏族発祥の以前」は、これらの「天智天武期の賜姓族の妾子族」には、上記した様な「確実な形の賜姓」が有り乍ら「象徴紋」が無かった事に成り得て矛盾であり、「日本書紀の記述」等を否定する事に成る。
    そんな事はあり得ず、「青木氏族や佐々木氏族の存在」そのものが否定される事に成る。
    「嵯峨期以前の歴史の氏族 妾子族」から観ても、「日本書紀」もその後の「累代三代格等の書籍」にも記述があり、「青木氏族」が持つ記録や遺賜品などにも証明するものが有って、現実に使って来ているのであるのだから、これらから観ても、「笹竜胆紋の使用」は「源氏族のこじつけの使用」と成り、「歴史の識見の高い多くの歴史家」も筆者と同じこの説も取っているのだ。

    まあ、無理に論理性を持たせば、「象徴紋と家紋の差」とも云えない事も無いが、「嵯峨源氏と仁明源氏」が使っていたので、”我々も使ってもよいとする発想であった”のであろう。
    「家紋」であれば「姓族」である事に成る故に、「新撰姓氏禄」では「源氏」は「姓族」に分類されている事からもそれなりの妥当性は出るだろう。
    となると、「同紋使用」は「禁じ手」であった当時の慣習からは逸脱しているし、「嵯峨期の禁令」にも触れる行為と成る。

    だから、「目的とルーツ」から「嵯峨源氏と仁明源氏」までとする説とし、後は「摂津源氏」を除いたとして「成り行きのこじつけ説」に成るのだ。
    唯、注釈として上記で論じた「清和摂津源氏の四家」が使用しているのは、「伊勢青木氏」を始めとして「近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」と血縁を結んでいる事から「象徴紋」にしろ「家紋」にしろ「笹竜胆紋」は使えるし、場合に依っては禁令の「慣習仕来り掟」も使えるとする論理は成立つ。
    「摂津源氏宗家」が「四家制度」を採用していた事は判っているが、「准皇位継承権」などの「権威付けの四六の概念の採用」は無い。
    然し、「分家の河内の清和源氏」は少なくとも「源氏族のこじつけの使用」の範囲であろう。
    何にしても、「嵯峨天皇以降の源氏の笹竜胆紋」の使用以前には、「五家五流の青木氏の象徴紋」として、且つ、「賜紋」として「笹竜胆紋」は使っていた証拠があり、将又、「青木氏の平安初期の古記録」や「賜物の遺習物の刻印紋」にも観られ、「日本書紀」にも記載がある以上は「源氏族のこじつけの使用」と成り得るのだ。

    そもそも、何をか云わんとするは、”「四六の概念」を敷くか”は、この「象徴紋の使用の前提」とも成っている事なのである。
    「象徴紋」などは”「四六の概念」”がその「数少ない氏族」に無ければ使えないとする前提であって、「嵯峨天皇の禁令の前提」と成っているのである。
    依って、”「四六の概念」”の敷かない「源氏族」はどんな理由があろうが原則使えないのである。

    「賜姓族」、将又、「妾子族」の前提は、この”「四六の概念」”の中にあって、始めてそれに依ってその「権威」が保てるのであって、その「保てる事」を証明するものが「象徴紋」なのである。
    「源氏族」が、この”「四六の概念」”を敷いていたのであればいざ知らず、敷いていなかった限りは「象徴紋」はあり得ない事に成る。
    これが「象徴紋」の「笹竜胆紋の前提」であるのだ。

    尚更に、「源氏族」には、正式には「花山天皇」までの「11家11流」まであるが、然し、これらの「11家」の「賜姓時」の度に「象徴紋の笹竜胆紋」を与えたとする記録は何処にも一度も無く全くない。
    当然に、「四六の概念の記述」も全く無い。
    従って、せめて、「嵯峨源氏と仁明源氏」は記述は無いとしても、その「流れ」からは考えられし、「血縁」と四家の「四六の概念」に近い「慣習仕来り掟」を持ち得ていたので、この結果から「摂津源氏」もあり得るだろう。
    そもそも、これは「権威のある氏族の妾子族の象徴紋」であり、「姓化した源氏族」には論理的にあり得えず、上記の”こじつけ”の説と成る。

    まあ、百歩譲って、”「四六の概念」”の無い「姓化した族」であるから、「笹竜胆紋」を「象徴紋」では無く「家紋」として観れば、我慢は出来る。


    そこで、「四六の概念」の理解上もう一つ解き明かさなければならない疑問なのは、この「禁令」には、“「青木氏族と佐々木氏族」“とは書かれていず、”「青木氏」”だけである。

    この事は「佐々木氏の研究書」にも明確に記述されている。
    上記の「象徴紋の条件」の行に合致し、且つ、「四六の概念」を敷いていた「近江宗家の佐々木氏」の記載があっても不思議ではない。
    これは”何故なのか”はよく判らないが、兎も角も、当然に、「青木氏族と佐々木氏族」が敷く「四六の概念」がこの「慣習仕来り掟」の中に含まれている。

    つまり、恐らくは上記した様に、“「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して強引に「信頼のおける朝臣族」を「妾子族」で創設した事は上記した。
    この基と成った「臣籍降下の賜姓の儀式制度の確立」を図った事”に従い、そこで態々この「儀式の差 (イ)」を付け、更に「禁令の差 (ロ)」で縛った。
    この「二つ(イ)と(ロ)」に護られた「青木氏の慣習仕来り掟の前提」は、”「姓制」の持たないこの「四六の概念」”、つまり、「青木氏の慣習仕来り掟」に影響する事が前提とも成っていたと観る。
    この事から考えて、敢えて(イ)と(ロ)を持つ「四六の概念」を敷く「佐々木氏族」を記載する事にしなかった事に由来すると観える。
    この(イ)と(ロ)が、”「佐々木氏族」そのものを保証する”と観ていたと成るだろう。
    唯、”「佐々木氏族」も記載してはいいではないか”と考える事も出来る。
    然し、この「記載有無の差」が、”「志紀真人族の青木氏族の嵯峨天皇」であった”と成るだろう。

    「嵯峨期の禁令」が、”「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族」を「権威づける目的」であった事”は云うまでも無いが、(イ)と(ロ)から観て、「四六の概念」を他の「氏族や姓族」に敷かせない目的があった事も強く考えられる。
    何故ならば、この「四六の概念」が「他の氏族」に広まる事は、それだけに”権威性が低下する”と云う懸念も持ち得ていたとも考えられる。
    「孝謙天皇期の外孫族」に観られるように、”恣意的に権威性を獲得しよう”とする「氏族の勢力」が表れていた事も充分にあり得る。
    現に、「嵯峨天皇の嵯峨源氏」でさえも(イ)と(ロ)の適用を受けていない位なのであるから、この事の配慮は充分にあっただろう。
    これは、「禁令」では無く「嵯峨期の詔勅」のそのものの文面でも判る。


    これには後勘から観ると、唯、気になる事がもう一つあって、「天智期から嵯峨期」までに、それは「近江佐々木氏族の宗家族」は別にして、「傍系尊属」には「佐々木氏族の一門」より「姓族」を多く出した事に関わっていたと考えられる。
    嵯峨期の前後には既にその様な「姓化の兆候」が「近江佐々木氏」にあったのではないかとも考えられる。

    「青木氏族」の様に、「絶対に姓制を敷かなかった氏族」では無く、「傍系族」とは言え「姓制」を持った「近江佐々木氏族」には“「絶対信頼」を置けなかった事”に成るであろう。
    つまり、「近江佐々木氏」は「四六の概念」を敷くが、その「四六の概念の信頼度」を疑問視した事を示している。
    「近江佐々木氏宗家」の「四六の概念の統制」が「青木氏族」ほどに十分では無かった事も考えられるし、況して、「青木氏族の後裔の嵯峨天皇」である。
    その点では、当然の事として「記載の事」に付いては厳しく考えていたのであろう。
    「青木氏族」は「四六の概念」を始めとして、「四家制度」、「妻嫁制度」、「四掟」、「青木氏氏是」等で「姓族」を出さない様にしていたが、取り分け、その「証拠の前提」と成る”「青木氏氏是」”は、その「青木氏族の勢力」を表に出す事を禁じた掟であって、「嵯峨天皇」はこの「青木氏氏是」を始めとした制度を身を以って体現していた人物でもあり、ここに”「信頼」”の基点を置いていた事にも成るだろう。

    この様に「佐々木氏族」に対する「見方」とその「信頼度」に付いては間違いなく違っていた筈である。
    故に、「詔勅の禁令」までには「佐々木族」を書き込まなかった所以であろう。


    さて、そこで次に気になるのは、「光仁天皇の孫」に当たる「青木氏族の嵯峨天皇」が、上記の「詔勅と禁令」と共に、「氏族志」を見本編にした「新撰姓氏禄(妙記)」で周囲の反対を押し切って編纂してこれを態々慌てて書いて公にしたと云う事である。
    これは、少なくともこの時期までは「青木氏族」の中には、この”「経緯」と「歴史観(概念)」”が強く伝えられていた事にも成る。
    所謂、この“「四六の概念」”が「青木氏族や佐々木氏族」にある事を知った上での事であったと考えられる。

    前段に戻ってみて別の面からの「経緯」としては、そこで、妥協して「外縁族(傍系卑属)」を入れる事無く、「四六の概念」に切り替えて最大限に保っていた「青木氏族」に上記の「詔勅の禁令」に至るまでの”「歴史的経緯」”を「青木氏族」の中に持っている事を「孝謙天皇」が知っていて、”「白羽の矢」”がこの「経緯」に従って当てられたと云う事に成るとも考えられる。


    さて、然し、そこで”「孝謙天皇の白羽の矢」”が立ったとしても”「四六の概念」”であってもこれの保持を前提とする以上は、無暗に条件を緩める事無く「公家族」と「武家族」、或は、「真人族」(最大48)と「朝臣族」(最大101 30%)からの「数少ない氏族の血筋」から必然的に求めなくてはなら無く成る。
    変化の起こる歴史の長い期間の中でこの事が永久に成し得ない事は直ぐに解る。

    例えば、注釈として、鎌倉期の末期から戦国時代と下克上の時代に掛けて次第に上記した様に「純粋な賜姓」を受けた「48もの氏族(真人族の15%)」が、「身分や権威」だけに頼っていた結果、「自己を防御する戦力(武力)」を保持し得ない侭で完全に近い形で淘汰されて行った。
    之は儘ならない「生存競争の中」では当然と云えば当然である。
    「四六の概念」としてはこの侭では成し得ない。

    例えば、「逸記」の多い「新撰姓氏禄」の中だけに従えば、「101の関係氏族」では記録では「20程度」に成ったとされていて、「純粋な48の氏族」は筆者の調査では厳密に「慣習仕来り掟」を護っていたとされるのは「5氏」だけに成るのではないかと推測される。
    これでは到底、「四六の概念の維持」は無理であった筈である。

    注釈として、念の為に、その前に、「嵯峨天皇の編纂」と云われるこの「新撰姓氏禄」の研究書は多くあるが、そもそも「目録」だけに編集された「抄記」であって、且つ、「逸記」であるが故に、そもそも「嵯峨天皇」自らの出自の「春日真人族の四世族後裔」の「施基真人族」や「川島真人族」の直系の後裔「青木氏族や佐々木氏族」は、矢張り「逸記」されて書き込まれていない。
    そもそも、これは次の事から来るのかも知れない。

    「光仁天皇と春日宮天皇」に成った事で恣意的に「逸記」したのかは分からない事。(A)
    「5割の抄記」と云われる事から逸脱したかも判らない事。(B)
    「本文」の無い「抄記」「逸記」である事。(C)

    以上の事から止むを得ない事も考えられる。

    然し、「研究書」に依っては「日本書紀」にも記されているこの「敏達天皇」の「春日真人族の後裔」として「志紀真人族」や「川島真人族」が書き込まれた研究書もある。
    唯、脱落している書もあるのは、何故に「逸記」し「脱落」したかは筆者の研究が未だ行き届いていない。
    恐らくは、筆者はこれは「研究書のレベル」によると観ている。

    筆者は、(A)の説を採っているが、その理由は、現在では、「追尊の春日宮天皇(施基皇子)」と、その四男の「光仁天皇の出自元」とした以上は、編纂に当たって「嵯峨天皇」自らがそれまで「志紀真人族」で「臣籍降下の朝臣族」から「元の真人族」に戻したとする説(A)を採っている。
    そうでなければ、「臣籍降下の朝臣族」から「天皇」が出ると云う事はいくら「四六の概念」等を持った「氏族」とは云え、一度外に出た「氏族」である以上は論理的にあり得ない事に成るからである。

    その「根拠と裏付け」は、「始祖の施基皇子」は「皇太子」を遥かに跳び超えて「天皇」に継ぐ「永代浄大一位」にあったからと考えられる。
    そうなると、「永代浄高二位」で「四六の概念」を持つ「臣籍降下の賜姓」を授かった「近江佐々木氏の始祖の川島真人族」(宗家族・直系尊属)をもその侭にして置く事は論理的に無理が出る。
    依って、「歴史研究者」では無く、「嵯峨天皇」が見本にした「中国の氏族志」に拘わらず恣意的に敢えて「逸記の命」を下したと観ている。

    (注釈 この「新撰姓氏禄」は815年に「編纂」は取り合えず終了したが、「公表」はその前から編纂者の中に「反対」が多く、遅れて815年に成ったとされ、最初の「嵯峨源氏族」の詔勅は814年であるとすると、「源氏の詔勅」を出したからと云って直ぐには行かない。
    当然に「源氏族(皇子23 皇女17)」が出るまでには時間がかかりこの偏纂には間に合っていない筈である。然し、記載されている。
    況して、「近畿圏」としながらも、この多くの「嵯峨源氏」は地方に飛散し、その中でも「皇親族」として左大臣として勢力を張った「源融の末裔」でさえ、中国地方の日本海側の米子の東付近に「土豪」として末裔が潜んで生き延びていた。
    然し、後に「清和源氏源満仲」が「武力集団」を形成する際にこの「嵯峨源氏の末裔の土豪」を呼び寄せ摂津に住まわせた。
    この事で摂津域に「嵯峨源氏の末裔」が多くの「姓」を拡げた。
    この事は記録からも知られていて、これに付いても「逸記」である。
    従って、そもそも、「朝臣族」の中に「源氏族」が記されている事の事態が、そもそも大いなる疑問なのである。
    他にも数多くこの815年代以降の「姓族」が記されていて、これは明らかに後勘での「逸記」(追記)に他ならない。)

    (注釈 更には「清和河内源氏の末裔」の「姓」の「室町期の姓」も多く含んでいる。
    これが「後付け」の何よりの証拠である。)

    著書を出した数人の研究者も「本文」がない事に依る“「江戸期初期の後付け」”と観ている。
    つまり、「江戸幕府の権威付け」の「政策の一環」として大名を始めとして「武士」である事を確定する為の「黒印状」を獲得する為に、課せられた条件をクリヤーする必要に迫られた。
    この為に、その「ルーツ」を搾取し「不確定な過去の資料」に多くは偏纂を加えた。
    この槍玉にあげられたのが、「本文」の無い「不確定な抄記と逸記」を持つこの「新撰姓氏禄」が「格好の的」と成ったのであったとされる。
    所謂、これが「後付け説」である。

    これを「片識の研究者」が前提として著書とした事が、「新撰姓氏禄」と思われてしまっている事の所以であろう。
    筆者もこの意見に賛成であって、嵯峨期の当時の本記の編者の反対は、下記した様な「不確定な理由」で「逸記の多い事」へのここにあったと観ている。)

    「新撰姓氏禄」には「抄記」で「逸記」で有り乍らも上記の様に、「青木氏の歴史観」を説明する事に関わる事が多くあり、この「予備知識」を前提に更に論を展開する。

    さてそうすると、この「新撰姓氏禄」に、「敏達天皇の一族春日真人族の四世族」としては位置づけされてはいるが、別に、天皇家に継ぐ「四六の概念」を保持していた「志紀真人族」として記載を避けたとしても、「志紀真人族」であるとする以上は否が応でもこれでは「青木氏族や佐々木氏族」が採っていた”「四六の概念」”にも、絶対に「四」をその侭にしても論理的には「六の入り」を変えざるを得ない事が判る。

    それにしても、”「六の入り」を変える”と云っても、当然にそれに依って”「四が薄くなる現象」”が必然的に起こる。
    つまり、これに依って「青木氏族や佐々木氏族」としての「存在価値」は、必然的に低下する事に成る。
    何時かは、結果として“「姓族化する」“に相違ない。
    そこで、より長く「姓」を持たない「氏族」を保つ為にも「四」を何とかその侭にして「六の入り」を変えるには、“「入れ方如何」”を変える以外には無いと判断したと成る。

    つまり、これが「青木氏族」の執った「四家制度」等での“「女系族の入れ方」”に成る。
    但し、これにも前段でも論じたが、無限にこの方法が一定に出来た訳ではない事は判る。
    「大化の改新」の様に「上記の改革」を推し進めたとしても、矢張り、何時かはその効果は低下するは必定で、これは止むを得ない事ではある。
    然し、「孝謙天皇期」に観られる様に、”「天皇家の権威の前提」と「純血性」”に拘る以上は、同じ様に矢張りそこには”「限界」”が起こり「時代性」に依って“「変化」”が起こっていた事は明らかである。

    (注釈 「中国の歴史」に観る様に、中国もこの”「変化」”に対して「貞観氏族志」に依って見える様に何とかしょうとして頓挫した。
    この「頓挫の氏族志」を編じたのを学習しての同じく「頓挫の歴史を持つ新撰姓氏禄」である。
    依って、態々、“「新撰」”としたのであって、「青木氏族」等の「四」に拘った「四六の概念」であったとしても「純血性の維持」の結末は、どんなにしてもある「一定の時代経過」に左右されてこの”「限界」”が起こる事を知っていた事にも成る。)

    (注釈 この「二つの書」の「頓挫の原因」は、況してや「氏族」だけでは無く、主に多く成った「姓族だけの禄記」であった。)

    (注釈 その「頓挫の無理の原因」のそれが顕著に出てきたのが、「孝謙天皇期」であって、その”「トバッチリ」”が「自分の出自元」に出た「逃れ得難い因縁」があり、余計に無理にしても「編纂」を試みた事も考えられる一つである。
    然し、何れにしても何時の世もこの種のものは“「利害」”が多く「反対」に見舞われる。
    前段でも論じたが、正式には「淳仁天皇期」から始めたものとされているが、実際は歴史的には以前にもテーブル上には出て何度も「反対」に合い結局は挫折し、この「新撰姓氏禄」も例外では無く何とか編じる迄には至った。
    それだけに「利害に伴う編者の思惑」が出て「酷い逸記」に成り得たと観える。)

    (注釈 筆者は、そもそも、正式な「酒瓶と賜姓の儀式」を受けていない「335の姓族(正しいとして)」を”系統的に網羅する事の事態”がおかしいと観ていて、正式な「賜姓族の氏族」が全体の「15%の48氏」しかない中で、自由に「姓」を名乗っていたものを寄せ集めて編じる事は当然に必然に“「利害の温床」”と成り得ると観る。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅」で、これに従って「自由」であるが故に「自由な姓名」には「制限」が編纂と同時に掛けられたのである。
    「青木氏族や佐々木氏族」などの「賜姓族氏族の慣習仕来り掟に関わる名詞」、勿論に「氏族に似せたもの」等を「姓名」にしては成らないとする歯止めをかけた。
    然し、結局は、彼らは「地名」かのである、或いは、「由緒ある土地の特徴」以外を「姓名」にする以外には無く成ったのである。
    この「慣習仕来り掟の禁令」は三幕府の保護もあって明治3年まで原則護られた。)

    注釈の「新撰姓氏禄」の偏った編纂による”「利害の温床」”の発生に付いては、載せられた「姓の者」には「利」が生まれ、載せられなかった「姓の者」には「利」が著しく損なわれるのは当然の事である。
    況してや、「近畿圏内に限られての事」とした場合、大半の圏外の「有力な姓族」は公的に認められなかった事として「利」が著しく損れる事と成る。
    ところが、例え圏外と云えども、都より赴任している「姓族」、のみならず「賜姓族」や「四世族の真人族」の「守護王の後裔」や果ては官僚の高官の「国司の後裔」も近畿圏よりも多くむしろ多く存在する。
    これらの者には「冠位を持つ上位の者」が多く、且つ、数も近畿圏のそれに比較には成らない。
    そもそも、「地域限定」そのもので編纂する事は当初より無理である事は明々白々である。
    当然に「反対者」も出るは必定である。
    中には、都より赴任していた九州全域を統治していた「賜姓族」で「高位の冠位」を持つ「日本書紀」にも記載される「四世族の大隅王の三代の末裔」等はどうなるのかと云う大問題も生まれる。
    例えば、北九州全域にその後裔を拡げ赴任していた「朝廷官僚族五大氏の伴氏」や「南九州域の官僚高位族の市来氏」はどうなるのかと云う大問題も生じさせている。
    何も「血縁」は、そもそも何も「近畿圏の中」だけで起こる事では無く、遠く九州からも足を運んで血縁する事も頻繁に起こっている。

    (注釈 現に、曾孫である「嵯峨天皇」の祖の「施基皇子」であった「妾の母」は「越の国」から来ているではないか。知らない訳は無い。)

    むしろ、「血縁の事」を考えれば「遠い方」が良い事は判るし、「青木氏族」や「佐々木氏族」でも中部域の「五家五流青木氏」、関東や北九州からの「秀郷一門の青木氏」との血縁も現実に起こっている。
    そもそも、「純血性の弊害」のみならず「四六の概念の保持」に依る「血縁の格式」を確立させるとしても、その「目的の範囲」で編じるのであれば、次ぎの様に成る。

    (1)「正式な酒瓶儀式」を受ける事
    (2)「正式な賜姓儀式」を受ける事
    (3)冠位を持った「氏族と姓族とその後裔」に限るべき事

    以上ではあった。

    これならば、朝廷が認証しているから文句は出ない。
    自らが文句の着けようもない”「四六の掟」”を敷いていたその「三代目の後裔」であるのに、「血縁の弊害」は、そもそもその範囲での事であり、少なくとも「姓族」には大きくは及ばない事でもあり、「編纂の強行判断」はどの様に考えても普通は“「不思議な事」”ではある。

    当初は、前段でも論じた様に、「補完役の秀郷流青木氏族(960年頃)」を始めとして一門からその「源流の元」を得ていたが、「四六の掟」でさえも何時か起こり得る終末期を迎える。
    これを防ぐ為に、江戸初期頃には「氏族」を「氏人」として広範囲に構成する「郷士との繋がり」からも「源流の元」とせざるを得なく成っていたのである。
    つまりは、「四六の概念」の「青木氏族に起こった限界」は、「江戸初期前後」にもあったという事に成る。

    それは前段でも論じたが、「殖産の拡大と云う事の手段」のみならず、「嵯峨期頃」から改善を加えて来た「四六の掟」にも限界に至っていた事にも成っていたのである。

    矢張り、最早、「限界」に至りこの「室町期末期」からはより「源流を拡大する手段」に陥っていたと成る。
    然し、「四六の概念」が崩れそうに成ってはいたが、ここでも頑なに「姓族」までは広げなかった。

    「補完役の秀郷流青木氏族の源流 1」と「青木氏の氏族を構成する郷士の源流 2」に頼る事と成って行った。

    そこで、これが百々の詰りは、この「四六の概念の限界」を知り、“「六の入り」の「入れ方如何」”と成ったのである。

    (注釈 この傾向から考えても、問題の起こった「孝謙天皇期頃」には、「天皇家」と血縁を結べる「純粋な氏族」は、最早、「48氏族」では無く、問題の持つ「新撰姓氏禄」に関わらず本当は既に「数氏」に陥っていた事に成るだろう。)

    (注釈 前段でも論じたが、「青木氏族の光仁天皇(施基皇子の子の白壁王)」の孫の「嵯峨天皇(山部王の子)の新撰姓氏禄」を慌てて未完成のままで世に出すという「編纂の意味」も敢えて云えば一部はここにあった事も否めないと観ている。
    つまり、「奈良期からの四六の概念」を弱めた所謂、「青木氏族の四六の掟」を敷かないまでも、“「姓族」”としては、それなりに「ある程度の格式」を維持する為に「何らかの慣習仕来り掟」を持っていた事は否めない。
    唯、”「四六の概念」”の様な格式張ったものは無かった筈で、有れば、それに拘れば衰退を余儀なくされるは必定で、「間口を広げて身を護る事」は「姓族」であれば「常套手段」として当然の事であって、その為に“「武力の容認」”が認められていた事にも成る。)

    従って、「自由な姓族」にも「社会の血縁の動き」が、「勢力」を獲得すればそれなりに格式化して閉鎖的に成り、「血縁の範囲」が狭まり「弊害」が出始めていた事にも成る。
    これが”「別の意味(武力の容認)」”としても読み取れる。
    然し、「天皇家」の中では無くて、財政的理由を下に各地に散在した「数多くの真人族」を臣籍降下させ「姓化」した事から、「氏族と姓族」にも夫々の社会にある程度の「格式化」が起こったとする論も考えられる。
    現実には「四六の概念」と迄では行かないが起こっていた事は記録でも事実である。
    故に、「賜姓氏族」ではない「ある程度の格式化を持つ族」に対して“「姓族の禄」”として出したとも成るが、この「姓族の禄」に「記載された族」には「記載され得なかった族」との間に差異が生まれ却って「格式化」を招く事にも成ったらしい。

    (注釈 ここで云う「姓族」とは、「官僚に成る為の儀式を受けた姓族(「平安期からの官僚族の姓族)」と、室町期中期から無制限に出自した海部族等に代表される「自由な姓族」とがある。ここでは前者の「三分類される姓族」を云う。)

    (注釈 上記注釈について、唯、「新撰姓氏禄」の「姓族の禄」の「分類の仕方」にも問題があって、「皇別、神別、蕃別」の三つに分類され、且つ、研究書によればその「同門後裔」迄に分けられている。
    「同門、後裔」まで分ける事には、取り分け問題は無いが、そもそも、「皇別」は兎も角も、「神別」は「天孫降臨期」からのものとして何の証拠もない「姓」が多く書かれている。
    「皇別」と「蕃別」には入らず、然し、古くから「高位の官僚族」を形成している組み入れ難い「姓族」を「神別」のここに組み入れたと観られ、これで批判を増幅させたのであろう。
    ここに「本文の無い本禄」に「江戸期の後付け」の「醜い戦術」が起こった事を注釈する。)

    (注釈 そこで、「新撰姓氏禄」に、“何故にそもそも「本文」が無いのか”と云う疑問がここにある。
    普通であれば、「抄記」迄あれば「本文」はあるのが当然であり、「無い」とする処に意味があって、これが江戸期初期の「後付けの根拠を消す目的」があったと観られる。
    筆者は、「本文の消失」は「江戸期初期説」と考えており、「後付け説の所以」と考えている。
    「純仁天皇期」から勧められ「嵯峨天皇期」で兎も角も終止符を打ったが、この三期でも「紛失」や「放棄」や「停止」等のサボタージュがあった事は記録からも明らかではある。
    この研究には、「全体の紛失」はあったとする記載があるが、「本文の消失」迄の事は書かれていない。
    従って、「本文の消失」は江戸期初期と見做される。
    故に、「嵯峨天皇期後の姓族の名」が多く書き込まれた所以なのである。
    後勘で調べれば、”「後付け」”は直ぐに判る筈で、当時の混乱期の中では判らないだろうとする「低意識の余裕」が定着していた事に成る。これは世の常であろう。
    現実に、「ある研究書」では、「姓族の説明」として”室町期の中期の発祥”と態々書いたものもある位で、極めて笑止である。)

    (注釈 因みにこの「説明の族」の二つは、同族で「関ヶ原の戦い」で功を挙げ「近江の土豪」ではあったが、5千石と一万石を与えられて「伊勢長嶋域」に移封された「近江二宮氏の末裔」であったとされる。
    その末裔が江戸期に「伊勢者」と呼ばれある「家紋」を持っている。
    「説明の族」が記載されている事は、明らかに「新撰姓氏禄」のそれは逃れられない「黒印状の所以の仕儀」である事は明白である。
    そもそも、上記した様に「注釈の姓族」には「室町期中期の前後」を境にして、更に「勃興」は二つに分けられる。
    「中期前の最初の姓」は海部氏である事は記録で判っている。
    この「伊勢者」と云われていた姓族も中期後の発祥である。)

    さて、然し、「青木氏族」には「源流 1と2」があったとしても、この依然として「賜姓を受けた真人族の臣籍降下」の「氏族」が、敢えて「源流」を求めずに「四」に拘り、多少、後に「四六の概念」を弱めたとしても「四六の掟」の程度を敷く以上は、「同族血縁の弊害防止」に対する「情報の提供」は矢張り急務であったとも考えられる。
    唯、「本文」が消されている限りはこの情報は無意味であるのだが。

    そもそも、「本文の無い情報」は、「血縁弊害が出る慣習仕来り掟」の中に無く、且つ、後の時代には「自由に出来る姓族」には不要であった筈である。
    故にも、三代以上も偏纂を試みられて「嵯峨期の前後」ではある程度の「本文的な情報」が既に有ったので、反対のある中で「逸記」の多い筈なのに完成を急いだ事も云える。
    それ程に「孝謙天皇期の争い」の混乱期の中で「社会に与えた影響」が大きかった事を物語っているし、「嵯峨天皇」、果ては、「志紀真人族」等に与えた影響は大きかった事を物語る。
    「孝謙天皇」に抗した「外孫族」も詳しくは判らないが、この点に「思想論理の原点」があった可能性がある。

    (注釈 上記した様に光仁天皇期には偏纂する者等がこの編纂した書を隠してしまうと云う事が起こった。)

    「嵯峨天皇期の詔勅」と、”同時期に世に出したという事”は、次ぎの様な事が考えられる。
    「青木氏族」や「佐々木氏族」を始めとして、社会の中、取り分け、「335の皇別族(朝臣族)」と云われる「姓族」の中には、「原因」は別として「唖子を含む血縁の弊害」の様なものがある程度に蔓延していて、「国家的問題」に成っていた可能性があったとも観られる。
    筆者は、それは「四六の概念」以上の慣習を持った「賜姓の氏族」では無く、「純血性の弊害」と迄ででは無く、「血液型の不適合」(遺伝子障害)か「抗うつ性症候群」(同族血縁障害)が蔓延し、これを「血縁弊害と捉えていた事」が考えられる。
    故に、「氏族志」と違い「氏族」では無く「姓族」のそれとしたと考えると間尺が一致する。

    (注釈 一部には縄文期に入って来た「結核菌」が蔓延し、これが集団で患う事から「血縁障害」とも捉えられていた事が判っている。
    「研究」に依って「骨の状況」から判明していて、この状況は平安期頃迄続き「血縁障害」と捉えられていた事が判っている。
    その後、貿易で中国から入った「漢方薬の薬湯」で治る事が解り、「血縁障害」では無い事が認識された事が解っている。
    つまり、この様に「結核菌説」もあり考えられる。)

    (注釈 そもそも「上記の注釈」のその根拠としては、現在、「日本の姓」は「8000前後」とも云われるが、「嵯峨期の近畿圏の姓数」は「新撰姓氏禄」の総計を前提で「約1200」だとすると、全国域で観れば五地域圏ではこの5倍はあったと観られ、凡そ、「6000の姓数」に成る。
    然し、江戸期の「武士階級の姓」を持つ人口は、全人口の1割以下であったので、「8000の姓数」に対して「800程度」と見込まれる。
    「江戸期の800の姓数」と「嵯峨期の6000の姓数」には差があり違い過ぎる。
    江戸初期には「姓名」を持たない「農民等」から「武士」に成った者が多くを占め、且つ、合わせて「明治維新の苗字令」で9割以上の者が一挙に「姓名の苗字」を持った。
    そして、この「二つの経緯」を経て「8000の姓数」と成ったのであり、嵯峨期までの「自然増」だで近畿圏だけで「1200の姓数」は違い過ぎて論理性が逆転している。
    この崩せない前提条件の事から考察すると、明らかに「嵯峨期の姓数」は「1200程度」では無かった筈で極めて多すぎる。
    これは「後付けの証拠」である
    「時代の経年変化」として、「嵯峨期から江戸期」までの「約400年間」からも考えても、「バイアスを持つ自然増」としてこれを「1/4」としても、「300程度の姓数」と観る事が妥当であろう。
    そうすると、「嵯峨期」では「全国の姓数は1500の姓数」と成り得て、論理性が出て来る。)

    (注釈 上記の注釈から、そうすると「300程度の姓数」での「血縁」には「限界」が生まれ、その「姓族」の「周囲の血縁出来る姓数」は、どう考えても限られて「30程度以下の範囲」と成り得るだろう。
    この「30の姓数」に対して血縁を何度も繰り返す事は不可能であり、「純血性の弊害」に含まれない上記した「軽度の遺伝子レベル」の「血液型の不適合」か「抗うつ性症候群」かが起こるし、更に、当時は平均寿命から観て平均年齢から8−15歳が「女性の血縁の適正年齢」で、現在は30歳−35歳でこれを超えると、「卵子は老化する事」は医学的に証明されている。
    この「血縁年齢の低下」による「老化卵子に依る弊害(唖子・水頭症)」等の弊害が蔓延していた事にも成り得る。
    現在でも依然として起こっていて社会的問題となっている事からも、当時としては尚更に「姓族」にとっては「逃れ得ない弊害」であった事に成る。
    この「三つの弊害」は現在でも起こっていて、これを「血縁の弊害」として捉えられていた事に成る。)


    再び、嵯峨期前の施基皇子期に敷かれた「氏族の四六の掟」以外の問題、つまり、「血縁の弊害」を克服する「氏族の四六の掟」(四掟基準)の施行、そして、同時期に「姓族に対する姓禄の偏纂」の喚起の二つがあった。

    然し、その上記の「注釈の前」に戻って、これは“「氏族の四六の掟」”の維持する元と成る「賜姓五役の務め」としては、これを“「四掟の格式」”を前提としている為に、つまり、“氏族の何処からでも良い”、況してや、“「姓禄に記する姓族」の何処からでも良い”と云う事では無く成る。

    そこで、「氏族」にはどうしてもこの「歯止め(「四六の古式の概念」から求めた四掟・基準)」が必要に成る。
    その「氏族の歯止め」として、無暗に「姓禄に記する姓族」までに陥らない様にしながらも、厳しい「純血性の掟」を緩めて、例えば「位階」で云えば、「永代の従四位までの家筋」の範囲の血筋とした。
    つまりは、「四掟の運用」を見直した事に成るだろう。
    この「永代の従四位までの家筋の範囲」とは、記録から観てみると、多くは「四世族内か五世族の範囲」に留まり、ある程度の範囲で”「四掟の原理」”が成立している。

    (注釈 「姓族」は、上記の「新撰姓氏禄」で「抄記や逸記」でありながらも、この範囲の中にある「姓の朝臣族」と云われる族を根拠として何とか無理にでもこの為に公表した。これは前段でも論じた)

    前段でも論じたが、古い「帝紀や諸事紀」に観る様に、「朝廷の規則」にもその範囲を定めてある限り、その範囲を最低限に逸脱しなければ良い事に成る。
    それは、「永代の従四位までの家筋」の範囲の「血縁の掟」は、「公家族」と「武家族」も「四家制度と家人制度」に「近い制度」を少なくとも敷いている訳であるから、多少の「同族血縁の弊害」を持ち込まれる可能性はあるにしても、「性」による役務上からの“「男系」“では無く、これは上記した様に「女系の理」、況や、“「人の理」が根本として成り得ている“と云う理屈が「青木氏族や佐々木氏族」にはあった事に成り得る。

    つまり、ところが「佐々木氏族」は、この「四六の概念の維持」は、鎌倉期前頃には崩れ始め、全国に「佐々木氏族」の「氏族の中」に“「四六の掟」や「四掟の掟」”を緩めて「勢力保持」の為に「主従関係」を確立して「姓族」を作らせた。
    然し、ところが「青木氏族」では、この為に「女系」を重視した「孫域までの娘」を「子の域部」として“「子の選択」”の範囲を広げる事の方法を選択したのである。
    ここに違いが出た。
    この「佐々木氏族」を外し「青木氏族」に「白羽の矢」を立てたのは、この「違いの差」を「孝謙天皇」は着目したのである。

    (注釈 つまり、頑として「姓」を発祥させなかった。「佐々木氏」とは、この段階で生き延び方、況や、「四六の掟の維持」が異なってしまった。
    「佐々木氏が編纂した研究書」にもこの種の事が書き込まれている。
    その原因と成ったのは、「補完役」としての「秀郷流青木氏」と同様に、「佐々木氏族」にも「補完役」の「宇多源氏の佐々木氏の発祥」があった。
    この「補完役の宇多流佐々木氏族」が「四六の概念」を無視して「佐々木氏系姓」を各地に広げた。
    では、唯、「補完役の秀郷流青木氏から出自した姓」と、同じ「補完役の佐々木氏系姓」との違いは、前者には、この「姓」を“「現地孫(傍系卑属)」”として位置づけして、形式上は「氏族内」として認めなかった事にあった。
    然し、後者は、「勢力保持」を前提としていた為に「氏族内の勢力」として取り込み認めたところにあった。
    何れの方法も方法は違えども「生き残り」には効果は認められた。)

    然し、改めていう事には成るが、「賜姓臣下族の青木氏族」には「氏人と云う慣習」が認められていて、「四六の概念」を敷く以上は、次第に「男系が薄れる事」に成り、この「男系の氏人」は薄れる事にも成る。
    従って、これを補完して「女系」で繋がるものとしているのであるのだが、但し、だからと云ってこの「女系」の「子の範囲」を広げた事だけでは「本当の解決策」とはならない事は必然である。

    それの「解決策」には、”「子としての扱い」”にあって、無制限のものでは無かった。
    「第四世族(一説では「第三世族」と書いているものもある)」までの「孫域(2)」までの「子」を一か所に集め、現在の保育園の様に“「共同養育」と「共同教育」と「共同教養」”を施し、「四家制度の範囲」に従って行ったのである。
    つまり、制度的(慣習仕来り掟)に「青木氏族」から逸脱しない範囲の「女系」を確立させていた事らしい。
    無暗に「女系概念」を拡げていたのではなかった様である。

    この「共同と云う範囲」がよく判らないが、資料の各所から読み取れる事として、毎日、親元に返すのではなく「専門の教育と養育掛かり」を置いて「福家管理」の下で「共同生活(菩提寺と分寺の二か所に男女の設備が設けられていた)」を敷いていた事らしい。
    現在の「寮生活の学校とホームステイ」を組み合わせた様な形式であったらしい。
    但し、注釈として、記録によると、「子供の数」が少ない一時期があって、「玄孫(3)」までとしている事がある。
    この方法で「女系に依る四六の掟」を維持していたのである。

    注釈として、前段でも何度も論じている事ではあるが、改め理解する上で記する事として、そもそも、「青木氏族」は、「分家支流族制度」を採らない「賜姓族臣下族としての掟」がある事から、「直系族の女系」に限っては、最大で「直系7親等」までの「子の範囲」を云う事としていた様である。
    これを「四家制度」に依って、現実には「第四世族内」に留めていたらしい。
    これを「福家の世代交代期」に依って、「直系族」と云われる「主家」の「7の孫(じゃくそん)」が連れて変わって行く事に成る。
    [世代交代」と云っても、「四家の範囲」の中で、次ぎの「四家の中の長」が「福家」と成る仕組みである事から、「福家の嫡嗣」が引き継ぐのではなく「世」に依る「世代交代」は激しくは起こらない仕組みである。
    従って、「四六の概念」の「四」に大きく関わる「福家の嫡嗣の世継ぎ」では無く、普通はせいぜい25年か30年程度と成るが、「四家の範囲」の中で「福家」を「長」で引き継ぐ方式では、「世代交代」は、少なくとも「100年」は見込める事に成る。
    これに”「四掟で補う仕組み」”で「四を補う事」であるとするならば、”「世継ぎ」”という事では”「急激な変化を起こさない仕組み」”と成る。

    然し、「姓制」を採らない以上は、これは実質上は「女系性」の強い「直系の青木氏族の青木氏」である。

    (参考 因みに、「上記の注釈」の解りやすい例として「直近の福家の継承」は、「伊勢青木氏]の紙問屋を主体とする明治期(970年間)以上続いた「総合商社の伊勢屋」では、この「福家の長に依る仕組み」は筆者の祖父の代まで引き継がれて来た。
    例えば、次の様に成っている。
    曾祖父の兄−曾祖父−曾祖父の弟−・祖父の兄−同祖次男−同祖三男−・祖父−同祖次男−同祖三男=明治35年 これから観ると長寿系であった事から(・)と(・)の間隔は「約100年程度の間隔」で「世代交代」と成っている。
    現在もこの「紙屋問屋の伊勢屋」は二か所で継承されている。
    多少の他と違う「伝統」は残すも「四家制度」などは最早敷いていない。)

    即ち、「六の入り」の子は次ぎの通りである。
    1 子、
    2 孫・
    3 曽孫(ひまご)
    4 玄孫(やしゃご)
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    (注釈追記 以上、上記で「玄孫」までとしていたが、「過去の筆者の研究記録」をもう一度詳しく見直したところでは、「時代性の状況」に応じて、「孫>曾孫>玄孫」をその「女子の範囲」として”「六の入り」”は運用したらしい事が「氏人の遺手紙の記録」からも読み取れる。
    それ以降の「来孫>昆孫>じゃく孫」の「女子の範囲」は何か”「特別性」”があったとも考えられる。
    「尾鷲の遺手紙」に「7のじゃく孫」が記されている関係から、当時としてはここまでが「青木氏と氏人の女系に依る関係」が「一族の範囲」として確認し認識できていた事を示すものであろう。
    現実には、「玄孫」までは筆者の代でも充分に知り得ていたし、普通の「言葉の使用」としても確認できていた。
    従って、「村の組織構成」との「繋がり」や、前段で「論じた「部の差配頭」の関係から「来孫>昆孫>じゃく孫」の「来孫」までは普通扱いで、「しゃく孫」までが最大で特別であったろう事が伺える。)


    ここまでを「賜姓族臣下族の掟」としてでは、“「直系族」(女系の「六の入り」)”と定めとしてこの範囲までとしている。
    後は、「傍系族」に成る。

    従って、そもそも、「青木氏族」の「傍系族」としては、次ぎの「三つの属の範囲」に成るとしている。
    「傍系尊属」
    「傍系卑属」
    「傍系同代」

    以上の範囲に限定して「青木氏族」としない様にして定めている。

    (注釈 「近江佐々木氏」は限定は出来ないが、この「範囲の限定」を無制限に近い状態で緩めていたと観られる。
    これを「孝謙天皇」は嫌ったと観るか、将又、これに関連する「四家制度」か「四掟」を緩めてしまったかとも観られる。)

    これで極力、”「属の範囲」”を限定し、”「四六の概念」の[保持拡散(概念を緩くする事)」”を防ぎ、且つ、それによって興る「姓発祥」を食い止めていた事が解る。
    最後までその「四六の概念」を保持していた「青木氏族」、取り分け、明治維新頃(・明治35年)までその連携を続けた「伊勢と信濃の青木氏族」には厳格なものがあった事が伺える。
    「補完役の青木氏族」には、その立場上から「四六の概念の考え方」を変えて維持されていた事が「近江佐々木氏の研究書」からも読み取れる。
    これは「当然の事」と考えられ、「両青木氏」のものが「完全一致」とはならないだろうが、伊勢の秀郷流青木氏は「四日市殿」を発祥させている事から見ても相当に近い「四六の概念」を保持していた事が判る。


    然し、「賜姓臣下族の志紀真人族」としての「重要な掟」として、この「傍系族」等は鎌倉期までは少なくとも原則としては「青木氏族の内」として認めていなかった事が判る。
    所謂、「外孫扱い」であったらしい。
    この「鎌倉期までの外孫族」に付いては、調査したが全く判明しない。
    本来は「系譜や添書」に記載されている筈なのだが、又、せめて「女墓」に刻まれているかさえも判別し得ない。
    これは、「姓化の緩み」のものとして「傍系族」に対して「徹底していた姿勢」とも考えられる。

    これについて、強いて云えば、判った範囲で、前段でも論じたが、「宮崎の廻村」と「鹿児島の大口村」の「廻氏の血筋」を持つ「青木氏」が唯一それに当たるだろう。
    この「廻氏系青木氏」の「傍系の青木氏」は、「姓族」には成っているが、江戸期には「黒田藩の専属の傭兵」として山や海にその「最大勢力」を拡大させている。
    時期は明確ではないが、記録の中に垣間見られる範囲としては、何れか確定は出来ないが、「鎌倉末期頃」、又は、「室町期末期頃」から「丸に笹竜胆(本家筋)」を”家紋”としていたらしい事が判る。

    (注釈 唯、筆者はこの判断には、この時、その「薩摩山岳族」と「日向灘の海洋族」として勢力を拡大していた室町期末期から江戸初期前後頃に「黒田藩の専属傭兵」と成った事から、又、確たるルーツを語る家紋を必要と成った事から、その出自経緯から「丸付き紋の笹竜胆」を使用したとする説が納得できる。(イの説)
    調査では、それまでは「五七の桐紋(黒田藩より授受)」を使用していた事が判っている。
    黒田藩はその彼らの功労により「秀吉」よりこの「家紋の使用」を許されたが、更に黒田藩はこの「専属傭兵の青木氏族」にこの「五七の桐紋」の使用を許したらしい事が判っている。
    然し、江戸期初期に成って「黒印状獲得」の為には流石に「秀吉」の「五七の桐紋」は憚って使えず、その出自元と成る「廻氏の血筋」を引く「清和摂津源氏族の笹竜胆紋(上記)」に傍系として「丸付き紋」を着けて「家紋届」を出した事に成るだろう。
    或いは、平家により配流された「源宗綱」と兄弟であった「伊勢青木氏の京綱の所縁」を以って「大口村の浄土宗寺住職(寺名は秘匿する)の勧め」で「青木氏」を名乗ったとする記録もあり、この事から宗家筋が「丸付き笹竜胆紋」を使った事も考えられる。(ロの説)
    家紋が刻まれている墓所を観ると、両方の墓の家紋があり、凡そその違いは宗家筋とそうでない筋に分類される様でもある。
    この事から筆者は、記録のある「後者の説(ロの説)」を採っている。先ず間違いは無いだろう。
    何故ならば、「大口村の浄土宗寺(生き残り主従5人)」に逃げ込んだが、間近に「平家の追手」が迫り、緊迫した中で”「名乗り」”として(イ)の説(「嵯峨期の詔勅の青木氏」)を採れば、恐らくは何の所縁の無い「源氏族」としては遠慮会釈なく討ちとられていただろう。
    然し、「伊勢青木氏」では、「松阪の隣の伊賀との付き合い」や、「光仁天皇の妃の高野新笠」は「伊賀の平家の里の祖」でもあり、「宗綱の助命嘆願」の親元であり、「伊勢青木氏の所縁の者」とも成れば先ず討つ事は出来ないであろう。)

    (注釈 「伊勢青木氏」では、遠い薩摩や宮崎の事でもあり、且つ、「伊勢青木氏」が「直接」に使用、又は「許可」を認めたものでない限りは、「記録」のある限りは事実として「丸付き紋家紋」を逸視していたと考えられる。
    「丸付き紋の笹竜胆紋」の記録に残る「確定できる姓」はこの「日向と薩摩出身の廻氏系青木氏」だけと観ている。
    筆者は、むしろ「青木氏族」を物語る「確たる物証」のある「所縁のある姓」を敢えて「不問の姿勢」を示し遺そうとしたと観ている。)

    注釈として、「近江佐々木氏系の青木氏族」の段でも、その様に定義され”「青木氏族」”として認めて論じている。
    と云う事は、同じ「青木氏族」も然る事ながら、「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏の直系族」もその範囲のものとして考えていただろうことが判る。
    故に「佐々木氏族」も自らの研究記録の中にこの「日向青木氏の歴史」を態々記載している事の「裏の意」は、その「四六の掟」を頑なにある程度までは採っていた事を意味すると観ている。




    >「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」に続く。
    >「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


      [No.358] Re:「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/12/18(Mon) 16:06:22  

    > 「伝統シリーズ−38」の末尾

    「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城−名張−伊賀−射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

    筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

    これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
    元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
    全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。


    > 「伝統シリーズ 39」に続く


    「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」

    前段の「射和の殖産」の論に加えて、ここでもう一つの「青木氏の歴史観」を作り上げる重要な事があった。
    それは「射和の殖産」をリードする為の「青木氏(A)」の「盤石な体制」にあった。
    これ無くしては「射和の殖産」は成し得なかったと観ている。
    それは、単なる「氏存続」の事だけでは済まされ得ない「青木氏(A)の体制造り」にあった。

    前段でも論じたが、「青木氏(A)」には「四家制度」と「家人制度」や「四掟制度」以外にも、この定義を護る為には、“「同族血縁の弊害」”を起こさせないもう一つの課題の制度が必要であった。
    これが無いと「大きな殖産」と云う「世の繋がり」と密接したものを維持する有能な架体を持っていなければ成し得ない。
    その大きくて堅固な架体の体制を維持させる制度が「青木氏(A)」の中にあった。
    それは上記の“「妻嫁制度」”、つまりは「女系族の制度」であった。

    そもそも現在の「一夫一妻」とは、「人の目的」を達成させられる「社会性や時代性」が異なることから、この制度では一概に「善悪の評価」は難しい。
    前段でも論じたが、これは余り触れられていない、或は、触れない“「影の制度」”と云える制度であった。
    当時としては、現在感覚では矛盾する様に考えられるが、一般的に経済的に成り立てば、「人」、つまり、“「女系」を重視する「通常の概念」”であった。
    これは現在では否定されている一種の「一夫多妻」に類似するからであろう。

    そこで、先に論じておくが、この「現在の人類学」では、「一夫多妻」の「悪の原因」は現在医学で解明されている。
    それに付いて理解度を深める為に念の為に少しこの事に先に触れて置く。

    そもそも、原始の時代に於いて「人の類」は「類」を増やす為に「四回の変態」を起こしたが、それは他の類からの「捕食に耐える事」の為にあって、遂には「雌の類」で増やしていた変態方法を「雌」から分離させた「雄」という「補完の役」として「人の類」を造り上げて「子孫を増やす方法」の確立に成功した。
    そして「雌」と云う「人の類」を「雌」を主体として「雄」を造り上げて継承(遺伝)する事に成った。
    つまり、それまで取っていた変態形式の「雌」の子(娘)の「雌の遺伝継承」と、新しく「雌」の「雄」(息子)の子(娘)の持つ「雌の遺伝継承」の二つで「雌」の「人の類」の子孫確立を高めた。
    このプロセスが、他の類からの「捕食」から子孫を増やせないと云う「第一の危機回避策」であった。
    これはとりあえず成功した。

    (注釈 「人の類に関する遺伝継承」は「雌」に依ってのみ継承される。)

    ところが、「第二の危機」に襲われた。
    「人類の初期」、つまり、四千年前の中国の「華国の創建」の由来、況や、“国と云う概念の創設期”では、「善悪の概念」は別として、この「集団」を形成する為に必要としたのは、「第一の危機」の回避策が進みより子孫を遺そうとして採ったのが「雄」を起点にして「一夫多妻の原理」であった。
    この「一夫多妻の原理」に従っていた事から「多妻に依る集団化」が起こり、その互いの集団に「指導者の王」(絶対的指導者)を定め、「国と云う概念の集団」が初めて出来た。
    これが人類史上初の国の所謂、中国の“「華国」”であった。
    この時、「一夫多妻の原理」で生まれた初の国の「華国」は、夫々の妻の子供の集団化が幾つか集まり、その中での「指導力のある者」が「国家の王」として祀り上げて、「初の国家規則」を作り上げた。
    それは、「臣下制度」と云うもので、これを「初の国家規則」として「儀式化したもの」は“「瓶杯」”であった。
    「瓶」と云う入れ物に「酒」を入れて、それを「家臣と成る者」に「瓶皿」に注ぎ「家臣と成る者」が飲み干すと云う儀式化であった。
    これで「初の国家体制」を造り上げた「華国」は、「血縁のある絶対的な絆」が成立させて行った。
    これが最初の「国家の規則」であり、最初の「国家儀式」であった。

    この「国家形式の儀式」は、世界の人の類に依って異なるのだが、我が国に限定し論じるとすると次の様に成る。
    日本では、最初に、この「儀式化」で出来た「国家形態」は、摂津湾に入った「渡来人の応仁王(蘇我説)」で、関西域を制圧し、「地域の五豪族」(紀族、巨勢族、葛城族、物部族、)を先ずは血縁で結び、上記したこの「儀式化」で「家臣化」して「応仁王」から「応仁大王」による「初の正式な国家」、況や「飛鳥王朝」が出来た。

    これは、経済的とか精力的とかは無関係の“「子孫を増やす」”と云う「単純な人間の原理」からの発意であった。
    如何なる世であっても、補完役の「雄」が多くても「妻」(人の基礎の雌)が少なければ、尚更、危険の多い原始の自然界では子孫は増えない。
    「道義的な感覚」よりこの「集団」を維持する為には、“「子孫」を増やす“と云う命題の方が優先され、その事からの「国家形式」を保つ上でも「一夫多妻の原理」の方が良しとしてこれに従っていたのである。
    「雄」が補完役である以上は、「人の類」の「論理的呼称」とすれば、「多妻一夫の原理」が正しいだろう。
    何故、この様に逆転したかは別の論として、当然に、「国家」を形成する「臣下の族」も同様の形式に従っていた。

    ところが、この「仕組み」(「一夫多妻の原理」)に依って「子孫」は確かに増え多くの「集団」(初期の国形態)が形成されたが、ここで別の“ある思わぬ出来事”が起こった。
    そして、その“ある思わぬ出来事”で、「人類」には「捕食」とは新たな別の危機が起こり、“「滅亡に近い事」“が起こったのである。
    各大陸全体にこれが蔓延し地球規模で起こって仕舞った。

    そこで「人間」(人の類)は、再び色々な「子孫拡大の仕組みの模索」を試みたが、駄目であった。
    この“ある思わぬ出来事”とは、それは何と“「菌」”であった。
    それは「補完役の雄」を出す事に依り起こった危機であった。
    「雄」を造り上げる事に依って、造り上げた生殖の「繁殖の仕組み」に原因があった。
    「雄雌」に依る「人類の生殖反応」に依って、この「菌」が「菌」に依る「性病」を蔓延させ「良い子孫」を遺す事のみならず、「子孫拡大」どころか「滅亡の方向」に動いた。

    この滅亡過程で、この時、次ぎの「二つの事」が起こった。

    一つは、「無制限な生殖」に依る「菌の繁殖拡大」である。
    二つは、「同族間血縁の弊害」であった。

    然し、この時、「人類」は、この「二つの事」が、これは「生殖反応」に依るものとは到底解っていなかった。
    ”「神の成せる技」”としか考えなかった。

    先ず一つの「菌の繁殖拡大」では、「人類」が住むジャングルに存在するこの「菌」は「人の類」にのみに影響した。
    ところが、そこで「人の類」は、これを「場所的な原因」として観て、世界的に大きく大陸移動を開始した。
    そこでも、一時、「人類の子孫」は拡大を再び興すが、再びこの「菌」が拡がり、移動先でも滅亡する事も起こった。

    ところが、この「人の類」の中でもある大陸に移動して進化させて「知恵」を発達させた「新たな人類」が生まれ、この「菌の発生原因」が「人」に依るものだと云う事を考え着いた。
    そこで、”「神の成せる技」”として「知恵の進化」に依って生まれた「原始の神の宗教的概念」を興して、これに基づいて「戒律」を造り、この「戒律」を利用して「一夫多妻」を禁じたところ、この「新たな人の類」は滅亡から徐々に増大へと進んだのである。
    この「菌」が「生殖の行為」に依って爆発的に蔓延する事を知ったのである。

    このある「人の類の種」は、「原始の宗教的概念」に依っては、次ぎの様な行為を採った。

    A 「一夫多妻」を止めた地域、
    B 「女系家族制」を採用した地域、
    C 場所を決めて「集団生殖行為制」を採用した地域、
    D 村で管理する「通夫制度」を採用した地域

    以上の様な工夫をした。

    どれも「効果」は認められて「菌に依る弊害」の危機は無く成り「子孫拡大」へと繋がった。
    これらの制度に「共通する点」は、次ぎの事であった。

    “「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”であった。

    以上の二つであった事を人類は初めて知ったと云う事である。

    「国家の集団化」と「原始の宗教的概念」とを合わせて「管理する事」で、「菌」を強制的に除く事が出来て、且つ、「保菌者」を排除できる事となった。

    元の「女系にする事」で、「菌」を排除できると同時に「生まれる子供の保菌者」の「排除と奇形」とを除く事が出来た。
    「奇形」は「人の類」を危機に追いやる事から逃れ得た。

    「無菌の女系」で纏まれば「人の類」は爆発的に拡大できる事となった。

    後は、この「二つの管理」、つまり“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”によって「男子の保菌者」を排除出来ればこの「菌」に打ち勝てる事を知ったのである。

    結局は、「女系にする事」で「人の類の危機」から逃れられる事を知った事から、ここで「神は雌として崇める原始の宗教概念」が生まれたのである。

    ところが、ここで、中には、次ぎの様な制度を採った「国」と云う形式には至らない「集団」があった。
    それは、「男子を集団で生活させる事」で、次ぎの方法を採った集団があった。

    「女系家族制」
    「集団生殖行為制」
    「通夫制度」

    以上の「三つの制度」を同時に敷いた地域も起こった。
    これは、“神は雌として崇める原始の宗教概念”を徹底した事からのもので、「局部の地域(ジャングル居城地域・発生地)」に不思議に終わった。
    恐らくは、この制度では大きく集団化が起こらず、「奇形による危機」が起こり、「国」にまで発展せず「混血に依る知恵の進化」は起こらず、「人の類」は「劣化」を興し「村レベル」で終わる結果と成ったのであろう。

    少し進んで「島国の日本列島」に於いてもこの上記の「二つの危険性」(菌と奇形)はあった。
    海を渡る「移動浮遊族」に依って持ち込まれる「菌に依る問題」もあって、況して、「7つの民族の融合民族」であった事から、島国でありながらも「持ち込まれる」と云う事が起こった。
    (注釈 菌には、主に「梅毒と結核菌」の二つがあって「遺跡の骨」からその証拠が発見されている。)
    つまり、未だこの頃は「同一融合民族」で無くその過程であった事から、「女系家族制」「集団生殖行為制」「通夫制度」の「三つの制度」は採れてはおらず、結局は、「村単位で管理を強化する」と云う事で徹底的な隔離を含む「排除主義」を採っていた。

    ところが、少し進んで「飛鳥期の前期頃」からは、融合しながらこれ、即ち、「村単位の排除主義」(集団も含む)で「国と云う概念」が生まれながらも「純血性」とか「子孫を増やす」とか云う宿命を持った「力のある融合族」は出来なく成っていた。


    「人の類」の初期の頃には、次ぎの滅亡の危機があった。
    イ 「捕食に耐えうる事」
    ロ 「菌に耐えうる事」
    ハ 「奇形に耐える事」

    以上に耐え得た「人の類」は、「子孫」を増やし、「属」が出来、そして遂には、その「属」で上記の通り「国」と云うものを形成した。
    この「国」と云うものを護る為には、その中で今度は国を構成する「属」では困難と成り、更に細分化して、「族」を形成させて「国の形態の正当性(血縁性)」を護る為に生まれた。

    「真人族」とそれを「補完する臣下族と成った賜姓族」の二つで「特別な慣習仕来り掟」を創造して定め、「国の正当性」を護った事に成る。

    然し、ここで、「国家」と成った事に依っての「国」の「王(後に天皇の呼称に成る。)の権威」を保つ意味から「高い純潔性」を求め継承しようとする形態が生まれた。
    これが、「飛鳥王権」「飛鳥王朝」「奈良王朝」と変化し、遂には「奈良朝廷」に成り、「八色の姓」や「冠位十二階制度」(後に天武天皇が四十八階にする)等を定めて「継承族の立場と役目」とその「慣習仕来り掟」等について定めてその「権威性」を確立させた。
    然し、この時は「ロとハのリスク」は未だ充分には解決には至っていなかった。

    そこで、ロ 「菌に耐えうる事」と、ハ 「奇形に耐える事」に付いて「国レベル」で「見直し」が行われた。

    「ロとハのリスク」の面から観ると、次ぎの様に成る。

    「ロのリスク」は、「属」では出来ない事から「族」の中で、「生殖の範囲」を限定して、「族」を細分化して制度化してブロック化したのである。
    然し、これには「ハのリスク」が伴う。
    「ハのリスク」は、「ロのリスク」に依って生まれる「ハのリスク」を「排除主義」を取り入れて制度化して、況や「廃嫡制度」を敷いた。

    これを制度化した事で、「人の善悪を越えた思考」が生まれ、リスクに対する「ブロック制度」と「排除制度」は正統化させてその事に依って徹底した。
    この事が資料からも判っている。

    その根拠は「国と云う概念」の下にあった。
    この「国と云う概念」を護る「上位の族」に執っては大きく課せられた「ブロック制度」と「排除制度」は「族の宿命」と成った。
    これが、飛鳥期の「国の成立過程」を経て奈良期から敷かれた「確定した国の制度」(骨格)であった。

    「聖徳太子」が採った制度は、「政治の構成」と離れて、「族で構成する国」が起こす「ロとハのリスク」と云う別の面からのもので、その面から観た検証の結果であったと云える。
    つまり、「冠位十二階制度」は「属」を超えたその「族の縛り」であると観える。
    その意味で飛鳥期では、未だ「属」による「ロとハのリスク」を持つ「不完全な国の構成」とも云えるのだ。

    この「幾つかの制度」を更に見直した事に依って「初めての国家」と見做されたもので、それが「大化改新」であろう。
    その「大化期の終息期」(647年)に生まれたのが、所謂、我等の「青木氏族」であるが、それなりにこの「ロとハのリスク」の期に所以があるのである。

    従って「初めての国家」の期に出自した「国家の族」を構成する「賜姓臣下族で朝臣族」の「血筋と云う視点」では見逃す事の出来ない論点であるのだ。

    故に、そもそも前段より論じている様に、「冠位十二階制」から始まった「冠位十八階制度」と「八色姓制度」であり、この時に生まれたのが「真人族」から離れ「朝臣族」の「賜姓臣下族の五家五流青木氏」であり、同じく「近江佐々木氏」であった事に成る。

    論理的に場合に依っては、「天皇家」を始めとして「青木氏族等」の「王族の朝臣族」の様に「ロとハのリスクの侵入」を周囲に「壁」を張って「血筋を中に閉じ込める政策」では無く、むしろ外に放出して「ロのリスク」は兎も角も「ハのリスク」をも無くすものとして観れば、「第七世族」である「坂東八平氏」も「ロとハのリスク」を大きく開放した制度であった事も云える。
    「ハのリスク」はこの「壁」が無い為に「新しい血筋」が入るが、反面では「ロのリスク」は、「第七世族に任す事」に成り得る。

    從って、その意味では「青木氏族や佐々木氏族等の第四世族」は、「ロとハのリスク」を責任を以って「リスクの壁」を「制度や慣習仕来り掟」と云うもので造り護ったという事に成り得る。
    つまりは、見方を「人の類と云う視点」に変えれば、これが「両氏族に課せられた賜姓五役」であった事にも成る。

    然れども、「天皇家」は、「ロとハのリスク」は、あまりの「純潔性」を「権威を保つ手段」に特化したが、これを「国家」と云う事に使った事で、「ロのリスク」は防げたとしても「ハのリスク」が逆に大きく成った。
    そして、この「ハのリスク」を何とか除く為に止む無く「廃嫡制度」を「系譜に載らない形」で密かに採らざるを得なくなったのである。

    (注釈 この「廃嫡制度」では、「ロとハのリスク」の記録上では、多くは「出自不祥」等と云う形でも処理されている。)

    従って、この「天皇家の廃嫡」が進むと、これを緊急時に補完する為に、この両者(「青木氏族」と「近江佐々木氏族」)には「朝臣族」でありながらも、「最低限に準継承族」としての「条件」が求められていた事に成る。
    この「準継承族」は、「最悪の場合の事に対処する族」と成るのだが、これも原則的には「令外官」と「皇親族」の時までの事で、「形式上の族」に成り得ていたのである。(嵯峨期には正式に外れた)
    この「条件」が、「ロとハのリスク」を持たない族として、最低限に於いて「賜姓五役の役目」を維持する「男系嗣子」に限られた「純潔性の保持」であった。

    さて、ところが、これが思いの他で問題を起こしたのである。
    そして、それが、当時では理解できない思いがけないところに起こった。
    これが「三つ目」に起こった「存亡の危機の事」には成った。

    これが大和に出来た「初の国家形態」を揺るがす “「ハの遺伝障害の事」”であった。
    つまり、突然に表れる「純潔性の悪弊」(同族血縁に依る弊害)であった。
    当時では、この原因が殆ど理解されていなかった。

    「天皇家族の系譜の記録」を読み解くと、この時(改新後)は、飛鳥初期頃に比べて既にこの「遺伝障害の事」の原因は、“「神の成せる業」”として理解されある程度に認識されていた様である。
    その証拠が、「伝統の論」の前段でも論じた様に、「嗣子」だけであれば数的に「后妃嬪の妻」の「制度の範囲」でも「継承」は成立する。

    これに対して、態々、“「妾」”が組み入れられている事が、「政治的な事」のみならず間違いなくそれに当たるだろう。

    ここで、“「神の成せる業」”としての認識が、この“「妾を組み入れる事」”にどう繋がり、“何故に「神」に関わる事に成るのか”と云う疑問がある。
    それは、“「純潔族(四世族)」”の中に持ち込まれた「人の悪行」が、“「因果」”として「神が指し示す行為」と見做され、「神殿」に於いて「御払い」をする事のみならず、現実的にこの「因果」を「薄める行為」として持ち込まれた「神義」に近いものであった。
    故に必ず、「后妃嬪の妻」の正式な制度に「妾」を加えて大化期からは「后妃嬪妾の妻」とする制度としたのである。
    「后妃嬪妾の妻」は、正式に「身分制度」にも用いられたが、その「皇位継承者」はこの順に従うものとして、「后妃嬪の妻」までに「継承者」がある場合は、「皇子族」から外れ「賜姓臣下族」として「天皇」の「近衛族役や皇親族役」を新設して「下俗する事」になったものである。

    これが「前段までの論調」であり、これには上記する「血筋に関わるリスク」と云う視点からの「国家形成過程」に関わる経緯があった。
    つまり、「青木氏族」は、当にこの「国家形成期の出自」に当たり、必然的に「氏族の意思」に拘わらずこの「ロとハのリスク」を持ち込んだ事に成るである。

    そもそも、「青木氏族」は、当にその「神の成せる業」の「因果の解消策」の最初の「妾の出自族」に当たる。
    「準継承族」の「賜姓臣下族の朝臣族」として「準継承氏の立場」にある二氏も、「施基皇子」(青木氏 越道伊羅都売 越は福井山形域)も、「川島皇子」(近江佐々木氏 忍海造小竜の女色夫古娘 四国域)も何れも「地方の豪族の女」のこの「妾子」である。
    「青木氏族の歴史的価値」はここにもあるのだ。

    (注釈 但し、「妾子族」には「ロとハのリスク」を持ち込む恐れは充分にあったが、何れもよく調べた上での「妾」であれば“問題はなかろう“と云う事に成る。
    「ロのリスク」は目で直ぐに判るが、「ハのリスク」は目では判らず「隔世遺伝的に持ち込まれる事」はあり得る。
    「地方の豪族」であるので、何とか系譜などで調べれば判るが、密かに廃嫡をしている事から、当時としては、廃嫡以外に確実などの様な調査方法があったのかは分からない。
    恐らくは、「隔世遺伝のリスク」そのものが理解されていなかったと考える。
    「何時か出ると云う感覚」では諦めていた事で、その為の「廃嫡制度」は是非に持っていなければ成らない事でもあった。
    そもそも、「七つの民族」が融合し1400年経てもこの「隔世遺伝のリスク」だけはあるだろう。
    ところが、「青木氏族」は前段でも論じている「四家制度と云うシステム」、つまり「福家で養育する制度」で、この「隔世遺伝のリスク」(男系女系に拘わらず)も見抜く事が出来ていたのである。)

    (注釈 記録に見れば、「唖子」は別として「優秀でない嗣子」は廃嫡せずに傍系に出して外している。)

    況や、この「天皇家」を含む「賜姓臣下族の朝臣族」の「后妃嬪妾の仕来り定義」が無ければ、この「同族血縁の弊害」は、“「隔世遺伝的に起こり得る大弊害」”の可能性が有った。
    恐らくは、もっと云えばこの「妾子」に依る「優性保護の仕来り」が無ければ、「国家」を維持する「主の権威」を保つ上での「劣性嗣子」が頻繁に起こり、結局は、「国主の権威」は保て無く成り、「国家」は失墜し混乱に陥り維持は出来なかった事が起こった筈であった。

    現実には、飛鳥から奈良期に於いて「皇子」と成っているにも関わらずその「皇子の半数」は少なくとも「国家の権威」を維持するに値する「優性嗣子」では無かったとする説もあり、現実には「日本書紀」などにも「天智天皇の皇子」の「建皇子の劣性の記」等が認められる。
    本来は、「唖子」の場合は、「帝紀と上古諸事」に見られる様に「廃嫡制度」によりそもそも「皇子」には成れない筈であり、然し、「建皇子」の様に「皇子」に成っている。
    これには、「唖子や廃嫡」の場合は、系譜の中に入らないが、現実にその一例が「天皇家の系譜」に出た。
    この理由には「日本書紀」に書かれていて、「建皇子の祖母」が「皇位」を主張して「皇子」とは一時は成ったものの、直ぐに廃嫡死亡した例がある。

    そして、この「四世族内の血縁」における「劣性遺伝」を防ぐ為に「嵯峨天皇」が慌てて態々、未完の「新撰姓氏禄」を世に出した目的にもこれを防ぐ基準としたと観ている。

    筆者は、前段で論じた「天皇家のルーツを確定させる」という事よりこの「目的の方」が強かったと観ている。
    その意味では、況や、「青木氏族」に執っては厳しい仕打ちともとれるが、この「ロとハのリスク」を断ち切ったと云う視点から観ると、これのは「嵯峨天皇の功績」とも云える。

    ここで、この「ロとハのリスク」を排除した視点から、「青木氏族の事」を理解する為に前段でも論じている事ではあるが念の為に「注釈論」を論じる。

    (注釈 そもそも、「四世族の基準」は、それまでの「第六世族」を変更して「天智天皇の大化改新」で「王位」とすると決めた。
    この「四世族基準」からすると、平安期中期以降は原則として「青木氏族」は本来は「王位」は持たない。
    つまり、「聖武天皇」からは「第七世族外」であり本来は「王位」は無い。
    この「聖武天皇期」のこの時には、「天皇家の真人族」には「四世族」は元より「六世族」までも含めても、「唖子と廃嫡族」を除いて「皇子」も含めて「王位」に成り得る「嫡嗣」は無かったし、「義嗣」も無かった。
    「永代浄大一位の身分」を持つ「施基皇子」の「四男・六男説もある」が、「聖武天皇の皇女」の「二人の姉」がいて長女が「女系天皇(孝謙天皇)」と成ったが、「女系天皇」と成らなかった三女の「井上内親王」との血縁で、「天皇」と成った事(下記に論じる)で、「施基皇子の男子」はその時点で「個人の意思」に拘わらず「王位」を獲得した事を意味する。
    更に「施基皇子」が「追尊・後付け」の「春日宮天皇」と成った事も「王位」と成った理由でもある。)

    (注釈 論理的には、「施基皇子の男子」であった時には、「天智天皇期」、「天武天皇期」では「第三世族」、「第四世族内」にあって、「王位」にあった事に成り、「持統天皇期」でも「天智天皇の第二皇女」で「天武天皇の皇后」であるので、「四世族内」にあって「王位の座」は保たれていた事に成る。
    然し、「文武天皇期」に「第五世族」と成った事で「王位」はこの時点で外れた事に成り得る。)

    (注釈 一説によれば「施基皇子の六人の男子継承者・四人説もある」は、現実に「父の生き方」を見習い「王位」を好まなかった事が内資料も含めて書かれた資料があり、取り分け、「湯原王」と「榎井王」は敢えて「無冠」と成り、「冠位」も含めて嫌った事とが判っている。
    従って、論理的にはこの二人は「王位」には成っていない筈である。
    そもそも、「王」としての「冠位」が無く、「冠位」の無い「王」は、そもそも存在しない。
    「相当の冠位」(第二品 従四位下以上)があるから「王」であり、「王」であるから「相当の冠位」があるのであるとすると、「本人の意思如何」を問わず「湯原王」と「榎井王」は「王」では無かった筈である。
    つまり、これも「後付けの追尊王」である事が判る。
    「光仁天皇」と「後付け天皇」の追尊の「春日宮天皇」の「権威の辻褄合わせ」で、「後付け王」と成った事が判る。
    これは「施基皇子の生き方」であってそれは「青木氏の氏是」に表れている。
    恐らくは、「白壁王」を除いて他の五人の子供は、この「青木氏の氏是」を護った事がよく判る事に成る。
    強い圧力の上で「白壁王」も止む無く応じるしか無かったと考えられる。)

    (注釈 つまり、最も純潔の血縁性の深い一族から止む無く、「帝紀や上古諸事」外に成るが例外として「中国の古典」に見習って「白壁王」として条件を整え「義嗣方式」を採ったという事にも形上はした事に成る。)

    (注釈 「青木氏族」の 「・湯原王、・春日王、・榎井王、白壁王、桑原王、壱志王」で王位を追尊で得た事が判る。 
    「榎井王、桑原王、壱志王」の三人は「妾子」で、四人の女子の内三人は光仁天皇期には内親王と成る。
    そして、更に、「光仁天皇期」の「二世族」、つまり、「施基皇子」からは「第三世族」としても、「*壱志濃王、市師王、 安貴王、高田王、香久王、 神王、榎本王、鴨王、*桑原王二世」がそれぞれに「王位」に着いた。
    ところが、「賜姓臣下族の朝臣族」に課せられた「慣習仕来り掟」に従わず「姓」を「・印の二世王の*印の後裔」が興したとする説がある。
    然し、「桑原王・妾子」と「壱志王・妾子」等の「二世族」は「青木氏族」を護り拒んだ。
    「桑原王は二世族の子」で、然し、「三世族」では「・印の二世族」を親とする「*印の三世族」の後裔に「姓」を興したとされるが定かではないし、その「後裔」を興した時期も判らない。
    唯、「・印」と「*印」には矛盾が多くあり「江戸期の搾取偏纂」ではと観られる。)

    (注釈 世間に出ている「一般説」では、この「後裔」としているが、殆どは、「江戸期初期の諸版説」を論処として論じているので総合的に見た歴史観から見れば「搾取偏纂の矛盾」が生まれる。
    唯、その内の「*印」の「一つの姓族」に付いては、「傍系卑属の末裔」の可能性があるが、これもその主張は「施基皇子」を始祖とする「川島皇子」とすると成っていて矛盾し疑問がある。
    確かに、「新選姓氏禄」や「他の二大歴史書・三大累代格」から観ると、平安初期にその「姓の名」を持つ「臣連の朝臣族」は存在した事は認められるが、「・・朝臣族」の「・・名」を「姓名」にするは「朝臣族」として課せられていた「慣習仕来り掟」から観ても疑問でもある。
    そもそも、本来は、「皇別の真人族の朝臣族」の課せられた「掟」から観て、「・・朝臣族」の「・・」は「氏名」に成るものであって、「姓名」にするものではない。(嵯峨期で禁じられている)
    但し、「新撰姓氏禄」には、これを明確にする為に全体を「皇別」と「神別」(地方豪族)と「諸審」(渡来人)に先ず分けられ、その「皇別」には「真人族」(高位)の他に「真人族}ではない特別に「縁戚関係族」、つまり「傍系尊属 傍系卑属」を主体とした「皇親別」(低位・縁戚)に分けられている。
    この「皇別の朝臣族」の「皇親族」だけは「姓」を持つことが出来る事に成っている。
    従って、上記の「*印」の「一つの姓族」とは、この「朝臣族の皇親族」に成り、つまり、「傍系卑属」と成る。
    「傍系尊属」からは「姓」を興すと成ると、「傍系」とは云え「氏家制度」の中で課せられている「慣習仕来り掟」を護らせる立場にありながら、自らがその立場を失う様な事をするは先ずあり得ない。
    又、仮に「姓」を発祥させたとすると、「氏家制度」から「宗家」から「慣習仕来り」に反したとして「氏族」より外される事は「尊属の立場」である以上必定である。
    その点から観ても、条件的に観て「後裔の可能性」が強いとするならばそれに縛られない「傍系卑属」である事は頷けるが、「施基皇子」と「川島皇子」の「絶対的な矛盾点」だけは解明できない。
    その「姓」の「近江の出自」から「近江佐々木氏」の「始祖の川島皇子の後裔」と云う点が取られ、どこかで「系譜作成」で間違えてしまった可能性もある。)

    (注釈 その「姓の始祖」とする「施基皇子」の「ある第二世王の在所」は近江に関係していないので、だとすると、この「第二世王の後裔青木氏」の「女系」が血縁で、「青木氏側」には記録は無いが、「第四世族内血縁」を「賜姓五役の前提」としている事から、又、「・・朝臣族」の「・・」を「姓名」とする事から観ると、「佐々木氏系青木氏」に嫁いだ可能性があると観られこの視点から観ればこの「矛盾点」は解消出来る。
    この「・・朝臣族」は「新選姓氏禄」から観て確かに「四世族内」にはある。
    然し、この時期は、「近江佐々木氏系青木氏」の「傍系卑属」までを含む一族一門は、「二つの源平合戦」で敗退し平家に依る厳しい掃討作戦に依って滅亡しているので、平安末期直前の事と考えられ本来は「後裔の姓」は生まれない筈である。
    その為に、江戸期初期に作成した「系譜作成」が錯綜したと観られる。
    恐らくは、検証をすると、その「姓族の在所」からも一部に密かに生き延びた末孫の「佐々木氏系近江青木氏の傍系卑属」の説の可能性もあるが生き延びたとする確定検証は出来ない。)

    (注釈 残りの「一つの姓」は、典型的な拭い切れない矛盾の疑問が残り、論じるに値しない「江戸期初期の搾取偏纂」と観られる。
    更に、上記した様に「賜姓五役」の「青木氏族の慣習仕来り掟」に合致せず「姓」を持ったとする説の「・印の二世族」は三人いるが、「*印」の「もう一つの姓」は「・湯原王、・春日王、・榎井王」には確認できないが、恐らくは、「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「無冠位」を主張した「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「三人の内」の「春日王の姓族」としている事にも成り、「矛盾の姓」に成る。
    つまり、明らかに、この「二つの姓の件」に付いては、「嵯峨期の詔勅と禁令」がありながら、この様な間隙を狙って、江戸期初期に矛盾する「姓」をねじ込んで来た事を意味する。
    従って、「重要な歴史観」として矢張り「青木氏族」は、「賜姓五役」を保持するが故に、結局は「江戸期初期の前後頃」までは少なくとも「姓」を持たない「原則四世族内」の「青木氏族内」にあった事を意味している。
    唯、「優性の後裔を遺す」という点では、鎌倉末期から江戸初期前後頃まで「四家制度」等を敷きながらも、次第に難しい状況に陥って行った事は事実であり頷ける。
    取り分け、室町期には「下克上や戦国時代」と成り、歴史書に記載されている「朝臣族の氏族」は「姓族」に依って悉く一掃され潰され、又、「下克上」により「傍系卑属」に乗っ取られたりして「数氏」にまで落ち込んだ歴史的経緯を持つ。)

    (注釈 幸いにして、「紙文化の発展」に依って「巨万の富」を獲得し、それを以って先ずは「抑止力」を高め、「女系族」を推進して「周囲の姓族との絆作戦」を展開して生き延びてきた。
    此処が、「第二の分岐点・ターニングポイント」であろう。
    室町期初期からじわじわと始まる「危機」がこの分岐点で、これでは拙いとして大きく「四家制度の考え方」について舵を切った時期と考えられる。)

    以上、「注釈論」を前提に次に「血筋の論」を進める。

    「直系尊属と直系卑属」は、「賜姓臣下族の慣習仕来り」を護りながらも「四世族血縁」を貫いた。恐らくは、この事から「室町期初期」からは、「四家制度」に依って上記した「玄孫までの女系族」にシフトし始めた事が判る。
    この鎌倉末期から室町期初期が「第一の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。

    本論のテーマである「江戸初期の殖産」に依る「体制造りの主眼」は、「玄孫までに依る女系族」に徹底して切り替えたと考えられる。
    この江戸初期前後頃が「第三の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。
    それが、「女墓」(伊勢・信濃)に表れているし、「甲斐青木氏と信濃青木氏の動き」にも出ている。

    先ず、そこで生き残った室町期初期の「甲斐青木氏」では、「賜姓臣下族の正統族」の「源光系甲斐青木氏」と、「源光」の兄の「時光」が「傍系の源氏族」であるとして「嵯峨期の詔勅」で「時光系青木氏」を発祥させた。
    ところが、この「時光系青木氏」には内部抗争が起こった。
    この為に、「武田氏系」の「時光系青木氏」は弱体化し、結局、生き残るために武田氏に組した為に「第三の分岐点・ターニングポイント」では、「慣習仕来り掟」を全て金ぎり捨てて完全に姓化した。
    そして、「傍系源氏族の武田氏」が滅びると共に、掃討作戦にも何とか生き残り一族郎党全て「武蔵鉢形」に移封され「徳川氏の家臣化」をした。

    (注釈 この時、この武田氏を滅ぼした勝者の信長は出迎える為に列の中に「白馬に乗った者」がいてその侭に信長を出迎えたとして,引きずり降ろし滅多打ちにした。
    これは古来からの「賜姓臣下族の朝臣族」の「高位の者」の儀礼の「立場の仕来り」であるとして迎えたのであるが、信長はこれを否定する行動に出た。
    信長はこの「仕来り」を知らなかったとする説もあるが、「平家傍系の末裔」でもあり伊勢信濃に近く、且つ、足利将軍などとも謁見している事から知らなかったという事は無いだろう。
    恐らくは、「賜姓臣下族の朝臣族と云う立場」を自分の「覇者の権威」を保つ為には認めたくなかった事を意味する。
    この「白馬の者」は中立を保った甲斐の「源光系青木氏の後裔」であると云われている。
    現実に、この「白馬の者・源光系青木氏」は信長より所領の剥奪等の圧迫を受け滅亡に近い衰退をし行方は分からなくなったとされている。
    然し、「傍系卑属の後裔」とされる一族は江戸期にも生き残ったと成っている。
    そして、武田氏に味方した「武田氏族の時光系青木氏」は、家康に救われて潰れる事無く、「信長の圧迫」を受けない様に家康は即座に一族郎党を鉢形に移した。
    この一人が「柳沢吉保」の父である。)

    元々、源氏傍系の「時光系青木氏」は、そもそも、傍系族(傍系卑属の可能性)であって、「賜姓族」では無い為に「慣習仕来り掟」には大きくは縛られず姓化に成れた経緯もある。
    弟の「賜姓臣下族の源光系青木氏」は、「郷氏」を続けながら「和紙」等を殖産生産して、「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」を護りながらも、より「女系化」を採用して後裔に「姓」を置き「姓化の絆」で一部が「商人」として何とか生き延びたとされいる。
    その「存亡の有無」も判らないほどに「子孫力」は三氏(伊勢、信濃、甲斐)の中で最も低下した。
    甲斐」に於いては「時光系」のみならず「本流の源光系」も「直系族の甲斐青木氏」は遺されていないのである。

    次に、そこで気に成るのは周囲が多くの国衆で囲まれている「信濃青木氏」であるが同じ道を採らず、「甲斐」とは別の選択を採った。

    それは、前段でも何度も論じたが、”「伊勢青木氏との絆」”を徹底して強化して一体化を目指す”「同化戦略」”を採った。

    伊勢と同様に「四家制度等の各種の制度」を採りつつも、且つ、「伊勢との同化」の為に「女系」のみならず、「男系の同化」も図った事が判っている。
    「信濃」は「伊勢からの優性の血筋」、「伊勢」は「信濃からの優性の血筋」を入れて共に「劣性の弊害」を排除し「四世族態勢」を堅持した。
    これは、「氏族堅持」の為に「血筋」に関わらず「商い」に関しても「同化戦略」を採ったのである。
    唯一つ信濃は「違う筋道」を採った事があった。

    それは、「伊勢との同化」を進める中で、それは「四世族系」の「直系族」のみの範囲に留め、「尊属と卑属」に拘わらずある程度に「傍系族」には「姓化」を認めている。
    故に、現在に於いても「直系族の宗家」の「信濃青木氏」が存続し、伊勢、信濃共に「直系族の宗家」は明治期(明治9年)まで存続した事が確認できる。
    現在も「笹竜胆紋の後裔」は、その「ある程度の伝統」と共に遺されている事が判っている。
    この様に一定の規律、つまり、「慣習仕来り掟」を「直系族」が柔軟にして護りながらも「姓化の弊害」を乗り越えて生き遺った「青木氏族」もいた事にも成る。

    唯、「伊勢と信濃」に於いては血縁に於いて更に「面白い事」があるので追記する。
    それは平安期末期に京にて遥任していた「源頼政」が朝廷より得ていた「領国」の「警備」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」を合体させて「伊豆」に送り込んだ。
    これは「賜姓の氏族の血縁」と云う視点では「面白い戦略」である。

    本来であれば、「領国の伊豆」に警備として送るのであれば、普通は「源氏族」であろう。
    何故なんだろうか。それは何か「血縁を含む氏存続」に関わる何があって、この様な「不思議な戦略」を執った事は先ず判る。

    そもそも、「摂津源氏の頼光系の四家一族」は、前段や上段でも何度も論じたが「武家貴族」と云う立場を護る為に「武力」を大きくは持たなかった。
    「武力」を持つ事で「武家貴族」として「祖父満仲」の様に朝廷から疎まれたが、その事では「摂津四家」の「頼政」は三位まで登り詰める事は出来なかった筈である。
    当然に、「直系族の宗家」として「じり貧の運命」を辿り「賜姓源氏族の生き残り策」を果たせなかった筈である。
    然し、「満仲の作った武力集団」を引き継いだ「頼信系」は一時は伸長したが、然し、この結果は逆に平家に敵対され衰退化を招いた。


    そこで、「頼政」が目を付けたのが同じ「皇族系賜姓臣下族」の「伊勢と信濃の青木氏族」が持つ”「影の勢力の抑止力」”であった。
    「武力集団」として公に成っていないこの「影の勢力の抑止力」を「平家の勢力拡大」の中で「伊豆」に送り込んで何とか「領国」を護る事に着目したと考えられる。
    そうすれば、朝廷より武家貴族としての非難は免れる。

    そもそも、「頼信系」と同じく「武力集団」を形成して送り込めば、一族の”「血筋」”は乱れ、且つ、”「姓化」”が起こり、何もしなければ「ロとハのリスク」を抱え「族の形成」は危うくなる。
    「朝廷が認めた領国」である以上は、そう簡単に「武力」が無ければ手を出せないし、従って、最大勢力の「平家」に潰される事が先ず起こらない。

    (注釈 「伊勢青木氏」は「平家の始祖の阿多倍王(孫の高野新笠・光仁天皇の后)」とは古来より隣国として繋がっている。)

    そこで、「武力集団」に相当する「影の勢力の抑止力(経済的繋がり)」をこの「伊豆」に成すには「伊勢と信濃」を「合体させる手」を打つ事が必要であった。
    そうでなければ「ロとハのリスク」が起こると共に衰退し「賜姓源氏族」を遺せ無い筈で、そこで「伊勢」には血縁的に「妾子の京綱」と、「信濃」には「妾子の国友」に跡目として送り込み、そして、この「融合した合体一族」を「伊豆」に送り込む「奇策の戦略」を執ったのである。
    これでいずれも「宗家」の「源氏族の血筋」と「青木氏族の血筋」の合体で、「血筋リスク」はより解消され圧迫を受けている「摂津の宗家の源氏族」を安定して遺せると考えた筈である。

    そもそも、「青木氏族」の「直系血筋の四世族」は「仁明天皇」までであり、「ロとハのリスク」は系譜上は無い。
    「摂津源氏族」は、他説が多いが、「貞純親王説」としては「7世族」に当たり「姓族の外子王」である。
    「四世族」までとすれば完全にルーツを変えた「賜姓族」であるが、そもそも、「貞純親王説」は「傍系尊属」に相当するので、好ましくないと観たのではないか。
    然し、「親王」ではないが「陽成天皇説」であれば、この「天皇」は「ロとハのリスク」を持った記録に残る程の「暴君」として有名であった事からも、この「二つの説」からも「清和源氏」にはこの「血縁のリスクの危険性」を持っていた。

    これを当然に認識にしていた「頼政」は、「青木氏族と賜姓源氏族との血縁戦略」とすれば「ロとハノリスク」は解消されると考えたと観られる。
    「清和天皇」は、上記の通り何れの説も「皇子」ではない孫(王位)であり、例外であり、且つ、「ロとハのリスク」を引き継いだ王を賜姓する事に成り、これを頑として拒んだ。
    本来は、「清和源氏」では無く、「賜姓源氏族」と成るには「陽成源氏」と成るが、「ロとハのリスク」を持つ「天皇」としては「賜姓」は困難と扱われていた。
    そこで、止む無く、「純友の乱」を「経基王」は企て「祖父(清和上皇)」に頼んでその勲功で「賜姓」を願い出たは経緯を持っていたのである。

    つまり、これらの「三つの汚名」を払拭し「正統な源氏族」として遺す為には、「跡目」を両氏に入れる事は血縁上は問題はまずなく「ロとハのリスク」は殆どない「賜姓族」と成り得る。
    これは、当に、下記に論じる「政争」とも成った「孝謙天皇の正統説」と全く同じである。
    筆者は、重要な事は、「青木氏の歴史観」に執ってみれば、「孝謙天皇期の政争」も「清和源氏頼政の戦略」も要は「施基皇子のルーツ原理説」に起因していると捉えている。

    (注釈 「親王」と「皇子」の違いは、「大宝律令」を境に漠然としていた「四世族内の皇子」の「皇子の位階」が正式に決まり、呼称が「皇子」から「親王」と成り、宣下を受けた者は「親王」に、受けなかった者の四世族までの者を「王」と呼称する事に成った。
    但し、平安期の初期当時は「外子王」の場合には、未だ「皇子の呼称」が残り、宣下を受けた「外子王」を「親王」とする区別する呼称が一時期続いた。
    当時としては、「貞純親王の母」は「妾」であり、「貞純親王」は「妾子」となり、「親王」とあるが「母の経緯」から「傍系族尊属」に相当する「外子王」に成る。
    この使い方に付いての説には「歴史的経緯の間違い」が多い。)

    そして、「跡目を入れた融合合体族」と「女系で繋がる抑止力団」で周囲を固め、更にこの血筋は隣国に存在する「補完族の秀郷流青木氏」とも血縁関係を持ち、その「秀郷流青木氏の勢力」を以って「伊豆の入り口」を防御しすれば、「完全無傷の形」で源氏族は正常に遺せる。
    (その後に、「以仁王の乱」を起こす。現在も「青木村」を形成し生き残っている。伊勢と信濃以上であろう。)
    本来であれば、「伊豆」には「血縁の劣性の弊害」が起こっている筈であるが、資料によれば何某かのそれと思しき内容は元々出て来るものであるがそれも発見できない。

    更にこれは、何故であろうか疑問である。

    これは、矢張り、「青木氏族以外」からの「源氏族」の「頼光の生き残り戦略」の通りに、この中に116氏に及ぶ「秀郷流青木氏との繋がり」を持つ事で「血縁の劣性の弊害」は消されていった事以外に無いだろう。
    「青木氏の歴史観」から観れば、これが、「血縁」に依る「補完役としての役割」として「頼光の戦略」は考えていた事に成る。
    これは同時に、つまり、このこれに依る”「姓化」”が入れば、「源氏族」では「正統な血筋の範囲」では最早遺せ無いと観ていた事にも成る。
    この「焦り」が「頼政」にはあったと観ている。
    故に、「劣性の弊害」が出る可能性の高い「同族血縁性の高い融合族」の中でも「四世族制」を護り、「賜姓臣下族としての慣習仕来り掟」と「血縁の弊害」を無く現在まで護り通し得た戦略であったと考えられる。
    その意味では、「伊勢や信濃」を凌ぐものが「伊豆」にはあったと考えられ、現在に於いても現実に目の当たりにして、その「慣習仕来り掟や祭祀」等の「伝統」は遥かに凌いでいる。
    この侭では、「融合族と云う定義」はそもそもおかしいが、「融合族の伊豆青木氏」が最後までその「伝統」とその「血縁性」をより高く護り通す可能性が高いと観ている。
    その意味で、「冠位官職」を同じくする「補完役」で、且つ、「賜姓族(藤原朝臣族)」で当初は「四世族」では無かった「秀郷流青木氏の存在」は実に大きい。

    これは”「血縁」と云う事”のみならず、「姓族勃興」に依って「慣習仕来り掟」が護れなくなり「衰退逃亡」に追いやられた四地域の「賜姓臣下族の青木氏族」を救った事も見逃せない事である。

    そこで、その「秀郷流青木氏」を「劣性の弊害を無くす血縁」と云う意味で検証する事に成るのだか、それは次ぎの様に成るだろう。
    更に、平安期の「青木氏族の補完役」、つまり、「第二の宗家」と呼ばれた「藤原秀郷流青木氏」は武蔵域を始めとして「全国24の地域」に根を下ろし、何と116氏まで広げたが、「劣性に依る弊害」は「青木氏の中」では最も生まれなかった。

    注釈として、唯、「秀郷流一門」の中での「青木氏族」の中に入る「主要五氏の進藤氏」だけには、「秀郷流一門」のこの「劣性の弊害」は出ていた様で、それは「一族一門を取りまとめる立場」にあった事から、「一門の血縁性」で固め「発言力」を保持していた事に依るのであろう。

    この事に付いては、「秀郷流一門」の資料にも遺され、更には、「進藤氏」と親密な関係のあった「近江佐々木氏の資料」の中にも垣間見られ、「武蔵北部域」を護っていた「進藤氏直系の系譜」を観ても「継承者の事」で苦労している様子がよく判る。
    それを観ると、「血縁の弊害」が強く出て、実に「廃嫡性」が高く、「嫡嗣と義嗣の入れ替わり」が激しいのが判る。
    宗家分家に拘わらず、「秀郷流青木氏族の秀郷流進藤氏」は、「義嗣」が多い事から「血縁の弊害防止」に先ず「廃嫡」をしてその上で「義嗣」に入れ替えて何とか「血縁の弊害」を無くそうとしたと観られる。
    これは「直系嫡嗣」に恵まれなかったという事では無く、家筋を保つに堪え得ない「唖子や劣子」が多かった事を示していて、それ故に「系譜に観る内紛」が起こっているのである。

    この様に「秀郷一門の青木氏族」の中でも、「血縁戦略」を一つ間違うとこの様な「宿命的な運命の道を辿る事」に成る事を意味している。
    実に狭い道筋と云える。

    その中で取り分け、「伊勢の秀郷流青木氏」は、「伊勢と信濃の賜姓臣下族」の「青木氏との女系」を基本とする血縁を積極的に進め、「青木氏族の氏族」を形成し、殆どは「同化に近い状況」と成り得ていた。
    その象徴は、「賜姓臣下族の一員」として認められていた「四日市殿」である。
    つまり、前段でも論じた事ではあるが、「女系」で繋がりを強化して、その子の「二世族の嗣子一人」に「実家の青木氏」を「嫁ぎ先」で一つ先ず興させて、「嫡嗣の男子」を「実家の四家制度」の中に組み込ませ、且つ、「女子の二世族の範囲」では、実家の「四家制度の養育の娘」として送り込んだのである。
    これを室町期から明治初期まで相互にこの制度を推し進め強固なこの基盤を作り上げたのである。

    (注釈 「四日市殿」は「青木氏族」と「伊勢籐氏」と「徳川氏」とも直接に血縁関係を持った「パイプ役」を果たした。)

    当然に、複合的にも「伊勢籐氏の血筋」も「伊勢秀郷流青木氏」を経由して融合される事にも成り、何れに於いてもその「結果の絆」は相互に高まり、それは前段でも論じた様に室町期末期の混乱期の「信定と忠貞の連携」にも表れている。
    元より、前段でも、「射和商人の段」でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」は「伊勢籐氏」と共に「紀州藩」にそっくり抱えられ家臣(姓化)と成り、「青木氏族」を側面から護った。

    武蔵域に於いても「秀郷流青木氏」のみならず「秀郷流一門」は、そっくり「御家人や旗本」として「家臣化」し、「幕府の官僚族」を席巻したのである。
    この事で、全国に散在する「現地孫」や「傍系族」を含む「秀郷流一門」の「横の血縁の連絡」は充分に取れ、それが「血流」と成って「伊勢や信濃」にも及んで居た事にも成り得る。
    つまりは、これは「血筋の源流の大きさ」を物語る。
    これ程に「血縁の大きい源流」は日本には無い。
    「血縁と云う正統な伝統」に護られた形の上では日本最大と考えられる。
    「宗家」は「四家制度」を採りながらも「秀郷一族一門の361氏」と云う途方もない「勢力」と、それを使った「吸い上げた血縁性」により、「血縁性に関する弊害」は認められなかったのである。

    「姓化」は「青木氏族」に執っては、一面では「氏族存続の弊害」とも成り得るが、全国に分布する「傍系尊属卑属」までの「姓族」を含めれば、ここからの「血筋」の無限に出続ける「源流」と成り得て、且つ、その「源流の流れ」からその「血筋の流れ」を引き込む事は、「無限の新鮮な血筋の井戸」を示す様なもので、「血筋の劣性弊害」は無く成る事は必定である。
    「青木氏族」に執っては、この”「源流制度論」”であれば、最早、この事では「血縁弊害」は秀郷一門に関する事ではこの論外であろうと考える。

    そこで戻って、「伊勢」は、「四世族制」に関わらずに「伊勢郷士」との間にも幅広く徹底した「女系族造り」に切り替えた。
    そして、地元に根付いた「絆造り」に切れ変えた事が示されている。
    であり、重要な事は”その本質に戻した”という事に成り得る。

    (注釈 江戸期前後に於いて、上記した様に「女系族論」は、そもそも「人の類」の「本筋論」であり、これに依り、「劣性遺伝の弊害」を無くした事のみならず、「信濃」を含み「青木氏族存続の輪」を広げたと考えられる。
    この事は遺伝学的にも補完役として裏付けられている事である。
    これは、現在に於いては「特別な事」では無く、「孝謙天皇期の政争」と「頼政の戦略」も「江戸初期の女系族化策」も本筋を得た先祖の行為であると論評している。)

    これに関わった「秀郷流青木氏の116氏一門」は、「子孫繁栄の補完役」を完全にを果たした事に成り、「実務上の補完役」に拘わらず「氏の根底の補完役」をも先を見据えて戦略した「円融天皇の判断」は実に正しかった事に成る。
    秀郷一門の「宗家の第三子」を「補完役の秀郷流青木氏」を断絶する事無く「継承を義務付けた事」がこの「天皇の決意」を物語るものであるとされる。
    そうでなければ、「実務の補完役」で終わっていただろうし、「天皇」は赴任地を多く与えて116氏まで広げなかった事に成る。

    上記の論調に関して言えば、この「土台作りの影響」が「前段の射和郷士の件」に表れていると云う事なのである。
    つまり、「直系族の男系」は、論理的には「四世族制」を保ちながらも、「女系族」から「優性遺伝の血筋」を入れていた事に成る。
    これでの「重要な事」は「男系に依る血筋源」では無く、「女系の血筋源」とした事を意味する。
    よく似た対策としの「優性対策」として「平安期に採った妾子制度」と違って、江戸期初期の「女系の血筋源」の方が幅を持つ事ではむしろ「優性遺伝」に繋がる事に成った。
    「混血に依る優性遺伝」は、「劣性遺伝による弊害の防止」のみならず「特別に優秀な嫡嗣」を生み出すという特徴をも持っている。
    江戸期の第三の分岐点・ターニングポイントはここに決定的な違いがあった。


    そこで、上記の事を認識したとして、話を戻して、「奈良期の後半」に入り、この原則的な対応策(賜姓五役の宿命)を採っていた「志紀真人族」には、「劣性遺伝の弊害」のこれが「四家」の「四家20家」の何処かに出ると認識し、「賜姓臣下族の朝臣族」を保つ上では、つまり、「青木氏族」を保つ上では、「四家制度」と「家人制度」では防ぎ切れない事に成っていた事を認識していた。

    (注釈 「志紀真人族」とは、「施基皇子族」で後の「春日宮御宇天皇」の後裔の事であるが、つまり、「皇族真人族」に「男子後継者」が不在と成り、結局、「聖武天皇」の内親王の「井上内親王」と「準継承族の賜姓臣下族で朝臣族」と成った「施基皇子」の「四男の白壁王」との婚姻をして「皇位」を継承した「光仁天皇」と成る。
    依って、その父である「施基皇子」を後付けで天皇としたが、「施基皇子の崩御後」の54年後に出来たこの「四世族までの一族」を云う。
    つまり、「敏達天皇の春日真人族」の「四世族の施基皇子」の「青木氏族」を云う。)

    上記の注釈の通り、この事を読みこめば、「聖武天皇期」は「別の意味」で当にこの危機に入っていた事を示す。
    「続日本紀」にもある様に「皇子族」(真人族の親王)が無い為に「皇族内部」に「後継者」をめぐり「抗争」が起こり、結局は、「外子王」までを持ち込み「勢力争い(藤原氏や橘氏)」が起こった。
    「聖武天皇の真人族」の「四世族内」にも、「皇位継承族に値する優性の男系の継承者」が無く成り、唯一、「真人族」の「二人の内親王」の一人が「孝謙天皇」と成りその後上皇と成るが、“「外子王」“の「純仁天皇」が皇位を続けが、「上皇」との軋轢から廃位されて止む無く「上皇」自ら「天皇」に戻り、「称徳天皇」として戻り二代続きの「女系天皇」と成った。
    然し、結局は、「正統な男系継承者」は無く成り、一説では「潔癖性の強い嫉質」(原理主義・正統主義と観る)があったとされるが、それ故に「時間稼ぎ」をした事に成るのだろう。
    遂には、その妹の「天皇」と成る事を拒んだ「井上内親王」(天皇に成る事避けていた白壁王)を持ち出し、周囲が掃討されたその結果で、「苦肉の策」として「準継承族(敏達天皇より9世族)」の「賜姓臣下族で朝臣族」と成っていた「施基皇子族(青木氏族)」までに手を伸ばして来た事に成る。

    結局は、「孝謙上皇」は「純潔性」を守る為に、「原理主義・正統主義」に基づいて一度、「天智・天武期の状況の血筋」に戻して、その「準継承族」として遺っていた「志紀真人族」に「白羽の矢」を立てて納めたのが本事件であった。
    つまりは、「施基皇子」や「川島皇子」が自らが編纂した「天皇家の慣習仕来り掟の規則」を定めた「帝紀」や「上古諸事」を持ち出して、無理に「皇位継承者」を造り、それに「天皇の継続性」のある「井上内親王」と血縁させて辻褄を合わせたと云う事に成る。

    この「二つの根拠」には、「外子王」(四世族の傍系卑属)を入れて「皇族の血筋」を外すよりは、「原理主義・正統主義」に基づいて戻す事の方が「より良し」とする判断には、「外縁」(傍系卑属・中には四世族を外れる外子王をも持ち出した)は抗する事が出来なく成った。
    これは、つまりは、「孝謙上皇」は候補と成る「四世族内」の「傍系卑属の外子王の人格」、況や「劣性の弊害」等を認め悉くクレームをつけた。
    この「劣性の外子王」を操り「天皇家」を乗っ取らんとする企てにも気付いていた事にも成る。

    (注釈 一説ではこの事が誤解されて孝謙天皇の「嫉質説」が生まれた。)

    更に、この「四世族内」に「男系」が無く成ったという事だけでは無く、有ったとしても廃嫡せざるを得ない状況が強かった事に成り、想起外の「志紀真人族」に「白羽の矢」を向けた。
    この決定は普通ではあり得ず、明らかにこの「天皇家」は「ロとハのリスク」のこの危機に入っていた事を示す。

    さて、ここで一つ疑問なのは、何故、同じ立場にあった「近江佐々木氏」や「四家四流青木氏族」にも向けられる可能性はあった筈であるが、然し向けられなかった。
    資料は全くないが、その理由として次の事が挙げられる。

    短所
    「朝臣の近江川島族」は争いの下に成る政争であった「天武期の吉野盟約」に参加した事。
    「近江佐々木氏」は「青木氏族」より「四世族制」を充分な制度化をして護らなかった事。
    「賜姓臣下族の朝臣族」としての「務め」に比較的に疎かった事。
    「施基皇子の二世族」に比べて「良き男系継承者」が少なかった事。
    「近江佐々木氏」や「近江青木氏」は「政争の元」と成る「公家族との繋がり」が強かった事。
    以上のリスクが考えられる。

    長所
    1 「志紀真人族」には「高野新笠(渡来人の後漢阿多倍王の孫)の背景」があった事。
    2 「施基皇子」は「敏達天皇の四世族」であり「正統性」があった事。
    3 「青木氏族」は、既にそれまでの「皇族血筋」(継承外と成った真人族王)を頻繁に入れて「五家五流族」を形成していた事。

    幾つかの「遺されている資料」を咀嚼すると、つまりは「孝謙上皇」は、「周囲の強力な反発」を振り切ってこの「長短の比較」をした結果と考えられる。

    その「決め手」は「長所重視」に及んだ事と考えられ、取り分け、“「天皇家の本筋」に戻す”という事から考えると明らかに「長所の3」であったと考えられる。

    そうと成れば、上記した厳密な計算された「規則や制度」に依って「外部血筋」を入れて徹底して「姓化」を敷かなかった「伊勢青木氏」を選ぶ事に成る。
    例え、「臣連族」であったとしても「姓化のリスク」は、より「外部勢力」を呼び込んで仕舞い、女性である「孝謙上皇」が嫌った、“「政争」”が朝廷内に蔓延る危険性が大いにあった。
    そもそも、この「皇位継承の縁組」を申し渡された時でも、「白壁王」を始めとして女子を入れた「十人の子供」等は、「施基皇子の遺言」の「青木氏の氏是」があったとしても、徹底して個人で「無冠を主張した事」でも歴史上の事実として判る。

    (注釈 然し、現実には最後は「無冠」であったのは「男子の二人」と「女子の一人」と成った。)

    この時期は未だ表向きは「皇親族」であった。
    つまり、前段でも論じたが、天皇に困った事が起こった場合に、天皇の前で意見を述べられる立場で、且つ、場合によっては「天皇の秘意」の有無の事も含めて、その困った「懸案事項の解決」に直接務めるという役目の「令外官役」を負っていた。

    (注釈 この「皇親族」の「令外官の役目」は、「嵯峨期の詔勅」で外された事のみならず「賜姓族の対象」からも外された。
    そして「賜姓」は、「令外官の役」の持たない「無役の源氏族」と変名して賜姓した。
    源氏族には財政的にも保障しなかった。)

    筆者は恐らくは、「孝謙上皇」は、「和紙」などの「二足の草鞋策」の「豪商も兼ねた令外官」の「世間に明るい伊勢青木氏」に密かに諮問していたと観ている。
    結局は、それが「孝謙天皇の信頼」の元と成って「白羽の矢」を立てたと考えられる。
    この説で観ると、「青木氏の二世族」は、何で「無冠」を主張したのかと云う事に辿り着く。
    この事で、表沙汰に成れば、「世間の批判」を受けかねない事にも成り得て、「青木氏の氏是」の事もあり、敢えて「無冠」を主張した事に成る。
    この根拠は、その後の「青木氏族の執った姿勢」、又は、その「立場」にあったと観ている。

    つまり、次ぎの事である。
    「二足の草鞋策」を通じて朝廷に対して明治初期まで「献納」を行っている事。
    「嵯峨期の詔勅」で無く成った筈の「賜姓五役の立場」を堅持し、江戸初期まで堅持した事。

    つまり、この事は「諮問に対する答えの責任」を執ったという事であろう。

    それでなければ、鎌倉期からその「役目の意味」が殆ど亡くなっているのに、更には「準継承族」では全く無く成っているのに「賜姓五役の役目」を依然として続けた事に疑問が残る。

    既に、上記した様に「青木氏族」から光仁期に「天皇」を出した以上は、最早、「準継承族」では無く成っている筈である。
    その「天皇」は、「青木氏族の直系族」としては、血縁的に考えても、丁度、「第四世族」の「54代 仁明天皇」までである。
    その後は、「高見王」は、即ち、「桓武平氏」: 「阿多倍王・高望王・平望王」の「後裔の血筋」が入る結果と成るのであるが、この祖と成る「光仁天皇の后」の「高野新笠」はこの「阿多倍の孫」でもある。
    従って、この「青木氏族」と傍系で繋がる血縁を持つ「高見王」に、「賜姓源氏族(賜姓でない源氏も多い)」と「藤原氏系族」がこの血筋に組み込まれた。
    然し、この状況は「後一条天皇」の直前まで続いて、「外縁」と成る「賜姓源氏や藤原氏」等の血筋の範囲は一端この時では終わっている。

    はっきり云うと、本来であれば、理屈上は「賜姓五役の役」は、三世族の「嵯峨天皇期の詔勅」で正式に終わっているが、伸ばしたとしてどう考えても最早、四世族の「仁明天皇」のここまであろう。

    ここからは、論理的には「純潔性を含む賜姓五役の責任」は完全に無く成っていて、後は「青木氏の勝手」という事に成る。
    取り分け、「純潔性」に付いては「賜姓源氏族に渡っている事」にも成る。
    然し、実態は違っている。

    つまり、「第一の分岐点・ターニングポイント」の前に、平安期末期にも「ある種の分岐点」があった事に成る。

    筆者は、これがそもそも”「基点」”であったと考えていて、直ぐに「第一の分岐点」には成らなかったのであり、敢えて云うならば、「仁明天皇期」が「0の分岐点」と成ろう。
    ここから「青木氏族のエネルギー」を貯めて徐々に変化していって「第一の分岐点」に達した事に成ると考えている。

    況や、直ぐに「仁明天皇期」に「分岐点」として成らなかったのには、それには「分岐点」には成らない「(−)のエネルギー」が働いたからである。

    それは前段でも論じている960年頃に令外官的な「補完役」としての「秀郷流青木氏の出現」であった。
    この「補完役」を作り出さなければ、世の中に「政治的に困った事」が起こっていたと云う事に成る。
    「補完役」のこれは「藤原秀郷一門」がそもそも自発的に求めたものではない。
    「朝廷(円融天皇)」が「社会情勢の乱れ(青木氏族が皇親族から引いた事)」から「令外官」としての意味も込めて「秀郷一門宗家の組織」に「宗家から第三子」をこの「補完役の青木氏」を名乗らせる事を命じた。


    (注釈 これは「令外官」としての「実務と血縁」の「補完役」でもあって、この始祖が「千国」と成ったのだが、その後は二流に分流し秀郷一門の「主要五氏」として「青木氏族」を形成するまでに成った。
    この結果として、秀郷一門361氏の内、116氏を占め「第二の宗家」と呼ばれるに至った。
    ここでは、そもそも「青木氏の歴史観」として観れば、「全国24地域と116氏」と云う要素には大きな意味を持っていると考えられる。
    平安期中期から室町期中期までの間にどんなに考えても、「時の政権」が「実務的」には桁外れの「24地域」にまで「補完役」として赴任させる事は先ずは無い。
    更に、「血縁的」には「116氏」と云う膨大な子孫拡大を認める事は無い。
    これは明らかに「実務と血筋」の「補完役の令外官」としての「恣意的意味合い」を持たせたと考えられる。
    他の「氏族」にこれだけの事をさせる事は「政治的に好ましい事」ではない。
    「藤原氏北家族」の「秀郷一門の勢力」の土台の上に更にこれだけの勢力を持たす事は「政治的発言力」は強大と成り得て警戒される。
    現実に、瀬戸内で勢力を伸ばしていた「讃岐藤氏の一豪族」でさえ「純友の乱」としてこの「警戒心」から潰された経緯を持っている。
    この逆の政策を執っているのである。
    「純友の乱」と「秀郷流青木氏」とは根本的には違うが、「純友」は「一族の単なる勢力拡大」で、「青木氏」は「実務と血筋の補完役」であり、根本的に「立場の有利性」は違う。
    「実務と血筋と云う令外官の補完役」は、「実務」は「血筋」無くして成し得ないし、「血筋」は「実務」無くして成し得ない「相関の関係」にある。
    故に、時の政権は「実務の24地域と血筋の116氏」と云う拡大を認めたのであり、ここからは「政治への発言権の拡大」はあり得ない。)

    そこで、上記の「政治的に困った事」とは、「賜姓五役」として手を曳いた事に依って「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の荒廃」と「献納」が途絶えて「財政的な困窮」にあった事である。

    (注釈 「政治的に困った事」は政治的に二度あった。一つ目は、この平安期から室町期で、二つ目はと前段での江戸初期である。)

    これで観ると、一つ目は明らかに、「準継承族」としての「純潔性の義務の保持」は外れたとしても、「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の役目」までを放棄した事に成る。
    これは「青木氏族」としては「相当な覚悟であった事」に成る。

    ところが、この「秀郷一門」に「青木氏族」と成って「令外官の補完役」を命じる前に、一つの大きな出来事があった。

    それは、朝廷は「賜姓臣下族の青木氏族」に代わった「賜姓源氏」にこの「神明社の修復」を命じている。
    これは、「嵯峨期の詔勅の文言」の”賜姓してやる代わりに財政的に保障しないから自由に生きよ”に反する。
    その「賜姓源氏」に「青木氏の守護神」の”「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を修復せよ”はどう考えても不合理である。

    然し、元々、「嵯峨期の詔勅」に明記されている様に、「財政的能力のない武家貴族の源氏」にこれを成す能力は無かった。
    そこで中でも、「武家貴族の清和源氏」が各地に飛散している「源氏族の有力な傍系族」を集めて「武家」に課せられていた「禁じ手の武力集団」を構築し、各地の荘園を奪い勢力を蓄えた。
    然し、そもそも「修復」はその「勢力下での財政的裏付け」にあるにも関わらず、これにも「朝廷から非難」を受けた。
    確かに理不尽そのものである事は否めない。

    (注釈 「清和源氏の二代目満仲」は「武力集団の創設」のこれを行ったが、この「路線争い」で三代目で意見が分かれ、「嫡子の頼光派・官僚族派・摂津源氏」と、「三男の頼信派・武力集団派・河内源氏」に分かれた。
    「摂津源氏(頼光派)」は「四家制度」を敷き「青木氏族」と同じ務めを引き継ごうとしていた。)

    「朝廷」は、以上での経緯があるにも拘らず「財政的な補償」をしなかった「宗家の摂津源氏」にこの「修復命」を出したのである。
    ところが、「摂津源氏」には元より全ての源氏には、「神明社を修復する財力」は元より、技術技能を司る「青木氏部」の様な「技能部の力」は持ち得ていなかった。
    そこで「朝廷の命」の「体面」を保つ為に「摂津源氏宗家」は一社のみを修復して、後は言い逃れて「引延策」を演じた。
    業を煮やした「天皇」は、遂には、直ぐに「将門の乱」にて功績が認められ「貴族と位冠と武蔵国」の三つを与えられ発祥した直後の「藤原秀郷」に、上記の「補完役命(秀郷三男の千国)」を出したという事に成った。

    余談として、以上の事でも”如何に「青木氏族」が「嵯峨期の詔勅」に対して反抗したか”の例として考察され、この「政治的に困った事の経緯」とはこの様な事であった。

    話を戻して、注釈として、「四世族の範囲」での独自の血縁制度で「純潔性」を保ち、且つ「天皇家の権威」を保つ上で「帝紀」等を運用して「大義」を造り上げた。
    「純潔性の血縁制度」に依って出る「唖子や劣子に対する誕生」に対しては早期に済ます系譜には出ない「廃嫡制度」を採用して、記録にも出ない制度を敷いていた。

    この様に上記の経緯は、何時、又、「準継承族としての立場」を課せられるかも知れない「掟」があって、「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」としていたが、この事がそれは何時か一挙に「青木氏の滅亡」をも意味するか認識していた証でもあり、戦々恐々としていた事を物語る。

    それが「孝謙天皇期」に遂に再び訪れたという事に成ったのであろう。
    故に、「志紀真人族」の「第二世族」は全員が「無冠」を主張し、「施基皇子」が定めた「青木氏族の氏是」を「第二世族」に依ってより強化されたものと理解する。

    恐らくは、そもそも、多くの皇子の中で「施基皇子」だけが「天武期の吉野盟約」にも、「あらゆる政争」にもただ一人だけ参加しなかった事から観ても判り、従って、この「青木氏の氏是」は「施基皇子の生き様」を示す「施基皇子の遺言」と捉えてられている。
    これは、「撰善言司」に成っていた事でも云える。
    つまり、筆者は、当初から、つまり、「施基皇子の代」から持っていた「戦々恐々論説」であり、「準継承族」としての「名誉的な自惚れ」は無かったと観ている。
    だから、「嵯峨期」には一族の出自元・実家先でありながら、この様な場合に依っては潰される可能性もある「反抗態度」に出たと考えている。

    故に、裏を返せば、「天武天皇期」には、「草壁皇太子」や「高市皇太子」より三段階も上位にある程に信頼され、「天武天皇崩御」の「葬儀人」にも選ばれた所以でもあろう。
    更には、「葬儀人」に相当する「持統天皇の造御陵長官」、「文武天皇の嬪宮」も務めた人物でもある。
    この様に全ての人からその「人格や品格」を信頼されていたからこそ「法律の骨格」と成る調査をも任され「撰善言司」にも成っている。
    「吉野盟約の不参加」が指し示している。
    ところが、この様に「立場」を不安定にしない為にも執っていた”「準継承族」としての「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」”が逆に痣と成ったのである。

    これは、「孝謙天皇の行為」や「続日本紀の編集の経緯」にも表れている。

    その事に付いて「血筋」、即ち、「血筋が起こす悲劇」として論じる。

    そこでそもそも、この「続日本紀」とは、「六国史」の内の一つ「日本書紀」に続く「史書」でもあり、文武期の697年間から始まり最後は791年までの事を編纂したもので、その多くは「桓武天皇期」に完成されたものであるが、「撰善言収書」はこの「編集の資料」にも成ったとされ、且つ、「日本初の完全法令書」の「大宝律令(701年)の参考書」にも成ったとされている。


    さて、ここ迄の議論で、何で「伊勢青木氏」が「天皇家」も含むどの「氏族」よりも早く完全に近い形で「劣性遺伝による弊害の防止」の「血縁制度」を驚く速さで敷けたのかと云う“「疑問A」”がある。

    そもそも、これは「賜姓族」であった為に「慣習仕来り掟」に縛られた中ではそう簡単に進む話ではない。
    そして、もう一つの「疑問」は、何で「信濃青木氏」は血縁を含む「伊勢との繋がり」を迷うことなく即座に強く持ったかと云う“「疑問B」”のこの事である。

    筆者は、この上記の「二つの疑問AB」は連動していたと観ている。

    それには、つまり、上記の通り「史書」や「律令」に影響を与えたくらいのものであったとすれば“「撰善言司」“が大きく関わっていたと観ているのである。

    全国地方を歩き廻り得た「善治」の中には、「家族を構成する血縁の事」も含まれていて、「天武天皇」を含む「三人の葬儀人」を務めたとする驚くべき「長寿と名誉」を得た「施基皇子」と、その全ての「二世族」は、この「施基皇子の知識」と「考え方」を反故にする事は先ず無かったと観ている。
    その上で或いは、その「撰善言司の資料」は、或いは、「撰善言収書」の「写し」が後々まで遺されていた可能性があって、それを「二世族」が観てよいところを引き出し採用し、骨格化して作り上げたものであると観る。
    それが「短期で反映された根拠」であって、且つ「血縁組織制度」であったと観ている。

    (注釈 口伝に依れば、古書の殆どは「消失」としているので、自宅か菩提寺の何れかに保管されていて、これらの関係する資料は二度の火災の何れかで焼失したと観られる。
    本来は、「青木氏族」に関わる執事役は「菩提寺」・「撰善言収書」の「写し」か、神明社の「守護神」・「撰善言収書」の「本書」の保管であるから何れかにあったと観られるが、「本書」は可能性が低いと観られる。)

    故に、「施基皇子」の「白壁王(光仁天皇)」の子供の「山部王(桓武天皇)」、つまり、「孫」がその環境に育った事もあって、この「祖父の事」と「祖父の青木氏の事」を書いた「日本書紀」に続く歴史書の「続日本紀」を強い熱意を以って完全に仕上げたと観ている。

    そもそも、「青木氏の歴史観」に関わるこの「続日本紀の編集経緯の件」ではあるが、これは、年数にすれば約95年も掛かったものであり、この経緯からすると放置していれば完成は出来ない事でもあった。
    敢えて“仕上げた”とするからには、“それなりの強い意”があった事を示す。
    何故ならば、この「続日本紀」は、当初は、「文武期以降の事から孝謙天皇期までの事」を偏纂しようとしたものである。

    然し、編纂開始の時期の「第一期」は、「淳仁天皇(760年頃)」からでその間に政争等色々な出来事などに依って「中止」と成る等の経緯と成った。
    この「外部勢力」を巻き込んだ「天皇家内部の政争」は、「外子王の淳仁天皇の正統性」を作り上げる事への「孝謙上皇(称徳天皇)の反発」にあったと観られる。
    然し、この「反発」がその事に依る「中止の原因」と成った。

    ところが、「第二期」としては、「光仁天皇」が「続日本紀の編集」を再度に命じたが、ところが、更には「編集者の反抗」を受け、更には「編集した資料」が「編者らの懐疑的な行為」により「紛失する等の事」が起こり、矢張り、未だ「孝謙天皇期の事」を引きずる論調が強く編集途中で有耶無耶にされ「停止」してしまった。

    然し、「第三期」としては、「桓武天皇」が「父の意」を受けて「桓武期の途中までの内容」として再編纂する様に命じ、それも在位中の「天皇の権威」を背景に、遂には、「編集」に対する「紆余曲折」の末に完成させたものである。

    最早、この段階では「血筋の正統性」の議論は霧消し、編集は加速したのである。

    これらの「三つの期」を観ても、一つには明らかに「光仁天皇と桓武天皇」は「施基皇子族の天皇期」の「孝謙天皇の真意」を継承して「歴史的な証明」を成し遂げようとしたと観ている。

    第一期は、「外子王の淳仁天皇」の「文武期からの正統性」を「歴史書」にして遺そうとした事でもある。
    然し、「青木氏族」としても、且つ後勘としても、「四世族の傍系の外子王」である限りは「血縁の正統性」には無理があった事は否めないと考える。

    「第二期」と「第三期」は、「孝謙天皇の意」を得て「血筋」を「天智期からの施基皇子族」の原点に戻して「天皇の正統性」を主張とした「歴史書の編纂」でもあった。

    当時は、急激に100年程度も戻った「正統な血筋に戻す事」への「抵抗」があったと観られる。
    それが「賜姓臣下族」で「朝臣族」の最高位にあった「施基皇子」でありながらも、「四世族外」の「王位」を持たない「二世族の血筋への疑問」にあったと観られ、その「抵抗」を大きく受けたと観える。

    然し、「別の視点」では、「孝謙天皇期」に於いては、他に正統な後継者の皇子が居ない限りは“「外子王」(四世族)”である限りに於いては、「四世族」は「大化期の王位の条件」である以上は、最早、「最高の正統性」を持っていた事も否めない。
    「大化改新」の「四世族王位制」からの論調とすれば、「外子王の淳仁天皇」としては「正統性」があるとの主張である。

    それは、「四世族制の王位」の論調にあった。
    然し、“「外子王」”は、「直系族」では無い「四世族内の傍系族」であるとすると、「血筋論」としては「直系族」では無い事から外れる。

    この”「四世族の定義」”が明確では無かった事から起こった問題であって、原則論からすると先ずは「直系族論」であろう。
    然し、この時は、最早、この「直系族」は全く無かったのであるから、「四世族王位論」を以って主張される事にも一理はある。
    (「青木氏の氏是」がある限りは「青木氏族」としてはそうで合って欲しかった。現実に一族は皆その様に動いた。)

    そうすると、「孝謙天皇」は、この「直系族論」を採ったとすると、そうすれば「天智・天武期」に戻す以外には無く成る。
    故に、「施基皇子の族 青木氏族」か「川島皇子の族 佐々木氏族」かと云う事に成り、「井上内親王の嫁ぎ先」に「白羽の矢」が立て優先するは必然の事と成る。
    況してや、何れの派にも属さない「天下の人格者」でもあった「施基皇子族」を選ぶであろう事は間違いはない。
    この事を事前に察知していた「施基皇子族の二世族」は、この「醜い政争」に巻き込まれない様に警戒して「無冠」を望んでいた事は判る。

    (注釈 氏是の説明と共に口伝でも伝わる事である。)

    それが、「施基皇子」と「井上内親王」と云う「キーワード」に左右されたのである。
    これが、その中でも「井上内親王」を「后」とした「四男の白壁王」は、「歴史書や書物」でも見られる様に「無能者」を装う程に、この「血筋の正統性の政争」に巻き込まれる事を大いに嫌っていた。
    然し、「彼らの意」に反してこれが「最高手段」とした「孝謙天皇の主張」であった。

    第三期は、当然に「光仁天皇の意」を下に「桓武期までの歴史書」にする事で「天皇の正統性」を完成させたものである。
    「多くの説」があるにしても、当の「青木氏族」からの論調としては、「孝謙天皇の意」を完成さる事で「正統な天皇制」と云う「国体の有様」を完成させたという事であろう。
    それは、況や、百々の詰りは本論のこの「血筋という事」に成り得る。
    更に況や、「血筋優先論」であり、「直系族論」であった。

    故に、何れも「天皇の正統性の主張」であり、「日本書紀の文武期までの歴史書」に繋いで、「続日本紀」とした事でも判る。
    「孝謙天皇」は、この事に拘り「男系継承者」が無く成った事から、最早、「外子王の系統」にせずに「施基皇子」のところまでの「正統な処に戻そうとする葛藤行為」であった事が判る。

    そこで、初めて、“何で「直近の文武期」には敢えて戻さなかったか”という事でも理解できる。
    通常的には考えれば、正統な「血筋優先論」であり、「直系族論」であれば戻せた筈であろう。
    然し、直ぐには「抵抗」を受け戻せなかったのである。

    それは、次ぎの事に関わる。
    一つ目は、本書の「編纂目的」は「日本書紀」に書かれた内容に繋ぐ「歴史書の編纂」にあり文武期からの編纂と成る事
    二つ目は、「四世族」ではあるが「文武天皇」は、「天皇の子」ではなく「草壁皇子の子」で「王位」である事

    (注釈 「草壁皇太子」は早没である事から「王位」であるが「持統天皇の引上げ」で「天皇」と成る。
    第二皇太子の高市皇子も続けて没する。)

    以上とすると、この論理からすると、文武期に戻す事は、「皇子の子」でない「外子王」の「舎人親王の子」の「淳仁天皇系」でも好いという事にも成り得る。

    これでは、論理的に矛盾して「孝謙天皇の主張」に反する事に成る。
    故に、その「施基皇子の志紀真人族」と云われる「氏族の経緯」を「歴史文書」に仕上げ「正統性の証」を建てたかったと観ている。

    況や、「施基皇子族」に戻す事で「二つの懸案事項」は解消される事に成り得るし、「聖武天皇の皇女」の「井上内親王」と云う「切り札」でより「継承性」は成立する事に成る。
    これにて、「孝謙天皇の主張」を押し通したと観ているのである。

    (注釈 平安期は全ての天皇には自分の皇子としての「出自の正統性の確立」を成すその傾向があった。)

    そもそも、「続日本紀の編集」を始めたのは「淳仁天皇」(47代)の本人であったが、「中止」と成った原因は「論争を含む政争」のここにあって、それを「書紀化する事」で成立する。
    注釈としてつまりは、「自らの正統性」を御世に作り上げようとした「淳仁天皇」はこの行為は「背任行為」と観られ犯罪と捉えられて、何と「廃帝」と成り、「子孫」を一切を遺させずに「淡路配流罪の刑」を受ける事と成り失敗する。

    この事でも「外子王の四世族制」は排除し抹殺し、「直系族性の四世族制」を成立させた事にも成る。
    つまりは、”基本は直系族である”と云う合わせて「定義の成立劇」でもあった。

    そもそも、「二世族」は「青木氏の氏是」を護り通し、「無冠」でなければ、「天皇家の醜い政争」に巻き込まれ「氏の滅亡」を覚悟しなければ成らなくなり、遂にはその為には“「厳しい廃嫡」”を常に実行しなければならなく成る。
    そうすると、この事、即ち「純潔」だけを護り通す事を避けねばならない事に成る。
    簡単に云えば、そこで、「表向き」は「四世族」に縛られながらも何とかして「常に外の血を入れる事の制度」が「青木氏族」の中に絶対的に必要に成り求められた事に成る。
    そうでなければ、「優性の血縁維持」は成し得ない。
    (但し、本論の意味合いは敢えて「優生」としない。)

    「続日本紀の編纂」に依って、この結果、「青木氏族に課せられた事」と云えば、「直系族性の四世族制」を成立した以上は、その「基盤と成った青木氏族(所謂、氏元)」は、「青木氏族の氏是」(施基皇子の遺言説)に反しても、体面上でもその「血縁性を確立させる必要に迫られた事」に成る。
    それが、上記した「純潔性の血縁に関する論調」であった。
    嫌々ながらも今まで以上にその「責任」に攻め立てられた事に成った。
    これは当に、「二律背反」であった。
    「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」は背反する。

    そこで「逃れ得ない背反」にどの様に対処するかに掛かっていた。
    「青木氏族」に執っては「有史来の極めて苦しい立場」に置かれていた事が判る。

    況してや、この時期は、「二足の草鞋策」で自ら「和紙」を開発し「部制度」による「余剰品の市場放出の役務」を朝廷より請負い「商いの基礎」が始まった時期でもありながら、「財政的負担」もより起こった。
    「天皇家の氏元の責任」としても「賜姓五役」もより課せられた事に成った。

    「青木氏族の存続」としては是非に逃れたい時期ではあった筈で、「天皇家の氏元の責任」だけでは「氏の存続」は成し得ず何の利益にもならない。
    あるは「名誉と権威」であろうが、「氏存続」と「商いの基礎」には邪魔であろう。

    つまりは、そもそも、「商い」無くしては次の事は成し得ない事が起こった。
    「青木氏の氏是の順守」
    「天皇家の氏元の責任」
    「賜姓五役の遂行」

    以上のこの三つは何事も成し得ないのである。
    これが「唯一の解決策」であった事に成る。
    況してや、上記した様に、更にこの後に一族の「嵯峨期」に於いては「皇親族や賜姓族」も外されたのであるから、「唯一の解決策」があったとしても、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」は、「氏族存続」の為には「放棄する事」以外には無く成る。

    その結果、「青木氏族の財力」を背景とした「天皇家の財政的能力」は低下し、「直系族」としての「四世族の仁明天皇」で終わる結果と成ったのであろう。

    余談ではあるが、論じておく必要がここである。
    これは一面では「嵯峨天皇の失敗」とも観える。
    筆者は、この説を採っているが、何故に、「二足の草鞋策」を採っていた事は、「嵯峨天皇」は子供頃から観ていた筈でありながら、且つ、「権威」は「天皇」にそもそもあり、残るは「権威を強める財源の裏打ち」で、成せるものであると判らなかったのかである。

    筆者は、戦略的に観てこれを「嵯峨天皇」は見落とした事と観ている。
    何時の世も「権威」は「権威」だけで保てるものではない。
    「朝廷」より敢えて「二足の草鞋策」が、「部制度の処理」として「天智天武期」から「青木氏族」だけに許されている事を鑑みれば、何故にこの「特権」を認可したかは容易に判る。
    「嵯峨天皇」はこんな「簡単な事」を理解できなかったのかと云う疑問である。
    これは特別に利発な者でなくても誰でも判る事であろう。

    「桓武天皇と平城天皇」に対抗して「政治路線」の「政争」をしてまで「青木氏族」を外した事は理解が出来ない。

    注釈として、他面で見れば、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに苦しんでいるのを観て、外した事も考えられるが、そうだとするとこの「判断」は感情的で論理性に欠ける。
    結果として、「財政力」が無く成り、「朝廷の財政的な負担」から、「皇子族」は「真人族四人」まで残して、後は「賜姓源氏族」にして「権威も財政も武力」も無しに世に放り出したのかであり、あるのは「真人族であったとする名誉」のみに成って仕舞った。
    これでは「賜姓源氏族」は生きて行くことは到底に無理であり、「賜姓源氏族」は全国に飛散して「傍系族」に成って「不祥な姓族」を多く作って仕舞った原因と成った。
    つまり、「青木氏族や佐々木氏族」の様には成らず子孫を全く遺せ無かった原因とも成ったのである。
    遺せていれば「外縁族」に左右されずに、「天皇家の裾野」は強く成り、「継承者を廻る争い」を興さずに「繁栄の道」を辿っていた筈であると観る。

    (注釈 その結果、何が起こったかと云うと、「11家11流の賜姓源氏」の内、四氏(嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏)を除いて地方に散り、又、僧侶に成るなどして家を興して子孫を遺す事は出来なかった。
    主に、彼らは天智期の「坂東八平氏」を頼ったし、各地の「門跡院」や「比叡山]や「善光寺」に入山してしまった。
    主に何とか遺された近江の土豪と成っていた「嵯峨源氏」は「清和源氏」に吸収され、「宇多源氏」は東北域にて「佐々木氏(神職住職系)」を名乗り、「村上源氏」は平家に吸収されるに至る。)


    「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに確かに苦しんだが、然し、これを糧に「仁明天皇期」では、「二足の草鞋策」に完全に傾倒して「生き残り策」を推進し、「氏存続を目的」として朝廷より一時手を引いた。

    この事に付いて「青木氏の資料」によれば、「嵯峨天皇期(809−823年頃)」には「余剰品払い出し業」の「商い」より離反し独立し、「仁明天皇期(833−850年頃)」には、「五家五流の青木氏族」と共に「和紙殖産」で何とか「氏族」を更に強化して興したとある。
    そして、950年頃には、「和紙以外」にも「商い」を成立させ拡げ、「補完族の青木氏」の助けも受けて1025年頃には「総合商社」にて「宋貿易」を行う等して拡大を続けている。
    遂には、「青木氏族の安定期」の「鎌倉期」を経て、「室町期(1360年頃以降)」には、戦乱期の中でも「紙文化の発展」で「巨万の富」を「二つの青木氏族」は獲得し、遂には、これを元手に「各種の殖産」による「商い」を本格化させて前段の江戸期に入る。

    この「商いの経緯の事」から、70年−100年位で何度かの「商いの変革期」を迎えている。
    筆者は、この「商いの変革期」は同時に「青木氏族の変革期」にも重複し、合わせて「血縁性の変革期」にも符合していると「青木氏の歴史観」として観ている。

    結局は、「大きな変革期」の「嵯峨天皇」の「青木氏に対する仕打ち」が逆に「青木氏族」を奮い立たせ成功裏に導いていたとも解く。

    故に、「上記の事の経緯」を敢えて論じたのには,「血縁の道筋」が「単なる優劣の弊害」だけでの事で収まると云うものでは無いと解いている。
    これが同時に、「血縁の筋道」を作ったと考えているのである。
    幾ら「血縁の筋道」と唱えても、上記の経緯に示す様に「財政的裏打ち」が無ければ成し得なかった筈であるし、将又、逆の事も云える。

    上記の論説の通り、つまりは、この「商いの変革期」を無くしては「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの「三つの事」は何事も成し得なかったのである。
    つまり、少なくとも「前段の論説」の「江戸初期前の前後」までは、最低限に於いてこの「三つの事」は成し得ていた事に成る。

    ところが、前段の江戸初期の前後の「商業組合の創設」や「地産の殖産」が始まると、その「血縁性」や「優性の血筋」の課題は、上記の「三つの事」の目的では最早無く成っていたと云う事である。

    それは、この「三つの事」、即ち、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の目的は薄らいでいたという事にも成っていたのである。
    これは当然と云えば当然ではあるが、取り分け、残るは「青木氏の氏是の順守」だけであった。
    これは「青木氏の先祖からの口伝や遺資料」等をある程度伝え遺していた「曽祖父(江戸期)」や、これを受け継いだ「祖父の忘備録」等にも書かれている事でもある。
    この「先祖の口伝や忘備録や遺資料」等に依れば、後は、「家柄を示す事」だけであって、それを使い分けていた事が良く判る。

    (注釈 「祖父の忘備録」は明治35年の火災で多くの先祖を物語る資料関係を焼失して、それを何とか再現せんとして記録に残した資料で、次いで筆者が歴史好きの幼少の頃から再現を試みてここまで遺せた。70年以上は所要した。
    そもそも、「伊勢青木氏」には、古来からの「青木氏族に関する古書」等を所蔵する「専用の蔵」があって、この蔵の事を「かせ蔵・架世蔵」と呼んでいたらしい。
    奈良期からの「商い等に関わる古書」は「かせ蔵」に、「青木氏族に関わる古書や遺品」は「菩提寺蔵」に、「青木氏の伝統に関する古書」は「神明社蔵」に夫々分けて保管されていた事が判っている。)

    唯、周囲が「商いの伊勢屋」><「郷氏の青木氏族」の関係をどの様に観るか、どう扱うかに依るとしていると「先祖の口伝を伝える祖父」等は云う。
    “事を殊更に拘るな。粛々と青木氏の中で行えばよい”としている。
    つまりは、唯一つの「伝統の先祖の遺言」の“「青木氏族の氏是」に従え“であろう。

    それ等の意味からすると、“時代に従い、「商い」に重点が移りつつある事から「商いの伊勢屋」と「郷氏の青木氏族」との「使い分け」”に代わって行った事らしい。
    それだけに、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の「役柄」の「三つの課せられた事」も次第に色あせて来たらしい。

    (注釈 唯、“「朝廷への献納金」をどの様に評価するか“は、「青木氏族」に関わる事であって、「朝廷の献納金」は「明治3年」に終わった事が判る。
    これの完全終結は「伊勢騒乱」終了後であったらしい。
    始まりは、「江戸初期」と「室町期中期」と「鎌倉期末期」で、「平安期」は末期に中止している。
    この「四つの期」がどのくらいの期間続いたかは「商記録」には無いが、「開始した期の意味」は判る。

    江戸期初期は、朝廷が幕府に締め上げられていた時期と享保の改革期までの範囲
    室町期中期は、紙文化と朝廷の荒廃時期までの範囲
    鎌倉期末期は、元寇の役の朝廷の荒廃期までの範囲
    平安期末期は、頼政の朝廷に関わった時期までの範囲

    そもそも、「青木氏族」に執っては、最早、継続的に献納する意味が無く、その都度に献納するという体制を敷いていた事が判る。
    恐らくは、最早、嵯峨期からは、「青木氏族の認識」は下記の理由に従っていた事から、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の昔の「役柄」等を持ち出され頼ってきて、密かに「献納」を依頼されたと観られる。故に断続的であったのであろう。
    「頼政の乱」と「明治期の伊勢騒乱」ではこの「献納の効果」は確かにあった。)

    その上に、江戸初期に「祖先神の神明社」も「密教の菩提寺」も江戸幕府に引き渡した事からも「権威性」は更に低下し、最早、「名誉」のみのものと成っていた事からも判る。
    残るは、上記の“この名誉も周りが認めるものであって「青木氏族」自らが認めるものではない”とし、何度も云うがあくまでも“「青木氏族の氏是」に従え“が物語るものであって、依って「商い」が江戸期前後には、「名誉に頼らない体質」が、最早、大きく占めていた事に成る。
    前段で論じた「享保の改革」の「伊勢屋の貢献の経緯」からも、「青木氏族」と云うよりは実質は“「伊勢屋」”であったろう。

    つまりは、それまでは、それなりに「商いの伊勢屋」<「郷氏の青木氏族」の関係を維持していたが、室町期中期頃からは、「商いの伊勢屋」>「郷氏の青木氏族」の関係に変わって行った事の経緯に成る。
    大概は「紙文化の発展」を起点に依って「変革」を遂げていったのであろう。

    「殖産」を、況や、「巨万の富」を獲得した上で、これをどの様に使うかの問いに対して「商いで答える方法」を模索し拡大させる方法を導き出したのである。
    それを基盤として「今後を作る事」が「青木氏族」に求められていたのである。

    それは、「四世族制」、つまり「四掟」(「ロとハのリスク」を無くす血縁の掟)を護りながらも、それから離れた「女系族」に重点を置いて江戸前後期には、「地元と信濃」との「郷士衆との繋がり」に重点を置いたのである。
    これで、「大殖産」を進める「青木氏族の地盤」が、「伊勢秀郷流一門の力」を借りて「伊勢全域」は元より「信濃域」までに広げて固めたという事に成る。
    これで上段の「姓制」を置かずとも「清らかな血縁性」は「源流の如し」に成ったのである。

    云わずと知れた同じ課題、即ち、「三つの事」を抱えていた「信濃青木氏族」が「殖産の商い」と共に「伊勢青木氏族」との「血縁の繋がり」を無制限にして一体化したという事に成る所以である。

    当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
    云うまでも無いが、この「女系族の血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
    これにて「何らかの女系族の血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
    そして、それが、上段で論じた「女系を基本とする人の類」に従った事にあって、況や、「二つの青木氏族」の「生き残り策」は“「女系族策」”であったと説いている。

    (注釈 「秀郷流青木氏」はこの「女系族策と姓族策」で生き残り、「賜姓臣下族青木氏」は「女系族策」だけにあった事が云え、それだけに「直系族」は伊勢と信濃だけ、「傍系族」は近江と甲斐と成って仕舞ったと云える。
    「姓族策」は幕府や御三家の家臣化に依る。
    「賜姓臣下族」は「姓族策」を採らない以上は「郷氏」を継続した。)

    その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
    逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

    (注釈 その「女系族」を物語るものとして、「四家制度の女墓」(20家)がある。
    これに依ると、ある程度、主流としては「秀郷流青木氏」と「地元郷士」と「信濃青木氏」との「女系の入」が判る。
    「女系の出」は、「菩提寺の資料消失」で判り難いが、この女墓の「女系の入」があると云う事は、同じ範囲で「女系の出」があったと云う事を示す。
    後は、「女墓や関係族の手紙や遺資料」から読み取ると、「伊勢近域の国」を中心に摂津、近江、駿河、伊豆、越前、越後、武蔵、常陸、下総などの「女系の入」が判る。
    唯、どの様な理由なのか「甲斐と美濃」だけが「女系の出入」がよく判っていない。
    「美濃」は早期に滅亡した事、「甲斐」は「独自性」が強く「付き合い」が少なかった事かも知れない。)


    奈良期の施基皇子期から何度も紆余曲折しながら「四家制度の範囲」で「相互に女系の出入」が頻繁にあった事は概にして判る。
    殆ど、「出入の女系血縁」に於いては「一体化に近い形」にあったと観られる「秀郷流青木氏」の「遺産伝の伝統資料」が多く世に出ていれば更に判るとも考えられるが、最早、無理であろう。)

    (注釈 「近江佐々木氏」は早い段階で「秀郷流青木氏の血縁関係の事(青木氏族)」を研究されていて、この資料が非常に参考に成った。
    と云う事は、「近江佐々木氏」の「賜姓臣下族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」との「血縁関係」も把握していた事に成る。
    個人情報に関わるので現存する「近江佐々木氏関係の血縁関係」からのものはここで網羅できない。
    「近江佐々木氏の古書の研究書」が当家にある事は「女系に於いて充分な血縁関係」があった事を裏付ける。)

    次の段では論じるが、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
    「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
    これに付いて次段で論じる。


    > 「伝統シリーズ 40」に続く


      [No.357] Re:「青木氏の伝統 38」−「青木氏の歴史観−11」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/10/13(Fri) 12:10:57  

    > 「伝統シリーズ−37」の末尾



    >さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
    >そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸くが、これが射和と青木氏の経済的な関係で大きく影響していたので「射和と殖産の関係」で次ぎに先に論じる。
    >実は大いに影響していたのである。


    > 「伝統シリーズ 38」に続く

    そもそも、「射和」と云う松阪の一部の地域には、商いを前提とする地域では無かった。
    前段でも論じたが「伊勢郷士」、取り分け、「松阪郷士」(A)が住む普通の土地柄であった。
    ところが、この「射和郷士」は、「青木氏の女系」の「縁者関係の郷士」であった為に無力であった。
    そこで室町末期に織田氏の支配下に入り、次ぎに秀吉の豊臣氏の支配下に入った。
    この時、織田氏から伊勢制圧に功績のあった事から、ここを「近江の秀郷流藤原氏」の「蒲生氏郷」に任せ、彼らは「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「ヨーロッパ風の商業都市」を構築した。
    この「商業都市の構築」に倣って「近江武士」から転身した「近江商人」(B)を呼び寄せて「伊勢商人」と共に発展させようとした
    然し、織田氏が倒れ秀吉の代に成ると「浄土真宗の顕如一派」が秀吉に反抗し、「紀州征伐」として、この「門徒宗」を徹底掃討した。
    追われた紀州の「門徒衆の下級武士」の一部が「不入の権」に守られた「伊勢」に逃げ込んできた。
    見かねた「青木氏と松阪郷士(A)」は紀州の「異教の彼ら門徒衆(C)」を密かに「射和地域」に匿った。
    そして、彼らに生きて行く為に“「商い」”を教え「青木氏の仏施」で導いた。

    然し、ここには「青木氏の苦労」があった。
    ところが、その最中、「日野城主」から「松阪城」を築城しその藩主に成った「蒲生氏郷」は、再び秀郷一族一門の多い事を背景に「陸奥黒川藩藩主」として秀吉に依って「北の固め」を強化する為に移封された。
    この事で「蒲生氏郷の故郷」の「近江」から呼び寄せた「伊勢の近江商人(B)」は「強い背景」を失い困窮を極めた。
    そこで、困窮の中で無謀にも江戸期に入り「江戸」に出て一旗を挙げようとした。
    ところが、享保期前は相続く飢饉や震災などで経済は著しく疲弊し最悪と成り、彼ら「伊勢の近江商人(B)」は、再び故郷の援護の得られる「近江」には戻らずに不思議(1 下記)に「松阪」に戻った。
    この間の約60年後には、その結果、彼らは多くは衰退したが、その一部は「名と意地」を捨て「青木氏X)」と「射和郷士(A)」等の庇護の下で何とか息を繋ぎ、「射和地域」の中で「住み分け」(2)をして「商い」(近江商人(B))に関わった。

    享保期に入り「享保の改革」に依って「江戸の景気」は回復したところで、「青木氏の庇護(江戸の伊勢屋)」の中で、貧困に喘いでいた「資本力(財力)」の無い彼ら「近江商人(B)」は、「江戸の伊勢屋」を辿って再挑戦のために「射和」から「江戸」に出た。

    (注釈 その「松阪」での「貧困の状況」が資料として遺されていて、代表する資料として最初に江戸に出て失敗した親は老いて病気と成り、「その日暮らしの事」が書かれている。
    多くはこの様であった様である。)

    又、「射和」で保護された「紀州門徒衆(C)」は江戸期には解放され、「商い」を覚えた彼らも同じく一部は「伊勢」の「近江商人(B)」の「商人」と共に江戸に出た。
    (注釈 結果は成功しなかった。「射和」に戻ったかは判らない。)

    これら(A)と(B)と(C)の「射和郷士(A」)の「商人」は、室町期に築いた巨万のその財力で伊勢全体を「殖産と商業組合」で固めた「青木氏(X)」の庇護の下にあった。
    そして、二度目には江戸での「近江商人(B)」の「子供等の成功」で“「松阪商人」”と享保期以降に呼ばれる様に成った。

    (注釈 吉宗の「享保の改革」に完全補完した「青木氏(X) (伊勢屋)」が下地と成り「松阪商人」(AとBとC)がこの様な経緯で生まれた。
    「江戸での仏施」の「質の江戸伊勢屋(青木氏の商業組合組織)」が低利で「彼らの出店」を促した。)

    つまり、「伊勢商人」の中の一つの“「松阪商人」”とは、「松阪商人(青木氏)」と「射和商人」と更に区分けされているが、そのルーツは、享保期末期以降に「江戸」で「商い」に成功したその他の商人も含めて「伊勢商人(享保期の後半期)」と「松阪商人(享保期の前半期)」と区分けして呼ばれる様に成った。

    ところが、この状況の中で「青木氏」に執って「近江商人(B)の反目(意地と誇り)」と共に、更に次の様な困った事があった。

    そもそも、「紀州門徒衆の(C)」は、その元は「紀州の郷士武士」でもあり、「商人」として必要な「柔軟性」に欠け、「肩肘」を張った者等であった。
    又、その「心情の元」と成る「彼らの宗派」の影響もあって、考え方にも異なる事もあったが、実に反目に近い形で閉鎖的で「松阪郷士・射和郷士の(A)」と「近江商人の(B)」とも融合しようとしなかった。
    勿論、「松阪」を仕切っている「青木氏(X)」とも大きく距離を置いた。
    又、「近江商人(B)」も「紀州門徒衆(C)(異教と異郷)」程ではないが閉鎖的で、取り分け、「青木氏(X)」とは「彼らの家柄の誇り」もあるのか、「紀州門徒宗(C)(異教と異郷)」との距離感と違って、殆ど、「親しみの無い冷めた距離観」を取っていた。

    注釈として そもそも、「松阪」に来た「近江商人」のそのルーツは、「近江佐々木氏(始祖 川島皇子)」や「近江の藤原氏北家秀郷一門」の傍系ではあるが、その“「末裔」”とも云われ、かなりの高い「誇り」は持っていた。
    この「北伊勢」には、「北家近江藤原秀郷一門」の血筋と、「藤原氏北家宗家の血筋」もを引く「伊勢秀郷流青木氏」が存在していた。
    この近江の「出自の氏郷」の「蒲生氏の血筋」が、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」に入る等の事もあって、「青木氏(X)」は勿論の事、同じ家柄家筋を持つ「射和郷士(A)」、つまり、「青木氏の女系族」にも肩を活からせた「誇り」を持っていたのではないかと考えられる。
    今は「商人」と成り得ていたとしても、“武士は食わねど爪楊枝”であったのであろう。

    (注釈 「紀州門徒衆(C)」も紀州郷士として貧困の中で生きて行く為に、紀州城下門前町の装飾や漆職人としても働いていた。)

    「青木氏(X)」として援護するにしても何れも「難しい相手」であった筈である。
    何か「適格な対応」が必要であった。
    現実に、彼ら「近江商人(B)」は、「江戸」で成功後は、「青木氏(X)」の「殖産の商い」を物語る資料関係には「近江の一字」も全く出て来ない。

    この事から検証すると、最初の「江戸での失敗」で「近江に帰らなかった理由」(不思議 1)は読み取れる。
    それは、次ぎの心理(計算された維持)が働いたのではないか。

    近江に帰れば、「氏家制度」の中で家柄家筋の良い「二足の草鞋策」を敷く「本家筋の庇護」を受けて生活を余儀なくされる。
    恐らくは、彼らの下である程度の生活は維持されたとしも次ぎのチャンスは最早ない。
    彼らの天下に誇る「宗家筋」、或いは、「本家筋」は、世間に対して「その立場」を失うとして絶対認めないであろう。
    それよりは「貧困」を得ても「青木氏(X)の庇護下」の中でも「自由の利く松阪」で生き残りを選んだ事に成るだろ。
    だから、より「青木氏(X)」に対して「意地を張った誇り」の為にも縛られることのない範囲の「距離感」を置くことで「自由度」を高めようとしたのではないか。
    況や、故に、「二度目の成功裏」には、「武士」でありながらも「商人」であるとし、「道理や仁義」の欠くこの「不思議な距離感」を「最大限」にしたと考えられ、この「諸行無常の道」を選んだのであろう。


    さて、「近江商人」は兎も角も、「松阪商人の本題」に戻るが、この「松阪商人」の(AとBとC)に前段の「殖産に依って増えて行く販売(営業力)」を担わしたのである。
    そして、この「難しい環境」の中で「青木氏(X)」は、それぞれに適した「殖産の販売力の役割」を与えようとした。(適格な対応)

    当然に「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」にあった「営業の役割」を考えて割り振らねばならない事に成った。

    その役割は、次ぎの通りであった。

    「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
    「松阪木綿(綿油含む)」
    「松阪絹布(松阪紬)」

    以上の三つであった。

    ところが、更には彼らはこの時期は未だ「商い」に充分に馴染んでいなかった。
    貧困に喘いでいた近江から来た「近江商人(B)」を除いては、「青木氏」と繋がりのある「(A)の射和郷士衆」も、又、救った「門徒衆の郷士(C)」の「紀州の下級武士」にも「商い」のそのものには無縁であった。

    唯、「(A)の射和郷士衆」には、江戸期前からの「青木氏部の関係」もあって生産する事に対する経験は深く持っていた。
    唯、生産は作業場などを作り「人」を雇いする事で可能であったが「販売」はどうかとするとそこまではそもそも「身分家柄上」は無理であった。
    取り分け、奈良期より伊勢の「楮和紙の生産」には開発段階から「青木氏(X)」と共に関わっていた何事にも変え難い経緯を持っている。
    どちらかと云うと、今で云う「生産技術者」であった。

    当然に、彼らに、「殖産」の「伊勢和紙(松阪紙型含む)」、「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」の販売に携わらせたという事に成るが、必然的に「伊勢和紙」の主は「(A)の射和郷士衆」と成る。
    でも、“それで済むか”と云う話には成る。
    「(A)の射和郷士衆」は、「青木氏(X)」が「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」を支援をする以上は、「青木氏(X)」に代わってかなり「難しい事」ではあるが、「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の面倒も看る事にも成る。

    従って、後勘からの観ても、他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」も観ていただろう事は当然に解る。

    取り分け、「紀州門徒衆(C)」には、その「難しい性格や信条」から「商い」は疎か、将又、「生産のイロハ」から教える必要に迫られた筈で、説得から始まり教える事は「苦難の技」であったろう事は判る。
    助けられたとは云え「松阪郷士(A)」や「近江商人(B)」とは、当時の封建社会の社会慣習からして三者ともに同じ「郷士の身分」(「松阪郷士、近江郷士、紀州郷士」)であったとしても、そのルーツの「家柄家筋」には違いがあり過ぎる。
    「彼らの立場」からすると、これは全て「負い目」であり、委縮して僻んでも至し方は無いであろう。
    この事は逃れ得ない事であり間違いは無いであろう。

    そこで、兎も角も(A)と(B)と(C)の「商人」と成った彼らには「商記録等の内容」や「松阪に遺された資料」からも「状況証拠」として判る。

    では、問題はこの「三つの役割」をどの様に彼らに割り振ったに掛かってくる。
    無茶に割り振る事は出来なかった筈で、その「性格や信条」と「射和地域」の「住み分けの地域」や「地理条件」や「水利条件」などが働いた筈である。
    余り資料には成っていないのだが、大方は判る。

    そもそも、「松阪の射和地域」は次の様に極めて良好な位置にあった。
    当然にそれは「殖産と云う点」でも云える事でもある。

    先ず、資料関係から読み取ると、次ぎの様に成っていた。

    そもそも、「射和地域」は東の海側より「12Kmの位置(3里)」に存在する。
    「射和地区の範囲」は南北左右の「2Kmの範囲」である。
    「櫛田川」の川沿いの北側に位置し、櫛田川の入口よりも「12Kmの位置」にある。
    東側の港の荷上場や漁村から「西の位置」に存在する。
    南側に位置し、「宮川」とに接する「青木氏の生産の殖産地」の「玉城地域」とは、丁度、櫛田川と宮川を挟んで隣接する「南北の位置」に存在する。
    西隣には「名張地区」、その上の北側には「伊賀地区」の「生産線状」にあり、当然に、この「射和」の北隣は「司令塔」の「松阪地区」である。
    つまり、地形上は「鶴翼の陣形」で、鶴の翼に囲まれた中央には「射和」の「販売地区」が「三つの範囲」で存在する。
    これは「青木氏の殖産」の「コンビナート」であったと云える。

    既に、江戸初期には、「殖産の商いの戦略」として「近代的な体系」が「青木氏」等に依って確立していた事を示す。

    その「射和地域」は、「櫛田川の川洲」より「北側の平地」のほぼ中央(イとハの左右に村)には低い山があり、東西に伸びていて、そこから盆地の様に東西に横切る様に「平地の畑地」がある。
    そこから、北に山が東西に続く。
    この「山地の谷部」の「左右2か所」に明らかに「開発されたと観られる平地」が山際に存在し、そこに「村(ニ)」がある。
    そして、欠かせない「交通運輸の道」として南北のほぼ中央右寄りを縦に「熊野古道」が横切る。
    「住み分け」のみならず「交通の便」も含み「販売拠点」としては申し分ない位置にある。

    明らかに「鶴翼の陣形」にして「地形と水利」を利用して「殖産の販売拠点」として開発されたものである事が容易に判る。

    そこで、「鶴翼の販売拠点」の「射和地域」の「住み分け」は次の様に成っていた。

    (イ) 「松阪郷士(A)」は、左右、つまり、「東西2Kmの東側」に定住していた。
    (ハ) 「近江商人(B)」は、「東西2Kmの西側」に定住していた。
    (ニ) 「紀州門徒衆(C)」は、「西側の上の地域(山間地)」を東に向きに配置されていた。

    “「住み分け」”には、その地区には「菩提寺」、或いは「檀家寺」が伴う。

    この点で観てみると次の様に成る。

    (イ)の「松阪郷士(C)」は、古来より「松阪出自」であり「浄土宗」で密教の「菩提寺」
    (ロ)の「近江商人(B)」は、「近江出自の郷士」であり「天台宗」で密教の「菩提寺」
    (ハ)の「紀州門徒衆(C)」は、「紀州出自の郷士」で「浄土真宗」で顕教の「檀家寺」

    (イ)には、江戸期には「射和」の直ぐ東側に「青木氏の分寺」と「浄土宗寺」が存在している。

    恐らくは、ここが「青木氏系に近い縁戚関係」の「氏人」の「松阪郷士」がこの「分寺」に、その「他の郷士衆」は「浄土宗(A)」に帰依したと考えられる。

    (ロ)には、「松阪の南 射和寄り」には珍しく「天台宗の寺」が数寺存在していた。

    「明治期の寺分布」で観てみると、「天台宗」は松阪地区南には「数寺(四寺か)」が存在している。
    そもそも、江戸期以前の「松阪」は、古来より「密教浄土宗の聖域」で「不入の権」と共に「不可侵の地域」とされた。
    「伊勢神宮」が存在する為に混乱を避けるためにも「宗教的」にも保護され「浄土宗密教」のみが許されていた地域であった。

    (注釈 ここで「歴史観イ」として重要なのは、「浄土宗密教」とは、「古来の浄土観念」を「密教」として引き継いだ「古来宗教」であり、「神仏融合」の「宗教的概念」を指す。
    これを「法然」が「神仏」を分離し仏教の「浄土宗」として概念を「密教」としながらも一般化した。
    その前身とも云える。
    「五家五流の青木氏」や「近江系佐々木氏」がこれを引き継いだ。
    故に、両氏には「氏内の者」で「神職と住職」が共に多い所以でもある。
    従って、この「概念」で「伊勢神宮域」は少なくとも護られていた為に「伊勢松坂」には他宗派は原則は存在し得えない事に成る。)

    (注釈 「歴史観ロ」として重要なのは、唯、「朝廷の学問処」を務めていた武家貴族の「北畠氏」が室町期の世の乱れに乗じて「不入不倫の権」の禁令を破り、無防備な「伊勢」に侵入した。
    「北畠氏」にしてみれば、「侵入の大義」は表向きにはあった。
    それは、「戦国の世」に成り、流石に「伊勢」も「不入と不可侵の権」だけの名目では弱体化した「朝廷の威信」では守り切れなくなった。
    流石、「伊勢」を護る「青木氏」は「シンジケート」を「抑止力」として待ちながらも、この衰退の“勢いに勝ち得るのか”と云う事を心配に成った「北畠氏」は「伊勢(四日市の左域に御所設置)」に入ったと主張した。
    そして、建前上、伊勢に“「御所」”と銘打って支配して伊勢以外にも勢力を拡大した。)

    (注釈 「歴史観ハ」として重要なのは、この「北畠氏」は、戦国で敗れた武田氏の浪人等や秀郷一門の傍系の溢れた武士等を雇い家臣として「強固な武力集団」を構築した。
    その財源を平安末期からの各地の「名義貸しの荘園」に置き、その「名義荘園」を武力で奪い取った。
    全国各地で主な「武家貴族」のこの現象が起こった。
    この時、存立をかけて止む無く「青木氏」は「北畠氏」に合力したが本意ではなかった。
    ところが、流石、「信長」はこの現象を見逃さなかった。
    武力を背景に「信雄」を養子にして「北畠氏」を奪い、挙句は「北畠氏」を乗っ取った上で武力で伊勢等を攻め取った。
    建前上、「青木氏」は「北畠氏」に合力したと見せかけ、裏で「伊勢信濃シンジケート」と近隣の「今井氏の支配下」にある「神社系シンジケート」を使って「織田信雄」を敗戦に追い込んだ。
    「織田氏」は、この後に「信雄」に代わって「青木氏」と関わりのある「蒲生氏郷」が入り「伊勢」は「酷い戦乱」とはならず穏便に収まりを見せた。
    そして「青木氏」は「シンジケート」を引いた。)


    所謂、この「歴史観イ、歴史観ロ、歴史観ハ」があってこそ、ここに他の「密教の天台宗寺」が少なくとも「松阪」に存在する事は本来は難しい事と成ったのである。
    然し、「織田信長」はこの禁を無視した事になるのだが、その倣いに従い「蒲生氏郷」が上記した様に“「近江商人」”を呼び寄せた。
    この結果、彼らの「天台宗の菩提寺」を「松阪の南」、つまり、「射和の北」に建立したが、「蒲生氏郷」が「陸奥」に移封と成った事で、最早、余りにも遠い「陸奥」までに同行せずにいた事でその「勢い」は落ち「松阪」に残った事に成った。

    ところが、結果として当然に「勢い」を失い「射和の北」(松阪の南)で定住していた地域は、その「地権」を放棄して、この地域の「本来の地権者」の「青木氏(X)」に譲り、その後の「住み分け」が進み、上記した「射和の西側」に「近江商人(B)」は移った。

    この為に、本来は「射和地域」にも後に幾つも建立した筈の「天台宗の寺」が「一寺」しかなく無いのである。
    逆に「元の定住地」には、「菩提寺」は維持が出来なく成り、海側より西の山手に向かって「顕教の檀家寺」と成った「天台宗の寺」が数寺が存在する所以でもある。

    (注釈 彼らの「天台宗寺」は「松阪の南」、つまり、「射和の北側」には天台種の寺は三寺「一寺は派が異なる」があったが、江戸期初期には、その派流から「菩提寺」はこの海側にある一つであると観られ、その他は明治期に建立されたものと考えられる。(寺名は秘匿)
    「天台宗」は、本来は「密教」であるが、{平安期の宗教論争}で「顕教」も並立させて「武家貴族の信者」を獲得させた。これが派流の生まれた原因である。)

    注釈として、「歴史観ニ」として重要な事は、彼らの「地権の放棄」には、次ぎの経緯があった事が伺える。

    上記の「殖産の販売力」を拡大させるには、絶対に彼らの持つ高い優れた近江からの伝統に基づく「商い術」は見逃せない。
    又、「青木氏(X)」に執っては、上記の「維持と誇り」を適え、且つ、進んで積極的に取り組んで貰うためには、彼らにもう一度の「再起力」を与える必要があった。
    それは「再起の資金力」であった。
    それが、上記の「地権の買戻し」であり、その条件として「青木氏(X)の地権」の多く持つ「射和郷士(A)」の定住地であった「射和の西」に土地を与えた。
    当然、「地権売却の資金 近江商人(B)」だけではジリ貧で、「殖産の販売の仕事」を与える事で生き続ける事が可能と成る。

    況や、「青木氏の逃避地」の「越前の神明社」にて大いに行っていた「仏施」を、当に伊勢松坂でも行った「歴史的な青木氏の大仏施」であった。

    (注釈 この「仏施」は彼らの享保後の江戸出店までに続いた。)

    さて、これで「近江商人(B)」の関りは述べたが、次は「紀州門徒衆(C)」の事に成る。

    上記した様に、次ぎの問題があった。

    何はともあれ政権や仲間の門徒衆から暫くは匿う必要があった事
    当時、世間を騒がして警戒されていた「門徒宗」である事
    彼らの「異教と異郷」、更には彼らの持つ「頑な性質」がある事

    いくら何でも、これだけの事があれば、「射和郷士(A)」「近江商人(B)」と同調させて生活させる事は至難の業である。
    何か「緩衝材の策」が必要であろう。

    「縁戚の氏人衆」の「射和郷士(A)」にそれを任すとしても「何らかの手」を打たねば、それこそ縁者関係の「射和郷士(A)」からは「青木氏(X)」は完全に信頼を失うは必至である。

    当然に、事前に充分に打ち合わせはした。
    一つは、それを証明するのが彼らが定住していた「地域の地形」(a)から判る。
    もう一つは、「彼等の衆徒」には「寺」を建立するに必要な「財力」は未だ当然に全く無かった。

    そこで、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」は、落ち着いて定住させる為にも”「信心する寺の建立」”を一寺(浄土真宗 東本願寺)を匿っている居住区に敢えて建てて「手(b)」を打っている。

    これは、「地権」を持ち、「縁戚の松阪郷士」の「伝統ある定住地」に勝手に他宗の寺を建立する事は許す事は無い。(あ)
    又、「氏人」を含む「青木氏等の浄土宗密教の地」に「常識や慣習仕来り掟」から観ても100%あり得ない事であったし、これは世間からも蔑視される危険性もあった。(い)
    況してや、当時の閉鎖的で不審者を排除する「村体制」の中の世間から危険性を以って視られていた「門徒衆」でもある。(う)
    紀州や関西域で大騒動を起こした「門徒衆」が「村」に入り、又、同じ事を起こされるのではないかと云う恐怖心もあった。(え)

    この(あ)から(え)までの事があっても「異教の寺」を射和に建てるという事は相当な決断が居る。

    建てれば匿った紀州郷士衆の存在が公に成る。
    密かに匿ったとした「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」は、紀州藩は敢えて殖産の為に黙認していても事も水の泡と成り公に匿ったと成って仕舞う。
    その事を覚悟で建てるのである。

    そこまでして「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」には、「販売力の強化」以外に他に得るべきメリットがあったのであろうか疑問である。
    後から紀州で肩身の狭い思いをして生きていた門徒衆と彼らの家族は押し寄せてくる事も予想出来た。
    匿うだけでその侭にしていても好かった筈である。
    唯、困る事があった。それは「紀州門徒衆(C)」が、「紀州の門徒衆」が押し寄せてくる事は販売力強化の点でも好い事ではある。
    然し、彼らが「射和」に居つくにしても恥を我慢しなければならない。
    その結果、紀州にじわじわと逃げ帰る事だけは、紀州藩が期待する「丸投げの殖産」の意味からも、避けねばならない事であった。
    それには、“「彼らの心の拠り所」”を作り上げる事であった。
    そうすれば、「紀州門徒衆」が押し寄せる事も更に起こり、当然に逃げ帰る事も防げる。

    後は、結局は、前段でも論じた様に最も「伝統」を重んじて来た、むしろ、「伝統の氏族」の様な「青木氏(X)と松阪郷士(A)の伝統」がこれをどの様に扱うかに係る重要な事に成る。
    当然に「紀州藩」は「殖産に依る税の利益」を先んじて、それは「青木氏族」に任せば良いとして完全に黙認している。

    結局は、奈良期からの一度も破らなかった「禁断の伝統」の一部を「浄土真宗寺」を建てる事に踏み切り破る事にしたのである。
    同時に「伊賀郷士の全国から呼び寄せ」も行っている時期でもあり、「議論百質」であった事は充分に判る。

    (注釈 伊賀には縁戚筋関係のつながりはあったとしても「青木氏の地権」は多く及んで居ないことから「内部の治世」には深く組み込めなかった。)

    注釈として、「浄土真宗寺の建立時期」は異宗である事と、「伝統を破った事」からも資料的なものは見つからず「寺の由来」も記録には無い。恣意的に不記載とした可能性もある。
    「彼らの財力」では、「江戸期後半の成功期」にしても遺されたあらゆる資料からはそれほどの財力は無かった事が伺い知れる。
    彼らの財力有り無しに関わらず、結局は「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「地権のある射和」では、況して「他宗禁令の松阪」では無理な事であり、「定住地の開拓開墾」を含めて「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「財力に頼る事」以外には無かった事に成る。
    状況証拠から割と早期の1630年から1650年頃に「浄土真宗寺の建立」に踏み切ったと考えられる。



    例えば、上記した様に先ず「地形」であるが、櫛田川の中州の後ろの小高い山続きの中ほどに山に囲まれて「開拓された畑地」が現在もあり、その後ろ側の山の角の様に山に囲まれた谷部に開発された狭い居住用の様な「窪地」が二つ存在する。
    明らかに、これは“「作られた地形」”であって恣意的には周囲からは判らない様にしての開拓と成っている。
    そして、その「居住用の窪地」の前に開拓されたと観られる「生活用の畑地」が存在する。
    明らかに「造られた秘境」である。
    中州からは全く見えない小山の中に存在する造られた「天然の隠家」の様である。
    近くを「熊野古道」が縦断するが、ここからも見えない山手の奥方の隠れた地形にある。
    然し、「熊野古道」には山伝に1Km強程度で簡単に出られる。
    この「居住地の窪み」の「西寄り」にこの「問題の寺」が存在する。
    「戦略的な位置関係」にあり、且つ、「恣意的な位置関係」にあり、“いざ”と云う時には「防御の拠点」とも成り得る。
    山を越えれば櫛田川であり「生活用品の調達」は容易である。

    ここに「門徒衆(C)」を匿って、「殖産の仕事」を与えた。

    では、問題は上記した「三つの営業力(販売力)」をどの様に配分したかに関わってくる。

    その「配分の内容」は、次ぎの通りである。

    「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
    「松阪木綿(綿油含む)」
    「松阪絹布(松阪紬)」

    以上の三つであった。

    「松阪郷士(A)」は、「和紙の開発から生産」まで朝廷の命で「紙屋院」として日本最初に手掛けた「青木氏の氏人」である事は云うまでも無い。
    そして、それを「近江と信濃と甲斐の青木氏」に広め、「志紀真人族」の彼らの「生きて行く基盤」を作り上げた。
    「松阪郷士」、取り分け、「射和郷士」はこの「第一の貢献者」でもあった。
    従って、「射和郷士(A)」は、当然に「伊勢和紙(松阪紙型含む)」を担当した。
    然し、他の「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の「殖産に関わる事」に「青木氏(X)」に代わって面倒を見なければならない。
    他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」と「松阪絹布(松阪紬)」の面倒は知らないという行為はあり得え無い。
    「商記録」に依れば、どのような形かは明確ではないが、全体の状況証拠から観て、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事が判る。
    何故ならば、「工程管理」では、所詮、彼らは「外者」であり、「生産工程」まで「督促などの発言力」を持ち得ていなかった。
    故に、「発言力」のある誰かがこの「パイプ役の実務」を演じなければならない。
    必然的にそうなれば、「松阪郷士」の「射和郷士(A)」と成る。

    商記録には、「・・射和・・・・入り」とあり、「玉城」から「松阪木綿の製品」が入った事を記したと考えられる。

    注釈として、 ・・・は虫食いで充分に読み取れず、・・・は、“射和・・木綿入り”と記されていた事が判る。
    ここで云う「射和」と「木綿」との間の「・・の欠損部」には、「・反」とし「数字」が、「射和の地名」の前の「・・の欠損部」には販売全体を取り仕切る「射和郷士(A)」の総称を“射和”としていた事が判る。

    これで、「綿布」は「射和郷士(A)」の「差配頭」に届けられ、それが「青木氏(X)の商記録」に「情報」として伝えられていた事に成る。

    この事から「差配頭」から「松阪木綿」は「近江商人(B)」の各店に分配されていた事に成る。
    上記した様に、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事に成る。
    「商記録全体」を通して観るとこの事がよく判る。

    これでも「射和郷士(A)」が関わっていたと成ると、「松阪木綿」が「販売営業力」に経験のある「近江商人(B)」の「専属の販売担当」であった事が判る。
    「江戸出店」して成功した「近江商人(B)の事」に付いて書かれた内容を読むとこの事は明らかで“「木綿商人」”と表現するまでにあり、これを扱っていた事は明白なのだ。
    唯、彼らが江戸にて成功を遂げたのは「享保期の後半以降」であり、この時は既に“「伊勢木綿」”も津域で生産されていて、これも“「木綿商人の表現」“の中に入っていたと考えられる。
    故に、最終は、「近江商人(B)」は、温情を受けた「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」とを裏切り「反目する態度」を取ったと考えられる。

    彼らから観れば、「温情」という考え方より「根っからの近江商人」である事から、「運用資金」を「借金」で調達し返したとし、「原資」は「地権売却」であったとすれば、「青木氏(X)」等には“恩義はさらさらない”とする考え方が成立する。
    「射和郷士の差配頭」の手紙の中を観ると、更には、江戸で成功を納めた「近江商人(B)」は、中には「吉宗の享保の改革」に貢献した「青木氏(X)」の「江戸の伊勢屋」の名を使って喧伝し「商い」を有利に導いた事があったと記されている。
    合わせて、「青木氏の名」を上手く使った事も併記されている。
    この手紙は「射和」がこの情報を掴み「福家」に報告した事への返信であろう。
    然し、「青木氏の氏是」から“取り立てて騒がない事”が書かれている。

    「歴史の後勘」から観ると、「彼らの立場」からすると、そうなるのかも知れない。
    「射和」で「殖産の販売力」として「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」の中で「松阪木綿」を扱い働いた。
    そして「松阪木綿」で独立したとすると、それを紀州藩を背後に「殖産」として一手に扱った事は、まさしく「伊勢屋」であり「青木氏」である事を広義的に意味する。
    “我々は、「江戸の伊勢屋」の出店だ”と主張しても「著作権」など無い時代におかしくは無いであろう。

    この享保期後半の時期は、吉宗との路線の行き違いから「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」は松阪に引き上げている。
    故に、この事件は、尚更らの事であって、「氏是の事」もあり騒ぐことは得策ではないとして「射和郷士(A)」を宥めたと考えられる。

    従って、彼らの精神は、彼らに執ってみれば「射和」は、“その一時の話”と成ろう。
    故に、「射和」には一寺の「檀家寺」(顕教寺)があったとしても「菩提寺」がない事に成る。
    つまり、“敢えて作る必要はなかった事”等が読み解ける事に成るし、更には「射和郷士(A)」も「寺」は許さなかったであろうことが判る。
    この両方が一致すれば、「寺」を潰す事も充分にあったと考えられ、事を納めるには潰すしかなかったとし、「青木氏(X)」も「射和郷士(A)」の意見を入れて許して丸く納めたと観る。
    筆者はこの「潰した説」を採っている。

    これで、「射和郷士(A)」と「近江商人(B)」の担当領域は読み解けたが、難しいのは「紀州門徒衆(C)」の事であり、且つ、「松阪絹布・松阪紬」の事である。
    何せ参考と成る資料が殆ど残っていないのである。
    これには次の理由があった。

    「絹」は古来からの物で、朝廷に部制度に依って納められる「朝廷の専売品」で、「余剰品」を除いて「絹物」は一般市場に出回らない。
    これが高貴族に“「松阪紬」”と呼ばれた所以である。
    当時は、「伊勢和紙」も「信濃和紙」も「甲斐和紙」も「近江和紙」も同じく「部制度」による「専売品」で、これを「四家四流の青木氏」が「青木氏部」を持ち「朝廷」に収めていた。
    しかし、「青木氏部の努力」により「余剰品」が出て925年頃に市場に卸す事を許され、直ぐ後に「商い」をする事で朝廷の大きい財源と成る事から、特別に「四家四流の青木氏」に対して「朝廷」より「賜姓五役」以外に「氏族の商い」を「二足の草鞋策」を前提に特別に慣例を破って許された。

    (注釈 この時から「武家貴族の青木氏」と「商人の青木氏」の「二面性を持つ青木氏」が生まれた。)

    ところが、細々と「絹物」を「朝廷用」として生産していたが、江戸期に入り「徳川氏の後押し」もあり「殖産品」として「松阪紬」を生産し始めた。

    これには注釈として、 「5千石以上の幕臣武士」を対象として許可を得て「絹衣着用」を許された為にその需要が増したが、貴重な「絹紬」は幕府が身分に応じてその着用を禁じた。
    そして、「商人」などの「裕福な庶民」が使う「絹物」と、「高級武士」など身分の高い身分の者が着用する「絹物」との「品質」に差をつけた。
    更に、「質素倹約令」に基づき「城」で着用する「紋付羽織や袴や裃」の絹物の使用は将軍からの特別な許可が必要と成っていた。
    これを「絹衣着用のお定め」としていた。

    (注釈 「青木氏(X)」は、この姿で享保期に将軍御座の前面で意見を述べる権利を所有していた。本来は格式か上座にある。)

    厳しい「身分仕様の絹物」には、更に厳しい「括り」があり、取り分け、その中でも“「松阪紬」”は「古来からの超高級品」である事から「徳川氏の専売品」として納める事に成っていた。

    (注釈 「秀郷一門の結城地区」で生産される「結城紬」も「松阪紬」と同じ立場に置かれ同じ事であった。)

    (注釈 「青木氏(X)」が手掛けていた「古来からの藤白墨」も「朝廷の専売品」から時の「政権の専売品」と成り、一部は「朝廷」に流され、取り分け、明治期まで「徳川氏の専売品」(紀州藩総括)で市場には出回らなかった。)

    注釈のこれと同じく「松阪紬」は殖産する事で何とか市場に出回るほどの「生産力」を保持し高めたが、「超高級品」として「紀州藩の専売品」と成っていた。
    つまり、「青木氏(X)の殖産」により労せずして入る「紀州藩の超財源」と成った事に成る。
    故に、前期した様に「本領安堵並みの地権」を「青木氏(X)」に惜しみなく与えたのである。

    注釈として、徳川氏の幕府は、「紀州藩の成功」に真似て、「青木氏の定住地」にも「幕府領(「信濃 36村・甲斐 315村」)を確保して一部に「地権」を与え「二家二流青木氏」にも「和紙の殖産」と「養蚕の殖産」を命じた。

    この様な背景があって、「絹の扱い」には「木綿」などとは雲泥の差にあった。

    この差の面倒な「仕分け作業」を「紀州門徒衆(C)」に担当させたのである。

    では、問題は、“どのような作業であったのか”である。この時代では不思議な作業であった。

    それは、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とあり、これを“「五仕業」”と記されている。

    つまり、上記の通り、「販売拡充の努力」は不必要で、「五つの定められた仕事」をすればよい事に成っていたのであり、むしろ、してはならない「仕業」であった。
    「伝統ある松阪紬の殖産」には、「特別な伝統」と云う事に縛られて目的は「販売」には無く、主に「増産」そのものにあったのである。
    当然に必然的に、「伝統に基づく増産」には、完全に近い「五仕業」が要求された。
    粗製乱造では済まされない宿命が「松阪紬」にはあった。

    つまり、これが”「五仕業」”と書かれている所以であっては、現在で云う「トレサビリティー」の事を表現しているのである。

    「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とは、「殖産の製造」を除いて、この「絹物の松阪紬」の「五つの工程」の間に起こるあらゆる問題を治めながら最終の「松阪紬」まで持ち込む作業なのである。
    そして、「紀州門徒衆(C)」はこの「松阪紬を保証する役務」を負っていたという事に成る。
    唯、最早、これは単に「松阪紬」を作れば良いと云う事では無く成っていた。
    つまり、「権威」の“「保証と云う事の責任」”が伴っていたのである。

    この時代の事であるので、この「トレサビリティー」には、首がかかる事もあった。
    これを「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」に代わって「紀州門徒衆(C)」が務めるのである。
    つまりは、「和紙」や「木綿」などと違い「絹衣を着用する相手」が先ずは違っていた。

    彼等には、上記する様に「生産量」は兎も角も、主に“「禁令」”と云うものが大きく左右し、その結果、何せこの「絹衣」には「武士や貴族」の「名誉や地位や格式や家柄」と云うものが絡んでいたのである。
    「青木氏も同じ立場」にありながらも、これは「絹衣殖産」に依って生まれた「厄介な事」ではあった。
    記録を観ると、「五仕業」の文字が出てくるのは、この「殖産」が始まって暫く経った頃(1635年前半の頃)の事である。

    この事から、当初、室町期では、この仕業は「荷造り」、「搬送」程度であった様で、「直接販売」は無いので「納所」に届ける程度の事であったらしい。
    ところが、「殖産「を始めた事が、「江戸期の禁令」に合った様に「検品の品質」に強い要求が高まりる様に成った。
    暫くして「仕分け」の「絵柄や色合いや染め具合の要望」が増え、遂には、事前に「金糸銀糸」等の柄入れ、挙句は「絵柄」や「紋入れ」の特注等を含めた「着衣の仕立てまでの要望」が出されて来た様である。

    これは、「絹衣着用」が「名誉な許可制」に成った事で、「許可」を獲得した「高位の武士間」の「ファション競争」に火が付いたと考えられ、金に糸目も付けずに高額なものと成って行った事を示す。
    これは、古来から朝廷に納めていた”「松阪紬」”と云う「超高級品」を着ける事で「ステイタス」を示したかったのであろう。

    (注釈 この意味で細かく規制した「節約禁止令」は「絹物」では逆に成って行った。)

    この「厄介な作業」の「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」を、反元として「紀州門徒衆(C)」は熟さねばならない事に成った。
    元々、「紀州武士」であるし、今も武士は捨てていない。
    相当な抵抗があったと思われるが、「紀州郷士」と云えど「武士のステイタス」は理解されている範疇であったであろう。
    彼らは懸命に取り組んだ事が手紙資料の中で報告としての形で書かれている。

    そこで、先ずこの「五仕業」はどの様なものであったのかを書くと、次のようなもので簡単な「要領書」の様な形で書かれている。

    そもそも、「検品」とは、名張や伊賀から届けられた「素地の反物」を先ず「禁令」に合わせて「上中下」の「品格」に目視で検品して分ける。

    その「検品項目」は、「傷、巻込、不揃、色別」で判定した。

    「傷」は、「傷・噛込み」が入っている事
    「巻込」は、「塵・誇り・汚れ」が巻き込んでいる事
    「不揃」は、紡ぎ悪い事
    「色別」は、「光沢や色合]が悪い事

    以上の「四項目」であった。

    この「四項目」に全て合格した反物を「上格」であった。
    「上格」の中で「色別と不揃い」が格落ちした反物が「中格」であった。
    「傷」「巻込」が強く、「四項目」に格落ちした反物が「下格」として分けられていた。

    (注釈 但し、「検品制度」を高めればより収入が得られるし、「検品情報」を提供して「伊賀や名張」の「紡ぎの段階の品質」を上げられれば、「紀州藩」、「青木氏(X)」を始めとして「松阪紬全体の工程」は潤う。)

    こころから「仕分け」に廻される
    「仕分け」とは、「上格」は禁令に基づき先ず「朝廷」や「絹衣着用」を認められた「1万石以上の大名格」の上級武士用に振り向けられる反物である。
    「下格」とは、「老舗の絹物大問屋」に、「豪商などの商人用」、或いは、禁令に従い5千石以下の「中級の武士用」としても卸されるのが基本である。
    最後に、「中格」とは、「5千石程度の中級武士」の「旗本や御家人」で、何らかのお墨付き(黒印状)のある「格式の家」に充てられる。
    この「品格」にして「紀州藩納所」に納められる。(朝廷用は「上格」)

    原則は媒臣等は禁止である。唯、原則として、「松阪紬」はその「朝廷品の伝統」であった事から「下格」の品は「商人用」には実質は廻らない事に成るが、密かに「納所」より高額を得る為に廻されていた様である。
    これは、「高額な賂を獲得できる手段」として、「納所の紀州藩」は知るか知らぬか「市場」に流されていた事が追筆されている。

    (注釈 長い間の話であり、「家臣の私的賄賂」であれば「青木氏との帳簿突合せ」から見つかる事は必定なので知っていたと考えられる。
    そうでなければ「青木氏(X)」は「名誉回復の名目」にから指摘していた筈でその記録は無い。)

    従って、「青木氏(X)」と「紀州門徒衆(C)」の「元締め」は次の様な事が起こらない様に差配した。

    この「仕分け 1」として、次ぎの「仕業」をした。
    上記の様な事が起こらない様に「仕分役」は帳簿を確認しながら慎重に行う。

    次に「仕分け 2」として、次ぎの「仕業」をした。
    「松阪紬」が「殖産」で増産され特定の市場に出ると成ると、より要望が必然的に出てステイタスを高めようと買い手側から「松阪紬」を扱う「役所の納所(なんしょ)」に「家紋」に合わせた「柄、色合」などの要望が「上格」の「買手」から事前に出されてくる様に成った。
    又、「青木氏(X)」と「付き合い関係」のある「朝廷や大大名」からは、「ステイタス」の一つであった事から「贈り物」としてのこの様な特別注文が出るし、この為の「特別の仕分け」が必要と成る。

    「仕分けの要望内容」に依って、「振り分け」の「仕業」をした。

    「仕分け 3」としては、次ぎの「仕業」をした。
    何処の「染物屋」に回すかの難しい「仕分け」もあり、その「要望の如何」に依って「仕分けの技量」と合わせて「染め物師の技量」をにらんで振り向けなければならない。
    大変な作業で「検品」などの合わせた「総合的な目の技量の経験」が伴う。

    これらの「仕分け」(1から3)は、「検品の影響」を大きく受け、相互の工程の「連携」が必要で、これらの「要望(情報)」を前工程に伝えておくなどの手配も必要と成る。
    この連携無くして「仕分け」は成り立たない。

    この中間工程、つまり、「仕分け」は「五仕業」の中核(主)を占めていた。

    次は、「仕立て」は「上格の反物」に対して行ったものである。
    「朝廷」が「幕府」を始め大大名の「引出物」、「冠婚祭の祝品」等として、「最高権威」としての名の下に「超最高品」の「絹物」を送るが、多くは古来からの「部制度」による「朝廷専売品」のこの「松阪紬」が用いられた。
    これを「受ける者」は「最高の誉れ」(ステイタス)として受け取った事に成る。
    取り分け、「婚姻や世継ぎ誕生」などには「仕立て」をして送る事が、「受ける側」には「朝廷の祭事の供納品」でもある「松阪紬」を送られる事は、これ以外に最高の比べ物の無い未来永劫に伝わる栄誉として捉えられていた。

    この「伝統のある仕立て」を「青木氏(X)」外の氏素性の判らない「仕立屋」に出すのではなく、全て「青木氏(X)」の中で「完全ステイタス」を作り上げて“「賜物の松阪紬」”として贈られるものであった。
    これらの「限られた依頼者」は、「賜姓五役」で勤めていた「朝廷」、「殖産籍」の中にある「紀州藩」、公家と繋がりのある「縁戚の伊勢秀郷流青木氏」、「青木氏同族の信濃青木氏」に限られている。

    (注釈 「信濃青木氏」(小県郡)と「甲斐青木氏」(巨摩郡)は、後に強引に「幕府領」とされ「幕府の殖産地の地」とした。
    この「江戸期初期前の養蚕地」は、関西中部域では、「伊勢」を始めとして、「信濃、甲斐、美濃、越前、越後、丹後」が記録としてある。
    但し、これらは全て「青木氏の居住地」であり、その「青木氏財力」で進められていたが青木氏の滅亡した「美濃」は衰退した。)

    この「松阪紬の配分」は、次ぎの通りであった事が書かれている。

    「古来からの朝廷分(1割) イ」
    「殖産主の紀州藩分(8割) ロ」
    「青木氏の割当分(1割程度) ハ」

    以上の割り当てに指定されていたらしい。

    そもそも、「朝廷の分(1割)」には、江戸期に於いても「青木氏(X)」は、「朝廷の役職」の「紙屋院」と共に、「絵画院の絵処預」を務めていた事もあって、「幕府の目」があっても「手」を抜くことは出来なかった。
    この「絵画の絹物分」もあって、「朝廷」は「伊勢和紙」も含めこれを「絵処預の絵師」の「土佐光信派等の絵塾」に「絹絵」を書かせ、これを“「最高賜物品」”として「絹衣や反物」と共に高位族に送っていたのである。

    この様な傾向から、「青木氏(X)」は、その「元からの務め」であった立場から「朝廷への納品 イ」は、実際にはこの「1割」とは行かず、「出る限りの割合」を当てたいところであったらしい。
    これは資料からも読み取れる。
    然し、「青木氏(X)の殖産」であったとしても、今は「紀州藩の専売品 ロ」と成った現状では相当無理であったらしい。
    「青木氏(X)」の「自らへの割り当て分(1割程度) ハ」と、少ないが「伊勢秀郷流青木氏等」への「割り当て分 ニ」、つまり、「青木氏(X)」の「割り当て分 イ」からの充当をして「裏の割り当て分 ニ」として調整していた。

    その内から秘密裏に殆ど儲けの無い「朝廷分 イ」として工面して廻す事があったらしい。

    (注釈 「朝廷分 イ」には朝廷の勢力の拡大を恐れて「幕府の目」が厳しい。)

    恐らくは、「古来からの伝統品」という事もあり、且つ、薄利ではあったが、「権威の供納品」とする事で「衰退する朝廷への密かな肩入れ」であった事が容易に判る。
    これで「朝廷」への「供納品のお返し」として高位族からの密かな「朝廷への見返り分」が大きく成り、強いては内々に「朝廷援助」が出来たからであろう。
    「青木氏(X)」は江戸期に成っても「その務め」は続け、「賜姓五役」としてこれを期待して支えていた。
    「紀州藩」はこれを黙認していた模様ではあるが、「朝廷の財力」が高まる事も含めて「幕府の目」もあり気にしていた様である。

    この手紙の資料には、事の次第が「幕府の目」もあり明確に書けない様であって、この「松阪紬の状況」を報告した文章がある。
    それには急に文章の中に意味不明な、「四家の長」の“「福家様の御仕儀」“の文字が出て来て、”何か“を匂わせている文面であり読んでいても判らない。
    これは“何か”を知っていなければ解らないのであろう事が判る。

    注釈として、筆者は、「朝廷分 イ」の「割り当て分」に対する「福家の指示」を「射和郷士(A)」の「差配頭」に密かに伝えていたと観ている。
    この「福家の指示」とは次の経緯にあった。

    そもそも、「殖産前」は、「朝廷と青木氏(伊勢神宮の供物」を含む)」の中で割り当てられていた。
    これは、「朝廷と伊勢神宮の財源」に成っていた。
    つまり、判り易く言えば、当初は「紀州藩(「伊勢籐氏の家臣団」)」との「打ち合わせ」では、「藩の借財」を返す「最高の手段」として、そもそも「青木氏(X)」と共に、「松阪紬」の「朝廷への献納の利」のここに目を付けていたものであった。

    つまり、「松阪紬」を「権威の象徴の産物」として「政策的」に仕立てれば、“これ程の「見返り」は先ず無い”と読んでいたのである。
    後は、これに「政策的な禁令」や「質素倹約令」等を添えれば成立する。
    その為の「殖産」を「青木氏(X)」に任すとすれば、「紀州藩」は濡れ手で粟である。

    これは、注釈として云うならば、今で云う「地域興し」の「松阪紬ブームのプロジェクト」である。

    「権威の氏の青木氏(X)」の下で作られる奈良期よりの「伝統の朝廷専売品」を増産して「権威」で固められる「松阪紬」を先ずは世に出す事である。
    それも、人が羨む「限定の範囲」での販売とすれば、権威に憧れていた江戸初期に「高級武士」には火が付く事は必定で、金目に糸目を付けない事と成ると観たのである。
    「節約の禁令」の「裏の目的」はこれに火をつける「点火材」であったと観られる。
    大名格は「黒印状」を授けられたとする「伝統の氏姓の素性の裏打ち」にも成る。
    (殆どは詐称であった。)

    然し、ここで疑問が残る。
    「松阪紬の殖産」を続ける以上は、例え「伝統の物」であったとしても「殖産」である以上は、「利益」を上げる必要がある。
    これ無くしては続けられない。
    「朝廷の割り当て分(1割) イ」は、もとより続けていた関係上は伝統の「薄利」である。

    そもそも、「朝廷」に執っては「殖産」は何の意味も持たないし、「殖産」だからと云って衰退する中で「値上げ」はあり得ない。
    そうすると、「殖産の利益」を何処で取って「帳尻を合わすかの戦略」が「青木氏(X)」に必要になる。
    当然に、に求める事は「畑方免令による殖産税」である以上は無理である。

    恐らくは、この事で「紀州家臣団の伊勢籐氏」との間で、上記の資料の通り“「福家様の御仕儀」“の文字の意味する事から「検討」を繰り返したと読み取れる。
    これが、この時の「会議の決定事項」を“「福家様の御仕儀」“と表現したと考えられる。

    つまり、「秀郷流青木氏」等に廻す「青木氏(X)の(1割程度)の分 ロ」の「内訳とその内容」であった事が判る。
    何故ならば、「秀郷流青木氏」は、この「殖産」に於いて“何の必然性もない”のに文中に書かれているのはこの「戦略の内容」であったと読み取れる。

    “どう云う「戦略の戦術」か”と云うと恐らくは次の様に成る。
    「秀郷流青木氏(伊勢籐氏含む)」の「広い付き合い関係」(幕府の家臣団も含む)から「高位族の者」が、“密かに「権威と伝統の松阪紬」を何とか獲得しよう“とすると、この「ルーツ」を通じて「依頼」があった筈と観る。
    これを相手の「要求や身分」を観て、先ずは「下格」(中格を含む)を密かに振り当てる。
    この「名目」を「伊勢神宮(遷宮地の関係諸社含む)」の「献納品」に置く。
    「名目」としている「伊勢神宮」は、もとより「春日神社(藤原氏の守護神)」と「古来より関係性」を強く持っている。
    つまり、「北家の最大勢力の藤原秀郷一門」とは、「守護神」である以上は疑う余地は完全に無くなり、「紀州藩」や「幕府」に対し「言い訳」(神宮献納品)に成る。

    (注釈 「紀州藩」は当然に黙認する。紀州藩の「幕府目付家老」も仮にも知り得ても「幕府官僚集団」も同族の「武蔵藤氏」である。
    「幕府目付家老」も紀州に赴任される以上は、恐らくは「藤氏の末裔」である。
    そうすれば黙認はするし、「紀州藩の借財」が解消すれば「目付」としての「自らの立場」も成り立つ。
    要は“「名目」”さえ成り立っていれば先ず文句をつける事はない。)

    この“「名目」”を生かしながら、この「ルーツ」から「莫大な利益」を獲得すれば成り立つ事に成る。
    この事前に承知していた「戦略戦術」を「名目」として“「福家様の御仕儀」”として表現したと云う事が判る。

    注釈 その後の事として、上記した「信濃と甲斐と近江と越後と越前の幕府領」は、「米の生産石高」が安定して増えた「享保期」(12−16年頃)に「養蚕の殖殖産」が起こっている。
    これは、「吉宗」が厳しく採った政策の恐れられた彼の有名な“「無継嗣断絶策」”に依る「公収化策」で、上記の「青木氏の定住地」が何と「幕府領」と成った。
    “成った”と云うよりは、“した”である。
    ここは「伊勢」と同じく「古来からの養蚕地」で、「青木氏の定住地」で、「青木氏の商業組合の組織」で、「資力」を蓄えたところを「幕府領」として、「地権」を安堵し与え、「養蚕の増産」を命じている事に成る。
    これも見事に濡れ手で粟である。

    この条件は、「吉宗」が「親代わりの膝元(青木氏)」で直に経験して観て来た権威性を持った「殖産の絹紬」がどれだけの「莫利」を得られるかを詳細に知っていたからの事であろう。
    そして、この紀州の「権威と伝統」の「戦略と戦術」を使えば、「300両」しかなくなった当時の「幕府の御蔵埋金」を一挙に埋める事が出来る。
    それには、何はともあれ「賜姓臣下族」で「志紀真人族の末裔族の青木氏一族」を利用する事に成る。
    実績は紀州で作っていると成れば事は早い。

    「信濃紬」、「甲斐紬」、「近江紬」、「越前紬」と「越後紬(「秀郷流青木氏と信濃青木氏))」等の「絹物」の「権威名」を着ければそれで済む。

    (注釈 ここは「青木氏」が始めた「15商業組合」の「主要5地域」でもある。
    この「無継嗣断絶策」は所領を持つ旗本・御家人までも含む「大小の武士階級」にまで適用され、「無継嗣」と見做された場合は問答無用で没収され「幕府領」とした。
    「青木氏の定住地」には、恐らくは難曲を着ける、挙句は「土地の振り替え」で領主を追い出し、そこを「幕府領」とし、本領並みの「青木氏に地権」(元の天領地)を与えた。
    然し、上記した様にその「領域の村域」が大きいのはこの理由による。
    この為にも「青木氏の権威と資力」を見逃さずこの元の「天領地」を「幕府領」とした上で保護した。)

    何せ「幕府領の養蚕の仕掛け人」は、当然に「吉宗と江戸の伊勢屋(青木氏)」とすれば何の問題もない。
    つまり、「松阪」から人を送りこめば済む事であるし、呼び寄せればよい事に成る。
    「権威と価格」に問題が出れば、「松阪紬」とすれば済む事である。
    ある研究の資料には、”「御領紬」の呼称”が出てくるが、これがその事ではないかと考えている。
    つまり、どう云う事かと云えば、上記の「幕府領」(徳川氏)は、「伊勢松坂」を含めて、元は天皇家の「天領地」(天皇家)と呼ばれた地域である。

    (注釈 「幕府領」は別に「幕領」とも呼ばれ、これを間違えた明治期の研究資料が「幕府領」を「天領地」と呼んだ事から誤解が生まれた。
    現在は、過去の資料より学問的にこれを正式に訂正されていて、「幕府領」と「天領地」とは区別されている。
    「青木氏」に於いても「近江、松阪、信濃、甲斐」については「天領地」とした資料に成っている。
    唯、「近江と甲斐」はその「天領地の範囲」が狭い事から「天領地」と「幕領地」の重複部がある事が観られる。
    例えば、「源頼光」が派遣された「信濃国」は「天領地の守護」としてであったとする明確な学問的な資料もある。
    当然に、「青木氏の始祖の施基皇子」が「伊勢天領地守護」として「三宅連岩床」を国司代として派遣した事も正式に資料として遺されている。)

    この意味でも、”「御領地」”は本来の「天領地の総称」であって、その呼称を使って、江戸期中期には「「松阪紬」も含む「御領紬」として「権威」を持たせる為に意図的に呼称させたと観ている。
    この呼称は、一般に出回る事も無く、且つ、「禁令の事」もあって憚って「高級武士の間での呼称」であったとされている。
    況や、この呼称は、”「松阪紬」”の「伝統」に基づく「名誉と権威」として利用したと観ている。

    これが、「青木氏の松阪紬」が基盤と成った大切な「青木氏」しか知り得ない「歴史観」である。

    さて、この歴史観を前提に、この話は「五仕業」に続く。
    ここで次ぎの事で、何故、この殖産工程が「仕事」では無く“「仕業」”としたのかが判る。

    そして、その「仕業の呼称」から「松阪紬」を”どの様に仕向けるのか”、将又、位置づけるのかの判断をしたのかも判る。


    そこで次は、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」の“「荷造り」”の工程である。

    普通なら、この「荷造り」は「技職の業」では無いであろう。
    ところが資料を読むと単なる工程では無かった。
    相当に、「前行程の仕立て」までの「権威性」を計算した恣意的に利用した「技職の業」である。

    上記の朝廷の「供納品」や「賜物品」に、「より権威性を持たす方法」が下記の通り二つあった。

    一つは、「反物」、或いは「仕立物」の「宝飾荷造り」である。
    二つは、「宝飾荷造り」に「権威の影」を染み込ます事である。
    この(一)と(二)で一対として、「伊勢神宮」に「神の御霊入れ」を祈願して「御朱印」を授かる事にある。

    この作業を一手に引き受ける事に成り、この為に「装飾技能」や「反物、仕立物の漆箱等の技能」が要求された。

    そもそも、この「装飾技能」と「漆箱の技能」は、「紀州郷士」の彼らの「元からの特技」であり全く心配はいらない「彼らの本職」(「技職の業))であった。
    「装飾技能」と「漆箱の技能」を「技職の業」でないという人はまさか居ないであろう。

    それは何故かと云うと、次ぎの様な経緯があった。

    注釈 そもそも「紀州」は「南紀」には「熊野神社」と、「北紀」には「伊勢神宮の最後の遷宮地」で多くの「伊勢神宮系の遷宮神社」(4社)が存在する。
    この「熊野神社」や「遷宮地」の門前町には「祭祀に関係する技能」が古くから多く広まって集まっていた。

    その一つが「装飾技能と漆技能」であり、現在もその伝統は継承されている。

    (注釈 「紀州漆器」は、「三大漆器」の「輪島塗」と共に有名で「紀州漆塗」は「古来からの伝統芸能」であった。
    現在はこの「漆器伝統」が、江戸中期に分流し二流、つまり、「黒江塗」と「根来塗」に分かれて遺されている。
    分流した原因はよくは判らないが、そのきっかけは平安期末期と室町期末期の混乱で「近江の木地師」”が紀州に移り住んで「木地物」を広めた事から、これを「椀物」と「塗」とを組み合わせた事に成っている。
    時期的に観ると、「紀州郷士」の「紀州の北紀殖産」を導いた「名手氏や玉置氏の保護」を受けていて、何か「射和との関係性」を持っているかも知れない。)

    (注釈 そもそも、「近江木地師」は、「近江関係氏の資料」の「近江の佐々木氏系青木氏」の項の論文によれば、「近江木地師」は「近江佐々木氏系の青木氏部」に所属していた筈である。
    ここには、平安末期の「近江の源平戦」で敗退し、更に「美濃の源平戦」でも敗退し、「佐々木氏系青木氏の滅亡」にて分散したとある。
    そして、「近江佐々木氏」が一部を囲い、一部は伊勢等に移動したとある。
    この時の「木地部」が、「近江佐々木氏」が室町期末期に衰退して「木地師」は「紀州」に移動し、平安末期には「伊勢」に飛散したと読み取れる。
    そもそも、「木地師」とは、「仏像」を始めとして「木地に関わる生活用品」を幅広く作る「職人」であり、平安期には「賜姓族」であった「青木氏」には無くてはならない「青木氏部の職人」であった。)

    (注釈 論外ではあるが、ここで「二つの疑問」が残る。先ず一つは、「近江木地師」は何故、、紀州紀北に移動したのか。二つは、何故、「紀州漆器」が二つに分流したのか。この「二つに疑問」が残る。
    そして、この「二つの疑問」が「射和との関り」にあるのではと考えた。
    一つ目は、現在の地元の定説は単に移り住んだとある。当時の掟では許可なく理由なき移動は認められていない。確かに「近江佐々木」は衰退を続けたが、それでは「移動できる条件」にはならない。
    ただ「紀州」は、「木の国」であり、「漆の最大産地」でもある。「木地師」に執っては「絶好の定住地」と成るだろう。しかし、それだけで「移動できる事」にはならない。
    これには「伊勢の青木氏部」に組み込まれた同族の「一団の木地師」との関係が出ていたのではないかと考えていて、それが「射和」と結びついてると考えている。
    これには何か「歴史的キーワード」がある筈である。その「歴史的キーワード」が「分流した原因」でもあると観ている。)

    (注釈 この「歴史的キーワード」を解く鍵は、「江戸中期前後」と「秀吉による根来寺荒廃」にあったと観ていて、「秀吉」に依って徹底的に潰された「根来寺」を江戸中期前後に「吉宗」と「紀州藩」が庇護して伽藍を修復したとある。
    つまり、「紀州」と「江戸中期前後」とは、”「吉宗に関わる事」”に成る。
    「青木氏部」に組み込まれた「近江木地師」を、「漆器職人」を生業としていた「紀州門徒衆(C)」を「射和」に呼び寄せて「養蚕の殖産」を成功させた。
    ところが、「吉宗」が引いた後の紀州藩は放漫な藩政に依って再び「借財態勢」に成った。
    そこで、「射和の成功体験」をもとに「吉宗」は、「射和の経緯」もあり「青木氏(X)」と相談の上で、「伊勢の青木氏部の近江木地師」を「紀州藩の財政立て直し」と「根来寺の再建」を図る為には逆に「伊勢」より「根来」に差し向けたと考えられる。)

    (注釈 「青木氏(X)」は、江戸中期前後、つまり「享保期末期(1751年没)」の直前に表向き理由として「吉宗との意見の違い」にて江戸を引き上げているので、その直前にこの「木地師の配置」を決めたと観られる。
    これで、現実に奈良の国境の「根来」は息を吹き返した。
    そもそも、「吉宗後の紀州藩」は「借財体質」に再び戻った事からも莫大な金額を要する「根来寺伽藍修復」は「吉宗と青木氏の援護」なくして出来る事で無かった。
    この仮説が「上記の疑問条件」を解決する。)

    (注釈 「根来寺」は高野山の麓の真言宗寺であり、忍者の里でもある。「雑賀集団」と共に反抗集団として恐れられ五月蠅がられた。
    「吉宗」はこの「根来衆」を鎮める為にも「伽藍修復」と根来発展」と云う上記の手を打った。
    この「二つの地域」には「木地と云う姓」が多い所以でもある。
    これが江戸期に二度行っている「青木氏」の「紀州藩勘定方指導」と云う事に発展していったのではと考えられる。)

    その「古来からの伝統ある技能」を家内工業的に彼らの「唯一の収入源」として「紀州郷士」等が継承していたのである。

    この「荷造り工程」の前の「三つの工程(検品、仕分け、仕立て)」は、何とこの「荷造り工程」に付き物の工程なのであった。

    彼等には身寄りもないこの「伊勢松坂射和」であったが、この難しい「五仕業」は当に“水を得た鯉“であった。
    だから、「門徒狩り」のほとぼりが冷めた後も彼らは「射和」を飛び出さなかったのである。
    これは「青木氏(X)」と「松阪郷士(B)」の判断であったが、より「松阪紬の権威性」を高められる手段を模索する中で、確かに「扱いに問題」はあったが「天の巡り合わせの様な出来事」であった事が判る。


    さて、その「彼らの行動」は、それどころでは終わらなかった様だ。
    「天の巡り合わせ」と云っても、そもそも、この「五仕業」には「人手」が多くかかる。
    この事は、「青木氏(X)」から高度な仕事(仕業)を与えられた瞬間から判る事であった。
    合わせてこの事は、この「五仕業」が「高度な職能」である限りは「射和郷士(A)の手」を、借りられない事は直ぐに判る。
    当然に、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」との間で相談に入った筈(手紙の一説)で、「解決策」は当然に直ぐに提案された事に成る。

    それは、「唯一の策」として、“紀州から彼らの縁者一族を呼び寄せる事”にあった。
    これには、「国抜けの禁令」が障害に成る。一族郎党の斬首の重刑である。
    彼等自身(紀州門徒衆)にはこの事は何とも仕難い事である。

    そこで、「青木氏(X)」は動いた。
    「紀州藩(伊勢籐氏家臣団)」に隠密裏に掛け合う事であった。
    「紀州藩」はこの事を許可しなければ「借財」は疎か「税の収入」も激減する。
    それどころかこれらを解消させる「殖産」が成功しない。
    況してや、「絹衣」は「他の殖産品の木綿等」と比べても比べ物にならない「高額収入源」であり、「紀州藩」としても「権威の象徴」として広範に利用できる。
    更には、藩としての「借財」は返せて、且つ、「権威と名誉」は保て幕府に大きい顔が出来る。
    この最大の問題の鍵はこの「国抜け罪」である。

    然し、「見事な殖産」を「青木氏(X)」と共に仕立てた「賢明な藩主」は、要は、「国抜け罪」<「殖産」=「借財」と間違いなく考える筈である。
    後は、「伊勢」には「南勢と北勢」に幕府の「四つの代官所」を置いているが、この「幕府の目」をどの様に反らし「国抜け罪」をどう繰りぬけるかにあった。

    然し、積極的で賢明な「藩主」は、「遷宮神社」の「門前町の職能者」の「彼らの一族一門の郎党」を「射和」に送りこむ事を決定した。
    それには、「門前町職能の現能力」を下げずに「門前町職能者」の郷士の「次男三男の部屋住み」を密かに「射和」に送りこむ事にして、そして、彼らに秘密裏に「通過鑑札」を与えた。

    (注釈 この「遷宮地門前町」は、城下の直ぐ東側に繋がる様な位置にある。
    そして、この紀州藩城下にある「遷宮地」は、真東の奈良五条を経由して、そして、「名張」−「射和」に通ずる「一本道の位置上」にある。
    つまり、距離は「射和」まで約130Kmであり、容易にこの計画は、無理なく、即座に、且つ、円滑に、極めて早く実行できる可能性がある。
    急がねばならない。人の歩く速度約10Km、一日12時間として昼夜のほぼ一日で着く。
    関所は五条の一か所、地形は殆ど平坦で名張まで来れば迎えが入る事で、荷駄と人は早くなり最早安全である。
    戦略は当然に「風林火山」である。
    「紀州藩の家臣団」は目立たぬ様にそれとなく護衛している事と、一団を「カモフラージュ」する役を演じる事にも成る。

    (注釈 実は、呼び寄せの「別の証拠」として、「紀州北紀の郷士」で「射和」に来ている一門の「玉置氏」がある。
    この「玉置氏」は、「筆者の母方」の「江戸期の出自先」で、「醤油と酒」を製造し、「搬送業」も兼ねていた。
    この「搬送業」での口伝では、「松阪射和」まで運んでいた事が伝わっている。
    何を運んでいたかは明らかではないが、恐らくは、当然に「射和の一族」に「醤油と酒」を運んでいた事は判る。)

    実は、この彼らの一族郎党を呼び寄せた証拠が記録として二つ残っている。

    先ず一つは、「射和地区の北側」は開発をして定住した地域なので「紀州郷士の姓」は多いが、ところが、「西側の近江商人(B)」の定住地域には「紀州郷士の姓」(前段でも論じた)が「住み分け」をしている筈の中でこれまた多いのである。
    これは何故かである。
    この時代は「争い」を避ける為に「住み分け」を原則としている以上は、西側には無い筈で、「松阪郷士(A)の土地」でもあり、「自由な住み分け」は殖産工程上も当時としては先ず起こらない。

    ところが「時系列的」に観ると、「近江商人(B)」が江戸に出始めた享保期後半に集中している。
    これは、この時期に「紀州門徒衆(C)の開発定住地」の「射和北側」から「櫛田川の川洲域」の「西側」に向けて降りて来たという事に成る。

    これには、記録上で二つ理由がある。(呼び寄せた「二つ目の証拠」)
    一つが、「射和北側」では「五仕業」の工程が山間部である為に手狭になった事。
    これを解消する為に、その「工程の流れ」を「射和北側」の定住地の中での「横の流れ」から、「射和川洲向き」の「縦の流れ」に変えれば「最終の搬送工程」は直ちに「舟」に乗せての「便利な工程」の流れに成る。
    幸い「近江商人(B)」は江戸に出て空き地と成りは始めた。
    工程を熟す「住まい」をその方向に建て替えてゆけば成立する。

    (注釈 彼等にも「五仕業」の御蔭で「資力」は出来た。「青木氏(X))も援助する。)

    二つは、「近江商人(B)」が担っていた「松阪木綿」を扱う者が居なくなった事。
    「近江商人(B)」は、結局は、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」等と反目して一族を「射和」に遺す事は到底出来なく成った。
    この結果、「松阪木綿」の「販売」を誰かに委ねなければならない。
    そこで、「射和郷士(A)」は、「青木氏(X)」の了解を得て、子孫拡大する「紀州門徒衆(C)」に依頼し、その条件として「西側の使用権利」(地権も含む)を援助の形としても譲った事に成った。

    紀州から逃避して来て、「青木氏(X)」に保護された「紀州門徒衆C)」と、その呼び寄せられた一族は、「五仕業」に依って生活は一度に裕福になった。
    「子孫」も養えるし、彼らの名誉を回復して郷里にも顔が立った。
    この経緯が「紀州郷士の姓」が多くなった理由である。

    さて、次は、「搬送」である。
    この「搬送」は、”単なる前工程の絹物を特定先(上記)に運べばよい”という事では無かった。

    先ず、「一つ目の搬送先」は、松阪にある「紀州藩納所」である。
    搬送には領内であるので問題はない。

    次ぎの「二つ目の搬送先」は、「朝廷」で京まである。
    「高額品」であるのでこれは慎重にしなければならない。
    「護衛」を着ける必要があり、「伊勢シンジケート」に「射和郷士(A)差配頭」を通じて手配が必要である。

    最後は、「三つ目の搬送先」は、「青木氏の割り当て分(1割相当)」からの「伊勢神宮献納品」である。
    これも問題はない。

    先ず「搬送品」を筵で包むような事は出来ない。それなりに装飾を加えての「御届け物」に成る。
    「朝廷」には、「天皇家」に納めるのではなく、「朝廷の式典」の「供納品」として納める事に成る。
    従って、「荷駄」には「式紋の五三の桐紋」の敷物が古来から使用された。
    荷駄には旗が立られて運ばれるが、周囲は荷駄に対して最敬礼であった事が書かれている。

    「紀州藩」の納所には、徳川氏の「式紋の立葵紋」の敷物が使用されたと書かれているが、これも朝廷荷駄ほどではないが、邪魔や追い越すなどの無礼は無かったらしい。
    何れもそれだけに、「搬送」は「権威」を落とさない様に周囲を固めて運んでいたらしい。

    後は、「青木氏分の割り当て分(1割相当)」より充当した「秀郷一門への搬送先」は松阪北側の湾寄りの四日市と津の中間位置にあった事から、直納した事が書かれている。
    これには余り荷駄を公には出来ず、速やか密かに屋敷に届けた事が判っている。
    その内容を書いた「要領書」の様なものがあってそこに書かれていたらしい。

    (注釈 「青木氏分の割り当て分(1割相当)」とは、一定の生産計画分より「増えた分」を「青木氏の割り当て分」としてプールし、それを「秀郷流青木氏」を通じて密かに廻していた事に成る。
    紀州藩には表向きは「秘密の分」であったらしい。黙認されていたと観られる。
    「増えた分の差配」は「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」と「紀州門徒衆(C)」の三者で密かに決めていたと観られる。
    この三者に対してその増分から得られる「利の配分(利得分・割り増し分)」もあったからだと観られる。)

    何れも、四者に届ける「搬送役の要領書」が独自にあったらしいが見つからない。(消失か)

    そして、この「要領書」の様な中に、彼らの「搬送の本領」が書かれていた様で、それは、つまり、「実質の営業」であった事らしい。

    つまり、「状況証拠」から、先ずは、次ぎの手順を踏んだらしい。

    「届け先」に着くと「届けの確認」と、「次ぎの要望」等を取りまとめて聞いてくる事。
    場合によって「発注量(納品量)」と詳細な「要望の把握」と「納品期の要望」にあった事。
    時には、「厳しい交渉」(苦情含む)が丁々発止で行われていた事

    以上の様な事であったらしい。

    「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城−名張−伊賀−射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

    筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

    これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
    元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
    全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。

    本段は、著作権と個人情報の縛りの中で「伊勢の事」を少ない資料の分析を以ってそのつもりで論じた。



    > 「伝統シリーズ 39」に続く


      [No.356] Re:「青木氏の伝統 37」−「青木氏の歴史観−10」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/08/20(Sun) 14:32:06  

    > 「伝統シリーズ−36」の末尾



    >(注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
    >その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
    >「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

    >(注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
    >「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。

    >(注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。
    >少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。


    >注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
    >これは既に”「青木社」”であった。
    >つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
    >その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
    >つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
    >それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

    >その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
    >「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
    >「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。




    「伝統シリーズ 37」

    此処で「青木氏の歴史観」として、「青木社」を成し得るにはそこには「地権と云う権利」があった事になろう。
    それ無くして「無理」と考えられる。

    この「青木氏の地権」に付いて詳しく論じて置く事がある。
    それは「単純なる地権」では無かった筈である。
    この「地権」には、「政治的なもの」が働いていて、与える者、与えられる者の双方の「戦略的駆け引き」が読み取れる。

    先ずは例として、「伊勢青木氏の地権の状況」が良く判っているので、これを見本として論じるが、全国の「青木氏の地権」も、取り分け、「15地域の青木氏」はほぼ同じであったと考えられ、この事は遺されている資料からも頷ける。

    江戸初期の紀州藩から受けた「青木氏の本領安堵」の内容には、“「地権」”と云う点から観ると、その「地権の一部」に異なる事があるのだ。
    ところが、その「地権の一部」には“ある意味合いが潜んでいる事”が判る。
    それは、むしろ、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」以外は、「紀州藩」から「殖産と興業」の「伊勢復興」の為の「地権の土地」ではあったと観られる。
    その「地権の一部」には、紀州藩の「頼宣の差配」で「本領安堵策」で、敢えて「奈良期と平安期初期の旧領の本領」までを付加されているのだ。

    先ず、当時の「本領安堵の慣習」として普通ならば、これ程に古い「旧領安堵」までは認めていなかった。
    この事は「青木氏」としても当初は考えていなかった筈で、この事から考えると「地権を持つ地主」と云うよりは“「ある目的」”を以って、形式上は“「預け任された」”と云った方が適切であろう。

    「青木氏」としても“「ある目的」”を理解するまでは、或は、「紀州藩」から「内々の話」があるまでは驚いたと観られる。
    実は、これには「根拠となる資料」があった。
    江戸初期の当初は、その年の収穫量から割り出す「検見法」と云う令があって決められていたが、当時の江戸中期前後には、この「検見法」は変動が大きく「定免法」と云う税法に変えた。

    (注釈 「検見法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに都度の「年貢率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
    一方、「定免法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに「定税率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
    その設定方法に依って使い方の時期は判る。)

    然し、例外を設けて「収穫量が低い地域」には、“「畑方免令」”と云う特例を発して「畑地の税比率」を変えた。
    そこで、この「畑地」として登録されている「殖産地」には、足りない収穫分は「米」を他から買って「米」で納め直す「買納制」が敷かれていた。

    ここが「殖産政策を敷く青木氏」に執っては大問題なのである。
    そこで、取り分け、上記した本領安堵された「青木氏の地権地域」の「殖産」には、「米」に変換して「金か米」を納める事が起こったが、「青木氏」では主に「金納」であって、一種の別の「買納制の慣習」が敷かれていた。

    つまり、「紀州藩」は、“「米納」(「買納制」)”では無く、特別に「青木氏」に対して例外的に原則禁止の“「金納」”のこれを特別に容認していたのである。

    さて、これは何故なのかである。
    この“「ある目的」”を理解することが出来る「重要な疑問点」であった。
    「幕府」は、「紀州藩」の「財政立て直しの目的(安定した借財返済)」を理解して、これを黙認した事が史実として判っている。
    これを観ると、「青木氏」の「旧領の本領安堵策」の地域だけには特別視していた事が判る。
    実は、この時の事の一部がこの「資料」に書かれていて、「公民比率」が普通の「四六の税」が逆転して、上記の「旧領(古来)の本領分域」の「殖産の地権部分」だけは「六四の税」に成っている内容が書かれている。

    そもそも、「一揆」が起こりそうなこの“「厳しい税」(「六四の税))“を考えると、先ずは「紀州藩改革」の為の「一窮策」であったかも知れないが、「青木氏」の「資産投入」に依って”「殖産を興す前提」“として、敢えて紀州藩は「本領安堵する条件」にしていたと考えている。

    仮に、この地域を本来の様に「紀州藩直轄領」とすれば、「殖産」を興すとしても全て「紀州藩の財政」から賄わなければならない。
    然し、その「投資の財力」が「借財中の紀州藩」に無ければ、取るべき方法は唯一つである。
    それは「青木氏」に先ず「慣例」を破って「旧領の本領安堵」をして、“「地権」”を与え、その上で「私財投入」させた上で、その「差配一切の費用」も持たせて、その代わりに「税」だけを「金納」(「六四の税)で、「紀州藩」が獲得出来得れば安定した「六の純利益」が安定して丸々獲得できる事に成る。
    それを更に「金納」にすれば、「紀州藩」は大阪で「換金の手間と経費」も省ける。
    こんな「濡れ手で粟の策」は無いだろう。

    普通は、「四六の税」かせいぜい「五五の税」ではあるが、国に依っては厳しい「七三の税」も在ったが、ここまですると「殖産に注ぎ込む力」はなくなる故に、これはせずに少し緩めて「六」を納め、「四」を「殖産」に注ぎ込ませる政策を採ったと観ている。

    そして、「畑方免令」に依って「殖産の利益」を「米換算の納入」にするのではなく、「返還金」で直接納税しているところを観ると、「米換算の納入」では大阪堂島の「米相場の影響」を受けない「藩のメリット」があった事にも成る。

    これは、“予期していなかった“と云う事もあって、「紀州藩立て直しの策」として「了解の上の政策」であったと考えられる。

    (注釈 それは「青木氏の資料」の文脈から「反動的な文言」は無い事からも判る。)

    これで幕府からの「借財10万両の返還」を成し遂げた「紀州藩」の「立て直しの窮策」の効果的な一策であったと観られる。

    (注釈 それでもこれを引き受けた事は、「青木氏」に執っても「四」でも”「無形の利」”があった事に成る。
    それは「殖産」を興せると云う「利」があって、それが「旧領の氏人」に「潤い」と成り得り「氏人」を救える。
    つまり、恐らくは、この「旧領の本領安堵」の地は、「奈良期からの氏人」が住んでいたからであって、“救える”という「無形の利」を敢えて採り、元より「利益」を度外視していた可能性が高い。
    「紀州藩」も「腹の底」でそこを見据えていた可能性がある。)

    何故ならば、「紀州藩の家臣」は、殆どは縁戚の「伊勢の秀郷流青木氏族」であるからだ。
    彼らが“縁戚を裏切る事”は先ず無く、この意味から、事前に説得を受けて内々で承知していた事が伺える。
    下記の「紀州藩の勘定方指導」もその「戦略の経緯」の中の一つであった事は間違いはない。
    この時の内々の話の中には「この話」が出ていた筈である。

    去りとて、幾ら、「頼宣の時」は別としても、更に「殖産」を進めた「吉宗」の時に「勘定方指導」で「紀州藩」を救うと云っても、それまでの「幕府借財2万両の体質」と「10万両の借財返済」の「負の勢い」を押し返し、「立て直し」までに至らすには「相当で効果的な秘策」が無ければ成し得ない。
    「吉宗」が唱えた単なる「質素倹約策」だけでは成し得ない事は明白である。
    この「質素倹約策」は明らかに「紀州藩の政策上」の「表向きの策」であった事が判る。
    ”領主はちゃんとやっているよ”と吉宗に対する領民の期待感を先ずこれで維持し、「一揆の動き」を抑え、傍らで”「青木氏の殖産策」”を示すと云う「パフォーマンス」をやってのけたと考えられる。
    そもそもこの時期、飢饉や災害が頻発し、その上に「質素倹約の令」は現実的には無理な筈である。
    然し、建前上は”「派手」”は推奨出来ない。

    筆者は、「領民」には、「吉宗と伊勢屋(伊勢青木氏)」との「育ての親関係」は、「周知の事」であった筈で、「吉宗の裏」には「豪商伊勢屋」、つまり、「伊勢」のみならず「二つの青木氏」があると知っての事で「質素倹約令」を敢えて受け入れたのだと観ている。
    これは「一種のサイン」であって、”これから改革して「領民の暮らし」を良くするよ”と云うものであったのだ。
    そしてそれは、”「殖産」”を手掛ける「青木氏と伊勢屋」である事は領民の周知の事であったのだ。
    況してや、前代未聞の「旧領の本領安堵」の事も充分に伝わっていたのであるから、これから”何か起こるよ”と領民の期待は膨らんでいた事に成る。
    だから、「郷氏」としての「旧領安堵の事」を素直に受け入れたと考えられる。

    そこで「伊勢屋の紙問屋」の「二足の草鞋」の「青木氏」が、「殖産」と共に「紀州藩の勘定方指導」をする以上は、「質素倹約策」ならば誰でも出来るから何も「青木氏の指導」を受けることの必要はない。
    それは「青木氏」ならではの「秘策」とその「実行するノウハウ」を持ち得ていなければならない筈である。

    その「秘策」が、次に論じる”「商業組合と殖産」”であって、その「殖産」を前提とした「商業組合」の「殖産」を興す前提が、この“「旧領の本領安堵策」”であった事に成る。

    そこで起こる「殖産収益」にその税率を「六四の税」を掛け、「六を金納」にして「四を殖産経費」に廻せば「青木氏と紀州藩」に執っては双方共に「六は純利益」と成り得る仕組みである。
    これが「青木氏」の「無形の利」の根拠であろう。
    そして、“「殖産」”から生まれる「製品」をより効果的にする為に”「商業組合式」”にして「生産から販売」までを「系統化」すれば、「販売如何」では「六四」以外の”「利益」”は間違い無く起こる。
    これを「青木氏等」の「殖産側の取分」とすれば、この「システム」は成り立つ事に成り、「氏人」も確実に潤う。

    この「旧領の本領安堵策」以外にも、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地」の「二つの地権地域」の「殖産」もある事から、「殖産経営」は充分に成り立つ。
    従って、「頼宣の要請」(伊勢藤氏家臣団)としても、「吉宗の勘定方指導」(青木氏と伊勢衆)としても、何れにしても「殖産の策」として使えた事に成った。
    兎も角も、後は「青木氏と伊勢衆」の「殖産努力の如何」に関わる事に成り、「紀州藩」は「旧領の本領安堵策」だけで事は終わる。
    後は”「税納」”を待つばかりに成る。

    更には「吉宗」の時は、「勘定方指導」で”「政治」”そのものも任せた事にも成り得て、そこに「伊勢藤氏族の官僚」の体制が整えたと成れば、「伊勢方の主導」で「紀州藩」を動かしたとも云える。
    故に、一致結束が出来た事に依って上記の計画、或は、謂わば、”「伊勢戦略」”が「2万両の借財体質の脱却」と「10万両の返済」が可能に成ったのである。

    それが「青木氏の歴史観」の「伊勢殖産」であった事は確かではあるが、”「殖産」”をしても「純利益」を高める事が「必要条件」であって、それに「紀州藩」が「伊勢殖産」に直接投資していては「純利益」などあり得ない。
    況して、そのノウハウも無いし「必要経費」で毎年の幕府から借財する「2万両の赤字」は更に膨らむ事に成る。
    この何もしないで得られる“「純利益」”が、上記した“「負の勢い」の「押し返し」”の”「反力」”と成り得たからだ。

    この上記の「金銭」に変換して”「純利益」の「反力」”が「上記の窮策」であったと考えている。


    (注釈 何度も記述するが、「紀州藩の家臣団」の殆どは「秀郷流青木氏」を中心とする「伊勢藤氏の集団」であるから、この話を「青木氏」に通して「内諾」を得る事は実に簡単な事であり、この「立場」を生かさない方がむしろおかしい。
    むしろ、「青木氏の方」から裏でこの話を持ち込む位の事はあっても不思議ではない。私なら絶対にやる。)

    筆者は、この“「反力」”を示す事が何処かに必ずあると観て研究を進めた結果、正式な書類とは考えられないが、「新宮の遠祖地の縁籍筋の家」からこの事に関する資料が発見された。
    この資料の上記の一説に、この時の「税の事の経緯」を書いた文章の一説が見付かった。

    つまり、「青木氏」が、この「今後の税」の事に付いて、況や「地権地」の事に付いて縁籍関係一族一門に説明をしている一節の行である。
    「地権」を持つ各地の「遠祖地の縁籍筋」からの「殖産振興」を進める上での「問い合わせ」の様な事が書かれてあって、これに対する「返信」ではないかと観られる。
    そもそも、250年近くも平家をはじめ多氏の支配下にあった「遠祖地の氏人」が、江戸期に成って急に「本領安堵」となれば、”何かあるな”という事は理解していた事は明白で、そこら辺のやり取りではないかと考えられる。
    恐らくは、「紀州藩との関係」に付いての「戦略的な事」に付いて懇切丁寧に説明したのではないかと観られる。(青木氏側には消失して資料はない。)


    そこで、この「殖産の土地」には、「畑方免令」を上手く利用して「平安期の旧領(遠祖地)」の「本領安堵策」で解決したとして、次ぎの問題としては「優秀なリードできる人の確保」であった。

    「優秀なリードできる人の確保」の問題を語る上で「重要な事」があって、そこで、「伊勢青木氏」等は「歴史上に遺る史実(歴史観)」として次ぎの事を成したのである。

    前段でも論じたが、「室町末期の伊勢三乱」で敗退して何とか生き残った「3割程度の郷士衆」と、「全国に飛散していた者(伊勢衆の伊賀衆)」等を先ずは呼び集めたのである。
    「伊勢衆」を生き残らせる為にも、江戸初期には、「頼宣肝入れ」で、「青木氏」と共に、「紀州藩公認」の下でこの事に取り組んだのである。

    この事に付いては「紀州藩家臣団」が要するに何と云っても「伊勢籐氏」である。
    「呼び戻す事」には何の問題もない。
    むしろ「人と云う戦略点」では、これ程の「都合の良い事」は無いであろう。
    普通なら、”呼び戻せばまた反乱を起こす”という意見も家臣や周囲から出るであろうが、そこは逆であった。
    そんな馬鹿は幸いに居なかった。

    況して、当時は、「人」は領主の下にあり、”他国から呼び集める”と云う事は「国抜けの法度」でもある。
    「理」に合わなければ「時の指導者」でも逆らうと云う「伊勢の骨入りの郷士」とその「家人」である。
    ”「人」には問題がない”と云うよりはこれ程の理に適った「人」は無かったであろう。

    後の事は「青木氏」が「引き受け元」に成れば完全に上手く行く。
    この事は「公的資料」として遺されている。
    流石、「家康」が目にかけた「頼信の紀州藩」である。
    実にうまく利用した。中にはこの”「殖産策」”を利用して「伊賀者を護身団」に仕立てたくらいである。

    (注釈 実は「頼信」は将軍からその「才」を嫉妬され「謀反の嫌疑」をかけられる始末で「影の護身団」が必要であった。
    これも「伊勢籐氏の家臣団」が「当主」を護る為に「青木氏等」が行う「畑方免令の殖産策」に託けたと考えられ、「青木氏」もそれを導いたものである事は疑う余地は無いだろう。
    後は、「青木氏の影のシンジケート」で包み込めば表向きは何の問題もない事に成る。
    何時の世も「組織の人」を扱うときは慎重であらねばならない。
    これは「青木氏」の「家訓」でもあり「氏是」でもあり、それに従ったという事ではないか。)

    注釈として、そもそも、室町末期の「伊勢三乱」の結果、「織田軍や秀吉」に抵抗した「伊勢郷士衆」は、取り分け、「北勢の伊賀衆11氏」や「南勢の北山衆(平家残党末裔)」や「山間部の戸津川衆(平家残党末裔)」や「東勢の長嶋衆」等は家族を残して全国に飛散した。
    彼らを「神明社」が託ったのである。
    多くは「青木氏の定住地」で、「織田軍や秀吉の勢力」が届かず、且つ、「青木氏の保護力」が強い地域の特に「越前や越後(神明社)」等の北域に逃げ込んだ。

    ところが、この「二つの条件」のある「武蔵域」には不思議に逃げ込んでいない。
    そもそも、「秀郷流青木氏の膝元」であり、家康の「御家人や旗本と成った家臣団」であり、ここに「家臣」として逃げ込めば助かるのに無い。
    何故かという疑問には、「北域」と「武蔵域」の差には「伊勢信濃シンジケートの活動」が届く範囲であったかと云う事が考えられる。

    そもそも、史実として前段でも論じたが、“「呼び集めた」”と云う事は「居場所」を承知していて保護していた事を示すものであり、“ほとぼり”が冷める時期を見謀っていた事を示す。

    この”呼び集めた”とする記録がある事は、前段でも論じた様に、「伊勢」そのものが「郷士衆」が極端に少ない(全国の1/10程度)上に、この「郷士衆」が元より少なく成った処に飛散している訳であるから、“「殖産」を進める上では、「絶対的な力と成る者」が少ない”と観ていた確実な証拠でもある。
    つまりは、「青木氏」等に執っては「必須の課題」であった事を示す。
    この「畑方免令を利用した殖産」に必要とする”「人の問題」”はこれで解決された事が判る。


    この「必須の課題」(「人」)を解決でき得れば、後は、”「拠点造り」”に成るだろう。

    この「紀州藩との取り組み」の”「拠点造り」”のそれが、上記の様に、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」の「二つの地権地域」であった。
    その一つでもある「玉城領域の全域」(現在の玉城市)が、物流の「蔵群」と「作業群」と「長屋群」であった所以なのである。

    この松阪に近い「宮川沿領域」を「畑方免令の殖産」の「拠点づくり」の地域にした。

    「旧領の本領安堵地の殖産地」では無い此処に「殖産の実務拠点」を置いて、「全殖産」の「一切の集積地」としたのである。
    ”何故、「旧領の本領安堵地」に拠点を置かなかったのか”と云う疑問であるが、この地域は「熊野神社の領域」に近く「熊野六氏の勢力圏」(平家落ち武者の末裔族)でもあった。
    この域に「殖産の拠点」は絶対に置けない。
    然し、「幕府」が成立したとしても世の中は安定はしていない。
    「本領安堵域」と成った以上は、未だ無防備ではいられない。
    護るには「青木氏」は「武力集団」は使えない。
    「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」をこの地域に及ぼさねばならない。
    然し、「熊野勢力」に執っては南勢に「北勢の影の勢力」が浸出して来る事は、この不安定な時期では最も危険性を孕んでいた。
    ”ではどうすれはせ良いか”と成る。
    何せ250年もの長きに渡り、北勢域に伸びた「青木氏の抑止力」の届く範囲ではなかった。

    そこで、「青木氏」は、「商記録」にも観られるように、「7割の株券」を持つ「伊勢水軍」を使った様である。
    この「水軍勢力」で「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」を「動かす姿勢」を見せて「熊野勢力」を牽制していた様である。

    どう云う事かと云うと、「伊勢水軍」は「海の上での勢力」で「熊野勢力の牽制」は直接は無理である。
    況して、「熊野水軍」もある以上は直接的には戦略上好ましくない。
    然し、それは「使い方」である。

    それは、次の様であった様で、「遠祖地の本領安堵地」等からの「畑方免令の殖産」の生産品を「伊勢水軍の水路」を使って「松阪の玉城域」に「宮川」を経由して陸内に運び込む戦略をとったのである。
    そして、ここ「地権のある玉城域全域」に「蔵群」と「職能長屋」と「加工場群」と「支配拠点」を置いてここを「殖産の拠点」とした。(明治期の35年まで残されていた。)

    (注釈 中には、恐らくこれでも足りない為に、「郷士の家の庭」に「小さい拠点の作業場」があって、周囲の「氏人の家人の女子供」までもを呼び集めて「工場」が設営されていた。
    如何に「殖産」がうまく動いていたかを物語る。
    「呼び集め飛散した郷士」等の「屋敷群」が元の「四家の各地域」にも「新たな設営」があった事が記載されている。)

    シンジケートの拠点は流石に明記は無いが、「神明社社領域」に敷設されていたらしい事は判る。
    唯、身分は隠しての事である。
    例えば、判り易い例として、「南北朝の楠木正成」は「シンジケートの一員」でもあったくらいで、「山間地の土豪の身分」の家柄で生きて行くには「経済支援」とそれに基づく「掟」で結ばれた「裏の存在」が必要であった。
    この様に「シンジケートの身分」は、多岐に渡りあくまでも「神明社や寺社」の「影の中に生きる身分」であった。
    当然に、これに依って「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」は、”伊勢から直ぐにでも移動できると云う「印象」を与えていた事”は、「商記録の動き」からも判るし、「旧領地の手紙の文面」からも読み取れる。)

    そもそも、「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」の中には、記録では証は出来ないが「平家末裔」が含まれていた事は否めない。
    だとすると、確証はないが「熊野勢力の六氏」とは”「事前の渡り」”は付けられていた筈であろう。

    上記で論じた様に、「畑方免令を使った殖産」に「利」を与えるには、いくら”「無形の利」があるから”と云って、あの高く厳しい修験道が登る「南勢の紀伊山脈」を越えて運んでいては「利」どころの話では絶対にない。
    この事はむしろ、それ位の「使い道の無い山間地の地域」という事にも成ると云う事は、「紀州藩」も当初から知っていた筈で、「殖産として本領安堵する条件」の一つであった事は云うまでも無いであろう。
    普通なら、”その土地をやるよ”と云っても”そんなものいらない”と云うだろうそんなもの「土地」である事は誰でも判る。
    素直に”頂きます”と云うのは、「遠祖地」であると云う事から「青木氏」だけである事も判る。

    「熊野勢力六氏」は、「社領権域の隣接地」であるので”頂きます”と云うかも知れないが、ところがこれは「紀州藩」に執っては好ましくない。
    これ以上、彼らの「宗教勢力と発言力」を拡大させたくないし、「殖産」で何とか借財を償却しようと「苦肉の戦略」を練っているのである。
    そんな愚策は無いであろう。

    そもそも、「宗教勢力」と云うのはどんなものであるかは知っている。
    相当、「厄介な勢力」である事は歴史が物語る。
    何時の世もこれに大きく関わり過ぎた「政治圏」は乱れる。

    その一つの「青木氏の例」があるが、「守護神の神明社」を、丁度、この時期の「江戸初期の幕府」にすべて無償譲渡した事はこの事に由来する。

    「青木氏」と「伊勢籐氏の家臣団」が「愚策」を練る様なそんな馬鹿な事をする訳がない。
    そもそも、北勢の「伊勢神宮の宗教勢力」の「旗頭」に執っては、南勢の「熊野神社の宗教勢力」に「利」に成るような事は絶対にあり得ない。
    況して、「青木氏の遠祖地」で、且つ、「殖産改革」が成り立つ条件下にあれば尚の事でもある。
    むしろ、戦略上は「熊野勢力六氏」を適度に”ちょっかい”を出させない様に抑え込んで置く必要がある。
    唯、見栄を切って抑え込む事は好ましくない。相手を刺激するだけである。
    この事は、「遠祖地の旧領の本領安堵」に依る”「畑方免令の殖産」”を成功させる「重要なポイント」でもある。

    そもそも「遠祖地の氏人」は武力は持たないし、”「殖産」”を上手く進めるには穏やかに護る事が必要で、”静かなる事林の如”である。

    さて、その上での事を念頭にしての事である。
    それには、「間接的に圧力」をかけての「伊勢水軍を動かせる勢力」(7割株保有)である事が条件であった筈だ。

    そして、もう一つは、「旧領地の付近一体」を安定に保たせる事が必要である。
    「紀州藩」がこれに「家臣」を費やすれば、そもそも「六四の税」の意味が亡くなる。
    当然に、「青木氏」の持つ「伊勢信濃シンジケートの抑止力」を生かせる事が必要である。
    然し、幾ら「シンジケート」云えども「南勢」はその「勢力」が届く範囲ではない。
    上記した様に「熊野勢力」の思惑が働き”「小競り合い」”等の「いちゃもんの脅威」もある。

    つまりは、この「二つの条件」を組み合わせれば解決する。
    当然に、更には上記の「搬送の利」も解決する。
    (この”「搬送の利」”にはもう一つの意味があった。)
    これで「一挙三得」でもある。「殖産」は上手く行くかも知れない戦略であった。

    そして、「水利」で運んで「宮川」から「陸内の玉城」に運び込めば解決する。

    「人の問題」、「拠点造り」に絡む「三つの条件」、「無形の利」等の事を考えたからと云ってそう簡単にできる訳では無い。
    相当に「遠祖地の氏人」や「伊勢郷士の呼び集め」や「伊勢籐氏の家臣団」や「伊勢水軍」や「伊勢信濃シンジケート」の関係者と事前に綿密に「打ち合わせ」ての事でなければ出来ない事である。
    「遠祖地の手紙」の一説はそれを物語るものであったと観られる。



    投稿時の脱落部の追記


    ここで、「伊勢籐氏の家臣団」を大量に雇った事のみならず、全国に飛散していた「伊勢郷士」を呼び戻した事は、勿論の事で、更には「青木氏の歴史観」に大きく関わる事が起こったのである。

    この”「幕府の嫌疑」”を余計に増幅させた事が次ぎの三つのこの「殖産の策」にあった。

    一つは、上記した「搬送の利」の意味である。
    二つは、「本領安堵の遠祖地の旧領地」で、”何を殖産させたのか”と云う事である。
    三つは、「伊勢水軍」を係留する「大船の港」があるかである。

    一つ目の「搬送の利」の「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」との扱いの関係であった。
    「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」の組み合わせで「遠祖地の山間地の殖産」は克服できた。
    然し、これには、「隠れた問題」があった。

    それは、”誰が生産品を搬送して防御するか”である。
    「伊勢水軍の人夫」は操船で手はいっぱいで出来ない。
    だとすると、「遠祖地の山間部の生産地」から「港までの搬送する役」を誰が担うかであって、これを解決しなければ「絵にかいた餅」である。

    これが、「伊勢信濃シンジケート」であった。
    「影の武力集団」の実力集団でもある。
    過去には、足利軍の「二万の軍」を餓死させた歴史記録を持つ怖い「実戦集団」、織田信雄の軍を半壊に追い込んだ「実践集団」、「伊賀の戦い]で「名張の実力」を示した「実戦集団」、秀吉の「長嶋の戦い」で秀吉を物資不足で苦しめた「実戦集団」、「紀州門徒狩り」で秀吉を苦しめた「実戦集団」、二度の「伊勢動乱」で実力を示した「実戦集団」等、この様に上げれば「有名な歴史記録」はこれ全て「伊勢信濃シンジケート」である事は有名である。
    「青木氏」はこの”「抑止力」”に使う「影の武力集団」(陸)と「伊勢水軍」(海)に大きく支えられていた。
    そうでなければ、「危険で強大な抑止力」を働かせなければ、この時代は「殖産」などの「大きな商い」は絶対に出来なかった。
    この「影の実戦集団」が、「伊勢水軍」の船に「搬送役と護衛役」で乗り込むのである。

    「幕府」だけではなく、”誰が見ても何かあるのか”と勘繰るは必定で、その上に「伊勢水軍」と結びつけば「謀反」と決めつけられる要素は充分に持っていた。

    「表向き」にはとやかく言われる筋は無いが、「青木氏」は、この「影の実戦集団」を「経済的な支援と掟」で平安期からの「悠久の関係」を保ち得ていたのである。
    恐らくは、「影」ではあるが、明治期の半ば頃まで「周知の事実」であった事が判っている。
    この「青木氏の経済力」が「殖産と云う大義」で「紀州藩の背景」にあるとすると、黙っている方がおかしい。

    だから、「青木氏」は「殖産の大義」もあるし、個人の「謀反の嫌疑」は無いが、「紀州藩」では表に出せない理由がここにあったのであるし、況して証拠と成るものを「目付家老」に見られて「難癖の材料」ともなっては困り当然に記録にも残せない所以でもあった。

    然し、「青木氏側」に執っては、何はともあれ、「影の実戦集団」と「伊勢水軍」の「組み合わせ」の上に、船に「搬送役と護衛役」で乗り込むさせる戦略は欠かせない事なのであった。
    そして、「遠祖地域の熊野勢力」を牽制する意味でも、船には”「影の実戦集団」を載せている”という事を個人的に「殖産」を進める以上は恣意的に誇張する必要があった。
    唯、この「牽制策」に付いて上記した様に「紀州藩の勢力」は期待は全く出来ない事は明らかである。

    (注釈 下記の「参考」のところで示す「伊勢での紀州藩領の実態」を観ればよく判る。)

    この様にする事で、「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」は、”「殖産の利」”が大きかったのである。

    ではそこで、、”何を殖産させたのか”と云う事が重要ではあるが、その「殖産」の内容に依っても事態は変わる。
    そもそも奈良期より「紙屋院」で「和紙の開発」を手掛け、「楮の生産」をこの「山間地の遠祖地の地域」で、「生産」をして来た。
    ここに江戸期初期に成って「畑方免令」に依る「本領安堵策」で、「山間地の本領」により「殖産」を進めると成ったが、これでは問題は無いであろう。

    ”では何を以ってこの地で他に「殖産」が可能か”と云う問題が出る。
    下手をすると、紀州藩に嫌疑がかかるが「養蚕」であった。ケチをつける程に問題は無い

    「楮の増産」は、兎も角も、「畑方免令に適した物」として「利」を上げられる物は先ず考える事は「楮」に似たものと成ろう。
    この思考は失敗は少なかった。それは、記録から「桑の木」であった。
    つまり、伊勢に「養蚕の殖産」を開発する事であった。
    それまでは他国の多くの地域で「養蚕」は手掛けられていた。
    然し、世間に未だこれだと云う”「殖産」”の”「養蚕」”は無かった。
    つまり、それに「見合う生産」と「それを賄う商い」の形を採っていなかったという事である。
    つまり、それまでは”「殖産」”では無かったと云う事である。

    ところが「殖産という形」で始めたにしては、”「養蚕」”のそも物の記録は、この「遠祖地の手紙資料」には「養蚕の字」の一字も出て来ない。
    ところが実際の記録は、「伊勢の商記録」の「取引の内容」から江戸に”「松阪紬の名」”で江戸期も極めて初期頃に取引された記録が読み取れるのである。

    (注釈 「搬送役の伊勢水軍の記録」そのものが発見する事が出来ない。明治期に運送業に転身した事までは判ってはいるが、「青木氏の商記録」には「7割株の保有」までの資料があっても「伊勢水軍側の個別の資料」と成る全てが発見できていない。
    これは恐らくは、「養蚕」に関しては「桑葉搬送」であった事と、嫌疑とならない様にする「紀州藩に対する配慮」にあったと考えられる。)

    この「青木氏の商記録」には、”「松阪紬」”の「固有名詞」で記録されている。
    つまり、「江戸での市場」からその珍しい「殖産」に依る「優れた品質」を観てこの名称が付けられた事に成る。

    当時、”「絹」”は各地でも生産はされてはいたが、「青木氏」の様に”「殖産」”として生産された「品質」で、その”「品質」”に対して「江戸の市場」が歓迎した事を物語るもので、全国的にその名が広まった事が公開資料で分かる。
    その呼ばれた呼称が、商取引の「青木氏の商記録」にも初めて記載したと云う事であろう。

    従って、この”「殖産紬」”としての”「松阪紬」”であった事は、”「殖産」”に適する環境下で紡がれた事を意味する。

    この事から考えると、普通は「山間地の遠祖地の地域」では、「養蚕の生産」そのものは適さないという事に成る。
    これは「養蚕」そのものでは無くて、「養蚕の殖産」に適さないという事であった。
    それは「絹糸・絹布」まで仕上げるには、それなりの「平坦な土地の面積」と「近隣の水利などの生産条件」と「生産に関わる人」が整っていないと出来ないと云う事に成る。

    現実に、「商記録」では、この「青木氏の養蚕」は、「伊賀域と名張域と玉城域」での「北勢」の「青木氏の地権域」の「線状域の生産」に成っている。
    この”「線状域」”と云う事に「殖産の意味」が含んでいると観られ、地形や土壌や水やその地の環境に合わせて「殖産工程」を繋いだ事が資料で読み取れる。

    (注釈 「伊賀」は「織」として有名で、「名張」は「染色」、「玉城」は「布」の役割を主に担っていた事が記録で判る
    後に、この技能を生かして「伊賀織」として全部の工程を熟し、「名張紡ぎ」では「水利」を生かして「紡ぎ」と「染色」、「玉城布地」は「布と服」に仕立てる事で名を馳せた。)

    つまり、「遠祖地」では”「桑葉」”を生産して荷造りして、急いで「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」で、「伊勢水軍」を使ってここに運んだという事に成っている。

    では、それが可能なのか検証してみる。
    「伊勢松坂」より紀伊半島東側を志摩半島から周り大船が接岸出来る大港と成れば、古来の貿易港の「尾鷲」か「太地」か「新宮」と成り得る。
    そもそも、この「尾鷲」は奈良期の古来より「中国との貿易港」で最も盛んであった。条件に問題は無い。
    但し、この「尾鷲」の場合は、「遠祖地」からは港に「陸路」か川沿いに「小舟」で搬送しなければならない。

    記録では、そもそも「紀州藩の本領安堵の遠祖地」とは、「尾鷲」から「北山村」と「熊野村」に囲まれた「山間地」(地権)とされ、南紀の「飛び地」(地権)では、現在も縁戚筋が定住する「太地村」と「湯浅村」と「周参見村域」にもあったとされる。

    (注釈 平安期にはこの「南紀の地域付近」は、「遠祖地としての支配地」であって、伊勢には「三宅岩床連国造」の「国司」を送って守護国としていた。「飛び地の地域」はこの時の「名残の地域」で江戸期まで細々と「地権」を持っていた。)

    この「遠祖地の地域」の中心は、明治期まで「遠縁の親族」が居て「越前の地」と同じく「青木氏の休息地」でもあった事から”「尾鷲」”であった事が判っている。


    そこで、この事に関する重要な参考事として、江戸期末期までの「伊勢の国」は、何と小国分離の国で、普通は「5郡程度」が原則で一国の藩主が領有するが、何と「13郡」に分かれ、更に分離され「57か所」に成って支配されていた。
    その内訳は、「幕府領」(北勢の平地5か所)と「旗本領」(1か所)と「神宮天領」(3か所)を含めて「藩扱い」で何と「25藩」である。
    その内、伊勢の「紀州藩領」は、僅かに「8郡/13郡」に跨り、その一部地域の「8か所/57か所」である。

    この「8か所」は1郡全部では無くこの「一部地域の分散した村域」なのである。
    そして、地元の伊勢の豪族は無く、「熊野勢力」の一氏の「久志本氏」(現在の串本の豪族)が「南勢」の「小さい地域」を「領国」に任じられていて「支配力」は皆無に近かった。
    これは「関ヶ原の戦い」で著しい戦功のあった全国の無名の豪族や旗本に小国に分離して分け与えた結果である。

    それだけに「伊勢」は「不入不倫の権」で護られ「強い武力の持たず郷士も少ない国」であった事から、「幕府」に執ってみれば「戦功」に分配する「格好の地」であった事がこの「25藩」が物語る。
    当然にここで起こる状況は、火を見るより明らかで「不入不倫の権の悪弊の域」であって、これが「青木氏」に重荷に成って圧し掛かっていた。

    その中でも元より「伊勢信濃シンジケート」の「影の支配力」を持つ「青木氏」が、「郷氏」として「地権」の持っていた「北勢」と「松阪」を除いては、上記は殆どは地形は「山間地」であり、「青木氏」が「殖産の地権」として関わった域は、「飯高郡」、「飯野郡」、「多気郡」、「度会郡」の「4郡/13郡」の「南勢」に当たる地域であった。
    その内の「4地域/57地域」という事に成る。
    主に、「多気郡」と「度会郡」の2郡に集中する。
    因みに、「神宮天領」は僅かに「5か所/57か所」である。

    この問題の「南勢」には、更に難しい存在があった。
    関西域全域の水利を統括する天下にその恐ろしさに名を馳せた「幕府奉行所」が、南勢の度会郡に”「山田奉行所」”があって目を光らせていた。

    この状況を観ても、伊勢で「紀州藩の藩領」と成った「小域」はどのようなものであったかは一目瞭然であり、語るも意味がない状況であろう。

    ここをそもそも「本領安堵」として、「畑方免令」で、「殖産」とするは、「紀州藩領」でありながら、「本領安堵」とは一体どういう事かと成る。
    そもそも、「本領安堵」と云う事なら「遠祖地」でありながらも「郷氏の青木氏の領地」である。
    然し、そうでは無く、唯、「遠祖地」である事を理由にして「領地並みの地権」を認めたという事に成る。
    そして、「大義」を作る為に「畑方免令」で「領地並みの地権」を与え、その上で「殖産」とするには「裏の命令」を出す事で済む。
    そして、「六四の税」で「目的の借財」を返すとしたと執れる。
    その為にも、”ほとんど役に立たない誰も欲しがらない細かい分散した土地”を表向きは「藩領の形」を採ったと云う事に成る。
    そもそも、「幕府」に対しては、表向きは「藩領」としながらも、内々では「青木氏」に対しては紀州藩独自で「本領安堵の大義の形」を整え与えて”「地権に対する全ての支配権」”を委ねたという事である。

    勿論、これは上記した様に、「紀州藩と青木氏」との裏の「合意の上」ではあるが、実に状況を観た戦略を練ったという事が云える。
    これは当に幕府に対する「謀反嫌疑の対応」でもあった。

    何故ならば、こんな「小さい地域」に「幕府領」が「伊勢領」に何と「5か所」も配置され、江戸期には「海奉行」だけではなく、「紀州と伊勢全域の奉行権」をも命じていた有名で恐れられていた「天下の山田奉行所」が配置され、それも「本殖産の度会郡」にあったのだ。

    これが「頼信」を通じ「家康」が「江戸初期」にこの「山田奉行所」に命じた”伊勢の事一切御構い無し”の特権の「御定書」の所以でもある。

    (注釈 天智天武天皇が出した「不入不倫の権」に基づく「朝廷の永代令」を追認した。
    この時の事例を以って追認したのであり明治初期までこの原則は守られた。それだけに緊迫していた。
    参考として、吉宗の時も、この「山田奉行所と青木氏」は、”瀬戸内に大船で搬送する商い”で争う「事変」が再び起こった。)

    (注釈「紀州藩の伊勢領」は、「伊勢神宮域の北勢域」に4か所、「熊野神社域の南勢域」に4か所と恣意的に配置されている。)

    これは「幕府の差配」に依るもので、これを「紀州藩」が「幕府の意向」を表向き果たし、何とか生かそうとして其処で「青木氏の殖産」を興させる。
    それに依って「地権を持つ北勢の伊勢神宮域」は元より、「南勢の熊野神社域」をも「牽制させる策」とすれば、「山田奉行所の監視」の「幕府の意向」は表向きは成し遂げられる。

    さて、この事を参考とする状況の中で「伊勢の事態」がよく判る事であるが、そうすると、現在の国道R42かR34の陸路か、又は「中川」で小舟で尾鷲の海まで運んで、そこから海路を通じて運んだことに成るので、「尾鷲」からは150キロ、「新宮」からは「熊野川」で小舟で「新宮港」に運びそこからは海路で約200キロと成り、風向きでは5時間から7時間で運べる。
    「陸路の分やその他の時間」を加えれば、7時間から10時間程度と成る。
    まあ何だかんだで、「半日程度」で運べる算段である。

    これならば、「桑葉の搬送」は可能な事に成る。
    但し、ここで上記した様に「新宮」は直ぐ隣が「熊野神社の境界」であるので、「熊野勢力」がおとなしくしていてもらう事が絶対必要である。
    「熊野勢力」に騒がれては、それこそ「幕府の思う壺」と成ろう。
    資料では「陸路」の表現は書かれていないので、主には「小舟」の「川舟」を使って「港」に出していた事が判る。
    これの方が騒ぎにはならないし速い事は誰でも判る。また、「目立つこともない事」から先ずこの状況では「陸路」は採らないであろう。

    では、その前に、「北勢」は兎も角も、「南勢」の「川舟」をどのように調達したかの問題を先に解決しておく必要がある。
    そもそも、「遠祖地」は「山間地」であり「川舟」は持ち得ていたかの疑問が残る。

    「青木氏」がこの「殖産」の為に準備したという事は当然であろうが、それだけの「舟」と「漕ぎ手」を充分に準備出来たかは大いに疑問である。
    「舟」は作れても「漕ぎ手」は技能を伴う事から身内で直ぐには無理であろう。

    では、現実には調達できているのであるのでどうしたかである。
    「尾鷲」は「遠祖地の地元中心地」であり、「港」をもつ事から縁者関係で「舟」さえ調達できれば「漕ぎ手」は”「ある方法」”で簡単に整えられる。
    然し、これだけでは不足であるし、「熊野聖域港」の「新宮」と成ればこれは殆ど無理である。
    それこそ「熊野勢力」に足元を狙われる。近隣には「久志本氏」が目を光らしている。

    これには、唯一つの方法(ある方法)があった。
    それは、新宮港の直ぐ西隣の「太地域」と「周参見と湯浅域」は江戸期まで「地権」の残る「青木氏の縁戚地」であった。
    ここは地形上は紀伊山脈の全くと言って良い程に「平地の無い鯨業等の黒潮の漁村」であった。
    ここから調達をした事が縁戚筋の資料や口伝から判る。

    これは「閑散期」とか「繁忙期」とかではなく、口伝や資料の読み方では、長い年月の期間、「松阪」から離れて「青木氏との関係」が途絶えていた事で生活は豊かではなく、又、次男三男を「漁業」で充分に賄える事は無かったとある。
    そこで、この次男三男に「青木氏」が舟を与えて「漕ぎ手」として迎え入れた事らしい。
    こうすれば「漁業の跡継ぎ」は解決するし、「縁戚筋」は喜んだと口伝にある。

    (注釈 筆者も祖父や親からや、又、筆者が訪れた際に老人から「伊勢宗家の事」として詳細に聞き及んでいる。)

    唯、この場合には、「紀州藩に対する税」を納めなければならなくなるし、「漁業権」を届け出て許可を得て獲得しなければ成らなくなる。
    そして、ここは「伊勢」ではなく「紀州」であり、「紀州藩の関り」が表に出て好ましくは無い。
    先ず、「伊勢」であれだけ気を配っての戦略なのにそんな事は絶対にしない。
    そこで、この「逃げ策」として、この”「畑方免令」”を使ったのである。
    この手は、「遠祖地」だけではなく「玉城、名張、伊賀」でも「働き手」として「同じ手」を使った。
    何れもこの手には、「紀州藩」は完全な事前了解の無視であって、「畑方免令」を使えば「青木氏の中での事」に成り、次男三男の「働き手」を自由に生み出す手段と成り得て「利益」が生まれる。

    (注釈 この時期は、長男が「働き手」として農家の跡を継ぎ、土地の細分化を避けさせる為にそれ以外は奉公など外に出て働かねばならなかったし、そもそも働き場所は少なかった。
    武士も同じ事で「部屋住み」の「冷や飯食い」や「僧」で終わる者が多かった。
    ところが、この「畑方免令」を使えば「郷士」や「農民」や「漁民」もそれぞれの元の「身分の立場」を保つ事が出来、且つ、「税」からも逃れられたのである。
    幕府は「税の管理」が煩雑化し取り分け「土地の細分化」を嫌った。
    これを知りつつも室町期の「紙文化」で得た「莫大な資本」(5百万両)を元手に投資し、「未開の土地」等を「田畑」にして「殖産を興せる者」だけに与えられた「畑方免令」で「無形の利」を挙げ、多くの「氏人や家人」らを救い逃れられたのである。
    「無形の利」とは云え「青木氏」に執っては「鎌倉期からの宿願」を果たせるこれ程の事は無かった筈である。)

    つまり、上記した様に「本領安堵」とは、「地権と畑方免令」の「組み合わせ」で「領地並み」が成立し、強いては「青木氏の完全裁量の範囲」で出来る事に成る。
    この事を充分に双方が理解していた事に成る。
    後は、この「縁戚筋の漕ぎ手」と「舟」を何処に所属させ支配下に置くかに関わるだろう。
    これに依って事態は変わるし、「紀州藩」は当然の事としても、「熊野勢力の動き」も又変わる。
    それは、「伊勢水軍の支配下」に入れたのである。
    これでは文句の着けようがどこにも無くなる。
    これは、”流石、見事”と云いようがない。
    「青木氏の縁戚筋」、つまり「氏人」や「家人」を豊かに出来る。これが「無形の利」の一つであった。

    だから、「南勢」でも川、「北勢」でも「川を利用する戦略」を採った。
    これには「北勢」では「松阪の玉城」の「宮川か櫛田川の水利」が必要で、生産に関わる「人と面積と条件」が整う「大地権」を持つ「玉城域」であって、その先の「名張域」と「伊賀域」であったという事に成ったのである。

    そして、「紀州藩」の「畑方免令の殖産」の当時の江戸初期は、未だ誰も手掛けていなかったこれを”「松阪紬」”として命名して、問屋街が集まる「江戸大伝馬町」に「伊勢屋」として問屋を構え販売して大好評を受けたのである。

    江戸期は伊勢領は上記した様に「多くの小国」に支配されていたが、その後、「青木氏」が始めた「養蚕の殖産」は20−30年程度を経て、下記の様な経緯で藤堂藩などの支配下で「津域付近」でも生産されるように成っている。(下記)


    さて、「殖産の戦略」は解ったが、「養蚕」のこれで「紀州藩の借財」は返せるかの問題があった。
    現実には、藩主吉宗の半ば頃に「蓄財」は別として莫大な12万両(積算10万両と幕府2万両)と云われる「借財」だけは返せたのであるから、「蓄財」までにするには他に「別の物の殖産」をした事に成る。


    では、その”「他の物」”とは何かと成る。
    全く「養蚕の殖産」と同じ事が云える。
    それは、「遠祖地の記録」にも「松阪の商記録」にも記載が観られ、公的資料や郷土誌にも記載がある”「木綿」”であった。

    この「遠祖地の山間部の畑地」に”「綿の木」”を植え、その「綿花」までを生産し、その「綿花」を上記の要領で「伊勢玉城」までに運び、そこで「木綿布地」にして、「松阪」で販売すると云う手段をとった。
    この事に関する記録は、「青木氏の上記の資料」の中にも出てくるし、「郷土史」や「複数の公的資料」や「個人の研究資料」にも明確に記載されていて、その「製品の呼称」までの記録が明確に明治期まで残されている。

    この”「木綿」”は当時の衣類の主な生地であって、これをそれまでの家内工業ではなく大量に「殖産」で「興業する事」で爆発的に販売は論理的には可能であった。
    ところが、「青木氏の殖産」と云うか「伊勢での初めての綿の殖産」は、初期は論理的には行かなかった様である。
    「養蚕の要領」で「玉城までの搬送」には全く問題がなかった様で、意外なところに「落とし穴」があった事が記録や口伝に残る。

    そもそも、家内工業的に生産された「木綿」には、「買い手側」の「品質」に対する「諦め」が長い間の習慣に依って潜在的にあって、”「木綿」とはこんなものだ”とする「妥協の産物」として長く市場で認められていた経緯があった。
    ところが、大量に問屋で販売すると成ると、「流通」には「多くの目」が働き、「市場原理」が働き、「市場の値段」が激しく変動し、「間接費」が嵩み「利益」に繋がらないという事が起こったのである。

    「青木氏」が最初に始めた”「殖産木綿」”を扱う「松阪の伊勢屋」は実に困った。
    実は、当時の木綿は全国各地で生産され市場に多く出回っていた。
    この中に「伊勢の殖産木綿」が全国で市場に初めて殴り込みをかけたのであるが、これが戦略的に間違っていた。
    ”間違っていた”と云うよりは、”戦略に欠けていた”と云う方が正しかった。

    それは、当に”「殖産の欠点」”でもあった。
    「生産の流れ」に沿って「木綿」を作ると云う事に拘り過ぎたのである。
    それは、「木綿の品質」にあった。但し、この「品質」は決して”悪い”という事ではなかった。
    「家内工業的木綿の品質」に対する妥協からすれば、そんなに「品質の差」は無かった。
    決定的に無いのは、「殖産木綿の品質」を市場から「特別に求められた品質」にあったのである。

    ”「殖産木綿」”として大量に市場が消費する以上は、「品質」に”「布」”としての「品質」を強く求められたのである。
    それはどの様なものであったかは記録にも記載がある。

    それは、要約すると、次の様に成る。
    「木綿の布地」がザラザラせず「平坦」(1の品質)である事
    「繊維の目」(2の品質)がキッチリと揃っている事
    「生地の色合い」(3の品質)が整っている事

    以上であったらしい。
    唯、この「色合い」とは生地として「色ムラ」がない事であったらしい。

    この「3つの品質」が”「殖産木綿」”に「市場」から求められたのである。
    概して言えば、大量に使う事に依って「使い勝手」と「人目」を要求されていた事に成る。
    「麻布」から「木綿」を通常に使う以上は、「絹の様な高級の品質」に近い物を求めた事に成る。
    つまり、これは今風で云えば「江戸のファション性」として要求された事に成る。

    「伊勢」で初めて”「殖産興業」”に成功した”「松阪木綿」”の「伊勢屋の青木氏」は、これに「青木氏部」に依る「機械化」と「職人の技量の向上」の獲得に励み懸命に対応したと記されている。

    (注釈 「青木氏」に執っては「可成りの衝撃」であったらしく、「家訓10訓」に追記して説かれている位である。)

    この結果、”「松阪木綿」”の「上品質の称号」が「江戸人」に認められた事が多くの資料で確認できる。
    全国的にもこの結果、”「松阪木綿」”は別格で扱われた事が記されている。(下記)

    その後、上記した様に小国化した「伊勢」では、殆どの小藩主が「なけなしの資産」を投資して、全国各地から「綿花」を仕入れ「委託生産」(OEM)を行ったとされ「伊勢津域」で生産された。
    これが、後に、”伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ”の「伊勢の諺」に成った所以である。
    そして、この「伊勢の諺」の結果、何と”「松阪」”は「伊勢」ではなく「松阪」であり、「松阪以外の津以南」は、「伊勢の国」とまで呼称される所以と成った。

    これはどういうことかと云うと、そもそも、「松阪」の隣接北域が「津域」であり、更に北域には伊部域や桑名域があり「伊勢」であり、「松阪」より南部域は上記した様に間違いなく「伊勢」である。
    何故、中間の「松阪」だけが「伊勢」ではないのか、どちらかと云うと「伊勢神宮の膝元」であって、云うのなら「松阪」が「伊勢」であろう。

    この「伊勢」のこの「二つの諺」が、物語る様に、”「松阪」”は「青木氏が興す殖産と商業域」があまりにも特異であって特別視されていたのである。
    これが後に、この「本領安堵策(地権)」の「畑方免令による殖産」を大きく物語るものと成った。

    「青木氏の殖産」を真似てこの「木綿生産」に関わって「利益」を上げようとしたと記されている。
    ところが、この結果、この後口からの「木綿」は、「市場の要求」には充分に対応せずに、「利益」だけを追求する「木綿の生産」に成って、結果としてその品質は、上記の「3つの品質」の低いものが出来たとされた。
    その結果で「品質」は、”毛布やタオルの様な物”と成り、使う中に「木綿の毛」が剥がれ触手の悪いものと成ってファッション性の無い直ぐに使えなくなる品質と観られた。

    これを、”「松阪木綿」”に対して”「伊勢木綿」”として区分けして呼称された事が記されている。

    (注釈 有名と成りその品質が認められた”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、市場の需要の要求に対して「供給の増産」は必要以上にしなかった事が記されている。
    その分、「津域の伊勢木綿」に委ねた結果、”「伊勢木綿」”も繁栄をもたらした事らしい。
    ところが「摂津堺店」では、この「綿花」を仕入れているが、これは「松阪への供給」ではなく、その後の「津域の伊勢木綿への供給」であった事が「商記録の一部の表現」で判る。
    「津域の伊勢木綿への供給」が「遠祖地の綿花」に影響を及ぼさないようにする為の策であったと観られる。
    それは「質素倹約令」に依ってあまりにも「伊勢木綿の需要」が後に高まった事から、”「松阪木綿」”は、兎も角も、先ずは「紀州藩」に影響を与えない様にする為の「手立て」であったのであろう。
    それと、況や、これは明らかに「青木氏の氏是」に従った事に成る。
    どんなに「需要」があったとしても「本殖産の目的」以上のものを求めなかったのである。
    然し、「需要」がある限りは見放す事はせずに、「津域の伊勢木綿の成長」に、「松阪木綿の販売」も手掛ける中で、陸路と海路で「摂津堺店」を動かしたと云う事に成るのであろう。
    「津域の伊勢木綿の様な高い成長」は、幾ら「豪商」であっても「青木氏」の様な”殖産を興し得る豊かな財源”を無くしては成し得る事ではない。)


    そうすると、”「松阪紬」”は高級品とし、この”「松阪木綿」”や”「伊勢木綿」”に対して、「紀州藩」と幕府は「質素倹約令」を発し、「木綿の使用」を奨励した事の所以と成った「青木氏の歴史的経緯」である。
    それまでは多くは庶民の多くは「麻布」であった。
    ”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、この様に当に「青木氏のそのものの歴史観」を作ったのである。

    (注釈 「綿花」を扱えば、当然に種からの「綿油」の「殖産」も考えられるが、詳しい資料が発見出来ない。
    唯、確かに、「殖産に依る綿油の生産」が始められたのは1620年頃の後半の様ではある。
    然し、江戸初期に広まった「綿油」は、「遠祖地と松阪」では「充分な殖産」では無かった様で、「摂津堺店」で扱ったと考えられる。
    1725年頃には、大阪で「水油の菜種油」と共に広まっているし、前段でも論じた「寒天とてんぷらの消費」が神戸付近で広まった事から、「津域」に供給する「綿花」と共に「摂津堺店」と考えられる。
    つまり、最大量の「供給」に追われ「綿油」までに持ち込むだけの充分な「生産量」は回せなかった事が考えられる。)

    (注釈 仮に、「綿の種」から「綿油の殖産」を行うとして、この場合は、「水利の条件」が整わは無くてはならない。
    この条件には、江戸初期の1620年代前半でも全く問題は無く、「玉城の宮川北岸」は高台の「堆積地の水利の地」としても古来より有名であった。
    元々、「松阪」は「元神領地の守護」でもあった事から、「青木氏」は江戸初期の紀州藩からもその「玉城域の大半の地権」が認められ、「自費による整備」を行い、上記の様に「殖産」に関わった。)

    (注釈 従って、水車等の「綿油の生産条件」は、この時の「青木氏部の技術」を生かし、「享保改革」では、”「紀州流し」”として有名に成ったほど元々充分にあって、「綿油の殖産」は始めたと考えている。
    唯、「商記録の傾向」から「綿種の供給」が、「摂津堺店」の「播磨」から主に陸路で運んだと観ている。
    そもそも、「播磨」も栽培目的は違うが「菜種栽培の有名な地」でもあった。)

    (注釈 記録によれば、「紀州藩」は1680年代の計画から1720年代に「2万両と云う莫大な費用」を投入して「青木氏の地権外」であった「宮川南岸域の洲域」を「埋め立」てなどの「畑地造成用の護岸工事」に入っている。
    恐らくは、紀州は「青木氏の畑方免令」での「税利益」をここに更に投入したと考えられる。
    これは当に「青木氏の紀州藩勘定方指導の時期」であろう。)

    (注釈 その後に、1820年代に伊賀地区の山間部の庄屋から出された水利を利用する「民間の開発計画案」は「財政不足」から採用されなかった経緯がある。
    これは吉宗が将軍と成ったそのあと暫くして「放漫財政の赤字」に戻った事を意味する。)


    以上、投稿時の脱落部位

    これが「殖産の詳細」を論じた部位である。

    (注釈 相互に関係する資料は発見されないが、それぞれの「事の時代性」を組み合わせればこの様に成る。
    「青木氏」に「総合的な事」が書かれたものがある筈で、無いのはそれまでの室町期の二度の「消失」に依ることは先ず間違いはないであろう。
    唯、「青木氏の氏是」がある事から、「紀州藩に直接に関わる事」は、「青木氏の執事役(神明社の神職や菩提寺の住職)」が敢えて遺さなかったと考えられる。
    「紀州藩」にもない事は、「明治初期の混乱」による事もあるが、「末端の事象」は「頼信や吉宗事」の以外は消える事でもあろう。)

    (注釈 これは、それ程に、「紀州藩の関わり」が、周囲に刺激を与えない為に”隠密裏に行われた”という事にも成り、且つ、「青木氏の主導」で「隠密裏に行われた事」を意味する事にも成る。
    これは「南勢の状況」、主には「熊野勢力の六氏」の動きが「微妙}であった事を示している。
    それはそうであろう。250年の間は「熊野勢力」や「土豪勢力」に代わる代わる支配されていたのであるから、「紀州藩の藩領」に成ってからは、彼らに執っては「差配量」は入って来ないという事が起こったのである。
    それまでは、「熊野勢力」や「浅野勢力」や「日高勢力」の支配下にある土豪に占所されていた。
    表向きは、「伊勢神宮社領域」で「天領地の形」を取っていたが、現実には「実質支配」は出来ていなかった。)

    (注釈 「幕末の事」は、「藩主」との「やり取りの一部」等は、本来であれば「借財返済の経緯」等は「名誉の為」にも消される処であるが、「青木氏側」に手紙で一部残されている。
    明治初期の混乱に乗じて「青木氏」が徳川氏に裏切られる「借財の揉め事」があった。)

    この時の「紀州藩の官吏」等に執ってすれば、伊勢の「秀郷流青木氏」の一族が大量に家臣として仕官したのであるが、強いては、上記の様に「青木氏」と共に「殖産」を導いた。


    次は、「殖産」としては上記の様に進められて行ったのではあるが、その結果として、幕府の「嫌疑と嫉妬」が余計に膨らんだ事が起こった。

    その子孫の縁籍筋の「紀州藩家臣と成らなかった郷士衆」が、“どう成ったか”の問題が潜んでいたのである。

    この「実家先の一門等」もが、「生活の糧」を確実に得る事に成り、彼等の「思惑(戦略)」も成功した事には成った。

    そこで「彼等の思惑(戦略)」も成功した事なのだが、この雇った「大量の家臣団」は「幕府」に「謀反」と疑われた位の「大仕官団」であった。
    この事からも、余計に幕府は不穏に思ったのであろう。(浅野一門の残留族も雇った。)
    唯、「幕府の上層家臣団」も関東域の秀郷一門の「同族同門の秀郷一門」でもある。
    (家康が藤原氏を名乗った位のものであった。)
    とすると、「上層部の幕閣」と「将軍の取り巻き筋」の「頼宣謀反」を感じる位に「大懸念や恐怖」(嫉妬)と成って居た事を示す位のものであった。

    そこで筆者は、前段でも論じたが、更に詳しく云うと、この「謀反」と疑われる根拠には、「伊勢藤氏の家臣の量」だけでは無かったと考えていて、その”「質」”にも「恐怖」を持たれるものがあったと考えている。
    此処が「青木氏の歴史観」としては重要である。
    これが「本論の殖産」であり絶対に述べておかなければならないものなのである。

    この嫌疑と成る「殖産」は、そもそも「青木氏の二足の草鞋策」の「片方の草鞋」でもあって、「左右の草鞋」があって両立して成り立つもので、江戸期に成って始めたものでは決してない。

    唯、その「殖産」が上記した様に「戦略的」で少し違っていたので、”「嫉妬に近い嫌疑」”が増幅したのであろう。

    慣例外の「旧領までを本領安堵」、そこに「殖産推進」、そして「全国青木氏一団」、「伊勢の紙屋の背景」、「15地域の商業組合の成功」、「伊勢藤氏の結束」、「伊勢信濃シンジケートの影の力」、「西の政権(朝廷)との繋がり」等を総合的に咀嚼すると、何か「東の幕府」に対して”「西の幕府の樹立」”を企んでいるのではないかとする「謀反」に近い「恐怖」を感じ取っていたのではないかと観ている。

    考えて観れば、「謀反力」、即ち、「政治力(朝廷の御旗と賜姓族の権威)」、「経済力(豪商と殖産)」、「軍事力(西の大名と地域力)」の「三つ力」は現実には備わっている。
    そして、「戦費を賄う豪商」と「朝廷(西の政権)」と繋がりのある少なく成った「権威性を持つ氏族」が揃えば「紀州藩」には「大義」は成立している。
    「御三家」とは云え、他の二家にはこの「大義の条件」は揃わない。

    更には、「頼宣」対する「家康の亡霊」がある。
    そもそも、「頼宣入城」後の「藩主」と地元の「大豪商」や「郷氏」と「藩士」の「郷士」の結束は、前段で論じた様に「土佐山内氏の様な事件」を普通は起こす位であり、当時としては「紀州藩の成り立ち地」は「珍しい現象」であった。
    「幕府の見方」としては、「紀州」は、“もう少し乱れるのではないか”と観ていたのではないか。
    然し、「御三家」の「尾張」も家臣団との間でごたごたしているのに「紀州」だけはそうでは無かった。

    このギャップから、“「家康」に可愛がられた「頼宣」何する者ぞ、“と「江戸の嫉妬」も半分は有ったと観られる。
    「謀反」は兎も角も、条件の揃った「紀州藩の発言力」を低くして置く必要があって、「幕府」に執ってはある程度、「名声や信用」を落として置く必要が戦略的にあるとしていた筈である。
    これは最高権を持った者の宿命であろう。
    最初に採った手(謀反嫌疑)が、「紀州討伐」等をした「秀吉」も手こずった位なのに、「頼宣の紀州」は上記の様に政策上で余りの高い実績が上がり、次第に「恐怖や懸念」に変わって行ったのであろう。

    「権謀術数」の世の中、「幕府内の勢力争い」はあり得る中では、公にしないまでも「謀反」に近い考え方は少なくとも幕閣は持っていたとする方が妥当であろう。
    現実に、見方を替えれば、丁度、100年後に「紀州藩」は、以上の「五つの勢力」が揃って、遂には前段の通りそれを背景で江戸に持ち込み「謀反」とは云わずとも、将軍家系列ではではない「傍系の吉宗」を「将軍」にしている。

    何時しか「東の幕府」を倒してまでとは云わずとも「吉宗の将軍の座」を獲得しているのである。

    唯、この為の「殖産」とまでは云わないが、「五つの勢力」が整い、その時の「政権の低質さ」から「御三家」として「将軍の座」を狙ったとする事が「謀反の定義範囲」とすれば納得出来る。
    筆者は、紀州藩は「謀反の定義範囲」には有ったと考えている。

    この「謀反の定義範囲」の事では、「伊勢の秀郷流青木氏の家臣団」が親族でもある「伊勢屋紙問屋の伊勢青木氏」等と「江戸の秀郷一門の同族の官僚族」と共に、取り組んだ事が考えられる。

    つまり、最終は「謀反」と定義されながらも構う事無く、“「頼宣」が敷き、そして「吉宗」が仕上げた“とする見方である。
    「伊勢の家臣団」に成らなかった「伊勢郷士集団」と、「伊勢から南紀までの職能集団」(生産集団)と、「射和にそれを取り扱う郷士の商人」(販売集団)を「飛び地領」に殖産と云う名分で配置したのである。

    この様に「紀州藩」を側面からサポートした「育ての親の青木氏」としては、「頼宣」までは「謀反の嫌疑」は霧消したかに見せて置いて、そして、その「意志」を継いで50年後には「吉宗」が「謀反の定義範囲」で成し遂げたと考える事が出来るのである。

    (注釈 ここが「土佐山内氏」との違いであって、その「政治手腕」に嫉妬と嫌疑が働いた違いであり、更には、”その「殖産と云う戦略」が極めて優れていた”と云う事に成ったのである。)

    この意味でも、世間では、これが、“総称「松坂商人」(松阪組 射和組)“と呼ばれる所以でもあり、この中で、“「射和商人」(射和組)”と、特別に(1785年頃から)に世間では呼ばれる様に成った由来でもある。
    つまり、「伊勢商人」の「射和商人」の呼称には、この「裏の意味」を持っているのである。

    「青木氏」と「生き残った郷士衆」とは、「伊勢信濃シンジケート」の関係で「古くから血縁」があった事が判っているが、「射和衆」に関しては「女系」の為に記録も辿り着けない。
    遺された一部の系譜には、「女系の嫁ぎ先の事」は「添書」にしか書かれていないので、単純に確証が採れないのである。



    そこで、尚の事なのであって、この「女系の嫁ぎ先の事」の諸事に付いて、「射和衆との絡み」もあるので改めて少し論じて置く。
    「青木氏の歴史観」としては持っておいた方が実態は掴めるだろう。

    そもそも「青木氏」には、前段で論じた様に、“「四家制度」”と云う組織が古来より在り、この「組織」に依って「四掟」からの「血縁」などが決められていた。
    当然に、前段で論じた様に、この間には「門徒衆の秀吉からの救出劇」も在って、そこで新たに「射和地区」でも上記の「新殖産」を興して、旧来の「射和の郷士」(木綿、白粉)と共に「商業」も発展させようとした。
    そして、この発展の中で、「確固たる組織」にする為に「青木氏」としては、元々の概念(「四掟」への「女系策の補完策」)を基に「射和の女系の流れ」を創った。

    “「創った」”と云うよりは、「射和衆」を救うという役(「賜姓五役」)の為には、「必然性の概念」として“「生まれた」“と云う事であろう。

    本来は、「青木氏」としては、“「子孫」はその勢いに任せて無制限に広がれば拡がる程良い”とする概念は元より無かった。
    この「四掟」の「四家制度」では、「20家の青木氏」が定められていて、この「限定した家」には、上記した「仕来りと掟」に依って、「定められた範囲の一族の者」が配置される。
    それを支える「氏上と氏人の関係」や「伊勢信濃シンジケート」と云う「互いに助け合う影の裏組織」や、「青木氏部と云う職能集団」が有って、そこには、「青木氏の嗣子(男女の養子の嗣子制度)」の場合は、一度立場を「家人」に移して、「女子の嫁家先」と共に「伊勢衆」等に「跡目として入る組織」をも古来より制度として確立していた。

    上記した「青木氏部」と、「殖産の職能集団」と、「伊勢シンジケートの郷士集団」の「三つの青木氏の下部組織」に、「青木氏の嗣子(男女)」等は、“「四家の福家」”の指揮で、選ばれてこの“「家人(家臣)の形」”で入っているのである。

    (注釈 上記で論じたが、奈良期から敷いている“「四家制度」”に依って、この「三つの青木氏の下部組織」に入る場合は、先ず「男子の嗣子」は、直接に“「青木氏」”で入るのでは無く、一度、“「家人(家臣)」”に成った上で、この「下部組織の家の跡目」に入る「仕組み」と成っている。
    然し、慣例としては、この制度は「四家の嗣子の直系男子数」が少ないと云う理由で基本的には少ない。
    それは、優先的に「五家五流の跡目に移動」と云う事もあって、基本的には「家人の跡目」に入る事は少なく成るが、慣例外では無かった。)

    (注釈 唯、元より「家人の家」(「嫁家先」)で、「四家制度」で育った「養女の女子」が「青木家を興し生まれた「嗣子」(「義嗣」ではない)も「四家の跡目の資格」を同等に「養女の女子」として持っているのであるから、「青木氏側」から「家人側」への「男子の跡目」で無くても、「家人側」からの「青木氏側」への「男子の嗣子」が発生する。
    従って、この場合も「氏内の養子」(義嗣ではない)なのであるから同じ事に成り得る。)

    更には、上記した様に、「射和衆・射和郷士」との場合は、主に「男系」だけで繋ぐシステムでは無く、「四家制度」の「定義」によって、「射和衆・射和郷士」に「養女の女子」の嫁ぎ、そこで生まれた「嫁家先の嗣子の者」が先ずは「青木氏の家人」として成る。
    そして、そこで別の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」が「家人と成った嫁ぎ先」に入る「仕来り」が採用されていたのである。
    この血縁方法で「射和衆・射和郷士」との関係が広げていった事が良く判る。

    つまり、先ずは「青木氏との繋がり」を「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせ「青木氏の家人」として作り上げた上で、その上で二度目の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせる「仕組み」である。
    これで「深い女系の血縁関係」が成立する仕組みである。

    況や、如何なる場合に於いても何にも「青木氏との関係の無い家筋」には嫁がないと云う事である。
    それは前段で論じた“「四定以成異性不養之固掟也」”の掟に伴い、次ぎの旧来の「注釈の掟」(「四掟」、「同祖祭祀」、「同世男系」)が有る事に縛られているからである。

    (注釈 「共同養育の制」として、この「家人」に入った「娘」の「嗣子」の一部は、「孫域・曾孫もあり得る」までは「男女」を問わず「青木氏の子」として「四家」に入り共同で育てられる。
    養育方法は「氏内」の一種の今の保育園か幼稚園の形体であろう。
    此処で「青木氏」として「共通する教育」を受け、「そご」の無い様にその「認識とレベル」を統一させる事に狙いがあったと観られる。)

    多くの遺された資料からよく読み取ると、次ぎの様な結論が出る。
    年齢は女子では、普通では13歳で最小は10歳で最高で15歳、男子では、普通では15歳で最小で13歳で最高で18歳として、まとめると資料から何とか読み取れる。

    つまりは、男子は15歳が成人、「雛人形の論」の処でも論じた様に女子は13歳が成人の儀式が行われたと記されている事から、普通はこの儀式が基準と成っていたのであろう。

    (注釈 本来は「仕来り」であり「四掟に関する事」から「御定書」と成るものがあった筈であるがなぜか災禍で消失している。
    恐らくは、この「儀式の基準」は、血縁を確定させる為にも男女ともに「初潮の生理」に左右されている事が判る。ょ

    況や、その前の血縁関係は、「出産不可」から結果として前段で論じた“「嗣子」“では無く”「義嗣」“の「養子や養女の形」に成り得る為に成立しない。
    従って、確実に速やかに「血縁状態」が成立する為には、この「生理に依る年齢基準」が「青木氏」では定められていたと考えられる。

    この様に「女系の形」でも入る「四家のシステム」に成っていた事から、間違いなく繋がっている事は判っているのである。
    つまり、「四家制度」の「子の定義」に入る範囲の女系の「男女の子」が、「四家の福家」に依って「優秀な子」が選ばれると云う「青木氏の仕来り」が有る以上は、上記した様に「家人」で無かった郷士の場合は、一端“「家人の形」”と成って「血縁関係」を結ぶ制度を持っていた。
    これは「奈良期」から積極的に進めていた「四家制度」と「家人制度」を結び付けた制度であった。
    これに依って「血縁に依る家人」が増え強化される制度であった。

    「青木氏」では「性の差」を基本に「賜姓五役の役目」は「男系」を原則とはするものの、「女系」を問わず“「嗣子」”は平等に扱われ、それを基にした縁籍を繋ぐこれを“「家人制度」”と呼ばれていた。

    「重要な歴史観の注釈」として、前段でも論じたが、本来、「青木氏」では「自然神」を基とする「皇祖神の子神」の「祖先神の影響」がある事から、「祖先神の神」は「女神」である。
    この事から「青木氏」には、“「人」”は「女」に依って繋がれると云う「固有の概念」が在って、封建的な「男尊女卑の様な考え方」が根本的に無かった。
    唯、「男女」には其の「性の差」による単なるその「役目としての違い」があると云うだけの概念であった。

    現代の遺伝子学的にもそうなっている事から、この「祖先神の青木氏の概念」は正しい事であった事を意味する。
    そして、「青木氏の密教浄土宗」でもこの概念は生きていて、例えば「女墓」(伝統−3)と云う慣習もある。
    又、「青木氏の家訓10訓」(家訓1と家訓2)にも「女系」(人)を重視する概念は生きている通りである。

    この様に「氏族の賜姓族」の「四家制度」と「家人制度」を考察して観れば、「江戸期初期」の時点で観れば、「郷士の姓族」とは、「姓族」は「室町期中期」から発祥している事を鑑みても、「約350年以上」、「郷士」の前身の「鎌倉期中期の伊勢豪族時代」からでは、「約500年以上の期間の縁組」である事に成る。
    数少ない「35程度の伊勢郷士衆」(江戸初期)とは、35族/350年とすると、1/10と成り、10年に1回の血縁と成る。

    (注釈 日本の最も早い「姓族」は、瀬戸内から出た「海部氏」と云われている。)

    「四家の20家」に生まれる「男女の子」が、「1家−5人」の子供として、「100人」、この内、二人を「家人制度」で「三つの組織」に縁組したとすると、「40人」が対象と成る。
    これが、「1代−40年」とすると、「40年−40人」と成り、「10年−10人」と成る。
    「10−10」/「10−1」から10倍と成り、40−35族/10倍=「4のパラメータ」と出る。

    恐らくは、「全体の青木氏」でも、最低限、この範囲(「4のパラメータ」)で「四家制度」を保っていれば「家人制度」を維持する事が出来て、「最低限の血縁関係」は保てる。

    つまり、この「4のパラメータ」(上記計算の検証前提: 「四六の古式の概念」)で行けば、“「青木氏」は正常に維持される”との「基本認識」は持っていた事に成る。
    従って、平安期中期にまでに定められたレベルのこの正常に維持される「4のパラメータ」の範囲では、「賜姓族の宿命」の「純血性」を保つ為の「同族血縁の弊害」は起こらないとする定義(「四家制度」には「天動説」から来る「陰陽道」の「四六の古式概念」)があった事に成る。

    この「家人制度」を維持されると云う前提を護れば、“「四家制度」を正しく保てる定義”でもあった事に成る。
    況や、この「二つの関係」は互いに「補完関係」を維持して居た事に成り、「青木氏の存続の大前提」であった。

    つまり、それは、突き詰めると“「人」”であって、故に、“「女系」”であると云う前提に成り、これが「青木氏の家訓」に成っているのである。

    この様に「賜姓五役」の「純血性を保つ事」には、「家人制度」と下記に論じる「妻嫁制度」と共に、発祥時の奈良期(647年)から「男系女系の区別ない概念」が絶対的不可欠であった事に成る。
    これが他氏の男系に拘る数少ない「氏族」や「賜姓族」や「臣下族」とは異なる所以であって、「青木氏」が生き延びられた「根本原因」であった事が頷ける。

    それは現在でも通じる「人の遺伝子学」と「青木氏の人の概念」が一致していた事に由来する。
    先祖の凄い「透視力」と云うか「真理力」であったと当に驚き入る。


    さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
    そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸く。”

    それを「射和と殖産」で次ぎに論じる。実は大いに影響していたのである。


    > 「伝統シリーズ 38」に続く


      [No.355] Re:「青木氏の伝統 36」−「青木氏の歴史観−9」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/07/22(Sat) 16:17:28  

    > 「伝統シリーズ−35」の末尾

    >さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

    >「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
    >「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

    >「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
    >「同世男系」の補完策が取られた。

    >「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」の「第四世族」であり「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
    >「女系策」の補完策が取られた。

    >「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。

    >「鞍作部止利作の賜物」の「大日如来坐像」をステイタスとする事。
    >「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

    >この様に「四掟」を補完して定義されている。
    >これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
    >この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。




    「伝統シリーズ36」に続く

    さて、「伊勢の青木氏」(信濃にも入る)に執っては跡目として「頼政の子(仲綱)」の子の「京綱」が平安末期に入るが、
    この「頼政」に関しては「青木氏の歴史観」として多くの事が遺されている。
    これを掘り起こして置く。

    「頼政」は「摂津源氏の四家」の四代目である。
    「平家台頭」に依って発祥から200年程度で「源氏族」は衰退した。
    その中で何とか仲間を騙し、「平家」の中で生き残りをかけた。
    この時、「青木氏」と関わったが、その関りが「跡目」であった。
    原則として、前段でも論じた様に「四家制度の掟」に依って、跡目の「嗣子」は「四掟」で、他氏からの「跡目嗣子」は長い間禁じられていた。
    「嗣子」と云うその「固い掟」が、その壁と成っていた。
    然し、「四掟」からはその「固い掟」そのものを否定する事は「源氏族」には無かった。
    ここが「青木氏」と違うところで緩やかであった。
    唯、「慣習仕来り掟」の長い間の流れの中では、これが「難壁」と成っていた事であったが、「嵯峨期の詔勅」でこの流れが一変したのである。


    当然に、「同祖同門の源氏族」から始めて、「跡目」を入れる事に成った「青木氏」としては「青天の霹靂の歴史的な事」ではあった。
    然し、「新撰姓氏禄」に依って明確に定義された事で、「同祖同門」と成るのであるが、それ故に青木氏側には「四掟」に依る論理的には無理は無かった。
    唯、「11家11流」あるどの「賜姓源氏族」でも良いという事では無かった。

    (注釈 「源氏」と言いながらも「賜姓」を受けられなかった「真人族の源氏」が多く、各賜姓を出した天皇には必ず単なる源氏も居た。
    殆どは、結局は、生活に困窮し比叡山か善光寺や地方の土豪の家に入った。
    「11家11流」とは言えど、その資格を何とか持ち得ているのは実質は武力集団を構成した「清和源氏系」である。
    「宇多源氏」でも搾取偏纂が多いし、源氏の中でも「嵯峨源氏」は「清和源氏」に融合された。)

    そこで「四家」を構成する「摂津源氏四家の始祖」の三代に付いて関連事項を述べて置く。
    先ずは、「三人の遙任」の受領、或は、守護地は次の通りである。

    ・「満仲の受領・守護地」
     摂津、越後、越前、伊予、陸奥、武蔵、下野、信濃

    (二度の役の摂津を領国とする。「武家貴族」として「嵯峨源氏」(母系)を郎党とし「武士団」を形成する。全国域) 

    ・「頼光の受領・守護地」
     美濃、尾張、但馬、伊予、摂津、信濃、甲斐

    (満仲の摂津国を護り引き継ぐ。但馬を受領する。「摂津四家」を形成する。中部域と関西域)

    ・「頼政の受領・守護地」
     摂津、美濃、伊豆、相模、下野、上総、下総

    (摂津を引き継ぎ伊豆と相模国を受領する。関東域)

    さて、そこで果たして、これを観て、同祖同門であるのなら「清和源氏の宗家の摂津源氏」には「神社仏閣の修理」は何所までを命じられたのかと云う疑問がある。

    それは、出来たとしても上記の17国の「神社仏閣の修理」である。
    この「関西域から中部域」にかけての「天領地」が存在する地域とされていて、それは「六国」であろう。

    つまり、これに依って、「嵯峨期の詔勅」に依って、以後は、「青木氏」は、「皇親族」として、或いは「賜姓族」として賜姓を受ける事はなくなった事で、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」を含む「新規建設」が一時的に留まったのかと云う事が判る。
    又、その「内容」と「期間」に依っては「青木氏の歴史観」が判る。

    その「期間」としては、「神明社の荒廃」が進んだ時期は、「嵯峨期」では未だ続けていた事が判っている事から、源氏の清和源氏が政治に関わって来て、上記の「青木氏の定住地」に入って来た920年−930年代頃から「青木氏」は「賜姓五役」として摩擦を避ける為に手を一時引いた事に成る。
    当然に、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」からは手を引いた事にも成る。

    現実には、「守護」が「賜姓青木氏」に代わって「賜姓源氏」と成った以上は、「賜姓青木氏」は「旧守護の郷氏」である事に成り流れとしては手を引く事に成るだろう。
    両者が共に片方(源氏)が守護をし、もう片方(青木氏)は「神社仏閣の修理」をすると云う事はあり得ないであろう。

    そもそも、源氏立役者の「三人の受領・守護地」は「青木氏の定住地」でもあり、「天領地」のある処でもある。
    「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に変わった事で、故に、「源氏」に対して正式に「朝命」としてこの「赴任地の受領・守護地」の「神社仏閣の修理」を命じられた事と同じ事に成ると考えられる。

    然し、未だ、この時期には、領国として受領した「摂津の国」を除いて、この地域には「賜姓源氏族」は「守護神の八幡社」と「密教の菩提寺」を各地に作れるほどの「財政と技量の状況」にはなかった。

    (注釈 但し、「武家貴族」から離れた「武勇の頼信」の「河内源氏」にも「八幡社」が存在していたとしているが、他の源氏族地域と同様に「鎌倉期の後付」ではないかとの見方が強い。)

    故に、荒廃した自らの守護神の八幡社だけの修理に留めたと観られる。

    結局は、「祖先神の神明社の修理」は、「頼政」が「志紀真人族の青木氏」に「京綱の跡目」を入れた時期までと云う事に成る。
    少なくとも、この時期からは、”「青木氏の力」を借りる”と云う「手立て」が成り立ち、この事で「祖先神の神明社の修理」の大義は成立する事になり、再び、「青木氏の守護神」である限りは修理は始めたと考えられる。

    従って、「祖先神の神明社の修理」は、「青木氏」に依って“「1150年頃以降」”に再び始まった事に成るだろう。
    然し、「治承期」には、最早、平家が66国中32国を支配するに至り、その「平家台頭期」からその支配地域に関して以上には、「守護神」であるとは言え「賜姓青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は到底勝手には出来なく成るは必定であるだろう。

    従って、続く乱世が保元(1158)−平治(1159)−治承(1180)−寿永(1185)の乱とすると、詳しくは、上記の通り「1150年頃以降」に再び始まった事に成るだろうが、“1165年代頃”からは再び無理にでも出来なく成った事に成る。
    つまり、再開後、15年間程度で、又、中断した事に成る。

    結局は、時系列的に観ると、次ぎの様に成る。
    「頼政(1104年生誕−1135年家督を引き継ぎ)」は、「1140年頃」に官位叙任して出世した。
    そして、「賜姓平家の台頭」の中で「賜姓源氏族」として上手く泳ぎ、「1178年頃」までに最高位の「正三位」と成り、「受領・守護地」(「伊豆の受領」を特別に希望した記録)に「京の遙任」を敢えて止めて赴任した。

    そして、この間に、「孫の京綱」の「青木氏跡目」も「青木氏の資料」から「1167年−1170年頃」(頼政53歳頃)に行われた事が「公的記録」や「青木氏の記録」でも判っている。
    つまり、「平家の権勢」の中で「伊豆の守護地」を特別に臨んだ事に「頼政の戦略的意味」があり、「先々の事」(源氏四家再興)を考えて準備していた事に成る。

    と云う事は、「青木氏」が“「皇親族」”から外れ、大きく変化した時期の「嵯峨期(在位824年−没年842年)」では、この「嵯峨期の20年間」は「同祖同縁」である事から何とか「賜姓五役」を務めた時期と成る。
    然し、その後、「約108年間(950年頃 「秀郷流青木氏の補完策」まで)」は中止した事に成る。
    ところがその後、再び一時は始まるが「220年間(1170年頃 )」で再び中止に成った。
    この間の清和期の「1135年頃から1178年頃」まではより「安泰期」であった事には成るが、これも「13年間(頼政以仁王の乱 1180年)」で中止した。

    「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は、結局、再び始まったのは「源氏の政権」が樹立した「鎌倉期」である。

    そこで、「青木氏の歴史観」として問題がもう一つある。
    それはこの鎌倉期の何時頃から始まったかは、「青木氏」の中に判断資料と成る欠片も何も見つからない。
    何故なのかは解らない。この時期には資料消失の事故は無い。

    「賜姓五役としての務め」として「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事が出来る様に成ったのであるから、「幸い」である事に成る。
    然し、どこかに何か「関連した内容の事」でもが書かれている筈なのに無いのである。

    (注釈 この「青木氏に関わる歴史的な記録の務め」は、本来は「神明社の守護神」か「氏寺の密教菩提寺」が執事として勤める役目の「慣習仕来り掟」にあった。)

    この「不思議な事」は、「青木氏の中」で“「書けなかった混乱」”が発生していた事以外には考え難い。
    これは大きく「青木氏の歴史観」に関わる事ではあるが、“何なのか”である。

    先にこの事に付いて是非検証してみる。

    この「執事の記録」は先ず考えられる事は、「氏寺」よりも「神明社」であろう。

    それは全国の「神社仏閣の建設と維持管理」は「氏寺」よりも「神明社」の方が格段に多い。
    「神明社」は“「神明造り」”と云う奈良期からの「古式造り」である。
    従って、この「各種技能」の「青木氏」に関わる多くの「技能種」は「青木氏部」の中で培われている。
    他では、「皇祖神の伊勢神宮」に関わるもので、その「子神」としての「古式造り」を造り維持する事は他に出来ない“「特段の技能」”である。

    そうすると、全国500社以上に上る「神明社」と「氏寺の菩提寺」と、その「分社」「分寺」を維持するには、夫々の「国の社寺」と、「伊勢か信濃」の本部にこの「特段の技能を持つ者」を抱えておかなければならない。
    しかし、そんな「不合理な事」は幾ら「青木氏」でも無理であろう。

    当然に、一か所に統括して、夫々の社寺から連絡を受けて「人物金を手配する事」に成る筈であろう。
    つまりは、それが「青木氏部」と云われる「古来からの技能集団」である。つまり「青木氏部」である。

    少なくとも歴史上の存在する記録として、「伊勢」に「青木氏部」が奈良期から歴史的に常駐されていた事は明白である事から、ここから「人物金の統括」をしていた事に成る。
    当然に、これ等の「建設修理に伴う資材の調達と運送と警護」も担わなくてはならない事に成り、これ等の全体を効率よく手配する部署が必要に成る。
    これらの「責任」を「青木氏の四家」が持ち、各四家が担当し手配していた筈であり、当然に「商い」の「伊勢屋の紙問屋」も関係する事にも成る。
    又、直接に「青木氏部」が任されて責任を持っていたかの問題とも成る。

    この問題は、この三者の一か所だけで全てを賄える能力を持ち得るのかと云う判断が出て来るが、到底、無理であろう。
    総括責任の「指揮支配」は「青木氏」、「物品の手配」は「伊勢屋の紙問屋の総合商社」、「技能者の手配」などは「青木氏部」と云う事に成るのではないか。
    当然に伊勢だけでは無理と成り、「信濃の力」、時には「甲斐の力」も求めたであろう。
    これを「信濃」を含む「四家の者」が主と成って一体で担当していたのであろう。

    (注釈 記録にもある様に「補完役の伊勢の秀郷流青木氏」も平安中期から合力をしたが、どのような「補完役」を演じていたかは、近江の秀郷流一門の記録の流れから考えると「運輸面の実質の警護」にあったとある。)

    さて、次の問題は、この「記録」を誰が担っていたかに移る。

    筆者は、当にこれには”「御師制度」”が絡んでいたと考えている。
    「神明社の御師」には多くの「仕事種」があった。

    中でも、記録で明らかに成っている様に、全国の「神明社」を経由して全国の「全ゆる情報」を集め、「福家」に提供する役目もあった。
    これには、「諜報活動」もあり、「商いの情報」から「神明社の荒廃状況」等までも報告していた。
    この事からすると、「青木氏の福家」には、「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」と「青木氏部の差配頭」に対して「指揮支配」をしていた事に成る。
    これを受けて「青木氏部の差配頭」(「隅切り目結紋の青木氏」)に「指揮支配」をし、それに必要とする「物と金」を「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」に「手配依頼」していた事に成る。
    後は、「差配頭」が「運搬と警護」を「伊勢シンジケート」等に手配する事に成るだろう。

    恐らくは、これらは「享保の改革」に執った「江戸の伊勢屋」と「伊勢」との「連絡体制」(記録)からも解る様に、“「会議」”を開いたと観られる。
    とすると、「疑問の記録」は、「青木氏部の差配頭」が執っていた事に成る。
    従って、「伊勢」の「青木氏部の差配頭」に「記録消失」の何かがあった事に成る。

    ところで、「松阪」は、「不入不倫の権」で護られていながらも「四度の災禍」に見舞われた。
    「松阪火災が二度」、「信長災禍が一度」、「平安期末期と室町期初期の乱の災禍の二度」と成る。
    後は、江戸初期に神明社は徳川幕府に引き渡すが財政難から全国的に荒廃する。

    「伊勢」の「青木氏部の差配頭」には、少なくとも五度以上のこの「全ての大災禍」に直接的に影響を受けている。

    そこで「伊勢」には、「青木氏」が関係した「神明社系の社」は「30社」あり、この内、「1社」は当に「青木社」、残りの「2社」は「青木氏」に関わる「同祖祭祀神」、残りの「27社」は「祖先神の神明社」である。
    この「青木社」が「守護神の神明社」の中でも、「氏族全体」をより「神仏同源」として祭祀していた「社」であり、「伊勢松阪」は、「皇祖神」の「伊勢神宮のお膝元」として、「青木氏の色合いの強い神明社」を祭祀する事は困難であった。

    そこで、「青木氏の記録」によれば、「四家の桑名殿」の地域に「神明社系の青木社」を設けたのである。

    (注釈 「施基皇子の子」には、「春日王」「壱先濃王」「桑原王」「白壁王」「湯原王」「榎井王」が居て、桑原域は、「桑原王」の住地であった。)
     
    「松阪の西」の「名張地域」にも、「松阪の北」の「員弁地域」と「四日市地域」にも、もう一つあった様で、この「四つの神明社」には同時に、「神道祭祀」でもあり、「菩提寺の氏寺」も備え、且つ、この「氏社と氏寺」は「護りの城郭」としての目的も持つ「平館」としての役目も果たしていた。
    歴史上で本格的に「青木氏」に降りかかった「桑名と名張と上田」の「三つ戦い」の際には、「護りの館」としても働いた有名な「氏社」と「氏寺」でもある。

    この様な「役目」としてもあった事からも「神明社」ではあったが、これを須らく「青木社」と呼ばれていた。
    現在では、「桑名の青木社」と「名張の神明社」と「四日市の神明社」が寺社共に遺っている。

    筆者は、従って、「青木氏の歴史」として遺すとすれば、この「桑名の青木社」に遺されていたと観ている。
    然し、唯、「桑名」と共に「北の備え」として役目を果たしていたが、「桑名の左横」の「員弁の神明社」が「上田の戦い」で消えている事から考えると、此処に遺されていた事も考えられる。

    つまりは、「青木氏部の差配頭」(隅切り目結紋)は此処に住んでいたとも考えられる。
    従って、「記録」が消えたと考えている。

    唯一つ、この事で考えておく必要があるのは、この「青木氏部の差配頭」の家紋から観ると、つまり、「隅切り目結紋」が関東域にも存在する事である。
    と同時に、「神明社」の「柏紋の神職」の末裔も、「越前」を除くと「関東域(埼玉)」にも多く分布する事である。

    本来は、「伊勢」に5年毎に帰る「仕来り」に成っていたのである。
    全国に移動しながら「社の修復」に関わっていたので「青木氏部の差配頭の子孫」は、この「桑名市多度町付近域には絶えなかったのである。
    鎌倉期から室町期を経ての「戦乱」を経て「目結紋の青木氏」が関東域に残るはただ事ではない。
    「柏紋の青木氏」と共に残しえるだけの事があったという事であろう。

    (注釈 故に「神仏同源」であったこの”「青木社」”としてはここに残せたのであり、、これが「桑名市多度町小山」にあり、現在は本体は平地小山の上に「祠の様な構え」で祀られていて、過去は大きな鳥居(現存)を持つ社であったが、現在はこの「大鳥居」は周囲に威容を放つ様に目立って遺跡を遺している。
    この「多くの神明社」は中部域から北勢域に存在する中の功績なのである。)

    「伊勢」には、この様な「祠」の様なものも含めて「970の神社」があると云われているが、これでも最も「社関係」が少ない地域でもある。
    全国は元より「伊勢の神明社系の30社」は、多くはこの様な「祠の状況」に成っている。
    その原因は、江戸初期に「青木氏」から徳川幕府に移管した事で財政難から著しく荒廃した事とし、又、合わせて「密教」を廃止し「顕教令」を発して急激に移した事で「支える信徒」が少なくなった事と、「他宗の勢い」にも影響している事にも依る。

    全国の神明社の多くは、この様に成っているが、この「伊勢桑名市多度」の「青木社」に関してだけは、「青木氏の口伝」で、この「桑名一社」だけは江戸期以降も”「青木社」”としての呼称で維持したとある。
    その後、第二次大戦にて大鳥居だけを残し消失し、昭和21年5月に「多度の小山に屋根付きの祠」を再び建設し登録した事が判っている。
    ”「青木社」”のここを何としても残そうとしたのは「目結紋の青木氏」と共に「柏紋の青木氏」と「「桑名殿」が地域に居た事の所以でもある。

    (注釈 唯、「頼朝」は「1197年」頃から特に「地方政治」に「力」を入れ、「武家体制」と「幕府体制」(格式と権威の確立)を強化した。
    この時、長い間の乱に依って「神社仏閣」が「戦いの根拠地」と成っていた事から荒廃し、これを立て直す政策と、全国に「平家の残党」が多く残る治安状況の中で実施する為に、ここを、つまり、「神社仏閣」を拠点として「守護や地頭」等の配置を実施した。
    この為には、「拠点」は元より,乱に依って疲弊していた「人々の安寧の場」としても重要な「神社仏閣の社会整備」が急務と成っていた。

    (注釈 取り分け「頼朝」は、この初期は「北条氏等の反対」を押し切って「頼朝が思う政治体制」を強引に敷いた。
    公的に成っている記録として、「格式と権威」を樹立する為に、「神社仏閣」などに深く帰依し保護して推進した。
    取り分け「皇祖神の「伊勢神宮の保護」と、その子神の「祖先神の神明社の保護」には目立つほどに「政治力」を注いだ事が判っている。)

    その為にも、「志紀真人族」で「武家貴族」の「青木氏の賜姓五役の力」を利用して、「伊勢」は元より「天領地」と成っている「五地域の整備」(「青木氏の定住地と組織力」、「青木氏の権威」、「青木氏の財力」、「青木氏部」を利用)に力を注いだ。
    その事に依って、「朝廷の力」(権威)をも利用した。
    つまり、「皇祖神の伊勢神宮」に代わって各地に多くの信徒を抱える「祖先神の神明社の力」を利用した事に依る。

    それ故に、「祖先神の青木社」を含む「神明社」を守る「目結紋の差配頭一党」は、正倉院にも残されている程に「関東」に於いても鎌倉期から室町期まではその子孫は関東に於いて絶える事無く保護された所以でもある。

    これには、鎌倉幕府と室町幕府はどうしても「賜姓臣下族の青木氏の五家五流」と、それを補完する「秀郷流青木氏116氏」の「力」を利用する必要があった。
    それには、彼らを「引き付ける権利」を与える事であった。
    これが、「北条氏等の反対」を押し切って実行した頼朝の“「本領安堵策」”であった。
    過去には「青木氏」と敵対した「足利氏」も「本領安堵策」を採った。

    (注釈 「伊勢の天領地保護」には力を注いだ。)

    (注釈 「坂東八平氏の傍系」の「北条氏」等に執っては、この「格式と権威」は「利害の反する事」であり、記録に遺る程に「強い反発」を受けた。
    取り分け、「義経」は「清盛の影響」を強く受けていて「頼朝」以上にこの「官僚的な考え方」が強かった。
    「二つの青木氏」は、「二つの青木氏の氏是」に依って関わらなかったが、これが生き残りの要因の一つに成った。
    仮に、「同祖同門の第七世族の末裔」の「坂東八平氏」に関わっていれば「同門の戦い」に成りどうなっていたかは判らない。
    身の危険を感じながらも反対を押し切ってでも行った「頼朝の本領安堵策」が「同祖同門」を引き付けたのである。)

    恐らくは、「南北朝の足利氏」や「室町末期の織田信雄」や「長嶋や根来や松阪の秀吉」との「闘い」の様な「シンジケート」を使った「影の戦い」と同じ戦いに成っていた事が充分に予想できるが、大きくは手を出さなかった。

    取り分け、「伊勢の天領地保護」には力を注いだが、「以仁王の乱」で「鎌倉幕府樹立」のきっかけを作った「頼政の孫」の「京綱の青木氏」が「政治的中立」を保った事から、「北条氏の反対」を押し切ってでも「本領安堵策」を実施し、その為か「青木氏」の奈良期からの旧来の「平家に奪われた土地」までも本領安堵(中勢域から南勢域)された。

    (注釈 平末期から「紙を使用する文化」が徐々に進み、鎌倉期には、最早、「紙」は通常の物と成り、室町期には世の中が乱で荒廃する中でも、「紙」は専用の用語として“「紙文化」”とも呼ばれる程に逆に花開いた。 
    「二つの青木氏」は、この「紙の文化」の進歩と並行して「氏族」を拡大させ強化させ、「巨万の富」を獲得した。
    これには{南勢や南紀(秀郷流24地域と信濃域も含む)}までの「旧来の本領安堵」が大きく効果を発揮させ、進む「紙文化」の「紙生産の殖産地」に成った
    この様に”「青木社」”が物語る様に、「鎌倉期と室町期」は「本領安堵策」で力を蓄え、そして「江戸期」にはこの「抜群の力」で生き抜いたと云える。

    この「青木氏の歴史観」を物語るには、「柏紋の青木氏」と共に「目結紋の青木氏の存在」が欠かせないのである。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」は「五家五流」の「五地域」、「賜姓臣下族の秀郷流青木氏」は「116氏」の「24地域」、合わせて「121氏−29地域」である。
    この内、強大な勢力を拡大させたのは、合わせて「15地域」で、この内、「秀郷流青木氏」は「10地域」と、「五家五流」の内の「三地域」が「政治、経済、軍事」の「青木氏の基本勢力」を拡大させた。
    この「15地域」は、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を共に協調して獲得した。
    これには、「秀郷一門361氏」の「主要16氏」の内、「青木氏族」と呼ばれる「主要8氏」が勢力を拡大させた。秀郷流青木氏は116氏−に支流分布)

    この事から、再び、「青木氏」に依る「祖先神の神明社の修理」は始まったと観られる。

    然し、上記の事や注釈にある様に、「歴史の政治的経緯」の中には確定的な物が観られない。
    何故、この事に関わる記録資料が見つからないのかは、この「歴史的変化」からは判らない。
    だとすると、「青木氏の中」にある事に成るのだが、無いのである。

    全国の「祖先神の神明社の修理」は「皇祖神の子神」として認められて進んだ。
    ところが、この頃(1000年頃)からの「青木氏に関わる資料関係」は多く成っていて、「室町期初期」(1334年)に成って「下剋上と戦乱」の影響を受けて、この資料からも「神明社」は一時荒廃が始まった事が書かれている。
    ところが、「「鎌倉文化」とそれに続く「室町文化」の“「紙文化」“と云われる文化が興り、「青木氏」は本領安堵された事も伴って「巨万の富」を獲得するが、何故か不思議に「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料は見つからない。
    「巨万の富」を獲得し、「青木氏に関する記録資料」が多く成ったのであれば、「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料が出て来てもおかしくはない。

    つまりは、「修理するに必要とする財力」は充分に獲得している筈なのに、無いのである。

    これは次の事が考えられる。
    先ず、「三つの事」が考えられる。
    「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
    「青木氏」が「修理」はしたが何かの「記録を遺すシステム」に障害が起こったか(2)
    遺したが一度に消える何かが起こったかであろう(3)

    「前者二つの原因」(1)(2)は戦乱であった事もあり、全て考えられる状況であった事は頷けるが、(2)は少しは遺るであろうし、一度に全てが消えるのか(3)では疑問である。

    上記した様に、記録に関しては一度に全てが消える事からすると、(3)だけが原因していたのだが、「青木氏部の差配頭」の「隅切り目結紋」の一門が預かる「神明社」の「主社の青木社の焼失」が原因である事が頷ける。

    注釈として、さてこれを裏付けるかの様に、この「桑名地域一帯」には「桑名殿の青木氏」と共に、この「職能家紋の青木氏」が符号一致した様に実に多いのである。
    「松阪」には、後で建設された「伊勢神宮」に関する「新しい社」が多く、この「古い祖先神の神明社」は無かった事が伝えられていて、現在も60社ほどの社が祭祀されている。
    然し、「神明社の祭神」としては無く、且つ、「皇祖神の子神」であるにも関わらず無い。

    これには原因があって、これは次の”「古来の慣習」”に依るもので、「神宮遷宮」に於いて中国地方から各地を遷宮して、最後は、紀州で「遷宮」は落ち着きを示しすが、最終は「伊勢松阪」に落ち着いた。
    然し、そもそも、各地の「遷宮地」には、この「遷宮の仕来り」に依り「子神の神明社」は祭祀されていない事に成っている。

    そこで因みに、「伊勢の神明社の分布」を見本にすると次ぎの様に成っている。
    先ず「青木氏の定住地」に多く分布する。

    「青木氏の口伝」によると、「南勢の旧領地」には、平安期より「1社」あったが、歴史の中で「南勢」は「熊野神社の聖域」であった事から消失して無く成ったとの事である。
    一時、この「南勢の遠祖地」は平家と熊野の圏域に置かれ、その事で削除されたらしいとの事であった。
    これは現実に云える事で恐らくは”「事実」”ではあるだろう。

    そこで「正式な神明社」としての分布は次の通りである。

    桑名 13(15) 員弁 3 四日市 4

    三重郡 3 鈴鹿市 2 亀山 1

    名張 1 志摩 1

    津 0 松阪 0 名張伊賀 0

    他の8地域 0

    これを観ると、「青木氏の聖域」、或は、「神明社の聖域」の範囲が良く判る。

    明らかに”「北域」”に集中しているし、当時の聖域図が読み取れる。
    併せて、この分布でも、「南勢の旧領地」の事は「平家熊野の説」は納得できる。

    「伊勢」を除く「他の四家四流の聖域」も、この「神明社の分布」で観る事が出来る。
    この事はある程度の研究資料があるので何時か論じてみたい。

    この分布をみると、”「北域」”に「勢力圏」を持ち、その「勢力圏」は「西と東」に分割している。

    上記した神明社の中でのこの“「青木社の存在」”はこれを物語るもので、此処に記録資料が保管されていた事の証拠にも成る。

    記録に依れば、「松阪」の西域の「名張」にも、江戸期以降にも「青木氏」が管理維持する「独自の神明社」が秘密裏にあった事が記されている。

    これは「江戸期」という環境の中では重要な事である。
    神明社返還後、勝手に「独自の氏社」を持つことを禁じられている中での「青木社」である。

    この「青木社」は「完全な神仏同源」であった事が書かれていて、恐らくは、その事は「室町期末期の青木氏」が実戦した2つの内の一つの”「伊賀の戦い」”(他は北部の「上田の戦い」)で活躍した「清蓮寺城と清蓮寺」がそれに当たる事が判る。
    これが「青木社の条件」を備えていたのである。

    つまり、「松阪の代わり」にして、「城郭的意味合い」を持たせ「福家」がここを「全体の指揮の拠点」にしていた事が考えられる。

    念のために注釈として、「家紋分析」でも「青木社の存在」と、その「目結紋の青木氏」には、要するに「青木氏」には「家紋」と云うものはそもそも無く、「志紀真人族」であった為に「賜紋」としての「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている。
    但し、朝廷の「賜姓五役」を務める事から、その朝廷が定めた職能に関する文様が次の三つあった。

    一つは、「神木の柏」の「三つ柏文様」
    二つは、「職能の印」の「目結文様」
    三つは、「賜姓源氏」から「青木氏」を名乗った時に使用する「丸付き紋様」(限定)

    以上が「青木氏」に認められている。

    「神職の青木氏」の「三つ柏紋」、「青木氏部の青木氏」の「隅切り目結紋」、「摂津源氏」が九州大口村で「青木氏」を名乗った「丸付き笹竜胆紋」

    以上の「三つの文様」がある。

    「佐々木氏の研究資料」にもこのことが書かれている。

    後に、室町期頃からこれ等は家紋的に用いられ現存する。

    「柏紋」と「目結紋」(桑名多度域)は、朝廷記録や正倉院などの記録にも遺る由緒ある「古来の文様」である。

    そもそも、「賜姓五役」を務める為に「部組織」を持つ「青木氏」にだけ使用を認められた格式のある文様である。

    これ等の分布は、「柏紋」は伊勢では「名張地域」を中心として「北東の紀州域」までと、桑名、員弁域に多く分布する。

    この事から、「桑名の多度小山の目結紋」の平館があって、「名張の清蓮寺城」では「柏紋の神職の本拠地」としていた事に成る。

    故に、「神明社」が「神仏同源」とする事からも、「柏紋の青木氏の住職」が多く存在する所以とも成る。

    つまり、此処を拠点として、「神職と住職」を養成していたと観られる。

    故に、「神明社」が存在する全国の地域には、「目結紋の青木氏」と共に、この「柏紋の青木氏」の末裔が存在する所以と成る。

    次に、「目結紋の青木氏」は、「桑名地域」と「員弁地域」を拠点としていた事から集中的に分布する所以でもある。

    この文様も「全国神明社の分布」に従っている。

    これで上記の「記録の保存の疑問」これでは解ける。


    さて、「疑問の記録保存」から話しを戻す。

    「青木氏の歴史観」をより深めると、平安期のこれは(1)、つまり、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
    で、「皇親族」を外し、その「賜姓五役の役務」を外し、それに代わる「源氏族」に任せようとした。
    然し、結局はこの策は出来なかった事に成り、あらゆる「社殿修理」は“「放置状態」と成った事”を意味する。

    取り分け、「皇祖神の子神」である事から「建設、修理、維持、布教」は「朝廷の勢力」を補完する事にも成り、牽制されて「神明社」は荒廃した。
    結局は、平安期から江戸期末期までの期間で上記と多様な経緯から「青木氏」が「修理保全に携われなかった期間」は、この意味でも「神明社」は荒廃したのである。

    更に取り分けで、「江戸期全期」は「青木氏」より幕府管理下に引き引き渡した事から「神明社荒廃」は「密教の事」もあって「荒廃」は酷かった。

    ”「桑名の青木社」”や”「名張の清蓮寺城」(青木社格)”はその意味で「青木氏の歴史観」を大きく物語っているのである。

    (注釈 上記の務めである(1)である以上は、「神明社の荒廃」は「青木氏」は意地でも見逃すことは出来なかった。
    何らかの形で残す工夫が必要であった。
    それが「青木社」か「青木社的神明社」であった。
    「青木氏の定住地」の「主要地15地域」には、この「青木社格の神明社」が観られる。
    この内の「四地域」、つまり、 「伊勢」、「信濃」、「伊豆」、「越前」は、「青木社」である。)

    さて、そこで「桑名や清蓮寺」のみならず、これは、言わずもがな他の「青木氏の定住地」でも全く同じ事が起こっていた。

    「秀郷流青木氏の主要地」でも、この事は例外では無く、有名な例として、古来から存在する”「武蔵の四つの神明社」”はその意味で「柏紋の神職の定住」と、「柏紋の住職の定住」と、「目結紋の青木氏の定住」はその歴史を具に物語っている。
    つまり、江戸期の中で表向きは「神明社」であっても、「神明社」と云うよりは関りは明らかに「青木社」である。
    それは「甲斐青木氏」を出自に持つ「柳沢吉保」がこれに積極的に関わったからでもある。
    当然に、「柏紋の青木氏」と「目結紋の青木氏」の二つも「現地孫」を残しながらも関わっているのである。

    明らかに「江戸期の青木社」である。

    見本として論じた「伊勢域」から遠く管理の行き届かなかった「関東域」には、「青木氏部」をこの「武蔵の地」に定住させて、ここから奈良期からの悠久の歴史を持つ「古来の神明社」(江戸期の青木社)を何とか遺そうとしたのである。
    流石、お膝元の「武蔵の神明社」を態勢は整えたとしても「青木社」とは出来なかった。

    これを始めたのは、「神明社」は当然として「主要な神明社」に対しては「青木社的な条件」を整え始めたのは、急の事ではなく、そもそも、「1000年前後頃」であった事が判っている。

    丁度、「秀郷流青木氏」が「補完役」として働き始め力を保有した時期に相当する。
    つまり、「補完力、財力」は「基本力」として勿論の事として、「過去の荒廃」に対する備えとして以後この様な事が無い様に既に「青木社的要素」を高めたのではないかと考えられる。
    その対応が、大半は荒廃するが、全てを失う事なく「江戸期」で生きたという事ではないかと考えられる。
    その意味で「甲斐青木氏の出自」を持つ「柳沢吉保の先見と行動」を高く買うところでもある。

    (注釈 現実に「源氏のエピソード」のこの事の「摂津源氏の史実」がある。
    そもそも、「賜姓源氏」は「八幡社」、「藤原秀郷一門」は「春日社」である。
    それには、「皇親族の青木氏の商の財力」と奈良期の古来から保有する「青木氏部の技術力」には「源氏力」は到底及ぶ能力が元から無かった事を意味した。)

    (注釈 確かに「賜姓源氏族」は、”「武家貴族」”ではあるが、”「家を構成する氏族」”としても矛盾する持ってはならない「武力集団」でもあった。
    ところが「賜姓五役の氏」としての「務めの手段」は、現実に「氏族」として元から無かったし、待たなかった。
    これは当時の「朝臣族の慣習仕来り掟」としては明らかに矛盾であり、故に「源氏部」も無い。
    従って、「氏の守護神」とする「八幡社」を建設する場合は、「青木氏部」などの「技能集団の部」を持つ氏に発注し、故に「莫大な財源」が必要であった。)

    (注釈 結局、この様な「賜姓清和源氏」は、その存続のためには、「嵯峨期の詔勅」の事もあり、先ず摂津に居た「清和源氏宗家」が、生き延びる為に近江で土豪化した「嵯峨族の末裔」や「山賊などの不祥の武力団」を集め、「武家貴族の名誉」をかなぐり捨てて、「武力集団」を形成して生き延びようとした。
    この事に、朝廷内から顰蹙(ひんしゅく)をかって蟄居してしまう羽目に陥る。)

    (注釈 従って、「朝臣族の慣習仕来り掟」の中では「平安期」の”「家」の持つ意味”が異なっていった。
    現在の「家」と異なる所以でもある。
    「朝臣族の慣習仕来り掟」を頑なに守っている「天皇」に仕える「斎蔵を司る公の家」に対して、「侍を司る武の家」の”「家」”の事である。
    これは「朝臣族の慣習仕来り掟」を順守しての”「家」”なのである。)

    取り分け、つまり、「源氏全体」にも朝廷の勤めに応じるこの事に関わる「青木氏部の能力」と「同じ組織力」として持ち得ていなかったのである。
    依って、余計に朝廷内の公家からは顰蹙は増幅した。
    と云う事は、嵯峨期の詔勅に依って「青木氏」に代わって「源氏族」が行うべき「賜姓五役」であると朝廷の中で「公家族」から見られていた。
    この史実から、この間の「青木氏」は、政治的情勢に合わせて「都の関西域」の「祖先神の神明社の修理業務」を一時止めていた事に当然に成る。

    これは、「11家の賜姓の源氏族」の「主家」は、その「格式」を何とか護る為にせめて「朝臣族」として”「遙任」”を選び「都」に留まる事を選んだからでもあろう。
    責めて”「遥任」”でなければ、持ってはならない「武力集団」を持っている中で、到底に当時は「武家貴族」とは完全に認められていなかった筈である。
    世間の目は揶揄的であって、そこで、この「源氏族」では何とか「武家貴族」であろうとはしたが、「源氏族内」には「武力集団」を主張する派(A)と、「四家制度」を採用して「武家貴族」を守ろうとした派(B)とに分かれた。

    取り分け、(B)の摂津源氏の四家の中でも、「頼政派」はより「武家貴族」を守ろうとして「公家の味方」を取り込んだ。
    それだけに「信頼」は厚く後の「平家」の中で生き延びられたのである。
    ただ頼信系の「河内源氏」は、徹底して(A)派であった。

    そこで、「頼政」は、領国を護る為にも「武力集団」の代わりに、「伊勢と信濃の同祖同門の一族」を味方に付け、その彼らが持つ「影の力とその財力と権威」で護衛団に仕立て上げた。
    それが「伊豆領国」の「伊勢信濃の完全融合青木氏」である。
    「頼政」は後にこの為に「遥任」を拒否し伊豆に入った。
    (これは戦略上に大きな意味を持つ。)
    従って、(B)派の「源氏頼政」を長く述べたが、「伊豆」のここの「祖先神の神明社」は、「笹竜胆紋」の「完全な青木社」なのである。
    「従三位の頼政」は「伊勢と信濃」と、そして「伊豆」に「青木氏と源氏族」の同宗同門の(B)派を構築したのである。

    (注釈 「越前」は別の意味で(B)派の影響を持ち、後に、つまり、「青木社」が構築された。後勘からすると「1000年頃から始まって1150年の頼政の影響」を受けて「青木社の条件」の一つに成り得た。戦略上平家台頭と専横の中である。)


    「頼政」から話を戻して、少し前の時代に、最早、この中では「賜姓五役」は無いと観て、“この侭では政治的に拙い“とした「円融天皇」が、「将門の乱の功績」から「俵玄太の藤原秀郷」に直接に特例を以て「嵯峨期の詔勅」を使って「青木氏」を名乗る事を許した。
    そして、永続的に「秀郷一族宗家の第三子」に「青木氏の補完役」を命じたと云う事に成ったのである。
    「摂関家の藤原氏」は、この事について「猛反発」をしたとある。

    当然に、これは「青木氏」に換えた「賜姓源氏族」に委ねようとしたが、矢張り、上記の通りの矛盾を抱えたままでは無理であったからである。
    そこで、この事に依って「賜姓臣下族」の「青木氏の賜姓五役の役務」(970年頃)も元に戻したと云う事に成る。

    従って、「頼政の事」も含めて「青木社的要素」を拡大させながら、少なくともこの間から鎌倉期までは「神明社の役務」を抱えた侭で続けていた筈であった。


    そこで、この(1)を更に掘り下げるとして、この様に、何百社(約500社)と云う「神明社」を全て建立から修理、維持、管理、神職、配置等の一切を「取り仕切る」と云う様な事を「身内の青木氏」から外せばどのような事に成るかは馬鹿でも判っていた。
    そもそも、「皇親政治」が廃止されたにも関わらず、「賜姓五役」は廃止されたのではなく、その侭の「継続の義務」(嵯峨期)が暫くは課せられていた事に成る。
    これは「政治の矛盾」であろう。
    「政治の矛盾」と云うよりは、”「出自元」”であるという事を考えすぎた「嵯峨天皇の計算間違い」であろう。

    確かに、「施基皇子」が行った様な「政務までの義務」(「紙屋院」と「絵処院預」以外の政務は継続)は消えた事ではあった。

    その証拠の一つに、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「建立と維持と管理」は、混乱期の室町期の「下剋上期」からを除き「江戸初期」まで断続的ではあるが継続されていた。

    「平安期の混乱期」でありながらもそれを支えたのが、所謂、円融期以降は、「補完役の秀郷流青木氏の役処」もあったが、再び以前と同じくして「朝廷の紙屋院」と「絵処院の政務」を担当した。
    且つ、これに合わせて日本初の「和紙の開発」から始まった「殖産と興業」を兼ねた「二足の草鞋策の採用」(財政的な安定)があったからだ。

    つまり、恐らくは、「嵯峨天皇」は、「監察使の制度」と「皇親制度」を廃止はしたが、「参議の制度」を一部に遺した。
    この事から、政務上は急速に換える事はしなかった事に成る。

    (注釈 だからと云って「賜姓源氏族」にこの「参議の役務」を与えたかと云うと詔勅でも与えていない。)

    もし、本当にするとすれば、出自元の「真人族」からの「青木氏」への「皇子の移籍の制度」も無くしていた筈であり、「国政」で最も大事な「国民の安寧」を願い救う的とも成る「神明社の建立」等は「青木氏」に任せなかった筈であり止めていた筈である。

    「天皇」としては、「神明社」に関しては、「天皇本来の務め」として疎かには出来ない事であり、自らの「天皇としての立場」を否定する事にも成り、「出自元の青木氏」に顔向けはできず疎まれる筈である。
    いくら「天皇」としてもこれは「出自」が同じである以上は辛く出来ない事であろう。
    書物を見ると性格的にはそんな事をする「嵯峨天皇」では無かった。

    (注釈 ところが「出自元の青木氏」は、財政上は問題ないのに「賜姓五役」の内の「神明社関係」を恣意的に緩めたのである。
    矢張り、これは戦略上は牽制した事に成るが、これが単なる「賜姓五役」のみならず「青木社的要素」を強め始める「一つの要因」とも成ったと考えられる。)

    当然に、そもそも「賜姓五役と神明社」は、「一対の務め」である以上は、「出自元の事」である以上は「神明社の体制」を保全する立場であれば、「監察使の役務」として重要な「賜姓五役」も解消しなかった事に成る。

    従って、「志紀真人族の青木氏」を外し全てを「政治的矛盾」のある「賜姓源氏」とするは、政策上、これと共にこれは一種大きな矛盾する政策の処でもある。

    恐らくは、この時、「嵯峨天皇」は、「賜姓源氏」が「青木氏の務め」の少なくとも身内であるのだから”「社の保全」くらいはするであろう”と安易に考えていた事にも成る。

    (注釈 未だ、この時は「八幡社」はなかった。)

    (注釈 「青木氏」は、平たく言えば「源氏族への当て付け」、つまり 「牽制策」、”やれるものならやってみろ”ではなかったかと考えられる。)

    これを”「嵯峨期の詔勅」”の文章から読み取ると、「天皇」は、“朝廷の現在の「財政状況」からお前たちを賄いきれないから、はっきり言えば賜姓する代わりに自分で何とかせよ”と云っている事に成る。
    この「文章の裏」には、この「賜姓と云う意味」には、今まで”「青木氏が遣っていた事位の事」”が読み込まれていた事に成る。
    現実にその様な意味合いを含む「文章」に成っている。

    又、そもそも当時は、“「皇族の者」(第四世内二世族の第六位皇子の真人族)が「賜姓を受けるという名誉」”とはそのような意味を持っていた事にも成る。
    唯、「単純な名誉」の為のものでは無かった事に成る。

    ところが、注釈として、「監察議」や「参議」とは、そもそも「令外官」であり、「勅旨」などの「正式な任命書」などは無く、「従四位下」以上の「永代位階」を持つ「臣」の中から、「才ある者」を「天皇」が選び、「執政の太政官」と会して全ゆる面で「朝政の意に導く役務」(皇親族)であった。

    然し、この事に付いてどこまでとする等の「令」に基づく「正式な定書」は組織の慣例上は無かった。

    そもそも、判り易く云うと、“「天皇の意志」”を反映させる今でいう“「実行型秘書」”である。

    「政治と軍事と経済」の「三権」を以って「天皇の意向」を「反映させる制度」(当に「天皇の近衛」である以上は)である。

    そもそも、上記の意味では、「臨時的に認証される参議の臣」では無く、「青木氏」は、元々が「天皇を護衛する直接役務」(監察役)を負った「浄大一位の格式」を持つ要するに「永代参議」であった。

    (注釈 賜姓する源氏には、この務は詔勅に書かれていない。”自分で生きよ”で何もないのある。)

    つまり、「天智天武の天皇」が云う“「護衛の臣・近衛の臣」”とは、何も“「侍て天皇の身を護る」“だけではなく、「侍(候)」は“「天皇の意向」を「反映させる」”の事の意味と成り得る。
    これが“、後に「北面武士」と呼ばれた制度と成ったが、「隣の部屋」に昼夜居て「天皇」に「侍う」の意味”であって、いつ、何時、「天皇の命」が下るか分らず待ち受ける事を以て「さぶろう」なのである。
    ただ単に、「北面武士」の様に”身辺を警護するだけの意味”では無かった。

    (注釈 「北面武士の制度」が、藤原氏が排斥されてその反発する「藤原氏の危険」から逃れるために採った「上皇を護る制度」だけに成って短命に終わる。)

    現実には、記録で見ると「政治的な動き」に対して即応して「勅命」は就眠中の時にも下る事もあった。
    平安後期(1100年頃)にはその目的が相当変わり、「一部の行為」として上記の“「北面武士」”と呼称された所以とも成ったものである。

    (注釈 初期の”「侍」”は、平安後期の後には「歴史書物」では”「候」”と記する様に成っている。
    つまり、この頃には、この”「侍」”と”「候」”は「同じ意味」成していた事に成る。
    「門跡院」に居る「上皇を護る臣」から「侍の語源」とする説もあるが、この説の根拠ではないかと考えられる。)

    そもそも、大化期に始まった「宮廷の警護・近衛」などを行う「近衛の役」が平安中期頃からその「役処」が形骸化し変化して行って、遂には「上皇の院政」が始まり、「反対派の勢力」が「上皇」に及ぶ事と成り、実質、身辺の「門跡院を警護する役目」を果たす様に成った。

    従って、この頃には、当初の「参議等の役目」は、最早、既に消えていた。
    つまり、「青木氏」だけが永代に持ち得ている弱くなった「役務処」と成っていた。

    前段の初期で論じた「天智天武期の施基皇子」に観られる様に、「追尊の天皇」とされる程の「永代参議役」でもある。
    従って、上記の注釈の様に、「周囲の環境習慣」が変化しても「青木氏」の「監察議」や「参議」の「役務の変更」は無かったのであり、「矛盾のない所以」と成る。
    これは一時の「時代の変化」で「役務処の変化」が起こったが、「青木氏」に執ってはこの「一時の中味」が「重要な歴史観」である。

    それが、「賜姓五役の神明社」等を通じて起こり、「青木氏」は「青木社的要素」を次第に強めた。

    そもそも、”強めた”と云うよりは、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」であって、且つ、「青木氏の自身の守護神」でもあるが、その「守護神性を強めた」という事になるだろう。

    「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」<「青木氏の自身の守護神」=「青木氏の事情」(青木社的要素)

    この「青木氏の事情」には、上記の事もあったが、ここを「拠点」として「二足の草鞋策」が進んだ事にも依る要因でもある。

    例えば、そもそも、「守護神」とは、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「神職の青木氏」、「密教浄土宗の独自の菩提寺」を持ち、「柏族の青木氏の神職と住職(達親)」と、それに伴う「永代身分格式」を持つと云う風に変わる事のない「氏の仕来り」は定まっていなければならない。

    そこで、「皇族賜姓族」は、「臣下族」として「最上位の氏」として認められていたのであって、奈良期から最初に出来た“「朝廷の斎蔵」”に仕える“「公家」”に対して、「天智天皇」は「大化改新」の「政治改革」に依って、新たに“「天皇の警護役(親衛隊の臣下族)」”として仕えさせる“「武家」(氏の家)”としてこれを公認したのである。

    それが「青木氏」や「佐々木氏」の「武家」(臣下族・朝臣族・参議役)であって、「天皇家」と強く結ばれた「公家族の藤原氏」(斎蔵・公家)等であった。
    本来の「武家」は、要するに「臣下族と朝臣族」は当然の事として、「参議役」が備わっていなければならないのである。

    これが、念のために「家人の定義」としては、「天皇の警護役(親衛隊の臣下族)」として仕える“「武家」(「氏の家・賜姓五役の格式」)”としての「公認族」の「下支族」を、”「武家」の「人」”である事からこれを“「家人」”と呼んだ所以なのである
    江戸期に呼ばれた「家人」と異なり、平安期の「家人」の語源は根本的な違いはここにある。
    この「家人」については、「青木氏の歴史観」として是非に知っておく必要がある。

    この「武家族」は、「天皇の警護役(親衛隊の臣下族=賜姓五役)」である事から、「侍(さぶろう=さむらい)」と呼んだが、「武家の家人」はこの当に「侍(さぶろう)」であって、その「武人(たける)」として扱われ、あくまでも「人」であって「臣」とは扱われていなかった。

    「天皇を警護」の意味は、当時は「広義」に捉えられていて、「政治を行う天皇」に対してそれを「手足と成って補佐するという意味合い」を持っていた。
    この事から「神明社の建立・維持修理」などの「賜姓五役」が定められていた。

    (注釈 そもそも歴史観を生かす「基本知識」として次の事を認識する必要がある。
    当初の「侍の語源」は、「人」と「寺」から成り、この「寺」は「真人族」を意味し、この「真人族」は「宮廷」を「象徴」として「寺を特別に固有出来る身分」を指した。
    その「真人族=寺」の意味から、この「寺に寄りそう人」で、「侍(さぶらう)」の用語が使われる様に成った。
    然し、その後、平安期後期に使われた「侍(さぶらう)」の用語」とは「門跡」に入った上皇を護った者を「侍」とする説が出来たが、この場合は、“「武勇を以って主君に仕える」”の事から“「認証の武士」”の呼称に区分けされる。
    平安期前は「もののふ」の語源とも成った“「朝廷に仕えた文武の官人」”の事で“「認証の物部」”と呼称した。)

    (注釈 当時の文章の中から読み取ると、次の様な「定義」が成される。
    そもそも、「侍=候」の「侍(さぶらう)」の用語には、“「朝廷に仕えた文武の官人」”の意味があり、 “「武勇を以って主君に仕える」”にはそもそもその「意」は無った。
    そもそも、「官人」ではないし、「官人」は「位階六位以上の者」が成り得る。
    つまり、これに依って、「侍」は、「位階を持つ者の官人」の定義が成立する。
    更には、当時の「学識」をも持ち得る”「文武」”と、持ち得ない”「武勇」”の差にも定義は由来する。
    この「侍の構成族」が、「貴族」が構成する「位階四位以上」の「公家」に対して、「位階六位以上」の”「公認の武家」”を成し得る。
    現実に、この様に「言葉選び」が成されている。)

    (注釈 この文章の”「武勇の者」”では、室町期中期までは”「家」”を成し得ない「定義」と成り、この「仕来り(定義)」は護られていた。
    従って、平安期後期の「門跡の侍の説」は間違いである。
    この「定義」からすると、「平安期後期の説」は、平安期にあった呼称の面から”「文人(官人)」”の“「文士」”に対しての“「武士」”の呼称と成り得る。
    つまり、”「公家」”に対して”「武家」”とは、「家・格式」の呼称であった様に、「文人」に対しての「役目」の呼称の「武士」(「文士」に成る)には成らないのである。
    存在しなかった呼称の”「文士」”と成って仕舞うのである。)

    (注釈 「臣下族の武家」には、「もう一つの役目」があった。
    前段でも論じたが敢えてここで註釈する。
    それは、「皇族賜姓族の役目」として、つまり、「天皇家への準継承族」として常に”「純血性」”を保持する事であった。
    その為には、「福家」や「四家制度」と云う「特別の形態」を作り上げて、「三つの発祥源」と「国策氏の役目」(賜姓五役)を担っていた「氏族」である。
    この“「家人」”は、この「賜姓氏族の役目(「賜姓五役)」を「調整実務として果たす役目」を担っていたのである。
    従って、「氏族の家人」は「同じ氏人」でもあって「家主」と共に「朝廷の同役目」を果たす人であった。
    然し、そうでない「姓族」の場合は、「同じ姓人」でない事から”「家人」”とは成らず、「家の来」(「家来」)なのである。
    「不特定多数の武者を集めた集合体」が「姓族」であるからだ。)

    一 「武家(氏族)の発祥源」  「象徴賜物」は「伝家の宝刀」
    二 「侍の発祥源」   「象徴賜物」は「将騎」としての「伝家の黒檀の軍杯」
    三 「朝臣子の発祥源」  「象徴賜物」は「伝家の馬杯」
    四 「国策氏」 「象徴賜姓物」は「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛」
    五 「融合氏」   「象徴賜物」は 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)

    以上は「賜姓五役」と呼ばれ、天智期に「準継承族」として「象徴賜物」を授かっている。
    (これは現在も保存伝承されている。)

    そもそも、本来は“「臣」”とは、「天皇に仕える直接の役務」であって、故に、「皇族者」が下族した「臣下族」に用いられた「専用の言葉」であった。
    本来、”「臣」”とは「従四位下」の以上の位階を持つ者を呼んだ。

    上記の様に元の意味は、「姓族」の「江戸期の武士」に使われた「家臣」の「臣の意味」に使われるそもそもの用語では無かった。

    上記した「賜姓臣下族の氏族」の”「家人」”に対して、江戸幕府の「権威付け政策」から「姓族の将軍」に仕える者を敢えて「家」と「臣」とを結び着けて”「家臣」”と云う造語を作り出したのである。
    従って、仮に使うとするならば、「氏の臣」として「氏臣」と呼ばれる筈であるが、「姓族」そのものは、「氏」を構成する朝廷が認可した「氏族」では無い事から、つまり、「異なる家」の範囲で構成する「姓族」である事からそのものは”「家臣」”と呼称する様に成ったのである。

    これは、江戸期の衰退した”「形式上の西の政権」”を構成する「朝廷」に圧力を掛け続け、結局は「幕府に仕える姓族」を”「家臣」”にする事で「権威ある役務」と認めさせた経緯を持っているのである。

    本来は、幕府を開いた「将軍」は、「征夷大将軍」の称号を持つが、これは「朝廷の軍」の「最高位の称号」であって、「政治」を司る「政権」を持つ立場の位では無かった。
    ”「軍位の臣」”であって、最初にその「軍の位」の「臣の意味合い」を強くしたのが、日本を制圧統一した「桓武天皇」の臣の「坂上田村麿」である。

    (注釈 その「桓武天皇(山部王)の母」が「光仁天皇の妻」で「後漢の阿多倍王の孫娘」に当たるが、この後漢から帰化した「阿多倍王(高尊王・平望王)」と「敏達天皇の芽純王の孫娘」との間に生まれた長男が「坂上氏」の賜姓を受けたのである。 
    「光仁天皇」は「施基皇子の四男」で、「准皇位継承者の施基皇子」は「伊勢青木氏の始祖」である。
    つまりは、「坂上田村麿」の「臣」は「青木氏の母方の縁籍族」に当たる事に成る。
    依って、本来は「臣」であるが、「准皇位継承者」の立場にもあり、これにて“「臣」が政権を担う事が出来る”と云う理屈が成立して、「次男の頼信系清和源氏の頼朝」が「臣」としてこの「准皇位継承者」の立場を根拠に「鎌倉幕府」が成立した。
    依って、そもそも「真人族」か「朝臣族」の「臣下族の臣」が「政権」を持つ事が出来るとする根拠は「光仁天皇」に由来するのである。)

    (注釈 前段でも論じたが、日本を「東の政権」(幕府)と「西の政権」(朝廷)とに分離し政治を行う形式を江戸期でも形式的に、且つ、形骸化していたが継続して採用された。
    この「西の政権」には、幕府から人を送りこんでの「監視下」にあり、殆どは「官位官職位の授与」と殆ど無く成った「天領地の財産管理」と「伝統祭祀」だけであった。
    然し、「形式的な政権」としては存在して居たので、「西の政権」の「明治期の政権取り戻し」の「大義」が円滑に成立したのである。)

    それが室町期の中期頃から「姓族」(瀬戸内域から出た「海部氏」が記録上では最初)が出自する様に成って、「武士」の上では「家来」と呼んでいた。
    江戸期に成って、その身分に合わせて「武家諸法度」などで“「武士」”には「一定の義務」が与えられ、その「義務」として「雇用促進策」として農民等の庶民から「奴 やっこ」と呼ばれる者等を雇う義務が付加された。

    それを「賜姓族の臣下族の習慣」に真似て、江戸期に成って「男子 おとごし(男中)」や「女子 おなごし(女中)」も含めて「家人」(けにん)と呼ぶようになった。
    要するに、「武士」を「武家」に構成する為に採った徳川幕府の「苦肉の策」であった。

    これで、本来は「平安期の用語」からすると、「武士諸法度」だが、この「苦肉の策」で「武家諸法度」としたのである。
    其れに合わせて、「公家諸法度」として「一対の組み合わせ」で「辻褄」を合わせてたのである。
    「徳川幕府の権威の擁立」の一つの策としたのである。

    つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、室町期からの「高級武士」に仕える「家臣や家来」と、「賜姓族の臣下族」に仕える「家人」とには“「仕え方」”に違いが在った。
    確かに、「家臣や家来」の意味も持つが、”「家人」”には字のごとく「人の意味」を強く持つものであった。

    ここが「青木社の持つ意味」の根幹部である。
    「青木社」を支えるすべての者は、「繋がる人」で支えられていたという事であって、江戸期にあっても秘密裏に守り通した所以でもある。

    ところが、江戸期に使われたこの「家人」の言葉の意味とは、「人の意味」と「身分格式」も異なっているのだが、上記した通り根本的に「氏の構成」の前提に無く「姓族の構成」の前提にある。
    つまり、この「青木氏の家人の仕来り」を、「姓族」の中に無理にそっくりと取り入れて、これを江戸期に真似たものである事に成る。
    従って、「家臣や家来」の中には、この「武家の意味合い」、又は「家人の意味合い」を出す為に、「徳川氏」の中には、「家臣や家来」とは別に、態々、この「家人制度」を採用して務める者もいた。

    要するに、「吉宗」の享保期には、「伊勢加納氏」の様な“「側用人」”にこの「武家の意味合い」、又は「家人の意味合い」を持たして「家臣や家来」とは別に「特別視」させていたのである。

    「藤氏と源氏の二つの流れ」を強く持つ「武家の氏族」の「足利氏の室町幕府(武家貴族)」と違い、「幕府制」を引き続いた「姓族の徳川氏(松平の姓族)」の“「幕府」”と云うものに対して、上記の“「武家」“の「慣習仕来り掟」を持ち込み”「権威付け」“を図ろうとしたのである。

    (注釈 徳川氏は「姓族」であった事から「幕府制」を採る為に必要とした「征夷大将軍の称号」の「武家の頭領」の称号を申請した朝廷はこれを与えず、妥協して”「長者」”としたのである。
    そこで、搾取偏纂で徳川氏は、「家臣」と成っている「藤氏」と「源氏」の「末裔の親族」であるとして、別々に主張していたが、「朝廷」は頑なにこれを認めなかった。
    現実には、室町期中期までの系譜は搾取であるが、幕府樹立後、女系として「貴族」や「氏族」や「武家」の血縁を万遍無く取り込み「権威確立」に成功した。
    「青木氏」では「四日市殿」(立葵紋に変紋)が、頼宣期に「勝姫末裔」で血縁して縁籍関係に成っている。)

    「家康」は初めは「源氏の朝臣」として名乗っていたが、幕府樹立した時からは今度は関東の秀郷一門を家来にし、その末裔として「藤原の朝臣」として名乗り替えて、その「秀郷一門」を「御の家人」(御家人)として呼称させ「朝廷の臣の理屈付け」をしたのである。

    「吉宗育ての親」の「氏族」(武家、貴族、賜姓族、臣下族)の「青木氏の家人」(家人の位階は六位)により近づける為に、「公家下の位階の最高位」の「従五位下の官位」を与えて敢えて「氏族扱い(氏族の伊勢藤氏の支流末裔)」とした。
    これに依って、「養育役の加納氏」には「養父の久政」から引き継いだ「久通」に、この特別の「家人の権威」を与えて「吉宗の取次役・調整役」の重職を命じた。
    同じく「綱吉」の時には、「甲斐の時光系青木氏」の「柳沢吉保」にも「家人の側用人」を務めさせた。
    「伊勢加納氏」と「甲斐柳沢氏」の二人は、「守護神や菩提寺」等の「氏族」が持つ上記の「家人要件」を全て備えている。
    この類似二例が有り、何れも「青木氏」と所縁のある「由緒ある氏族の末裔」である。
    他の「側用人」は「政治的な用人」でこの「氏族の家人要件」とは明らかに異なっている。



    そもそも、この“「人の意味」“とは、「賜姓族の臣下族」の「慣習仕来り掟」から観て、「家臣や家来」よりも「主人との家族的な絆の主従関係」が強い関係にあった事の意味であった。
    「嵯峨期の詔勅」と「その禁令」に依って、「賜姓臣下族」の「慣習仕来り掟」の「使用の禁令」は、取り分け、「主従関係の慣習仕来り掟」に於いては「姓族の武士」が生まれるまでの室町期中期まで護られていた。

    然し、室町期の「下剋上と戦乱」で“「氏族」”を始めとして、「賜姓族の臣下族」も衰退し激減した事で護られなくなった。
    その中での「青木社」である。

    そこで、逆に勢力を拡大した「大姓族」(大豪族・大名)の中には、長い間に「賜姓臣下族の一族」に何らかの血縁関係を有する者らを呼び集めて、「主従関係」を作り上げた結果、「家人」とも取れ「家臣」とも取れる中間の“「家人的な家臣」”が生まれたのである。

    そして、江戸期に入り、「武家諸法度等の法令」等が定められた事に依って、取り分け、安定期に入った「享保期」頃からは「雇用制度の促進策」とも相まって、一挙にこの“「武士様の仕来り」”が「一つの形」を生み出して大きく進んだのである。(「享保の改革」の一環策)

    況や、「伊勢・信濃」では、既に、平安期の頃の早くからこの「仕来り」の中にあって混乱なく維持されていたのである。

    この“「武家様」(格式)”から“「武士様」(役柄)”に変化した「享保期の進歩」は、この「青木氏」と関わった「吉宗の所以」に帰来する。
    この時、「武家の意味合い」も、「武家の変化」も“「江戸様」(享保様)”に「姓族の武士」までを呼称する様に成ったのである。


    この様な本来の“「家人」”と云う「仕来り」は、「京」、「近江」、「信濃」、「甲斐」、「伊勢」、「武蔵」、「美濃一部」と、その「関連地域」で頑なに引き継がれて来た事に成る。
    推測の域を超えないが、これらの「家人制度の慣習」を良く見聞きして知る「頼宣と吉宗」は、「伊勢」のこれらを見聞きして“「紀州藩の中」“に「権威造り」の為に先ず真似たのではないかと考えている。
    そして、それを「政策的な権威付け」の為に“「武士様」”に変化させたのであろう。
    その意味で限定した範囲で「青木社」と「青木社格」の存在を黙認したと考えられる。


    さて、話を戻して、「伊勢加納氏」と同様に、この“「青木氏の家人」”の一族に多く含む”「射和郷士達」”は、「青木社」と共にこの「土地と水」を生かした「射和殖産」を又始めた。

    「室町期末期の混乱」で土地を荒らされ失ったが、これを「遺された伊勢衆」で復興させ拡大させて行い、最終は、「紀州藩の勧め」ではあるが、その数は少ないが一部で江戸に“「射和商店」”を出すまでに至った事が資料には記されている。
    然し、基本的には“「伊勢留まりの態度」を採った”とある。
    取り分け、「名張と桑名の青木社」に与していた彼らはその「氏是、或いは社是」を強く守ったのである。
    むしろ、「青木社」は護られていたのである。
    だから、この「青木社の社是」が「御師制度(おんしせいど)」として引き継がれていったと考えられる。
    現実に、「桑名の青木社」を再び起こしたのは「御師制度による伊勢商人」である。

    この「手紙の資料」から観ても、「青木氏」は「商業組合」を通じて、“積極的に「江戸の店」を誘致させ様とした事”は、確かに「青木氏と家人等を育てる手段」でもあった。
    それだけに「押し付けた政策」ではなかった事を物語るが、これは「家臣」では無い「家の中の人(同じ氏族の人」)を意味する「家人の育成」に取り組んだ事に成るのである。
    「家臣」では「氏を構成しない姓族」である以上はここまではしないであろう。

    この資料から観て、「筆者の印象の域」を超えないが、「古来の家人」には「遠縁と絆」で結ばれての関係であった事から、どうしてもこの「殖産の射和組」に対しては、「青木氏」は「家人」の“「郷人」”と云う感覚を持っていて、その「親近感の感覚」で行動していたと考えている。

    その意味で、ここで「青木氏」の“「家人の由来」”を「青木氏の歴史観」として「家人の概要」を強調して是非に論じて置く必要があった。

    そもそも、上記した様に「青木氏」には旧来より“「家臣」“と云う概念が無かった。
    其れは「賜姓五役」と云う役を基準に「四家制度」と云う組織形態を敷いていたが、この制度からこの「家臣の概念」が生まれなかったのである。
    依って、“「家臣」”と云う「封建的な主従関係」の契約での「接し方」では、「射和組」に対してはここまでは「青木氏」は取り組まなかったと考えている。

    「射和」の「郷土史研究家(末裔)の論文」にも、「射和組」と「青木氏」は共に「和紙加工品の開発」や「早場米の研究」に共に取り組んだ事が論じられていて、「射和組の人」から「青木氏」は“「徳崇家」“と呼称されていたと記されている。
    この“「徳崇家」“の言葉から、その持つ「意味合い」は「氏族」の「地域の尊敬される指導者」であったと観られる。

    (注釈 前段でも論じたが、「伊勢の人」からは、職能人や商人から「御師様」や、「青木氏」に関わった地域住民からは「氏上様」と呼ばれていた。)

    「吉宗の補佐」として、「伊勢青木氏」から「吉宗」に従って下向した「青木六兵衛定信」が「享保の改革」を江戸で主導していたのであるから、これも放って置いてもこの様に成る環境ではあったであろう。
    然し、注釈としても、筆者の考えでは、「江戸幕府の体制」にこの様に大きく影響を与えたのは、「紀州藩―伊勢青木氏―加納氏―伊勢秀郷流青木氏の紀州藩官僚―伊勢衆―幕府の秀郷流青木氏の官僚―側用人加納久通―吉宗」の連携による「一連の連携結果」であったと観ている。

    「殖産興業の元」と成った「松坂商人」と、「小売店」を興した「射和商人」とに区別して、この地に「射和の商いの組合組織」(御師制度 おんし)を作ったのである。
    「殖産」を進めるには、「殖産には広大な土地」が必要で、この土地の多くは「青木氏」が「地主」として持っていた「地権の土地」を使った
    そして、上記とした様に「伊勢から南紀」にこの「殖産」は及んだのである。

    何よりも、「青木氏」の悠久の制度の「御師制度」を模倣して利用して、それを呼称にまでした事は「青木氏と関わり」を強く記すものである。

    (注釈 江戸期の射和の「伊勢紙型」で「江戸小紋」が全国的に流行り、伊勢の「奈良期の紙生産」から始まった殖産はこの様に充分に大花を開いた。
    でも、これだけの「射和」が江戸に決して出なかった。何故かである。

    「青木氏」と女系でつながる射和の「伊勢郷士」は「青木氏の氏是」(社是 伊勢講)を頑なに守ったものだと考えている。
    その証拠に、「青木氏族」の「職能の御師制度」を射和の「商いの中」にも取り入れているのである。
    そして、明治期までこの「歴史観としての意思」は貫かれた。

    それは「伊勢屋」を「二足の草鞋」で続ける「青木氏」が、「自らの殖産」で生きる「商人の証」であって紀州藩などの御用商人では決してなかった事に所以している。
    故に、「射和の商人」からも信頼を得たのであって、「氏是」(社是)を守ったのである。
    そして、その”「絆の証の拠点」”と成っていたのが”「青木社」”であったのだ。)

    (注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
    その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
    「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

    (注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
    「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。
    (注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。)
    少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。

    注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
    これは既に”「青木社」”であった。
    つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
    その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
    つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
    それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

    その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
    「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
    「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。


    「伝統シリーズ 37」に続く


      [No.354] Re:「青木氏の伝統 35」−「青木氏の歴史観−8」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/06/20(Tue) 11:07:15  

    > 「伝統シリーズ−34」の末尾

    > この様に「四家制度」と「家人制度」が接着剤の役割を果たし、「血縁融合」したが、「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」をも完全に補足したのである。

    >( 注釈 これを得てたとしても考えられる事が、1025年からは「二足の草鞋策」は総合商社化し、その財源を使って「四家制度の整備」と「家人制度の強化」を果たし、その事と相まって「二つの青木氏の血縁融合」は進んだのである。)

    > 他方ではこの頃、「秀郷流青木氏」も「第二の宗家」と呼ばれるまでに至り、「秀郷流青木氏発祥」より100年後(1060年頃)には、一族一門の発展と共に「5氏による青木氏族」を形成する至るのである。

    > この1050年代の同時期を境に「二つの青木氏」は、更に、100年後には共に最大の隆盛期を迎えるのである。
    > 「賜姓臣下族の青木氏」の「二足の草鞋策の採用の時期」と、「秀郷流青木氏の発祥の時期」とが同一としているのも無関係では無いと考えている。

    > (注釈 「賜姓臣下族の青木氏の二足の草鞋」は、それまで「朝廷の部制度」の依る「和紙の開発と生産」で朝廷に納入する役で、その「余剰品」を一般の市場に卸す役目であった。
    > これが奈良期の「部制度経済」であったが、その後、「和紙生産」が本格生産に成り、増加して「朝廷余剰品」が大量になり、これを許可を得て市場に売り捌く役目も担った。
    > これが「青木氏の二足の草鞋策」の氏族としての正式な始まりであり、これを以って「賜姓五役の財源」とする事を求められたのである。
    > 記録でこの時期が925年頃と成っている。)

    > 「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」のこの三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。
    >
    > 個人情報保護の観点から、系譜や血縁関係の資料等を公的に出す事が出来ないが、上記のこれも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。

     


    > 「伝統シリーズ−35」


    さて、話を「新撰姓氏録」に戻して、「青木氏の歴史観」を更に深める。

    そこで、「嵯峨天皇(809年−823年)」は、それには世間に対して、“変”を起こす程の「皇位継承権争い」までしてでも、「大義」を獲得しなければならない事であった。

    (注釈 志紀真人族の後裔青木氏の白壁王の四男 山部王が桓武天皇と成り、その子が「嵯峨天皇」、そしてこの背景がこの「新撰姓氏録の編纂」に大きく関わっていた。)

    この為にも、この「主張」を「新撰姓氏録」として“「広布」”をしなければ成らなかった背景があったのであり、故に、「未完成」のままでも「広布」に拘ったのである。

    然し、朝廷から公布する「正式書物」が「未完成」とはどうしてもおかしい。
    ところが「未完成」には、ここに意味があった。
    ここで、「新撰姓氏録」として“「広布」に、”又、改めて「政治的」にも重ねて「嵯峨天皇に依る詔勅」の“「公布」”と成ったと観られる。

    この様な事が向後に起こらない様に、「兄の主張の根源」(兄の平城天皇)の「観察使」と「皇親政治」を廃止したのである。(名目は「財政難」が理由)

    「後裔の青木氏」は、ここで大きな初めての「歴史的な試練」に見舞われる。
    然し、矢張り、「後裔の青木氏」は嵯峨天皇に執ってみれば「自らの直系の出自一族」であった事もあり、根こそぎに無くす事はしなかったし、政治的にも困るであろう。

    (注釈 実は、これには、当時の様子を伺える話がある。
    例えば、平安期中期のこの時期には、結局、「保元平治の乱」で「関西域の仏社の荒廃」が目立っていた。
    そこで、困った天皇は「清和摂津源氏」(満仲)に対し再建を命じた。
    ところが、その日頃の行状が余りにも良くなかった「満仲」は、多くの貴族武士から嫉妬や妬みや政敵等があまりに多く、その為の「争い」から「焼き討ち」等が多く「神社仏閣の荒廃」は進んだとされている。
    その「摂津源氏」に命じたのである。)

    (注釈 後に「世間の不評」が高く不満を持った「満仲」は摂津に籠って仕舞う。
    そこで「比叡山の僧侶」と成っていた息子に諭されて突然に蟄居してしまう。)

    そこで、ところが天皇は「摂津の国」を受領させる事の交換条件として、一族に関西域の「寺社の修理」を命じられたが、結局は引き受けたものの財政的にも技量的にもそんな能力がもとより無かった。

    (注釈 清和源氏の源氏は周囲の土豪の武力集団を集めて造った武力集団で勢力を高めた事もあった為に、「青木氏」の様に「家人制度」は敷いていないかった。
    その為に、当然に「青木氏部」の様な「技量集団」を持っていなかった。
    それだけに雇う事に成る為に「人気の悪い満仲の源氏」に執っては「寺社再建」は不可能に近い最大の負担であった。)

    最終、「保元平治の乱」でその荒廃は更に進み、「同族争い」も含めてその結果、唯一人源氏族で生き残った「摂津源氏の頼光系四家の頼政」が、引き続き「身内の守護神(八幡神)」の「摂津の八幡社一社の修理」だけに留まると云う事が起こった記録が残っている。

    「11家11流の源氏族」の中でもで最も正当に栄えたのは、「摂津源氏」(同族の河内源氏はその行状から「武家貴族」としては認められていなかった。)なのだが、その「摂津源氏の赴任先」は次ぎの通りである。
    但し、「武家貴族」であった事から、「頼光」から「京遙任」で赴任地に「国司」、或は「国司代」を送り務めている。
    ところが「頼光」が途中から「京遥任」を止めて「美濃」と「信濃」に直接に赴任している。
    これは当時として、「武家貴族」としては”「京遙任」”が普通で「一種の武家貴族のステイタス」でもあった。
    ところが、「賜姓臣下族の武士団」として勢力拡大するには「京遙任」で藤原氏の下で臣従して役務を務めるだけでは財源的にも無理であった。
    これでは「武家貴族」として初めての「武士団」を賄うだけの充分な財力は構築できない。
    そこで、この「京遙任の慣習」を破って「国司」に任せるのではなく頼政からは「赴任先」(伊豆)に直接赴いたのである。

    この事に依って何が生まれるかである。
    つまり、「地元の土豪集団」との「繋がり」を強固にし、可能な限りに縁者関係を結び、そこから得られる「財源の確保」と「主従関係性」を獲得する事が出来る事にあった。

    (注釈 この為に頼光より三人とも「后妃嬪妾」で「30人以上の妻」を置いている。主に地方の「豪族の女」を「妾」にしている。
    当時、平均寿命が男子55−57歳程度で今から観ると短命であって、子孫を遺そうとすると、「時間」をかける事は出来なかった。
    そこで、「妾」を多く置いて男子の“「嗣子」”を多くして「確実な継承性」を高め「高い血縁性」を容易にした。)

    系譜の公的に成っているものの殆どは「后妃」までの“「嗣子」“で、上記の慣習を受けての地方豪族の「嬪妾」の事までの“「嗣子」”には書かれていないものが多い。
    これは“書かれていない”と云う事のみならず彩輝氏の歴史観から”「間違い」”に相当するのである。

    何故ならば、その答えは“「嗣子」”と云う慣習にあり、「武家貴族」、つまり、「賜姓臣下族」には世間と異なる“「嗣子」”に関する「固有の掟」が有ったのである。

    つまりは、「后妃」の“「嗣子」”が在りながらも、一族の者の「子や孫」を“「養子」“にする等の「四家制度の仕来り」があった。

    (注釈 現在の「養子」の意味合いの「継子や義子」の「異姓不養」では無い。「四掟に基づく「同宗同門」の「嗣子」を云う。)

    この事から「子」と云う定義は、必ずしも「第二世の直系族」の「子」だけでは無く、“「ある掟の範囲」(下記)”での「子孫養子」までとしていた。
    中でも、「女子」は孫域まで「子」として扱う「武家貴族の仕来り」(四家制度と四掟制度)があり、この影響を受けて文章を観ると“「娘」”とは書かず“「女」”と書いて総じて“「むすめ」”と読んでいた事が判る。

    この様な「武家貴族」を出自とする「氏族の歴史」を知る際には、「青木氏の慣習仕来り掟」を知っていなければ正しい答えは得られない。
    つまり、世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事に注意が必要である。


    そこで、「志紀真人族」の「光仁天皇」−「桓武天皇」から「嵯峨天皇」と繋ぎ、「摂津源氏」を構成して「母方の嵯峨源氏」を縁籍のある「武力集団」とし、それを「郎党」とした「四代目の頼政」は「志紀真人族」を「同祖同縁」(同宗同門)としている。
    この事を念頭に、「摂津四家の頼政」は、「京遙任」が主にしながらも、「摂津源氏」とは云いながらも「伊豆」に赴任して、ここを受領して「頼政の直系の血筋」を受けた「青木氏(伊勢と信濃)の子孫」をここにも多く遺した。

    これは「頼政の一種の子孫戦略」であった。

    (注釈 「源氏姓」で遺すよりも「青木氏」で遺す事の方が生き残り策は確実であったと考えられる。)

    現実に歴史は「頼政」が描いた様に「子孫戦略」はその様に成った。
    但し、下記の受領地にも「現地孫」を遺したとされているが、取り分け、下記に論じる「嗣子の四掟」の「慣習仕来り掟」の「乖離」が認められず依ってその確証はない。


    筆者は多くは、“江戸初期の「黒印状と権威付策」の「偏纂」”に依るものと考えていて、それは「注釈」で云う“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事”に関わっているからである。
    「頼政」が記録に遺した「伊豆相模」に関しては、「江戸期前後の記録」では無く「古い記録」のみならず、“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」が無い事“にも依るのである。

    ところが、「摂津源氏の四家四代目の頼政」には、記録より”「嗣子」”と云う「慣習仕来り掟」が認められるのである。
    依って、その「子孫」だとする公的に成っている「現地孫」と云われるものにはこの「四掟による継承」は無いのである。
    つまり、「摂津源氏四家の頼政」が敷いていたのであるから、「現地孫」であるとすれば、この「現地孫」には、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」のステイタスを護る為の「氏族の前提」と成る「四掟の慣習仕来り掟」が認められなければならない。
    何れの「現地孫」とすれども、この「四掟」を始めとする「慣習仕来り掟」が認められない限りは少なくとも「正規の現地孫」では無い事に成る。

    (注釈 伊豆には正規の「同宗同門の現地孫」のこれが認められる。)

    殆どの虚偽の「後付の現地孫」には、この「知識の欠落」が認められるのである。
    「正規の現地孫」としての「「四掟の慣習仕来り掟の伝承」が無かった事が云える。

    “それは何故なのか“である。
    少なくとも、この「四掟の慣習仕来り掟」さえをも伝承しようとすると、上記した「四家制度」なるものを敷かなければ成し得ないからであり、到底、現地の「土豪」と成り得ている状況で、上記した様なその「財力と組織力」を賄いきれる事では無いからである。
    それでなくても、「現地の土豪」とすれば、「四掟の慣習仕来り掟」の必要性を自覚する前提は無いであろう。
    「賜姓五役」などの役そのものが無いのに、「四掟の慣習仕来り掟」を護る必要も全くない筈である。
    それでなくては、与えられた逃れ得ない「宿命のステイタスの維持」は適わない事になり「現地孫」とは決して成り得ない事に成る。

    逆に云えば、「青木氏」は、与えられた逃れ得ない「宿命のステイタスの維持」を適わす事の為に、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を蓄えた。
    そして、「土地の郷士」との血縁と「シンジケート力」を構築して「影の武力の補完」をした。
    更に、「賜姓五役としての政治力」を遂行し、「志紀真人族」とする「最高ステイタスの権威」を「準皇位継承系族」(施基皇子)として護った。
    この普通では無し得ない「四つの絶対条件」を苦労して構築して得られる「ステイタス」なのである。

    少なくとも、「賜姓源氏11家」でさえも出来得ず、この「難しいステイタス」を維持したのは、「摂津源氏の四家」、取り分け、「頼政」のみと成っているのである。

    (注釈 「頼信の河内源氏」は、「摂津の頼光」が敷いた「ステイタス路線」より「武勇」を優先して生き残りを図ろうとした。
    この為に「武力」から起こる「戦い」から結局は、「直系嗣子」を失い、上記に掲げる「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」の「三つ」を失う破目と成る。
    つまり、これを採用した「河内源氏」は「都」を追われ衰退し、その後、「枝葉末孫の頼朝」が「坂東八平氏の力」を借りて台頭する羽目と成る。
    然し、そもそも、これは「源氏力の力」ではそもそも無かった。
    元より無かったのである。
    これは頼朝死後三人の後継者は暗殺される事でも判る。
    「頼政の子孫戦略」とは、根本的に違っていたのである。)

    そこで、この「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」を遺す方法、即ち、“「嗣子跡目」”を入れて「子孫戦略の二段構え策」を考え出したのが「頼政」なのある。

    (注釈 「青木氏の資料記録」の一つには、「青木氏の志紀真人族」の出自から、「頼政の嗣子跡目」に関する「氏族の成り立ち」を要約を漢文にした大きな書の掛け軸があった事が口伝にあり、「明治35年の失火」で焼失、その後、これを祖父の筆で復元して「額」にして現存する。
    「青木氏の古い記録」は、殆どは「漢文」であるが、一語一語に「青木氏」を物語る「青木氏の歴史観」として意味の持つ事が実に多い。
    「解釈」を安易に間違えると矛盾が生まれる。)

    この「青木氏」に大きく関わる“「頼政の事」”を次ぎに掘り下げる。
    「満仲と頼光」は地元の「嵯峨源氏」(母系)を郎党にした。

    ところが「頼政」は、「保元平治の乱」で一族で「生き残り方」をかけてどちらに味方するかで争った。
    その結果、「摂津源氏の四家」で「兄弟身内の争い」までが起こり、その事から各々の主張に基づく「摂津源氏生き延び策」の違いで「頼政の裏切りの反目」が起こった。
    「賜姓源氏族」の中で「摂津源氏」に関わらず弱小の他の10家の源氏も、「頼政」だけを遺して宗家筋は元より傍系族も滅亡に近い衰退を起こした。

    従って、この「郎党らの反目」から表向きは「摂津源氏を背景」としてはいたが、実のところは「摂津の嵯峨源氏」(母方ルーツの志紀真人族)を郎党にはなかなか出来なかった。

    (注釈 「青木氏の歴史観」から判断する事でこの事が判る史実である。)

    (注釈 複数の記録を観ると、他の源氏族は「農業」をしながら息を潜めて身を隠し生き延びていた事が判る。
    到底、「四掟の慣習仕来り掟」を護っての「賜姓源氏族」では最早無かった事が判る。
    「頼政」が謀った「以仁王の令旨の伝達」に自ら進んで協力した「河内源氏系の新宮源氏」と云われる「源行家」等は当にこの様であった事が記録に遺る。)

    (注釈 最終、「源氏再興」を目指して「以仁王の乱」を起こすが、この事はこの「敗退の原因」とその「勢力構成」でも判る。
    「平氏専横」に対して「以仁王の令旨」で全国に散る「源氏」に呼応を求めるが、「衰退弱小」に成った呼応する「源氏」も一枚岩では無かった。
    最も肝心な「令旨」を運んだ「新宮源氏の行家」の熊野から「裏切り」が出る始末であって、「朝廷の中」での「生き残り」の為の「日和見行為」が「裏切り」と見做され「源氏の反目」が強く、「乱」を起こした際には、「頼政に対する信頼」は既に消えていた。
    そもそも、「乱の直前」まで「以仁王追捕の軍」に参加している位である。
    例え軍略であったとしても「日和見行為」や「裏切り」として誤解されるのは当然の事であった。)

    そこで、「頼政」は、同じ「嵯峨源氏」の直系出自元の「志紀真人族」の「伊勢と信濃の青木氏」に対し「跡目の嗣子」”(伊勢は京綱:信濃は国直)を送り込み「生き残り策」を図ると共に、この「勢力と財力」を背景に「一族の血縁集団」を「伊勢と信濃」に移して「四つ絶対条件」を形成した。

    唯、「四掟の慣習仕来り掟」を持つ「青木氏」には、「賜姓五役としての政治力」はあったにせよ、「実質の政治力」は「嵯峨期の詔勅」に依り「皇親族」から外されてこの時期は充分に持ち得ていなかった。
    確かに「秀郷流青木氏」に依って補完されたとは言え、「秀郷一門」そのものが未だこの「十分な政治力」を持ち得ていなかった。
    これを何としても補完する必要があって、「一族争い」をしてでも「頼政」は「政治の中心の都」に遺る必要性に固持したのである。

    そして、その間、自らの他の受領国には血縁族を形成して郎党とはしたが、取り分け、「伊豆」(伊勢信濃の融合族の志紀真人族青木氏)にも「摂津」より心休まる「真の領国」として、母方系をベースとする「志紀真人族の直系の青木一族」に跡目入れて融合族を形成し、安全を期して「二か所」(伊勢信濃に跡目 伊豆に血縁融合族)に遺したのである。

    「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」には“「頼政の嗣子」“を直接跡目に入れ、そして、この一族の一部を「護衛団」として「伊豆」に移して、その「伊豆」と「西相模」には、「伊勢と信濃」の子孫を「融合族青木氏」にした上で、“「嗣子跡目」”を入れて「子孫戦略の二段構え策」にしたのである。

    これ程に綿密にして「青木氏」にシフトするという「子孫戦略の二段構え策」を先んじて講じていたと云う事は、幾つかの意味を持つ。
    上記の通り、「生き残り策の意見の違い」で「摂津源氏」には「反目」から「見切り」をつけていた事に成る。

    (注釈 記録に依れば、誤解に依る「相当の反目」があって、その反目は「頼政」の子の「仲綱の子、況や孫」までに及んでいる。)

    更には、「以仁王の乱」に対する勝算には、「源氏の衰退」がどれ程の力に成るかに疑問を持っていた事。
    殆どは「清和源氏」の「摂津源氏系と河内源氏系」が主体で各地に平家の目を逃れて飛散して生き延びていた源氏で他の「10家10流の力」には力は無かった。

    「平家打倒の蜂起」には、そもそも「財源」が必要であり、その「財源」を何処から捻出するかであり、「源氏」には「源氏再興の思い」はあったとしてもその力は殆ど無かった。
    「頼政」は「子孫戦略の二段構え策」があったとしても「伊勢−信濃青木氏の財力」は決して動かなかった。
    そもそも、「頼政」はこの事に付いて計算が狂ったのではないかと考えられる。

    それは、「青木氏の氏是」に依る。
    その「青木氏氏是」が「源氏族」との根本的な「四掟の差」であった。
    これは単なる「青木氏氏是」では無く、「光仁天皇」からの「天皇家の直系出自元」、況や、「志紀真人族」の「伊勢と信濃の青木氏」を決して崩さないと云う「固い信念と宿命」に基づくものであり、「四掟」の「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」を護って来たものである。

    簡単に云えば、「青木氏氏是」は元より「氏構成」として「武力集団」を創設するか否かの差である。
    「青木氏」に執っては「源氏族との血縁」は「四掟」に叶うものであり、「天皇家の直系出自元」の「子孫繁栄」には欠かせない事では確かにあったとしても、そこには「源氏族」とは唯一つ違う点があった。
    それは次ぎの事であった。

    「武家貴族」であっても「目的」を達成するための手段として「武力集団」では無い事である事、或は創設しない事にある。
    あくまでも、「武家の出自元の有無」であって、所謂、「賜姓五役の有無」にあった。
    これが、「嵯峨期の詔勅」にも明記されている様に「源氏族」と決定的に異なる所以でもある。

    従って、その「財力の使用目的」は元より異なっており、「青木氏の財力」は使えない「氏是」である。

    況してや、「平家の打倒」の理由は、「平家専横」であって、そもそも、「平家」とは「二つの青木氏」は「悠久の絆の歴史」を持つ「伊賀の隣国」でもあり、「奈良期からの長い付き合い」があり、「光仁天皇の母の高野新笠の郷」でもある。
    更には、「伊賀の郷士」、つまり、「家人制度」に基づく古来からの血縁にも結び付いてもいる。
    これは到底に動かす事は不可能である。

    この様に、「四家制度」と「家人制度」を敷いていながらも「摂津源氏」との「所縁、絆の差」は大きかった。
    「頼政との繋がり」は、あくまでも「青木氏側」に執ってみれば「子孫戦略の一環」であって、「戦いに加担に値する事」は、「跡目嗣子」があったとしても、これは出来る話では無かった筈である。
    これは「頼政と京綱」とが”「激論」”を交わした所以であったとも考えられる。
    (「商記録]」ら読み取れる。)

    この事からも、「平家打倒」を直前まで表には出来ない事でもあった理由でもあろう。

    然し、最早、踏み切った以上は後戻りはできない。
    勝つ見込みがない事を知りながらも「以仁王令旨」に至った。
    それ故に、「青木氏との子孫戦略の二段構え策」は、敗退した時の事を考えて「源氏族」を「元の青木氏」に移す戦略であった事が頷ける。

    (注釈 それを証拠に、明確な記録として乱発覚後、孫の「宗綱と有綱の命乞い」を伊賀に住む「清盛の母」に懇願して、九州平家の隣の「日向廻村に配流の刑」で軽減される。)
    (本来は斬罪である筈。)
    その後、近隣の廻族を集めて「廻の子孫」を建てては再び九州平家と戦うものの敗退し、両名は戦死、「廻の子孫」は約20数人の配下と共に「薩摩大口村」(現在の市町村合併にて鹿児島県伊佐市大口小木原付近)に逃げ延びて寺に隠れていた。
    然し、追手が迫りこの「浄土宗住職の助言」を聞き入れて「伊勢の青木氏」を名乗って敵対性が無い事を前面に押し出し生き延びた。

    この事から観ても明らかに「子孫戦略の二段構え策」であった事か判る。
    宮崎廻村から大口村までの地域にこの「仲綱子孫の青木氏」は現存する。
    その後、室町期には子孫を拡大させ傭兵として九州全土にその名を馳せ、江戸期には日向灘の「遠洋漁団」、山岳部は「農兵軍団、山岳兵民」を務め乍ら、「黒田藩の専属傭兵」を務めるに至っている。

    注釈として、そもそも、「源氏族」は、「宋貿易」を推し進めた平氏族の財源的な差は「雲泥の差」と成り、仮に戦えたとしても「寺社の修復」もまともに出来ない状況では、持久戦では「源氏族」は先ず耐えられなかった。
    「寺社の修復」は、これを「平家の試す政略」であった可能性があり、あったとしても財源を消耗させる策であった事も考えられる。

    筆者は「修復能力」はもとより無かったと考えているし、「平家討伐能力」も無かったと考えている。
    「摂津源氏四家の方針の違い」に依る「親族争い」(同族争い)では、「頼政への反目」(裏切り疑惑)があって、そもそも、「頼政自身」の「摂津源氏」と、母方の「嵯峨源氏」の「郎党の力」を使う事は出来なかった筈である。
    況してや、「青木氏」への「子孫戦略の二段構え策」の講じる様ではそのものが疑われて地元の力の利用は到底ないと判断できる。
    それ故に、それではとして、当初は「嵯峨源氏」の出自元の“「青木氏の力」”を利用しようと考えたと読み込んでいる。
    唯、この時、「源氏と青木氏の差違」に付いて、当初は「大きな読み違え」を「頼政」はしていたのである。

    (注釈 「源氏」は「朝臣族の武家貴族」の「武力集団」、「青木氏」は「志紀真人族の武家貴族」の「皇親集団」である。
    「抑止力の武」は持つがその目的が「賜姓五役の遂行・皇親族」の「青木氏」と、「直接力の武」で以て「政治的な目的」を遂行する「純粋な武力集団」の違いであろう。)

    其れが議論の末に出来ない事が決定する事の経緯と成ったと観ている。
    態度を間際までははっきりとさせなかったのは、それまでの「時間稼ぎ」を「頼政」は行ったのではないかと観られる。
    そもそも、「態度」をはっきりとさせた方が戦略的には「衰退し飛散している源氏力の集結」は高まったと考える方が通常であろう。
    「源氏力」とは、元より「軍の権威と象徴」であって、要は、如何にその「郎党族の集結力」を高めるかにあり、それには「風林火山」にあり、「時間稼ぎ」は「六稲三略の戦略」にあらずにある。

    (注釈 「頼朝の平家討伐」は、結局は「坂東八平氏の武力」と、彼らの相模駿河等の港でのその「貿易に依る財力」が背景と成っていて、「源氏力の背景」では無かったから勝てた原因でもある。
    従って、頼朝死後は全ての「直系の源氏」は「坂東八平氏」に掃討され滅亡する事と成る。
    その後、「河内源氏の傍系の足利氏」(二引両紋)が「坂東八平氏」k
    pel)ht@正拳をわまるのを待って奪い、形を変えた「傍系源氏の室町幕府」に成る。)

    (注釈 源氏側から観れば、”「平家専横」”と云うが、記録では「源義経」は「平清盛との繋がり」が強く、「貿易等に依って国を豊かにする経済論」などの教示を受けて親密であった事が判っている。
    これが「頼朝」との「意見の違い」と「境遇の違い」と成って「争い」が起こった。)

    さて、「頼政」の「青木氏」との関りの中に、上記以外に「重要な歴史観」が潜んでいるのである。
    この事を論じないと「頼政との青木氏の関り」は充分には理解し得ないのである。

    ここで、それを左右する「世間との乖離」であり大きく影響する用語がある。
    それは“「嗣子跡目」“である。

    “「嗣子跡目」“、又は、“「跡目嗣子」”とは、「青木氏の歴史観」として「特別な意味」があって、下記で説明する「同宗同族同門同紋の一族」の”「四掟」”に合致している。
    上記で論じた通り「摂津源氏」も「摂津四家」を構成して、この「同宗同族同門同紋の一族」の「四掟」の「四家制度」を採用している。

    「頼政」が執った「子孫戦略の二段構え策」では、「朝臣族で賜姓臣下族の源氏」から元の「志紀真人族の賜姓臣下族の青木氏」に「跡目方法」を単に移した事に成り得るのだが、これは上記の「四掟」に叶ったもので他氏からの単なる「跡目」ではないのである。

    その内容を説明する。

    さて、ここで「重要な注釈」として、上記で書いた様に此処で云う“「嗣子」”とは、そもそも現在で云う単なる一般的に“跡目を継ぐ権利を有する者”を云うのでは無く、その家の「跡目」を継ぐ為に迎えた「同宗同族同門同紋の一族」(四掟)からの“「養子」”を以って“「子」”と成す事を意味する。

    つまりは、「福家」から出る「子や孫」も「20家の四家」から出る「子や孫」も全てを一同に福家に集合して“「養子」”として迎え“「子」”と成す事を意味している。
    “「養子」”とは書いてはいるが、後に武士等に使われた「養子」(義子・継子)ではない。

    「青木氏」で云う“「嗣子」”の“「養子」”は“「子」”である。
    「四掟」に叶った身内の子である。
    それには、この「四掟」が条件の範囲であるとしている。

    改めて、「青木氏の関連資料の記録」を観ると、この「同宗・同族・同門・同紋」の「一族の固い決り事」を“「四掟」(しじよう)”と呼んでいた様である。

    別の古い「青木氏の資料」から抜き出すと、漢文的には要約して抜き出すと、次ぎの様に成る。

    “「四定以成異性不養之固掟也」”
     以上と表現しているものもある。

    つまりは、“「四つの定」を以って、「異なる「姓」(氏族の差違)を養わずとし、これ「固い掟」なり。“と記している。

    注釈として、その前に理解する事がある。
    それは、そもそも此処で云う“「姓、或は性」(「姓」では無く「性」と記しているものがある)”とは、「男女の差違」を示唆するのではなく、「本来の言葉の語源」は、「生物の本質の差違」を以って云う。

    この古い記録の漢文に示す“「異なる性」”とは、「氏族としての本質の差違」を意味していて、“「異なる姓」”では無く、“「異なる性」”なのだと強意している事に成る。

    つまりは、「姓」では無く「性」とするは、「氏族の系譜構成」が、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」と定め、その「定めの範囲」は本質的な違いと成し、これを以って「異なる性」だとして、その範囲での「血縁構成を行う」としている事を強意している事に成る。
    そもそも、「青木氏」には「慣習仕来り掟」に於いて「姓」は無いのである。
    つまり、「新撰姓氏録」に書かれている様に、それが「同宗・同族・同門・同紋」とする「四掟の範囲」であり、これ以外は「不養」、所謂、“「養子」”としないのだ。
    つまり、“「子」”としないのだ。と言い切っている。

    「本質的な違い」と断じている事は、「四掟」は相当に“「固い掟」”であった事を意味している。

    そこで果たして、この”「四掟」”が護れるのかとの疑問を現在では持つが、“「氏族」として護っていた”と云う事に成る。
    その為の「四家の制度」であり、「后妃嬪妾の制度」であり、これに依って「四掟」が護られていた事が判る。
    これは「異性不養」の文言で単なる制度では無かった事が良く判る。

    これで行えば、「青木氏」と同じ様に「四家制度」を敷いていた「摂津源氏系四家の頼政」との「繋がり」は容易に納得できる。

    仮に「異姓不養」とすれば、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」は完全に崩れる。
    何故ならば、「新撰姓氏録」に観られる様に、当時の「姓」(かばね)では、この「四つのステイタス」は全てなくとも成り立つ事に成る。
    況してや、室町期中期から発祥した「武家族」(海部氏が最初)からではない「姓族」も含む事に成り、「四掟」は護れない事に成る。

    (注釈 「新撰姓氏録」では、「第四世族内の同祖同縁」、或は、「同祖同門の氏族」と区分けし、「第四世族の同祖同縁」で「真人族」では無い「朝臣族」には「姓」で区分している。)

    これは「敏達天皇の第四世族」の「真人族」の「施基皇子」(後に「志紀真人族」)を始祖とする「準皇位継承族の立場」は保てなくなる事と共に、光仁期以降の「天皇家の出自元」は霧消する事にも成る。

    この「平安期以降の青木氏」が持つ「ステイタス」としては、「天皇家の血筋」の云々は、兎も角も、「最低限のステイタス」を護る為にも“「天皇家の出自元」を壊さない“と云う事にあったと考えられる。
    つまり、この「異性不養」は”「絶対条件」“であった事を記録は伝えている。

    (注釈 江戸初期の「家康の御定め書」の”伊勢の事お構いなし”の「お墨付き」がこれを物語る。戦乱期の時代性に執って何の意味も持たないのに、何とか伝えて来た「志紀真人族の後裔青木氏の氏族」を権威付けているのである。)

    況や、“「四定以成異性不養之固掟也」” は「青木氏の氏是」に成り、「青木氏の歴史観」としては極めて重要である。

    さて、“「跡目嗣子」”に戻って、つまり、「継嗣」、或は「継子(義子)」の事を指すのではあるが、この「継嗣」、或は「継子(義子)」にも「四つの掟」が条件として付く事に成り、且つ,“「子」”としてでは無く、全ての該当者を平等に“「養子」”とする仕組みである。
    仮に単なる「子」であれば、「福家」や「四家20家」や「娘の子」等の「立場の差違」から「小」には本来であれば「その差」は当然に生まれる。
    これを無くするには、「四掟の範囲」で一同に「福家」に集めた上で、全てを“「養子」(同宗同門)”とすれば、その「立場の差違」は一切生まれない事に成る。
    逆説的に論じれば、そうする事で「異性不養」は護れる事に成る。
    更に、つまりは、これを“「嗣子」”としているのである。

    従って、単なる「養子」を意味するの「義子」、或は「義嗣(継子・義子)」とは異なるのである。
    ここが要するに相当な「乖離点」である。

    この場合の“「嗣子」”には、”「同宗・同族・同門・同紋」”の”「同世男系血族」”を”「四掟」”とし、且つ、「新撰姓氏録」に書かれている様に、”「同じ祖先の祭祀」を成し得る者”と成っている。
    これが「青木氏」が定める厳しい”「四掟」”なのである。

    ”「同宗・同族・同門・同紋」”の”「同世男系血族」”は、結局は”「同祖の祭祀」を成し得る者”と成る。

    これで、この”「同世男系血族」”の青木氏の資料記録中の「文言」に意味が相当ある事が判る。

    その意味は次ぎの通りである。

    イ 「男系」(女系で成り立つ条件を完全排除していない。)は、兎も角も、先ず「同世」である事。
    ロ 「同じ世代」とは、男性の場合、当時では「人生50年」とされる事。
    ハ この「50年」の間に同じ世代に出会う子孫は少なくとも「孫域」までである事。
    ニ 「曾孫」に仮に遭遇したとして、同世である事に成り、「四家の養子」と成り得る事。
    ホ 「孫域」としたのは室町期末期までの一般的な「同世」として論じられていたのであり、この漢文中の「同世男系血族」の文言を以ってすれば「曾孫」までとしても良い事に成る。

    以上に成る。

    注釈として 現実に、筆者の直近の先祖の四代は全て80歳を悠に超えていて、曾孫域まで何とか観られる「長寿の血筋柄」で系譜先祖も概ね長寿である。
    これは偏には、次ぎの二つに成る。
    「青木氏の氏是」として「諸々の戦い」に参加しなかった事。
    「四家制度」により「より優秀な子供」を「養子」として一同に合して育てた事

    以上の二つにより、故意的に「長寿の血筋」を獲得していたのではないかと考えられる。

    更にはどちらかと云うと、敢えて言えば「男子」が多い血筋の様である。

    故に、「四家制度」が保てたとも云えるし、「悠久の歴史」を生き残れたとも考えられる。

    そもそも、これは「短命」では、この「青木氏」が採った全ての制度の保持は元より生き残る事さえも出来なかったと考えられる。
    つまり、この「長寿」は、「青木氏の生き残り」と「賜姓五役の遂行」の大前提と成り得る。

    逆に云えば、「四家制度」に依ってより「健康な嗣子・養子」を生み出し選び、それが「長寿」を作り出し生き残れたとも云える。
    むしろ、当面の思考する眼目は、この説の方の目的が大きかったと考えている。

    次ぎに、”「同世男系血族」”に付け加えて、文中の”「同祖祭祀」”にも付いての「特別の意味」がある。

    鎌倉期以降の「普通の跡目の慣習」であれば、「男系跡目」に叶わず先ず「養子」(1)を取り、更に、その「養子」にも「男系跡目」に叶わなかった場合も「養子」(2)を取ったとする場合は、養子(1)の系列に組み込まれ、且つ、「家紋」は元より「姓」も「宗派」も「慣習仕来り掟」も変化する事に成る。
    其の侭で行けば、止む無く「女系家族」と成る事を選択しなければならない。
    この事は、何か特別な制度を敷かなければ、これは長い歴史の間で起こる当然の事である。
    これを繰り返す事は、当然に元の”「同祖祭祀」”は出来ない事に成る。
    それと同時に、これでは、「普通の跡目の慣習」では“「四掟」”は保てない事にも成る。

    そこで、この“「同祖祭祀」”の文言は、“「四掟」”とは別に長い歴史の間では「異変」が起こり得る為に、総括的に「掟の適宜な運用」に「歯止め」をかけている事にも成る。

    これ“「同祖祭祀」”の「歯止め」がある事に依って、「厳格な四掟の運用」が保たれて、「青木氏の資料記録」と「新撰姓氏録」にも表現されている文言の、”「同祖同縁」”、或は”「同祖同門」”と同じ意味と成り得るのである。

    故に、仮に別の氏族の資料記録に、“「同祖同縁」、或は「同祖同門」”と明記されていたとする事は、「特別な制度」、所謂、「四家制度」を敷いている事の前提と成る。
    つまり、前段でも論じた様に、又、上記の“「同宗・同族・同門・同紋」の”「同世男系血族」と「同祖の祭祀」“を成し得る者と成る“は、「同祖同縁」、或は「同祖同門」と同じ意味と成る事から、この「嗣子の四掟」が、所謂、これが「青木氏の四家制度」であるのだ。

    従って、この「四掟」を以って「賜姓五役」が成し得る「氏族」と成る。
    つまりは、後の「江戸期の武士」が用いた「嫡子」とする用語は生まれない事に成る。
    従って、「青木氏の記録」には、“「娘」”と同様にこの“「嫡子」”の用語も出て来ない。
    これも“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事”の一つである。

    「青木氏の場合」は、「福家」を中心として「20家から成る四家」に生ずる「孫域」までを“「嗣子」”として“「子」”として扱うが、更に、「女」の系も同様に扱い「稼家先」で「ある条件」(下記)の下に「青木氏」を興す事を許される。
    この「嫁家先の青木氏の嗣子」も上記の「四掟」の「同宗・同族・同門・同紋の同世男系血族の範囲の者」も「四家20家」に加えられて「嗣子跡目」の“「養子」”で“「子」”として引き取られ「青木氏の福家」で育てられる仕組みと成っている。

    これは「男系」だけに依る「四家制度の欠陥」を「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」に加え、第三の「女系策」でも補完したと考えられる。
    (この策を「四掟」に加えた時期が何時なのか何故なのかである。)
    但し、「青木氏」に於いては、「女」(嫁家先)の「男子の子」(嫁家で別に「青木家」を建てる。)も「男の養子」と殆ど同じ扱いであった。
    そこで、「男系」からの「嗣子・養子」があると同様に、「女系」(嫁家先)の方にも「青木氏」の中で「何がしかの立場」がある筈である。
    それがどの様に扱われていたかを観るには、「男子の子」をこの「四掟」による「嗣子」を継承しようとすれば、当然に「墓所」にもそれが現れている事に成るのでそれを確認すると判る筈である。

    先に、この「三つの補完策」を検証するのには、「氏寺の菩提寺の墓所の構成」を観る事で判る筈である。
    この「墓所」でも「四家」に関わった「全ての累代の女」の「女墓」を「墓所の横」に別に作られて祀られている。

    注釈として、「墓所」は「福家」の維持する「総大墓」があって、その横に「女墓所」が設けられているが、「横長の平青石」に「俗名」を読み込んだ「戒名」と共に、累代順に追記されて行く「碑石墓」が設けられている。

    「総大墓」(氏墓)の左右に「四家の小墓」が立並ぶ「氏族の構成」で、「氏寺の菩提寺」の「墓所」が出来ている。
    「四家制度」に依って「四家20家」の夫々の家祖が直系と云う事の前提ではない。
    「嗣子」の前提と成る「養子のシステム」で構成される以上は、「四掟の範囲」の「四家の祖」と云う事に成るので、「四家の直墓系」と云うものはそもそも無い。

    つまり、“「嗣子」”の“「養子」”としての“「子」”であるとすれば、「福家」を含めて「20家の父」は全ての「親」である事に成る。
    従って、「四家の20家」は、「松阪殿」、「員弁殿」、「桑名殿」、「名張殿」の「四家の組」とにだけ区分けられ、そして、「氏郷流伊勢青木氏」との「融合青木氏の四日市殿」の組が加えられて以上五組にて構成されている。

    従って、「総大墓」(氏墓)を中心に左右に「四家墓」の「墓所」(組墓)もそれに応じて区分けされている。
    明らかに「墓所の構成」は「四家制度」に一致している。

    問題は「女系の青木氏」の補完策である。
    「女」にも「四家制度」が採っていた事もあって、「長い碑石」に刻まれている「女墓」もある事に成るが、この「碑石墓」には、この「嫁家先の青木氏」(下記イロハの条件に従い原則一代限り)の「嗣子」を出した「嫁家先の女」は「青木氏男系」と同じ扱いを受けていた事に成る。
    これも明らかにこの「四家制度の要領」に従っている事が判る。

    故に、「四家」にこの「他氏から嫁いできた者」の「女墓」と共に、「嫁家先の青木氏の女の名」が刻まれている事は、「四家の考え方」としては、次ぎの様に成る筈である。
    他氏の中で「青木氏」を興す限りは、「他氏から嫁いできた者」と同じ扱いとしている事を意味する。
    「嫁家先の女」の「青木氏の嗣子・養子」には「それなりの根拠」(下記)がある事を意味する。

    (注釈 この様に矛盾なく「四家制度」が構築されている事から、これが「娘」(娘)の呼称と用語は用いず、“「子」(むすめ)”として用いられる先ずは所以でもある。)

    男系子と共に他氏に嫁ぐ「女」にも、「四家」で産まれた“「子」“である以上は”「養女」“として「福家」にて同じ制度で育てられる。
    これが「第三の補完策」である。

    この「第三の補完策」の目的は、「女子」にも同じ「四家制度」を敷いて「青木氏と云う四掟の範囲」での“「養女」”として育て、「四家」と云う事から起こり得る「格式」を取り除き、「格式差の無い青木氏」が持つ“「同格の女」”として他氏に嫁がせる制度であった事に成る。

    この事に依って、ある「特別な条件 (下記イロハの条件」)下で「嫁家先」で「青木氏」を興し、その「嗣子」の一人を再び「青木氏」の「福家の養子」として引き取り育て、「跡目嗣子」として「四家20家の嗣子とする制度」で補完している。
    この事に依って、「嫁家先」の「女」には「格式差」は生まれず「四掟」は護られる。
    そうすると後は、「嫁家先の格式」にあるだろう。
    この事が整えば「四掟」と「三つの補完策」は成立する。

    この時、ある「女系」で興した「青木氏の嗣子」の「特別な条件」として、次ぎの事が定められている。
    イ 氏族(認証族)である事
    ロ 格式(従四位下以上)を有する事
    ハ 朝臣族(八色の姓制度)である事

    この「三つ条件」が存在する家に嫁す場合で、その家の「嗣子」の一人に先ずは「嫁家先」で「青木氏」を興させ、そして、その「青木氏と成った嗣子」を一代限りの「青木氏の嗣子」の「養子」とする場合にて成立する。

    この「青木氏」が、この「三つの条件」(イロハの条件)を持つ事は、「四家制度の四掟」は適っている事に成る。
    「嫁家先」の「女」と「嫁家先」とには、「格式差」は生まれない事に成る。
    つまり、この事は概して云えば、“格式を下げない”と云う事であろう。
    依って、「青木氏の嗣子・養子」と成り得る事に成る。

    唯、ここで「二つの補完策」の内、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」の内、「同祖祭祀」の補完策だけは異なっている事がどうしても起こる。

    然し、この場合は、つまり、この「三つの条件」には「祭祀」として「格式」を同じとする以上は必然的に「比叡山の天台宗」の可能性が限定されるだろう。

    即ち、この「天台宗」は、「天皇家の上皇や皇子」も入信する「密教宗派」に属する事もあって、同祭祀とは成らずとも、古代の「密教浄土宗」とは、「“仏系を同じくする事”」と、「顕教」では無く、“「密教とする事」”から同格として許容している事に成り得る。

    (注釈 天台宗は、「密教」でもあって、「顕教」でもあるとする柔軟な教義を持っている。)

    そこで、故に、先ず「嫁家先」で一度、直接に「青木氏の嗣子の養子」と成るのではなく、先ず「青木氏」を興して、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」にしてから、福家の元に戻して「青木氏の嗣子の養子」とするのである。
    これで、必要な「条件の格式」も得て「同祖祭祀」が成立し、「四家制度」に依って育てられた「嗣子・養子」の「男女」にも問題は無く成る。

    但し、そこでこれには当然に「嫁家先の同意」も必要と成るだろう。
    この「同意」には、「嫁家先の利害」が大きく絡む事から成立にはかなり双方に「政略的な意味合い」が働いての解決事と成ろう。

    これで「女系の青木氏の補完策」は完成し、「四家制度の欠陥」を「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」に加え、「第三の女系策」とで補完している事に成る。

    さて、ここで、次ぎの疑問点である。
    「嫁家先の同意」とこの「補完策」を採った「時期と理由」である。

    それは、先ず上記の「青木氏」が独自に採った「三つの補完策」と、次ぎに「天皇」が執った外部からの「藤原秀郷流青木氏」の「第四の補完策」である。
    「天皇」が執った外部からの「藤原秀郷流青木氏の補完策」(「第四の補完策」)は、記録から「人」(円融天皇)も「時期」(958年頃)も「理由」(賜姓五役の推進策)も明確に成っている。
    これは「嵯峨天皇の詔勅」に依り「青木氏」が「皇親族」から離れた事に依る弊害(賜姓五役の遂行の衰退)の補填にあった。

    然し、「青木氏」には「三つの補完策」の「時期」についての正確な記録資料が消失して見つからない。
    唯、概要は諸々の文書の読み取りで判る。

    先ず問題は、「三つの補完策」の「時期」の問題点である。
    「四家制度の四掟の時期」と同じくしていない事が判る。
    それは、上記の「女系策」からも読み取れる。

    「三つの条件」の「イロハ」が時代に依って難しく成る事である。
    イ 氏族(認証族)である事
    ロ 格式(従四位下以上)を有する事
    ハ 朝臣族(八色の姓制度)である事


    そこで、「女系策」を判別すれば他の二つは判る事に成る。

    先ずは「政略的な意味合い」が働いている事は先ず間違いは無いとすると、次ぎの事が考えられる。
    先ず理由としては、次ぎの事が考えられる。

    1 「青木氏の嗣子跡目」が逼迫した事。
    2 他氏との関係性の強化策に必要とした事。

    「1の逼迫」には、次ぎの事が云える。
    A 根本的に「四家」に必要とする為の「絶対数の嗣子」が少なく成った事。
    B 「他氏との血縁関係」が活発に成り男女ともに不足した事。
    C 「青木氏の立場」が大きく変化した事。

    「2の他氏との関係性」では、次ぎの事が云える。
    A 「時代の混乱」から「青木氏」を護る為に「他氏との繋がり」を広め強化した事。
    B 「四家の弊害」(能力 マンネリ化)を解消する時期であった事。
    C 「四家の弊害」(血縁性 純血性)を解消する時期に来ていた事。

    この時期の答えは、「三つの条件」のイロハに出ている。
    そもそも「賜姓五役と云う立場」にあり、これを務める事を主務として「四家制度」が採られている。
    だとすると、少なくとも、この「イロハの条件」、即ち、「格式の適合」に適うとこからの「血縁」と云う事が前提と成る。
    これは始めからの話であり、態々、「女系策」と云う事には成らず、当然の血縁先と成ろう。
    従って、「1の逼迫」と云う事には当たらない。

    そうすると、「2の他氏との関係性」と成る。
    では、2のABCの何れかと云う事に成るが、この「女系策」を採った時期に関わってくるだろう。
    少なくとも「女系策」を採る前は、「男系の嗣子・養子」の「四家制度」で済んでいた筈で、それは、奈良期から始まって、平安初期までは男系に依る「四家制度」であった筈である。
    つまり、「施基皇子」が「伊勢王」として都で遙任し国司(三宅岩床連)を置いて務め、その後、伊勢に退任してから、「聖武天皇」に男系が出来ず、結局、「井上内親王」と施基皇子の四男の「白壁王との婚儀事」で「光仁天皇」−「春日宮天皇」−「光仁天皇」の子の「山部王」が「桓武天皇」が即位し、「志紀真人族」が続く事に成り、「平城天皇」−「嵯峨天皇」に繋がった。

    ここで、より「後裔の氏族」の「志紀真人族青木氏」としての立場が強化された。
    「新撰姓氏録」にも「志紀真人族で朝臣族」で「春日真人族」の「同祖同縁」として特別に記載されているところでもある。
    従って、約100年後の「平安初期」と云う事に成り、この「立場の強化」(天皇家の出自元)の為には、「2の他氏との関係性」のABCの全てを講じる必要性に迫られた筈である。

    上記の「女系策」が判れば、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二つの補完策」の時期と理由が読み取れる。

    先ず、「同世男系」は、「同世」である事と云う必要性が切迫して起こった時期と、「男系」であると云う事の必要性が切迫して起こった時期である。
    この「二つ掟」は、奈良期からの「青木氏に課せられた慣習仕来り掟」としては「普通の事」の社会であった筈で、それを態々取り立てて、「固い掟」にしなければ成ら無く成った時期は何時なのかである。

    一つは、聖武天皇期の「皇位継承者」が欠如し、その後の「光仁期」と「桓武期」に架けての時期、つまり、「平安初期前後の時期」である。
    二つは、「氏族」が激減する室町期初期から中期の時期で、つまり、「下剋上期と戦乱期」である。

    一つの目の時期に取り分け必要としていたのは、奈良期から「女系」が多く続き、政治には「男系の必要性」を強く見直さなければ成らなくなった時期であった事から、「男系」が態々「固い掟」として定め直したと考えられる。

    二つ目の時期に取り分け必要としたのは、「下剋上と戦乱」で「継承者」が激減し、或は、「氏族の郎党」として働いていた「姓族」が「氏族」に代わって台頭し、「跡目継承」が困難と成った時期で、「格式」を重んじて「血縁関係」を維持するに逼迫した時期でもある。

    従って、この「二世代」に限らず、「三世代、四世代」までを「嗣子・養子」として拡大しなければ「賜姓五役」としての「青木氏」が維持できなくなった事から、「同世」の「固い掟」を、態々、「掟」に明記したと云う事に成る。

    「四掟」,即ち、「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけでは、時代に反映して切迫している状況の中では「便宜的な解釈」が起こり、この「解釈」に依って変化して護れなくなったと観られる。
    そこで、其の侭で行けば「掟の崩壊」が起こると予想され、「同世男系」の文言を「掟」に補完的に態々書き加えたと考えられる。


    次ぎは、「同祖祭祀」である。
    「青木氏」は、「祖先神の神明社」で「密教浄土宗」である。
    「祖先神の神明社」は、「皇祖神の子神としての立場」にある。
    「密教浄土宗」は「法然の浄土宗」の前の「古代仏教」を基とする宗派である。
    「祖先神の神明社」と「密教浄土宗」は「神仏同源」としている。
    「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけの「四掟」に於いて、この「二つの事」を祭祀する事に「差し障り」が生まれたとする訳である。

    つまり、態々、「掟の補完」をしなければ成らなくなった時期は何時なのかに関わる。
    「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけも解る筈なのに、ここで「何か支障」が出た事に成る。

    そうすると、考えられる事は、“「神仏同源」”を敷いている「青木氏」に執って周囲との間に「神仏同源」を強い要る事に変化を来した事に成る。
    そもそも、又、「青木氏」は、仏教伝来期の奈良期から「神仏同源」の為に“「達親制度」”を敷いている。
    この「達親制度」にも問題が出た事にも成る。

    そこで、鎌倉期には、「最澄の天台宗」、「法然の浄土宗」、「空海の真言宗」と「三代宗派」が興り、夫々、宗派拡大の宗教戦争の様な事が起こった。
    要するに密教はどうあるべきかの「密教論争」である。
    そして、この「三つの宗派」にはこの「密教論争」が興り、「密教」を否定する「顕教」が生まれ、「浄土真宗」や「日蓮宗」等の多くの分派が発祥した。

    夫々の分派には各身分階層に分かれて入信者を増やした。
    当然に「法然浄土宗」は「密教」を宗旨としたが、古代仏教から発展した「青木氏等の密教浄土宗」との間にも、「賜姓五役」と云う「立場」を護ろうとする違いから、「宗旨の乖離」が生まれた。
    この為に、「格式」を「固い掟」として重んじる事に血縁を進める場合に「四掟との違い」が同じ「40程度の氏族」との間に発生してしまったのである。

    “「神仏同源」と「達親制度」”は、そもそも「青木氏の根幹」を成すものであり、これを崩す事は、「青木氏の滅亡」を意味している。
    「同祖祭祀」を護る為には「神仏同源」と「達親制度」が必要であり、その“「神仏同源」の「考え方」を維持するには、「達親制度」でこれを支えている構図なのである。

    この事からすると、時代に依って「宗教改革」(密教から顕教に変わる事)が進むと「青木氏」に執っては、同様に滅亡を意味する。
    従って、“「神仏同源」と「達親制度」”を護る為にも“「同祖祭祀」”を明記して補完したと考えられる。
    その時期は、「鎌倉期初期」であろうと観られる。

    従って、“「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料の「掟の文言」には、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二つの補完策」の時期と理由が読み込んでいると取れる。
    故に、「平安初期の女系策」と共に、「三つ補完策」が取られた事に成る。

    (注釈 この「神仏同源」には、「柏紋の青木氏の神職」、「柏紋の青木氏の住職」が存在する所以でもある。)

    注釈として、そもそも、「神仏同源」の文言は、「神仏習合」とは異なる。
    「青木氏」に執っては、「二つのものが組み合わさる事」では無く、「その元を同じくすると云う事」であり、そこに「青木氏の密教」が成立していたのである。

    「青木氏」に執っては「仏教の変化」が起こる事は、「神仏同源」の考え方としては好ましい事では無い。
    「青木氏の記録資料」では、“「同祖祭祀」”と共に、“「神仏同源」”の文言で書かれている。
    故に、「神」では「御師」、「仏」では「禰宜」、この「二つの主教の行事」を取り持つのが「達親」であって、分離していないのである。

    そして、これと「四家制度」とを組み合わせているのが「福家制度」なのである。
    この「福家制度」は「四家制度の差配」と「賜姓五役の差配」を仕切るという構図に成っている。

    「仏教の変化」が起こる事は、全体の「青木氏」の「同宗の仕組み」を壊す事にも成り兼ねないである。
    故に、少なくとも「青木氏の石垣」を崩さない為にも「時代の変化」に対応して「二つの補完策」が是非に必要としたのである。

    (注釈 “「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料と共に、この様に「三つの補完策」の資料は室町期中期に頃までにまとめられたものである事が判る。
    この記録は、「祐筆役(執事役)の菩提寺の役目」でもあった事もある。
    「全国の500社の神明社」には地方毎の事で直接的な解明資料には成らないし、松阪の「菩提寺本寺の消失」で資料の保存状況は完全ではない。)

    天皇に依る「政治的な補完策」として、「外部の秀郷流青木氏」に依る補完策は、全面的な部分に依る補完(958年頃)であって、上記の「三つの補完策」(「女系策」「同世男系策」「同祖祭祀」「神仏同源」)を効果的にする意味でも、時期的にも「絶好的な政策」であった事に成った事が判る。

    (注釈 「青木氏の歴史観」としては、むしろ、「武家貴族の格式」を交換条件として「秀郷流青木氏」として与えた事だけでは無く、「青木氏」の「保全の努力」を観て、少なくとも「賜姓五役」を継続させ、「志紀真人族」としての「出自元」を「天皇家」として護ろうとしたと観られる。
    「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」から外されたが、ほぼ100年後の事ではあるが、その意味で「同祖祭祀」「神仏同源」の補完策は一族の者に対して、「四掟」の「同宗同族同門同紋」の文言の「引き締め効果」があったと考えられる。
    故に、“「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料と成ったと考えられる。)

    さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

    「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
    「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

    「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
    「同世男系」の補完策が取られた。

    「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」を第四世族り「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
    「女系策」の補完策が取られた。

    「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。
    鞍作部止利作の賜物の大日如来坐像をステイタスとする事。
    「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

    この様に「四掟」を補完して定義されている。
    これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
    この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。









    > 「伝統シリーズ−36」に続く


      [No.353] Re:「青木氏の伝統 34」−「青木氏の歴史観−7」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/18(Thu) 09:44:31  

    「伝統シリーズ−33」の末尾

    >「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

    >前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

    >この事と同時に江戸幕府は「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

    >(注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

    >従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。




    「伝統シリーズ−34」

    そこで、更に、論じて置かなければならない事が「青木氏の歴史観」としてある。
    それは、取り分け、“「家人」”に関わる「歴史観」である。

    この事を認知して置けば、この「矛盾」を見抜く事が出来るし、自らのルーツの「正しいロマン」を醸成できる事に成るだろう。
    この明治期まで「青木氏」に仕えた「小郷氏」等の事を「青木氏」では、「四家制度」の中で“「家人」”と呼んでいた。
    この“「家人」”には、「青木氏」の「職能部の頭」(青木氏部)には娘を嫁がせて、その生まれた嗣子の一人に今度は実家の「青木氏」を名乗らせて、「四家制度」の一員とする“「家人の青木氏」”が在った。
    又、この「職能部の頭」にも「青木氏」を「縁続き」(嫁ぎ先)で名乗らせる“「家人の青木氏」(「職能家紋の目結紋類で変化を付けた)”も在った。

    (注釈 前段でも詳細に論じてはいるが改めて概要を記すと、「四家制度」では「男系女系」の差が無く「孫域」までを、「孫」と云う概念が無く、「青木氏嗣子の子供」として定められていて「福家」で「共同」で育てた。)

    奈良期からの「賜姓族の臣下族の慣習」では、この“「家人」“に付いては「家来」と呼ばず「氏族」としての護らなくてはならない理由があって、その為に“「家人」”と呼んでいたのである。
    これは、幾つかの「血縁と所縁」で結ばれた“「同族の家」”が集まり、一つの“「氏」”と云う大きい「集団形体」で「枝葉の姓」を作らず構成する事からの手段であった。
    そこでの何らかの「薄い血縁」や「所縁のある者」で厳しく言えば「主従関係」、或は、緩く言えば「統率関係」が構築されていたのである。

    従って、一種の「契約」に依る「無血縁の臣」(無縁 後の家来/家臣)で構成されているのでは無く、「血縁族・所縁族の人」で構成される事を意味する事から“「家人」”と呼ばれたのである。
    つまりは、これが「氏」と云う形で構成される「下支えの構成族」(家)の「一つの族」の事である。
    そして、この「主従の者」を「氏と云う形の人」として、朝廷はこれを維持している「統一した氏族」として「公認する仕組み」であった。
    それでなくては「氏族」として認めなかった。
    これが、「姓族」と異なる「氏族」の所以もである。

    (注釈 江戸期に「家臣」の下に「媒臣」があって、この者を「家人」と呼んでいた事もあり、下級武士の下に働く「農民の奴」を「家人」と呼ぶ様に成ったが、これ等には血縁の何物も無かった。)

    要するに、「氏族」の「家人」は、「朝廷の認証族(氏族)」の「准認証族」(准氏族)とも云える。
    この形が形成されていなければ、それは「氏族」とは認証はされない「仕組み」でもあった。
    これは前段で論じた嵯峨期に偏纂された「新撰姓氏録」の記載する処でもある。

    そこで、「青木氏の氏族」を理解する為にも「青木氏と関わり」のあり、この事を明確にしているこの「嵯峨天皇と新撰姓氏録の事」を先ずは論じる事とする。

    (注釈 そもそも、何故、「山部王の桓武天皇」の平安初期の直ぐ後に子供の「嵯峨天皇」が、このここに至って「新撰姓氏録」を編集したかが判る。
    「聖武天皇」の「直系族」に「男系族」が無く成り「皇位不継承」と成り、唯一人の皇女の「井上内親王」のみと成った事から、唯一遺されていた「春日真人族の第四世族の志紀真人族」の「白壁王 光仁天皇」と婚姻させて「正統性」を何とか確保した。
    本来は「真人族」でありながらも、「第六位皇子」である事から「第四世族までの王族」をも捨て「皇族賜姓臣下族」と成り、「皇親族」として「賜姓五役」(令外官)を務める事に成ったのである。
    つまり、「格式の継承」から観れば、「継承権」があって「継承権」を捨てた立場に成った「唯一の氏族」であった。
    依って、「継承権」では“「准の立場」”にはあった。
    これで、「青木氏の准の使用許可」の意味合いが良く判る事でもある。)

    この「家人制度」(「朝臣族の臣下族」でありながらも「真人族」の特別の「賜姓の氏族」)を維持している事に依る「准の立場」から、「白壁王の光仁天皇」と「施基皇子の追尊 春日宮天皇」の子が「山部王」の「桓武天皇」と成り、「施基皇子」からは曾孫の「嵯峨天皇の継承」と成ったのである。
    そこで、「嵯峨天皇」は、「天皇家の正統性」を整理する意味からも複雑化した「真人族」と「朝臣族」を系譜化しようと試みた。
    もっと云えば、複雑化していた「皇族系の系譜」を見直して「格式」を明確にし、主に「継承権のない朝臣族」、並びに元は「真人族でない朝臣族」との「系譜上の区分け」を試みたと考えられる。
    この「区分け」で、それは「正統性」を意味する事に成り、「志紀真人族の青木氏」の”「三司」(平安期の官位の呼称)”の「准の使用根拠」にも成り得ると考えたのではないか。
    つまり、これは「家人制度」を維持していない正当でない「朝臣族の臣下族」が増えていた事を物語り、この朝臣族でも真人族で無い朝臣族は勿論の事、更には血縁性の無い朝臣族まで発祥していた。
    「嵯峨天皇」は、これを改める為にも「天智天皇」が定めたものを、「嵯峨期の詔勅」を改めて出し直した事に伴って、正統に系統化するとともに、合わせてその“今は「准の立場」であるが、本来は「准」でないとする「先祖の正統性」を100年後の今に明確にしたい”と云う考え方の下にその「証明書」を作ろうとしたと考えられる。

    そこで、その基準を「家人制度の有無」と「四家制度の有無」に於いたと考えられ、これで或る処までは「系譜化」は出来たが、さらに整理に至るまでには未だ期間と難しさが掛かることから一度は頓挫した。
    しかし、何としても形の上でこの「証明書」を作り上げたいとして、所謂、「新撰」として「未整理状態」で“「広布」“をしたと云う処ではないかと云える。
    この「新撰の意味」は、この「未整理の範囲」でも、所謂、「証明書」には何とか成り得るとして、改めて「広布する範囲」として認めた処にそこに意味(ある種の思惑)があったと考えられる。
    従って、「新撰の意味」と「准の意味」は、判り易く云うと“「公布」”では無く、“「広布」”であった事に成る。

    (注釈 故に、そもそも、その証拠として、例えば、「源氏」には「賜姓源氏 11流」と「賜姓で無い源氏 5流」がいて、「家人制度」を敷いている「賜姓源氏」と、「敷いていない源氏」もあり、更には、「四家制度をしている源氏」と、「敷いていない源氏」があるのはこの事に依る。)

    と云う事は、何故、この「新撰姓氏録」を、態々、この時期に一度「頓挫しかけたもの」を、又、「未整理のもの」を出そうとしたのかである。
    「頓挫や未整理」であるのなら慌てずにそのままに後に引き継いでも良かった筈である。

    ところが実は、この時期に朝廷内では、この「継承権の議論」と云うか、「藤原氏の勢力拡大」も狙ってこの「継承権の話」が出ていたのである。

    (注釈 これ等を整理するには、そもそもその原因と成っているはっきりしない「継承権の問題」があった。後の「新撰姓氏録」を整備する上でも「この基準の一つ」を造り上げて置くことが必要であったと考えられる。)

    それは、父である「桓武天皇」と兄で先代天皇の「平城天皇」を向こうに廻して「ある種の軋轢(皇位継承)」があった事が記録(「続日本記の削除問題」)として伝えられている。
    これが「大事件」まで発展した。

    注釈として、本来は、「実子」の「平城天皇の子供」が「継承権」を持つが、「嵯峨天皇」は”「直系」”の「志紀真人族の血筋」を引く自分にあるとしたのである。
    つまり、況や、”「直系」”と云う意味の捉え方である。
    前天皇の弟を最も”「直系」(A)”と考えるか、前天皇の子供を最も”「直系」(B)”と考えるかにある。
    前天皇を前提としては、血筋は(A)であり、現天皇としては血筋は(B)と成る。

    桓武天皇から観れば、「直系」は(A)であり、皇子の平城天皇から観れば、「直系」は(B)である。
    同じ立場の弟の皇子の「嵯峨天皇」にすれば、血筋で濃い「直系」は自分であるとしたのである。
    つまり、「縦の継承」を続けると、(A)の直系論理が生まれ、前天皇に皇子が居ないと「横の継承」が起こる。
    その後は、(B)の論理が生まれ、この時に(A)か(B)の何れかを「直系」と定める必要が起こる理屈と成る。

    この直系の事が、「皇位継承」のみならず、「青木氏の歴史観」にも大きく左右した「施政の事(問題に成った「監察使」等の事)」でもあって、この「処置の仕方」に付いての「軋轢」もあった。
    結局は、この事を整理しようとして、”「監察使」”までを「嵯峨天皇」(令外官)は廃止した為に更に軋轢は拡大したのである。
    この事等を含めて「父と兄と藤原氏」とで対立して「薬子の変・平城上皇の変」が起ったのである。

    つまりは、「志紀真人族の後裔の氏族である青木氏」に執っては「氏存続」を一部否定されたと同然の扱いに同族の嵯峨天皇からされた事に成る。
    又、「賜姓五役」を持つ「青木氏」に執っては、この「皇親族の令外官」であった事からこれは拙い。

    つまりは、注釈として この”「監察使」”とは、「天皇直属の参議」で、「桓武天皇の勘解由使」から「平城天皇の監察使」、そして、「嵯峨天皇の参議」と変化した。
    元々は、「天皇の代官」として「天皇の直接の意向」を背景に、「政治と軍事と経済」の施策に直接に力を発揮する「令外官の事」で、これを元は「参議官」が務めていた。
    然し、親と兄の「二人の天皇」は、更に詳細に渡り強化する為に「勘解由使と監察使」のこの制度を設けた。
    つまり、これが天智期から引き継いだ”「皇親政治の制度」”であり、この時は「青木氏」等が「賜姓五役」(令外官)として務めていた。
    ところが、然し、これを「嵯峨天皇」は「直系の(A)」を根拠にして廃止したのである。

    これが前段でも論じた「嵯峨天皇の詔勅」(「皇親族」でなく、且つ、「役目の無い賜姓族」 「賜姓源氏」)と云う形で正式に表に出たのである。

    況や、つまり、自分が所属する「志紀真人族」の「皇親族の青木氏」を廃止し、その為に、「単なる役目の無い、且つ、権威の無い賜姓族」として、”「賜姓源氏」”と云う「氏族」に換えた。
    そして、その代わり「妥協案」として、以後、「皇位継承」から外れ排出される「真人族」には、「青木氏」を名乗る事を許したのである。
    然し、「青木氏」を増やす事禁じたのである。
    この「志紀真人族系の血筋を持つ氏族」には、これが「賜姓臣下族」として自活する「五家五流青木氏の跡目」などに入る事を認めたのである。
    「賜姓五役の五家五流」に入れない者は自活する路しかなく、地方の豪族の中に入った。

    (注釈 正式には18皇子、15皇女が排出されたが、殆どは僧位か斎王に成った。武蔵の丹族に遺した「配流王」の「多治彦王」の「地方の後裔」の「丹治氏流青木氏の1氏」と、「清和源氏からの1氏」か生き残れなかった。)

    (注釈 財政難から源氏を名乗る賜姓臣下族には生活保障を打ち切った。詔勅に明確に記されている。
    故に、自活する賜姓臣下族の「五家五流青木氏」に何らかの形で入る事を認めた。)

    この”「監察使」”は、「勅命」を受けて「皇位継承の問題等の整理」にも関わったのである。
    親と兄の「二人の天皇派」は、”「監察使」”からの整理した報告から“「実子制度」”を主張したが、これを嫌った「嵯峨天皇」は「天智天皇と天武天皇」が定めた「第四世族内」の「第四位皇子内の継承権」を“「直系制度」”として理解して、これを主張した。
    「天智天皇」から「弟の天武天皇」、「天武天皇」から「妹の持統天皇」の様に「第四世族内の第四位皇子内の継承権」を原則に、“「最優先の二世族」の「直系族」が存在した場合は、「皇位継承権」を保持する“と主張したのである。
    要するに、“「内」”と云う語句を優先したのである。

    つまり、“「第四位皇子・皇女」で、「第四位皇子」までならだれでも良い”という論調を採用しなかった。

    「平城天皇」は、これ等の事を暗黙の「約束の下」に弟を「皇太子」として次期天皇として指名した。
    ところが、「退位」の後、弟の「嵯峨天皇」が、約束通りに「皇太子」を甥に指名しなかった。
    そこで、「復位」しようとして「薬子の変・平城上皇の変」が起こり失敗に至る。
    「平城上皇派」は立場を失って旧都に戻る。
    そこで、「嵯峨天皇」は異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名した経緯なのである。

    この上記の「注釈の複雑な経緯」を観ても、この時、全ゆる面から「皇位継承」を巡る「宮廷内部の論争とそれに伴う紛争」が起こったのである。
    その「論争と紛争の一つ」と成ったのは、「聖武天皇の時」に起こった様に、又、「直系性の継承問題」であった。

    “継承者が不在と成った時に、「准」の「第四世族の春日真人族」と、その系列の「志紀真人族、第六位皇子」 「浄大一位の格式の持つ氏」の「直系」の我にある”としたのである。

    「敏達天皇系(春日真人族)」から「第四世族の志紀真人族」の直系の自分に「継承権」があるとし、「平城天皇の子供」には、「天智天皇」が定めた「四世族内制」に従えば、“「平城天皇の子供」には無い”と結論付けたのであろう。
    故に、「直系族の第四世族」の“より「直系」”である異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名したし、自分も「直系制」を用いた。

    この事で、「志紀真人族」の「直系族」が「天皇家の系譜」として、以後、引き継がれて行く事に成るが、「嵯峨期以降から鎌倉期後期(38代から95代の57代)」までの「天皇家の系譜」を観てみると、「大化期に定めた考え方」に沿い、ほぼ「半分」はこの“「内」の「直系制」“を重視する原則に従っている。
    57代中20代が「直系制」であるが、但し、「実子制」では、(57−20)から「女系や后妃嬪や四世族」等の「本来の実子」ではない歴代を除くと、丁度、「半分」と成る。

    然し、「実子制」では、「実子」が存在しても、「実子の条件(若輩、能力、意思、血縁、格式、嫡子順、后妃嬪、妾子、人格)」が附添されていて、この事が左右して必ずしも「天皇」に成り得ていない。
    この事から考えると、「本来の嗣子」とされる「実子」では無く「実子制」は半分以下に成る。

    これには、上記の様に、上記の条件が叶えば、一度は「実子族」で継承しても必ず「直系族」がいると「継承権」を戻して「天皇」と成り得ている。
    この様に「直系族」「直系制」が「考え方の主導」と成っていた事から、平安初期の“「内」の「直系制」“を打ち砕く事で、有利に「藤原氏の勢力拡大」を目論み、この「薬子の変」とも云われる様に、「薬子の実家先」の「藤原氏の台頭」(仲成)が絡んでいたのである。

    (注釈 「直系制」であれば横に「継承権」を移動させる。ここではいろいろな「后妃嬪妾」の氏族から血縁が入る。然し、この「直系制」は延々には続かせることは兄弟の数が不足すれば一度、縦、つまり、「実子」に移動させねばならない。そして、又、「直系制」に戻す事が基本と成る。これを繰り返す。(血流の点では都合がよい。)
    この事では「摂関家の藤原氏の勢力」は強く成らない。ところが「実子制」であればこそ外戚は強く成り得る。
    ここに「勢力争い」が起こった。「摂関家の力」が強く成れば「天皇の力」は外戚から牽制されて弱く成るは道理である。
    一種、「実子制の継続」は「藤原氏の娘嗣子」を次ぎ込み続ける事に成る。
    従って、形の上からは「天皇の地位」を乗っ取った事にも成り得る。
    基本的にはこの「争い」である。)

    つまりは、この「直系制」があると、「八色の姓制」で「藤原氏外の婚姻([新撰姓氏録]の真人族)」が成立する事が起こり、「斎蔵の摂関家の藤原氏」は、「外戚」であっても「永代の朝臣族」である限りは、常に「継続する勢力拡大」は成し得ない事に成る。
    下手をすると、「斎蔵の勢力」もこれらの「真人族(后妃嬪)」に奪われる危険性を孕んでいたのである。
    (宇多天皇(59代 890年代)から藤原氏外戚が170年間続く)

    「嵯峨天皇」が、何とか「新撰姓氏録」を出す事で、「准の立場」も含めて「継承権のある真人族」を明確にし、「外戚」は兎も角も「朝臣族である藤原氏の立場」を明確にして、ブロックして「天皇家の保全」を保とうとしたとも考えられる。
    「外戚」で堀を埋め、今度は「本丸」の「天皇の立場」も奪われる可能性を危惧したのではないかと考えられる。
    それは、「嵯峨天皇」の祖父と曾祖父(志紀真人族で賜姓族; 光仁天皇と施基皇子)が、「准の立場」で、且つ、「臣下族の立場」でも「天皇」に成り得たとすれば、「外戚(摂関家)」も「准」と「公家の立場」であるとする理屈を付ければ「天皇」に成り得るとする考えが争いの中に充分にあったと考えられる。
    これは上記した様に、まさしく「真人族の確定」と「新撰姓氏録の広布」と「准の使用」と「直系族の掟」と「皇親族の廃止」の施策は筋が通っている事に成る。

    現実に、その証拠に「藤原氏外の婚姻」の「後三条天皇(71代 1070年代)」からは明確にこの現象が起こった。
    然し、この時期は、「直系族」が居ながらも「実子制」を三代続けて行うが、ところがそこからは「直系制の傾向」がしばらく続く。
    つまり、「藤原氏外の血縁」が三代で出来上がり、そこからは「直系制」で行けば完全に「藤原氏外の血縁族」が「天皇家」に続いた事に成る。
    言い換えれば、「藤原氏の外戚の勢力」は弱くなったと云う事を意味する。

    そこで、しかし、この直前の「円融天皇(64代 970−990年代)」は、「藤原氏の外戚の勢力」は強く成った頃を見計らって、態々、「青木氏」は既に「皇親族」から外されていながらも「青木氏の補完策」として「藤原秀郷流青木氏」を創設したのである。
    これは政治的な大決断であった。

    これはある意味で“何故なのか不思議”な事でもある。
    実は、これには「家人制を採っている氏族の青木氏」に執っての重要な「歴史観の意味」を持っているのである。

    つまりは、「実子族」が続く「藤原氏の外戚」とする「天皇」の最中に、そもそも、「藤原氏」を外戚とする「円融天皇」に依って「青木氏の補完策」が取られている事だ。

    この“何故なのか”の答えは、これは少なくとも「摂関家の内部勢力争い」に振り回され、「政治の主導権」を握られていて、「天皇が考える政治の遅滞」を恐れて「青木氏の秘書役」を以って密かに「内政の進行」(令外官の監察制度 賜姓五役)を強化したのである。

    そこで「青木氏」を元の「皇親族」として「参議にする事」は、「藤原外戚が拒む事」が起こるし、下手をすれば「青木氏との争い」とも成り得るので、「賜姓臣下族」を其の侭に引き出す事を止めて、「東の武蔵の勢力拡大中」の「秀郷流藤原氏」(俵藤太)を利用したと考えられる。

    これには、「二つの理由」があった。
    それは、一つ目は、東の「将門の乱」の「功績の条件」に貴族(位階従四位下)を要求した事。
    二つ目は、「武蔵藤氏」は「西の摂関家」に対して反抗していた事。
    実は、この「反抗」を示す事例として、「藤原氏の総紋」の「下がり藤紋」は「下がる」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋したが、「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」はこれに従わなかった。
    この「二つの事」に目を付けて、「円融天皇」は「青木氏の格式と同じ扱い」を条件にして「青木氏補完役」を「累代第三子」がその義務を負う事を命じたのである。
    これで「家人制を採る氏族の青木氏」は、その「権威の回復」と「賜姓五役の奉修復帰」を再び果たす事が出来る事に成った。
    この「権威の回復」と「賜姓五役の奉修復帰」の事が、家人制で成り立つ事が出来、且つ、出来て氏存続の前提は確約された事に成ったのである。

    注釈として、その為には「秀郷流青木氏」が絶える事があってはならない。
    その為に、改めてこの「秀郷流の青木氏」が絶えることが無い様に「宗家から累代第三子」が「秀郷流青木氏の跡目」を引き継ぐ事を命じた。
    「武家貴族」と成った「家人制の氏族」が他に存在する事と成った事で、二つの「家人制を採る氏族の青木氏」はより強固な氏族を造り上げられたのである。
    「武家貴族」と成るかどうかが決め手と成った。

    藤原氏枝葉末孫の「関東の姓族の俵藤太」では幾ら補完を命じられてもそれは意味が無かった。
    当時の慣習としては、「賜姓臣下族」として「四家制度と家人制」で「氏族」を護る以上は血縁性には発展させる事は出来なかったからである。
    そこで、更には、「斎蔵」を務める「摂関家」を飛び越えて、且つ、「賜姓臣下族」と「最高級の官位官職」までを同格として扱われる事に成った。
    そして、その上で「四家制度と家人制」が強かった、先ずは「伊勢」から血縁は始まり、「近江」「信濃」と深い血縁は進んだ。

    (注釈 甲斐は平安末期清和源氏との血縁があった。)

    (注釈 武家の賜姓源氏や、皇位継承から漏れた「真人族」とも血縁が進み、遂には「秀郷流青木氏」は「摂関家」と「同格の地位」を獲得した。脩行系青木氏等
    清和源氏の摂津本流と河内支流は、各地に散在した枝葉の「11家の源氏放浪族」を集めて「武家衆団」を形成した事から「家人制度」は出来ていなかった。)

    (注釈 そこで、「賜姓臣下族の五家五流」から「藤原秀郷流青木氏」に、「秀郷流青木氏」から「五家五流青木氏」にどの様に血縁を結んだかを調べると、その要素は、実は「墓所」にある。
    「系譜」には「四家」から「娘の嫁家先」の明記が無く、その「添付書」にしか明記は無い。
    ところが、その詳細を書いた「添付書」は、一族が先祖の詳しい史実を知る為に書かれたもので、主に秘蔵が「仕来り」で相互の事が解けない。)

    そこで、この「二つの青木氏」の慣習には、その「浄土密教の慣習」としては「本墓所」とは別に「女墓」と云うしっかりした慣習があった。
    そして、ここに「累代の妃嬪」が刻まれている。
    これを相互に付き合わせれば凡よその事は判るのである。(系譜系のものは信頼性に欠ける帰来があり粉飾の偏纂性を排除するには「墓所の女墓」ではないかと考えられる。)
    この「女墓」には慣習として「戒名と俗名と享年」等とが刻まれている。
    この「俗名」を「相互の突き合せ」で婚姻が判る。

    最近ではこの「女墓の慣習」を続ける事は難しいが、出来たとしても「総宗本家」程度しかない。
    それを調べた範囲では、次ぎの様である。

    概しては、血縁律を10として、「賜姓臣下族からは3」、「秀郷流からは5」の割合程度で、相互に「女系]で血縁関係が成立している。
    時期は主に平安期中期頃から下剋上が起こる前の室町期初期にかけてであり、江戸期初期にも血縁官は起こっている。
    ピーク時を査定するのは「五家五流青木氏」の源平の争い等があって、その「栄枯盛衰」が血縁を左右させる事があって困難だが、どちらもその栄枯盛衰の最大時とされる1125年頃ではないかと観られる。

    格式も同役も同じである事から婚姻は成立しやすいし、その様に「円融期以後の朝廷」はこの「二つの青木氏」に仕向けたと考えられる。
    何故ならば、中には「嵯峨源氏」からも、「摂津系清和源氏」からも「跡目血縁」が、「近江佐々木氏」からも「女系血縁」、「近江佐々木氏系青木氏」からも「同祖血縁」、「五家五流間の青木氏」からの「同祖血縁」が起こっている。

    これらには必ず「高位の仲人」が立つが、「天皇の意」を汲んだ「朝廷の参議どころ」でなくては「仲人の格式」は成り立たない。
    況や、この様にして「朝廷(天皇)」は「青木氏の血縁」を強化して、より強固に「四家制度」と「家人制度」に依って「賜姓五役」(令外官)を維持させて遂行させたと考える。
    概して、この女墓から観た流れ図を見ると次ぎの様に成る。

    「源氏(嵯峨源氏・摂津源氏)」→「五家五流青木氏(四家)」←→「秀郷流主要五氏」←→「佐々木氏(青木氏)」
    ←→「五家五流青木氏(四家)」←「徳川氏(江戸期)」


    以上の血縁関係が、「施基皇子」を同祖同縁とする「直系制」が取られた平安末期まで出来上がっていった。

    (注釈として、これが「四家制度の範囲」と「家人制度の範囲」で行われた。
    この二つの相互間に綿密に関連する制度が「血縁関係」に大きく左右させていた事が判る。
    「四家制度」と「家人制度」が完全に確立して居なければならない訳であり、上記の事は理解できる。)

    (注釈 それ故に、男女に関わらず「孫域」までを子供として集めて、此処から「娘」は嫁家させ、上記の範囲で「血縁」を結んでいた。
    「男子の嗣子」は、概して「四家20家内」に納まっていた様ではあるが、「跡目」では無く「養子」と云う形で「郷士家」に移動している。
    そこで「男子」が多く生まれた場合は、「青木氏」を興し、「四家」に戻すと云う形式を採っていた様である。
    更には、「縁者、況や四家20家外での娘や曾孫」は、「郷士関係との血縁」に稼せられていた。)

    この様に、「同祖同縁の血縁」と、「家人制度」に依る「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

    但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流青木氏」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋類」と「目結紋類」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。
    「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは充分に確認できる。

    これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

    この様に「四家制度」と「家人制度」が接着剤の役割を果たし、血縁融合したが、「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」をも完全に補足したのである。
    注釈 これを得てとも考えられるが、1025年からは「二足の草鞋策」は総合商社化し、その財源を使って四家制度の整備と家人制度の強化を果たし、その事と相まって「二つの青木氏の血縁融合」は進んだ。
    「秀郷流青木氏」も「第二の宗家」と呼ばれるまでに至り、「秀郷流青木氏発祥」より100年後(1060年頃)には、一族一門の発展と共に「5氏による青木氏族」を形成する至るのである。

    この1050年代の同時期を境に「二つの青木氏」は、更に、100年後には共に最大の隆盛期を迎えるのである。
    「賜姓臣下族の青木氏」の「二足の草鞋策の採用の時期」と、「秀郷流青木氏の発祥の時期」とが同一としているのも無関係では無いと考えている。

    (注釈 「賜姓臣下族の青木氏の二足の草鞋」は、それまで「朝廷の部制度」の依る「和紙の開発と生産」で朝廷に納入する役で、その「余剰品」を一般の市場に卸す役目であった。
    これが奈良期の「部制度経済」であったが、その後、「和紙生産」が本格生産に成り、増加して「朝廷余剰品」が大量になり、これを許可を得て市場に売り捌く役目も担った。
    これが「青木氏の二足の草鞋策」の氏族としての正式な始まりであり、これを以って「賜姓五役の財源」とする事を求められたのである。
    記録でこの時期が925年頃と成っている。)

    「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」のこの三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

    個人情報保護の観点から、系譜や血縁関係の資料等を公的に出す事が出来ないが、上記のこれも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。




    > 「伝統シリーズ−35」に続く。


      [No.352] Re:「青木氏の伝統 33」−「青木氏の歴史観−6」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/04/18(Tue) 15:04:54  

    > 伝統シリーズ 32の末尾
    >
    > > (注釈 もう一つその理屈があった。
    > > 「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
    > > 「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
    > > それは「開幕の資格」の「武家の頭領」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
    > > 朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、「朝廷の伝統」を護った。
    > > 然し、その事で「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の頭領」では無く、「武家の長者」として代替した。
    > > 「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
    > > 要は「武家の頭領」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
    > > 重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が採れなかったのである。
    > > 従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
    > > 「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って「正当な家臣」と成れるようにした。
    > > 従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
    > > 中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
    > > これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)


    「伝統シリーズ−33に続く。



    参考として、青木氏が歴史上の路を走りに走った形跡として、確定できない「青木氏の歴史観」が未だ有るので、ここで論じて置く事にする。

    前段で論じた「青木氏」が「多くの殖産」で開発した早場米の「早稲光」と「光稲」は、その形跡を辿ると先ずは関西域に拡がり、次ぎに東北地方にも拡がったとされる。
    新潟県で昭和六年に開発された「水稲の極早場米」の「農林一号」の「親米」の基が、「早稲光」、或は「光稲」とに成っていると云われている。
    この「農林一号」のこれが後の「農林22号」と交配して「新潟米のコシヒカリ」と成り、全国26県に配られて拡がった事が判る。
    この「昭和6年に登録された農林1号」は、「寒冷地水稲」であり、「極早生種」で、「食味」もよく「多収量品種」であったとし、「耐冷性」を持つ事で有名であるが、その「稲の特性」は「青木氏」が殖産として開発した「早稲光」、或は、「光稲一号」に一致する。

    そもそも「森多早生(1913)+陸羽132号(1921)」がこの「農林1号(1931)」である。
    この「森多早生(1913)」の「親米」の「東郷2号(1901)」には、「早生米」があって、これが「基米」(伊勢の「早稲光」)と考えられる。
    ところが、江戸期の米種に付いてここから以前は辿れない。

    この「東郷2号」(1901)の凡そ「150年前」に「早稲光」、或は、「光稲一号」が伊勢で開発されて、「越前青木氏」と「越後青木氏」を通じてこれが越前越後域に移されている。
    とすると、この事から考えると、「光稲一号」が移されていれば江戸末期から明治期初期にかけて改良された「光稲二号」も移されているであろう事が判る。

    この「早稲光」、或は、「光稲二号」から観れば、「東郷2号」(1901)は15年から17年程度後の米種である。
    越前、越後域に移植され広まったとすると、つまり「20年以内であろう事」からすると、越前、越後で20年間生産された「早稲光」、或は、「光稲一号」、或は、「光稲二号」のこれを「親米」として「東郷2号」(1901)が生まれた事が充分に考えられる。

    「森多早生(1913)」は、福井、山形、青森の北陸一帯域に生産されていた「早生種」である。

    資料は見つからないが、この「・・ひかり」と命名したのは、江戸期に「青木氏」が開発したこの「早稲ひかり」、或は「ひかり稲」で、明治期の早い時期にも「青木氏」に依って「光稲二号」としても改良され、「酒米の大和」にも成っているが、「新潟酒の源米」も含めてこれが「基本米」(親米)に成って居た事からではないかと推測している。(研究中 記録が少ない)

    上記した様に、当時、「四大杜氏」の一つと呼ばれれた「越前の青木氏」から職人を招いて“「伊勢酒」”を開発したのである事から考えると、又、「新潟」はそもそも「秀郷流青木氏」と、逃避してきた「賜姓臣下族青木氏(諏訪族系青木氏)」の「最大の定住地」でもあるとすると、「早稲光」、或は、「光稲」は少なくとも「越後の青木氏」には移されている筈である。

    前段で論じた様に、この「殖産」を「商業組合」としての「15地域」に広げた事から考えると、「米移植」は、前段で論じた様に、「地権者」で「氏上さま」であった事から考えても先ずは間違いは無いだろう。
    この「早稲光」、或は、「光稲」は、「青木氏の定住地」として、伊勢、紀州、奈良域は元より琵琶湖域や、淀川域や、灘域や、美濃・信濃域にも広がりを見せた事は記録としても遺されている。
    この事から、定住地としてのその先の「越前―越後への拡大」も充分に考えられる所以でもあると観ている。

    そこで、江戸では同であったかと云う事であるが、室町期までとしては150万町歩、米生産量は約1800万石程度だったものが、享保時代になると、耕地面積が倍化して300万町歩、米生産量も50%増しの2600万石に成った。

    そこで、この事に依って庶民も「経済の発展」と「生産量の拡大」で“「白米」”を食べる様に成り、「炊き方」も“「蒸す方式」”の古来の“「こしき方式」”から“「せいろ方式」”へと移り、遂には“「炊く方式」の「窯方式」”になった時代でもあった。

    これは、「米種の改良」に依って出来た「炊く窯方式」に変化したのであるが、関東平野では享保期に「全国各地の米種」が多く試され、その中に「伊勢」から持ち込んだ「早場米」が在ったと記されている。
    享保期の「吉宗と青木氏」は、「伊勢平野の環境」から考えると、「赤城の山おろし」が吹く「荒川域の河川敷」を「酷似の適地」として生産された可能性が充分に有る。
    況や、よって前段で論じた「青木氏等の享保の改革」が推進したのである。

    「享保の改革」では、「米本位の幕府の財政」に影響する「米増産」と、その「米相場」も改革をした事から「米将軍」と呼ばれた位である事から、「吉宗−青木氏」に依っても伊勢の「早稲光」、或は、「光稲」は持ち込まれた事は間違いは無いと観られる。
    又、上記の北陸域からも「六地域の商業組合」に依って、「越前と越後の青木氏」に依って「早稲光」、或は、「光稲」の「改良型」の「早生米」が入っていたとも充分に考えられる。
    唯、どの程度の「使用量」であったかは判らない。

    そこで、この「使用量」を割り出す為に、「江戸期の享保期以後の状況」を調べると次ぎの結果と成る。
    先ず関東では、類似種を含めて米種は、「63種」、この内の「・・ひかり」は7国に、13地域に分布しているが、主に「ひかり種」はたった2種である。

    「早稲光」、或は、「光稲」が生産されたとする「適地域の湿原域」の「武蔵域」が主で、この地域の「・・ひかり」は殆ど「ひかりの2種」のみで、他の米種は少ない。

    米種の多い国は、全体の3地域、つまり、上記の北域3地域で45種/63種と80%で集中している。

    「関東の山裾」の「山間部」の三地域(茨城・栃木・群馬の3地域)が、これだけの「多品種の米種」が生産されていると云う事は、如何に気候的、且つ土壌的に適合性が無く厳しかったかを物語る。
    つまり、収穫量の多い「良質の米種」に恵まれなかったと云う事である。
    逆に云えば、これは北域の山岳部の裾野平野は、土壌と水質が良いにも関わらず未だ気候的に適する米種が少なく、尚更に、河川の洲域に開発された「早稲光」、或は、「光稲」の子孫米の「明治期のひかり種」の生育にも適していなかった事にも成る。

    これから観ると、矢張り、「早稲光」、或は、「光稲」の「子孫米」と考えられる「明治期の・・ひかり」は、資料から観ると試験栽培と研究開発を余りせずに、全て「赤城おろしの環境」に適した水質の良い「荒川の河川流域の洲域」に生育した事に成っているので、享保期に間違いなく「伊勢」から移されたものと考えられる。

    それが「享保期の記録」を改めて調査した「明治期の統計」で「親米」が「ひかり稲」である事で「・・ひかり」が用いられたと考えられる。

    従って、使用量は、「2種/63種」から2600・2/63=「83万石程度」と、三地域分を加算すると「90−100万石程度」が生産されていた事に成る。

    荒川域の当初は、酷い「河川反乱と塩害の被害」があって、江戸幕府は「河川工事」と「改良工事」に「莫大な費用」を投資したと記されているが、「米種の改良開発」と「試験栽培の事」は書かれずに、この問題の「二つを解決した事」で被害は解決して増量したと記されいる。

    前段で論じた様に、綱吉の時期に比べて享保期では、「生産面積」は倍化し、「幕府の石高」の取得料も200万石から400万石に増加している。

    つまり、差額分200万石は、荒川河川域の改良工事の為に収穫量が増大したものであって、その内訳は、結局は、「武蔵域(埼玉・東京)」の「・・ひかり」の「親米の生産量100万石」と「山岳部の100万石」と云う事に成るだろう。

    これから観ると、「・・ひかり」は100万石/400万石で「25%程度の収穫量」と成る。


    では、どの程度の収穫量が良かったのか、況や、何故、「早稲光」、或は、「光稲」の「子孫米」のこの「・・ひかり」の「米種」を選んだのかと云うと、次ぎの様に成る。
    「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が、他のどれよりも優れていた事を示すデータがあるが、これが同時に選ばれた理由なのである。

    上記した様に、享保期の遺された資料には、「耕作地」が元禄期の「150万町歩」から享保期では「300万町歩(平方)」に増加したので、「増加分は150万町歩」と成る。
    そうすると、享保期の関東域全域は32300K平方、南関東域は13300K平方である。
    とすると、「南関東域は41%」である。(南関東域は伊勢北部域の環境性に一致している。)

    この「41%の生産地・耕作地」に「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が生産されていたとすると、次ぎの様に成る。

    150万町歩・0.41=61,5町歩として計算すると、これが100万石に相当する。

    南関東域外 88.5万町歩−100万石 : 南関東域 61.5万町歩−100万石

    そうすると、一万町単位当たりでは次ぎの様に成る。

    南関東域外は 1.1万石/万町歩  南関東域は  1.6万石/万町歩

    これで「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」は、明らかに相当量に収穫量が高い事が判る。
    依って、「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が選ばれたのである。

    これでは「伊勢の実績」もあり、この事から「為政」に携わっている「青木氏と吉宗」は、そもそも、「早稲光」、或は、「光稲」を江戸の「荒川の河川敷の米種」として選ばない方が“何をやっていたのだ”と成って立場がおかしい筈である。
    そうなれば、意の一番に「適地適米の条件」にありながら放置する事の事態がおかしい。

    そもそも、このデータで観る様に、享保期には、当時の関東には、「早稲光」、或は、「光稲」以外に、類似米種を除いて29種あった。
    現在では8種である。
    従って、「幻の米種」(21種)と成ったものも含めて、この「29種」(全30種)に打ち勝って「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)は選ばれていた事に成る。

    上記した様に、「米の改良」と「炊き方」の進化で、庶民も「生活習慣」が変わり「白米」を食する様に成り、「享保の改革」も進み増産を余儀なくされていたのだが、この「幻の米種」(21種)の数は、この享保期では、「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)も含めて如何に米増産に本腰を入れて取り組んだかが判る。
    この「研究開発」を除き、「各種の米種の苗付」が、白米の使用と開発の速度に対して「研究開発」では間に合わない事から各地から取り寄せて多く試植されていたかが解る数の事に成る。

    上記のデータは、「米将軍の吉宗」は、この自らの故郷の「伊勢の青木氏の殖産」で開発した「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)に対して「享保の改革」に寄与する事を期待していたかが解るデータである。
    庶民から「米将軍の呼称」を受けたのは、大阪と江戸に「米相場を開設」をして安定化させただけではなく、此処にその根拠もあったのである。

    さて、「享保の改革」に関する「青木氏の歴史観」は、暫くとどめておくとして、次ぎに、この「改革」の中心と成っていた“「射和組」と「松阪組」”がどの様になっていたのかを掘り下げて置く必要がある。

    そこで、先ずは、「伊勢」でのこの「射和組」と「松阪組」の「青木氏との関係」「加納氏との関係」は、血縁的にはどの様に成っていたのか気に成るところでもある。
    この事は、「伊勢衆」の「郷士衆」との「繋がり具合」を証明する事にも成り、江戸以降の「伊勢の生様」が良く判る事にも成る。

    そもそも、この事で「全国の青木氏」が定住する地域で同じ様な事が少なくとも起こっていた事であり、取り分け「商業」をベースに「二足の草鞋策」を成功させていた「15地域」ではこの様な「地域性のある出来事」が起こっていた事が地域毎に遺されている資料でも判る。
    これは特異な事では無いのであり、「青木氏の歴史観」が増幅させられる事でもある。

    ただ、「二足の草鞋策」を敷いていたこれらの地域では、次ぎの様な事があった筈で、「研究の過程」では常に痛感する事であった。
    何よりも、その「15地域の商業組合」には、必ず「商業」と「地域の特徴」を生かしたもので”「殖産」”を必ず敷いていた。

    所謂、これが当時としては特別な進んだ「共通点」であり、現在で云う「生産から販売のシステム」である。
    この「共通点」は、平安初期の朝廷の「紙屋院での余剰品」を「部市場」に販売した時から始まったものであり、この「殖産(生産)と商い(販売)」は、925年の頃から始まったとされていて、その50年後頃には「秀郷流青木氏の補完」を受けて更に拡大したもので、“日本広し“と云えどもどの商業にも無いシステムであった。

    そもそも、これ程、古い悠久の歴史を持っている「商い」は他に無い筈である。

    単純に「生産者」から「現物」を購入してそれを「販売する」のではなく、「地域」に「根」を下ろし、自らが「商業の進展」「時代の要求」に合わせて、「殖産」で「生産」も拡大させるという「商業と興業」の「組み合わせのシステム」である。
    この「殖産」が拡大すればするほどに「氏子」は潤う。
    「氏子」の「郷士と農民」は、「享保の改革」で論じた様に、中には伊勢の紙問屋の伊勢屋の”「仏施の質」”を受けて「農業」の傍ら家に「仕事小屋」を作り、「田畑勝手作の令」の枠を掻い潜り、他の村からも「人」を集めて「下請けの村工場」まで営んだと書かれている。
    それは前段でも論じた「氏上と氏子の関係」、「古式伝統の維持」の上に立っている。
    それを重厚にする為に「商業の組合」で固めた方式である。

    そこで、その典型的な殖産の事例として、次ぎの様なものがある。

    伊勢の「射和組」には、「殖産」として“「金山寺味噌」”をベースに“「醤油」”も手掛けていた事が判っていて、この“「日本最初の発祥地でもある醤油」”は、元は「紀州湯浅地区」が「生産地」で、この「醤油つくり」が「紀州藩の肝いり」で「松阪」にも移した事に成っている。

    注釈として、「伊勢」で行われた「殖産の事例」としては、次ぎの様なものがある。

    そもそも、この「醤油」とは、次ぎの様な経緯で産まれた。
    「金山寺味噌」と云う「紀州名産」が古来よりあって、「中国の金山寺」から僧侶が持ち込み、「日本金山寺」で「僧侶の副食の精進料理」として食されていた。
    「味噌」と云う言葉があるが、「みそ製造」と同じ方法で作られ、その中には、当然に「豆」と共に「麦や茄子や胡瓜」等の実野菜も一緒に漬けられて、その上に重石を載せて暫く麹菌で発酵させてから豆と共に食するものである。
    “「味噌」ではあるけれども「味噌」では無い“と云う風な要するに当時の「副食」であった。

    これを漬けている時、この「漬け樽」から「薄茶色い透明色の液体」が出ていた。
    これをある時、食した時に実に美味い味を出す事が判り、「僧侶」がこれを集めて精進料理に加えたところ、抜群の味を出した事から、「檀家衆」が興味を示し、この「うま味の液体」だけを造る事にして、販売したところ爆発的に売れ、これに「醤油」と名付けて販売した。
    これが紀州湯浅で生産され、後に、「高野山の精進料理」に利用され、宿坊などで出されたものが噂が世間に広まり、これを吉宗等が「商業組合」を通じて本格的生産として「関東の野田」にも移したのが「野田醤油の発祥」である。
    上記で詳しく論じなかったが,これも「伊勢紀州の殖産興業」の一つである。

    当然に、この「湯浅の殖産」から隣の「伊勢の殖産」にも「青木氏」は直ぐ用いたのである。
    この「湯浅の醤油」の製造元と成った「伊勢紀州に広く分布する郷士」の一つ「玉置氏」とは、「伊勢の紙問屋の家」(伊勢青木氏)は二度も縁者関係にあった事は判っている。
    この「紀州の郷士」の「玉置氏の末裔」が、「伊勢」にこの「醤油の殖産」の為に、「伊勢」に移って指導した。
    (この末裔が「伊勢郷士」と成った。)

    この意味では、「伊勢郷士」とは「青木氏とは繋がり」を持っていたが、「射和商人」の代表的な商人の「富山氏 国分氏」(伊勢衆の郷士)との「繋がり」は不思議に伝えられていない。
    伝えられていないと云うよりは“「記録が消失した」“と云う事に成るだろう。

    恐らくは、これは「吉宗の御側用人4000石の加納氏」が営む「加納屋」との関係が在ったがこの新宮にある「加納氏の分家筋」に遺された資料の関係から判る。

    そこで、この「加納氏」についても合わせて論じる事として、「青木氏」と共に「吉宗の育て親」と成るには、「御側用人の立場」だけでは成し得ず、矢張り、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」(加納屋 商業組合)で「殖産」をするしか無くこれに取り組んだのである。

    実は、「伊勢商人 紙問屋伊勢屋 伊勢青木氏」とは、この「加納氏の加納屋」とは何度も血縁関係を結んでいる。
    この様に「商い」を含め、「紀州徳川氏との関係」(加納氏は紀州藩家臣 青木氏と共に「吉宗育親」)を軸に深い親交があった。

    筆者の父の祖母、つまり、筆者が曾孫に成るが、加納氏本家から嫁している。
    その意味では、「射和商人」(伊勢郷士)との間接的な関係にあった事は否めない。

    前段でも論じた様に、「射和組の商い」は、そもそも、「紀州藩」と「青木氏」や「加納氏」の「肝いり」で「殖産」し「商い」にしたのであるから、「女系」で繋がっている事は充分に考えられる。
    ところが不思議な事は、”「射和商人」”が江戸の「享保の改革」には余り登場しないのは、これは前段で論じた通りで「商業組合」に「不参加」であった事からであるが、これだけ「家との繋がり」のある中で思えば、これも「伊勢人」としては「伊勢の不思議な現象」の一つとも受け止められる。

    同じ「不参加の組」の伊勢に来た”「近江組」”は、”「射和組」”と違って「享保の改革の恩恵」を受けて1765年代に江戸に参加したのに、それでも頑としてこの”「射和組」”は江戸に参加していないのである。
    確かに、「青木氏との確執」もあって「不参加」を決め込んでいた”「近江組」”も「江戸の伊勢屋の成功」を観て、“それじゃー我々も“と勇んで「過去の確執」を乗り越えて、「商い」に徹して「伊勢屋の助成」を受けて成功した。

    確かに、前段で論じた様に、「頑固な門徒衆」を抱えていて思う様に行かない事は判るし、”「近江組」”の商人と違い「性根」は根っからの「武士」である事もあって、その「伊勢武士の感覚」が先行して「商い」に徹すると云う事にも成らないだろう。
    筆者側に資料記録が少ないのも、確かに「出火焼失」もあるが、これには何か腑に落ちない。
    それは「伊勢射和の南」に流れる「櫛田川の河川敷」で行った「米殖産」だけの資料はあるのだが、何なにか疑問である。

    矢張り、“「武士」であると云う概念”が表に出てそれに縛られる事が強かったとも取れる。
    郷土史によると、「射和地区」の「商い」の「商業組合全体」で留まった事が判っている。
    「二足の草鞋策」を採っている事から「武士」である事には変わりはないので、その「武士の誇り」は捨てきれない共通する集団であった事から、「射和の結束力」は相当なものであった。
    この「江戸初期からの商店街」の街並みと慣習(御師講の仕来り おんしこう)が現在も古式豊かに遺されている。
    これが「疑問や不思議の根源」ではないかと云える。

    と云うのは、「松阪組」の「紙問屋」は「紙関係」は勿論の事、「リサイクルや骨董品」などまでの「総合商社」を営んでいた。
    それには「殖産」を調べれば判る。
    どの様な「殖産」を興していたかは次ぎの通りで、先ずは地元の大きく成った“「伊勢殖産10品」”と呼ばれていたものには次ぎのものがあった。

    ・「伊勢殖産10品」

    「伊勢和紙」
    「紙箱などの紙製品」
    「伊勢米」
    「伊勢絹」
    「伊勢醤油」
    「伊勢陶器」
    「伊勢白粉」
    「伊勢豆紛」
    「伊勢木綿」
    「伊勢酒」
    「伊勢菜種油」

    但し、「紀州藤白墨」と「紀州硯石」は、室町期までは「天皇家の専売」から、江戸期には「徳川氏の専売」の「専売殖産品」と成っていて、一度、「専売先」に収めた後に、「余剰品」を市場に販売する「部市場方式」を採っていた。所謂、「国営」と云う処であろうか。

    以上の「伊勢殖産10品」は、「青木氏の殖産」として扱ってはいたが、摂津と近江の他国の豪商も一部で関わっていた事が判っている。
    又、中には、伊勢人の中で「紙問屋の青木氏」との連携での「二次殖産」の形(現在の外注)も確認できる。
    「他国の商人」は「伊勢の特産」では無く、主にも全国的に通常品としての需要の多い「菜種油」や「木綿」に需要を何とか賄う事の為に「直接の殖産の形」ではなくとも「何らかの関係」で関わっていた事は否めない。

    この他には主に「紀州の殖産」に関わったものとして「南伊勢」には次ぎのものがあった。
    歴史的には平安期からのものが殆どである。

    ・「紀州殖産五品」

    「伊勢墨」 初期は和歌山県海南市藤白地区から次第に日高地方に生産は移動した。
    「紫硯」 初期は上記の海南市の山岳から主に日高川沿いに生産地域は変化した。
    「伊勢炭」 生産手法は、「伊勢墨」と同じで、紀州名産の「姥樫木」から作る「備長炭」である。
    「線毛筆」 南紀の新宮地域とその山域から伊勢南部域の村郡に家内工業的に分布した。
    「青庭石」 高級庭石として紀伊山脈全域に分布し生産された。

    何れも「紀伊山脈の山質」に関わる「産品」で、これを応用して「殖産」は進められていた。
    中には、昭和20年代まで生産されたものもある。
    そもそも、紀伊山脈は海底より迫り上がって出来た「古い山脈」で、その為に硬質の「黒硯石」や「青石」や「紫石」が採れる。
    従って、「石英岩石」も多く、中には石英の結晶の「水晶」も「飾石」や「印鑑石」としても「殖産」されていた事が資料からも判っている。(我家に当時の古い現品保管)
    庭石などの目的で「青石」を切り出した際に出来る粉からそれを集めて「セメント」も生産されていた。

    これらの現物はあるが、何らかの説明の資料や記録関係のものが遺されていれば良いのだが、焼失で無く成っているので、更に、詳しく辿る事が残念ながらなかなか出来ず、「伊勢殖産10品」や「紀州殖産五品」等の販売だけに関わった「肝心な射和組との血縁関係」を確実には立証出来ない。
    これ等を「射和組」は「二次殖産」もしていた。
    これらの・「紀州殖産五品」の殖産の産品は、大量販売は無理で、故に江戸に出なかった事も考えられる。

    そもそも、1000年以上も古くは「奈良末期」から、鎌倉期から江戸期までの言葉として、為政者達からは、“「伊勢の事お構いなしの定」”に依って護られていたので、「為政の影響」もあまり無かった筈である。

    「古の血縁関係の立証」とは別に、「伊勢」と云う少ない「土地の郷士との関係」を深く持っていた事は確認できているし、この「射和の伊勢郷士」との関係も掴めているので、「青木氏」を背景に、上記した様に、この「射和郷士」が江戸初期に「商い」を始めた事も判っている。

    (注釈 そもそも、“「伊勢の事お構いなしの御定」”とは、「天智期の詔勅」と「嵯峨期の詔勅」で与えられた「不入不倫の権」の事が基本に成って、江戸幕府等からも「伊勢」で興る「問題」についての「政治的な処置」に対しては、特別に「優遇処置」を講じる事の「御定書」が改めて出されていた。この事を為政者にはこの様に呼称されていた。前段記済。)

    恐らくは、「射和郷士」とは、「伊賀氏、北畠氏」等の滅亡した「豪族の家臣」が殆どこの「郷士」であった。
    この中で「室町期末期の戦乱」で家は飛散し、「青木氏の保護」の下で「伊勢シンジケート」の中で「生活の糧」を得て何とか生き残ったが、その末裔が「商い」に転じて「射和商人」(門徒衆含む)と成り得て、20氏程度が「子孫」を繋いだと観られる。

    従って、「事の流れ」から云えば、この「伊勢全体の郷士集団」(伊賀郷士含む)とは、古くから親交が有って、「四家の青木氏の末裔」が、「四家制度」に従って“「家人」”に成って、これらの「郷士族」と血縁していた事が充分に推測できる。

    依って、更には、これらの「伊勢郷士」は、平安期の「清和源氏の河内勢力」の関西域の「勢力拡大」の「混乱」もあって、「青木氏の伊勢シンジケート」に入って身を護った。
    この様な背景で「伊勢シンジケート」を構成していたので、恐らくは、元は「伊勢郷士」であってその中でも名を残した「富山氏」とか「国分氏」とかは、状況証拠から鑑みて、「血縁の繋がり」を持っていた事は間違いはないと考えられる。

    そもそも「江戸期の商人」の元を辿れば、殆どが「郷士」であった。
    取り分け、「伊勢商人の松阪商人」は少なく成った「郷士」であった。(伊勢シンジケートが原因)

    この様に、江戸初期には、伊勢に上記した様な事件があって、「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していた「郷士衆」、つまり、「伊勢衆」は「青木氏の援護」の下で、「商い」を始めた事が判っている。
    その「商い」は、全て「青木氏の総合商社」(江戸伊勢屋)が扱っていた事も判っている。
    恐らくは、記録にある“「この時の事」”(「室町末期の混乱」から「江戸初期の安定期への移行」の事を言っている)が“契機”と成って、“「射和組」”として編成されたものである。

    これらの記録の一つとして、「伊勢の歴史的なの功績」を遺した「伊勢藤氏の伊藤氏」は、平安期の「古来の藤原氏」で、この地に定住していた氏である。
    そもそも、その始祖は「伊勢守」の「藤原の基景」で、「藤原秀郷の八代目」に当たる。
    この「伊藤氏の末裔」が書き遺したものには、この“「射和商人の事」”が書かれている。

    実は、この「伊勢の伊藤氏本家」(伊勢の藤氏で伊藤氏)筋とは、「筆者の伊勢青木氏」とは血縁関係にあった事は承知していて、その末裔は義理の従兄弟であった事も承知している。
    諸々の「青木氏の口伝と記録」に依れば、この「伊藤氏」が「射和組」に関係していた事も承知している。
    ところが、前段で論じた様に、「射和組の家筋」からの「記録」は把握しているが、如何せん、“「青木氏側の遺品」“には、「口伝」はあるにしても「射和組」に関する”「確証する資料証拠」“は見つからない。
    これは恐らくは原因は「明治35年の出火焼失」であろう。

    これに関連する「伊勢陶器」等の「先祖の遺物」は多く遺されているにも関わらず、何か「遺された手がかり」もあるかも知れないが未だ紐解く暇がなく立証できていない。
    依って、本サイトでは「青木氏の歴史観」としては、筆者も“「射和の関係」”はそれまで余り触れなかった事柄であった。

    然し、“「伝統」”と云う点から、判る範囲で敢えて書き遺しておく事にした。
    「伝統シリーズ」では、既に、一部では触れてはいるが、そこで、もう少し「射和商人、射和組」を論じて置く。
    それは,何も「伊勢の事」だけの話では無く、「全国の青木氏」にも「15地域に商業組合」を広めたが、この事から「郷氏としての同じ伝統」を引き継いでいる事もあって、ほぼ「同様の事」が起こっていた筈であるからだ。
    故に、その結果を、「伝統シリーズ」に反映させたいと考える。

    「伊勢青木氏の系譜と添書」の殆どが「明治35年の出火」で消失してしまったので、曾祖父や祖父の遺した「忘備録(仮称)」での確認と、「伊勢紀州郷士衆等の関連氏の資料」から成る。
    これだけでは不充分で「青木氏側」からの「射和の関係」が、現在では最早、掴め切れない。
    実は、前段にも書き記したが、「射和組との関係」があった事は、充分に判っている。
    然し、この焼失や消失による「資料不足」にて、どうしても全体を明確にするところには辿り着けないで、状況証拠にては推論は立つが、それを解明する「確証」も掴めない事がある。

    その原因としては、「青木氏側」のみならず、「伊勢郷士側」も「室町期の混乱」で、この世の事と思えない「殺戮と焼失と消失の混乱」を受けた事からからそれ以上に資料は激減していている筈である。
    この時期は、「記録・資料の保存」の主な殆どは、氏の菩提寺」や「守護神の神明社」などが、前段で論じた様に、祐筆等を務めていた為に担っていた。
    従って、それは、「室町期の混乱」に依って、周囲の“「伝統」“と云う「意識概念」が低下して、恐らくは、疑う事無く「記録壊滅」であった筈である。

    この「室町期末期の事」のみならず、「明治期初期の混乱期」や「昭和初期の戦争に依る混乱期」等の「社会の外的な原因」に依るものと、現在でも、違う意味で「社会の内的な原因による混乱期」もあって、「伝統と云う概念」の「意識低下」が起こっている。
    そして、「著作権や個人情報」の様な「法的拘束力」に依っても、更に「意識低下」が起こり、尚且つ、「調査や原稿の執筆」にも表現が左右されて難しく成っている。
    現在ではこれらの原因で、世代を一つ超えると、最早、口伝等の「無形情報」や「物的情報」さえも「価値意識」が低下して完全に無く成っているだろう。

    この侭に放置すれば、多分、論じる限界を超える。
    「青木氏の研究」の中の「伊勢地区の研究」を何としても十分にして置きたいと考えているが、如何せん“「伊勢衆の事」の資料”が、「商記録」と「口述」と「伊勢と紀州の郷士衆の遺品」以外に見つからない。
    有っても「江戸初期の搾取偏纂」の「半強制的な仕儀」(「黒印状」が原因)のものしか無く、信頼に値しない。
    「青木氏側」ではある程度の繋がりの事は判るが、「射和組」の「郷士側」の確かなものが見つからない。

    (注釈 京都には実に“「古い古美術商」”があって、「青木氏」も長い付き合いの合った「京商人」でもあるが、この歴史書の様な「古い古美術商」は「ヤフー」にも投稿してHPを持っているが、その「研究」では「伊勢の事」は充分に知っている筈であるが「ある部分」で詳細を欠いている。)

    この原因は、取り分け、「射和」に関してはその本筋の原因は判っている。
    「織田氏の伊勢三乱」に依って、「修羅の様な戦場」と成った事から大きな影響を受けた「伊勢衆」の基には「遺された資料関係」が少ない事から来ている。
    そもそも、因みに「織田氏と伊勢衆との戦い」は、上記した様に、両者ともに公的記録で明らかにされている様に、「村が6割全滅」「2万の織田軍が9割全滅」「伊勢寺の僧侶の7割が死亡」「村民6000人が死亡」する等の「激しい戦い」と成った。
    「ゲリラ戦」が主体と成っての「醜い戦い」であったので、それに対抗する為に「織田軍側」は、相手がはっきりしない事から、徹底した「焼き払い戦法」を使った。

    この時、丁度、「石山本願寺の戦い」も同じ「紀州、河内、大和、伊勢地域」でも、「一揆とゲリラ戦」が起こっていた。
    「織田軍側」は、この「二つの戦いの区別」もつかなくなっていた。
    「伊勢」では、“「焼き払い作戦」”で多くの「農民」や少ない「郷士衆」が滅亡したし、「郷士に関する記録」も消失した。
    その後、これでは終わらなかった。

    それは秀吉に依る“「紀州征伐」”が更に起こった。
    徹底した“「郷士狩り」”と云う事を遣って退けると云う事が起ったのである。
    更には、「武力の反抗」を無くす意味から「郷士等の刀狩り」も行われ、彼らの「生活の余力」を無くす目的からも「検地」も行われ、「伊勢郷士衆」は、「武器」や「土地」を奪われ「丸裸」に成った。

    この事が、「郷氏」に及ばず、取り分け、「織田軍や秀吉」に攻められて農民や庶民が「街並み」の中まで逃げ込んで来た事で、これを殲滅させる為には無関係の者との区別が着かない事で「街並みの焼き払い作戦」や逃げ込み先の「寺」などを取り囲みの「焼き払い作戦」を実行した。
    逃げ出て来る者は容赦なく殲滅すると云う酷戦に成った経験を持っている。
    これが原因して「射和組の遺された資料と記録関係」は例外なく消滅したのである。
    口伝に依ると、「伊勢の紙問屋」の「玉城の職人長屋や蔵処」にも逃げ込んだが、流石に「青木氏」には攻撃は無かったと伝えられている。
    大義的には、「天皇家の祖のお伊勢さま」を攻めるという避難を免れない事を恐れたからではないかと考えられるが、注釈 唯、「青木氏の菩提寺」に逃げ込んだ者らは門前で責められて被害を受けた。

    (注釈 但し、中まで攻込まなかった。「伊勢の藤原秀郷流青木との関係」の深い「伊勢攻め大将の「秀郷流近江藤原氏の蒲生氏郷」の関係も有った。)

    「青木氏」が「伊勢の経済」を担っていた事を租借して、”これに被害を与える事は避けた”と口伝では伝えられているが、もう一つあったと考えている。
    筆者は、確かに「経済力の懸念」もあるが、別にも、前段で論じた様に、影で動く「武力勢力」の“「伊勢のシンジケートの力」が、これ以上に動くと”「逆効果」”と成る”と「織田氏側」は観たのではないかと推測している。
    「青木氏」を背景に「伊勢シンジケート」と「伊賀者」との「共同作戦に依る武力」を持った「ゲリラ戦」が起こると困ると考えた事にもあるだろう。

    (注釈、秀吉に裸にされた「伊勢の郷士」がこの伊勢シンジケートに保護されている現実があった。)

    (注釈 この伊勢シンジケートの実力は歴史的に裳有名で、彼等には「足利氏の10万の軍」を「餓死させた戦歴」を持っている。)

    その意味でも「射和の存続」が殲滅までに至らずに働いたのである。

    (注釈 明治期に成って「伊勢の射和の事」に付いて「江戸中期頃の復元」が試みられたが、参考とした資料に搾取が在ってこれを基にした為に可成り矛盾が多い。)

    その後、最早、追い込まれた「射和」は、これでは生きて行けないと成り、結局、「伊勢四衆」と呼ばれる「青木氏」等が援護して、庶民も含む生き残った者等(「戦いに参戦した射和郷士」)にも「土地のものを活かした殖産」に加える事にしたのである。
    室町期末期には「青木氏」にも残念ながら防ぎ切れなかったのだが、「伊勢の射和組」にはこの様な「辛い歴史」を持っていたのである。


    注釈として、前段でも論じたが「本格的な戦い」を避けなければならない「青木氏の氏是」の「縛り」もあった。
    それでも半分は「青木氏の氏是」を破った「最大限の影の戦い」にした「名張の戦い」や「伊賀の戦い」の「救出作戦」が在った。

    「射和」も「人の子」であり、矢張り、人情的には江戸初期前後に護ってくれる筈の「青木氏に対する多少の怨念」があったと考えられ否定は出来ない。

    然し、前段で論じた様に、これ以後には、20年後に「紀州藩の初代頼宣」も「援護の手」を差し伸べて、「青木氏」と共に、要するに、“伊勢を復活させるべく取り組み”が始まったのである。
    そして、この「伊勢の殖産」を生き残った「伊勢衆の射和郷士」等にもやらせたところまでは記録から判る。

    「青木氏に対する多少の怨念」は、この「殖産と興業化」で多少は霧消したとも考えられる。
    それでも「商業組合」に参加しなかった事から考えると、この「青木氏に対する多少の怨念」は未だ多少は引きずっていて、その“「怨念」“は「享保期の直前」の「紀州藩吉宗入城」まであった事にも成る。
    つまり、「吉宗」は、この「青木氏に対する怨念」に対して「紀州藩藩主」と「将軍」に成った時にもこの事を充分に知って居た事に成る。

    「吉宗」は、「伊勢の紙問屋と伊勢青木氏」に対しても、「江戸の商業組合」を指揮する上でも、何とかやり易くする為に、前段で論じた様に、「家康のお達し」に重ねて“「伊勢の事お構いなしの御定」”の「慣例の継承と強化」を指示したのである。
    この一例が前段でも論じた「伊勢奈良奉行時代」(山田奉行)の「大岡越前守の行」に成ったのである。

    そこで「青木氏」は、果たしてどのように殖産をしていたのかを説くと、江戸期に成っても地域別に分けると次ぎの「殖産と興業」を興している。

    「殖産地域−1」 伊賀地区、脇坂地区、上田地区、
    「殖産地域−2」 名張地区、松坂地区、四日市地区、
    「殖産地域−3」 員弁地区、桑名地区、
    「殖産地域−4」 射和地区、玉城地区、
    「殖産地域−5」 長嶋地区、新宮地区、尾鷲地区

    以上の5地域等にこの「江戸期の殖産」は分布している。

    「青木氏」が地主(地権者)として「紀州藩からの利権」を得て、ここには「青木氏の四家」「青木氏部」「青木氏の家人」「青木氏と関係する伊勢郷士衆」の一族一門と、「青木村の農民と職人」が定住しているが、この地区毎に土地に適した上記の「伊勢殖産10品」の殖産を進めたのである。

    この「殖産地域−4」の「射和地区」は、「櫛田川の水」を利用した「殖産」を、「室町期末期の混乱」から「伊勢復興」を兼ねて先ず進めたとある。
    それが、主には「伊勢殖産10品」の中で「射和地区」では次ぎの殖産であった。

    「射和の主殖産」
    (1)良質な水と川土に適する白粉花からの「白粉」
    (2)良質な水を活かした「醤油」
    (3)粘土質の土壌を活かした「陶器」
    (4)水車を生かした「粉の生産」
    (5)水分を多く含んだ土壌を好む「楮」と「和紙」

    以上をこの地域の地理性を生かした「殖産」にし、それを「青木氏」と共に「興業」にして販売するシステムまでを構築したのである。

    従って、この「職人と商人」を「伊勢商人」の「松阪商人」の中でも「射和職人、射和商人」と呼ばれた。

    これを「後押し」したのが「青木氏」であって、その為に、「徳川氏」から「青木氏」が古来より持っていた上記した「広大な土地の利権(地主) 5万石分」を“「本領安堵された」“とする考え方が「青木氏の記録と口伝」の中で読み取れる。

    (注釈 恐らくは、「青木氏側」では、この様な「暗黙の了解説(本領安堵の目的)」があるので、特に、「伊賀の一部」と「南紀勢域」は元より「遠祖地」であることから、其れに相当する行為であったと観られる。)

    それは「紀州藩飛び地領」に「紀州藩の財力」(現実に使えなかった)を先ず使わずに、「青木氏らの財力」を使う事の方が「郷士衆の少ない伊勢域」では、「総合的に得策」と観たのではないかと考えられる。

    つまりは、「青木氏側」ではその「見返り」として「本領安堵策」(地権)と成ったと考えていたのである。
    それを判断しその方向に仕向けたのが、同族の「伊勢の秀郷流青木氏」で「紀州藩の官僚軍団」であった。

    (注釈 充分な「下打ち合わせ」は「二つの青木氏」の中では有ったと観られる。
    そもそも、放って置いてもその様に成る環境でもあった。)

    (注釈 その代わりにこれ等を司る代償として、家臣では無かったが、「青木氏 郷氏」に紀州藩から“「12人扶持米の礼米」”を初代頼宣より支給されている事が何よりの証拠である。
    「青木氏」に執っては斯くたる「礼米」ではないが、徳川氏としては「建前」を採ったと考えられる。)

    つまり、「青木氏」は「室町期からの紙文化」の影響で「250万石以上の財力」(総合 500万石)を既に持っていたとされる中でのこの“「扶持米」”である。
    上記の事を物語る「形式上の礼米」であった事を物語る。

    そこで注釈として、この「礼米」は これは「紀州藩」が「伊勢青木氏」をどの様に見ていたかを示す一つのパラメータともなる。
    この“「12扶持米の礼米」”から、どの様な「扱い」であったかを考察して観ると、次ぎの様に成る。

    江戸期の「扶持米」の計算は、「一人当たりの米換算」で、「五合/日」と定められていた。

    そうすると、次の様に成る。
    「一石七斗七升/年」= 「4.5俵/年」と成る。
    4.5俵・12人=54表=21.6石

    この様に「青木氏の礼米」の程度は、「お礼程度の礼米」である。

    比較対象として、上記した様に、「下級武士の最低の生活」では、次の様に成る。

    「75俵−28両−37石」で、通常で最低「150石」必要と成る。(経費除く)

    「青木氏の礼米の22石  54俵」を「役職の手当」として観れば、「54/75俵」で7割と成る。

    「役職の手当」だけで「下級武士並」の俸禄に値する。

    当時の江戸の「旗本の扶持米」は、“「五人扶持米」”が最高級の「役職手当」で、現在で云えば「五人扶持」は大企業の次長か課長クラスである。

    其れから観ると、「12人扶持」は、次の様に成る。
    (12−54):(5−22.5)で約2.5倍である。
    5人扶持=22.5俵:8.5両:11石である。

    (1両―6−10万円MAX)であるとすると、「勘定方の指導役の公職」としては可成り高く扱われていた事に成る。

    つまり、現在の「役職の手当」として観れば、あるとして専務か社長クラスとなると考察される。

    「勘定奉行」(財政を担当する重役)を指導するのであるから、「扱い」としては納得出来る。

    然し、此処で問題なのは、この「礼米」が利益になるかと云うと、逆で、「青木氏」に執ってはそれ以上の何倍もの「出費」が起こる。
    当に、これは、「礼」に対する「米」が結局は「青木氏の出費(品)」であったが、これを「紀州徳川氏」は目論んでいたかは不詳ではある。
    「伊勢藤氏の家臣団」がある事から「単なる礼米」と観ている。

    さて、この「礼米程度」が「家臣の役職手当の知行」に相当する事としても、上記した「地域の土地の利権」を保証する「本領安堵」を受けている事から、仮に「出費」であったとしてもそれは大した問題ではない。
    恐らくは、出費の「勘定方の指導」をし、更に同時に、私財を投資して「殖産と興業」をするには、この「5万石の本領安堵」の「以上の出費」であった筈である。
    然し、殖産のそのものは「青木氏の私財投入」であるので問題では無い。

    それを更に賄えるものとして、この「殖産と興業」に依って生み出される「青木氏の商い」が在った。

    この状況はどの程度のものであったかと云うと、そもそも「紀州藩の家老」は、当時は南紀の「支藩 田辺藩1万石(この時は「城代の田所氏」等で観る)」であったが、これと「同じ扱い方」であった事に成る。
    参考として「地権では5万石扱い」と成っている。
    恐らくは、「紀州藩飛び地領」の「伊勢松阪域」も、「飛び地領」と呼称されていて「準支藩扱い」で、且つ、「支藩の田辺藩」と同じく「家老扱い並」として、「青木氏」に任していた事に成る。

    上記で論じたが、“「江戸初期に5万石以上の扱いを受けていた」”とするのは、この事から来ていると考察できる。

    「総合的な扱い」としては、上記した土地の「本領安堵分」を面積にして「米の石高」を推計して勘案すると、「1万石以上」を遥かに超えていたのでは無かったかと考えられる。
    そもそも「国の石高」とは、「米の収穫量」のみならず「殖産の生産高」も「米換算」で表現される。

    本論は「殖産」を論じている様に、その「殖産」の多くは「青木氏(「伊勢紙屋」)」の殖産」に関わっているので、「紀州藩の伊勢松阪分の18万石分」の公式分より「10万石」が「米の殖産」等で増産された事から、「28万石」の内の「殖産分」は、6割を遥かに超えていた事に成る。

    下記の面積計算からすると、「5万石扱いの大名格」と成るのだが、故に、幕府でも「享保の改革」の時には「吉宗」に直言できる立場とした「青木氏の永代の格式」は別としても、元々、石高でも「布衣着用」を許されていた事でも判る。

    「青木氏」の「江戸期の商い」を含めた「全資産」は、「250万石以上(株等含む総資産額 500万石)」と云われていた事から、「土地の利権分」としては、面積比で観て、「石高の四割」を基準に考えると、「5万石程度以上」のものには遥かに成っていたと推計出来る。

    これは、上記の「扶持米から見た扱い」からも判るし、「本領安堵分」から見た「5万石」と成るが、依って、これが「紀州藩」から受けていた「扱いの根拠」と成り得る。
    「石高換算」では、「紀州藩55万石」から観ての「扱い額」としては、「1/10程度の意味」を持っていた事に成る。

    実質は「1/2」と成るが、「青木氏の全資産」から観ると「紀州藩」(幕府借財)を遥かに超えていた事に成り、「郷氏の所以」としての立場が解る。

    (注釈 「明治初期の地租改正」で、この「本領安堵分の農耕の土地」は、全て「青木氏の絆青木氏」と、その下に働いていた農民に「無償下げ渡し」と成った。
    しかし、この時、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」も、農民に依る「維新政府の租税」の扱いに対する不満で、「伊勢と信濃の農民」が5年間も「伊勢動乱」を起こした)

    然し、前段でも何度も論じた様に、この動乱の「経済的背景」と成っていた。
    「信濃」でも「同じ伝統と環境」であった事から「動乱」が起こったが、「全国の青木氏の姿勢」が良く判る出来事である。

    (注釈 明治後も「養蚕」や「早場米の更なる研究」等で「農民の殖産」を自費で続けた事が伊勢市の記録にも遺されている。)

    つまり、「武士の扶持米」では、「知行分」に加算して「役職の手当」として支給されたが、「伊勢青木氏」は「紀州藩家臣」では無く「奈良期から賜姓臣下族」の「永代郷氏」であった。
    つまり、「超大地主の利権を持つ者」であった為、「知行分」は無い。

    そもそも「地主」は、土地から取れる「石高の4割」が「領主の租税の取り分」で、6割は「租税外」(地主と農民)として分ける仕組み(四公六民の制)であった。
    この事から「郷氏」とは、「平安期」までの「以前の元土地の領主」であった「身分格式ある氏族」を云う。

    そもそも、室町期中期より出自した「否認証の姓族」と違って、前段で論じた「氏族」とは、前段手も論じた様に、嵯峨期未完の「新撰姓氏緑」で分けられている様に、朝廷より認められた「公認族の事」を云い、室町期に勃興した武力を背景とした「姓族の豪族」に仕官せずに、平安期からの朝廷より認められていた「地権」をベースに「土地の郷士等」をまとめていた「氏で纏まる身分格式の族」を云う。

    そして、この「郷士」とは、主には「室町期中期から勃興した姓族」(1)で、小さい「土地の利権」を持つ「小地主身分」の「土豪」で江戸期の庄屋や名主や村主等がこれに当たる。
    「伊勢の青木氏」に関わる「伊勢郷士衆」は、「室町中期より多く発祥した姓族」(1)や、「連族の枝葉末裔の姓族」(2)とは異なり、「青木氏に関わる純然たる郷士の姓族」(3)である。

    ところが「伊勢」と「近江」では、殆どは、「不入不倫の権」で保護されていた為に、この「室町期の勃興の郷士」より前の「平安期の郷士(2)(3)」であって、何れも「郷氏」と共に生き抜いて来た「郷士衆」であり「姓族」にしても格式は上位にあり異なる。

    当然に、中には“「小郷氏」“と呼称される者もあり、この者は平安期には元は「郷氏の家人(家臣)」(青木氏)であって、“一定の永代格式(従六位)を持った郷士”も「伊勢、近江、美濃、甲斐、武蔵」には多かった。

    (注釈 この“「小郷氏」“の多くは「郷氏家人」を続けた。
    取り分け、「伊勢と近江」には、正式な「永代格式(従六位)」を持つ“「小郷氏」“の「郷士」が多く居た。)

    江戸時代初期には、一部には、この「室町期以前の姓族の郷士(2)(3)」を“「武士」では無い“とする「姓族の仕官した武士側(1)」から起こる「嫉み」から来る「不思議な風潮」も起こった。

    つまり、注釈にある様に、「仕官した姓族(1)」と「仕官しなかった姓族(2)(3)」との「差」で「身分」を仕切ろうとしたのである。
    上記の「三種の姓族(1)(2)(3)」の内、「室町期中期からの姓族(1)」だけを認め、極めて少なく名った数少ない他の「格式のある姓族(2)(3)」を認めようとしなかったのである。

    注釈として、平安初期の「新撰姓氏緑」には次ぎの様に成っている。

    「真人族」は40族(同系族44族)
    「朝臣族」は39族(同系族含み45族)
    「宿祢族」は7族(同系族含み16族)
    「臣族」は3族(同系族含み40族)
    「連族」は3族(同系族含み22族)

    これ等は「宿祢族」、「臣族」、「連族」の末枝葉の後裔族は、後に「2と3の姓族」に所属したが、「真人族」、「朝臣族」の後裔は姓族を作らないとする仕来りに従い「氏族」に所属し続けた。

    (注釈 「同系族含み」とは、「同縁同祖系」を含めたものを示す。但し、「真人族」と「朝臣族」は「氏族」である為に「姓」を持たない。
    唯、この「二つの族」の「女系族」と、「男系継承」が不可能と成り、「他氏から養子」を取り二代続きで「男系継承」が不可能と成った事で「女系族」と成り、「他姓」を持つ事に成った「姓族」がある。
    これらの「女系族の姓族」が後に「元の氏名」を興して男系に継がせる事で「女系に依る同縁同祖族」が出来上がった。)

    (注釈 「新撰姓氏録」は、そもそも「編集未完の記録」であり、この「女系の同縁同祖」を入れているかは不明である。
    唯、「男系に依る同縁同祖」で纏められている欄には無く、散文的に各所の欄の中に飛散している状況で、これが「女系の同縁同祖」であると観られる。
    「宿祢族」、「臣族」、「連族」の「松枝葉の後裔の2の姓に所属する族に観られ、「真人族」、「朝臣族」の後裔には「3の姓族」に所属する族は観られない。
    故に、「宿祢族」、「臣族」、「連族」の「2の姓族」には同系族が極端に増加している。
    本来であれば纏めての「記録物」と成るが、それが区分けして更にまとめあげるべき処まで編集としは何とか来ていた事が判る。
    一時、消えて計画であったが、何とか形にしたいとの政治的決断での「編集途中の録物」としたことが判っている。)

    これは「嵯峨期の状況」を示すが、ところが此処から大きく時代は変化して、何れ「皇別五族」と云われる族も激減する。
    「真人族」、「朝臣族」は、「氏族」であるが、後裔とする「3の姓族」に所属する族は、聖武期には「春日真人族―志紀真人族」(青木氏−井上内親王 光仁天皇 追尊の春日宮天皇)を遺して、「直系の真人族」は「第四世族内の同縁同祖」が「女系の男系族」と成り遂には滅亡する事に成る。

    「第五世族以降」の「第七世族」までの「宿祢族」、「臣族」、「連族」の末枝葉の後裔の「2の姓族」の通称“「皇別13族―同縁同祖族78族」“も「下剋上と戦乱」で室町期中期には「正式系統」が霧消するまでに激減した。

    因みに、その程度は前段でも何度も論じたが、「概要の傾向」で云えば、「正式な氏族」かそれに纏わる「姓族」(2の族と3の族)の合計として、平安末期には40程度に、鎌倉期には80程度から一時一気に増えて200程度に、室町期中期には40程度に、室町期末期には20程度に、江戸期には10程度も満たない状況と成っていた。
    この差がこの「江戸の議論」を産んだのである。

    その根拠には、次ぎの事がある。
    この末枝葉の後裔族で「仕官した姓族」は、「藩主」に仕え「家臣」に成った。
    「仕官しなかった姓族」は、「郷氏」との関係で「家人」に成った。

    「仕官した姓族」は、「俸禄」に糧を求めた。
    「仕官しなかった姓族」は、「殖産と農業」に糧を求めた。

    主張した彼等はこの差で仕切ろうとしたのである。

    然し、現実は、「仕官した姓族」の糧では、生き残りは成り立たず、結局は「半農の様な糧」に成っていた。
    「仕官しなかった姓族」の糧では、「殖産と農業」であった事から「殖産」が成功裏に成ると生活は逆に豊かに成り、果ては「二足の草鞋策」で「商い」も営み、その差は逆に「武士力の差」にまで現れる様に成ったのである。

    更に、次ぎの事の差が起こった。
    「仕官しなかった姓族」の「郷士」等は、その「主」が「永代格式をもつ藩主以上の遥か上位の身分格式」(位階は従四位下以上 正三位まで 浄大一位)を持っていた事。
    「仕官した姓族」の「主」よりもむしろ「上位の郷士」であると云う説が起こった。

    以上の事から「藩主仕官派説」は弱まったのである。

    資料からの読み取りでは、上記の30地域の「仕官しなかった姓族」等には、「平安期の郷士の血縁族」に成って居た事から「位階六位の格式の筋目」を自覚していた様である。

    或は、上記した様に、地域に依っては中には「伊勢」や「讃岐」の様に「平安期からの郷士」もあり、その中には自らも“「小郷氏」”と呼称される様に「永代の身分格式」(位階六位まで)を持っていた事もあり、更には、この「平安期の氏族の郷士」と「室町期の姓族の郷士」の両者の間で格式が近いと云う事もあって“「地域内での血縁族」”も広がった。
    従って、「仕官派の姓族」の「勃興族の立場」は、逆転して仕舞っていて「主張する立場」が本来は無く成っていた。
    「仕官した姓族」は、むしろ世評は「身分格式は低い武士」と成り矛盾する事と成ったのである。

    そこで、この「仕官派説」は完全に消えて、「全郷士」は「武士とする説」に帰化し特化したのである。

    当初の「仕官派説」の武士は、全国の殆どの地域を占めていた事から一時この説が高まったのだが、上記した様に、「新撰姓氏録」等に記載されている「郷氏が存在する地域」は、そもそも「近江、伊勢、信濃、(美濃)、甲斐、武蔵」と、その「関連地域 30地域程度」に限定されていた為に発言力は弱かった。

    結局は、上記の様な経緯を経て「郷士の立場」は逆転して仕舞って、遂には、世評では「仕官派の姓族」の立場は低く観られ続けたのである。
    つまりは、これは江戸時代には、「黒印状の発行」と共に「権威主義」が起こり、上記の様に「姓族」を「仕分け」して「武士族」を限定したが、ところがこの「権威主義」が進むと、逆に「古来の格式」が重んじられて限定するどころかその「立場」は逆転したのである。

    (注釈 「近江域」と「美濃域」は、「源平の争い」で平安期の早い時期に「土岐氏系青木氏」と共に「氏族」と「姓族」は完全滅亡した。
    「近江」は「遠祖同族の佐々木氏と青木氏」の援護を受けて「傍系支流」が何とか継承した。
    「近江」も近江で敗退し、美濃でも敗退し、この時には一族は滅亡したが「佐々木氏系青木氏」から「近江青木氏」を女系で復興させた事と、「近江青木氏の支流末家」が再び「摂津」で生き延びてある程度で復興した。)

    そもそも「幕府家臣団」は、関東の「藤原秀郷流の幕臣」で占められていた事から、上記の論説を張り主張し、結局は「全郷士」は「武士とする説」に収束し特化したのである。
    唯、此処では、「氏族の郷氏」は、「新撰姓氏緑」にある様に「永代の身分格式」を正規に持つ「朝廷より認可された氏族」であって、「無冠無位の低い姓族」では無い事から論外として議論に成らなかった。

    むしろ、前段でも論じたが、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府も、取り分け、江戸幕府は戦乱で数少なく成った「権威と象徴を持った数少ない氏族である郷氏」を保護し、むしろ、政策上、“社会に「権威」を醸成し相乗をさせて安定させ様として”、その「権威族」として祭り上げたのである。

    (注釈 生き残ったのは「古式伝統」を持った「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「青木氏や佐々木氏や藤原氏」等で、流石に「真人族」の「氏名」は「志紀真人族」の「青木氏以外」には出て来ない。
    「青木氏」は「真人族」でありながら、「朝臣族」で、「賜姓臣下族」の「武家族」、「佐々木氏」は「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「武家族」、「藤原氏」は「賜姓臣下族」の「公家族」(秀郷流青木氏含む)と成る。
    前段でも詳しく論じているが、「永代格式」では、「青木氏」=「藤原氏」<「佐々木氏」と云う事に成るだろう。
    唯、嵯峨期以降に出自した「源氏族」は後裔の11家は完全滅亡で、「橘氏」は一時滅亡して「傍系支流族」で立ち上げた為に「権威造策」には採用を見送られた。(橘丸紋付支流 資料には観られない。)
    「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

    前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

    この事と同時に江戸幕府は、「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

    (注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

    従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。



    「伝統シリーズ−34」に続く。


      [No.351] Re:「青木氏の伝統 32」−「青木氏の歴史観−5」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/03/18(Sat) 09:42:15  

    伝統シリーズ 31の末尾

    > (注釈 もう一つその理屈があった。
    > 「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
    > 「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
    > それは「開幕の資格」の「武家の頭領」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
    > 朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、「朝廷の伝統」を護った。
    > 然し、その事で「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の頭領」では無く、「武家の長者」として代替した。
    > 「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
    > 要は「武家の頭領」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
    > 重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が採れなかったのである。
    > 従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
    > 「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って「正当な家臣」と成れるようにした。
    > 従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
    > 中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
    > これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)
    >
    >

    「伝統シリーズ 32」

    注釈として、ここで疑問が一つ残る。
    それは、何故、紀州藩の大半の家臣が「伊勢藤氏」であったにも関わらず、この「四つの奇策」を実行したのかと云う事である。
    この事は「青木氏の重要な歴史観」に通ずる。

    本来であればしない。決して一族を裏切る事はしない筈である。
    況してや、「解雇」の様な状態の「1/10俸禄策」である。
    それどころの話ではなく、依って、一部の「上層部の家臣(家老職)」ではあるが、この「四つの奇策」を考え出し実行したが、これを証拠付ける確かな資料が何故か見つけられない。
    然し乍ら、検証すれば判る筈である。

    さて、この問題の「紀州藩」には、家老は「附家老」と「連綿家老」が居た。
    「附家老」は、幕府から派遣された家老で、「旗本の身分」を持ち、「幕府の威光」を背景に権力を握っていた。
    これには「安藤氏(3.8万石) 田辺藩」と「水野氏(3.5万石) 新宮」があった。
    「安藤氏」は「幕府の高級官僚族」で、「御家人の武蔵藤氏」と、「水野氏」は老中にも成る「将軍家の縁籍族の末裔」である。
    ところが、この「附家老二氏」は幕末に奇策の分散策一つに上手く乗じて事前に元々あった「田辺藩」と「新宮藩」を敢えて独立させて、そこに逃げ込んだのでこの策には参加していない。
    仮に参加して居れば、「江戸」がこの策に関わっていた事に成り拙い。
    「維新政府」からの「悶着」が必ずに出るし、むしろ、表に出ない方が「四つの奇策」の戦略上は「得策」である。
    況して、そうでなければ「田辺藩」と「新宮藩」に独立した意味が無く成る。

    次ぎに、紀州藩の「連綿族の家老」として、「三浦氏」「久野氏」「渡辺氏」「水野氏分家」が居た。
    「三浦氏」と「久野氏」を除いて、「1/10俸禄」では300石に成り、且つ、「青木氏の殖産」にも参加できない立場であり、それどころの話ではない。
    其れ故か、「連綿」を引き継ぐ「氏跡目の主系子孫」を明治期以降に遺していない。
    「連綿族」であるので「跡目」が無ければ家老には成れないし、相当苦しかった筈である。

    一方、「三浦氏 1.5万石」と「久野氏 1.0万石」は「伊勢藤氏」ではなく、「連綿族」で1/10俸禄策でも問題は無い。

    後は、「城代家老、或は、その身分」としては、「8氏 (3000石」」いたが、その中に「津田氏(津田出)3000石」が居た。
    これ等の身分の者は、「1/10俸禄策」では、「300石程度」と成って、生きる事の限界(250石)にあった。
    この8氏の内、「伊勢藤氏」は「加納氏(吉宗の御側用人の家筋)」が一人である。
    唯、この「加納氏」は、前段でも論じたが、「青木氏」と共に「二足の草鞋策」を執っている。
    「青木氏の縁籍筋」でもあり、並びに「伊勢藤氏」であり、先ず裏切りは出来ないだろうし、「二足の草鞋策」に力を注いだことが判っている。
    筆者の祖父の母親」はこの「伊勢加納氏」から来ている。

    そうなると、恐らくは、「合議の原則」があるのでその指揮を執っていたのは、「三浦氏」と「久野氏」の二人であったが、此処で異変が起こった。
    それは、室町期末期に「紀州根来衆(河内)」で、「楠木正成の末裔」で「津田城の城主」の「末裔津田氏 8氏」の「後裔 津田出」が「藩主の茂承」に登用された。
    この「連綿族の二氏」を差し置いて「執政」と成って仕舞ったのである。

    (注釈 津田氏は紀州藩の「布衣の頭」の家柄)

    この「連綿族の二家の系譜」では、明治期以降に少なくとも四代にわたり子孫を遺しているし、「連綿族のトップ」ではあるが「伊勢藤氏」ではない。
    唯、この「連綿族の二氏」が意見の違いから「藩主の茂承」から一時外されたが、津田出が「徴兵制の創設と世襲制の廃止」を敷いた後に、結局は「政争」で「永久追放」を受けて仕舞った。
    ところが、「紀州藩」の出方に反対していた「維新政府」は、この「津田の考え方」に賛同した。
    「維新政府」は、「津田出」を政府の陸軍省に招いて「軍制改革」を実行させたのである。

    「四つの奇策」を実行したのは、結局、「伊勢藤氏」では無く、三河から連れて来た「連綿族」でもあり、この「連綿族の二氏」以外には考えにくいと云う事に成る。

    以上の検証から、これで、「伊勢藤氏」が、仮に「四つの奇策」に関わっていれば、「青木氏」も「殖産救済策の対象」にはしなかった筈であり、“「青木氏の殖産策」で救助した”とある事と一致している。

    「伊勢藤氏」が関わっていないとなると、これで「青木氏の心」は決まったと観られる。
    流石に「青木氏の心魂」は「妥協の心魂」では収まりが着かなく成ったのである。
    つまり、1200年もの間、護って来た「青木氏の氏是」を破る覚悟をした事に成る。
    そもそも、相手が「誠意」で応じてこそ「青木氏の心魂」であって、これ程の騙す様な「四つの奇策」が仕掛けられたのでは黙っていられなかった。
    「伊勢郷氏」としての立場が無く成る。
    果たして、「立場」を無くしての「青木氏の氏是」か。
    その程度の「青木氏の氏是」では無い。

    況してや、前段でも論じた様に、徳川氏に積極的に協力し、「吉宗育て親」で「享保の改革」や「紀州藩の殖産」等の「最大の立役者」に対しての「仕打ち」である。
    「紀州藩の勘定方指導」で「紀州藩」を「二度」に渡り建て直した「青木氏」に対してである。
    「青木氏」には、最早、一矢を報いる「強かな青木氏の心魂」が芽を興した。
    ところが、一矢を報いる以上は「青木氏等」も実に強かであった。
    それが放って置けなかった“「伊勢暴動」”と成ったのである。

    「紀州徳川氏、紀州家臣団」に執っては、この「青木氏の行動」は「青天霹靂」であった筈である。
    「吉宗育て親」で「享保の改革」や「紀州藩の殖産」等の「最大の立役者」の「青木氏」が“「伊勢暴動」”を背後で操るとは思いも依らない事であった。

    ところが、この時、「紀州藩」は、他にも「二つの民の不満」が起こる事を政策上執ったのである。

    それは「藩士の1/10俸禄」は、不満に成ることは勿論の事であろうが、「藩軍の指揮権」と「藩士の解雇」と「藩士の副職容認」への「民の不満」であった。

    注釈として、先ず「藩士俸禄の不満」の「不満の解消手段」として、“1/10”にした代わりに“「副職」”を認めたのである。
    (認めなくても“「副職」“をしなければ生きて行けなかった。これも「制度上の奇策」である。)

    副職を藩士に認めると云う事はそうすると何が起こるかである。

    「1/10俸禄」で「副職」を認めれば、到底、「1/10俸禄」で生活は無理であり、家臣は必然的に「副職」に重点が傾く。
    「副職」があれば良いが、無ければ、「餓死」である。

    ここで、家臣には次ぎの事が起こる。
    「紀州藩」は「1/10俸禄」にすれば残りの「藩収の石高は確かに「借金」に向けられるが向けなかった。

    どうしたかと云うと、経理と藩から切り離された「元藩主の徳川氏」の「個人の土地と成った地権分」に廻されたのである。
    確かに「自分の俸禄も1/10」にはしたが、それは「パフホーマンス」であって法で認める「地権分」には文句は着けようがない。
    要は「私腹を肥やした事」に成る。
    この事に対する不満が起こった。

    次ぎは、「藩軍の指揮権」に付いては、「維新政府の忠告」を聞かず、上記した様に、「津田氏の執政」で「徴兵制の創設と世襲制の廃止」を敷いたのである。
    従って、藩軍から何時かは県軍とは成るが、この時、「維新政府の指揮権」が、一時及ば無い事が起こった。

    この時に、この「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は、「士族」に限らずに、民から一家の跡目や親や長男など主に成る者を除いて、20歳以上の者の義務として、兵を集めた。
    約7320人程度の兵が集まり、その内、「士族」は400人程度とされた。
    後は、農民市民などから構成される「ドイツ式の軍」を作った。

    これを聞いた「維新政府」は士族以外を兵にする事の禁止令を直ちに出した。
    ところがこの「紀州藩」は令に従わなかった。
    これは何か相当な理由があった事を意味する。

    ここでも、元武士の「士族」は「職」を奪われる事が起こったのである。
    「職」を奪われる事のみならず、「世襲制の廃止」で「身分」も「生活の基盤」も失った。
    「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は大混乱を紀州で招いて仕舞った。
    況してや、「維新政府の反対の軍」であれば、軍政も違う事もあり「指揮権」も「維新政府」には無かった。

    これ等の事で元藩士の「士族」と成った者等が、「職や身分を奪われる事の不満」、市民の「徴兵の義務への不満」が起こった事や、「農業への働き手の影響」が少なく成ったり、「税制も極端に変わった事」もあって、幕末からの積り積もった不満は頂点に達していた。
    「世襲制の廃止」で「能力のない者」は「藩士の解雇」も受けたのである。

    ここで、この「四つの奇策」は、兎も角もとしても、「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は何故したのかと云う疑問が湧く。
    其の侭でも済んでいた筈である。
    それには、「茂承」には「恐怖」から来る「思惑」があった。
    上記した様に、江戸期末期からの「武士と農民や庶民の不満」が「絶頂期」にあった事なのである。
    この様に成れば、「維新」で「徳川氏」が弱っている中で、「全ての民(百姓)の暴動」が起これば、「徳川氏だけを相手にした暴動」が起こり、「紀州徳川氏」のみならず、全国に飛び火して「全徳川氏系列族」が「完全滅亡する恐怖」である。

    そこで、この火元と成る「種火」を先ず防ぐ必要があり「独自の近代的な軍」が必要と成る。
    それも藩士ではない庶民の編成軍にしなければ成らない。
    従って、「維新政府の軍」には頼っていられない。
    むしろ、頼れば「一氏への暴動(私闘)」としてあしらわれ放置される事は充分に考えられる。
    「維新政府」にとっては、云う事の聞かない相手でもあるから、戦略的に「徳川氏」が無く成る事はむしろそれの方が都合がよい。
    又、手を煩わせる事もなく潰せることに成ると、自分で護る以外には無い。

    この様な目的を持った策だからこそこの「組頭の家柄」から引き揚げた「津田氏の人事」なのである。

    もう一つの策は、「徴兵制の創設と世襲制の廃止」に依って、「元家臣の士族」が藩軍に入れない事が起こったのである。
    藩軍は7320人、この内、士族は400人であったとすると、6920人は庶民と成った。
    これはたった5%強である。

    「幕府末の基準」では、500石以上に課せられたのは、一人/1000石で3人、3000石で10人とし、500以下は金納とするとしていた。
    紀州藩全体では、55万石であるので、「兵賦」は約1900人−2000人であった。
    これは「通常時の半数」であるので、3500人−4000人と成る。
    戦時は、これに「500石以下の者の参加」と「500石以上の家臣の媒臣」の4人−5人が付くと成る。
    そうすると「紀州藩」は「10000人程度の兵力」が求められた事に成る。

    そうすると、「4000人/7320人」は、維新では逆にほぼ「倍の兵力」を持ったことに成る。
    これは異常であり、本来であれば、少なくても「財政負担を少なくする手立て」に入る筈である。
    ところが、そもそもこの「3500人−4000人」の兵力は、「武士」であるので、「400人の維新兵力」:「3500人−4000人の幕末兵力」と成り得る。
    何と「維新兵力 1:幕末兵力 10」が成り立っていた
    つまり、ほぼ「兵力」は倍に成りながらも、「士族の兵力10%」は逆に極端に削減されて仕舞った事に成る。

    これは何を意味するかである。何かとんでもない理由がない限りこんなことはしないだろう。
    それも「明治維新」で他藩から攻めて来ることなどはしないし、「維新政府」に近代的な軍隊がある。
    「維新政府」に対抗しようとしたのかは兵力差で無理である。
    明かに、これは紀州の「市民の暴動」を押えようとしたとしか考えられない。
    仮に「全武士」が失職で暴動を起こして4000人:6000人では無理であろう。
    仮に出来たとしてもその「軍資金の財源」をどうするかである。一時的なものに終わる。
    それには、「武士を支援する豪商」が居るかである。
    確かに居る。
    其れは「伊勢藤氏」との関連を持つ「青木氏」である。
    此処で、「青木氏の歴史観」に二つ目の左右する事が出て来るのである。

    然し、この「青木氏」は、丁度、「伊勢暴動 1876年」に成る直前で不満を押えようとして関わっていた。
    況して、あくまでも「伊勢の範囲」である。
    紀州全域には「青木氏の氏是」で「戦い」には絶対に手を出さない。

    さて、そうすると「士族の3000人」は「武士の本来の立場」を失った事に成る。
    つまり、「士族」は「失職」であり、逆に「庶民」は「就職」に成る。
    それも庶民は「7000人程度の者」が職に就けた。

    和歌山の人口の中で、 明治初期の市民は 60000人(明治4年の65000人の1割は士族4000人−5500人)相当に成る。
    仮に、上記の通り7000人/60000人が兵士に就職できたとして、「15%の庶民就職」が出来た事が凄い事である。
    況して、「徴兵制」なので「市民60000人」が全員が対象者である訳ではないし、対象外の男女子供年寄りなどの人口があり、年齢制限47歳と成っている事をも差し引くと、「約30%から40%が対象」の「義務の男」である。
    この内、失業は済状況が悪化期であったとしても、(60000/2)/3=10000人−7000人が「徴兵制の対象者」と成る。

    丁度、計算通りの紀州の市民の者が「徴兵制」に成って「兵」と成ったのである。

    これは何を意味するかである。
    市中に若者が居ないと云う事である。
    先ず、「市民暴動」は「若者が原動力」と成って起こすとすると、これを「兵で囲い込んだ」と云う事に成る。

    幕末は「一地一作の令」で、次男三男が就職難であった事から、この不満も解消される事は確かである。
    暴動の原因の一つはこれで消せた。

    この「紀州での市民暴動」が起こると、全国に波及し徳川氏は末端まで滅亡する事を恐れた。
    ところが、唯、これには「莫大な財源」が必要に成る。
    無理してでもこれに財源を廻す必要が出て来る。
    況してや、この時期は「財源処」の話しでは無い。
    前段でも論じたし、上記する様に、念の為に「青木氏等への借財」は「建前上は4万5000両」(「4万両は借財」 「5千両は殖産の出資金」)とされている。
    然し、これを払わずにこの紀州の一藩が「近代的なドイツ式の徴兵制」に注ぎ込んだ。
    市中に若者が居ないと云う事に成るまでに注ぎ込んだのである。
    「青木氏側」から観れば、確かに「異常」である。

    (注釈 現実に「異常」であるとして、執政の津田出は、一年経過後に永久追放されたが、性懲りもなく「茂承」はその一年後には又呼び戻した。
    然し、又、二年後に追放された。)


    (注釈 「青木氏の当時の商い資料」では、「6万両の貸付契約」があって、その内の「4万両が貸付不良見込み」で、「2万5000両」がこの時期の「不当り」と成っていたらしい。
    結果として、返納が無かったので「4万両」が「不当り」に成った事に成るらしい。)

    その金が何と無謀にも「1/10俸禄の策(「無益高制 1873年)」で浮き出た金を全額注ぎ込んだのである。
    今まで紀州藩に尽くして来た武士は不満爆発寸前に成った。その動きを見せていた。

    普通なら「伊勢暴動」と同じ様に、他国でも「武士の暴動」が起こっていた様に、「伊勢藤氏の家臣団の反乱」も起こる筈である。
    ところが不思議にここでも「家臣団の反乱」は起こらなかった。
    ここに「青木氏に関わる意味」があって「青木氏の歴史観」の何故かである。

    この「家臣の不満解消」と成ったのは、「藩士」の多くが、元は「伊勢藤氏の郷士衆」で、「伊勢青木氏」が行う「殖産」の「大きな担い手」と成っていたからである。

    例えば、藩士の一族を集めて、又、中には周辺の民までも雇い、屋敷に「殖産の仕事場」を作って、俸禄より数段高い収入を得ていた事に依るのである。
    それを知った上で見込んで騒がないだろうとして「俸禄1/10(無益高制)」と出来たのであろうことが判る。

    ここでも、「伊勢青木氏」は騙されていた。
    然し、「俸禄1/10(無益高制)」には、大きな「意味」を持っていた。
    最早、「俸禄」が保障されないのであるから、これでは「家臣の領域」では無いが、紀州藩は「武士の暴動」は起こさないと云う事を読み込めていたのかもしれない。

    筆者は、そうでは無かったと観ていて、この“「俸禄1/10(無益高制)」で「伊勢藤氏」は騒ぐ”と観て執って「青木氏」は素早く手を打った。
    それは、彼等を「説得」と「新たな殖産」に誘い込む事にあった。
    それには「青木氏側」に出来る根拠があった。

    そもそも、9/10が「内職」ともなれば、最早、「意識」では「藩主」では無く、そちらの「殖産の主」が「雇用主」と成ろう。

    この「雇用主」は「殖産」を興した「青木氏」であった。
    ここに意味がある。

    それは、その時には「青木氏」には、「不穏な動き」を見せていた「農民の暴動への支援」をする覚悟が既に出来ていた事だ。
    そこで、「藩主以上」の「武士の雇用主」と成った以上は、「片方の武士」の方は「殖産」で対処して、「農民や庶民」の方は「騒ぎ」とする以上は、その後の始末策として「賜姓族」である限りは、「汚名の払拭策」と「暴動の名目策」に通じて思慮を深めていたのである。

    そもそも、「雇用主」として、前段でも論じたが、上記の“「徳宗家」の「古式呼称」”は、「殖産と副職」が合致して“「伊勢の民」の生活を救った”とした事にあって、明治期に成っても「伊勢の全郷士衆や民」の中からより強く再び湧き出て来た事ではないかと観ている。
    「郷土史や郷士の家の記録」に記載されている位である事からこの時の事が良く判る。

    兎にも角にも、前段でも論じた様に、新たな「明治期の殖産」でより彼等を救う事に腹を決めたのである。

    上記の「紀州藩との5千両の殖産投資分」に付いては「藩への貸付金」の一部を名目として引き取り、「全額出資の殖産」として「伊勢」に引き取ったのである。
    別経理にして「藩」も「徳川氏」も成ったとしても、「殖産の資産は藩の資産」である以上は変わらないので、この分の「担保の返却」は可能であった事が判る。
    其れが、享保期から始めた「薬剤用菜種」と、江戸期中期から幕末期に爆発的に進んだ食用文化が「食用菜種油」の需要を飛躍的に高めた事にあった。

    この為に「担保貸付金の不当り」を理由に、「青木氏」は「紀州の蜜柑畑」でも行える様に認可を「取り付け」して、つまり、「殖産契約の条項」にし、大当たりの「菜種油の殖産」となったのである。
    これが「貸付」に対する責めてもの「担保の返却」と成った。

    (注釈 5千両の「殖産出資金の確保」と共に、「蜜柑畑の使用認可」で得られた効果と、「藩士の副職にする事の認可」と「菜種油の莫大な利益」とで「貸付不当り」は何とか一部を軽減された事が考えられる。
    後に、上記した様に、「紙パッキンの殖産」も手掛けた。
    「蜜柑畑の使用認可」は、「田方勝手作仕法」に準じた強かな賢い「青木氏の策」であった。)

    これに彼等家臣団を「殖産の働き手」として新たに引き込んだのである。
    何はともあれ、こうなれば「紀州家臣団」は何も「暴動」を起こす必要が無く成ると共に、彼等を支援し「青木氏側」も「殖産」をタイミングよく広げる事が出来るし、結果は市中は納まる。
    騒げば、「罪人」を出し「殖産」どころの話では無く成るし、上記した様に飛び火して全国に広がる危険性を大きく現実味を帯びて持っていた。
    然し、これも防げるし、「支援金」を出す限界にもあった。

    「土地を提供する者」、「種まきから収穫までの労働力を提供する者」、「搬送等に従事する者」、「販売等を担当する者」、「搾りなどの生産に従事する者」は、「青木氏」が大阪堺に工場を立てて其処に「家臣の内子の奴等」が「働き手」として働いたとしている。
    「営業」は「伊勢紙問屋の伊勢屋」が行う事に成ったと記されている。


    実は、この結果として、反して「四つもの奇策」を講じて民を欺いた「紀州徳川氏」は、紀州伊勢では庶民から“「徳宗家」の称号等”は遂に得られなかった。
    (注釈 最近では「町おこし」で美化して喧伝されている。)

    「後勘の評価」では、現在も評判は、取り分け優れたものとは云えない。
    特に南に下がる程に良くない。

    この結果、潰れずに「紀州徳川氏(西条藩松平氏より養子)」は「侯爵」とも成り東京に移り乃がける。
    (その後、企業倒産を繰り返し伊豆にて直系の子孫は絶える)
    今後の人の上に立つ身分の者でありながらも「四つの秘策」の「斯くの如」であり、「青木氏」からすれば、“一矢を報いた”のであり、「青木氏の掟」として“上に立つ者は斯くあるべし”と観える様に忠告示唆した事に成るのである。

    青木氏36代と37代の先祖は「善悪の条理相対の理」を身を以って忠告したのである。

    (注釈 「青木氏の資料」によると、1871年頃前後から紀州藩の採った態度などから上記の農民不満で燻り始めている。
    そして、決定的に農民や郷士衆が行動に移したのは、1874年後半の頃に集会などを重ねているのである。)

    (注釈 紀州武士団の暴動はどうしても留める必要が戦略的にあった。
    従って、これには「経済政策の殖産」で以て支援して留めた。
    然し、一方、農民や市民の不満の爆発は「青木氏」に原因の一端があり、留める事は難しい状況にあった。
    徳川氏に一矢報いる為にも「認めて支援して留める」には「上記した深謀」が必要であった。
    「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策は成功した。)

    結局、「地租改正」を理由に本格的には「飯能郡」、現在の松阪市で立ち上がったのが1876年12月頃に始まった。
    その勢いは松阪から一度南勢にも広がり北勢に向かって行進は進んだ。
    この一部の「伊勢郷士衆」を巻き込んだ「農民暴動」は、「歴史上の記録」として始めて“成功した唯一の暴動”であった。
    この時の事を多くの川柳に詠まれている。

    前段でも論じた事ではあるが、その後に、「紀州徳川氏」とは大正14年まで親交を深めたが、この時の事を認めた多くの手紙が遺されている。
    「紀州徳川氏」は、後に、これを恥じて東京に移動して「訳有の財産」を投入して民の為に成るとして日本で初めて「私設の職業紹介所(「職業安定所」」を設立した。

    (注釈 後に、国に依ってこの制度は「職業安定所」として「公」のものと成るが、「徳川氏の私設」は潰れる。)

    結局は、紀州徳川氏は第16代まで続くが、再び「借財」は嵩み「企業倒産」を繰り返す様に成り、最後は家系譜上では「空白断絶」の「憂き目」を伊豆で受けた。(ここでも奇策)

    「青木氏側」で云えば「四つの奇策」に対して「如来の意志」が降りたと云う事であろう。
    唯、第16代は、多くの「青木氏への手紙」の行から観て、この事を“「心得ていた」“と観られる。

    その証拠に、そもそも「祖父の代の青木氏」を朝廷に進言して「天皇の感謝状」を「左大臣の祐筆」で「天皇家の菊紋入りの桐の文箱」に収められて「伊勢の青木氏」に送られている。

    この時、「日本最古の藤白墨」等も「菊紋入り桐箱」に収められて「賜物」として授かっている。
    「青木氏」からは「彩色南画の和歌浦の絵」を「返納品」として献上している。

    この「賜物」と「返納品」のやり取りに重要な「青木氏の意味」がある。
    前段でも論じて来たが、詳細はそちらを参照されたとして、「日本最古の藤白墨」と「紫石硯」は江戸初期までは「天皇家の専売品」で、紀州名産で全て天皇家に納入される貴重な特産品であった。
    (江戸初期に徳川氏に占有される。)
    従って、「天皇家の宝物」として扱われ、これが特定の格式ある家筋で無ければ賜らない。
    何の趣味も持たない者に与えても猫に小判で決して与えられるものでは無い。
    この「天皇家の宝物」をこの時に与えられると云う事は、それ相当の安定した評価の事で無くては賜るものでは無い。

    奈良期から「朝廷の「紙屋院」であって、絵画等を扱う「文化院」でもあって、平安期には「春日真人族」として「志紀真人族」として「軍略処」を務めた事もある「賜姓臣下族の青木氏」の「伊勢の紙屋」を「二足の草鞋」で営む「氏」であったからこそ、それを知っての「与えられる賜物」と成る。
    「華族制度」が敷かれたとしても、その家筋の者に誰彼なく無暗に与えられる宝物では決して無い。

    そもそも、普通は「天皇家」に対しては「返納品」は行わないのが「臣下の仕来り」であったが、昔、「朝臣族の伊勢賜姓臣下族」と云う事もあって「返納品」は受けられた。
    この間の明治維新期まで「献納金」を献上していた事もあって「返納品」が受けられたと考えられる。
    況や、紀州松平氏に執っては、“「紀州に於ける功績」は、「青木氏」に在って自らの功績の所以では無い事”を暗示している行為である。
    其れも一度では無く“二度”も受けている。

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」
    “「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

    上記の数式論から来る「二度の褒賞」に成るものと考えられる。
    それは「明治維新前の功績」と「明治維新後の功績」に分けられたと考えられる。

    この事で重要な事は、“「伊勢暴動」”に付いての事があれば、朝廷から「感謝状」など出る事は絶対に無い。
    然し、この「二度の事」は、「伊勢暴動」に対しては、朝廷に執って「伊勢」は格別のものとして扱われ、“伊勢の民の生活を護った”とする「考え方」に至っていて、それは「皇族賜姓臣下族の賜姓五役」を貫いたとする評価に至り、「当然の役」として認めていた事を示すものである。

    恐らくは、「五年の長期間の伊勢暴動」が、“歴史上の初めての成功例であった”とすることが、「朝廷」を容易に思惑通りに動かせたと考えられる。

    唯、未だ身分や格式を重んじる風潮が遺されている時期でもあり、これが一般の豪商や家筋であれば、この様には成らず、「二度の褒賞」とは成らなかった事と成ろう。
    躊躇なく成り得たのは、「皇族賜姓臣下族」であったとする事が大きく影響していたと考えられる。
    「二つの感謝状」を観れば明確に判るし、「祖父の口伝」でも解る。

    況や、重要な事は、“「伊勢暴動」は「暴動」であって、「暴動」で無い「政治の悪弊」を改めた”と朝廷は決め付ける「大義」を得られたのであろう。
    「伊勢暴動」を“伊勢の民の生活を護った”とするだけでは無く、「四つの秘策」の「家臣団の殖産の就職」で“「武士等の生活」も護った“として、合わせて評価した事に成る。

    もし、そうでなければ、「郷士衆と農民の伊勢暴動」と「家臣団の暴動」が合わせて起こっていた事に成り得る。
    事と次第では、「紀州藩」が「凡例の起点」と成って全国に暴動が拡がった事に成り、場合によっては「維新政府の存立」さえも危ぶまれた事をも意味している。

    その証拠に、「紀州藩の四つの奇策」に対して反対していた「維新政府」が、2年後を以って全国に紀州藩と同じ「四つの奇策」を適合して、「暴動」を抑え込んだ。
    従って、この全国展開で明治13年から14年を以って政情は収まりが着いた。

    「藩軍の指揮権」の問題は、「紀州藩」は明治2年に全県民の「徴兵制度」を敷いて「武士」だけの「藩軍」は無くした。

    この後、当初、この「紀州藩の提案」の「徴兵制」に反対していた「維新政府」は、明治4年に「紀州藩」に追随して「徴兵制」を採用したのである。
    紀州藩の藩軍」は「国軍」に編入して問題は解消した。

    上記して様に、「市民暴動と武士団の暴動」の危険性が無く成った事からも、「異常な策」とも観られる「藩軍」は必要無く成ったのである。

    況や、これも「青木氏の歴史観」に遺すべき「青木氏の功績」の御蔭である。

    (注釈 ところがこの県民から成る「編入の国軍」が皮肉にも直ぐに「伊勢暴動」に投入されたのである。)

    これが他県からも派遣された事に依って「伊勢暴動の捕縛者」が多く成った原因でもある。
    「捕縛者を開放する手立て」として「献納金の必要性」が増した原因とも考えられる。
    暴動史上、最高数で釈放も含めて58000人(青木氏の情報)と云う「捕縛者」が出た。
    前段でも論じたが、「青木氏」は釈放に必死に成った。

    それでも「伊勢暴動」は収束しなかったので、直接に“「説得」“に当たらせる為に「国軍」では説得には成らない難しい面もあったので、懐柔策として「警視庁の警察」まで派遣投入した。
    然し、逆に、この一部の警察までが暴動理由を租借して、この「暴動」を挑発すると云う事態と成って、更に拡大したのである。

    「国軍」にしろ「警察」にしろ「農民や市民」から「徴兵や募集」により構成されてた組織である。
    「同じ仲間」を武力制圧するのは、未だこの時期では心情的に難しい面があったし、背後に「青木氏」が暗躍していた事もあった。
    「暴動」は、当初は「松阪」から南勢に移り、そこから北勢に移動中に一部に「火付け打ちこわし」(自首)が有った。

    この時は、未だ江戸期の「一揆」の性格的判断や概念の領域にあった。
    ところが、「青木氏」は、“時代は維新である事”を説き、「殖産」で藩主では無く、生き延びたのは「雇い主」でもあったこの“「青木氏の説得」”で「整然とした行動」とり始め、且つ、「理路整然とした訴状文の提出」の状態に変わった。

    この「行動と訴状の状態」で、西には「摂津堺域」に、北勢域は美濃から信濃・甲斐まで伝播して行った。
    この結果、正式な維新政府との交渉が可能に成り、「理路整然とした訴状文」にて理解を固めた維新政府は、税率を3%から2.5%に変更する事に導いて決着は着いた。

    この初期の過程の「火付け打ちこわし」(自首)は「戸長」との交渉中に起こった。
    実は、この「戸長」は農民の中からの選抜制で選ばれた者であった事から平穏を保とうとする「戸長」との間での一時的な「感情からの結末」であって、「経済援助をする青木氏」は指揮を執っていた「伊勢郷士衆」を説得した。
    この「戸長との直接交渉」は止めさせて「正しい行動と論理づけた訴状の状態」を作り出して「維新政府との交渉」に入ったのである。

    この様に“暴動を正常な行動に導いた”とする事も評価に成っていたと考えられる。
    “「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策”の上記で云う「手品」であった。
    つまり、今で云う“「デモストレーション」”に導いたのであった。

    この“「デモ」”は、“万機公論に決すべし”とする事から、最終は維新政府は“「暴動」”と云う定義では無く、「デモストレーション」と評価した事にある。
    “「正当な市民の行為」であった“と評価したのである。
    そもそも、「維新政府」が紀州から「国軍」が引いて「警察」が介入したのは“「正当な市民の行為」として扱う様に仕向けたこの事に依る。

    一方で解放され楽に成った「紀州徳川氏」は、「伊勢青木氏の口伝情報」では、後に明治20年頃以降に、結局は「流浪の身」に成った下級武士の為に流石に責任を執ってか、「維新政府」から与えられた「莫大な地権」と「貴族院」と云う「特権の立場」を利用して「職業の斡旋組織」(職業安定所の前身)を立ち上げた様である。
    紀州徳川氏は、東京で「数々の事業」を起こしたが失敗し、再び「財政上の影響(借財の負担)」を受けて、「跡目の系譜上」にも「空白断絶部」があるところから考えると再び「奇策?」で逃げたと観られる。
    現実には伊豆に引きこもって断絶状態と成っている。

    この時は、既に一切の「維新騒ぎ」は収まっていた。
    藩主は完全に廃止され、政府から派遣された知事が政務を執った。

    「青木氏の末裔」から観ると、「激動期の仕儀」としては仕方がないが、納得のいかない皮肉なものである。
    維新期に於いても、この様な“危機存亡の際どい歴史観”も「青木氏」にはあったのである。

    其れは殆どの藩は「酷い借財」に喘いでいた為に、「維新政府」は、御三家であった「紀州藩」が敢えて上記の様に先行して体現したのを観て、反対していたにも関わらず、これは見本中の見本として2年後にこれを全国的に見本として利用した。
    これを上手く利用して「借財棒引きの理由」にして「地方自治の安定した体制(中央集権国家体制)」に持ち込む必要に迫られていたのである。

    「改革」とは、そもそも四方八方悉く上手く納める事は至難の業で難しい。
    取り分け、「国家体制」を変えなければならない時には、何処かに犠牲を負う事が必要であった。

    つまりは、「享保の改革」にしても、「維新の改革」にしても、何れも「青木氏」はこの「犠牲を負う宿命」と成っていたのであろう。
    これは「伊勢信濃」のみならず、「青木氏の定住地」では、大なり小なり「二足の草鞋策」で「殖産」を興し、「古式伝統」を維持し、「土地の地権者」で、「郷氏と云う身分の立場」にあれば、この「二つの改革の犠牲」を負っていた事は間違いがない。

    取り分け、前段で論じた「六地域」では、この「犠牲を負う宿命」の状態にあった事が判っている。

    幸か不幸かこの「六地域」には例外ではない大きな大名が居た。
    それは、「青木氏」が大きく「二足の草鞋策」を敷いていた所以でもある。
    この「二つの改革の犠牲」で、「伊勢、信濃」と同様に弱っていた事は否めない。
    その証拠に、未だそんなに時代が過ぎていないにも関わらず、「資料の有無」のみならず「古式伝統」、「口伝の伝達」、「伝統品の保存」、「縁籍関係の情報」も完全な消失状態に近く減退している事は何よりの証拠である。

    これは「第二次大戦の戦後の混乱期」も原因としてはあるが、「二つの改革の犠牲」の影響は無視できない。

    結局は、「紀州藩の事例」を観て(動乱が起こらないかを見極めた。)、2年後に「維新政府」も正式に廃止してこれを認めた。

    (注釈 この「紀州藩の解決の仕方」は、後に成って「維新政府」は反対していたにも関わらず「全国の模範」としたが、ところが九州域を始めとして「殖産」の進まない各地では「武士階級の不満」が、矢張り、爆発して「藩軍」が独立して反乱軍に成る等異なっていた。)

    この事は、「伊勢暴動」と全く同じ時期なのであって、伊勢域は「庶民の暴動」で幸いにも終わったが、九州域等の殆どは、「武士階級の暴動」を超えて「反乱・戦争」となった。

    この差は、紀州藩の「武士の副職」を認めた事と、「青木氏の殖産」と「青木氏の心魂」が上手く連動させた事の差に在った。

    云い換えれば、「副職 殖産 心魂」の共通項、その基は、況や「悠久の歴史を持つ郷氏」(氏上と氏人の関係)に在ったと考えられる。

    その意味で、「氏の存続」が危ぶまれる程の「金銭の犠牲」はあったが、「無駄な戦いの損出」を最低限で抑えた事の「社会的功績」が認められた様に、「伊勢と紀州」等の「立ち上がり」は流石に早かった。

    この「青木氏での同族一族郎党」で「路線争い」を起こしたほどの「金銭の犠牲」と云う事は、この「立ち上がりの速さ」がもたらす効果を期待した「青木氏の戦略的展望の心魂」であったかも知れない。
    所謂、此処でも“「青木氏の氏是」”が働いた気がする。

    「青木氏の氏是」
    ”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、然ども、世に憚る事無かれ、何れ一利無し”の意に通じ、就中ば、”「共生氏族」であれ”

    この「氏是の概念」と上記の「心魂と成る掟」から来る行動であったのであろう。

    (注釈 前段でも論じたが、「殖産の功績」や「献納金」や「前貸金の放棄」等で社会に貢献したとして、「維新・・年の天皇家からの感謝状 一木氏」と「徳川侯爵(徳川茂承 14代と16代)の仲介役による感謝状(大正初期)」とで、「天皇家」より「二度の拝謁と賜物」を受けている。
    何れも「二つの感謝状」に付いては、「仏壇の引き出し」に保存していた為に[虫食い]による問題があって、「四年」か「九年」かの判別は尽き難いが資料の経緯から「九年」と判断している。

    唯、仮に、これが「四年」とすると、そうすると、享保期に緩めていた「田畑勝手作仕法」から維新から「土地開放」を目的として「田畑勝手作の廃止 四年九月」を出したが、これに関する事に成るので、前段で論じた様に、「税制改革の地租改正」に伴って事前にも「土地開放の改革」が成されたが、この時の「青木氏」が率先して執った「自作農」の為の「土地の解放」に関する謝礼と云う事に成る。

    実は、更に、「三つ目」もあって、「宮内庁からの文面 橘氏」は保存状態が酷く、現在解読中ではあるが、「維新初期頃の献納金」に対する「内大臣」からの「礼状」と判断しいる。

    (注釈 「青木氏写真館」の8Pにこれらの一部ではあるが、墨の一部や硯等を掲示している。)

    (注釈 上記した様に「青木氏の氏是」にも関わらず、この時の「書状と返礼品の現物」はあるが、何れもこの「献納金の返礼」や「殖産の功績」で、「宮内大臣(左大臣) 一木氏の祐筆の筆」で受けていて、「桐箱」に「菊紋の花文様」が「手書きで描かれた文箱)に収められている現物はある。
    可成り丁重な扱いであった事は一目瞭然に判る。)

    これが「青木氏の1200年の青木氏の心魂」と云われるもので、これも「青木氏の伝統」なのであった。

    40代目の筆者からすれば、流石、「始祖祭り」は継承しても、「偏諱の論」からは「伝統の違和感」を感じ、先代たちは“度が過ぎている”と云う感覚にしかならない。
    仮にこれ(古式伝統)で行けば、「信義と道義」が可成り廃れていて、且つ、「伝統」の少なく無く成った現在では生きて行けないであろうと考えるし、「氏存続」は「氏内に歪」が生まれて不可能であろう。

    (注釈 何度も理解を頂く際にはお願いしている事ではあるが、幸いにして「伊勢」と云う特別で「古い環境」であった事から比較的幸いにして遺されていたので、「伊勢の伝統」を基にして論じてはいるが、全国の「青木氏」には、残念ながら「青木氏の伝統」を書き記す程の記録が遺されていないのが現状である。
    又、昭和の終わり頃までは、兎も角も、「個人情報の保護」が壁とも成り資料を見出す事が難しい。
    これが原因して残念ながら充分に各地の詳細を立体的に書き記せない。
    然し、概しては、各なくとも「全国の青木氏」には、この様な類似の「古式伝統と由来」を持ち得ていた事を是非ともに知って頂きたい。
    「近江の佐々木氏の記録」にも全国に多くの「佐々木氏」(二流)がおられるが同様の様であるらしい。)

    明治期に成っても、「福家」は“走りに走った上に未ださらに走った”が、疲労困憊しながらも平成期にも分家に当たる「四家」は大阪と神戸で大いに走り続けている。
    然し、流石に筆者の代では、「福家」の「青木氏の伝統」を引き継いで“走るのを止めて休息したい”と思い、「先祖への尊敬と誉」に対して応える為にも、又、「青木氏の伝統」を「未来のロマン」として伝える為に貢献したい。
    故に、「青木氏の奈良期からの経緯」を記す“「由来書の復活」”にせめて取り組んだのである。

    (注釈 管理人さんの絶大なご理解に依り「青木氏の歴史観」を知ってもらう為にこれをサイトに投稿している。)

    「古い関係者」には大いに協力して貰えた。
    その「きっかけ」は、親から渡された「青木氏だけの古い蔵書本」等と過去の関係者の家の資料等、それを更に研究して頂いて同じ事をした「佐々木氏の由来書」を観た事であった。



    以下 「伝統シリーズ−33」に続く。


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