青木氏氏 研究室
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[ホーム] [研究室トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [新規投稿] [管理用]
  • 以下は新規投稿順のリスト(投稿記事)表示です。
  • ※記事の投稿者は全て福管理人(副管理人)で、すべての文章ならび画像は福管理人の著作物です。
  • ※この「青木氏氏 研究室」は掲示板形式ですが、閲覧専用で投稿不可となっております。
    こちらの掲示板では回答できませんので、もしご質問のある方、さらに詳しく知りたいと言う方、ご自分のルーツを調べたいが、どうしてよいか分からないという方などは
    お気軽に青木ルーツ掲示板でお尋ねください。

  • 福管理人[副管理人]より -
    青木氏には未だ埋もれた大変多くの歴史的史実があります。これを掘り起こし、研究し、「ご先祖の生き様」を網羅させたいと思います。
    そして、それを我等の子孫の「未来の青木氏」にその史実の遺産を遺そうと考えます。
    現代医学の遺伝学でも証明されている様に、「現在の自分」は「過去の自分」であり、子孫は「未来の自分」であります。
    つまり、「歴史の史実」を求めることは埋もれた「過去、現在、未来」3世の「自分を見つめる事」に成ります。
    その簡単な行為が、「先祖に対する尊厳」と強いては「自分への尊厳」と成ります。
    この「二つの尊厳」は「青木氏の伝統」と成り、「日本人の心の伝統」に繋がります。
    この意味から、青木氏に関する数少ない史料を探求して、その研究結果をこの「青木氏氏 研究室」で「全国の青木さん」に提供したいと考えています。
    そして、それを更に個々の青木さんの「ルーツ探求」の基史料としたいと考え、「青木ルーツ掲示板」を設けています。
    どうぞ全国の青木さん、その他ルーツ、歴史に興味がある方、お気軽に青木ルーツ掲示板までお便りください。お待ちしております。

    ※雑談掲示板はこちら、宣伝・募集ははこちら。

  • ワード検索

     
    キーワード: 条件: 表示:
     

    最新記事


      [No.361] Re:「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/07/31(Tue) 10:36:01  

    > 「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14日」 末尾


    > 上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
    > 殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    > つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。
    >
    > さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    > それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    > そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
    >
    > 従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
    >
    > この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    > 矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。
    >
    > 余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    > これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    > 然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
    >
    > この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
    > これは史実にもある。


    「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−15」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しく根拠ある「黒印状の発行」を求めた。諡号の持たない姓族(第二姓族)は、結局は殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、次に続ける。

    さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    そこで、他の「青木氏族」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例にして考察してみる。
    そうすると、上記した様な「殖産に纏わる事件」などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「、「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
    従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
    この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

    余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    これは「施基皇子」の、異母弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
    この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。

    (注釈 前段でも論じたが、{近江佐々木氏」は、近江蒲生郡安土佐々木荘 沙沙貴の地名を天智天皇の賜姓、 「近江青木氏」は近江犬上郡青木村、「近江佐々木氏系青木氏」は近江の南近江甲賀郡青木村、「滋賀青木氏」は滋賀の右京区大秦、「伊賀分裂の甲賀青木氏」は「甲賀郡青木村」の伊賀寄りを出自の地とし在所であった。)

    前段でも論じたが、「伊勢秀郷流青木氏」と「跡目縁戚の関係(叔父)」にある「蒲生氏郷」が「近江商人」を松阪に呼び寄せたが、この中には「近江佐々木氏系青木氏族」の「商人」は居なかった事が「佐々木氏の記録」や「青木氏の記録」からも解る。
    「女系で血縁関係があった事」は解っているが、「近江佐々木氏」が「研究記録の青木氏族」として定義する関係にあったかは、江戸期前の「近江商人」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」が居なかったという事から疑問でもある。
    「松阪」に差し向けると云う事からすれば、まず最初に「松阪の青木氏と伊勢秀郷流青木氏」がいると成れば、最初に優先して選ばれる筈だと考えられ、戦略的にはその方が上手く行く筈である。
    現実に前段で論じた様に、「伊勢の青木氏族」の「二つの青木氏」とは「犬猿の仲に近い状況」であった。
    つまり、「近江商人の近江佐々木氏系青木氏」は居なかった事に成る。

    「近江佐々木氏の研究資料」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」は灘域に「酒蔵商人」がいた事は書かれている。
    要するにこの事は「氏郷の呼び込み」に参加しなかった事に成ろう。
    それは、「伊勢の二つの青木氏族」との「不必要な競合」が起こる事への配慮かとも考えられる。
    現実に、前段で論じた様に、「信濃と福井と越前」から「青木氏の酒蔵の杜人」を呼び寄せて「酒米と松阪酒」を造っている。
    従って、「近江佐々木氏」が「青木氏族」として記録として遺している以上は、上記で定義する「氏族の関係」までは至っていなかった事が考えられるが、「別の形」では繋がっていた事は大いにある。
    筆者の考えとして、確定は出来ないが、上記する「嫁の出の女系」も然る事ながら、「四家の中」から「嫡子外の嗣子」が出て、「近江佐々木氏」はもとより「近江佐々木氏系青木氏」の跡目に何度か入るという事があったのではと推測している。

    (注釈 「四家20家」に男子20家の男子の嫡子を切れ目なくそれぞれに世代交代をしながら宛がう事は可成り難しい事で、「近江佐々木氏族」まで跡目を入れる契機を持ち得ていたかは疑問である。)

    それは、平安末期に「近江佐々木氏」と「摂津源氏(伊勢の京綱、信濃の国友とも青木氏の跡目)」とも同時に繋がりがあった事から起こり得る事ではないかと考えられる。
    確かに親密な関係にあった事は下記の事でも解る。


    唯、江戸時代に「近江佐々木氏」とは「伊勢青木氏」の「江戸屋敷」が近隣であった事、脩行系を含む「近江秀郷流一族」と「伊勢秀郷流青木氏」とは同門同族にあった事、この「伊勢秀郷流青木氏」とは「四家」の「四日市殿」とは縁戚関係にあった事、などを含めて少なくとも「近江佐々木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」は本家に於いては「四家制度や妻嫁制度」を敷き「氏存続」を図っていた。
    この事からも「近江佐々木氏」の「研究幅」が「青木氏族」にまで広がったと考えられる。
    「近江佐々木氏」の「青木氏族の定義」は、補完役の「秀郷流青木氏116氏」までとしている。
    問題は、「近江佐々木」は「傍系族」が拡大し、「姓族」を広げて「氏族としての存続」に失敗している。
    全国的に広がったのは、矢張り、「補完役の宇多佐々木氏(近江蒲生郡西湖面より出自元)」である。
    ところが、この「青木氏族」の「五家五流の青木氏」は、「五氏」から「三氏」には成ったが「姓族」は出してはいない。
    当然に、「補完役の秀郷流青木氏」は、確かには「皇族系」では無く諡号が「「朝臣族」にある為に縛られないので、「姓族」を出してはいるが、「24地域に116氏の子孫」を広げている。
    違うところは、この遺った「三氏」は互いに連携を執り、取り分け、甲斐を除く「伊勢と信濃と伊豆」は、飽く迄も「氏族の範囲の血縁関係」を保持し貫いている事にある。
    つまり、基本的には「氏族」とは、「新撰姓氏禄」にある様に「朝廷が認めた族」となるが、認める以上は当然に“「ある範囲にある事」”を前提とする。
    無暗には認定はしない。この課せられた「血縁的な条件」が「氏族の定義」にある。

    これを守ってきた「伊勢や信濃や伊豆」で云えば、上記、下記で論じるように「郷士衆との血縁の関係性」にあり、上記した様に、「単なる血縁関係」には無く「一定のルール」、つまりは「血縁的な条件」に従っている。
    「女系」と云えども前段の“「四六の古式概念」”に依って「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、この“「条件的な血縁」”を結び、決してその血縁は「傍系の縁戚範囲」のものでは決して無い。
    確かに一見して“「女系という範囲」”という傾向にはあるが、“「条件的な血縁」”は「出と入りの範囲」で「両軸」で「相互」に繋がっていて「単なる女系」ではない。
    「青木氏」の「福家と四家20家」は、先ず「嗣子の男子」で繋げ、前段でも論じたこの「三つの血縁の源流」を「両軸相互の血縁範囲」で繋がる族なのである。

    先ずはこれが「条件的な血縁」の一つ(A)である。

    当然に、「青木氏」に務める「家人」も単なる「無縁の家人(家臣)」では無く、「家の中の人」、即ち、「族人」(「氏人」)であり、要するに「臣」ではない。
    つまり、これを支えるのが「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、「条件的な血縁(B)」をした族を「氏」と云う。

    つまり、「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」にある「一族」で構成されているものが「氏」なのである。

    論理的に云えば、(A)は(B)に依って支えられ、(B)は(C)に依って支えられ、(C)は(A)に依って支えられ、「氏族」は構築されると云う事に成る。

    要するに、片方だけでは「氏」としての「条件的な血縁」として成り立たず、上記の「(A)−(B)−(C)−(A)」が成り立たない血縁では、「氏の定義」の中に無い。

    その時、「出と入の両軸相互の血縁関係」の「血縁」の「時間的間隔」には問題はない事に成ろう。

    「青木氏」との間に何時か「入り」があって、何時か「出」がある事で成り立つ事で「氏」が成り立つ事を意味する。

    「四掟」の説明の中に、「氏」とはこれを”「両軸相互の血縁関係にある事」”と定義されている。
    それが、要するに下記にも論じる”「四定以成異性不養之固掟也」”の意味するところと成ろう。
    「両軸相互の血縁関係にある事」が”「絆の関係」を構築する事”と成りこれを指すだろう。

    問題と成る”「時間的間隔(a)」”は、「青木氏」に於いては「大化期」からと成り、一重二重にも「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」が成立していた事に成ろう。

    この「氏」を構成する以上は、短時間では難しく、且つ、「妻嫁先」が血縁的にある程度安定している必要がある。
    (短期間でない方が好ましいだろう。)
    つまり、「出の嫁家先」が「豪族」であるかどうかは別として、小さくてもある程度の”「族としての力(b)」”を保持している事が必要に成る。
    簡単に云えば、「力」は持っていても「武力」を持たない「名主や庄屋や豪農」などを含む「郷士程度」も含むという事に成るだろう。
    そして、無くなったり飛散したりする事なく、”「定まった地域(c)」”に長く定住している環境にある事が必要であろう。

    「氏」としての「血縁の(構成)条件」の(A)(B)(C)が成立させるには、この「(a)(b)(c)の条件」が成立している事が必要と成る。
    この「血縁の条件」、即ち、「氏の構成条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」が成立するとなると、この条件を成り立っている地域は限られて来る。
    考察すると、「京、伊勢、信濃、伊豆」だけと成るだろう。

    (平安末期に美濃と甲斐は「青木氏の氏是」を破った事からこの例から漏れる事と成った。)

    何故ならば、この「地域以外」は「郷士衆の数」が250から400と云う地域ばかりで、且つ、その「郷士」には“「国衆」”と云って、占有割拠にて移動し「力」によって日和見的に一時的にその一部の地域を占有して存在し、更には「郷士の数(姓族)」が多いと生存競争により「戦い」が起こり地域は安定はしない。
    従って、到底、「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」の関係は成立しないし、根本的にはつまりは「姓族」である。

    故に、この視点から観ると、「大化期」は勿論ではあるが「平安期末期前」と、「鎌倉期中期」までは対象とする「氏族」がそれなりに存在し得た事にも成る。
    それ以外の時代は、唯単に「戦乱で滅びたという事」のみならず、そもそもこの「血縁の条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」とを構築できる環境下には無かった事が云える。
    然し、これが江戸期の末期までは「青木氏族」は「氏族」を「奇跡的に続けられた由縁」でもあり、これを「力(「青木氏の強味)」にして「殖産」と云うものが成し得たと云えるのだ。
    当に「奇跡の氏」であろう。
    この「奇跡の氏」の下には、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を構成する古式豊かでありながらも前段や上記に論じた“「合理的な改善」”を加えた“「青木氏の制度」”が続けられていたと云う事だ。

    (注釈 この概念的と云うか「精神的な歯止め」は「青木氏の氏是」にあった事は云うまでも無い。)

    そこで、上記のこの(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を更に詳しく論じるとして、故に、多くの位階の保持者が存在する「近江」を始めとして次の様に成る。

    「近江、伊勢、信濃、美濃、甲斐」などの“古くから土地に住するこの「氏人の郷士衆」(イ)”
    その土地には常に定住でき得る能力を備えていて、且つ、その「官位官職の程度」は別として、土地の“「官位族」(ロ)”

    以上が、「妻嫁制度」の「入りの相手」と成り得る事に成るだろう。
    況や、簡単に云えば、これは「妻嫁制度」の“「妻」、即ち「入り」”は原則としては「官位族(ロ)」であって、“「嫁」、即ち「出」の先は、「郷士衆(イ)」と成っているのだ。

    注釈として、唯、「郷士衆(イ)」は、“「出の先」”となるが、“「入の先」”とも成り得ていた。
    上記で論じた様に、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)とで成り立つも、兎も角も「土地の官位族(ロ)」と云っても、室町期の「下剋上と戦国状態」のこの状態の中で、地方で「官位を持つ族」は激減し衰退し、殆ど「入り妻」としての「形態」は無くなっていた事は事実である。

    ここに行き成りそもそも「女系の妻嫁制度」の「入りの先」を求めたかの「疑問」が残る。

    然し、現実には求めているのである。
    では、“どのようにして「入」を求めたのか”という事である。

    そこで、この疑問解決に執ったのが、その「位階」は低いが「官位を持つ家人と氏人」からの「入り」とする以外に、主には「入りの先」は室町期全般には概して無くなっていた筈である。
    然し、「家人や氏人」にだけ求めたとしても「四掟の条件」を満たす「低い官位」を元から持っていたとは考え難い。

    そこで、研究すると「家人の家の資料(尾鷲の家人)」の中の文節によると、“「従六位下」”と云う文節が出て来る。

    そこで、左右の大臣などの「政治にかかわる特別職」(4段階で正従で8位階)を除き、当時の官職に関わるこの「朝臣族の武家」に与えられる「官位の位階」は「10位階」あって、それを上下に分け、一番下は「従八位下の位階」である。
    「家人」に与えられた“「従六位下」”は下から三番目と云う事に成る。
    「青木氏族の氏人・家人」の位階は、朝廷が認めた範囲は相当に高かった事を意味する。
    これは、 「(A)(B)(C)と(a)(b)(c)」の関係を朝廷は認めていた事を示す。

    (注釈 ここで云うこの「武家」とは、「公家」に対しての「武家の呼称」であって、「江戸期の姓族」に与えた武家は、「本来は武家の呼称」では無く「武士の呼称」と成り、且つ、安易に朝廷の財政保持の為にそれに与えたその「安易な位階」でもない。)

    とすると、この「資料の家人」に与えられていたのは「従六位下」であるので、つまりは、「青木氏族の家人」に与えられる「位階」としては「妥当な位階」である。
    氏人と成る」「家人、又は、差配頭」が何かの理由で授与されたと成るのだが、果たして、何人が授与されていたかであろう。

    「家人」が「六人居た」とする一部の資料があるが、「差配頭」は「青木氏部等(詳細後談)」も入るので少なくとも「朝廷貢献」と云う事から勘案すると「15人程度」は居たであろう事が判る。
    然し、これら全てが授与されたとはならないし、時代の経過もあるし、授与される理由の有無も伴うので特定は難しいが、「10人程度の家人や差配頭」が常時に授与されていた事は考えられる。
    時代的には、「身分格式や和紙等の殖産の貢献(詳細は前段と後段)」から、嵯峨期を除いて「光仁期から仁明期・円融期」までが最も多く、そして、「室町期から江戸初期」では「献納金(前段)」で助けた事の理由が考えられる。

    (注釈 これらの関係の資料は三度の松阪大火の消失で遺されていない。)

    参考として、「伊勢王の施基皇子」に与えられた「宗家の青木氏の位階」は大化期に与えられたのは「天皇」に継ぐ身分を示す「冠位」は、「永代浄大一位」で、位階は「永代正二位」で最上級である。
    因みに「清和摂津源氏四家の頼政」は「正三位」である。
    従って、この事から勘案すると、「青木氏族の家人」に与える「位階」としては相当なもので、与えられた理由と云うかその背景には“「相当な実質の評価」”があった事を示す。

    そもそも、江戸期の様に「金で買える位階」では無く、つまり、唯単に与える評価では無かった事を意味する。

    そこで、「高級官僚」や「公家の末端」の「貴族」として扱われる為には、最低限に「従四位下」から上位が基準と成るので、これから考えると妥当である。
    この「従四位下」の「位階」を持たない限りは「上級官僚」には成れない。
    その意味で、「官僚的貢献」ではなく、「社会的貢献(朝廷の財源)」であった事が云える。

    従って、何で「青木氏の家人」が、「青木氏家人と云う格式」も含めて、この「位階」を持っているかの理由は、前段でも論じたが、恐らくは、「格式・殖産・献納での貢献」のこの三つにより与えられたものであろう。

    そうすると、何で「青木氏の福家」が授与されなかったのかと云う疑問が起こるが、それは無い。
    それは、既に、「冠位と位階」等は永代としての最高位を持ち得ている。
    従って、「貢献」に寄与した場合は、「氏族の氏人」の「青木氏の家人や差配頭」と云う事に成る。

    という事は、「献納」は「和紙墨等の余剰品」を裁いた時期の奈良期の末から始まり、明治9年までの期間を持続的に続けていた事から考察すると、これを理由とするならば「相当な人数」が居た事に成る。
    取り分け、「余剰品」から始まった「献納」であるとするならば、天皇家に執って一番苦しい時期の「室町期の乱世」の中で、「巨万の富」を築けたその「恩義」からは「巨額の献納」を続けていた。
    その事からすると、「相当数の家人の位階者」は居た事に成ろう。
    「従六位下の位階」は兎も角も一人では無かった筈であり、「家人」は時代、世代ごとに代わるとすると、この260年間に「家人の数(5人程度・5)」やそれに「相当する氏人の数(3人程度・5)」としてこれを鑑みると、最低でも、“「15人から25人」”は居た事に成ろう。
    「永代」であるかは「従六位下の献納」とすると「永代」を授かるは普通ではあろう。

    「青木氏族」に中の「家人」にこの「従六位下程度の位階」を持っていた者が何人居たかは残念ながらポイントで在り乍らも「資料」が見つからないので史実としての研究は前に進まない。
    従って、「女系の妻嫁制度」の対象としては、鎌倉期頃迄にはこの関係は崩れていないので、「近江」を始めとする「五地域」からの「出と入」の「四掟の条件を持った血縁の関係」は相当成り立っていたと考えられる。
    つまり、室町期は上記の論理性からも「伊勢の郷士衆」との「出と入りの関係」はそう問題は無かったと成る。

    今では推論は着くが、それが「永代での官位の位階」であったかも、確実にする事は、最早、できない。
    だとすると、この論理的な考察から、江戸初期までは少なくとも乱世を超えて”「家人」”を含む「伊勢郷士衆」の「氏人」との「氏」としての「出と入」の「血縁条件」は成り立っていた事に成る。
    故に、「伊勢と信濃」は、当然の事として「三つの源流説」は成立する。

    そうすると、そこで戻って「四掟の範囲」で「入り」をどの様に求めたのかが疑問と成る。
    「京や近江や信濃や甲斐」などに「四掟の範囲」で持っていた「氏族」や、都で「政治的な問題」で行き詰まり、この「三つの地域」に「逃亡や避難した真人族」や「高位の公家族・貴族」が居て、生き残りの為にも、彼らの「貴族」から多少は「入り」として入った事は充分に考えられ否定はできないし、一部記録に残るところもある。
    その「国是」に近い形で保障されていた「安定した地域」の一つが「伊勢」であった事は云うまでも無い。

    「時の政権」が「伊勢」には公然と権力を振りかざして捜索が出来なかった事が「入りの形」を偶然にも保全したのである。
    これは前段や上記した様に、「大化期の不入不倫の権」から始まり「江戸期末期」まで引き継がれ、「家康発行」の“伊勢の事 お構いなしの「お定め書」”でも解る。

    ところが、何度も論じるがもう一つ「同じ地域」があった。
    「伊勢」も然る事ながら、「青木氏」が定住する「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」もこれに近いものがあった。
    江戸期中期までは少なくとも保障された。

    (注釈 前段の殖産でも論じたが、「江戸期」には「幕府」がこの「天領地」を「幕府領」として奪い「優秀な殖産地」として取った。)

    故に、「四掟の範囲」の「位階を持つ者」が、平安期までにはここに逃げ込んだのではあるが、この末裔が「血縁条件の対象」と成り得たのである。(後段記載)
    従って、「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」は「伊勢」とほぼ同じ環境にあったのである。

    残るは、「青木氏の逃避地の越前(神明社が保護)」がある。
    ここは前段でも何度も論じたところであるが、要するに、何らかの問題を起こし「青木氏族の逃げ込む場所」で江戸期初期まで「神明社の質」で維持されていた。
    前段で論じた「神明社」が、江戸幕府に引き渡すまでの江戸初期まで、「神明社組織」が保護して「質」を施す地域であった。
    依って、室町期全般は「四掟の範囲にある末裔」が「現地孫」を作り「血縁条件の対象」と成り得ていた。
    この「越前青木氏の末裔(酒造商人)」が成功して、「青木氏族の入り」と成って戻ると云う事とが起こっていたのである。

    前段でも論じたが、「越前」は「信濃」と共に、「伊勢」の「酒米と酒造りの杜師」として働き「入り末裔」を遺している。
    これは一度のみならずこの地域との「同じ族」のこの「入」の「血縁の証拠」である。
    元より新たに成った訳ではない「家人、氏人の氏族」にあった。

    次は思い掛けないところの“「善光寺」”がある。
    ここは、元来、天台宗のここは「門跡や皇位継承に外れた高位の官位位階」を持つ「真人族や貴族」が僧侶と成って入山し、或いは、その貴族の門外嗣子が入山するところでもあった。
    そこから、この「善光寺」に移籍する「還俗僧侶の定留地」と成っていた。
    又、同じく「浄土宗密教」に帰依する「高位の位階を持つ皇位の門外嗣子」がこの「善光寺」に入山した。
    この「善光寺」は、史実にある通り、従って「天台宗密教派」と「浄土宗密教派」に分かれ「別院」を作り「勢力争い」を繰り返していたところでもある。
    この「二つの派」の「高位の位階を持つ僧侶」が再び還俗して信濃に子孫を遺して根付いた。
    この中の「浄土宗密教の子孫」が「四掟の対象」と成り得ていた事は解っている。

    現実に、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」の「六人の嗣子(実質には9人と女子は7人)」には「京の貴族」から入っている。
    現実に前段で論じた様に、「白壁王、光仁天皇」の后は「井上内親王」である。
    少なくとも「850年頃の仁明天皇期頃迄」は「直系の青木氏族」であった事から「四掟の範囲」で「入り」は最低限で保てていたと考えられる。

    「福家と四家20家」を保つ為には、「京や近江や信濃や甲斐」の「四掟の範囲」を満たす最低の「官位を持つ青木氏族」が、その縁戚関係と成っていた事は否めない。
    とすると、この「氏族」が現実に存在したのは、「摂津源氏四家の頼政」による「以仁王の乱」の以前の”「1100年前頃(詳細後段)」”までと先ずは大まかに絞れる。
    そして、流石に「平家の専横時代」を除くと、「女系の妻嫁制度」の「高位の血縁(四掟)」という事では「1050年頃まで」と成るだろう。

    論理的には、最も「青木氏族」と「四掟の範囲」で近いのは各地に分散していた「源氏族の直系尊属」と成るのだが、この「氏族」が、然し、「源氏族」の殆どは「傍系尊属で姓化した姓族」であったとすると、「四掟の範囲」の対象から外れる。
    だから、「摂津源氏の四家」以外は「姓族化していた事」から、「11流の源氏族」とは「男系継承が禁じ手」と成り得ていたが、その「摂津源氏の頼光系四家で頼政の孫(仲綱の子)京綱」を除いて、故に「入りの女系」で「源氏族」とは血縁を示すものが無いのであろう。

    結局は、「入り」の「四掟の範囲」を満たす「氏族」は、位階の多くを持つ「秀郷一門一族」であって、その「目的の為」に「補完役」として任命された「賜姓族の秀郷流青木氏」が「血縁の源流」と成って引き継がれた事に成る。
    当にその象徴が「四日市殿」である。

    故に、「近江佐々木氏の研究記録」の「青木氏族の定義」が、前段でも論じた様に「秀郷流青木氏」とその一門一族の「永嶋氏、長沼氏」と「長谷川氏と進藤氏」までと定義されているのである。
    残念ながら、「伊勢」では永嶋氏の一門の「長嶋氏」と繋がっている資料があるとしても、「伊勢」では「長沼氏と長谷川氏と進藤氏」との資料は見つからない。
    筆者の持つ「青木氏族の資料」の中には無いが、「近江佐々木氏の研究記録」に詳しく論じられている以上は、「佐々木氏の持つ資料」の中にはあったと考えられる。

    従って、明治期までは「入りの源流」は勿論の事で、「出の源流」も絶えなかったとする結論に成る。

    そこで「入り」は、主に「三つ」と成るが、それは次の通りと成る。

    一つは、「京」を始めとする「四つの地域」の「位階の保持家」
    二つは、「秀郷流青木氏」を始めとする「秀郷一門の青木氏族の五氏」
    三つは、「位階を持つ家人衆」で、「嫁ぎ先の地元郷士衆の氏人」

    以上の「三つの入り先」と成る。

    これを「女系の妻嫁制度」では、「四つの地域からの位階保持者」と「秀郷流青木氏族」を中心に、その位階を基準に次の様に成っていた。

    先ず一つは「妃」である。
    そして、「位階を持つ氏人の家人衆」を「(嬪、妾の中の「嬪」)としていた。
    最後には「氏人の無階の地元郷士衆」から「入り」と成れば「妾」としていた。

    以上の「入り」の「三つの妻の立場・階級」に成るだろう。
    (下記の「女墓」にその例がある)

    そこで問題なのは、「后」は基本的に室町期以降には資料からは見つからない。
    これは、室町期には「四掟」に叶う「入りの対象者」が無かったという事では無く、「青木氏族側」からの「入り」を執らなかったという事が正しいだろう。

    何故ならば、次の事が云える。
    「下剋上の混乱期」の世情の中で「皇位から入りを執る事」は政治的に好ましくない事。
    つまりは、「政敵」とみなされる事もあり得る事。
    「青木氏族」としては、兎も角も、奈良期から「御用商人的商い」を避け「均等性」を堅持してきた「商い」に影響する事。
    「四掟」に基づき「四家制度や妻嫁制度」を執る以上は、「后」に相当する「入りの先」は他の「入りの先」との「身分や冠位や位階」に基づく官位等が、他の「三つの入りの先」とはその差があり過ぎる事。

    以上四つのこれが「妻嫁制度を崩す事」に成り得て、結果として”「四家制度の争い」”を招いて成立しないと判断したのである。

    そもそも、前段や上記で論じた様に、「中国の歴史」を見ても「独自の改善」を加えてこの制度が成り立っているのだ。
    つまり、后を入れた形の其の侭では成り立たなかったという事である。
    中国は次々と政権が代わるがその「政権の寿命」は50年程度と短いのである。これが所以であると中国は説いている。
    これが最も、その「知識」から編み出した”「入り」”で起こる”避けなければならない「氏の最大の戒め」”であるという事に成る。

    「白壁王の井上内親王」の様に、「特別枠とする考え方」の為にあった事も考えられるが、「皇親族」や「令外官」から外れた「青木氏族」には、最早、その「機会」は起こり得ない。

    では何故、この「妃、嬪、妾」の「入りの三階級」を定めたかと云う疑問が湧く。

    それは、「入りの階級」を無くす制度とする事は、当時としては無理であっただろう事は疑う余地はない。
    それは、未だ、全ては「階級社会」で決められる「封建的な氏家制度」の中にあったからである。

    上記の「三つの入りの先」では、言わずもがな、”この掟を求める事”は必定と成る。
    況してや、「婚姻」である。
    「世間の目」はあり、今後の事を考えれば無視する事は絶対に出来ない。
    だとすると、最も合理的な方法は、「官位に基づく官職の如何」は別として”「朝廷が授与する位階」”であろう。
    その「家の官職」の「有り無し」に関わらず、持つ「位階」に応じて「入り」の「受け側」も対応する事で収まる。

    然し、「入りの受け側」、つまり、「青木氏族」では、人の世情の常、あまりの身分格式の差のある「后の差」の様に、”「階級による見栄の争い」”が起こるは必定である。
    そこで、「青木氏族」が考えたのが、前段で論じたような制度を敷いた。

    「青木氏族の女(むすめ)養育制度」
    「福家の統制」
    「寺での養育所」
    「違反による罰則掟」
    「出から入りに戻す制度」

    以上の制度(掟)で、この階級による差を削除させたのである。

    この事から、ほかの「入り先」が決して持ち得ない「后の冠位を持つ特別差」は、当然の事として避けられる事に成るだろう。

    そもそも戦略的に観て、「冠位の入り先」は恣意的に絶対に避けれるべきものであった事に成る。
    この「冠位の差」は「上記の掟」では無理と成るだろう。

    それは推して知るべしで、前段から論じた様に、「孝謙天皇期」の「白壁王の井上内親王の経緯(期待しない白羽の矢)」に繋がる事に成り得るからだ。
    つまり、この事で「青木氏族」は「青木氏族で無くなる所以」とも成る。

    そもそも、唯一の「最高位の冠位と位階」と、「職務の官位」と、「賜姓と志紀真人族、朝臣族」などの全てを持つ「氏族の青木氏族」である。
    「高位族」は「孝謙天皇」の様に「入り」の「白羽の矢」を立てたい相手である。
    況してや、「孝謙天皇」でなくても「朝廷」を安定させるには、「巨万の富を持つ青木氏族」(15地域の青木氏族)ともなれば喉から手が出る程であったろう事が解る。
    これは何も「入りの位階の相手」だけではない。いずれの「豪商等(武家)」も婚姻の相手としては同じであったろう。

    然し、「青木氏族」はこれに絶対に載れないのである。
    従って、「后」は元より、他の「三つの差」も「入り」を受けた後は制度と掟に依って無くす事が「絶対的な戦略」と成っていたと云う事である。

    但し、この「出と入り」から生まれる「嗣子の出入り」は、兎も角も、「福家と四家20家」に全て入り、「嗣子の出」は「禁じ手」と成っていたし、当然に、「入りの養子(養嗣)」は当然の事として、「義子(義嗣)」は厳禁の手であった。

    従って、「男系の禁じ手の原則」が守られれば、「四掟」によって入る「妻」の「妃、嬪、妾」には、下記の「良い一族性」、即ち、「血縁性の連携」が永続的に生まれる。
    「出」の「娘、孫,玄孫」などの要するに「青木氏族」で云う”「女(むすめ)」”は、「妃、嬪、妾」の「福家」で養育を受けた「実の女(むすめ)の概念」である事から、そこから再び、「福家」に戻される「実の女(むすめ)」の二代目、或いは三代目の「女(むすめ)」は、「愛児」として繋がる完全な血縁下にある。(ここで疑問(女)がある。)

    それは「妻」を「妃、嬪、妾」に分けている以上は、それぞれの「女(むすめ)」の「立場の差」等の「関係性の差」が左右するが、これを「福家で養育する事」の「女(むすめ)」の「掟」にその差は一切削除され、全て「女(むすめ)」である以上は“「平等とする掟」”に成る。
    「妃、嬪、妾」の子は、勿論の事、「長女次女」などの区別する差さえない掟であった。
    依ってこの「関係性の差」は解消されていた。

    これには「福家の威厳」と、「寺などに隣接した養育所」に、「幼児より入れる事」で、この「養育所」に余計な「差し出口を入れる事」などの「行為の弊害」を防ぎ、この「関係性の差」を排除していた事が解っている。
    一切、「親の手」を離れた事を意味し、この「掟」を破った妻は処罰されることに成っていたらしい。
    飽く迄も、「青木氏の女(むすめ)」であって、最早、「妃、嬪、妾」の「子や孫や玄孫」ではない事に成っていた。
    簡単に云えば「青木氏の支配権」を持つ「福家の女(むすめ)」であった。
    同様に、「四家を引き継ぐ嗣子」にもこの掟は採用されていた。

    そこで、上記の疑問の「女(むすめ)」である。
    その疑問は「嫁家先の娘」を強引に戻すと云う訳には行かないだろう。
    ではどんな「方法」と云うか「掟」と云うか、何か問題を起こさない様な方法でなくてはならない。
    いくら「家人」であろうと「氏人」であろうと「嫁家先」にも事情があり無視できない。


    「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」に続く。

    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」の末尾
    >そこで、上記の疑問の「女(むすめ)」である。
    >その疑問は「嫁家の娘」を強引に戻すと云う訳には行かないだろう。
    >ではどんな方法と云うか掟と云うか何か問題を起こさない様な方法でなくてはならない。
    >いくら「家人」であろうと「氏人」であろうと「嫁家」にも事情があり無視できない。


    この解明に時間がかかり難しかった。
    「郷士衆の差配頭」に遺された「手紙の一節」にこの事が書かれていた。
    それによると、「我が尾鷲小林の幣家・・の方の娘の妃児・・は三歳にして優秀賢美にて育ち・・に依存無く・・・に依れば福家のお定めによりこの娘を‥寺の養育所にお預け致しく候故御差配宜しくお願い申し上げ・・・云々」とある。

    この経緯から読み取れる事は次の事に成る。
    「福家のお定め」である。
     これに依れば「要領書」の様な「定書き」を配布していた事に成るが、果たして、「定書き」が出ていたかは他に調査したが明確ではない。
    恐らくは、嫁いで来た「女(むすめ)」は「福家」でその「嫁としての教育」を受けているから、その必要性はあったかは甚だ疑問で、「氏人の家」がこの要領を「既成の事」として周知して“「定書き」”として捉えて書き込んだものと読み取れる。

     「優秀にて賢く美しい児」である事が条件の様に成っていた事を意味する。
    福家から「氏人の愛児」に対して三歳の誕生日祝いが出た。
    これは「福家が行う慣例」で準備を寺の執事が行い「福家」が「氏族」に出していた事は解っている。
    この事は「福家の女(むすめ)」として如何であるかを暗に問い質している事を意味する。
    そして、「相手の意思」を尊重している事に成る。強制は無い。
    要は、「嫁家の判断」に委ね、「福家との繋がり」を重んじて「女(むすめ)」として入れた方が得策と判断した場合は「入り」と成り、「嫁家の存続の事情」も鑑みて「嫁家」が判断していた事に成るだろう。
    「福家の女(むすめ)」の事情が貧し急務を要した場合は、後は「嫁家と福家の話し合い」であったらしい。
    それが、現代感覚では、「福家」側では、「女(むすめ)」を「孫」までは解るが、「玄孫」までに「女(むすめ)」として求めている史実は、明らかに「出」に対して貧し急務と成っていた時期があった事を示す。
    故に、依って、「話し合い」が原則であった事に成る。
    更には、「玄孫」とすれば「嫁家側」でも他家に嫁がせていた事が判るし、娘が多ければ「優秀賢美の娘」を「福家」に入れて、他は嫁がせる事と成り、嫡子が居なければ養子を執る成りした事は解る。
    「養子」という事に成れば、二代続きで「氏人」からは離れる事に成り、其の侭では保護などは受け難く成る事から、是非にも「福家」に優先的に入れて置こうと云う計算が嫁家側に生まれるは必定である。
    そうすれば、男子を「氏内の郷士」の家から迎えれば離れる事は無くなる。
    その手筈も安易に成り立つ。
    彼らには、氏外の「他家からの養子」は「氏存続」のみならず、前段でも論じた様に殖産などの枠から外されて「生活の糧」を失いかねない問題でもある。
    上記の「三つの入り」から入る中で、「家人と氏人」はこの逃れざるを得ない「絶対的な宿命」を負っていたのである。
    「秀郷流青木氏一門」からの「出と入り」にしても、「青木氏族」の「青木氏の氏」を別に構成している。
    「四掟」に適合した「京」などからの「高位の位階を持つ貴族」からの「出と入り」も単族の「族」を持ち得ている。
    小さく成ったが「近江の氏」や「甲斐の氏」、「伊勢の氏」、「信濃の氏」、伊勢と信濃の融合族の「伊豆の氏」、越前の「全青木氏融合族の氏」は、それぞれに再び結合して「青木氏の氏」を構成しながらも、且つ、これらの「五氏の連合体の青木氏族」と、「秀郷一門と秀郷流青木氏の氏」の、これら全てを「女系」で血縁し合した「青木氏族連合体」を形成しているのである。
    従って、例えば「伊勢の氏」からは出る事は出来ない前提に成り、当然に「氏存続」として安全は全く保障され得ない事に成る。
    「乱世の中」でそんな選択は絶対にできない事は自明の事実である。
    前段でも論じたが、「諏訪族青木氏」が「神奈川横浜の秀郷流青木氏」の中に逃げ込んだのも、この「女系の血縁の関係」が奈良期から深く続いていた所以でもある。
    越後も同然である。

    故にも、手紙の中の一節の「定書き」の「発想の概念」が染みついているのである。

    従って、「定書きの有無」に関わらず「子孫存続」とも成れば、先ずは「嫁家の事情」を優先する事が必要に成り、「定書き」に拘る事は「氏存続」という点で好ましくない。
    故に、「定書き」は先ずは無かったと云う判断に成ろう。
    大化期からの「嫁家制度の長い仕来り」の結果から、重ねて「氏人全員の自然の概念」と成っていたと観ている。

    何れ在ったとしても、「福家」に無いからこそ「氏人や家人」が「重大な間違い」を起こさない様に「家の掟」(氏人の掟)としてこの「定書き」を子孫に伝える為に遺したとも論理づけられる。
    然し、実は、下記に記すが、可能性が高いとして「執事を務めた菩提寺」の「養育時の指導書的なもの」としては必ず遺されているとして調べたが、資料は「三度の消失」と、最終は「江戸期初期の顕教令の撤収」で「伊勢松阪の菩提寺」には遺されていず発見は出来ていない。

    さて、続けて論理的に考えれば、「嫁家」側としては、結果として「福家」に「女(むすめ)」として入れて「出」の「嫁ぎ先」が定まれば同じ事であって「損得」で云えば「得」はあっても「損」はない事に成る。
    「福家の女(むすめ)」である以上は、「出」の婚姻に関する準備一切は「福家」で持つ事に成るのであるから、後は「心情の問題」だけと成ろう。
    然し、これさえも元を質せば「出自先の実家」であるし、他家から「氏」に入った者でもない。
    この「心情」は「掟」にて大きく表に出せないが、何れにしてもその範囲を弁えれば其れなりの事は認められる状況ではなかつたかと考えられる。

    後の「嫁家の判断」は、抜き差し成らぬ「嫁家と他家との事情」と成ろう。
    それ以外は寧ろ「嫁家の嗣子」に重点を置いた存続方法が、「氏人」として維持して行く上で優先的に嫁家側には求められよう。

    「福家」から「女(むすめ)」の「出(嫁ぐ)」の際には、古来より「元の血筋」と重らない様に「執事」を住職が務め、且つ、「養育所」を寺で管理していた「菩提寺の管理下」に置かれていた様で、遺された資料の一部から読み取れる。
    当然に、「女墓」を管理していた事からもこの事は頷ける。故に「女墓」が創れるのであろう。
    更には、合わせて上記の「妻嫁制度」を敷いているからこそ、前段で論じたが、その「青木氏族の住職」の「執事の役目」も「最も重要な要」と成っていた事に成る。

    では、この「出と入りの血縁先」を「適時」、「適格」に「選出してくる仕組み」はどの様なものであったのかが疑問(仕組み)と成る。

    これは、この「執事の役目」(身内の青木氏の住職)に大方はあったと観ていて、確かには、「福家と四家20家」の多くの「付き合い」と「紙問屋の伊勢屋」から情報もある事は解っているが、各「近江や信濃や伊豆や甲斐や越前」の地に存在する「青木氏独自の菩提寺からの情報」、24地域の「秀郷流青木氏の菩提寺からの情報」の相互交換、5百数社に上る「守護神の神明社からの相互の情報」を互いにやり取りしていた事が解る。
    これを基に「出と入りの妻嫁制度」を網の目の様に構築していたのである。
    これが無くては「青木氏族の子孫存続」はそもそも論理的に無理であったろう。
    これらは「完全な詳細な情報源」であり、誰が考えてもこれを維持するには「経済的な裏付け」が無くては出来ない事は明白である。

    論理を敢えてひっくり返す様ではあるが、「出と入りの四掟などの概念」や「無形の権威や位階」やそんなものでは決して得られない。
    故に源氏族の様に衰退し滅亡する所以となっていた。
    注釈として、然し、この情報の二つが抹消された時期があった。

    それは上記にも記したが、前段でも論じた江戸初期に出された「宗教に関わる事柄の独自保有の禁止令」である。
    つまり、「神明社の幕府帰属令」と「菩提寺の顕教令」である。
    そして、幕府は財政難からこれらを放置し荒廃させた。

    この「二つの令」は上記の通り「絶対的な情報源」である故に。「青木氏族」に執って片手をもぎ取られたものであった。
    この時、「遺されている情報源」は唯一「紙問屋の伊勢屋」の情報源だけであった。
    「青木氏の情報源」は上記の「二つの令」で論理的には消えている。
    この儘では、「源氏族」に成り得る。

    ところが、そこで、より「青木氏族の力」をつけたのが「殖産」であって、室町期末期から始めて江戸初期に完成させた「15地域の商いの組合での構築」であった。
    これに依って、「殖産」「商い」は元より「青木氏族存続」に絶対的に関わる「重要な情報源」も再構築され戻ったのである。

    それでも上記した様に「青木氏族の存続」に関わる事である事からは「氏」を纏めて行く上で、「菩提寺」は絶対的に必要不可欠である。
    そこで、何をしたかという事である。
    それは規模を縮小して目立たない様に密かに建立した。
    「神明社」は、内部の内容は同じにして幕府令に違えない様に一般性を装い、守護神を表す「社」から「神社」にして「神明神社」と変名する事と、「青木神社」として何れも密かに「小さな山祠」を建立して守ったし、元の位置からずらして「大鳥居」をそのままに遺した。。
    これらは現在も遺されて「青木氏族の氏人」らに依って祭られている。
    ところが不思議に幕府はこれを黙認した。

    (注釈 「神明社」はそもそも「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の社」である。
    全国に五百数社もある「民の社」でもあった。民からは「道祖神」と同じに親しまれ信仰されていた。更には、「紀州藩との繋がりの事」も含めて、「朝廷への献納の事」もあり、厳しく当たれなかった事が考えられる。)

    (注釈 「残りの神明社の荒廃」については流石に見かねた元甲斐の青木氏族の柳沢吉保は、武蔵深谷に「民の反発」も恐れて古来より存在した歴史ある「神明社と寺」を自費で公然と再建した。
    そしてその周囲には青木氏族の神職や住職が現在手も定住している。
    如何にその「荒廃の影響」は大きかったかを物語る。
    従って、上記で論じた様に本来は菩提寺と神明社に資料と成るものが遺されている筈なのであるが、結果として無い。)


    さて、話を基に戻して、これらの「入り」の「伊勢」での「青木氏の証明」となるのは、残るは「女墓」と「菩提寺の曼陀羅帳」等に成る。又、「家人や氏人」や「庄屋、豪農、名主、村主」の資料の中に読み取れる範囲のものでしかない。
    これには、「俗名と戒名」があり、「俗名」にはその大まかな「出自元」、又は、「系譜、戒名」には「四段階の戒名」があって「生前身分と位階程度」が判別できる。
    恐らくは、「信濃」にしても「伊豆」にしても「甲斐」にしても、将又、「秀郷一門の主要八氏」は判別できる。
    彼らの密教であるので゜菩提寺」は統一していて、「信濃、伊豆、甲斐」などと「秀郷一門と秀郷流青木氏」の「菩提寺」はその定住地の主要地に必ず「同一名の菩提寺」で存在する。
    (注釈 「二つの青木氏」のそれぞれの二つの統一した菩提寺名は匿名とする。)
    比較的簡単にその「血縁元の内容分析」が可能である。

    後は「青木氏の福家と四家の資料」、「家人と主要の郷士の氏人の資料」の中に求められ、これらを紐解いて行けば年月が掛かるが判明する。
    どの様に繋がっているかも分かってくる。

    不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。

    さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。

    これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
    前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
    「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
    矢張り、「殖産」は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
    上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
    「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。

    (注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
    筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)



    > 「青木氏の伝統 43」−「青木氏の歴史観−16」に続く。


      [No.360] Re:「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」 
         投稿者:副管理人   投稿日:2018/06/10(Sun) 14:18:49  

    「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」の末尾
    >(注釈 近江佐々木氏の「青木氏族の段」でもその様に定義され「青木氏族」として認めて論じている。と云う事は同じ「青木氏族」も然る事ながら「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」もその「掟」を大方で採用していた事を意味する。)


    「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」
    「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

    では、本論の続きの問題であるが、上記の注釈を前提とすると、室町期に成ってこの「掟」を何時緩めたのか、どこまでを緩めたのか、何で緩めたのか、等の「理由目的手段」、と「人時場所」を明確にしなければ前段の「江戸初期の殖産」の論は不充分になるだろう。

    (注釈 これが本段の江戸期前から江戸中期までの殖産を進める上での後に於ける採った手段であった。
    そろそろ、その務めとしては「有名無実の状況」とは成り得ていた事は解り、自己満足の「青木氏の独自のステイタス」に近いものと成り得ていたであろう。
    これが”「伝統」”というものの本質であろう。
    つまりは、「賜姓五役」としての「務めの転換期」と成っていた。)

    しかし、現実には、「天皇家への献納金」の形で明治初期まで密かに、或いは、「幕府黙認」の形で貢献していた事は事実である。
    ここでも「青木氏の歴史観」として認識して置く事がある。

    これは、前段でも論じたが、「家康」が「伊勢青木氏」に執った ”伊勢の事お構いなし”の「お定め書」でも理解は出来る。
    つまり、「家康」は、「表向き」には、”宮廷の外壁が崩れても放置する程”に「天皇家」を締め付けたが、裏では行き過ぎて「信長」の」様に「民の反発」を招かない様に「青木氏族」に遣らせていたという事でもある。
    これも「青木氏族」にしか判り得ないてい「重要な歴史観」である。

    その前に一言、この「青木氏の歴史観」を以ってして更に悪く云えば、この為にも江戸初期には「商いの面」で本論と成っている”「殖産」”を進めなければならない破目に陥っていた事にもなり得るだろう。
    この事から云えば、この時代に成っても未だ、形は変わっていただろうが、”「賜姓五役」”は明らかに存在していた事にも成る。
    否、社会的にさせられていた事もあり得る。

    更には、江戸幕府は、「権威の象徴である天皇家」に「圧力」を掛けながらも、一方では「権威」を重視し「天皇家」を体よく利用し、”「二極両面」”を利用する態度を執っていた事に成る。
    結局は、その「幕府の矛盾」を「青木氏族」で補っていた事にも成る。

    「室町期の紙文化」のおかげで、「青木氏族」が、「紙文化の遺産」と「殖産」で「巨万の財」を成していたから良かったが、これを「青木氏の歴史観」から観れば、仮に無かったら如何していただろうかと、場合に依っては「天皇家の存在」も危うかった可能性もある。
    つまり、「青木氏」に執っては、この期待もしない「時代ずれ」のある”「賜姓五役」”を都合よく使われたと云う事も云える。
    唯、云える事は、「青木氏族」のその「殖産を含む商い」は、、何時の時代にも”「幕府の御用商人」”では無かったという事である。

    だからこそ”「伊勢の事 お構いなし」”の「お定め書」を公に「家康」が出せたという事でもあろう。

    「青木氏の歴史感」を想像しているこの「お定め書」が、果たしてどれ程に「青木氏族」に執って効いていたかは甚だ疑問ではある。
    前段で論じたが、「江戸初期の殖産」では、確かに効いていた事は確かであるが、「前段の殖産」を進める為に「紀州藩」が「山田奉行所」に申請した件では、つまり、「七割株」を持つ「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」では、「山田奉行所」の奉行時代の「大岡忠相」には、これを否定された事は有名である。

    この事に付いて一族内や関係族の内に「遺されている書物」を読み取るには、その「存在」は認めているが、その「お定め書の効能」を大きく特記する記述は特に目立たない。
    故に、この事では「青木氏族」の内には、取り分け”「影響」”はなかった事になるだろう。

    これは大化期からの「永代不入不倫の権の存在」を族内で代々認識していた事を物語るものとして判断できるし、その「認識」と云うか「概念化した知識」と云うものが、「お定め書」を当然の事として捉えていた事に成ろう。
    判りやすく云えば、”何を今更”であったのであろう。
    「青木氏」に執っては、この「概念「」と云う意識と云うものが無いにしても、合ったとしても”表には出せない”が、周囲はそうでは無かった筈である。
    つまり、「青木氏」に執っては、故に「時代のずれ」を感じながらも、更にはこれも「時代のずれ」のある「永代不入不倫の権」の出処の「賜姓五役」であり、且つ、それを表す一つとして「献納」を続けていた事になるのではないかと考えられる。

    はっきり云えば、「伊勢郷氏」であっても、、傍らで「商いや殖産」を生業とする以上は「永代不入不倫の権」も今と成っては「青木氏」には「何の効能」も無かったであろう。
    「商いや殖産」は、「権威や象徴」に頼っていては成り立つ話ではないのは当然であろう。
    唯、何度も云うが、上記の資料からも左程に記述が無いし、「青木氏の氏是」もあり、「権威や象徴」を振りかざす程の「氏のすさみ」も無く、「青木氏側」にはその「意識」はそれほどでも無かったであろう事が解る。
    要は、、”周囲の目が違った”という事に成ろう。
    この事に就いては、確かに読み取れる。

    つまり、故に、これも「青木氏の歴史観」から観れば、「山田奉行所」は意固地に「青木氏族」に対して「意地(妬嫉に似たもの)」に成っていた可能性もある。
    「下剋上」は進み「下級武士の、姓の時代」に成ったこの江戸の初期に未だ「青木氏族」のような「氏族」が残されている事の事態が気宇であったので、その様に観られるのも不思議では無かった。
    むしろ、「意地(妬嫉に似たもの)」は「普通の事」であったであろう。

    何故ならば、況してや、この時期は「将軍吉宗」と「伊勢青木氏」は、江戸では「江戸伊勢屋」を置いて「享保の改革」を推し進め初めていた時期でもあり、前段でも論じたが、、養育元として幼少期より「吉宗とは蜜月の関係」を維持していた筈であり、「家臣」ではないが「重臣」か、「仲間」「かそれ以上の”「布衣着用の身分」”でもあった。
    「大岡忠相」は、「高石の旗本の身分」とは云え、不必要に強い「本旗本の武士意地」の”「三河者の大岡」”に執っては、”目の上のタンコブ”、”何するものぞ”の「裏の感覚」は持っていた筈である。
    唯、表に出さない程度の事であったであろうと推測する。

    大化期から平安期にかけて「志紀真人族」であり、「直系の四人の天皇」を出した「郷氏」でもあり、その果ては「家康」も「お定め書」で一目を置き、「吉宗育ての親」で、裏で経済的な支えとして「将軍」に仕立てたのも、「享保の改革」を進めたのも、江戸市中で200店舗以上の「伊勢屋」を営み、永代の「お定め書」を持ち、紀州藩を「勘定方指導」で経済的に支えているその「伊勢青木氏」に対しては、これほどの自然が創り上げた「権威を持つ氏族」に対して、人間である以上は表に出せない「屈折心」も否定はできないであろう。
    兎に角、「大岡」の様な「有名な人物」にはありがちな「作られた評価」、つまり「公的な記録」では「美化」されているが、「青木氏の歴史観」からすると、この「美化」を取り除くと「上記の事」や「下記の事」はこの様に観えてしまう。

    (注釈 前段でも論じたが、ここで「青木氏の歴史観」の一つである」世間で云う「質屋」は、そもそも、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」が庶民に対して、生活に困る者に「施し」をし、そして「職」を紹介」し、「厚生の道」に導く功徳を行っていた。
    これを奈良期から「質」と呼んでいた。
    中国の金山寺が行っていた習慣を持ち込み「朝廷」に代わって全国500社に及ぶ「神明社「」が行った。
    これが、江戸享保期のこの「伊勢屋200店舗」でも行った。
    そして、それが「無償の施し」から「低利の施し」として「享保の経済」を活性化させた。
    これが、「質屋」の呼称として広まった。
    享保末期に「江戸伊勢屋と青木氏」は、「吉宗との不調和」が起こり、200店舗の権利を放棄して店子に譲って伊勢に引き上げた。
    これが、「質屋」の始まりで、江戸に「伊勢屋の質屋」が多いのはこの事から来ている。)

    そもそも、この筆者は研究を進める中で分かってきた事で、この”「美化」で固められた歴史”等には、”何の値打ちも無い”と信じている。
    故に、「青木氏の歴史観」として当然にこの説を採っている。
    恐らくは、「青木氏族」に執っては、幕臣の家臣ではないが「布衣着用の身分」には、彼らには「相当な軋轢」が「人の世」である以上はこの時期からあった事が伺える。
    これは「人の世の常」であり無い方がおかしい。
    どこでも起こる事ではあるが、”伊勢者 何するものぞ”であろう。

    前段でも論じたが、それが「享保期末」に周囲から強く噴出して仕舞い「吉宗との折り合い」も着かなくなって、”「伊勢」に帰るという結末に成った事”でも解るし、そもそも、この時代に成っても、これだけの事の「権威性」を未だ持っていたとすれば、世の中は利用し放って置く事はないから、だから未だ「青木氏の氏是」にも成っている事でも解る。
    普通は何れに於いても意味の無い「氏是」は消えるは必定である。
    然し、明治九年まで消えていなかったのである。

    後勘から観れば、“「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」”は、特段に「当たり前の申請」であろうし、況してや、”誰もできない「紀州藩の殖産」を推し進めていたのに”である。
    そもそも「否定される謂れ」は無かった筈である。
    あるとすれば前段でも論じたが、「青木氏の資料」より読み取れる「讃岐青木氏」の「瀬戸内の廻船問屋の利権」に重なる事だけであろう。
    或いは、当時、綱吉が執っていた「御三家への牽制策」から引き継がれて、享保に成っても吉宗の出自元の「紀州藩」を富ませる事への「幕臣の反発」とも執れる。
    「二万両の借財体質」を維持させる事で「政治的な圧力」を掛けていた事からも分る事である。

    末梢とすれば、この「伊勢水軍」を始めとして「熊野水軍」「紀伊水軍」「鳴門水軍」に「瀬戸内水軍」と海域を分け合ってバランスよくその利権を守っていた。
    何れも共通する事は、保守的に成ってこの「利権を壊す事への不安感」が否めない。
    「伊勢水軍」に、「青木氏族」に、つまり、「紀州藩に認可の裁定」を下せば、「利権域」は乱れるは必定であり、紀州藩を富ませる事が起こり、「政治的な圧力策」は霧消する。
    筆者は、「山田奉行所」は、つまり、「乱れる事への責任」を問われ、「大岡」は裏では「保身」を狙ったと観ている。

    そもそも、”「廻船」”と云う点から観れば、「紀州藩」は「熊野水軍」や「紀伊水軍」でも良かった筈で、でもそうしなかった。
    それは、何故かである。

    そもそも、「紀州藩」には常態的に前段でも論じた様に「毎年二万両の借金体質」があり、其の侭だと潰れる。
    それを解決するには何かを興さねばならない。
    それには「殖産」とその「資金」の課題があり、然し、それを興させるには「熊野水軍との軋轢」「紀伊水軍の素行」が問題と成っていて出来なかったからでもある。
    又、「七割株の青木氏の伊勢水軍」と「讃岐青木氏の瀬戸内水軍」には、「古来より強い絆」がある。
    当然に、「松阪経由で瀬戸内」までの「廻船」ができ得れば、「松阪」で「四日市殿」と「秀郷流青木氏」と縁戚関係にある「駿河水軍」と繋げれば、関東、中部から中国域先端までの「大プロジェクトの廻船路」が出来る。
    筆者は、「青木氏の進言」で「吉宗」は初代からのこの「計画の推進」を進めようとしていたと考えられる。
    これは「紀州藩と青木氏族」に執っては「経済的波及効果」は測り知れなかった筈であった。
    (幕府御蔵金は300両しかなかった。)
    況して、「紀州藩の家臣団」は「伊勢秀郷流青木氏」である。
    これを当初から「初代からの殖産」をより大きくする為に狙っていた事は間違いはないだろう。
    「紀州家臣団」としては計画を進めない方がおかしい。

    そもそも、「讃岐青木氏(伊勢水軍)」と「瀬戸内水軍」を単独として見做しているが、「伊勢水軍の廻船」と繋ぐとする思惑があれば、横浜から防府の先まで一廻船が成立するのである。
    こんな「大廻船」が出来れば「大岡」が警戒するのは当然であろう。
    将軍と成った「吉宗」は承知していたというよりは密かに「目論んでいた事」であろう。

    その証拠として、そもそも後に、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」は、「三陸より駿河」までの「東周り廻船」が認可されている。
    そこで、吉宗は「大岡」に否定されたので、この「当初の計画」を示現する為に、何の関係も無い圏外の遠い「瀬戸内廻船」に態々これを認めたと観られる。

    そもそも、「圏外の廻船問屋」に認可するというのは不思議で恣意的としか考えられない。
    そこで、つまり、否定された「切れたルート」の「伊勢水軍の域」を「青木氏族の大船四隻」と足りない便域を「伊勢水軍域」で繋ぎ完成させたと観られる。
    否定された以上は、そこでそれをいきなり繋ぐと違反と取られかねない。
    そこで、飽く迄も,”「青木氏族単独の商船」”であるかの様に見せかける必要があった。
    その為に、密かに執ったのが「摂津港」に「大船二隻」を係留して松阪まで「ピストン配船」させ、松阪からも矢張り、「大船二隻」を同じく「ピストン配船」させ、それをカモフラージュに「伊勢水軍」を「摂津」までの「往復回路」を作れば、「完全な廻船」は出来上がる。
    「紀州藩」はこれで「関わり」が無くなる。
    解ったとしても「山田奉行所」は文句の着けようがない。

    筆者説はこれに基づいているが、これほどに「史実としての戦略」が出来上がっている事そのものが不思議で、恣意的であるとしか考えられない。
    明らかに「神奈川」から「讃岐」までの「青木氏族」が力を合わせて”一致して仕組んだ事だ”と観ている。
    思い思いにはこれだけ「統一した戦略」は出来ないだろう。
    そもそも、この「戦略」には「日本の経済の発展」と云う「次元の高い思惑」が課せられていた。
    「大岡の否定」は、”次元は低すぎる”と観ていて、筆者説のみならず「青木氏族の共通の認識」であった様に資料から読み取れ、故に「青木氏族の戦略」と成り得ているのだ。
    故に、「大岡」に次元低く否定された以上は、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」を態々持ってこなければならない事に成ったと成る。

    江戸に出た「伊勢屋の伊勢青木氏」を始めとする「青木氏族」は、前段でも論じたが、これらの「対応策」を幕臣を交えずに密かに”「吉宗と談合した」”と考えられる

    (注釈 「佐々木氏族の江戸下屋敷」の直ぐ近隣に幕府より屋敷を与えられていた事は解っていて、ここで吉宗と談合を重ねた事が解っている。
    「伊勢屋の屋敷」と「青木氏の自邸の屋敷」は前段でも論じたが、主な伊勢屋の屋敷は「問屋街の小伝馬町」と「日本橋界隈」や「横山馬喰町等」にも複数あった。
    「江戸伊勢屋店舗」は200か所以上に上る)

    確かに何れも其れは云えるが、然し、この「否定された案件」には、細かく観るとそもそも「往路廻船と復路廻船の違い差」が出ているだろう。
    それは、「伊勢水軍」は別として、「熊野水軍」には「熊野宮司六氏」が背景として絡み「通行」には「利権」を主張する「海賊的水軍」であったとされる。
    これを守らないものには容赦なく鉄拳を加えたとする資料もあり、その「海賊の村」とされる所の資料説もある位である。
    然し、どちらかと云うと”「海族」”と云うところかと考えられる。

    又、次に「紀伊水軍」は、平安期から”「海賊」”そのもので、「利権」がどうのこうのでは無く、海を荒らす純然たる要は”「海賊」”なのであって、その記録は「義経の壇ノ浦の戦い」の時にこの「海賊の存在」が最強を誇った「平家水軍」との「海戦の勝敗」を決めるとして、義経は執拗にコンタクトをとった記録が遺されている。
    つまり、この背景には「雑賀一族」と「根来一族」の「海の族説」があって、それを「背景」に勢力を持っていた”「海賊」”でもあった。

    「鳴門の荒波」を制する「鳴門水軍」は、淡路島を根拠地とする「海洋民族」と、その「土豪」であった「淡路島の鳴門族(後の蜂須賀族)」を背景としてその勢力を張っていた。
    この様に何れも一癖のある単なる水軍では無かった。

    (注釈 「義経の海戦」の時に”「摂津水軍」”と書かれている資料がある。
    この「摂津水軍」は源氏方であったと書かれている事から、「嵯峨源氏」を含む「摂津清和源氏」を主体とした「青木氏族」や「近江佐々木氏族」等の「混合隊の水軍」で「小水軍」であったと書かれていて、「義経の海戦」が始まった段階で直ぐに「摂津港」に引き上げた事が書かれている。
    恐らくは、「荷駄を搬送する役目」と戦略上の「船団のダミー的役割」を負っていて事であったらしい。)

    兎も角も、当時の「暗黙のルール」は、この「三つの海域」を通行する廻船は「通行料」を払い”「堺会所」”で認可を取らなければならなかったとある。
    “「堺会所」”には「支配頭」がいてこれらの「全水軍」に渡りをつけての事であって、「山田奉行所」とは云え、「実質の実力的差配権」はこの「堺会所」にあって、「山田奉行所支配」の「自由横行の運航」ではそもそも無かった。
    従って、然しながら「紀州藩」としては「幕府の支配下」にある以上は「山田奉行所」であって、且つ、紀州海域にあるとは云え、「一種海賊的水軍」を「紀州藩」としては使う事は出来ない状況でもあった。
    飽く迄も「政治的な支配権」でのその様な「山田奉行所」であって、それに基づいた申請であったと云える。

    本音を云うと、故に「上記の低次元の裁定」と成ったのである。
    だから、「青木氏族」は”馬鹿らしい”と云う感覚に成っていたのであり、「紀州藩」から出された申請である限りはこれに従わざるを得ない事に成る。
    当初から「青木氏族」にとっては、大化期から定住する「氏族」で「摂津」に店舗を持っていた関係からも「堺会所」は知っていたし、「宋貿易」をしていた事からもこの「堺会所との付き合い」は当然にあつた。
    又、「伊勢屋」で「伊勢水軍」を統括していた事から考えても、この事は事前に間違いなく”計算済みの想定内”にあったと考えられる。
    故に、時間の掛かる”「大船建造」”を事前に進めて「殖産計画」に間に合わしたのである。
    それで無くては「運搬問題」が発生し前段で論じた「殖産計画」は成功しなかった筈である。
    大掛かりな「船の建造」を伴う時間の掛かる「讃岐青木氏の東周り廻船の設定」も間に合わなかった筈でもある。

    江戸初期の紀州藩初代から始まったこの「江戸殖産(創業平安期より)」は、当初は伊勢域は「伊勢水軍」で行い、「商品」を売り裁く為の摂津大阪などへの搬送は主に陸路に頼っていた。
    ところが、この「殖産」は大きく進み、「墨と硯」、「和紙と製品」、「綿と布」、「漆と漆器類」、「海産物と加工品」、「菜種油」、「海産物加工」、「白粉」等々の「殖産」は発展し、「陸路の量的な搬送」は無理と成った。
    この間、「搬送先」、つまり、「販売先」は拡大し、「大量」で「遠距離輸送」は日本全国と成っていった。
    この時期が、丁度、100年後の享保期初期に当たり、「殖産」は、紀州藩初代頼信から吉宗まで「勘定方指導」で「紀州藩の借財体質」を改革し、最終的に上記するこの輸送問題が勃発したのである。

    そこで「将軍と成った吉宗」は、紀州藩のみならず「三陸」から始まり、「防府」までの「一廻船体制」を確立して「経済の発展」を支え様として、この為に上記の「旧態依然の利権体質」を改善すべく途切れている「松阪から摂津」までの「統一廻船」を作ろうとしたのである。
    つまり、「駿河と瀬戸内」は何れも「青木氏族との絆」のある廻船である。
    そして、「三陸部」から駿河までに「瀬戸内廻船」を持ってくれば、「一つの絆廻船」が出来上がれば「利権」に振り回されない「安定した廻船」が出来上がる算段であった。
    100年目にして仕上げる「頼信ー吉宗」の”「思い」”であったのである。
    然し、低次元の「大岡の裁定」を無視してまでも「幕府命」で「押し通すべき算段」では無かったかと思われてならない。
    恐らくは、「幕府命」と「幕府機関」の裁定が異なる事は、「権威の低下」を招く為に執れなかった事は解る。
    そして、「将軍」に成りたての頃である以上は未だそこまでは「幕臣」を統括出来ていなかったであろうし、次元が低いが出自元でもあり裁定に口を出せば「要らぬ誤解」を招く事にも成り兼ねず、遠慮した事も考えられる。

    江戸に「吉宗」に同行して「江戸出向」していた「青木六兵衛等や青木氏族等」には、「江戸屋敷での談合」では「大岡裁定」には「吉宗」は「猛反発」を受けていた事が伺える。

    (注釈 「青木六兵衛とその息子一族」は、「吉宗」と享保期末には「折り合い」が悪くなり、「江戸商い」は「店子」に譲り「江戸伊勢屋・青木氏」を「伊勢(伊勢秀郷流青木氏や信濃等の青木氏族関係者含む)に引き上げるが、この時の始末に「青木六兵衛とその息子」は、「六兵衛は病死」でその「息子は江戸で跡目が絶えた」と成っているが、「青木氏の資料」では確実に引き上げている。
    「兄の長兵衛」の「四家の福家の跡」を継ぎ、「享保期の重責」を全うしたことが判っていて、逸話まで遺されている。
    この事に付いて、「近江佐々木氏の資料」にも記載があり、江戸での「六兵衛とその息子の所在」は不詳としている。
    これには「吉宗と幕府」に警戒されない様に仕組む位に「関係悪化」があった事が伺える。)

    注釈の通り、これは「吉宗との関係悪化」は否定できない「青木氏の歴史観」ではあるが、「大岡裁定」に観られる様に「江戸の幕臣の反発」は間違いなく、この「青木氏族」や「江戸伊勢屋」に向けられてあった事は間違いはない。
    それは「江戸屋敷」を隣接する「近江佐々木氏」の「青木氏族の研究記録」にも確認出来る事で、目に見えてあった事に成るだろう。
    記録に遺す程であるから、「享保の改革」を裏で支えてきただけにその落差は大きく映り、相当のものがあった事は「間違い」は無い。

    つまり、この「一つの絆廻船」を「青木氏の戦略」で押し切った事が、「幕臣の執拗な反発」を増幅させていって、「吉宗」も「最大の味方」との「蜜月の関係」を続ける事は出来なく成ったと考えられる。

    さて結局は、「青木氏族」から観ると「最悪のシナリオ」の「切欠」と成った「大岡裁定」だが、この「一事不再理の原則」から「吉宗」も動かしに難く成ったが、この様な「事前承知の背景」から「青木氏族」は力を合わせて「摂津」に「千石大船二隻、松阪に大船一隻」を追加建造して名目は”「商船」”として、自ら「四隻の運用態勢」を整えて対処した事にある。
    虚を突かれた幕臣側は色々と裏で画策を試みた事であろう。
    それは、「陸路運送」と「江戸販売の認可」にあったと観ている。
    (「陸路運送」は「伊勢シンジケート」が秘密裏に「横の関係」を使って安全に輸送した。)

    「青木氏の伊勢屋」の「商い」の細部に普通ではない「事件記録」が遺されている。
    この「陸路運送」では、「青木氏の資料や商い記録」に遺されている事件としては、一例として前段でも論じたが「鈴鹿峠部の通過事件」がある。
    ここは「四日市殿の地権域」にあったが、「支配権」は鈴鹿関所として幕府に統治され、「京、大阪、摂津」に出るルートを地元地権者でありながら「関所の大義」を理由に厳しく抑えられたとあり、これで、「陸路搬送の輸送量」が遅退したとある。

    「大船建造」は「上記の経緯」と「輸送利用の増大」からもあるが、この「鈴鹿通過事件の件」も大きく影響していたと考えられる。
    故に「資料から読み取る史実」や「商記録」に、放念できずに態々記載されているのであろう。

    享保の時代中には、「江戸販売の認可」の件では、「菜種油」と「海産物加工品」と「海産物を利用した飼料」を殖産していたが、これを江戸に卸そうとしたが、すぐには認可が下りなかったとある。
    中には他の「商人」には下りても、「早出しの伊勢屋」には「認可」そのものが下りなかったものがあったとある。
    当時、「害虫被害」が関西で起こったが、これに効く薬が無い事から、「菜種油」を薄めて散布したところ被害が納まった。
    ところが、この被害が関東にも及び急拠関東にこの菜種油を送ろうとしたが「認可」は下りなかったとされる商記録もある。

    「海の干物、(ほしか)」を粉状にして畑に蒔く事でみかん畑や綿畑などで大収穫が得られた。
    当初は使用の出来なくなった「乾物」をみかん畑に廃棄したが、この「廃棄」が効いたか旨くて大収穫が得られたとある。
    そこで粉状にして蒔いたところ効果覿面で、それ以後、畑にも蒔いたとあり、商品として関西域に販売して好評を得たとある。
    そこで、、江戸伊勢屋にて販売しようとしたが認可はすぐに下ろさなかったらしいことが書かれている。
    認可後も、「伊勢の殖産」が広がり各地の漁場の「ほしか」を買おうとしても嫌がらせを受けてなかなか要求量が入らなかったと記載されている。
    又、それまでは食物として使用されなかった海藻類を煮出してその液を凝固させて作る寒天などを開発し、これが関西で大流行と成り関東にも送ろうとした。
    ところが、これも認可が直ぐには下りなかったとあり、50年以上も後に成ったとある。
    事程左様に、「伊勢の射和殖産」も含めて「江戸を含む伊勢屋」には厳しかったとある。

    これらには、「圧力という表現」は流石に使ってはいないが、恐らくは、「大岡裁定後の幕臣圧力」であろう。
    このような事が積み重なり「青木氏族側」では、「莫大な資金」を投じて「享保の改革資金」を調達しながら「吉宗の優柔不断さ」に対しての「「不満」が沸々と募って行ったと観られる。

    さて、上記の事から”「伊勢屋」”を使っての「関東への陸路販売」は流石に難しかった事は否めない。
    然し、それでも前段でも論じた様に「質屋」を含む200店舗以上」(チェーンストア)で営業を営んでいた。
    「江戸」への「海路の運送」は、「伊勢水軍」を使っていたかは資料が無いので定かではない。
    恐らくは、享保期の「伊勢水軍の規模」から考えて「関西域で海路輸送」が限界で難しかった事が充分に予想できる。

    然し、依って「江戸の伊勢屋」では、「商品の入荷」は「伊勢シンジケートの陸路運送」で行っていた事から充分では無かった事が予想できる。
    然し、一方、享保期前後の「伊勢の伊勢屋」の「殖産」の「製品の販売体制」を瀬戸内までの間を三日毎の「四隻態勢往路復路の入れ替え方式」で行った事は解っている。
    中には「人の運搬」も影では行っていたと読み取れる。
    史実として”「商船」”としての実績を証明するものとして「浅野家取り潰し」の「蔵出し買い取り」をこの「商船」で一手(大船三隻)に引き受けた事が書かれている。
    関西域での「伊勢水軍と四隻態勢」が暫くは続いていた事が解る。(船数は増加)

    享保期前後には「駿河水軍との連携」は未だ成立していなかった事が解るし、これからも「伊勢水軍」は「関西域の専用廻船」であった事が証明出来て「江戸」に廻していなかった事に成る。
    「陸路運送」は、「陸路の縄張り」と云うか「権域」と云うか海路と同じくグレーの体質があって、これを「シンジケートで通す場合」はその「縄張り」に「渡り」をつけて搬送する必要があった。

    結局は「伊勢シンジケート」に執っては適任であり、その「警備と運輸と渡り」に全面的に頼っていた事に成る。
    「青木氏族」に執っては、「海路運送」の「伊勢水軍」も「七割株の契約関係(血縁関係もあった)」にあり、「陸路運送」の「伊勢シンジケート(信濃含む)」の「経済の契約関係」にあり、何れも「警備力と渡り力」を持った「運輸力」にあった。
    「他の商人」にこれほどの「運輸力」を持った「古い関係」を持ち続けている「犯しがたい氏」での「商人」は全く無いであろう。

    これの事実を知れば恐れられる程の「脅威に近い運輸力」に「幕臣」には観えた筈である。

    一度、事が起これば「戦力にも成り得る運輸力」である。
    室町期までは現実にそうであった。
    そこに、「郷氏としての象徴力や権威」があり、「一絆廻船の戦略」を敷かれ、「大船四隻」を持たれれば、最早、「幕臣の政治的権力」の及ぶ範囲には無かった筈である。
    そして、況して、幕臣が裏の手を使って「脅迫」などを「伊勢屋や青木氏族」にするものなら逆襲を受ける。

    つまり、「伊賀者」には”「郷士の縁戚者」がいる”と成り、室町期初期に「二万の軍」を餓死させた戦績を持つ「関西中部域」に及ぶ「シンジケートの力」と、関東北陸までその勢力を保持する旗本御家人の「秀郷流青木氏の縁戚族」の存在ともなれば、「山田奉行所等の幕臣」には既に「危険域」を超えていた事になろう。
    下手に幕府の中で口を開けば、情報は洩れる事に成り、気の休まるところはなかったであろう。
    そうすれば、後は「世は必定」で”嫌がらせ”しかない事に成る。

    従って、上記の背景から観ても、そもそも、「三日毎の四隻態勢の往路復路の入れ替え方式」で行うのであれば、初めから何も上記の「紀州藩の案件」は煩い「山田奉行所」に出さなかった筈であろう。
    決まって「嫌がらせの裁定」が下りる事は必定なのであって、然し、「青木氏族」として出していなく「紀州藩」としては出したのである。
    「紀州藩」として出したから「山田奉行の否定の大岡裁定」が出せたと観ている。
    それも「御三家」と「将軍吉宗」に対してである。
    普通に考えれば「認可」と成ろう。
    従って、普通に考えれば、上記した様に、「紀州藩」「御三家」「将軍吉宗」でありながらも、裏には”「三河者」”に執っては、「家康のお定め書」も然る事乍ら、”腹に据えかねる「羨望嫉妬の青木氏族」”が居た事に成ろう。
    何度も云うが、「青木氏族」であり乍らも大化期からの「伊勢屋の商人」である以上、上記の様な「高飛車な意識」は毛頭無かったのであって、そもそも其れであれば「商い」は出来ないだろうし、「相手方の持つ否定できない自然の意識」と成ろうし、問題はその「意識の大小」と成るだろう。

    従って、「青木氏族=伊勢屋」が執るべき手順としては、戦略上、先ずは、”「紀州藩の申請(ダミー策)」”〜”「大船建造(事前建造)」”〜”「東周り廻船の申請(事前交渉)」”の過程を踏んだと観られる。
    この「戦略の手順と過程の差配」を違える事は、「幕臣の反発」をより喰らい「殖産計画全体」が成り立ち難く成り得ていたとも考えている。
    何故ならば、この「大岡裁定」は、「殖産」に執ってはそれなりの影響は否定できないが、「次元の低い裁定」と観ているからで、その「低い思考能力」からすると、「船の建造」を進めていたとしても「影響」だけではなく「運搬」で円滑に全体を動かせなくなる可能性があった。

    依って、筆者は奉行所が「案件」を否定したのは、上記の「周囲の意識説」は間違いは無いと観ている。
    “伊勢の事 お構いなし"の”「お定め書の事」を気にせず「正しい裁定」を「山田奉行所の大岡」が下した”とあるは大いなる疑問である。

    「伊勢のお定め書」の原型は、元々は、「伊勢の国の守護王」であった「施基皇子」に対してもので、「日本書紀」にも記載のある「不入不倫の件」の「伊勢」に下した「大化期のお墨付き」のコピーでもある。
    つまりは、「美化の典型」の「大岡裁定」を左右させなかったとある”「お定め書」”は、恐らくは「献納」に対する「見返りの追認」ではないかと考えられる。

    これは「家康」が、“バランスをとった”云う事であって、記録めいたものが事更にないと云う事は、「青木氏族」に執っては、”「今更の件でもない」”の程度であっただろう。
    つまり、これを「根拠としての裁定」とは、「青木氏の歴史観」からすると、当時としては”何をか況や で馬鹿らしい”であっただろう。

    この様に「大岡の一件」を捉えても、「青木氏の歴史観」から観ればこの様に変わり、そもそも、先ずはこの様な事は、普通は「一氏」からの”「史観」”で見る事はしない。
    故に、少なくとも「青木氏族」の周囲に起こっていて、或いは関わっていて、「公の史実」と成っている「史観」にはこの様に大きく変わる為に、一度、「遺された史実」を調べ疑問を持つ必要があるのだ。

    そもそも、「青木氏族」と云うのは、その様な「特異な立場」(青木氏の歴史観)にあったと云う事である。
    少なく遺されている「氏族」の中でも「史実、史観」として掴んでいるのは、「青木氏族と近江佐々木氏族」くらいではないだろうか。
    この「二氏に関わる事の歴史観」は大きく変わる事を知る必要があるが、「藤原氏の場合」は各所に遺されている資料が多すぎて、その結果、他説が多すぎて散在し過ぎている気がする。
    「氏族」のみならず、「下剋上」で勃興した「姓族」のこれをうまく使われて、それには「搾取偏纂」が多すぎて又論じ難い。
    それはそれなりに楽しめば良いとされる論法もあろうが、「姓族の場合」は「氏族」の様な「歴史観」は無い事でもあるが、「最低限の歴史観の辻褄」を合わしてもらいたい。
    筆者はあまり採用したくない論法でもある。


    上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
    殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
    つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。

    さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
    それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
    そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。

    従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。

    この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
    矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

    余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
    これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
    然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。

    この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
    これは史実にもある。



    > 「青木氏の伝統 42」−「青木氏の歴史観−14日」に続く。


      [No.359] Re:「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2018/02/19(Mon) 10:06:17  

    >「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」の末尾


    当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
    云うまでも無いが、この「血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
    これにて「何らかの血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
    そして、それが、況や、“「女系族」”であったと説いている。

    その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
    逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

    次の段では、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
    「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
    これに付いて次段で論じる。




    「青木氏の伝統 40」−「青木氏の歴史観−13」

    「女系族」の「四六の古式の概念」

    さて、話を少し戻す事に成るが、「上記の女系族」の「清らかな血縁性の源流」の為にそこでより考えられたのが、これが前段で論じた「四六の古式の概念」であった。

    つまりは、“四を保ち六を入れる”とすれば論理的には「純血性」は保てる事に成ると云う考え方である。
    それには、この「四六の古式の概念」で得た“「純血性」”、つまりは、「青木氏族」ではその「歯止め」と云うか「指針」と云うか「基準」とするかそれを定めたのが“「四掟」の事”に成る。

    然し、「現在の概念」で考えてみれば、「六」が「四掟(六掟か)」で縛り、「四」が「入り」に成っての以上程度が、「完全純血」が無い以上は、始めて“「純血性」”と云える論理だとも考えられる。
    然し、これでは前段で論じた様に「血縁性の弊害(唖子等)」を出す所以と成っていたと云う事であろう。

    (注釈 これが「六四の概念」以上を保とうとする「天皇家の理屈」であろう。)

    筆者は、「青木氏族」はこの時期の頃から既に「血縁性の弊害」のこの「経験値」を獲得していたと観ている。
    そして、そのより「弊害を薄める方法」を今までの「男系」に頼るのではなく、前段の論理性で“「女系」で行う”と云う方向に舵を切っていたと云う事なのであろう。
    当時としては、「皇族朝臣族」とは云え未だ「妾子族」への「社会の見方」はそれほどでも無く、より「妾子族」であるが故に「血縁性の弊害」には神経をとがらせ「経験値」を得ようとする姿勢が強かったと考えられる。
    現在医学から考えて、当時としては充分な医学的根拠なくしても、「経験値」で「雄」があくまでも「補完役」であって、主は「女系(雌)」が「人の類」の「遺伝情報」を引き継いでいるという事を知っていた事にも成る。
    そうすると「男系の継承」を逆の前提としている「社会の中」で、或いは、もっと限定すれば「皇族系の中」では、この「考え方」は明らかに「異端」であった事に成る。
    これは、恐らくは「宋貿易」をしていた事に依る「知識の吸収」の影響ではないかと観られる。
    そして、「宋貿易以外の知識」を補完するものとして、それは「経験値」のみならず「人の類」(雄雌)の「外見上」からの「雄」が持つ身体上の「四つの不要な差異(前段で論じた)」を分析して見抜いていた事にも成る。

    「歴史観的」にもっと云うと、その「分析の知識」、或いは、「確たる鋭利な感覚」が強く「青木氏族の中」にだけあったという事にも成る。
    そんな「異端の考え方」が果たして「志紀真人族」の中にだけ許されたのであろうか疑問に成る。
    然し、何故か現実には成り立っていたのであった。
    そうすると、“何かがあった”から「賜姓五役の立場」の「志紀真人族」には許されていた事に成る。
    その“何かがあった“とするものが何なのかである。

    そこで、更に云うと、「宋貿易の知識吸収」のみならず、中国の紀元前の「華国の時代」の「国王の歴史」を始めとして、そこで起こった「知識」を獲得していた事にも成り、大和では「天皇家」が「権威と象徴」を保つ事の為にだけ「純血と云う事」で、この“「六四の掟」”に拘っていたからこそ「青木氏族等」はこの”危険性”を感じ取っていたのではないかと考えられる。
    そして、「志紀真人族」はこの”「危険性」”から鑑みて、「孝謙天皇期」では、最早、“「純血性」が保てなく成った”と云う事を事前に読み解いて知っていた事にも成ろう。
    それは、「華国」を始めとして中国に興った国々の歴史期間を見れば約50年程度で滅びている事の知識であった。
    この様に「純血性」に拘り過ぎると「国王、或いは、天皇」の「権威の象徴」を消失する事にも成り得る「世の掟」であろう。
    つまりは、この「経緯」から観ればすぐ近くで“滅びる”と云う前提にあった事に成る。

    (注釈 この時期迄に百済を経由して「王仁等の渡来人」の「中国人の学者」が多く渡来して大和に「中国文化と歴史」を伝えていて知り得ていた筈であり、「国家体制」を確立した大化期では是非に知り得なければならない進んだ国の情報であった筈である。)

    それなのにでは何故に、「国王や天皇」は「権威と象徴」の為に例外は無く「純血性」に拘ったのであろうか。
    それは、それ以外に方法が無いからであって、「武力と云う方法」もあるが、それでは「武力」によって潰された者の「恨みの輪廻」が増幅する事に成り、「人」を束ねる事は何時かは出来ない事を「経験値と情報」で知っていた事に過ぎない。
    故に、「蘇我氏」等を危険を顧みず苦労してこの「周囲の力」を集めて「武力」で取敢えず抑えたからこそ、「天智天皇の大化の改新」では、研究書では「天皇を凌ぐ蘇我氏の専横」と結論付けられてはいるが、確かにその事(武力の脅威の心)もあった事は否めないが、「武力」に頼らない「制度的な対応策」を考えた事に成る。

    (注釈 この「皇族」は勿論の事、或いは、「公家族」や「武家貴族」の考え方には、”「武」を持たない”とする「ステイタス」が、江戸末期まで保たれた所以でもある。
    ”「武」を持つ事はその位格を傷つける”事とする「暗黙のステイタス」があった。
    表向きの理由は別として、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”と成ると考えていた筈である。
    現実には、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”から逃れようとして室町期にはこれを破った平安期の「源氏」を始めとして室町期の公家族の「北畠氏」、「西園寺氏」、「一条氏」等は結局は滅亡した。)

    唯、元々、「武力だけへの対応」は、「ある条件」を除いて何時の世も論理的に無理であろう。
    「武力を持たす姓」が今度は蘇我氏の様に成れば元の木阿弥である。

    では、この”「ある条件」”とは、一体何か。それが次ぎの事に関わるだろう。
    然し、そこで「天智天皇」は、不思議に、それも唐突にも突然に「后妃嬪妾の制度」を「国の制度」に取り入れて実行した。
    この事は、先ずは「権威と象徴」の為の「純血性の維持」に依って、“「天皇家を弱めると云う危惧」”を抱いていた事に他ならないと考えられる。
    この侭では「蘇我氏」の様な「象徴と権威」だけに拘らない「自由な血縁性を持つ豪族」にその「天皇の立場」を奪われると危惧したのである。
    そして、その上で目の前に起こっていたその「きっかけ」と成ったのが、”「純血性」から起こる「唖子(軽皇子の事)」に象徴される事にもあった”と認識していたと云う推論である。
    つまり、「数多くの唖子の現出」が「天皇家の権威性」が低下させると認識していた事に成る。
    故に、”外からの脅威の「武力」”と、”内からの象徴を脅かす「純血性の弊害」”から逃れられ、且つ、これらに頼らないで「権威と象徴」を樹立する事にあり、この為にはこの”「ある条件」”を確立させる事に気が着いたのである。

    そこで、この”「ある条件(妾子を利用する事)」”を確立させるに必要とする事の為には、「国家成立」後初めての「政治の大改革」、つまり、「大化の改新と云う制度の創設」などに依る改革を決断したのである。
    何としても「激しい抵抗」を受けながらも断行し推し進めるしか無かったという事に成る。
    故に、先ずその為には、”先ず隗より始めよ”であって、”「妾」”を”隗”と見立てて制度として唐突にも「公」に取り入れたのである。
    これが先ずは”「ある条件の対策(妾子の環境造り)」”としたと読み取れる。

    これは勿論の事、「純血性(イ)」を緩和し、且つ、「豪族との繋がり(ロ)」をより一層強化する事に意味があった事は云うまでも無い。
    ところが当時の「貴族社会」としては、そもそも“「妾」を制度化して採り入れる事”のそもそもが極めて“「異端」”であった。
    確かに「青木氏族等」も「四六の掟」で、“「異端」”のところがはあるが、親元の「天智天皇」も元より「異端」を演じていたのである。
    これでは「四六の概念」を持った、或いは、「四六の概念」を持たされたとしても「非難される筋合い」は必然的に無く成る事と成る。

    それが、(イ)や(ロ)だけであるのならば、「后、妃、嬪」と「妾」の系譜や「三つの身分制度」から観ると、そもそも、何も、「后、妃、嬪」の階級だけでも済む筈であり、これは判るとしても、態々、“「妾」”を制度に明記する必要性は何も無くそもそも一見してこの制度としては「変」である。
    普通では、“「妾」を持った”としても補助的に「子孫を遺す目的の為」として「高位の者」が持つ事は「何処でもあり得る仕儀」で放置して置くものであり、それを態々制度して書き込んだとする事には、そこの“「異端」”には“「何らかの意図」”があった事を示すものであると観る。
    そもそも、その環境として、つまり「天皇家の基礎環境」としては、それ以前は「六四の掟」ではなく「七三の掟」位以上であった事が判る。
    然し、後勘として観ても、この何も対策を採らない侭の「純血性」であるとするならば「七三の掟」にしても「六四の掟」でも、どう考えても「血縁性の弊害」を防ぐにはこれでは無理である事は明々白々である事が判る。
    結果としては、その「権威と象徴」は低下してその行く末は目に見えている。
    だから、この上記の様な切羽詰まった「天皇家の中の基礎環境」があり、そもそも「制度」として「妾を制度化」し、その上で“「妾子を賜姓」”して、且つ、「臣籍降下族」としたと成るだろう。
    「妾子族」では無く、「后、妃、嬪」の「嗣氏族」ではこの周りには「姓族の傍系尊属」が付き纏いその「天皇の立場」を侵されるは必定である。
    そこで、この「遠隔の地方の土豪を外縁」とする事で心配は無く成り、その上で”「妾子族」”とする事にすれば、これ成らばある程度に納得できる。
    然し、それだけでは済まい事は明らかである。

    つまり、この為には「后、妃、嬪」の族から護る為には、”「周囲の策」”を固める必要がある事に成る。
    この経緯を先ず「お膳立て」をして、そこで生まれるその「施基皇子族」や「川島皇子族」の様に、その「経緯の最終」はこの“「妾子ルーツ」”に頼る事にする、或いは、頼らなければならない事にして行くその様に運んだと考えられる。
    然し、故に、この「二つの欠陥」をあまり持たない「四六の概念」を持つ”「妾子族」”であるがこそ「頼る事」としたと観られる。
    ”「周囲の策」”を凝らした上で頼る以上は、この「四六の概念」が「必須の条件」と成ったと云えるのである。
    これが「青木氏の歴史観」から観れば、”「大化の改新」の「大きな背景」”ともしたとも又云える。

    注釈として、現実に、そこに至るまでには”「周囲の策」”、即ち、多くの”「成すべき手立て」”が必要であった。
    そこで、先ずはそれまでは「真人族の皇子」は、「第六世族迄」であったがこれを先ず「四世族迄」とし、「真人族」は「第四位迄」として制限して、これから外れた四世族までの元皇子を王位に下げて遠隔の主要各地に遥任を認めない「守護王」(a)として配置し固め、そして「第六世族」以降は例え元は「嗣子族」であっても無冠の「ひら族・(坂東八平氏)・(たいら族では無い)」(b)として下げて「坂東の警護」に廻した。
    当然に”「遥任」”でない以上は土地に根ずき「末裔」を遺す以外に無く成ったのである。

    つまりは、これが「天皇家が恐れる姓化」であったが、「姓化に成る事」を事前に承知した上での「恣意的な配置」をした事を意味する。
    遠からず「嗣子族」が必然的に姓化に成るとするならば、「都付近の姓化」よりも、「遠隔地の姓化」と成る方が”より安全である”と判断した事に成る。
    そして、その代わりに「四世族内の第六位皇子の妾子族」には、「都の天皇の警護」と「都を囲む主要五天領地の遥任の守護王」として配置して固めたのである。
    例え、「遠隔地」に配置され、”「ひら族扱い」”に成った「第六世族以降の嗣氏族」から観れば、”何が妾子族ぞ”とする「蔑視の感覚」はあったであろうが、「妾子族」であっても「第六位皇子とする制度化」に依って抗う事が出来なく成った、或いはその様にしたのである。

    この状況は以降、「天皇」が変わる度に起こる事には成るが、その度に全ての「姓化に成る嗣子族」が都近くにいる事はそれだけで危険であり、これを避ける為には先ずは「遠隔地」に追いやり身を護る策を採った事に成ろう。
    普通ならば「嗣子族]だから「身の周り」に置いて固めるとする策と成ろうが、然し、この「常識的な一般策」を採らなかったのである。
    そこには歴史が教える”「嗣子族」”の”「外縁族の影響」”での”「姓化」”が必ず起こる事を学習した結果の対策であった。
    当然に、外縁族が都の周りに増え続ければ、その発言力は増し、天皇の立場を侵される事にも成るは必定で、そこで嗣子族を遠ざけた事に成る。
    これらから観ても、明らかに「四世族内で第六位皇子(妾を制度化する事で皇子に成る)」の”「妾子族」”で身を護り、且つ、それに必要とする第二弾の「順次改革」を進めたのである。
    これで、その後裔が広範に広がり「姓族化」に成り安い”「嗣子族」”で固めずに”「妾子族の身内」で固め頼った事はよく判るし妥当だと考えられるのである。

    そこで、「青木氏族」を客観的に観れば、この経緯から観ても避ける事の出来ない”「嗣子族の姓化」”で、次第にこれに対抗する「青木氏族等の妾子族に掛かる負担」は難しく大きく成った事は充分に予想できる。
    要するに、ここには「第六位皇子の妾子族」が持つ「四六の概念の有無の基準」が存在したという事に成る。
    この「四六の概念」を持たない「自然発生的な姓族化」は防ぎきれ無い定めに有っても、そこで、「四六の概念」を敷きながらも「賜姓五役」を務めるという事は至難の業であった事に成ろう。
    普通なら、”そんな「面倒な四六の概念」なんか捨てよ。「妾子族」であろう。”と成るだろう。
    然し、「青木氏族や佐々木氏族」は捨てなかった。
    つまりは、「姓化」はしなかったという事に成る。
    そこには、「大化の制度化」に依って、本来であれば”「妾子」”で終焉する筈であったが、「天皇の意」に顧みて「第六位皇子と云うプライド」がそれをさせ占めた事に成る。

    (注釈 然し、後には「aとb」は、姓族化した事で、矢張り、遂には「逆の事」と成り失敗に終わる。
    その「失敗の終焉」は、見事に「鎌倉幕府」の後ろ盾に成った「姓化した坂東八平氏の勃興」であった。
    即ち、「四六の概念」を捨てた「第六世王族の末裔の姓族化」であった。
    つまり、この姓化で結局はその「招いた事」は「蘇我氏の専横以上の事」と成ったのである。この姓化の結末は矢張り「世の定め」と捉えられた。
    所謂、「武に頼る嗣子系の姓族」と「四六の概念を済に求めた妾子族」とには、その「生き方の差異」は生まれていた。
    然し乍らその最終の経緯は、室町期終焉では”「姓の武」と「氏の済」の勝負”と成って行き「四六の概念」を敷く「氏の済」が勝利を得たのである。)

    (注釈 然し、さて、これだけの「改新の改革」を立て続けに実行する事は現在でも難しい。
    これを「取り巻く勢力(蘇我氏など姓族と姓化の姓族)」が黙っていない事は直ぐに判る。
    況や、「世の定め」として大きな「立場上の利害」は生まれる。
    それだけに「世の定め」とは云え「天皇の身辺」は元よりその膝元の「要害と成る都を護る事」は高まり、この”「妾子族」(氏上と氏人の族)”で護る必要性は高く成り、「主要五天領地の警護」も「妾子族の青木氏族」等に委ねたと成る根拠である。
    「姓族」では無く「妾子族」に任した発想は、「三相」を得て戦略的にはよく考えられているだろう。
    唯、「妾子族の四六の概念」に護られた「氏上と氏人」に依るこれの「防護態勢」には、「姓族化の進捗」が大きく影響する事と成り、そこに限界が生まれるは必然であろう。
    そこで、平安期中期前頃から室町期末期までにかけては、「妾子族」は「四六の概念の縛り」から、敢えて逆の手を使って「戦国で滅びた姓族」を集めて「経済的契約に依る防護体制」、即ち、「影の武力組織」の「シンジケート体制」を構築して、「氏上と氏人に依る防護体制」の「自らの補完策」を採った。
    当然に「藤原秀郷流青木氏の補完役」の上により強固にする事で対抗した。
    従って、「妾子族」の「自らの武」は「四六の概念」の上で絶対に執らなかった。
    つまり、「直接威力」では無く、”「抑止力」”であった。
    この意味で「四六の概念」=「抑止力」の関係が成立していた。
    「氏人の関係」は兎も角も「四六の概念」の中の「補完役の青木氏との関係」は「青木氏族全般」を形成する上で絶対的条件の中にあった。
    この「二つの抑止力」は”「姓族」”に執ってはこの上ない”恐怖”であった事は予想できる。
    況してや、この「二つの抑止力」の上に「上記の済」が伴うのである。
    済に依る持久力があり、且つ、何時、何処から攻め込まれるかもしれない”「お化けの様な影の力」”を持ったものに襲われるかも知れない「抑止力の勢力」にこれに適う「姓族」はいないだろう。
    そして、「天皇のお墨付き」を持つ「妾子族と云う権威」が着いている。
    逆らえば、例え姓化した「嗣子族」でも「逆賊の汚名」を着る事に成る。
    この「恐ろしい勢力」が「天皇を護る」とした場合は、当時としてはこれらは”考えられない発想”であったと考えられ、周囲は唖然とした事の様子が目に映る。
    これらの事の一切は、「妾子族の四六の概念の所以」と成り得るのである。)

    (注釈 「姓族」では無い「補完役」の「藤原秀郷流青木氏の補完役」を作っただけではその「抑止力の効果」はない。
    そこで、「天皇」、即ち、「朝廷」は、「秀郷流宗家」以上に「藤原秀郷流青木氏」を広く「24地域」に広げ、且つ、多く「116氏」にしてこの「抑止力」を高めた所以であると観ている。
    普通ならば、賜姓して補完役を命じたとしても、その秀郷流宗家以上に力を持たす事は無かった筈である。これが前段でも論じている「第二の宗家」と呼ばれた所以でもある。
    所謂、これが「永嶋氏」や「長沼氏」や、将又、広く「長谷川氏」や「進藤氏」を含む「青木氏族」である。
    ここまで「補完役」が広がれば「外縁族の北家藤原一門」を含むどの様な勢力であっても「妾子族」には手を出せないであろう。)

    (注釈 「佐々木氏族」が「補完役佐々木氏」とどの様な関係を構築していたかは良く判らない。
    唯、「近江宗家佐々木氏」が出している研究書から観ると、「宇多源氏佐々木氏の補完役」との関係が観えず、むしろ、「青木氏族」に関する「秀郷流青木氏族との関係の研究」が目立つ。
    これが歴史的にどの様な意味を持っているのかは研究は行き届いていない。
    不思議な疑問の一点である。
    これに付いては予想の域を脱しないが、各地に余りに姓族化して散在する「補完役との関係性」が良くなかったのではと考えられる。
    それはあまりの「補完役の姓化」で「近江宗家が持つ四六の概念の域」を超えていたからであろうか。
    それは、研究書によく出て来る「近江佐々木氏系青木氏」に表れている事であって、「四六の概念」を敷く「青木氏族」の「近江青木氏との連携」を執っていた事からも凡そは読み取れる。
    「補完役の宇多佐々木氏」よりも近くにある「近江青木氏との関係性」を重視したと云う事に成るだろう。
    それは、「近江宗家佐々木氏」と「近江青木氏」とには、固い”「共通する点」”があって、”「天智天皇の妾子族」で「同祖」として、同じ「四六の概念」を敷く一族と観ていた”と云う事に成るのではないか。)

    だが、この「妾子の賜姓」には、「天皇家の基礎環境」の中では、要するに「目的」が上記の二つ(イとロ)、言い換えれば「天皇家の保護」と、「純血性の維持」にあって、その“二つが上記の”「妾子の事の目的」”とも深く連動していた事”に成る。
    況や、これが発祥時から「青木氏族や佐々木氏族」の中には、この「連動目的」から逃れられない”「宿命があった(「四六の概念」)」”のではある。
    だが、そこで「天智天皇」は「大化の改新」で「青木氏族」と「佐々木氏族」を”「妾子族」”でありながらも、この”「宿命」”を持たす為にも、前段でも論じたが“「直系尊属(皇族の朝臣族)」”として発祥させた事の所以にも成るだろう。
    当時としては、本来であれば、”「系譜」にも抹消される立場”にもあった筈である。

    (注釈 「嵯峨天皇の詔勅」に依って「青木氏」に代わって賜姓を受ける様に成った「源氏」には賜姓を受けない源氏も実に多かった。
    歴史的な記録からに観て、全源氏22源氏と称される内のこの「賜姓有無の基準」は、「皇位に残れる事の差」、即ち、大枠で「嗣子と妾子との差」にあってその約半分に当たる。
    嵯峨期以降で、「嗣子族」を含み「妾子族」として遺れた族は「姓族」や「氏族]としても皆無である。
    正式に「源氏族」としては、「花山源氏までの11流」を最後にその”「正式な目的」”は終えている。
    「各地の源氏土豪」とする説は、この「正式な目的」から逸脱していて、到底、「源氏」とは云えず「江戸期の後付けの偏纂(黒印状)」であって、殆ど”「僧侶」”としてその族を遺さず一生を終焉している。
    その「食」に苦しみ「天台宗寺院、門跡院、善光寺、真言宗」の記録を観れば、その「源氏と成り得た人数」からも数は合わない。
    それは、前段でも論じたが「善光寺の内部の組織」を観れば一目瞭然である。)

    この「注釈の事」を配慮すると、外から観れば、同じ運命にあった「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族の妾子族」は、これはまさしく世に示す特別な”「妾子の権威付け」”であった事に成るだろう。
    つまり、「天皇家の基礎環境」には、「妾子を権威づける絶対的必要性」があったと云う事である。
    「嵯峨期以降の賜姓族」は、その「四六の概念」等を始めとする”「正式な目的」”は霧消している事である事から比較すると、その大化期の「妾子族の位置づけ」は比較に成らないものとして証明できる。
    その「決定的な所以」として位置付けた上で、その上で「四六の概念」等を敷く事を前提して”「賜姓五役」”を与え、”「皇位の准継承族」”と更に位置付けたものでもあろう。
    これで、後の「源氏族」の様に「無役」では無く、”「妾子族」”であってもこれで「絶対的存在価値」を世に示した事を意味する。
    ここから「大化期の妾子族」は、”世にその存在を認められる様に成った”のである。

    その最たる経緯が、「妾子族の青木氏族」は嫌ってはいたが、「孝謙天皇期の白羽の矢」”という事に成る。
    その意に反する「経緯の状況」は、同じ「青木氏族の嵯峨天皇」に依って「打ち止め」された。
    長く云えば、その経緯は「仁明天皇」迄と成ろう。
    「四六の概念の論」を結論付けてしまうが、「始祖と後裔」の”意に反していた”とする処から観れば、「青木氏族」に執っては一時は「嵯峨天皇」に苦しめられたが「子孫繁栄」では縛られることも無く却って良かったかも知れないとも考えられる。
    前段でも、論じたが「嵯峨天皇」の「隠された真意」はどこにあったかは今と成っては判らないが、「青木氏の歴史観」からすると後裔としてはここにあったのかも知れないと思いたい。


    (注釈 「妾子族」を系譜から外す慣習は武家社会に成っても長く存続する概念でもあった。
    因みに、「清和摂津源氏宗家の源の頼政」の孫、「仲綱の子の系譜」には、「伊勢青木氏の跡目」として入った「妾子の京綱」を一部で記載しない古書籍もあるくらいである。)

    (注釈 前段でも述べたが、”「妾子族」の「青木氏氏是」”は、この「権威付け」で「施基皇子の青木氏族」と「川島皇子の佐々木氏族」に限っては「妾子族」は世に強く認められる様には成ったが、「天皇家を護る族の範囲」を超える事無くこれを前提として、”頭に載って前に出過ぎるな”とする”「絶対的戒め」”である。
    「物語る事」はこの「氏是」に尽きると筆者は観る。
    唯、「佐々木氏族」にはこの「佐々木氏氏是」になるものがあったかは、「佐々木氏の宗家の研究書」を観る限りに於いて明確ではない。
    然し、研究書から読み取れる範囲では当初はあったとも採れる。
    唯、「補完役」として出自の「宇多源氏の佐々木氏」の出現で消えてしまったのではないかと考えられる。
    「近江佐々木氏の宗家末裔」の「剣豪佐々木小次郎の書」を観ると、衰退していた「近江家宗家の御家再興の行」から「氏是の様な行動規範」で動いていた事が読み取れる。
    この事から「青木氏族」と同じ境遇にあった事から、当初は、つまり、平安初期頃(中期頃か)迄は「宗家」だけには確定は出来ないが受け継がれていたのではないかと想像できる。
    何をか況や、「近江宗家の佐々木氏族」には、仮に「佐々木氏氏是」が細々と宗家だけに受け継がれてあったとすれば、江戸期頃までは「四六の概念」も受け継がれていたするパロメータにも成り得る。
    筆者は、「宇多源氏佐々木氏の姓(890年代頃)」が出自の段階で、単独の「総宗本家」だけは別としても、「佐々木氏族全体」として霧消したと観ている。
    少なくとも「青木氏族」も大きなダメージを受けた「嵯峨期の詔勅頃迄」はあった事は充分に頷け「四六の概念」の形を変えて江戸期直前まで維持していた事は前段でも論じ事である。
    その「佐々木氏氏是」、将又、「四六の概念」の存在の証拠は、「佐々木氏系青木氏の出現」にあると観る。
    そうでなければ、「四六の概念」の基となる「四掟による血縁」は起こり得ず、「佐々木氏系青木氏の出現」も成し得ないからである。
    つまりは、「佐々木氏氏是」、「四六の概念」、「四掟」も「佐々木氏系青木氏の出現」迄は存在していた事を意味するものであるからだ。)

    (注釈 そもそも、追記するが”「源氏の呼称」”の原点は、中国の「魏」の皇帝が他国を滅ぼし、その国の王を上記した儀式で家臣にした時に、その「祖」は同じとして、その者に「源」と名乗らせた。
    この「中国の経緯」から「天智天皇の妾子族の青木氏族」と同じとして「源」の氏名を「嵯峨天皇(志紀真人族・青木氏族)」は与えた事に依る。
    この「源の意味」を知った上で、その「生き方」は上記や下記に論じている様に違ったが、「青木氏族と源氏族の関係」を理解する必要がある。
    尚、「源の呼称」として、目的から観れは「花山源氏」、ルーツ的にみれば「仁明源氏」迄であろう。
    後は、その「目的とルーツ」から正確には”「源」”とは言い難い。「慣例に依る呼称」であろう。
    「青木氏の歴史観」から観れば、「青木氏族」と繋がる「源」が「源」なのである。
    故に、「嵯峨天皇の親元の青木氏族の象徴紋」の「笹竜胆の継承」と成った。
    つまり、「目的とルーツ」からは「仁明源氏」迄は正しい事に成り「笹竜胆紋」は納得できる。
    唯、「清和摂津源氏」の「宗家の四家」の「頼政との繋がり」を「青木氏族・伊勢と信濃」が持った事では、「目的とルーツ」では「源氏と笹竜胆紋」は納得できる。故に使ったのであろう。)


    さて、そこで「華国」の様に、“初めて執った「国家形式」”の、“初めての「妾子族」に対する「酒瓶に基づく家臣儀式」”だけでこの事が済むのであればいざ知らず、その侭では必然的に生まれてくる「家臣力(官僚族)の拡大」は防ぎきれ無い。
    そこで、「中国の華国」等の「滅亡に至る結果」を観る様に、これを「事前知識」として知っていた「天智天皇」はこれを避ける為にも、「大和」でも「家臣の蘇我氏等」に対抗できる“「直系尊属」を「天皇家の外に造り上げる事」”で対応したと観る。

    故に、その為に「絶対信頼できる身内」の「妾子族の皇子」に「一定の規則(四世族内第六位皇子)」を宛がい、その「皇子」に“「賜姓」”と云う手段を始めて使ったのであり、「家臣の豪族の朝臣族(高位の官僚族)」に、「皇族の朝臣族」を加えて創設し、「華国の習わし」を用いて“「酒瓶」”を交わし与え、権威付けの「象徴紋」を与え、「氏神木」を定めてその行事を神格化し、「賜姓五役」の「令外官の役目」までを与えると云う事までは行わなかった筈であると観ている。
    明らかに、これは正式で完全な「二つの目的(イとロ)の為の儀式」である。
    この“正式で完全な儀式(賜氏の儀式)を世に見せる事”で、「妾子族」であってもこれは明らかに蘇我氏等の様な「豪族に対抗し得るだけの権威のある力」を着けさせた事を世に示した事に外ならない。

    そこで、この上記の通りに、この様な「天皇家」の中にも、この様な“「下環境(基礎環境)」”があり、「異端(四六の概念の保持)」な「皇族賜姓臣下族」だけに文句をつける筋合いは、「天皇家」は元より“「周囲の官僚族」”にも無かった事に成る。
    この“「異端」”とも観られる「四六の概念」を敷く事には、そもそも“「異端」”どころか、「違和感」そのものが無かったと観られる。
    百々のつまり、この「青木氏族や佐々木氏族」の“「四六の概念」”は、「皇族賜姓臣下族」として「当然の事」として認められていた事にも成り得る。

    (注釈 これらの「賜姓時の儀式」に授与された「遺習物品」のものは「記録」を含めて「伊勢青木氏族」に現存保管されている。
    「近江宗家の佐々木氏の研究記録」に、この「遺習物品」に付いての記載がないので「佐々木氏族の近江宗家」に存在するかは確認が取れていない。)

    (注釈 そこで飛鳥期から始まり奈良期の当時は、そもそも、歴史的に“「賜姓」とはどのような位置づけに成っていたか”に成るのだが、その「日本書紀の記録」に最初に観られるものとしては、つまり、先ず“「賜姓」”に付いての「最初の歴史」に観られるものとしては、「垂仁天皇期」にあり、“敦く湯河板挙(ゆかわたな)に賞す。則ち、「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”とある。
    これは「中国の華国」に観られる様に「家臣(官僚族)」に成る儀式に対しての「姓の賜姓」によるものであって、且つ、「氏名の賜姓(皇族)」の最初は、同じ「日本書紀」にも見られる様に「天智天皇期」にあり、これら「家臣(官僚族)」に対する「姓名」と、「皇族から臣籍降下した皇子」に対する「氏名」を二つに分けて正式に制度化した事に成る。
    この意味は「青木氏族」や「佐々木氏族」に執って大きい。)

    「姓名(官僚族)」と「氏名(皇族系朝臣族)」との違いと、その「目的の違い」からすると、前者は当に「賜姓」で、後者は明らかに「賜氏」である筈である。
    然し、「日本書紀」では、「賜姓「の「二つの事例」で「賜姓の言語」を使っている。
    この事は、且つ、「天智天皇の意」を引き継いで上記で論じた様に「二つの目的」で制度化したのは、「八色姓制度等の政策」にある様に「天武天皇期」にある。
    つまりは、「姓族の賜姓(官僚族)」と、「氏族の賜姓(皇族朝臣族)」とは、「考え方」を別にしていた事に成る。
    これが後に、上記の“「周囲の官僚族」“として記した「朝廷内を構成する姓族」に対するものを、その「目的」はさて置き、兎に角はその違いを明確にしようとした「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」(下記に論じる)に繋がって行くのである。

    (注釈 然し、ここで考察として、その前に、記したいのは「垂仁天皇期」のそれを“「姓(かばね)」”としている以上は、「中国の華国」に見習って「家臣・官僚に対する制度」を前提としていて、「賜姓」は「酒瓶の儀式制度」と連動した制度あった。
    従って、当初は「家臣(官僚)」に対する「儀式の一環」で、少なくとも「氏名」とする「皇子」に対する「臣籍降下の賜姓」では無かった事に成る。
    「天皇の立場」から観れば、儀式化に依って、「姓」は、他人の「家臣又は官僚」、「氏」は、「身内の同族」と見極めていた事に成る。
    「他人の姓」は元より、この「身内の同族」にも、”二つに分けて観ていた”という事に成る。
    その「判断基準」が、「姓化の有無」、即ち、「四六の概念の有無」、将又、「嗣氏族と妾子族の差異」との三つにあったと観られる。
    この「天皇の三つの判断基準」からすると、残るは妾子族という事に成ったと云う事である。)

    そもそも、その「賜姓の目的」は異なる。
    上記した様に「本来の意味」、又は、その「目的」からすると「賜姓」では無く「賜氏」であるのだが、それを明確にしている証拠が「日本書紀の天武天皇の発言」(前段でも記したが改めて記す。)にある。
    後に、「ある種の問題」が出て、敢えて、ここでこの「官僚族に成る賜姓」、つまり、「姓族に成る賜姓」と、「皇族の臣籍降下の賜姓」とを明確に分けようとした、或いは、分けて違いを明確にしたものである。
    然し、判る範囲では、この「違い(「ある種の問題」)」から始まって、「三代の天皇」が正式に手掛け、遂には「新撰姓氏禄」たるものがまがり乍らも編纂されたと考えられる。

    筆者は、この計画は正式には「最初の淳仁天皇」の前の“「持統天皇期」”から既に企画されていたと観ている。
    「官僚族に成り得る姓族の賜姓」とは別にして、この新しい「皇族賜姓臣下族の賜姓」、つまり、「臣籍降下の賜姓」を始めた「天智天武の意向」を継承した「持統天皇期」にあると観ている。
    その「根拠」と成るのは、「日本書紀」にも記されている“「天武天皇の発言」”にある。
    それまでは、「朝廷内の高度な専門性の持った官僚族」は、殆どが「蕃別」に記された「後漢からの渡来人」であった。

    (注釈 改革を進める上で、「天武天皇」は「進む改革」に対してのその進捗状況を官僚から聞き、「家臣・官僚」に厳しく問いただしていて、その「問題点」を指摘され、その事に対する「命令」を下している行である。)

    つまり、前段でも何度も論じられた「阿多倍王」に率いられた「後漢の部の族」と云う族で、その専門域を「・・部」と云う呼称で括り、「極めて優秀な官僚族」で占められていた。
    “「大和の民の官僚族」が育っていない“と云うその事を憂いた「天武天皇」は、官僚の部下に”「大和の民」にも「優秀な民」を選んで早く「姓(官僚族)」にしなくてはならない”と命じている。
    「後漢の部の民」は、「高級官僚」としてその能力を発揮し、「朝廷の三務」、つまり、「大蔵、内蔵、斎蔵」の「部造(べのみやつこ)」として「賜姓を受けた姓名の持つ官僚族」が殆どを占めていた。
    最たるものは「伴氏]や「秦氏」や「物部氏」や「鞍作氏」等多くいる。

    (注釈 これが「新撰姓氏禄」の「蕃別」に所属する「姓族」の事であるが、「斎蔵」が「神別」に所属する「藤原氏等の姓族」の事である。)

    「後漢の渡来人」の「阿多倍王」の長男はこの「蕃別」に所属し、且つ、「賜姓族」でもある「征夷大将軍の坂上田村麻呂」もそうであるし、三男の「賜姓族」の「安倍氏に繋がる内務大臣・財政の内蔵氏」、次男の「賜姓族」の「九州域の後裔に繋がる全政務と財政の大蔵氏」は、最たる「渡来系の姓の官僚族」である。

    この「日本書紀」にある「天武天皇の命」より、「大和の民の官僚族」に成る為の「姓の賜姓(本来の姓族の賜姓)」を受けていたのである。 
    中国では「華国」のそれに見習い、「官僚」と成り得る「宦官制度」と云うものを敷いた。

    (注釈 中国のそれに見習い「官僚試験」に受かり「賜姓」を受け「官僚」に成る過程を経る。)

    この「天武天皇の命」を受けてから発祥した「大和の姓族」に対して「持統天皇」は、「華国の失敗」を招かない様に、その多く成り「勢力」を持ち始めた「官僚族の姓族」を整理していたのである。
    この証拠は、「新撰姓氏禄」に記されている「蕃別族 404」と「神別族 326」と云われる間違いなく「姓族の官僚族」のその多さがそれを示している。

    (注釈 「数値の信頼度」は別として、但し、分けて問題のある「皇別の姓族の多さ 335」は下記で論じる。)

    故に、「垂仁天皇期」には、未だ「四六の概念」を敷く「氏名の賜姓の概念」はそもそも無かった事を示す。

    故に、この「四六の概念」のそのものが、当時では”「氏族を表す象徴」”と成っていたのである。
    況や、同じ「朝臣族」でも「四六の概念を持つ氏族」と、「持たない姓族」との「大きな違い」と成っていた。
    従って、「四六の概念」を論じる上では、これを編纂した「新撰姓氏禄」と「氏姓制度」とは避けて通れない「青木氏族の歴史観」としては論点と成るのである。

    (注釈 更に進めてそもそも、そこで「日本書紀」にある“「鳥取造」”とは、「鳥取の守護王(遥任)」の代わりに「鳥取」の国に赴任する「国司」の事であり、“「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”のこれを「姓の賜姓の原型」とする「後期の研究論説」には少し無理があると考える。
    それは先ず「姓」に「官僚の役職」の「造(みやつこ)」を着けるのは当時の「官僚の慣習、又は掟」からしておかしい。
    況して、一般の会話の中で使うのは吝かではないが、官僚が作る「日本書紀」と云う正式な公的な書物の中では疑問である。
    先ずあり得ない事である。単に「姓」なら“「鳥取」”で良い筈である。)

    (注釈 筆者は、次ぎの様に「守護王の施基皇子」の「伊勢の国司代」であった「伊勢造三宅連岩床」と同じ様に、“「鳥取造」”は、「赴任先の役職名」であり、依って「朝廷」が出す「赴任命令」であって、本来の正式なものであるのなら「三宅連」の様に「鳥取造・・・・」とし、冠位の後ろの「姓」の後に「連」か「宿禰」等の「八色の制等の官職位」を着けて「名」を入れる事に成ると観る。
    依って、単なる「赴任命令」であったと考えている。
    従って、“「姓」を賜いて“の文言は、「姓名」の「賜姓」を受けた上での”鳥取の国司に任じられた“とする表現であろう。
    この研究論文では、例え、「垂仁天皇期」であっても既に完成していた「中国の冠位制度」に習い「賜姓」には、必ず「冠位」が伴う事の知識が欠落している。)

    (注釈 少なくとも当時には、「家臣」、つまり、「姓の官僚(家臣)」に対しての「厳格な朝廷の掟」であったとするならば、上記の「慣例」に依って「鳥取の国司並み」に成るには、「賜姓を授かった事」と同じ結果を意味するのであるから、その「姓」は「湯河(ゆかわ)」であって、その「名」は「板挙(たな)」とすれば上記の例に観る様に、唯、「八色等の冠位」は無いが「伊勢造三宅連岩床」と同じ事に成る。
    つまり、「鳥取造湯河・板挙」と成り得る。)

    (注釈 何故ならば、国司、又は国司代に成るには、そもそも、既に、先に「姓」を持っていた位にいて、「連」か「宿禰」等程度の冠位を獲得していなければ、且つ、無冠であっては、成れない掟の朝廷の「官僚の役職」であった。
    つまりは、「姓」を持たない「官僚の者」には”「造」”は無いという事である。
    そもそも、「官僚」である限りは「姓」が無いという事は無い。
    先ずは先に「姓」なのである。中国の「華国の家臣に対する儀式」も同じである。)

    (注釈 「聖徳太子」の「冠位十二階制度」、「七色十三階冠制度」、「八色の姓制度」等の施行は「聖徳太子前の政権」や「王朝や朝廷」から引き継がれてきたものを纏めて「律令の下」で正式により確実に制度化したもので、これらの元は急に出来たものでは無い。
    「垂仁天皇期の記録」にも「・・宿禰等の冠位」が散見できるが「造」は上記の冠位では無くその「官僚族の下位の階級」を示す。
    そして、その「造等の役務」とは別に、「冠位」としての始まりは「聖徳太子期」にあり、これに「律令」を加えて完全に正式化したのは「天智天武期」にある。
    その中で「それまでになかった概念」の「特別な意味(「賜姓五役)・「四六の掟」・「四掟」)を持つ「臣籍降下の賜姓族」の発祥であった。)

    以上の「注釈」に依って“「賜姓と云う前提」”と“「新撰姓氏禄」”の「予備知識」を持った上で、更には論じる。
    そうでなくては「下記の論の意味合い」の理解に差異が生まれるだろう。

    さて、これならば「天皇家」自らが「権威と象徴」を保つ為に「武力や純血性」を充分に保持しなくても、“「臣籍降下の賜姓族」がこれを裏打ちしてくれる”と云う手段(安心の“保障手段”)を用いた事に成るだろう。

    逆に言えば、「中国の華国」より始まった「家臣に成る姓の賜姓の儀式制度」には、「中国の史実(50年経緯)」の事を学んではいたが、ところが「大和」ではその「高位の家臣(官僚族」」に対しては中国に比べてそれ程に「信頼」を持っていなかった事にも成る。
    故に、「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して信頼のおける「家臣(官僚)の儀式制度の確立」を特別に図った事にも成る。
    これが「天皇家の権威と象徴」を裏付ける「純血性の保持」にも繋がるものと成ったが、それを「天皇家」の”「六四の掟」”より下げて「臣籍降下の賜姓族」として”「四六の掟”」とした事は、裏を返せば、ある程度の「純血性の保持」を、或いは、引き継がせていた事にも成る。
    そして、天皇家自らが「賜姓する事」だけでは無く、「権威性を保させる事」の為にも近い「純血性の掟(四六の概念)」を「引き継がせる強い意志」を持っていた事にも成る。

    だから、この結果として「青木氏族や佐々木氏族」が引き継いでいたのであるから、「権威と象徴」を保てる「天皇家の純血性」は、「孝謙天皇期」の「直前」までは何とか「六四の掟」以上のその程度には保てていた事にも成る。
    唯単に、「現在の定説」、即ち、これは“「皇位継承者」が「直系尊属内」に居なかったという事”では済まされない事態に成っていた事なのである。
    「純血性の保持」の「自体」が、形式上は「傍系尊属の外孫王」の中にあったとしても「天皇家」の中には、最早、出来ていなかった事に成る。

    注釈として、重ねて云うと、「孝謙天皇期」には、「中国の歴史」の例に漏れず「外孫王の背景」、即ち、「傍系尊属(家臣)」、或いは、「傍系卑属(家臣)」、将又、「姓族」が、「天皇家」より力を持ち過ぎた結果の所以でもある。
    「孝謙天皇期」では、最早、それを続ける事が出来なく成った事をも意味する。

    結局は、「中国の歴史の経緯」とは違い、既に「四六の概念」を敷く「四世族」を遥かに離れ「直系尊属」では無く成っているにも関わらず、依然として「過去の経緯」から頑なに「四六の概念」を敷いている「青木氏族」に「白羽の矢」が立てられた所以とも成る。
    それと共に、その「特別な意味」を持つ「臣籍降下の賜姓」の「キー」は「四六の概念」とも成ったのである。
    然る事乍ら、それよりも、「四六の概念」を敷く「妾子族」のそれに裏打ちされた“「絶対信頼」”にあった事を意味する。

    「青木氏族からの歴史観」として観れば、この様に考える事が出来る。

    然し乍ら「白羽の矢」の当たる「青木氏族等」に執ってみれば、それは単に、“「賜姓」と云う事”だけでは済まない事なのである。
    つまり、そこで授かった「賜姓」に何かを持たせる事に成らないと“「裏打ちの手段」”とは成らないからだ。
    その事が「青木氏族や佐々木氏族」にそっくり任されていた事に成る。
    この「何かを持たせる事」の如何に依っては「妾子族の行く末」が決まる事にも成り得る。

    (注釈 況や、「佐々木氏族」にはこの”「何かを持たせる事」”の如何に狂いが生まれたと観られる。)

    もし、仮に唯単に、その「出自」が「直系尊属」と云う事だけであれば、「嵯峨期の詔勅」に見られる様に「源氏族」の様に「賜姓」だけで済む筈である。
    これが無い「源氏族」と「その経緯」がそれを証明している。
    上記した様に、「妾子族」に与えられた”「権威付け」”などに代表される「天智天皇や天武天皇等の行動」があったからこそ与えられる「象徴紋」等であって、全くこれが無い「源氏族」に「象徴紋」等の「権威付け」を与えられる訳けが無い。
    所謂、「冠位役職」=「権威付け」=「象徴紋」であって、「詔勅の文章」を観ても判る様に「権威付けの行」は全くない。
    何時の世も「権威」の無いものに「権威を象徴する象徴紋」等は論理的にあり得ないし、そんな政治は自らが「権威」を否定している事に成り出来ないだろう。行く末は判る。

    故に、「令外官の様な役職」は元より「象徴紋」も与えられなかった「源氏族」は、結局は、他の「慣習仕来り掟」は別としても「嵯峨期の詔勅と慣習の禁令」に依って「青木氏の象徴紋(笹竜胆紋)」だけを上記した「源の呼称由来」の言葉通りに理由づけて用いた事に過ぎない事が判る。
    ところで、そもそも、「理由付け」したこの「用い方」に問題があったと筆者は観る。

    先ず、この「青木氏族」の様に「源氏族」にはこれらの「権威付け・習わし」が、“「天皇」に依って与えられた“とする記録はどこにも無いのである。
    むしろ、上記した様に「嵯峨期の詔勅とその慣習の禁令」の中の文章がそもそもそれを証明している。
    つまり、「妾子族の権威性」を高める為に“「青木氏族の慣習仕来り掟」を何人も真似てはならない”とする「禁令」が記載されている。
    “何人も”とある以上は、当然、「賜姓」を授かった「源氏族」であっても例外ではない。

    注釈としてこの事は何度も論じている事ではあるが、唯、論理的には、「志紀真人族の青木氏族」の血筋を引き継ぐ「嵯峨源氏」だけには「慣習仕来り掟」の中でも「笹竜胆の象徴紋」だけは最低では使用は認められるだろう。
    然し、その「嵯峨天皇の自らの詔勅」がこれを否定している事には間尺が合わない。
    少なくとも「目的と血筋」として観ても、「仁明源氏」までと成ろう。
    後の源氏は「目的と血筋」からもそもそも論理性が無い。

    同じく「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている「近江佐々木氏」は勿論の事、嵯峨期以前の「賜姓の妾子族」であった「伊勢青木氏、近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」は当然に「嵯峨期の前の賜姓の妾子族」である以上は、「象徴紋の笹竜胆紋」を使えるし、その間も使ってはいるが、「佐々木氏の補完役の宇多源氏等」は「嵯峨期の詔勅」以降の源氏であり、且つ、「目的性や血筋性」からも論理的には使えない事は明白と成る。
    これは筆者から観れば、これは明らかに”こじつけ”以外の何物でもない。

    この「注釈」として、「笹竜胆紋」はある説では「源氏の家紋」としている説もあるが、仮に「源氏の家紋」とするならば、それ以前の発祥の「伊勢青木氏」を始めとする「近江佐々木氏、近江青木氏、伊勢青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊勢と信濃の融合の末裔の伊豆青木氏」が「源氏族」でないので「無紋族の賜姓の妾子族」であった事に成り得て、「笹竜胆紋」では無い事に成る。
    又、「源氏族発祥の以前」は、これらの「天智天武期の賜姓族の妾子族」には、上記した様な「確実な形の賜姓」が有り乍ら「象徴紋」が無かった事に成り得て矛盾であり、「日本書紀の記述」等を否定する事に成る。
    そんな事はあり得ず、「青木氏族や佐々木氏族の存在」そのものが否定される事に成る。
    「嵯峨期以前の歴史の氏族 妾子族」から観ても、「日本書紀」もその後の「累代三代格等の書籍」にも記述があり、「青木氏族」が持つ記録や遺賜品などにも証明するものが有って、現実に使って来ているのであるのだから、これらから観ても、「笹竜胆紋の使用」は「源氏族のこじつけの使用」と成り、「歴史の識見の高い多くの歴史家」も筆者と同じこの説も取っているのだ。

    まあ、無理に論理性を持たせば、「象徴紋と家紋の差」とも云えない事も無いが、「嵯峨源氏と仁明源氏」が使っていたので、”我々も使ってもよいとする発想であった”のであろう。
    「家紋」であれば「姓族」である事に成る故に、「新撰姓氏禄」では「源氏」は「姓族」に分類されている事からもそれなりの妥当性は出るだろう。
    となると、「同紋使用」は「禁じ手」であった当時の慣習からは逸脱しているし、「嵯峨期の禁令」にも触れる行為と成る。

    だから、「目的とルーツ」から「嵯峨源氏と仁明源氏」までとする説とし、後は「摂津源氏」を除いたとして「成り行きのこじつけ説」に成るのだ。
    唯、注釈として上記で論じた「清和摂津源氏の四家」が使用しているのは、「伊勢青木氏」を始めとして「近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」と血縁を結んでいる事から「象徴紋」にしろ「家紋」にしろ「笹竜胆紋」は使えるし、場合に依っては禁令の「慣習仕来り掟」も使えるとする論理は成立つ。
    「摂津源氏宗家」が「四家制度」を採用していた事は判っているが、「准皇位継承権」などの「権威付けの四六の概念の採用」は無い。
    然し、「分家の河内の清和源氏」は少なくとも「源氏族のこじつけの使用」の範囲であろう。
    何にしても、「嵯峨天皇以降の源氏の笹竜胆紋」の使用以前には、「五家五流の青木氏の象徴紋」として、且つ、「賜紋」として「笹竜胆紋」は使っていた証拠があり、将又、「青木氏の平安初期の古記録」や「賜物の遺習物の刻印紋」にも観られ、「日本書紀」にも記載がある以上は「源氏族のこじつけの使用」と成り得るのだ。

    そもそも、何をか云わんとするは、”「四六の概念」を敷くか”は、この「象徴紋の使用の前提」とも成っている事なのである。
    「象徴紋」などは”「四六の概念」”がその「数少ない氏族」に無ければ使えないとする前提であって、「嵯峨天皇の禁令の前提」と成っているのである。
    依って、”「四六の概念」”の敷かない「源氏族」はどんな理由があろうが原則使えないのである。

    「賜姓族」、将又、「妾子族」の前提は、この”「四六の概念」”の中にあって、始めてそれに依ってその「権威」が保てるのであって、その「保てる事」を証明するものが「象徴紋」なのである。
    「源氏族」が、この”「四六の概念」”を敷いていたのであればいざ知らず、敷いていなかった限りは「象徴紋」はあり得ない事に成る。
    これが「象徴紋」の「笹竜胆紋の前提」であるのだ。

    尚更に、「源氏族」には、正式には「花山天皇」までの「11家11流」まであるが、然し、これらの「11家」の「賜姓時」の度に「象徴紋の笹竜胆紋」を与えたとする記録は何処にも一度も無く全くない。
    当然に、「四六の概念の記述」も全く無い。
    従って、せめて、「嵯峨源氏と仁明源氏」は記述は無いとしても、その「流れ」からは考えられし、「血縁」と四家の「四六の概念」に近い「慣習仕来り掟」を持ち得ていたので、この結果から「摂津源氏」もあり得るだろう。
    そもそも、これは「権威のある氏族の妾子族の象徴紋」であり、「姓化した源氏族」には論理的にあり得えず、上記の”こじつけ”の説と成る。

    まあ、百歩譲って、”「四六の概念」”の無い「姓化した族」であるから、「笹竜胆紋」を「象徴紋」では無く「家紋」として観れば、我慢は出来る。


    そこで、「四六の概念」の理解上もう一つ解き明かさなければならない疑問なのは、この「禁令」には、“「青木氏族と佐々木氏族」“とは書かれていず、”「青木氏」”だけである。

    この事は「佐々木氏の研究書」にも明確に記述されている。
    上記の「象徴紋の条件」の行に合致し、且つ、「四六の概念」を敷いていた「近江宗家の佐々木氏」の記載があっても不思議ではない。
    これは”何故なのか”はよく判らないが、兎も角も、当然に、「青木氏族と佐々木氏族」が敷く「四六の概念」がこの「慣習仕来り掟」の中に含まれている。

    つまり、恐らくは上記した様に、“「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して強引に「信頼のおける朝臣族」を「妾子族」で創設した事は上記した。
    この基と成った「臣籍降下の賜姓の儀式制度の確立」を図った事”に従い、そこで態々この「儀式の差 (イ)」を付け、更に「禁令の差 (ロ)」で縛った。
    この「二つ(イ)と(ロ)」に護られた「青木氏の慣習仕来り掟の前提」は、”「姓制」の持たないこの「四六の概念」”、つまり、「青木氏の慣習仕来り掟」に影響する事が前提とも成っていたと観る。
    この事から考えて、敢えて(イ)と(ロ)を持つ「四六の概念」を敷く「佐々木氏族」を記載する事にしなかった事に由来すると観える。
    この(イ)と(ロ)が、”「佐々木氏族」そのものを保証する”と観ていたと成るだろう。
    唯、”「佐々木氏族」も記載してはいいではないか”と考える事も出来る。
    然し、この「記載有無の差」が、”「志紀真人族の青木氏族の嵯峨天皇」であった”と成るだろう。

    「嵯峨期の禁令」が、”「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族」を「権威づける目的」であった事”は云うまでも無いが、(イ)と(ロ)から観て、「四六の概念」を他の「氏族や姓族」に敷かせない目的があった事も強く考えられる。
    何故ならば、この「四六の概念」が「他の氏族」に広まる事は、それだけに”権威性が低下する”と云う懸念も持ち得ていたとも考えられる。
    「孝謙天皇期の外孫族」に観られるように、”恣意的に権威性を獲得しよう”とする「氏族の勢力」が表れていた事も充分にあり得る。
    現に、「嵯峨天皇の嵯峨源氏」でさえも(イ)と(ロ)の適用を受けていない位なのであるから、この事の配慮は充分にあっただろう。
    これは、「禁令」では無く「嵯峨期の詔勅」のそのものの文面でも判る。


    これには後勘から観ると、唯、気になる事がもう一つあって、「天智期から嵯峨期」までに、それは「近江佐々木氏族の宗家族」は別にして、「傍系尊属」には「佐々木氏族の一門」より「姓族」を多く出した事に関わっていたと考えられる。
    嵯峨期の前後には既にその様な「姓化の兆候」が「近江佐々木氏」にあったのではないかとも考えられる。

    「青木氏族」の様に、「絶対に姓制を敷かなかった氏族」では無く、「傍系族」とは言え「姓制」を持った「近江佐々木氏族」には“「絶対信頼」を置けなかった事”に成るであろう。
    つまり、「近江佐々木氏」は「四六の概念」を敷くが、その「四六の概念の信頼度」を疑問視した事を示している。
    「近江佐々木氏宗家」の「四六の概念の統制」が「青木氏族」ほどに十分では無かった事も考えられるし、況して、「青木氏族の後裔の嵯峨天皇」である。
    その点では、当然の事として「記載の事」に付いては厳しく考えていたのであろう。
    「青木氏族」は「四六の概念」を始めとして、「四家制度」、「妻嫁制度」、「四掟」、「青木氏氏是」等で「姓族」を出さない様にしていたが、取り分け、その「証拠の前提」と成る”「青木氏氏是」”は、その「青木氏族の勢力」を表に出す事を禁じた掟であって、「嵯峨天皇」はこの「青木氏氏是」を始めとした制度を身を以って体現していた人物でもあり、ここに”「信頼」”の基点を置いていた事にも成るだろう。

    この様に「佐々木氏族」に対する「見方」とその「信頼度」に付いては間違いなく違っていた筈である。
    故に、「詔勅の禁令」までには「佐々木族」を書き込まなかった所以であろう。


    さて、そこで次に気になるのは、「光仁天皇の孫」に当たる「青木氏族の嵯峨天皇」が、上記の「詔勅と禁令」と共に、「氏族志」を見本編にした「新撰姓氏禄(妙記)」で周囲の反対を押し切って編纂してこれを態々慌てて書いて公にしたと云う事である。
    これは、少なくともこの時期までは「青木氏族」の中には、この”「経緯」と「歴史観(概念)」”が強く伝えられていた事にも成る。
    所謂、この“「四六の概念」”が「青木氏族や佐々木氏族」にある事を知った上での事であったと考えられる。

    前段に戻ってみて別の面からの「経緯」としては、そこで、妥協して「外縁族(傍系卑属)」を入れる事無く、「四六の概念」に切り替えて最大限に保っていた「青木氏族」に上記の「詔勅の禁令」に至るまでの”「歴史的経緯」”を「青木氏族」の中に持っている事を「孝謙天皇」が知っていて、”「白羽の矢」”がこの「経緯」に従って当てられたと云う事に成るとも考えられる。


    さて、然し、そこで”「孝謙天皇の白羽の矢」”が立ったとしても”「四六の概念」”であってもこれの保持を前提とする以上は、無暗に条件を緩める事無く「公家族」と「武家族」、或は、「真人族」(最大48)と「朝臣族」(最大101 30%)からの「数少ない氏族の血筋」から必然的に求めなくてはなら無く成る。
    変化の起こる歴史の長い期間の中でこの事が永久に成し得ない事は直ぐに解る。

    例えば、注釈として、鎌倉期の末期から戦国時代と下克上の時代に掛けて次第に上記した様に「純粋な賜姓」を受けた「48もの氏族(真人族の15%)」が、「身分や権威」だけに頼っていた結果、「自己を防御する戦力(武力)」を保持し得ない侭で完全に近い形で淘汰されて行った。
    之は儘ならない「生存競争の中」では当然と云えば当然である。
    「四六の概念」としてはこの侭では成し得ない。

    例えば、「逸記」の多い「新撰姓氏禄」の中だけに従えば、「101の関係氏族」では記録では「20程度」に成ったとされていて、「純粋な48の氏族」は筆者の調査では厳密に「慣習仕来り掟」を護っていたとされるのは「5氏」だけに成るのではないかと推測される。
    これでは到底、「四六の概念の維持」は無理であった筈である。

    注釈として、念の為に、その前に、「嵯峨天皇の編纂」と云われるこの「新撰姓氏禄」の研究書は多くあるが、そもそも「目録」だけに編集された「抄記」であって、且つ、「逸記」であるが故に、そもそも「嵯峨天皇」自らの出自の「春日真人族の四世族後裔」の「施基真人族」や「川島真人族」の直系の後裔「青木氏族や佐々木氏族」は、矢張り「逸記」されて書き込まれていない。
    そもそも、これは次の事から来るのかも知れない。

    「光仁天皇と春日宮天皇」に成った事で恣意的に「逸記」したのかは分からない事。(A)
    「5割の抄記」と云われる事から逸脱したかも判らない事。(B)
    「本文」の無い「抄記」「逸記」である事。(C)

    以上の事から止むを得ない事も考えられる。

    然し、「研究書」に依っては「日本書紀」にも記されているこの「敏達天皇」の「春日真人族の後裔」として「志紀真人族」や「川島真人族」が書き込まれた研究書もある。
    唯、脱落している書もあるのは、何故に「逸記」し「脱落」したかは筆者の研究が未だ行き届いていない。
    恐らくは、筆者はこれは「研究書のレベル」によると観ている。

    筆者は、(A)の説を採っているが、その理由は、現在では、「追尊の春日宮天皇(施基皇子)」と、その四男の「光仁天皇の出自元」とした以上は、編纂に当たって「嵯峨天皇」自らがそれまで「志紀真人族」で「臣籍降下の朝臣族」から「元の真人族」に戻したとする説(A)を採っている。
    そうでなければ、「臣籍降下の朝臣族」から「天皇」が出ると云う事はいくら「四六の概念」等を持った「氏族」とは云え、一度外に出た「氏族」である以上は論理的にあり得ない事に成るからである。

    その「根拠と裏付け」は、「始祖の施基皇子」は「皇太子」を遥かに跳び超えて「天皇」に継ぐ「永代浄大一位」にあったからと考えられる。
    そうなると、「永代浄高二位」で「四六の概念」を持つ「臣籍降下の賜姓」を授かった「近江佐々木氏の始祖の川島真人族」(宗家族・直系尊属)をもその侭にして置く事は論理的に無理が出る。
    依って、「歴史研究者」では無く、「嵯峨天皇」が見本にした「中国の氏族志」に拘わらず恣意的に敢えて「逸記の命」を下したと観ている。

    (注釈 この「新撰姓氏禄」は815年に「編纂」は取り合えず終了したが、「公表」はその前から編纂者の中に「反対」が多く、遅れて815年に成ったとされ、最初の「嵯峨源氏族」の詔勅は814年であるとすると、「源氏の詔勅」を出したからと云って直ぐには行かない。
    当然に「源氏族(皇子23 皇女17)」が出るまでには時間がかかりこの偏纂には間に合っていない筈である。然し、記載されている。
    況して、「近畿圏」としながらも、この多くの「嵯峨源氏」は地方に飛散し、その中でも「皇親族」として左大臣として勢力を張った「源融の末裔」でさえ、中国地方の日本海側の米子の東付近に「土豪」として末裔が潜んで生き延びていた。
    然し、後に「清和源氏源満仲」が「武力集団」を形成する際にこの「嵯峨源氏の末裔の土豪」を呼び寄せ摂津に住まわせた。
    この事で摂津域に「嵯峨源氏の末裔」が多くの「姓」を拡げた。
    この事は記録からも知られていて、これに付いても「逸記」である。
    従って、そもそも、「朝臣族」の中に「源氏族」が記されている事の事態が、そもそも大いなる疑問なのである。
    他にも数多くこの815年代以降の「姓族」が記されていて、これは明らかに後勘での「逸記」(追記)に他ならない。)

    (注釈 更には「清和河内源氏の末裔」の「姓」の「室町期の姓」も多く含んでいる。
    これが「後付け」の何よりの証拠である。)

    著書を出した数人の研究者も「本文」がない事に依る“「江戸期初期の後付け」”と観ている。
    つまり、「江戸幕府の権威付け」の「政策の一環」として大名を始めとして「武士」である事を確定する為の「黒印状」を獲得する為に、課せられた条件をクリヤーする必要に迫られた。
    この為に、その「ルーツ」を搾取し「不確定な過去の資料」に多くは偏纂を加えた。
    この槍玉にあげられたのが、「本文」の無い「不確定な抄記と逸記」を持つこの「新撰姓氏禄」が「格好の的」と成ったのであったとされる。
    所謂、これが「後付け説」である。

    これを「片識の研究者」が前提として著書とした事が、「新撰姓氏禄」と思われてしまっている事の所以であろう。
    筆者もこの意見に賛成であって、嵯峨期の当時の本記の編者の反対は、下記した様な「不確定な理由」で「逸記の多い事」へのここにあったと観ている。)

    「新撰姓氏禄」には「抄記」で「逸記」で有り乍らも上記の様に、「青木氏の歴史観」を説明する事に関わる事が多くあり、この「予備知識」を前提に更に論を展開する。

    さてそうすると、この「新撰姓氏禄」に、「敏達天皇の一族春日真人族の四世族」としては位置づけされてはいるが、別に、天皇家に継ぐ「四六の概念」を保持していた「志紀真人族」として記載を避けたとしても、「志紀真人族」であるとする以上は否が応でもこれでは「青木氏族や佐々木氏族」が採っていた”「四六の概念」”にも、絶対に「四」をその侭にしても論理的には「六の入り」を変えざるを得ない事が判る。

    それにしても、”「六の入り」を変える”と云っても、当然にそれに依って”「四が薄くなる現象」”が必然的に起こる。
    つまり、これに依って「青木氏族や佐々木氏族」としての「存在価値」は、必然的に低下する事に成る。
    何時かは、結果として“「姓族化する」“に相違ない。
    そこで、より長く「姓」を持たない「氏族」を保つ為にも「四」を何とかその侭にして「六の入り」を変えるには、“「入れ方如何」”を変える以外には無いと判断したと成る。

    つまり、これが「青木氏族」の執った「四家制度」等での“「女系族の入れ方」”に成る。
    但し、これにも前段でも論じたが、無限にこの方法が一定に出来た訳ではない事は判る。
    「大化の改新」の様に「上記の改革」を推し進めたとしても、矢張り、何時かはその効果は低下するは必定で、これは止むを得ない事ではある。
    然し、「孝謙天皇期」に観られる様に、”「天皇家の権威の前提」と「純血性」”に拘る以上は、同じ様に矢張りそこには”「限界」”が起こり「時代性」に依って“「変化」”が起こっていた事は明らかである。

    (注釈 「中国の歴史」に観る様に、中国もこの”「変化」”に対して「貞観氏族志」に依って見える様に何とかしょうとして頓挫した。
    この「頓挫の氏族志」を編じたのを学習しての同じく「頓挫の歴史を持つ新撰姓氏禄」である。
    依って、態々、“「新撰」”としたのであって、「青木氏族」等の「四」に拘った「四六の概念」であったとしても「純血性の維持」の結末は、どんなにしてもある「一定の時代経過」に左右されてこの”「限界」”が起こる事を知っていた事にも成る。)

    (注釈 この「二つの書」の「頓挫の原因」は、況してや「氏族」だけでは無く、主に多く成った「姓族だけの禄記」であった。)

    (注釈 その「頓挫の無理の原因」のそれが顕著に出てきたのが、「孝謙天皇期」であって、その”「トバッチリ」”が「自分の出自元」に出た「逃れ得難い因縁」があり、余計に無理にしても「編纂」を試みた事も考えられる一つである。
    然し、何れにしても何時の世もこの種のものは“「利害」”が多く「反対」に見舞われる。
    前段でも論じたが、正式には「淳仁天皇期」から始めたものとされているが、実際は歴史的には以前にもテーブル上には出て何度も「反対」に合い結局は挫折し、この「新撰姓氏禄」も例外では無く何とか編じる迄には至った。
    それだけに「利害に伴う編者の思惑」が出て「酷い逸記」に成り得たと観える。)

    (注釈 筆者は、そもそも、正式な「酒瓶と賜姓の儀式」を受けていない「335の姓族(正しいとして)」を”系統的に網羅する事の事態”がおかしいと観ていて、正式な「賜姓族の氏族」が全体の「15%の48氏」しかない中で、自由に「姓」を名乗っていたものを寄せ集めて編じる事は当然に必然に“「利害の温床」”と成り得ると観る。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅」で、これに従って「自由」であるが故に「自由な姓名」には「制限」が編纂と同時に掛けられたのである。
    「青木氏族や佐々木氏族」などの「賜姓族氏族の慣習仕来り掟に関わる名詞」、勿論に「氏族に似せたもの」等を「姓名」にしては成らないとする歯止めをかけた。
    然し、結局は、彼らは「地名」かのである、或いは、「由緒ある土地の特徴」以外を「姓名」にする以外には無く成ったのである。
    この「慣習仕来り掟の禁令」は三幕府の保護もあって明治3年まで原則護られた。)

    注釈の「新撰姓氏禄」の偏った編纂による”「利害の温床」”の発生に付いては、載せられた「姓の者」には「利」が生まれ、載せられなかった「姓の者」には「利」が著しく損なわれるのは当然の事である。
    況してや、「近畿圏内に限られての事」とした場合、大半の圏外の「有力な姓族」は公的に認められなかった事として「利」が著しく損れる事と成る。
    ところが、例え圏外と云えども、都より赴任している「姓族」、のみならず「賜姓族」や「四世族の真人族」の「守護王の後裔」や果ては官僚の高官の「国司の後裔」も近畿圏よりも多くむしろ多く存在する。
    これらの者には「冠位を持つ上位の者」が多く、且つ、数も近畿圏のそれに比較には成らない。
    そもそも、「地域限定」そのもので編纂する事は当初より無理である事は明々白々である。
    当然に「反対者」も出るは必定である。
    中には、都より赴任していた九州全域を統治していた「賜姓族」で「高位の冠位」を持つ「日本書紀」にも記載される「四世族の大隅王の三代の末裔」等はどうなるのかと云う大問題も生まれる。
    例えば、北九州全域にその後裔を拡げ赴任していた「朝廷官僚族五大氏の伴氏」や「南九州域の官僚高位族の市来氏」はどうなるのかと云う大問題も生じさせている。
    何も「血縁」は、そもそも何も「近畿圏の中」だけで起こる事では無く、遠く九州からも足を運んで血縁する事も頻繁に起こっている。

    (注釈 現に、曾孫である「嵯峨天皇」の祖の「施基皇子」であった「妾の母」は「越の国」から来ているではないか。知らない訳は無い。)

    むしろ、「血縁の事」を考えれば「遠い方」が良い事は判るし、「青木氏族」や「佐々木氏族」でも中部域の「五家五流青木氏」、関東や北九州からの「秀郷一門の青木氏」との血縁も現実に起こっている。
    そもそも、「純血性の弊害」のみならず「四六の概念の保持」に依る「血縁の格式」を確立させるとしても、その「目的の範囲」で編じるのであれば、次ぎの様に成る。

    (1)「正式な酒瓶儀式」を受ける事
    (2)「正式な賜姓儀式」を受ける事
    (3)冠位を持った「氏族と姓族とその後裔」に限るべき事

    以上ではあった。

    これならば、朝廷が認証しているから文句は出ない。
    自らが文句の着けようもない”「四六の掟」”を敷いていたその「三代目の後裔」であるのに、「血縁の弊害」は、そもそもその範囲での事であり、少なくとも「姓族」には大きくは及ばない事でもあり、「編纂の強行判断」はどの様に考えても普通は“「不思議な事」”ではある。

    当初は、前段でも論じた様に、「補完役の秀郷流青木氏族(960年頃)」を始めとして一門からその「源流の元」を得ていたが、「四六の掟」でさえも何時か起こり得る終末期を迎える。
    これを防ぐ為に、江戸初期頃には「氏族」を「氏人」として広範囲に構成する「郷士との繋がり」からも「源流の元」とせざるを得なく成っていたのである。
    つまりは、「四六の概念」の「青木氏族に起こった限界」は、「江戸初期前後」にもあったという事に成る。

    それは前段でも論じたが、「殖産の拡大と云う事の手段」のみならず、「嵯峨期頃」から改善を加えて来た「四六の掟」にも限界に至っていた事にも成っていたのである。

    矢張り、最早、「限界」に至りこの「室町期末期」からはより「源流を拡大する手段」に陥っていたと成る。
    然し、「四六の概念」が崩れそうに成ってはいたが、ここでも頑なに「姓族」までは広げなかった。

    「補完役の秀郷流青木氏族の源流 1」と「青木氏の氏族を構成する郷士の源流 2」に頼る事と成って行った。

    そこで、これが百々の詰りは、この「四六の概念の限界」を知り、“「六の入り」の「入れ方如何」”と成ったのである。

    (注釈 この傾向から考えても、問題の起こった「孝謙天皇期頃」には、「天皇家」と血縁を結べる「純粋な氏族」は、最早、「48氏族」では無く、問題の持つ「新撰姓氏禄」に関わらず本当は既に「数氏」に陥っていた事に成るだろう。)

    (注釈 前段でも論じたが、「青木氏族の光仁天皇(施基皇子の子の白壁王)」の孫の「嵯峨天皇(山部王の子)の新撰姓氏禄」を慌てて未完成のままで世に出すという「編纂の意味」も敢えて云えば一部はここにあった事も否めないと観ている。
    つまり、「奈良期からの四六の概念」を弱めた所謂、「青木氏族の四六の掟」を敷かないまでも、“「姓族」”としては、それなりに「ある程度の格式」を維持する為に「何らかの慣習仕来り掟」を持っていた事は否めない。
    唯、”「四六の概念」”の様な格式張ったものは無かった筈で、有れば、それに拘れば衰退を余儀なくされるは必定で、「間口を広げて身を護る事」は「姓族」であれば「常套手段」として当然の事であって、その為に“「武力の容認」”が認められていた事にも成る。)

    従って、「自由な姓族」にも「社会の血縁の動き」が、「勢力」を獲得すればそれなりに格式化して閉鎖的に成り、「血縁の範囲」が狭まり「弊害」が出始めていた事にも成る。
    これが”「別の意味(武力の容認)」”としても読み取れる。
    然し、「天皇家」の中では無くて、財政的理由を下に各地に散在した「数多くの真人族」を臣籍降下させ「姓化」した事から、「氏族と姓族」にも夫々の社会にある程度の「格式化」が起こったとする論も考えられる。
    現実には「四六の概念」と迄では行かないが起こっていた事は記録でも事実である。
    故に、「賜姓氏族」ではない「ある程度の格式化を持つ族」に対して“「姓族の禄」”として出したとも成るが、この「姓族の禄」に「記載された族」には「記載され得なかった族」との間に差異が生まれ却って「格式化」を招く事にも成ったらしい。

    (注釈 ここで云う「姓族」とは、「官僚に成る為の儀式を受けた姓族(「平安期からの官僚族の姓族)」と、室町期中期から無制限に出自した海部族等に代表される「自由な姓族」とがある。ここでは前者の「三分類される姓族」を云う。)

    (注釈 上記注釈について、唯、「新撰姓氏禄」の「姓族の禄」の「分類の仕方」にも問題があって、「皇別、神別、蕃別」の三つに分類され、且つ、研究書によればその「同門後裔」迄に分けられている。
    「同門、後裔」まで分ける事には、取り分け問題は無いが、そもそも、「皇別」は兎も角も、「神別」は「天孫降臨期」からのものとして何の証拠もない「姓」が多く書かれている。
    「皇別」と「蕃別」には入らず、然し、古くから「高位の官僚族」を形成している組み入れ難い「姓族」を「神別」のここに組み入れたと観られ、これで批判を増幅させたのであろう。
    ここに「本文の無い本禄」に「江戸期の後付け」の「醜い戦術」が起こった事を注釈する。)

    (注釈 そこで、「新撰姓氏禄」に、“何故にそもそも「本文」が無いのか”と云う疑問がここにある。
    普通であれば、「抄記」迄あれば「本文」はあるのが当然であり、「無い」とする処に意味があって、これが江戸期初期の「後付けの根拠を消す目的」があったと観られる。
    筆者は、「本文の消失」は「江戸期初期説」と考えており、「後付け説の所以」と考えている。
    「純仁天皇期」から勧められ「嵯峨天皇期」で兎も角も終止符を打ったが、この三期でも「紛失」や「放棄」や「停止」等のサボタージュがあった事は記録からも明らかではある。
    この研究には、「全体の紛失」はあったとする記載があるが、「本文の消失」迄の事は書かれていない。
    従って、「本文の消失」は江戸期初期と見做される。
    故に、「嵯峨天皇期後の姓族の名」が多く書き込まれた所以なのである。
    後勘で調べれば、”「後付け」”は直ぐに判る筈で、当時の混乱期の中では判らないだろうとする「低意識の余裕」が定着していた事に成る。これは世の常であろう。
    現実に、「ある研究書」では、「姓族の説明」として”室町期の中期の発祥”と態々書いたものもある位で、極めて笑止である。)

    (注釈 因みにこの「説明の族」の二つは、同族で「関ヶ原の戦い」で功を挙げ「近江の土豪」ではあったが、5千石と一万石を与えられて「伊勢長嶋域」に移封された「近江二宮氏の末裔」であったとされる。
    その末裔が江戸期に「伊勢者」と呼ばれある「家紋」を持っている。
    「説明の族」が記載されている事は、明らかに「新撰姓氏禄」のそれは逃れられない「黒印状の所以の仕儀」である事は明白である。
    そもそも、上記した様に「注釈の姓族」には「室町期中期の前後」を境にして、更に「勃興」は二つに分けられる。
    「中期前の最初の姓」は海部氏である事は記録で判っている。
    この「伊勢者」と云われていた姓族も中期後の発祥である。)

    さて、然し、「青木氏族」には「源流 1と2」があったとしても、この依然として「賜姓を受けた真人族の臣籍降下」の「氏族」が、敢えて「源流」を求めずに「四」に拘り、多少、後に「四六の概念」を弱めたとしても「四六の掟」の程度を敷く以上は、「同族血縁の弊害防止」に対する「情報の提供」は矢張り急務であったとも考えられる。
    唯、「本文」が消されている限りはこの情報は無意味であるのだが。

    そもそも、「本文の無い情報」は、「血縁弊害が出る慣習仕来り掟」の中に無く、且つ、後の時代には「自由に出来る姓族」には不要であった筈である。
    故にも、三代以上も偏纂を試みられて「嵯峨期の前後」ではある程度の「本文的な情報」が既に有ったので、反対のある中で「逸記」の多い筈なのに完成を急いだ事も云える。
    それ程に「孝謙天皇期の争い」の混乱期の中で「社会に与えた影響」が大きかった事を物語っているし、「嵯峨天皇」、果ては、「志紀真人族」等に与えた影響は大きかった事を物語る。
    「孝謙天皇」に抗した「外孫族」も詳しくは判らないが、この点に「思想論理の原点」があった可能性がある。

    (注釈 上記した様に光仁天皇期には偏纂する者等がこの編纂した書を隠してしまうと云う事が起こった。)

    「嵯峨天皇期の詔勅」と、”同時期に世に出したという事”は、次ぎの様な事が考えられる。
    「青木氏族」や「佐々木氏族」を始めとして、社会の中、取り分け、「335の皇別族(朝臣族)」と云われる「姓族」の中には、「原因」は別として「唖子を含む血縁の弊害」の様なものがある程度に蔓延していて、「国家的問題」に成っていた可能性があったとも観られる。
    筆者は、それは「四六の概念」以上の慣習を持った「賜姓の氏族」では無く、「純血性の弊害」と迄ででは無く、「血液型の不適合」(遺伝子障害)か「抗うつ性症候群」(同族血縁障害)が蔓延し、これを「血縁弊害と捉えていた事」が考えられる。
    故に、「氏族志」と違い「氏族」では無く「姓族」のそれとしたと考えると間尺が一致する。

    (注釈 一部には縄文期に入って来た「結核菌」が蔓延し、これが集団で患う事から「血縁障害」とも捉えられていた事が判っている。
    「研究」に依って「骨の状況」から判明していて、この状況は平安期頃迄続き「血縁障害」と捉えられていた事が判っている。
    その後、貿易で中国から入った「漢方薬の薬湯」で治る事が解り、「血縁障害」では無い事が認識された事が解っている。
    つまり、この様に「結核菌説」もあり考えられる。)

    (注釈 そもそも「上記の注釈」のその根拠としては、現在、「日本の姓」は「8000前後」とも云われるが、「嵯峨期の近畿圏の姓数」は「新撰姓氏禄」の総計を前提で「約1200」だとすると、全国域で観れば五地域圏ではこの5倍はあったと観られ、凡そ、「6000の姓数」に成る。
    然し、江戸期の「武士階級の姓」を持つ人口は、全人口の1割以下であったので、「8000の姓数」に対して「800程度」と見込まれる。
    「江戸期の800の姓数」と「嵯峨期の6000の姓数」には差があり違い過ぎる。
    江戸初期には「姓名」を持たない「農民等」から「武士」に成った者が多くを占め、且つ、合わせて「明治維新の苗字令」で9割以上の者が一挙に「姓名の苗字」を持った。
    そして、この「二つの経緯」を経て「8000の姓数」と成ったのであり、嵯峨期までの「自然増」だで近畿圏だけで「1200の姓数」は違い過ぎて論理性が逆転している。
    この崩せない前提条件の事から考察すると、明らかに「嵯峨期の姓数」は「1200程度」では無かった筈で極めて多すぎる。
    これは「後付けの証拠」である
    「時代の経年変化」として、「嵯峨期から江戸期」までの「約400年間」からも考えても、「バイアスを持つ自然増」としてこれを「1/4」としても、「300程度の姓数」と観る事が妥当であろう。
    そうすると、「嵯峨期」では「全国の姓数は1500の姓数」と成り得て、論理性が出て来る。)

    (注釈 上記の注釈から、そうすると「300程度の姓数」での「血縁」には「限界」が生まれ、その「姓族」の「周囲の血縁出来る姓数」は、どう考えても限られて「30程度以下の範囲」と成り得るだろう。
    この「30の姓数」に対して血縁を何度も繰り返す事は不可能であり、「純血性の弊害」に含まれない上記した「軽度の遺伝子レベル」の「血液型の不適合」か「抗うつ性症候群」かが起こるし、更に、当時は平均寿命から観て平均年齢から8−15歳が「女性の血縁の適正年齢」で、現在は30歳−35歳でこれを超えると、「卵子は老化する事」は医学的に証明されている。
    この「血縁年齢の低下」による「老化卵子に依る弊害(唖子・水頭症)」等の弊害が蔓延していた事にも成り得る。
    現在でも依然として起こっていて社会的問題となっている事からも、当時としては尚更に「姓族」にとっては「逃れ得ない弊害」であった事に成る。
    この「三つの弊害」は現在でも起こっていて、これを「血縁の弊害」として捉えられていた事に成る。)


    再び、嵯峨期前の施基皇子期に敷かれた「氏族の四六の掟」以外の問題、つまり、「血縁の弊害」を克服する「氏族の四六の掟」(四掟基準)の施行、そして、同時期に「姓族に対する姓禄の偏纂」の喚起の二つがあった。

    然し、その上記の「注釈の前」に戻って、これは“「氏族の四六の掟」”の維持する元と成る「賜姓五役の務め」としては、これを“「四掟の格式」”を前提としている為に、つまり、“氏族の何処からでも良い”、況してや、“「姓禄に記する姓族」の何処からでも良い”と云う事では無く成る。

    そこで、「氏族」にはどうしてもこの「歯止め(「四六の古式の概念」から求めた四掟・基準)」が必要に成る。
    その「氏族の歯止め」として、無暗に「姓禄に記する姓族」までに陥らない様にしながらも、厳しい「純血性の掟」を緩めて、例えば「位階」で云えば、「永代の従四位までの家筋」の範囲の血筋とした。
    つまりは、「四掟の運用」を見直した事に成るだろう。
    この「永代の従四位までの家筋の範囲」とは、記録から観てみると、多くは「四世族内か五世族の範囲」に留まり、ある程度の範囲で”「四掟の原理」”が成立している。

    (注釈 「姓族」は、上記の「新撰姓氏禄」で「抄記や逸記」でありながらも、この範囲の中にある「姓の朝臣族」と云われる族を根拠として何とか無理にでもこの為に公表した。これは前段でも論じた)

    前段でも論じたが、古い「帝紀や諸事紀」に観る様に、「朝廷の規則」にもその範囲を定めてある限り、その範囲を最低限に逸脱しなければ良い事に成る。
    それは、「永代の従四位までの家筋」の範囲の「血縁の掟」は、「公家族」と「武家族」も「四家制度と家人制度」に「近い制度」を少なくとも敷いている訳であるから、多少の「同族血縁の弊害」を持ち込まれる可能性はあるにしても、「性」による役務上からの“「男系」“では無く、これは上記した様に「女系の理」、況や、“「人の理」が根本として成り得ている“と云う理屈が「青木氏族や佐々木氏族」にはあった事に成り得る。

    つまり、ところが「佐々木氏族」は、この「四六の概念の維持」は、鎌倉期前頃には崩れ始め、全国に「佐々木氏族」の「氏族の中」に“「四六の掟」や「四掟の掟」”を緩めて「勢力保持」の為に「主従関係」を確立して「姓族」を作らせた。
    然し、ところが「青木氏族」では、この為に「女系」を重視した「孫域までの娘」を「子の域部」として“「子の選択」”の範囲を広げる事の方法を選択したのである。
    ここに違いが出た。
    この「佐々木氏族」を外し「青木氏族」に「白羽の矢」を立てたのは、この「違いの差」を「孝謙天皇」は着目したのである。

    (注釈 つまり、頑として「姓」を発祥させなかった。「佐々木氏」とは、この段階で生き延び方、況や、「四六の掟の維持」が異なってしまった。
    「佐々木氏が編纂した研究書」にもこの種の事が書き込まれている。
    その原因と成ったのは、「補完役」としての「秀郷流青木氏」と同様に、「佐々木氏族」にも「補完役」の「宇多源氏の佐々木氏の発祥」があった。
    この「補完役の宇多流佐々木氏族」が「四六の概念」を無視して「佐々木氏系姓」を各地に広げた。
    では、唯、「補完役の秀郷流青木氏から出自した姓」と、同じ「補完役の佐々木氏系姓」との違いは、前者には、この「姓」を“「現地孫(傍系卑属)」”として位置づけして、形式上は「氏族内」として認めなかった事にあった。
    然し、後者は、「勢力保持」を前提としていた為に「氏族内の勢力」として取り込み認めたところにあった。
    何れの方法も方法は違えども「生き残り」には効果は認められた。)

    然し、改めていう事には成るが、「賜姓臣下族の青木氏族」には「氏人と云う慣習」が認められていて、「四六の概念」を敷く以上は、次第に「男系が薄れる事」に成り、この「男系の氏人」は薄れる事にも成る。
    従って、これを補完して「女系」で繋がるものとしているのであるのだが、但し、だからと云ってこの「女系」の「子の範囲」を広げた事だけでは「本当の解決策」とはならない事は必然である。

    それの「解決策」には、”「子としての扱い」”にあって、無制限のものでは無かった。
    「第四世族(一説では「第三世族」と書いているものもある)」までの「孫域(2)」までの「子」を一か所に集め、現在の保育園の様に“「共同養育」と「共同教育」と「共同教養」”を施し、「四家制度の範囲」に従って行ったのである。
    つまり、制度的(慣習仕来り掟)に「青木氏族」から逸脱しない範囲の「女系」を確立させていた事らしい。
    無暗に「女系概念」を拡げていたのではなかった様である。

    この「共同と云う範囲」がよく判らないが、資料の各所から読み取れる事として、毎日、親元に返すのではなく「専門の教育と養育掛かり」を置いて「福家管理」の下で「共同生活(菩提寺と分寺の二か所に男女の設備が設けられていた)」を敷いていた事らしい。
    現在の「寮生活の学校とホームステイ」を組み合わせた様な形式であったらしい。
    但し、注釈として、記録によると、「子供の数」が少ない一時期があって、「玄孫(3)」までとしている事がある。
    この方法で「女系に依る四六の掟」を維持していたのである。

    注釈として、前段でも何度も論じている事ではあるが、改め理解する上で記する事として、そもそも、「青木氏族」は、「分家支流族制度」を採らない「賜姓族臣下族としての掟」がある事から、「直系族の女系」に限っては、最大で「直系7親等」までの「子の範囲」を云う事としていた様である。
    これを「四家制度」に依って、現実には「第四世族内」に留めていたらしい。
    これを「福家の世代交代期」に依って、「直系族」と云われる「主家」の「7の孫(じゃくそん)」が連れて変わって行く事に成る。
    [世代交代」と云っても、「四家の範囲」の中で、次ぎの「四家の中の長」が「福家」と成る仕組みである事から、「福家の嫡嗣」が引き継ぐのではなく「世」に依る「世代交代」は激しくは起こらない仕組みである。
    従って、「四六の概念」の「四」に大きく関わる「福家の嫡嗣の世継ぎ」では無く、普通はせいぜい25年か30年程度と成るが、「四家の範囲」の中で「福家」を「長」で引き継ぐ方式では、「世代交代」は、少なくとも「100年」は見込める事に成る。
    これに”「四掟で補う仕組み」”で「四を補う事」であるとするならば、”「世継ぎ」”という事では”「急激な変化を起こさない仕組み」”と成る。

    然し、「姓制」を採らない以上は、これは実質上は「女系性」の強い「直系の青木氏族の青木氏」である。

    (参考 因みに、「上記の注釈」の解りやすい例として「直近の福家の継承」は、「伊勢青木氏]の紙問屋を主体とする明治期(970年間)以上続いた「総合商社の伊勢屋」では、この「福家の長に依る仕組み」は筆者の祖父の代まで引き継がれて来た。
    例えば、次の様に成っている。
    曾祖父の兄−曾祖父−曾祖父の弟−・祖父の兄−同祖次男−同祖三男−・祖父−同祖次男−同祖三男=明治35年 これから観ると長寿系であった事から(・)と(・)の間隔は「約100年程度の間隔」で「世代交代」と成っている。
    現在もこの「紙屋問屋の伊勢屋」は二か所で継承されている。
    多少の他と違う「伝統」は残すも「四家制度」などは最早敷いていない。)

    即ち、「六の入り」の子は次ぎの通りである。
    1 子、
    2 孫・
    3 曽孫(ひまご)
    4 玄孫(やしゃご)
    5 来孫(らいそん)
    6 昆孫(こんそん)
    7 じゃく孫(じゃくそん)

    (注釈追記 以上、上記で「玄孫」までとしていたが、「過去の筆者の研究記録」をもう一度詳しく見直したところでは、「時代性の状況」に応じて、「孫>曾孫>玄孫」をその「女子の範囲」として”「六の入り」”は運用したらしい事が「氏人の遺手紙の記録」からも読み取れる。
    それ以降の「来孫>昆孫>じゃく孫」の「女子の範囲」は何か”「特別性」”があったとも考えられる。
    「尾鷲の遺手紙」に「7のじゃく孫」が記されている関係から、当時としてはここまでが「青木氏と氏人の女系に依る関係」が「一族の範囲」として確認し認識できていた事を示すものであろう。
    現実には、「玄孫」までは筆者の代でも充分に知り得ていたし、普通の「言葉の使用」としても確認できていた。
    従って、「村の組織構成」との「繋がり」や、前段で「論じた「部の差配頭」の関係から「来孫>昆孫>じゃく孫」の「来孫」までは普通扱いで、「しゃく孫」までが最大で特別であったろう事が伺える。)


    ここまでを「賜姓族臣下族の掟」としてでは、“「直系族」(女系の「六の入り」)”と定めとしてこの範囲までとしている。
    後は、「傍系族」に成る。

    従って、そもそも、「青木氏族」の「傍系族」としては、次ぎの「三つの属の範囲」に成るとしている。
    「傍系尊属」
    「傍系卑属」
    「傍系同代」

    以上の範囲に限定して「青木氏族」としない様にして定めている。

    (注釈 「近江佐々木氏」は限定は出来ないが、この「範囲の限定」を無制限に近い状態で緩めていたと観られる。
    これを「孝謙天皇」は嫌ったと観るか、将又、これに関連する「四家制度」か「四掟」を緩めてしまったかとも観られる。)

    これで極力、”「属の範囲」”を限定し、”「四六の概念」の[保持拡散(概念を緩くする事)」”を防ぎ、且つ、それによって興る「姓発祥」を食い止めていた事が解る。
    最後までその「四六の概念」を保持していた「青木氏族」、取り分け、明治維新頃(・明治35年)までその連携を続けた「伊勢と信濃の青木氏族」には厳格なものがあった事が伺える。
    「補完役の青木氏族」には、その立場上から「四六の概念の考え方」を変えて維持されていた事が「近江佐々木氏の研究書」からも読み取れる。
    これは「当然の事」と考えられ、「両青木氏」のものが「完全一致」とはならないだろうが、伊勢の秀郷流青木氏は「四日市殿」を発祥させている事から見ても相当に近い「四六の概念」を保持していた事が判る。


    然し、「賜姓臣下族の志紀真人族」としての「重要な掟」として、この「傍系族」等は鎌倉期までは少なくとも原則としては「青木氏族の内」として認めていなかった事が判る。
    所謂、「外孫扱い」であったらしい。
    この「鎌倉期までの外孫族」に付いては、調査したが全く判明しない。
    本来は「系譜や添書」に記載されている筈なのだが、又、せめて「女墓」に刻まれているかさえも判別し得ない。
    これは、「姓化の緩み」のものとして「傍系族」に対して「徹底していた姿勢」とも考えられる。

    これについて、強いて云えば、判った範囲で、前段でも論じたが、「宮崎の廻村」と「鹿児島の大口村」の「廻氏の血筋」を持つ「青木氏」が唯一それに当たるだろう。
    この「廻氏系青木氏」の「傍系の青木氏」は、「姓族」には成っているが、江戸期には「黒田藩の専属の傭兵」として山や海にその「最大勢力」を拡大させている。
    時期は明確ではないが、記録の中に垣間見られる範囲としては、何れか確定は出来ないが、「鎌倉末期頃」、又は、「室町期末期頃」から「丸に笹竜胆(本家筋)」を”家紋”としていたらしい事が判る。

    (注釈 唯、筆者はこの判断には、この時、その「薩摩山岳族」と「日向灘の海洋族」として勢力を拡大していた室町期末期から江戸初期前後頃に「黒田藩の専属傭兵」と成った事から、又、確たるルーツを語る家紋を必要と成った事から、その出自経緯から「丸付き紋の笹竜胆」を使用したとする説が納得できる。(イの説)
    調査では、それまでは「五七の桐紋(黒田藩より授受)」を使用していた事が判っている。
    黒田藩はその彼らの功労により「秀吉」よりこの「家紋の使用」を許されたが、更に黒田藩はこの「専属傭兵の青木氏族」にこの「五七の桐紋」の使用を許したらしい事が判っている。
    然し、江戸期初期に成って「黒印状獲得」の為には流石に「秀吉」の「五七の桐紋」は憚って使えず、その出自元と成る「廻氏の血筋」を引く「清和摂津源氏族の笹竜胆紋(上記)」に傍系として「丸付き紋」を着けて「家紋届」を出した事に成るだろう。
    或いは、平家により配流された「源宗綱」と兄弟であった「伊勢青木氏の京綱の所縁」を以って「大口村の浄土宗寺住職(寺名は秘匿する)の勧め」で「青木氏」を名乗ったとする記録もあり、この事から宗家筋が「丸付き笹竜胆紋」を使った事も考えられる。(ロの説)
    家紋が刻まれている墓所を観ると、両方の墓の家紋があり、凡そその違いは宗家筋とそうでない筋に分類される様でもある。
    この事から筆者は、記録のある「後者の説(ロの説)」を採っている。先ず間違いは無いだろう。
    何故ならば、「大口村の浄土宗寺(生き残り主従5人)」に逃げ込んだが、間近に「平家の追手」が迫り、緊迫した中で”「名乗り」”として(イ)の説(「嵯峨期の詔勅の青木氏」)を採れば、恐らくは何の所縁の無い「源氏族」としては遠慮会釈なく討ちとられていただろう。
    然し、「伊勢青木氏」では、「松阪の隣の伊賀との付き合い」や、「光仁天皇の妃の高野新笠」は「伊賀の平家の里の祖」でもあり、「宗綱の助命嘆願」の親元であり、「伊勢青木氏の所縁の者」とも成れば先ず討つ事は出来ないであろう。)

    (注釈 「伊勢青木氏」では、遠い薩摩や宮崎の事でもあり、且つ、「伊勢青木氏」が「直接」に使用、又は「許可」を認めたものでない限りは、「記録」のある限りは事実として「丸付き紋家紋」を逸視していたと考えられる。
    「丸付き紋の笹竜胆紋」の記録に残る「確定できる姓」はこの「日向と薩摩出身の廻氏系青木氏」だけと観ている。
    筆者は、むしろ「青木氏族」を物語る「確たる物証」のある「所縁のある姓」を敢えて「不問の姿勢」を示し遺そうとしたと観ている。)

    注釈として、「近江佐々木氏系の青木氏族」の段でも、その様に定義され”「青木氏族」”として認めて論じている。
    と云う事は、同じ「青木氏族」も然る事ながら、「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏の直系族」もその範囲のものとして考えていただろうことが判る。
    故に「佐々木氏族」も自らの研究記録の中にこの「日向青木氏の歴史」を態々記載している事の「裏の意」は、その「四六の掟」を頑なにある程度までは採っていた事を意味すると観ている。




    >「青木氏の伝統 41」−「青木氏の歴史観−14」に続く。
    >「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


      [No.358] Re:「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/12/18(Mon) 16:06:22  

    > 「伝統シリーズ−38」の末尾

    「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城−名張−伊賀−射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

    筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

    これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
    元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
    全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。


    > 「伝統シリーズ 39」に続く


    「青木氏の伝統 39」−「青木氏の歴史観−12」

    前段の「射和の殖産」の論に加えて、ここでもう一つの「青木氏の歴史観」を作り上げる重要な事があった。
    それは「射和の殖産」をリードする為の「青木氏(A)」の「盤石な体制」にあった。
    これ無くしては「射和の殖産」は成し得なかったと観ている。
    それは、単なる「氏存続」の事だけでは済まされ得ない「青木氏(A)の体制造り」にあった。

    前段でも論じたが、「青木氏(A)」には「四家制度」と「家人制度」や「四掟制度」以外にも、この定義を護る為には、“「同族血縁の弊害」”を起こさせないもう一つの課題の制度が必要であった。
    これが無いと「大きな殖産」と云う「世の繋がり」と密接したものを維持する有能な架体を持っていなければ成し得ない。
    その大きくて堅固な架体の体制を維持させる制度が「青木氏(A)」の中にあった。
    それは上記の“「妻嫁制度」”、つまりは「女系族の制度」であった。

    そもそも現在の「一夫一妻」とは、「人の目的」を達成させられる「社会性や時代性」が異なることから、この制度では一概に「善悪の評価」は難しい。
    前段でも論じたが、これは余り触れられていない、或は、触れない“「影の制度」”と云える制度であった。
    当時としては、現在感覚では矛盾する様に考えられるが、一般的に経済的に成り立てば、「人」、つまり、“「女系」を重視する「通常の概念」”であった。
    これは現在では否定されている一種の「一夫多妻」に類似するからであろう。

    そこで、先に論じておくが、この「現在の人類学」では、「一夫多妻」の「悪の原因」は現在医学で解明されている。
    それに付いて理解度を深める為に念の為に少しこの事に先に触れて置く。

    そもそも、原始の時代に於いて「人の類」は「類」を増やす為に「四回の変態」を起こしたが、それは他の類からの「捕食に耐える事」の為にあって、遂には「雌の類」で増やしていた変態方法を「雌」から分離させた「雄」という「補完の役」として「人の類」を造り上げて「子孫を増やす方法」の確立に成功した。
    そして「雌」と云う「人の類」を「雌」を主体として「雄」を造り上げて継承(遺伝)する事に成った。
    つまり、それまで取っていた変態形式の「雌」の子(娘)の「雌の遺伝継承」と、新しく「雌」の「雄」(息子)の子(娘)の持つ「雌の遺伝継承」の二つで「雌」の「人の類」の子孫確立を高めた。
    このプロセスが、他の類からの「捕食」から子孫を増やせないと云う「第一の危機回避策」であった。
    これはとりあえず成功した。

    (注釈 「人の類に関する遺伝継承」は「雌」に依ってのみ継承される。)

    ところが、「第二の危機」に襲われた。
    「人類の初期」、つまり、四千年前の中国の「華国の創建」の由来、況や、“国と云う概念の創設期”では、「善悪の概念」は別として、この「集団」を形成する為に必要としたのは、「第一の危機」の回避策が進みより子孫を遺そうとして採ったのが「雄」を起点にして「一夫多妻の原理」であった。
    この「一夫多妻の原理」に従っていた事から「多妻に依る集団化」が起こり、その互いの集団に「指導者の王」(絶対的指導者)を定め、「国と云う概念の集団」が初めて出来た。
    これが人類史上初の国の所謂、中国の“「華国」”であった。
    この時、「一夫多妻の原理」で生まれた初の国の「華国」は、夫々の妻の子供の集団化が幾つか集まり、その中での「指導力のある者」が「国家の王」として祀り上げて、「初の国家規則」を作り上げた。
    それは、「臣下制度」と云うもので、これを「初の国家規則」として「儀式化したもの」は“「瓶杯」”であった。
    「瓶」と云う入れ物に「酒」を入れて、それを「家臣と成る者」に「瓶皿」に注ぎ「家臣と成る者」が飲み干すと云う儀式化であった。
    これで「初の国家体制」を造り上げた「華国」は、「血縁のある絶対的な絆」が成立させて行った。
    これが最初の「国家の規則」であり、最初の「国家儀式」であった。

    この「国家形式の儀式」は、世界の人の類に依って異なるのだが、我が国に限定し論じるとすると次の様に成る。
    日本では、最初に、この「儀式化」で出来た「国家形態」は、摂津湾に入った「渡来人の応仁王(蘇我説)」で、関西域を制圧し、「地域の五豪族」(紀族、巨勢族、葛城族、物部族、)を先ずは血縁で結び、上記したこの「儀式化」で「家臣化」して「応仁王」から「応仁大王」による「初の正式な国家」、況や「飛鳥王朝」が出来た。

    これは、経済的とか精力的とかは無関係の“「子孫を増やす」”と云う「単純な人間の原理」からの発意であった。
    如何なる世であっても、補完役の「雄」が多くても「妻」(人の基礎の雌)が少なければ、尚更、危険の多い原始の自然界では子孫は増えない。
    「道義的な感覚」よりこの「集団」を維持する為には、“「子孫」を増やす“と云う命題の方が優先され、その事からの「国家形式」を保つ上でも「一夫多妻の原理」の方が良しとしてこれに従っていたのである。
    「雄」が補完役である以上は、「人の類」の「論理的呼称」とすれば、「多妻一夫の原理」が正しいだろう。
    何故、この様に逆転したかは別の論として、当然に、「国家」を形成する「臣下の族」も同様の形式に従っていた。

    ところが、この「仕組み」(「一夫多妻の原理」)に依って「子孫」は確かに増え多くの「集団」(初期の国形態)が形成されたが、ここで別の“ある思わぬ出来事”が起こった。
    そして、その“ある思わぬ出来事”で、「人類」には「捕食」とは新たな別の危機が起こり、“「滅亡に近い事」“が起こったのである。
    各大陸全体にこれが蔓延し地球規模で起こって仕舞った。

    そこで「人間」(人の類)は、再び色々な「子孫拡大の仕組みの模索」を試みたが、駄目であった。
    この“ある思わぬ出来事”とは、それは何と“「菌」”であった。
    それは「補完役の雄」を出す事に依り起こった危機であった。
    「雄」を造り上げる事に依って、造り上げた生殖の「繁殖の仕組み」に原因があった。
    「雄雌」に依る「人類の生殖反応」に依って、この「菌」が「菌」に依る「性病」を蔓延させ「良い子孫」を遺す事のみならず、「子孫拡大」どころか「滅亡の方向」に動いた。

    この滅亡過程で、この時、次ぎの「二つの事」が起こった。

    一つは、「無制限な生殖」に依る「菌の繁殖拡大」である。
    二つは、「同族間血縁の弊害」であった。

    然し、この時、「人類」は、この「二つの事」が、これは「生殖反応」に依るものとは到底解っていなかった。
    ”「神の成せる技」”としか考えなかった。

    先ず一つの「菌の繁殖拡大」では、「人類」が住むジャングルに存在するこの「菌」は「人の類」にのみに影響した。
    ところが、そこで「人の類」は、これを「場所的な原因」として観て、世界的に大きく大陸移動を開始した。
    そこでも、一時、「人類の子孫」は拡大を再び興すが、再びこの「菌」が拡がり、移動先でも滅亡する事も起こった。

    ところが、この「人の類」の中でもある大陸に移動して進化させて「知恵」を発達させた「新たな人類」が生まれ、この「菌の発生原因」が「人」に依るものだと云う事を考え着いた。
    そこで、”「神の成せる技」”として「知恵の進化」に依って生まれた「原始の神の宗教的概念」を興して、これに基づいて「戒律」を造り、この「戒律」を利用して「一夫多妻」を禁じたところ、この「新たな人の類」は滅亡から徐々に増大へと進んだのである。
    この「菌」が「生殖の行為」に依って爆発的に蔓延する事を知ったのである。

    このある「人の類の種」は、「原始の宗教的概念」に依っては、次ぎの様な行為を採った。

    A 「一夫多妻」を止めた地域、
    B 「女系家族制」を採用した地域、
    C 場所を決めて「集団生殖行為制」を採用した地域、
    D 村で管理する「通夫制度」を採用した地域

    以上の様な工夫をした。

    どれも「効果」は認められて「菌に依る弊害」の危機は無く成り「子孫拡大」へと繋がった。
    これらの制度に「共通する点」は、次ぎの事であった。

    “「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”であった。

    以上の二つであった事を人類は初めて知ったと云う事である。

    「国家の集団化」と「原始の宗教的概念」とを合わせて「管理する事」で、「菌」を強制的に除く事が出来て、且つ、「保菌者」を排除できる事となった。

    元の「女系にする事」で、「菌」を排除できると同時に「生まれる子供の保菌者」の「排除と奇形」とを除く事が出来た。
    「奇形」は「人の類」を危機に追いやる事から逃れ得た。

    「無菌の女系」で纏まれば「人の類」は爆発的に拡大できる事となった。

    後は、この「二つの管理」、つまり“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”によって「男子の保菌者」を排除出来ればこの「菌」に打ち勝てる事を知ったのである。

    結局は、「女系にする事」で「人の類の危機」から逃れられる事を知った事から、ここで「神は雌として崇める原始の宗教概念」が生まれたのである。

    ところが、ここで、中には、次ぎの様な制度を採った「国」と云う形式には至らない「集団」があった。
    それは、「男子を集団で生活させる事」で、次ぎの方法を採った集団があった。

    「女系家族制」
    「集団生殖行為制」
    「通夫制度」

    以上の「三つの制度」を同時に敷いた地域も起こった。
    これは、“神は雌として崇める原始の宗教概念”を徹底した事からのもので、「局部の地域(ジャングル居城地域・発生地)」に不思議に終わった。
    恐らくは、この制度では大きく集団化が起こらず、「奇形による危機」が起こり、「国」にまで発展せず「混血に依る知恵の進化」は起こらず、「人の類」は「劣化」を興し「村レベル」で終わる結果と成ったのであろう。

    少し進んで「島国の日本列島」に於いてもこの上記の「二つの危険性」(菌と奇形)はあった。
    海を渡る「移動浮遊族」に依って持ち込まれる「菌に依る問題」もあって、況して、「7つの民族の融合民族」であった事から、島国でありながらも「持ち込まれる」と云う事が起こった。
    (注釈 菌には、主に「梅毒と結核菌」の二つがあって「遺跡の骨」からその証拠が発見されている。)
    つまり、未だこの頃は「同一融合民族」で無くその過程であった事から、「女系家族制」「集団生殖行為制」「通夫制度」の「三つの制度」は採れてはおらず、結局は、「村単位で管理を強化する」と云う事で徹底的な隔離を含む「排除主義」を採っていた。

    ところが、少し進んで「飛鳥期の前期頃」からは、融合しながらこれ、即ち、「村単位の排除主義」(集団も含む)で「国と云う概念」が生まれながらも「純血性」とか「子孫を増やす」とか云う宿命を持った「力のある融合族」は出来なく成っていた。


    「人の類」の初期の頃には、次ぎの滅亡の危機があった。
    イ 「捕食に耐えうる事」
    ロ 「菌に耐えうる事」
    ハ 「奇形に耐える事」

    以上に耐え得た「人の類」は、「子孫」を増やし、「属」が出来、そして遂には、その「属」で上記の通り「国」と云うものを形成した。
    この「国」と云うものを護る為には、その中で今度は国を構成する「属」では困難と成り、更に細分化して、「族」を形成させて「国の形態の正当性(血縁性)」を護る為に生まれた。

    「真人族」とそれを「補完する臣下族と成った賜姓族」の二つで「特別な慣習仕来り掟」を創造して定め、「国の正当性」を護った事に成る。

    然し、ここで、「国家」と成った事に依っての「国」の「王(後に天皇の呼称に成る。)の権威」を保つ意味から「高い純潔性」を求め継承しようとする形態が生まれた。
    これが、「飛鳥王権」「飛鳥王朝」「奈良王朝」と変化し、遂には「奈良朝廷」に成り、「八色の姓」や「冠位十二階制度」(後に天武天皇が四十八階にする)等を定めて「継承族の立場と役目」とその「慣習仕来り掟」等について定めてその「権威性」を確立させた。
    然し、この時は「ロとハのリスク」は未だ充分には解決には至っていなかった。

    そこで、ロ 「菌に耐えうる事」と、ハ 「奇形に耐える事」に付いて「国レベル」で「見直し」が行われた。

    「ロとハのリスク」の面から観ると、次ぎの様に成る。

    「ロのリスク」は、「属」では出来ない事から「族」の中で、「生殖の範囲」を限定して、「族」を細分化して制度化してブロック化したのである。
    然し、これには「ハのリスク」が伴う。
    「ハのリスク」は、「ロのリスク」に依って生まれる「ハのリスク」を「排除主義」を取り入れて制度化して、況や「廃嫡制度」を敷いた。

    これを制度化した事で、「人の善悪を越えた思考」が生まれ、リスクに対する「ブロック制度」と「排除制度」は正統化させてその事に依って徹底した。
    この事が資料からも判っている。

    その根拠は「国と云う概念」の下にあった。
    この「国と云う概念」を護る「上位の族」に執っては大きく課せられた「ブロック制度」と「排除制度」は「族の宿命」と成った。
    これが、飛鳥期の「国の成立過程」を経て奈良期から敷かれた「確定した国の制度」(骨格)であった。

    「聖徳太子」が採った制度は、「政治の構成」と離れて、「族で構成する国」が起こす「ロとハのリスク」と云う別の面からのもので、その面から観た検証の結果であったと云える。
    つまり、「冠位十二階制度」は「属」を超えたその「族の縛り」であると観える。
    その意味で飛鳥期では、未だ「属」による「ロとハのリスク」を持つ「不完全な国の構成」とも云えるのだ。

    この「幾つかの制度」を更に見直した事に依って「初めての国家」と見做されたもので、それが「大化改新」であろう。
    その「大化期の終息期」(647年)に生まれたのが、所謂、我等の「青木氏族」であるが、それなりにこの「ロとハのリスク」の期に所以があるのである。

    従って「初めての国家」の期に出自した「国家の族」を構成する「賜姓臣下族で朝臣族」の「血筋と云う視点」では見逃す事の出来ない論点であるのだ。

    故に、そもそも前段より論じている様に、「冠位十二階制」から始まった「冠位十八階制度」と「八色姓制度」であり、この時に生まれたのが「真人族」から離れ「朝臣族」の「賜姓臣下族の五家五流青木氏」であり、同じく「近江佐々木氏」であった事に成る。

    論理的に場合に依っては、「天皇家」を始めとして「青木氏族等」の「王族の朝臣族」の様に「ロとハのリスクの侵入」を周囲に「壁」を張って「血筋を中に閉じ込める政策」では無く、むしろ外に放出して「ロのリスク」は兎も角も「ハのリスク」をも無くすものとして観れば、「第七世族」である「坂東八平氏」も「ロとハのリスク」を大きく開放した制度であった事も云える。
    「ハのリスク」はこの「壁」が無い為に「新しい血筋」が入るが、反面では「ロのリスク」は、「第七世族に任す事」に成り得る。

    從って、その意味では「青木氏族や佐々木氏族等の第四世族」は、「ロとハのリスク」を責任を以って「リスクの壁」を「制度や慣習仕来り掟」と云うもので造り護ったという事に成り得る。
    つまりは、見方を「人の類と云う視点」に変えれば、これが「両氏族に課せられた賜姓五役」であった事にも成る。

    然れども、「天皇家」は、「ロとハのリスク」は、あまりの「純潔性」を「権威を保つ手段」に特化したが、これを「国家」と云う事に使った事で、「ロのリスク」は防げたとしても「ハのリスク」が逆に大きく成った。
    そして、この「ハのリスク」を何とか除く為に止む無く「廃嫡制度」を「系譜に載らない形」で密かに採らざるを得なくなったのである。

    (注釈 この「廃嫡制度」では、「ロとハのリスク」の記録上では、多くは「出自不祥」等と云う形でも処理されている。)

    従って、この「天皇家の廃嫡」が進むと、これを緊急時に補完する為に、この両者(「青木氏族」と「近江佐々木氏族」)には「朝臣族」でありながらも、「最低限に準継承族」としての「条件」が求められていた事に成る。
    この「準継承族」は、「最悪の場合の事に対処する族」と成るのだが、これも原則的には「令外官」と「皇親族」の時までの事で、「形式上の族」に成り得ていたのである。(嵯峨期には正式に外れた)
    この「条件」が、「ロとハのリスク」を持たない族として、最低限に於いて「賜姓五役の役目」を維持する「男系嗣子」に限られた「純潔性の保持」であった。

    さて、ところが、これが思いの他で問題を起こしたのである。
    そして、それが、当時では理解できない思いがけないところに起こった。
    これが「三つ目」に起こった「存亡の危機の事」には成った。

    これが大和に出来た「初の国家形態」を揺るがす “「ハの遺伝障害の事」”であった。
    つまり、突然に表れる「純潔性の悪弊」(同族血縁に依る弊害)であった。
    当時では、この原因が殆ど理解されていなかった。

    「天皇家族の系譜の記録」を読み解くと、この時(改新後)は、飛鳥初期頃に比べて既にこの「遺伝障害の事」の原因は、“「神の成せる業」”として理解されある程度に認識されていた様である。
    その証拠が、「伝統の論」の前段でも論じた様に、「嗣子」だけであれば数的に「后妃嬪の妻」の「制度の範囲」でも「継承」は成立する。

    これに対して、態々、“「妾」”が組み入れられている事が、「政治的な事」のみならず間違いなくそれに当たるだろう。

    ここで、“「神の成せる業」”としての認識が、この“「妾を組み入れる事」”にどう繋がり、“何故に「神」に関わる事に成るのか”と云う疑問がある。
    それは、“「純潔族(四世族)」”の中に持ち込まれた「人の悪行」が、“「因果」”として「神が指し示す行為」と見做され、「神殿」に於いて「御払い」をする事のみならず、現実的にこの「因果」を「薄める行為」として持ち込まれた「神義」に近いものであった。
    故に必ず、「后妃嬪の妻」の正式な制度に「妾」を加えて大化期からは「后妃嬪妾の妻」とする制度としたのである。
    「后妃嬪妾の妻」は、正式に「身分制度」にも用いられたが、その「皇位継承者」はこの順に従うものとして、「后妃嬪の妻」までに「継承者」がある場合は、「皇子族」から外れ「賜姓臣下族」として「天皇」の「近衛族役や皇親族役」を新設して「下俗する事」になったものである。

    これが「前段までの論調」であり、これには上記する「血筋に関わるリスク」と云う視点からの「国家形成過程」に関わる経緯があった。
    つまり、「青木氏族」は、当にこの「国家形成期の出自」に当たり、必然的に「氏族の意思」に拘わらずこの「ロとハのリスク」を持ち込んだ事に成るである。

    そもそも、「青木氏族」は、当にその「神の成せる業」の「因果の解消策」の最初の「妾の出自族」に当たる。
    「準継承族」の「賜姓臣下族の朝臣族」として「準継承氏の立場」にある二氏も、「施基皇子」(青木氏 越道伊羅都売 越は福井山形域)も、「川島皇子」(近江佐々木氏 忍海造小竜の女色夫古娘 四国域)も何れも「地方の豪族の女」のこの「妾子」である。
    「青木氏族の歴史的価値」はここにもあるのだ。

    (注釈 但し、「妾子族」には「ロとハのリスク」を持ち込む恐れは充分にあったが、何れもよく調べた上での「妾」であれば“問題はなかろう“と云う事に成る。
    「ロのリスク」は目で直ぐに判るが、「ハのリスク」は目では判らず「隔世遺伝的に持ち込まれる事」はあり得る。
    「地方の豪族」であるので、何とか系譜などで調べれば判るが、密かに廃嫡をしている事から、当時としては、廃嫡以外に確実などの様な調査方法があったのかは分からない。
    恐らくは、「隔世遺伝のリスク」そのものが理解されていなかったと考える。
    「何時か出ると云う感覚」では諦めていた事で、その為の「廃嫡制度」は是非に持っていなければ成らない事でもあった。
    そもそも、「七つの民族」が融合し1400年経てもこの「隔世遺伝のリスク」だけはあるだろう。
    ところが、「青木氏族」は前段でも論じている「四家制度と云うシステム」、つまり「福家で養育する制度」で、この「隔世遺伝のリスク」(男系女系に拘わらず)も見抜く事が出来ていたのである。)

    (注釈 記録に見れば、「唖子」は別として「優秀でない嗣子」は廃嫡せずに傍系に出して外している。)

    況や、この「天皇家」を含む「賜姓臣下族の朝臣族」の「后妃嬪妾の仕来り定義」が無ければ、この「同族血縁の弊害」は、“「隔世遺伝的に起こり得る大弊害」”の可能性が有った。
    恐らくは、もっと云えばこの「妾子」に依る「優性保護の仕来り」が無ければ、「国家」を維持する「主の権威」を保つ上での「劣性嗣子」が頻繁に起こり、結局は、「国主の権威」は保て無く成り、「国家」は失墜し混乱に陥り維持は出来なかった事が起こった筈であった。

    現実には、飛鳥から奈良期に於いて「皇子」と成っているにも関わらずその「皇子の半数」は少なくとも「国家の権威」を維持するに値する「優性嗣子」では無かったとする説もあり、現実には「日本書紀」などにも「天智天皇の皇子」の「建皇子の劣性の記」等が認められる。
    本来は、「唖子」の場合は、「帝紀と上古諸事」に見られる様に「廃嫡制度」によりそもそも「皇子」には成れない筈であり、然し、「建皇子」の様に「皇子」に成っている。
    これには、「唖子や廃嫡」の場合は、系譜の中に入らないが、現実にその一例が「天皇家の系譜」に出た。
    この理由には「日本書紀」に書かれていて、「建皇子の祖母」が「皇位」を主張して「皇子」とは一時は成ったものの、直ぐに廃嫡死亡した例がある。

    そして、この「四世族内の血縁」における「劣性遺伝」を防ぐ為に「嵯峨天皇」が慌てて態々、未完の「新撰姓氏禄」を世に出した目的にもこれを防ぐ基準としたと観ている。

    筆者は、前段で論じた「天皇家のルーツを確定させる」という事よりこの「目的の方」が強かったと観ている。
    その意味では、況や、「青木氏族」に執っては厳しい仕打ちともとれるが、この「ロとハのリスク」を断ち切ったと云う視点から観ると、これのは「嵯峨天皇の功績」とも云える。

    ここで、この「ロとハのリスク」を排除した視点から、「青木氏族の事」を理解する為に前段でも論じている事ではあるが念の為に「注釈論」を論じる。

    (注釈 そもそも、「四世族の基準」は、それまでの「第六世族」を変更して「天智天皇の大化改新」で「王位」とすると決めた。
    この「四世族基準」からすると、平安期中期以降は原則として「青木氏族」は本来は「王位」は持たない。
    つまり、「聖武天皇」からは「第七世族外」であり本来は「王位」は無い。
    この「聖武天皇期」のこの時には、「天皇家の真人族」には「四世族」は元より「六世族」までも含めても、「唖子と廃嫡族」を除いて「皇子」も含めて「王位」に成り得る「嫡嗣」は無かったし、「義嗣」も無かった。
    「永代浄大一位の身分」を持つ「施基皇子」の「四男・六男説もある」が、「聖武天皇の皇女」の「二人の姉」がいて長女が「女系天皇(孝謙天皇)」と成ったが、「女系天皇」と成らなかった三女の「井上内親王」との血縁で、「天皇」と成った事(下記に論じる)で、「施基皇子の男子」はその時点で「個人の意思」に拘わらず「王位」を獲得した事を意味する。
    更に「施基皇子」が「追尊・後付け」の「春日宮天皇」と成った事も「王位」と成った理由でもある。)

    (注釈 論理的には、「施基皇子の男子」であった時には、「天智天皇期」、「天武天皇期」では「第三世族」、「第四世族内」にあって、「王位」にあった事に成り、「持統天皇期」でも「天智天皇の第二皇女」で「天武天皇の皇后」であるので、「四世族内」にあって「王位の座」は保たれていた事に成る。
    然し、「文武天皇期」に「第五世族」と成った事で「王位」はこの時点で外れた事に成り得る。)

    (注釈 一説によれば「施基皇子の六人の男子継承者・四人説もある」は、現実に「父の生き方」を見習い「王位」を好まなかった事が内資料も含めて書かれた資料があり、取り分け、「湯原王」と「榎井王」は敢えて「無冠」と成り、「冠位」も含めて嫌った事とが判っている。
    従って、論理的にはこの二人は「王位」には成っていない筈である。
    そもそも、「王」としての「冠位」が無く、「冠位」の無い「王」は、そもそも存在しない。
    「相当の冠位」(第二品 従四位下以上)があるから「王」であり、「王」であるから「相当の冠位」があるのであるとすると、「本人の意思如何」を問わず「湯原王」と「榎井王」は「王」では無かった筈である。
    つまり、これも「後付けの追尊王」である事が判る。
    「光仁天皇」と「後付け天皇」の追尊の「春日宮天皇」の「権威の辻褄合わせ」で、「後付け王」と成った事が判る。
    これは「施基皇子の生き方」であってそれは「青木氏の氏是」に表れている。
    恐らくは、「白壁王」を除いて他の五人の子供は、この「青木氏の氏是」を護った事がよく判る事に成る。
    強い圧力の上で「白壁王」も止む無く応じるしか無かったと考えられる。)

    (注釈 つまり、最も純潔の血縁性の深い一族から止む無く、「帝紀や上古諸事」外に成るが例外として「中国の古典」に見習って「白壁王」として条件を整え「義嗣方式」を採ったという事にも形上はした事に成る。)

    (注釈 「青木氏族」の 「・湯原王、・春日王、・榎井王、白壁王、桑原王、壱志王」で王位を追尊で得た事が判る。 
    「榎井王、桑原王、壱志王」の三人は「妾子」で、四人の女子の内三人は光仁天皇期には内親王と成る。
    そして、更に、「光仁天皇期」の「二世族」、つまり、「施基皇子」からは「第三世族」としても、「*壱志濃王、市師王、 安貴王、高田王、香久王、 神王、榎本王、鴨王、*桑原王二世」がそれぞれに「王位」に着いた。
    ところが、「賜姓臣下族の朝臣族」に課せられた「慣習仕来り掟」に従わず「姓」を「・印の二世王の*印の後裔」が興したとする説がある。
    然し、「桑原王・妾子」と「壱志王・妾子」等の「二世族」は「青木氏族」を護り拒んだ。
    「桑原王は二世族の子」で、然し、「三世族」では「・印の二世族」を親とする「*印の三世族」の後裔に「姓」を興したとされるが定かではないし、その「後裔」を興した時期も判らない。
    唯、「・印」と「*印」には矛盾が多くあり「江戸期の搾取偏纂」ではと観られる。)

    (注釈 世間に出ている「一般説」では、この「後裔」としているが、殆どは、「江戸期初期の諸版説」を論処として論じているので総合的に見た歴史観から見れば「搾取偏纂の矛盾」が生まれる。
    唯、その内の「*印」の「一つの姓族」に付いては、「傍系卑属の末裔」の可能性があるが、これもその主張は「施基皇子」を始祖とする「川島皇子」とすると成っていて矛盾し疑問がある。
    確かに、「新選姓氏禄」や「他の二大歴史書・三大累代格」から観ると、平安初期にその「姓の名」を持つ「臣連の朝臣族」は存在した事は認められるが、「・・朝臣族」の「・・名」を「姓名」にするは「朝臣族」として課せられていた「慣習仕来り掟」から観ても疑問でもある。
    そもそも、本来は、「皇別の真人族の朝臣族」の課せられた「掟」から観て、「・・朝臣族」の「・・」は「氏名」に成るものであって、「姓名」にするものではない。(嵯峨期で禁じられている)
    但し、「新撰姓氏禄」には、これを明確にする為に全体を「皇別」と「神別」(地方豪族)と「諸審」(渡来人)に先ず分けられ、その「皇別」には「真人族」(高位)の他に「真人族}ではない特別に「縁戚関係族」、つまり「傍系尊属 傍系卑属」を主体とした「皇親別」(低位・縁戚)に分けられている。
    この「皇別の朝臣族」の「皇親族」だけは「姓」を持つことが出来る事に成っている。
    従って、上記の「*印」の「一つの姓族」とは、この「朝臣族の皇親族」に成り、つまり、「傍系卑属」と成る。
    「傍系尊属」からは「姓」を興すと成ると、「傍系」とは云え「氏家制度」の中で課せられている「慣習仕来り掟」を護らせる立場にありながら、自らがその立場を失う様な事をするは先ずあり得ない。
    又、仮に「姓」を発祥させたとすると、「氏家制度」から「宗家」から「慣習仕来り」に反したとして「氏族」より外される事は「尊属の立場」である以上必定である。
    その点から観ても、条件的に観て「後裔の可能性」が強いとするならばそれに縛られない「傍系卑属」である事は頷けるが、「施基皇子」と「川島皇子」の「絶対的な矛盾点」だけは解明できない。
    その「姓」の「近江の出自」から「近江佐々木氏」の「始祖の川島皇子の後裔」と云う点が取られ、どこかで「系譜作成」で間違えてしまった可能性もある。)

    (注釈 その「姓の始祖」とする「施基皇子」の「ある第二世王の在所」は近江に関係していないので、だとすると、この「第二世王の後裔青木氏」の「女系」が血縁で、「青木氏側」には記録は無いが、「第四世族内血縁」を「賜姓五役の前提」としている事から、又、「・・朝臣族」の「・・」を「姓名」とする事から観ると、「佐々木氏系青木氏」に嫁いだ可能性があると観られこの視点から観ればこの「矛盾点」は解消出来る。
    この「・・朝臣族」は「新選姓氏禄」から観て確かに「四世族内」にはある。
    然し、この時期は、「近江佐々木氏系青木氏」の「傍系卑属」までを含む一族一門は、「二つの源平合戦」で敗退し平家に依る厳しい掃討作戦に依って滅亡しているので、平安末期直前の事と考えられ本来は「後裔の姓」は生まれない筈である。
    その為に、江戸期初期に作成した「系譜作成」が錯綜したと観られる。
    恐らくは、検証をすると、その「姓族の在所」からも一部に密かに生き延びた末孫の「佐々木氏系近江青木氏の傍系卑属」の説の可能性もあるが生き延びたとする確定検証は出来ない。)

    (注釈 残りの「一つの姓」は、典型的な拭い切れない矛盾の疑問が残り、論じるに値しない「江戸期初期の搾取偏纂」と観られる。
    更に、上記した様に「賜姓五役」の「青木氏族の慣習仕来り掟」に合致せず「姓」を持ったとする説の「・印の二世族」は三人いるが、「*印」の「もう一つの姓」は「・湯原王、・春日王、・榎井王」には確認できないが、恐らくは、「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「無冠位」を主張した「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「三人の内」の「春日王の姓族」としている事にも成り、「矛盾の姓」に成る。
    つまり、明らかに、この「二つの姓の件」に付いては、「嵯峨期の詔勅と禁令」がありながら、この様な間隙を狙って、江戸期初期に矛盾する「姓」をねじ込んで来た事を意味する。
    従って、「重要な歴史観」として矢張り「青木氏族」は、「賜姓五役」を保持するが故に、結局は「江戸期初期の前後頃」までは少なくとも「姓」を持たない「原則四世族内」の「青木氏族内」にあった事を意味している。
    唯、「優性の後裔を遺す」という点では、鎌倉末期から江戸初期前後頃まで「四家制度」等を敷きながらも、次第に難しい状況に陥って行った事は事実であり頷ける。
    取り分け、室町期には「下克上や戦国時代」と成り、歴史書に記載されている「朝臣族の氏族」は「姓族」に依って悉く一掃され潰され、又、「下克上」により「傍系卑属」に乗っ取られたりして「数氏」にまで落ち込んだ歴史的経緯を持つ。)

    (注釈 幸いにして、「紙文化の発展」に依って「巨万の富」を獲得し、それを以って先ずは「抑止力」を高め、「女系族」を推進して「周囲の姓族との絆作戦」を展開して生き延びてきた。
    此処が、「第二の分岐点・ターニングポイント」であろう。
    室町期初期からじわじわと始まる「危機」がこの分岐点で、これでは拙いとして大きく「四家制度の考え方」について舵を切った時期と考えられる。)

    以上、「注釈論」を前提に次に「血筋の論」を進める。

    「直系尊属と直系卑属」は、「賜姓臣下族の慣習仕来り」を護りながらも「四世族血縁」を貫いた。恐らくは、この事から「室町期初期」からは、「四家制度」に依って上記した「玄孫までの女系族」にシフトし始めた事が判る。
    この鎌倉末期から室町期初期が「第一の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。

    本論のテーマである「江戸初期の殖産」に依る「体制造りの主眼」は、「玄孫までに依る女系族」に徹底して切り替えたと考えられる。
    この江戸初期前後頃が「第三の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。
    それが、「女墓」(伊勢・信濃)に表れているし、「甲斐青木氏と信濃青木氏の動き」にも出ている。

    先ず、そこで生き残った室町期初期の「甲斐青木氏」では、「賜姓臣下族の正統族」の「源光系甲斐青木氏」と、「源光」の兄の「時光」が「傍系の源氏族」であるとして「嵯峨期の詔勅」で「時光系青木氏」を発祥させた。
    ところが、この「時光系青木氏」には内部抗争が起こった。
    この為に、「武田氏系」の「時光系青木氏」は弱体化し、結局、生き残るために武田氏に組した為に「第三の分岐点・ターニングポイント」では、「慣習仕来り掟」を全て金ぎり捨てて完全に姓化した。
    そして、「傍系源氏族の武田氏」が滅びると共に、掃討作戦にも何とか生き残り一族郎党全て「武蔵鉢形」に移封され「徳川氏の家臣化」をした。

    (注釈 この時、この武田氏を滅ぼした勝者の信長は出迎える為に列の中に「白馬に乗った者」がいてその侭に信長を出迎えたとして,引きずり降ろし滅多打ちにした。
    これは古来からの「賜姓臣下族の朝臣族」の「高位の者」の儀礼の「立場の仕来り」であるとして迎えたのであるが、信長はこれを否定する行動に出た。
    信長はこの「仕来り」を知らなかったとする説もあるが、「平家傍系の末裔」でもあり伊勢信濃に近く、且つ、足利将軍などとも謁見している事から知らなかったという事は無いだろう。
    恐らくは、「賜姓臣下族の朝臣族と云う立場」を自分の「覇者の権威」を保つ為には認めたくなかった事を意味する。
    この「白馬の者」は中立を保った甲斐の「源光系青木氏の後裔」であると云われている。
    現実に、この「白馬の者・源光系青木氏」は信長より所領の剥奪等の圧迫を受け滅亡に近い衰退をし行方は分からなくなったとされている。
    然し、「傍系卑属の後裔」とされる一族は江戸期にも生き残ったと成っている。
    そして、武田氏に味方した「武田氏族の時光系青木氏」は、家康に救われて潰れる事無く、「信長の圧迫」を受けない様に家康は即座に一族郎党を鉢形に移した。
    この一人が「柳沢吉保」の父である。)

    元々、源氏傍系の「時光系青木氏」は、そもそも、傍系族(傍系卑属の可能性)であって、「賜姓族」では無い為に「慣習仕来り掟」には大きくは縛られず姓化に成れた経緯もある。
    弟の「賜姓臣下族の源光系青木氏」は、「郷氏」を続けながら「和紙」等を殖産生産して、「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」を護りながらも、より「女系化」を採用して後裔に「姓」を置き「姓化の絆」で一部が「商人」として何とか生き延びたとされいる。
    その「存亡の有無」も判らないほどに「子孫力」は三氏(伊勢、信濃、甲斐)の中で最も低下した。
    甲斐」に於いては「時光系」のみならず「本流の源光系」も「直系族の甲斐青木氏」は遺されていないのである。

    次に、そこで気に成るのは周囲が多くの国衆で囲まれている「信濃青木氏」であるが同じ道を採らず、「甲斐」とは別の選択を採った。

    それは、前段でも何度も論じたが、”「伊勢青木氏との絆」”を徹底して強化して一体化を目指す”「同化戦略」”を採った。

    伊勢と同様に「四家制度等の各種の制度」を採りつつも、且つ、「伊勢との同化」の為に「女系」のみならず、「男系の同化」も図った事が判っている。
    「信濃」は「伊勢からの優性の血筋」、「伊勢」は「信濃からの優性の血筋」を入れて共に「劣性の弊害」を排除し「四世族態勢」を堅持した。
    これは、「氏族堅持」の為に「血筋」に関わらず「商い」に関しても「同化戦略」を採ったのである。
    唯一つ信濃は「違う筋道」を採った事があった。

    それは、「伊勢との同化」を進める中で、それは「四世族系」の「直系族」のみの範囲に留め、「尊属と卑属」に拘わらずある程度に「傍系族」には「姓化」を認めている。
    故に、現在に於いても「直系族の宗家」の「信濃青木氏」が存続し、伊勢、信濃共に「直系族の宗家」は明治期(明治9年)まで存続した事が確認できる。
    現在も「笹竜胆紋の後裔」は、その「ある程度の伝統」と共に遺されている事が判っている。
    この様に一定の規律、つまり、「慣習仕来り掟」を「直系族」が柔軟にして護りながらも「姓化の弊害」を乗り越えて生き遺った「青木氏族」もいた事にも成る。

    唯、「伊勢と信濃」に於いては血縁に於いて更に「面白い事」があるので追記する。
    それは平安期末期に京にて遥任していた「源頼政」が朝廷より得ていた「領国」の「警備」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」を合体させて「伊豆」に送り込んだ。
    これは「賜姓の氏族の血縁」と云う視点では「面白い戦略」である。

    本来であれば、「領国の伊豆」に警備として送るのであれば、普通は「源氏族」であろう。
    何故なんだろうか。それは何か「血縁を含む氏存続」に関わる何があって、この様な「不思議な戦略」を執った事は先ず判る。

    そもそも、「摂津源氏の頼光系の四家一族」は、前段や上段でも何度も論じたが「武家貴族」と云う立場を護る為に「武力」を大きくは持たなかった。
    「武力」を持つ事で「武家貴族」として「祖父満仲」の様に朝廷から疎まれたが、その事では「摂津四家」の「頼政」は三位まで登り詰める事は出来なかった筈である。
    当然に、「直系族の宗家」として「じり貧の運命」を辿り「賜姓源氏族の生き残り策」を果たせなかった筈である。
    然し、「満仲の作った武力集団」を引き継いだ「頼信系」は一時は伸長したが、然し、この結果は逆に平家に敵対され衰退化を招いた。


    そこで、「頼政」が目を付けたのが同じ「皇族系賜姓臣下族」の「伊勢と信濃の青木氏族」が持つ”「影の勢力の抑止力」”であった。
    「武力集団」として公に成っていないこの「影の勢力の抑止力」を「平家の勢力拡大」の中で「伊豆」に送り込んで何とか「領国」を護る事に着目したと考えられる。
    そうすれば、朝廷より武家貴族としての非難は免れる。

    そもそも、「頼信系」と同じく「武力集団」を形成して送り込めば、一族の”「血筋」”は乱れ、且つ、”「姓化」”が起こり、何もしなければ「ロとハのリスク」を抱え「族の形成」は危うくなる。
    「朝廷が認めた領国」である以上は、そう簡単に「武力」が無ければ手を出せないし、従って、最大勢力の「平家」に潰される事が先ず起こらない。

    (注釈 「伊勢青木氏」は「平家の始祖の阿多倍王(孫の高野新笠・光仁天皇の后)」とは古来より隣国として繋がっている。)

    そこで、「武力集団」に相当する「影の勢力の抑止力(経済的繋がり)」をこの「伊豆」に成すには「伊勢と信濃」を「合体させる手」を打つ事が必要であった。
    そうでなければ「ロとハのリスク」が起こると共に衰退し「賜姓源氏族」を遺せ無い筈で、そこで「伊勢」には血縁的に「妾子の京綱」と、「信濃」には「妾子の国友」に跡目として送り込み、そして、この「融合した合体一族」を「伊豆」に送り込む「奇策の戦略」を執ったのである。
    これでいずれも「宗家」の「源氏族の血筋」と「青木氏族の血筋」の合体で、「血筋リスク」はより解消され圧迫を受けている「摂津の宗家の源氏族」を安定して遺せると考えた筈である。

    そもそも、「青木氏族」の「直系血筋の四世族」は「仁明天皇」までであり、「ロとハのリスク」は系譜上は無い。
    「摂津源氏族」は、他説が多いが、「貞純親王説」としては「7世族」に当たり「姓族の外子王」である。
    「四世族」までとすれば完全にルーツを変えた「賜姓族」であるが、そもそも、「貞純親王説」は「傍系尊属」に相当するので、好ましくないと観たのではないか。
    然し、「親王」ではないが「陽成天皇説」であれば、この「天皇」は「ロとハのリスク」を持った記録に残る程の「暴君」として有名であった事からも、この「二つの説」からも「清和源氏」にはこの「血縁のリスクの危険性」を持っていた。

    これを当然に認識にしていた「頼政」は、「青木氏族と賜姓源氏族との血縁戦略」とすれば「ロとハノリスク」は解消されると考えたと観られる。
    「清和天皇」は、上記の通り何れの説も「皇子」ではない孫(王位)であり、例外であり、且つ、「ロとハのリスク」を引き継いだ王を賜姓する事に成り、これを頑として拒んだ。
    本来は、「清和源氏」では無く、「賜姓源氏族」と成るには「陽成源氏」と成るが、「ロとハのリスク」を持つ「天皇」としては「賜姓」は困難と扱われていた。
    そこで、止む無く、「純友の乱」を「経基王」は企て「祖父(清和上皇)」に頼んでその勲功で「賜姓」を願い出たは経緯を持っていたのである。

    つまり、これらの「三つの汚名」を払拭し「正統な源氏族」として遺す為には、「跡目」を両氏に入れる事は血縁上は問題はまずなく「ロとハのリスク」は殆どない「賜姓族」と成り得る。
    これは、当に、下記に論じる「政争」とも成った「孝謙天皇の正統説」と全く同じである。
    筆者は、重要な事は、「青木氏の歴史観」に執ってみれば、「孝謙天皇期の政争」も「清和源氏頼政の戦略」も要は「施基皇子のルーツ原理説」に起因していると捉えている。

    (注釈 「親王」と「皇子」の違いは、「大宝律令」を境に漠然としていた「四世族内の皇子」の「皇子の位階」が正式に決まり、呼称が「皇子」から「親王」と成り、宣下を受けた者は「親王」に、受けなかった者の四世族までの者を「王」と呼称する事に成った。
    但し、平安期の初期当時は「外子王」の場合には、未だ「皇子の呼称」が残り、宣下を受けた「外子王」を「親王」とする区別する呼称が一時期続いた。
    当時としては、「貞純親王の母」は「妾」であり、「貞純親王」は「妾子」となり、「親王」とあるが「母の経緯」から「傍系族尊属」に相当する「外子王」に成る。
    この使い方に付いての説には「歴史的経緯の間違い」が多い。)

    そして、「跡目を入れた融合合体族」と「女系で繋がる抑止力団」で周囲を固め、更にこの血筋は隣国に存在する「補完族の秀郷流青木氏」とも血縁関係を持ち、その「秀郷流青木氏の勢力」を以って「伊豆の入り口」を防御しすれば、「完全無傷の形」で源氏族は正常に遺せる。
    (その後に、「以仁王の乱」を起こす。現在も「青木村」を形成し生き残っている。伊勢と信濃以上であろう。)
    本来であれば、「伊豆」には「血縁の劣性の弊害」が起こっている筈であるが、資料によれば何某かのそれと思しき内容は元々出て来るものであるがそれも発見できない。

    更にこれは、何故であろうか疑問である。

    これは、矢張り、「青木氏族以外」からの「源氏族」の「頼光の生き残り戦略」の通りに、この中に116氏に及ぶ「秀郷流青木氏との繋がり」を持つ事で「血縁の劣性の弊害」は消されていった事以外に無いだろう。
    「青木氏の歴史観」から観れば、これが、「血縁」に依る「補完役としての役割」として「頼光の戦略」は考えていた事に成る。
    これは同時に、つまり、このこれに依る”「姓化」”が入れば、「源氏族」では「正統な血筋の範囲」では最早遺せ無いと観ていた事にも成る。
    この「焦り」が「頼政」にはあったと観ている。
    故に、「劣性の弊害」が出る可能性の高い「同族血縁性の高い融合族」の中でも「四世族制」を護り、「賜姓臣下族としての慣習仕来り掟」と「血縁の弊害」を無く現在まで護り通し得た戦略であったと考えられる。
    その意味では、「伊勢や信濃」を凌ぐものが「伊豆」にはあったと考えられ、現在に於いても現実に目の当たりにして、その「慣習仕来り掟や祭祀」等の「伝統」は遥かに凌いでいる。
    この侭では、「融合族と云う定義」はそもそもおかしいが、「融合族の伊豆青木氏」が最後までその「伝統」とその「血縁性」をより高く護り通す可能性が高いと観ている。
    その意味で、「冠位官職」を同じくする「補完役」で、且つ、「賜姓族(藤原朝臣族)」で当初は「四世族」では無かった「秀郷流青木氏の存在」は実に大きい。

    これは”「血縁」と云う事”のみならず、「姓族勃興」に依って「慣習仕来り掟」が護れなくなり「衰退逃亡」に追いやられた四地域の「賜姓臣下族の青木氏族」を救った事も見逃せない事である。

    そこで、その「秀郷流青木氏」を「劣性の弊害を無くす血縁」と云う意味で検証する事に成るのだか、それは次ぎの様に成るだろう。
    更に、平安期の「青木氏族の補完役」、つまり、「第二の宗家」と呼ばれた「藤原秀郷流青木氏」は武蔵域を始めとして「全国24の地域」に根を下ろし、何と116氏まで広げたが、「劣性に依る弊害」は「青木氏の中」では最も生まれなかった。

    注釈として、唯、「秀郷流一門」の中での「青木氏族」の中に入る「主要五氏の進藤氏」だけには、「秀郷流一門」のこの「劣性の弊害」は出ていた様で、それは「一族一門を取りまとめる立場」にあった事から、「一門の血縁性」で固め「発言力」を保持していた事に依るのであろう。

    この事に付いては、「秀郷流一門」の資料にも遺され、更には、「進藤氏」と親密な関係のあった「近江佐々木氏の資料」の中にも垣間見られ、「武蔵北部域」を護っていた「進藤氏直系の系譜」を観ても「継承者の事」で苦労している様子がよく判る。
    それを観ると、「血縁の弊害」が強く出て、実に「廃嫡性」が高く、「嫡嗣と義嗣の入れ替わり」が激しいのが判る。
    宗家分家に拘わらず、「秀郷流青木氏族の秀郷流進藤氏」は、「義嗣」が多い事から「血縁の弊害防止」に先ず「廃嫡」をしてその上で「義嗣」に入れ替えて何とか「血縁の弊害」を無くそうとしたと観られる。
    これは「直系嫡嗣」に恵まれなかったという事では無く、家筋を保つに堪え得ない「唖子や劣子」が多かった事を示していて、それ故に「系譜に観る内紛」が起こっているのである。

    この様に「秀郷一門の青木氏族」の中でも、「血縁戦略」を一つ間違うとこの様な「宿命的な運命の道を辿る事」に成る事を意味している。
    実に狭い道筋と云える。

    その中で取り分け、「伊勢の秀郷流青木氏」は、「伊勢と信濃の賜姓臣下族」の「青木氏との女系」を基本とする血縁を積極的に進め、「青木氏族の氏族」を形成し、殆どは「同化に近い状況」と成り得ていた。
    その象徴は、「賜姓臣下族の一員」として認められていた「四日市殿」である。
    つまり、前段でも論じた事ではあるが、「女系」で繋がりを強化して、その子の「二世族の嗣子一人」に「実家の青木氏」を「嫁ぎ先」で一つ先ず興させて、「嫡嗣の男子」を「実家の四家制度」の中に組み込ませ、且つ、「女子の二世族の範囲」では、実家の「四家制度の養育の娘」として送り込んだのである。
    これを室町期から明治初期まで相互にこの制度を推し進め強固なこの基盤を作り上げたのである。

    (注釈 「四日市殿」は「青木氏族」と「伊勢籐氏」と「徳川氏」とも直接に血縁関係を持った「パイプ役」を果たした。)

    当然に、複合的にも「伊勢籐氏の血筋」も「伊勢秀郷流青木氏」を経由して融合される事にも成り、何れに於いてもその「結果の絆」は相互に高まり、それは前段でも論じた様に室町期末期の混乱期の「信定と忠貞の連携」にも表れている。
    元より、前段でも、「射和商人の段」でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」は「伊勢籐氏」と共に「紀州藩」にそっくり抱えられ家臣(姓化)と成り、「青木氏族」を側面から護った。

    武蔵域に於いても「秀郷流青木氏」のみならず「秀郷流一門」は、そっくり「御家人や旗本」として「家臣化」し、「幕府の官僚族」を席巻したのである。
    この事で、全国に散在する「現地孫」や「傍系族」を含む「秀郷流一門」の「横の血縁の連絡」は充分に取れ、それが「血流」と成って「伊勢や信濃」にも及んで居た事にも成り得る。
    つまりは、これは「血筋の源流の大きさ」を物語る。
    これ程に「血縁の大きい源流」は日本には無い。
    「血縁と云う正統な伝統」に護られた形の上では日本最大と考えられる。
    「宗家」は「四家制度」を採りながらも「秀郷一族一門の361氏」と云う途方もない「勢力」と、それを使った「吸い上げた血縁性」により、「血縁性に関する弊害」は認められなかったのである。

    「姓化」は「青木氏族」に執っては、一面では「氏族存続の弊害」とも成り得るが、全国に分布する「傍系尊属卑属」までの「姓族」を含めれば、ここからの「血筋」の無限に出続ける「源流」と成り得て、且つ、その「源流の流れ」からその「血筋の流れ」を引き込む事は、「無限の新鮮な血筋の井戸」を示す様なもので、「血筋の劣性弊害」は無く成る事は必定である。
    「青木氏族」に執っては、この”「源流制度論」”であれば、最早、この事では「血縁弊害」は秀郷一門に関する事ではこの論外であろうと考える。

    そこで戻って、「伊勢」は、「四世族制」に関わらずに「伊勢郷士」との間にも幅広く徹底した「女系族造り」に切り替えた。
    そして、地元に根付いた「絆造り」に切れ変えた事が示されている。
    であり、重要な事は”その本質に戻した”という事に成り得る。

    (注釈 江戸期前後に於いて、上記した様に「女系族論」は、そもそも「人の類」の「本筋論」であり、これに依り、「劣性遺伝の弊害」を無くした事のみならず、「信濃」を含み「青木氏族存続の輪」を広げたと考えられる。
    この事は遺伝学的にも補完役として裏付けられている事である。
    これは、現在に於いては「特別な事」では無く、「孝謙天皇期の政争」と「頼政の戦略」も「江戸初期の女系族化策」も本筋を得た先祖の行為であると論評している。)

    これに関わった「秀郷流青木氏の116氏一門」は、「子孫繁栄の補完役」を完全にを果たした事に成り、「実務上の補完役」に拘わらず「氏の根底の補完役」をも先を見据えて戦略した「円融天皇の判断」は実に正しかった事に成る。
    秀郷一門の「宗家の第三子」を「補完役の秀郷流青木氏」を断絶する事無く「継承を義務付けた事」がこの「天皇の決意」を物語るものであるとされる。
    そうでなければ、「実務の補完役」で終わっていただろうし、「天皇」は赴任地を多く与えて116氏まで広げなかった事に成る。

    上記の論調に関して言えば、この「土台作りの影響」が「前段の射和郷士の件」に表れていると云う事なのである。
    つまり、「直系族の男系」は、論理的には「四世族制」を保ちながらも、「女系族」から「優性遺伝の血筋」を入れていた事に成る。
    これでの「重要な事」は「男系に依る血筋源」では無く、「女系の血筋源」とした事を意味する。
    よく似た対策としの「優性対策」として「平安期に採った妾子制度」と違って、江戸期初期の「女系の血筋源」の方が幅を持つ事ではむしろ「優性遺伝」に繋がる事に成った。
    「混血に依る優性遺伝」は、「劣性遺伝による弊害の防止」のみならず「特別に優秀な嫡嗣」を生み出すという特徴をも持っている。
    江戸期の第三の分岐点・ターニングポイントはここに決定的な違いがあった。


    そこで、上記の事を認識したとして、話を戻して、「奈良期の後半」に入り、この原則的な対応策(賜姓五役の宿命)を採っていた「志紀真人族」には、「劣性遺伝の弊害」のこれが「四家」の「四家20家」の何処かに出ると認識し、「賜姓臣下族の朝臣族」を保つ上では、つまり、「青木氏族」を保つ上では、「四家制度」と「家人制度」では防ぎ切れない事に成っていた事を認識していた。

    (注釈 「志紀真人族」とは、「施基皇子族」で後の「春日宮御宇天皇」の後裔の事であるが、つまり、「皇族真人族」に「男子後継者」が不在と成り、結局、「聖武天皇」の内親王の「井上内親王」と「準継承族の賜姓臣下族で朝臣族」と成った「施基皇子」の「四男の白壁王」との婚姻をして「皇位」を継承した「光仁天皇」と成る。
    依って、その父である「施基皇子」を後付けで天皇としたが、「施基皇子の崩御後」の54年後に出来たこの「四世族までの一族」を云う。
    つまり、「敏達天皇の春日真人族」の「四世族の施基皇子」の「青木氏族」を云う。)

    上記の注釈の通り、この事を読みこめば、「聖武天皇期」は「別の意味」で当にこの危機に入っていた事を示す。
    「続日本紀」にもある様に「皇子族」(真人族の親王)が無い為に「皇族内部」に「後継者」をめぐり「抗争」が起こり、結局は、「外子王」までを持ち込み「勢力争い(藤原氏や橘氏)」が起こった。
    「聖武天皇の真人族」の「四世族内」にも、「皇位継承族に値する優性の男系の継承者」が無く成り、唯一、「真人族」の「二人の内親王」の一人が「孝謙天皇」と成りその後上皇と成るが、“「外子王」“の「純仁天皇」が皇位を続けが、「上皇」との軋轢から廃位されて止む無く「上皇」自ら「天皇」に戻り、「称徳天皇」として戻り二代続きの「女系天皇」と成った。
    然し、結局は、「正統な男系継承者」は無く成り、一説では「潔癖性の強い嫉質」(原理主義・正統主義と観る)があったとされるが、それ故に「時間稼ぎ」をした事に成るのだろう。
    遂には、その妹の「天皇」と成る事を拒んだ「井上内親王」(天皇に成る事避けていた白壁王)を持ち出し、周囲が掃討されたその結果で、「苦肉の策」として「準継承族(敏達天皇より9世族)」の「賜姓臣下族で朝臣族」と成っていた「施基皇子族(青木氏族)」までに手を伸ばして来た事に成る。

    結局は、「孝謙上皇」は「純潔性」を守る為に、「原理主義・正統主義」に基づいて一度、「天智・天武期の状況の血筋」に戻して、その「準継承族」として遺っていた「志紀真人族」に「白羽の矢」を立てて納めたのが本事件であった。
    つまりは、「施基皇子」や「川島皇子」が自らが編纂した「天皇家の慣習仕来り掟の規則」を定めた「帝紀」や「上古諸事」を持ち出して、無理に「皇位継承者」を造り、それに「天皇の継続性」のある「井上内親王」と血縁させて辻褄を合わせたと云う事に成る。

    この「二つの根拠」には、「外子王」(四世族の傍系卑属)を入れて「皇族の血筋」を外すよりは、「原理主義・正統主義」に基づいて戻す事の方が「より良し」とする判断には、「外縁」(傍系卑属・中には四世族を外れる外子王をも持ち出した)は抗する事が出来なく成った。
    これは、つまりは、「孝謙上皇」は候補と成る「四世族内」の「傍系卑属の外子王の人格」、況や「劣性の弊害」等を認め悉くクレームをつけた。
    この「劣性の外子王」を操り「天皇家」を乗っ取らんとする企てにも気付いていた事にも成る。

    (注釈 一説ではこの事が誤解されて孝謙天皇の「嫉質説」が生まれた。)

    更に、この「四世族内」に「男系」が無く成ったという事だけでは無く、有ったとしても廃嫡せざるを得ない状況が強かった事に成り、想起外の「志紀真人族」に「白羽の矢」を向けた。
    この決定は普通ではあり得ず、明らかにこの「天皇家」は「ロとハのリスク」のこの危機に入っていた事を示す。

    さて、ここで一つ疑問なのは、何故、同じ立場にあった「近江佐々木氏」や「四家四流青木氏族」にも向けられる可能性はあった筈であるが、然し向けられなかった。
    資料は全くないが、その理由として次の事が挙げられる。

    短所
    「朝臣の近江川島族」は争いの下に成る政争であった「天武期の吉野盟約」に参加した事。
    「近江佐々木氏」は「青木氏族」より「四世族制」を充分な制度化をして護らなかった事。
    「賜姓臣下族の朝臣族」としての「務め」に比較的に疎かった事。
    「施基皇子の二世族」に比べて「良き男系継承者」が少なかった事。
    「近江佐々木氏」や「近江青木氏」は「政争の元」と成る「公家族との繋がり」が強かった事。
    以上のリスクが考えられる。

    長所
    1 「志紀真人族」には「高野新笠(渡来人の後漢阿多倍王の孫)の背景」があった事。
    2 「施基皇子」は「敏達天皇の四世族」であり「正統性」があった事。
    3 「青木氏族」は、既にそれまでの「皇族血筋」(継承外と成った真人族王)を頻繁に入れて「五家五流族」を形成していた事。

    幾つかの「遺されている資料」を咀嚼すると、つまりは「孝謙上皇」は、「周囲の強力な反発」を振り切ってこの「長短の比較」をした結果と考えられる。

    その「決め手」は「長所重視」に及んだ事と考えられ、取り分け、“「天皇家の本筋」に戻す”という事から考えると明らかに「長所の3」であったと考えられる。

    そうと成れば、上記した厳密な計算された「規則や制度」に依って「外部血筋」を入れて徹底して「姓化」を敷かなかった「伊勢青木氏」を選ぶ事に成る。
    例え、「臣連族」であったとしても「姓化のリスク」は、より「外部勢力」を呼び込んで仕舞い、女性である「孝謙上皇」が嫌った、“「政争」”が朝廷内に蔓延る危険性が大いにあった。
    そもそも、この「皇位継承の縁組」を申し渡された時でも、「白壁王」を始めとして女子を入れた「十人の子供」等は、「施基皇子の遺言」の「青木氏の氏是」があったとしても、徹底して個人で「無冠を主張した事」でも歴史上の事実として判る。

    (注釈 然し、現実には最後は「無冠」であったのは「男子の二人」と「女子の一人」と成った。)

    この時期は未だ表向きは「皇親族」であった。
    つまり、前段でも論じたが、天皇に困った事が起こった場合に、天皇の前で意見を述べられる立場で、且つ、場合によっては「天皇の秘意」の有無の事も含めて、その困った「懸案事項の解決」に直接務めるという役目の「令外官役」を負っていた。

    (注釈 この「皇親族」の「令外官の役目」は、「嵯峨期の詔勅」で外された事のみならず「賜姓族の対象」からも外された。
    そして「賜姓」は、「令外官の役」の持たない「無役の源氏族」と変名して賜姓した。
    源氏族には財政的にも保障しなかった。)

    筆者は恐らくは、「孝謙上皇」は、「和紙」などの「二足の草鞋策」の「豪商も兼ねた令外官」の「世間に明るい伊勢青木氏」に密かに諮問していたと観ている。
    結局は、それが「孝謙天皇の信頼」の元と成って「白羽の矢」を立てたと考えられる。
    この説で観ると、「青木氏の二世族」は、何で「無冠」を主張したのかと云う事に辿り着く。
    この事で、表沙汰に成れば、「世間の批判」を受けかねない事にも成り得て、「青木氏の氏是」の事もあり、敢えて「無冠」を主張した事に成る。
    この根拠は、その後の「青木氏族の執った姿勢」、又は、その「立場」にあったと観ている。

    つまり、次ぎの事である。
    「二足の草鞋策」を通じて朝廷に対して明治初期まで「献納」を行っている事。
    「嵯峨期の詔勅」で無く成った筈の「賜姓五役の立場」を堅持し、江戸初期まで堅持した事。

    つまり、この事は「諮問に対する答えの責任」を執ったという事であろう。

    それでなければ、鎌倉期からその「役目の意味」が殆ど亡くなっているのに、更には「準継承族」では全く無く成っているのに「賜姓五役の役目」を依然として続けた事に疑問が残る。

    既に、上記した様に「青木氏族」から光仁期に「天皇」を出した以上は、最早、「準継承族」では無く成っている筈である。
    その「天皇」は、「青木氏族の直系族」としては、血縁的に考えても、丁度、「第四世族」の「54代 仁明天皇」までである。
    その後は、「高見王」は、即ち、「桓武平氏」: 「阿多倍王・高望王・平望王」の「後裔の血筋」が入る結果と成るのであるが、この祖と成る「光仁天皇の后」の「高野新笠」はこの「阿多倍の孫」でもある。
    従って、この「青木氏族」と傍系で繋がる血縁を持つ「高見王」に、「賜姓源氏族(賜姓でない源氏も多い)」と「藤原氏系族」がこの血筋に組み込まれた。
    然し、この状況は「後一条天皇」の直前まで続いて、「外縁」と成る「賜姓源氏や藤原氏」等の血筋の範囲は一端この時では終わっている。

    はっきり云うと、本来であれば、理屈上は「賜姓五役の役」は、三世族の「嵯峨天皇期の詔勅」で正式に終わっているが、伸ばしたとしてどう考えても最早、四世族の「仁明天皇」のここまであろう。

    ここからは、論理的には「純潔性を含む賜姓五役の責任」は完全に無く成っていて、後は「青木氏の勝手」という事に成る。
    取り分け、「純潔性」に付いては「賜姓源氏族に渡っている事」にも成る。
    然し、実態は違っている。

    つまり、「第一の分岐点・ターニングポイント」の前に、平安期末期にも「ある種の分岐点」があった事に成る。

    筆者は、これがそもそも”「基点」”であったと考えていて、直ぐに「第一の分岐点」には成らなかったのであり、敢えて云うならば、「仁明天皇期」が「0の分岐点」と成ろう。
    ここから「青木氏族のエネルギー」を貯めて徐々に変化していって「第一の分岐点」に達した事に成ると考えている。

    況や、直ぐに「仁明天皇期」に「分岐点」として成らなかったのには、それには「分岐点」には成らない「(−)のエネルギー」が働いたからである。

    それは前段でも論じている960年頃に令外官的な「補完役」としての「秀郷流青木氏の出現」であった。
    この「補完役」を作り出さなければ、世の中に「政治的に困った事」が起こっていたと云う事に成る。
    「補完役」のこれは「藤原秀郷一門」がそもそも自発的に求めたものではない。
    「朝廷(円融天皇)」が「社会情勢の乱れ(青木氏族が皇親族から引いた事)」から「令外官」としての意味も込めて「秀郷一門宗家の組織」に「宗家から第三子」をこの「補完役の青木氏」を名乗らせる事を命じた。


    (注釈 これは「令外官」としての「実務と血縁」の「補完役」でもあって、この始祖が「千国」と成ったのだが、その後は二流に分流し秀郷一門の「主要五氏」として「青木氏族」を形成するまでに成った。
    この結果として、秀郷一門361氏の内、116氏を占め「第二の宗家」と呼ばれるに至った。
    ここでは、そもそも「青木氏の歴史観」として観れば、「全国24地域と116氏」と云う要素には大きな意味を持っていると考えられる。
    平安期中期から室町期中期までの間にどんなに考えても、「時の政権」が「実務的」には桁外れの「24地域」にまで「補完役」として赴任させる事は先ずは無い。
    更に、「血縁的」には「116氏」と云う膨大な子孫拡大を認める事は無い。
    これは明らかに「実務と血筋」の「補完役の令外官」としての「恣意的意味合い」を持たせたと考えられる。
    他の「氏族」にこれだけの事をさせる事は「政治的に好ましい事」ではない。
    「藤原氏北家族」の「秀郷一門の勢力」の土台の上に更にこれだけの勢力を持たす事は「政治的発言力」は強大と成り得て警戒される。
    現実に、瀬戸内で勢力を伸ばしていた「讃岐藤氏の一豪族」でさえ「純友の乱」としてこの「警戒心」から潰された経緯を持っている。
    この逆の政策を執っているのである。
    「純友の乱」と「秀郷流青木氏」とは根本的には違うが、「純友」は「一族の単なる勢力拡大」で、「青木氏」は「実務と血筋の補完役」であり、根本的に「立場の有利性」は違う。
    「実務と血筋と云う令外官の補完役」は、「実務」は「血筋」無くして成し得ないし、「血筋」は「実務」無くして成し得ない「相関の関係」にある。
    故に、時の政権は「実務の24地域と血筋の116氏」と云う拡大を認めたのであり、ここからは「政治への発言権の拡大」はあり得ない。)

    そこで、上記の「政治的に困った事」とは、「賜姓五役」として手を曳いた事に依って「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の荒廃」と「献納」が途絶えて「財政的な困窮」にあった事である。

    (注釈 「政治的に困った事」は政治的に二度あった。一つ目は、この平安期から室町期で、二つ目はと前段での江戸初期である。)

    これで観ると、一つ目は明らかに、「準継承族」としての「純潔性の義務の保持」は外れたとしても、「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の役目」までを放棄した事に成る。
    これは「青木氏族」としては「相当な覚悟であった事」に成る。

    ところが、この「秀郷一門」に「青木氏族」と成って「令外官の補完役」を命じる前に、一つの大きな出来事があった。

    それは、朝廷は「賜姓臣下族の青木氏族」に代わった「賜姓源氏」にこの「神明社の修復」を命じている。
    これは、「嵯峨期の詔勅の文言」の”賜姓してやる代わりに財政的に保障しないから自由に生きよ”に反する。
    その「賜姓源氏」に「青木氏の守護神」の”「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を修復せよ”はどう考えても不合理である。

    然し、元々、「嵯峨期の詔勅」に明記されている様に、「財政的能力のない武家貴族の源氏」にこれを成す能力は無かった。
    そこで中でも、「武家貴族の清和源氏」が各地に飛散している「源氏族の有力な傍系族」を集めて「武家」に課せられていた「禁じ手の武力集団」を構築し、各地の荘園を奪い勢力を蓄えた。
    然し、そもそも「修復」はその「勢力下での財政的裏付け」にあるにも関わらず、これにも「朝廷から非難」を受けた。
    確かに理不尽そのものである事は否めない。

    (注釈 「清和源氏の二代目満仲」は「武力集団の創設」のこれを行ったが、この「路線争い」で三代目で意見が分かれ、「嫡子の頼光派・官僚族派・摂津源氏」と、「三男の頼信派・武力集団派・河内源氏」に分かれた。
    「摂津源氏(頼光派)」は「四家制度」を敷き「青木氏族」と同じ務めを引き継ごうとしていた。)

    「朝廷」は、以上での経緯があるにも拘らず「財政的な補償」をしなかった「宗家の摂津源氏」にこの「修復命」を出したのである。
    ところが、「摂津源氏」には元より全ての源氏には、「神明社を修復する財力」は元より、技術技能を司る「青木氏部」の様な「技能部の力」は持ち得ていなかった。
    そこで「朝廷の命」の「体面」を保つ為に「摂津源氏宗家」は一社のみを修復して、後は言い逃れて「引延策」を演じた。
    業を煮やした「天皇」は、遂には、直ぐに「将門の乱」にて功績が認められ「貴族と位冠と武蔵国」の三つを与えられ発祥した直後の「藤原秀郷」に、上記の「補完役命(秀郷三男の千国)」を出したという事に成った。

    余談として、以上の事でも”如何に「青木氏族」が「嵯峨期の詔勅」に対して反抗したか”の例として考察され、この「政治的に困った事の経緯」とはこの様な事であった。

    話を戻して、注釈として、「四世族の範囲」での独自の血縁制度で「純潔性」を保ち、且つ「天皇家の権威」を保つ上で「帝紀」等を運用して「大義」を造り上げた。
    「純潔性の血縁制度」に依って出る「唖子や劣子に対する誕生」に対しては早期に済ます系譜には出ない「廃嫡制度」を採用して、記録にも出ない制度を敷いていた。

    この様に上記の経緯は、何時、又、「準継承族としての立場」を課せられるかも知れない「掟」があって、「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」としていたが、この事がそれは何時か一挙に「青木氏の滅亡」をも意味するか認識していた証でもあり、戦々恐々としていた事を物語る。

    それが「孝謙天皇期」に遂に再び訪れたという事に成ったのであろう。
    故に、「志紀真人族」の「第二世族」は全員が「無冠」を主張し、「施基皇子」が定めた「青木氏族の氏是」を「第二世族」に依ってより強化されたものと理解する。

    恐らくは、そもそも、多くの皇子の中で「施基皇子」だけが「天武期の吉野盟約」にも、「あらゆる政争」にもただ一人だけ参加しなかった事から観ても判り、従って、この「青木氏の氏是」は「施基皇子の生き様」を示す「施基皇子の遺言」と捉えてられている。
    これは、「撰善言司」に成っていた事でも云える。
    つまり、筆者は、当初から、つまり、「施基皇子の代」から持っていた「戦々恐々論説」であり、「準継承族」としての「名誉的な自惚れ」は無かったと観ている。
    だから、「嵯峨期」には一族の出自元・実家先でありながら、この様な場合に依っては潰される可能性もある「反抗態度」に出たと考えている。

    故に、裏を返せば、「天武天皇期」には、「草壁皇太子」や「高市皇太子」より三段階も上位にある程に信頼され、「天武天皇崩御」の「葬儀人」にも選ばれた所以でもあろう。
    更には、「葬儀人」に相当する「持統天皇の造御陵長官」、「文武天皇の嬪宮」も務めた人物でもある。
    この様に全ての人からその「人格や品格」を信頼されていたからこそ「法律の骨格」と成る調査をも任され「撰善言司」にも成っている。
    「吉野盟約の不参加」が指し示している。
    ところが、この様に「立場」を不安定にしない為にも執っていた”「準継承族」としての「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」”が逆に痣と成ったのである。

    これは、「孝謙天皇の行為」や「続日本紀の編集の経緯」にも表れている。

    その事に付いて「血筋」、即ち、「血筋が起こす悲劇」として論じる。

    そこでそもそも、この「続日本紀」とは、「六国史」の内の一つ「日本書紀」に続く「史書」でもあり、文武期の697年間から始まり最後は791年までの事を編纂したもので、その多くは「桓武天皇期」に完成されたものであるが、「撰善言収書」はこの「編集の資料」にも成ったとされ、且つ、「日本初の完全法令書」の「大宝律令(701年)の参考書」にも成ったとされている。


    さて、ここ迄の議論で、何で「伊勢青木氏」が「天皇家」も含むどの「氏族」よりも早く完全に近い形で「劣性遺伝による弊害の防止」の「血縁制度」を驚く速さで敷けたのかと云う“「疑問A」”がある。

    そもそも、これは「賜姓族」であった為に「慣習仕来り掟」に縛られた中ではそう簡単に進む話ではない。
    そして、もう一つの「疑問」は、何で「信濃青木氏」は血縁を含む「伊勢との繋がり」を迷うことなく即座に強く持ったかと云う“「疑問B」”のこの事である。

    筆者は、この上記の「二つの疑問AB」は連動していたと観ている。

    それには、つまり、上記の通り「史書」や「律令」に影響を与えたくらいのものであったとすれば“「撰善言司」“が大きく関わっていたと観ているのである。

    全国地方を歩き廻り得た「善治」の中には、「家族を構成する血縁の事」も含まれていて、「天武天皇」を含む「三人の葬儀人」を務めたとする驚くべき「長寿と名誉」を得た「施基皇子」と、その全ての「二世族」は、この「施基皇子の知識」と「考え方」を反故にする事は先ず無かったと観ている。
    その上で或いは、その「撰善言司の資料」は、或いは、「撰善言収書」の「写し」が後々まで遺されていた可能性があって、それを「二世族」が観てよいところを引き出し採用し、骨格化して作り上げたものであると観る。
    それが「短期で反映された根拠」であって、且つ「血縁組織制度」であったと観ている。

    (注釈 口伝に依れば、古書の殆どは「消失」としているので、自宅か菩提寺の何れかに保管されていて、これらの関係する資料は二度の火災の何れかで焼失したと観られる。
    本来は、「青木氏族」に関わる執事役は「菩提寺」・「撰善言収書」の「写し」か、神明社の「守護神」・「撰善言収書」の「本書」の保管であるから何れかにあったと観られるが、「本書」は可能性が低いと観られる。)

    故に、「施基皇子」の「白壁王(光仁天皇)」の子供の「山部王(桓武天皇)」、つまり、「孫」がその環境に育った事もあって、この「祖父の事」と「祖父の青木氏の事」を書いた「日本書紀」に続く歴史書の「続日本紀」を強い熱意を以って完全に仕上げたと観ている。

    そもそも、「青木氏の歴史観」に関わるこの「続日本紀の編集経緯の件」ではあるが、これは、年数にすれば約95年も掛かったものであり、この経緯からすると放置していれば完成は出来ない事でもあった。
    敢えて“仕上げた”とするからには、“それなりの強い意”があった事を示す。
    何故ならば、この「続日本紀」は、当初は、「文武期以降の事から孝謙天皇期までの事」を偏纂しようとしたものである。

    然し、編纂開始の時期の「第一期」は、「淳仁天皇(760年頃)」からでその間に政争等色々な出来事などに依って「中止」と成る等の経緯と成った。
    この「外部勢力」を巻き込んだ「天皇家内部の政争」は、「外子王の淳仁天皇の正統性」を作り上げる事への「孝謙上皇(称徳天皇)の反発」にあったと観られる。
    然し、この「反発」がその事に依る「中止の原因」と成った。

    ところが、「第二期」としては、「光仁天皇」が「続日本紀の編集」を再度に命じたが、ところが、更には「編集者の反抗」を受け、更には「編集した資料」が「編者らの懐疑的な行為」により「紛失する等の事」が起こり、矢張り、未だ「孝謙天皇期の事」を引きずる論調が強く編集途中で有耶無耶にされ「停止」してしまった。

    然し、「第三期」としては、「桓武天皇」が「父の意」を受けて「桓武期の途中までの内容」として再編纂する様に命じ、それも在位中の「天皇の権威」を背景に、遂には、「編集」に対する「紆余曲折」の末に完成させたものである。

    最早、この段階では「血筋の正統性」の議論は霧消し、編集は加速したのである。

    これらの「三つの期」を観ても、一つには明らかに「光仁天皇と桓武天皇」は「施基皇子族の天皇期」の「孝謙天皇の真意」を継承して「歴史的な証明」を成し遂げようとしたと観ている。

    第一期は、「外子王の淳仁天皇」の「文武期からの正統性」を「歴史書」にして遺そうとした事でもある。
    然し、「青木氏族」としても、且つ後勘としても、「四世族の傍系の外子王」である限りは「血縁の正統性」には無理があった事は否めないと考える。

    「第二期」と「第三期」は、「孝謙天皇の意」を得て「血筋」を「天智期からの施基皇子族」の原点に戻して「天皇の正統性」を主張とした「歴史書の編纂」でもあった。

    当時は、急激に100年程度も戻った「正統な血筋に戻す事」への「抵抗」があったと観られる。
    それが「賜姓臣下族」で「朝臣族」の最高位にあった「施基皇子」でありながらも、「四世族外」の「王位」を持たない「二世族の血筋への疑問」にあったと観られ、その「抵抗」を大きく受けたと観える。

    然し、「別の視点」では、「孝謙天皇期」に於いては、他に正統な後継者の皇子が居ない限りは“「外子王」(四世族)”である限りに於いては、「四世族」は「大化期の王位の条件」である以上は、最早、「最高の正統性」を持っていた事も否めない。
    「大化改新」の「四世族王位制」からの論調とすれば、「外子王の淳仁天皇」としては「正統性」があるとの主張である。

    それは、「四世族制の王位」の論調にあった。
    然し、“「外子王」”は、「直系族」では無い「四世族内の傍系族」であるとすると、「血筋論」としては「直系族」では無い事から外れる。

    この”「四世族の定義」”が明確では無かった事から起こった問題であって、原則論からすると先ずは「直系族論」であろう。
    然し、この時は、最早、この「直系族」は全く無かったのであるから、「四世族王位論」を以って主張される事にも一理はある。
    (「青木氏の氏是」がある限りは「青木氏族」としてはそうで合って欲しかった。現実に一族は皆その様に動いた。)

    そうすると、「孝謙天皇」は、この「直系族論」を採ったとすると、そうすれば「天智・天武期」に戻す以外には無く成る。
    故に、「施基皇子の族 青木氏族」か「川島皇子の族 佐々木氏族」かと云う事に成り、「井上内親王の嫁ぎ先」に「白羽の矢」が立て優先するは必然の事と成る。
    況してや、何れの派にも属さない「天下の人格者」でもあった「施基皇子族」を選ぶであろう事は間違いはない。
    この事を事前に察知していた「施基皇子族の二世族」は、この「醜い政争」に巻き込まれない様に警戒して「無冠」を望んでいた事は判る。

    (注釈 氏是の説明と共に口伝でも伝わる事である。)

    それが、「施基皇子」と「井上内親王」と云う「キーワード」に左右されたのである。
    これが、その中でも「井上内親王」を「后」とした「四男の白壁王」は、「歴史書や書物」でも見られる様に「無能者」を装う程に、この「血筋の正統性の政争」に巻き込まれる事を大いに嫌っていた。
    然し、「彼らの意」に反してこれが「最高手段」とした「孝謙天皇の主張」であった。

    第三期は、当然に「光仁天皇の意」を下に「桓武期までの歴史書」にする事で「天皇の正統性」を完成させたものである。
    「多くの説」があるにしても、当の「青木氏族」からの論調としては、「孝謙天皇の意」を完成さる事で「正統な天皇制」と云う「国体の有様」を完成させたという事であろう。
    それは、況や、百々の詰りは本論のこの「血筋という事」に成り得る。
    更に況や、「血筋優先論」であり、「直系族論」であった。

    故に、何れも「天皇の正統性の主張」であり、「日本書紀の文武期までの歴史書」に繋いで、「続日本紀」とした事でも判る。
    「孝謙天皇」は、この事に拘り「男系継承者」が無く成った事から、最早、「外子王の系統」にせずに「施基皇子」のところまでの「正統な処に戻そうとする葛藤行為」であった事が判る。

    そこで、初めて、“何で「直近の文武期」には敢えて戻さなかったか”という事でも理解できる。
    通常的には考えれば、正統な「血筋優先論」であり、「直系族論」であれば戻せた筈であろう。
    然し、直ぐには「抵抗」を受け戻せなかったのである。

    それは、次ぎの事に関わる。
    一つ目は、本書の「編纂目的」は「日本書紀」に書かれた内容に繋ぐ「歴史書の編纂」にあり文武期からの編纂と成る事
    二つ目は、「四世族」ではあるが「文武天皇」は、「天皇の子」ではなく「草壁皇子の子」で「王位」である事

    (注釈 「草壁皇太子」は早没である事から「王位」であるが「持統天皇の引上げ」で「天皇」と成る。
    第二皇太子の高市皇子も続けて没する。)

    以上とすると、この論理からすると、文武期に戻す事は、「皇子の子」でない「外子王」の「舎人親王の子」の「淳仁天皇系」でも好いという事にも成り得る。

    これでは、論理的に矛盾して「孝謙天皇の主張」に反する事に成る。
    故に、その「施基皇子の志紀真人族」と云われる「氏族の経緯」を「歴史文書」に仕上げ「正統性の証」を建てたかったと観ている。

    況や、「施基皇子族」に戻す事で「二つの懸案事項」は解消される事に成り得るし、「聖武天皇の皇女」の「井上内親王」と云う「切り札」でより「継承性」は成立する事に成る。
    これにて、「孝謙天皇の主張」を押し通したと観ているのである。

    (注釈 平安期は全ての天皇には自分の皇子としての「出自の正統性の確立」を成すその傾向があった。)

    そもそも、「続日本紀の編集」を始めたのは「淳仁天皇」(47代)の本人であったが、「中止」と成った原因は「論争を含む政争」のここにあって、それを「書紀化する事」で成立する。
    注釈としてつまりは、「自らの正統性」を御世に作り上げようとした「淳仁天皇」はこの行為は「背任行為」と観られ犯罪と捉えられて、何と「廃帝」と成り、「子孫」を一切を遺させずに「淡路配流罪の刑」を受ける事と成り失敗する。

    この事でも「外子王の四世族制」は排除し抹殺し、「直系族性の四世族制」を成立させた事にも成る。
    つまりは、”基本は直系族である”と云う合わせて「定義の成立劇」でもあった。

    そもそも、「二世族」は「青木氏の氏是」を護り通し、「無冠」でなければ、「天皇家の醜い政争」に巻き込まれ「氏の滅亡」を覚悟しなければ成らなくなり、遂にはその為には“「厳しい廃嫡」”を常に実行しなければならなく成る。
    そうすると、この事、即ち「純潔」だけを護り通す事を避けねばならない事に成る。
    簡単に云えば、そこで、「表向き」は「四世族」に縛られながらも何とかして「常に外の血を入れる事の制度」が「青木氏族」の中に絶対的に必要に成り求められた事に成る。
    そうでなければ、「優性の血縁維持」は成し得ない。
    (但し、本論の意味合いは敢えて「優生」としない。)

    「続日本紀の編纂」に依って、この結果、「青木氏族に課せられた事」と云えば、「直系族性の四世族制」を成立した以上は、その「基盤と成った青木氏族(所謂、氏元)」は、「青木氏族の氏是」(施基皇子の遺言説)に反しても、体面上でもその「血縁性を確立させる必要に迫られた事」に成る。
    それが、上記した「純潔性の血縁に関する論調」であった。
    嫌々ながらも今まで以上にその「責任」に攻め立てられた事に成った。
    これは当に、「二律背反」であった。
    「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」は背反する。

    そこで「逃れ得ない背反」にどの様に対処するかに掛かっていた。
    「青木氏族」に執っては「有史来の極めて苦しい立場」に置かれていた事が判る。

    況してや、この時期は、「二足の草鞋策」で自ら「和紙」を開発し「部制度」による「余剰品の市場放出の役務」を朝廷より請負い「商いの基礎」が始まった時期でもありながら、「財政的負担」もより起こった。
    「天皇家の氏元の責任」としても「賜姓五役」もより課せられた事に成った。

    「青木氏族の存続」としては是非に逃れたい時期ではあった筈で、「天皇家の氏元の責任」だけでは「氏の存続」は成し得ず何の利益にもならない。
    あるは「名誉と権威」であろうが、「氏存続」と「商いの基礎」には邪魔であろう。

    つまりは、そもそも、「商い」無くしては次の事は成し得ない事が起こった。
    「青木氏の氏是の順守」
    「天皇家の氏元の責任」
    「賜姓五役の遂行」

    以上のこの三つは何事も成し得ないのである。
    これが「唯一の解決策」であった事に成る。
    況してや、上記した様に、更にこの後に一族の「嵯峨期」に於いては「皇親族や賜姓族」も外されたのであるから、「唯一の解決策」があったとしても、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」は、「氏族存続」の為には「放棄する事」以外には無く成る。

    その結果、「青木氏族の財力」を背景とした「天皇家の財政的能力」は低下し、「直系族」としての「四世族の仁明天皇」で終わる結果と成ったのであろう。

    余談ではあるが、論じておく必要がここである。
    これは一面では「嵯峨天皇の失敗」とも観える。
    筆者は、この説を採っているが、何故に、「二足の草鞋策」を採っていた事は、「嵯峨天皇」は子供頃から観ていた筈でありながら、且つ、「権威」は「天皇」にそもそもあり、残るは「権威を強める財源の裏打ち」で、成せるものであると判らなかったのかである。

    筆者は、戦略的に観てこれを「嵯峨天皇」は見落とした事と観ている。
    何時の世も「権威」は「権威」だけで保てるものではない。
    「朝廷」より敢えて「二足の草鞋策」が、「部制度の処理」として「天智天武期」から「青木氏族」だけに許されている事を鑑みれば、何故にこの「特権」を認可したかは容易に判る。
    「嵯峨天皇」はこんな「簡単な事」を理解できなかったのかと云う疑問である。
    これは特別に利発な者でなくても誰でも判る事であろう。

    「桓武天皇と平城天皇」に対抗して「政治路線」の「政争」をしてまで「青木氏族」を外した事は理解が出来ない。

    注釈として、他面で見れば、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに苦しんでいるのを観て、外した事も考えられるが、そうだとするとこの「判断」は感情的で論理性に欠ける。
    結果として、「財政力」が無く成り、「朝廷の財政的な負担」から、「皇子族」は「真人族四人」まで残して、後は「賜姓源氏族」にして「権威も財政も武力」も無しに世に放り出したのかであり、あるのは「真人族であったとする名誉」のみに成って仕舞った。
    これでは「賜姓源氏族」は生きて行くことは到底に無理であり、「賜姓源氏族」は全国に飛散して「傍系族」に成って「不祥な姓族」を多く作って仕舞った原因と成った。
    つまり、「青木氏族や佐々木氏族」の様には成らず子孫を全く遺せ無かった原因とも成ったのである。
    遺せていれば「外縁族」に左右されずに、「天皇家の裾野」は強く成り、「継承者を廻る争い」を興さずに「繁栄の道」を辿っていた筈であると観る。

    (注釈 その結果、何が起こったかと云うと、「11家11流の賜姓源氏」の内、四氏(嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏)を除いて地方に散り、又、僧侶に成るなどして家を興して子孫を遺す事は出来なかった。
    主に、彼らは天智期の「坂東八平氏」を頼ったし、各地の「門跡院」や「比叡山]や「善光寺」に入山してしまった。
    主に何とか遺された近江の土豪と成っていた「嵯峨源氏」は「清和源氏」に吸収され、「宇多源氏」は東北域にて「佐々木氏(神職住職系)」を名乗り、「村上源氏」は平家に吸収されるに至る。)


    「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに確かに苦しんだが、然し、これを糧に「仁明天皇期」では、「二足の草鞋策」に完全に傾倒して「生き残り策」を推進し、「氏存続を目的」として朝廷より一時手を引いた。

    この事に付いて「青木氏の資料」によれば、「嵯峨天皇期(809−823年頃)」には「余剰品払い出し業」の「商い」より離反し独立し、「仁明天皇期(833−850年頃)」には、「五家五流の青木氏族」と共に「和紙殖産」で何とか「氏族」を更に強化して興したとある。
    そして、950年頃には、「和紙以外」にも「商い」を成立させ拡げ、「補完族の青木氏」の助けも受けて1025年頃には「総合商社」にて「宋貿易」を行う等して拡大を続けている。
    遂には、「青木氏族の安定期」の「鎌倉期」を経て、「室町期(1360年頃以降)」には、戦乱期の中でも「紙文化の発展」で「巨万の富」を「二つの青木氏族」は獲得し、遂には、これを元手に「各種の殖産」による「商い」を本格化させて前段の江戸期に入る。

    この「商いの経緯の事」から、70年−100年位で何度かの「商いの変革期」を迎えている。
    筆者は、この「商いの変革期」は同時に「青木氏族の変革期」にも重複し、合わせて「血縁性の変革期」にも符合していると「青木氏の歴史観」として観ている。

    結局は、「大きな変革期」の「嵯峨天皇」の「青木氏に対する仕打ち」が逆に「青木氏族」を奮い立たせ成功裏に導いていたとも解く。

    故に、「上記の事の経緯」を敢えて論じたのには,「血縁の道筋」が「単なる優劣の弊害」だけでの事で収まると云うものでは無いと解いている。
    これが同時に、「血縁の筋道」を作ったと考えているのである。
    幾ら「血縁の筋道」と唱えても、上記の経緯に示す様に「財政的裏打ち」が無ければ成し得なかった筈であるし、将又、逆の事も云える。

    上記の論説の通り、つまりは、この「商いの変革期」を無くしては「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの「三つの事」は何事も成し得なかったのである。
    つまり、少なくとも「前段の論説」の「江戸初期前の前後」までは、最低限に於いてこの「三つの事」は成し得ていた事に成る。

    ところが、前段の江戸初期の前後の「商業組合の創設」や「地産の殖産」が始まると、その「血縁性」や「優性の血筋」の課題は、上記の「三つの事」の目的では最早無く成っていたと云う事である。

    それは、この「三つの事」、即ち、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の目的は薄らいでいたという事にも成っていたのである。
    これは当然と云えば当然ではあるが、取り分け、残るは「青木氏の氏是の順守」だけであった。
    これは「青木氏の先祖からの口伝や遺資料」等をある程度伝え遺していた「曽祖父(江戸期)」や、これを受け継いだ「祖父の忘備録」等にも書かれている事でもある。
    この「先祖の口伝や忘備録や遺資料」等に依れば、後は、「家柄を示す事」だけであって、それを使い分けていた事が良く判る。

    (注釈 「祖父の忘備録」は明治35年の火災で多くの先祖を物語る資料関係を焼失して、それを何とか再現せんとして記録に残した資料で、次いで筆者が歴史好きの幼少の頃から再現を試みてここまで遺せた。70年以上は所要した。
    そもそも、「伊勢青木氏」には、古来からの「青木氏族に関する古書」等を所蔵する「専用の蔵」があって、この蔵の事を「かせ蔵・架世蔵」と呼んでいたらしい。
    奈良期からの「商い等に関わる古書」は「かせ蔵」に、「青木氏族に関わる古書や遺品」は「菩提寺蔵」に、「青木氏の伝統に関する古書」は「神明社蔵」に夫々分けて保管されていた事が判っている。)

    唯、周囲が「商いの伊勢屋」><「郷氏の青木氏族」の関係をどの様に観るか、どう扱うかに依るとしていると「先祖の口伝を伝える祖父」等は云う。
    “事を殊更に拘るな。粛々と青木氏の中で行えばよい”としている。
    つまりは、唯一つの「伝統の先祖の遺言」の“「青木氏族の氏是」に従え“であろう。

    それ等の意味からすると、“時代に従い、「商い」に重点が移りつつある事から「商いの伊勢屋」と「郷氏の青木氏族」との「使い分け」”に代わって行った事らしい。
    それだけに、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の「役柄」の「三つの課せられた事」も次第に色あせて来たらしい。

    (注釈 唯、“「朝廷への献納金」をどの様に評価するか“は、「青木氏族」に関わる事であって、「朝廷の献納金」は「明治3年」に終わった事が判る。
    これの完全終結は「伊勢騒乱」終了後であったらしい。
    始まりは、「江戸初期」と「室町期中期」と「鎌倉期末期」で、「平安期」は末期に中止している。
    この「四つの期」がどのくらいの期間続いたかは「商記録」には無いが、「開始した期の意味」は判る。

    江戸期初期は、朝廷が幕府に締め上げられていた時期と享保の改革期までの範囲
    室町期中期は、紙文化と朝廷の荒廃時期までの範囲
    鎌倉期末期は、元寇の役の朝廷の荒廃期までの範囲
    平安期末期は、頼政の朝廷に関わった時期までの範囲

    そもそも、「青木氏族」に執っては、最早、継続的に献納する意味が無く、その都度に献納するという体制を敷いていた事が判る。
    恐らくは、最早、嵯峨期からは、「青木氏族の認識」は下記の理由に従っていた事から、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の昔の「役柄」等を持ち出され頼ってきて、密かに「献納」を依頼されたと観られる。故に断続的であったのであろう。
    「頼政の乱」と「明治期の伊勢騒乱」ではこの「献納の効果」は確かにあった。)

    その上に、江戸初期に「祖先神の神明社」も「密教の菩提寺」も江戸幕府に引き渡した事からも「権威性」は更に低下し、最早、「名誉」のみのものと成っていた事からも判る。
    残るは、上記の“この名誉も周りが認めるものであって「青木氏族」自らが認めるものではない”とし、何度も云うがあくまでも“「青木氏族の氏是」に従え“が物語るものであって、依って「商い」が江戸期前後には、「名誉に頼らない体質」が、最早、大きく占めていた事に成る。
    前段で論じた「享保の改革」の「伊勢屋の貢献の経緯」からも、「青木氏族」と云うよりは実質は“「伊勢屋」”であったろう。

    つまりは、それまでは、それなりに「商いの伊勢屋」<「郷氏の青木氏族」の関係を維持していたが、室町期中期頃からは、「商いの伊勢屋」>「郷氏の青木氏族」の関係に変わって行った事の経緯に成る。
    大概は「紙文化の発展」を起点に依って「変革」を遂げていったのであろう。

    「殖産」を、況や、「巨万の富」を獲得した上で、これをどの様に使うかの問いに対して「商いで答える方法」を模索し拡大させる方法を導き出したのである。
    それを基盤として「今後を作る事」が「青木氏族」に求められていたのである。

    それは、「四世族制」、つまり「四掟」(「ロとハのリスク」を無くす血縁の掟)を護りながらも、それから離れた「女系族」に重点を置いて江戸前後期には、「地元と信濃」との「郷士衆との繋がり」に重点を置いたのである。
    これで、「大殖産」を進める「青木氏族の地盤」が、「伊勢秀郷流一門の力」を借りて「伊勢全域」は元より「信濃域」までに広げて固めたという事に成る。
    これで上段の「姓制」を置かずとも「清らかな血縁性」は「源流の如し」に成ったのである。

    云わずと知れた同じ課題、即ち、「三つの事」を抱えていた「信濃青木氏族」が「殖産の商い」と共に「伊勢青木氏族」との「血縁の繋がり」を無制限にして一体化したという事に成る所以である。

    当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
    云うまでも無いが、この「女系族の血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
    これにて「何らかの女系族の血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
    そして、それが、上段で論じた「女系を基本とする人の類」に従った事にあって、況や、「二つの青木氏族」の「生き残り策」は“「女系族策」”であったと説いている。

    (注釈 「秀郷流青木氏」はこの「女系族策と姓族策」で生き残り、「賜姓臣下族青木氏」は「女系族策」だけにあった事が云え、それだけに「直系族」は伊勢と信濃だけ、「傍系族」は近江と甲斐と成って仕舞ったと云える。
    「姓族策」は幕府や御三家の家臣化に依る。
    「賜姓臣下族」は「姓族策」を採らない以上は「郷氏」を継続した。)

    その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
    逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

    (注釈 その「女系族」を物語るものとして、「四家制度の女墓」(20家)がある。
    これに依ると、ある程度、主流としては「秀郷流青木氏」と「地元郷士」と「信濃青木氏」との「女系の入」が判る。
    「女系の出」は、「菩提寺の資料消失」で判り難いが、この女墓の「女系の入」があると云う事は、同じ範囲で「女系の出」があったと云う事を示す。
    後は、「女墓や関係族の手紙や遺資料」から読み取ると、「伊勢近域の国」を中心に摂津、近江、駿河、伊豆、越前、越後、武蔵、常陸、下総などの「女系の入」が判る。
    唯、どの様な理由なのか「甲斐と美濃」だけが「女系の出入」がよく判っていない。
    「美濃」は早期に滅亡した事、「甲斐」は「独自性」が強く「付き合い」が少なかった事かも知れない。)


    奈良期の施基皇子期から何度も紆余曲折しながら「四家制度の範囲」で「相互に女系の出入」が頻繁にあった事は概にして判る。
    殆ど、「出入の女系血縁」に於いては「一体化に近い形」にあったと観られる「秀郷流青木氏」の「遺産伝の伝統資料」が多く世に出ていれば更に判るとも考えられるが、最早、無理であろう。)

    (注釈 「近江佐々木氏」は早い段階で「秀郷流青木氏の血縁関係の事(青木氏族)」を研究されていて、この資料が非常に参考に成った。
    と云う事は、「近江佐々木氏」の「賜姓臣下族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」との「血縁関係」も把握していた事に成る。
    個人情報に関わるので現存する「近江佐々木氏関係の血縁関係」からのものはここで網羅できない。
    「近江佐々木氏の古書の研究書」が当家にある事は「女系に於いて充分な血縁関係」があった事を裏付ける。)

    次の段では論じるが、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
    「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
    これに付いて次段で論じる。


    > 「伝統シリーズ 40」に続く


      [No.357] Re:「青木氏の伝統 38」−「青木氏の歴史観−11」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/10/13(Fri) 12:10:57  

    > 「伝統シリーズ−37」の末尾



    >さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
    >そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸くが、これが射和と青木氏の経済的な関係で大きく影響していたので「射和と殖産の関係」で次ぎに先に論じる。
    >実は大いに影響していたのである。


    > 「伝統シリーズ 38」に続く

    そもそも、「射和」と云う松阪の一部の地域には、商いを前提とする地域では無かった。
    前段でも論じたが「伊勢郷士」、取り分け、「松阪郷士」(A)が住む普通の土地柄であった。
    ところが、この「射和郷士」は、「青木氏の女系」の「縁者関係の郷士」であった為に無力であった。
    そこで室町末期に織田氏の支配下に入り、次ぎに秀吉の豊臣氏の支配下に入った。
    この時、織田氏から伊勢制圧に功績のあった事から、ここを「近江の秀郷流藤原氏」の「蒲生氏郷」に任せ、彼らは「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「ヨーロッパ風の商業都市」を構築した。
    この「商業都市の構築」に倣って「近江武士」から転身した「近江商人」(B)を呼び寄せて「伊勢商人」と共に発展させようとした
    然し、織田氏が倒れ秀吉の代に成ると「浄土真宗の顕如一派」が秀吉に反抗し、「紀州征伐」として、この「門徒宗」を徹底掃討した。
    追われた紀州の「門徒衆の下級武士」の一部が「不入の権」に守られた「伊勢」に逃げ込んできた。
    見かねた「青木氏と松阪郷士(A)」は紀州の「異教の彼ら門徒衆(C)」を密かに「射和地域」に匿った。
    そして、彼らに生きて行く為に“「商い」”を教え「青木氏の仏施」で導いた。

    然し、ここには「青木氏の苦労」があった。
    ところが、その最中、「日野城主」から「松阪城」を築城しその藩主に成った「蒲生氏郷」は、再び秀郷一族一門の多い事を背景に「陸奥黒川藩藩主」として秀吉に依って「北の固め」を強化する為に移封された。
    この事で「蒲生氏郷の故郷」の「近江」から呼び寄せた「伊勢の近江商人(B)」は「強い背景」を失い困窮を極めた。
    そこで、困窮の中で無謀にも江戸期に入り「江戸」に出て一旗を挙げようとした。
    ところが、享保期前は相続く飢饉や震災などで経済は著しく疲弊し最悪と成り、彼ら「伊勢の近江商人(B)」は、再び故郷の援護の得られる「近江」には戻らずに不思議(1 下記)に「松阪」に戻った。
    この間の約60年後には、その結果、彼らは多くは衰退したが、その一部は「名と意地」を捨て「青木氏X)」と「射和郷士(A)」等の庇護の下で何とか息を繋ぎ、「射和地域」の中で「住み分け」(2)をして「商い」(近江商人(B))に関わった。

    享保期に入り「享保の改革」に依って「江戸の景気」は回復したところで、「青木氏の庇護(江戸の伊勢屋)」の中で、貧困に喘いでいた「資本力(財力)」の無い彼ら「近江商人(B)」は、「江戸の伊勢屋」を辿って再挑戦のために「射和」から「江戸」に出た。

    (注釈 その「松阪」での「貧困の状況」が資料として遺されていて、代表する資料として最初に江戸に出て失敗した親は老いて病気と成り、「その日暮らしの事」が書かれている。
    多くはこの様であった様である。)

    又、「射和」で保護された「紀州門徒衆(C)」は江戸期には解放され、「商い」を覚えた彼らも同じく一部は「伊勢」の「近江商人(B)」の「商人」と共に江戸に出た。
    (注釈 結果は成功しなかった。「射和」に戻ったかは判らない。)

    これら(A)と(B)と(C)の「射和郷士(A」)の「商人」は、室町期に築いた巨万のその財力で伊勢全体を「殖産と商業組合」で固めた「青木氏(X)」の庇護の下にあった。
    そして、二度目には江戸での「近江商人(B)」の「子供等の成功」で“「松阪商人」”と享保期以降に呼ばれる様に成った。

    (注釈 吉宗の「享保の改革」に完全補完した「青木氏(X) (伊勢屋)」が下地と成り「松阪商人」(AとBとC)がこの様な経緯で生まれた。
    「江戸での仏施」の「質の江戸伊勢屋(青木氏の商業組合組織)」が低利で「彼らの出店」を促した。)

    つまり、「伊勢商人」の中の一つの“「松阪商人」”とは、「松阪商人(青木氏)」と「射和商人」と更に区分けされているが、そのルーツは、享保期末期以降に「江戸」で「商い」に成功したその他の商人も含めて「伊勢商人(享保期の後半期)」と「松阪商人(享保期の前半期)」と区分けして呼ばれる様に成った。

    ところが、この状況の中で「青木氏」に執って「近江商人(B)の反目(意地と誇り)」と共に、更に次の様な困った事があった。

    そもそも、「紀州門徒衆の(C)」は、その元は「紀州の郷士武士」でもあり、「商人」として必要な「柔軟性」に欠け、「肩肘」を張った者等であった。
    又、その「心情の元」と成る「彼らの宗派」の影響もあって、考え方にも異なる事もあったが、実に反目に近い形で閉鎖的で「松阪郷士・射和郷士の(A)」と「近江商人の(B)」とも融合しようとしなかった。
    勿論、「松阪」を仕切っている「青木氏(X)」とも大きく距離を置いた。
    又、「近江商人(B)」も「紀州門徒衆(C)(異教と異郷)」程ではないが閉鎖的で、取り分け、「青木氏(X)」とは「彼らの家柄の誇り」もあるのか、「紀州門徒宗(C)(異教と異郷)」との距離感と違って、殆ど、「親しみの無い冷めた距離観」を取っていた。

    注釈として そもそも、「松阪」に来た「近江商人」のそのルーツは、「近江佐々木氏(始祖 川島皇子)」や「近江の藤原氏北家秀郷一門」の傍系ではあるが、その“「末裔」”とも云われ、かなりの高い「誇り」は持っていた。
    この「北伊勢」には、「北家近江藤原秀郷一門」の血筋と、「藤原氏北家宗家の血筋」もを引く「伊勢秀郷流青木氏」が存在していた。
    この近江の「出自の氏郷」の「蒲生氏の血筋」が、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」に入る等の事もあって、「青木氏(X)」は勿論の事、同じ家柄家筋を持つ「射和郷士(A)」、つまり、「青木氏の女系族」にも肩を活からせた「誇り」を持っていたのではないかと考えられる。
    今は「商人」と成り得ていたとしても、“武士は食わねど爪楊枝”であったのであろう。

    (注釈 「紀州門徒衆(C)」も紀州郷士として貧困の中で生きて行く為に、紀州城下門前町の装飾や漆職人としても働いていた。)

    「青木氏(X)」として援護するにしても何れも「難しい相手」であった筈である。
    何か「適格な対応」が必要であった。
    現実に、彼ら「近江商人(B)」は、「江戸」で成功後は、「青木氏(X)」の「殖産の商い」を物語る資料関係には「近江の一字」も全く出て来ない。

    この事から検証すると、最初の「江戸での失敗」で「近江に帰らなかった理由」(不思議 1)は読み取れる。
    それは、次ぎの心理(計算された維持)が働いたのではないか。

    近江に帰れば、「氏家制度」の中で家柄家筋の良い「二足の草鞋策」を敷く「本家筋の庇護」を受けて生活を余儀なくされる。
    恐らくは、彼らの下である程度の生活は維持されたとしも次ぎのチャンスは最早ない。
    彼らの天下に誇る「宗家筋」、或いは、「本家筋」は、世間に対して「その立場」を失うとして絶対認めないであろう。
    それよりは「貧困」を得ても「青木氏(X)の庇護下」の中でも「自由の利く松阪」で生き残りを選んだ事に成るだろ。
    だから、より「青木氏(X)」に対して「意地を張った誇り」の為にも縛られることのない範囲の「距離感」を置くことで「自由度」を高めようとしたのではないか。
    況や、故に、「二度目の成功裏」には、「武士」でありながらも「商人」であるとし、「道理や仁義」の欠くこの「不思議な距離感」を「最大限」にしたと考えられ、この「諸行無常の道」を選んだのであろう。


    さて、「近江商人」は兎も角も、「松阪商人の本題」に戻るが、この「松阪商人」の(AとBとC)に前段の「殖産に依って増えて行く販売(営業力)」を担わしたのである。
    そして、この「難しい環境」の中で「青木氏(X)」は、それぞれに適した「殖産の販売力の役割」を与えようとした。(適格な対応)

    当然に「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」にあった「営業の役割」を考えて割り振らねばならない事に成った。

    その役割は、次ぎの通りであった。

    「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
    「松阪木綿(綿油含む)」
    「松阪絹布(松阪紬)」

    以上の三つであった。

    ところが、更には彼らはこの時期は未だ「商い」に充分に馴染んでいなかった。
    貧困に喘いでいた近江から来た「近江商人(B)」を除いては、「青木氏」と繋がりのある「(A)の射和郷士衆」も、又、救った「門徒衆の郷士(C)」の「紀州の下級武士」にも「商い」のそのものには無縁であった。

    唯、「(A)の射和郷士衆」には、江戸期前からの「青木氏部の関係」もあって生産する事に対する経験は深く持っていた。
    唯、生産は作業場などを作り「人」を雇いする事で可能であったが「販売」はどうかとするとそこまではそもそも「身分家柄上」は無理であった。
    取り分け、奈良期より伊勢の「楮和紙の生産」には開発段階から「青木氏(X)」と共に関わっていた何事にも変え難い経緯を持っている。
    どちらかと云うと、今で云う「生産技術者」であった。

    当然に、彼らに、「殖産」の「伊勢和紙(松阪紙型含む)」、「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」の販売に携わらせたという事に成るが、必然的に「伊勢和紙」の主は「(A)の射和郷士衆」と成る。
    でも、“それで済むか”と云う話には成る。
    「(A)の射和郷士衆」は、「青木氏(X)」が「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」を支援をする以上は、「青木氏(X)」に代わってかなり「難しい事」ではあるが、「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の面倒も看る事にも成る。

    従って、後勘からの観ても、他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」も観ていただろう事は当然に解る。

    取り分け、「紀州門徒衆(C)」には、その「難しい性格や信条」から「商い」は疎か、将又、「生産のイロハ」から教える必要に迫られた筈で、説得から始まり教える事は「苦難の技」であったろう事は判る。
    助けられたとは云え「松阪郷士(A)」や「近江商人(B)」とは、当時の封建社会の社会慣習からして三者ともに同じ「郷士の身分」(「松阪郷士、近江郷士、紀州郷士」)であったとしても、そのルーツの「家柄家筋」には違いがあり過ぎる。
    「彼らの立場」からすると、これは全て「負い目」であり、委縮して僻んでも至し方は無いであろう。
    この事は逃れ得ない事であり間違いは無いであろう。

    そこで、兎も角も(A)と(B)と(C)の「商人」と成った彼らには「商記録等の内容」や「松阪に遺された資料」からも「状況証拠」として判る。

    では、問題はこの「三つの役割」をどの様に彼らに割り振ったに掛かってくる。
    無茶に割り振る事は出来なかった筈で、その「性格や信条」と「射和地域」の「住み分けの地域」や「地理条件」や「水利条件」などが働いた筈である。
    余り資料には成っていないのだが、大方は判る。

    そもそも、「松阪の射和地域」は次の様に極めて良好な位置にあった。
    当然にそれは「殖産と云う点」でも云える事でもある。

    先ず、資料関係から読み取ると、次ぎの様に成っていた。

    そもそも、「射和地域」は東の海側より「12Kmの位置(3里)」に存在する。
    「射和地区の範囲」は南北左右の「2Kmの範囲」である。
    「櫛田川」の川沿いの北側に位置し、櫛田川の入口よりも「12Kmの位置」にある。
    東側の港の荷上場や漁村から「西の位置」に存在する。
    南側に位置し、「宮川」とに接する「青木氏の生産の殖産地」の「玉城地域」とは、丁度、櫛田川と宮川を挟んで隣接する「南北の位置」に存在する。
    西隣には「名張地区」、その上の北側には「伊賀地区」の「生産線状」にあり、当然に、この「射和」の北隣は「司令塔」の「松阪地区」である。
    つまり、地形上は「鶴翼の陣形」で、鶴の翼に囲まれた中央には「射和」の「販売地区」が「三つの範囲」で存在する。
    これは「青木氏の殖産」の「コンビナート」であったと云える。

    既に、江戸初期には、「殖産の商いの戦略」として「近代的な体系」が「青木氏」等に依って確立していた事を示す。

    その「射和地域」は、「櫛田川の川洲」より「北側の平地」のほぼ中央(イとハの左右に村)には低い山があり、東西に伸びていて、そこから盆地の様に東西に横切る様に「平地の畑地」がある。
    そこから、北に山が東西に続く。
    この「山地の谷部」の「左右2か所」に明らかに「開発されたと観られる平地」が山際に存在し、そこに「村(ニ)」がある。
    そして、欠かせない「交通運輸の道」として南北のほぼ中央右寄りを縦に「熊野古道」が横切る。
    「住み分け」のみならず「交通の便」も含み「販売拠点」としては申し分ない位置にある。

    明らかに「鶴翼の陣形」にして「地形と水利」を利用して「殖産の販売拠点」として開発されたものである事が容易に判る。

    そこで、「鶴翼の販売拠点」の「射和地域」の「住み分け」は次の様に成っていた。

    (イ) 「松阪郷士(A)」は、左右、つまり、「東西2Kmの東側」に定住していた。
    (ハ) 「近江商人(B)」は、「東西2Kmの西側」に定住していた。
    (ニ) 「紀州門徒衆(C)」は、「西側の上の地域(山間地)」を東に向きに配置されていた。

    “「住み分け」”には、その地区には「菩提寺」、或いは「檀家寺」が伴う。

    この点で観てみると次の様に成る。

    (イ)の「松阪郷士(C)」は、古来より「松阪出自」であり「浄土宗」で密教の「菩提寺」
    (ロ)の「近江商人(B)」は、「近江出自の郷士」であり「天台宗」で密教の「菩提寺」
    (ハ)の「紀州門徒衆(C)」は、「紀州出自の郷士」で「浄土真宗」で顕教の「檀家寺」

    (イ)には、江戸期には「射和」の直ぐ東側に「青木氏の分寺」と「浄土宗寺」が存在している。

    恐らくは、ここが「青木氏系に近い縁戚関係」の「氏人」の「松阪郷士」がこの「分寺」に、その「他の郷士衆」は「浄土宗(A)」に帰依したと考えられる。

    (ロ)には、「松阪の南 射和寄り」には珍しく「天台宗の寺」が数寺存在していた。

    「明治期の寺分布」で観てみると、「天台宗」は松阪地区南には「数寺(四寺か)」が存在している。
    そもそも、江戸期以前の「松阪」は、古来より「密教浄土宗の聖域」で「不入の権」と共に「不可侵の地域」とされた。
    「伊勢神宮」が存在する為に混乱を避けるためにも「宗教的」にも保護され「浄土宗密教」のみが許されていた地域であった。

    (注釈 ここで「歴史観イ」として重要なのは、「浄土宗密教」とは、「古来の浄土観念」を「密教」として引き継いだ「古来宗教」であり、「神仏融合」の「宗教的概念」を指す。
    これを「法然」が「神仏」を分離し仏教の「浄土宗」として概念を「密教」としながらも一般化した。
    その前身とも云える。
    「五家五流の青木氏」や「近江系佐々木氏」がこれを引き継いだ。
    故に、両氏には「氏内の者」で「神職と住職」が共に多い所以でもある。
    従って、この「概念」で「伊勢神宮域」は少なくとも護られていた為に「伊勢松坂」には他宗派は原則は存在し得えない事に成る。)

    (注釈 「歴史観ロ」として重要なのは、唯、「朝廷の学問処」を務めていた武家貴族の「北畠氏」が室町期の世の乱れに乗じて「不入不倫の権」の禁令を破り、無防備な「伊勢」に侵入した。
    「北畠氏」にしてみれば、「侵入の大義」は表向きにはあった。
    それは、「戦国の世」に成り、流石に「伊勢」も「不入と不可侵の権」だけの名目では弱体化した「朝廷の威信」では守り切れなくなった。
    流石、「伊勢」を護る「青木氏」は「シンジケート」を「抑止力」として待ちながらも、この衰退の“勢いに勝ち得るのか”と云う事を心配に成った「北畠氏」は「伊勢(四日市の左域に御所設置)」に入ったと主張した。
    そして、建前上、伊勢に“「御所」”と銘打って支配して伊勢以外にも勢力を拡大した。)

    (注釈 「歴史観ハ」として重要なのは、この「北畠氏」は、戦国で敗れた武田氏の浪人等や秀郷一門の傍系の溢れた武士等を雇い家臣として「強固な武力集団」を構築した。
    その財源を平安末期からの各地の「名義貸しの荘園」に置き、その「名義荘園」を武力で奪い取った。
    全国各地で主な「武家貴族」のこの現象が起こった。
    この時、存立をかけて止む無く「青木氏」は「北畠氏」に合力したが本意ではなかった。
    ところが、流石、「信長」はこの現象を見逃さなかった。
    武力を背景に「信雄」を養子にして「北畠氏」を奪い、挙句は「北畠氏」を乗っ取った上で武力で伊勢等を攻め取った。
    建前上、「青木氏」は「北畠氏」に合力したと見せかけ、裏で「伊勢信濃シンジケート」と近隣の「今井氏の支配下」にある「神社系シンジケート」を使って「織田信雄」を敗戦に追い込んだ。
    「織田氏」は、この後に「信雄」に代わって「青木氏」と関わりのある「蒲生氏郷」が入り「伊勢」は「酷い戦乱」とはならず穏便に収まりを見せた。
    そして「青木氏」は「シンジケート」を引いた。)


    所謂、この「歴史観イ、歴史観ロ、歴史観ハ」があってこそ、ここに他の「密教の天台宗寺」が少なくとも「松阪」に存在する事は本来は難しい事と成ったのである。
    然し、「織田信長」はこの禁を無視した事になるのだが、その倣いに従い「蒲生氏郷」が上記した様に“「近江商人」”を呼び寄せた。
    この結果、彼らの「天台宗の菩提寺」を「松阪の南」、つまり、「射和の北」に建立したが、「蒲生氏郷」が「陸奥」に移封と成った事で、最早、余りにも遠い「陸奥」までに同行せずにいた事でその「勢い」は落ち「松阪」に残った事に成った。

    ところが、結果として当然に「勢い」を失い「射和の北」(松阪の南)で定住していた地域は、その「地権」を放棄して、この地域の「本来の地権者」の「青木氏(X)」に譲り、その後の「住み分け」が進み、上記した「射和の西側」に「近江商人(B)」は移った。

    この為に、本来は「射和地域」にも後に幾つも建立した筈の「天台宗の寺」が「一寺」しかなく無いのである。
    逆に「元の定住地」には、「菩提寺」は維持が出来なく成り、海側より西の山手に向かって「顕教の檀家寺」と成った「天台宗の寺」が数寺が存在する所以でもある。

    (注釈 彼らの「天台宗寺」は「松阪の南」、つまり、「射和の北側」には天台種の寺は三寺「一寺は派が異なる」があったが、江戸期初期には、その派流から「菩提寺」はこの海側にある一つであると観られ、その他は明治期に建立されたものと考えられる。(寺名は秘匿)
    「天台宗」は、本来は「密教」であるが、{平安期の宗教論争}で「顕教」も並立させて「武家貴族の信者」を獲得させた。これが派流の生まれた原因である。)

    注釈として、「歴史観ニ」として重要な事は、彼らの「地権の放棄」には、次ぎの経緯があった事が伺える。

    上記の「殖産の販売力」を拡大させるには、絶対に彼らの持つ高い優れた近江からの伝統に基づく「商い術」は見逃せない。
    又、「青木氏(X)」に執っては、上記の「維持と誇り」を適え、且つ、進んで積極的に取り組んで貰うためには、彼らにもう一度の「再起力」を与える必要があった。
    それは「再起の資金力」であった。
    それが、上記の「地権の買戻し」であり、その条件として「青木氏(X)の地権」の多く持つ「射和郷士(A)」の定住地であった「射和の西」に土地を与えた。
    当然、「地権売却の資金 近江商人(B)」だけではジリ貧で、「殖産の販売の仕事」を与える事で生き続ける事が可能と成る。

    況や、「青木氏の逃避地」の「越前の神明社」にて大いに行っていた「仏施」を、当に伊勢松坂でも行った「歴史的な青木氏の大仏施」であった。

    (注釈 この「仏施」は彼らの享保後の江戸出店までに続いた。)

    さて、これで「近江商人(B)」の関りは述べたが、次は「紀州門徒衆(C)」の事に成る。

    上記した様に、次ぎの問題があった。

    何はともあれ政権や仲間の門徒衆から暫くは匿う必要があった事
    当時、世間を騒がして警戒されていた「門徒宗」である事
    彼らの「異教と異郷」、更には彼らの持つ「頑な性質」がある事

    いくら何でも、これだけの事があれば、「射和郷士(A)」「近江商人(B)」と同調させて生活させる事は至難の業である。
    何か「緩衝材の策」が必要であろう。

    「縁戚の氏人衆」の「射和郷士(A)」にそれを任すとしても「何らかの手」を打たねば、それこそ縁者関係の「射和郷士(A)」からは「青木氏(X)」は完全に信頼を失うは必至である。

    当然に、事前に充分に打ち合わせはした。
    一つは、それを証明するのが彼らが定住していた「地域の地形」(a)から判る。
    もう一つは、「彼等の衆徒」には「寺」を建立するに必要な「財力」は未だ当然に全く無かった。

    そこで、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」は、落ち着いて定住させる為にも”「信心する寺の建立」”を一寺(浄土真宗 東本願寺)を匿っている居住区に敢えて建てて「手(b)」を打っている。

    これは、「地権」を持ち、「縁戚の松阪郷士」の「伝統ある定住地」に勝手に他宗の寺を建立する事は許す事は無い。(あ)
    又、「氏人」を含む「青木氏等の浄土宗密教の地」に「常識や慣習仕来り掟」から観ても100%あり得ない事であったし、これは世間からも蔑視される危険性もあった。(い)
    況してや、当時の閉鎖的で不審者を排除する「村体制」の中の世間から危険性を以って視られていた「門徒衆」でもある。(う)
    紀州や関西域で大騒動を起こした「門徒衆」が「村」に入り、又、同じ事を起こされるのではないかと云う恐怖心もあった。(え)

    この(あ)から(え)までの事があっても「異教の寺」を射和に建てるという事は相当な決断が居る。

    建てれば匿った紀州郷士衆の存在が公に成る。
    密かに匿ったとした「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」は、紀州藩は敢えて殖産の為に黙認していても事も水の泡と成り公に匿ったと成って仕舞う。
    その事を覚悟で建てるのである。

    そこまでして「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」には、「販売力の強化」以外に他に得るべきメリットがあったのであろうか疑問である。
    後から紀州で肩身の狭い思いをして生きていた門徒衆と彼らの家族は押し寄せてくる事も予想出来た。
    匿うだけでその侭にしていても好かった筈である。
    唯、困る事があった。それは「紀州門徒衆(C)」が、「紀州の門徒衆」が押し寄せてくる事は販売力強化の点でも好い事ではある。
    然し、彼らが「射和」に居つくにしても恥を我慢しなければならない。
    その結果、紀州にじわじわと逃げ帰る事だけは、紀州藩が期待する「丸投げの殖産」の意味からも、避けねばならない事であった。
    それには、“「彼らの心の拠り所」”を作り上げる事であった。
    そうすれば、「紀州門徒衆」が押し寄せる事も更に起こり、当然に逃げ帰る事も防げる。

    後は、結局は、前段でも論じた様に最も「伝統」を重んじて来た、むしろ、「伝統の氏族」の様な「青木氏(X)と松阪郷士(A)の伝統」がこれをどの様に扱うかに係る重要な事に成る。
    当然に「紀州藩」は「殖産に依る税の利益」を先んじて、それは「青木氏族」に任せば良いとして完全に黙認している。

    結局は、奈良期からの一度も破らなかった「禁断の伝統」の一部を「浄土真宗寺」を建てる事に踏み切り破る事にしたのである。
    同時に「伊賀郷士の全国から呼び寄せ」も行っている時期でもあり、「議論百質」であった事は充分に判る。

    (注釈 伊賀には縁戚筋関係のつながりはあったとしても「青木氏の地権」は多く及んで居ないことから「内部の治世」には深く組み込めなかった。)

    注釈として、「浄土真宗寺の建立時期」は異宗である事と、「伝統を破った事」からも資料的なものは見つからず「寺の由来」も記録には無い。恣意的に不記載とした可能性もある。
    「彼らの財力」では、「江戸期後半の成功期」にしても遺されたあらゆる資料からはそれほどの財力は無かった事が伺い知れる。
    彼らの財力有り無しに関わらず、結局は「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「地権のある射和」では、況して「他宗禁令の松阪」では無理な事であり、「定住地の開拓開墾」を含めて「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「財力に頼る事」以外には無かった事に成る。
    状況証拠から割と早期の1630年から1650年頃に「浄土真宗寺の建立」に踏み切ったと考えられる。



    例えば、上記した様に先ず「地形」であるが、櫛田川の中州の後ろの小高い山続きの中ほどに山に囲まれて「開拓された畑地」が現在もあり、その後ろ側の山の角の様に山に囲まれた谷部に開発された狭い居住用の様な「窪地」が二つ存在する。
    明らかに、これは“「作られた地形」”であって恣意的には周囲からは判らない様にしての開拓と成っている。
    そして、その「居住用の窪地」の前に開拓されたと観られる「生活用の畑地」が存在する。
    明らかに「造られた秘境」である。
    中州からは全く見えない小山の中に存在する造られた「天然の隠家」の様である。
    近くを「熊野古道」が縦断するが、ここからも見えない山手の奥方の隠れた地形にある。
    然し、「熊野古道」には山伝に1Km強程度で簡単に出られる。
    この「居住地の窪み」の「西寄り」にこの「問題の寺」が存在する。
    「戦略的な位置関係」にあり、且つ、「恣意的な位置関係」にあり、“いざ”と云う時には「防御の拠点」とも成り得る。
    山を越えれば櫛田川であり「生活用品の調達」は容易である。

    ここに「門徒衆(C)」を匿って、「殖産の仕事」を与えた。

    では、問題は上記した「三つの営業力(販売力)」をどの様に配分したかに関わってくる。

    その「配分の内容」は、次ぎの通りである。

    「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
    「松阪木綿(綿油含む)」
    「松阪絹布(松阪紬)」

    以上の三つであった。

    「松阪郷士(A)」は、「和紙の開発から生産」まで朝廷の命で「紙屋院」として日本最初に手掛けた「青木氏の氏人」である事は云うまでも無い。
    そして、それを「近江と信濃と甲斐の青木氏」に広め、「志紀真人族」の彼らの「生きて行く基盤」を作り上げた。
    「松阪郷士」、取り分け、「射和郷士」はこの「第一の貢献者」でもあった。
    従って、「射和郷士(A)」は、当然に「伊勢和紙(松阪紙型含む)」を担当した。
    然し、他の「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の「殖産に関わる事」に「青木氏(X)」に代わって面倒を見なければならない。
    他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」と「松阪絹布(松阪紬)」の面倒は知らないという行為はあり得え無い。
    「商記録」に依れば、どのような形かは明確ではないが、全体の状況証拠から観て、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事が判る。
    何故ならば、「工程管理」では、所詮、彼らは「外者」であり、「生産工程」まで「督促などの発言力」を持ち得ていなかった。
    故に、「発言力」のある誰かがこの「パイプ役の実務」を演じなければならない。
    必然的にそうなれば、「松阪郷士」の「射和郷士(A)」と成る。

    商記録には、「・・射和・・・・入り」とあり、「玉城」から「松阪木綿の製品」が入った事を記したと考えられる。

    注釈として、 ・・・は虫食いで充分に読み取れず、・・・は、“射和・・木綿入り”と記されていた事が判る。
    ここで云う「射和」と「木綿」との間の「・・の欠損部」には、「・反」とし「数字」が、「射和の地名」の前の「・・の欠損部」には販売全体を取り仕切る「射和郷士(A)」の総称を“射和”としていた事が判る。

    これで、「綿布」は「射和郷士(A)」の「差配頭」に届けられ、それが「青木氏(X)の商記録」に「情報」として伝えられていた事に成る。

    この事から「差配頭」から「松阪木綿」は「近江商人(B)」の各店に分配されていた事に成る。
    上記した様に、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事に成る。
    「商記録全体」を通して観るとこの事がよく判る。

    これでも「射和郷士(A)」が関わっていたと成ると、「松阪木綿」が「販売営業力」に経験のある「近江商人(B)」の「専属の販売担当」であった事が判る。
    「江戸出店」して成功した「近江商人(B)の事」に付いて書かれた内容を読むとこの事は明らかで“「木綿商人」”と表現するまでにあり、これを扱っていた事は明白なのだ。
    唯、彼らが江戸にて成功を遂げたのは「享保期の後半以降」であり、この時は既に“「伊勢木綿」”も津域で生産されていて、これも“「木綿商人の表現」“の中に入っていたと考えられる。
    故に、最終は、「近江商人(B)」は、温情を受けた「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」とを裏切り「反目する態度」を取ったと考えられる。

    彼らから観れば、「温情」という考え方より「根っからの近江商人」である事から、「運用資金」を「借金」で調達し返したとし、「原資」は「地権売却」であったとすれば、「青木氏(X)」等には“恩義はさらさらない”とする考え方が成立する。
    「射和郷士の差配頭」の手紙の中を観ると、更には、江戸で成功を納めた「近江商人(B)」は、中には「吉宗の享保の改革」に貢献した「青木氏(X)」の「江戸の伊勢屋」の名を使って喧伝し「商い」を有利に導いた事があったと記されている。
    合わせて、「青木氏の名」を上手く使った事も併記されている。
    この手紙は「射和」がこの情報を掴み「福家」に報告した事への返信であろう。
    然し、「青木氏の氏是」から“取り立てて騒がない事”が書かれている。

    「歴史の後勘」から観ると、「彼らの立場」からすると、そうなるのかも知れない。
    「射和」で「殖産の販売力」として「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」の中で「松阪木綿」を扱い働いた。
    そして「松阪木綿」で独立したとすると、それを紀州藩を背後に「殖産」として一手に扱った事は、まさしく「伊勢屋」であり「青木氏」である事を広義的に意味する。
    “我々は、「江戸の伊勢屋」の出店だ”と主張しても「著作権」など無い時代におかしくは無いであろう。

    この享保期後半の時期は、吉宗との路線の行き違いから「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」は松阪に引き上げている。
    故に、この事件は、尚更らの事であって、「氏是の事」もあり騒ぐことは得策ではないとして「射和郷士(A)」を宥めたと考えられる。

    従って、彼らの精神は、彼らに執ってみれば「射和」は、“その一時の話”と成ろう。
    故に、「射和」には一寺の「檀家寺」(顕教寺)があったとしても「菩提寺」がない事に成る。
    つまり、“敢えて作る必要はなかった事”等が読み解ける事に成るし、更には「射和郷士(A)」も「寺」は許さなかったであろうことが判る。
    この両方が一致すれば、「寺」を潰す事も充分にあったと考えられ、事を納めるには潰すしかなかったとし、「青木氏(X)」も「射和郷士(A)」の意見を入れて許して丸く納めたと観る。
    筆者はこの「潰した説」を採っている。

    これで、「射和郷士(A)」と「近江商人(B)」の担当領域は読み解けたが、難しいのは「紀州門徒衆(C)」の事であり、且つ、「松阪絹布・松阪紬」の事である。
    何せ参考と成る資料が殆ど残っていないのである。
    これには次の理由があった。

    「絹」は古来からの物で、朝廷に部制度に依って納められる「朝廷の専売品」で、「余剰品」を除いて「絹物」は一般市場に出回らない。
    これが高貴族に“「松阪紬」”と呼ばれた所以である。
    当時は、「伊勢和紙」も「信濃和紙」も「甲斐和紙」も「近江和紙」も同じく「部制度」による「専売品」で、これを「四家四流の青木氏」が「青木氏部」を持ち「朝廷」に収めていた。
    しかし、「青木氏部の努力」により「余剰品」が出て925年頃に市場に卸す事を許され、直ぐ後に「商い」をする事で朝廷の大きい財源と成る事から、特別に「四家四流の青木氏」に対して「朝廷」より「賜姓五役」以外に「氏族の商い」を「二足の草鞋策」を前提に特別に慣例を破って許された。

    (注釈 この時から「武家貴族の青木氏」と「商人の青木氏」の「二面性を持つ青木氏」が生まれた。)

    ところが、細々と「絹物」を「朝廷用」として生産していたが、江戸期に入り「徳川氏の後押し」もあり「殖産品」として「松阪紬」を生産し始めた。

    これには注釈として、 「5千石以上の幕臣武士」を対象として許可を得て「絹衣着用」を許された為にその需要が増したが、貴重な「絹紬」は幕府が身分に応じてその着用を禁じた。
    そして、「商人」などの「裕福な庶民」が使う「絹物」と、「高級武士」など身分の高い身分の者が着用する「絹物」との「品質」に差をつけた。
    更に、「質素倹約令」に基づき「城」で着用する「紋付羽織や袴や裃」の絹物の使用は将軍からの特別な許可が必要と成っていた。
    これを「絹衣着用のお定め」としていた。

    (注釈 「青木氏(X)」は、この姿で享保期に将軍御座の前面で意見を述べる権利を所有していた。本来は格式か上座にある。)

    厳しい「身分仕様の絹物」には、更に厳しい「括り」があり、取り分け、その中でも“「松阪紬」”は「古来からの超高級品」である事から「徳川氏の専売品」として納める事に成っていた。

    (注釈 「秀郷一門の結城地区」で生産される「結城紬」も「松阪紬」と同じ立場に置かれ同じ事であった。)

    (注釈 「青木氏(X)」が手掛けていた「古来からの藤白墨」も「朝廷の専売品」から時の「政権の専売品」と成り、一部は「朝廷」に流され、取り分け、明治期まで「徳川氏の専売品」(紀州藩総括)で市場には出回らなかった。)

    注釈のこれと同じく「松阪紬」は殖産する事で何とか市場に出回るほどの「生産力」を保持し高めたが、「超高級品」として「紀州藩の専売品」と成っていた。
    つまり、「青木氏(X)の殖産」により労せずして入る「紀州藩の超財源」と成った事に成る。
    故に、前期した様に「本領安堵並みの地権」を「青木氏(X)」に惜しみなく与えたのである。

    注釈として、徳川氏の幕府は、「紀州藩の成功」に真似て、「青木氏の定住地」にも「幕府領(「信濃 36村・甲斐 315村」)を確保して一部に「地権」を与え「二家二流青木氏」にも「和紙の殖産」と「養蚕の殖産」を命じた。

    この様な背景があって、「絹の扱い」には「木綿」などとは雲泥の差にあった。

    この差の面倒な「仕分け作業」を「紀州門徒衆(C)」に担当させたのである。

    では、問題は、“どのような作業であったのか”である。この時代では不思議な作業であった。

    それは、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とあり、これを“「五仕業」”と記されている。

    つまり、上記の通り、「販売拡充の努力」は不必要で、「五つの定められた仕事」をすればよい事に成っていたのであり、むしろ、してはならない「仕業」であった。
    「伝統ある松阪紬の殖産」には、「特別な伝統」と云う事に縛られて目的は「販売」には無く、主に「増産」そのものにあったのである。
    当然に必然的に、「伝統に基づく増産」には、完全に近い「五仕業」が要求された。
    粗製乱造では済まされない宿命が「松阪紬」にはあった。

    つまり、これが”「五仕業」”と書かれている所以であっては、現在で云う「トレサビリティー」の事を表現しているのである。

    「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とは、「殖産の製造」を除いて、この「絹物の松阪紬」の「五つの工程」の間に起こるあらゆる問題を治めながら最終の「松阪紬」まで持ち込む作業なのである。
    そして、「紀州門徒衆(C)」はこの「松阪紬を保証する役務」を負っていたという事に成る。
    唯、最早、これは単に「松阪紬」を作れば良いと云う事では無く成っていた。
    つまり、「権威」の“「保証と云う事の責任」”が伴っていたのである。

    この時代の事であるので、この「トレサビリティー」には、首がかかる事もあった。
    これを「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」に代わって「紀州門徒衆(C)」が務めるのである。
    つまりは、「和紙」や「木綿」などと違い「絹衣を着用する相手」が先ずは違っていた。

    彼等には、上記する様に「生産量」は兎も角も、主に“「禁令」”と云うものが大きく左右し、その結果、何せこの「絹衣」には「武士や貴族」の「名誉や地位や格式や家柄」と云うものが絡んでいたのである。
    「青木氏も同じ立場」にありながらも、これは「絹衣殖産」に依って生まれた「厄介な事」ではあった。
    記録を観ると、「五仕業」の文字が出てくるのは、この「殖産」が始まって暫く経った頃(1635年前半の頃)の事である。

    この事から、当初、室町期では、この仕業は「荷造り」、「搬送」程度であった様で、「直接販売」は無いので「納所」に届ける程度の事であったらしい。
    ところが、「殖産「を始めた事が、「江戸期の禁令」に合った様に「検品の品質」に強い要求が高まりる様に成った。
    暫くして「仕分け」の「絵柄や色合いや染め具合の要望」が増え、遂には、事前に「金糸銀糸」等の柄入れ、挙句は「絵柄」や「紋入れ」の特注等を含めた「着衣の仕立てまでの要望」が出されて来た様である。

    これは、「絹衣着用」が「名誉な許可制」に成った事で、「許可」を獲得した「高位の武士間」の「ファション競争」に火が付いたと考えられ、金に糸目も付けずに高額なものと成って行った事を示す。
    これは、古来から朝廷に納めていた”「松阪紬」”と云う「超高級品」を着ける事で「ステイタス」を示したかったのであろう。

    (注釈 この意味で細かく規制した「節約禁止令」は「絹物」では逆に成って行った。)

    この「厄介な作業」の「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」を、反元として「紀州門徒衆(C)」は熟さねばならない事に成った。
    元々、「紀州武士」であるし、今も武士は捨てていない。
    相当な抵抗があったと思われるが、「紀州郷士」と云えど「武士のステイタス」は理解されている範疇であったであろう。
    彼らは懸命に取り組んだ事が手紙資料の中で報告としての形で書かれている。

    そこで、先ずこの「五仕業」はどの様なものであったのかを書くと、次のようなもので簡単な「要領書」の様な形で書かれている。

    そもそも、「検品」とは、名張や伊賀から届けられた「素地の反物」を先ず「禁令」に合わせて「上中下」の「品格」に目視で検品して分ける。

    その「検品項目」は、「傷、巻込、不揃、色別」で判定した。

    「傷」は、「傷・噛込み」が入っている事
    「巻込」は、「塵・誇り・汚れ」が巻き込んでいる事
    「不揃」は、紡ぎ悪い事
    「色別」は、「光沢や色合]が悪い事

    以上の「四項目」であった。

    この「四項目」に全て合格した反物を「上格」であった。
    「上格」の中で「色別と不揃い」が格落ちした反物が「中格」であった。
    「傷」「巻込」が強く、「四項目」に格落ちした反物が「下格」として分けられていた。

    (注釈 但し、「検品制度」を高めればより収入が得られるし、「検品情報」を提供して「伊賀や名張」の「紡ぎの段階の品質」を上げられれば、「紀州藩」、「青木氏(X)」を始めとして「松阪紬全体の工程」は潤う。)

    こころから「仕分け」に廻される
    「仕分け」とは、「上格」は禁令に基づき先ず「朝廷」や「絹衣着用」を認められた「1万石以上の大名格」の上級武士用に振り向けられる反物である。
    「下格」とは、「老舗の絹物大問屋」に、「豪商などの商人用」、或いは、禁令に従い5千石以下の「中級の武士用」としても卸されるのが基本である。
    最後に、「中格」とは、「5千石程度の中級武士」の「旗本や御家人」で、何らかのお墨付き(黒印状)のある「格式の家」に充てられる。
    この「品格」にして「紀州藩納所」に納められる。(朝廷用は「上格」)

    原則は媒臣等は禁止である。唯、原則として、「松阪紬」はその「朝廷品の伝統」であった事から「下格」の品は「商人用」には実質は廻らない事に成るが、密かに「納所」より高額を得る為に廻されていた様である。
    これは、「高額な賂を獲得できる手段」として、「納所の紀州藩」は知るか知らぬか「市場」に流されていた事が追筆されている。

    (注釈 長い間の話であり、「家臣の私的賄賂」であれば「青木氏との帳簿突合せ」から見つかる事は必定なので知っていたと考えられる。
    そうでなければ「青木氏(X)」は「名誉回復の名目」にから指摘していた筈でその記録は無い。)

    従って、「青木氏(X)」と「紀州門徒衆(C)」の「元締め」は次の様な事が起こらない様に差配した。

    この「仕分け 1」として、次ぎの「仕業」をした。
    上記の様な事が起こらない様に「仕分役」は帳簿を確認しながら慎重に行う。

    次に「仕分け 2」として、次ぎの「仕業」をした。
    「松阪紬」が「殖産」で増産され特定の市場に出ると成ると、より要望が必然的に出てステイタスを高めようと買い手側から「松阪紬」を扱う「役所の納所(なんしょ)」に「家紋」に合わせた「柄、色合」などの要望が「上格」の「買手」から事前に出されてくる様に成った。
    又、「青木氏(X)」と「付き合い関係」のある「朝廷や大大名」からは、「ステイタス」の一つであった事から「贈り物」としてのこの様な特別注文が出るし、この為の「特別の仕分け」が必要と成る。

    「仕分けの要望内容」に依って、「振り分け」の「仕業」をした。

    「仕分け 3」としては、次ぎの「仕業」をした。
    何処の「染物屋」に回すかの難しい「仕分け」もあり、その「要望の如何」に依って「仕分けの技量」と合わせて「染め物師の技量」をにらんで振り向けなければならない。
    大変な作業で「検品」などの合わせた「総合的な目の技量の経験」が伴う。

    これらの「仕分け」(1から3)は、「検品の影響」を大きく受け、相互の工程の「連携」が必要で、これらの「要望(情報)」を前工程に伝えておくなどの手配も必要と成る。
    この連携無くして「仕分け」は成り立たない。

    この中間工程、つまり、「仕分け」は「五仕業」の中核(主)を占めていた。

    次は、「仕立て」は「上格の反物」に対して行ったものである。
    「朝廷」が「幕府」を始め大大名の「引出物」、「冠婚祭の祝品」等として、「最高権威」としての名の下に「超最高品」の「絹物」を送るが、多くは古来からの「部制度」による「朝廷専売品」のこの「松阪紬」が用いられた。
    これを「受ける者」は「最高の誉れ」(ステイタス)として受け取った事に成る。
    取り分け、「婚姻や世継ぎ誕生」などには「仕立て」をして送る事が、「受ける側」には「朝廷の祭事の供納品」でもある「松阪紬」を送られる事は、これ以外に最高の比べ物の無い未来永劫に伝わる栄誉として捉えられていた。

    この「伝統のある仕立て」を「青木氏(X)」外の氏素性の判らない「仕立屋」に出すのではなく、全て「青木氏(X)」の中で「完全ステイタス」を作り上げて“「賜物の松阪紬」”として贈られるものであった。
    これらの「限られた依頼者」は、「賜姓五役」で勤めていた「朝廷」、「殖産籍」の中にある「紀州藩」、公家と繋がりのある「縁戚の伊勢秀郷流青木氏」、「青木氏同族の信濃青木氏」に限られている。

    (注釈 「信濃青木氏」(小県郡)と「甲斐青木氏」(巨摩郡)は、後に強引に「幕府領」とされ「幕府の殖産地の地」とした。
    この「江戸期初期前の養蚕地」は、関西中部域では、「伊勢」を始めとして、「信濃、甲斐、美濃、越前、越後、丹後」が記録としてある。
    但し、これらは全て「青木氏の居住地」であり、その「青木氏財力」で進められていたが青木氏の滅亡した「美濃」は衰退した。)

    この「松阪紬の配分」は、次ぎの通りであった事が書かれている。

    「古来からの朝廷分(1割) イ」
    「殖産主の紀州藩分(8割) ロ」
    「青木氏の割当分(1割程度) ハ」

    以上の割り当てに指定されていたらしい。

    そもそも、「朝廷の分(1割)」には、江戸期に於いても「青木氏(X)」は、「朝廷の役職」の「紙屋院」と共に、「絵画院の絵処預」を務めていた事もあって、「幕府の目」があっても「手」を抜くことは出来なかった。
    この「絵画の絹物分」もあって、「朝廷」は「伊勢和紙」も含めこれを「絵処預の絵師」の「土佐光信派等の絵塾」に「絹絵」を書かせ、これを“「最高賜物品」”として「絹衣や反物」と共に高位族に送っていたのである。

    この様な傾向から、「青木氏(X)」は、その「元からの務め」であった立場から「朝廷への納品 イ」は、実際にはこの「1割」とは行かず、「出る限りの割合」を当てたいところであったらしい。
    これは資料からも読み取れる。
    然し、「青木氏(X)の殖産」であったとしても、今は「紀州藩の専売品 ロ」と成った現状では相当無理であったらしい。
    「青木氏(X)」の「自らへの割り当て分(1割程度) ハ」と、少ないが「伊勢秀郷流青木氏等」への「割り当て分 ニ」、つまり、「青木氏(X)」の「割り当て分 イ」からの充当をして「裏の割り当て分 ニ」として調整していた。

    その内から秘密裏に殆ど儲けの無い「朝廷分 イ」として工面して廻す事があったらしい。

    (注釈 「朝廷分 イ」には朝廷の勢力の拡大を恐れて「幕府の目」が厳しい。)

    恐らくは、「古来からの伝統品」という事もあり、且つ、薄利ではあったが、「権威の供納品」とする事で「衰退する朝廷への密かな肩入れ」であった事が容易に判る。
    これで「朝廷」への「供納品のお返し」として高位族からの密かな「朝廷への見返り分」が大きく成り、強いては内々に「朝廷援助」が出来たからであろう。
    「青木氏(X)」は江戸期に成っても「その務め」は続け、「賜姓五役」としてこれを期待して支えていた。
    「紀州藩」はこれを黙認していた模様ではあるが、「朝廷の財力」が高まる事も含めて「幕府の目」もあり気にしていた様である。

    この手紙の資料には、事の次第が「幕府の目」もあり明確に書けない様であって、この「松阪紬の状況」を報告した文章がある。
    それには急に文章の中に意味不明な、「四家の長」の“「福家様の御仕儀」“の文字が出て来て、”何か“を匂わせている文面であり読んでいても判らない。
    これは“何か”を知っていなければ解らないのであろう事が判る。

    注釈として、筆者は、「朝廷分 イ」の「割り当て分」に対する「福家の指示」を「射和郷士(A)」の「差配頭」に密かに伝えていたと観ている。
    この「福家の指示」とは次の経緯にあった。

    そもそも、「殖産前」は、「朝廷と青木氏(伊勢神宮の供物」を含む)」の中で割り当てられていた。
    これは、「朝廷と伊勢神宮の財源」に成っていた。
    つまり、判り易く言えば、当初は「紀州藩(「伊勢籐氏の家臣団」)」との「打ち合わせ」では、「藩の借財」を返す「最高の手段」として、そもそも「青木氏(X)」と共に、「松阪紬」の「朝廷への献納の利」のここに目を付けていたものであった。

    つまり、「松阪紬」を「権威の象徴の産物」として「政策的」に仕立てれば、“これ程の「見返り」は先ず無い”と読んでいたのである。
    後は、これに「政策的な禁令」や「質素倹約令」等を添えれば成立する。
    その為の「殖産」を「青木氏(X)」に任すとすれば、「紀州藩」は濡れ手で粟である。

    これは、注釈として云うならば、今で云う「地域興し」の「松阪紬ブームのプロジェクト」である。

    「権威の氏の青木氏(X)」の下で作られる奈良期よりの「伝統の朝廷専売品」を増産して「権威」で固められる「松阪紬」を先ずは世に出す事である。
    それも、人が羨む「限定の範囲」での販売とすれば、権威に憧れていた江戸初期に「高級武士」には火が付く事は必定で、金目に糸目を付けない事と成ると観たのである。
    「節約の禁令」の「裏の目的」はこれに火をつける「点火材」であったと観られる。
    大名格は「黒印状」を授けられたとする「伝統の氏姓の素性の裏打ち」にも成る。
    (殆どは詐称であった。)

    然し、ここで疑問が残る。
    「松阪紬の殖産」を続ける以上は、例え「伝統の物」であったとしても「殖産」である以上は、「利益」を上げる必要がある。
    これ無くしては続けられない。
    「朝廷の割り当て分(1割) イ」は、もとより続けていた関係上は伝統の「薄利」である。

    そもそも、「朝廷」に執っては「殖産」は何の意味も持たないし、「殖産」だからと云って衰退する中で「値上げ」はあり得ない。
    そうすると、「殖産の利益」を何処で取って「帳尻を合わすかの戦略」が「青木氏(X)」に必要になる。
    当然に、に求める事は「畑方免令による殖産税」である以上は無理である。

    恐らくは、この事で「紀州家臣団の伊勢籐氏」との間で、上記の資料の通り“「福家様の御仕儀」“の文字の意味する事から「検討」を繰り返したと読み取れる。
    これが、この時の「会議の決定事項」を“「福家様の御仕儀」“と表現したと考えられる。

    つまり、「秀郷流青木氏」等に廻す「青木氏(X)の(1割程度)の分 ロ」の「内訳とその内容」であった事が判る。
    何故ならば、「秀郷流青木氏」は、この「殖産」に於いて“何の必然性もない”のに文中に書かれているのはこの「戦略の内容」であったと読み取れる。

    “どう云う「戦略の戦術」か”と云うと恐らくは次の様に成る。
    「秀郷流青木氏(伊勢籐氏含む)」の「広い付き合い関係」(幕府の家臣団も含む)から「高位族の者」が、“密かに「権威と伝統の松阪紬」を何とか獲得しよう“とすると、この「ルーツ」を通じて「依頼」があった筈と観る。
    これを相手の「要求や身分」を観て、先ずは「下格」(中格を含む)を密かに振り当てる。
    この「名目」を「伊勢神宮(遷宮地の関係諸社含む)」の「献納品」に置く。
    「名目」としている「伊勢神宮」は、もとより「春日神社(藤原氏の守護神)」と「古来より関係性」を強く持っている。
    つまり、「北家の最大勢力の藤原秀郷一門」とは、「守護神」である以上は疑う余地は完全に無くなり、「紀州藩」や「幕府」に対し「言い訳」(神宮献納品)に成る。

    (注釈 「紀州藩」は当然に黙認する。紀州藩の「幕府目付家老」も仮にも知り得ても「幕府官僚集団」も同族の「武蔵藤氏」である。
    「幕府目付家老」も紀州に赴任される以上は、恐らくは「藤氏の末裔」である。
    そうすれば黙認はするし、「紀州藩の借財」が解消すれば「目付」としての「自らの立場」も成り立つ。
    要は“「名目」”さえ成り立っていれば先ず文句をつける事はない。)

    この“「名目」”を生かしながら、この「ルーツ」から「莫大な利益」を獲得すれば成り立つ事に成る。
    この事前に承知していた「戦略戦術」を「名目」として“「福家様の御仕儀」”として表現したと云う事が判る。

    注釈 その後の事として、上記した「信濃と甲斐と近江と越後と越前の幕府領」は、「米の生産石高」が安定して増えた「享保期」(12−16年頃)に「養蚕の殖殖産」が起こっている。
    これは、「吉宗」が厳しく採った政策の恐れられた彼の有名な“「無継嗣断絶策」”に依る「公収化策」で、上記の「青木氏の定住地」が何と「幕府領」と成った。
    “成った”と云うよりは、“した”である。
    ここは「伊勢」と同じく「古来からの養蚕地」で、「青木氏の定住地」で、「青木氏の商業組合の組織」で、「資力」を蓄えたところを「幕府領」として、「地権」を安堵し与え、「養蚕の増産」を命じている事に成る。
    これも見事に濡れ手で粟である。

    この条件は、「吉宗」が「親代わりの膝元(青木氏)」で直に経験して観て来た権威性を持った「殖産の絹紬」がどれだけの「莫利」を得られるかを詳細に知っていたからの事であろう。
    そして、この紀州の「権威と伝統」の「戦略と戦術」を使えば、「300両」しかなくなった当時の「幕府の御蔵埋金」を一挙に埋める事が出来る。
    それには、何はともあれ「賜姓臣下族」で「志紀真人族の末裔族の青木氏一族」を利用する事に成る。
    実績は紀州で作っていると成れば事は早い。

    「信濃紬」、「甲斐紬」、「近江紬」、「越前紬」と「越後紬(「秀郷流青木氏と信濃青木氏))」等の「絹物」の「権威名」を着ければそれで済む。

    (注釈 ここは「青木氏」が始めた「15商業組合」の「主要5地域」でもある。
    この「無継嗣断絶策」は所領を持つ旗本・御家人までも含む「大小の武士階級」にまで適用され、「無継嗣」と見做された場合は問答無用で没収され「幕府領」とした。
    「青木氏の定住地」には、恐らくは難曲を着ける、挙句は「土地の振り替え」で領主を追い出し、そこを「幕府領」とし、本領並みの「青木氏に地権」(元の天領地)を与えた。
    然し、上記した様にその「領域の村域」が大きいのはこの理由による。
    この為にも「青木氏の権威と資力」を見逃さずこの元の「天領地」を「幕府領」とした上で保護した。)

    何せ「幕府領の養蚕の仕掛け人」は、当然に「吉宗と江戸の伊勢屋(青木氏)」とすれば何の問題もない。
    つまり、「松阪」から人を送りこめば済む事であるし、呼び寄せればよい事に成る。
    「権威と価格」に問題が出れば、「松阪紬」とすれば済む事である。
    ある研究の資料には、”「御領紬」の呼称”が出てくるが、これがその事ではないかと考えている。
    つまり、どう云う事かと云えば、上記の「幕府領」(徳川氏)は、「伊勢松坂」を含めて、元は天皇家の「天領地」(天皇家)と呼ばれた地域である。

    (注釈 「幕府領」は別に「幕領」とも呼ばれ、これを間違えた明治期の研究資料が「幕府領」を「天領地」と呼んだ事から誤解が生まれた。
    現在は、過去の資料より学問的にこれを正式に訂正されていて、「幕府領」と「天領地」とは区別されている。
    「青木氏」に於いても「近江、松阪、信濃、甲斐」については「天領地」とした資料に成っている。
    唯、「近江と甲斐」はその「天領地の範囲」が狭い事から「天領地」と「幕領地」の重複部がある事が観られる。
    例えば、「源頼光」が派遣された「信濃国」は「天領地の守護」としてであったとする明確な学問的な資料もある。
    当然に、「青木氏の始祖の施基皇子」が「伊勢天領地守護」として「三宅連岩床」を国司代として派遣した事も正式に資料として遺されている。)

    この意味でも、”「御領地」”は本来の「天領地の総称」であって、その呼称を使って、江戸期中期には「「松阪紬」も含む「御領紬」として「権威」を持たせる為に意図的に呼称させたと観ている。
    この呼称は、一般に出回る事も無く、且つ、「禁令の事」もあって憚って「高級武士の間での呼称」であったとされている。
    況や、この呼称は、”「松阪紬」”の「伝統」に基づく「名誉と権威」として利用したと観ている。

    これが、「青木氏の松阪紬」が基盤と成った大切な「青木氏」しか知り得ない「歴史観」である。

    さて、この歴史観を前提に、この話は「五仕業」に続く。
    ここで次ぎの事で、何故、この殖産工程が「仕事」では無く“「仕業」”としたのかが判る。

    そして、その「仕業の呼称」から「松阪紬」を”どの様に仕向けるのか”、将又、位置づけるのかの判断をしたのかも判る。


    そこで次は、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」の“「荷造り」”の工程である。

    普通なら、この「荷造り」は「技職の業」では無いであろう。
    ところが資料を読むと単なる工程では無かった。
    相当に、「前行程の仕立て」までの「権威性」を計算した恣意的に利用した「技職の業」である。

    上記の朝廷の「供納品」や「賜物品」に、「より権威性を持たす方法」が下記の通り二つあった。

    一つは、「反物」、或いは「仕立物」の「宝飾荷造り」である。
    二つは、「宝飾荷造り」に「権威の影」を染み込ます事である。
    この(一)と(二)で一対として、「伊勢神宮」に「神の御霊入れ」を祈願して「御朱印」を授かる事にある。

    この作業を一手に引き受ける事に成り、この為に「装飾技能」や「反物、仕立物の漆箱等の技能」が要求された。

    そもそも、この「装飾技能」と「漆箱の技能」は、「紀州郷士」の彼らの「元からの特技」であり全く心配はいらない「彼らの本職」(「技職の業))であった。
    「装飾技能」と「漆箱の技能」を「技職の業」でないという人はまさか居ないであろう。

    それは何故かと云うと、次ぎの様な経緯があった。

    注釈 そもそも「紀州」は「南紀」には「熊野神社」と、「北紀」には「伊勢神宮の最後の遷宮地」で多くの「伊勢神宮系の遷宮神社」(4社)が存在する。
    この「熊野神社」や「遷宮地」の門前町には「祭祀に関係する技能」が古くから多く広まって集まっていた。

    その一つが「装飾技能と漆技能」であり、現在もその伝統は継承されている。

    (注釈 「紀州漆器」は、「三大漆器」の「輪島塗」と共に有名で「紀州漆塗」は「古来からの伝統芸能」であった。
    現在はこの「漆器伝統」が、江戸中期に分流し二流、つまり、「黒江塗」と「根来塗」に分かれて遺されている。
    分流した原因はよくは判らないが、そのきっかけは平安期末期と室町期末期の混乱で「近江の木地師」”が紀州に移り住んで「木地物」を広めた事から、これを「椀物」と「塗」とを組み合わせた事に成っている。
    時期的に観ると、「紀州郷士」の「紀州の北紀殖産」を導いた「名手氏や玉置氏の保護」を受けていて、何か「射和との関係性」を持っているかも知れない。)

    (注釈 そもそも、「近江木地師」は、「近江関係氏の資料」の「近江の佐々木氏系青木氏」の項の論文によれば、「近江木地師」は「近江佐々木氏系の青木氏部」に所属していた筈である。
    ここには、平安末期の「近江の源平戦」で敗退し、更に「美濃の源平戦」でも敗退し、「佐々木氏系青木氏の滅亡」にて分散したとある。
    そして、「近江佐々木氏」が一部を囲い、一部は伊勢等に移動したとある。
    この時の「木地部」が、「近江佐々木氏」が室町期末期に衰退して「木地師」は「紀州」に移動し、平安末期には「伊勢」に飛散したと読み取れる。
    そもそも、「木地師」とは、「仏像」を始めとして「木地に関わる生活用品」を幅広く作る「職人」であり、平安期には「賜姓族」であった「青木氏」には無くてはならない「青木氏部の職人」であった。)

    (注釈 論外ではあるが、ここで「二つの疑問」が残る。先ず一つは、「近江木地師」は何故、、紀州紀北に移動したのか。二つは、何故、「紀州漆器」が二つに分流したのか。この「二つに疑問」が残る。
    そして、この「二つの疑問」が「射和との関り」にあるのではと考えた。
    一つ目は、現在の地元の定説は単に移り住んだとある。当時の掟では許可なく理由なき移動は認められていない。確かに「近江佐々木」は衰退を続けたが、それでは「移動できる条件」にはならない。
    ただ「紀州」は、「木の国」であり、「漆の最大産地」でもある。「木地師」に執っては「絶好の定住地」と成るだろう。しかし、それだけで「移動できる事」にはならない。
    これには「伊勢の青木氏部」に組み込まれた同族の「一団の木地師」との関係が出ていたのではないかと考えていて、それが「射和」と結びついてると考えている。
    これには何か「歴史的キーワード」がある筈である。その「歴史的キーワード」が「分流した原因」でもあると観ている。)

    (注釈 この「歴史的キーワード」を解く鍵は、「江戸中期前後」と「秀吉による根来寺荒廃」にあったと観ていて、「秀吉」に依って徹底的に潰された「根来寺」を江戸中期前後に「吉宗」と「紀州藩」が庇護して伽藍を修復したとある。
    つまり、「紀州」と「江戸中期前後」とは、”「吉宗に関わる事」”に成る。
    「青木氏部」に組み込まれた「近江木地師」を、「漆器職人」を生業としていた「紀州門徒衆(C)」を「射和」に呼び寄せて「養蚕の殖産」を成功させた。
    ところが、「吉宗」が引いた後の紀州藩は放漫な藩政に依って再び「借財態勢」に成った。
    そこで、「射和の成功体験」をもとに「吉宗」は、「射和の経緯」もあり「青木氏(X)」と相談の上で、「伊勢の青木氏部の近江木地師」を「紀州藩の財政立て直し」と「根来寺の再建」を図る為には逆に「伊勢」より「根来」に差し向けたと考えられる。)

    (注釈 「青木氏(X)」は、江戸中期前後、つまり「享保期末期(1751年没)」の直前に表向き理由として「吉宗との意見の違い」にて江戸を引き上げているので、その直前にこの「木地師の配置」を決めたと観られる。
    これで、現実に奈良の国境の「根来」は息を吹き返した。
    そもそも、「吉宗後の紀州藩」は「借財体質」に再び戻った事からも莫大な金額を要する「根来寺伽藍修復」は「吉宗と青木氏の援護」なくして出来る事で無かった。
    この仮説が「上記の疑問条件」を解決する。)

    (注釈 「根来寺」は高野山の麓の真言宗寺であり、忍者の里でもある。「雑賀集団」と共に反抗集団として恐れられ五月蠅がられた。
    「吉宗」はこの「根来衆」を鎮める為にも「伽藍修復」と根来発展」と云う上記の手を打った。
    この「二つの地域」には「木地と云う姓」が多い所以でもある。
    これが江戸期に二度行っている「青木氏」の「紀州藩勘定方指導」と云う事に発展していったのではと考えられる。)

    その「古来からの伝統ある技能」を家内工業的に彼らの「唯一の収入源」として「紀州郷士」等が継承していたのである。

    この「荷造り工程」の前の「三つの工程(検品、仕分け、仕立て)」は、何とこの「荷造り工程」に付き物の工程なのであった。

    彼等には身寄りもないこの「伊勢松坂射和」であったが、この難しい「五仕業」は当に“水を得た鯉“であった。
    だから、「門徒狩り」のほとぼりが冷めた後も彼らは「射和」を飛び出さなかったのである。
    これは「青木氏(X)」と「松阪郷士(B)」の判断であったが、より「松阪紬の権威性」を高められる手段を模索する中で、確かに「扱いに問題」はあったが「天の巡り合わせの様な出来事」であった事が判る。


    さて、その「彼らの行動」は、それどころでは終わらなかった様だ。
    「天の巡り合わせ」と云っても、そもそも、この「五仕業」には「人手」が多くかかる。
    この事は、「青木氏(X)」から高度な仕事(仕業)を与えられた瞬間から判る事であった。
    合わせてこの事は、この「五仕業」が「高度な職能」である限りは「射和郷士(A)の手」を、借りられない事は直ぐに判る。
    当然に、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」との間で相談に入った筈(手紙の一説)で、「解決策」は当然に直ぐに提案された事に成る。

    それは、「唯一の策」として、“紀州から彼らの縁者一族を呼び寄せる事”にあった。
    これには、「国抜けの禁令」が障害に成る。一族郎党の斬首の重刑である。
    彼等自身(紀州門徒衆)にはこの事は何とも仕難い事である。

    そこで、「青木氏(X)」は動いた。
    「紀州藩(伊勢籐氏家臣団)」に隠密裏に掛け合う事であった。
    「紀州藩」はこの事を許可しなければ「借財」は疎か「税の収入」も激減する。
    それどころかこれらを解消させる「殖産」が成功しない。
    況してや、「絹衣」は「他の殖産品の木綿等」と比べても比べ物にならない「高額収入源」であり、「紀州藩」としても「権威の象徴」として広範に利用できる。
    更には、藩としての「借財」は返せて、且つ、「権威と名誉」は保て幕府に大きい顔が出来る。
    この最大の問題の鍵はこの「国抜け罪」である。

    然し、「見事な殖産」を「青木氏(X)」と共に仕立てた「賢明な藩主」は、要は、「国抜け罪」<「殖産」=「借財」と間違いなく考える筈である。
    後は、「伊勢」には「南勢と北勢」に幕府の「四つの代官所」を置いているが、この「幕府の目」をどの様に反らし「国抜け罪」をどう繰りぬけるかにあった。

    然し、積極的で賢明な「藩主」は、「遷宮神社」の「門前町の職能者」の「彼らの一族一門の郎党」を「射和」に送りこむ事を決定した。
    それには、「門前町職能の現能力」を下げずに「門前町職能者」の郷士の「次男三男の部屋住み」を密かに「射和」に送りこむ事にして、そして、彼らに秘密裏に「通過鑑札」を与えた。

    (注釈 この「遷宮地門前町」は、城下の直ぐ東側に繋がる様な位置にある。
    そして、この紀州藩城下にある「遷宮地」は、真東の奈良五条を経由して、そして、「名張」−「射和」に通ずる「一本道の位置上」にある。
    つまり、距離は「射和」まで約130Kmであり、容易にこの計画は、無理なく、即座に、且つ、円滑に、極めて早く実行できる可能性がある。
    急がねばならない。人の歩く速度約10Km、一日12時間として昼夜のほぼ一日で着く。
    関所は五条の一か所、地形は殆ど平坦で名張まで来れば迎えが入る事で、荷駄と人は早くなり最早安全である。
    戦略は当然に「風林火山」である。
    「紀州藩の家臣団」は目立たぬ様にそれとなく護衛している事と、一団を「カモフラージュ」する役を演じる事にも成る。

    (注釈 実は、呼び寄せの「別の証拠」として、「紀州北紀の郷士」で「射和」に来ている一門の「玉置氏」がある。
    この「玉置氏」は、「筆者の母方」の「江戸期の出自先」で、「醤油と酒」を製造し、「搬送業」も兼ねていた。
    この「搬送業」での口伝では、「松阪射和」まで運んでいた事が伝わっている。
    何を運んでいたかは明らかではないが、恐らくは、当然に「射和の一族」に「醤油と酒」を運んでいた事は判る。)

    実は、この彼らの一族郎党を呼び寄せた証拠が記録として二つ残っている。

    先ず一つは、「射和地区の北側」は開発をして定住した地域なので「紀州郷士の姓」は多いが、ところが、「西側の近江商人(B)」の定住地域には「紀州郷士の姓」(前段でも論じた)が「住み分け」をしている筈の中でこれまた多いのである。
    これは何故かである。
    この時代は「争い」を避ける為に「住み分け」を原則としている以上は、西側には無い筈で、「松阪郷士(A)の土地」でもあり、「自由な住み分け」は殖産工程上も当時としては先ず起こらない。

    ところが「時系列的」に観ると、「近江商人(B)」が江戸に出始めた享保期後半に集中している。
    これは、この時期に「紀州門徒衆(C)の開発定住地」の「射和北側」から「櫛田川の川洲域」の「西側」に向けて降りて来たという事に成る。

    これには、記録上で二つ理由がある。(呼び寄せた「二つ目の証拠」)
    一つが、「射和北側」では「五仕業」の工程が山間部である為に手狭になった事。
    これを解消する為に、その「工程の流れ」を「射和北側」の定住地の中での「横の流れ」から、「射和川洲向き」の「縦の流れ」に変えれば「最終の搬送工程」は直ちに「舟」に乗せての「便利な工程」の流れに成る。
    幸い「近江商人(B)」は江戸に出て空き地と成りは始めた。
    工程を熟す「住まい」をその方向に建て替えてゆけば成立する。

    (注釈 彼等にも「五仕業」の御蔭で「資力」は出来た。「青木氏(X))も援助する。)

    二つは、「近江商人(B)」が担っていた「松阪木綿」を扱う者が居なくなった事。
    「近江商人(B)」は、結局は、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」等と反目して一族を「射和」に遺す事は到底出来なく成った。
    この結果、「松阪木綿」の「販売」を誰かに委ねなければならない。
    そこで、「射和郷士(A)」は、「青木氏(X)」の了解を得て、子孫拡大する「紀州門徒衆(C)」に依頼し、その条件として「西側の使用権利」(地権も含む)を援助の形としても譲った事に成った。

    紀州から逃避して来て、「青木氏(X)」に保護された「紀州門徒衆C)」と、その呼び寄せられた一族は、「五仕業」に依って生活は一度に裕福になった。
    「子孫」も養えるし、彼らの名誉を回復して郷里にも顔が立った。
    この経緯が「紀州郷士の姓」が多くなった理由である。

    さて、次は、「搬送」である。
    この「搬送」は、”単なる前工程の絹物を特定先(上記)に運べばよい”という事では無かった。

    先ず、「一つ目の搬送先」は、松阪にある「紀州藩納所」である。
    搬送には領内であるので問題はない。

    次ぎの「二つ目の搬送先」は、「朝廷」で京まである。
    「高額品」であるのでこれは慎重にしなければならない。
    「護衛」を着ける必要があり、「伊勢シンジケート」に「射和郷士(A)差配頭」を通じて手配が必要である。

    最後は、「三つ目の搬送先」は、「青木氏の割り当て分(1割相当)」からの「伊勢神宮献納品」である。
    これも問題はない。

    先ず「搬送品」を筵で包むような事は出来ない。それなりに装飾を加えての「御届け物」に成る。
    「朝廷」には、「天皇家」に納めるのではなく、「朝廷の式典」の「供納品」として納める事に成る。
    従って、「荷駄」には「式紋の五三の桐紋」の敷物が古来から使用された。
    荷駄には旗が立られて運ばれるが、周囲は荷駄に対して最敬礼であった事が書かれている。

    「紀州藩」の納所には、徳川氏の「式紋の立葵紋」の敷物が使用されたと書かれているが、これも朝廷荷駄ほどではないが、邪魔や追い越すなどの無礼は無かったらしい。
    何れもそれだけに、「搬送」は「権威」を落とさない様に周囲を固めて運んでいたらしい。

    後は、「青木氏分の割り当て分(1割相当)」より充当した「秀郷一門への搬送先」は松阪北側の湾寄りの四日市と津の中間位置にあった事から、直納した事が書かれている。
    これには余り荷駄を公には出来ず、速やか密かに屋敷に届けた事が判っている。
    その内容を書いた「要領書」の様なものがあってそこに書かれていたらしい。

    (注釈 「青木氏分の割り当て分(1割相当)」とは、一定の生産計画分より「増えた分」を「青木氏の割り当て分」としてプールし、それを「秀郷流青木氏」を通じて密かに廻していた事に成る。
    紀州藩には表向きは「秘密の分」であったらしい。黙認されていたと観られる。
    「増えた分の差配」は「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」と「紀州門徒衆(C)」の三者で密かに決めていたと観られる。
    この三者に対してその増分から得られる「利の配分(利得分・割り増し分)」もあったからだと観られる。)

    何れも、四者に届ける「搬送役の要領書」が独自にあったらしいが見つからない。(消失か)

    そして、この「要領書」の様な中に、彼らの「搬送の本領」が書かれていた様で、それは、つまり、「実質の営業」であった事らしい。

    つまり、「状況証拠」から、先ずは、次ぎの手順を踏んだらしい。

    「届け先」に着くと「届けの確認」と、「次ぎの要望」等を取りまとめて聞いてくる事。
    場合によって「発注量(納品量)」と詳細な「要望の把握」と「納品期の要望」にあった事。
    時には、「厳しい交渉」(苦情含む)が丁々発止で行われていた事

    以上の様な事であったらしい。

    「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城−名張−伊賀−射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

    筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

    これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
    元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
    全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。

    本段は、著作権と個人情報の縛りの中で「伊勢の事」を少ない資料の分析を以ってそのつもりで論じた。



    > 「伝統シリーズ 39」に続く


      [No.356] Re:「青木氏の伝統 37」−「青木氏の歴史観−10」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/08/20(Sun) 14:32:06  

    > 「伝統シリーズ−36」の末尾



    >(注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
    >その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
    >「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

    >(注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
    >「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。

    >(注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。
    >少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。


    >注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
    >これは既に”「青木社」”であった。
    >つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
    >その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
    >つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
    >それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

    >その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
    >「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
    >「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。




    「伝統シリーズ 37」

    此処で「青木氏の歴史観」として、「青木社」を成し得るにはそこには「地権と云う権利」があった事になろう。
    それ無くして「無理」と考えられる。

    この「青木氏の地権」に付いて詳しく論じて置く事がある。
    それは「単純なる地権」では無かった筈である。
    この「地権」には、「政治的なもの」が働いていて、与える者、与えられる者の双方の「戦略的駆け引き」が読み取れる。

    先ずは例として、「伊勢青木氏の地権の状況」が良く判っているので、これを見本として論じるが、全国の「青木氏の地権」も、取り分け、「15地域の青木氏」はほぼ同じであったと考えられ、この事は遺されている資料からも頷ける。

    江戸初期の紀州藩から受けた「青木氏の本領安堵」の内容には、“「地権」”と云う点から観ると、その「地権の一部」に異なる事があるのだ。
    ところが、その「地権の一部」には“ある意味合いが潜んでいる事”が判る。
    それは、むしろ、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」以外は、「紀州藩」から「殖産と興業」の「伊勢復興」の為の「地権の土地」ではあったと観られる。
    その「地権の一部」には、紀州藩の「頼宣の差配」で「本領安堵策」で、敢えて「奈良期と平安期初期の旧領の本領」までを付加されているのだ。

    先ず、当時の「本領安堵の慣習」として普通ならば、これ程に古い「旧領安堵」までは認めていなかった。
    この事は「青木氏」としても当初は考えていなかった筈で、この事から考えると「地権を持つ地主」と云うよりは“「ある目的」”を以って、形式上は“「預け任された」”と云った方が適切であろう。

    「青木氏」としても“「ある目的」”を理解するまでは、或は、「紀州藩」から「内々の話」があるまでは驚いたと観られる。
    実は、これには「根拠となる資料」があった。
    江戸初期の当初は、その年の収穫量から割り出す「検見法」と云う令があって決められていたが、当時の江戸中期前後には、この「検見法」は変動が大きく「定免法」と云う税法に変えた。

    (注釈 「検見法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに都度の「年貢率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
    一方、「定免法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに「定税率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
    その設定方法に依って使い方の時期は判る。)

    然し、例外を設けて「収穫量が低い地域」には、“「畑方免令」”と云う特例を発して「畑地の税比率」を変えた。
    そこで、この「畑地」として登録されている「殖産地」には、足りない収穫分は「米」を他から買って「米」で納め直す「買納制」が敷かれていた。

    ここが「殖産政策を敷く青木氏」に執っては大問題なのである。
    そこで、取り分け、上記した本領安堵された「青木氏の地権地域」の「殖産」には、「米」に変換して「金か米」を納める事が起こったが、「青木氏」では主に「金納」であって、一種の別の「買納制の慣習」が敷かれていた。

    つまり、「紀州藩」は、“「米納」(「買納制」)”では無く、特別に「青木氏」に対して例外的に原則禁止の“「金納」”のこれを特別に容認していたのである。

    さて、これは何故なのかである。
    この“「ある目的」”を理解することが出来る「重要な疑問点」であった。
    「幕府」は、「紀州藩」の「財政立て直しの目的(安定した借財返済)」を理解して、これを黙認した事が史実として判っている。
    これを観ると、「青木氏」の「旧領の本領安堵策」の地域だけには特別視していた事が判る。
    実は、この時の事の一部がこの「資料」に書かれていて、「公民比率」が普通の「四六の税」が逆転して、上記の「旧領(古来)の本領分域」の「殖産の地権部分」だけは「六四の税」に成っている内容が書かれている。

    そもそも、「一揆」が起こりそうなこの“「厳しい税」(「六四の税))“を考えると、先ずは「紀州藩改革」の為の「一窮策」であったかも知れないが、「青木氏」の「資産投入」に依って”「殖産を興す前提」“として、敢えて紀州藩は「本領安堵する条件」にしていたと考えている。

    仮に、この地域を本来の様に「紀州藩直轄領」とすれば、「殖産」を興すとしても全て「紀州藩の財政」から賄わなければならない。
    然し、その「投資の財力」が「借財中の紀州藩」に無ければ、取るべき方法は唯一つである。
    それは「青木氏」に先ず「慣例」を破って「旧領の本領安堵」をして、“「地権」”を与え、その上で「私財投入」させた上で、その「差配一切の費用」も持たせて、その代わりに「税」だけを「金納」(「六四の税)で、「紀州藩」が獲得出来得れば安定した「六の純利益」が安定して丸々獲得できる事に成る。
    それを更に「金納」にすれば、「紀州藩」は大阪で「換金の手間と経費」も省ける。
    こんな「濡れ手で粟の策」は無いだろう。

    普通は、「四六の税」かせいぜい「五五の税」ではあるが、国に依っては厳しい「七三の税」も在ったが、ここまですると「殖産に注ぎ込む力」はなくなる故に、これはせずに少し緩めて「六」を納め、「四」を「殖産」に注ぎ込ませる政策を採ったと観ている。

    そして、「畑方免令」に依って「殖産の利益」を「米換算の納入」にするのではなく、「返還金」で直接納税しているところを観ると、「米換算の納入」では大阪堂島の「米相場の影響」を受けない「藩のメリット」があった事にも成る。

    これは、“予期していなかった“と云う事もあって、「紀州藩立て直しの策」として「了解の上の政策」であったと考えられる。

    (注釈 それは「青木氏の資料」の文脈から「反動的な文言」は無い事からも判る。)

    これで幕府からの「借財10万両の返還」を成し遂げた「紀州藩」の「立て直しの窮策」の効果的な一策であったと観られる。

    (注釈 それでもこれを引き受けた事は、「青木氏」に執っても「四」でも”「無形の利」”があった事に成る。
    それは「殖産」を興せると云う「利」があって、それが「旧領の氏人」に「潤い」と成り得り「氏人」を救える。
    つまり、恐らくは、この「旧領の本領安堵」の地は、「奈良期からの氏人」が住んでいたからであって、“救える”という「無形の利」を敢えて採り、元より「利益」を度外視していた可能性が高い。
    「紀州藩」も「腹の底」でそこを見据えていた可能性がある。)

    何故ならば、「紀州藩の家臣」は、殆どは縁戚の「伊勢の秀郷流青木氏族」であるからだ。
    彼らが“縁戚を裏切る事”は先ず無く、この意味から、事前に説得を受けて内々で承知していた事が伺える。
    下記の「紀州藩の勘定方指導」もその「戦略の経緯」の中の一つであった事は間違いはない。
    この時の内々の話の中には「この話」が出ていた筈である。

    去りとて、幾ら、「頼宣の時」は別としても、更に「殖産」を進めた「吉宗」の時に「勘定方指導」で「紀州藩」を救うと云っても、それまでの「幕府借財2万両の体質」と「10万両の借財返済」の「負の勢い」を押し返し、「立て直し」までに至らすには「相当で効果的な秘策」が無ければ成し得ない。
    「吉宗」が唱えた単なる「質素倹約策」だけでは成し得ない事は明白である。
    この「質素倹約策」は明らかに「紀州藩の政策上」の「表向きの策」であった事が判る。
    ”領主はちゃんとやっているよ”と吉宗に対する領民の期待感を先ずこれで維持し、「一揆の動き」を抑え、傍らで”「青木氏の殖産策」”を示すと云う「パフォーマンス」をやってのけたと考えられる。
    そもそもこの時期、飢饉や災害が頻発し、その上に「質素倹約の令」は現実的には無理な筈である。
    然し、建前上は”「派手」”は推奨出来ない。

    筆者は、「領民」には、「吉宗と伊勢屋(伊勢青木氏)」との「育ての親関係」は、「周知の事」であった筈で、「吉宗の裏」には「豪商伊勢屋」、つまり、「伊勢」のみならず「二つの青木氏」があると知っての事で「質素倹約令」を敢えて受け入れたのだと観ている。
    これは「一種のサイン」であって、”これから改革して「領民の暮らし」を良くするよ”と云うものであったのだ。
    そしてそれは、”「殖産」”を手掛ける「青木氏と伊勢屋」である事は領民の周知の事であったのだ。
    況してや、前代未聞の「旧領の本領安堵」の事も充分に伝わっていたのであるから、これから”何か起こるよ”と領民の期待は膨らんでいた事に成る。
    だから、「郷氏」としての「旧領安堵の事」を素直に受け入れたと考えられる。

    そこで「伊勢屋の紙問屋」の「二足の草鞋」の「青木氏」が、「殖産」と共に「紀州藩の勘定方指導」をする以上は、「質素倹約策」ならば誰でも出来るから何も「青木氏の指導」を受けることの必要はない。
    それは「青木氏」ならではの「秘策」とその「実行するノウハウ」を持ち得ていなければならない筈である。

    その「秘策」が、次に論じる”「商業組合と殖産」”であって、その「殖産」を前提とした「商業組合」の「殖産」を興す前提が、この“「旧領の本領安堵策」”であった事に成る。

    そこで起こる「殖産収益」にその税率を「六四の税」を掛け、「六を金納」にして「四を殖産経費」に廻せば「青木氏と紀州藩」に執っては双方共に「六は純利益」と成り得る仕組みである。
    これが「青木氏」の「無形の利」の根拠であろう。
    そして、“「殖産」”から生まれる「製品」をより効果的にする為に”「商業組合式」”にして「生産から販売」までを「系統化」すれば、「販売如何」では「六四」以外の”「利益」”は間違い無く起こる。
    これを「青木氏等」の「殖産側の取分」とすれば、この「システム」は成り立つ事に成り、「氏人」も確実に潤う。

    この「旧領の本領安堵策」以外にも、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地」の「二つの地権地域」の「殖産」もある事から、「殖産経営」は充分に成り立つ。
    従って、「頼宣の要請」(伊勢藤氏家臣団)としても、「吉宗の勘定方指導」(青木氏と伊勢衆)としても、何れにしても「殖産の策」として使えた事に成った。
    兎も角も、後は「青木氏と伊勢衆」の「殖産努力の如何」に関わる事に成り、「紀州藩」は「旧領の本領安堵策」だけで事は終わる。
    後は”「税納」”を待つばかりに成る。

    更には「吉宗」の時は、「勘定方指導」で”「政治」”そのものも任せた事にも成り得て、そこに「伊勢藤氏族の官僚」の体制が整えたと成れば、「伊勢方の主導」で「紀州藩」を動かしたとも云える。
    故に、一致結束が出来た事に依って上記の計画、或は、謂わば、”「伊勢戦略」”が「2万両の借財体質の脱却」と「10万両の返済」が可能に成ったのである。

    それが「青木氏の歴史観」の「伊勢殖産」であった事は確かではあるが、”「殖産」”をしても「純利益」を高める事が「必要条件」であって、それに「紀州藩」が「伊勢殖産」に直接投資していては「純利益」などあり得ない。
    況して、そのノウハウも無いし「必要経費」で毎年の幕府から借財する「2万両の赤字」は更に膨らむ事に成る。
    この何もしないで得られる“「純利益」”が、上記した“「負の勢い」の「押し返し」”の”「反力」”と成り得たからだ。

    この上記の「金銭」に変換して”「純利益」の「反力」”が「上記の窮策」であったと考えている。


    (注釈 何度も記述するが、「紀州藩の家臣団」の殆どは「秀郷流青木氏」を中心とする「伊勢藤氏の集団」であるから、この話を「青木氏」に通して「内諾」を得る事は実に簡単な事であり、この「立場」を生かさない方がむしろおかしい。
    むしろ、「青木氏の方」から裏でこの話を持ち込む位の事はあっても不思議ではない。私なら絶対にやる。)

    筆者は、この“「反力」”を示す事が何処かに必ずあると観て研究を進めた結果、正式な書類とは考えられないが、「新宮の遠祖地の縁籍筋の家」からこの事に関する資料が発見された。
    この資料の上記の一説に、この時の「税の事の経緯」を書いた文章の一説が見付かった。

    つまり、「青木氏」が、この「今後の税」の事に付いて、況や「地権地」の事に付いて縁籍関係一族一門に説明をしている一節の行である。
    「地権」を持つ各地の「遠祖地の縁籍筋」からの「殖産振興」を進める上での「問い合わせ」の様な事が書かれてあって、これに対する「返信」ではないかと観られる。
    そもそも、250年近くも平家をはじめ多氏の支配下にあった「遠祖地の氏人」が、江戸期に成って急に「本領安堵」となれば、”何かあるな”という事は理解していた事は明白で、そこら辺のやり取りではないかと考えられる。
    恐らくは、「紀州藩との関係」に付いての「戦略的な事」に付いて懇切丁寧に説明したのではないかと観られる。(青木氏側には消失して資料はない。)


    そこで、この「殖産の土地」には、「畑方免令」を上手く利用して「平安期の旧領(遠祖地)」の「本領安堵策」で解決したとして、次ぎの問題としては「優秀なリードできる人の確保」であった。

    「優秀なリードできる人の確保」の問題を語る上で「重要な事」があって、そこで、「伊勢青木氏」等は「歴史上に遺る史実(歴史観)」として次ぎの事を成したのである。

    前段でも論じたが、「室町末期の伊勢三乱」で敗退して何とか生き残った「3割程度の郷士衆」と、「全国に飛散していた者(伊勢衆の伊賀衆)」等を先ずは呼び集めたのである。
    「伊勢衆」を生き残らせる為にも、江戸初期には、「頼宣肝入れ」で、「青木氏」と共に、「紀州藩公認」の下でこの事に取り組んだのである。

    この事に付いては「紀州藩家臣団」が要するに何と云っても「伊勢籐氏」である。
    「呼び戻す事」には何の問題もない。
    むしろ「人と云う戦略点」では、これ程の「都合の良い事」は無いであろう。
    普通なら、”呼び戻せばまた反乱を起こす”という意見も家臣や周囲から出るであろうが、そこは逆であった。
    そんな馬鹿は幸いに居なかった。

    況して、当時は、「人」は領主の下にあり、”他国から呼び集める”と云う事は「国抜けの法度」でもある。
    「理」に合わなければ「時の指導者」でも逆らうと云う「伊勢の骨入りの郷士」とその「家人」である。
    ”「人」には問題がない”と云うよりはこれ程の理に適った「人」は無かったであろう。

    後の事は「青木氏」が「引き受け元」に成れば完全に上手く行く。
    この事は「公的資料」として遺されている。
    流石、「家康」が目にかけた「頼信の紀州藩」である。
    実にうまく利用した。中にはこの”「殖産策」”を利用して「伊賀者を護身団」に仕立てたくらいである。

    (注釈 実は「頼信」は将軍からその「才」を嫉妬され「謀反の嫌疑」をかけられる始末で「影の護身団」が必要であった。
    これも「伊勢籐氏の家臣団」が「当主」を護る為に「青木氏等」が行う「畑方免令の殖産策」に託けたと考えられ、「青木氏」もそれを導いたものである事は疑う余地は無いだろう。
    後は、「青木氏の影のシンジケート」で包み込めば表向きは何の問題もない事に成る。
    何時の世も「組織の人」を扱うときは慎重であらねばならない。
    これは「青木氏」の「家訓」でもあり「氏是」でもあり、それに従ったという事ではないか。)

    注釈として、そもそも、室町末期の「伊勢三乱」の結果、「織田軍や秀吉」に抵抗した「伊勢郷士衆」は、取り分け、「北勢の伊賀衆11氏」や「南勢の北山衆(平家残党末裔)」や「山間部の戸津川衆(平家残党末裔)」や「東勢の長嶋衆」等は家族を残して全国に飛散した。
    彼らを「神明社」が託ったのである。
    多くは「青木氏の定住地」で、「織田軍や秀吉の勢力」が届かず、且つ、「青木氏の保護力」が強い地域の特に「越前や越後(神明社)」等の北域に逃げ込んだ。

    ところが、この「二つの条件」のある「武蔵域」には不思議に逃げ込んでいない。
    そもそも、「秀郷流青木氏の膝元」であり、家康の「御家人や旗本と成った家臣団」であり、ここに「家臣」として逃げ込めば助かるのに無い。
    何故かという疑問には、「北域」と「武蔵域」の差には「伊勢信濃シンジケートの活動」が届く範囲であったかと云う事が考えられる。

    そもそも、史実として前段でも論じたが、“「呼び集めた」”と云う事は「居場所」を承知していて保護していた事を示すものであり、“ほとぼり”が冷める時期を見謀っていた事を示す。

    この”呼び集めた”とする記録がある事は、前段でも論じた様に、「伊勢」そのものが「郷士衆」が極端に少ない(全国の1/10程度)上に、この「郷士衆」が元より少なく成った処に飛散している訳であるから、“「殖産」を進める上では、「絶対的な力と成る者」が少ない”と観ていた確実な証拠でもある。
    つまりは、「青木氏」等に執っては「必須の課題」であった事を示す。
    この「畑方免令を利用した殖産」に必要とする”「人の問題」”はこれで解決された事が判る。


    この「必須の課題」(「人」)を解決でき得れば、後は、”「拠点造り」”に成るだろう。

    この「紀州藩との取り組み」の”「拠点造り」”のそれが、上記の様に、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」の「二つの地権地域」であった。
    その一つでもある「玉城領域の全域」(現在の玉城市)が、物流の「蔵群」と「作業群」と「長屋群」であった所以なのである。

    この松阪に近い「宮川沿領域」を「畑方免令の殖産」の「拠点づくり」の地域にした。

    「旧領の本領安堵地の殖産地」では無い此処に「殖産の実務拠点」を置いて、「全殖産」の「一切の集積地」としたのである。
    ”何故、「旧領の本領安堵地」に拠点を置かなかったのか”と云う疑問であるが、この地域は「熊野神社の領域」に近く「熊野六氏の勢力圏」(平家落ち武者の末裔族)でもあった。
    この域に「殖産の拠点」は絶対に置けない。
    然し、「幕府」が成立したとしても世の中は安定はしていない。
    「本領安堵域」と成った以上は、未だ無防備ではいられない。
    護るには「青木氏」は「武力集団」は使えない。
    「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」をこの地域に及ぼさねばならない。
    然し、「熊野勢力」に執っては南勢に「北勢の影の勢力」が浸出して来る事は、この不安定な時期では最も危険性を孕んでいた。
    ”ではどうすれはせ良いか”と成る。
    何せ250年もの長きに渡り、北勢域に伸びた「青木氏の抑止力」の届く範囲ではなかった。

    そこで、「青木氏」は、「商記録」にも観られるように、「7割の株券」を持つ「伊勢水軍」を使った様である。
    この「水軍勢力」で「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」を「動かす姿勢」を見せて「熊野勢力」を牽制していた様である。

    どう云う事かと云うと、「伊勢水軍」は「海の上での勢力」で「熊野勢力の牽制」は直接は無理である。
    況して、「熊野水軍」もある以上は直接的には戦略上好ましくない。
    然し、それは「使い方」である。

    それは、次の様であった様で、「遠祖地の本領安堵地」等からの「畑方免令の殖産」の生産品を「伊勢水軍の水路」を使って「松阪の玉城域」に「宮川」を経由して陸内に運び込む戦略をとったのである。
    そして、ここ「地権のある玉城域全域」に「蔵群」と「職能長屋」と「加工場群」と「支配拠点」を置いてここを「殖産の拠点」とした。(明治期の35年まで残されていた。)

    (注釈 中には、恐らくこれでも足りない為に、「郷士の家の庭」に「小さい拠点の作業場」があって、周囲の「氏人の家人の女子供」までもを呼び集めて「工場」が設営されていた。
    如何に「殖産」がうまく動いていたかを物語る。
    「呼び集め飛散した郷士」等の「屋敷群」が元の「四家の各地域」にも「新たな設営」があった事が記載されている。)

    シンジケートの拠点は流石に明記は無いが、「神明社社領域」に敷設されていたらしい事は判る。
    唯、身分は隠しての事である。
    例えば、判り易い例として、「南北朝の楠木正成」は「シンジケートの一員」でもあったくらいで、「山間地の土豪の身分」の家柄で生きて行くには「経済支援」とそれに基づく「掟」で結ばれた「裏の存在」が必要であった。
    この様に「シンジケートの身分」は、多岐に渡りあくまでも「神明社や寺社」の「影の中に生きる身分」であった。
    当然に、これに依って「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」は、”伊勢から直ぐにでも移動できると云う「印象」を与えていた事”は、「商記録の動き」からも判るし、「旧領地の手紙の文面」からも読み取れる。)

    そもそも、「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」の中には、記録では証は出来ないが「平家末裔」が含まれていた事は否めない。
    だとすると、確証はないが「熊野勢力の六氏」とは”「事前の渡り」”は付けられていた筈であろう。

    上記で論じた様に、「畑方免令を使った殖産」に「利」を与えるには、いくら”「無形の利」があるから”と云って、あの高く厳しい修験道が登る「南勢の紀伊山脈」を越えて運んでいては「利」どころの話では絶対にない。
    この事はむしろ、それ位の「使い道の無い山間地の地域」という事にも成ると云う事は、「紀州藩」も当初から知っていた筈で、「殖産として本領安堵する条件」の一つであった事は云うまでも無いであろう。
    普通なら、”その土地をやるよ”と云っても”そんなものいらない”と云うだろうそんなもの「土地」である事は誰でも判る。
    素直に”頂きます”と云うのは、「遠祖地」であると云う事から「青木氏」だけである事も判る。

    「熊野勢力六氏」は、「社領権域の隣接地」であるので”頂きます”と云うかも知れないが、ところがこれは「紀州藩」に執っては好ましくない。
    これ以上、彼らの「宗教勢力と発言力」を拡大させたくないし、「殖産」で何とか借財を償却しようと「苦肉の戦略」を練っているのである。
    そんな愚策は無いであろう。

    そもそも、「宗教勢力」と云うのはどんなものであるかは知っている。
    相当、「厄介な勢力」である事は歴史が物語る。
    何時の世もこれに大きく関わり過ぎた「政治圏」は乱れる。

    その一つの「青木氏の例」があるが、「守護神の神明社」を、丁度、この時期の「江戸初期の幕府」にすべて無償譲渡した事はこの事に由来する。

    「青木氏」と「伊勢籐氏の家臣団」が「愚策」を練る様なそんな馬鹿な事をする訳がない。
    そもそも、北勢の「伊勢神宮の宗教勢力」の「旗頭」に執っては、南勢の「熊野神社の宗教勢力」に「利」に成るような事は絶対にあり得ない。
    況して、「青木氏の遠祖地」で、且つ、「殖産改革」が成り立つ条件下にあれば尚の事でもある。
    むしろ、戦略上は「熊野勢力六氏」を適度に”ちょっかい”を出させない様に抑え込んで置く必要がある。
    唯、見栄を切って抑え込む事は好ましくない。相手を刺激するだけである。
    この事は、「遠祖地の旧領の本領安堵」に依る”「畑方免令の殖産」”を成功させる「重要なポイント」でもある。

    そもそも「遠祖地の氏人」は武力は持たないし、”「殖産」”を上手く進めるには穏やかに護る事が必要で、”静かなる事林の如”である。

    さて、その上での事を念頭にしての事である。
    それには、「間接的に圧力」をかけての「伊勢水軍を動かせる勢力」(7割株保有)である事が条件であった筈だ。

    そして、もう一つは、「旧領地の付近一体」を安定に保たせる事が必要である。
    「紀州藩」がこれに「家臣」を費やすれば、そもそも「六四の税」の意味が亡くなる。
    当然に、「青木氏」の持つ「伊勢信濃シンジケートの抑止力」を生かせる事が必要である。
    然し、幾ら「シンジケート」云えども「南勢」はその「勢力」が届く範囲ではない。
    上記した様に「熊野勢力」の思惑が働き”「小競り合い」”等の「いちゃもんの脅威」もある。

    つまりは、この「二つの条件」を組み合わせれば解決する。
    当然に、更には上記の「搬送の利」も解決する。
    (この”「搬送の利」”にはもう一つの意味があった。)
    これで「一挙三得」でもある。「殖産」は上手く行くかも知れない戦略であった。

    そして、「水利」で運んで「宮川」から「陸内の玉城」に運び込めば解決する。

    「人の問題」、「拠点造り」に絡む「三つの条件」、「無形の利」等の事を考えたからと云ってそう簡単にできる訳では無い。
    相当に「遠祖地の氏人」や「伊勢郷士の呼び集め」や「伊勢籐氏の家臣団」や「伊勢水軍」や「伊勢信濃シンジケート」の関係者と事前に綿密に「打ち合わせ」ての事でなければ出来ない事である。
    「遠祖地の手紙」の一説はそれを物語るものであったと観られる。



    投稿時の脱落部の追記


    ここで、「伊勢籐氏の家臣団」を大量に雇った事のみならず、全国に飛散していた「伊勢郷士」を呼び戻した事は、勿論の事で、更には「青木氏の歴史観」に大きく関わる事が起こったのである。

    この”「幕府の嫌疑」”を余計に増幅させた事が次ぎの三つのこの「殖産の策」にあった。

    一つは、上記した「搬送の利」の意味である。
    二つは、「本領安堵の遠祖地の旧領地」で、”何を殖産させたのか”と云う事である。
    三つは、「伊勢水軍」を係留する「大船の港」があるかである。

    一つ目の「搬送の利」の「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」との扱いの関係であった。
    「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」の組み合わせで「遠祖地の山間地の殖産」は克服できた。
    然し、これには、「隠れた問題」があった。

    それは、”誰が生産品を搬送して防御するか”である。
    「伊勢水軍の人夫」は操船で手はいっぱいで出来ない。
    だとすると、「遠祖地の山間部の生産地」から「港までの搬送する役」を誰が担うかであって、これを解決しなければ「絵にかいた餅」である。

    これが、「伊勢信濃シンジケート」であった。
    「影の武力集団」の実力集団でもある。
    過去には、足利軍の「二万の軍」を餓死させた歴史記録を持つ怖い「実戦集団」、織田信雄の軍を半壊に追い込んだ「実践集団」、「伊賀の戦い]で「名張の実力」を示した「実戦集団」、秀吉の「長嶋の戦い」で秀吉を物資不足で苦しめた「実戦集団」、「紀州門徒狩り」で秀吉を苦しめた「実戦集団」、二度の「伊勢動乱」で実力を示した「実戦集団」等、この様に上げれば「有名な歴史記録」はこれ全て「伊勢信濃シンジケート」である事は有名である。
    「青木氏」はこの”「抑止力」”に使う「影の武力集団」(陸)と「伊勢水軍」(海)に大きく支えられていた。
    そうでなければ、「危険で強大な抑止力」を働かせなければ、この時代は「殖産」などの「大きな商い」は絶対に出来なかった。
    この「影の実戦集団」が、「伊勢水軍」の船に「搬送役と護衛役」で乗り込むのである。

    「幕府」だけではなく、”誰が見ても何かあるのか”と勘繰るは必定で、その上に「伊勢水軍」と結びつけば「謀反」と決めつけられる要素は充分に持っていた。

    「表向き」にはとやかく言われる筋は無いが、「青木氏」は、この「影の実戦集団」を「経済的な支援と掟」で平安期からの「悠久の関係」を保ち得ていたのである。
    恐らくは、「影」ではあるが、明治期の半ば頃まで「周知の事実」であった事が判っている。
    この「青木氏の経済力」が「殖産と云う大義」で「紀州藩の背景」にあるとすると、黙っている方がおかしい。

    だから、「青木氏」は「殖産の大義」もあるし、個人の「謀反の嫌疑」は無いが、「紀州藩」では表に出せない理由がここにあったのであるし、況して証拠と成るものを「目付家老」に見られて「難癖の材料」ともなっては困り当然に記録にも残せない所以でもあった。

    然し、「青木氏側」に執っては、何はともあれ、「影の実戦集団」と「伊勢水軍」の「組み合わせ」の上に、船に「搬送役と護衛役」で乗り込むさせる戦略は欠かせない事なのであった。
    そして、「遠祖地域の熊野勢力」を牽制する意味でも、船には”「影の実戦集団」を載せている”という事を個人的に「殖産」を進める以上は恣意的に誇張する必要があった。
    唯、この「牽制策」に付いて上記した様に「紀州藩の勢力」は期待は全く出来ない事は明らかである。

    (注釈 下記の「参考」のところで示す「伊勢での紀州藩領の実態」を観ればよく判る。)

    この様にする事で、「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」は、”「殖産の利」”が大きかったのである。

    ではそこで、、”何を殖産させたのか”と云う事が重要ではあるが、その「殖産」の内容に依っても事態は変わる。
    そもそも奈良期より「紙屋院」で「和紙の開発」を手掛け、「楮の生産」をこの「山間地の遠祖地の地域」で、「生産」をして来た。
    ここに江戸期初期に成って「畑方免令」に依る「本領安堵策」で、「山間地の本領」により「殖産」を進めると成ったが、これでは問題は無いであろう。

    ”では何を以ってこの地で他に「殖産」が可能か”と云う問題が出る。
    下手をすると、紀州藩に嫌疑がかかるが「養蚕」であった。ケチをつける程に問題は無い

    「楮の増産」は、兎も角も、「畑方免令に適した物」として「利」を上げられる物は先ず考える事は「楮」に似たものと成ろう。
    この思考は失敗は少なかった。それは、記録から「桑の木」であった。
    つまり、伊勢に「養蚕の殖産」を開発する事であった。
    それまでは他国の多くの地域で「養蚕」は手掛けられていた。
    然し、世間に未だこれだと云う”「殖産」”の”「養蚕」”は無かった。
    つまり、それに「見合う生産」と「それを賄う商い」の形を採っていなかったという事である。
    つまり、それまでは”「殖産」”では無かったと云う事である。

    ところが「殖産という形」で始めたにしては、”「養蚕」”のそも物の記録は、この「遠祖地の手紙資料」には「養蚕の字」の一字も出て来ない。
    ところが実際の記録は、「伊勢の商記録」の「取引の内容」から江戸に”「松阪紬の名」”で江戸期も極めて初期頃に取引された記録が読み取れるのである。

    (注釈 「搬送役の伊勢水軍の記録」そのものが発見する事が出来ない。明治期に運送業に転身した事までは判ってはいるが、「青木氏の商記録」には「7割株の保有」までの資料があっても「伊勢水軍側の個別の資料」と成る全てが発見できていない。
    これは恐らくは、「養蚕」に関しては「桑葉搬送」であった事と、嫌疑とならない様にする「紀州藩に対する配慮」にあったと考えられる。)

    この「青木氏の商記録」には、”「松阪紬」”の「固有名詞」で記録されている。
    つまり、「江戸での市場」からその珍しい「殖産」に依る「優れた品質」を観てこの名称が付けられた事に成る。

    当時、”「絹」”は各地でも生産はされてはいたが、「青木氏」の様に”「殖産」”として生産された「品質」で、その”「品質」”に対して「江戸の市場」が歓迎した事を物語るもので、全国的にその名が広まった事が公開資料で分かる。
    その呼ばれた呼称が、商取引の「青木氏の商記録」にも初めて記載したと云う事であろう。

    従って、この”「殖産紬」”としての”「松阪紬」”であった事は、”「殖産」”に適する環境下で紡がれた事を意味する。

    この事から考えると、普通は「山間地の遠祖地の地域」では、「養蚕の生産」そのものは適さないという事に成る。
    これは「養蚕」そのものでは無くて、「養蚕の殖産」に適さないという事であった。
    それは「絹糸・絹布」まで仕上げるには、それなりの「平坦な土地の面積」と「近隣の水利などの生産条件」と「生産に関わる人」が整っていないと出来ないと云う事に成る。

    現実に、「商記録」では、この「青木氏の養蚕」は、「伊賀域と名張域と玉城域」での「北勢」の「青木氏の地権域」の「線状域の生産」に成っている。
    この”「線状域」”と云う事に「殖産の意味」が含んでいると観られ、地形や土壌や水やその地の環境に合わせて「殖産工程」を繋いだ事が資料で読み取れる。

    (注釈 「伊賀」は「織」として有名で、「名張」は「染色」、「玉城」は「布」の役割を主に担っていた事が記録で判る
    後に、この技能を生かして「伊賀織」として全部の工程を熟し、「名張紡ぎ」では「水利」を生かして「紡ぎ」と「染色」、「玉城布地」は「布と服」に仕立てる事で名を馳せた。)

    つまり、「遠祖地」では”「桑葉」”を生産して荷造りして、急いで「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」で、「伊勢水軍」を使ってここに運んだという事に成っている。

    では、それが可能なのか検証してみる。
    「伊勢松坂」より紀伊半島東側を志摩半島から周り大船が接岸出来る大港と成れば、古来の貿易港の「尾鷲」か「太地」か「新宮」と成り得る。
    そもそも、この「尾鷲」は奈良期の古来より「中国との貿易港」で最も盛んであった。条件に問題は無い。
    但し、この「尾鷲」の場合は、「遠祖地」からは港に「陸路」か川沿いに「小舟」で搬送しなければならない。

    記録では、そもそも「紀州藩の本領安堵の遠祖地」とは、「尾鷲」から「北山村」と「熊野村」に囲まれた「山間地」(地権)とされ、南紀の「飛び地」(地権)では、現在も縁戚筋が定住する「太地村」と「湯浅村」と「周参見村域」にもあったとされる。

    (注釈 平安期にはこの「南紀の地域付近」は、「遠祖地としての支配地」であって、伊勢には「三宅岩床連国造」の「国司」を送って守護国としていた。「飛び地の地域」はこの時の「名残の地域」で江戸期まで細々と「地権」を持っていた。)

    この「遠祖地の地域」の中心は、明治期まで「遠縁の親族」が居て「越前の地」と同じく「青木氏の休息地」でもあった事から”「尾鷲」”であった事が判っている。


    そこで、この事に関する重要な参考事として、江戸期末期までの「伊勢の国」は、何と小国分離の国で、普通は「5郡程度」が原則で一国の藩主が領有するが、何と「13郡」に分かれ、更に分離され「57か所」に成って支配されていた。
    その内訳は、「幕府領」(北勢の平地5か所)と「旗本領」(1か所)と「神宮天領」(3か所)を含めて「藩扱い」で何と「25藩」である。
    その内、伊勢の「紀州藩領」は、僅かに「8郡/13郡」に跨り、その一部地域の「8か所/57か所」である。

    この「8か所」は1郡全部では無くこの「一部地域の分散した村域」なのである。
    そして、地元の伊勢の豪族は無く、「熊野勢力」の一氏の「久志本氏」(現在の串本の豪族)が「南勢」の「小さい地域」を「領国」に任じられていて「支配力」は皆無に近かった。
    これは「関ヶ原の戦い」で著しい戦功のあった全国の無名の豪族や旗本に小国に分離して分け与えた結果である。

    それだけに「伊勢」は「不入不倫の権」で護られ「強い武力の持たず郷士も少ない国」であった事から、「幕府」に執ってみれば「戦功」に分配する「格好の地」であった事がこの「25藩」が物語る。
    当然にここで起こる状況は、火を見るより明らかで「不入不倫の権の悪弊の域」であって、これが「青木氏」に重荷に成って圧し掛かっていた。

    その中でも元より「伊勢信濃シンジケート」の「影の支配力」を持つ「青木氏」が、「郷氏」として「地権」の持っていた「北勢」と「松阪」を除いては、上記は殆どは地形は「山間地」であり、「青木氏」が「殖産の地権」として関わった域は、「飯高郡」、「飯野郡」、「多気郡」、「度会郡」の「4郡/13郡」の「南勢」に当たる地域であった。
    その内の「4地域/57地域」という事に成る。
    主に、「多気郡」と「度会郡」の2郡に集中する。
    因みに、「神宮天領」は僅かに「5か所/57か所」である。

    この問題の「南勢」には、更に難しい存在があった。
    関西域全域の水利を統括する天下にその恐ろしさに名を馳せた「幕府奉行所」が、南勢の度会郡に”「山田奉行所」”があって目を光らせていた。

    この状況を観ても、伊勢で「紀州藩の藩領」と成った「小域」はどのようなものであったかは一目瞭然であり、語るも意味がない状況であろう。

    ここをそもそも「本領安堵」として、「畑方免令」で、「殖産」とするは、「紀州藩領」でありながら、「本領安堵」とは一体どういう事かと成る。
    そもそも、「本領安堵」と云う事なら「遠祖地」でありながらも「郷氏の青木氏の領地」である。
    然し、そうでは無く、唯、「遠祖地」である事を理由にして「領地並みの地権」を認めたという事に成る。
    そして、「大義」を作る為に「畑方免令」で「領地並みの地権」を与え、その上で「殖産」とするには「裏の命令」を出す事で済む。
    そして、「六四の税」で「目的の借財」を返すとしたと執れる。
    その為にも、”ほとんど役に立たない誰も欲しがらない細かい分散した土地”を表向きは「藩領の形」を採ったと云う事に成る。
    そもそも、「幕府」に対しては、表向きは「藩領」としながらも、内々では「青木氏」に対しては紀州藩独自で「本領安堵の大義の形」を整え与えて”「地権に対する全ての支配権」”を委ねたという事である。

    勿論、これは上記した様に、「紀州藩と青木氏」との裏の「合意の上」ではあるが、実に状況を観た戦略を練ったという事が云える。
    これは当に幕府に対する「謀反嫌疑の対応」でもあった。

    何故ならば、こんな「小さい地域」に「幕府領」が「伊勢領」に何と「5か所」も配置され、江戸期には「海奉行」だけではなく、「紀州と伊勢全域の奉行権」をも命じていた有名で恐れられていた「天下の山田奉行所」が配置され、それも「本殖産の度会郡」にあったのだ。

    これが「頼信」を通じ「家康」が「江戸初期」にこの「山田奉行所」に命じた”伊勢の事一切御構い無し”の特権の「御定書」の所以でもある。

    (注釈 天智天武天皇が出した「不入不倫の権」に基づく「朝廷の永代令」を追認した。
    この時の事例を以って追認したのであり明治初期までこの原則は守られた。それだけに緊迫していた。
    参考として、吉宗の時も、この「山田奉行所と青木氏」は、”瀬戸内に大船で搬送する商い”で争う「事変」が再び起こった。)

    (注釈「紀州藩の伊勢領」は、「伊勢神宮域の北勢域」に4か所、「熊野神社域の南勢域」に4か所と恣意的に配置されている。)

    これは「幕府の差配」に依るもので、これを「紀州藩」が「幕府の意向」を表向き果たし、何とか生かそうとして其処で「青木氏の殖産」を興させる。
    それに依って「地権を持つ北勢の伊勢神宮域」は元より、「南勢の熊野神社域」をも「牽制させる策」とすれば、「山田奉行所の監視」の「幕府の意向」は表向きは成し遂げられる。

    さて、この事を参考とする状況の中で「伊勢の事態」がよく判る事であるが、そうすると、現在の国道R42かR34の陸路か、又は「中川」で小舟で尾鷲の海まで運んで、そこから海路を通じて運んだことに成るので、「尾鷲」からは150キロ、「新宮」からは「熊野川」で小舟で「新宮港」に運びそこからは海路で約200キロと成り、風向きでは5時間から7時間で運べる。
    「陸路の分やその他の時間」を加えれば、7時間から10時間程度と成る。
    まあ何だかんだで、「半日程度」で運べる算段である。

    これならば、「桑葉の搬送」は可能な事に成る。
    但し、ここで上記した様に「新宮」は直ぐ隣が「熊野神社の境界」であるので、「熊野勢力」がおとなしくしていてもらう事が絶対必要である。
    「熊野勢力」に騒がれては、それこそ「幕府の思う壺」と成ろう。
    資料では「陸路」の表現は書かれていないので、主には「小舟」の「川舟」を使って「港」に出していた事が判る。
    これの方が騒ぎにはならないし速い事は誰でも判る。また、「目立つこともない事」から先ずこの状況では「陸路」は採らないであろう。

    では、その前に、「北勢」は兎も角も、「南勢」の「川舟」をどのように調達したかの問題を先に解決しておく必要がある。
    そもそも、「遠祖地」は「山間地」であり「川舟」は持ち得ていたかの疑問が残る。

    「青木氏」がこの「殖産」の為に準備したという事は当然であろうが、それだけの「舟」と「漕ぎ手」を充分に準備出来たかは大いに疑問である。
    「舟」は作れても「漕ぎ手」は技能を伴う事から身内で直ぐには無理であろう。

    では、現実には調達できているのであるのでどうしたかである。
    「尾鷲」は「遠祖地の地元中心地」であり、「港」をもつ事から縁者関係で「舟」さえ調達できれば「漕ぎ手」は”「ある方法」”で簡単に整えられる。
    然し、これだけでは不足であるし、「熊野聖域港」の「新宮」と成ればこれは殆ど無理である。
    それこそ「熊野勢力」に足元を狙われる。近隣には「久志本氏」が目を光らしている。

    これには、唯一つの方法(ある方法)があった。
    それは、新宮港の直ぐ西隣の「太地域」と「周参見と湯浅域」は江戸期まで「地権」の残る「青木氏の縁戚地」であった。
    ここは地形上は紀伊山脈の全くと言って良い程に「平地の無い鯨業等の黒潮の漁村」であった。
    ここから調達をした事が縁戚筋の資料や口伝から判る。

    これは「閑散期」とか「繁忙期」とかではなく、口伝や資料の読み方では、長い年月の期間、「松阪」から離れて「青木氏との関係」が途絶えていた事で生活は豊かではなく、又、次男三男を「漁業」で充分に賄える事は無かったとある。
    そこで、この次男三男に「青木氏」が舟を与えて「漕ぎ手」として迎え入れた事らしい。
    こうすれば「漁業の跡継ぎ」は解決するし、「縁戚筋」は喜んだと口伝にある。

    (注釈 筆者も祖父や親からや、又、筆者が訪れた際に老人から「伊勢宗家の事」として詳細に聞き及んでいる。)

    唯、この場合には、「紀州藩に対する税」を納めなければならなくなるし、「漁業権」を届け出て許可を得て獲得しなければ成らなくなる。
    そして、ここは「伊勢」ではなく「紀州」であり、「紀州藩の関り」が表に出て好ましくは無い。
    先ず、「伊勢」であれだけ気を配っての戦略なのにそんな事は絶対にしない。
    そこで、この「逃げ策」として、この”「畑方免令」”を使ったのである。
    この手は、「遠祖地」だけではなく「玉城、名張、伊賀」でも「働き手」として「同じ手」を使った。
    何れもこの手には、「紀州藩」は完全な事前了解の無視であって、「畑方免令」を使えば「青木氏の中での事」に成り、次男三男の「働き手」を自由に生み出す手段と成り得て「利益」が生まれる。

    (注釈 この時期は、長男が「働き手」として農家の跡を継ぎ、土地の細分化を避けさせる為にそれ以外は奉公など外に出て働かねばならなかったし、そもそも働き場所は少なかった。
    武士も同じ事で「部屋住み」の「冷や飯食い」や「僧」で終わる者が多かった。
    ところが、この「畑方免令」を使えば「郷士」や「農民」や「漁民」もそれぞれの元の「身分の立場」を保つ事が出来、且つ、「税」からも逃れられたのである。
    幕府は「税の管理」が煩雑化し取り分け「土地の細分化」を嫌った。
    これを知りつつも室町期の「紙文化」で得た「莫大な資本」(5百万両)を元手に投資し、「未開の土地」等を「田畑」にして「殖産を興せる者」だけに与えられた「畑方免令」で「無形の利」を挙げ、多くの「氏人や家人」らを救い逃れられたのである。
    「無形の利」とは云え「青木氏」に執っては「鎌倉期からの宿願」を果たせるこれ程の事は無かった筈である。)

    つまり、上記した様に「本領安堵」とは、「地権と畑方免令」の「組み合わせ」で「領地並み」が成立し、強いては「青木氏の完全裁量の範囲」で出来る事に成る。
    この事を充分に双方が理解していた事に成る。
    後は、この「縁戚筋の漕ぎ手」と「舟」を何処に所属させ支配下に置くかに関わるだろう。
    これに依って事態は変わるし、「紀州藩」は当然の事としても、「熊野勢力の動き」も又変わる。
    それは、「伊勢水軍の支配下」に入れたのである。
    これでは文句の着けようがどこにも無くなる。
    これは、”流石、見事”と云いようがない。
    「青木氏の縁戚筋」、つまり「氏人」や「家人」を豊かに出来る。これが「無形の利」の一つであった。

    だから、「南勢」でも川、「北勢」でも「川を利用する戦略」を採った。
    これには「北勢」では「松阪の玉城」の「宮川か櫛田川の水利」が必要で、生産に関わる「人と面積と条件」が整う「大地権」を持つ「玉城域」であって、その先の「名張域」と「伊賀域」であったという事に成ったのである。

    そして、「紀州藩」の「畑方免令の殖産」の当時の江戸初期は、未だ誰も手掛けていなかったこれを”「松阪紬」”として命名して、問屋街が集まる「江戸大伝馬町」に「伊勢屋」として問屋を構え販売して大好評を受けたのである。

    江戸期は伊勢領は上記した様に「多くの小国」に支配されていたが、その後、「青木氏」が始めた「養蚕の殖産」は20−30年程度を経て、下記の様な経緯で藤堂藩などの支配下で「津域付近」でも生産されるように成っている。(下記)


    さて、「殖産の戦略」は解ったが、「養蚕」のこれで「紀州藩の借財」は返せるかの問題があった。
    現実には、藩主吉宗の半ば頃に「蓄財」は別として莫大な12万両(積算10万両と幕府2万両)と云われる「借財」だけは返せたのであるから、「蓄財」までにするには他に「別の物の殖産」をした事に成る。


    では、その”「他の物」”とは何かと成る。
    全く「養蚕の殖産」と同じ事が云える。
    それは、「遠祖地の記録」にも「松阪の商記録」にも記載が観られ、公的資料や郷土誌にも記載がある”「木綿」”であった。

    この「遠祖地の山間部の畑地」に”「綿の木」”を植え、その「綿花」までを生産し、その「綿花」を上記の要領で「伊勢玉城」までに運び、そこで「木綿布地」にして、「松阪」で販売すると云う手段をとった。
    この事に関する記録は、「青木氏の上記の資料」の中にも出てくるし、「郷土史」や「複数の公的資料」や「個人の研究資料」にも明確に記載されていて、その「製品の呼称」までの記録が明確に明治期まで残されている。

    この”「木綿」”は当時の衣類の主な生地であって、これをそれまでの家内工業ではなく大量に「殖産」で「興業する事」で爆発的に販売は論理的には可能であった。
    ところが、「青木氏の殖産」と云うか「伊勢での初めての綿の殖産」は、初期は論理的には行かなかった様である。
    「養蚕の要領」で「玉城までの搬送」には全く問題がなかった様で、意外なところに「落とし穴」があった事が記録や口伝に残る。

    そもそも、家内工業的に生産された「木綿」には、「買い手側」の「品質」に対する「諦め」が長い間の習慣に依って潜在的にあって、”「木綿」とはこんなものだ”とする「妥協の産物」として長く市場で認められていた経緯があった。
    ところが、大量に問屋で販売すると成ると、「流通」には「多くの目」が働き、「市場原理」が働き、「市場の値段」が激しく変動し、「間接費」が嵩み「利益」に繋がらないという事が起こったのである。

    「青木氏」が最初に始めた”「殖産木綿」”を扱う「松阪の伊勢屋」は実に困った。
    実は、当時の木綿は全国各地で生産され市場に多く出回っていた。
    この中に「伊勢の殖産木綿」が全国で市場に初めて殴り込みをかけたのであるが、これが戦略的に間違っていた。
    ”間違っていた”と云うよりは、”戦略に欠けていた”と云う方が正しかった。

    それは、当に”「殖産の欠点」”でもあった。
    「生産の流れ」に沿って「木綿」を作ると云う事に拘り過ぎたのである。
    それは、「木綿の品質」にあった。但し、この「品質」は決して”悪い”という事ではなかった。
    「家内工業的木綿の品質」に対する妥協からすれば、そんなに「品質の差」は無かった。
    決定的に無いのは、「殖産木綿の品質」を市場から「特別に求められた品質」にあったのである。

    ”「殖産木綿」”として大量に市場が消費する以上は、「品質」に”「布」”としての「品質」を強く求められたのである。
    それはどの様なものであったかは記録にも記載がある。

    それは、要約すると、次の様に成る。
    「木綿の布地」がザラザラせず「平坦」(1の品質)である事
    「繊維の目」(2の品質)がキッチリと揃っている事
    「生地の色合い」(3の品質)が整っている事

    以上であったらしい。
    唯、この「色合い」とは生地として「色ムラ」がない事であったらしい。

    この「3つの品質」が”「殖産木綿」”に「市場」から求められたのである。
    概して言えば、大量に使う事に依って「使い勝手」と「人目」を要求されていた事に成る。
    「麻布」から「木綿」を通常に使う以上は、「絹の様な高級の品質」に近い物を求めた事に成る。
    つまり、これは今風で云えば「江戸のファション性」として要求された事に成る。

    「伊勢」で初めて”「殖産興業」”に成功した”「松阪木綿」”の「伊勢屋の青木氏」は、これに「青木氏部」に依る「機械化」と「職人の技量の向上」の獲得に励み懸命に対応したと記されている。

    (注釈 「青木氏」に執っては「可成りの衝撃」であったらしく、「家訓10訓」に追記して説かれている位である。)

    この結果、”「松阪木綿」”の「上品質の称号」が「江戸人」に認められた事が多くの資料で確認できる。
    全国的にもこの結果、”「松阪木綿」”は別格で扱われた事が記されている。(下記)

    その後、上記した様に小国化した「伊勢」では、殆どの小藩主が「なけなしの資産」を投資して、全国各地から「綿花」を仕入れ「委託生産」(OEM)を行ったとされ「伊勢津域」で生産された。
    これが、後に、”伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ”の「伊勢の諺」に成った所以である。
    そして、この「伊勢の諺」の結果、何と”「松阪」”は「伊勢」ではなく「松阪」であり、「松阪以外の津以南」は、「伊勢の国」とまで呼称される所以と成った。

    これはどういうことかと云うと、そもそも、「松阪」の隣接北域が「津域」であり、更に北域には伊部域や桑名域があり「伊勢」であり、「松阪」より南部域は上記した様に間違いなく「伊勢」である。
    何故、中間の「松阪」だけが「伊勢」ではないのか、どちらかと云うと「伊勢神宮の膝元」であって、云うのなら「松阪」が「伊勢」であろう。

    この「伊勢」のこの「二つの諺」が、物語る様に、”「松阪」”は「青木氏が興す殖産と商業域」があまりにも特異であって特別視されていたのである。
    これが後に、この「本領安堵策(地権)」の「畑方免令による殖産」を大きく物語るものと成った。

    「青木氏の殖産」を真似てこの「木綿生産」に関わって「利益」を上げようとしたと記されている。
    ところが、この結果、この後口からの「木綿」は、「市場の要求」には充分に対応せずに、「利益」だけを追求する「木綿の生産」に成って、結果としてその品質は、上記の「3つの品質」の低いものが出来たとされた。
    その結果で「品質」は、”毛布やタオルの様な物”と成り、使う中に「木綿の毛」が剥がれ触手の悪いものと成ってファッション性の無い直ぐに使えなくなる品質と観られた。

    これを、”「松阪木綿」”に対して”「伊勢木綿」”として区分けして呼称された事が記されている。

    (注釈 有名と成りその品質が認められた”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、市場の需要の要求に対して「供給の増産」は必要以上にしなかった事が記されている。
    その分、「津域の伊勢木綿」に委ねた結果、”「伊勢木綿」”も繁栄をもたらした事らしい。
    ところが「摂津堺店」では、この「綿花」を仕入れているが、これは「松阪への供給」ではなく、その後の「津域の伊勢木綿への供給」であった事が「商記録の一部の表現」で判る。
    「津域の伊勢木綿への供給」が「遠祖地の綿花」に影響を及ぼさないようにする為の策であったと観られる。
    それは「質素倹約令」に依ってあまりにも「伊勢木綿の需要」が後に高まった事から、”「松阪木綿」”は、兎も角も、先ずは「紀州藩」に影響を与えない様にする為の「手立て」であったのであろう。
    それと、況や、これは明らかに「青木氏の氏是」に従った事に成る。
    どんなに「需要」があったとしても「本殖産の目的」以上のものを求めなかったのである。
    然し、「需要」がある限りは見放す事はせずに、「津域の伊勢木綿の成長」に、「松阪木綿の販売」も手掛ける中で、陸路と海路で「摂津堺店」を動かしたと云う事に成るのであろう。
    「津域の伊勢木綿の様な高い成長」は、幾ら「豪商」であっても「青木氏」の様な”殖産を興し得る豊かな財源”を無くしては成し得る事ではない。)


    そうすると、”「松阪紬」”は高級品とし、この”「松阪木綿」”や”「伊勢木綿」”に対して、「紀州藩」と幕府は「質素倹約令」を発し、「木綿の使用」を奨励した事の所以と成った「青木氏の歴史的経緯」である。
    それまでは多くは庶民の多くは「麻布」であった。
    ”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、この様に当に「青木氏のそのものの歴史観」を作ったのである。

    (注釈 「綿花」を扱えば、当然に種からの「綿油」の「殖産」も考えられるが、詳しい資料が発見出来ない。
    唯、確かに、「殖産に依る綿油の生産」が始められたのは1620年頃の後半の様ではある。
    然し、江戸初期に広まった「綿油」は、「遠祖地と松阪」では「充分な殖産」では無かった様で、「摂津堺店」で扱ったと考えられる。
    1725年頃には、大阪で「水油の菜種油」と共に広まっているし、前段でも論じた「寒天とてんぷらの消費」が神戸付近で広まった事から、「津域」に供給する「綿花」と共に「摂津堺店」と考えられる。
    つまり、最大量の「供給」に追われ「綿油」までに持ち込むだけの充分な「生産量」は回せなかった事が考えられる。)

    (注釈 仮に、「綿の種」から「綿油の殖産」を行うとして、この場合は、「水利の条件」が整わは無くてはならない。
    この条件には、江戸初期の1620年代前半でも全く問題は無く、「玉城の宮川北岸」は高台の「堆積地の水利の地」としても古来より有名であった。
    元々、「松阪」は「元神領地の守護」でもあった事から、「青木氏」は江戸初期の紀州藩からもその「玉城域の大半の地権」が認められ、「自費による整備」を行い、上記の様に「殖産」に関わった。)

    (注釈 従って、水車等の「綿油の生産条件」は、この時の「青木氏部の技術」を生かし、「享保改革」では、”「紀州流し」”として有名に成ったほど元々充分にあって、「綿油の殖産」は始めたと考えている。
    唯、「商記録の傾向」から「綿種の供給」が、「摂津堺店」の「播磨」から主に陸路で運んだと観ている。
    そもそも、「播磨」も栽培目的は違うが「菜種栽培の有名な地」でもあった。)

    (注釈 記録によれば、「紀州藩」は1680年代の計画から1720年代に「2万両と云う莫大な費用」を投入して「青木氏の地権外」であった「宮川南岸域の洲域」を「埋め立」てなどの「畑地造成用の護岸工事」に入っている。
    恐らくは、紀州は「青木氏の畑方免令」での「税利益」をここに更に投入したと考えられる。
    これは当に「青木氏の紀州藩勘定方指導の時期」であろう。)

    (注釈 その後に、1820年代に伊賀地区の山間部の庄屋から出された水利を利用する「民間の開発計画案」は「財政不足」から採用されなかった経緯がある。
    これは吉宗が将軍と成ったそのあと暫くして「放漫財政の赤字」に戻った事を意味する。)


    以上、投稿時の脱落部位

    これが「殖産の詳細」を論じた部位である。

    (注釈 相互に関係する資料は発見されないが、それぞれの「事の時代性」を組み合わせればこの様に成る。
    「青木氏」に「総合的な事」が書かれたものがある筈で、無いのはそれまでの室町期の二度の「消失」に依ることは先ず間違いはないであろう。
    唯、「青木氏の氏是」がある事から、「紀州藩に直接に関わる事」は、「青木氏の執事役(神明社の神職や菩提寺の住職)」が敢えて遺さなかったと考えられる。
    「紀州藩」にもない事は、「明治初期の混乱」による事もあるが、「末端の事象」は「頼信や吉宗事」の以外は消える事でもあろう。)

    (注釈 これは、それ程に、「紀州藩の関わり」が、周囲に刺激を与えない為に”隠密裏に行われた”という事にも成り、且つ、「青木氏の主導」で「隠密裏に行われた事」を意味する事にも成る。
    これは「南勢の状況」、主には「熊野勢力の六氏」の動きが「微妙}であった事を示している。
    それはそうであろう。250年の間は「熊野勢力」や「土豪勢力」に代わる代わる支配されていたのであるから、「紀州藩の藩領」に成ってからは、彼らに執っては「差配量」は入って来ないという事が起こったのである。
    それまでは、「熊野勢力」や「浅野勢力」や「日高勢力」の支配下にある土豪に占所されていた。
    表向きは、「伊勢神宮社領域」で「天領地の形」を取っていたが、現実には「実質支配」は出来ていなかった。)

    (注釈 「幕末の事」は、「藩主」との「やり取りの一部」等は、本来であれば「借財返済の経緯」等は「名誉の為」にも消される処であるが、「青木氏側」に手紙で一部残されている。
    明治初期の混乱に乗じて「青木氏」が徳川氏に裏切られる「借財の揉め事」があった。)

    この時の「紀州藩の官吏」等に執ってすれば、伊勢の「秀郷流青木氏」の一族が大量に家臣として仕官したのであるが、強いては、上記の様に「青木氏」と共に「殖産」を導いた。


    次は、「殖産」としては上記の様に進められて行ったのではあるが、その結果として、幕府の「嫌疑と嫉妬」が余計に膨らんだ事が起こった。

    その子孫の縁籍筋の「紀州藩家臣と成らなかった郷士衆」が、“どう成ったか”の問題が潜んでいたのである。

    この「実家先の一門等」もが、「生活の糧」を確実に得る事に成り、彼等の「思惑(戦略)」も成功した事には成った。

    そこで「彼等の思惑(戦略)」も成功した事なのだが、この雇った「大量の家臣団」は「幕府」に「謀反」と疑われた位の「大仕官団」であった。
    この事からも、余計に幕府は不穏に思ったのであろう。(浅野一門の残留族も雇った。)
    唯、「幕府の上層家臣団」も関東域の秀郷一門の「同族同門の秀郷一門」でもある。
    (家康が藤原氏を名乗った位のものであった。)
    とすると、「上層部の幕閣」と「将軍の取り巻き筋」の「頼宣謀反」を感じる位に「大懸念や恐怖」(嫉妬)と成って居た事を示す位のものであった。

    そこで筆者は、前段でも論じたが、更に詳しく云うと、この「謀反」と疑われる根拠には、「伊勢藤氏の家臣の量」だけでは無かったと考えていて、その”「質」”にも「恐怖」を持たれるものがあったと考えている。
    此処が「青木氏の歴史観」としては重要である。
    これが「本論の殖産」であり絶対に述べておかなければならないものなのである。

    この嫌疑と成る「殖産」は、そもそも「青木氏の二足の草鞋策」の「片方の草鞋」でもあって、「左右の草鞋」があって両立して成り立つもので、江戸期に成って始めたものでは決してない。

    唯、その「殖産」が上記した様に「戦略的」で少し違っていたので、”「嫉妬に近い嫌疑」”が増幅したのであろう。

    慣例外の「旧領までを本領安堵」、そこに「殖産推進」、そして「全国青木氏一団」、「伊勢の紙屋の背景」、「15地域の商業組合の成功」、「伊勢藤氏の結束」、「伊勢信濃シンジケートの影の力」、「西の政権(朝廷)との繋がり」等を総合的に咀嚼すると、何か「東の幕府」に対して”「西の幕府の樹立」”を企んでいるのではないかとする「謀反」に近い「恐怖」を感じ取っていたのではないかと観ている。

    考えて観れば、「謀反力」、即ち、「政治力(朝廷の御旗と賜姓族の権威)」、「経済力(豪商と殖産)」、「軍事力(西の大名と地域力)」の「三つ力」は現実には備わっている。
    そして、「戦費を賄う豪商」と「朝廷(西の政権)」と繋がりのある少なく成った「権威性を持つ氏族」が揃えば「紀州藩」には「大義」は成立している。
    「御三家」とは云え、他の二家にはこの「大義の条件」は揃わない。

    更には、「頼宣」対する「家康の亡霊」がある。
    そもそも、「頼宣入城」後の「藩主」と地元の「大豪商」や「郷氏」と「藩士」の「郷士」の結束は、前段で論じた様に「土佐山内氏の様な事件」を普通は起こす位であり、当時としては「紀州藩の成り立ち地」は「珍しい現象」であった。
    「幕府の見方」としては、「紀州」は、“もう少し乱れるのではないか”と観ていたのではないか。
    然し、「御三家」の「尾張」も家臣団との間でごたごたしているのに「紀州」だけはそうでは無かった。

    このギャップから、“「家康」に可愛がられた「頼宣」何する者ぞ、“と「江戸の嫉妬」も半分は有ったと観られる。
    「謀反」は兎も角も、条件の揃った「紀州藩の発言力」を低くして置く必要があって、「幕府」に執ってはある程度、「名声や信用」を落として置く必要が戦略的にあるとしていた筈である。
    これは最高権を持った者の宿命であろう。
    最初に採った手(謀反嫌疑)が、「紀州討伐」等をした「秀吉」も手こずった位なのに、「頼宣の紀州」は上記の様に政策上で余りの高い実績が上がり、次第に「恐怖や懸念」に変わって行ったのであろう。

    「権謀術数」の世の中、「幕府内の勢力争い」はあり得る中では、公にしないまでも「謀反」に近い考え方は少なくとも幕閣は持っていたとする方が妥当であろう。
    現実に、見方を替えれば、丁度、100年後に「紀州藩」は、以上の「五つの勢力」が揃って、遂には前段の通りそれを背景で江戸に持ち込み「謀反」とは云わずとも、将軍家系列ではではない「傍系の吉宗」を「将軍」にしている。

    何時しか「東の幕府」を倒してまでとは云わずとも「吉宗の将軍の座」を獲得しているのである。

    唯、この為の「殖産」とまでは云わないが、「五つの勢力」が整い、その時の「政権の低質さ」から「御三家」として「将軍の座」を狙ったとする事が「謀反の定義範囲」とすれば納得出来る。
    筆者は、紀州藩は「謀反の定義範囲」には有ったと考えている。

    この「謀反の定義範囲」の事では、「伊勢の秀郷流青木氏の家臣団」が親族でもある「伊勢屋紙問屋の伊勢青木氏」等と「江戸の秀郷一門の同族の官僚族」と共に、取り組んだ事が考えられる。

    つまり、最終は「謀反」と定義されながらも構う事無く、“「頼宣」が敷き、そして「吉宗」が仕上げた“とする見方である。
    「伊勢の家臣団」に成らなかった「伊勢郷士集団」と、「伊勢から南紀までの職能集団」(生産集団)と、「射和にそれを取り扱う郷士の商人」(販売集団)を「飛び地領」に殖産と云う名分で配置したのである。

    この様に「紀州藩」を側面からサポートした「育ての親の青木氏」としては、「頼宣」までは「謀反の嫌疑」は霧消したかに見せて置いて、そして、その「意志」を継いで50年後には「吉宗」が「謀反の定義範囲」で成し遂げたと考える事が出来るのである。

    (注釈 ここが「土佐山内氏」との違いであって、その「政治手腕」に嫉妬と嫌疑が働いた違いであり、更には、”その「殖産と云う戦略」が極めて優れていた”と云う事に成ったのである。)

    この意味でも、世間では、これが、“総称「松坂商人」(松阪組 射和組)“と呼ばれる所以でもあり、この中で、“「射和商人」(射和組)”と、特別に(1785年頃から)に世間では呼ばれる様に成った由来でもある。
    つまり、「伊勢商人」の「射和商人」の呼称には、この「裏の意味」を持っているのである。

    「青木氏」と「生き残った郷士衆」とは、「伊勢信濃シンジケート」の関係で「古くから血縁」があった事が判っているが、「射和衆」に関しては「女系」の為に記録も辿り着けない。
    遺された一部の系譜には、「女系の嫁ぎ先の事」は「添書」にしか書かれていないので、単純に確証が採れないのである。



    そこで、尚の事なのであって、この「女系の嫁ぎ先の事」の諸事に付いて、「射和衆との絡み」もあるので改めて少し論じて置く。
    「青木氏の歴史観」としては持っておいた方が実態は掴めるだろう。

    そもそも「青木氏」には、前段で論じた様に、“「四家制度」”と云う組織が古来より在り、この「組織」に依って「四掟」からの「血縁」などが決められていた。
    当然に、前段で論じた様に、この間には「門徒衆の秀吉からの救出劇」も在って、そこで新たに「射和地区」でも上記の「新殖産」を興して、旧来の「射和の郷士」(木綿、白粉)と共に「商業」も発展させようとした。
    そして、この発展の中で、「確固たる組織」にする為に「青木氏」としては、元々の概念(「四掟」への「女系策の補完策」)を基に「射和の女系の流れ」を創った。

    “「創った」”と云うよりは、「射和衆」を救うという役(「賜姓五役」)の為には、「必然性の概念」として“「生まれた」“と云う事であろう。

    本来は、「青木氏」としては、“「子孫」はその勢いに任せて無制限に広がれば拡がる程良い”とする概念は元より無かった。
    この「四掟」の「四家制度」では、「20家の青木氏」が定められていて、この「限定した家」には、上記した「仕来りと掟」に依って、「定められた範囲の一族の者」が配置される。
    それを支える「氏上と氏人の関係」や「伊勢信濃シンジケート」と云う「互いに助け合う影の裏組織」や、「青木氏部と云う職能集団」が有って、そこには、「青木氏の嗣子(男女の養子の嗣子制度)」の場合は、一度立場を「家人」に移して、「女子の嫁家先」と共に「伊勢衆」等に「跡目として入る組織」をも古来より制度として確立していた。

    上記した「青木氏部」と、「殖産の職能集団」と、「伊勢シンジケートの郷士集団」の「三つの青木氏の下部組織」に、「青木氏の嗣子(男女)」等は、“「四家の福家」”の指揮で、選ばれてこの“「家人(家臣)の形」”で入っているのである。

    (注釈 上記で論じたが、奈良期から敷いている“「四家制度」”に依って、この「三つの青木氏の下部組織」に入る場合は、先ず「男子の嗣子」は、直接に“「青木氏」”で入るのでは無く、一度、“「家人(家臣)」”に成った上で、この「下部組織の家の跡目」に入る「仕組み」と成っている。
    然し、慣例としては、この制度は「四家の嗣子の直系男子数」が少ないと云う理由で基本的には少ない。
    それは、優先的に「五家五流の跡目に移動」と云う事もあって、基本的には「家人の跡目」に入る事は少なく成るが、慣例外では無かった。)

    (注釈 唯、元より「家人の家」(「嫁家先」)で、「四家制度」で育った「養女の女子」が「青木家を興し生まれた「嗣子」(「義嗣」ではない)も「四家の跡目の資格」を同等に「養女の女子」として持っているのであるから、「青木氏側」から「家人側」への「男子の跡目」で無くても、「家人側」からの「青木氏側」への「男子の嗣子」が発生する。
    従って、この場合も「氏内の養子」(義嗣ではない)なのであるから同じ事に成り得る。)

    更には、上記した様に、「射和衆・射和郷士」との場合は、主に「男系」だけで繋ぐシステムでは無く、「四家制度」の「定義」によって、「射和衆・射和郷士」に「養女の女子」の嫁ぎ、そこで生まれた「嫁家先の嗣子の者」が先ずは「青木氏の家人」として成る。
    そして、そこで別の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」が「家人と成った嫁ぎ先」に入る「仕来り」が採用されていたのである。
    この血縁方法で「射和衆・射和郷士」との関係が広げていった事が良く判る。

    つまり、先ずは「青木氏との繋がり」を「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせ「青木氏の家人」として作り上げた上で、その上で二度目の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせる「仕組み」である。
    これで「深い女系の血縁関係」が成立する仕組みである。

    況や、如何なる場合に於いても何にも「青木氏との関係の無い家筋」には嫁がないと云う事である。
    それは前段で論じた“「四定以成異性不養之固掟也」”の掟に伴い、次ぎの旧来の「注釈の掟」(「四掟」、「同祖祭祀」、「同世男系」)が有る事に縛られているからである。

    (注釈 「共同養育の制」として、この「家人」に入った「娘」の「嗣子」の一部は、「孫域・曾孫もあり得る」までは「男女」を問わず「青木氏の子」として「四家」に入り共同で育てられる。
    養育方法は「氏内」の一種の今の保育園か幼稚園の形体であろう。
    此処で「青木氏」として「共通する教育」を受け、「そご」の無い様にその「認識とレベル」を統一させる事に狙いがあったと観られる。)

    多くの遺された資料からよく読み取ると、次ぎの様な結論が出る。
    年齢は女子では、普通では13歳で最小は10歳で最高で15歳、男子では、普通では15歳で最小で13歳で最高で18歳として、まとめると資料から何とか読み取れる。

    つまりは、男子は15歳が成人、「雛人形の論」の処でも論じた様に女子は13歳が成人の儀式が行われたと記されている事から、普通はこの儀式が基準と成っていたのであろう。

    (注釈 本来は「仕来り」であり「四掟に関する事」から「御定書」と成るものがあった筈であるがなぜか災禍で消失している。
    恐らくは、この「儀式の基準」は、血縁を確定させる為にも男女ともに「初潮の生理」に左右されている事が判る。ょ

    況や、その前の血縁関係は、「出産不可」から結果として前段で論じた“「嗣子」“では無く”「義嗣」“の「養子や養女の形」に成り得る為に成立しない。
    従って、確実に速やかに「血縁状態」が成立する為には、この「生理に依る年齢基準」が「青木氏」では定められていたと考えられる。

    この様に「女系の形」でも入る「四家のシステム」に成っていた事から、間違いなく繋がっている事は判っているのである。
    つまり、「四家制度」の「子の定義」に入る範囲の女系の「男女の子」が、「四家の福家」に依って「優秀な子」が選ばれると云う「青木氏の仕来り」が有る以上は、上記した様に「家人」で無かった郷士の場合は、一端“「家人の形」”と成って「血縁関係」を結ぶ制度を持っていた。
    これは「奈良期」から積極的に進めていた「四家制度」と「家人制度」を結び付けた制度であった。
    これに依って「血縁に依る家人」が増え強化される制度であった。

    「青木氏」では「性の差」を基本に「賜姓五役の役目」は「男系」を原則とはするものの、「女系」を問わず“「嗣子」”は平等に扱われ、それを基にした縁籍を繋ぐこれを“「家人制度」”と呼ばれていた。

    「重要な歴史観の注釈」として、前段でも論じたが、本来、「青木氏」では「自然神」を基とする「皇祖神の子神」の「祖先神の影響」がある事から、「祖先神の神」は「女神」である。
    この事から「青木氏」には、“「人」”は「女」に依って繋がれると云う「固有の概念」が在って、封建的な「男尊女卑の様な考え方」が根本的に無かった。
    唯、「男女」には其の「性の差」による単なるその「役目としての違い」があると云うだけの概念であった。

    現代の遺伝子学的にもそうなっている事から、この「祖先神の青木氏の概念」は正しい事であった事を意味する。
    そして、「青木氏の密教浄土宗」でもこの概念は生きていて、例えば「女墓」(伝統−3)と云う慣習もある。
    又、「青木氏の家訓10訓」(家訓1と家訓2)にも「女系」(人)を重視する概念は生きている通りである。

    この様に「氏族の賜姓族」の「四家制度」と「家人制度」を考察して観れば、「江戸期初期」の時点で観れば、「郷士の姓族」とは、「姓族」は「室町期中期」から発祥している事を鑑みても、「約350年以上」、「郷士」の前身の「鎌倉期中期の伊勢豪族時代」からでは、「約500年以上の期間の縁組」である事に成る。
    数少ない「35程度の伊勢郷士衆」(江戸初期)とは、35族/350年とすると、1/10と成り、10年に1回の血縁と成る。

    (注釈 日本の最も早い「姓族」は、瀬戸内から出た「海部氏」と云われている。)

    「四家の20家」に生まれる「男女の子」が、「1家−5人」の子供として、「100人」、この内、二人を「家人制度」で「三つの組織」に縁組したとすると、「40人」が対象と成る。
    これが、「1代−40年」とすると、「40年−40人」と成り、「10年−10人」と成る。
    「10−10」/「10−1」から10倍と成り、40−35族/10倍=「4のパラメータ」と出る。

    恐らくは、「全体の青木氏」でも、最低限、この範囲(「4のパラメータ」)で「四家制度」を保っていれば「家人制度」を維持する事が出来て、「最低限の血縁関係」は保てる。

    つまり、この「4のパラメータ」(上記計算の検証前提: 「四六の古式の概念」)で行けば、“「青木氏」は正常に維持される”との「基本認識」は持っていた事に成る。
    従って、平安期中期にまでに定められたレベルのこの正常に維持される「4のパラメータ」の範囲では、「賜姓族の宿命」の「純血性」を保つ為の「同族血縁の弊害」は起こらないとする定義(「四家制度」には「天動説」から来る「陰陽道」の「四六の古式概念」)があった事に成る。

    この「家人制度」を維持されると云う前提を護れば、“「四家制度」を正しく保てる定義”でもあった事に成る。
    況や、この「二つの関係」は互いに「補完関係」を維持して居た事に成り、「青木氏の存続の大前提」であった。

    つまり、それは、突き詰めると“「人」”であって、故に、“「女系」”であると云う前提に成り、これが「青木氏の家訓」に成っているのである。

    この様に「賜姓五役」の「純血性を保つ事」には、「家人制度」と下記に論じる「妻嫁制度」と共に、発祥時の奈良期(647年)から「男系女系の区別ない概念」が絶対的不可欠であった事に成る。
    これが他氏の男系に拘る数少ない「氏族」や「賜姓族」や「臣下族」とは異なる所以であって、「青木氏」が生き延びられた「根本原因」であった事が頷ける。

    それは現在でも通じる「人の遺伝子学」と「青木氏の人の概念」が一致していた事に由来する。
    先祖の凄い「透視力」と云うか「真理力」であったと当に驚き入る。


    さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
    そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸く。”

    それを「射和と殖産」で次ぎに論じる。実は大いに影響していたのである。


    > 「伝統シリーズ 38」に続く


      [No.355] Re:「青木氏の伝統 36」−「青木氏の歴史観−9」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/07/22(Sat) 16:17:28  

    > 「伝統シリーズ−35」の末尾

    >さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

    >「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
    >「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

    >「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
    >「同世男系」の補完策が取られた。

    >「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」の「第四世族」であり「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
    >「女系策」の補完策が取られた。

    >「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。

    >「鞍作部止利作の賜物」の「大日如来坐像」をステイタスとする事。
    >「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

    >この様に「四掟」を補完して定義されている。
    >これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
    >この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。




    「伝統シリーズ36」に続く

    さて、「伊勢の青木氏」(信濃にも入る)に執っては跡目として「頼政の子(仲綱)」の子の「京綱」が平安末期に入るが、
    この「頼政」に関しては「青木氏の歴史観」として多くの事が遺されている。
    これを掘り起こして置く。

    「頼政」は「摂津源氏の四家」の四代目である。
    「平家台頭」に依って発祥から200年程度で「源氏族」は衰退した。
    その中で何とか仲間を騙し、「平家」の中で生き残りをかけた。
    この時、「青木氏」と関わったが、その関りが「跡目」であった。
    原則として、前段でも論じた様に「四家制度の掟」に依って、跡目の「嗣子」は「四掟」で、他氏からの「跡目嗣子」は長い間禁じられていた。
    「嗣子」と云うその「固い掟」が、その壁と成っていた。
    然し、「四掟」からはその「固い掟」そのものを否定する事は「源氏族」には無かった。
    ここが「青木氏」と違うところで緩やかであった。
    唯、「慣習仕来り掟」の長い間の流れの中では、これが「難壁」と成っていた事であったが、「嵯峨期の詔勅」でこの流れが一変したのである。


    当然に、「同祖同門の源氏族」から始めて、「跡目」を入れる事に成った「青木氏」としては「青天の霹靂の歴史的な事」ではあった。
    然し、「新撰姓氏禄」に依って明確に定義された事で、「同祖同門」と成るのであるが、それ故に青木氏側には「四掟」に依る論理的には無理は無かった。
    唯、「11家11流」あるどの「賜姓源氏族」でも良いという事では無かった。

    (注釈 「源氏」と言いながらも「賜姓」を受けられなかった「真人族の源氏」が多く、各賜姓を出した天皇には必ず単なる源氏も居た。
    殆どは、結局は、生活に困窮し比叡山か善光寺や地方の土豪の家に入った。
    「11家11流」とは言えど、その資格を何とか持ち得ているのは実質は武力集団を構成した「清和源氏系」である。
    「宇多源氏」でも搾取偏纂が多いし、源氏の中でも「嵯峨源氏」は「清和源氏」に融合された。)

    そこで「四家」を構成する「摂津源氏四家の始祖」の三代に付いて関連事項を述べて置く。
    先ずは、「三人の遙任」の受領、或は、守護地は次の通りである。

    ・「満仲の受領・守護地」
     摂津、越後、越前、伊予、陸奥、武蔵、下野、信濃

    (二度の役の摂津を領国とする。「武家貴族」として「嵯峨源氏」(母系)を郎党とし「武士団」を形成する。全国域) 

    ・「頼光の受領・守護地」
     美濃、尾張、但馬、伊予、摂津、信濃、甲斐

    (満仲の摂津国を護り引き継ぐ。但馬を受領する。「摂津四家」を形成する。中部域と関西域)

    ・「頼政の受領・守護地」
     摂津、美濃、伊豆、相模、下野、上総、下総

    (摂津を引き継ぎ伊豆と相模国を受領する。関東域)

    さて、そこで果たして、これを観て、同祖同門であるのなら「清和源氏の宗家の摂津源氏」には「神社仏閣の修理」は何所までを命じられたのかと云う疑問がある。

    それは、出来たとしても上記の17国の「神社仏閣の修理」である。
    この「関西域から中部域」にかけての「天領地」が存在する地域とされていて、それは「六国」であろう。

    つまり、これに依って、「嵯峨期の詔勅」に依って、以後は、「青木氏」は、「皇親族」として、或いは「賜姓族」として賜姓を受ける事はなくなった事で、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」を含む「新規建設」が一時的に留まったのかと云う事が判る。
    又、その「内容」と「期間」に依っては「青木氏の歴史観」が判る。

    その「期間」としては、「神明社の荒廃」が進んだ時期は、「嵯峨期」では未だ続けていた事が判っている事から、源氏の清和源氏が政治に関わって来て、上記の「青木氏の定住地」に入って来た920年−930年代頃から「青木氏」は「賜姓五役」として摩擦を避ける為に手を一時引いた事に成る。
    当然に、「青木氏の祖先神の神明社」の「神社仏閣の修理」からは手を引いた事にも成る。

    現実には、「守護」が「賜姓青木氏」に代わって「賜姓源氏」と成った以上は、「賜姓青木氏」は「旧守護の郷氏」である事に成り流れとしては手を引く事に成るだろう。
    両者が共に片方(源氏)が守護をし、もう片方(青木氏)は「神社仏閣の修理」をすると云う事はあり得ないであろう。

    そもそも、源氏立役者の「三人の受領・守護地」は「青木氏の定住地」でもあり、「天領地」のある処でもある。
    「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に変わった事で、故に、「源氏」に対して正式に「朝命」としてこの「赴任地の受領・守護地」の「神社仏閣の修理」を命じられた事と同じ事に成ると考えられる。

    然し、未だ、この時期には、領国として受領した「摂津の国」を除いて、この地域には「賜姓源氏族」は「守護神の八幡社」と「密教の菩提寺」を各地に作れるほどの「財政と技量の状況」にはなかった。

    (注釈 但し、「武家貴族」から離れた「武勇の頼信」の「河内源氏」にも「八幡社」が存在していたとしているが、他の源氏族地域と同様に「鎌倉期の後付」ではないかとの見方が強い。)

    故に、荒廃した自らの守護神の八幡社だけの修理に留めたと観られる。

    結局は、「祖先神の神明社の修理」は、「頼政」が「志紀真人族の青木氏」に「京綱の跡目」を入れた時期までと云う事に成る。
    少なくとも、この時期からは、”「青木氏の力」を借りる”と云う「手立て」が成り立ち、この事で「祖先神の神明社の修理」の大義は成立する事になり、再び、「青木氏の守護神」である限りは修理は始めたと考えられる。

    従って、「祖先神の神明社の修理」は、「青木氏」に依って“「1150年頃以降」”に再び始まった事に成るだろう。
    然し、「治承期」には、最早、平家が66国中32国を支配するに至り、その「平家台頭期」からその支配地域に関して以上には、「守護神」であるとは言え「賜姓青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は到底勝手には出来なく成るは必定であるだろう。

    従って、続く乱世が保元(1158)−平治(1159)−治承(1180)−寿永(1185)の乱とすると、詳しくは、上記の通り「1150年頃以降」に再び始まった事に成るだろうが、“1165年代頃”からは再び無理にでも出来なく成った事に成る。
    つまり、再開後、15年間程度で、又、中断した事に成る。

    結局は、時系列的に観ると、次ぎの様に成る。
    「頼政(1104年生誕−1135年家督を引き継ぎ)」は、「1140年頃」に官位叙任して出世した。
    そして、「賜姓平家の台頭」の中で「賜姓源氏族」として上手く泳ぎ、「1178年頃」までに最高位の「正三位」と成り、「受領・守護地」(「伊豆の受領」を特別に希望した記録)に「京の遙任」を敢えて止めて赴任した。

    そして、この間に、「孫の京綱」の「青木氏跡目」も「青木氏の資料」から「1167年−1170年頃」(頼政53歳頃)に行われた事が「公的記録」や「青木氏の記録」でも判っている。
    つまり、「平家の権勢」の中で「伊豆の守護地」を特別に臨んだ事に「頼政の戦略的意味」があり、「先々の事」(源氏四家再興)を考えて準備していた事に成る。

    と云う事は、「青木氏」が“「皇親族」”から外れ、大きく変化した時期の「嵯峨期(在位824年−没年842年)」では、この「嵯峨期の20年間」は「同祖同縁」である事から何とか「賜姓五役」を務めた時期と成る。
    然し、その後、「約108年間(950年頃 「秀郷流青木氏の補完策」まで)」は中止した事に成る。
    ところがその後、再び一時は始まるが「220年間(1170年頃 )」で再び中止に成った。
    この間の清和期の「1135年頃から1178年頃」まではより「安泰期」であった事には成るが、これも「13年間(頼政以仁王の乱 1180年)」で中止した。

    「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事は、結局、再び始まったのは「源氏の政権」が樹立した「鎌倉期」である。

    そこで、「青木氏の歴史観」として問題がもう一つある。
    それはこの鎌倉期の何時頃から始まったかは、「青木氏」の中に判断資料と成る欠片も何も見つからない。
    何故なのかは解らない。この時期には資料消失の事故は無い。

    「賜姓五役としての務め」として「青木氏」に依る「祖先神の神明社の建設と修理維持」等の事が出来る様に成ったのであるから、「幸い」である事に成る。
    然し、どこかに何か「関連した内容の事」でもが書かれている筈なのに無いのである。

    (注釈 この「青木氏に関わる歴史的な記録の務め」は、本来は「神明社の守護神」か「氏寺の密教菩提寺」が執事として勤める役目の「慣習仕来り掟」にあった。)

    この「不思議な事」は、「青木氏の中」で“「書けなかった混乱」”が発生していた事以外には考え難い。
    これは大きく「青木氏の歴史観」に関わる事ではあるが、“何なのか”である。

    先にこの事に付いて是非検証してみる。

    この「執事の記録」は先ず考えられる事は、「氏寺」よりも「神明社」であろう。

    それは全国の「神社仏閣の建設と維持管理」は「氏寺」よりも「神明社」の方が格段に多い。
    「神明社」は“「神明造り」”と云う奈良期からの「古式造り」である。
    従って、この「各種技能」の「青木氏」に関わる多くの「技能種」は「青木氏部」の中で培われている。
    他では、「皇祖神の伊勢神宮」に関わるもので、その「子神」としての「古式造り」を造り維持する事は他に出来ない“「特段の技能」”である。

    そうすると、全国500社以上に上る「神明社」と「氏寺の菩提寺」と、その「分社」「分寺」を維持するには、夫々の「国の社寺」と、「伊勢か信濃」の本部にこの「特段の技能を持つ者」を抱えておかなければならない。
    しかし、そんな「不合理な事」は幾ら「青木氏」でも無理であろう。

    当然に、一か所に統括して、夫々の社寺から連絡を受けて「人物金を手配する事」に成る筈であろう。
    つまりは、それが「青木氏部」と云われる「古来からの技能集団」である。つまり「青木氏部」である。

    少なくとも歴史上の存在する記録として、「伊勢」に「青木氏部」が奈良期から歴史的に常駐されていた事は明白である事から、ここから「人物金の統括」をしていた事に成る。
    当然に、これ等の「建設修理に伴う資材の調達と運送と警護」も担わなくてはならない事に成り、これ等の全体を効率よく手配する部署が必要に成る。
    これらの「責任」を「青木氏の四家」が持ち、各四家が担当し手配していた筈であり、当然に「商い」の「伊勢屋の紙問屋」も関係する事にも成る。
    又、直接に「青木氏部」が任されて責任を持っていたかの問題とも成る。

    この問題は、この三者の一か所だけで全てを賄える能力を持ち得るのかと云う判断が出て来るが、到底、無理であろう。
    総括責任の「指揮支配」は「青木氏」、「物品の手配」は「伊勢屋の紙問屋の総合商社」、「技能者の手配」などは「青木氏部」と云う事に成るのではないか。
    当然に伊勢だけでは無理と成り、「信濃の力」、時には「甲斐の力」も求めたであろう。
    これを「信濃」を含む「四家の者」が主と成って一体で担当していたのであろう。

    (注釈 記録にもある様に「補完役の伊勢の秀郷流青木氏」も平安中期から合力をしたが、どのような「補完役」を演じていたかは、近江の秀郷流一門の記録の流れから考えると「運輸面の実質の警護」にあったとある。)

    さて、次の問題は、この「記録」を誰が担っていたかに移る。

    筆者は、当にこれには”「御師制度」”が絡んでいたと考えている。
    「神明社の御師」には多くの「仕事種」があった。

    中でも、記録で明らかに成っている様に、全国の「神明社」を経由して全国の「全ゆる情報」を集め、「福家」に提供する役目もあった。
    これには、「諜報活動」もあり、「商いの情報」から「神明社の荒廃状況」等までも報告していた。
    この事からすると、「青木氏の福家」には、「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」と「青木氏部の差配頭」に対して「指揮支配」をしていた事に成る。
    これを受けて「青木氏部の差配頭」(「隅切り目結紋の青木氏」)に「指揮支配」をし、それに必要とする「物と金」を「伊勢屋の紙問屋の長兵衛」に「手配依頼」していた事に成る。
    後は、「差配頭」が「運搬と警護」を「伊勢シンジケート」等に手配する事に成るだろう。

    恐らくは、これらは「享保の改革」に執った「江戸の伊勢屋」と「伊勢」との「連絡体制」(記録)からも解る様に、“「会議」”を開いたと観られる。
    とすると、「疑問の記録」は、「青木氏部の差配頭」が執っていた事に成る。
    従って、「伊勢」の「青木氏部の差配頭」に「記録消失」の何かがあった事に成る。

    ところで、「松阪」は、「不入不倫の権」で護られていながらも「四度の災禍」に見舞われた。
    「松阪火災が二度」、「信長災禍が一度」、「平安期末期と室町期初期の乱の災禍の二度」と成る。
    後は、江戸初期に神明社は徳川幕府に引き渡すが財政難から全国的に荒廃する。

    「伊勢」の「青木氏部の差配頭」には、少なくとも五度以上のこの「全ての大災禍」に直接的に影響を受けている。

    そこで「伊勢」には、「青木氏」が関係した「神明社系の社」は「30社」あり、この内、「1社」は当に「青木社」、残りの「2社」は「青木氏」に関わる「同祖祭祀神」、残りの「27社」は「祖先神の神明社」である。
    この「青木社」が「守護神の神明社」の中でも、「氏族全体」をより「神仏同源」として祭祀していた「社」であり、「伊勢松阪」は、「皇祖神」の「伊勢神宮のお膝元」として、「青木氏の色合いの強い神明社」を祭祀する事は困難であった。

    そこで、「青木氏の記録」によれば、「四家の桑名殿」の地域に「神明社系の青木社」を設けたのである。

    (注釈 「施基皇子の子」には、「春日王」「壱先濃王」「桑原王」「白壁王」「湯原王」「榎井王」が居て、桑原域は、「桑原王」の住地であった。)
     
    「松阪の西」の「名張地域」にも、「松阪の北」の「員弁地域」と「四日市地域」にも、もう一つあった様で、この「四つの神明社」には同時に、「神道祭祀」でもあり、「菩提寺の氏寺」も備え、且つ、この「氏社と氏寺」は「護りの城郭」としての目的も持つ「平館」としての役目も果たしていた。
    歴史上で本格的に「青木氏」に降りかかった「桑名と名張と上田」の「三つ戦い」の際には、「護りの館」としても働いた有名な「氏社」と「氏寺」でもある。

    この様な「役目」としてもあった事からも「神明社」ではあったが、これを須らく「青木社」と呼ばれていた。
    現在では、「桑名の青木社」と「名張の神明社」と「四日市の神明社」が寺社共に遺っている。

    筆者は、従って、「青木氏の歴史」として遺すとすれば、この「桑名の青木社」に遺されていたと観ている。
    然し、唯、「桑名」と共に「北の備え」として役目を果たしていたが、「桑名の左横」の「員弁の神明社」が「上田の戦い」で消えている事から考えると、此処に遺されていた事も考えられる。

    つまりは、「青木氏部の差配頭」(隅切り目結紋)は此処に住んでいたとも考えられる。
    従って、「記録」が消えたと考えている。

    唯一つ、この事で考えておく必要があるのは、この「青木氏部の差配頭」の家紋から観ると、つまり、「隅切り目結紋」が関東域にも存在する事である。
    と同時に、「神明社」の「柏紋の神職」の末裔も、「越前」を除くと「関東域(埼玉)」にも多く分布する事である。

    本来は、「伊勢」に5年毎に帰る「仕来り」に成っていたのである。
    全国に移動しながら「社の修復」に関わっていたので「青木氏部の差配頭の子孫」は、この「桑名市多度町付近域には絶えなかったのである。
    鎌倉期から室町期を経ての「戦乱」を経て「目結紋の青木氏」が関東域に残るはただ事ではない。
    「柏紋の青木氏」と共に残しえるだけの事があったという事であろう。

    (注釈 故に「神仏同源」であったこの”「青木社」”としてはここに残せたのであり、、これが「桑名市多度町小山」にあり、現在は本体は平地小山の上に「祠の様な構え」で祀られていて、過去は大きな鳥居(現存)を持つ社であったが、現在はこの「大鳥居」は周囲に威容を放つ様に目立って遺跡を遺している。
    この「多くの神明社」は中部域から北勢域に存在する中の功績なのである。)

    「伊勢」には、この様な「祠」の様なものも含めて「970の神社」があると云われているが、これでも最も「社関係」が少ない地域でもある。
    全国は元より「伊勢の神明社系の30社」は、多くはこの様な「祠の状況」に成っている。
    その原因は、江戸初期に「青木氏」から徳川幕府に移管した事で財政難から著しく荒廃した事とし、又、合わせて「密教」を廃止し「顕教令」を発して急激に移した事で「支える信徒」が少なくなった事と、「他宗の勢い」にも影響している事にも依る。

    全国の神明社の多くは、この様に成っているが、この「伊勢桑名市多度」の「青木社」に関してだけは、「青木氏の口伝」で、この「桑名一社」だけは江戸期以降も”「青木社」”としての呼称で維持したとある。
    その後、第二次大戦にて大鳥居だけを残し消失し、昭和21年5月に「多度の小山に屋根付きの祠」を再び建設し登録した事が判っている。
    ”「青木社」”のここを何としても残そうとしたのは「目結紋の青木氏」と共に「柏紋の青木氏」と「「桑名殿」が地域に居た事の所以でもある。

    (注釈 唯、「頼朝」は「1197年」頃から特に「地方政治」に「力」を入れ、「武家体制」と「幕府体制」(格式と権威の確立)を強化した。
    この時、長い間の乱に依って「神社仏閣」が「戦いの根拠地」と成っていた事から荒廃し、これを立て直す政策と、全国に「平家の残党」が多く残る治安状況の中で実施する為に、ここを、つまり、「神社仏閣」を拠点として「守護や地頭」等の配置を実施した。
    この為には、「拠点」は元より,乱に依って疲弊していた「人々の安寧の場」としても重要な「神社仏閣の社会整備」が急務と成っていた。

    (注釈 取り分け「頼朝」は、この初期は「北条氏等の反対」を押し切って「頼朝が思う政治体制」を強引に敷いた。
    公的に成っている記録として、「格式と権威」を樹立する為に、「神社仏閣」などに深く帰依し保護して推進した。
    取り分け「皇祖神の「伊勢神宮の保護」と、その子神の「祖先神の神明社の保護」には目立つほどに「政治力」を注いだ事が判っている。)

    その為にも、「志紀真人族」で「武家貴族」の「青木氏の賜姓五役の力」を利用して、「伊勢」は元より「天領地」と成っている「五地域の整備」(「青木氏の定住地と組織力」、「青木氏の権威」、「青木氏の財力」、「青木氏部」を利用)に力を注いだ。
    その事に依って、「朝廷の力」(権威)をも利用した。
    つまり、「皇祖神の伊勢神宮」に代わって各地に多くの信徒を抱える「祖先神の神明社の力」を利用した事に依る。

    それ故に、「祖先神の青木社」を含む「神明社」を守る「目結紋の差配頭一党」は、正倉院にも残されている程に「関東」に於いても鎌倉期から室町期まではその子孫は関東に於いて絶える事無く保護された所以でもある。

    これには、鎌倉幕府と室町幕府はどうしても「賜姓臣下族の青木氏の五家五流」と、それを補完する「秀郷流青木氏116氏」の「力」を利用する必要があった。
    それには、彼らを「引き付ける権利」を与える事であった。
    これが、「北条氏等の反対」を押し切って実行した頼朝の“「本領安堵策」”であった。
    過去には「青木氏」と敵対した「足利氏」も「本領安堵策」を採った。

    (注釈 「伊勢の天領地保護」には力を注いだ。)

    (注釈 「坂東八平氏の傍系」の「北条氏」等に執っては、この「格式と権威」は「利害の反する事」であり、記録に遺る程に「強い反発」を受けた。
    取り分け、「義経」は「清盛の影響」を強く受けていて「頼朝」以上にこの「官僚的な考え方」が強かった。
    「二つの青木氏」は、「二つの青木氏の氏是」に依って関わらなかったが、これが生き残りの要因の一つに成った。
    仮に、「同祖同門の第七世族の末裔」の「坂東八平氏」に関わっていれば「同門の戦い」に成りどうなっていたかは判らない。
    身の危険を感じながらも反対を押し切ってでも行った「頼朝の本領安堵策」が「同祖同門」を引き付けたのである。)

    恐らくは、「南北朝の足利氏」や「室町末期の織田信雄」や「長嶋や根来や松阪の秀吉」との「闘い」の様な「シンジケート」を使った「影の戦い」と同じ戦いに成っていた事が充分に予想できるが、大きくは手を出さなかった。

    取り分け、「伊勢の天領地保護」には力を注いだが、「以仁王の乱」で「鎌倉幕府樹立」のきっかけを作った「頼政の孫」の「京綱の青木氏」が「政治的中立」を保った事から、「北条氏の反対」を押し切ってでも「本領安堵策」を実施し、その為か「青木氏」の奈良期からの旧来の「平家に奪われた土地」までも本領安堵(中勢域から南勢域)された。

    (注釈 平末期から「紙を使用する文化」が徐々に進み、鎌倉期には、最早、「紙」は通常の物と成り、室町期には世の中が乱で荒廃する中でも、「紙」は専用の用語として“「紙文化」”とも呼ばれる程に逆に花開いた。 
    「二つの青木氏」は、この「紙の文化」の進歩と並行して「氏族」を拡大させ強化させ、「巨万の富」を獲得した。
    これには{南勢や南紀(秀郷流24地域と信濃域も含む)}までの「旧来の本領安堵」が大きく効果を発揮させ、進む「紙文化」の「紙生産の殖産地」に成った
    この様に”「青木社」”が物語る様に、「鎌倉期と室町期」は「本領安堵策」で力を蓄え、そして「江戸期」にはこの「抜群の力」で生き抜いたと云える。

    この「青木氏の歴史観」を物語るには、「柏紋の青木氏」と共に「目結紋の青木氏の存在」が欠かせないのである。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」は「五家五流」の「五地域」、「賜姓臣下族の秀郷流青木氏」は「116氏」の「24地域」、合わせて「121氏−29地域」である。
    この内、強大な勢力を拡大させたのは、合わせて「15地域」で、この内、「秀郷流青木氏」は「10地域」と、「五家五流」の内の「三地域」が「政治、経済、軍事」の「青木氏の基本勢力」を拡大させた。
    この「15地域」は、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を共に協調して獲得した。
    これには、「秀郷一門361氏」の「主要16氏」の内、「青木氏族」と呼ばれる「主要8氏」が勢力を拡大させた。秀郷流青木氏は116氏−に支流分布)

    この事から、再び、「青木氏」に依る「祖先神の神明社の修理」は始まったと観られる。

    然し、上記の事や注釈にある様に、「歴史の政治的経緯」の中には確定的な物が観られない。
    何故、この事に関わる記録資料が見つからないのかは、この「歴史的変化」からは判らない。
    だとすると、「青木氏の中」にある事に成るのだが、無いのである。

    全国の「祖先神の神明社の修理」は「皇祖神の子神」として認められて進んだ。
    ところが、この頃(1000年頃)からの「青木氏に関わる資料関係」は多く成っていて、「室町期初期」(1334年)に成って「下剋上と戦乱」の影響を受けて、この資料からも「神明社」は一時荒廃が始まった事が書かれている。
    ところが、「「鎌倉文化」とそれに続く「室町文化」の“「紙文化」“と云われる文化が興り、「青木氏」は本領安堵された事も伴って「巨万の富」を獲得するが、何故か不思議に「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料は見つからない。
    「巨万の富」を獲得し、「青木氏に関する記録資料」が多く成ったのであれば、「祖先神の神明社の修理」に関する「歴史的な経緯」を示す記録資料が出て来てもおかしくはない。

    つまりは、「修理するに必要とする財力」は充分に獲得している筈なのに、無いのである。

    これは次の事が考えられる。
    先ず、「三つの事」が考えられる。
    「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
    「青木氏」が「修理」はしたが何かの「記録を遺すシステム」に障害が起こったか(2)
    遺したが一度に消える何かが起こったかであろう(3)

    「前者二つの原因」(1)(2)は戦乱であった事もあり、全て考えられる状況であった事は頷けるが、(2)は少しは遺るであろうし、一度に全てが消えるのか(3)では疑問である。

    上記した様に、記録に関しては一度に全てが消える事からすると、(3)だけが原因していたのだが、「青木氏部の差配頭」の「隅切り目結紋」の一門が預かる「神明社」の「主社の青木社の焼失」が原因である事が頷ける。

    注釈として、さてこれを裏付けるかの様に、この「桑名地域一帯」には「桑名殿の青木氏」と共に、この「職能家紋の青木氏」が符号一致した様に実に多いのである。
    「松阪」には、後で建設された「伊勢神宮」に関する「新しい社」が多く、この「古い祖先神の神明社」は無かった事が伝えられていて、現在も60社ほどの社が祭祀されている。
    然し、「神明社の祭神」としては無く、且つ、「皇祖神の子神」であるにも関わらず無い。

    これには原因があって、これは次の”「古来の慣習」”に依るもので、「神宮遷宮」に於いて中国地方から各地を遷宮して、最後は、紀州で「遷宮」は落ち着きを示しすが、最終は「伊勢松阪」に落ち着いた。
    然し、そもそも、各地の「遷宮地」には、この「遷宮の仕来り」に依り「子神の神明社」は祭祀されていない事に成っている。

    そこで因みに、「伊勢の神明社の分布」を見本にすると次ぎの様に成っている。
    先ず「青木氏の定住地」に多く分布する。

    「青木氏の口伝」によると、「南勢の旧領地」には、平安期より「1社」あったが、歴史の中で「南勢」は「熊野神社の聖域」であった事から消失して無く成ったとの事である。
    一時、この「南勢の遠祖地」は平家と熊野の圏域に置かれ、その事で削除されたらしいとの事であった。
    これは現実に云える事で恐らくは”「事実」”ではあるだろう。

    そこで「正式な神明社」としての分布は次の通りである。

    桑名 13(15) 員弁 3 四日市 4

    三重郡 3 鈴鹿市 2 亀山 1

    名張 1 志摩 1

    津 0 松阪 0 名張伊賀 0

    他の8地域 0

    これを観ると、「青木氏の聖域」、或は、「神明社の聖域」の範囲が良く判る。

    明らかに”「北域」”に集中しているし、当時の聖域図が読み取れる。
    併せて、この分布でも、「南勢の旧領地」の事は「平家熊野の説」は納得できる。

    「伊勢」を除く「他の四家四流の聖域」も、この「神明社の分布」で観る事が出来る。
    この事はある程度の研究資料があるので何時か論じてみたい。

    この分布をみると、”「北域」”に「勢力圏」を持ち、その「勢力圏」は「西と東」に分割している。

    上記した神明社の中でのこの“「青木社の存在」”はこれを物語るもので、此処に記録資料が保管されていた事の証拠にも成る。

    記録に依れば、「松阪」の西域の「名張」にも、江戸期以降にも「青木氏」が管理維持する「独自の神明社」が秘密裏にあった事が記されている。

    これは「江戸期」という環境の中では重要な事である。
    神明社返還後、勝手に「独自の氏社」を持つことを禁じられている中での「青木社」である。

    この「青木社」は「完全な神仏同源」であった事が書かれていて、恐らくは、その事は「室町期末期の青木氏」が実戦した2つの内の一つの”「伊賀の戦い」”(他は北部の「上田の戦い」)で活躍した「清蓮寺城と清蓮寺」がそれに当たる事が判る。
    これが「青木社の条件」を備えていたのである。

    つまり、「松阪の代わり」にして、「城郭的意味合い」を持たせ「福家」がここを「全体の指揮の拠点」にしていた事が考えられる。

    念のために注釈として、「家紋分析」でも「青木社の存在」と、その「目結紋の青木氏」には、要するに「青木氏」には「家紋」と云うものはそもそも無く、「志紀真人族」であった為に「賜紋」としての「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている。
    但し、朝廷の「賜姓五役」を務める事から、その朝廷が定めた職能に関する文様が次の三つあった。

    一つは、「神木の柏」の「三つ柏文様」
    二つは、「職能の印」の「目結文様」
    三つは、「賜姓源氏」から「青木氏」を名乗った時に使用する「丸付き紋様」(限定)

    以上が「青木氏」に認められている。

    「神職の青木氏」の「三つ柏紋」、「青木氏部の青木氏」の「隅切り目結紋」、「摂津源氏」が九州大口村で「青木氏」を名乗った「丸付き笹竜胆紋」

    以上の「三つの文様」がある。

    「佐々木氏の研究資料」にもこのことが書かれている。

    後に、室町期頃からこれ等は家紋的に用いられ現存する。

    「柏紋」と「目結紋」(桑名多度域)は、朝廷記録や正倉院などの記録にも遺る由緒ある「古来の文様」である。

    そもそも、「賜姓五役」を務める為に「部組織」を持つ「青木氏」にだけ使用を認められた格式のある文様である。

    これ等の分布は、「柏紋」は伊勢では「名張地域」を中心として「北東の紀州域」までと、桑名、員弁域に多く分布する。

    この事から、「桑名の多度小山の目結紋」の平館があって、「名張の清蓮寺城」では「柏紋の神職の本拠地」としていた事に成る。

    故に、「神明社」が「神仏同源」とする事からも、「柏紋の青木氏の住職」が多く存在する所以とも成る。

    つまり、此処を拠点として、「神職と住職」を養成していたと観られる。

    故に、「神明社」が存在する全国の地域には、「目結紋の青木氏」と共に、この「柏紋の青木氏」の末裔が存在する所以と成る。

    次に、「目結紋の青木氏」は、「桑名地域」と「員弁地域」を拠点としていた事から集中的に分布する所以でもある。

    この文様も「全国神明社の分布」に従っている。

    これで上記の「記録の保存の疑問」これでは解ける。


    さて、「疑問の記録保存」から話しを戻す。

    「青木氏の歴史観」をより深めると、平安期のこれは(1)、つまり、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」には「修理」は及ばなかった事を意味するか(1)
    で、「皇親族」を外し、その「賜姓五役の役務」を外し、それに代わる「源氏族」に任せようとした。
    然し、結局はこの策は出来なかった事に成り、あらゆる「社殿修理」は“「放置状態」と成った事”を意味する。

    取り分け、「皇祖神の子神」である事から「建設、修理、維持、布教」は「朝廷の勢力」を補完する事にも成り、牽制されて「神明社」は荒廃した。
    結局は、平安期から江戸期末期までの期間で上記と多様な経緯から「青木氏」が「修理保全に携われなかった期間」は、この意味でも「神明社」は荒廃したのである。

    更に取り分けで、「江戸期全期」は「青木氏」より幕府管理下に引き引き渡した事から「神明社荒廃」は「密教の事」もあって「荒廃」は酷かった。

    ”「桑名の青木社」”や”「名張の清蓮寺城」(青木社格)”はその意味で「青木氏の歴史観」を大きく物語っているのである。

    (注釈 上記の務めである(1)である以上は、「神明社の荒廃」は「青木氏」は意地でも見逃すことは出来なかった。
    何らかの形で残す工夫が必要であった。
    それが「青木社」か「青木社的神明社」であった。
    「青木氏の定住地」の「主要地15地域」には、この「青木社格の神明社」が観られる。
    この内の「四地域」、つまり、 「伊勢」、「信濃」、「伊豆」、「越前」は、「青木社」である。)

    さて、そこで「桑名や清蓮寺」のみならず、これは、言わずもがな他の「青木氏の定住地」でも全く同じ事が起こっていた。

    「秀郷流青木氏の主要地」でも、この事は例外では無く、有名な例として、古来から存在する”「武蔵の四つの神明社」”はその意味で「柏紋の神職の定住」と、「柏紋の住職の定住」と、「目結紋の青木氏の定住」はその歴史を具に物語っている。
    つまり、江戸期の中で表向きは「神明社」であっても、「神明社」と云うよりは関りは明らかに「青木社」である。
    それは「甲斐青木氏」を出自に持つ「柳沢吉保」がこれに積極的に関わったからでもある。
    当然に、「柏紋の青木氏」と「目結紋の青木氏」の二つも「現地孫」を残しながらも関わっているのである。

    明らかに「江戸期の青木社」である。

    見本として論じた「伊勢域」から遠く管理の行き届かなかった「関東域」には、「青木氏部」をこの「武蔵の地」に定住させて、ここから奈良期からの悠久の歴史を持つ「古来の神明社」(江戸期の青木社)を何とか遺そうとしたのである。
    流石、お膝元の「武蔵の神明社」を態勢は整えたとしても「青木社」とは出来なかった。

    これを始めたのは、「神明社」は当然として「主要な神明社」に対しては「青木社的な条件」を整え始めたのは、急の事ではなく、そもそも、「1000年前後頃」であった事が判っている。

    丁度、「秀郷流青木氏」が「補完役」として働き始め力を保有した時期に相当する。
    つまり、「補完力、財力」は「基本力」として勿論の事として、「過去の荒廃」に対する備えとして以後この様な事が無い様に既に「青木社的要素」を高めたのではないかと考えられる。
    その対応が、大半は荒廃するが、全てを失う事なく「江戸期」で生きたという事ではないかと考えられる。
    その意味で「甲斐青木氏の出自」を持つ「柳沢吉保の先見と行動」を高く買うところでもある。

    (注釈 現実に「源氏のエピソード」のこの事の「摂津源氏の史実」がある。
    そもそも、「賜姓源氏」は「八幡社」、「藤原秀郷一門」は「春日社」である。
    それには、「皇親族の青木氏の商の財力」と奈良期の古来から保有する「青木氏部の技術力」には「源氏力」は到底及ぶ能力が元から無かった事を意味した。)

    (注釈 確かに「賜姓源氏族」は、”「武家貴族」”ではあるが、”「家を構成する氏族」”としても矛盾する持ってはならない「武力集団」でもあった。
    ところが「賜姓五役の氏」としての「務めの手段」は、現実に「氏族」として元から無かったし、待たなかった。
    これは当時の「朝臣族の慣習仕来り掟」としては明らかに矛盾であり、故に「源氏部」も無い。
    従って、「氏の守護神」とする「八幡社」を建設する場合は、「青木氏部」などの「技能集団の部」を持つ氏に発注し、故に「莫大な財源」が必要であった。)

    (注釈 結局、この様な「賜姓清和源氏」は、その存続のためには、「嵯峨期の詔勅」の事もあり、先ず摂津に居た「清和源氏宗家」が、生き延びる為に近江で土豪化した「嵯峨族の末裔」や「山賊などの不祥の武力団」を集め、「武家貴族の名誉」をかなぐり捨てて、「武力集団」を形成して生き延びようとした。
    この事に、朝廷内から顰蹙(ひんしゅく)をかって蟄居してしまう羽目に陥る。)

    (注釈 従って、「朝臣族の慣習仕来り掟」の中では「平安期」の”「家」の持つ意味”が異なっていった。
    現在の「家」と異なる所以でもある。
    「朝臣族の慣習仕来り掟」を頑なに守っている「天皇」に仕える「斎蔵を司る公の家」に対して、「侍を司る武の家」の”「家」”の事である。
    これは「朝臣族の慣習仕来り掟」を順守しての”「家」”なのである。)

    取り分け、つまり、「源氏全体」にも朝廷の勤めに応じるこの事に関わる「青木氏部の能力」と「同じ組織力」として持ち得ていなかったのである。
    依って、余計に朝廷内の公家からは顰蹙は増幅した。
    と云う事は、嵯峨期の詔勅に依って「青木氏」に代わって「源氏族」が行うべき「賜姓五役」であると朝廷の中で「公家族」から見られていた。
    この史実から、この間の「青木氏」は、政治的情勢に合わせて「都の関西域」の「祖先神の神明社の修理業務」を一時止めていた事に当然に成る。

    これは、「11家の賜姓の源氏族」の「主家」は、その「格式」を何とか護る為にせめて「朝臣族」として”「遙任」”を選び「都」に留まる事を選んだからでもあろう。
    責めて”「遥任」”でなければ、持ってはならない「武力集団」を持っている中で、到底に当時は「武家貴族」とは完全に認められていなかった筈である。
    世間の目は揶揄的であって、そこで、この「源氏族」では何とか「武家貴族」であろうとはしたが、「源氏族内」には「武力集団」を主張する派(A)と、「四家制度」を採用して「武家貴族」を守ろうとした派(B)とに分かれた。

    取り分け、(B)の摂津源氏の四家の中でも、「頼政派」はより「武家貴族」を守ろうとして「公家の味方」を取り込んだ。
    それだけに「信頼」は厚く後の「平家」の中で生き延びられたのである。
    ただ頼信系の「河内源氏」は、徹底して(A)派であった。

    そこで、「頼政」は、領国を護る為にも「武力集団」の代わりに、「伊勢と信濃の同祖同門の一族」を味方に付け、その彼らが持つ「影の力とその財力と権威」で護衛団に仕立て上げた。
    それが「伊豆領国」の「伊勢信濃の完全融合青木氏」である。
    「頼政」は後にこの為に「遥任」を拒否し伊豆に入った。
    (これは戦略上に大きな意味を持つ。)
    従って、(B)派の「源氏頼政」を長く述べたが、「伊豆」のここの「祖先神の神明社」は、「笹竜胆紋」の「完全な青木社」なのである。
    「従三位の頼政」は「伊勢と信濃」と、そして「伊豆」に「青木氏と源氏族」の同宗同門の(B)派を構築したのである。

    (注釈 「越前」は別の意味で(B)派の影響を持ち、後に、つまり、「青木社」が構築された。後勘からすると「1000年頃から始まって1150年の頼政の影響」を受けて「青木社の条件」の一つに成り得た。戦略上平家台頭と専横の中である。)


    「頼政」から話を戻して、少し前の時代に、最早、この中では「賜姓五役」は無いと観て、“この侭では政治的に拙い“とした「円融天皇」が、「将門の乱の功績」から「俵玄太の藤原秀郷」に直接に特例を以て「嵯峨期の詔勅」を使って「青木氏」を名乗る事を許した。
    そして、永続的に「秀郷一族宗家の第三子」に「青木氏の補完役」を命じたと云う事に成ったのである。
    「摂関家の藤原氏」は、この事について「猛反発」をしたとある。

    当然に、これは「青木氏」に換えた「賜姓源氏族」に委ねようとしたが、矢張り、上記の通りの矛盾を抱えたままでは無理であったからである。
    そこで、この事に依って「賜姓臣下族」の「青木氏の賜姓五役の役務」(970年頃)も元に戻したと云う事に成る。

    従って、「頼政の事」も含めて「青木社的要素」を拡大させながら、少なくともこの間から鎌倉期までは「神明社の役務」を抱えた侭で続けていた筈であった。


    そこで、この(1)を更に掘り下げるとして、この様に、何百社(約500社)と云う「神明社」を全て建立から修理、維持、管理、神職、配置等の一切を「取り仕切る」と云う様な事を「身内の青木氏」から外せばどのような事に成るかは馬鹿でも判っていた。
    そもそも、「皇親政治」が廃止されたにも関わらず、「賜姓五役」は廃止されたのではなく、その侭の「継続の義務」(嵯峨期)が暫くは課せられていた事に成る。
    これは「政治の矛盾」であろう。
    「政治の矛盾」と云うよりは、”「出自元」”であるという事を考えすぎた「嵯峨天皇の計算間違い」であろう。

    確かに、「施基皇子」が行った様な「政務までの義務」(「紙屋院」と「絵処院預」以外の政務は継続)は消えた事ではあった。

    その証拠の一つに、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「建立と維持と管理」は、混乱期の室町期の「下剋上期」からを除き「江戸初期」まで断続的ではあるが継続されていた。

    「平安期の混乱期」でありながらもそれを支えたのが、所謂、円融期以降は、「補完役の秀郷流青木氏の役処」もあったが、再び以前と同じくして「朝廷の紙屋院」と「絵処院の政務」を担当した。
    且つ、これに合わせて日本初の「和紙の開発」から始まった「殖産と興業」を兼ねた「二足の草鞋策の採用」(財政的な安定)があったからだ。

    つまり、恐らくは、「嵯峨天皇」は、「監察使の制度」と「皇親制度」を廃止はしたが、「参議の制度」を一部に遺した。
    この事から、政務上は急速に換える事はしなかった事に成る。

    (注釈 だからと云って「賜姓源氏族」にこの「参議の役務」を与えたかと云うと詔勅でも与えていない。)

    もし、本当にするとすれば、出自元の「真人族」からの「青木氏」への「皇子の移籍の制度」も無くしていた筈であり、「国政」で最も大事な「国民の安寧」を願い救う的とも成る「神明社の建立」等は「青木氏」に任せなかった筈であり止めていた筈である。

    「天皇」としては、「神明社」に関しては、「天皇本来の務め」として疎かには出来ない事であり、自らの「天皇としての立場」を否定する事にも成り、「出自元の青木氏」に顔向けはできず疎まれる筈である。
    いくら「天皇」としてもこれは「出自」が同じである以上は辛く出来ない事であろう。
    書物を見ると性格的にはそんな事をする「嵯峨天皇」では無かった。

    (注釈 ところが「出自元の青木氏」は、財政上は問題ないのに「賜姓五役」の内の「神明社関係」を恣意的に緩めたのである。
    矢張り、これは戦略上は牽制した事に成るが、これが単なる「賜姓五役」のみならず「青木社的要素」を強め始める「一つの要因」とも成ったと考えられる。)

    当然に、そもそも「賜姓五役と神明社」は、「一対の務め」である以上は、「出自元の事」である以上は「神明社の体制」を保全する立場であれば、「監察使の役務」として重要な「賜姓五役」も解消しなかった事に成る。

    従って、「志紀真人族の青木氏」を外し全てを「政治的矛盾」のある「賜姓源氏」とするは、政策上、これと共にこれは一種大きな矛盾する政策の処でもある。

    恐らくは、この時、「嵯峨天皇」は、「賜姓源氏」が「青木氏の務め」の少なくとも身内であるのだから”「社の保全」くらいはするであろう”と安易に考えていた事にも成る。

    (注釈 未だ、この時は「八幡社」はなかった。)

    (注釈 「青木氏」は、平たく言えば「源氏族への当て付け」、つまり 「牽制策」、”やれるものならやってみろ”ではなかったかと考えられる。)

    これを”「嵯峨期の詔勅」”の文章から読み取ると、「天皇」は、“朝廷の現在の「財政状況」からお前たちを賄いきれないから、はっきり言えば賜姓する代わりに自分で何とかせよ”と云っている事に成る。
    この「文章の裏」には、この「賜姓と云う意味」には、今まで”「青木氏が遣っていた事位の事」”が読み込まれていた事に成る。
    現実にその様な意味合いを含む「文章」に成っている。

    又、そもそも当時は、“「皇族の者」(第四世内二世族の第六位皇子の真人族)が「賜姓を受けるという名誉」”とはそのような意味を持っていた事にも成る。
    唯、「単純な名誉」の為のものでは無かった事に成る。

    ところが、注釈として、「監察議」や「参議」とは、そもそも「令外官」であり、「勅旨」などの「正式な任命書」などは無く、「従四位下」以上の「永代位階」を持つ「臣」の中から、「才ある者」を「天皇」が選び、「執政の太政官」と会して全ゆる面で「朝政の意に導く役務」(皇親族)であった。

    然し、この事に付いてどこまでとする等の「令」に基づく「正式な定書」は組織の慣例上は無かった。

    そもそも、判り易く云うと、“「天皇の意志」”を反映させる今でいう“「実行型秘書」”である。

    「政治と軍事と経済」の「三権」を以って「天皇の意向」を「反映させる制度」(当に「天皇の近衛」である以上は)である。

    そもそも、上記の意味では、「臨時的に認証される参議の臣」では無く、「青木氏」は、元々が「天皇を護衛する直接役務」(監察役)を負った「浄大一位の格式」を持つ要するに「永代参議」であった。

    (注釈 賜姓する源氏には、この務は詔勅に書かれていない。”自分で生きよ”で何もないのある。)

    つまり、「天智天武の天皇」が云う“「護衛の臣・近衛の臣」”とは、何も“「侍て天皇の身を護る」“だけではなく、「侍(候)」は“「天皇の意向」を「反映させる」”の事の意味と成り得る。
    これが“、後に「北面武士」と呼ばれた制度と成ったが、「隣の部屋」に昼夜居て「天皇」に「侍う」の意味”であって、いつ、何時、「天皇の命」が下るか分らず待ち受ける事を以て「さぶろう」なのである。
    ただ単に、「北面武士」の様に”身辺を警護するだけの意味”では無かった。

    (注釈 「北面武士の制度」が、藤原氏が排斥されてその反発する「藤原氏の危険」から逃れるために採った「上皇を護る制度」だけに成って短命に終わる。)

    現実には、記録で見ると「政治的な動き」に対して即応して「勅命」は就眠中の時にも下る事もあった。
    平安後期(1100年頃)にはその目的が相当変わり、「一部の行為」として上記の“「北面武士」”と呼称された所以とも成ったものである。

    (注釈 初期の”「侍」”は、平安後期の後には「歴史書物」では”「候」”と記する様に成っている。
    つまり、この頃には、この”「侍」”と”「候」”は「同じ意味」成していた事に成る。
    「門跡院」に居る「上皇を護る臣」から「侍の語源」とする説もあるが、この説の根拠ではないかと考えられる。)

    そもそも、大化期に始まった「宮廷の警護・近衛」などを行う「近衛の役」が平安中期頃からその「役処」が形骸化し変化して行って、遂には「上皇の院政」が始まり、「反対派の勢力」が「上皇」に及ぶ事と成り、実質、身辺の「門跡院を警護する役目」を果たす様に成った。

    従って、この頃には、当初の「参議等の役目」は、最早、既に消えていた。
    つまり、「青木氏」だけが永代に持ち得ている弱くなった「役務処」と成っていた。

    前段の初期で論じた「天智天武期の施基皇子」に観られる様に、「追尊の天皇」とされる程の「永代参議役」でもある。
    従って、上記の注釈の様に、「周囲の環境習慣」が変化しても「青木氏」の「監察議」や「参議」の「役務の変更」は無かったのであり、「矛盾のない所以」と成る。
    これは一時の「時代の変化」で「役務処の変化」が起こったが、「青木氏」に執ってはこの「一時の中味」が「重要な歴史観」である。

    それが、「賜姓五役の神明社」等を通じて起こり、「青木氏」は「青木社的要素」を次第に強めた。

    そもそも、”強めた”と云うよりは、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」であって、且つ、「青木氏の自身の守護神」でもあるが、その「守護神性を強めた」という事になるだろう。

    「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」<「青木氏の自身の守護神」=「青木氏の事情」(青木社的要素)

    この「青木氏の事情」には、上記の事もあったが、ここを「拠点」として「二足の草鞋策」が進んだ事にも依る要因でもある。

    例えば、そもそも、「守護神」とは、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「神職の青木氏」、「密教浄土宗の独自の菩提寺」を持ち、「柏族の青木氏の神職と住職(達親)」と、それに伴う「永代身分格式」を持つと云う風に変わる事のない「氏の仕来り」は定まっていなければならない。

    そこで、「皇族賜姓族」は、「臣下族」として「最上位の氏」として認められていたのであって、奈良期から最初に出来た“「朝廷の斎蔵」”に仕える“「公家」”に対して、「天智天皇」は「大化改新」の「政治改革」に依って、新たに“「天皇の警護役(親衛隊の臣下族)」”として仕えさせる“「武家」(氏の家)”としてこれを公認したのである。

    それが「青木氏」や「佐々木氏」の「武家」(臣下族・朝臣族・参議役)であって、「天皇家」と強く結ばれた「公家族の藤原氏」(斎蔵・公家)等であった。
    本来の「武家」は、要するに「臣下族と朝臣族」は当然の事として、「参議役」が備わっていなければならないのである。

    これが、念のために「家人の定義」としては、「天皇の警護役(親衛隊の臣下族)」として仕える“「武家」(「氏の家・賜姓五役の格式」)”としての「公認族」の「下支族」を、”「武家」の「人」”である事からこれを“「家人」”と呼んだ所以なのである
    江戸期に呼ばれた「家人」と異なり、平安期の「家人」の語源は根本的な違いはここにある。
    この「家人」については、「青木氏の歴史観」として是非に知っておく必要がある。

    この「武家族」は、「天皇の警護役(親衛隊の臣下族=賜姓五役)」である事から、「侍(さぶろう=さむらい)」と呼んだが、「武家の家人」はこの当に「侍(さぶろう)」であって、その「武人(たける)」として扱われ、あくまでも「人」であって「臣」とは扱われていなかった。

    「天皇を警護」の意味は、当時は「広義」に捉えられていて、「政治を行う天皇」に対してそれを「手足と成って補佐するという意味合い」を持っていた。
    この事から「神明社の建立・維持修理」などの「賜姓五役」が定められていた。

    (注釈 そもそも歴史観を生かす「基本知識」として次の事を認識する必要がある。
    当初の「侍の語源」は、「人」と「寺」から成り、この「寺」は「真人族」を意味し、この「真人族」は「宮廷」を「象徴」として「寺を特別に固有出来る身分」を指した。
    その「真人族=寺」の意味から、この「寺に寄りそう人」で、「侍(さぶらう)」の用語が使われる様に成った。
    然し、その後、平安期後期に使われた「侍(さぶらう)」の用語」とは「門跡」に入った上皇を護った者を「侍」とする説が出来たが、この場合は、“「武勇を以って主君に仕える」”の事から“「認証の武士」”の呼称に区分けされる。
    平安期前は「もののふ」の語源とも成った“「朝廷に仕えた文武の官人」”の事で“「認証の物部」”と呼称した。)

    (注釈 当時の文章の中から読み取ると、次の様な「定義」が成される。
    そもそも、「侍=候」の「侍(さぶらう)」の用語には、“「朝廷に仕えた文武の官人」”の意味があり、 “「武勇を以って主君に仕える」”にはそもそもその「意」は無った。
    そもそも、「官人」ではないし、「官人」は「位階六位以上の者」が成り得る。
    つまり、これに依って、「侍」は、「位階を持つ者の官人」の定義が成立する。
    更には、当時の「学識」をも持ち得る”「文武」”と、持ち得ない”「武勇」”の差にも定義は由来する。
    この「侍の構成族」が、「貴族」が構成する「位階四位以上」の「公家」に対して、「位階六位以上」の”「公認の武家」”を成し得る。
    現実に、この様に「言葉選び」が成されている。)

    (注釈 この文章の”「武勇の者」”では、室町期中期までは”「家」”を成し得ない「定義」と成り、この「仕来り(定義)」は護られていた。
    従って、平安期後期の「門跡の侍の説」は間違いである。
    この「定義」からすると、「平安期後期の説」は、平安期にあった呼称の面から”「文人(官人)」”の“「文士」”に対しての“「武士」”の呼称と成り得る。
    つまり、”「公家」”に対して”「武家」”とは、「家・格式」の呼称であった様に、「文人」に対しての「役目」の呼称の「武士」(「文士」に成る)には成らないのである。
    存在しなかった呼称の”「文士」”と成って仕舞うのである。)

    (注釈 「臣下族の武家」には、「もう一つの役目」があった。
    前段でも論じたが敢えてここで註釈する。
    それは、「皇族賜姓族の役目」として、つまり、「天皇家への準継承族」として常に”「純血性」”を保持する事であった。
    その為には、「福家」や「四家制度」と云う「特別の形態」を作り上げて、「三つの発祥源」と「国策氏の役目」(賜姓五役)を担っていた「氏族」である。
    この“「家人」”は、この「賜姓氏族の役目(「賜姓五役)」を「調整実務として果たす役目」を担っていたのである。
    従って、「氏族の家人」は「同じ氏人」でもあって「家主」と共に「朝廷の同役目」を果たす人であった。
    然し、そうでない「姓族」の場合は、「同じ姓人」でない事から”「家人」”とは成らず、「家の来」(「家来」)なのである。
    「不特定多数の武者を集めた集合体」が「姓族」であるからだ。)

    一 「武家(氏族)の発祥源」  「象徴賜物」は「伝家の宝刀」
    二 「侍の発祥源」   「象徴賜物」は「将騎」としての「伝家の黒檀の軍杯」
    三 「朝臣子の発祥源」  「象徴賜物」は「伝家の馬杯」
    四 「国策氏」 「象徴賜姓物」は「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛」
    五 「融合氏」   「象徴賜物」は 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)

    以上は「賜姓五役」と呼ばれ、天智期に「準継承族」として「象徴賜物」を授かっている。
    (これは現在も保存伝承されている。)

    そもそも、本来は“「臣」”とは、「天皇に仕える直接の役務」であって、故に、「皇族者」が下族した「臣下族」に用いられた「専用の言葉」であった。
    本来、”「臣」”とは「従四位下」の以上の位階を持つ者を呼んだ。

    上記の様に元の意味は、「姓族」の「江戸期の武士」に使われた「家臣」の「臣の意味」に使われるそもそもの用語では無かった。

    上記した「賜姓臣下族の氏族」の”「家人」”に対して、江戸幕府の「権威付け政策」から「姓族の将軍」に仕える者を敢えて「家」と「臣」とを結び着けて”「家臣」”と云う造語を作り出したのである。
    従って、仮に使うとするならば、「氏の臣」として「氏臣」と呼ばれる筈であるが、「姓族」そのものは、「氏」を構成する朝廷が認可した「氏族」では無い事から、つまり、「異なる家」の範囲で構成する「姓族」である事からそのものは”「家臣」”と呼称する様に成ったのである。

    これは、江戸期の衰退した”「形式上の西の政権」”を構成する「朝廷」に圧力を掛け続け、結局は「幕府に仕える姓族」を”「家臣」”にする事で「権威ある役務」と認めさせた経緯を持っているのである。

    本来は、幕府を開いた「将軍」は、「征夷大将軍」の称号を持つが、これは「朝廷の軍」の「最高位の称号」であって、「政治」を司る「政権」を持つ立場の位では無かった。
    ”「軍位の臣」”であって、最初にその「軍の位」の「臣の意味合い」を強くしたのが、日本を制圧統一した「桓武天皇」の臣の「坂上田村麿」である。

    (注釈 その「桓武天皇(山部王)の母」が「光仁天皇の妻」で「後漢の阿多倍王の孫娘」に当たるが、この後漢から帰化した「阿多倍王(高尊王・平望王)」と「敏達天皇の芽純王の孫娘」との間に生まれた長男が「坂上氏」の賜姓を受けたのである。 
    「光仁天皇」は「施基皇子の四男」で、「准皇位継承者の施基皇子」は「伊勢青木氏の始祖」である。
    つまりは、「坂上田村麿」の「臣」は「青木氏の母方の縁籍族」に当たる事に成る。
    依って、本来は「臣」であるが、「准皇位継承者」の立場にもあり、これにて“「臣」が政権を担う事が出来る”と云う理屈が成立して、「次男の頼信系清和源氏の頼朝」が「臣」としてこの「准皇位継承者」の立場を根拠に「鎌倉幕府」が成立した。
    依って、そもそも「真人族」か「朝臣族」の「臣下族の臣」が「政権」を持つ事が出来るとする根拠は「光仁天皇」に由来するのである。)

    (注釈 前段でも論じたが、日本を「東の政権」(幕府)と「西の政権」(朝廷)とに分離し政治を行う形式を江戸期でも形式的に、且つ、形骸化していたが継続して採用された。
    この「西の政権」には、幕府から人を送りこんでの「監視下」にあり、殆どは「官位官職位の授与」と殆ど無く成った「天領地の財産管理」と「伝統祭祀」だけであった。
    然し、「形式的な政権」としては存在して居たので、「西の政権」の「明治期の政権取り戻し」の「大義」が円滑に成立したのである。)

    それが室町期の中期頃から「姓族」(瀬戸内域から出た「海部氏」が記録上では最初)が出自する様に成って、「武士」の上では「家来」と呼んでいた。
    江戸期に成って、その身分に合わせて「武家諸法度」などで“「武士」”には「一定の義務」が与えられ、その「義務」として「雇用促進策」として農民等の庶民から「奴 やっこ」と呼ばれる者等を雇う義務が付加された。

    それを「賜姓族の臣下族の習慣」に真似て、江戸期に成って「男子 おとごし(男中)」や「女子 おなごし(女中)」も含めて「家人」(けにん)と呼ぶようになった。
    要するに、「武士」を「武家」に構成する為に採った徳川幕府の「苦肉の策」であった。

    これで、本来は「平安期の用語」からすると、「武士諸法度」だが、この「苦肉の策」で「武家諸法度」としたのである。
    其れに合わせて、「公家諸法度」として「一対の組み合わせ」で「辻褄」を合わせてたのである。
    「徳川幕府の権威の擁立」の一つの策としたのである。

    つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、室町期からの「高級武士」に仕える「家臣や家来」と、「賜姓族の臣下族」に仕える「家人」とには“「仕え方」”に違いが在った。
    確かに、「家臣や家来」の意味も持つが、”「家人」”には字のごとく「人の意味」を強く持つものであった。

    ここが「青木社の持つ意味」の根幹部である。
    「青木社」を支えるすべての者は、「繋がる人」で支えられていたという事であって、江戸期にあっても秘密裏に守り通した所以でもある。

    ところが、江戸期に使われたこの「家人」の言葉の意味とは、「人の意味」と「身分格式」も異なっているのだが、上記した通り根本的に「氏の構成」の前提に無く「姓族の構成」の前提にある。
    つまり、この「青木氏の家人の仕来り」を、「姓族」の中に無理にそっくりと取り入れて、これを江戸期に真似たものである事に成る。
    従って、「家臣や家来」の中には、この「武家の意味合い」、又は「家人の意味合い」を出す為に、「徳川氏」の中には、「家臣や家来」とは別に、態々、この「家人制度」を採用して務める者もいた。

    要するに、「吉宗」の享保期には、「伊勢加納氏」の様な“「側用人」”にこの「武家の意味合い」、又は「家人の意味合い」を持たして「家臣や家来」とは別に「特別視」させていたのである。

    「藤氏と源氏の二つの流れ」を強く持つ「武家の氏族」の「足利氏の室町幕府(武家貴族)」と違い、「幕府制」を引き続いた「姓族の徳川氏(松平の姓族)」の“「幕府」”と云うものに対して、上記の“「武家」“の「慣習仕来り掟」を持ち込み”「権威付け」“を図ろうとしたのである。

    (注釈 徳川氏は「姓族」であった事から「幕府制」を採る為に必要とした「征夷大将軍の称号」の「武家の頭領」の称号を申請した朝廷はこれを与えず、妥協して”「長者」”としたのである。
    そこで、搾取偏纂で徳川氏は、「家臣」と成っている「藤氏」と「源氏」の「末裔の親族」であるとして、別々に主張していたが、「朝廷」は頑なにこれを認めなかった。
    現実には、室町期中期までの系譜は搾取であるが、幕府樹立後、女系として「貴族」や「氏族」や「武家」の血縁を万遍無く取り込み「権威確立」に成功した。
    「青木氏」では「四日市殿」(立葵紋に変紋)が、頼宣期に「勝姫末裔」で血縁して縁籍関係に成っている。)

    「家康」は初めは「源氏の朝臣」として名乗っていたが、幕府樹立した時からは今度は関東の秀郷一門を家来にし、その末裔として「藤原の朝臣」として名乗り替えて、その「秀郷一門」を「御の家人」(御家人)として呼称させ「朝廷の臣の理屈付け」をしたのである。

    「吉宗育ての親」の「氏族」(武家、貴族、賜姓族、臣下族)の「青木氏の家人」(家人の位階は六位)により近づける為に、「公家下の位階の最高位」の「従五位下の官位」を与えて敢えて「氏族扱い(氏族の伊勢藤氏の支流末裔)」とした。
    これに依って、「養育役の加納氏」には「養父の久政」から引き継いだ「久通」に、この特別の「家人の権威」を与えて「吉宗の取次役・調整役」の重職を命じた。
    同じく「綱吉」の時には、「甲斐の時光系青木氏」の「柳沢吉保」にも「家人の側用人」を務めさせた。
    「伊勢加納氏」と「甲斐柳沢氏」の二人は、「守護神や菩提寺」等の「氏族」が持つ上記の「家人要件」を全て備えている。
    この類似二例が有り、何れも「青木氏」と所縁のある「由緒ある氏族の末裔」である。
    他の「側用人」は「政治的な用人」でこの「氏族の家人要件」とは明らかに異なっている。



    そもそも、この“「人の意味」“とは、「賜姓族の臣下族」の「慣習仕来り掟」から観て、「家臣や家来」よりも「主人との家族的な絆の主従関係」が強い関係にあった事の意味であった。
    「嵯峨期の詔勅」と「その禁令」に依って、「賜姓臣下族」の「慣習仕来り掟」の「使用の禁令」は、取り分け、「主従関係の慣習仕来り掟」に於いては「姓族の武士」が生まれるまでの室町期中期まで護られていた。

    然し、室町期の「下剋上と戦乱」で“「氏族」”を始めとして、「賜姓族の臣下族」も衰退し激減した事で護られなくなった。
    その中での「青木社」である。

    そこで、逆に勢力を拡大した「大姓族」(大豪族・大名)の中には、長い間に「賜姓臣下族の一族」に何らかの血縁関係を有する者らを呼び集めて、「主従関係」を作り上げた結果、「家人」とも取れ「家臣」とも取れる中間の“「家人的な家臣」”が生まれたのである。

    そして、江戸期に入り、「武家諸法度等の法令」等が定められた事に依って、取り分け、安定期に入った「享保期」頃からは「雇用制度の促進策」とも相まって、一挙にこの“「武士様の仕来り」”が「一つの形」を生み出して大きく進んだのである。(「享保の改革」の一環策)

    況や、「伊勢・信濃」では、既に、平安期の頃の早くからこの「仕来り」の中にあって混乱なく維持されていたのである。

    この“「武家様」(格式)”から“「武士様」(役柄)”に変化した「享保期の進歩」は、この「青木氏」と関わった「吉宗の所以」に帰来する。
    この時、「武家の意味合い」も、「武家の変化」も“「江戸様」(享保様)”に「姓族の武士」までを呼称する様に成ったのである。


    この様な本来の“「家人」”と云う「仕来り」は、「京」、「近江」、「信濃」、「甲斐」、「伊勢」、「武蔵」、「美濃一部」と、その「関連地域」で頑なに引き継がれて来た事に成る。
    推測の域を超えないが、これらの「家人制度の慣習」を良く見聞きして知る「頼宣と吉宗」は、「伊勢」のこれらを見聞きして“「紀州藩の中」“に「権威造り」の為に先ず真似たのではないかと考えている。
    そして、それを「政策的な権威付け」の為に“「武士様」”に変化させたのであろう。
    その意味で限定した範囲で「青木社」と「青木社格」の存在を黙認したと考えられる。


    さて、話を戻して、「伊勢加納氏」と同様に、この“「青木氏の家人」”の一族に多く含む”「射和郷士達」”は、「青木社」と共にこの「土地と水」を生かした「射和殖産」を又始めた。

    「室町期末期の混乱」で土地を荒らされ失ったが、これを「遺された伊勢衆」で復興させ拡大させて行い、最終は、「紀州藩の勧め」ではあるが、その数は少ないが一部で江戸に“「射和商店」”を出すまでに至った事が資料には記されている。
    然し、基本的には“「伊勢留まりの態度」を採った”とある。
    取り分け、「名張と桑名の青木社」に与していた彼らはその「氏是、或いは社是」を強く守ったのである。
    むしろ、「青木社」は護られていたのである。
    だから、この「青木社の社是」が「御師制度(おんしせいど)」として引き継がれていったと考えられる。
    現実に、「桑名の青木社」を再び起こしたのは「御師制度による伊勢商人」である。

    この「手紙の資料」から観ても、「青木氏」は「商業組合」を通じて、“積極的に「江戸の店」を誘致させ様とした事”は、確かに「青木氏と家人等を育てる手段」でもあった。
    それだけに「押し付けた政策」ではなかった事を物語るが、これは「家臣」では無い「家の中の人(同じ氏族の人」)を意味する「家人の育成」に取り組んだ事に成るのである。
    「家臣」では「氏を構成しない姓族」である以上はここまではしないであろう。

    この資料から観て、「筆者の印象の域」を超えないが、「古来の家人」には「遠縁と絆」で結ばれての関係であった事から、どうしてもこの「殖産の射和組」に対しては、「青木氏」は「家人」の“「郷人」”と云う感覚を持っていて、その「親近感の感覚」で行動していたと考えている。

    その意味で、ここで「青木氏」の“「家人の由来」”を「青木氏の歴史観」として「家人の概要」を強調して是非に論じて置く必要があった。

    そもそも、上記した様に「青木氏」には旧来より“「家臣」“と云う概念が無かった。
    其れは「賜姓五役」と云う役を基準に「四家制度」と云う組織形態を敷いていたが、この制度からこの「家臣の概念」が生まれなかったのである。
    依って、“「家臣」”と云う「封建的な主従関係」の契約での「接し方」では、「射和組」に対してはここまでは「青木氏」は取り組まなかったと考えている。

    「射和」の「郷土史研究家(末裔)の論文」にも、「射和組」と「青木氏」は共に「和紙加工品の開発」や「早場米の研究」に共に取り組んだ事が論じられていて、「射和組の人」から「青木氏」は“「徳崇家」“と呼称されていたと記されている。
    この“「徳崇家」“の言葉から、その持つ「意味合い」は「氏族」の「地域の尊敬される指導者」であったと観られる。

    (注釈 前段でも論じたが、「伊勢の人」からは、職能人や商人から「御師様」や、「青木氏」に関わった地域住民からは「氏上様」と呼ばれていた。)

    「吉宗の補佐」として、「伊勢青木氏」から「吉宗」に従って下向した「青木六兵衛定信」が「享保の改革」を江戸で主導していたのであるから、これも放って置いてもこの様に成る環境ではあったであろう。
    然し、注釈としても、筆者の考えでは、「江戸幕府の体制」にこの様に大きく影響を与えたのは、「紀州藩―伊勢青木氏―加納氏―伊勢秀郷流青木氏の紀州藩官僚―伊勢衆―幕府の秀郷流青木氏の官僚―側用人加納久通―吉宗」の連携による「一連の連携結果」であったと観ている。

    「殖産興業の元」と成った「松坂商人」と、「小売店」を興した「射和商人」とに区別して、この地に「射和の商いの組合組織」(御師制度 おんし)を作ったのである。
    「殖産」を進めるには、「殖産には広大な土地」が必要で、この土地の多くは「青木氏」が「地主」として持っていた「地権の土地」を使った
    そして、上記とした様に「伊勢から南紀」にこの「殖産」は及んだのである。

    何よりも、「青木氏」の悠久の制度の「御師制度」を模倣して利用して、それを呼称にまでした事は「青木氏と関わり」を強く記すものである。

    (注釈 江戸期の射和の「伊勢紙型」で「江戸小紋」が全国的に流行り、伊勢の「奈良期の紙生産」から始まった殖産はこの様に充分に大花を開いた。
    でも、これだけの「射和」が江戸に決して出なかった。何故かである。

    「青木氏」と女系でつながる射和の「伊勢郷士」は「青木氏の氏是」(社是 伊勢講)を頑なに守ったものだと考えている。
    その証拠に、「青木氏族」の「職能の御師制度」を射和の「商いの中」にも取り入れているのである。
    そして、明治期までこの「歴史観としての意思」は貫かれた。

    それは「伊勢屋」を「二足の草鞋」で続ける「青木氏」が、「自らの殖産」で生きる「商人の証」であって紀州藩などの御用商人では決してなかった事に所以している。
    故に、「射和の商人」からも信頼を得たのであって、「氏是」(社是)を守ったのである。
    そして、その”「絆の証の拠点」”と成っていたのが”「青木社」”であったのだ。)

    (注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
    その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
    「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

    (注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
    「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。
    (注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。)
    少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。

    注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
    これは既に”「青木社」”であった。
    つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
    その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
    つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
    それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

    その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
    「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
    「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。


    「伝統シリーズ 37」に続く


      [No.354] Re:「青木氏の伝統 35」−「青木氏の歴史観−8」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/06/20(Tue) 11:07:15  

    > 「伝統シリーズ−34」の末尾

    > この様に「四家制度」と「家人制度」が接着剤の役割を果たし、「血縁融合」したが、「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」をも完全に補足したのである。

    >( 注釈 これを得てたとしても考えられる事が、1025年からは「二足の草鞋策」は総合商社化し、その財源を使って「四家制度の整備」と「家人制度の強化」を果たし、その事と相まって「二つの青木氏の血縁融合」は進んだのである。)

    > 他方ではこの頃、「秀郷流青木氏」も「第二の宗家」と呼ばれるまでに至り、「秀郷流青木氏発祥」より100年後(1060年頃)には、一族一門の発展と共に「5氏による青木氏族」を形成する至るのである。

    > この1050年代の同時期を境に「二つの青木氏」は、更に、100年後には共に最大の隆盛期を迎えるのである。
    > 「賜姓臣下族の青木氏」の「二足の草鞋策の採用の時期」と、「秀郷流青木氏の発祥の時期」とが同一としているのも無関係では無いと考えている。

    > (注釈 「賜姓臣下族の青木氏の二足の草鞋」は、それまで「朝廷の部制度」の依る「和紙の開発と生産」で朝廷に納入する役で、その「余剰品」を一般の市場に卸す役目であった。
    > これが奈良期の「部制度経済」であったが、その後、「和紙生産」が本格生産に成り、増加して「朝廷余剰品」が大量になり、これを許可を得て市場に売り捌く役目も担った。
    > これが「青木氏の二足の草鞋策」の氏族としての正式な始まりであり、これを以って「賜姓五役の財源」とする事を求められたのである。
    > 記録でこの時期が925年頃と成っている。)

    > 「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」のこの三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。
    >
    > 個人情報保護の観点から、系譜や血縁関係の資料等を公的に出す事が出来ないが、上記のこれも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。

     


    > 「伝統シリーズ−35」


    さて、話を「新撰姓氏録」に戻して、「青木氏の歴史観」を更に深める。

    そこで、「嵯峨天皇(809年−823年)」は、それには世間に対して、“変”を起こす程の「皇位継承権争い」までしてでも、「大義」を獲得しなければならない事であった。

    (注釈 志紀真人族の後裔青木氏の白壁王の四男 山部王が桓武天皇と成り、その子が「嵯峨天皇」、そしてこの背景がこの「新撰姓氏録の編纂」に大きく関わっていた。)

    この為にも、この「主張」を「新撰姓氏録」として“「広布」”をしなければ成らなかった背景があったのであり、故に、「未完成」のままでも「広布」に拘ったのである。

    然し、朝廷から公布する「正式書物」が「未完成」とはどうしてもおかしい。
    ところが「未完成」には、ここに意味があった。
    ここで、「新撰姓氏録」として“「広布」に、”又、改めて「政治的」にも重ねて「嵯峨天皇に依る詔勅」の“「公布」”と成ったと観られる。

    この様な事が向後に起こらない様に、「兄の主張の根源」(兄の平城天皇)の「観察使」と「皇親政治」を廃止したのである。(名目は「財政難」が理由)

    「後裔の青木氏」は、ここで大きな初めての「歴史的な試練」に見舞われる。
    然し、矢張り、「後裔の青木氏」は嵯峨天皇に執ってみれば「自らの直系の出自一族」であった事もあり、根こそぎに無くす事はしなかったし、政治的にも困るであろう。

    (注釈 実は、これには、当時の様子を伺える話がある。
    例えば、平安期中期のこの時期には、結局、「保元平治の乱」で「関西域の仏社の荒廃」が目立っていた。
    そこで、困った天皇は「清和摂津源氏」(満仲)に対し再建を命じた。
    ところが、その日頃の行状が余りにも良くなかった「満仲」は、多くの貴族武士から嫉妬や妬みや政敵等があまりに多く、その為の「争い」から「焼き討ち」等が多く「神社仏閣の荒廃」は進んだとされている。
    その「摂津源氏」に命じたのである。)

    (注釈 後に「世間の不評」が高く不満を持った「満仲」は摂津に籠って仕舞う。
    そこで「比叡山の僧侶」と成っていた息子に諭されて突然に蟄居してしまう。)

    そこで、ところが天皇は「摂津の国」を受領させる事の交換条件として、一族に関西域の「寺社の修理」を命じられたが、結局は引き受けたものの財政的にも技量的にもそんな能力がもとより無かった。

    (注釈 清和源氏の源氏は周囲の土豪の武力集団を集めて造った武力集団で勢力を高めた事もあった為に、「青木氏」の様に「家人制度」は敷いていないかった。
    その為に、当然に「青木氏部」の様な「技量集団」を持っていなかった。
    それだけに雇う事に成る為に「人気の悪い満仲の源氏」に執っては「寺社再建」は不可能に近い最大の負担であった。)

    最終、「保元平治の乱」でその荒廃は更に進み、「同族争い」も含めてその結果、唯一人源氏族で生き残った「摂津源氏の頼光系四家の頼政」が、引き続き「身内の守護神(八幡神)」の「摂津の八幡社一社の修理」だけに留まると云う事が起こった記録が残っている。

    「11家11流の源氏族」の中でもで最も正当に栄えたのは、「摂津源氏」(同族の河内源氏はその行状から「武家貴族」としては認められていなかった。)なのだが、その「摂津源氏の赴任先」は次ぎの通りである。
    但し、「武家貴族」であった事から、「頼光」から「京遙任」で赴任地に「国司」、或は「国司代」を送り務めている。
    ところが「頼光」が途中から「京遥任」を止めて「美濃」と「信濃」に直接に赴任している。
    これは当時として、「武家貴族」としては”「京遙任」”が普通で「一種の武家貴族のステイタス」でもあった。
    ところが、「賜姓臣下族の武士団」として勢力拡大するには「京遙任」で藤原氏の下で臣従して役務を務めるだけでは財源的にも無理であった。
    これでは「武家貴族」として初めての「武士団」を賄うだけの充分な財力は構築できない。
    そこで、この「京遙任の慣習」を破って「国司」に任せるのではなく頼政からは「赴任先」(伊豆)に直接赴いたのである。

    この事に依って何が生まれるかである。
    つまり、「地元の土豪集団」との「繋がり」を強固にし、可能な限りに縁者関係を結び、そこから得られる「財源の確保」と「主従関係性」を獲得する事が出来る事にあった。

    (注釈 この為に頼光より三人とも「后妃嬪妾」で「30人以上の妻」を置いている。主に地方の「豪族の女」を「妾」にしている。
    当時、平均寿命が男子55−57歳程度で今から観ると短命であって、子孫を遺そうとすると、「時間」をかける事は出来なかった。
    そこで、「妾」を多く置いて男子の“「嗣子」”を多くして「確実な継承性」を高め「高い血縁性」を容易にした。)

    系譜の公的に成っているものの殆どは「后妃」までの“「嗣子」“で、上記の慣習を受けての地方豪族の「嬪妾」の事までの“「嗣子」”には書かれていないものが多い。
    これは“書かれていない”と云う事のみならず彩輝氏の歴史観から”「間違い」”に相当するのである。

    何故ならば、その答えは“「嗣子」”と云う慣習にあり、「武家貴族」、つまり、「賜姓臣下族」には世間と異なる“「嗣子」”に関する「固有の掟」が有ったのである。

    つまりは、「后妃」の“「嗣子」”が在りながらも、一族の者の「子や孫」を“「養子」“にする等の「四家制度の仕来り」があった。

    (注釈 現在の「養子」の意味合いの「継子や義子」の「異姓不養」では無い。「四掟に基づく「同宗同門」の「嗣子」を云う。)

    この事から「子」と云う定義は、必ずしも「第二世の直系族」の「子」だけでは無く、“「ある掟の範囲」(下記)”での「子孫養子」までとしていた。
    中でも、「女子」は孫域まで「子」として扱う「武家貴族の仕来り」(四家制度と四掟制度)があり、この影響を受けて文章を観ると“「娘」”とは書かず“「女」”と書いて総じて“「むすめ」”と読んでいた事が判る。

    この様な「武家貴族」を出自とする「氏族の歴史」を知る際には、「青木氏の慣習仕来り掟」を知っていなければ正しい答えは得られない。
    つまり、世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事に注意が必要である。


    そこで、「志紀真人族」の「光仁天皇」−「桓武天皇」から「嵯峨天皇」と繋ぎ、「摂津源氏」を構成して「母方の嵯峨源氏」を縁籍のある「武力集団」とし、それを「郎党」とした「四代目の頼政」は「志紀真人族」を「同祖同縁」(同宗同門)としている。
    この事を念頭に、「摂津四家の頼政」は、「京遙任」が主にしながらも、「摂津源氏」とは云いながらも「伊豆」に赴任して、ここを受領して「頼政の直系の血筋」を受けた「青木氏(伊勢と信濃)の子孫」をここにも多く遺した。

    これは「頼政の一種の子孫戦略」であった。

    (注釈 「源氏姓」で遺すよりも「青木氏」で遺す事の方が生き残り策は確実であったと考えられる。)

    現実に歴史は「頼政」が描いた様に「子孫戦略」はその様に成った。
    但し、下記の受領地にも「現地孫」を遺したとされているが、取り分け、下記に論じる「嗣子の四掟」の「慣習仕来り掟」の「乖離」が認められず依ってその確証はない。


    筆者は多くは、“江戸初期の「黒印状と権威付策」の「偏纂」”に依るものと考えていて、それは「注釈」で云う“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事”に関わっているからである。
    「頼政」が記録に遺した「伊豆相模」に関しては、「江戸期前後の記録」では無く「古い記録」のみならず、“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」が無い事“にも依るのである。

    ところが、「摂津源氏の四家四代目の頼政」には、記録より”「嗣子」”と云う「慣習仕来り掟」が認められるのである。
    依って、その「子孫」だとする公的に成っている「現地孫」と云われるものにはこの「四掟による継承」は無いのである。
    つまり、「摂津源氏四家の頼政」が敷いていたのであるから、「現地孫」であるとすれば、この「現地孫」には、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」のステイタスを護る為の「氏族の前提」と成る「四掟の慣習仕来り掟」が認められなければならない。
    何れの「現地孫」とすれども、この「四掟」を始めとする「慣習仕来り掟」が認められない限りは少なくとも「正規の現地孫」では無い事に成る。

    (注釈 伊豆には正規の「同宗同門の現地孫」のこれが認められる。)

    殆どの虚偽の「後付の現地孫」には、この「知識の欠落」が認められるのである。
    「正規の現地孫」としての「「四掟の慣習仕来り掟の伝承」が無かった事が云える。

    “それは何故なのか“である。
    少なくとも、この「四掟の慣習仕来り掟」さえをも伝承しようとすると、上記した「四家制度」なるものを敷かなければ成し得ないからであり、到底、現地の「土豪」と成り得ている状況で、上記した様なその「財力と組織力」を賄いきれる事では無いからである。
    それでなくても、「現地の土豪」とすれば、「四掟の慣習仕来り掟」の必要性を自覚する前提は無いであろう。
    「賜姓五役」などの役そのものが無いのに、「四掟の慣習仕来り掟」を護る必要も全くない筈である。
    それでなくては、与えられた逃れ得ない「宿命のステイタスの維持」は適わない事になり「現地孫」とは決して成り得ない事に成る。

    逆に云えば、「青木氏」は、与えられた逃れ得ない「宿命のステイタスの維持」を適わす事の為に、「二足の草鞋策」で「巨万の財力」を蓄えた。
    そして、「土地の郷士」との血縁と「シンジケート力」を構築して「影の武力の補完」をした。
    更に、「賜姓五役としての政治力」を遂行し、「志紀真人族」とする「最高ステイタスの権威」を「準皇位継承系族」(施基皇子)として護った。
    この普通では無し得ない「四つの絶対条件」を苦労して構築して得られる「ステイタス」なのである。

    少なくとも、「賜姓源氏11家」でさえも出来得ず、この「難しいステイタス」を維持したのは、「摂津源氏の四家」、取り分け、「頼政」のみと成っているのである。

    (注釈 「頼信の河内源氏」は、「摂津の頼光」が敷いた「ステイタス路線」より「武勇」を優先して生き残りを図ろうとした。
    この為に「武力」から起こる「戦い」から結局は、「直系嗣子」を失い、上記に掲げる「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」の「三つ」を失う破目と成る。
    つまり、これを採用した「河内源氏」は「都」を追われ衰退し、その後、「枝葉末孫の頼朝」が「坂東八平氏の力」を借りて台頭する羽目と成る。
    然し、そもそも、これは「源氏力の力」ではそもそも無かった。
    元より無かったのである。
    これは頼朝死後三人の後継者は暗殺される事でも判る。
    「頼政の子孫戦略」とは、根本的に違っていたのである。)

    そこで、この「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」を遺す方法、即ち、“「嗣子跡目」”を入れて「子孫戦略の二段構え策」を考え出したのが「頼政」なのある。

    (注釈 「青木氏の資料記録」の一つには、「青木氏の志紀真人族」の出自から、「頼政の嗣子跡目」に関する「氏族の成り立ち」を要約を漢文にした大きな書の掛け軸があった事が口伝にあり、「明治35年の失火」で焼失、その後、これを祖父の筆で復元して「額」にして現存する。
    「青木氏の古い記録」は、殆どは「漢文」であるが、一語一語に「青木氏」を物語る「青木氏の歴史観」として意味の持つ事が実に多い。
    「解釈」を安易に間違えると矛盾が生まれる。)

    この「青木氏」に大きく関わる“「頼政の事」”を次ぎに掘り下げる。
    「満仲と頼光」は地元の「嵯峨源氏」(母系)を郎党にした。

    ところが「頼政」は、「保元平治の乱」で一族で「生き残り方」をかけてどちらに味方するかで争った。
    その結果、「摂津源氏の四家」で「兄弟身内の争い」までが起こり、その事から各々の主張に基づく「摂津源氏生き延び策」の違いで「頼政の裏切りの反目」が起こった。
    「賜姓源氏族」の中で「摂津源氏」に関わらず弱小の他の10家の源氏も、「頼政」だけを遺して宗家筋は元より傍系族も滅亡に近い衰退を起こした。

    従って、この「郎党らの反目」から表向きは「摂津源氏を背景」としてはいたが、実のところは「摂津の嵯峨源氏」(母方ルーツの志紀真人族)を郎党にはなかなか出来なかった。

    (注釈 「青木氏の歴史観」から判断する事でこの事が判る史実である。)

    (注釈 複数の記録を観ると、他の源氏族は「農業」をしながら息を潜めて身を隠し生き延びていた事が判る。
    到底、「四掟の慣習仕来り掟」を護っての「賜姓源氏族」では最早無かった事が判る。
    「頼政」が謀った「以仁王の令旨の伝達」に自ら進んで協力した「河内源氏系の新宮源氏」と云われる「源行家」等は当にこの様であった事が記録に遺る。)

    (注釈 最終、「源氏再興」を目指して「以仁王の乱」を起こすが、この事はこの「敗退の原因」とその「勢力構成」でも判る。
    「平氏専横」に対して「以仁王の令旨」で全国に散る「源氏」に呼応を求めるが、「衰退弱小」に成った呼応する「源氏」も一枚岩では無かった。
    最も肝心な「令旨」を運んだ「新宮源氏の行家」の熊野から「裏切り」が出る始末であって、「朝廷の中」での「生き残り」の為の「日和見行為」が「裏切り」と見做され「源氏の反目」が強く、「乱」を起こした際には、「頼政に対する信頼」は既に消えていた。
    そもそも、「乱の直前」まで「以仁王追捕の軍」に参加している位である。
    例え軍略であったとしても「日和見行為」や「裏切り」として誤解されるのは当然の事であった。)

    そこで、「頼政」は、同じ「嵯峨源氏」の直系出自元の「志紀真人族」の「伊勢と信濃の青木氏」に対し「跡目の嗣子」”(伊勢は京綱:信濃は国直)を送り込み「生き残り策」を図ると共に、この「勢力と財力」を背景に「一族の血縁集団」を「伊勢と信濃」に移して「四つ絶対条件」を形成した。

    唯、「四掟の慣習仕来り掟」を持つ「青木氏」には、「賜姓五役としての政治力」はあったにせよ、「実質の政治力」は「嵯峨期の詔勅」に依り「皇親族」から外されてこの時期は充分に持ち得ていなかった。
    確かに「秀郷流青木氏」に依って補完されたとは言え、「秀郷一門」そのものが未だこの「十分な政治力」を持ち得ていなかった。
    これを何としても補完する必要があって、「一族争い」をしてでも「頼政」は「政治の中心の都」に遺る必要性に固持したのである。

    そして、その間、自らの他の受領国には血縁族を形成して郎党とはしたが、取り分け、「伊豆」(伊勢信濃の融合族の志紀真人族青木氏)にも「摂津」より心休まる「真の領国」として、母方系をベースとする「志紀真人族の直系の青木一族」に跡目入れて融合族を形成し、安全を期して「二か所」(伊勢信濃に跡目 伊豆に血縁融合族)に遺したのである。

    「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」には“「頼政の嗣子」“を直接跡目に入れ、そして、この一族の一部を「護衛団」として「伊豆」に移して、その「伊豆」と「西相模」には、「伊勢と信濃」の子孫を「融合族青木氏」にした上で、“「嗣子跡目」”を入れて「子孫戦略の二段構え策」にしたのである。

    これ程に綿密にして「青木氏」にシフトするという「子孫戦略の二段構え策」を先んじて講じていたと云う事は、幾つかの意味を持つ。
    上記の通り、「生き残り策の意見の違い」で「摂津源氏」には「反目」から「見切り」をつけていた事に成る。

    (注釈 記録に依れば、誤解に依る「相当の反目」があって、その反目は「頼政」の子の「仲綱の子、況や孫」までに及んでいる。)

    更には、「以仁王の乱」に対する勝算には、「源氏の衰退」がどれ程の力に成るかに疑問を持っていた事。
    殆どは「清和源氏」の「摂津源氏系と河内源氏系」が主体で各地に平家の目を逃れて飛散して生き延びていた源氏で他の「10家10流の力」には力は無かった。

    「平家打倒の蜂起」には、そもそも「財源」が必要であり、その「財源」を何処から捻出するかであり、「源氏」には「源氏再興の思い」はあったとしてもその力は殆ど無かった。
    「頼政」は「子孫戦略の二段構え策」があったとしても「伊勢−信濃青木氏の財力」は決して動かなかった。
    そもそも、「頼政」はこの事に付いて計算が狂ったのではないかと考えられる。

    それは、「青木氏の氏是」に依る。
    その「青木氏氏是」が「源氏族」との根本的な「四掟の差」であった。
    これは単なる「青木氏氏是」では無く、「光仁天皇」からの「天皇家の直系出自元」、況や、「志紀真人族」の「伊勢と信濃の青木氏」を決して崩さないと云う「固い信念と宿命」に基づくものであり、「四掟」の「ステイタス維持」の「四つの絶対条件」を護って来たものである。

    簡単に云えば、「青木氏氏是」は元より「氏構成」として「武力集団」を創設するか否かの差である。
    「青木氏」に執っては「源氏族との血縁」は「四掟」に叶うものであり、「天皇家の直系出自元」の「子孫繁栄」には欠かせない事では確かにあったとしても、そこには「源氏族」とは唯一つ違う点があった。
    それは次ぎの事であった。

    「武家貴族」であっても「目的」を達成するための手段として「武力集団」では無い事である事、或は創設しない事にある。
    あくまでも、「武家の出自元の有無」であって、所謂、「賜姓五役の有無」にあった。
    これが、「嵯峨期の詔勅」にも明記されている様に「源氏族」と決定的に異なる所以でもある。

    従って、その「財力の使用目的」は元より異なっており、「青木氏の財力」は使えない「氏是」である。

    況してや、「平家の打倒」の理由は、「平家専横」であって、そもそも、「平家」とは「二つの青木氏」は「悠久の絆の歴史」を持つ「伊賀の隣国」でもあり、「奈良期からの長い付き合い」があり、「光仁天皇の母の高野新笠の郷」でもある。
    更には、「伊賀の郷士」、つまり、「家人制度」に基づく古来からの血縁にも結び付いてもいる。
    これは到底に動かす事は不可能である。

    この様に、「四家制度」と「家人制度」を敷いていながらも「摂津源氏」との「所縁、絆の差」は大きかった。
    「頼政との繋がり」は、あくまでも「青木氏側」に執ってみれば「子孫戦略の一環」であって、「戦いに加担に値する事」は、「跡目嗣子」があったとしても、これは出来る話では無かった筈である。
    これは「頼政と京綱」とが”「激論」”を交わした所以であったとも考えられる。
    (「商記録]」ら読み取れる。)

    この事からも、「平家打倒」を直前まで表には出来ない事でもあった理由でもあろう。

    然し、最早、踏み切った以上は後戻りはできない。
    勝つ見込みがない事を知りながらも「以仁王令旨」に至った。
    それ故に、「青木氏との子孫戦略の二段構え策」は、敗退した時の事を考えて「源氏族」を「元の青木氏」に移す戦略であった事が頷ける。

    (注釈 それを証拠に、明確な記録として乱発覚後、孫の「宗綱と有綱の命乞い」を伊賀に住む「清盛の母」に懇願して、九州平家の隣の「日向廻村に配流の刑」で軽減される。)
    (本来は斬罪である筈。)
    その後、近隣の廻族を集めて「廻の子孫」を建てては再び九州平家と戦うものの敗退し、両名は戦死、「廻の子孫」は約20数人の配下と共に「薩摩大口村」(現在の市町村合併にて鹿児島県伊佐市大口小木原付近)に逃げ延びて寺に隠れていた。
    然し、追手が迫りこの「浄土宗住職の助言」を聞き入れて「伊勢の青木氏」を名乗って敵対性が無い事を前面に押し出し生き延びた。

    この事から観ても明らかに「子孫戦略の二段構え策」であった事か判る。
    宮崎廻村から大口村までの地域にこの「仲綱子孫の青木氏」は現存する。
    その後、室町期には子孫を拡大させ傭兵として九州全土にその名を馳せ、江戸期には日向灘の「遠洋漁団」、山岳部は「農兵軍団、山岳兵民」を務め乍ら、「黒田藩の専属傭兵」を務めるに至っている。

    注釈として、そもそも、「源氏族」は、「宋貿易」を推し進めた平氏族の財源的な差は「雲泥の差」と成り、仮に戦えたとしても「寺社の修復」もまともに出来ない状況では、持久戦では「源氏族」は先ず耐えられなかった。
    「寺社の修復」は、これを「平家の試す政略」であった可能性があり、あったとしても財源を消耗させる策であった事も考えられる。

    筆者は「修復能力」はもとより無かったと考えているし、「平家討伐能力」も無かったと考えている。
    「摂津源氏四家の方針の違い」に依る「親族争い」(同族争い)では、「頼政への反目」(裏切り疑惑)があって、そもそも、「頼政自身」の「摂津源氏」と、母方の「嵯峨源氏」の「郎党の力」を使う事は出来なかった筈である。
    況してや、「青木氏」への「子孫戦略の二段構え策」の講じる様ではそのものが疑われて地元の力の利用は到底ないと判断できる。
    それ故に、それではとして、当初は「嵯峨源氏」の出自元の“「青木氏の力」”を利用しようと考えたと読み込んでいる。
    唯、この時、「源氏と青木氏の差違」に付いて、当初は「大きな読み違え」を「頼政」はしていたのである。

    (注釈 「源氏」は「朝臣族の武家貴族」の「武力集団」、「青木氏」は「志紀真人族の武家貴族」の「皇親集団」である。
    「抑止力の武」は持つがその目的が「賜姓五役の遂行・皇親族」の「青木氏」と、「直接力の武」で以て「政治的な目的」を遂行する「純粋な武力集団」の違いであろう。)

    其れが議論の末に出来ない事が決定する事の経緯と成ったと観ている。
    態度を間際までははっきりとさせなかったのは、それまでの「時間稼ぎ」を「頼政」は行ったのではないかと観られる。
    そもそも、「態度」をはっきりとさせた方が戦略的には「衰退し飛散している源氏力の集結」は高まったと考える方が通常であろう。
    「源氏力」とは、元より「軍の権威と象徴」であって、要は、如何にその「郎党族の集結力」を高めるかにあり、それには「風林火山」にあり、「時間稼ぎ」は「六稲三略の戦略」にあらずにある。

    (注釈 「頼朝の平家討伐」は、結局は「坂東八平氏の武力」と、彼らの相模駿河等の港でのその「貿易に依る財力」が背景と成っていて、「源氏力の背景」では無かったから勝てた原因でもある。
    従って、頼朝死後は全ての「直系の源氏」は「坂東八平氏」に掃討され滅亡する事と成る。
    その後、「河内源氏の傍系の足利氏」(二引両紋)が「坂東八平氏」k
    pel)ht@正拳をわまるのを待って奪い、形を変えた「傍系源氏の室町幕府」に成る。)

    (注釈 源氏側から観れば、”「平家専横」”と云うが、記録では「源義経」は「平清盛との繋がり」が強く、「貿易等に依って国を豊かにする経済論」などの教示を受けて親密であった事が判っている。
    これが「頼朝」との「意見の違い」と「境遇の違い」と成って「争い」が起こった。)

    さて、「頼政」の「青木氏」との関りの中に、上記以外に「重要な歴史観」が潜んでいるのである。
    この事を論じないと「頼政との青木氏の関り」は充分には理解し得ないのである。

    ここで、それを左右する「世間との乖離」であり大きく影響する用語がある。
    それは“「嗣子跡目」“である。

    “「嗣子跡目」“、又は、“「跡目嗣子」”とは、「青木氏の歴史観」として「特別な意味」があって、下記で説明する「同宗同族同門同紋の一族」の”「四掟」”に合致している。
    上記で論じた通り「摂津源氏」も「摂津四家」を構成して、この「同宗同族同門同紋の一族」の「四掟」の「四家制度」を採用している。

    「頼政」が執った「子孫戦略の二段構え策」では、「朝臣族で賜姓臣下族の源氏」から元の「志紀真人族の賜姓臣下族の青木氏」に「跡目方法」を単に移した事に成り得るのだが、これは上記の「四掟」に叶ったもので他氏からの単なる「跡目」ではないのである。

    その内容を説明する。

    さて、ここで「重要な注釈」として、上記で書いた様に此処で云う“「嗣子」”とは、そもそも現在で云う単なる一般的に“跡目を継ぐ権利を有する者”を云うのでは無く、その家の「跡目」を継ぐ為に迎えた「同宗同族同門同紋の一族」(四掟)からの“「養子」”を以って“「子」”と成す事を意味する。

    つまりは、「福家」から出る「子や孫」も「20家の四家」から出る「子や孫」も全てを一同に福家に集合して“「養子」”として迎え“「子」”と成す事を意味している。
    “「養子」”とは書いてはいるが、後に武士等に使われた「養子」(義子・継子)ではない。

    「青木氏」で云う“「嗣子」”の“「養子」”は“「子」”である。
    「四掟」に叶った身内の子である。
    それには、この「四掟」が条件の範囲であるとしている。

    改めて、「青木氏の関連資料の記録」を観ると、この「同宗・同族・同門・同紋」の「一族の固い決り事」を“「四掟」(しじよう)”と呼んでいた様である。

    別の古い「青木氏の資料」から抜き出すと、漢文的には要約して抜き出すと、次ぎの様に成る。

    “「四定以成異性不養之固掟也」”
     以上と表現しているものもある。

    つまりは、“「四つの定」を以って、「異なる「姓」(氏族の差違)を養わずとし、これ「固い掟」なり。“と記している。

    注釈として、その前に理解する事がある。
    それは、そもそも此処で云う“「姓、或は性」(「姓」では無く「性」と記しているものがある)”とは、「男女の差違」を示唆するのではなく、「本来の言葉の語源」は、「生物の本質の差違」を以って云う。

    この古い記録の漢文に示す“「異なる性」”とは、「氏族としての本質の差違」を意味していて、“「異なる姓」”では無く、“「異なる性」”なのだと強意している事に成る。

    つまりは、「姓」では無く「性」とするは、「氏族の系譜構成」が、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」と定め、その「定めの範囲」は本質的な違いと成し、これを以って「異なる性」だとして、その範囲での「血縁構成を行う」としている事を強意している事に成る。
    そもそも、「青木氏」には「慣習仕来り掟」に於いて「姓」は無いのである。
    つまり、「新撰姓氏録」に書かれている様に、それが「同宗・同族・同門・同紋」とする「四掟の範囲」であり、これ以外は「不養」、所謂、“「養子」”としないのだ。
    つまり、“「子」”としないのだ。と言い切っている。

    「本質的な違い」と断じている事は、「四掟」は相当に“「固い掟」”であった事を意味している。

    そこで果たして、この”「四掟」”が護れるのかとの疑問を現在では持つが、“「氏族」として護っていた”と云う事に成る。
    その為の「四家の制度」であり、「后妃嬪妾の制度」であり、これに依って「四掟」が護られていた事が判る。
    これは「異性不養」の文言で単なる制度では無かった事が良く判る。

    これで行えば、「青木氏」と同じ様に「四家制度」を敷いていた「摂津源氏系四家の頼政」との「繋がり」は容易に納得できる。

    仮に「異姓不養」とすれば、「武家貴族」「賜姓臣下族」「志紀真人族」「朝臣族」は完全に崩れる。
    何故ならば、「新撰姓氏録」に観られる様に、当時の「姓」(かばね)では、この「四つのステイタス」は全てなくとも成り立つ事に成る。
    況してや、室町期中期から発祥した「武家族」(海部氏が最初)からではない「姓族」も含む事に成り、「四掟」は護れない事に成る。

    (注釈 「新撰姓氏録」では、「第四世族内の同祖同縁」、或は、「同祖同門の氏族」と区分けし、「第四世族の同祖同縁」で「真人族」では無い「朝臣族」には「姓」で区分している。)

    これは「敏達天皇の第四世族」の「真人族」の「施基皇子」(後に「志紀真人族」)を始祖とする「準皇位継承族の立場」は保てなくなる事と共に、光仁期以降の「天皇家の出自元」は霧消する事にも成る。

    この「平安期以降の青木氏」が持つ「ステイタス」としては、「天皇家の血筋」の云々は、兎も角も、「最低限のステイタス」を護る為にも“「天皇家の出自元」を壊さない“と云う事にあったと考えられる。
    つまり、この「異性不養」は”「絶対条件」“であった事を記録は伝えている。

    (注釈 江戸初期の「家康の御定め書」の”伊勢の事お構いなし”の「お墨付き」がこれを物語る。戦乱期の時代性に執って何の意味も持たないのに、何とか伝えて来た「志紀真人族の後裔青木氏の氏族」を権威付けているのである。)

    況や、“「四定以成異性不養之固掟也」” は「青木氏の氏是」に成り、「青木氏の歴史観」としては極めて重要である。

    さて、“「跡目嗣子」”に戻って、つまり、「継嗣」、或は「継子(義子)」の事を指すのではあるが、この「継嗣」、或は「継子(義子)」にも「四つの掟」が条件として付く事に成り、且つ,“「子」”としてでは無く、全ての該当者を平等に“「養子」”とする仕組みである。
    仮に単なる「子」であれば、「福家」や「四家20家」や「娘の子」等の「立場の差違」から「小」には本来であれば「その差」は当然に生まれる。
    これを無くするには、「四掟の範囲」で一同に「福家」に集めた上で、全てを“「養子」(同宗同門)”とすれば、その「立場の差違」は一切生まれない事に成る。
    逆説的に論じれば、そうする事で「異性不養」は護れる事に成る。
    更に、つまりは、これを“「嗣子」”としているのである。

    従って、単なる「養子」を意味するの「義子」、或は「義嗣(継子・義子)」とは異なるのである。
    ここが要するに相当な「乖離点」である。

    この場合の“「嗣子」”には、”「同宗・同族・同門・同紋」”の”「同世男系血族」”を”「四掟」”とし、且つ、「新撰姓氏録」に書かれている様に、”「同じ祖先の祭祀」を成し得る者”と成っている。
    これが「青木氏」が定める厳しい”「四掟」”なのである。

    ”「同宗・同族・同門・同紋」”の”「同世男系血族」”は、結局は”「同祖の祭祀」を成し得る者”と成る。

    これで、この”「同世男系血族」”の青木氏の資料記録中の「文言」に意味が相当ある事が判る。

    その意味は次ぎの通りである。

    イ 「男系」(女系で成り立つ条件を完全排除していない。)は、兎も角も、先ず「同世」である事。
    ロ 「同じ世代」とは、男性の場合、当時では「人生50年」とされる事。
    ハ この「50年」の間に同じ世代に出会う子孫は少なくとも「孫域」までである事。
    ニ 「曾孫」に仮に遭遇したとして、同世である事に成り、「四家の養子」と成り得る事。
    ホ 「孫域」としたのは室町期末期までの一般的な「同世」として論じられていたのであり、この漢文中の「同世男系血族」の文言を以ってすれば「曾孫」までとしても良い事に成る。

    以上に成る。

    注釈として 現実に、筆者の直近の先祖の四代は全て80歳を悠に超えていて、曾孫域まで何とか観られる「長寿の血筋柄」で系譜先祖も概ね長寿である。
    これは偏には、次ぎの二つに成る。
    「青木氏の氏是」として「諸々の戦い」に参加しなかった事。
    「四家制度」により「より優秀な子供」を「養子」として一同に合して育てた事

    以上の二つにより、故意的に「長寿の血筋」を獲得していたのではないかと考えられる。

    更にはどちらかと云うと、敢えて言えば「男子」が多い血筋の様である。

    故に、「四家制度」が保てたとも云えるし、「悠久の歴史」を生き残れたとも考えられる。

    そもそも、これは「短命」では、この「青木氏」が採った全ての制度の保持は元より生き残る事さえも出来なかったと考えられる。
    つまり、この「長寿」は、「青木氏の生き残り」と「賜姓五役の遂行」の大前提と成り得る。

    逆に云えば、「四家制度」に依ってより「健康な嗣子・養子」を生み出し選び、それが「長寿」を作り出し生き残れたとも云える。
    むしろ、当面の思考する眼目は、この説の方の目的が大きかったと考えている。

    次ぎに、”「同世男系血族」”に付け加えて、文中の”「同祖祭祀」”にも付いての「特別の意味」がある。

    鎌倉期以降の「普通の跡目の慣習」であれば、「男系跡目」に叶わず先ず「養子」(1)を取り、更に、その「養子」にも「男系跡目」に叶わなかった場合も「養子」(2)を取ったとする場合は、養子(1)の系列に組み込まれ、且つ、「家紋」は元より「姓」も「宗派」も「慣習仕来り掟」も変化する事に成る。
    其の侭で行けば、止む無く「女系家族」と成る事を選択しなければならない。
    この事は、何か特別な制度を敷かなければ、これは長い歴史の間で起こる当然の事である。
    これを繰り返す事は、当然に元の”「同祖祭祀」”は出来ない事に成る。
    それと同時に、これでは、「普通の跡目の慣習」では“「四掟」”は保てない事にも成る。

    そこで、この“「同祖祭祀」”の文言は、“「四掟」”とは別に長い歴史の間では「異変」が起こり得る為に、総括的に「掟の適宜な運用」に「歯止め」をかけている事にも成る。

    これ“「同祖祭祀」”の「歯止め」がある事に依って、「厳格な四掟の運用」が保たれて、「青木氏の資料記録」と「新撰姓氏録」にも表現されている文言の、”「同祖同縁」”、或は”「同祖同門」”と同じ意味と成り得るのである。

    故に、仮に別の氏族の資料記録に、“「同祖同縁」、或は「同祖同門」”と明記されていたとする事は、「特別な制度」、所謂、「四家制度」を敷いている事の前提と成る。
    つまり、前段でも論じた様に、又、上記の“「同宗・同族・同門・同紋」の”「同世男系血族」と「同祖の祭祀」“を成し得る者と成る“は、「同祖同縁」、或は「同祖同門」と同じ意味と成る事から、この「嗣子の四掟」が、所謂、これが「青木氏の四家制度」であるのだ。

    従って、この「四掟」を以って「賜姓五役」が成し得る「氏族」と成る。
    つまりは、後の「江戸期の武士」が用いた「嫡子」とする用語は生まれない事に成る。
    従って、「青木氏の記録」には、“「娘」”と同様にこの“「嫡子」”の用語も出て来ない。
    これも“世間との多くの「慣習仕来り掟」の「乖離」がある事”の一つである。

    「青木氏の場合」は、「福家」を中心として「20家から成る四家」に生ずる「孫域」までを“「嗣子」”として“「子」”として扱うが、更に、「女」の系も同様に扱い「稼家先」で「ある条件」(下記)の下に「青木氏」を興す事を許される。
    この「嫁家先の青木氏の嗣子」も上記の「四掟」の「同宗・同族・同門・同紋の同世男系血族の範囲の者」も「四家20家」に加えられて「嗣子跡目」の“「養子」”で“「子」”として引き取られ「青木氏の福家」で育てられる仕組みと成っている。

    これは「男系」だけに依る「四家制度の欠陥」を「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」に加え、第三の「女系策」でも補完したと考えられる。
    (この策を「四掟」に加えた時期が何時なのか何故なのかである。)
    但し、「青木氏」に於いては、「女」(嫁家先)の「男子の子」(嫁家で別に「青木家」を建てる。)も「男の養子」と殆ど同じ扱いであった。
    そこで、「男系」からの「嗣子・養子」があると同様に、「女系」(嫁家先)の方にも「青木氏」の中で「何がしかの立場」がある筈である。
    それがどの様に扱われていたかを観るには、「男子の子」をこの「四掟」による「嗣子」を継承しようとすれば、当然に「墓所」にもそれが現れている事に成るのでそれを確認すると判る筈である。

    先に、この「三つの補完策」を検証するのには、「氏寺の菩提寺の墓所の構成」を観る事で判る筈である。
    この「墓所」でも「四家」に関わった「全ての累代の女」の「女墓」を「墓所の横」に別に作られて祀られている。

    注釈として、「墓所」は「福家」の維持する「総大墓」があって、その横に「女墓所」が設けられているが、「横長の平青石」に「俗名」を読み込んだ「戒名」と共に、累代順に追記されて行く「碑石墓」が設けられている。

    「総大墓」(氏墓)の左右に「四家の小墓」が立並ぶ「氏族の構成」で、「氏寺の菩提寺」の「墓所」が出来ている。
    「四家制度」に依って「四家20家」の夫々の家祖が直系と云う事の前提ではない。
    「嗣子」の前提と成る「養子のシステム」で構成される以上は、「四掟の範囲」の「四家の祖」と云う事に成るので、「四家の直墓系」と云うものはそもそも無い。

    つまり、“「嗣子」”の“「養子」”としての“「子」”であるとすれば、「福家」を含めて「20家の父」は全ての「親」である事に成る。
    従って、「四家の20家」は、「松阪殿」、「員弁殿」、「桑名殿」、「名張殿」の「四家の組」とにだけ区分けられ、そして、「氏郷流伊勢青木氏」との「融合青木氏の四日市殿」の組が加えられて以上五組にて構成されている。

    従って、「総大墓」(氏墓)を中心に左右に「四家墓」の「墓所」(組墓)もそれに応じて区分けされている。
    明らかに「墓所の構成」は「四家制度」に一致している。

    問題は「女系の青木氏」の補完策である。
    「女」にも「四家制度」が採っていた事もあって、「長い碑石」に刻まれている「女墓」もある事に成るが、この「碑石墓」には、この「嫁家先の青木氏」(下記イロハの条件に従い原則一代限り)の「嗣子」を出した「嫁家先の女」は「青木氏男系」と同じ扱いを受けていた事に成る。
    これも明らかにこの「四家制度の要領」に従っている事が判る。

    故に、「四家」にこの「他氏から嫁いできた者」の「女墓」と共に、「嫁家先の青木氏の女の名」が刻まれている事は、「四家の考え方」としては、次ぎの様に成る筈である。
    他氏の中で「青木氏」を興す限りは、「他氏から嫁いできた者」と同じ扱いとしている事を意味する。
    「嫁家先の女」の「青木氏の嗣子・養子」には「それなりの根拠」(下記)がある事を意味する。

    (注釈 この様に矛盾なく「四家制度」が構築されている事から、これが「娘」(娘)の呼称と用語は用いず、“「子」(むすめ)”として用いられる先ずは所以でもある。)

    男系子と共に他氏に嫁ぐ「女」にも、「四家」で産まれた“「子」“である以上は”「養女」“として「福家」にて同じ制度で育てられる。
    これが「第三の補完策」である。

    この「第三の補完策」の目的は、「女子」にも同じ「四家制度」を敷いて「青木氏と云う四掟の範囲」での“「養女」”として育て、「四家」と云う事から起こり得る「格式」を取り除き、「格式差の無い青木氏」が持つ“「同格の女」”として他氏に嫁がせる制度であった事に成る。

    この事に依って、ある「特別な条件 (下記イロハの条件」)下で「嫁家先」で「青木氏」を興し、その「嗣子」の一人を再び「青木氏」の「福家の養子」として引き取り育て、「跡目嗣子」として「四家20家の嗣子とする制度」で補完している。
    この事に依って、「嫁家先」の「女」には「格式差」は生まれず「四掟」は護られる。
    そうすると後は、「嫁家先の格式」にあるだろう。
    この事が整えば「四掟」と「三つの補完策」は成立する。

    この時、ある「女系」で興した「青木氏の嗣子」の「特別な条件」として、次ぎの事が定められている。
    イ 氏族(認証族)である事
    ロ 格式(従四位下以上)を有する事
    ハ 朝臣族(八色の姓制度)である事

    この「三つ条件」が存在する家に嫁す場合で、その家の「嗣子」の一人に先ずは「嫁家先」で「青木氏」を興させ、そして、その「青木氏と成った嗣子」を一代限りの「青木氏の嗣子」の「養子」とする場合にて成立する。

    この「青木氏」が、この「三つの条件」(イロハの条件)を持つ事は、「四家制度の四掟」は適っている事に成る。
    「嫁家先」の「女」と「嫁家先」とには、「格式差」は生まれない事に成る。
    つまり、この事は概して云えば、“格式を下げない”と云う事であろう。
    依って、「青木氏の嗣子・養子」と成り得る事に成る。

    唯、ここで「二つの補完策」の内、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」の内、「同祖祭祀」の補完策だけは異なっている事がどうしても起こる。

    然し、この場合は、つまり、この「三つの条件」には「祭祀」として「格式」を同じとする以上は必然的に「比叡山の天台宗」の可能性が限定されるだろう。

    即ち、この「天台宗」は、「天皇家の上皇や皇子」も入信する「密教宗派」に属する事もあって、同祭祀とは成らずとも、古代の「密教浄土宗」とは、「“仏系を同じくする事”」と、「顕教」では無く、“「密教とする事」”から同格として許容している事に成り得る。

    (注釈 天台宗は、「密教」でもあって、「顕教」でもあるとする柔軟な教義を持っている。)

    そこで、故に、先ず「嫁家先」で一度、直接に「青木氏の嗣子の養子」と成るのではなく、先ず「青木氏」を興して、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」にしてから、福家の元に戻して「青木氏の嗣子の養子」とするのである。
    これで、必要な「条件の格式」も得て「同祖祭祀」が成立し、「四家制度」に依って育てられた「嗣子・養子」の「男女」にも問題は無く成る。

    但し、そこでこれには当然に「嫁家先の同意」も必要と成るだろう。
    この「同意」には、「嫁家先の利害」が大きく絡む事から成立にはかなり双方に「政略的な意味合い」が働いての解決事と成ろう。

    これで「女系の青木氏の補完策」は完成し、「四家制度の欠陥」を「同世男系」と「同祖祭祀」の「二補完策」に加え、「第三の女系策」とで補完している事に成る。

    さて、ここで、次ぎの疑問点である。
    「嫁家先の同意」とこの「補完策」を採った「時期と理由」である。

    それは、先ず上記の「青木氏」が独自に採った「三つの補完策」と、次ぎに「天皇」が執った外部からの「藤原秀郷流青木氏」の「第四の補完策」である。
    「天皇」が執った外部からの「藤原秀郷流青木氏の補完策」(「第四の補完策」)は、記録から「人」(円融天皇)も「時期」(958年頃)も「理由」(賜姓五役の推進策)も明確に成っている。
    これは「嵯峨天皇の詔勅」に依り「青木氏」が「皇親族」から離れた事に依る弊害(賜姓五役の遂行の衰退)の補填にあった。

    然し、「青木氏」には「三つの補完策」の「時期」についての正確な記録資料が消失して見つからない。
    唯、概要は諸々の文書の読み取りで判る。

    先ず問題は、「三つの補完策」の「時期」の問題点である。
    「四家制度の四掟の時期」と同じくしていない事が判る。
    それは、上記の「女系策」からも読み取れる。

    「三つの条件」の「イロハ」が時代に依って難しく成る事である。
    イ 氏族(認証族)である事
    ロ 格式(従四位下以上)を有する事
    ハ 朝臣族(八色の姓制度)である事


    そこで、「女系策」を判別すれば他の二つは判る事に成る。

    先ずは「政略的な意味合い」が働いている事は先ず間違いは無いとすると、次ぎの事が考えられる。
    先ず理由としては、次ぎの事が考えられる。

    1 「青木氏の嗣子跡目」が逼迫した事。
    2 他氏との関係性の強化策に必要とした事。

    「1の逼迫」には、次ぎの事が云える。
    A 根本的に「四家」に必要とする為の「絶対数の嗣子」が少なく成った事。
    B 「他氏との血縁関係」が活発に成り男女ともに不足した事。
    C 「青木氏の立場」が大きく変化した事。

    「2の他氏との関係性」では、次ぎの事が云える。
    A 「時代の混乱」から「青木氏」を護る為に「他氏との繋がり」を広め強化した事。
    B 「四家の弊害」(能力 マンネリ化)を解消する時期であった事。
    C 「四家の弊害」(血縁性 純血性)を解消する時期に来ていた事。

    この時期の答えは、「三つの条件」のイロハに出ている。
    そもそも「賜姓五役と云う立場」にあり、これを務める事を主務として「四家制度」が採られている。
    だとすると、少なくとも、この「イロハの条件」、即ち、「格式の適合」に適うとこからの「血縁」と云う事が前提と成る。
    これは始めからの話であり、態々、「女系策」と云う事には成らず、当然の血縁先と成ろう。
    従って、「1の逼迫」と云う事には当たらない。

    そうすると、「2の他氏との関係性」と成る。
    では、2のABCの何れかと云う事に成るが、この「女系策」を採った時期に関わってくるだろう。
    少なくとも「女系策」を採る前は、「男系の嗣子・養子」の「四家制度」で済んでいた筈で、それは、奈良期から始まって、平安初期までは男系に依る「四家制度」であった筈である。
    つまり、「施基皇子」が「伊勢王」として都で遙任し国司(三宅岩床連)を置いて務め、その後、伊勢に退任してから、「聖武天皇」に男系が出来ず、結局、「井上内親王」と施基皇子の四男の「白壁王との婚儀事」で「光仁天皇」−「春日宮天皇」−「光仁天皇」の子の「山部王」が「桓武天皇」が即位し、「志紀真人族」が続く事に成り、「平城天皇」−「嵯峨天皇」に繋がった。

    ここで、より「後裔の氏族」の「志紀真人族青木氏」としての立場が強化された。
    「新撰姓氏録」にも「志紀真人族で朝臣族」で「春日真人族」の「同祖同縁」として特別に記載されているところでもある。
    従って、約100年後の「平安初期」と云う事に成り、この「立場の強化」(天皇家の出自元)の為には、「2の他氏との関係性」のABCの全てを講じる必要性に迫られた筈である。

    上記の「女系策」が判れば、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二つの補完策」の時期と理由が読み取れる。

    先ず、「同世男系」は、「同世」である事と云う必要性が切迫して起こった時期と、「男系」であると云う事の必要性が切迫して起こった時期である。
    この「二つ掟」は、奈良期からの「青木氏に課せられた慣習仕来り掟」としては「普通の事」の社会であった筈で、それを態々取り立てて、「固い掟」にしなければ成ら無く成った時期は何時なのかである。

    一つは、聖武天皇期の「皇位継承者」が欠如し、その後の「光仁期」と「桓武期」に架けての時期、つまり、「平安初期前後の時期」である。
    二つは、「氏族」が激減する室町期初期から中期の時期で、つまり、「下剋上期と戦乱期」である。

    一つの目の時期に取り分け必要としていたのは、奈良期から「女系」が多く続き、政治には「男系の必要性」を強く見直さなければ成らなくなった時期であった事から、「男系」が態々「固い掟」として定め直したと考えられる。

    二つ目の時期に取り分け必要としたのは、「下剋上と戦乱」で「継承者」が激減し、或は、「氏族の郎党」として働いていた「姓族」が「氏族」に代わって台頭し、「跡目継承」が困難と成った時期で、「格式」を重んじて「血縁関係」を維持するに逼迫した時期でもある。

    従って、この「二世代」に限らず、「三世代、四世代」までを「嗣子・養子」として拡大しなければ「賜姓五役」としての「青木氏」が維持できなくなった事から、「同世」の「固い掟」を、態々、「掟」に明記したと云う事に成る。

    「四掟」,即ち、「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけでは、時代に反映して切迫している状況の中では「便宜的な解釈」が起こり、この「解釈」に依って変化して護れなくなったと観られる。
    そこで、其の侭で行けば「掟の崩壊」が起こると予想され、「同世男系」の文言を「掟」に補完的に態々書き加えたと考えられる。


    次ぎは、「同祖祭祀」である。
    「青木氏」は、「祖先神の神明社」で「密教浄土宗」である。
    「祖先神の神明社」は、「皇祖神の子神としての立場」にある。
    「密教浄土宗」は「法然の浄土宗」の前の「古代仏教」を基とする宗派である。
    「祖先神の神明社」と「密教浄土宗」は「神仏同源」としている。
    「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけの「四掟」に於いて、この「二つの事」を祭祀する事に「差し障り」が生まれたとする訳である。

    つまり、態々、「掟の補完」をしなければ成らなくなった時期は何時なのかに関わる。
    「同宗・同族・同門・同紋」の文言だけも解る筈なのに、ここで「何か支障」が出た事に成る。

    そうすると、考えられる事は、“「神仏同源」”を敷いている「青木氏」に執って周囲との間に「神仏同源」を強い要る事に変化を来した事に成る。
    そもそも、又、「青木氏」は、仏教伝来期の奈良期から「神仏同源」の為に“「達親制度」”を敷いている。
    この「達親制度」にも問題が出た事にも成る。

    そこで、鎌倉期には、「最澄の天台宗」、「法然の浄土宗」、「空海の真言宗」と「三代宗派」が興り、夫々、宗派拡大の宗教戦争の様な事が起こった。
    要するに密教はどうあるべきかの「密教論争」である。
    そして、この「三つの宗派」にはこの「密教論争」が興り、「密教」を否定する「顕教」が生まれ、「浄土真宗」や「日蓮宗」等の多くの分派が発祥した。

    夫々の分派には各身分階層に分かれて入信者を増やした。
    当然に「法然浄土宗」は「密教」を宗旨としたが、古代仏教から発展した「青木氏等の密教浄土宗」との間にも、「賜姓五役」と云う「立場」を護ろうとする違いから、「宗旨の乖離」が生まれた。
    この為に、「格式」を「固い掟」として重んじる事に血縁を進める場合に「四掟との違い」が同じ「40程度の氏族」との間に発生してしまったのである。

    “「神仏同源」と「達親制度」”は、そもそも「青木氏の根幹」を成すものであり、これを崩す事は、「青木氏の滅亡」を意味している。
    「同祖祭祀」を護る為には「神仏同源」と「達親制度」が必要であり、その“「神仏同源」の「考え方」を維持するには、「達親制度」でこれを支えている構図なのである。

    この事からすると、時代に依って「宗教改革」(密教から顕教に変わる事)が進むと「青木氏」に執っては、同様に滅亡を意味する。
    従って、“「神仏同源」と「達親制度」”を護る為にも“「同祖祭祀」”を明記して補完したと考えられる。
    その時期は、「鎌倉期初期」であろうと観られる。

    従って、“「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料の「掟の文言」には、「同世男系」と「同祖祭祀」の「二つの補完策」の時期と理由が読み込んでいると取れる。
    故に、「平安初期の女系策」と共に、「三つ補完策」が取られた事に成る。

    (注釈 この「神仏同源」には、「柏紋の青木氏の神職」、「柏紋の青木氏の住職」が存在する所以でもある。)

    注釈として、そもそも、「神仏同源」の文言は、「神仏習合」とは異なる。
    「青木氏」に執っては、「二つのものが組み合わさる事」では無く、「その元を同じくすると云う事」であり、そこに「青木氏の密教」が成立していたのである。

    「青木氏」に執っては「仏教の変化」が起こる事は、「神仏同源」の考え方としては好ましい事では無い。
    「青木氏の記録資料」では、“「同祖祭祀」”と共に、“「神仏同源」”の文言で書かれている。
    故に、「神」では「御師」、「仏」では「禰宜」、この「二つの主教の行事」を取り持つのが「達親」であって、分離していないのである。

    そして、これと「四家制度」とを組み合わせているのが「福家制度」なのである。
    この「福家制度」は「四家制度の差配」と「賜姓五役の差配」を仕切るという構図に成っている。

    「仏教の変化」が起こる事は、全体の「青木氏」の「同宗の仕組み」を壊す事にも成り兼ねないである。
    故に、少なくとも「青木氏の石垣」を崩さない為にも「時代の変化」に対応して「二つの補完策」が是非に必要としたのである。

    (注釈 “「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料と共に、この様に「三つの補完策」の資料は室町期中期に頃までにまとめられたものである事が判る。
    この記録は、「祐筆役(執事役)の菩提寺の役目」でもあった事もある。
    「全国の500社の神明社」には地方毎の事で直接的な解明資料には成らないし、松阪の「菩提寺本寺の消失」で資料の保存状況は完全ではない。)

    天皇に依る「政治的な補完策」として、「外部の秀郷流青木氏」に依る補完策は、全面的な部分に依る補完(958年頃)であって、上記の「三つの補完策」(「女系策」「同世男系策」「同祖祭祀」「神仏同源」)を効果的にする意味でも、時期的にも「絶好的な政策」であった事に成った事が判る。

    (注釈 「青木氏の歴史観」としては、むしろ、「武家貴族の格式」を交換条件として「秀郷流青木氏」として与えた事だけでは無く、「青木氏」の「保全の努力」を観て、少なくとも「賜姓五役」を継続させ、「志紀真人族」としての「出自元」を「天皇家」として護ろうとしたと観られる。
    「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」から外されたが、ほぼ100年後の事ではあるが、その意味で「同祖祭祀」「神仏同源」の補完策は一族の者に対して、「四掟」の「同宗同族同門同紋」の文言の「引き締め効果」があったと考えられる。
    故に、“「四定以成異性不養之固掟也」”の記録資料と成ったと考えられる。)

    さて、そこで、「同宗・同族・同門・同紋」の文言とは、要約すると次の様に定義されている。

    「同宗」とは、「大日如来」を神とする「密教浄土宗」であり、「祖先神」を「守護神」とする事。
    「同祖祭祀」(「神仏同源」)の補完策が取られた。

    「同族」とは、「皇族賜姓臣下族」の「志紀真人族」で「朝臣族」である事。
    「同世男系」の補完策が取られた。

    「同門」とは、敏達天皇の「春日真人族」を第四世族り「同祖同縁」として「志紀真人族」を「青木氏とする族」である事。
    「女系策」の補完策が取られた。

    「同紋」とは、「氏族」の「象徴紋」を「笹竜胆紋」とし、「神木の青木」を「氏の象徴木」である事。
    鞍作部止利作の賜物の大日如来坐像をステイタスとする事。
    「嵯峨期の象徴と禁令策」の補完策が取られた。

    この様に「四掟」を補完して定義されている。
    これが「青木氏」を理解する上での重要な「青木氏の歴史観」なのである。
    この「歴史観」が無くして「世間に出ている歴史」を読むと大変な間違いを起こす。









    > 「伝統シリーズ−36」に続く


      [No.353] Re:「青木氏の伝統 34」−「青木氏の歴史観−7」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/05/18(Thu) 09:44:31  

    「伝統シリーズ−33」の末尾

    >「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

    >前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

    >この事と同時に江戸幕府は「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

    >(注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

    >従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。




    「伝統シリーズ−34」

    そこで、更に、論じて置かなければならない事が「青木氏の歴史観」としてある。
    それは、取り分け、“「家人」”に関わる「歴史観」である。

    この事を認知して置けば、この「矛盾」を見抜く事が出来るし、自らのルーツの「正しいロマン」を醸成できる事に成るだろう。
    この明治期まで「青木氏」に仕えた「小郷氏」等の事を「青木氏」では、「四家制度」の中で“「家人」”と呼んでいた。
    この“「家人」”には、「青木氏」の「職能部の頭」(青木氏部)には娘を嫁がせて、その生まれた嗣子の一人に今度は実家の「青木氏」を名乗らせて、「四家制度」の一員とする“「家人の青木氏」”が在った。
    又、この「職能部の頭」にも「青木氏」を「縁続き」(嫁ぎ先)で名乗らせる“「家人の青木氏」(「職能家紋の目結紋類で変化を付けた)”も在った。

    (注釈 前段でも詳細に論じてはいるが改めて概要を記すと、「四家制度」では「男系女系」の差が無く「孫域」までを、「孫」と云う概念が無く、「青木氏嗣子の子供」として定められていて「福家」で「共同」で育てた。)

    奈良期からの「賜姓族の臣下族の慣習」では、この“「家人」“に付いては「家来」と呼ばず「氏族」としての護らなくてはならない理由があって、その為に“「家人」”と呼んでいたのである。
    これは、幾つかの「血縁と所縁」で結ばれた“「同族の家」”が集まり、一つの“「氏」”と云う大きい「集団形体」で「枝葉の姓」を作らず構成する事からの手段であった。
    そこでの何らかの「薄い血縁」や「所縁のある者」で厳しく言えば「主従関係」、或は、緩く言えば「統率関係」が構築されていたのである。

    従って、一種の「契約」に依る「無血縁の臣」(無縁 後の家来/家臣)で構成されているのでは無く、「血縁族・所縁族の人」で構成される事を意味する事から“「家人」”と呼ばれたのである。
    つまりは、これが「氏」と云う形で構成される「下支えの構成族」(家)の「一つの族」の事である。
    そして、この「主従の者」を「氏と云う形の人」として、朝廷はこれを維持している「統一した氏族」として「公認する仕組み」であった。
    それでなくては「氏族」として認めなかった。
    これが、「姓族」と異なる「氏族」の所以もである。

    (注釈 江戸期に「家臣」の下に「媒臣」があって、この者を「家人」と呼んでいた事もあり、下級武士の下に働く「農民の奴」を「家人」と呼ぶ様に成ったが、これ等には血縁の何物も無かった。)

    要するに、「氏族」の「家人」は、「朝廷の認証族(氏族)」の「准認証族」(准氏族)とも云える。
    この形が形成されていなければ、それは「氏族」とは認証はされない「仕組み」でもあった。
    これは前段で論じた嵯峨期に偏纂された「新撰姓氏録」の記載する処でもある。

    そこで、「青木氏の氏族」を理解する為にも「青木氏と関わり」のあり、この事を明確にしているこの「嵯峨天皇と新撰姓氏録の事」を先ずは論じる事とする。

    (注釈 そもそも、何故、「山部王の桓武天皇」の平安初期の直ぐ後に子供の「嵯峨天皇」が、このここに至って「新撰姓氏録」を編集したかが判る。
    「聖武天皇」の「直系族」に「男系族」が無く成り「皇位不継承」と成り、唯一人の皇女の「井上内親王」のみと成った事から、唯一遺されていた「春日真人族の第四世族の志紀真人族」の「白壁王 光仁天皇」と婚姻させて「正統性」を何とか確保した。
    本来は「真人族」でありながらも、「第六位皇子」である事から「第四世族までの王族」をも捨て「皇族賜姓臣下族」と成り、「皇親族」として「賜姓五役」(令外官)を務める事に成ったのである。
    つまり、「格式の継承」から観れば、「継承権」があって「継承権」を捨てた立場に成った「唯一の氏族」であった。
    依って、「継承権」では“「准の立場」”にはあった。
    これで、「青木氏の准の使用許可」の意味合いが良く判る事でもある。)

    この「家人制度」(「朝臣族の臣下族」でありながらも「真人族」の特別の「賜姓の氏族」)を維持している事に依る「准の立場」から、「白壁王の光仁天皇」と「施基皇子の追尊 春日宮天皇」の子が「山部王」の「桓武天皇」と成り、「施基皇子」からは曾孫の「嵯峨天皇の継承」と成ったのである。
    そこで、「嵯峨天皇」は、「天皇家の正統性」を整理する意味からも複雑化した「真人族」と「朝臣族」を系譜化しようと試みた。
    もっと云えば、複雑化していた「皇族系の系譜」を見直して「格式」を明確にし、主に「継承権のない朝臣族」、並びに元は「真人族でない朝臣族」との「系譜上の区分け」を試みたと考えられる。
    この「区分け」で、それは「正統性」を意味する事に成り、「志紀真人族の青木氏」の”「三司」(平安期の官位の呼称)”の「准の使用根拠」にも成り得ると考えたのではないか。
    つまり、これは「家人制度」を維持していない正当でない「朝臣族の臣下族」が増えていた事を物語り、この朝臣族でも真人族で無い朝臣族は勿論の事、更には血縁性の無い朝臣族まで発祥していた。
    「嵯峨天皇」は、これを改める為にも「天智天皇」が定めたものを、「嵯峨期の詔勅」を改めて出し直した事に伴って、正統に系統化するとともに、合わせてその“今は「准の立場」であるが、本来は「准」でないとする「先祖の正統性」を100年後の今に明確にしたい”と云う考え方の下にその「証明書」を作ろうとしたと考えられる。

    そこで、その基準を「家人制度の有無」と「四家制度の有無」に於いたと考えられ、これで或る処までは「系譜化」は出来たが、さらに整理に至るまでには未だ期間と難しさが掛かることから一度は頓挫した。
    しかし、何としても形の上でこの「証明書」を作り上げたいとして、所謂、「新撰」として「未整理状態」で“「広布」“をしたと云う処ではないかと云える。
    この「新撰の意味」は、この「未整理の範囲」でも、所謂、「証明書」には何とか成り得るとして、改めて「広布する範囲」として認めた処にそこに意味(ある種の思惑)があったと考えられる。
    従って、「新撰の意味」と「准の意味」は、判り易く云うと“「公布」”では無く、“「広布」”であった事に成る。

    (注釈 故に、そもそも、その証拠として、例えば、「源氏」には「賜姓源氏 11流」と「賜姓で無い源氏 5流」がいて、「家人制度」を敷いている「賜姓源氏」と、「敷いていない源氏」もあり、更には、「四家制度をしている源氏」と、「敷いていない源氏」があるのはこの事に依る。)

    と云う事は、何故、この「新撰姓氏録」を、態々、この時期に一度「頓挫しかけたもの」を、又、「未整理のもの」を出そうとしたのかである。
    「頓挫や未整理」であるのなら慌てずにそのままに後に引き継いでも良かった筈である。

    ところが実は、この時期に朝廷内では、この「継承権の議論」と云うか、「藤原氏の勢力拡大」も狙ってこの「継承権の話」が出ていたのである。

    (注釈 これ等を整理するには、そもそもその原因と成っているはっきりしない「継承権の問題」があった。後の「新撰姓氏録」を整備する上でも「この基準の一つ」を造り上げて置くことが必要であったと考えられる。)

    それは、父である「桓武天皇」と兄で先代天皇の「平城天皇」を向こうに廻して「ある種の軋轢(皇位継承)」があった事が記録(「続日本記の削除問題」)として伝えられている。
    これが「大事件」まで発展した。

    注釈として、本来は、「実子」の「平城天皇の子供」が「継承権」を持つが、「嵯峨天皇」は”「直系」”の「志紀真人族の血筋」を引く自分にあるとしたのである。
    つまり、況や、”「直系」”と云う意味の捉え方である。
    前天皇の弟を最も”「直系」(A)”と考えるか、前天皇の子供を最も”「直系」(B)”と考えるかにある。
    前天皇を前提としては、血筋は(A)であり、現天皇としては血筋は(B)と成る。

    桓武天皇から観れば、「直系」は(A)であり、皇子の平城天皇から観れば、「直系」は(B)である。
    同じ立場の弟の皇子の「嵯峨天皇」にすれば、血筋で濃い「直系」は自分であるとしたのである。
    つまり、「縦の継承」を続けると、(A)の直系論理が生まれ、前天皇に皇子が居ないと「横の継承」が起こる。
    その後は、(B)の論理が生まれ、この時に(A)か(B)の何れかを「直系」と定める必要が起こる理屈と成る。

    この直系の事が、「皇位継承」のみならず、「青木氏の歴史観」にも大きく左右した「施政の事(問題に成った「監察使」等の事)」でもあって、この「処置の仕方」に付いての「軋轢」もあった。
    結局は、この事を整理しようとして、”「監察使」”までを「嵯峨天皇」(令外官)は廃止した為に更に軋轢は拡大したのである。
    この事等を含めて「父と兄と藤原氏」とで対立して「薬子の変・平城上皇の変」が起ったのである。

    つまりは、「志紀真人族の後裔の氏族である青木氏」に執っては「氏存続」を一部否定されたと同然の扱いに同族の嵯峨天皇からされた事に成る。
    又、「賜姓五役」を持つ「青木氏」に執っては、この「皇親族の令外官」であった事からこれは拙い。

    つまりは、注釈として この”「監察使」”とは、「天皇直属の参議」で、「桓武天皇の勘解由使」から「平城天皇の監察使」、そして、「嵯峨天皇の参議」と変化した。
    元々は、「天皇の代官」として「天皇の直接の意向」を背景に、「政治と軍事と経済」の施策に直接に力を発揮する「令外官の事」で、これを元は「参議官」が務めていた。
    然し、親と兄の「二人の天皇」は、更に詳細に渡り強化する為に「勘解由使と監察使」のこの制度を設けた。
    つまり、これが天智期から引き継いだ”「皇親政治の制度」”であり、この時は「青木氏」等が「賜姓五役」(令外官)として務めていた。
    ところが、然し、これを「嵯峨天皇」は「直系の(A)」を根拠にして廃止したのである。

    これが前段でも論じた「嵯峨天皇の詔勅」(「皇親族」でなく、且つ、「役目の無い賜姓族」 「賜姓源氏」)と云う形で正式に表に出たのである。

    況や、つまり、自分が所属する「志紀真人族」の「皇親族の青木氏」を廃止し、その為に、「単なる役目の無い、且つ、権威の無い賜姓族」として、”「賜姓源氏」”と云う「氏族」に換えた。
    そして、その代わり「妥協案」として、以後、「皇位継承」から外れ排出される「真人族」には、「青木氏」を名乗る事を許したのである。
    然し、「青木氏」を増やす事禁じたのである。
    この「志紀真人族系の血筋を持つ氏族」には、これが「賜姓臣下族」として自活する「五家五流青木氏の跡目」などに入る事を認めたのである。
    「賜姓五役の五家五流」に入れない者は自活する路しかなく、地方の豪族の中に入った。

    (注釈 正式には18皇子、15皇女が排出されたが、殆どは僧位か斎王に成った。武蔵の丹族に遺した「配流王」の「多治彦王」の「地方の後裔」の「丹治氏流青木氏の1氏」と、「清和源氏からの1氏」か生き残れなかった。)

    (注釈 財政難から源氏を名乗る賜姓臣下族には生活保障を打ち切った。詔勅に明確に記されている。
    故に、自活する賜姓臣下族の「五家五流青木氏」に何らかの形で入る事を認めた。)

    この”「監察使」”は、「勅命」を受けて「皇位継承の問題等の整理」にも関わったのである。
    親と兄の「二人の天皇派」は、”「監察使」”からの整理した報告から“「実子制度」”を主張したが、これを嫌った「嵯峨天皇」は「天智天皇と天武天皇」が定めた「第四世族内」の「第四位皇子内の継承権」を“「直系制度」”として理解して、これを主張した。
    「天智天皇」から「弟の天武天皇」、「天武天皇」から「妹の持統天皇」の様に「第四世族内の第四位皇子内の継承権」を原則に、“「最優先の二世族」の「直系族」が存在した場合は、「皇位継承権」を保持する“と主張したのである。
    要するに、“「内」”と云う語句を優先したのである。

    つまり、“「第四位皇子・皇女」で、「第四位皇子」までならだれでも良い”という論調を採用しなかった。

    「平城天皇」は、これ等の事を暗黙の「約束の下」に弟を「皇太子」として次期天皇として指名した。
    ところが、「退位」の後、弟の「嵯峨天皇」が、約束通りに「皇太子」を甥に指名しなかった。
    そこで、「復位」しようとして「薬子の変・平城上皇の変」が起こり失敗に至る。
    「平城上皇派」は立場を失って旧都に戻る。
    そこで、「嵯峨天皇」は異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名した経緯なのである。

    この上記の「注釈の複雑な経緯」を観ても、この時、全ゆる面から「皇位継承」を巡る「宮廷内部の論争とそれに伴う紛争」が起こったのである。
    その「論争と紛争の一つ」と成ったのは、「聖武天皇の時」に起こった様に、又、「直系性の継承問題」であった。

    “継承者が不在と成った時に、「准」の「第四世族の春日真人族」と、その系列の「志紀真人族、第六位皇子」 「浄大一位の格式の持つ氏」の「直系」の我にある”としたのである。

    「敏達天皇系(春日真人族)」から「第四世族の志紀真人族」の直系の自分に「継承権」があるとし、「平城天皇の子供」には、「天智天皇」が定めた「四世族内制」に従えば、“「平城天皇の子供」には無い”と結論付けたのであろう。
    故に、「直系族の第四世族」の“より「直系」”である異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名したし、自分も「直系制」を用いた。

    この事で、「志紀真人族」の「直系族」が「天皇家の系譜」として、以後、引き継がれて行く事に成るが、「嵯峨期以降から鎌倉期後期(38代から95代の57代)」までの「天皇家の系譜」を観てみると、「大化期に定めた考え方」に沿い、ほぼ「半分」はこの“「内」の「直系制」“を重視する原則に従っている。
    57代中20代が「直系制」であるが、但し、「実子制」では、(57−20)から「女系や后妃嬪や四世族」等の「本来の実子」ではない歴代を除くと、丁度、「半分」と成る。

    然し、「実子制」では、「実子」が存在しても、「実子の条件(若輩、能力、意思、血縁、格式、嫡子順、后妃嬪、妾子、人格)」が附添されていて、この事が左右して必ずしも「天皇」に成り得ていない。
    この事から考えると、「本来の嗣子」とされる「実子」では無く「実子制」は半分以下に成る。

    これには、上記の様に、上記の条件が叶えば、一度は「実子族」で継承しても必ず「直系族」がいると「継承権」を戻して「天皇」と成り得ている。
    この様に「直系族」「直系制」が「考え方の主導」と成っていた事から、平安初期の“「内」の「直系制」“を打ち砕く事で、有利に「藤原氏の勢力拡大」を目論み、この「薬子の変」とも云われる様に、「薬子の実家先」の「藤原氏の台頭」(仲成)が絡んでいたのである。

    (注釈 「直系制」であれば横に「継承権」を移動させる。ここではいろいろな「后妃嬪妾」の氏族から血縁が入る。然し、この「直系制」は延々には続かせることは兄弟の数が不足すれば一度、縦、つまり、「実子」に移動させねばならない。そして、又、「直系制」に戻す事が基本と成る。これを繰り返す。(血流の点では都合がよい。)
    この事では「摂関家の藤原氏の勢力」は強く成らない。ところが「実子制」であればこそ外戚は強く成り得る。
    ここに「勢力争い」が起こった。「摂関家の力」が強く成れば「天皇の力」は外戚から牽制されて弱く成るは道理である。
    一種、「実子制の継続」は「藤原氏の娘嗣子」を次ぎ込み続ける事に成る。
    従って、形の上からは「天皇の地位」を乗っ取った事にも成り得る。
    基本的にはこの「争い」である。)

    つまりは、この「直系制」があると、「八色の姓制」で「藤原氏外の婚姻([新撰姓氏録]の真人族)」が成立する事が起こり、「斎蔵の摂関家の藤原氏」は、「外戚」であっても「永代の朝臣族」である限りは、常に「継続する勢力拡大」は成し得ない事に成る。
    下手をすると、「斎蔵の勢力」もこれらの「真人族(后妃嬪)」に奪われる危険性を孕んでいたのである。
    (宇多天皇(59代 890年代)から藤原氏外戚が170年間続く)

    「嵯峨天皇」が、何とか「新撰姓氏録」を出す事で、「准の立場」も含めて「継承権のある真人族」を明確にし、「外戚」は兎も角も「朝臣族である藤原氏の立場」を明確にして、ブロックして「天皇家の保全」を保とうとしたとも考えられる。
    「外戚」で堀を埋め、今度は「本丸」の「天皇の立場」も奪われる可能性を危惧したのではないかと考えられる。
    それは、「嵯峨天皇」の祖父と曾祖父(志紀真人族で賜姓族; 光仁天皇と施基皇子)が、「准の立場」で、且つ、「臣下族の立場」でも「天皇」に成り得たとすれば、「外戚(摂関家)」も「准」と「公家の立場」であるとする理屈を付ければ「天皇」に成り得るとする考えが争いの中に充分にあったと考えられる。
    これは上記した様に、まさしく「真人族の確定」と「新撰姓氏録の広布」と「准の使用」と「直系族の掟」と「皇親族の廃止」の施策は筋が通っている事に成る。

    現実に、その証拠に「藤原氏外の婚姻」の「後三条天皇(71代 1070年代)」からは明確にこの現象が起こった。
    然し、この時期は、「直系族」が居ながらも「実子制」を三代続けて行うが、ところがそこからは「直系制の傾向」がしばらく続く。
    つまり、「藤原氏外の血縁」が三代で出来上がり、そこからは「直系制」で行けば完全に「藤原氏外の血縁族」が「天皇家」に続いた事に成る。
    言い換えれば、「藤原氏の外戚の勢力」は弱くなったと云う事を意味する。

    そこで、しかし、この直前の「円融天皇(64代 970−990年代)」は、「藤原氏の外戚の勢力」は強く成った頃を見計らって、態々、「青木氏」は既に「皇親族」から外されていながらも「青木氏の補完策」として「藤原秀郷流青木氏」を創設したのである。
    これは政治的な大決断であった。

    これはある意味で“何故なのか不思議”な事でもある。
    実は、これには「家人制を採っている氏族の青木氏」に執っての重要な「歴史観の意味」を持っているのである。

    つまりは、「実子族」が続く「藤原氏の外戚」とする「天皇」の最中に、そもそも、「藤原氏」を外戚とする「円融天皇」に依って「青木氏の補完策」が取られている事だ。

    この“何故なのか”の答えは、これは少なくとも「摂関家の内部勢力争い」に振り回され、「政治の主導権」を握られていて、「天皇が考える政治の遅滞」を恐れて「青木氏の秘書役」を以って密かに「内政の進行」(令外官の監察制度 賜姓五役)を強化したのである。

    そこで「青木氏」を元の「皇親族」として「参議にする事」は、「藤原外戚が拒む事」が起こるし、下手をすれば「青木氏との争い」とも成り得るので、「賜姓臣下族」を其の侭に引き出す事を止めて、「東の武蔵の勢力拡大中」の「秀郷流藤原氏」(俵藤太)を利用したと考えられる。

    これには、「二つの理由」があった。
    それは、一つ目は、東の「将門の乱」の「功績の条件」に貴族(位階従四位下)を要求した事。
    二つ目は、「武蔵藤氏」は「西の摂関家」に対して反抗していた事。
    実は、この「反抗」を示す事例として、「藤原氏の総紋」の「下がり藤紋」は「下がる」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋したが、「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」はこれに従わなかった。
    この「二つの事」に目を付けて、「円融天皇」は「青木氏の格式と同じ扱い」を条件にして「青木氏補完役」を「累代第三子」がその義務を負う事を命じたのである。
    これで「家人制を採る氏族の青木氏」は、その「権威の回復」と「賜姓五役の奉修復帰」を再び果たす事が出来る事に成った。
    この「権威の回復」と「賜姓五役の奉修復帰」の事が、家人制で成り立つ事が出来、且つ、出来て氏存続の前提は確約された事に成ったのである。

    注釈として、その為には「秀郷流青木氏」が絶える事があってはならない。
    その為に、改めてこの「秀郷流の青木氏」が絶えることが無い様に「宗家から累代第三子」が「秀郷流青木氏の跡目」を引き継ぐ事を命じた。
    「武家貴族」と成った「家人制の氏族」が他に存在する事と成った事で、二つの「家人制を採る氏族の青木氏」はより強固な氏族を造り上げられたのである。
    「武家貴族」と成るかどうかが決め手と成った。

    藤原氏枝葉末孫の「関東の姓族の俵藤太」では幾ら補完を命じられてもそれは意味が無かった。
    当時の慣習としては、「賜姓臣下族」として「四家制度と家人制」で「氏族」を護る以上は血縁性には発展させる事は出来なかったからである。
    そこで、更には、「斎蔵」を務める「摂関家」を飛び越えて、且つ、「賜姓臣下族」と「最高級の官位官職」までを同格として扱われる事に成った。
    そして、その上で「四家制度と家人制」が強かった、先ずは「伊勢」から血縁は始まり、「近江」「信濃」と深い血縁は進んだ。

    (注釈 甲斐は平安末期清和源氏との血縁があった。)

    (注釈 武家の賜姓源氏や、皇位継承から漏れた「真人族」とも血縁が進み、遂には「秀郷流青木氏」は「摂関家」と「同格の地位」を獲得した。脩行系青木氏等
    清和源氏の摂津本流と河内支流は、各地に散在した枝葉の「11家の源氏放浪族」を集めて「武家衆団」を形成した事から「家人制度」は出来ていなかった。)

    (注釈 そこで、「賜姓臣下族の五家五流」から「藤原秀郷流青木氏」に、「秀郷流青木氏」から「五家五流青木氏」にどの様に血縁を結んだかを調べると、その要素は、実は「墓所」にある。
    「系譜」には「四家」から「娘の嫁家先」の明記が無く、その「添付書」にしか明記は無い。
    ところが、その詳細を書いた「添付書」は、一族が先祖の詳しい史実を知る為に書かれたもので、主に秘蔵が「仕来り」で相互の事が解けない。)

    そこで、この「二つの青木氏」の慣習には、その「浄土密教の慣習」としては「本墓所」とは別に「女墓」と云うしっかりした慣習があった。
    そして、ここに「累代の妃嬪」が刻まれている。
    これを相互に付き合わせれば凡よその事は判るのである。(系譜系のものは信頼性に欠ける帰来があり粉飾の偏纂性を排除するには「墓所の女墓」ではないかと考えられる。)
    この「女墓」には慣習として「戒名と俗名と享年」等とが刻まれている。
    この「俗名」を「相互の突き合せ」で婚姻が判る。

    最近ではこの「女墓の慣習」を続ける事は難しいが、出来たとしても「総宗本家」程度しかない。
    それを調べた範囲では、次ぎの様である。

    概しては、血縁律を10として、「賜姓臣下族からは3」、「秀郷流からは5」の割合程度で、相互に「女系]で血縁関係が成立している。
    時期は主に平安期中期頃から下剋上が起こる前の室町期初期にかけてであり、江戸期初期にも血縁官は起こっている。
    ピーク時を査定するのは「五家五流青木氏」の源平の争い等があって、その「栄枯盛衰」が血縁を左右させる事があって困難だが、どちらもその栄枯盛衰の最大時とされる1125年頃ではないかと観られる。

    格式も同役も同じである事から婚姻は成立しやすいし、その様に「円融期以後の朝廷」はこの「二つの青木氏」に仕向けたと考えられる。
    何故ならば、中には「嵯峨源氏」からも、「摂津系清和源氏」からも「跡目血縁」が、「近江佐々木氏」からも「女系血縁」、「近江佐々木氏系青木氏」からも「同祖血縁」、「五家五流間の青木氏」からの「同祖血縁」が起こっている。

    これらには必ず「高位の仲人」が立つが、「天皇の意」を汲んだ「朝廷の参議どころ」でなくては「仲人の格式」は成り立たない。
    況や、この様にして「朝廷(天皇)」は「青木氏の血縁」を強化して、より強固に「四家制度」と「家人制度」に依って「賜姓五役」(令外官)を維持させて遂行させたと考える。
    概して、この女墓から観た流れ図を見ると次ぎの様に成る。

    「源氏(嵯峨源氏・摂津源氏)」→「五家五流青木氏(四家)」←→「秀郷流主要五氏」←→「佐々木氏(青木氏)」
    ←→「五家五流青木氏(四家)」←「徳川氏(江戸期)」


    以上の血縁関係が、「施基皇子」を同祖同縁とする「直系制」が取られた平安末期まで出来上がっていった。

    (注釈として、これが「四家制度の範囲」と「家人制度の範囲」で行われた。
    この二つの相互間に綿密に関連する制度が「血縁関係」に大きく左右させていた事が判る。
    「四家制度」と「家人制度」が完全に確立して居なければならない訳であり、上記の事は理解できる。)

    (注釈 それ故に、男女に関わらず「孫域」までを子供として集めて、此処から「娘」は嫁家させ、上記の範囲で「血縁」を結んでいた。
    「男子の嗣子」は、概して「四家20家内」に納まっていた様ではあるが、「跡目」では無く「養子」と云う形で「郷士家」に移動している。
    そこで「男子」が多く生まれた場合は、「青木氏」を興し、「四家」に戻すと云う形式を採っていた様である。
    更には、「縁者、況や四家20家外での娘や曾孫」は、「郷士関係との血縁」に稼せられていた。)

    この様に、「同祖同縁の血縁」と、「家人制度」に依る「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

    但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流青木氏」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋類」と「目結紋類」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。
    「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは充分に確認できる。

    これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

    この様に「四家制度」と「家人制度」が接着剤の役割を果たし、血縁融合したが、「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」をも完全に補足したのである。
    注釈 これを得てとも考えられるが、1025年からは「二足の草鞋策」は総合商社化し、その財源を使って四家制度の整備と家人制度の強化を果たし、その事と相まって「二つの青木氏の血縁融合」は進んだ。
    「秀郷流青木氏」も「第二の宗家」と呼ばれるまでに至り、「秀郷流青木氏発祥」より100年後(1060年頃)には、一族一門の発展と共に「5氏による青木氏族」を形成する至るのである。

    この1050年代の同時期を境に「二つの青木氏」は、更に、100年後には共に最大の隆盛期を迎えるのである。
    「賜姓臣下族の青木氏」の「二足の草鞋策の採用の時期」と、「秀郷流青木氏の発祥の時期」とが同一としているのも無関係では無いと考えている。

    (注釈 「賜姓臣下族の青木氏の二足の草鞋」は、それまで「朝廷の部制度」の依る「和紙の開発と生産」で朝廷に納入する役で、その「余剰品」を一般の市場に卸す役目であった。
    これが奈良期の「部制度経済」であったが、その後、「和紙生産」が本格生産に成り、増加して「朝廷余剰品」が大量になり、これを許可を得て市場に売り捌く役目も担った。
    これが「青木氏の二足の草鞋策」の氏族としての正式な始まりであり、これを以って「賜姓五役の財源」とする事を求められたのである。
    記録でこの時期が925年頃と成っている。)

    「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」のこの三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

    個人情報保護の観点から、系譜や血縁関係の資料等を公的に出す事が出来ないが、上記のこれも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。




    > 「伝統シリーズ−35」に続く。


      [No.352] Re:「青木氏の伝統 33」−「青木氏の歴史観−6」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/04/18(Tue) 15:04:54  

    > 伝統シリーズ 32の末尾
    >
    > > (注釈 もう一つその理屈があった。
    > > 「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
    > > 「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
    > > それは「開幕の資格」の「武家の頭領」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
    > > 朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、「朝廷の伝統」を護った。
    > > 然し、その事で「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の頭領」では無く、「武家の長者」として代替した。
    > > 「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
    > > 要は「武家の頭領」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
    > > 重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が採れなかったのである。
    > > 従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
    > > 「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って「正当な家臣」と成れるようにした。
    > > 従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
    > > 中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
    > > これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)


    「伝統シリーズ−33に続く。



    参考として、青木氏が歴史上の路を走りに走った形跡として、確定できない「青木氏の歴史観」が未だ有るので、ここで論じて置く事にする。

    前段で論じた「青木氏」が「多くの殖産」で開発した早場米の「早稲光」と「光稲」は、その形跡を辿ると先ずは関西域に拡がり、次ぎに東北地方にも拡がったとされる。
    新潟県で昭和六年に開発された「水稲の極早場米」の「農林一号」の「親米」の基が、「早稲光」、或は「光稲」とに成っていると云われている。
    この「農林一号」のこれが後の「農林22号」と交配して「新潟米のコシヒカリ」と成り、全国26県に配られて拡がった事が判る。
    この「昭和6年に登録された農林1号」は、「寒冷地水稲」であり、「極早生種」で、「食味」もよく「多収量品種」であったとし、「耐冷性」を持つ事で有名であるが、その「稲の特性」は「青木氏」が殖産として開発した「早稲光」、或は、「光稲一号」に一致する。

    そもそも「森多早生(1913)+陸羽132号(1921)」がこの「農林1号(1931)」である。
    この「森多早生(1913)」の「親米」の「東郷2号(1901)」には、「早生米」があって、これが「基米」(伊勢の「早稲光」)と考えられる。
    ところが、江戸期の米種に付いてここから以前は辿れない。

    この「東郷2号」(1901)の凡そ「150年前」に「早稲光」、或は、「光稲一号」が伊勢で開発されて、「越前青木氏」と「越後青木氏」を通じてこれが越前越後域に移されている。
    とすると、この事から考えると、「光稲一号」が移されていれば江戸末期から明治期初期にかけて改良された「光稲二号」も移されているであろう事が判る。

    この「早稲光」、或は、「光稲二号」から観れば、「東郷2号」(1901)は15年から17年程度後の米種である。
    越前、越後域に移植され広まったとすると、つまり「20年以内であろう事」からすると、越前、越後で20年間生産された「早稲光」、或は、「光稲一号」、或は、「光稲二号」のこれを「親米」として「東郷2号」(1901)が生まれた事が充分に考えられる。

    「森多早生(1913)」は、福井、山形、青森の北陸一帯域に生産されていた「早生種」である。

    資料は見つからないが、この「・・ひかり」と命名したのは、江戸期に「青木氏」が開発したこの「早稲ひかり」、或は「ひかり稲」で、明治期の早い時期にも「青木氏」に依って「光稲二号」としても改良され、「酒米の大和」にも成っているが、「新潟酒の源米」も含めてこれが「基本米」(親米)に成って居た事からではないかと推測している。(研究中 記録が少ない)

    上記した様に、当時、「四大杜氏」の一つと呼ばれれた「越前の青木氏」から職人を招いて“「伊勢酒」”を開発したのである事から考えると、又、「新潟」はそもそも「秀郷流青木氏」と、逃避してきた「賜姓臣下族青木氏(諏訪族系青木氏)」の「最大の定住地」でもあるとすると、「早稲光」、或は、「光稲」は少なくとも「越後の青木氏」には移されている筈である。

    前段で論じた様に、この「殖産」を「商業組合」としての「15地域」に広げた事から考えると、「米移植」は、前段で論じた様に、「地権者」で「氏上さま」であった事から考えても先ずは間違いは無いだろう。
    この「早稲光」、或は、「光稲」は、「青木氏の定住地」として、伊勢、紀州、奈良域は元より琵琶湖域や、淀川域や、灘域や、美濃・信濃域にも広がりを見せた事は記録としても遺されている。
    この事から、定住地としてのその先の「越前―越後への拡大」も充分に考えられる所以でもあると観ている。

    そこで、江戸では同であったかと云う事であるが、室町期までとしては150万町歩、米生産量は約1800万石程度だったものが、享保時代になると、耕地面積が倍化して300万町歩、米生産量も50%増しの2600万石に成った。

    そこで、この事に依って庶民も「経済の発展」と「生産量の拡大」で“「白米」”を食べる様に成り、「炊き方」も“「蒸す方式」”の古来の“「こしき方式」”から“「せいろ方式」”へと移り、遂には“「炊く方式」の「窯方式」”になった時代でもあった。

    これは、「米種の改良」に依って出来た「炊く窯方式」に変化したのであるが、関東平野では享保期に「全国各地の米種」が多く試され、その中に「伊勢」から持ち込んだ「早場米」が在ったと記されている。
    享保期の「吉宗と青木氏」は、「伊勢平野の環境」から考えると、「赤城の山おろし」が吹く「荒川域の河川敷」を「酷似の適地」として生産された可能性が充分に有る。
    況や、よって前段で論じた「青木氏等の享保の改革」が推進したのである。

    「享保の改革」では、「米本位の幕府の財政」に影響する「米増産」と、その「米相場」も改革をした事から「米将軍」と呼ばれた位である事から、「吉宗−青木氏」に依っても伊勢の「早稲光」、或は、「光稲」は持ち込まれた事は間違いは無いと観られる。
    又、上記の北陸域からも「六地域の商業組合」に依って、「越前と越後の青木氏」に依って「早稲光」、或は、「光稲」の「改良型」の「早生米」が入っていたとも充分に考えられる。
    唯、どの程度の「使用量」であったかは判らない。

    そこで、この「使用量」を割り出す為に、「江戸期の享保期以後の状況」を調べると次ぎの結果と成る。
    先ず関東では、類似種を含めて米種は、「63種」、この内の「・・ひかり」は7国に、13地域に分布しているが、主に「ひかり種」はたった2種である。

    「早稲光」、或は、「光稲」が生産されたとする「適地域の湿原域」の「武蔵域」が主で、この地域の「・・ひかり」は殆ど「ひかりの2種」のみで、他の米種は少ない。

    米種の多い国は、全体の3地域、つまり、上記の北域3地域で45種/63種と80%で集中している。

    「関東の山裾」の「山間部」の三地域(茨城・栃木・群馬の3地域)が、これだけの「多品種の米種」が生産されていると云う事は、如何に気候的、且つ土壌的に適合性が無く厳しかったかを物語る。
    つまり、収穫量の多い「良質の米種」に恵まれなかったと云う事である。
    逆に云えば、これは北域の山岳部の裾野平野は、土壌と水質が良いにも関わらず未だ気候的に適する米種が少なく、尚更に、河川の洲域に開発された「早稲光」、或は、「光稲」の子孫米の「明治期のひかり種」の生育にも適していなかった事にも成る。

    これから観ると、矢張り、「早稲光」、或は、「光稲」の「子孫米」と考えられる「明治期の・・ひかり」は、資料から観ると試験栽培と研究開発を余りせずに、全て「赤城おろしの環境」に適した水質の良い「荒川の河川流域の洲域」に生育した事に成っているので、享保期に間違いなく「伊勢」から移されたものと考えられる。

    それが「享保期の記録」を改めて調査した「明治期の統計」で「親米」が「ひかり稲」である事で「・・ひかり」が用いられたと考えられる。

    従って、使用量は、「2種/63種」から2600・2/63=「83万石程度」と、三地域分を加算すると「90−100万石程度」が生産されていた事に成る。

    荒川域の当初は、酷い「河川反乱と塩害の被害」があって、江戸幕府は「河川工事」と「改良工事」に「莫大な費用」を投資したと記されているが、「米種の改良開発」と「試験栽培の事」は書かれずに、この問題の「二つを解決した事」で被害は解決して増量したと記されいる。

    前段で論じた様に、綱吉の時期に比べて享保期では、「生産面積」は倍化し、「幕府の石高」の取得料も200万石から400万石に増加している。

    つまり、差額分200万石は、荒川河川域の改良工事の為に収穫量が増大したものであって、その内訳は、結局は、「武蔵域(埼玉・東京)」の「・・ひかり」の「親米の生産量100万石」と「山岳部の100万石」と云う事に成るだろう。

    これから観ると、「・・ひかり」は100万石/400万石で「25%程度の収穫量」と成る。


    では、どの程度の収穫量が良かったのか、況や、何故、「早稲光」、或は、「光稲」の「子孫米」のこの「・・ひかり」の「米種」を選んだのかと云うと、次ぎの様に成る。
    「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が、他のどれよりも優れていた事を示すデータがあるが、これが同時に選ばれた理由なのである。

    上記した様に、享保期の遺された資料には、「耕作地」が元禄期の「150万町歩」から享保期では「300万町歩(平方)」に増加したので、「増加分は150万町歩」と成る。
    そうすると、享保期の関東域全域は32300K平方、南関東域は13300K平方である。
    とすると、「南関東域は41%」である。(南関東域は伊勢北部域の環境性に一致している。)

    この「41%の生産地・耕作地」に「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が生産されていたとすると、次ぎの様に成る。

    150万町歩・0.41=61,5町歩として計算すると、これが100万石に相当する。

    南関東域外 88.5万町歩−100万石 : 南関東域 61.5万町歩−100万石

    そうすると、一万町単位当たりでは次ぎの様に成る。

    南関東域外は 1.1万石/万町歩  南関東域は  1.6万石/万町歩

    これで「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」は、明らかに相当量に収穫量が高い事が判る。
    依って、「子孫米」の「・・ひかり」の「早稲光」、或は、「光稲」が選ばれたのである。

    これでは「伊勢の実績」もあり、この事から「為政」に携わっている「青木氏と吉宗」は、そもそも、「早稲光」、或は、「光稲」を江戸の「荒川の河川敷の米種」として選ばない方が“何をやっていたのだ”と成って立場がおかしい筈である。
    そうなれば、意の一番に「適地適米の条件」にありながら放置する事の事態がおかしい。

    そもそも、このデータで観る様に、享保期には、当時の関東には、「早稲光」、或は、「光稲」以外に、類似米種を除いて29種あった。
    現在では8種である。
    従って、「幻の米種」(21種)と成ったものも含めて、この「29種」(全30種)に打ち勝って「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)は選ばれていた事に成る。

    上記した様に、「米の改良」と「炊き方」の進化で、庶民も「生活習慣」が変わり「白米」を食する様に成り、「享保の改革」も進み増産を余儀なくされていたのだが、この「幻の米種」(21種)の数は、この享保期では、「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)も含めて如何に米増産に本腰を入れて取り組んだかが判る。
    この「研究開発」を除き、「各種の米種の苗付」が、白米の使用と開発の速度に対して「研究開発」では間に合わない事から各地から取り寄せて多く試植されていたかが解る数の事に成る。

    上記のデータは、「米将軍の吉宗」は、この自らの故郷の「伊勢の青木氏の殖産」で開発した「早稲光」、或は、「光稲」(「・・ひかり」)に対して「享保の改革」に寄与する事を期待していたかが解るデータである。
    庶民から「米将軍の呼称」を受けたのは、大阪と江戸に「米相場を開設」をして安定化させただけではなく、此処にその根拠もあったのである。

    さて、「享保の改革」に関する「青木氏の歴史観」は、暫くとどめておくとして、次ぎに、この「改革」の中心と成っていた“「射和組」と「松阪組」”がどの様になっていたのかを掘り下げて置く必要がある。

    そこで、先ずは、「伊勢」でのこの「射和組」と「松阪組」の「青木氏との関係」「加納氏との関係」は、血縁的にはどの様に成っていたのか気に成るところでもある。
    この事は、「伊勢衆」の「郷士衆」との「繋がり具合」を証明する事にも成り、江戸以降の「伊勢の生様」が良く判る事にも成る。

    そもそも、この事で「全国の青木氏」が定住する地域で同じ様な事が少なくとも起こっていた事であり、取り分け「商業」をベースに「二足の草鞋策」を成功させていた「15地域」ではこの様な「地域性のある出来事」が起こっていた事が地域毎に遺されている資料でも判る。
    これは特異な事では無いのであり、「青木氏の歴史観」が増幅させられる事でもある。

    ただ、「二足の草鞋策」を敷いていたこれらの地域では、次ぎの様な事があった筈で、「研究の過程」では常に痛感する事であった。
    何よりも、その「15地域の商業組合」には、必ず「商業」と「地域の特徴」を生かしたもので”「殖産」”を必ず敷いていた。

    所謂、これが当時としては特別な進んだ「共通点」であり、現在で云う「生産から販売のシステム」である。
    この「共通点」は、平安初期の朝廷の「紙屋院での余剰品」を「部市場」に販売した時から始まったものであり、この「殖産(生産)と商い(販売)」は、925年の頃から始まったとされていて、その50年後頃には「秀郷流青木氏の補完」を受けて更に拡大したもので、“日本広し“と云えどもどの商業にも無いシステムであった。

    そもそも、これ程、古い悠久の歴史を持っている「商い」は他に無い筈である。

    単純に「生産者」から「現物」を購入してそれを「販売する」のではなく、「地域」に「根」を下ろし、自らが「商業の進展」「時代の要求」に合わせて、「殖産」で「生産」も拡大させるという「商業と興業」の「組み合わせのシステム」である。
    この「殖産」が拡大すればするほどに「氏子」は潤う。
    「氏子」の「郷士と農民」は、「享保の改革」で論じた様に、中には伊勢の紙問屋の伊勢屋の”「仏施の質」”を受けて「農業」の傍ら家に「仕事小屋」を作り、「田畑勝手作の令」の枠を掻い潜り、他の村からも「人」を集めて「下請けの村工場」まで営んだと書かれている。
    それは前段でも論じた「氏上と氏子の関係」、「古式伝統の維持」の上に立っている。
    それを重厚にする為に「商業の組合」で固めた方式である。

    そこで、その典型的な殖産の事例として、次ぎの様なものがある。

    伊勢の「射和組」には、「殖産」として“「金山寺味噌」”をベースに“「醤油」”も手掛けていた事が判っていて、この“「日本最初の発祥地でもある醤油」”は、元は「紀州湯浅地区」が「生産地」で、この「醤油つくり」が「紀州藩の肝いり」で「松阪」にも移した事に成っている。

    注釈として、「伊勢」で行われた「殖産の事例」としては、次ぎの様なものがある。

    そもそも、この「醤油」とは、次ぎの様な経緯で産まれた。
    「金山寺味噌」と云う「紀州名産」が古来よりあって、「中国の金山寺」から僧侶が持ち込み、「日本金山寺」で「僧侶の副食の精進料理」として食されていた。
    「味噌」と云う言葉があるが、「みそ製造」と同じ方法で作られ、その中には、当然に「豆」と共に「麦や茄子や胡瓜」等の実野菜も一緒に漬けられて、その上に重石を載せて暫く麹菌で発酵させてから豆と共に食するものである。
    “「味噌」ではあるけれども「味噌」では無い“と云う風な要するに当時の「副食」であった。

    これを漬けている時、この「漬け樽」から「薄茶色い透明色の液体」が出ていた。
    これをある時、食した時に実に美味い味を出す事が判り、「僧侶」がこれを集めて精進料理に加えたところ、抜群の味を出した事から、「檀家衆」が興味を示し、この「うま味の液体」だけを造る事にして、販売したところ爆発的に売れ、これに「醤油」と名付けて販売した。
    これが紀州湯浅で生産され、後に、「高野山の精進料理」に利用され、宿坊などで出されたものが噂が世間に広まり、これを吉宗等が「商業組合」を通じて本格的生産として「関東の野田」にも移したのが「野田醤油の発祥」である。
    上記で詳しく論じなかったが,これも「伊勢紀州の殖産興業」の一つである。

    当然に、この「湯浅の殖産」から隣の「伊勢の殖産」にも「青木氏」は直ぐ用いたのである。
    この「湯浅の醤油」の製造元と成った「伊勢紀州に広く分布する郷士」の一つ「玉置氏」とは、「伊勢の紙問屋の家」(伊勢青木氏)は二度も縁者関係にあった事は判っている。
    この「紀州の郷士」の「玉置氏の末裔」が、「伊勢」にこの「醤油の殖産」の為に、「伊勢」に移って指導した。
    (この末裔が「伊勢郷士」と成った。)

    この意味では、「伊勢郷士」とは「青木氏とは繋がり」を持っていたが、「射和商人」の代表的な商人の「富山氏 国分氏」(伊勢衆の郷士)との「繋がり」は不思議に伝えられていない。
    伝えられていないと云うよりは“「記録が消失した」“と云う事に成るだろう。

    恐らくは、これは「吉宗の御側用人4000石の加納氏」が営む「加納屋」との関係が在ったがこの新宮にある「加納氏の分家筋」に遺された資料の関係から判る。

    そこで、この「加納氏」についても合わせて論じる事として、「青木氏」と共に「吉宗の育て親」と成るには、「御側用人の立場」だけでは成し得ず、矢張り、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」(加納屋 商業組合)で「殖産」をするしか無くこれに取り組んだのである。

    実は、「伊勢商人 紙問屋伊勢屋 伊勢青木氏」とは、この「加納氏の加納屋」とは何度も血縁関係を結んでいる。
    この様に「商い」を含め、「紀州徳川氏との関係」(加納氏は紀州藩家臣 青木氏と共に「吉宗育親」)を軸に深い親交があった。

    筆者の父の祖母、つまり、筆者が曾孫に成るが、加納氏本家から嫁している。
    その意味では、「射和商人」(伊勢郷士)との間接的な関係にあった事は否めない。

    前段でも論じた様に、「射和組の商い」は、そもそも、「紀州藩」と「青木氏」や「加納氏」の「肝いり」で「殖産」し「商い」にしたのであるから、「女系」で繋がっている事は充分に考えられる。
    ところが不思議な事は、”「射和商人」”が江戸の「享保の改革」には余り登場しないのは、これは前段で論じた通りで「商業組合」に「不参加」であった事からであるが、これだけ「家との繋がり」のある中で思えば、これも「伊勢人」としては「伊勢の不思議な現象」の一つとも受け止められる。

    同じ「不参加の組」の伊勢に来た”「近江組」”は、”「射和組」”と違って「享保の改革の恩恵」を受けて1765年代に江戸に参加したのに、それでも頑としてこの”「射和組」”は江戸に参加していないのである。
    確かに、「青木氏との確執」もあって「不参加」を決め込んでいた”「近江組」”も「江戸の伊勢屋の成功」を観て、“それじゃー我々も“と勇んで「過去の確執」を乗り越えて、「商い」に徹して「伊勢屋の助成」を受けて成功した。

    確かに、前段で論じた様に、「頑固な門徒衆」を抱えていて思う様に行かない事は判るし、”「近江組」”の商人と違い「性根」は根っからの「武士」である事もあって、その「伊勢武士の感覚」が先行して「商い」に徹すると云う事にも成らないだろう。
    筆者側に資料記録が少ないのも、確かに「出火焼失」もあるが、これには何か腑に落ちない。
    それは「伊勢射和の南」に流れる「櫛田川の河川敷」で行った「米殖産」だけの資料はあるのだが、何なにか疑問である。

    矢張り、“「武士」であると云う概念”が表に出てそれに縛られる事が強かったとも取れる。
    郷土史によると、「射和地区」の「商い」の「商業組合全体」で留まった事が判っている。
    「二足の草鞋策」を採っている事から「武士」である事には変わりはないので、その「武士の誇り」は捨てきれない共通する集団であった事から、「射和の結束力」は相当なものであった。
    この「江戸初期からの商店街」の街並みと慣習(御師講の仕来り おんしこう)が現在も古式豊かに遺されている。
    これが「疑問や不思議の根源」ではないかと云える。

    と云うのは、「松阪組」の「紙問屋」は「紙関係」は勿論の事、「リサイクルや骨董品」などまでの「総合商社」を営んでいた。
    それには「殖産」を調べれば判る。
    どの様な「殖産」を興していたかは次ぎの通りで、先ずは地元の大きく成った“「伊勢殖産10品」”と呼ばれていたものには次ぎのものがあった。

    ・「伊勢殖産10品」

    「伊勢和紙」
    「紙箱などの紙製品」
    「伊勢米」
    「伊勢絹」
    「伊勢醤油」
    「伊勢陶器」
    「伊勢白粉」
    「伊勢豆紛」
    「伊勢木綿」
    「伊勢酒」
    「伊勢菜種油」

    但し、「紀州藤白墨」と「紀州硯石」は、室町期までは「天皇家の専売」から、江戸期には「徳川氏の専売」の「専売殖産品」と成っていて、一度、「専売先」に収めた後に、「余剰品」を市場に販売する「部市場方式」を採っていた。所謂、「国営」と云う処であろうか。

    以上の「伊勢殖産10品」は、「青木氏の殖産」として扱ってはいたが、摂津と近江の他国の豪商も一部で関わっていた事が判っている。
    又、中には、伊勢人の中で「紙問屋の青木氏」との連携での「二次殖産」の形(現在の外注)も確認できる。
    「他国の商人」は「伊勢の特産」では無く、主にも全国的に通常品としての需要の多い「菜種油」や「木綿」に需要を何とか賄う事の為に「直接の殖産の形」ではなくとも「何らかの関係」で関わっていた事は否めない。

    この他には主に「紀州の殖産」に関わったものとして「南伊勢」には次ぎのものがあった。
    歴史的には平安期からのものが殆どである。

    ・「紀州殖産五品」

    「伊勢墨」 初期は和歌山県海南市藤白地区から次第に日高地方に生産は移動した。
    「紫硯」 初期は上記の海南市の山岳から主に日高川沿いに生産地域は変化した。
    「伊勢炭」 生産手法は、「伊勢墨」と同じで、紀州名産の「姥樫木」から作る「備長炭」である。
    「線毛筆」 南紀の新宮地域とその山域から伊勢南部域の村郡に家内工業的に分布した。
    「青庭石」 高級庭石として紀伊山脈全域に分布し生産された。

    何れも「紀伊山脈の山質」に関わる「産品」で、これを応用して「殖産」は進められていた。
    中には、昭和20年代まで生産されたものもある。
    そもそも、紀伊山脈は海底より迫り上がって出来た「古い山脈」で、その為に硬質の「黒硯石」や「青石」や「紫石」が採れる。
    従って、「石英岩石」も多く、中には石英の結晶の「水晶」も「飾石」や「印鑑石」としても「殖産」されていた事が資料からも判っている。(我家に当時の古い現品保管)
    庭石などの目的で「青石」を切り出した際に出来る粉からそれを集めて「セメント」も生産されていた。

    これらの現物はあるが、何らかの説明の資料や記録関係のものが遺されていれば良いのだが、焼失で無く成っているので、更に、詳しく辿る事が残念ながらなかなか出来ず、「伊勢殖産10品」や「紀州殖産五品」等の販売だけに関わった「肝心な射和組との血縁関係」を確実には立証出来ない。
    これ等を「射和組」は「二次殖産」もしていた。
    これらの・「紀州殖産五品」の殖産の産品は、大量販売は無理で、故に江戸に出なかった事も考えられる。

    そもそも、1000年以上も古くは「奈良末期」から、鎌倉期から江戸期までの言葉として、為政者達からは、“「伊勢の事お構いなしの定」”に依って護られていたので、「為政の影響」もあまり無かった筈である。

    「古の血縁関係の立証」とは別に、「伊勢」と云う少ない「土地の郷士との関係」を深く持っていた事は確認できているし、この「射和の伊勢郷士」との関係も掴めているので、「青木氏」を背景に、上記した様に、この「射和郷士」が江戸初期に「商い」を始めた事も判っている。

    (注釈 そもそも、“「伊勢の事お構いなしの御定」”とは、「天智期の詔勅」と「嵯峨期の詔勅」で与えられた「不入不倫の権」の事が基本に成って、江戸幕府等からも「伊勢」で興る「問題」についての「政治的な処置」に対しては、特別に「優遇処置」を講じる事の「御定書」が改めて出されていた。この事を為政者にはこの様に呼称されていた。前段記済。)

    恐らくは、「射和郷士」とは、「伊賀氏、北畠氏」等の滅亡した「豪族の家臣」が殆どこの「郷士」であった。
    この中で「室町期末期の戦乱」で家は飛散し、「青木氏の保護」の下で「伊勢シンジケート」の中で「生活の糧」を得て何とか生き残ったが、その末裔が「商い」に転じて「射和商人」(門徒衆含む)と成り得て、20氏程度が「子孫」を繋いだと観られる。

    従って、「事の流れ」から云えば、この「伊勢全体の郷士集団」(伊賀郷士含む)とは、古くから親交が有って、「四家の青木氏の末裔」が、「四家制度」に従って“「家人」”に成って、これらの「郷士族」と血縁していた事が充分に推測できる。

    依って、更には、これらの「伊勢郷士」は、平安期の「清和源氏の河内勢力」の関西域の「勢力拡大」の「混乱」もあって、「青木氏の伊勢シンジケート」に入って身を護った。
    この様な背景で「伊勢シンジケート」を構成していたので、恐らくは、元は「伊勢郷士」であってその中でも名を残した「富山氏」とか「国分氏」とかは、状況証拠から鑑みて、「血縁の繋がり」を持っていた事は間違いはないと考えられる。

    そもそも「江戸期の商人」の元を辿れば、殆どが「郷士」であった。
    取り分け、「伊勢商人の松阪商人」は少なく成った「郷士」であった。(伊勢シンジケートが原因)

    この様に、江戸初期には、伊勢に上記した様な事件があって、「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していた「郷士衆」、つまり、「伊勢衆」は「青木氏の援護」の下で、「商い」を始めた事が判っている。
    その「商い」は、全て「青木氏の総合商社」(江戸伊勢屋)が扱っていた事も判っている。
    恐らくは、記録にある“「この時の事」”(「室町末期の混乱」から「江戸初期の安定期への移行」の事を言っている)が“契機”と成って、“「射和組」”として編成されたものである。

    これらの記録の一つとして、「伊勢の歴史的なの功績」を遺した「伊勢藤氏の伊藤氏」は、平安期の「古来の藤原氏」で、この地に定住していた氏である。
    そもそも、その始祖は「伊勢守」の「藤原の基景」で、「藤原秀郷の八代目」に当たる。
    この「伊藤氏の末裔」が書き遺したものには、この“「射和商人の事」”が書かれている。

    実は、この「伊勢の伊藤氏本家」(伊勢の藤氏で伊藤氏)筋とは、「筆者の伊勢青木氏」とは血縁関係にあった事は承知していて、その末裔は義理の従兄弟であった事も承知している。
    諸々の「青木氏の口伝と記録」に依れば、この「伊藤氏」が「射和組」に関係していた事も承知している。
    ところが、前段で論じた様に、「射和組の家筋」からの「記録」は把握しているが、如何せん、“「青木氏側の遺品」“には、「口伝」はあるにしても「射和組」に関する”「確証する資料証拠」“は見つからない。
    これは恐らくは原因は「明治35年の出火焼失」であろう。

    これに関連する「伊勢陶器」等の「先祖の遺物」は多く遺されているにも関わらず、何か「遺された手がかり」もあるかも知れないが未だ紐解く暇がなく立証できていない。
    依って、本サイトでは「青木氏の歴史観」としては、筆者も“「射和の関係」”はそれまで余り触れなかった事柄であった。

    然し、“「伝統」”と云う点から、判る範囲で敢えて書き遺しておく事にした。
    「伝統シリーズ」では、既に、一部では触れてはいるが、そこで、もう少し「射和商人、射和組」を論じて置く。
    それは,何も「伊勢の事」だけの話では無く、「全国の青木氏」にも「15地域に商業組合」を広めたが、この事から「郷氏としての同じ伝統」を引き継いでいる事もあって、ほぼ「同様の事」が起こっていた筈であるからだ。
    故に、その結果を、「伝統シリーズ」に反映させたいと考える。

    「伊勢青木氏の系譜と添書」の殆どが「明治35年の出火」で消失してしまったので、曾祖父や祖父の遺した「忘備録(仮称)」での確認と、「伊勢紀州郷士衆等の関連氏の資料」から成る。
    これだけでは不充分で「青木氏側」からの「射和の関係」が、現在では最早、掴め切れない。
    実は、前段にも書き記したが、「射和組との関係」があった事は、充分に判っている。
    然し、この焼失や消失による「資料不足」にて、どうしても全体を明確にするところには辿り着けないで、状況証拠にては推論は立つが、それを解明する「確証」も掴めない事がある。

    その原因としては、「青木氏側」のみならず、「伊勢郷士側」も「室町期の混乱」で、この世の事と思えない「殺戮と焼失と消失の混乱」を受けた事からからそれ以上に資料は激減していている筈である。
    この時期は、「記録・資料の保存」の主な殆どは、氏の菩提寺」や「守護神の神明社」などが、前段で論じた様に、祐筆等を務めていた為に担っていた。
    従って、それは、「室町期の混乱」に依って、周囲の“「伝統」“と云う「意識概念」が低下して、恐らくは、疑う事無く「記録壊滅」であった筈である。

    この「室町期末期の事」のみならず、「明治期初期の混乱期」や「昭和初期の戦争に依る混乱期」等の「社会の外的な原因」に依るものと、現在でも、違う意味で「社会の内的な原因による混乱期」もあって、「伝統と云う概念」の「意識低下」が起こっている。
    そして、「著作権や個人情報」の様な「法的拘束力」に依っても、更に「意識低下」が起こり、尚且つ、「調査や原稿の執筆」にも表現が左右されて難しく成っている。
    現在ではこれらの原因で、世代を一つ超えると、最早、口伝等の「無形情報」や「物的情報」さえも「価値意識」が低下して完全に無く成っているだろう。

    この侭に放置すれば、多分、論じる限界を超える。
    「青木氏の研究」の中の「伊勢地区の研究」を何としても十分にして置きたいと考えているが、如何せん“「伊勢衆の事」の資料”が、「商記録」と「口述」と「伊勢と紀州の郷士衆の遺品」以外に見つからない。
    有っても「江戸初期の搾取偏纂」の「半強制的な仕儀」(「黒印状」が原因)のものしか無く、信頼に値しない。
    「青木氏側」ではある程度の繋がりの事は判るが、「射和組」の「郷士側」の確かなものが見つからない。

    (注釈 京都には実に“「古い古美術商」”があって、「青木氏」も長い付き合いの合った「京商人」でもあるが、この歴史書の様な「古い古美術商」は「ヤフー」にも投稿してHPを持っているが、その「研究」では「伊勢の事」は充分に知っている筈であるが「ある部分」で詳細を欠いている。)

    この原因は、取り分け、「射和」に関してはその本筋の原因は判っている。
    「織田氏の伊勢三乱」に依って、「修羅の様な戦場」と成った事から大きな影響を受けた「伊勢衆」の基には「遺された資料関係」が少ない事から来ている。
    そもそも、因みに「織田氏と伊勢衆との戦い」は、上記した様に、両者ともに公的記録で明らかにされている様に、「村が6割全滅」「2万の織田軍が9割全滅」「伊勢寺の僧侶の7割が死亡」「村民6000人が死亡」する等の「激しい戦い」と成った。
    「ゲリラ戦」が主体と成っての「醜い戦い」であったので、それに対抗する為に「織田軍側」は、相手がはっきりしない事から、徹底した「焼き払い戦法」を使った。

    この時、丁度、「石山本願寺の戦い」も同じ「紀州、河内、大和、伊勢地域」でも、「一揆とゲリラ戦」が起こっていた。
    「織田軍側」は、この「二つの戦いの区別」もつかなくなっていた。
    「伊勢」では、“「焼き払い作戦」”で多くの「農民」や少ない「郷士衆」が滅亡したし、「郷士に関する記録」も消失した。
    その後、これでは終わらなかった。

    それは秀吉に依る“「紀州征伐」”が更に起こった。
    徹底した“「郷士狩り」”と云う事を遣って退けると云う事が起ったのである。
    更には、「武力の反抗」を無くす意味から「郷士等の刀狩り」も行われ、彼らの「生活の余力」を無くす目的からも「検地」も行われ、「伊勢郷士衆」は、「武器」や「土地」を奪われ「丸裸」に成った。

    この事が、「郷氏」に及ばず、取り分け、「織田軍や秀吉」に攻められて農民や庶民が「街並み」の中まで逃げ込んで来た事で、これを殲滅させる為には無関係の者との区別が着かない事で「街並みの焼き払い作戦」や逃げ込み先の「寺」などを取り囲みの「焼き払い作戦」を実行した。
    逃げ出て来る者は容赦なく殲滅すると云う酷戦に成った経験を持っている。
    これが原因して「射和組の遺された資料と記録関係」は例外なく消滅したのである。
    口伝に依ると、「伊勢の紙問屋」の「玉城の職人長屋や蔵処」にも逃げ込んだが、流石に「青木氏」には攻撃は無かったと伝えられている。
    大義的には、「天皇家の祖のお伊勢さま」を攻めるという避難を免れない事を恐れたからではないかと考えられるが、注釈 唯、「青木氏の菩提寺」に逃げ込んだ者らは門前で責められて被害を受けた。

    (注釈 但し、中まで攻込まなかった。「伊勢の藤原秀郷流青木との関係」の深い「伊勢攻め大将の「秀郷流近江藤原氏の蒲生氏郷」の関係も有った。)

    「青木氏」が「伊勢の経済」を担っていた事を租借して、”これに被害を与える事は避けた”と口伝では伝えられているが、もう一つあったと考えている。
    筆者は、確かに「経済力の懸念」もあるが、別にも、前段で論じた様に、影で動く「武力勢力」の“「伊勢のシンジケートの力」が、これ以上に動くと”「逆効果」”と成る”と「織田氏側」は観たのではないかと推測している。
    「青木氏」を背景に「伊勢シンジケート」と「伊賀者」との「共同作戦に依る武力」を持った「ゲリラ戦」が起こると困ると考えた事にもあるだろう。

    (注釈、秀吉に裸にされた「伊勢の郷士」がこの伊勢シンジケートに保護されている現実があった。)

    (注釈 この伊勢シンジケートの実力は歴史的に裳有名で、彼等には「足利氏の10万の軍」を「餓死させた戦歴」を持っている。)

    その意味でも「射和の存続」が殲滅までに至らずに働いたのである。

    (注釈 明治期に成って「伊勢の射和の事」に付いて「江戸中期頃の復元」が試みられたが、参考とした資料に搾取が在ってこれを基にした為に可成り矛盾が多い。)

    その後、最早、追い込まれた「射和」は、これでは生きて行けないと成り、結局、「伊勢四衆」と呼ばれる「青木氏」等が援護して、庶民も含む生き残った者等(「戦いに参戦した射和郷士」)にも「土地のものを活かした殖産」に加える事にしたのである。
    室町期末期には「青木氏」にも残念ながら防ぎ切れなかったのだが、「伊勢の射和組」にはこの様な「辛い歴史」を持っていたのである。


    注釈として、前段でも論じたが「本格的な戦い」を避けなければならない「青木氏の氏是」の「縛り」もあった。
    それでも半分は「青木氏の氏是」を破った「最大限の影の戦い」にした「名張の戦い」や「伊賀の戦い」の「救出作戦」が在った。

    「射和」も「人の子」であり、矢張り、人情的には江戸初期前後に護ってくれる筈の「青木氏に対する多少の怨念」があったと考えられ否定は出来ない。

    然し、前段で論じた様に、これ以後には、20年後に「紀州藩の初代頼宣」も「援護の手」を差し伸べて、「青木氏」と共に、要するに、“伊勢を復活させるべく取り組み”が始まったのである。
    そして、この「伊勢の殖産」を生き残った「伊勢衆の射和郷士」等にもやらせたところまでは記録から判る。

    「青木氏に対する多少の怨念」は、この「殖産と興業化」で多少は霧消したとも考えられる。
    それでも「商業組合」に参加しなかった事から考えると、この「青木氏に対する多少の怨念」は未だ多少は引きずっていて、その“「怨念」“は「享保期の直前」の「紀州藩吉宗入城」まであった事にも成る。
    つまり、「吉宗」は、この「青木氏に対する怨念」に対して「紀州藩藩主」と「将軍」に成った時にもこの事を充分に知って居た事に成る。

    「吉宗」は、「伊勢の紙問屋と伊勢青木氏」に対しても、「江戸の商業組合」を指揮する上でも、何とかやり易くする為に、前段で論じた様に、「家康のお達し」に重ねて“「伊勢の事お構いなしの御定」”の「慣例の継承と強化」を指示したのである。
    この一例が前段でも論じた「伊勢奈良奉行時代」(山田奉行)の「大岡越前守の行」に成ったのである。

    そこで「青木氏」は、果たしてどのように殖産をしていたのかを説くと、江戸期に成っても地域別に分けると次ぎの「殖産と興業」を興している。

    「殖産地域−1」 伊賀地区、脇坂地区、上田地区、
    「殖産地域−2」 名張地区、松坂地区、四日市地区、
    「殖産地域−3」 員弁地区、桑名地区、
    「殖産地域−4」 射和地区、玉城地区、
    「殖産地域−5」 長嶋地区、新宮地区、尾鷲地区

    以上の5地域等にこの「江戸期の殖産」は分布している。

    「青木氏」が地主(地権者)として「紀州藩からの利権」を得て、ここには「青木氏の四家」「青木氏部」「青木氏の家人」「青木氏と関係する伊勢郷士衆」の一族一門と、「青木村の農民と職人」が定住しているが、この地区毎に土地に適した上記の「伊勢殖産10品」の殖産を進めたのである。

    この「殖産地域−4」の「射和地区」は、「櫛田川の水」を利用した「殖産」を、「室町期末期の混乱」から「伊勢復興」を兼ねて先ず進めたとある。
    それが、主には「伊勢殖産10品」の中で「射和地区」では次ぎの殖産であった。

    「射和の主殖産」
    (1)良質な水と川土に適する白粉花からの「白粉」
    (2)良質な水を活かした「醤油」
    (3)粘土質の土壌を活かした「陶器」
    (4)水車を生かした「粉の生産」
    (5)水分を多く含んだ土壌を好む「楮」と「和紙」

    以上をこの地域の地理性を生かした「殖産」にし、それを「青木氏」と共に「興業」にして販売するシステムまでを構築したのである。

    従って、この「職人と商人」を「伊勢商人」の「松阪商人」の中でも「射和職人、射和商人」と呼ばれた。

    これを「後押し」したのが「青木氏」であって、その為に、「徳川氏」から「青木氏」が古来より持っていた上記した「広大な土地の利権(地主) 5万石分」を“「本領安堵された」“とする考え方が「青木氏の記録と口伝」の中で読み取れる。

    (注釈 恐らくは、「青木氏側」では、この様な「暗黙の了解説(本領安堵の目的)」があるので、特に、「伊賀の一部」と「南紀勢域」は元より「遠祖地」であることから、其れに相当する行為であったと観られる。)

    それは「紀州藩飛び地領」に「紀州藩の財力」(現実に使えなかった)を先ず使わずに、「青木氏らの財力」を使う事の方が「郷士衆の少ない伊勢域」では、「総合的に得策」と観たのではないかと考えられる。

    つまりは、「青木氏側」ではその「見返り」として「本領安堵策」(地権)と成ったと考えていたのである。
    それを判断しその方向に仕向けたのが、同族の「伊勢の秀郷流青木氏」で「紀州藩の官僚軍団」であった。

    (注釈 充分な「下打ち合わせ」は「二つの青木氏」の中では有ったと観られる。
    そもそも、放って置いてもその様に成る環境でもあった。)

    (注釈 その代わりにこれ等を司る代償として、家臣では無かったが、「青木氏 郷氏」に紀州藩から“「12人扶持米の礼米」”を初代頼宣より支給されている事が何よりの証拠である。
    「青木氏」に執っては斯くたる「礼米」ではないが、徳川氏としては「建前」を採ったと考えられる。)

    つまり、「青木氏」は「室町期からの紙文化」の影響で「250万石以上の財力」(総合 500万石)を既に持っていたとされる中でのこの“「扶持米」”である。
    上記の事を物語る「形式上の礼米」であった事を物語る。

    そこで注釈として、この「礼米」は これは「紀州藩」が「伊勢青木氏」をどの様に見ていたかを示す一つのパラメータともなる。
    この“「12扶持米の礼米」”から、どの様な「扱い」であったかを考察して観ると、次ぎの様に成る。

    江戸期の「扶持米」の計算は、「一人当たりの米換算」で、「五合/日」と定められていた。

    そうすると、次の様に成る。
    「一石七斗七升/年」= 「4.5俵/年」と成る。
    4.5俵・12人=54表=21.6石

    この様に「青木氏の礼米」の程度は、「お礼程度の礼米」である。

    比較対象として、上記した様に、「下級武士の最低の生活」では、次の様に成る。

    「75俵−28両−37石」で、通常で最低「150石」必要と成る。(経費除く)

    「青木氏の礼米の22石  54俵」を「役職の手当」として観れば、「54/75俵」で7割と成る。

    「役職の手当」だけで「下級武士並」の俸禄に値する。

    当時の江戸の「旗本の扶持米」は、“「五人扶持米」”が最高級の「役職手当」で、現在で云えば「五人扶持」は大企業の次長か課長クラスである。

    其れから観ると、「12人扶持」は、次の様に成る。
    (12−54):(5−22.5)で約2.5倍である。
    5人扶持=22.5俵:8.5両:11石である。

    (1両―6−10万円MAX)であるとすると、「勘定方の指導役の公職」としては可成り高く扱われていた事に成る。

    つまり、現在の「役職の手当」として観れば、あるとして専務か社長クラスとなると考察される。

    「勘定奉行」(財政を担当する重役)を指導するのであるから、「扱い」としては納得出来る。

    然し、此処で問題なのは、この「礼米」が利益になるかと云うと、逆で、「青木氏」に執ってはそれ以上の何倍もの「出費」が起こる。
    当に、これは、「礼」に対する「米」が結局は「青木氏の出費(品)」であったが、これを「紀州徳川氏」は目論んでいたかは不詳ではある。
    「伊勢藤氏の家臣団」がある事から「単なる礼米」と観ている。

    さて、この「礼米程度」が「家臣の役職手当の知行」に相当する事としても、上記した「地域の土地の利権」を保証する「本領安堵」を受けている事から、仮に「出費」であったとしてもそれは大した問題ではない。
    恐らくは、出費の「勘定方の指導」をし、更に同時に、私財を投資して「殖産と興業」をするには、この「5万石の本領安堵」の「以上の出費」であった筈である。
    然し、殖産のそのものは「青木氏の私財投入」であるので問題では無い。

    それを更に賄えるものとして、この「殖産と興業」に依って生み出される「青木氏の商い」が在った。

    この状況はどの程度のものであったかと云うと、そもそも「紀州藩の家老」は、当時は南紀の「支藩 田辺藩1万石(この時は「城代の田所氏」等で観る)」であったが、これと「同じ扱い方」であった事に成る。
    参考として「地権では5万石扱い」と成っている。
    恐らくは、「紀州藩飛び地領」の「伊勢松阪域」も、「飛び地領」と呼称されていて「準支藩扱い」で、且つ、「支藩の田辺藩」と同じく「家老扱い並」として、「青木氏」に任していた事に成る。

    上記で論じたが、“「江戸初期に5万石以上の扱いを受けていた」”とするのは、この事から来ていると考察できる。

    「総合的な扱い」としては、上記した土地の「本領安堵分」を面積にして「米の石高」を推計して勘案すると、「1万石以上」を遥かに超えていたのでは無かったかと考えられる。
    そもそも「国の石高」とは、「米の収穫量」のみならず「殖産の生産高」も「米換算」で表現される。

    本論は「殖産」を論じている様に、その「殖産」の多くは「青木氏(「伊勢紙屋」)」の殖産」に関わっているので、「紀州藩の伊勢松阪分の18万石分」の公式分より「10万石」が「米の殖産」等で増産された事から、「28万石」の内の「殖産分」は、6割を遥かに超えていた事に成る。

    下記の面積計算からすると、「5万石扱いの大名格」と成るのだが、故に、幕府でも「享保の改革」の時には「吉宗」に直言できる立場とした「青木氏の永代の格式」は別としても、元々、石高でも「布衣着用」を許されていた事でも判る。

    「青木氏」の「江戸期の商い」を含めた「全資産」は、「250万石以上(株等含む総資産額 500万石)」と云われていた事から、「土地の利権分」としては、面積比で観て、「石高の四割」を基準に考えると、「5万石程度以上」のものには遥かに成っていたと推計出来る。

    これは、上記の「扶持米から見た扱い」からも判るし、「本領安堵分」から見た「5万石」と成るが、依って、これが「紀州藩」から受けていた「扱いの根拠」と成り得る。
    「石高換算」では、「紀州藩55万石」から観ての「扱い額」としては、「1/10程度の意味」を持っていた事に成る。

    実質は「1/2」と成るが、「青木氏の全資産」から観ると「紀州藩」(幕府借財)を遥かに超えていた事に成り、「郷氏の所以」としての立場が解る。

    (注釈 「明治初期の地租改正」で、この「本領安堵分の農耕の土地」は、全て「青木氏の絆青木氏」と、その下に働いていた農民に「無償下げ渡し」と成った。
    しかし、この時、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」も、農民に依る「維新政府の租税」の扱いに対する不満で、「伊勢と信濃の農民」が5年間も「伊勢動乱」を起こした)

    然し、前段でも何度も論じた様に、この動乱の「経済的背景」と成っていた。
    「信濃」でも「同じ伝統と環境」であった事から「動乱」が起こったが、「全国の青木氏の姿勢」が良く判る出来事である。

    (注釈 明治後も「養蚕」や「早場米の更なる研究」等で「農民の殖産」を自費で続けた事が伊勢市の記録にも遺されている。)

    つまり、「武士の扶持米」では、「知行分」に加算して「役職の手当」として支給されたが、「伊勢青木氏」は「紀州藩家臣」では無く「奈良期から賜姓臣下族」の「永代郷氏」であった。
    つまり、「超大地主の利権を持つ者」であった為、「知行分」は無い。

    そもそも「地主」は、土地から取れる「石高の4割」が「領主の租税の取り分」で、6割は「租税外」(地主と農民)として分ける仕組み(四公六民の制)であった。
    この事から「郷氏」とは、「平安期」までの「以前の元土地の領主」であった「身分格式ある氏族」を云う。

    そもそも、室町期中期より出自した「否認証の姓族」と違って、前段で論じた「氏族」とは、前段手も論じた様に、嵯峨期未完の「新撰姓氏緑」で分けられている様に、朝廷より認められた「公認族の事」を云い、室町期に勃興した武力を背景とした「姓族の豪族」に仕官せずに、平安期からの朝廷より認められていた「地権」をベースに「土地の郷士等」をまとめていた「氏で纏まる身分格式の族」を云う。

    そして、この「郷士」とは、主には「室町期中期から勃興した姓族」(1)で、小さい「土地の利権」を持つ「小地主身分」の「土豪」で江戸期の庄屋や名主や村主等がこれに当たる。
    「伊勢の青木氏」に関わる「伊勢郷士衆」は、「室町中期より多く発祥した姓族」(1)や、「連族の枝葉末裔の姓族」(2)とは異なり、「青木氏に関わる純然たる郷士の姓族」(3)である。

    ところが「伊勢」と「近江」では、殆どは、「不入不倫の権」で保護されていた為に、この「室町期の勃興の郷士」より前の「平安期の郷士(2)(3)」であって、何れも「郷氏」と共に生き抜いて来た「郷士衆」であり「姓族」にしても格式は上位にあり異なる。

    当然に、中には“「小郷氏」“と呼称される者もあり、この者は平安期には元は「郷氏の家人(家臣)」(青木氏)であって、“一定の永代格式(従六位)を持った郷士”も「伊勢、近江、美濃、甲斐、武蔵」には多かった。

    (注釈 この“「小郷氏」“の多くは「郷氏家人」を続けた。
    取り分け、「伊勢と近江」には、正式な「永代格式(従六位)」を持つ“「小郷氏」“の「郷士」が多く居た。)

    江戸時代初期には、一部には、この「室町期以前の姓族の郷士(2)(3)」を“「武士」では無い“とする「姓族の仕官した武士側(1)」から起こる「嫉み」から来る「不思議な風潮」も起こった。

    つまり、注釈にある様に、「仕官した姓族(1)」と「仕官しなかった姓族(2)(3)」との「差」で「身分」を仕切ろうとしたのである。
    上記の「三種の姓族(1)(2)(3)」の内、「室町期中期からの姓族(1)」だけを認め、極めて少なく名った数少ない他の「格式のある姓族(2)(3)」を認めようとしなかったのである。

    注釈として、平安初期の「新撰姓氏緑」には次ぎの様に成っている。

    「真人族」は40族(同系族44族)
    「朝臣族」は39族(同系族含み45族)
    「宿祢族」は7族(同系族含み16族)
    「臣族」は3族(同系族含み40族)
    「連族」は3族(同系族含み22族)

    これ等は「宿祢族」、「臣族」、「連族」の末枝葉の後裔族は、後に「2と3の姓族」に所属したが、「真人族」、「朝臣族」の後裔は姓族を作らないとする仕来りに従い「氏族」に所属し続けた。

    (注釈 「同系族含み」とは、「同縁同祖系」を含めたものを示す。但し、「真人族」と「朝臣族」は「氏族」である為に「姓」を持たない。
    唯、この「二つの族」の「女系族」と、「男系継承」が不可能と成り、「他氏から養子」を取り二代続きで「男系継承」が不可能と成った事で「女系族」と成り、「他姓」を持つ事に成った「姓族」がある。
    これらの「女系族の姓族」が後に「元の氏名」を興して男系に継がせる事で「女系に依る同縁同祖族」が出来上がった。)

    (注釈 「新撰姓氏録」は、そもそも「編集未完の記録」であり、この「女系の同縁同祖」を入れているかは不明である。
    唯、「男系に依る同縁同祖」で纏められている欄には無く、散文的に各所の欄の中に飛散している状況で、これが「女系の同縁同祖」であると観られる。
    「宿祢族」、「臣族」、「連族」の「松枝葉の後裔の2の姓に所属する族に観られ、「真人族」、「朝臣族」の後裔には「3の姓族」に所属する族は観られない。
    故に、「宿祢族」、「臣族」、「連族」の「2の姓族」には同系族が極端に増加している。
    本来であれば纏めての「記録物」と成るが、それが区分けして更にまとめあげるべき処まで編集としは何とか来ていた事が判る。
    一時、消えて計画であったが、何とか形にしたいとの政治的決断での「編集途中の録物」としたことが判っている。)

    これは「嵯峨期の状況」を示すが、ところが此処から大きく時代は変化して、何れ「皇別五族」と云われる族も激減する。
    「真人族」、「朝臣族」は、「氏族」であるが、後裔とする「3の姓族」に所属する族は、聖武期には「春日真人族―志紀真人族」(青木氏−井上内親王 光仁天皇 追尊の春日宮天皇)を遺して、「直系の真人族」は「第四世族内の同縁同祖」が「女系の男系族」と成り遂には滅亡する事に成る。

    「第五世族以降」の「第七世族」までの「宿祢族」、「臣族」、「連族」の末枝葉の後裔の「2の姓族」の通称“「皇別13族―同縁同祖族78族」“も「下剋上と戦乱」で室町期中期には「正式系統」が霧消するまでに激減した。

    因みに、その程度は前段でも何度も論じたが、「概要の傾向」で云えば、「正式な氏族」かそれに纏わる「姓族」(2の族と3の族)の合計として、平安末期には40程度に、鎌倉期には80程度から一時一気に増えて200程度に、室町期中期には40程度に、室町期末期には20程度に、江戸期には10程度も満たない状況と成っていた。
    この差がこの「江戸の議論」を産んだのである。

    その根拠には、次ぎの事がある。
    この末枝葉の後裔族で「仕官した姓族」は、「藩主」に仕え「家臣」に成った。
    「仕官しなかった姓族」は、「郷氏」との関係で「家人」に成った。

    「仕官した姓族」は、「俸禄」に糧を求めた。
    「仕官しなかった姓族」は、「殖産と農業」に糧を求めた。

    主張した彼等はこの差で仕切ろうとしたのである。

    然し、現実は、「仕官した姓族」の糧では、生き残りは成り立たず、結局は「半農の様な糧」に成っていた。
    「仕官しなかった姓族」の糧では、「殖産と農業」であった事から「殖産」が成功裏に成ると生活は逆に豊かに成り、果ては「二足の草鞋策」で「商い」も営み、その差は逆に「武士力の差」にまで現れる様に成ったのである。

    更に、次ぎの事の差が起こった。
    「仕官しなかった姓族」の「郷士」等は、その「主」が「永代格式をもつ藩主以上の遥か上位の身分格式」(位階は従四位下以上 正三位まで 浄大一位)を持っていた事。
    「仕官した姓族」の「主」よりもむしろ「上位の郷士」であると云う説が起こった。

    以上の事から「藩主仕官派説」は弱まったのである。

    資料からの読み取りでは、上記の30地域の「仕官しなかった姓族」等には、「平安期の郷士の血縁族」に成って居た事から「位階六位の格式の筋目」を自覚していた様である。

    或は、上記した様に、地域に依っては中には「伊勢」や「讃岐」の様に「平安期からの郷士」もあり、その中には自らも“「小郷氏」”と呼称される様に「永代の身分格式」(位階六位まで)を持っていた事もあり、更には、この「平安期の氏族の郷士」と「室町期の姓族の郷士」の両者の間で格式が近いと云う事もあって“「地域内での血縁族」”も広がった。
    従って、「仕官派の姓族」の「勃興族の立場」は、逆転して仕舞っていて「主張する立場」が本来は無く成っていた。
    「仕官した姓族」は、むしろ世評は「身分格式は低い武士」と成り矛盾する事と成ったのである。

    そこで、この「仕官派説」は完全に消えて、「全郷士」は「武士とする説」に帰化し特化したのである。

    当初の「仕官派説」の武士は、全国の殆どの地域を占めていた事から一時この説が高まったのだが、上記した様に、「新撰姓氏録」等に記載されている「郷氏が存在する地域」は、そもそも「近江、伊勢、信濃、(美濃)、甲斐、武蔵」と、その「関連地域 30地域程度」に限定されていた為に発言力は弱かった。

    結局は、上記の様な経緯を経て「郷士の立場」は逆転して仕舞って、遂には、世評では「仕官派の姓族」の立場は低く観られ続けたのである。
    つまりは、これは江戸時代には、「黒印状の発行」と共に「権威主義」が起こり、上記の様に「姓族」を「仕分け」して「武士族」を限定したが、ところがこの「権威主義」が進むと、逆に「古来の格式」が重んじられて限定するどころかその「立場」は逆転したのである。

    (注釈 「近江域」と「美濃域」は、「源平の争い」で平安期の早い時期に「土岐氏系青木氏」と共に「氏族」と「姓族」は完全滅亡した。
    「近江」は「遠祖同族の佐々木氏と青木氏」の援護を受けて「傍系支流」が何とか継承した。
    「近江」も近江で敗退し、美濃でも敗退し、この時には一族は滅亡したが「佐々木氏系青木氏」から「近江青木氏」を女系で復興させた事と、「近江青木氏の支流末家」が再び「摂津」で生き延びてある程度で復興した。)

    そもそも「幕府家臣団」は、関東の「藤原秀郷流の幕臣」で占められていた事から、上記の論説を張り主張し、結局は「全郷士」は「武士とする説」に収束し特化したのである。
    唯、此処では、「氏族の郷氏」は、「新撰姓氏緑」にある様に「永代の身分格式」を正規に持つ「朝廷より認可された氏族」であって、「無冠無位の低い姓族」では無い事から論外として議論に成らなかった。

    むしろ、前段でも論じたが、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府も、取り分け、江戸幕府は戦乱で数少なく成った「権威と象徴を持った数少ない氏族である郷氏」を保護し、むしろ、政策上、“社会に「権威」を醸成し相乗をさせて安定させ様として”、その「権威族」として祭り上げたのである。

    (注釈 生き残ったのは「古式伝統」を持った「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「青木氏や佐々木氏や藤原氏」等で、流石に「真人族」の「氏名」は「志紀真人族」の「青木氏以外」には出て来ない。
    「青木氏」は「真人族」でありながら、「朝臣族」で、「賜姓臣下族」の「武家族」、「佐々木氏」は「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「武家族」、「藤原氏」は「賜姓臣下族」の「公家族」(秀郷流青木氏含む)と成る。
    前段でも詳しく論じているが、「永代格式」では、「青木氏」=「藤原氏」<「佐々木氏」と云う事に成るだろう。
    唯、嵯峨期以降に出自した「源氏族」は後裔の11家は完全滅亡で、「橘氏」は一時滅亡して「傍系支流族」で立ち上げた為に「権威造策」には採用を見送られた。(橘丸紋付支流 資料には観られない。)
    「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

    前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

    この事と同時に江戸幕府は、「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

    (注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

    従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。



    「伝統シリーズ−34」に続く。


      [No.351] Re:「青木氏の伝統 32」−「青木氏の歴史観−5」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/03/18(Sat) 09:42:15  

    伝統シリーズ 31の末尾

    > (注釈 もう一つその理屈があった。
    > 「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
    > 「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
    > それは「開幕の資格」の「武家の頭領」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
    > 朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、「朝廷の伝統」を護った。
    > 然し、その事で「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の頭領」では無く、「武家の長者」として代替した。
    > 「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
    > 要は「武家の頭領」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
    > 重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が採れなかったのである。
    > 従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
    > 「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って「正当な家臣」と成れるようにした。
    > 従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
    > 中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
    > これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)
    >
    >

    「伝統シリーズ 32」

    注釈として、ここで疑問が一つ残る。
    それは、何故、紀州藩の大半の家臣が「伊勢藤氏」であったにも関わらず、この「四つの奇策」を実行したのかと云う事である。
    この事は「青木氏の重要な歴史観」に通ずる。

    本来であればしない。決して一族を裏切る事はしない筈である。
    況してや、「解雇」の様な状態の「1/10俸禄策」である。
    それどころの話ではなく、依って、一部の「上層部の家臣(家老職)」ではあるが、この「四つの奇策」を考え出し実行したが、これを証拠付ける確かな資料が何故か見つけられない。
    然し乍ら、検証すれば判る筈である。

    さて、この問題の「紀州藩」には、家老は「附家老」と「連綿家老」が居た。
    「附家老」は、幕府から派遣された家老で、「旗本の身分」を持ち、「幕府の威光」を背景に権力を握っていた。
    これには「安藤氏(3.8万石) 田辺藩」と「水野氏(3.5万石) 新宮」があった。
    「安藤氏」は「幕府の高級官僚族」で、「御家人の武蔵藤氏」と、「水野氏」は老中にも成る「将軍家の縁籍族の末裔」である。
    ところが、この「附家老二氏」は幕末に奇策の分散策一つに上手く乗じて事前に元々あった「田辺藩」と「新宮藩」を敢えて独立させて、そこに逃げ込んだのでこの策には参加していない。
    仮に参加して居れば、「江戸」がこの策に関わっていた事に成り拙い。
    「維新政府」からの「悶着」が必ずに出るし、むしろ、表に出ない方が「四つの奇策」の戦略上は「得策」である。
    況して、そうでなければ「田辺藩」と「新宮藩」に独立した意味が無く成る。

    次ぎに、紀州藩の「連綿族の家老」として、「三浦氏」「久野氏」「渡辺氏」「水野氏分家」が居た。
    「三浦氏」と「久野氏」を除いて、「1/10俸禄」では300石に成り、且つ、「青木氏の殖産」にも参加できない立場であり、それどころの話ではない。
    其れ故か、「連綿」を引き継ぐ「氏跡目の主系子孫」を明治期以降に遺していない。
    「連綿族」であるので「跡目」が無ければ家老には成れないし、相当苦しかった筈である。

    一方、「三浦氏 1.5万石」と「久野氏 1.0万石」は「伊勢藤氏」ではなく、「連綿族」で1/10俸禄策でも問題は無い。

    後は、「城代家老、或は、その身分」としては、「8氏 (3000石」」いたが、その中に「津田氏(津田出)3000石」が居た。
    これ等の身分の者は、「1/10俸禄策」では、「300石程度」と成って、生きる事の限界(250石)にあった。
    この8氏の内、「伊勢藤氏」は「加納氏(吉宗の御側用人の家筋)」が一人である。
    唯、この「加納氏」は、前段でも論じたが、「青木氏」と共に「二足の草鞋策」を執っている。
    「青木氏の縁籍筋」でもあり、並びに「伊勢藤氏」であり、先ず裏切りは出来ないだろうし、「二足の草鞋策」に力を注いだことが判っている。
    筆者の祖父の母親」はこの「伊勢加納氏」から来ている。

    そうなると、恐らくは、「合議の原則」があるのでその指揮を執っていたのは、「三浦氏」と「久野氏」の二人であったが、此処で異変が起こった。
    それは、室町期末期に「紀州根来衆(河内)」で、「楠木正成の末裔」で「津田城の城主」の「末裔津田氏 8氏」の「後裔 津田出」が「藩主の茂承」に登用された。
    この「連綿族の二氏」を差し置いて「執政」と成って仕舞ったのである。

    (注釈 津田氏は紀州藩の「布衣の頭」の家柄)

    この「連綿族の二家の系譜」では、明治期以降に少なくとも四代にわたり子孫を遺しているし、「連綿族のトップ」ではあるが「伊勢藤氏」ではない。
    唯、この「連綿族の二氏」が意見の違いから「藩主の茂承」から一時外されたが、津田出が「徴兵制の創設と世襲制の廃止」を敷いた後に、結局は「政争」で「永久追放」を受けて仕舞った。
    ところが、「紀州藩」の出方に反対していた「維新政府」は、この「津田の考え方」に賛同した。
    「維新政府」は、「津田出」を政府の陸軍省に招いて「軍制改革」を実行させたのである。

    「四つの奇策」を実行したのは、結局、「伊勢藤氏」では無く、三河から連れて来た「連綿族」でもあり、この「連綿族の二氏」以外には考えにくいと云う事に成る。

    以上の検証から、これで、「伊勢藤氏」が、仮に「四つの奇策」に関わっていれば、「青木氏」も「殖産救済策の対象」にはしなかった筈であり、“「青木氏の殖産策」で救助した”とある事と一致している。

    「伊勢藤氏」が関わっていないとなると、これで「青木氏の心」は決まったと観られる。
    流石に「青木氏の心魂」は「妥協の心魂」では収まりが着かなく成ったのである。
    つまり、1200年もの間、護って来た「青木氏の氏是」を破る覚悟をした事に成る。
    そもそも、相手が「誠意」で応じてこそ「青木氏の心魂」であって、これ程の騙す様な「四つの奇策」が仕掛けられたのでは黙っていられなかった。
    「伊勢郷氏」としての立場が無く成る。
    果たして、「立場」を無くしての「青木氏の氏是」か。
    その程度の「青木氏の氏是」では無い。

    況してや、前段でも論じた様に、徳川氏に積極的に協力し、「吉宗育て親」で「享保の改革」や「紀州藩の殖産」等の「最大の立役者」に対しての「仕打ち」である。
    「紀州藩の勘定方指導」で「紀州藩」を「二度」に渡り建て直した「青木氏」に対してである。
    「青木氏」には、最早、一矢を報いる「強かな青木氏の心魂」が芽を興した。
    ところが、一矢を報いる以上は「青木氏等」も実に強かであった。
    それが放って置けなかった“「伊勢暴動」”と成ったのである。

    「紀州徳川氏、紀州家臣団」に執っては、この「青木氏の行動」は「青天霹靂」であった筈である。
    「吉宗育て親」で「享保の改革」や「紀州藩の殖産」等の「最大の立役者」の「青木氏」が“「伊勢暴動」”を背後で操るとは思いも依らない事であった。

    ところが、この時、「紀州藩」は、他にも「二つの民の不満」が起こる事を政策上執ったのである。

    それは「藩士の1/10俸禄」は、不満に成ることは勿論の事であろうが、「藩軍の指揮権」と「藩士の解雇」と「藩士の副職容認」への「民の不満」であった。

    注釈として、先ず「藩士俸禄の不満」の「不満の解消手段」として、“1/10”にした代わりに“「副職」”を認めたのである。
    (認めなくても“「副職」“をしなければ生きて行けなかった。これも「制度上の奇策」である。)

    副職を藩士に認めると云う事はそうすると何が起こるかである。

    「1/10俸禄」で「副職」を認めれば、到底、「1/10俸禄」で生活は無理であり、家臣は必然的に「副職」に重点が傾く。
    「副職」があれば良いが、無ければ、「餓死」である。

    ここで、家臣には次ぎの事が起こる。
    「紀州藩」は「1/10俸禄」にすれば残りの「藩収の石高は確かに「借金」に向けられるが向けなかった。

    どうしたかと云うと、経理と藩から切り離された「元藩主の徳川氏」の「個人の土地と成った地権分」に廻されたのである。
    確かに「自分の俸禄も1/10」にはしたが、それは「パフホーマンス」であって法で認める「地権分」には文句は着けようがない。
    要は「私腹を肥やした事」に成る。
    この事に対する不満が起こった。

    次ぎは、「藩軍の指揮権」に付いては、「維新政府の忠告」を聞かず、上記した様に、「津田氏の執政」で「徴兵制の創設と世襲制の廃止」を敷いたのである。
    従って、藩軍から何時かは県軍とは成るが、この時、「維新政府の指揮権」が、一時及ば無い事が起こった。

    この時に、この「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は、「士族」に限らずに、民から一家の跡目や親や長男など主に成る者を除いて、20歳以上の者の義務として、兵を集めた。
    約7320人程度の兵が集まり、その内、「士族」は400人程度とされた。
    後は、農民市民などから構成される「ドイツ式の軍」を作った。

    これを聞いた「維新政府」は士族以外を兵にする事の禁止令を直ちに出した。
    ところがこの「紀州藩」は令に従わなかった。
    これは何か相当な理由があった事を意味する。

    ここでも、元武士の「士族」は「職」を奪われる事が起こったのである。
    「職」を奪われる事のみならず、「世襲制の廃止」で「身分」も「生活の基盤」も失った。
    「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は大混乱を紀州で招いて仕舞った。
    況してや、「維新政府の反対の軍」であれば、軍政も違う事もあり「指揮権」も「維新政府」には無かった。

    これ等の事で元藩士の「士族」と成った者等が、「職や身分を奪われる事の不満」、市民の「徴兵の義務への不満」が起こった事や、「農業への働き手の影響」が少なく成ったり、「税制も極端に変わった事」もあって、幕末からの積り積もった不満は頂点に達していた。
    「世襲制の廃止」で「能力のない者」は「藩士の解雇」も受けたのである。

    ここで、この「四つの奇策」は、兎も角もとしても、「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は何故したのかと云う疑問が湧く。
    其の侭でも済んでいた筈である。
    それには、「茂承」には「恐怖」から来る「思惑」があった。
    上記した様に、江戸期末期からの「武士と農民や庶民の不満」が「絶頂期」にあった事なのである。
    この様に成れば、「維新」で「徳川氏」が弱っている中で、「全ての民(百姓)の暴動」が起これば、「徳川氏だけを相手にした暴動」が起こり、「紀州徳川氏」のみならず、全国に飛び火して「全徳川氏系列族」が「完全滅亡する恐怖」である。

    そこで、この火元と成る「種火」を先ず防ぐ必要があり「独自の近代的な軍」が必要と成る。
    それも藩士ではない庶民の編成軍にしなければ成らない。
    従って、「維新政府の軍」には頼っていられない。
    むしろ、頼れば「一氏への暴動(私闘)」としてあしらわれ放置される事は充分に考えられる。
    「維新政府」にとっては、云う事の聞かない相手でもあるから、戦略的に「徳川氏」が無く成る事はむしろそれの方が都合がよい。
    又、手を煩わせる事もなく潰せることに成ると、自分で護る以外には無い。

    この様な目的を持った策だからこそこの「組頭の家柄」から引き揚げた「津田氏の人事」なのである。

    もう一つの策は、「徴兵制の創設と世襲制の廃止」に依って、「元家臣の士族」が藩軍に入れない事が起こったのである。
    藩軍は7320人、この内、士族は400人であったとすると、6920人は庶民と成った。
    これはたった5%強である。

    「幕府末の基準」では、500石以上に課せられたのは、一人/1000石で3人、3000石で10人とし、500以下は金納とするとしていた。
    紀州藩全体では、55万石であるので、「兵賦」は約1900人−2000人であった。
    これは「通常時の半数」であるので、3500人−4000人と成る。
    戦時は、これに「500石以下の者の参加」と「500石以上の家臣の媒臣」の4人−5人が付くと成る。
    そうすると「紀州藩」は「10000人程度の兵力」が求められた事に成る。

    そうすると、「4000人/7320人」は、維新では逆にほぼ「倍の兵力」を持ったことに成る。
    これは異常であり、本来であれば、少なくても「財政負担を少なくする手立て」に入る筈である。
    ところが、そもそもこの「3500人−4000人」の兵力は、「武士」であるので、「400人の維新兵力」:「3500人−4000人の幕末兵力」と成り得る。
    何と「維新兵力 1:幕末兵力 10」が成り立っていた
    つまり、ほぼ「兵力」は倍に成りながらも、「士族の兵力10%」は逆に極端に削減されて仕舞った事に成る。

    これは何を意味するかである。何かとんでもない理由がない限りこんなことはしないだろう。
    それも「明治維新」で他藩から攻めて来ることなどはしないし、「維新政府」に近代的な軍隊がある。
    「維新政府」に対抗しようとしたのかは兵力差で無理である。
    明かに、これは紀州の「市民の暴動」を押えようとしたとしか考えられない。
    仮に「全武士」が失職で暴動を起こして4000人:6000人では無理であろう。
    仮に出来たとしてもその「軍資金の財源」をどうするかである。一時的なものに終わる。
    それには、「武士を支援する豪商」が居るかである。
    確かに居る。
    其れは「伊勢藤氏」との関連を持つ「青木氏」である。
    此処で、「青木氏の歴史観」に二つ目の左右する事が出て来るのである。

    然し、この「青木氏」は、丁度、「伊勢暴動 1876年」に成る直前で不満を押えようとして関わっていた。
    況して、あくまでも「伊勢の範囲」である。
    紀州全域には「青木氏の氏是」で「戦い」には絶対に手を出さない。

    さて、そうすると「士族の3000人」は「武士の本来の立場」を失った事に成る。
    つまり、「士族」は「失職」であり、逆に「庶民」は「就職」に成る。
    それも庶民は「7000人程度の者」が職に就けた。

    和歌山の人口の中で、 明治初期の市民は 60000人(明治4年の65000人の1割は士族4000人−5500人)相当に成る。
    仮に、上記の通り7000人/60000人が兵士に就職できたとして、「15%の庶民就職」が出来た事が凄い事である。
    況して、「徴兵制」なので「市民60000人」が全員が対象者である訳ではないし、対象外の男女子供年寄りなどの人口があり、年齢制限47歳と成っている事をも差し引くと、「約30%から40%が対象」の「義務の男」である。
    この内、失業は済状況が悪化期であったとしても、(60000/2)/3=10000人−7000人が「徴兵制の対象者」と成る。

    丁度、計算通りの紀州の市民の者が「徴兵制」に成って「兵」と成ったのである。

    これは何を意味するかである。
    市中に若者が居ないと云う事である。
    先ず、「市民暴動」は「若者が原動力」と成って起こすとすると、これを「兵で囲い込んだ」と云う事に成る。

    幕末は「一地一作の令」で、次男三男が就職難であった事から、この不満も解消される事は確かである。
    暴動の原因の一つはこれで消せた。

    この「紀州での市民暴動」が起こると、全国に波及し徳川氏は末端まで滅亡する事を恐れた。
    ところが、唯、これには「莫大な財源」が必要に成る。
    無理してでもこれに財源を廻す必要が出て来る。
    況してや、この時期は「財源処」の話しでは無い。
    前段でも論じたし、上記する様に、念の為に「青木氏等への借財」は「建前上は4万5000両」(「4万両は借財」 「5千両は殖産の出資金」)とされている。
    然し、これを払わずにこの紀州の一藩が「近代的なドイツ式の徴兵制」に注ぎ込んだ。
    市中に若者が居ないと云う事に成るまでに注ぎ込んだのである。
    「青木氏側」から観れば、確かに「異常」である。

    (注釈 現実に「異常」であるとして、執政の津田出は、一年経過後に永久追放されたが、性懲りもなく「茂承」はその一年後には又呼び戻した。
    然し、又、二年後に追放された。)


    (注釈 「青木氏の当時の商い資料」では、「6万両の貸付契約」があって、その内の「4万両が貸付不良見込み」で、「2万5000両」がこの時期の「不当り」と成っていたらしい。
    結果として、返納が無かったので「4万両」が「不当り」に成った事に成るらしい。)

    その金が何と無謀にも「1/10俸禄の策(「無益高制 1873年)」で浮き出た金を全額注ぎ込んだのである。
    今まで紀州藩に尽くして来た武士は不満爆発寸前に成った。その動きを見せていた。

    普通なら「伊勢暴動」と同じ様に、他国でも「武士の暴動」が起こっていた様に、「伊勢藤氏の家臣団の反乱」も起こる筈である。
    ところが不思議にここでも「家臣団の反乱」は起こらなかった。
    ここに「青木氏に関わる意味」があって「青木氏の歴史観」の何故かである。

    この「家臣の不満解消」と成ったのは、「藩士」の多くが、元は「伊勢藤氏の郷士衆」で、「伊勢青木氏」が行う「殖産」の「大きな担い手」と成っていたからである。

    例えば、藩士の一族を集めて、又、中には周辺の民までも雇い、屋敷に「殖産の仕事場」を作って、俸禄より数段高い収入を得ていた事に依るのである。
    それを知った上で見込んで騒がないだろうとして「俸禄1/10(無益高制)」と出来たのであろうことが判る。

    ここでも、「伊勢青木氏」は騙されていた。
    然し、「俸禄1/10(無益高制)」には、大きな「意味」を持っていた。
    最早、「俸禄」が保障されないのであるから、これでは「家臣の領域」では無いが、紀州藩は「武士の暴動」は起こさないと云う事を読み込めていたのかもしれない。

    筆者は、そうでは無かったと観ていて、この“「俸禄1/10(無益高制)」で「伊勢藤氏」は騒ぐ”と観て執って「青木氏」は素早く手を打った。
    それは、彼等を「説得」と「新たな殖産」に誘い込む事にあった。
    それには「青木氏側」に出来る根拠があった。

    そもそも、9/10が「内職」ともなれば、最早、「意識」では「藩主」では無く、そちらの「殖産の主」が「雇用主」と成ろう。

    この「雇用主」は「殖産」を興した「青木氏」であった。
    ここに意味がある。

    それは、その時には「青木氏」には、「不穏な動き」を見せていた「農民の暴動への支援」をする覚悟が既に出来ていた事だ。
    そこで、「藩主以上」の「武士の雇用主」と成った以上は、「片方の武士」の方は「殖産」で対処して、「農民や庶民」の方は「騒ぎ」とする以上は、その後の始末策として「賜姓族」である限りは、「汚名の払拭策」と「暴動の名目策」に通じて思慮を深めていたのである。

    そもそも、「雇用主」として、前段でも論じたが、上記の“「徳宗家」の「古式呼称」”は、「殖産と副職」が合致して“「伊勢の民」の生活を救った”とした事にあって、明治期に成っても「伊勢の全郷士衆や民」の中からより強く再び湧き出て来た事ではないかと観ている。
    「郷土史や郷士の家の記録」に記載されている位である事からこの時の事が良く判る。

    兎にも角にも、前段でも論じた様に、新たな「明治期の殖産」でより彼等を救う事に腹を決めたのである。

    上記の「紀州藩との5千両の殖産投資分」に付いては「藩への貸付金」の一部を名目として引き取り、「全額出資の殖産」として「伊勢」に引き取ったのである。
    別経理にして「藩」も「徳川氏」も成ったとしても、「殖産の資産は藩の資産」である以上は変わらないので、この分の「担保の返却」は可能であった事が判る。
    其れが、享保期から始めた「薬剤用菜種」と、江戸期中期から幕末期に爆発的に進んだ食用文化が「食用菜種油」の需要を飛躍的に高めた事にあった。

    この為に「担保貸付金の不当り」を理由に、「青木氏」は「紀州の蜜柑畑」でも行える様に認可を「取り付け」して、つまり、「殖産契約の条項」にし、大当たりの「菜種油の殖産」となったのである。
    これが「貸付」に対する責めてもの「担保の返却」と成った。

    (注釈 5千両の「殖産出資金の確保」と共に、「蜜柑畑の使用認可」で得られた効果と、「藩士の副職にする事の認可」と「菜種油の莫大な利益」とで「貸付不当り」は何とか一部を軽減された事が考えられる。
    後に、上記した様に、「紙パッキンの殖産」も手掛けた。
    「蜜柑畑の使用認可」は、「田方勝手作仕法」に準じた強かな賢い「青木氏の策」であった。)

    これに彼等家臣団を「殖産の働き手」として新たに引き込んだのである。
    何はともあれ、こうなれば「紀州家臣団」は何も「暴動」を起こす必要が無く成ると共に、彼等を支援し「青木氏側」も「殖産」をタイミングよく広げる事が出来るし、結果は市中は納まる。
    騒げば、「罪人」を出し「殖産」どころの話では無く成るし、上記した様に飛び火して全国に広がる危険性を大きく現実味を帯びて持っていた。
    然し、これも防げるし、「支援金」を出す限界にもあった。

    「土地を提供する者」、「種まきから収穫までの労働力を提供する者」、「搬送等に従事する者」、「販売等を担当する者」、「搾りなどの生産に従事する者」は、「青木氏」が大阪堺に工場を立てて其処に「家臣の内子の奴等」が「働き手」として働いたとしている。
    「営業」は「伊勢紙問屋の伊勢屋」が行う事に成ったと記されている。


    実は、この結果として、反して「四つもの奇策」を講じて民を欺いた「紀州徳川氏」は、紀州伊勢では庶民から“「徳宗家」の称号等”は遂に得られなかった。
    (注釈 最近では「町おこし」で美化して喧伝されている。)

    「後勘の評価」では、現在も評判は、取り分け優れたものとは云えない。
    特に南に下がる程に良くない。

    この結果、潰れずに「紀州徳川氏(西条藩松平氏より養子)」は「侯爵」とも成り東京に移り乃がける。
    (その後、企業倒産を繰り返し伊豆にて直系の子孫は絶える)
    今後の人の上に立つ身分の者でありながらも「四つの秘策」の「斯くの如」であり、「青木氏」からすれば、“一矢を報いた”のであり、「青木氏の掟」として“上に立つ者は斯くあるべし”と観える様に忠告示唆した事に成るのである。

    青木氏36代と37代の先祖は「善悪の条理相対の理」を身を以って忠告したのである。

    (注釈 「青木氏の資料」によると、1871年頃前後から紀州藩の採った態度などから上記の農民不満で燻り始めている。
    そして、決定的に農民や郷士衆が行動に移したのは、1874年後半の頃に集会などを重ねているのである。)

    (注釈 紀州武士団の暴動はどうしても留める必要が戦略的にあった。
    従って、これには「経済政策の殖産」で以て支援して留めた。
    然し、一方、農民や市民の不満の爆発は「青木氏」に原因の一端があり、留める事は難しい状況にあった。
    徳川氏に一矢報いる為にも「認めて支援して留める」には「上記した深謀」が必要であった。
    「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策は成功した。)

    結局、「地租改正」を理由に本格的には「飯能郡」、現在の松阪市で立ち上がったのが1876年12月頃に始まった。
    その勢いは松阪から一度南勢にも広がり北勢に向かって行進は進んだ。
    この一部の「伊勢郷士衆」を巻き込んだ「農民暴動」は、「歴史上の記録」として始めて“成功した唯一の暴動”であった。
    この時の事を多くの川柳に詠まれている。

    前段でも論じた事ではあるが、その後に、「紀州徳川氏」とは大正14年まで親交を深めたが、この時の事を認めた多くの手紙が遺されている。
    「紀州徳川氏」は、後に、これを恥じて東京に移動して「訳有の財産」を投入して民の為に成るとして日本で初めて「私設の職業紹介所(「職業安定所」」を設立した。

    (注釈 後に、国に依ってこの制度は「職業安定所」として「公」のものと成るが、「徳川氏の私設」は潰れる。)

    結局は、紀州徳川氏は第16代まで続くが、再び「借財」は嵩み「企業倒産」を繰り返す様に成り、最後は家系譜上では「空白断絶」の「憂き目」を伊豆で受けた。(ここでも奇策)

    「青木氏側」で云えば「四つの奇策」に対して「如来の意志」が降りたと云う事であろう。
    唯、第16代は、多くの「青木氏への手紙」の行から観て、この事を“「心得ていた」“と観られる。

    その証拠に、そもそも「祖父の代の青木氏」を朝廷に進言して「天皇の感謝状」を「左大臣の祐筆」で「天皇家の菊紋入りの桐の文箱」に収められて「伊勢の青木氏」に送られている。

    この時、「日本最古の藤白墨」等も「菊紋入り桐箱」に収められて「賜物」として授かっている。
    「青木氏」からは「彩色南画の和歌浦の絵」を「返納品」として献上している。

    この「賜物」と「返納品」のやり取りに重要な「青木氏の意味」がある。
    前段でも論じて来たが、詳細はそちらを参照されたとして、「日本最古の藤白墨」と「紫石硯」は江戸初期までは「天皇家の専売品」で、紀州名産で全て天皇家に納入される貴重な特産品であった。
    (江戸初期に徳川氏に占有される。)
    従って、「天皇家の宝物」として扱われ、これが特定の格式ある家筋で無ければ賜らない。
    何の趣味も持たない者に与えても猫に小判で決して与えられるものでは無い。
    この「天皇家の宝物」をこの時に与えられると云う事は、それ相当の安定した評価の事で無くては賜るものでは無い。

    奈良期から「朝廷の「紙屋院」であって、絵画等を扱う「文化院」でもあって、平安期には「春日真人族」として「志紀真人族」として「軍略処」を務めた事もある「賜姓臣下族の青木氏」の「伊勢の紙屋」を「二足の草鞋」で営む「氏」であったからこそ、それを知っての「与えられる賜物」と成る。
    「華族制度」が敷かれたとしても、その家筋の者に誰彼なく無暗に与えられる宝物では決して無い。

    そもそも、普通は「天皇家」に対しては「返納品」は行わないのが「臣下の仕来り」であったが、昔、「朝臣族の伊勢賜姓臣下族」と云う事もあって「返納品」は受けられた。
    この間の明治維新期まで「献納金」を献上していた事もあって「返納品」が受けられたと考えられる。
    況や、紀州松平氏に執っては、“「紀州に於ける功績」は、「青木氏」に在って自らの功績の所以では無い事”を暗示している行為である。
    其れも一度では無く“二度”も受けている。

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」
    “「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

    上記の数式論から来る「二度の褒賞」に成るものと考えられる。
    それは「明治維新前の功績」と「明治維新後の功績」に分けられたと考えられる。

    この事で重要な事は、“「伊勢暴動」”に付いての事があれば、朝廷から「感謝状」など出る事は絶対に無い。
    然し、この「二度の事」は、「伊勢暴動」に対しては、朝廷に執って「伊勢」は格別のものとして扱われ、“伊勢の民の生活を護った”とする「考え方」に至っていて、それは「皇族賜姓臣下族の賜姓五役」を貫いたとする評価に至り、「当然の役」として認めていた事を示すものである。

    恐らくは、「五年の長期間の伊勢暴動」が、“歴史上の初めての成功例であった”とすることが、「朝廷」を容易に思惑通りに動かせたと考えられる。

    唯、未だ身分や格式を重んじる風潮が遺されている時期でもあり、これが一般の豪商や家筋であれば、この様には成らず、「二度の褒賞」とは成らなかった事と成ろう。
    躊躇なく成り得たのは、「皇族賜姓臣下族」であったとする事が大きく影響していたと考えられる。
    「二つの感謝状」を観れば明確に判るし、「祖父の口伝」でも解る。

    況や、重要な事は、“「伊勢暴動」は「暴動」であって、「暴動」で無い「政治の悪弊」を改めた”と朝廷は決め付ける「大義」を得られたのであろう。
    「伊勢暴動」を“伊勢の民の生活を護った”とするだけでは無く、「四つの秘策」の「家臣団の殖産の就職」で“「武士等の生活」も護った“として、合わせて評価した事に成る。

    もし、そうでなければ、「郷士衆と農民の伊勢暴動」と「家臣団の暴動」が合わせて起こっていた事に成り得る。
    事と次第では、「紀州藩」が「凡例の起点」と成って全国に暴動が拡がった事に成り、場合によっては「維新政府の存立」さえも危ぶまれた事をも意味している。

    その証拠に、「紀州藩の四つの奇策」に対して反対していた「維新政府」が、2年後を以って全国に紀州藩と同じ「四つの奇策」を適合して、「暴動」を抑え込んだ。
    従って、この全国展開で明治13年から14年を以って政情は収まりが着いた。

    「藩軍の指揮権」の問題は、「紀州藩」は明治2年に全県民の「徴兵制度」を敷いて「武士」だけの「藩軍」は無くした。

    この後、当初、この「紀州藩の提案」の「徴兵制」に反対していた「維新政府」は、明治4年に「紀州藩」に追随して「徴兵制」を採用したのである。
    紀州藩の藩軍」は「国軍」に編入して問題は解消した。

    上記して様に、「市民暴動と武士団の暴動」の危険性が無く成った事からも、「異常な策」とも観られる「藩軍」は必要無く成ったのである。

    況や、これも「青木氏の歴史観」に遺すべき「青木氏の功績」の御蔭である。

    (注釈 ところがこの県民から成る「編入の国軍」が皮肉にも直ぐに「伊勢暴動」に投入されたのである。)

    これが他県からも派遣された事に依って「伊勢暴動の捕縛者」が多く成った原因でもある。
    「捕縛者を開放する手立て」として「献納金の必要性」が増した原因とも考えられる。
    暴動史上、最高数で釈放も含めて58000人(青木氏の情報)と云う「捕縛者」が出た。
    前段でも論じたが、「青木氏」は釈放に必死に成った。

    それでも「伊勢暴動」は収束しなかったので、直接に“「説得」“に当たらせる為に「国軍」では説得には成らない難しい面もあったので、懐柔策として「警視庁の警察」まで派遣投入した。
    然し、逆に、この一部の警察までが暴動理由を租借して、この「暴動」を挑発すると云う事態と成って、更に拡大したのである。

    「国軍」にしろ「警察」にしろ「農民や市民」から「徴兵や募集」により構成されてた組織である。
    「同じ仲間」を武力制圧するのは、未だこの時期では心情的に難しい面があったし、背後に「青木氏」が暗躍していた事もあった。
    「暴動」は、当初は「松阪」から南勢に移り、そこから北勢に移動中に一部に「火付け打ちこわし」(自首)が有った。

    この時は、未だ江戸期の「一揆」の性格的判断や概念の領域にあった。
    ところが、「青木氏」は、“時代は維新である事”を説き、「殖産」で藩主では無く、生き延びたのは「雇い主」でもあったこの“「青木氏の説得」”で「整然とした行動」とり始め、且つ、「理路整然とした訴状文の提出」の状態に変わった。

    この「行動と訴状の状態」で、西には「摂津堺域」に、北勢域は美濃から信濃・甲斐まで伝播して行った。
    この結果、正式な維新政府との交渉が可能に成り、「理路整然とした訴状文」にて理解を固めた維新政府は、税率を3%から2.5%に変更する事に導いて決着は着いた。

    この初期の過程の「火付け打ちこわし」(自首)は「戸長」との交渉中に起こった。
    実は、この「戸長」は農民の中からの選抜制で選ばれた者であった事から平穏を保とうとする「戸長」との間での一時的な「感情からの結末」であって、「経済援助をする青木氏」は指揮を執っていた「伊勢郷士衆」を説得した。
    この「戸長との直接交渉」は止めさせて「正しい行動と論理づけた訴状の状態」を作り出して「維新政府との交渉」に入ったのである。

    この様に“暴動を正常な行動に導いた”とする事も評価に成っていたと考えられる。
    “「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策”の上記で云う「手品」であった。
    つまり、今で云う“「デモストレーション」”に導いたのであった。

    この“「デモ」”は、“万機公論に決すべし”とする事から、最終は維新政府は“「暴動」”と云う定義では無く、「デモストレーション」と評価した事にある。
    “「正当な市民の行為」であった“と評価したのである。
    そもそも、「維新政府」が紀州から「国軍」が引いて「警察」が介入したのは“「正当な市民の行為」として扱う様に仕向けたこの事に依る。

    一方で解放され楽に成った「紀州徳川氏」は、「伊勢青木氏の口伝情報」では、後に明治20年頃以降に、結局は「流浪の身」に成った下級武士の為に流石に責任を執ってか、「維新政府」から与えられた「莫大な地権」と「貴族院」と云う「特権の立場」を利用して「職業の斡旋組織」(職業安定所の前身)を立ち上げた様である。
    紀州徳川氏は、東京で「数々の事業」を起こしたが失敗し、再び「財政上の影響(借財の負担)」を受けて、「跡目の系譜上」にも「空白断絶部」があるところから考えると再び「奇策?」で逃げたと観られる。
    現実には伊豆に引きこもって断絶状態と成っている。

    この時は、既に一切の「維新騒ぎ」は収まっていた。
    藩主は完全に廃止され、政府から派遣された知事が政務を執った。

    「青木氏の末裔」から観ると、「激動期の仕儀」としては仕方がないが、納得のいかない皮肉なものである。
    維新期に於いても、この様な“危機存亡の際どい歴史観”も「青木氏」にはあったのである。

    其れは殆どの藩は「酷い借財」に喘いでいた為に、「維新政府」は、御三家であった「紀州藩」が敢えて上記の様に先行して体現したのを観て、反対していたにも関わらず、これは見本中の見本として2年後にこれを全国的に見本として利用した。
    これを上手く利用して「借財棒引きの理由」にして「地方自治の安定した体制(中央集権国家体制)」に持ち込む必要に迫られていたのである。

    「改革」とは、そもそも四方八方悉く上手く納める事は至難の業で難しい。
    取り分け、「国家体制」を変えなければならない時には、何処かに犠牲を負う事が必要であった。

    つまりは、「享保の改革」にしても、「維新の改革」にしても、何れも「青木氏」はこの「犠牲を負う宿命」と成っていたのであろう。
    これは「伊勢信濃」のみならず、「青木氏の定住地」では、大なり小なり「二足の草鞋策」で「殖産」を興し、「古式伝統」を維持し、「土地の地権者」で、「郷氏と云う身分の立場」にあれば、この「二つの改革の犠牲」を負っていた事は間違いがない。

    取り分け、前段で論じた「六地域」では、この「犠牲を負う宿命」の状態にあった事が判っている。

    幸か不幸かこの「六地域」には例外ではない大きな大名が居た。
    それは、「青木氏」が大きく「二足の草鞋策」を敷いていた所以でもある。
    この「二つの改革の犠牲」で、「伊勢、信濃」と同様に弱っていた事は否めない。
    その証拠に、未だそんなに時代が過ぎていないにも関わらず、「資料の有無」のみならず「古式伝統」、「口伝の伝達」、「伝統品の保存」、「縁籍関係の情報」も完全な消失状態に近く減退している事は何よりの証拠である。

    これは「第二次大戦の戦後の混乱期」も原因としてはあるが、「二つの改革の犠牲」の影響は無視できない。

    結局は、「紀州藩の事例」を観て(動乱が起こらないかを見極めた。)、2年後に「維新政府」も正式に廃止してこれを認めた。

    (注釈 この「紀州藩の解決の仕方」は、後に成って「維新政府」は反対していたにも関わらず「全国の模範」としたが、ところが九州域を始めとして「殖産」の進まない各地では「武士階級の不満」が、矢張り、爆発して「藩軍」が独立して反乱軍に成る等異なっていた。)

    この事は、「伊勢暴動」と全く同じ時期なのであって、伊勢域は「庶民の暴動」で幸いにも終わったが、九州域等の殆どは、「武士階級の暴動」を超えて「反乱・戦争」となった。

    この差は、紀州藩の「武士の副職」を認めた事と、「青木氏の殖産」と「青木氏の心魂」が上手く連動させた事の差に在った。

    云い換えれば、「副職 殖産 心魂」の共通項、その基は、況や「悠久の歴史を持つ郷氏」(氏上と氏人の関係)に在ったと考えられる。

    その意味で、「氏の存続」が危ぶまれる程の「金銭の犠牲」はあったが、「無駄な戦いの損出」を最低限で抑えた事の「社会的功績」が認められた様に、「伊勢と紀州」等の「立ち上がり」は流石に早かった。

    この「青木氏での同族一族郎党」で「路線争い」を起こしたほどの「金銭の犠牲」と云う事は、この「立ち上がりの速さ」がもたらす効果を期待した「青木氏の戦略的展望の心魂」であったかも知れない。
    所謂、此処でも“「青木氏の氏是」”が働いた気がする。

    「青木氏の氏是」
    ”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、然ども、世に憚る事無かれ、何れ一利無し”の意に通じ、就中ば、”「共生氏族」であれ”

    この「氏是の概念」と上記の「心魂と成る掟」から来る行動であったのであろう。

    (注釈 前段でも論じたが、「殖産の功績」や「献納金」や「前貸金の放棄」等で社会に貢献したとして、「維新・・年の天皇家からの感謝状 一木氏」と「徳川侯爵(徳川茂承 14代と16代)の仲介役による感謝状(大正初期)」とで、「天皇家」より「二度の拝謁と賜物」を受けている。
    何れも「二つの感謝状」に付いては、「仏壇の引き出し」に保存していた為に[虫食い]による問題があって、「四年」か「九年」かの判別は尽き難いが資料の経緯から「九年」と判断している。

    唯、仮に、これが「四年」とすると、そうすると、享保期に緩めていた「田畑勝手作仕法」から維新から「土地開放」を目的として「田畑勝手作の廃止 四年九月」を出したが、これに関する事に成るので、前段で論じた様に、「税制改革の地租改正」に伴って事前にも「土地開放の改革」が成されたが、この時の「青木氏」が率先して執った「自作農」の為の「土地の解放」に関する謝礼と云う事に成る。

    実は、更に、「三つ目」もあって、「宮内庁からの文面 橘氏」は保存状態が酷く、現在解読中ではあるが、「維新初期頃の献納金」に対する「内大臣」からの「礼状」と判断しいる。

    (注釈 「青木氏写真館」の8Pにこれらの一部ではあるが、墨の一部や硯等を掲示している。)

    (注釈 上記した様に「青木氏の氏是」にも関わらず、この時の「書状と返礼品の現物」はあるが、何れもこの「献納金の返礼」や「殖産の功績」で、「宮内大臣(左大臣) 一木氏の祐筆の筆」で受けていて、「桐箱」に「菊紋の花文様」が「手書きで描かれた文箱)に収められている現物はある。
    可成り丁重な扱いであった事は一目瞭然に判る。)

    これが「青木氏の1200年の青木氏の心魂」と云われるもので、これも「青木氏の伝統」なのであった。

    40代目の筆者からすれば、流石、「始祖祭り」は継承しても、「偏諱の論」からは「伝統の違和感」を感じ、先代たちは“度が過ぎている”と云う感覚にしかならない。
    仮にこれ(古式伝統)で行けば、「信義と道義」が可成り廃れていて、且つ、「伝統」の少なく無く成った現在では生きて行けないであろうと考えるし、「氏存続」は「氏内に歪」が生まれて不可能であろう。

    (注釈 何度も理解を頂く際にはお願いしている事ではあるが、幸いにして「伊勢」と云う特別で「古い環境」であった事から比較的幸いにして遺されていたので、「伊勢の伝統」を基にして論じてはいるが、全国の「青木氏」には、残念ながら「青木氏の伝統」を書き記す程の記録が遺されていないのが現状である。
    又、昭和の終わり頃までは、兎も角も、「個人情報の保護」が壁とも成り資料を見出す事が難しい。
    これが原因して残念ながら充分に各地の詳細を立体的に書き記せない。
    然し、概しては、各なくとも「全国の青木氏」には、この様な類似の「古式伝統と由来」を持ち得ていた事を是非ともに知って頂きたい。
    「近江の佐々木氏の記録」にも全国に多くの「佐々木氏」(二流)がおられるが同様の様であるらしい。)

    明治期に成っても、「福家」は“走りに走った上に未ださらに走った”が、疲労困憊しながらも平成期にも分家に当たる「四家」は大阪と神戸で大いに走り続けている。
    然し、流石に筆者の代では、「福家」の「青木氏の伝統」を引き継いで“走るのを止めて休息したい”と思い、「先祖への尊敬と誉」に対して応える為にも、又、「青木氏の伝統」を「未来のロマン」として伝える為に貢献したい。
    故に、「青木氏の奈良期からの経緯」を記す“「由来書の復活」”にせめて取り組んだのである。

    (注釈 管理人さんの絶大なご理解に依り「青木氏の歴史観」を知ってもらう為にこれをサイトに投稿している。)

    「古い関係者」には大いに協力して貰えた。
    その「きっかけ」は、親から渡された「青木氏だけの古い蔵書本」等と過去の関係者の家の資料等、それを更に研究して頂いて同じ事をした「佐々木氏の由来書」を観た事であった。



    以下 「伝統シリーズ−33」に続く。


      [No.350] Re:「青木氏の伝統 31」−「青木氏の歴史観−4」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/18(Sat) 14:44:16  

    > 「伝統シリーズー30」の末尾


    > (注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。
    >
    > これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏心魂」としての”「准の立場」”であった。
    >これに基づく「氏上と氏人の関係」が維持されたものあった。
    > それの代表、つまり”「准の立場」”を物語るものが”「仏施の質」”であった。
    >これは同時に「氏上と氏人の関係」を「証明する行為」であって、「青木氏以外」には行っていなかったものであった。

    > この「青木氏の習慣」が、「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて”「伊勢屋の質」”と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できてはいたか、然し、「江戸の質」には、一時、”「准の立場」”と同様に”「青木氏の歴史観の知恵」”にまでは及ばなかった。
    > 然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか考えず、当初、“まさか江戸までは“の「先入観」が強く理解ができていなかった。
    > この「准の立場」も「単なる准の意味」(次の格)としてか理解が無かったし同様であった。
    >
    > 果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にも「質」と「准」のこの「基の意味合い」があった。
    > この事から「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「准の立場」の「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
    > だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と「発想の転換」で、これで「奈良期の疑問」と「江戸の疑問」が同時に解けた所以でもあるが、時代に依って「語源」がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。
    >
    > この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
    > これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
    > 筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
    > この「准の立場」や「質」や「青木氏心魂」等は典型的なテーマでもある。
    >

    「伝統シリーズ31」に続く


    さて、前段に続けて、「青木氏に関わた伊勢衆」の「商業組合」の「商人等の指導役」(伊勢)の「御師(おんし)」(”おし”では無い)は、「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成長するして事に成った。
    (現在でも一部伊勢では、「独特の金券制度」として残っている。そこで、これらの「予備知識」として明治初期までの「青木氏の独特の伝統」で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事を述べて来た。

    これが「青木氏の古式慣習」の”「仏施の質」”に現れているので「青木氏の心魂」に付いて更に論じる。

    この「青木氏の心魂」がよく表れている最後のものは、明治初期におこった「伊勢暴動」であった。
    この「伊勢暴動」は、急に起こった訳では無く、当然に、政治的な変化も然る事乍ら、上記で論じた江戸期の「政治矛盾」に耐えきれなくなっての「最後の破裂」であった。
    「青木氏と吉宗」が何とか少しでもこの「四つの政治矛盾」を正そうとして頑張って来た。
    然し、その後の為政者には、この「四つの政治矛盾」に付いての認識が全く無かった。

    「維新政府」のその後もその「矛盾の認識」はあって正そうとして動き始めたが、ところが終局は「貴族院と云う勢力組織」がこれを阻んだ。
    そして、「維新政府」もこの「貴族院」に諂うという「矛盾」を見せた。
    結局は、「江戸幕府」も「維新政府」も、この「四つの矛盾」と云う点では変わりはなかった。

    そこで起こしたのが、矢張り、「伊勢松阪」からでの「伊勢暴動」であった。

    この「伊勢暴動」は、「青木氏の奮闘」の努力で、歴史上で政府が「一揆の主張」を認めたのは初めてである。
    この変革には終局は成功したが、この「伊勢暴動」で疲弊した農民を救う為に、「青木氏」は、率先して「農地権」(北勢)の多くを手放した。

    それにも拘らず、更には、農地外の「地権、株権の放出」をも放出したにも関わらず、それでは再興せずに、限界に踏ん張って「伊勢」を救おうとした。

    それが成し得たのは、前段に論じた様に、「明治三大殖産事業」(A)(B)(C)を「全財産」を投げ打って「興業化」した事なのであった。

    これを後勘から観ると、この時の「北勢」の農地外の「他の株権や地権の放出」は、この時期としては必要性が無かったと理解できる。
    然し、現実には積極的に放出している。
    確かに、「北勢の米農地の地権の放出」は、「明治政府の強い方針」でもあったし、当時の「政治話題」にも成っていた事でもあり、時代性も変わった事でもあったから理解できる。
    そもそも、奈良期からの「氏上と氏人の関係」から土地は、「氏人に戻すと云う理念」は理解できるし、「正しかった措置」だったと理解できる。

    然し、「株権と他の地権」(水軍等)では、上記する様な「氏上と氏人の関係」は無かった事が「資料の存在」からも伺える。
    確かに、「1025年の総合商社」への「商い転換」から室町期頃までの「社会の混乱」から「氏上と氏人の関係」の関係性はより強化された事は否めない。
    然し、“「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志の関係性」”までは「僅かな資料の行」からも判断して無かったと考えられる。

    故に、「他の株権や他の地権」の「放出」には、“放出に至る何かがあった”としか筆者には思えないのである。
    それを次ぎに検証して観る。

    その前に、1800年頃から幕末までの間で、「伊勢水軍の海運業」や「シンジケートの陸運業」等の「7割利権株」を放出して「海陸の運輸業」として独立させていた事は認める。
    それ以上の「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)は理解できない。
    この「放出」は、「青木氏の心魂」での発露では無かった事は確実である。
    何故なら、戦略上、時期的にも好ましくない。

    この「原因の研究」には、そもそもその元に成る資料の発見に苦労した。
    「南勢域」からは資料は、「旧領地」であった事もあって「本領安堵」の地域とされていた事からも資料は遺されているのだが、「東勢域」には資料は殆どないのである。
    取り分け、この明治初期の「伊勢暴動」では、主に「北勢の事」であり、それが「員弁、桑田」と広がり、遂には「美濃」に移り「信濃」に拡がったものである。
    全て「青木氏の古来の定住地」の「所縁の地」であった。

    そこで「筆者の論」では、次ぎの二つの事が考えられる。

    先ずは、「5年間の伊勢暴動」には「農民の糧」と成る「経済的裏付け」が無ければ成り立つ話では決して無い。
    当然に不満があれば“何でも騒げばよい“と云う事では無い。
    騒ぐ以上はその「経済的な裏付け」が無くてはならない。
    その「糧の裏付け」を頼むには「氏上」以上には無い筈である。
    「青木氏」が否とすれば出来る話では決して無い。

    さて、「青木氏」としては「北勢の農地権」を無償放出して、「氏人の物」としたところには「氏人」に当然に「直接の租税」が掛かる事に成る。
    然し、それが「地租改正」で、今までの「米の収穫量」に対する「租税」では無く、「農地権」を無償放出した地価(3%)に掛かる税と成った。
    つまり、氏人の農民には何より、「地権放出」と「租税の変更」が重なった事にある。
    そして、それが悪しくも「一種の増税」であった。

    今までは「青木氏」が、「地権者」として納税して対応していたが、「地権者」を変えた事で農民、つまり、「氏人の直接の難題」と成って仕舞ったのである。
    「伊勢と信濃の青木氏」としては放置できない仕儀と成った。
    そして不幸か「騒ぎ」が大きく成って仕舞った。長く続く事に成った。
    「地権」を放出する事で、“自分たちの事は自分達で”の「自作農」と成って、「氏上と氏人の関係」も薄らぐ事にも必然的に成る。
    「氏上と氏人の関係」で護られて来た“「伝統」”は薄らぐ事も間違いは無いだろう。

    然し、今までは「氏上さま」であった「青木氏」が壁に成っていたが、「氏人の農民」が「地権者」に成った以上は、「氏人」であった農民は、「暴動」「騒ぎ」を興す事で、主張し「先行きの糧の補償」を何処かに求めねばならない事に成る。

    では、「青木氏側」には、この「暴動」が長引けば、果たして、この「北勢の氏人」の「全員の生活の補償」を出来るのかと云う疑問があった。
    江戸末期の「商業組合の解散」と「7割利権放出」(水軍)等をしたばかりの状況の中では、果たして、「適切な手立て」はあるかである。

    「北勢の氏人(うじと)」の「全員の生活の補償」から「信濃域までの補償」は到底に無理である事は顕である。
    だとすると、どうするかであろう。
    出来る事は只一つ、「青木氏」としては「地権と利権の放出(売却)」をして「資金源の確保」に走る以外にはない。
    そうすると「売却」と成れば、主に「南勢と東勢」の「地権と利権の放出」と成る。
    「西勢域」と「中央域」は奔域であり「殖産上」から放出は出来ない。

    丁度、「南紀の郷士頭の家の記録」には、この時期に「青木氏」が江戸期末期まで持っていた「殖産の利権」の行の事が特段に書かれている。
    其れに依れば、恐らくは、「伊勢暴動の事態」の為に「南勢の郷士頭」に「説明」か「同意」を求めたのではないかと考えられる。
    この後に「売却された」と観られる。

    (注釈 祖父が興した仮名の「忘備録」に口伝方式で詳細に記述がある。
    その時の「経緯の立場」を後世に明記したものと考えられる。)

    この時のものは、前段の「商業組合」で論じた「江戸期の殖産の利権」が対象であったと観られる。
    「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)で、「氏人(うじと)」であった「彼等の経済的な裏付け」(上記疑問の「全員の生活の補償」)をこれで採ったと考えられる。

    然し、時期的に「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)が同じであると云う事と、「南勢の郷士頭」の資料の土地に関する行からその状況証拠と、祖父が書き記した忘備録だけであるが、確定するその証拠は何も見つからない。

    この明治初期から明治15年頃までの代は、「曾祖父と祖父の代」であって「青木氏の由来書の復元」に取り組み始めた「忘備録(未完成:由来書の復元)」は信用出来る。

    この時期の少し前に、実は曾祖父の長兄と次兄との間で「青木氏で路線争い」(四家の中で)が起こり、「意見の違い」から長兄が「福家の跡目」は自分であるとして、「大日如来坐像」を「鎌倉の菩提寺」より「伊勢の菩提寺」に戻した。
    (これは「青木氏の禁じ手」であった。)

    (注釈 「大日如来坐像」は「伊勢」が「幕末の戦乱と混乱」に巻き込まれる事が予測され、一時、同族の「伊豆の青木氏の菩提寺」に預けた。
    当時、「維新軍」と「幕府軍」は伊勢か名古屋付近で衝突すると予測されていたし、「維新軍」は丁度、伊勢付近で偽の「錦の御旗」を作成して「討幕の形」をやっと出来上がったと云う経緯もあった。
    それには「維新軍」として、「紀州藩と尾張藩の壁」を突破しなければならない「戦略上の宿命」があった。)

    (注釈 「鳥羽伏見の戦い」の三日目に「幕府軍」は「伊勢」に駐留していたが「維新軍」との衝突は何とか西に向けて動いて難を逃れた。尾張藩は7日目に恭順)

    何れにしても、この戦略に打ち勝つには、「錦の御旗」を掲げる事で、「維新政府」>「幕府」の勢力図を決定着ける伊勢域は重要な地域でもあった。
    「伊勢」は、この様に「不入不倫の権の聖域」が危ぶまれていたのである。

    更には、「伊勢暴動」も「不満」が溜まりに溜まっていて爆発は予測されていた事でもあって、大事を取って「青木氏の象徴」の「大日如来坐像」等は、「青木氏の禁じ手」を破って、“鎌倉に移す”と云う事に決定したと云う事である。
    それと、「打つ手」は打っていたが、下記に論じるが、「討幕派」の中で、“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で、逆転してどの様に転ぶかは「青木氏側」では不透明であった。
    その時の「万全の手立て」ではあったらしい。
    それは、「維新政府の出方」のみならず、「青木氏側の路線争いの成行き」も懸念されていたのである。
    然し、この様な状況の中で、結局、長兄は病死した後、次兄が「福家の跡目者」である事の証として、「伊豆菩提寺」より「大日如来坐像」を基の伊勢の「福家の母屋」に移した。
    (現在は依ってある所に祭祀して厳重に保管している。)

    ところが、この次兄も病死し、結局、三男であった筆者の曾祖父が幕末に「福家の跡目」に納まってこれを若い祖父が補佐して「青木氏で路線争い」は収拾した事が祖父の筆字で明確に書かれている。

    矢張り、「青木氏の心魂」の「氏人への最後の絆」に付いて、「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)を成すべきかの「意見の違い」が興った事を如実に示す証拠でもある。
    これは、「伊勢の郷士衆」以上の一族郎党で議論と成った証拠であり、「南勢の郷士頭」の家に遺された「手紙資料」がその時の「福家の路線争いの結末」が書かれたものであった。
    「伊勢郷士衆」には「伊勢暴動」に加担する事に対して、矢張り、反対が多かった事が記されている。

    (注釈 この資料の書主は「福家」では無い。「祖父の忘備録」に依れば反対したのは次兄であったが、曾祖父の三男は、「青木氏」として長兄が押し進めた以上、最早、この段階で中止できないとして腹を決め路線を継承したのである。
    父は大きく成って祖父からこの時の経緯を聞いたとの事で、そこの詳細は口伝で筆者に伝わっている。)

    「祖父の口伝」の趣旨は、“「青木氏の象徴」の「大日如来坐像」に対して必要以上に関わるな“と云う「戒め」だけであった。
    “納める処に収めて置くことが必要で動かしてはならぬ。”、“動かすと「氏」には災いが及ぶ”とする「固い戒め」であり、これは当に「青木氏の氏是」である。

    そもそも、前段で論じた様に、「春日真人族―志紀真人族」の「青木氏の象徴物」を「動かす」と云う事は、「何かの事」で「世に憚る事」から「動かす事」に成っている。
    「何も無い所」に「青木氏の象徴物」の「大日如来坐像」を態々、「動かす根拠」は生まれ得ない。
    恐らくは、この「戒め」は「青木氏の象徴物」に限って「戒め」ているのではなく、「世に憚る事」つまりは、“「維新軍」と「幕府軍」との何れにも加担してはならない“と云う事であったと筈である。

    ところが、決着の着いた維新には、“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で関わっている。
    これが果たして、「青木氏の氏是」を破った事に成るのであろうか。

    この時の幕末から明治初期の最後の経緯が克明に判る事件で、これが「青木氏の心魂」の「氏人への最後の絆」であった。

    結局は、「北勢と南勢と東勢」の「青木氏の地権」はこれで消え、残すは「西勢と中央域の地権」だけと成った。

    (注釈 「四家の摂津堺店」の堺域でも「摂津青木村」があり、「可成りの農地権」も持っていた事で「暴動」が飛び火した。)

    (注釈 「北勢と南勢と東勢」の関係が変えた事で、それまで「氏人や郷士」が南勢や北勢から荷車を引き山を越え谷を越えて来た「運動会」とか、一か月に及ぶ「始祖祭り」とかに松阪を訪れた事は次第に消えたと記されていて、「青木氏の古式伝統」は「四家の範囲」で護られる様に成った。)

    もう一つの事は、上記した“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で関わっているとして、これが果たして、「青木氏の氏是」を破った事に成るのであろうか。
    この事を後勘の為に検証しておく必要がある。

    それは何に於いても”「維新政府への献納金」”である。
    これが「青木氏」に執ってどの様なものであったかと云う事に成る。

    「維新政府への献納金」は、この時期、多くの「豪商」に求めていた有名な「維新政府の施政」であった。
    前段の様な立場を持つ「青木氏」もいの一番に例外なく求められた筈である。
    この苦しい時期の「献納金の工面」であろう。

    幕末には、紀州藩の二度目の「勘定方指導」を務めたが、この時に「藩財政の立て直し」の為に“「前貸金」(引当金)”として拠出していた。
    これが上記の様に「幕府」が無く成り、「紀州藩」も無く成り、「伊勢支藩」も無く成り、「不当金」と成って仕舞った事が「商記録」と「忘備録」にある。
    実にダメージが大きかった事が克明に描かれている。

    其処に“「維新政府の献納金」”である。
    「青木氏」としては、立場上、「賜姓族」であると云う事から「献納金」は是非の事無く納める事しか無く成る。
    況して、「伊勢暴動の裏の影役者」である事は、周知の事で「矛盾の行為」であった。
    何とかこれをうまく納めないと、それこそ「青木氏の氏是」を出自以来で始めて破り、且つ、「暴動の裏の煽動指導者」の「汚名」を残す事に成り得る。
    お恐らくは、「氏」を遺す事も儘ならなかった筈である。(結果として見事に納める。下記)

    「地租改正」と連動して「維新政府」が断行しようとした“「農地解放の協力推進者」”であって、それを進めた事に依って、その結果として、「自作農」にした「農民」が、不得意な「金納の納税者」と成って仕舞って、「状況の理解」が浅い事から「租税の不満」が表に出る事に成って仕舞った問題でもあった。
    前段でも論じたが、「米納」から「金納」に切り換える事は、前段で論じた様に、「政治体制の四つの矛盾」の「幕府解決策」の一つであった。
    享保期から積極的に「青木氏」が取り組んで来た「政治課題」と「経済課題」であった。
    しかし、明治期初期にこの時期を得て「自作農」を率先して進めてきたが、「氏人の農民」には「充分な説得」が成されていなかった事が露出したと云う事であった。

    ここでは、“「献納金者」”であって“「協力推進者」”であって“「暴動の立役者」”でもあると云う「二律背反」の隠す事の出来ない事実が起こって仕舞っていたのでもある。
    難しい「綱渡り」である。
    「綱渡り」と云うよりは当に「手品」であろう。
    然し、かっと云って「青木氏」としては、何れ上記の「三つの者」は、“「避ける事の出来ない役」”であった。
    「避けられない宿命」、或は、「時代のうねりの流れ」に引っ張られていたと云う事であった。
    最早、「青木氏の意志」に依るものでは無かった筈で「逃れる事の出来ない宿命」であった。

    この「宿命」は、次ぎの様な数式論の様に「金子に代わる不思議な流れ」であった。
    今までは無かった「時代の流れ」であった。

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

    以上の様に、何れもが「宿命金の返納」とはならない「金子」(帰ってこない金)が、一度に用立てる必要性に迫られていて、これは「青木氏の浮沈」を左右する事でもあった。
    これの「意見の違い」で、「信濃の青木氏」も巻き込んで豪商と成っていた「六つ青木氏全体」での議論の渦中にあった。

    「維新政府」としては「青木氏」のこの動きを次ぎの様な数式論として観ていたと考えられる。

    “「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

    この「二つの数式論」が「二足の草鞋策」を敷く「豪商の六つの青木氏」を苦しめていたのである。

    確かに、この数式論から“「暴動の立役者」”は、「地租改正の障害」と成る事であって、「維新政府」にとっては、本来であれば、間違いなく「青木氏の捕縛」であろう。
    然し、「青木氏の捕縛」は記録では無かった。
    其れは、上記の数式の中にあったからである。

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

    この数式論が「青木氏の捕縛」を救った。
    これだけの「宿命の負荷」が掛かれば、「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)は逃れられない。
    然し、この「三つの金」は「商い」で取り戻せる事が出来ない金でもある。
    この時、「伊勢の福家」では「倒産」を覚悟した事らしい。
    或は、「汚名」を被り「氏の滅亡」を覚悟したらしい。

    注釈として、この時、現実に「氏人であった捕縛者」がどうなったか気に成るが、「青木氏の記録」に依れば、次ぎの様であった。

    「伊勢北部」での全体は8000人程度以下で、その内、直接の「氏人であった捕縛者」は150人、関係者では400人程度で、「南勢の氏人の捕縛者」を入れると合計600人程度と記されている。
    そして、「重要な事」は、この「600人弱の捕縛者」は、「青木氏」が保証人と成って直ぐに解放されている。
    (公的な記録にもある。)
    「伊勢」での全関係者は800人程度と記載されている。
    祖父の文章の「行」から、「600人の氏人の解放交渉」を裏で行った様子である。
    全体の暴動の捕縛者は5万人であった。

    「青木氏」としては、“今のやるだけの事はやった”と云う表現である。

    そこで、重要な「青木氏の歴史観」は、注釈の「600人の氏人の解放交渉」の「行の意味」である。
    ところが、「北勢と南勢の氏人の数」からすると、少ない。
    別の記録から正式な「氏人」は全戸主1000人強居たと記されている。
    当時の「青木村」にして見ると、「5村から6村」に相当するが少ない。

    参加した「北勢域の員弁と桑名」の「氏人の村の数」と、後追いで参加した「南勢の尾鷲域」の「氏人の村の数」からすると何故か少ない。

    そうとすると、「人数」から考察すると、「捕縛されなかった氏人」と「暴動に参加しなかった氏人」が400人−35%もいた事に成る。
    参加したが「捕縛されなかった氏人」は、「村集団」で行動していたので居なかった事に成る。
    記録から、“状況が新たに変化して、50人が再び新たに参加した”とあるので、「解放された人」は「保証人の立場」を崩す事に成るから先ず「再参加」は無いだろう。

    これが「暴動に参加しなかった氏人」の内の50/400人と成ると、合わせて「250人の参加」と云う事に成る。
    (「捕縛されなかった氏人」は150人)
    丁度、「全氏人数(戸主)」の「40%−250人」が参加した事に成る。

    全て農地解放前は、地権の持たない「小作農」で有ったので、これは「参加しなかった人」、つまり、「意見の違う人がいた事」に成る。
    然し、況や、“新たに”「地権者」に成る事を拒んだ人”が居た事に成る。”
    即ち、“「氏人」で居たいとする人”が、「6割」も居た事に成る。
    この事が重要である。
    これが、「氏人の村数」の少なさに繋がっている事に成り数理的に納得出来る。

    唯、「行」では「村単位での行動」と成っているので、「村全体」が参加しなかったのか、又は、「村の氏人の一部」が参加しなかったのかは判らない。

    要は「維新の地権」を新たに持った「氏人の数」が、「地権」を持った事は良かったが、突然に「米価」から「税」が慣れない「地価」に変換されて、「貨幣」に疎かった事で「金納」に成った事の「戸惑い」が「不満」を持った事である。
    その為で、依って「維新の新たな地権」を持った「氏人」が全て参加している事に成る。

    然し、そもそも、「郷士衆」を除き、「青木氏の村」には元より「地権」の持った「青木氏の氏人(地主・地権者)」は居なかったので、結論は「村全体の行動」では無かった事が判る。
    それぞれの「村の一部の参加」は、つまりは、「維新の地権」を持った全ての「氏人」」であった事に成る。
    云い換えれば、「維新の地権を持つ事を拒んだ氏人」が多く居た事に成る。
    (つまり、これを”「6割組」”と書かれている。)

    従って、「北勢と南勢の一部の青木村」には、維新に依って、有史来、初めて「地権者の氏人」(「4割組 a」)と「地権者では無い氏人」(「6割組 b」)が混在した事を意味する。
    これでは全ての「青木村」には、ややこしい関係が新たに生まれていた事に成る。
    「地権者に成った氏人」は、最早、基本的には「氏人」では無く成る。

    つまり、「青木村」には「氏人を続ける者」と「氏人を続けない者」の「混在状況」が発生した事に成り、「複雑な人間関係」が生まれていた事を意味する。

    「青木村」でありながら、「維新の地権者」に成った者は、果たして「青木村」に居られるかの疑問が残る。

    然し、「村の土地の地権者」と成った以上は、「青木村」に住む事に成る矛盾が生まれる。
    「4割組のa」と「6割組のb」が上手くやれるのかの問題である。
    これは「氏人との意志の選択」から生まれた「村の難題」であった。

    然し、「6割組のb」が存在しながら「青木氏」は、「4割組のa」の暴動の「経済的背景」と成っている。
    そして、彼等を救出している。

    道義上(「人」の行うべき「正道」)は、「維新の地権者」にしたが、「悠久の氏人」であったとする事から「青木氏」には「4割組のa」に対する責任もある。
    然し、信義上(「真心」で「約束」を守り、「相手」に「役」を果たす事)では、最早、「氏人」で無く成った者等であって、「悠久の静かな村」に問題を持ち込んだのである事からも、“自分の事は自分でせよ”として、「6割組のb」は釈然としないであろう。

    「6割組のb」と「4割組のa」は全くの他人では無く何らかの縁者関係にあった。
    この様な時には、“「4割組のa」を見放すのか、支援するのか“は、最終的には、「氏上の青木氏」の「福家の判断」に任される事には成るだろう。
    「救出している」のであるから、「青木氏の心魂」が働いた事に成る。

    「祖父の筆」では、「救出と云う事」と「暴動の円満解決」を自慢話に成らない様に、この事を暗示していたのである。

    結局は、上記の「金の数式論」と「者の数式論」が効を奏して、先ず「参加者の600人」を救い出したのである。
    然し、次ぎは「汚名の払拭」と「暴動の円満解決」の為の「手立て」であった。
    この「二つの手立て」は関連していた。

    それには「汚名の払拭」は、「暴動の名目」を変えて行く事でもある。
    この為に「参加者400人」(「4割組のa」)を「ある方向 下記」に説得する事にあった。

    ここで、「青木氏の歴史観」として「汚名の払拭」と「暴動の名目」のこれを理解する為に「青木氏」の独特な「事務的な伝統」を記して置く。

    (注釈 「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策は、「参加者400人」(「4割組のa」)の「説得策」を始めとして「名目策」等は、「時代の先取り」としても「政府の面目」も建てた見事なものであった。
    それは下記に論じる。)

    その前に、この“祖父の暗示”に関して、“何故に暗示したのか“と云うと云う事であるが、それは「青木氏の古式伝統」にあった。
    普通なら、“記録に遺すのだからはっきりと書けばよい”と成る。
    ところが、此処に「青木氏の慣習仕来り掟」の「古式豊かな配慮の伝統」があった。
    祖父もこの「古式慣習」で育った事もあって、「忘備録」などにはこの「暗示」が好く使われている。

    そもそも、この「古式伝統」には、先ず、手紙等の文章は、“「祐筆」”が居て、素案・原案を作成し、それを「認める作法」である。

    (注釈 “文章を認める“と云う言葉が有るが、この”認める(したためる)”は下記の「仕来り」から「語源」が来ている。)

    一つ目は、「青木氏」には、「神明社の柏紋の禰宜」と、「氏の菩提寺の達親」の「二つの役職」があった。
    この“「祐筆の役目」”を古来より“「青木氏の仕来りの伝統」”として務めていた。

    二つ目は、上記の様な詳細な機微に関する内容は、直接的に書き込むと云う事は行わず、機微を匂わせるものと成る。
    これを「美徳とする慣習」が古来より在った。

    この慣習は、「志紀真人族」としての「賜姓五役の格式」を汚さない為にこの「祐筆の制」を執ったと観られる。
    “「春日真人族の後裔」で「志紀真人族」とはあの程度か“と云われない為の「氏の防備」であって、それが「慣習仕来り掟の伝統」と成ったものであろう。
    むしろ、「氏族の範」としての「朝廷」が求めるものであったとも考えられる。

    書き記す証拠はないが、他の古式伝統から租借して「格式と範とする概念」が強かった事は否めない。

    この「格式と範」としては、直接的に書き込む事は「無粋」として、その「人間力」や「人格」を疑われ軽蔑されたのである。
    少なくとも、「四家制度」の「福家を務める者」は、この概念を強く持ち得ていなければならない事を求められた。

    さて、この「祐筆」を務めた原案に対して、「福家」はそれ以上に「チェック能力」を要求され、「原案訂正の能力」を要求された。
    その為に、「朝廷や上位」に出すものは、「禰宜」が、「四家や郷士衆や縁籍」に出すには、「達親」が務めた。

    中でも、朝廷から「神紋の柏紋」を特別に有する「青木氏」の「身内の禰宜」は、「青木氏の顔」として観られ、「禰宜」が作成する文面は、「青木氏の品格」を評価されるものとして扱われた。
    この為に「四家制度」の中で育てられた中から“「優等生」”が成ると云う「仕来り」であった。
    従って、「柏紋の禰宜」に成れるには「極めて名誉な事」であって、「青木氏」の中だけでは無く世間に対しても名誉であった。

    朝廷などに出向く際には、この「笹竜胆紋」を「総紋」として「柏紋の禰宜の青木氏」は、「福家」に同行して朝廷などでもトップクラスの扱い(従三位)を受けた。

    (注釈 朝廷で天皇に控えて拝謁できるが発言は出来ない格式で、発言が叶うのは正三位からである。)

    従って、この「祐筆を務める禰宜」は、「青木氏」は元より「故事伝来の知識」に長じていなければならないし、「書体の良悪」も重要であった。

    「四家制度」の「祐筆を務める達親」は、「氏人の事の詳細」や「氏全体の古式の慣習仕来り掟」に長じ、一種の「歴史官僚の様な役目」でもあった。
    従って、「祐筆を務める禰宜」と共に、「青木氏の祭祀等の準備」も進める役目を負っていたのである。

    (注釈 古い資料を読み取ると云う事は、この“文面から租借する能力”を要求される事で、当然に「青木氏の古式歴史観」も把握していなければ、なかなか理解が難しいのである。
    筆者が本論中でよく「・・・の行・・」と表現するはこの事にある。
    「禰宜」と「達親」の仕事は目が廻る程に忙しかったと記されている。)

    歴史的には、「祐筆」は、朝廷や公家や武家などが使う呼称であった。
    一方、同じ「右筆」は、室町幕府から使われた呼称で、後の大大名はこの「右筆」を使った。
    ただ、小公家は自筆を専らとしたが、「祐筆」と「右筆」とには時代性もあるが、前者は「歴史・慣例・慣習・仕来り等の知識能力」、後者は主に「識字能力」に重点が置かれていた。

    これは「発行する相手」に左右されていた事から、「祐筆(書籍官)」と「右筆」(代筆者)」との呼称の呼び方と意味が多少異なっていた。

    これは奈良期から「識字能力と歴史や慣例の知識の能力」の程度に左右した為に起こったが、取り分け、「皇族賜姓臣下族」であった事に依り「青木氏」に執っては「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」に重点が置かれていて、自筆もするが、その意味で明治期まで“「祐筆」・(「執筆務」)”の呼称が使われていた。

    これ等の祐筆に付いての歴史は重要な「青木氏の歴史観」である。

    前段で論じた様に、これは「志紀真人族」の「賜姓臣下族」を構成する数少なく生き残った「氏族」であった事もあって、「青木氏」の「郷士から氏人」までの長い歴史の持つ「氏」を構成するには、「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」が重要であって、「賜姓五役」に大きく左右していた事を物語っている。

    従って、この上記した「見放しか支援か」の差配と、「汚名の払拭」と「暴動の名目」の差配を間違うと大変な事に成っていた事を物語っている。
    この「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」を間違いなく持ち続けるには、「祐筆」を「禰宜と達親」に分けて、この時には「執筆務」を採って居た事が判る。

    「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」、即ち、「書籍役」(1)のみならず、「催事役」(2)の祭祀祝事の「催事全般」も担っていた事が書かれている。
    時には、「郷士から氏人」までの「調整役」(3)も担っていた事が判る。

    前段で論じた神明社の「御師役」(4)や、シンジケートとの「連絡役」(5)や各地との「情報伝達役」(6)中には、「神明社」を通じて「氏人」の「薬師役(医務役)」(7)も演じた事が書かれている。
    上記した様に「仏施の質役」(8)も務めていたのである。

    「書籍役」(1)
    「催事役」(2)
    「調整役」(3)
    「御師役」(4)
    「連絡役」(5)
    「情報伝達役」(6)
    「薬師役(医務役)」(7)
    「仏施の質役」(8)


    (注釈 これでは確かに飛びぬけて優秀で無くては「役」は成し得ないだろう。
    各地の「笹竜胆紋と柏紋の青木氏末裔」は伝統的にこの知識を持つ末裔であった。
    従って、4年か5年に一度赴任地から帰勢する仕組みで、その後また別の赴任地の神明社に出向く制度を執っていて、「豊かな情報と高い経験」とを収得して全役目を全うさせる仕組みであった。)

    (注釈 黒田藩の始祖父は、近江佐々木の支流末裔にして、「近江系の摂津青木氏」との血縁を持ちその所縁あって「神明社の7」を務め、5と6も務めていた。
    その事が出世の糸口と成った。)

    注釈として、一時、この“「執筆務・(秘書役)」(4)”の呼称を使っていた事があるらしい。
    正しい呼称かは判らないが、「執筆務・(秘書役)」を「しっぴつむ」とし乍らも、「祐筆」にかけて「しゅうひつ」(衆筆)と呼んでいたとする記録もある。

    「氏人側」からの呼び名であった可能性が有るので、“「衆筆」”の意味は大変その「役目柄」が良く判る。

    さて、この「6割の氏人」は、昭和20年の「進駐軍の命令」で「農地解放」が日本全国一斉に行われたが、この時にこの「6割の氏人」が「地権者」に成ったとすれば、父の口伝に一致する。
    記録と口伝が一致する事に成る。

    故に、前記した「曾祖父の長兄と次兄の意見の違い」が、「伊勢郷士衆」までを巻き込んで起こったが、その「原因の背景」は、これで完全に理解が着く。
    「全国の青木氏」、取り分け、「六地域の青木氏」ではこの様な事が起こっていた。
    前段で論じた様に、その例として、瀬戸内で全国的に「廻船業」を営んでいた「青木氏の記録」を見ると、分家筋の「安芸の青木氏」との間で「路線騒動」が起こっていたが書かれている。

    「伊勢の暴動」は、「信濃青木氏」が「伊勢青木氏」と同じ行動を採った事で「信濃」まで広まったが、「信濃青木氏」も同じ苦労をした事が良く判る。

    (注釈 記録を見ると、飛び火的に貰い火の様に「青木氏の六地域」にも広がったが、伊勢信濃程には大きくはならなかった。)

    尚、この「地租改正の暴動」は、「秀郷流青木氏の定住地」である「茨城や千葉」まで飛火した。
    然し、「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」では不思議に起こっていない。
    この地域は、「二つの青木氏」が存在する地域でもある。

    この事は、明治期には、「秀郷流青木氏」も「氏子への地権の移動」を「青木氏の定住地」の「茨城や千葉」では行っていた事が判る。

    ところが、「本家本元の武蔵」や「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」のこの地域の「青木氏」は積極的では無く、「貴族院の方針」に従った事に成るのだろう。
    「享保の改革」の時も積極的では無く、一時反目し合った事もあった。
    不思議な原因はまたもや判らない。

    「武蔵藤氏」が一族こぞって「幕府の官僚族」に成った事が原因しているのかもしれない。

    故に、この事も在って、安定した「伊豆(鎌倉)」に伊勢から「大日如来坐像」を移した事も一つの要素と成る事が判る。

    前段でも論じたが、「享保の改革」で「犬猿の仲」と成っていたが、「伊豆青木氏の宗家」は「鎌倉」に別荘を持っていた事から、密かに「伊豆青木氏宗家の判断」ではその後に「鎌倉」に安置したと記されている。

    この事では、次ぎの事が読み取れる。
    先ず、一つ目には、「維新の時期」には、既に、「伊勢との関係」が修復されていた事を示す事に成る。
    更に二つ目には、「秀郷流青木氏116氏」の殆どは、「維新の地権の放出」に応じずに「氏人を地権者」にはしなかった事に成る。
    又、三つ目には、事前に「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」の態度も把握できていた事に成る。

    「幕府軍」と「維新軍」の「衝突の可能性」から、「神奈川横浜域」との中間地でもあって「鎌倉の方」が“いざ”という時には守備の点で両方から護れると観て安全と考えたとしている。

    (注釈 現在も鎌倉には「伊豆宗家」が「大きな屋敷」を構えて定住している。)


    そこで、何故、「秀郷流青木氏116氏」の殆どは、「維新の地権の放出」をしなかったのかの疑問である。
    それは、「武蔵藤氏の官僚族」の事もあるが、更にこれを突き詰めると、「青木氏の心魂」の所以に依るものとも考えられる。
    何れも、「氏人との関係」は平安期から長い。
    唯、異なる事は「伊勢と信濃域」は「朝廷との歴史性」に依る所が大きい。
    云い換えれば、良し悪しは別として「賜姓臣下族としての感覚」の差にあった事に成る。
    矢張り、「朝廷との繋がり」の強い「伊勢域信濃域と云う地理性」に依る事がこの感覚から逃れ得なかった事に成る。
    つまりは、この「地理性」から来る自然に構築される“「氏人との絆の差」“であろう。
    それが、上記した「6割の氏人」と「4割の地権者」との“「選択差」”に表れたと考えられる。
    この「選択差」=「絆の差」と成ったと考えられる。

    それは、“氏人が地権者に成る事を好まなかったのか、”将又、“地権者にする事を好まなかったのか”は判らない。
    「絆の差」を強く持つ「伊勢域や信濃域」では、「6割の氏人」:「4割の地権者」を「6:4」であったとすると、「6割の氏人」:「4割の地権者」は「8:2」位以上の関係性を維持していたと考えられる。
    とすると、“「氏人」を「地権者」にする事を好まなかった” と“「氏人」が地権者に成る事を好まなかった”の「両方の決断」であった事が考えられる。

    これは「地価制」や「金納制」に成る事に依る「リスク」を「先読み」しての事であったかも知れない。

    そうすると、「武蔵」はさて置き、「茨城と千葉」は、「秀郷流一族一門」や「青木氏族」の中でも「結城氏の永嶋氏の地域」である。
    この本家本元の秀郷流一門の最大名門の「結城永嶋氏」は、「伊勢藤氏の伊勢長嶋氏」を含む「伊勢秀郷流青木氏」との血縁性も高い処であり、「秀吉の時」の「陸奥攻め」と「結城攻め」に救ってくれた恩を認識して「伊勢の影響」を強く受けていたとも考えられる。

    その根拠は次の事にある。
    注釈として、前段でも論じたが、「秀吉の陸奥攻め」の時に、「伊勢秀郷流青木氏」は伊勢から出て「秀吉の背後」を襲った事で「陸奥結城氏系永嶋氏」を救い、その後、「結城氏一族」を護る為に軍を結城に廻し救った経緯がある。

    又、朝廷「京近江の公家」との血縁性を強く持つ「伊勢秀郷流青木氏」でもあって、「青木氏族の永嶋氏」も同様であった。
    秀郷一門の中でも同族意識が高かった。
    恐らくは、これらの所以が強く働いたものと考えられる。

    結局は、「氏上と氏人の関係」も、この「選択差」=「絆の差」と成ったと考えられる。


    さて況や、この事柄(歴史的情報)を「祐筆・御師」等の働きから適格に読み切った事から、「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」の態度も判った事に成る。
    「読み切る事の情報」は、上記で論じた「1から8の役」を果たす「祐筆・御師」(神明社)が集めた事に成る。
    当然に享保期に起こった「伊豆との蟠りの解決」もこの「神明社の役目」であった事に成る。

    さて、これで「伊勢暴動」は、この様に何とか乗り切った。
    然し、注釈として、「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」の環境の中で、この状況でも「四家」は、「パッキン」と呼ばれる「紙箱等の殖産」や「酒造米改良の殖産」は続けている。

    この「殖産」を「6割の氏人の副業」として彼等を護ったのであるが、「4割の地権者」の中には、上記の数式論で「氏上の行く末」を見限った「氏人」も多かったとする資料の行もある。

    その意味でも頑張った甲斐があって、通称、「パッキン」(紙箱)は、その後、時代と共に爆発的な発展を遂げた。
    段ボール等を含む各種の「家内業の紙箱業」ではあったが、「6割の氏人」を何とか護ろうとしたのである。

    「青木氏の歴史観」として「各種の紙箱」の発祥は「青木氏の殖産」からである。
    これで明治に成っても「氏上と氏人の関係」を何とか保ち、再び力を取り戻したが、「江戸期の力 500万石」は最早無かった。

    確かに、この状態は明治35年まで続いたが、ところが「松阪の火事出火元の賠償程度」で「福家」は倒産した。

    (注釈 賠償程度で倒産するとは考え難い。財力以外の何かが働いたと観ている。
    然し、祖父は「福家」だけの倒産を実行した。
    筆者は「祖父の忘備録の行」から下記の事から「責任説」を採っている。)

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

    以上の数式論で、結果として兄弟が「路線争い」したが、「火災による災禍」を興した事から充分な継承が出来なかった事に対する「福家の責任」を執ったと観ている。
    従って、「福家の資産」のみを処分したと考えられる。

    そこで、「郷土史研究家」で元郷士の話では、その後、祖父の弟に当たる分家・即ち、四家は、「松阪、玉城、射和地域」では、“「徳宗家」”として地域の人からも信頼されていた事が伝わっている。
    これは明治期に成っても「伊勢の殖産」で多くの人を救ったとしての事であった。

    そもそも、“「徳宗家」”とは、専ら平安期以降に良く使われた用語で、「宗家」に代わって人々にその「徳」を果たしたとする浄土宗系宗派に用いられ、取り分け、「徳」を重視する「禅宗」等に使われた「仏教用語」である。

    古くから「浄土宗の密教の宗教概念」が浸透している伊勢では、「古式慣習の概念」として未だ明治期までも用いられていた事を物語るものである。
    ところが、鎌倉期後半の頃から、この慣習を利用して良く似た意味で、これを用いてその後に、鎌倉幕府の「源氏の権威」を継承しようとして、“「得宗家」”として「総家の執権北条一族の呼称」に使って「一族の権威」を表した。

    一般には、この事からこの「得宗家」が使われるが、元来、「古式概念」からすると京、近江、伊勢等で使われていた「浄土宗系の仏教用語」の“「徳宗家」”が語源と成る。
    これも「古式慣習の伝統」である。

    その“「徳宗家」”と呼ばれていたが、この呼称が「氏上さま」「御師様」等と呼ばれていた中で、何時頃から「伊勢の民」に呼ばれていたか資料が見つからない。
    然し、「浄土宗系の仏教用語」である事と、「平安期からの古式慣習」であったとする事は確かである事から、「和紙を始めとする殖産」を通じて「全ての郷士衆」から呼ばれていた事に成る。
    故に、「郷土史研究家」の郷士であった家の資料に出ていた事に成る。

    一時は、「500万石以上の財力」を誇ったが、「享保期の事」(伊勢屋の質等の出財)も含めて上記の事等で「体力」が極めて弱っていた証拠でもあるが、然し乍ら、「覚悟」は正夢と成ったのである。

    (注釈 享保前と幕末期の二度の「紀州藩指導方」の事もあってか、大正14年15代の紀州徳川家の没日まで極めて親密な関係が続いた。
    「祖父の忘備録」でも解るが、最後の二代に渡る徳川氏との親交を表す数通の手紙が現在も遺されている。)

    この事に付いての「青木氏の歴史観」を遺す経緯が実はあるのだ。
    それを下記に論じる。

    そもそも、紀州藩は「維新政府の方針」に従わず「廃藩置県」をより先行して、「県郡制の実施」と、「無益高制(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施」等を行った。
    紀州藩は、これに加えて、更に、「藩政改革」として「藩治制度の三政策」を強引に実行した。
    これに驚いた「維新政府」は大反対した。

    つまり、この「県郡制と無益高制の二つの政策」と「藩治三政策」を“何故、実行したのか”と云う事が「青木氏の歴史観」に大きく関わってくるのである。

    これでは判り難いが、前段でも論じたが、この幕末から「多くの高額借財」を抱えていた「藩主」の経理一切が藩政に大きく影響していた。

    そこで「藩主」を含む一切の俸禄を1/10にした上で、更に「藩主」の「徳川氏の経理」を新たにして「藩」とは切り離した。
    そして、完全に「藩政」からも分離した。
    そして、それを実行した上で、最後に「藩」そのものを廃したのである。
    これが「県郡制」なのである。
    「藩」は突如無く成ったと云う事である。
    そして、「無益高制」で「藩士」であった者の「給与」を殆ど無くして辞めさせる様にした。
    続けてこれらの手続きは「2年間」の間に行われたのである。
    その上で、「経理問題の処置」を実行した。

    この為に、「藩主の借財」は、「個人の新別経理」に成って仕舞った。
    「藩主としての責任」を問える「経理の相手」が「新しく別の無関係の経理相手」に成った為に無く成ったのである。
    つまり、「藩の借財」は、「藩」が無く成る事」と、「藩主としての借財責任」も無く成る事で、「不当りの棒引き状態」として無く成る仕組みであった。
    これで、「貸し手側」は何処にも返済を求める相手が無く成った。
    恥も外聞もない明らかに「道義に反する騙し討ち」である。
    この事で「江戸期からの一切の借財」等は、「騙し討ち」で「棒引き状態」と成った。
    当然に、「青木氏等の商人の前貸金の返済」は霧消に至った。

    (注釈 ある「紀州藩に大きく関係した豪商」(伊勢小津)からの借財も同じ事に成った事が、江戸期に豪商と成った紀州藩所縁の「豪商の自家伝」に、この時の心情と経営の苦しさが綴られている。
    それには、“元々紀州藩の御蔭を以って「商財」を成したが、「商い」が出来なく成るも「元の無一文の状態」に成るだけで何の変化はない”とした負け惜しみの文面である。
    「青木氏」とは少し違うが、「伊勢青木氏」と同じ様に呆れてこの時の「覚悟」を示している。)

    「維新政府の処置」では、「棒引き不当りの不満」が、「伊勢暴動の不満」と連動して「全国的な暴動」に発展しないかとの懸念が強く持っていて、取り敢えず「紀州藩の藩治制度の三政策」に反対をして2年間様子を観たのである。
    然し、「二人の伊勢商人」等は上記の覚悟を示した事で「伊勢暴動」だけで終わった。
    ところが、この「伊勢暴動」には「青木氏の歴史観」を遺すだけの大きな「意味」があった。

    当に、何度も重複させるが、次ぎの二つの数式論の状態が「青木氏の破綻」を導いた。

    「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」
    “「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

    この状況の中で、同時に、「紀州藩の藩治改革」が進められて、この「数式の状況」が示す様に「青木氏」には「金と者の強力な流れ」が起こっていたのである。
    「伊勢青木氏(伊勢の紙問屋)」としては、紀州藩所縁の「豪商の自家伝」の行の「心情」に成り得ていたかは疑問である。
    (理由があって口伝と資料では成っていない。)
    「享保の改革」後の1780年以降の幕府の「商業組合の締め出し策」と、幕末の「第二次勘定方指導の貸付金不当」が在り、この“「心情」“とは違ったのである。

    其れは、上記した「紀州藩所縁の豪商」の抱える「土台」が、「氏上と氏人の関係」などでは無く、単なる「商い上の貸付借財問題」だった。
    然し、「青木氏」では比較に成らない程に「人、時、場所」の「三相の意味合い」の「享保の改革」も然り、「勘定方指導」も然り、「吉宗育ての親」も然り、これ等の「関り具合」が「ケタ違い」であった。
    そうした中で、「青木氏の心魂」で対応した事は、“「心魂」”と云う意味では「伊勢暴動」も同じではあった。

    所謂、最早、ギリギリの処の「心情」<「心魂」で乗り越えたと云う処であろう。

    注釈として、何故ならば、「棒引き不当りの不満」は、「心情」<「心魂」と「上記の数式論」から観ても、その思いや不満は「伊勢暴動の経済的支援」にも繋がっていたのではないかと観ているが、「証拠書き」は見つからない。
    何かの理由で消されている様である。
    唯、「青木氏」としては「妥協の心魂」から、上記する「強かな紀州藩の行動」には止む無く容認して応じたものの、一方の「青木氏の心魂」では、騙された以上は「怒り心頭」で、これでは済まされなかった。

    つまり、「伊勢暴動の経済的支援」は、「心情」だけでは済まされず「青木氏」も「強かな心魂」で応じた事を意味する。

    重要な注釈
    “「強かな心魂」で応じた事“の理由は次ぎの事にあって、「青木氏」は「妥協の心魂」では事を流石に穏便に済ます事が出来なかった。
    それは紀州藩が採った次ぎの三策に在った。

    そもそも、江戸時代の「独立性の藩政」は、「朝廷」から政権を奪い、朝廷の生活を、土塀が崩れても修復できないまでの困窮に追い込んだ事で、「西の政権の朝廷」と江戸幕府の関係は「犬猿の仲」であった。
    従って、幕府がこの藩の「独立性の藩政」を「西の政権」が持つ「国体の認証業務」から意地でも認めなかった。
    従って、本来は、250年野間に於いても「正規の制度上」のものでは無かったものである。

    (「西の政権」と「江戸幕府」との「犬猿の仲」は、徳川氏が江戸に幕府を開くに当たって、幕府を開く条件の「征夷大将軍」と「武家の棟梁」の「格式授与」を要求した。
    室町幕府は、「足利源氏」である事からこの「二つの格式授与」はすんなりと与えた。然し、徳川氏は姓族である事から、慣例上、征夷大将軍は何とか与えたが、「武家の棟梁」は頑として与えなかった。これでは徳川氏の政権は幕府としての格式権威が失墜する。そこで、何とか認めさせるために「天皇家の経済封鎖」をした。然し、認めなかった。そこで底をついた朝廷は「武家の長者」と云う典範には無い「新しい格式権威」を持ち出して授与した。
    何とか幕府は開けたが、これ以後、「国家の認証業務」を行う「西の政権」として遺して「犬猿の仲」と成った。
    この時、「青木氏」は裏で経済的に「献納金」で支えていたのである。)

    従って、驚くべきか250年続いた「独立性の藩政」は、明治期に成って初めて「追認の形」で正式に認めたものである。
    ところが、現実には、この江戸期250年間は「独立性した藩政」で行われたが、何とその政治元の御三家であった「紀州藩」だけは「非正規の政治自治体」を理由にした。
    従って、江戸期250年間は、この「訳有の独立性藩政」であった事を理由に持ちだして、これを理由にして、「紀州藩」は、「維新政府の反対」を押し切ってでも、“制度上に無い藩”とする事を理由にしてた。

    今に成って「追認」を受ける直前(1871年)に「藩政制」を先行して勝手に廃止した。
    結局は、「追認」を受けてしまうと「大義」と成る「大きな理由づけ」にはならなくなる。
    「紀州藩の独断」の「驚きの手品」であった。

    どう云う事かと云うと、これは「ある目的」、つまり、「商人」から借りていた「上記の借財の解消」(藩の借財 徳川氏の借財から逃れる手段)の為に「借財を持つ藩」を廃止する“「口実」”に過ぎなかった。

    “「本来は制度上は無かった」”と云う事を理由づけとして、“「追認の形で正式に認めた」”と云う理由づけとするのは、明らかに“「朝廷」が認めていなかった”として、だから“廃止するのだ”として「理由づけにした事」に過ぎない。
    何をともあれ、これを「紀州藩」が唱えて実行したところに意味がある。
    これで「廃止」できれば、天下に対して“「棒引き不当り」の「正統な理屈」”は生まれるからである。

    この“「棒引き不当りの理屈」”が出来れば、先行して「廃藩置県」で済ませれば、紀州では「暴動無し」で済む戦略であったし、「維新後の徳川氏」は「氏の破綻」から逃れられて「借財」からも逃れられ安定する。

    つまり、これで上記の通り「四つの奇策」と成った。

    先ずは「藩主」を含む一切の俸禄を1/10にした。
    その上で、更に「藩主」の「徳川氏の経理」を新たにして「藩」とは切り離した。
    そして、完全に「藩政の経理」も新たにして分離した。

    「二つの経理」を別にしたのには理由があった。
    「幕府」は「藩」に対して「命令」を伝える時、「藩」に対してではなく、「藩主個人宛て」に出していた。

    これは、「幕府」が「独立性の藩政」を朝廷から認められていなかった事を意識しての事であって、「領地」を統治する「藩」は、組織上は正式に存在しない事を意味していた。
    これを開幕以来、「幕府の徳川氏」はこの事を知っていた事にも成る。

    況して、上記する様に「開幕の条件」の一つが欠けていた事もあって、各藩には、“「何々藩の藩士・・・」である。“と云う呼称はしてはならないとする通達を発し慣習にさせた。
    つまり、「何々氏・・之守の家来・・である」とさせている。

    これも、本来は朝廷の国家体制の認証を得ていない事を知っての事であって「藩」そのものは無い事を意識しての事であった。
    先ずこの上で、この上記の「三つの奇策」を実行した。
    その上で、最後に「四つ目の奇策」の「不正規な藩」そのものを廃した。
    以上の「四つの奇策」を講じたのである。

    旧政のものは、最早、無い事に成る事から、「莫大な貸付(最低でも6万両)」は「理窟の通った理由の奇策」が成立して「不当り」に成った。

    この事に付いて「紀州藩と紀州徳川氏」には最早、「誠意」は無かった。

    (注釈 故に、本来であれば、「藩」の「臣」で”「藩臣」”と成る筈だが、藩主個人の「家」の「家来」であった事から「家臣」とは云う事に成っていた。
    つまり、武士たちは皆、この「独立性の藩政」が「朝廷(「西の政権)」が認めた「正式な政治体制」では無い事のこの事をよく知っていた事に成る。)

    (注釈 もう一つその理屈があった。
    「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
    「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
    それは「開幕の資格」の「武家の棟梁」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
    朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、伝統を護った。
    然し、「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の棟梁」では無く、「武家の長者」として代替した。
    「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
    要は「武家の棟梁」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
    重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が取れなかったのである。
    従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
    「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って正当な家臣と成れるようにした。
    従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
    中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
    これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)


    >以下 「伝統シリーズ 32」に続く


      [No.349] Re:「青木氏の伝統 30」−「青木氏の歴史観−3」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2017/01/19(Thu) 14:36:46  

    >「伝統シリーズー29」の末尾

    >この様に、「同祖同縁の血縁」と「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

    >但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋」と「目結紋」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。

    >「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは確認できる。

    >これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

    >「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」を完全に補足したのである。

    >「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」の三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

    >これも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。


    以下に「伝統シリーズー30」続く。


    さて、ここで重要な注釈があり、「青木氏の歴史観」として先に論じて置く。

    それは、”「准」”と云う用語である。

    そもそも、上記した様に、「連動する氏の役」から「青木氏」での「氏上」は、前段でも論じている様に、そもそも「朝廷の格式」を用いる事からも「氏上」として成り得ている。
    だが、ところが資料によると、古来より「氏人の差配者」の中には、「氏上」、即ち、「朝廷に仕える官人」に准ずるものとして、「氏上」と「氏人」の間には”「准氏上の人」”と呼称する者が居た様である。

    この「使用の傾向」は、「皇族賜姓族」だけには観られるが、それは「朝廷認可」の下にでは無く「青木氏の慣習仕来り掟」の中で以後用いられていた事が考えられる。

    つまり、「皇族賜姓臣下族」には、この“「准の使用」”を慣例として朝廷が永代認可していたと考えられる。
    それは「皇族賜姓臣下族」に限られて「特別な格式を与える事」を目的としての一代的な個人の呼称手段として“「准」”が用いられていた様なのである。
    これは、「氏上」と云う扱いよりは、「青木氏」は「賜姓五役」として朝廷の重要な役目の「紙屋院」(国産の紙等の関係品を開発する役目)を担っていた事から、この「青木氏部」の「職能の長」に対して「格式」を与える為に「准の使用」を朝廷は敢えて「氏人」に認めたと考えられる。
    本来は無い事である。

    (注釈 この“「准」”は、「嵯峨期の詔勅」に伴う「青木氏の慣習に関する禁令」の一つであったが、例えば、「坂上氏」の父の「阿多倍王」は「准の使用」を特別に許され、その事から「桓武天皇・山部王」に依って「後付」で「高尊王・平望王」にして「准大臣」と呼称する事を許された経緯が遺されている。)
    従って、中国から輸入される悪質の紙では無く、未だ開発されていなかった「良質な和紙」を何とか「国内産」にする事が出来ないかと、「国家的プロジェクト」を試みた。それは単に担当した「紙屋院」の「青木氏の氏人」に掛かっていた事に成る。
    それ故に、「准」に「相当する役目」と観られていたからである。)

    注釈として、前段でも論じたが、そもそも、「阿多倍王」は「後漢の国」の時の呼称であり、「大和王朝の格式」を得るには上記した様に「第四世王の王名」を持つ事が必要に成る。
    「後付」で「高尊王・平望王」と授与して大臣に成り得る格式を与えたものである。
    それが「青木氏」に使用する事を認めていた同じ「役職の格式」のものを、坂上氏の始祖に、「征夷の国家目標」を担う事からも、この”「准大臣」”として「役職の格式」を与えたのである。

    「山部王・桓武天皇」は、「伊勢王 施基皇子」の「四男白壁王・光仁天皇」と「高野新笠」の子供で、 「高野新笠」は「阿多倍王の孫娘」である。

    (注釈 これは「敏達天皇の孫の芽純王の娘」(四世)との血縁に伴って、この“「准」”を使う事を正式に許されたものであるが、これは格式上の認可であって、本質は「国家目標」の達成の勲功にあった。)

    他に「藤原道長との政争」を繰り返した「藤原伊周事件」では、「伊周の復権」にはこの”「准」”を使う事で利用され、後に「朝廷内の人事の便宜上格式」として用いられる「正式制度」の様に成った。

    注釈としては、「皇族賜姓臣下族」では、「氏内の権威付」に「人事手段」として“「准」”を用いていた。
    この「嵯峨期詔勅に依る禁令」の「青木氏の慣習仕来り掟」として用いられていた“「准の慣習」”が室町期に一般社会に伝わったと考えられる。

    そもそも、この“「准」”を付けての“「三司」”の間の「格式」を表現する方法として用いていたが、元はと云えば「中国の官僚制度」で用いられていたがそれから来ている。
    そもそも、この“「三司」”とは、「太政大臣」と「左大臣」と「右大臣」の事である。

    正式には、実際には権限としてはこの「三司」等ではないが、この“「准」“は「三司並の格式」を有するとする便宜上の位階等の時に使う「否正式手段の事」であった。
    各種の格式や位階の者が持つ権限としては、この「准の呼称」を獲得されれば、”「三司」に関わる立場”として使用する事が出来る様に成った。

    平安期には後に、「便利な呼称」として用いられた。
    従って、「三司」等に成り得る「真人族」や「朝臣族」や「臣連族」等が、許可を得てこの便利な「准の仕来り」を盛んに使ったのである。

    つまり、上記する「春日真人族から志紀真人族」の「志貴皇子とその後裔」は、「賜姓五役」を賜り、天智期や天武期には「皇親族」として「皇太子」に代わって実務を執った「氏」である事から、所謂、その「三司」の“「准」に相当する役務から、「中国の官僚制度の慣例」に従って、この“「准」”を使う事を特例として「氏の中」で許されたのである。

    これを許された「青木氏」では、「従四位」以上に相当する「公家族」「官人族」「臣下族」の「三司に准ずる立場」として当にこの”「准」”を使った。
    況や、従って、一般の還俗した「真人氏族」にはこの役職の格式の手段は認められていなかった。

    「賜姓五役」とその「浄大一位の永代格式」を持つ「青木氏族」にだけ認められていた「准」なのである。


    そこで、青木氏にはどのように使われていたのかと云うと、「青木氏の資料」に観られるこの“「准の人」”に任じられたこの「氏人の差配人」とは、実は次の様な人であった。

    「四家制度」に依って何らかの理由で「郷士の縁籍筋」と成った「青木氏の者」が、「郷士衆頭」を長年務め功績のあった者であって、縁籍筋では「青木氏」を興している者ではある。
    そして、「四家}の「氏上の一員」に服する事が叶わず、「准氏上の人」としてその功績を称えたと考えられる。

    (注釈 唯、この「青木氏」を興したこの末裔は後にこの「四家」に組み込まれている。
    「青木氏」の「准」は、朝廷の中で使う「青木氏の格式」を示す手段以外に、「青木氏」の「氏上と氏人」の中でも使われていたと云う事であった事に成る。)
    この資料の存在期から判断して、「青木氏」の中での「准の使用」は、室町期中期の頃であったと考えられる。

    つまりは、その「一つの集団の統率者・差配者」は、「氏上の宗家」が司ったとする地域社会の構成員であった事に成る。
    (「家人」・「青木氏部」等)

    ところが、平安期中期に成ってからは、荘園制が拡大し開発した荘園を維持する事が「二つの理由」で困難と成った。
    それは、荘園経営の「税の負担」と「荘園の防御」では問題が出た。
    「高位な氏」で「軍事力と政治力」のある「大きな氏」に頼って名義を借り、いざという時には助けて狙うと云う行動に出て、この「二つの課題」を解決して荘園を維持したのである。
    以後、この「名義貸し荘園制」が起こり続けそれが主体と成った。
    荘園主等に執っては「自らの氏」を護ってくれるのは、直接、氏と関係の無い「高位の名義名の氏」であった事から、そこには「氏」に「上」が着くと、「単なる身分の上下を示す主従関係」の用語と社会の中で変わって仕舞った。

    (注釈 この問題の「荘園制」が起こると、「氏の上」と「氏の人」との間には「絆」に基づく関係は無く成り希薄に成り、主に「上」と「人」との間は「利害に基づく関係」へと変わったのである。
    従って、「青木氏」=「神明社・守護神」=「氏人」=「500社の神明社」の構成の様に、問題の荘園には上記する「青木氏の様な関係」が基より無かった関係であった。
    この“「名義貸し」”が主体と成って、「上と人との絆の関係」は「平安期末期の高位の社会」には最早、消えた。)

    (注釈 平安期末期の前段で論じた様に「三人の天皇」はこの事に憂いていた。)

    然し、「伊勢」は聖域であった事から「奈良期の伝統」を「春日真人族と志紀真人族の青木氏」等は「他の真人族」が行う「名義貸しの荘園制」から頑なに護った事で「荘園制の影響」は少なかったのである。)

    然し、この期には「青木氏」は、自らの氏の中で「殖産」「商い」を進めた。
    この事から、「絆の無い荘園制」を敢えて持たなかった事から、平安期初期までの「氏上と氏人の関係」を「伝統」として持ち続けた。
    従って、「青木氏」では、この大化期からの存在(647年発祥)を示す事から、「氏上」は社会が荘園制が進んでも、“「元来の意味」“を持ち続けていたのである。


    さて、仮に、青木氏の中に「上下関係」にあるとしたならば、「氏の上」であれば、用語上は決して「氏の人」を「氏の下」として定めていた筈で、“「氏人」の呼称”とは成っていない筈である。
    従って、「青木の氏」の中では、「氏の村人(人)」は、語源の通り「氏の人」は「氏の子」の意味をし、平安期以降の「身分上下」を意味するものでは元より無かったのである。
    これは前段で論じた「青木氏の概念」の「三分の利の概念」にも一致する。

    (注釈として、上記した朝廷の中の事は判るとして、そもそも「青木氏」とはどういうものかである。
    前段で論じたが、そもそも、「人」は湖などの「水に関わる場所」に集まり、その周囲で集団で生活する様に成った時、その集団の中に“「屯倉(みやけ)」”と云う「営倉」(「神明造り」の営倉:会議所の様なもの)を造り、そこに「人」は集まって来て、その様な集団が幾つも出来た。
    その“「血縁の個体集団」”が、何時しか「氏」と成り、そこに「住む者」を「氏人(うじと)」と云い、その「氏人(うじと)」の中から「秀でた者」を「先導者」として選び、その「先導者」を「氏上(うじのかみ)」と呼称する様に成った。
    この「集団の人」は相互に血縁し、幾つかの「血縁集団」が集まって、また一つの大集団が出来た。
    この「一つの血縁集団」の集まりが「五つの集団」にと集約して行った。
    この「集団」が枝葉化して個々の呼称の単位を「姓」と云う「小集団」へと再び変化していった。
    これを奈良期では、この関西地域に於いて「五つの集団」の「連合政権」を構成して、この「連合政権」が「初期の氏」として認め呼称する様に成ったのである。)

    (注釈 「七つの民族」に依って構成している以上、各地に「連合政権」が確立した。
    これが遂には「融合単一民族」と成った。
    この時期が一つのパラメータとして表現できる“「渡来人」”の言葉が書物から消えたのは平安初期からである。
    この頃に世界で珍しい「7つの民族の融合化」が完成した事に成る。
    この時に、上記の「氏族の枝葉の者」と「支配形態に所属する姓の者」との差別化が起こったのである。)

    この「連合政権の指導者(大王家−天皇家)」と「五つの集団の先導者」との「血縁族の末孫」が独立して、初めて「氏姓制度の法」の下で「氏姓」が構成された。
    これが「青木氏の原点」でもある。

    況や、「准の立場」を認められた「氏の上」として初めて朝廷より法の下で認められた上記の「構成の氏」、所謂、「春日真人―族志紀真人族」と成り、その後の「八色の姓制度」(684年)で「志紀真人族」でありながら「賜姓族」で「朝臣族」として「臣下族」と成り、その「准の立場」を持つ「氏族」の”「伊勢の氏人」”の人に限らず「五家五流」の「青木氏の氏人」として認められた。
    此処で、「准の立場」の「氏上」も然ることながら「准の立場」の人として「氏人」の呼称は認められた。)

    この「青木氏」の「氏上さま」の呼称に関わらず、同じ関係を示す呼称が奈良期にはもう一つあって、それはこの「准の立場」の「青木氏の立位置」が良く判る呼称でもある。
    それは前段でも何度も論じたが、当初、奈良期よりそれは、「准の立場」を持ちながら「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」に携わる「格式呼称」の“「御師様」(おしさま)”と云う呼称でも呼ばれていたのであり、これは「氏上」(うじかみ)と同じ語源を意味するものであった。

    この「氏上」は、「氏」に関わる全ての「氏人(青木村)」を含む一族一門郎党の中での呼称であり、「御師(おし)」は、この“「氏人を指導する人」の呼称”でもあった。
    取り分け、「氏人」が構成する「青木氏部」からの呼称として多く使われたのであった。
    この特別な他氏には決してない「御師様の呼称」は、「准の立場」を併せ持つ事にこそ由来するのである。

    前段でも何度も色々な角度から論じているが、この「指導」をより効果的にする為に、「氏上」に代わって、その「指導の範囲」を区分して担当する制度に変えたのである。
    その「指導者」は、「青木氏部」に大きく絡む事から「神明社の神職」(准の格式)が担当したが、そもそも「祖先神の神明社の神職」は、「准の格式」、況や「笹竜胆紋」を「象徴紋」とし、朝廷が認める「神木の柏紋」を特別に持つ事を許され、所謂、「准の青木氏」で、従って、「准の立場」を確立させる「四家制度から特に選ばれた者」であった。

    この「青木氏部」の必要とする処には、「柏紋の神職の青木氏」が必ず存在し、「柏紋の神職の青木氏」の必要とする処には、必ず「青木氏部」が存在すると云う実に親密な関係にあった。
    それだけに、「氏の人々」からも信頼され尊敬されている立場(准の格式)であった。
    この様に「青木氏」を代表する「准の格式」を示す由緒ある「柏紋」でもあった。

    (注釈 それ故に「青木氏部の人」と「柏紋の神職の人」との「血縁関係」が特に成立していた。
    「隅立て目結文様類」(「隅切り文様」含む)や「釘抜き紋様類」等の「職能紋の青木氏」は、主にこの「血縁関係の青木氏」である。)

    取り分け、「准の格式」に裏打ちされたこれらの「職能の文様(柏文様 目結文様)」は、「正倉院」にも記録されている「由緒ある職能の文様」であり、これをこの「職能紋の青木氏」(青木氏部)が専門に使う事を許されて、「継承」を義務付けられていたのである。

    「賜紋」であって「神木」の「柏文様」の使用は、「神明社の神職」の「御師(おし)」の称号と共に、この時に与えられたものである。

    「神紋の柏紋様」と共に、「皇族賜姓臣下族の青木氏」に執っては、本来、「笹竜胆紋」の「象徴紋」以外には、上記の「志紀真人族の氏」を構成する以上は、他の文様を持たず、故に「姓族と姓名」を持たない。

    従って、当然に「家紋」と云うものを持たないのだが、この由緒ある「職能の紋様」の「氏人」も「笹竜胆紋」を「氏」の「象徴紋(総紋)」として、数少ない「准の立場」に裏打ちされた由緒ある「副紋扱いの氏紋」として継承しているのである。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」を補完すると云う立場から一切の格式などが同じとする以上は、「藤原秀郷流青木氏」(下り藤紋)も、本来は正式には「家紋」とは云わず「副紋」と呼称する。
    本来は、「秀郷流青木氏」に限り、「姓名」もなく一切「氏名」に本来は従い「姓名」は持たないのである。)

    (注釈 「秀郷流青木氏の116氏」は、「総紋」として「下がり藤紋」(総宗家系族紋)があり、その「総紋の中央」に「副紋」を書き込んだ「主紋(宗家系族紋)」を持ち、更に、支流族は「副紋」を個別に持ち、傍系族も「支流紋」を持って表す。
    この「総紋−副紋−支流紋」に従うが、但し、「支流紋」は「副紋の格式」を下げない範囲とするとしている。
    一般に「総宗本家筋」の「総紋」以外は、「宗家筋」は「総紋」の「下がり藤紋」の中央に「副紋」を入れて使う事を主流とする。

    況や、この「文様の構造」は「准の立場」にある為に「下り藤紋」から離れない事を掟としたのである。
    然し、更に、本来は無いとする「枝葉族の支流筋」と成ると、「副紋部位の紋」以下の格式の紋は使えない慣習と成っている。

    然し、「24地域―116氏」とも成ると、血縁関係上、「枝葉族の支流族」は止む無く出てしまうので、この条件が付帯された。
    この慣習も「賜姓補完族の准の格式の立場」を保つ事から来ている。) 

             
    (注釈 前段でも論じたが、「柏紋」の「神木の柏」を表す万葉歌があるので紹介する。
    “家に居れば筍(け)に盛る飯(いい)の草枕 旅にしあれば柏(椎)の葉に盛る” と詠まれている。
    そもそも、 「筍(け)」は「筍の皮葉」の事で、本当は木茶碗の食器だが、馬鹿を装う事を「筍の皮」でその苦しさを現し、「椎」は“しい“と詠み食器であるが、「椎の葉」は細く小さくて食器としては使えない。
    矛盾する苦しい環境を表現したのである。
    そして、「飯」の“いい”と「椎」の“しい”でかけ読みし、「椎」では無く「柏」を用いて“しい”と仮詠みした。
    そこで、実は「椎の実」は「当時の食糧」で、この「椎の実」は食料でもあって、実を蒸して「神に捧げる仕来り」が有った。
    細くて小さい葉で以て心寂しさを詠んだものである。
    そして、今度はこの“しい”を「柏」として、「柏の大葉」の上に「干した米飯」の“いい(蒸した乾燥米の呼び名」“を載せて旅先では食べた。
    「柏の大葉」で以て「朝廷の優雅な生活」を思い出させ、朝廷で使われる「神木の柏」で以て自らの正当性を主張し、信頼する「人を疑う儚さ」と何時か命を絶たなければならない我が身の「旅の苦しさ」を表現した。
    この様に「筍、椎、柏,飯」等に意味を載せて詠んだ見事な「奈良期の名歌」である。
    「有間皇子」の殿上人がその身上を憂いて呼んだ名歌である。)

    この様に「神木」である「柏」(柏紋の神紋で朝廷が容認する文様)の大葉の上に神に捧げる食べ物(乾燥米)を載せて祀る「神明社」の「神への仕来り」にかけた歌が出て来る。 
    見事に当時の神木の「柏の意味」の事が書かれている。

    ここでは「柏」は朝廷の祭祀で使われる「神木」である。
    この様に「柏」には当時は「格式」を持ち「神木」として扱われていた。
    これを「准の立場」にある「青木氏の神職の禰宜の特別文様」と指定したのである。
    当時は、「笹竜胆紋」に「柏紋」の「青木氏」は、「准の立場」の「最大の格式」を持つ「文様の族」と見られていた。

    参考として、この「最高の文様」を持つ「神明社の指導者(神職の禰宜)」の「御師(おし)」に付いては、江戸の「享保の改革」以降は、「吉宗」が「幕府の職能部」を組織化する為に、この「御師制度」(おしせいど)と云うものを敷いた。
    (ここでも青木氏だけの制度が用いられた。)

    ところが、この時から、本来の「御師制度」は「別の意味」に変化した。
    そして、これが更には、「神明社の神職に関わる者」が「情報収集者の役目」も演じた事から、この者を「御師(おし」」と呼ばれる様に成った。

    遂には、江戸期1800年代以降には「伊勢の松阪の射和の商人等」に依って、この「制度」が導入され「商人の指導役」として、「御師(おんし)」と呼ばれて、更に「別の意味」に執り変えられる事が起こった。
    この「商業組合」の「商人の指導役」の「御師(おんし)」は、「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成った。
    (現在でも一部伊勢では独特の金券制度として残っている。)

    そこで、これらの予備知識で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事は、次の事にあった。

    最初は平安期の「皇祖神の子神」の「神明社の神職」に「御師制度」は使われたのだが、“「青木氏の神職(柏紋)」(「神仏同源」)“は、その手段の一つとして、前段より論じている“「仏施の質」”(奈良期)を「福家」に代わって執り行っていた。
    そして、「青木氏の村人・氏人」を「神職としての役目」から全国にある「500社の神明社」で「食糧」を与え、「職業」に就かせ、「人生の生き方」まで導いた。

    この事(“「青木氏の仏施の質」”)から、「仏道を説き人々を正道に導く人」の仏教用語を「導人=導師」と記し、“どうし“から陰陽の呼称で”おうし“」と呼称され、それからは「御師」(おし)と呼ばれる様に成ったとしている。

    そこで、この“「青木氏の仏施の質」”は、「春日王」を基に「志紀真人族と後裔」と成った事から、その「賜姓族の役務」として取り入れられ、「五家五流の後裔」(神明社)と「補完族の裔」(春日社)が行ったとされる。
    それを催した“「青木氏の仏施の質」”が行われた「神明社の広場」や菩提寺の「清光寺と西光寺の広場」で行われる様に成ったが、この「仏施の質」の「名残」として「各地の祭り」が遺されている。
    その一つが、「神明社系」で行われる”「施」”としての”「餅撒き」”等であり、「説」としての「法話講」等であったり、「導き」としての「仕事の斡旋」等があった。
    「法話講」では、景品を与えた「氏人」による今でいう親睦を深める運動会や相撲大会などが行われていた。
    それらが時代を経て形を変えて「祭りの行事」として遺されている。

    (注釈 余り知られていないが、「戦い等の賄人」や「大きな催しなどの手小」や「河川改修工事」や「殖産地造成」や「新田の開墾」など「手小」、挙句は「大工の手伝い」をまとめて積極的に斡旋していたのは人と地理に詳しい「神職や住職」等であった。
    「神職や住職」は上記した様に「氏人の人別帳」も作成していた為に「氏人の生活」までを隅々まで掌握していた。)

    (注釈 江戸期では、「手配師」は非合法な仕事斡旋人や、「請負師」は大工などの職人を斡旋人、「口入れ屋」は庶民の仕事の斡旋人、閑散期の農民等の一時的な仕事を仲介するのが「神職や住職」であった。)

    唯、この時に「御師」(おし)は、“「仏施の質」”を行って導いたが、「仏施の質」とは元はと云えば「仏教の施」であった。
    注釈として、前段で論じたが、「中国の金山寺」などの「古寺」で行われていた「施」が日本にも「仏教伝来」と共に伝わった。
    「古代密教の浄土宗の青木氏」が「賜姓五役」の一つとして「仏施の質」を採用したもので、その「伝統」は明治初期まで伝統として維持され、「享保の改革」などにも用いられた。
    況や、「青木氏」は、「神仏同源の概念」を持ち得ていた事に由来する。

    この様な、「賜姓五役」とは云え、「三司」が行う「政治的な施策」までを担うのは、この「准の立場」に依る所以でもある。

    上記する様に、「青木氏の憲法」と云われる「概念」にも通じ、「三分の利」の「概念」にも通ずるものである。

    然し乍ら、「青木氏」は、これを主に「神明社の神職」の「御師(おし) 柏紋」が行った。
    どちらかと云えば、「仏施の質」では無く「神施の質」とも云える。
    「仏施の質」ともなれば、各地の定住地にある「氏の菩提寺」(密教)と成る。
    これでは、その寺数から「氏人」に充分に「仏施の質」が広まらない。
    況や、奈良期からの「氏の構成員」である「氏人」を護れない。
    そこで、「氏」は「神明社」と云う下で、「青木氏=神明社・守護神=氏人」である限りは、「仏の導き」よりは「500社の神明社の構成」に依って導かれていた。

    そこで、本来からの「神仏同源」(習合)を旨とする概念」から拘る事無く、主に「神明社の神職」の「御師(おし)」が、朝廷より「神木の柏紋」を賜って「神施の質」を「皇祖神の子神」としてその責を負ったのである。
    元々、「青木氏」には、従って「神仏同源」である以上は、「神道と仏道」の「区分けの感覚」が少なかったと考えられる。
    それは、上記した様に、「青木氏の出自」の基と成る「准の立場」に大きく影響していると考えられる。

    「自然神」を基とする「皇祖神の子神の祖先神」は「神道」であり、一方で「密教の古代浄土宗」で「仏道」を保って来た。
    そして、この何れもを差配するのは、「福家」であった。
    取り分け、「仏道」は「青木氏だけの教え」に基づく「密教」で、その出自から独特の「達親制度」と云うものを敷いていた。
    前代でも論じた様に、上記した様に「神道」も「御師制度」と云うものを敷いていた。
    従って、「神職」の柏紋の「青木氏」であって、「住職」も笹竜胆紋の「青木氏」から出たものであって、「他の宗教」に全く左右されないものであった。
    これ等は、「志紀真人族」で「賜姓臣下族」と云う「出自の格式」がその様な形に導いたものと考えられる。
    これに加えて、三司に匹敵する「准の立場」にあった事に由来する。

    「神仏同源(習合)」と云うよりは、必然的に「神道」は「仏道」に左右され、「仏道」は「神道」に左右された考え方の「青木氏の概念」として確立したと考えられる。
    然し、何れにも偏らないと云うよりは、やや「神道」>「仏道」にあった事は否めないだろう。

    その一つの形が、政治職の「三司」に基づく「准の立場」の格式ある「柏紋の神職」があるかと思うと、格式のある「柏紋の住職」もあると云う不思議な事が起こっているのである。
    関東にこの「柏紋の住職」が多い。

    依って、「仏施の質」は「賜姓五役」と云う役からも「神職の役」と成っていたのである。
    「仏道」の「柏紋の住職」のあるところは「仏施の質」は「住職の役」が多い。
    「関東と北陸域」は「春日社」が多く、「西光寺」が多い所以でもある。
    それは、「500社と云う神明社の分布」に左右されている。


    次ぎに、この全国の「青木氏に関わる定住地」にある「神明社の500社(466社)」には、その数だけの意味だけでは無く、この「500社にある地域」に「御師」が居た事を示す数値であって、その数値はそれだけにきめ細やかに「氏の人」に親身に成って「導人=導師」から「御師(おし)」を敷いていた事を物語るものである。
    これは明らかに「氏上と氏人」の間には、「上下の関係」では無く、「親子孫の関係」にあった事を示す所以でもある。

    前段でも論じたことであるが、時には、「戦乱」等に掻き廻されたり、行き詰った「人生」に「越前の逃避地の神明社」に「青木氏」が多く逃げ込んだが、当に、この時に「神明社の御師(おし)」は「仏施の質」(上記の青木氏の掟にも関係する)として戸惑う「氏の全者」を救う為に大いに働いて食と職を与え世を説き再人生の道に導いた。

    上記で論じた「越前商人の酒造家」等はこの典型的な事例である。
    「神明社500社」の「数」も然ること乍ら「分布」から観ても、「五家五流賜姓青木氏」のみならず同格式を持つ補完役の「賜姓秀郷流青木氏」を含む全国の「二つの青木氏」には、この「奈良期からの古式の御師制度」が敷かれていた事を示している。
    この事は「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」に関わる事から、「氏上と氏人の関係」も「古式の慣習仕来りと掟」として伝統的に敷かれていた事を物語るものである。

    (注釈 「藤原秀郷流青木氏」も「春日神社」が守護神であり乍ら、その出自から「神明社」も「副神」の「守護神」として崇めていた。
    取り分け、「伊勢秀郷流青木氏」に関わった一門の地域には、「藤原氏の定住地」では無いにも関わらず、「春日神社」がある。
    この「春日社」があるにも関わらず「神明社」も存在する。
    これは、この事を証明している。)

    これは「伊勢秀郷流青木氏」は長い歴史の中で「春日神社<神明社の感覚」、或は、「主神<副神の感覚」にあって、その「末裔の血縁先」もその傾向にあったと考えられる。
    従って、よりその「古式に基づく慣習仕来り掟」が尊重されていたと観られる証拠でもある。

    元来の大化期からの「氏上の役目」として「村人を導く人の御師」であるとしてこの様に呼ばれていたものである。
    従って、「氏上」であって、その「御師の元締め」から「御師様」と呼ばれていたのである。
    この様に呼ばれるには100年程度の「絆」では無理であろう。
    所謂、互いに「仙人」を超えた「1200歳の人間同士の絆」が構築していたからである。
    「1200歳の人間」は、腰の曲がった白髪頭では無く、常に進化した直立の黒髪の「1200歳の人間」として生きて来た者の“同志“なのである。
    「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志」なのである。

    これが、「准の立場」を保った“「青木氏心魂」の所以”なのである。
    故に、明治の伊勢や信濃や美濃などで起こった一揆にも「青木氏心魂」は我が身の事として支えたのである。
    この関係を観ても、「氏上側の災難の連続」に依って祖父の代から途切れた「1200歳の人間」の関係は、「40代目の筆者」には、「青木氏心魂」は最早、無い所以でもある。

    (注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。

    これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏心魂」としての「准の立場」の「氏上と氏人の関係」であった。
    それを物語るものが、「仏施の質」であって、この「氏上と氏人の関係」を証明する行為であって、「青木氏以外」には行っていなかったものであった。
    これが「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて”「伊勢屋の質」”と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できていたが「江戸の質」には一時、「准の立場」と同様に「青木氏の歴史観」の知恵は及ばなかった。
    然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか、当初、“まさか江戸までは“の先入観から理解ができていなかった。
    この「准の立場」も「単なる准の意味」(次の格)としてか理解が無かったし同様であった。

    果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にも「質」と「准」のこの「基の意味合い」があった。
    この事から「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「准の立場」の「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
    だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と発想の転換で、これで「奈良期の疑問」と「江戸の疑問」が同時に解けた所以でもあるが、時代に依って「語源」がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。

    この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
    これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
    筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
    この「准の立場」や「質」や「青木氏心魂」等は典型的なテーマでもある。




    「伝統シリーズ 31」に続く


      [No.348] Re:「青木氏の伝統 29」−「青木氏の歴史観−2」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/12/18(Sun) 11:47:46  

    > 「伝統シリーズ−28」の末尾。


    >これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏の心魂」としての「氏上と氏人の関係」であった。
    >それを物語るものが「仏施の質」であって、この「氏上と氏人の関係」を証明する行為であって「青木氏以外」には行っていなかったものであった。
    >これが「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて「伊勢屋の質」と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できていたが「江戸の質」には一時、「青木氏の歴史観」の知恵は及ばなかった。
    >然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか、当初、“まさか江戸までは“の先入観から理解ができていなかった。

    >果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にもこの「基の意味合い」があって、「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
    >だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と発想の転換で、これで「江戸の疑問」が解けた所以でもあるが、時代に依って語源がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。

    >この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
    >これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
    >筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。



    「伝統シリーズ−29」に続く。


    「享保の改革」に関する「青木氏の歴史観」は、暫くとどめておくとして、次ぎに、この「改革」の中心と成っていた“「射和組」と「松阪組」”がどの様になっていたのかを掘り下げて置く必要がある。
    そこで、先ずは、伊勢でのこの「射和組」と「松阪組」の「青木氏との関係」「加納氏との関係」は血縁的にはどの様に成っていたのか気に成るところでもある。
    この事は、「伊勢衆」の「郷士衆」との「繋がり具合」を証明する事にも成り、江戸以降の「伊勢の生様」が良く判る事にも成る。

    そもそも、この事で「全国の青木氏」が定住する地域で同じ様な事が少なくとも起こっていた事であり、取り分け「商業」をベースに「二足の草鞋策」を成功させていた「15地域」ではこの様な「地域性のある出来事」が起こっていた事が地域毎に遺されている資料でも判る。
    これは特異な事では無いのであり、「青木氏の歴史観」が増幅させられる事でもある。

    ただ、「二足の草鞋策」を敷いていたこれらの地域では、次ぎの様な事があった筈で、「研究の過程」では常に痛感する事であった。
    何よりもその「15地域の商業組合」には、必ず”「商業」”と地域の特徴を生かしたで”「殖産」”を必ず敷いていた。
    所謂、共通点であり、この時代ま慣習としては珍しい事であり、現在で云う「生産から販売のシステム」である。

    この共通点は、平安期初期の朝廷の「紙屋院での余剰品」を「部市場」に販売した時から始まったものであり、この「殖産(生産)と商い(販売)」は、925年の頃から始まったとされている。
    その50年後頃には「秀郷流青木氏の補完」を受けて更に拡大したもので、“日本広し“と云えどもどの商業にも無いシステムであった。
    そもそも、これ程古い悠久の歴史を持っている「商い」は無い筈である。

    単純に「生産者」から「物」を購入してそれを「販売する」のではなく、「地域」に「根」を下ろし、自らが「商業の進展」「時代の要求」に合わせて、「殖産」で「生産」も拡大させるという「商業と興業」の「組み合わせのシステム」である。

    そして、この”「殖産」”が拡大すればするほどに「青木氏族の民]の「氏子衆」は潤うと云う連動性を持っていた。
    この「氏子衆」は、「享保の改革」で論じた様に、中には「仏施の質」を受けて「農業」の傍ら、家に「仕事小屋」を作り、「田畑勝手作の令」の枠を掻い潜り、他の村からも「人」を集めて「下請けの村工場」まで営んだと書かれている。
    それは前段でも論じた「氏上と氏子の関係」、「古式伝統の維持」の上に立っている。
    それを重厚にする為に「商業の組合」で固めた方式である。

    そこで、その典型的な「殖産」の事例として、次ぎの様なものがある。
    伊勢の「射和組」には、「殖産」として“「金山寺味噌」”をベースに“「醤油」”も手掛けていた事が判っていて、この“「日本最初の発祥地でもある醤油」”は、元は「紀州湯浅地区」が「生産地」である。
    この「醤油つくり」が「紀州藩の肝いり」で「松阪」にも移した事に成っている。

    注釈として、「伊勢」で行われた「殖産の事例」としては、次ぎの様なものがある。

    そもそも「醤油」は、次ぎの様な経緯で産まれた。
    「金山寺味噌」と云う「紀州名産」が古来よりあって、中国から僧侶が持ち込み、中国金山寺で「僧侶の副食の精進料理」として食されていた。
    「味噌」と云う言葉があるが、「みそ製造」と同じ方法で作られ、その中には、当然に「豆」と共に麦や茄子や胡瓜等の実野菜も一緒に漬けられて重石を載せて暫く麹菌で発酵させてから豆と共に食するものである。
    “「味噌」であるけれども「味噌」では無い“と云う風な要するに当時の「副食」であった。
    これを漬けている時、この「漬け樽」から「薄茶色い透明色の液体」が出ていた。
    これを食した時に実に美味い味を出す事が判り、「僧侶」がこれを集めて精進料理に加えたところ、抜群の味を出した事から、「檀家衆」が興味を示し、この「うま味の液体」だけを造る事にして、販売したところ爆発的に売れ、これに「醤油」と名付けて販売した。
    これが「紀州湯浅」で生産され、後に、これを吉宗が「商業組合」として「関東の野田」にも移したのが「野田醤油の発祥」である。
    上記で詳しく論じなかったが,これも「伊勢紀州の殖産興業」の一つである。

    当然に、この「湯浅の殖産」から隣の「伊勢の殖産」にも「青木氏」は直ぐ用いたのである。
    この「湯浅の醤油」の製造元と成った「伊勢紀州に広く分布する郷士」の一つ「玉置氏」とは、「伊勢の紙問屋の家」(伊勢青木氏)は二度も縁者関係にあった事は判っている。
    この「紀州の郷士」の「玉置氏の末裔」が、「伊勢」にこの「醤油の殖産」の為に、「伊勢」に移って指導した。(この末裔が「伊勢郷士」と成った。)

    この意味では、「伊勢郷士」とは「青木氏とは繋がり」を持っていたが、「射和商人」の代表的な商人の「富山氏 国分氏」(伊勢衆の郷士)との「繋がり」は不思議に伝えられていない。
    伝えられていないと云うよりは“「記録が消失した」“と云う事に成るだろう。

    恐らくは、これは「吉宗の御側用人4000石の加納氏」が営む「加納屋」との関係が在ったがこの新宮にある「加納氏の分家筋」に遺された資料の関係から判る。
    そこで、この「加納氏」も「青木氏」と共に「育て親」と成るには、「御側用人の立場」だけでは成し得ず、矢張り、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」(加納屋 商業組合)で「殖産」をするしか無くこれに取り組んだのである。

    実は、「伊勢商人 紙問屋 伊勢青木氏」とは、この「加納氏の加納屋」とは何度も血縁関係を結んでいる。
    この様に「商い」を含め、「紀州徳川氏との関係」(加納氏は紀州藩家臣 青木氏と共に「吉宗育親」)を軸に深い親交があった。
    筆者の父の祖母、つまり、筆者が曾孫に成るが、加納氏本家から嫁している。
    その意味では、加納氏と関係のある「射和商人」(伊勢郷士)との間接的な関係にあった事は否めない。

    前段でも論じた様に、「射和組の商い」は、そもそも、「紀州藩」と「青木氏」や「加納氏」の「肝いり」で「殖産」し「商い」にしたのであるから、女系で繋がっている事は充分に考えられる。
    ところが「射和商人」が江戸の「享保の改革」には余り登場しないのは、前段で論じた通りで「商業組合」に「不参加」であった事からであるが、これだけ「家との繋がり」のある中で、思えばこれも「伊勢人」としては、「伊勢の不思議な現象」の一つとも受け止められる。

    同じ「不参加の組」の伊勢に来た「近江組」も「享保の改革の恩恵」を受けて1765年代に江戸に参加したのに、それでも「射和組」は江戸に参加していないのである。
    確かに「青木氏との確執」もあって「不参加」を決め込んでいた「近江組」も「江戸の伊勢屋の成功」を観て、“それじゃー我々も“と勇んで「過去の確執」を乗り越えて、「商い」に徹して「助成」を受けて成功した。

    確かに、前段で論じた様に、「頑固な門徒衆」を抱えていて思う様に行かない事は判るし、「近江組」の商人と違い「性根」は根っからの「武士」である事もあって、その伊勢武士の感覚が先行して「商い」に徹すると云う事にも成らないだろう。
    筆者側に資料記録が少ないのも、確かに「出火焼失」もあるが、これには何か腑に落ちない。
    それは「伊勢射和の南」に流れる「櫛田川の河川敷」で行った「米殖産」だけの資料はあるのだが、何なにか疑問である。

    矢張り、“「武士」であると云う概念”が表に出てそれに縛られる事が強かったとも取れる。
    郷土史によると、「射和地区」の「商い」の「商業組合全体」で留まった事が判っている。
    「二足の草鞋策」を採っている事から「武士」である事には変わりはないので、その「武士の誇り」は捨てきれない共通する集団であった事から、「射和の結束力」は相当なもので、この「江戸初期からの商店街」の街並みと慣習(御師講の仕来り おんしこう)が現在も古式豊かに遺されている。
    これが「疑問や不思議の根源」ではないかと云える。

    と云うのは、「松阪組」の「紙問屋」は「紙関係」は勿論の事、「リサイクルや骨董品」などまでの「総合商社」を営んでいた。
    それには「殖産」を調べれば判る。
    どの様な「殖産」を興していたかは次ぎの通りで、先ずは地元の大きく成った“「伊勢殖産10品」”と呼ばれていたものには次ぎのものがあった。

    ・「伊勢殖産10品」

    「伊勢和紙」
    「紙箱などの紙製品」
    「伊勢米」
    「伊勢絹」
    「伊勢醤油」
    「伊勢陶器」
    「伊勢白粉」
    「伊勢豆紛」
    「伊勢木綿」
    「伊勢酒」
    「伊勢菜種油」

    但し、「紀州藤白墨」と「紀州硯石」は、室町期までは「天皇家の専売」から、江戸期には「徳川氏の専売」の「専売殖産品」と成っていて、一度、「専売先」に収めた後に、「余剰品」を市場に販売する「部市場方式」を採っていた。所謂、「国営」と云う処であろうか。

    以上の「伊勢殖産10品」は、「青木氏の殖産」として扱ってはいたが、摂津と近江の他国の豪商も一部で関わっていた事が判っている。
    又、中には、伊勢人の中で「紙問屋の青木氏」との連携での「二次殖産」の形(現在の外注)も確認できる。
    「他国の商人」は「伊勢の特産」では無く、主にも全国的に通常品としての需要の多い「菜種油」や「木綿」に需要を何とか賄う事の為に「直接の殖産の形」ではなくとも「何らかの関係」で関わっていた事は否めない。

    この他には主に「紀州の殖産」に関わったものとして「南伊勢」には次ぎのものがあった。
    歴史的には平安期からのものが殆どである。

    ・「紀州殖産五品」

    「伊勢墨」 初期は和歌山県海南市藤白地区から次第に日高地方に生産は移動した。
    「紫硯」 初期は上記の海南市の山岳から主に日高川沿いに生産地域は変化した。
    「伊勢炭」 生産手法は、「伊勢墨」と同じで、紀州名産の「姥樫木」から作る「備長炭」である。
    「線毛筆」 南紀の新宮地域とその山域から伊勢南部域の村郡に家内工業的に分布した。
    「青庭石」 高級庭石として紀伊山脈全域に分布し生産された。

    何れも「紀伊山脈の山質」に関わる「産品」で、これを応用して「殖産」は進められていた。
    中には、昭和20年代まで生産されたものもある。
    そもそも、紀伊山脈は海底より迫り上がって出来た「古い山脈」で、その為に硬質の「黒硯石」や「青石」や「紫石」が採れる。
    従って、「石英岩石」も多く、中には石英の結晶の「水晶」も「飾石」や「印鑑石」としても「殖産」されていた事が資料からも判っている。(我家に当時の古い現品保管)
    庭石などの目的で「青石」を切り出した際に出来る粉からそれを集めて「石と石の接着剤(現在の「セメント」)」も少量ではあるが生産されていた。

    (注釈 ・「紀州殖産五品」はもとよりセメントも昭和20年代までトツプメーカに依って生産されていた。)

    これらの「古代遺産」の「現物」は保存されているが、何らかの説明の資料や記録関係のものが遺されていれば良いのだが、焼失で無く成っている。
    従って、更に、より詳しく辿る事が残念ながらなかなか出来ず、「伊勢殖産10品」や「紀州殖産五品」等の販売だけに関わった「肝心な射和組との血縁関係」を確実には立証出来ない。
    これ等を「射和組」には「二次殖産」としても関わっていた事は判っている。
    取り分けこれらの・「紀州殖産五品」の殖産の産品は、大量販売は無理で、故に江戸に出なかった事も考えられる。

    そもそも、1000年以上も古くは「奈良末期」から、鎌倉期から江戸期までの言葉として、為政者達からは、“「伊勢の事お構いなしの定」”に依って護られていたので、「為政の影響」もあまり無かった筈である。

    「古の血縁関係の立証」とは別に、「伊勢」と云う少ない「土地の郷士との関係」を深く持っていた事は確認できているし、この「射和の伊勢郷士」との関係も掴めているので、「青木氏」を背景に、上記した様に、この「射和郷士」が江戸初期に「商い」を始めた事も判っている。

    (注釈 そもそも、“「伊勢の事お構いなしの御定」”とは、「天智期の詔勅」と「嵯峨期の詔勅」で与えられた「不入不倫の権」の事が基本に成って、江戸幕府等からも「伊勢」で興る「問題」についての「政治的な処置」に対しては、特別に「優遇処置」を講じる事の「御定書」が改めて出されていた。この事を為政者にはこの様に呼称されていた。前段記済。)

    恐らくは、「射和郷士」とは、「伊賀氏、北畠氏」等の滅亡した「豪族の家臣」が殆どこの「郷士」であった。
    この中で「室町期末期の戦乱」で家は飛散し、「青木氏の保護」の下で「伊勢シンジケート」の中で「生活の糧」を得て何とか生き残ったが、その末裔が「商い」に転じて「射和商人」(門徒衆含む)と成り得て、20氏程度が「子孫」を繋いだと観られる。

    従って、「事の流れ」から云えば、この「伊勢全体の郷士集団」(伊賀郷士含む)とは、古くから親交が有って、「四家の青木氏の末裔」が、「四家制度」に従って“「家人」”に成って、これらの「郷士族」と血縁していた事が充分に推測できる。

    依って、更には、これらの「伊勢郷士」は、平安期の「清和源氏の河内勢力」の関西域の「勢力拡大」の「混乱」もあって、「青木氏の伊勢シンジケート」に入って身を護った。
    この様な背景で「伊勢シンジケート」を構成していたので、恐らくは、元は「伊勢郷士」であってその中でも名を残した「富山氏」とか「国分氏」とかは、状況証拠から鑑みて、「血縁の繋がり」を持っていた事は間違いはないと考えられる。

    そもそも「江戸期の商人」の元を辿れば、殆どが「郷士」であった。
    取り分け、「伊勢商人の松阪商人」は少なく成った「郷士」であった。(伊勢シンジケートが原因)

    この様に、江戸初期には、伊勢に上記した様な事件があって、「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していた「郷士衆」、つまり、「伊勢衆」は「青木氏の援護」の下で、「商い」を始めた事が判っている。
    その「商い」は、全て「青木氏の総合商社」が扱っていた事も判っている。
    恐らくは、記録にある“「この時の事」”(「室町末期の混乱」から「江戸初期の安定期への移行」の事を言っている)が“契機”と成って、“「射和組」”として編成されたものである。

    これらの記録の一つとして、「伊勢の歴史的なの功績」を遺した「伊勢藤氏の伊藤氏」は、平安期の「古来の藤原氏」で、この地に定住していた氏である
    そもそも、その始祖は「伊勢守」の「藤原の基景」で、「藤原秀郷の八代目」に当たる。
    この「伊藤氏の末裔」が書き遺したものには、この“「射和商人の事」”が書かれている。

    実は、この「伊勢の伊藤氏本家」(伊勢の藤氏で伊藤氏)筋とは、「筆者の伊勢青木氏」とは血縁関係にあった事は承知していて、その末裔は義理の従兄弟であった事も承知している。
    諸々の「青木氏の口伝と記録」に依れば、この「伊藤氏」が「射和組」に関係していた事も承知している。
    ところが、前段で論じた様に、「射和組の家筋」からの「記録」は把握しているが、如何せん、“「青木氏側の遺品」“には、「口伝」はあるにしても「射和組」に関する”「確証する資料証拠」“は見つからない。
    これは恐らくは原因は「明治35年の出火焼失」であろう。

    これに関連する「伊勢陶器」等の「先祖の遺物」は多く遺されているにも関わらず、何か「遺された手がかり」もあるかも知れないが未だ紐解く暇がなく立証できていない。
    依って、本サイトでは「青木氏の歴史観」としては、筆者も“「射和の関係」”はそれまで余り触れなかった事柄であった。

    然し、“「伝統」”と云う点から、判る範囲で敢えて書き遺しておく事にした。
    「伝統シリーズ」では、既に、一部では触れてはいるが、そこで、もう少し「射和商人、射和組」を論じて置く。
    それは,何も「伊勢の事」だけの話では無く、「全国の青木氏」にも「15地域に商業組合」を広めたが、この事から「郷氏としての同じ伝統」を引き継いでいる事もあって、ほぼ「同様の事」が起こっていた筈であるからだ。
    故に、その結果を、「伝統シリーズ」に反映させたいと考える。

    「伊勢青木氏の系譜と添書」の殆どが「明治35年の出火」で消失してしまったので、曾祖父や祖父の遺した「忘備録(仮称)」での確認と、「伊勢紀州郷士衆等の関連氏の資料」から成る。
    これだけでは不充分で「青木氏側」からの「射和の関係」が、現在では最早、掴め切れない。
    実は、前段にも書き記したが、「射和組との関係」があった事は、充分に判っている。
    然し、この焼失や消失による「資料不足」にて、どうしても全体を明確にするところには辿り着けないで、状況証拠にては推論は立つが、それを解明する「確証」も掴めない事がある。

    その原因としては、「青木氏側」のみならず、「伊勢郷士側」も「室町期の混乱」で、この世の事と思えない「殺戮と焼失と消失の混乱」からそれ以上に資料は激減していている筈である。
    この時期は、「記録・資料の保存」の主な殆どは、菩提寺や神明社などが、前段で論じた様に、祐筆等を務めていた為に担っていた。
    従って、それは、「室町期の混乱」に依って、周囲の“「伝統」“と云う「意識概念」が低下して、恐らくは、疑う事無く「記録壊滅」であった筈である。

    この「室町期末期の事」のみならず、「明治期初期の混乱期」や「昭和初期の戦争に依る混乱期」等の「社会の外的な原因」に依るものと、現在でも、違う意味で「社会の内的な原因による混乱期」もあって、「伝統と云う概念」の「意識低下」が起こっている。
    そして、「著作権や個人情報」の様な「法的拘束力」に依っても、更に「意識低下」が起こり、尚且つ、「調査や原稿の執筆」にも表現が左右されて難しく成っている。
    現在ではこれらの原因で、世代を一つ超えると、最早、口伝等の「無形情報」や「物的情報」さえも「価値意識」が低下して完全に無く成っているだろう。

    この侭に放置すれば、多分、論じる限界を超える。
    「青木氏の研究」の中の「伊勢地区の研究」を何としても十分にして置きたいと考えているが、如何せん“「伊勢衆の事」の資料”が、「商記録」と「口述」と「伊勢と紀州の郷士衆の遺品」以外に見つからない。
    有っても「江戸初期の搾取偏纂」の「半強制的な仕儀」(「黒印状」が原因)のものしか無く、信頼に値しない。
    「青木氏側」ではある程度の繋がりの事は判るが、「射和組」の「郷士側」の確かなものが見つからない。

    (注釈 京都には実に“「古い古美術商」”があって、「青木氏」も長い付き合いの合った「京商人」でもあるが、この歴史書の様な「古い古美術商」は「ヤフー」にも投稿してHPを持っているが、その「研究」では「伊勢の事」は充分に知っている筈であるが「ある部分」で詳細を欠いている。)

    この原因は、取り分け、「射和」に関してはその本筋の原因は判っている。
    「織田氏の伊勢三乱」に依って、「修羅の様な戦場」と成った事から大きな影響を受けた「伊勢衆」の基には「遺された資料関係」が少ない事から来ている。
    そもそも、因みに「織田氏と伊勢衆との戦い」は、上記した様に、両者ともに公的記録で明らかにされている様に、「村が6割全滅」「2万の織田軍が9割全滅」「伊勢寺の僧侶の7割が死亡」「村民6000人が死亡」する等の「激しい戦い」と成った。
    「ゲリラ戦」が主体と成っての「醜い戦い」であったので、それに対抗する為に「織田軍側」は、相手がはっきりしない事から、徹底した「焼き払い戦法」を使った。

    この時、丁度、「石山本願寺の戦い」も同じ「紀州、河内、大和、伊勢地域」でも、「一揆とゲリラ戦」が起こっていた。
    「織田軍側」は、この「二つの戦いの区別」もつかなくなっていた。
    「伊勢」では、“「焼き払い作戦」”で多くの「農民」や少ない「郷士衆」が滅亡したし、「郷士に関する記録」も消失した。
    その後、これでは終わらなかった。

    それは秀吉に依る“「紀州征伐」”が更に起こった。
    徹底した“「郷士狩り」”と云う事を遣って退けると云う事が起ったのである。
    更には、「武力の反抗」を無くす意味から「郷士等の刀狩り」も行われ、彼らの「生活の余力」を無くす目的からも「検地」も行われ、「伊勢郷士衆」は、「武器」や「土地」を奪われ「丸裸」に成った。

    この事が、「郷氏」に及ばず、取り分け、「織田軍や秀吉」に攻められて農民や庶民が「街並み」の中まで逃げ込んで来た事で、これを殲滅させる為には無関係の者との区別が着かない事で「街並みの焼き払い作戦」や逃げ込み先の「寺」などを取り囲みの「焼き払い作戦」を実行した。
    燻し逃げだされて出て来る者は容赦なく殲滅すると云う酷戦に成った経験を持っている。
    これが原因して「射和組の遺された資料と記録関係」は例外なく消滅したのである。
    口伝に依ると、「伊勢の紙問屋」の「玉城の職人長屋や蔵処」にも逃げ込んだが、流石に「青木氏」には攻撃は無かったと伝えられている。
    大義的には、「天皇家の祖のお伊勢さま」を攻めるという避難を免れない事を恐れたからではないかと考えられるが、注釈として 唯、「青木氏の菩提寺」に逃げ込んだ者らは門前で責められて被害を受けた。

    (注釈 中まで攻込まなかった。「伊勢の藤原秀郷流青木との関係」の深い「伊勢攻め大将の「秀郷流近江藤原氏の蒲生氏郷」の関係)も有った。)

    「青木氏」が「伊勢の経済」を担っていた事を租借して、これに被害を与える事は避けたと口伝では伝えられているが、もう一つあったと考えている。
    筆者は、確かに「経済力の懸念」もあるが、別にも、前段で論じた様に、影で動く「武力勢力」の“「伊勢のシンジケートの力」が、これ以上に動くと”「逆効果」”と成る”と「織田氏側」は観たのではないかと推測している。
    「青木氏」を背景に「伊勢シンジケート」と「伊賀者」との「共同作戦に依る武力」を持った「ゲリラ戦」が起こると困ると考えた事にもあるだろう。

    (注釈 彼等には「足利氏の10万の軍」を餓死させた戦歴を持っている。)
    その意味でも「射和の存続」が殲滅までに至らずに働いたのである。

    (注釈 明治期に成って「伊勢の射和の事」に付いて「江戸中期頃の復元」が試みられたが、参考とした資料に搾取が在ってこれを基にした為に可成り矛盾が多い。)

    その後、最早、追い込まれた「射和」は、これでは生きて行けないと成り、結局、「伊勢四衆」と呼ばれる「青木氏」等が援護して、庶民も含む生き残った者等(「戦いに参戦した射和郷士」)にも「土地のものを活かした殖産」に加える事にしたのである。
    室町期末期には「青木氏」にも残念ながら防ぎ切れなかったのだが、「伊勢の射和組」にはこの様な「辛い歴史」を持っていたのである。


    注釈として、前段でも論じたが「本格的な戦い」を避けなければならない「青木氏の氏是」の「縛り」もあった。
    それでも半分は「青木氏の氏是」を破った「最大限の影の戦い」にした「名張の戦い」や「伊賀の戦い」の「救出作戦」が在った。

    「射和」も「人の子」であり、矢張り、人情的には江戸初期前後に護ってくれる筈の「青木氏に対する多少の怨念」があったと考えられ否定は出来ない。

    然し、前段で論じた様に、これ以後には、20年後に「紀州藩の初代頼宣」も「援護の手」を差し伸べて、「青木氏」と共に、要するに、“伊勢を復活させるべく取り組み”が始まったのである。
    そして、この「伊勢の殖産」を生き残った「伊勢衆の射和郷士」等にもやらせたところまでは記録から判る。

    「青木氏に対する多少の怨念」は、この「殖産と興業化」で多少は霧消したとも考えられる。
    それでも「商業組合」に参加しなかった事から考えると、この「青木氏に対する多少の怨念」は未だ多少は引きずっていて、その“「怨念」“は「享保期の直前」の「紀州藩吉宗入城」まであった事にも成る。
    つまり、「吉宗」は、この「青木氏に対する怨念」に対して「紀州藩藩主」と「将軍」に成った時にもこの事を充分に知って居た事に成る。

    「吉宗」は、「伊勢の紙問屋と伊勢青木氏」に対しても、「江戸の商業組合」を指揮する上でも、何とかやり易くする為に、前段で論じた様に、「家康のお達し」に重ねて“「伊勢の事お構いなしの御定」”の「慣例の継承と強化」を指示したのである。
    この一例が前段でも論じた「伊勢奈良奉行時代」(山田奉行)の「大岡越前守の行」に成ったのである。

    「青木氏」は、江戸期に成っても地域別に分けると次ぎの「殖産と興業」を興している。

    「殖産地域−1」 伊賀地区、脇坂地区、上田地区、
    「殖産地域−2」 名張地区、松坂地区、四日市地区、
    「殖産地域−3」 員弁地区、桑名地区、
    「殖産地域−4」 射和地区、玉城地区、
    「殖産地域−5」 長嶋地区、新宮地区、尾鷲地区

    以上の5地域等にこの「江戸期の殖産」は分布している。

    「青木氏」が地主(地権者)として「紀州藩からの利権」を得て、ここには「青木氏の四家」「青木氏部」「青木氏の家人」「青木氏と関係する伊勢郷士衆」の一族一門と、「青木村の農民と職人」が定住しているが、この地区毎に土地に適した上記の「伊勢殖産10品」の殖産を進めたのである。

    この「殖産地域−4」の「射和地区」は、「櫛田川の水」を利用した「殖産」を、「室町期末期の混乱」から「伊勢復興」を兼ねて先ず進めたとある。
    それが、主には「伊勢殖産10品」の中で「射和地区」では次ぎの殖産であった。
    「射和の主殖産」
    (1)良質な水と川土に適する白粉花からの「白粉」
    (2)良質な水を活かした「醤油」
    (3)粘土質の土壌を活かした「陶器」
    (4)水車を生かした「粉の生産」
    (5)水分を多く含んだ土壌を好む「楮」と「和紙」

    以上をこの地域の地理性を生かした「殖産」にし、それを「青木氏」と共に「興業」にして販売するシステムまでを構築したのである。

    従って、この「職人と商人」を「伊勢商人」の「松阪商人」の中でも「射和職人、射和商人」と呼ばれた。

    これを「後押し」したのが「青木氏」であって、その為に、「徳川氏」から「青木氏」が古来より持っていた上記した「広大な土地の利権(地主) 5万石分」を“「本領安堵された」“とする考え方が「青木氏の記録と口伝」の中で読み取れる。

    (注釈 恐らくは、「青木氏側」では、この様な「暗黙の了解説(本領安堵の目的)」があるので、特に、「伊賀の一部」と「南紀勢域」は元より「遠祖地」であることから、其れに相当する行為であったと観られる。)

    それは「紀州藩飛び地領」に「紀州藩の財力」(現実に使えなかった)を使わずに、「青木氏らの財力」を使う事の方が「郷士衆の少ない伊勢域」では、「総合的に得策」と観たのではないかと考えられる。

    つまりは、「青木氏側」ではその「見返り」として「本領安堵策」と成ったと考えていたのである。
    それを判断しその方向に仕向けたのが、同族の「伊勢の秀郷流青木氏」で「紀州藩の官僚軍団」であった。

    (注釈 充分な「下打ち合わせ」は「二つの青木氏」の中では有ったと観られる。
    そもそも、放って置いてもその様に成る環境でもあった。)

    (注釈 その代わりにこれ等を司る代償として、家臣では無かったが、「青木氏 郷氏」に紀州藩から“「12人扶持米の礼米」”を初代頼宣より支給されている事が何よりの証拠である。
    「青木氏」に執っては斯くたる「礼米」ではないが、徳川氏としては「建前」を採ったと考えられる。)

    つまり、「青木氏」は「室町期からの紙文化」の影響で「250万石以上の財力」(総合 500万石)を持っていたとされる中でのこの“「扶持米」”である。
    上記の事を物語る「形式上の礼米」であった事を物語る。

    そこで注釈として、この「礼米」は これは「紀州藩」が「伊勢青木氏」をどの様に見ていたかを示す一つのパラメータとなる。
    この“「12扶持米の礼米」”から、どの様な「扱い」であったかを考察して観ると、次ぎの様に成る。

    江戸期の「扶持米」の計算は、「一人当たりの米換算」で、「五合/日」と定められていた。

    そうすると、次の様に成る。
    「一石七斗七升/年」= 「4.5俵/年」と成る。
    4.5俵・12人=54表=21.6石

    「青木氏の礼米」の程度は、「お礼程度の礼米」である。

    比較対象として、上記した様に、「下級武士の最低の生活」では、次の様に成る。
    「75俵−28両−37石」で、通常で最低「150石」必要と成る。(経費除く)
    「青木氏の礼米の22石  54俵」を「役職の手当」として観れば、「54/75俵」で7割と成る。
    「役職の手当」だけで「下級武士並」の俸禄に値する。

    当時の江戸の「旗本の扶持米」は、“「五人扶持米」”が最高級の「役職手当」で、現在で云えば「五人扶持」は大企業の次長か課長クラスである。

    其れから観ると、「12人扶持」は、次の様に成る。
    (12−54):(5−22.5)で約2.5倍である。
    5人扶持=22.5俵:8.5両:11石である。
    (1両―6−10万円MAX)であるとすると、「勘定方の指導役の公職」としては可成り高く扱われていた事に成る。

    つまり、現在の「役職の手当」として観れば、あるとして専務か社長クラスとなると考察される。

    「勘定奉行」(財政を担当する重役)を指導するのであるから、「扱い」としては納得出来る。

    然し、此処で問題なのは、この「礼米」が利益になるかと云うと、逆で、「青木氏」に執ってはそれ以上の何倍もの「出費」が起こる。
    当に、これは、「礼」に対する「米」が結局は「青木氏の出費(品)」であったが、これを「紀州徳川氏」は目論んでいたかは不詳ではある。
    「伊勢藤氏の家臣団」がある事から「単なる礼米」と観ている。

    さて、この「礼米程度」が「家臣の知行」に相当する事としても、上記した「地域の土地の利権」を保証する「本領安堵」を受けている事から、仮に「出費」であったとしてもそれは大した問題ではない。
    恐らくは、出費の「勘定方の指導」をし、更に同時に、私財を投資して「殖産と興業」をするには、この「5万石の本領安堵」の「以上の出費」であった筈である。
    然し、「私財」であるので問題では無い。
    それを更に賄えるものとして、この「殖産と興業」に依って生み出される「青木氏の商い」が在った。

    この状況はどの程度のものであったかと云うと、そもそも「紀州藩の家老」は、当時は南紀の「支藩田辺藩1万石(この時は「城代の田所氏」等で観る)」であったが、これと「同じ扱い方」であった事に成る。
    参考として「地権では5万石扱い」と成っている。
    恐らくは、「紀州藩飛び地領」の「伊勢松阪域」も、「飛び地領」と呼称されていて「準支藩扱い」で、且つ、「支藩の田辺藩」と同じく「家老扱い並」として、「青木氏」に任していた事に成る。
    上記で論じたが、“「江戸初期に5万石以上の扱いを受けていた」”とするのは、この事から来ていると考察できる。

    「総合的な扱い」としては、上記した土地の「本領安堵分」を面積にして「米の石高」を推計して勘案すると、「1万石以上」を遥かに超えていたのでは無かったかと考えられる。
    そもそも「国の石高」とは、「米の収穫量」のみならず「殖産の生産高」も米換算で表現される。
    本論は「殖産」を論じている様に、その「殖産」の多くは「青木氏(「伊勢紙屋」)」の殖産」に関わっているので、「紀州藩の伊勢松阪分の18万石分」の公式分より「10万石」が「米の殖産」等で増産された事から、「28万石」の内の「殖産分」は、6割を遥かに超えていた事に成る。

    下記の面積計算からすると、「5万石扱いの大名格」と成るのだが、故に、幕府でも「享保の改革」の時には「吉宗」に直言できる立場とした「青木氏の永代の格式」は別としても、元々、石高でも「布衣着用」を許されていた事でも判る。

    「青木氏」の「江戸期の商い」を含めた「全資産」は「250万石以上(株等含む総資産額 500万石)」と云われていた事から、「土地の利権分」としては、面積比で観て、「石高の四割」を基準に考えると、「5万石程度以上」のものには遥かに成っていたと推計出来る。

    これは、上記の「扶持米から見た扱い」からも判るし、「本領安堵分」から見た「5万石」と成るが、依って、これが「紀州藩」から受けていた「扱いの根拠」と成り得る。
    「石高換算」では、「紀州藩55万石」から観ての「扱い額」としては、「1/10程度の意味」を持っていた事に成る。

    実質は「1/2」と成るが、「青木氏の全資産」から観ると「紀州藩」(幕府借財)を遥かに超えていた事に成り、「郷氏の所以」としての立場が解る。

    (注釈 「明治初期の地租改正」で、この「本領安堵分の農耕の土地」は、全て「青木氏の絆青木氏」と、その下に働いていた農民に「無償下げ渡し」と成った。
    しかし、この時、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」も、農民に依る「維新政府の租税」の扱いに対する不満で、「伊勢と信濃の農民」が5年間も「伊勢動乱」を起こしたのだが、前段でも何度も論じた様に、この動乱の「経済的背景」と成っていた。
    「信濃」でも「同じ伝統と環境」であった事から「動乱」が起こったが、「全国の青木氏の姿勢」が良く判る出来事である。
    明治後も「養蚕」や「早場米の更なる研究」等で「農民の殖産」を自費で続けた事が伊勢市の記録にも遺されている。)

    つまり、「武士の扶持米」では、「知行分」に加算して「役職の手当」として支給されたが、「伊勢青木氏」は「紀州藩家臣」では無く「奈良期から賜姓臣下族」の「永代郷氏」であった。
    つまり、「超大地主の利権を持つ者」であった為、「知行分」は無い。

    そもそも「地主」は、土地から取れる「石高の4割」が「地主の取り分」で、6割は「租税」として治める仕組み(四公六民の制)であった。
    この事から「郷氏」とは、「平安期」までの「以前の元土地の領主」であった「身分格式ある氏族」を云う。
    そもそも、室町期中期より出自した「否認証の姓族」と違って、前段で論じた「氏族」とは、前段手も論じた様に、嵯峨期未完の「新撰姓氏緑」で分けられている様に、朝廷より認められた「公認族の事」を云い、室町期に勃興した武力を背景とした「姓族の豪族」に仕官せずに、平安期からの朝廷より認められていた「地権」をベースに「土地の郷士等」をまとめていた「氏で纏まる身分格式の族」を云う。

    そして、この「郷士」とは、主には「室町期中期から勃興した姓族」(1)で、小さい「土地の利権」を持つ「小地主身分」の「土豪」で江戸期の庄屋や名主や村主等がこれに当たる。
    「伊勢の青木氏」に関わる「伊勢郷士衆」は、「室町中期より多く発祥した姓族」(1)や、「連族の枝葉末裔の姓族」(2)とは異なり、「青木氏に関わる純然たる郷士の姓族」(3)である。

    ところが「伊勢」と「近江」では、殆どは、「不入不倫の権」で保護されていた為に、この「室町期の勃興の郷士」より前の「平安期の郷士(2)(3)」であって、何れも「郷氏」と共に生き抜いて来た「郷士衆」であり「姓族」にしても格式は上位にあり異なる。

    当然に、中には“「小郷氏」“と呼称される者もあり、この者は平安期には元は「郷氏の家人(家臣)」(青木氏)であって、“一定の永代格式(従六位)を持った郷士”も「伊勢、近江、美濃、甲斐、武蔵」には多かった。

    (注釈 この“「小郷氏」“の多くは「郷氏家人」を続けた。
    取り分け、「伊勢と近江」には、正式な「永代格式(従六位)」を持つ“「小郷氏」“の「郷士」が多く居た。

    江戸時代初期には、一部には、この「室町期以前の姓族の郷士(2)(3)」を“「武士」では無い“とする「姓族の仕官した武士側(1)」から起こる「嫉み」から来る「不思議な風潮」も起こった。)

    つまり、注釈にある様に、「仕官した姓族(1)」と「仕官しなかった姓族(2)(3)」との「差」で「身分」を仕切ろうとした。
    上記の「三種の姓族(1)(2)(3)」の内、「室町期中期からの姓族(1)」だけを認め、極めて少なく名った数少ない他の「格式のある姓族(2)(3)」を認めようとしなかったのである。

    注釈 平安初期の「新撰姓氏緑」には次ぎの様に成っている。
    「真人族」は40族(同系族44族)
    「朝臣族」は39族(同系族含み45族)
    「宿祢族」は7族(同系族含み16族)
    「臣族」は3族(同系族含み40族)
    「連族」は3族(同系族含み22族)

    これ等は「宿祢族」、「臣族」、「連族」は(2の姓族)に所属し、「真人族」、「朝臣族」は(3の姓族)に所属する。

    (注釈 「同系族含み」とは、「同縁同祖系」を含めたものを示す。但し、「真人族」と「朝臣族」はは「氏族」である為に「姓」を持たない。
    唯、この「二つの族」の「女系族」と、「男系継承」が不可能と成り、「他氏から養子」を取り二代続きで「男系継承」が不可能と成った事で「女系族」と成り、「他姓」を持つ事に成った「姓族」がある。
    これらの「女系族の姓族」が後に「元の氏名」を興して男系に継がせる事で「女系に依る同縁同祖族」が出来上がった。
    「新撰姓氏録」は、そもそも「編集未完の記録」であり、この「女系の同縁同祖」を入れているかは不明である。
    唯、「男系に依る同縁同祖」で纏められている欄には無く、散文的に各所の欄の中に飛散している状況で、これが「女系の同縁同祖」であると観られる。
    「宿祢族」、「臣族」、「連族」の(2の姓族)に所属する族に観られ、「真人族」、「朝臣族」は(3の姓族)に所属する族には観られない。
    故に、「宿祢族」、「臣族」、「連族」の(2の姓族)には同系族が極端に増加している。
    本来であれば纏めての「記録物」と成るが、それが区分けして更にまとめあげるべき処まで編集としは何とか来ていた事が判る。
    一時、消えて計画であったが、何とか形にしたいとの政治的決断での「編集途中の録物」としたことが判っている。

    これは「嵯峨期の状況」を示すが、ところが此処から大きく時代は変化して、何れ「皇別五族」と云われる族も激減する。
    「真人族」、「朝臣族」は(3の姓族)に所属する族は、聖武期には「春日真人族―志紀真人族」(青木氏−井上内親王 光仁天皇 追尊の春日宮天皇)を遺して、「直系の真人族」は「第四世族内の同縁同祖」が「女系の男系族」と成り遂には滅亡する事に成る。

    「第五世族以降」の「第七世族」までの「宿祢族」、「臣族」、「連族」の(2の姓族)の通称“「皇別13族―同縁同祖族78族」“も「下剋上と戦乱」で室町期中期には「正式系統」が霧消するまでに激減した。

    因みに、その程度は前段でも何度も論じたが、「概要の傾向」で云えば、「正式な氏族」かそれに纏わる「姓族」(2の族と3の族)の合計として、平安末期には40程度に、鎌倉期には80程度から一時一気に増えて200程度に、室町期中期には40程度に、室町期末期には20程度に、江戸期には10程度も満たない状況と成っていた。
    この差がこの「江戸の議論」を産んだのである。

    その根拠には、次ぎの事がある。
    「仕官した姓族」は、「藩主」に仕え「家臣」に成った。
    「仕官しなかった姓族」は、「郷氏」との関係で「家人」に成った。

    「仕官した姓族」は、「俸禄」に糧を求めた。
    「仕官しなかった姓族」は、「殖産と農業」に糧を求めた。
    主張した彼等はこの差で仕切ろうとしたのである。

    然し、現実は、「仕官した姓族」の糧では、生き残りは成り立たず、結局は「半農の様な糧」に成っていた。
    「仕官しなかった姓族」の糧では、「殖産と農業」であった事から「殖産」が成功裏に成ると生活は逆に豊かに成り、果ては「二足の草鞋策」で「商い」も営み、その差は逆に「武士力の差」にまで現れる様に成ったのである。

    更に、次ぎの事の差が起こった。
    「仕官しなかった姓族」の「郷士」等は、その「主」が「永代格式をもつ藩主以上の遥か上位の身分格式」(位階は従四位下以上 正三位まで 浄大一位)を持っていた事。
    「仕官した姓族」の「主」よりもむしろ「上位の郷士」であると云う説が起こった。

    以上の事から「藩主仕官派説」は弱まったのである。

    資料からの読み取りでは、上記の30地域の「仕官しなかった姓族」等には、「平安期の郷士の血縁族」に成って居た事から「位階六位の格式の筋目」を自覚していた様である。

    或は、上記した様に、地域に依っては中には「伊勢」や「讃岐」の様に「平安期からの郷士」もあり、その中には自らも“「小郷氏」”と呼称される様に「永代の身分格式」(位階六位まで)を持っていた事もあり、更には、この「平安期の氏族の郷士」と「室町期の姓族の郷士」の両者の間で格式が近いと云う事もあって“「地域内での血縁族」”も広がった。
    従って、「仕官派の姓族」の「勃興族の立場」は、逆転して仕舞っていて「主張する立場」が本来は無く成っていた。
    「仕官した姓族」は、むしろ世評は「身分格式は低い武士」と成り矛盾する事と成ったのである。

    そこで、この「仕官派説」は完全に消えて、「全郷士」は「武士とする説」に帰化し特化したのである。

    当初の「仕官派説」の武士は、全国の殆どの地域を占めていた事から一時この説が高まったのだが、上記した様に、「新撰姓氏録」等に記載されている「郷氏が存在する地域」は、そもそも「近江、伊勢、信濃、(美濃)、甲斐、武蔵」と、その「関連地域 30地域程度」に限定されていた為に発言力は弱かった。

    結局は、上記の様な経緯を経て「郷士の立場」は逆転して仕舞って、遂には、世評では「仕官派の姓族」の立場は低く観られ続けたのである。
    つまりは、これは江戸時代には、「黒印状の発行」と共に「権威主義」が起こり、上記の様に「姓族」を「仕分け」して「武士族」を限定したが、ところがこの「権威主義」が進むと、逆に「古来の格式」が重んじられて限定するどころかその「立場」は逆転したのである。

    (注釈 「近江域」と「美濃域」は、「源平の争い」で平安期の早い時期に「土岐氏系青木氏」と共に「氏族」と「姓族」は完全滅亡した。
    「近江」は「遠祖同族の佐々木氏と青木氏」の援護を受けて「傍系支流」が何とか継承した。
    「近江」も近江で敗退し美濃でも敗退し、この時には一族は滅亡したが「佐々木氏系青木氏」から「近江青木氏」を女系で復興させた事と、「近江青木氏の支流末家」が再び「摂津」で生き延びてある程度で復興した。)

    そもそも「幕府家臣団」は、関東の「藤原秀郷流の幕臣」で占められていた事から、上記の論説を張り主張し、結局は「全郷士」は「武士とする説」に収束し特化したのである。
    唯、此処では、「氏族の郷氏」は、「新撰姓氏緑」にある様に「永代の身分格式」を正規に持つ「朝廷より認可された氏族」であって、「無冠無位の低い姓族」では無い事から論外として議論に成らなかった。

    むしろ、前段でも論じたが、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府も、取り分け、江戸幕府は戦乱で数少なく成った「権威と象徴を持った数少ない氏族である郷氏」を保護し、むしろ、政策上、“社会に「権威」を醸成し相乗をさせて安定させ様として”、その「権威族」として祭り上げたのである。

    (注釈 生き残ったのは「古式伝統」を持った「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「青木氏や佐々木氏や藤原氏」等で、流石に「真人族」の「氏名」は「志紀真人族」の「青木氏以外」には出て来ない。
    「青木氏」は「真人族」でありながら、「朝臣族」で、「賜姓臣下族」の「武家族」、「佐々木氏」は「朝臣族」の「賜姓臣下族」の「武家族」、「藤原氏」は「賜姓臣下族」の「公家族」(秀郷流青木氏含む)と成る。
    前段でも詳しく論じているが、「永代格式」では、「青木氏」=「藤原氏」<「佐々木氏」と云う事に成るだろう。
    唯、嵯峨期以降に出自した「源氏族」は後裔の11家は完全滅亡で、「橘氏」は一時滅亡して「傍系支流族」で立ち上げた為に「権威造策」には採用を見送られた。(橘丸紋付支流 資料には観られない。)
    「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

    前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

    この事と同時に江戸幕府は「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

    (注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

    従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。








    「伝統シリーズ−31」に続く。

    そこで、更に、論じて置かなければならない事が「青木氏の歴史観」としてある。
    それは、取り分け、“「家人」”に関わる「歴史観」である。

    この事を認知して置けば、この「矛盾」を見抜く事が出来るし、自らのルーツの「正しいロマン」を醸成できる事に成るだろう。
    この明治期まで「青木氏」に仕えた「小郷氏」等の事を「青木氏」では、「四家制度」の中で“「家人」”と呼んでいた。
    この“「家人」”には、「青木氏」の「職能部の頭」(青木氏部)には娘を嫁がせて、その生まれた嗣子の一人に今度は実家の「青木氏」を名乗らせて、「四家制度」の一員とする“「家人の青木氏」”が在った。
    又、この「職能部の頭」にも「青木氏」を「縁続き」(嫁ぎ先)で名乗らせる“「家人の青木氏」(「職能家紋で変化を付けた)”も在った。

    (注釈 前段でも詳細に論じてはいるが改めて概要を記すと、「四家制度」では「男系女系」の差が無く「孫域」までを、「孫」と云う概念が無く、「青木氏嗣子の子供」として定められていて「福家」で「共同」で育てた。)

    奈良期からの「賜姓族の臣下族の慣習」では、この“「家人」“に付いては「家来」と呼ばず氏族としての護らなくてはならない理由があって“「家人」”と呼んでいたのである。
    これは、幾つかの「血縁と所縁」で結ばれた“「同族の家」”が集まり一つの“「氏」”と云う大きい「集団形体」で「枝葉の姓」を作らず構成する事から、そこでの何らかの「薄い血縁」や「所縁のある者」で厳しく言えば「主従関係」、或は、緩く言えば「統率関係」が構築されていた。

    従って、一種の「契約」に依る「無血縁の臣」(無縁)で構成されているのでは無く、「血縁族・所縁族の人」で構成される事を意味する事から“「家人」”と呼ばれたのである。
    つまりは、「氏」と云う形で構成される「下支えの構成族」(家)の「一つの族」の事である。
    そして、この「主従の者」を「氏と云う形の人」として、朝廷はこれを「統一した氏族」として「公認する仕組み」であった。
    これが、「姓族」と異なる「氏族」の所以もである。
    要するに、「家人」は「朝廷の認証族(氏族)」の「准認証族」(准氏族)とも云える。
    この形が形成されていなければ、それは「氏族」とは認証はされない仕組みであった。
    前段で論じた「新撰姓氏録」の記載する処でもある。

    (注釈 そもそも、何故、「山部王の桓武天皇」の平安初期の直ぐ後に子供の「嵯峨天皇」が、このここに至って「新撰姓氏録」を編集したかが判る。
    「聖武天皇」の「直系族」に「男系族」が無く成り不継承と成り、唯一人の「井上内親王」のみと成った事から、唯一遺されていた「春日真人族の第四世族の志紀真人族」の「白壁王 光仁天皇」と婚姻させて「正統性」を何とか確保した。本来は「真人族」でありながらも、「第六位皇子」である事から「第四世族までの王族」をも捨て「皇族賜姓臣下族」と成り,「皇親族」として「賜姓五役」を務める事に成った。
    つまり、「格式の継承」から観れば、「継承権」があって「継承権」を捨てた立場に成った「唯一の氏族」であった。
    依って、「継承権」では“「准の立場」”にはあった。
    これで、「青木氏の准の使用許可」の意味合いが良く判る事でもある。

    そこで、この「准の立場」から「白壁王の光仁天皇」と「施基皇子の追尊 春日宮天皇」の子が「山部王」の「桓武天皇」と成り、「施基皇子」からは曾孫の「嵯峨天皇の継承」と成った。
    そこで、「嵯峨天皇」は、「天皇家の正統性」を整理する意味からも複雑化した「真人族」と「朝臣族」を系譜化しようと試みた。
    もっと云えば、複雑化していた「皇族系の系譜」を見直して「格式」を明確にし、主に「継承権のない朝臣族」、並びに元は「真人族でない朝臣族」との「系譜上の区分け」を試みたと考えられる。
    この「区分け」でそれは「正統性」を意味する事に成り、「志紀真人族の青木氏」の「三司」の「准の使用根拠」にも成り得ると考えたのではないか。

    「嵯峨天皇」は、「天智天皇」が定めたものを「嵯峨期の詔勅」を改めて出し直し事に伴って、その“今は「准の立場」であるが、本来は「准」でないとする「先祖の正統性」を100年後の今に明確にしたい”と云う考え方の下にその「証明書」を作ろうとしたと考えられる。

    そこで或る処までは「系譜化」は出来たが、さらに整理に至るまでには未だ期間と難しさが掛かることから一度は頓挫したが、何としても形の上でこの「証明書」を作り上げたいとして、所謂、「新撰」として「未整理状態」で“「広布」“をしたと云う処ではないかと云える。

    この「新撰の意味」は、この「未整理の範囲」でも、所謂、「証明書」には何とか成り得るとして、改めて「広布する範囲」として認めた処にそこに意味(ある種の思惑)があったと考えられる。
    従って、「新撰の意味」と「准の意味」は、判り易く云うと“「公布」”では無く、“「広布」”であった事に成る。

    と云う事は、何故、この「新撰姓氏録」を、態々、この時期に「頓挫しかけたもの」を、又、「未整理のもの」を出そうとしたのかである。
    「頓挫や未整理」であるのなら慌てずにそのままに後に引き継いでも良かった筈である。
    実は、この時期に朝廷内では、この「継承権の議論」と云うか、「藤原氏の勢力拡大」も狙ってこの「継承権の話」が出ていたのである。

    それは、父である「桓武天皇」と兄で先代天皇の「平城天皇」を向こうに廻して「ある種の軋轢(皇位継承)」があった事が記録(「続日本記の削除問題」)として伝えられている。
    これが「大事件」まで発展した。

    注釈 本来は、「実子」の「平城天皇の子供」が「継承権」を持つが、「嵯峨天皇」は「直系」の「志紀真人族の血筋」を引く自分にあるとした。
    「皇位継承」のみならず「青木氏の歴史観」に大きく左右した「施政の事(監察使等)」でも、この「処置の仕方」に付いての「軋轢」もあって、結局は、この「監察使」を「嵯峨天皇」は廃止して更に軋轢は拡大した。
    この事等を含めて「父と兄と藤原氏」と対立して「薬子の変・平城上皇の変」が起ったのである。

    (注釈 「監察使」とは、「天皇直属の参議」で、「桓武天皇の勘解由使」から「平城天皇の監察使」、そして、「嵯峨天皇の参議」と変化した。
    元々は、「天皇の代官」として「天皇の直接の意向」を背景に「政治と軍事と経済」の施策に直接に力を発揮する「令外官の事」で、これを元は「参議官」が務めていた。
    然し、「二人の天皇」は、更に詳細に渡り強化する為に「勘解由使と監察使」のこの制度を設けた。
    つまり、これが天智期から引き継いだ「皇親政治の制度」であり、「青木氏」等が「賜姓五役」(令外官)として務めた。
    然し、これを「嵯峨天皇」は廃止したのである。
    これが前段でも論じた「嵯峨天皇の詔勅」と云う形で表に出たのである。
    況や、「皇親族の青木氏」を廃止し、その為に、「単なる役目の無い賜姓族」として「源氏」と云う「氏族」に換えた。
    そして、以後、「皇位継承」から外れ排出される「真人族」には「青木氏」を名乗る事を許した。これが「賜姓臣下族」として自活する「五家五流青木氏の跡目」などに入る事を認めた。
    この「監察使」は「勅命」を受けて「皇位継承の問題等の整理」にも関わったのである。
    「二人の天皇」は、「監察使」からの整理した報告から“「実子制度」”を主張したが、これを嫌った「嵯峨天皇」は「天智天皇と天武天皇」が定めた「第四世族内」の「第四位皇子内の継承権」を“「直系制度」”として理解してこれを主張した。
    「天智天皇」から「弟の天武天皇」、「天武天皇」から「妹の持統天皇」の様に「第四世族内の第四位皇子内の継承権」を原則に、“「最優先の二世族」の「直系族」が存在した場合は、「皇位継承権」を保持する“と主張したのである。
    要するに、“「内」”と云う語句を優先したのである。
    つまり、“「第四位皇子・皇子で、第四位皇子」までならだれでも良い”という論調を採用しなかった。

    「平城天皇」は、これ等の事を暗黙の「約束の下」に弟を「皇太子」として次期天皇として指名した。
    ところが、「退位」の後、弟の「嵯峨天皇」が、約束通りに「皇太子」を甥に指名しなかった。
    そこで、「復位」しようとして「薬子の変・平城上皇の変」が起こり失敗に至る。
    「平城上皇派」は立場を失って旧都に戻る。
    そこで、「嵯峨天皇」は異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名した。)

    この「注釈の経緯」を観ても、この時、全ゆる面から「皇位継承」を巡る「宮廷内部の論争とそれに伴う紛争」が起こったのである。
    その「論争と紛争の一つ」と成ったのは、「聖武天皇の時」に起こった様に、又、「直系性の継承問題」であった。
    “継承者が不在と成った時に、「准」の「第四世族の春日真人族」とその系列の「志紀真人族、第六位皇子」 「浄大一位の格式の持つ氏」の「直系」の我にある”としたのである。

    「敏達天皇系(春日真人族)」から「第四世族の志紀真人族」の直系の自分に「継承権」があるとし、「平城天皇の子供」には、「天智天皇」が定めた「四世族内制」に従えば、“「平城天皇の子供」には無い”と結論付けたのであろう。
    故に、「直系族の第四世族」の“より「直系」”である異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名したし、自分も「直系制」を用いた。

    この事で、「志紀真人族」の「直系族」が「天皇家の系譜」として、以後、引き継がれて行く事に成るが、「嵯峨期以降から鎌倉期後期(38代から95代の57代)」までの「天皇家の系譜」を観てみると、「大化期に定めた考え方」に沿い、ほぼ「半分」はこの“「内」の「直系制」“を重視する原則に従っている。
    57代中20代が「直系制」であるが、但し、「実子制」では、(57−20)から「女系や后妃嬪や四世族」等の「本来の実子」ではない歴代を除くと、丁度、「半分」と成る。

    然し、「実子制」では、「実子」が存在しても、「実子の条件(若輩、能力、意思、血縁、格式、嫡子順、后妃嬪、妾子、人格)」が附添されていて、この事が左右して必ずしも「天皇」に成り得ていない。
    この事から考えると、「本来の嗣子」とされる「実子」では無く「実子制」は半分以下に成る。

    これには、上記の様に、上記の条件が叶えば、一度は「実子族」で継承しても必ず「直系族」がいると「継承権」を戻して「天皇」と成り得ている。
    この様に「直系族」「直系制」が「考え方の主導」と成っていた事から、平安初期の“「内」の「直系制」“を打ち砕く事で、有利に「藤原氏の勢力拡大」を目論み、この「薬子の変」とも云われる様に、「薬子の実家先」の「藤原氏の台頭」(仲成)が絡んでいたのである。

    (注釈 直系制であれば横に継承権を移動させる。ここではいろいろな「后妃嬪妾」の氏族から血縁が入る。然し、この直系制は延々には続かせることは兄弟の数が不足すれば一度、縦、つまり、「実子」に移動させねばならない。そして、又、「直系制」に戻す事が基本と成る。これを繰り返す。(血流の点では都合がよい。)
    この事では「摂関家の藤原氏の勢力」は強く成らない。実子制であればこそ強く成り得る。
    ここに勢力争いが起こった。「摂関家の力」が強く成れば「天皇の力」は外戚から牽制されて弱く成るは道理である。
    一種、「実子制の継続」は藤原氏の娘嗣子を次ぎ込み続ける事に成る。
    従って、形の上からは「天皇の地位」を乗っ取った事にも成り得る。
    基本的にはこの「争い」である。)

    つまりは、この「直系制」があると、「八色の姓制」で「藤原氏外の婚姻([新撰姓氏録]の真人族)」が成立する事が起こり、「斎蔵の摂関家の藤原氏」は、「外戚」であっても「永代の朝臣族」である限りは、常に「継続する勢力拡大」は成し得ない事に成る。
    下手をすると、「斎蔵の勢力」もこれらの「真人族(后妃嬪)」に奪われる危険性を孕んでいたのである。(宇多天皇(59代 890年代)から藤原氏外戚が170年間続く)

    「嵯峨天皇」が、何とか「新撰姓氏録」を出す事で、「准の立場」も含めて「継承権のある真人族」を明確に、「外戚」は兎も角も「朝臣族である藤原氏の立場」を明確にしブロックして「天皇家の保全」を保とうとしたとも考えられる。
    「外戚」で堀を埋め今度は「本丸」の「天皇の立場」も奪われる可能性を危惧したのではないかと考えられる。
    それは、「嵯峨天皇」の祖父と曾祖父(志紀真人族で賜姓族)が、「准の立場」で、且つ「臣下族の立場」でも「天皇」に成り得たとすれば、「外戚(摂関家)」も「准」と「公家の立場」であるとする理屈を付ければ「天皇」に成り得るとする考えが争いの中に充分にあったと考えられる。
    これは上記した様にまさしく「真人族の確定」と「新撰姓氏録の広布」と「准の使用」と「直系族の掟」と「皇親族の廃止」の施策は筋が通っている事に成る。

    現実に、「藤原氏外の婚姻」の「後三条天皇(71代 1070年代)」からは明確にこの現象が起こった。
    然し、この時期は、「直系族」が居ながらも「実子制」を三代続けて行うが、ところがそこからは「直系制の傾向」がしばらく続く。
    つまり、「藤原氏外の血縁」が三代で出来上がり、そこからは「直系制」で行けば完全に「藤原氏外の血縁族」が「天皇家」に続いた事に成る。
    言い換えれば、「藤原氏の外戚の勢力」は弱くなったと云う事を意味する。

    そこで、しかし、この直前の「円融天皇(64代 970−990年代)」は、「藤原氏の外戚の勢力」は強く成った頃を見計らって、態々、「青木氏」は既に「皇親族」から外されていながらも「青木氏の補完策」として「藤原秀郷流青木氏」を創設したのである。

    これは“何故なのか不思議”な事である。
    実は、これには「青木氏」に執っての重要な「歴史観の意味」を持っているのである。

    つまりは、「実子族」が続く「藤原氏の外戚」とする「天皇」の最中に、そもそも、「藤原氏」を外戚とする「円融天皇」に依って「青木氏の補完策」が取られている。

    この“何故なのか”の答えは、これは少なくとも「摂関家の内部勢力争い」に振り回され、「政治の主導権」を握られていて、「天皇が考える政治の遅滞」を恐れて「青木氏の秘書役」を以って密かに「内政の進行」を強化したのである。

    そこで「青木氏」を元の「皇親族」として「参議にする事」は、「藤原外戚が拒む事」が起こるし、下手をすれば「青木氏との争い」とも成り得るので、「賜姓臣下族」を其の侭に引き出す事を止めて、「東の武蔵の勢力拡大中」の「秀郷流藤原氏」を利用したと考えられる。

    これには、「二つの理由」があった。
    それは、一つ目は、東の「将門の乱」の「功績の条件」に貴族(位階従四位下)を要求した事。
    二つ目は、「武蔵藤氏」は「西の摂関家」に対して反抗していた事。
    実は、この「反抗」を示す事例として、「藤原氏の総紋」の「下がり藤紋」は「下がる」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋したが、「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」はこれに従わなかった。
    この「二つの事」に目を付けて、「円融天皇」は「青木氏の格式と同じ扱い」を条件にして「青木氏補完役」を「累代第三子」がその義務を負う事を命じたのである。

    注釈として、この「秀郷流の青木氏」が絶えることが無い様に「宗家から累代第三子」が「秀郷流青木氏の跡目」を引き継ぐ事を命じた。

    「賜姓臣下族の五家五流」から「藤原秀郷流青木氏」に、「秀郷流青木氏」から「五家五流青木氏」にどの様に血縁を結んだかを調べる要素は、実は「墓所」にある。
    「系譜」には四家から「娘の嫁家先」の明記が無く、その「添付書」にしか無い。
    ところがその詳細を書いた「添付書」は、一族が先祖の詳しい史実を知る為に書かれたもので主に秘蔵が「仕来り」で相互の事が解けない。

    そこで、「二つの青木氏」には、その「浄土密教の慣習」としては「本墓所」とは別に「女墓」があり、ここに「累代の妃嬪」が刻まれている。
    これを相互に付き合わせれば凡よその事は判る。
    「女墓」には慣習として「戒名と俗名」とが刻まれている。
    この「俗名」を「相互の突き合せ」で婚姻が判る。
    最近では難しいが「総宗本家」程度しかなく、調べた範囲では、概しては「賜姓臣下族から3」、「秀郷流から5」の割合程度で相互に女系で血縁関係が成立している。

    格式も同役も同じである事から婚姻は成立しやすいし、その様に「円融期以後の朝廷」は「二つの青木氏」に仕向けたと考えられる。
    何故ならば、中には「嵯峨源氏」からも「摂津系清和源氏」からも「跡目血縁」が、「近江佐々木氏」からも「女系血縁」、「近江佐々木氏系青木氏」からも「同祖血縁」、「五家五流間の青木氏」からの「同祖血縁」が起こっている。

    これらには「仲人」が立つが、「天皇の意」を汲んだ「朝廷の参議どころ」でなくては「仲人の格式」は成り立たない。
    況や、「朝廷(天皇)」は「青木氏の血縁」を強化して、より強固に「賜姓五役」を遂行させたと考える。

    「源氏(嵯峨源氏・摂津源氏)」⟶「五家五流(四家)」⟷「秀郷流主要五氏」⟷「佐々木氏(青木氏)」⟷「五家五流(四家)」⟵「徳川氏(江戸期)」

    以上の血縁関係が、「施基皇子」を同祖同縁とする「直系制」が取られた平安末期まで出来上がっていた。

    (注釈として、これが「四家の範囲」で行われた。それ故に、男女に関わらず「孫域」までを子供として集めて、此処から「娘」は嫁家させ、上記の範囲で「血縁」を結んでいた。
    「男子の嗣子」は、概して「四家20家内」に納まっていた様ではあるが、「跡目」では無く「養子」と云う形で「郷士家」に移動している。
    そこで「男子」が多く生まれた場合は、「青木氏」を興し、「四家」に戻すと云う形式を採っていた様である。
    更には、「縁者、況や四家20家外での娘や曾孫」は、「郷士関係との血縁」に稼せられていた。)

    この様に、「同祖同縁の血縁」と「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

    但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋」と「目結紋」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。
    「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは確認できる。

    これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

    「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」を完全に補足したのである。

    「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」の三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

    これも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。






    「伝統シリーズ−30に続く





      [No.347] Re:「青木氏の伝統 28」−「青木氏の歴史観−1」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/11/18(Fri) 13:58:30  

    > 「伝統シリーズ−27」の末尾。

    (注釈 それには、この「和紙に合う墨」とそれに「耐え得る硯石」と「良質の筆」の開発にあった。
    取り敢えず、「925年頃」に「和紙」から本格生産に入り、「紙屋院の役職所」を務めこれを通じて「余剰品」を「賜姓族」としての「資金力の捻出」の為に、「二足の草鞋策」で「市場販売の許可」も出て、販売を手掛け、遂には「1025年」には「総合商社」としてこれらを中国に輸出するまでに成った。
    次ぎの段階として「墨と硯と筆の開発」に入ったとされている。
    此処までに約100年程度かかっている。
    更に「良質な理想的な墨硯」は、何と「後醍醐天皇」自らが「熊野詣」の途中で「紀州の藤白地区と日高地区」で発見したと書かれている。
    「青木氏」は「朝廷専売」でこれらの「殖産」に取り組んだ。)


    それが、前段で論じて来たこれらが“「連動する伝統」”であって、「春日真人族」から引き継いだ「志紀真人族の氏」として生き残った所以でもある。
    この「二流から成る氏の伝統」は青木氏には連動しているのである。
    然し、「皇親政治」は廃止され生き残りが難しく成った平安末期からは、前段でも論じている様に、“「二つの青木氏」の「補完関係」”が成立しそれが大きく働いたのである。
    そして、「円融天皇」により「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」と成った「藤原秀郷流青木氏(始祖 千国)」より「賜姓五役の補完」を受けた事から「二足の草鞋策」は、本格稼働して「氏の生き残り」は果たせる事の基が築かれた。

    (注釈 多くの「偽称の氏」には、この上記の様な「氏の担保するべき連動性」、即ち、「連動する伝統」が無く欠ける。判明は簡単である。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅の禁令」で「二つの青木氏」だけが「氏名」を「村名」と出来る。
    つまり、これは「春日真人族と志紀真人族」だけが「氏名」を「村名」と出来る由来であり、追尊の「春日宮天皇」の後裔とする事を根拠としている。
    後は、”全て地名に由来するべし”とする事を「嵯峨天皇」が「天智天皇の禁令」に対応して更に追禁した事に由来する。)



    伝統シリーズ28に続く。


    ここで重要な注釈があり、「青木氏の歴史観」として論じて置く。
    それは、「准」と云う用語である。
    そもそも、上記した様に、「連動する氏の役」から「青木氏」での「氏上」は、前段でも論じている様に、そもそも「朝廷の格式」を用いる事からも「氏上」として成り得ているのだが、ところが資料によると、古来より「氏人の差配者」の中には、「氏上」、即ち、「朝廷に仕える官人」に准ずるものとして「氏上」と「氏人」の間には「准氏上の人」と呼称するものが居た様である。

    この使用の傾向は「皇族賜姓族」だけには観られるが、それは「朝廷認可」の下にでは無く「青木氏の慣習仕来り掟」の中で以後用いられていた事が考えられる。

    つまり、「皇族賜姓臣下族」には、この“「准の使用」”を慣例として朝廷が永代認可していたと考えられる。
    それは「皇族賜姓臣下族」に限られて、「特別な格式を与える事」を目的としての一代的な個人の呼称手段として“「准」”が用いられていた様なのである。
    これは、「氏上」と云う「格式扱い」よりは、「青木氏」は「賜姓五役」として「朝廷の重要な役目」の「紙屋院」(国産の紙等の関係品を開発する役目)を担っていた事から、この「青木氏部」の「職能の長」に対して「格式」を与える為に「准の使用」を朝廷は敢えて「氏人」に認めたと考えられる。
    本来は無い事である。

    (注釈 この“「准」”は、「嵯峨期の詔勅」に伴う「青木氏の慣習に関する禁令」の一つであったが、例えば、「坂上氏」の父の「阿多倍王」は、「准の使用」を特別に許された。
    その事から「桓武天皇・山部王」に依って「後付」で「高尊王・平望王」にして「准大臣」と呼称する事を許された経緯が遺されている。)

    注釈として、前段でも論じたが、そもそも、「阿多倍王」は「後漢の国」の時の呼称であり、「大和王朝の格式」を得るには上記した様に「第四世王の王名」を持つ事が必要に成る。
    「後付」で「高尊王・平望王」と授与して、「大臣」に成り得る格式を「高尊王・平望王」に与えたものである。
    つまり、それが「青木氏」に使用する事を認めていたものをこの「准大臣」として与えたのである。
    そもそも、「山部王・桓武天皇」は、「伊勢王 施基皇子」の「四男白壁王・光仁天皇」と、「高野新笠」の子供である。
    「高野新笠」は「高尊王・平望王」の「阿多倍王の孫娘」である。
    従って、この”「准」”を使う事には「阿多倍王」には何の問題も無かった。


    (注釈 これは「敏達天皇の孫芽純王の娘」との血縁に伴って、この“「准」”を使う事を正式に許されたものである。
    「八色姓制度」に依って「皇族の娘との婚姻」には格式が必要で、この為にこの「准」を用いて「大臣の格式」を与えたと考えられる。
    唯、「桓武天皇」による「後付」かは判らない。
    「高尊王・平望王」は「後付」である事は判っているので、これに合わせて「准」も「王」と「准大臣」の「格式」で、「桓武天皇の母方の出自」の為の「仕来り」を整えたと考えられる。
    「阿多倍の長男」の「征夷大将軍 坂上田村麿」とは、従って、「桓武天皇]は兄弟の様に付き合っていた事が判っている。)

    他に「藤原道長との政争」を繰り返した「藤原伊周事件」では、「伊周の復権」にはこの「准」を使う事で利用され、後に「朝廷内の人事の便宜上格式」として用いられる「正式制度」の様に成った。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族」では、「氏内の権威付」に「人事手段」として“「准」”を用いていた。
    この“「准の慣習」”が室町期に一般社会に伝わったと考えられる。)

    この“「准」”を付けて“「三司」”の間の「格式」を表現する方法として、元は「中国の官僚制度」で用いられたがそれから来ている。
    そもそも、この“「三司」”とは、「太政大臣」と「左大臣」と「右大臣」の事である。
    正式には「三司」等ではないが、“「准」“は「三司並の格式」を有するとする便宜上の位等の時に使う否正式手段の事である。
    各種の格式や位階の「三司」に関わる立場として使用する事が出来る様に成った。
    従って、「三司」等に成り得る「真人族」や「朝臣族」や「臣連族」等が、この便利な「准の仕来り」を盛んに使ったのである。

    つまり、前段で論じた「春日真人族から志紀真人族」の「志貴皇子とその後裔」は「賜姓五役」を賜り、天智期や天武期には「皇親族」として「皇太子」に代わって実務を執った「氏」である事から、所謂、その三司の“「准」に相当する役務から、「中国の官僚制度の慣例」に従って、この“「准」”を使う事を特例として氏の中で許された。
    これを許された「青木氏」では、従四位に相当する「公家族」「官人族」「臣下族」の「三司に准ずる立場」として当に「准」を使った。
    況や、一般の「真人氏族」には認められていなかった。

    「青木氏の資料」に観られるこの“「准の人」”に任じられたこの「氏人の差配人」とは、次の様な人であった。
    「四家制度」に依って何らかの理由で「郷士の縁籍筋」と成った者が、「郷士衆頭」を長年務め功績のあった者であって、縁籍筋では「青木氏」を興している者ではあるが、四家の氏上の一員に服する事が叶わず、「准氏上の人」としてその功績を称えたと考えられる。
    (唯、この「青木氏」を興したこの末裔は後にこの「四家」に組み込まれている。
    「青木氏」の「氏上と氏人」の中で使われた。


    その「一つの集団の統率者・差配者」は、「氏上の宗家」が司ったとする地域社会の構成員であった事に成る。(「家人」・「青木氏部」)
    ところが、平安期中期に成ってからは、荘園制が拡大し開発した荘園を維持する事が「二つの理由」で困難と成った。
    それは、荘園経営の「税の負担」と「荘園の防御」では問題が出た。
    「高位な氏」で「軍事力と政治力」のある「大きな氏」に頼って名義を借り、いざという時には助けて貰うと云う行動に出て、この「二つの課題」を解決して荘園を維持したのである。
    以後、この「名義貸し荘園制」が起こり続けそれが主体と成った。
    荘園主等に執っては「自らの氏」を護ってくれるのは、直接、氏と関係の無い「高位の名義名の氏」であった事から、そこには「氏」に「上」が着くと、「単なる身分の上下を示す主従関係」の用語と社会の中で変わって仕舞った。

    (注釈 この問題の荘園制が起こると、「氏の上」と「氏の人」との間には「絆」に基づく関係は無く成り希薄に成り、主に「上」と「人」との間は「利害に基づく関係」へと変わったのである。
    従って、「青木氏」=「神明社・守護神」=「氏人」=「500社の神明社」の構成の様に、問題の荘園には、上記する「青木氏の様な関係」が基より無かった関係であった。
    この“「名義貸し」”が主体と成って、「上と人との絆の関係」は高位の社会には最早消えた。

    (注釈 前段で論じた様に「三人の天皇」はこの事に憂いていた。)

    然し、「伊勢」は聖域であった事から、「奈良期の伝統」を「春日真人族と志紀真人族の青木氏」等は「他の真人族」が行う「名義貸しの荘園制」から頑なに護った事で「荘園制の影響」は少なかったのである。)

    然し、「青木氏」は、自らの氏の中で「殖産」「商い」を進めた。
    この事から、「絆の無い荘園制」を敢えて持たなかった事から、平安期初期までの「氏上と氏人の関係」を「伝統」として持ち続けた。
    従って、「青木氏」では、この大化期からの存在(647年発祥)を示す事から、「氏上」は社会が荘園制が進んでも、“「元来の意味」“を持ち続けていたのである。

    さて、仮に上下関係にあるとしたならば、「氏の上」であれば、用語上は決して「氏の人」を「氏の下」として定め“「氏人」の呼称”とは成っていない筈である。
    従って、「青木の氏」の中では、「氏の村人(人)」は、語源の通り「氏の人」は「氏の子」の意味をし、平安期以降の「身分上下」を意味するものでは元より無かったのである。
    これは青木氏の「三分の利の概念」にも一致する。

    (注釈として、上記した「朝廷の中の事」は判るとして、そもそも「青木氏」とはどういうものかである。 
    前段で論じたが、そもそも、「人」は湖などの「水に関わる場所」に集まり、その周囲で集団で生活する様に成った時、その集団の中に“「屯倉(みやけ)」”と云う営倉を造り、そこに「人」は集まって来て、その様な集団が幾つも出来た。
    その“「血縁の個体集団」”が何時しか「氏」と成り、そこに「住む者」を「氏人(うじと)」と云い、その「氏人(うじと)」の中から「秀でた者」を「先導者」として選び、その「先導者」を「氏上(うじのかみ)」と呼称する様に成った。
    この「集団の人」は相互に血縁し、幾つかの「血縁集団」が集まって、また一つの大集団が出来た。
    この「一つの血縁集団」の集まりが「五つの集団」にと集約して行った。
    この集団が枝葉化して「個々の呼称の単位」を「姓」と云う「小集団」へと再び変化していった。
    これを奈良期では、この関西地域に於いて「五つの集団」の「連合政権」を構成して、この「連合政権」が「初期の氏」として認め呼称する様に成ったのである。)

    (注釈 日本は「七つの民族」に依って構成している以上、各地に「連合政権」が確立した。
    これが遂には「融合単一民族」と成った。
    “「渡来人」”の言葉が書物から消えたのは平安初期からである。)

    この「連合政権の指導者(大王家−天皇家)」と「五つの集団の先導者」との「血縁族の末孫」が独立して、初めて「氏姓制度の法」の下で「氏姓」が構成された。
    これが「青木氏の原点」でもある。

    況や、「氏の上」として初めて朝廷より法の下で認められた上記の「構成の氏」、況や「春日真人―族志紀真人族」と成り、その後の「八色の姓制度」(684年)で「朝臣族」として「臣下族」と成り、その「氏族」の「伊勢の氏人」として認められた。)

    この「青木氏」の「氏上さま」の呼称に関わらず、同じ関係を示す呼称が奈良期にはもう一つあって、「青木氏の立位置」が良く判る呼称である。
    前段でも何度も論じたが、当初、奈良期より、それは“「御師様」(おしさま)”と云う呼称でも呼ばれていたのである。
    これは「氏上」(うじかみ)と同じ語源を意味するものであった。
    この「氏上」は、「氏」に関わる全ての「氏人(青木村)」を含む一族一門郎党の中での呼称であり、「御師(おし)」は、本来、この“「氏人を指導する人」の呼称”であった。
    取り分け、「氏人」の「青木氏部」からの呼称として多く使われたのであった。

    前段でも何度も色々な角度から論じているが、この「指導」をより効果的にする為に、「氏上」に代わって、その「指導の範囲」を区分して担当する制度に変えたのである。
    その「指導者」は、「青木氏部」に大きく絡む事から「神明社の神職」が担当したが、そもそも「祖先神の神明社の神職」は、「笹竜胆紋」を「象徴紋」とし、朝廷が認める「神木の柏紋」を特別に持つ「青木氏」で、「四家制度から特に選ばれた者」であった。

    この「青木氏部」の必要とする処には「柏紋の神職の青木氏」が必ず存在し、「柏紋の神職の青木氏」の必要とする処には必ず「青木氏部」が存在すると云う実に親密な関係にあった。
    それだけに、氏の人々からも信頼され尊敬されている立場であった。
    この様に「青木氏」を代表する「柏紋」であった。

    (注釈 「青木氏部の人」と「柏紋の神職の人」との血縁関係が特に成立していた。
    「隅立て目結文様類」や「釘抜き紋様類」等の「職能紋の青木氏」は、主にこの「血縁関係の青木氏」である。)

    これらの「職能の文様(柏文様 目結文様)」は、「正倉院」にも記録されている「由緒ある職能の文様」であり、これをこの「職能紋の青木氏」(青木氏部)が専門に使う事を許されて、「継承」を義務付けられていたのである。

    賜紋で神木の「柏文様」の使用は、「神明社の神職」の「御師(おし)」の称号と共にこの時に与えられたものである。

    「神紋の柏紋様」と共に、「皇族賜姓臣下族の青木氏」に執っては、本来、笹竜胆紋の「象徴紋」以外には、上記の「志紀真人族の氏」を構成する以上は、他の文様を持たず、故に「姓族と姓名」を持たない。

    従って、当然に「家紋」と云うものを持たないのだが、この「職能の紋様」の「氏人」も「笹竜胆紋」を「氏」の「象徴紋(総紋)」として、数少ない由緒ある「副紋扱いの氏紋」として継承しているのである。

    (注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」を補完すると云う立場から一切の格式などが同じとする以上は、「藤原秀郷流青木氏」も、本来は正式には「家紋」とは云わず「副紋」と呼称する。
    「姓名」もなく一切「氏名」に本来は従い「姓名」は持たない。)

    (注釈 「秀郷流青木氏の116氏」は、「総紋」として「下がり藤紋」(総宗家系族紋)があり、その「総紋の中央」に「副紋」を書き込んだ「主紋(宗家系族紋)」を持津。
    更に、支流族は「副紋」を個別に持ち、傍系族も「支流紋」を持って表す。
    「総紋−副紋−支流紋」に従うが、但し、「支流紋」は「副紋の格式」を下げない範囲とする。
    一般に「総宗本家筋」の「総紋」以外は、「宗家筋」は「総紋」の「下がり藤紋」の中央に「副紋」を入れて使う事を主流とした。
    然し、更に、本来は無いとする「枝葉族の支流筋」と成ると、「副紋部位の紋」以下の格式の紋は使えない慣習と成っている。
    「24地域―116氏」とも成ると、血縁関係上、「枝葉族の支流族」は止む無く出てしまうので、この条件が付帯された。
    この慣習は「賜姓補完族の格式の立場」を保つ事から来ている。) 

             
    (注釈 前段でも論じたが、「柏紋」の「神木の柏」を表す万葉歌があるので紹介する。
      “家に居れば筍(け)に盛る飯(いい)の草枕 旅にしあれば柏(椎)の葉に盛る” 
    と詠まれている。
    そもそも、 「筍(け)」は「筍の皮葉」の事で、本当は木茶碗の食器だが、馬鹿を装う事を「筍の皮」でその苦しさを現し、「椎」は“しい“と詠み食器であるが、「椎の葉」は細く小さくて食器としては使えない。
    「飯」の“いい”と「椎」の“しい”でかけ読みし、「椎」では無く「柏」を用いて“しい”と仮詠みした。
    そこで、実は「椎の実」は「当時の食糧」で、この「椎の実」は食料でもあって、実を蒸して「神に捧げる仕来り」が有った。
    細くて小さい葉で以て心寂しさを詠んだものである。
    そして、今度はこの“しい”を「柏」として、「柏の大葉」の上に「干した米飯」の“いい(蒸した乾燥米の呼び名」“を載せて旅先では食べた。
    「柏の大葉」で以て「朝廷の優雅な生活」を思い出させ、朝廷で使われる「神木の柏」で以て自らの正当性を主張し、信頼する「人を疑う儚さ」と何時か命を絶たなければならない我が身の「旅の苦しさ」を表現した。
    この様に「筍、椎、柏,飯」等に意味を載せて詠んだ見事な名歌である。
    「有間皇子」の殿上人がその身上を憂いて呼んだ名歌である。)

    この様に「神木」である「柏」(柏紋の神紋で朝廷が容認する文様)の大葉の上に神に捧げる食べ物(乾燥米)を載せて祀る「神明社」の「神への仕来り」にかけた歌が出て来る。 
    見事に当時の「柏の意味」の事が書かれている。

    ここでは「柏」は朝廷の祭祀で使われる「神木」である。
    この様に「柏」には当時は「格式」を持ち「神木」として扱われていた。
    これを「青木氏の神職の禰宜の特別文様」と指定したのである。
    当時は、「笹竜胆紋」に「柏紋」の「青木氏」は、「最大の格式」を持つ「文様の族」と見られていた。

    参考として、この最高の文様を持つ「神明社の指導者(神職の禰宜)」の「御師(おし)」に付いては、江戸の「享保の改革」以降は、「吉宗」が「幕府の職能部」を組織化する為に、この「御師制度」(おしせいど)と云うものを敷いた。(ここでも青木氏だけの制度が用いられた。)

    ところが、この時から、本来の「御師制度」は「別の意味」に変化した。
    そして、これが更には、「神明社の神職に関わる者」が「情報収集者の役目」も演じた事から、この者を「御師(おし」」と呼ばれる様に成った。

    遂には、江戸期1800年代以降には「伊勢の松阪の射和の商人等」に依って、この「制度」が導入され「商人の指導役」として、「御師(おんし)」と呼ばれて、更に「別の意味」に執り変えられる事が起こった。
    この「商業組合」の「商人の指導役」の「御師(おんし)」は「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成った。(現在でも一部伊勢では独特の金券制度として残っている。

    そこで、これらの予備知識で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事は、次の事にあった。
    最初は平安期の「皇祖神の子神」の「神明社の神職」に「御師制度」は使われたのだが、“「青木氏の神職(柏紋)」“は、その手段の一つとして、前段より論じている“「仏施の質」”(奈良期)を「福家」に代わって執り行っていた。
    そして、「青木氏の村人・氏人」を「神職としての役目」から全国にある「500社の神明社」で「食糧」を与え「職業」に就かせ「人生の生き方」まで導いた。

    この事(“「青木氏の仏施の質」”)から、「仏道を説き人々を正道に導く人」の仏教用語を「導人=導師」と記し、 “どうし“から陰陽の呼称で”おうし“」と呼称され、それから「御師」(おし)と呼ばれる様に成ったとしている。

    そこで、この“「青木氏の仏施の質」”は、「春日王」を基に「志紀真人族と後裔」と成った事から、その「賜姓族の役務」として取り入れられ、「五家五流の後裔」(神明社)と「補完族の裔」(春日社)が行ったとされる。
    それを催した“「青木氏の仏施の質」”が行われた「神明社の広場」や「菩提寺の清光寺と西光寺の広場」で行われる様に成ったが、この「仏施の質」の「名残」として「各地の祭り」が遺されている。
    その一つが、「神明社系」で行われる「施」としての「餅撒き講」等であり、「説」としての「法話講」等であったり、「導き」としての「仕事の斡旋」等があった。
    「法話講」では、景品を与えた「氏人」による今でいう親睦を深める運動会や相撲大会などが行われていた。
    それらが時代を経て形を変えて祭りの行事として遺されている。

    (注釈 余り知られていないが、「戦い等の賄人」や「大きな催しなどの手小」や「河川改修工事」や「殖産地造成」や「新田の開墾」など「手小」、挙句は「大工の手伝い」をまとめて積極的に斡旋していたのは人と地理に詳しい「神職や住職」等であった。
    「神職や住職」は、上記した様に「氏人の人別帳」も作成していた為に「氏人の生活」までを隅々まで掌握していた。)

    (注釈 江戸期では、「手配師」は非合法な仕事斡旋人や、「請負師」は大工などの職人を斡旋人、「口入れ屋」は庶民の仕事の斡旋人、閑散期の農民等の一時的な仕事を仲介するのが神職や住職であった。)

    唯、この時に「御師」(おし)は、“「仏施の質」”を行って導いたが、「仏施の質」とは元はと云えば「仏教の施」であった。
    注釈として、前段で論じたが、「中国の金山寺」などの「古寺」で行われていた「施」が日本にも「仏教伝来」と共に伝わった。
    「古代密教の浄土宗の青木氏」が、”「賜姓五役」”の一つとして”「仏施の質」”を採用したもので、その「伝統」は明治初期まで伝統として維持され、「享保の改革」などにも用いられた。
    上記する様に、「青木氏の憲法」と云われる「概念」にも通じ、”「三分の利」の「概念」”にも通ずるものである。

    然し乍ら、「青木氏」は、これを主に「神明社の神職」の「御師(おし) 柏紋」が行った。
    どちらかと云えば、”「仏施の質」”では無く”「神施の質」”とも云える。
    ”「仏施の質」”ともなれば、各地の定住地にある「氏の菩提寺」(密教)と成る。
    これでは、その寺数から「氏人」に充分に”「仏施の質」”が広まらない。
    況や、奈良期からの「氏の構成員」である「氏人」を護れない。
    そこで、「氏」は「神明社」と云う下で、「青木氏=神明社・守護神=氏人」である限りは、「仏の導き」よりは「500社の神明社の構成」に依って導かれていた。

    そこで、本来からの「神仏習合を旨とする概念」から拘る事無く、主に「神明社の神職」の「御師(おし)」が、朝廷より「神木の柏紋」を賜って「神施の質」を「皇祖神の子神」としてその責を負ったのである。
    元々、「青木氏」には、「神道と仏道」の「区分けの感覚」が少なかった様に考えられる。
    それは、上記した様に、「青木氏の出自」に大きく影響していると考えられる。
    「自然神」を基とする「皇祖神の子神の祖先神」は「神道」であり、一方で「密教の古代浄土宗」で「仏道」を保って来た。
    そして、この何れもを差配するのは、「福家」であった。

    取り分け、「仏道」は「青木氏だけの教え」に基づく「密教」で、その出自から独特の「達親制度」と云うものを敷いていた。
    前段でも論じた様に、上記した様に「神道」でも「御師制度」と云うものを敷いていた。
    従って、「神職」の柏紋の「青木氏」であって、「住職」も笹竜胆紋の「青木氏」から出たものであって、「他の宗教」に全く左右されないものであった。
    これ等は、「志紀真人族」で「賜姓臣下族」と云う「出自の格式」が、その様な形に導いたものと考えられる。

    そもそも、「神仏習合」と云うよりは、必然的に「神道」は「仏道」に左右され、「仏道」は「神道」に左右された考え方の概念を確立したと考えられる。
    何れにも偏らないと云うよりは、やや「神道」>「仏道」にあった事は否めないだろう。
    その一つの形が、格式ある「柏紋の神職」があるかと思うと、格式のある「柏紋の住職」もあると云う不思議な事が起こっているのである。
    関東にこの「柏紋の住職」が多いのはこの事によるだろう。

    依って、”「仏施の質」”は、”「賜姓五役」”と云う役からも”「神職の役」”と成っていたのである。
    「仏道」の「柏紋の住職」のあるところは「仏施の質」は「住職の役」が多い。
    「関東と北陸域」は「春日社」が多く、「西光寺」が多い所以でもある。
    それは、「500社と云う神明社の分布」に左右されている。


    次ぎに、この全国の「青木氏に関わる定住地」にある「神明社の500社(466社)」には、その数だけの意味だけでは無く、この「500社にある地域」に”「御師」”が居た事を示す数値であって、その数値はそれだけにきめ細やかに「氏の人」に親身に成って「導人=導師」から「御師(おし)」を敷いていた事を物語るものである。
    これは明らかに「氏上と氏人」の間には、「上下の関係」では無く、「親子孫の関係」にあった事を示す所以でもある。

    前段でも論じたことであるが、時には、「戦乱」等に掻き廻されたり、行き詰った「人生」に「越前の逃避地の神明社」に「青木氏」が多く逃げ込んだが、当に、この時に「神明社の御師(おし)」は「仏施の質」(上記の青木氏の掟にも関係する)として戸惑う「氏の全者」を救う為に大いに働いて食と職を与え世を説き再人生の道に導いた。

    上記で論じた「越前商人の酒造家」等はこの典型的な事例である。
    「神明社500社」の「数」も然ること乍ら「分布」から観ても、「五家五流賜姓青木氏」のみならず同格式を持つ補完役の「賜姓秀郷流青木氏」を含む全国の「二つの青木氏」には、この「奈良期からの古式の御師制度」が敷かれていた事を示している。
    この事は「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」に関わる事から、「氏上と氏人の関係」も「古式の慣習仕来りと掟」として伝統的に敷かれていた事を物語るものである。

    (注釈 「藤原秀郷流青木氏」も「春日神社」が守護神であり乍ら、その出自から「神明社」も「副神」の「守護神」として崇めていた。
    取り分け、「伊勢秀郷流青木氏」に関わった一門の地域には、「春日神社」があるにも関わらず「神明社」も存在する。
    「伊勢秀郷流青木氏」は、長い歴史の中で「春日神社<神明社の感覚」、或は、「主神<副神の感覚」にあって、その「末裔の血縁先」もその傾向にあったと考えられる。
    従って、よりその「古式に基づく慣習仕来り掟」が尊重されていたと観られる証拠でもある。)

    元来の大化期からの「氏上の役目」として「村人を導く人の御師」であるとしてこの様に呼ばれていたものである。
    従って、「氏上」であって、その「御師の元締め」から「御師様」と呼ばれていたのである。
    この様に呼ばれるには100年程度の「絆」では無理であろう。
    所謂、互いに仙人を超えた「1200歳の人間同士の絆」が構築していたからである。
    「1200歳の人間」は、腰の曲がった白髪頭では無く、常に進化した直立の黒髪の「1200歳の人間」として生きて来た者の“同志“なのである。
    「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志」なのである。

    これが、“「青木氏の心魂」の所以”なのである。
    故に、明治の伊勢や信濃美濃などで起こった一揆にも「青木氏の心魂」は我が身の事として支えたのである。
    この関係を観ても、「氏上側の災難の連続」に依って祖父の代から途切れた「1200歳の人間」の関係は、「40代目の筆者」には、「青木氏心魂」は最早、無い所以でもある。

    (注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。

    これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏の心魂」としての「氏上と氏人の関係」であった。
    それを物語るものが「仏施の質」であって、この「氏上と氏人の関係」を証明する行為であって「青木氏以外」には行っていなかったものであった。
    これが「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて「伊勢屋の質」と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できていたが「江戸の質」には一時、「青木氏の歴史観」の知恵は及ばなかった。
    然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか、当初、“まさか江戸までは“の先入観から理解ができていなかった。

    果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にもこの「基の意味合い」があって、「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
    だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と発想の転換で、これで「江戸の疑問」が解けた所以でもあるが、時代に依って語源がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。

    この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
    これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
    筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
    この”「青木氏の心魂」”等は典型的なテーマでもある。



    > 「伝統シリーズ」−29に続く
    >


      [No.346] Re:「青木氏の伝統 27」−「伝統と青木氏の変化」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/10/23(Sun) 07:57:18  

    「伝統シリーズ−26」の末尾。

    > これらの事から検証すると、後勘として、「如来の意志」にはこの上記の疑問に対して次ぎの様な答を出している。
    >
    > 果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
    > 恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したと考えられる。
    >
    > そもそも「青木氏」が伝統として引き継いでいる「青木氏の慣習仕来り掟」の類は、「祖先神から来る概念」と古代仏教の「浄土密教」から来る概念」であって、この「掟」も当然に「青木氏だけに存在する概念」である。
    > この「青木氏の概念」が受け入れられる土壌に何か変化を興したと云う事に成る。
    > つまり、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」の「如来の意志」が、正統に果たされる「社会構造」が変化したと云う事であろう。
    >
    > 上記の注釈の中にその答と成る「共通の傾向」が潜んでいる。
    >
    > では、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」が,況や「如来の意志」が正統に働く社会とはどの様な社会であろうか。
    > それは、より深く繋がる“「絆社会」”である筈である。
    > “「絆社会」”であるからこそ「青木氏の密教掟」を護り、「人の上に立つ者」は「人」に「善」を尽くす、「力量等のある者」は「下の者」に「施し」を成す。
    > これに対して「下の者」は「上の者」に「信頼と尊敬の念」で返す。
    > 「上の者」は、この「信頼と尊敬」を得てこれで「組織や役」を果たす事が出来る。
    > この「相乗関係」が成立して社会は成り立つ。
    > 故に、それには「青木氏の密教掟」を護ろうとして自らを律する。
    > 自らを律する為に「青木氏の密教掟」の類を護る。
    > 自らを律しない者には、「人」は“「善悪の条理相対の理」”の中で“「信頼と尊敬」”を獲得は出来得ない。
    > 「下の者」と「上の者」共に“「絆」”と云う“「信頼と尊敬」”の上に成り立ち、その“「絆」”は“「個々の利」”では無く、“「組織と云う利」”に叶う事で“「個々の利」”を得ようとする社会である事に成る。
    > 最低限に於いて、この社会は、「組織の利」>「個々の利」の関係が成立している事に成る。
    > これを観て“「善悪の条理相対の理」”による「如来の意志」は定まる。
    > つまり、これには「個々の意志」をより尊重する「より強い自由社会」には成り立ちにくい条理にある。
    > 従って、「組織の利」<「個々の利」の関係が進むと「如来の意志」は変わる。
    >
    > では、上記の通り「如来の意志」が変化し出した「享保の改革」の後半は、「イロハの商業組合」で改革を進めた。
    > 況や、これは“「絆社会」”が減退している中での、更に「江戸の社会」の「自由の先取り」である。
    > 「江戸の民」は「青木氏」等が行う「仏施の質」に対しても「伊勢の仏施の質」では最早なく、そこに「生まれる絆」は云わずとも減退していた。
    > その「江戸の絆」は、「組織の利」<「個々の利」の関係にあったからこそ成り立っていたのである。
    > 密かに「自由の先取り」が進んでいた事に成る。
    >
    > 「自由の先取り」=「組織の利」=<「個々の利」の関係=「江戸の絆」
    >
    > この関係をより江戸で成したのは皮肉にも「青木氏」である事に成る。
    > 故に、「如来の意志」は「青木氏」に働いたのである。
    >
    > この進化と観られる“「自由の先取り」”が、幕末に掛け江戸から全国に伝播し、享保期より「自由の先取り」はより進んで次ぎの様な関係が拡がったのである。
    > 「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係=「江戸の絆」
    >
    > 故に、「組織の利」>「個々の利」の関係にて成り立つ「江戸幕府」は弱体化して、遂には、「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」と成り得たのである。
    > 「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」が進むと、必然的に「絆社会」は減退する。
    >
    > 後勘として検証して見るならば、明治初期から明治9年に掛けて維新政府に対して「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)で反動したが、その後、逆に「地権放棄」に観られる様に「青木氏」自らもこの方針に積極的に賛同した。
    > 明治初期の青木氏の「地権放棄」は、当に、農民の「個々の利」を認める行為である。
    > それを自らが「伊勢動乱の経済的支援」をすると云う事は「自由の先取り」を進めた事に成り、「組織の利」>「個々の利」の関係を保ちながら、「矛盾」を進めた事に成る。
    >
    > 当然の結果として、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が進んで、「如来の意志」は正統に反映しなくなったと後勘としては解釈できる。
    > これは「青木氏」自らが興した、或は、招いた現象とも云える。
    >
    > 故に、「西洋文化の概念」が益々導入され、その為にその傾向が強く成った明治20年頃から「衰退」が起こったと云う事であったと考えられる。
    > そして、どんどん進む“「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”は、戦後、更に昭和20年の敗戦と占領下で「欧米の自由文化」が入り進み、遂には、「福家」は「倒産」の憂き目を受けた。
    >
    > “「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”が進む中では別の道を選択するべきであった事が考えられる。
    > つまり、享保期では「仏施の質」にあり、明治期には「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)の「対応」が間違えていた事に成る。
    >
    > 上記の様に、「二足の草鞋」で商いをする多くの「全国の青木氏」には、この昭和20年頃を境に「如来の意志」は、“「善悪の条理相対の理の概念」”を果たすも正統に享受され得なく成ったと「後勘の評価」はできる。
    >
    > “「自由の先取り」=「組織の利」>「個々の利」の関係” − A
    > “「善悪の条理相対の理」”の概念“ − B
    >
    > この「ABの二つの関係」は崩れ、Aは変化してBだけが残る結果と成ったと考えられ、そのBも「組織の概念」では無く、「個人の概念」の範囲に留まったと成る。
    > つまり、「Bにまつわる伝統の一つ」は消えたのである。
    > そもそも「古式伝統」が消える過程とはこの様なものである。
    > 従って、「祖父の代」までを以って「氏としての掟」(多くの「伝統」。即ち、奈良期からの慣習仕来り掟)は霧消に期した。
    >
    > 後勘として「享保期後半」からの「伊勢と信濃と甲斐と讃岐の状況」の「青木氏」を以って論じたが、多くの「全国の青木氏」は、「賜姓族」として置かれている「悠久の伝統ある環境や立場」などがほぼ同じであった事から、これに類する様な「憂き目」を受けていた事が間違いは無い事が云える。
    > 故に、後勘の現在で観れば、多くの「青木氏にあるべき古式伝統」が上記で論じた同様の過程を経て完全に近い程に霧消しているのである。
    >
    > その中で「伊勢と信濃と伊豆の青木氏」には、「伝統の形跡」が記録としても何とか遺されていたのである。
    >
    > (注釈 本サイトに何とか「伝統の記録」を投稿し論じて遺しているが、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が、ますます進み「青木氏の密教掟」(古式伝統)も無く成る。
    > 従って、「如来の意志」も働かず「伊勢」も含めてこれからは「全国の個々の青木氏」には「伝統維持と習慣仕来り掟の解明」は相当に難しい事が判る。)
    >
    > その「古式伝統」の「維持管理の難点」の一つは、その「伝統」が「周囲の伝統」と比べて「違和感」を感ずるほどに「古式豊かである事」が難点である。
    > この「難点」を克服し維持するには、「それ相当の経済力」と「勇気やる気」を必要とする。
    > 先ず、その特異な「古式伝統」を継承し得る「環境・場所」が確保し得ないであろう。
    > この「周囲の伝統」と違う為に、周囲からは気宇の目で見られ「伝統の特異性の周囲の理解」が得にくい。
    > 筆者もこの二点に苦労した。
    >
    > この状況は現在に於いても変わる事は無く益々難しく成るであろうが、筆者は内家で行っていても家の者にも理解が得にくい事がある。
    > 合理的に考えて「周囲の伝統」と違う為に何でそこまでやらなくてはと云う疑問もあるらしい。
    > そもそも「伝統」とは「合理的に」とはいかないところがあるのだが。
    > 良い悪いは別として、最早、“悠久の歴史を持つ日本でも「数少ない氏族の青木氏」である“と云う感覚は、明治から戦後の昭和の混乱期の間に親族には消えているのである。
    > 「口伝」さえも受け付けない。「時代」と云うものはそう云うものであろう。
    > 故に、中々読んで貰えないが「文書」に遺して何時しか「子孫にロマンを与える事」としている。
    >
    > 幸いサイトのカウンターで観れば、現在では、“年間で全国の5割近い青木さん”に読んでもらえている事には成る。
    > ヤフーHPとサイトHPで観ると、延べ「約老若220万人の青木さん」に読んでもらっていた事に成る。
    > これは「全国の青木さん」には充分に洩れなく読んでもらえている事に成る数字だろう。
    >
    > 「伝統維持」は難しく成るも、「ロマンとしての青木氏歴史観」には、なんと「青木氏」のみならず読者は「青木氏族」にまでに広がっている。



    「伝統シリーズ−27」に続く。


    「伊勢の民」は上記の殖産で潤っていたのに、江戸末期から明治初期(14年に終わる)に掛けて、「農民の不満」が拡大し、有名な「伊勢一揆」(内容としては暴動)が起こっていた。
    つまり、「殖産の潤い」では無く、「政府の農民に対する税の掛け方」に「農民の不満」を持ったのである。
    「明治初期の地租改正」で「農地に対する税率と納税方式(地価税と金納)」が変更された。
    この時、「自作農」を目的として「地主である青木氏の米農地」を「氏人の農民」に下げ渡した。
    維新政府が提案した「農地解放」である。

    注釈として、「伊勢の青木氏」では、この米策の「農地解放」に対して「一戸」に対して最低「二反(600坪)」をベースに無償下げ渡しを行ったと記されている。
    実際は「三反程度(約1000坪)以内」であったらしい。
    「全国の青木氏」では、ほぼこれに沿っていたとされる。
    生活最低の農地面積は「二反(副業含む)」であって、この事から明治期から“「二反百姓」”と云う「揶揄の言葉」が生まれた。

    これでは生活に潤いが無い為に副業をしていた。
    この「副業」は「青木氏」が興す「殖産の手小」で賄ったと記されている。
    一戸はこの「二反」を耕作し得る家族構成であった事からも「二反」と成った。
    この中から、「殖産の副業」で蓄えを造り、「廃農の土地」を買い取り「5反百姓(1500坪)」と呼ばれ、「農業」で何とか生きて行ける「農家」と成ったと記されている。
    最大で「一戸10反(3000坪)農家」が生まれたらしい。
    中には、この「一戸10反(3000坪)農家」は、前段でも論じた様に、「青木氏」が興した第二次の「早酒米」と「醸造技術」を継承し、「酒米」に切り換えて「酒造業」でも成功した者も居たらしい。
    (豪農の基準として最低「2町分」)

    この様に「米価の安定化」の為にも、「紙屋」が金融をしてこの「酒米と酒造」を伊勢で広めて殖産した事が書かれている。
    又、「小作農」では「青木氏」と共に生きて行けたが、矢張り、「自立農家」と成ると「税」等を始めとして問題も多く「廃農」する者が増え、この「廃農者」は「青木氏の殖産」の「職人」で生きる事に成ったとも記されている。
    この「農家と職人」の仲介は「青木氏」が取り持った。

    因みに、「伊勢青木氏」の場合の譲渡した小作地は、大正期の前の明治期(45年)の範囲では「小作地の約9割」に達した。
    「農地」に対して占める「小作地の1割合」は、「青木氏の作地」で、この「作人」は「青木氏の雇人」か「作人」(畑やその他が在った為)を選んだ事と成った。
    従って、全体の畑などを含む耕作地は10%に激減した。(殖産用は別)
    畑地も含めると、「全耕地面積の半分以上」(残りは殖産地など)が「小作地」であったが、この農家の割合も約半数から1割程度まで漸減して減少した。
    と云うのも、この「約半数の農家」が、“「小作農」を選ぶか”は直ぐには態度を示さずに時間がかかった。
    つまり、「自作農」となると「多くの負担」が圧し掛かるからである。
    取り分け、世間でも問題と成っていた「税」に対する不安が強く在り、「青木氏」を頼った方が良いとする選択もあったからである。
    故に、「自作農」や「小作人」の侭や「雇人」や「作人」の「四つの選択肢」を「伊勢青木氏」は用意した事に成る。
    直ぐに急激に何時からと区切り「自作農」にしたという事では無かった。
    この為に、この様に環境が次第に変化して行く事から、迫り来る「概念の崩壊」(伝統の崩壊)には、“無頓着と成っていた事”が祖父や曾祖父には起こっていたのではないかとも考えられる。
    故に、この結果、これを評価して「地権者や地主と云う概念」は崩壊に近かったと「青木氏に関係する資料類」では幾つか明記してあるのであろう。
    これは「痛恨の極み」としての反省の意味なのかは判断が付かない。
    曾祖父は別として、世の成行きを判断するのに卓越した祖父には“反省”とは考えにくいし、その様な口伝は無い。

    つまり、「氏人との地主制度」は、完全に崩壊し、明治後、「伊勢の青木村」は「自作農」が殆どと成った。
    江戸期からの全国の「農地の地権者(地主)」は、昭和20年までの「正式な農地解放」まで殆どが「地権者の侭」であったとされている。
    後継者や飢饉等の問題で「自然放棄」の理由で、「地権」を止む無く維持出来ず後退して行った者もあるが、明治期に、これらを除いて自発的に農地解放した江戸期までの地権者は数件しか見当たらない。
    (但し、豪商などが権利だけを持つ地主は除く。)

    江戸期中期から勃興した豪商等は「自然放棄の農地」や「経営難に成った農地」の「買い取り」を「商いの手段」として積極的に買い取った。
    つまり幕末から明治期に起こった「名義だけの地権者」である。
    結局は、明治期の「農地解放策の地権放棄」は「小作農」から「自作農」に変化しても、状況の変化に対応できずに結局は「地主が変わった事」と、「絆」の無い別の者の「雇人に成った事」の違いで、「税」は豪商が治めるという事に成っただけの事である。
    はっきりと云えることは「青木氏」の様な「氏上−氏人の絆社会」は消え単なる「地主と小作人」と成り、そこには“「絆」は消えた”であろう。

    明治期の「農地解放策の地権放棄」は、時間がかかったのは確かに「青木氏の判断」の事もあったが、「氏子の判断」もあった事も云える。
    上記の理由もあったが、「氏子(小作人)の根底」には“「絆」は消える。”の心配があったのではないか。
    悠久の歴史を持っている「親子兄弟の様な関係」を持っていた「氏上―氏人の絆社会」を消える事を恐れていた。
    これでは「氏が構成する地域の大きい伝統」は消え、最後には「氏が持つ小さい伝統」さえも消え去ると云う事に成る。

    そもそも、前段でも論じたが、”「伝統」”と云うものは「周囲の氏人との関係」が深かった事を論じたが、この比率関係では、最早、どう考えても「伝統維持」は困難である。
    この時、「福家」は「伝統維持」と「農地解放」の「二者択一の苦しい選択」をした事に成る。
    この「伝統崩壊」が、どの様な事に結び付くかは租借できなかったとは後勘として到底思えない。
    然し、明治初期には「農地解放」を率先して選んだのである。
    恐らくは、“農民の幸せの為だ”と「国策の矛盾の解消」の為と信じてである。
    前段で論じた様に、一時的には、初期には公的には「伊勢一揆ー伊勢暴動ー伊勢騒動」として扱われるような「伊勢暴動」が起こるが、“「農民の幸せの為」と「国策の矛盾の解消」”で進んだ。
    勿論、諸新貫徹で、この「一揆」を「暴動」にし、最後には「デモ」にし、遂には伊勢に貢献したとして「朝廷」から「感謝状」を二度も賜る仕儀と成っている。
    (詳細は下記 「国策の矛盾の解消」は享保期からの取り組み政策であった。)

    後勘としては、「伝統」は衰退したが、少なくとも“農民の幸せの為だ”は正しかったと云う事に成る。
    故に、「氏存続」を左右する事の「大犠牲」を敢えて選んだ「青木氏」であるからこそ、「氏上さま」とか「御師様」に、そして、明治期の「農地解放策の地権放棄」では、最早、「氏上さま」でも無く成り、「御師様」でも無く成ったにも関わらず、今度は新たな尊敬の呼称の“「徳宗家」”に成ったのであろう。
    「小作農の人」から「自作農の人」を選んだ「元氏人達」は、本来なら放置されても良い関係に成っていたにも関わらず、続けて「明治期の殖産で受ける恩」に対して「徳宗家の呼称」で返したのである。

    (注釈 明治期の「農地解放策の地権放棄」(明治7年)は、大地主である貴族院の反対を受け廃案には成ったが、「明治期の青木氏」は政府に同調して「農地権」を農民に放棄し続けた。)
    (明治2−明治35年の期間)

    そもそも、明治期の「農地解放策の地権放棄」にはこの「貴族院」に問題があった。
    「貴族院」(1890年−1947年)とは、「明治初期の社会」を権威付けする必要に迫られ、それまで公家族であった者と大名であった諸侯に対して「華族制度」(1869年 明治2年−1947年)という「権威組織」を作った。
    (実質は1927年頃で崩壊した。)
    それらの「貴族院」に対して、後に、「議会の特権(拒否権等)」を与えたものである。
    これは「伊藤博文の策」であったが、明治15年頃(1882年)からこの「華族の範囲」を不満分子を押える為にも安易に広げすぎ、又、「財産の特権」などを与え過ぎた事から、庶民の反発を招き、昭和2年頃で破綻して長続きはしなかった。)

    ここで、考えてみると、何か変である。
    この時に執った「維新政府」の政策には「矛盾」があった。
    明治期の「農地解放策の地権放棄」(1869年 地租改正に伴う策)を要求しながら、一方で大地権者であった者を持ち上げて階級制度の復活の「華族制度(1869年)」を創設した。
    この「華族制度」を作り「議会の拒否権」と「特権(財産権の保全)」を与えて仕舞えば、明治期の「農地解放策の地権放棄」は地主である以上はしなくなる事は必定である。
    (現実に貴族院の地権者たちは議会で拒否、現地で「農民の反発」を恐れてより厳しく対応した。
    「地権放棄」などは100%しなかった。)
    一方で「農地解放策の地権放棄」を叫び、一方では「議会の拒否権」と「特権(財産権の保全)」を与えて仕舞えば、“遣らない”と云っている事に過ぎない。
    この事は当然に農民にも判る。
    少なくとも「青木氏」の「青木村の農民」は、「自作農」を躊躇した。
    しかし、「青木氏」は「自作農」ではないが、「小作人」と云う「古い体質の関係性」を改善しようとして、政府に関係なく”「雇人」や「作人」”と云う対応で積極的に進めた。
    そこで、「自作農」を選ばず「青木氏」に残った「氏人の侭の小作人」には、「青木氏」に残る上は、「会社組織的な関係性」に近づけたのである。

    何れも「自作農」にしても、「雇人や作人」にしても、共通して「近代的な関係性」にある。
    これは「享保の改革」の「江戸の伊勢屋」が採った「仏施の質」と同じであった事が書かれた行があってある意味で認識している。
    この事から、この時の「伊勢の青木氏」は、「商業組合」と同じの“「自由性」”をやはり追い求めていた事が判る。
    つまり、「氏人」には次第に「自由性の高い自作農」に近づけて行く「次善策」であった事に成る。
    もっと云えば、上記の「維新政府の矛盾」から観て、最早、維新政府とは関係なく、前段で論じた「青木氏独自の信念」に基づき“「自由性」”を確保する“「氏人の自作農」”を進めた事に成る。
    そもそも、前段で論じた様に確かに維新政府に青木氏は協力し同調した。
    (果たして「協力同調」か気になる。)
    ところが、上記の「維新政府の矛盾の政策」の「貴族院制度」を打ち出した。
    「維新政府の仕打ち」はこれだけでは無かった。
    それは、つまり、前段で論じた「税の変更」であった。
    それまでの変動制の高い「米価」から、変動制の低い「金価」に変更した上で、地価に基づき更に「税率」をも変えたのである。

    思いの侭である。
    これでは急激に変化する体制に驚き、且つ、増え始めた「自作農の農民」と「元郷士で小さい地主」であった田畑を持つ者等は、不満を募らせていた。
    要するに、「税収入の安定策と高値安定策」の「税二策」を同時に打ち出したのである。
    「自作農」を推し進める「青木氏」に執っては、「小作人」の「自作農」を選んだ「氏人」を騙した形に成った。
    堪えがたき仕儀と成った。
    幾ら協力や同調したと云っても「矛盾政策と税二策」には、「裏切り感、或は、怒り感」は強く成った。
    これには暫くは抑えていたが、遂には「自作農の不満」は爆発した。
    この「維新政府」の「矛盾政策と税二策」に対して「青木氏」は、この「裏切り感、或は、怒り感」から「自作農の不満」に同調した。
    それが、「伊勢暴動」で「暴動の経済面の支援」に出た。(詳細は下記)
    「裏切り感、或は、怒り感」の表れとして「維新政府」に対する「矛盾政策に対する警告」であった。

    ここで、念の為に、最早、「天皇」を中心とするも「薩長土肥の維新政府」であり、且つ、「体制」は異なり「賜姓五役」は、「献納金」を納めるも形式上からは、“終わっていた”とする「認識感覚」は排除出来なかった事を追伸しておく必要がある。

    そこに、「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「伊勢暴動」である。
    「伊勢暴動」で「暴動の経済面の支援」をする以上は、「青木氏」としての「理路整然とした信念の支援」であるべきとの姿勢を貫かねばならない。
    それが上記した「伊勢暴動の経緯」と成って表れたのである。
    この「薩長土肥の維新政府」の「矛盾政策」を除いて、明治期には解決は出来たとすれば、最早、「維新政府」とも「離縁の仕儀」と成ろう。
    ここで、明治期の「農地解放策の地権放棄」も進み「永代の青木氏の賜姓五役」は完全に終わった。
    況や、「氏上と氏人の関係」は終わって、「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと変化させたのである。

    (注釈 「青木氏での呼称」では、”「雇人」”とは、「雇用契約」で「社員」であり、”「作人」”とは、「受注契約」で「契約社員」か「外注」であろう。)

    筆者は,この明治期の「農地解放策の地権放棄」を進めるには、何も無い土壌の処に「自由性の強い策」を「青木氏単独」で打ち出すには政府の批判を免れられない。
    そこで、その策のタイミングを見計らっていたのではないかと観ている。
    「維新政府前の政策綱領」が洩れて来て「大方の策」を読み込めていたと観られる。
    そこで、悠久の歴史を持つ「氏上と氏人の関係」を、この際に「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと改善する機会にしたと云う事であったと観ている。
    その証拠に、農業ではない「職能集団の青木氏部」も「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと改善している。

    当然に、「雇人と作人の関係」には賛否両論が起こった筈である。
    「残りたい者」の中には「雇人や作人の選択」が出来て完全に残りたい者は雇人に、少し離れたくて自由の効く状態にしたい者には「作人」で最低限に形は変わるが残れる。
    完全に青木氏から離れたいとする者には「自作農」を選べば良い事に成る。
    この「地権放棄」に関係する者には「郷士」も居たし「農民」も居た。
    当然に「各々の立場」も異なる事や、「青木氏との関係性」の強弱の者も居た事だし、稀に見る「悠久の歴史」を持つ以上は「多種多様」であろう。

    従って、この多種多様の中で、この「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと「体制の改善」から「自作農」へと、止む無く一歩進めたと云う処ではないかと観ていて、それには未だ「封建制の概念」の強かった「農民社会」では行き成り「自作農」と云う事は難しかった。
    そこで、「伊勢の青木氏」は維新政府の「地租改正の成行き」を観て、“「協力と同調」“をしている様に実行したと云う事では無いか。
    この時、「伊勢」では地権放棄に関わらず「農民等の不穏」な「不満の動き」があって、「伊勢青木氏」としては、「伊勢の民」を“いざ”と云う時には「救う手立て」の為に「協力と同調」の「戦略上の姿勢」を採ったと観ていて、「献納金」もその手立ての一環であったのであろうと観ている。

    この様に「青木氏に関わった資料の行」とは少し違う見方をしている。
    だとすると、何故、直近の事であるのにこの「行」に成ったのかと云う事に成る。
    余談ではあるが、追記して置く。
    それは、「伊勢暴動から感謝状を受けるまで経緯」の「大義」を採ったと云う事ではないか。
    「大義」としては決して間違ってはいない。
    確かに、筆者の上記の説にも「現実観の小議」はあるし、「伊勢暴動から感謝状を受けるまでの経緯」の「流れの経緯」にも「大義」が存在する。
    だとすると、「遺す資料」には当然に名誉と成った「大義の方」を書き込む事に成る仕儀であろう。

    さて、話を戻して、何故ならば、「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」は悠久の歴史を持つ「氏上と氏人の関係」は依然として保たれるが、ところが「自作農への関係性」は保てなくなる。
    この保てなく成る事や消える事へのリスクは大きく成る。
    それが、現実のものと成って「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「伊勢暴動」に発展してしまったとする経緯であり、躍起になって「火消しに努めた」とする経緯である。
    「祖父からの口伝」では聞こえて来ないが、前段でも長く論じたが、「古式伝統の仏施の質」がそれを物語っている。

    つまり、筆者は「イロハの商業組合」と云う事も然ることながら、「古式伝統の仏施の質」の範囲を概念としては超えていないと観る。
    筆者の目からは、この時の「自作農」はこの範囲を超えていて、俗に言い換えれば、周囲を壊す“「やけくそ」”である。
    「青木氏」と「祖父と曾祖父」はその様な人物ではそもそも無かった。

    この事は、「伊勢での事」ではあるが、「全国の青木氏」にも言える経緯であり、取り分け、前段で述べた関東北陸地域の六地域や、関西・中国圏の「三地域の青木氏」には間違いなく起こっていた経緯であった筈である。
    ただ、伊勢の様に暴動までに至っていたかの違いであろう。
    その証拠に昭和20年前後を境にこれらの「青木氏」は間違いなく衰退している特有「特有の歴史観」を共有している。

    前段でも論じたが、「讃岐青木氏」や「安芸の青木氏」や「米子青木氏」(阿波の青木氏)は大豪商であったにも拘らず、焦って明治期の蝦夷地開発等に手を出した末に失敗し衰退した経緯の証拠を持っている。
    明らかに、「幕末の組合の締め付け策」と「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「地域の騒動」から来る「歴史的な事象」の「四つの原因」である事が良く判る。

    後勘からすると、これらの直近の事を捉えても、「古式伝統」を維持しながらも、一方では「自由性の強い氏」であったと観える。

    そもそも、明治期の「農地解放策の地権放棄」は、これは“「自由性の強い氏」”であったからこそ彼等農民に執っては「莫大な財産」が無償で獲得できたのである。
    「地権放棄」にしても、「自由性の強い氏」にしても、必ずしも「無条件放棄」とするかは別問題である。
    そもそも、上記した様に、「雇人や作人」が基本として「自作農の選択肢」を出した経緯を持っているとすると、「自作農」を無償とすると「雇人や作人」との間には不平等が生まれる。
    本来であれば、それ相当の「条件を付けると云う事」が普通である。
    しかし、「無償であった」とすると、「雇人や作人」との間の契約には「補正する手続き」以外には無く成る。
    それは、「小作人契約(関係)」を一度破棄し、その上で「雇人や作人」の契約を交わすと云う事に成る。
    この時の「契約破棄の退職金」か「再契約の契約金」かで補填する事で「不平等」は無くせる。
    「自作農」の選択肢を選んだ者には、「無償財産権」を分与による譲渡契約した事に成る。

    さて、そうすると「自作農」と成った者には、普通なら「不満」など起こる筈がないであろう。
    何せ「青木氏の地権放棄」で無償獲得しているのである。
    そもそも、「自作農の人」には、「氏上と氏人の関係」を完全破棄するので「断腸の決断」をしたのは、「氏人」の「自作農を選んだ農民」では無く「青木氏」の方であるだろう。
    然し、ところが「青木氏の方」が、むしろ「向後の農民」の行く末に、上記の「四つの原因」が絡んでこないか心配を寄せていたのである。
    (この「青木氏の心配」は的中した。)
    それの根拠に成ったのが、「自作農」の人には、“無償での獲得なのだから、「税比率」程度は、我慢するであろう”と政府は踏んでいたのを「氏上の青木氏」は読み込めていたからである。
    前段で論じた事と上記した「維新政府の矛盾策」が聞こえて来ていたからである。
    ところが、“いざ納める”と成ると「自作農の農民」は我慢しなかった。

    そこで「自作農」はどの様な「税負担」を追っていたかを知る必要がある。
    その前に先ずは「過去の伊勢」での「地権者の青木氏」では、「地権の青木氏」は「7の内4、農民は3、政府は3」が基本で、「青木氏」が「地権者」として税納していた制度であった。
    各地域の藩では、前段で論じた様に、「税制度」、取り分け「税率」は異なっていたし、又、「地権者」に依っても「藩の税率」での中で地主、或は「地権者」と「小作人」との分ける比率も異なっていた。

    兎も角も、多くの農民は「小作農」(6割)が主体で、そもそも直接、農民に当たる制度の中では無かった。

    そもそも前段でも論じた様に、「自作農」が増えたのには、不純な訳があった。
    前段でも論じた様に、享保前からの「田畑の売買禁止令」や「質地流の売買禁止令」等に対する抜け道が横行、所謂、「質」に関する「抜け道」が元禄の頃から茶飯事の様に横行していたのである。

    (注釈 「地権者」、又は、「自作農の者」は、不況から土地を担保に質融を受け、期限内に返納できない場合に「土地の質流れ」を起こした。
    この「江戸社会の根幹」である「米作地」の「土地の売買」を禁止して混乱を避けようとした。
    これに対して「売買」は可能にしても「返却期限」を過ぎても「地権者の移動」は禁止し、無期限に返納出来た時点で「地権」を戻すと云う応急策を敷いた。
    ところが、これでは「質屋」と「買い取りの豪商等」にはメリットは無かった。
    そこで、彼らは「裏策」を使って「禁令逃れ」が横行させたので、政治の根幹と成る土地の混乱を招き、経済はますます疲弊した。
    そこで、享保の改革では、幕府は「発想の転換」を遣って退け「土地に関する三策」の「緩和策」を講じたのである。

    つまり、経済活性化の為に「売買」そのものを許可した。
    その為に「農地」は「商品」として売買され、その結果、売買によって「商品の土地」は細分化され金のある農民は金額に応じて「農地」を購入する傾向が起こった。
    所謂、「不動産投資(不動産バブル策)」である。
    そして、商品化の為に地権者が変わり、その結果、細分化に依って「自作農」が増え始めた。
    これを「吉宗の享保期」に依って「土地に関する質流れ等の利権と保護」の「土地改革」から豪商等に依って買い取られた「放棄されていた農地」には、「転売」などが起こり豪農等が細分化して買い取りをした。

    そもそも、「秀吉検地」からの「一地一作の原則の制」が緩和された事から、又、「長男の農地継承権」から、「自作農」としての次男三男が「商品と成った農地」を何らかの形で獲得して持てる様に成って行った。

    (注釈 それまでは「一地一作の制」に従って、農家の次男三男は農業を継承出来ず「武家の奴役」や「農家の手伝い」などで生き延びていた現状であった。)

    最初には、形体としては、この農地を耕作する「半自作農」が多く起こり、幕末の直近期から上記に論じた「青木氏の策」と同様に、大地権者の小作農[小作人]の待遇変換(随時受注契約方式)が起こった。
    この頃から「商品の土地の細分化」と上記の「小作農の待遇変換」が進み徐々に「完全自作農」が増えて行ったのである。

    それまでは、そもそも農業は人口的に「自作農」(2割)(小作農6割)は、庄屋や名主の村主などの「郷士身分の者」が多かった。
    そして、「青木氏の様な大地主の地権者」は「1割強」であった。
    この下に働く「小作農」は「6割強」の分と合わせると、「伊勢」では地権的には全体の「8割」を占めていた事に成る。
    その「地権の8割分」の内で、「青木氏の分」は、「5万石の郷氏」と呼ばれた所以から、「全体の2割強」を占めていたされていた。
    「伊勢青木氏の分」としては、これ以外に多くの「殖産」を興していた事の分と、それに伴う利用地の「殖産地や畑地」など作地等も含めると、南勢から北勢までの「4割程度の地権者」であったと云う事に成る。

    故に、元より「伊勢郷氏」として南勢の旧領地から員弁桑名の北勢までの広範囲に地権を持っていた所以なのである。

    つまり、「地権者の伊勢青木氏」は、これを「伊勢11万石(海産物なども含む・享保期の紀州藩領分)」の内の4割程度を占めていたとされていた。
    この中の「伊勢の小作人」では、伊勢人口は当時約49万人(明治6年:58万)と成っている事から、「2割」は10万人と云う事に成る。
    従って、この内の4割分の「4万人の氏人の小作人」が「青木氏の氏人」であったと云える。

    (注釈 つまり、今風に云えば、「4万人の青木農業ホールディング」であった事に成る。
    つまり、「雇人や作人」に変換した事は、明治期の初期では、江戸期の「青木の氏上と氏人」の侭で「青木氏部」以外には、「固有名詞」の呼称は特に記載はなく、後の「伊勢暴動」が解決した4年後に「雇人や作人の関係」の「青木農業法人」とした資料の記載が見つかっている。
    注釈として、前段でも論じたが、この時、「水運部」「職能部」「警備部・シンジケート」等の多くが独立して会社を設立した。)

    さて、記録が見付からない事から正確には判らないが、上記の「伊勢の小作人の変化」(伊勢一般)では、「5割の小作農」が「1割に成った」とする資料から推測すると次ぎの様に成る、

    この内の「青木氏」の中で、この「自作農の選択肢」を選んだ「青木氏の氏人の数」は、「青木氏」では9割近い「氏人」が「小作農の雇人や作人」を選んだ。
    この事も含めて、1割程度弱以下と考えられる。
    これは「殖産地等の耕作地分」も含んでいるので、少なくとも「400人程度弱の半分以下」ではなかったと推測できる。

    唯、この記録は、明治35年の出火で人別帳類消失しているが、この「自作農に成った氏人の多くは、「名張−松阪」より始まって「以北の地域」で主に起こっていた事が資料の行で判る。
    これが「伊勢暴動の経緯」に一致している。

    従って、この事から、何故、この「以北の地域」で「氏人」が強いて「自作農の選択肢」を選んだのかと云う事である。

    これでは「青木氏側」から観る判断としては、次の様に成る。

    先ずは、「福家領域」から離れた「四家領域」であった事であろう。
    次には、「米作面積が大きい平野部域」であった事であろう。
    更には、「南勢」の旧領地との強い関係性」より「北勢」は「自由性」が強かった事であろう。
    最後には、「隣国性の影響」が働いて旧来より美濃や信濃からの「情報性」が強かった事であろう。

    これ等、“四つの事が連動して総合的に働いた”と云うことであろう。

    ところで、注釈として、「作付面積の収穫量」に応じての「地権下げ渡し」で、上記の事柄が働き、最低反を上記の「2反 600坪」として計算され行われた様であるが、何故、この様に実に「小さい小作農」が多かったのかと云う事である。
    実は、この事に付いて「伊勢青木氏」には「大きな意味」があった。

    恐らくは、「伊勢青木氏」は、「一地一作の令」に従わず、次男三男にも「小作農」をさせる策を確実に採っていた事が云える。
    この事に付いてあらゆる資料には明確に記載は流石にないが、「伊勢」には、前段でも論じた様に、他国に比べて周囲には武家や郷士(1/10以下)が極めて少なかった事が、次男三男の就職先と成る「武家の奴役などの職」が全体を賄える程に無かった。

    この事から、伊勢青木氏は「殖産」を手広く行っていた事から「殖産地の新規開墾」などの「便宜的な理由」を使って「土地」を細分化してでも「氏人」を救わなければならない。
    そこで、これらの理由を使って「青木村の中の次男三男の小作届」を出していたと考えられる。
    当然に、「殖産」に依って「彼等の生活」をある程度賄えるようにはしてはいたが、それだけでは充分ではなく、「小作農」が出来る様に、「殖産地などの土地開墾の必要性」に絡めていた。
    この事から「米作も含んだ土地の新規開墾」もあって賄えるようにしていたのである。
    「米作」としての「届出」であるかは別で、「一部の資料の行」には“「混作地」”の用語が出て来る。
    「畑地」としても主に使うが収穫によっては「米作地」としても使う事があると云う「便宜的な方便」であった。
    この“「畑地混作地」”として「小作農」を新規に作り出し「届出」すれば事は済む。
    兎も角も、先ずは上記の「2反 600坪」の「次男三男の小作農地」を正式に確保できることである。
    後は、生活を賄える為にはどうするかである。
    それは、「殖産」であり、長男の「手伝い」、「商い」の手伝い等の間口は何とか賄える。
    その為には享保期前まで引き継がれた「一地一作の令」が障害であった。
    その意味で「伊勢青木氏」としては、容易に土地の事情などから「小さい小作人」を作る事が出来たのである。
    むしろ、“「小さい小作人」が増えた“と云う事の方が正しいだろう。

    これの証拠と成る「行」は、上記の「雇人と作人の選択肢」である。
    「雇人」は兎も角も、「作人」が法人化の要素の一つに成っている事である。
    つまり、「随時雇用契約」である。
    他に仕事を持ちながらも、耕作地の管理維持や農繁期などの必要時に専属的に「青木氏の雇人」に成って農業に従事してもらう契約である。
    米納や金納も各種あった様で、中には「仏施の質」の「代替労働」としても使われていた様である。
    次男三男が、「青木氏の殖産の雇人」のみならず、「紙屋の雇人」に成る者や、「農業」を捨て「青木氏の商い」に見習いに入り、その後に「商い」を始めると云う「氏人」もいた様である。
    この関係が相当量にあったと云う事は、上記の策の為に「小さい小作農」が起こっていたと云う事にも成る。

    「青木氏」としては「氏上さま」と崇められる立場である以上は、“「二反農家の小作人」”でも「随時雇用契約」で生活が何とか賄える様な仕組みを「一地一作の令」に反してでも親として作り上げていたのである。
    これらの「小さい小作農の人」の多くが、実は「200人程度弱」の「自作農の選択肢」を選んだのである。

    (注釈 この「小さい小作農 2反 600坪」の正確な比率が「自作農の選択肢」の中で占めていたかは消失で判らないが、上記の「一地一作の令」を無視して迄の戦略上から考えて、氏人農家の次男三男の家族構成の数が青木村地域では、前段で論じた様に、地域の就職環境(郷士衆が少ない)が良く無かった事から無視できなかった事に成る。
    従って、「郷氏」として「氏人」を護る必要があったので、比率としては「200人程度弱」の過半数は遥かに超えていたと考えられる。)

    先ずは、小さくても“「自作農」に成れる”と云う人間の本来持っている「独立心」が芽を興したのである。
    誰しも「独立心」を興しても生活が成り立たなければ、「行動」を起こさない。
    それには、「自作農」に成ると確かに「大事な絆」が切れ、「氏人」とは無縁に成る事にはなるが、関係性が低下しても「青木氏」の中で生きていられれば、“「随時雇用契約」で生活が何とか賄える様な仕組み“があった事に依り「行動」に移したのである。
    彼等の多くには、「小さい小作農」として、「税」など出来る限り自分の事は自分でやり、これ以上は「氏上さま」には迷惑はかけられないとする「独立心の発露」であった。
    (累代の口伝の言分からによる。)
    これは「青木氏への信頼と尊敬の概念」の所以であろう。

    ここに「青木氏の所以」の大きな意味が観える。

    (注釈 「太閤検地」と「江戸(正保・元禄・天保)三期の検地」との四度の検地が行われ、これにより「一地一作の令」を基本にされた。一つの土地に一人の作人が継承するとし、「土地の細分化」を避ける事を目的とし、且つ、「転売」を避ける事を目的として長男が継承権を持った制度である。

    「一地一作の令」を廃止して「自作農」などの「土地に関する継承権」を自由に持たす必要からの「明治6年の検地」とで、5度にわたり全国的に正確に行われたが、「享保の改革」ではこの制度は緩和され後に一部廃止された。
    この「享保改革の過程」が、伊勢では「長年の小作農対策の苦労」が反映して「大きな引き金」になっているのである。
    どの様な事であったのかと云うと、次の様な経緯である。
    「繰り返される災害」や「低廉な政治政策」によって極度に疲弊している「国内経済」を発展させなければならない「緊急の課題」が「吉宗等」に課せられていた。
    (上記の底をついた「御蔵米」)

    「緊急の課題」のこれには、「国体の米本位の基幹」による政治制度に矛盾が社会に露出していた。
    これを解決するには、“「自由な経済構造」”が必要であって、それに執っては、最も解決しなければならない「一地一作の令」が、明らかに“「弊害」”であると認識していた事を意味する。
    江戸幕府開幕以来、人口は増加し、その元としていた「米による基幹政治制度」の米の使用量も増大する。
    当然に、この「米」に纏わる豪商が生まれ、これらが既得権力を握る。政治を握る幕府では無かった「矛盾の1」である。

    ところが、社会は人口増加に伴い貨幣経済が起こり、社会は「米本位の体制」でありながら「貨幣本位」が主役を握ると云う「矛盾の2」が生まれる。

    政治は「米本位」と経済は「金銀」による「貨幣本位」と云う事である。
    尚、更に、この「矛盾の2」に輪を掛けたのは、「矛盾の3」の「税」は「米」であって貨幣では無かった。

    更に、相乗の「矛盾の4」は、「貨幣本位」にしている「大口」は、「藩の米の貨幣への換算」であった。


    これだけの矛盾を孕んでしまった政治は成り立たない。益々、傷を大きくする。
    幕府は戦わずして倒幕と成る。(御蔵米は113両で既に享保前は破綻)

    この「四つの矛盾の認識」を持っていた「伊勢青木氏」からすれば、「享保の改革」で先ず最初に手を付けた“「米相場制」”に対して「経済論」から攻めた上で、並行してやらなくてはならない「社会の変革の策」があった。

    とすれば、それは上記した「三つの質策の金融緩和令」であった。
    伊勢での経験とその認識を通して、その結果として、先ず出て来るのが“「小作農対策」”であると認識していた。
    「享保の改革」としてそれを押し進めるには、前段でも論じた様に、「三つの質策の金融緩和令(1722年−1730年)」であってそれを採用して実行したのである。

    (注釈 「三つの質策の金融緩和令(1722年−1730年)」は、「伝統シリーズ−21,22を参照」の事。
    「質取扱い覚の令」や「質流れの禁止令」や「質流地の売買禁止令」である。)

    それは、前段で論じた様に、「享保の改革」で「吉宗―青木氏」が始めた「米相場制(1696年淀屋開設−1730年堂島公認 )」に持ち込み、安定させたその上で「米価制による税」であった。
    それまでは収穫が低い場合の高騰、豊作で米価が低い場合の低価では、その“「差額」”は、「伊勢の伊勢地権者であった青木氏」がその時の決められた「米価」に換算して「金納」で補填していた。

    「地権者」としても「伊勢青木氏」としては、兼ねがね、この何れにしても起こる“「差額分」”の「金納に対する経済システム」に疑問を持っていたのではないかと考えられる。
    ところが、当然に享保前の幕府としても、この「矛盾」を抱え先ず解決する必要に迫られていたにも関わらず放置し、更には上記の「四つの矛盾」の認識にも欠けていた。

    「米価」を基幹(米本位)としての政治体制である以上、幕府の収納米(金)は、収穫の高い時は高く、低い時は最低額は確保する体制で無ければ、「基幹」は、「じり貧」と成るは必定である。

    実際には、この不足分を補う為の「幕府御蔵米の金額」は、記録によると、“113両まで落ち込んだ”と云われている。
    つまり、「幕府御蔵米」で考えれば、経済的には「江戸幕府」は破綻したと云う事に成る。
    記録では、“引き継いだ「吉宗」はこの事に焦った”と記録にあり、周囲の全ての高級官僚と激論に成ったとされる。
    この「反対派の老中職」の官僚を全て排除して、自らブレーン(青木六兵衛とその息子)と共にこの「政治体制の四つの矛盾」に取り組み始めたのである。
    そして、老中職には身内(水野忠之)を置きながらも、後は実務は殆ど自らが「激務の執務」を採ったと記録されている。
    そりが故に、彼の周りには書類や資料の山であったと記されている。

    つまり、前段でも論じている様に、この時の「経済ブレーン」が「布衣着用の伊勢と信濃の青木氏」等であったと云う事である。
    「伊勢・信濃」から呼び寄せた経済知識のある者等と、伊勢で共に育った「青木六兵衛」等を呼び寄せて密かに会議を開いていたと記録されている。

    さて、その時に執った策(「米価八策」)は次ぎの通りである。

    「米を使う酒造業」
    「空米取引(先物信用取引)の容認」
    「米価高値引き上げ」
    「一定価格の米相場の買米令」
    「飢饉に備えた囲米」
    「特定地域に集中を防止する廻米制限令」
    「米引上令」
    「定免法」

    以上の「米価八策」等を行った。

    これを伊勢の資料では“「米価八策」”と呼んだと記録されている。

    この“「米価八策」”を実行するに当たり“「ある事情」”があって、その事を「伊勢青木氏」は、「紙問屋長兵衛の商人」としての顔で、この淀屋や堂島の「米操作の裏事情(ある事情)」を充分に把握していた。

    (注釈 この「淀屋と堂島の裏事情」は「伊勢の紙問屋」で育った関係上で充分に吉宗も承知していた。自分で“「米価八策」”の直接の実行の指揮を執った。)

    その当時まで「米」は、先ず「大阪の淀屋市場」(f藩が発行する米札)に集まり、「十数人の仲買人」に依って差配されていて、幕府は口出しが出来なかった。

    (注釈 淀屋は米相場の初期 堂島は幕府公認後の後期)

    そこで、堂島に開設所を開き、そこに「相場令」を出して「口出し」をする事にし、江戸からも「八人の仲買人(札差)」を入れて「米相場」を開くようにした。
    ここで、予想通りに大阪と江戸の仲買人の権力争いが起こった。
    そこで、「大阪の堂島の仲買人」が、「大きな権力」を握っていた事を知っていた「吉宗等」は、知っている「彼らの弱点」を突いて黙らせた。

    注釈 「堂島の開設所の米取引の仕組み」
    当時、大坂の淀屋には全国の年貢米が集まっていた。
    この米の取引の会所では、「土地の地権」と同じく「米の所有権」を表す「藩札」が発行されていた。
    この取引には、「正米取引」(現物取引 本年分)という取引があった。
    それが進み、「帳合米取引」があって「帳簿上の米の取引」(先物取引 来年分)も行えるようにした。
    これには、「藩札」を「金貨」で決済する様にし,「銀」も使われる様にして「敷銀」と呼称される「銀貨」を使えるようにして「先物」を取引させ「米取引」を活発化させた。

    この「敷銀」とは、一定の予測銀貨を預ける。
    そこで、その「先物の米」が出来た時の「現物の米」との「差額分」を決済する様にした。
    「藩」は、この「米取引」を中心に一挙に「貨幣経済」が進んだために、「現物支給」から「貨幣に換える必要」が起こった。
    これを「幕府の令」で徹底させる事に出た。

    そこで、「藩米倉」に収める米を、この「堂島の取引所」に「上記の注釈の方法」で出して「税」として扱われた「米」を「金銀に兌換させる仕組み」を1730年に堂島に開設したのである。
    それまでは、「藩の米倉」から出して金貨の必要に応じて淀屋で「競り」にかけて直接販売していた。

    その意味で堂島は、現在の取引経済と類似する取引所ではあったが、何処にでも利の生まれる処には利権の組織が生まれる。
    此処に発生する「裏事情」、つまり、「仲買」と「米価の決定」の「仲買の裏」があった。
    これを「二足の草鞋策」で「紙等の問屋」と「総合貿易商」と「殖産組織の経営者」で、且つ、「5万石の地権者」でもあった事からも充分に裏事情は掌握していたのである。
    むしろ、「摂津堺と伊勢松阪」では「米仲買人に対する発言力」も持っていた。

    (注釈 この事は、堂島での大船廻送についての遺手紙の文章の行から読み取れるし、淀屋での金銀の不足から仲買人に対する金融のやり取りの行の記録もある。)

    そこで、「開設した堂島」に対してのその一策は、具体的には次ぎの通りである。

    先ずは、「江戸米札差八人衆」に「米回収の権限」(買米権・買占権)を与えた。(裏作−1)
    幕府のある江戸に「大量の米」が集まり「米の取引」を堂島とは別に起こさせた。(裏作−2)
    次に、各藩に米の取引を金銀の兌換に換えさせる「通用令」を出した(裏作−3)
    更に、各藩にこの「江戸八人衆」に依頼する様に「買米令」を出した。(裏作−4)

    (注釈 江戸の「札差八人衆」とは、各藩の税米を金銀に換える為に販売や運搬などの作業を藩に代わって細部の作業を一手に引き受ける事をし、「仲買権」も持つ公認の米の総合代理業者である。)

    大阪に対して打った「四つの打開策の裏作」に依って、これで幕府のある「江戸」に米に依る金銀の金銭が集まり始め、「大阪」には金銀が無く成って仕舞う経緯が此れで起こった。

    この「四つの打開策」(裏作−1)(裏作−2)(裏作−3)(裏作−4)を打ち出した結果、「大阪の仲買人」は力を削がれ勢いを無くし、結局は妥協して江戸と幕府の云う事を聞くように成った。
    取り敢えず、「米相場」は「二極体制」を吉宗等は敷いたが、結局は、大阪には金銀の貨幣が無く成り、取引は縮小し、江戸は逆に江戸に金銀が集まり拡大した。

    恐らくは、“金銀の貨幣の扱い量を大阪から江戸に移す大戦略“の事が、「吉宗と青木氏」の「裏策の目的」(幕府の本来の姿)であったと云う事が資料から読み取れる。

    そこで、この「吉宗等」は、次ぎの策として「米相場制」を上記の如く敷いた事に依って進んだ「貨幣経済」に対して、引き続いて「享保の貨幣改鋳」(1718年)に取り掛かった。
    当初、この改鋳は不評で、「正徳の改鋳」(1711年−1715年)との差があって効果は上がらなかった。
    然し、市場は吉宗の幕府を信頼して次第に流通し始め次ぎの様に変化していった。

    中頃には米価 1石=銀35匁が、米価 1石=銀45匁に、更には、1796年の頃には、 米価 1石=銀60匁まで上昇した。

    これで「米価の高め誘導」が常態化し、「物価の安定化」を起こし、この良好な期間が何と経済的に観ると、稀に見る「約80年間以上」も果たし「裏策の目的」は大成功した。
    世界的に観ても、「物価安定」が80年以上続いた記録は少ない。

    これで、基幹は「米本位」ではあるが、この上記の「四つの矛盾」を和らげるためにも、兎に角も「米相場制」を利用して「半本貨制」を敷いた。
    そして、それを「幕府」が存在する江戸に引き寄せたのである。

    決して「米相場の創設」そのものが目的では無かったのであって、この事に依って「米本位の年貢」の「米」は「高値安定」と成り、幕府の財政は1735年頃には立ち直った。
    何と、「御蔵米」にして「113両」から「100万両」に成ったのである。

    そこで、この「裏策の目的」の実行の為のタイミングを見計らって、「上記の米価八策の政策」を矢継ぎ早に何とか打ち出して敷いたのである。

    つまりは、各藩は「米」で年貢を取り、それを大阪(淀屋−堂島)で金銭(金銀)に換えると云う「体制矛盾」が生まれ始めていた事を、この“「米価八策」と「四つの打開策」”に依って「吉宗と青木氏」は何とか進む「体制矛盾」を平準化させたのである。

    それならば、「取引所」が出来て「貨幣経済」に成ったとすれば、「米」を「年貢」として「標準米価」で先ず査定して、その分を先ず年貢として受け取り、それを堂島でタイミングを見て売り捌き、その「米相場>標準価格」の差額で利益を獲得する様にすれば、更に「利益」が上がる。
    そうすれば、少なくとも「貨幣経済」に合致している事に成り、「藩の矛盾」は最低限に軽減される筈である。
    「変動相場」にせずに「固定年貢」にした侭で、それさえもしなかった為に「体制矛盾」は大きく成る。
    然し、「標準米価」にすれば双方に利益が起こるがそれをもしなかった。
    「豊作の時」も「不作の時」も「固定年貢」に拘ったのである。
    「豊作の時」は「豊作分}を取り込み、「不作の時」は「不足分」を「年貢」を上げて賄うでは、「堂島の相場取引」=「貨幣経済」の「時代の流れ」に対応できていなく無策であった。
    「不作時」や「災害時」に「標準差額分の取り崩し」と「相場から得た差額分」の「二つ利益分」で補填せずに「年貢」を上げたのでは不満が募るは必定である。


    そこで、この事に付いて、これを認識していた「吉宗」等が如何に苦労していたかの様子が判るが、これを物語る「青木氏等」には興味ある資料が江戸で見つかった。
    吉宗死後の遺品の中には、夜も眠らずに「資料まとめ」をしていて、「米価八策の資料・まとめの原案」等が「本人の自筆」で大量に遺されていたのである。
    「青木氏等のブレーン」と共に、激務の中で一切の側近を交えずに、このデータを下に夜中でも密談していた事がこの発見された資料からも判っている。
    「青木氏側」にも「六兵衛とその息子等」が住んでいた当時の「江戸屋敷の資料」からもこの傾向は読み取れる事が出来る。
    又、前段でも何度も論じたが、この事が「近江佐々木氏」の「宗家の研究資料」の「青木氏族の段」の中からも見つかっている。

    この事が重要で、「近江佐々木氏の資料」の中にあると云うこの事は、果たして何を意味するかと云う事である。

    “「近江佐々木氏」も、なかなか外に洩れないこの「秘密情報の事」を知っていた“と云う事である。
    と云う事は、「近江佐々木氏」(始祖は川島皇子)は、親族の「近江佐々木氏系青木氏」が「二足の草鞋策」を敷いていた事から知っていたと云うことである。
    前段でも「商業組合」で論じた様に、「伊勢や信濃や越前や越後」の「二足の草鞋策」を敷いていた「六地域の青木氏」と共に、「吉宗の経済ブレーン」に参加していた事を示す事に成る。
    大阪の「淀屋−堂島」の「裏事情」に熟知していた「佐々木氏系青木氏」等も、「吉宗等」と共にこの「牙城」を崩すのに「あらゆる人脈」を使って動員して何とか崩そうとしていた事が判る。
    これは当に「奈良期ー平安期初期」の「青木氏の皇親政治」に似ている。

    基幹の「米本位の政治体制」の進む「矛盾」を少しでも「修正」して「経済活動を活発(商い)」にする必要があると認識していた事に成る。
    其れには、何としても先ずは、“「淀屋−堂島」を変える“と云う事に「佐々木氏共々一族」は突き進んだと云う事に成る。

    (注釈 「近江佐々木氏系青木氏」は、“「江戸出店」”をしていた事から、「布衣着用の伊勢青木氏」が「調整役」と成り、「江戸相談」は可能だった。
    唯、「近江佐々木氏系青木氏」の“「江戸出店」”は、「伊勢青木氏の資料」では「享保の後期」と成っているが、この「佐々木氏の資料」では「享保初期」と成っている。
    果たして、“「江戸出店」”であったのかは疑問の残る処である。
    これは「佐々木氏の資料」と「青木氏の資料」の「記録目的」が異なっている事から、差が出ていると観られる。
    「近江佐々木氏系青木氏」は、この「吉宗経済顧問の依頼[ブレーン]の為に「近江佐々木氏宗家」の「江戸屋敷出仕」であった可能性がある。)

    (注釈 ここで、「青木氏の歴史観」として前段でも何度も論じたが注意して置くことがある。
    「佐々木氏」は、そもそも「近江蒲生の土豪の出自」で「宇多源氏説」を唱える説が多い。
    先ず一つは、この「宇多天皇」の皇子数は確かに嗣子や妾子を含めて多いとされ、現実に近江に一人の皇子が流れた事は史実である。
    然し、数えると近江源氏を唱える者が「383氏」にまで成る事は100%ない。
    これだけもあればそもそも「天皇家の財政」が持たないし、況してや、「嵯峨期の詔勅」で”皇子数を減らせ”と云う「詔勅」が下っている中で、そんな事をすれば「天皇の立場」が無く成る。
    前段でも論じたが、「天皇家や皇族の妻」は、格式とで身分で「四階級」に分かれていて、これに格式身分に合わない者の子は「妾子」となり、厳格に護られて朝廷に入れないしきたりであった。
    又、ある程度の身分の「妾」でも簡単には天皇家の中に入れない仕組みであった。
    依って、現実には、認められている「四階級の四妻」に最大でも子供が5人程度いる範囲で留まる。)

    (注釈 そうなると、その否認定の王等も含めて「皇位継承の真人族」か「賜姓臣下族に成れない者」等は、「嵯峨期の詔勅令」を使って「賜姓臣下族」に成るか「門跡者」に成るか「比叡山僧侶」に成るしかない。
    前段でも論じたが、「第二世第七位皇子族」や「四世族か五世族以上}は坂東に各地に散る事に成っていた。
    その為にその裔数は増えるが、又、その末端の支流傍系族が出来るが、「朝廷の認証」が無ければ名乗れないし「源氏」は名乗れない。
    「源氏」は「青木氏」と同様に「姓」を持たない掟であるので「姓名」を名乗る源氏は偽称である。
    従って、「川島皇子の佐々木氏」の末裔を除き、「宇多源氏」は矛盾のある偽偏纂の他説も極めて多い氏族で殆ど「偽呼称」である。
    依って、正式な天皇に依る「賜姓族」では無く、勝手に皇子であると名乗って本来の「近江佐々木氏」を搾取した者が殆どである。
    本来は、そもそも、「賜姓族の朝臣族」は、つまり、「皇子の臣下族」は、その格式を汚す事から「分家や支流」を作らないし、「氏名」を名乗って「姓名」を名乗らないのが掟であり、当然に「家紋」や「副紋」なども無く、「変紋」もしないのが掟である。
    あくまでも、「賜姓族朝臣の臣下族」の「高貴な格式」を示す天皇より賜った「象徴紋」だけを一族は保つ掟と成っているのである。)

    (注釈 次ぎに、「宇多源氏説」も疑問で、「近江佐々木氏」は、そもそも天智天皇の「第二世ぞ第七位の皇子の川島皇子」が「始祖」であって、「天智天皇の賜姓」と「天武天皇の追認」より特例を以って「近江佐々木」の地名の「佐々木」の「賜姓」を受けた正式な「皇族賜姓臣下族」であり、「日本書紀」にもこの事が書かれている。
    「宇多天皇」が始祖ではない。
    「宇多源氏説」は、「嵯峨期の詔勅」に依って、直接に「賜姓」を受けずに「朝臣の臣下族」を名乗った氏族」で、「宇多源氏」の「皇子」は確かにいたが、「賜姓源氏」と成るには通説程にそんなに簡単に成れる訳でもなく、一人の天皇に一人皇子の賜姓が原則である。
    従って、その天皇の源氏を名乗るとすると、「賜姓」では嵯峨期詔勅を使った賜姓の無い源氏が殆どで、依って、正しくは源氏では無い。
    従って、又、源氏は源平合戦などで殆ど滅亡したし、そもそも近江説も別ルーツであり、通説の殆どはこの事を混同している。
    この様に「源氏」を名乗る中でも「賜姓を受けた源氏」と「賜姓の無い源氏」もある。
    殆どはこの賜姓の無い勝手に名乗った「妾子の皇子の源氏」か、室町期と江戸期に起こった土豪等が名乗った「格式詐称の偽源氏」である。
    その殆どは、妾子の皇子が流れ着いたとか、旅の途中で現地孫を遺したとかの記録的保証のない事を理由にした詐称である。
    「皇子」でも賜姓を受けるには相当な者でなくては受けられなかった。
    因みに、「清和源氏の経基」は、「清和天皇」の子供でなく「清和天皇」は祖父に当たる嗣子で、父より賜姓が受けられないので、祖父に賜姓を受けられるように何度も懇願して無理やり賜姓を受けられた経緯を以っている。
    この「賜姓源氏」に成れない「源氏になりたい皇子」は、「嵯峨期の詔勅」を使って勝手に名乗る以外には無く、この場合は経済的保証は詔勅の言に依って何も無い。
    従って、殆どは比叡山の門跡院の僧侶や善光寺の僧侶に成った。
    「賜姓ではない源氏」を名乗った皇子も末路は殆どは僧侶であった。
    通説はこの辺の判別は殆ど出来ていない。)

    (注釈 この様に「源氏」を名乗れるほどに皇子には自力で生きて行く「生活・経済力」は全く無く、殆どは「偽者」で周囲の土豪等の「土豪」がこれを上手く使って家柄をよく見せる為に搾取したものである。
    この様に偽称や偽偏纂は、主に江戸初期の権威政策の「黒印状」を獲得するための策偽称であったのである。
    その系譜を作る裏の専門家も横行したのである。
    だから、「正式な賜姓族」が持つ「慣習仕来り掟格式」とに矛盾が生まれるのである。
    取り分け、訳と事情があって、宇多と清和の源氏説はこの偽者が多い。
    「賜姓源氏」として認められたものには「11流11家」があるが、この賜姓源氏は「賜姓臣下族青木氏」との血縁で「青木氏族」が形成されていて「5流5家」があって合わせて、「16流16家」と成る。
    この11家の内の生き延びた「正規の賜姓源氏」は、室町末期までには絶滅している。
    多くは門跡院の僧侶に成って子孫を遺さず絶滅した。)

    (注釈 この「正式な近江佐々木氏」の「室町期末期の家康との繋がり」から「江戸期の旗本説」も中にはあるが、この正式な本流の「近江の宗家」は、「始祖川島皇子」の「近江佐々木氏系青木氏」の「二足の草鞋策」で助けられた。
    この頃には、やっと江戸に屋敷を構えられ程までに再興を果たして、「極度の弱体」を抜け出していた事が判っている。
    前段でも論じたが、この「近江佐々木氏一族一門」は、源平合戦で近江と美濃で二度の痛手を受けていて、室町期中期には「始祖川島皇子の近江佐々木氏」の「近江宗家」は研究論文より相当に衰退していた事が判っている。)

    前段でも論じたが、近江には二流の「秀郷流近江藤原氏」がある事から、その後に何らかの「血縁の繋がり」から「家康との接点」を持ったと観られる。

    (注釈 伊勢の「二つの青木氏」(四日市殿)が持った様に。恐らくは徳川氏は「権威確立策」から、この格式が「最高の近江佐々木氏宗家(浄広一位)」を江戸に呼び寄せて、家康か吉宗が「縁続き策」か何かで「権威創設策」に利用した可能性がある。)

    (注釈 権威としては、前段でも論じたが、「日本書紀」も然ることながら、「嵯峨朝」が作成した「新撰姓氏緑」には「49 川島皇子の氏」と「38 青木氏の春日王[施基皇子の子]の氏」が記載されている。 
    注意として、「敏達天皇の春日皇子」のルーツの記載もあり、これは「光仁天皇」の父の「施基皇子」が後刻に「春日宮天皇」として追尊され祀られた事から、作者の「嵯峨天皇」が曾祖父を権威付ける為に別ルートで「敏達皇子の春日皇子系」を作り上げ、これを「施基皇子の子の春日王」のルーツと“「同祖」”として態々追記した上で掲載したものである。
    「敏達天皇の直系の第四世族」が「天智天皇」である。この「天智天皇の皇子」が「志貴皇子」である。)

    その為に、この「近江佐々木氏」の「江戸の住い」が、この「家康の接点」からの「武家屋敷」なのか「近江佐々木氏系青木氏」の「商家屋敷」であったかは詳細は判らないが、あった事ははっきりしている。
    故に、「近江佐々木氏宗家」は、この「吉宗密談の裏事情」を把握していたのであろう。

    この事は、前段でも論じた「六地域の商業組合の青木氏」は、「商業組合」だけではなく、密かに「吉宗の経済顧問(ブレーン)」にも積極的に参加して「意見」を述べ「行動」を起こしていた事を示すものである。
    「近江の佐々木氏系青木氏」から「近江の佐々木氏宗家」にもこの「裏の情報」が密かに入っていた事に成る。
    「近江の佐々木氏宗家」が、「吉宗」等が行うこの「裏事情」を研究資料に載せる程に把握していたとすると、「商家の屋敷」では無かった事に成る。

    「商家の屋敷」であれば知る事は出来ても研究資料としての記録に載せる事が出来るかと云う疑問が残る。

    恐らくは、「近江佐々木氏」が「青木氏族の事」をここまで研究して詳しく書き込む事は無いだろうから、「江戸期にまで生き遺る珍しい氏族」である。
    その「皇族系朝臣の賜姓臣下族」として「新撰姓氏緑」にも記載されている“格式高い「武家の屋敷」”であった事が頷ける。
    「家康か吉宗」かの選択であるが、急激に江戸屋敷が設けられる程には急激すぎる事から考えて、「吉宗」であったと考えていて、「青木氏との関係性」を考えても「江戸」に「宗家」も招いたと考えている。
    恐らくは、「吉宗の行う改革の権威付け」に「青木氏」と共に、周囲の権力をひけらかせて「吉宗」を否定する「煩い高級官僚」を黙らせる為にも利用したと観られる。

    現実に、江戸では老中等は「巨勢の湯殿女の子」と「蔑みの発言」をした記録が乗っていて、この「蔑み」と云うレッテルを張られていた「吉宗」は、意識していて「煩い高級官僚」を黙らせたと考えられる。
    格式の無い者を周囲に集めれば、それこそ蜂の巣を突いた様に成るだろうが、これ以上の格式が無い程の「古い生き遺りの二つの氏族」の「佐々木氏と青木氏」が、“将軍の俺にはブレーンと成る程に繋がっているのだ”と宣言して「改革の邪魔」を排除したのである。

    通説は、「経済的な高い知識の持った顧問の存在」を明確に認めているが、明確に認めている事はその顧問名も知っている筈で、それを態々明示しないのも「通説の吉宗批判説」から来ている。
    ところが中の一説には、「江戸の伊勢屋と伊勢の紙屋の二つの明示」がある。
    これには「本拠の伊勢」から指示に従って遠隔に動いたと記されている。確実である。
    この説の論者は知らないが、「近江佐々木氏の資料」を何らかの関係で持ち得ていたと考えられる。
    実は、「近江佐々木氏」の宗家の方は東京大学(1877年)の教授に成ってこの研究を進めた方がいる。

    (注釈 但し、「武士屋敷」ではない。そもそも「武家」は「公家」に対する「氏族」を形成する「格式用語」で、江戸期には、最早、この呼称の垣根が崩れ、この「姓族の武士」までを「武家」と呼称している。)

    “「武家の屋敷」”であったとする事は、「近江佐々木氏」が苦しい状況の中で何とかより大きく再興して生き残ろうとして、「時の動き」を読み込み「吉宗等が行う裏事情」をより深く獲得していた事に成る。
    「商家の屋敷」であれば、主体は「近江佐々木氏系の青木氏」である以上は、「二足の草鞋策」から「経済的な発展」を期待しての「享保の改革」に臨んでいた事に成る。

    「吉宗」は、「伊勢の紙問屋」で育った関係から知る範囲の経済知識を経験豊かに持ち、且つ、その「裏の事情」と「裏の発言力」を最大に利用していた事を示すものである。
    故に、老中などの側近の世間に疎い者の経済論を聞くに値しない発言に苦々しく思っていた為に、一切(11人)の老中等の者を排除しているが、「吉宗との論戦」で勝つ者はいなかったと伝わっている位である。
    故に、自分より優れた「経済知識」と「世間知識」をもった者(青木氏等の顧問 ブレーン)を周囲に置いて、自らが「激務の実務」を執ったのである。
    それだけに「御蔵米の113両」は、経済的に既に破綻していたのである。
    悠著な事をいっていられない状況であった事は否めないし、豊富な知識を以っているが故に「疎い者の経済論」を聞くに堪えられなかったであろう。

    (注釈 実務を執っていた事は記録からはっきりしている。夜にも密談した事が「伊勢青木氏」の「江戸伊勢屋の記録」の行でも判る。)

    「近江佐々木氏系青木氏」を含めて「六地域の商業組合の青木氏」を直かに随時呼び出して談合し、「淀屋と堂島」を裏から操っていたと考えられる。
    「淀屋と堂島」の「仲買人に依る影の権力」は、「全ゆる弱点」を隅々から突かれれば従う以外には無く成る。(可成り抵抗した事が書かれている。)
    この「攻撃役の顧問(ブレーン)」との「調整連絡役」を「吉宗」と直接面談できる立場の「布衣着用の伊勢青木氏」が背負っていたと云う事に成る。
    「攻撃役の顧問(ブレーン)」には意見だけを述べる事のみならず、「経済界の米の牙城」を崩す事が「四つの矛盾」を解く事に成り、それが「経済界を活性化する事」にも成り、「商人」の彼等は“相当に熱を入れていた事”が「伊勢青木氏の江戸伊勢屋の残記録」からも読み取れる。
    唯単に、「吉宗や伊勢青木氏」の「調整役」に呼ばれて意見だけを述べると云う事では無かったのである。

    「青木氏側」から観ると、上記の事は、世間の通説は確かにこの「顧問・ブレーン説(不詳にしている)」を容認しているが、「享保の改革の全体の通説」と成っている説は単純でそんなに簡単な事では無かった筈で、その意味で大きく異なる。

    だから、「四つの矛盾」に無頓着な周囲の固定観念に拘った「疎い官僚」を排除してまで直接に無理しても実務を執ったのであろう。
    そして、その他の「一般の執務」は、家康の縁続きの「老中水野忠之」に任したのである。
    この結果、「幕府の御蔵米」は、113両から再び100万両(1730年頃)にたった14年間で成ったのである。

    (注釈 開幕400万両 宝永期37万両 享保初期113両 享保期中期100万両)

    これでは、最早、「吉宗の経済論」に直接に論戦で食い付ける者はいなかった事に成る。
    ところがその反面、吉宗没後に世の常とは言え、次第に「吉宗の経済論」に反論する者が出て来た。
    英雄が功績を上げれば上げる程に、没後には否定論が出るのは仕方の無い事ではあるが、世間の「吉宗の通説」も“馬鹿呼ばわりしている通説”は幾つもある。
    その論説を聞き取ると、共通する点は、その通説には「リフレーション経済論」に対する「知識と理解」が無かった事に依る。
    唯、その中でも「二つの通説」は、この「吉宗のリフレーション経済論」を認めている。
    全て「インフレ論」と「デフレ論」に類する策で、これが前段で論じた様に、結局は、その論調からすれば「商業組合」は当然に否定される。
    これが「江戸伊勢屋」の「引き上げの原因」と成った。

    これは「米相場」だけのものではなく、「青木氏の資料」から読み取れる「裏の目的」とされる“金銀の貨幣の扱い量を大阪から江戸に移す大戦略“の事で無ければ、「破綻」に勢いづいた財政を、逆に上向けて、且つ、「100万両御蔵」(14年間)までにはそもそもならない。

    (注釈 殆どの通説はこの辺の論調は無い。「ちまちま経済論」では誰が考えても到底無理である。)

    しかし、そこで、上記の事も踏まえてもう一つ「青木氏の歴史観」としてとしては論じておかねばならない事がある。
    この「享保の時」には、「体制矛盾」の一つでもある“「自作農」”にも未だ「自作農」を進める“「農地解放策」”には手が届いていなかった。
    幕府の記録には、“「自作農」を進める開墾を進める土地が無かった”とか記されている。
    そもそも“無かった”は、後勘からしても、何を根拠に云っているのか不思議でおかしい。
    “無かった“のではなく、”財政的に開墾を進めなかった“が正しい。
    もっと云えば、“進められなかった”のである。
    当然に“財政破綻であった”からである。

    又、合わせて「殖産」も進まなかったと記されているが、これも何を根拠に云っているのか不思議でおかしい。
    然し、享保期には御蔵米が回復した時点(1730年)で、現実には「新田開発令」は出している。
    吉宗は「見立新田十分一の法」と云う令を出して進めた。

    新田開発には「巨額投資」が伴い、且つ、「自然災害の影響に左右」され、「測量の進歩」が無ければ「水の確保」も出来ない。
    却って、逆に経済を悪化させる要因とも成って「大きなリスク」(水害などの自然災害)を伴うものであった。
    殆どの主体は、「民間投資の開発」であって、幕府や藩の主導の開発は、指導者が変わる度に金がかかる為に途中で開発を中止したりして悉く失敗している。
    何とか進めようとして「幕府主導の新田開発(豪農・村)」の代官と成った者には、成功率を上げさせる目的から「利益の1割」を保証すると云うものであったが、却って農民に負担をかけ無計画なものや汚職が生まれ、公的な開発は中止した。
    止む無く「豪商等の財力」に委ねたが興す開発には「小作人」を雇い開発をさせた。
    ところが、江戸期の大阪や江戸の殆どの豪商は、この開発に手を出し失敗しているが倒産する者も多く居た。
    結局は、“「新田開発」をして農民をこれに従事させることで農業を豊かに出来る“と見込んだ策であった。
    これで進む矛盾の一角は解けると観たのである。
    然し、結局は民間の「豪商の小作農」が増えてしまった。

    注釈として、江戸初期から150年間で観れば、50%増しである。
    唯、8万石/年であるが、「農民の過重労働」が増え、「水利の灌漑事業」が遅れ「自然災害」が増え「一地一作の令」の体制を変えない侭にした為に「開発放棄」が殆どであった。
    だとすれば、“「自作農」”を増やし、“きめ細かな管理体制”を敷けば解決する筈なのに、「享保の改革」でも敢えてこの策を取らなかった。
    そこに問題があった。
    享保の改革は、この事で「顧問と吉宗」の間で「大激論」に成った事が他の青木氏や佐々木氏の「民間の資料」からも伺える。
    「体制維持」か「矛盾解決」かの選択であったが、「享保の改革」は大激論の末に次ぎの様な「次善策」を執った。

    上記した「米価八策」にでもその「自作農」を進めるべき「手立て策」は直接に採られていない。

    これは何故なのかである。
    そもそも、当然に「顧問(ブレーン)等」はこの事に充分に承知していた筈である。
    (むしろ、紀州の有能な家臣も含めて、この事を主眼として改革に協力している可能性は否定できない。)
    勿論、“「体制矛盾」”である事のみならず、この“「自作農」”が進む事に依って「農民の裁量性」が増え、それだけに「経済」は根本から活性化する筈である。
    「消費活動」が高まり、「米価の安定」が起こり、「地権の細分化」が起こり、例外の「土地の商品化」が起こり、経済は活性化する。
    当然に、この事で「農業作物の増産」と「作物の多様化」が進む事が考えられる。

    筆者は、顧問等は、この事の“「先取り」”目論んだと観ている。
    それは、「自作農の推進」は、幕府体制としては上記の様に危険を孕む大きな問題を持っている。
    だとすると、それとほぼ同じ程度の経済効果を示す事を考えて、取り敢えず、やれば「体制矛盾」の「緩衝策」には成り得るものを選択した。
    そこで、金のかかる「新田開発」は、結局は多少の収穫が増える事で、社会は先行投資の兆しで人口を逆に増やしてしまい、「小作農」を増やし、且つ、米価は上がり「インフレ」を逆に助長してしまう事に成った。
    遂には諦めて、上記した様に「大激論の次善策」に出た。

    (注釈 結果的には「新田開発」は昭和20年頃まで大きく進まなかった。
    明治期に成っても試みたが、結局は、財源とリスクの狭間で成功しなかった。
    その最大の原因は、「水利に関する灌漑施設の稚拙」により進まなかった。
    何故かと云うと、日本の地形は、そもそも「山間部と平地」と「河川敷と干拓地」で出来ている。
    この為に「山間部と平地」は“「棚田」”と成り、「河川敷と干拓地」は「水害と塩害」の障害を持っていた。
    従って、この「地形の欠点」に打ち勝つための「水利に関する灌漑」が非常に難しかった。
    これは現在でも同じであるが、この問題を昭和20年頃以降に解決したのは“「科学技術の進歩」”により「灌漑技術」が飛躍的に進んだ事に依るものであった。)

    そこで「吉宗等」は、寛永20年に出された「田畑勝手作禁止令」を緩めて、そこで、次善策が講じられた。
    それが享保20年に出した“「田畑勝手作仕法」”である。
    議論の末の「次善策」として、つまり、「米作地」に「外の農産物」を植え付ける事を許したのである。
    これもやって見なければ判らない「大きな賭け」であった。
    これは、「米の収穫量」が低下する事への懸念であり、一種大きな危険であった。
    然し、ところが、既に、「民間の地権者」の間では「米作」では生きて行けないので、既成事実化していた。
    現実に、人口が増えるのに逆に主食の「米の収穫量」は低下し始め、餓死者も出る程であって農民や庶民には幕府と藩に対して不満が溜まっていた。

    それは、農産物によっては、「他の農産物の価格」が人口増加に依って「米」より上回った事に依り、その分を「儲け分」から支払う事が起こっていた。
    各藩も危険を承知で黙認した。
    最早、「米本位の体制」は、他の農産物の販売による金銭化で「金納システム」が大きく汎用化して黙認されていたのである。
    (矛盾の進行から体制崩壊は近づいていた。)
    そこで、激論と成った「自作農」には、この状況では危険が大きい事、否、むしろ、この状況だからこそ「自作農」を進めるべきだとする意見の衝突が起こった。
    この事から、当面、「体制の崩壊」だけは避ける事で一致し、兎も角も、慌てた「吉宗等」は、上記した「田畑勝手作仕法」で「金納システム」の“「先取り」”したのである。
    こうする事で、「次善策」として「自作農とよく似た体制」を考え出した。

    つまり、これが「米の耕作地」に「他の農産物」を作ると云う事は、「地権」は除き「農民の土地に対する裁量権」を最低限に保証し確保すると云う事に成る。
    当然に、何でも良いと云う事では無く「儲かる物」の「作付け」を行う事に成った。
    これを市場に出す事で金銭が獲得できる。
    後の問題は、「地権者(地主)」が「作付け」を認めるかにあり、「米納」で不足する分は「金納」で補える事であれば認める事は自明の事である。

    何と、これは「青木氏」に執っては、上記した様に、「殖産地の名目」を「混合作」で「自作農」を増やしていた奇策と一致する。
    激論はここに納まったのである。
    注釈として、この「伊勢の経験策」を提案したのである。
    そこで、これを「矛盾の解決の次善策」として全国に法令として発した。

    そこで、「他の農産物」と云っても、「儲かる物」でなければ帳尻は合わない。
    思い思いに別のもの作物を作っては「儲け」には成り難い。
    当然に、地権者は「儲かる殖産品」を通して、「作付け」を推奨する事に成り易い。
    何はさておき、“売る、裁くと成り儲けを出す“と成るとそう簡単ではない。
    何時の世も当然の如く「販売、運送、営業、警護」等の経費が掛かる。
    この「中間管理費の経費」までを含めれば、これを一人で行う事は不可能であり、且つ,儲ける事は到底無理である。
    況して、当時の「仲買システムの社会」では、先ず「農業」をし、一方で販売は片手間には出来ない事である。
    この「仲買システム」を農民一人が崩す事は出来る訳がない。

    但し、崩す事が出来る者がいる。
    それは「地権者の地主、氏上さま」で吉宗の顧問衆の「青木氏等」である。
    ただ単なる地権者に成った「投機的な商人」でも無理であった。

    (注釈 この江戸期の事例が記録として残っている。現在も存在する「日本最大の豪商」は「新田開発」も行い、「地権者」に成って「田畑勝手作仕法」も手掛けて、これを投機として扱いこれに大失敗している。)

    現在の様に「農業組合」が在って何もかもやってくれると云う環境ではない。
    況してや「小作農」と成ると、そこまでは「裁量権」は無い。
    必然的に「よく売れる農産物の殖産品」と成り、結果としては、財力と販売力等を持つ「豪商の地権者」や「郷氏等の大地主」に成る。
    「自作農」にしろ「小作農」にしろばらばらに自分が勝手に作って直接の路地販売で売ると云う事もあろうが、この程度の事は前法令(「田畑勝手作禁止令」)を破棄して逆の法令を作る目的の計算の中には入らない。
    「田畑勝手作仕法」の「裏の目的」は、上記の「新田開発」が進まない以上は、後は「殖産を高める事」が目的以外には無かったのであった。
    米作以外には江戸時代には、「殖産品」としては「綿や菜種や楮や黍粟や甘薯や甘蔗」があり、畑作の農産品の「野菜類」(人口増加の為の増産)であった。


    筆者は、この「体制矛盾」の「自作農」を進めると、以上の事から、“幕府体制が危うくなるとの危惧”を持っていて結論に至っていなかったと考えているのである。

    それは、「地権」である。
    「地権」を広く認めると「藩の独立性」が保てなくなると危惧していたのである。
    藩は「領主さま」である。
    その「藩国の最大の地権者」で在るからで、「地権」に対する「税」としては「対価」は獲得は出来るが、「地権」を認めている以上は、「土地」に対する「細部の支配権」は及び難く、ある程度の任してしまう以外にはない。
    「強権」を発動して「地権」を停止させれば、「税に対する見返り」と「領民の反発」は免れない。
    彼らの「裁量権」があるから、「税」が増える訳で、「強権」を発動すれば、税は下がる。
    歴史の中で、この「強権」を発動して成功した例はない。
    典型的な例は土佐山内氏であり、末代まで悪評が残った大名である。
    何より「細分化」と「商品化」に依って、「地権の細分化」が誘発されると「領主の裁量権」が低下する事は明らかで、「認可制」にせざるを得ない。
    自らの「裁量権の低下」と、経済効果による「税収の増加」を天秤にかける事に成る。
    難しい「舵取り」と成ろう。
    それだけの危険性を領主は担保するかであり、上記した様に固定観念の高い領主はしない。
    「吉宗」も躊躇して「顧問の勧め」に結局は応じなかった事に成る。議論は白熱した。

    そこで、この様な「享保の経緯」を持った侭に「自作農策」については、前段で論じた様に、結局は、明治期に成って維新政府と共に、正式に実行したという過程を持っているのである。
    「伊勢青木氏」は、“「地租改正」”と共に、“「農地解放策」”は連動させる「維新政府の方針」でもあったが、然し、“「何かの理由」“を以って同調し協力した。

    (注釈 上記した様に、「享保期の議論」の経緯もあり「持論」でもあったが、それ以上の「何かの理由」があった。)

    然し、これは当然に「貴族院等の大地主」に猛反対されていた“「農地解放策」”であった。
    ところが「維新政府」に従い、率先して積極的に「賛成の立場」を執り、同調し協力して「自作農の選択肢」を選んだ者等に対して「農地の地権放出」をした形となっている。

    (注釈 これも上記の「新田開発」と同じ様に、その後に、この殆どの「地主らの反対」を押し切って、第二次大戦後(昭和20年)に、連合軍の意向を受けた議会は、「国民の自由性」を拘束しているとして、「農地解放:自作農創設特別処置法」を強行した。)

    (注釈 「新田開発」には殆どの「青木氏」は積極的態度を採っていない。
    それは「殖産」と云う事で“殖産地を造成する”と云う方針で臨んでいた。
    「新田開発」は主に「米作」であって「自作農」と云う方針には一致せず、「小作農」を増やす事に成る。
    あくまでも「体制矛盾」に成らない「殖産」に主眼を置いていた。)

    従って、「農地の地権放出」をした形を採った「伊勢」では、「農地権」を持った「自作農の郷士衆」のみならず、「小作農」から多くの「自作農」に成った農民にも「地租改正」で「税の直接の納入義務」が発生したのである。
    それを「維新政府」は、最初、「地価の3%の金納」として「平均反の収穫」を前提として全農民に政府は申し渡したのである。
    つまり、「維新政府の思惑」は、当然の様に「より安定した租税収入」を期待したのである。
    その理由は、地域や年度で「固定に近い地価」と、収穫量で「変動する米価」とのズレが大きかった事が所以していたのである。

    享保期から設定された“「米相場制」”で云えば、旧来の概して農民が6、政府が4の「獲得比率」であったが、「米相場制」を採ったにも関わらず、未だ「金納方式」ではこの比率を維持されていなかったのであった。

    注釈として、「享保期の米相場制策」に対して、上記と前段でも論じた様に、「布衣着用の勘定方指導の青木氏等」と「吉宗」が採った政策措置にはここに論理性が若干欠けていた。
    “欠けていた”と云う事は無いと思うが、「米相場制の創設策」は米量を介入操作しての「米価の安定」が図られる事から良いとしても、これをやる以上は少なくとも「対の政策」として、「米納制」から「米価制の金納制」に切り替えて「貨幣価値」の「貨幣流通性などの事」が経済論としては必要であった。
    然し、当時の他の体制(米基幹経済)では、この「米価制の金納制」に切り換えて耐えられる事は出来なかった筈である。

    (注釈 前段でも論じた様に、幕府は財政的に困窮していて暴動が起こった場合に抑え込む軍事力を維持出来ずに崩壊するは必定で、その上に飢饉が連発し庶民は喘いでいた。
    実際に「矛盾解決の必要性」は感じていても到底出来なかった筈である。
    然し、「「青木氏等の顧問(ブレーン)」は、この経済効果の大きいこれを「主改革」と位置付けて実行してほしい政策であった事に成る。
    「ブレーン」の中には、「吉宗」とお目見えできない紀州藩家臣の「伊勢藤氏の家柄の優秀な者」も居た事が書かれているので、相当に「二足の草鞋策」を敷く「青木氏等」と激論に成ったと考えられる。
    恐らくは、この「激論」は、「青木氏の屋敷」で開催されていた様で、それを「吉宗」に報告していたと考えられる。)

    従って、取り敢えず「事前の策」としては、「米相場制策」に留めて「時間的猶予」を待ったと云う事であろう。
    依って、出来なかったと云う事ではないかと判断される。
    つまり、過去の「青木氏との小作比率関係」が維持されない事と成って仕舞った

    維新政府が「安定した財源確保」を狙った事から、出来る限り「農民」では無い「青木氏等の地権者」からでは無く、「農地権」を農民に引き渡す様にして政府は安定性を確保しようとしたのである。
    ところが、「地価」を低く見積る事は当然の事ではあるが、「自作農」の「地価の申告率」が「相場の地価」に達しない場合が多く、その場合は「政府が示す地価」を以って強制とした。

    これに反動する者等は、元は「納税者」では無かった「小作農」であった「農民」等は、これに対して「変動する収穫量」とのズレが大きかった地域では「大騒ぎ」と成った。
    そこで維新政府は、「妥協策」として「地価の申告制」のみならず、「税」そのものも「農民の地権者の申告制」を導入した。
    それに依って、「租税制度」に“「申告制」”が加えられる様に成り、一時納まりを見せた。

    然し、ここで、この「収穫量の申告制」に「政府の見立て」との間に大きな差違が生じ、上手く行か無かった。
    そこで「維新政府」は、再び「政府指定制」に変更した。

    「政府指定額」と「申告制」の誤差の「租税の不足分」は、「労働」などに依り「代納制」を採用し、「労働か金銭で補う仕組み」に変えた。
    「租税制度」=「申告制」(地価・指定税)+「代納制」(金納 労働)
    以上の図式が敷かれたのである。

    この図式が、更に「不満の火に油」と成り、「伊勢暴動」が起こり、何と完全解決までには約5年間(明治14年終結)も続いたのである。

    これ、即ち、この「伊勢暴動」を経済的に精神的に支えたのが、何と「元地権者」であった「伊勢と信濃の賜姓青木氏」であった。

    (注釈 「享保期の議論」の「体制矛盾の解決」や「自作農策の経緯」もあり、何故、支えたのかは判る。)

    さて、ここで伊勢を始として顧問と成った「青木氏」が、どの様にこれらの事を内部的に取り扱っていたのかを知っておく必要がある。
    それは答えから先に、「青木氏の心魂」と云うものがあったと云う事である。
    「青木氏」に関わる者の「統一した行動指針」と云うものがあったと云う事である。
    それは、次に論じる「三つの事」にあった。

    そもそも、明治期に成ってその「農地権」を率先して放出した「青木氏の心魂」としては、前段と上記した様に、経済的には「仏施の質」に代表されれる「商業組合」であり、政治的には「米価八策」や「田畑勝手作仕法」であり、これらが「江戸の改革」を成し遂げられた所以でもあった。
    これは全て「悠久の固い絆」で結ばれた「青木氏の氏族の民」にあるとして、「未来の事」を考えて、これ即ち「農地権の放出」が「本来の採るべき姿」と考えた事にある。

    これは、「商業組合」や「江戸の伊勢屋の仏施の質」等や「政治に関する吉宗の顧問役」にも、その「前段の掟」に依って生まれる概念にも、“「青木氏の心魂」”と云うものが現れている。
    手紙等の資料の行に観ると、これを敢えて、“「青木氏の心魂」(前段の掟)”と名付けていた様である。
    「青木氏の氏是」や「青木氏の家訓10訓」と共に、幾つかの資料の一部の「行」にこの表現が観られる。

    所謂、一部、この「三つ」は、今で云う“「青木氏の憲法」”の様に捉えられていた様である。

    「青木氏の憲法」=「青木氏の心魂」(前段の掟)+「青木氏の氏是」+「青木氏の家訓10訓」

    「青木氏の根幹に関わる四家制度」は、この「青木氏の憲法」(「青木氏の心魂 前段の掟」、「青木氏の氏是」、「青木氏の家訓10訓」)を基に「意志と行動」が統一されていた様で、「命令と罰則」は「四家制度の福家」が差配していた様である。
    その時の根拠は、「50程度に成る慣習仕来り掟」は別として、それらしきものは何故か見つかっていない。
    ただ、発祥から1200年以上も経っているが、「氏の律と令」と成るものを作るには無理であったのか、将又、敢えて作る事をしなかったのかは判らない。

    然し、注釈として、筆者は、“敢えて作らなかった”とする説を採っている。
    「行動指針となる基本概念」は氏族一門や氏人には定め求めるが、詳細な「律や令」の法で固く縛る事を避けたと観ている。

    ではどうしていたかと云うと、「御師制度」と云うものがあった事から、これに依って夫々の「職能頭の差配(郷士衆頭)」が働き、これを「四家制度の福家」が「最高裁の判事の様な役割」の差配をしていたと観られる。
    兎にも角にも、「四家制度」は、悠久の時を維持された完成された制度であったのだろう。

    (注釈 これ等の事を書き記す「祐筆役」は、前段でも論じたが、「達親制度」であった事からも「菩提寺の住職」が務めていた為に、判例に成る様な事が書かれた“「古書」“が見付かる筈であるが、焼失した菩提寺に一切保存されていた可能性がある。
    「青木氏」に関する殆どの事の行節は、今まで「郷士衆頭の家」には見つかるが、この件では見つからないのは「菩提寺保存」が原因していると観られる。)

    では、一概に“「青木氏の心魂 前段の掟」」“とは云えども、そう簡単に成せる精神では無い。
    これには、相手のある事で、相手も何がしかの「青木氏」に対する「太い絆」の様なものが無ければ成り立つ話では無い。
    前段でも論じたが、「氏上と氏人の関係」がこの「青木氏の心魂」と成る「太い絆」を作り上げていた。

    青木氏福家40代の筆者には、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」は大いに理解され、これが何時の世にも生きる「真理」で「筋目」である事は納得出来るし、それで生きて来た。
    然し乍ら、最早、この「青木氏の心魂 前段の掟」」は無い。

    では、何故、累代の先代は、この「青木氏の心魂」に成り得たのかと云う疑問である。
    これは何も「青木氏の偽善的行為」の論を展開する心算では無い。
    そんな事をしても意味が無い。これこそ、「青木氏の氏是」である。

    それは次ぎの事にそれが表れている。
    先ず、上記の「農地権」の時の取り分の配分は長く「4:3:3」であった。
    この事からも「青木氏の心魂 前段の掟」が理解できる。
    「農民の3」に対して「地権分の取り分」は「4」であって、「3」が生活に必要とする絶対分量分であるとすると、4−3=1は脱穀や苗分や水路などの管理費などの「諸経費分」であるので、取り過ぎでは無く、明らかに「3の均等配分 (3分の利)」の考え方に成る。
    もし、「利」を上げようとすれば、世間並みの「5:2:3」と云う事に成るだろうが、然し、明治初期まで1200年以上はこの比「4:3:3」の“「3分の利」”であった。
    「青木氏の心魂」を数字的に表すとすれば、この様に成り、この“「三分の利」”は前段から論じる「青木氏」を見事に物語っている。

    記録から推測すると、「青木氏」では殆どこの“「三分の利」”の概念で統一されていた様である。

    そこで、「享保期に議論」の末に定めた「五公五民の場合の青木氏」の扱い方は、次の様に成る。
    「一公」増える事に対して、「青木氏の氏人の負担」を極力軽減する策として、上記で論じた様に旧来から採用していたが、今度は大手を拡げて「田畑勝手作仕法(1735年)」を利用して「殖産」で対応した事が資料から判る。

    つまり、紙箱や楮和紙や菜種油や木綿の「生産の内職」と、他の農産物で儲けるられる「砂糖にする甘薯」や「酒にする甘蔗」などの「農産物の作付け殖産」であった。
    これ等の「殖産」で「一公以上の利益」が上がったと記されている。


    注釈として、享保期に「吉宗」は、それまでの「四公六民」から「五公五民」に変更した所以も、顧問と成っている「青木氏」等のこの「三分の利の考え方」を採用したと観ている。

    そもそも、「四公六民」は「自作農」の場合であって、「小作農」の場合の普通は、「六民」を「4:2」であった。
    つまり、「4:4:2の取り分」であった。
    然し、当時、生きる為には最低「3」が必要であった。
    その為に内職や粟などの穀物類で「生活の質」を落として維持されていたとしている。
    ところが「青木氏」では「小作農」は、旧来よりの「三分の利」を基に「3」を「取り分」としていた。
    そもそも、「青木氏の小作農」は、他の豪商などの「勝手方地権者の小作農」と異なり、「絆のある氏人」であって、単なる「小作人」では無かった。

    (注釈 江戸期からの「多くの諺」にこの「三分の理」を唱えるものがある。
    これは「青木氏」等が持つ「三分の利の概念」が「享保の改革」の過程を通じて世間に広まったのではないかと考えられる。)

    其れは、封建社会の中で平等性の高い「三分の利の概念」を基に、「身分や立場」を大きく「二つ割」にするとすれば、「五公五民の概念」が生まれる。

    この概念を以ってすれば、「公の立場 (三)」に「民の主立場 (三)」と「民の従の立場 (三)」の様に「三つ割」にするとしては、“「三分の理」”が生まれる。
    残りの「一理」は”「賄いの理」”である。

    この”「賄いの理」”は、この「三者」の何れに所属させるかは、その事の内容にも依るが、「税」としは「賄い」は「公」に所属する。
    この意味で、“「四公六民」”の「六民」をこの「三分の理」で解釈すれば、「民の主立場 (三)」と「民の従の立場 (三)」で、「公」は「賄い分」とで四分と成る。
    後は「三分の理」を原則としながらも、「六民の分け方」に従う事に成り、これは「民の主立場」の者の「考え方」に左右する。

    「五公五民」と「四公六民」とには、「六民」とすると「民の主立場」の者が、享保期前の様に経済状況が悪化した場合には、多くが「地権だけの商人」の「小作農」と成った事で、この「三分の理」に従わず「四分」、又は、「五分」の取り分を強行した。
    これが「農民の生活」を極度に圧迫させる事と成った。
    農業に無関係な「地権だけの商人」、況や「勝手方地権者」にこの行為を抑制させる策であった。

    「勝手方地権者の行為」のこれを観ていた顧問等は、この「三分の理」を「幕府の考え方」であるとして衆知に至らしめ、先ずは、護らせる事が「五公五民とする策」を成功させる事に在った。
    且つ、これが「自作農」に成らない「第一に解決しなければならない障害」と成っていると理解していたのである。

    そこで、「五公五民」の法令(1728年)と、「三分の理(「三分一米納令」1722年)」の概念の「二つの法策」を以って「平均的平等の概念」を幕府は示したのである。

    これは封建社会の中で、「政治政策」は、当に「身分格式権威の政策」の中で、「経済政策」だけが”「平均的平等の概念」”を敷くと云う事は、「士農工商の民」は「驚きの事」であったと考えられる。

    その「驚き」とは、次の様な事であった。
    上記の「諺」から、「士農」は兎も角も、「工商」は理解し直ぐに取り入れたのである。
    問題は「士」であった。
    「農」は「三分の理」が認められれば問題は無い。
    一割にも満たない人口の「工商」は、そもそも無税であり、経済が活性化すればそれに越した事は無いし、むしろ望んでいた事であった。
    後は「士」の集団の「藩」は、「三分の理」が認められれば、「四公」、又は「五公」とすれど「三分の理」で「賄い分」が確かに藩に入る計算には成る。
    「四公」の時(正徳)までは、この「賄い分」を幕府は藩にあるとして補償していた。
    ところが、「五公」の時(享保)は、一見「公」が「一分」を多く「取り分」とした様には観える。
    然し、「民」も「五公」である。
    これは明らかに「平等の取り分」であり、後は「民の中の問題」であるとすると、「田畑勝手策仕法」を認めれば「民の中の矛盾問題」は明確に解決する。
    とすると、後は、「賄い分の扱い」であり、当然に「公」に成る。

    ところが、この「賄い分」はその「賄い分」の内容に依る。
    「自然災害」が多発すると「農地の復興費高騰」や「生活環境」や「政治環境」が悪化した状況では「農地の放棄」等が起こり、「一分の賄い分」では成り立たない。
    又、「悪循環」を繰り返す事に成り好ましくない。
    そうすると、結果として「賄い分の引き上げ」を「公の藩」は狙う事に成る。
    ここに、「顧問等と吉宗の狙い」があった。

    「民の五分」を安定させ、生活と収穫率を安定させる為には、この「賄い分の引き上げ」を阻止する事で、何とか財政を保とうとして「藩の緊縮策」が行われる事に成る。
    その阻止策が、「五公五民の策(1728年)」を打ち出す前に、諸藩に「三分の理」を「政治の概念」としても、先ず徹底させる事にあった。

    それが、「青木氏等」が悠久の時を経て維持して来た「三分の利の概念」を「三分の理策の周知」と、それを基にした、即ち、法令の「三分一米納令 (1722年)」で統一させて「賄い分の引き上げ」を阻止したのである。

    これで、諸藩は、この思いがけない「馴染みのない三分の理」に従う以外には無く、「緊縮財政」に入る以外には無く成って仕舞った。
    その策で統一された後に、「諸範の緊縮財政下」で「五公五民の策(1728年)」の「米価の次善策」の本策を打ち出した。
    一見すると、諸藩は「五公」の「内部の仕組み」を読み込めず喜んだ筈であり、「五公五民の策」は反対を受けずにすんなりと浸透した。
    「青木氏等の顧問」と「吉宗の思惑」の通りの「効果てき面」であった。

    次ぎにこの「本策」を打ち出した上で、上記した「田畑勝手作仕法(1735年)」を認めたのである。

    (注釈 上記の通り「青木氏」では、既に「殖産」を名目に、「一地一作の令」の「逃れ策」として次男三男の「小作農地の確保」と「就職の救済策」と「生活の補填策」として「米の耕作地の田地」を有効的に活用していた。
    これを改革の「矛盾解決の政策」に用いたのである。)

    これには、当然に、この「二つの法策」(「三分一米納令」と「五公五民」)を以って「平均的平等の概念」を示した上で、「田畑勝手作仕法」を発令して「二者で一分を補い合う概念」を提示したのである。
     
    この「二つの法策」で以て、「民の主立場(「地権だけの商人」の者は、「民の従立場(小作人)」の者に対して「最低限の生活」の“「三分の利」”を認めざるを得なく成った。
    これに依って「矛盾の一端」を何とか緩やかにして解こうとしたのである。

    決して、通説にある様に“「税」を上げた“と云う事では無かった。
    「経済政策での三分の理」であったとすれば「三分の利」と成る。
    然し、此処で敢えて経済政策に「三分の理」と明示したのは、”政治も「三分の利」の概念にせよ”として「理」を使って暗示したのである。


    「青木氏の資料」では、“「三分の理」”では無く、“「三分の利」”と明記している。
    ここに意味があった。
    そもそも、この“「三分の利」”には、「平均的平等の概念」として次の様に記載されている。

    資料から可成り古い時期(平安末期 925年頃)に定められた概念ではないかと考えられる。
    そもそも、それを解釈すると、「理屈」の「理」にある様に全てが理窟の通りに社会は出来ていないとする概念を悠久の時を経て持ち得ていた。
    上記した様に、「青木氏の憲法的位置づけ」の「三つの是」に示される様に、「主源」は「理」は認めるものとしても、細部の「従源」は「利」に通ずるものとして理解されると記されている。
    これは、「青木氏の氏是」にも「・・・に晒す事無かれ何れ一利なし]「されど・・・にも憚る事無かれ、何れ一利なし・・」と表現されている。
    この「青木氏の氏是」の通り、下記の出自を持つ「賜姓臣下族」で「賜姓五役」を役務としながらも「一理」とは決して表現していない。
    本来であれば、「一理」とするであろう。

    「経済と政治」は、取り分け、突き詰めるとこの「利の原理」に従っているとする説が表現されているのである。

    (注釈 「青木氏の憲法」とは、「青木氏の心魂 前段の掟」、「青木氏の氏是」、「青木氏の家訓10訓」)

    これは「青木氏」が、この「経済と政治の世界」に身を委ねていて、「軍事」は「シンジケート」に任せている事で生き延びられて来たし、その上での上記の「青木氏憲法」と成るものが成立している所以である。
    この「シンジケート」と云えども、突き詰めれば「経済での結び付きと信頼」であった。
    故に、この「悠久の歴史」を持つ環境下での「利の概念」であった。

    これ等を「顧問」として「吉宗」に主張したものと考えられるし、「吉宗」も「六兵衛」と同じ環境下で育った事から「同じ考え方」を持っていた筈であり、この「三分の理」に基づき「税対策」などは行われた。

    (注釈 上記した様に、「定免法」と「買米令」を間に時を得て発して上記の策を勢いづけた。)

    この時に、身分や格式や階級や主従の関係制度が最も強かった江戸時代の社会に、この「三分の理」が分け入る様に勢いよく浸透していったのである。
    ある意味で、「三分の理」が浸透する社会とすれば、”「平均的な平等論」”や前段で論じた”「商業組合による自由論」”が、元々、「顧問と吉宗等」は、兎も角も、庶民にも基礎的な考え方が強くあったのではないかと考えられる。
    故に、「下記の諺」を遺す様に浸透していったのである。

    ここに、因みに「青木氏の歴史観」として「青木氏」の悠久の歴史を得た“「三分の利の論」”が生きているのである。

    (参考 この時、江戸社会に広まった類似語を提示すると以下の通りとなる)
    泥棒にも三分の道理
    盗人にも五分の理
    乞食にも三つの理屈
    盗人にも一理屈
    柄の無い所に柄をすげる
    藪の頭にも理屈がつく
    理窟と軟膏は何処柄でも着く

    以上、これだけの事が江戸社会に広まった。

    これを観れば、最早、「庶民の常識」と成っていたのであり、身分や格式や階級や主従の関係制度の中で、この「常識化した概念」とうまく折り合いを就けていた事に成る。

    ”「平均的な平等や自由の概念」”が、「五公五民と三分の理」の「二つの政策」の施行で「吉宗や顧問」らに依って、更に、次ぎの世にも「三分の理の概念」が色濃く潜在化させた事に成るだろう。

    (注釈 これは「青木氏の歴史観」として絶対に知っておかなければならないものであり、取り分け、これだけ社会に「基本概念」を植え付けたのにも関わらず知られていないのが、この「三分の理」であって、これを法制化して1722年に発効させたのが「三分一米納令」である。
    これは現在の「平等と自由の概念」と成るものであったのだ。)

    そこで、「米国の自由と平等の概念」と「日本の自由と平等の概念」が何となく違う感覚を持つのは、この事によると観られる。
    況や、この「三分の理」の「平均的な平等や自由の概念」が、この違う感覚の原因と考えられる。
    とすると、“米国から持ち込まれた”と云うよりは「日本独自の概念」であるとも云える。
    その起源は、下記の注釈に示す様に、奈良期から「氏上と氏人」に依って培われた「春日真人族から志紀真人族」の「後裔」の「氏族の青木氏」に引き継がれて来たものであったのだ。

    突き詰めると、「青木氏の心魂」として捉えられる「三分の利の概念」と「前段の掟」と云うものに付いては、これが“何故、続けられたか”と云う事にも成る。

    筆者は、「青木氏の考え方」を示す「注釈の数字の概念」を維持したこの“「1200年」”に答えがあると観ている。
    この「1200年」が「青木氏の心魂 前段の掟」を「一つの形」に築き上げたのであろう。

    「伊勢」は、何度も論じている様に、「不入不倫の権」で、“伊勢の事お構いなし”で護られて来た所以であろう。
    確かに、「北畠氏の介入」と「織田氏の浸蝕」の100年間近くは「不入不倫の権」は犯された。
    江戸期は有名な「家康の言」の“伊勢の事お構いなし”で再び戻った。

    (注釈 「不入」は、「江戸期の本領安堵策」があった事に依って適度にその義務を負った。)

    但し、「100年の介入浸蝕」が有ったとしても、「伊勢の民との絆」には傷は流石に着かず、安寧であった。

    「1200年の期間」は「地権の農民」との間は、最早、「絆=家族」であった筈である。
    「家族以上のもの」があるとすると、それが「青木氏と民」との間には流れていたのではないか。
    「家族の絆」でもせいぜい100年以内である。
    それが「1200年と云う長い期間の家族」である。
    「青木氏」は、莫大な「土地の地権者」として農民等の「民の戸籍簿」を造る義務を負っていた。
    その「民の戸籍簿・人別帳」は、苗字を持たない事から、元来、ルーツは無いが「青木氏」がある程度の「繋がり」を帳簿の中から持ち得ていて、これが「1200年間の繋がり」と成ると「青木氏の帳簿」は最早、役所以上でもあった。

    「100年の親子」では無く、それを超えて「1200年の子々孫々」の関係以上にあった筈である。
    「伊勢の民」の個々の家の「小さい歴史」も承知していたのである。
    「1200年の間」は、伊勢はある程度の範囲で護られ、この関係は途切れた事は無かったのである。
    “「途切れた事」“が無かった事から得られる「土地の潤い」から、「伊勢の民」の“「生活の面」”は護られた。
    としても、世間では当時の「村人」は、野武士等の攻撃や戦乱時の破壊が有って、簡単に安心して居られる環境の状況では無かったし、これに依って家族は破壊された事もあった。

    然し、この「伊勢」は、前段でも論じたが「青木氏の経済的支援と信頼関係と商い輸送の職務」とで結ばれた「伊勢シンジケート」で彼等を護っていたのである。
    従って、家族の“「安全の面」”はある程度に護られていた。
    この“「伊勢家族の絆」”は、1200年間絶える事無く護られていたのである。
    そもそも、「伊勢」では「襲う者」はあまり無く、襲うと逆に「伊勢シンジケート」に潰されると云う恐怖があって「ならず者」は避けたとされる。
    (注釈 伊勢を護る事は「元伊勢王の施基皇子の志紀真人族」の「賜姓五役の役」でもあった。)
    これが、「伊勢神宮の治安の前提」と成っていた。
    村人の「生活と安全」がある程度に確保されていれば、後は生まれるものは「家族以上の絆」であり、それは「完全な信頼と尊敬」で構築されていた筈で、その「村人の心根」は“「氏上さま」の呼称”でそれを如実に表している。

    その呼称は、「神社」に対して「氏子」が使う「氏神さま」では無いのだ。
    恐らくは、この呼称を1200年も使っていた事から、「村人」の「信頼と尊敬」は「神社の聖域」を超えていたと観られる。
    然し乍ら、かと言って無神論者達では無かったのであって、「氏上と氏人」が信心する神社はあった。
    況や「神明社」である。
    それは「氏上の青木氏=神明社・守護神=氏人」の関係にあった。

    (全青木氏の出自の注釈) 
    (前段でも論じたが、「皇族賜姓臣下族の青木氏」の出自は、「施基皇子(春日宮天皇 追尊)の孫」の「後裔」である。
    この「施基皇子の第六子」の「白壁王(光仁天皇)の子」の「山部王」の「桓武天皇」で、この「桓武天皇の子」の「第二子の嵯峨天皇」が発布した「詔勅」に伴い作成した「新撰姓氏緑」には、次の事が記載されている。

    「皇族 38」の「伊勢王」の「施基皇子の子」の「春日王一族」の後裔(青木氏)で、「春日真人族の裔」と記載されている。
    更に、その血縁にある「敏達天皇の曾孫族」が遺した「末裔の直系氏族」で、「敏達天皇の子の春日皇子」と同縁同祖関係にあると記載されている。
    そして、「春日真人族の後裔」に至ると記載されている。
    つまり、「敏達天皇の孫が舒明天皇」 「舒明天皇の子」が「天智天皇」 「天智天皇の子」が「施基皇子」であり、[天智天皇の第二世族の第六位皇子 浄大一位]で、「敏達天皇の直系第四世族」である。

    所謂、「第四世族」のここまでが「春日真人族」である。
    「天智天皇」は「大化改新」で正式に「第六世族」から「第四世族」までを「直系の後裔」と定めて変更した。
    つまり、「真人族の皇子」、或は、「朝臣族の王位」の範囲とした。

    注釈として、天皇が即位する度に、「第六世族」以降は「皇族の真人族」と「朝臣族と賜姓族と臣下族」の権利を失い都を離れる。
    所謂、「坂東八平氏」等がこれに当たる。

    但し、「第四世族」までを「皇子や王位の権利」を有し、「第五世族位」は次第に従う事を「天智天皇」は定めた。
    それまでは「第六世族」までは王位、第七世族は「皇位」を離れ「民」と成る。
    更に、更に厳しく皇子数に依って「第四位皇子迄」を「真人族」とし、「第六位皇子迄」を「賜姓族」と「臣下族」の「朝臣族」と成り得る。
    唯、「朝臣族」、「賜姓族」、「臣下族」、「王位族」の「皇族系四族」は、「天皇の意」に従う「天皇家の仕来り」であった。
    決して、希望すれば成れる事ではなく、自動的に成れる制度でも無く、「最優秀な適格者」が「指名される仕来り」であった。

    そもそも、注釈として、「施基皇子」は「天智天皇の第二世族」(敏達天皇の直系族の春日真人族の第四世族)にして「第七位皇子」であったが、「建皇子」が没して「第六位皇子」と成った。
    従って、「天智天皇の第二世族」でありながらも、「第六位皇子」として「賜姓族」と成り「臣下族」の「朝臣族」と成って、「皇親政治」に参画した。
    「敏達天皇の第四世族」である事からすると、「春日真人族の皇子」としての権利も有し、「賜姓臣下族」としての「志紀真人族」の「二つの立場」を持ち、且つ、「八色の姓制度」では「皇太子」を超え、前段で論じたが、「天武天皇」に次ぐ「浄大一位」の位に位置して「天武天皇」に代わって皇太子をさて置き「皇親政治」を差配した。
    「施基皇子」は「賜姓臣下族」とは成ったが、どの50程ある真人族より格式一切が上位にあった。

    (注釈 恐らく、後に追尊の「春日宮天皇」と成った以後、これ程の高い立場を持った皇子は居ない。)

    (注釈 この「施基皇子」は、後に「賜姓臣下族 751年」と成る。別名は志紀真人:施基真人:志貴真人である。)

    尚、「天智天皇の第八位皇子」の「川島皇子」は、特例を以って「賜姓族」を受け「臣下族」の「朝臣族」に列せられた。
    「天智天皇」の代に世族の第七位皇子であった事から「賜姓」は受けたが、「真人族」では無く「49の春原朝臣族」と「53の淡海朝臣族」の「同縁同祖族」である。
    「近江佐々木」の地名を採って「後裔の姓」は「近江佐々木氏」とした。全国佐々木氏の始祖である。
    この「佐々木氏と青木氏」の「二つの血縁筋の後裔」が上記した「近江佐々木氏系青木氏」である。

    (注釈 この「賜姓臣下族」と成った事で、「春日真人族」から系列を離れた為に、「志紀真人族」として列せられた。
    その事で、「施基皇子の第二子」が「春日王」。
    「春日王の母」は「託紀皇女−天武天皇の皇女」であり、「春日真人族」を同祖とした「青木氏」は「施基皇子の子の春日王の後裔」と成った。
    更に,「春日真人族」としての「施基皇子」が、追尊で「春日宮天皇」と成った事でもあって、「施基皇子の後裔の青木氏」は、「志紀真人族」の「春日王の後裔」と変更された。)

    (注釈 尚、「施基皇子の第六子」の「賜姓臣下族の末裔」としての「白壁王」は、「聖武天皇の皇子」が絶えた為に「井上内親王」を「后」として「他戸王」を産み、「春日真人族の直系の男系天皇」として「賜姓臣下族」から特例を以って「天皇」と成った。
    この「敏達天皇第五世族」の「光仁天皇」は「在位770年−782年」で、「光仁天皇の皇子」の「山部王」が「志紀真人族」(春日真人族の後裔)として「桓武天皇」として即位した。
    「施基皇子」は、「春日宮天皇」(後刻 皇位追尊770年 光仁天皇)と追尊され命名された。
    この事で、再び、「賜姓臣下族の志紀真人族」から「春日真人族の系列の天皇」と扱われた。
    これは「青木氏の記録」とほぼ一致する。

    (注釈 「後裔」とは、「枝葉族」を含む「末裔」とは異なり、直系で直ぐ後の裔を表現し「氏族」を表す。
    「青木氏が後裔」と成る。
    これより枝葉の「氏名の裔」が拡がるが、前段で論じた様に、「青木氏」では、「四家制度」と成り、ある範囲で「氏裔」は留まる仕組みを執っている。)

    (注釈 伊勢は上記の事として、古記録に遺るが、「近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏」は、「天智天皇期の皇族の改革」と「嵯峨天皇の皇族の改革」の「二つの皇族改革」により発生した「真人族や朝臣族や王位」から外れた「皇子皇女」の内、「志紀真人族」の「春日王の後裔」の「青木氏」として、「青木氏」に入り「跡目」を継承し、「青木氏」を絶やさずに「皇位系五家五流」で継承して行った。(従って「姓名」は無く「氏名」だけの継承と成る。)
    この例外として、「真人族や朝臣族や王位」の同皇位資格を持つ「正規の賜姓源氏」からも「五流の青木氏の跡目」に入った記録がある。
    又、正規に皇位ではないが、「二つの改革」での同資格を持つ女系で繋がる「藤原秀郷流青木氏116氏」からも「青木氏の跡目」に入った幾つかの記録がある。
    「伊勢青木氏」では、前段でも論じたが、この「両流の氏裔」の「青木氏の事」を「四日市殿」と呼んでいた。)

    (注釈 但し、「新撰姓氏録」は「新撰」とある事から、「氏姓禄」としては完成されておらず、原稿状態で頓挫し、取り敢えず、この状態で後日に「表紙目次録」だけをまとめたものである。
    従って、「皇子と王との区別」や「同名の判別」も出来ていなく、「真人族、朝臣族 賜姓族、臣下族、王位族、皇族」の要り混じった「縁籍族の区分け」や、「同縁や同祖や区分け」も充分では無く、使うには可成りの努力がいる。)

    (注釈 別冊 「新撰姓氏緑」の目次では、「天智天皇系の春日王の末裔」として記録され、「皇族賜姓臣下族」で纏められたものでは、上記の注釈の通り、「志紀真人」として正規に出て来る。
    これは「始祖の施基皇子」が「春日宮天皇」と「光仁天皇」により追尊された事に依り、「姓氏緑としては、「施基皇子」の「春日王の後裔」と記されたもの。)

    (注釈 この「春日真人族」とは、「敏達天皇から天智天皇期」まで皇族の中で“「春日真人族」”として呼ばれ、当時は最高で最大の権力を誇った族で、そこから引き続き平安期の「嵯峨天皇期」まで“「志紀真人族」”として呼ばれ、“「皇親族」”として「政治の場」でも勢力を誇った。
    ところが、「嵯峨期の詔勅」が出され、「真人族」は政治の場からは離れ勢力が衰え、「賜姓族」も「源氏」と呼称する事に成り、「皇族で賜姓族」でありながらも賜姓源氏と成ると皇族の真人族を離れ一段下の「朝臣族」で「完全な臣下族」と成り、「真人族」から「朝臣族」と臣籍した。
    「賜姓五役」の様な役目は持たず、「武家」を構成するのみの「臣下族」で、依って職位を巡って源平が争い多くは絶えた。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅」で、「志紀真人族系の青木氏族」は、以後、「賜姓」は無く成り、「皇族の皇子皇女」が「氏」では無く「姓」を持ち、「皇族を離れる際」に名乗る「姓名」として用いられる事と定められた。
    結局、平安期末期まで「25皇子と18皇女」が「皇族」を離れたが、「嵯峨期詔勅」を使った最終、「賜姓臣下族」ではない「青木氏の姓族名」を遺したのは、僅かに「5姓族」に留まり、証拠を残す事が出来たのは正式には「2姓族」と成る。
    この内で、奈良期の高位の系列の立場を持った皇子(妾子は除外された)は「五流の青木氏」の跡目に入った。)(詳細は前段参照)

    (注釈 この内の「源氏」は「11家」であったが、室町期末期では、「姓族」は兎も角も、単独で「氏族」を形成したのは全く無く、「氏族」を遺した上記した「皇族賜姓臣下族の青木氏との血縁」で「姓族」と成っているが、恐らくは、「5姓」以上には及ばないだろう。
    後は「京の門跡院」と「比叡山寺」と「信濃善光寺」などの「僧侶」と「斎宮」と成って絶えた。
    この中で、最も多いのが「嵯峨天皇期」で、系譜に載らない妾子等や源姓も入れて「17皇子13皇女」が臣籍したが、戦乱や政争や経済的困窮や跡目不在で完全に絶えた。)

    (注釈 「春日真人族」で「志紀真人族」の「賜姓族臣下族の青木氏」は、前段で論じた様に「五家五流」であるが、ただ「近江と美濃」は「青木氏の氏是」を破り「源平合戦」で敗退して「氏」は衰退させ、江戸期に「氏の末端の傍系」が何とか「氏族」は兎も角も、前段でも論じたが、「青木氏等の援助」に依り、「姓」を何とか興して遺す事に成功した。)

    (注釈 藤原秀郷流青木氏は、958年「円融天皇」に依って「春日真人族」で「志紀真人族」の「賜姓族臣下族の青木氏」の「賜姓五役」を補完する目的で、特別に「真人族外」より「賜姓青木氏」を受け、「賜姓族臣下族の青木氏」と格式官位官職一切を同じとして出自し、「全国24地域」に「116氏の氏族」を形成した。
    相互に母系族の同縁同族の関係にあり、従って、「慣習仕来り掟」は類似し「同行動」を執った。詳細は前段参照。)



    それ故に、判り易く云えば次ぎの様な関係にあった。

    「青木氏と信頼と尊敬の関係」=「神明社との信頼と尊敬の関係」

    「1200年の親と子と孫の関係」=「青木氏の守護神」=「青木村の民の守護神」

    以上の数式にあった。

    「1200年の親と子と孫の関係」である限り、「青木氏の守護神」は「青木村の民の守護神」でもあった事に成る。
    その関係は、「青木氏=神明社・守護神=氏人」の単なる関係では無かったのである。
    その数式の成り立つ「守護神の神明社」は、前段でも論じたが何と全国青木氏の定住地に「500社と云う数の神明社」である。
    如何に「氏人」との間に洩れなく「青木氏=神明社・守護神=氏人」の関係を敷いていたかを示す確実な証拠である。

    (注釈 「氏族」は藤原氏の様に春日神社、「姓族」は道祖神社、民は稲荷神社等と個々に大なり小なり何等かの「独自の守護神」を持ち得ていた。
    取り分け、民と民から興した「姓族の道祖神」では、殊更に社屋を構えず道端の至るところに小さい塑像を据えて花を手向けて祭祀し、蜜社性を採らなかった。)


    現実に1200年も生きる人間はいないが、「村人」と「青木氏」の間には、互いに何十代も変わる事無く、「人」で引き継がれて互いの「信頼と尊敬の絆」を護った。
    そして、そこには相互に「伝統」と云うものが有った。
    これを途切れる事の無い様に「青木氏=神明社・守護神=氏人」=「500社の神明社」が敷かれていたのである。

    (参考 正しく青木氏が建設と維持管理に関わったとされる神明系社 合計 564社)

    内訳 
    神明社 180
    神明宮 126
    神明神社 143
    大神宮 24
    神社 29
    皇大神社17 
    其の他 44

    ・「青木氏と守護神(神明社)−2参照」

    但し、皇大神社 17 其の他 44を除くと合計503社  

    後は、江戸期初期以降のものであるが、この「神明社564社」も江戸初期に江戸幕府に引き渡した。その後、江戸幕府の財政難から社屋は荒廃した。)

    最早、この段階では「1200年生きた一人の人間」、況や、「1200歳の人間」が構築されていたと同じと考えられる。
    最早、これがこの世に現存する「氏上と氏子」であったのであろう。
    「青木氏」と云う「氏の親」に護られた「氏の子」であった。
    この「氏上」の「上」は意味合いとして「親」であった。
    所謂、「親と子」であったと示す呼称なのである。

    それが前段で論じた「青木氏の数ある掟」(「善悪の条理 相対の理」や「三分の利」等)の「概念の礎」に成っていた。

    そもそも、上記した(注釈)の“「氏の上」”は、「大化の改新」以後は朝廷によって任命され、「宗家」として“「氏人」”を統率して朝廷に仕え、その集団が「氏神の祭祀」、「叙位の推薦」、「処罰」などを司り、一定の「政治上の地位」を世襲したとするのが用語の語源で、この集団の「氏の宗家」を“「氏の上」”として容認した。

    依って、この大化期から平安期初期までは「氏上」と「氏人」には、確たる「上下の身分関係」ではそもそも無かったのであって、「氏人」(「家人」や「青木氏部民」含む)も集団の一員として”「朝廷に仕える准人」”であった。
    (平安末期からの荘園制で上下関係が生まれた。)
    当に「氏上」とは云うが、「姓上」とは云わないのはここから来ている。
    況や、「氏上」、或は「氏」には「氏人」がいるが、「姓」には「姓人」はいない。

    上記した(注釈)の「春日真人族」や「志紀真人族」の「氏」の「青木氏」には「大勢の氏人」がいるのである。
    これ等の「氏人」と共に「賜姓臣下族としての役(賜姓五役)」が求められる。
    「賜姓五役」が求められれば「青木氏部」が要る。
    「青木氏部」の「氏人」がいるから「固有の氏の村」が要る。
    「固有の氏の村」があるからこそ「氏」を護る「守護神」が要る。
    「天皇が賜姓した氏」であるから、「守護神」は「皇祖神の子神」の「祖先神」と成る。
    「祖先神」と成る以上は祀る「社」が要る。
    「社」があれば特定の「子神の神明社」が要る。
    「子神の神明社」があれば、「特定の神職」が要る。
    「特定の神職」が要れば「格式」を持つ。
    「格式」を持つ「神職」には、「志紀真人族」の示す「象徴紋笹竜胆」と「神職の格式紋柏紋」を授かる。
    そして「氏」から出す「神職」を出し、これを扱う「氏の方式」が要る。
    「氏から神職」を出すから「格式制度の達親」が要る。
    「神明社」があれば「氏の菩提寺」が要る。
    「氏の菩提寺」があれば「氏」の「大日如来像菩薩」が要る。
    「氏の如来像」があれば「密教」が要る。
    「密教」があればこの様に「連動する氏の役」が限りなく出る。
    全ゆる事に「賜姓の氏としての格式」の「連動する氏の役」が求められる。
    この格式にあった「慣習と仕来りと掟」(50程度)が定まる。

    この事は「春日真人族」から「志紀真人族」に成り、「賜姓臣下した時」よりその格式と伝統を汚さず護ろうとして「全ての事」が連動して起こり繋がる。
    この”「繋がる事」”で一つが欠ければ「全てが崩れ去る運命」にある。

    この所謂、「連動の鎖」を護る為に「伝統と云う接着剤」で繋げる。
    「氏上と氏人」が、この「接着剤」を「1200年の信頼に基づく絆」と云うもので囲うが、須らく「相互の概念」は同様の事と成り得る。
    これが、“「平均的平等と自由」”に基づく“「三分の理」”に通ずる“「伝統的な概念」”なのである。

    この様に「志紀真人族の氏」を構成する以上は、上記に連動する様に「氏人の為」にも逃れられない「義務」があり、これを「連動する事柄」が「担保」できない以上は、例え「氏の賜姓」を受けても消える以外には無く成る。

    これを「嵯峨期の詔勅と禁令」にこの事を明確に記しているのである。

    これを担保するのが、「紙屋院」として朝廷より開発を任された「賜姓族としての役」、即ち、「国産の和紙」を研究開発し、生産する事から始まった「二足の草鞋策」であった。
    この「二足の草鞋策」に「氏上と氏人」は懸命に「氏を遺す力」として懸命に取り組んだのである。

    室町期まで関連する役処として「朝廷の絵処院」、後の「絵処預」の支配もしていた。
    (結果として、この時の選択が「遺す力」と成った。)

    (注釈 前段でも論じたが、この「二つの役目柄(紙屋院と絵処院)」から、それまで中国から[苦土参の墨」が滲む質の悪い薄茶色の紙を輸入していた。
    これを何とか国産で出来ないかを模索し、「材料の発見」、その「適地の選出」、「栽培方法」、「紙にするまでの生産方法」、「使用に耐えうる紙質の改良」、「紙の色合い」、「墨との兼ね合い」、「保存の方法」、「生産体制の確立」等に、「氏上と氏人」が総出で手分けして懸命に取り組んだ。
    「天皇」自らも良い紙材が無いかを手分けして各地に出向いたとする記録が残っている位であった。
    結局、何処にもあって「繁殖力と生産力」が良い「楮」に成った。
    然し、これだけでは未だ解決には至らなかった。詳細は「伝統」ー4又は7参照)

    (注釈 それには、この「和紙に合う墨」とそれに「絶え得る硯石」と「良質の筆」の開発にあった。
    取り敢えず、「925年頃」に「和紙」から本格生産に入り、「紙屋院の役職所」を通じて「余剰品」を「賜姓族」としての「資金力」を作り出す為に、「二足の草鞋策」で「市場販売の許可」も出て手掛け、遂には「1025年」には「総合商社」としてこれらを中国に輸出するまでに成った。
    次ぎの段階として「墨と硯と筆の開発」に入ったとされている。
    此処までに約100年程度かかっている。
    更に「良質な理想的な墨硯」は、何と「後醍醐天皇」自らが「熊野詣」の途中で「紀州の藤白地区と日高地区」で発見したと書かれている。「青木氏」は「朝廷専売」でこれらの殖産に取り組んだ。)


    それが、前段で論じて来たこれらが“「連動する伝統」”であって、「春日真人族」から引き継いだ「志紀真人族の氏」として生き残った所以でもある。
    この「二流から成る氏の伝統」は連動しているのである。
    然し、「皇親政治」は廃止され生き残りが難しく成った平安末期からは、前段でも論じている様に、“「二つの青木氏」の「補完関係」”が大きく働いたのである。
    そして、「円融天皇」により「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」と成った「藤原秀郷流青木氏(始祖 千国)」より「賜姓五役の補完」を受けた事から「二足の草鞋策」は、本格稼働して「氏の生き残り」は果たせる事の基が築かれた。

    (注釈 多くの「偽称の氏」には、この上記の様な「氏の担保するべき連動性」、即ち、「伝統」が無く欠ける。判明は簡単である。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅の禁令」で「二つの青木氏」だけが「氏名」を「村名」と出来る。
    つまり、これは「春日真人族と志紀真人族」だけが「氏名」を「村名」と出来る由来であり、追尊の「春日宮天皇」の後裔とする事を根拠としている。
    後は全て地名に由来するべしとする事を「嵯峨天皇」が「天智天皇の禁令」に対して更に追禁した事に由来する。)



    > 「伝統シリーズ」−28に続く


      [No.345] Re:「青木氏の伝統 26」−「伊勢と古式伝統」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/09/11(Sun) 08:13:16  



    > 「伝統シリーズ−25」の末尾。
    >
    >
    > 注釈として、この「伊勢郷士衆」との血縁では、現在の研究では、「青木氏」からの「娘嫁ぎ先」と「家人跡目先」としては「五氏」(・印)が確認できる。
    >
    > 「青木氏へ嫁入り先」は、確実には全て確認が取れないが、ほぼ同じ程度の「六氏」で,大正末期までの「長い付き合い」(親交)のあった「伊勢郷士」は血縁の有無は別として「五氏」が確認できている。
    > (恐らくは血縁はしている。江戸期中期で計11氏)
    > 然し、更に資料が見つかれば、少なくとも「伊賀郷士衆等11氏(18氏)」とは、清蓮寺などの資料からと、その前後の経緯から観て何らかの関係があった事が頷ける。
    > (室町期からでは計29氏)
    >
    > (注釈 平安期と鎌倉期の状態は度重なる消失で資料が見つからないので状況証拠以外には掴み切れない。)
    >
    > 伊勢の「櫛田川」を挟んで、「射和」の南側の玉城村(現在の玉城市)の全域は、「伊勢青木氏」が大地主(地権者)で、「伊勢紙屋の蔵群」と「松坂組の職人の職場と長屋群」と「射和組の職人の職場と長屋群」として成り立っていた。
    > この状態は、「農地」では無かったことから、上記で論じた様に、「資産・地権」として筆者祖父の代の明治35年(38年頃)まで続いた。
    >
    > 実は、「伊勢松阪」は、江戸期から明治期まで、「数十件以上の大火」として扱われる「火災」は何と「6度の大火」に見舞われた。
    > 従って、縁籍関係のこの種の資料は特段に遺らないし何らかの方法で追跡が困難に成っているのである。
    >
    > (注釈 これは上記した中央構造線の「地形上の吹き降ろしの影響」で大火が起こり易い。
    > この内の1件は「青木氏の伊勢紙屋」からの松阪の出火元に成る。)
    >
    > (注釈 この為に「古来の資料」が残念ながら多く消失しているが、「商記録」は別であった事と「菩提寺」や関係する「郷士衆の家」には「末梢の記録」が細かく遺されている事から、「充分な読み込み」をすれば「青木氏の歴史観」と繋ぎ合わせての経緯が生まれる。)
    >
    > 江戸末期にも2度の「大火」に見舞われ、「室町期末期の戦乱」に依る「焼き討ち」からも「大火」に依る「伊勢庶民の感覚」は、大火には特別なものがあり大変なものであった。
    > それだけに、商家界隈の何度も繰り返される「災難」には、そこから何とか立ち直ろうとする気概が強く、「伊勢四衆」の「生き残りの二氏」(二つの血縁青木氏)が立ち上がったのである。
    > (伊藤氏一族と伊賀氏一族は衰退)
    >
    > 江戸期までに生き残った「氏族」の「伊勢秀郷流青木氏」は、「紀州藩の官僚」として、「伊勢青木氏」は「郷氏の地主」として、「豪商」として、「殖産」を新たに興し立て直らせようとした。
    > 其れには、上記した「室町期末期の殺戮」と「度重なる大火」で「伊勢衆」は、上記の様に激減して仕舞ったのである。
    >
    > “「紀州藩の記録」”に依れば、この「伊勢衆」が他国に比べて特に少ない事を理由に、「伊勢の二つの青木氏」との「談合」を再三にしていた事があり、“「青木氏の年譜」”にもこの事が一部記載されている。
    >
    > 注釈として、「伊勢」の生き残りの「郷士衆」は、同じ時期の「土佐郷士数」の「全階級500」に比べて、50程度である。
    > 何と1/50に過ぎない。
    >
    > 「伊勢三乱」に参加した「郷士数」は、記録から凡そ「35程度」で、それが、最終は20以下に成っている。
    > 「伊賀の乱」に参加した「郷士衆35」が、前段でも論じた様に、清蓮寺城からの「青木氏に依る救出劇」で生き残ったのは何と最終11氏(18説)と記録されている。
    > (殆どは何らかの縁者関係にあった。)
    >
    > (注釈 普通は、その地域の「歴史的な経緯」も左右するが、原則の平安期からの「四六の原則」により「一国五郡制」であるので、一郡に興せる「郷士数」はせいぜい「25から30程度」が生存競争により限界と成る。
    > そうすると、藩主と成った者は、これでは元より「規定の家臣数」では賄えない事から、一国に「郷士数」は150程度に拡がりこれが限界数と成る。
    > これでは、藩主に課せられた「責任兵数」では足りない事に成る。
    > そこで、既定の格式を下げた“「準下士」”として「農民から傭兵方式」を採用する事に成るのである。
    > これでこの約3倍が用意される事に成る。
    > ただ、これには、「人様」を用意するに当たり “「ある仕来り」”が有って、「傭兵と成る者」(“「準下士」”)、つまり、主に「農民」には、“「元郷士」”であったとする証明が必要であった。
    > これを扱う「専門の仲介人」の「斡旋職業」が存在した。
    > これらが、この“「証明」”を作り上げて藩主に届けられたが、殆どは搾取であった。
    > 藩主もこの事は充分に承知していて「暗黙の了解」であった。
    > そこで始めから、紀州伊勢地域にはこの様な「傭兵軍団」が各地に編成していたのであった。
    >
    > 有名なのは「関西域」では、大きい「傭兵軍団」を職としているものとしては、次ぎの通りである。
    > 伊賀軍団、甲賀軍団、雑賀軍団、根来軍団、柳生軍団、河内軍団、十津川軍団、龍神軍団、橋本軍団、日高軍団、北山軍団と、「熊野六軍団」等
    > 以上の各地の“「郷士衆」”から成る「17軍団」があった。
    > 紀州伊勢はこの様な背景から実に傭兵軍団の多い地域である事が判る。
    > (臨時的に農民を集めた炊事などの雑務を担当する農兵の「農兵軍団」は除く。)
    >
    > 他に、「伊勢紀州域」では、重要な水軍による「傭兵の軍団」が次ぎの様にあった。
    > 熊野水軍、伊勢水軍、紀伊水軍、摂津水軍、堺水軍、と別格で駿河水軍
    > 以上の「水軍の傭兵軍団」の「五軍団」が在った。
    >
    > (注釈 「鎌倉期、室町期の戦い」までは、戦略上、「水軍の軍団」が無ければ、“戦いは負ける”と云われていた程に「重要な戦力」であった。
    > 「駿河水軍」は、関東域の水軍と成るが、資料から「平安期からの戦歴」を観ると、「関西域の戦い」に参加している傾向にあり、これはこの「駿河水軍」は「源氏方水軍」と云われ、「青木氏」(伊勢水軍と摂津水軍)とは、「青木氏の平安末期の跡目」に入った「摂津源氏の源京綱」との繋がりから大いに関係のあった水軍である。
    > 伊勢青木氏の同族一門の伊豆青木氏との血縁関係もあって、その勢力は「青木氏」を平安期から伝統的に補完していたのである。)
    >
    > 恐らくは、天皇自ら出向いて来る事は無かったと観られるが、代行の「縁籍筋の公家族」がこの“「権益」”を演じたと観られる。
    >
    > (注釈 "朝廷の「権益(ごんえき)」"の「代行役」は、何度も縁籍筋と成っている京の「叶氏筋」では無かったかと考えられる。
    > その証拠に筆者の祖母は、「京の公家族」の末裔の「叶氏の出自」である。)
    >
    > 恐らくは、江戸幕府は「嵯峨期の詔勅と禁令」を破って、“「家康」”が「青木氏等の賜姓臣下族の慣習や仕来り」を“「権威造り」”の為に利用して「幕府権威造り」の為に真似たとも考えられる。
    >
    > (注釈 徳川幕府は開幕以来一貫して権威造りの政策を実行した経緯がある。
    > 例えば、「三河の勃興姓族」でありながら強引に「藤原姓を名乗る」、「源氏姓を名乗る」、「征夷大将軍の頭領の称号事件」など数多くある。)
    >
    > ”「姓族の武士家」が行う「偏諱の催事」“としても「権威造りの制度」としたのである。
    > この事(「姓族の通名」)が、結果として、広く他の大名などにも受け入れられて引き継がれる様に成ったものである。
    >
    > 江戸幕府は、「朝廷との関係」が上手く行っていなかった事から、この「偏諱 (へんき)」を「吉宗の偏諱」を通じて利用して、「幕府自らの権威」を造り上げ高め、「朝廷の権威」に頼る事の無い様にした政策の一つである。
    > 「大名の跡目」などの時にも、この「武士様の偏諱」の「偏諱 (へんき)」に近い事をして「権威付け」をしたと観られる。
    >
    > これには、江戸幕府には、“「ある目的」”があって、無暗に与えるのでは無く、「幕府の意向」に沿って実現した者に、この「武士様の偏諱の儀式」を行って、その「見返り」に「幕府の権威名」を貰ったと云う事にして、従わせて行く政策を展開したのである。
    > 実に安価安易で行えて貰った大名側は、一種の「幕府のお墨付き」を貰ったとして「勢いづく事」に成る政策と成ったのである。
    >
    > 筆者は、この“「ある目的」“のこの「表の目的」は、上記した様に、「幕府の権威造り」に利用された事もあるが、「裏の目的」は、「紀州藩」への「幕府の意向」を”「ある決断」“で実行させた事への「信任状の意味」もあったと観ている。
    > 幕府主導でこれを表裏一体として連動させたと云う事であろう。




    「伝統シリーズ−26」に続く。

    この様に、「偏諱(へんき)」を知る事で、「偏諱(へんき)」で「吉宗」が「幕府(綱吉)」からどの様に観られていたか、扱われていたかが良く判る催事であった事が判るのである。

    そこで、「偏諱(へんき)」の持つ意味から考えると、「紀州藩の世継ぎ」に付いて“「家臣団のある決断」”にも可成り影響した事は確かであった。

    実は、この「偏諱(へんき)」(1705年10月)で、歴史的に「青木氏の歴史観」が変わる事が起こるのである。
    「吉宗 頼方・源六」は、1705年10月に「偏諱(へんき)」を受けたのだが、そうすると、ところが、歴史的に、この「偏諱(へんき)」で「吉宗 頼方・源六」は江戸に居たとする説に成るのだ。
    そうすると、この「江戸滞在の説」に成ると、「紀州藩の世継ぎ」の“「ある決断」”の意味合いが変わって来る。
    つまり、「吉宗(頼方・源六)」が、“紀州か伊勢に居なかった”と云う事に成る。
    “「ある決断」”の実行時には、現地の紀州に居ると云う事は戦略上、先ずあり得ない。
    戦略上では、「伊勢滞在」で無くてはならない。
    ところが、1705年の8月と9月に後継の二人の兄弟が急逝しているとすると、この直後(3月後)の1706年1月には、慣例に従わずに早くも幕府から「偏諱 へんき」を受けている。
    そして、「吉宗」は、その直後に「親王家の伏見宮家」から正室(1710年の死別)を迎えている。

    つまり、この経緯から「偏諱(へんき)」を受けた直後には、江戸から飛んで返して「婚儀の準備」の為に紀州か伊勢に居た事に成る。
    この事から、「喪中開け(1706年10月)」の直後に、「伊勢神宮」にて式典を行った事から紀州では無く「伊勢」に戻って居た事にも成る。
    兎も角も、慣例に従わず何事も矢継ぎ早である。

    そうすると、「紀州藩主」としての承認を受ける「黒印状授与」と、「権威付け」の「偏諱(へんき)」の前(1705年6月)と後(1706年10月)には「伊勢」に居た事に成る。
    この「伊勢」に居れば、“「紀州殿談合」(1705年6月)”の「伊勢青木氏の商記録年譜」から考えても非公式でも“「参加」“はしている事になるだろう。
    問題はその「参加の形」であろう。
    然し乍ら、“「ある決断」”の実行時は、書類の形式上では、“既に江戸に居た”と云う事に成っている。
    (形式上の書類の記録では「江戸滞在の形」を偏纂した。)
    しかし、「藩主」に成る者として、「ある決断の実行」を知らないと云う訳には行かないであろう。
    “「知らない」”は形式上では「家臣の謀反」と成り得る。
    「家臣の謀反」の形は、「幕府」に執って見逃し固い。例え御三家と云えども「取潰し」である
    従って、ただ、“「知る範囲」“で良いだけで、「実行の参加」は必要が無く、むしろ「現場」にいない事の方が「アリバイ」が求められ戦略上は良い事に成る。
    如何なる理由や原因があろうとも、記録的、書類的には「三者共に病気原因」で済ませる事に成る。

    注釈としては、「ある決断」の実行時から「4年以上も時間」を置いた「吉宗入城」は1710年である。
    この「長さ」は「黒印状授与」と「偏諱 へんき」を受けた藩主としては「尋常な期間 (4年)」では無い。
    先ず普通はあり得ないだろう。
    これを理由に騒ぎ立てる御三家も居たのである。
    前段でも論じたが紀州藩は、この時期は「財政上の破綻」に近く、この環境の時が時だけに藩主が入城しないのはおかしい。
    其れも上記した様に矢継ぎ早に慣例を無視して短期間で藩主に成っているのである。
    “「ある思惑」“が働き、紀州には居たくない、或は、居ない方が良いとする戦略が働いたと観られる。

    そこで、この“「家臣団のある決断」”とは、「三代藩主(1705年」と四代目の継承者の廃嫡)」であったと考えられる。
    この決断に至ったのは、「紀州殿談合」での中での参加者の意見から、前段で論じた「紀州藩の困窮」を救うには、「藩主の判断力」とその「政治的背景」を改善する以外には、最早、「25/55万石の困窮破綻」の状況下では方法は無い。
    これを解決するには、“「廃嫡」以外には無い”として、「伊勢藤氏」等を交えた家臣団の中で談合後に決断したともとれる。
    問題は、“「廃嫡の形」をどの様にして遺すか“であろう。

    (注釈 上記の「郷士頭の遺留手紙」から 一部の文章の行からこの事を匂わしていたと推測される。
    事の内容である事から秘匿を旨とする事であるので、“間接的な匂わし”で書いたと考えられる。)

    「25/55万石の困窮破綻」の紀州藩の「財政破綻」ともなれば、「吉宗育ての親の青木氏」が「吉宗・頼方源六の背景」と成っている以上では、且つ,家臣の彼らが「伊勢藤氏の同族」である以上では、先ず何はともあれやる事は、「青木氏」と「伊勢の紙屋」の「財力と地域力」に先ず頼る以外には方法は無い筈である。
    (「青木氏の紙屋」以外には「25/55万石の破綻」を救える商人は100%居ない。)

    そこで、「ある決断の実行」までの「応急策」として、「伊勢の紙屋」から「3年分6万両の借財」の契約を取り付ける事にあり、これを受けて、且つ、「優秀な吉宗」の「跡目の継承」を成し遂げる事と、「財力と地域力」の「青木氏」に依る紀州藩の「勘定方の指導」のこの「二策」を引き入れようとしたと考えられる。(現実に引き入れている。)
    其れには、当然に能力の無い「公家族系の二人の兄弟の存在が問題」に成り、“「廃嫡」“と余儀なく成るのは、当然の成行きである。(上記の「病気説と疲労説」は疑問)
    むしろ、考えない方が、実行しない方が「愚者の家臣団」であっておかしい事である。

    そもそも、江戸の当時としては、混乱後の「藩の安定」を図る上で、この様な「藩主の廃嫡」は珍しい事では無く、この「厳しい時期」には各藩で最も盛んに起こっていた。
    現実には、上記した様に、この時期には特に多くの「藩主廃嫡」が起こっていて「御三家の尾張藩や水戸藩」でも起こっている位の事である。

    例えば、次ぎの様に「御三家の尾張藩や水戸藩」を除いて、主だったところで「藩主の廃嫡」が起こっている。

    注釈として、大藩としては次ぎの通りである。

    尾張藩と水戸藩
    黒田藩(1655年)、
    西條藩(1705年)、
    岩代藩(1708年、1665年)、
    島津藩(1704年)
    以上等の様に大藩でもこの時期に集中して起こっており、矢張り、「経済的な行き詰まり」から「藩主の能力」に疑問があって家臣団が裏で合作している。

    取り分け、関西域では、小藩としてでも次ぎの通りである。
    「和歌山藩」「岸和田藩」
    「淀藩」「膳所藩」「彦根藩」
    「大和郡山藩」「明石藩」
    「姫路藩」「篠山藩」
    以上等にも起こっている。

    当時は、藩主の死亡原因の多くは、「病気」などの理由にされているが、後勘の研究で資料などが見つかり全て「厳しい廃嫡」であった事が判って居る。
    少ないが見本の様な「尾張藩」の様に「蟄居や隠居」で丸く納めて済ました事件もある。
    そもそも「紀州藩」だけは、「御三家の尾張藩や水戸藩」と同じ様な事が現実に起こっていて、後勘として公的に記録されているのに、紀州藩だけは公的な「後勘の評価」を受けていない。

    これは何故かである。
    これには、上記の様に、「幕府の偏諱」や「吉宗の廃嫡前後の配慮」等があって、記録が少ない事が云える。
    上記の廃嫡が起こった藩と異なる処は、実行した「紀州藩の伊勢藤氏の家臣団と伊勢青木氏」が居た処にあり、従って、流れから「後処理」をした事に依るのであろう。

    然し、「青木氏」等の家臣では無い関わりの強かった「関係者の遺料」には間接表現ではあるが遺されている。
    「伊勢藤氏の家臣団」は、事と次第に依っては「氏の名誉」にも関わる事であり、“遺料を遺す事を極力避けた”と観られる。
    と云う事は、この“「ある決断」”は、家老の重臣などを除いた「伊勢藤氏の家臣団」の上位の一部で行われた可能性が有るからだ。
    と云う事は、重臣が反対する可能性があった事が考えられ、それは二人の継承者に執っては「役柄の権益」に左右する事柄であった。
    その証拠に「嫡外子扱い」であった「吉宗藩主」と成った後には、これらの支藩の藩主と成っていた家臣の重臣等には「お役御免」が起こっている。
    「青木氏の勘定方指導」として入り、且つ、「借財」を受けた以上は重臣に執っては「施政方針」に従えない事もあり、退く以外には無い事に追い込まれるだろう事は判る。

    (注釈 中には「御屋敷族」から「御長屋族」に成った重臣も居る位である。ある支藩では立て続けに3人の支藩藩主が変わると云う事も起こっている。
    これは人事上の事が起こっていた証拠である。
    「吉宗」が江戸に将軍と成って下向した直後に、「青木氏」から指導を受けていた「勘定奉行」が突然に反発して勝手な事を発言して問題と成る等の事が起こっている。)

    上記の「二つの談合」に「二つの青木氏」が介在しての末に「善後策」を講じて密かに行われたと観られる。
    何時か「御三家の尾張藩や水戸藩」の様に、「尾張藩」は明明白白の行動を採り、藩主の経緯からも隠し切れない事であったが、取り分け、紀州藩と同じ様な経緯を辿りながら水戸藩の様に後勘で解明される事もあろう。
    此処では「青木氏の歴史観」の中で検証して置く。

    (注釈 前段でも論じたが、「光貞没後(1705年没)」の「四ケ月の間」にこの「三人」は続けて死亡している。
    死亡の原因説は疑問であり、これは恐らくは「廃嫡の後始末策の説」であろう。)

    故に、その後の「光貞没後5年」を経過しての宝永7年(1710年)の4月に「紀州入城」を果たした「吉宗」は、談合の「予定の善後策の計画」の通りに実際に直ちに「藩政改革」に着手した。
    これは「事前準備」が無ければ成せる事では無い。
    そもそも、上記した様に、「紀州藩の土台」が直ぐに改革を成せる状況の中には無かった。

    況して、合わせて次ぎの事が起こっていたのである。
    注釈として重複するが、1707年の宝永地震(南海トラフトの連動の地震災害)、宝永噴火、宝永富士噴火、長門地震、1708年にも「宝永地震」の余震と連続して1年間に5個の地震に依って伊勢紀州に大被害をもたらした災害があった。
    こんな場合は、本来なら藩主自ら出向いて積極的に指揮を執る事が常道である。
    それでこそ、「藩主としての信認」が得られる。
    この“不思議”と成るのは、この様に「災害後の3年後」まで直ぐには紀州に戻っていない事である。
    普通なら間違いなく非常時であるから戻るであろう。何故なのかである。
    これなら領民からも不満が出るであろう。
    注釈として、果たして不満が出ていたのかである。その事で意味合いが違ってくる。
    ところが、不思議に8年程度の間は不満は出なかった。
    この時、前段でも論じたが、紀州藩は伊勢から先ずは「2万両の借財」で被害対策は打った。
    そして、「青木氏の勘定方指導」の下で「殖産事業の強化」と「農民の税の強化と質素倹約を奨励」で凌いだ事もあり、少し遅れて問題の「1716年山中一揆」が起こった。

    (注釈 この「一揆」にはこの時期の「紀州藩の為政の状況」を示すある特徴があった。下記)

    その前に注釈として、この時の「災害の被害」は、何と25万石/55万石の被害であった。
    国の財政の半分の被害に成った。
    伊勢からの「借財2万両」では当座は凌げるが“焼け石に水”であった。
    当時は「災害と飢饉」(実態は施政の財政難も基本にあった。)であったので、 この時の少し後の「享保改革」で吉宗は、「経済の規準」が変動する「米の価格」であった事から、これを「統制された価格相場」にする為に「米相場制」を先ずは難波大阪に「相場施設」を造り始めて敷いた。
    当時は「災害と飢饉」の中での「米相場」が確定する様に成ったので、 この時の「米相場制の状況」を用いて換算が出来るので、経済換算の計算では、次ぎの様に成る。
    1石−5円、 被害は125万円、 1両−6万円相当 被害額は、小判21万両と成る。
    つまり、「当座の借財」の比は、2/21万両で 「当座の借財」は被害額に対して1/10である。
    これを三回に分けての計6万両では、1/4対策費である。
    残りの15万両は、結局は「殖産と増税と節約」でやり繰りする事に成った。 

    これが8年で完済したのであるが、この時の勘定奉行の自信に満ちた「有名な問題発言」が遺されている。
    それは、“農民と油菜は絞れば絞る程に出る“と発言し、批判を受けた有名な紀州事件であった。

    これは「後世の為政者」には語り継がれた「有名な神尾発言」と呼ばれるものである。
    残りの15万両は、「和紙の増産」と「油菜の殖産(紀州藩の殖産主体)」が4割、「増税は3割」、「節約は3割」としたと書かれている。
    それには、「増税策」は、「災害と飢饉」の為に“「微税」”としたと書かれている。
    「油菜殖産策」は、この頃から稲などの農産物に壊滅的な「害虫被害」が多発した。
    前段でも論じたが、紀州では偶然に、これにはある事がきっかけで「油菜の散布」が効く事が判り、その為に増産を奨励して各国に販売した経緯と重なった。
    この「油菜の販売と散布」は、「紀州藩財政立て直し」にも大効果をもたらし、「害虫被害」では、関西圏と山陽圏では大効果を発揮した事が記録で判っている。

    暫くは、この対策で凌げたが、矢張り、増税は微税ではあったが、飢饉の最中の増税であった事からも不満が蓄積していた。
    従って、「吉宗」が将軍に成って江戸(1716年)に出た後に堰を切った様に「紀州での一揆」(1716年)は起こった。
    この「一揆・騒動」が起こった事からこれは明らかに「不満蓄積」はあった事に成る。
    しかし、この「不満」に対しても、事前に「青木氏や紀州伊勢の郷士衆等」が不満を抑えるべく紀州にも「殖産策」を講じてはいた。
    ところが、「青木氏や紀州伊勢の郷士衆等」が吉宗に同行し、「勘定方指導」も引き上げた事もあって、「伊勢」は別として「紀州での殖産策の対策」はどうしても手薄に成った。

    (実は、上記の疑問としては、「青木氏」が勘定方指導していた「勘定奉行の神尾の発言記録」と「青木氏の商年譜の記録」に依れば、確かに「和紙と楮の増産」と「菜種油の殖産」が記録されている。)

    (注釈 紀州はリアス式で山間部が多く耕作地が少なく記録に載らない争いや騒ぎや騒動や暴動や一揆が多発した地域で、且つ、この様な事に郷士衆や農民の反発心が強い地域で、地域の郷土史にはこれらの口伝が伝えられていて表に出て来ないものが多い。
    田畑の細目の争いや池の水争いや堰の管理の仕方等から藩や役所の扱い方や政治のやり方まで起こっていた。
    本件も藩政に文句を付けたものであるので、資料では定義に従って「一揆」と書き記されているが、実態は「騒動」である。
    1716年頃のものは「一揆」と云うよりは「不満の騒ぎ」である。
    但し、地名から「山中一揆」と書き記したが、広島の同名の「日本最大の一揆」と同名と成るので変更する。)

    これに依って「増税分」を賄える様に工夫していた事に成る。
    この時の「増税の不満」は、次第に“「藩の政治姿勢」を改めてほしい“とのスローガンに代わって、これを藩は素直に聞き入れて「山中一揆」は解決した。
    それは「勘定奉行の神尾発言」の影響に対しての事であった。
    それは、吉宗の「紀州の改革政策」は、前段で論じた様に、「リフレーション政策」であったが、次ぎの藩主(第六代徳川宗直で、「吉宗従弟」、支藩西条藩)は、「災害と飢饉」の復興中でありながらも、この「神尾発言」にも観られる様に「インフレーション政策」に転じた事もあって、その政策に対して農民に大きな影響を与える事も起こって来た。
    それで、「一揆・騒動」は、“「吉宗のリフレーション政策」を継承する様に”と「一揆・騒動」の「スローガン」を突然に換えたのである。
    つまり、紀州で手薄に成った「殖産と節約の政策」に戻す様に要求したのである。

    (注釈 この「神尾発言」には、意味が在って、「増税と油菜の効果」の発言は、「リフレーション策」での施策前提であったのに、そうでは無く、“「インフレーション策」だ”と無知識に云っている。
    「神尾発言」は、要は「吉宗と青木氏批判」をしたと解釈できる。
    周囲から“自分の実績だ”と主張している事と解釈されていた。
    吉宗の後に入った「藩主」もこれを容認し「インフレーション策」を推進した。)

    この「一揆(騒動)」は、「インフレーション策」としての政策に対する不満で当初は議論されたが、この「神尾発言」から「一揆(騒動)」は「紀州藩の為政方針の批判」に変わった。
    そもそも、紀州は地形的な関係から「米策」を基本とする事では元の状態に戻るので、「吉宗ー青木氏」等が行った「殖産を基本とする政策」を変えないでほしいとの訴状で、要するに”「吉宗時の政策」を続けてほしい”との訴状に変わった。
    紀州には、「三大河川流域の平野部」と「紀伊山脈の山間部」とでは「根本的な考え方」が違う事から、「山間部の流域」からこの「騒ぎ」が起こった。
    この「山間部の流域」では「殖産」に適していた事から「殖産政策」を護ってほしいとの訴えが強かった。
    この「殖産」を行えるには「青木氏の支援」が絶対必須で、「青木氏」が「勘定方指導から引き揚げた後の事」に心配が及び、且つ、「享保の改革」に総力を向ければ「伊勢紀州への支援」は手薄に成るとの心配があった。
    更には、「不当な神尾発言」と「交代した藩主への実績の無さ」への「不信感」が募り、四つの事が重なり「一揆・騒ぎ」は広まって仕舞ったのである。

    以上の様な地理的環境を持っていた事から、「吉宗入城」の前から体質的なものとして「不満」は燻っていた。
    (秀吉の「紀州狩り」の時の令にある様に、この時は「紀州門徒衆」を中心としたが、基より土壌的、或は体質的に直接この不満を訴える癖を持っていた。)
    従って、「将軍」に成る為に江戸下向の後には、山間部の各地で上記のこの「四つの事の落差」から「一揆・騒動」の「不満爆発」は充分に予測できた。

    1705年10月には、「藩主」には、上記の通り、取りあえず「跡目継承手続き上」(黒印状と偏諱)から成ったが、この「不満の爆発」の矛先に成る事を避ける為に、直ぐに恣意的に「和歌山」に入る事を避けたと観られる。
    そして、この間に上記の「殖産策」の二手を打った事に成る。
    この不満が同時に下記の疑念に火が着く事を避けた事にも成る。

    それには一つには、「廃嫡を実行した家臣団を引き付ける目論見」があったと観られる。
    二つには、「廃嫡」に関わって「同時三人逝去の疑念払拭」を図ったとも一般的には考えられる。
    然し、この「二つの思惑」だけで“「吉宗の入城」をいつまでも押し留める事”は、この場合は論理的に不可能である。

    事は「非常事態」であり、「決済」は「家老」に任せば何とかなるとしても、何にしても先立つものは先ず無い。
    先ずは「藩主」と成った以上は、「打つべき手」は「借財の算段」である。
    これには、上記した様に、「応急策」として「伊勢の紙屋」から「3年分6万両の借財」の契約を受けた事に成って、その内の「2万両の借財」が着いた。

    然し、それにしてもおかしい。「青木氏の商年譜」によると、“その直前の1706年初期頃(3月頃)に一度入ろうとした形跡”が観られる。(婚姻の前)

    「光貞」からすれば「裳に服する期間」の2月前、四代目からすると6ケ月前であるから、「入城の為の諸々の準備」に入ったとも考えられる。
    ところが、丁度、裳が明けた時から1年後には、上記の「宝永の大災害」(1707年10月)が起こって仕舞って「大混乱」が起こり、「入城処の話」では無く成って中止に成ったと先ずは考えられる。
    そこで大筋では「吉宗」は、「入城」を先送りして、とりあえず「青木氏からの借財」を先ずは成立させてから、そこで家臣団に委ね「入城時期」を見計らったと考えられる。

    「吉宗入城を遅らす事」に対して、これには大きくは「青木氏等の戦略」(家臣団も含む)が間違いなくあったと観られる。
    「吉宗入城」を単に4年も遅らす事は、家臣団も黙っている事は無い筈で、それが可能に成ったのには“何かの妥当な理由”があったからこそ成し得た事である。

    戦略上は、「青木氏」に執ってこの事は、“「借財」だけで事は済むのか”と云う話である。
    「藩主」に成った以上は、「吉宗育ての親」としても、「借財貸手」としても、「地域力を持つ郷氏」としても、「地域の安定」を保つ意味としても、「経済対策」としても絶対に放置できない問題であった。
    「青木氏」として「本格的な戦略」を立てて臨む必要に迫られていた事は確実である。
    簡単に云えば、“吉宗の紀州藩の藩主に代わって財政的に再生の差配する必要に迫られていた”のである。

    ところが、それはなかなか難しい問題でもあった。
    この時期は、内では、上記で論じた様に、「15地域の商業組合」を広めている最中でもあった。
    “何かの妥当な理由”としては、“吉宗の紀州藩の藩主に代わって財政的に再生の差配をする必要か、「15地域の商業組合」の推進かの選択の判断に迫られていて、「伊勢」を離れる事は暫くは出来なかったと云う事であった筈である。
    本格的には、「4年後の入城」の後の事として、その前に、「2万両」で「応急の手立て」をし伊勢から差配する事に成ったと観られる。
    この為に「青木氏」としても「財政的」にも「陣容的」としても恐らくは限界にあって、余裕は無く「育ての親」としても「吉宗の入城」を「取り仕切る余裕」は先ず無かったと観られる。
    そこで、取りあえずは、「財政的な支援」として「借財6万両の内の2万両」を貸与だけは「手立て」をした。

    ところがそこで、災害中に先ずこの”「2万両の搬入」(a)”をどの様にして紀州藩に運ぶかに在る。

    (注釈 上記した様に、「青木氏」への「借財の返済」は、「吉宗」の「江戸入城後の2年後」までに完了している。
    「紀州藩の勘定方指導」で「紀州藩財政立て直し」に入って8年後である。)

    然し、これは当然に、”「吉宗の入城」(b)”と共に、セットでやらなければ成らない。
    取り分け、”「勘定方指導の役」(c)”は完全なセットでもある。
    だとすると、そこまでの「勘定方指導の役」(c)の余裕は「青木氏」には無かったと考えられる。

    そこで、これらの意味合い(a)(b)(c)を示す「資料の探索」をした。
    直接に関連する内容ではないが、これらを物語る「二つの資料」が見つかった。
    先ず一つは、「青木氏の商年譜」には、1706年3月頃に「摂津堺店」の船一艘が「堺摂津港」から出て「和歌山港」に入港している。
    これに付いては、先ずは考えられる事は、「2万両借財」を紀州藩に運び手続きを済ます事(1)であったと観られる。

    それだけでは無かったと考えられる。
    この「入港」が「吉宗の入城」の準備(2)なのか、「元禄大地震」(1703年11月)の影響で「支援物資の搬送」(3)なのか、将又、「入城に付いての今後の打ち合わせ」(4)かは良く判らないが、何か慌ただしい。

    答は状況証拠から観て「4つの事」(1)(2)(3)(4)の全てであったと考えられる。
    大きく分ければ、(1)(3)−(2)(4)で二つに分けられる。

    それを示す事としては、「伊勢」では無く“「摂津堺店」が動いている事”である。
    (1)と(4)は直ぐに対策を講じて実行に移さなくてはならない事である。
    そうなれば、「堺」は低い一山の山越で和歌山に近く、港にすれば隣港し、船を持ち支援調達し、その日の内に行動を移せるとすれば、誰が考えても「摂津堺店」であり、元より「伊勢」では無かった。

    当時の状況を考えれば、「青木氏」が採るべき行動としては、「妥当な事」で確実に関連している資料である。

    もう一つは、「南紀の旧領地」の「郷士衆頭」の家の資料には、「伊勢シンジケート」が、「山伝い」に「西の和歌山の隣の河内」と、「南紀州の串本」(紀伊半島南端)に動いている。
    この「二つの動き」から、恐らくは、「伊勢シンジケート」が「支援物資」を「伊勢」から山伝いに「津波の被害」の大きい河内に届け、最も地震の被害を直接受けた串本(青木氏の遠祖地)にも「支援物資」を届けたと観られる。

    (注釈 前段で論じた様に、「河内シンジケート」は「伊勢シンジケート」とは連携していた。)

    何故ならば、「河内シンジケート」(紀伊水軍と繋がる)に、先ず伊勢路伝いに「支援物資」を届けて、そこから彼等の「海の勢力」で「海伝い」に和歌山に運ぶ算段であったと観られる。
    それには、「伊勢」から直接に「和歌山ルート」は、「山越え」があり震災後で危険が多く非常時には無理困難が多い事があった。

    況や、これで(1)(3)−(2)(4)の中でも(1)(3)であった事が判る。

    この(1)(3)−(2)(4)を物語る「二つの資料」から観ても、つまり、「伊勢」では「15地域の商業組合」の仕事に、“「入城準備」と「支援物資」”とが重なり、到底、「勘定方指導」までは手配に入れなかった事が良く判る。

    「船の動き」では、「吉宗」と「青木氏」と「伊勢の紙屋」と「伊勢郷士衆」等の関係者も山伝いに「和歌山」に入り、この「入城準備」に入った和歌山港に集まり、家臣団と共に「談合の末」に延期を決めたと観られる。

    何故、“「摂津堺店」の船一艘なのか“と云う事であるが、緊急時の為に「摂津堺店」に応援を求めていて、がけ崩れや道路寸断などで危険で、山伝いの関係者の陸の至急の移動が困難であった。(上記通り5災害が連続した状況)
    「伊勢」より山一つ越えた隣の「堺」からの方が都合が良かったので、全ての差配を「摂津堺店」に任したと観られる。
    従って、「和歌山港の入港」は「吉宗入城の準備」の(2)と(4)であったと考えられる。

    結局は、(4)の中で(2)が検討される事に成り、(2)が無いと成ると、(4)に付いての「今後の戦略」を立てなければならない事に成る。
    当然に、「青木氏と紙屋と伊勢郷士衆」等の「伊勢側の者」が執るべき事は、先ずは「殖産に向けての準備」(4−1)である。
    この「殖産の準備の談合」に参加していた「紀州殿」の採るべき事(4−2)は只一つである。

    そこで、この「二つの行動」(4−1)(4−2)が合致して「紀州藩救済」の事は成立する事に成る。
    それが、「紀州殿のある決断」に繋がる事と成った。
    そこで、この「二つの事」(4−1)(4−2)が合致した事を確認した上で、「伊勢の紙屋」がそれに応えて“毅然と動いた”と云う事であろう。

    (注釈 この談合の「吉宗の参加」は「非公式の参加」であったと観ている。
    「公式」にしろ「非公式」の参加のどちらにしても「苦渋の容認」あった筈で、「紀州殿のある決断」は、「談合の結果」の「終末の唯一の判断」ではあったと考えられる。
    況や、“それしか無かった”と云う事であったろう。
    「吉宗決断」はそれを予測しての「暗黙の了解」であった事に成る。)

    この様な状況で「伊勢の紙屋と青木氏」は動かない方が変で、「吉宗」も「青木氏」を頼るしか無かった筈である。

    (注釈 本来は「福家」には祖父の話では「詳細な資料」が在ったとされているが焼失している。
    「口伝」では「南紀の旧領地の郷士の家(水軍の家筋)」に「大筋の話」で遺されている。
    この「口伝」では「伊勢水軍」と「紀伊水軍」は、「二つの震災」で幕府の指示で、公に成った資料に依れば、「東回り廻船の緊急配船」に廻ったと伝えられている。)

    (注釈 前段でも論じたが、「水軍の配船」は、「廻船の緊急時」には対策として幕府の事前の承認が在った。
    つまりは、「伊勢の山田奉行所」の「七箇条のお墨付き」があった。)

    この注釈から考えると、と云う事は、“「動かせる船」は限られる”と云う事に成り、「摂津堺店」の船が「堺港」から動いたと成る証拠でもある。

    確かに、兎も角も、全国的にも「郷士の力」は、「戦乱後と経済の疲弊」が原因して非常に少なく成り、弱体化した「伊勢衆の力」をこの「殖産」で興す必要があった。
    一挙両得であった。

    そこで、何故、紀州藩は、「本領の紀州」に対して「殖産」を積極的に呼びかけずに、「飛び地領の伊勢」に対して呼びかけたのかと云う疑問がある。

    それは次ぎの事に依る。
    一つ目の理由は、「青木氏の総合的な地域力」の大きさに在ったからである。
    二つ目の理由は、「藩主」と成った「吉宗の育ての親」であったからである。
    三つ目の理由は、「家臣団の郷で縁籍筋」である。
    四つ目の理由は、「苦肉の策の廃嫡」である。
    五つ目の理由は、「殖産の適切地域」である。(リアス式地形から平野部に対して山間部の比率が大きい)
    六つ目の理由は、「青木氏は郷氏」である。(紀州には「氏族の郷氏」は無い。)

    (注釈 他に「紀州豪商」が在ったとしても「氏族の郷氏」では無い事から、民間が紀州藩を救う事等の「義務」は無い。
    そもそも、「氏族の郷氏」は、地域の「奈良平安期の王」の「古来の主」でもあり、その「地域を救う義務」は藩主に次いであった。
    況して、所謂、「武士の社会」に成ったとしても、朝廷から「賜姓五役」として永代に努めなければならない「賜姓族」でもあって、その自負は持ち続けていた。

    (注釈 朝廷の「西の政権」が続く以上は永代の役目である。
    江戸時代もその「西の政権」としての「権役」は朝廷業務に限られるが、幕府より役人が派遣されて正式には「西の政権」と云う呼称で存続はしていた。
    室町期から江戸期にかけて朝廷の「西の政権」は弱体化したが、制度としては“「西の政権」(朝廷の政権)”として存在し続け、特定の範囲での政治を行い幕府から監視役が派遣されていた。
    唯、幕府推薦にて官位官職の権威付けの授与程度の事であり現実には困窮の環境下にはあった。
    そもそも、前段でも論じている様に“「賜姓族」”としては、その意味で「臣下」したのであって、この“衰退した「西の政権」”とは云え続く限りは、又、「青木氏」に与えられた゜賜姓族」に伴う官位官職格式が永代とされている以上は、「青木氏としての考え方」では、その内容は兎も角も、少なくとも「特定地域の伊勢」では“「賜姓五役」”は続く事に成る。
    従って、時の政権が「東の幕府」に成ったとしても密かに続けていたし、この「青木氏の西の政権への影行動」を鎌倉と室町と江戸の三つの幕府は黙認していた。

    重要な注釈として 「青木氏」の「西の政権への影行動」に対して「青木氏への圧政の記録」は見つからない。
    仮に時の政権からの「圧政」があれば「青木氏」は現在までの氏存続は無いだろう。
    「500万石」と云われる程の「二足の草鞋策」を敷きながら、これを「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社500社」に上る建設と維持費等に使用しながらも、「西の政権への影行動」を含む“「「賜姓五役の財源」”としても用いた。
    然、これが「公然の役として行う立場」にあって、それを「青木氏の氏是」として守り続け、出過ぎずに「影行動」として維持する姿勢であったからこそ幕府は黙認した。
    そして、「西の政権の息根」を必要以上に止める事無く維持出来得れば、「幕府」に執っては政治的に経済的にも逆に都合が良かった筈である。
    故に、三つの幕府からの「青木氏への圧政」は無かったのである。

    (注釈 「青木氏の影行動」の「献納金」の経理上の記録は松阪の大火で焼失して記録は無いが、「影行動の有無」の行の一節はある。
    上記の数式論の通りで、「西の政権への献納金」と「紀州藩への貸付金」との両方で抑えて置けば「青木氏への圧政」は無い。)

    これには「青木氏」が採った姿勢として“「公然の役として行う立場」”が大きく左右していた。
    その「立場」は、100年程度の立場では無く、江戸期で観れば「1000年を超える立場」であった。
    この「立場」を否定でき得る政権は無かった筈である。
    最早、これ「1000年を超える立場」は、朝廷の様な「政治的権威」では無かったが「完全な歴史的権威」であった。
    この「1000年を超える立場」の「権威」を否定すれば、「幕府の自らの立場の短さ」から「自らの権威」を無くす結果とも成り兼ねなかったからである。
    所謂、社会が認める大見栄をきって”「影行動を行える大義」”が其処に存在したからである。

    そもそも、例えば「後鳥羽上皇」が「朝廷の権威」を再び高める為に「不満の御家人」を集めて「承久の乱」を興したが、果たして“この「戦いの財源」は何処から出たのか”と云う事から考えても、どこかからかこの「相当な戦いの財源」が出ていたからこそ「乱」が起こせたのである。
    では「不満の御家人」がその「戦いの財源」を出し得たか、そもそも「財源と成る物」を幕府から与えられなかったからこそ「不満の根源」と成っているのである。
    つまり、何れかから出ていた事に成る。では何処から出ていたのか。
    「政権奪還の戦い」に失敗すれば、「上皇の朝廷」は生きて行く財源が枯渇する。
    それこそ霧消するのにその心配なく実行した。
    現実に「幕府の圧政」が加えながらも生き延びて存続している。
    何処かから「影の財源」が流れていたからである。
    これが少なくとも「伊勢青木氏の財源」であったと説いている。
    幕府が「西の政権の息根」を完全に止めようとすれば、「青木氏の影行動」を止めさせれば良かった筈である。

    然し、「三つの幕府」ともにそれを敢えてしなかった。何故かである。

    その概念から云えば、「朝廷=権威」の概念である。
    その「権威の朝廷」を崩せば、自らの「幕府の権威」付けるものが無く成る。
    そうするとその「権威付け」は「恐怖の武力」以外にはない。
    自らの「幕府の権威」を貯めて支配性を維持させるとすれば、幕府より「高い権威性」を持つ「朝廷」を崩す事は先ず得策では無い。
    かと言って高める事も得策では無い。
    況や、数式論にすれば次ぎの様に成る。

    「朝廷」>「氏族の賜姓源氏と執権」>「源氏傍系支流族足利氏」>「権威性の無い姓族の徳川氏」>「姓族」

    以上と成り、「朝廷の権威性」をより必要とした。

    この「朝廷の権威性」は、何も施政上はより強力なもので無くても「象徴的な権威性」で良い筈である。
    自らがその「象徴的な権威性」を領して「幕府」と云う「軍事的な権威性」で補完出来る。
    「象徴的な権威性」を利用でき得ればその範囲で存在して居れば「為政」は元来成り立つ。
    後は、「軍事的な権威性」に補足する「習慣仕来り掟等の権威性」を「朝廷」やそれに類する「賜姓族」から獲得すれば、次ぎの数式論は成立する。

    「象徴的な権威性」=「軍事的な権威性」+「習慣仕来り掟等の権威性」

    以上の数式論の概念が成り立つとすれば、「最低限の朝廷の存続」と補完的な「青木氏等の影行動」が必要に成る。

    さて、これが上記の“「三つの幕府」ともにそれを敢えてしなかった。
    これが”何故かである。”の答えに成る。

    だから、「徳川氏」は、”「青木氏の偏諱」”に代表する「慣習仕来り掟の採用」を「幕府仕様」に換えて行ったと云う事である。
    ただ、一人この概念を持たなかった人物が居た。それは「織田信長」であった。
    「軍事的な権威性」だけに頼った。
    要するに「軍事的な権威性」だけに頼った「共和制の国家体制」であった。
    だから「青木氏の存立」に影響した「伊勢三乱」が起こったのである。
    然し、多少の「朝廷の権威性」の感覚は持っていた証拠もある。
    それは「北勢の北畠氏の乗っ取り」である。

    「朝廷の学問処」を務める「北畠氏」は、永代に「不入不倫の権」で護られていた無防備な伊勢に武力で簡単に浸食し、「朝廷の権威」を笠に「御所」等と呼称して館を造り、「公家武家の権威」を披歴した。
    これを「織田信長」は、手っ取り早く「伊勢」を統括する為に利用したが、伝統高い特異な伊勢では、取り分け、突然に侵入して来た地元に「絆の薄い北畠氏」では、”「織田の思惑」”は上手く行かなかった
    結局は「伊勢三乱」と成ったのだが、前段でも論じた様に、「青木氏」は、初めてこの時に「氏の危険性」を感じて「二度の武力」で応じた所以でもある。

    その意味でも、「皇族賜姓臣下族」としての「悠久の権威性」を持つ「青木氏の氏是」は納得出来る。
    「氏是」を無視し表に出る行動を採れば、上記の幕府や信長の様にこれを利用する者が現れ、必然的に「影行動」は表に出る事は必定で、そうなれば「影行動」では最早無く成り、「幕府黙認」は成立しなくなる危険を孕んでいる。
    これを「公然の役として行う立場」であった平安期が終わり、鎌倉期と室町期と江戸期に成っても続けて来たのである。

    上記の様な経緯を持っている事を前提に基の話に戻して、これだけの理由が整えば、誰が考えても「吉宗の居所」は「伊勢滞在」と成るだろう。
    「紀州」、「江戸」、「京」に居るよりも「伊勢」に居る事の方が全ての戦略の上では得策である事は明白である。
    「伊勢と紀州」は、「戦乱後の混乱状態」からやっと脱した時期でもあり、且つ、上記した様に、紀州では「10万両の借財 55万石の1/2の財政」=「廃藩寸前の財政」の状況下に陥っていれば無理である。
    この「頼みの綱」は、結局は,誰が考えても「飛び地領」の“「青木氏の地域力(500万石程度)」”と云う事に成る。

    (注釈 前段で詳しく論じたが、誰が考えても困窮して人に頼らなくてはならない時に、傍に金に成る樹の「豪商」が居れば誰もが利用する。
    又、利用しない方がおかしい。況してや「育ての親」である。)

    そこで、この「伊勢の特異な環境」に「本腰」を入れたのが、そもそも、前段でも論じたが、最初に取り組んだのは「初代頼宣」(家康)であって、次には「五代目吉宗」と成ったのである。
    何れも成功している。
    前段で論じた様にこの様な殖産で繋がる「協調の経緯」を歴然と持っている。
    そして、紀州藩の「二人の藩主」が取り組んだのは、それが,「青木氏」と共に”「殖産」”のみならず、“「有機的に動く新しい殖産」を興す事”であった。

    それは、つまり、個々の「青木氏の殖産」を、平安期から築いてきた「総合商」と結び着けた前段で論じた”(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合方式」”であったのだ。
    それを「特定地域の伊勢」から“「紀州域にも波及させる」“と云う事であって、異なる所は、その「波及手段」としては”「紀州藩勘定方指導」”と成った事であろう。
    それ以外には、「紀州への波及手段」はない。

    注釈として、重要な事は「単なる波及手段」と云う事には成らない。
    そこで、これらの「殖産」を進化させて「御師制度」等や「提携商人」や「金融制度」や「運搬と護衛」等の制度等を加えて紀州で使える様にする必要があって、それを「一つの制度」として組み立てる必要があったのである。
    ところがこれには、悠久の時を得た「絆のある伊勢」では無い事もあって、”「相当な容力」”が要求された。
    当然に、その「準備期間」が充分に必要であって、それには先ずは「伊勢の絆力」を使って「紀州」に「繋ぎの土壌」を作らなければならない。

    総じて、「郷士衆の勢力圏」で細かく構成している当時の社会体制で出来ている以上は簡単では無い。
    当時の社会は、藩主や家臣から農民に直接に繋がっていた訳ではない。
    その間には、「郷氏」が在れば「郷氏」に、無ければ「郷士」が介在して農民との連携社会が出来ていた。
    「紀州」は「伊勢」では無い事から「郷氏」は無い。
    それに代わるものとしてあるとすれば「熊野宮司族六氏」くらいである。(紀州は「門徒衆の勢い」も江戸期以前より強く秀吉も施政の邪魔として「紀州狩り」を実行して手を焼いた位である。)
    この下に「紀州郷士」が介在した構造を持っていたが、「熊野宮司族六氏」の下の「郷士」は発言権の問題で殖産には使えない。
    だとすると、「熊野宮司族六氏」の一つ「日高氏」の勢力北限域は熊野神社第一藤白神社の鳥居地区までこの社領勢力圏であるが、凡そ日高地区から外れた有田地域以北と云う事に成る。

    つまり、その「繋ぎの土壌」と成り得るのには、伊勢側も紀州側も土地に根付く「郷士衆」であった。
    その上で、それには「青木氏の紙屋の商記録」と「郷士衆の家の遺手紙」から観て、「伊勢郷士衆」と「紀州郷士衆」の「連携の話し合い」が持たれていた様である。
    この「青木氏側からの資料」である為に「紀州藩の関り具合」が良く判らない。
    「紀州藩での資格」の参加は、兎も角も、家臣団とも成っている「伊勢藤氏の介在」はあり得たのではないか。
    恐らくは、上記の「手紙の存在とその内容」から判断して、「南勢の旧領地の郷士頭」が「紀州の郷士頭」に「談合話し」を持ち込んだ様である。

    問題は「南勢の旧領地の郷士頭」がどの様な経路を通じて「紀州の郷士衆頭」に話しを通したのかは、調査したが資料的なものは見つからない。
    確かに、この「南勢」は地理的に紀州に最も近い。
    「伊勢」との間には紀伊山脈が憚っていて「南勢」が地理的に近い事に成る。
    然し、この間には「熊野神社宮司勢力の六氏」が日高地域当たりまで伸長している。
    その「神職勢力」を飛び越えて、そこから、「南紀」から「紀北」に掛けての「紀州郷士衆の勢力」に「繋がり」を持つとすると、山伝いに「伊勢シンジケート」しかない。
    然し、実際は「南勢の旧領地の郷士衆頭」が動いている。
    確かに「殖産の談合」としては「伊勢シンジケート」では無理であろう。
    前段でも論じたが、「北山郷士衆団」や「戸津川郷士衆団」や「熊野六郷士団」や「熊野水軍」や「伊勢水軍」等があるが、「殖産」としてはこれらは全て「山間部の勢力」であり、既に「和紙楮の殖産」は南紀までの域で敷いているし、現実的には新たな殖産を大々的に進めるのは地形的に地理的に無理である。

    最も、考えやすいのは、「紀北まで勢力」を持ち「地元郷士への支配力」を持つのは「熊野神社の広大な社領域」を持っていた「日高氏」ではあるが、然し、所詮は「熊野宮司族」である。
    「殖産」には縁は無く、「自らの経済力」で生きられる。
    「紀州藩云々の話」には載って来る事は先ずない。

    後は、「近江秀郷流の脩行系青木氏」の紀州残存の中紀から紀北域に分布する「末裔の郷士族」か、「秀吉の紀紀州門徒狩り」で「青木氏」が何とか救ったが、この紀北から南紀に分布する「門徒衆の郷士衆」(紀州は門徒衆が多い)等がある。

    前段でも論じたが、この「紀州門徒衆」の過激な一部は、「伊勢の射和地域」に保護して「仏施の質」で「商い」に導いたが、恐らくは、「南勢の旧領地の郷士衆頭」は、この「宗教の繋がり」で「門徒衆との繋がり」を持ったのではないかと観ている。

    その根拠は、上記した様に、「吉宗江戸下向」の直後に起こった「郷士と農民の騒動・暴動(4日)」がある。
    (紀州は公の記録に載らない「騒ぎや騒動や暴動」は頻発していた地域。)
    注釈して、そもそも、紀州藩は吉宗の跡に新しい引き継ぎの考え方の違う藩主(支藩の二代目の従弟)が就き、逆に「青木氏」がこの紀州から手を引くと云う前提であった。
    前段でも論じたが、この「伊勢の郷士衆」を引き連れての「吉宗江戸同行」である限り、「紀州での殖産事業」から手を引く事は必定で、困った「紀州の郷士衆」等は「吉宗の施策の継続」を願って居た。
    ところが新しい違う事をする新藩主に不満をぶつけた事件の様な事件であった。
    この「郷士衆と農民の騒動・暴動」の「最初の不満」は、多くは「税に対する不満」であったが、騒動・暴動の最後には「吉宗施策の継続」を「訴え」としたものに成った。
    新藩主はこれを便宜的に認めて宥め終わらせたが、実際は「継続」はしなかったどころか「先導者の郷士衆」を捉えて斬罪した。
    これで「紀州郷士衆」からは更に信用を失ったし、そして、紀州藩の新藩主は、大口を叩きながら、又、恒常的な「借財の財政」に戻って仕舞ったのである。

    (注釈 その後、「青木氏」が引き上げた「紀州藩の殖産」は、「青木氏」が引き上げてからでも、「菜種」は蜜柑畑で作れるが、これを集めて搾り菜種油や肥料などにし、それを堺店を通じて販売ルーツに載せる事には財力が必要で殖産は大きく後退したと記されている。)

    (注釈 「堺店」には青木氏等が投資し経営していたとする「搾油工場と肥料工場と販売拠点」があった。
    その後、この「堺店」が引き継ぎ1765年代には、別の伊勢商人に販売権利を移した事が判っている。
    その後、国内向けに継承し主に江戸に運んだ事が記録されている。
    これを境に室町期末期(1669年文献 テンプラ 輸入品)頃から使用が起こったが、上記の殖産で国内産で大量に使える様に成った事で「江戸文化」では享保の前後から「天ぷらの食文化 1720年頃」が進んだ。)

    (注釈 この「紀州藩借財」は幕末まで引きずり、結局は上記した様に、再び「青木氏」が「勘定方指導」に入る始末である。
    「享保の改革」で1780年に江戸より引き上げて、丁度、100年後の事である。
    この辺からは、「青木氏と紀州藩との関係」は詳細に記録でも口伝でも判り、「頼宣以来の親密な関係」に戻る。)

    これは「門徒衆との繋がり」を示すもので、続く「騒動・暴動」は明らかに「門徒衆の郷士集団と農民集団」であった事から判る。

    この様に、「紀州を救う殖産」には「絆のある伊勢」と違い紆余曲折の時期が在った。
    そもそも、有機的に動く”「新しい殖産」を興す事”と、それを“「進化させた制度」“に「仕上げた時期」と、その「実行のキッカケの時期」は、4年後のこの時(上記した「吉宗入城」を果たした時)であったと考えている。

    つまり、紀州殖産には「四年間の準備」が掛かった事に成る。
    この「吉宗入城の2年前頃」から、「南勢の郷士衆頭の家の記録」で観ると「紀州殖産」は始まっていた様で、恐らくは、「吉宗入城時」を「記録上の起点」にしたと考えられる。
    つまり、「紀州殖産品」は、「青木氏の販売ルート」に載せる必要がある事から、この殖産品を貯蔵し、販路を造り、正式な拡販に持ち込むには時間が掛かって「吉宗入城時期」と重なったと観られる。
    恐らくは、この事から「紀州殖産品」は主に「中国への輸出」であった事が判り、その為には「殖産品」(油菜)を先ず大量に確保する必要があった。
    貯蔵の蔵倉が必要に成った。堺摂津店の記録に観ると、「貯蔵庫の造営費」としての細目の記載はないが「殖産準備金」の大枠での合切の形で記録が2年前に観られる。
    この間、前段でも論じたが、“「青木氏の殖産」”であったことから「殖産品への対価手立て」は「青木氏」が負っていて、後は「輸出品の実績」(菜種油と記録 人気商品の大量輸出の記録)に関わった。

    「吉宗入城後」は、輸出以外にも関西域の国内にも販売し、「農薬散布材」としてもトップ商品に成っていた事からも記録上はこの時期を選んだと観られる。

    前段でも論じたが、当初、油菜の薬剤散布の使用は、幕府は麦作に影響するとして関東では1880年頃まで禁止していた。
    唯、関西域と中国域では、当時、大被害を興していた「害虫被害の散布材」に効くとして黙認した事と、江戸初期頃から中国料理が広まり国産需要が高まった事とで、何をともあれこれを見越して御三家の「紀州藩生き残り策の殖産策」に用いられた事である。
    それまでは需要も無く中国からの輸入に頼っていたが、ところが「青木氏」はこれを殖産にして、逆に中国に輸出するとする戦略に換えて勝負に出たのである。
    先ず「害虫被害策の散布済」がきっかけで、そこに「食文化の変化」が起こり、「青木氏の読み」は見事に当たった。

    (注釈 「油の食文化」は「青木氏」が宣伝とプレゼンで恣意的に興したのでは無いかと考えられる。
    それでなくてはマスコミや宣伝媒体がそれほど発達していない中でこれほどに短期間で起こる事は先ず無いであろう。現在でも難し程である。)

    国内的にも「享保から正徳」(7−8年程度)に掛けて国内でも超爆発的に成ったのである。
    (実質は伝わる期間としては3ー5年以内程度である。)
    唯、享保に入る前は、「薬剤散布の使用」を黙認させたと云え「幕府の禁止令」が在って、「青木氏」は「紀州郷士衆」と談合して、この「苦肉の対策」を採った。
    それは、何故解るかと云うと、「害虫被害」を受けている「ミカン畑」にそれまでは肥料として天草(寒天に使う)を撒いていたが、この海草の「天草」が、前段でも論じた様に「寒天」として爆発的に商品と成り、記録から観ると止む無くこの代わりにこの「油菜」を撒いた事が判っていてこのから来ている。
    これであれば、幕府禁令に抵触しない。
    そこで、幕府黙認する中で、この「油菜」(1)と「菜種油」(2)を殖産した。
    そして、その記録に観ると、「搾粕」を蜜柑畑に捨てたところ害虫は死滅したのである。

    ところが「青木氏」はこの事に抜かりは無かった。
    これを喧伝して「害虫被害散布材」(3)として関西で販売して解決させこれでも大当たりした。
    「菜種油」(2)は良品質に改良して、中国に逆輸出し、国内需要にも対応したのである。
    幕府は黙認どころかむしろその才に驚き「吉宗」に注目し始めたのである。

    直ぐに幕府は、紀州に見習ってミカン産地の静岡地域にもこの禁令を解き、形式的には全国的には1785年に正式に解いた。
    「油菜の搾油技術」を開発し、その工場を伊勢と大阪(堺)に建設して本格的に稼働させたのである。
    この時期が4年後であった。

    (伊予、讃岐、安芸まで「天草寒天」と「蜜柑畑」と「油菜搾粕」と「菜種油」の環境条件が一致していた為に瞬く間に広まった記録されている。)

    そもそも、「伊勢藤氏の青木氏族」が家臣と成っている「紀州藩」を救うには、「頼みの綱」の「青木氏」が、「伊勢の殖産」のみならず、これを更に確実に「15地域」に広げて、その「パイ」を大きくして、戦略的に「成功要素」を先ずは確実のものとする事であった。

    その「紀州の4年の成功体験」を元にもっと大きいもの(享保改革)を救う為にも、先ず紀州藩を「伊勢の殖産」で救い、更に、6年後には、これを1716年に江戸に持ち込んだと云う事(「享保の改革」)である。
    つまりは、この「紀州の4年の成功体験」は、元より「享保の改革」までの「政治的な概念」を「吉宗」は当初から伊勢で「経済学的な概念」として既に持ち得ていたのでは無いかと考えられる。
    (故に青木氏は育ての親としても賛同し後押ししたと考えられる。)
    この「政治的で経済学的な概念」を実現するには、先ずはその基と成るのは「abcのイロハの商業組合」の「経済論」であって、この「経済論」を「リフレーション政策」に置いていたと云う事である。
    その「リフレーション策」は、前段でも論じた「仏施の質の策」で「経済の基本」を興す事に在った。
    (幕府はこの「吉宗の様子」を伺っていたと云う事であろうし、それが基で「将軍職の話」が出たのである。)
    それはつまり、「江戸様の殖産」であり、吉宗に「江戸様の殖産」をやらせようと考えたのである。故に将軍劇が全く例外中の紀州から以って来る将軍劇が起こった。それでなくては「綱吉とのお目見え」や「偏諱」などの例外を起こす理由にはならない。

    そもそも、伊勢や紀州等と違い郷士衆などの殖産を興す”核部分に成り得る「中核」”は全く江戸には無い。
    そこで、その「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」で興し、「伊勢の殖産」に相当するものとしたと云う事である。

    「伊勢の殖産」=「改革」=「江戸の仏施の質」
    「郷士衆」=「殖産の担手」=「庶民」
    「地場産」=「殖産の核」=「商い」
    「青木氏」=「殖産の資」=「質の担保」

    以上の数式の位置づけに成る概念なのである。
    伊勢で教育を密かに受けこの概念を作り上げていた事に成る。

    唯、以上の様に江戸には「殖産の基」に成る物が無かった。

    恐らくは、この様に江戸には「殖産の基」に成る物が無いところから、この「数式に基づく経済論」を既に構築していたと云う事は、相当に当初より「吉宗と青木氏」は、事前に「論理的な経済論」を練って持っていた事を示すだろう。

    返して云えば、「将軍論」、又は「幕府立直し論」は「御三家としての吉宗」は持っていた事に成る。
    その証拠に「将軍」と成って直ぐに”「経済の基本」”と成っていた「米価値」を「相場制」に変革したが、この時の苦労話が詳細に記録されている。
    この記録から観て、確固たる経済論は持っていた事が判る。

    「経済の基本」を「米相場」の改革をし、それを「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」に置いたと云う事である。
    これは一部の市場を特定のものに任すのではなく、ニーズに応じた市場に任し、それを幕府がある程度に監視管理して米価値をある範囲に留める基本政策である。
    これは「インフレ策」と「デフレ策」の間の「リフレ策」に外ならないのである。
    これに「中核」と成る「核」を「商業組合」と「仏施の質」に置いて誘導すると云う政策であった。
    中々に「難しい専門的な経済論」であってこれを理解する者は青木氏以外には吉宗の周囲には少なかった。

    ところが、この「リフレ策」を進める中で、「米相場改革」しても「米に依る藩の財政」を圧迫している「障害」と成る事がここにあった。
    その一つは「参勤交代制」が「藩財政」に大きく圧し掛かっていて、この「米相場制」が当初機能しなかった。
    そこで、「吉宗ー青木氏」はこの「リフレ策の政策矛盾」を次ぎの方法で解決した。

    1 それは先ず「障害」と成っていた参勤の交代期間を短縮する代わりに、一万石に付き米100石を幕府に献納する条件を付けた。
    2 次に、「交代の者」の内容等も緩和する事にして、その代わりに「献納米(換算の献納金)」を幕府に俱納する条件を付けた。
    3 「米と貨幣の関係」を「藩負担の軽減」で「相場制」の中で一定に成る様にした。

    以上の「三つの条件」を付けて享保の幕府が藩財政を誘導した。

    この様に、「経済の根幹」を「リフレーション経済論」に変える為に採った「米の相場制」に観られる様に、それが、この「10年程度の経緯」を観ても、この様な「論理的な経済論」は持ち得ていた事が判る。
    然し乍ら、「論理的な経済論」を持っていたから全て積極的かなと思われていたが、ところが発見された「遺資料の行」の一節に愚痴の様に書かれている事を鑑みても、以外に“青木氏には余裕が無かったとする説”は間違いなく成り立つ。

    「青木氏の末裔」としての見方は、「吉宗と云う人物に関わった宿命」から責任を感じて「賜姓五役の範囲」から離れていても“走りに走った”と云う言葉に成る。
    「賜姓五役の責任」を「青木氏が負う範囲」は、伊勢域に及ぶ殖産興業の範囲であると考えられる。

    (注釈 江戸期には「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の建設と維持等は江戸幕府に引き渡したので、その役目は地域としては「伊勢域の範囲」に留まる。
    従って、「紀州藩の改革」までは良しとしても、「江戸の改革」は論外であり、「吉宗との関り」からの事に成る。)

    前段で論じたその「吉宗との関わり」でありながらも、「1780年以降の幕府の仕打ち」から江戸を引き上げたが、「青木氏」は憔悴していた事は事実であった。
    ただ、その後、「幕末の紀州藩の勘定方指導」を再び受けた事は、この範囲までが限界範囲と考えていた事が判る。
    ここでも他一名の伊勢出身の江戸豪商と共に、紀州藩立て直しへの貸付金2万両はまたもや不当りに成る。

    末裔として後勘は、先祖の「愚痴の行」は理解できるし、筆者も「享保の改革」までの事を論じているが、実は釈然としないのである。
    そもそも、末裔の後勘としては納得出来ない事がある。
    あれほど青木氏の氏是を頑なに護り通しておきながら、この時の福家はここにきて”何故、氏是を護らなかったのか”である。
    「青木氏の氏是」からすると、「享保の改革」は確実に「青木氏の氏是」から逸脱している。
    「青木氏の氏是」に逸脱してるからこそ「世の条理」で「幕府の仕打ち」や「貸付不当り」が起こると云う事に成ったのである。
    釈然としないが果たして、この事を「後勘」でどの様に考えるかにある。

    「青木氏の氏是」を曲解したか。
    「青木氏の氏是」を無視したか。

    諸範の事情により、1000年以上の長い間の「青木氏の氏是」であり「福家」に選ばれた賢者でもある事から「曲解」は無いだろう。
    後は「無視」である。
    この「無視」には色々の「無視」がある。
    「無視」をしなくてはならない状況に「戦略上の流れ」に落至った事が挙げられる。
    何せ「最大の憲法一条」である。
    この「憲法一条」<「戦略上の流れ」と云う事に成ったと云う事に成る。

    何か証拠と成る資料か文章の行が無いか研究したが、答えは祖父の明治期まで福家はこれを検証していない。
    祖父は父の口伝からこれを是認している様であり、「未完成の忘備緑(仮称)」にも「否定の行」は無い。
    筆者は、”「吉宗の養育」が「戦略上の流れ」を変えた”と観ている。

    末尾に「戦略上の流れ」に対して、”走りに走り過ぎた”と「後勘の評価」しているが、要するに、”無視して走り過ぎた”のである。
    其の大きな走り過ぎた失敗は、前段でも論じたが、「仏施の質」にあって、「江戸様の仏施の質(2800店舗)」が原因していると観ている。
    この「失敗」にあって、”「江戸様」は無かった”と考えている。

    注釈として 唯、名誉の為に云うが、「商い」の為に 「青木氏」が「吉宗」を「将軍」にし積極的に「享保の改革」まで走ったと云う事では決して無い。それは「青木氏の仏施の質」が全てを物語る。やる以上は事を構えるが「青木氏の掟」であり、「青木氏の氏是」の範囲を頑なに護ったと云う姿勢であった事は否めない。
    「伊勢」は「伊勢」で歴然と構え、“江戸に伊勢屋を出した”と云う姿勢と云う


    風に考えた様である。この言い分は納得出来る。
    然し、では「青木氏」は“幕府政治に関わったのはどうなのか”である。
    明らかに間違いなく「布衣着用の政治的身分」である。
    これが「青木氏の氏是」に反する。
    それも、「六地域の青木氏」を「江戸の商業組合の商い」までに呼び込んでいる事は納得出来るが、「勘定方指導の補助役」に引き込んでいるのは「青木氏の氏是」に反する。

    そもそも、更に注釈として、「伊勢」は、江戸期末期には2度の大火に見舞われていたが、明治期に入ると一番の大火は「明治26年の大火」もある。
    ところが、更に、その9年後の明治35年には「青木氏の元締めの紙屋の家」から失火して、「松阪の大火」に成って仕舞ったのである。
    末裔としては、“走りに走った上に未ださらに走った”と云う感じがする。
    そして、「世の条理の洗礼」を見事に受けている。

    「末裔の後勘」としては、「青木氏の氏是」の範囲を護っていれば、受けなくても良い「洗礼」で在った様に感じられる。

    と云うのも、「青木氏の氏是」と共に、「青木氏密教」(古代浄土宗)から来るある「青木氏」ならではの「ある掟」が有った。

    それは、次ぎの「青木氏の重要な掟」である。
    「青木氏の心魂の概念」を根底から作り上げていた奈良期からの「悠久の概念」である。

    “「善悪の条理相対の理」”

    以上の「密教の掟」と云うものがある。

    「人生の精神の有り様」を説いている「掟」である。
    「賜姓臣下族の有り様」を厳しく戒めていた「密教浄土宗」から来る「掟」である。
    前段でも論じた「嵯峨期の詔勅の禁令」に「青木氏の慣習仕来り掟」(全50程度)を民は真似てはならないとする禁令であるが、その中の一つにこの「難しい掟」が有る。

    この説を判り易く租借すると次ぎの様に成るだろう。
    「人」には無限に「善と悪」が備わっている訳ではない。
    「人」が受ける「善と悪」は「有限の範囲」にあって、「相対の関係」にある。
    つまり、「人」は「善」を成せばその分「悪」は減る。
    同様に、「人」は「悪」を成せばその分「善」は減る。
    「人」は「善」を多く成すと、何時しか「如来」はその「善量」に見合う「幸」を与え、「悪量」を減らし、「人」は「悪」を多く成せば、何時しか「如来」はその「悪量」に見合う「不幸」を与え、「善量」は減る。
    「人」は個々に異なる「性の質」を持ち得る事から、その「人」の「幸と不幸」の「咎」は「如来」が決める。
    その「性の質」はその「人の前世(先祖)」のものを引き継ぐ。
    「如来」はこの「二つの世界」のその「人の善悪」を陵駕している。
    その上の「如来の差配」として享受しなければならない。
    況や、「人」の自らの「現世の善悪の行為」のみならず「前世の善悪の行為」を「如来」より授かる。

    「仏教」ではこれを「因果応報」と説いている事であろう。
    (「因果応報論」は「禅宗」が興る頃に確立した概念である。)
    唯、「青木氏」では「賜姓五役」を務める「賜姓族」として、況や「四家の者」としてあるにはより徹底した「行動の規範の概念」に置かねばならないとした。
    依って、来世の者の「善悪の相対」は「幸と不幸」に左右するが故に、「人」は斯くあるべきでこの「掟」に努めなければならない。

    難しい文章を筆者なりに租借すれば、以上の様な事であると考えられる。

    「皇族賜姓臣下族」、「賜姓五役」、「氏上」、「御師頭差配」、「郷氏」、「四家制度」、「福家」、「商業組合]、等、「青木氏」に課せられた立場は全て「組織の長」である。
    この「組織の長」のあるべき姿は、「人の信頼」を勝ち得る事に「一義」がある。
    この「一義」を成し得ない者は「組織の長」に成り得ない。
    「青木氏」である限りはこの宿命から逃れ得ない。
    この「組織の長」に成り得るには、“「善悪の条理相対の理」”に務めなくてはならない。
    取り分け、「皇族賜姓臣下族、賜姓五役」を成す者は“「善悪の条理相対の理」”の「人」であらねばならない。
    “「善悪の条理相対の理」”を会得する者は自ずと「人の真の信頼」を勝ち得る。

    簡単に云えば、低俗な「我欲」を張り通し、「人」に嫌な思いをさせ続ける者は、その分「自らの善」を失い、何時しか「如来」が其の者に病気等の「不幸」を招き入れる。
    この為には、“「人としての悟り」を得よ”と云う事であろう。

    前段でも論じた事であるが、「青木氏」は「浄土宗密教」であって、自らの氏から住職を出し、「達親」で運営して氏人を導く。
    然し、この「掟」を更に発展させる為に、「曹洞宗との関係」も深く持っていた。
    これは、この「掟の厳しさ」に「人」を到達させるには、別の方法として、それには”「座禅」にある”として「禅宗」に寄与して居た事が判っている。
    永平寺の高僧が長期に逗留し、悟りの得たとされるものの「書画や彫刻」など特に「家宝」として遺されている。
    そもそも、筆者の代まで家には“「禅僧の高僧」が長逗留すると云う形式“の慣習を室町期から採っていた。

    (注釈 この為に永平寺の高僧が逗留中に「禅僧の書画の遺品」が多く遺されている。)

    「青木氏」の「四家」の中で、この様な“「善悪の条理相対の理」”を始めとして「慣習仕来り掟」を会得させる為に「福家」で共同生活で育てられるが、この「掟」に依って育てられた「四家の一員」に成り得なかった者が現実に居た様で、これらの者は郷士衆等の養子に入るという事が起こったのはこの「掟の処置」であったのではないかと考えられる。
    そして、その「戒め」として「青木氏の系譜上」に表れない者として厳しい「掟の処置」を受けたらしい。
    唯、逆に、この者が何らかの縁を得てその子孫に「優れた者」が現れた場合には、その縁筋で「四家」とは別に「青木氏」を興させて、その上で「四家」に入れて育てられると云う事の救済策もあったらしい。

    さて、ここまでの末裔の後勘として、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」があって、その「掟の概念」が「青木氏の氏是」を超えて「享保の改革」と云う道にまで「青木氏」を導いた原因はこれだと考えていて、ではその結果はと云うと、「如来の意志」は、明治期の初めまでに下記注釈の様な事も含めて「氏」に執って「幸」を授かったかと云うとそうでは無かった。
    「伊勢」に於いては「殖産」を通じて「伊勢の民」の為にこの「青木氏の密教掟」を護り働いた。
    そして、その「民の心」として「氏上様、御師様」と呼ばれて崇められた。
    「皇族賜姓臣下族」や「賜姓五役族」であるかどうかは別として、当に「伊勢の郷氏」であった事が云える。
    当然に「如来の意志」により「幸」を授かり、「伊勢三乱」も乗り越える事が出来て「氏の発展」は目覚ましいものであった。
    1716年まで何一つ氏としての「不幸」は無く、「如来の意志」は「悪量」を減らしたものであった。

    ところが、長い期間の考察の後勘としてでは、「吉宗没後の10年程度」を経て1760年頃からは「掟を破る事」が無いにしても、前段でも論じたが、この「掟の基本」とも成る“「仏施の質」”を敷いていたにも関わらず「如来の意志」は厳しいものに傾いた。
    「青木氏の後勘」とするには、何か「如来の意志」に反する「悪行の至り」はあったのかと疑問を持ち納得の行かないところである。
    後勘としても、公的記録でも「享保の改革」を成し遂げて「江戸の民」を「幸せ」に導いた筈で、「江戸向行」には「掟」を破る事は無かったと結論付けられる。

    尚、第38代の祖父の代(昭和20年没)までは力は低下しながらも、この「青木氏の密教掟」を頑なに護ったが、続けて世の中に先駆けて「明治維新の地権放棄」をして「民」に尽くした。
    そして、前段で論じた様に、「維新時の殖産」では別に”「徳宗家」”とも呼ばれていた位であった。
    然し、”「如来の意志は厳しかった」”と「青木氏の後勘としての評価」としている。

    (注釈、余計な事ではあるが、最早、父の代よりこの「青木氏の密教掟」は明確に無い。
    “無い”と云うよりは、明治期の「如来の意志」に従いその力をも失った。
    唯、この悠久の時を得たこの「青木氏の密教掟の概念」をそれなりに父に教えられ、筆者も “「善悪の条理相対の理」”の個人の「小さい人生観」として信じて未だ持ち得ている。
    依って、「氏」としての「青木氏の後勘の評価」は、別として、「人」として、子孫を残し健康で普通の幸で居られるは「如来の意志」であるだろうし、後世に悪量を遺す事無く幸いに居られている。)

    (注釈 昭和までの記録を観ると、伊勢は凡そ10年から20年に一回程度に大火に見舞われている。
    これは「特異な地域」、況や、中央構造線の中部山脈から真正面に吹き降ろす事に依る「フェーン現象」なのではある。
    左右の山脈の裂け目の中央の地形から北から吹き降ろしの強い乾燥風が吹く位置にある。
    この時、折しも風が強く、その「風向きの影響」でこの川沿いの間近まで一筋に累焼したと記録されている。
    この事も「地形」と捉えて仕舞えばそれまでで、「地形」から来る被害は「備え方」に依っても異なる筈である。
    要は「人の心の持ち様」で被害は変わる。
    この世の事は何事も斯くの如しの様であろう。)

    だとすれば、この「被害」は、「青木氏と云う立場」であればこそ、「青木氏の密教掟」に従い「如来の意志」と云う事に成る。
    上下の注釈の全ては事ほど左様である。

    (注釈 「明治26年の伊勢大火」の後の「明治35年の松阪大火」は、局地的にダメージが大きく、「櫛田川」を隔てて北側の「射和地区」は、寸前でこの火災から免れた。
    しかし、この為に現在も「古い商家の街並み」(殖産品売買を担う商人群)が遺されているのである。
    結局、「松阪の北側」は一部地域が消失したので、「松阪の家の街並み」や、「歴史的な商家群」は消えて仕舞った。
    櫛田川南域の玉城地区の職能群家屋は遺された。)

    この「射和地区」も含めて、「伊勢青木氏」は、「地租改正」で「本領安堵地の5万石」(地権)に相当する「農地の下げ渡し」を行った。
    その後の「弱体期」でもあったが、しかし、「松阪の火災の被害」に対して火元として”全財産(地権)を投げ売って賠償した”と記録されている。
    明治期にも襲った「最後の決め手の衰退期」であった。
    ”火災は貰い損”としているが、この事からすると「最後の決め手の衰退期」であったにせよ、「如来の意志」であったにせよ、「氏」としての「青木氏の後勘の評価」は落としてはいない。
    「賠償の決断」は、後世への“「善悪の条理相対の理” (青木氏の密教掟)の概念」を護った事に成る。

    (注釈 念の為に前段でも論じたが、「江戸幕府期の青木氏」、即ち、「伊勢郷氏」としての「本領安堵地」が、「伊勢域の農地5万石」で紀州藩55万石の内37万石が紀州域、28万石は伊勢域、伊勢域全体が55万石で、この28万石の内5万石が「地権」として「青木氏の農地」と「楮や桑の畑地」であった。
    「農地外の地権域」は「3000石程度の地権」であったとされている。
    「紀州藩」からすると「支藩並の地権」(5万3千石)を持っていた事に成る。
    この様な「支藩並みの地権」(5万3千石)を持っていた「郷氏」は、日本全国でも江戸期では「公家族の藤原一族」と「藤原秀郷一門の青木氏や工藤氏や結城氏や斉藤氏や進藤氏や長谷川氏や永嶋氏や長沼氏」、や「近江佐々木氏系一族」等、少ない。
    これらの「氏族の郷氏」は全ては奈良期や平安期からの「氏族の郷氏10氏」にも満たない。
    この「賠償の決断」は、上記の立場よりも「後世への配慮」を優先した事に成り、既に、明治35年は「賜姓五役の立場」も終わりに成っていた。)

    (注釈 前段でも何度も論じているが、尚、鎌倉期末期にはこの「氏族」は、「80氏の氏族」が存在した。
    室町期末期には下剋上と戦乱でと20氏以下程度に激減している。
    江戸期初期直前では11氏で、明治期には5氏程度に激減している。
    「皇親族の青木氏族」では「神職の青木氏」と「神職の佐々木氏」が「社領」として持っていた。)

    その為に「福家筋の商い」(長兵衛)は、次ぎの影響を受けた。

    「江戸の伊勢屋解散」(a)、
    「江戸の引き上げ」(b)
    「江戸末期の組合解散令」(c)
    「伊勢商業組合の解散」(d)、
    明治初期の「地租改正」(e)、
    「農地の地権放出」(f)、
    「松阪失火元」(g)、
    「地主3000石の地権」も「売却賠償」(h)、

    以上、ここで「如来の意志」に従い「伊勢の紙屋と青木氏」は完全に「倒産 福家(明治35年10月)」をした。

    然りながら、これだけの「伊勢青木氏」に避ける事が出来ない「負の災禍」が一度に伴えば、奈良期から続いた「商い」は流石に耐えきれなかった。
    大阪にも堺と摂津等にも店が在り、遺されていた「船等の資産」や「一部の株」を売却して、それを元に、ここを拠点として再び「四家(分家筋)の商い」(高右衛門一家と作左衛門一家)は出直したと記されている。

    又、「江戸出店に応じた六地域」や後半に「江戸出店に応じた讃岐青木氏」の「青木氏」に付いては、口伝により明治20年頃を境に衰退に向いたと伝えられている。
    「商い」だけで応じた訳では無い筈で、前段の「イロハの商業組合」に加入したと云う事から考えても、この「青木氏の密教掟の概念」に従った事も充分に考えられる。

    果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
    恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したしか考えられない。

    (注釈 「伊勢藤氏の伊勢青木氏の一族一門」は、「紀州藩の解体」で浪々の身に成りながら、その後、「資産」を活かして江戸期に興した「殖産の企業」を継承し、「企業家」として立ち直ったと口伝で伝わる。「賜姓長野青木氏」も同様である事が確認出来た。
    然し、概ね後勘として、「青木氏」を研究する中で、記録や資料や口伝等の遺産の状況を考察すると、全ての「青木氏」に云える事は、明治20年から30年頃から衰退期が顕著に開始し、昭和20年頃に「地域力」は無く成り、「独特の慣習仕来り掟等」の「古式伝統」は失われ、「普通の氏」の範囲に戻っている事が云える。
    現在では、記録や資料や口伝等の遺産さえ無く成り、「ルーツの如何」さえ喪失している現状である。)

    (注釈 江戸の「享保の改革」に参加した「四つの地域の青木氏」は、1785年以降の「商業組合に対する軋轢」と「政治的失敗で経済的失速」が起こって大打撃を受けたのだが、その後の動向が記録的に気に成る。
    「讃岐青木氏」は江戸と京都から引き揚げ北海道の開拓に手を出し昭和20年期に遂に倒産した。
    「賜姓甲斐青木氏」は農業に戻り、「伊豆青木氏」と「相模青木氏」は小さいながらも商業を続けている。
    「賜姓越前青木氏」に付いては「酒造業の蔵元」に、「秀郷流越後青木氏」は江戸の店を引き上げて「大米農家等」に戻った事が確認出来ている。)

    (注釈 116氏にも成った「秀郷流青木氏の存在」は、24地域での現存は確認出来ているが、その後の子孫の行方は不明で、従って、「悠久の伝統」(資料、口伝、慣習、仕来り、掟等)は完全に消失している。)

    (注釈 ただ、この時、この“「松阪の商業組合組織」”は、その“責任を果たす為に一度解体した“と記されている。
    伊勢のこの組織は、「青木氏7割株の株権」を放出して商家、運輸業、廻船業、金融業等にそれぞれ独立した。
    つまり、この意味は、「松阪組」と「射和組」は、“グループ化して居た事”を意味している事に成る。
    現在の形で云えば、「青木ホールディング」として成り立っていて、その「元締め」の「紙屋の資産力」が「松阪組の商家賠償」(一部玉城区の資産等は残った)で無く成った事と、失火元の責任を執って、一度、「福家筋」は解体した事に成ったが、「四家筋」は現在も神戸と大阪に遺る。
    前段で論じた様に、その「地域力」は「明治維新の地権放出」と「藩貸付不当り」と「伊勢騒動の援助」等で史上の最悪状態に成っていた。)

    (注釈 明治35年倒産から一代置いて宗家筋の福家筋は、筆者で40代目である。
    祖父の代に一時、筆者の叔母の家に本家の籍を移したが叔母の筋目は直ぐに絶えて祖父の処に戻る。)

    注釈として、江戸期では主に下記の(a)(b)(c)、明治期では、(A)(B)(C)の殖産を興している。
    「青木氏の四家(分家)筋」が、次ぎの事を興している。

    信濃から導入した「養蚕の殖産の興業化」ー(A)
    「紀州湯浅」から持ち込んだ「醤油の醸造化」ー(B)
    明治文化の発展で奈良期からの「和紙の殖産」で「紙箱の殖産興業」ー(C)

    収穫を高める「早場米の更なる開発」ー(a)
    越前より迎えた杜氏に依り杜氏を育て「本格的酒造米の開発」ー(b)
    越前から持ち込んだ「酒造の興業化」ー(c)

    以上二つの殖産を拡げ更に成功に導いた。

    これらの「殖産」を続けた大正期でも、依然として伊勢には「青木村」という「テリトリー地区」があって、この「殖産」で人々は潤い賑わったと伝わる。
    この事が「地域の歴史書」にも遺されている次第である。

    (注釈 前段で何度も論じて来たが、「青木氏」は「賜姓族の慣習仕来り掟」から奈良期より「分家」とは呼ばず「四家」と呼び「本家」は「福家」と呼んでいた。
    「家紋」も「家紋」と呼ばずに「象徴紋」と呼んだ。
    「賜姓五家五流青木氏」は、「笹竜胆紋」で変紋せず、「賜姓秀郷流青木氏」は「下り藤紋」が「総紋」で「副紋形式」を採用した。
    多くは「下り藤紋」の中に「副紋」を埋める「中入り紋」を使った。
    この全国の「藤氏の青木氏」は、御三家を含む全て徳川氏の家臣・御家人・旗本に成っているが、明治後は御三家が「職業紹介所」成る事業を興し、家臣の就職に活躍し、御三家筋が興した自己の事業の社員にも成っているが多くは倒産の憂き目を受けている。)

    以上は「伊勢に戻った青木氏」である

    これらの事から検証すると、後勘として、「如来の意志」にはこの上記の疑問に対して次ぎの様な答を出している。

    果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
    恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したと考えられる。

    そもそも「青木氏」が伝統として引き継いでいる「青木氏の慣習仕来り掟」の類は、「祖先神から来る概念」と古代仏教の「浄土密教」から来る概念」であって、この「掟」も当然に「青木氏だけに存在する概念」である。
    この「青木氏の概念」が受け入れられる土壌に何か変化を興したと云う事に成る。
    つまり、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」の「如来の意志」が、正統に果たされる「社会構造」が変化したと云う事であろう。

    上記の注釈の中にその答と成る「共通の傾向」が潜んでいる。

    では、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」が,況や「如来の意志」が正統に働く社会とはどの様な社会であろうか。
    それは、より深く繋がる“「絆社会」”である筈である。
    “「絆社会」”であるからこそ「青木氏の密教掟」を護り、「人の上に立つ者」は「人」に「善」を尽くす、「力量等のある者」は「下の者」に「施し」を成す。
    これに対して「下の者」は「上の者」に「信頼と尊敬の念」で返す。
    「上の者」は、この「信頼と尊敬」を得てこれで「組織や役」を果たす事が出来る。
    この「相乗関係」が成立して社会は成り立つ。
    故に、それには「青木氏の密教掟」を護ろうとして自らを律する。
    自らを律する為に「青木氏の密教掟」の類を護る。
    自らを律しない者には、「人」は“「善悪の条理相対の理」”の中で“「信頼と尊敬」”を獲得は出来得ない。
    「下の者」と「上の者」共に“「絆」”と云う“「信頼と尊敬」”の上に成り立ち、その“「絆」”は“「個々の利」”では無く、“「組織と云う利」”に叶う事で“「個々の利」”を得ようとする社会である事に成る。
    最低限に於いて、この社会は、「組織の利」>「個々の利」の関係が成立している事に成る。
    これを観て“「善悪の条理相対の理」”による「如来の意志」は定まる。
    つまり、これには「個々の意志」をより尊重する「より強い自由社会」には成り立ちにくい条理にある。
    従って、「組織の利」<「個々の利」の関係が進むと「如来の意志」は変わる。

    では、上記の通り「如来の意志」が変化し出した「享保の改革」の後半は、「イロハの商業組合」で改革を進めた。
    況や、これは“「絆社会」”が減退している中での、更に「江戸の社会」の「自由の先取り」である。
    「江戸の民」は「青木氏」等が行う「仏施の質」に対しても「伊勢の仏施の質」では最早なく、そこに「生まれる絆」は云わずとも減退していた。
    その「江戸の絆」は、「組織の利」<「個々の利」の関係にあったからこそ成り立っていたのである。
    密かに「自由の先取り」が進んでいた事に成る。

    「自由の先取り」=「組織の利」=<「個々の利」の関係=「江戸の絆」

    この関係をより江戸で成したのは皮肉にも「青木氏」である事に成る。
    故に、「如来の意志」は「青木氏」に働いたのである。

    この進化と観られる“「自由の先取り」”が、幕末に掛け江戸から全国に伝播し、享保期より「自由の先取り」はより進んで次ぎの様な関係が拡がったのである。
    「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係=「江戸の絆」

    故に、「組織の利」>「個々の利」の関係にて成り立つ「江戸幕府」は弱体化して、遂には、「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」と成り得たのである。
    「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」が進むと、必然的に「絆社会」は減退する。

    後勘として検証して見るならば、明治初期から明治9年に掛けて維新政府に対して「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)で反動したが、その後、逆に「地権放棄」に観られる様に「青木氏」自らもこの方針に積極的に賛同した。
    明治初期の青木氏の「地権放棄」は、当に、農民の「個々の利」を認める行為である。
    それを自らが「伊勢動乱の経済的支援」をすると云う事は「自由の先取り」を進めた事に成り、「組織の利」>「個々の利」の関係を保ちながら、「矛盾」を進めた事に成る。

    当然の結果として、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が進んで、「如来の意志」は正統に反映しなくなったと後勘としては解釈できる。
    これは「青木氏」自らが興した、或は、招いた現象とも云える。

    故に、「西洋文化の概念」が益々導入され、その為にその傾向が強く成った明治20年頃から「衰退」が起こったと云う事であったと考えられる。
    そして、どんどん進む“「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”は、戦後、更に昭和20年の敗戦と占領下で「欧米の自由文化」が入り進み、遂には、「福家」は「倒産」の憂き目を受けた。

    “「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”が進む中では別の道を選択するべきであった事が考えられる。
    つまり、享保期では「仏施の質」にあり、明治期には「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)の「対応」が間違えていた事に成る。

    上記の様に、「二足の草鞋」で商いをする多くの「全国の青木氏」には、この昭和20年頃を境に「如来の意志」は、“「善悪の条理相対の理の概念」”を果たすも正統に享受され得なく成ったと「後勘の評価」はできる。

    “「自由の先取り」=「組織の利」>「個々の利」の関係” − A
    “「善悪の条理相対の理」”の概念“ − B

    この「ABの二つの関係」は崩れ、Aは変化してBだけが残る結果と成ったと考えられ、そのBも「組織の概念」では無く、「個人の概念」の範囲に留まったと成る。
    つまり、「Bにまつわる伝統の一つ」は消えたのである。
    そもそも「古式伝統」が消える過程とはこの様なものである。
    従って、「祖父の代」までを以って「氏としての掟」(多くの「伝統」。即ち、奈良期からの慣習仕来り掟)は霧消に期した。

    後勘として「享保期後半」からの「伊勢と信濃と甲斐と讃岐の状況」の「青木氏」を以って論じたが、多くの「全国の青木氏」は、「賜姓族」として置かれている「悠久の伝統ある環境や立場」などがほぼ同じであった事から、これに類する様な「憂き目」を受けていた事が間違いは無い事が云える。
    故に、後勘の現在で観れば、多くの「青木氏にあるべき古式伝統」が上記で論じた同様の過程を経て完全に近い程に霧消しているのである。

    その中で「伊勢と信濃と伊豆の青木氏」には、「伝統の形跡」が記録としても何とか遺されていたのである。

    (注釈 本サイトに何とか「伝統の記録」を投稿し論じて遺しているが、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が、ますます進み「青木氏の密教掟」(古式伝統)も無く成る。
    従って、「如来の意志」も働かず「伊勢」も含めてこれからは「全国の個々の青木氏」には「伝統維持と習慣仕来り掟の解明」は相当に難しい事が判る。)

    その「古式伝統」の「維持管理の難点」の一つは、その「伝統」が「周囲の伝統」と比べて「違和感」を感ずるほどに「古式豊かである事」が難点である。
    この「難点」を克服し維持するには、「それ相当の経済力」と「勇気やる気」を必要とする。
    先ず、その特異な「古式伝統」を継承し得る「環境・場所」が確保し得ないであろう。
    この「周囲の伝統」と違う為に、周囲からは気宇の目で見られ「伝統の特異性の周囲の理解」が得にくい。
    筆者もこの二点に苦労した。

    この状況は現在に於いても変わる事は無く益々難しく成るであろうが、筆者は内家で行っていても家の者にも理解が得にくい事がある。
    合理的に考えて「周囲の伝統」と違う為に何でそこまでやらなくてはと云う疑問もあるらしい。
    そもそも「伝統」とは「合理的に」とはいかないところがあるのだが。
    良い悪いは別として、最早、“悠久の歴史を持つ日本でも「数少ない氏族の青木氏」である“と云う感覚は、明治から戦後の昭和の混乱期の間に親族には消えているのである。
    「口伝」さえも受け付けない。「時代」と云うものはそう云うものであろう。
    故に、中々読んで貰えないが「文書」に遺して何時しか「子孫にロマンを与える事」としている。

    幸いサイトのカウンターで観れば、現在では、“年間で全国の5割近い青木さん”に読んでもらえている事には成る。
    ヤフーHPとサイトHPで観ると、延べ「約老若220万人の青木さん」に読んでもらっていた事に成る。
    これは「全国の青木さん」には充分に洩れなく読んでもらえている事に成る数字だろう。

    「伝統維持」は難しく成るも、「ロマンとしての青木氏歴史観」には、なんと「青木氏」のみならず読者は「青木氏族」にまでに広がっている。


    > 「伝統シリーズ」−27に続く


      [No.343] Re:「青木氏の伝統 25」−「「伊勢殖産と古式伝統」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/08/05(Fri) 07:44:33  

    >>伝統シリーズ23の末尾

    > > 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
    > > その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
    > >
    > > 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
    > > むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
    > >
    > > そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
    > >
    > > ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
    > >
    > > 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
    > > しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
    > >
    > > この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
    > >
    > > 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
    > > それには、上記の「新−1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
    > > 「新−2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
    > >
    > > 所謂、「新−1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
    > >
    > > この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
    > >
    > > これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。
    >


    >伝統シリーズ24の末尾

    > 実に“可憐でシンプルな花”と云うイメージを持つ。
    > 「花と樹」で例えれば、云うまでも無く「象徴紋」にも成っている“「竜胆の花」”と「青木の樹」である。
    >
    > 前段でも論じたが、この“「竜胆の花」の様であれ、「青木の樹」の様であれ“として「賜語」を遺し「賜姓」したのは「天智天皇」である。
    > その「竜胆の花の印象」と「咲く環境の持つ印象」と「青木の樹の様な力強さ」が、「青木氏の氏是」とも成っているのである。
    > 「二つの青木氏」はこれを護り続けて来たのである。
    >
    > 因みに、参考として、大化期から江戸期までの間には、次ぎの様な「改革」を成し遂げている。
    > 全てではないが、思いつくままに拾い出してみる。
    >
    > 「自然神の継承」、「祖先神の創設と継承」、「神明社の創設と継承」、「浄土宗密教の創設と開始」、「侍の創設と開始」、「武家の創設と開始」、「国策氏の創設と開始」、「賜姓族の開始」、「氏族の開始」、「皇親族の開始」、「貿易の開始」、「総合商の開始」、「和紙、硯墨の開発」、「商業の開始」、「殖産・興業の開始」、「米・早場米の開発」、「養蚕の普及」、「紙加工の開発」、「商業組合の開始」、「徒弟制度の開始」、「暖簾分け制度の開始」、「質屋の創設と開始」、「職能部の開始」、「海陸の運輸業と護衛業の創設」等の全て「創始者」であった。
    >
    > (文化面で「青木氏の慣習や仕来りや掟」が世に出て催事に成った事等は、「伝統シリーズ」でその都度、機会に触れて記述しているがその数知れない。)
    >
    > この様に“「歴史に遺せる多くの大改革」”を成した。
    >
    > これら一々に独特の「青木氏の文化」が生まれ、それを「伊勢青木氏」等や「郷士の職能部」が其の文化を「庶民用」に改良して、「殖産」にして、「仏施の質」として世の中に出す。
    > この行為を江戸で一機に咲かせたのである。
    > その複合の「仏施の質」が「享保雛」であったと説いている。
    >
    > 上記の様に、日本で最初に起こった「大火改新」で産まれた「青木氏」は、「二つの青木氏」の「命運」を掛けて「社会」の為に「江戸期の経済改革」の最後の「享保改革」(「リフレーション政策の創設」)に取り組んだのである。
    > これは、何をか況や、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」のベースにも成っている「青木氏の浄土宗密教」の「般若心経の教え」を護っていた事からの発起である。



    「伝統シリーズ−25」に続く。

    「伊勢殖産と古式伝統」

    「伊勢殖産と古式伝統」が連動して出来たこの「伊勢文化」を「享保の改革」の為に持ち込んだ「江戸の伊勢屋」に話しを戻す。
    この為にも、その前に「青木氏の歴史観」としての「伊勢殖産と古式伝統」を詳しく考察して置く必要がある。

    この「伊勢の殖産事業の背景」には、次ぎの様な経緯があった。
    そもそも、「青木氏の伝統」と云うものを理解するには、その前後に起こった「背景や経緯」を理解した上での事であって、「正しい伝統」はその時に獲得できる。
    「伝統」に限らず「物事」とは、その「前後の背景と経緯」を理解しなければ「正しい結果」を獲得できない。

    「歴史」と云うキーワードで云えば、それは「三相の人時場」(青木氏密教の説)に左右される“「歴史観」”と云うものである。
    そこで、此処ではその「人」に関わる歴史観である。

    「人」、即ち、“「伊勢出身の他の豪商」との関係に付いても論じて置く必要がある。
    実は、この関係が複雑で難しいのである。

    伊勢の中での「柵」(しがらみ)が見えて来て、それが「江戸の伊勢屋」の事に左右して来ているのである。
    従って、前段で論じて来た様に、そこで「江戸の伊勢屋」と共に、他の“「伊勢出身の他の豪商」等の事をも“組み込んで論じる必要があると考えられる。
    ところがその場合は、「伊勢の青木氏」から観ると、この“「青木氏の歴史観」との一致が起こらない「典型的な事象」であった“と云う事である。
    その意味で,不思議に思うかも知れないが、この新しい「青木氏の歴史観」(「背景と経緯」−「伝統」)を獲得する為にも、次の事を敢えて重複して詳しく列記する。

    それには享保期の「江戸」では無く「伊勢」に問題があった。
    「江戸の初期」の「伊勢の背景と経緯」のそれには「大きな政治的な意味合い」が関わっていた。
    そこで、政治の中心人物と成った“「伊勢の吉宗」”は、謂わば、その「功績」(紀州藩を藩制改革を断行して救った。)を買われて、番外から将軍に成り得たと云っても過言では無い。
    其れは、そもそも、この“「伊勢の吉宗」”は、「二代目の藩主」の「湯殿女」(巨勢氏)から生まれた「番外の子 嗣子外」であった。

    (注釈 前段で論じた様に、奈良期は「応神大王」を中心としての「ヤマト政権」は、「五つの豪族の連合政権」であったが、その中の一つが「巨勢氏」(巨勢族)で在った。
    現在でも、紀州紀ノ川沿いの北紀州東部に定住している。)

    そこで、二代目の「紀州藩主」は、これに「養育係の加納氏」を付けてその養育係の郷の伊勢に隠して預けた。

    (注釈 「公家族出身の二人の兄弟」が居たが、それぞれの「お付きの家臣争い」が当時は強く命の危険性があった。)

    其れが「養育係の下級武士」の「100石の加納氏(4000石の御側用人と成る)」であった。

    (注釈 頼宣入城時(1619年頃)に家臣と成った「加納氏」は、前段で論じた様に「伊勢藤氏の末裔の支流傍系族」の「大量の仕官事件」が起こり、この事が原因で頼宣に「謀反嫌疑」が掛かった。
    然し、その時に「伊勢藤氏」(青木氏含む)は「紀州徳川氏の家臣」と成った。)

    注釈として、そこでこの紀州藩家臣と成った「加納氏の身分」がどの様な位置にあったかを先ず知っておくことが必要である。
    事に大きく左右するのでこれから論じる。

    其れには先ず、そもそも、“「一石一年一人食の原則」”と云うものが昔からあって、その原則から、「最低五間間口の武家屋敷の家持ち」が「下級武士の上位」の身分とされていた。
    その原則では、当時は、最低で「150石」が必要であった。

    (注釈 但し、諸々の家臣に課せられた義務を果たすには、150石では済まず200石から250石は総合で必要とされた。これが下級家臣の俸禄の規準であった。)

    この原則から観て、「若い加納氏 100石」には預けられても「吉宗 (源六)」を「育てる能力」は当初から全く無かった。
    災害と飢饉で藩財政も逼迫し、幕府から2万両の借財で食いつないでいた状況であって、到底、養育費は出せない状況であった。
    結果として、「家康−頼宣」と伊勢で関係を保っていた「郷氏の伊勢青木氏」が、「養育」のこれら全てを支えたのであるが、当初からその心算では無く、且つ、「家臣」でも無い「伊勢郷氏の青木氏」が養育係を務める事は本来は出来ず、「伊勢藤氏の末裔」の「100石の加納氏」に形式上は預けた形を執っていた。
    そもそも、慣例から云えば、「伊勢」に持ち込まれた問題の解決は「伊勢郷氏の役目」でもあり、「伊勢藤氏との絆」からも、江戸初期の「家康との付き合い」もあって、この件は青木氏に執っては放置できる事では無かった。

    その「歴史観」の一つを述べる。

    因みに、「伊勢の郷士」で「紀州藩の家臣」に成った家に遺された資料をまとめると、当時の「下級武士の家計」は次ぎの様であった。

    「最低収入」では、家臣の「俸禄の高」は、「70俵−28石−21両」+「5人扶持−9石−7両」 計 「28両(札差変換)−37石」が「年収(標準と観られる)」であったと記されている。
    各藩の勢力に依っても異なるが、これが「紀州藩の規準」であったらしい。

    「最低支出 (武士長屋住 家族3人 家人1人)」では、その内訳は次の通りであった。
    生活費 3000文〜4000文=1両〜1.5両
    諸経費 2000文=0.5両〜1両   
    家人給金等 4両(最低 男仕一人、女仕一人雇用)
    衣服費 2両
    交際費 4両
    その他 2両
    合計 14〜15両

    (注釈 江戸社会は武士の「身分と格式」に応じて「慣習仕来り掟」が定められていて、「家人等の雇人」も「国内の経済対策」の為に「御定書」で決められていた。)

    実際は、これが役人等を務める「下級武士の生きる為の最低額」であった様で、「武士」ともなれば後継の為に男子が必要と成り、男子の子供を産む事に成り、産めなければ親族から養子を取る事にもなるので、それには「金子」が必要であって、これには「貯蓄」等もあってこれでは済まない事に成る。
    当時は、このほぼこの2倍が必要であって、28両≒29両と成り、これが「ぎりぎりの生活」であった。
    前段でも論じたが、この不足分は家族に依る「借田畑の工作と内職」(「農民の寄合形式」に参加)で凌いだ。
    従って、これらの「慣習仕来り掟」に関わる余計な事が町方の「町人」には無かった事から、生活は「町方の普通の者」より悪かった事が書かれている。

    従って、この一段上の「家持身分」では、当時の「普通の標準」は、「家族6人 家人5人」/(家族3人 家人1人)=4倍と成り、最低で37石・4=148石が必要と成った家計であった。

    この事から「伊勢の加納氏」(100石)は、この様に「吉宗 (源六)」を「隠し子」の様に「嫡外子」として預けられたが,養育して行く能力は当初から全く無かった。
    二代藩主もこの事は充分に承知であった筈で極秘に預けたと云う事に成るから、当然に、当初から「援護者」を当初から期待していた事を示す。
    従って、「伊勢域」の一切の差配は、“「郷氏の役務」”であった事から「伊勢青木氏」が支援し養育したとある。

    (注釈 平安期の「南勢の旧領地」の一部が、江戸初期に幕府から本領安堵されたのはこの「郷氏の役務の所以」の一つとも観られる。
    況や、この「南勢の旧領地」には「和紙に関わる楮生産」と「和紙生産と紙の殖産」を進めていた。
    上記手紙の主の「母方縁者の郷士頭」と、その「一族郎党」の定住地でもあって「不入不倫の権の影響」でも護られていた。
    それ故に「青木氏」に執っては重要な資料が遺されていた。)

    (注釈 紀州藩からは「隠子」で「嫡外子」であった事から援助は無かった。
    この時期、紀州藩は財政難から幕府から「10万両の借財」に取り分け喘いでいた時期でもあって、借財は藩財政の半分に達していた。
    その事から援助は元々全く出せる状況では無かったし、隠していた事から出せなかった所以でもある。)

    そもそも、「伊勢の青木氏」は、「奈良期からの郷氏」である事には間違いは無く、その役務の所以と云えばそうでもあるが、「隠子の嫡外子」であるとするならば「郷氏の役務」かとも成る。
    果たして、“何の義理も無いのに何故に養育したのか“と云う疑問が湧く。
    「資料」は明確に書いていないが、先ず「青木氏の口伝」に依ると、前段で論じた様に、その背景と成った「江戸初期の家康との二度の談合」と、その後の「頼宣までの諸々の付き合い」で、「政治的な厚遇」と「商いを続けるための経済的厚遇」を受けたが、何よりも“「本領安堵された事への義理返し」(伊勢での「氏存続と現状維持」)”であったと口伝で強くその恩義に付いて伝えられていた。
    その口伝の中での“「源六殿養育」の一節”であったが、「源六殿と六左衛門の稚児逸話」も遺されていたらしい。

    (注釈 「伊勢藤氏の末裔の加納氏と伊勢青木氏」は「伊勢藤氏や伊勢秀郷流青木氏等」により「数度の母方縁籍関係」にあり、筆者の父方曾祖母は加納氏の娘である。
    「加納氏」は、その後、生計を立てる為に、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」の「商家の加納屋」(青木氏の殖産事業)を立てて「養育能力」を高めた。)

    その後は、その「意味合い」が、上記した様に、「吉宗将軍擁立」と「享保の改革」までへと変化して行った事に成る。
    その経緯が下記に記した通りであるが、この経緯に青木氏が関係する問題(事件)があった。

    前段で論じたが、「伊勢青木氏」が「家康―頼宣との親交」があった事から、頼まれて伊勢で「養育掛かり」を務め、経済的支援をし、「藩主として持つべき能力」、取り分け「経済的な知識」等を「青木氏の商いの仕事」を通じて実地に教え込んだ。
    ところが、二代目後の「紀州藩の跡目」で揉める中、三代目と四代目(公家出自)の二人が僅か半年間を経て没し、この間、「吉宗 源六」の生誕から僅か21年であった。

    (注釈 青木氏の資料では、父病死後、三ケ月で兄の一人は病死、見舞いの弟は江戸からの旅の疲れで、父病死後半年後(兄病死後3ケ月)に没したとする理由に成っている。
    これは「藩内の廃嫡騒動」の所以と観られる。)

    其の結果として、例外的に、上記した様に、その「資質と能力」を買われて22歳で、「越前葛野藩の三万石割譲の扶持藩主」 「紀州藩の支藩」から「紀州藩の五代目」に、この時、「松平氏から養子の話」が出ていたが、「葛野藩の経緯」からも「綱吉の意向」も陰にあって偶然に話しは着いた。
    実は「綱吉の意向」が問題なのである。
    実質の処は、3ケ月ごとに藩主三人が没した事は、「吉宗」は「光貞の跡目」の「三代目」である事に成る。

    (注釈 「越前葛野藩」の件は、松阪定住で、「准支藩扱い」で、一万石以上は「大名扱い」ではあるが「吉宗資格無し」で、元は「嗣子外扱い」であったが、「部屋住み」から「世継権」を持つ立場にしても貰った事を意味する。
    「大名城」を構える事を許されない「陣屋館」の「越前葛野藩」の影響が「紀州藩」に大きい影響を与えていた。)

    そこで、この様な経緯の中で藩主と成ったか「上記の改革」を推進し成果が上がった。
    ところが、ここで徳川氏の「将軍家の世継ぎの問題」が浮かび上がった。
    ところが「将軍家の世継ぎ」もなかなか決まらず、突如、「紀州藩の吉宗・頼方」の名が挙がった。
    折しも、「経済政策の失政」と「大きな飢饉」が続き社会は酷く疲弊していた。
    其れを救えるのは、「紀州藩財政を立て直した功績 10万両返済」を買われて「将軍」に成った。
    「青木氏等」はその財力で「吉宗・頼方・源六」を将軍に押し上げたのである。
    ここで、「享保の改革」の「質素倹約」と「殖産興業」と「組織改革」を実行する「リフレーション政策」を提唱した。
    しかし、「御三家」等から大反対が出た。
    周囲は「インフレーション政策案」が主流であった。
    そこで、これらを説得するには、「紀州藩」を「モデル」にして、先ずは「紀州藩財政」をこの「リフレーション政策」で立て直す事であった。

    (注釈 紀州藩は、1707年と1708年の二度に渡り「M7クラスの南海地震」の大地震に見舞われて、その対応費用に「藩財政の半分の拠出」を余儀なくされ財政は破綻で困窮していた。)

    これには、注釈の様な「不慮な災難」があって、「育て親の伊勢の紙問屋青木長兵衛」に依頼して、「紀州藩勘定方」の「指導役」を依頼し「藩財政の立て直し」を実施した。
    その後、1716年頃までに「借財等の返済」は完了し何とか持ち直した。
    それまでの前藩主の「幕府借用の計10万両の返済」を成し、「家中差上金の賦課」、「藩札の停止」、藩内各地で甚大な被害を発生させていた「1707,8年の災害の復旧費」などで悪化していた「藩財政の完全な再建」を果たした。

    何とこの間、1707−1710年からの8年間で「藩財政の立て直し」を成し遂げたのである。
    これを観た「幕府」を始めとして各藩は、「驚きと羨望の目」で「青木氏が行う商業組合に依る対策」を見たのである。
    この時、「紀州藩の結果」だけでは無く、「15地域にも改革」は進んでいたのであった。
    然し、「享保の改革」の実行の為に、「青木氏」は紀州藩から一部が江戸向行の為に1716年に引き上げたが、「伊勢青木氏」が「紀州藩勘定方指導」から手を引いた少し後の1730年頃前を境に、「血縁の無い支藩」からの「養子の藩主」が行った「三貨制度の普及」等により、藩の信用が無い中で「藩札再発行」や「銅銭鋳造」等の「経済対策」を採ったものだから、あまり効果は無くて逆に悪影響を及ぼし藩財政は再び酷く下降した。

    それは、「青木氏の勘定方指導」の「リフレーション政策」を継承せずに、積極的な「インフレ政策」を採った事から起こった事である。
    そして、遂には1740年頃から再び「藩財政55万石」は1/2程度(32万石)に極端に悪化したのである。

    (注釈 「災害と震災と飢饉」の時には、「25/55万石の財政状況」であったが、災害や飢饉でもないのにそれに近い財政状況と成って仕舞っていた。
    これは完全な「藩主の失政」である。
    そこで、結局は、この「失政」を回復させられない侭に、窮地に陥り「幕末」に「青木氏」が請われて再び伊勢より出向して「紀州藩の勘定方指導」をして立て直した。
    この時の「藩主とのやり取り」を書いた手紙等が遺されている。
    つまり、紀州藩は初代頼宣期と吉宗期と幕末期以外は藩財政は全て失政であって借財に喘いだ。)

    1716年に成って、一方、幕府方では伊勢で兄弟の様に共に育った「青木六兵衛左衛門」を下向させて「布衣着用」(将軍に直接面談できる大名格)を許し、「享保の改革」(商業組合での改革)を主導させたのである。

    (注釈 家臣が周りにいない時は、兄弟の様に呼び合っていたと口伝で伝えられている。)

    そして、上記で論じた様に、この「伊勢の改革」を「江戸の改革」へと移す事に成ったのである。
    結果は、上記に論じた様に成功し、その「リフレーション政策」の効果を証明した。
    これを観て「反対派」は沈黙して、大反対をしていた「尾張藩藩主」(旗頭は継友)などは立場が無く成り、恥じて酒に酔いつぶれて家臣団からも信頼を失い、遂には暗殺直前に自ら蟄居して仕舞ったのである。
    これを「勢い」にして「反対派」を抑え込み「享保の改革」は、「上記の様な経緯」を経て更に進んだのである。

    ここで注釈として、更に「青木氏の歴史観」として、次ぎの事を知っておく必要があり、余り知られていない「重要な事」がある。

    そもそも、“「紀州藩支藩の越前葛野藩」(幕府からの扶持 吉宗の知行地)”は、「青木氏」とは全く無関係では無かったのである。

    実は、この「越前の葛野」は、前段でも論じた様に、奈良期から「皇族賜姓族臣下族の青木氏等の逃避地」で、「現在の越前市地域」」にあって、ここに「神明社」を他国に比べてより多く創建し,ここに青木氏一門を匿い保護していた地域であった。

    (注釈 「五家五流賜姓青木氏」内に起こる「一切の混乱」に際する「避難・逃避の地」として定められていた場所で、ここにその救済の手配を担う「神明社」を多く配置して体制を整えて「仏施の質」として構築された制度の地である。)

    (注釈 「仏施の質」とは、本来は「青木氏の菩提寺」が行う「質」ではあるが、守護神の神明社がこれに代わって行っていた。
    菩提寺は古来より密教であった事から、本寺と分寺が原則であって定住地には数が少ない事から神明社が前段で論じた様な制度で行っていた。
    然し、「青木氏の資料」の行では「仏施の質」と表現されている。「社施の質」とは成っていない。)

    主にこの「逃避地」(越前国丹生郡等 3万石 実質4万石に 葛野域館)で生き残る為に、問題を起こした「五家五流の皇親族の青木氏一族」を「仏施の質」により葛野域のここに導き保護し、「青木氏の商い」を通じて「商人」と成って、多くの「青木氏」は長く生き延びさせた当に当該地域であった。
    その末裔が「越前商人」の一部を形成していたのである。

    紀州藩跡目の「二人の兄弟」からの身の危険を感じる程に「吉宗 頼方・源六」には「激しい軋轢」があって、この時は「吉宗 頼方・源六」」は、紀州藩の「伊勢松阪」に匿われていた。
    (「嫡外子」に扱われた。)
    「伊勢松阪」は生まれた幼少の頃から滞在していたので、この「逃避地」(葛野域)との関係は「親代わりの青木氏」から聞いて充分に承知していた。

    敢えて、「幕府」は、所縁ある「越前の国」は幕府に執っては「重要な政治経済軍事の要衝地」でもあり米所でもある。
    此処を敢えて割譲してまで、“「嫡外子」に扱われている「吉宗・頼方・源六」”までに新たに「葛野藩三万石」(「支藩扱い」の「陣屋館造り」)を、態々、作り、「知行地」として授与したのだが、これも「吉宗・頼方・源六」が望んだ理由は、「青木氏の所縁」からものとして考えての事であり、その「証拠」である。

    (注釈 実は、これには「歴史的に記録」があって、「先代頼宣」が「謀反の嫌疑」を「三代目将軍の家光」に掛けられてからは、二代目までは幕府とは「疎遠の状態」であった。
    そこで、これを修復する為に紀州藩の「二代目光貞と世継ぎ二人」が「五代目綱吉」に江戸に招かれたが、その時,“「吉宗・頼方・源六」”は「付き添い」として同行し、「会見の間」では無く「控えの間」で「跡目外嗣子」(「部屋住み))の扱いで控えていた。
    ところが「将軍綱吉」は、「吉宗」が「経済学」等の「博学の徒」である事を知っていたので、その「吉宗・頼方・源六の人物」に興味を持ち密かに「面会」を特別に許した。

    (注釈 周囲が驚くほどに特段に「経済学」に優れていた事が公的資料から判っていて評判に成っていた。
    これを将軍「綱吉」は事前に老中や側用人から聞いていたとある。
    将軍に成っても周囲にこれを超える家臣はいなかったとされている。)

    「他の兄弟二人」では無く、「綱吉」はこの「吉宗・頼方・源六の人物」を認めた結果、「知行」を与える事を特別に決めた。
    これは「二人の兄弟」を差し置いてであり、「嫡子外扱い」と成っているにも拘らず兄弟には立場は無かった。
    (次兄にも直ぐ後に同地に与えた。)
    「紀州藩」を通じて藩外の「遠国特別支藩」として「要望通り」の「葛野の所領」(知行地)の「越前割譲」が認められた経緯を持っているのである。

    そして、此処を「紀州藩の支藩扱い(「陣屋館造り」」」としたのも、この“「古来の逃避地」”を持っていた“「青木氏との関係」”からではないかと考えられる。
    そこで、「吉宗 頼方・源六」は、「知行」を幕府から特別に与えられるとして、敢えてこの「越前の所縁地」の「葛野」を指定要望したのではないかと推測される。

    つまり、「伊勢」に居て培った知識から、「知行地」の「安定した土地柄」は、“「商い」にある”と考えていたからであって、その「知行地」を思う様に管理するには、「育て親の青木氏」の一門が「商い」で栄えている事は何かと行政上都合が良いと観ていたのである。
    そうで無ければ、態々、幕府は新しく「知行地」(扶持)を造る事も無い筈で、遠国の「葛野」でも無かった筈である。
    この「葛野」には、この様な「所縁」があったのである。

    (注釈 この葛野は将軍に成った後に越前に返却した。)

    つまり、この「伊勢」には、江戸期に「紀州藩の吉宗同意」の下で、この育った「松阪商人」を「青木氏」と共に、「松坂組」と「射和組(後期の殖産)」とに分離させ、編成させて、「職能分業の組合組織」(商業組合)を造り「経済の活性化」に成功させたのである。
    (近江組は不参加)
    この通称、「松阪商人(「松坂組」と「射和組」と「近江組)には、実は、これには数人のもう一つの「葛野商人(越前商人)」が組み込まれていたのである。

    「陣屋館造り」の「葛野支藩」から「吉宗と青木氏」に“「招かれた商人」”として加わっていた。
    前段で論じた様に、越前の「青木氏の商人」は、中でも「越前商人」と呼ばれる者の仲間入りをしていたのが、「酒造業」(越前酒)を営んで大成功していた。
    それは「近江青木氏」で、秀吉の家臣であった越前八万石「青木一矩と久矩」の子孫も「天下分け目の戦い」で「福井葛野」に逃げ込んだ事は判っている。
    「葛野商人」はこの末裔と観られる。

    江戸初期の当時は、“「四大杜氏」”と云われた「丹後杜氏」、「丹波杜氏」、「但馬杜氏」に並んで「越前杜氏」が在った。
    そこで、この「越前杜氏」を雇って「青木一矩(逃亡二か月後没)」の子の「俊矩」は「酒造業」等を手広く商って成功した。
    そして、「越前の酒問屋の豪商」と成り、”「越前商人」”と呼ばれる様に成った。

    この「越前青木氏の酒造業」の「二人の商人達」(越前杜氏含む越前商人)を招き、この「酒造り」を「伊勢米の殖産」として「伊勢」で持ち込んだ張本人達であった。

    (注釈 この「伊勢の酒造りの殖産」を新しく起こすには、この「越前の職人」を「伊勢」に招く必要がある。
    それには、ここを「支藩」として「吉宗の知行地」にする必要があって、それを思惑に幕府に掛け合ったのであろう。
    取り分け、「杜氏等の職人」等は、「他国の移動」は当時は厳禁されていた。
    何故かと云うと、それは元より「領民」は、「藩主の支配下」にあり勝手な移動は「国抜け」と云う斬罪になり、且つ、「杜氏等の高い能力」の技能者は、取り分け、国のその権益を護る為に「国の殖産」が他国に流れる事を禁止していた。
    中でも、「関西の四大杜氏」の「杜氏」は厳禁であって、「国で開発した殖産」は「国の宝」と観られていた。)

    「青木氏」は、前段で論じた様に,「信濃青木氏」から学び「米の新種と早場米の開発」(江戸初期)に成功したが、「余剰米と成った米」を「酒造に生かす事」を考えての処置であった。

    この「葛野」を「吉宗知行地の所領」と要望したのには、上記した様に、この「越前の酒造業」を「所縁のある葛野」から「伊勢」に持ち込む「吉宗と青木氏の戦略」で在ったと観られる。

    と云う事は、「吉宗と青木氏」は、伊勢に「酒造業の殖産」(伊勢酒米の大和)を興そうとしたとすると、「伊勢の殖産」のみならず、ここの「伊勢の経済力」を背景に「将軍」に成れるかは「時の運」が左右する事は必定ではある。
    然し、これは少なくとも、「疲弊する全国の経済」と「幕府の経済知識の治政」に大いに疑問を持っていた証拠である。
    「御三家」として何とかしたいと云う「気概」は、「嫡子外」でありながらも持っていた可能性が有る。
    むしろ、「嫡外子扱い」で育ったからこそ持ち得た「気概」であっただろう。
    少なくとも、幕府に「紀州藩の影響力」を誇示して幕府を動かしたかったと云う「気概」は持っていた事は、この「葛野の一件」でも伺える事である。
    (その様に「資質と知識」の持った「養育」を「青木氏」はした事は確実である。)

    「吉宗」が「堅実な性格」であったと云う事は、そもそも「青木氏の家訓」と「氏是」に通じているからであり、上記した様に、「伊勢商人の気質」に通じている事でもあった。

    上記のaとcの「江戸出店と商業組合の不参加の商人」が、後の1760年代に「江戸出店」を果たすが、この「江戸出店」を果たすには「新たな売り」にする「伊勢の殖産品」が必要で、ただ単に江戸に出れば成功すると云う甘いものでは無かった。
    この時の「商い」には、上記した「新たな殖産」を興した「伊勢の酒」と、伊勢伝統品の「伊勢の白子木綿」と、紀州伊勢でも起こった害虫全国被害にミカン畑に「搾りかす油」をまいたところ大効果があり、これを逆手に「殖産商品」とした「南勢の菜種油」”が主であった事が判っている。

    (注釈 この事は「墫廻船」と「菱垣廻船」の「積荷資料」にも記載有る。)

    取り分け、上記した様に、1745年以降の「樽廻船」の「酒」には、この“「伊勢の酒」”があった事が判って居る。

    (注釈 「灘の酒」等は特に厳格に管理されていて「廻船の搬送」は「樽廻船」として限定されていた。)

    この事は、「吉宗知行地の葛野」から招いた「葛野商人」に依って興った「伊勢の酒造業」は、1697年から凡そ50年で江戸に販売できるまでに育った事に成る。
    「酒に適合する米の生産」から始まり、「酒造販売」に至るまでの工程としては、納得出来る期間である。
    前段で論じた「信濃から学んだ米の生産」は、「伊勢に合した米種」も然ること乍ら、「酒に合う米種」に改造する事にそもそも「所期の目的」があったのではないかと考えられる。
    故に、確かに「伊勢の難しい気候」に合わした「米の増産」もあるが、「日本初の早場米」(青木氏が開発した「早稲光」、或は、「光稲」)には、「良酒に合った伊勢米」にするには「季節的な理由」が在って「早場米」にしたのではないかとも考えられる。

    注釈として、「伊勢」は地形的に「中部山脈」と「中国山脈」の中央構造線の「中間の切れ目」から吹き降ろす山瀬(やませ)に依って「伊勢平野」は常に荒れる。
    平均気温は15度前後と「低温域」と成り、又、「堆積平野」であるが為に「砂泥岩質の土壌」で出来ているし、この事に依る「海水堆積」が起こり、従って「米の生産」は古来より全く難しかった。
    これを「寒冷地の盆地の信濃」から「米の生産」を学び、上記の土壌に適した「米種の開発」に「青木氏の資産」(殖産)を投入して取り組んだ。
    更には、「やませの低温域」の季節を避けた「全国初の早場米」まで開発した。

    そこで「酒米種」にするには、「低温米」は甘みが在ってまろやかであるが、「海水の浸み込み」を起こす「砂泥岩質の土壌」が問題であったらしく、これに「合わせた米種」にするのには大変に苦労した事が「青木氏の資料」の一部に書かれている。

    この資料から読み取ると、概して云うと、「砂泥岩質の土壌」は低温に成ると、「土壌の水分量」が低下して、「米質」が脆く、「粘り性」が低下するとの事で、結局は、激しく成る「やませの時期」を後ろにずらして、海水の浸透期をずらし、早めに「種植え」をし、「米質が出来る時期」に、要するに地形から来る「山瀬 やませ」に合せる事で収穫すると云う試みを重ねた。
    この結果、前段で論じた適合した「早場米」が出来上がったと云う事である。
    これが「酒米種」にも一致させたと云う事であった様である。
    この「早場米」が同じ気候と土壌を持つ信濃より西域の「大阪平野」や「灘平野」や「美濃平野」までに広まった原因である事が書かれている。(事実と一致している。)

    そこで、更に調べた結果、「幕末の前頃」の1780年末から1800年前半代に開発された“「伊勢錦」”、と、その後の“「山田錦」”は「伊勢の酒米」として開発された。
    然し、、その「伊勢の酒米」の全ての元と成ったのは「多気郡」で開発された幻となっていた“「大和」”であった。

    1700年代後半期に開発されたとするこの“「酒米の大和」”は、1700年代初期に多気郡で開発された「日本初の殖産による早場米」(「早稲光」、或は、「光稲」)より改良された上記の“「酒米」”と書かれている。
    そして、この「早季種米」に観られる「米の味」から、“「芳醇な味」の「早稲光の米質」”に一致している事が判る。

    この越前から呼び寄せて造った「伊勢酒」(伊勢錦と山田錦)の元と成った「伊勢の酒米」の“「大和」”も、「芳醇な味」を醸す「酒米」として生産されていたものである。
    その後、近畿圏に多く生産される様に成った事でも一致しているのである。

    この”「早稲光」”から開発された”「酒米の大和」”は、昭和初期には完全に消えた“「幻の米」”として最近、「伊勢」で復元したと伝わっている。
    「50年の経過」を経て「酒造販売」に至る開発された時期から考察しても、この「早場米」の「早稲光」を先祖に持つ“「大和」”の「酒米」を使って造った「伊勢酒」(青木氏の殖産事業)である事には先ず間違いは無いだろう。(明治35年の資料の焼失 口伝)

    そこで「陣屋の葛野藩(1705年)」は、「吉宗将軍(1716年)」と成った後の1725年頃に最終「廃藩−越前藩返却」の経緯と成るが、この「20年間の短期間の知行地藩主」であった事から、「葛野藩割譲」と「酒造業の伊勢移入」は、明らかに「吉宗−青木」側の「当初からの戦略的な計画」であった事に成る。

    当時は「酒造技術」は「藩財政」の安定した「財源の要」とも成るもので、その為に酒造元を持つ藩は技能と技術は厳しい管理の下で「門外不出」であった。
    当時は上記した様に「四大杜氏の関係」から、各藩は何とかしてこの「四大杜氏」から人を招いて「藩財政の安定化」の為に「酒造業」を興そうと懸命に成っていた。
    「四大杜氏」は徒弟制度で組織されていて、簡単に「難しい酒造技術」が流出する事は出来なく独自の努力にも財源と技術に限界があって、喉から手が出る程であった。

    この「越前杜氏」の持つ「酒造技術」を伊勢に持ち込み「殖産」として「伊勢酒」を造るには、この酒造地域元の「葛野」を支配下に治める必要がある。それ以外には無い。
    とすると、松阪で育った「吉宗・頼方」は「伊勢殖産で酒造業」をより図る必要があると認識する。
    そうするには、この「葛野」は、「青木氏の所縁の土地」でもあり、且つ、「酒造業で成功した近江青木氏の青木俊矩の葛野」でもある。

    ここをどんな形でも良いから、「吉宗の扶持の知行地」に最低で作り上げれば出来る事に成る。
    後は、「早場米」の「早稲光」の経験を活かして「酒米」に改良する事が出来れば、同族の「青木俊矩の葛野」の「越前杜氏」の出番で酒造は直ぐに「青木氏の殖産」に移せる。

    注釈として、「綱吉」も当初からの「吉宗頼方の戦略的な計画」であるこの事を「側近の大久保氏」から知らされていて大方は察知していたのではないか。
    「記録」には「側近大久保」は「高い経済学知識」のある「嫡外子の吉宗・頼方」に興味を持った所以を「綱吉」に取り次いだとする記録が遺されている。
    この“「高い経済学知識」“とするのはこれらの事に在ったのではないかと観られる。
    葛野の「頼方知行地付与の件」での「申し出」では、「御三家」の紀州藩安定の為には必要と認めていたと考えられる。
    幕府としては、「紀州藩の安定」は戦略上欠かせない条件でもあると考えた事からの配慮と考えられる。
    そもそも、「紀州藩」は元は「浅野藩の不毛の領地」であり、「越前国の様に経済的な戦略的地域」ではなく軍事的地域と見做されていた事も事実である。

    そもそも、この「殖産」を営む「伊勢商人」とは、「松阪組」と「射和組」と「葛野組」と「日野組(松阪組と会津組)」と成るのだが、その組は次ぎの様に成っている。

    「松阪組」には、氏姓名としては、「青木氏の商業組合」や「殖産で拡がった組」や「縁故関係組(「加納氏」等)」がある。
    「葛野組」には、数は少ないが「葛野青木氏」等の「酒米の殖産組」と「杜氏等の酒造組」がある。
    「日野組」には、元の「近江組」が一度日野に戻るが、その後、「松阪戻組」と「会津組」の二流に成る。

    前段でも論じた様に、秀吉に依る「氏郷の移封」で二分流し、「松阪戻組」が「射和組」と合流する事に成る。

    これらを主導する「射和組」の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)に付いて論じて置く。

    この「射和組」には、氏姓名としては、「・玉置氏、富山氏、国分氏、森田氏、河村氏、山下氏、新川氏、三井氏、下村氏、竹川氏」、所謂、射和組の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)が確認できる。
    これに前段でも論じたが「門徒衆」が加わる。

    (注釈 但し、「日野組」の「松阪戻組」と「射和組の門徒衆」の二派は「青木氏」と行動を共にしなかった。)

    以上等の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)が中心と成って繁栄させたのである。
    この「射和組」には、伊勢紀州の「門徒衆」が入る。

    注釈として、この「射和組」に加え、全体の「伊勢郷士衆」は次ぎの通りである。

    清水、山尾、辻、・佐々木、・加納、・小林、 満田、中村、福岡、西田、島、松山、家喜、喜早、本城、福西、谷村、徳山、金子、友田、藤村、滝野、千賀地、吉住、村田、新川、
    (紀州は除く 最大時の計26氏)

    「親交・縁籍先」の五氏
    清水「松阪組」 山尾「松阪組」 辻「松阪組」 三井氏「射和組」 下村氏「射和組」

    「娘嫁先」と「家人跡目先」の確認できる五氏
    ・佐々木「松阪組」 ・加納「松阪組」 ・小林「松阪組」 ・玉置氏「射和組」 ・小野田氏「射和組」

    注釈として、この「伊勢郷士衆」との血縁では、現在の研究では、「青木氏」からの「娘嫁ぎ先」と「家人跡目先」としては「五氏」(・印)が確認できる。

    「青木氏へ嫁入り先」は、確実には全て確認が取れないが、ほぼ同じ程度の「六氏」で,大正末期までの「長い付き合い」(親交)のあった「伊勢郷士」は血縁の有無は別として「五氏」が確認できている。
    (恐らくは血縁はしている。江戸期中期で計11氏)
    然し、更に資料が見つかれば、少なくとも「伊賀郷士衆等11氏(18氏)」とは、清蓮寺などの資料からと、その前後の経緯から観て何らかの関係があった事が頷ける。
    (室町期からでは計29氏)

    (注釈 平安期と鎌倉期の状態は度重なる消失で資料が見つからないので状況証拠以外には掴み切れない。)

    伊勢の「櫛田川」を挟んで、「射和」の南側の玉城村(現在の玉城市)の全域は、「伊勢青木氏」が大地主(地権者)で、「伊勢紙屋の蔵群」と「松坂組の職人の職場と長屋群」と「射和組の職人の職場と長屋群」として成り立っていた。
    この状態は、「農地」では無かったことから、上記で論じた様に、「資産・地権」として筆者祖父の代の明治35年(38年頃)まで続いた。

    実は、「伊勢松阪」は、江戸期から明治期まで、「数十件以上の大火」として扱われる「火災」は何と「6度の大火」に見舞われた。
    従って、縁籍関係のこの種の資料は特段に遺らないし何らかの方法で追跡が困難に成っているのである。

    (注釈 これは上記した中央構造線の「地形上の吹き降ろしの影響」で大火が起こり易い。
    この内の1件は「青木氏の伊勢紙屋」からの松阪の出火元に成る。)

    (注釈 この為に「古来の資料」が残念ながら多く消失しているが、「商記録」は別であった事と「菩提寺」や関係する「郷士衆の家」には「末梢の記録」が細かく遺されている事から、「充分な読み込み」をすれば「青木氏の歴史観」と繋ぎ合わせての経緯が生まれる。)

    江戸末期にも2度の「大火」に見舞われ、「室町期末期の戦乱」に依る「焼き討ち」からも「大火」に依る「伊勢庶民の感覚」は、大火には特別なものがあり大変なものであった。
    それだけに、商家界隈の何度も繰り返される「災難」には、そこから何とか立ち直ろうとする気概が強く、「伊勢四衆」の「生き残りの二氏」(二つの血縁青木氏)が立ち上がったのである。
    (伊藤氏一族と伊賀氏一族は衰退)

    江戸期までに生き残った「氏族」の「伊勢秀郷流青木氏」は、「紀州藩の官僚」として、「伊勢青木氏」は「郷氏の地主」として、「豪商」として、「殖産」を新たに興し立て直らせようとした。
    其れには、上記した「室町期末期の殺戮」と「度重なる大火」で「伊勢衆」は、上記の様に激減して仕舞ったのである。

    “「紀州藩の記録」”に依れば、この「伊勢衆」が他国に比べて特に少ない事を理由に、「伊勢の二つの青木氏」との「談合」を再三にしていた事があり、“「青木氏の年譜」”にもこの事が一部記載されている。

    注釈として、「伊勢」の生き残りの「郷士衆」は、同じ時期の「土佐郷士数」の「全階級500」に比べて、50程度である。
    何と1/50に過ぎない。

    「伊勢三乱」に参加した「郷士数」は、記録から凡そ「35程度」で、それが、最終は20以下に成っている。
    「伊賀の乱」に参加した「郷士衆35」が、前段でも論じた様に、清蓮寺城からの「青木氏に依る救出劇」で生き残ったのは何と最終11氏(18説)と記録されている。
    (殆どは何らかの縁者関係にあった。)

    (注釈 普通は、その地域の「歴史的な経緯」も左右するが、原則の平安期からの「四六の原則」により「一国五郡制」であるので、一郡に興せる「郷士数」はせいぜい「25から30程度」が生存競争により限界と成る。
    そうすると、藩主と成った者は、これでは元より「規定の家臣数」では賄えない事から、一国に「郷士数」は150程度に拡がりこれが限界数と成る。
    これでは、藩主に課せられた「責任兵数」では足りない事に成る。
    そこで、既定の格式を下げた“「準下士」”として「農民から傭兵方式」を採用する事に成るのである。
    これでこの約3倍が用意される事に成る。
    ただ、これには、「人様」を用意するに当たり “「ある仕来り」”が有って、「傭兵と成る者」(“「準下士」”)、つまり、主に「農民」には、“「元郷士」”であったとする証明が必要であった。
    これを扱う「専門の仲介人」の「斡旋職業」が存在した。
    これらが、この“「証明」”を作り上げて藩主に届けられたが、殆どは搾取であった。
    藩主もこの事は充分に承知していて「暗黙の了解」であった。
    そこで始めから、紀州伊勢地域にはこの様な「傭兵軍団」が各地に編成していたのであった。

    有名なのは「関西域」では、大きい「傭兵軍団」を職としているものとしては、次ぎの通りである。
    伊賀軍団、甲賀軍団、雑賀軍団、根来軍団、柳生軍団、河内軍団、十津川軍団、龍神軍団、橋本軍団、日高軍団、北山軍団と、「熊野六軍団」等
    以上の各地の“「郷士衆」”から成る「17軍団」があった。
    紀州伊勢はこの様な背景から実に傭兵軍団の多い地域である事が判る。
    (臨時的に農民を集めた炊事などの雑務を担当する農兵の「農兵軍団」は除く。)

    他に、「伊勢紀州域」では、重要な水軍による「傭兵の軍団」が次ぎの様にあった。
    熊野水軍、伊勢水軍、紀伊水軍、摂津水軍、堺水軍、と別格で駿河水軍
    以上の「水軍の傭兵軍団」の「五軍団」が在った。

    (注釈 「鎌倉期、室町期の戦い」までは、戦略上、「水軍の軍団」が無ければ、“戦いは負ける”と云われていた程に「重要な戦力」であった。
    「駿河水軍」は、関東域の水軍と成るが、資料から「平安期からの戦歴」を観ると、「関西域の戦い」に参加している傾向にあり、これはこの「駿河水軍」は「源氏方水軍」と云われ、「青木氏」(伊勢水軍と摂津水軍)とは、「青木氏の平安末期の跡目」に入った「摂津源氏の源京綱」との繋がりから大いに関係のあった水軍である。
    伊勢青木氏の同族一門の伊豆青木氏との血縁関係もあって、その勢力は「青木氏」を平安期から伝統的に補完していたのである。)

    そもそも、「水軍」とは、港域の海域を封鎖し、「食料の搬送」に敵味方に大きく影響し、「港からの攻込み」で側面を突かれる事があって、圧力を掛ける戦術にも成る事で水軍を確保する事は必須に重要視されていた。
    更には、その意味でこの「水軍を持てる軍力」は、当然に「姓族」では先ず無く、「氏族」を構成する集団で無くては持てない状況であった。
    この様な「水軍」を持てるには結局はどうするかであって、「絆柵」の中で持てる「軍事力」であった。
    其れには況や“「歴史」”が左右するものと成る。
    「青木氏」はその意味で関西では、「郷氏」乍ら、この「五軍団」との強い絆柵を持っていた。其れに「陸の水軍」とも云える「シンジケート」を持っていたと成ると、例え、「不入不倫の権」で護られていたとしても、その「影の脅威」は「姓族」の大豪族の比では無かった。)

    「青木氏」では,九州の黒田藩に傭兵していた「日向青木軍団」、自由軍団の中部域の「伊川津七党の青木軍団」や関東域の「武蔵七党の丹治氏系青木氏の軍団」がある。
    中国域の地方では、「讃岐青木氏系」の「出雲亀甲軍団」、関東では「武蔵丹生党軍団」がある。
    これらは全て組織化された「郷士身分」の「表の組織」である。

    「伊勢」は、この事から観ると、この「軍団の影の脅威」があって、明らかに矢張り全国の平均より1/3と少ない事が判る。むしろ少なくても良かったのである。
    丁度、「青木氏の同族」で親交を最大にしていた水軍の無い「信濃」では、この「平均の郷士数500」であった。
    重要な事としては、「伊勢」は1/3であった事から、この様に少ないだけに「強い絆柵」で繋がった「伊勢水軍」「摂津水軍」や「伊勢シンジケート」と云う「影の組織」で固まっていたのである。
    前段でも論じたが、「シンジケート」とは、平安期から室町期に戦乱で敗退して山岳地に逃亡した「武士衆」で、中には勢力を持ちなおして「郷士」と成った者もあって、それらが「生活の糧」として「青木氏等の豪商」と繋がり、契約をして経済的に生き残った。

    (注釈 完全な経済的支援をする。常時は「荷駄の護衛」や「地域住民の護衛や警備」を担当し、「戦い」と成ると戦闘員として働く「影の軍団」である。
    資料を観ると、この水陸の「軍団の活動」は目が廻る位に煩忙であったらしい。)

    それが各地に存在する「少数の集団」であった事から、上記の「傭兵軍団」には参加せずに、「伊勢シンジケート」に組み込まれて「青木氏から経済的な裏付け」を取って、“「戦いそのものの傭兵の仕事」”では無く、“「経済的な傭兵の仕事」”を選び、それを「生きる糧・仕事」として働いたのである。

    時には、元は名だたる「氏族の郷士」もいて、「武家」であった事からも「護衛や威圧」等の「武力的な仕事」も伴わせて働いた。紀州藩などの家臣の道を態々選ばなかった。
    「郷氏の各地に持つ地権」を「護る役目」を負って、そこで土地活用して生きる道を選んだのである。
    主には、上記の藩主では無く、「青木氏」等の「大郷氏の護衛役の軍団」が中心であった。
    「郷氏」は「地権」を大きく持つ「古来の地主の格式のある武家」で、また勃興してきた「姓族の藩主」とは違った経済的背景を持った、況や“「地域力」”を持っていた「影の大勢力」であった。そこに水軍等を持っていたのであるから、「姓族の藩主」は下手をすると潰されると云う脅威が在った。

    (注釈 前段で論じたが、勃興してきた「姓族の藩主」の「山内氏」はこれに悩まされた典型的な事例である。)

    (注釈 江戸期は、「藩主の石高」に応じて参戦する兵数が決められているが、これを全て家臣(上士)では賄えきれない。
    そこで、「下士」として「土豪の郷士」を「二つの身分」に分けて抱えた。
    この事を実行したのが彼の有名な処世実に長けた藩、江戸期に出世した「土佐藩」である。
    この新興の土佐藩は、標準的な「495の郷士数」であった。
    この事から「伊勢」は如何に少なかったかは判る。)

    同じく元農民から出世した「自由郷士」の「伊勢の藤堂氏(55万石)」も、「土佐藩」と同じ環境に置かれていた事から、「伊勢の郷士衆」が少ない故に、農民からも「下級の郷士」として扱い、“元郷士であった事を証明できるもの“があれば、「郷士の下士身分」として臨時採用した。
    恐らくは、土佐藩(49万石)と石高は同じ程度であった事が伺えるが、そもそも戦乱で滅亡したと云う事よりも、元よりそれに見合う「伊勢郷士」は、室町期中期から興った「姓族の郷士」としては「伊勢」には極めて少なかったのである。
    これは「姓族」が少ない事も含めて「奈良期からの不入不倫の権」で護られた「遷宮地伊勢の歴史的な環境」から生まれた現象である事に成る。

    (注釈 筆者説では、戦乱に関わらず伊勢は最大70程度以下で、 矢張り、元々、歴史的に「聖地」とされていた事もあって生きる糧と成る「殖産」も少なかった事に依ると観られる。
    それは「不入不倫の権」で護られていて、ここで「武力」を発揮して周囲を押え「土豪」と成り、遂には「郷士」と成るには出来なかった環境にあった事が云える。
    何故ならば,「聖地」で有るが故に、成ろうとすれば、それは「逆賊の罪」に曝されるからである。
    依って「伊勢衆」と呼ばれる「郷士衆」と違い、「天正期末の伊勢郷士」と呼ばれる多くは、上記した「伊勢御所時代」を強引に築いた「公家武家の北畠時代」からの「各地から集めた郷士」であり歴史は浅い。)

    「公家大名」と成った北畠氏は、上記の通り「武力を持たない事が原則の公家」で在るが故に、従って、各地から家臣を急ごしらえで募った事は有名で、関東の秀郷一門の名門の「工藤氏」等も家臣に成っている位である。
    その「工藤氏」等も「北畠氏」がその勢力を関東中部地域に伸ばした時に滅ぼした「氏族」であり、それだけにこの「伊勢」には「歴史の長い郷士衆」は少ないのである。
    それだけに室町期中期頃からの「伊勢郷士」と呼ばれる「土地の土豪」から育った同じ「郷士」で有っても「青木氏との付き合い関係」も少ない「伊勢の郷士」もあるのである。

    「紀州藩の記録」には、その「意味合い」としては、伊勢では、“「郷士」が少ない故に反対運動や騒動が無く、やり易いと云う事もあって、「彼等の糧」を確保する為にも「伊勢の郷士」等に影響する”「土地」“とか、”「水」“を利用した”「殖産」“を進めるべき”との意味合いの文略がよく観える。
    「土地」が、「勢力拡大の道具」として使わず、事を構える事無く「本領安堵」されている「青木氏」に執っても同じ考えであった事が、これはこの時期に何度も繰り返されている「談合」の意味からでも判る。

    そもそも、上記した「郷氏の地域力」を有史来を持っている事から「伊勢の事」を考えている「青木氏」を「本領安堵」する以外には無かったとは思われる。
    然し、それにしても「伊勢の国力」を高めるには、「伊勢衆」と「伊勢郷士」の「二つの郷士の力」を結集した「殖産と興業」が必要であった。
    従って、その「力の源」に成るには、「新しい藩主」にしても「地域力」を持つ「郷氏の青木氏」にしても、矢張り、「少ない郷士の力」を使う以外には方法は無かった。
    その「二つの郷士」が室町期末期の戦乱で激減し、その僅かに遺された「伊勢郷士」も、「伊勢シンジケート」の中に存在したと云う“ジレンマ”にあった。

    元々、上記した「紀州藩との関係」から観ても、結局は「郷氏の青木氏」が前面に出る事しかなく、「伊勢シンジケートの郷士」から観ても、頼れるには「藩主」では無く、矢張り、“「実質的な地域力」”を持った「郷氏の伊勢青木氏」であった。
    然し、その期待を背に、この「郷氏の伊勢青木氏」も「自らの力」だけでは“不安”であったと観られ、当然の事ではあると思われるが、「古来の親族」の“「信濃青木氏」”に「助け」を更に求めた事にも成る。

    と云う事は、「伊勢」は、「室町末期の伊勢三乱」の「戦乱の影響」を強く受けていた事だが、「親族の信濃」はその意味では中部地域であった事から、「信濃青木氏」は「郷氏」であって「国衆」では無かった事から伊勢程ではなかった事に成る。

    そこで、紀州藩から「5万石相当の支藩的扱い」を受けていた“「地域力」”を持つ「郷氏の伊勢青木氏」は、「前段や上段や上記の背景」であったが、ところが、この当時、「伊勢の殖産」を紀州藩自らが進めるには下記の「諸範の事情」から無理であった。

    何故ならば、上記した様に「財政的な問題」を大きく抱えていた。
    (「10万両の借財 55万石の1/2の財政」=廃藩寸前の財政)

    その中での「青木氏の商年譜」のこの時期(二代目後半と三代目初期)の記録(1705年6月)には、“「紀州殿談合」”と記されている部分が在る。

    (注釈 この「談合」の「殿」とは、書き方から「藩主」とは限らない模様で、 藩主就任1年後 喪中開け後の事である事から活発に動く事は無理であった筈である。
    これは「19歳の源六殿」の意味合いが強い。)

    この記録にある様に、“「殖産」”で“「紀州藩立直し」”を「青木氏」が主張する様に、「伊勢青木氏」の「経済力」と「地域力」と「二つの郷士の土豪を動かす能力」を期待しての”「伊勢殖産」に対する談合“では無かったかと考えられる。
    揉め事を避ける意味でも「伊勢と紀州の民」を動かしての「殖産」に対する「紀州藩の同意」を事前に獲得する戦略の「談合」であったと考えられる。

    前段で論じた様に、これは「初代頼宣と五代目吉宗の持論」でもあったが、「二代目光貞」も、この”「殖産」“を、「吉宗」を「伊勢青木氏」に預ける位である事から、主張していた事にも成る。

    注釈として、確定する資料が無く、筆者の「青木氏の歴史観」と「状況証拠に依る推測」の範囲を超えないが、場合に依っては、密かに「幼児の吉宗・頼方(源六」」を隠す様に「伊勢」に預けた時から、「二代目の光貞」はこの「腹つもり」であった事が考えられる。

    “「殖産」”に依って「紀州伊勢を立て直すしか方法」は無く、それを「青木氏の財力」と「藩主に相当する地域力」を使っての「殖産」を考えていたとも取れる。
    何故ならば、この「考えて実行に移した時期」が、伊勢(1684年)に預けられてから22年後に「“偶然?」が重なり「藩主」に成る”のだが、この「吉宗19歳の後頃」では無かったかと考えられる。

    実は、「藩財政の悪化」以外に「外部要因」として、この時に、“「元禄大地震」(1703年)”が起こっていて幕府は火の車に成った。火の車以上であろう。
    これで「紀州藩」も幕府から「毎年2万両の借財」をしていたが、この借財が出来なく成って仕舞った。
    ところが、紀州藩に「殖産」を興して立て直す必要に迫られたが、その「殖産を興す財力」は、最早、元より無かった。
    そこで、「青木氏の財力と地域力」に目を付け、そこに「吉宗 頼方 源六殿」が居る事で19歳に成った「吉宗 源六殿」により経済的な知識を付けさせて、より「青木氏」との「育ての親の関係」を深くさせて、何時しか「殖産」を興しての「藩政」を任せようと考えたと観られる。
    ところが、「藩政」は公家系の知識力の無い「二人の兄弟」が継承する事に成っていた。
    これでは「改革」は出来ないで藩は潰れる当に瀬戸際に至っていた。

    そこで、「二代目の光貞」は、「嫡子外扱い」としていた「吉宗の源六殿を藩政に据える密かな遺言」を遺していたのではないかと「状況証拠の積み立て」から考えられる。
    それを「御育用人の加納氏」と1697年に葛野藩主に成った「吉宗(頼方 源六)14歳」に伝えていたのではないかと考えられる。

    この時1697年、光貞と兄弟二人は、綱吉に拝謁を受けた。
    そして、嫡子外と云う事で、「吉宗(頼方)」が控えの間に、ところが老中の「大久保忠朝」に特別に便宜が働いた。
    この事で「父親の光貞」は、「吉宗(頼方)」が幕府に認められたと解釈し、更に「先の事」に暗示が掛けられたと解釈したと観られる。
    そして、特別拝謁から8年後、「元禄大地震」の2年後に光貞(1705年5月)は没したのだが、
    そもそも、紀州藩の支藩は6藩あり,その内、「越前国の葛野藩」1697年は吉宗に、「越前国高森藩」1697年は、次男の頼職に割譲、後は時代は異なっていて家臣や家老が納めている。
    つまり、「葛野」は「吉宗(頼方)」に、「高森」は「頼職」に、ところがこの「高森域」は「頼職」が短期間の紀州藩主と成った時に返却し、一部は「吉宗(頼方)14歳」が受け取っている。
    (短期間の知行地 高森支藩)

    「嫡子外扱い」でありながらも、「頼職の兄」と知行が同高で、予想外にも、破格の扱いで“兄より厚遇を受けた“と「光貞」は受け取り、「吉宗(頼方)14歳」を”「紀州藩の跡目」にと暗に「綱吉」に諭された“と受け取ったと観られる。
    故に、注釈として、紀州藩では次ぎの様な「不思議な事」が起こったのである。

    「二代目光貞」は1705年5月没と、「三代目頼教」は1705年8月没と、「四代目頼職」は1705年9月没と成っている。
    二代目と三代目は「病気説」、四代目は1月後に江戸から駆けつけて「疲労説」、 三代目はそれまでは元気で、病名不明の突然死は疑問である。
    四代目は江戸から船で最速で3日の船便を使えば着く。
    三日で着いたとしているので船便である。従って、死亡する程疲労はないし若い。

    (注釈 陸旅では15日所要する。「見舞い」には間に合わない。)

    況して、「江戸」から「伊勢」に旅して疲労で死んだとは前代未聞で、そもそも「伊勢参りの慣習」もある位なのに、事も不思議である。「付焼刃理由説」に外ならない

    何度も記するが、其処に、「追い打ち」をかける様に、1707年と1708年の紀州沖の「宝永大地震」が起こって仕舞った。
    何と「25万石/55万石の災禍」と成ったとされている。

    最早、これで紀州藩は「財政破綻」で間違いなく「廃藩」に成る。
    これでは「幕府」は困った。従って、拝謁時の「幕府の意向」を強力に推し進めて来た。
    そこで「郷氏の青木氏」は、藩主に代わって独自に「伊勢紀州の郷士衆」等を集めて談合している(1705年)。
    その前に前段でも論じたが、中でも「紀州藩」は立藩時にそもそも「伊勢藤氏の青木氏族」等を「家臣の大半」にしている。
    この事から、そこで焦った縁籍関係にある「伊勢紀州の郷士衆家臣団」と「青木氏族の紀州家臣団」は、上記の件(幕府の意向)もある事から“「ある決断」”をしたと考えられる。

    これらを受けて、次ぎの様な事が課題と成った。
    問題は、次ぎの事で談合が進められた。

    「10万両の借財」と「未曽有の災禍」で、藩は崩壊寸前、現藩主の能力で切り抜けるられるか。
    拝謁時の「幕府の意向」を推し進めるにはどうするか、
    推し進めた場合のリスクをどう処置するか、
    誰がどの様に「ある決断」を実行するか、
    決行した場合の援助体制をどうするか、

    以上を課題として「縁故の家臣団」は「青木氏」を巻き込んで「松阪」で検討されたと考えられる。
    「二つの青木氏」が、この“「談合」”を実行したと云う事は、ある程度の“「ある決断」”の実行を容認し、その後の「支援援護」も覚悟しての事であろう。
    「ある決断」を実行するかどうかと云う事は、最早、そのレベルでは無かった筈である。
    “「ある決断」”を1705年に実行されたと云う事であろう。
    “「ある決断」”を実行するについては、目だった事は逆効果で幕府が観ている中では、政治である以上はその建前を作り上げなくてはならない。
    しかし、「事を荒立てる事」は、幕府に執っては「お家騒動の形」で逆に処分をしなくてはならない口実に成る。
    最悪でも「世間の見本藩」にも置かれている「幕府の御三家」としては絶対に避けなければならない事である。
    暗に示した「幕府の意向」である限りは、無難な形で、且つ、円滑に措置する事が課せられている。
    ともなれば、その措置は決まって来る。
    「嫡外子」であって「知行地」を受けたとしても、「吉宗・頼方・源六」を他の兄弟二人を飛び越えて、行き成り「紀州藩主」に仕立てる訳には行かない。
    仮に”「ある決断」”が、「廃嫡」しかないとしても、先ず、「跡目の形」を二人の兄弟に取らせた上での事に成る。
    二代目光貞没後、三代目、四代目を跡目継承させた上で五代目の跡目として「吉宗・頼方・源六」が継承すると云う形に導かねばならない。
    これで世間と幕府を納得させられる事に成るし、御三家としての立場を保てるし、「幕府の意向」を実現できる。

    では、その”「ある決断」”の「理由づけ」と「時期」が問題と成る。
    この「時期」は、上記の通り切羽詰まって猶予は全く無い。
    恐らくは、密かに幕府老中からの「秘かな催促」が在ったであろう。
    「理由」は、世間の藩の廃嫡で使われるのは「病死届」「隠居届」が主流であった。
    そこで「紀州藩」は二人を廃嫡しなければならない事から、「尾張藩の家臣団」が行った「隠居届」は出来ない。
    遺されるは「病死届」、然し、三人目は「理由づけ」として幕府は無難で円滑である事を見込んでる以上は、「幕府届出」には三人ともに“「病死」”と云う事には成らない。
    故に、「苦肉の策」で聞いた事のない様な記録にも無い「理由づけ」の“「疲労死」”で済ましたのであろう。

    この「ある決断」は、1705年の5月8月9月と成ったと考えられる。

    (注釈 今でも和歌山城の城下には、「伊勢藤氏の青木氏族」の家臣であった青木家が多いし、藩に馬等で通える範囲の近隣の市町村にも多く、如何にも定住地であったかの様に拡大している。
    彼等の家筋の家紋分析では全て「伊勢藤氏」の「秀郷流青木氏の末裔」である。)

    そこで注釈として、この“「談合」”に付いて参考と成るものがあった。
    この「談合」に参加した「郷士頭の家の遺資料」には、この「談合」の直後に「御城役の縁籍の者(本家)」で催事が在って、その催事に対する返礼の手紙の中に“「城の行く末を案じている内容」”が書かれているものがあった。
    この事に依ると、この家臣もこの「談合」に参加していたらしいのだが、詳細は書かれていないが、“城では可成り緊迫した状況”の中にあった事が判る。
    この「青木氏の商年譜」に書かれている“「紀州殿談合」”には「吉宗・頼方・源六」が参加していたかは充分な確認が取れないが「非公式の参加」は先ず間違いは無いだろう。

    そこで注釈として、 この「紀州殿」とは、果たして“どの様な意味なのか”と云う事に成る。
    当時、伊勢と紀州の郷士間の呼称には、「伊勢衆の郷士」には「伊勢殿」と、「紀州の郷士」には「紀州殿」と云う一般呼称の方法が在った。
    「紀州殿」とは、伊勢から観れば、紀州に居る紀州藩の家臣と成っている「郷士」、即ち、「紀州の郷士」と、紀州に居て家臣と成った「伊勢の郷士」の事を表現した呼称である。
    従って、「吉宗 頼方・源六」がこの「談合」に直接に参加していたかは疑問である。

    然し、次ぎの記録から江戸に居たとも取れるが、「伊勢」に居たとも成っている。
    藩主に就任する際(1705年10月)に、幕府から呼び出しがあり、「藩主の黒印状授与」と合わせて「仕来り」に依り、「綱吉」より“「偏諱(へんき)」”として「綱吉の吉の通名」(1705年12月)を与えて「吉宗」とする様に「改名」を命じられた事が記録として在り、この時は「江戸」に居たと考えられる。
    これからすると、未だ藩主にも成っていない部屋住みが次兄の要る江戸にいる事は無い。
    従って「伊勢」に居た事に成る。
    「紀州」には藩主と成った4年後に入国しているので「伊勢」に居た事に成る。

    そこで、此処で、重要な事が起こっているのである。
    それは、「青木氏の歴史観」と紀州藩に執って見逃せない事柄である。
    先ずは、それを先に論じて置く。

    重要な注釈 (偏諱 へんき)
    この「偏諱 へんき」と云う言葉には、「青木氏の歴史観」に執って前段で論じた「青木氏」しか引き継がれていない「達親」と同様に、実は、この“「偏諱(へんき)」”も元は「青木氏だけの慣習」であったのである。

    江戸期では武士の家柄では、これに代わるものとして“「通名」”と呼ばれるものがあるが、中には「武士出の豪商」なども「世襲名」の「襲名」という言葉でこの「通名的」に使う様に成った。
    ただ「通名」や「世襲名」のこれらには、これを実行するに儀式的で一つの伝統的な慣例なものでは無い処が異なる。

    然し、この“「偏諱(へんき)」”の根源は、「青木氏等の皇族賜姓族臣下族」が、「通称の通名」に一定のシステムを加えて奈良期から引き継がれて来た実に古式豊かな「古い仕来り」なのである。

    「天智天皇」が「大化の改新」で定めた「第四世族の第六位皇子」が臣下する際に、天皇から「皇族賜姓族臣下族」に対して、「氏名」、「象徴紋」、「守護神」、「神木の氏木」、「官位官職」等の「象徴」を与えたが、この一つとして、「氏名」に続く、「権威の仕来り名」も与えた。
    これが“「偏諱(へんき)」”と呼ばれた儀式だが、「皇族賜姓族臣下族」だけの「儀式・仕来り」で在った。
    そして、この“「偏諱(へんき)」”も含めて、「嵯峨期の詔勅」に伴う「禁令」に従って「青木氏」が行う「慣習仕来り掟」を真似てはならないとする事が発せられた。
    「青木氏の氏名の使用とその慣習仕来り掟」と同様にこの“「偏諱(へんき)」”もその一つであった。
    況や、それは、「賜姓」に伴う「一つの仕来り」であった。

    「賜姓」は「氏名」(姓)であり、それに続く“「偏諱(へんき)」”は「名」であり、古来ではこの「名」を「二つの使い分け」をした。
    それには、「字名(あざな)」も一つであって、「賜姓」を権威付ける為に設けられた「仕来り」であった。
    「賜姓」と共に使われる“「偏諱(へんき)」”のこの“「字名(あざな)」”は、室町期末期頃からはその「人の愛称」として“「あだな」”として用いられる様に成った。
    例えば、「正規の偏諱名」で呼称する事を憚れる時は、「院殿などの屋敷名」や「町名」や「通路名」や「門跡名」等が使われた。
    「嵯峨期の禁令」などでは一般にはこの「字名」も使われる事無く、「公家」等がこの「字名」を使ってよく呼称された。

    この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”が、その「賜姓」と共に護られて来た「青木氏の古式伝統」なのである。
    「天皇等の上位の者」、即ち、「権威者」が、自らの「名」、或は“「字名(あざな)」”の一字を「世襲名」の一字に加えて名乗らせると云う方法の儀式である。
    この「賜姓」に続く「催事」のものである限り「正式な催事・儀式」として、「賜姓」に関連する“「偏諱(へんき)」”と呼ばれる「仕来り」を敷いていたのである。
    平安期末期までに天皇より「賜姓」を受けた「高位の者」は、この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”の「仕来り」に従う義務があった。

    20程度から始まったものが最大時は200もあった「正式認証の氏族の賜姓族」は、室町期末期には壊滅状態で、この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”の「仕来り」に従う義務に従って催事を執り行うだけの「氏力」を持っていたのは、筆者の研究では「青木氏と藤原氏と佐々木氏」等を除くと、たった「4氏の氏族の賜姓族」に留まっている。

    この様な「皇族賜姓臣下族」等の用いる「慣習」や「仕来りや掟」を「嵯峨期の詔勅」と当時に出された禁令で、この「皇族賜姓族臣下族」の“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”も含めて「氏名、象徴紋、守護神、神木の氏木、氏名の村名、氏名の地名」等を使う事を一般に禁止していた。
    この禁令の原則は明治3年に解除されるまで護られていた。

    ところが、室町期中期頃から将軍や大豪族等の家で「嵯峨期の禁令」が、中でもこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”が護られなくなった。
    むしろ、末期にはこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”を利用して衰退した室町幕府の権威の継続に利用されたのである。
    これが変化して一般の武士社会に広まったと考えられる。

    さて、そこでこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”に付いてどの様に利用したのかと云う点である。

    そこで、「青木氏」を「育ての親」としている「頼方」を江戸に呼び寄せて、「綱吉の吉の字」を与えて「吉宗」とする催事を態々儀式として興したのである。
    この「偏諱(へんき)の儀式」と云うものがどの様なものであるかが判れば、「偏諱」そのものが行われた事が、「幕府の意向」を「紀州藩に対しての態度」を如実に物語るものであるかが解る事なのである。
    普通は、「偏諱(へんき)の儀式」が「嵯峨期の禁令」が掛かっている以上は、無視してまで矢鱈と「将軍」が周りに頻繁に行われない催事なのである。

    実は、注釈として、この「綱吉」の行った「偏諱の儀式」には、ある「思惑」があった事が判るのである。
    それは「幕府」のみならず「紀州藩」の社会への「権威」と云うものを見せつける目的があったと観られ、禁令と成っている「賜姓臣下族」の行う「古式豊かな偏諱儀式」を行える格式を「幕府と紀州藩」は持ったのだと云うデモンストレーション(示威誇示意識)を天下に指示すと云う思惑があったのである。
    また「紀州藩」で起こった上記する「廃嫡」に観られた「ある決断」の事件(急逝事件)を穏便に納めると云う思惑もあったのである。

    然し、現実に「幕府」は他の二人の兄弟に「母方公家」にあったにも関わらず行わず、公然と「頼方」に対してだけ「偏諱 へんき」は行ったのである。
    然し、他の親兄弟に対してたとえ「藩主」に成ったとしてもこの「偏諱 へんき」は行っていないのである。
    だとすると行う以上は、何がしかの「大義名分」が整っていなければ、「将軍家」と云えども「禁令無視」は社会に対して出来ない催事の「偏諱(へんき)の儀式行事」である。
    「令」を護らせる立場の者が自ら「令」を破る事は出来ない。

    そこで先ず次ぎの条件を整えたと思われる。
    (A)「催事主」は、「武士の長者」で筆頭の将軍の「徳川氏宗家」
    (B)「吉宗育親」は、「皇族賜姓族臣下族」の「青木氏」
    (C)「授与者」は、嫡外子であったが「紀州藩の藩主」に成った「徳川頼方」

    つまり、「征夷大将軍」「皇族賜姓族臣下族」「賜姓族育親の子頼方」で「偏諱の仕来り」の「三つの条件」は整っている事に成る。
    これで「嵯峨期禁令」を破る事には成らない条件が整うのみならず「権威を指し示す格式」を幕府が持った事をも意味する。

    そこで、そもそも、「吉宗」の「宗の字」の「偏諱」は、「育ての親の伊勢青木氏」の祖で「摂津源氏源頼光四家」の「宗家頼政」の「子仲綱の子の三男京綱」が「青木氏の跡目」に1180年に跡目に入っている。
    この「頼光四家」の「偏諱」(通名)が「宗」である。
    この「育親の筋目」を使って「宗」を以って「吉宗」と特別に偏諱したと観られる。
    ところが、これには、故意的に一つ「偏諱の仕来り」に従っていない事が在った。
    これは「高級武士」で行う”「通名」”の「仕来り」にも従っていないのである。
    これにはある意味を持っているのだ。故意に従っていないのである。
    それは「親役の名」の「下字(後字)」を「前字」にしないと云う奈良期からの「鉄則の仕来り」である。
    この「鉄則の仕来り」を護らなかった事は、“一体何を示すか”と云うと、“お前は俺の下に在る者だ“と「見下している態度」と成る。
    そもそも、この「偏諱 へんき」と云う「名誉な儀式」が「見下しの儀式」と成っているのである。

    何故なのかである。
    それは「綱吉」の「吉」が「吉宗」の前に来ている。
    ”「偏諱 へんき」”や”「通名」”の「仕来り」から、本来であれば、格式から“「宗綱」”が筋であって、譲っても「綱宗」となる筈である。
    これでは「偏諱 へんき」では無くて、普通の武士慣習の親子の命名時に行う作法に過ぎない事に成り、態々、「偏諱として儀式」を行う事では無い。
    然し、現実は「偏諱 へんき」として行われたと記録されているのだ
    つまりは、表には「偏諱の仕来りの儀式」を見せて、世間には”「権威」”を誇示し、裏では“将軍家が上なんだ”と誇示したかったと云う事と一説では取れるであろう。
    良く云えば、これは“「綱吉の子供」の様にして「破格の扱い」にした“と示すものでもあって、「紀州藩」では「嫡子外の扱い」を受けていたにも関わらず、「葛野藩割譲」と同様に極めて名誉と周囲から観られていた筈である。
    「嫡子外の呼び出し」や「控えの間からの拝謁」や「葛野藩の割譲」やこの「偏諱 へんき」の好意や配慮から考えると、「綱吉の子供説」も充分に考えられる事であろう。
    何れかと問われれば、簡単に云えば「両方の意味合い」を以って、“政治的に利用した”と云う事であろう。

    この「偏諱(へんき)」とは、云い換えれば上記した様に、そもそも、元は「賜姓族」等の「皇位族」の中で行われる「跡目継承の慣習」の催事で、上位の者が「氏の一族」である事を証明する為に跡目時に「一族の通名」の一時を与えて「跡目名」とすると決められた「慣習と仕来り」でもある。
    それで以って世の中に宣言する一つの手段でもあった。
    この「偏諱(へんき)」は、「青木氏」も「官位官職を表す世襲名」と共に「朝廷の奈良期」から続くもので、前段で論じた様に“「達親」”に続く極めて“「古い伝統」”である。
    そもそも、この「偏諱(へんき)」は、「青木氏」等の「氏族の臣下族」の中で「仕来り」として「特定の高位格式」の範囲で「古式伝統」として密かに引き継がれて来たものであった。

    然し、何処で漏れたかは判らないが、恐らくは足利幕府と考えられるが、この慣習に似た「通名」と云う呼称で、この慣習が室町期の中頃から大名と成った「姓族の武士」等にも用いられる様に成った。
    室町期中期から発祥しした「権威や伝統」を持たない「姓族」であった事もあって、「室町幕府」の採った「偏諱」に似せたこの「通名」は効果が大きかった。
    恐らくは、上記の通りこの慣習が世間に知られて一部変更が加えられて伝わったのには、室町幕府の「賜姓源氏」であった「足利氏の勢力」が低下した事から、採った苦肉の策に外ならない。
    「足利氏」が、この「偏諱(へんき)」を使って臣下に名を与えて「将軍の権威」を保った事から来ていると観られている。

    丁度、幕府が「官位官職」を朝廷に推薦申請して授与して「臣下族」を引き付ける目的として用いられる様に成ったと同じである。

    (注釈として、「偏諱(へんき)」が「足利氏」に用いられていた事は「清和河内源氏の氏族」であった事から来ている。
    ただ「清和源氏」には、「本流四家の摂津源氏」と「支流頼宣系の河内源氏」に分けられるが、本来は「本流の宗家筋 (摂津源氏頼光系四家」」で維持されて行くものであるが、「頼宣の支流系」にもこの「偏諱(へんき)」が敷かれていた事に成る。
    それも、「本流の信濃足利氏」では無く、「関東の足利氏」に引き継がれていた事に成る。
    つまり、「宗家筋」と云う枠を超えて「分家筋」にまでも、この「偏諱(へんき)」だけでは無くそれに伴うこの「古式の仕来りや慣習」が正確に引き継がれて来た事を示している。
    従って、この「仕来り」そのものの原点は、“「賜姓」”から来ている「一連の仕来り」であった事から、唯、「賜姓族」ではない「足利氏」が「賜姓源氏の河内末裔」であるので、況して、本来であれば「宗家四家」の「摂津源氏」が「賜姓の仕来り」を引き継いで入る事には成るが、この室町期には、最早、「臣下族」だけである事の理由で、この「偏諱(へんき)」を使う事に成って居た事を示す。
    「偏諱(へんき)」を使う事には問題は別にない。
    この「偏諱(へんき)」の「仕来り慣習」を「源氏」であり「嵯峨期の禁令」には触れない事から引き継いではいけないと云う事は無いので、それは「清和源氏」の中での伝統の問題である。)

    (注釈 執権北条氏の鎌倉幕府は、「賜姓族」では無く、「皇族第七位族の坂東八平氏族」の支流族である事から、この慣習と仕来りは「嵯峨期の禁令」で使えない。)

    (注釈 「嵯峨期の詔勅」での「青木氏」の後の「臣下族の源氏」には、正式には「賜姓」を受けた「11家11流」あり、「賜姓」を受けないで「源氏」を名乗った皇位族も多く在る。)

    そこで、この様に「偏諱(へんき)の儀式性」がどの様なものであったかを理解する事で、「綱吉」が「頼方」に行った「偏諱の目的」が良く観えて来る。
    その前に、この「偏諱(へんき)」に付いて「青木氏」に伝わる「偏諱の儀式性」では、次ぎの様に成る。

    先ず、「偏諱の儀式性」としては次ぎの「三つの基本条件」が成立している事である。

    即ち、「第一の基本条件」である。
    次ぎの「三つの役務環境」がある権威を以って整っている事である。
    「権威役をする者」と、「親役をする者」と、「子役に成る者」とを先ず決める事を定める。

    更に、「第二の基本条件」である。
    次ぎの「三つの基本環境」が成立している事である。
    基本環境の1
    「15歳以上に成った事」に合せる事(一種の成人式)」とで「四家の一員」として認められる事に成れる時に行う。
    基本環境の2
    「大きい実績を氏にもたらした事(功績式)」で「四家」に成れて、「四家制度の16家」の一家を構えられる時に行う。
    基本環境の3
    「四家」の中から「福家」に選ばれて「氏族」を率いる時に行う。

    最後に、「第三の基本条件」である。
    更に、次ぎの「三つの基本儀式」が成立している事である。
    基本儀式の1
    「偏諱」の「授与の記念物」には「短刀一式」を授与する事
    基本儀式の2
    「烏帽子とその蔡装服(礼服・儀式)一式」を授与する事
    基本儀式の3
    下記の「五つの名」を授与する事
    以上の基本儀式が先ず決められている。

    この基本儀式のが成立した上で、次ぎの「名(字名)の作法」が行われる。
    名の「前字」は、「氏の福家」に伝わる「権威の名」、
    名の「後字」は、「四家の長」に伝わる「伝統の名」
    以上を与える。

    念の為に前段で論じたが、「青木氏」には次ぎの「名(字名)の呼称の変化」をさせる習慣を持っていた。
    「幼名」 15歳以下の呼び名
    「俗名」 15歳以上未婚時の呼び名
    「通名」 四家の一員と成った時の呼び名(既婚)
    「跡名」 四家と成った時の「跡目名」で「偏諱」で与えられた呼び名(字名)
    「格名」 氏族が持つ朝廷より与えられた永代の「格式名」があり「福家」が引き継ぐ公の呼び名。

    以上が資料から取りまとめた「三つの基本条件」である。

    付帯する条件として次ぎの事が書かれている。
    ・「行われる時期」
    これらの「偏諱の儀式」は、口伝に依れば、平安期から鎌倉期末頃まではその都度行われていた様である。
    然し、室町期に入ると戦乱期でもあった事からか、上記の「弥生祭り 五月祭り」の「一つの祭祀二つの催事」で合わせて行われていた様である。
    この時、祭りの後期の「五月祭り」に合わせて、上記の条件下で「偏諱式」が行われたと伝えられている。
    ・「行われる場所」
    これらの「偏諱式」は「一族の長」である「福家」が行い、一族の郎党が一堂に集まり、「偏諱の条件」がすべて整う「始祖祭り」でもある「弥生祭り 五月祭り」に合わせて「偏諱式」を執り行う様に成った。
    ・「行われる具」
    上記の「偏諱の儀式」が、後期の「五月祭り」に行われる事に成った事から、「短刀一式(格式)」や「烏帽子(役務)」と「蔡服一式(制服)」を与える等の「三つの儀式性」が併用して行われていた。

    これは「四家制度」の中で「家人や縁籍や周囲の伊勢衆」に対して、その「存在の確認と権威とその責務の有無を明示する手段」でもあった。

    ・「飾短刀一式(格式)」とは、現在で云えば、「職位」を示す「制具」の様なもので、「短刀」に個別に装飾が施されて、その「格式や身分」を表す「色文様を用いた装飾」でこの「職位」を明確に表した。(八色姓の制)
    ・「烏帽子(役務)」とは、現在で云えば、「職務」を示す「制帽」の様なもので、どの部署に所属するかを明示する手段で、「烏帽子」の右に色識別して表示した。
    ・「蔡服一式(制服)」とは、現在で云えば、「職場」に合した統一した「制服」の様なもので、冠婚葬祭の様な「一切の催事」の際に服し表した。

    以上の「偏諱の儀式」にこれら「三つの儀式制」が加えられた。
    これらの「偏諱に伴う儀式性」は、「朝廷で行われている儀式性」を全面的ではないが、「青木氏」の「賜姓五役」をより確実に履行推進する為の「四家制度」の中で、これに合う様に編集してある程度踏襲していたものである事が判る。

    この「偏諱の儀式」として用いられた「三つの儀式性の伝統」の事から観て、後に、世間には簡略化されて「男の節句」と受け取られ何らかの形で世間に広まったと考えられる。


    さて、「室町幕府と江戸幕府」は、この上記の「偏諱の仕来りの儀式性」を「武士様」に編集してそれを以ってして行う事にしたのである。

    (注釈 室町幕府と江戸幕府の「偏諱の使い方」、況や「偏諱の儀式性」が異なっている。
    これは上記した様に「清和源氏の支流族」と「徳川氏の姓族」との差の違いからであろう。)

    その為には、“「朝廷(権役)」”を利用して「偏諱」を使い「儀式的」として「権威を示す慣習」として「将軍(親益)」に引き継がれ、その“「授者(子益)」”にして、「朝廷の賜姓儀式」に代わる「幕府の偏諱儀式」を形式的に政治的に用いる様にして与える様に恐らくは成ったものであろう。


    ここで「重要な注釈」として、次ぎの事柄がある。
    この「偏諱の青木氏の資料」には、「親役・子役」とあるもの、別に「親益・子益」と書かれたものも有って、「元の本来」の目的は、この書かれた内容の古さから“「役」”では無く、“「益」”と云う「語源」に在ったと思われる。

    つまり、そもそも、後に使われた「役の意味」の“「役割」”と云う意味では無く、“「益」”の元の語源は「中国の八卦(論理的な占い)」から来ていて、“「ふえる」「めぐみ」「ために」”から来ていて、“「めぐみをもたらす」”や“「ためになる」”の意味に使われていた。

    この「偏諱の親や子」に成る事が、“自らの恵みに成る事”であり、“自らの為に成る事である“の意味が儀式的に強く、「親に成る者」も「子に成る者」も周囲に対して「親・子」に成れる事が「権威や名誉」を獲得する儀式でもあった事を示していたのである。
    この「偏諱の儀式性」の意味する事から、「単なる役目」とする意味では無かった事が判る。

    「権役(ごんえき)」は、既に、その「権威や名誉」を何度も獲得している者が司る「仕来り」であった。
    普通は、一族一門の「長の福家」が司るが、中には、縁籍関係の「公家」に依頼して司っている記録もあり、その上記の「偏諱の条件」にも依るのではないかと考えられる。

    上記にある様に、この「偏諱(へんき)」には、上記の「偏諱の儀式性」の一つでその「15歳の成人」に成った事を祝う「烏帽子式」と、「四家の一員」に成った事で「蔡服一式」(衣冠の儀/青木氏では「蔡装の儀」)を着せられる儀式も兼ねていて、この時も「烏帽子親」、「烏帽子子」と云う“「益」”があって、世間でこの「烏帽子親」、「烏帽子子」と後に呼ばれた事も、この「偏諱の中の儀式」から来たものであると考えられる。

    「短刀一式」(束帯の儀/青木氏では「帯刀の儀」)は、15歳に成った事で、一人前の「賜姓臣下族」の「賜姓五役」を務める「武家侍」に成った事を証明する儀式で、その「侍の心魂」として「短刀(飾太刀)」を「烏帽子と蔡装」と共に帯刀する事が出来る様に成った事も祭祀する儀式であった。
    そもそも、この“「飾太刀」”と呼ばれる「短刀」は、朝廷では皇族や高位の者が「儀式様」に携える刀であって、「飾太刀の帯刀」のこれを認められる事は、「氏の象徴紋」と共にその者の「権威と格式身分」の「証明の象徴物」としてあるとしたもので、「帯刀の儀式」には用いられた。

    ところが、平安末期に至ると「皇族下俗者」や「臣下族等の高位の者」が多く成り、その結果、その貧富とその財力に差が出ると、「儀仗用太刀」として極めて限られた「賜姓族」などにのみ用いられる様に成った。

    (注釈 この「飾太刀の短刀」とは武士の脇差の事では無い。刀の形も帯刀の仕方も異なる。
    朝廷では「飾太刀」は「長刀」であり武士の様に腰に差すものでは無く、「飾紐で携え形式」のものである。
    この「飾太刀」では無く同じく紐で携える「飾短刀」としている。これは朝廷に儀式の模倣に対して「賜姓臣下族」としての分を弁えた形を採ったものである。
    他の資料にも「皇族武官」がこの「飾短刀」を儀式の際に携えて用いている事が書かれている。恐らくは、これは「八色姓の制」に沿った「朝臣族」(皇族賜姓臣下族)の「当時の仕来り」であったと観られる。)

    (注釈 前段でも論じたが、この「儀式性の観点」から検証すると、平安末期では、「賜姓源氏」では11流11家、「賜姓族」で40氏、「賜姓族」では無い「貴族源氏族」は18家、「皇族下俗者と還俗者」は男系族25家で女系族8家、「門跡族」は不詳数であった。
    但し、男系族と女系族の内18家が「青木氏」を名乗り、「五家五流青木氏の跡目」に入った。
    鎌倉期には、幕府のある程度の財政的な保護が成され多少の増加傾向にはあったが、室町期には激減し、江戸期に至っては、政策として「西の朝廷」への弱体化を謀って「経済的締め付け」もあって合計で数える程に満たない数と成った。
    その数は筆者の調べた範囲では、江戸期初期には「青木氏」を含めて5氏以内に留まっている。
    この時の「古式の伝統」も、この「激しい変異」に伴って変化し、僅かに遺されたこの「氏族」の中では殆ど消滅した傾向にある。
    消滅したのには、主に「子孫の減少、伝統の伝承力、経済力」にある。
    但し、これには「姓族」の「偽類の儀式性」は含まず。)

    (注釈 江戸期の近江の人剣豪の佐々木小次郎は、お家再興を願って仕官先を求めて全国行脚の旅に出た事が佐々木氏の資料等で判っている。
    これは当に「僅かに遺された氏族」のこの「近江佐々木氏」の「激しい変異」に見舞われていた典型的な事象である。
    この同じ「近江佐々木氏系の黒田氏」の始祖も室町期末期に神明社と関わりを持ちながら「薬売り」として行脚の旅に出ている事象も同じで、「黒田藩」として再興を遂げた伝統継承の成功例である。
    近江佐々木氏の多くは黒田藩家臣団として加わって再興したが、佐々木小次郎の佐々木氏の宗家筋は江戸期に成っても再興は成らなかった事に成る。)

    注釈にある様に、「佐々木氏の生き残りの足掻き」とは別に、これらが「青木氏の氏の存続」が成されて、何とか「古式の伝統」として維持され、「青木氏の偏諱の儀式性」に伝わっていたのである。

    「衣冠束帯」は「朝廷儀式」だが、「青木氏」は「三つの発祥源」であった事から「蔡装の儀」と上記の「帯刀の儀」として二つに分離されて呼称されていて「武家様の儀式」に成っていた。
    尚、注釈として、朝廷が行う「朝廷の衣冠束帯」も「文官様と武官様」に分かれていた。
    この「青木氏の儀式性」は、勿論、「文官様」ではないが、かと言って「武官様」でも無く、「四家制度」に依る「賜姓五役」としての役目を果たす目的から「武家様」に編集されている様である。

    (注釈 「武家様」とは「公家」に対する「武家格式」で呼称される「氏族」で、室町中期後の姓族の武士では無い。)

    さて、室町期と江戸期の「二つの幕府」は、この「偏諱の名授与」を採用した事から、「朝廷の衣冠束帯」の「武官様」を選ばずに「青木氏」の「蔡装の儀」と「帯刀の儀」として「武家様の儀式」の本体を採用した事に成るが、江戸幕府はより「武士様」であろう。
    「武官様」では無く「武家様」でもない“「武士様」”とも云える事と成った事で、よりこの「儀式性」が庶民に近づいた事から、それが基と成って世間に世襲名や通名としての慣習が広まったと考えられる。

    注釈として、「衣冠の儀」とは、本来、“「宮中の装束(ぎぬ)」”で「勤務服」として用いられたもので「青木氏」ではこの「装束(ぎぬ)」を用いたものを「蔡装の儀」と呼んでいた。

    (注釈 江戸幕府では、将軍に面接出来る身分を「布衣着用(きぬい着用)」が条件と成っていて、この武士の「布衣(きぬい)」は、この朝廷の「装束(ぎぬ)」から来ている。
    「青木氏」は「三つの発祥源」と「賜姓五役」の身分格式を持ち、「永代浄大一位の格式家」である事で「天皇との拝謁」が叶うが、幕府でも「享保の改革」の時は、この「布衣着用(きぬい着用)」の資格を持ち将軍と面談していた。
    この「布衣着用(きぬい着用)」は、限られた「上位の姓族の大名格」に許されていた「特別の権限」である。)

    「帯刀の儀」とは、種々の儀式に用いる「装束(ぎぬ)の礼服」で「武家様」があった。
    この「武家様」を用いて一人前に成ったとする象徴として合わせて上記の「飾短刀(飾太刀)」の「帯刀」を許されるが、この儀式を「青木氏」ではこれを「帯刀の儀」と呼んでいた。

    この事から、「偏諱の儀式」の呼称は、「呼称名・字名」を与える事のみならず「烏帽子式」、「帯装式」(「蔡装」)、「帯刀式」を兼ねていた事が判る総称であった。

    何をか況や、前段で論じた「五月祭りの人形」は、「三つの発祥源」のこの「侍の象徴の姿」を現していたものである事が判る。
    故に、江戸初期に福家は、「毘沙門天像」から「武者人形偶像」に変えたのも、上記する様に「偏諱の儀式性」でも解る様に、「本来の目的」に帰する事の「青木氏としての所以」でもあった。

    そもそも、この「偏諱(へんき)」から来た「姓族」の「武士衆の慣習」が本格的になったのには、この室町期末期に使っていた「青木氏等の四家制度の慣習」の中での「偏諱とその儀式」だけを真似たものである事から来ていると当初は思われていた。
    ところが、この「姓族」の「武士衆の慣習」を良く調べて観ると、足利幕府が用いた「偏諱(へんき)の儀式性」に良く類似する事が判った。
    それは上記した一連性を持つ「青木氏の儀式性」が無く、「名の偏諱」だけのものに成っている事である。
    これが江戸期の中頃には、室町期中期頃から発祥した「武士階級の姓族」(海部姓が始め)には、既に「三世代以上の歴史性」が生まれ、子孫末裔の“「跡目の問題」”も出て来ていたのである。
    そこで、新たに上記の「儀式的な習慣」を削ぎ落し無くして、簡素に「高級武士の通名制度」として「跡目の世襲の仕来り」として用いられる様に成って行ったのが経緯である。

    この時に、幕府はこの「偏諱(へんき)」を次ぎの事に結び付けて利用したのである。
    それは姓族が勃興して大名と成り、その「大名」の「跡目承認」を示す“「黒印状の授与」”と、これと連動して、この「偏諱(へんき)」と呼ばれる“「通名の授与」”の「二つ催事」を「仕来り」とする事に成って行ったのである。

    幕府は、大名に発行する“「黒印状」”のみならず、“「偏諱(へんき)」”で「名」を与えられる事で名誉として、「幕府との繋がり」の強さを誇示する「一種のお墨付き」の様なものを与えて「幕府の権威性」を謀った。
    それが御三家の「紀州藩」の「吉宗の偏諱」が最初としたのである。

    この時の室町期末期から江戸期にかけて、「青木氏の偏諱」をする「四家の者」に対しては、同時に「朝廷」から永代に授与された「官位官職の世襲名」も与えていた事が起こっている。
    唯、この記録で観ると、「青木氏」は、「八色姓の制」では「氏の格式」では「浄大一位」で、官位官職は「左衛門上佐 正二位」であるが、中には記録によると「福家」以外の16家の中の四人に対して「右衛門上尉 従四位」と「民部正」(民部上尉)とする者もあって、特別に朝廷に申請して「一代限りの官位官職」が与えられたものが有った様である。

    当時の幕府の朝廷への軋轢状況から観て、朝廷は経済的に困窮していたので、永代の最高位の官位官職を以っていながら、この「一代限りの官位官職」を受けているのは、密かに「賜姓臣下族青木氏」として「朝廷の経済的援助」をしていた事からの授与であろう事が容易に解る。これを「偏諱の儀式」に乗じて便宜をはかっていたのでは無かったかと考えられる。

    (注釈 「青木氏」以外に持ち得ていない「伊勢王」の「始祖の施基皇子」が持っていた「浄大一位の永代格式」(青木氏の四家制度の「福家」が持つ)として持っている。
    従って、この「偏諱の儀式」に於いても“「権益(ごんえき)」”として、「四家制度の福家」に成る者が25−30年程度に一度は起こり得る訳である事から、「福家に成る者」の“「権益(ごんえき)」”を務められる者としては、永代格式以上の「朝廷」で無ければこの儀式は成り立たない事に成る。
    そこで、「青木氏」に執っては「偏諱の仕来りの儀式」を続ける以上は、密かに「朝廷」に対して支援を続けておく必要があり、「賜姓臣下族」であると云う事も含めて「絶対的な避けられない支援の義務」があった筈である。
    其れには、「浄大一位」の「青木氏の永代格式」が無ければ、幾ら「義務」だからと云っても「格式」を重んじる朝廷としては、「青木氏の要請」(”「権益(ごんえき)」”)に応じる事は先ず無かったと観られる。
    「福家」以外に歴代で四人もの「右衛門上尉 従四位」や「民部正」(民部上尉)等の「官位官職」を受けている事がそれを物語っている。
    恐らくは、天皇自ら出向いて来る事は無かったと観られるが、代行の「縁籍筋の公家族」がこの“「権益」”を演じたと観られる。

    (注釈 "朝廷の「権益(ごんえき)」"の「代行役」は、何度も縁籍筋と成っている京の「叶氏筋」では無かったかと考えられる。
    その証拠に筆者の祖母は、「京の公家族」の末裔の「叶氏の出自」である。)

    恐らくは、江戸幕府は「嵯峨期の詔勅と禁令」を破って、“「家康」”が「青木氏等の賜姓臣下族の慣習や仕来り」を“「権威造り」”の為に利用して「幕府権威造り」の為に真似たとも考えられる。

    (注釈 徳川幕府は開幕依頼一貫して権威造りの政策を実行した経緯がある。
    例えば、「三河の勃興姓族」でありながら強引に「藤原姓を名乗る」、「源氏姓を名乗る」、「征夷大将軍の頭領の称号事件」など数多くある。)

    ”「姓族の武士家」が行う「偏諱の催事」“としても「権威造りの制度」としたのである。
    この事(「姓族の通名」)が、結果として、広く他の大名などにも受け入れられて引き継がれる様に成ったものである。

    江戸幕府は、「朝廷との関係」が上手く行っていなかった事から、この「偏諱 (へんき)」を「吉宗の偏諱」を通じて利用して、「幕府自らの権威」を造り上げ高め、「朝廷の権威」に頼る事の無い様にした政策の一つである。
    「大名の跡目」などの時にも、この「武士様の偏諱」の「偏諱 (へんき)」に近い事をして「権威付け」をしたと観られる。

    これには、江戸幕府には、“「ある目的」”があって、無暗に与えるのでは無く、「幕府の意向」に沿って実現した者に、この「武士様の偏諱の儀式」を行って、その「見返り」に「幕府の権威名」を貰ったと云う事にして、従わせて行く政策を展開したのである。
    実に安価安易で行えて貰った大名側は、一種の「幕府のお墨付き」を貰ったとして「勢いづく事」に成る政策と成ったのである。

    筆者は、この“「ある目的」“のこの「表の目的」は、上記した様に、「幕府の権威造り」に利用された事もあるが、「裏の目的」は、「紀州藩」への「幕府の意向」を”「ある決断」“で実行させた事への「信任状の意味」もあったと観ている。
    幕府主導でこれを表裏一体として連動させたと云う事であろう。

    >
    > 「伝統シリーズ」−26に続く
    >
    >


      [No.342] Re:「青木氏の伝統 24」−「享保後の課題」 
         投稿者:福管理人   投稿日:2016/07/02(Sat) 14:20:14  

    >伝統シリーズ23の末尾

    > 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
    > その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
    >
    > 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
    > むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
    >
    > そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
    >
    > ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
    >
    > 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
    > しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
    >
    > この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
    >
    > 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
    > それには、上記の「新−1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
    > 「新−2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
    >
    > 所謂、「新−1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
    >
    > この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
    >
    > これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。


    「伝統シリーズ」−24に続く


    注釈として、次ぎの内情であった。
    紀州藩主では、吉宗後は全く縁の薄い6代「宗直」が藩主に成る。
    享保飢饉で紀州藩55万石の半分を損出している。
    この時、「幕府借料2万両」(計10万両の幕府借財)で一時凌いだが、その後の「借料」と共に「返済財政」で藩主13代まで続く。
    「江戸の活況」と「紀州藩財政」は逆の状況に在った。

    (注釈 四代藩主の吉宗時は、「伊勢の商業組合の活況」で今までの「借財10万両」を完済した。その後五代目は借財を続ける。)

    (注釈 この為に「14代の幕末時」に請われて再び「青木氏は紀州藩勘定方指導」に入り立て直した。)

    この状況の中で「紀州藩」を頼りにする事が出来ず、「紀州藩」としては少しでも生産量を高めなければならない状況下にもあった。
    従って、民を動かす事の「紀州郷士」の「徒対策」を了解するかはかなり難しい状況の中にあった。
    且つ、「紀州郷士の生活」も「疲弊の境」にあって難しい事であった。

    (注釈 吉宗没後は、「青木氏の勘定方指導の役」も解けて「幕府の力」を借りられる状況には1765年前後は最早無かった。)

    つまり、これをどう見るかに依るもので、むしろ、“「経済を活性化させる起爆剤」”とする議論と,この“「疲弊の状況」を更に悪化させる“とする議論が、対立したと資料の一部から読み取れる。
    従って、「紀州郷士の徒対策」の課題は、「紀州藩から了解されたとする記録」は、どうしても発見されない。

    この事から、この伊勢での「課題の解決」の「談合」は、資料の一端では“議論百出”であったとしている。
    この表現から考えて、結局、記録が無い事から、江戸への“「充分な搬送対策」”は伊勢と紀州では取れなかったと観られる。

    ところが「各種の関係する資料」から考察すると、この「対策」とし