青木氏氏 研究室
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  • 福管理人[副管理人]より -
    青木氏には未だ埋もれた大変多くの歴史的史実があります。これを掘り起こし、研究し、「ご先祖の生き様」を網羅させたいと思います。
    そして、それを我等の子孫の「未来の青木氏」にその史実の遺産を遺そうと考えます。
    現代医学の遺伝学でも証明されている様に、「現在の自分」は「過去の自分」であり、子孫は「未来の自分」であります。
    つまり、「歴史の史実」を求めることは埋もれた「過去、現在、未来」3世の「自分を見つめる事」に成ります。
    その簡単な行為が、「先祖に対する尊厳」と強いては「自分への尊厳」と成ります。
    この「二つの尊厳」は「青木氏の伝統」と成り、「日本人の心の伝統」に繋がります。
    この意味から、青木氏に関する数少ない史料を探求して、その研究結果をこの「青木氏氏 研究室」で「全国の青木さん」に提供したいと考えています。
    そして、それを更に個々の青木さんの「ルーツ探求」の基史料としたいと考え、「青木ルーツ掲示板」を設けています。
    どうぞ全国の青木さん、その他ルーツ、歴史に興味がある方、お気軽に青木ルーツ掲示板までお便りください。お待ちしております。

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      [No.404] Re:「青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−52」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/10/29(Sun) 10:30:41  

    > >青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」の末尾

    >前段で「個々の事象」として論じて来たが、これ等を「以上の様に時系列」で読み込んで観ると、その時の「幕府に対抗した姿勢」が観えて来て、上記した「ある青木氏族物語」が出来て来る。
    >要するに、上記に記した様に、「信濃や伊勢」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「奈良期から長年続いた役務の権利」は、ここで遂に剥奪はされたが、「肝心な処は抑えていた事」で無事に寸前で治まる事に成り得た。


    青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−53」

    前段に論じたこれらが「平安期初期から始まった新撰姓氏禄」の「紛失後の経緯」であって、長年に渡って「青木氏の周囲」に「多大な苦しみと影響」を与え続けたのだ。
    最後、この「変化」が「意にして求めた事」では無かっただけに、「青木氏族」に執っては、未だ遺るこの“「正親町天皇からの律宗族の権威と格式の授与」”は、“「余りありがたい事」では無かった事”とも読み取れる。
    つまり、今度は「江戸幕府」から、これが続けて警戒される要素に成って仕舞ったのだ。
    何故ならば「商いが進んだ青木氏族」には、「神明社の象徴権威の必要性」は、最早、強く求めるものでは無く成っていて、その「意識の中」でも薄くなりつつあったのだ。
    その「意識の中」では、この「経緯」としては、既に「江戸期の中」に突入していた。
    前段で論じた「額田青木氏と駿河青木氏の論」の様に、ところが、この時の貢献を認められて、この“「江戸初期の伊勢の事お構いなしのお定め書」”が未だ影にあったのだ。
    そこで続けてこれらの事を検証して観ると、新たに「青木氏の歴史観」として観えて来るものがあるのだ。
    そこで本論では「時系列から観た状況諭」として読み替えさせる事にする。

    前書き。
    本論では前段から論じて来た「奈良期の経緯」から「状況証拠」を見つけ出し集め其れを検証して「新たな青木氏の歴史観」を導き出そうとしている。
    そこから、「資料や記録」にはないものが別に導き出せる筈だ。。
    これを纏めたものを、先ず「奈良期の歴史観」として、“「次の二つの段」”で論じようと思う。
    この結果から、そこから“「色々な疑問」”が新たに湧きだし起こり、それを解く為に「歴史書」のみならず「別の面からの資料の活用と読み直し」もすると驚く様な「次の結果」が判明したのだ。
    これを「青木氏の歴史感」として追加して後世に遺したいと思う。

    さて、この「導き出した青木氏の歴史観・感」の中には、「奈良期末期」から始まった「格式化の影響」は「青木氏」の中では殆ど無く成りつつあったのだが、それでもこの「格式」に付いては、又、「別の癖」があって、それが最早、「江戸末期」までも、“「その過去の栄光」”としての「ある限定された範囲」で遺されていたのだ。
    そして、それが「尊称の呼称」として現れて、“御師様や徳宋家や氏上さま”などと呼ばれていたのだ。
    その程度に、「伊勢青木氏」が期待せずとも江戸期の中程迄、一般社会では“「青木氏の栄光の時系列」”として成り立っていたのだ。
    だが、特別に「江戸幕府」だけは別格で厳しく扱われていたのだ。
    それは「幕府以上の権威が別に存在する事」のそのもの「警戒」を持たれそれに敏感に反応して拒絶して来たのだ。
    他の時代毎の府は寧ろ逆であって利用しようとしたのだが、ここに「違い」が大きくあった。

    この様に、「格式化に関する歴史観の青木氏の経緯」は、後勘から観てそれは「白羽の矢の事件」の前後から始まり「嵯峨期の事件」と「市原王の事件」と「近江と美濃の源氏化の事件」と「頼政の事件」と「室町期の律宗族事件」と「江戸初期の神明社接収事件」と「享保期の吉宗大事件」の“「以上8つの事件」”として進み、期待していない「青木氏の格式の問題化」と成って現れて来たのだ。
    唯、これを通して観れば、これは先ずは「比較的に円滑な自然経緯の経過」の中の事では無かったかと総括して考えられる。
    それには、全てに通しての事だが、“「二足の草鞋策」”の「商いがあった事・殖産業」、即ちこの「商い概念の浸透」が起因して「伊勢青木氏を正面から補完していた事」だと観ているのだ。
    要するに、「奈良期からの強くて長かった殖産の商い感覚」が、その後にも「氏是と家訓」にもこれが強く影響していた事を物語っているし、それが又、「奈良期」から“氏族運営にもその感覚が「猪突猛進性を抑えたと運営」だった”事と観えて来たのだ。
    そして、それ故に、唯一、「奈良期からの生き残り族」と成り得ている事を意味しているのだろう。
    つまり、「有史来、1450年以上」の中で全く消滅する事なく、「格式化の社会変化」に惑わされずに生き遺ったのだ。
    これが「唯一の四掟氏族」の「秀郷流青木氏116氏」を含む「女系で繋がる大氏族一族一門の青木氏族」に影響していた事なのだと云う事を意味しているのだ。
    そもそも「こんな族」は他にないのだし、それ故に理解が難しく、この事を「論の前提」として先ず置いておく事にする。
    それを元に次に説いて行く。
    それだけに“「一族の歴史ロマン」”として「後裔に遺す歴史観」は、その「価値の有無」は別としても、“大切だと考えていて、「深く正しく」を前提にして「研究調査」”を未だ続けているのだ。
    最近では「書物」からの「直接の記述」だけでは「新しい史実の発見」が現実に難しく成って来たのだ。
    然し、「標記の調子で読み込み」を続けて行くと、そこでその「行」から「新しい意味する処」を発見し、それを時系列を合わして単純に追求して行くと、それでも「長く続けている」と「思い掛けない所」から「新しい時系列一致の史実の発見」が見つかる事があるのだ。

    それは、殆どは「資料の再検証を含めた読み込み」からの結果であって、つまり、“ここには「疑問・矛盾」が沢山に隠されているのではないか”として、それを「ヒント」に探求すると「驚く様な史実」が観えて来るものがあるのだ。
    今までは「経緯の追及だけ」であったし、それを元に「経緯論」を論じて来た。
    つまり、「青木氏の歴史観の時系列」から観て、これらの「経緯の間には隠された史実」が出て来て、この“「掘り起こし」”では「ほぼ確定できる事」が起こる事があるのだ。
    そこで古来より、そもそも「青木氏たちだからとする事」に付いて、これらから発する「遺された書籍の文章」の中には、色々な未だ観えていない“「特別な癖」”が遺されているからだ。
    その“「青木氏ならではの特別な癖」”とするものには、そもそも、そこには、“明確に具体的に書き遺す”のでは無く、“「韻を含めて書き記す」”と云う「慣習仕来り掟」が「伝統的」にあって、“それを目がけて書き下ろす事”が、寧ろ、“好とする文章、又は文化だ”とする癖があったのだ。
    其れだけに、取り分けこれらの「歴史書」には、“「読み込み力・隠された意味する事」”が試されているのだ。
    それが出来てこそ、過去には“「学者・研究者」”と呼ばれるものとしていたのだろう。
    それだけに「青木氏の歴史観」の「新たな掘り起こし」は難しいのだ。

    そこで、本来、高位族に限られるかも知れないが“「日本の文化」”は、つまりは代表される「俳句や歌等」には、次の“「情景と情緒とそれに伴い見えてくる韻訓の文化」”のこの“「3つの効果の組み合わせ」”に依って構成されている事が観られ、その様に限られた社会の中では、“「韻を込める事の巧さ」”、又は、“「それを詠み込める力」”が讃えられた“「独特な文化」”であったのだ。
    筆者も「俳句」をやるが、最近は「英語」の様に「西洋文化の影響」か「直接的表現」が好まれる様に成ったが、矢張り、「情景・場景 1と情緒 2」と、それに伴い「そこから見えてくる韻訓の文化 3」であって、其れを得るには「経験と教養の二つの獲得の結果」で無くてはならないとされていたのだ。
    それだけに「過去」では「その人間力・教養が試される文化」だったのだ。
    これ無くして「青木氏の歴史観」を解けないとされる文化だったのだ。
    「青木氏の事」が書かれている「歴史書」には、当にこの昔の「俳句の集まりの構成書」であったのだ。
    例えそれが「箇条書き」であったとしても、「云いにくい事」や「伝えにくい事」は、この「手法」を使い込み「箇条書きでも書き遺す事」があったのだ。
    故に、「多くの歴史観の保持」を以て“「読み込み」”が必要と成るのだし、そうでなくては前段で論じた様な「ネット説」の様なとんでもない「間違い」を起こしたものが出て来るのだ。
    そもそも、この「家の事を書き残す事を役務とする祐筆・青木氏の神職や住職」は、その「豊かな才能」を持って何の疑いも無くそのつもりで普通に書いていたのだ。
    何故ならば、これを「同じ教養や教育を受けた氏族の者」がこれを読むのであって、寧ろ、それで良いのだ。
    そもそも、それ故にその基と成った「漢文」はそうであろうし、「神社の祝詞・神明社や春日社」もこの「韻語」のそのものである様に、もっと云えば「日本語」も、基はこの「韻」を以て出来ているのだ。
    昔から「青木氏守護神の皇祖神の子神の神明社系国幣社の格式の神社の詔」は、この「古式伝統」を引き継ぎ、それが今に於いてでさえ「韻訓表現」で読むのだ。
    「和歌山や奈良の地域」に於いて今でも多く遺る「奈良期と平安期の言葉の方言」には、当にこの「名残」が今でもであるのだ。
    これが「韻訓表現」である為に、「本当の意味する処」は、なかなか「別の地域圏や文化圏の域」では伝わらない事が起るのだ。
    多分、これは「生活の一端」として、それを当に「算数で割り切れないものとして物語る文化」、所謂、「守護神の神社や菩提寺の寺などにある枯山水」までの至る所までとして、その例外は無いだろう。
    「枯山水」を「普通の現代感覚」で観れば、「石と木々の散在」にしか見えないだろう。
    故に、それだけに「自己研鑽を高める事」のみならず、これに伴って“「読み込み力」”も「青木氏に関わる歴史」には「絶対条件としての必要性」があるのだ。
    それに依ってこれを「読み込み積み重ねて」の努力でここまで来たのであるが、それだけに“意外と見逃している事が多い”とも考えているのだ。
    取り分け「青木氏の歴史観」に於いては、上記の感覚と理解は特別に必要とされるだろう。
    故に、「別の視点から再び観た読み込み」、つまり「疑問の心」を持って解くと、“ふっと閃く事があるのだ。”
    これが意外に重要なのだが。
    そういう意味で、取り分け「青木氏の歴史探査」には、この「文化の情景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の 3」の「文化の感覚」が無くてはならない“「歴史の特技」”になろう。
    故に他者が「慣習仕来り掟を持つ青木氏に関わる事」で「歴史を論じる事」は難しく成る所以でもあろう。
    先ずはこの事を“「前置き」”として置く。

    然し、最近は「新しい史実の発見」が難しく成ったが、それでも長く続けていると思い掛けない所から「新しい史実の発見」が見つかる事がある。
    それは殆どは上記した様に、「資料の検証を含めた読み込み」からであって、“ここには「疑問・矛盾」が隠されているのでは”として、それを「ヒント」に探求すると観えて来るものがある。
    それを「青木氏の歴史観の時系列」でほぼ確定できる事が起こるのだ。
    古来よりそもそも「遺された書籍の文章」の中には、“明確に書き遺す”と云う「習慣作法」では無く、“「韻を含めて書き記す」”と云う「風習」があって、それを寧ろ、“好とする文章・文化だ”とするのだ。
    其れだけに取り分け「歴史書」には、徹底した“「読み込み力」”が試されるのだ。
    そして上記した「物語る事」や「意味する処」を見つける事だ。
    それが出来てこそ、“「学者・研究者」”と呼ばれるものとした。
    本来、「日本の文化」は、つまりは上記した様に、「俳句や歌等」は「情景1と情緒2とそれに伴い見えてくる韻訓3の文化」のこの「3つ」に観られるものだ。
    この様に、“「韻を込める事の巧さ」”、又は、“「それを詠み込める力」”が讃えられた「独特な文化」であったのだ。
    筆者も“門前の小僧習わぬ経を読む”ではないが、「俳句」をやるが、最近は英語の様に西洋文化の影響か「直接的表現」が好まれるが、矢張り、「情景・場景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の文化 3」で構成されていなくてはならないだろう。
    そもそも、その基と成った「漢文」はそうであろうし、「神社の祝詞」はこの「韻語」そのものである様に、「日本語」も基の原理は、この「韻」を以て出来ているのだし、発音も韻発音であるのた゛。
    和歌山や奈良に於いて今でも多く遺る“「平安言葉の方言」”は、当にこの「名残」である。
    多分、「生活の一端」として「枯山水の持つ趣」までに至る所まで例外は無いだろう。
    故に、それだけに「自己研鑽を高める事」のみならず、これに伴って“「読み込み力」”は「歴史」には“「絶対条件」”であって、それに依ってこれを積み重ねて消えた歴史観を掘り起こししてここまで来ているのだ。
    それだけに意外と見逃している事が多いと考えている。
    故に、「別の視点から再び観た読み込み」である疑問を持って置くと、“ふっと閃く事がある”が、これが意外に重要なのだが。
    そういう意味で、取り分け「青木氏の歴史探査」には、何度も云うがこの「伝統文化」の「情景 1と情緒 2」とそれに伴い「見えてくる韻訓の 3」の「文化の歴史感覚」は無くてはならない「歴史の特技」になろう。

    そこで「前段の平安期の前後の格式化論」では、もう一度その論筋に戻して検証して観る。
    つまりは、前段や上記する様に、「社会の格式化」で最も影響を受けたのは「最上位の格式・浄大一永代浄大一位」を有していた「賜姓臣下した青木氏族」であった筈だ。
    だが、元々はそれ故に「新しく格式化される社会・新撰姓氏禄による格式社会化」には、「拒絶反応」が自然に働くものと考えられるが、それ故に“周知すると云う事は不可能”であった観ていた。
    ところが良く検証すると、そうでは無かった様なのだ。
    それでも当時としては良かったのかも知れないが、当時としては、“先ず社会構成として「格式を造る事」に先ずは「意味」があって、それが「実用化」するかは「別問題」であった可能性があったのだ。”
    何故ならば、それはそもそも“造る目的の発端が、「社会を格式化で区切ると云う事」”よりも、そこには「裏の意」があって、これを「青木氏の歴史観」から観て、“「青木氏出自の天皇」と云う「レッテル」をそもそもこの「格式化」で剥がしたかった”のでは無いかと観ていたのだ。
    「賜姓臣下族」に成り「神木の“あおき”を以て諡号姓」を賜ったその時から、その「格式の高さの剥がし方」に就いては何でも良かったのでは無いか。
    そもそも「賜姓臣下して商いをする」とした場合は、この「高格式」は“格式で商いをしない”以上は必要はない。
    必要なのは「部経済」の中で「青木氏が興す殖産業」に於いて「院屋号の取得の占有権」にあったのだし現実にその様にした。
    然し、ここまで至るに、そもそも「歴史観」としては、その「方法」が簡単に見つからなかったのだ。
    然し、それ故にいっその事として、「光仁期」には、“「天皇」も含めて「全ての階層の者の出自の格式化」を再び図ろうとした”と考えられるのだ。
    そもそもその前に、「天智天皇の645年に大化規定」を造って、この「格式」を大枠で造って人臣を填めていた経緯があったのだ。
    それだけに「大化期の格式」と「光仁期の格式」の「二つの格式」が「必要としない青木氏」に意に反して覆い被さって来ていたのだ。

    前段でも論じた様に、「施基皇子・716年没・84歳」から既に「130年以上・647年賜姓」も経過し、且つ、「賜姓族」としても「禁令の商い・部経済の支配頭」も「院屋号」を以てし、更に「四掟四門で枠を造る女系化」で、「逃れの独特の立場」を造って、何とか「天皇家」から逃れようとしていたのだ。(下記で証明)
    「皇族列より離れている立場」に於いては、最早、その意識的にも「格式化で戻るなどの事」はあり得なかった筈だ。
    そこで、思い掛けない「突然の770年事件」の「白羽の矢で引き出された者等」は、兎も角も「女系と成っていた青木氏族」としては、“これに関わりたくなない”と云う「意識の発情」は必定必然であった筈だし、これを示す祐筆の記録にもある。
    これに就てこの「伊勢の記録」に依ると、“馬鹿を装う者や酒乱を装う者や隠れる者や暴者を装う者や逃げ隠れする者、中には系譜から消える者等があったとして、男女の関係なく曾孫や玄孫域まで逃げ惑った”とあり、“混乱の極めであった”とされているのだ。
    そもそも「青木氏の継嗣の立場にいた上四人」は、「四家を支える者・伊勢を支えるも者」として逃れる事が出来た事が記され、それ「以外の対象者に目される者」は、最後には「大酒乱や暴君や阿者」を装いながらも、それを敢えて押してでも、“「白羽の矢に当てられる事に成った状況だっだ」”としてこれは“「恐怖の状況」にいたのだ”としている。
    この事にはこの「白羽の矢」で其処までする騒ぐ必要が無い筈なのに騒いだと祐筆は暗に韻を込めていてここには何か言いたさの様に「大きな意味」を物語る。
    そもそも「白壁だけの男の問題・正嗣までとして」であって、且つ、「曾孫や玄孫まで逃げ惑う事」は必要はない筈だ。
    だが女子供も逃げ惑ったとしているのだ。
    それも中には「系譜から消す者」まで出て来たとしているのだ。
    だから少なくとも「七男以上」にはいた筈で「家人まで」入れると「20人近く」は居た事に成ろうが、「青木氏の四家制度の中の家人の動き」に付いては何も記述は無い。
    現実に調べると、「青木氏の記録」では「白壁」は「四男でも五男」ではも無く、「六男」としていているのだし、「四家の嫡子の福家の春日」から始まり「四家の継嗣の七男・記録では」の「春日、湯原、榎井、壱志、・、白壁、・、・・」まで「過去帳の記録」の通りに「四家・福家の春日」を構成していたのだ。
    そして「伊勢では六男・諸説四男説も」の「45歳の白壁王・伊勢では54歳説」は「酒乱」を装っていたとされているのだ。
    ここの「意味する処・1」は、「白壁」は「四家の主軸四家」を外れ未だ「家人」として働いている以上は、事前に“「立場上から身軽な自分に来る可能性が高い」”と観ていた事に成る。
    そして、更にこの「意味する処・2」は、「政争で継承者の無く成った天皇家側」と簡単に話が着かないと両者は観ていた事から“「事前打ち合わせをしていた事」”をも意味している。
    そして、その「打ち合わせ人物・3」が、これを「決め得る能力」、又は「権利保持の人物」がこの「打ち合わせ人物」と成って派遣されて「伊勢に来た・4」と云う事になる。
    ここまではある「下記の資料」で先ず裏付けられて読み込める。
    そして、更にそれに応じている事だが、既に「賜姓臣下して庶民格・5」に成っている事だ。
    「断れば断れる立場・6」に充分にあった筈だ。
    其れも何と「130年」も経っている事・7}なのだ。
    然し、「青木氏に執ってはこの1〜7は大問題」であって、「四家の家人を含めた一人・継嗣も含む」を「商いの上」でも「大事な継嗣を欠く事・8」に成るが、ところが現実の話し合いでは「史実」ではこれらの下で応じているのだ。
    それを“「押し切る力」”が当然に保有し示されていても、「ある理由・下記・9」で“動きが取れなくなった事”をもここでは意味しているのだ。
    此処には「上記の1〜9」を超えた以上は、「何か物語るもの」としてここには“「何か事件性の様なもの」”があった筈だと観る。

    そこで先ずは、それの一つは「永代賜姓五役の立場を相手が利用した事」を意味する。
    これは“「天皇から密命」”で出される“「絶対的な令外官命令」”であったとすればこれは“「因事菅隷」”しかない。
    この「意味する処」としては、この“密命・因事菅隷を敢えて使った事”に成る事までは読み込める。
    そこで「問題」は、“すんなりと、はいと言ったのか”である。
    「商いをしている氏族」がそんな事は先ずは無い事ぐらいは簡単に判る。
    つまり、“それに見合うだけの条件を付けた事”が充分に読み込める。
    今にに成ってこれだけの「氏族を動かす犠牲」までを払って黙って、“はい”と云える訳はない。

    それでも「伊勢説」では、“「白羽の矢」が飛んできた"とされるのだが、然し、現実には「天皇家からの白羽の矢」が「伊勢に入った」のは、“その「7年後」”の事であったとされ、そして“「白羽の矢を受けた六男の白壁」”が、その“「条件」”と成る「井上内親王との婚姻」に付いては、直ぐには進まず、この「経緯の検証」から、少しずれての、“「結果・1年弱」”と成ったとされているのだ。
    さて、この“「結果・1年弱」”に、そもそも何か「意味する処の問題」があって、その“「条件」”に関して何か特別な“「秘匿の話し合い」”が行われ、少なくとも“直ぐには決着が着かなかった事”を意味していると考えられるのだ。
    普通ならば「天皇家」であるとするならば「話し合い」が進めて直ぐに先ず「后」になるだろう。
    少なくとも“準備”と云うものがあったとしても、“「結果・1年弱」”には成らないであろう。
    それには、“迎え入れる家等の準備”とかされているが、それはその「白羽の矢の目的」が「伊勢青木氏の財」であったとするならば、兎に角受け入れて、後で間に合わせれば済む筈であり、ところがこれに関してだけは何も「記録らしきもの」が無いのだ。変だ。
    何せ先ずは、“第一の対象者であった「淡海族の天武系直系族の市原王」”から、“「伊勢の白壁王」”へ飛び変えての“白羽の矢”であり、“「天皇家」”でもここの「事情」は充分に承知していた事に成ろう。
    とすれば、この“「結果・1年弱」”に於いての間は、“「打ち合わせ」に於いての条件”に付いて何かの条件が折り合わずに“揉めていた”と云う事に成ろう。
    結果として、前段で論じた事や上記した様な論に、飽く迄も“「伊勢青木氏の者」として扱い、直ぐに「天皇」にしないし、且つ、つまり、“特別扱いもしない”と成ったと観ているのだ。
    つまり、絶対に「伊勢青木氏のペース、伊勢青木氏の伝統慣習仕来り掟に従う事」に決まった筈なのだ。
    主にこの「意味する処」は、“「井上内親王の扱い」”に関しては、“「打ち合わせ」”では「ある意味で厳しく定めた」と云う事であろう。
    だから、ここに「下記」にも論じる“「特異な時系列」”が生まれたのだと観る。
    そして、この「白羽の矢の白壁」が遂に「即位」するのは、「孝謙天皇の姉・井上内親王」が「伊勢青木氏」に嫁いでから合計、何と“「9年後の事」”であったのだ。
    この「時系列の経緯」を正当に考えれば、これは「伊勢の青木氏と天皇家との間」には、上記の様の様な“「相当なやり取りがあった事」”を物語っている事に成る。
    「普通の事」なら、“天皇家の命”とも成れば「奴隷」の様に100%に従うが世の習いであり、況してや直前の本命で「白羽の矢を望んでいた淡海族直系」での「市原王の事」を考えれば「問答無用の事」で従うであろう。
    故に、“「結果・1年弱」”の期間は異常であると観たのだ。
    そもそも、仮に記録に描かれている様に、「白壁の酒乱」とすれば、原理原則に「天皇の役務は務まらない事」は明らかであり、それを超え知っての事は、“「帝紀」”に照らせばこれは正常ではないし避け蹴るのが普通であり、そんな「前例・陽成天皇」は確かに後に起っている。
    この事は、“事前に判断できる”のに、それを知り得てでも“「白羽の矢」”を飛ばすのは、“何かの別の目的でも以てそれを利用して「天皇」に仕立てようとした事”に成ると、「読み込み」で観ているのだ。
    言わずもがな「青木氏の女系」は、少なくとも「帝紀」にも抵触する筈であって、況してや既に「130年後の賜姓臣下し、女系化した伊勢青木氏・庶民化」に、「天皇家」と云うものに対して「必須条件」としてのそもそも“特段のものは何も無かった”筈なのだ。
    もしここであるとするのは、ここでは「状況証拠」として「他の氏族」に観られない「部経済での差配役」を評価した“「財の才能」だけ”であったと読める。
    本来は「天武系の直系族」が多く存在する「近江佐々木氏系」がまだ存在していて、その「正統な筋目」であって、それを超えての事は、「別の目的」の“「伊勢の財」に求めた事”に間違いはない事に成ろう。
    それだけに、「大仏殿建立」を始めとして「内蔵のみならず大蔵」に於いても膨大な出費が絡み「極度な財政難でに喘いでいた筈であるし「記録」にもそうある。
    これを救えるのは、最早、「血筋論」では無く、「朝廷内」では、「財政論優先論」に成っていた筈である。
    そこに、「天皇家継承問題」が絡み、そこにこの「醜い政争」が起り、結局はこの「政争の結果」で「肝心の継承者は絶えると云う事」が、「770年の1年弱前」には起っていたのである。
    こうなれば「議論」は、最早、血筋が絶えているとか、庶民化と成っているとか、女系化しているとか、六男とか、なんだかんだ言っている場合ではない。
    必然により近い血筋で、且つ、「この財政難を解決出来得る矛先」と成ろう事は自明の理である。
    それが「伊勢青木氏に来た事」に成ったのだが、とするとそこで「問題」が発生したのである。
    “それを誰にするかの問題”が問題で、それがこの“「1年弱の間」に又起こったと云う経緯”となろう事が読み込める。
    そこでこの「1年弱」も過ぎ、「2月前近く前」に成ると、最早、「天皇家・称徳天皇の病状」に執っては「問答無用」で「打ち合わせと云う事」に入る必要性が出て来たのだ。
    反対社の多い仲で「白羽の矢」を何とか飛ばしたがそこで焦ったのだ。
    そこで、さて、“其れの「打ち合わせの担当者」}を誰にするかという問題が起こった事”が「読み込み」で判る。
    それがこの「読み込み」に依って、最終的に「吉備真備・記録発見した」に成ったと答えが出た。
    これが、「吉備真備」に付いて調査した「資料末端」に記されている事で判ったのだ。
    何と「光仁天皇期」には、この「打ち合わせの者・称徳天皇の政治補佐役・吉備真備」が「重要役職」に重用されている事が記録に記されているのだ。
    それも挙って「「吉備真備一族の者・学者子孫」も重用されているのだ。
    そして、彼が「反乱者藤原仲麻呂」を討った「指揮官」でもあったのだ
    つまり、「彼の意味する立場」は、「称徳天皇期末期・770年8月8日の前」の「政治の立場」では「最高決定権を持った人物」であった事に成る。
    その「人物」がこの記録では「打ち合わせの責任者と云う事」を意味していたのだ。

    注釈 そこで前段で論じ様に、この事は、「文武天皇期の直前」の「持統天皇」は、「淡海族と施基皇子族系の者等全員」を集めて「全体会議会議・コンセンサス造り」を開いて、「継承者を天武系族」にする様に念を押しているし、この「会議」を仕切った「天智系の長者」も、「強く発言していた天智系の若者」を抑え込んで「淡海族系にする事」を計っている事が記録されているのだ。
    この結果として、「天武系の文武天皇」が生まれて「天武系」が続く結果と成って、遂には必然的な形で「男子継承者のいない聖武天皇」へと繋ぐ結果と成って行ったのだ。
    ところがこの事で、最終的に「孝謙上皇・称徳天皇の期」では、「天武系が淡海族」の「市原王」を除いて結果として「直系族は無く成る事」と成っていたのだ。
    且つ、逆にこの「継承者会議の流れ・葛野王の発言」で「天智系継承者」も結果として無く成る事と成るのだ。
    この「会議」でも、この時から既に「天智系族・伊勢族」は、自ら「天皇継承者の問題」からも自発的に外れようとしている事が判る。
    そしてこれが「次の注釈の史実・記録」としてこの事が物語っている。
    「青木氏の研究室」で“持統天皇で検索”

    注釈
    上記した「継承者会議」の記述は、これは“「漢詩集である懐風藻・751年頃」”によるもので「史書」では無いが、これの記述に依ると、「意味する事」が多く次の様に成っている。
    「持統天皇・645年〜703年・在位690〜697年」が、「697年頃」に“「皇位継承者」である「次の日嗣・ひつぎ」を決めようとした。”とあるが、この時のやり取りを書いたものである。
    それに依れば次の事に付いてである。
    これは興味深い事に「第三者的立場」から書いているのだ。
    さて、この時に、「群臣等」がそれぞれ「自分の意見」を言い立てた。
    この為に「利害が絡む意見の対立」で決着が着かなかった。
    その際に、“「葛野王・大友皇子の子・大友皇子は天智第一皇子・施基皇子の兄甥」”が、次の様に言い立てた。
    “「わが国」では、「天位」は「子や孫の直系尊属」が継いで来た。
    もし、「兄弟」に「皇位」を譲位すると、それが原因で乱がおこる。”と強く主張した。
    これは次の事があって嫌味を言っているのだ。
    そこで、“この点から考えると、「皇位継承予定者は己と定まる」”という主旨の「発言・天智系に」をした。とある。
    ここでこの「反論」の為に、“「弓削皇子・天武第二皇子」が何か発言をしようとした。”
    然し、これを観た「葛野王」が高圧的にこれを叱り付けた。
    この為に、その場では、そのまま口を噤んだ”とされる。
    そこで「葛野王・天智系」と「弓削皇子・天武系」との間で「皇位継承の対立事件」が起こったのだ。
    ところが、再び、この「会議」で、“「弓削皇子」が自らが先の天皇の子である為に「正統な後継者」である”と明確に主張したのだ。
    ところが、逆にそこで「持統天皇」は、不思議に、“この一言が国を決めたと大変喜んだ”、とある。
    「持統天皇」は、「葛野王・大友皇子の子・天智系の主張」に賛成していたのだ。
    これは矛盾するが、これには「意味する裏の意・韻」があって、つまり、これは「天智派が巻き込まれる事」を嫌って、“正統は既に天武天皇系の派であるのでそちらの天武系で決めてくれ”と云った事を意味する”と当に韻を込めたものとして持統天皇は解釈したのだ。
    これは何故かであって、「葛野王・天智系の主張」が自らこの主張を引下げれば「弓削皇子・天武系の主張」だけと成る。
    現実に直ぐにその様にした。
    “一方的に結論を導き出すと「自らの一族の天智系の者ら」が騒ぎだす”と観て先手を打ったのだ。
    この「先手策」を読んで「持統天皇は喜んだ」としたのだ。
    そして、重ねて「弓削皇子・天武系」は、“「皇位継承の立場にあるのはそれは私だ”と強く主張したという事の経緯に成ったのだ。
    つまりこれには「一つの経緯」があって、この様な「論争が起こった事」には、「天武・持統両天皇」が元々、「自分達の後継者」を「草壁皇子」と定め、「皇太子」に立てた。
    にも関わらず、即位目前の689年に皇太子は没してしまったからだとしているのだ。
    この為に、これを受けて「持統天皇」は、次に「草壁皇子の子である皇子・珂瑠・文武天皇」に「皇位」を継承させようとしたのだ。
    そしてその為に、その成長を待つ間は自ら皇位に着いた。としているのだ。
    これには、要するに、「持統天皇」が、昔、「軽皇子・孝徳天皇」を「皇太子」にしようとしていた際にも、「王公諸臣の意見が纏らなかった事件」が起こったという事が、三度も起こって仕舞った事に気にしていたと云う事であり、それが、“この「一言」で解決したとして喜んだ事に成った”としたのだ。
    つまり、この「事件」は、“「持統天皇の詔に相当する正統性の宣言」”でもあった事を意味するのだ。
    この事の「史実の意味する処」は、この時から「聖武期の皇位継承問題が起る事」を見込んでいた事を意味するし、「天智系は正統系の高位の格式を有する」が、既に「賜姓臣下している庶民・647年」である故に、「意識の切り替え」が充分にまだ出来ていず、この時は未だ「上記の様な継承意識」を少しは持っていた事を意味している。
    矢張り、これはこの余りにも高い「高位の格式・浄大壱位の格式」を意識していた事で、そのズレが起こっていた事だろう事を意味している。
    周りに見られない「殖産権や院屋号や因事菅隷等」を依然として持つ以上は、止むを得ない事かも知れないが、この「段階」で「氏族含む一族全員」が未だ切り替えられていなかった事に成る。
    「会議を招集した事態」に於いてもでも「周囲」も切り替えていなかった事が読みとれる。
    故に、「施基皇子存命中・716年以前」に於いてもこの「意識を持った葛野王・天智系の主張の発言」と成った事を意味しているのだ。
    此の様に全て「韻訓」を「読み込み」、そこから「その意味する処」、又は「物語る処」を読み込む必要があるのだ。
    此の事で隠れた「青木氏の歴史観」が導き出せるのだ。
    「白羽の矢の直前の事の時系列」が継続性を以て導き出せるのだ。
    そうする事で更に読み込みが深められて行える。
    ここでは、直前でも「継承者の流れ」があって、遂には、「白羽の矢」として「伊勢青木氏に来た事」に成った事が判る。
    そしてこの時から「賜姓臣下族・647年」に成った時の「50年後・施基皇子存命 716年没」からも、「葛城王の発言」の様に、既に「臣下族」と成っている限りに於いて「継承は受け付けないとする姿勢」を既に方針として示していた事が此処からも読みとれるのだ。
    此の様に「物事の青木氏の歴史観」が継続的に解って来るのだ。
    つまり、「施基皇子の定めた青木氏の氏是」を、この「葛野王」は会議でもこれを反映していた事が読み込みめる。
    これは「会議」の前に「施基皇子と葛野王は打ち合わせていた事」を意味する。

    そこで、この書からもう更に一つ判る事がある。
    その先ず一つは、この書にはよく読むと次の事が態々書かれている。
    それは、「川島皇子の事」に付いてである。
    「懐風藻の作者」も、“手段を尽くすことなく親友と親族を苦境に陥らせたこれを「川島皇子の態度」に関して疑問を呈している事を書いている事なのだ。
    ”「大津皇子の謀叛事件」で「川島皇子は天皇に密告した事」に成っていて、「漢詩書」でありながらも政治的に「密告した事」そのものの事を直接に批判しているのだ。
    「密告は史実である事」をこの事から読み取れる事だ。
    要するにこの書はつまり先ず「淡海族の者が書いたものでは無い」と云う事だ。
    態々身内の悪口を後世に遺す事は先ずない。
    書くとしても「濁す程度」に成るだろうがはっきりと書いているのだ。他にも下記するが今度は雌核に川島皇子を否定しているのだ。
    次にこの会議に既に「淡海族が参加している事」であるし、そもそも「記録」に残す必要はない。
    「川島皇子」は「施基皇子」と同然に既に賜姓臣下しているのだ。
    其れなのに「会議の諸臣」とする中に、「施基皇子の伊勢族」は参加していないのに、「淡海族の者」が参加しているのだ。

    これには「疑問」がある。
    つまり「川島皇子の子」には、先ず「春日王と三室王と高丘王とする説」もあるが、「春日王」は「施基皇子の第一継嗣」であり違う。
    「市原王」は「天智天皇の曾孫」の「安貴王の子・玄孫」であるとし、「安貴王」は「志貴皇子の孫」で「春日王の子」であるとして、「川島皇子の孫」の「春日王の子」であるとしている。
    これは矛盾しているが、これは「川島皇子の娘」が「施基皇子の子の春日王」に嫁ぎ、その子が「川島皇子の外孫」と成り、それが「市原王」と成ると云う事だ。
    何故この様に成るかと云うと、これは「青木氏の歴史観」によるのだ。
    前段でも論じたが、当時は「施基皇子と川島皇子の血縁関係」は、「天皇家」は元より相互に入り混じって「同族重複血縁関係」にあって「妻子孫曾孫」が判別付かない状況の究極の純血血縁に成っていたのだ。
    当時としては「純血を護ると云う慣習」から普通の事であった。
    例えば「天智の娘」が「兄弟の天武の妻」になる等、妹が姉の夫と血縁するなど、更にその両者の子が血縁するなどの事とが、当たり前として究極の純血を護るシステムを敷いていたのだ。
    其の事で何らかの直接血縁で結束を図っていたのだ。
    要は、この「当時の高位の血縁の歴史観」の不足で「施基皇子の子の春日王」を「川島の皇子の子」とする誤解を生んでいるのだ。
    まぁ間違いではないが「系譜」としては「春日王は伊勢の施基皇子の子」であった。
    そうすると、「川島皇子の子」の「三室王と高丘王」の二人と、「川島皇子の曾孫」の「安貴王」は、どういう関係に有ったのかという「疑問」が起こり、これを解決する事で継承権の持っていたとする「川島皇子の後裔の状態」が判る。
    何故ならば、これでこの「臣下族と二つの真人族」が観えて来る。
    「三室王の子」として「長柄王と久勢王・川島皇子の孫」として、「高丘王」の子としては「吉並王・川島皇子の孫」があるが、何れにも「孫」としては「安貴王・川島皇子の孫」の記述はないと云う事、つまり、これは、上記した様に「当時の伊勢と近江の血縁関係」から観て、これは当時の“「后妃嬪妾の四制度」”から来ていて、「三室王と高丘王」の系は、「嬪妾のルーツの後裔」と成り、「淡海族」として扱われていた所以は、この「安貴王と市原王」は「后妃の系のルーツの後裔」となる。
    つまり「宗家」は、この「后妃の系のルーツ」で繋いで行く事に成るのが「高位の氏族の歴史観」である。
    故に、「賜姓臣下した神職系」の「川島皇子の淡海族の沙沙木神社のルーツ系」も生まれた所以であるのだ。
    「川島皇子の後裔」は、此の様に「賜姓臣下族」と“「后妃嬪妾の制度」”による「朝臣族の二つのルーツ」が生まれていたと云う事にここでは成っているのだ。
    とすると、「始祖の川島皇子の氏族の方針」に従わず「三室王・位階は従四位下」と「高丘王・従四位下・左大舎人頭」の「官位」を持つ限りに於いて、“どちらも臣下しなかった事”が云える事に成る。
    「川島皇子の賜姓」は、結局、「近江」の「沙沙木神社の地」に定住した「神職系の沙沙木氏族」であって「朝臣族と成った後裔系の事」にある。
    「佐々木氏」には、「宇多天皇系の佐々木氏」もあるので注意。
    これに依れば、子は「従四位下の官位・公家」を得ている以上は、「三室王も高丘王」も賜姓臣下しなかった事に成る。
    「川島皇子の賜姓臣下」では、要するに「臣下した」のは、結局は「父系の沙沙木神社の神職系の子孫」が「神職系子孫の神社名の佐々木氏」を名乗り、子孫を大きく伸ばし事を歴史的史実として新たに意味するのだ。
    そうすると、「本命の市原王」は、上記した様に「川島皇子の曾孫」で、「従五位上・安貴王の子」で「官位は正五位下・造東大寺長官」とした場合は、「神職系の沙沙木・佐々木氏」では無い事に成る。
    この様に「漢詩集である懐風藻・751年頃」では、「歴史の史実」は「読み込み」によって変わる事に成り、最終は「市原王の後」は前段でも論じた様に絶えた事に成るのだ。
    ここでは、「青木氏に関わる歴史観」としては大きく開けた事に成る。

    此れだけの「青木氏の事」を「詠み込めている」のは、「漢詩集である懐風藻・751年頃」に付いては、その編者が「絶えた市原王系」では無理と云う事に成り、従ってこれは明らかに「伊勢青木氏の祐筆・神明社か菩提寺の祐筆」かが別の形で書き残したものである事が読み込める。
    この「内容の史実の把握」から観て、当時に生きた「伊勢の青木氏」と「近親族の親族であった川島皇子」の「淡海族の者」が描いたとする説では、「編者」は、「大友皇子の曾孫」にあたる「淡海三船と考える説」が有力であるとしたが、又、他にも「石上宅嗣、藤原刷雄、等」ではないかとする羅列説もあるが、これは「当時の漢詩学者」を前提としていて,特別に何らかの根拠があっての説としているものではなく、上記の根拠非弱で史実から確定されないのだ。
    つまり、「経緯」どころか「情況証拠」もないと云う事である。
    然し、「書かれている内容」は、「施基皇子の大友皇子の子の葛城王の事」であるとするとして、此れはそもそも「施基皇子の存命中・716年没」であるとすると、「淡海者等」は「伊勢を無視して書いたと云う行為の事」に成り、これはそもそもこれは無理であろう。
    そもそも「淡海者等としているその前提」は、「漢詩学者である」としているだけのものであって、同然に「施基皇子」も全ゆる記録にもある様に,「天下一の漢詩学者」として目されており、当時、「もっとも有名な詩歌人」でもあったとすると、「自分の家の事」を「淡海の者族」が描くとするのはそもそもおかしいであろうし、又、「伊勢」には「淡海族より多くの漢詩学者」も「祐筆」もいた「大きな氏族の事」でもあった事を歴史観として無視している。
    そもそも「当時の奈良期初期に生きた高位の者」は、全て「漢詩学」にも通じて居なければならない環境に置かれていたとする「重要な歴史観」に基本的にそもそも欠けているのだ。
    寧ろ、「伊勢の者・50郷士衆」は、「氏族全員が漢詩学者」と云っても良い程の「高学識の氏族」であったのだ。
    それがこの「氏族背景」に「求められる教養の前提の賜姓臣下族」であったのだから、「漢詩学者」としてだけで「淡海三船ら」と決めつけるのはこの「歴史観」を無視しておかしい。
    寧ろ、「淡海族等」と違って何と云っても「伊勢の施基皇子族」はそもそも「多くの祐筆」を「神明社と菩提寺の神職と住職」に抱える「漢学の学者の集団」であったのだから。
    それ故に「自分の家の事」を「淡海族等に書かせる事」はそもそもあり得ない。
    これは間違いなく「青木氏の祐筆」が描いたものであろう事が判る。
    そもそも何処にも「淡海族等」とも書いていないのだから、それを自らも認めているのだ。
    以上の事も読み込めるのだ。
    だから、この「会議内容」は信用できる前提にあるのだ。
    これを前提にしての「読み込みの意味する処」は次の経緯に繋げられる事に成る。

    注釈
    上記の「淡海 三船」とは、「奈良時代の後期 722年〜785年」の皇族・貴族・文人であるとし、「御船王」より「臣籍降下」し、「淡海朝臣姓」となる。
    「大友皇子の曽孫」で「本会議の葛野王」の「子の池辺王の子」。
    官位は従四位下・刑部卿。勲位は勲三等に成るも天平年間に出家し「元開」とす。
    「孝謙期 751年30人の諸王」は内蔵の財政難から「真人族」から賜姓降下して「朝臣族」に成る。
    この際、勅命により「御船王・?・臣籍降下している」に再び戻った。
    そして再び、「淡海真人の氏姓賜姓」で臣籍降下し、「淡海三船・出家している?」と改めたとある。
    「式部少丞」を歴任するも、「756年」に「朝廷」を誹謗し禁固刑を受けるが放免されている。
    この者が「697年・約60年前の事」に付いて触れると云う事はおかしい。
    況して、既に僧と成っているのに「下俗の事」に触れるのはおかしい。
    更に云えば、罪人であるのにこの書に触れる事は禁手でありおかしい。
    既に、「大友皇子の曽孫」で「池辺王の子・玄孫」の「位置づけ」は賜姓臣下している以上は「始祖川島皇子の淡海族」と成り得る。
    何故ならば、前段でも論じたが、「大友皇子」を含め「天智系」は「反乱者の天武天皇・帝紀論」に最終的に凌駕され「天智系子孫」は直前に賜姓臣下していた事で逃れられ、「第七位皇子の施基皇子の伊勢族」と「第六位皇子川島皇子の淡海族」の「二系」に最終的に集約され子孫存続は引き継がれたからだ。
    この「反乱者の天武天皇」に潰された「皇太子の大友皇子」と「川島皇子の淡海族」と「施基皇子の伊勢族」は兄弟である以上は、「上記の葛野王に触れる事」のそもそも発想はない。
    従って、「敏達天皇の春日王系四門族」のこの「葛野王系後裔の子孫」は「伊勢族」に引き継がれて行く事に成ったのだ。
    つまり、故にこの頃からこれは「伊勢族の問題」と成っていたのだ。
    「葛野王」は既にこの段階でその「伊勢系の姿勢を示していた事を意味する」のだ。
    つまり、「存命中の施基皇子の意思・716年没」を尊重し、それを反映させようとした事に成る。
    だとすれば、上記の「注釈の奈良期初期からの流れ」に逆らった「称徳天皇の天皇家」にしてみれば、「正統な継承者」が無くして仕舞っている以上は、最早、「女系化している伊勢のみ」であっても誰でも良かった事になろう。
    もっと云えば、この様な「淡海神職系の臣下族後裔」と「衰退した二つの朝臣族」しか無く成っている「淡海族」である以上は、「目途とする朝廷の財政難」と「伊勢の財力の事」と「内蔵大蔵の事」は、別にして、この段階では百々の詰まりは、「系譜上」では「臣下した伊勢しか無かった事」に成る。
    云い換えればこの事からすれば、「天皇家系」としての「継承者の選択肢」は最早全く無く成っていた事に成る。
    何故ならば、既に「市原王の事件」に示す様に、もう「二つの系の淡海族系に分離した朝臣族」と「臣下した神職系しか無く、記録にある様に何れも「土地の収入」では耐えきれず早くも衰退し始めていたのだ。
    前段で論じた様に、この事は「琵琶湖東岸の干拓灌漑・真砂土壌の改善」の「因事菅隷の工事の支援」でも判る事だ。
    何故ならば、そもそも“因事菅隷を別の氏族の支援に対して命じて出すと云う事”は、つまりは、最早、その「氏族」に「天皇家と成る力」が既に備わっていないとして、出している事に成るのだからその前提の上にある。
    そして、“因事菅隷を別の氏族、つまり、「伊勢青木氏」に支援を命じて出した時期をこれらの事から割り出すとそれは、“「20年の工事期間が掛かった」”と記されている事から割り出すと、少なくとも上記の「葛野王の発言の後」と成り、その「700年頃」か、又は「770年前の743年の前後」か、遅くても「白羽の矢」で強引にこの「因事菅隷」を「伊勢」に押し付け突き付けて来た時期の「少し前の因事菅隷の指示」までの事と成り得る。
    恐らくは、この“「中間期の720年前後の頃」”と成るのではないか。
    そうすると、「継承者の会議の経緯」から紛糾するも「淡海族」と決まった以上は、「持統天皇」は次の採るべき策は、先ずこの“「継承者」”を安定させる為に、且つ、これを「正当系化して安定させる為」にも、「兄弟の施基皇子・632〜716年の伊勢」を頼る以外には、それの「財を持ち成し得る族」は無い事に成り、「後継者の決定」は飽く迄も「衆議」とはいえ「砂上の楼閣」と既に成り得ていた筈なのだ。

    そこで、これ等の“時系列”から検証すると、次の様に成る。
    「持統天皇・703年没前」の「会議直前の在位中の697年頃」に、この「目的の因事菅隷」を向けられる者は、「施基皇子」だけと成り、「伊勢」に向けて発したと云う経緯だけと成り得る。
    但し、「問題」はこの「持統天皇の命の因事菅隷に基く工事の開始の命令」は、これより「少し後の事・下記」と考えられる。
    少なくとも「当事者同士の生前中」が最も好ましく、そうすると「施基皇子の没年716年」より少し前で無くてはこの「因事菅隷」は出し難い筈だ。
    この大工事には、史実の通り「不二の友の額田部氏」にも「工事」を頼ま無くてはならないし、その「見積もり」や「測量や工事の準備等」の「諸々の手続き」が必要と成り、「淡海族との同族血縁などの良好な関係を維持しているぎりぎりの経緯の中」で以てしてでなくては、少なくとも行われなかった筈なのだ。
    そこで、「川島皇子・657年〜691年」の「孫になる安貴王・694年」が遺されているので、「確実な歴史観の20年の工事期間・記録」を経て終了した事の経緯が検証される。
    そしてこの「20年間の工事終了」が、「少なくとも関係悪化の直前・施基皇子没716年」のつまりその“「直前715年頃」”で無くてはならない事に成る。
    故に「施基皇子」が生存していたから、こそ「淡海族」とは関係が保てていた事に成るとすると、従って、この「問題」の“「工事の開始」”は、会議の直後の“「700年弱頃・699年頃か」”であって、“「工事の最終の終了」”は「20年間」を経ているので、“「720弱年頃」”とすると全ての上記の経緯は間尺が一致する。
    そうすると、ここで「判る事」は、「淡海三船の偏纂説」でみると、「三船785年没年の前」と観ると、既に「淡海族」は既に衰退している途上期の時の事である。
    これが「青木氏の歴史観」から検証結果であり、つまり、「伊勢青木氏の祐筆が記述したもの」と観られる。
    とすると、この「ネット説」の「三船偏纂説」は「時系列からの検証」では「設定の証」は無理ではないか。
    但し、流石に「確証の自信無さ」か、“注釈するとして確定は出来ない”との「添え書き」を加えている。

    次にそこで、上記の「これ等の検証の事」のそれを知り得て、「吉備真備」はこの「葛野王の発言を以て事前打ち合わせ」と成り得たと考えられる。
    そうすると、この事を「吉備真備」が「学者で家庭教師」であった以上は、未だ「70年程度」しか経たないこの「歴史」に付いて知り得ていた事と成り、この事から「吉備真備」には、「伊勢との打ち合わせ」に於いて、最早、「選ぶ有利な条件が無かった事」が云えるのだ。
    「継承者」を醜い数々の政争の中で無くしてしまって、「財を獲得する目途も無く始めた大仏殿建立」から来る果てしない「財政難」に窮していた「朝廷と天皇家」が浮かび上がる事と成り、上記の事も含めて“「伊勢の言い分」に従う以外に無い”と観ていた筈である。
    そもそも130年も前に賜姓臣下していたとは云え、「伊勢の取扱い」に「浄大一位の格式にあった面倒な大氏族」であった以上はこの事は間違いない事だと考えられる。

    そして上記の「経緯の情報」を知り得ていた上で、これを元にした「吉備真備と伊勢との話し合い」と云う事が行われた事に成った事が判る。
    この「漢詩集である懐風藻・751年頃」により、ここまで「読み込みに依る史実」が蘇ってそれに依って「青木氏の歴史観」はより深く鮮明に判って来るのだ。
    この「漢詩集である懐風藻・751年頃」から更に判った事が下記に蘇ったのである。

    注釈
    「始祖の敏達天皇」には「押坂彦人大兄皇子」と「春日皇子」と「大派皇子」と「難波皇子」の「四人の継承者」があり、この「四系」を以て歴史的に“「四門族」”と云われた。
    そしてこの“「四門族」”から「天皇」は引き継がれ、そこから「四代目迄一門」を以て“「継承権」を引き継ぐ権利”を有すると「天皇家の禁令」で決めていたのだ。
    従って、これに従い「天智天皇」は、この「春日皇子」の丁度、“「四代目の後裔」”と成り、正式に「継承権を持って引き継がれた事」に成る。
    故に「押坂彦人大兄皇子」の子の“「芽淳王の子」”の「皇極天皇と斉明天皇」にも引き継がれたのだ。
    これの禁令からすると、「謀叛者」と扱われた「大海皇子・天武天皇」には、本来は、「定められたばかりの帝紀」に基けば、この「継承権」はそもそも無く、「大友皇子に継承権」は正式に繋がるが、「天智天皇の弟」の「大海皇子」には元々無く、それが、「継承権無くして反乱」を起こして「天皇の継承権」を奪い、それが大海皇子の皇子たちに引き継がれたものと成るのだ。
    要するに、この事を“「帝紀・下記、及び天智天皇が定めた大化規定」”に基づき「持統天皇の継承権会議」では、「春日皇子系で天智系の葛野王」が、この前例に従わなかった事を正論としてで発言しながらも天武系を暗に批判したのだ。

    注釈 そもそもこの前提と成ったこの「帝紀」は、「皇室に存在する伝統習慣掟」を「一つの形式」に纏め、「歴代天皇や皇室の系譜」や「決定事項のルールの取扱い」、特に「古事記や日本書紀」の「内容の決まり事」に付いてまでも纏めて書いたものだ。
    最も古い「歴史書の一つ」である。
    概要したのは、681年に「川島皇子と忍壁皇子」が勅命により編纂したとされるものであると云われ、「皇室の系譜の伝承」を記したもので、その後に「朝廷の基本史料」として扱われる様に成ったのだ。
    この「大化規定」とは、これを「天智天皇」が補足し新たに追加したものであって「帝紀」と同然に扱われた。
    一般に、この“「帝紀」”は「二つの皇統譜・基準要領・下記」であるとして扱われた。
    故にこれに記した事が「基準」にして「朝廷」では決められていたのだ。
    「大化の規定」は、例えば「王位」は4世族までとし5世族は王としない。
    第7世族以降は位を外し「坂東警備」に配置し、これを「8族」に形成して「坂東八平氏・ひら族」のこの中に入るとした。
    「皇子皇女」は第4位までを「真人族」とし、「第6位または第7位以降」は「朝臣族」と成って「賜姓臣下」する。
    その格式に応じて、「特別の賜姓」は「特別の諡号の姓」を与え「賜姓」し、その他の「賜姓」には「地名」を採って賜姓する等と定めた。
    故に、「上位の高位の賜姓」には、「神木等の神系に用いられるもの」を以て「諡号姓」として与えた青木氏が第一号と成ったのだ。
    「青木氏の賜姓」は、この「神木の青木の木」を以て「最高位の名目」で「第七位の浄大一位の施基皇子」に与えたのだ。
    ところが「第六位川島皇子」の臣下に対して三段下の「浄大三位であった事」から「皇祖神の子神の神明社」の守護神に比して、神社格の下位の「沙沙木神社」を「氏族の守護神」とする処から「一段下の地名の賜姓」と成ったのだ。
    これには「川島皇子の後裔」の「内の2系」は「真人族」として残り臣下しなかった事から「1系」の「神職系のみ」が臣下して「朝臣族」と成った所以である。
    この事から「一段下の地名の賜姓を与えられた事」が、何故に「一段下の地名の賜姓」と成っていたのかは不明であったが、上記の検証で新たにその原因も判った事に成る。
    これには他に「征夷代将軍や鎮西大将軍の条件等」や外にも多く細かく定められている。
    「帝紀」と共にこの「大化の規定」も後に「天智天皇崩御後」も「帝紀」に含まれるものと成ったのだ。
    こレらの関係する「青木氏に関わる歴史観」だけでも是非に知って置く必要がある。
    又、これに関連して下記の「注釈の歴史観」も持って置くと間違いは起さない。

    注釈
    他にこの「帝紀」に並んで別格で「皇統譜」とは、天皇と皇族の身分に関する事項を記載した簿である。
    形式等は、「皇室皇典」と「皇統譜令」の二つに定められている。
    「天皇・皇后に関する事項を扱う大統譜」と「その他の皇族に関する事項を扱う皇族譜」の「2種類」がある。
    これは「皇室の身分関係と家族関係と皇統」を公証するものでその規範とする。

    そこで是非に解かなければならない「次の疑問」がある
    そもそも、だとすると、「施基皇子の死後・716年・84歳」の「伊勢青木氏を仕切っていた「福家で四家の長男・春日」が、そもそも「曼陀羅や過去帳」から、例外なく「80歳以上の長寿系の伊勢・現在まで例外は無い」の中であるのに、この時期に唯一、一人が極めて“「早死」している事”が気に成るのだ。
    ところが、この「注釈の導かれていた流れ」の中には、偶然か必然かは判らないが、現象として「天武系の淡海族の流れ」に逆らう様に、忽然とこの“「話・話し合い」”が「天智系の伊勢青木氏の福家のに春日」に持ち込まれて来ていたのだ。
    そこでこの「話し合い・するかどうかについて」が、何とか「話し合い」をするとまでに辿り着いた後に、この「話し合いの流れの経緯」がありながらも、「10年」も経っても最終的に「詳細」に付いて「決着が着かなかった事」が経緯として起っていたのだ。
    然し、「伊勢側」が敢えてこれに付いて「何故か決着を着けなかった事」が「状況証拠」から割り出せるのだ。
    これは、“「朝廷内部の政治的な乱具合」からいつか瓦解する”と観て「時間の引き延ばし策」に出たと観られるのだ、
    この事から、何故に、“「春日だけが早死している事に成ったのか”に付いての「伊勢の大疑問」が湧く。
    これは是非にも解決しておきたい「青木氏の歴史観」である。
    つまりは、確証は取れないが、何故か不思議にこの「死の疑問」と「話し合いの時」が一致している事なのだ。
    筆者はこれに付いて考えるに、恐らくは、これは「福家の春日」が、「白羽の矢」に付いての「朝廷内の“政争の具に持ち込まれた事での早死」”ではないのだろうかと観ているのだ。
    どういう事かと云うと、これには上記した「状況証拠」だけで「確証」はないが、これは“「長男福家の春日の反対・福家と四家全体」で「朝廷との話し合い」が長引いていた”のを、“「朝廷内のある理由」”があって、是非にも早期に絶対に解決しなければならなく成っていて、その為に“政争の具に持ち込まれた死・仕掛けられた死」”であった可能性があると観ている。
    これにより「無理やりに決着」を着けようと、“朝廷から「仕掛けられた死」”ではないだろうかと観たのだ。
    もっと云えば、「伊勢の証としての記録」には、「時系列の経緯・状況証拠」が遺こされている限りは、つまり、「祐筆の書」に、この事に“「後裔に疑問」を興させて匂わせる事をこの「書の文章」で計ったのではないか”と云う事だ。
    つまり、この「祐筆」は、後々の事に付いて忖度して、この「春日の死」と「この話し合い」とを符号一致させる事では、“「後々の出自の天皇家」を直接に批判する事に成り得ると判断し、忖度した”為に、故に上記した様に「当時の青木氏に良く用いられていた伝統」の、“「表現に特別に強く韻を込めた工夫をした」のではないか”と観ているのだ。
    要するに後は、“これを「後裔の判断」に任す”としたのだろう。
    当然に「四家のチェック」が入っていたと考えられる。
    その「理由」に依れば、先ず第一にその他の「証拠との違う処」は、“「伊勢の内部の事」がここまで書くかと云う程に「余りにも詳細」に記されている事”なのだ。
    他の遺された祐筆の書とは違いがあり過ぎる。
    下記に示す様に、“「井上内親王の周辺の事」”も「其の死の間際までの詳細な有様・子供と共に平衡に並んで死んでいた事等の表現」が、“ここまで詳細に書き記す事は普通の感覚では先ず無いだろう”と思う程に詳しく描かれている事なのだ。
    それは、例えば、“「青木氏の名張の清蓮寺城の一部屋に押しやられて、二人の子供と並んで自殺している事」まで“詳しく描いている事”なのだ。
    そもそも普通なら、死なら死、自殺なら自殺として単に書けば済む事では無いか。
    これは普通では、“「記録」”としては、ここまでは描かないだろうし、最早、「史実」を此れでは“小説”に仕立てている様なのである。
    つまり、この「古来の書物等」が、良く使う“当時者を刺激しない様に憚った、よくやる“韻に韻を込めた記録”であり、それが“「小説型の様」に成っている”事なのだろうが、それだけに「後裔」に、「この事の真相」を、”「唯の事件」として故意に敢えて伝えたかったもの”の発露では無かっただろうか。
    況してや、この“「事件」”として、上記した様に不思議に、“例外なく子や孫や曾孫まで伊勢中を逃げ惑った事”があからさまに描かれている。
    これは、”「天皇の跡目の問題」”だけとするのにはし少し騒ぎすぎて変だ。
    これだけの「逃げ惑うとする事があったとする事」は、普通では先ず幾ら「白羽の事件」と云えど無いであろう。
    然し、結果として、「時」を一致してその中の一つに「福家の春日の不審死」があったのではないか。
    これは、つまりの処は、“暗に「天皇の跡目の問題」だけでは無かった事を暗示している事に成る。”
    その事を「伊勢の祐筆」が当に韻に韻を踏んで物語っているものだ。
    例外なく子や孫や曾孫まで伊勢中を逃げ惑った事”が描かれている以上は、彼等にも何らかの災いや恐怖が与えられていた事に成ろう。
    「春日の死」と共に、「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷、又は摂関家の藤原氏からの圧力・恐怖」がかかっていたのではないかと云う事だ。
    そして遂に「この死の前後の事」は、不確認だが、この「春日の死」と成って現れたのだろう。
    それは、上記で論じた様に、「朝廷内で継承権問題」で「際限のない殺戮を繰り返していた事」からも考えれば、この事は、「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷・摂関家藤原氏」からの「圧力・恐怖」があって、況してや「孝謙上皇・称徳天皇の精神的な乱」に依っての「乱政」の「やり口」から考えれば、充分にそれがあり得たと観ているのだ。
    それを事前察知して一族挙って逃げ惑ったのではないか。
    この時、上記や前段でも論じた様に、既に「伊勢青木氏」には「姉の井上内親王」が入っていて、「伊勢」を内部で仕切っていた「難波との争い」もあってして、「内部を掻き乱していた事」も「一つの逃げ惑う恐怖の表れ」として観ていたのだろう。
    要するに、「商い」では「福家の春日」、「政所」では「難波」“と争っていたのだ。
    この、「母は県犬養広刀自の娘で藤原氏ではない」で、「姉・井上内親王」有りてこの「妹・称徳天皇」あり”であろうと「伊勢一族の者」は受け取っていたのだ。
    つまり、“直ぐにでも何時か自分達にも降りかかって来る”と観ていたのだ。
    此の様に「現実に降りかかってきた状況」を観て逃げ惑う事に成ったと観られる。
    要するに「天皇家の死を呼ぶ乱」は、何時か自分たちにも降りかかる事もあるとして、警戒していた事に成ろう。
    恐らくでは有るが、「男子の天皇の跡目」だけではなく、「追尊王女にも引き込まれる事」や「斎王にされる事」や「十二の女官にされる事」等の方法で、「格式高い子孫存続」の為にも先ず「天皇家族内の嬪妾」にして「天智系の内孫子」にされて、「継承者を作り出す策の懸念もある事等」が過去にもあって、それを察知しての“逃げ惑った”と考えられるのだ。
    元々、この策の一つとして「追尊の肩書で縛られたりする事」を嫌って、“「青木氏の女(むすめ)の幸せ」を採られたくない”としたのだろう。
    これも少なくとも間違いは無いだろう。
    「福家の春日」は、その役目柄として「始祖の施基皇子」が遺したまだ間がない「青木氏の氏是」を護り、それを頑として前面に出て護ったと観られ、その為に先ず「朝廷の刺客」に暗殺されたと観る事が出来るのだ。
    然し、「福家の春日」を失ったそれ以後も「伊勢」は頑として動かなかったのだ。
    「朝廷の藤原氏や天皇家」は、これまでの史実に物語る様に、この時には、「極度の財政難」であった事から何時かは「朝廷の大蔵と内蔵の財」に耐えられなく成るとして「伊勢側」では先ず“折れて来る“と観ていたとなろう。
    それが「1年弱の前の事件」であったし、結局は、朝廷は遂には耐えきれずに「伊勢青木氏絶対有利の条件」の中で、結果として「疑問の1年弱に打ち合わせ」に入ったのだろう
    当に「四家の福家の春日」は、「唯一の伊勢青木氏側」の「白羽の矢の犠牲者」と成ったと云えるだろう。
    然し、この「伊勢青木氏族にとって最も忌まわしい事件」は、兎に角も伏せられたが、ところが「兄が殺された恨み」は「白壁の心」に遺されていたのだし、「四家からこの後始末を暗に課されていた」と観られるのだ。

    さて、もし、ここで「継承選択の目的」が「伊勢の財」とするならば、「青木氏の女(むすめ)」を「淡海族の近江佐々木氏の男子」に嫁がせて、そこで「その子に天皇家を継承させるなどの策」があった筈で、それに依らずとも“「天武系直系の近江佐々木氏の六人以上も多くいる男子を天皇にする事」をも企てる事”の「案・策」も充分にあった筈である。
    その事で「福家の春日」は、“白羽の矢の行き先を躱す策”に出ていた事も考えられる。
    これが「伊勢の市原王に能登女の入嫁の事件」も「その一つでの策であったと観ているのだ。
    然し、この件も“「市原王の自殺事件」”として消え去ったのだ。
    果たして、「自殺」で有ったかはこれも「疑問」であり、本来は「近江」に遺るのが普通で、其れなのにまだ「後家制度が無い時期」のこの時期に「伊勢に帰った事」と「後の能登女の無功績」による「疑問の破格の昇進」に付いても疑問視されるのだ。
    「伊勢のこの事件の犠牲者」とすれば、「春日で白壁で能登女であった事」に成る。
    然し、兎も角も其の様に「白羽の矢の経緯」はうまく動かなかったのだし、「流れ」は結果として遂に「伊勢」に向いて仕舞ったのだ。
    そもそも「青木氏の氏是」からしてもこれは反している。
    それは、この「770年の即位後」の後の「井上内親王の庶民化」と「同幽閉死事件」も「対抗策の一つ」としてやり返した事であったと観ていて、「残る朝廷の者・摂関家と犬養氏」に対しては、“これでもかと見せ占めて応じた”のだと観る。
    それでなくては「外戚系の犬養氏と藤原氏」から仕掛けられる可能性はあったのだし、これに楔を打たなくては伊勢としてならない事に成っていた筈だ。
    そもそも、幾ら「后や他戸親王等」がPTSDであったとしても、それも「朝廷内」に幽閉すればいい事の筈であり、それの方が世間に対して必要以上に噂が漏れない様にする「唯一の得策」でもあった筈であるが、其の様にせずに「世間に晒す」か如くに「態々に庶民化」にして、且つ、更に最も嫌っていた「嫁ぎ先の伊勢」に帰して、且つ、それも松阪では無く「田舎の名張」に幽閉する程の厳しすぎると思える処置を採っているのだ。
    これも「春日の暗殺に対する弟としての報復策」であったと筆者は観ているのだ。
    これは「光仁天皇」として「天皇家と朝廷」に入る以上は、未だ遺る息のかかった「藤原氏や公家や官僚たち」に対して、「施基皇子の遺した50年程経った青木氏の氏是」として、「天皇家」に憚り阿る事無く護り毅然として応じたと観るのだ。
    それには先ずは「実家の伊勢青木氏と切る事」であって、「逃げ惑う等の事」や「云う事を利かす為の誘拐や殺人」などの「朝廷からの圧力・恐怖」や「実家への不慮の事故」が防げる筈と「光仁天皇・白壁と青木氏族」は観たのだ。
    そうでなくては「青木氏の氏是を護らなかった事」に成り、「伊勢氏族の中では死に値する大罪」であった。
    「始祖の施基皇子716年没」から「50年程度」しか経っていないのだから、「伊勢50郷士衆の周囲の者」も許さず「伊勢の者全て」にこの流れの一連の事は知れ渡っていた筈である。

    注釈 この直前に於いて前段でも論じたが、未だ「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」には、「完全な縁者関係以上の相互重婚主義の血縁関係」にあったのだ。
    「伊勢青木氏の娘」が、「近江佐々木氏」に嫁げば、同時に「佐々木氏の娘」が「伊勢」に嫁ぐと云う「相互血縁同族関係」を結び、「男子」に於いても良好な関係の同然の関係で事実、維持されていたのだ。
    「四掟四門四家の制度を持ち込む前」では、「天智天皇第六皇子の川島皇子・母は忍海小竜の娘で色夫古娘」と「天智天皇第七位の施基皇子・母は越道君伊羅都売」の「兄弟家の相互重複血縁関係」で既にあったのだ。
    それが前段でも論じた様に、突然にこの“「市原王の事件」”で「婚姻関係を結ぶ事」が崩れて「相互重複血縁関係」で成り立つ「皇位族の関係」を突然に「淡海族側」から断ったのだ。
    これは、ここで「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」と「孝謙天皇」の「天皇家との間」で何かが起こった証拠でもある。
    それは次の注釈の事で判る。

    注釈 この「市原王」に関しては、前段で論じた人物で大きく青木氏に関わった者だ。
    ところがその注目する処は、その「市原王の生誕・青木氏の検証では64歳」に付いてである。
    それは一説では、「生誕719年頃から723年頃」と成っていて、「没年」は何故か不詳と成っている。
    その直前の「716年」に「伊勢の施基皇子」が「84歳」で没している。
    この年を境に「淡海族の近江王佐々木氏」と「春日族の伊勢王青木氏」との関係の「相互重複血縁関係」は突然に崩れたのだ。
    その「淡海族・市原王の最高格式」は「二品」にあり、 「両者の相互重婚主義の血縁」に於いて「施基皇子と川島皇子の曾孫」に当たる「安貴王の子」に当たるとし、つまり玄孫の事か。
    最終は「市原王」は「正五位下」で、“父より高い位を獲得している事”なのだ。
    これには「ある意味」があって、この位に付帯する立場として考えれば、「皇位継承者の筆頭」と成り、これには「思惑行為」としてそれに仕立てようとしていた事が判る。
    当時の「伝統的な決まり・三代継承性の規定」であって普通は何かが無くてはこれは起こらいのだ。
    そして、更に、何と最高格の「造東大寺長官/聖武天皇の思惑・光明皇后疫病平癒の願い」にまで任じられているのだ。
    つまり、「充分な肝いりの思惑があった事」がこれでも判る。

    これ等の関わる記録から「白羽の矢の事件」の問題の「市原王の経緯」は次の様に成っている。
    739年に「写経司舎人」を務める。
    743年に無位から一挙に従五位下に昇格する。
    聖武朝では、「写一切経所長官」に任じられている。
    続いて「玄蕃頭、及び備中守」に任ぜられている。
    746年には以降は「東大寺盧舎那仏像の造営」の「金光明寺造仏長官」と「造東大寺司知事」を歴任する。
    最終は「大仏造営の監督者」を務めた。
    聖武朝の末の749年に、「聖武天皇の東大寺行幸」に際し「従五位上」に叙せられる。
    「750年の孝謙天皇」には、大納言・藤原仲麻呂の派遣で「市原王」は「正五位下」に昇叙される。
    然し、ところがここからこの「昇進続きの市原王」に異変・750年が起こる。
    「下僚官」であった「佐伯今毛人」が突然に4階の従五位下→正五位上に昇進を果たした。
    そして、「高市大国」は2階の従五位下→正五位下に昇叙された。
    これに比して、この上官格の「市原王昇進」は1階に留るのだ。
    更に酷い事に、「一番の貢献者の市原王」は、「2年後の752年」の「東大寺大仏開眼供養会の出席者」に呼ばれなかったのだ。
    そして「760年の光明皇后の崩御」で格下の「山作司」を務めた。
    763年に「摂津太夫」に成る。
    763年に「謀叛の佐伯今毛人の後任」として、「造東大寺長官」に再任されている。
    764年の8ケ月後に「造東大寺司長官」を解任され、担当は天皇の家庭教師の「吉備真備」に成っている。
    769年に再び「造東大寺司長官」に返り咲く。
    769年後のその経緯は判らなくなっている。

    この「時系列」で「目に見えて判る事・物語る事」は、「750年の孝謙上皇」は伊勢に「大納言・藤原仲麻呂の派遣をした。
    この事は「伊勢青木氏の後裔」に何かが起こった事を物語っている事に成る。
    それは「天皇家の内部」では、「後継者」に付いて「二派」に割れて「方針転換」が起こっていた事だ。
    この“「方針転換」”とは、「天皇継承者の白羽の矢の飛ぶ先の変更」と云う事であって、「天武系の直近氏の近江「佐々木氏の市原王」から「伊勢青木氏に向けられ直した瞬間」である。
    769年にこの「市原王」に何かが起こった事を意味する。
    ところがここでも更に「異変」が起こるのだ。
    それは密月で仲の良かった二人の間に、突然に「孝謙天皇と大納言・藤原仲麻呂との政権争い」が起こったのだ。
    当初は、“「市原王の排除」”では意見が一致していたのが、「孝謙上皇」は「伊勢」に、「市原王」を推していた「仲麻呂」は、“自らが政権を握り傀儡政権を造る”と云う思惑で動いていたと云う事だが、上記した「帝紀」に従えば「天皇の位」はこの段階で帝紀に従えば、「時期継承」は敏達天皇春日王系の四門後裔の「市原王」では無くてはならないが、突然に自らが傀儡として政権を握ろうとして、それを知りながらも“「市原王」を推すのを突然に止めた”のだ。
    当初は「上記の経緯」でその為の昇進をしていたのだ。
    この結果は次の様に動いたのだ。
    そして、一時期、「天皇の座」は、“「持統天皇の後継者会議の事」”から外れて、先ず「外孫王・淳仁天皇」に据えそこから、遂には、“自らがその座に着く”と云う経緯を造り、その考えの「仲麻呂」に奪われたのだ。
    ところがこれを観ていた「仲良し」であった「孝徳天皇の孝謙上皇」は、これを見抜いていたその「家庭教師」であった「吉備真備の意見」を取り入れて、「仲麻呂」を政権から外し、「傀儡の外孫王の淳和天皇」をも廃帝し、自ら「天皇」に先ず再び返り咲き「称徳天皇」として「実権」を握り直して、「先の実権を握っていた藤原仲麻呂」を潰し、そしてその「傀儡天皇」であった「藤原氏の外孫王の淳仁天皇」を廃帝し淡路に流して自ら再び“「称徳天皇」”と成ったのだ。

    ここまでは前段で論じた「白羽の矢の経緯」であるが、この「経緯」から物語るものは上記の通り「天武系の最も有力候補者」であったこの“「市原王}”が「天皇に成る為の経緯」として“「政権の内部ではその中間まで働いていた事」”が良く判るのだ。
    それが、ここが「時期的」にも、符号一致した形で、「伊勢と近江が突然に血縁し無くなった仲違いの原因」でもあると観ているのだ。
    「白羽の矢の影響」に「市原王」は「品位のつり上げ」を餌に一時は振り回されたのだが、この見込みも「藤原の仲麻呂」が出て来て霧消してしまったと云う事だし、「近江佐々木氏との伊勢との関係・天皇継承者問題」もこれで永遠に消えたのだ。
    だから、前段で論じた様に後に、これが「近江佐々木氏の青木氏に関する研究」が成された所以でもあろう。

    注釈 さて、ここまででは、「伊勢と近江の突然に血縁し無くなった仲違いの原因」には、完全にはならないであろうが読み込みで他にも調べて観ると別の原因もあったのだ。
    ところが現実にこの時に、「市原王」に嫁いだ「伊勢の「女(むすめ)・追尊王の能登女」は、「伊勢での記録」としては、「伊勢の習慣」に従って、上記した事から「朝廷から見放された市原王」から突然に離縁して「伊勢」に戻ってきている事に成っているのだ。
    この「事件」には、普通であれば淡海族に残る筈の処が、“何かがあってこの様に「離縁」と成っている事に成る”のだ。
    それは先に結論から云うと、此れを“「伊勢青木氏の力」では「親族の市原王」を支え切れなかった事”として、「近江佐々木氏」に依って捉えられ、逆に「白羽の矢」では、最早、「女系化し全く継承権の無い130年」も経った色々な上記した経緯で「伊勢」に飛んで行って仕舞った事」が、“「重婚制度」を破るまでに「感情的理由」として発展し悪く受け取られて仕舞った”のだと考えられる。
    ここからは「淡海族と伊勢との時系列と経緯」は、同期して無く成って仕舞っているのだ。
    この「伊勢青木氏・・持統天皇の因事菅隷」は、その後の「淡海族の貧困・持統天皇」を観て、「賜姓五役としての因事菅隷」で「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」を「額田部氏の土木工事の専門的な力」を得て開始し「20年後」に完成させ、ここに「院屋号の特権」を以てこの「和紙の楮生産」を行える様にしたし、「伊勢」はこの「淡海族の貧困」を遂に解消さしているのだ。
    この時は未だこの「持統天皇」は「次の天皇継承族」として「天智系の淡海族」として「目論んでいた事」がこの「因事菅隷」で判り、その「継承者の人物」が「市原王であった事・大仏殿建立などの重職任命」」に成る。
    恐らくは、その意を引き継いで来た「天皇家の称徳天皇の動きのへ変遷」には、これにはこの「市原王の能力」のみならず「淡海族の財・貧困にも問題」があった事を示している。
    其の後の「和紙での経済的な豊かさ」を得た「淡海族」は、その“「勢い」で「伊勢」から離れて行き疎遠”と成り、遂には「問題の嵯峨期」からは「源氏化」して行ったのだが、この“「勢い」で「伊勢」から離れて行き疎遠”、が称徳天皇には魅力が無く成って行ったのではないか、と観られる。
    飽く迄も、伊勢との繋がりに魅力があったのではないか。
    そこから「歴史的経緯」は無く成っているのだ。
    ところが「伊勢」から云えば、寧ろ、逆であって「淡海族に飛ぶはずの白羽の矢」が「伊勢」に来た為に、「内部」には抑え切れない「氏人の伊勢郷士50衆の不満」の“「伊勢騒ぎ・史実」”が起こって行ったのだ。
    この“「四家に対する不満の伊勢騒ぎ」”が起こったのだ。
    この事への「不満」には、「淡海族の貧困を救った事」への「淡海族の態度の不満 1」、「伊勢福家へのやり方への不満 2」、遂には「白羽の矢が飛んで来て仕舞った処置の不満 3」と「上記の持統天皇の継承会議の問題 4」が有ったらしい。
    つまり、とすると「1の行為」は「3の行為を防ぐ策」でもあった事に成る。
    百々の詰まりは、「淡海族へ白羽の矢を向ける策」であったと云う事だが、こっちの「伊勢」に飛んで来て仕舞ったと云う事に成ったのではないか。

    注釈 「伊勢」は「因事菅隷」に基づいたこの「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」を「伊勢青木氏」が行い「額田部氏の力」を借りて「20年」も架けて行ったが、それに続けて今度は「伊勢」が「院屋号の占有権」を以て、続いて、「和紙の元に成る楮の生産・殖産」をここで始めて「佐佐々木氏に渡し経済的潤い」を与えてたのだ。
    この時に、「和紙の専有家の院屋号」を持つ「伊勢」に対して、どの様に対応したのかが「疑問」で、現在の研究では「楮を植えたが、これが「琵琶湖の真砂の土壌」に余り適合しなかった事から、今度は「楮和紙」からその後に「沈丁花の和紙生産」に切り替えてまでして行ったとされていた。
    「近江佐々木氏」はこの「良質和紙の開発」をして「独自の和紙」を造り上げて仕舞っていたのだ。
    これが上記の「歴史の史実」から割り出せた事は、「2つの真人族系・後に経済的に行き詰まり真人族では無く最後は朝臣化した」では無く、「賜姓臣下した沙沙木神社を守護神」とする「神職系の佐々木氏子孫」で行われていた事に成る。
    ところが「伊勢の持つ紙の占有権」に対してこれを無視した。
    そこでこれを食い止める為に「米子」から「西域」にこの「勢い」が移らない様に「米子和紙生産」を中止させて「美濃の寺尾」に「生産拠点」を移動させたのだ。
    そもそも「和紙生産」は、「院屋号の青木氏の専売権」を持つもので、その「伊勢」から勝手な行動を採り始め逃れて行ったと云う事だ。
    ここで上記の親族関係は完全断絶する事の原因の一つに成ったのだ。
    以上の状況に成っていたと「青木氏の資料」には記されているし、「佐々木氏の青木氏の研究論文」にもこの事が匂わせているのだ。
    この時、「争いを治める為」に「伊勢」は兎も角も親族である以上はこれを黙認したと成っている。
    但し、この時に「琵琶湖東岸」での「米原の楮生産」だけは、飽く迄も「伊勢青木氏の占有権」に入るとした様だ。
    其の後に「この理由・前段で論じた」があって、この「米原」から「美濃の寺尾」に楮生産を移しているのだ。
    ここで、「米原は交通の要所の地」、つまり、「和紙生産の搬出拠点」でもあるのに、何故、「米原の楮生産」を止めたのか「疑問」である。
    これは、態々、「東の美濃域の奥の寺尾」に移している処から考えると、独自路線を取り始めた「淡海族の和紙生産」を先ず此処で一端食い止めて制限し、「院屋号の青木氏の専売権」を無視する発展をここで制限したと観る。
    これで「近江和紙の発展の動き」を「東に進む事」を止めて圧力を架けた事に成ろう。
    これで「同族の親族」が「和紙」でも「犬猿の仲がより進む事」に成った要因の一つであろうし、これで「方向性を無くした淡海族」は、其の後の嵯峨期には「源氏化に進む事」に成った原因でもあろう。
    そして最終は、前段でも論じた様に「猶子現象」が起こり「源氏化の根拠を失う事」に成り、「神職系の佐々木氏」も含めて「二つの朝臣族の淡海族全体」が滅亡する事に成る。
    注釈乍ら「後勘」からすると、「上記の時系列」から此の様な経緯を辿った様に観える。
    「五家五流の賜姓族」の内の「淡海族と前段で論じた経緯」の「甲斐族と美濃族」は潰れる事に「持統天皇の皇位継承問題での会議」を正当系にしようとした「天武系の存続で図った思惑」が全て無く成る結果と成ったと観えるのだ。

    “これで淡海族は独立できる”とし、上記の「白羽の矢の事件の前後」からの「伊勢と近江の親族争い」には、「長年の矛」を収めたと「伊勢青木氏と佐々木氏」ではしている。
    その「証拠」に「近江佐々木氏の研究」に依ると、「注釈の通りの工事支援の結果」で「その生活」は潤い、その糧を得て「近江」には「佐々木氏系青木氏」と「近江青木氏」と「近江青木氏系佐々木氏」の「淡海系3氏」が其の後に誕生しているのだ。
    この「伊勢青木氏・敏達天皇系春日伊勢族」や「神職系と2つの朝臣系の3淡海族」を悩ました“「白羽の矢の事件」”では、「伊勢青木氏内部」では、「本論の井上内親王の事件」のみならず「淡海族との絡み事件」も含めて「伊勢」には「煩わしい事件」がこの同時期に起こっていたのだ。
    そして、この「騒ぎ」は「嵯峨期」でそのピークを迎え続いたとし、そして遂には「仁明天皇・出自元伊勢の孫で嵯峨天皇の子」であるこの「仁明天皇の努力・父と違って桓武派の考え方を持っていた」で要するにここまでとして、その「不幸な騒ぎや事件」は前段で詳細を述べたような経緯で一応は彼の努力で終わらせているのだ。

    合せて、前段でも論じた「近江鉱山の鉄生産」も合わせて「因事菅隷」で同時期に開始しているのだ。
    これは「白羽の矢の交換条件・打ち合わせ」であった事が「本論の読み込み」で判った。
    この「近江での伊勢青木氏が手掛ける鉄鉱山開発・因事菅隷による国有鉱山」が地元のこの「貧困状況下の淡海族」にはどの様に影響していたかは資料がない。
    又、「近江佐々木氏の青木氏の研究」でもこの事に殆ど触れていないし、「公的な資料」にも何も論評の様なものは無い。
    これはそもそも「秘匿の因事菅隷」に有ったのではないだろうか。
    この「伊勢青木氏だけに発せられる因事菅隷・天皇の密命」であれば無い事には一応は掟であった限りにお於いては納得できる。
    当時としては「主流の砂鉄」にしても珍しい物であり、それが「山から掘り出しての鉄・鉄鉱石」には、「試掘の事もあり、失敗の事」も含めて「伊勢」では「慎重な対応」をしていた事が読み取れるのだ。
    それ故に、これが「白羽の矢の前後の事・打ち合わせの条件」もあって少なくとも「外への公表」だは避けていたと観られるが、上記した「4つの鉱山」は「近江の近場の事」であるので、徹底して黙り続けるのは無理であったのではないか。

    注釈 この「鉱山開発に携わる人・工人の山師集団・金山師集団等」に依っては「秘匿の工事」が世間に漏れるが、これは「朝廷」に依って「功績」として「鉱山開発に携わる人・工人の民・200人」等は、「伊勢王施基皇子」の「私有財産として与えられた事」が記録として遺されている。
    因みに「伊勢王の施基皇子」には「全2000人の民・工人が与えられた事」が記録として遺されているのだ。
    因みに「川島の皇子」は「500人」と記されている。
    それだけに「施基皇子とその後裔の功績」は実に大きかった事が云えるし、此の事でもその位置づけは理解出来る。
    もっと云うと川島の皇子とその後裔は500人の民を与えられていながら貧していたとする記録には何か違和感が生まれるが、おおよその事はその土壌の事に会って生活の糧を伸ばす余地が無かった事が云える。
    だから「天皇」はこれを救う為に「国の問題」として捉えて「伊勢」に「干拓工事の因事菅隷」を発したと考えられる。
    この時に「伊勢青木氏」に対して「工学院の院屋号の占有権」が与えられたものと考えられる。
    これだけでは「伊勢」には、幾ら「親族の関係」に有ったとしてもそこまでも「近江に尽くす謂れ」はそもそも無く間尺に合わないだろう。
    そこで結局は、「天皇」に「その見返り分」として「佐々木氏の近江の地」に対して「鉱山開発の権利」を「条件」として出し、その「権利の裏打ち」として「因事菅隷を発する事」に成り得たと考えられる。
    結局は国にとっても「鉄の生産」と云う「殖産を興す事」に成り「大蔵は元より内蔵も潤う事」に成り、その「生産から販売」までの一貫を「伊勢」が担えば、後は「大蔵と内蔵」に「利益が入る事」と成り「濡れ手で粟」と成ったのだ。
    故に、当時は「その土地とそこに住む農民も含む民とその殖産業一切」は“「功績」”そのものとして「私有財産」として扱われていたのだ。
    それだけに「情報開示の事」では「今の社会」と違って、「ある程度の秘匿」は護られる環境にそもそもあったのだ。
    然し、「近江佐々木氏の青木氏の研究」には、こんな事が何も知らない事は無く、研究書はこの事に付いて何も触れていないのは、知らなかったとするとそもそも元より「別の名目化」にして「極度の秘匿の因事菅隷の下」にあった事に成る。
    当時としては、それでも「何もしていない様に秘匿でき得る環境レベル」であった事が「因事菅隷論の歴史観」として判断できる。
    だとすると当時は、未だ「伊勢青木氏」に対して多くだされていない「因事菅隷の影響」が「相当な力」を世間に与えていたと考えられ、「天皇の令外官・勅命」の秘匿の「天皇の命を受けた事」として、世間に取り分け「全官僚」たちにも恐れ慄く程に何があったのだろうとして「警戒心を与えていた事」に成るだろう。
    この時代の遺された少ない「政治の記録」から観て見ると、その様な「史実」が多くあって、“何を密かに命じられていたかは判らない為に余計に恐れられていた事”もあったと考えられる。
    「史実の政権争い」で、“「謀叛を企てた」”として暴露され罰せられた史実などは殆どは、この「秘密裏の令外官の働き」に依る「秘密情報からの判明」に依るものである。
    何時の時代もそうである様に、取り分け「奈良期から平安期までの政争」には、この「令外官・内密書の勅命」の「秘匿の天皇の命を受けた事からの発覚」であって、これは「皇位の者にとっては常識の事」であった。
    それだけに「勅命の皇親族の特別令外官の働き」は恐れられていたのだ。
    取り分け誰でも受ける事の無いこの「因事菅隷を受け、且つ格式を持つ立場の令外官」は、周りからこの「二つの大権を持っている事」に恐れられていた事が記されている。
    それ故にその「特別令外官の務めの内容」は、この「周囲の謀叛の事」から始まり「院屋号の事の特権」や「鉱山開発等」の「殖産等の全範囲に及んでいた事」に成るのだ。
    然し、確かに恐れられていたがこの事はある種当然の事と受け取られていたらしい。

    さて、そうすると「上記のこの事」から「読める事」は、一つある。
    それは「川島皇子」の「大津皇子の謀叛密告事件」も「天武天皇」に密告した「近江の市原皇子の件」もこの「特別令外官の仕業」であった事も考えられる。
    だとすると、この「流れ」から成し知り得るのは当然に「伊勢と云う事」にも成るが、何も資料が無いので確定は出来ないが、然し、「親族でもあった事」からも検証する必要があるが、この件で「損得に触れる者」はとすると矢張り「伊勢」では無かったかと観ているのだ。
    何故ならば、この「大津皇子」は「天武天皇の皇子」であってしても、ここに隠れた要素があって実は「母」は「天智天皇皇女の大田皇女」であり、「同母姉に大来皇女」と、その「大津皇子の妃」は「天智天皇皇女の山辺皇女」と成り、要するに「母方は施基皇子の3妹」でとりかこまれていると成る事からであり、「川島皇子」がこの「大津皇子の謀叛として密告した事」は放置出ず、「天智系とその施基皇子系の周囲を弱らせる淡海族の目的」があって、これを企てた事に付いて「施基皇子」はその様に観たのではないか。
    何故ならば、それはそもそも“その真偽を確かめた”のは、「秘密裏の令外官の働き」に依る「伊勢の者」であると云う事になる。
    「天武天皇」にその「事の真偽の調査」を秘密裏に命じられ、それを必ず報告をしていた事に成るからだ。
    「大津皇子」を庇う訳ではないが、その周囲は「全て施基皇子の妹達」であり、「真実の情報」は多く取れその真実は「施基皇子」は必ず知っていた事に成る。
    そうすると「施基皇子の出方」は決まって来る。
    敢えて「川島皇子」が“「ある目的」で「でっち挙げた報告をした事」”に対して先ずは身構えるであろう。
    例え、「天武系の皇子」であったとしても、実の処はその「子孫」は何時か「天智系の血筋を持つと成る事」を意味している事と成り、仮に「大津皇子」が「天皇」と成った時には「継承権」は自然と「施基皇子側の伊勢系」と成る事は必定で、女系であってその意思や気が無くても完全に「施基皇子系に移る事と考えての行動」であったのではないかと観られる。
    だから「市原王の件」からも判る様に、「継承権」を望んでいた「川島皇子」は、“「密告という手段」に出て、これを杭止めてこれの「流れ」を「淡海系に来る事」を計った”と考えられるのだ。
    然し、この「密告の謀計」は失敗したのだ。
    つまり、この事件の「意味する事」は、この時から「淡海系」は未だこの段階からもでも「継承権を狙っていた事」を意味する事に成る。
    そこでその証拠を捜索すると、実は、その「証拠」が見つかったのだ。
    それは「下記の注釈の事」を配慮すれば「上記の意味する事」が良く物語り証明している。

    注釈 ところで“上記した「懐風藻の説の証拠」”に続き、更に続けて「次の重要な記述」が記載されていたのだ。
    それは、先ず「大津皇子の事」を「天武天皇の実質の長子」と判っている事なのに“特別に態々記されているのだ。”
    この「漢詩集」なのに、その事から外れて「次の記述の事」が態々と書き添えられている事なのだ。
    それはこの事から次の事が読みとれる。
    この「懐風藻のこの特別記述」から、先ず、その「長子たるに足る人柄」が、敢えてこの「漢詩書集」の「懐風藻」に記されている事なのだ。
    これは当に「謀叛に対して反論する意味」から「その目的」で態々我慢できずに書かれたものと考えられる。
    当然に当時の「慣習・歴史観」からこれは当に「韻を込めての記述」であって、それ故にこれには「何かの目的があっての事」と考えられ実に歴史的に珍しい事だ。
    その韻を読み解くと、先ずその侭を次に引用記述するとしてそれを要約すると次の事に成る。
    「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。
    壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。
    性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。
    これによりて人多く付託す。
    体格や容姿が逞しく、寛大。
    幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。
    成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。
    その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。
    このため、「大津皇子の人柄」を慕う、多くの人々の信望を集めたとある。
    以上
    重要な事は「以上の内」と同じ事が、何と“「日本書紀」にも「おなじ趣旨の讃辞」が述べられている事であり、つまりこの内容を追認している事であり、確かに「抜群の人物と認められていた事」の様である。
    この結果として、「密告に対しての無罪」に対してそれを立証できずに、そもそも既に、その時まで「天皇」に代わって「政務」まで採っていた「24歳の大津皇子・686年」は、“行き詰り自害に追い込まれた”事に成るのだ。
    そして、その「後釜」と祭り上げられていた「草壁皇子」もその「3年後に弟の草壁皇子」も「28歳で没す」とある。
    この「漢詩書の特別記述」は、「弟の草壁皇子の死」は無関係では無かったと云う事を暗に匂わしている事に成る。
    この「川島皇子の密告事件」の「二人の犠牲者」は、「大津皇子と草壁皇子」の「政争の形」に持ち込まれて治まった事」を「意に反した事」と成りて、これを悔いて「弟の草壁皇子」もそれぞれも「没す」と成るのだ。
    そこでそもそも、既に、“「天皇に代わって政務まで執っていた大津皇子」が「謀叛と云う事」は無いだろう。
    要するに急ぐ事はそもそも無く、「次の座は自分である事」が既に決まっていたのだから疑問だ。
    そうすると「謀叛」と成れば「父の天武天皇」に対してであって、「川島皇子の密告」は実に「不自然な史実の行動」と成るだろう。
    そして、更にこれに付いて「施基皇子の調査報告」もありながら、それを知りながら“「川島皇子の密告」と「施基皇子の報告」”とを何と天秤にかけて、「川島皇子の密告を信じた天武天皇」にも「相当な愚者」であろうとする疑う余地のある事」を暗に酷評しているのだ。
    故に、そこでこれで、「特別令外官の役の立場」で報告していながらも、「無視され防ぎきれなかった施基皇子の立場」は「氏族とその親族衆」に対しても信頼を失い且つ無く成った事に成る。
    故に、「686年自殺」に、“続けてその「3年後・689年」に「同母弟の草壁皇子」も「28歳で没すとある。」”とあるのは、ここにも“何かがあった事”を強調して意味させる事に成ったのだ。
    だが、これを「証明する資料」が未だ見つからなかったが、そもそも、態々、この事を記録した「懐風藻」がこれに付いて以上の事で“間違いなく何かを物語っている”のだ。
    これで「施基皇子」と「686年没の天武天皇」に媚びした「密告者の川島皇子」とは、前段や上記した様に、ここから「犬猿の仲に成った可能性がある事・686年から689年」を物語るのだ。
    そして、その10年後のこの事を知っている「697年の持統天皇の継承者会議」で、これが決定的に成ったのだが、この期に乗じて「持統天皇」は、「伊勢に因事菅隷」を以て“「琵琶湖東岸の干拓工事」”を命じて来たのだ。
    「施基皇子」は、こんな事があったのに、勿論の事、「伊勢の心」は、“虫が良すぎる”として「妹の持統天皇」にも「川島皇子の淡海族」にも相当に憤慨していた事が判る。
    つまり、明らかに書の記述の通り、ここでこの「3つの連続の死」には何かがあった事を意味しているのだ。
    「伊勢の福家」が、此れでは、“何かしなければ氏族を治まりを着けられ無く成っていた事も判り、然し、何も出来なかった事”を物語る。
    「始祖の施基皇子と福家の春日」の二人の信用は此処で無く成っていた事をも物語る。
    この書の物語る事として何とかしなけれは四家は治まらなく成っていた筈だ。
    以上としている。
    それが次の注釈の経緯と成って現れたと観られる。

    注釈 さて、そもそも前段でも論じたが、「天皇の命を受けての行政の太政官」は、「格式上位の皇親族・浄大一位格式・伊勢青木氏」には、絶対に「行政命令」は「太政官」が格下の為に出せない。
    そこで、故に「伊勢」より「上位の天皇」が、密かにこの「皇親族・浄大一位の格式」に対して、「行政上の特別令外官の格式の立場」として、「密命・因事菅隷」として「命」を発したのだ。
    ここでは「その掛かる費用一切」は「密命」である限りに於いて「特別令外官」が受け持つ。
    更にそれは限定されてこの「特別令外官」はだれでもという事には行かない。
    「それ相当の組織力」と「密命を果し得る財の持ち主」で無くては務まる事は不可能である。
    依って「因事菅隷を成し得る者」は更に極めて限られた者に成り得る。
    これが「五家五流」の中でも、「全ゆる殖産を行う事で巨万の富」を得ていた「施基皇子とその後裔とその氏族」だけと成り得ていたのだ。
    例え、「活発極まりにない三野王」であったとしても、「記録」から全て「太政官令」に従うものであって、井の中の蛙ではそもそもこの「因事菅隷を受ける事」は絶対に格式無く無理な事であったのだ。
    同然に「継承権を狙う淡海族」もである。
    そもそも「天皇の密命」である以上は、「資料記録」を遺さないのが「伝統の禁令規律」であるが、奈良期から平安期に欠けて「施基皇子とその後裔とその氏族以外」には、一切の記録や資料からは見つからないのはこの事に依る。
    調査すると唯一つ例外があって、{調べた範囲」では、後に「信濃青木氏」が「神明社を通じての質行為」として、“「第二姓の認証制度に携わっていた事」”が「記録」としてあって、正式な時期は確定は出来ないが、「青木氏」を「律宗族として再任した正親町期頃」の「因事菅隷」によるものと考えている。

    注釈 前段からも論じている「天皇家の継嗣外者」を「引き取る務め等」も、この「皇親族の令外官の務め・賜姓五役」の一つとして理解されていた様だ。
    前段でも論じている様に、“「永代賜姓五役」”として、“誰でも引き取ると云う事でも無かった”様で、「伊勢と信濃」が引き取ったのは、全女系族であって全て「女継嗣外」ではあったが、それが「四掟四門の範囲」、つまり上記した「天智系後裔族」であって、ここでも当に「天武系・淡海族系を避けていた事」が読み取れるし、これに外れた「女継嗣外」は、“「甲斐」”とか“「近江」”に落ち延びて、「その行き方行方知れずの事」と成り得ていた事が記されている。

    注釈 “甲斐”は、室町期まで「血縁の独自性を貫き余り継承から外れた皇子皇女を引き取らなかった事」が「記録になる程」に記されている。
    「近江」は、その「血縁族の者が落ち延び先」としてあり得たが、要はその「近江族の財の無さ」から一度は立ち寄ったものの、そこから「更に北に引きこもる事・行方不明の事」が起こったと記されている。
    この事は「近江佐々木氏の研究記録」からも読み取れる。
    それを「賜姓五役」として熟していたのが、「五家五流の青木氏・伊勢と信濃」であって、取り分け「部経済」を誘引して「巨万の財」を成していた「伊勢王の伊勢青木氏の務め」は大きかったのである。
    要するに、前段でも論じた様に、「伊勢多気郡」に「彼等を引き取る村の施設と組織・青木氏様の十二司女官制度の設置・役を終えた斎王も引き取っていた」までを構築し、これを「因事菅隷を持つ賜姓五役」として熟していた事が記されているのだ。

    さて、この時の「因事菅隷の代償案」として出した「川島皇子の近江地領」のそもそもそこに出した伊勢青木氏が行う「鉱山開発の因事菅隷」は、「天皇しか知らない内密書」で行ったとすると、この「伊勢多気郡の事」も、「天皇」は此の「因事菅隷を使った事」も考えられる。
    そして、とすると同然に「白羽の矢を出した孝謙天皇の件」も、“これに有無を言わさぬ様に”の姿勢で、この「因事菅隷に依るものであった事」にも成り、それ故にこの時は間違いなく「女系にして、且つ、伊勢は継承外であった事」から観ると、“「伊勢の財を選んだ白羽の矢」に傾いた”と観る事が出来るのだ。
    それの効果は別にして、先ずは「因事菅隷で黙らしたかった事」になるだろう。
    そこで、故に、先ず「打ち合わせに入り事」に依り、「ある上記の見返りを求めた事」が判る。
    「近江佐々木氏の青木氏の研究書」には無い事は、何せ「本命であった淡海族」が「何も知らなかったとする事」に、これを「裏打ちする意味」を持つ事なのだ。
    これが「天皇家の白羽の矢の行き先」を選んでいた「当時者達」に執っては、最早、“「淡海族の天武系列」では無く、今は「伊勢の財」”としては間違いなく逆に映っていたのではないかと観られるのだ。
    密かに、これの「見返り」としての「鉱山開発に因事菅隷」が働いていたとすれば、これは「聖武天皇の時」からも内々で検討され働いていた事が判る。
    この事が少なからずも「犬猿の仲に成った事」で、「弱体する近江佐々木氏」を「伊勢青木氏」が、何にせよその「弱体衰退化の為の事」として、過去に於いてはそれが「相互重婚血縁族」であっても、それを放置できる程に無関係では無かった事は確かである。
    上記する「断絶の原因」の「大津皇子の密告事件」はこの「流れの中」にあったのだ

    そこで、当時、“どの様に働いていたかを知りたい”と考えて「歴史観」として研究調査した。
    考えられる「事前知識」としては、「天武系の直系近江佐々木氏・市原王の伝統権威・川島皇子の浄大三位の格式」に対して、「130年経過の女系化の天智系伊勢の財と永代浄大一位の格式」の「比較の差」にあって、これに対して「朝廷の対応する考え方」が次第に替えられて行った事に成るだろう。
    この「最終上記の考え方に傾いた事」は、つまりは「帝紀に縛られる天皇家・朝廷」の「考え方の大転換・青天の霹靂」であった事に成る。
    冠位四十八階位の「明位二階」の「四冠位・大と広」は「天皇の冠位」である。
    「天武天皇」は「明広一位」とされる。

    注釈 参考として、「判断材料の時系列」は次の様に成る。
    「天皇家の継承問問題」で検討された「有利な点」は次の様であった。
    淡海族有利の点A
    伊勢族有利な点B

    A「始祖の天智天皇」は「敏達天皇の春日王系の四門族」のぎりぎりの位置にいた。
    A「天武系直系氏の継嗣の市原王」とは「系列内」で、「伊勢」は比較にならない立場にあった。
    A「継嗣系」で云えば、「近江佐々木氏」が俄然に有利と成ろう。
    A「四門族」で云えば、「淡海族一門の天武系直系族」>「敏達天皇系春日王四門の子の嗣子」と成っていた。本来は正統性から逆であった
    A「母系の格式」で云えば、断然に「淡海族一門の天武系直系族」の紀氏
    A「天皇系に入る事」を望んでいたのは紛れもなく「淡海族一門の天武系直系族」であって、「望んでいなかった」のは「伊勢」であったのだ。
    Aその「白羽の矢」が当たって仕舞った「六男・継嗣外の子供の第七位皇子の施基皇子

    B子・浄大壱位」で、その「継嗣外の六男」に相当し、母は「女系で五大豪族の紀氏後裔の嗣」であった。
    B「永代浄大壱位・伊勢」>「永代浄大参位・近江」の格式にあった。
    B「格式系」で云えば、断然に「伊勢青木氏」>と成ろう。
    B「賜姓五役」、「因事菅隷の令外官」、「氏族組織の総合力・伊賀など含めた伊勢王」は、伊勢側にあって「組織力全体」は「伊勢」であった。
    B「二系の違う事」は、結局は「伊勢の商い財の存在とその大きさ・院屋号の特権」にあった。

    注釈 先ず、この「天皇家の思惑・政争」に上記の様に振り回された「市原王・川島皇子の密告が原因」は、「白壁王(後の光仁天皇)の娘・伊勢青木氏の「女(むすめ)」である「追尊能登女王」を先ず「妻」に迎えている事だ。
    これが上記の「A=Bにする為の縁組」か、将又、単なる重婚制度に依るものかは判らないが多分前者であろう。
    この「問題」を複雑にした「婚姻の説」には、「上記の注釈」の通り「施基皇子の白壁王」と「川島皇子の安貴王の子の市原王」の二人は、「同世代の叔父と甥の親族関係である事」と、「白壁王の母の紀橡姫」と「市原王の母・紀小鹿」が「紀の同族の叔母と姪の関係」にあってその「紀氏の出身・飛鳥王権五大氏族」である事だ。
    後に「上記の昇進事件」では「淡海族の市原王」は「酷いうつ病」と成り、「伊勢」ではこの事が原因して「追尊能登女王」は「伊勢」に戻している事に成っている。

    注釈 この時は未だ「後家制度の考え方・伝統的慣習」は女系制度を敷く務も「伊勢青木氏」には無かった。
    結局は、この「追尊能登内親王の青木氏」の中での「働き具合」が「問題」である。
    「白羽の矢」の「白壁王の考え」に切り替えられる前は、この「中心人物」と成っていたのは「淡海族の市原王」である。
    然し、結果として「死を選ぶ事・・763年頃」と成ったが、後にこの「淡海族の市原王」に「嫁・744年頃・11歳」して、「二人の子」を遺して「継承権の犠牲」に成った「追尊能登女王・733年生誕」は、其の後は此の“「淡海族」の中”では無く、元の“「伊勢」”で「青木氏の伝統慣習の下」で過ごし、「入嫁37年後」の「781年・48歳/平均55歳」に死したとされている。
    「伊勢」に一度帰した「後・763年・30歳頃」の「追尊能登内親王」は、「7年後」の「770年・白壁王即位」に追尊されて、改めて始めて「光仁天皇の内親王・770年追尊」に叙せられている。
    女性としては、これは「破格の昇進」をしたことに成り、同時に「四品・770年」にも先ずは叙せられ、更に6年後の「776年」に「三品」にも昇進し、更には「781年・没直前」には何と「一品」にまで破格の速度で叙せられているのだ。
    其れだけの“「功績」”を他の者に比べてこの「能登女」は実はこれで果たしていたのかという「疑問」である。
    この「他の兄弟」に比べ“「破格の昇進」”をしたこの「意味する処」は、間違いなく“「大功績があった事」”を意味しているのだが、それが何なのかは「伊勢」では詳細には記されていない。
    当然に考えられる事として、この“「特記すべき経緯の中」にその「意味する処」が隠されている筈である。
    それは、「市原王との関係にあろう事 1」が先ず解り、且つ、その元に成り、「白壁王が天皇に成った事 2」と、「井上内親王の事 3」の「三つ事に絡んでいる事」は先ず判る。
    そもそも“「能登内親王 3」”とする処は、正しくは「追尊能登女の王」であり、飽く迄も正しくは「追尊の格式」である事に成る。
    この“「不思議な疑問と成る事」”は、「白壁王」が「青木氏の者」として、「聖武天皇の長女との井上内親王」と婚姻してから、何と“「婚姻の7年後」”に即位している事だ。
    この“「婚姻の7年後」に「意味する処」があって、”婚姻後直ぐでは無いのだが、此処に「大きな意味」が隠されている。
    これはそもそもその「前の事」であり、「伊勢青木氏の仕来り・独特の仕来り」に沿っているので、「井上内親王」は既に「伊勢青木氏」に嫁した以上は、「王」でもなんでもないし、既に、唯の「賜姓臣下族の伊勢郷氏の六男の嫁」に成っているのだ。
    そこで、これは「青木氏の者」としての“「時期の問題」”であり、“「733年生誕の能登・781年没・48歳」”である以上は、「光仁天皇・即位770年即位」とすると、当然に「定め」は“「追尊王の形を執る事」”に成る。
    そこで、この時、「母の夫人・高野新笠妃」が、仮に「母説」であるとすると、この「能登女」は、「3人の子の長子・能登女」であり、他に「同母の弟・山部王の737年」と「同母の弟の早良王・750年は」としている説でる。
    すると、この事で、その「夫人・高野新笠の生誕等不詳とする処」は、先ず解明できる。
    それは、「永代浄大一位の後裔」で「賜姓臣下族の伊勢青木氏」に於いては、「女系制度の女15歳までの入嫁の掟・嫁家制度」がある以上は、「伊賀青木氏族出の夫人・高野新笠の生誕」は“「718年・掟」”である事として割り出せる。
    従って、「没年年齢」は、「791年」で、“「81歳没年」”と読み取れる事と成る。
    この「読み込み経緯」から、これで「皇族の伝統経緯」から「最低で当時の格式伝統の定め」から、「15歳青木氏への入嫁」は「718年」と成るのだ。
    そして、時系列が割り出せた「夫人・高野新笠の母親」として、又「妃」として「791年没年・生誕718年」である以上は、「733年生誕の能登女の子供説」は、「第一子は最高で15歳の時の子」と成り、「737年の山部王の19歳の子説」は、「第二子19歳の子」として設定で来て、「弟750年は早良王の第三子説・32歳」として成り立つ。
    そこで、この“「通説ネット説の能登女の24歳の時の子供説」”では、時系列的には無理である事が判る。
    且つ、「早良王の第三子説・32歳の説」も、「医学生理学的な面」で「卵子老化」が起こり、且つ、前記した様に、これも当時の「平均寿命50歳説」から考えても相当に「医学的に体力的無理な高齢出産」と成る。
    これは「高齢の卵子老化と成る現象・水頭症」が起こり、現在でも医学的も到底に無理である事に成り、何とこれも“「45歳/平均寿命50歳」”に相当するとしているのだ。

    「母・高野新笠・748年に15歳青木氏入嫁・伊勢の仕来り」とすれば、「791年は58歳の没」と成る。
    この「疑問」の多い「光仁天皇770年即位」で観ると、「青木氏の伝統の掟」に従い「能登女」は、「淡海族市原王」に「15歳・掟で嫁いだ事」に間違いなく成る。
    初めて「能登女」は、「追尊王」としては「母37歳の時・母親は748年の子」と成る。
    故に「733年生誕から770年」までは、「能登女」は「ネット説37歳の時説」では、未だ「青木氏の中」ではそもそも「追尊」でも「王女」でもないのだ
    従って、「748年で母15歳で青木氏に入嫁」で、「770年で能登女」は「733年生誕」であるとすると、「追尊王である事」は、「青木氏の女であった事」を示している事に成り得る。
    これが「ネット説37歳の時説に成る」とすると、この「時の人の市原王」に入嫁した「能登王女説」を唱えているその「ネット説」では、肯定してはいないが“「入嫁は757年頃」”としている。
    つまり、“「24歳の時説」”としている訳であるが、この説は上記の通り生理医学上では無理があり「大疑問」である。
    何故ならば、「伊勢青木氏」では前段でも論じた様に、「女(むすめ)」の妻嫁制度」と「嫁家制度」を敷き、それに従って「四掟の女系制度」で嫁いでいる。
    とすると、この「伊勢青木氏の女系制度」では、従って必ず100%で、少なくとも遅くても“「15歳」”に成ると“「能登女」”は、「淡海族の市原王」に嫁している事に成り、この事は「24歳時説」する「ネット説」は「100%間違い」である。
    何故ならば、この当時は前段でも何度も医学的にも論じたが、“「正しい歴史観」”として、飽く迄も“「平均寿命50歳」”であるので、今で云えば「40歳から45歳の子の誕生」と成り、100%で生理的医学的に現在の体外受精方式を使わない限りあり得ずに其れも「3人も出産」もである。
    あったとしても体力的に無理であろう。
    故に絶対に“「15歳説」”であるのだ。
    つまり、この“「24歳説」”から来る「能登王の光仁天皇の子供説・高野新笠の子説」には「論理の崩れが生じている」ので「大疑問」を感じているのだ。
    つまり、故に「嫁がせる“能登女”」を、“「光仁天皇の子・高野新笠の子」に先ず仕立て上げて、そこで“「当時の時の人」”の「淡海族の市原王の格式」に合わせたのではないかと観ているのだ。
    この事はそもそも「女系化青木氏の制度」である。
    つまり、既に、「臣下している氏族の子」のこの要するに“「能登女」”は、「浄橋女や飽浪女や難波女」の「伊勢青木氏の女(むすめ)」の様に、同じ立場にいたのだから、「追尊王」と無理やり仕立てて、更に嫁ぐ際には既に「臣下族」である以上は、「格式上」に於いては、“「白壁の娘」”と態々したのでは無いかと観ているのだ。
    「白壁」は「臣下族の四家の六男」であり、「四家の四男」にも成っていない「家人並みの男」であった。
    それでも、それに上記の「読み込み検証での経緯」で「白羽の矢」が飛んできたのだ。
    要するに、“大疑問の「770年の即位」に対して「748年・15歳」では未だ「天皇の立場」を得ていない時の事なのだ”。
    そもそも「伊勢の記録」には、“「逃げ延びた者・第三世族まで」”には例外は欠いていないからだ。
    況してや、女系化を成す「伊勢の女(むすめ)制度」では、「赤子や幼児」より全てはこの「伊勢の四家の制度」に先ず入るのであって、それが仮に「高野新笠の子供」や「井上内親王の子供」であったとしても、そもそも特定して嫁がせる制度では無く、一度、まず「氏族の玄孫迄」の生まれてから直ぐに、「女(むすめ)」は「福家」に全員引き取り、そこで統一して「乳母」に依って零歳児より育てられ「青木氏としての女(むすめ)」の「特別教育」を受け、そこから「四掟先に嫁ぐ制度」を敷いていたのである。
    同然に逆の事も起っていて「四掟四門の嫁ぎ先」から、今度は「その子孫の後裔」が新しい血を持ち込み、又伊勢に入嫁して入る事が繰り返し行われていたのだ。
    この繰り返しの中でこれに従って「氏族内の例外」はなかったらだ。
    飽く迄も「伊勢の能登女」で有っても、「一族の伊賀から来た高野新笠」であっても、この制度に従って「伊勢青木氏の女(むすめ)」であったのだ。
    そこで「伊勢青木氏の女系の制度」では、「四家制度等」を維持する為に「后妃嬪妾の制度」を敷いて「バランス」を執っていたのだ。
    この「女(むすめ)」制度」の中に入れば、「赤子の時」から集められ「福家」に集めて、この「女(むすめ)の養育制度」に必ず入り、「伊勢郷士氏人」の「乳母・めのと」で、例外なく一か所で早くて「9歳から遅くても15歳」になるまで「青木氏」の「女(むすめ)」として教育され育てられるのだ。
    その後は、この「女系化制度」に依って「四掟四門の範囲」で「嫁家制度と妻嫁制度」に従って、「嫁入り・15歳掟」と成るのだ。
    そこで「四家の中」で生まれた「全ての男子の場合」は、その「赤子の頃」から「母親」から強引に引き離され、「四家制度の中」に入り、そこで「四家の男子」として鍛えられて、「画道、華道、茶道、座禅道、算術」などの「諸道一般の素養」や「学問や商知識」や「武芸一般」や「格式教養」等を、例えば「襖の閉め方・お茶の飲み方・箸の上げ下げまで」を学ぶ事に成っていたのだ。
    そもそも、この「厳しい統一制度」に於いては、“「母親」が「自分の子供」として特定する事”、即ち、「高野新笠の子供と特定する事」が、そもそも難しい事の程度で離されて育てられる事が徹底していたのだ。
    そうでなければ「族内に全ゆる差と個性」が出て、“統一して青木氏の子供”として“「四掟四家四門を保つ女系制度」”は保てなかったとしているのだ。
    飽く迄も、要するに「女子男子」は、「だれだれの子供」では無くて飽く迄も“「青木氏の四家の子」”であるのだ。
    この「能登女」も当然の事であって、「高野新笠の子」としてのこの制度の中では確定は困難であった筈である。
    敢えて近づく事があれば「福家」から罰せられる程の制度なのだ。
    これは「四家四掟四門」に基づいている以上は、この「特別な中国から伝わった制度」では、“「絶対的な制度」”として扱われ、それで無くては差が生まれ、この“「女系制度の四掟四門制度」”は成立しないのだ。
    これ等の「奈良期平安期に関わるネット説」は、この「女系制度」の「青木氏の歴史観」を把握しないでの唯単なる「現在風生活習慣説」に過ぎないのだ。
    「平安期までの説」はこの範囲の中に間違いなく厳しくあったのである。

    注釈 前段でも論じたが、「平均寿命」が「50歳頃」とする奈良期平安期に於いては、女性は「9歳頃から15歳」までを「婚期」とし、これは「当時の初潮」を前提にしていて、医学的にも「平均寿命の低さ」に比例しての仕組みが組み込まれていて、それが「本能的」に「遺伝学的」に時には「環境的」にも順応する仕組みが組み込まれて、主に「寿命」に準じても「早くする人間の生理現象」と成っているのだ。
    従って、「女系制度」を前提とする「嫁家制度や妻嫁制度」の中では、最低年齢で「9歳」で、既に「嫁する事の出来る年齢」として、「最高でも15歳まで嫁する事」として上記した様に「古い青木氏の制度」の中で細かく決められて「教育得本・青木氏専用読本」までが製作されていた中で教育されていた。
    この「遺された記録」の中では、「8歳の年齢」で既に「関東の秀郷流青木氏に嫁した」とした記録がある。
    最高で「15歳」を超えては流石に「四掟四門」には無く「19歳」で「氏族の伊勢郷士」に嫁したとする記録もある。
    「能登女」にしても「高野新笠」にしても「美濃」に嫁した「浄橋女や飽浪女」にしてもこの制度の中にあって最高でも「15歳での前提」としていたのだ。
    「男子」は「四家制度」では、全て「15歳」が「成人」として扱われ「元服」していて「式」を行っていたとしている。
    この「元服式・成人式」が、現在では「七五三の祝い」として遺されているが、「女(むすめ)」の「三と七」は上記の「嫁する年齢の9歳頃から15歳」の“「前年齢」”としての「成長した証」として「祝い儀式」が行われたとしていて、特に「女(むすめ)」の「三歳の祝い」は「病気などに患う事なくに生まれて来た祝い」として行われ、又、「七歳」は「伊勢青木氏」では飽く迄も「嫁する年齢の9歳頃前」の「女性の成人前年齢としての祝い」として、「帯解きの儀式」にされていたものである。
    「青木氏の歴史観」としては、恐らくは「律宗族」として長い間の「青木氏で繋いで来た儀式」が世間に広まった儀式である事は想像できる。
    これ等が本来は「妻嫁制度や嫁家制度」の中での、「特別な意味ある儀式」として「区切り」をつけて行われていたのだ。
    それによると、この時、「子供服」から「着る服・着物」の「帯解きの儀式・成人服に替える式」に変化させる儀式とした。
    そこで「女(むすめ)の頭髪・坊主頭であった」から「髪置き・長髪」に変える式としていたのだ。
    然し、「男子の五歳」は、「別の意味」で江戸期に付け加えられた「武家の儀式」として加えられたものであって、これが「商人などの経済的裕福な庶民」まで広まったとされるものだ。
    「伊勢青木氏の記録」では全く行われていなかった事が読みとれる。
    平安期までは「男子の場合」は、「祝い儀式」としては「15歳の元服式のみ」で「五歳祝い」は無かった事が判る。
    この意味で、「嫁する年齢の9歳頃から15歳の意味」には取り分け重点が置かれていて“「他の女系制度」”と共に「一つの女系制度的な意味」が強かった事が判る。
    所謂、「娘の成長」と云う事より「女系制度」を引く限りに於いて「四家の継承・商いを担う男子」より「氏族の要」として「女系制度的な意味合い」が強かった事が独特の歴史観として云える。
    「市原王の能登女の件」は上記の事から「伊勢青木氏に戻ったと云う事」は、そこに「大きな意味・女(むすめ)」を持っていたのだ。
    その「意味の違い」では、実際に使われていたのは、遺された記録からそれは「男嗣・男継嗣」であって、「男子」では無く、同然に「女子」では無く、「女嗣・女継嗣」として、飽く迄も「嗣」が使われていたのであったのだ。
    現実には「呼称も書物の記載」にもこれらが現実に使われていたのだ。
    「青木氏の中」では、結局は「嗣と子の意味の持つ処」が「格式の伝統、即ち慣習仕来り掟の持つ女系の所以」で違っていたと云う事だろう。
    この上記した、“「男嗣・男継嗣」であって、「男子」では無く、同然に「女子」では無く、「女嗣・女継嗣」として、飽く迄も「嗣」が使われていた”の「持つ意味」は「全てを物語る意味」として大きいのだ。
    「女系の四家の制度」を良く表している「青木氏の独特性の歴史観」を知っておく必要がある。

    注釈 そもそもこの「女系制度の採用の経緯」は、中国に於いて「四掟、四門」の中で「男嗣」に於いても「女嗣」に於いても、ほぼ同然の中にあったとされているのだ。
    それを奈良期に、この「基本」を「伊勢青木氏」が「施基皇子の賜姓臣下族」と成った時点で「真人族」から離れて「臣下族」として生きて行く上で、飽く迄も「皇族の伝統の呼称」を維持するのでは無く、その前提をこの“「中国の皇族の制度」”の一部を真似て採用したものだとしているのだ。
    従って、「賜姓臣下族」であった「皇位族・天皇系」から離れる為にも、徹底してこの「女系化の制度の新たな考え方」を図ったのだ。
    上記の「ネット年齢説」では、「高野新笠説も井上内親王説も光仁天皇説」にもこの「青木氏の歴史観」が無視されていて、その説が何と「ネット記載化までされている事」には驚く。
    故にそれを唯一、「伝統」として持ち得ていて知り得ている事である故に、ここで「青木氏独自」でこれを訂正しておかなければならないので甚だ面倒である。
    この「歴史観の狂い」が出始めた時期の室町期には、それまでの“「賜姓族臣下族」”であったものから、“「律宗族」”と認定され、且つ、「呼称される事」を積極的に進めた「室町幕府と正親町天皇」には、即ち、これには元より「天皇系の権威の復元の狙い・正親町天皇」や「低下しつつあった室町幕府の権威」は、唯一、「天皇家の復権を試みた天皇」と「権威低下を食い止めようとした幕府」が裏の目的として見え隠れしていて、これが「遺された様々な記録」からも判る事なのだ。

    注釈 然し、これはそもそも普通に考えても判る事ではないか。
    「歴史に興味に持つ者」としてこれは「普通の事」で不思議に思うのだ。
    何故ならば、今更論じる事では無ないが、「奈良時代の生活や言葉や習慣や家の伝統慣習仕来り掟」が、そもそも今と全く違う事は、「当然の事」であって、「寿命」も然る事乍ら「医療」も何もかも違う事は誰でも判る。
    況してや現在と違っていなければそもそも「歴史」ではない。
    だから「その時代ごとの歴史観」が成り立つのだし、時代毎や氏族毎の上記の様な独特の歴史観を紐解かなければならないのだ。
    依って「奈良時代」なら「奈良時代に生きた先祖の生き様」は、「伝統」は勿論の事として「習慣」の「言葉や字一つ」とっても違うのだ。
    そうすると、この「歴史観の違い」から勉強してこそ「歴史の紐」は正しく紐解けるのだ。
    それを“現代感”で割り出してネット説として論じるとは甚だ理解が出来ない。
    況してや「ネット説」にその論文を載せて正しいとするは異変としか言い様が無い。
    そもそもその「奈良時代」からの「伝統慣習仕来り」を長く引き継いで来た「唯一の氏族青木氏族」が1700年以上に生遺っているのだ。
    故に、同じ「文化伝統慣習仕来り掟」が同じである筈がないのだ。
    そもそも前段で論じた「鎌倉期の水鏡や吾妻鏡の歴史書」や上記の「懐風藻の説の証拠」を観ている限りは、何れ「歴史書関係書」である以上は、同じ感覚で論じる事では「道理・論理の矛盾」が興ったものであるのだ。
    「青木氏」を知り得なくても「伊勢奈良紀州と云う地域・古代国家のあった地域」が幸いにも遺っていれば、そこから足を棒にして使って調べれば判って来る筈の事で、それがそもそも「歴史研究の紐解き」である。
    何はともあれ先ずは、「歴史観の紐解き」は「文化伝統慣習仕来り掟」から始めるべきである。
    筆者は「青木氏」に限定して始めて遥か50年以上にも上っているが、それが「サイトの基本データー」と成り得ていて、そこから「データーには表せない事」を「伝統シリーズ」として何とか論じて伝える為に“「時系列論」”とは別に「経緯から割り出す“状況諭」”でもこれを論じている。居
    そこから上記に論じた“「全て繋がる一連の経緯の事件論」”は、これが織りなす「複雑な状況の歴史観」が「現在感覚」では全く通じないと思っていて、それ故にそれの「時代の差の検証を行う事」が又面白いのだ。

    未だ「本論の続き」があるので次の段で論じる。

    「青木氏の伝統 80」−「青木氏の歴史観−54」に続く。


      [No.403] Re:「青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−51」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/09/06(Wed) 10:18:05  

    > > 「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」の末尾

    > 「献納の時」は旗を建て大きな献納の車列を仕立てて京に上っていたとする記録がある。
    > “相当に豪勢な車列であった事”が口伝で伝えられている。
    > これが証拠と成るかは別として、「商記録」にも「大きな出費の算段の記録」は一時消えている。
    > 恐らくは、この時ではないか。
    > 「伊勢と信濃」では、「院屋号や因事菅隷や賜姓五役」」としての「影の永代令外官」としてその「財力」は何れにも勝るとも劣らずに持ち得ていたが、だからと云って「青木氏に依る内蔵の献納」の「正式な再開」は、「猶子」が社会に蔓延った結果、その為に「二人の天皇の策」に依って「源氏族」が絶えた「1221年以降の事」である事に成る。
    > それは「正規」に再開したのは、つまり、再び「内蔵掾・献納の形で」として貢献したのは、「正親町天皇と室町幕府に認められた律宗族の格付け期の直前期」ではあったと考えているのだ。
    > 史実として、それまでは「宮廷の壁」が各所で崩れ落ちている「記録」があり、「内蔵の悪さ」が物語っている。
    > 「室町幕府」はその力は無く、「正親町天皇」は「天皇家の権勢」を立て直そうとした唯一の天皇であった事から、青木氏の力を借りようとしたのだ。
    > その為にも「律宗族」として世間に再び喧伝し、「格式」を世間に認め直したのだ。


    >青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」


    前段で「頼政の件」を「源氏化」と共に論じたが、もう少しこの事件を探って観る。
    それは「格式化の問題」であり、「青木氏」にどれだけの影響を歴史的経緯として与えたかについて検証して論じて観る。
    そこで、先ず「頼政の事件」から始めとして論じる事とする。
    先ず「過去の経緯」を知っていた「頼政」に、「伊勢青木氏」と「信濃の青木氏」が、“「桓武派として摂津源氏も同派である事」”を理由に、“巧みに利用しようとした”と云う事であった。
    それが、“「新撰姓氏禄”の進捗経緯」により、「公家武家の貴族社会」に「格式化」と云う別の問題を浮き出していた。
    ところが、これが前段で論じた様に「新撰姓氏禄に依って格式化」がより起こり、「源氏化や猶子現象と云う社会」を「必要以上に乱す現象」を呼び起こして仕舞った。

    要するに、この“「頼政が頼った事件」”は、当にこの“「源氏化や猶子現象と云う社会を必要以上に乱した現象」”の、この“「新撰姓氏禄の記載」に原因があった”という事だ。
    そして「伊勢」に対して「頼政」は、この「弱い処」を突いて来たと云う事だ。
    前段で述べた「歴史観の経緯」は、次の様な事から来ていたが、それを改めて「青木氏に与えた経緯」を検証して論じる。
    その重複するが、この「歴史観の元」は、後々にも影響及ぼしたのがこの「新撰姓氏禄」にあった。
    それは「新たに誕生した姓の階級」を「諡号以上」に仕分けして「国家の在り様」を定めようとしたものだ。
    然し、それだけでは済まなかった。
    改めてその「概要」をこの段の「探求論」で追記する事とする。
    この時、世の中には「格式の高い氏族」と「諡号の姓族」が先ず増えた。
    ところがそれをそれまでの制度の“「八色の姓制」”では、「格式を前提とする社会の統制」が執れなく成り始めていた。
    この「格式による身分制度」に於いてだけでは成り立たなく成っていたと云う事だ。
    そこで「格式上位の者等」に限って、その“「冠位を着ける事」”で乗り切ろうとして、よりこれを「細分化」したのだ。
    それは「八つの身分別」、即ち、「八つの諡号の姓別」、又は、「八つの系列別」に「それまでの姓の範囲」の侭で「身分分け」をした。
    即ち、それが「真人族、朝臣族、宿禰族、忌寸族、道師族、臣族、連族、稲置族」であるが、ところが問題の「嵯峨期」には、これでは「細分化・格式化」は難しく成ったと云う事だ。
    それが前段でも論じた様に、「青木氏族」にも強く影響を受けた「新撰姓氏禄の目的」の一つでもあった。
    そこで、この内の「宿禰族程度」までには、原則として「冠位を与える事」で更に「格式別」にして「細分化」した。
    ところが、これも「歴史」が進むに連れてこれでは処理しきれずに次の様に変える事に成った。
    つまり、これを「上位の姓」に対して“「冠位」”と云う「永代も含めた臨時的な格式を与える事」で、「格式化」で「細分化」をした。
    それが、「十二階」から「十九階」に、「二十四階」に、「四十八階」へと「格式」でどんどん「細分化・格式化」して行く事で対応した。
    だが、当にこれが「初期に起こった格式化の象徴」とされるものを生んだのであった。
    そこで、「諡号の姓化」で先ず分けて、それを「諡号姓の原則」としては、「宿禰族」までの「上位の姓の者」だけに限定した。
    「格式化」で「着衣も色分け」してでも、「当時の格式化で進む社会」を構成しようとした。
    要するに、「身分化と格式化」の「二つの分類」で、「上級社会」を無理にでも構成したのだ。
    そこで「当時の伝統」として「幸せを招く」とする“「八の一般原理・当時は」があってこれを利用した。
    「反発を防ぐ策」としてこの「八の原理・中国思想」が選ばれて「幸運を呼ぶ数字の組み合わせ」として用いられた。
    当時はこれが“「格式の伝統・習慣」”として存在していたが、これを使って「格式の伝統原理式」を以て、“「48*8=384」”にして分類にした。
    この「身分化と格式化の二つの分類」は、「前者」はほぼ“「永代固定」”し、「後者」は「特権」で決めたが、これが所謂、“「応変式固定」”にしたのが「初期の身分化方式と格式化方式の経緯」だ。
    これに更に「官吏の職能」にも、これを宛がう事とした。
    「官位」をも新たに「下記の注釈」の様に加えた事で、これでも「格式化に反対」を受けたが、何とか「上級社会と官吏の格式化」だけは進んだ。

    注釈 そもそも「上級官吏等の職能」には、資料的なものが何も無かっただけに「格式を分ける資料元の問題」、即ち、この“「資料元」を何処から持ってくるか”の編者たちの中でこの問題が持ち上がった。
    何故ならば、「全国行脚して調べた実績の資料」が社会の中に纏められたものが未だ遅れていて無かった。
    この「資料元」に依っては、「社会の格式の如何」が変わるからだ。
    この「議論」が「三度の編者」の中で共に先ず持ち上がったと記されている。
    ところが、この「議論の終着」は幸い簡単に着いた。
    それは偶然にも次の経緯からそこに終着したのだ。
    前段でも論じた様に、「格式議論を決定させるもの」が何と「伊勢青木氏」にあったのだ。
    それを次に論じる。
    「伊勢青木氏の始祖の施基皇子」が、長年を掛けて“全国行脚”して編纂して天皇に提出したのが「因事菅隷に基く撰善言集」であった。
    これを「基礎」にして出来たのが、「701年の大宝律令」と、更にはこれを見直した「718年の養老律令」であった。
    ところがこの資料の中には、“これを基に更に「官位令」も定めた”と記されていた。
    つまり、この“「官位令」も定めた”という事は重要で、「位」、即ち、“「官吏の格式」も決めた”と云う事を意味しているし、それに匹敵するだけの資料が添えられていたと云う事を意味する。
    この経緯の結論は、つまり“「位の情報を決めるもの」があった”と云う事を示していて、それが“「全国行脚で示す情報」と、「撰善言集で示す情報」の「二つにあった事」を歴史的に示していた事に成る。
    判り易く云えば、「格式の元に成る地方の豪族の者等の色々な情報」が、「撰善言集を纏める事」に当たって“この「参考と成る記載事項が添えられていた事」”と云う事に成る。
    判り易く云えば、・・の何なの地方の豪族には・・の撰らばれるへき「善い言葉・決め事」があったとまとめられていた集であったと云う事に成る。
    この、「・・の何なの地方の豪族」には、この「‥」を「編集資料元として使えると云う事」を編者たちが云っていた事に成る。
    取り分け、「淳和天皇の編集」の時に上記のこれが検討されていた事が歴史的経緯として読み取れる。
    恐らくは、「光仁期の時、嵯峨期の時」のものも、この「淳和天皇の編集」の時の「未完成の侭のもの」が使われた事が判る。
    それは、「姓氏禄の遺された表紙書きの添書」には、上記した様に「逸文散文乱文」の意味する処の“未完成の侭で遺されていた”からだ。
    「自らの始祖の施基皇子の編纂」した「撰善言集」から、この「格式化の資料元を引き出した事」に成った訳である。
    故に「伊勢青木氏の中」でも問題に成っていた事が読みとれる。
    この時、「白羽の矢の問題」も直前にあって、一族からも“福家は何をしているんだ”と非難されていた事が充分に判る

    つまり古来に於いて「社会」には、既に「本論の格式化」の「新撰姓氏禄の基礎地」が出来ていた事に成る。
    この「意味する官位令」には、「皇族」が、「官吏」を務める場合は、「1から4の階級・品位1から品位4」があって、例えば、「臣下族」がこれを務める場合は、「1から30までの階級(位)・青木氏は一位」の格式」に分けていた。
    然し、ここに「重要な問題」があった。
    この「格式を定めた官位制」には、前段でも論じたが、ここには「固定された制度の社会に必ず起こる問題」があった。
    それが当時、社会に「大問題」に成っていた“「世襲」”であった。
    その「与えられた格式」を一族で永久的に保全して利益を努力なしに獲得しようとする「停滞社会」であったからだ。
    そこでこれを改善する為に、先ずは「認可制・届出制」に変更にした。
    その上で、“「三世代制」”に限定して換えて、先ず「社会の動きを止める悪弊」を無くそうとした。
    然し、“適任しない者の出現の対策”として、先ず「族制認可制・届出制」にした。
    ところが「停滞社会で育った者」である為に、ここで「能力なし」として「不認可の事例」が多く起こったと記されている。
    「二世代者」や「三世代者」は甘やかされて居て「無能」と評価され「世襲認可の不許可事例」が多く出た。
    「世襲認可の不許可」が出た家では、“これでは家が潰れる事に成る事”から、次の事が社会に蔓延した。
    そこで、他所から適当な能力のある男子を「金銭」を以て探して来て、その「男子」に「世襲認可」が得られ得る様に、又、家に相当する格式を与えられる様に、先ず「格式のある家」に「養子の形式」を採って出し、その様にして次から次と家を廻して「格式と品位を着けさると云う策」を企てて、元の家柄を隠してでも、要するに“「猶子」"にして届け出て「認可」を獲得してなんとか「世代を継ぐ苦肉の策」の現象が蔓延した。
    最早、「格式や血筋などの考え」は社会に薄く成ってやがて無く成って行った。
    これが「源氏化で論じた格式を獲得する猶子策」であった。
    何とかこの「猶子に依って認可を得た者」に対しては、これに「猶子」で得た「官職と位階」に応じて任命する様に厳しく変更したのだ。
    最早、「源氏等とする格式」を「猶子」で獲得したとしても、殆どは、「調べようもない信用が出来ない格式の氏族」と成り得ていたのが現実であった。
    この「猶子策」を盛んに使って「金銭と人気」を獲得しで「財と名声勢力」を成したのが「村上源氏等」に現れたと記されている。
    「歴史の記録」を観ると、「・・源氏」と呼ばれている「源氏の殆ど」は、この「猶子策によって生まれた源氏」であったとまでされている。
    ところが上記した様に、当然に「殆どの格式あるの家柄」では、「無関係の血筋の持たない猶子であった事」から、後に、途中でこれが下で「嵯峨期の新撰氏禄の格式化」は完全に崩れ始めて仕舞った。
    そこで、「困った朝廷」は、次は、“「叙位に応じた制度」”に先ず変換した。
    例え、仮に「猶子」であっても、“「叙位を受けた者」”でなくては、「世襲制度・格式は得られない」に乗れなく成ったのだ。
    「可成り優秀な男子」で無くては、「世襲の認可」は受け入れなく無く成って行った。
    その事で、「叙位にて保証される身分・格式と品位」が明らかに認められる“「皇位の者」”に限っては、この「問題」の「世襲制・原則三世代制」が認められる様に再び戻った。
    ところが、戻したは良いが、なかなか“「皇位の者としての厳しい制限」”があって、この限りでは、“認められなかった者”が続出するのが「現実」であったと記されている。
    そこで一つの典型的な身近な我々の族の例として、「近江の川島皇子の佐々木氏の後裔・市原王」は、「大仏殿建立の責任者の役」を、規則に沿って先ず「叙位」を受けて何とかこれを担ったが、“二度もその能力なし”として評価されて外された事が史実として記されていて、遂にはそれが原因か自殺する破目と成る身近な例がある。
    前段で論じた様に、更に進む「源氏化の格式化」で、それに乗る事は出来ずに「近江佐々木氏の後裔」はここから現実に傾いた。
    兎も角も、「格式化や身分化」を壊すものの一つのこの“「世襲制度」”は、“政治を腐敗させるもの”としても非常に「皇位の格式を有した官僚族」から嫌われていた。
    以上でこれに依って改善を繰り返して出来た。
    この「上記の体制の改善努力」が、しっかりした官僚で明治初期まで続いたのだが、これが下記に示すのが「二官八省一台五衛府制」に成ったと云う事だ。
    隠されながらも社会に知られ利用され始めたこの「新撰姓氏禄の格式化」は、「猶子策や世襲制度の社会」を停滞させるものとして社会には無く成ったかに見られた。

    注釈
    「二官八省一台五衛府制」とは、参考として前段の歴史館に関わっている事から簡単に云うと、次の様な政治組織を云うが、本論の改善した政治組織の最終形である。
    先ず、「朝廷には「斎蔵」の「祭祀」を担当する「官僚」がいて、其れが前段でも論じた「神祇官」と、大蔵の「国政」を「統括した太政官」が二つが置かれた。
    これが「二官」と呼ぶ。
    その一つの「太政官」には「実務行政を分担する八省」が置かれた。
    これを総じて「二官八省」という。
    この「一台五衛府」は、「行政組織」を観る「弾正台」と、「宮中を守る衛府・近衛府」が「天皇直轄組織」であった。
    これが要するに「二官八省一台五衛府」である。
    この「八省」の下には「職・寮・司」と呼ばれる「官僚の実務機関」が設置された。
    これ等の組織が時代と共に変化して上記した「近衛府」を設置をした。
    前段でも論じた様に、「青木氏の格式」で、この「近衛府」と「令外官」に関わった。
    前段の「花山源氏」は、皇族が成る「令外官」のものでは無く、この「皇族の格式」を以て官僚が成るものでありながら特別に朝臣族の源氏族が「神祇官」に任命されたと云う事だ。

    この様に「上記の注釈の制度」に依って網目の様に、その増えた「氏族と諡号姓族」の「在り方」を、「身分格式」に於いて、区別し判別して、それで始まる“「律・刑法」と「令の民法」の「二つの法制で国家」”を先ず安定させようとした。
    其処に「国家の基本」を先ずは求めたのだが、ところが、肝心な事に「氏族」と「諡号族」と「姓族」の「3つの族の在り方」を「定める法体系」が未だ無かったのだ。
    そこで、先ず、我々の始祖の“「施基皇子」”が、全国を歩き廻りその「法体制の基に成る事柄」を全国から集めて来て、これを「法作成の基本」と成るものとして、“「撰善言集・因事菅隷」”として作成して「天皇」にこれを正式に提出し表した。
    当時としては何も無い資料元であったのでこれは「大功績」だった。
    そして、これを「基本」に上記した“「日本初の法令の大宝律令」”が出来上がった。
    以上の経緯からこれを基本に「嵯峨期」には上記の制度に合わせて造ったのが、要するに「未完成の侭の新撰姓氏禄」であって、更に世の中を更に“「格式化」”を推し進めてこれで図ろうとした
    これを「一つの視点」として観る事が出来る。
    その切っ掛けは「出自元の伊勢青木氏との関係」にあったと観られる。
    これが出来れば、“いざ本格的に「新撰姓氏禄」で「身分の格式化」を決定づけて「社会の格式化」の「さらなる格式化を図ろうとした”のだが、ところが上記の様に「品位・格式」で、“「品位」は兎も角も容認するも、「格式化で決めつけられる事”の反発」が、“ある利害の絡む特定の上位の階級”に於いて噴出して社会に露出したのであった。
    そこで、「夫々の諡号」に属していた「諡号の姓族」、取り分け、その中でも「上位の諡号姓族」に執っても、この為に「利益の差が生まれる事」を特に嫌って「反対の姿勢」を採り始めた。
    この為に「2つの階級の社会の激しい抵抗」を受けて実現しなかった。
    ところが、この「新撰姓氏禄集」だけが、「猛烈な反対」を受けながらも、その内容を詳しく知る為に何故か原因不明でどさくさに紛れて“世に漏れて出て仕舞った”のだ。

    この“世に漏れて出て仕舞った”と云う事に、そもそも“問題”があるのだが、「青木氏の歴史観」としてこれをどう云う風に捉えていたのかである。
    この「紛失の結果」として、これが“「正式であって正式では無いとする慣習」が「社会」に生まれて来た”のだ。
    つまり、“「賛成する者」は大いにこの「格式」を前面に押し出すと云う「猶子策も伴った現象・格式を無理にでも獲得する秘策」が社会に生まれた”のだ。
    中でも「源氏」が行う「源氏化の猶子」では、これを大いに利用したと云う事だ。
    そこでこの「猶子策」の風潮を巧く此れを取り上げて、“頼政に上手く利用された”と云う事が記載されいる。
    然し、この意味する事は、この「紛失したと云われる新撰姓氏禄」が、未だ“「朝廷内にあったと云う事」”に成る。
    然し、掘り下げて考察すれば、そこで、将又、「突然の紛失先」がその「行政の元」を握っていた「藤原氏がこれを抑えていたのか」、将又、「嵯峨期以降の源氏」がこれを抑えていたのかに成るだろう。
    然し、それを「利用して得に成る者・認定の権力を一手に握る者」としての「官僚族」と成れば、確かに「藤原氏摂関家に有った事」に成ろう。
    つまりこの「紛失の道筋」は、その考えられる内容の一つが、それが「摂関家の道長」から「特別な格式的利益」を受けていたその「家臣であった摂津源氏頼光」から、最後はその「漏洩の存在情報」をこの「問題の後裔の頼政」にも伝えられていた事にも成ろう。
    「一段低い格式の令旨の形」と成っていた「以仁王の乱」を興しても「味方を集める事」と成ると、より「味方」を多く引き入れる為には、先ずは「格式社会」である限りは、「自分の格式の高さ/最終・正三位」の程度」であったからだ。
    然し、その「自分の源氏の頼政の最高格式」は「源三位」であって、「9つの縛り」を護らなかった「摂津源氏の格式」としては矢張り低かった。
    「清盛」に依って「源三位」にまでさせてもらって成ったとしてもその意味する格式は低く、その裏には「満仲の三代罰の事」があったからだ.
    流石に「一地方の摂津源氏」は、少なくとも身内に「四家制度」を造ってある程度は、「武装集団」も「道長の家来を借りての勢力」であった事から、大きく持たずに「寺侍程度」とし「9つの縛り」を護ったが、それでも乱を起して地方の武装集団を集めるには、矢張りそこには「伊勢青木氏の様な人」を集められる「高い格式とその財とその氏族の血縁集団・秀郷流一門」を味方に持ちたかったのだ。
    そうする事で「いざ戦い」となれば「関西勢の人」を集められると考えたのだ。
    そこで「伊勢と信濃」に血縁をしてでも求めて来たと云う事に成った。
    結論から応じなかったが無理に求めて来たと云う経緯である。
    それは「青木氏の格式」に有ったのだがその目論見は成功しなかった。
    それは、「上記の政治構造」の、「注釈の組織・二官八省一台五衛府制」」を造る上でも、間違いなく「三つの紛失の新撰姓氏禄の存在場所」は、既に知っていた筈でそれを「参考とした事」に成り得て、知らないと云う事は少なくとも無かった筈だ。
    そうでなければ、上記の「注釈の様な詳細な組織」は出来なかった筈であろう。

    注釈 律令制では、「従三位以上」を「上級貴族とした。
    「従三位」が「中納言」や「青木氏の近衛大将・浄大壱位」、「正三位」は「大納言相当」と成るが、「平清盛」はその「先き駆け」として「武士」として「正三位」と成り、最終的に「従一位太政大臣」と成った経緯である。
    「頼政の頃の時代」には位はより一段下がっていたので「乱を起す格式」は無かった。

    筆者は、ところがこれの「必要性」を政治的に認め「格式化を押し進めようとした三天皇」、即ち、「淳仁天皇・藤原氏外孫王・1」、取り分け、これを引き継いだ「施基皇子の六男の光仁天皇・伊勢青木氏の六嗣・2」と、同じ出自元である「嵯峨天皇・伊勢青木氏の曾孫・桓武天皇の子・3」の「三人の天皇」が、これに取り組もうとしたのがその表れであって、その「三人の意識」の内の「伊勢青木氏出自の二人」の中には、次の様な意識、っまり、“「過去・施基皇子」は、兎も角も、「白羽の矢の事件」で引き継いだ「天皇家継承の正統性を卑下する意識」”、又は、「天皇家としての格式意識の有無の疑義」がこの当時の社会の雰囲気として強くあったのではないかと観ているのだ
    当時男系継承者が直系で無かった故に、「淳仁天皇・藤原氏外孫王」も云わば「天皇に成った後の経緯を考察する」と、「臣下族の藤原氏の男系血筋」としての「天皇家の正統性を卑下する意識」は同様にあったのでは無いかと観ている。
    要するに「淳仁天皇・藤原氏外孫王」、の「新撰姓氏禄の取り組み」もここにあったと観ているが、その“「元と成った資料は果たして何処から持って来たものなのか」”の「疑問」が遺る。
    その“「元と成った資料」の記録は何処にも記載はない。
    筆者は、歴史的に唯一つ記録としてあるとすれば、そこで上記や前段でも論じた様に、“「施基皇子に依る全国行脚」の「撰善言集」にあった”と観ている。
    そもそも「必然的に全国行脚の行為」に依っては、これは「絶対に獲得できて知り得る知識」であり、又、知り得なければこの「撰善言集」も共に成し得なかった事に成る筈だ。
    これが「疑問の解決」に成るとすると間尺は合う。
    故に「撰善言集にあったと云う事」に成るに依って、故に「編者を中心とした者からの歴史に残る猛反対」もあったと成る。
    だから、この「三者共」に「編者・学者」からも含めて「隠して仕舞う程の反対」を受けていたと成る。
    この要するに、この「三者供の悉くの全ての学者たちの反対」は、此の「撰善言集の施基皇子の調べた元資料」を「許可なくいきなり使う事」に「抵抗を感じた学者的な正義感の反対」であったと観られる。
    この「元資料を仮に纏めるとした行為」は、元より「編者たちの仕事」であるし、今更の事で問題は無いし、[社会に格式を敷く」と云っても、これを嫌う反対の論調は、既にその前の「天武天皇や持統天皇や文武天皇」が進めた「八色の姓や冠位制度」などにもあって、兎に角も「貴族社会の反対」を受けても後に「社会」に充分浸透して進んでいる事実がある。
    故に「多少の反対」はあり得た事を承知していた筈で、この「歴史的経緯の記録」を観れば、もう一つは、仮に“それ以上の格式化は無理だとしての「反対」も考えられるが、「三人の天皇に関わった編者全員の反対」であったとすれば、「格式化だけの事」でも無かった”とする説が生まれる筈だ。
    とれば、それは一体何なのかである。
    従って、故に新たに上記した様に、此の“「撰善言集の施基皇子の調べた元資料」を、「許可なくいきなり使う事」に「抵抗を感じた学者的な反対」があった”とする説が浮かんで来る。
    然し、抑々、その「出自元の二人の天皇」は、「許可」を既に「女系化した出自元に求める事」は必要なしとして求めなかった。
    前段でも何度も論じた様に、「史実」には「出自元・伊勢とは仲が良く無かった事」が記載があった。
    だから「歴史書に載る程の仁明天皇の出自元への改善努力」があった。
    確かに、「青木氏出自の二人の天皇以外」には、それ以後にこの「格式化に取り組まなかった」とする「史実」があったすると、これは「前段の格式化に対する反対」は、そもそも「“潜在的に強くあったとする前提の上での説」と成り得る。
    故にその「反対の正体」が、“「新撰姓氏禄偏纂」”に起っていたと成る。
    何故ならば、人は自由のある社会体制求める事は、「配慮の中」で常にある事は認めなければならない。
    これはその範囲の反対であった事に成り、故に正式な発表と成り得なかった。

    そこでその後の「青木氏出自系の天皇」には、つまりは、「天智天皇」は「敏達天皇の春日王の同宗四門族・ぎりぎりの正統族」と成るが、その後に“「天武系」が「正統族派」として認められていた事”に成った。
    以上と「決めつけられた事」には、「正統系とする強い意識」には、二人には弱くする“未だ卑下が有ったのではないか”と観ている。
    “「青木氏出自」が、仮に「天智天皇―施基皇子の裔系系列」の中に確かにあったとしても、一度は飽く迄も「臣下した族」に下族した事であった”と云う理由の事に成り、当時としては、又、既に「臣下族後100年近く」も経ち、且つ、「徹底した四掟に基づく女系族」に成っているのにも拘わらずに、“再び“天皇系だとして戻る事”への「「強い反発感や不必要な劣等感」の様なものが、既に「青木氏族」に醸成していて、「臣下族一族の氏族」には逃げ惑う程に少しは未だあったのではないかとかとも考えている。
    所謂、当時には、既に“「正統派の天武系」ではないと云う劣等感”が存在していたと云う事だ。
    それはそもそも、“今更この時に「正統継承ではない白羽の矢の事件」で天皇に成り得た”とする「卑下らしきもの」が「青木氏族の出自の者6人等」に統一して潜在的に有ったと云う事を物語っている。
    「天武系の聖武期から孝謙期」に掛けて、“「正統な天皇継承者」が「皇族の中」に完全に絶えた事”で、「聖武天皇の跡目を継承した皇女」の“「孝謙天皇の突然の白羽の矢」で、再び「皇族列に引き戻された族」”と云う「周囲や社会の非難」とか、「怨嗟か嫉妬」とか、「権威性低下の主張」とか、が現実には強く世の中に起こった、又は非難の様な事が起ったのではないかと観ている。
    つまり「四掟での女系化」で、既に100年も経っているので、一族の者は“完全に天智系の皇族系を恣意的に外していた”と思っていたと云う事に成る。
    それが逃げ惑ったとする記録で証明している。
    何故ならば、この何処の「氏族も敷いていない掟・四家四掟四門」、つまり、これは当時は「中国で敷かれていた貴族間の慣習」であって、それが、主に「天皇家」とは全く無関係に関わりのない様にする為に採用された「四掟の相手の関東の押領使の秀郷流一族一門361氏内・母系族」と、「青木氏氏族の伊勢郷士衆50衆」の「二つの女系」の中で先ず固められて行われて来たからである。
    そもそも「血筋・血統」としては、「新撰姓氏禄」にも記載のある「最高格式の淡海一族」は、「四掟」としては採用していないものだ。
    そもそも、この事の意味する処は、ここでも「前段から論じている淡海族の中途半端さ」がここでも噴出していたと云う事に成る。
    その「淡海族」は、唯一の「天武系の直系族」であって、「男系継承」で当時としても引き継がれていた「後裔」であったのだ。
    それなのに完全に切れている「四掟の女系の青木氏」に、「白羽の矢」は向けられたのだから、この「白羽の矢」には何か“別の意味”を持っていた事に成る。
    この事は、前段でも詳しく論じたが、そうすると、この“別の意味”とは何なのかであって、その態々、「四掟」でブロックしていた「女系の青木氏」に向けられたのは、この「別の意味」とは、「表向き」は「天智系」とされていても「その青木氏の格式とその権威とその財」にあった筈だと成るのではないだろうか。
    それ以外に「天武系の直系族の天皇」としては「白羽の矢」に成るべき所は何も無い。
    然し、この「白羽の矢の裏の目的」の「財も賜姓の繋がり」も、「青木氏の出自の嵯峨天皇」は、更にこの「未完成姓の高い新撰姓氏禄」でも、これを世に出す以上はこの「青木氏出自の格式」を自ら切って仕舞わなかった筈だ成る。
    これが、「自らの出自先の最高格式を否定する事」で、「反対者を黙らせる目論見」であったかも知れないが、それでも「反対」は治まらなかった。
    そんな程度の問題では無かった事を意味する。
    「白羽の矢」の直ぐ後に、「天武系の直系族の淡海族が存在する中」でも、直ぐに否定して来た。
    この“別の意味の存在”の裏には、如何に、“「淡海族」が信用されていなかった事”が先ず判るし、その「行を物語る記録」も遺されている以上は知っていた事に成る。
    つまり、「嵯峨天皇」も、結局は、“この事”を腹の中では事前に認めていた事に成る。
    その“「青木氏」”を“賜姓から外す、つまりは、「新撰姓氏禄」から外す”のであれば、“「天武系の直系族の淡海族」に「賜姓」も「皇位族」も返せば良い筈だった”のではないか。”と判断できるではないか。
    然し、それもしなかった。
    それどころでは無く、前段でも論じた様に、“訳の分からない出自も格式も判らない前段で論じた「猶子の源氏族」に賜姓して仕舞っている”事だ。
    それ故に、「社会」は何とか容認するも「法的」には反対されていたものを、「青木氏出自の三天皇」には、無理やりにも、将又、「天皇系の出自肯定」の為にも、“格式化を強引に推し進めようとした”のではないかと後勘からするとその様に推測できるし、それも「社会に出し方」が悪い。
    「新撰姓氏禄」として「世に出す方法」が、普通なら「詔勅」として出すのが通常だが、これが「正式」では無く、意図して漏らしたのか、「編者等も含む反対者」の多い中で、且つ、「出す事」すらも含めて反対されていた中で、“世に出て仕舞った”と云う形になった事が「史実」だ。
    これを観て、“嵯峨天皇が強引に未完成の物を強引に出した”とする「研究者の説」が多くいる中で、その逸文や乱文や散文さんを始めとして整理が出来ていない姓氏禄の資料」の中では、そう成っているのだが、筆者は「強引」では無く、「嵯峨天皇が慌てていた事」から、故意にして“漏らして仕舞った”と云う事では無いかと観ている。

    注釈 上記の事は、遺された一部を観て見ると、「未完成と決めつけられている事」には、先ずこの「氏禄の範囲」は、「京と五畿内に住む姓氏」に限られている事だ。
    ところが、然し、これも「全て」では無く、それも“「編者自身」が反対していた様子”として、そもそもその「氏禄の序」には、態々、自らが“未完成である事を書きこんでいる事である。
    又、「編成」に於いてそもそも他に比較対象とするものがあって、それに対しての“新撰」”とする「意味」があるのだが、そう云う訳でも無く、全体的に“「編成」”そのものに「全体に乱れていた事」が読みとれる。
    何か他にあってそれと比較しての事なのか、何故に「新撰」としたかも判っていない。
    「撰善言集に対して新撰としてたとする説も生まれる。
    更に、世に「出す集」としては「極めて逸文が多い」とされる事だ。
    確かに、調べると「同じ表現」が一定せず「別の表現で書いる処」も見られ、「書」としては整理統一されていず、そもそも「未完成である事」が誰が観ても判るものと成っている事だ。
    此の様に「歴史研究者が論じている事」には筆者も賛成が出来る。
    個々に欠点を羅列して述べ立てる事の良し悪しは兎も角もどう見ても「乱雑と動揺」は認められる事は間違いはない。
    「青木氏の歴史観」を論じるにしても瑕疵はないだろう。
    当時は、「白羽の矢」と共にこの様な「新撰姓氏禄」は、「氏族の中」では前段の「源氏化や猶子策」などと共に、大きく揺さぶりを掛けられたものであり、「青木氏の歴史観」としてはこの様な「新撰姓氏禄」であっても論じて置かなければならない江戸期にも繋がる歴史観で重要な歴史観だ。
    前段で論じている事でもあるが、普通なら、論じる必要もない「資料的な程度の録」ではあるが「青木氏の存在」と関係していたので敢えてもう少し詳しく論じて置く。

    そして、「青木氏」は、「中国の制度」に習った「四掟一門制」を引き入れて、それを「伝統の氏是」として定めたが、その中に「古い系列の天智系を四掟一門の中」に「女系」ありながらも「全国に例を観ない程大きな氏族」として治めて、何とか「出自肯定・敏達天皇の春日王系の四掟一門」としてこれを確定させようとしていたのだ。
    「天智天皇の四掟」としては“「敏達天皇系の春日王系の四門族」”がこれに当たる事から「天皇家ぎりぎりの系列」としいたと観られる。

    現実にこの「史実」として、この当初は、この「白羽の矢」が「伊勢と信濃の青木氏」に当てられるより前に、この「天皇の継承者」に付いては数々検討されていた。
    「白羽の矢」が当たる前は、最も、「天皇系に近い直系族」としては「天武系直系族四掟の淡海族」が文句なしに先ずあって、それを始めとして、「藤原氏の外孫王の模索」や「出雲大社の子孫・末孫」から探し出したと云う「三つの経緯」があったとして遺っている。、これにも「推進派同士の政争を含んだ大議論」が起こり、結果として強引にこれ等の本議論も青木氏の白羽の矢に成る前には霧消させている。
    その事で「大政争」も起こっていたし、そもそも「淳仁天皇・藤原氏外孫王・舎人親王の七男・天武天皇の淡海族の直孫族」を引き出す事に一時は成功し「天皇」とは成るが、ところがその後に何故か「心変わり」した「孝謙天皇」に依って引き下ろされて、「淡路島・淡路廃帝」に「島流し」して挙句は「抹殺された上に廃帝の処分」を受けた。
    其処までもしなくても「廃帝」だけでも「目的」が達せられるのには「島流しを受け抹殺された上に廃帝の処分」まで受けての「白羽の矢」に成って行った。
    上記の所謂、筆者は、“「廃帝経緯」まで受ける必要が無かった”と検証されるが、逆に
    此処に、“それだけの意味があった”のであろう。
    当然に、「伊勢青木氏」に於いてもこの経緯に対して、それだけに「氏族の存続の危険性や大きな不安感」を感じていた事になろう。
    それは伝えられている様に「第四世族までもの伊勢の者ら」は逃げ惑った経緯と繋がっている。
    この“「廃帝経緯」”から、自分達にも何時何らかの理由を着けられて、“白羽の矢の族”には相応しく無い”として、又は、白羽の矢を飛ばすに当たって、邪魔だとして一族が何らかの形で“誅殺される事”も連想していたのではないか。
    それだけにこの「政争」の“「廃帝経緯」”は、周囲に恐怖の様な強い印象を与え、何時吾が身かと連想させ“恐怖の印象が強かった”と観ている。
    寧ろ、「理路整然とした政争」では最早無く、最早、全てが感情的に成って、“何をするか判らない行動にあった”のではないかと観ているのだ。
    だから普通ではない事が、“伊勢では逃げ惑った事に成った”と判断している。
    普通は伊勢中を逃げ惑う事は幾ら何でもしないであろうし、幾ら政争と云えど”馬鹿を装う程の事はしない”であろう。
    この事に持つ“「特別な意味」”が大きいと観ているのだ。
    それは、「伊勢」ではこの「孝謙天皇の人物感」に、“何をするかも知れない”として“余り信用を置いていなかった事”があったと観ていて、資料の分脈からそう読める。
    それは、前段でも詳しく論じた様に、その後の「伊勢の経緯」で論じた様に、“「伊勢での井上内親王の事件」”を観てでも「孝謙天皇の人物感」は良く判る。
    筆者は、“最も、「天皇家に近いとする資格」を持ち続けていた「天武系の淡海族」に、この「白羽の矢」を何故に当てていなかった事”に重点を置いている。
    「天皇家継承」と云えば、“先ずは絶対的に正当な系列”から始まる。
    そもそも、「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は、前段でも論じた様に、既に「女系化」を進めていた時期でもあって、この「淡海族」と違って多く「伊勢衆50衆の血筋」も取り込んで入って融合化していた時期」でもあったのだ。
    “どの様に考えても「白羽の矢」が飛んでくる”とは思ってもいなかったのではないか。
    故に「伊勢青木氏とその氏族」では「白羽の矢」では無く、「黒羽の矢」であったろう。
    だから正しい判断の“抑々の狂い”が、“「孝謙天皇の周囲」にはあった”と観ている。
    それ故に、此の最終的に「臣下した事」や「天智天皇の第七皇子・施基皇子」の「子と孫と曾孫」の「後裔族」と成ると、この「格式化」が叫ばれている中では、「その格式の影響」は「藤原氏の外孫王の時」に比べればそもそも「100年以上も経過」していて低く成っていた。
    且つ、そもそも「天皇と成り得る格式」は、“「基本とする帝紀」”からも見ても、その「資格・権利」は、既に確実に“「低く有しない事」”に成っていたのだし、誰しも考えていた筈だ。
    努々、「伊勢氏族」は少なくとも考えていなかったと考えられる。
    そうでなくては、そもそも“「商い」”は真逆の事である以上は出来なかった筈だ。
    「淡海族・近江族」は、勿論の事、「信濃族や美濃族や甲斐族」も上記の様に、「帝紀」に沿って「血縁性の考え方・現実」に「乱れ」があった場合には、「白羽の矢の対象」と成り得ていたと考えられる。
    取り分け、上記した「近江族の佐々木氏」は、勿論の事、「甲斐族」は別として、前段でも論じた様に“「美濃族」”も、「王位継承から外れた多くの皇子族を殆ど引き取っていた経緯」から観て、適当な理屈を着ければ「血筋格」と云えば「血筋格」であって、「伊勢や信濃の青木氏」よりもあった筈である。
    況してや、「白羽の矢」を期待していた点でも、「嫌っていた伊勢の青木氏」より「美濃族」にもあった筈だ。
    現実に「其の後の行動」に於いても、この“「美濃族」”は「時代の経緯」としても現実には其の様に振る舞った。
    その意味では、期待していなかった「光仁天皇・追尊白壁王」は、実に「やりにくい所」はあったと考えられる。
    その「意味」で「伊勢」に「白羽の矢・黒羽の矢」が飛び込んで来た事には理解できない事が今でもあるのだ。
    それは、最早、明らかに「天皇家の理屈・伝統・帝紀思想」が崩れていた事に成り、故に「天皇家の理屈・伝統以外の処」で決められたと成る。
    故にこの点を突き詰めれば、論理的には“他の者に無かったものに「焦点」が充てられていた事”に成る。
    それが、特別に青木氏が持つ“「格式と権威とその財」”であったろうし、「その白羽の矢の理屈」は最終的に「青木氏の財」による「内蔵を潤す事」にあったと成る。
    その意味では、格式は疑うべきも無く充分にあった事に成る。
    そもそも、「天皇家」が「白羽の矢の理由」を「内蔵を潤す事」にあったと立場上は云えない事に成り得ていて、それ故に前段でも論じた様に“「前提と成り得る過去の格式」”は別であったと観ている。
    当時の先祖達は、公の歴史には記録されないが、「青木氏の範囲」ではこの事を充分に理解していた筈だ。
    それ故に、「前段で論じた嵯峨天皇の行動」は、“世間の間尺に合わない行動を採っていた”と云う事になる。

    仮に「帝紀」や「大化基準」に基づき比べるとすれば、「純仁天皇・天武系の舎人親王系―皇位継承権有」>・・・>「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の数式論である事には間違いは無く、従って後に上記した「定まらない政争の中」では、「青木氏出自の六人の天皇」も「後刻の天皇」に依って「形式上の廃帝の処分」に成る可能性が未だ十二分にあった。
    ところが現実に「廃帝の憂き目」を受けた「外孫王の淳仁天皇」には、「藤原氏系外孫王であると云う欠点」のみで、それは「当時の仕来り掟の中」では無く、結局は「社会」はこれを如何見るかに成っていたのであった。
    この結果の「淳仁天皇」は、この「自らの欠点」を補う為に「格式化」を造ろうとした為に周囲から猛反対を受けながらも「最初の新撰姓氏禄の作成」に取り掛かった。
    然し、「周囲の全ての層」からの「大反対」を受け、それを押してでも矢張り無理に編纂しようとしていたのだが、遂には、その為に“それをされては「権力の移動が起こる事」を懸念される”として、“これは拙い”として一度退位をさせられて仕舞しまったのだ。
    そして「淳仁天皇に権力移譲」をしていながら、突然に「退位した筈の孝謙上皇」に依っては、「淳仁天皇の新撰姓氏禄の作成」も「天皇自らの立場」に対しても、「政治権力の無い上皇」から“思い掛けない反対”を受けて仕舞って、遂には「廃帝」とされた。
    この経緯を受けて、これを観た「編者の三人」も類が及ぶとして皆逃げて仕舞い失敗する事と成ったのだ。
    この事からも「孝謙天皇・上皇」も、兎も角も、此の様に、又、“世間の間尺に合わない感情的な行動”を採ったのだが、政敵は同じ出自であっても、「光仁天皇や嵯峨天皇」と「他の同じ出自の四人の天皇」から「廃帝の憂き目」を受ける可能性は無かったとは言えない。
    何故ならば、それは「桓武天皇・平城天皇・仁明天皇・淳和天皇の同じ出自の四人の天皇」から「格式化に対して猛烈な反対・政争」を受けていた事から、「上皇」に成っていたとしても「帝紀」に沿わずこの前例がある以上はこれがもう一つの「帝紀の基準」と成り得て、「廃帝の危険」はあり得たのだ。
    現に当に、「平城上皇」は「病弱を理由」に一時は譲位したとしても「病気は癒えた」として「嵯峨天皇の格式化・新撰姓氏禄偏纂論」に異論を唱えて来た。
    この為に「政争の場」だけでは無く、「伊勢青木氏」と同然で、“世間も何が災いとして飛んでくるか戦々恐々としてびくついていた”のではないだろうか。
    「信濃青木氏」のこの時の事を調べたが、「淡海族」には関係する処から読み込めば判る記録がある事は兎も角も、この時の事に付いての「詳細に記録や読み込める資料」は何も無く良く判らずにいた。
    精々、「伊勢からの資料」に頼るのが現状で、恐らくは“有るのは有る“と観ていて、現在に於いては幸いに「研究が始められた事・公表」は判っていて、あまり広範に進んでいないのが現状と考えられる。
    なかなか時代と共に難しくなっているが、兎も角もこの「研究」を待つ事にする。
    筆者の歴史館的な印象では、伊勢と血縁も深く関わり経済的にも深く関係していたにも関わらず「信濃」には云わばこの件に関しては、それなりに“蚊帳の外”では無かったかと考えられる。
    通常なら五家五流の一つである以上は、「話題の記録}には「記載」が有っても良いだろと思われるが、何故かそれなりのものは未だ無い。
    何故なら、「伊勢」と“婚姻を進めている事”が「曼陀羅帳」でも判る。
    それだけにこの件に関してはある程度に「信濃の余裕」が観られたと云う事だ。
    一方で、だから「伊勢」も“「信濃」と同じ”と考えがちであるがそうでは無かった。
    「五家五流」が創設された時の「信濃王」は積極的に前に出るタイプでは無く、「伊勢王とタッグ」を組んで生きて行く家の性格と云うか家の戦略でもあった。
    この「信濃の生き方」はこの「源氏化」が進んでも全く崩さなかった。
    当に「施基皇子が定めた氏の生きる行動指針の掟」、即ち、「青木氏の氏是」に相当していた様な気がする。

    注釈
    その比較対象として同時期の「三野王・美濃王」は、積極的に「天武天皇」に近づき、その“持前の優れた才格”を発揮して重用された。
    その為に「冠位」は「小紫」までの詰めて長くその位に扱われた。
    天武天皇在任中に、「帝紀」と「古事」を纏めて遺したが、これを更に「舎人親王」に命じて「日本書紀の編纂」となったが、此の「三野王」は他の者等12人の先頭に居て「各地の情報を集める事」を命じられて達成した。
    その中には、何と「信濃王」が存在しながらも、これを無視してでも足元の「信濃の地形」など「信濃国全体」を調べる様にこの「三野王」は命じられており、それを調査して報告していると云う才能ぶりを発揮している。
    然し乍ら、この「信濃」を与えるかの様にして命じておき乍らこの「三野王」に与えなかったと云う経緯を持っているのだ。
    普通ならその記録に遺る功績から観て、そうしていたであろう事が厳然として判るが然しそうしなかった。
    何故かであるが、それは片方に比べようもない位の“「伊勢の力」”にあって、「記録の状況証拠」から「伊勢と深く血縁関係に有った事」で出来なかったのだと観ている。
    「新都の設定」の「候補地の各地の地形等の実情調査」にも派遣してこの「三野王」は大いに貢献した位である。
    「三野王」も官僚と同行して、何度も「信濃国」に遣わされ、「遷都」に必要とする地形等を調べたとある。
    この「才能ある功績」を評価され、これが次の「持統天皇」にも評価され、何と「三野王」は破格の「浄広肆位」に破格に叙され、人にも良く知られる様に成った。
    そして最後は「筑紫大宰率」にも任命され大出世した。
    此処に記している内容には実は大きくある意味を持っている。
    それは対比される「信濃王」が、朝廷にどの様に評価され、一方、「三野王」はどの様に朝廷に評価されていたかは判る史実でもあり性格も判る史実でもある。
    この時、「二代目伊勢王の施基皇子」も居たが、この史実の計画には出て来ないが、負けじと劣らず「別の朝廷の計画・政治構造の改革」に先頭切って「律令の基本造り等」に専念して記録にもその功績として「飛鳥浄御原令」を先ず完成させた。
    其の後にこれに代えて「施行」に最終は「大宝律令」に持ち込んでいるし、改善した「養老律令」にまで発展させた。
    その「努力」が詳細に「全国を行脚して各地の律令を造る上での参考資料」を集め、最終は「大宝律令の基本」と成る“「撰善言集」”を完成させ、「天武天皇」に提出し報告した。
    その前に、「下記の事」を理解する上で知って置く必要のある大事な事がある。
    先ずそれを先に論じて置く。
    つまりは、ここにはこの“提出し報告した”とする「記録の文言」に意味があって、“それが「自前嗜好の考え」で編集した」と云う事では無く、「因事菅隷」に基く提出、又は、「特別令外官」に基づく提出、又は、「賜姓五役」よる提出の何れかであるが、この場合は、「記録の示す状況証拠」から間違いなく「因事菅隷に基く提出であった事」が判る。
    それは、「全国行脚」と言う言葉に「判断の元」がある。
    そもそも「施基皇子」とも成ると、「個人の事」で、都を離れ役職に大きな空間を造る事はあり得ず、「施基皇子の立場・浄大一位の者」が、勝手には持ち場を離れる事はあり得ず、格式上、「太政官の命令」は「格式上の上位」である以上は、届かず、間違いなく「因事菅隷による天皇の正式命令である事」に成り得る。
    既に「賜姓臣下族・647年」で「官吏」では無い立場の者に、「官吏」を超えて「重要な意味のある命令」を出した上での事であった事を意味する。

    注釈
    「日本書紀」の「巻第三十」による記載にもあるが、「善言という書物・逸話集」を編集する官職として、「689年」に、「施基皇子・57歳」に「随行者」として「7人・文官」を任命して発足させたとある。
    その目的は、「中国の南朝宋范泰」の“「古今善言」”に習ったとある。
    初期には「皇族や貴族の修養に役立てる教訓的な史書」を作ろうとしたものであるとされたが、後に、「皇子の教科書」にも用いらると云う事が起った。
    その「目的」は要するに広範囲に及んでいた事を物語るものだ。
    それが後の「新撰姓氏禄の偏纂」にも「元資料」として使われる様に成ったものだ。
    「記録」によると、初期には「641年から670年頃」までに「国内で起こった逸話や天皇などの遺言や逸話などを纏めたもの」を集めて、それを先ず「記録に遺そうとする計画」が起こったが、ところがこの「収録作業」は「目的範囲の非弱さ」により続かなかったものだ。
    結局、この計画は解散と成ったが、そこで、その「施基皇子の撰善言集の一部」が「天武天皇の皇子の舎人親王」に渡り、「日本書紀の偏纂」としても、更には主に「帝紀」にも使われたとする説もある。
    そこでその経緯は、一方でこの「教科書の解散」の後に、「天武天皇」は、この「正式な偏纂を改めたもの」を、それも“「身内の限定した範囲」”では無く、本腰を入れて「全国的な内容」にまとめたものを造る様に「伊勢の施基皇子」に命じた。
    其れには「律と令の法体系の元」と成るものをも期待したとある。
    それだけに「その取り組み」は「歴史を変える程」の「全国規模の詳細な物」と成った。
    従ってこの「撰善言集」は調査初期からどんな物にも活用できる物と成っていた。
    この「青木氏に関わる経緯」を歴史観として知って置く必要がある。

    さて、元に戻して、故にこの「撰善言集の報告」を得てのその後に於いては、初めての「日本の法体系の基本」と成る「飛鳥浄御原令」を先ず完成させたと成った。
    其の後に「撰善言集」を基本にした「飛鳥浄御原令」のこれに代えて施行した「大宝律令・701年」が纏められた。
    そして、「施基皇子死後・716年」に、其の後、これを基に「施基皇子死後41年後」の「757年」に「養老律令」が完成して結実する。
    このそもそも「基本と成る大宝律令」であり、更にはこの「養老律令」をも見直しているのだ。
    此の様に「施基皇子」は、他にも「内蔵任務、賜姓五役、因事菅隷、院屋号、特別令外官」「殖産業任務」や「貿易業任務」を持つ等して、「経済面」にも比較する者がいない程に大きく「内蔵の役割」と「斎蔵の役割・神明社等」をも兼務して「青木氏の役務」を果たしていた。
    そして、この「全国行脚」で、それまでに「全国の族の纏められた資料」が、これ以前には記録として無く、これで集められた「資料」が、「撰善言集の資料」の基の中に「各地の族の在り様の判明」が付随してあった事が判ったと成ったものであり、それが「編者たち・学者」の「新撰姓氏禄偏纂の資料元」と成ったと云われている。
    ところが、その「施基皇子の姿勢ぶり」は「氏是の通り」で、「天下の名だたる歌人」でもあり「周囲の怨嗟」にも配慮して活動し、比較できる者が無い程に「別格の文化人」でもあって尊敬されて扱われていた。
    それ故に、資料によると「伊勢郷士衆」にも「氏上さん」と呼ばれていたとある。
    又、「政府の部経済の差配頭・内蔵」として、その「財」は「巨万の富」を獲得して「朝廷の屋台骨頭」を担っていた。
    当時の実力は「別格者」でその「氏族の大きさ」も「比べる者」は居なかったとされる。

    余談だが、上記の、「撰善言集」を基本にした「飛鳥浄御原令」のこれに代えて施行した「大宝律令・701年」が纏められたとあるが、これも施基皇子の提案によるものが大きかったと観ている。
    これだけの「三つの書籍の完成」に「撰善言集が貢献した」とすると、周囲は無視する事は出来なかったのでは無いと観ている。
    何せ上記した因事菅隷や賜姓五役等の役務の実権を持っている以上から観ても無視する事は出来ないであろうことが判る。

    さて、話を元に戻して、この「屋台骨を担う施基皇子」と「美濃で精いっぱい生きる者」との差であった。
    この「万能の施基皇子」に、例え「三野王」であっても肩を張って並べて来る者は居なかった筈な。
    この「別格の施基皇子」は、「浄大壱位と云う天皇に継ぐ冠位の格式」を持って行動されれば、最早、「怨嗟など以て抗する者」はいなかった筈だ。
    それ故に、何の計画にも参加しなかった「弱い信濃王」は、この「施基皇子の伊勢王」を頼って深く血縁し、「伊勢」と共に“「皇女族」を多く引き取る事」と成り”、そして“「女系の一族化」して生き延びる事”を選ぶ事が出来たと云える。
    それも「当時の天武期」としては、これも否定では無い「青木氏族の一つの生き方」であったろう。
    そして、歴史的に後勘から観て、この“「皇女族を多く引き取り”の策の事」に「大きな意味」を持っていた。
    “「皇女族」を多く引き取り”は、「伊勢」と共に女系化するも、当時としては、“より皇族に物を言わせぬ策”でもあったと考えられる。
    要するに世に出て強く成るか、内に秘めて強く成るかの違いにあったと考えられる。
    “内に秘めて強く成るか”は、それは「氏族の辛抱」にあったと考えられる。
    それが、その「信濃の裏打ち」をしたのが、「三野王」では無く「伊勢王」であったとも観られる。
    この「信濃」に執っては「隣国」であり「積極的で有能な三野王に近づくと云う策」も充分にあったと考えられるが、「伊勢との繋がりがあった事」に此処に「意味」があるのだ。
    唯、一説では、゛「積極的な性格の三野王」には、“「信濃国」をも掌中に入れる”と云う考えがあったとする説もある。
    ところが「筆者」はこの説に賛成している。
    何故ならば、「天武天皇の大友皇子との政争・壬申の乱」の時に、一時、「大海人皇子」は「三野王・美濃に向かった」を頼っている事もあって、「信濃の件」は“無視するほどの事では元よりなかった”。
    確かに「天武天皇の三野王に対する命令」は其の様に観えている。
    何故ならば、「信濃国」には「遷都案が出ていての調査であった事」からも考えられる。
    ところが、「持統・妻で妹や伊勢王等の政治的な意見」がそれを阻止させたと観ているからだ。
    「伊勢王」と違って「三野王」は、「大津皇子の乱を乗り越えた天武天皇」を「政治的に動かす政治力」はそもそも無かったし、唯の追随者に過ぎなかった。
    ところが「伊勢王・浄大一位・最高位」には、「天武天皇の妻で後の持統天皇・姉」がいて「妻として天武天皇を側面から発言して政治を動かす力・持統天皇として天武死後に動かす」も「史実」としてあったとし、「兄の天智天皇の第七位皇子としての立場」を無視する事も出来なかった事も、前に一歩踏み出せない程に「三野王」には「圧力」と成っていた事であろう。
    現実に「施基皇子」を「天武天皇の皇子」の一人として「川島皇子・天智天皇の第六位皇子」と共に扱われていた。
    「三野王と信濃王と伊勢王の夫々の立場」が「歴史史実」として比較して観れば、如実に書き遺されているのだ。
    それだけに「継承外の皇子族」を多く受け入れて、「三野王の発言力」を高めようとしたのもその一つであると観られる。
    現実にしてみれば「堅実にこの継承外の皇子族を多く受け入れた策」は通常では「絶対的な強味」であった筈である。
    その証拠に「天武天皇の大友皇子との政争・壬申の乱」の時に、一時、“「三野王・美濃に向かった事”がそれを物語っているのだ。
    「妻の持統」は、流石に「美濃」に行かずに「適当な理由・疲れた」を着けて「兄の伊勢の桑名」に留まったのだ。
    寧ろ逆に、“「皇女だけ」”を引き取る事に、“「妹の持統」が大いに評価していた事”を意味する。
    この事は「三野王に対する一つの意味」をも歴史観として持っていた事だ。
    この事でも「三野王と天武天皇の妻の持統との立場関係」はあまり良く無かった事が記されていてこの事が良く判る。
    然し、それでも「伊勢王」は、逆に、“「皇女だけ」”を引き取りながらも、上記した様に、“それを遥かに超える力”で「三野行」のそれを阻止していた。
    その背後に「信濃王が付き従っていた事」に成る。
    歴史を観ても[伊勢王の施基皇子・668〜716とその裔系」に「青木氏の氏是」を定めていながらも、「政治力と格式と財力と権力に勝る者」は、「他の1000近い氏族」には以後平安期末期まで出て来ない歴史観だ。

    注釈
    「三野王」は「天武天皇の治政」に、所謂、「皇親族」として参加して信頼を獲得していたが、政治的に調べて観ると、それは「673年から686年の期間・天武期」に限定されていて、ところが、突然に「690年から697年・持統天皇」に成って、この時は、要するに「持統天皇の治政の時代」には、「三野王・708年の存在」は“「皇親族」”しても、且つ、「政治の場」からも何故か確認できない。
    明かに恣意的に「政治の場」から遠ざけられている。
    これの前兆が歴史の史実の中では、“天武系側が戦況不利となった「壬申の乱」の時の「三野行向」”の時に、「妻の持統一行」が、「兄の施基皇子の誘い」により「桑名」に留まって「三野行控えた事」の史実に通じ、これは、「天武後の政治の場」から“持統天皇から遠ざけられたもの”であり、ここで「三野王の皇親族の期間」はその歴史は終え歴史上から故に消えている。
    先ず儀礼的に「兄の伊勢」を無視して通り過ぎる訳にもゆかず、兎も角も“挨拶代わり”に「伊勢桑名」に“立ち寄った”ところ、それは“立ち寄った”のではのでは無く成り、説得に依って“留まった事”であって、それは正しく“「施基皇子・716年」に忠告された事”は間違いはない事である。
    それは「戦況劣勢の中」で、“「三野」に定住するかも知れない”とする「大海人皇子の逃避行」であって、場合に依っては、二度と会う事が出来ないと成れば先ずは「兄の伊勢桑名」に心情的にも立ち寄るだろう。
    そこでの“立ち寄った”ところから、それは“留まった”事に成ったと観るのが順当な経緯論としての歴史観と成るだろう。
    その理由が優れていて、其れは史実から“疲れた”とする記録であって、「三野逃避行」は当初から当然の事である筈である。
    「立ち寄る」のであれば、「大海人皇子」も「伊勢に立ち寄る」であろうがそうでは無かったのだし、「施基皇子」は
    「大海人皇子」よりの歴史的に記録にある様に中立を保っていた。
    「立ち寄る事」は何の問題もないし、寧ろ、「皇親族」の中でも段突のキーマンとも成っていた施基皇子なのだから、“味方と見せて置く為にも立ち寄るべき策”であったった。
    ところが、側を通過していながらも立ち寄ってもいない。
    「政争相手」が「天智天皇大友皇子」である事から「施基皇子」も同じ「天智天皇の皇子」である事を懸念したとも取れるが、そんな事を云えば妻の持統もそうである。
    史実として取り分け「施基皇子」は、「川島皇子・密告者」と違い「大海人よりの中立的立場」を保っていたのだ。
    その為に、それは上記した様に、“説得により留まった”事に成ったと観るのが順当な経緯論としての歴史観と成るだろう。

    注釈 「大津皇子と草壁皇子」は政治的に同格にて、「草壁皇子の皇位継承権」は無く成ったが、天武天皇崩御によって「大津皇子の親友」だった「川島皇子の密告」で「元皇位継承者と成っていた草壁皇子」によって「謀反」として「大津皇子が捉えられた事件」である。

    注釈 壬申の乱の経緯
    672年、近江宮山科で天智天皇は崩御した。
    「太政大臣」と成って「大友皇子」が後継者として定まる。
    この時、この事に依って「大海人皇子」は「吉野」を出てから、何と禁令の“「伊勢」の「名張」を焼いた”とあり、これは「謀叛の印と成った事」である以上は、「伊勢王の配下」の「名張郡司等」は意を汲んで「「大海人皇子」に同調する出兵を拒否した」とある。
    ところが、この時、「禁令破りの謀叛者」と成って「形勢不利」の中で、「大海人皇子」は、「伊勢、伊賀、熊野」を先ず通過して、そして上記の「三野」に入って「態勢」を立て直し「周辺の豪族」を次々と味方に引き入れて形勢を立て直した。
    この「勢い」で再び都に向かうとある。
    この「勢い」で再び「禁令の不倫」を犯して「伊勢伊賀」に入り、ここでは遂には「伊賀郡司」は判断した。
    「伊勢王は中立を宣言」しているので「伊賀郡司・伊勢王代理」を「味方」に引き入れた事に成り、「謀叛者の汚名」は消えたとし、ここで正式に「継承者としての態勢」を立て直して再び「近江の都」に入る事に成ったとある。
    「伊賀郡司・伊勢王の代理」を「味方」に引き入れた事で「伊勢神宮参拝」が叶う。
    要するに、この事は「謀叛者の汚名返上の仕儀」は「伊勢にあった事」が云える。
    どんな人物でも「伊勢」で「大儀を獲得する事」が必要であったのだ。
    その意味で、この経緯と成る為にも、「持統を桑名に留めさせる事」が是非にも必要であった。
    「持統が伊勢に留まっている事」で、「大海人皇子は伊勢を攻める事」が出来ず、更には「謀叛者汚名返上」と「継承者のお墨付きの獲得」もこの「伊勢」で逆に成し得た。
    これは「伊勢」とは、そもそも「伊勢神宮が存在する以上」に「天智天皇」に依って定められた「不入不倫の権」を持っていた。
    これがある以上は、この“「不入不倫の権」”は、この「字ずらの意味する処」は、そこは「神が存在する地」として、“「攻めたり税を採ったりとする事」を禁止する事”のみならず、それは”普通の事では無いとする不可侵の裏の意味”があって、それが「神」を意味していた。
    唯、“此処には神がいるよ”と直接云うよりは、“それを思わしめる事”に意味があるのであって、“故に神の宮が存在するのだ”と戒めている事になる。
    これは「韻訓の古来の戒め方」である。
    それ故に、「大海人皇子」は、「行きの名張」ではこの事に反して「火付け」をしたが、「帰り」のここでは「施基皇子」に「行動」を戒められ諭された。
    それを戒めたのは、「施基皇子だから」と受け取って、天武天皇が「皇位/」に着いたそれ以後は、「施基皇子」を「特別扱い」をしたのだ。
    「川島皇子の経緯」と比較すると「施基皇子の経緯」の「あり処」がこれで良く判る。
    「施基皇子」は「兄の天智の皇子」であったが、「自分の皇子」に加えると云う“特別の扱い”をし、其の上で「天皇に継ぐ冠位」の「永代浄大一位」に叙した。
    此の事でその扱いが良く判る。
    これには「意味」を持っている。
    “「伊勢」の「名張」を焼いた事”は、上記の意味で「施基皇子」は驚き、「持統」を「伊勢桑名に留め置いた事」と成った。
    「留め置く事」で「天武を伊勢」に戻させて「謀叛者汚名返上」と「継承者のお墨付きの獲得」を「伊勢」で「天武・大海人皇子・702年没」にさせた事に“「この意味の経緯」”と成る。
    それ故に「天武天皇」は、中立を保っていた「施基皇子・716年没」を、その後に前段でも論じた様に、“諭してくれる自分の兄”の様にも慕い、“「持統と自分の死後の葬儀委員長・造御竃長官」”にまで指名して重用する事に繋がって行くのである。
    此の生前に「自分の葬儀委員長・造御竃長官」に任命すると云う行為は、そもそも“何者にも換え難い信頼感”を示している事に成る。
    そこで本論に戻して、ところが、「施基皇子の事」のこの“「生き様の評価」”に、「反対説」を唱えて「源氏化説」を「イメージ良く推奨する歴史家」も居る。
    然し、「上記の経緯論」を検証すればそうでない事が良く判る。
    又、合せて「三野王の説・土岐氏」を特段にクローズさせている「土岐氏論の歴史研究者」も、常套手段として“「施基皇子の反対論」”を敢えて唱えている事をも知って置く必要がある。
    その意味で、当時の「対比する市原王の無様さ」も明確に説いていて「川島皇子の裔の近江佐々木氏の論」は、史実に基づいていて、「自らの後裔」に関連してそこから「青木氏の事」も正統に説いている。
    これらは「青木氏の歴史館」としてこの事も知って持って置く必要な経緯である。

    さて、そこでこの特徴ある「五家五流青木氏」の「生き様」の中でも、「三野族や淡海族」の様に、「皇親族を利用する族」を政治的に利用して「一族の格式と勢力」を高めようとした「族・A」と、「伊勢族や信濃族」の様に「皇親族の中」に居ながらも、「一族の格式と勢力」を敢えて高めようとしなかった「族・B」とに分かれる。
    そして、この「族・A」は「源氏化に走る族」と成り、「族・B」は「9つの縛りを護る族」と成る。
    「族・A」の「源氏化に走る族」は、「新撰姓氏禄を求める族」と成り得たのだし、逆に、「9つの縛りを護る族」は、「格式化に繋がる9つの縛りを護る族」であって、「新撰姓氏禄の高い格式」」を元より保有しながらも「女系化」を図り、結果として「受け入れなかった族」と成った。
    要するに、「族・A」の「源氏化」に対して、「族・B」の「女系化」で、「源氏化」は男系継嗣である故に、元より「女系化は無理であって、「源氏化と女系化の対立軸」を執っていた事に成り得ていた。
    これは「不思議な歴史的な現象」である。
    「族・A」の「源氏化」に対して、「族・B」の「女系化」であって、「族・B」には「猶子の現象」が起こらなかったのだ。
    「族・A」の「源氏化」で「家の格式化」を図ろうとしたが、結局、前段で論じた様に、“「猶子策」”で逆に「家の格式」は低下させて「乱れると云う現象」を起した。
    一方、「族・B」の「一定のルールに基づく女系化・四掟四門」である以上は、「家の格式」は「始祖の格式」で「一定を保つ事」に成って「乱れると云う現象」は無かった。
    そこでさてこれは何故なのかである。
    それは簡単な事に「男系と女系の差」にあった。
    先ず、「男系」は「多くの特定されない女性・A」から「男子・A」を産み特定し、その中から「継承者」を定めて分流させ、それが再び「非特定の女性・A」から「男性」を産み出すと云う「繰り返しの継承方法」である。
    ところが、「青木氏等が敷いた女系」は、「特定・四掟」でその「女性の範囲・B」を特定し、そこから必ず「女性・B」を求めて、その「特定の女性・B」らが産んだ「男子」が「継承する家・四家を継承すると云う継承方法}であり、この「特定の男子・四家」は他から求めない。
    要するに、「四掟の範囲の女性族・元は四家の女性」と「その女性が産んだ四家の男子」の「婚姻・一種四家での同族血縁族」である。
    依って「血液」は「四掟四門の範囲」に小さく限定され留まり、人種に必要な「新しい血液の介入」は「相手の四家先・女性は元は青木の四家の女の娘」から受け取る事に成る。
    現代医学に於いても「女系族/人間遺伝子の女性継承」にだけ「人間のミトコンドリア」を引き継いでいる事である。
    この事から「人の本種」は変わらない理屈である

    注釈 そこで前段でも少し論じた事であるが、その「女系化の論理性の有様の理解」を深める為にもう一度、「ゲノムの塩基配列」で詳しく論じて証明して観る。
    そもそもこの「染色体」とは、「塩基性の色素」で染色して観る事が出来る事から名づけられたものである。
    これが「細胞分裂期」に「棒状の構造形態」を示すが、この時のものを云うが、「ミトコンドリアのゲノム」をも含めて「染色体」とも云う。
    そこで、そもそも先ずこの「染色体」とは、「22種類の常染色体」と、「XとYの2種類」の「性染色体」に分類される。
    此処で論じるのは、この「XとYの2種類」の「性染色体の事」を論じる。
    そもそも「核を持たない赤血球」をのぞき、“「体細胞」”はこの「2倍体」で細胞分裂する。
    「同じ種類の常染色体」を「2本ずつ」を持ち、「性染色体」も「2本」で構成する。
    ところが、その構成形の「女性」は、「XとX」の構成とし、「男性」は「XとY」と構成の異なるもので構成する。
    此処が重要である。
    そして男女に「合計46本の染色体」を持っている。
    ところがこの「生殖細胞」は、「2倍体の体細胞」と異なり、「1倍体」であり、「常染色体」を「1本ずつ」と、「性染色体」も「1本ずつ」の「46本中の「合計23本の性染色体」を持っている。
    つまり「1細胞」当たり「約2000個程度」含まれている事だ。

    例えば「女性のXとXの構成」としては、「最大で2000以上の種」に分類されると云う事に成る。
    「性の異なる二つの生殖機能」の多くは、「二倍体 (2n) の体細胞」 と「一倍体 (1n) の配偶子」を持っている事に成る。
    そこで“「雄由来の配偶子イ」と「雌由来の配偶子ロ」”が受精すると、「イ+ロの二倍体の体細胞の接合子、即ち,受精卵ニ」を持つ事になる。
    この原理で、「体細胞分裂」を繰り返して「1個体」をつくりあげる。
    すなわち、この原理で行けば「二倍体の体細胞」を有する。
    この「2セットの相同の染色体」の内、「1セットは父親」から、もう「1セットは母親」からに由来する事に成る。
    「雄雌の二つの染色体」で構成される事で「2Nの二倍体の体細胞」が出来る原理である。
    比較参考に、「一倍体の配偶子」を造る為の「特殊な細胞分裂」は、「減数分裂」と呼ばれる。
    この「減数分裂の過程」では、「母親と父親」に由来する「同じ染色体」は、「交叉して細胞分裂」を起こしてこの時に「遺伝情報を交換する事」に成る。
    この様に「片親からの染色体」をそのまま「次の世代」に渡すのではなく、「世代を経るたび」に、「常に新しい遺伝情報の組み合わせた体」が幾らか渡され造られる様に成っているのだ。
    従って、故に「カタツムリの様な無性生殖で増殖する種の多くの染色体」は「1セット」しか持たない原理と成る。
    ところが「有性である人間」の場合は、「男性の持つX染色体とY染色体」の「二つを持つ配列」は、「その大きさや遺伝子の位置など」が異なる。
    「Y染色体」と「X染色体」とが異なる事から、従って上記の男性の「減数分裂時の遺伝子の組み換え」は起こさないのだと通常はされて来た。
    ところが、当初、「有性の人間の場合」は、この「減数分裂」で無いので「変異しづらい不活性なもの」とされて来たが、これを「覆する研究説」が現在に於いてこの説が生まれて其の事例が発見されている。
    つまり、男性の「Y染色体」においても、何と「X染色体との自然交叉による乗り換え」が起こっていると考えられている。
    つまり、「男性のY染色体内」で、「自身の遺伝子の位置が入れ替わっている事」が明らかになって来たのだ。
    実際には、“起さない”と考えられていた「男性のY染色体の変異」が、比較的に頻繁に起きている事が判って来たのだ。
    つまり、「女性のX染色体との交叉」を起さない場合でも、「男性のY染色体の変異」で、「女性のX染色体との交叉」に代わって、独自に興すと云う事が解かれる様に成った。
    これは俗に云えば、直接に「女性が少なく成った事」、又は、「激しい気候変動の事」で、「人口変動」が起こり、それをこの「ゲノム」が察知して、それを補う為に「ゲノム」で「性的」に察知した為に、「起る筈の無い変位」の「男性のY染色体の変異」が起こったと云う事に成る。
    そもそも、当初は「二倍体の体細胞」の「男性のY染色体」は、子孫存続が難しく成った為に「一倍体の女性体X X」から、「細胞分裂」して「男性体のみ」を外に生み出していた方法から切り替えて、「子孫存続の為」に選んだこの「男性の生殖方法」を「女性の機能」から特別に外に切り離した。
    その為に本来は「二倍体の体細胞の分裂」を興して「無精の自然交叉」をして「女性のX」を「Y」に特別変位させて「雄の媒体」を作り出していたも。
    それ故に、その「Y」が独自に元のXの女性に変位させたとする現象である。
    現在では「部分変位」で留まっているが、故に何時しか「無精の交叉」が起こることが予想されている。
    更に「女性が少なく成った事」、又は、「激しい気候変動の事」で、女性の人口減少が更に進めば何時しか「無精の交叉」で完全変位が起こる事が予想される。
    「男性から女性化が起こると云う事」を示唆している事に成る。
    兎も角も「子孫」を遺す為に「男性の遺伝子」がその役を一時的に仮に務めると云う事である。
    要するに、これは「女性の男性化」か「男性の女性化」であるが、これは「ゲノムの女性のXとXの配列」には、「XとXの配列」である以上は、そもそも「同じ塩基配列」である以上は、「変位性が無い事」から、「男性のYとXの染色体配列」から「変異性のあるY」が、「ある事情・環境」で特別に元のXに変位したものである事に成る。
    「男性の女性化」であって「Y」が特別変位したものである事が判る。
    そもそも「男性」は、元は「女性」が「X」を「Y」に変化させて出来たものであって、その「変位の名残遺産」として、「女性のみが持ち得る4つのパーツ」を「男性」に移して未だ持ち得ている。
    この4つの部位が突然に状況変化によって変位する「Yの媒体」である事に成る。
    これは明らかに「女性からの変異であった事」を示すもので、故に、単独に「Y配列を持ち得ている事」に成る。
    この「新しい学説」の「男性の女性化」では、この変位して出来た「Y配列」が逆にも元の「女性化」に変位しさせたものと成り得る。
    つまり、この「男性のY配列」が、「女性の配列変異」と「男性の配列変異」の両方を興すものである事に成る。
    この「新しい学説」によれば、その「外観」からは、その「見分け」がつかず、「性器」は其の侭の「女性器」にあって、然し、その機能はそもそも無く、「内部の女性ホルモンの分泌」は「本来の女性の持つ45%」が、「25%」に変化したに過ぎず、逆に「男性ホルモン」は「45%であった」とし、「卵巣」が「精巣」に特化していたとする現象である。従って全く女性が女性の性器に男性の精子を分泌をし逆転していいたとする例体と報告されていて、現在では4例が見つかっている。
    要するに「人間本来の女性ホルモンの分泌25%」は「Yの変異性保持」に依って逆転し、「卵巣の性機能」などがそもそも無く、内部で「男性機能のパーツ」に入れ替わっていて、「子宮」は僅かに縮小して存在し、「精子」が「卵子」の如く「卵巣の位置」にある「精巣」から生理の様に分泌され、その後に一定期間後に子宮外に流されると云う実例である。
    この事例が現実に何故か特定して人種が出現したとされるその「アフリカ」で多く観られる様に成ったとされるのだ。
    この事から、つまり、「女性が持つ変位」を起さない「X Xの塩基配列」の「2000種以上の中」から同じ特定の配列を辿れば、その「人種のルーツ」に辿り着けると云う論理である。
    然し、何時の世かこの「特異現象が」起こり続ける事では「ゲノムに依るルーツ」をたどる事は出来なく成る事を意味する。
    これは上記した様に「変位し得ないX X」の時の「塩基配列」に限られる。
    逆に云えば「変位性を持つY」が、もっと云えば「変異性の持たないX」が「ある進化の意思を持った突然変異」によって「Yに変位したもの」であるから、従って、僅かながらも「進化の存在」は別として「Y」は常時に於いて変位する事に成り得る可能性を持つ事と成る。
    故に、この「Yの配列」を持つ「男性のゲノムの追及」に依って「女性だけによる種の追及」は今の段階では可能と成り得ている。
    上記の「男性のYの特異現象」が起こり続ければ、「変位」によって異なる以上は今後その「ルーツを追求する事」は出来ない事にも成る。
    この「ルーツの追及」は「変位性」を持たない「女性のX X塩基配列」によるものと成り得る。
    この「変異性」を持つ「Y Xの塩基配列・元はX Xの塩基配列」は、そもそも「X X」で「X」で同じである以上は、「変位性」は無く、元来より海から上陸する前の男性では「Yと云う変異性の配列」に成っていた筈だ。
    故に、この「男性の変異性を持つY Xの配列」では、今はその「人種のルーツ」は追えない。
    そもそも「人間の場合」は、「女性の配列のX X」の「配列の内のX」を「Y」に変位変換させ「一つの役割」を持たせて、「変位させて子孫を多く遺す方法」を選択した。
    従って「この世の生物」には、「4つの生体で子孫を多く遺す方法」が存在する事に成った。
    先ず次の通りである。
    「人間などの哺乳動物」が持つ「雄雌の二体性による方法・A」
    「貝類やカタツムリなどの雄雌両性体・B」
    「一性体」から時期に応じて体を雄雌に分離して子孫を遺す方法」の「ミミズなどの雄雌分離体・C」
    元々、「雌雄の性体を有さない細胞や菌類等の生体・D」
    以上に依って現在も成り立っている。
    つまりは、「子孫存続の為」に「アミノ酸のDによるものからの変位」に依る進化である。
    この「Dの集合体」が、「集合固体化」によって出来た「Aの哺乳類」は、元々はAによるものからのものでは無く、BやCの変化を種々に繰り返す内に、その「環境」に適して「より子孫を確実に遺せる方法」へと変位変化したものである。
    つまり、上記した様に「環境変化」に依っては「A」」に於いても、これからも「Yを変位変化させる事」があり得る事を示している。
    云うまでも無く、今、急激に起こりつつある「気候変動」も、「Yを持つ限りその変位・変化」を起させるその要因と成り得るのだ。
    その意味で、これは「Yの大きな意味のある進化の研究結果」である。

    上記の注釈の通り、この「理屈」で行けば「四家四掟四門に基づく女系族の青木氏」は、「人間本来の遺伝子の族・Aタイプ」に基づく「X Xの塩基性配列のゲノム」を持つ婚姻をしている事に成る。
    それも「7つの融合民族の構成によって成り立っている日本人」である以上は、その「2000以上の範囲」の中では無く、もっと「極めて狭い範囲の四家四掟四門の範囲」で血縁している。
    「青木氏」は、上記した様に「変位し得ないX Xの時の塩基配列」に限られた「狭い血縁状態」と成り得ている。
    つまり、これは当初の目的通り、「女系に於いての純血性」を「令和の時代」に於いても未だ保持している事に成り得る。
    唯、この「四家四掟四門の女系制度」が終わった明治35年以後は、上記した様に「変位し得ないX X」の時の「塩基配列」に限られたもので、「四家四掟四門のルール」が崩れ始めた事である。
    「別のX Xの時の塩基配列の種」が入った事に依って、「青木氏の種の範囲」が確かに広がりつつある。
    それでもそれから「135年後程度」とすれば、「女系の母親」は「2〜3代数」に限られている事により、この事から現在でもかなりの「四家四掟四門女系による純血性」は、薄れたにしても「純血性」は高く保たれている事には成る。
    仮に「ルーツ」を今でも「ゲノム」で追うとしてもそう難しい事では無いだろう。
    依って現在でも、未だ「奈良期の四掟四門四家の女系」に辿り着けるのではないか。

    そこで「新撰姓氏禄の持つこの格式の意味」からしても、将又、同然に「光仁天皇」は、「・・・>「施基皇子・天智系―皇位継承権無の数式化」に表させられる事で、無理にも「ある特定した階層」に「格式化」を造ろうとした。
    この為に、又もや「大反対」を受けたのだ。
    それは、「当時の社会」では、「男系による格式社会」では無く、「女系による格式体系の社会」を造り上げるべきであるとする方が、「中国を見習う事」として良いと考えられていたらしい。
    この当時は「男系一辺倒」では無かった事が資料の行から垣間見える。
    現実に、故に「天皇」はこの「飛鳥・奈良の時期」に「女系」が特別に多く続いたのである。
    この中でも、「持統天皇と称徳天皇」は女性的で個性的な実政を敷いた。
    この事が後の「政治に大きな影響」を与えたが、下記の注釈の通り、「格式や習慣や伝統や掟」に拘らない自由でその場での「直観力」を駆使して感じた事を「考え方」として出して来たのだ。
    それは「事の良し悪し」は別として、「男性の本能から発せられる論理主観論・イ」では無なく、「女性の本能から発せられる個別性の感情主観論・ロ」であった。
    それだけに最も「安定性の強く求められる政治の場」に於いて、著しく“混乱”を招きそこを「宗教力」に付け入られたのだ。
    これは「上記の注釈」に論じている「ゲノム理論」からも、「論理主観論・イ・男性」と「個別性の感情主観論・ロ・女性」で証明される。
    この為に「神」は、この“二つの主観論で世を統治する様に”、「女性のX」を変位させて「男性にして変異性のあるY配列を持つゲノム」を持たしたのである。
    この「神が成し得た女性の感情主観」による「不安定さ」を無くす為に、「判断・特に政治」に於いて「格式化を促す必要性に迫られた事」に成る。
    これを「新撰姓氏禄」で表して、その「思考に依る判断範囲」を格式毎に決めたとする。
    先ずは「格式化で主と成るもの」を「男性の論理主観」で決め、そこから「女性の感情主観」を排除し、その「判断の差の不安定さ」は、その重要度から「格式の上位から決める方法」を考え出したのだ。
    それが「格式化の新撰姓氏禄」であったとされるのだ。
    それだけに「判断の自由さが限定される事」から、上記の「反対運動」が「格式の各層」から受けたのだ。
    「この反対運動」に「宗教力が食い付いた」と云う経緯だ。

    注釈 因みに女性天皇には次の8人がある。
    女性天皇は10代8人
    ・飛鳥・奈良時代
    推古天皇、皇極天皇、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇、
    ・江戸時代
    「明正天皇、後桜町天皇」である。
    そもそも「帝紀」に依れば「天皇は必ずしも男子、男系」とは明記されていない。
    鎌倉期より「男子、男系」が「公然の史実」として認められる様に成ったが、それは、「戦乱の世」の「変化の名残の継承」によるものが多い。
    然し、上記の様に「天皇の地位」に於いてもこの時代は「女性の活躍」は目立つものがあり、「飛鳥・奈良時代」の中では、「商人などの一般の社会」でも「女系・女性」による「商人などの活躍」は資料や記録からも散見出来る。「古来中国貴族社会の影響など」もあって未だ「女性」は求められ認められていた。
    この頃からその「活躍の場」は、そもそも“「政所・まんどころ・台所」”と書いた。
    「政治の差配」から離れ、「家や氏の内部の差配・政所」に「特性・X Xの塩基配列」を生かして限定される様に成って行く。
    「新撰姓氏禄」で「男性による格式化」を結局は招き、この事で女性は「排除された政治の場」から、“「政所・まんどころの範囲・台所の差配」と限定される様に成った。
    「後・江戸期」に、この「政所・まんどころ」の意味は、「政治の場の事」として呼ばれる様に変化したのだ。
    「新撰姓氏禄の反対」は、この「女性の政所・まんどころ」で、一部は改善に向かう事に成るが、主体は「男性の政所の格式化による限定」にあった。
    然し、「男性の政所・まんどころでの解決」は未だ成し得なかった。

    注釈
    何故に「女性の天皇が嫌われたかの理由」は、「斎蔵の京中の祭司を行う内掌」で、それを務める「役人の伝統・掟」の事から来ているが、何処にも「定め」としては明記されていないのである。
    これは「単なる官僚の作業要領」に記されている事に過ぎず、そこから来ているのである。
    「宮中祭祀」に限りこの「伝統を重んじて護ると云う習慣」が「官僚の中」では古来より出来ていた。
    故に、「官僚」のみならず「天皇」に於いても「何人たりとも常に清浄な状態でなくてはならない」とされる「習慣」を造り上げて仕舞った。
    この「宮中の祭殿」に限り「祭祀に斎蔵の内掌典・祭祀を司る規則を知る女性役人の事」は、例えば、外出時には「下界の穢れ」を宮中に持ち込まないよう「専用の衣服に着替える」までの徹底ぶりであった。
    故に、最もこの「内掌典の考え方」を用いられたのは、それは「死」の「穢れ」であるとされた。
    そこで、「女性の内掌典の務め」の中でも「身内が危篤」に遭遇した場合は、直ちに「宮中を離れる事」を求められた。
    この「斎蔵の官僚の女性の考え方」が行き過ぎて「天皇の地位」にまで適用される始末と成った。
    然し、この事は「帝紀などの物」には何も記されていない。
    これ等の事は「穢れに成るとする考え方」が強く起こり、最悪はその着用していた官服を処分すると云う徹底ぶりで有ったらしい。
    因みに上記した「ゲノムの論理」で行けば優れている筈なのだが理解されず「女性体の性現象」さえも、況してや、「子孫存続の出産」や「それに付随する生理現象」にさえも「穢れ」と見做される有様と成った。
    これが進み更に「神道」にも、この「強行過激的な考え方」が浸透し、これは「穢れ」であると決めつけられて、これを「仏教」にまで結び付き,それを“「魔気・まけ」”と呼ばれ、“「魔気・まけ」”、即ち、「最も穢れた状態」と見做されるまでに至った。
    そこで「天皇」は、「政治王」のみならず「祭祀王」でもあり、歴史的に見るとその「最も重要な務め」は、この「内掌典の考え方」を押し付けられて、先ず強引に「神事」であると決めつけられた。
    それが「穢れ」であるとされる様に発展して、「女性女系」は「天皇の地位」にまで避けられる事と成ったのだ。
    これは「女性の内掌典の考え方」でありながらも、そこで「女性天皇」であるとして、この「穢れの生理が定期的に生じる事」を以て「女性の天皇」は次第に避けられる理由と成って仕舞った。
    結局は、「女性の内掌典」が「女性の天皇」を「穢れ」であるとされるに至ったと云う経緯である。
    取り分け「江戸時代」に於いては、この「穢れの考え方」では「天皇継承問題」に於いて「男性継承者が無いと云う事」が起って仕舞った。
    そこで止む無く「女性の天皇」が生まれたが、「女性天皇による祭祀」は、「形式的なものであって不十分な形で行う様に成って形骸化した。
    然し乍ら、「地方」に行けば、昭和の初期頃までこの「魔気・まけ」は、“まけが住む”等として、「平安言葉としての方言」として、関西域に遺されていたが、決してその意味は“「穢れた状態」”ではなく、「仏教の人間が持つ本来の汚れの戒め」として、その「習慣の中」で用いられていた。
    筆者などが聞いた中では、「トイレや台所などの周りの清潔さ」を保もたないと「魔物・まけ」に取りつかれる等としての「戒め」として聞かされていた。
    その為に、トイレや台所には「魔気・まけ除け」の木札などを着けた。
    依って、これは「仏教の得度や神事の説得」の指導者等が此の考え方を利用して、その勢力を政治に反映させて「権力の獲得を策った事」が判る。
    この「考え方」が歴史的に強行に実行されたのは、「宗教・神教・仏教の政治への介入時期」に強く持ち込まれた事と一致している。
    遺された記録の中に「桓武天皇」は、「遷都」を2度に渡り行い最終は何もない地の「平安遷都」と成ったが、取り分け、「宗教政治」を行っていた「称徳天皇等」の「飛鳥の地」を離れ、この“「宗教・・神教仏教の政治への介入」”を嫌って「遷都」を行ったと云われている。
    恐らくはこの「穢れ思想」は、この遷都前のこの時に持ち込まれた考え方では無いかと思われる。
    そうすると、“「称徳天皇」は自らの持つ「魔気・まけ」を認めていた事”に成るし、「桓武天皇」、又は、この「神教仏教勢力を嫌っていたとする“「藤原百川」等”に、積極的に推された「白羽の矢の事件」であったとされ、「光仁天皇」が、前段でも論じた様に、先ず「神教仏教勢力排除に移った」と云うする経緯にこの「歴史の経緯の間尺」は一致する。
    「桓武期」から「女性女系の天皇」が出ていないのもこの事から頷ける。
    この事からも「魔気・まけ」に拘わらず「中国の貴族間の慣習」に真似ていた「青木氏に於ける四家四掟四門の女系氏族」が、この時からも、上記した“人間が持つ本来の生殖能力に基づく形”で進められていたものである事も頷ける。
    「神明社や密教清光寺の神仏道の考え方」を「氏族の中」で持つものとして、その中で“真実を探求する考え方”が相当に進んでいた事が頷ける。
    それが「四家四掟四門制度の女系族」を保つ「独特なエネルギー」と成っていたと考えられる。
    それが単純な期間では無かった。
    “「宗教・・神教仏教の政治への介入」”が、政治の進捗と方向を歪めるとしてそれを「新撰姓氏禄の一つの効果」として「三代の天皇が期待して進める事と成って行くが、これも紆余曲折して進める事と成ったが「社会の反対」を受けて失敗に終わる。。
    これは前段から何度も論じた事に成るが、概して次の通りである。
    前提として、そもそも「原本」は無く表紙のみのもので、其処から研究でこの様なものであったろうと推測した。
    「逸文・祖語・散文・乱文」が多くあって決めつけられるものではなく「元資料の侭」とされている。
    現在の筆者の研究では大まかに下記の物と成る。

    そこで先ず「皇別」を先頭に分けて編集する事に成った。
    これを更に二つに分けた。
    格式の筆頭には、下記の通り「皇別」を置いた。
    「天皇家から分離したとする氏族」を、先ずは全体を「335氏・28.3%」とした。
    その内、「真人族」を「98氏・29.2%」、「朝臣族」を109氏と、「真人族から賜姓臣下した族19氏」を「118氏・35.3%」の計226氏とし、 その他の「109氏・32.5%」と成るとした。
    「問題」なのは次の「404氏」である。
    その「神代の代」から深く政治に深く関わった経緯からこの「404氏族の宗教力」にあった。
    この「404氏族の宗教力」は、「単なる宗教力」では無く、上記の「皇別に血縁的に関わる宗教力」であった事に「真の問題」があったし、無視できない程にその「子孫勢力」は大きかった。
    そこでその「神別」は次の様だ。
    「神別」
    「神別」とは、「404氏・34.1%」は次の様に三つに分けられる。
    これは「神武天皇以前の神代に生じた氏族」の事である。
    404氏が挙げられる。
    「神別氏」は、次の三つに分けられる。
    「天孫降臨した際に付き随った神々の子孫」とされる「天神族・A」 60.9%
    その後に「規定の3代の間に分かれた子孫」を「天孫族・B」 31.9%
    「天孫降臨以前から土着していた神々の子孫」を「地祇族・C」 7.4%
    以上とした。
    以上に「3分類の力分布」で構成されていた。
    「天神族・A」に分類された氏は、「藤原、大中臣、巨勢、葛城、物部氏」など246氏
    「天孫族・B」は「尾張族、出雲族」など尾張や出雲に分布する128氏
    「隼人系の隋系渡来人の200万人を構成する氏族」は、前段でも論じた様に皇別との血縁にて拡大した事で「天孫族・B」に組み入れられる。
    「地祇族・C」は政権を構成する初期の飛鳥の初期に朝鮮半島から渡来した「安曇、弓削・気比」など30氏
    以上がある。

    この上記で「論議した問題」は、この「神別の中」でも、「天神族・Aの氏族」が古くから深く政治にも血縁的にも介入していた事に依って、この「絶大にして影の勢力から逃れる事」を目的とした。
    これ等の大勢力とは、「全く影響を受けていなかった施基皇子の裔系出自の天皇」はその柵から逃れる事が出来たのだ。
    「血縁的」にも「政治的」にも「経済的」にも、何にせよ中でも「血縁的にも関係を受けていなかった事」から、それだけに「思わぬ白羽の矢」で、より政治を行うとして鬱陶しく感じられて、排除に移ったのではないか。
    中でも「血縁的影響」が、その「排除の目的・井上内親王の事件等」で、その上で「煩い天神族・Aの氏族」を排除を試みていたが、中々思う様に行かなかったと云うのが、「真の経緯」であろう。
    そこで、先ず、これ等の勢力を遠ざける為にも、「神別」として“「括り」”を造り、その役職で活動を制限し、「政治への口出し」を減らした。
    更に、それらの「神別としての格式」を下げて「政治」から遠ざけた。
    それを「真人族・98氏」と、「単なる朝臣族」と「賜姓臣下族の朝臣族の118氏」を「2つに分断」し、これらの「神別との血縁性の関わり」を「皇別・真人族」に対して弱くした。
    それを「単なる朝臣族」と「賜姓臣下族の朝臣族の計118氏」を、この「118氏」より一段づつ「格式」を下げて、そこで「特別に格式」を造り、「一定の役職にのみ」に「神別の関わり」を抑え込み、限定させて封じ込めて「政治」から直接的に引き離そうとした。
    それが「新撰姓氏禄の格式化の策」であった。
    それだけにこれには「大きな矛盾」が生じた。
    そこには、“「皇別」とは深く血縁を持ちながらも”、その「扱い」は、最早、「皇別」では無く、「神別」として「彼等の格式」を「合計三段」も下げて、且つ個別にして全く外して「総合力」を削いでいたのだ。
    これが、前段でも論じた様に「花山天皇の神祇官の賜姓」に通ずる。
    それが、上記した様に「編集」に対して各層から強く反対を受けた事の理由に成り得た。
    「花山天皇」は、歴史的にこの「新撰姓氏禄の策の神別排除の策」を知り得ていた事に成る。
    「青木氏」としても、「四家四掟四門の女系の制度」を設けて、この「皇別」の二つのみならず「神別の血縁的影響」をも避けた。
    それ程に上記した様に「神別の穢れ等の考え方」の「政治の浸透」は激しかったと云える。

    参考
    335+404+326+117=1182 関西域と中部域のみ
    「諸蕃・全体比 27.5%」は参考として次の様だ。
    「諸蕃」の「姓」と「氏」とは、主に「渡来人系の氏族」で、「326氏」が挙げられる。
    「諸蕃氏族」の中には、次ぎの飛鳥時代までに渡来した「朝鮮半島系」の5分類もある。
    「百済系渡来人」として104氏、31.9%
    「高麗系渡来人」として41氏、12.5%
    「新羅系渡来人」として9氏、2.7%
    「加羅系渡来人」として9氏、2.7%
    「漢系渡来人」として163氏、50%
    以上それぞれ挙げられる。
    然し、ここにある「漢族」も上記の「百済」、「高麗」、「新羅」、「加羅」に組入れなかった「朝鮮半島系の氏族」である。
    その経緯では、「坂上苅田麻呂等」は、「東漢氏の先祖」である「阿知使主と阿多倍王」を「漢」から来たと決めつけたが、史実は「漢」に滅ぼされ滅亡したとする「漢から追われた将軍・王」が独立して「東の隣国」に建国した「隋国」である。
    この「隋」も618年に再度この漢に追われ「200万人の職能の民」を引き連れて「大和博多」に上陸し関西まで無戦で占領するも、後に伊賀の国を半国割譲を受ける仕儀と成った。
    これ以外に「分類に何れにも属さない氏族」として、「117氏」があるとするも、都から他にも中国域、九州域、東北域にも派遣されていた上記の「新撰姓氏禄」に記載されるべき氏族は沢山ある。
    その意味でも格式を受けられない「諡号の姓族」からも「反対」を強く受けた。
    編者達からも“問題が出る”として反対されていた。
    中国域、九州域、東北域の対象者を組み入れたしても、それが可能な事か別として、この「新撰洲姓氏禄の信頼性」は元より低かったと思われる。
    然し、上記した様に「新撰氏姓禄の経緯」を以てそれを押してでも編纂しようとしたのだが、遂には「姓氏禄の偏纂の原本書籍」をも「編者」からも隠されて失敗している。
    判り易く云えば、上記した様に「社会」は“自然にも執る”として反対していたと云う事だ。
    従って、「新撰姓氏禄の所期の目的」は、「民を格式化する事」で分断して、この「宗教力の排除」に有ったと考えられ経緯の間尺は一致する。
    だとすれば、「中国域、九州域、東北域の対象者を組み入れる事」はそもそも必要が無かった事に成る。

    「光仁天皇」と「同系の立場」に置かれていた「嵯峨天皇」は、同然に編者等も逃げるも強引に「未完成の侭」で、所期の目手の達成の為に、これを“強引に公表した。”と成る。
    これは簡単に云えば、三代に渡って反対されていた現実は、「事の本質を見失い無理が伴成っていた事」に成る。
    現実には、“「公表」と扱われている”が、「詔」も「令」も出ていない。
    これは、“外に出て仕舞った”と云うのが真実ではないか。
    故に、結果として、何時しか“行方不明にして隠されて”しまった。
    然し、更には表紙の一部が表に出て仕舞ってまでは何とか済んだ。
    ところがこれを嫌った「反対派」に依って、その重要な“「根拠と成る書籍」”の「行方」までも末梢・抹殺されてしまった。
    実は後に「青木氏に関わるある処からの原資料存の存在」を示す史実が判明する。
    この「強引に構成した格式化した社会の反対」の中には、「魔気・まけ」等に依る「宗教力の政治の介入」が「一つの特徴]として起こった。
    何時の世もこれを防ごうとして、「源氏化の中で起こった猶子」と同様に、引き起こすものであるが、同時に、最早、上記した様に「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の「真理の女系化」に対しては、「諦めの格式化」”は世に浸透して行った。
    結果として、幸いにも“「天皇の経緯性」”だけは理解され、再び「天皇の格式」はそれなりに取り戻した事に成った。
    こま「新撰姓氏禄の格式化」は、兎も角も、その子の「仁明天皇期・833年から850年」の「30年後」には、「律令制度の社会の根幹」だけは造り上げて出来上がった。

    この「青木氏の歴史観論」では、色々と青木氏に江戸期まで何かと影響を及ぼした「新撰姓氏禄の格式化」に付いて放置でできない事が起っていた。
    そもそも「新撰姓氏禄の格式化」は、「伊勢の裔系出自元の仁明天皇」に依って「律令制度の社会の根幹造り」へと「政策変更された」ものである。
    これには、当然に「自らの出自元の皇親族青木氏」は、「淳仁天皇の前例」もあり「嵯峨天皇」に執っては「邪魔」であった。
    そこで「嵯峨天皇」は、「反対を受けていた在位末期」に反省したのかどうか兎も角も”「妥協策」”を繰り出して来た。
    そしてこの「格式を護る為」に、「最上位の真人族」には、「嵯峨期禁令」に基づく「9つの縛り令」を「以後の賜姓族・11の源氏族」に課せた。
    然し、どの「源氏族」も最早これを護らなかった。
    「施基皇子・天智系―皇位継承権無」の「賜姓族臣下族の青木氏族だけ」はこれを頑なに護った。
    検証としては割合で次に試みて観ると次の様に成る。
    「335+404+326+117=1182 関西域と中部域のみ」 に付いて、この割合を観ても「28.3%の335」は、「格式」に於いては、「マイナスの利害」を受ける筈だ。
    「残り」は「全体」の少なくとも「847/1182=71.6%」である以上は、「絶対に反対される事」は必定であった筈である。
    更に「335氏」の内の「真人族の98氏」は、そもそも元よりその「格式の位置」にあり反対の文句は無い。
    「朝臣族の118氏」の内の「賜姓臣下族19氏」は元より自ら好んで「真人族」から「朝臣族の格式」を求めたのだから「反対すべき文句」は無い筈である。
    そうすると、元からの「朝臣族」であった「109氏の宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の八族・八草の姓の族制」は、より「格式」を下げられる可能性があって、元より「家臣として出世を前提としていた族」である以上は、ここで「新撰姓氏禄」で「格式が確定される事」には抵抗があった。
    「109氏」には同然に「反対の文句」は生まれていた事であろう。
    後は何れにも属さ無い「117のその他の氏族」は、元より「氏として格式には無関係」であって「109氏」と同然に同じ立場にあった。
    依って、「反対をしない階級の氏」は、「真人族の98氏」と「賜姓臣下族の19氏」の「計116氏」と成り得ていた筈である。
    そうなれば「847+109/1182」とすると、「81%の氏族」が反対し抵抗を試みていた事に成る。
    とすると、この「新撰姓氏禄の目的」は、どうであり、当初から政策的にそもそも無理があった筈である。
    故に、これを進めようとした方法の「出自2人の天皇」とは別に、「桓武天皇の遷都策」は、この「81%の氏族の反対」を完全に躱す事の方法であった事に成る。
    これには「遷都策の成否の決め手」としては、「税」では賄えきれない「遷都費用の莫大な財の調達」が伴っていた事に成るが、それは心配なかった。
    つまり、「出自元の伊勢青木氏の部商いの財」にその「裏付け」が当初よりあった事に成る。
    現実に「桓武天皇」は、“税を駆使して行った”とする記録は何処にも無いのはこの事に依る。
    ところが「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄」の時には、「出自元の伊勢青木氏の部商いの財」は使われていない。
    その理由は「二人の出自の天皇」と「施基皇子の後裔の伊勢青木氏」とは「献納」を止める程にもとより仲が悪かった事が記されている。
    それだけに「新撰姓氏禄の原資料」も手元に無かった事が云えるし、その為に「真人族98氏」に対して「弘文五年」に出された“「詔勅禁令の内蔵出費の削減」”を理由として、「源氏」を賜姓して臣下させた「史実」もそうなのだ。
    但し、唯、参考として、この“「源氏の対象者」”は、前段でも論じた様に、上記する「純粋な真人族」とは限らず、「正規の源氏化」も含めて、意外に現実に“「階級の低い者等の源氏化、又は、猶子化”」が多かったとされ、殆どは前段でも論じた様に、「猶子による源氏か猶子朝臣族」が多かったと云われている。
    その意味で、この論じている「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄編集」に付いては、「後付け」が多いとされる。故にこの「真人族の98氏の後書き内容」には、「疑問」が多くあって、寧ろ、その意味で「階級の低い者等の後付け猶子」が多いとされている。
    「伊勢青木氏」も、この「光仁天皇と嵯峨天皇の新撰姓氏禄」には、その方法として反対していた事が伺えるのだ。
    然し、「伊勢青木氏」は、この「桓武天皇の遷都向行」に従わず「伊勢」にその侭にいた。
    この「理由」は、「遷都向行に反対」では無く、「伊勢の商いの場」に理由があったと考えられる。
    その証拠に「桓武天皇の遷都向行」を拒否した「額田部氏の氏族等」は多く罰せられたが、中でも「桓武天皇」は「出自元の伊勢」を特別に罰していない。
    それは、「遷都に必要とする財源の確保の賄い」に有って、特別に「出自元」を除外したと考えられる。

    注釈 話は「新撰姓氏禄の格式化」から元に戻して、後にその意味で、「室町幕府と正親町天皇」とは、これを“「律宗族」”として「嵯峨期禁令」に基づく「9つの縛り令」の「格式の象徴」として、再び認め直して世に知らしめた。
    そして、この効果で「嵯峨天皇」に「賜姓外し」で存在否定されていたが、“「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官」”をも復元する事に成功した。
    然し、飽く迄もこの「上記二つの役務」は、「天智天皇の治世」に基づくものであり、「帝紀」に基づき「前代の天皇が決めた事」は“覆す事は出来ない”となれば、且つ、「永代の賜姓五役」は、そもそも“「永代」”と決められて居り、その為の「既成事実の賜姓族」と成り得ていた。
    その為に、そもそも“「無形の象徴役務」”でもあった。
    これは、“「前代天皇が決めた事は覆す事は出来ない」とする「帝紀事項」”でもあり、「嵯峨天皇の行為」は“帝紀を無視した事”と成り得ていた。
    この“「上記の二つの事を外すと云う事」”は元々無理があった。
    そこで、「帝紀を正した事」には「正親町天皇の律宗族指定の意味」が含まれていた。
    要するに上記の「注釈の事」と成り得た。
    況してや皮肉にも、現実は「桓武天皇と平城天皇の後裔系族青木氏」は、この「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官」を最後まで護る事が出来たが、「嵯峨天皇系族・源氏」だけはこの「帝紀」を無視してこれを全く護ら無かった。
    其処にも「自ら行う政治」にも「帝紀に基づく無理」が生まれた。
    彼等は「官僚族」から「帝紀違反のレッテル」を貼られる始末と成っていた。
    故に、「鎌倉期の源氏の府であるとしての認可」が、「帝紀を護る朝廷」からはなかなか下りない状況が生まれた。
    この事を追記して置く。
    この「帝紀違反」を知りながらも「実行し行き詰まった嵯峨天皇」は、“「妥協策」を以て挙げた拳を下ろす羽目”と成って仕舞った。
    その上で後に、この「帝紀違反」を正す為に「正親町天皇」の「律宗族指定の意味」と成り得た。
    それは、「戦い」までしていながらの「悪化」に発展したが、それ故に「平城上皇にすり寄る行為」を後に示した。
    「上皇」が居住する元の「飛鳥の都」に、「嵯峨天皇」が自ら「平安京」から出て「飛鳥京」に「逆に向行する事」で「争いの治まり/反省」を着けた。
    更に「上皇」には、「一部の治政の院政を敷く事」を認め、即ち、「天皇が持つの唯一の専権」の「信賞必罰の特権」を認めて仕舞って、“「最終決着」”を着けた。
    この取り戻した「平城上皇の信賞必罰の権/院政」で、「出自元の伊勢青木氏」は「四家四掟四門に基づく女系氏族」と成っていた。
    にもかかわらず、「永代の賜姓五役」と「永代の裏の令外官役」は戻り遺る結果と成り得た経緯であった。
    この「皮肉の挙句」は、「嵯峨天皇の治政」の「賜姓した源氏族の混乱」、つまりこの「猶子の伴う格式化」を「無視した源氏族11氏」は、「皇族としての9つの縛り策」を「無視した事・武装集団化」でも、これを以て「朝廷の社会・天皇の治政」を潰して仕舞った。
    これが後にも続けて起こるが、これが「新撰姓氏禄の格式化」の「後の影響」であった。
    結果として、この「青木氏に関わる初期の歴史観」はこれで変わったが、「花山天皇の事件・神祇官の賜姓」の前段で論じた経緯で、「源氏1221年に自らも潰れる破目」と成り得た歴史観であった。

    筆者は、この「青木氏の歴史観」としての長い歴史的経緯に基いて観て、これは何度も論じている事だが、“「先の読めない思考の嵯峨天皇の大失敗」であった”と観ている。
    それを、何と「嵯峨天皇の子の仁明天皇」が、これを“「嵯峨天皇の失敗」と観て、「出自元の青木氏への修正策」を講じたが、これが「修復させた真の経緯・記録」である事を物語る。
    要するに、「青木氏族」に先々大きい影響を与えた「嵯峨期の新撰姓氏禄の政策・格式化/源氏化・猶子策の乱れ」はここでも失敗していた。
    逆に前段でも論じた様に、「四家四掟四門に伴う全ゆる制度」を敷いた。
    これに依って云える事は「四掟の青木氏族」は、「態勢を確立させて強くなった事」が「氏族存続の一つの要因」に成り得たがこれが「青木氏独自の歴史観」だ。

    注釈 念の為に、「施基皇子」が長い間を掛けて全国を歩き廻り集めた資料を「朝廷」に提出した。
    これを「撰善言集」は、「大宝律令と養老律令の基」に成ったが、それに基づいた中にあった筈のこの「全国に散在する姓氏の記録」から「抜き出した資料」を基にして、その原資料を基にして「新撰姓氏禄」が編集されているのだが、この「制度」の“「格式化の詳細」”は「青木氏の歴史観」より観て次の様であったらしい。
    「「新撰姓氏禄の格式化」の「青木氏」が調べた「青木氏の調査歴史館」
    その原資料を先ずは「格式別」にしたある。
    先ず「朝廷が認定した氏の族 イ」と、「国家が定める諡号の姓の族 ロ」とで、「二大格式別・イとロ」に先ずした。
    更に、これを次に「職業別に格式 ハ」を加えた。
    これに、「皇別と神別と諸蕃 ニ」にした。
    以上の「三大格式別」に分けて、合わせて「統合五格式別」にした。
    これを、“「八色の姓制」”を基にして、“「13色の姓の諡号姓別」”に区分して、“「13格式別」”に分けた。
    更に、この“「13の諡号姓の格式別」”を、“「959の姓範囲・奈良期の調査範囲」”に確定させたものに成る。
    それを「異なる数」で、“「13に配別」”して「格式化」を図った。
    つまり、これを“「律令国家の役職別」”までに、この「限界」を決めて割り振った。
    これに合わせて、「個々に官位を与えて格式」を、“限度化し権威化した”としている。
    この“「13格式別」”は、これを見分ける為に合わせて、“「帽子と服装と衣布の色分」”等まで格式を定めたものだとしている。
    最後には、上記のこの「三大格式別」には入らない“「一般格式を持たない姓」”には「否認定の雑姓・重要」、つまり、“「諡号」”とは別に、“格式を与える自己申告制」にし“「一つの低格式」”を加えたと成っている。
    この「皇別の格式別の真人族48氏」にだけは、更にこれを分別して“「二大別の細分化」”をしたとしている。
    それは、“「上位の13氏の尊属」と「下位の35氏の卑属」”として、その“「扱い」”を分けたとするのだ。
    そして、次の格式の「朝臣族101氏・98氏」に対しても、より“「皇族に近い族・賜姓氏族・a」”と、“「皇族に遠い族・家臣族・b」”と、“その「中間の族・aとbの血縁族・c」”の“「三つ族」”として、大まかに「格式・扱い」を変えたが、これが上手く行かなかった。
    当初はこれに対しては矢張り大反対を受けたが、「朝廷の懸命の協力的な努力の甲斐」もあって、ある程度に浸透し効果があった。
    然し、時代が進むに連れ必然的に起こる「現象・形骸化」が起こった。
    これが後に勝手にどんどんと細分化させて仕舞って、遂にはこれが「搾称等の格式化」に繋がり「平安末期」には「猶子現象」も手伝って「格式化の重要度」は殆ど低下した。
    そして誰がこの「原本」を持っているか判らなくなって紛失しているこの「新撰姓氏禄原本」に、“「平安末期頃」に勝手に「上記の低格式にも入らなない成り上がった族・室町期勃興族」”に依ってこれを書き加えられた様子である。
    つまり、「未完成の新撰姓氏禄」は、この「紛失したとされる原本」は、歴史的経緯から観て、先ず「藤原氏摂関家」の手に渡り、それを基に「勃興族等を引き付ける為の道具」として使われ、「賂と政略の代わり」に「書き加えると云う事」に使われ、又、「猶子の事」にも成ったと考えられている。
    そこで「上記の格式論」としてあり得ない族、即ち、最後には、“上記した、この「三大格式別」には入らない、“「一般格式を持たない姓」”には「否認定の雑姓」、つまり「諡号」とは別に、”「別の格式」を与えて、「自己申告制の“一代限りの一つの低格式」”を加えた。
    この「否認定の雑姓の認定作業」は誰がしていたのか「疑問・判明」が遺る。
    「新撰姓氏禄の格式化」の真のものは、以上とするものである。
    その着け加えられたものとするものには、全て“「地方の第二の姓の名」”である。
    「新撰姓氏禄の基本」とする「四家四掟四門族内の格式論」には入らないものであった。

    上記した様に、この真実の「新撰姓氏禄の青木氏の歴史観」から観て、「平安期の初期の目的」は、「室町期の目的様」にして付け加えられる事が起って仕舞ったと云う事なのだ。
    つまり、[前記の頼政の事」は、その境目の時期を利用して、「より高い格式を望んでいた頼政」が、この“「未完成の格式の新撰姓氏禄」を利用した形跡”があると云う事だ。
    この事から少なくとも「平安末期」までは、この「原本」は「藤原氏摂関家内にあった事」を物語っている。
    その後の「鎌倉期・新撰姓氏禄を嫌う政権」には、「格式を嫌うもの等の下剋上」が起こり始めた。
    「室町期初期」、即ち、「源平期の混乱期の以降期」には、この「弱体の摂関家」から、再び「下克上」で使われて紛失して「行方不明に成った。
    兎も角も、これで以て「律令国家の実質強化を図ろうとした事」は「その効果」は別として「確実であった。

    この「新撰姓氏禄集の原本」の「本体の紛失事件論」には、幾つかの説がある。
    仮に「紛失事件」とすれば、「現象・形骸化が起こり始めた時期」としてこの頃に起こった事が読み取れる。
    それは、反対者にとって“「新撰姓氏禄集の存在そのものが邪魔と成り得た時期」”に成る。
    その時期には、通常はこの「現象・第一期の形骸化」が起こるので、歴史観から「政治を握った平家の全盛末期頃」か、或いは「源平期の争いの時期以降」に成る。
    丁度、「前段の論」に絡んで「以仁王の乱の前後の時期」、つまりその“「格式化」”を「絶対的に政治的に否定しなければならない時期」であった。
    これは「勃興の武家政治の始期」に成り、「存在そのものが否定しなければならない時期」の此処で「紛失させる事」を恣意的にしたのだが、それが最も効果的と考えられていた。
    その「格式化の効果」が、「格式化」を前提として行う「信賞必罰の特権だけを持った天皇」にだけに、必要としたものであろう。
    この事から、それは「武家政治の始期・府を置かない時期」と成る。
    依ってこの「紛失期」は、「格式形と骸化期」「武家政治化期」「信賞必罰権分離期」が合わさった時期に成るだろう。
    故に、「筆者の論」は、「前段の論」に続き「以仁王の乱の前後の以降の近時期」であるとしている。

    注釈 室町期の中期には、一度、この“「新撰姓氏禄集原本」が見つかった”とする「研究説」もある。
    この「見つかったとする原本とする中味」には、「上記の格式別の判別化」には、“「元々無かった姓」”のものが加えられている。
    故に“「新撰姓氏禄集原本」が見つかった”とするその「原本」とするものには「大いなる疑問」が残る。
    現在では、「この説の原本」は信頼はされていない。
    これは「室町期の新興勢力の勃発期・第二の姓期」、つまり、「上記の格式別化の諡号姓」ではない「農民等の新興勢力勃興期等」と成る。
    つまり、「系譜搾称による格式化を図ろうとした事件」の頃に“「新撰姓氏禄集の原本らしきもの」が見つかった”ものは、当にこの「搾取行為のもの」であったと観られる。
    この“「搾取行為の原本」”とするものには、多くの「諡号ではない第二の姓」が書き加えられていた。
    それは一目瞭然で「上記の論じた判別方式」は、「構成」がそもそもが成っていない。
    その「書き足されている姓」から観て、「新撰姓氏禄の歴史観」を「知らない者の仕業」であろう事が判る。
    上記した「格式の歴史観」を無視している。

    ここから、再びこの「新撰姓氏禄の紛失」の「行方の詳細論」に話を戻す。
    この「原本」の“「格式化の分け方」”から観ると、人間社会の中で果たしてこれが使われるかは「疑問」であって、“相当に無理に格式化を図った事”がこの「分け方」でも判る。
    何故ならば、「当時の慣習」から観てこの「分け方」は違っている。
    「格式化の重要な歴史観」として知っておかなければならない事は、「当時の慣習」とは、これ程に「皇族方を細分化して出来た社会」では無かった。
    限定された下記の「ほん一部の為政に関わるトップ」のものであった。
    これだけの「新撰姓氏禄の様」に「氏姓」を細分化して、それを特定して、「細分化」していれば、“「社会が決め得る自然な動き」”が無く成り、動きは採れない筈で硬直化するものである。
    現在でもそうであるが、精々、「玄孫程度・自分を1とすると5代目」までが現実である。
    「奈良期から平安初期」としても「来孫」「昆孫」「仍孫」「雲孫」までの「4系」では、歴史的に観て現実に記録的には「雲孫」が「呼称」として「記録」に残っている。
    現実には、「実用の記録」から観ると、“「玄孫」”が「限界」であったとされている。
    古代には「三代規定」と云うものがあって、「氏家の格式」を始めとして「冠位・官位・役職」などの「世襲」も「帝紀」にある様にこの“「三代規定」”に全て従っているのだ。
    この「新撰姓氏禄の様」に「氏姓を細分化」してそれを「格式で特定する」のは、この“「三代規定の慣習」”に反してしまう。

    この「新撰姓氏禄の格式化」は、そもそも「天智天皇・大化改新」と「天武天皇の八色の姓の制・冠位官位制度]などにも離反した事に成っていた。
    この経験を長く官僚・反対者」に与えて仕舞っていた。
    それだけにこの「格式化」に限らずこの矛盾に対して「反対」が多かったと記されている所である。
    確かに彼等に執っては「実務上の扱いに困る事」であろう。
    現実は平安社会にこれが存在する限り「長く社会を掻き乱す原因」と成っていた。
    故にこれを「必要とする者」と「必要としない者」が、「隠したり出してきたりとする現象」として「長く紛失現象」が江戸期まで起こり続けた。
    一時、鎌倉期でこの現象は治まったされたが、それは「鎌倉幕府の吾妻鏡の偏纂の影響」によるものであったと云われている。

    そこでこの混乱に於いて乱されない為にも、「青木氏」に於いても「福家」で統一して「女(むすめ)制度」を採っていたが、ここでも矢張り、「玄孫迄を一族の子としての扱い」をしていて「女系養育」をしていた。
    これが限界であったとし、此れを顕著に表すのが「四掟」であって「女系の縁組先」を「血縁濃度」から「此処を限界基準」としていた。
    「相手の女(むすめ・青木氏の一族域)」は、「子域」は無いとしても「系譜」などから「女系」で「孫か曾孫」からであった。
    所謂、「四掟の女系」である以上は、「四掟四門で嫁いだ先」には、そこの「祖母以上」から「曾祖母」、又は、「母の高祖母までに当たる範囲」の「血縁の女(むすめ)」が「一族系血縁」と成る。
    そこが「格式を確認できる限界」であった。
    「中国」に於いてでさえ「四掟の範囲」で「子孫」を「区切り制度」を造って管理していた。
    この「新撰姓氏禄の範囲」は、この「四掟の4倍から5倍程度」まで「系列化」していて、果たして「CPの無い時代」にこんな事が出来たかの疑問である。
    「新撰姓氏禄」を造ったとしても、“どの様な「格式を造るツール」が有ったか”は疑問である。
    「真人族の範囲かその臣下の朝臣族か」の範囲である。
    そもそも「造り得る過程の問題」があった。
    この「ツール」とされるのは、上記した様に「原本」とされる基の元には、「撰善言集/施基皇子」を元としたのが「大宝律令」であって、“「全国」を歩いて調べあげた原資料の中」”には「記録されていた筈の氏姓の族関係原資料」を基に利用して「新撰姓氏禄」が編集されていた。
    だから、“作っている本人の官僚からも反対された事”も有った。
    筆者はここに「説く鍵の疑問」を持った。
    “作っている「本人の官僚」からも反対”の記述には、“それなりの意味を持たしていた”と観ている。
    「記録」を遺した「記述した者・偏纂者の一人」が、つまり“作っている本人・官僚からも反対”を強く云いたかったのではないかと説く。
    とすると、後勘から観ても殆どは実用は難しい「学問的領域の研究様」であったと成る。
    では普通では考えられない程に何故に此処までしたのかである。
    それには次の事が考えられる。
    一つには、実態に無理に合わせようとした事。
    二つには、一の逆の狙いがあった事。
    三つには、「原本」も含めた「家柄の偽物」を出さない為にした事。
    四つには、「信賞必罰」を臨機応変にこの複雑な判別の中で対応しようとした事。

    先ず、仮にこれを使うとすると、これでは“「専門の官僚・令外官式部・専門家」で無くては一般には「判別」が判らなかった”のでは無いか。
    これは「奈良時代」からもあって、この「嵯峨期」に於いても、「この複雑な政治課題」には、「既存格式制」に従わずに、“臨機応変に対応する役所の令外官も設置されていた史実”があった。
    「中国」もそうであった様に、「中国」より持ち込まれた“「特別職制・令外官制度」”が多数新設された。
    この者等がこれを担っていた。
    「桓武期の改革以降」には、当然にこの“「各種の式部職の令外官」”が、この「格式化職」をその都度設置された。
    「青木氏族」も「この一つの氏族」であって、幾つかの「令外官」を務めていた。
    所謂、その代表的な物として「賜姓五役・令外官的役割を果たす役務」がそれである。
    “臨機応変に対応する役所も設置されていたが、その「代表者」が「伊勢と信濃の青木氏」であったと云う事だ。
    この「賜姓五役以外」のこの「格式化に関わる青木氏一族の役務・令外官」には、「信濃青木氏」には「かなりの記録・研究資料」が遺されている事がある様だ。
    それには「重要な史実の事」があってその一つに「信濃」に於いては、この「伊勢」に比べて“「神明社の役務になる事”が多い事が判る。
    次の「特別役務」である。
    「新撰姓氏禄の後の経緯」に繋がる「史実」が「信濃青木氏」に何故か多く遺されていた。
    それは、「官僚反対」の「新撰姓氏禄の姓認証の指定役務」である。
    “その「認証の役務」を誰がしていたのか”と云う疑問である。
    「信濃青木氏」が、「青木氏の格式」を以て「特別な令外官」として「実務」で働き、その「重要役務」は、上記の“格式別の雑姓領域の姓の認証”に当たっていた事が、この「資料・記録」より「史実」として記されている。
    「賜姓五役外」にも、“特別永代令外官”としての「伊勢青木氏」にも、その“格式別の雑姓領域の姓の認証”の記録らしきものはある筈だが、何故か確定したものが見当たらない。
    これは「情況証拠」から割り出せるのだ。
    「伊勢」も「488社の祖先神の神明社を管理する立場」にあった。
    無い事、又は見つからない事は、そもそも「伊勢神宮のお膝下であった事」で、「憚られていた事」が原因している。
    それは「表向きの事」であって、「役目分けの範囲」では、「伊勢」と「信濃」は主にこの“因事菅隷に基く特別永代の令外官”を務めていた事だ。
    そもそも、「拳を挙げた嵯峨天皇」は、“挙句の果てに「青木氏」に頼る以外には最早道が無く成っていた”事を示している。
    「天皇の面子か権威」を護る為にも、土下座してでも「新撰姓氏禄の実行に必要とする事」があった。
    それが、“格式別の雑姓領域の姓の認証を誰がするか”であった。
    そして、その元は“「神明社・質・前段に記載」”に成っていたと実は記録されている。
    これは“「本論の全て」を語る程に「大きな意味」を持っている”。

    注釈 この鍵と成った「神明社の質」とは、前段でも何度も論じてきたが、何かであるがここで改めて説明して置く。
    「皇祖神の子神として位置付けられた神明社」は「中国の習い」に従って、「金山寺や寒山寺の様な寺」が、民の苦しみを救う為に食料や仕事や悩みや全ゆる事を受け止め世を安寧にする為に民に「施し」をしていた。
    これを「質・しつ」と呼び日を決めて実行していた。
    この「情報」を「貿易」で得て、それを「神道の488社の神明社」にここれを宛がい「青木氏の氏族の守護神」として「管理する青木氏」はこれを取り入れた。
    それを「越前・福井の神明社」に主軸を置いた。
    「戦い」で仕事を無くした者等まで救う事に成っていた事が記録されている。
    特に戦乱期から江戸期末期まで幕府に依って奪取されて「神明社」は荒れ果てたが、密かに「伊勢」を通じて「費用」を秘密裏に渡し「全国神明社」を「鎮守社の裏手・祠程度」に隠して保全していた。
    これを通じて限定して「越前の神明社」で密かに「神明社の質を続けていた事」が判っていて、明治9年まで維持されていた事が判っている。
    これが「神明社の質・しつ」、つまり「江戸の享保期以降の質屋」とは意味が少し違うが、「青木氏の神明社」のこれが元に成って「江戸の享保の改革」に利用した。
    この事で「江戸伊勢屋が経済対策の一環」としてこの意味の「質屋・伊勢屋の質屋と呼ばれた」が江戸に増えた。

    「新撰姓氏禄の実行」が全ての周囲から反対されていた。
    この「認定の役目」は、「式部の官僚」が行う事が決められていた。
    この実行を反対されていたが、「頼める権威を持っていた者」は「出自元の青木氏」に限られた。
    それは“「神明社の権威を使う事」”に成る。
    これ以外には無いし、「神明社の権威」と言えど漠然としたものである。
    “その「神明社の権威」の何を使うか”に話は成る。
    それが「質であったと云う事」に成る。
    「喧嘩していた嵯峨天皇派」」とすると、無理にも「伊勢と信濃」に対して、“矛を収める以外には方法が無かった”ので、故に、「賜姓を外した青木氏の力」に頼るには、桓武派のその元の「出自元の平城上皇にも妥協する事」しか無く、前段でも論じた様に、「嵯峨天皇からの仲介策を執ったとする経緯」に符号一致する。
    筆者は、この「窮地にあった嵯峨天皇派」は、「鎌倉期の史書・吾妻鏡の記」から観ても、単に”矛を収めたとする”のでは無く、「出自派の正良皇子・後の仁明天皇・810年-850年・30歳位」にあった。
    つまり、「父親の嵯峨天皇・786-842・第二皇子」に対して“「強い説得」があった”としている。
    そうすると、「信濃青木氏」が、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事は、その「雑姓の認定の先行きまで」を見越して、官僚の代表とする「太政官の反対」を受けていた以上は、唯単に命令する事には成らず、そこで「天皇の内密の令外官命令・因事菅隷」の「絶対的命令権の因事菅隷」を使って「特別永代令外官の役務として務めていた事」を意味していたのではと成る。
    そうすると、この“「因事菅隷の特別永代令外官」”は、“「神明社の神職」”と云う「図式」が成り立つ。
    それが「平安期」を越えてからは、「全国の488社の神明社の質」が行っていたものから、この形が前段でも論じたが、最終は488社全社で行う事が出来ず、前段でも論じた様に、「雑姓申請と格式認定」以外は「越前の神明社の質」に集約されて行ったのであろう事に成る。
    つまりは、当初から、“「青木氏の永代令外官」”=“「神明社の神職」”=“「中国原形の質」”の関係性があった事に成る。
    従って、「平安期」に於いては、「青木氏族=賜姓五役+令外官の格式の関係にあった事」に成る。
    「信濃青木氏」が、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事に成っていた以上は、全国の「488社の神明社」から密かに「雑姓申請と格式認定とそれ以外の質申請」を受け取り、それを「雑姓申請と格式認定」は「信濃の神明社」に送り、再び送り返す方式を執っていた事に成る。
    「それ以外の質申請」は「福井の神明社」に送っていたとされる。
    これを「伊勢の神明社が手伝っていた事」に成っていたとされる。

    つまり、その「永代令外官の格式」には、更にその「上位の格式」を確定させる「因事菅隷」や「院屋号の特権」が与えられていた事だ。
    それだけに「賜姓」を外された以降も、「普通の令外官で無かった事」が少なくとも云える。
    それは「個人」では無く「大組織体・青木氏の氏族」で進められていた。
    そして、それも「永代の特権」を以てしてであった事に成る。
    それだけに、その「象徴と成る権威」で以て「朝廷・天皇」に代わって「信濃青木氏の神明社」では、記録にある様に、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務めていた事とするのは充分に納得できる。
    恐らくは、それまでは「毎年の因事菅隷」に「信濃青木氏」は基いていたのではないか。
    要するに、これに応じるのがそもそも真の“「皇親族」”であった。
    それを“「嵯峨天皇派」”は、“この事の「特別令外官にある事」に異論を唱えて、強引に「賜姓外し」を実行したのだ”と観ている。
    然し、これ等の事で「兄の平城上皇との政争の末・戦い・薬子の変まで発展」に成り、遂には「嵯峨天皇」が折れて「妥協策」を執り、この「特別永代令外官」だけは、“暗黙の内で認めていた事”と成った経緯だ。
    これが平安期だけでは無く鎌倉期を経て室町期と江戸初期まで続いた
    この「時系列」で考えれば、上記の「新撰姓氏禄の格式化経緯を検証すればこれは納得できる。
    結局は、「源氏の賜姓」に依って「新撰姓氏禄」で目論んだ「源氏化の格式」は一部で進んだ。
    これを始めとして「他の格式化」は、即ち、「信濃青木氏」の、“格式別の雑姓領域の姓の認証”を務める事に依って進められる事に成った。
    それが「出自元を護った仁明天皇」による「嵯峨天皇への説得」が功を奏した事が云える。
    「鎌倉期の史書吾妻鏡」に依って褒められている記の「出自元を護った仁明天皇」は、当に記録が無いが「神明天皇」と読めるではないか。
    証拠はないが「青木氏の歴史館」として、その功を以て「正良皇子」はこの「神明社」から名付けられたとも観える。
    筆者は、結構、信憑性がある様な気がする。
    然し、「嵯峨天皇」は、「天皇家との距離を離す為」には、故に「青木氏族・伊勢と信濃」では、以後は“「影の特別永代令外官”として務めた経緯」と成っていたのだ。
    だとして、この“「影の特別永代令外官」”と成る以上は、その「実行組織とツールとその財源」が絶対的に必要である。
    これが前段で論じた様に、“「影の役務」”である限りは「賜姓五役」として「院屋の屋号の特権」を与えられた上で、それに基づく「因事菅隷・天皇からの密書」で「実行権を与えられた事」がそれに当たる。
    この「信濃青木氏の務めた史実」に基づくこの“格式別の雑姓領域の姓の認証”は、それでも「象徴と成る権威・皇親族」は、「賜姓外し」があったとしても、その「賜姓の権威」は急に消える事は無い。
    その為に、それからもこの役務は続けられたと観られる。
    「平安期末」までは此れを「暗黙の内に認めていた事」に成る。
    「平安期の諡号姓」に拘わらず、「室町期全般に勃興した農民など」から興した「雑姓領域の姓の第二の姓族」に付いても、この「信濃神明社の象徴権威」を大いに使って彼等は与えられた姓を名乗ったものであった。
    故に彼等は、この“「神明社の権威性」”を前提に世に対して憚ったものだ。
    「江戸幕府」は、朝廷は別としても幕府意外に超えるその権威を嫌った。
    それが「神明社に向けられた経緯」であり、其の上で「信濃事件」が起こった。

    ここで注釈として、“「信濃青木氏の務めた格式別の雑姓領域の姓の認証”に付いて、「伊勢の神明社」にも無かったのかと云う疑問がある。
    原則的には「伊勢」には無かった。
    それは次の理由に依る。
    伊勢には最上格式高い伊勢神宮がある事で「一般的な姓認証」は憚れた事
    伊勢は「北部伊勢郷士衆50衆」と「南部郷士衆50衆」とで全体を治めていた事
    伊勢は「北部200村主衆組合」と「南部200村主衆組合」で細部を統治していた事
    伊勢は奈良期から「不入不倫の権・天智期」で護られ、外部の武力集団が原則入れなく無くしていた事
    以上に依って「伊勢」には古くから「施基皇子の後裔系の青木氏」と云う「一定の高い格式を持った氏族」がいて「伊勢王」としても統治していた為に、「格式別の雑姓領域の姓の発生」は原則なかった。
    「認証権」が有っても「伝統の掟」を護らない事には上記の組織で潰される羽目に成る。

    注釈 桃山期・室町期末期には、この「伊勢」にこの「禁令破り」をして「武家貴族の畠山氏」が入った。
    この為に家臣に成ろうとして「各地の伊勢以外の周辺からの勃興族・国衆」が入り込んで来た。
    故に北畠氏は直ぐに勢力を持つが「信長」にその「家臣団の弱さの脆弱な点」を見抜かれ、「信長の調略」で簡単に占領され、この「禁令破りの北畠氏」は潰れる。
    前段で「伊勢での蒲生秀忠の論」でも論じた様に、「奈良期からの禁令地の占領と言う汚名」を受けずに「信長」は、自らの力で禁令の伊勢を責めずに「伊勢」を手に入れた。
    これと同時に、結局は「固められた伊勢」では「国衆」は存在し得ずに結局は飛散してしまった事に成った。

    この様に、主に「皇祖神の子神と云う格式」を持っていた「伊勢と信濃の神明社」ではあったが、外にもこの「認証の内容」が良く判らないが、「紀州日前宮」の様な「伊勢神宮の前の遷宮社・約64社の国幣社格」でも、「信濃以外」にも「地方での“格式別の雑姓領域の姓の認証”の権の様な役務」を担っていた事が資料に記されている。
    これに付いて検証したが、現在でもよく行われている「神社の御朱印の状」様なものであったらしい。
    これが上記した「信濃」の“格式別の雑姓領域の姓の認証”では無く、「一般の裏書き」の様な“「軽い補償」”であった。
    これは主に「武士階級」では無く、「農民などの一般の民」を対象としたものであった。
    この「格式化」を意味する「氏姓分別の時系列の歴史観」としては、そのもので無かった。
    ところが、後に「江戸期の第三の姓族・大日本史記載」が現れた。
    その結果で、“「神明社の権威・荒廃した」”を「青木氏」から奪い、それを「府内」に引き取った。
    その上で、この「姓認定の権威を持っていた神明社」を荒廃させた。
    明確に「青木氏の認証の権威」を「江戸初期の幕府」に低下させられた。
    その「神明社の権威性」も無視する程度に低下させられた。
    その代わりに「幕府」は、「青木氏の神明社・令外官の役目」に代わって、“幕府発行の「国印状/黒印状」”と云うものを発行した。
    これを前提として「家臣・媒臣・陪臣」と認定し「幕府の権威付け」をした。
    その「窓口」を「武士身分」に依って「幕府や藩」から「国印状・黒印状」を取得した「上位の者」から更に下位に発行する方式を採用した。
    「府が発行する事」で「藩主」と「御家人等」は新たに「任命権」を取得し、それを得た「藩主」と「御家人」は、その「家臣」にも「国印状・黒印状とも記する」を発行して「家臣」である事を証明した。
    それを獲得した「家臣とその媒臣」にも更に「黒印状」を発行させて、その「媒臣」からその「陪臣」にもこの「黒印状」を発行して「権威の連座性」を関連付けた。
    その理由は、それまでのこの「象徴権威の神明社・青木氏」を「府の存立の邪魔」として、その「存在」を否定された。
    故に「信濃の認証権威は高かった事」からは、「土地を奪う、職を奪う、権威を奪う、格式名を奪う、家人を奪う、神聖域を奪う等全ゆる事」をして、これでもかとして徹底的に否定した。
    これが前段でも論じた「吉宗の享保期」であって、その「吉宗に裏切られた様子」が、「信濃の記録」として公的に記されている。
    上記以外には、「伊勢」にも「伊勢詳細の事」として記されている。
    「幕府」に「撤収された社・488社」のその後は、完全放置されて、荒廃し続け、それに従ってこの「青木氏の賜名者の格式認証の権威性」も合わせて低下させた。
    その逆に「幕府の国印状の権威性」を高める為に、この「権威性の権利」を利用した事に成った。
    “「農民等の勃興」”で、この「格式力・格式化」は、全く意味を成さず必要が無く成った。
    その代わりに「武力」が主体と成って、その必要性は無く成った。
    この「連鎖性の権威」には、その前提となる「武」に対する「負荷・義務」を架けて護った。
    この“「武と成る前提・府」”が崩れれば、“「単純な人と人の繋がり」”に成り、“「武力の体制・府」”は崩れる。
    故に、「権威の移動を図る事」に伴って、“詳細に定めた「武力の義務化」”を図った。

    これが、「青木氏神明社」が大きく係わった「嵯峨天皇の新撰姓氏禄の格式化」から変化して、遂には「秀忠に依る武家諸法度」であって、「武の規範」を示して「権威性の確立」を図った。
    これでも「権威性」は充分では無く、追加として「寛永令」等を出して補完した。
    この詳細は「石高」に応じて「武器数や家臣数とその構成形式」まで詳細に決めた。
    だが、これで「第二の姓、第三の姓、第四の姓の権威性」は、「神明社・青木氏」から変位して完全に「府」に移動した。

    注釈 この「国印状・黒印状の発行」には、「大きな一つのトリック」が込められいていた。
    それは、発行と同時にそもそも「勃興族の発生があった事」から、彼等には「全く無かった権威性」を高める為に、その前提として、「元々なかった姓の系譜」を無理に求める様に成った。
    「第二、第三、第四の姓族」には「系譜/義務化」などはそもそも無い。
    そこで困った彼等は、「神明社の格式別の雑姓領域の姓の認証」の際に、その「権威の元に成っている情報」を利用して、「偽の繋ぎ技合わせの系譜」を、この「神明社」に造り上げて貰った。
    それを提出すると云う「裏商い・高額」を密かに行った。
    これで「府と認証者と姓の第二、第三、第四の姓依頼者の利害」が「系譜」で一致して最後は「神明社の裏認証」を黙認する事」と成った。
    この「系譜作成の元」と成ったのが、前段でも論じたこの時に使われたのが「紛失したとされた新撰姓氏禄」だと云われている。
    とすると、「「撰善言集の写し」か「紛失した新撰姓氏禄」が、何故か「神明社の中」にもその「写しの様なもの」が広くあった事と成る。
    「頼政と藤原氏が所有していたとする事」から、時系列から観て「神明社の青木氏・原資料」も持っていて、それを「格式別の雑姓領域の姓の認証」の際に「神明社」が使っていた事が判る。
    更に「四掟関係のある彼等」の「守護神の春日社」にも「配布した事」は充分に考えられる。
    この基を造ったのは、「撰善言集編集・朝廷に提出」の際に付け加えたとするこの「編集の基」と成った「全国の姓族と氏族の系統図譜の集録」であって、それが「施基皇子偏纂」とすれば、これは符号一致して不思議は無く納得できる。
    それが「格式別の雑姓領域の姓の認証」の際の「神明社が使用した」とすると理解できる。
    「格式別の雑姓領域の姓の認証」の「神明社」には、「純粋な意味」で認証として持つ必要があったかと考えられる。
    故に時系列としては、「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」の前の「光仁天皇・施基皇子の第六男・青木氏」の期の「第二の格式化の姓氏禄の編集時」の「紛失の物」であったとすれと納得できる。
    それが「青木氏に遺っていた」とすれば符号一致する。
    後刻、それが「府」にも渡って「系譜搾称」で上手く悪用されたと観られる。

    「戦乱の世の室町期」から始まり「安定した江戸期」には、この「新撰姓氏禄の格式化の効能」は、別の物と成って「下克上」で完全に消失した。
    ここで「重要な経緯」があった。
    ところが、この「格式化に依る権威性」が低下し始めた「室町期」でも、「神明社の象徴権威の伝統」を頑なに護っていた「神明社族の青木氏族」を以てして、今度はこれを“「律宗族」”として再認定した。
    再び「神明社の象徴権威の青木氏族」を認め高めた。
    “社会に「ただ一つの伝統を護る氏族・律宗族」として”、社会に「正親町天皇」は再提示した。
    これも、「府の思惑」でその元と成る「神明社の権威・皇祖神の子神の権威」を江戸期初期に弱体化せられた結果と成った。
    その前の「正親町天皇」が図った「朝廷の権威回復策」も合わせて失敗し、「律宗族の権威性」は向上する事は最早無かった。
    「江戸期から明治期」までにも、この“「律宗族」”には「権威性・格式化」は現実には低下したが、世間の中には今度は、「御師」から“「得宗家・徳宗家」”と呼ばれて変わっていた事が記されている。
    この「元神明社の青木氏」の“「徳宗性」”は、「氏族の中」では明治35年まで消える事はなかった。
    “「言い伝え」”では、「府」から奪われた「神明社・伊勢と信濃」は、“隠れて小さい祠を造り、「府が存在を認めた鎮守府神社・協力」の下で、「その裏手」に隠して護っていた”と伝わっている。現存
    恐らくは、未だ「“律宗族・室町期”」から「“得宗家・明治期”の呼称」に移り変わり、その通りに、それに連なって“「神明社の権威」”も、「国印状に縛られた高級武士」は別に、「庶民の中」には依然継続されていたものと筆者は理解している。

    注釈 この「鎮守府神社」は、「中国仏教の伽藍神」が起源とされる。
    それが日本にも伝わったものであり、そこで「源氏の八幡神社」と同様に、前段で論じた「源氏の守護神の成した事」と同じ様に、“「神仏習合」”が結果として「鎮守府神社」にも起こった。
    この別名で「鎮守府神社」は「鎌倉期」に於いては「神仏習合」から「鎮守府八幡神社」と呼ばれる由縁と成った。
    「江戸幕府の資料」から多くは「鎮守府神社・県格」としている。
    これは「鎌倉期の経緯」を其の侭に踏襲しなかったと云う事である。
    その「日本の鎮守府の寺院等」を護る為にも、この中国由来の“「鎮守府神社の考え方」”を以て護ったとする経緯である。
    この時には、未だ日本には歴史的に“「建造物や土地を護る神」”は無かった。
    そこで、この「鎮守府神社の考え方」を拡大させて、これに当てたとする経緯である。
    古来、“地方の豪族の間には既に個々に「地主神」”と云う神があった。
    これには問題があって、その上に建つ“「建造物」”には「神」は無く、この別にあった「地主神の考え方」を抑えてこれに当てた。
    「土地と建物の神」に対しては、結局は、「土地と建物の神」には、“「鎮守神の存在を認めさせた事」”にしたのだ。
    これが「日本の鎮守府神社の経緯」である。
    そこで「江戸幕府」は、言い分通りにこれを改めて統合させた。
    そして「逆転現象」を起させて“「鎮守府神社」が「地主神」をも護るもの”とした。
    その“「地主神」”よりも「霊威の強い神は鎮守神」として改めてた。
    これを「鎮守府神社側」に、新たに勧請し直しさせた。
    故に、先に祀った方が“「鎮守神の歴史」”であるとした。
    この結果として「建造物の鎮守神」に対して、“「土地の地主神」は「補佐役」に廻った”として「府の意思」に沿って「考え方」を纏め統一した。
    要するに、これは「地主神派の考え方の強い豪族」と「鎮守神派の考え方の強い豪族」との「争い」がそこには有った事を意味し、その「話し合いの結果」として「上記の考え方」に纏めたとした。
    結果として、「幕府の意思」に沿って「小さい地主神」が習合した上で消えて「大きい鎮守神」に統一されて、どこでも祀られる様に成った経緯である。

    さて、ここで比較するとその「一つの青木氏族の氏上社・守護神で皇祖神の子神」としていた事であって、「青木氏の神明社・488社・大日如来神・太陽神の事」であるが、然し、その“「組織の余りの大きさ」と「その権威の大きさ」と「その歴史伝統の長さ」”で、「幕府」が纏め上げた「鎮守府神社と地主神」のものと違って、「江戸幕府」にとって上記した様に「神明社の権威性」を邪魔視される様に成った。
    結果として「潰される羽目」と成った。
    “「邪魔な神明社」から「江戸の幕府が造った鎮守府神社」に切り替えた”と云う事に成る。
    江戸初期に起こった事である。
    この“「神明社」”は、そもそも「皇祖神の子神の格式」を獲得して、「一族神の氏族社・青木氏族血縁集合体の青木氏」であって、上記する様に平安期に於いては未だ大小はあったが、ある意味でこの「中国由来の「鎮守社・地主神」と対抗する立場に成っていた。
    江戸期の「神明社の権威潰し」で、結果としてこの「低い格式の鎮守府神社・地主神」に助けて貰う形と成った。
    鎮守府は大きく成ったと云う経緯である。
    故に現在も遺る「鎮守府神社の裏手の影」には、「鎮守府神社の力」を借りて「神明社が存在すると云う経緯」である。
    此処で疑問なのは、「地主神」を集合した「鎮守神の鎮守社」は、「大きくなる事」で「神明社の様に潰される危険」があった。
    この鎮守社は何故か「神明社の影の存在」を否定せずに保護したのだ。
    それは、この「神明社が完全に潰される事」は、次は自分達の鎮守府神社であると考えて、影でも良いからその「信仰の力を温存させる方」が得策として庇った。
    そこで「江戸幕府」は、「鎮守府神社」のこの態度までを潰す訳にもいかず、「神明社を潰す」が、“「影の存在であった事」”で黙認したと経緯と成る。
    その「黙認」の「裏の意」は、そのそうする事で「鎮守府神社」にも{青木氏の財」と「古来からの影の権威・庶民の信心」を獲得するに「利点」が有った。
    「幕府」からその責任を攻められれば、「知らぬ事」で逃げられるし、現実に攻められた恐れがあった事が記されている。
    「福井の神明社」や「伊勢・桑名」でもこの事が記録されている。
    結局、「桑名の記録」には現在も遺された資料には、“「幕府」も黙認の姿勢を採った事”が記されている。
    結果として、これが「伊勢」には「神明社の地」として「集中して19社」が遺った.
    その経緯では、現実には“権威性は低下した”が、現在も“「祠の形」”である事は別として、遺されている所以でもあった。
    この「神明社の扱い」は、古来、「伊勢王の権威性」であった所以でもある。
    「伊勢」より[より厳しい処置を受けた信濃」は、“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の役務の「神明社・18社の信濃神明社」も同然の経緯を持った。
    「伊勢郷士衆50衆の氏族」との関連を持った「伊勢の郷士の豪族」の「土地と建造物の地主神と鎮守神の社」の御蔭でもある。

    注釈 「秀郷流青木氏の春日社」も「神明社と同然」で、全段でも論じた様に「幕府から酷い扱い」を受けた。
    これには「秀郷流青木氏族の春日社」の「社格・361氏の大秀郷流一族一門・幕府の御家人」の「国幣社の社格式」を“「神社格」”に落としてでも一部は難を逃れた。
    当時は、“「春日社の社格」”>“一般の神社格」”であった。

    さて、それまでの“「第二の姓”の発生」に対するこの“「神明社の姓認定の権威」”は、上記した様に、今度は「江戸初期の第三の姓の発生・大日本史記載」でも、最初は“「信濃の神明社の姓認定の権威」”によるものとして認められていたが、これも「幕府の国印状」に代えた。
    続けて「第四の姓の発生・諡号を模倣した姓名」が起こったが、これには流石に「幕府」は「禁令」で以て別に「姓変更」を命じた。
    変更しなければ「認証の国印状・黒印状の発行」を認めなかった。
    そこで、その「幕府」に依って「青木氏の神明社の権威」が低下させられた狭間で、その「神明社の青木氏の歴史観」には、前段でも何度も論じて来た様に、「大きな変化」を来した。
    それには「一つの青木氏の事件・下記・享保期頃」が最終的に伴って来た。
    その「上記の経緯の過程」で確かに「神明氏の権威性」が無く成った。
    その事のみならずそれだけでは治まらず、それが「享保期の信濃神明社の聖域とされる土地の剥奪事件」と、その「神明社で行う全ての殖産の没収事件」と成って現れた。
    この事に「伊勢」は手厳しく反応した。
    「吉宗の青木氏に対する離反行為」として認め、それまで[莫大な投資]をして「吉宗の江戸の経済改革」を手伝っていた。
    滞在していた「江戸の伊勢青木氏・日本橋」にも「信濃への幕府の離反行為・隣りに住んでいた「近江青木氏の事前情報の獲得」で知り、同じ事が及ぶとして「即座・3日」に「伊勢に引き上げるという事件・最後の幕府との付き合いと成った事件」が発生した。
    そこで、改めてこの「信濃」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の役務は「信濃だけ」であったのかと云う疑問である。
    「伊勢」に於いても勿論の事で、「近江」に於いても「美濃」に於いても「甲斐」に於いてもそれを示す「確実な資料記録」は、「信濃神明社以外」には何故か出て来ない。
    勿論、この「信濃」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「認定の役務」は「因事菅隷」による「奈良期」からの「永代特別令外官としての役務」から来ているものだ。
    その「経緯」から、「伊勢」にも「別の因事菅隷」が多くあった以上は、少なくともそれを示す「資料記録」は、「伊勢」にもあったと考えられるが、ところが「伊勢19社の神明社」にも発見されないのだ。
    一つは「伊勢」には「神明社以外」に「伊勢神宮と云う権威」が別に存在していた事
    二つには、「伊勢19神明社」には、他に無い意味のある「特別な名」がつけられている事
    以上から「信濃の代理」を務めていた事が判る。
    この「古くからの特別な名」が何を意味するのかである。
    因みに、「五家五流の国の神明社]は、「近江の3社」で残りは全て時代の異なる神社格、矢張り前段でも論じた通りに疎遠であった「美濃」には0社、甲斐にも0社である。
    この「信濃」は「16社」であって、殆どは不思議に「山梨との国境西側」に存在する。
    この事から、「伊勢19社」と「信濃16社」であるとすると、「伊勢19社」には、“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「役務」は無い事に成る。
    少なくとも「信濃16社での役務」に成る。
    そうすると、この「伊勢19社」では、「伊勢神宮の上位の権威」がある事」から憚って、“「信濃の代理の役務」”で果たしてしていた事を意味する。
    ところがその「役務種」に依っては「伊勢の役務を持つ神明社」は、「社名」として「名を着ける事」で特別に仕分けしていたとしている。
    本来は、「神明社に名を着けない事」が、「古くからの決まり」であって、これは「青木氏の伝統」である。
    特別にこの“「格式別の雑姓領域の姓の認証の役務」”では、自然に判り易くする為に、一部に「俗名・全部ではない」を着けたのだ。
    然し、「伊勢の神明社」は、上記した様に「江戸幕府}に依って初期に剥奪されて「管理」までを「幕府」に移されたが、実はそれまでは「青木氏の商いの財]で賄われていた。
    その「管理費用が莫大にかかる事」が判ってから放置されてしまった。
    この事で荒れに荒れて、遂には果てた。
    然し、それでも“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「役務の権威剥奪の目的」、「幕府」として邪魔に成る「青木氏の権威」で、この「低下」には、その「「目的」に置いている事に合致していた。
    然し、「伊勢と信濃」は「幕府の圧力」にここでは我慢した。
    遂には前段でも論じた様に、幕府側は我慢できずに「信濃」に次の手を打って来た。
    「伊勢」は直ちに、事件発生後に「伊勢」に帰り「防御策」を採った。
    この時、「郷土史の記録」では、「全国の488社の神明社を信心している民」から「幕府に対して批判」が噴出したが、“押し潰された”と記されている。
    「信濃」は、最早、前段や上記した様に「信濃の家人」も含めた「幕府の奪取策」で根こそぎに奪われた。
    この為に何の動きも執れなかった事が判っていて、「記録」にも遣られるままであったとその様に記されている。
    前段でも論じたが、“何せ信濃の家人の多くが家臣として採用されて仕舞い口を出せなく成っていた”と前段でも詳細に記した。
    “伊勢は、「神明社の剥奪」から始まりこの「吉宗の裏切り行為」に対して我慢ならなかった。”
    そこで、“この「吉宗の裏切り行為」に対して「伊勢」は何かしたのかである”が、資料の行の表現に付いて参考に成る事が無いか詳細に調べた。
    そして「基本と成る判った事」があった。
    それが戦略として、前段でも論じている“「紀州藩を背景にした事」”であった。
    前段でも論じたが、「紀州藩・初代頼信から」とは「初代から付き合い」があって、前段でも論じた様に「債券」も「2万両以上から10万両とする記録」もあるが、故に「紀州藩の財政の立て直し」の為に採った「勘定方指導と云う立場の獲得」と「紀州藩の家老も含めて全ての紀州藩の家臣」は、全て「伊勢青木氏と縁戚関係」にある「伊勢者・伊勢藤氏」であった状態にあった。
    「吉宗の側用人の加納氏の伊勢本家との血縁」までもして「周り」を手堅くまとめて、吉宗にこれ以上の圧力を受けない様にした.
    この事から、「吉宗の幕府」は、「伊勢」は勿論の事、「信濃」に於いても先ずは手が出せなく成って仕舞った。
    更には「瀬戸内の水軍」と「紀州水軍」と「摂津水軍」と「駿河水軍」を以てして、「伊勢の山田奉行所」にも大圧力をかけた。
    次に幕府から派遣されていた「紀州藩付家老」の「二人の居所・白浜城と田辺城」にも「伊勢藤氏の武装勢力・郷士衆」が周囲を囲み「武力的圧力」を「背後」からかけて幕府派遣の「目付役の付家老二人の動き」を止めたと記されている。
    他には、それまでは「関西域の海運」を一手に取り締まる「山田奉行所」に対しても、「伊勢水軍」から始まり「海賊の紀伊水軍」や「摂津水軍」や「瀬戸内水軍等」が西側一斉に結束し、「摂津湾」に「摂津水軍組合」を作って、自らで「伊勢から瀬戸内まで」の「自己管理監督の仕事」をし始めたのだ。
    この事で、その「山田奉行所の存在価値」が弱体化した。
    その「勢力バランス」は「摂津水軍組合」に完全に傾いた。
    この域を警備の管理監督していた「伊勢郡奉行所」に付いても、これを仕切っていた「伊勢郡奉行所の事件」も「無理難題」を「伊勢」に出して来た。
    これに対して「家康」の「伊勢青木氏」に出した「伊勢の事お構いなしのお定め書」を提出して対抗したが、これをこの時の「奉行の大岡忠相がこれを無視した事件」が起こった。
    これを不服として提出するも、これは「正しい裁定」として「吉宗が追認した」。
    そこで「伊勢」では「郷士衆100衆の大騒ぎ」と成った。
    この時、収まりが着かなくなった末に、この「問題の奉行の大岡忠相」を江戸に引き上げさせてこの事件を治めた。
    これで「完全な犬猿の仲」と成ったが、「紀州藩」はこれに対し「幕府」に「異議・家康の尊厳・お定め書の尊重」を唱えたが無視した。
    結局は「紀州藩を巻き込んだ対立関係・家康の尊厳の無視」がここで生まれた。
    そこで「紀州藩」は、「吉宗の出自元」であったが、「家康の尊厳を無視した吉宗出自藩の印象」を打ち消す為に「安芸の松平氏」から「養子を迎える事」にして「吉宗の縁」を切った。
    この事で「吉宗」は「紀州藩に対しての発言力」を全く無くした。
    「江戸幕府」が最も嫌っていた「天皇家の力」を開幕時からその力を最低限に弱める策を執っていた。
    この期に、「財政支援」を「幕府の財政難を理由に打ち切っていた事件」が更に起こった。
    この様子が「記録」に遺るが、その「記録」が伝える処では、宮廷はお化け屋敷の如くで、これには到る処の壁が崩れている様に記されていて、その締め付けを更に強めて来た。
    そこで「鎌倉期より献納を控えていた伊勢」は、これを観かねて、ここで記録にある様に、再び「多額の献納を一次的に開始する事」にした。
    これ見よがしに「献納の車列」を態々大事に、大げさに組み、且つ、旗をなびかせ見せつけて対抗したと記されている。
    「旧来の南紀の旧領地・江戸期」にも「伊勢青木氏の土地・地権保持」に対して「難癖」を着けて奪おうとして来た。
    これに対して「伊勢郷士衆南北計100衆と村主衆の南北400村主衆」が一致結束して「一揆・集団反発」を起し、これに厳然と対抗したとある。
    この時は「紀州藩の管轄」でありながらも「この一揆」を「紀州藩」は“「本来の一揆」”では無いとして黙認したのだ。
    それは、所謂、「農民」が「宗教的背景」を以て「年貢」に対して「城主に不満」を起こすものでは無く、「農民」を含まない「伊勢郷士衆南北計100衆と村主衆の南北400村主衆」の要するに「伊勢を指導する郷士衆」であり、「一つの氏族」が起した「自らの改革運動」であって、「藩主」に対するものでは無く、且つ、「利害」を生むのものでは無いとして突張ねた。
    「幕府」は、この「紀州藩の反抗する態度・明治維新まで」に対して、この「一揆の取り締まり」を言い渡して来たが、これを「以上の言い分」で無視した。
    最早、「後ろでの背景」と成っていた筈の「裏の紀州藩」をも巻き込んだ様子で「表」に出る様子を呈し来た。
    ところが、突然、「幕府」はそれ以上に「紀州藩を背景とした行動」に対して、「伊勢青木氏の追及」を止めた。
    それは「吉宗の脳出血の病気・1645年と1651年の2度」でそれ以上は出来なく成った事件でもあった。
    「家康遺言と伊勢への裏切りと言う二行為」は、精神的に一番に「脳・精神」に残るものだが、子供の頃から育てられた「親代わりの伊勢屋の青木氏」に対して、“親と観られる人・育ての親”に対しての「武士の心や将軍という役目の立場」からの“「精神的なストレス」”は、人に云われ程に大きかったのだ。

    前段で「個々の事象」として論じて来たが、これ等を「以上の様に時系列」で読み込んで観ると、その時の「幕府に対抗した姿勢」が観えて来て、上記した「ある青木氏族物語」が出来て来る。
    要するに、上記に記した様に、「信濃や伊勢」の“「格式別の雑姓領域の姓の認証」”の「奈良期から長年続いた役務の権利」は、ここで遂に剥奪はされたが、「肝心な処は抑えていた事」で無事に寸前で治まる事に成り得た。

    これが「平安期初期から始まった新撰姓氏禄」の「紛失後の経緯」であって、長年に渡って「青木氏の周囲」に多大な苦しみと影響を与え続けた。
    最後、この「変化」が「意にして求めた事」では無かっただけに、「青木氏族」に執っては、未だ遺るこの“「正親町天皇からの律宗族の権威と格式の授与」”は、“「余りありがたい事」では無かった事”とも読み取れる。
    つまり、今度は「江戸幕府」から、これが続けて警戒される要素に成った。
    何故ならば「商いが進んだ青木氏族」には、「神明社の象徴権威の必要性」は、最早、強く求めるものでは無く成っていて、「意識の中」でも薄くなりつつあった。
    その「意識の中」では、この「経緯」としては、既に「江戸期の中」に突入していた。
    前段で論じた「額田青木氏と駿河青木氏の論」の様に、“この「江戸初期の伊勢の事お構いなしのお定め書」”が未だ影にあった。


    >青木氏の伝統 79」−「青木氏の歴史観−53」に続く。


      [No.402] Re:「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/07/10(Mon) 09:41:11  

    >
    > 「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」の末尾
    >
    注釈 参考として、「薩摩藩の島津家の家臣の西郷氏」は、鎌倉幕府倒壊後、「常陸の国衆」は、「西」に先ず流れ、前段でも論じた様にそこで先ず「伊川津・三河」に入り伊川津国衆」と成ったが、「三河の国」が敗戦後に西郷氏は三河を診限りこの「伊川津」から離れ、その後に「薩摩」まで「流れ薩摩の国衆」として流れた経緯を持っている。
    抑々、この「国衆と呼ばれる者等」はその様なものを注し、特段の意味の事は無い。
    この様に、「出世を夢見る小土豪集団」は日和見的に東から西に流れて行く傾向にはあったが、この時期には西の端から東の端の方に流れる傾向はなかったのだ。
    精々、この「国衆の流れの大方」は「中部域・今川氏」で終わっていた。
    それだけにこれ等を抱えて大きく成ったのが「今川氏・国衆集団」であって、それだけに「武田氏等」と違って脆かったのだ。
    況してや、西の端の九州域でもその規模は低いが同然の事が興っていたのだ。
    この現象は「肝付氏」と同然の「伊佐氏」でもあり、この結果としてこれが「日向青木氏の経緯」と繋がっているのであり、東には何の因果も無く、寧ろこの「流れ」は逆であったのである。
    これを完全に結論付ける訳には行かないが、恐らくは関東より東域に流れたとする説は「江戸初期の国印状獲得の所以・後付け説の第三の姓族」であろう。

    「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」

    さて、話を戻して、「伊勢の50衆の郷士衆の氏人等」は、「伊勢青木氏の代理」として「三等官の高級官僚」と成り「南九州」に赴任した。
    然し、当に、「伊勢青木氏族の氏族の郷士族」が「福家」に代わって「三等官掾の高級官僚族」と成った後は、殆どは人気を終えて「伊勢」に戻ったが、この“「戻るまで経緯」”には、それなりに“「戻るまでの流れの変化」”が上記する“「青木氏郷士の掾の変化」”に沿っているのだ。
    この「伊勢青木氏」ならではのこの「独特の経緯」は、一部は其の後の「薩摩島津氏」に属して生き遺った者等がいたが、これは「青木氏族」に、“特記する珍しい時代変化”に抗し得なかった切ない一面でもある。
    故に、此処にその一つの事例である「元伊勢郷士であった伊佐氏」を以てして、前段では論じ切れなかった「詳細経緯」とその「周囲の環境」を、ここは誰も論じない処なので、丁度、時代性が一致する為に特別に此処で論じて置いた。
    ところがこの時期には、つまり、“「平安期の社会」には、合わせて“「源氏化」と云うムードで煽られていた”のだが、この「源氏化の社会」には、未だ良く調べると、余り知られていない「美化された処」が実は多いのだ。
    その為に正しい青木氏の歴史観が偏諱を興している。
    「青木氏の歴史観」としては、「源氏化の時期」は、“特別に知っておかなければならない面倒な時期でもあった”のだ。
    これを「青木氏の歴史館」としてここで関係する色々な歴史観の面からここでも検証して置く。

    この「源氏化の時期」には、取り分け、「青木氏」に大きく関わった“「大口村」”と云う所があった。
    そこには、「伊佐氏の様な明確な歴史と格式を持つ高官」としての、所謂、「三等官掾の高階級の位を持った郷士族」が赴任して存在していた事は他に余り知られていないし発見されないのだし、ところがこの事は歴史的にも珍しい事なのだ。
    それだけに、ここは「特殊な地域」でもあった事に成り、その「伊佐氏の成り立ち」に於いても同然なのだ。
    要するに、この「九州南部の地」は、本来ではあり得ない「三等官の掾階級を持った特別な者が治める地域」でもあったと云う事なのだ。
    この事は其れなりに“意味があった地域”と云う事に成るのであった。
    この所以は、恐らくは、この“「特別な地域」”には、過去は「伊勢」に居たもので、「伊賀半国割譲」と云いう経緯からその所縁で「伊勢王・施基皇子の裔系」に「特別に命じられた重要な役目」で以て、ここに定住し出したものである。
    それがこの時期では、この経緯の延長で「伊佐氏の現地孫」の「住み分けによる定住地」に成った事と考えられるのだ。
    普通は殆どは「国司代級の者」が出向するのが普通である。
    つまり、どういう事かというと、それは、ここは、“特別に周囲と違うと云う事”があって、それが「三等官掾の位と伝統」を持つ為の官吏赴任に「必要な特別な地域」”でもあったと云う事である。
    それ故に、ここに「伊勢郷士」が「特別に住み分けていたと云う地域]であったと云う事であろう。

    注釈 「国司」とは、地方の「行政単位の国」を「統治支配する行政官」として「朝廷」に代わって派遣された官吏の事、又は令外官の事である。
    位は「四等官」であり、「守、介、掾、目の4つ位」があり、「伊勢」から「伊勢郷士・家人級」が「代理官吏」と成って赴任していたこの「伊佐氏」は、この「掾の位」に当たり、「伊勢からの出向と云う事」から一段上の「三等官」であったのだ。
    中国では「中級貴族」に位置するもので、この「伊佐氏」は、態々、「伊勢青木氏」に代わって「伊勢郷士」の中から代理して赴任したと云う事もあって、これを以て「三等官掾」、つまり「中級貴族の扱いを受けていた事」を表すものだ。
    任期は4年から6年で事情によって現地に定着する者もいて、依って、「任期期間」は前後していた。
    その地域の「重要性や特別性やその成績」から「伊佐氏」の様にこの限りではなかった。
    この国司は、政務付いて「祭祀・行政・司法・軍事」を司り、「絶大な権限」が与えられていた。
    その意味で、「伊佐氏の三等官掾」は評価が高かった事を物語る。

    さて、そうすると、この「論じている事件・前段」、即ち、「頼政の1185年前頃」までには、九州のこの特別地域では、「奈良期の末期」から少なくとも「平安期の終期頃」までは、“「伊勢郷士の赴任期の頃」”であった事に成るだろう。
    それ故に、ここは「比較的に長い期間」にあって、この都から離れた「九州南部と云う地方」でありながらも、それだけにこの「南部の特定の地域」のここは、「朝廷から重要視されていた地域」でもあったと云う事に成るのだ。
    それは何故かであり、「何故か大きい事」が此処に起こっていたと云う事に成る。
    それは元々、ここは「奈良時代初期」には、「隋からの渡来人の首魁の"阿多倍王・隼人」とその「父の阿知氏王・阿知」が、「200万人の職能機能集団」を引き連れて「博多」に上陸し無戦して薩摩まで占領して此処に住み着いた地域であった。
    そこから云う迄も無く、後に彼等は「政権」を握った「清盛らの裔祖・桓武平氏のたいら族」に当たり、渡来時より九州全域に、主にここに定住していた所でもあった。
    後に「伊賀の国半国割譲」して首魁らをここに呼び寄せて「重要な伊勢に関わる伊賀」を与えられて「首魁の阿多倍王・伊賀王」は此処に移り住んのだ。
    その前に「朝廷」は、船団を出して九州の彼等を駆逐掃討しようしたが歯が立たずに敗戦した経緯があるのだ。
    そこで結局、「関西の手前」まで無戦で迫る勢いで占領されると云う結末と成ったが、此処で和解し、その代わりに首魁に「伊賀半国割譲と王位の位・敏達天皇の芽淳王の娘を娶る」を与えて「王族」に組み込み前段論の通り定住する事と成ったものだ。
    その子が有名な「坂上田村麻呂・長男」であり、「九州探題の大蔵を担当した大蔵種材・次男」であり、「内蔵を担当し北陸地域」を治めた「安倍氏等に繋がる内蔵氏」でもある。
    この様に前段で論じた様に、それだけにこの「地域」は、平安期に於いては未だ「彼等の氏」の「裔祖父阿知氏王」が、「伊賀半国割譲」と成った後にしても、未だその「裔祖らとその200万人の技能集団」が九州全土に多く住む「特定な地域」として重視されていたのだ。
    それだけにこの彼等が持ち込んだ進んだ「技能で発展したこの九州域」は、「特定地域」として指定され発展して政治経済共に名実供に「特定地域」と成ったものだ。
    別の意味でも彼等の持ち込んだ高度な技能で急速発展したこの地は、技能の面でも都より市場経済も栄えた事で、更に「半国割譲の影響」も受けて、「伊賀の青木氏・伊勢郷士の伊佐氏を派遣する程の経緯」として派遣される事と成り、ここが「朝廷」より認定され「正式な特別地域」と指定されたのである。

    さて、故にこれが「主な経緯」であり、所謂、このそもそも上記した様に、ここには「伊勢青木氏族の氏人・家人」の「伊佐氏の菩提寺」は、即ち、「江戸時代に浄土宗知恩院派と成る」が、故に此の全域は「浄土真宗東西派」が寡占で存在する事の中でも、珍しく「浄土密教の14派中」の“「白旗派」”で存在すると云う事に成った経緯なのだ。
    故に現在でもこの「浄土密教の寺」はたった「2寺」に過ぎないのだ。
    其処にこの「阿多倍王の裔系」が住む「伊賀に関わる者・伊賀郷士伊賀青木氏」を「伊勢王の関係」から、この「九州の地」に配置して監理し、その責任上からここを「宗教」でも「青木氏族が監理監督すると云う事」が起った経緯なのだ。
    それが「伊勢青木氏に関わる伊勢郷士・伊佐氏・伊佐氏の由来は前段で説明」であって、その「阿多倍の所縁」を以て「官吏三等官の掾官僚族」の「高官」として、この「伊佐地域」に特別に配置されたと云うものであるのだ。
    然し、「官吏三等官の掾官僚族」と云えど、そもそも更には、“この地方には「密教の菩提寺を持つと云う事」”が特別に珍しい事でもあり、それも、更には多少に「格式名」などに縛られらた「排他的な格式浄土密教」と云う「独特の宗派・白旗派」がこの地域に存在したと云う理由に成るのだ。
    そもそも「彼等の集団」が統一して帰依していた“「もとの宗派」”でもあって、それ故にも「排他的な格式浄土密教」と云う「独特の宗派・白旗派」で無くては成らなかったのだ。
    その意味でも尚、同宗である「伊佐氏の様な伊勢の青木氏族・伊勢郷士」で無ければならなかったのだ。
    この事は当時としては「極めて珍しい事」であって、「浄土真宗東西派」とその間には歴史的に元々、激しい軋轢があったのだ。
    現在に於いても、「九州全土の9割以上」は、この「歴史的な経緯」により「東西の浄土真宗派寺」が占めている「特別な地域」でもあるのだ。
    そこに、この「浄土密教の14派中」の「弱小白旗派」で、「最小派閥の白旗派の寺」がこの「大口」に存在していたと云う経緯であり、此れはどう見ても歴史的には何かがあっての事であるが、その起こった事は尋常ではない事であった筈なのだ。
    そして、この“「密教の菩提寺」”を調べて観ると、この「密教の寺」は「浄土宗14派中の最小派閥の白旗派」の寺は、つまり「浄光寺系」は「伊勢の清光寺の分寺」でもあると云う事なのだ。
    その「青木氏族が存在する地域」の所には、この「浄光寺」は必ず「伊勢の分寺」として今でも存在しているのだ。

    注釈 明治時代には全国的にも激しく「珍しい廃仏毀釈」がこの九州で起こったのだ。
    それ故にも尚の事で、そもそも「公家貴族しか帰依しない派の寺」がこの地に存在する事はそれさえもこれも極めて珍しい事であった為に「危険な事」であったのだ。
    それ故に、この「白旗派の格式と歴史のあるこの寺」は、「伊佐氏と云う事」も含めて「天皇家に繋がる寺」として「廃仏毀釈運動の浪」を幸いに受けなかったのだ。
    それは、最早、其処に住み着いたこの「渡来人の集団」と「伊勢裔系の高位族の一族の菩提寺だけの寺」と云う事に成っていたのだ。
    これには上記した何か他にも由縁があったと云う事で遺ったと云う事に成るだろう。

    注釈 改めて、これは「平安時代の古代浄土密教派・奈良時代に渡来人等が独自に中国から持ち込んだ古代仏教」を、「青木氏が国造頭であった監理する立場」からも、これに賛同してこれを「青木氏の中」にも「密教」として取り込んで「独自の教え」として「伊勢青木氏」は協賛して「独自の氏の教え・密教」としたのだ。
    然し、それを「古代浄土密教・浄光寺」として確立したものであって、それが後に「特定の武家貴族や公家の範囲・16家程度」で構成して「白旗派」として帰依されていたものである。
    それ故にこの「白旗派・大日如来の古代密教派」は、最小派閥を維持させるだけの「青木氏等の持つ経済力」で充分に持ち得ていたと云う事だ。
    然し、後の平安期には「派」として「密教浄土宗」に組み込まれて行ったのだ。
    それだけに、そもそも「三等官掾の官僚族の菩提寺と成る事」は、実に極めて珍しい事」であって、この「地域」ではそれにあって、「古代浄土密教」として「青木氏独自」に確立していたものであった。
    それに「武家貴族や公家の範囲・16家程度」で帰依させていたものと成れば、この「検証」としてはそのルーツを辿らなくても必然的に前段で、その経緯を論じた様に「青木氏に関わる事」と成り得るのだ。
    この「関わり範囲」で、この地に来た“「古代浄土密教の青木氏の住職の勧め」”を聞いて、「廻氏の裔系と成った仲綱の嫡子宗綱の裔」が、この場で「伊勢青木氏を名乗ったとする所以」と成り得るのだ。
    これには「青木氏の関わる事の歴史的な意味」が大きい。

    つまり、先ず初めに前段でも論じたが、これを以て云い換えれば、この“「注目のその住職の所在」”は先ず気に成るが、つまり、その「検証」として、「青木氏の菩提寺・清光寺の住職・密教の仕来り・白旗派・柏紋最高格位」は、“古来より「青木氏の者が独自に務めるという伝統の掟”」があり、これに従って、この場合はここでは、“「伊佐氏の菩提寺・浄土宗知恩院派・江戸時代に発展・浄光寺/清光寺/西光寺」”である限りに於いては、先ず、“「伊勢青木氏の所縁者であった事」”を更に結論付けられるのだ。
    この「伊勢郷士の伊佐氏の論・前段」と共に、これが「大口青木氏・日向青木氏の青木氏を名乗った経緯論・下記」として繋がり、更に前段で論じた通りの「その後の働きの経緯論」とも繋がって行くのだ。
    それが、「廻氏の裔系と成った宗綱の裔・その後に伊勢青木氏を名乗る」が、其の後に「日向」に来ていた「商船の伊勢の船/伊勢水軍」で以て、「伊勢」に連れて行き、“「伊勢青木氏の裔系」”として育てたと記録にある。
    これは偶然にも「叔父に当たる青木京綱」と共に育てられた事と成り、更には一人前に仕立てた後に「廻氏と宗綱の子」と成る「大口青木氏の関係の経緯」と成るのだ。
    この「検証」は「長い経緯論」と成る為に、此処では「追記の論」として書き遺して置く。
    そして、「平家の追討軍」は、この「伊勢郷士の伊賀青木氏の住職のこの話」を聞いて“止む無し”として「桓武派」として引き上げる事と成ったが、この上記する「伊勢との血縁関係の経緯」を既に知り得えていたのだ。
    この「平家一族の四掟の範囲」にあった「日向平家の掃討軍」は、上記する様に「伊勢」から来ていた「青木氏のこの住職の説明」を聞いて、この「浄光寺」から掃討もせずに、同じ「桓武派」として理解して引き上げた所以の経緯と成るのだ。
    この“「伊佐の青木氏の住職」に助けられた”とする「際どい経緯」を、「遺された記録」にある。
    この様に、先ず歴史的な経緯を持っていたのだ。
    そこでこの「経緯」を段々に下記に論じて行く。

    「注釈」 現在の「日向青木氏」とその一族の「大口青木氏のその裔」は、「南薩域」に現存し、その「商の拡大」と共に、その「商利」を生かして江戸期からは「黒田藩の傭兵・商船を持つ役割」として働き、江戸期末期までその子孫を拡大させて生きた。
    その後の現在までも、更に「大口の子孫」は拡大している。
    「北の日向」からも「南の端の薩摩の末端」まで「大口青木氏」として大きく子孫を広げているのだ。
    その「裔系の拡大」は総合的経緯としては、上記の経緯に依り“「青木氏」”を名乗り、明治初期には「3年の苗字令」と「8年の督促令」でその「子孫」は、「苗字の上」では「3つ姓」に分かれたと成る。
    それは「生存地域」に基づき「大口の山手に従事する者等」は、「農業」を主体として営み、“「上青木姓」”と名乗り、「日向灘の海に従事する者等」は、「日向水軍・水軍を持つ黒田藩の決め手」とし働き、その後に“「下青木姓」”として名乗ったと成るのだ。
    この「3つの地域の本家筋・大口地域」には、“元の「青木氏」とした”とあり、その「家紋」は「丸に笹竜胆」を使う事を「伊勢」から特別に許されたと成っている。
    その証拠は現在では墓所等にも見られる。
    この「明治初期の苗字令」では、この「三つの姓」に名乗りを更に変えて同地域で、西域は「長島町」から「阿久根」に、そして「大口市」に、東は「日置市」と「日南市」に、北は「日向市」を超えて「佐泊」までに伸びているのだ。
    明治期に名乗りを変えずそのままの「青木さん・主家筋・大口市」と「同系の三つの青木さん」がここには大きく現存するのだ。

    そこで話を追記論の前のこの「歴史」を左右させた「青木氏の独自の歴史観」として持つ「後家制度の論・源氏化で影響を受けた」にももう一度話を戻す。
    何故ならばこの論の過程で、その「経緯」が「青木氏」には「大きな繋がり」をみせるのだ。
    何度も論じている事ではあるが、先ず一つのこの「古い典型的な事象・後家制度」が他にもあるのだ。
    当時は未だこの“「後家制度・現在と仕組みと意味が違う」”は、「公家や高級貴族の氏間で行われる制度」であった。
    この事から、「社会」には未だ広がりを余り見せずに、この事例は他に無く、ところがそれは、この「源氏化・猶子策」と共に大きな社会変化を興していたのだ。
    それは「皇族臣下族としての品位格式」を護らせる為に、先ず「嵯峨期の9つの縛り・賜姓族としての伝統」を課せたが、それを最初からこの「源氏族」は全てに渡り護らなかったのだ。
    それは「源氏・正規11氏・源氏化」が、「源氏化の歴史」の中で、“「ある事」”が横行していた事が原因していた。
    彼等は、それを“継承して守って行くかの意思”が、元々、「源氏の彼等」にとっては「無理な条件・嵯峨期禁令の9つの縛り策」でもあった事から、最初からその意思は彼等に無かったのだ。
    その為に「源氏賜姓・源氏化」は、盛んになるに連れて、それには社会の中に「嵯峨期禁令の9つの縛り策」を護らなかった事で、「秩序」が充分に取れずに乱れ次第に“「ある慣習の乱れ」”が社会の中で生じて行くのだ。
    その「満たせられない原因」が、社会に蔓延ったのが、“「猶子と云う策」"であった”と云う事なのだ。
    これが、主に後の「村上源氏等」に依って、取り分け無秩序に盛んに乱用されたのだ。
    これに依って「源氏族の各式の根幹」が更に崩れ始めたのだ。
    この事に依って「青木氏等が持つ制度」の一つの「後家制度・皇位族や貴族間の制度」も意味が低下して崩れ始めたのだ。

    本論では、この「後家制度」と共にあった「猶子策の源氏化」も、その丁度、同じ「位置過程にあった事」から「歴史観」として、これを先ず論じて置かねばならない。
    「歴史観」として、この「後家制度」から観ても、「源氏化」が美化されたものだけでそれであればよいのだが、現実は「ある事、つまり猶子策」で、この「源氏化」も根幹から相当に乱れさせていたのだ。
    そして、それが一つの「ある社会現象」を引き起こす事に成っていて、「源氏に伝わる事とその実態」は相当に違っていたのだ。
    そこでこの「病原菌と成った猶子策の詳細・下記」をどんなものかをこれを先ず知って置く必要があるのだ。
    実は、それは「源氏化・源氏」や「後家制度・青木氏等の皇位族」の「社会の中・武家貴族社会」には、それを更には「社会秩序を乱す“知られていない「猶子策・下記」”が起こっていて、大きく「平安期の社会」が乱れていたのだ。
    何時の世も、これが起こる世は、“美化された社会現象の世”でもあるのだ。
    これは通常に歴史を勉強するとしても、あまり外に出て来ない「三つの歴史用語」である。
    何故ならそれは「歴史家」が、「自説」を導く上で、「美化の感覚の方」が強くて、「歴史研究者」はこれがあると「自説の論理付け」が難しくて、殆どはこの事を敢えて取り上げない、又は、書かないで「論理だて」するのが普通の事であろう。
    それが、「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の“「融合族」”の中にも、この「悪い事例」が起こっていて、この「族」を基として「奈良期初期」にも同じ事が起こっていたのだ。
    この現象が、「敏達天皇裔系春日王族の四世代族」の「近江佐々木氏・川島皇子の裔系と伊勢青木氏・施基皇子の裔系」にもあったが、ところが「近江佐々木氏の論」の中には、この「美化説」に付いては一行も何故か書かれていないのだ。
    この「奈良期」では、未だ「伝統・同宗四掟四門四族氏族の裔系」に基づき「同族・一族」の「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の「融合族の関係性」が、この“「後家制度・猶子策に代わる皇位族の伝統的な慣習」”等が未だ護られていたと共に、共に未だ社会の中にも安全に保たれていたからだ。
    この時代は、「施基皇子と川島皇子の兄弟」から始まり「三世代」に続いて「完全融合族」を保っていたのだ。
    この「初期の血縁」は、遺伝学的には良い事ではなかったが、「後家制度の悪弊」を防いでいたのだ。
    つまり、この論に於いて何処に重点を置くかに依るだろう。

    ところがそもそも「淡海族」とは、この頃は「伊勢族」とは「完全な血縁の相互血縁の仕来りの中」にまだ合ったとする記録があり、ここで云うのは、ところが「近江佐々木氏の方」が、この「縛り」を護らずに、この為か「貴族社会」には、寧ろ、「源氏化の方」に走っていたのだ。
    それだけに幾つもの記録にもある様に、「貴族社会/聖武期頃」からも疎まれる事と成ったのだ。
    これで「青木氏等の注意」に拘わらず、その後の「佐々木氏」は「源氏化」をして行く。
    その中で、「平安期中期頃」には、「近江佐々木氏」の中には、「上記の乱れた源氏化の現象」、つまり、“「猶子策」”が頻繁に起こり始めていたのだ。
    この「弊害」を伴った「近江の源氏化」が起こると供に、その「悪影響」は「信濃と共に青木氏の後家制度」にも影響して崩れ始めていたのだ。
    この事で「伊勢青木氏=近江佐々木氏」の間には、「大きな亀裂・疎遠関係」が「記録」にある様に生まれていたのだ。
    それを何とか繋いでいたのが、この“「伊勢の嫁家制度等」”にあったが、ところがそれにもこの「源氏化」が進むに連れて“「亀裂」”が生まれ始めていたのだ。
    この「接着材的機能の後家制度」でもあったものに、遂にはこの「伊勢青木氏と近江佐々木氏」との間にあった「独特の“後家制度」”までにも、それが「中止する程の絶縁状態」と成ってしまったのだ。
    ところが、これには「煩わしい皇族系の縛り」を護らずに楽に生きられる様にと、「猶子策の源氏化と云う時代の変化」が淡海族にもより絡まって来ていたのだ。
    これが進むに連れて、“「源氏化の猶子策・下記/病原菌の様なもの」”も公家貴族社会にまで進行していったのだ。
    要するに、この「伊勢青木氏と近江佐々木氏」を繋いでいた「重複血縁関係」で成り立つ「後家制度」」は、そもそも「嵯峨期」から始まったものであるが、この“「源氏化と猶子策・下記」」”で次第に壊れて行ったのだ。
    そこでこの「源氏化」には、「社会的な乱れ」が起こらない様にと、「煩わしい皇族系の縛り」を「嵯峨天皇」は、当初、「詔と禁令」を出してこれを求めたが、これをも彼等は完全に護らなかった。
    この事から、更に「内部」には「破壊」に繋がる「病原菌/猶子菌」を持って仕舞っていたのだ。

    注釈 この時、歴史観として注意しなければならない事は、「天皇・朝廷ではない」は、「伊勢青木氏後裔」に対して、密かに“「因事菅隷・内密な命令」を以て、又は、「特別令外官」として、又は、「賜姓五役」としても秘密裏に求められて発せられていたのだ。
    それは「病む川島皇子の裔系の近江佐々木氏・淡海族一門」に対しては、そもそもこの「淡海族一門」を「維持して行くだけの経済力」は、元よりなく無かったと判断されていて、“それを助ける様に”と「因事菅隷」で命じて来ていたのだ。
    然し、それでも現実は「他の淡海族一門等の98氏」と共に困窮を極めていたのだ。
    そこで、責めて「敏達天皇系の四世族門の血縁関係」にある「淡海族一門の佐々木氏」だけでも救う為にも、密かに「院屋号の万能権を持って巨万の富」を有していた「伊勢青木氏・施基皇子一門」に対して、上記の様に「二つの因事菅隷」を以てして命じて来たのだ。
    その一つが、歴史的に観ると、「米作が困難な真砂砂岩土壌」の「琵琶湖東湖岸の灌漑干拓工事/20年」であり、その二つ目は「近江の鉄鉱山開発」であったのだ。
    それまでは「砂鉄での鉄」であったが、「大化改新に依る文化発展」と供に、「鉄の需要」が高まり、この「近江」にも「二つの鉱山開発・最終は4鉱山」に初めて「施基皇子の裔系」を以て「因事菅隷」で「国の殖産工事」として取り掛かる事を命じてきったのだ。
    その「利」で以て「近江氏」を豊かにし、且つ、「内蔵」を潤す為にも、この「源氏化の淡海族」を救おうとしたのだ。
    これには「国造頭の青木氏部」だけでは成し得ず、そこで当時の墳墓工事等一手を請け負う「最高土木技術・渡来人」を持っていた「臣の額田部氏の協力」を得ていたのだ。
    この「関連する記録」には、「渡来人」である為に「中国」から得た高度な技術を下に取り掛かった事が書かれていて、「施基皇子」が「国造頭」を司っていた関係から、“ある言葉”で以て、工事が充分に行える程に極めて仲が良かった事が記されている。
    この「渡来人」に付いて更に調べると、「出雲国に働く額田部氏・本流族」と、「大和朝廷に仕えるこれと袖を分かち合う支流族額田部氏の二派」に分流していて、「本流の方」は「遣唐使等の重役」を何度も務める「出雲国の高級役人」でもあった事が記されている。
    「祭司頭の施基皇子」とこの「工事関係責任者の額田部氏」に「天武天皇と持統天皇の葬儀」と「その後の墳墓工事等の差配等」の全てを以て任すとの「事前の命令」で造営していて、未完成の期間は死後一定期間は未だ別の所に保存していた事が記されている。
    そして、その後の「祭司と古墳工事等」の一切を任されていた事が示されている。
    これには、、“ある言葉”とは、この“「額田部氏」とは、「刎頸の友の関係」に有った”からだと記されていて、一切を任されていた事が記されている。
    この言葉で、“どのような関係に有ったかは非常によく判る。”し、「記録」は敢えて何故にこの言葉を選んだかは良く判る。
    当時の「大和朝廷」には、他に土木工事など行える「姓」は、そのレベルは別として他に「結城氏・専門道路」と「和気氏・水路」があって、この「額田部氏・総合土木」は他の二つの氏とは段突の差の「総合技術力」を保持していたと記されている。
    「施基皇子」は、この「額田部氏」とは、取り分け、“「刎頸の友の関係」”と難しい用語を使って書かれている限り相当に仲良かった事が特別に記されている。
    其の後、ところがこの「額田部氏」は、「桓武天皇の遷都に向行しなかったという事」で罰せられて「飛鳥斑鳩」を追われた。
    何故、向行しなかったかは、この“「刎頸の友の関係」”の言葉で判る。
    それは「施基皇子・青木氏の裔系族との関係」を遷都で崩したくなかったと云う事を表現したのであろう。
    そこで、そこの処を“「施基皇子」が密かに「伊勢・北勢」に囲い護り、その後に「桑名」に土地を与えて“「神明社の裏手」”に、この「額田部氏」を、何時か日の目が当たる事を信じて秘かに匿い興させた”と「記録」にあるのだ。
    そこで、“神明社の裏手に匿った”とする処に、「意味」が隠されていたとするがどういう事なのかである。
    最高高度な「神聖な場所」の「神明社の裏手に許可なく立ち入り廻る事」は、当時から「固い禁止事項であった事」が書かれていて、それで“神明社の裏手に匿った”とした事が読み取れる。
    其の後に、積み重ねた実績を以て、流石に出自元の「伊勢の言い分」を無視できず、その伊勢の「伊勢からの天皇への採り無し」で、現実に誰も成し得なかった被害の耐えなかった「飛鳥や伊勢の干拓灌漑工事・近江鉱山開発や溶解炉の開発や炭や和紙の開発や外にもある」を成しえたとして訴え、この「大功績」を以て「罰する事を出来なくなった桓武天皇」から特別に「罰」を解かれたとする記録がある。
    それどころか、「特別恩赦」を与えられ、「渡来人」では、“「造部の身分」ではあり得なかった事も、「破格の二階特進の宿禰族」までに上り詰めた”と記録にあるのだ。
    それどころか「額田部神社」まで「一姓族に建立する事」を「伊勢桑名の地」に認められたとあるのだ。
    先ずは歴史的にこれはあり得ない事が起っていたとある。
    これには「記録」があったと云う事は、「桓武天皇の出自元の伊勢の推薦」が密かにあった事を物語っているものだ。
    この記録から其の様に考えられる。
    この「経緯の事」が潰さに記録に遺っているのだ。

    注釈 「渡来人」のその「額田部の姓」は、先ずその「語源」に付いて知る事で判る。
    それは、「額・がく」は、顔上の部で、髪との生え際の間の事を意味する。
    これはそもそも、この部分は、“太陽の陽が良く当たる場所の事”をそもそも指す言葉としても用いられていた事である。
    語源の語は、「ぬか・ひたい」であるが、特にそれ故にここは、“陽の良く当たる場所とそれに田を加えて陽の良く当たる突き出た部位”を云い、つまりその「田圃を培う部人の事」を「ぬかたのべ」として昔は意味した。
    つまりは、その“田を特別に開発する部人”の事を意味したのだ。
    そこから発展して、“これに関連する工事や最終は墳墓工事まで手掛ける部人と云う事”に成ったものだ。
    このそもそもその意味では、元来は「田の開墾」やそれに伴う「その収穫などの管理」を担う「専門職の職能集団」の事であって、その事から「田畑の干拓灌漑などの土木工事」も伴う事からも、その「田畑の干拓灌漑の土木の技術」を生かして「墳墓工事」なども専門に手掛けたとある。
    おそらくは「此の時代の墳墓工事の一切の殆ど」は、桓武期の一時期を除き、この「額田部氏」に委ねらられていたとある。
    中には、その「土木技術」から「地質学」にも長け、国では唯一の“「鉱山開発等」”もした事が記されている。
    地質をも見抜き貴重な岩石発掘なども手掛けたとある。
    更には「その田畑の収穫などの管理技術」を生かして、これを行う「専門の分家」を出自させ、遂には「新穂氏・田畑の植え付け収穫保管等の管理術の発展の専門技術部門」をも発祥させたとある。
    彼等は、「嵯峨派」の「世間の風潮」に逆らうも、「桓武派」として「青木氏と供に生きた派」であって、「信濃と共に伊勢の後裔等」は、この時期はこの様に此れ一つとっても、“周囲と調和し発展関係を進展させていた事”が判っている。
    前段で論じた様に、額田部氏とは「諸々の事」があって何と明治9年まで付き合いがあった事が記録されている。
    さて、然し、「淡海族」は、その「格式の中」に閉じこもり、自らも自律して発展させようとしなかった事が判るし、其れを「伊勢」に生活を補完して貰っていながら「他力本願的な態度」に出ていたのだ。
    然し乍らも、更にはそれが卑屈になり、逆に「伊勢と信濃が伸長する事」をも「記録の文面」から観ても妬んでいた様でもある。
    それが、更には「伊勢や信濃との融合血縁の関係」をも一切断ち切った事にも表れていて、其れだけでは無く新しく出来た「源氏化・嵯峨期から花山期」に走った事にも成るのだ。
    結局は、最高格式を有していた「敏達天皇系の春日王族の四世門族の淡海族」は、「富士川の戦い」で滅亡するが、その他の「全ての源氏族・11氏」も「1221年」には滅亡するのだ。
    下記にその経緯説明するが、この事に付いの事だが、筆者は、定説と違って当時者の氏族から観た考えとして云いたいのは、“一見して社会は「源氏化」が正しい事”だとしている事だ。
    ところが、其の事に付いて詳しく調べて観ると、「一時期・正味30年間」には、その「源氏化」には真剣に目を向けていた時期もあり、実の処では「社会」も「朝廷」も、「嵯峨期詔勅禁令に基づく朝臣賜姓臣下族の品位の基本」と成る「9つの縛り掟の策」を守る事を「律宗族の伝統」を護る為にも、彼等に強く求め続けていたらしい。
    ところがそれを最初から無視していたのではないかと観ているのだ。
    「源氏の賜姓」を受けての「皇族臣下族のあるべき姿」を、この「掟」として「詔勅禁令時」に書き遺したものであるが、これは厳しすぎて護れる者は「11源氏全てが護らなかった」のだ。
    ところが、反面、「伊勢と信濃の二つの賜姓青木氏」はこれを「伝統」として護っていたのだ。
    そこに「焦り」が「嵯峨天皇」には有ったと考えられる。
    「伊勢と信濃の二つの賜姓青木氏」はこれを「伝統」として護っていたのに、“何故、自分の源氏は護れないのだ”と卑屈に成っていた事が考えられる。
    これには「ある経緯」があるのだ。
    ところがこの「賜姓源氏族」には、凡そ「嵯峨天皇期・850年期」から始まり、「花山天皇期・1009年期」までのほぼ「150年間」には、しっかりとその「欠点」に目を向けていて、「乱れた源氏化を止めた事」には経緯として成るが、それが、“「1221年」で終わった”のだと成ると、その「経緯期間」は「850+150=1000年/1221年」ではある。
    然し、つまり、「この時系列の差」の「221年間差」は、この「円融期と花山期」を「頂点」に山を描く様に、「下坂」に成り、「源氏化」は自然に限定化して行く事に成るのだ。
    「1221年の実際の経緯・北条氏等の台頭」から観ても、「源氏化」は、「約半分程度の150年程度であった事」に成る。
    その「歴史的経緯」は、「150年と150年の山」を描いたと観られるのだ。
    後の実質は、「150年」は先ずは「北条氏の世」であったろう。
    然し、その「経緯」は違った。
    つまり、「猶子策と云う弊害」を生じさせていた「源氏化」のその「頂点」には、「円融天皇と花山天皇の存在」があったと云う事なのだ。
    この「二人の天皇」が、“乱れた「源氏化」に何かを施した”と云う事に成るが、“その何かは何か”である。

    然し、この間、この「源氏化が終わる兆候」は、「頼政の事件」の通り未だ観えていたと云う事なのだ。
    その“「兆候」の最たるものは、「北条氏の政権乗っ取り」”であろう。
    要するに「北条氏」は下記で論じるがこの事を知っていたと考えられる。
    それは先ずは、「府の樹立」に、「朝廷」は、史実の通りに直ぐに「府としての認可」を下ろさなかった事なのだ。
    つまり、「朝廷」はこれには「内蔵と大蔵を抑えての経済的な圧力」を受けていた結果、遂に「圧力」に屈して認可を下ろす結果と成ったが、それは、当初から「認可する為の条件」が整わない為に、それが「絶対の帝紀」に照らしても、「朝廷の辻褄合わせ」には、“「絶対条件」”である為に、そこで、これも「経緯の美化の為」にも、“「頼政の以仁王の宣下の延長」”と云う事を「前提」に持ち出して来て許可しようとしたのだ。
    これで「朝廷」に執っては、最低限にでも「帝紀」に照らしてもこの“「宣下」”がある限り「辻褄が合う事」と成った。
    この様に「開幕と源氏化」に付いては、「歴史観」が史実を美化されており正しく伝わっていないが現状であり、現実に一般が、此処迄調べる者もいないだろうし、其処を突いて「源氏化の自説を美化して説いている物」が多いのが現実である。
    この事を知る知らないかは「歴史観」は大分違ってくるのだ。
    これは要するに「美化」に於いては、「邪魔な事」だからであって、「源氏化の美化論を目論む者」に執っては多少は「美化」が伴っても、敢えて「史実」を「あいまい」にして置く事の方が「自説の歴史観」を判断にするに於いては重要な事なのだ。

    注釈 絶対開幕条件」には「史実」として外にもあって、それは、そもそも“「棟梁」”である、その「棟梁」とは、元は建物の屋根の主要部分である「棟・むね」と「梁・はり」の事であって、「家の棟上げ」は、慣習として大工の頭がする事から、此れで以て「親方」と云う意味合いを持っていた。
    この事から「頭領・大工頭」と、“当初"は"呼ばれていたし条件の提示としていたのだ。
    これが、「家」に執っては、かつ「重要な部分」である事から、「朝廷」は、「頼朝」には“「宣下を持っている事で頼政の代理」”を前提としている為に、この“「棟梁の名」”を与えなかったのだ。
    与えたのは、史実は当初の“「頭領」”であって、“「棟梁」”を与えたとする記録は何処にもないのだ。
    ところが、この「頭領の表記」、又は、“「棟梁」”には、「日本書紀」には、「景行天皇」が「武内宿禰」に、“「棟梁之臣」”と表現している事」を以て、“「武家の頭」”とするとしてその結果として使う様に成ったとしているのだ。
    ところが「八色の姓」では、 「真人族、朝臣族、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の「姓の格式称号の事」であって、この「武内宿禰」は、そもそも「皇族外の家臣の称号・宿禰」であって、“「棟梁之臣」”と表現している事を以て“「武家の頭」”とするのには問題があるとする説が朝廷には出たのでもある。
    当時もその意見が鎌倉にも多く出ていたのだ。
    そうするとこの説によれば、それは“「棟梁之臣」”と表現している事を以て、“「武家の頭」”となるのは、少なくとも「賜姓臣下した朝臣族に値する格式の称号の者」と理屈では成り得る。
    依って、「武内宿禰」の“「棟梁之臣」”の意は、確かに「武家」ではあるが、それは「朝臣」では無く「宿禰」であって、その意味するのは「家臣」と云う事に成る。
    つまり、“「棟梁之臣」”の意味は、“「棟梁」の下の家臣”を意味したと取れて「朝廷」が示した「頭領の表記」の説は、間尺が合いただしいのだ。
    当時は当にこの議論が主流として出ていたとある。
    そこで、「頼朝」は勝手にこの説を逆手に採って、「頼朝」は、「頼政」を引き継ぐ以上は「頼政が朝臣族・正三位」である以上は、「頭領の表記の説」は間違いであって、「棟梁」だと「朝廷」に捩じ込んだのだ。
    そして勝手に「武家の棟梁」と主張したのが本当の経緯であった。
    何れにしても「瑕疵問題」がある。
    唯、ところが此れには「もう一つ難題」があって「朝廷」は引かなかったのだ。
    それは「河内源氏」は、そもそも当時は「類題三代罰」を受けていたので、「罪人」を「朝臣族」とするは問題であるとして、且つ、「頼政の延長の府・ここからはみ出る事はなかった」ので許可していると云う事でも、「頭領」と「棟梁」に意地の張り合いで決着はつかなかった。
    だが、「朝廷」はこれで正規の理論位置を獲得したのだ。

    注釈 ところが当時では、これには“決定的欠点”があって、この「頭領」と「棟梁」は、一般には当時は未だ使われていなくて、上記する「武内宿禰論」の様に「書物の範囲」であったとされていて、これも現実の正しい事である。
    そもそも「別の説」では、これは「平安中期以降にかけての事」であって、ところが幾つかの書物に依れば、全国的には、“「堪武芸野之輩」”とか“「武勇之人」”と呼ばれる「豪傑、又は人を引き付ける豪族」が現れて来ていたのだ。
    それまでは、これらは「寺の番人・侍」や「家や人の護衛人」や「豪族を護る家人」等を個々にしていたのだが、次第にこれらの「つわもの・兵者」等は集まり「徒党」を組む様に成ったのだ。
    それまでは彼等は、「朝廷の兵等」を務めていたが、その枠を超えて来る者等が増え始めたのだ。
    上記した「伊勢50人衆等の様に、つまり「伊佐氏の論」にある様に「実力」を発揮して此処に「官僚の中」で力を持ち、又、社会に一人飛び出て行ったのだ。
    その一人が朝廷の中で出世して上記した本論の「伊勢者の等官僚の武人と成り得た伊佐氏等」と云えるのだ。
    そしてこの様な「流れ」が、「武門の源流」と成り、それを「指導統率する実力の人物」を“「武門之棟梁」”と称したのだ。
    これが正しい経緯なのだ。
    従って、この“「武門之棟梁」”とは、“人とは限らなかった事に成る”が、その中でも名声が高かったのは「桓武平氏の平維時・維衡・致頼」や「清和源氏の頼光・頼信」等であったとされるのがそもそも論である。
    そこに「個人だけを指定して崇める称号」ではそもそも無かったのだ。
    これも史実である。

    注釈 そこで、「嵯峨期詔勅とその禁令」を破っての「武力集団の河内源氏」が出てきたが、その「祖の満仲」は「朝廷の忠告」を受けたにも拘わらず「武家の者」を集めたので、この罪で「累代三代罰」に課せられたのだ。
    ところが社会は、「河内源氏の次男の頼信の孫・源義家」等が称されたとして“「武士之長者」”と称されたとしているのだが、これは間違いなく「鎌倉期の後付け説」である。
    そもそも「重大罰」を受けているのであるから、この説は当に「美化の為の鎌倉期の後付け策」である事が明白に判る。
    これも同様の意味とされ、「罰を受けている家」なのに「義家の子孫(河内源氏)」は、史実は美化の為に特ったとして、“「天下第一武勇之家」”と「後付け」で世間では呼ばれたとしているのだが、故に上記した様に「朝廷」は“統一した称号”とは頑としてしなかったのだ。
    そもそも統一すると「承認してしまう事」に成り、これは「絶対帝紀に逆らう事」に成るとしたのだ。
    ところが、その後、「平清盛の伊勢平氏・桓武平氏」が、その「地位」を統一してこの「称号の統一化」を図った。
    この「称号」を権威化して、この称号は「桓武平家だけがう授かる事」に成ったのだ。
    この事が事の「将軍としての権威付けの称号の始め・史実の経緯論」であるのだ。
    従って、ところが「累代三代罰を受けていてそもそも「罪人」であり、その立場にない「源頼朝」が、それを“「宣下を持った頼政の代わり」として、先ず理由付けて「鎌倉幕府」を何とか先行して開かせたのだ。
    要するに、これで妥協して鎌倉では「罰家の汚名」を逃れようとしたのだ。
    然し、ところがこの「称号の始め・経緯論」が、上記した様に既に正式には“「平家」に依って統一化されていた”事の為に、どの様にしてもその後も「権威化された称号」も使えずにいたのだ。
    そこで困った「鎌倉幕府」が、自ら強引に定めた“「天下兵馬之権」”の呼称を作り出したのだ。
    それを前提にして、「平家」が使わなかったものを先ず掌握したのだ。
    そして、慣例に従い“「天下兵馬之権・源氏」を作り出して、平家の“「天下第一武勇之家・平家」”とで、対抗して、“「武家政権」を確立したのだ”と勝手に定めたのだ。
    この事の此処までの経緯が、すくなくとも“当の経緯論であるのだ”として歴史研究者は源氏化」を何とか「美化・後付け説が多い」したのだ。
    従って、その後に「頼朝の軍事的権限」は定まったとしたと勝手にしたが、実質の解決は無かったのだ。
    ところがもう一つの“「征夷大将軍の地位・朝廷に指名した証拠はない」”は疑問であったのだ。
    ところが、「源氏化の美化する過程」では、“次第に社会の中で結び着けられて世襲したとされた”と云うものに成ったと結論付けていたでのである。
    つまり、「証明できない処」は、“社会説に切り替えて研究者は美化した”のだ。
    最早、研究家に執っては「自説の源氏化の美化説」は何でもありなのだ。

    ところが、「記録」としては現実は、何も無くその「信賞必罰の決定権を持つ朝廷」が示す証拠も、況してやそもそも前段で再三に論じている「氏紋や軍旗」も「守護神」も「菩提寺」も、「朝廷」には、“「賜姓の青木氏」”に有っても、「源氏」には与えた記録は故に何処にもないのだ。
    その中で「頼朝」は騒いだと云う事なのだ。
    そもそも「氏紋や軍旗」も「守護神も菩提寺」も「整わない氏族」は、「府の開幕条件」はそもそも無い筈としたのだ。
    そこで、「朝廷」には、「頼朝の源氏」には、「氏紋・笹竜胆」や「軍旗・白旗」には「青木氏の賜姓時に授けたもの」を真似て間に合わした事が判っていた。
    然し、「守護神・神明社」と「菩提寺・清光寺」を急に真似て整わせる事は無理な事として認可しなかったのだ。
    そしてこの史実の記録を根拠に、再び、又「府の申請」に付いて無視したのだ。
    そこで、本来は、歴史の経緯を具に調べると、“「府の開幕条件」の「守護神も菩提寺」だけは無視した”と云う事には成って無い筈なのだ。
    何故かであるが、そこで、この事に付いて、“「開幕条件」の中には強くこれを指定する記録の様なものが「朝廷の中」にも無かった”のだ。
    この事から、「守護神も菩提寺もこの習合体」として、“独自に造り上げたもの”を自ら容認する以外に「落としどころ」が無く成ったのだ。
    本来は、その前提が「皇祖神の子神の神明社・488社・青木氏が守護し監理した」であるし、従って「開幕条件」もその様に成るが、これだけはどの様な理屈をつけても準備し美化出来なかったのだ。
    結局は、自ら「八幡観世音菩薩の守護神と観音菩薩仏の二つの神仏習合体」を造り上げたのだ。
    然し、「武家」を関東に於いて最初に統一したのは「平将門」であるが、これを以て勝手に将門を「武家の守護神」としたのだ。
    其の後に各地にこの「神仏習合の便利な八幡社」は「鎌倉武士の台頭」で建立される様に成った。
    「朝廷」は一部では、この「平将門」を容認するも、最後は、将門は゜反乱者」に仕立て上げられたが、「伊勢青木氏の者」と同じく、これは「桓武天皇四代の子孫」に当たるとした。
    要するにこれは正しく「桓武派」であり、「平氏の姓」を授けられた“「高望王の三男」”の“「鎮守府将軍平良将の子」”でもある。
    唯一、「朝廷」も、「平将門」には、「一族の者」としても、「平家」の“「天下第一武勇之家の者」”としても、これを認めていたのだ。
    故に、一時は「朝廷」からも、将門は“「鎮守府将軍・九州平定」”と称された「歴史的経緯」を持っているのだ。
    要するに「流れ」に依れば、“「開幕の将軍」とも成れる立場にいた”のだ。
    この「朝廷」からも、「反乱後・決めつけられた」も依然として信頼されて認められていた「将門」が、然し、「神仏習合の便利な八幡社」を、“関東に押し進めた唯一の人物”でもあるのだ。
    当にこれは「平家」が云うの“「天下第一武勇之家の者」”であったのだ。
    その事から「関東に於ける事」として、上記の様な「府に都合の良い美化論」が次から次へと生まれた。
    「決定的な否資格者」であるも、「類題三代罰の罪存在」も無視して、“「河内源氏の血」を引く人者」が、“「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」だ”という図式が社会に成立した”と勝手に決めつけていたのだ。
    これが「社会筋美化論の説筋」であるのだ。
    故に、この「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」を下に起こった「美化論」は此れだけでは留まらなかったのだ。
    この「美化説が説くこの図式」は、更に発展して「河内源氏嫡流断絶」のその後に於いても、未だ続けてそれを「形式的により美化」したのだ。
    それが、何とこの理屈は、“「征夷大将軍を継承した摂家将軍」や「宮将軍」の元でも、「武家の棟梁=幕府の長・征夷大将軍」は維持される事に成ったとしていて、何とか無理にこの「美化論の結末」を繋いでいるのだ。
    更には、飽く迄もこれ等は「社会や個人の感覚」による「理解」のものであったとして、この説の凄い所は、最後には、“それを以て“「武家の棟梁」と「征夷大将軍」が同一のもの”とする認識が、“何と「社会」に確立した”として勝手に「社会説」で結論づけているのだ。
    “「社会」に確立した”してもこれは意味の無い事であって、少なくとも「開幕時」に、或いは、少なくとも「施政中」にも「信賞必罰の権を持つ朝廷内」に明確に確立しなければならない「絶対的に必要不可欠な認可条件」であるのだ。
    決して「社会条件」ではなく、そして、それが「根拠とする記録」は、即ち、「帝紀」か「日本書紀」「日本後記等」、また最低は「類聚三代格史」に記載されている事が必要であるのだ。

    注釈 前段でも論じたが参考にこの「三代格」とは「弘仁格、貞観格、延喜格」を云う。
    これを内容別に「神社事」・「国分寺事」・「庸調事」などと「類聚・内容別」してまとめたものであって「朝廷の歴史の概要・根拠」はこれに記されている。
    従って、これを参考にして答えにする事が多く、「朝廷の諸事」はこの記録をこの「一種の帝紀の様な書籍」として扱われていたのである。
    この三つには歴史経緯の記録は、護られており重複しないが、ここで大事な事はこの成立時期1002年から1089年としている事であり、その時期は同じである。
    この「三代格」では、更に詳しくて「役職別・官の司別」に整理されている処である.
    故に、「法の基準」としては不備不便であるが、この「不備の処」が、この時代の「平安時代中期」には、当に上記した様に「歴史の見直し」が起こったとされる処である。
    その為にも「歴史の経緯」には、「朝廷」は鎌倉期の様に厳しく対応すると云う事が起ったのだ。
    従って、これらは、「朝廷内」では「法典整備の基本造り」として成立していたとされる「重要歴史書籍」なのだ。
    ところがこの完全本が現存しないし、「不完全な写本」が伝わっているのみである
    この「朝廷らの役人」が、「基本」とするこの「三つの史格」の「弘仁格、貞観格、延喜格」は、それ故に「「類聚三代格史」は、「当時の官僚」たちが利用した「古代法制の実態」を知るための「貴重な基準史料」でもあったのだ。
    「頼朝の源氏」は、これを基に導き出したこの「史実」に合わず振り回された事に成ったのだ。

    注釈 但し、この「経緯」を調べると、そもそもこの「武家の棟梁」も「時代」によって「やや異なる意味」を持っているのだ。
    そもそも、上記した様に“「武家の棟梁」”と成り得る者が、全国的に出没し始めた頃のその“「1000年頃以前」”の現象では、この頃の“「武家の棟梁・a」”とは、次の様な者を云っていたのだ。
    それが、「朝廷が動員した兵士」を率いて行動していた「下級貴族出身の軍事貴族や三等官上級官吏」の事であったのだ。
    当にこれが本論の「伊佐氏の様な者」を指していたのだ.。
    ところが、その「“武家の棟梁・a”とする根拠」は、「都」では飽く迄も「地方武士との間の関係」は極めて希薄であった為に、それは「地方」では無く、「都」に限定されていたものだのだった。
    この傾向は、少し進んで「源氏化の時代・初期」に成っても基本的には同じであった。
    そして、主に「主張する東国武士との関係」よりも、「中央政権」の「院門や摂関家等」の「朝廷」を構成する“「特定の権力集団」との繋がり”が、取り分け重視されていたのだ。
    ところがこうした傾向の中で、この“「武家の棟梁・a」”の中で、「突然に力のある者」が、この「地方の東国武士等」を糾合して、その「地域の武士たちの政治的利害」を代表する様に一般的に成って行ったのだ。
    これが要するに、“東から興った「源氏化」”であるが、その中に取り分け“「武家の棟梁・b」”と成る者が居て、それが、“50年程”遅れた「1150年頃の平安期の中頃」の事に成るのだ。
    従って、ここに、西国の“「武家の棟梁・a・伊佐氏等」” と、東国の“「武家の棟梁・b・坂東八平氏」”が生まれたのだ。

    注釈 それを歴史的に良く表したもので次の言葉がある。
    それは“「地下、地下人」”と云う呼称である。
    これは上記した日本における大枠で分けた呼称の「官人の身分」の一つである。
    つまり、「朝廷に仕える廷臣」の内の、「清涼殿の上の間」に上がれる者、又は「家柄の者」であって、この「上人・上家・堂上家」に対しては、そもそも「位、並びに格式」で「上がれない階位の者」を、“下に控える者”を、要するに大別して「地下・人・家」と呼んだのだ。
    大まかには、これを「五位以上」であるとしたが「四位」で厳しくした時期もあった。
    其の内、「鎌倉期末期から室町期以降」には、そもそも「官位を持たない名主、庶民」等も増え、これも「地下人」とも呼称したのだ。
    従って、そのどの位階にあるかどうかは別にして、「罪人」、又は、「過去に罪を得た者」には、そもそもこの「殿上人の資格」は与えられなかったのだ。
    これからすると、「河内源氏」はこの資格にはそもそも無かった事に成るのだ。
    此処に「朝廷」は、先ずはこれを以てして「頼朝の源氏」に「府の開府条件」にはそもそも無いとしたのだ。

    注釈 前段でも何度も論じた通り、“「頼朝の鎌倉府の成立の政権条件」が整っていない”として、先ずは跳ねつけられた。
    その結果として、その後に“「朝廷に圧力をかけた経緯」”を観れば、よりこの事が判る事であろう。
    「頼朝に対する府の設立の格式と条件」が、“色々な処で無い”として、「朝廷」から次の事が求められていたのだ。
    先ずその「無い条件」として目を着けられたのが、“「頼信の後裔」が「河内」で勝手に「禁手」で、その「武力・嵯峨期の詔勅と禁令の禁手」を破って周囲を侵食した事の史実としたのだ。
    そもそもこの「浸食自体」が犯罪であった。
    その「武力」は、「朝廷の警告」にも拘わらず「嵯峨源氏等」の里山に引き込んでいた者等を集めて「武力集団」を構築して「河内」に集めたのだ。
    最初は「藤原道長の駒」として、「朝臣族でありながらも殺生」を繰り返した。
    この結果として、この事から「周囲」から極めて疎まれ「朝臣族の信用」を失い、それどころか「朝廷の命」にもしばしば復さ無く成ったのだ。
    これには流石に「道長」からも最後は疎まれた。
    更には、その前には「朝臣族としての義務」であったもので、“「朝廷」が命じた「寺の修理等の役務」を前代未聞で拒絶していた”のだ。
    流石に、「兵」を与えていた「道長」も手に負えず、この「兵」を引き上げたのだ。
    遂には、これが原因で、全国に潜む源氏族に呼びかけて集めて「自らの兵」を持ち、何と“「三代罰・三代に渡って罪が子孫に及ぶ最高刑」”を受けて仕舞っていたのだ。
    これを受ければ、その「氏人や家人」は、“「流罪」”を受けて全ての資格を失い何も何も出来なく成るのだ。
    そもそも故に、「朝廷」に執ってはその“「当の罪人」”に「開幕などの資格」等を与える事等は以ての外の事であって、あり得ない事であったのだ。
    要するに今で云う「公民権剥奪」である。
    「朝廷」は、それだけに「満仲に血を引く者等がする強引な圧力の怖さ」に屈して、「頼朝の開幕条件」には、“摂津源氏の頼政の跡を引き継いだ者”として、「辻褄」を合わそうとしたのだ。
    そもそも、その「頼光系摂津源氏」は、「嵯峨期の9つの縛りの条件」の一つである“「四家”を構成する等」の最低限の「朝臣族としての誇り・9つの縛りの策」を護っていたのだ。
    だから、“摂津源氏の頼政の跡を引き継いだ者”として妥協したのだ。
    そうであったとしもこれは「前代未聞の事」であった事から「朝廷・関西域だけ武家集団」は驚いたであろう。

    注釈 日本の仏教伝来期は、「神道一遍」であったが伝来後は、「仏道>神道」に一時的に代わられたのであった。
    その「一つの現象」が、平安期までは少なくとも“「神前読経」”が主であったが、流石に「神に菩薩号を着ける事」はそもそも無かった。
    要するに頼朝は「仏の菩薩を神の姿にとする説」を発生させたのだ。
    そしてその代わりに「阿弥陀如来」を「八幡神」にして、「大日如来」「を伊勢大神」とする「辻妻合わせの説」を台頭させたのだ。
    その「始めの鎌倉時代」では、「考え方」として、これが当に更に逆転して、先ず先に「両部神道」が発生させたが、その「反動」として元の「神道」からは、「神道」が主で、「仏教」が「従」とする「逆説が唱えられる様に成ったのだ。
    「青木氏」は元より「神明社の神道」と「古代密教浄土」を両道に帰依して「本地道説」を採用したのだ。

    下記参考
    朝廷が「求めていた開幕条件」
    況してや、次の事も資格を有していないのだ。
    1として「嵯峨期の9つの縛りの遵守有無」
    2として「武の棟梁の資格・令旨」、
    3として「紋笹竜胆の紋所の有無」、賜姓時の賜姓紋
    4として「氏の旗印の有無・白旗」、浄土密教の白旗派の旗印
    5として「朝廷が認めた守護社の有無」、皇祖神の子神の神明社
    6として「阿弥陀如来の神門」、釈迦観音より上の阿弥陀如来

    「全11氏の源氏」には、“正式に天皇から賜姓時に「賜姓紋」を授けたとする「記録」は一切無い。
    従って、この残りのどうしても成しえない「4と5と6」に対しては、「八幡神社」と「八幡菩薩」の「神仏習合」を鎌倉幕府は新たに設けて条件を整えたのだし、そして理論づけの理屈を後付けしたのだ。

    以上、「6つの条件」を「朝廷」は次々に出したが、「4と5と6」に対しては「格式上」はどうしても「不可能な仕儀」であり、“「八幡神社」と「八幡菩薩」を習合して創設する事”で「不可能な仕儀」を押し通そうとしたのだ。
    この「源氏」には「4と5と6」の「不可能な仕儀」としてもう一つあった。
    それは「清光寺の寺紋」の「賜姓柏紋の獲得 7」と「賜姓神木アオキ 8」であった。
    これは「4と5と6」と共に、別に「青木氏だけ」に記されていて、これを「青木氏の伝統」として秘匿としていた事からこれを真似る事は出来なかったのだ。

    「頼政」も「青木氏」に近づいて来たのもこの条件の取得に有ったのかも知れない。
    現実に、故に、「失敗に終わった青木氏との関係構築」から、この「4と5と6」と「7と8」は、上記した「策」を弄した「頼政も頼朝も搾取する事」が出来なかった事に成るのだ。
    何処にも「頼政にも頼朝にも」、この事に関する一切の「正統化する記録」は無いのだ。
    今だに発見できないのだ。
    「4と5と6」と「7と8」は、そもそも“世間が「源氏化」に踊らされた結果としての悪い点”であり、従って、この様な事を配慮すると、上記した様な「正しい根っ子に当たる歴史観」が観えて来るのだ。
    そもそも、上記した様に“「八幡神社」と「八幡菩薩」を創設する事”・習合」が「完全な格式上の不合理」であって、それを満足させずに、最終は「朝廷」は「経済的な圧力・閉めつけ」に屈して、その時、“「1」を何とか護っていた事を前提に「摂津源氏の四家の頼政」に出されたのが以仁王の令旨・完全否定しなかった」”であった事から、これを基に起こした「以仁王の乱・令旨」を何とか無理やりに正当化して合理性を持たしたのだ。
    従って、その「1」を根拠に発せられた“「以仁王の令旨」を「根拠」”としてのその“「延長政権である」”として、無理やりにこれで「朝廷の体面・帝紀」も「鎌倉の体面」も保てたとしのだ。
    依って、“「頼朝の府/実質は頼政の府」を認めた”と云う事であったのだ.

    唯、ここにあっても、「もう一つの経緯」がここにもあった事なのだ。
    そこで、「4と5と6」だけを「京綱策」で得た「頼政」には、この時には足りなかった「3から6の条件」だけは、前段の「青木氏との頼政事件・京綱の件・伊勢の最高格式の獲得」を成す事に依って、これで“関係性を持った”として、これに「朝廷」は「妥協策」を出した「実質の経緯」なのだ。
    「青木氏」から観れば、「4と5と6」と「7と8」に付いては、「心棒して止まない源氏化説」を盛んに説いている者らには「揺さぶられない正しい歴史観」が観えて来るのだ。
    だから、態々、頼みもしないのに直ぐ後の「室町期」に成って「幕府も正親町天皇の朝廷」も、これを「源氏化のブーム」が終わった頃に、“「律宗族と云う形」”で認め直しているのだ。
    だから「1と2と3と4と5と6と7と8」を、“護らなかった「全ての源氏の裔系」は、滅亡した”という事に成り、“護った「信濃と伊勢」は生き延びられたという事”では無いか。
    「経済的に後押しをしていた吉宗の享保期」には、裏切られて確かに一度大危機が来る事に成ったが、紀州藩が間に入って救われたのだ。

    その中には「一つの事件」として、「大口青木氏の事件と伊豆の事件」をも含んでいて「頼政に関わる一連の事件」までも位置づけられていたのだと観ているのだ。
    この「青木氏の歴史観」としては、この「源氏化の時期」は、これらの「時事に疎い関東域での事」であってだけで、「関西域」は覚めていたと観ているのだ。
    だとすると、この時期の「頼政の事件」は、この時期の歴史の見方が変わって来る。
    「1と2と3と4と5と6と7と8」をより良い条件に仕立て様とした「頼政の策」であつたとも執れる事に成る。
    それが“「青木氏の格式と青木氏の財」に狙いがあった”のではないか。
    然し、この「源氏化の波」に動かされいたのが「特定の域」だけであって、世間全体はそれほどでも無く、故にこれに世間は応じなかったのだと観ているのだ。
    前後に於いて、そもそも“「頼朝の府」”と云っても実質は「北条の府」であったと云う事なのだ。
    念の為に、その証拠に「伊勢青木氏」は「記録」に遺る様に、「北条の府」に対し「鉱山開発とその開発途上の高炉の溶解炉の提供」を行っている事であり、それが「基」に渡って行っている「記録」があるのだ。
    「記録の行の流れ」から決して「源氏の府」に対して行っていたとする「書き込み」ではていないのだ。
    飽く迄も「北条氏」に対してである。
    これはこの事に付いては「源氏の心棒者」が説く範囲のものでは無かったし、そもそもそれの証拠には「大口青木氏の九州の活躍」に出て来るのは、「頼朝の府」では無く「北条氏との付き合い」の中での表現であったのだ。
    前段でも論じた様に、「九州での大口青木氏の活躍」は飽く迄も「北条氏」であったのだ。
    もっと云えば、そもそもこの「北条氏」は「坂東八平氏の支流族」であって、この「坂東八平氏」と云う族は、「大化改新」で、代々出る「第7位以降第四世族以上の者・王位外」にある者が、「朝廷」から「兵」を与えられて、本来は「坂東の護り」を固める為に配置されたものだ。
    この者らの名称も、元は「第7位以降第四世族以上の者・王位」であった者を「改新の目的」に依って、その位を“「ひら」の位”にまでに下渡した事でのものであり、その「経緯」の通り“「ひらの族」”に成っとしたしたもので、「朝廷の格式を有する統治族」でもあったのだ。

    そもそも、それ故に「三代罰」を受けていた「頼朝の無冠の第6位族」とは「格式上」では大した差は無いのだ。
    この“「坂東八平氏」”とは、その「範囲」を「武蔵」に於いては、「千葉氏」、「上総氏」、「三浦市」、「土肥」、「秩父氏」、「大庭氏」、「梶原氏」、「長尾氏」の「8氏」を云い、その「四門族」は其の後に族系から「天智系施基皇子の桓武派」に属するものとしていたのだ。
    そもそもこれは「青木氏族」とは同じ「桓武派」に当たり、その「ルーツ」を辿れば同系になるのだ。
    この「天智系施基皇子の桓武派」は、そこで同じ「清盛の裔系」に対しては、“「ひら族・坂東八平氏」に対して、“「たいら族・伊賀族青木氏」”と名称着けたのだ。
    結局は、歴史的にこの“「ひら族」も「たいら族」”も互に潰し合う事に成るが、「頼朝」が「府の政権」を取れるとすれば、この“「ひら族」”も充分にのその位置にはいたのだ。
    だから、過去には「征夷代将軍の呼称」を許されていたのだ。
    この様な立場にいた「坂東八平氏の梶原氏筆頭」は、初めは「開幕の条件」に比するとして府内に取り込み扱っていたが、皮肉にも「支流族の北条氏」に淘汰されるのだが、「たいら族」の「清盛が政権」を握った様に、「天智系施基皇子の桓武派」としては、その「筋目」を主張すれば「坂東八平氏・梶原氏筆頭」も格式上は、且つ、「出自上/第6世族以上」では可能であったのだ。
    だから早々と梶原氏等を潰しに掛かったのだが「軍攻め」では条件に傷が着くとして「暗殺」で抹殺したのだ。

    注釈 参考としてその「平清盛」に付いて記すと、「清盛」は、最終は“「検非違使の別当」”で、且つ、「行政一切を取り仕切る最高権力者・大納言」であった。
    そうすると、この「検非違使」とは、「令外官の役職」で、「不法で違法な者を天皇に代わって取り調べる天皇の特命の使者」の事である。
    この「天皇」に代わって「行政する令外官」として命じられた者であって、これを「特別に務める者」で、且つ、「警察権を持った特別の官人」と成るのだ。
    当然にこの「条件」は、“「武人」”である以上は、それには「位格」が伴い、“「佐と尉の階級の格式」”が着く。
    当時はこれに「出世する者」は、この「役職に成る事が必須の条件」であったのだ。
    だから、「朝廷」はこれを“「武人」である事”を前もって「頼朝」に求めていたのだ。
    これは歴史的には、「平安時代の弘仁期」が、最初とされているが、つまり、「嵯峨期の前期頃」に既に設置されていたとしていてるが、そもそも「記録」を観ると、それ以前にも「規則」は在ったものだ。
    これはそもそも歴史的には、「天智期と桓武期の朝廷」では、“「大化改新後による反乱」”を警戒して「武力軍団を廃止した経緯」によるものだ。
    その結果として、「後の桓武期」には、“特別に治安が悪化した。”としたのだ。
    既に、その前から「これに当たる者等」は、「役務の関係」から、先ずは“「武人」”である事を求められていたのだ。
    そこで彼等に「軍事・警察組織」を安全な形で担わせる為には、この「天皇」が命じる「信用の置ける朝臣族等」の「令外官・治安維持」”に命じたものだ。
    故にこれには乱用の危険がある為に、特別に、上記の信用が置ける新しく“設けた「検非違使・一定格式を有する朝臣臣下族」”に命じたものなのだ。
    だから「単なる武人だけの条件」では無かったのだ。
    然し乍ら、当初は、本来は前段でも論じた様に、「青木氏や藤原氏」がこれを務めていた。
    そして、「両門の衛門府の役人」と成って務めていたが、この「令外官の宣旨」によって、これを「兼務する事」と成ったものなのだ。
    これには「官位相当」はなく、主に「青木氏等の昇殿が許される殿上人・従五位以上の格式」と成るのが「最低の条件」であった。
    この為に、これが「武人と見做される者の出世目安」と成っていたものなのだ。

    経緯としては、「895年」に「青木氏等」が務める「左右衛門府内」に先ず「左右の検非違使庁」を置くように成ったものだ。
    ところが「947年」に効率化や迅速化の為にこれを統合した。
    そして遂には、「左右衛門府内の左庁」だけに「検非違使庁」が置かれるように成ったと云う経緯である。
    その事で「検非違使庁の格式立場」から、「司法や行政や治安」、将又、「関係官庁の職掌」をも試みて遂には奪う事と成ったと云う「経緯」である。
    その事でこの「検非違使の権力」は後に大きく成ったのだ。
    だから「府を開こうとする者」には、先ずは「全権把握」の為にも、先ずこの“「検非違使に成る事」”が、先ず「必須の条件」と成った。
    遂には「朝廷」からも「開幕条件」としてこれを求められる様に成ったものだ。
    「頼朝と義経の軋轢」は、「府の開幕条件」が全く整わない「頼朝」に対して、先ず「義経」が先にこの「検非違使に成って仕舞ったと云う事」から起った「争い」であり、要するに理屈上は「義経」に「府の開幕条件」を与えて仕舞ったと云う事に成ったのだ。
    そうすると、「開幕条件で苦しんで見込みの立たない頼朝」は、「義経・検非違使の権力把握・政権を握った清盛と同格に成る」が、先にその条件の大枠を「義経」が把握して仕舞った結果、「頼朝」は「義経」を誅殺しなくては「検非違使に成れない事」が起きて仕舞ったと云う事なのだ。
    経緯としては逃れ得ない条件の誅殺してでもそれを奪う必要が出て来たと云う事なのだ。
    「本論の期・平安時代後期」には、この様に「刑事職権行使の律令」とは別に、性質の異なる「庁の慣習法」をも掌握する様に「権力拡大」と成っていたのだ。
    それが「検非違使に代表される事」であったのだ。

    注釈 ところが「平安時代末期」、や「鎌倉期初期」には、一時的に、“「院政の軍事組織」である「北面武士」”と云う「武力集団」が生まれ、これに取って代わられた経緯を持っているのだ。
    更に「鎌倉幕府」が、この対策として「六波羅探題」を都に設置すると、この“「院政の軍事組織である北面武士」”が次第に弱体化したのだ。
    「室町時代」には、「幕府」が京都に置かれた事で、“「侍所」”に権限を掌握される事に成った。
    もっとも、この「検非違使・侍所」には、「犯人の追捕を行う機能」と、洛中の「行政や刑事裁判をも行う機能」があったが、これも“「侍所」”に代替される様に成ったのだ。
    そしてところが「1383年」を最後に“「侍所」”は確認できなく成るのだ。
    故に、この「検非違使庁の衰滅時期」は「1385年頃」と成る。
    参考として、「官職別当」とは「四等官の長官」に相当する。
    「中位の官吏」でありそもそも「開幕条件と資格」を持ち得ていない。
    実質は、「将軍相当」としては、古来より多くあるが、「伊賀の人」で「高野新笠の子の桓武天皇」の“「義弟にあたる人」であるとして、この「阿知使王の裔の嫡子」の「坂上田村麻呂」が正式で、最初の「征夷大将軍」だと任じられたと云える。
    これが更に「清盛の伊賀の裔祖にあたる事」から、「朝廷」は、此れで以て、“「坂上田村麻呂」”が要するに“「開幕の条件」の「征夷大将軍・武家の棟梁」に比する事”だとしたのだ。
    現実に、これに付いても「桓武天皇の談の記録」があり、“吾義弟の成せる事は府に値するとして褒めた”とあるとして、彼を「それ相当に扱った事・将軍」は記録からも判っている。
    この「判例」から、「武で以て全国制覇した事」を以てこの「基準」に成っているのだ.
    ところが、この時の「変の軍の統制」に、この「坂上田村麻呂の名声」を巧く使った「嵯峨天皇」が、「薬子の変」でこの「坂上田村麻呂・開幕の将軍」を巧く使い、「天皇の命令」とは云え彼に執っては「恩義のある平城上皇」を「飛鳥の古都」に入る道を封じて入れなくしてして封じ込めたのだ。
    これを“義兄の桓武天皇に恩を返せなかった”として、後でこの行動を恥じて「伊賀」から「丹後の奥」に引き上げて余命を過ごしたとして、その後の詳細は判らないとしているのだ。
    この事が世間に知れ渡り「嵯峨天皇の信用」は著しく世間から失墜するのだ。
    「朝廷」は、この時の「坂上田村麻呂の事」の「征夷大将軍=武家の棟梁」のこれを“「正式な物事象」として“外に勝る者がいない”として、これを引用して「開幕の条件」としたのだ。
    これがその「経緯」の先ず一つである。

    注釈 上記した「ひら族・坂東武蔵八平氏」と「たいら族・桓武平氏」としては、その「開幕条件」としては「頼朝や北条氏」等よりは充分にあったが、ところが「時代の流れ」はその様にならなかったのだ。
    それは「頼政と頼朝」が無理やりに「源氏化を引き戻した事」から、本来は「筋目」として獲得するべき「ひら族」と「たいら族」のその「時代の流れ」は、その様に成らなかった事を先ず「源氏化の歴史観・猶子策が蔓延って品位は低下した」として知って置くべきである。
    この「ひら族」と「たいら族」の「流れ」には、「ひら族の頭」の「梶原氏の煮えきらない優柔不断な態度」が、“「決定的な流れを引き付ける事」”に大きく左右してしまっていたと観ている。
    そこを北条氏に突かれた事と成り、「格式上」では低くその位が全くなかった「支流の北条氏を潰す時期」が充分にあったにも関わらずそれをしなかったのだ。
    そうすればこの「流れ」で行けば、「坂東八平氏等の天下」と成り、「天智系施基皇子の桓武派幕府」がいずれにしても誕生していた事が考えられるのだ。
    その場合は、「天智系施基皇子の桓武派の主幹」であった「伊勢も信濃」も「格式と財の面」での「源氏化の関わり方」は、又違っていただろう。
    これだけ「矛盾を含んだ府」であっても、その「流れ」は「関東から興る結果」と成ったが、この「11源氏族の主体」は、そもそもその「財と武の力の関係」では、先ず「関西」にあって、「11族・主流」の殆どは、「自ら財を生み出す力」が元より無く、結果として「琵琶湖より北端の丹後村域」に集中して流れ着いて衰退していたのだ。
    その期間は何と「125年間」である。
    「最初の嵯峨源氏」も全く同然であって、「清和源氏の二代目の満仲」が最も「源氏性の正統な嵯峨源氏・17皇子等の子孫」は、筆者は「猶子」が殆どと観ているが、これを各地から探し出して来て「猶子策」で、「清和源氏の武力集団の基礎・その裔とする村人等の結集」を下に、「嵯峨期の詔勅の禁令」に明記している「皇位族」としての「9つの縛りの禁令・賜姓条件」を破ってでも、「武力集団」を勝手に結集してその呼びかけに応じたのだ。
    それまで続けていた「嵯峨源氏」は、「約125年後」にははっきりと「9つの縛りの禁令・賜姓条件」を護る事を止めて仕舞っていたのだ。
    この時点で「清和源氏二代目満仲一族」と此れに賛同した「各地の衰退した残存源氏」は、「摂津」から「河内」に集結し移り住んで、この「武力」を使って周囲を浸食し拡大したのだ。
    これを以て朝廷より罰せられて、より“「最悪の厳罰の類題三代罰の刑」”を受けた経緯なのだ。
    これで何とか生き遺っていた「源氏族」は「滅亡の憂き目」を受けたのだ。
    この時点で考えれば、「府の権威等の条件」は、学問的には「全ての源氏族」には元よりない事に成るのだ。
    又、「満仲に応じた全国の源氏族」も、又、「頼政に呼応した新宮源氏等の他の関西域の源氏族」も、連座して1221年を以て滅亡したのだ。
    この「世間を知らない男女の源氏化の源氏族」には、「潜在的に生き遺る事」が難しい環境下にもとよりあったのだ。
    前段からも何度も論じている事だが、それは「武」で生きるか「商」で生きるかの差にあったが、「商の才」は誰でもが獲得できるものではなかった。
    況してや、「王の貴人」ともれば尚の事であろう。
    だから、「伊勢と信濃の青木氏」には、限定して「皇女」だけを引き取る事と成り得たのだし、元よりその様な「システム」と「受入施設」も「伊勢と信濃」に充分に揃えていたのだ。
    先ず、当時としてこの「姿勢」が大事であった。
    「近江と美濃と甲斐」の様には、「皇子だけを引き取るという事・美濃が皇子を多く引き取った」が起った事は、より「三野」には「源氏化の流れが進む事」は止むを得なかった事は判るし、「近江の勢い」を観れば当初よりこの「皇子皇女の流れ」が、元より無かった事があってその逆の事も云えるだろう。
    資料から観ると、「当初の三野王」の「美濃の姿勢」は、格式を高めて氏存続を獲得する考え方は判るが、「近江」だけはおかしいのだ。
    「四門族の淡海族」は、「融合族の伊勢」から出自の当初より経済的補完を受けていながらも「源氏化の波」に強引に乗ったらしい事だ。
    その「様子」が記録されていて、既に「近江」はその「出自と青木氏との融合族という超血縁的深い関係」から、況してや、敵方に廻る筈の無い立場に居ながら、彼等には「不得手な戦い」を挑んだのだ。
    「淡海族」は、「伊勢の反対」を押し切っても「源氏化の波」に乗って、唯戦い始めただけの形と成ったのだ。
    そして、結局は一度は「平家/たいら族」に潰されていたのだが、ところが立ち上がれない程に「桓武派の平族」に潰されていながらも、再び一族を纏め直して少ない人数で「中部の東域」まで態々出向き「富士川」で見事に完全に潰されてしまっているのだ。

    参考として、この時、「観る範囲の記録」では、「美濃勢」はこの「味方と成って合力した近江勢」を、“「戦略上の重要な位置」に置いて居なかった”と云われている。
    それには「近江」が持つ「歴史上の全ゆる経緯」に対して「信用」をしていなかったと謂われる。
    歴史観として、この“「美濃」が「近江」を信用しない”と云う現象は面白い現象でもある。
    これは「淡海族の出自の強さにあった事」が、世間にはこの「弱さ・記録が多い」は既に知れ渡っていた事を意味するのだ。
    これには「美濃族」は、「歴史的な淡海族の実質の強さの保持」に警戒していたという事だ
    つまり、「淡海族」には、「源氏化」などそもそもあり得ないと観られていたのだ。
    その「源氏化の実現の戦い」には、記録として伊勢から「そぐわない事」をそれとなく批判されている。
    この「世間の記録・後付け説」があるのだし、世間もそう見ていたと云う事だろう。
    それは、「皇子を引き取れなかった力の無さ・近江」/「皇子を積極的に引き取った氏の体質・美濃」の「評価の差」が、“すでに世間に広がっていた事”を示すものだ。
    「淡海族」は、“格式ばかりの源氏化”と見做されていたのだ。
    以上から当初から、「嵯峨期」からその「ムード」が始まった「源氏化」を、何とか止める様に「伊勢と信濃青木氏」が「近江」に援助などして盛んに示していた事が記録にもあるし判るのだ。
    それ故に、「桓武派」と「嵯峨派」に分かれさせて「源氏化」を始めさせて仕舞った「嵯峨天皇の施政の失敗」を「過去の流れ」にまで引き釣り込んだ事を筆者は何度も解いているのだ。

    この事は「青木氏」が幸いに賜姓時に「朝廷の部経済の造であった事」が全てを左右させているのだ。
    そして、「嵯峨天皇」が嫌っていた“「皇親族」と云われる氏族”の中でも、それが「青木氏だけ」に出された「賜姓五役の令外官、各種の院屋号の数々の獲得権、因事菅隷の権、殖産業権院」等がこれを補完していたのだ。
    「嵯峨天皇」が、この事によってこの“「皇親族たちの勢力」”が「政府内に強く成る事」を嫌っていたのだろう。
    その嫌う反面、ところがその結果として起こる事を彼には配慮が足りなかったのだ。
    つまり、その結果として「朝廷・大蔵」や「天皇家に入る献納・内蔵が減る事」を計算されていなかったのだ。
    つまり、「天皇の権力が低下する事」の計算が成されていなかったと云う事だ。
    それは、「皇子皇女の放出」や「王族の収入の減退」などを招く等が計算されていなかったのだ。
    例え、「伊勢出自の桓武派や平城派の天皇」は、「天皇家」であっても「自らの財・内蔵」を確保して置く事、更には高めて置く事が、「政治の最大の安定に繋がる」と考えていたのだ。
    つまり、逆に「桓武派や平城天皇や仁明天皇等」は、“寧ろ強めるべきだ”と考えていたのだ。
    「嵯峨天皇」は、強く成り「内蔵」を支えていたこの“「皇親族」”を除く為に、その「皇親族の賜姓」を「青木氏から源氏」に替えた結果と成ったのだ。
    これで「内蔵の矛盾」が放出したのだ。
    その結果、更に「嵯峨詔勅禁令・9つの縛り」を出して、この「内蔵の矛盾」が放出を食い止める「源氏賜姓」を推し進めて“「規則」で縛ろうとした。”のだ。
    そもそも「皇女等」にはこれを護る才能は元よりある訳は無く、「40人以上の皇子皇女」には挙句は「嵯峨詔勅禁令・9つの縛り」は誰にも守れなかったのだ。
    一度出された「禁令の令」は「帝紀」に依って縛られて、「11代続く天皇」には、この「悪政」にこれに逆らう事が出来ずにいたのだ。
    ここで論じておく歴史館は、然し、“此れに抗した賢い天皇”がいた。事なのだ。
    それが「三人の天皇」がいたのだ。
    その一人が「伊勢青木氏出自最後の仁明天皇」であり、政敵を顧みないこの矛盾を直そうと立ち向かって直し、一時的に「内蔵」は改善し「出自元との改善」を正した。
    この事は「鎌倉期の複数の歴史的記録」にも記載されている。
    もう一人は、「青木氏出自元」では全く無い「藤原系の円融天皇」がいたのだ。
    この「円融天皇」は、そもそもこの「賜姓」を「過去の皇親族」であった「青木氏」としてせずに、それは直接に「天皇家」には「嵯峨天皇期」に依って「詔勅と禁令」を発して禁じられた以上は、最早、「帝紀」により「青木氏の賜姓」を出せない状況にあった。
    その事から、永代に「伊勢信濃の青木氏母方であった北家藤原氏・始祖藤成」から、中でも「北家武蔵宗家の第三継嗣・千國の裔系」に対して、“「永代」で「青木氏」を欠かすことなく「継承する事」”を命じて、要するにこれで「永代賜姓する/116氏」としたのだ。
    これには、元より「青木氏には四掟と云う枠」がはめられていた事を知っての事であったのだ。
    この「四掟」がはめられれば、“「賜姓」”は何方から出たとしても同じある。
    それも「男系」では血筋が変わるが、「重要な歯止め」にはこれを「女系とした事」なのだ。
    これが「四掟の秀郷流賜姓青木氏」である。
    これで更には問題と成っていた「嵯峨期の失政の源氏化」を終わらせようとしたのだ。
    これで確かに「源氏化」は弱まり、逆に「秀郷流賜姓青木氏」は次々と増え、其の事で「献納」が増加して「天皇家の内蔵」は「安定の途」を辿ったのだ。
    この時に「円融天皇の施策」に賛同してもう一人の続く三人目の天皇が居たのだ。
    その天皇が、「三人目」の異色の「花山天皇」であったのだ。
    何が異色かと云うと、その策と人物の能力であった。

    注釈 全段でも何度も論じている事ではあるが、現在では完全に「ミトコンドリアゲノムに於ける女系の遺伝的論理性」は証明されている事は前段で詳細に論じた。
    要するに、「女子系の子供の遺伝子」だけを辿って調べて行けば「その族種」が判るという事だ。
    この頃はまだこの論理性は証明されていなかったが、中国からの口伝承でその「考え方」は既に「青木氏」には伝わっていた。
    現在では既に証明されている事ではあるが、「人間の発祥」も最初から“「女性」から生まれた”と伝えられていた。
    現在はこれが学問的な史実である。
    「青木氏の全ゆる女系制度」は、“「天皇家」との「関わり」を無くし、そこに一線を課す”とする固い目的も確かにあったが、それよりもこの「一つ」はこの事にもよるものだった。
    従って、「円融天皇」がこの事を知っていたかは調べていないので良く判らないが、上記の「円融天皇の青木氏の四掟に基づく賜姓」は、全ての面から考えても極めて優れていた「施政事であった事」を示すのだ。
    筆者はこれは「如何にも頭脳的な施政」であって、そして“「事の成り行き具合を既に知っていた」”と判断しているのだ。
    「円融天皇期の政争の事」を考えれば、「頭脳だけでは無かった」と判断している。
    今まででこれだけの事を、短期間で、且つ、激しい政争の中で、若くして成し得た「天皇」はないであろう。

    更に、此処にこの上記する「円融天皇の施策」に続いて、“「乱れた源氏化」を実質に止めた”もう一人の“「花山天皇・在位2年」”がいたのだ。
    この事に付いて更に次に論じる。
    この「花山天皇」は、“「円融天皇・秀郷流青木氏賜姓」」に続き即位した天皇”であると云う事だ。
    そして、この時に違っている事は、「源氏賜姓」した「最後の花山源氏・源氏賜姓を神職に賜姓」は、「普通の源氏化の源氏族」と何と意味が大きく違っていたのだ。
    この“「武力容認の源氏」に対して、何と、「武装禁止令などの職業条件」を付けた”事なのだ。
    此の事で「源氏賜姓」は止まるのだ.
    それは、そもそも「花山天皇の系」は、「冷泉天皇の第1皇子」である。
    その母は、「摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子」とする。
    そうして、この「円融天皇の系」は、問題の猶子策を広めた「村上天皇の第5皇子」である。
    その母は、「右大臣藤原師輔の娘・皇后(中宮)安子」とする。
    つまり、この「大改革」を続けて成したこの「二人の天皇」は、何れも「冷泉天皇の同母弟の系」である事に成る。
    この事の示す事は、“一族である以上はそんなに大きく考え方を大きく異なる事は無く、それが「冷泉天皇の同母弟の系」である以上は、「社会で起こる現象の対処方法」に対して、「考え方」を共有していた”と観ているのだ。
    この事で「悪弊を遺した源氏賜姓」は終わる事に成ったのだ。

    注釈 ではこれは何故かである。
    「花山天皇」は「荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革」等の「革新的な政治」を行わせたが、それだけにこの「革新的な政策」は関白の頼忠らとの確執を招いたが、それを押し通した。
    それだけに「在位」は2年と短い。
    崩御は1008年で40歳であって「二人の皇子」に恵まれたが、何故かその皇子の一人ではなく、その子、第二゛遺族源氏としての孫の「延信王」が“「令外官の神祇伯」”に成ったものである。
    そこでそもそも、この「花山源氏」とは、一説では、“「神祇伯」”を世襲した「伯王家」である以上は、後にこの「」裔系は当然に直ぐに“「神祇伯」”である為に、且つ、「孫の第二世族」に賜姓した為に、史実は子孫無く断絶する事に成る。
    然し、今までに「伊勢青木氏」と共に「神紋である柏紋」を“賜姓時に授かった神職”のと同じく、「当時の源氏化」の中では、同じく「神職に仕えた源氏」は他には無かったのである。
    本来はこの「役務」は古来より「藤原氏」が鎌足より「斎蔵」を務める事に成っていて、其処に源氏に似た様な「役職・神祇伯」が出来たと云う事に成る。
    それも令外官の役務である。
    此処に止む無く「帝紀」に従って、確かに「神祇伯とし源氏の賜姓」はしたが、然し、その「源氏」を何と“「神職・子孫を遺せない」”にしたのだ。
    ここに「源氏化を避けていた事」が、これで良く判り、“二世族の世代の神職”とした意味があるのだ。
    一代前の“「円融天皇」”が、「青木氏母系の藤原氏」の「下野大掾・藤原村雄の子の系・秀郷」に対して、要するにこれは「女系の賜姓青木氏」をしたその直ぐ後の事であって、それは、“単純な賜姓に留まらず、「ルール」を定めて確実にした”のだ。
    「嵯峨期の9の縛り策」と違ってこの「ルール」は護られた。
    「円融天皇」は執った重要ポイントは、この「ルール化」のこれを「藤原秀郷一門全体」、取り分け「藤成・伊勢藤氏」−「村雄の蒲生系一族」にその裔系を求めたと云う事なのだ。
    その「ルール」は、「武力保持」は認めるも、然し、その「他の格式・四掟四門等」の「ルールが齎す律宗性・格式」は「源氏族」と違って護らせたのだ。
    つまり、“「女系で伊勢青木氏や信濃青木氏」と同格血縁している事”がこれを証明する事と成ったのだ。

    注釈 そこでこの「神祇伯」とは、そもそもこれは“「令外官」”としてであり、これは“「神祇に関わる長官の事」”であり、主な役職は「神職」に当たる。
    この「令外官の神祇伯」は、つまり、「令外官の“青木氏が独自の氏族で務める賜姓の柏紋を有する神明社の神職」とは、その格式が異なるだけである。
    つまりは、この時に、“それに類する神職の官職を設けて武力化を止めさせた”と云う事に成る。
    これは、“「初めて官僚が務めた令外官の神祇伯」”を、「皇位の者が司る役職にした事」なのである。
    ところが「1165年以降・平安末期・鎌倉期」は、記録では「花山天皇の後裔」がこれに任ぜられたとする説がありところが、その「子孫であるとする白川家」では、この史実は「世襲した伯家」が、「第二世族の源氏」の「神職」である限り直ぐに途絶えて仕舞ったのだ。
    此の平安期では、何故ならば、そもそも“「世襲」”には、“世襲弊害”を考えて、“「三世代」までとしての「ルール」が定められていた。
    従って「世襲」はそもそも無い事に成る。
    取り分け、「令外官を含む官僚職位」のこの“「世襲」”には警戒されていたのだ。
    大抵の実情は、現実は、“実子で繋ぐ事は難しく多くは「二世代」で終わる。”で終わる「仕組み」であった。
    これを「隠れ蓑」にする為に、“「村上源氏」”が率先して「ルール破り・猶子策」をしたのだ。
    この「村上源氏」は、それが当に“「酔子策・上記」の元”であって、これを展開して勢力を拡大し経済力も獲得したのだ。
    この「酔子策・上記」は「源氏化の弊害」と成り「源氏化の世」は乱れたのだ
    つまりは、これは「神明社と清光寺」を司祭する「伊勢と信濃の青木氏」に合せて、又、新たに「下野大掾・藤原村雄の子の系・秀郷流一門」に対して「女系の賜姓青木氏の守護神」として認めた「春日社の設置と増加」に対して、それまでの「源氏姓の習合の八幡社」が増えた事で、 結局、「八幡社の神祇伯・令外官の役目」が増えた事であり、そこから得られる「内蔵の収入源の管理」が伴なる事が、ところが理由で内蔵は改善しなかった。
    故に、これを「武力」に走らせない為にも、「円融天皇の施政」に引き続いて、ここで「神祇に関わる賜姓」を「意味」を込めて敢えて実行したのだ。
    これが「源氏化の否定につながる施策」と成った事だし、「内蔵の収入源」は高まって「天皇という地位」は安定したのだ。
    先ずは霞の人間ではない「天皇の地位の安定」が施政に繋がる事にあった。
    「桓武派」はこれを主張していたのだ。

    元に返れば「嵯峨天皇派」は、判り易く云えば、この「内蔵」を潤す基となる「口うるさい皇親族」を排除しようとしたのだ。
    確かに「密かに動く令外官」と、「秘密裏の因事菅隷」と、主だった役をもつ「賜姓五役」と、「院屋号の特権」を全てを持ち、何にせよその行う「立場の格式」は「行政長官の太政官より上である事」である事だ。
    この事に絶えられなかったと云う感じでないか。
    それも「自らの出自元である事」に疑問を持ったと云う事だろう。
    当然に、記録から読み取れる事でも「近習官僚に何かと煽られた事」も確かであろう。
    そして、更には「部経済の商いで巨万の財」を持っていたのだ。
    反面、それが「内蔵の基元」でもあったとなれば、現実は手の施し様が無いと云う処では無かったかと思われる。
    これでは、「出自元の皇親族」に代わって、“新たに「別の族・源氏」を作って算段しようとしたのでは無いかと読める。
    「人」と云うのはこうなれば、「目先の事」を別にして何が何でも排除したくなるは必定かもしれない。
    この様に「反対を押し切って感情的になった嵯峨天皇」は、「弊害の産む源氏化・猶子策」を実行して仕舞ったという事であろう。
    然し、この「猶子が起こったと云う事」は、この「感情論」は矢張り失敗していたのだ。
    何故ならば、「賜姓したどの源氏」も、“「行動規範の縛り」”までも作っても、その様に思う様に動いてくれなかったと云う事だろう。
    「皇族賜姓族と云うべき立場の者」の「あるべき護らなければならない事」を「禁令」で定めたとしても後に続く「11源氏族」は、それを護れないものは護れないとして、“期待通りに護らなかった、又は実質護れなかった”と云う事ではないか。
    それどころでは無くも、“禁令中の禁令の武力化をして仕舞った”と云う事だ。
    そこに猶子が起こったと云う事に成る。
    物事は考えた通りには行く事は先ずは無いが、その後に続く「源氏化は思った様に向かわなかったと云う事」だろう。
    それは既に、「最初の嵯峨源氏」から思う様には成らなかったと云う事が判っていても、「嵯峨天皇」は「自らの賜姓」を「嵯峨源氏」とし出していながら、“途中で皇子の一人に先ず「甲斐蔵人頭掾・税担当」に任じた。
    ところが、最後はその「皇子」に、“「甲斐青木氏」を矢張り「賜姓」して何と発祥させている”のだ。
    これは「源氏賜姓」に、“「ある問題があった」”と云う事を示しているものだ。
    それは「嵯峨期の詔勅禁令の9つの縛りの掟」で、「青木氏の賜姓」の様に、その“「皇族としての立場や格式」を護ってくれるものだ”と信じていたからだ。
    「自らの嵯峨源氏」さえも少なくとも「皇子15人」に賜姓しながらも誰一人護らなかったのだ。
    そして、次第に「猶子」を産んで行ったのだ。
    最初から「賜姓源氏策」は行き詰っていたのだし、そしてそれが「猶子策」で爆発したと云う事だ。
    彼等は最初は、「丹波の奥」に挙って「村」を形成してひっそりと暮らしていたのだ。
    それが「清和源氏の二代目満仲」が、「嵯峨期の詔勅禁令の9つの縛りの掟」を破って呼びかけて最も禁止手の「摂津の武力集団」に加わったのだ。
    それを引き継いだのが、この「武力集団」を引き継いで「河内」に逃れた「三代目頼信の河内源氏」である。
    この結果、「二代目満仲」からもっとも「厳しい三代罰」を受けた「清和源氏」は、一時消えたかに見えた。
    これだけでは「源氏化」はまだ終わらなかったのだ。
    「社会」には「源氏賜姓」に伴って、前記した“「猶子策・下記」”と云う「社会の病原菌」が蔓延り始めていたのだ。
    それを復したのが、「仁明天皇」であり、「円融天皇」であり、最後は「花山天皇」であると成るだろう。
    これで問題と成っていた「施政の根源」と成る「天皇家の内蔵貧困」は先ずは復したのだ。
    「女系の賜姓青木氏」と共に「2年という短い期間」で合わせて行ったという処に意味があるのだ。
    それも「円融天皇の青木氏賜姓策」の施政の数年もたたない内の“「代続き」”の直ぐ後にである。
    つまりは、この「二つの施策」をあせて「猶子策の蔓延る源氏化」を効果的に止めたと考えらるのだ。
    そして現実に留まったが、賜姓だけは「後付け」の「正規でない賜姓」は「南北朝時代」まで続いたのだ。
    こうなればこれは最早、賜姓の姿を消しそのものでは無い。

    注釈 「秀郷の裔祖の村雄・915年」は、「4代目魚名の子」で初めて朝廷内で重要な官職を得た。
    この「伊勢守を務めた藤成の孫」でもあり、この「藤成」は「鎌足より5代目」で「806年の人物」である。
    「伊勢青木氏」とはこの「藤成」より前から「母方の血縁族」と成っている。
    この事から「藤成の806年/伊勢藤氏」はその任務の前から「伊勢」に関わっていた可能性がある。
    調べたが記録がないので確定は出来ないが、「806年の因果関係」は少なくとも「伊勢守」に成る前にあった事からの「700年代後半」にはその「伊勢王との痕跡」は遺していた可能性がある。
    これは「施基皇子・716年没後の関わり・84歳」ではないだろうか。
    この「806年代」は、時系列では「桓武期から平城期の頃」で、この「藤成」が「伊勢」に赴任してそこに定着後にその「子孫」が「伊勢藤氏」を発祥させている。
    その結果、「始祖の藤成の子孫の伊勢藤氏・秀郷の始祖」と「伊勢青木氏」との間には「伊勢藤氏系青木氏」が「伊勢に発祥していた事」に成る。
    この時期が、“「806年代」の少し前の「平城期」”であったのだ。

    注釈 この「平城天皇」は、「生存774年から824年」で、「在位806年から809年」。後に「上皇」としても権威を示す。
    だとすると「藤成の伊勢の在位・806年開始」と、「平城天皇の在位806年からの4年間」と「上皇としての25年間」を合わせると「29年間」と成る。
    「政治に関わっている期間の伊勢守護守」であった「藤成」と、その「関わり期間」は、或いは「伊勢王であった時期」の期間は、少なくとも“「約30年間」”として「付き合い」があった事に成り得て、「平城上皇」、或いは「伊勢青木氏との付き合いの期間」は、依って“「約30年間」”と見る事が出来る。
    この状況下での“源氏化・814年が起こる少し前の8年前の事”であったのだ。
    だとすると、これは「伊勢秀郷流青木氏・960年の前身」に当たる「伊勢藤氏系青木氏・発祥」である事に成る。
    つまり、「伊勢に居た藤成」も「円融天皇」もこの「源氏化」を“疑いの目”で観ていた事に成るのだ。

    注釈 前段から論じている様に、“「嵯峨源氏」”は、“「嵯峨期の詔勅禁令」”の「814年で賜姓臣下」したものだ。
    この「嵯峨期の詔勅禁令」とは、「皇子皇女」に対して大きく「内蔵」から「封戸」を支給されている事が、”「官庫の負担」となっていた事”から臣下する様に促したものである。
    この事から、未だ「親王号」を与えていない皇子皇女にでも先ずは「朝臣姓・賜姓」を与えて、その後に「臣籍降下」させて、「二世代限定に於いて「公務に限定して従事させる事」を「詔」として発したのだ。
    そして、“此の間に何とか生きる道を探せ”としたのだのだ。
    この時、“「賜姓臣下族のあるべき姿」”も示して、且つ、“護るべき掟”・ルール」を示して臣下させるとしたのだ。
    これが「嵯峨期の9つの縛りの禁令」であった。
    これにより、それが「源信・源弘・源常・源明」の「4皇子」と、「源貞姫・源潔姫・源全姫・源善姫」の「4皇女」にも「源朝臣姓」を与えられて「左京」に移されたのを始まりとする。
    結局は、これで上記した様に「丹後の奥」に集められて長く潜んで住んでいた事になるのだ。
    結局、最初の前例と成った「嵯峨天皇の皇子17・皇女15名」が、「源朝臣姓」だけを与えられて臣籍降下した事に成るのだ。
    この内の二番目の皇子の一人に「蔵人頭掾」として甲斐に送りその後に「甲斐青木氏」の賜姓を行った。
    ところが「掟」は生活苦もあってそれどころでは無く全く護られなかった。

    注釈 「伊勢秀郷流青木氏」は、武蔵から近江に役務に依って赴任してそこに先ずは定着したものである。
    そこで「土地の名」から「蒲生氏」を名乗った「初代定秀」は、戦国時代の武将である。
    この「定秀」には、「尭清、賢洪、秀洪、青木梵純」の4人の子供がいた。
    「蒲生秀紀の室・妻の馬淵山城守の娘の子」で、「近江の蒲生高郷・藤原氏」の子の「定秀」は、「六角氏一門」からの嫁を娶り、関係強化を図った。
    これで家中での地盤を固めた。
    これと共に、“妻の実家である「伊勢青木氏」”には「伊勢藤氏との青木氏」も既に存在していた。
    そこに「梵純」を「養子」として送り込んで「秀郷流伊勢青木氏」を「伊勢」で再興させたのだ。
    そして「近江蒲生家家老」として「伊勢秀郷流青木家の当主」が当たり、「伊勢藤氏の青木氏」に「養子」として、この「定秀の弟である子の養子の青木梵純・伊勢青木氏の娘の子」が入ったのだ。
    この「梵水」は、「非凡の域を超えた童」であったとされて、「子孫存続」に弱っていた「伊勢藤氏の青木氏の衰退」に対して再興する為に送り込まれたのだが、「伊勢青木氏の支援」も受けて再興した。

    注釈 そもそも「源氏11代」と成るが、先ず「河内源氏」だけが先行して「嵯峨期の禁令」を破り「武力」を以て栄えた。
    然し、筆者もこの内の「5代程度源氏の裔村」を探索した事がある。
    殆どは山深い山背を開拓し、そこに一族を祀る墓所と山背の平地に菩提寺の小寺を建て、その手寺の前は統一して大広場があった。
    この「一族当主の家」は、どこも一段高い石垣積みの上に建てられていた。
    その「宗家の家・村主」を取り囲む様に、「一族の村人が住む家」が十数軒と囲む様に並んで建てられていた。
    その周りには「生活用の大池」があり、その周りには「井戸」と共同の「流し場」の様な敷石があった。
    その池から下に、見晴らす様に棚田の田んぼが開墾されていたものが殆どであった。
    さして何れも大きいという村ではなかったし、今でもこの一つのこの村は古道の山のてっぺんにひっそりと遺されている。
    少し離れた隣には、「平家の落人の大きな村」もあって「相互間の交流」があった事を示す「形跡・山道」も見られた。
    これから観ると、「源氏化」は「清和源氏の河内源氏」だけに依って身踊らさせられた「一時期なブーム」であったと観ているのだ。
    何よりも、“「平家の落人の大きな村」が隣にあって相互間の交流があった事”を示す「形跡・山道」も見られた事だ。
    つまり、「他の源氏」も争う事なく先に追いやられた「平家の落人の大きな村」に寄り添うように政争のある都から逃れた事が云えるし、共に生き延びていた事が判る。
    この事からこの世間を騒がせたこの「源氏化」は、「清和源氏の事」と限定しても良い事が云える。
    確かに、「淡海族や美濃族や甲斐族」は平家との戦いに参加したが、多くの源氏族は一般的には上記の様に平家族の村人・落人と共に生活していた事に成る。

    注釈 そこでこの「花山源氏族」が成ったとする 「神祇伯」とは、上記の注釈の通りで、「以仁王の乱」の前の「源氏の1165年以降」は、この「花山天皇の後裔・孫の延信王」がこれに任ぜられたが、そのその「第一源氏世族・子」では無かったのだ。
    この経緯ではここに真の意味がある。
    ところがその「子孫の白川家・主張」では、これを細々と「神祇伯」と成った「伯家」の通りで、直ぐに結局は、「自立力」を持たない 「神祇伯の所以」を以て「孫の延信王の子孫」は途絶えて仕舞ったのだ。
    何故ならば、そもそもこの“令外官」”として「神祇伯のその令外官の役職」が、「永代」で無い限りは「役職三代までの規定」があり、史実はこの「三代の世襲限定制」以上は禁じられていた。
    恐らくは、“皇子が成る令外官」”に意味があって、ここから“令外官」”である以上は「自立力」を次第に無くして行ったと考えられる。
    この「三代までの規定」は、その意味では、“その間に自立する力を培え”と云う事でもあり、「絶えると云う事」とは、所謂、“三代後までに培えなかった”という事でもある。
    「生きて行くだけの力」を無くしたこの「令外官」は、“令外官」”である限りは「生きて行くだけの力」の持つ「神祇」と成り得ていなかった。
    又は、生きる力を持ち得ていなかった事に成る。
    恐らくは、「源氏の賜姓」で初めての“令外官」”の「神祇伯」と成った以上は、「神仏習合の八幡神社」の「神祇」だけに頼って仕舞った事に成る。
    「源氏滅亡期の1221年」には、例え「武力を持たない源氏」を名乗ったとしても、その「流れに抗する事」は「三代の規定」を待つまでもなく出来なかったという事であろう。
    現実にこの規定を護らなかった事にも成る。
    “令外官」”とは、特別にある目的を以て天皇から命じられて成る役目で「原則一代限りの役職」であった。

    註釈 本論とは少しずれるが、その歴史観の経緯を追記して置くと、これはこの当時の歴史観獲得には参考に成るだろう。
    本論の「1006年以降の事・花山期」である。
    「花山天皇在位」は「984から987年」の「実質2年間・政争」で、ところが「968年から1006年」の「38年の生存」であるが、故に「二世族源氏・孫」と成ったのだ。
    そもそもは、この「花山源氏の出自」とするのは、後の「後裔筋の堂上源氏・昇殿階級人の事」でこれを「殿上人」と云う事に成るが、これに成った者の内訳は、多くして上記した「猶子策」によるもので「村上源氏」に多いのだ。
    要するに、そもそも「対象する天皇」の「子供」では無く、「賜姓を受けられれない者」を見つけて来ては、先ず「格式ある家の貰子」にして、その「猶子」を更に繰り返して次第に「源氏姓の賜姓」を受けられるまでの格式を持たせる仕組みの事である。
    これを何度も繰り返す事で「源氏に成る対象者にする事」である。
    これに依って取り扱った「村上源氏」は、大いに経済的に潤い、尚且つ、その「勢力」を拡大させた「世間の風潮」の事であった。
    「花山天皇の孫・二世族王」の“「延信王」”が、「皇子・子供」では無く、孫に「源姓・二世族源氏」を賜り臣籍降下したとある。
    そして、この者は“「令外官」”として「神祇官の長官である神祇伯」に特別に任官されたと先ずあるのだ。
    この後に造られたとみられる「白川家の資料」と云われるものに基づくと、これには「平安期の前半と後半」としての「時系列・時代」が「21年」が先ずずれている事である。
    この「21年」をどの様に評価するかである。
    これ以降は、「猶子」でありながらも、彼等は主に「村上源氏」、又はその「子孫系列」と云われるが、平安期では
    「朝廷」はこの「弊害」を考えて歴史的には“「世襲」”は原則は禁止とされているのだ。
    にも関わらず、それも、“「三代」を超えても、且つ、一代限りの「令外官」でありながらも勝手に「神祇伯」を世襲する様に成った”とこの「21年のズレ」がある資料は説明するものである。
    然し、更にその「時系列の経経」は、「平安期末期」を超えて「鎌倉期」にまでも及んでいる事である。
    これの意味すると米は、“「後の慣習として仕立てた事」”であって、世間では“「伯家・鎌倉期以降に」”と云われたが、更に「平安期では無い「鎌倉期後期」にも、“先祖が「神祇伯」であった”とする事を理由にしている。
    そして、この事から「鎌倉期後期」に成っても「王位に関する規定に準じたとする」としいるが、彼等の資料には理解できない事が多いのだ。
    多分は、「21年ズレ」がある事を知り得ての別物資料として、これが主に「猶子策から来た事」であった事から、「後付け説」であろうと観られている。
    況してや、“それに復するのが慣例とした”と決めつけているが、「時系列」では既に「王位制は平安期までの事」であって、「鎌倉期」では既に制度の継続は消えている。
    そして、この「家」を更には、“「白川王家」とも呼ばれた”としているので、これは「平安期の事」では無く、「後付け説」である事も判る。
    然し、そもそも“「事態経緯」”が異なっていて、全く「平安期の王位・大化期に定められた規則」には当たらないのだ。
    この「鎌倉期の白川家の特徴」は、“故に「令外官の神祇伯の世襲・三代を超えている」とし、「令外官の神祇伯就任」とともに勝手に「王位」を名乗ったものだと成るのだ。
    この事は「神明社の柏紋の住職」に関わっていた「青木氏論」の「論外の事」であるが、敢えて、歴史観として参考に論じたが、「最後の源氏の花山源氏の賜姓の令外官の神祇伯の歴史観」として持っていてほしい。

    注釈 八幡神社の解説
    幕府が主張する説としては、 「奈良期の朝廷」が、「宇佐神社」に「鎮護国家の仏教守護の神」として「八幡大菩薩の神号」を「贈ったとする事・自説」から「八幡習合社」であるとしている一説である。
    但し、「説の設定している時期」が、「古い時期の事」としているので本当にあったのかは「説の確定」は出来ない。
    これによれば、理屈上は、「八幡神社」は、そもそも元は「寺」でありながらも、その「寺の鎮守神」とした事で、“「八幡神」がこの寺に勧請された”と成ったものだと理屈づけている。
    「史実」としては「神説」は先である事から、この説は当に「逆説」で「後付け」で府が真実性を確保しようとしたものである事が判る。
    これにより民はよりこれを信じて、この「八幡神」が「神仏習合社」として全国的に広まったのだが、これは「鎌倉の府」がリードした「鎌倉期の後付け説」である説」であることが判る。
    後に、これにて「仏の阿弥陀如来」が「八幡神の本地仏」と成ったとされたとしているのだが、逆せつである。
    その証拠に、ところが当然に「仏教の宗派」に依ってこの説に「反対論」が多く出ていた事が各種の記録に多くに書かれているのだ。
    例えば、前段でも論じた様に、先ずこの「阿弥陀如来説」を否定し、反対の「八幡大菩薩説・顕教」を補完する為に「仏」を、態々、「釈迦牟尼仏・観音仏・顕教」としているのだ。
    「鎌倉期時代」では、「河内源氏の武士の尊崇」で、「八幡神社」が「河内」に本請されたとし、これが「鎌倉期」にこの思想は「僧」にて突然に崇拝されたものであって、これを「仏僧形八幡神という事」で形どったと成ったのだ。
    前段でも論じたが、「青木氏等」は、「仏教伝来の無い時代」の古来より「守護神」を「皇祖神の子神の神明社」を主神としていた。
    其の後に、「仏教伝来」によりこれを拒絶せずにこれを取り入れて、他方で“「大日如来」”を「密教守護仏主観」として、「神教仏教」の「密教併用論」を唱えたのだ。
    要するに根本的に「後発の源氏の習合主観論」とは、その「形態」は根本から逆で原理も異なっていた。
    この事から果たして、此の様に「神仏説」が異なっている事から、「開幕条件が根本的に異なる事」に成るとして、これを以て、元よりその“資格は無い”とする説も朝廷では強く主張されたのだ。

    その様なそもそも「令外官に依る神祇伯の世襲・三代の身分制度」は「鎌倉期」には最早霧消して無かった。
    恐らくは、これは「後裔系の白川家の内部だけの書籍」として記して遺したものでは無いか。
    そこに瑕疵が出入るのだろう。
    そもそも、「王の身分」は「平安期の天皇との第四世族外の血縁関係」で決まるものだが、これをも「鎌倉期」に未だそれを何故か持ち出している。
    本来は「官職や役職に付随する性質」のものでは、「天皇との血縁関係」がそもそも決まる性質のものではない。
    況して、そもそも「令外官の神祇伯の世襲・三代の神祇に関わるもの」としては、つまり「非皇族」であり「王位」はそもそも「世襲」では無く、従って「正規の王」ではない事に成るのだ。
    その「経緯」には、他氏の事であるので、どの様に記するとも正しい歴史観として遺すには自由だが、「伯家内部のみに伝える」には、老婆心ながらそもそも「朝廷」が成す「伝統的な歴史観」としては「搾取の無理」が多い気がする。
    そこで、「花山天皇の在位期間」と「生存期間」は、「史実」は「伯家が主張する期間」を遥かに超えているのだ。
    更に、中でも「延信王の令外官の神祇伯」は、「彼等の記録」では[1025年」に「源姓」を賜り「臣籍降下」し[1046年・平安末期」に「令外官の神祇伯」に任ぜられたとあるのだ。
    そもそもこれは“「史実の21年後の事」”であるが、ところが本来は史実は、「1025年」に対して「孫の延信王」には「1006年」に既に賜姓している史実があるしを「贈ったとする事・もあるのだ。
    「伯家内部の書籍」とは随分と「時代」は違うし、そして「内容」も違う。
    そこで瑕疵部分を補完する意味から元より違うものとして遺したとも考えられる。
    「孫の延信王の神祇伯」が「令外官と神祇伯」により子孫を遺さずに絶え、何時しか「猶子策」など何らかの形で跡を事を継いだ事から、その時を以て、“「21年後の事」”と「1046年の事」の「二つのズレ」は其の侭として、そこに「ズレ」が起こる事を承知で「家の記録」に「時代の経緯」を合わしたものと考えられる。
    「令外官と神祇伯」ではそもそも子孫は必然に遺さない前提にある。
    だとすれば、この「神祇伯」は、そもそも絶えている「延信王」のものでは無く、後に「猶子策など」に依って生まれた「伯家」である事に成る。
    尚、「当時の呼称」は、「源」または「王」であるがその「位」には無い。
    その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれる様になったとあるので、「時系列」は違う別物である事に成る。
    況して、「令外官の神祇伯」に成った「延信王以後」には、この説では元々「「21年のズレの時期」はあるが、この「令外官の神祇伯」の時期は判らないが、「康資王、顕康王、顕広王」と「跡を継いだとする白川家の人物・後裔の説」がある。
    そもそも「令外官と神祇伯」は、「21年のズレ」は兎も角も、そもそも一代限りのもので世襲では無く説はおかしい。
    三代続いて「現実・鎌倉期」には、「神祇伯」に補任されているとしているが、正式には「天皇家の三世王格の三代格の原則」では、既に「花山天皇」で「延信王以後は既に正式に子孫は絶えていて、「曾孫域」”でも少なくとも「顕広王」とする人物でも既に絶えている事に成るのだ。
    そもそも本来は「子孫を持たない神祇伯・神職」であると云う事だ。
    本来は、何故ならばこの「神祇の役目」は、永代に「斎蔵の藤原氏や巨勢氏の専属領域」であるのだ。
    それも「あるルール」があるのだ。
    この「延信王の時」にもである。
    これは大事な歴史観である。
    これに「平安末期」には、永代に「斎蔵の藤原氏や巨勢氏の専属領域」にて、この突然に「花山源氏の源氏」が被さったと成るのだ。
    何故、態々、その「本来の役目の藤原氏や巨勢氏」に成っているのに、“被さった”と成るのかと云うと、其れにはそもそも、理解する上で「本論の花山源氏のそもそもの目的」が違っていたと云う事だ。
    そもそも、故に「源氏王格」は、「二世族源氏」が限界と定められていたのだ。
    この時期では、従って、「神祇」とは「天神地祇」の「神と祇」の略であって、「天神」は「あまつかみ」とよび、説では「天上」で生まれ、或いは、「天上」から降った神の事を云うとしている。
    そして、「地祇」は「くにつかみ」とよび、「地上」に天降った「神の子の事」を云うとしている。
    故に、「神」である以上は、本来はこの世に於いて“子孫を持たないもの”として、それを“「神祇」”であるとする言葉を使いしているのだ。

    「神祇伯」は、故に、まだ「世襲制度」とは成っていないのだ。
    「あるルール」とは、「源氏、及び斎蔵の藤原氏・巨勢氏」では、「世襲の定義」は、どの様に扱っていたかは記録にある。
    それは“時期だけは続けての「役代わり」”として、これに補任されたものと認識されていたのでそもそも“世襲では無い”として認識していたのだとしている。
    要するに“「役代わり」なのだ”として、維持されていたとし、それは「令外官」ではそもそも無かったと云う事になるのだ。
    事実は、「先の四名の間」には、“「斎蔵の藤原氏」が現実には重複して補任されている”のだ。
    従って、「延信王の神祇伯」は、「朝廷」では「別物として扱われていた事」に成る。
    従って、この次の「猶子の“王」”だけが、この「本来の姿」は、「花山源氏・村上源氏の猶子」である事に成り、即ち、実質は「村上源氏の猶子」である事を意味している。
    この「猶子」である以上は、全く理屈が合わず信用できない。
    又、歴史観として彼等の「伯家とする資料」には、「神祇伯就任」と供に「王氏と記している」が、「王位」は「氏」に補任されるものではなく、「個人」にある。
    又、これに復したとあるが、「王位」は「大化期の規定」により「第7皇子以上で第四世族以上」に任ぜられるものであって、それは「個人」にあって「氏」には「氏の資格」は無いのである。
    そして、この「王位の指定を受けた者」と云う事に成っているが、抑も「正規の規定の王位」とするものでは無く、且つ、従って「氏」には復さないと成っているのだ。
    少なくとも、此れで行くと「家」に相当するのだ。
    そもそも「神祇伯の退任後」には、“「源氏」に戻った最初の例と成った”と勝手にあるが、正しくは「源氏賜姓後」は“元の位に復するという制度”は、既に鎌倉期にも最早無く成っているのだ。
    「顕広王等の復帰の背景・王氏は疑問で王家に」には、「神祇」、すなわち、”神を祀るという、朝廷では重要な行為を行う「神祇官の長官の事」ではある”が、この書籍時期の指す「13世紀の鎌倉期」では、此れは未だ「西の朝廷の任命権」にあって、「府の権限」が及ぶものでは無い。
    あるとすれば、最大でも“「推薦権」”に成り、その意味は低下し異なっている。
    この「鎌倉期」では、「西の神祇官の長官」としては、「神明社」ではその「祭祀と監理」は「青木氏」に帰属するものであって、「源氏独自の八幡神社の管理」のみに関わる事だけではないし拘わらない。
    「朝廷」はそもそも「国幣社格」ではない「習合格の八幡社」には関わらない。
    「鎌倉期」に於いては、「国幣社に相当する皇祖神子神」としての「神明社」は、「青木氏」にあって、「春日社」は「藤原秀郷流青木賜姓青木氏」にそもそも専属的に委ねられていたのだ。
    そもそも「八幡習合神社」は、「源氏の独自の守護神」にある。
    「大中小の三つに分けられた国幣社格」には無く、一般視社格に相当する。
    従って、鎌倉期に独自に「八幡神社」の「神祇伯という職務の重要性」と、「源氏という血筋の由来」、及び、何より「最後の者とする顕広王説」が、有力な“「村上源氏の源顕房の猶子」”と成っている事が気に成る。
    最後の「源氏の賜姓の条件」に繋がっている者であろうか。

    論外に仮に遠く「花山期」から離れて、せめても「最後の者」と成っている「顕広王の子」であるとするのは論外と成る。
    その更に「論外の仲資王」が「顕広王の跡後」を継いで「神祇伯」と成ったとあり、この「仲資王の退任後」のその子の「業資王が「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとしているが、既にその期は「鎌倉期」にあり、この期に認められた「源氏の第二世族源氏の規定」は、正式には時代的に上記した「最初の者」の“「延信王」”が限界である。
    「源姓を賜り臣籍降下した段階」では、実質は「西の令外官の神祇官」である以上は、定説通りに「最初の者」の“「延信王」”の子孫は絶えているのだ。

    注釈 この「源氏化論」を説くには、「歴史観」として上記の「猶子の事」を説明して置かなければならない。
    これは「社会と歴史を虫歯わせた重要な歴史観」であるからだ。
    この「猶子」とは 、そもそも「実親子」ではない二者が、「親子関係」を結んだ時の子であるとし、これを訓読では「なほ子・ゆうし」と呼称していていたのである。
    その頃は、これを「・・のごとし・あたかも実子の様である」と読むとあり、中国では最早、「兄弟の子」を意味するとして「重要な処世術」として認められ扱われたものとある。
    それは「身分や家格の数種の高い仮親の子」に、“繰り返し位置付けられる事”によって、その効果として「社会的に立場が繰り返す度事に上昇し、「一家・同族内」、又は、「社会的に何らかの関係性」を貯めて有する「他氏族間の結束強化と上昇策」の為に使われたものである。
    つまり、「養子」より強いものとして、それには「官位の昇進」や「上の家柄の相手との婚姻等}を容易にしたり、これに依って「義理の親子関係を結ぶ事」で、{両者一族の融和や統制を強化するといった目的」で盛んに結ばれた「武家貴族間の源氏化の慣習策」である。
    一般的に「家督や財産などの相続・継承を目的としない事」では、これは“「養子」”と異なっており、「子の姓」は変わらずに、「仮親」が“一種の後見人」”としてのその役割を果たす等の「養子」と比べて、単純で、且つ、緩やかで擬制的な側面が大きいものである。
    それだけにこの「源氏化の管掌策」としては、これにより「金」が動く為に盛んに「猶子策」が「公家や武家貴族間」では頻繁に使われたものだ。
    この策では、「猶子の親に成る者」に執っては、金品で経済的に潤い、社会的発言力を増すと云う特典があったのだ。
    この「源氏化」にもっぱら盛んに用いられたものである。
    但し、その後の実際の用例では明確な区別はなく成り、「猶子」と呼んでいても相続がなされた場合もあり、「養子」と、その後「同義・同意」として使用される事もあったとされる「猶子策」であった。。
    要するに、この意味から、事に応じて「後見人の勢力拡大の道具」として大いに使われた。
    これが結局は、「源氏賜姓」に盛んに使われた事から、其処には世代数を超えて際限なく利用される事と
    成り、「第・・世族源氏・資格の有無は別」が生まれて、その様に呼ばれる様に成ったのだ。
    そこで、「朝廷」は、「第二世代源氏・孫域」までとこの範囲を定めたのだが、世間は「猶子策」で際限なく護らなかったのだ。
    例えば、この「清和源氏等」も「粗暴な父・暴君」からの「賜姓」すらもを受けられない事から、祖父縁に当たる「清和上皇」に頼み込んで無理やりに賜姓をして貰ったとする経緯である。
    これは、所謂、規則上から「猶子の形」で無理やりに頼み込んだものである。
    普通は、この為に「第一源氏世族・子」、そして「第二源氏世族・孫」の間での、“「縦の下系」”に「賜姓する事」が規則として定められていたものなのだ。
    然し、この「清和源氏」は、「祖父の清和上皇」に、既に上系の上皇と成っていたにもかかわらず、それ以上は、「帝紀」を破ってでも、且つ、現実に嫌がられながらも、「上の系の第二源氏世族」までに成る様に「猶子策」で図った。
    これには規則上に照らしても、先ずどこかの「猶子親」に頼み込んで「下系の“「猶子」”に先ず成り、そこで「数多い猶子親の誰か」を使って頼み込んで「賜姓を受ける事に成る経緯」である。
    これを当時は、「賜姓の規則に外れる事」から「清和源氏」と云えるかはそもそも問題に成ったもので批判されたのだ。

    注釈 この後に「花山期」から離れて、論は歴史観の参考として「鎌倉期説の経緯の検証」とする。
    この「歯止め」とする「第二世族源氏の規定」は、正式には“「延信王」”が限界であり、「子孫」は絶えているにも関わらず、この「猶子策」の故に例外で、“「延信王の繋ぎ」”を別に興したと云う事の例に成る。
    それが「第三世族子」であるとする「顕広王の子」であるとし、「仲資王」までが「顕広王の後」の継いだとして「神祇伯」と成ったとしていて、「第四世族の仲資王の退任後」、その子の「第五世族子」の「業資王」が、「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとあるのだ。
    既にこの期は「鎌倉期」であるが、歴史観として問題があるのでの参考として記した。
    その「業資王」が急死して弟の「資宗王(源資宗)」が「神祇伯・八幡神社」に任ぜられたとある。
    この為にこの「鎌倉期の記録」では、「源氏」から「王氏・?で王家」に復したとし、これらが先例とし、以後、「白川家」によると、永代ではないし「令外官位」であり「世襲は否」とされていたにも関わらず、「神祇伯の世襲化」で「神祇伯就任による王氏復帰」は果たせたとし、そもそも「王氏」では無く「王家である」が、継承は行われる様に成ったとしているのである。
    然し、これは「三代の習慣」からは歴史観はそもそも外れているのだ。
    そもそも正しくは「王氏は無く王家である事」から、「単位の小さい家」から「大きい氏族」の「源氏」に戻れるとした規定は、そもそも何処にも見つからないし、論理的に無理があり辻褄合わせの「猶子策の後付け説」であろう。
    「此の時代の源氏」は、この様に、最早、「猶子策」に依って悪用されて「南北朝までの源氏」では頻繁に行われ際限がなく広がり続いた。
    これと同じくこの時代以降は、最早、「猶子」は「源氏」ではないのだ。
    「花山期」のそもそも「源氏の王位/?」は「一世族源氏の族」に史実与えられたものと成ったものであって、これは「氏族に課するものではそもそも無く、その「一世族を保った家」だけに引き継がれるものであって、要するに「王位」は正しくは「王家の範囲」で終わるものと成るのだ。
    そうする事で、「伊勢青木氏の伊勢50衆の氏族・氏人族」を持った様に、この様に「氏の族を形成する程の源氏」は、そもそも「存在」は無く、「それに戻れるという理屈」はそもそも無く成るので、それを独自の中で勝ってに造り上げて「系譜」を「後付け」で錯綜したと考えられるものであろう。
    「筆者の11の源氏の印象」では、「伊勢の様」に「大氏族を形成している」とする検証はどこにもないのだ。
    全ては最大でも「摂津源氏」の「四家の源家の範囲」である。
    そもそも「大化期の規定」に基づく「王位の者」は、「第四世族以降七世族まで位にいる者」であって、それも「第七位以上皇子の相当族」に任じられるとしたものである。
    この範囲では「王氏」では無く、もはや単なるものでそれは完全な「王家」にあたる。
    依って「白川家の呼称」は、正しくは、「河内源氏の源氏姓」が復帰した「猶子策」が大錯綜した「南北朝」から「13世紀中期以降の代・鎌倉期」からである事に成るだろう。
    故に、そもそも「正式な令外官の神祇伯の代」は、「花山期」で正式に飽く迄も終わっている事に成る。
    故に史実は絶えている事に成るのだ。
    要するに「21年後の令外官の神祇伯」はそもそも「別物」である。
    後は、上記の注釈の「白川家の論・鎌倉期」の「猶子の有無」にあるが、この「花山天皇賜姓源氏・第二世族源氏」は、「一代限りの孫」の“「2世族の延信王」”がそれに当たり、ここで子孫を遺さず史実として敢えて終焉させた事に成るのだ。
    以上の論外のこの「鎌倉期の神祇伯就任」のこの検証では、この「平安期」では、“「孫の延信王」”の「規定の二世族・孫域」で上記した様に既に絶えているのだ。
    正しくは「斎蔵の藤原氏・巨勢氏」の「神祇伯」が重複して存在していた以上は寧ろ“絶えした”と言う事に成ろう。

    注釈 さて、此処で論外ではあるが、世を乱した「猶子」と共に“「神祇伯」”と云うものを理解する上での歴史観とし関わる事を念の為に論じて置く。
    「正式な神祇伯の代」は、この“「孫の延信王」”の「規定の第二世族・孫」で既に絶えている筈なのだが、「後の記録」で観ると、論外として「猶子族か支流族」が引き継いだかは良く判らないが、鎌倉期以降としている「後付けの神祇伯の裔系」の記録が遺されている。
    この「論外の記録」に依れば、それは「猶子策をリードした事」で有名な“「村上源氏の源顕房の猶子・血縁筋が不明な子」の「顕広王」”となって引き継いだとして成っているのだ。
    「猶子」であるかはそもそも「猶子」である限りは判らない。
    つまり、重要な歴史館として、これは「村上源氏中心」に、その以降にも頻繁に行われた「猶子策・源氏化は乱れた」であり、それに基づいて「系譜」を作ったものが多く、これもそれに相当するのではないかと成る。
    恐らくは、その「歴史の歴史観の間違い」から観て、その内容から相当後から、つまり、江戸期中期頃に偏纂されたものであろう。
    この中でも余談だが、この「猶子論」の「猶子策」を使って、その「源氏賜姓の位」、つまり平位で全く格式など無くても、どんどんと「村上源氏」は、「堂上源氏の末裔」として幅を拡げた「猶子策」なのだ。
    要するに、この現象は「円融天皇の藤原秀郷流青木氏」を「永代賜姓」したその直前の「源氏化の出来事」であったのだ。
    その意味でもこの歴史観は、「円融天皇」は、この「村上源氏の猶子策・乱れていた賜姓策」を嫌っての事であったとも考えられる。
    それは、つまり、「乱れた源氏化賜姓」を「円融天皇」が戒め、更に「花山天皇」が戒めてに二代続きで直そうとしたと考えられるのだ。
    現実に乱れた「源氏化」の大きな「猶子策」は、この「二人の天皇の策」で系譜上ではほぼ留まった事に成る。
    そしてその目的が終わったにも関わらず、其の後に、別の目的でこの「猶子に依る源氏の賜姓/目的が違う」は「南北朝」まで止まらなかったのだ。
    当時迄は、抑も賜姓のその範と成っていたのが「桓武派が主張する賜姓」であったのだ。
    この丁度、「村上期の時期」から「源氏化の猶子策・金銭的な賄賂の様なものも背後で大きく動いた」は盛んに使われ始めたものだ。
    「源氏姓・源氏化」を論じ観る時には、この「猶子論」の「猶子策」を適格に「歴史観」として読み解かなくてはならないのだ。
    それ故に、ここでそれを示す証拠は、「彼等の家紋」は、そもそも飽く迄も「笹竜胆紋」では無く、「猶子策」によるものである事から、「村上源氏等」は、正直に、“彼等の「家紋」は「五つ竜胆紋」”として使い違うのだ。
    元より「嵯峨期以降の源氏派」は、「八幡神社・八幡菩薩の習合体」である限りに於いては、絶対にこの「竜胆紋とするの経緯」にはそもそも無い事を「猶子策」を用いて論じた。
    従って「頼朝」等もその「家紋」は、「村上源氏」と同然に歴史的に此の範囲にある筈だ。
    よりともの「家紋」は、そもそも「八幡習合体」である以上は、「村上源氏」と同然に正しくは「笹竜胆」では絶対にないのだ。
    これを「朝廷」からここを突かれた「頼朝」は、「笹竜胆紋の笹と竜胆の花の間の軸に違いを着けて別物とした」のだ。
    現実に、「青木氏の元来の賜姓時の笹竜胆紋」との間には、“八幡神社などの根本的な違いがある”が、「軸の形の違い」を着けて、違うものだとして「朝廷」を黙らせたのだ。
    ところかが今やこの「工夫した文様」が、これも「正規の紋」として美化されているのだ。

    「最終の源氏」は、「1009年の花山源氏」とすれば、そもそも“「三代の規定」”を待つまでも無く、「10年程度の範囲」で論理的に何かを講じなければ終わっていた事に先ず成ろう。
    それは丁度、一代前の直前に「秀郷流青木氏の永代賜姓」が成されたばかりとすれば、「令外官の神祇役」の「花山天皇の源氏」は、これを生かそうとすれば、「伊勢の青木氏との繋がり・神明社」とも親密に連携は執れていた筈で有利であった筈なのだが、それも無かった様だ。
    つまり、これは「花山源氏」のみならず、「源氏」そのものを終わらせようとしていた事に成るだろう。
    これは明かに、上記の検証の注釈通りで、新しく起こった「八幡神社習合体」の「令外官の神祇伯就任の範囲・上記注釈」によるものであろう。
    これは「特別の話」では無く、この「三代規定」に絶えられなかった「高位族の話・源氏」は他にも沢山あるのだ。

    注釈 「社と神社」の「国幣社」とは、日本に於いて古来は「国と地方府・現在は都道府県」に「幣帛の至幣帛料を支給される社の事、又は国の神社の事」である。
    そもそも、「社と神社のその格式」には差があるのだ。
    従って、これに「格式」を設けて「官吏」に依る「監理」をしていたが、当然にこれがあればその「神社格式」が高くなる。
    この「平安期の令制時代の国幣社」は、「延喜式神名帳」にも記載があり、「格式」に依って監理されていたのだ。
    「皇祖神の子神の神明社」は、「伊勢と信濃の青木氏」が管理する「最高格の国幣社」であって、そもそも「特別格」の「社格」にあり、「神社格」ではないのだ。
    つまり「特別な社格」である。
    この「令外官の神祇伯の神社」は、「皇祖神の子神の神明社外・青木氏監理」であり、そうするとそれは主に「源氏の守護神」の「八幡習合社」の「神祇伯」に限られる。
    他には、「国幣社並みの大きいもの」としては「秀郷流一門青木氏の春日社」があり、「藤原氏の春日神社」が存在したが、これが「藤原一族の氏が監理するその守護神」の「神社格」が別にあったのだ。
    此処で、「・・社格」と「・・神社格」は「存在格式」が異なり、「社格」は原理主義を有しその上にある。

    以上の論から「桓武派」と「嵯峨派」の齎した後世に、この「源氏化の事件」は、筆者には論の通り明らかに“「桓武派」にその理があった”と考えている。
    「部の造の利」を生かして「925年」に「商い」を興し、「1025年」に貿易を興す総合商社を興して、“「内蔵」”を先ずその「賜姓五役の役務」や「院屋号の役務」や「因事菅隷の役務」として「令外官の役務」として豊かにし支えたのだ。
    筆者は、「部経済を熟す令外官役務」と云うよりは、資料の読み込みの行から、“生計を一にする「一族の稼ぎ頭」として勤めていた”と当時の青木氏族の一族の者は考えていたのであろう。
    要するに「皇親族の発言」とこの「内蔵を支える事」の是非論であろう。
    光仁期以降は、前段でも論じたが「部の国造頭」として“「内蔵」”を支える以上は、必然的に「皇親族」と成り得ていた事は否定はできないと考えているのだ。
    政治的に観ても「内蔵の潤い」は、そもそも「霞を食している天皇家」では無く「政治の安定」には直接に繋がるは必定理であったろう。
    そもそも「税」に求める「大蔵」と違って、何れかよりその「大きい糧の基」を求めなくてはならない。
    故に「桓武派」と「嵯峨派」として「政争の騒ぎ」を興してまでも、その「内蔵の大元・青木氏の賜姓を切った」を切り離した「嵯峨天皇の施策」は、筆者は青木氏の者として“後世に疑問と禍根を残した”と観ているのだ。
    然し、幸いに上記する「3人の天皇の出現」で、「帝紀」すれすれで何とかこれを正したと観ているのだ。
    其処にその「内蔵を保った」として「二つの青木氏族の裔系」はまだここに現存しているのだ。

    この証拠に、この「政争の騒ぎ」の中で、このある時を以て「青木氏族や近江佐々木氏族からの系譜」からも、何故か「血縁関係も含む全ての関係性」が、“全く無く成っている”のだ。
    この“全く無く成っている”という事は、先ず普通では起こる事はないだろう。
    ところがこれを物語る事としては、“「生きる社会環境」が上記した様に、「猶子」等の「複雑怪奇な源氏化」で互いに溝が出来て違ってしまった”という事では無いかと観ているのだ。
    それが「伊勢と近江という事」だけではなく「信濃と近江」ともに広がったのである。

    故に、これは「源氏化の経緯」には、その過去には、この「近江佐々木氏との内部事件」もあり、尚且つ、これが「源氏化の時代の渦に巻き込まれる事」をも警戒していた中での事であった筈である。
    だから、その事はこれを咀嚼しても、そうするとこの説で観れば、その後に「青木氏」では、“「後家制度」”と云う“「応急処置」”で、“この事件の処置をしたのだ”という理屈が生まれる。
    ところが、その後の例として、確かに「嫁いだ女」は、「後家制度」で「伊勢」に帰り収まりが着いた事があるが、実は次いでこの「後家処置・制度でも治まらない事」が続けて起ったのだ。

    それが、“「京綱の処遇」”であったのだ。
    この「猶子の源氏化の中」では、「青木氏族」に執っては「大変に厄介な事」であった。
    そもそも「光仁期」より「徹底した女系制度」を敷いて「天皇家・男系との関係性」との関係性に巻き込まれる事を絶っていたが、これがこの「女系制度にそぐわない事件」と成って仕舞ったのである。
    その「解決策」としては、「女系制度の慣例破り以外」に無く、結局は「出自来の四掟」に反するが記録と資料と口伝によれば、“「青木氏族の氏族合意」で乗り越えた経緯”なのだ。
    この「京綱」は、この「猶子であったか」は調べたが、そうでは無く、「仲綱の妾子・正式には四男」である事が歴史的に記録があり確認できた。
    その「京綱対策」が、「青木氏四家の福家」に最終は直接に組み入れたとしているのだ。
    これはどういう事かと云うと、何とか裏で行われていた「頼政との難題の話の進行」、つまり、「京綱の処遇の件・青木氏の家人跡目に入れる事」では、最初から“「後家と云う話」”の中で対応したのではないかと予想できる。
    その「伊勢の氏族」の中では、「後家の話の主体」の「条件」として出していたのは、そもそも「同環境に陥っていた事」からであって、その「騒ぎ」はその「伊勢や信濃側」にでもあった事と考えられる。
    それは「摂津源氏頼政の策」と成った「嫁・娘の対策」では、兎も角もこの“「後家」”で処理されたが、この「京綱」の「伊勢青木氏族の中の扱い」は、又別物であったらしい。
    そして、先ず「娘」を再び「氏族の郷士に嫁がせた形」を執り、そこから生まれた「優秀な男子」には、「伊勢青木氏」をそこで興させて、次いで優秀であれば「青木氏家人に戻すとする制度」があったがこれを京綱の策に使ったのだ。
    「京綱策」は、結局は、この“「家人の青木氏」”として先ず「四家」の一人に入れて、そこで経験させて「優秀」であれば「四家」から「福家に成る仕組み」の中に入れたとした事が判っている。
    「伊勢」も然る事乍ら、「信濃」に於いても同然であって、「女系の青木氏の四家の中で生まれた男子」は、先ず「四家全体の中」で育てられ、「何れかの四家」に先ず入り、そこで「経験」を積み、その後に何れかの「四家の差配頭の家人」に成り、そして「四掟の女系・女系の郷士か秀郷流青木氏」で娶り、「優秀」であれば何時しか「福家」と成り得る仕組みである。
    結局は、「京綱」は、最終は、“「福家に成った事」”が記されている資料が遺されている。
    「信濃の国友」も「京綱と同然に成った事」が判っていて、「国友」には「信濃」に定着せずに、最終は「伊豆を強固にする為」に秘かに「融合族の伊豆青木氏」に入った事が判っている。
    然し、その後の「伊豆の中での事」は、つまり「国友の事」は「源氏化の事件性」から判らなくされているのだ。
    「相互の血縁の関係性」から「伊勢や信濃」では「国友の事」は「京綱」と共に把握されていたと考えられる。

    注釈 「国友の経緯」には、別の資料から、「伊豆」に到着以後は「伊豆」を代表して「商い」で「伊勢との往復をしていた事」が記されている。
    ところがここで「四家の福家」に、この「京綱」は成ったとされているが、少なくとも「摂津源氏四家」に嫁いだ「伊勢青木氏の娘」は、「仲綱の妾」と成り、その「子の扱い」は「四男」ではあったとされているが、この「四男の京綱」は、「摂津源氏の血筋」を引いている事に成るが、“全く源氏に加担しなかった事”が判っている。
    「伊勢四家の福家であった事」では、判断次第では「滅亡の憂き目を受けていた事」に成るが、「氏族の伊勢の中」には「摂津源氏の源」も影も無い。
    この「頼政の件」で戻った「伊勢の女(むすめ)・後家」の「行先・匿先」は「犯すべからずの多気の斎王館・務先」と「清光寺・尼僧」とであった事からで、その「後の成り行き」は強く戒められた可能性がある。
    この時、少し連れて「事件・5〜10年以内程度」が「大口青木氏の事件」があった事から、「伊勢」では、この「二つの事件の扱い」は「同一事件と捉えていた事」が考えられる。
    この「大口青木氏」は、そもそも「摂津源氏宗綱の廻氏の裔・仲綱の嫡男」でもあり、突き詰めれば「伊勢青木氏の京綱」も、その「摂津源氏の仲綱の四男裔」である。
    「京綱」は、「仲綱の後裔/四男」であり、他方は「大口青木氏の廻氏族の裔の宗綱・仲綱嫡男」であり、何れも「仲綱の嫡男の裔」と「仲綱の四男」の裔差である。
    それが同時期、同一場所、同年代、同一人に育てられた結果と成っていて、最早、「義兄弟」であった筈である。
    つまり、この「二人」が偶然にも「一つの経緯」を経て、再びそれも“「伊勢に集合した事」”に成るのだ。
    ところが、この「二人」は血縁の深い縁を持っていながらにしても、「源氏化の流れ」の中でも、“源氏化”に全く加担しなかった結果と成っていたのだ。
    此処には何も無かったとは考え難いし何かがあったとも考えている。
    どの様な事があったのであろうか調べたが判らない。
    「予想する処」では、「財」に於いてもその形跡がなく、一銭も援助をしていない事から「女系族」である以上は、この「猶子策で腐敗化した源氏化」の中でも動じる事は無かったと観られる。
    百々の詰まりは、「頼政」はこれは「伊勢と信濃の氏族の同意」が、全く得られなかった事を意味し、「四掟の秀郷流青木氏の同意」が得られなかったと云う事であろう。
    それには「源氏社会」には、この「猶子策の乱」があって、「源氏」だとしても、“信用は出来なかった”のではないか。

    筆者は、そもそもこの「戦いと経緯」に備えて、上記する様に、“「財と武の獲得」”と“「子孫存続の確定」”、そして別の面では、“「皇族系で律宗性の強い二つの青木氏」に「、源氏子孫を遺すと云う事」では、より「猶子策」で乱れている中でも、“「源氏族のより格式化をより図ろうとしていた」”と観ているのだ。
    そこに「頼政」が、「青木氏の前に立ちはだかった」と云う事なのだ。
    彼等は、「平家族に超す様な格式」を確保して、全国に向けて「有利な立場」を保全して、「以仁王の乱」を有利に運ぼうとした”とも観ているのだ。
    つまりは、「頼政」は「朝廷の中」に流れるこの「猶子策の源氏化」を利用したと観ているのだ。
    そうする事で、前段で論じた「桓武平氏=青木氏族・桓武天皇派系の関係」に、“「楔を打ち込もうとした」”のではないか。
    それは「桓武平氏側」には、「天皇系」と成り得ていて、既に「金玉・安徳天皇」を有していたからだ。
    故に、「伊勢の京綱や信濃の国友」を、この史実の中に入れてこれを表に出す事で、「9つの縛り策に弱い処」を補完させ、且つ、そこでこの「桓武平氏側」にも「血縁的な繋がり」のある「格式のある青木氏族」を前面に押し出そうとしたのではないかと観ているのだ。

    然し、だから「青木氏の後家の策」を取り入れたのだろう。
    此れをせずに、抵抗すると云う手も在ったろうが、ところが「氏是に基づき敵対する事」は何とか避け「青木氏一族」はその手に乗らなかったのだ。
    当に「頼政の計算された騙しの策・事件」に巻き込まれそうに成ったのだ。
    その意味でも、この同時期に関連して「伊勢青木氏族の伊佐氏に関わった大口事件の処理」は難しかった事が云える。
    何にせよ前段でも論じた様に、そもそも「以仁王の乱の失敗後」の「摂津源氏の子孫の助命嘆願書を清盛に出している事」であり、これに動かされる事は、そもそも「桓武派」と云えど「極めて危険な事」ではあった。
    これは前段でも論じたが、何故、この「反対派の願い・助命嘆願」に対して、この様な“見逃す事の出来ない歴史的に遺る様な相当に危険な事”を、「伊勢」は態々したのかである。
    確かに、「京綱や国友の件」や「老母の高野新笠の関わり/伊賀の差の意味」等があったが、それだけでは無かったであろうし、「伊賀の平氏」の中には「摂津源氏」から来た「二人の妾」が居た事も判っている。
    この「二人」は、何もせずとも先ずは“「嘆願」”は一応はするであろうが、これが「時代性」が異なる「高野新笠派・青木氏説」を動かしたとも思えないのだ。
    然し、真偽は別として、前段でも論じたが「伊勢に伝わる処」では、“「高野新笠・伊賀の事を意味していた」を以て動かした”と伝わっているのだ。
    然し、かと云っても「伊賀の高野新笠系の意見」を聞いて、当然に、“「伊勢青木氏の福家」が何の利益も無いのに素直に直接に積極的に動いた”とも思えない。
    少なくとも、あるとすれば、“ある先の起こるべき計算があった”という事であろう。
    それは最早、ここまで来れば無視出来ない程の「助命嘆願をしなければならない流れ」が起こっていて、そこに何かが「青木氏の経緯」の中で、“必然性的要件が起こって仕舞っていた”と疑う事も考えられると云う事である。
    調べたが少なくても、この「青木氏の中」には「この必然性」は見つからないのだ。
    まさか上記した「源氏化の社会の乱・猶子策」が誘因していたのかとも疑うが無い。
    然し、「以仁王の乱」が失敗に終わっている以上は、この「猶子策の源氏化」がこれに左右し働いていたという事でもないだろう。
    この「猶子策の関わり」が「京綱の件」として、観えない処で「青木氏の中・条件」まで及んでいたのかと云う事であるが、先ずそれも無いだろう。
    兎も角も、理由は、“「高野新笠の意見/伊賀ルート・青木氏・桓武派の意見」として取り入れた”と云う事にしたのではないか。
    少なくとも「伊賀に関わっていた事」は、それなりの記録があるがこの限りでは確かであろう。
    兎も角も、「崇拝していた桓武天皇」の「母・高齢」であった「高野新笠派の意見・伊賀勢力の青木氏」は、「伊勢の青木氏」に執っては無視できず、“「桓武派の意見」”としては簡単に無視は出来なかった事は先ず判る。
    これに付いては、「伊勢も清盛」も、“その範囲の事としての考え方”の「扱い」でもあって、“起る先の結果も見込んでこの「流れの中」に、“「先事の事”として実行したのであろう。
    要するに、“先ずは治まる処に治まる”として、兎も角も提出し、「伊賀の平家側」も「嘆願書」を受け入れた事であろう。
    そして、「先の事」を見込んで、「伊勢青木氏も伊賀平氏」も、先以て、“その為の準備をした”と言う事ではないか。
    「清盛側」も受け取って置いて廻村に放置するよりは「相手」を誘い込んで潰す目的であったのであろう。
    当然に昔の「伊賀半国割譲の結果」としての「伊賀半国割譲を仕切った立場」もあって、「渡来人の里の南九州」には「伊勢の関係者・伊佐氏」を「朝廷の命」により「伊勢」から送り込んでいた事もあり、其の上で「事前の体制」を整えていたと云う事に成る。
    これは未だ「日向廻氏」まで及んでいない時期の事である。
    「平族/たいら族」は、「桓武派の伊勢青木氏の申し出」で、一応はこの「助命嘆願」を「史実」としてこの意味で先ず受け入れたのであろう。
    然し、その証拠に、流罪後に直ぐに「九州平家」が、間一髪入れずに何事も起っても居ないのに、これに応じて先に軍を南に動かしているのだ。
    即ち、これは「廻氏周囲の豪族等と組んだ宗綱勢力」が、“襲い掛かり潰しにかかって来る事”を先以て読み込んいたと云う事だろう。

    これに付いては、「宗綱が先に反乱を起こした事」は判っていないが、この時の「状況証拠」から史実は周囲に呼び込みを興している事は史実である。
    そんな事は問題では無く、これは「九州平家が内密に先に指令を受けての事」であって、「九州平家」に依って恣意的に潰す事を目的に引き込まれた「戦い」であったろう。
    それは時系列から「反乱の事態」が起こってから「九州平家が動いた時間」が、そもそも無さすぎるからだ。
    これで、この「助命嘆願」も「平家」も「伊勢青木氏」も、その「心算」を以て受け入れていた事は確かであろうし、「伊勢」も「暗黙の裡」に同然であったろう。
    そもそも戦略上では、「生遺りを遺して置く事」は、最も危険な事であり、「掃討作戦」は徹底してやるのもこの為で肝心な兵法であって、これを適当な理由を着けて軍師は必ず先にするものだ。
    それが「確定勝利の兵法の路」であるのだ。
    その意味でも、全段でも論じたが、「伊賀の半国割譲の経緯」もあって、「伊勢側」でも「伊佐氏等」にも声をかけをして、その「伊佐氏の菩提寺の浄土寺」に向けて、事前に「伊勢青木氏の住職」を事前に「寺に廻していた事」でも頷ける。
    史実は上記した「伊賀半国割譲」の経緯に依って、その「伊賀の関係」から「伊勢」から赴任遙任して「南九州」の「当地の現地監理」を任されていたものであった事から、「伊勢郷士」とそれに伴う「青木氏の柏紋の住職」を同時にこれに付する為に改めて重要な人物を赴任させていたとする記録もあり、これがこの事の史実であろう。

    前段でも論じた様に、同然に「同時期・平安末期」には「同族の信濃」でもこれが起こっていたのだ。
    「頼政の源氏化」に向けて、危機迫るのを逸早く悟り「信濃・国友」では、これを受けた後に「融合族の住む伊豆青木氏」に移動させて隠して上手く難を逃れていたのだ。
    「信濃」は、「“雉子懐に入りて鳴くずんば猟師これを撃たず”の策」に出て成功したのだ。
    要するに、「信濃」で隠すよりも「頼政の所領の伊豆」に直接に移動させたのだ。
    これで「源平の戦い」に引き出されずに「懐に逃げ込む策」を講じたのだ。
    其の後は表に出さず「商い・船」に従事させて、判らなくしたと伝えられていて、「伊勢」にも来ている可能性もあると資料・記録にある。
    つまり、その後の「後家制度等」が次第に「軋み」を生みながらも護り、「青木氏族」は“「四掟を護る手段」”に切り替えた。
    然し、そしてこの「後家制度等」は、「源氏化の猶子策」より先んじて、“「格式高い公家族との間」”で定着して行き制度化が進んだのだ。
    この時、「源氏化に伴う猶子策」も同時期に並行し貴族間では進んでいた事に成る。
    この時は、最早、「後家の意味・鎌倉期以降」も益々違って社会の中で変化して行ったのだ。

    前段で何度も論じた様に、念の為にこの論と繋なぐ為に系列を追記するとして、「賜姓伊勢青木氏出自」の「施基皇子の四男の白壁王の光仁天皇」の「妃」は、「桓武平氏の伊賀平族の裔の高野新笠・清盛の母系祖」であり、この関係は、「桓武天皇長子の平城天皇」まで続いた「桓武天皇派系・桓武平氏も同派」である。
    これは「賜姓や皇親族」を先ず排除しようとした「嵯峨派」に対抗して結成されたものであって、「政争」までして起ったのだ。

    同じ「青木氏出自系」でありながら「薬子の変」で、「嵯峨天皇派系」と「桓武天皇派系」の間で「皇族の在り方の考え方・新撰姓氏禄の制度化と皇親族青木氏の処遇」を巡っても、ここでも「二派」に分かれて「平安中期」まで分裂して実戦までして戦った経緯の中にあり、相当に一族間は割れていた事に成る。
    前段に重複するが、この様に上記の「頼政の後家の事件」は、それが遡って“「新撰姓氏禄」”までに起因していたのだ。
    つまり、これは「頼政の政的相手の桓武平氏の清盛」に対して、「摂津源氏」は「伊賀青木氏」に「二人の妾を嫁がせていた事・記録」を背景にして、“「桓武派として同派である事」を見せかけていた。”
    それを理由に利用されそうに成ったと云う事だ。
    “「財と武の獲得」”と“「子孫存続の確定」”、そして別の面では、“「皇族系で律宗性の強い二つの青木氏」により、そこに「源氏化の猶子策」で揺らぐ中で、「源氏子孫を遺すと云う事」が起っていたと云う事であった。
    それにより頼政側は「源氏族のより格式化をより図ると云う事」でもあったのだ。
    「源氏賜姓の結果」は、この「源氏化の猶子策」で崩れ始めたのだ。
    そこで「源氏族」は、「平家族に超す様な格式」を獲得して、“全国に向けて有利な立場”を保全しようとしたのだが、“「以仁王の乱」を有利に運ぼうとした”ものであった。
    然し、この「猶子策」で「源氏」は直ぐに乱れ始めたのだ。
    この「三つの目的以外」に、「過去の経緯・上記の縁」を知っていた「頼政・従三位」に、「桓武派として同派である事」を、“巧みに利用されようとされた”と云う事であろう。
    これには、その元には、この「頼政」のみならず「源氏化の動き・流れ」に執ってその根本には、“「新撰姓氏禄・格式論」”にあったという事だ。
    当時の「猶子策」の「源氏化」が起こっている「武家貴族社会」には、“「新撰姓氏禄」で定められた以上は「格式獲得の為」にも「猶子策」が蔓延り、その元にはそれを得ようとした「根深い格式論」が基本にあったのだ。
    別の面では、源氏族はこの世間に蔓延る「猶子策」を良い方向と捉えていた可能性がある。
    そして、「頼政」は、要するに、“「伊勢」に対して「此処・猶子策」を突いて来た”と云う事だろう。

    それを「詳細な経緯論」として改めて次の段で論じる。
    世間でいうこの「源氏化」は、そんなきれいごとでは最早無く成り、“「此処・猶子策」が渦巻いていた”という事を、「青木氏の歴史観」として知って置く必要があるのだ。
    だから何度も論じているが、それには「円融天皇の秀郷流永代青木氏賜姓策」があり、引き続いて片方では「花山天皇」は、「悪弊を出している猶子策の源氏化」を食い止める為に、「一代限りに成る令外官の神祇伯就任・孫の延信王に賜姓」にしたのだ。
    且つ、つまり、当時の「源氏化の猶子策」が蔓延る中で、「源氏賜姓の慣習」に従い「第二世族の源氏」で、「神職にして一代限りだけの子孫拡大」で止める策に出たのだ。
    これで「源氏化の悪弊」は現実には止まったのだ。
    この「源氏化」は、美化されて正しく伝えられていないが、現実には「猶子策などの悪弊」が蔓延っていたのだ。
    これを「この論の歴史観」として持ち、歴史を正しく理解するべきである。
    その内の一つが「青木氏」にも係わってきていたのだ。
    そこに、記録にもある様に、最後の「青木氏出自元の仁明天皇」の外に、この「二人の天皇」は位置づけられるのだ。
    「青木氏等の献納」に基づく「内蔵の問題」は変わり、初期の「鎌倉の府」が存在する限りは同時に未だ直ぐに解決は出来なかったのだ。
    「賜姓して皇族臣下族の者」として「守るべき掟」の「9つの嵯峨期の縛り策」を護るどころか、そもそも「雄略天皇以降」に決められたこの「皇族の者が護るべき役割の基本」さえも護らなかった。
    この「内蔵・大蔵」を支えたとする事も無く、「嵯峨期以降の源氏族」が、この「本来の役目」の“「内蔵を支えたとする記録」”はどこにもないのだ。
    「嵯峨期の事件以降」は、「朝廷内」は「源氏化と成った事」により、「伊勢青木氏」は、この「内蔵の献納」を敢えて止めているのだ。
    「伊勢」からの「鉱山開発や開発中の日本式な高炉の技術供与」が観られた時期でもあり、それから総合的に観て「北条氏の執権化の期」までは、「献納」は実質は記録的には大事には無かったと思われる。

    「献納の時」は旗を建て大きな献納の車列を仕立てて京に上っていたとする記録がある。
    “相当に豪勢な車列であった事”が口伝で伝えられている。
    これが証拠と成るかは別として、「商記録」にも「大きな出費の算段の記録」は一時消えている。
    恐らくは、この時ではないか。
    「伊勢と信濃」では、「院屋号や因事菅隷や賜姓五役」」としての「影の永代令外官」としてその「財力」は何れにも勝るとも劣らずに持ち得ていたが、だからと云って「青木氏に依る内蔵の献納」の「正式な再開」は、「猶子」が社会に蔓延った結果、その為に「二人の天皇の策」に依って「源氏族」が絶えた「1221年以降の事」である事に成る。
    それは「正規」に再開したのは、つまり、再び「内蔵掾・献納の形で」として貢献したのは、「正親町天皇と室町幕府に認められた律宗族の格付け期の直前期」ではあったと考えているのだ。
    史実として、それまでは「宮廷の壁」が各所で崩れ落ちている「記録」があり、「内蔵の悪さ」が物語っている。
    「室町幕府」はその力は無く、「正親町天皇」は「天皇家の権勢」を立て直そうとした唯一の天皇であった事から、青木氏の力を借りようとしたのだ。
    その為にも「律宗族」として世間に再び喧伝し、「格式」を世間に認め直したのだ。

    「青木氏の伝統 78」−「青木氏の歴史観−52」に続く。


      [No.401] Re:「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/04/20(Thu) 10:43:53  


    「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」の末尾

    暫く持ち続けた額田の銃」は、上記した様にその保持そのものをうやむやにする事にも意味があって、その後の「信長への牽制」にも充分に成りえていたと観られるし、それに背後にはこの「額田の銃力」が「松平氏にも都合の良い所」であったであのろう。
    それだけの簡単に攻める事の出来ない「牽制の意味・2万から3万の兵力」を拡げていたであるからだ。
    「長篠」ではこの「銃の存在」は無かったが,“「松平軍の背後」に「青木氏の銃」がまだ有るよ”と云う牽制で充分であったからだろう。
    現実に勝頼の陣の右横500mに陣取った松平軍は、既に国衆で゛は無く成っている「額田青木氏の銃隊の存在」だけを思わせる事で充分であつて、それ故に合力せずに一切発砲をしなかったのだ。
    余談として「傭兵軍団の火縄銃の銃の使用」は「織田軍」だけであったし、この「信長の本陣」は銃隊の遠く後方の豪族の館に置いた陣屋であったとしている。
    「額田青木氏の銃」は、其の後に、「人」は殖産業等に関わり、「牽制の道具」で使われたと云う事なのだ。
    そもそも、序でにその「銃の行方」に付いては、時には、これが「飾床間の片隅」に飾って置いてもおかしくは無いだろうとする程度の事だったとするが、それが責めての事として、これが「青木氏の氏是の根幹」と成っている“「青木氏の奈良期から9つの縛り・嵯峨期天皇・平安期」の「掟・否武力」と「抑止力」とに反する事”からであったからであろう。
    「銃を飾りとしてする環境」には無かっ到底無かったとしている。
    この様に「銃の記録と経緯を遺す程」であれば、責めて「政策期1640年頃から廃却期1740年の100年の間」では、「飾床間の片隅」にもあり得た筈であったが、これに付いても「口伝」もないし現実にはだろうそうしなかったのだろう。
    これを「成さしめたもの」は、上記から論じている“「長い青木氏の伝統」では無かったか”と考える。
    これが正しい“「青木氏の歴史観」”では無いだろうか。
    「上記の事」は要するに、“「青木氏」をクローズアップする為”に、ここにスポットを当てて観たかったのだ。
    「後勘の者」として云えるこの掘り起こした「歴史観の事」は、ここが「嵯峨期の9つの縛り策」を破った「武を建前としていた源氏族」と違っていて「生き遺れた所以」であったと云う事なのだ。


    「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」

    (注釈 「青木氏族の抑止力の為の試作改良銃の位置づけと当時の社会論」
    この事に付いての「詳細経緯」を論じていないのでここで論じる。
    この中の経緯を具に調べて観ると、そこから未だ論じていない青木氏に関わる「流れの中での歴史観」が観えて来るのだ。
    それを引き出したいのだ。
    これは、当時の“後付けの搾取偏纂や脚色”などに惑わされずに、「青木氏の正しい歴史観」で歴史を判断し判定するに必要とする為の重要な要素である。
    さていた。
    未だこの時代は、今川氏、足利氏等の主要大名も、“速射では銃よりも弓の方が戦法としては良い”と考えられていたとする記録があるし、「歴史的経緯」から観ても現在も含めて何事も現実にはそうであったろう事は頷ける。
    然し、この「時間と天候」に左右される「火縄銃」では無く、“「黄鉄鋼石」を使って擦り合わせて火花を出し火薬に転火して、間かな時間で爆発の反動を起こしている「手動回転式シリンダ」から弾丸を発射させる「フリントロック式の銃」”を、秘密裏に西洋より貿易で堺で獲得していたらしい。
    それを先ず観応真似で「青木氏部の鍛冶師」が居る「青木氏の起点の堺」で密かに「試作」を重ねていてたらしい。
    その後にある程度形に成った物を今度は多くの「青木氏部の技術者」がいる「松阪」に秘密裏に持ち込み、そこで最終の「改良銃の原形」を造っていたと云う事らしい。
    つまり、肝心な事は「額田青木氏の国衆にあう銃」を「堺商会・主要組合人と青木氏部」と共に密かに量産に持ち込もうとしていてたらしいと云う事なのだ。
    これを全ての「青木氏族の抑止力」として、先ずこの要するに「試作銃」を密かに「改善」も加えた後に渡して「各地の青木氏族」で試射していたらしい事の「行の記述」が観られるのだ。
    そこで要するに「改良の為の試作の試し打ち」を行ったいた様なのだ。
    ところが、この「改良銃」には「上記の冗談」で論じた様な幾つかの製作上の無理が伴い「暴発や銃身爆裂」も繰り返しあった様である。
    それも更には、欠点として“「相当な訓練無し」では使えなかった”とする事が資料の一部の行から読み取れるのだ。
    その主な原因は、先ず、“途轍もない反動であった事”の様である。
    これは「改良」に依る事から来る、これに耐えるには「屈強な体力と経験」が必要であった様である。
    それには、先ず相当に“「射撃した反動」を上手く上に逃がす経験”が必要であってある。
    これを駒復するには「体躯の強化」と「射撃の訓練」で克服した様である。
    “兵を集めて来て簡単に扱いを覚えさせる”と云う程度では使え無かったと云う事だろう。
    その「耐えうるに必要とする射撃するスタイル」があった様だ。
    それは、先ずは「膝付型・A」で射撃する事が必要であった様で、更に其のスタイルの侭で「腰側に構える形・B」で射撃する提案であったとある。
    「命中率」を上げる為には、最も良いのは、一歩前に半腰で脚を踏み出した「立型の目の高さに構える型・C」は、「反動を上にタイミング良く逃がしする」ので、「立型の目の高さに構える型・C」は命中率が変動しそれを上げるには相当訓練が要した様であったとされている。
    ところがこのスタイルでは「日本人」には向かないとして、採用されずにそこで、「日本人」、否、「青木氏族・抑止力」に向く様にする為に、「青木氏族が住む各地で行われている試射からの意見」を集めて、それを元に改良を加えて行ったらしい事が記されている。
    つまり、この意味する処は、「背の小さい日本人仕様・額田青木氏仕様」であると云う事だろう。
    それでなければこの「銃力の改良タイプのフリントロック式改良銃」を唯単に持つと云う事だけでは無く、銃を使う技能の意味が成さないと考えていた事だろう。
    それが形式的には、「射撃スタイルの型・ABC複合型銃」であって、更にはこの「改良銃」は尚当時でも難しい“「連射式」”であった様である。
    それはこれを採用したのには戦略的な目的があった様で、それ補完する意味で「命中率=C、速射と命中率=B、速射と連射=A」としての「3つの術」を持つ意味を高める為に“「特殊な訓練」を額田の山奥で重ねていた”らしいのだ。
    この「3つの様子」がこの資料から読み取れる。
    取り分け「C型で脇に抱える型の提案」が、読み込む範囲では「武蔵・秀郷一門」から寄せられた様だが、発射後の「熱と煙」に邪魔されて、その後の発射が難しくあった様であり、ところが「訓練の形」の中には、これを実際に採用された行は何処にも観られないのだ。
    然し乍ら、それだけに「射程距離と命中率と連射」が“「抜群」”であった様で、「貿易で入手した見本」の以上に優れていたと行の表現では読み取れるのだ。
    「煙の向きなどの事の気象条件」を考えて使用が望ましかった要だ。
    この「三つの型ABC」を“戦況”に応じて4年の歳月を賭けて訓練した様だ。
    「三方ヶ原の戦い」では、記録が無いが、基地建設の荷駄を引き連れた「山県軍」が南に向かって突然に「突撃態勢で来た事」から、これを゜額田の銃隊」は「荷駄の周囲」に隠れて囲まれて“北に向かって突撃を待ち受けた状況”であった事から、「突撃開始点」から当初より近づいて来る形に成った事で、つまり、当初より「充分に射程距離内に入った事」から、この事から採用したのは「指揮官の命令」は「膝付型・A」であったろう事が充分に読み取れる。
    上段で論じた様に「熱に対する改良点」を充分に加えていたが、それでも「煙幕と射撃熱」で「4連発」すると「必要程度の熱」を持ち、そこで「射手」には「荷駄隊も50・伊賀者等」も参加したとしているのだ。
    「開戦時」は「昼の4時の開戦」として「海から吹き上げる風・海風」と成っていた事が判る。
    つまり、“「爆煙」”は、この時は「海風・南の海から北の山向き吹き上げる風向き」に、丁度、変わった時間帯でもあって、「南の左の先端に近い所に位置していた額田の銃隊」は、戦う上で自ら発生させた「銃煙の影響」を受けずにいたのだ。
    これが「有利」に働き、「爆煙の強い銃欠点を補える態勢」にあったのだ。
    これが「逆の山風・北の山から海に向けて吹き下ろす強い風向き」の場合は、自ら発生させた「弾煙」で、暫くの間は前の敵が観えずに、これが更にこの「銃の特徴とする連射・4連発」をするとより悪化する事と成る。
    この時は「フリントロック式連射式改良銃」の場合のこの「利点」を生かせずに逆に「欠点に変わる事」も起っていた筈である。
    その意味で、この“「開戦4時」”に付いては、“「爆煙に依って隠して救い出すと云う作戦」”には図らずも“実にタイミングが良かった事”に成るのだ。
    此れを「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、「爆煙」に付いて事前に考えていたのかは、資料からも定かではないが、「美濃額田の山の中での訓練中」にこの事は充分に知り得ていて指揮官としては配慮していた筈であると観る。
    然し、“急に救出作戦をする”と成ったこの「三方ヶ原の経験のない環境」では多少の疑問が残っただろう。
    その前の「一言坂での遭遇戦」では未だ逆の「山風」であったのだ。
    これがこの「流れの中」で“良い方向に向いた”と云う事ではないか。
    この「爆煙と云う点」では、実際に「武田軍本隊に対して左斜め」に向けて、「山県軍の別動隊に対しては右やや斜め」の「位置」にいて、「額田青木氏の銃隊」にとっては“「有利の位置」”にいたのだし、此れも“「流れの中での利点」”と成ったのだ。
    前段から何度も論じているが、念の為に、要するに、“物事には「流れ」と云うものがそもそもあって、それを如何に正しく早く掴むかに掛かっている。”指揮官には必要としている。
    そして、これが「成功や勝利の源」に成るのだ”としているのだ。
    この為には、“「青木氏の氏是」からこれから離れてはならない”としていて、その外れた考え方や行動が、此れが、即ち、“邪念を産むから”としているのだ。
    この“「邪念」”が“「流れの方向を見誤る」”と説いているのだ。
    そして、“この「常の姿勢」がその「流れ」を見抜く「人間力」を生み出す”としているのだ。
    従って、この場合はこれがこの「流れの中」で“良い方向に向いた”と云う事ではないかとしていて、このこれが「資料の中」で捉えられているのだ。
    そもそもその「考えの下」に、この「流れの要素」の一つとして、「手動4連射式改良銃であった事」をどの様に捉えていたかによるだろう。
    依って、先ず「指揮官の人間力」は、この「流れ」を呼び寄せられるかそこから決まるのだ。
    この時、経緯から判断して、この“「300丁全部」”を使ったのでは無く、前段で論じた様に“「熱」に対して技術的に解決していた”としても、少なくとも「冷却用」には「数十丁」は「相手の数と戦術」に合わして「安全用」として、又「交換用」にしていた事に成るだろう。
    前段でも論じた様に、“「300丁全部」”は、“「手動4連射式改良銃であった事」”から一度にこの「銃の力」を発揮すると、前段の通りに少なくともまず「連射式」であるので、“「約40倍程度の兵力」”に成るとして計算すると、その「兵力換算」は「12000の兵力」に相当する事に成る。
    「銃隊を横一列に並べて陣形」を組むので、「並列の12000の兵力」に成り得るし、その「攻め向き」を自由に換えられるので、指揮官が指揮すれば、“一点集中”も可能だし、敵前の状態に合わせて“「兵力の角度に依る自由度」”は持っている。
    この前提で、一度に「武田軍本隊の12000の敵」が攻めて来る事は物理的に先ず無いので、仮に可能に成ったとしてとしても、「前面に出て来る兵数」は「三方ヶ原の広さ」から「最大でも1000」にもならないだろうが、仮にここで「1000兵」としても“「300丁全部」”を“「手動4連射式改良銃]であった”のであるから簡単に対応できる話となるのだ。
    従って、「爆煙の影響」は、絶対に不利に働く事はなく、“「手動4連射式改良銃での前提」の中で、これも「有利な点」として「流れの中」で働いていた事に成るのだろう。
    その前に、「武田軍の本隊」は、“銃隊の威力の経験のない山県軍の別動隊”と異なり「2回の経験」を通じて「危険・威力」を充分に察知して完全に進軍を止めているのだ。
    此処に「流れの差」が出たのだ。
    “銃隊の威力の経験のない山県軍の別動隊”は、“「額田青木氏の銃隊を敵と認識して遮二無に突撃した事」”で、この「銃弾の犠牲」を100%負ったのだ。
    つまり、これは「山県軍の別動隊と武田軍本隊との情報交換」が出来ていなかった事にあり、重大な“正しい流れ”を「両方の指揮官」は掴み切れていなかった事に成るのだ。
    これは簡単な事であった筈で、両方の軍には幌者と忍者が居た筈でそれが生かされていなかった事に成る。
    普通は、常時に動かしている筈であるが、届かなかった理由は何なのか、そしてどの経緯であったのかであるが気に成る。
    これを調べたが、そもそも常道とされる「戦い直前の情報のやり取り」は、この時に「幌者と忍者が動いた形跡」の「甲斐資料の読み込み」では、その「行の様な処」を見つける事は出来なかった。
    前段でもの「時系列」には少なくとも「両軍・本隊と別動隊」にその様な「ポイント」が無かった筈だが、仮にあったとすれば、上記した「三方ヶ原の到着時の時系列との間の瞬間」であろう。
    つまり、“到着してこの情報を受け取ったとしても既に遅い”と云う瞬間であろう。
    前段で論じた様に、“「額田青木氏の銃隊」は発見を恐れて手前で隠れて忍者の報告を待って「ぎりぎりの到着の行動」を採った事”は論じたが、この事があったとしてもこの時であろう。
    其れが、“山県軍の別動隊に現れた”と云う事だ。
    その「武田軍の本隊の時系列の点・疲労」でもそうだが、「武田軍本隊の態勢も勝利・魚鱗と鶴翼の差という点」では際どい処にあって、「山県軍の別動隊」に執っては[軍の目的や兵の質」は違うが、これを無理に突撃と云う形で本隊を救おうとしてい事に成る。
    つまり、この時、「勝利の流れ」を読む中にも最早無かったと云う事に成る。
    この「大事な流れ」を「掴む・読む」には、“既に遅いと云う時間帯であった”と云う事だ。
    又、逆に“「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、そこを目的として行動していたのだ。
    これはこの時、既にその目的が成功していたと云う事に成る。
    この「流れの読み込みの差」が、“「額田青木氏の銃隊の方」が優れていた”と云う事であろう。
    上記で論じている様に、此の「瞬間の処」で、“「両軍・本隊と別動隊」は「大切な流れ」を見失っていた”のだ。
    この「流れ」を見失って進軍し始めていた「武田軍の本隊」は、「額田青木氏の銃隊の救出劇・300丁の一斉射撃とその弾幕煙」で、「進軍を完全停止させられていた事」が「流れ」を見失った中でも、この「流れを取り戻す結果」と成っていたのだ。
    要は、「進軍の完全停止の指揮官の判断」が正しい流れを引き戻していたのだと判断できる。
    それが、「額田青木氏の銃隊の救出劇・300丁の一斉射撃とその弾幕煙」で終わらした事にあって、それが「両者の指揮官の無益な殺生を避ける事・共存共栄の精神にあって、取り分け、「額田青木氏の指揮官」に執っては「青木氏の氏是の影響」にあったのだとしている。

    注釈 「青木氏の氏是」
    ”世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども、世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”
    以上である。

    「額田青木氏の銃隊の荷駄隊」は、「弾丸の準備」をし「黄鉄鉱石の交換」は「射撃時間」が短かったのでその必要は無かったと考えられ、あとは「火薬の準備」と「冷却用銃の準備」であったろう。
    要は、「命中率」は、「開始時」より戦記よりると、既に“「100%の射程距離内」に入っている”ので、「速射と連射」であった事が割り出せるが、「相手・武田軍の本隊の騎馬隊の被害は何故か触れていないので判ら無い。
    然しが、「進軍の寸前で停止している事」で、「煙幕と爆音」で威嚇に換えて「救出」を主体に空に逸らしたと考えられる。
    ところが、武田軍側からは「敵・松平軍」と観られていた事から同時に射撃を開始したが、“「山県軍の別動隊の突撃隊を躱す事」が出来ず”と観た「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、“「味方の犠牲」を無くす事”の為に「本格射撃」を命じ戦いの行動は開始したのだ。
    目前の左右の「速射と連射=A」で起こる「煙幕と爆音」が凄く、「山県軍の別動隊」が潰されて行く惨状を目前で観ても、「武田軍の本隊の騎馬隊」も自由が利かず、且つ「煙幕」で「山県軍の補給基地築造隊の突然の突撃」に対して、この本隊も救出の為に近づく事さえも出来なかったと予想できる。
    ここでは本隊自らも危なく「救出どころの話では無かった戦況」が読み取れる。
    「武田軍本隊」もこの段階ではその様に読み取っていた筈だ。
    そもそも戦いの結果の「流れ」を変え得る「本隊の行動」一つで銃弾の惨劇が待っていたのだ。
    ところが「吉田城の籠城戦と一言坂の経験」が武田軍本隊の指揮官等のこの「流れ」を正しい方向に呼び止めたと云う事なのだ。
    従って「額田青木氏の銃隊」は、「武田軍の本隊側の前進」と「山県軍の別動隊の突撃」の「二つの方向」に向けて、戦況はこの“「煙幕の有無」”に関係なく西側と北側に向けてただ撃ち続ければ良かった事に成ろう。
    上記の検証で、「貞治隊救出の銃隊」から観た「山県軍の別動隊への攻撃角度の位置関係」は、資料から救出位置から観ると、少なくとも“「右30度以内にあった事」”が判り、「武田軍の本隊への角度」は、「救出の空間」を作り出す為に余り前進しない様に牽制していてその距離が生まれていたのであって、その角度は“「左約60度以内」”であったと観られる。
    それは、つまり「額田青木氏の銃隊の位置」から合わせて「90度の範囲・右向寄直角」にあった事に成る。
    だとすると、この「山県軍の別動隊の突撃の戦いでの出来事」で、「90度」である以上は「銃隊一列」では迎えられない事に成る。
    そこで、「額田青木氏の銃隊」は、直前に「山県軍の別動隊」が「北の山際に位置していた事」を観て、直ぐに「やや左とやや右向き」で、直前で“「二つに向きを分けていた事」”に成る。
    これに付いては、「銃の向きか銃隊の向きかの検証」からこれは「銃の向き」では困難であった事が判る。
    何故ならば、この「銃」は、そもそも兎も角も「フリントロック式改良銃であった事」から、反動と音が大きく隣の隊員に危険と成ろう事が判る。
    そこで「役割」を決めて、そこで“「銃隊の向き」を変えて射撃した事”に成るだろう。
    然し、迫りくる「山県軍の突撃隊」が、銃隊に近付くに連れて「射撃」が左側に位置していた銃隊の一部は射撃が出来なく成った事に成る。
    そこで、“最も右側に位置していた銃隊員による射撃のみ”と成ったと観られる。
    前段でも論じたが、「突撃隊の左」が、“「右側に位置していた銃隊員」の直ぐ横を通り抜けた”と「伊勢の遺された資料」には記されている。これを頷けられる。
    そして、更に記録にはこの時には“「銃隊側」には死傷者はなかった”とある。
    勿論、これは「松平軍の鶴翼の頭部分」を丁度突き抜けて行った事に成るのだ。
    恐らくは、「山県軍の別動隊の目的」は、「補給基地地築造隊」である以上は、「松平軍の死傷者を多く出して軍を弱める」と云う事よりは、寧ろ、突撃に依って「松平軍の陣形を崩すと云う目的」にあった筈であり、此れで以て「武田軍の本隊の窮地」を救おうとした筈なのだ。
    「山県昌景の頭」の中にあったのは、その「窮地」とは逆に成っている「12000の魚鱗と5000の鶴翼の点・持久戦に成ると云う先日の不利な点」にあったのだ。
    だからこそ、「鶴翼の陣形」を自らの犠牲を負って突撃でこれをただ潰そうとしたのだだろう。
    そうすれば「武田軍の本隊」は勝てると観て突撃したのだが、ここで思わぬ事が起ってしまったのだ。
    それは「額田青木氏の計算外の銃隊一列の存在」であったのだ。
    上記した様に、つまり、何を論じようとしているかと云えば,“「武田軍の間で情報のやり取り」”が充分に成されていれば、これは「額田青木氏の銃隊」はピンポイントに「射撃をしなかったと云う充分な経緯」である。
    つまり、これを知ってれば“突撃隊を横目で見ながらやり過ごしていた”筈だ。
    何故ならば、この「山県昌景の頭」には武田軍唯一の軍師で全国にも名を馳せていた一人で、「軍師を色々歴史を研究する中」で、最も筆者に合った考え方をしている軍師であったからだ。
    情報を欠く大した場面ではなかったので何故、ここで情報を欠いていたのかである。
    ここには別に歴史に遺されていない「経緯」があったからであり、普通は何かがあったのではないかと疑うところなのだ。
    この時に、「山県軍」が浜松城の門前に立ちながら“「無人の浜松城」も攻め取らなかったミス”をしているのだ。
    敢えて、「山県昌景の指揮官」として最も必要な「流れ」を読み取る事をしていなかったのかである。
    此の時の記録には山県軍には2000の負傷者と云う記録が遺されている。
    これは不思議な事で、なにもしないで2000の負傷者を出す事はない。
    この間かに「松平軍」は「陣形が総崩れ」になっていて「2000の負傷者を出させる戦い方}ではそもそも無かったのだし、そもそも家康が逃げ出しているのだ。
    但し、時系列からこの時は「額田青木氏の銃隊の射撃」が、“「武田軍の本隊への牽制」が効いていた”としての事に就いてであるが、その後に素早く「駿河の青木貞治隊」を無傷で救出している経緯の時系列の事を考えれば、「武田軍の本隊」のそれ以上の前進はほぼ無く、それが「定位置」であってそれ以上の前進は無かった事に成り得る。
    だとすると、ここで読めて来るものがある。
    それには二つある。
    その「一つの経緯」は、「山県軍の別動隊への突撃の攻撃」が、幾つかの記録を総合する「額田青木氏の銃隊」の右直ぐ横を突き抜けている事に成るので、「武田軍の本隊への牽制・進軍停止」はより効果的に効いていた事に成る。
    この「無傷の救出」では、「山県軍の別動隊」が“「松平軍の左鶴翼目がけて突撃中」であるので、「駿河青木貞治隊」とは「隊の東側隅」で瞬間的に交差するか接触する事に成っていた事に成る。
    そこで、この「救出劇」は、その前を交差する様に走り去る事は困難である事に成る。
    つまり、だとすると“「山県軍の別動隊が突き抜けた後の直後に救出した事」”が判る。
    その間、そして「武田軍の本隊への牽制の継続」は、「銃隊の左側での牽制弾幕」、そして「銃隊の右側」では「山県軍の別動隊の銃撃戦」に成っていた事に成るので、「救出」は困難であった事に成る。
    つまり、だとすると「右側」では「銃撃」を続け、「直ぐ左側の際の弾幕の中」から「救出」を続けていた事の最中と成るのだ。
    だとすると、「額田青木氏の銃隊との位置関係」からすると、この「銃隊の左」の「背後に貞治隊を導き救出した事」に成る。
    後は、「山県軍の別動隊」が抜けて行く過程であって、論理的には「貞治隊」が「東の盤田見附の西光寺」へ辿り着くには、この時には必然的に「山県軍の別動隊と交差する事」に成る。
    つまり、そうすると、これは極めて危険であった筈で、と成ればできる事は「額田青木氏の銃隊」の「背後の位置」に先ず留め置く必要が出る。
    「背後に救出した貞治隊」を、「山県軍の別動隊の突撃隊」が通り過ぎるまで、一定時間は一時的には匿う必要性があった事に成る。
    全てが通り過ぎなくても良いか、どうかは「別動隊の供給基地の荷台隊・戦力外」がこの「突撃隊」に参加していたかどうかであるが、どこにも別にしたと言う事はきされていない。
    そうすると、「記録の経緯」から後ろに着いて”走った事”に成るだろう。
    そこで、ここは一刻を争う場面であり事態がどう変わるかは判らないので、「貞治隊」に執っては山県軍の突撃隊が、前を“通り過ぎなくても良い”と云う結論に成り、時間の経緯から観て後尾かどうかは別にして、「突撃兵が途切れた瞬間」を見計らって「盤田見附の東の西光寺に向かって走った事」に成る。
    其の後の“浜松城に到着した山県軍”は、記録から観て「無人に近い浜松城」を攻めないで「甲斐」に向かって行った事から観ると、矢張り、この「行」からも“荷駄隊も後ろに従っていた事”に成るのだ。

    ここで、前段でも論じたが、“何故、山県軍の別動隊が供給基地の基地建設とまだ武田軍の本隊の居る三方ヶ原に戻らなかったのか”と云う大きな疑問が湧く。
    この「大きな疑問」が、“信玄が倒れたとするの情報”が書き込まれる事に成り、それに従って、この「一つの事」に依って、その後の上記した「山県軍の情報の有無の疑問・流れの欠落」に繋がったのだと読める。
    そして、それが「山県軍の別動隊の突撃隊への凶変の疑問・魚鱗と鶴翼の長期戦を避ける突撃戦法」へと繋がり、「浜松城の放棄の疑問・戦う時間的余裕が無くなる」等にも繋がって行ったのだ。
    全ての「三方ヶ原」のその後の「額田青木氏の銃隊の出来事」と、「駿河青木氏の貞治隊の出来事」に繋がって行った事に成るが、「流れ」としては良い方向に向いて行った事になる。
    中でも、其の後は「殖産と商い」に集中し、「長篠の戦いに関係しなかった事」にこの「流れ」を呼び込んだのである。
    「信玄の病気説]にはこれは関係は無かっただろう。
    「信濃・諏訪族青木氏」と「時光系甲斐の青木氏」が「武田側に関わっていた事・参戦」で、場合に依っては、「伊勢と信濃青木氏」も「流れ」に依っては「甲斐側」に関わっていたかも知れないのだ。
    何故なら、この後の「長篠の戦い」にも「源光系賜姓族青木氏」が「古来の伝統」に従って「間接参戦の姿勢」を見せていたらしい。

    さて、ここで事を左右する歴史観が「賜姓臣下族」だけには有るのだ。
    それは古来より、「賜姓族青木氏」には課せられた一つの「伝統的な慣習」があって「賜姓臣下族」に「戦いの様な存続を示唆し左右すると考えられる出来事」と観られた場合には、「互いに援助の手を差し伸べる事」が「賜姓臣下族内の古来からの伝統的習わし」である。
    これが「伝統的習わし」でありながらも、その場合はその「賜姓臣下族の中心と成る賜姓臣下族だけ」に対してのみ過去に於いて聞きなれない「天皇の因事菅隷」が密かに発せられているのだ。
    賜姓青木氏だけに秘かに発せられる秘密裏の天皇の意を組んだ内密書の事である。
    そもそも「賜姓臣下族」とは、前段でも何度も論じてきたが、そもそもその目的は「天皇の周囲を安全に固める策」の一つであって、それが「崩れる事の警戒」から上記の様な伝統的な慣習が密かに生まれていたのだ。
    例えば、この例としては前段でも論じた様に多くあるが、貧の困窮を極めていた「近江佐々木氏系四氏を救う事」を目的に、「伊勢賜姓臣下族青木氏・伊勢王で浄大壱位の格式」に対して「琵琶湖東岸の干拓灌漑工事」をして「米と楮の生産」が出来る様に秘かに「因事菅隷で命じた事/結果として源氏化して失敗する」がある。
    この様に、「時光系青木氏・嵯峨系」は、「臣下族」で無いので、それが無いとしても、「源光系賜姓族青木氏・嵯峨系」に対しての「援助を命じて来る事」は充分にあった。
    この因事菅隷の内密書は少なくとも室町期にもあったとしても永代である以上は、依然として「伊勢側」に執っては[格式]も然る事乍ら、「最高位の立場」に有り、「最高の財糸と最高の抑止力」をも有していた以上はあり得た令の発行であるのだ。
    「天皇」に対して「因事菅隷」を出さぬ様に「事と次第ではこの献納が崩れる事」を盾にして牽制していたと思われるが、それを気にしていた事では充分にあった筈と考えられる。
    これは「因事菅隷」である以上は断れないし、幸いにところがここでは無かったのだ。
    その時の天皇が,前段でも論じた積極行動で野心家で天皇権威不復活を試みていた事で知られる「正親町天皇・1597年」であったし、この時は「伊勢賜姓臣下青木氏」としては前段でも論じた様に相当に振り回された天皇であつたのだ。
    従って、その充分に危険性は「青木氏」にはあったが、「長篠に関わる事」は「天皇家の存続」に執っても「自らの自己財源となる献納」が無くなる事には成り得るとして「一つの賭け」に成るのだ。
    メリットも少ないし牽制に依る青木氏の説得もあって避けたと考えられる。
    筆者は、参戦は無くしても少なくとも“それなりの話はあった”と観ているのだ。
    前段で論じた様に、ところが、その「流れの方向」が「天皇に執ってメリットの少ない参戦」では無く「因事菅隷に依る「青木氏の15商業組合の結成」に向いたと観ているのだ。
    然し、それがこの青木氏に執って疎遠の嵯峨流源光系賜姓族であった事がこの「伝統の支援」は「第二次的位置」に置かれ、その一次は矢張り、その時の「伝統の習わし」は、「賜姓臣下族支援の因事菅隷」は「伊勢系と信濃系と秀郷流系の青木氏の「青木氏の15商業組合の結成と相互支援」に向いたと成ろう。
    つまり、この時の「流れ」は、「伝統の習わし」の「正規の方向」に流れずに、「嵯峨期から一切疎遠で通した事」が「良い流れ」」を呼び込んだのだ。

    注釈 前段でも論じた様に、「嵯峨系賜姓臣下族・後に源光系青木氏に引き継がれた」が、実質、「賜姓族」に付いて、「嵯峨天皇」は「賜姓」を「青木氏」から「源氏」に換えた事で、流石に対立していた上皇との間で「折衷策」が取れずにいたが、「青木氏の賜姓」を正式に「身内の皇子」に「青木氏賜姓外し」で出来ずに、「皇子の一人」を止む無く、先ず一段格下の「甲斐蔵人頭・令外官で天皇の秘書扱い」に任じて「甲斐」に送る事にしたのだ。
    その後に成って、この一族の「甲斐後裔の源源光」に「賜姓甲斐青木氏」を名乗らせて「上皇との対立」を避けた経緯を持っているのだ。

    注釈 青木氏には歴史が特別に長く伝統にまみれていた為に最古の歴史知識まで知り得ている事が必要である。
    これはそのそのものが「青木氏の歴史観」と成り得るのだが、「青木氏」と云うよりは「日本の歴史観」とも云えるものであり、そのものが難しい事なのだ。
    その中でもこの「因事菅隷」とは、奈良時代から平安時代に架けては「天皇の行政命令書」は「太政大臣」から発せられる原則であった。
    ところが、この「賜姓臣下族」は、その格式は天皇に続く高い格式を有している。
    依って、「太政大臣の行政官」からこの格式からは令外官の中でも最上位に当たり下から上への命令はあり得ないし、発せられない事が起る。
    そこで、令を発する事は格下の太政大臣の行政官からは発する事は出来ない。
    そこで、「因事菅隷」と云う形式で「天皇の内密書として発する事」に成る。
    当然に、それにはこれを書するには、誰もが犯し得ないそれなりの「力・行政力」と「財力と院屋号の特権」を有している事に成り得る。
    例え、これは天皇でさえも犯し得ない特権なのだ。
    要するに天皇の代行者であるのだが、一度発せられた場合は其の後の天皇でさえ犯し得ない内密書である。
    これが要するに「因事菅隷」として最大の格式を有するものでありながら秘密裏に発せられるものなのだ。
    その有無さえも確認を許され得る事は誰にも何度時期にも出来ないものであるのだ。

    さて戻して、この匿う為の一時は、左側では「武田軍の本隊牽制の為の弾幕」の為に撃ち続け、そして先ず釘付けした上で、右側の突撃して来る「山県軍の別動隊に対する銃撃」のその「役割の終わった者」から、今度はこの為に「周囲を荷駄と銃で囲んで固めていた事」に成る。
    そして、「駿河青木貞治隊の完全救出後」に、「武田軍の本隊への牽制」は、「額田青木氏の銃隊」が未だ「戦線離脱」するまでの間は、「牽制の射撃を続けていた事」に成る。
    その離脱の程度に合わせながら「牽制射撃は中止して行った事」の「流れ」に成り、それと同時に救出した「駿河青木貞治隊」も「東の盤田見附の西光寺」に向けて走り去った事に成る。
    そして、「額田青木氏と駿河青木氏の離脱後・銃撃が止んだ時」に、「武田軍の本隊」は、既に「総崩れ」に成っている「松平軍の本陣」を目がけて「赤兜の騎馬隊」が突撃を開始したと成る。
    恐らくは、「山県軍の別動隊への攻撃」で、この「突き抜ける間」は、上記で位置関係の距離から検証した様に、「短時間・約十五分程度」であった事が判る。
    その「15分間の間」のその直後に、「額田青木氏の銃隊の左荷駄の後ろの方の左側・安全な位置」に導き出した事に成るだろう。
    つまり、「駿河青木貞治隊の戦いの定位置の戦場」から観て「やや南斜め後方」に導いた事に成る。
    つまり、これは普通は「武田軍の本隊への牽制」が無ければ、直ぐに潰されれる位置にあった事に成る。

    そこで、「三河戦記」の「額田青木氏の指揮官の貞治の死傷の記述」に付いては、上記した様に「疑問の点」が多いが、仮にこの事が史実とすれば、恐らくは、この時に筆者の考えでは、“「救出後の一瞬の間隙」”を捕らえて、「松平軍・旗本」から「軍議の逆恨み・命令を断った」から、あったとすれば「特別に命じられていた狙撃兵・伊川津の旗本衆・この時は未だ国衆」から“「狙撃された可能性がある”と観ているのだ。
    その前に、この「狙撃兵」が銃の前で生きられていたかが甚だ疑問である。
    それ以外には「救出」が済み、そして「牽制の銃撃」が終わり、「武田軍本隊が攻め始めた事で、「総崩れの混乱の中の松平軍」にはその「タイミング」のそのものは絶対に無かった事に成る。
    記録から観ると、その「総崩れの混乱のレベル」は、次の様に記されている。
    「家康」は「最初200の旗本」に周囲を護られていた最後尾にいた。
    然し、瞬く間に20人から最後は5人にまで成って、「東遠回り」で先ず逃げ、其の後にゆっくりと様子を見ながら「浜松城」に辿り着いたとされている経緯である。
    この時、既に掃討作戦が組まれ追われていた事に成っている。
    何とか東に逃れて辿り着いて入城する時は、「僅かな数人の城守備兵の安全の合図・提灯を城門の前に架ける・事前に通知」で城に何とか入ったと記されている。
    この事から、そんな「記録にあるタイミングは無かった事」に成り、且つ、「武田軍」に攻められている真っ最中の中で、この時はその「狙撃兵とその命令者の命」はそもそも無かったレベルな筈で、三々五々に“「負傷兵・殆ど負傷兵」”が城に戻って来た事が記されている。
    依って、この事の詳細と人物の確認と認定等が出来た訳は無い筈で、それを「記録に遺す事」がそもそも出来るか疑問であり、且つ、「その事の詳細」をそもそも掴めていない事に成るだろう。
    これは体面を保つ為に、後に「旗本と成った者等」の「国衆の後付言」に外ならない。
    これを戦記祐筆が真偽は別として国衆の勘定の言い分に沿ってかなり後に書き添えたものである事が判る。
    そもそも「三河戦記類等」では、それを藩に記して遺す者は、その時期は戦後であって、「数人の祐筆役兵」が丘の上などの影から、“戦場を眺めて観て、後でそれを書き知るす”か、“生き延びた者らに聞き取りして記するか”によるが普通で、“戦場を観て、後で書き知るす”の場合は、主に「戦後の論功行賞」に主に使われ、大まかな結果に対して「戦術的な働きの評価」に利用されるものが多いのだ。
    そしてそれを聞いて「軍議」が、どの様に裁くかに用いられるのだ。
    「聞き取りによる情報」では、その戦場の中にいて戦った者からの「聞き取り」であって、当然にその主観や利害が大きく働き、余り信用が出来ないものなのだ。
    ここに、そもそもの「戦記ものの欠点」があり、矛盾なども生まれ結果として纏める際には「取り繕う事」に成るのだ。
    だから戦記物には時系列や矛盾が生まれるものなのだ。
    これは松平氏に限らず何処の藩に於いても同じで、これを基に後に戦記物語が造られるので更に矛盾が生まれるのだし、物語風などは尚更の事である。
    その中でのこの「指揮官負傷の記録とする情報」は、そもそも「自軍の者」ではそもそも無く、書き記したのも聞き取りに過ぎないのだ。
    況してやこの矛盾の更におかしい所は、「三河者」に執っては“敵に相当する者”に近いのだし、本来はまず記する事はそもそも無い。
    況してや敵の事までも判る事は無くそれ程に「三方ヶ原の松平軍の乱れた混乱の戦場」は、「指揮官」さえも何処にいたのかさえも、且つ、「家康の大将」さえも開戦時には東に逃れて既に戦場に居なかったのだ。
    つまり、「額田青木氏の指揮官等」は既に存在そのものが判らない冷静な状況では無かったのだ。
    依って、「殆ど造り事」に過ぎないのだし、況してや「自軍の西端の左」で起こった観えない場所の結果である。
    況してや、「爆煙で観える事等無かった筈であるし、荷駄で囲まれた中程での事でもある。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊の指揮官の名が判明しない」が、負傷していた事は「伊勢の記録」でも、判っていて、帰国後に時期は不明であるが、この「指揮官らしき者」が「寺の過去帳の記録」ではその後に死亡していた事が判っている。
    然し、ところそれが「三方ヶ原の怪我」が下で戦死した事かも判っていない。
    然し、「伊勢青木氏の資料」では、その後に「三河国」に残り、そこで「開発業の指揮」を執ったとあるので、同一人物とするとその後に何らかの理由で伊勢に戻った事に成ろう。
    恐らくは同一人物であろうと考えられるが、そうすると、この様な功績を挙げた者の「菩提寺での伊勢秀郷流青木氏としての扱い」が判らない様に祀ると云うのは低すぎる。

    これに付いての「詳細経緯」である。
    戦況が上記の通りであったとして、“では何故、指揮官は負傷し、その後に戦死したとする”かに「疑問」があって、それには、幾つかの大きな疑問が残る。
    そもそも前段と共に上記した様に「相当に安全な銃撃環境」であったのに、“何故、負傷するか”である。
    「山県軍の別動隊」が「北の鶴翼・右」から「南の鶴翼・左」に抜け切るのに、前段の検証で論じた通り、「数十分の範囲」であった。
    その直前まで負傷するに値する危険は無かった筈で、仮にあるとするとその間隔は「上記の経緯」から、“「通り抜けた寸前」から「抜けきるまでの間」の「数十分の範囲」”と成り得る。
    筆者は、然し、「停止する事の出来ない突撃隊」が走り続ける為には其れが邪魔して狙撃は困難であった筈で、この短い隙間の時間としてあるとすれば、この「抜けきった直後の静寂の一瞬」しかないだろう。
    それを誰かに弓矢で狙撃されたと観る事が出来るが、その“誰かは「この戦いの経緯の中」で、果たして敵意を持つ者が居たであろうか”と云う事に成る。
    それも突撃中の「混乱の中での弓」はありえず、その弓矢では高い確率で失敗は伴い。
    依って警戒されていない者として、この「銃隊の指揮官の場合」は、伊川津まで辿り着きそこで働きしている。
    それが“「負傷・怪我」をしていた”とすると、これを前提とすると、“隠れ潜んでこの為だけの一瞬を狙い「決死の突撃の槍」”だけがチャンスと成ろうが、そんな「チャンスの生まれる弓矢の環境」ではそもそも無かった。
    其の後はこの“「狙撃兵」”は、100%に於いて「敵・銃隊」に銃撃されたかは「味方・命令者」にその後に殺傷されたかであろうが、「松平の味方の説」は無いとすると「青木氏の記録」のだけにしか遺らないがそれが無い。
    この内、「敵・銃隊の中」に居た限りは、「犯人は即座に銃撃された事」は間違いは無い。
    だとすると、先ず松平氏側では遺る事は、そもそも無い事に成り、松平氏側の戦記には上記した様な経緯の虚偽が生まれる。

    この事が「虚偽」なりに、「一つの戦記類」に後刻に於いて遺したと云う事は、その「虚偽」にしても、その意味する処は、「強い遺恨を残していた事」に成るだろう。
    それもそもそもこれらの信用できない「虚偽記録」では、何と偶然ではない「額田青木氏と駿河青木氏の両指揮官の二人共」である。
    これを観ると、「浜松城の命令拒否」と「伊川津の国衆・後に旗本等」の「二つの遺恨」が元で、明かに“自分達の立場を良くする為にある物語を描いた「恣意的な虚偽と矛盾・後付け」”である事が判る。
    「恣意的な虚偽と矛盾・後付け」”の検証として次の事が云える。
    然し、仮に、槍を突き付けられたとして、「額田青木氏の銃」による「速射と連射=A」であるので、その直前に既に「狙撃兵」は射殺されている事に成ろうし、相手は目前であった事に成るので「銃隊の周囲の者」は「誰・松平軍」であったかは判る筈である。
    だとすれば「青木氏側の記録に遺る事に成るので、これは無い。
    とすると、可能なのは、“遠くから槍を投げられた”か、同じこの左側面に隠れ潜んでいてこの「一瞬の隙」を狙って飛び出して槍を突き出したかであるが、この際には上記した様に“そんな隙と空間”は既に無かったのだ。
    この説では、これが立って指揮している「指揮官」に間違いなく当たった事に成り、故に相当に“離れたの距離”で無くては成り立たない説であり、その場合は「銃の犠牲」か「突撃隊の犠牲」と成り、且つ「死説」”としているがそうでは無く“「負傷」”となるであろう。
    そもそもこれらは「突撃隊の事や銃隊の事やその時の時系列の事や戦場の在り様や武田軍や松平軍の状態の事等を一切無視している。
    元々も「三河戦記類」はこれらの事を無視しての物語説に成っているのだ。
    つまり、江戸の初期から歴史は「史実」より「面白可笑しく描いた説」が時代が求められていたのだ。
    そう云う歴史観で、「江戸期の歴史書類」ではこの「江戸の先入観」で先ず観る事から始めるべきなのだ。
    後に明治期に成って史実が求められる様に成ったのはこの反動であり、悪い事では無くそういうものであったとするものであろう。
    だとしても、仮に「怪我」をして「伊川津」に引き上げているとしても、「松平氏」とは既に「縁」を切っているし、そもそもネットも無い時代で、且つ「情報のやり取り」は無いのに、“何故、此れが元で死んだ事を後に知っているのか”である。
    そもそも「青木氏族」では、「四掟制度の掟」から「自らの氏族内での情報」はその立場上で外に漏らしてはならないし、出してもいないし、「伊賀青木氏等の活躍」で「族内の情報」は管理されている。
    前段でも論じたが「大商い」をしている限りに於いては、「氏是」を定めていたくらいで、何故ならばそれは「氏存続の成否に繋がる事」であった。
    それは次の事でも判る。
    古来依り「顔隠策・奈良期の部経済の処理人頭から始まる事」で全てが特定されない様に「族内の管理」に留めていたからこそ外にはあまり資料も無く、族内で何人も祐筆を置いて「歴史史書・明治35年失火消失」を纏めていたのだ。余談だがそれを今復元の努力をしているだ。
    最低でも明治9年頃までは管理されていたのだ。
    これは「不思議・疑問」である。
    だとすると、「伊勢秀郷流青木氏と伊勢青木氏の記録」とも共に一致しない。
    これらは間違いなく上記した要領で「後付けの虚偽」をした事に成るのだが、そして、そうすると「青木貞治の事」は当初は前段でも論じた様に「三河国衆」ではそもそも無く、まだこの時は「駿河国衆であった事」から、多少は知り得る事はあり得るが、「額田青木氏の銃隊の指揮官の貞秀」の方までは、何故、戦死した事にしていた事に成り得るのか、且つ、それを何故に態々「戦記」にまで記載し、その詳細を記する程にこの当時の情報として知っていたのかである。
    この事は“「狙撃の詳細情報」”までが少なくとも“「祐筆」までは知り得ていた事”に成り、詳細過ぎるだろう。都合よくしたものでそれ程の安定した戦況の状況にはなかつた筈だ。
    これが出来るのは、江戸期に流行した「後付け説」であっ事に成る。
    特に「江戸期の三河戦記類」は5つあってその内の一つを除いては物語風で仕上げているので元より信用できないが、残りの一つも江戸期の松平氏で仕上げた戦記類で徳川氏に都合よく虚偽で纏めたもので時系列などの史実の矛盾が多く信用は出来ない前提にある。
    然し、ここまで「青木氏の事」に食い込んできて書かれて遺されたと成れば後勘の為にも放置はできないので、その矛盾を突いておいたのだ。

    さて、話をもう一度戻す。
    「射手」等は「荷駄」を盾にして、「膝付型・A」であった事から戦場の真っ最中の中でのこの「危険性・狙撃」は無かった筈である。
    この後に、「負傷したとするの指揮官」は、「四人の差配頭」の内の「一人の者・頭目」がこれに当たっていた事がこの者は「伊勢秀郷流青木氏の者」であった事が判っている。
    従って、「青木貞治隊を救い出した後」のこの段階では、つまり、「突撃隊が通り抜けた直後」には、だとすれば、“この負傷したとする「指揮官」を荷駄車に載せ「戦線離脱した経緯・イ”」と成り得る。
    故に、但しこれが、この間に、「上記の経緯」で「青木貞治隊を救い出した」が、「盤田見附の西光寺」まで援護しなかった史実としてこれが、又は出来なかった事が判っている。
    然し、この「戦場の真っただ中の経緯・イの理由・指揮官の貞治負傷」は、「時期と状況」は別として、「最低限であった観られる」が、それがこの一つと成ったと観られるのだ。
    仮にこれが史実であったとして、「額田青木氏の指揮官の青木貞秀」では無く、「駿河青木氏の指揮官の青木貞治」であった可能性が強いのだ。
    然し、「伊勢秀郷流青木氏」では、「銃隊の指揮官の青木貞秀」は、青木氏の史実ではその後の「伊川津」で「開発業を営んでいる事・史実」に成っているのだ。
    だとすれば、恐らくは、「2日程度強」で「伊川津」に到着後のその後の、“「療養中・当時」は「戦死扱い」”は死亡したと成るが、何度も記するが松平氏の全くの家臣でもないのに、且つ、その「情報」がどの様に漏れたかによるし、それを「戦記に載せるとする矛盾の経緯」もこれにはある。
    故に、前段で論じた通りに、「伊勢での記録」では「指揮官」は先ず「伊川津」の「田原の西光寺」に祀られたと成っており、その「分骨」は「伊勢の松阪」の「四つの内の寺の西光寺」の何処かに納骨されたと観られるのだ。
    「研究調査」に於いて最も可能性が高いのが、その戦功から「伊勢」の“「御麻生薗町の寺・西光寺の本寺」”と観られる。
    そもそもこの“「御麻生薗町の名の由来・重要な格式名」”から「伊勢西光寺の4寺」の内の「本寺である事」は間違いは無いだろう。
    この「名」は、そもそも「寺」でありながらも、且つ「神に由来するもの」ものでもあり、“「おぅ麻。韻」”と呼称されていて、この「おお麻の繊維」は古来より「神に関わる物」をこの「おお麻の繊維」で造られたとし、且つ「包む物」としていて、現在では「大麻・たいま」としてその栽培は禁止され嫌われているが、奈良期より江戸期までは“「神物と薬物」”として扱われていたのだ。
    故に、「古来の慣習」では、その“「造園のある大字・周り一帯」”では「関係者以外は人の立ち入る事」は禁じられていた要するに“「聖域」”であったのだ。
    この事は当然にして、ここにある「神社や寺社等の建造物社」は、古来より“尊い格式あるものとして扱われていた”のだ。
    それ故に、この“「御麻生薗字・聖域」にある「西光寺」”は「一族の総本山の本寺」である事に成るのだ。
    これは、「青木氏に関わる処」の「伊勢の聖域」のみならず、「信濃の聖域」にもあるものであり、「聖域=御麻生薗」と成り得るのだ。
    「氏家制度」の中では、「秀郷流青木氏の一族」ではある事には間違いは無いが、「本家分家尊属卑属」も当然ながら「伝統」としてあり、これに「后妃嬪妾の四制度」も大きく左右されるので、“「青木・・・・」の「・・名」が確認”は困難で出来ないのだ。
    場合に依っては、この「指揮官」が「伊勢秀郷流青木氏の中」では「その扱い」は「妾子の場合」は、「本家筋の系譜」には記されない事もあって、当時の「秀郷流青木氏族の慣習仕来り掟の伝統の範囲」では、つまり、「四家の子孫存続の為の后妃嬪妾の制度」ではこれは充分に記載が無いと云う事が起こり得るのだ。
    然し、筆者は、“これだけの勲功を挙げていれば載せるだろう”と見込んではいるが、「指揮官の名・貞秀」からの「理由・妾子名である」があって載せなかったと云う事もあり得る。
    又は、長い歴史の間で“消した”と云う事もあり得て何れも定かではない。
    「貞秀のその勲功」でこの“「御麻生薗町の名の由来・重要な格式名」”の「伊勢西光寺の4寺」の内の「本寺であるこの寺に、筆者はここに「一族の神」として祀られたと考えている。
    然し、これが、「伝統・掟」である限りは「指揮官であった青木貞秀」は、特別に何かない限りは「上記の伊勢西光寺の4つの内の寺で祭司されていた事」には少なくとも間違いは無いだろう。

    注釈 因みに、「后妃嬪妾の制度」で現実に「伊勢青木氏」では興っている。
    故に“敢えて載せないと云う場面”から考えた場合のこの事に付いて、一つ考えられる事が、“「后妃嬪妾の制度の青木氏族の仕来り」”の史実の中にあった。
    この事の理解を深める為に念の為にここで記述するが、それは前段で論じた通り古来より「四掟」で護られた「女系族の伊勢青木氏」に載せないと云う事が初めて起こった。
    「四掟外」でありながらも「摂津源氏四家」の「主家の頼政の子・仲綱」に「伊勢青木氏」から敢えて「女(むすめ)」を嫁がせて、その「生まれた子」は“「京綱」”と名付けられて、そして直ぐにこの嫁いだ「女(むすめ)」は、“「後家・日本での初めての慣習」”として「四掟外である事」を理由にして戻したとされる。
    この「生まれた児・妾子の京綱」を“「連子」”として「伊勢」に戻し、「四家の福家の跡目」として育てた「唯一の男系の事例の経緯」があるのだ。
    この“後家”は、系譜上には載せず、「寺の尼僧」として位置付けて、「四掟の建前」を立てた経緯である。
    この“「女系制度」”によって起こる「世情の矛盾」を解消するが為に、この時、“「後家」”と云う「初めての習慣・現在の意味とは相当に違う」を造り上げて、「応急時の制度」として取り入れて、これを「正統化した経緯」である。
    それは「四掟範囲からぎりぎりの処」で起こる「女系制度の矛盾」を解消する為に、“「後家と云う習慣」”を始めて造り上げて逃げた「青木氏からの独特の初めての経緯」なのだ。
    ところが、「四家から嫁いだ娘」を「四家の中」で“後家”として系譜から消す代わりに、この「生まれた児・妾子の京綱」を「四家の子」として位置付けて辻褄を合わしたのだ。
    つまり、もっと云えば「伊勢青木氏の方」が「摂津源氏本家」より「家の格式」は上でありながらも、「嫁ぎ先」の「清和源氏頼光系の四家の範囲」、つまり、「四掟ぎりぎりの相手先」では、“系類が違う”として、「后妃嬪妾の制度」の片意地を張って、“「妾子に据えられる場合」”があって、この時には、“「嗣子」が少ない場合」”は「嗣子の一人」に加えられる事も起こったが、この“「京綱」”の時は、何と当にこの「妾子・四男」として扱われて仕舞ったのだ。
    従って、そこで「格式では上の伊勢青木氏」は、「摂津源氏四家」では「妾子・四男」として扱われて仕舞った以上は、そこで「対策・対抗策」として、“「後家と云う形」」”を始めて造って、その「娘の児の京綱」ともども「伊勢に戻させると云う形」を執って、「無かった縁組・婚礼」として扱う事にしたのだ。
    これが、「格式差・四掟外」のある「婚礼・血縁」の「一つの手段・辻褄合わせ手段」として“日本での初めての後家制度の始り”で処理したのだ。
    従って、結論として前段で論じた様に「伊勢青木氏」と同制度を敷いていた「秀郷流伊勢青木氏の額田青木氏の指揮官と成った貞秀」は、上位の格式を有していた「四掟の四家範囲」では、この「后妃嬪妾の制度」の“妾子”であった可能性があって、上記の伊勢の「西光寺の系譜」には遺らなかった事に成ったと云う経緯があり得る。
    然し、故に「伊川津の西光寺」には「記載が認められる事」に成り得たのではないか。

    注釈 余談だが、ここで「青木氏の歴史観」をより高める為に前段と上記の「后妃嬪妾の制度」に就いて再度追記する。
    実は最近の研究で、資料の一節の行に違和感を覚える表現があった。
    実は、何故、このような表現をするのか疑問に思ったのだ。
    これは前段でも論じたが、“「青木氏の祐筆」によくある癖の様なもの”で、「原稿」を書いて「福家」に見せて「承認」を得ようとした処、「氏に執って重要な所」を“微妙な表現に改める様に指示された所以”であって、この様な事がそもそも起こっていたのではと観ている。
    然し、これには「氏是や家訓10訓の影響」が大きく響いていて、「別物の美化脚色」は別としても、“「現実通り」に書くか否かの是非が多く働いた”のでは無いかと思われる。
    これには「祐筆本人の癖」もあるが、故に全ての傾向として、“微妙な表現と成り得ている”のでは無いかと云う事だ。
    そこでこの「摂津源氏の頼政四家との血縁」としても、「摂津源氏側四家」では戦略通りであろうが、「青木氏側四家」に執ってはこの事件は「四掟外」からの「極めて微妙な事件であった事」は後勘から観て判る。
    そこで、故に“前段で論じた通りの事”であったのかは疑問であった。
    単純に考えてもこの「青木氏の四掟外の事」は、「母方系の秀郷流青木氏にも影響を与える事」でもあって、「伊勢側四家の判断・福家」だけでは少なくとも行かなかった筈である。
    「母方系の秀郷流青木氏」に執っても、“「円融天皇の賜姓族」として「秀郷流一門主家の第三子」に累代に「青木氏」として継承させるとして「初代第三子の千國」から発祥させた”が、この時に、同時に「伊勢青木氏と信濃青木氏」と同然に「嵯峨期の禁令の9つの縛りの伝統を護らせる事・皇族系扱い」を所謂義務付けたのだ。
    当然に、この時の「義務の条件」には「四掟四家制度」は含まれるとすると、「母方系の秀郷流青木氏」からは、又、「秀郷流一門主家」からも、「四掟外の頼政の件」は例外な事では無かったのだ。
    況してや、「清和源氏本流の摂津源氏」であり、「話題の家筋」でもあり、その中の四家筋格の頼政系流」である。
    この事を考え合わすと、前段の「桓武派と嵯峨派の論」と「青木氏の財政支援論」と「四掟制度の概論」だけで円滑に事が流れたとは先ず考えられない。
    この事が、資料の一節の行の読み込みから、これにはどうも「血縁性・縁組」だけではない両者による“「騙し騙されの事件性」があった”と観たのだ。
    それは、この“縁組に伴って起こった事”として、概して言えば先ずは「後家の初呼称事件が起こった事・イ」と、「青木氏からの経済援助の記載無・ロ」と、「四掟の最大相手の秀郷流青木氏の記載無・ハ」の、この「3つの事」がそれを裏付けているだろう。
    先ず、次の推論が生まれる。
    (イ)の「後家の初呼称が起こった事」が、普通ならばこの「縁組」に付いてはこの「3つの事」が「契機」に同時に起こる事は先ず無い。
    (ロ)に関しては、この「縁組を進める以上」は、「青木氏の経済援助に関する何らかの記載」はあるだろうがこれも無いし、この「青木氏からの経済援助」が在れば「頼政」は、“「頼政の祖の頼光の上司の藤原の道長による建設」”、のつまり「宇治の平等院別院」の様な場所で、つまり「戦いに無関係な場所で切腹している事」は無い筈である。
    平安期では、歴史観として“「戦い=軍費の関係」で決まるとする通説”があった事から、これには頼政を通じて伊勢に対して“「経済援助の要求の事」”があった事は判る。
    (ハ)に関しては、ここには「秀郷流青木氏の記載無の状況」であった事から、当初は「前段の通り」に、ここで「予想外・思慮外の事」が興った事に成ろう。
    この「縁組」に関して、「四掟相手の秀郷流青木氏が賛成している事・記載無し」を前提として、この「渦中の摂津源氏四家との縁組」は、“危険を孕んでいるにも関わらず安心して組まれた事”を物がっているのだ。
    だから、ここで、“敢えて「伊勢」には異議なし”として“記載無しで進めた事”に成るだろう。
    少なくとも上記の「イ、ロ、ハ」に関しては状況諭として資料から左右する語句は散見できない。
    ところが上記する様にこの「縁組」を進める事に成ってその直ぐ後に先ずに、“ある異変の情報”が齎されたのだ。
    筆者は、これは「別の面からの論」として、それが、“「頼政の対抗策・妾と妾子扱い」”であったと観ているのだ。
    「嵯峨期の9つの縛りの禁令」の一つで、「四家制度を敷いている格式家」では「后妃嬪妾の制度」が先ずあって、「伊勢側の格式制度」では「后の位置に当たる扱い」を受けなければならい掟である。
    ところが、何と最初に起こった事は、“「妾扱い」”であったのだ。
    「最高格式を伝統的に持つ伊勢青木氏側」に執つては、これは格式外からの扱いで、且つ、「嵯峨期の9つの縛りの禁令」をまともに護らない家の格式下からの扱いであった。
    これは「青木氏氏族始まって以来の最大で最初の霹靂」であった。
    「「嵯峨期の9つの縛りの禁令を護らない摂津源氏」は、そもそも「四掟外」であって、「伊勢の永代浄大壱位・家」に対して「頼政一代限りの正三位・個人」である.
    格式では「貴族と武家の差の雲泥差」があり最低でも「階級として16差」はある。
    此処で、この事で“「事件・伊勢が騙された」”と成って、発覚しこれに対して“「対抗処理」を採ったとする事件”であった。
    そこで、“騙された伊勢青木氏側と信濃青木氏側”ではこれに対して次の処置を採ったとされているのだ。
    a 「後家の内策・1」で「嫁ぎ先」を消した。
    b 「辻褄合わせ策・2」を採る。
    c 「間一髪、伊勢に帰させる策・3」で縁組を切った。
    d 「無かった血縁として始末・4」をした。
    e 「娘と児を密かに引き取り策・5」とした。
    f 「伊勢の四家の児として入籍・6」を直ぐにした。
    g 「後家は寺に尼僧とする策・7」で氏内を纏め解決して消し込んだ。
    以上に伴い要するに“「上記のロとハ」”で相手に“「大打撃策での対抗策”を放った上で上記の「族内からの対策のabcdefg」を下したのだ。

    注釈 この「北家藤原氏の外孫王」の「以仁王の乱」は短期間で終わり失敗の結果と成ったのは、この「伊勢」が放った上記の「ロの財源」と「ハの武力」で以て影響させたのだ。
    「頼政」は、当初は「平家に対抗できる勢力・青木氏一族」として目論んでいて密かに婚姻を手段として繋がろうとしてきたのたが、結果として事の次第が露見して「伊勢と信濃の青木氏」は、勿論の事、この事件で離れた事でその「四掟女系血縁族」として存在する「全国に23地域に展開する361氏が存在する集団勢力・北家秀郷流一族一門の賛成」も得られなく成ったと観ているのだ。

    注釈 「以仁王」は、妻は「藤原忠成の娘」で、「後白河天皇の第三皇子・第二皇子」とされ母は「北家摂関家藤原季成の娘」である。
    その関係で故に「日本最大勢力の武家集団」の“「北家秀郷流一族一門は合力する」”と目論んでいたのだ。
    「戦い」に必要とするのは、「残す物」は要は「財」であったが、「伊勢青木氏の財」はこれで失敗したのだが、要はこの「二つの勢力」がこの“「事件」”から離れたのだ。
    要するに、「青木氏からの歴史観」から観て、“最初で躓いた「頼政の大失敗」”であったとされる。

    注釈 この「経緯論」として、論じる。
    これに対して「伊勢側」でも対抗して兎も角も「一定の策」を採ったのが、「上記の制度・辻褄合わせの後家制度」を先ず執った事の経緯であったと観ているのだ。
    そもそも、元を質せば「頼政の以仁王の乱」を始めようとした時、「清和源氏の摂津源氏」の「本家の子孫・四家制度」を「源氏以外の格式高い家」に血筋を遺させるの名目として「血縁」を申し込んで来た事もあったのだ。
    ところが「伊勢」は格式を前提に「四掟」で受け付けなかった。
    そこで「頼政側」では、「氏族を保つ為の四家」を「最低限の縛り」として敷いていたとしても、「嵯峨期禁令の9つの縛り」の中の一つである「四掟」は敷かなかったのだ。
    それは「武家・象徴の武力」を持っていた為に「自由」を利かせる為であった。
    故に、この「摂津側」では、“「強引に伊勢途信濃との縁組」を仕組ん”で、その結果として、“「伊勢側と信濃側」に強引に引き受けさせた。
    そして、「伊勢と信濃」に「子孫を遺し、引き込もうとした策」”であったと観ているのだ。

    注釈 「武力集団の氏族の伊勢50郷士衆」は、飽く迄も「女系に依る血縁」であって、「男系での血縁」ではなかったし、又、「奈良期の古来」より「四掟」を定まる前から「秀郷流一族一門を母方先」とし、並びにその「血筋」を引いた「秀郷流青木氏」とは、「四掟」が決まる平安期中期からの当に「賜姓を受けた母方系の女系血縁族」であった。
    依って、「嵯峨期の9つの縛り策」を故意に徹底して護らない「清和摂津源氏の頼政との血縁」とは違っていたし、「氏族」でも無かったし、長い歴史の中での「血縁を定めた族」の当に「四掟外・血縁のしない族」であった。

    注釈として、何か此処まで来るには、必ず、“二つの青木氏を動かし得る重要な仲介者”が存在していた可能性があると観ているが、血縁した以上は、故にこれに付いては「伊勢」も“暗黙の内に承知していた策”と観ているが、唯、どう出て来るかは判らなかったと観ている。
    何故ならば同じ事を「信濃青木氏」にも行っていたからだ。
    当時の縁組には従わざるを得ない重要な仲介者が立つのが氏家制度の中では掟である。
    従って、こんな「危険な四掟外とされる相手の縁組」ではある以上は、この“二つの青木氏を動かし得る重要な仲介者”に付いては研究したが限定されて予想はできるが確定する資料は見つからないし判らないし、見つからない事が当初より確定できる。
    血縁で在る限りに於いて、特定は敢えてしないが、“見つからない事が答え”であってそれが「正しい経緯・答え」であろう。
    故に「四掟外」であっても況や何かが起こる事も含めて“暗黙の内に承知していた策”と成り得たのだ。

    注釈 そもそも一般としては、「后妃嬪と妾の制度」の中では、この様に「嫡子・后妃嬪の継司」が居て「妾の妾子」として扱われた場合は、通常として「四家の詳細系譜」には記載されないのが一般的で、記録から観ても「当時の氏家制度の中」では「四掟制度・格式ある氏」のある中ではこの事が多く起こったのだ。
    依って、「四掟」から外れる処、又は、ぎりぎりの処では、故に、「青木氏側」では「この様な事態」に成る事が想定されていた筈で、重要な仲介者が入って詳しく取り纏めて進めるのが普通で、兎に角も直ぐに“「正式血縁」”を先ずする事は無く、これらの事象に付いては“「記録」”に散見できない程に少ないと云うよりは無いのだ。
    況や、その“「相手」”が渦中の「賜姓族の摂津清和源氏族・上三位家」であったと云う事で「重要な仲介者」が存在していた事に成っていた筈だ。
    つまり、先ず、“数段格式は上”で、且つそもそも“四掟外”であり、「格式高い氏家制度」の中では「一般的な慣習・掟」では、“「妾」は100%無い事”に成る。

    そして、仮にこの“「場合」”が現実に起こった時には、「嫁家先」では“「主家筋の系譜・尊属系譜」”には記載はされない場合と成り得るが、ところが伊勢側では「格上の四家側等の系譜・尊属と卑属系譜類」には実際に記載された所以と成り得ていて食い違いの“「場合」”が起こって仕舞ったのだ。
    「伝統に基づかない事」の「行き違い」がここでも起こっているのだ。
    そこで、それ故にこれに対応して「青木氏側」で採った「仕来り」、又は「掟」としたのが「後妻制度・子供が生まれれば直ちに実家に赤子ともに帰る」であったのだ。
    然し、「摂津側」ではこれは単なる血縁では無く、“「重要な仲介者」”が間に立ちながらも、この時の“「緊急時の子孫・赤子幼児」を何とか遺す必要に迫られていたのかその「混乱期の窮策」”を採ったものであったのかは不明である。
    故に、「通常の事」では無く、「四掟外」とする「摂津の上三位」と「伊勢の永代浄一位の格式」の「家差・格式差」を埋める為でも、「何らかの策」をこの血縁では打ち立てなくてはならない場合が後刻に両家に存在して仕舞った事に成るのだ。
    この“「後家・伊勢側」”には、「伊勢」では譲れない「伝来の女系制度」を敷いている中では“「男系の系を切る」”の必要性の意味もあったし、「摂津側」では「系譜に載せない為の仕来り」で応じたのだ。
    「摂津の上三位」>「伊勢の浄一位の格式」の「家差」では、本来では「后妃嬪妾の后位に位置する事」が「朝廷が定める掟」である。これがある以上は掟の実行は求められるが、“肩ひじを張っていた”かは判らないが“「重要な仲介者」”が在る中で「摂津側」ではそれに応じなかったのだ。
    そこで、空かさず“無かった血縁”として「後家・妾と妾子扱い」として「伊勢側」に返したのだ。
    「当時の慣習の掟」に応じなかったこれに対して、困った「伊勢側」では“後家”として“「辻褄を合わせた”と云う当に“事件”の経緯であったのであろう。

    これを「摂津側」で観て見ると、「四掟外と格式外」を意識し過ぎて、「間に入った人物」の“「摂津側の味方と成り得ていた重要な仲介者の格式」”と“「頼政の正三位の格式」”を下に「掟」を無視して“摂津側が上位”として突然に“后を妾にして仕舞った”と云う経緯ではないか。
    「間に入った人物」の“「摂津側の味方と成り得ていた重要な仲介者の格式」”とは誰なのかであって、この場合、つまり、以仁王の乱を興そうとしていた1年前の出来事であるとすると此れを務められる人物は決定的に唯一人である。
    それは、“「以仁王」の唯一人”に限定される。
    上記の通りに、「以仁王」は、妻は「藤原忠成の娘」で「後白河天皇の第三皇子・その後第二皇子に」とされ、その母は「北家摂関家藤原季成の娘」で。この事から、“「重要な仲介者の格式・第二皇子」”+“「頼政の正三位の格式」”から、“「摂津側>伊勢側」”と観ての行動であったと判断できる。
    何故ならば、「重要な仲介者の格式・第二皇子」の判断は、「乱」を興す場合には「摂津側の財力と格式」と、それに女系で深く繋がる「秀郷流一族一門の武力」に、頼りたかったもので「血縁させる事」に意味があって、そのものの中味には興味は無かったのだ。
    つまり、「掟通りに血縁が決まった処」で、その“「受け身」”には納得できず“「摂津側>伊勢側」”では、「態度」を凶変させたという事であろう。
    “「妾と云う扱い」”は、血縁と同時に行われるもので、「其処から1年間の間」で「不穏な動き」が続き、これを正す様に交渉を続けたが、然し“頼政はこれを改める事は無かった”の経緯と成った。
    そこで「摂津側の財力と格式」と、それに女系で深く繋がる「秀郷流一族一門の武力」もこれで成立は無く成った経緯と成ったと、資料の一節の行の表現に就いて読めるのだ。
    その「決定的な瞬間」が「京綱誕生の妾子扱いであった事」であり、これが「決定的な事」と成り、「1年間の交渉」は打ち切った様なのだ。
    そして、その「後の経緯」として、そもそも、“伝統的に青木氏の発祥以来に血縁後に破断して実家に帰ると云う経緯”の無かった「伊勢側」では、その始末は「新しい形」の“「後家」で「事件の始末」を着けて引き上げた”のである。

    注釈 そもそもここで云う「後家」とは、後に江戸期の社会に広く広まった“後家の意味”ではなく、「仏教的な要素」を持ち、「仏門に入る事」を意味し、その扱いは「尼僧、又は斎王館の女官とか守護神の神明社の権禰宜」と成る事にあったのである。
    つまりは、仏門や神や女官に成る事なのだ。
    従って、この行為は「賜姓青木氏族」にしか成り得ない格式上の処置に成る。
    当時としては、従って「女性」の、且つ、“一度嫁いだ女性”が「僧などの高い格式を得るとして「仏門にはいる等の事」は極めて珍しい事であってまずなかった、それも“一度嫁いだ女性”が成る事は掟として無かったのだ。
    一度嫁ぐ事に依ってそれなりの格式を得た事に成り、当然にしてはこれは一段上の立場と扱いを得た事を意味した。
    それが前段でも論じた様に、先ずは「一族内の独自の菩提寺の寺等」に入る事であった。
    後に武門ではこの後家を扱う制度゛が格式上から無かった事から、「比丘尼」と呼ばれる様に成った。
    此れを仏教の“「出家」”とせずに“「後家」”と呼称したのだ。
    「出家と後家」は何方が早かったのかを調べたが、次の様に成る。

    注釈 「仏教伝来」は「538年」としているが、その前に既に「渡来人」が古来密教の仏教」を持ち込んで「渡来人」の中で広く先ず広まっていたのだ。
    平安中期頃までにこの渡来人の呼称は書物から観て無く成っているので、この頃から既に日本人に成りきっていた事に成り、多くは官僚族に成って「朝廷内の重職・専門職」に就いて牛耳っていた事が記されていて、「日本人」がこの専門職に居ない事を天武天皇の早くから嘆いていて、官僚の下の者に命じている記述が遺されつつあるて、此の頃から渡来人の呼称は消えつつある傾向にあった事に成る。
    その一つとして「伊勢青木氏の仏教帰依・考え方に賛成」としては、そもそも「国造部差配の立場」にいた事から、逸早くこの「渡来人の部人」たちが帰依する独自に持ち込んだ「古代密教の仏教」に「密教・秘密裏に」として独自に帰依していたとされている。
    「大仏殿建立」で「朝廷」が「仏教」を正式に認めた形を執ったのが「752年」であり、「尼僧の出家」としては「最初584年」として記録が遺されている。
    一般的には正式に上記した“「比丘尼・びくに」”として「出家」するのは、つまり、それが「制度として確立」した時期は、「天皇崩御にその妃等が得度して正式に「仏教の立場」を得ていた時期であるので、それはつまり「出家した事」に成るので、その時期の記録からは「450年から500年後の年代」の“「1034年から1085年頃」であろう事に成る。
    そうすると、「皇族外の一般・公家や貴族」から出家したのは1100年代が現実の年代と成るだろう。
    これは「平安期の末期頃」と成る。
    つまり、青木氏との間で事件と成った上記の「頼政の以仁王の事件」は、丁度、この頃に成るだろう。
    前段でも論じたが、何故ならば、「比丘尼の尼僧」は少し意味が違っているので、「皇族外の一般・公家や貴族の時期」を以て相当と考えると、“「青木氏の後家」”の判断は、“「皇族外の一般・公家や貴族の時期の出家」”に相対して考えられた制度であった事に成る。
    この「青木氏の後家」の考え方は、独自の伝統的物で習慣であった事に成る。
    「仏教」に限らず、「神明社」、「斎王館」、「十二官吏の女官」、「菩提寺」、「祐筆」、女系であった事より「青木氏の玄孫娘・女(むすめにすべく学校)」たちを「福家」に一堂に集めて育てる制度の教官等、「女性が務めるべく専門役務」として全ゆる仕事に専従していた事に既に成るのだ。
    その一つの中に「尼僧」もあったとされるが、唯、この「仏教の尼僧」には青木氏では従って「尼僧」とは呼ばずに「比女様・姫様・ひいさま」と呼称して特別に崇めていたとされるのだ。
    その意味でこの「後家の意味」は「青木氏内の独自の慣習・掟」であった事に成る。
    この様に歴史的背景を以て呼ばれる様に成ったとして、そうすると、この「伊勢青木氏の後家を採用した時期」と「同時期に成ろう。
    これには中には、一つの経緯があって、一度、「賜姓近江佐々木氏・第六位河島皇子系」に嫁ぎ、その直後に「後家」で戻り、再び、この「後家」は、「嫁ぐ事・佐々木氏に四掟」に成ったとするの限定経緯であった事が記されている。
    但し、伊勢青木氏と近江佐々木氏は施基皇子と河島皇子の兄弟血縁族であった事から当当時として慣習からは通常の慣習としての血縁として扱われた。従ってその中での嫁ぎ戻り再び嫁ぎ直すと云う行為は特別な事では無かったのだ。
    従って、その中での事である事から、これはこの「青木氏の後家」も四家の中では「柔軟」に運用されていたと云う事に成る。
    この「後家」にはそういう意味も含まれていて悪い行為ではなく、敢えて行われる手順でもあった。
    中国の古来に発展した陰陽学の判断からの事が多くそれに従っていた事に成る。

    注釈 ここが「財と武の背景」が無く成ったのは「以仁王の乱の6月間で敗戦の決定的瞬間」であったろう。
    この乱は1179年11月から1180年5月の6月間は、「伊勢の後家と京綱の時系列」で年代的一致する。
    資料の祐筆のキーワードが語るには、この中に後で筆者が疑問をもったのは、「四家の氏家制度の四掟中での血縁」には次の「疑問・A〜K」を持っていたとされるのだ。

    A 「格式から仲介人の存在必要」
    B 「上位格式から妾と妾子扱いは異常」
    C 「四掟外である事の扱い」
    D 「摂津源氏からの申し込み」
    E 「後家である事・事件性」
    F 「以仁王の乱性の関わり具合」
    G 「青木氏の氏是」からは血縁は四掟外
    H 「秀郷流青木氏と伊勢氏族の同意有無」
    I 「信濃青木氏の国友事件の連動」
    K 「青木氏一族の賛否記載外」

    以上の事柄からは「祐筆のキーワード」は単純すぎると観られる。
    恐らくは、これは「福家の指示に基づいた祐筆」は、「青木氏の氏是」に基づいて「記録の中」にこの「争い事を明記する事」は、“祖先に禍根を残す”として「意味含みの表現・A〜K」として記述したとし、「子孫の読み手」には、“以上の事を充分に想起させ連想させ想像させる事”を試みたと考えられるのだ。
    当に上記の“疑問そのものであり、つまりその思惑通りに記述した”と考えられる。
    従って当時も、祐筆も周囲の関係者も“この「頼政事件・京綱事件」に付いて同じ事を思っていた事”と考えられるのだ。
    その「表現」が、“「格式と氏是」と「氏族と四掟」と「頼政と後家」と「信濃と類縁」と「青木氏族の賛否」”の「五分け制度」を使って「長い文章・起承転結」を「漢文」で構成したとしているのだ。
    当に、上記に近い事を考えていてこれを想起のさせる記述とした事であろう。
    「伊勢や信濃」に執ってはこの事件は初めての事であり「伊勢郷士50衆」の中でも話題になっていた事であろう。

    注釈
    この「記載している漢文」は、そもそも余り得手ではないが調べてみて判った事であるが、これは唐初期の形式であるとされていた表現形式であるとする。
    祐筆はこの時、敢えてこの難しい形式を使ったと観られる。
    幾つかの「摂津源氏の研究資料」に依れば、「京綱」を「仲綱の妾子」とせずに「嗣子四男の扱い」としている資料もあるが、「青木氏側」では“後家の記述”がある以上は“妾子”を物語るだろうと判断している。
    「嗣子、又は継嗣の四男扱い」そまものは、この「伊勢側」では「伊勢側の後家扱い」は「史実」として間違いはないが、この“「伊勢側の後家の前提」”を考慮しなかった説に成るだろう。
    つまり、要するにその母親を“「後家」”とするのには、「伊勢側の決める事」であって対抗策には成り難い、「摂津源氏側」では、はっきりと“「継嗣」”としないで“「妾子扱い」”とした事であり、つまり「嫁」は飽く迄も「後家としていなかった事」に成る。
    それを前提とした説と成り、「摂津源氏側の四家」の中には飽く迄もこの「乱」には「青木氏一族と秀郷一門の合力を強く求めていた動きがあった事」を意味している。
    だから、「頼政の思惑」と違った処に、この「「摂津源氏側の四家の折衷案」として「嗣子、又は継嗣の四男扱い説」が生まれた事に成るのだ。
    「嗣子、又は継嗣の四男扱い説」は頼政側では相当に譲った案であった筈だ。
    何故ならば、当時の部門に於いては「嗣子」と「継嗣」もそもそも概ね“「跡継ぎ」”を意味していたのだ。
    取り分け「継嗣」は、当に時の意味する如く「跡継」にしか使わなかった言葉である。
    ところが「伊勢側」では、全体の問題を子供ではなく妻と成る娘の“後家”で統一して対応したと考えられていたが、処が「摂津源氏側」では、“内部の四家内は二派に分かれていた事”に成ると観ていたのだ。
    「継嗣」では無く「嗣子」をも使っているところを観ると、「二派」に分かれていてうっかりと「嗣子する処」を発言して仕舞ったと云う事ではないか。
    子供がいない時は「正式な后妃嬪からの子供」でない場合は「妾子」であっても「嗣子」を「継嗣扱い」とするのが掟である。
    この時、「仲綱」には「継嗣」はいて男子では「当に四男」に当たり当時の慣習から「純継嗣の嗣子」になるだろう。
    子供生存率の悪い当時であった事から「継嗣」は充分に考えられた。
    その意味で「正式な后妃嬪からの子供」で既にあったとしても伊勢は格式は上である以上は后は兎も角も「正式な妃嬪扱いの子供」として出来たはずである。
    強硬派は別として「摂津源氏の四家の一派」はこの説を執っていたのではないか。
    其処に食い違いが生まれていた事に成ろうし、それに「格式上の伊勢の主張」を加えれば「食い違い」は更に広まったと考えられる。
    「四掟と格式差を重んじた扱い」を重視する「青木氏側」と、「肩ひじ」を張り過ぎて「戦いの勝利」に目を逸らし、「以仁王と正三位の格式」を前面に押し出した「摂津源氏側の鍔迫り合い・嗣子派ではない強硬派」もいたのであったのであろう。
    これは同時期に「伊勢と同じ事」が起こった「信濃青木氏への摂津側の丹後国の妾子国友の件・信濃から伊豆に逃れた」が証明するで事でもあろう。
    「摂津源氏側の主派」が飽く迄もこの「妾子に拘っていた事」がこれでも判る。
    要するに、“「乱」に勝利し「武家の府」を樹立する際には、この「伊勢との格式差の存在」が背景にある事”が我慢ならなかった事に成ろう。
    「伊勢の財と秀郷流一門の武」が「府の背景にある事」が、「傀儡政権と成る」として強硬派に押されて、結局は「肩ひじの格式差の存在」を無視したのだ。
    「青木氏側の歴史観」としては、「以仁王の乱の失敗」は、「青木氏側の一族賛成」が得られなかった事、「此処・後家=妾」にあったとしているのだ。

    注釈 前段でも論じたがこの「後家扱い事件」は、奈良期にもよく似た事がこの「格式差」で起こっていて、「川島皇子の裔系・河島」の「近江佐々木氏の市原王への婚姻・能登女王」の時にも起こっている。
    この時は「伊勢」からは兎も角も「代わり女」として嫁ぎ直して決着している。
    この相手となったのは「市原王」は「天智天皇の曾孫」でもある。
    その「天智天皇の子の施基皇子と川島皇子の孫の安貴王」の子が、この「市原王」であって、「白壁王」と「市原王の父」である「安貴王」が、「同世代の叔父と甥」である事、且つ、「白壁王の母・紀橡姫」と「市原王の母・紀小鹿」がともに一族の「紀氏出自」である。
    所謂、これは同族の“「種婚・青木氏だけに起こる血縁」”であろうし、その「種」のある「四掟の限界範囲」に留めて、「系・一切の腐縁」を切るのだ。
    「以仁王の乱の混乱期」の中で、「頼政」は上記の「財と武の背景論」に合わせて戦闘で「摂津源氏」を絶やさない為にも「本家の系譜には記載しなかった・別の系譜と資料では記載している事」で、“「伊勢青木氏にこの“「種婚」”とするものを入れて仕組んだ事」”である事は判る。
    「青木氏の資料・詳細に描いた資料」の「読み込み」からもこれは「史実」として判っている。
    そこで、では、この結果として「摂津源氏内」では「敗戦」で確かに子孫は支流まで絶えるが、そこで、最も考えられた事として、“何故、同じ清和の河内源氏の支流裔系に入れて子孫を遺そうとしなかったか”と云う疑問がある。
    それは前段でも論じたが、「嵯峨期の9つの縛りの掟」を護らなかったのは「河内源氏」であり、「摂津清和源氏」の様にある程度の「四家制度」を敷いて「嵯峨期の9つの縛りの掟」をある程度護ったとする「摂津清和源氏」であるが、「河内源氏」は全く護らなかったし、“四掟外の更に遂には更に外に置かれていたのであった”。
    朝廷はそこで二代目満仲に督促令を出したが言い訳をして護らなかったのだ。
    だから満仲は蟄居を命じられてしまったのだ。
    その命令は荒廃する寺の修理と新規の建設を命じたものであった。
    そもそも清和源氏には賜姓を何とか祖父の清和上皇から受けたがそれなりの力は元より無かったからだ。
    「満仲」は何とか一つの寺だけを修復して報告したが朝廷はこれを許さなかった。
    「賜姓を受ける事」は、「嵯峨期の9つの禁令」にある様にそもそもその前提にあったがしせいだけを受けてその役目を果たさなかったのだ。
    これを嫌った頼信系の清和・河内源氏は二代目満仲も受けて仕舞った事もあって不可能とみて三代目の頼信は河内に逃げて家を興せなかった「他の源氏族・丹後に集まっていた」を河内に呼び集め武装集団を構築して、その力で周囲の朝廷の荘園の土地を奪取して行ったのだ。
    「満仲」は許される事はなかった。
    この「苦しい摂津源氏」は、伊勢青木氏や信濃青木氏では無く、確かに三代罰を受けていた河内源氏に遺そうとしなかったのかである。
    ここに実の処は差があった。
    だから、「河内源氏」に、“河内源氏に入れて遺そうとしなかった”のだろう。そうする事は摂津源氏にしてみれば確かに格式は下がる事には成るが、今更の事でその方が自然であろうが、敢えて遺そうとしなかったのだ。
    その様な記録が系譜上にも全く無い。
    「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」はこれをよく見ていたのだ。
    当然の事として其れだけに両者は「疎遠の関係にあった事」も云えるのだ。
    「摂津源氏が起こした乱」が、其の内に“「河内源氏にも事が及ぶ”と云う事はあり得ても、その前に「嵯峨期の9つの縛りの掟」を護らなかった事で、既に“「掟の三代罰」”で子孫は悉く“「島流し等」”を受けていたのだ。
    結果としてそう成ったが、然し隠す事ぐらいの事は出来ただろう。
    そもそも「賜姓青木氏の伊勢と信濃」が匿う事は出来ているのだから、朝廷の見方は緩やかであった事は伺える。
    “隠している”と判れば危険は皆同じ事だ。
    現実に、歴史的に観れば「頼政の読みの通り」に「河内源氏」もある程度の経緯はあったにせよ全て“1221年”を以て「全ての後裔」は滅亡したのだ。
    朝廷も、「三代罰・源氏族」を受けていて、更には「嵯峨期の9つの縛り策」も護らない族には例え過去に賜姓をしたとはいえ根本的に許す事はそもそもなかったのだ。
    前段でも論じたが、唯、「違う処」は、そもそも「桓武平氏」だけは「伊勢伊賀の青木氏」を「祖」としている処で「桓武派」としてで同じであった。
    前段でも論じた様に、然しも、“「以仁王の乱」で子供の「仲綱の裔・3人」を「日向廻村に島流しにする助命嘆願」”を出したのは、それが「後家・京綱の事件」で何と仲違いしていた「伊勢青木氏」であっても、下記の関係があったからである。
    「光仁天皇の妃」、つまり、「桓武天皇の母」、敵方の「桓武平氏の祖の始祖母・高野新笠」は「伊賀の出自」で、且つ、「同祖の伊賀青木氏の裔」でもあり、且つ、「伊勢青木氏の裔」でもあり、元より「光仁天皇は伊勢青木氏の裔・六男」で、「始祖の施基皇子の裔」でもあるからなのだ。
    云わば、「伊勢青木氏」は「桓武平氏」にとっても「母方の始祖」にも当たるのだ。
    この「始祖に当たる高野新笠」を盾にしてその裔である「清盛」に「助命嘆願」を願い出たのだ。
    それの「仲介の役」を採ったのは、そしてこれを企てたのは何と「伊勢青木氏」であったとされているのだ。
    何と「後家・京綱の事件」の喧嘩の相手でもある

    注釈 前段でも論じたが、この「3人」は最後は「伊勢青木氏の仲介の役」を聞き入れて「日向廻村」に流されたが、ここでも「九州源氏」を呼び集めて「九州平家」に反乱を起こして再び失敗をする。
    伊勢青木氏に執っては「伊勢青木氏の仲介の役」の「立場・顔」は丸つぶれと成ったのだ。
    然り乍らそこで「日向廻氏」との間で子孫を遺したが、最後は九州平家の追討で「薩摩大口村の浄土宗寺・薩摩では2寺しかない浄土宗の寺・現在」で「三等官の五大官僚族の伊佐氏の菩提寺」に逃げ延びた。
    ところが、これに着き従った者は既に5人と成り、最後は助けを求められたこの「寺の住職の機転・伊勢青木氏」で「伊勢青木氏の裔」を名乗らせて再び助ける事と成ったのだ。
    「因果の繋がり」と云うか普通ではこれは有り得ない。
    それを兎も角もこの「機転を利かした住職」は、「古代密教浄土宗・現在の浄土宗とは違う・後・知恩院」から派遣されていた「伊勢青木氏の住職」であったとされているのだ。
    この当時は寺名は古代密教であった事から浄光寺の寺名が着けられていた。
    現在でも「法然の浄土宗・1175年」の中では無く、多いのは「浄光寺・又は浄土寺の寺名」としているのはこの流れに寺であり、現在では「時宗の中」に此の寺名が多い。
    それは上記で論じた様に、法然の浄土宗は1175年以降の事であり、その説は「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に「阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名」を唱えれば極楽往生できるとする思想である。
    ところが、周囲からこの説は攻撃を受けてそれ程の宗派とは成らなかったのだ。
    ところが江戸期に入って幕府の後盾を受けた事により広まった宗派であり、1180年頃は未だ古代密教浄土であったのだ。
    その意味でもこの寺の住職は長い歴史を持つ当初から古代密教の阿弥陀密教を説いていた白旗派がこれに代わって受け持つと云う事が起っていたのだ。
    これは「偶然の奇跡」では無いだろう。
    その後もこの「奇跡」は続くのだ。
    これは後勘から考えても決して普通の「奇跡」では無い。
    考えられた「準備された恣意的な奇跡」であると観る。
    続けてこの「奇跡の経緯」を追う。
    其の後に、この「住職の紹介」で、再びこの裔等を「伊勢青木氏」に船で連れて行き育て船乗りとして訓練させたとあるのだ。
    この時にこのキーと成る「問題の京綱」とは、この「日向の裔」と共に同年代であった事から、この「青木京綱」と共に「伊勢」で育てて、「日向青木氏・大口青木氏」を名乗らせたとするのだ。
    この「二人」は其の後、供に「青木氏」を背負って乱世を生き延びたと云う事に成るのだ。
    「大口の裔」とその付き従った「大口からの五人の家臣等」は、「伊勢青木氏の娘等」と婚姻して育ち、その「伊勢での子孫」は「伊勢の女系孫と成った事」により、元より「大口青木氏」に成り、彼等に「大船一艘」を与えて「水運業の商い」の基礎を覚えさせて「大口」に戻したとある。其の事が「伊勢の記録」にあるのだ。
    これが、この「大口青木氏の事」であって、その後、その子孫は故郷の日向まで「大口青木氏」を拡げる事と成ったとするのだ。
    筆者は、そこでこの「住職の事」を調べる事ができ得ればこの「シナリオの奇跡」は証明できると観る。
    これは、「助命嘆願時の青木氏のシナリオ」ではなかったかと観ているのだ。
    余りにも「造ったシナリオ」過ぎる。
    それはこの「助命嘆願」が[伊勢の格式ある立場」からは普通では考えられないからだ。
    これを本当に、[氏]を建てて清盛に[助命嘆願が申し込む事」は出来るかである。
    やる以上は、この時の青木氏のシナリオを組んでいたと考えられるからだし、同じ「桓武派の清盛」も求めたと考えられる。
    だから「青木氏の住職の証明」が出来るとしたのだ。
    この「シナリオ」は事を巧く運ぶには全てこの「青木氏の住職の存在」にあるからだ。
    最期に其の後の、「黒田藩の御用商人」と成り「黒田藩の水軍傭兵軍団」とも成り子孫を拡大させたとする史実と成るのだ。

    この事に付いての「記録」には、次の様にある。
    「配流者の摂津源氏の廻の裔」は、「日向廻村」から「肝付村」を経て「薩摩大口村・裔と五人・浄土宗知恩院派浄光寺」に逃げ延びて、「寺の住職の歴史の知恵」の勧めで、そこで“「母方伊勢の始祖の裔」として「伊勢青木氏」を名乗らせた”と「史実」として遺されている。
    恐らくは、「問題のこの住職」が「伊勢青木氏の事」を以て「九州平家軍」を説得したとする程に充分な知識を知っていた事に成るのである。
    そこで、この「浄土宗知恩院派浄光寺の住職」と成る者は、“「伊勢青木氏」と何らかの関係性を有していた者であった”と考えられるが、そこで、“何故、ここまで「浄土宗知恩院派浄光寺に「白旗派の住職・主に青木氏の重職・柏紋」が赴任していたか”の「疑問1」もある。
    それが「確実・証拠無し」には遺り解けないのだ。
    その前に、何故に「朝廷の上位の三等位級上位官僚族の伊佐氏の菩提寺・自らの寺を持ち得ていた」のこの寺に、そもそも派閥の違う「白旗派の青木の住職」が此処に来ていたのかと云う事に成る。
    そもそも「伊勢青木氏の格式」は、「密教である事」から「自らの一族の者が自らの一族の菩提寺・清光寺の住職を務める仕来りが普通である。
    そもそもそこで「浄土宗密教最小派の公家貴族などの高位の者の帰依する白旗派」は、所謂、「特別の氏族が帰依するべき派」がこの「白旗派」であり、その「格式ある住職」と成ると「賜姓時に与えられた賜姓紋の神紋の柏紋」を与えられるのが殆ど「伊勢青木氏から出自の住職に限られいた」のである。
    ここの住職が「白旗派の住職」もが務めるのだ。
    従って、「最高位の格式を有する柏紋」を以てして、「白旗派の菩提寺」と成っている各地に存在する「清光寺・青木氏の菩提寺」も当然ながらこの者らが務める事に成るのだ。
    そもそもその為にも「神職の神木の柏」は「賜姓」と共に与えられ「神紋の柏紋の使用をも認めらる慣習」であるのだ。
    この意味で、「青木氏、白旗派」は「神職」は「住職」にも通ずるところがあって、「伊勢」に限らず他派に存在する事もあり得たのだ。
    先ずこれが証明の一点にあるだろう。
    其処で何で「知恩院派の住職」と成り得ていたかにあり得る。
    未だこの時期は当然ながら「法然の浄土宗」は宗派を確立するのが先ず先決でそれも周囲から攻撃されていた時期でもあって、「寺の建造」すら出来ずにいた時期でもあり、そのものより「知恩院派」をそのものを拡げられるレベルに至っていなかったのだ。
    では何故、「知恩院派」と青木氏で記されていたかの疑問が遺る。
    そこで、次の一つの経緯がある。
    この「上位の第三位三等官の官僚族の伊佐氏の菩提寺」が、「浄土宗知恩院派浄光寺」だとすれば、そこは一時知恩院派が衰退縮小した時に、この「白旗派の浄土宗の青木氏住職が補完したとある」ので、時代性からこの時の事であった可能性があり、その「所縁]からここに白旗派の者が赴任していた可能性が認められるのだ。
    それにはある特別の経緯があったのだ。
    ところが現実にこの「最小派の白旗派」を維持して行くのは困難であった事が記されている。
    「知恩院浄土宗派」は、この時は何と「24派」から縮小して「14派」に成り得ていたのであったとされている。
    最高時では「24派」に成っていたとされるが、これは当時起こっていた「浄土宗内の派閥争い等/密教の考え方」で「14派」と成ったとされる。
    中でもその影響を強く受けたのは、その一つがこの「知恩院派」であり、従ってこの時は地方の知恩院派に住職を廻す程に特別に大きい派と云う事ではなかったと云う事なのだ。
    「財政的な面」は元よりその限られた範囲のこの派の「帰依族」は、平安期中期以降には財政的に豊かな白旗派知恩院派を財政的に補助する派は、「伊勢以外」にはどこも少なく成り、その「帰依族の子孫」も含めて縮小して行ったのだ。
    互に宗派争いで疲弊してその力を弱めていたのだ。
    記録では、「密教白旗派」に所属していた時期の最高は、「前後してはも「5族」に限られて、それは密教を前提としていた事で限られて格式を重んじられて「公家と武家貴族」であったとされているし、その「財財政的に豊かな伊勢青木氏」が「柏紋の自前の住職」を持ち負担していたとされているのだ。
    中でも当に「柏紋の青木氏の神明社の神職」であって、且つ、「清光寺の柏紋の住職」も兼ねていた事も一時期あったとされる。
    この時、多くは「知恩院派」以外に鞍替えしたとしているが、この「知恩院派」もそれが元で全ての「帰依族の寺」に「住職」を充分に廻せなかった事が記されているのだ。
    この時の事であろう。
    そこで「青木氏」から「密教性の強い白旗派」から、より近い「所縁の知恩院派」を経由して「清光寺の青木氏住職め柏紋の住職」を「伊勢」から送った可能性があるとされているのだ。
    恐らくは、支配下に置いていた「上位の第三位三等官の官僚族の伊佐氏の菩提寺」であった事もあり、この時に「商い」も通じて「最高格式を持つ柏紋住職青木氏を送った事」が充分に考えられる。

    注釈 「伊勢の京綱」にしろ「信濃の国友」にしろ一族内に隠せば攻められる事は100%無い。
    「信濃」では、一度は「信濃」で住まわせたが其の後に情勢を観て「伊豆」に移して隠したとある。
    この「頼政の事前の作戦」として「清盛」にとりつき「正三位」」に成った事で珍しく慣例を破って「源氏である頼政」は「伊豆守護・それまでは藤原氏の領域」に任ぜられたのだ。
    そこでこの「慣例外の伊豆」に「伊勢と信濃」の「青木氏の子孫」を「商い」で栄えさせようと一族の派遣を申し込んで来たとされるのだ。
    この結果として「伊豆」に於いては、両者は元々親族にあり同属血縁族であったが、最後は区別のつかない「一つの融合族の青木氏」が「伊豆全土」に“「伊豆青木氏」”として生まれたのだ。
    「伊勢と信濃」は、この“「伊豆青木氏」”を救う為に「生活路」を「海には伊勢水軍の路」として「陸は全国500社近くに及ぶ「神明社経由」を通じての「伊勢と信濃との路」を造り「生活ライン」を構築して行ったのだ。
    結果として、これが「頼政敗戦」により4年で崩れるが、何とか楮生産を基に「商いの伊豆青木氏」の「生活ライン」は維持して来た。
    これが「大口青木氏の発祥」と「伊豆青木氏の発祥」とは,,「頼政の事件」とで全く同時期で起こったのだ。
    これが後の「信長台頭」でそれまでの「海の路」と「神明社の路」は、破壊され脅かされて「伊豆青木氏」のこの「生活ラインと商業ライン」は機能を失って一時孤立したのだ。
    現実に「以仁王の乱の責任者・頼政」の「孫」を皮肉にも「配流者・2の孫と叔父」として助けたのも「母方始祖の伊勢青木氏」の「所以・嘆願書」を以てであった。
    この「筋目」を以てすれば、「京綱と国友」は間違いなく助けられる所以であった。
    ここの一点を「摂津源氏」は「京綱」をして「無理・」にでも頼ったとも考えられる。
    この様にこの経緯から観ても「伊勢側」では“「後家」”にして対応してでも、「頼政」は「戦い前の準備策」として青木氏を頼って来た事が判るが、ところが「伊勢側」では飽く迄も血縁性の強い「桓武派の伊賀青木氏との関係・伊賀青木氏と桓武平氏の清盛の血縁関係」もあり固く拒んだのだ。

    注釈 「経緯」としては「頼政系の摂津源氏」は「清和天皇の賜姓族・祖父からの賜姓族」ではあるが、「伊勢青木氏」は「仁明天皇」までが「伊勢青木氏の出自系の天皇」と云えるが、これ以後は完全に血縁性は切れていて皇族系は完全に「藤原氏系流」と成っている。
    そもそもその「青木氏族」から観て「無縁者の清和源氏系頼政」より「四掟」を超えて「伊勢と信濃の青木氏」に強引に策を弄して縁を求めて来たのだ。
    「伊勢と信濃の二つの青木氏」は、元は「賜姓臣下族」であったが、既に光仁期から完全な女系で繋がれ、それを更に「四掟」で固めて「天皇系流」を完全に切っていたのだ。
    「格式論」としては「天皇系の賜姓族源氏」を前面に押し出し格上を出してこの「縁組」を求めて来たが、「嵯峨期の9つの縛りの護らない源氏側」には、例え「賜姓族」と云えども「同じ賜姓族の青木氏」に於いては「永代浄大一位と云う最高の格式」を有し「永代賜姓五役」を果たしている「伊勢と信濃の青木氏」に執っては「この清和源氏」と云へども「無冠位の格下族」である。
    兎に角も「伊勢と信濃の二つの青木氏」は縁を繋いだが、矢張りその扱いが強気の「格下」で応じて来たとする結果であったのだ。
    その結果、「縁を切ったとする経緯」で「後家」で伊勢に戻したのだ。
    但し、この時は「信濃」は「妾」の侭で続け戻さなかったのだ。
    結果として、前段でも論じた様に、次の様な事に成ったのだ。
    この様に「伊勢を含む青木氏一族」は「特異な氏族の生死存続」を掛けてこの事件対応に前段で論じた様に追われたのだ。

    この「個々の詳細」は、「日向大口青木氏論」や「額田青木氏論」や「駿河青木氏論」や「伊豆青木氏論」、将又、「諏訪と信濃青木氏論」や「伊賀と甲賀と伊勢青木氏論」や「摂津青木氏論」や「佐々木氏論と近江青木氏論」や「伊勢秀郷流青木氏論」と「24地域116氏に及ぶ秀郷流青木氏論」と「361氏の秀郷流一門論」と「額田部氏等の関係族論」等で論じて来たが、これ等の事件の参考歴史観として今まで生きて来た「青木氏一族」を理解しなければならないだろう。
    この中には論中で述べる様に「全体の中に含まれる歴史観」だけでは無く、「独自だけの歴史観」も有していたのだ。
    少なくともこの二つの歴史観を理解しなければ「青木氏族論」は正しく語れ得ない。

    そこでこの「二つ歴史観」の内の「青木氏だけに有する歴史観を掘り起こして、この「上記の大口青木氏の住職の疑問」の解明の為に「検証」を行う。
    これを解けば完全な繋がりは解明でき全てが繋がる事に成る。
    然し、この「平安期の事」には「確実な明記した記録」を発見させる事は、一般的に難しく、通常はその「状況証拠の積み重ね」で「全体証拠」と成り得て解ける事の経緯に成り易いのだ。
    そこでこれは、“何故、伊佐氏の居た大口村の浄土宗の寺の浄光寺に向けて逃げたか”の「疑問2」の証明にも成る。
    この「疑問1と疑問2を解く事」で、「以仁王の乱の関わりから大口青木氏・日向青木氏までの「経緯の全体が解ける事」に成る。

    その「経緯の全体が解ける事」の為の「証拠探しの手掛かり」として次の論の事に成る。
    逃げ込んだここは、現在では小さい町の西の「伊佐」と、東の「大口」とが市町村合併して出来た市域で、西隣の「伊佐」は「平安期」には“「朝廷の六大高位官僚族・三等官」”の有名な一つで「日向域」に派遣されていた「伊佐氏の統括域」の一つであったのだ。
    そもそも、この「伊佐氏の祖」と云うのは、先ず一説では、“「藤原北家山蔭流」で「常陸国伊佐郡」を「本貫としていた一族」であるとされている。
    本筋はこの説とする「資料」もあるが、この説も「本論の時代性」では後の事」であるので、あまり参考とはならない。
    この説では、「その後裔の地・鎌倉期の分家」であるともしていて故に「本貫地」では決してない。
    少なくとも“「朝廷の六大高位官僚族・三等官」”の有名な一つであった事から、推測するとこの「史実」から物語る事とすると、その裔の一つが「平安期以後の鎌倉期」にこの役職を解かれてその朝廷から授かったその「国を
    管理する為の朝廷の武」で以て、ここに移り住んだ可能性があるとしているが、そんな事は当時の状況ではあり得ない。
    これはこの「伊佐氏を語る者の搾取」の「江戸期の黒印状」のその確率は高い。
    これを上記の「平安期の末期の時代性」に合わせれば、史実性の高い「唯一つの説」は、この「伊佐氏」は「桓武平氏・伊賀」の「大掾官の繁盛流氏族」であると成るのだ。
    それ故に、この史実を基にすれば“「朝廷の六大高位官僚族・最高位の大掾官の三等官」”に成り得ているのだ。
    この事を考えれば、このような「格式」を得られる事は先ず無くそれを基に史実とするは先ず間違いはないとなる。
    故に、更に追及すると「伊勢の多気郡の出」、つまりその出自の地は「伊勢青木氏の旧領地の地・多気の地にある斎王館の地付近」としているのが全体の史実に合致しているのだ。
    従って、ここでこの「薩摩・日向の平安期の伊佐氏」には、この「所縁」で、“何らかの形で「伊勢」と繋がっていた事”が最低限でここでも判る。
    では、其れはどの様な事であったのかであり、先ず間違いなく、“直接的に繋がる”のが、次の“「三つの事」”であると考えられる。

    一に、「桓武平氏・伊賀」である事
    二に、「大掾官の繁盛流氏族」である事
    三に、「伊勢の多気郡の出・伊勢青木氏の地・斎王館の地」である事

    つまり、これに依り確実に「伊勢の事の情報」は得られていた立場にあった事が先ず云える。
    そして、次にこの“「三つの事」”を総合的に勘案すれば、“「伊賀青木氏の裔系」”と成るであろう。
    だとすると、上記の割り出しから、“「伊勢青木氏の氏人の伊勢郷士衆50衆」”の一つであった事に成る。
    だとすると上記の事では、「住職との繋がり」はここからで解ける。

    これを更に進めて検証して観る。
    一は、前段で論じている通り「伊賀青木氏の繋がり」であって、つまりは「伊勢の青木氏族」である事。
    二は、「官僚族の役目の最上位の大掾官・上位国司に相当」である事。
    三は、当にニの支配は「伊勢青木氏/国造と伴造」そのもの役目からのものであった事。

    では、「青木氏系の氏名」では無く、“何故、三等官で大掾官の「伊佐氏」なのか”である。
    これを解けば、間違いはない。
    それは間違いなく、先ず“「女系による青木氏の氏族の一つ族であった”からだ。
    女系の縁繋がりにより姓は宇治族を形成する以上は家人以上は諡号の別性に成り得る。
    そもそも、この「三等官で大掾官・上位国司扱い」とは、「奈良期からの律令国家の上位の国司役に相当する役職」で、「大掾と少掾」に分けられる中で「上位官僚の一つ」である。
    相当な格式を持ち得ていなけれは成り得ないのだ。
    これは“朝廷から与えられる「最高級の名誉称号」”であって、そもそも誰でもが与えられる称号では100%無い格式の賜姓五役に相当する仕来りである事に成る。つまり、これれに関係していた族であったと成る。
    「伊勢青木氏の様な最高上位格式」を持つ「皇位族や公家族のその家族」に与えられる「官位官吏職」である。
    つまり、そうするとこの“「伊佐氏」は、この前段でも論じたが「特別令外官」として「最高上位の格式」を持っていたという事”である。
    これで、「この時の情報獲得の疑問」に対しては、これで賜姓五役として勤めていた「造主の荘園管理者と伴造の支配頭であったとする青木氏」との関わの具合の整合性に付いてが説明は出来るし、又、時には“伊勢青木氏・伊賀青木氏を名乗れる所以”とも成り得ていたいた事になるのだ。
    これは前段でも何度も論じた事である。
    どの様な関係に有ったかは上記した「伊勢郷士衆」の“直接的に伊勢青木氏と関係を有していた者”であった事はこれで判る。

    注釈 「造主の荘園管理者の支配頭」とは「大仏殿など朝廷が行う建造物等」を一切に於いて取り仕切る最高格式を有する家柄の者が成り得る役職の事であって、軍事財政的等に於いて取り仕切れる能力を有する者が成りえる。
    例えば、この役では「伊勢青木氏と縁者となる淡海族の市川王」がこれに成ったが、その勢力争いでその役を全うする事が出来ず引き釣り下ろされると云う事件がこれに於いて何度もおこっているのだ。
    それ程にこの役所に付く事は名誉な事であった。
    この「伊勢青木氏族」は、「因事菅隷」を以て「特別令外官」を務め長く務めた家筋で、故に恐らくは“「伊佐氏の諡号に基づく姓」に於いてはあり得る地位を有している事に成るのだ。

    では、そこでこれを追求する。
    更に検証すると、この“「伊佐氏の諡号」に付いて、その「諡号に基づく姓」”は、どの様に名付けられたかである。
    この時期は、「最高級官僚」の「大掾官」とあるとする以上は、「奈良期末期から平安期末期」までの事である事が先ず確かな事である事が判る。
    この「大掾官」は、鎌倉期に入るとその「名誉称号の意味合い」が広く変わって実は低下したのだが、この「伊佐氏の場合の時期」には、未だこの「九州」に於いては「武家政治に成る過渡期で変換期の事」であった事から、既に「九州日向から薩摩の官僚族」では、この「役職}が無く成るかの瀬戸際の“「独特の時代性」”にあり「経緯」としては「難しい時期の論」と成るだろうが、この時期にもこの「伊佐氏が派遺されているのだ。
    しかし、この「伊佐氏の場合」は、「九州・派遣者は三氏いた」と云うその「離れた赴任地の事}で、その意味合いが良く判るのだ。
    先ずは前期した様に「朝廷の政治的、且つ財政的、且つ軍師的に於いて極めても「重用であった事」が判るし、鎌倉時代に成っても「地頭」として引き続きその役割を果たした事でも判る様に政治的、財政的にもこのこの役目を果たしてくれる勢力は重要であったのだ。
    ところが、この「過渡期」であっても「変換期の時代性の経緯」を補完する事が大事で、この「過渡期」に「変換期の経緯の流れ」が全国的に一斉に起こったのだ。
    つまり、この役職の入れ替わりが大きく起こったのだ。
    然し、「伊佐氏」に於いてはこれがこの伊佐氏に於いてだけはこれが無かったのだ。
    それだけに信頼されていた事に成るだろう。
    さてそれは、当初は、「中央の主要な官僚族・三等官の六大官僚族がある」が、主にこの地方に赴任して「朝廷から預かった武力」を以て、「税徴収・弁財使」と「警察権・押領使」との両方で整理された機構でこの方式で「国」を統治されていたのだ。
    その力を与えられる「最高上位の官僚族」で能力的にも誰でもなれる族ではなかったのだ。
    従って、主に関東に於いては「藤原氏四家の者」が多くは命じられていたのだ。
    中でも有名な「青木氏」に最も関係の極めて深い関東に於いて「四掟四家相手の藤原秀郷」が先ずこれに成り引き続き、円融天皇から賜姓も受けてこの一門が務めていたものなのだ。
    つまり、「伊勢に関係のある者」が成った「伊佐氏」は、「六大官僚族であってその族の中でも信頼されていた「上級国司」として任じられていた事になるのだ。
    要するに、これは「伊佐氏の姓は諡号」であるので、その「姓の構成」から考えると、これを読み解けば「伊佐」の「伊と佐」で判るのでそれは下記で論じる。
    ところが僅かな歳を経てその後に一変して「武家政治に成った事・鎌倉期」からこの過渡期に「中央の主要な官僚族」の「武力のある者・朝廷から預かった武力」は、其のままに持ち続け、この「伊佐氏」の様に“「鎌倉期の地方豪族」とも続けて九州に於いて成った”のだ。
    これらの「歴史観の事」は、この判断に大きく左右する重要な事である。
    “引き続き「地方豪族」と成った”と云うよりは「善政」を敷いていた「中央の主要な官僚族」は、「地方の民」から「治安維持の為」にも敢えて求められた経緯の中にあったのだ。
    特にこの「伊佐氏の場合」はその強い環境下にあったのだ。
    その「伊勢との繋がり」など家柄等を評価され重用化されて信用されて善政を敷いていたと云う事が記録にある。
    つまり、当にこの「中央の主要な官僚族」であって「税徴収・弁財使」と「警察権・押領使」の「伊佐氏・三等官の国司以上」は、当に此れに当たり、その評価の下で「鎌倉期期」に入っても「地頭としての統治能力」を評価されて「南九州」でその役目の継続を求められたものの経緯を持っていたのだ。
    丁度、この「過渡期の事件」であったのだ。

    以上の“「三つの由来」”を持っていたとすれば、上記した「高位の者ら」にはこの役職は未だ平安期までの「姓に着ける制度や仕来りに従う事」に成っていたのだ。
    従って、この「過渡期の青木氏族の氏族の歴史観」よりこれを論じる事に成るのだ。
    そもそも、前段でも論じたが、更にこれを「諡号の歴史観」で検証するとより判る。
    この「諡号の伊佐」の「伊」は、先ず「伊勢の意」であり、奈良期からの慣習仕来りを保全する為に定められた「嵯峨期の禁令」に従って、「特定の格式範囲」で無くては、この「伊」と「勢」は使えないとする定められた「掟」であったのだ。

    注釈 前段でも論じたが奈良期の初期は国名や氏名等は中国に習ってその前は「漢字一文字制」であったが、其の後、713年頃に「二文字制・好字令」により全国一斉に「二つの文字」に名に及ぶものは変更されたが、従って「一文字制の時の国名には「強い意味」を持たしていたのだ。
    故に、そこで、この先ず“「伊」”には、元より「特定の意味」を持っていたのだ。
    そもそもそれは「特定の神」、「皇祖神や祖先神に由来するものに使われる称される呼称」であって、次の「五つのものに使用する事」だけに限定して許されていたのだ。
    それは、「固有名詞の国名」で云えば次の「五つ」に限定されていた。

    つまり、次の様に成る。
    「伊」の着く場合は「律令国家」の「国名」である事。
    従って「伊予」、「紀伊」、「伊勢」、「伊賀」、「伊豆」、以上の5つである事に成る。
    つまり、全て、この「五つ」は、これは「皇祖神の遷宮地」か、或いは、「それに相当する地域」である事であって、そもそも、この「伊・い」の意味する処は、「古代の言葉」で、主に「神社で用いられる韻語」であって、これを「単語の頭」に着けて「意味を強調する事」に用いられていたのだ。
    それは、現在の、唯一の“「一」の意”に近いものである。
    つまり、この「意味を強調する事」、「清浄さや神聖さを示す事」を示すものであって用いられた。
    つまり、「神聖な一字」として用いられていたのだ。
    これで先ず「伊佐氏」はどんな族に有ったかはこれで判る。
    更に云えば、この「伊の語源」は次の通りであった。
    「伊」の左の辺は、此れは「人」を意味し、この「人」は「丘の上に立つ老婆・占師」にあって,その右の旁の「伊」はこの「人」が右の旁から「杖を突いた世を導く占師」を形どっているのだ。
    つまり、「伊」は国を強く導く占師を意味している。
    一番に「政治の場に相当する事」を意味する。
    丁度判り易く云えば、「邪馬台国の卑弥呼」がこれに当たるものである。

    次は「佐」の語源である。
    「佐」の旁の「左」は、「神道」では、この「ひだり」の旁は、「人の部位」に於いて「右よりも最も神聖の位置や方向」」を示しているもので、これに「にん・人」の「辺」を着けて「佐・さ」としたのだ。
    この左の旁辺は、左の意味は社の屋根の形を意味し,その神がおわす社の屋根の形を意味し、その中の工は火を燃やす窯の形を意味している。
    占いを行う場所を意味しているのだ。
    つまり、どんな意味する語かと云うと、この社の「左に位置する人の意」を差し、これを以て「最上級の階級を意味する語」としたのだ。
    要するに卑弥呼であり、此処には桃等の芳香性を発するもの、要するに人を酔わせるものを集めて自己洗脳させて占うとする場所を意味していたのだ。
    要するにこれが「お社造りの原形」である。

    これは階級的には、人を導く最高の人、先導者とする意味を持っているのだ。
    そこで、「青木氏・施基皇子」は、先ず「最初に命じられた役目」として「大化の改新の事件」に依って反対勢力に依り「天皇の命が危険と成った事」に依って、「皇子の内、第六位皇子と第七位の以下」は、“「賜姓」”を授けて「臣下」させて、この「天皇」を「守護」する「近衛兵」として、「宮廷の左右の衛門」を護らせたのがその「役目」の最初であった。
    格の如しで、「佐」は此処を護る者としてこの意味を持つのだ。
    更にこの「衛門の左右」にある「宿舎・とねり」の“「舎人・門番・近衛人」として宿泊し「24時間警護」をしたのだ。
    この時に、「中国の制度」に習ってこの“「お社造り」の中にいる「舎人の役職」”の階級を重視し、次の「10の役職」に分けたとされるのだ。
    その意味でこの原形の「舎人の役]は「舎人親王の皇子名」の通り重要な役目とされたのだ。
    其れが資料に依ると、この「官僚族の階級」は次の通りに分けられたのである。

    督・従四位下相当
    佐・従五位下相当
    大尉・従六位下相当
    少尉・正七位上相当

    この上記で説明した「佐」がここに位置付けられていたのだ。
    同然にこの「武官」として「大尉・従六位下相当」と「少尉・正七位上相当」の役職に分けられこれを持つ事は上記した「最高級官僚」の「大掾官」の前に位置付けられていたのだ。

    従って、ここまでは「皇位族・高位族の者」が務める「役職と階級」であるのだ。

    ・以下はその下の「上級官僚族・三等官」かここに位置づけられるのだ。
    「最高級官僚」の「大掾官」である。
    「大掾官」の意味合いが判る。

    事務官としては次の様に位置付けられる。
    大志・正八位下相当
    少志・従八位上相当
    医師・(正八位下相当)
    ・以下は「一般官僚」である。
    門部 宮門を守衛
    衛士 宮門を守衛
    物部 通行人を検察
    使部
    直丁

    従って、「賜姓臣下族青木氏」は、「浄大一位・これ以上の格式はない・天皇に継ぐ位」であり、従って「官僚族」では無い事から、この「扱い}では上記の表から外れて「別格」の「左衛門上位大督」であって、後に記録に依れば「左衛門上位大佐」と成っていたとされる。
    「青木一族」はこれに従い「諱号」は、後裔の者は「・・佐衛門・・」や「・・右衛門・・」と名乗っていた事が遺されている。
    従って、上記の「伊」とこの「佐」との組み合わせは、「佐」は「最上位に用いられる格式語」であって、「730年頃の好字令・実質」に依っても、全ては「二字制」と成った事で「伊と佐」の「伊佐」の「諱号や諡号」は疎か「地名」もこれが「好字令」に依るものである以上は、他が使えない「最高の格式の組み合わせ語の語意」を持つ様に成ったのだ。

    注釈 先ず、そこで余談であるが、筆者の知り得る「官位の歴史観」に依る感覚からは、遺された伊勢青木氏の戒名からの資料や口伝では、一段階下に設定されている気がするが、兎に角もこれを論じて観る。
    そこで、「伊勢、信濃、近江」の「三家」に於いての「青木氏」は、「記録」から「以下の階級」にあった事が記されている。
    但し、最上位の「督・従四位下相当」の記録は、「青木氏族」には記録としては未だ見つからない。
    然し、「従四位下以上」の官位では、「青木氏族の最高位」は、以前も論じている様に「正三位の位置相当」にもあり、「日本書紀などの三代歴史書籍」の記する処でも、「冠位」では「浄大一位」の「天皇」に継ぐ「施基皇子の永代冠位」と成っている。
    この処を勘案すると、「賜姓族臣下族」である以上は、どんな事が有っても「青木氏一族」は「下記の2階級の通り」と成るし、伊勢の記録もその様に成っている。

    「格式上」からは「浄大一位」を想定していない事から、“相当”と云う表現でこの「資料のズレ」を修正しているのではないか。
    つまり、次の様に成る。
    「上佐」は 「従四位下」に相当と成る。
    「佐」は 「従五位下」に相当と成る。
    後に「上」が着く階級が加えられた。
    「上尉」は 後に「大尉・従六位下」に相当と成る。
    「尉」は 「後に「少尉・正七位上」に相当と成る。

    従って、「上記の官位と軍位」を持つ事から、「伊」にこの役職から「身分・格式」の「佐」を着けて、“伊佐”の諡号姓を与えられた事と成り、これを結局は「名乗った事」に成る。
    つまり、奈良期から平安期に掛けての社会習慣の中では、誰が観ても当時とては「上記の伊」と「特別格式の佐」と成れば、「伊勢賜姓青木氏族の者の裔系」である事を示していて理解していた事に成る。
    例え、「九州南部の地」であってもこれでその出自や格式は解ったのである。
    では、“「伊佐氏」であって「伊勢青木氏」では無いか”とすれば、飽く迄も「女系氏族」であるので「伊勢青木氏の氏人」と成り、それも「氏族」の中でも「四家の福家」に近い「家人相当の立場」にいた事を意味し、その「伊勢郷士50衆の氏人」が、伊勢格式を有して“「大掾官」を務めて、”南九州に派遣されて、その中の一族が上記で説明する「伊勢青木氏族の氏人の伊佐氏・女裔族」が、これが「後の浄土宗の浄光寺・菩提寺」の「白旗派に近い知恩院派浄土宗の仮住職」を務めていた事の経緯に成るのだ。
    故に、この「浄光寺」は、元はこの「伊佐氏の現地菩提寺」であり、周囲には現在も格式ある「伊佐氏を名乗る裔」が多く定住している地域でもあると成る。
    そもそも菩提寺を持つと云う事はそもそも「普通の格式を有していない事」に成るのだ。
    「朝廷派遣の官僚族」の「大掾官」で在りながらも「派遣地」では「押領使・警察権と弁財使・政治権と税」も兼ねる役職であった事に成る。
    故に「官僚族」で在りながらも「統治用の武力集団」をも有し「九州南部一帯」を統治していたのだ。
    鎌倉期以降もこの「武力集団」を以て地域一帯に豪族として統治し揺るぎない「諡号族・第一の姓」として「鎌倉期の役職の地頭の勢力」を張る事と成ったのだ。
    室町期に入り周囲は急激に「第二の姓側」が勃興する中でも、その「伊勢青木氏の裔系」で「諡号の姓の勢力・第一姓族」は其の財で衰え無かった珍しい「諡号族」であったのだ。
    上記の制度の成立当初は、「高位の立場」にいた「白旗派官僚族が成った役職」であった事に成る。
    然し、「鎌倉期」に入り「武家の府政治」と成る「時代」へと進むに連れて、この“「大掾官」”は、後に「名誉職」から遂には「押領使・警察軍」も「弁財使・事務官と税務官」も兼ねていた事から、この「名誉職」が無く成り、これが「一つの制度」として、それが更に「四つ」に分けられ、「国司の三等官」に当たる「官僚役職」へと変化したのだ。
    要するに、「上級官職」と成った事であり、当時はその「時代の変化の代名詞」とも成った。
    そして、遂には何と「室町期」には、行き就くところは、この「掾の格式」は「浄瑠璃の太夫」に与えられた「称号」とも変化して成り果てて仕舞ったのだ。
    室町期には、この平安期までの「伊佐氏の役処や氏族の格式」は完全に忘れ去られ外れ、遂には「諡号の姓族の三大豪族」として「九州南部」に生き延びた。
    唯、念の為にここで追記するが、この「裔の一部」は、“「源氏化の流れ」に沿って生き延びる為に「常陸」に流れて其処に「第二の子孫」を遺した”とする説もある。
    唯、これに付いて「信じるに値しない大きな疑問」があって、この“常陸に流れた”とする説には、この「伊佐氏」は西の端から東の端に流れなければならない所以程の「諡号姓族」では無かったと云う事なのだ。
    つまり、「南九州一帯」に室町はまでに[大勢力を張った伊佐氏」であって、同然に「血縁性を持つ九州北部までに及ぶ勢力」を張っていた「肝付氏」と共に、室町期に成って勃興した「島津氏」と争う程の充分な勢力を持ち得ていたのだ。
    この「伊佐氏」が東北に逃げなくてはならない理由は何処にもないのだ。
    この「伊佐氏」と共存して「九州南部一帯」を支配した「肝付氏」も、「勃興する島津氏」の軍門に下る「逆転現象」でも、この“「大掾官」の「中央官僚」の「格式のある諡号姓の伊佐氏」”も争いを避けて「氏の勢力」を温存してこれに従った時代経緯であったのだ。
    「勃興した役職を得た豪族」の中でも、この“「大掾官」の「中央官僚」の「格式のある諡号姓の伊佐氏」”は、羨まれる程の一段上の格式のそれも寄せ集めでは無い伝統を持った相当な信頼できる武力集団を備えた格式を有する豪族と成って行ったのだ。
    故に、そもそも「常陸に下る所以説・江戸初期」が薄いのだ。
    上記した様に、それ程に使われる「女系の伊勢の裔系の伊佐氏の名誉と格式の氏族」であったのだ。
    念の為に前段でも論じたが、この「伊佐氏」と同然に「肝付氏」も「伊佐氏」と同時代に共に同じ「中央の六大官僚族を務めた諡号姓の豪族」であり、「肝付氏の祖」も「五大官僚族の一つ」でその「始祖とされる伴氏」と「同系の諡号族」であった。
    「中央の六大官僚族を務めた諡号姓」の「肝付氏」も、将又、「伴氏」も後に「968年頃」に矢張り「薩摩の掾」として「官僚族」の一つに任ぜられた豪族である。
    この「伴氏系」は、翌年に「鹿児島郡神食村」に「館」を建てた。
    この「伴氏」は、「三代目」に遂に「大隈国の肝属郡の弁済使」とも成った。
    その子孫は、「伴氏」から「肝付氏」を名乗り、その祖にも成つた「上級官僚族」なのだ。
    以後、この「中央官僚族の伴氏」と「同系族の肝付氏」も「高山弓張城」を居城として大勢力を張ったのだ。
    そもそもこの「中央官僚族の伴氏」は、前段でも論じた様に、「伴造・とものみやつこ」を差配下に置く「青木氏族の配下・伴造」であって、「青木氏裔系」は「光仁天皇以来の諱号」を「伴・とも」とした事で、「官僚の伴氏」はその「伴の諡号」を名乗れずに、態々「大伴氏」とした経緯を持っている。
    この「伴」は「青木氏族の諱号」であったが、この「意味合い」が低下した「平安期末期・鎌倉期初期」には、今度はこの「伴氏の方」が、元の「大伴氏・九州に大勢力圏を持った事」から「伴氏に戻した経緯」を持っているのだ。
    この様に「九州の三官僚豪族」は、殆どはこの「大官僚族の伴氏・大伴氏の血筋」を有しているのだ。
    つまり、「伴氏」から「大伴氏」を名乗らずに「肝付氏」を名乗ったが、その時期」は「青木氏系の天皇の諱号」が、「伴・伊勢青木氏の支配下」とした事の時期に一致するのだ。
    結局、この「伴氏の肝付氏・小掾の格式」は、「青木氏の伊佐氏・大掾」、所謂、この「高級官位」を持つ「三等官役職を務める事」と成った「伊勢青木氏の家人」で先ずあった事であって、且つ、其の上で「氏族の差配頭」が「福家」に代わって「朝廷官僚」と成って務めていた事を物語る物なのだ。
    同時期にこの上記した「高級官僚族」として「南九州」に派遣されたが、同時に関係する「肝付氏」も「弁済使・税務官」、「伊佐氏」は「押領使・警察統治官」として、「平安末期」まで正式に働いた「諡号姓の氏族」でもあるのだ。
    鎌倉期以降はその「格式と勢力で其の侭に「地頭」を務めたのだ。
    共に「朝廷の役務」を分け合って補完しながら「南九州域」を統治した「朝廷の三官僚仲間」であったのだ。
    この「伊佐氏」と同然に「肝付氏」も「弁済使・税務官」で在りながらも、その税の保管の為に“「蔵人頭・財務」”として協力し合って「必要最低限の朝廷の武力」を持ち得ていたのだ。
    恐らくは、故に不思議な事に関西中部関東の三域と違って、この「三官僚出自の者等」は「鎌倉期に成っても争う事は無かった経緯」を持っているのだし、当然に「四掟の女系に於いて血縁関係」にあったと考えられる。
    故に、無格式の勃興族の「後発の島津氏」に対抗したのだし、最後は「島津氏」と互いに決着をつけずに、「島津氏」を主体として「肝付氏等の三氏」を「家老格」に向かえて血縁して格式を高めて存立条件を高め、「北九州の勢力」に対して「南薩摩の防護態勢」を確立させたのだ。
    後に、そしてこの「肝付氏」には「伊佐氏」が、「肝付氏の家老」に入り「融合族」と成って「室町期」を耐え抜いたのだ。
    故に、上記の関東出自説の様な事はそもそも無く、「肝付氏」が東に流れていないと同然にも「伊佐氏」も東に流れる謂れは全くなかったのだ。

    「伊佐氏の出自説論」からも「住職青木氏説」は説明できる.

    注釈 参考として、「薩摩藩の島津家の家臣の西郷氏」は、鎌倉幕府倒壊後、「常陸の国衆」は、「西」に先ず流れ、前段でも論じた様にそこで先ず「伊川津・三河」に入り伊川津国衆」と成ったが、「三河の国」が敗戦後に西郷氏は三河を診限りこの「伊川津」から離れ、その後に「薩摩」まで「流れ薩摩の国衆」として流れた経緯を持っている。
    抑々、この「国衆と呼ばれる者等」はその様なものを注し、特段の意味の事は無い。
    この様に、「出世を夢見る小土豪集団」は日和見的に東から西に流れて行く傾向にはあったが、この時期には西の端から東の端の方に流れる傾向はなかったのだ。
    精々、この「国衆の流れの大方」は「中部域・今川氏」で終わっていた。
    これ等を抱えて大きく成ったのが「今川氏・国衆集団」であって、それだけに「武田氏等」と違って脆かったのだ。
    況してや、西の端の九州域でもその規模は低いが同然の事が興っていたのだ。
    この現象は「肝付氏」と同然の「伊佐氏」でもあり、この結果としてこれが「日向青木氏の経緯」と繋がっているのであり、東には何の因果も無く寧ろこの「流れ」は逆であったのである。
    これを完全に結論付ける訳には行かないが、恐らくは関東より東域に流れたとする説は「江戸初期の国印状獲得の所以・後付け説の第三の姓族」であろう。


    「青木氏の伝統 77」−「青木氏の歴史観−50」に続く。


      [No.400] Re:「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」
         投稿者:副管理人   投稿日:2023/01/31(Tue) 11:34:03  

    「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」の末尾

    「浜松城の攻め落としのミス」の「甲斐のセンセーション」から観ても、「三つの三河戦記の後付け説・好感引導説」であると観ている。
    然し、それが「後の長篠での武田軍を滅ぼすミス」と成って仕舞ったのだ。
    この時に、「勝頼」が反省していれば「長篠戦いの戦略的ミス」、つまり、「二拠点化で採った山県軍の別動隊の行動」、即ち、「本陣を崩されない為にも二極点化策の無視」は無かっただろう。
    然し、この「山県軍の別動隊の半数を無くす程の大きな犠牲」は、「額田青木氏の銃隊」の「駿河青木氏の青木貞治隊救出」の為に採った仕方の無い影響だけであったのだ。
    これ等は「現在の現実処理」に於いても学ぶべき「青木氏の歴史観」として、これらの関係する事柄を後の為にも正しく刻んで置かなければならないこれは「大事な史実」であるのだ。
    此の世の事は、直前の「事の勝敗、事の成否、事のリード」の「直前の状況」に拘わらず、“「事の流れを如何に早く正しく見抜いた者”が時間が経った「最後の真の勝利」を獲得するのだ。
    それには「人間」である限りは、その基点は「冷静に成る事を鍛える事」にあるのだ。
    それを獲得した者が「上記した流れを掴む事」が出来るのだ。
    これは「青木氏が求める古代密教浄土宗白旗派」の「仏教の密教経典般若心教の教える処」でもあろう。
    それが「青木氏の氏是」を正しく理解する処にあるとしている。
    そうでなければ幾ら“「青木氏の氏是」を護れ”としても云う程に簡単に決して護れるものでは無い。


    「青木氏の伝統 75」−「青木氏の歴史観−48」

    前段で論じた「時系列の論」に於いて詳細を「青木氏の面」からより詳しく分析すると「独自の青木氏の歴史観」が観えて来るものがあるのだ。
    これを前段とは違い他の研究者が是帯にしない青木氏だけの歴史観が潜在していてこれを本論で炙り出す事にする。
    そうすると多くの「青木氏の歴史観」だけが観えて来るのだ

    そこで、前段に続いて、再び「三方ヶ原の詳細経緯の検証論」に戻る。

    先ず、その前に「注釈」として、ここで 「詳細経緯 松平軍が先に2時間前に三方ヶ原に向かった事の説の検証」をして置く。

    さて、そうすると「館山街道の湖東村の交差点」から「三方ヶ原」まで「徒士」で、前記した様に「約所要時間2時間半」であるので、「青木貞治」から少なくとも「軍議の最終情報」を得たのは“「朝明け」”であった事に成る。
    そう云う事の経緯なので、そうすると「タイムラグなし」として仮定して観ると、それは「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝明け頃」に成り、上記の「行動の経緯」からは、其の侭では「伊川津」に戻らずに、それは“「館山街道の途中」から踵を返していた事”に「この時の時系列」では成るのだ。
    そうすると“「時間的」”には、ここで“「仮寝程度の多少の休憩の時間」が有った事”に成るのだ。
    そして、従って、そこで、その仮寝後に其の侭に直ぐに「三方ヶ原」に向かったとして、「額田青木氏・国衆・銃隊」が、「12/22 10時半過ぎ以降」には計算では「三方ヶ原」に到着している事に成る。
    然し、この説では、「額田青木氏の国衆の銃隊」は「タイムラグなし」なので「夜通しの行軍」であった事に成るが、それは物理的に「疲労の限界」が起こり難しい事になる。
    この「時系列」では、「判り易くする為に、「タイムラグなし」の「最低丸二日の行軍の検証」であるので、絶対に休む必要があった。
    さて、そうすると、そこで“何処でその休息をとったか”と云う検証に成る。
    そこで「休息を採れる場所」に成るのは、「堀江城」の西に向かった「武田軍の本隊」と「館山街道の湖東の交差点」で分かれた時点からの間と云う事に成る。
    恐らくは、この設定ではこの「館山街道の湖東の交差点」と「三方ヶ原までの間」で“「休息」を採った”と考えられる。
    そうすると、それは「情報を受け取った時点・夜明け早朝」が「判断キー」に成るだろう。
    「額田青木氏の銃隊」が、「武田軍後尾を追尾している事」は、「青木貞治」も情報から判っているので、「三方ヶ原」に向かう程に要するに“「危険域」”は増す事に成るので、それは“充分に「情報」を伝えて相談して打ち合わせられる安全域”である事で決めるだろう。
    そしてこの「情報を確実に獲得出来得るポイントの限界」の位置は、それは“唯一”ある。
    そこは、間違いなく、“「館山街道の湖東の交差点の域」”であろう。
    物理的に地形的に観ても、「350の兵を休ませる安全な場所」としては、ここで無ければ成らないだろう。
    つまり、“いざ”と云う時には、「伊川津の西に向かえる場所」でもあるし、「貞治の駿河青木氏救助と云う流れ」に成った以上の時でも、「青木貞治からも会議の情報」を受け執り易い場所でもある。
    其れは更に「休息の為」と成れば、つまり、「水食糧と云う補給と云う事」に成れば、「浜松城からの支援」は、上記の経緯より無理であって、後は関係する処とすれば「駿河青木氏の盤田見附の西光寺からの支援」を受ける事が敵る場所に成るだろう。
    そして、ここは、一方で「駿河青木氏の青木貞治」の方から観れば、「館山街道の湖東の交差点の域」まで「徒士」で「約4時間の位置」にあり、「救助の為の新しい作戦に仕える情報」を提供する事には「ぎりぎりの所」にある。
    上記の通りであると、「休息」などの「タイムラグなし」での出発は、「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝」に成るので、つまり、「伊賀青木氏の香具師・忍者」の「情報伝達」にて、「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」は観える様に得ていた事に成るからだ。
    此処で、先ず間違いなく「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」は止めて休んでいた事に成る。
    前記で「タイムラグなし」として論じた場合は、“「急いで三方ヶ原に向かった」”としている「論調の詳細経緯」には、此処には“この「休息時間帯」が有った筈”である。
    だから、「松平軍の鶴翼の陣形」が整った後に、海側の“「左鶴翼の南側面頭部分の後ろに近い位置」に着けた”と成っているのだ。
    この上記の時系列ではここでは符号する。
    そうすると、北側に荷駄を壁にして「盤田見附」からの「供給・12/21 危険を避けて夜中10寺頃盤田出発」を待ち、到着後、そこで“食事や睡眠等を採った”とすれば、最低でも「8時間〜9時間」は所要した事であろう。
    「12/22 8〜9時過ぎ以降の朝」より「8時間〜9時間」を戻して、されは「夜中の12/22 午前0時から1時頃」と成る。
    故に、此れには「情報の新しい伝達」が「前提条件」と成る。
    常時、「香具師の伊賀青木氏の忍者」を通じて「情報交換のやり取りや援護役」をしていたと観ているのだ。
    故に、この「軍議の内容」は元より、“「休息位置や出発時刻や救出作戦」等の詳細を常時に「青木貞治」と打ち合わせていた”と考えられるのだ。
    その程度の事は、前段でも論じている様に、秘密裏に随行していた「香具師の伊賀青木氏の存在」から観て充分にしていたし、その「組織能力・伊賀青木氏」は充分に有って優れていた。
    故に、それどころか筆者は、「額田青木氏の国衆の銃隊の行動」に合わして、万が一の場合に備えて、“「伊勢水軍・食料や救出援軍」を「浜名湖の沖」に廻していた”と考えているのだ。
    この「額田青木氏や駿河青木氏」を左右する程の「重要な戦い」に「使える戦力」は全て使っていたと観ているのだ。
    その考えからすると、この執るべき作戦上は、そこからはそうなれば「小舟」を「大谷川の入り口」に廻して置けば「10分間」で「額田青木氏の休憩のタイミングを救える事」に成る。
    だから地理的にも、「館山街道の湖東の交差点の域」が最も「全ゆる行動の分岐点」の“「絶対条件」”であった事に成るのだ。
    「伊勢水軍」もこの「伊川津から盤田沖までの海域」に常に配置して廻していたと考えられる。
    「伊勢水軍大船6隻」と「伊勢青木氏の商大船3隻」と「駿河青木氏の1隻」の何と「10隻」を廻していたのだ。
    この「船籍不明の大船・青木氏」を海に観るだけでも「船を持たない武田軍」に執っては、「青木氏族」に対しては、“寝る子を起す様な馬鹿な真似はしない”であろうし、“それも当初から警戒して気が引いていたであろう事”は、これらの「状況証拠の読み込み」でも充分に判るし、この事は恐らくはこれらを観て先ず積極的に成る事は間違いないだろう。
    其れこそ「武田軍本隊」は、この「青木氏族に対する総合的な抑止力」のこの“「流れ」”を読めていなかった事に成るからだ。

    然し、さて「時系列論」に戻すとして、この時は、丁度、「軍議」がほぼ決まり、「野戦」に向けて「松平軍」は「三方ヶ原」に「到着すべく準備に入り始めた頃」である。
    そして其の後は、「鶴翼の陣形」を「時間・4時間」を「左下向きの「原・平均海抜57M-38M*100M」に何と西に向けて敷き始めた頃合いであった。
    要するにこの時には、「約最大で18時間のタイムラグ」が発生している事になるが、こんな事は先ずあり得ず、その「ロスタイムラグ」を吟味しても、少なくとも半分程度の「10時間程度のタイムラグ」はあった筈だ。
    そうすると、逆算すれば「武田軍本隊」が、「浜松城前」を「西」に向けて通過した「時刻・12/21日 17時半頃」としていて、そこから「額田青木氏の国衆の銃隊」は、“「武田軍本隊の動向」を“「最後尾」から「館山街道の湖東村の交差点」”までを「追尾していた事の時期」”に成る。
    恐らくは、「武田軍の本隊の最後尾までの所要時間」と、「その移動速度」等を勘案すると、計算では「堀江城付近・5〜7時間」まで追尾していた事に成る。
    然し、つまり、上記の「休息時間等」を勘案すると、逆に云えば寧ろ、間違いなく「館山街道中間地点の湖東村の交差点」で追尾を止めた事に成る。
    この「追尾中止」は、上記した様に「休息」と「情報収集限界点」と「行動の戦略点」であった事に成る。
    従って、「武田軍本隊」が、「堀江城へ出発・到着後12/21日 20時に開戦」なので、そこから、「翌日の落城後」に「現R65号の旧堀江街道」を経由し、「館山街道の湖東村の交差点」を右に折れて、「三方ヶ原・2時間半・16時頃」に到着した行動経緯と考えられる。
    恐らくは、「上記の計算」では、最低限で計算されているので、「大軍を動かす事」には最低では無理である。
    そこで「ロスタイムラグ」に、「額田青木氏の銃隊」の「休憩等の行動と行動中の陣形の編成」を見込めば、少なくとも「堀江に向かう事」が完全に確認できる「ポイント」は、“「館山街道」まで"であるとする。
    そうすると、此処までは間違いなく追尾し休息へと持ち込んだ事に成ろう。
    そして、「休息12/22 8時頃」が、「終わり」にして「堀江城」と「三方ヶ原」に向けて「第1回目の偵察」を出したと成る。
    「堀江城」が「落城間近の確認」と「三方ヶ原の様子」を確認し終えた時期である。
    そこで、この「状況把握後」に「三方ヶ原」に向けて「額田青木氏の国衆の銃隊」は、「三方ヶ原」に再び向けて開始した事に成る。
    そうすると、この時には既に「三方ヶ原」では「南に傾いた鶴翼の陣形」は出来ていた事に成る。
    上記した様に、「12/22 10時半過ぎ以降の計算」では「三方ヶ原」に既に到着している事に成るので、且つ、「4時間後」の「12/22 14時半過ぎ」に「鶴翼の陣形」は完成していた事に成る。
    そこで、「額田青木氏の国衆の銃隊」は、「伊賀青木氏の情報」で、「15時後半頃〜16時頃・開戦直前の16時直前頃」に、“こっそりと「鶴翼の左側面」に隠れて位置した事”に成る。
    ここが重要であって、“こっそりと「鶴翼の左側面」に隠れて位置した事”に意味を持っているのだ。
    「額田青木氏の銃隊」が「鶴翼の左側面」に着くのが、あまり早すぎると騒がれるので、開戦間際の「15時後半〜16時直前頃」だとすると、逆算すると「休息した後」の「朝の起床」から、「三方ヶ原の隠密行軍時間・2時間半」を計算するとして、「開戦後の行動の記録」に「無駄な行動」は無いので、又、「陣形の完成後の少し後・こっそり」が好ましいので、これを「15時後半〜16時直前頃」とした場合に、その「行軍開始時間・2時間半所要」で、「13時〜13時半頃」に出発した事に成る。
    つまり、、「武田軍の到着・16時の直前」をタイミングを図った事に成るので、起床から「額田青木氏の国衆の銃隊」は、“「約3時間程度の準備時間」”があった事に成る。
    この間、起床後、ここに停留しながら「偵察」を始めたとした場合は、「準備態勢造りと情報交換等」にこの時間を使った事に成る。
    そして、そこで「伊勢水軍」なども含めて「伊賀青木氏等の偵察行動・三方ヶ原や松平軍や武田軍や山県軍の動向や駿河青木氏の動向確認」も始まったのだ。
    そして、この間に「全て情報」を纏めて「南下国衆の銃隊の指揮官」は、「救出作戦の命令」を「銃隊」に詳細に出し、「駿河青木貞治隊」にも「到着時刻や武田軍の行動の全内容」を伝えた事に成る。
    この「全ての手筈」を完了させてから、「2時間半から3時間」を架けて三方ヶ原に向けて「進軍」を開始し、「13時半〜15時半頃」には、その「鶴翼の左側面・開戦の1時間弱前」に「様子を見る為」に“ぎりぎり”に着いた筈なのだ。
    筆者は、「三方ヶ原の戦場」の「鶴翼の左側面・開戦の1時間弱前」に行成り着いたとは思えないのだ。
    何故ならば、「松平軍」にその「行動を晒す事」は最も避けなければならない「救出作戦」だし、その「意味」が無く成る。
    要は、この「戦場の近くに潜む」か「やや遅れ気味に到着する」かにあったのだ。
    何方にも「長短のリスク」を持っている。
    先ずは「潜む事」にあるだろうが、広く、且つ、大勢の目があり発見される事は必定である。
    矢張り、“開戦ぎりぎりに目的とする救出に最適とした場所に着く事しかない無い”の事に成ったのだろう。
    そうで無くては、“開戦後やや遅れて”の「上記の救出劇」は難しいのではないか。
    然し、「戦記の幾つかの記録」から察すると、前段でも論じた様に“やや遅れて鶴翼の左翼先端の所に着いた”としている傾向にある事から、此れを正しいとすれば「問題」と成るのは、“やや遅れて”の「表現時のニュアンス」や「表現時の正確さ」に影響するだろう。
    仮に書くとしても、“やや遅れて・・・”とは書くだろうか。
    然し、この“やや遅れて・・”は「戦略上は重要な要素」であったのだ。
    だから“やや遅れて・・・”は、文脈からの「読み手の続解力・想像力に左右される事」に成るし、同時に「書き手」にも「表現力の差」が生まれる。
    だから筆者としては、そうすると、この“やや遅れて”の“「タイムラグ」はどの程度のものか”と云う事に成るが、そうすると、“「開戦開始時」”は「戦いの作法」として、「指揮者から軍配」を上げた時、即ち、「時の声」を“ワーとして両者は上げる”が、この「時の声」の“ワー”を合図に、「鶴翼先端の左側面」に着いてその直後に先ず「左の武田軍本隊に向けて弾幕」を張り進軍を牽制して、今度は左に位置していた「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」には、「山県軍の別動隊の突撃隊」に、やや右に向けて「行動開始を牽制する銃撃命令」を架けた事に成る。
    これで、「武田軍本隊」は、「銃撃の凄さ」を二度も経験している事からこの時の犠牲が無かった事を記されているので少し進軍をしたところで停止した事に成る。
    ところが、「山県軍の別動隊の突撃隊」にやや右に向けて銃撃を架けたが停止する事がなく「突撃」を続けた事に成る。
    それにはそもそも“「進軍の目的」”が違っていたからだ。
    「山県軍の別動隊」は、そもそも「物資の供給基地築城の目的」があったが、「武田軍本隊の置かれている位置」を考えた場合は、山県の指揮官は、“今は本隊を救う為”には、その為には“「突撃隊としての側面突撃攻撃」をして、その「松平軍の崩壊」にあり、それはそもそも「山県軍の置かれている位置関係」にあって、「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」のより「左の鶴翼の頭部寄りの北の位置」にいたからだ。
    「武田軍本隊」の目的は、上記した様に「松平軍の鶴翼東部にいる家康本隊の壊滅」にあった。
    当然に、それはその「目的とする達成の時間差」に問題があって、当初は「武田軍本隊は停止する事」に「時間」を求めていなかった事だったが、「額田青木氏の銃隊の150の残りの銃隊」により「進軍」を止められてしまった。
    ところが「山県軍別動隊の突撃隊」は開始すると止める事は不可能であり、進軍しかあり得ない状況が生まれたのだ。
    此処に「戦術的な差」が働いていたので、この「資料の表現」としては、“やや遅れて”は「戦略上の重要な要素」と成って働いていたのだ。
    此れを「額田青木氏の銃隊の指揮官」は、この“やや遅れての戦術”を可能として彼には“既に読み込んでいたのではないか”と考察できるのだ。

    筆者なら、この「到着の時間の問題」は、先ず「陣形」が整い、「救出すべく駿河青木氏の位置関係」が「確認出来て」、且つ、それを「合図」で出来て、「救くい出す作戦の間」が採れ、且つ、「松平軍が騒ぐ事の出来ない寸前」が、“丁度良いとする”が、恐らくはその様にしたのは間違い事ではないだろうか。
    史実より「16時開戦」なので、そもそもそうすると、“「16時直前>16時半前頃」を選ぶのが作戦上は常道で、故に「上記の検証の時系列」からもどうしてもこの“「時間帯」”となろう。
    恐らくは、「武田軍本隊の行動の情報」は、「伊賀青木氏」に依って探り出され随時獲得していたので、“計画のズレ”が起こらないか、その「計画時期」を観てやきもきしていた可能性もあるが、然し、検証結果は、さて、所が違うのだ。
    それは要は、「武田軍本隊の動きを正確に抑える事」で、“計画のズレ”が起こっているかどうかは極めて簡単に把握できていたのだ。
    「額田青木氏の銃隊の指揮官」に執っては、その力は伊川津の国衆であったとしても遥かに「国衆の力」を超えて、それは、最早、その「潜在的な力」は少なくとも「額田国の軍」として扱われる様に、こんな事は「全青木氏族と伊賀青木氏の忍者」が連動している限りは、何の問題も無く、寧ろそれ以上であって、“朝飯前の事”であったのだ。
    そしてその中の「戦術師の香具師」を含めた「伊賀青木氏の忍者」は、「全青木氏の存在を左右させる作戦」である以上は、“「全忍者軍の投入であった事」”は、「全ゆる記録資料の読み込み」から間違いはない。
    中には「武田軍本隊の中」にも潜り込んでいて「情報」を入手していただろう。
    何故なら、この「武田軍本隊」の中には「記録」に依れば、「武力集団」では無い「神職の信州青木氏」には「武田氏に関わった「記録の散見」は無いが、その「親族の武力集団族」であった「諏訪の夕姫」で有名な「信州諏訪族」が、その「武田軍の中核に位置付けられていた事」の「史実」が遺されている。
    この事から、この「信濃諏訪族系青木氏の縁者族」が居たのだ。
    この事と「武田氏系青木氏3氏も存在した事」もを「歴史観」として頭に入れておかなければならない。
    「青木氏」としては「伊勢の情報入手源」としては、先ずこれを態々放置する事は無いだろう。
    戦う以上は、それを「額田青木経由」で伝えていた筈だ。
    故に、この「微妙な表現」のこの“やや遅れて”に成り得ていて、これが戦略上は容易に成り立っていたのだ。
    そもそも「350の銃隊」が動く以上は、「完全に隠す以上の事」は三方ヶ原まで同定の地形から先ず出来ず、筆者は「武田軍の本隊」もこの事に付いては事前に知り得ていた事だと考えているのだ。
    仮に、これ等の「伊勢までの縁者関係の矛先」が、「武田軍の中に入り得ていた事を知り得ていたとして、度外視はしていなかったと考えている。
    だとすると、この「全青木氏と戦う事の感覚」は、「武田軍側」には「呉越同舟の感覚の中」にあた可能性は否定できない。
    「伊川津の国衆」に成った時に、「特別の約定」が松平氏とあったとしても完全に「松平軍の国衆」としては観ていたかは疑問に成る。
    それが筆者は「一言坂から始まる戦い方」に現れていたのだと観ているのだ。
    この時には、即ち、「一言坂以降」は、「両軍・武田軍本隊と額田青木氏の銃隊」に執つて、確実に“「呉越同舟の関係」に成っていた事”に戦況の経緯から成ると観る事も出来る。
    故に、「武田軍本隊の最後尾の側面」に着いて密かに「平衡進軍していた事」に成ろう。
    「武田軍本隊」は、「最後尾側面を追尾して来る額田青木氏の銃隊の目的」が「駿河青木氏の青木貞治救出の目的である事」を、この事とで薄々気が着いていたのであろうと観る。
    故に、抑も、“一言坂の遭遇戦でも敵意が無い事を知っていた”し、「堀江城に向かう武田軍の本隊」の最後尾を銃撃で攻めずに放置していた等の事・武田軍の最も危険な事」を知れば、それは充分に理解し承知していた事に成ろう。
    そうすると、所謂、“「呉越同舟の関係」で黙認する事に成っていたのだ。
    だから、「三方ヶ原」で「武田軍本隊」に「弾幕」を張った時に「武田軍本隊の進軍」は「敵意の弾幕では無い事」を知って直ちに止めたのだ。
    これは「貞治隊を救出する目的」を知っていたからだが、ところが「山県軍の別動隊への銃撃」は「救出の目的を知らなかった事」と、「額田青木氏の銃隊の後部右側面」に向かって来た「突撃隊と云う宿命」で、「銃撃は止められなかった事」と、そうでなければ「救出の目的」は、兎も角も「額田青木氏の銃隊」そのものに「犠牲」が大きく生まれるからであったのだ。
    これは“最も避けなければならない考慮の点”であったが、これは其処まで「山県軍の別動隊への本隊からの情報伝達」が執れていなかった事でもあろうと観る。
    これは「戦時の中での事」では「やむを得ない事」ではある。
    一方、「山県軍の別動隊」としては、「鶴翼の先端左の隅」に突然に現れた軍を”「松平軍」として見間違えた事から来るものであった事”が「読み込み」でも判る。
    ところがそれが何と「観た事も無い威力の銃隊」であったのだ。
    「後ろに無力の補給基地築造隊を引き連れた隊」が前進して突然に突撃した以上は、後は其の侭に突っ込む以外には最早無く、「大きな犠牲」を「額田青木氏の銃隊」に依って払わされるう以外には最早無かったのだ。
    これを左横から観ていた「弾幕で停止中の武田軍本隊」は、「山県軍の別動隊の救出劇」を敢えて演じなかったのだし、出来なかったと云う事であろう。
    其れは更に「傷を深くする事」は間違いないので、それは「一言坂の遭遇戦の経験」で判っていた。
    そもそも、 これは「山県軍の別動隊の突然の行動」は「信玄の戦略」の中には全く無かった事なのだ。
    然し、結果は「大犠牲・1/2」を「山県軍の別動隊の方」で起こしたが、「鶴翼の陣形の弱い所を突いたと云う事」では大勝利に導いたのだ。
    その証拠に、「三方ヶ原後」の「国に帰った武田軍」の「軍議」では、「指揮官の山県」は、“その責任を問われなかった”と記されている。

    注釈 ここで気に成るのはある戦記では無責任にも「額田青木氏の銃隊」を「松平軍の銃隊」と記されている事である。
    この事に付いて補足して置く。
    その「銃の数の全て」を「松平軍としている通説」がある。
    そもそも全国的に観て、「松平軍」が当時この様な「多数の銃を持ち得ている事」はそのものがその「財力」から100%あり得ないのだ。
    これを注釈として、そもそも「銃の歴史観」としてこの時代の「火縄銃の銃」は全て殆どはその「生産技術」も然り、「雑賀根来の生産者の手」に及び生産されていたのだ。所謂寡占状態であった。
    これを「共同組合」を造り「門外不出」で入手はそもそもできなかったのであり、彼の「信長」さえもがした様に、この「雑賀根来の銃隊を高額の契約金で雇う事・傭兵銃隊」以外には無かったのだ。
    「信長」は、「楽市楽座」で得た「商いの利益」で、それを「高額の金額で何とか傭兵での契約をした事」は記録に遺っている。
    この“「契約」”も「裏ルート」に通じていた「蜂須賀氏」が「信長」に仕える前から「闇取引の支配人」を生業としていた豪族であって、これを通じて成し得た事も「史実」であったし、「信長」に「蜂須賀氏を紹介した」のは「元蜂須賀氏の子分であった秀吉」であった。
    従って、この「高額の3000丁の銃・1000丁の説あり」のそれも「近代銃等を獲得出来る事等は甚だしい歴史観の不足と誤認であると断じているのだ。
    この当時は他に「密輸入の火縄銃」は、初期は「2000両/1丁」であった事が明確に記されていて、然し、室町期末期には「4000両/1丁」と跳ね上がっている事も「史実」であったとそうした記録が遺っている。
    これでは幾ら「信長」でも買える代物ではそもそもなかったのだ。
    だから、「生産者」であって、且つ、「共同組合」を作って互いに護り「雑賀根来の銃傭兵集団」が成り立ったのであって、当時は“何とか銃の傭兵で銃兵力を獲得できたとする歴史観”であったのだ。
    そもそも「松平軍」が「銃兵力を獲得できた時期」は、その後の「秀吉の刀狩り」で多くの藩や豪族の持つ「銃力」は一時殺がれていて、これはその後の「長篠の戦いの直前」に得られた「輸入火力」である。
    「長篠の直前」には、「唯一の銃生産者」であった「根来族」が「信長の力の攻め」で先ず潰され、続いて「雑賀族・鈴木氏」が「信長の調略」で「仲間の土橋氏」と分裂させられた後に、その結果として衰退してそもそもの「国内の銃生産力」は無く成ったのだ。
    この時に「雑賀」と「根来」に所属していたここの“「鍛冶師」”は全国に飛散して、結局は、この「締め付け」が無く成り、勝手に「粗悪な火縄銃を生産する破目・砂鉄」に成った。
    そこで「財力に自信のある者等」は、我先にこの「鍛冶師」を獲得し、「火縄銃」そのものを「砂鉄の玉鋼」で「悪質な銃・粗製乱造」を製作し獲得したのだ。

    注釈 「松平氏」もこの時に「長篠の戦い仕様」だけに獲得していた事が記録から判っているのだ。
    「砂鉄の玉鋼」で「悪質な銃・粗製乱造を製作」に付いては、この「直前」に大阪に「砂鉄の玉鋼」の「市場の開設・店」を歴史上で始めて許しているのだが、これはこの時の全国に散った鍛冶師の求めに応じた「需要の為」にであった。
    「近江日野の鍛冶師の大半」は「伊勢の青木氏部に戻った事」が歴史に遺されている。
    “「松平氏」もこの時に「長篠の戦い仕様」だけに獲得していたのだ”の検証では、「家康」が天下を取ったその直後に、再び、秀吉に次いで弱まった「刀狩りの禁令」に継いで「銃の保持の禁令」を直ちに出しているのだ。
    これは、“「長篠の戦い仕様・現実に松平軍」は、然し、この銃をこの戦いでは殆どは使っていないのだし、即ち、「悪質な銃・粗製乱造を製作」であった事”の故に、、「この為だけに獲得した銃であった事」を示唆しているのだ。
    その後の「関ヶ原の戦い」でも、この「上記の火縄銃」を積極的には使っていないのだ。
    その「重大欠点」は、前段で詳しく論じた「額田青木氏が挑戦した鉄の欠点・論文」にあった。
    それが尚に「玉鋼の銃の鉄」には、「更に余計に出る質の鉄」なのであった。
    此処で、この事を知っていたかは前段で論じた様に、「長篠の戦いの雑賀根来の銃傭兵軍団」が示した「顕著に表した欠陥」であったが、その前後にも「火縄銃の欠点」は知り得ていた「史実」であった筈で、「松平軍」は「長篠」で「直ぐ横の500Mの所」に陣取ったにも関わらず「所持していたとする銃」に手を出さずにして、この「火縄銃の持つ銃」を使わなかったのだ。
    寧ろ、頼れなかったと云う事では無いか。
    これはこの「重大欠点」を知っていたからに過ぎない。
    その現象は、「信長軍」はこの「銃力に長期間に於いて全て任して頼った事」で起こった大事件であったのだ。
    前段でも詳細に論じたが、この時点では、「火縄銃の過信程度」であって、この「時点での欠陥点の欠陥そのものの認識」はそもそも無く、且つ、比べるもの比べる技術者が無い為に不明であった筈である。
    然し、この時、「伊勢青木氏」は、これを既に判っていて、それを起し難い「フリントロック式改良銃」で当に「欠点解決の挑戦」に「取り組んでいた時期」でもあったのだ。
    寧ろ、未だ世間はその「欠陥」を知らずに「銃の威力・10倍/1兵に驚いていた範囲」であった。

    「家康」は、これを「三方ヶ原の戦い後」に「駿河青木氏等」から「一言坂」や「三方ケ原」の「戦いの時の状況等」に付いては、その「成否」に付いては別にして、「三河戦後記」を三つも出している限りはこの事に付いて「伊勢青木氏」から具に聞いて知っていた筈なのだ。
    その後の「江戸初期以降の火縄銃の評価の経緯」は、開幕と同時に出された「銃禁令の事」もあるが、その「火縄銃に持つ銃欠点の事」も遂には世間に広まり、“長期間連続で使え無い事”も知り得た事もあって、何と一挙に“1/4000にまで「市場価格」が下がった”とある。
    この「市場価格」で観れば、この「欠点の事」もあって、「火縄銃の価値」は要するに全く無く成ったのだ。
    「額田青木氏の欠点改良の銃」は、前段で論じた様に技術的高さでそれを真似をされて製造される事は元より無かったが、「保持そのものの意味」も「安定の社会と成った事」で無く成り、「伊川津と三河」で営んだ「商い」や「開発業や運輸業や殖産業の安全」を維持する為にだけに暫くの間は保持していたとある。
    其の後、“青木氏一族の間で一斉に廃却をした”と成っているのだが、この「一斉に廃却したとする事」には意味を持つのではないか。
    何故ならば、“「家康が三方ヶ原の事を知った」”と成れば、「国衆」から家臣に成ったとする「駿河青木氏の後裔等・御家人近習衆の関係者等」にも手を廻して「額田青木氏の持つフリントロック式改良銃の事」を求めて来た事は普通に考えても充分に有り得た事として考えられるからだ。
    当然に「青木氏の氏是」からと「その政策の目的」から断った事は当然であり、故に疑念を持たれる事を避ける事もあって、“一斉の抹消焼却処理と成ったのではないか。”と観られる。
    この様な物が何らかの理由で世に出る事が起れば、「フリントロック改良の欠点解消の銃」は、それは「300=100/兵=30000の軍勢」と成り得る。
    これは戦略上では極めて拙い事であり、この事で後日に“「家康との話し合い」が起こったと観られる。
    そこで、当然の事として「松平軍が持つ」か、又は「青木氏が廃却」するかの議論に成ったと成る”だろう。
    天下泰平の為には、戦後間も無い時期でもあり、「家康の松平軍」に執っては「敵なしの松平軍」を造り出せる。
    筆者は、これで天下を完全平定させて、“家康は持つと考えた”のではないかと観る。
    然し、再び、「浜松城軍議」に続き、「額田青木氏」は“断ったと云う状況”に成り、その「条件」として「伊川津の殖産を始めた額田青木氏が警備の為に持つ事」は、先ず当然の事として当然に要求を避けて、“一斉に一族は廃棄”の結論に「双方話し合いの中」で落ち着いたのではないか。
    「家康の家臣」に「貞治の後裔・長男」は「武蔵藤氏の御側衆の御家人衆」と成っていたので、この「決定」の意思疎通は尚やり易かったと観られる。
    後は前段の「三方ヶ原の詳細経緯の通り」であり、上記の論は前段でも論じている「状況諭」とも云える「間に挟む追論」である。

    以上等の「追論の為の検証記録を総合」とすると、この考察は、唯一、「山県軍の別動隊の行動を全て読み間違えた事」からの物であって、つまり、これは「青木氏の氏是に反した事に成った事」であろう。
    つまり、それは、“何れの「戦いにも避ける」”事が「必要な戒め」であった。
    そこで、では、世の中はこの様に「掟通りには行かない」が、そこが「氏力全て」を使ってでも「掟通りにする」のが「氏是」である。
    ではそれを防ぐにはこの“「予兆」を「全能で察知する事」に「指揮官の務め」があって、では“その予兆は無かったのか”であるが、筆者は在ったとして次の様に観るのだ。

    先ずそれが主に次の様に成る。
    「山県軍の別動隊・補給基地築造隊」である以上は遅れた事・A」、
    そして、上記した様に副は次の様に成るだろう。
    「武田軍の本隊の三方ヶ原到着布陣時の危機の事・B」、
    最後は、その「“主副のABが連動した事以外・C”」、
    以上の「三つの事以外」には「予兆」は無かっただろう。
    予測としては、「AとB」は事前に考えられた事であろうが、“流石に連動する”の「C」とは考えは及ば無かったと観られる。
    要は先ず「主の予兆」は「A」であっただろうし、そうすれば結果としては「副の予兆」の「B」は連動しなかった筈である。
    つまり、「青木氏の氏是」に反して有史来上に於いて「全青木氏側」に於いて最大にして無駄な戦死者を出した事に成り得た事に成っていた。
    故に、戦後に、この事に付いて「伊勢の祐筆」は、“「事の次第」”を重く見て、「この時の額田青木氏の指揮官等の話」を良く話を聞いて「伊勢青木氏」では敢えて「記録」に遺して「向後の戒め」としたのであろう。
    そして、故に、主に「伊勢で記録や資料」を一部で遺し得たのだと考えられる。
    然し、「其の後」に於いて「全青木氏族」に於いて“「武田氏からの報復」”は無かったのだ。
    ここが「歴史観として重要な処」であって、上記した様に、「山県軍の別動隊の銃の犠牲」から考えれば、あり得る筈の「敵視」が、その「敵視をしていなかった事」を意味するのだ。
    一部の「三河の戦記」では、“「武田氏からの報復」”があったとしているが、この「報復をさせしめなかった程」の“「財と武の強大な抑止力」が備わっていた”と表現する事の方が正しいだろう。
    そもそも「三河の戦記」に家臣でも無かった「伊川津の額田青木氏の事」を語るのがそもそも変だ。
    そこで実際に、“報復を計画されていたのか”を研究したが、それを「物語る資料」は兎も角もその「行」さえをも見つける事は出来なかった。
    筆者は、“報復を計画されていたのか”に付いては、“そもそも計画そのものがされていなかった”と観ていて、それの最も、“その「表れ」”として出て来るのは、上記した様に「武田氏の統治下に置かれていた信濃国」の「信濃青木氏か、その縁者の「諏訪族青木氏の影響」として表れていた筈である。
    然し、それは記録から全く無かった事から、“報復を計画されていたのか”は、矢張り“無かった”と結論付けている。
    そこでその“一つとしての証”は、先ず、それは「伊勢と信濃と諏訪族の三氏の青木氏の血縁」は続けて成されている事にある。
    それは更に次の事にある。
    又、前段でも詳しく論じたが、そもそも「信濃諏訪族の夕姫」は、強引な政略婚に於いて「勝頼の母・諏訪御l料人」に成り、その「出自先」は、「伊勢や信濃」と変わらない程の歴史を持ち、それは「奈良期初期の渡来族の馬部」で「信濃」に入植し、「信濃王」と共に“「未開の地の信濃」を「放牧の国」に仕立てた”として、「天智期」にその「大功績」が認められて「信濃王」と共に都に呼び出され「叙勲」を受けて「高位の格式」を有する「神職諏訪の賜姓族青木氏」に任ぜられたとあったと書記等にもよく記載あり、「諏訪神社建立の権利」を特別に認められたしているのだ。
    故に、「諏訪御料人」と特別に呼ばれる所以であるのだ。
    従って、「諏訪族の縁者とされる伊勢と信濃の青木氏族」には「勝頼は攻撃する事」は100%無いのである。
    現実に、「長篠の戦い」にはこの様な歴史的経緯から「赤兜の騎馬兵の馬方」を務めていた「母の実家先」を実戦に参加させていないのだ。
    寧ろ、「吉田城、一言坂、三方ヶ原の銃に関わる戦績」から観ても、「武田氏の方」では、“敢えて戦域を広げる事も得策でない”としていたのではないか。
    この結果として、これは「予兆のAに重きを置いていた事」に成ろう。
    つまり、「額田青木氏の指揮官貞秀」と「駿河青木氏の指揮官の貞治」と「伊勢青木氏」との「三者連携の過程」で「予兆のAに重きを置いて行動していた事」に成り、「伝統の考え方」の“青木氏の氏是を護ろうと努めていた事”に成るだろう。

    念の為に上記の事も含めた「状況経緯の検証分析の追記」をするとして、前段でも論じているが、此処でも何度も記するが、「平安期初期」より一切の縁の無かった「甲斐の青木氏族」の「源光系青木氏・賜姓族系」にも変化があって、何れの上記の「二つの戦い」にも「甲斐時光系本家青木氏の2氏・滅亡」を除いて積極参戦はしなかったのだ。
    これが、然し、生き延びたが「甲斐凱旋時の信長」に、“「その格式権威」”を見せびらかせた”として嫌われて排斥され、最後は「甲斐の巨摩郡の北の奥」で衰退したのだ。
    然し、この時に参戦した「嵯峨期の令」に基づき出自した「時光系青木氏の本家筋」は積極的に敵対して完全滅亡した。
    ところが、この「分家筋の3氏の内」の「2氏」は、「中立」を護り積極参戦しなかった。
    この事で、「戦い中」に「家康」に秘かに救い出され「家臣の一人」の中に匿われながらも最終は「家臣」と成った。
    そして積極参戦しなかった「源光系賜姓青木氏」の2氏は、「武蔵鉢形・柳沢吉保の一族等」に刑として「移住・配流との形」を執り、遂には平定後に形式的なこの刑が解かれ「家臣」と成った経緯を持っている。
    そして、「本家筋の一部青木氏」でも逃げて「家康の家臣」に依って密かに匿われ、後に「松平の家臣」と成った者もいた。
    (記録では、信長に謀反を警戒されない様に極秘裏であった)
    「甲斐の分家の養子系青木氏」も「実家先・本家の安芸・安芸青木氏」に戻り、その後には「安芸松平氏・番方役」に主世したこの「甲斐の青木氏から安芸の青木氏」に成った後裔一族は仕えて生き延びたのだ。
    要するに、そもそも「伊勢青木氏等と馴染まなかった嵯峨天皇系後裔等」は結果として「徳川氏に救われている事」に成る。
    この様に、“「全青木氏族の浮沈」に大きな影響”を与えた後のこの「長篠の戦い」で、その後に上記の様に「他の青木氏族にも大きく変化」を与えていたのだ。

    一般論としては、性格的に“比較的にしぶとい持ち主の一族である事”がこれでも判る。
    これは、上記した様に潜在的に“「流れを読み取るとする性格的観念の持ち主の氏族」にある”と思う。
    当にこれは「青木氏の氏是」にあるからだろうとも思えるが、この「甲斐の青木氏」にはその概念は果たして遺伝的に未だ持ち得ていただろうか。
    そもそも「嵯峨天皇」は、「伊勢青木氏出自の光仁天皇」の子の「桓武天皇の子・孫」に当たる故に「施基皇子の曾孫」であり、「甲斐青木氏・時光系青木氏」は、「義弟の源光系賜姓青木氏の後裔」ではなく、“「義弟が青木氏と成った事」により「義兄である時光」がその裔に成るとして強引に名乗った族”とされているものである。
    故に、「嵯峨天皇系の男系族」とすると、果たして「遺伝的伝承」が「主に女系で依るもので無い為」に、その“「性格的遺伝は叶えられているか」は甚だ疑問”である。
    依って、そこでその可能性は「経緯」から低いと観るべきである。
    故に、これは「伊勢と信濃」は、勿論の事で「四家四掟四門」に依る「母系の賜姓秀郷流青木氏」とも疎遠であった事に由来している。
    仮に、この「遺伝的継承」が成されていたとする場合は、例え、武田氏の家臣であったとしてもその「分家・生存」の様に、且つ、「賜姓源光系青木氏・生存」の様に、“戦わずで組しないとする方策を執っていた筈”である。
    矢張り、これは今でも永遠に持ち得ている「遺伝」であっただろう。
    長かった人世の自分の性格を顧みても、“これは遺伝だなー”とつくづくそう思える。
    当に組したのは、その裔の異なる「時光系武田氏流青木氏の3氏・滅亡」であったのだ。

    これ等の「歴史観の事」を念頭に、「二つの戦いの結末論の事」を「経緯論・検証論」として知る事は必要だった。

    さて、ここで続けて、分けて更に“「布陣」”に付いても「詳細経緯論・検証論」を下記に論じて置く。
    先ず「武田軍の別動隊・三軍」も「戦後始末」も済んで「二俣」から川を超えて間もなく「三方ヶ原・3時間半で」に次々と到着して来たが、この時の「布陣」に付いて論じる。
    それが、前段でも詳細に論じた通りであるが、その時には、先ず、“本来あり得ない「陣形とその位置・鶴翼と川越」”の関係の「二つの事」であったとした。

    それの「布陣」は、前段と上記の通りであるので、ここでは、次に論じる「詳細経緯」は「布陣の位置」に付いて論じる。
    これを観て、「武田軍全体」が到着して、行軍中に「6000の騎馬軍団」を前に中央にして「魚鱗の鶴翼似の陣形」で次々と組んで行ったのである。
    ここが、上記の通り「勝負の分目」と成った。
    その川は、本流の“「都度川」”であった事が判る。
    その「戦場と成った所」は、「詳細に記した戦記」は無いが、「ある江戸期の戦記」では、“その「三角州の右手」の「東側の付近」とされていて、そこに敷いた事が大まかに判る。

    この事に就いて「陣形の位置」に対して「経緯論と状況諭」で読み込むと、“「ある意味・歴史観」”があるのでこれが正しいかどうかを検証する。
    この一つの「戦記」には、他の戦記よりよく読むと、「不思議な事の記載・陣形に詳しく高信頼性」が多いのだ。
    そもそも、「鶴翼」は、「陣形」を簡単に移動させられない「固定型」であるし、「陣形を組む」のにその必要とする時間が掛かるし、「配置の兵の数」も要るので、つまり、依って、当初、“「籠城」”と見せていたが、その「浜松城・12/22日の早朝」から城を出ているので、この時は「額田青木氏の銃隊」が「館山街道付近の西南の位置」に「布陣・休憩」していたので、そこから、“「宿営地としている三方ヶ原」に向かう「武田軍本隊の背後」を先ず突く”と云う「戦略」も陣形上から観て「松平軍側」に時間的に観てもあった筈である。
    この前記した「三河戦記の説」では、前記したが「三方ヶ原戦場」に向かう「1.5kの道の直ぐ西横」には「森」があって、且つ、ここは「浜松城」からは「真北1.8kの道の位置」で、“この右横の森に隠れて待ち、「武田軍の本隊の背後」を突く”と云う作戦もあった事が読み込める。
    ところが、この「甲斐の郷土史の説」で云うには、この“「背後を襲う説」”では、“敵が「徒士」であり「騎馬兵」はなかった事”とする説にも納得できる。
    つまり、要するにこれは「魚鱗の陣形」を進軍中に組んでいたとしているので、この時、既に、「進軍中の陣形の先頭」には、「騎馬隊」が「時系列」では既に到着していた事に成る。
    そうすると、この説では、この時の「額田青木氏の銃隊」は、最早、この「立場」には無かった事に成るし、唯、「額田青木氏の銃隊」が、「城に入る時間的余裕」も生まれていたと成っている事にある。
    この“江戸期に記したと思われる「甲斐側から観た郷土史らしきの説・日記形式」”では、この意味する処では、それが「額田青木氏が銃隊」であるかは別として、「額田青木氏の存在」を良く知っていた事に成る。
    これは「甲斐」に近い「美濃」から「額田青木氏の銃隊」が南下して「伊川津国衆と成っている事」を既に知っていた事にも成るのだ。
    後から得た情報とする事もあるが、これが「甲斐での江戸期後説・誰が編集したかの検証は後て論じる」である。

    故に、これに基づけば、「堀江城」に向かっていた「武田軍の本隊」が、急に「軍の向き」を南に向けて「松平軍・浜松城」に攻め掛かる可能性は低かった事に成るし、現実にその様に「陣形」を組んではいないので、これは正しい可能性が高い事に成る。
    「通常の場合の行軍する場合の陣形」では、“「殿軍」”は主に「護り兵や荷駄軍」で構成されているので、それを「戦い」の“「先頭・先駆隊に替える事」”は「軍としての力」は出ないのだ。
    その為に敗走する時は、「先頭・先駆隊」に向いた「本格的な先駆隊」を置いて、「敗走の時間稼ぎ」の為に“全滅覚悟で激しく支える戦い”をするのが作戦の常道である。
    従って此れの「役目と宿命持つ」のが「陣形」ではその意味で“「殿軍」”と呼んだのだ。
    故に、「追尾中の額田青木氏の銃隊」が、“安心して「城側・貞治隊との連携」に戻れた”し、「額田青木氏の銃隊の先入観」も「武田軍本隊側」にあって、先ずは、“傷口を癒す”の例えの通りで、「軍の立て直しをする事」に「先決」があった事に成る。
    つまり、「松平軍の後跡・城に近づく事」は決してなく追尾を追わない筈の状況にあった事にある。
    この「甲斐の説」でも、これには「軍議で物議を醸した」としていて、“「額田青木氏の銃隊が城に戻れる立場」には既に無かったとする事”も記されていて、「松平氏の説・三河説」は全く違っているのだ。
    この様に、「松平氏の三戦記物」と「甲斐の説」では大きく違っているのだ。
    従って、それでもこの「もう一つの懸念」では、「山県軍の別動隊」が遅れて来て、“「真南に向いた」”とする陣形では、未だ「相対する戦い」と成る可能性が遺されていた事に成る。
    と云う事は、「山県軍の別動隊」は、“これを不利と観ていた”らしいが、現実は「北側の山際」から其の侭で南に向かって突撃しているのだ。
    この「場合の説」では、飽く迄も、“「松平軍」は「武田軍本隊の背後」を突いた後は、そのまま急いで「浜松城の城」に戻って「籠城とする説」であったらしい”、としているのだ。
    これは確かに「理に叶っている甲斐の説」ではあるが、この“「甲斐の説」の「籠城説」”には、「第一次吉田城の籠城戦の松平軍の勝利・銃」を脳裏に描いていたらしい事が判る。
    つまり、「武田軍側」では「戦記に遺す程」に、“この「第一次の吉田城の印象」が強かった事を物語っている事”に成る。
    将又、或いは、これは「第一次の吉田城の印象・銃での籠城戦」では無くて、「一言坂の野戦の事の印象を説いている事」なのかも知れないし、「二つの事」であるかも知れない。
    兎も角も、「上記の二つの事の印象が強かった事」」を確実に物語るものだ。
    現実にその様に思えばそう成っているが、定かではない。
    この「陣形の説」では、全比較をここで論じるのは難しいが、やや違う処もあるが「流れ」としてはこれは大まかには「史実に合っている事」なのだ。

    さて、そこで先にその「布陣の説の論者」を予想して観る。
    それは青木氏の歴史観に執って重要な事なのだ。
    恐らくは、先ずこの「説の論者」は、条件として、この「戦略」を組めて、且つ、「発議」できる人物で、又は、直接には「経験者の吉田城城主の酒井忠次」であったのだろうか。
    将又、「後に書き遺した」として事を重く見ると、“「柳沢吉保の臣の者」”か、或いは、“その何某かの何れかの関係者であった”であったろう事が判る。
    記録では、この時の戦記を詳しく遺しているのだ。
    筆者は、「軍議での発議可能な直接の人物」では無く、「流れの雰囲気」から観て、最も“「青木氏」に近く親近感を持ち得ていた人物”か、それを聞き及んで、又は命じられてのその“「祐筆的立場の者」”であったろうと観ている。
    この「戦記」には、「人物の特定の表記」は無いが、「野戦」ならばその様に「軍議」では“「重臣」は主張したとする説の戦記の行”もあるのだ。
    筆者は、此れで唯、云える事は、この「戦記」と云うか「郷土記と云うかのこの説」には、“事実性が高く、親近感的な表現が観られる処を重く見ているのである。
    つまり、「多くの戦記物」は、「特定の氏」を戦記とし、それを中心として美化して描いている常道だが、この「記」は、「歴史の書」として肩に力が入っていない様に描いている”の処が違うと観ているのだ。
    そもそも、この「研究中の過程」で判った事は、それは、“「ある知り合い」を通じて偶然に借りる事が出来た書であって、「長く蔵の奥に保存されていた遺産」であった”とされている事である。
    これを保存していたのは、“伊勢の過去の「家人・遠縁者」であった「知り合い」”で、その者を通じての、“「奈良」と「伊勢」の「県境の青木さん”であった」”と云う事だ。
    つまり、なかなかこの“「青木さん」”としては確定するには「難しい地域の青木さん」である。
    この“同書を持ち得ていた”とすれば、先ず第一に「伊賀を含む同族の伊勢の名張の青木一族さん」か、第二に「奈良郡山」に移封と成った「甲斐の柳沢の青木さん」か、つまり、「有名な側用人の柳沢吉保・青木吉保」か、その縁戚と成る「鉢形から追随した一族で後に家臣として仕えた「柳沢氏・豊定系の青木氏」の「兄・甲斐時光系分家の青木さん」かである。
    他に、前段でも論じたが、小さい「三つの流れの青木さん」があるが、この「記を遺しえる歴史の青木さん」ではないので除外するとして、「柳沢氏の吉保の祖父」で、つまり、「弟・豊定系」の「青木さん」が、最も関係性が深い事に成る。
    然し、「兄・正定系の青木さん」も「弟の吉保一族の側用人」として傍に居て“補佐して遺しえる立場”にはあったとしていて、そこで、完全に特定は出来ないが、「伊勢青木氏・名張」も充分に有り得るが、これは「記にある「家紋」と「宗派」とが違うのだ。
    筆者は、「書き遺した事」を明確にしている「弟・豊定系」の「青木さん」が、最も関係性が深い事に成るの説に間違いは無いと観ているのだ。
    とすると、改めて前段でも論じたが、「三河戦記の脚色」は「旗本らの意見」を入れて都合よく書き直した事に成り得るものだ。
    然し、その「江戸期の美化の書き直しの反動」として、それを正す為に「吉保の主君の命・一族」に従い「一族の生き残りの話・口伝」を「柳沢氏の祐筆」が、この「口伝の描いた原石」の「それに近い戦記」を、“青木氏側から観たものとして密かに書き遺した”のではないかと云う事を前段でも論じた。
    故に、興味翻意に書いた物語風の伝記では無く、表に出て来ない「戦記」ではないかと予想できる。
    故に、その「証拠」として、“「伊勢側の資料」と共に合致する事が多い”のではないかと推定する。
    「今後のテーマ」として、何故、この所謂、“この「青木さんが持っていたのか”であるが、先ず間違いなく、奈良郡山に近い「名張の青木さんの説・四家の福家以外にはこの様な事はしないであろう」もあるが、其れよりも、確実に、“戦記を偏纂したとする記録」”のある事を重視すれば、「柳沢氏移封後の奈良郡山の甲斐時光系青木氏」である事には先ず間違いは無い事に成るだろう。
    然し、その「経緯」を辿ると、これには、後にその「記録の元持ち主であった家」の「家の系譜等」が明治期頃から判ら無く成った伝え聞かされているのだ。

    注釈 余談であるが、これは火災等では無く、歴史に関して良くある事例でもあるが、歴史的価値のある者に対して、当時、明治期から昭和に横行した「個人の持つ歴史上の価値」のあるものを、「研究目的と偽っての専門の寸借詐欺」が横行していたのであった。
    要するに、これを「富と名誉を何かで得た者」が、この“「寸借詐欺」”から「高額金額でこれを入手する事」で、「自分の家の格式の系譜証拠・宗教などの伝統が異なるが」として仕舞う風潮が、「明治期初期・他に室町期中期と江戸初期の3期」にも実は大変横行したのだ。
    現実には、これには「明治維新戸籍簿」と「宗派の違い」と「家紋の違い」と「出自元の違い」と「菩提寺/檀家寺の違い」のこの「5つの項目の査定」で違いがでるが、それでも「符号が一致しない姓」と成り、それを簡単に見分ける事も出来るのだが、名乗る者が多くでた。

    要するに「伝統のを持たない姓」の“「明治期」に起こった「第三青木氏」”である。
    これは「室町期と江戸期と明治期の3つの変革期」にも起こっているのだ。
    筆者の周囲にも数人のこの「第三青木氏」を知っていて、同じ氏族ですねと云われる事が良くある。
    これを論じる時には、この三期には、注意しなければならない歴史観である。
    これが前段でも論じた「明治期初期・苗字令・維新戸籍簿作成」に多く出た“「第三の青木氏の姓」”が出て来た所以でもある。
    「明治3年の苗字令と8年の督促令」で「進まぬ令」に対してこの伝統の歴史観を無視して政府自身が名乗る事を強引に進めた所以なのだ。

    恐らくは、この「資料」は、この注釈の“典型的なこの経緯を辿ったのではないか”と予想できる。
    つまり、兎も角も「経緯論」は別として、その元は「柳沢氏移封後の奈良郡山の甲斐時光系青木氏」である事には先ず間違いないだろう。
    然し、この「資料の存在」が、「伊勢青木氏」とこれまで論じて来た「額田青木氏と駿河青木氏と武蔵の秀郷流青木氏」の3氏による「前段の論」を、少なくとも間接的にも証明する物に成り得るだろう。
    それが「三方ヶ原から長篠まで」と「その後の伊川津の経緯」のものであるのだから。

    「上記の説の論」から「布陣について詳細経緯論」に戻す。
    この為には、確かに「戦略」としては、地理的にこの「大谷川」を少し先に超えて待っていた方が有利であり、この事から結局は、その“「常道説」”が先ず地理的条件として採用されずに、且つ、その様な「鶴翼の無理な陣形にした事」に成ったとも考えられるのだ。
    この様に「鶴翼と魚鱗の陣形の採り方」には「完全な間違い」はあったとしても、これも「常道説の不採用の敗因の説」に成り得る。
    唯、「多勢・鶴翼」に「無勢・魚鱗」の「基本原則」を前提に冷静に考えれば「上記の説」の「武田軍の勝利の可能性」は当初からあった筈である。
    天下の戦略家であった武田信玄は、この基本原則の違いに気づかぬ訳はないとして,敢えて魚鱗にしたかと云う疑問が遺るが、ここにには「武田軍の計2万」に対して「松平軍の5000」の「陣形の矛盾」を知っていた上で、「多勢の魚鱗と無勢の鶴翼の矛盾欠点」を突けば勝てると観ていたからに他ならない。
    もう一つは、「6000の騎馬兵で中央突破」を先に仕掛ければ「鶴翼の左右の働き」が「その速さ」から開閉が効かないと云う欠点を知っていたからであり、騎馬にの後に続く「徒士の兵」に対する開閉による攻撃は疲れて働かない事を知っていたのだ。
    鶴翼には訓練が必要である陣形ある事を無視したのである。
    然し、現実は「山県軍の別動隊」に「鶴翼の欠点である側面突撃」を受けて仕舞ったと云う事だ。
    これも家康が見抜けなかった「大不思議のミス」の一つである。
    これでも、仮に「額田青木氏」が“「軍議の命」を聞き入れていた”としても、前記した様に「銃隊の遭遇戦」と成った「一言坂」より戻って、「鶴翼の頭の部分先端の中央に仮に配置させられたとする事」を前提とすれば、“鶴翼も銃隊も移動しない”と云う点では「勝利の見込み」は確かに納得できる。
    然し、「額田青木氏の銃隊」は断った事により「上記の武田軍の有利性は一挙に出て来た」と云う事に成る。
    「鶴翼の頭の部分の中央」に「額田青木氏の300の銃隊」が構える事に成った場合は、先ず9割は武田軍の全滅と成り得ていた筈だ。
    それは前記した様に、この「フリントロック式の銃力」は少なくとも「兵力の100倍」とすれば「300*100≒30000」と成り、武田軍は長篠の様に三方ヶ原でもの全滅の憂き目を受けていた事に成る。
    然し、「額田青木氏の参戦」は無かったのだ。
    だから、「信玄の策」は生きたとすれば、“「額田青木氏の参戦」は無い”という事を何らかな方法で事前に知り得ていた事以外に考えられないのだ。
    それが「前記した信濃と諏訪親族」を通じての「呉越同舟の関係」が既に構築出来ていたとしか思えないのだ。
    筆者は、「前記した諏訪親族」が動かない方が問題であって、「額田青木氏の銃隊」や駿河青木氏の親族が生きるか死ぬかの時に動かない事の方が親族としては不義理に成るだろう。
    そもそも「四掟の女系縁者」であるのだから、況してや上記した様に「夕姫」が武田氏に深く関わっているとすれば双方に情報機関がないのであればいざ知らず「天下無双の者・伊賀者の香具師」が在れば放置出来ないであろう。
    「最も縁者の神職の信濃青木氏」が参戦出来ないとしても「口添え」は可能であろう。
    「信玄」は「一言坂の遭遇戦」でそれを確信したと観ているのだ。
    つまり、「額田青木氏の銃隊指揮官」は其の様に「軍議の拒絶」も含めて動いていたと観ているのだ。
    要するに「情報を基に信玄と指揮官の腹の探り合い」があったと云う事だ。

    そこで、戻してこれを、「多勢で移動型」を主体とする「武田軍の魚鱗」で突破されれば、「敗走する兵・松平軍」が、“「川・支流大谷川」”を超える事」は元より至難の業であって、「人溜まりも無い程の犠牲を負う事」に成る。
    況してやこの状況には、そもそも「武田軍の本隊」にはよく訓練された「優秀な次男坊だけの者」が成れる「赤兜の騎馬兵隊・制度」があったので、一極正面突破で突き抜けられて仕舞えば「松平の異常な鶴翼の陣形」は、そもそも「無勢」では消耗戦と成り働かないのだ。
    これで「松平軍」は更に潰され「壊滅であった事」は史実を観なくても当初から解る。
    その「鶴翼の中心」に「国衆である額田青木氏の銃隊を据える事」を断られた段階でその勝負は決まっていたのだ。
    唯、実はこれでも解決できない「疑問」が「もう二つ」あったのだ。
    これを歴史観として論じて置く。
    それは次の通りである。

    その疑問 1
    先ず一つは、大きな犠牲を出した「陣形や配置ミス」への「軍監役・監察の織田軍の指摘の有無」の役務である。
    次の二つは、「三方ヶ原の戦いの後」の「額田青木氏の銃隊の去就」である。

    先ず「一つ目」である。
    それは、「三河戦記」では、“連合軍とされていた「織田軍・現実には三人の軍目付・軍監だけの援軍」は、何故、この「陣形や配置のミス」を充分に「織田軍の力」の見せつけで指摘しなかったのか”である。
    そもそもこれが「本来の軍監の目的」である。
    この時の「織田軍の援軍の兵力説」には、「5説」があって、「内一つだけを除いた説」では、「連合軍の方」が「松平軍」より遥かに優位にあり、且つ、「真偽の兵数記録の事」は別としても、この説の記録と云うものに依れば、この時の構成は、数的には「織田軍の方」が「主軍」と成っていて、それも「松平軍の3倍」に成っていて、これは当に「織田軍」であり、明らかに「あり得ない説・後付けの美化説」である。
    「織田軍」は、西に圧迫を受けて西に勢力を注ぐ不利な状況にあって、そもそもそんな「兵数を出せる織田軍の状況」では無かったのだ。
    この時の兵数は、全ゆる記録を読み込むと「軍監の護衛隊数・200」であった事が判っているし、それも「戦い前の3日前」に夫々の守備の国に戻って仕舞い「戦い」に合力していなかったのだ。
    仮に、これで行けば、そもそも「同盟」であっても「織田軍の方」に「有利な発言権・決定権」はあった筈である。
    更に、中には、もっと「酷い説」には、この「鶴翼の陣形」を肯定する為に、「武田軍に引けを取らない兵力・2万」と成っている「酷い説」もあり、これ等の「4説・元よりその様な国力は無い」はあり得ず、「江戸期の後付け説」であって矛盾し全く信用できないのだ。
    この「信用の出来ない矛盾説」であれば、「鶴翼の陣形」と「野戦」は有利であり納得できるが、又、其の様に仕組んだ脚色説で、現実は「別の史実」で「後付けの脚色説である事」が明確に判る。
    後勘から観ても、これらの「4つの説」は100%あり得ず、これから導き出した史実に基づかない「根拠のない江戸期の興味本位の後付け論」である。
    そもそも、この「脚色の後付け4説」は、誰が観ても此処で論じる事では無いが、敢えて、そもそも「正しく見抜ける歴史観」からとして記述して置く。
    そもそも、これには「兵数の物理的な基本原則」が古来より定められていて、それは“「兵力」はその「国の石高」に比例し、これを超える事は物理的にも絶対に無いのだ。
    当然の事と云えばそれまでだが、それには更に「当時の基準」があって、それは参考として次の様であった。
    「1年=1石=1人の米の消費の原則」とし、「1頭・騎=1200兵の揃える前提」は変わらない事から、故に、“「兵力」は、「其の1/4〜1/5」と見做されて組む”とされていたのだ。
    これはそもそも「生きて行く為の糧の基準」でもあるのだ。
    それ以上は出せず、物理的にも無理だ。
    況して“「援軍」”とも成れば「政治的戦略」が必ず働くのが常道であった。
    これを考えれば、この「弱者の松平軍」に「強者の織田軍全兵力を差し向ける事」は100%無いし、それは「以西での激戦」が続いていたのだから尚の事でもある。
    そもそも「そんな数の兵」を差し向けられる程の未だ「織田氏の力」では無かったのだ。
    筆者の考えでは、「計算と記録の読み込み」から、“200にも満たない兵数・守備兵”であった事が判る。
    現実に、「差し向けた僅かな兵」の中でも、「織田軍の差配頭・平手」が一人戦死し、この事で窮地に追い込まれた「佐久間右衛門の指揮下」にあった「平手汎秀とその手勢」は、指揮官の考え方に従わずに頑固に私説論を引かずに行き詰まり、敢えて「戦死」を選んで死亡しているのだ。
    この「正しい歴史観」では、「主戦説の平手汎秀とその手勢」以外の「籠城説を唱えていた3人の軍監」は、「戦い開始の3日前」に早々と「持場の国」に引き上げて仕舞っているのだ。
    「軍監の3人の持場の国」も既に指揮官が留守の背後を脅かされていたのだ。
    この事は「主戦論を唱え続けた平手」は後に引けず、結局は残る結果と成り戦死したのだ。
    これに於いて後に、“「平手の差配頭」を護れなかった”と云う事と成り、それの兵は“「兵500にも満たなかった事」”を意味して死なせる結果と成って、「軍監の指揮官の佐久間」は「信長」に形式上で罰せられて「流罪」と成り結局は「京都」に流される事と成った。
    然し、これは形式上の事で、後に「京」で「信長の隠密として働いていた事」が判るのだ。

    注釈 念の為に、「1頭=1200兵の基準」は飽く迄も「室町期の基準」で、「江戸期初期」には「1頭=2100」と成っていて、この規制は時代に反映して厳しく成っていた。
    これには、「他の条件」として課せられていた事もあって、“「銃1丁」とそれに付随した「1騎=50兵」”も当てがわれていたのだ。
    そこで、「同盟」であったとしてのこの「佐久間」を「1頭」とすると、計算では仮に「1200兵」と成る。
    そしてこれには、「全ての農兵・荷駄兵も入れての数」として観れば、「平手」はその中の「10騎の内の1騎」であった事に成る。
    そもそも、「織田家」でも「重臣の佐久間」を「1頭」とすると、初めからこの「松平の軍議」では「鶴翼の陣形」や「野戦を行わす事」や「その実務・役務を負担させる事」は先ず無かっただろう事に成るのだ。

    現実には、前記した様に、何れの「三河戦記の論」に及ばずとも、「史実」から、何と“3日前に国に戻っている”のだし、この「史実」は大きい。
    後に、これに付いてこの「佐久間の行動」は、「表向き」で、「激怒した信長」からこれらの「一連の責任の事」を指摘されて、「織田氏」から「叱責処分」を受けたとなっているのだ。
    以上と成っているが「現実の歴史観」は異なっているのだ。
    「平手正秀・汎秀戦死」は、自害し、「佐久間信盛」は追放されてた、と「表向きの記録」で成っているのだが、「合理主義の後に信長の処置」から考えて、これは先ずあり得ず、この「罰則の事」でも判る様にある資料からも「裏の行動の事」が読み取れるのだ。
    これは、“平手を無くした”と云う事よりは、そもそも、“「三河の軍議」”に於いて「平手汎秀の興奮」を抑えられずに戦死させる様な仕儀の事」をさせて仕舞ったと云う事で罰せられたのであって、「佐久間信盛」の「軍目付・軍艦の将」が、そもそも「籠城戦」にさせられずに、“馬鹿な差配をしたから”であったのだ。としているが、ここでこの説は次の事でおかしいのだ。
    仮に「野戦」なら、“軍監のみの織田軍だけが城に遺る”と云う事は、そもそも考えられずこれは無いし、その“「選択肢」も無かった”のに、「平手を放置した事」にそれを指揮官として厳しく叱責したとするのだ。
    この説は、世間に対して「織田氏の名誉に関わる事」であったからだが、ところがこれらの行から「信長の心の内」は、この「戦い」に、“一兵たりとも関わらない事が得策であった”のだ。
    だから、そもそも「同盟」であるのに、「兵の援軍」では無く「軍目付・軍監」であったのだ。
    「同盟」であれば、そもそも「援軍を廻す事」にすくなくとも成るが、現実には、敢えて常識を超えて“「軍目付・軍監」でしか無かった事に意味を持っていた”のだ。
    そうでなければ理屈は合わない。
    これは上記した様に「3日前に守備している国に戻っている事」が物語っているのだ。

    全くその通りで、その方が「空」にするよりは「西で戦うの信長」に執っては全くに戦略的に都合の良い事であろう。
    この「4説・松平のメンツを保った江戸期の後付けせ説」だと、これは当に「織田軍と武田軍の戦い」であって、「同盟の援軍」として出すのであれば少なくとも「5000」は超えないであろう。
    この説は“賢い先ず信長”であれば先ずは無いし、「そんな兵数」は未だ「信長」には無かったのだ。
    それでも未だ少し真面な「残りの1説」では、「援軍3000」としているがこれでも多い位と考えられる。
    “利に長けた鋭利過ぎる程の信長”の頭で考えた場合の作戦としては、この場合の「織田氏の利害」を考えれば、寧ろ、「勝てる見込みの無い松平氏」に対して、「織田軍の援軍を送り込む事」より、“何時か迎える「織田氏と武田氏の決戦の事」”を考えれば、より一兵でも「援軍」を少なくし、より「被害」を少なくし、且つ、「同盟」とは云え、「松平氏の被害が大きかった方」が、“「西三河獲得と云う点・父祖からの係争地」”では「無駄な力」を注が無くても得られて都合が良かったのだ。
    そして、将来的には「得策」として「武田軍との決戦」でもこの結果の方が都合が良かった事に戦略としてあった筈である。
    結果として、この事で「青木氏の歴史観」から重要なのは、額田青木氏の将来の事を考えれば「松平氏の勝敗」はどちらでも良かったのだが、その「キーポイント」となる「松平軍」は予想通りに敗戦したが、ところが、これは「織田軍」に執っても、ここで“「大きな誤算」が生まれていた事”なのだ。
    それが、何故ならば、そこには「青木氏族側」には「商いとしての目的」が先ずあって、其の上での事であって、「戦前に結んだ国衆約定の実現」により「額田青木氏族の伊川津の渥美湾の制海権の利権獲得が叶えられる事」が先にあったのだ。
    その為には「松平氏の勝敗」は、勝ったとしても何時かはどんな形でも「武田氏」や「織田氏」との決着を着けなければ成らなかった筈であり、その意味では「松平氏の遺された道」は先ずは「富む事以外には無かった事」で有ったろう。
    そして、結果としての時系列としては、「敗戦した方」に傾き、これが元で、この「青木氏との約定から得られる利権益」が、“立て直しの為には是非に必要であって「より最大の目的」”と成って行ったのだ。
    その意味でも「伊川津国衆」であっても、「松平氏の敗戦に依る弱体化」は「約定実現」には「得策」であって「復興実現策」に効果が生まれると云うものであった。
    だから「三方ヶ原敗戦後」に“1日も置かずに「銃隊の軍団」を解いた事”であるし、直ちに「開発業と陸運業と殖産業の3事業」の“「復興実現策」に取り掛かったと云う事”に成るのだ。
    それも、「開発業と陸運業と殖産業の3事業」が何よりも「尾張よりも遅れている未開の三河」には必要であったのだ。
    この事に付いて、「伊勢の事前の敗戦後の行動」の為に「伊勢水軍を渥美湾に廻していた事」が判っているのだ。
    「額田青木氏の最悪の場合」を考慮して「救い出す手立て」として廻していたかは判らない。
    そこで、この事が「敗戦」からその「松平氏の勢力」を結果として「急速に盛り返すだけの財力を得させた事」に成ったのだ。
    これが、“織田軍に執っての大誤算”であって、普通であれば「先祖伝来の旧来の係争地」の「西三河程度」の「小さの領地・父祖伝来からの係争地」さえも「奪取出来ない程」に、「松平氏は急速に力を蓄えて回復可能と成って行った事」が云えるのだ。
    この“急速に”に意味が大きかったと観られる。
    逆に、それ程に「信長の思惑は叶わなかった事」とする「史実」であったのだ。
    さて、そこで、思惑の外れたこの「信長」は、この“急速の原因”と成っていた“「影の伊勢の力」が大きい”と観て、そこで“「伊勢湾勢力」に目を向けたのだ。
    それも「得意とする武力」では無く「調略」に出て来た”のだ。
    処が、「織田軍」には、軍をより強くさせるこの「便利な水軍は無かった事」から、「伊勢水軍とその勢力」を張りあっていた「南の惣国性の強かった“熊野水軍」”に目を着けて「味方」に引き入れ様として来たのだ。
    当然に、この「伊勢域を勢力範囲とする伊勢水軍」は、「勢力範囲を犯される事」を嫌って熾烈な戦いが始まったのだ。
    「伊勢水軍への調略」は、結束は固く、“尾張に近い一つの小さい水運業者が味方にしただけ”と成って「調略は失敗に終わる」のであり、結局は、「伊勢水軍]と「逸者九鬼氏が支配していた熊野水軍」との勢力バランス」と成る。
    そこで、「伊勢側」は「紀伊水軍」と「縁者の摂津水軍と瀬戸内水軍」を味方にして「組合」を作って、“両方から挟み込んで抑え込む作戦”に出た。
    そして、結局は「周囲の締め付け」に依って「熊野神社の神官六氏から成る正規の熊野水軍」は手を引くが、「熊野水軍強硬派」の「逸者九鬼氏」だけと成って、この「抑え込み作戦」は成功するのだ。
    「伊勢水軍と伊勢青木氏」と「古来から繋がり」を持っていた「本来の熊野神社の六氏から成る熊野水軍」は[信長の誘い」に乗らなかったのだ。
    その「調略に乗らなかった理由」としては、そもそも「神明社を基とする伊勢水軍」と同然に、そもそも水軍とは云えどそもそも「武力集団」では無く同然、同然に「由緒正しい神官職六氏の水軍の歴史」を保つ事にあったのだ。
    だから、全国から信心を集めている「熊野神社の体面」に傷が着く事に有ったのだ。
    結局は「海賊衆団逸者の九鬼氏・後に結果として排斥されて衰退」だけと成って、「信長の調略作戦」は浮いてしまう結果と成るのだ。
    結局は、「水軍の無い織田軍」は、「伊勢湾」にこれ以上の勢力範囲を広げる事は出来ずに見守るだけに終わり、背後にこの「伊勢勢力」を遺した侭に「三河の復興を見守る事」の結果と成って仕舞ったのだ。
    「駿河青木貞治と繋がる東の勢力・秀郷流一族一門」、即ち、その「全国に広がる一門の361氏の勢力」と「秀郷流青木氏116氏」の「総合力477氏」には、「取り繕う事の出来ない恐怖の勢力」の「今後の動向の事」を考えた場合、「まだ小さい信長」に執っては「戦う事の出来ない大きな脅威」に成って行ったのだ。
    要するに、「手の出し様の無い二つの勢力」が、前後から「三河」を支えその「勢力と財力」が背後に控えていると成れば、そう成れば「弱体化した三河」を今の早い内に、それを取り除くのが「常套手段」であっても、「潰しにかかる事」は出来なかったという事ではないか。
    一方で、前段でも詳細に論じた様に、「三河」で「開発業と陸運業と殖産業」も全土に進めた「青木氏・開発地には青木村を形成している」が「背景」としてこの「三河の盛り返し作戦」は「財政的」にも大成功と成ったのだ。
    これで逆に「信長が目論む潰し作戦」は難しく成ったと云う事であろう。
    この「青木氏族」から得た「財」に依って、その当時の「三方ヶ原後の兵数」は記録に依れば「2000弱にも満たなかった事」が判っていて、それを「各地から流れ来た国衆」と、「今川氏の残党」を、その「得た財」」で「三河」に雇入れて、その「財と兵力」を基に急速に盛り返した事が判っている。
    多分、これで尚、[思いも依らない事」に成った「信長」は焦った考えられるし、この「攻めてこない勢力」の「伊勢」に対して相当に警戒していた事に成ろう。
    別の資料には、「三河」には地理的に地形的に「殖産の魅力が元より多くあった事」が記録として遺されていて、そこにも「当初からの狙い」が「欠陥としての真砂土壌の伊勢」には充分にあったのではないか。
    「開発業と陸運業と殖産業も三河全土に押し進めた青木氏」の「先を観た狙い」も当初からここにあって、これを“「国衆の条件」”としてのいたのでは無いかと予想できる。
    「伊川津」に戻って時間経過の無い程に直ぐに「銃」を置いて関わっている事を観ると間違いは無いだろう。
    寧ろ、「額田青木氏」に執っては「銃」よりこの「土に関わる方」が彼等の性に合っていたのだ。
    だから、「開発業と陸運業と殖産業の3事業」は効果を発揮したのだ。
    要するに、そもそも「銃にしても戦いにしても先行投資」であった事と云えるのだ。
    この事で「伊勢」は、「当初の目的通り」に「伊豆までの海路ルート」は出来上がったのだ。
    これで「断たれた伊豆」との「関係の復活」と「武蔵秀郷流勢力との繋がり」のより一層の関係も復活したのだ。

    現実に、「長篠の勝頼の武田軍の指揮能力の低下」と、上記で論じた様に、「銃火力を得られなかった軍の状態・考え方」を招いた「勝頼の武田軍の長篠での敗退後」に、「勝利した信長」のその後の「松平氏への態度の凶変」が起こったのだ。
    これは、上記の“織田軍に執っての大誤算”であって、“「伊勢」を味方に引きいれてそれで得た財力を生かす”とした「三河の考え方」に対して、それを物語っているのだ。
    この“「信長凶変」”は、「上記の経緯論」からすると、「軍目付の行動」から観ても、「元からの戦略」であった筈であった事は確かであるが、それにしても“「戦いの勝負」の着くのがあまりにも早かった事”が、“織田軍に執ってはそもそもの大誤算”であったのだ。
    「長引いてより弱る事」をこの「信長」は目論んでいた筈である。
    そして、その「復興の活動・戦後」に目だった「駿河青木氏と額田青木氏の背後」には、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流青木氏」が「後ろに控えていた事」であって、それには「神明社の信長の破壊事件」や「伊勢水軍調略の事件」もあっての事を充分に承知していた筈である。
    その為に其の後の「駿河青木氏の貞治の後裔・長三郎一族」は、何と「御家人御側衆」として引き上げられて「3000石の大出世」をさせて、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流一門との関係性」をより強くして絶やす事の無い様に配慮したのであったのだ。
    こうする事で即座に詳細に具体的に「伊勢の背後勢力とのパイプラインの構築」が双方に出来上がったのだ。
    それも単なる「家臣」では無く、いつでも意思を詳しく伝えあう事の出来る「御家人御側衆」にしたところに意味があった。
    それが前段でも論じている様に、「伊川津の港の制海権の取得」と「国衆に成る時の約定の実現」として、“「伊勢の事一切お構いなしのお定め書」”に成って、「感謝状」を出して「約定の反映」と成って現れたのだ。
    だから、「信長」に執っては、その「復興・財と武」の「そのあまりの速さ」に就いては、“計算外であった”のであろう。
    寧ろ、“早くしなければならないとする判断が「青木氏側」にも「松平氏側」にもあった”と観られる。
    それは、「信長が食い込んで来る隙を与える事」に成るからであったのだ。
    簡単に云えば、“「松平氏・家康」に此処まで「青木氏族」が早くて強力に肩入れするとは、そもそも「信長」もそもそもも思つてもいなかった”と云う事ではないか。
    この事が「他の1説や郷土史などの研究資料の記録の一部」にも“間接的にも警戒を込めた表現”で珍しく記されているのだ。
    “「戦略的に影にある邪魔な勢力」は、早い内に潰して置くのが常道である”が、ここで「歴史的に物語る事」としては、当時の「信長」でも、“流石に「青木氏族の総合力の抑止力」を潰せなかった”と云う事であろう。
    これは「強大な武力の秀郷流一族一門を背景にしている事」にあって、手出しは出来なかったと云うこの「時系列で云える状況諭の歴史観」であるのだ。
    これは「三河」に於いてのみならず、其処には「単なる売り買いの商いの財力」だけでは無く、「全段からの論の殖産力」を基にした「総合財力にも有った事」なのだ。
    どうも時期は明確には判らないが、この時頃からどういう形かは判らないが「武蔵の秀郷流青木氏」は「商いを始めた事」が判っているのだ。
    それが記録に遺る「長島屋」で云えるのだが現在では最早詳細は良く判らない。

    注釈 現在の研究結果として判った事は、前段でも論じた様に詳細が判らない中で判っている事としては、上記した “「駿河青木氏の貞治の後裔」は、何と「御家人御側衆」として引き上げられて「3000石の大出世」をさせて、「伊勢青木氏と武蔵秀郷流一門との関係性」をより強くして絶やす事の無い様に配慮したのであったのだ。”から、確かに記録に観られる様に、“上記の完成したルートを使って「商い」を「武蔵」でも開拓しようと試みたと観られるのだ。
    ところが、その後のこの「商いの行方」が江戸期に成ってから判らないないのだ。
    「武蔵の秀郷流一族一門衆361氏」が挙って「江戸幕府の御家人の家人衆」と成って徳川氏に仕えた事が、この「商いの必要性・長島屋」が無く成ったとも考えられる。
    伝え聞く処では、最終は“群馬県まで奥に流れ着いて消滅したと言い伝えられている説”もある。
    そもそも「店名」は、幾つかの店名の記録があって、一門の代表の「長島屋の説/永嶋屋」が多く資料から垣間見られるし、又、[伊勢青木氏・伊勢屋」が「吉宗」に江戸向行した後に、「店伊勢屋を200店舗」を江戸に張ったが、「信濃の闕所の件」などで「吉宗との仲違い」が起こり、それで「3日で伊勢・水伊勢水軍」に引き上げたが、前段でも論じた様に、“「江戸の伊勢屋」を番頭等に無償供与した”と伝えられている。
    然し、果たしてそれでは“店を正当に経営する以上は、そもそもこれでは“番頭等に無償供与した”だけでは済まない筈”であり、「契約等の信用の商い」の上では「担保と成る財産権・債権」などはどうしたのかという問題がある。
    それでなければ「大きな商い」は江戸では先ず治まらない筈だ。
    要は、「信用に値する財産権」である。
    これは「伊勢」では、“番頭等に無償供与で任した”として伝えられているが、それも「大きな商い」をすればするほどに必要と成る“「絶対要件」”であり、これは簡単に成り立つ話ではない。
    然し、ここがそもそもの「筆者の疑問」であったのだ。
    依って、そもそも「江戸経済に影響すると云う事」では、当の幕府はこれを巧く治めて置かなければならないが、これを背に腹は代えられないとして「幕府」がリードして、「伊勢の縁者関係」の「秀郷一門の元殖産業兼土木業の永嶋家・結城氏系永嶋氏」に、この「跡目」を引き継がせて、兎も角も“「跡目を治めた」とする説”にも納得できるものがある。
    そもそも、この「結城氏系永嶋氏氏」は、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の強い縁者関係にあり、例えば「秀吉に陸奥結城氏」を攻められた時も、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」が「秀吉の背後」から単独で攻め立て「秀吉」は「信越道の山道・狭い荒れた商道」を通って「大阪」に逃げ帰ったとする「戦歴史実も遺されている関係」にあって、その所縁は「一門の商い道」に関してこれを壊さない様にする為に動いたとするほどに浅くはないのだ。
    これ以上の事は「伊勢の記録の範疇」を超えるので判らないので論じる事をこれまでは避けていた。
    然し、「明治期まで開発企業」として残っている限りに於いては、“「現実の流れ」”としては「現実の円滑な解決の問題」として「後者の説」では無いかと考えられるのだ。
    もし、そうだとしたら、江戸期にも相当にも経済面でも「伊勢と繋がる秀郷流青木氏」も「駿河青木氏の後裔」と同様に「幕府・秀郷流一門は御家人衆として幕府の8割家臣団」となっている以上に於いては、「経済面」でも大きく食い込んでいた可能性があるとされる。
    「駿河青木氏の御家人御側衆」と「御家人衆として幕府の家臣団等」が、この「伊勢屋の江戸金融200店舗の問題解決に走った」とする説が成り立つ。
    だとすれば「四掟の女系で繋がる伊勢」も損得なしとして納得できるだろう。
    「秀郷一門の中でも「殖産業兼土木業に従事していた永嶋家・結城氏系永嶋氏」が、この「店舗跡目・株主」を「商いの殖産」として引き継いで「財産的跡目・信用度を治めたとする説」を裏付けられるのだ。
    今で云う「ファンドホルディングの企業のグループの一員」として扱ったと観ているのだ。
    其の後の「江戸伊勢屋金融業200店舗」の「店舗数と店名」も、暫時、「永嶋屋」に変化して行っている可能性があるが、これも「変化していて減ってる事」と「金融業の減少」は資料的に判るが、これも確定する程に定かではない。
    ただ、前段でも論じた様に、記録にある様に「薩摩藩」とも「商業取引・島津氏系永嶋氏」をしている限りは、「永嶋屋、又は長嶋屋・長島屋」が、前段でも論じた様に「史実」として室町期末期から江戸期中期に掛けて「関西の手前の名古屋付近」まで「商いは伸長している事・子孫も伸ばしている事」が気に成る事なるのだ。
    伸長する以上は、その「力の元となる財力」が無ければ成し得る事ではないとすると、これが「享保期の200店舗の財」にあったのではないだろうか。
    それが「伊勢の長嶋氏」まで繋がっているとすれば否定はできない事ではないか。

    さて、そこでそうでなければ「伊勢屋後見人」と成っている「紀州藩の反発」などの事を考えた場合は、「江戸の経済を救う為のスムーズな解決方法」は、これ以外には無かったのではないかと考えられる。
    何故ならば、それには前段でも論じた様にこの「享保期」に「300両しか無く成っていた幕府の御蔵金」のその「回復元」に成っていたとすると、この「伊勢屋の商業権を潰す事」は、仲違いしたとしても「吉宗」にしても確かに米市場でも儲けたしても絶対に未だ手放す事は出来なかった筈だ。
    そもそも、其の為の「応急経済策」であったのだから、絶対に放置する事は出来なかった事に成る。

    要するに仮にこの“「伊勢屋が番頭の個人化」”をだけを認めて仕舞えばすればするほどに、未だ達成されていないこの「御蔵金の目的」は、これは「叶わない非常事態の事」に成る事はだれが考えても判る。
    だとすると、突然の「伊勢と信濃の闕所事件・旗本の反発」が、「幕府の意思以上・吉宗の意思」にこの等の一連の事に就いても「反対勢力と成って大きく関わっていた事」が読み取れるのだ。
    更にだとすると、その「反対勢力」に付いては説明する必要も無く判るのだが、それは必然的に「信濃の聖地と殖産を奪った5人の旗本勢力」に成るだろうし、「伊勢で山田奉行所を仕切っていた嫌がらせ」をしたのも{有名な旗本連」であった事を裏付けられる事にも成る。
    「江戸期の青木氏の歴史観として此の期の史実の解明」には、ここの解明が是非必要としているのだが、処が前段から論じている様に、「肝心の武蔵秀郷流一族一門から裏付けられる資料」が少なく見つからないし、確定は困難な処なのだ。

    さて、注釈としてこれ等の他の「稚拙な4説論」では、これ等の歴史観は正しく語れず、それは江戸期に於いての余りにも「面白おかしくする為に物語風で誇張している事・販売目的優先」にあり全く信用できない。
    「上記の江戸期の稚拙4論」からは、信頼できるのは「経緯・日等の史実」に基づくもののみでこあって、それ以外は何れにも間違いなく多く「脚色」を加えている。
    江戸期のものは、そもそも「経緯と史実」だけでは読んでくれないと云う潜在的な江戸分化風潮があって、止むを得ない事ではあるが、それは「史実の探求心」を遥かに超えていたのだ。
    要は、「肝心の武蔵秀郷流一族一門から裏付けられる資料」にある。

    さて、次は上記の「二つ目の疑問」である。
    この「三方ヶ原の戦いの後」の「気に成る点」としては、何と云ってもそれは“「額田青木氏の銃隊の去就」”である。
    「兵ではない銃隊」としての事が其の後にどういう風に出たのかである。
    「伊川津」に戻った後は、直ちに「商い」に入っているのだとすると、この「兵ではない銃隊」が「社会・商い」に対応できたのかである。
    況して、「額田青木氏の銃隊の行動」に対しても、これは普通では間違う事の無い“「戦国時代の常識的な事」”であった。
    本来であれば、何れの陣形でも「陣形の中央に位置させる事」が「常套戦略」であったのに、それをさせなかったし、歴史的に有名に成っている「浜松城の軍議の結果」でも「額田青木氏の銃隊」は城外に放り出されたし、そもそも外に出された「後の命令」は、「偵察」を意味する「決死隊」でもあったし、況してや「偵察の意味」は既に「浜松城の城」から観えているので、「偵察の意味は全く無かった事」にも成る「無用の偵察」であったのだ。
    それでも「軍議」は、「呼出し後の軍議の命令」を拒否した「額田青木氏の銃隊」に対して外に出す事を態々選んだのだ。
    それも出した相手は、「兵として働く」のでは無く、「額田青木氏」が持つ「フリントロック式近代改良式の300丁の銃隊」に対してであった。
    当時の考え方は、飽く迄も未だ「戦いの戦術の中の一つのツール・弓矢的な使用目的」として扱われていたのだ。
    つまり、「戦略的使用」では無かったのだ。
    これは「三方ヶ原の額田青木氏の活躍」を観て後で評価していたのではないか。
    参考として「長篠」では「信長」はこれを「本来持つ戦略的使用目的で使った」のだろう。
    当時から、それでも「世間の評価」は、「銃の評価」として「10倍/兵」が一般的であったが、「フリントロック式近代改良式の300丁」は、その構造上から「100倍の兵以上」には相当しただろう。
    この「約20000から30000以上の兵に値する銃隊」を、「城から観えている処からの偵察」で、既にその「勢力の状況」を「松平軍」は、「すぐ先の一言坂の野戦でも戦って知っている軍」なのに、この「意味の無い偵察」を出したのであったのだ。
    ここから「銃の評価」も含めて「松平軍の戦術的な意味の失敗」が目立つのだ。
    且つ、そこは「城」からも観えている所でもあるし、そこに態々「偵察」を命じたのだ。
    其の込められた意味は判るだろう。
    それは「軍議の命令」に応じなかったからだが、そもそも「額田青木氏の銃隊」が「伊川津の国衆」であっても、「家臣にしてもらう為の国衆目的」では無く、その働きで、「渥美半島の制海権の取得契約の目的」としていたので、そもそもそこが根本的に違っていたのだ。
    そこで「額田青木氏の銃隊」は、「三方ヶ原の戦場12/22日」には、真偽は別にして「資料・伊勢資料」に依れば、この「額田青木氏の銃隊」は、“開戦ぎりぎりに間にあった“とだけ記されているのだ。
    これは「判断材料」としては「重要な時系列の記述」である。
    上記した様に、実際は「駿河青木氏の貞治隊を救助する事」の為だけのもので、この“「目的の異なる事」”に対して、「時系列」としては「額田青木氏の銃隊」が、“それを戦術的に間に合わした事に成る”のだ。
    つまり、この「ミスマッチの鶴翼の陣形の犠牲の多い中央」には、それを「別契約に依る国衆である額田青木氏の銃隊」にさせようとする「軍議の狙い」であったが、それは元より「陣形の中央」に位置するのは本来は「旗本」である。
    この時、“「旗本のプライド」は、それを許さなかった”と云う風に「物語風の江戸戦記の一つ」には真偽は別にしていて書かれている。
    但し、これは「後付けの編集」されて事実と異なるのだ。
    此処には、次の事が隠されて書かれているのだ。
    一つ目は「三河者の頑固さと嫉妬と羨望」
    二つ目は「銃の威力の知識の無さ」
    三つ目は「戦略的知識のレベルの低さ」
    以上3つが三河戦記と呼ばれるものには共通して編集して書かれている事である。
    ここではその戦記の一つに不思議には正直に書いている。

    そこでこの事に就いて、“「秀郷一門の背景・伊勢」に遺している「軍師役・指揮官の書」”には、つまり、「遺した忘備録の様なタイプの資料・発言録」には、次の事が書かれているので照らし合わせて観るとする。
    但し、この“「軍師役・伊勢秀郷流青木氏であったからか」”としたのは、「青木氏から観た全体的な立場」であって、且つ、「銃隊から観た立場」では、この「書」は“「指揮官」であった”として、故に「忘備録の形・老後での思い出しの記録」で記しているのであろう。
    これを前提にして要約すると次の様に成る。
    先ず、“彼らは元来は“「影の力」”を得意(ゲリラ戦)としていて、本来、“彼等は「直接戦闘力」は有していなかった”としているのだ。
    確かに、それを「補う為に採った作戦」が、この“「影の力」”を得意(ゲリラ戦)としている為に、それを補うものとして「フリントロック式改良型4連発超近代式300丁の銃隊の保持」で在った筈”と記されているのだ。
    「銃兵」と云うよりは「影の力で押し通す兵」であった事に成る。
    つまり、この「改良の成した意味する処」が、その為にあって前段で論じた様に「影の力」に負担を掛けない様にする為のもので、その為には「銃の欠点をより少なく良く解消した事」ではないかと成る。
    そうでなくては使え無かった事をも意味している。
    「影の力を得意(ゲリラ戦)」とする以上は、要するに「特段の訓練であった事」に成り、その為には「兵を動かす指揮官が特段に必要と成る論理で動いていた事」に成る。
    然し、そして、そこでこの「記録の事」を考えれば、“これだけでは「戦乱の世情」にて出て生きて行けないのは当然である”として、そこで「美濃の東山岳民」から“「伊川津の国衆」”とさせるまでの計画である以上は、彼らには“「それ相当の戦闘力・武器力」を持たす必要があった”としている。
    これに就いては明確に書き置きしているのだ。
    これは「戦記側の言い分」である。
    だから、飽く迄も“「影の力」を得意(ゲリラ戦)とする兵”である以上は、「軍議に於いても決然と断ったとする説」が成り立つのだ。
    つまり“「陣形の中での戦術兵」では無い”と云う考え方を持っていたと云う事になろう。
    それが「青木氏族の策」として、“「秀郷流一族一門の助成・伊勢」に依る「戦闘力の背景(軍師)」をより持たした”という事の意味であったのであろう。
    そして、この“「背景」”とは、“「軍師役」と「軍事力・銃の抑止力」”であった”としているのだ。
    此れでは、この「忘備録」から検証すると、「相当に意味合い」が異なっている事に成る。
    要するに、言い換えれば、“「伊勢と信濃」の「青木氏族」のその得意とするのは、そもそも“「経済的な力」”であって、「戦術力」では無く、その「経緯」では、故に、“「鉄砲・試作銃・堺」を先ず自らの力で獲得する事”としていた事である。
    それが、「額田青木氏」に「持たす以上」は、それは「火縄銃程度」のものでは無く、“「周囲の脅威」とも成り得る程の「超近代的な武力(鉄砲)」を与えた”として補完策としている事に成るのだ。
    故に、この説であれば、美濃の「加茂・木曽域の山間部」から出て来ても、兎も角も結果としては、“「伊川津の国衆の力」は成立した”としているのだ。
    つまり、「銃の兵力とは当初より観ていなかった事」に成るだろう。
    後は、“「訓練・フリントロック式改良銃の秘作銃の事か」と思った”としている。
    この「印象」としては、つまり、この「一忘備録の様な記録」としてでは、“目標達成の後として多少憤慨気味に記されている”のだろう。
    この「書の論理」で行けば、この「経緯の検証」では全てに於いて符号一致するだろう。
    然し、当地を治めていた「松平家康本人」に付いては、更に、この「一忘備録の様な記録の資料」を観ると、単に、“相当なこの「近代的な武力」には、“魅力を引かれていた様であった”とし、“ここだけは主観的に記されているのだ。
    これは戦い後に「伊勢と話し合っている事」を物語るだろう。
    然し、この結果として、実質は「伊川津の国衆」として成り得て扱われていたとし、この史実としての結果とし“「伊川津七党」の「青木氏党の四家」が、「土地の旗本等」に敵対されていた”するのであろう。
    然し、この「旗本」には、未だ“「銃に対する認識度」が極度に低く理解が得られい無かった”とされていたとしているらしい事なのだ。
    そうすると、論理としては「三河旗本」の「よそ者への村意識が強かった事」に成る
    客観的に、“「それ・嫉妬と怨嗟」が長い間も排除されなかった所以であろう”と、この「防護録」は記している事に成るのだ。
    それが「家康と仲が良かった」と成れば、彼等に執っては耐えがたい屈辱に近い怨嗟となる事は否めない事かも知れない。
    結果として、「戦い後」に戻った「伊川津」では、“莫大な供納金を治め渥美湾の制海権を獲得する”事に至ると共に、「三河での開発権や殖産権や陸運権」を、ここで一手に引き受けたのだが、これはその後の変わり身の早さだ。
    そして、それと共に「その開発業」と、並びにそれに並ぶ「陸運業と殖産業をも営む事」と成ったのだが、この「三河」では、「額田青木氏に向けての改良銃の銃」の「その後の行方」は、“まだ充分に安定しない社会の中では必要としていた様なのだ。
    「額田青木氏」は直ぐに「兵」では無く「商いの担い手」に成っていたのだ。
    「伊勢」は元よりそれを知っていた事に成る。
    寧ろ、それを当初の目的として彼等を鍛え「額田の山奥」から引き出して「青木氏族の力・武蔵の一族との繋がり強化」にしたと考えられるのだ。
    「信長の台頭」に依ってこれを壊されると云う警戒心が強く、結果としてルートが遮断されて「女系で繋がる青木氏族」は衰退し抹消の破目に至ると呼んでいたのだ。
    現実にこのルートの元に成る「神明社」がこの「尾張から三河」の間で壊されていたのだ。
    それだけに、この「抑止力」が未だ続く限りは、この「銃兵の印象」があって「伊川津の旗本衆」も手が出せなかったと云う事に成ったのだ。
    現実は、この「江戸初期の社会の中・他の国衆への脅威と商いの山賊盗賊対策等対策・松平氏黙認」としては前段でも論じた様に、「三河での開発権や殖産権や陸運権」を成すには未だ充分に「「武力的な力」が必要であって、そこでは、「銃の保持の禁令」にも拘らず、「密かに氏の存続とその警護の為」にも使われた事”に成っていたとしているのだ。
    そして、それ故に「額田青木氏の南下国衆を護る為の脅威に対する威力」は、この「銃力による脅威」は抜群であったが、ところが「現実の問題」としては前段でも論じた様に、“いざ他の者がこの「特殊な額田青木氏仕様の特殊な銃」を使うとすれば、反面に於いて、“相当訓練を要する「特殊銃」と成っていたらしい事”が記さされていて、そこから、“果たして使えるかの問題”もあった様なのだ。
    それには先ずは「技術的な面」として問題があったらしい。
    それが「日本国内」では、禁令に拘わらず黙認されていた理由の一つには、先ず簡単に銃を入手し模索され得ない事だったし、且つ、その「銃としての必要な資材」としては、「超高額な入手困難な黄鉄鉱・国産化は無理で貿易限る」の必要性であった事の「二つの難題」と共にあって、それが主な一般が使えない理由でもあったとしているのだ。
    「銃」は当初より「商いを前提とした護身用銃」であって、兵を前提とした銃では無かった事に成り、其の様に動いていた事に成る。

    前段でも何度も記したが、余談だが、其の後のこの「銃の行方」は、江戸初期では「銃としては利用価値」はあったが、「中期以降の価値」は、肯定は出来ないので筆者が観る処では、その「使用の影形」が無い所を観ると、「頃合い・秀吉」に次いで、「江戸幕府初期の銃規制令」を考えても、その後に密かに“氏族内で強制廃棄焼却等の処置処分等を一斉に施した”のではないかと観ているのだし、目的の為にもそそうしたのだ。
    この処分は「江戸期初期の火縄銃規制」の時か、やや其の「20年後内頃」では無いかと考えられる。
    この間の詳細は記載されていないのだが、“密かである限り”は飽く迄も“密かに処分と成った”と理解する事が妥当だろう。
    将又、その量から考えるとその処分は、“「300丁である事」と「一族内とする事」”から、その“最終処分の時期”は、「松平氏」がこれを黙認した以上は、遅くても「130年後の享保期の事件」、つまり、「幕府の難癖」と「国衆の嫉妬怨嗟」と、将又、この時期までに「豪商等」に頻繁に行われた「難癖の闕所の時期」を避ける事に、つまり「処分時期を重視した頃」までの事に成るだろうと観ている。
    それは、前段でも論じたが、“刀”の様に「昭和期30年頃」まで密かに「伝統品の数十刀の名刀」も“青木氏の格式を物語る物”として確かに所持していた。
    これと共に「銃の飾り・確認している」として持っていたされる事が、「先祖や祖父の忘備録」や「父の口伝」や「一族内の資料」ではこの事は明確に伝わっている。
    そして、その「銃に関わる物」は別として、「刀掛け等の伝来品等の物・現有」の「多くの古伝統品の物」は、現在も一部保有して「飾り」としている。
    この「類の銘刀等」も筆者も現実に目視している。
    然し、処がかと云ってこの「銃の関係品」だけは「格式や飾り」とは成らない事からか、この類するものは家中や一族内にも隠していた形跡は何一つ見つからないのだ。
    取り分け、「鉄・銃に関わる物」として「戦時中」に、そして「その戦後」に「危険物」として「飾り程度のもの」までも全て「供出令」が下ったが、その時の「憂き目を受けた事の印象と記録と口伝」も無いのだ。
    どこかに1丁位は隠し持ちしていたとも考えられるが、一族内にも“完全な影形”で見つからないし、これらの「廃棄の記録」も無いのは、「江戸期の中頃」までに全く遺していなかった「証拠」でもあるからであろう。

    兎も角も、そもそも、この「額田青木氏に与えた銃」は、現実には「訓練無し」では全く使えない代物だったとし、そして、「黄鉄鉱石の入手と硝石と鉛の入手」は、現在でも“「貿易」”に依ってだけ得られるものであって、現実には他人に渡ったとしても、“「伊勢屋との繋がり・貿易」”が無ければ使えなかったものたったとしているるのだ。
    唯、「何らかの形上・飾り」で遺されていても良い筈だが、「伊勢の四家と福家」にも影も形も無い。
    「1605年の江戸期の銃規制」もあって、“「飾り」”も含めて「銃の存在価値」が、江戸中期頃以前に「青木氏の氏是と家訓」の上からも好ましくない代物としていた事に成る。
    筆者の考える処では、「氏是の考え方」としてその「保持そのものが価値]として「一族内」で統一して「廃却を前提として否定されていた代物ではなかったかと云う事だろう。
    つまり、江戸期では“「銃の飾り」”が、「刀」の様に「戦いの象徴」の“「伝統品」”として扱われる事が「社会」でも許されなかったとしている事であった。
    この事もあって、「刀」と違って「青木氏の律宗族としての格式の立場」も相まって、“「飾りとしての持つ事の意味」”の「そのものの元の意味」が「否定されていた事」と考えられるのだ。
    現実には、従って、ところが「象徴としての刀類に関するもの」だけは、確かに「昭和期・20年」までは家中に存在していたが、「遺されている伝統の現在の遺産類」にはこの種の「氏是に反する物」は、最早、無いのだ。
    要するに「銃は戦う武器である事」には間違いは無いが、「刀」にはそれ以外に「族家の伝統の意味」を生み出し、「銃」にはその「伝統の意味」は無かった事に成るだろう。
    「青木氏族」の中では、これは、「考え方」として統一されていて、“「銃と刀の持つ意味」がハッキリと違った”と云う事では無いだろうか。
    それを意味する記録類がない事は、そもそも「青木氏族」に於いては、当初より“「否定的な伝統品として扱われていた事」”をも意味するだろう。
    要するにそれは、“「銃の殺戮性」”に関してでは、「青木氏の中」では「伝統的ではないとする否定的な考え方」を持っていた事に成る。
    然し、この“「超近代銃は苦難の末に欠点解決」までして完成されている”とすると、これは「格式ある氏族の行為」としては、その努力は「完全な矛盾」に当たるのではないか。
    つまり、では、これを“額田青木氏に持たすと云う決断”は、何れも製作段階では「高度な業物である事」には大した違いは無かった。
    だとしても、これは「福家の際どい処の判断・概念であった事」に成る。
    且つ、然すれば「青木氏の氏是に反している事」にも成り得るのだ。
    然し、前段でも論じた様に、「多くの処」で実用していて、“額田青木氏に持たすと云う決断”には、“何か大きな意味を持っていた事”に成る。
    だとすれば時代には必ず起こり得る「氏族生死の様な意味」を持っていた事に成るだろう。
    それが「647年の青木氏の出自来からの青木氏の氏是」に反してでも、“持たせた”という事のその「応えの目指す事」には、“それは何なのか”の疑問があって、その「答え」があるとすればそれは唯一つであろう。
    それは、“仮にそれが「青木氏の氏是を冒してでも持つ」と決めた”以上は、これは“「究極の二つの全青木氏一族の存続に関わっていた事」”と、判断されていたのではないだろうか。
    それが“「信長の台頭・天下」”が、成り行きに依っては「青木氏の生死に関わる事」と判断されていたと云う事なのだ。
    「以上の経緯」が「三方ヶ原の戦いの後」の「額田青木氏の銃隊の去就」に関わっていたのであって、その明らかな証拠」に三河西域端の「蒲郡」には、より存在をより強化する為にその「総合的な伊勢の活動拠点」を置いていたのだ。
    そこからの「開発業と陸運業と殖産業」の推進を図ったのであった。
    これには、元々、「兵としてではなかった者」の「額田の青木氏」が、直ぐに「開発業と陸運業と殖産業」に取り掛かれた故であろう。
    「兵であった者」には元来この様に変身の早い事は行かないであろう。
    それには、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏・開発業」と「額田青木氏・陸運業」と「駿河青木氏・殖産業」が手分けして従事した事が判っていて、そのそれぞれの「居住した地域」には現在も遺る「青木村」を形成しているのである。これが証拠であろう。
    その「生きた場所」を特定できるこの「青木村」は、「去就の結果の何よりの証拠」でもあろう。
    「石切り場の引き出し港」を先ず改良し、「伊勢水軍」も横付出来る様に港の開発した。
    この「港を持つ三河蒲郡の青木氏」は、「渥美湾」とは別にその「伊勢との直接の繋がりの場所」とも成っていたのだ。
    要するに、前段でも論じた様にここは「伊勢」からも近く住む等の事もあって、「連絡事務所の支店の様な所・活動拠点」であったらしい。
    ここに「額田青木氏の本家筋・伊勢の桑田青木系」が「伊川津」から離れて住み分けたと書かれていて指揮を執ったとしている。
    この蒲郡の港から直ぐ後ろに大きな館があったと記されている。
    恐らくは、「三河の松平氏と伊勢との連絡事務所」を兼ねていたのではないかとされる。
    「家康の近習衆」となった「貞治の後裔・長三郎」が、「家康の伝言等」を「伊賀者・香具師」を通して秘密裏にこの「蒲郡から伊勢」に発していたのではないかと予測している。
    そうする事で最も警戒しなければならない「戦後の三河への援助と復興活動」が「信長に漏れる事」が無かったと予想している。
    これが「信長」も「伊勢湾の調略事件」に観られる様に最も警戒していた事でもあったのだ。
    「貞治の後裔・長男の長三郎系」が「駿河の今川国衆」から「超出世の家康の3000石の近習衆」と成ったそもそもの「功績の所以」はここに在ったのだ。
    「信長」に漏れない「伊勢水軍や伊賀情報集団」を複雑に絡めた「伊勢とのルートの構築に成功した所以」であろう。
    「暫く持ち続けた額田の銃」は、上記した様にその保持そのものをうやむやにする事にも意味があって、その後の「信長への牽制」にも充分に成りえていたと観られるし、それに背後にはこの「額田の銃力」が「松平氏にも都合の良い所」であったであのろう。
    それだけの簡単に攻める事の出来ない「牽制の意味・2万から3万の兵力」を拡げていたであるからだ。
    「長篠」ではこの「銃の存在」は無かったが“「松平軍の背後」には青木氏の銃が有るよ”と云う牽制で充分であったからだろう。
    現実に勝頼の陣の右横500mに陣取った松平軍は、既に国衆で゛は無く成っている「額田青木氏の銃隊の存在」だけを思わせる事で充分であつて、それ故に合力せずに一切発砲をしなかったのだ。
    余談として「傭兵軍団の火縄銃の銃の使用」は「織田軍」だけであったし、この「信長の本陣」は銃隊の遠く後方の豪族の館に置いた陣屋であった。
    「額田青木氏の銃」は、其の後に人は殖産業等に関わり、「牽制の道具」で使われたと云う事なのだ。
    そもそも、序でにその「銃の行方」に付いては、時には、これが「飾床間の片隅」に飾って置いてもおかしくは無いだろうとする程度の事だったが、それが責めての事として、これが「青木氏の氏是の根幹」と成っている“「青木氏の奈良期から9つの縛り・嵯峨期天皇・平安期」の「掟・否武力」と「抑止力」とに反する事”からであったからであろう。
    この様に「銃の記録と経緯を遺す程」であれば、責めて「政策期1640年頃から廃却期1740年の100年の間」では、「飾床間の片隅」にもあり得た筈であったが、これに付いても{口伝」もないしそうしなかったのだろう。
    これを「成さしめたもの」は、上記から論じている“「長い青木氏の伝統」では無かったか”と考える。
    これが正しい“「青木氏の歴史観」”では無いだろうか。
    上記の事は要するに、“「青木氏」をクローズアップする為”に、ここにスポットを当てて観たかったのだ。
    「後勘の者」として云えるこの掘り起こした「歴史観の事」は、ここが「源氏族」と違っていて「生き遺れた所以」であったと云う事なのだ。

    「青木氏の伝統 76」−「青木氏の歴史観−49」に続く。


      [No.399] Re:「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」
         投稿者:青木   投稿日:2022/12/04(Sun) 10:50:04  

    「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」の末尾

    > 然し、“「伊勢青木氏」が何かしているだろう”程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
    > 手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、筆者は""出したくても手も出せなかった“と観ている。
    > 一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
    > 「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
    > 筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
    > 「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
    > そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、この「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝しててた。
    >「全段の額田青木氏論」でこの「詳細」を論じたが、故に“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
    > ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げたその「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わった。
    >以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
    > 逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ


    「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」に続く。

    その頭角は、“「貿易に依り高い技術を求める事・中国貿易は超えていた」”には成っていたが、「鉱石と製鋼の技術」のみならず、「鉱山の火薬・爆破の技術・砂鉄には無い」にも繋がる事で秀でて、其の事に依ってその「技術の完成」が、「因事菅隷に依る近江の鉱山開発」に生かされた。
    前段で記した紆余曲折の末にこの技術を習得した「額田部氏」は「臣の官位」を獲得するまでに至ったのだ。
    別出自とされる「出雲国の額田部氏・臣」を遥かに凌ぐ立場を獲得する結果と成ったのだ。
    結局は「彼等の協力」を得て「鉱山開発の総合技術」は進み、結果として“「2鉱山から4鉱山」に増やした。
    この”事の意味は大きく成り、それが無ければ、“鉱山開発を増やしたの経緯”は無く成っていたのだ。
    其のままでの技術では「無理に繋がる事」に成り、その為にも先ずは「院の屋の商業化」であったのだろう。
    故に、「鉱山開発の院」のみならず「院の屋の号」をも獲得する事と成っているのだ。

    然し、考えて観るにこれには「二つの疑問」が湧く。
    その「疑問の一つ目」は、この時期に敢えて、天皇から密かに密書としての“「因事管隷”の院屋号」”を持っているにも拘わらず、「伊勢の別枠925年頃の商業化策」は「朝廷」に於いても「危険であった事」なのでは無いか。
    この「時期の事」では、慣例上では未だ、“これは朝廷が商いをしている事”と成り得得たのではないか。
    然し、寧ろ、「朝廷」はそれを敢えて“「院屋号を思うように許した」”のだか、「その時代が求める必然性」があったと云う事に成る。
    そもそもこ「因事菅隷」はその「扱い」は「青木氏だけの密書」であったので、周囲は知る術も無いだろうが。
    この凡そ、その“100年後に進めて更に「総合商社化」して「貿易」を本格化さしている。”のだ。
    「部経済」によって「朝廷に集まる全ての物」を管理し、それの「余った物」を「市場」に放出して裁き利益を獲得しそれを「朝廷の財源とする役目」を担っていたとすれば、寧ろ、“天皇家が密かに影で商いをしている考え”にあったのではないか。それを当然の事としていた事に成り得てこの一つ目の疑問は解ける。
    次は「二つ目の疑問」は、この時、“「女系で繋がる伊勢郷士50衆」はどうしていたのか”である。
    資料の一部から読み取るに、この「女系で繋がる伊勢郷士50衆」の「氏族集団」を下に幾つか組を組んでその役割を果たしていた“「特別な下部組織の伊勢衆」”がいたとされるのだ。
    それが、歴史上に残る有名な“「200人伊勢村主衆組」が南北に「二つの組」に分けられて「伊勢の民」を長く整えていたとしていて、この「因事菅隷」に基づくものは密かにこの「二つの処理集団」に依って処理され、これが「其れの始り」であったとされているのだ。
    この組が南北に二つに分けていたとされ、この組と「伊賀青木氏の情報集団」と連携していたとされているのだ。

    丁度、この時期に「嵯峨天皇に圧力をかけられた青木氏」を救ったのが「仁明天皇」であり、更に出自元ではない「円融天皇」から「北家藤原秀郷流青木氏・母方」を永代で、再び「青木氏を賜姓する事」に改めてこれを定めているのだ。
    この「円融天皇」はこの「因事菅隷に基くシステム」を知り得ていて、弱っていた天皇家そのものを基礎的に支える集団をより強くしようと試みたと考える。
    それが賜姓族を外された後の「因事菅隷の伊勢青木氏」が当に「商社化した時期の50年後」の時期にほぼ一致する。
    「鎌倉期の歴史書」にもこの事が書かれている。
    この事からも「全青木氏一族」には、“その時代が求める必然性があったと云う事”は否めない。

    それが故に、この「上記する経緯」を以てしても、偶然にも期せずして後に上記の様な「銃の鉄」に「良い結果を生み出したと云う事」に繋がったのであろう。
    又、それが「額田青木氏の銃の歴史」と成って現れたものであろう。
    上記の様に、この「摂津の範囲・秘密裏」で行っていた余りにも「銃に対する高度な技術」は、「上記の事」を充分に理解すれば、「他が真似する事等」は「財と技術と因事菅隷等を含む環境があっての事」で成し得たものであり、他がこの「銃の真似た生産」が「絶対に不可能で在った筈」であり、故に、「三方ヶ原とその後」にも世間には「存在し得ていない銃」と成り得たのである。
    「近江鉄の鉱山開発」に、“「因事管隷・賜姓五役」”があった事から「他が真似する事等」は薄々知ったとしても絶対に出来なかったと考えられる。
    将又、故に、この「戦後」にこの「殺戮性の高い銃」のそのものも「世間に出す事」は、「密かな護身用」で在る限りに於いては、「青木氏の氏是」に基づき永遠に憚られたものと成り得たのである。

    注釈 其の内でこの“「因事菅隷・密書」”を発している相手は、可能性として他に「川島皇子」の「後裔の近江佐々木氏」と「後裔の近江佐々木氏とその系列3氏」と、上記の「青木氏族2流の範囲」に限られるであろう。
    筆者はこれらの「献納を成し得ない財の能力」と、及び「因事菅隷財の成し果たし得る組織」の無い氏に対し“「因事菅隷・密書」”を発してはいないと考えている。
    これ等は「密書の類」であり処分される常として故にその記録が無いので限定できない。
    要するに、少なくとも「皇親族出身の令外官の立場」にあった者への、所謂、「密書の類」であるので「因事菅隷」を出している可能性はそもそも多くはない筈であり、又、遺している可能性も低いし、それを果し得る組織として「伊賀者の様な香具師・情報を担当していた忍者等を有する氏族」で無ければ、この「秘密裏の伝達と保持」は根本的に無理であろう。
    と云う事は何度も記する事になるが、「他の高位の氏族」では無理であり、且つ、「内密な密書」と成れば「全く信用の置ける賜姓臣下族」で、それも「血縁性の高い身内」としなければならない事に成り得て、「伊勢の青木氏」で無ければならない事に成っていたと予想できる。
    そもそも根本的に「財と秘密裏の情報伝達手段」が無ければ成り立たないのだ。
    その意味で、根本的に、所謂、「献納と情報集団」を持つ「二つの青木氏を含む青木氏族」で無ければ成立しなかったのではないか。
    取り分け、「経済力を有する事」が先ず前段で論じた様にその「前提の条件」にあり、「献納」に基づく為のそれが大前提条件であったろうし、この二つは「一対」であったろう。
    その意味で、毎年、季節的被害に見舞われていた「近江東域」は、その影響を受けて「どの近江族」も「経済力が極めて低かった事」により、「朝廷」もその「負担」で手の出しようが無く、「伊勢」からこの「近江東岸」に対して、「二つの干拓大工事」を「20年と云う歳月」を賭けて援助している所以を持っていたのだし依って無理であったろう。
    結局は、密かにこの「因事菅隷」で「伊勢青木氏」を動かし「額田部氏」を以てこの「干拓灌漑工事の完成」を成したのだ。
    然し、これは一見して、周囲から観れば“「朝廷」が計画実行している様に観えたかも知れない”が、“「ほぼ青木氏にだけの因事菅隷の狙い」”のひとつにはここにも有ったのかも知れない。
    然し、この「因事菅隷]とは別に、数々の「院屋号の特権」を認められていて、それも「永代賜姓五役の令外官」であった以上は、“これも止む無しとしていた事”があっただろう。
    そもそもその事に依って「巨万の富」を獲得していたと思えば不満は無かったとも思える。
    然し乍ら、これが当時としても片方で「皇位族であったその伝統とその格式」を保ち乍らも地方では「因事菅隷」に基く行動をすると云う不思議な氏族であった事に成る。

    注釈 何度も論じた事ではあるが、江戸期に於いては世間が安定し危険性が無く成り、「殖産と商い」にも「存続の危険性が無く成った頃・上記の享保期の事件もあった」を見計らって「闕所」を仕掛けられるような関係性を証明する全てを焼却したと「総合的経緯の分析」から考えられるのだ。
    その「銃の存在の発覚」が、世間に広く出して仕舞った以上は、その目的が達成した今に於いて場合に依っては「氏族をとんでも無い危機に陥れる事」にも成ると観て一斉に無くしたのではないか。
    つまり、「捨てる事」より「持つ事」のリスクの方が「社会の変化」で変わったと云う事だろう。
    恐らくは、その“「兆しが強く現れた」”のが、「青木氏族の事」を一番よく知っている「吉宗の享保期の事件」であったのでは無いかと観ているのだ。
    完全に「証拠を掴まれている人物」が居たと云う事だが然し信用していた人物でもあった。
    その様に途中で「吉宗は受け取った」のであろうし、そもそも「伊勢攻め」が無地に済んだと思う頃には、今度は「秀吉の刀狩り・1588年」が始まり、それに代わって今度は「吉宗」も「青木氏族の絶大な協力」を受けていたが、その「内心」は“その潰す機会を伺っていた”とも観られるのだ。
    「将軍に成る為の裏工作」、「江戸向行」、「江戸の経済政策の立直し」、「紀州藩への財政的救出」や「家康鈴鹿峠の救出事件」や「伊勢津泊の秘密渡し舟事件」で数々貢献したにも関わらず、その反面で「大岡忠相の伊勢の事お構いなしのお定め書無視事件」、「同山田奉行所の海域嫌がらせ事件」、「信濃青木氏の聖域剥奪と殖産没収事件」等の「・吉宗許可が要る裏切り行為」が続いた。
    丁度、「嵯峨天皇」が「皇親族の出自元の青木氏の行動」を妨害したのと同じである様に、これに依り遂に「人の内心」が露見したのだ。
    “秀でる者は潰される”の例え通りで何れも「最も青木氏と深く関わった者」からの「裏切り行為」であった。
    「青木氏の氏是」を遺した「始祖の施基皇子」もこの事を経験していた事であって、それ故の「氏是」であってこれを護っていれば知らねばならない事でもあった。
    此れを最後に、前段でも論じた様に「江戸資産・江戸伊勢屋200店舗」を其の侭にして「伊勢水軍の3日船」で「伊勢松阪」に急いで逃げ帰り「紀州藩の後ろ盾・歴史観」を求め「危機」を脱出したのだ。
    そもそも「伊勢水軍が湊先に控えていたと云う事」は、丁度、輸送の為にか、将又予想していた事なのか確認はできないが、記録に“「3日船」”と記されている以上は事前に何かある事を予測出来ていたのではないかとかんがえられ、それもそもそも“「信濃」に手を出した時に合わしての「タイミング」”とするとが良すぎる。
    筆者は「氏是」がある以上は、「荷物搬送を装って薄々用意していたもの」ではないかと観ているのだ。
    恐らくは、この時を「潮時」として、「伊勢」は「難癖を着けられるような物とその行動」を自らを以てそれを「証拠と成り得る因事菅隷・密書等」は特に疑われると共に一斉に青木氏一族全体で消しさったと考えられる。

    「伊川津青木氏・当時は未だ国衆」や「駿河青木氏」や「秀郷流一族一門」や「伊勢水軍」や「伊豆青木氏」や「日向青木氏」等には「試作品」も含めた「防護用銃・抑止力として配布していた事」が確かに渡ってはいるが、そのもの一切の時期は同じくして「享保期直後」に於いて忽然とその姿を青木氏族の中から消している。
    これは上記した「注釈」が原因と考えられるが、“何かがあって消した”と受け取れるし、消す以外に無くなったとも考えられる。
    それは他に参考として語れば、「江戸期」には「一揆などの騒動」が社会に多発して「銃が使われた事」にも成って、従って「幕府」に依って「二度の刀狩り令・銃などの武器保有の禁止」が成された。
    恐らくは、「紀州藩と幕府官僚族」であった「青木氏を含む秀郷流一族一門」は、これに伴い密かに「秀郷流の氏族全体」に影響する為に、「申し合わせて一斉一切」に廃棄して焼却させたとも考えられる。
    これに伴い、「各地の保有していた青木氏族」も同然に追随したと考えられる。
    この時に「秀郷流一族一門・府と藩の官僚族であった事も「影響・政治の中心にいた事」には、今だ「歴史的な関係する研究資料」も散見できないのは、確かにその後の「火災震災戦災」も考えられるが、この時の「令」にも関連して「他の疑われる物までも焼却」したのは前段で論じた通りであり、この様に「一切の焼却時期のタイミング」としては「享保期」で一致するのである。

    然し、「銃のみならずこれに関連する一切の書籍」までもが確かに焼却されたものの、僅かに、完全解明には足りないが、「伊勢のテリトリーの中・鎮守社の拝殿後ろ」に密かに「祠」を隠し、その隠した「祠の神明社」と共にその「床下」にも密かにその一部資料が遺されていたのだ。(史実)
    その所以もあって、それが本論のこの「芋蔓の様に解明の一口筋」と成っているのだ。
    「額田青木氏の銃」とは、全くその「経緯と学説」は異なる事と成るが、敢えて比較して前段で論じた「種子島火縄銃の学説論」での「時代の銃形式」を研究すると、「学問的な知識の到達」と「製造技術の到達」では、「額田青木氏の銃の経緯論」としては、ここまでで“「無理」”と成っていたのだ。

    さて、判り易くする為に再び「比較論」をする。
    そこでそれとしては“銃での戦闘論」”が最も判り易いので、再び「種子島火縄銃の戦闘論」に立ちいる。
    すると、この「射撃」に依って起こる「銃身通過時」の「摩擦高熱の欠点・三つの鉄の欠点」が表にに出て来るのだ。
    そもそも其の侭では“銃を銃として使えない”のだ。
    これを補う為には、この「摩擦熱」を持つと「銃」は“亀裂破壊”し必然的に最後は使え無く成る事から逃れられないのだ。
    その手前で仮に終わったとしても、結局は「冷えて使えるまでの一定時間」は、「徒士の兵」が柵から出て戦闘して、そして再び引き上げて、次の冷えた頃の「銃撃開始期まで待つ事」が必要に成っていたのだ。
    「信長」は、この「銃の決定的な欠点」が“不認識に依って計算外で兵力”を計算されていたのだ。
    現実に、「信長の雑賀根来の射撃団」でもこれを「計算外の出来事」として捉えていた節があって、これが現実に起こっていて「史実」としてこの事が詳細に記録として語られている。
    これには、“「3000丁の火縄銃」が思う程には効果は低かった”としているのだ。
    その後に結成された研究団の「実践的に研究した結果」では、使えたのは、その“「1/3程度」であった”としているし、更に、“「大きく銃撃団の犠牲が出た」”とする原因"は、この事にあった”と「雑賀の記録」には記されている。
    但し、ところが此れを“側面から「信長の武士団」はこれを補完せずに雑賀根来の傭兵軍団は自ら銃を置いて「刀で戦った事」”が記されているのだ。
    この事が元で、“信長と雑賀根来族と犬猿の仲と成った”と結論付けていて、この記録は筆者の検証結果と同じである。

    さて、次にでは“この「状況」はどの様なものであったのか”をこの「研究記録」から読み込んで観る。
    面白い事が判って来る。
    この“「銃撃の間隔」”は、「最低で1h/3000丁の3段階撃ち・記録史実」とすると、「銃の冷却期間・比熱」が「2〜3回程度/h発生」と成るが、その間は「弾幕は無しの状態」で「武田軍突撃隊」は前に進む事が出来る事に成る。
    この「間隔」を置きながらも、この「進撃」を受けながらで「引き付けて撃つと云う事」を「繰り返した事の戦い方」に成る。
    然し、それ故に「雑賀根来の銃の傭兵軍団の3000丁の銃」の内の「約半数・1500丁」は、銃身の「加熱オバー」で「銃」は最終的に使えなく成っていたと「専門的な検証・三つの鉄の欠点」として観られる。
    この「戦闘時間」が「記録」では、「最大で8h、最小で4hの説」があるが、この「銃撃戦闘時間の8h説」では、「三っの事、即ち、「疲労と未明と熱の三つ事」で、この説は物理的に「現実的では無い事」が判る。
    そうすると、この中を採って、「戦闘時間」が「4hから6h」とすると、「12〜18回の射撃回数があった事」に成るが、然し、この「銃身」には「冷やし乍らも熱以外」にも、実は次第にこの「鉄製品に起こる専門的な欠点」、即ち、「300度脆性の欠点」と「鉄疲労破壊の欠点」の先ず「不可避の二つ」が起こるのだ。この論点の間隔時間が研究されていないのだ。
    それと、もう一つ検証に於いて考えなくてはない事があって、この“「熱以外」”そのものの「鉄の熱の疲労限界・鉱物には必ず存在する」に近づく事に成るのだ。
    この上記した「三つの不可避の鉄欠点」が起これば「銃」は「冷却」どころか「破壊」で永久的に使えなくなるのだ。

    この懸賞点t゛欠けているのだ。
    これが、この時には、既に一方の「武田軍も戦力」も落ちてきている事に成るだろうが、この“「鉄の欠点の三つの事」”が「傭兵軍団の銃の限界」にも近づいて来ている事に成るのだ。
    結果としては、この為に“「アイドリング」”として、「銃撃停止の間」の「徒士の戦闘兵」を再び「棚枠内」に「引き上げる行為等」に、「手間取る事」もあり、又、「弾煙等のロス」が生まれて計算通りには行かないのである。
    故に、よく見ても「種子島火縄銃・特に雑賀銃に限定」では、「戦術」とは別に「物理的・当時は学問的な欠点は理解されていない」に観て、抑々、よく見ても「銃撃回数・6から10回程度以下」には確実に成っていただろう事は判る。
    これに依って、「武田軍の疲労した突撃」では、最終は記録の通りに「全滅の憂き目」を受けたと成るのだ。
    それの「是否」を幾つかの資料の説で観れば、「凡そ1万5千の兵」の内、この最後には「戦い中」でありながらも「勝頼の引き上げ命令」に付き従った「本隊守備兵250人」は、「敗残兵・負傷兵を戦場に残したままで逃げ延びたとする説」が史実として成り立つ。
    上記の「銃の鉄の三つの欠点の事」で、この説は史実と診られる。

    その「戦い方まで詳細である説」と、「郷土史・戦場の整理を担った地元の住人らが言い書き遺した逸話説」とを総合して観ると、これを“「妥当な説」”とすると、「1万2千の兵の屍」が「長篠原の戦場の北側半分」に在ったとしていて、これには「約2千5百の兵の合わない数」があって、これは「兵数の誇張」か、又は「逃亡者数」に数えられていた事になるだろう。
    記録に依れば「戦線離脱の逃亡者」があったとは確かで、その逃亡者は右側側面の隅から西に逃れて行ったとある。この数が合わない数であろう。
    然し、「これらの上記の数の違い」は、どの戦いや戦記でもあり得る事であって、合わせての数てあって、要するに「完全な全滅であった事」に成る。
    つまり、依って「銃撃回数・6から10回程度以下/3000丁」の論は、「1回2000兵の戦死」と成り、その「射撃法」が「3000丁の三段内」の「冷却済1500丁の三段内」と成ると、「1500弾の3倍」は「4500弾」が飛弾し、その内の実際に、「1/3の兵に被弾する事」に成るとすると、「1万2千の兵の屍」はこの「銃撃回数・6から10回程度以下」からあり得る数に成り、この説は「あり得た説」と成り得る。
    上記した「銃の鉄の三つの欠点の事」での「熱等による銃撃間」の間の「兵同士の戦いの数」が、「合わない数・致命傷では無く戦闘能力を無くした兵数、つまり「戦線離脱兵」に成っているのでは無いかとすれば一致する。
    要するに、これに依って「熱等による欠陥の銃撃間説論」が大きく左右した事の説は成立する。
    現実に、この「銃撃間説論」に依って攻め込まれて「銃兵」は死傷したが、「信長」がこれを「見捨てた事」で、後に「銃の傭兵軍団」から観て感情的に成って、「騙した」「見放した」「契約違反」として「雑賀根来の傭兵軍団」と「信長」とは「犬猿の中」に成ったとし、口伝ではの鮒が狙撃兵が編成された事が云い伝えとして紀州に残っていたとされる。
    挙句は戦後すぐに「紀州攻めを受ける事」に成った「史実の事」を考え合わせれば、「銃撃間説論」は充分に納得できる。
    要するに、「砂鉄からの来る火縄銃の必然的熱欠陥」が顕著に存在していた事を、この「長篠原の戦い・武田軍との戦い」に付いての検証した“「銃撃間説論」”では証明している事に成る。

    そてそこで、これに対して「銃の鉄の三つ欠点の事」を克服したこの「額田青木氏の超近代銃」は、この「火縄銃の欠点」を補いした事で、「一言坂の武田軍との遭遇戦」で、「武田軍本隊を釘付けにした史実」は、それまでの「武田軍が持ち得た銃撃間説論」の「火縄銃に対する発想・情報」を根底から覆した事を実戦で証明した事を意味するのだ。
    その意味で、「一言坂」の坂での「遭遇戦の武田軍の新たな印象」は大きかったと考えられるのだ。
    それには次の「二つの事」にあったとされている。
    「一つ」には「銃」には上記の「熱の銃撃間説論が起こる事・三つの欠点」、
    「二つ」には「飛距離と命中率」が3倍に在った事、
    この「二つの発想」が、「信玄」に衝撃を与えて何もする事なく、“本隊が「前」を向きながらも徐々に後退する”と云う「戦歴上に於いて前代未聞の事」が起こったのだ。
    「信玄」に執っては過去に経験した事の無い衝撃的な事であったろう。
    それが「三方ヶ原]にも影響していたと観ているのだ。
    「超近代銃を持つ300の銃隊」に対して「武田軍本隊の8倍の軍」が成す術無く、「“弓矢も火縄銃も届かない1K
    も離れた東坂下位置まで引くと云う事」”が興ったのは、このそれまでの「銃撃間説論」が「成り立たない事を知った事の所以の最初の事」であって、要するに、「額田青木氏の超近代銃」は、この「銃の欠点」を補いした事の所以の証明でもあるのだ。
    「吉田城の第一次の籠城戦」にも「額田青木氏の城内部からの銃撃」を受けているが、その時も「距離の疑問」は持ったかも知れないが、それが「城廓櫓からの銃撃で在った事」から「銃撃間説論」は感じていなかった事もあり得るのだ。
    だから比較的この“「銃撃間説論」を使えば崩せる”と云う発想をまだ持っていたと観られる。
    だから、前段でも詳しく論じた様に「坂の上」で遭遇し、「坂下」には「100の銃と3000の兵」を事前に廻して「待ち受策」を執り、それに加えて不足と観たか途中で坂途中にも「3000の徒士兵」を伏せて、この“「銃撃間説論」を生かそうとしたと考えれば、“「銃撃間説論」”で観れば情況は読み取れる。
    この事は、この時までは、「後」と「前」と「横」から「閉じ込め策」で、“「銃撃間説論」”を以て攻め込めば勝てると見込んていたのであろう事が説明できる。
    ところが、この「一言坂遭遇戦」では、この“「銃撃間説論」”は起こらなかった”という事に成る。
    「慌てた武田軍本隊」は、早めに「一切の閉じ込め策」を開放し、何と動きづらい後ろ向きの本隊も「坂下1Kまで下げた事・史実」に成った読み取れる。
    これは資料からも明かな史実である。
    其の後の「浜松城通過時」、又、「堀江城への追尾時」、「三方ヶ原の決戦時」も、この“「額田青木氏の銃隊」に対して一切対抗しなかった事と成った”と読めるのだ。
    然し、これが“「銃の鉄の三つの欠陥・上記の学説論/銃身の鉄組織の強化」で補った事”の所以であって、その為に「長篠」の“「銃撃間説論」は「三方ヶ原」では起こらなかった事”を証明しているのだ。
    そして、この“「銃撃間説論」は起こらなかった事”は、同時に“「銃の欠陥を上記の学説論」で補った事”の「逆説論」にも成り立つであろう。
    仮に、密かに「摂津を中心として技術開発して製作した銃」であったが、これだけの「戦歴の史実」を見せつけていたのであるから、「武田氏や織田氏」は前後の時期に於いて必ず「これを武力で奪う事」に走る筈であるが、ところがこの事が「読み取りの中の資料」では一切発見できないのだ。
    では、“これはこれは何故か”であるが、「額田青木氏に完成の近代銃を引き渡した時点」では、上記した様に、「匠、工人の伊勢への一切引き上げた事」と、「一切の資料を隠匿して世間に漏れる事」の無い様に「生産」のみならず「保持」さえも限定した故の結果である。
    「摂津商人、伊勢屋商人」をも「特定できない組織・摂津商人と伊勢商人・殆どは大阪商人として記録に遺る」として「明治期」までに至っているのは、この事に対する“「特定できない策」"であったと考えられる。
    この事の「史実」は、「室町期から明治初期」まで「大豪商・店名も主人も」は、“この「危険・全ゆる危険」が在った事”から、この“「特定できない影の策・奈良期からの伝統」”を講じたからであるのだ。
    追記して置くが、念の為に「青木氏の正しい歴史観」として、「伊勢の氏族」を除く民間の前では、“「テレビドラマ」などの様に、「超豪商は平気で世間の顔表に出て来る事」は実際は殆ど無かったのである。
    これは「重要な青木氏だけの歴史観」であって、この歴史観を忘却して歴史を観れば大間違いをする。
    そもそも、この「顔隠策」は、少なくとも「奈良期の賜姓五役」や「因事菅隷の天皇の内示・密書」を直接に受ける事に成った時点では、元々、この「顔隠策の路」を「必然策」として「伝統的行為」として実行していたのだ。
    何も「院の屋・商いを営むだけの事」では無く、「院に於ける事」に於いても「顔隠策の路」を必然的にも伝統的にも求められたものであって、これは「青木氏氏是」に全てが基づくものであったのだ。
    「賜姓五役の青木氏」に限らず、献納時に於いて「天皇に朝見する時も誰が何時あったかなどは秘密裏にしていた配慮の事」が「青木氏の資料の読み取り」の中から読み取れる。
    青木氏だけの「顔隠策」のみならず朝廷に於いても同然な伝統であった様で、賜姓臣下族に成った時点から天皇家から引き継がれた伝統であったと観られる。
    奈良期から「青木氏氏是の伝統」を少なくともミスなく守るにはこれが一番であったろう事が理解できる。
    この「氏是」がある限りは昔で無くても現代でも求められる事でもある。
    要するに、これは「古くからの離れられ得ない伝統であった事」に成る。
    要するに、「四家・福家」はこの為にあった事をも示すものであり、「四家」が交互に動けば成し得る組織であったし、これに追随して「伊賀青木氏等」もこれを補完していた事に成る。
    筆者は、「献納時の朝見」は、「四掟制度」も「四家制度」も「福家制度」も「元々の基本の考え方」はここに在った事では無いかと考えている。
    其の為の制度でもあったであろう。
    寧ろ、「青木氏族」は、これさえ守れば他から攻撃される事も少なく成り、此れで護られていた事では無かったかである。
    中にはこれを窮屈とも思われる「伝統の破目」を外そうとする者も現実には居た事も判っているが、「氏族の掟」と成れば当に、“出る杭は打たれる”の例えの通りであり、これを無視して生きて行く事は難しかったのだ。
    それが、それが長い間に、“「青木氏の絶対の伝統」”と成り得たと考えられるし、これが「幕府と正親町天皇」から再び、元の「皇親族」から“「賜姓臣下族」、「賜姓五役」、「令外官族」、「因事菅隷族」から、更には“「律宗族」”と認められる結果と成ったのだ。

    「*」印の 「青木貞治救出の検証論」

    さて、上記の「三方ヶ原と長篠の火縄銃の経緯」の鉄の特異性を持っているのだ。
    これを理解した上で、ここには「青木氏の歴史観」に執って重要な事が在る。
    その為に少し話を元に戻す。
    「青木氏の氏是」の前に「南下国衆の駿河青木氏の指揮官」は、“それ”を予測して見抜いていたのだ。
    この“それ”とは、何かであって後で起こった「銃の結末」である事なのだ。
    即ち、「長篠の上記の結末」を事前に“「予測・想像していたと云う事」に成り得る”と観たのだ。
    要するに、上記の様に「雑賀根来の銃の雇用集団・1000丁又は3000丁の結末」の事である。
    “「極度に殺戮性の高い銃を持つ事」”に依って、その保持者の「額田青木氏が合力する」として「兵力的・松平軍」には「6000+5000=11000+a」に成るが、その「フリントロック式改良銃/超近代銃の威力」は「間隔の無い4連発銃」であって、結果としてこれは「45000+aの兵力・銃数*4*10000」に匹敵値し、これに依って合力下場合は「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えて「銃隊への補足が効く事」に成るのだ。
    これは要するに、当に「陣形」からすると「魚鱗の陣形」になるのであり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が「遠くの相手」の前面に殺戮性良く次々と飛び交う事に成るのだ。
    故に、上記の事を配慮すると、「浜松城」では「額田青木氏の指揮官」は、咄嗟に“虫の云い馬鹿馬鹿しい話を持ち込んだものだ”と思ったのであろう。
    それは、況してや「本隊」が戦わすに“額田青木氏に戦わせて自分らは楽をする”と云う構図であった。
    要するにその結末は歴史的に“「後の長篠」”がこれを示しているのだ。
    そしてその「最後の行き着く所」は、「旗本の事」を考えれば、“「雑賀根来の信長の始末」”と同じ破目に成るのだ。
    其れならば、「武田軍」では無く「銃の実質兵力」では負けていない「松平軍」と此処で「城の外」で“一戦を交えるのも良し”とする構えを示した事の筈だし、現実にそれ程の「激論」に成ったであろう。
    然し、「武田軍との戦い」の前に、“額田青木氏と戦う事は100%ない”事”は判っている事である。
    筆者なら、「判断力を無くして激高する相手」に対しては、この「脅し」を先ず架けて先手を打つ、そして「全国の青木氏族」に対して「攻守の態勢」を執る様に「伊賀」を通じて通達を出すの段取りに入る。そうするだろう。
    然し、そもそも、その足元を見ても「松平氏」にはそんな事が出来る余裕等は最早元より無かったのだ。
    要するに、激高させて於いて「城の外」に出されるが、それがこの場合は「松平軍と関係性を断つと云う点」では「最善の策」だったからである。
    後は、「伊勢青木氏の財と抑止力」を背景としていた以上は「伊川津の国衆」と成っていた事から「主従関係」は元よりなく「自力で生きて行ける能力」を持っているからこそ問題は無かったのだ。
    元々は、「吉田城」から呼び出されて「約定」を無視破棄して騙されているのだ。
    然すれば、「浜松」から海に出て「伊勢水軍」で「伊川津」に簡単に戻れる。
    陸であっても恐らくは常に陰に成り側帯していただろう「伊賀青木氏」を呼び寄せれば「伊川津」に戻れる。
    「松平氏」には今この時に「兵力・財力」共に「青木氏とそのシンジケートを攻める余裕と力等」はそもそも無かった。
    それは、当に武田軍>「松平氏の直接兵力」<「青木氏の影の力・抑止力」=数段の差の数式の関係であったのだ。
    だからこそ、断固断ったのだ。
    結果として、「目論み通り」に外に出され「自由」に成った「額田青木氏の銃隊」は、「軍議からの情報」から「駿河青木氏の青木貞治隊」を救うべく、場合に依っては危険を伴う事に巻き込まれる事もあり得るが、「三方ヶ原に走る事」が自由に決定して出来たのだ。
    これは何故なのかであるが、それは前段の「軍議の四つの命」に従わなかったからだ。
    この「結果の決断」としては、「額田青木氏の指揮官を負傷させた事」に成っている「疑問の遺る三河戦記」には成っているが、「額田青木氏側の記録」では良い方向に向いたのだ。
    そこで、大きな「一つ疑問」がある。
    この証拠は何も無いが、「松平軍記の負傷者死者の記」とされるこの「資料」には、確かに「山県軍の別動隊の突撃」で左鶴翼の突破時に、「額田青木氏の指揮官」が負傷したと成っている。
    然し、これには筆者には「疑問」があるのだ。
    つまり、「軍議」で、“一戦交えるかのところまで行った混乱”の中で、これで“果たして無事に済んだのか”の疑問である。
    筆者はこの「要素」を重く見ているのだ。
    それは、“「負傷者」”に付いては、その「三河記録」にも記載されている所以の、“「指揮官ただ一人」”の記載であるからだ。
    突破時であれば、先ず“「指揮官一人」”と云うのはどうも釈然としない。
    その負傷後の事を確かにこの「記録」では、指揮は理由が判らないが“「額田青木氏の差配頭」に引き継いでいる事に成っている”が「伊勢」では「無傷の事」である。
    これを偶然とみれば偶然と観れるが、この事には資料には全く触れていない。
    これが、「流れ」から「軍議の恨み」に報いんが為に、東側から“「旗本の決死の弓矢で狙撃された可能性”があるからだと、それを思わせぶりの形で記録しているのだ。
    恐らくは、その「軍議」に出ていたこの「旗本」に依って、その時は「山県軍兵かの判別」が付かず「無差別に弓矢で狙撃された可能性」を思わせるかの様に記された事が確かにはある。
    然し、何で、「軍議で争うまでに激論」に成った「指揮官」で、且つ、直ぐに「伊川津」に引き上げている「指揮官」なのに、且つ、「伊川津国衆」であって「三河国衆」では無く、「戦線離脱している者の名」がこの「三河戦記の戦死者・負傷者の記載」の中にあるのかであるし、駿河青木氏を吸湿している弾幕間の中で松平の兵が入ってこられるかの疑問がある。
    これは何か間尺に合わない。
    普通は外すであろうし記載もしないであろう。
    確かに後で知って追記したと云う事でもあるが、時系列的に観ればその時は既に戻っていて「伊川津国衆」を即座に辞しているのに、書く必要はそもそも無い筈であり、これは“戦死か負傷かしたのを如何にも観ていたかの様に、又は如何にも知っていたかの様に書く事は甚だ疑問で”ある。
    そもそも国衆を辞している以上は、そもそも「三河戦記」には書かないであろうし、未だ「国衆」であったかの様に書き込んでいるのもおかしい。
    この事が釈然としないし、だから、「出身元の伊勢・伊勢秀郷流青木氏」では「指揮官の負傷記録の詳細」は無いのであろう。
    筆者には、仮に「伊川津国衆」であっても如何にも「三河国衆」であったかの様にして、“「三河戦記の辻褄の時系列の不都合・後付け」を合わした”としか思えないのだ。
    もっと云えば、そうと成ると同時のこの時間に起こった「二人の戦死者の戦記」にも記載がある“「有名な駿河青木氏の青木貞治の死・二俣城の敗北を恥じた死と記載?」”は、“違うかも知れない”とする疑問が生まれるのだ。
    “猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”を張って「青木貞治隊」を「武田軍の本隊」から救出したその中の目の前で、今度は同時期に、“その「銃隊の指揮官」が負傷している”のは不自然極まりなく「大きな疑問」を持つのだ。
    “戦場だから何が起こるかは判らない”と云われればそれまでだが、幾ら何でもそんな事は無いだろうと観ていて、筆者には、“猛烈な銃撃で弾幕と煙幕”の中で、果たして、“偶然にも青木氏の指揮官二人の死”と云うのはあり得るのかは納得できない。
    何れにしても、「この状況」を確実に「駿河青木氏の貞治隊員」と「額田青木氏の銃隊員」の「1000人の目」が観ていた筈だ。
    故に要するにこれは「典型的な後付け説」と観ている。
    「江戸中期・1738年享保期」に成っても、「三河旗本」からの「150年以上の嫉妬と怨嗟の拘り」を超えた様な「嫌がらせ」が続いていたのだ。
    「伊川津や伊勢」も然る事乍ら、「江戸・1603年〜1868年」に於いてでさえも「三河旗本との執拗な軋轢」が続いたのは、この「事・軍議」に依る「口伝による恨みの伝統・4代続き」ではないかと観ている。
    “本来なら4代も続けば忘れている筈であろう”が、これは“「軍議の逆恨みの揉め事」”は「伝統化していた事」に成るだろう。
    前段で主眼を置いて論じた様に、「青木氏族の古来からの伝統」にある「特異性・律宗性」や「特別性・格式性・賜姓五役の郷氏」に対する「拭い切れないもの・劣等感」が先ず潜在的にあって、且つ、その上に、更にそれを“自らも決して獲得出来得ない物”に対する「執拗な伝統的な嫉妬と怨嗟と苦悩」のものであったと観ている。
    仮にもしそれだけであるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」も無かった筈である。
    ところが、「紀州藩との青木氏の付き合い」は、「三河旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」にも関わらず、記録にも遺る「初代・頼宜」から引き続いて何と「大正14年」まであったのだ。
    「彼等・旗本の嫉妬と怨嗟と苦悩」が厳然とあるとするならば、「青木氏族と紀州藩との大正までの親密な付き合い」は果たして可能で在っただろうか。
    それを踏み切るには、「紀州藩」に執っては簡単では無かった筈であろうが、然し、踏み切っているのだ。
    其れも「勘定方指導の立場」であって、且つ、「俳句・歌・南画・茶道・庭造り」の指導もし、「親友の関係・この関係を“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」と「資料の二か所にある」”と云う関係にあって極めて「親密」であったのだ。
    故に、「彼等・旗本」に「嫉妬と怨嗟と苦悩」の以外のものとして、“「軍議の逆恨みの揉め事」”が、何時しかそれが「歪んだ伝統」として、“「三河者の旗本」にだけに限定されて遺ったと云う事であろう”と思う。
    それが「三河」だけと成れば、「伝統的な嫉妬怨嗟」を買うのは、この「額田青木氏」には「軍議以外」には無い。
    これが遂には、後で前段で詳細に論じた様に“「闕所」”までに発展するのだ。
    それ、つまり、「大商い」をすると疎ましい付きまとう「闕所」であるが、それが何と「信濃」までに及んだのだ。
    然し、この元と成った「三河旗本の怨嗟と嫉妬」が治まったのは、「江戸中期・享保期頃」であった。
    そして、「伊勢の山田奉行の嫌がらせ」も治まったのも同期であるとし、「伊勢・伊勢屋」が江戸から引き上げたのも同期であって、更には「信濃青木氏の聖域と殖産の奪い取りの事件」も同期であって、挙句は、それを「ぶつける相手」が無く成ったという事と成ったと思われる。
    それで、“「平穏」”を保てたとするならば、それは当に「軍議の逆恨みの揉め事の所以」でもあったと充分に見込まれるのだ。
    故に、「三河の伊川津」で「陸運業と殖産業」を営む以上は、その「防御論」は、勿論の事、初期の頃の「青木氏の銃」は「軍議の逆恨みの揉め事」から逃れる為の「相手を威圧する抑止力」として保持し持ち続けたのだ。
    故に嫉妬怨嗟の彼らに執っては、“恐ろしい陸運業と殖産業”であった筈である。手を出せば潰れるの恐怖があったのだ
    そして、それが「主君の松平氏」をも左右する程の「債権漬け」で政治的な勝負は着いたのだし、その叶う事の無い「各種の武力的な抑止力」と「商い・財力と云う力」を持っていたのだ。
    筆者は、上記した様に、「額田青木氏」と「駿河青木氏」、強いては「伊勢青木氏」の事を検証する際には、この“軍議と云う要素”が大きく働いていたと観ているのだ。

    「*」印の再び「救出の検証」に戻して。
    そもそも、この「救出」は「武田軍の本隊」の「魚鱗の陣形の先頭」が「騎馬隊」であったからだ。
    横に広く展開すると、その「騎馬の効果」は低下し集中して来るし、自由の効かない騎馬を狙い打ちに掛けれられるし、誘い込まなくても早く命中率の高い範囲に次から次へと勢いよく近づいて来るからだ。
    「騎馬」が前に進まなければ「徒士」は前に進めないとすれば「敵の威力」は「騎馬」に集中する。
    「騎馬」が全滅すれば、次は「徒士」を「狙い撃ち」にする事に成るし、「魚鱗」は「左右の鶴翼」に分散して「騎馬突撃の威力」は低下する。
    これが「長篠・12000戦死」は主に「火縄銃」ではあったが、その2年前の「三方ヶ原」では、当に現実にこの絵に描いた様な同じ経緯と成ったのだ。
    「織田方」には「3000の銃隊」の前には「防護柵の馬防柵」で表向きは護られていたとし、この時の犠牲は「雑賀根来傭兵軍団の約半数弱の多少」であって、「信長本隊」にはそもそも何も無かったのだ。
    「武田軍12000の全滅の犠牲」を出し、「逃げ出した残りの武田軍」に対して更に「追撃戦」で「武田軍5000の兵の犠牲」を出したが、兎も角もこの時、「長篠の信長」は、何と前段の通りで、この「戦場」では無く、この戦場から西に1km離れた「土豪の館・新庄市富永氏の館」を本陣としていたのだ。
    これは始めからこの「三方ヶ原の結果を描いていた事・研究」を示し、「銃の威力に対して自信があった証拠・現実は弱点を突かれて犠牲」でもある。

    ここで、さてこれを念頭にして「額田青木氏の南下国衆の銃隊」と「青木貞治との情報交換」に付いてどの様な事が起っていたのか深く踏み込んで観る。
    前段でも論じた通り、“「南下国衆の銃隊」を「鶴翼の頭の部分」に何故据えなかったか”と云う「疑問・軍議で拒絶」である。
    前段でも論じた様に、次の事が考えられる。
    そもそも、「伊川津の国衆に成った時の目的が先ず違うと云う事・イ」、
    到着時に「タイムラグの問題があった事・ロ」、
    且つ、「青木貞治隊を護り救い出すと云う目的の事・ハ」、
    額田青木氏に対して「元よりの旗本の嫉妬が強かった事・ニ」
    以上の「イからニの事」が「全体的な四つの事」として「理由」が潜在的に確かにあったろう。
    然し、この「全段も含めて詳細論の段」に於いて果たしてそれだけかである。
    これが疑問なのだ。
    筆者には何となく間尺が取れないのだ。
    それは、“一言坂の直ぐ横東1kに「駿河青木氏の菩提寺の西光寺」があると云う事”だ。
    この「検証」にはこれは「重要な要素」であって見逃せないがこの事が考慮されていないと云う事なのだ。
    どんな戦いに於いてでもこの「菩提寺の存在」は戦略上で重要なのだ。

    況してや戦場の近くにある彼等の「氏寺の菩提寺」である。
    要するにこの「菩提寺」にはそもそも「仏教徒の掟」があって、「寺内に武力を持って侵入する事」は古来より「厳しい掟」があった。
    その為には逃げ込んだ戦士を討ち取るには「寺の焼き討ち」して外に誘い出して、そこで討ち取ると云う事にどんな場合でも「戦術」として成るのだ。
    況してや「駿河青木氏の氏寺」とすれば「周囲の民衆・氏人」もこれを断固として護るのが古来から伝統である。
    「武田氏」はそれを攻めれば「秀郷流一門の東の361氏の勢力を西に呼び込む事に成り、それがどういう事に成るかは知っていた筈で出来なかった筈である。
    恐らくは、故に「三方ヶ原」で救い出して、ここに逃げ込み潜んだ事は間違いはないのだ。
    どの「資料の行」から観ても、ここで、“「隠した事の説」”は読み取れる。
    其れがここであったと観ているのだ。
    だとすると、「隊長の青木貞治」は戦死はしたかは、「戦記に滲ませている表現」の通りに少なくとも「全滅覚悟の死隊」では無かった事に成る。
    「貞治隊長」は其の気であっても「家康・軍議」から「二俣城の叱責」を受けても「決死隊」を命じられてはいなかったという事である。他に直接に家臣としての副将が居たのに何で駿河国衆の貞治が責任を取らなくてはならないかの矛盾が生まれるのだ。
    これは見逃す事の出来ない重要な事だし、そもそも「二俣城の叱責」を万に感じる立場に果たして居たかである。
    先ず、その「二人の副将」の内の一人であって、未だこの時は「貞治」は「松平氏の家臣では無く「松井氏配下の駿河国衆の立場」であったし、そもそも「もう一人の副将の者」は[松平氏の縁者の若者]であって、叱責も戦死も無いのだ。
    況して、そもそも「主将」は罰せられてはいないし、「戦死」もしていないのだ。
    故に、この「後付けの説」は大いに疑問なのである。
    だから、その経緯から「南下国衆の銃隊」に対して「情報」を提供し、且つ、「他の者を救い出して欲しいとの願望」を伝えたと考えられるのだ。
    その時、この「菩提寺に逃がす事」を頼んだだろう。
    そもそも、そこで「菩提寺があるという事」は、その「盤田見附地域」は「青木貞治の一族の父祖の先祖代々の駿河の知行地」であったと云う事に成る。
    つまり、距離にして「40k=10里」で、「徒士の道則」にして「50k・10hの東」の「神奈川の秀郷流青木氏とその一門」が護ってくれるだろうと云う範囲のぎりぎりの範囲の所にあって、その安全の期待があっただろうし、現実に遅れて入っているのだ。
    それには、「後付けの三河戦記」の通りでは無く、「青木貞治隊」は「自由な行動下」にあり「主戦の中央に位置する事」は絶対避けなければならない「自由な立場にあった事」が云えるのだ。
    「筆者の考え」は、この「条件を叶える」には「軍議の末端」に「参加できる立場」にあった「国衆の青木貞治隊200」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300」も、「軍議」では明確に「命令を拒否した」であろうと云う事である。
    と云うのは、“「軍議に参加していた」”とする「直接的な表現の記録」はないが、「三河四天王」と云われた「本多軍も大久保軍も酒井軍等」も夫々「200〜500兵」でこの「軍議」に参加しているのだ。
    「兵の勢力」では同じ立場に居たと云う事だ。
    従って、「青木貞治隊200・初期から」のみならず「南下国衆の銃隊の指揮官・300・呼出後」が「軍議」に参加させられなかったと云う「特段の理由」は無いだろう。
    間違いなく「参加していた事」に成ろうし、「吉田城・守備隊」から呼び出されたのもその証拠と成り得る。
    その「軍議の直後」に、「時間稼ぎの目的」の為の「籠城戦」を前提に「不合理な偵察隊」を命じられたりもするも、これもこの「軍議の参加」による影響のものだろう。
    そもそも何度も論じている様に、「浜松城・27m高」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の陣営の様子」に対してである。
    「そもそもの狙い」は、「時間稼ぎである事・織田氏の思惑と額田青木氏の銃の印象付けもあったか」は、「戦略」としては判るが、これも「武田軍の本隊の充分な補給体制」も整えない侭で、且つ、「野営」で「長期間の籠城戦」はあり得るのかと云うここにも何か釈然としないものがある。
    確かに、「武田軍の本隊」が「周囲の出城を攻め落とし」をしながら「二俣城からの供給」で「一言坂東」で「大軍の約1月間の停留」をしているのだ。
    それは前段に論じた通り、「三方ヶ原」では無く、「野営の此処・一言坂東」を「拠点」として「堀江城」より先に、「西域の脅威」を片付けて「織田勢の本隊」が「決戦」を求めて来ない内に、東から「浜松城」を先に攻め落とすつもりであった陣形である。
    「西の織田勢」と共に「三河勢・松平軍」もこの「東の背後の脅威」があった筈で、この「説・浜松城先攻め」は無いだろう事は判る。
    「今川氏の様」にそんな「危険な位置」に「準備周到の信玄」は「野営・一言坂」は絶対しないが、ところが何故かしたのだ。
    それには、「二俣城の陥落に時間が掛かった事」と、「二俣城で補給体制の構築に時間が掛かった事」での二つが在った事が記録として残っている。
    この間に史実として時系列では、「二俣城」からこの「野営場の一言坂」まで「山県軍の別動隊の連絡」が届いている事から。この理由はこの「二つ事」であった事に成る。
    それが「整った段階」で「目的の堀江城」に向かった事に成る。
    故に仮にこの「戦略」を採用したとすれば、間違いなく「堀江城の二極化論説」であった事になろう。
    この事は相当に余裕があった事に成り、「織田氏も松平氏」もこの「堀江の前」の「一言坂の野営」が最も攻める時期であつた事に成るが、そうせずに「無駄な弱腰の時間」を過ごした事に成る。
    故に、「籠城戦の戦略自体」がそもそも「空虚で在った事」に成る。
    其れならば、“「偵察隊」を命じられた事”は可笑しく成り、当に実に無駄であった事に成る。
    「額田青木氏の指揮官の貞秀」はこの間の「経緯」を情報から知り、この様に分析をしていたと思えるのだ。
    「織田氏」は「浜松城籠城戦説」を採っていたとしていて「時間稼ぎの理由」の外には、過去にも「第一次吉田城・籠城戦の戦績」の様に、その「経験」を通じて「南下国衆の銃隊を浜松城に留めて置く事」も、「最大の防御・時間稼ぎ策」とも考えていた筈である。
    故に、なのにこんな「三方ヶ原の愚策」と「一言坂偵察の愚策」の「二つの愚策」を考えた「その背景」には、“「ある問題」”が「軍議の中」にあったのではないかと観ているのだ。
    前記したがこれらの「上記の経緯の事」は、本来は「松平氏右筆衆・青木氏では祐筆」で詳しく調査されて遺されて「原石の侭」で遺されるものであるが、然し、それは消されいて無いのだ。
    要するに簡単に云えば、これ等を纏めたとする「三河戦記」は、開幕に必要とした権威を「後付け策」で「権威を必要とする徳川幕府戦記」を塗り替えた事に成り得たのだ。
    つまり、「後付けと成っている事・脚色」は、言い換えれば“「軍議の過程」に於いて「上記する事」の物議が交わされた可能性がある”と云う事だ。
    確かに、「額田青木氏」に依らずとも「銃隊」とは、「弓矢」に代わって「籠城戦」には絶対に必要であって、且つ、「野戦」に於いても「鶴翼の頭部」に据えて「弾幕」を浴びせると云う何れも「最大の戦術・弓矢に変わるもの」でもあった。
    当時は「資料」より「急激に短期間」で、急に“「欠かす事は絶対に出来ない戦術」に成った”と認識に至っていたのだ。
    然し、「浜松城の籠城戦論」ではそういう「重要な時代認識」はな未だ遅れてなかった様であり、それは「武田軍の第一次吉田城攻め」がその最初と云われているが、それが偶然にも「額田青木氏」が「伊川津国衆」としての最初の役目として詰めていた為に「銃による籠城戦」と成ったのであったのだ。
    その為に「武田軍」は「額田青木氏」に「思わぬ抵抗を受ける事」に成って一時は軍を引き上げると云う結末と成ったのだ。
    故に、「一言坂の偵察」は、勿論、論外の事ではあるが“「二度目の銃の威力」を示すと云う戦術”はあり得たが、寧ろ、「籠城戦」と成れば戦いの前は、寧ろ、“「銃の存在」を知らさない方がより効果的”であり、そうと成ればそもそもこの場合の「一言坂の偵察隊の銃威力誇示」も要するに「愚策である事」に成る。
    要するに、本格的に「松平軍の主軸と成って戦う事の拒絶」の前に、軍議の「諸々の物議の激論」とは、この是非の「此の処・偵察隊の銃威力誇示」にあったのだ。
    兎も角、故に「籠城戦である事」では止む無きとするも、「一言坂の遭遇戦」のみならず「三方ヶ原の野戦の直接本格戦・鶴翼陣形」では、“断固として国衆の立場として断る”としたのだ。
    これに付いて「額田青木氏の南下国衆指揮官」と「旗本衆」の間で“激論が交わされた”と観ているのだ。
    故に、「軍議の中」では「指揮官<旗本の関係」から“「愚策と実行」”と成ったのだ。
    この「旗本」とは、何と伊川津に関係する「東三河の大久保氏や本多氏等」等が主力であったのだ。
    それだけに云う事を聞くとしていた「東三河の旗本等」は、「約定のある事」も知らずに独りよがりで、“立場が無く成った”としたのだ。
    故に、そして、「偵察隊と云う形」で体よく“城から追い出された経緯”と成ったのであろう。
    当然に「城からの情報」が入らない侭で追尾する事には成ったが、最終的に危険が伴うとして、「青木貞治」は周囲に危険を冒してでもこれを補完して「軍議情報」を流し、「額田青木氏の一族を救う事」としたのだ。
    そして、「情報の途絶えた額田青木氏の南下国衆」に対して、「青木貞治」は「最後の軍議情報」を「秘密裏」に「額田青木氏」に提供して、且つ、万が一場合には「遠州秀郷流一族一門の救出援助・駿河相模の青木氏・史実」をも頼んだと成ったのだ。
    現実に時系列の記録から動き始めていたのだ。
    其れで無くしては、「伊賀者・伊賀青木氏の香具師等」で援護しながら「伊賀越え」で「家康」を救った若い「遠州青木氏の貞治の子孫・青木長三郎・貞治の長男・三方ヶ原より9年後」は遺らなかった筈であった。
    故に、「偵察としての城への情報」としては記録されていないのだし、「伊勢の資料」にはその経緯を辿れる程度に功績を遺しながらも、「三河」には適正な記録が無いのは「右筆の原石」が後に成って都合の悪い事は一切消し、そして「後付け」で都合よくこの「歴史」を塗り替えた事でもあるのだ。
    従って、「一言坂の偵察隊後の追尾」では、「最終軍議の参加・情報入手」には無理であったろう。
    そこで、「今後の事」も含めて密かに、“青木貞治から「軍議の情報」を獲得した可能性がある”のだし、故に、本来戦術の「鶴翼の頭部の位置に陣取る」と云う「命令」も無かった事に成る。
    これ等の事は、今まで「論調」が余りに複雑に成る為に論じて来なかったが、その「詳細部分」であって、然し、その「一族の青木貞治と云う重要要素」を勘案した場合に、この“「拒否説」”は放置できずにこの「追論」が出る事に成ったのだ。
    この“間尺に合わない問題”は、この“「拒否説」”にあって、「上記のイから二」に付いてもこの「拒否説論に始まる・物議に依る激論」と観ているのだ。
    これが、後の「戦線離脱」や「陸運業」を容易に成し、早期に得た「決断の基経緯」と成っているのだ。

    さて、続けて追論として、次に論じるのは“「鶴翼の銃の威力の理窟」”であるが、唯、これも、又、何とこの「通説」は異なっていたのである。
    然し、他方、「武田軍本隊」も「堀江城」で、“「一日」で墜せる見込みであった“が、実はこの「時系列」で観ると「二日の籠城の激戦と延4日所要」と成っていた事が判るのだ。
    それは二俣城から山県軍の別動隊の補給基地地築造隊か三方ヶ原に三日後に到着する予定であったとして、この侭では本隊が別動隊を三方ヶ原で補完できない事が起り、1日遅れる事は「松平軍5000」に山県軍の別動隊の実戦の2000の兵が潰される事に成るとしていたのだ。
    この「計算」が狂った「武田軍の本隊」は、其の後、「松平軍の二つの情報・野戦情報と鶴翼戦情報」を獲得して、そこで「武田軍の本隊」も慌てて「三方ヶ原への手立て」として「補強路確保と山県具への援軍」をする必要に迫られていた時系列と成っていたのだ。
    その為に「武田軍の本隊の大軍」も遅れて「堀江城開城の条件」を“城兵全て助ける事”で「1日分の短縮」を図ったのだ。
    この“堀江城の200の城兵は空の浜松城に入った”とされているのだ。
    そして、当初は“「三方ヶ原の北側」”に陣取る為に先にも慌てて「三方ヶ原の補給構築拠点」に向かったとする時系列であるのだ。
    ところが、そこで「三方ヶ原」での「松平氏の先取りの陣取り方・西向きの鶴翼の陣形」を知って、元はそこで「武田軍」は、当初からの作戦として「北から南に向かって陣取りをする作戦」であったが、西から東に向かっての「応変の結果」と成って仕舞っていたのであった。
    この事で、別動隊の合流が出来ず、これで「山県軍の別動隊の計画・北から南」は狂ったのだし、本体も鶴翼の陣形から相手が「予想外の鶴翼陣形・多勢の陣形」であった事から受けて立つ為には不利な「魚鱗の陣形・無勢の陣形」に行進中に変更せざるを得なく成ったのだ。
    武田軍に不利な条件が重なってしまったのだ。
    そこで止む無く、進軍中の「山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、「北の山際に停留する事・当初の計画の位置」を強いられたのだ。武田軍本隊と山県軍別動隊とが結局分離された結果と成って仕舞ったのだ。
    松平軍に執っては「山県軍2000の兵」を本隊から切り離しした有利な結果と成ったのだ。
    この「松平軍の有利な点」を「山県軍の別動隊」は本隊を救う為に有利にする様に知恵を働かせたと云う事に成ったのだ。
    そこで先ず「山県軍の別動隊」は、向後の憂いを無くす為に遅れて「二俣城の周囲・国衆軍団が反乱して騒ぐ」を改めて掃討し、「二俣城処理中の別動隊」が「補給路」を造り上げる為に急いで三方原北側に向かっていた。
    元よりこの「計画の打ち合わせ・三方ヶ原」であった事から、「武田軍の本隊」も、“これは危険”と観て、急いで「作戦」を変更して「山県軍の別動隊の救出」に急いだ。
    そこで「三方ヶ原の北側・山際沿い」に先ず向かい、そして「山県軍の別動隊」が着くのを待つ予定であった。
    ところが、結果として間に合わず東西に構える不利な形と成って仕舞ったのだ。
    戦術としては鶴翼の陣形>魚鱗の陣形であった事から本隊としては全て大軍でありながらも持久戦に持ち来れれば不利な条件に置かれていたのだ。
    そこで、「山県軍の別動隊」は合流する事は出来ず、後は元の計画通りに「北側に陣取る形を執る事」に成って仕舞ったのだ。
    この珍しい陣形となって「山県軍の別動隊の執るべき作戦」は唯一つと追い込まれたのだ。
    それが、「武田軍本隊」が魚鱗で対抗する前に、「山県軍の別動隊」が「松平軍の鶴翼の先端の頭の部分」に突撃する以外には本隊をより有利にするには戦いの始まる前にする事しては通常戦法では無く成ってしまったのだ。
    結果として、後は鶴翼の陣形を決死の覚悟でこれが「鶴翼の頭の側面」を突く事に成り、「戦略的な鶴翼の陣形の意味」が無く成って仕舞って総崩れと成ると考えたと云う事だ。
    経緯論として観てきた結果から其処に「思わぬ落とし穴」が有ったのだ。

    さて、この検証としてこの経緯の結果から、ここで「一つ目の疑問1」が出る。
    それは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「武田軍本隊」を追尾していた事を知りながら、“何故、「三方ヶ原」に向かったか”である。
    普通なら後ろを着いてくる筈と思う筈である。現実に隠れながら追尾していた。
    更に、「二つ目の疑問2」は、「松平軍=山県軍の兵力」として「兵数としては同じ勢力・築造兵含む」でありながら、何故、「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊の支援」に向かったのかである。
    勿論、築造兵3000が実戦兵で無い事は知っていた筈である。
    普通は行く行くは「本隊」が行く以上は向かわないだろうし、「松平軍」もその事は充分に認識できていた筈だ。
    「山県軍の別動隊」が、三方ヶ原に“早く着くと云う事”に成り「西側に位置する事」とすれば、却ってこの事で「二つの武田軍の陣形」が西側で整う事に成る。
    これは速く「三方ヶ原の戦場」に着いた「松平軍」には不利と成り得る。
    それと、「三つ目の疑問3」は、「松平軍の鶴翼陣形の向き・西向き」である事である。
    この「三方ヶ原の地形」は南の浜に向かって「下り坂の地形」にある。
    そこを西向けに陣形を採る事は活動としては斜めの地形であって好ましくない。
    本来であれば北の浜松城を背にして北向けて陣形を採るのが普通である。
    「一つ目の疑問1」は、勿論、直前でも経験した「南下国衆の銃力の威力」に「脅威」を抱いていた事である。
    「二つ目の疑問2」は、「別動隊」であるが、基本は「補給基地築造隊」が主目的であった事である。
    この「二つの事・疑問」と連動して、これが「一つ目の疑問の答え」でもある事だ。
    「三つ目の疑問3」は、西から来る誘い出した「大軍の武田軍の本隊と対峙する事」と、「松平軍の陣形」が西に向く事で遅れて来そうな「別動隊」に二俣の方から「背後を突かれる危険性」があった事だ。
    何れの「三つの疑問の1、2、3」には「松平軍」に執っては「三方ヶ原」と云う「無理な野戦を選んだ事」が左右しているのだ。
    そこで、これ等を補完する意味で、「額田青木氏の指揮官」の「自らの判断」で止む無く「南下国衆の銃隊」が、“「南左の鶴翼の付け根部」に「青木貞治隊の救出の為」に位置した”と云う事が先ず考えられる事だ。
    筆者は、寧ろ、“位置した”と云うよりは、「上記の物議の軍議の結果」から、“そこに居た”と云う事ではないか、又は、“居る事に成った”として、故に、“「家康の独自の判断」”で「陣形」を、急遽、「軍議」に基づくものでは無く、“戦場で西向きの鶴翼にした”と考えているのだ。
    そう成る事で、「額田青木氏の南下国衆の銃力」が“武田本隊と山県軍別動隊の左右の軍に対して「総合的な破壊力を示す事」が出来る”として、“「武田軍の本隊」に対して斜め西に向けた”と考えられるのだ。
    然し、「軍議」で「当初の思惑」は大きく崩れたが、最早遅いので当初の通り計画を実行せざるを得なく成ったのだと観ている。
    何故ならば、「家康側からの考察」から観ても、そうする事でもこの「上記の疑問の123」の「三つの問題」も解決出来る。
    つまり、突き詰めると結果として「山県軍の別動隊は遅れている事」もあるので、“絶対に戦闘に参加せずに、「様子見」してその「時期」を観て貞治隊を救い出すと観ていた”とする「遅れ説」の説に成るのだ。
    ところが、ここで更に「思わぬ事」が起ったのだ。
    それは、この「山県軍の別動隊」は、予想を超えて突然に“「補給拠点築造兵が突撃隊に凶変したとの云う事”であるのだ。
    つまり、「家康の咄嗟の決断」は、“両軍の全ての思惑は狂ったと云う事”の説に成る。
    もっと云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に依って、先ず結果として「山県軍別動隊2000以上の犠牲」を負ったが、「残る兵」は最後尾に着いていた「補給拠点築造兵の非戦闘員」が全てであり、「銃の難を逃れる為」に留まらずそのままの「勢い」で生死を掛けて「浜松城」まで走り抜けたのである。
    従って、これが下で「浜松城を攻める事は出来なく成っていたと云う説」に成るのだ。
    「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この“2000の戦闘兵を狙撃した”が、「残りの非戦闘員」を銃撃せずに、先ずは「青木貞治の隊員」を先に救い出し、直ちに自らも「戦線離脱した事の説」に成るのだ。
    武田軍本隊は、「青木貞治の隊員の救出」の為に補完銃撃して「救出の手助け」をしているのを観た。
    そこで、又、「武田軍の本隊」も「一言坂銃撃の様な尋常じゃない威力の額田青木氏の銃隊」が救出後にも続けて「武田軍の残りの非戦闘員」を銃撃しなかった事」をも観た。
    続けて「武田軍本隊」は、「攻め込む事」もをせずに、且つ、「掃討作戦の為の武田軍の掃討本隊」と同じ方向に向かう「救出後の青木貞治の隊員の戦線離脱の黙認放置・盤田見附の西光寺に向かう」をも“無条件で許した”と成る説である。
    だから、幸いにも思わぬ事が乗した様に「両軍・武田と松平軍」に起こりながらも「青木貞治との約束」も「自らの行動の事」も円滑に成せたのである。
    これが両方の時系列から追った史実である。
    この中に挟まれて額田青木氏と駿河青木氏の生き残りの経緯が起こったのだ。

    ここで注釈として、故に、「家康」から、後の「伊賀越えの協力の事・1」も、「伊勢の事お構いなしのお定め書も獲得出来た事・2」も、更には、「紀州藩の初代」には「家康」が最も信頼していた「水戸藩主だった「優秀な頼宜・遙任」を、態々、「初代紀州藩主・大正14年まで親交」に挿げ替えた事・3」も、その後の「勘定方指導」などの「絶対的な協力体制」を築いた事・4」も、上記したこの「4つの行政事」の、これ等全てはこれ等の“「詳細経緯」”から始まっていたのだ。
    この“「1から4までの詳細経緯」”が無ければ、「青木氏の歴史観」としての「額田青木氏と駿河青木氏の正しい戦記」は成り立たないのだ。


    さて、もう少し論を戻して
    ところが、「上記の詳細経緯」では、「武田軍の本隊」が「三方ヶ原」に到着すると、既に「東側」に「松平軍」が何と“「鶴翼陣形・多勢系」”で陣取っていたのだ。
    「松平軍の軍勢・織田軍は軍監目付の形式合力たけ」の「戦力」は、「武田軍の幌者の情報」で知り得ているし、要は「織田軍の援軍の数・実際には軍目付け・軍監だけ」に依るが、“「織田軍」も西で戦っていたので多くを出す事は出来ないだろう”と「武田軍の本隊」は読んでいたし、又、「弱体の足利幕府」と敵対して「織田軍の利害」や「西に引き付けられている現状」の「二つの現状」を考えた場合は、“"松平軍は間違いなく少ない”と「武田軍本隊側」では確率よく観ていた筈である。(資料により史実)
    この事に就いては歴史観として配慮の一つとすると「史実」であって、「織田軍の軍目付・軍監の軍勢の偽情報」のこれは「三河東域と駿河西域を制圧しようとしている武田軍」を、これに対して「何とか策謀で動かそうとしていた織田軍側の裏策略」であった事が、全ゆる資料から判明している。
    依って、「この事を前提にした戦略の読み込み」では、“「野戦では無い・籠城戦・長期戦」”と観ていた「武田軍の本隊」は、“この「陣形の急変」に驚いた事になった”と「時系列」はで成り立つのだ。
    それは、そもそも「多勢が採る鶴翼の陣形」では無くて、「三方ヶ原」で「待ち受けている松平軍」は間違いなく「無勢が採る魚鱗の陣形」と観て“と執った行動であるからだ。
    「堀江の解放・敗戦」を見定めた「松平軍」は、上記の「時系列の経緯」では、この時に“「三方ヶ原の野戦」を選んでいた、そして12/22日、早朝に「浜松城」を出た”と事に成る。
    これは「武田軍の本隊」が、元より「別動隊を待つ計画」で、到着後に一斉に「浜松城攻め」で「北の三方ヶ原」に補給基地と本陣を構える予定であった事」が判るが、ところがそれが「齎された偵察の情報」では違っていたのだ。
    更に、以下の時系列について詳細な経緯の検証を進めると、「額田青木氏」に付いてもある事がこの時系列で観えて来るものがある。
    この「重要な時系列」は次の通りである。
    「堀江城 12/21〜12/22」 朝に落城 
    「浜松城 12/22」 朝出陣・三方ヶ原・2時間で到着
    「松平軍・鶴翼の陣形」 12/22・10時・昼前に構え終了
    「堀江城の結果・開城」 「12/22・早朝」に三方ヶ原で確認 
    「武田軍本隊」 「三方ヶ原 12/22」 昼過・2時間で到着 
    「武田軍別動隊」 「三方ヶ原 12/22」 15時に到着
    「武田軍全軍」 「魚鱗の陣形 12/22」 16時前・「陣形」を整え完了
    「武田全軍」と「松平軍」 12/22 16時 開戦・2時間・18時に完了

    さて、そこでこの「時系列」から観えて来るものとして、「一言坂の本隊との遭遇戦」には「額田青木氏・国衆・銃隊」に執って興味深いものが、この「時系列の中に一つある」のでそれをここで論じて置く。
    そこで、先ず、「武田軍の本隊」は南下して4隊に分けたとある。
    「守備隊の信玄本隊」は、「諏訪」から「東三河」の「武節−長篠−遠江−岩村」と全ての支城を落として後に、“「東の二俣」に向かった”とある。
    「他の3隊」の「秋山、馬場、山県隊」の夫々の隊は、「北三河」に続き「東三河」と「遠江の境」までの「出城の全て」を瞬く間に事如く落としたとある。
    そこで、これで「右側の勢力の憂い」を排除したので、そうすると残るは「掛川や高天神等の駿河との境城」は
    「戦略的に東西の秀郷流一族一門361氏と戦う事」に成るとして、これを時系列では後にした事に成っていて、先ず「浜松城に狙いを定めた事」に成る。
    その為にだから「武田軍の4隊」が、別々に「北の二俣城」に向かおうとしていたのだ。
    この時、この「4つの動き」に対する為に、「家康」は「不得意な一言坂の無理な野戦」に出て防ごうとした。
    然し、その結果は完璧に悲惨な敗退を期し「浜松城」に「家臣の身代わり」もあって命からがら逃げ帰ったとある。
    この時に、「劣勢の状況」を脱する為に「東三河の吉田城」から「家臣の守備兵」では無く、「国衆」の「額田青木氏・国衆の銃隊」を呼び寄せたとし、「41k東の浜松城」に向けて先ず「昼夜の徒士10時間半の道則」で到着させた事に成っている。
    ここで、では、“何で、呼び出しに応じたのか”の疑問が残る。
    そもそも“「軍議で命令を拒否する」”のであれば、その前の“「吉田城呼び出しの時」”に拒否しても同じである筈だ。
    然し、この「呼び出し」に応じたのだ。
    これには何かの配慮が「額田青木氏側」にあったとしか思えないのだ。
    それが、“「額田青木氏の救出」”に有ったと観ているのだ。
    この時、「三方ヶ原の戦況不利」は「青木氏の情報管理をしている伊賀青木氏」から「秀郷流一族一門、又は貞治本人」を通じて伝えられていた」と観ていて、「国衆の立場・契約条件があった」である限りはこの「救出の大義の機会」を伺っていたのだ。
    それは何かであるが゛、これは「軍議の内容の歴史観」でハッキリとしているのだ。
    丁度、この時、「武田軍の本隊」が「北の二俣城」から南に向かって「海寄り」の「東の一言坂入り口」に到着した処であった事に「時系列」では成る。
    この時、「額田青木氏の銃隊」は、「上段と上記の軍議」で「命令」を拒否した為に「城外」に放り出されていた。
    そして、その後に、「武田軍の動向」が城から見えているにも関わらず「意味の無い作戦」として何と「一言坂偵察」を命じられたのだ。
    “「軍議拒否」”で、“全滅するだろうと見込まれる命令”を敢えて出したのだ。
    ところが、ここで、当然に「額田青木氏・国衆の銃隊」と「武田軍の本隊との遭遇戦」が「史実の通り」に起こった。
    初めて「額田青木氏の戦闘」としての「近代銃の火蓋を切った事」に成ったのだ。
    この「遭遇戦」は、前段で論じた通りで「武田軍」とは「2度目」である。
    一度目の「第一次吉田城の銃撃の脅威」を知っていた「武田軍の本隊・銃に圧倒されて持久戦と成る」はその後引き上げる結果と成ったが、この「額田青木氏の350の銃隊」に対して、「坂途中3000」と「背後に廻った西坂下3000」に追随した形で「坂下に100銃隊」を配置して迎え撃とうとした。
    然し、何と「武田軍の本隊」は、「額田青木氏の一度目の銃撃の凄さの撃音」を聞いてだけで、あり得ない事に戦わずしてこの「射程距離外・約1k」にまで後ろ向きでずるずると逃れ後退したのだ。
    “余りの凄さに「坂の武田軍本隊」は、「完全無抵抗」で「坂道」を譲った”と云う「戦記の戦歴」であったとある。
    そして、そこで「額田青木氏の銃隊」は、敢えて「威力の銃撃」を停止して、「西の坂下」を牽制しながらも、先に通り越して降りて、“「浜松城の北東の小山裾の位置」で先に待った”とある。
    この“「待ったと云う事」”に意味がある。
    一言坂で銃撃戦を続けなかった事なのに、何で“「待ったと云う事」”に成ったと云う事なのかである。
    それは、“「武田軍の本隊の通過」”か、“「浜松城攻め」かの見極めをする事”のこの「二つ」にあって、これを“待った”として、「読み込み」では、“「見極めるとする事」”で観えて来る事なのだ。
    要するに目的以外の事はしないとしていたのだ。その「目的」とは世事情を出るとはの初期の目的達成であった「駿河青木氏の救出」に有ったのだから余計な戦いはしなかったと云う事であって、従って、敵は武田軍では無かったと云う事なのだ。だとすれば時系列は全て符号一致するのだ。
    取り敢えず、「意味の無い偵察命令」は、兎も角も終わらせ、「額田青木氏の銃隊のする事」はこの段階では最早後唯一つであった。
    「軍議命令を拒否」の為に「城外」に放り出された以上は、その後の「行動の決定」は「額田青木氏の銃隊」にあって、そこで「採るべき行動」は、それはこの時は未だ唯二つ遺されていたのであった。
    「武田軍の本隊」に対しても、「松平軍」に対しても、先ず一つは、“安全にしてどの様にして「伊川津」に戻るか”であった。
    然し、もう一つはその前に先ずは「駿河青木貞治隊の救出」があったのだ。
    この段階では敵・松平軍」と見做されていただろう「武田軍本隊」の前を、急いで逃げる事は背後を襲われ危険が未だあったのである。
    だから、そこで「武田軍の背後を追尾する事」にしたのだ。
    それは、“いざ襲われる”と成ると、「銃弾」を浴びせられる「北東の位置」とすれば、精々100m〜300mの小高い丘の上と成る。
    これが「史実記載の通り」であり符号一致する。
    これは「武田軍の浜松城の武田軍本隊の通過路」に関わる事だ。
    これが検証できれば、「潜んでいた位置」が確定でき、「その後の動き」も確定できる。
    「戦記」では、「小沢の位置」とされているが、この「小沢の位置」とは何処かであり、史実と一致させられるかである。
    先ず、「大軍」である限り「細い道」は周囲から狙撃されて通れない。
    当然に「大軍」である限りは「近道と云う考え方」は間違いで「大道路」と成る。
    「二俣城」より真直ぐに南下して「一言坂」を東から西に向けて通過したと成ると、「大道路」としては、「現在のR45号」と成るが、これでは「一言坂」は通らない。
    そうすると、「天竜川の東横」の「現R44号・真南・18k」を通り南下して、「一言坂」に東から到達し、これより「真東1.5kの位置」から西に直角に「旧道・県道現413号」に入り、そこから「天竜川」を渡り、その「5.5kの位置」から、その後、「旧道・現312号」を更に「西に向かう事」で旧道を通過する事が出来る事に成る。
    「武田軍の本隊」は、この「一言坂・坂下・12分・1kの位置」から「旧道・312号」を通り「旧道・152号・2時間半・12k」に繋ぎ、西の「浜松城」の「真南400mの所」を「城」を基点に円を描く様に半円で廻り、そこから「旧道・257号・1時間・5k」を北進した事と物理的に成る。
    又は、「城の北に廻る道路」の“「六間道路・1.5k」”を大通りを通り、“「館山街道」”に出る事もあり得るが、元はこの「道幅」が記録に依れば「4間程度・6m」で狭かったとあるので先ずあり得ない。
    「戦記通り」に「城の南に廻る道路」を通ったとすると、「城より北進約5.0k・1時間」を進んだところで、今度は「堀江」に向かう為に「直角」に「西」に「館山街道」を「旧道・320号・2時間半・11k」で「真西」に向かい最終は「堀江城」に到着したと考えられる。間違いはなないだろう。
    「戦略上の観点」から、これが「武田軍本隊」が「通過できた唯一の経路」であろ事である。
    従って、この「武田軍の本隊」が、この「ルート」で“堀江城に向かっている事”を知った「額田青木氏の300の銃隊と荷駄50」は、此処の事からこの「堀江城」は作戦上は直ぐに落ちる事を間違いなく充分に察知していた筈だ。
    そこで、「額田青木氏の銃隊」は、「武田軍の本隊」が「松城城通過」を知って確認した上で、「館山街道の交差点」を西に向かった事に成ったが、ここが「伊川津に戻る選択点」でもあったのだ。
    然し、ところがここで「情報」が救出しなければならない「駿河青木氏の青木貞治」から「重大な情報」がこの分岐点の処で入ったのだ。
    この時系列で「吉田城」から「浜松城」に向かった理由が、「駿河青木貞治隊の救出であった事」がこの「時系列の検証」で証明しているのだ。
    この時、初めて「決戦の戦場」が、「武田軍の補給基地として観られていた三方ヶ原」と知って、「駿河青木氏を救い出す為」に「時系列」として「堀江に向かう武田軍の交尾」を背後に観て走った事に成るのだ。
    然し、「4時間半」で「三方ヶ原」に到着した時には、既に「連合軍と観られる家康・実際に連合軍に見せかけていた」は、「三方ヶ原」に既に到着し、「上記の鶴翼の陣形」を何と西に向かって敷いていた時であったのだ。
    ここで「重要な問題」があって「救出目的」の「額田青木氏の銃隊」に発生したのだ。
    それは通常であれば、遅れて後から入れば、この「陣形」からすると「定着位置」として「着く所」は、「鶴翼の頭部分に位置する事」にしか無く成るが、既に陣形が出来ていた事から、この事では此れはそもそも「作戦に参加する事」に成り好ましく成る。
    それは「救出の作戦」は不可能と成り得てそもそも採れないのだ。
    そこで、これは「軍議でそもそも断った命令」でもあった。
    それは、「鶴翼左の最西端に位置する事/武田軍の最先端に近づく位置」の以外には「松平軍の無い所」は無いのだ。
    ゜時系列の検証」から、元より「三方ヶ原に戻った理由」は、「駿河青木氏の青木貞治隊を救う事」にあったのであるから、「駿河青木氏の青木貞治隊」の「執るべき救出の位置」は、何と最も危険な「伊川津国衆連}が配置されている「左鶴翼の先端の先」に位置するしか無く成っていたのだ。
    要するに、「額田青木氏が戦場に着いた時の位置」から、「救出の為に銃撃補完する」としても何と「最も難しい位置」の「斜め左最端西」にいた事に成るのだ。
    何故ならば、前進を阻む為に「武田軍本隊の先頭」に向けて銃撃するとしても、その「銃口」は「駿河青木氏の青木貞治隊」の「前進している左端」を掠めなくてはならない事に成る。
    且つ、その「弾丸」が「味方の額田青木氏の銃隊の斜め横」を斜め西に家て通過する事に成るのだ。
    この事は、「弾の補給」や「補助隊員・50人」の「補完行動の効率」の悪い「制限された身動きが取れない構えの陣形」に成る事は必定であった。
    そこで、「額田青木氏の銃隊の指揮官と副官の貞重と貞秀」は、戦後に「伊勢に遺された記録」では、この時に「その一案を案じた」とされているのだ。
    それが、“一斉に「武田軍本隊」に目がけて前進を阻む為に、先ずは「弾幕」を張る。
    そして、その「爆煙」に依って「前方」を隠す。
    次にその「隙間」に応じて、ここで「救助に当たる者・補助隊員・50人」が繰り出される。
    そこで「駿河青木氏の青木貞治隊」を「銃隊の方に導く」と云う事をする。
    この「作戦」を建てたとされている
    そして、それを「伊賀青木氏」が、“「館山街道の見附」”から走って伝えたとしている。
    これ等の事を「駿河青木氏の青木貞治隊」に事前に最終伝えたとされるのだ。
    さて、ここで「休憩」を執っていた“「館山街道の見附”の横」から「この情報を持った伊賀青木氏の忍者」を「三方ヶ原」に着いた頃の「駿河青木氏の青木貞治隊」に走らせたとある。
    その後は、「盤田見附の菩提寺の西光寺」に向けて走り逃げ込む事にした。とある。
    一方では、「額田青木氏の銃隊」だけは、「武田軍の本隊の直ぐ側面」」を「銃を構えて走り抜け」て、上記の通りに「西の二俣路に成る“「六間道路・1.5k」”を通り、その“「館山街道の見附”の交差点」を「伊川津」に向けて「怪我人を乗せた荷駄車」と共に懸命に走ったと概ねで記載されている。
    ここで、「特記する事」は、特別な事がおこっているのだ。
    「武田軍勝利後」に編成された「武田軍本隊の追討軍」は、予想外に何故か次の“「二つの事」”をしなかった事が記載されているのである。
    それは先ず「一つ」は、追討していながらも「盤田見附の菩提寺の西光寺」に逃げ込んだ「駿河青木氏の青木貞治隊」を寺から追討せずに黙認して本隊に戻って行った事である。
    「二つ」は、本隊の横を悠然と通過して行く「額田青木氏の銃隊」を攻めず追討もしなかった事である。
    結論から筆者は、「額田青木氏の銃隊の指揮官・貞重と貞秀」が「武田軍本隊」に対して「感情的」には、“全く敵意が無いと観て執っていた事”と、「戦術的」には、“「経験した銃隊の脅威を避けた事」の、この「二つ」が共通して「指揮官の青木貞重と貞秀」や「指揮官の青木貞治」には「敵意」を全く感じ無かったと観ていたのではないか。
    だからこの「救出作戦」は計画通りに成功したのだと考える。
    それは「額田青木氏の銃隊」にしても、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしても、要するに「三河国衆で無かったと云う事」に尽きる。
    「額田青木氏の銃隊」は「伊川津・渥美湾」を下に「伊勢との繋がり」の中で「殖産を築こうとしていた事」と、「駿河青木氏の青木貞治隊」にしては、「国衆の立場」から「伊勢」と共に「殖産」を商い、それを元にして「松平氏の近習・家人近習衆」に食い込んで「駿河水軍の殖産を高める事」にあったのだ。
    共にこれは「大成功」を治め、「殖産をする企業家の青木氏」と成り得たのだ。
    この結果として、「伊勢水軍と駿河水軍」とを通じて、「三つ目の目的」の「伊豆の安定化とパイプラインの再構築」が成されたのである。


    さて、「三河戦記」での「時系列」をもう一度追って観ると、他に「青木氏の歴史観」に執って観えてくるものが有るので「読み込みの検証」をした。

    これが12/22日 「三方ヶ原」に向けて「早朝」に出発したとある。
    さて、ここで、まず「問題 1」に成るのが、「松平軍」が「夜明け」と共に発進し「三方ヶ原」に向かって「到着した時刻・12/22日 朝10時半頃」と時系列では成って来る。
    そして「武田軍の本隊」が、「浜松城」を通過した時刻・12/21日 17時半頃」である。
    ここにはある「疑問を持つ時間差」であるが、それは、何と“「17時間半差」”である。
    とすると、「額田青木氏・国衆・銃隊」が、この間、“「三方ヶ原」には未だ走っていない事”に成る。
    つまり、「12/21日 17時半頃〜12/22 10時半頃」は、「松平軍」は、この問題の“「17時間半差」を何を三方ヶ原でしていたのか”である。
    そもそも、“「三方ヶ原まで徒士で2時間半」で到着する”のである。
    従って、計算では、“「朝8時頃初期の発進」”であるが、ところがこれを「戦記」では、“「夜明け」”としているので変である。
    この「冬の1月25日」の“「夜明け」”では、速くても日本列島の「東の三河」では、“「朝6時頃発進」”と成るだろう。
    とすると、“「戦記の夜明け」の「朝6時頃」”と、“「計算」での「朝8時発進」”との間には“「約2時間差」”がある。
    つまり、「朝6時頃発進」〜「朝8時発進」に、随時、「松平軍」は「浜松城」を発進して行った事に成る。
    この「2時間のギャップ」は当然の事として起こるので、ここの部分の「戦記の記載」は正しいだろう。
    要するに、「松平軍」は、この「発進」の「朝6時頃発進の頃」の直前まで先ず延々として“「夜明けの朝まで城で軍議であった事」”に成る。
    然し、この「記録」では、この時、既にその「3日前」に「軍目付・軍監の3人」は、“「美濃尾張に向かって帰参中」”と成る。
    この間に、「武田軍の本隊」は、「堀江城」に到着次第、直ぐに急ぎ攻め掛かった頃に成る。
    「松平軍」の方は、「三方ヶ原」に最短で到着次第にして、「時間の掛かる鶴翼の陣形」と決めていたので「組み終わる頃」であった事に成る。
    つまり、「当時の陣形が組み終えるまで・戦記の記録を参考」にすると、“「最長では12/22 13時〜14時頃」”には、既に、“「戦う態勢を整え終わっている事」”に成る。
    つまり、だとすると、「開戦・16時としている」までの「約2時間程度の相当長い時間」をそもそも“何をしていたのか”と云う「基本的な疑問」が湧く。
    つまり、そうするとこの「寒い冬の三方ヶ原」で「武田軍本隊の到着」するまでの間」は、「松平軍」は「真冬の原で何もせずに“2時間程度”も待っていた事」に成るのだ。

    つまりは、最短で「12/22 “10時半頃”」には、到着し、何と夕方の「12/22 “16時頃”」には「三方ヶ原」で開戦しているのだ。
    一方、「武田軍の本隊の先頭」は、この“「12時頃」”に「落とした堀江城」を発進し、“「約4時間半」”を架けて走って、「魚鱗の陣形・赤兜の騎馬隊6000」を前に整えながら、「三方ヶ原」に到着している事に成る。
    何せ何れも“4時間走ると云う疲労は大きかった”と考えられる。
    「松平軍は冬の三方ヶ原で待つ疲労感・2時間」と、「武田軍は三方ヶ原まで走る疲労感・4時間」である。
    「堀江の落城」は「囲み三攻め」であるので余り労苦は使っていないとしているので計算外と観る。
    「三方ヶ原」に着いてから、“少ししてから開戦”と成ったとしているが、この時、上記した「駿河青木氏の青木貞治隊」を救出する為の「額田青木氏の銃隊の煙幕」で、「武団本隊の進軍阻止のタイムラグ」が発生している。
    然し、この“「進軍阻止のタイムラグ」をどの程度と観るか”である。
    つまり、これは要するに「救出時間」であり、この間に「武田軍本隊と山県軍の別動隊」は進軍を「待つ事」に成り、時間的には「疲労解除の有利な時間差」と成る。
    これをどの程度と観るかであって、それには「弾幕」は固定できるが、その「弾煙の消えるまでの時間」には幅が生まれる。
    それの「消えるまでの時間幅が働いていた事」に成るので、少なくとも実質は連続射撃であったとしても“1時間以上とはならない”であろう。
    「1時間以上」では、「日暮の時間や寒さの疲労等」が生まれて両者に執って好ましくない筈で、この“「無理攻め」が起こる事”に成り兼ねないが、それを匂わす記載は無い。
    従って、実質は、“精々0.5hで救出しなければならなかった事”に成る。
    “両者に0.5h相当のアイドリングが生まれていた”が、これは当に“疲労の大きい武田軍本隊に有利に働いた”と観られるのだ。
    故に、敢えて「勝負に関係のない救出劇」は“都合が良かった”し、「山県軍の別動隊の行動・判断力」に余裕が出来ていた事に成る。
    「不利な状態の武田軍本隊」」を「救うタイミング」が執れ、且つ、だからその「判断の結果」は「少ない兵力・2000」で「松平軍の側面・5000」を突撃で突くと云う事が出来たのだ。
    この計算からすると、「武田軍本隊の疲労感」は実に大きかった事に成る。
    とすると、“「山県軍の別動隊」は、この本隊の疲労感を気にしていた事に成る。
    この間どうしていたのか”と云う疑問の検証が全段でも論じた通りで、もう一度ここで必要だ。
    それは、「北東の二俣城・13.5h〜14.5h」から発進し、やや遅れて「武田軍の本隊の到着・16時頃」より「約0.5〜1.0h程・16.5時〜17時頃遅れ」の所で、「約3h〜3.5h」を駆けて「三方ヶ原の真北の山際」に到着している事に成る。
    この「山県軍の別動隊・5000/2000兵」も行軍に依っても疲労している。
    そこで「武田軍の本隊の開戦準備体制」に入ってている事を観て、「最大1h遅れの山県軍の別動隊・補給拠点構築隊」は、この「本隊の危険」を察知した事に成る。
    そこで、突然に「北の山際道」から「隊が整うか整わないか間隔」で、“「命令外・使命外の行動」に出て突撃した事」”に成る。
    故に、この「時系列の読み込み」では、「本隊を助けた事・本隊が整うまでの時間稼ぎの行動」と読み取れるのだ。
    そして、更にこの「戦況」は、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の横腹を突く事・弱点」で偶然にも圧倒的な勝利に終わり前段で論じた通りと成ったのだ。
    その意味で、その後の「浜松城の攻め落としを成さ無かった使命ミス」は、兎も角も「主戦闘隊」ではない「山県軍の別動隊」は、額田青木氏の銃撃で約半数を無くす程の大きな犠牲」を払ってでも「本隊」を辛うじて助けた事と成るだろう。
    「武田軍本隊の戦場での陣形」を「充分に整える時間稼ぎ」が「駿河青木氏救出の弾幕・煙幕のタイムラグ」と共に、ここに「本格開戦までの1h弱程度のタイムラグ」が「流れの中」で有利に自然発生的に生まれたのだ。
    「以上の説の通り」のこの「武田軍の行動」を察知して、「松平軍が積極的に行動を執ったとするの説・後付け策」では無く、「上記の時系列の詳細経緯」では、「松平軍が先に2時間前に三方ヶ原に向かった事の説」に成るのだ。
    そうでないと「時系列」は符号一致しないのだ。
    ある意味で、今後の「重要と成った戦記」にある様に、「浜松城の攻め落としのミス」をした「山県軍の行動」に対してさえも、「これらの事/符号一の時系列論」を以て「武田氏の戦後の軍議で許された経緯・正しい臨機応変策」が記されているのだ。
    要するに、「事の戦略論」としては“何れの戦いにもこの「重要な基本と成る流れ」を見誤らない行動策”の事となろう。
    これはこの現代に於いてでも成り立つ策謀である。
    「今後の武田軍の見本と成る戦い」として扱われた可能性があるのだ。
    然し、前段でも論じた様に「信玄死亡後の長篠の戦い」では全く行かされなかったのだし、寧ろその逆であったのだ。
    「浜松城の攻め落としのミス」の「甲斐のセンセーション」から観ても、「三つの三河戦記の後付け説・好感引導説」であると観ている。
    然し、それが「後の長篠での武田軍を滅ぼすミス」と成って仕舞ったのだ。
    この時に、「勝頼」が反省していれば「長篠戦いの戦略的ミス」、つまり、「二拠点化で採った山県軍の別動隊の行動」、即ち、「本陣を崩されない為にも二極点化策の無視」は無かっただろう。
    然し、この「山県軍の別動隊の半数を無くす程の大きな犠牲」は、「額田青木氏の銃隊」の「駿河青木氏の青木貞治隊救出」の為に採った仕方の無い影響だけであったのだ。
    これ等は「現在の現実処理」に於いても学ぶべき「青木氏の歴史観」として、これらの関係する事柄を後の為にも正しく刻んで置かなければならないこれは「大事な史実」であるのだ。
    此の世の事は、直前の「事の勝敗、事の成否、事のリード」の「直前の状況」に拘わらず、“「事の流れを如何に早く正しく見抜いた者”が時間が経った「最後の真の勝利」を獲得するのだ。
    それには「人間」である限りは、その基点は「冷静に成る事を鍛える事」にあるのだ。
    それを獲得した者が「上記した流れを掴む事」が出来るのだ。
    これは「青木氏が求める古代密教浄土宗白旗派」の「仏教の密教経典般若心教の教える処」でもあろう。
    それが「青木氏の氏是」を正しく理解する処にあるとしている。
    そうでなければ幾ら「青木氏の氏是」を護れとしても決して護れるものでは無い。

    「青木氏の歴史観論」より


      [No.398] Re:「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/10/10(Mon) 10:29:41  

    「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」の末尾

    > 「摂津・堺」では、これに基づき、「試験用」として初期の時期・近江鉱山開発と同時期」からこれを選ばれていたと考えられる。
    > そもそもそうで無くては、態々、この鉄を熔融する事で起こる「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ製鉄」”では無く、先ずにそれには“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くす事を試みた。
    >それには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に論理的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
    > 「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、改良が進んだ室町期にはそれに近いものを採用したと考えられる。
    > 然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が時系列上は既に「伊勢青木氏部]にはあったとされる事とに成る。
    >それには「関西で使われていた砂鉄用の箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が、既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
    > 何故ならば、「関東」には「日本の地形の形成事」からの地質地形上で「砂鉄」は少ない地質であった。
    > そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
    > そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
    > 上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
    > ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉・竪型炉と予測」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
    > 「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
    > 理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
    > ところが、この「高炉説」を本名とする事が起こっているのだ。
    > これは「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
    > やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
    >当然にこれには炉の開発も進んでいなくてはならない。
    > そして、この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
    > この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
    > つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が「関東」でも使われたと云う事に成る。
    > 全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」であった事に成る。
    > 「近江」では「青木氏の炉、つまり開発した竪型炉」であって、「青木氏部の匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずにいたものが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされる。
    >これを「竪型炉」としていたと考えられるのだ。
    >「 関東」ではこれは「発展過程の炉」と云う事では無いか。
    > つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に「独自開発していた事」を意味する。
    > 実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、現鉱石を還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を「炉の高い先端」から投入する事が必要とする。
    > 専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は、「高炉の原型炉」と云えるものであって、「原理的」には同じ傾向のものである筈だ。
    > つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていて、この「炉底」には「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
    > 最後に、「炉全体」を壊してこの「二種の鉄」を取り出していたのだ。
    > これではこの工程で未だ「鉄」は使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
    > 更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
    > この「ケラ作業」は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
    > 「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させるべく長い間で「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
    > 実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
    > そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発/摂津」を試みたのだ。
    > それが「砂鉄に付か使う縦型炉」の「改良の竪型炉」であった。
    > 日本は最も高い効果を出す石炭の「還元剤の製造」には「伝統の掟」があって使え無かったのだ.
    > それは先ず「石炭」を「500度程度の蒸気」で熱して、危険な硫黄を取り除き「コークス」として使えば「最高の還元剤」となるが、これが「伝統の概念」で出来なかったのだ。
    > 其れは「超毒性の強い酸化硫黄の公害」に依るとして付けて戒めていたのである。

    「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」


    さて、ここで「近江鋼」を検証すると、この時の「製錬の原理」が 「竪型炉≒高炉」とすると、「摂津青木氏の青木氏部の匠」が、「砂鉄の玉鋼」では無い「奈良期・703年〜713年からの鉱山開発」からのこの「近江鋼」を製錬する場合は、まず何はともあれ「炉の改良」を行った筈である。
    そして、「鎌倉期」に「関東」での「鉱山開発の鉄鉱石」には、「上記の竪型炉」が使われていたとする遺跡の時代経緯からすると、同じ「鉄鉱石の近江鋼」にも少なくともこの「竪型炉」が使われていた事に成る。
    何方が先かは後に述べるとして、当然に、「奈良期・703年〜713年」からの「鉱山開発」から、「鎌倉期の鉱山開発」までには、「約480年間の時代経緯」があるとすると、「竪型炉」は「摂津青木氏の青木氏部の匠技」に於いて先に必然的に改良されていた筈である。
    それは「近江鋼」と「千葉の遺跡」とが「竪型炉≒高炉とする原理」であったからだ。

    では、「竪型炉≒高炉とする原理」であったとする事から“どの様な処を改良されていたか”である。
    少なくとも「還元剤の使用の有無」から「高炉」そのものでは無かった事が物理的に、時系列から頷ける。
    「高炉」に使う「高いコークス技術による還元剤」はまだ日本では使われいないからだ。
    故に、「高炉」に対して「改良を施した炉」を使っていた事が判り、それが「竪型炉」であって、この「竪型炉の改良点」は学問的に観て次の様な点があった筈である。

    筆者がもし「竪型炉=高炉」とするには、その「財」に問題が無かった事から、且つ、目的達成の為の「改良点」を導き出すとすれば次の様な事をする。

    1 「より良い銑鉄とタタラ」を取り出す為に、つまり「溶融温度」を高める必要があるが、この為に「竪型炉」を小高い丘などのより上部にして高くする事。(史実)
    2 品質と爆発を配慮して「二重底の炉形」を解消して、「原形のタタラ・溶かした鉄」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実
    3 「二度の不純物除去の炉の無駄」をなくし、つまり、先ず「タタラ」との「炭素の差」を無くして「銑鉄だけ」に絞る「構造改革」をする事。(史実)
    4 「重要な還元反応」を高める為に、 「還元剤」として現行の「木炭」+「石灰石」に加えて、「古来からの熱源」で、且つ、「還元剤の石炭」(コークス・注釈)」も加えて「還元反応」を高めて「銑鉄純度」を挙げる事。(史実)
    5 炉の上に「屋根」を設けて全天候型にして保温する事。(史実)
    6 大きくする為に壁に煉瓦の使用を試みて壁強度と壁保温度を上げる事。
    7 「チタンやニッケルやシリコンの不純物」の「流し経路」を設ける事。

    注釈 飛鳥時代、奈良時代から、要するに瓦は使われていた。
    煉瓦は、“「磚、甎・せん」”と呼ばれてあった事が記載されていて「構造物」には使われたとする。
    その後に廃れたとあり、これは弱点の地震にあったとされる。
    中国では紀元前の秦の万里の長城に既に使われている。

    注釈 石炭は記録から奈良期から採掘が成されていたが、その採掘場所の地層から硫黄分が多く出た。
    この「猛毒の硫黄」が嫌われて使用は避けられていた経緯が記されている。

    注釈 上記6の「木炭高炉・14世紀」は、まだ「還元性」が不足はしていたが、既に「西洋」に於いて「木炭高炉」は一応は出来ていた。
    その歴史は、「14世紀初期」に「木炭高炉」、「17世紀初期」には「石炭高炉」、「1783年頃」には「コークス高炉」、の「以上の経緯」を経て開発されていた。(史実)
    それまでの「欠点」をこの「石炭」でこの「還元性」と「火力・炉温度」を高めたが、ところが「石炭高炉・17世紀」には“「硫黄分」”が強く、これが“「銑鉄」”には「最大欠点」の「脆さ」を出して「使えない事」が起こったのだ。
    高炉にも使えない最大の欠点がでて一時廃れる。
    そこで、多くは「約100年後」の「1709年」に、この「石炭の欠点」を無くす為に先に石炭を蒸して「硫黄」を先に取り除き、これで「コークス・炭素」を造る事で、これで「高炉の欠点」を解決したのが「1783年」である。
    この間、「74年間」も掛かっている。元から云えば「174年間」である。
    然し、これには「疑問」があるのだ。
    従って、時系列からこの「鎌倉期頃」には、つまり、既に「関東での鉱山開発」を始めた頃には、「木炭高炉・竪型炉・青木氏開発」として、「日本・摂津から千葉に移設」でもあった事に成る。(史実)

    注釈 この「青木氏開発」の「竪型炉」は、「銑鉄」からもう一度、「製錬する炉」などで溶かし直して「不純物」を完全に取り除いて最終は圧延しして使う方式である。
    現在ではこれを「転炉」と云う。
    「近江鉱山」から「480年の間」に上記の「改良点」を「青木氏部」で実現すれば、「竪型炉≒高炉」は成立する。
    上記の注釈の、「西洋」に於いて「14世紀初期」に「木炭高炉」がある以上は、「青木氏部の竪型炉」の「改良点」は示現していたと考えられる。
    従って「1500年代初期」には「堅固な改良型竪型炉≒高炉」は存在していた事が頷ける。
    況してや、「院屋号」を背景に「1025年頃に総合商社」に成っていたとすると、「中国・宋」のみならず「西洋との貿易」は行われていて、「最低限」でも「木炭高炉・14世紀・鎌倉期末期の原形」が日本に導入が成されていた事に成る。
    それが故に、「関東の鉱山開発」には最低でも、「史実」として「高炉」では無く「改良型竪型炉」が採用されていた所以と成るのだ。
    とすると、「青木氏部」がその「院屋号を持つ殖産」の「時・703年・713年」から「近江鋼で得た炉の技の使用」を「全国・関東」に広める事には、可能でその時点から「竪型炉の普及と改良」を重ねていた事に成る。
    自らも「銃の欠点の解決とその開発の完成」に至る事までは、それに依って、この「竪型炉≒高炉の改良点」は、「青木氏部」に執って必然急務であった事に成る。
    従って、時系列の経緯としては「14世紀」で「木炭高炉」に成ったとすると、上記の「額田青木氏の銃」に使う「近江鉱山の鉄」にするには、未だ「200年の開発期間」があり、それには「高炉の炉」としては「石炭高炉・1709年」から「コークス高炉・1783年」までに「仕上げる事の時間」があった事に成る。
    ところがこの時、既に「日本の戦国時代」は始まっていた。
    「額田青木氏を救い出す事」にはどんな炉にしろ「炉の開発」は急務であった。
    要するにそうする最先端の「コークス高炉・1783年」までには、「高炉開発の時間」が更に「180年足りない事」に成る。
    従って、この「180年間」は、「竪型炉≒高炉」であって、「貿易」があったとしても「木炭高炉・14世紀初期」<「石炭高炉・1709年」の間にあった事に成る。
    そこで時代は先ず「木炭高炉・14世紀初期」を脱し、更に「石炭高炉・1709年」からも脱しようとしていた時期で、ところがこの「コークス高炉・1783年」にはまだ年代的にも程遠い事に成る。
    「木炭高炉・14世紀初期」は、「竪型炉の炉低外」で「炭」を大量に使用し「外に流れでた鉄」を覆い、更には「還元剤」としても多量に使用する為に、製鉄には最も重要なのはこの「還元剤」であるがこの元と成る炭の「備長炭の使用の炭・殖産中の論」と云う点では符合一致する。
    時系列として「石炭高炉・1709年」は、「江戸中期以降の事」であるので、その「高炉を使うと云う事」では「青木氏の所期の目的」は既に高炉に至っていず終わっている。
    従って、「近江鋼開発と炉開発と銃開発の3目的」から「近江鋼用の高炉開発」は「竪型炉≒高炉」でも良い事であった。
    故に「高炉」に拘らなくても敢えて「独自の竪型炉の発展炉・改良炉」を成し遂げて使っていたと観ているのだ。
    その為の「財と技」は、充分にあって、それ故に「青木氏の氏是」に従い、この「過程」では「青木氏部」では秘密裏な事であったと観ているのだ。
    この「3つの目的」の内の「近江鉄の開発」は、時代は進み「青木氏部がその置かれている政治的立場」から、既にその「殖産の義務」は既に無く成り、「平安期/鉱山開発の炉開発」では終わっていたと観ている。
    故に、この「改良型の竪型炉」が「関東の鉱山開発の製鉄」に使われていた事に成る。
    丁度、「青木氏部の摂津での開発」は「一種の試験炉」であったのであろう。
    これらの周りに無かった「竪型炉の発展」と、「青木氏の義務の経緯」は一致していて、“「木炭高炉・14世紀初期」の段階”で終わらしていて、後は「記録」から「関東の鉱山開発と製鉄技術」の一部をその「青木氏部の匠技」は引き渡していたいた事に成るだろう。
    「関東」に於いて「箱型や平炉の歴史」が全くない所から観て、「青木氏の竪型炉の改良型」が「何らかの条件付き」で「引き渡された事は確実であろう。
    だからこそ「鎌倉時代の中期」まで、その「功績・見返り」に応じて「伊勢本領安堵策」にも繋がった要因の一つに成ったのであろう。
    中期以降も「伊勢の本領安堵」は、“「郷氏」”ではあったが「守護王・大名」で無く成った事を理由に「南勢の旧領地」を残して全て解かれて無く成った事があった。
    然し、ところが史実はこれを全てが“「地権者」”に変わっただけであったのだ。
    「買った」のか「買わされた」のかは判らないが、前段でも論じた様に「伊勢一の大地権者であった事」は判っている。
    後は、「室町期の戦乱期」では「額田青木氏の銃の完成期」にあったのであり、何も「高炉」で無くても「竪型炉≒高炉」で丁度良かったと云う事に成る。

    注釈 「竪型炉の改良点」の「強力な還元剤」であり、「強力な熱源」の「石炭」は、その「欠点の硫黄」を除去するのに何と西洋では「74年間以上」も要している。
    これは「青木氏部」にとっても「大いなる疑問」である。
    そもそも「石炭」は、石油同然にその典型的な「化石燃料」であり、地層より「硫黄」を含むは必然であり、そもそも「硫黄」は地中で「強力な硫酸塩鉱物」を造り「硫化鉄」と成す代表的な物で、常識では“「74年間以上」”は不思議である。
    そして、これを解決した方法が“蒸した”とするも当然と云えば科学者、又は科学知識のある者で無くても当然であって「不思議の極め」である。
    ストーブなどで「石炭の火力」を火中で強くするには、逆に「石炭」に水を吹きかけ蹴る事であり、これに依って熱せられた「石炭」から硫黄が蒸されて飛びだし、残りは「炭素のコークス」と成り、これが「酸素」と反応して「火力」が強く成るは「子供頃の知恵」であった。
    従って、「石炭」から「硫黄」を取り除けば「コークス」になるのは「子供の知識」であり、故に例え「74年間」は年代に関係なくおかしい。
    「西洋」では「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」の2つではあるが、日本に於いては「石炭」は「飛鳥の古来」よりあって当然に「加熱材」として使用されていた事は「記録」から判る。
    従って、少なくとも「石炭高炉・1709年」と「コークス高炉・1783年」には「74年の時間差」は普通は生まれ得ない事に成る。
    且つ、歴史を観れば、前段の「備長炭の論」からの「木炭高炉・14世紀初期」が在れば「石炭高炉」と「コークス高炉」はほぼ同時期に既に成立する事になり得る。
    そこで、「西洋」で「木炭高炉・14世紀初期」とする事には、日本では前段の「備長炭の論」から「900年頃」には既に「乳母女樫」に依る「良質の紀州木炭」は既に存在していた。
    そして、その「木炭で造った墨・青木氏部」は、前段や上記で論じて来た通り「奈良期」に於いて「殖産」を命じられて完成している事から、「木炭の竪型炉」では、「高炉」に至るまでに既に使用されている事に成る。
    とすると、「西洋」の「木炭高炉・14世紀初期」より前に「摂津の青木氏部」では「木炭竪型炉・平安紀初期」は完成していた事に成る。
    従って、この「上記の改良型」が「青木氏部」に依って既に成されていた事に成り得る。
    つまり、「石炭高炉」のみならず「コークス高炉・1783年」も同然と成り、“「石炭・コークスの竪型炉の改良型」” つまり、「竪型炉≒高炉」は成立していたと観ているのだ。
    「上記の改良点」は冶金学的に「財」さえあれば「目的の重要性」から比較してそれ程に難しい事では無いからだ。
    要は「竪型か高炉」かの呼び方如何程度のものに依ると観ているのだ。

    余談として、割きに続き「西洋の歴史観」は、「青木氏の歴史観」からすると、余談と成るが、何故、「硫黄」にこれだけの「時間・74年間」を要したのかである。
    「硫黄」は今も昔も「鉄を脆くする最悪の物」であるし、「猛毒」である。
    「流化鉄」は放置しないであろうが、恐ろしい物である事はあるのだが、逆に石では無いので“蒸して取り除く事”も至って簡単である。
    「石炭」は「高炉」の「最高の熱源」であって、且つ、「最高の還元剤」ではある事に目を着けた事は優れている。
    現在に於いてもこれ程の物は出て来ない。
    故に、現在は、この「厄介物のチタン等の鉱物」は、「高温」にして溶かして「単独金属にまでする溶解炉・高融点」に「コークス高炉」が使われている所以である。
    この「74年」は、「コークス高炉」に到達するまでの“「石炭高炉」で一時済ませられていた”と云う事では無いか
    「西洋の通説」と違って、「高炉中」に於いては「日本」では「硫黄」は問題とは成らなかったのでは無いかと観ているのだ。
    何故ならば「竪型炉」でも「石炭」を使えば出る可能性があるからだ。
    「硫黄の分子量32/酸素16/空気28.8」で炉中に発生したガスは重いので先ずゆっくりと「炉底」に沈む。
    そして、この「反応力」は酸化物中で最高で「ガスの状態」で吸い取り炉上に放出していたが、空気より重い事から「地表」に落ちて沈み「植物」を枯らし、人間に健康被害の問題を起こす。
    その為に「74年も放置無視されたという事」の原因となったのでは無いか。
    もっと云えば、日本での「石炭竪型炉の記述」を記録から観ないのは、この「毒性や鋼の脆性」などの「重大欠点」を嫌っていたものであり、故にこれを使わない「木炭に依る砂鉄の玉鋼炉」が明治の初期まで主流であった事でも云える。
    当時でも、だから「鉄の製鉄方法」は「砂鉄の玉鋼」から脱却できなかったのだが、だから「最大の欠点」は、「砂鉄」では「還元力」に重点を置くのではなく「炉の溶融温度が低い事・木炭」にあったのだ。
    兎も角も、古来より身近にある「石炭」を「硫黄と云う最大の欠点」を生み出す為にこの還元力と熔融での「最高の石炭」は、“敢えて使わなかった”と云う事ではないか。
    それを解決するのが「竪型炉か高炉・温度」であって、それが「コークス・温度・還元力」なのだが、そうすると、この「悪害の硫黄」を、何故、「植物化石由来の石炭」を「150度〜540度付近」で蒸して「硫黄ガス・120度程度付近の融点」で取り出して「無害」にして使わなかったのかである。
    そうすれば、「最高の還元力」と、「最高の温溶融温度」を簡単に獲得出来ていた筈なのだが。
    これはそもそも科学的に観て、「古来の日本」に於いてでもそう「難しい発想・知識」ではなかったのだが、それが理由で歴史的に明治初期まで使われなかったと云う事だ。
    実は、これには、「科学的の事以外」に、“何かの特別な古来概念が働いていた”と云う事ではないか。
    何故ならば、それが“「明治初期」に成って全ての熱源にも一斉に使われ始めた事”なのだ。
    この「概念」が突然に簡単に取り除かれたと云う事ではないか。
    それ程の物であった事に成る。
    これには、そうすると、“何かがあった”からだが、それは何なのかであり「発想の転換」を成すより強いものが明治維新に働いたと云う事になる。
    この“古代の鉄の時系列”では次の様に成っている。
    「砂鉄のタタラ製鉄、或いは、「その後の鉱山鉄」が、上記して世間、即ち、「伊勢神宮」に於いては<「薬用」<「禊用」の過程の概念に関わる物”として扱われていたと仮にすると、「上記の様な突然変化の事」が起こっていた可能性がある。

    そこで、「時代の進行」に沿って当時の「鉄の置かれている立場」がどの様に変化して行ったのかを検証して観る。

    1 昔は金属の鍛造に関わっていたものの総称を、「打物者」、又は「打物師」とか「居職」と呼んだ。
    2 大工の「番匠」に比べて「専業化の強い職種」であった。
    3 飛鳥期からの「鍛冶部・かぬち」と[鍛冶戸・かじべ」はその技を継いだ部であった。
    4 彼等は一時は「工人の身分」で「農業の傍での作業」であったた為に「農民」に区分けされていた。
    5 「12世紀」に成って「鉄の収容増大・需要」で分化して4は「職人格」に成長した。
    6 更に「金属処理加工の分化」が進み、「銀加工の銀鍛冶・細工の職人」が分化した。
    7 ところが「5の影響」を受けて「鉄の鍛冶師」だけは別の進化を遂げ「別格の技術者扱い」となった。
    8 「12世紀」には「刀鍛冶」、「15世紀」には「具鍛冶師」、「17世紀」に「鉄炮鍛冶と庖丁鍛冶師」は5より抜け出し「高い扱い」を受ける様になった。
    9 「砂鉄」は“「野たたら」”と呼ばれていて主に古式に原始的に精錬されてにいたが、「近世中期の18世紀」になって、“「たたら炉」による新しい精錬”と成った。
    10 「燃料」は「18世紀の最先端の燃料と還元剤」は、あくまで「木炭」であった事が明記されている。
    11 彼等は飽く迄も5の影響を受けたが、「区分作業の賃金労働者」であった為に「木炭」からの発展は留まった。
    12 古来には「鍛冶屋の職祖神」、又は「道祖神」を信じる職人は、“「金屋集団」”と呼ばれて「金屋子神・かなやごがみ・金山神」の組織の中に義務的に全員あった。
    13 古代では、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と、「八幡・はちまん信仰」に結び付く「鍛冶翁・かじのおきな」を主神としていた。
    14 古代では、その後は彼等の殆どは「稲荷明神」に入信する事と成ったが、「商人」などは「金山神」とし、組織化されていた。

    以上の「経緯の事」から観ると、上記した「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の概念の関係から、「伊勢の殖産」の中にはこれが無かった事が解り、「近江の鉄製品」に限っては「特別な縛り」は無かった事に成るのだ。
    そして反面、「砂鉄の事」に限ってはあった事に成る。
    だとすると、「砂鉄以外」の「全ての炉種」に対して“「石炭の使用」”には「縛り」は無かった事に成る。
    これにはただ一つ上記の「9〜14」に「答えに成るヒント」が出ている。

    先ず、“全ての鉄に纏わる者等”は、“「金山神」”を「主神」としていて、彼等の全ては“「金屋集団」”と呼ばれる「組織」に入っていたと云う事である。
    この“「金山神」”は、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」にその「流れ」を組んでいたと云う事であり、「最終」はそれが“「稲荷明神」”に繋がるとしていて、更に前段でも論じたが、この“「稲荷伏見神」”は、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”と成ったとしているのだ。
    つまり、辿れば、“「伊勢神宮の外宮豊受大神」”は、“「稲荷伏見神」”に戻り、古来の果ては“「金屋集団」”の“「金山神」”の、「天目一箇神・あめのまひとつのかみ」と「八幡神・はちまんのかみ」に戻るとしていたのだ.
    結局は、「古来からの砂鉄」に限っての概念には、上記の「4つの概念」に縛られていたと云う事に成るのだ。
    ところが、200年程度遅れた「近江鉄」には、この上記の経緯の「4つの概念」に未だ強く縛られていなかった事に成る。
    寧ろ、以前より在った「禊ぎ概念」の「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用」<「食用」の概念の関係が伊勢と近江では優先にしていたと云う事に成る。
    終局は、何故ならば「炉の加熱材、又は還元剤」は、その「彼等の木炭の使用」にあるとし、又は、この「石炭の使用の是非」も、この“「金屋集団」”の「4つの概念の掟」にあった事に成るのだ。
    つまり、“「砂鉄の鉄」”が、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念にも関わる物として“「伊勢神宮」では扱われていた”のだ。
    そもそも直ぐ真近にありながらも「古来からの石炭」は、「鉄、即ち炉」に対して“「是非の非の物であった事」”に成り、「古来からの木炭を超える事」の神聖差からは抜け出せなかった事に成る。
    故に、この「概念」が解かれる「明治初期」まで長く使われなかったのだ。
    尚の事、「伊勢青木氏の額田の近代銃の製作」には、この「縛り」から離れる為に「伊勢神宮の影響」から離れる為に「改良型竪型炉の固守」で完遂させたのだ。

    そもそも、「西洋」では、この「初期頃の高炉とされる主な目的」は、上記で論じている様に製鉄には「軍用の銃身とその弾丸の生産」にあって、「西洋」に於いても同然であって、それに伴って「発達させたとする炉」なのである。
    これは「額田青木氏の目的」と同じなのだ。
    故に、当然に当時は、「製錬過程」には「日本列島の形成構造上」で、宿命として「原鉱石」の中に「チタン」は多く潜むのだ。
    当初では、この「チタンと云う概念が無かった」と考えられるが、それが“「白くて溶けない堅い鉱物・炉の破壊」が、「炉口」で邪魔をして危険な物と成る”とする程度の認識しか無かったと考えられるし,その様に「砂鉄の記録」では記されている。
    その為に「砂鉄」では“何か炉に対して対策しようとする開発的の様な動き”はそもそも無かったと考えられる。
    要するに、この「不純物の鉱石」を取り除く為の「融点の高い炉」の「必要性の有無」であるのだ。
    故に、偶然にも「筆者の上記する専門学的な立場にあった者」から直視しても、「近江鉄に検証される事」からすると、多くの書籍にある「炉の時期に関する通説的な説」とは、「筆者の説」とは一線を画しているのだ。
    「日本における炉の上記の歴史的な経緯・青木氏部」とは全く合致しないのだ。
    上記の「石炭の使用の経緯」の様に、「炉と砂鉄の鉄」には彼等の守護神の金山神は元より「神に関わる「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の概念」が強く存在していたと云う事だし、それに縛られていたのだ。

    つまり、上記した様に「奈良期」からの「朝廷」より託された「院屋号を有する部経済の摂津の商い」と「青木氏部を有する族」に於いて、「近江鉄の殖産」とそれに伴う「鉄製品の殖産」の「経緯」から判断して、歴史の一般的経緯にはこの「青木氏部の記載」はなくても、“密かに高炉的な開発」もあった”と観ているのだ。
    そもそも、「鈩の砂鉄・500年頃の吉備域・主域」に換えて、「鉄鉱石・近江鋼・703年・713年」で行くと決めた時点で、前段でも論じた様に、「タタラ鉄」に用いられた「平炉と縦型炉と箱型炉・鈩用炉」では「鉱山開発の鉱石の溶解」は元々無理であった事に成り、其の様に思っていた事に成る。
    故に、“「鉱山開発を命じられた時点・因事菅隷」と同時に「炉開発」が「青木氏部」に求められた筈”であるのだ。
    これは「約200年後の事」である事であり、且つ「竪型炉」である事」である事に成る。

    「近江鉱山開発の703年頃・因事菅隷」には、「西洋」に於いても未だ「竪型炉」はなく、「日本」では信用できる「遺跡発掘」では、「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の3地層から「3基の遺跡」が発見されている。
    これらは明らかに上記の論より「遺跡」の様子から「竪型炉」とするものであった。
    これが「通説」として、この「遺跡の時期」を以て「竪型炉の開発時期」とされていたが、最近に成って「最古」とされる「千葉の遺跡」から、正しいかどうかの確認は別として、ところが「8世紀」と「9世紀」の「2基の竪型炉」が発見されたのだ。
    歴史的に「炉の経緯」が食い違っているのだ。
    この「8世紀の層からの竪型炉」は、「砂鉄の箱型炉」を上に起こして開発発展させた「縦型式の原形の竪型炉」と云うものであった事に成るらしい。
    これは現実に「地層」として観れば、「日本独自の開発炉」に成るが然し違うのだ。
    上記した「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は、納得出きるし、「近江の鉱山開発」と同時に鉱山用として「砂鉄の縦型炉の竪型炉の改良型説」は納得出きるし、これは「近江の鉱山開発と同時」に「炉開発」も急いで行われていた事に成る。
    「青木氏部」は大変な課題を背負わされた事に成っていた事を物語る。
    余談だが、これに依って先進的位置にいた「中国人も含めた渡来人の技能者」を呼び集めただろう事が判る。
    だから何度も論じている上記した「天武天皇の談」に成ったのであろう。

    さて、そこで“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「ある地層」から「3基」”に付いても発見されているが、この事に就いて、前期の通り「鎌倉幕府」が「関東」に於いても「財政的な面」から、「関西の鉱山に使われていた竪型炉の技術・伊勢青木氏」を「関東」に導入して、「鉱山開発」を盛んにして「経済の梃入れ」をしたとする経緯に合致する。
    この「遺跡3基」はこの「所以である事」から先ず問題はない。
    然し、“「千葉の遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の2基の「竪型炉」”は、上記とは時代性が全く合わないが、これが上記した「近江の遺跡」とすれば問題がないが、但し、これにはある「疑問」がある。
    先ず「竪型炉だとする炉形説」にしても、当に「砂鉄の時代」のものであり、これが「関東に伝わるのが早すぎる事」と、この「8世紀の炉」とするは、兎も角も、「9世紀の竪型炉」も早すぎて疑問なのだ。
    仮に「竪型炉」としても未だ「青木氏部」での「近江鋼用の炉の研究を始めた頃」の事であり、何が何でも疑わしい。
    「炉の完成」を無視しての前提とすればそうなるが、「砂鉄の縦型炉」から「近江鉱石の竪型炉」への「炉の開発の変化」は、「近江鉱山開発」から暫時行われていたとすれば「竪型炉の試作中の炉」として考えれば問題はない。
    現実に並行して「青木氏部」が全力を投じて専門的に開発していたとしているので可能である。
    「703年と713年の2つの近江鉄の鉱山開発」でも、「砂鉄に使われる箱型炉」よりも「砂鉄の縦型炉」を改良した「原始的な改良型の竪型炉」であるので、「同時期の炉」としては考えられる。
    唯、研究開発を進めながらも「完全な竪型炉」になるには未だ時間は掛かっている筈だ。

    だとすると、上記の「8世紀の炉」と「9世紀の炉」が仮に同時に存在していたとして、始めたばかりの「近江鉄用の原始的縦式竪型炉」が、その同時期に「上総」で使われていたとする事に成る。
    「初期の鉱山開発の時期」は、歴史的に「近江の鉱山二つ」が最初であるとすると、「上総」にも同時期に鉱山が拓かれたと云う事に成るが、これでは時系列が早すぎるし、且つ、其の「史実」は全くない。
    それは「奈良期初期」の「703年と713年の時期」に、「上総」にも「奈良朝の勢力」は未だ充分には及んでいないからだ。
    「鉱山開発と炉開発」の「関東での経緯」があるのはあり得ない。
    仮にあったとして、精々、「坂上田村麻呂後の事・平安期初期」になろう。
    つまり、「関西の者」が征夷を制覇する途中に、この「千葉」に長く立ち寄っている史実があり、それがその最初であって、それまで「炉を設置するなどの文明」は未だここには無かったのだ。
    「施基皇子とその後裔」が、「開発途上の鉱山開発」と共に、同じく「開発途上の炉」を「賜姓五役」として “「上総・移設」に移した”とする推論にこれは成る。
    移設するとしてもこの時期は「天皇の承認・因事菅隷」が必要であって、其の為の「伊勢青木氏」に対しては「因事菅隷下」にあったのだから、他氏がここに押し入る事は無理である。
    然し、「因事菅隷・内密な特別格式の有する者への特別命令書」の無いこの推論は、時系列的にも手続き的な歴史観より相当に無理だなのだ。

    後は、「成り立つ可能性の論」としては、矢張り、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の「3地層への設置」からこの「3基」”の論に繋がる説と成るだろう。
    前段で論じている様に、総合的に「青木氏の立場」から観て、「11世紀・平安時代末期」で無くても「9世紀・嵯峨天皇前後期」は先ず無理としても、その後の「10世紀・殖産豪商期・平安期中期」の以降は成り立つだろうが「因事菅隷下」の話となるので無理である。
    この時期に「関東」に於いて、「殖産」として「伊勢青木氏」は、その「院屋号」に基づき「因事菅隷の令」を受けた「令外官」として「関東に鉱山開発」を試みたのではないかと云う説論に成る。
    然し、「記録」を観てもこの「史実」はないし、「炉の開発」は未だそこまで至っていなかった筈だ。
    だとすると、それが「開発途上の炉」で以て「11世紀・平安期」にはある程度の花が咲き始めたので、「伊勢本領安堵」された「鎌倉幕府の12世紀」と「北条氏の13世紀」への「見返りの裏」で以て「開発途上の炉」を移行して行った”と云う経緯が無理にも成りたつのではないか。
    つまり、「朝廷の命・因事菅隷」にて「関西・近江」だけではなく、「院屋号の特権」を持つ以上は「関東・上総」に於いても、“「初期の8世紀の炉」”ではなく「開発途上の炉」を、「建設場所」を「8世紀の地層」に「703年や713年頃」の100年以上経過した「開発中の炉」を建設したという事で「時系列」は成立するのではないか。
    但し、これには前提があり、それは次の経緯を辿る必要がある。

    現実に上記した様に、「小高い丘を削りその下から炉を積み上げて造る炉」である以上の事であるが、「8世紀から12世紀までの地層を削る事」は充分にあり得るし、また結果として竪型としては必然的にそう成るだろう。
    「近江鋼の様」に明確な記録はないが、「関西の近江」があれば記録は見つからないだけで、「関東の上総・安房」にも「鎌倉幕府の依頼」で、且つ「朝廷の命・院屋号の令外官・因事菅隷」として「青木氏」は密かに「因事菅隷」を受けていた事はあったのではないか。
    それが「今回の遺跡調査」で現場が発見と成ったのではないか。

    実は、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」は有り得るのだ。
    それは、この「近江鋼に使った竪型炉の特性」にある。
    「砂鉄の縦型炉」を基本に改良したこの「竪型炉」は、その「鉱石と還元剤と加熱材」を「炉の高い頂上」の上から投げ入れる事が必要であって、その為に「炉高」を先ず上に出したのだ。
    この「炉高」を「築炉」だけでは無理で、「炉の構造上」から「危険であった事」から2から3回使うとこの炉を壊して新たに築造すると云う方式を採っていたとする。
    ところがこの「炉高」を恣意的に高くすると、余計に「爆発などの事故」があったとされ、そこで「小高い丘」の「上下」を竪に削って利用して「竪型の築造」をしたとしているのだ。
    これは「雨水の風雨や温度の維持と炉の温度の平均化」で合理的であった。
    この「合理性」が功を奏して、それが次第に「竪型」を出す為により高く成って行ったとするのだ。
    其れで、その「小高い丘の上下」には、「一つの炉」で「時代の地層が変わる事」が起こったとするのが学説的に常説と成っているのだ。
    寧ろ、「地層が変わる事」がこの「炉」に対して「全体の温度」が「平均化」してよかったとされている。
    故に、「8世紀、9世紀の地層での竪型炉の遺跡」の誤認は起こり得るのだ。
    寧ろ、「誤認」が起らなくてはこの「竪型炉」は成し得ない事であったのだ。
    従って、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層から「3基」の遺跡」”と「8世紀、9世紀の地層」からでの「竪型炉の2基の遺跡」と合わせて同時期に「5基の遺跡」と成るのだ。
    従って、この「変位部分」を修正すれば「竪型炉の史実」は無理なく一致するのだ。
    これは云い換えれば、何れにしても「伊勢青木氏」は、「因事菅隷」があったとしても「関東」に於いてその力を敢えて積極的に注がなかった事を物語る。
    それはこの間、「伊勢青木氏」では「炉の改良」は進んでいるにも関わらず、「関東」に於いて「技術の進歩の継承」が成されていない事から鑑みて、これは「青木氏の氏是」に基づくものであったろう。
    これらの「炉の工事主体」は、「伊勢青木氏の相方」に左右される話で、その前段で、何度も論じている「土木業者の額田部氏」にあったのだ。
    そもそもこの「関東の土木」は、「土木を専門とする氏の結城氏の本場」であったし、当時としては手を出さないのが掟であろう。
    「争いの元」を出さないのが「氏是」であるし、況して「結城氏」は「母系血縁族の秀郷流一門の主軸」である。
    「額田部氏」はまず間違いなく「上総]に手を出さなかったと考えられる。

    注釈 「額田部氏」は 「桓武天皇の二度の遷都造成」の「向行命」に従わず「官位剥奪の重刑」を受けて一族追放刑を受けていると渡来系の職能氏族である。
    然し、これを「施基皇子」が「伊勢」で密かにひの額田部氏の一族を「青木氏族」の中に入れて匿い助けたのだ。
    その後、「施基皇子とその額田部氏の後裔」と共に働き、「功績」を揚げて「50年後」に許されて元の位職に復し、更に「二段階昇進の破格の官位」を「桓武天皇」から受けている。
    共に「施基皇子」は「伊勢桑名」に彼等の「土地」を与え居住させる。
    当時の慣例として成し得ない民間事で職能人としては、「最高位で破格位の宿禰族の官位」を獲得し、その後、「施基皇子の後裔・青木氏」と共に働き「明治9年」まで「共同企業」として働く。
    其の後、「明治35年頃」まで共に発展し、その後、「土木会社」を「桑名」に起こし、その後に経営は現在に続く。
    だとすると、「近江鉱山開発とのその製錬溶解炉の開発」に「第二段階の目途」が着いた「11世紀の末期頃」には、「結城氏の根拠地」の「上総・安房」に、この「土木部の額田部氏」と共に、「近江での技術・鉱山開発のノウハウ」を移したと云う「シナリオ」が記録が無いが充分に成り立つ。
    そして、その後を「専門外の結城氏・道路の土木技術専門集団」の「結城氏」が引き継いで、「状況証拠の経緯」から「伊勢青木氏と額田部氏」は「上総・安房」から手を引いたいう事では無いか。
    然し、それが何時しか「技術の継承」がままならずに放置され廃れて鎌倉期末まで長く引き継がれなかったという事では無いか。
    再び、その後、「鉄の重要さ」を認識していた“「鎌倉幕府」が「伊勢」に頼んで来た”と云う事では無いか。
    その「見返り代償」が、「伊勢本領安堵と云う事・主張が認められている」ではなかったかと考えられる。

    注釈 この「竪型炉」には「一つの特徴」があって、この「重要な認識」を以て建設期ま判断をする必要があるのだ。
    それは「砂鉄の平型炉と箱型炉と縦型炉」は、そもそもその構造から「平地」に建造する。
    ところがこの「開発の竪型炉」は、「小高い丘」に建設し、丘を垂直下に掘り下げて「高さ」を獲得する。
    それは「丘の高い位置の炉口」から「原鉱石や木炭や還元剤」を容易に投入し、下側の「湯口と炉底」に「溶融鉄」を流し、「貯め冷やす仕組み」にして労苦を軽減する仕組みである。
    この為に「古い層の土地」を必然的に削る事に成るのだ。
    この事から「純粋な竪型炉」に限り「炉の遺跡」に於いては「時代査証」を間違い易いのだ。
    この「8世紀と9世紀の査証」は,この“「純粋な竪型炉」”に於いてもう一度検証する必要がある。
    もう一つは、まず「初期」にはこの「純粋な竪型炉」に関して、「たたら・鉄滓」を獲得するには「タタラの箱型炉の発展炉」であるが、「箱型炉」をより温度を高める為の「高さ」を獲得する為に「炉」を「縦」にしてそれを「鞴の位置」や「湯口の位置」を変え、「二つの改良」を行った。
    それが「改良点の一部」が記録に遺されていて次の通りである。

    1 「タタラ・ケラ・炉中・低炭素鉄」と「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」と「鉄滓・ノロ」の「タタラ鉄・3つの鉄」を、「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄」だけにした。
    2 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を「二つの下湯口」に置き、大きくして炉熱を高めた
    3 「木炭・熱源」を多くして「溶解温度」を先ず増し、「炭素量」で還元力を増やし、「石灰」を追加して「還元力」を増した。
    4 「炉高」を高めて「炉外底」を無くした

    最初は、「砂鉄の箱型炉」から先ず「縦型炉」にして、鞴などのそれを改良して最終は「箱型炉」に似つかない形の違う「別型炉/初期の竪型炉」に成った。
    それは現在の「高炉に近い炉形」の「純粋な青木氏部独自の竪型炉」と成ったのである。
    この「査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の地層からの「2基・誤認」”の合わせて「竪型炉」の「5炉」に関しては、少なくとも、“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”としてでは断定できる。
    唯、「前者の炉形」と「後者の炉形」が、「竪型炉」としても全く同じであったかは定かではないが、現在この遺跡は分析されている。
    これは炉のけんしょうかのものであり、鉱山からの検証に於いては異なるのだ。
    では、この時期では「未開に近い関東」には、「鉱山」を開いたが「関東」に於いては「どの資料」からも「鉱山開発」は「鎌倉期」からであるとしている。
    それ以前のものは見つかっていない。
    それも「鉱山開発」には、「経済の根幹」を左右する「鉄市場」を統制する為に「院屋号・特別占有権」を持っての「開発」であって、この当時は「民間」は、「賜姓臣下族」などの「1等官上級令外官に出される令」の「太政大臣に代わって出される因事菅隷」に基づくものであって「民間」は先ず論外であった。
    これは「献納の源」にはならないからであるし、誰でもが「献納する資格や格式」を有していないからだ。
    「ある一定の資格なし」には、「朝廷」が乞食の様に「献納」を自由に受ける訳には行かない掟である。
    従って、それに伴う「炉などの開発に伴う製鉄方法」も、この「民間の中」には明治期まで無かったのだ。
    況してや、「政治と経済」を左右する「製鉄方法が絡む所以」は、この「院屋号の格式」を無くしては尚の事であった。
    故に当時から「炉と鉄の関係」は政治から切り離せない関係にあって、「鉱山開発と炉の開発の政策」は「院屋号の因事菅隷」で一体化していたのである。
    故に、それを持ち得ていたのは「民間」ではなく、長く関わって来た「永代浄大一位の最上位の格式」を有するのは「伊勢の超豪商紙屋院の号の伊勢屋の青木氏部」だけであったのだ。
    それ故に、「一切の資金等や技術の出所」は「院屋号が持つ事」に成っていて、それに「見合う献納」を義務として果たしていたものなのだ。相当な財を持ち得ていなければ元より成し得ない格式であったのだ。
    飽く迄も「殖産の利益歩合」では無く「献納の形」で明治初期迄続けられていたのである。

    故に「政治の執行官の太政官」が出さない「因事菅隷」に従っているのだ。
    当然に、この「関東の鉱山開発・資本投資」に於いても、この事から必然として「鎌倉期初期」と成り得るのだ。
    故に「因事菅隷」が、密かに令外官として出される以上は、「平安期末期迄」は、「703年と713年」に「施基皇子」に「永代役の賜姓五役・令外官」として「鉱山開発の院屋号」を正式に与えているのだ。
    「天武天皇以降による因事菅隷の役務」とその前の「天智天皇の賜姓五役」の「二つの特権」を保持していたのだ。
    従って、これがある以上は、その「権利」は少なくとも「平安末期」までは「権利」としても、「財力」としても、「技術力」としても、「土木能力・額田部氏」としても、どんな面を捉えても少なくとも持ち得ていた事に成るのだ。
    民間など入る隙間は無かったのだ。
    周囲はこの「因事菅隷」が「伊勢青木氏」にある限りは、先ずはお伺いを建具する事に成っていたし、行うとしても可能かどうかは別としても「氏族の下請け」と成っていたのだ。
    それ故に実際は「民間の下請け」は無かったとされていて、それは「献納の格式・誰でも献納はできなかった」の有無にあった。

    注釈 奈良期の「朝廷内の官僚の8割」は「後漢の技能集団の帰化人の役人・渡来人」で占められ、これが「問題」と成っていたとある。
    其処で「天智天皇」に継いで“「天武天皇」”は、これを官僚に尋ね聞いて、これを憂いて、出来たばかりの「太政官令」とは別に“「因事管隷」”を密かに発したのだ。
    この「太政官」は、「八省」のみならず、「神祇官等」も含む「全ての官庁(官司)」を動かしたが、この事をより効果的に動かす為には、「特定の令外官」にのみ“「因事管隷」”と呼ぶ「特定の令・内密書・密書」を発したのだ。
    つまり、「太政官令」に基づいて、この個別な正式な令に並ぶ「天皇から直接発せられる令・密書」を指す“「因事管隷」”に依って、「特定の令」を発したのだ。
    「施基皇子とその後裔」は、この「法・因事菅隷」に基づく“「因事管隷」”の「最初の範」として「特段の扱い」を受けた。
    謂わば、「永代令外官」による「天智天皇期・父・668年- 672年」から“「賜姓五役」”として、その役の“「模範例の前提」”と成っていた。
    然し、「天武天皇期・叔父・673年- 686年」では、具体的にこれに対して“「因事管隷」”を以て“「特例に発せられた令」”であるのだ。
    云わば、「特別の扱いをしていた令外官」を格式に於いて選別して特定したと云えるのだ。
    つまり、「天智天皇の永代賜姓五役」から「天武天皇の因事菅隷」に正式に代わったと云う事が云えるが、その後も、この「賜姓五役」の「令外官の令」も出され続けたのだ。

    それの一つが、“「因事管隷」” =「賜姓五役」=「殖産起業の伊勢青木氏」であったのだ。
    その前には、前段でも論じたが「部人制度」で造った「全ゆる製品」を一度朝廷に納めて、そこで「必要と成る分」を「朝廷」で取り除き「残りの商品」を裁かねばならなかった。
    そこで、これを「専門的に成す者」に「賜姓臣下族の青木氏」に命じたのが、「賜姓五役の始り」であった。
    これを「賜姓五役を受けた伊勢青木氏」では、これに依って商い事に成る事を以て最後には正式に「商いとする事」にまで発展して行ったのである。
    この「賜姓五役の格式」だけでは「天皇・朝廷の命令の全て」が裁く事が出来なく成ったのである。
    そこで、「格式充分な青木氏」に出す「是非特別にして出したい天皇の命令]には「限界が生まれる事」が常時発生したのだ。
    そこで格式上、「太政官」より「上位の青木氏・浄大一位」に「下の格式の官僚」が「命令」を出せない事の為にそこで「太政官」は、「天皇の意を伝える手段」として「天皇の意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を天皇に出してもらって発したのが始まりである。
    中には「官僚」にも伝えたくない「秘密の指示書・密書」も多かった為に秘密裏に「因事菅隷の書」が頻繁に出される様に成ったのだ。
    この「密かな命令」の為にいざ「殖産」と成っても「天皇側」が「一切の管財や協力」を出すものではなかったのだ。
    「伊勢青木氏独自の一切の力」で「意向伝達の伝言書」としての「因事菅隷の書」を実行しなければならなかったのだ。
    況してや「密書」である限りはそれ以上の事は出来ない。そこで部経済の差配役を担ってそこで生まれる利を使う事でこの役を果たす事に成ったのだ。
    それには、この「奈良期の当初」は、「部経済での財としての商い」であって、「技としての集団・国造部」の「差配の青木氏部」であったのだ。
    それが本格的にこの「賜姓族令外官の開始」に入ってからは、大きい「因事菅隷」では「703年と713年」には、先ず「近江鉱山開発・元明天皇期」が可能に成ったのであって、これらの「功績」を「天武天皇」の“「因事管隷」”に依って“「権威付けたという事」”であったとされるのだ。

    注釈 「703年と713年の近江鉱山開発・元明天皇期」は、「鉱山開発」を実施した時期ではなく、「14年掛かって本格稼働に入ったとする時期」を指しているのだ。
    その前の「天智期・668年から天武期・686年」にこの“「因事管隷」”に基づいて「準備」をし「鉱山の開山開発の準備」を開始したのだ。
    「鉱山の開発とその採掘」には、「土木工事の専門職の部」が必要であって、「施基皇子」と仲の良かった「額田部氏等の協力」を得ていたのだ。
    「開発の山場所調査」からその「青木氏部の技術の習得等の調査の準備」が必要であったのだ。

    ところがこれが「密書」に於いてである限りは、以上の認識に朝廷も社会も「因事菅隷」に関しては別の所に置いていたのだ。
    「密書」である限り周囲は知らなかったと云うのが正しい表現であろう。
    確定はしないが、「浄大壱位の真人族」から、態々、「賜姓臣下族」に成ら得なければならない根拠には、この「天武天皇の重要策の目玉策」として、それを、つまり「内密書の因事菅隷」を「実行する氏族の特定の集団」が必要であったのだ。
    そして、それが最初に形として出て来たのが「殖産業」=「伊勢青木氏」=“「因事管隷」”があったのでは無いかと考えられる。
    それだけに「鎌倉幕府」に成る前の「平安末期」までは、この何人も侵す事の出来ない最高格式を有する“「因事管隷」”の下に「鉱山開発」はあったのだ。
    これ等を理解する上でこれが「最低限の歴史観」であるのだ。
    故に、鉱山に関してどんな「殖産」にも対応でき、それを叶えていたのは「奈良期からの青木氏部」であったろうし、「鉱山開発」もその一つであったと云う事だ。
    これらは、言い換えれば「伊勢青木氏の格式」だけではなく、即ち、密かに「法の前提・“「因事管隷」”に裏から守られていたという事である。
    これは普通であるなら「長い歴史の間」で攻撃され潰されるも「超氏族・超豪族・超豪商」として「攻撃されていない・潰されない・抹殺されない史実」はこの前提にあったからだ。
    当時は、平安期に於いては少なくとも次の様な関係式にあって引き継がれていたと云う事だ。
    「青木氏の格式・浄大一位」=「賜姓五役・天智天皇」=“「因事管隷・天武天皇」=「律宗族」”と成る。

    この“「因事管隷」”の中では、少なくとも「平安期末期」までは、この「鉱山開発」は保証されていた事は明白であり、“「因事管隷」”の届かなくなった時期、即ち、「関東の鉱山開発期頃」には「鎌倉幕府」は、未だ勝手には出来ず「伊勢青木氏に頼む事」に成った所以であろう。
    云わば、「現在の特許権」に相当するものであったのであろう。
    この「関東の鉱山開発」は、少なくとも「近江鉄」に対応した「伊勢での開発改良された竪型炉」が用いられたものであった事に成る。
    「嵯峨期」でこの絶大な権力を持つ事に成っていてそれに依って「皇親族を外された事」が、この「因事菅隷」に左右していた事なのかと云う疑問である。
    この論理で考えれば「嵯峨天皇の青木氏に対する過激な行為」は納得できる。
    つまり、言い換えれば「嵯峨天皇」はこの「因事菅隷を使わなかった事」にも成る。
    嵯峨期に於いて「皇親族」は廃止されたが、「皇親族」は当にこの「因事菅隷の族」であった事が云える。
    普通は「賜姓族から外された事」では、普通は「因事菅隷が出ない」と考えられるが、それが記録から鎌倉期にもこの「因事菅隷が働いていた事」なのだ。
    「因事菅隷が働いていた事」と云うよりは、それは「伝統的な特許権」と云うか他が犯し得ない得ない「進んだ技術力・改良型竪型炉のノウハウ」とで保障されていたからだろう。
    この「因事菅隷の事実の伝統」は、この「銃の欠点を補完するまでの室町期」まで「鎌倉期・関東に竪型炉を広めた時期」を超えて持ち込まれていた事が記録からも判る。
    少なくとも、「円融天皇」のこの「青木氏」を補完する為に「藤原秀郷流青木氏」を賜姓する時期までは密かに「賜姓」と共に「円融天皇の因事菅隷」は発令されていた事を意味する。
    「藤原秀郷流青木氏」を賜姓し、其の為の「何某かの因事菅隷」を密かに出していた筈でありその目的はあった筈である。
    その証拠に記録から、“秀郷流一門宗家の嫡子の第三子が永代に青木氏を名乗らせる”と云う「令・因事菅隷」が正式に出ている。
    この時から「母方の藤原秀郷流青木氏」は、正式にも母方系と成り得て、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」とは同格と扱われた事を以て”の格式は「浄大一位」と成り得て、それ以上は「太政官令」は出せなかったからだ。
    故に「賜姓族」のみならず当然に「円融天皇の因事菅隷」を発している事に成るのだ。
    その「因事菅隷」には、”「伊勢と信濃の賜姓青木氏」を武力的に補完せよ”である事は先ず判るが、その補完の一つは、「旧来通りに藤原氏北家」に代わって「北家秀郷流」で「青木氏を四掟で護る事」であるが、密かに別の「経済的で武力的な補完の因事菅隷」が出ていたのではないかと観ている。
    この点で研究は未だ充分にその点に及んでいないが、「銃の試作撃ちに関わっている事」から等何処かに「炉に関する補完」に付いて「因事菅隷の密書」があるだろうと観ているのだ。
    だから、「室町期の前」の「鎌倉期の武蔵に竪型炉の遺跡」が見つかっているのだ。
    これが所謂、「別の経済的な補完の因事菅隷」であったのではないだろうか。
    「銃云々と云う事」よりは“「近江鋼の開発とその炉の開発」がどれ程日本の経済発展に大きく係わるか”を知ったのではないか。
    其れが未だ開発途上であっても「青木氏」から移した「鉄鉱石で仕える竪型炉」の「千葉の遺跡・下記」ではないかと観られるのだ。
    「青木氏が行っている近江鉄鉱山」は、その意味で「朝廷」を揺るがす程の先進的な事物と成っていたのである。


    注釈 「額田青木氏の救助とその為の銃の完成」は、この「因事菅隷」に基づいているかは判らないが、「正親町天皇の律宗族追認」には、この「因事菅隷」に基づくものであった事は間違いはないだろう。後記

    それが「高炉」に近い炉形の“「純粋な竪型炉」”であったろう。
    何度も云うが、この「鉄に関しての査証の点」から、“「関東東部」から「11世紀」と「12世紀」と「13世紀」の地層からの「3基の遺跡」”と、“「千葉遺跡」から「8世紀」と「9世紀」の「2基の遺跡」の「竪型炉・開発途上」”の以上の「5炉」に関しては、故に少なくとも全ては“「13世紀であった事」”に成り、その「炉形」も調査記録では“高炉に近い炉形の「純粋な竪型炉」”と「関東」に於いても成る。
    これは「建設地の地層・丘を地中の下に掘り下げる方式・古い地層が出る」の「堀立地形に依る認識」に成るだろう。

    その所期の改良点は調査資料から判断すると次の通りであった。
    改良点の4つ
    1 度々の「築炉」を一度にし「炉外底」を無くした。
    2「銑・ズク・炉外底・高炭素鉄・銑鉄」だけにした。
    3 「木炭・熱源・紀州炭」を多くし「還元力」を増し、「炭素量」を増やし、「石灰」で「還元力」を増した。
    4 「鞴・フイゴ・踏み込み式」を二つの「下湯口」に置き、大きくして「炉熱」を高めた


    「タタラのケラは炉中にある低炭素鉄」と「銑のズクは炉外底にある高炭素鉄」と「鉄滓のノロ」の“「タタラ製鉄・3つの鉄」”に対し分けられ、「炉」を先ず縦に起し、「炉口」を上にし、「湯口」を下にし、「鞴」を足踏み込み型の大形にし、鞴風を下から上に吹き上げる様にし、「原鉱石」を坂の下から上へ運んで「高いロ口」から落とし込む。
    先ず「木炭の熱源」と「木炭の還元剤」と最後に「原鉱石」を投げ入れて「下の火口」から「熱源」を高温に上げて加熱する。
    「溶けた鉄」を「炉低」で固めて最後に溜まった「炉ロ」から纏めて「湯溶口池」に落とし込み「炭粉」で表面を覆い「鉄の酸化」を防ぎ、ゆっくりと冷やす。
    そうする事で「鉄の融点」を“200度上げた”と記載されている。
    「丘の地形」を垂直に切り落とし、其の垂直面に炉を据えた事で上記の作業手順は進んだとある。
    この為に、“「タタラ製鉄」”では出せない“「銑鉄」だけの「竪型炉」”に成ったとある。
    この「中間の炉形」の“「タタラ製鉄」”の「箱型炉」を「縦にした炉」が現実に発見されているが、ところがこの「縦型炉の砂鉄の鈩製鉄」は進まなかったのだ。
    何故なのかは判らないが、この炉には矢張り「破壊」が多かった事が記されている。
    これが「竪型炉の開発」の「中間過程炉」なのかは判らないが、これが「近江鉄・703年時期の炉」とするとこの「炉説」は考え難い。
    何故なら、だとすると「以上の4点」が既に「関東の遺跡炉からの内容」に於いても替わっていた筈だ。

    注釈として、この件に関する“幾つかの通説”とするものには、この「近江鉄から導きだされる論理的、且つ、冶金的、学問的な史実」との「複合的検証」は欠落しているので無視とする以外にないのだ。
    そもそも「文系範疇の歴史家」に取り分け難しい「冶金工学と金属工学と地質工学」を会得している者は皆無であろうし、尚且つ、「近江学」と「その歴史」をも習得している者は同然に皆無と成ろう。
    故に、そもそもこの“通説”とするものには「歴史の経緯からの目」で観るばかりに間違いは多いのであり、これは歴史全般に於いても是非に改めるべきであるとするがこの傾向は未だあるので今後も難しいだろう。
    故に、従って、筆者は「青木氏の歴史観」に関しての“通説の利用」”には「比較対象」のものとして警戒して扱っている。

    この「現実」に「青木氏族の近江鉄に関わった史実・青木氏の歴史観」に鑑みれば、この「長い間の製鉄の経験」が、「他の物・武器や生活用品等」にも「商いを生み出す事」に適用されていて、これらの“「青木氏の鉄の経験」"が「鍛冶部・摂津と日野の工人」にも存在していて引き継がれていた”と考えれば、それが「室町期」に成って「額田青木氏の銃の必要性」では、更にこの「新しい炉の開発」にも「青木氏部の匠技」が反映されていたと成る。
    その「経験」が「銃の試作と生産に向けられた」と考えられるのが普通であろう。
    この“「伊勢屋の商い」”とは別に、「伊勢水軍等の氏族一門と秀郷流一族一門と各地の青木氏族」への「必需必要品と器具」を「神明社」を経由して密かに供給していたので、「伊勢と摂津の鍛冶職」はその「近江鉄からの鉄製品」の「充分な生産」を求められていた事に成る。
    其の為にも「近江鉄の必要性」は、そもそも「本論の銃の欠点の解決に使用する事」のみならず、その事に関わらず「鉄製品の需要」は急激に本質的に高かく成っていたのである。
    この事を「青木氏だけが持つ独自の歴史観」として前段でも論じたがここでも併記する。
    この「近江鉄の需要」を叶えている「近江鉄の竪型炉の使用」で、「鉄の供給力」が一段と増し、これに伴って「需要」もそれ以上に増した事に成ったが、この範囲は「青木氏のみが知る竪型炉の使用」である限りに左右されるが、それを全て担ったのが「屋の号を持つ伊勢屋」であったのだ。
    それ故に、この「需要」は「伊勢屋」に左右されていたのだ。
    これが「青木氏だけが持つ独自の歴史観」である以上は、ここに詳細に記載し論じなければ何時かは消え去るのみの「近江鉄の史実」となるのみである。
    従って「近江鉄」は「青木氏族の中」に於いて使われていた事を示し、それだけに青木氏族は鉱山鉄の寡占を極めたのだ。
    「独特な竪型炉の炉の形」からの視点で観て、「近江鉄」から始まり「関西」に、そして上記した様に遅れて僅かな炉を「関東」に依頼されて「普及を試みた経緯」と成り得えたのであろう。
    「11世紀頃から13世紀」にかけて合わせて「6基の炉の遺跡」しか発見されていない処から観て、この「需要」は、「6基」ではその「供給力」は「関東」に於いてでも無理で、矢張り、全般的には“「関西の伊勢屋の範疇で限定して賄われていた」”と言わざるを得ない。
    「近江鉱山」は、先ずは上記した様に「2鉱山」からであり、「竪型炉の開発」が進むに連れて「最終近江6鉱山」が「青木氏部」で開発された。
    恐らくは、この「6鉱山」では「関西域だけでの供給」と成っていたのではないか。
    その「限界時期」が上記の「関東の6基の炉の遺跡」と繋がったと観られる。
    何とか最低にも「鉄需要に賄うだけの炉数」ではないが、これを先ずは「幕府の依頼」もあって「関東に設けようとした事」に成ったと云える。
    記録から観て見ると、この「13世紀までの鉄の鉱山開発」には、次の通りである。
    栃木に1鉱山、千葉に2鉱山、茨城に1鉱山と成っていて、合わせても「4鉱山」であり、実質は「上記の歴史の遺跡の史実通り」である。
    矢張り、この「関東の4鉱山」が「関東の6基の炉」に見合う「炉−鉱山」であった事に成るか。
    「近江だけの6鉱山−9基の炉」に比べれば極めて少ない。
    矢張り、「鉱山の鉱石を鉄にする」には、「その炉の開発に大きく関わる事」からこの「炉のノウハウ」を持ち得ていなければならず、この結果が関東に生まれていた事を色濃く物語る。
    因みに「砂鉄」では、関東以北から観て「8世紀とする鉱山」は、何と唯の「1鉱山」しか観えるだけであるのだ。
    「鉱山鉄」には「近江の鉱山開発」と「その炉の開発」、言い換えれば「その財力の有無」、又、「因事菅隷の立場の有無」、「鉱山を見つける山師の知識」と「開山の土木技術」、「その専門の部人集団の所有、将又、「その商力等」の「総合的な力の保有」が必要に成る。
    これ等が備わっている事が最低の条件となる。
    故に誰でもが直ぐにと云う事には成らなかったのだ。
    それ故に少なくとも「鎌倉期」を超えて「室町期末期」まで完全に無かったと考えられ、「記録」も上記した様に「明治期」まで記載は無い。
    「室町期末期の額田青木氏の銃の欠点」を解決した直前までは「砂鉄の玉鋼」を除き無いのだ。
    ところが、この「竪型炉の経緯」は、この「室町期末期」のこの時期を超えず見当たらないのだ。
    これは「青木氏の氏是」に基づき「世に遺さず炉」とて共に消したと考えられる。
    当然に“「社会発展の為」に遺せばよいではないか”と云う発想は生まれる。
    然し、遺さなかったのだ。
    「竪型炉の炉の存在」が、“世に悪影響を与える”と「伊勢青木氏」は判断した事に成る。
    だから上記の記録にもある様に「明治期」まで「砂鉄の玉鋼」であったのだ。
    逆に言えれば「近江鉱山」も「6鉱山」で終わっている所以であろう
    つまり、“「鉱山の鉱石を使って鉄製錬する事」が、「鉄の世の統制」が無ければ「社会に悪影響を与える」”と考えた事なのだろが、「炉の開発能力と炉の使うノウハウ」を以て「商い」とすれば、元々は「因事菅隷を持つ青木氏部と商人」である以上は、出来るし「因事菅隷の寡占」である以上は必ず「巨万の富」が得られる。
    然し、それを敢えてしなかったという事だ。
    何故なのかである。
    「鉱山開発」によって「鉄の生産」を拡張させれば「銃の生産」が「因事菅隷外の処」でもっと広い範囲で行われ世は乱れると解釈したのだろう。
    寧ろ、格式を有する「賜姓族・律宗族」で会った以上は逆の発想をしたと云う事に成る。
    “「砂鉄の玉鋼程度の生産範囲」で抑えて置けば世は乱れない”としたと考えられ、それが「因事菅隷を持つ格式の青木氏の氏是」と考えたのだ。
    その証拠に「鉄の主生産」は「明治初期の高炉の導入・軍事化」と以降と成るのだ。
    既に「巨万の富を持つ青木氏」が「企業殖産」でやろうと思えば何の問題も無かった筈である
    飽く迄も、「竪型炉の鉄の生産」は「室町期の額田青木氏の為の銃の欠点と生産の完了」で終わらしたと云う事であろう。
    何故なら、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」を成せば、間違いなく「商い」は寡占であった限りは、「巨万の富」を獲得させていた筈である。
    その「研究資料の発見」が出来たが、これは「下段」で論じる事と成るが、「青木氏の商い」が“どの程度の巨万の富を最終では獲得していたか”を調査し論じているが殆ど無限であったろう。
    これによれば「超豪商と成って呼ばれた明治初期の族に関する研究論文」と「筆者の論文」があるが、「竪型炉」で以て「鉄の生産」と「鉄鉱山開発」での「利益」としては出せないが「一時期に於ける総合力」としてこの「巨万の富・地権は含まず」は、「220億両・7万円/1両/御師制度の研究資料」とされる。
    「筆者の研究論文・350億両/伊勢屋」とはさした差はないが、日本国内にこれだけの金が存在したかは定かでないが、兎も角も額が大きいのでこの「積算数値」のこの相当額に相当し比するものである事は先ず確かである。
    この事は上記の「炉論に関わる経緯論」にも一致する。
    参考に関東には数えきれないほどの鉱山があるが全て「明治期の高炉」である。

    注釈 「幕末明治の豪商」と呼ばれる中でもはっきりとした「研究記録・御師制度について」が遺っていて、この「支店とする米商いの淀の屋の資産額」の記載がある。
    どの様に計算したかは判らないし、「伊勢」は少なくとも「北勢」は米が採れない国なので、余剰米の米を市場から買い求める必要があって、一時、それを「大阪の蔵」に運んで「蔵管理」をしていたが、それが「淀の屋の実態」であって実態は世間に知らしていないのでも良く判っていない。
    然し、それに依れば、この「米相場・儲け」を「伊勢に送る米」に換えていた。
    それを営む様に成って、この「伊勢屋の支店の蔵」の「淀の屋」が最高額では「20億両・200兆円/10万円〜7万円/両」だったされている。
    「金額」では無く「米の量」であったとされている。
    これに依れば「伊勢青木氏の伊勢屋・松阪、摂津、堺の主店舗」で、「豪商の街松阪」と呼ばれていた中でも比較すると、「淀の屋の米資産」に比して「約10倍」であった事に成る。
    この「米帳合相場の淀の屋資産」は、「全国の米帳合相場基準となる市場を設立したとある豪商」とされ、これに依る「米資産」とされるが、其の内、この「米資産の店と取引」は中止したとある。
    実は、「享保期に大阪の米市場」は、前段でも論じたが「伊勢屋」が紀州より吉宗に江戸向行して、「改革の吉宗・前段」に「経済改革の進言」をして設立されたものと「青木氏」では伝わっている。
    そうすると、この「米蔵の支店の淀の屋」は、「松阪の豪商の青木氏の伊勢屋」では「吉宗との対立」から「米蔵の支店の淀の屋」は、この時を以て「米市場」から引いたとされている。
    何故ならば「摂津と堺」にも「松阪の本店」と各地に取引を前提に「支店・20店舗」を設けていたとされる。
    前段からも論じているが、「総合商社」を営む以上は「古来より伝統的」に「顔を出さない、店を明かさない、」等の安全策として「特定されない策」を執っていた。
    この事から「店名等」は、「伊勢屋」ではない「堺」」では「米商い」に関しては「淀の屋」を名乗っていたとされていて、この「享保の時」に米取引から手を引いたのではないか。(資料消失)
    それ以後は「伊勢の米」は「米市場」では完全に「名を隠しいの商い」としたのではないか。
    先ず、その策の「目的」は、何事も特定されない事が前提であって、「総合的に危険である事」が「主因」であるが、古くから「因事菅隷を持つ令外官」としても「奈良期の部商いの伝統」を引き継いでいた事から、この主策を特別に使っていたとされる。
    そもそも「伊勢屋・総合商社」は、「天皇から商いに関する紙屋院の格式号の特権を授与された」の事を「始り」として、「和紙以外」にも「令外官としての因事菅隷」で以て「各種の商い」を許されていた事から、特別に名乗っていたものである。
    恐らくは、この「隠顔策」は、「因事菅隷の意味合い」から「因事菅隷を出された時期からの伝統」ではないか。
    「限定して令外官に出される秘密令の由来」から「この「隠顔策」を[伝統的」に執られていたと考えられる。
    依って、その「伝統」を護り「総合商社・1025年」と成ってからも、「商い」が大きく成り手広く成って更にその「秘密の意味合い」は強く成って行ったものであろう。

    注釈 「伊勢青木氏」は、前段で詳細を論じたが、「吉宗に向行し享保改革を江戸で主導する」が、その一環として「大阪に米相場市場を設立・具申」を促したとあり、この時に、“「青木氏の伊勢屋」が具申し主導し、率先して「米の商いを専門に商いする店」を「大阪」に設立した”とあり、この役を担ったのが「淀の屋・米蔵」ではないかとしているのだ。
    当然に上記した様に、“「伝統の影の策」”として、「各種の商い・総合商社」を営む為にその「各種の店主」を「松阪の伊勢屋」の「番頭の一人・家人・氏族の伊勢50郷士衆達」に“「番頭」”として任したとある。
    それが「公表されている少ない資料・系譜では、一切詳細は不詳」ではあるが、判る範囲では、「岡本の郷士・一番番頭名と牧口郷士・二番番頭名」と成っているだけであり、詳細はないが、これが「淀の屋の支店の店主」としている事だけなのだ。
    この資料では、結局、この“「店主・福家」”としながらも限定せずに“「番頭・家人」”と追記している処に注目している。
    「米相場・蔵の淀の屋」は、「総合商社の伊勢屋の専門分野」としてのものであったと限定され、必然的に「総合商社」である以上は「全店一人」では動かせられない。
    従って、必然的に「番頭/家人の一人を置く事」に成るが、これには何度も論じているが「家人・氏族の伊勢士50郷士衆達」を配置する「古来から仕来りの伝統」であって、これが云わば「支店長の証・蔵の管理人」と成ろう。
    何故ならば、「判る範囲の淀の屋の経緯」と「伊勢青木氏の経緯」が余りにも一致し過ぎているのだ。
    その一つに「幕末の闕所の嫌がらせ」を受けていて、その後の「明治期の経緯」も「青木氏」に遺されたものと極めて類似しているのだし、否定するものは何も無い。
    又、「財産を朝廷に献納する等」、又、「大阪湾の干拓事業等」をした事等、疑いをかけられて「偽装倒産させた等」、「本店をダミー店に逸らして逃げた等」の幾つもの経緯なども一致している。
    そもそも「淀の屋の淀・屋は授与される院・蔵人院」に対して「商いの特権」も許される場合に於いて課される格式特権の号」は、「伊勢青木氏」の「古来からの名跡名」とされ、引き継がれるべき「名誉の名」であって、簡単に使われるべきものではない。
    況してや、「江戸初期」には一般に対して「商いの格式の屋号」を名乗る以上は、「府の便宜上の許可}が必要であった。
    「伊勢青木氏」には「過去」に於いて「名跡名」を使っていて、其の内遺しているのは「戒名」であるが、これを調べると、その「戒名の読込名」にも「淀の名の字」や「字名の字」等の所謂、「名跡名・格式名を使った先祖」が「十数人・殆ど」もいる。
    そもそも、「名跡名・格式名を読む込む慣習」は、「古代浄土宗白旗派の仕来り」であった。
    「額田青木氏の祖」と成った「桑名の淀橋王や飽浪王」は「三野王」に嫁いで後に美濃で独立して「美濃青木一族」を「美濃一色の浪端・清光院」に「青木氏一族」を形成するが、その「淀」や「飽浪」や「一色」等はこの典型例であり、要するにこれは「松阪一色・当初は字名」に並んで「伝統青木氏」が持つ「伝統の名跡名」であるのだ。

    注釈 江戸期から明治初期に掛けて「院と屋」を伴った「院の特権」に対して、それを「商い」に広げての「屋の号」を獲得した「正式な屋号をも持つ豪商」は歴史上全くないのはこの事による。
    これが「正しい屋の号の名乗り」は「院の号」の下にあるのだ。
    「院の号」に対して成せる「屋の号」とは、そのような意味を持ち、「院と屋の号」は一対であるのだし、その名も一致する。
    要するに、「院」は「殖産」であり、「屋」はそれを基にした「商い」を「屋」としていたのだ
    それには、「条件」として「過去」からの「一定の期間」の「朝廷との親密な関係を持つ事」が必要であって、その為にはその「関係を持つ事」には、「それなりの上位の継続的な格式」が必要であった。
    それには「継続的な献納」が「一つの証」であって、“誰でもが関係を持つ事が出来る”と云う事ではそもそもないのだ。
    元々、「武士や庶民」は格式上無理であるのだし、況してや「士農工商」に於いて「商人」は論外であった。
    そもそも「直接に接見が出来る者」は「三位以上の公家」か「青木氏の格式」以外には無いのだ。
    従って、「院と屋の号」、即ち、「一対の号の獲得」は、「上位の格式」を有さなくては無理であるのだ。
    「院と屋の号を持つ事の事態」が「その格式を証明するもの」と成っていたのだ。
    例えば、故に江戸期に良く使われたのが、「院」の持たない「紀伊国屋の屋」がこの「条件」には合致していないのだ。
    更にはその意味で、「上記の淀の屋」が「闕所の疑い」を受けたとした時に、この“「献納」をした”とあるのはこの「一つの証拠」であり、そもそもこの「献納と云う行為」は誰でもが自由にできると云う事では無かったのだ。
    誰でも「献納と云う事」をできると仮にすれば、「天皇と云う品格を下げて仕舞う事」にも成り、「寄付さされる団体」に成り下がる事にも成る。
    仮に「ある程度の格式を有していた者」としても、この「献納」に対しては、そもそも直接は絶対に無理であり、「献納に比する格式を有する家」を先ず経由して、その「行為」と成り得て、依って「伝統的に公家など」の「一定の格式を持つ家柄の事」に成り得るのだ。
    この上記の「院屋と献納」は、少なくともの「伝統を護っていた所以」であって、誰でも「献納」はそもそも出来ないのだ。
    そしてその「献納」は、そもそも「継続的なもの」であって、仮に「献納できる者」であっても「突然に献納とする事」はそもそも出来ないのであって、従って、これはそれを「古来」より「継続的にしていた高い格式」を有する「伊勢屋の伊勢青木氏の様な格式を有する家柄・律宗族等の格式」で無くては出来ない行為なのだ。
    これが「献納」と云うものの「古い伝統的な外せない歴史観」なのだ。
    それを考えた場合、「米の殖産の院・米を酒造などの色々な形で扱う」に対してこの「伊勢の米蔵支店の淀の屋」は、「伊勢青木氏の伊勢屋の蔵米蔵」の「堺の大阪の店」であった事が此処でも云えるのだ。
    この様に、「献納の持つ歴史観」から観れば直ぐ判る事である。
    然し、現実にはこの様な物事の「伝統的な歴史観」を無視した論説が実に多い。
    この「蔵米蔵の支店の淀の屋」は間違いなく「伊勢屋の大阪支店・堺店米蔵」であった事は間違いはない。
    そこで、もう少しこの古い「蔵米蔵の支店の淀の屋・蔵人院」の最大限に判る範囲の事の経緯を調べて観た。

    注釈 「蔵人院」は、前段でも何度も論じた様に「奈良期の国造部の差配頭」であった事より、要するに「その役目・皇親族」は「蔵人院」にあって、「賜姓五役の役務の一つ」に数えられ伝統的に青木氏に与えられた号となり、「嵯峨期」に「嵯峨天皇の皇子」の一人にこの「蔵人院・甲斐」に別にして任じている。
    以下は「賜姓五役」から単独で別の役目として名乗る様に成ったが、その後も「伊勢青木氏」は「伊勢の蔵人院」であり続けた。

    注釈論
    「米蔵の支店の淀の屋論の米相場の経緯」は、記録によると、「1661年頃の大阪の蔵群」から「1673年頃(17世紀の中頃前)」から「店の前・事務所と蔵の前」で、突然に「米の蔵出し」に依って「帳合取引」として原始的に「市場」が始まり、その結果として周囲に“「米商人仲間」”が集まり「自然発生的に市場」が形成される様に成ったとある。
    つまり、初めて、米が「蔵出し現物帳合取引」が行われ始めたとされるのだ。
    然し、そもそも「奈良期の部経済」に於いて、先ず一度「朝廷に納められた米」を「必要分」を取り除き、残りを「庶民・市場はない」に放出するとする役目を担っていた。
    この事は前段でも何度も論じてきたが、そもそも「伊勢青木氏の商いに成る根源」であったが、この「初めて」とする処に疑問が残る。
    筆者は、この「伊勢青木氏の伊勢屋」は「淀の屋・蔵人院」に限らず「奈良期」から行われていた行為であって、初めてとする説には「完全な歴史観の不足の反論説」を採っている。
    故に「青木氏」では、「淀の屋・蔵人院」として呼称して記載されていたと観ているのだ。
    「淀の屋・蔵人院」は「上記の役目」を担った「青木氏の者」が「淀と云う地名・淀川」にその「役所」を置き、そこで「屋」、即ち、「院」に対しての「商い部」として「屋の号を呼称していた証」であると観ているのだ。
    要するに故に、“「米商人仲間」”とする処に意味があって、これを継続していた所に「同じ仲間が集まる所以」である。
    つまり、“「米商人仲間」”と記する処は、「各藩・国」の「周囲に米を貯める蔵群」があった事に成る。
    要するに「貯めた蔵出し」で「互いの融通」が成立し始めたのだ。
    何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述するが、台風や水害などの季節性被害で困った仲間に蔵から緊急を目的に「帳簿上での融通をし合う互いの習慣」が伝統的に信用を前提に歳出をする事が来上がっていたとしているのだ。
    それが「奈良期から務める蔵人院」であった事から中心と成ってこれを務めた事が「市場取引の起源」とされるのだ。
    これが前段でも何度も論じている「天智天皇」から授かった「賜姓五役の一つとされる永代の役目」でもあったのだ。
    故に「淀の屋」と呼称していたのだし、「美濃に飽波の王と一緒に嫁いだ淀橋の王」の「淀の所以」であるのだ。
    その意味で「淀の屋」には「重要な意味」を持っていたのだ。(詳細下記1)
    さて、それ故に、それが「30年から50年後」の「1730年頃」に、この「米蔵の支店の淀の屋」もこの「蔵出し現物帳合取引の取引」で、何故か突然に「相場」から退場したとし、それに従い「蔵出し現物帳合取引市場」も絶えたとある。
    何故に退場したか「疑問」である。(詳細下記2)
    ここより、この「帳合取引の動き」は正式に「堂島米会所」を新設として「堂島」に移され、前記の「蔵出し・現物取引」との取引は無く成ったとされる。
    この代わりにでた「市場取引」は、“「帳会米商」”として成立する様に「堂島」では成った。
    この「帳会米商」が「吉宗の享保の改革の一環」として承認されて「法・1730年」が制定されて正式なものと成った。
    其の後、この「取引方法」は改めて正式に全てが「帳会米商」に変更され「1863年」まで続いた。
    其の後は「幕藩公認」で「各所・各藩」にも開かれた。
    「先物取引」から「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わり、「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。

    注釈 そこで、先ず何の為に「蔵出し」をしたかは下記の別諭に記述する。(下記1)に付いて。
    先ずは「伊勢」には「米」はその真砂土壌から無かった。
    そこで「各藩の余剰米」を集める事にあった。
    より多く集めるには、一般的にはその「米の現物」を取引に出してその「利鞘」を稼ぎ、「調達資金」を高めて更に米をかき集める必要があった。
    同じ様な商人が他にもいた事が、“「米商人仲間」”の表現でも判る。
    互に、同じ状況にあって、「各藩の余剰米をかき集める事の競争」が起こったは必然で、「天候被害」などの事で
    不作と成ればそれは戦争であったろう。
    「伊勢」は其の立場にあって、幸いに「財」は有ったが、それは「各藩の余剰米の如何」に関わっている事であって、結局は「蔵出し現物帳合取引」に頼る事以外に無く成っていたのである。
    そして、但し元々、「米を獲得する」にあって、「利鞘の差益」を求める物では無かった。
    故に、「蔵出し現物帳合取引」とならざるを得なかったと云う事が実情であった。

    注釈 ところが、何故に退場したかである。(下記2)の疑問である。
    米相場が拓かれて、それは次第に「米を獲得する」から、「利鞘の差益を獲得する取引」へと変化して行ったと云う事だ。
    「蔵出し現物帳合取引」から“「帳会米商」”の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」の「先物取引」に変わって行ったのだ。
    「長年の帳合取引」から「正米受引」に変わったのだ。
    そして、遂には「帳会米商」を認めた「吉宗の享保の改革の一環」として「法・173年」に承認されてしまったのだ。
    「伊勢屋」が求めていた当初より「吉宗」に具申していた「米取引」は唯単なる「金銭取引」のものと成って仕舞っていたのだ。
    要するに、提言外で目的外の「空米の現物取引・1863」の「現物先物取引」に変わったのだ。
    ここに「青木氏の伊勢屋」と「吉宗との間」に「完全に考え方の違い」が生まれ亀裂が生じはじめたのだ。
    「青木氏が求める伊勢の米」の為の純粋な「蔵出し現物帳合取引」は、結果として「法的違反」となり亀裂と同時に引き上げる破目と成り得たのだ。
    この「吉宗」が許した「帳会米商」は庶人の幕府に対する「賄賂」を生み出し「享保期の悪の枢軸」と成って行って「享保の改革」は終わりを告げる結果と成って行ったのだ。

    要するに、この「淀屋a」とするのは、たった「30年から50年間の存在」であって、「米商いの期間」としてもこの「豪商論の淀屋論a」はそもそもおかしいのだ。
    「伊勢青木氏が吉宗江戸向行」の後に、「当面の改革」」として「幕府財政の蔵埋金・300両財政破壊」を「一時的にも増やす手段の為」に採ったとされるのはこの米取引である。
    その理由は、この「堂島米取引の米取引」での事であった。
    然し、この前に既に「商人」として「大阪/堺」として「米」を使って「蔵出し先物取引」としての「扱い」で「利益」を上げていたのだ。
    この方式を「伊勢青木氏の伊勢屋」は推奨していたが、吉宗は「空米の現物取引」を求めた。
    結果として、意見が異なり「帳合取引」から引く結果となってしまったのだ。
    これが「淀の屋b」であり、「1700年頃から1730年頃」を境に「現物取引の米の先物取引」から上記の通りに手を引き始めているのだ。
    ところが、当初は「帳合取引」で融通を受けた方式でこれにより「将軍にする為の裏金造り」と云う説が出て来ていたのだが、兎も角も目的は達成されたが事の事態は違ってきていたのだ。
    余りに「期間が短い事」から「何かの理由目的」があっての「商行為」である事は判る。
    そして「紀州藩の吉宗」は「1716年」に記録にある様に、「伊勢青木氏の後ろ盾」で「幕府」の「働き架け」で「将軍」と成るが、この「19年間」は「将軍」にする為の「裏の動き」を始めたとされる。
    遂にこれが「15年後」に兎に角も成功させたが、この為に「得られた利益」をこの「裏の動き」に使ったとする説なのだ。恐らくはこの説が間違いは無いだろう。
    そして兎も角も「目的達成」で「先物取引」から手を引いたが、「伊勢帳簿」からは直接出金は出来ない事から、この「この米相場の利益」を「将軍にする為の裏の動き」に使ったと考えられる。
    この「米の行き違い」が、「吉宗との行き違い」が感情的なものとなって現れたのだ。
    然し、「吉宗」は最終に「信濃」で裏切ったのだが、「伊勢」も危険と成って、これを以て「伊勢」に引き上げるが同時に「米相場」からもその必要性が無く成り引き上げたのだ。
    それでこの説で行けば、それで無くては「第三番手であった紀州藩・吉宗」からは先ず「将軍」に成り得ないし、この為の「将軍にする為」の「裏資金」は、この「現物先物取引の米取引」から得たものと成り得て仕舞うと考えられる。
    この「裏の金が動いた事」は明白な史実である。
    当時、「伊勢青木氏・伊勢屋」は「紀州藩勘定方指導」として「財政逼迫の折り」からは「裏の金」は「紀州藩」からは決して出す事は出来なかったし、そもそも「出来る財力」は元よりなかったのだ。
    だからと言って「伊勢」から再建にしてでも正式にはこれは出せないし前段でも論じた様に既に「10万両の債権」を持ち得ていたのだ。
    「後の手段」は、上記の「大阪・淀の蔵」から動く「現物先物取引の米取引」であったとするのだ。
    それを「堺大阪の支店の淀の屋b・伊勢の米蔵」としたのだ。

    注釈 ここには、「伊勢」は「明治中期の土壌改良」まで「北勢」では「米は真砂土壌」から殆ど採れなかった事から、“長い期間に於いて全国から「余剰米の米」を調達していた”。
    この事から、その「重要な役目」を担っていたのは「伊勢屋の堺・大阪の店のb・淀の屋」であって、此処には「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」があったと記録されいる。
    何とか遺された記録を手繰れば、この「伊勢青木氏」のその「集積所の米蔵群」のあった所在地を大方に割り出した。
    これに依れば、「川の船の接岸可能な場所」を前提と成るので、昔より「安治川の九条の川沿い」に「米蔵群」があって、そこの付近に「自宅・事務所」があったとされ、「現在の西九条附近域の北側」とされる。
    そもそも「奈良期」から「部経済の朝廷の担い手」として「賜姓五役」として任されていた事は何度も論じているが、古来よりこの付近にその「集荷品・米の集積場」があったとしてであって、要するにここで「伊勢の米と朝廷の米」を差配を一手に担っていたのだ。
    故に何れにしても此処の付近に「蔵米蔵群」があった事に成る。
    そうすると、これを“一時的に短期間に於いて「ある目的」の為に「室町期」に成らずとも歴史的に古来よりここで「蔵出し帳合取引」をしていた”と云う事に成る。
    これはこの事が急に始まったと云う経緯では無い事が判る。
    当然に、仲間もこの淀川の周囲にいる事に成り、長い間には「米の融通」も「帳合上で行う事」等は当たり前の事に成り得ていた事に成る。
    これは間違いなく史実に一致している。
    それが「国造部の部人の差配者」たる所以の「青木氏の歴史観」と成ろう。

    註釈 さて、この「淀の屋論の検証」で、「もう一つの矛盾」は、“30年から50年の短期間とする処の経緯”に問題がある。
    そもそも、これは「伊勢屋の家人」から派遣されている「二代の番頭の引き継ぎでの期間」とすると、実質は「10年から15年程度の期間」と成る。
    そもそも「番頭の呼称」は「伊勢屋・伊勢青木氏」では古来より云わない。
    主に「伊勢氏人・女系」の「青木氏を名乗る家人」である。
    この時の「淀の屋の家人・番頭とする者」が「蔵出し帳合取引・融通方式」をその役目として伝統として先ず成功させた者として、「次の番頭とする者の活躍」は、「最後の引手と成った事」からであり、「実質の期間」はもっと一割程度長い事に成る。
    この「淀屋a説」では、この「闕所めいた嫌がらせ」の受ける事の可能性の無いこの「短期間」に於いてでさえ、そもそもその「闕所を受けた」としていて、それが前段でも論じた様に、「伊勢青木氏の伊勢屋・淀の屋b」が「受けた嫌がらせ・闕所の内容の経緯」と一致さしている処に「疑問」が出る。
    況してや、「米の採れない北勢域の民用の米蔵」の「蔵出し帳合取引での成功」であって、これは法的に触れていず「闕所を受ける謂れ」はそもそも無い。
    況して、「淀屋a説」は「家人経営・番頭経営」であったとしていて「闕所の前提」にはない。
    「上記の経緯」から観て、「闕所を受け事」とは、この「淀屋a説」とするものには100%無いだろう。
    況してや、先ずそれが「限られた米と云う商人の限られた行為」であった事である。
    そして、先ず「短期間」である以上は、“「武士に直接に影響を及ぼした”」とするものでは無かった事である。
    更には、「合意による蔵出し現物帳合取引」であって、「空米取引」はしていない。
    「世間の経済」にこの「取引・融通」は、そもそも対象とする「武士社会」に「直接影響を与えるものでは無かった事」であり、況してや要するに「先物」ではない「蔵出し」の「現物の取引」の「直接的な帳合上の事」であって、「取引方法上」から観ても「武士の家の経済}に全く関係ない所で行われていたのである。
    以上等で「淀屋a説とする経緯とする事」には無理があり理解できない。
    この公に記載されている「公の淀屋論a説」は、そもそも「淀屋a説の詳細」は「以上の事以外」には全く判っていず、この「淀屋a説」と「伊勢青木氏の伊勢屋/淀の屋b」と「その経緯」を繋いで一致させていると云う事である。

    注釈 これは何故かである。
    それは、「aの著者」は「aもbの淀の屋」も「同じである事」を始めから知っていたからに過ぎない。
    確かに「闕所の疑い」を受けたのは、「紙屋院の伊勢屋の商いに対しての事」であることは記録から確かだが、何れも上記の「蔵米蔵事務所の淀の屋の事」では「闕所の理由」としては100%ない。
    仮に、この「淀の屋b」が「紙屋院の伊勢屋の商い」と見做されていたとすれば上記した様に「現実」であるので否定はできない。
    それが、「闕所」が突然に其れ迄に「誰もしなかった事」として、つまり、「合意による蔵出し現物帳合取引」を「無許可」でしたとして受けたとすれば、止む無しであるが、その時が少し遅れて「吉宗改革の末期」の「吉宗と青木氏との仲違いの時期」であるのだ。
    然し、「合意による蔵出し現物帳合取引」は「奈良期からの役目」として継続して来たものである。
    そもそも、「堂島の米相場」を正式に容認して、それに依って“「莫大な冥加金」”を一時的にも獲得する様に提案したのは、前段でも論じた様に「享保の改革」を「江戸経済」で側面から推し進めていたのは当に「江戸の伊勢屋・伊勢青木氏」であるのだ。
    飽く迄も「青木氏の提案の前提」は、「冥加金」であって、「取引の利益」では無かったのだ。
    「米の取引の差益を求める事」は「米は武士の給金を決める手段」である以上は「給金の変動」を意味し、その結果は幕臣の懐を左右する結果として現れる。
    これが武士をより弱くし賄賂が横行する世の中と成り得るとして反対していたのだ。
    それが「幕府」は突然に反対していた「伊勢屋の闕所にも及んだと云う事」なのだ。
    先ずそれの行為は、「信濃青木氏の養蚕と和紙の殖産」と、それだけに留まらず「信濃青木氏の神域の御領の半減没収」と「養蚕の殖産技能者の幕府召上」と「信濃青木氏の半額領地没収」を突然に無断で強行して来た。
    此れを聞きつけたた「紀州藩藩邸」から密かに聞いた「江戸伊勢屋・伊勢青木氏」は、これを“理由なき闕所”と観て、次は、“「伊勢青木氏の伊勢屋」に及ぶ”として「200の江戸伊勢屋を無償放棄」して「伊勢」に「3日で逃げ帰った」とする有名な事件であった。
    江戸での「享保改革の吉宗と青木氏の蜜月の関係」はそれもある日突然にこれで消えたのであった。
    後は「勘定方指導」をしていた「紀州藩の後押し」でこの「闕所」を無事に乗り切ったのである。
    この「時の紀州藩」は「安芸松平氏からの養子」が「藩主」と成っていて、極めて明晰なこの「藩主」は先ず「松阪」を「支藩」として成立させて、其の上で「伊勢屋・伊勢青木氏」と「殖産」と「商業組合」等を「伊勢屋が行う事」の一切を「紀州藩が行っている改革」として正式に認め自由にさせたのである。
    これの認定として「勘定方指導と云う立場」を与えたのである。
    其の上でこれで、「重要な事」は「味方の縁者」とする「紀州藩士」が何と「全て伊勢の藤氏集団」で占められて仕舞ったていたのだ。
    これでは「元紀州藩の藩主」であった「吉宗」でさえも全く口が出せなくなっていたのだ。
    この「重要な関係」は前段でも論じたが「大正14年」まで続くのだ。
    さて、この時を以て、「蔵米蔵の米帳合取引」から手を引いたと考えられるが、これが「蔵米蔵の淀の屋の闕所」とするものではないか。
    その直前には「江戸向行時の約束」と、及び「江戸改革時の約束」と違って「信濃の闕所」を「吉宗」は強硬に行ったが、これに対して「親族の伊勢青木氏」は、「江戸伊勢屋200店舗」を放棄して即座に船で逃れた事件だったのだ。
    「伊勢屋の本店」と「大阪の伊勢屋の米集積所・蔵群」、即ち、「合意による蔵出し現物帳合取引」の「店名の淀のの屋」を一体と見做して「闕所」があったとすれば、時系列等も含めて一致する。

    注釈 この「淀の屋論」に関して、ところが前段でも論じたがそれを「確定の裏付け出来る事」がまだ他にこの少し前にもあったのだ。
    「重要な事」は上記した様に「味方の縁者」とする「紀州藩士」が、何と「全て伊勢の藤氏集団」で初代から占められて仕舞ったていたのだが、これに合わせて、其れは、「全国青木氏一族」が行ったこの時の「大プロジェクト」、その「殆どの全国の青木氏一族」が一斉に経済的に結束したのだ。
    それが「全国15青木氏商業組合の結成」であったのだ。
    そして、それが「御師制度の構築・紙幣発行の独立経済圏」までにも発展して行ったものだった。
    何とこの「二つの集団」が「紀州藩の前後の歴史に「スクラム」として起こったのだ。
    既に前段でも何度も論じた事だが、改めて云わずとも、この「15の商業組合の結成」は「諡号族の日本全国の青木氏族の結成」であって、再度、一部記載するがそれは次の通りであった。
    前段でも論じたので、ここでは詳しくは論じないが、この「青木氏一族」が「経済的に結束する事」の為に「15組の商業組合」を結成したのだ。
    この「巨万の冨の凄さ」が世間に与える影響がこれで判るし、この裏には「361氏の藤原北家で郷流の武力集団」が「女系の縁者」として控えているのだ。
    そして、後にはこれらが「御師組合の御師制度と云う組合」を構築して結束し発展させたのだ。
    これは、「信長」が「伊勢松阪」に「楽市楽座を構築する事」を「蒲生氏郷」に命じた。
    それを実行に先ず移したのが「室町期末期の事」であった。
    この時、「伊勢青木氏の紙屋院の伊勢屋」が「古来より商人の氏族」であった以上は、「巨万の富」を獲得したのは、「当然の事であり、「松阪が豪商の街」と呼ばれるこれが所以なのであり、この「楽市楽座」に商人として合力したのだ。

    「伊勢郷士50衆の族と全国青木氏族」で「御師制度の15組合・豪商」を結成した何らかの「青木氏族の血縁世族」は以下の通りである。

    01「伊勢青木氏と摂津青木氏」と「伊賀青木氏と甲賀青木氏」
    02「信濃青木氏」と「諏訪青木氏」
    03「額田青木氏」「伊川津青木氏」と「伊豆青木氏」
    04「日向青木氏」と「大口青木氏」
    05「駿河日秀郷流青木氏」と「相模秀郷流青木氏」
    06「武蔵秀郷流青木氏」と「上総秀郷流青木氏」
    07「越後秀郷流青木氏」と「越後諏訪青木氏」
    08「越前秀郷流青木氏」と「越前青木氏」
    09「石見秀郷流青木氏」と「米子八頭足利系青木氏」
    10「讃岐秀郷流青木氏」と「藤原純友系青木氏」と
    11「印旛秀郷流青木氏」と「土佐秀郷流青木氏」
    12「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」
    13「越前(長崎)秀郷流青木氏」と「越前(佐賀)秀郷流青木氏」
    15「橘氏系青木氏・貴族」と「島氏系青木氏・貴族」と「卜部氏系青木氏」

    (血縁族では無い第一青木氏と第二青木氏と第三青木氏と甲斐時光系青木氏含まず)

    以上はもれなく「青木氏一族」である。
    この特徴は、大小は別として全てが「商いを営んでいたという事」だ。
    この「商いの種類」は、多種多様であるが、副業を含めて、所謂、全て「総合商社」である。
    これは結果として「付き合いの中」でそうなったと云う事ではないか。
    これを観ると、「経済的な繋がり・御師券の組合紙幣を発行」だけとしているが、実はそれだけではなかったのではないか。
    「時代的流れ」か「政治的な大きな流れ」もあって、“それに対抗する為に結束した”とも観えるのだ。
    これだけの事をこの時代に実行するには、筆者は裏で何か大きい事が動いていたのではないかと考える。
    つまり、何事も此れだけの事をすんなりできる事は政治的にも先ず無く、何か青木氏に「大義名分」があったと考えるのだ。
    だから「一族」であっても異議なく集まれたと観ているが、それが「商業組合と云う事」を前提にした名目で異議が着けられなかった観ていて、当然に「青木氏族」に対して「厳しい時代の流れ」が確かにあった事は前提ではあるが、では集まろうとするには何か世間が騒げないものがあったと観ているのだ。
    それが、前段から論じている「全青木氏一族」にしか発しない「天皇の因事菅隷」であった観ているのだ。
    故に、これを盾に「伊勢」が動き、且つ「全国の青木氏族」もそれも同時に動いたと云う事だ。

    それが前段でも論じたが、前提の「厳しい時代の流れ」では「商人」に執っては最も嫌う「府の闕所」も含めた「武士からの嫌がらせ」であった。
    「氏族の商人」として「巨万の富を獲得する事」は、そもそも「目立ち目」を着けられるからであり、この「闕所の行為」は、「鎌倉期」から顕著となり、取り分け「江戸期」に成っては、そもそも「闕所」そのものは主に当初は「武士に対する法的処置」のものであったが、それがその「目的」を超えて次第に専ら「商人」に対しての「財産没収の為のもの」と成って、それは「難癖」に近くその行為は苛烈を極めたのだ。
    この「異常な目的」は「力を出した商人の潰し策」と「その資産の獲得」であった。
    特にこの傾向が強かったのは、「大名が負債を背負い苦しんでいた時期」であった。
    「商人の力」が「商いの範囲」に留まらず、その「儲けの行為」は、上記の「武士の世界」までに及び、「大名の力」を左右する程に成ったとして、これを何とか理由を着けて留めようとしたのだ。
    それ程に「商人の力」は「経済発展」に依って急激に増したのだ。
    「経済発展」はそもそも「時の政府」にとって「政治の根幹に当たる部分で臨む処」であったが、いざそうなって観ると「武人の力」よりは「商人の力」が遥かに上に行っていた。
    「商人の力」が増せば「税と共に供納金」では増し潤うが、逆に「武人の力」には維持を前提として「進歩」は無く、「商人の力」には「維持」は悪に等しく「進歩」が目立った事であった。
    これがその差と成って目だったのは、それは先ず「秀吉の時代」に顕著に現れたのだ。
    ところがその前の「信長」では、そうは成らずに逆に「進歩の商人の力」を期待し、それに依って「税の制度」を確立させて「政治の潤い」を獲得しょうとしたのだ。
    そもそも「武力」は持ち得ているとすれば、後は「税の制度」に依って得られる「努力なしの制度」で「経済力」を「府」が獲得できるとすれば、合わせて「三権を握った事」に成るとしたのだし、それの「合理性」を「信長」は求めたのだ。
    「伊勢の領主の「秀郷流蒲生氏郷」も「松阪」にこの考え方の「楽市楽座」を求める程に同然の考え方を持っていたのであった。
    ところが、「秀吉」は「進歩の商人の力」を期待しなかったのだ。
    寧ろ、この主な「商人の力」を「市場」に放置するのでは無く、積極的に「政治の中」に取り入れようとしたのだ。
    「考え方」としては、これは有り得る考え方でもある。
    その結果、「府の中の商人の力」と「市場の商人の力」とに「二つ」に割れて仕舞ったという事である。
    「多くの商人」は「府の中の商人の力の傘下」に入って身を守った。
    これが「秀吉が期待する流れ」であって、それによって統一性を求めたものであったのだ。
    これでも「合理性の範囲」であろうが、ところがその「商人が巨大」に成り、その背後に「武力」をも獲得した「府の中の商人の力」よりも、「市場の商人の力」の方が勝って現れたのだ。
    それが「信長」が進めていた「楽市楽座の構図」であって、その「秀吉が最も嫌う伊勢の松阪」の「豪商の街」にそれが現れたと云う事なのだ。
    これが「伊勢屋」が居る「豪商の街」と呼ばれる所以であるのだが、それで、突然に実行されたのが「歴史上」に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた「伊勢攻めと紀州征伐」であったのだ。
    「秀吉」は、反省してこれ以後には「戦い」で庶民を殺戮はしていないし、実戦はせず「戦略的戦い」で勝負を着けて勝利していたのだ。
    この「2つの戦い」が未だ「地元・根来」で語り継がれているもので如何に苛烈極まり無かったか物語っているのだ。
    これに対抗して、有史来、最も危険を感じた「青木氏族・伊勢」が、「全国の縁者の青木氏族」に呼びかけて「族単独で結集した」のが、この「15商業組合の表れ」なのであった。
    「伊勢紀州の基礎の人」で成り立っている「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏」であった.
    「伊勢紀州の基礎の人」が無く成れば「豪商紙屋院の伊勢屋青木氏・基盤は伊勢氏族」は無く成り、この逆の事も起る。
    それは全国に例の無い「伝統」にこの二つは培われていたからである。
    故に「歴史上に遺される庶民を巻き込んだ苛烈を極めた伊勢攻めと紀州征伐」で「伊勢者と紀州者」は一致団結して戦ったのだ。
    結局、この時、「最終の実戦」は、「葛城山の山道」を「伊賀者・伊賀青木氏等」がこの全山道を完全封鎖して抑えて「補給路を断った事」と、「ゲレラ戦」で、「秀吉」は飢えて慌てて大阪に逃げ帰ったのだ。
    これは「15商業組合の活躍」として語り継がれている。

    注釈 室町期に足利氏が楠木正成とここで戦いこの「葛城山の山道」を封鎖して抑えて「補給路を断った事」で2万の兵は餓死寸前に陥り敗戦を期した事があった。
    「秀吉」はこの事で長期戦は好ましく無いとして引いたのだ。
    同じ事が「伊勢長島の戦い」でも、「仮城櫓城の材木」を伊勢者に抑えられて「拠点の櫓城」が立てられず長期戦となり、その為に食料が不足して「苦労した経験」を持っている。

    注釈 前段でも何度も論じたが、記録の保存に関して、これまで「3度の主家の失火の記録消失」で「伝統歴史の公表」が出来なく成り、それを何とか「氏族の遺された資料記録」や「その他の一般の資料発見や記録発見」からの「読み込み等」で導き出した結論の利用であり、それで「青木氏の伝統歴史」の「復元」を試みている。
    取り分け、これには「正しい全体の歴史観の存在発見とその把握」が左右している。
    これ無くしては「正しい青木氏族の歴史観の復元」は難しい。
    「公開されている歴史観」には、期待しない「虚偽の導き」が殆ど占めていて、これには「江戸初期の幕府の国印状発行」が原因していて、「格式家柄の虚偽」でもいいから府とする処が「系譜を求めた事」が原因しているのだ。
    「室町期の戦乱」で「武士」は、「系譜の無い農民からの成りあがった者」が殆どで、其れも江戸幕府はこの末端の武士迄「系譜」を無理にでも求めたのだ。
    其れでなくしては「国印状」を発行しないとしたのだ。
    「国印状」が無ければ「武士」には成れない。
    実際にこの「国印状」を貰えないで「武士」には成れない者も多く出たのだ。
    中でも「国印状」がない元からの「武士の侍」であった「氏族の郷士等」は、「侍」であって「武士」では無いと決めつけられる云う事が起ったのだ。
    「郷士」には「主家」とする「郷氏」とは「主従関係」では無く「血縁の氏族の関係」であった事から「郷氏」から「国印状」は出せないと云う矛盾が生まれたのだ。
    然し、本来、最も古い「武士・侍」であっても「議論」が起こったし、「郷士−郷氏以外」にもあって、古来より伝統的に「寺を警護する役の当にその侍」も居て問題と成ったとあり、「平安期の各地」に守護して廻されていた「朝廷の官僚役人」で、「統治する為の武装集団」をも持ち得ていた「朝廷の役人」も「武士」では無いとしたのだが、これも本来は「朝廷に仕える諡号の持つ本来の侍」であった。
    結果として「侍とする定義」で決めると、「武士」は「侍」とならず、府が決める「武士の定義」とすると「侍」は「武士」では無く成ると云う矛盾」が生まれたのだ。
    「諡号」の持たない「室町期の勃興の武士」は、多勢に無勢で吾が身有利として大声を上げて主張したが、歴史の本来性が「諡号と云う歴史的な証拠」があって最終は侍が有利と成り、結局は「折り合い」をつけて「侍=武士」で「武士=侍」であるとして決着を着けた。
    その意味で、この「世間の歴史観」は、「青木氏族」に執っては「本来の諡号の侍」を以て優位に置かれたという歴史観を持っているのだ。
    それ故にこの「武士の中」でも「大小の格式の有無」が優先されたのだ。
    最終はこれを売買の対象と成ったのだ。
    この様な下での「江戸初期前後の歴史観」はあまり知られていないが、これは歴史を紐解く上で参考に成る事である。
    取り分け、「青木氏族」に対しては「郷士−郷氏以外」にも「寺を警護する役の侍」はどの位置に置くかはこの歴史観が必要に成るのだ。
    江戸期に成っての議論の末に、最終は「本来の侍」であった「氏族の郷士−郷氏以外」にも「寺を警護する職役の侍」も「武士」とすると云いう結論が出た。
    寧ろ、「格式」は上であるのに「下」から「上」を定めると云う逆の事が起こったのだ。
    そこで、「侍は氏族の郷士−郷氏の関係」を指し、「武士」とは「主君との関係の者」として収まりが着き、それが何時しか「侍=武士とする習慣」が慣れで起こり、結局は治まる処に治まったと云う経緯があるのだ。
    其の上でこの「青木氏と云う呼称」は、武士の間でも「特別の意味」を持っていたし、故にこの時の結束は世間では違った目で観られていたのだ。
    そして、それが「商い」もすると云うこの「マルチナな青木氏族」」には、世間から「特別な目」で見られていて江戸期の前であっても「秀吉」も同然であったのだ。
    上記の様に「院屋号の歴史観」に持つ「仕来り」の様にも、少なくとも「室町期までの歴史観」を正しく把握する事が必要であった。
    その役に立つ一つが、以上の「全ての血縁族で深い交流があった母系での青木氏族」が、結束してこれらを「ライン統合」した事だった。
    世間では強烈なインパクトを与えたのだ。
    つまりは、この「青木氏一族」が実行した「大商い・15商業組合の結束」は、世間を驚かせ結果としてそれが「単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事と成って営んだのだ。
    上記の歴史観を知るか知らないかで理解度が違って来るのだ。

    注釈 さて、其の上でこの「大商い・15商業組合の結束」の元となった「因事菅隷」も同然である。
    これは「一般の歴史観」には出て来難い事で「青木氏一族だけの事」ではあるが、ところがこの事は「NHKの大河ドラマ」にも成った程の詳細な「史実」であるのだ。
    筆者はNHKもここまて史実を良く調べ上げたものと驚いている。
    さて、そこで、「注目すべき事」は、この時の「史実」として、先ずそれは「“因事管隷”」に裏打ちされ、その下で「全ての青木氏の氏力」を結集していた事が上げられるのだ。
    つまり、この「因事菅隷」、即ち、何か「朝廷との思惑の中」で成された「政治的な事」を想像される。
    これは突然に「伊勢青木氏」に対して突然に室町期に成って改めて「伝統の氏族」を「律宗族」として追認した「正親町天皇の因事菅隷」であるので、これは「秘密裏・密書」に行われるのでその間の経緯の事は良く判らない。
    恐らくは、詳細に調べると、「ある目的」で「大商い・15商業組合の単独」では無く「摂津大阪商船組合等」との「連携」をも組んでの事で得られる何かをこの「正親町天皇」は目論んでいた事になろう。
    この「正親町天皇」は、有史来で唯一、「天皇の権威回復を狙った天皇」として有名な天皇である。
    その時は「上記した癖の秀吉」であった。
    それは何かである。
    その為には、「権威回復を狙う以上」はそれなりの危険が伴うが、古来から“「賜姓五役」”としても「献納を裏で続ける青木氏族の安泰」が、「天皇家を支える事・唯一つの味方」として、それを切に望んでいた。
    だが、これが「巨万の富」を獲得している「青木氏族の組合による結束」を急いで成された危険を回避する為の理由なのだ。

    注釈 この「目論見に依る結束」が、「経済効果は大きくなる事」は確かであり、これでも「秀吉」を躊躇わせたのだ。
    後は、その背後にある「藤原秀郷流一門一族の力361氏」を「敵に廻す事」は、その「武力」はもとより全国に散在するその「勢力」を無視できず好ましく無いと判断したのだ。
    次の「徳川家康」さえもこの力を避けていて、寧ろ、その「藤原氏の氏名を名乗るなどの近寄り」を見せ「味方」に取り入れて「家臣」にして勢力下に置くほどであったのだ。
    突然に組まれたこの「青木氏の15の商業組合策」に対して、「秀吉」は「伊勢勢力の潰し」を遂に諦めたのだ。
    そして、更には「青木氏族側」は、今度は「手を緩める事なし」に「御師制度を敷く結果・15組合圏内の独自の市場経済圏・紙幣発行」と成ったのだ。
    最早、「伊勢の商人の力を取り込む事」も出来ずに、潰す事も出来ずに「秀吉」は「攻撃」を諦めたのだし、「闕所の話処の事」では無く成ったのだ。
    最低限に、この「御師制度を敷く結果」として「・15組合圏内の市場経済圏・紙幣発行」を暗黙で認める以外に無く成ったのだ。
    「室町期の幕府と正親町天皇」は、この「勢力」の「古来からの伝統の青木氏族」を「賜姓五役の氏」から「律宗族」と認め直して、先ずはこの「古い伝統の格式」を世に質したのだ。
    「上記する秀吉の理屈」からすれば、何はともあれ「商人がこの「格式を持つ事」が「最も嫌う事」であって、これに依って「他の豪商等との扱いを変えなければならない事」が「納得の着かない処」であったのだ。
    それも「通常の格式」では無かったのだ。
    それが「古来からの伝統」だけに依るものであればいざ知らず直前にはその「全格式の総称」としての“「律宗族」”を「最高権力」の「府と朝廷」が「青木氏族」に改めて認めて仕舞っているのだ。
    そこで「秀吉」は「伊勢攻めと紀州攻め」としてその「勢力の弱体化、又は衰退化」を狙ったのだ。
    「古来より地に根付いている集団」の「勢力の弱体化、又は衰退化」は「伊勢と紀州」は思いの外に出来なかったのだ。
    故に「歴史にも遺る程の批判」を受けてのこれがすっぱりと「諦めた結果」であった。
    寧ろ、「陸奥結城攻め」では「伊勢藤原秀郷流青木氏・青木氏族」が「一族の陸奥結城氏」の「救助」に向かうが、これを聞きつけた「秀吉」は、「恐怖の紀州伊勢のトラウマ」に書きたてられたか様に突然に軍を払い「北陸道の商人荒れた山道」を一目散に大阪に逃げ帰ると云う媚態を見せた位である。
    それほどに「伊勢攻め紀州攻め」では「恐怖感を与え得た程」であったのだ。
    これが「15商業組合結成効果」であって2度と攻めてこなかったのだ。

    注釈 そこで何故、「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで逃げ帰ったかである。
    これは不思議な事である、
    この前には「武蔵の結城一族本家」がこの「陸奥の結城一族」を救う為に立ち上がっているが「秀吉」はびくともしなかったのだ
    更にその前にもより大きい「武蔵の本家の秀郷一門」も「陸奥」を救う為に攻めればよいではないかと成る。
    でも「紀州伊勢」のより小さい「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」が動いただけで不思議に逃げたのだ。
    それには「伊勢秀郷流青木氏・青木梵純」だから逃げたのだ。
    其れは先ず「上記の組合を造る程の青木氏」である事であって、「伊勢者紀州者であった事」、そして、その背後に「豪商の青木氏」が控えている事にあったりだ。
    「経済力」も然る事乍ら「伊賀者等三つの忍者」を配下にしている彼の苦しめられた「伊勢青木氏が控えている事にあったのだ。
    この少し違う軍団がこれが動くと成れば、当に前記した「伊勢紀州での秀吉のトラウマ」にあったのだ。
    そして、この「15商業組合の商い」に必要とする“「生産工場」”とする処には、「秀吉の台所」の当にこの「摂津と堺」であったのだが、そそれでもここでも手を出してこなかったのだ。

    注釈 この時の事が、上記する「NHKの大河ドラマ」の中でもこれに関する事が詳細に描かれていた。
    そもそもその「第一の目的」は、「一族一門の経済発展の事」である事は間違いは無い。
    では、“何で結束して一族一門が共に経済発展視しなければならなかったのか”である。
    “それもこの時代に密かに「永代の令外官・賜姓五役」に「時の天皇」が突然に「伊勢青木氏」に対して「律宗族の格式」を任じた上で、更に「因事菅隷」を発行してまでの事であったのか”である。
    筆者は、「朝廷」がこの「ある目的」を好んで、将又、積極的に画策してまでの事であったのかどうかでである。
    筆者の推論では、そうでは無かったと観ている。
    結果として、「朝廷の最大の財源・献納の定期収入・権威の維持」であった「青木氏からの定期献納」を「今後も安定させる事」に先ずあったと観ているのだ。
    つまり、その「定期献納」に対して「現在か又は先行きの事」として、「上記の事」で「秀吉の中」で、「天皇」は「権威回復」を試みながらも、その「不安」を抱いていたのではないか、其の為には、この顕著に成って来たこの「不安」を取り除く必要が生まれて来たのだ。
    それを「献納時」に「街の状況」を伝える「賜姓五役の軍略処の役目」で、この「不安の状況」を潰さに内密に伝えていたのではないか。
    この「不安」を取り除く為には、「青木氏族の持つ力」をより「不安をもたらす力」より大きくしなければならなかった筈だ。
    それは「通常」であれば上記した様に「上記の商業組合」を組むほどに此処迄大きくする必要は無かった筈で、「伊勢青木氏だけの経済力と世情力」で対応は充分に出来ていた筈だ。
    でも、その「経済力」は、勿論の事、「武力の事」、「政治力の事」のこの「三つ力」を兼ね備える事の必要性に迫られていた事に成るだろう。
    これが「伊勢青木氏に向けた密書」の「不安の因事菅隷」であったのであろう。
    それは「朝廷の今後」のみならず「青木氏一族の今後の事」でもあり、これが両者の「不安の因事」であった事に成る。
    では、“それは一体何であったのか”である。
    “手を繋いで輪に成って護りあう”為の「不安の因事」は何であったのかである。

    筆者は、これが「秀吉」が行う「闕所の様な事」であったのではないかと云う事だ。
    「政治の力」に対して「大身内の組合を結成して守り合うと云う事」はこれまでの歴史の中では無かった。
    初めての事である。
    つまり、“組合が闕所を呼びよせ闕所が組合を呼び寄せた”という事に成ったという事だ。
    「時代」が接合しているので何方とも云い難いが「組合」が先ではないかとも考えられる。
    「闕所」は「秀吉の時代前」からも既に起っていた。
    前記したが「青木氏の中」でもこの「近江で闕所」を「秀吉」より受けている史実がある。
    「組合」は「伊勢松阪での楽市楽座の時」より初めて「組合」を結成し始めている。
    「信長・蒲生氏郷・秀郷流藤原氏郷」は、寧ろ、「商人が固まりあう事」の「商業組合」を推奨してそれによって「冥加金の獲得の手段」としたのだ。
    「濡れで泡の策」である。
    ポイントは、然し、「秀吉」からは全く逆で違ったのだ。
    「秀吉」は「商人」が大きく成り過ぎる事を嫌った。
    其れで゛府の中にこの商人の力を取り込んだのだ。
    「朝廷と繋がり」のある「紙屋院で蔵人院の伊勢屋の伊勢青木氏」は、この時、「室町期の紙文化」で既に「巨万の富」を獲得していたのだ。
    「朝廷」はこの為に「献納」で潤っていたのだ。
    この「状態」は「信長の容認と推奨時迄」に続いたが「秀吉」で突然に変わった。
    それも急に「突然に」である。
    この時、初めて「朝廷」は「献納で潤い」を得たし「多くの院屋号」を持つ「伊勢青木氏」は「近江鉄」に始り「和紙」でも又「巨万の富」を獲得していた。
    然し、「秀吉」はこれを真っ向から露わに嫌った。
    取り分け、その基盤となる「紀州−伊勢の勢力」を悉く殺ごうとした。
    要するに、「紀州征伐と伊勢攻め」と態々名を打って攻めたてた。
    攻め立てられている「伊勢青木氏」は、この時、自らも「蔵の火付けや打ち壊しの攻撃」を受けながらも、「平城で寺城の堅固な清蓮寺城」を始めとして「菩提寺や分寺」に「庶民や僧侶等」を匿って「伊賀者等の活躍」で周囲を護ろうとした。
    この時も「紀州伊勢の衆徒連」は「全滅の殺戮」を受けた史実を持っている。
    通常は仏教徒である以上は「寺の中に攻め入る事」は、当時はタブーとされ、結局は外から「焼き払い作戦」に限られていて、結局はでて来た者から討ち取ると云う鮮烈極まりない戦いとなるのだ。
    「伊勢青木氏」はその為に「火の着けられない清蓮寺城や大寺」に囲い民を守ったもりであったたのだ。
    結局は、「伊勢の豪商の青木氏の抵抗」を受けて「紀州征伐と伊勢攻め・1577年〜1585年」は引き上げたのだ。
    「伊賀者衆」や「甲賀者衆」や「雑賀者衆」や「十津川郷士衆」や「龍神郷士衆等」の現地の要するに「紀州惣国者の忍者衆徒」の「反撃」も受けて引き上げたと云う「秀吉」に執っては「我慢の出来ない出来事」であって、「格式」を有する「伊勢の豪商青木氏」に対しては「敵意」を露わに示し続けたのだ。
    従って、この「突然の秀吉の政治的変化」に対して「組合」を組んで互いに護り合おうとしたし、「秀吉」に振り回される「朝廷」も、「密かに因事菅隷」を発してでも「全国の青木氏族」に対して「内密な強化策」を命じて来たのだ。
    それが「青木氏族による15商業組合の結束」であったのだ。
    時系列で観て見ると、この時、「正親町天皇・在位1517年〜1593年」は、「幕府の律宗族」を出してから、少し遅れて「1587年頃の伊勢攻めの頃」に、改めて「律宗族の容認」を出したが、反面、「秀吉」に取り入り「官位の授与」の連発で吊って、“「朝廷の権威回復」”を図った「正親町天皇」ではあるが、この時に片方では“「密かに因事菅隷」も発していた”と云う史実では無いか。
    何故ならば、「天皇の権威回復の目的達成」にはそれなりに警戒されて、又危険を伴う事に成る。
    それはやればやる程に増す。
    その時代は、丁度、「秀吉の室町期末期の事」ではなかったか。
    「正親町天皇・在位1517年〜1593年」は、この「目的の達成」の為に現実に「二面工作」を図っていたが゛、「唯一の味方」となるのは「古来からの付き合い」の「伊勢青木氏とその青木氏一族」であって、これに対しても「密かに因事菅隷の効果」にも改めて「重きを置いていた」と云う事に成る。
    つまり、「青木氏への因事菅隷」と「15商業組合の青木氏族の結集」は、時系列的に一致していたという事に成る。
    これには、「時系列」が完全一致すると云う事に成るが、それが「多くの事」を物語っている。
    先ず、この「室町期の時代」に成っても、“「因事菅隷」を密かに発していた”という史実である。
    「正親町天皇」は、唯一「朝廷の権威回復」を確かに試みたが、反面、「朝廷の存在」そのものまでに「危険感」を感じていたという事に成る。
    それは「朝廷の権威」に食い込ん出来た「秀吉」であったからで、「官位の授与の連発」は、結局はその前には「秀吉の推薦」によるとすれば、その「権威」は「秀吉」にあって「天皇」に無いとする「形骸化を招く事」に成り、現実に史実として成っていた。
    例えば、「天皇家の権威紋」の「五三の桐紋」に対して、「秀吉」は自分様の「五七の桐紋の権威紋」を造って、“「権威」は自分にあると思わせる策”を現実に執っていた「秀吉」であった。
    それが「朝廷の権威回復」で逆に現実化していたのだ。
    そこで密かに発したのが、この奈良期から使われていた「因事菅隷の策」であって、その前に室町幕府が出した「律宗族」を改めて見せつけるかの様に、先ず「律宗族」を出して「権威付け」て置いてたのだ。
    そして、その「流れ」として上記する様に、「秀吉」は「伊勢攻めと紀州征伐」を同時に実行したのだ。
    その意味でこれは「豪商潰し」と云うよりは、影で「朝廷の唯一の味方」となる「青木氏族潰し」では無かったかと観ているが、元より、「政権に靡かない豪商」もあっての事ではあった。
    然し、「秘密裏の因事菅隷」での「15商業組合の結束」が、功を奏し「秀吉」に「潜在的な恐怖感」を持たす程の「決定的勝利・大きな犠牲を払ったが」で退けたのだ。
    「朝廷」も「伊勢青木氏と信濃青木氏」のみならず、更には改めて「秀郷流の母系の賜姓族」の「15商業組合の結束の味方」を得て、且つ「朝廷への献納」も続く結果と成り、「秘密裏の因事菅隷」は思惑通りとなったのだ。

    注釈 「室町期の因事菅隷の策・天武天皇」を出すと云う事は、他にも未だ「天皇」は「天智天皇の永代賜姓五役」を信じていた事に成る。
    それが“「永代とする処」”に「天皇」は信じてあったのかは判らない。
    然し、兎も角も「天皇]が室町期に「因事菅隷を発したと云う事」はその様に成る。
    「律宗族の格式を認めて発したと云う事」もそういう事に成る。
    「賜姓族と臣下族の総称策」として「本領安堵策で応じた鎌倉期」の前の「室町期」には改めて「律宗族」として発しているのである。

    注釈 余談として他にもこの「思惑の込めた因事菅隷」を発した天皇」は居るのかと云う疑問だが、天皇家と疎遠できるだけに疎遠で通して来た「青木氏族」ではあり、考えられる天皇は余りいないであろう。
    そうすると「因事菅隷」を密かに発した「天皇」としては他に「仁明天皇」と「円融天皇」の二人と成ろう。
    「桓武天皇と平城天皇」が「親族でありながら「嵯峨天皇」に対しての対応」で発している事は間違いは無いだろう。
    「出自元の最後の人」としての「平安期の親派の天皇」の「仁明天皇」は、「青木氏の岐路時期」に居た「親族の天皇」で「親青木氏」であった。
    「円融天皇」はこの「青木氏を補完する勢力の拡大」を「賜姓と云う形」で対応した。
    故にこの「二人の天皇」は「因事菅隷」を発している可能性は充分にあり得る。
    何れも研究中であるが、判れば「因事菅隷と云う語句」からでも今回の様に「歴史に繋がっていた事」がより「詳細」に分析して判る事に成る。
    それには「秀郷流青木氏の歴史資料の発見」に頼る処が大きいが何故か出て来ないのだ。
    何かあったとしか思えないのだが、唯、この「因事菅隷」はその特質上は「限られたそれも特定の氏」にしか発しておらず、それもそもそも“「秘密裏」”であり、そもそも「遺る事」は「密書」である限り先ず少ない性質のものであり、慣例上は遺す事を「否」とするものである。
    もう一つは「伊勢と同然の賜姓族」で「永代賜姓五役の令外官」を務めていた以上は「信濃青木氏からの資料とその分析」に頼る事にも成る。
    「信濃青木氏」は取り分け「伊勢」よりも「殖産」を大きく進めていて、そこから生まれる利益の一部を伊勢と同然に「献納」としても行っていた。
    「今回の青木氏に対する秀吉論」では、「伊勢青木氏」と同じでありながら「信濃青木氏」に対して「特段の攻撃」を受けたとする資料は見つからない。
    「信濃青木氏」が「秀吉」が考える「豪商の大きさ」であったかどうかの事では、該当し無かったかと予想できる。
    然し、「伊勢青木氏・伊勢屋」を通じての事であったものでは相当に大きいものであったと筆者は観ているが、此れには何かあったとも考えられる。
    結論は「伊勢青木氏の商い」と「信濃青木氏の商い」は同然の一つと観られていたと考えられる。
    「伊勢青木氏の商い」を潰せば同時に「信濃青木氏の商い」は潰れると観られていた事ではないか。
    然し、「15商業組合のメンバー」の中でも「越後秀郷流青木氏の商い」は「全国豪商中の筆頭」でもあり、「酒業」として米どころでは歴史に遺る程の「日本一であった商人」でもあったが、同然に「秀吉から特段の攻撃」をこの時には受けていないのだ。
    この差は何処にあるかと云う事であり、筆者は「越後」では無く、天皇家を強める主体的に定期的に行っていた「伊勢青木氏の献納」にあったのではないかと考えている。
    そして、それが主に「伊勢であったと云う事」では無いか。
    「正親町天皇の権威回復策」を弱めて、「朝廷」に対して「秀吉の権力」を強めるには、先ずは策としてはこの「献納を弱める事」にあったと観る事が出来る。
    其れが「律宗族」と成って仕舞った「伊勢青木氏を潰す事」にあったし、その「古来からの固い地盤を破壊する事」にもあったのだ。
    然し、この「戦い」は「伊勢人紀州人の惣国精神」と「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」」とで「秀吉」に「伊勢紀州のトラウマ」を起す程に大失敗したのだ。
    要するに、全国各地で「闕所」を行って完全に潰して来た「秀吉の闕所的行動」に執っては、「伊勢紀州」では不入不倫の権で護られていながらも歴史的に大犠牲を負ったが失敗したのだ。
    そして、「正親町天皇の権威回復策」の「目論見」も、兎も角も「因事菅隷の初期の目的」は果たされたと云う事で経済的な保障は果たされたのだ。
    かといって、「青木氏族」と「朝廷との距離」は以前より近く成ったかと云う事では無く、飽く迄も「因事菅隷の範囲・献納の範囲」で終わっているのだ。
    「女系で繋がる四掟の15商業組合の結成」は、益々その「商業勢力」をも広げて行くのだ。
    当然に、「因事菅隷」が「15商業組合の結成」だけを先ず求めたものであった事かは「状況証拠」で判るが、将来の「御師制度まで発展させる処」まで指示し目論んでいたかは判らない。
    然し、朝廷の「献納の安定」を「目的」とすれば、「御師制度まで発展させる処」までは求めていなかったであろう。
    これに依って更に歴史的に繋がる「女系で繋がる四掟の青木氏族」は「より濃厚な血縁性も増す事」に成ったのだ。
    逆に失敗した「伊勢紀州」に対する「秀吉の闕所目的」は、これで益々手を出せなくなったのだ。
    余談だが前記した事で、恐らくは「時系列」から追うと「秀吉の出方」に対してこの頃から前段で論じた「店主の顔隠策・人と店は隠す」はより強化して始まっているのだ。
    この「奈良期からの因事菅隷」がよりこの「顔隠し策」を推し進めたものと成っていたと考えられる。
    それを示した初めての「物語」が室町期の末期策とし遺されている。
    その「物語」では、「軍需物資の調達」で「伊勢松山」で「「秀吉」と会って「商談」をする。
    この相手が矢張り「摂津堺の伊勢屋主人」であった。
    この時に「作者」は、この「店主の顔隠策の事」で面白可笑しく物語を書いている。
    恐らくは、当時には既にこの「闕所」を実行している「秀吉」に対抗する為に「豪商達」がいつ自分に降りかかるかを警戒していた事かを認識していた事に成る。
    この作者は相当に「伊勢屋の身近な人物」であって、それを知っていて少し後に「物語」にした事に成るだろう。
    多分、この「幾つか遺されている物語」の内容から、「商慣習」を良く知り得ていて、それはその「実態の詳しさ」から「家人か祐筆の範囲の者の作」であろうと考えられ、そうでなければ幾ら文才があろうともこの史実での事でこれだけの事は書けないであろう。
    例えば、「松山城築城」の交渉場面では、「材木と大工の調達の事・史実」まで詳しく書き込んでいる。
    そしてこの「物語」は書いた時より「江戸期初期」に成ってヒットとしているのだ。

    注釈 米相場を[吉宗の裏切り行為」で引き上げた後の「伊勢の米」はどうしたのかであるが、それは最早、「蔵」さえあれば成り立つ事と成っていたのだ。
    それは簡単であり記録にある。
    上記した「15商業組合」は全て「酒蔵を持つ程の大米所の国」にあり「伊勢の米」は賄う事が出来たのだ。
    それがこの組合で藩を超えて出来る様に成っていたと云う事だ。
    因みにこの「伊勢」とは、「北部の米の事・北勢」で「伊勢の最大の収穫量」は全体で57万石で、一時は40万石に足りなかったとされ、「北勢」では「陸稲の収穫」だけで表向き「5万石の小藩程度」のもので「伊勢藩」では無く親族の「支藩の松阪藩」や「高野藩」であった。
    この「伊勢国の石高」は、「米」だけに「拘わらず国の殖産物の生産額」を「石高」に換算してのものであって、その比率は石高より大きかったのだ。
    それだけに「市場」から求める「余剰米の米」は、必要であって米獲得の為に「藩主とその役人」が動くほどに「江戸の物語」にも成っている程である。
    此れを「歴代の紀州藩勘定方指導」の「伊勢屋」が奈良期の昔から一手に担っていたのだ。
    口伝でも伝わっている事である。

    さて話は変わる。
    話は「秀吉の闕所の同時期」に行われていた「二つの近江鉄の製鋼」では記録を追うが何故か何も影響はなかった様だが原因は判らない。
    「鉄を扱う商人で殖産人ある事」は歴史が長い事から「秀吉」は充分に知り得た筈だ。
    これが「闕所の対象」に成っていたとは思えない。
    「伊勢」を潰せば、その「莫大な利権」は「秀吉」に転がり込んでくるは必然である。
    然し、「伊勢」は攻めたが「近江」は直接に攻めていないのだ。
    これは不思議な事であり何故かである。
    攻められない何かがあったからであろう。
    それは確定は困難だが、「律宗族」と「因事菅隷」と同然に「朝廷の院屋号をも持っていた事」では無かったか。
    この「院屋号」を持っていなければ「鉱山に関係する人達」を動かす事は出来なかった。
    前記した様に「彼等の組合の金屋集団の抵抗・金屋神」を受けるからではなかったかである。
    「秀吉」はこの「上記の通り」で“「組合」”と云うものには一目を置いていたのだ。
    だから先ず手を出さなかったと観られる。
    そして、次は元より“密かに出されていた「因事菅隷」”にあったと観ている。
    だから、この「三つの事」から考えて“手を出さなかった”と云う事にも成るが、「伊勢青木氏」に「因事菅隷」を出していたかまでは秀吉は判らなかったと思う。
    うっすらと知っていた程度で在ろう。
    なぜならば「蜂須賀小六の家臣の時代」に今井神社系の影の役をしている。
    然し、直前で態々に凡そ「700年後」に「室町幕府と正親町天皇」が“「律宗族」”と改めて「格式を認め直しているの事」を洞察すれば、以上の事では、“密かに何かを出していただろう”の程度の事は「秀吉」は予想は出来ていたと読める。
    それまでは「秀吉を含めた世間の認識」は、総称として「律宗族」と追認されるまでは「永代賜姓族・臣下族」で「永代賜姓五役の令外官」、昔は「浄大一位の冠位」等を保有する家柄程度と、「忘れかけの認識程度」であったであろう。
    氏族の間で御師様の呼称が物語る。
    それが突然に、その「総称の様な格式名」で「律宗族」と再び呼ばれる事に成った。
    この事は「秀吉」も知っていた筈で、「そういう特別に限られた族」に対して密かに出す密書の様な命令書の「因事菅隷の存在」も薄々は知っていたと思われる。
    然し乍ら、「近江鉄の事」には「因事菅隷の族の存在」でも“手を出せなかった”のではないか。
    「攻めた事の本音の目的」が「伊勢全体の力を弱める事」であったとしてもそんな事では「上記した伊勢全体の勢力」は弱まらないからだ。
    「秀吉」は、“この「伊勢全体の勢力」の「この底力・観た事もない総合力保持集団」を見誤った”のだ。
    「伊勢勢力」を「普通の武力集団」と見誤ったのだ。
    だから「将来の秀吉トラウマ」に成る程の体で逃げ帰ると云う結果に終わったのだと読める。

    注釈 この「青木氏に対する密書の因事菅隷」は、定期的に納められる「献納時に渡す事」や、「伊賀者の情報伝達」でこれを担っていた事が判っている。
    中には、「香具師と呼ばれる伊賀青木氏」が特別に「香具・薬や生活常備品」の「入替え」でこの「朝廷内」に出入りしていたとされる。
    この「真の目的」は「情報の伝達忍者」であったからだが。
    これらの手段を古来から使っていた。
    従って、出したか出さないかなどは判らないのが原則の常で、況して「因事菅隷の内容」までは判らなかったと考えられる。
    「因事菅隷」に拘わらず「金銭の小遣いを始めとした生活の細かい依頼事」までも「伊賀者や香具師」に秘かに出していたらしい。
    これ等の事が「明治中程」まで続いていた事が京都に明治中頃までその役目の店を構えていた事が「香具師の遺した資料」からも判っている。
    「香具・薬や生活常備品の入替え」ではどうも「伊勢の無償」であったらしい。
    筆者の祖母も「京の公家出・叶氏」であり、この事から「天皇家のみならず高位の公家なども含まれ、「天皇家の調度品等」は、「伊勢屋が準備した事」が判っているが、これも「超豪商の伊勢屋・伊勢青木氏の無償」であったと考えられる。
    取り分け、この「室町期」を分けると「秀吉の時代」は、相当に活躍した事が「香具師の史資料」や「伊賀青木氏の資料」でも判る。
    然し、「伊勢」を攻めていながら「近江」には手を出さないのはこれは矛盾をしている。
    だとすれば「闕所の為」に「伊勢と紀州」を何故に潰しに掛かったかである。
    「伊勢の力・伊勢青木氏の伊勢屋」と「氏族の伊勢郷士50衆」とを合わせたものであるが「財力はあるが武力」は持ち得ていない。
    補完的に「女系で繋がる秀郷流青木氏116氏と秀郷一族一門の361氏の武力一門」で強く繋がっているのである。
    この「伊勢」を直接攻めれば、この「有史来の四掟の血縁族の補完族」を引き出す事に成るは必定である。
    だが、どの条件から検証を捉えても攻めている。
    それ程の「闕所の為」であったのかである。
    となると、「潰す」と云うよりは「弱めたい」と云う狙いがあったのかと云う事に成るが、「巨万の経済力」と「その地盤の強固さ」と「背後の武力」が在れば弱まる事は100%ないだろう。
    でも攻めたのである。
    確かに伊勢と紀州は鮮烈極まる犠牲を負った事は確かである。
    然し、秀吉の闕所の目的は全く達成されなかった。
    普通なら「伊勢」を目的として攻めれば「近江」」も攻め取らなければ意味がない。
    全く攻めていないのだ。
    「正親町天皇」は「朝廷の権威回復」を積極的図っていたが、これに「献納」する「伊勢勢力」に「牽制」を掛けたとすれば符号一致する。
    それには「唯一の勢力と成っていた伊勢青木氏・伊勢屋」への「因事菅隷の手段」を無くす事と成るが、「天皇」には「秀吉の立場」ではこれを命じる事も止められない。
    そこで“「伊勢」に的を絞った”と観えるが「伊勢」は屈しなかったのだ。
    それどころか“「青木氏族を結束する15商業組合」”で対抗して来たのだ。
    それがその嫌う“「因事菅隷」で行われた”と云う事に成る。
    そもそも“「因事菅隷」は秘密裏に成されるもの”である。
    その“秘密裏に行える手段”を上記した様に幾つも持っているのだ。
    恐らくは「秀吉」にはこれには「手の施し様」が無かった筈である。
    それが「天下の伊賀者の伊賀青木氏」であったし、「雑賀忍者」であった。
    この時は、「内部の考え方の違い・忍者の雇用形態」で「甲賀青木氏」は「伊勢青木氏」から既に手を離れていたのであった。

    注釈 さて、そこで「秀吉」はこの「近江の件で攻めなかった事」はそれなりの意味を成すだろう。
    「近江の鉄鋼」には未だ「魅力を感じていなかった事」を意味する。
    魅力があれば「伊勢」と共に「近江の利権獲得」の為に真剣に攻めていただろうが「伊勢」だけであった。
    「近江の鉄利権」は「秀吉の政治権力」で奪えばよかったでは無いかと思うが、実は上記した様にこの「近江の鉱山の鉄利権」には「院屋号を持つ因事菅隷」を朝廷は既に与えていたのだ。
    これを否定して「強引に奪い取ると云う事」をすれば世間の信用を低下させると思った筈である。
    何故ならば、「秀吉」は「天皇の権威」を背景に「自らの政治権力」を高めているのだ。
    従って、「院屋号を持つ因事菅隷」の何人も持ち得ない「最高の権威書」を持っているとすると「強引に奪い取ると云う事」の最悪の事に成り得て仕舞う。
    だから、手出しは出来なかったと云う事に成ろう。
    この事からこの様に「権威の物を持つ伊勢」に一目を置くにしても、「近江鉄」が「需要と供給の関係」に於いてその「要求に賄う量」を供給できていたかに依るだろう。
    つまり、「鉄の供給」が大きく金になる様であれば何か手を使って来るだろう。
    それ程の事が無ければ「秀吉」も手は出してこないであろう。

    注釈 其の事に就いて検証する。
    「世間の資料」では、これに加えて「江戸初期」までの「全国の神明社の質」でも「青木氏の人・処世に失敗した人の救助」を救う為に「社会の一角」で「独占的に鉄製品の商い」を営んでいたが、その時の「事・主に販売」が判っている。
    この「近江鉄」に付いて「重要な事」があって、“「全国の神明社のルート」を通じて裁かれていた事”が「記録」として遺っている。
    要するに「通常の市場に載せていなかった」と云う事だ。
    つまり、「神明社の裏の資金源」であったのだが、「近江鉄の生産量」が恣意的にその範囲に限定されていた事に成る。
    それも「神明社」、即ち、「青木氏族の中」で恣意的に限定していた事に成る。
    だとすれば、これらの「市場」に対しではなく、「全国の神明社からまとめて来る需要の要求を賄う量」としては生産し、それが相当なものがあった筈である。
    それは「神明社を使う者」が「一般人」では無く、上記した「15商業組合の範囲からの声・秀郷流青木氏一門」を下にしていた事に成るからだ。
    だから「秀吉」が恐れる程に、「15商業組合の結成」のそこには「近江鉄」が其の裏で存在していた事に成るのだ。
    現実には「秀吉」は「近江鉄に目を着けなかった事」、又は「着けられなかった事」は、ここにあって、故に、「鉄製品」に限っても、果たして「市場」では「充分に賄う事」ができ得ていたかは「疑問」を感じるのだ。
    当時は“鉄を握る者は天下を握る”と云われ始めていた時代であった。
    その「鉱山鉄の近江鉄」を「青木氏」はこのような形で握っていたのだ。
    「市場化」しないで「神明社化」で「鉄と云う危険な物」を限定して「青木氏族の範囲」で使うようにしていたと云う事だ。
    その「裏のツールとしての神明社」が使われたのだ。
    その時期化が戦乱の世であって、鉄で造る火縄銃の生産が戦いに比例して造られる様に成っていたからである。
    故にそして、「鉱山鉄の生産」のその「最終起点・神明社」が「青木氏族の逃避起点の越前の福井」として制限したのであった。
    未だ、この頃は、「竪型炉の開発」が「需要に賄えるだけの量」に未だ至っていなかった事は上段で論じた様な事でもあろうし、寧ろ、その「範囲の事でも良かった事」に成る。
    その分、「世の中の需要」は、未だ「砂鉄の鈩製鉄」に頼っていたし、「江戸期」に成って初めて「鈩鉄の公開市場」が「大阪」に開かれて続いていた事を考えると、「近江鉄」に目を着ける程に「神明社の範囲」で隠れた「魅力」は充分に未だ無かった事に成るし、この分でもシステム的に「権力介入する事」は出来なかった事になろう。
    「伊勢」を攻められている「青木氏族」に執ってはこれは都合が良かった。
    何より「15商業組合の結成」に上手く働いたのだ。
    更に「船を使っての商い」と成ると「院屋号を持っていた事」の限りに於いては、「二つの近江鉄の製鋼」では、世間の影で「フル稼働・限界に達する程」のものであったと見込める。
    故に、上記した様に「秀吉」から目を着けられなかった事で、「近江鉄の限定した神明社経由の使用量」から、更に“当初の「2鉱山」から最終は密かに「4鉱山」に増やした”のでは無いかと判断できる。

    注釈 「伊豆青木氏の救助」を果たし「独立させる額田青木氏」に「引き渡す近代銃の欠点の完成」は、前段の通り「1540年頃」に開始」し、「1560年頃」から引き渡している事になるので、「秀吉との関わり」と「正親町天皇との関わり」では、当にその“「後半の渦中」”にあった事に成る。
    「秀吉・1537年〜1597年」、「正親町天皇・1517年〜1593年」の時系列を観ると、つまり、「青木氏族」としては「難しい綱渡りをしていた時期」に成る。
    故に、何もかもに取り分け「一族を守る為に一斉に行動に出た事」に成った「15商業組合の青木氏での結成」は、その「総合策」としての一族存続の為にはこの事に大きな「意味」を持っていたと考える。
    何もかもが青木氏の存亡はこの時期に集中している。
    その「意味」でも、当時の「需要」に対して「供給」は、「砂鉄・鈩炉・閑散期の田水路を使う方式」だけでは、到底無理であった事は間違いは無いが、「近江鉄」を合わせても無理で会った事が判っている。
    この「比較される砂鉄の経緯」でも、「近江鉄の青木氏一族の全需要・必需品と商い・神明社経由」は、「フル稼働・限界に達する程の事」を説明を補完できる。
    これに依ってこれを補うには、「貿易に依り高い技術を他から求める事」に成っていた事が記録からも説明できる。
    然し、「青木氏の状況証拠の記録」から想像すると、「鉄を輸入すると云う事等」はそれをしていない様だ。
    と云う事は、「市場」は殆どが「砂鉄・鈩炉」に頼り上記した様に「近江鉄」は、「神明社の裏ルートからの供給」に限定されて直接は関わっていなかった事に成る。
    これは「青木氏族一門の戦略に成っていた事」に成る。
    つまり、「近江鉄の鉄を獲得する事」に依り「鉄などの軍需品の寡占」が起こり、これに追随する武装勢力はいなくなる事に成り、従って「戦乱」の中で「青木氏族の安定に繋がっていた事」に成るのだし、武力を持つ秀郷流一族一門は影では実質の勢力は秀吉より「無敵の勢力」であった事に成る。
    言わずもがな「近江鉄」に対して「鉄製品の寡占」を疑われて、場合に依っては「秀吉」の「刀狩りの令」に触れる事にも成り兼ねず、刀狩り令を出しながらも実際には手が出せなかったのではないか。
    その意味で「銃の欠点を無くす研究」は、実に危険性を帯びていた事に成ろう。
    然し、何かしているだろう程度の事は判っていただろうが「秀吉」は手を出さなかった。
    手を出す事が其れこそ、“火に油の様な事に成る”と観た事に成るだろうし、出したくても手も出せなかったと観ている。
    一方で偶然に、その「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」を持っていたとする以上は、それは最早、この「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「流れ」は、「青木氏族の氏の義務」であって、これがある以上はそれに縛られそれ以外には方法は無かったであろう。
    「言い訳」は、「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」で成り立つが、「秀吉」がこれを聞き入れるかどうかは判らなかった様だが何も無かった。
    筆者は「因事菅隷説効果」より、事と次第に依っては“火に油の様な事に成る”の説を採っている。
    「家康」は、「秀吉」と違ってこの「“「因事管隷”の院屋号の立場と専有資格」の「立場格式」を尊重して、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”を出しているのだ。
    そもそも元より「伊勢」には、「天智天皇」に依り「不入不倫の権・平安期のものと違う・伊勢を犯したり侵入したりする事を禁止した」が、「特権」を「伊勢王」に与えられているのだが、これを追認しながらも「室町期末期の松平氏への貢献」にも感謝して、「全段の額田青木氏論」で詳細を論じたが、“「伊勢の事お構いなしのお定め書」”の送り「感謝状」を与えたのだ。
    ところがこれが何と「吉宗」を仕立て上げた「伊勢青木氏」に対して、その「吉宗の売裏切り」でこの「お構い無し」は終わり、以後は幕府と「犬猿の仲」と成った。
    逆に、「紀州藩・大正14年まで続く」とは、それまでもそうであったが、「青木氏に上位の立場」を与えながらも、“管鮑・かんぽうの交わり”、又は、 “刎頸・ふんけいの交わり」”と云う「不思議な関係」に成って行ったのだ。

    > 「青木氏の伝統 74」−「青木氏の歴史観−47」に続く。


      [No.397] Re:「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/08/26(Fri) 10:42:34  

    「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」の末尾


    > 注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
    > それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
    > その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
    > その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
    > 前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
    > そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
    > 「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
    > この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
    > この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
    > そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
    > 唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
    > この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。
    >
    > 注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
    > これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。


    「青木氏の伝統 72」−「青木氏の歴史観−45」


    上記で論じて来た「植物絞り油の使用の経緯」の中には、この「注釈の事象」が繋がっていたのだ。
    この「注釈の事象」が「伊勢国の殖産を大いに開始させる事の発端時期」と成ったのだ。
    この事に就いて「伊勢青木氏の記録」と共に「御師制度の研究」にもこの事の記載が明確にある。
    この事の「注釈の事象」は、取り分け、重要で、この中では、例として「紙屋院の院号等の独占権」を「令外官」として与えられていた。
    とすると、「伊勢」で「賜姓臣下族」としてでは無く「青木氏部の部の殖産業」として「自由に行えた時期」はこの時以降である事に成る。
    それは「禊の条件」が効いていたのであろう。

    この時の“「伊勢の殖産」”は、「青木氏の商記録」や「幾つかの古資料」から漁ると「伊勢国と紀州の一帯」には、その「特殊な殖産の前提」があって「完全自由に興せたものでは無い事」が解る。
    それには、「一つの青木氏が護らなければならない絶対条件」が課せられていたらしい。
    それは、古来より、この「殖産」に関しては、この「伊勢」は 特別に“「禊(みそぎ)の地」”と呼ばれ、又、「食と産業を司る外宮の御祭神」の「豊受大神様」の「神地」にあって、従って、それに纏わる「禊の殖産」が主にして興されていたのだ。
    恐らくは、これには前段で論じた様に政治的には「特別な規制令・因事菅隷」、又は「促進令」が発せられていた事が垣間見られる。
    取り分け「青木氏が起こした殖産」にはこの「伊勢」に限ってこの「禊の条件」が課せられていた。
    これを“「禊(みそぎ)の地」”としてこれを「特殊の規制令・因事菅隷」と「伊勢」では呼ばれていたらしい。
    上記の「上記の伊勢王の事件」から考えても、実質は「施基皇子とその裔系」が「伊勢王」を「259年間・272年間続けられる実力」が備わっていて、初代云々では無かったと考えられ、飽く迄も「朝廷の政治的な思惑」の中で称されていた事が判る。
    だから、「禊殖産の促進令」が「特別な規制令・因事菅隷」としも「賜姓五役」としても「令外官の青木氏」に発せられていたのだ。
    要するに、「特別な規制令・因事菅隷」は伊勢青木氏に発せられる例出あった事に成る。
    故に、又、「伊勢に於ける不入不倫の権」が、「中大兄皇子」に依って発せられていて、「伊勢神宮の保全」と共に「特殊な殖産前提の地・禊の地」が構成されようとしたのだ。
    その「伊勢の地を護る令」として発せられる「特別な規制令」の「因事菅隷」は「伊勢青木氏の令」として用意されていたものと同じ意味を持つ事に成る。
    だから歴史的に知られていない「特別な規制令」、即ち、「因事菅隷」とは成っているのだ。
    逆に、これがあるからこそ「伊勢」で気にせずに「禊ぎ殖産の殖産を興せる所以」であった事に成り、それが正しく「禊ぎ殖産」であったのだ。

    それには、完全自由では無かったと観られ「特殊な殖産前提」として「二つの前提」があったと考えられる。
    「一つ目」は、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とした事。
    「二つ目」は、前段と上記する背景を持つ“「伊勢王の地・青木氏部・令外官・賜姓五役」”であった事。
    以上に依る。

    そこで、この「二つの前提の範囲」から“「禊ぎ殖産の殖産企業」”は、全国に先駆けて特段に「伊勢」だけに勧められていたものであって、そこで「朝廷」は、それを権威づける為に「紀伊国の日前宮」から、態々、遷宮した「伊勢神宮」の此処を、限定して“「禊(みそぎ)の殖産地」”として限定して取り分け呼ばせていた所以であろう。
    「紀州日前宮」からの「伊勢への遷宮」は、要するにその違いを際立たせる為に取り分け“「禊(みそぎ)の殖産地”にする事」であって、その為の”「不入不倫の権」”であったと考えられ、その為にそれを促進させる者としの「因事菅隷を与えた初代伊勢王」であったと観られるのだ。
    故に、前段でも論じた様に、“「不入不倫の権」”は、“「禊ぎ殖産の殖産企業」”を実行する「伊勢青木氏に与えられた特権」であったと論じているのだ。
    それ故に、後の「鎌倉幕府」は、「本領安堵策」で、「室町幕府」は「律宗族」で、「平安期朝廷」は「259年・272年の伊勢王」で、「家康」も、この「故事の史実」を認めたし、且つ、前段での「三河での額田青木氏等の活躍」などもあって、“伊勢の事お構いなしのお定め書”までを伊勢青木氏に発せられたと考えられるのだ。

    そこで、この前提で、ではそれを、「古来」、「殖産」、「産地」の「三つの条件」で観て見よう。

    前段から論じている「禊(みそぎ)」等の資料から読み取ると次の様に分類される。

    「和紙とその原材料と加工品」は、元より、「穀粉」「白粉」「伊勢木綿」「伊勢紙」「食料油」「薬」「茶」「食品加工品」「果物類」「木工品」「工業品」「絵具類」「備長炭」「墨」「組紐」「陶物」「漆器」・・・
    以上、「禊品約20品等」として記載されている。

    「古書の資料」からこれを観ると、以上と全て「伊の勢の国」の最も古い奈良時代から「禊(みそぎ)品」として扱われていたとするものばかりである。
    それが何と「江戸時代」まで続けていて、結果としてこの「神の禊(みそぎ)の品」が何と増えているのだ。
    室町期中期頃から江戸期中頃までの「禊(みそぎ)の品」は、そもそも「禊(みそぎ)の品」と云うよりは「伊勢詣での土産品」であって、殆どが「伊勢」と云う「禊(みそぎ)の品の格式」を利用したものばかりと考えられる。
    「伊勢神宮の「禊(みそぎ)の品」の条件に殆ど則わないのだ。

    これは「平安期末期」までは、「伊勢新宮の殖産品」として格式化する為に「令・因事菅隷」に基づくものとしての「伊勢青木氏」が「禊(みそぎ)品以外」は「その「伊勢の力・伊勢王」で敢えて認めなかったのでは無いかと考えられる。
    その「伊勢王歯止め」のこれが伊勢王で無く成った時からの「室町期」からは崩れ始めたと観られるのだ。
    これが何時しか「伊勢青木氏」から手を離れ、「禊(みそぎ)品以外」をこの「二次産業」と「三次産業」として「蜘蛛の巣」の様に組織的にそれぞれの「禊(みそぎ)品以外の長屋群」を通じて「伊勢以外の各地」でも出来るまでに広がって行ったらしい。
    この「経済の流れ」は「伊勢詣での品」に成って「禊品」としては抑えきれなくなったのであろう。
    主にこれらの物は「奈良に向かう川沿いの支流沿い」にあって、ここにはこの「類似品」を造る「類似の禊品生産長屋群」があった事が伝えられ、この「長屋群の人の呼称・ここでは記載しない」までもあったと成っている。
    既に、此れを観ても、「本来の禊(みそぎ)の品」の原則域を遥かに超えていたらしい。

    然し、前段でも論じたが「伊勢」では、「古来」に於いてその「殖産地の適正地・櫛田川沿い」には、今で云う「コンビナート」、即ち、全ての「一つの殖産に関する取引」がある限定された「一地域」で賄える「体系」の様にして、ここにこの「正規の長屋群と蔵群」が構成されて進められていた様だ。
    その「禊(みそぎ)の品1」の「生産の区別の特徴」は、古来では「一つのコンビナート」が「山と川と浜」に集中していた様で、要するにその「地形の高低」を使って「川」で流し、「舟」で「運搬」をして、「浜」に出て、そこから「二つ目の次のコンビナート」に運ぶ「システム」で、「港・泊」から「大船」で、「伊勢北部の集積地」に運び、「松阪の商業地」に運んでいたとある。
    その逆もあった。
    この「動力」は、「川の流れ」で「水車・青木氏部」を動かし、「水」で「洗浄」などしていたらしい。
    上記した「禊殖産の産品」は、この「コンビナート」のこれに「適合する物」が選ばれていた事が解る。
    取り分け、記録に遺るところでは、所謂、「禊の川・A」は、主に「北勢」に集中して「櫛田川」を始めとして「21に及ぶ川」が適度に分散し存在していて、当に「コンビナートであった事」が解る。
    故に、然し、「室町期」から興ったこの上記した「本来の(みそぎ)の品の域」のその「以外域品・禊ぎ品2」ではその生産場所が奈良域と限定されていて、主に「奈良県よりの北勢地域・B」に分散集積していた事が解っている。
    飽く迄も、「神に関わる禊」を前提としていた為に、この「川の事」を“「禊の川」”とも呼ばれていた時期があったらしい。

    さて、ここで論じているこの「禊ぎ品」の“「食用油・南勢・下記」”もその中の主な一つであるが、「伊勢」は結果として「全国の最大の殖産品」の「一大産地の国」に仕立てたとあり、取り分けにこれに「食用油の生産に力」を入れていた事が記されている。
    この「禊ぎ品の食用油」は、その域を超えて中でも「交易品」としても使われたとあり。その得た「利益」の代わりに当時としては「貴重な石油の卸問屋」も営んでいた事が判っている。
    この事は幾つもの記録にも記されている。
    「禊の食用油」が「禊ぎの域」を超えて「貿易」に繋がったとして珍しがったとある。

    「伊勢青木氏の院屋号」の「院」に対して、その「業」に対して「商い」をも行う時に与えられる「格式号・屋」があって、「朝廷の認可」を得て「・・屋」と公に号する事ができるのである。
    然し、この「禊ぎ品が交易に使われる事」への「疑問」が不思議に無かったとある。
    これはどう云う理由であったのか資料に残る筈である。

    注釈 資料を調べる範囲では、平安期までは「院屋号」は[朝廷の認可の公認物」であって、幕府期ではこれを乱発して「莫大な利益の獲得源にした事」で、その「認可公認の価値」が無く成り、遂には「ある程度の利権」を獲得する為に「金品を支払い」、且つその「届け出の範囲」で「身分格式無く勝手に使える様に」、遂には成って仕舞ったとあるのだ。
    江戸期ではそのに認可は幕府が行うものとしてそのレベルは無制限に成ったのだ。
    ここで云う「院屋号」は、室町期中期前の認識とするものである。
    これでこの「特権を与えられたこれを持つ部経済」から始まった「紙問屋の伊勢屋の商い」の「当初は「紙」を主として「業と商の屋の対象」と成って、朝廷が認める「業と商いの利権・殖産」を獲得し、其れを以って全国に販売されていた事に成る。
    そして、その「院・屋・号に合わした特権」で「収益」を挙げ、その何割かを献納する形を執っていたのだ。
    それが故に、当時では「摂津」や「大阪・堺」に「商いの場」が代わる前は、「伊勢」は、未だ「殖産地と販売地」の「現在の大阪の様な商地」でもあって、これで伊勢では古来では“「屋の地・禊の地」”と呼ばれていたらしい。
    恐らくは、前段でも論じている奈良期からの「7割株を有する伊勢水軍の発祥」も、この「殖産の地」の「屋の運搬の結果」から生まれたものであったものと考えられる。
    それが「摂津水軍」、「瀬戸内水軍」等と「販売地拡大」に伴い、その「殖産地」へと伝播していったものであろう。
    その「証拠」に其処には前段でも論じている様に必ず“「青木氏の裔系」”が存在するのだ。
    資料から調べると,流石に「院」は鎌倉期、室町期、江戸幕府に於いても乱発は観られない。
    それは一つには「院の号の意味合い」には、「皇族」の要するに引退に相当する居に対して付されたもので、それを以て一つ徳行を成した得た事を意味する事から、社会に対して「功績をもたらす業」、即ち、「殖産」を興した事に対して、「院の格式号・貢献」を与えるとするところから発している。
    従って、「院」は「殖産業・起業をもたらした者」に与えられていたので、誰でもと云う訳には成らず勝手に誰でもとは成らなかったのだ。
    そこに、「認可」は上記の由来より「府の時代に成っても認可は「朝廷」であって伝統的に格式を重んじたのだ。
    つまり、当然に青木氏に対しても「格式を重んじたと云う事」に成っていのだ。
    故に、「交易の理由」はその範囲で許された事に成ったのだ。
    百々の詰まりは、「格式の前」には「献納」が大きく期待されたからだ。それが有史来からの因の持つ伝統であったからだろう。
    要は「青木氏」とは事を起こさないで任すが得策であったろう。それは「院号」の朝廷との特権を持っているからだ。

    唯一つ、ところがここに「不思議な事」があって、この中には「古来」に於いて“「酒の殖産」”だけは「明治35年頃」まで「伊勢」ではその「殖産地」ではなかった事なのだ。
    “「お神酒」”とすれば、又、上記の“「禊(みそぎ)の地・伊勢神宮」”とすれば、その「代表物」であった筈で、そうであったとしても何の不思議はない筈であるが、当時は未だ「禊(みそぎ)の物」の中には関連品も含めてもこの記載が無く、何故か「禊ぎの酒の殖産」だけは無かったらしい。
    と成ると、これは「伊勢の神」の“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事に成るが、果たしてこれは正しい事なのかであり、検証して観る必要がある。

    それは、“「禊(みそぎ)の地の前提」”として、そこには、「一つの意味」が潜在していたのだ。
    これには「解明できる要素」がある.
    それは、寧ろ、「禊ぎ」と云うりは、“「薬」と「茶・薬用」”が最も“「神の物」”として尊ばれていたとする記録に先ずあるのだ。
    これは「見逃せない当時の古来定義」である。
    それは「中国」に於いても「大和」に於いてもである。
    この事が重要であって、要するに、「禊(みそぎ)」のそれには先ず「浮き上がってくる条件」がある。
    それには、そもそも「禊ぎ」は、そもそも「日本古来の慣習」では無く、「中国の神の慣習」そのものであって、その為に「大和」では、“「中国の影響」”を大きく受けいて、その「禊(みそぎ)の主眼」が、中国の“「漢方薬」と云う点”にあったのであろう。
    それは、記する処では「中国」では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」であったという事だ。
    「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は、現在に於いても“医学と薬学」”が進んだ中に於いてでも、依然として「人間とウイルスとの戦い」である事は否めないが、その解決の一役を担っているのだ。
    古来、「中国の先史時代」の「三文明後」に、先ず「国の形」として「那の国」から始まり、その「那の国」が先ずは「国体の原形」を定めた。
    ところがそれを「秦」がこれを「完成した形」にしたのが中国では興った。
    その国では、“石は薬の諺”があつて、現在でも中国ではこの考え方の根幹としてこれは信じられている。
    事程左様に、要は全ては「薬」であって、これは「漢方薬の所以」であって、中国に於いてさえ「禊(みそぎ)」=「漢方薬」”には何の不思議もなかったのだ。
    そうすると、故に「奈良期の初期」の「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は納得できるが、唯、大和では、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」だけの事では無かったのではないかとこれには「疑問」が湧く。
    その「疑問」が「禊(みそぎ)」であるとなれば、「禊(みそぎ)」=「漢方薬」は「全ての民の現実の問題」であったと考えられる。

    奈良期の「古来」に於いては、それがハッキリさせているのだ。
    “「薬」と「茶・薬用」”に考えられる事は、同源であって、それが、“神の「禊(みそぎ)の物」としては、“人を癒すもの”が「主眼」として考えられていた事に成る。
    ところが、そして、この“「酒」だは違った”と云う事に概念は成っていたのだろう。
    では果たして酒と茶がどこが違うのかである。
    当時は普通に「茶も薬であった事」が、これは「別の古書」にも幾つにも記されているので、“「薬」と「茶・薬用」”は同然の扱いであったと先ず考えられる。
    「茶」は「水の代わり」の様に“親しむ”ように、「薬」と同然の様に一部の階級で親しんでいた事から、“「薬」と「茶・薬用」”は成り立つ事であったと考えられる。
    これが「普通の感覚」で「医薬同源と云う事」であったのだ。
    現実に「茶」には「カテキンと云う効果」が現実にあって、「過剰摂取の脂肪」には「薬」である。
    要するに、「茶」が「薬」とするは、これは早く効くか遅く効くかの問題であって少なくとも間違ってはいない。

    問題は次の「酒の検証」である。
    確かに「酒」は、「茶」と同じであっても、その「質」は、兎も角も、「量」に起因しているが、「茶」はこの「量」にも「質」にも拘わらず「早い」か「遅いか」である。
    古代では、要するに化学分析能力の無かった時代では、「概念」は違っていて「アルコール=カテキン」とも成るであろうが、ところが「古代」では、それでも「酒」は違ったのだ。
    そこでこの「酒」が、そもそも「禊」には成らなかった「理由」は何なのかであって、この点にあって、「薬」としてはどのものに比べても「最大の効果」を発揮はすれど、先ずは「考えられる事」は、「人の物」としては別としても、“「神」”に「純粋に捧げる物・禊物」としては「純粋」に選ばれなかったのでは無いか。
    「天岩戸の事」から始まり歴史的には最初に出て来る色々な意味の「薬」ではあるが、ところが「伊勢神宮の禊」には選ばれていないと云う事なのだ。
    此の処が既にここが「中国」とは違っていたのだ。

    もう一つは、「遷宮の地」の伊勢以外は、別として、「伊勢」では、「米」も然る事乍ら、決定的に違う事は、“「よい酒用の米・明治初期まで」が採れなかった事”にあるのでは無いか。
    現実に気候と地質と土壌が悪くて「明治中期」まで採れなかったのだ。
    これが講じて「禊の条件・伊勢の産物」と成っていなかった事も考えられる。
    だとすると、ここには何かに正式な相当な記載があるべきものと成るがどうか。

    では更にここを「古書」で検証する。
    「上記の事」がハッキリと記録されているのだ。
    又、「朝廷」はこの「ある事で伊勢の事に悩んでいた事」を示す事にも成る。

    先ず参考として、「史書・古事記」の「経緯」に依れば、「天武天皇・673年〜686年」が「稗田阿礼」に「古事記」の「正しい記録」を誦習させた。とある.
    これに始まり、この「作業」が「天武天皇の崩御」でこの「誦習の事業」は一時中断したが、その後、「元明天皇(707年―715年)の命」で、再びこの「稗田阿礼」が“誦習した”とある。

    この“誦習した”の所に意味が隠されているのだ。
    何で何の為にどこを“誦習した”のかである。
    そして、この“誦習”とはどの様な作業であったのかである。
    そもそも、「古事記」そのものが未だ時代も過ぎてもいないし、ボロボロには成っていないし、内容も違って大きくは違っていないだろうし、故に、この“誦習した”には「特別な意味」が見いだせない。
    「漢字の間違い」を直した訳でもないし、然し、“誦習したとするほどに”、する程に大きな理由が生まれたのだ。

    筆者は、この事に就いて次の様に検証している。
    「伊勢神宮への遷宮」が、「天智天皇」に依って「紀州日前宮」より「帝紀に書かれている事」により“「環境条件」が整わない侭に、「紀州の日前宮」から移してしまった史実”である。
    何も「遷都」であっても「日前宮」より「遷宮」を直ぐにしなければならないと云う事ではない。
    「遷宮}は「安芸」から始まって「69回の遷宮」を行っているが、「遷都」と同時に「遷宮」も同時には必ずしも行っていない事例はあるのだ。
    「遷都が落ち着いた後」でも「遷宮を行っている事例」もあるのだ。
    この事は「別の記録」にも記載されている。
    「紀州日前宮」の場合は、この最たる例であって、「飛鳥」から「近江大津宮」に「5年間の遷都」にして「神宮」は「伊勢」であって、その前に於いてはその最たるもので先ずあったのだ。
    そこで、この「天智天皇が始めた未完成の遷宮事業」を引き継いだ「天武天皇」は、何とか「環境条件を整える事」に専念したが、それでも上記の通りで「誦習で出来ない事」が生まれていたのだ。
    これで、「遷宮の環境条件」に「矛盾等」が発生しない様に、先ずは「古事記の見直し」を二人の官僚に行わさせたと云う事である。
    それに合わせて、現実に「伊勢王」の「令外官を務める伊勢青木氏」に対して「因事菅隷」で以て合わせて「環境整備」を施させようとしたのだ。

    「天皇以外」に「伊勢王」に向かって、仮に「伊勢王」では無くても永代の格式があって「仕事を命じる事」は「永代の浄大壱位」である限りは出来ない。
    例えば、「伊勢青木氏」より格式の低い「太政官の一官僚が命じる事」等が出来ないので、取り分け「皇族賜姓臣下族」と成っている「賜姓臣下族の氏族」に対しては、この「面倒の命令」の「伝達方式」の「因事菅隷」で「天皇の言いつけを伝える事」と成ったのだ。
    その証拠に、この時、「因事菅隷」を「伊勢青木氏」だけに発しているのだ。

    「伊勢」ではこれに合わせて、前段でも詳しく論じた様に、この為に「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「尼寺の建立」、「伊勢神宮の整備」、「日前宮の処置」、「菩提寺の整備」、「分寺の建立」、「聖域の整備等」、この時期に「伊勢青木氏」は多く手掛けているが、これがその時の「神宮に対する環境整備」であったのだ。
    「多気に斎王館」、「寺に十二女官の準備」、「女官の住まい」として「尼寺の建立」等のどれを執っても「伊勢青木氏」に直接的には関係はない。
    例え因事菅隷が出ようと関係は無いが出した。
    「賜姓五役」や「令外官」としても、又、直接に「神宮の事・国」であっても関係する事では無い筈で、例え伊勢の事であるとしても「国政の事」であって、これを「賜姓五役」を前提に「因事菅隷」で無理やりにやらせたと云う事であろう。
    これが“誦習した”の所に合せたとする所以なのだ。
    「朝廷の官僚」から観れば「青木氏」は便利な氏族であった筈だ。
    「天皇の言いつけ」として「令外官の因事菅隷」を出して形付けて置けば済み、「紀州日前宮の在り様」に合わせて「政治的」にも「経済的」にも何もかもしてくれる便利な「賜姓臣下氏族」であったろう。
    元々は臣下したとは言えそのような「不確実な立場」には生まれているのだから文句の出無いところであったろうし「院屋号」を多く持つ「伊勢の50郷士衆の氏族」である。
    文句の出せない処であった事は頷ける。

    そして、この「紀州日前宮の整った内容」を精査して、更に「見直し」をさせて提出しこれを改めて「太安万侶」が書き写し「712年」に再提出させたとあるのだ。
    そして、この「古事記」に初めて、“「酒の事」として「神饌・神の供物」”として申しでて、“誦習を意味して追記して書かれた事に成る。
    つまり、「重要な事」として「神宮としての環境条件」が完全に揃っていた「紀州の日前宮」から、余りにも整っていない「伊勢の神宮」に対して「伊勢青木氏」は「それなりの事をしなければ成らなかった」のだ。

    注釈 「紀州日前宮]からの「遷宮」には、「神宮としての環境条件があまりにも不整備である事」から、「時期は悪い」として「官僚や皇親族」には反対が多かったと記されている。
    この事が“誦習に走らせた理由なのだ。”

    そこで、これを“誦習の字の如く「追記した事」に成るのだ。
    そして、この事を「伊勢青木氏」が成した「環境整備の事」に合わせて、更に「類題三代格」の「平安中期の延喜式目録」にもこの事を記載し、この事を正式に「令を出した」として遺している。
    この事を新たに令として、“「神饌”の神事」として「追記する事」に依り「900年頃に改めて定めている事」に成るのだ。
    然し乍ら、主に「神宮移設の設備的な事」が「伊勢青木氏」に依って整えられて進められていたが、ところが「紀州日前宮」に比べて「絶対に整えられない事」があったのだ。
    それが、先ずは「米による酒」と「飽浪社の不整備」と「帝紀が定める聖域の条件」が遺っていたのだ。
    つまり、この「記録の示す事」には、「平安中期の延喜式目録」の記載の通り、「平安中期・900年頃・712年から約190年間」までは、「この事の示す処」は、飽く迄も、“「慣習」”で繋いでいた事と云う事であったとして、“「正式行事」”としては「定められていなかった事」が記されていた。
    これが歴史的な事には成るのだ。
    この事は、要するに、“「伊勢神宮時代」”にはまだ「酒は禊では無かった事」を意味するのだ。

    では、この“「正式行事」として暫定的に扱われていた期間は何時か”であるが、これには明記はされてはいないが、“「来米の赤米・原種稲」”であって、唯単に、これに「麹菌」を加えただけの“「発酵古来酒」”であった事を示していて、これを以て、取り敢えず“「伊勢神宮の「神饌」”としていた事を示していた事に成る。
    始めからではなく追記であって、「紀州日前宮」の様に「正規の酒の神饌」ではなかったのだ。

    そうすると、「紀州日前宮と同じ禊の条件」としては、「完全に成り立った時期」なのは、「正規の酒の神饌」が出来る「土壌改良で造った明治初期」と云う事に成るだろう。
    ここまでは「正式の神饌では無かった事」に成る。
    これを唯単に「伊勢神宮の儀式」では、「神饌」として“「来米の赤米・原種稲」”を伝統であるとして「こじつけていた事」に成るが、上記の記載の事実の通りなのだ。

    この「参考の事」に関して、“これは何故かである”が、それを次に証明する。
    それは「伊勢の土壌と季節性と地形」にあって、長い間、“「良質米の穀物生産」に向かなかった”と云う事にある。
    これは「多くの史書」にも記されている事であって、「列島の伊勢の地形・日本海から吹き下ろすくびれ部分」にあったので、「若狭湾から敦賀を通じて桑名」に「流れ込む乾燥する地形」にあったろうし、又、「列島形勢時の成り行き」から「典型的な花崗岩の地質・糸魚川線を境に左側の地質」であって、この「土壌」では「真砂土壌」であり、保水性が掛けていて、「米生産に向かなかった事」にあるのだ。
    どんなに騒ごうと「伊勢神宮」では、「紀州日前宮の環境条件に拭う事の出来ない物理的な条件に多く欠けるところがあったのだ。
    この事では、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は、「土壌改良工事」に「莫大な私費」を投じて行われた事が「青木氏の資料や口伝」でも伝わっている。
    つまり、この事は「伊勢」には、長い歴史の中で、唯一、「神饌を造る土壌に欠けていた事」を意味し、それを成す「公の財源」に長い間、「伊勢王・地権を7割」で無く成った時点の限りに於いて欠けていた事に成るのだ。
    「欠けている神饌」を獲得する為のその「財源」を誰が出すかにあったのだ。
    そして、その「工事」そのものを誰が行うかにあったのだ。
    前段からも何度も論んているが、「伊勢の事」を良く知っている「古来からの土木工事」は隣の「額田部氏」であって、経験も豊富で、「全国の青木氏との繋がり」は奈良期からで親子の様に極めて深い関係を保っていた。
    明治期に於いてでさえ「青木氏−額田部氏の関係」が成り立たなくてはこの工事は成し得ない事であったろう。
    明治期には、「額田部氏」は額田に「土木会社」を構えていたし、「青木氏部」も独立して「宮大工の会社」と「施工会社」の「二つの会社」を設立していた。
    やっとこの「条件」も私的に成立したと云う事に成るだろう。

    結論から、「資金と施工」は「伊勢屋の伊勢青木氏」からの「出資と施工」と成ったのだ。
    これを成す「額田部氏の施行工事業者」が引き受けてくれるかであった。
    先ず、「広大な地権」を「基本域」にして、それに伴う「干拓灌漑と土壌改良」を行い、問題はそれに接する地域の干拓灌漑をどうするかであってもその数は「約3割の地権者」であった事が伝えられている。
    この時、未だ「伊勢の大字の約7割・地主」は「青木氏の地権域」であったと伝えられ、これを主体として工事を行えば、後の残りの「約3割を債権補完の干拓灌漑」に成り続けて「帰依した事・約定」に成った伝えられている。

    注釈 「明治6年から明治12年」にかけて「地租改正」を行い、「地権者」を細かくして「土地売買を自由にする事」と成ったのだ。
    「伊勢」も同然であったとされ、そして、「地租の現金化」を実現した事が記されている。
    ところが、この時の「伊勢の 地租改正」には、「地権域」が多くとも3割と成っていたと記されている。
    全国的には「土地の私有制度」と「明治政府の財政的基盤」を確立させた事として効果があったとされるが、全国的には伊勢は低いものであったと記されている。
    この時期のこの「地租改正」には、「伊勢青木氏の干拓開墾」は当然にそれは「氏族・郷士関係」が働き、その「独立対策」の為にも先ず「伊勢青木氏の開墾と投資」で行われたのだった。
    「地権の7割」は元より「古来からの女系血縁の氏族50郷士衆」の管理下にあって、これに対してにも「干拓灌漑の工事や米種の開発等」を先んじて行ったとある。
    「残りの一般3割」は「伊勢村主200人衆」に解放されていたとある。
    其の後の経緯として大きくは、その後に行われた「戦後の農地改革開放」で、この「灌漑干拓が済んだ地権」ともに全てを「伊勢郷士50人衆の氏族」に「無償」で引き渡す結果としたのだ。
    「神饌」を獲得する為の「干拓灌漑土壌改良の効果」が、これで遅れて「戦後」に広く齎される結果と成ったのだ。

    これは「当時の流れ」としては「氏族であった事」から当然であった。
    要するに、「稲作を可能とする域」の「土壌改良工事/干拓灌漑工事」である。
    さて、そこでこの「伊勢での米生産の為の大工事」は、口伝とその記録と郷土史に依れば、「明治期の中期頃」に「筆者の祖父の弟」が「信濃と越後の青木氏の親族」に修業して帰り、「伊勢の土壌と季節性と地形・額田部氏協力を仰ぐ」に合う“「米種の開発」に先ず長年に掛かけて成功したとあり、この為に「倒産寸前」までの「莫大な私費・資本」を投入したとあるのだ。
    この時、「青木氏の中」で意見が大いに分かれ、結局、話し合いで「四家の福家」を「実行派の弟」」に譲ったとある。
    この時、合わせて「火災」にも見舞われ「先の福家・祖父」が責任を執ったと云う事もあり、又、「明治期の大富豪ら」に向けられた「体制側の嫌からせ」もあって、「福家の権利を窯の灰」まで譲ったとされる。

    それが“「米種の開発」に成功し続けて、その後に「日本」でも初めて「米と酒の早場米の開発」にも手掛け成功していて、その「米種等」には「実行派の弟・祖父の弟の名」が着けられている。
    その結果、それまでは、「お神酒の神饌」に就いては、古来では「伊勢」では「悪質な土壌・真砂」でも出来る「古来米の赤米・原種稲」であったとされ、それが、「唯単に麹菌を加えてだけの発酵古来酒」を造っていてそれを「神饌」とされていた事が書かれている。
    「伊勢青木氏」が「古来の伝統」としてこれを引き継いできていたが、これを「実行派の弟・祖父の弟の名」が自ら「福家」と成って、最後の一つとする大環境条件を変えたのだ。
    この結果、「伊勢」ではそれまでのこの「福家であった祖父への呼称」が代わり、「福家が代わった事」で「御師」や「氏上さん」から、新たに「徳宗家・徳宋家」と呼ばれる様に成ったと記されている。
    これには「長年の伊勢の願い」であった「米の出来る土壌改良」に「伊勢を変えた事による感謝」が基本にあったとされるのだ。

    この古事は、「712年とする古書の内容」の経緯と一致しているし、「900年頃の慣習」の経緯と一致している。
    それ故に、この「古来酒」は、“「禊(みそぎ)の品」とは成らず、当然に「神饌品の域を超える事」が「明治中期」まであり得なかったのだ。
    簡単に「伊勢の土壌と地形と環境」は替わる事が無く、「伊勢神宮」である限り「他の地の酒の神饌」に上がらう事も出来ず、必然的に「禊への品を超える事」は出来なかったのだ。

    では、どうして「平安中期頃」から正式に「神饌」と成り、「禊の品」へと近づいたのかである。
    普通では、「土壌改良をしなければ成し得る事」は無い筈だがそれが成っているのだ。
    それは、上記した様に「禊の品の前提」には、古来から“「薬用」とする大前提”が強くあった。
    「紀伊国」から「伊勢国」に遷宮した以上は、「お神酒の神饌」は「紀伊国」では出来ていたのに「伊勢国」からも出ていなければならず、「遷宮の環境条件」として「不整備」であった以上、それが「天皇の悩みの種」であったとしていて、その「切っ掛け」としていたのが、上記した「天武天皇の古事記の見直し」にもあった。て、その為に努力したが、結局は少なくとも「平安中期」にまで、「伊勢神宮の神饌」として「類題三代格の記載」の通り「正式決定を持ち越した」のは、この「定める根拠が無かった事」に依るのだ。
    「遷宮に於ける環境整備の不備」はここにあった。

    では、それはどういう根拠なのかである.
    そこで、取り敢えず「禊の品の前提」の“「薬用」とする前提”を古事記の“誦習で追記して補って使ったのだ。
    これを米どころの「紀伊の日前宮」で国で行っていた「神饌」を、“「伊勢神宮の神饌」”とは成らず、それだけに一段落させる事として、これを“「薬用」”とすれば、「伊勢米の赤米」の「良し悪しや量」に関係なく、“「薬用」とする前提”として、又「禊の品の前提」として「伊勢」でこれを“「殖産」”とすれば、兎も角も何の問題も無く成る事に成る。
    これが「上記の古書」に記載する“「慣習と云う形で引き繋がれた事」”を意味するのだ。
    つまり、この“「薬用」”にすれば、「良し悪し」は関係なく、「量」を多くし「殖産として生産」できるとしたのだ。
    これを「伊勢青木氏の殖産の末」に依って成されたという事である。

    ここで、“「この事」”で「大きな史実」に一つ気が着く事がある。
    “この「禊の殖産」を「伊勢」で進めていたのは誰か”である。
    これがこの「259年の間の伊勢王の務め」であったとすると、「神饌の位置」から「薬用の禊の品」に「帝紀などの決め事」を移させたのは、「施基皇子の後裔の青木氏」であったと云う事に成る。
    記録に観る様に「紀州日前宮・官僚の反対が多かった」から、まだ「日前宮」に比べて充分に「遷宮」に対する「環境整備」が整わない侭に、「不完全な遷宮とそれに伴う因事菅隷の殖産を無理に進め差した天智天皇」と、それに依って「歪み」が出たのだ。
    この事に気づいて「古事記等の誤りの修正を命じた天武天皇」と、平安中期に「神饌決定と薬用の名目と禊の品の殖産の前提」を、「施基皇子の後裔の青木氏」に「因事菅隷」として命じたのは「仁明天皇」であった事に成る。
    だから、「平安中期」なのであって、その役に立つ「青木氏の裔系」を再び「賜姓と云う形」で拡大させたのが「円融天皇・960年の賜姓」であったのだ。
    兎も角も、「賜姓族」と云う「天皇の繋がりとしての氏族」を身近に多く整える事に政治的にも経済的にも必要に迫られていた事に成る。

    注釈 だから、「青木氏の裔系」のこの論じている「青木氏の歴史観」の「時代の進捗」から「嵯峨期の策」は間違っていたと後裔の筆者は論じている。
    朝廷の周囲もそのような環境にあったにも拘わらず、逆に敢えて一時的に感情的に成って便利な賜姓族や皇親族を外したのだ。
    「紀伊日前宮」から「伊の勢の国」に移す事は「大反対」を受けていた事は多くの記録にも記載があり、この為に暫くは「伊勢神宮としての準備」が滞った事が記録されているのだ。
    一時、「放置された時期」があって、「天智天皇崩御後」に上記した様に「天武天皇」が「神宮としての体制」を整えさせ、その間に「神宮」に絶対に必要とする「浜の宮の海神の神」の「飽浪社・飽津社」も一端先ず日前宮から切り離し、「六十九の遷宮」の「神宮全ての絶対条件」として定められていた「日前宮の神域御領」をも半減させて、「神宮の資格・格式」を落として、「伊勢に移すと云う事」をして、「伊勢の神宮の体制限界」に合わせさせてこれを整えたのだ。
    「安芸から始まった遷宮社の約六十数社」の「元の遺った全神宮」は、「有史来」から元は「飽浪社・飽津社」が源である。
    もっと云うと、「人類の神の祭り」は元は「飽浪社・飽津社」から始まったのだ。
    それ故に、少なくとも「飽浪・飽津の岬」、即ち、「半島の先端の波うち際」の頂上に「海」に向けて「祠」を設けて祀り、ここを「神の居住」として迎え「満月の夜」に「お神酒・神饌」を捧げて歌い踊りして「神」を楽しませて迎え入れたのだ。
    其処が、「飽浪の飽津の岬と呼ばれた事」から後に「飽浪社・飽津社」と呼称される様に成ったのだ。
    この事がこの「帝紀」に書かれていた事から、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」とその「半島域を占める御領」は「神宮の最低条件」であったのだ。
    だから、当時はこの「飽浪社・飽津社・飽津の岬」の無い「伊の勢国の宮」は「天皇家の本来の宮」では無いとされていたのだ。
    「神宮の祭りの源」は、「飽浪社・飽津社・飽津の岬」から始まっているのだから「神宮の環境条件」では抑々無いのだと世間は騒いだのだ。
    又同時にこの「源の飽浪社を保護する杜」も「聖域」として「環境条件」とはなっていないのだ。
    此れが「伊勢」では大きく欠けていたのだ。

    未だ「決定的な条件」として「神宮」には「幾つかの条件」が完全に欠けていた事があった。
    例えば、「神宮は南の小山を背に北向きに建てられる事」
    「神宮の右傍らに神宮を清める小川が流れいる事」
    この「小川」を「紫の川」と呼ばれ決して「濁らない川である事」
    以上等の「細かい設置の環境条件」が帝紀などで定められているのだ。

    故に、この「伊勢の遷宮」に大反対を受けていたのだが、ところがそして、これを「二人の天皇」が「ごり押し」をしたので、暫くは「伊の勢国の遷宮」は進まなかったのだ。
    現在の「宇治館町1」にある「7世紀に建立された跡」は、この時の「不備の建物」であってこれを観ると確かに「上記の建設条件」は全く整っていない。
    それを直せる処は直しても少し横に建立したのだが、「決定的な上記の条件」の「飽浪と飽波社と飽浪祭礼」やそれを成す「聖域範囲」は依然として満足していないのだ。
    それを「天武天皇」に成って、兎も角も、「妥協の神宮」を造り上げたが上記する様な「矛盾」が多く出たのだ。
    そこでどうしても出来なかったのは、この「「飽浪社・飽津社の移動」であった。
    そこで、どうしたかであり、その策が「神宮としてよく無い・姑息だ」として批判を受けたのだ。
    この「飽浪社・飽津社」のある「日前宮」ある「紀州浜の宮大御領」を「日前宮から切り離す事」を先ず考えた。
    何と“「切り離し」”て「神宮の要件」を敢えて下げて、「伊の勢国の遷宮に移す事」に兎も角も書類の上では成功したのだ。
    「長い間の「神宮であった紀州日前宮」が、「朝廷の神宮」とされていたが、この比較する「神宮の存在が紀州では無く成る事」で、「大反対の官僚族」は別としても一般の民の反対をも避けたのだ。
    「西域に存在する御領域」は、「日前宮の方を小さく切り離する事」で兎も角も解決したが、「神饌」を捧げる「飽浪社・飽津社」の前提の「飽浪社・飽津社を切り離す事」でも妥協したが、「飽波社の存在」と「神饌」だけは無理であったのだ。
    それが上記に記した「古書」に記されている「900年頃」までは正式に決められなかったとする事由であったのだ。

    注釈 これ等は何度も角度を変えて前段でも論じた事であるが、実は「万葉集」にもこの事で何句にもこの「切り離しした浜ノ宮の存在」を「哀しげな歌」で読まれているのだ。
    これは平安期になっても長くこの事が人々の心に残っていた事に成るのだし、当時としても長く大変な話題であった事を示している。
    万葉集以外にも天皇等の熊野詣でも郷土史でも数えきれないほどに哀歌として詠まれているのだ。
    受け取り方では批判的にも詠みとれる。例として次の歌がある。
    ・・・和歌の浦 潮満ち来れば片男波 芦辺を指して 田鶴鳴き渡る・・・
    此処は日前宮も含めて名所旧跡の地で、歌の裏には哀歌の意味が込められているのである。
    後の世迄この様に批判されているのである。

    では「歴史の経緯」では、どうなのか。
    この平安期の“「900年頃」まではその後に全て決められたのか”と云うとそれは明確ではないのだ。
    この頃に関連して「伊勢の経緯で決められた事」と云えば、「円融天皇の藤原秀郷流一門の第三子に青木氏を永代に賜姓する事を義務付けた事」だけである。
    これが「伊勢神宮の神饌等に関わる物」なのかである。
    それまでに「伊勢」では、「多気の斎王館」とそれに関わる「女官などの管理システム」等を構築して「青木氏に依ってこれを補完する体制」を整えられている。
    これを「伊勢青木氏」から観ると、依然としてこの「神饌」は解決されていないのだ。
    「伊勢青木氏」だけに拘わらず「信濃青木氏」と「秀郷流青木氏」にこれに関わる補完が成されていたのでは無いかと観ているのだが、そこが歴史は定かではない。
    つまり、「朝廷」に於いてでさえ「伊勢での正規な神饌を造り出す為の干拓灌漑と米種の変更等」は、到底、「その全ての必要とする能力」が揃わなければ容易に成せる事では無かったのだ。
    鎌倉期、室町期、江戸期での「朝廷の力」は到底無理であるし,幕府も同であるかも疑問であった筈である。
    そうすると、既に「伊勢王」ではない「伊勢青木氏」しかない事に成るが、「3幕府期間」に於いて「巨万の富」があったとしても無理ではなかったかと思わせる。
    それは条件が揃っていなかったのだ。

    況して、「唯一これを成せるの専門土木業の額田部氏の協力」を得られなければ成す事がならなかったのだ。
    3幕府期間はこれは何故か無し得る条件は揃わなかったと云う事であろう。
    推測の域を出ないが、「奈良期後期・光仁期」に一時遣ろうとしたのではないだろうか。
    ところが期せずして「多くの皇族の者」が死去して「額田部氏は古墳群の築造」に追われた。
    そして、又、「平安遷都・桓武天皇」が行われたが、この時に事件が起こった。
    この「額田部氏」は、「平安遷都築造の命令」に従わず罰せられた。
    此れを密かに「伊勢青木氏」が北勢に一族を匿っていた。
    当然に、「匿っていた伊勢青木氏」も「伊勢の事」には手は出せなかったのだ。
    そして、遂には「伊勢青木氏」も「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」を外されたのだ。
    依って「伊勢神宮の事」は万事窮すであったのだ。

    注釈 この様に、“「余りにも長い間の神饌が無いという事」”は“それなりの「より良い妥協策」を青木氏の中では済ましていた”と言う「仮説」が成り立つ。
    その「仮説」が、「酒の本場の信濃・青木氏」から「代わりの神饌」とし密かにて運んでいたと考えているのだ。
    将又、「武蔵の秀郷流青木氏」から「伊勢青木氏に届いていた事」も考えられる。
    だから、「莫大な私財」を投じて「明治初期の祖父の弟の酒米と早場米の開発」を縁戚の「信濃と越後」から習い「伊勢」に広めて「初めて神饌」が成立したのだ。
    この事の詳しい事は直接詳しく口伝で耳にも伝わっている。

    注釈 「青木氏の伝統 33」-「青木氏の歴史観-6」や25等で多く論じている。
    「神饌の経緯」としては上記の通りであろう。
    こう云う事から「伊勢神宮」にも貢献して関わっていた事から、「賜姓族の格式」とは別に「伊勢青木氏」は、平安期には「氏上様」「御師」と、明治期には「室町期の律宗族」から“「徳宗家」”と呼ばれた所以と伝わっている。
    事程左様に、何度も論じるが、“「お神酒の経緯」”には“「神饌・神への供物」”で扱われていた事が事実だが、“「禊(みそぎ)の地の前提では無かった」”と云う事だ。
    「奈良期の古来」では、「神饌扱い」ではあったが、「禊扱い」では無かったという事だ。
    そしてその「誤りの多さ」に気の着いた「天武天皇」が、「古事記全体の見直し」を含めて「帝紀」として見直す様に命じたが、その中でも「正式な儀式の事と禊の事」として定められたのは「900年頃」であり、それを遅れて「延喜式目に書き写した」と云う事なのだ。
    「嵯峨天皇」に依って「賜姓族」は外されたが、「伊勢を含む信濃と武蔵の青木氏」はこの経緯を知っていた事に成る。
    もっと云うと、「有史来の神の式次第の供奉品の神饌」を「900年頃」まで中途半端にしていたのかと云う疑問がある。
    そもそも「賜姓五役の令外官」として「朝廷の内部の式典」だとして放置できるのかの疑問が残るのだ。
    それも「647年から900年までの253年間」の近くも「放置」は前段で論じた様に「伊勢」では実質の「伊勢王」であった以上としても、この「神宮の件」を放置は出来なかったであろうし、できないとする考え方に無理が無いだろうか。
    少なくとも何某からの補完をしたとするのが普通ではないだろか。
    例え、「嵯峨天皇からの賜姓族外し」に会ったとしても、これを「側面から補完する者」は「伊勢青木氏以外」に果たしていただろうか。
    「伊勢の青木氏」を無視してそれをする事が周りの者ができたかである。
    「永代の賜姓五役の役目を持つ令外官」であったのに伊勢に余計な事する者はいなかった筈だ。
    仮に居たとしても「神饌」である以上は、誰て勢も扱えばよいと云う事には成らない。
    それなりの格式を有する必要があって無理であったろう。
    そうすると出来る事は、「赤古米の蒸留酒」では無く「信濃の神饌」を「伊勢」に秘かに運ぶ以外には無い。
    「信濃の神明社の祭司」は、前段でも論じたが「伊勢神宮の御領」に負けじと劣らず広大な物で、其処でこの「信濃御領で神饌として造られていた」のだ。

    注釈 この「信濃御領」は、「享保の吉宗」に依って半分以上は奪われ、この時を以て「伊勢と信濃の青木氏」と決定的な犬猿の関係と成った。
    「諏訪−塩尻−松本−青木−上田−東御−小諸−佐久に至る囲まれる御領」であって「青木村で造られる米」から「神饌」を「信濃神明社」に奉納していたのだ。
    此れを密かに「伊勢」に廻していた経緯であろう。
    然し、「吉宗に神域の御領」を奪われれば、それもできなく成って仕舞ったのだ。
    「伊勢と信濃青木氏の親族の仲」で、「信濃」にもこの「神明社の神饌」があって、それを「伊勢に廻さなかったと云う事」は先ず無いだろう。
    不仲であったとするのならいざ知らず、「完全な四掟の前提を超える血縁関係」にあれば、「神饌に困っている伊勢神宮・伊勢青木氏・伊勢王でなくても」と成れば先ずいの一番に救うのは必定な事に成るだろう。
    それが「享保期のこの事件」で出来なく成ったと云う経緯では無かったかと想像は容易に着く。

    注釈 この事件もこの「天武期の紀州日前宮の前例」があったからではないかと思われる。
    「江戸期の朝廷」がこの信濃の聖域を管理管轄内であった筈でそれを容易く認める事は無いだろう。
    「朝廷・天皇家の生活に関わる程の圧力は脅かされる程のものがあったと考えられそれが「天武期の前例」を言い立てられた可能性があるのだ。
    だから、未だ「江戸の青木氏・伊勢屋」に攻撃の無い内に「3日以内」に船で伊勢に引き上げて籠もり「紀州藩の保護・家臣の伊勢藤氏」に入ったのだ。
    「紀州藩の勘定方指導の立場」にあって「10万両の債権」も持っていたし、「伊勢青木氏」は「蜜月の関係」にもあった。
    「10万両の債権」は吉宗を「将軍」に仕立てる為の「軍資金」と「江戸経済の救済金」等のものであった。
    「改革の30年後・吉宗死の直前・旗本騒動」には、ある日突然に「信濃青木氏」に手を出し「聖域や殖産や一族の者」を奪う凶変したのだ。

    注釈 丁度、この時期に「円融天皇の藤原秀郷流青木氏」を「永代賜姓」に及んだのもこれらの「環境整備」をよりよく整えようとしたのでは無いかと観ている。
    “「神饌」”であったものが“「薬用」”と成って行ったが、この同じ「薬用の植物油」に戻して、
    ところが下記の通り「殖産物」の「禊扱いの薬用の植物油」では、古来より「桑名の米油」が「神饌」として扱われていたのだ。
    これは逆に「良質の米」が採れず、その「貴重な米」を松阪域では無く、態々「桑名の米油・長良川」に一時は「飽浪社・飽津社の岬の条件」には外れているが「伊勢王」として考えたと云う事になろうか。
    「伊勢青木氏」は、それを獲得しようとしたか「三野王」に[飽浪王と淀橋王の二人」を続けて嫁がせている。
    ところが、「飽浪王」は「美濃」との「格式」から合わず別居独立し「飽浪院・清光院」を建てて、その地を伊勢の「施基皇子の字名」を用いて「一色」としてここに一族を構築した。
    同然で続けて「妹の淀橋」も嫁すが合わず清光院に入り一族として過ごす。
    これが前段で論じた「後の額田青木氏」が後裔である。
    もッと云えば、これはそれ故に「伊勢の米の収穫」より「北勢」より南勢に向かって下記の通りにより進んで収穫は「植物油等」に特化して行った事を示しているのだ。
    この「特化の植物油」はそれ程にいせ領域では重視していたと事に成る。
    当時としては「珍しい事」で他の資料には散見できない事だ。

    注釈 古来より「神宮」に奉納していたとするその「薬用の植物油」は次の通りである。
    「桑名の米油」
    「南紀の荏胡麻油」
    「伊賀の菜種油」
    「四日市の菜種油」
    「岡崎の椿油」
    「伊勢の魚油・海老油」
    以上
    この以上と「伊勢一国」に「神饌が無い事」からそれに代わり得る「植物油の殖産地」として成り立って行った事を物語り、これは「神饌が無かった事」を物語り、それに関連する情報とその後の経緯は実に多いのだ。
    当然に「薬用」とする以上は、「伊勢一国の販売」では成り立たない。
    そこで伊勢は「殖産としている禊の品」でありながらも伊勢だけに限らず「殖産した禊ぎの物」を全国に販売する伊勢詣での土産品に及ばず「全国的販売システム」を造ったらしい。
    新たに販売システムを造ったかは疑問で、前段でも論じている「伊賀者」をより「香具師・情報網」に育てあげて、全国に販売網をより広げたと考えられる。
    それがその古来より「青木氏の諜報機関」としてあった「香具師の存在」のシステムに載せた。
    だからその経緯から観て、「禊ぎ品」は疎か「禊ぎ品」がこの「全国的な殖産品」に成ったものである限りに於いては「全国の香具師の販売網」に載っていないので、「伊勢」には「適切な神饌・日前宮の神饌相当」は無かった事はここでも判る。
    此れだけの限られた「伊勢民の人員」を「植物油に割けた所以」は、「伊勢の米の収穫の無さと良し悪し」にもあった事が否めないが、それよりも“「薬用の油の禊(みそぎ)の所以」の方が強かった事に成る。
    「薬用と云う名」の下に「伊勢神宮の禊」と云う事に成っている事以上に“その効能は信じられていた事”に成ろう。
    これは「神饌が伊勢に無いと云う事」が、「禊の薬用に特化していた事」を示し、その間は確証は採れないが「信濃」からの「良質な神饌の補完・状況証拠」で賄っていたのであろう。

    注釈 この「食用油などの殖産品の販売」を影の仕事していた 「香具師」について、この「平安期初期頃」から「伊勢」からは「油売りと薬売りの者」が全国に廻るとした記録がある。
    そして全国各地に今で言う「チェーン店」を置いていたとする記録もされていて、「伊勢の伊賀青木氏の記録」にも遺る。
    これを担ったのが、「伊賀青木氏」で明治中期迄この組織が働いていた事が記録に遺っている。
    この「働き」をしていた「伊勢青木氏」を、“「香具師」”と呼ばれて「江戸期前後」では「甲賀者」と「江戸」でその「情報機関」としても「勢力争い」で張り合い、「情報収集専門の忍者」としても働いていたのだ。
    云うまでも無く、何故、「植物油」が「禊(みそぎ)の所以」であったかは、この資料から読み取るとこれも上記のそれは“「漢方薬」”と云う「括りの点」にあったのだが、この「禊(みそぎ)の所以」には、当時としては“「食用」”と云うよりは、殆どは“「薬用」”に重点が置かれていた事であった。
    その効果が「情報収集専門の忍者」とも成っていたのである。
    この「伊勢殖産物の漢方薬と禊の品と食用品と忍者」がこの全国システムの所以を必然的に構成していたのだ。
    現在では使われなくなったが「傷口や火傷や被れや腫れ薬等」として江戸時代から昭和の末期までは利用されていて、「香具師の呼称」からも「香具師と呼ばれる範疇・家庭常備薬」にあった事が解る。
    地方に行けば現在でも「植物油の椿油等」は、一般的に油紙に浸み込ませて「傷口の防菌剤」など多様な薬用剤としての扱いに成っていたのだ。
    其の後のこの「伊賀青木氏の香具師」は、現在に於いても関東以西に「漢方薬の薬屋・薬局」として定着した事が判っている。
    つまり、要するにこの「禊(みそぎ)の所以」は、この「香りする植物油」も、「薬用となった神饌のお神酒」も結局は「疫病の防疫であった事」に繋がっているのだ。

    注釈 その意味で、「伊勢青木氏の始祖の伊勢王の施基皇子」から始まったこの「禊(みそぎ)の所以」の“「殖産」”に対しても、この「植物油」も“背に腹は代えられず”に室町期には“「銃開発の冷却剤・魚油/殖産の工業化」にも使った”と云う事を物語っているのだ。
    当然に、これには「皇親族」で“「令外官」としての「特権」”を以てこの“「殖産」”を進めていたのだ。
    故に、この「薬用や食用油の歴史」は、その途中では「・嵯峨期」には抑えられたが、この「時代・7世紀頃」からの「伊勢青木氏の裔系」が画する「青木氏部の殖産品」であったのだ。
    この「禊の歴史的な経緯・流れ」から観るとこの「植物油」は「禊品の殖産」に対して大きな重要な位置を占めていたのだ。
    だとしても、「伊勢青木氏と平安期の嵯峨天皇との対立」も今この事で「青木氏の殖産をした後裔」として考えて観れば、この“「禊(みそぎ)の所以」”の「植物油」にも、「疫病の防疫の点」では古くから影響していたので、「嵯峨天皇派」に執っては「単純な事」では無かった筈であろう。
    その一時は「伊勢の出自元」に感情的に成って強硬に出たが、上記する「伊勢神宮との軋轢と問題噴出」もあって、結局は最終的には「伊勢青木氏の力・出自元」を借りなければ何とも成らず「妥協策」に出る以外には無かった事も考えられる。
    果たして、「嵯峨天皇派」にはこれらの殖産もしている青木氏に対しての“「賜姓族外し」”には、最早考える余裕など無く、思いつく侭に遣って仕舞ったと云えるのでは無いか。
    この「禊」がそれを物語る様だ。
    そもそも「伊勢神宮・朝廷」としての護らなくてはならない「疫病の防疫の点」とその「朝廷の権益」と、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に対して、「植物油への権益・伊勢殖産全ての権利が握られていた事」への「朝廷の反発・皇親族外し・怨嗟」も「嵯峨天皇派」の当時には強くあり過ぎたと云う事であったのであろうか。
    「伊勢神宮の神饌と禊の問題」と「伊勢神宮の環境整備の問題」が潜在するにも拘わらず、「院号・特権」とその「権益」とで、「院号・特権」を持つ「伊勢青木氏」に「独占されていた観」があって、それを無視した「嵯峨天皇とその派の官僚族」に頭から拭えなかったのであろう。
    この時、「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は、「伊勢青木氏の思惑・経済的」に一切が委ねられていて進まなかったのだ。其れなのにである。
    だから、もとより「朝廷自らが経済的負担をする事」であればいざ知らず、それを「伊勢青木氏」に任した侭で「嵯峨期後の900年後」まで青木氏に押し付けた侭で一切の解決は無かった事に成るのだ。
    伊勢青木氏に与えられていた「院屋号の特権と格式」はそこまでの物では無かった筈だ。
    歴史の経緯はつまりは見かねた「出自元になる仁明天皇」と「円融天皇」がこれを「政策」で補足してと云う事に成るのではないか。
    現実に「源氏」は「嵯峨期」からであるが、この「神宮の遷宮の環境整備問題}には一切に手を出していないのだ。
    この事に突いて「幾つかの記録」が遺されていて、「清和源氏の摂津源氏の本家の源の満仲」は近畿周辺の隣の「寺の荒廃の修復」と「院家の修復」を一手に修復する様に命じられたが、たった「一寺」だけを直して「命令の願下げ」をして最終は不興を架って「蟄居」を命じられる破目と成っているのだ。
    「神宮の遷宮の環境整備の完遂」は「伊勢青木氏の思惑・経済的」に比較すればどれだけの物てあったかは物語りそれが現実だったのだ。
    現実に、「源氏」の居る前で「神宮の遷宮の環境整備問題}に苦労して取り組んでいたのだ。
    此れを観れば記録にある「摂津源氏の命令の願下げ」がどれだけの意味を持つかは判る。
    況してや味方とする「嵯峨天皇が下した源氏臣下族の9つの縛り策・禁令」を守らずにである。
    その意味で「伊勢青木氏」と「11の源氏」の間では「蟄居が出される程」に際立っていたと観られる。

    さて幾つかの注釈から「神宮の遷宮の環境整備問題」に取り組んでいた中で、上記の「伊勢殖産全ての権利」を握っていた「奈良期初期」から、「室町期中期」までには、この時点で「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・工業化・殖産化」<「食用」の「一連の流れ」に沿っていたりだ。
    更に「北勢」の「伊勢」では「下記の植物油の増産」にこの「神饌の代わり」に入っていたと考えられる。
    所謂、朝廷の態度に見切りを建てて、「伊勢」では早々と「モードの切り替え」が起こったのだ。
    その後にその「産量」に合わして大いに「食用」にも間口を広げ「関西」にも広げたのでは無いかと観られる。
    寧ろ、奈良期からの“「産量」に合わして”では無く、鎌倉期末から室町期までは“「需要」に合わして”に突然に変化したのでは無いか。
    それはこの「食用油の流れ」にあったと考えられる。
    何故ならばこの「造り出された流れ」には、「食用に到達するまでの要素」には、絶対に「消費者」が「購買」に飛びつく「信用できる絶対要素」を持っていなければならないからだ。
    それが、“「伊勢神宮」から発する「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”が伊勢を超えて関西域まで「食用に繋がる要素」があった事に依る。
    前段でも論じたが、この根拠が、“それが一瞬にして「大阪」「京都」「堺」に「食用」は宣伝もしないのに爆発的に広がった”と記録に記述されているからだ。
    そして、その「切っ掛け」と成ったのは何と“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」であったのだ。
    これが一挙に解決したのが「みかん畑の効果」であって、それが消費者の心に「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の補償を与えたのだ。
    そして、“流石に御伊勢様”・御師様」と成ったのでは無いか。
    その証拠に、遅れて「関東域・江戸」にもこの“「天害」”は拡がり起こったが「江戸」にはこの「食用」は不思議に広がらなかったのだ。
    これにはある理由があったのだ。
    「江戸」は“「50年以上」”の近くも相当遅れてやっと「薬用効果」も何とか認めて「食用」としても又広がったのだ。
    これには「伊勢の香具師の活躍」は最大と成ったとある。

    注釈 参考として前段でも論じているが、この様に「青木氏の歴史観」で観ると、「食用油への転用」は、「食文化の関西で広がった事」が最初に「記録」として出て来る。
    これには「ポルトガルのテンプラ」が最初であるとの「通説論」があるが、然し、経緯を観るとその前から「関西域」では、「薬用」として「油で炒めて食する事」で“「疫病が防げる”として、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”で既に広まっていたのであり、「時系列が合わないテンプラ説」は、極めて一般論であって、「江戸期の鎖国のポルトガル文化の伝来説」で引きずられたものであって、「時系列」では「70年弱」も合わないのだ。
    実際は「年代の時系列」を調べると、この「ポルトガル文化の伝来」では無く、矢張り、「関西」と同じあって、「場所」も「江戸での記録」が別にあって、“「関西の天害説」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」で引き興されたものである。
    依って、「ポルトガル文化」では無いのだ。
    それも「ポルトガル説」には、「薬用から普及発生した関西型」ではないのだ。
    「遅れての江戸」に成って、“「天害」”の「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」が遅れて関東でも確かに起こるが、“「油粕の対策」を提案したが、暫くは採用されなかった”と資料には記されているのだ。
    だから、「関西と関東」では「バッタ被害の害虫騒ぎ事件」の所以があって、「江戸のバッタ被害事件」は「70年の差前」があるので、この「ポルトガル説」は当たらないのだ。
    「関西」では、飽く迄も、「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”の関係式の根拠からであって、それは「食用」には、飽く迄゛も、“「味」を付けて「薬用」とされる処から、つまり、その行為は、元は“「食用油・薬用油」から揚げる”から、その名を以西域から鹿児島までに於いて、“「付け揚げ」”と呼称された由縁からのものである。
    元は、「油脂で熱する事で食物の菌を殺す事」にあって、先ず「薬用」を課せ食用にしたのだ。
    当時は、要するに「天麩羅・テンプラ」に拘わらず、“「疫病」”を恐れての「食用油・薬用油」を「全ゆる料理の使用」にあったのだ。
    それなので、総じて関西以西では“「付け揚げ」”と呼ばれていたらしい。
    関西以西は、今でも魚を崩して練って固めてするので殺菌をする意味からこの食用に食用油は使われ始めたのだ。
    この「元の意味合いの名残」が残っていて各地では「地名」まで遺っているのだ。

    飽く迄も、全ては「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”であったが、「関東」では当時以前より「日本全国主要生産地の80%」は「水戸」にあって、「関西域」には伊勢の様に「集中生産地」は無かった。
    それ故に、「食用にする種」は、関東では「胡麻油・縄文時代に呉国から朝鮮を経て出雲地域に渡来」ではあった。
    「神饌」<「薬用」<「禊用」の過程”であって、従って「伊勢の影響・奈良時代初期に中国から渡来し、伊勢で生産」を受けての“「菜種油」”でひろまったが、その為に「胡麻食用油」は関西域にはひろまらず「江戸」であったのだ。

    注釈 古書には「麻」とはそもそも“種より油を搾りだす食物”の事を云うとあり、これを「麻」と云うのだ。
    その事もあって、関東では当初より「薬用植物」として扱われずに「油用植物」として扱われていたのであった。
    本来、「漢方薬などの薬用」に使われた「菜種」とは元来違う処があるのだ。
    ここに、“根本から関西油と関東油では違う処があった”のだ。
    そもそも、絞り粕は「バッタ事件」に使っていたが、銃にはどうなのかと云う疑問である。
    その為に「伊勢」では次の「薬用油」しか生産されなかったのだ。

    「桑名の米油」
    「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
    「伊賀の菜種油」
    「四日市の菜種油」
    「岡崎の椿油」
    「伊勢の魚油・海老油」

    注釈 この「胡麻」は「日本」では「縄文時代の出土事例」があるが、既に奈良時代には「畑の栽培」で、「ゴマを圧搾」し、その「ゴマ油」を「食用油」として調理し、又燈油としても用いていた記録が早くから記録にはある。
    記録的には「平安時代の類題三大格式の史書」にも、「ゴマ菓子や薬用利用」に付いて記されている。
    その「効能」は「ビタミンE」であり、抗炎症作用、抗酸化作用、酸化ストレス抑制作用があり、所謂、「体のサビ取り効果」である。
    要するに薬用である。
    主に其の産地は「強いアルカリ土壌」と「温暖な気候」にあり、従って「鹿児島県と沖縄県」が産地に適しているとある。

    注釈 然し、歴史的に古い伊勢一帯には、上記の「油粕」が出ていた事に成り、これが「肥料の効能の良さ」を知らずに一帯に捨てられていた事に成る。
    云わば、これら「一連の事」で、「伊勢青木氏」が、「油粕の事」から「窒素リン酸カリの肥料三要素」を発見した事に成る。

    さて、話を戻して、
    「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点・殖産の工業化」と云う目的が、更にはより「食用」の「流れ」に沿って「食用油」は使用される様になったが、この生産しても追いつかない程の中で、「室町期の銃の冷却材としの活用・工業化」と云う事に直面していたので、そこに難しいものがあったと伝えられいて、これを特記して置く。
    それは「薬用」から「工業化・殖産産業」への「切り替え期」でも、「銃にも使うと成った時」、「銃」に限らず「伊勢の工業化」に使用する事には、当時は未だ主に「冷却・工業化」に使うのだが、「可成りの発想転換」が「伊勢ならではの事では必要とされたらしい。
    これは「青木氏だけの問題」では無く「伊勢全体の同意」が必要であったろう。
    然し、それは「氏族の氏人」には同意が得られるとしても、「銃の事・工業化」が「世間の表に出る事に成る事」には好ましくなかった。
    だとすると、行き成り「薬用」から「冷却剤・工業化」への転換に、この間に「伊勢青木氏」には何かあったのでは無いかと予想できる。
    その侭では行かなかったであろう。
    「伊勢青木氏」ではこの「世の工業化の中」で、何れにしても「銃の欠点の最終の解決策」には、この「油の液体に関わっていた事になる」のである。
    だから、それまでは「備長炭の灰の灰冷却」であったものが、何れにしても再び「水」を試し、それでも駄目で、そこから「油と云う液体・食用油」に発想を向けたのであろう。
    丁度、その時期が既に「食用油の殖産期・工業化」に入っていて、余計にこの「食用油」に目が向けられていったのだ。
    この“「油の液体」がどの様に冷える”かは判っていなかったが、「冷却と云う機能」がどの様に転換する何かは判らなかったのである。
    「水」から「灰」、そしてそ、そこから再び「水冷却」に移り、そこで丁度良い液体」の「油に発想の転換」をしたのである。
    「液体」であれば、先ずは「水」、この「水の機能」が「油」にどの様に転換する為の何かが必要であった。
    その「違い」には、「資料と経験」から「冷却の速度」の「質の関わり具合」である事を知った様であり、此処にはその「媒体」が存在して、その「媒体」が“「冷却の熱」をどれだけ早く吸い取るかの問題である事”を知った事であったらしい。
    この事が資料の表現から読み取れるが、「初めての事」であって「大きな疑問点であった事」が判る。
    それは現在理論で云えば、その「冷却剤」の持つ「吸熱速度」とその「比熱」と云う事に成る。
    それが上記で論じた様に、「油の冷却」は「水と灰の中間の媒体」と云う事に成る。
    そもそも「水と油」には、「1/2の関係」にあり、「科学的冷却」には「論理的」であり、当時としては「食用油の使用の発想」は、「殖産をしている立場」から利用できるのではと判らない侭に飛びついたのでは無いか。
    それが「室町期初期から始まった紙文化」と共に、将来に「二回目の巨万の富を築く事」に「食用油の殖産」で成ったのだ。
    「銃の欠点克服の為」にもその「増産」の一つのきっかけに成ったのだ。

    注釈 「水」は「冷やす」のが「早い」が、自ら「冷える」のが「遅い」。
    逆に灰はこの逆である。
    とするとこの「中間に位置する液体」は「油」であろうと判断した様だ。
    然し、この「油」は「神饌」<「薬用」<「禊用」の前提にある。
    「青木氏の立場格式の範囲」では、「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物?工業化」では立場上は先ず使えないのが普通であろう。
    然し、ところが工夫して使ったのだ。
    どうしても「額田青木氏の計画」を「銃」で解決する為にも「伊勢の工業化」にも実現しなければならない。
    何よりも先ずは「神饌」<「薬用」<「禊用」の「殖産物・工業化」で、日夜努力している「伊勢郷士衆の説得」が必要であったろう。
    然し、事態はいよいよ「戦国事態」に入り「額田青木氏と伊豆青木氏」は危ない。
    「外国人技術者の指導/詳細不詳」であるとしながらも、「20年間の試行錯誤の期間」でもこの事は難しかった事が云えるのだ。
    結果として「増産」に務め結果と成ったが、これを「解決している処」を観ると何かがあった事には間違いは無い。
    それに「相当する出来事の記された当時の資料」では、発見できたのは「油粕の事件」の以外には見つからない。
    ところが思い掛けなく「食用油の活用に大きく拍車をかけた事」が一つあったのだ。
    それが何と「食用油の絞り粕」であったのだ。
    筆者は、この事に就いて当初は「殖産業も営んでいる事」や、上記した「油粕の事件の記述の事」からも、金銭に問題が無ければ、この「植物油説」を強引に採用したと考えていたが、ところがそれを詳しく書いた資料が観っかったのだ。
    この「金銭問題」は、「朝廷の紙屋院号・特別使用権を持つ伊勢屋」である以上は、「目的達成の銃・工業化」には「総力」を以て「秘密裏に躊躇なく注いだ」と考えられる。
    然し、此れを否定する資料が出て来たのだ。
    それには、この「大問題の事・バッタ事件と呼ぶ」を「伊勢」では解決する為に、何と先ずこの「殖産の食用油」を更に「増産」に務めたとあるのだ。
    これを更には「発想の発展」をして「交易」にも初めて使った事が記載されていて、その「交易」が大成功したとあり、遂には「神饌問題」は、外国から仕入れた「石油の卸問屋をも営む事」で、「世間と伊勢の工業化」を促したとあるのだ。

    注釈 「室町期の紙文化の紙での巨万の富」、そしてこの論で論じている「食用油・菜種油の交易と石油の問屋での巨万の富」、そして,危険を冒して「享保期の大阪米相場の投機の巨万の富」、等が、「伊勢の干拓灌漑土壌変更」で、「米生産と早場米と酒米の生産で蓄えられた巨万の富」、その数々の投資で「伊勢の禊の神饌問題」は解決したのだ。
    「戦後の農地土地解放」でそれを支えて来た「伊勢50郷士衆の女系氏族」に、「無償」でそれまでの「儲け」を全て振り分けたとある。
    その「巨万の富を築いた源」と成ったのが、ただ、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却」と云う点」<「食用」の「伊勢の殖産」にあって、そこには伊勢独特の不思議なものがあったのだ。
    それは「伊勢を調べる事」で判って来た事が次の中にあるのだ。
    これを生かした「伊勢商法」と云うものであったのだ。
    「桑名の米油」
    「南紀の荏胡麻油」(薬用の紫蘇の種)
    「伊賀の菜種油」
    「四日市の菜種油」
    「岡崎の椿油」
    「伊勢の魚油・海老油」
    つまり、ところが「伊勢」では、意外にも「工業化」には、以上の「伊勢の魚油・海老油」であった事が記されているのだ。
    これだけは「神饌」<「薬用」に当てはまらなかったからなのだ。
    然し、世間では「魚油・海老油の殖産」は、大々的に殖産として生産されていなかったのだが、この事を良く調べると、「伊勢の一部の地域」で書き遺されているのだ。
    この「歴史的な魚油の使用」は、「植物油・実用化/殖産と交易」より「20年程」遅れて本格的に生産されている。
    先ずは、その「使用の経緯」は「灯油や肥料」から使用される様に成っているが、古来に於いてはこの魚油生産には身分差別されていたのだ。
    これを「一つの言葉」を使って差別されていて、それはその匂から嫌われていたからだ。
    「植物と魚の概念」が「神饌」<「薬用」に合致していない事から来ているのだが、上記する「純粋な禊ぎ品」ではなかった事であった。
    「植物」は、古来よりその花や色で「人間の階級表示」にも使われるほどに敬愛され、「髪の整髪剤」にも古来より使われていた。
    それ故に、これに合致しない「魚油」は蔑まれていたのだ。
    理論的な事を述べる述べると、そもそも「魚油」は、化学的には本来魚から発するものでは無く、「魚に入った餌の微生物の塊」として入ったものが、悪臭の匂を発しそれを浸み込んだ油からの発臭に過ぎないのだ。
    依って、数日で「微生物で構成された脂肪酸」は、酸化して腐食して「アンモニヤ」に変わり異臭を発するのだ。
    それ故に、元より「嫌われた物」であって、「関西」で起こった「植物油の搾り粕」に代わって、「関東」では「70年以上」も後の事であり、この「魚油」を、背に腹は代えられず「民の灯油にした経緯」があって、「安価に売ると云う行為」に出て、「後にこの魚油粕」を「肥料とした経緯」もある位だ。
    その意味で「関東」では遅かったのだ。

    注釈 ここではの「伊勢」では、「伊勢商法との源」となった“何故に「神饌」<「薬用」として扱われたか”である。
    それは全て「伊勢青木氏族」にあったと考えられる。
    それは「生産地」が、「北勢の伊勢湾の海老」に限定されていたからだ。
    「伊勢湾の海老等の魚不良品処分」で、これを「肥料」にする為に、先ず絞り、「残粕」を「肥料」に、「絞り油」を集めて、一部の良い所は“「灯油」”として、残りはこの“「冷却材・銃・殖産などの工業化」”に使用してこれ等を「伊勢衆の合意形成」を図ったと考えられる。
    ところが、それにはこの「魚油の扱いの差別」があったが,その「利用目的」が賛同されて「大いに賛同」を得て、遂には、寧ろ、この「魚油の生産と殖産化・工業化」が「利益」を売るまでに成り、室町期の1500年代には「神饌」<「薬用」としての「殖産の扱い]として、上記の通り「禊ぎ品」と成っている以上は遅れて「伊勢の大儀」を得ていたらしい事に成る。
    この「生産地」は、その「悪臭」から「北勢西部の奈良に近い山手」に「20の川舟」で川上に運ばれていて、「当時の生産地」も判っているし、そこで「粕は山手の農業肥料」、「魚油は海手側の生活圏での全地産地消」としても使い、故に「伊勢」と「禊ぎ品」に魚油として全般名で記したと考えられる。
    それ故に、「関西の絞り・搾り粕事件」で、「魚の油絞粕」まで「関西」では「みかん畑等」が多い事もあって「植物油の絞粕」では全く間に合わず広く全畑地の「主に堆肥肥料」に用いられたのだ。
    最後には、前段や上記でも書いた通り、この「魚油の伊勢殖産」は、生産者は差別待遇を受けながらも「庶民の灯油」として「貴重品」に扱われ、「伊勢屋」は全国に「200以上の支店」を設けて「在庫の全国展開」をし、「伊賀の香具師」が、これを各家庭に“「常備薬」”として欠かさない様に見回り届けるシステムを展開したのだ。
    「生産から販売までの殖産」で「伊勢屋」が全国販売をしていたのだ。
    その結果、「伊勢奈良紀州の国境」で差別されながらも働いていた彼等は、「生活の糧の思わぬほどの安定」を確保していて、その「感謝の気持ち」で「伊勢屋の青木氏」は「御師様と喜ばれいた」と記されている。
    そして、「江戸の中期頃」には遂には「職業の差別」は無く成り、遂には「伊勢の禊用」としてまで「名」を連ねるに至ったのである。
    それが「関西」で起こった「魚油殖産での物語」を持つ「歴史的経緯の魚油殖産の流れ」とその「販売システム」であったのだ。
    それが「関西以西での香具師の活躍」もあって急激に広まって行ったのだ。
    如何に[禊ぎ品」が上記の交易以外にもこれの殖産からも「巨万の富」を獲得していたかが判る。

    注釈 何故ならばこれには他に「歴史的経緯」があって「紀州の漁法・ぱたぱた漁法・延縄漁法の原理・坂本氏・」が全国に広まった事からでもある。
    それ故に、又、積極的に「魚油を使う事」を許された称賛されていたのである。

    注釈 港に残った雑魚を彼等は掻き集め、それを絞って油にし、伊勢屋の買手」がそれを集めて全国の香具師の支店に運んでいたらしい。
    「伊賀青木氏の香具師等」は、これを全国の各家庭に定期的に届けて欠かさない様に「システム」を組んでいた。
    この時、「伊勢紀州奈良の殖産物」、例えば「油の灯油」に限らず「伊勢漢方薬」や「仏壇線香」や「蝋燭」「蚊取線香」や「椿鬢付油」等の「公家庭用品の常備品」としも販売していたのだ。
    この「時代考証」では一番古い物で「奈良期中期の記録」がある。
    「奈良期中期」と云えば、未だ「部経済の始まった時期」である。
    「青木氏が賜姓族」と成り、「近江鉱山の開発」が完成した事頃ではないかと予想される。
    その頃から「工業」とは別に、「地場産業」を一から興して全国展開に持ち込んでいた事に成るが、その「スタートの形態」が未だハッキリと掴めていないのだ。

    注釈 何度もこの事からの論説を論じているが。「伊勢青木氏には歴史的に三度の火事」があったが、内2度はまだ「貴重な歴史的記録」は遺されており、最終は「明治35年」には可成りの「祐筆などに依って書き遺された{貴重な歴史的記録」がまだあったとこの「記録」では考えられている。
    然し、一度は火事中から全て引き出したとあり、ところが、「家長・福家」が「安いポイ義侠心」を出して、再び“火の中に投じる事を命じた”とある。
    そもそも「記録」と云うものの「価値の認識が低かったもの」と考えられる。
    それが「有史来の青木氏の歴史を消し去った」のだと思うと残念であり、そしてこの「火事」も全く火の気の無い蔵の中から出火しているのだ。
    「長い伝統」として、「人間的個性」として、「氏是」にある様に「長く青木氏が生き遺る事」には「判断力」に於いてカーと成る性質を一番に戒めているのだとしたら尚更であろう。
    その意味でも反省して筆者は「青木氏の復元」を試みているのだが、するとしたら今だろう。
    恐らくは、これは未だ残る「明治維新政府の一部の過激派の者の火付・薩摩以降も」であろうと思う。
    何度も論じている様に、維新時の「青木氏の存在・青木氏を消し去る事」のそのものを否定していた「派閥の仕業」であろうと観られている。
    その間にも何度も「打ち壊しや火付け等」を受けていたらしいのだから是が非でも遺すべきであったのだ。
    「青木氏」は思い切ってこれを逸らす為に「松阪伊勢屋」を先ず「偽装倒産]させた。そして、その「商い」を「摂津」に移し、「公的な顔」を更に「誰で何処であるかをも隠す様にした」とあり、これは「室町期」から「秀吉や信長」に攻撃されない様にする為にも行っていたシステムではあったが、これが「明治期」にもこの「システムの緩み」が生まれ「松阪」が集中して攻撃されたのだ。
    これら対処するには「福家に立つ者の能力如何」であったろう。
    筆者はその「福家」の三世ではあるが、「明治期は最も隠すべき時期」であったと観ている。
    「明治維新」では、「維新政府」からみれば「天智期からの伝統ある格式の律宗族のレッテルを張られた青木氏」と云う「立場」を有し、「明治天皇家系を揺るがす余計な家系の存在」を、「維新政府から観ると邪魔な立場である事」を読み込み忘れた。
    最早、「時代が変わった緩んだとする心の緩み」が「薩摩藩派閥等に読み込まれた」と観ている。
    この時の「時代経緯」が、明治期であって古い事では無いので詳しく残っているが、「紀州徳川氏・2万両債権」が懸命に「仲裁」に入ったが「薩摩藩」はこれを認めなかったのだ。
    「明治天皇家系を揺るがす余計な格式家系の存在」を少しでも「薩摩藩は認めない」としての「方針」で観て攻撃して来たのであって、依然としても持つ「巨万の財の商い」では直接的な無かった事と考察している。
    然し、「薩摩藩」だけが伊勢青木氏を攻撃していたとすると、奈良期からの長きに渡り「献納」で支えて来た「明治天皇の後ろに献納していた超豪商の青木氏」が存在する事を嫌っていたと云う考察にも執れる。
    「紀州藩の付き合い」から観て「両方の考察」が考えられる。
    後に「華族制度」でこの「維新政府」は「公候伯男爵」を求めて来たが、事前に「紀州藩公」から「侯爵・貴族」での「連絡・正式な菊模様の桐箱に入った文箱・推薦状を書いたとする文」があって、これに対して明確に断っている言い訳の手紙写しも遺っている。
    「商いの青木氏」に執っては今更に何の意味もなかったと考えられる。
    明かにこれは必要以上の「薩摩藩との摩擦を避けた」のでは無いかと観ているのだ。
    この「流れ」から「紀州徳川氏」とは「大正14年までの個人的交際」があって、「献納」は正式には「明治9年」で終わらせているが、「実際」には「朝廷への献納」は密かに「明治35年頃」で終わっている。
    そしてそれ以後は無い様だ。
    「伊勢青木氏」では、「明治初期」では「薩摩藩の嫌がらせのイメージ」が強かったが、現実に「薩摩藩の力・明治10年」もこの時既に衰えているのだ。
    其の後も、「伊勢口伝」の通りに「明治35年頃」まであった”とすれば、これは「薩摩藩だけの過激派勢力」では無かった事を意味するし、既に「薩摩藩の過激勢力」は「明治政府内に145人居た・最終は一人」とされるが、「西南戦争頃」を境に全て去っていて、「長州と土佐」が全ての実権を握っているとすると、「薩摩藩の嫌がらせの時期」はずれている。
    寧ろ、「維新政府」とすると「長州」と成り、「長州勢力の過激派もあった事」をも物語る。
    その時期が「明治35年前の丁度」として見れば、「青木氏に関わった勢力図」は「紀州藩の陸奥宗光」の「維新政府改革」とも重なっている事になろう。
    「幕末の紀州藩の勘定方指導役」で「陸奥宗光親子」とは親族に近く深く関わり、「維新政府」をリードする「陸奥宗光」を「経済面」でも支援するも、「明治30年」に死すも彼の改革はより進んだが、「実力」を大いに発揮して「薩摩藩以後の維新政府」とは異なる「西洋に見習った近代化の政府」を構築し最大の功績を遺したのだ。
    然し、それだけに「政敵」も含めて敵も多く、取り分け、「西欧の軍制改革を導入する処」では、「長土肥の旧軍体制」とでの「政府二分する程の摩擦」を起こした。
    恐らくは、この時に「陸奥派の力」を弱める為に「長州」は「影で支援をしていた伊勢青木氏の伊勢屋」を攻撃してきていたのではないか。

    注釈 「維新後の青木氏」では、「この史実」は子孫に書き残せないであろうし、「大正14年以降の記録」は祖父が「忘備録」で遺した程度で終わっている。
    然し、故に「氏族」に遺された資料を何とか探し出してそものから繋いで読み取る以外には無いのだ。
    この「明治前後の陸奥家との深く長い親密な繋がり」は詳細に知り得ていた事ではある。
    「明治維新前後の豪商」ではその力を弱められた者が多い。
    夫々弱められた理由は異なるが、淀屋、小野組、小倉屋、加島屋、永嶋屋等数えきれない。
    然し、ところが「屋号」を朝廷より正式に与えられた記録は何処にもない。
    「伊勢松阪」より「本店」を「摂津」に移して、名を隠し家を隠し顔を隠し店を隠しして商いをしていたとされ、中には記録として判っているところでは、「伊勢屋の青木氏」は「大阪の商人」と「不特定の屋号]を幾つも名乗っていたとする記録がある。
    その中でも良く調べると大阪屋、摂津屋、松阪屋、津屋、淀屋、堺屋、長島屋等が観られるが、これ等は「明治維新」の時に全国各地に「香具師の香具屋」とは別に、「約200支店」を設けていた事が解っていて、この「支店名」を上手く使っていたとしている。
    伊勢から摂津や越後の組合で「御師制度・組合で紙幣」を組んで各元大名等への貸付や「米相場」などにも手を出していた事が解っていて、それだけに危険である為に人別は判らない様にしていたらしい。
    現在では全てが独立している。
    中には「鉄の製鉄」にも雑賀で「雑賀支店」を設けて私財を投入して手を出していたらしい。
    現在もここに「製鉄所」は存在する。
    其の後の事は次の様に変遷したとある。
    ところが、ここで「投資のために設けた金」で「1900年頃」に多くの「銀行投資/御師制度で」や「企業への投資」をしたとあって、「多くの関連企業」は設立されとあり、「政府の支援」もあったが乱立した事が記されている。
    これらは“「伊勢の御師制度」”から発展した「商人の銀行」が「大阪」にも「各地」でも生まれたとし、それが合わせて、記されるところでは、「23行の銀行」が新たに設立されたとあり、その殆どが「大阪堺摂津市内の商人」による「殖産の機関銀行・融資」としてのものであったとある。
    ところが、その多くは長続きせず、又、“「1901年に起きた恐慌」”もあって、それで、結局は設立した“「15企業行」”が最終的に廃業したと成っている。
    要するに「23企業行」の内で「15企業行」が破産したとして「伊勢の投資」は失敗したとあるので,「御師元の伊勢屋の青木氏」では、相当に「ダメージ」はあったのでは無いかと予想できる。
    「損害額」は不記載である。

    注釈 同様に、「原合名会社」をも多く設立し経営の合理化や近代化を進めて「8企業」を残す結果と成ったとある。(母数が判らない)
    一方でこれも「輸出業や殖産業」にも再び力を注ぎ直し参入し、特に経営難に陥 っていた「関西の4つの製糸企業所」を「伊勢}は買収した。
    然し、また一方でその「発展の阻害原因」と成っていた「基盤整備」にも手掛け、その「大阪港の拡張」や「鉄道網整理」にも「多額の私財」を資本投下して関わったとある。
    この様に、「地域の公的な事業・貿易拡大の為に」にも尽力しているが、其の投下総価額は不記載で判らない。
    「総資産額を調査したが、「筆者の試算と大きく異なり、明治中期期までには、下記の通り「試算額 約1億両」であったとする資料にあるが、それがどの程度の物かは判らない。
    「創設期以降の米相場」で儲けた「明治期の超豪商の一人であったとされ、その額は資料では「20億両」とあるが、「米相場」だけではあり得ないであろうし、実際はその1/100程度であろう。

    注釈 文化面では、残る財を「私財投資」して“「古建築」”を「山の谷部全域」を自然改造して、そこにこれを移設し、現在も残る「枯山水の庵・三つの谷渓園・尾鷲・熊野・田辺・和歌山」を「紀州」に造り上げたりしたとある。
    此処に、「禅宗修行僧」、「水墨画家」、「茶道家」、「彫刻家」などを志す若者を集めて無償で修行させていた。
    多くの「彼等の遺産」が現在も遺っているし、世に名を馳せた人も多い。
    筆者も幼い頃にこれらの一部とここまでは接して観ている。
    明治後期から末期にかけての「企業規模の変遷」は、「20世紀以降」に繋がるのともなるが、「他業」の多くは、その明治期までに造り上げた「莫大な資産・約4から5億両」を「低資本金の殖産起業」に投資したとある。
    現在もその跡姿は「摂津・大阪」にまだ未だ一部を遺すが、その「子孫への見返り」は「後勘の裔」から観ればあまり無かった事に成ろう。
    明治初期に「青木氏部」を「二つの低資本金の殖産起業」を独立させて遺したとある。
    それで良かったのかもしれない。

    注釈 「青木氏の資料」ではないが、「別の発見資料・御師制度の研究資料」や「明治期前後の商人の研究等」では、「伊勢の和紙問屋」が、「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、又「伊勢」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて、後にそれを元手に「石油の卸売」にも携わったともあり、青木氏の資料と重なる。
    何れも「莫大の利益・儲額を研究」を築いたとある。
    「明治に入る前」にも、上記の様に「米市以外」にも様々な事業を手掛けて莫大な財産を築いた事が記されているが、ところがここで“「大きな事件」”が起こっているのだ。
    幕末までは、その“「商人の財力・超豪商」”が、「武家社会」にも大きく影響する事と成った事を理由としているが、ところが「記録」をあの手この手で色々と漁ると、その「事件」が、「幕府・享保期以後」より起こっており、それには、無法では行かず「法的根拠」を設定しなければならず、それを “闕所(財産没収)処分・けっしょ”として決めて、それに晒されたと記されている。
    この「法的根拠」とする「闕所(財産没収)処分」は、飽く迄も「武士」にであるが、武士に影響及ぼしたとしてこれを「商人」に拡大解釈したのだ。
    確かに前段でも何度も論じているが、「享保期」に「吉宗と信濃の件」で「伊勢青木氏」は「3日で伊勢に逃げ帰った事件」があったが、これが他の資料の研究記録では、「信濃」への「闕所の最初」では無かったかと説いている。
    そもそも、この“闕所(財産没収)処分・けっしょ”とは、本来は“罪を犯した「上級武士の者」に対しての、その「財産を強引に没収する法令」であって、其れには「誰もが認める罪」が必要であった。
    然し、これは一致する処ではあるが、そもそも「上級武士の者の財産」を没収した処で、精々、「領土の範囲の物」であって、「幕府の闕所の目的の範囲」とするものでは無かった筈である。
    然し、現実には「武士」を対象としていたものが、其の殆どは「超大豪商」に対して向けられたのだった。
    「商人」は、「領土関係に無い事」からその「直接の闕所の理由付け」は成り立たず、「刑事事件」を起こす範囲での「刑量で罰する事」は殆どは無理であった。
    そこで、「財産没収」は「不随行為」であって、その史実では「行為の正統性が問われる事」が多かったのだ。
    これに関する「遺る記録」を観ると、裁判例が残り、あまりの理不尽さが観える。
    ところが、この「超大豪商」には、矢張り「罪を問われる事」は殆どなく、「貿易等」を通じて“密貿易”などと「難癖」を着けて「闕所」を一応は申し渡すのだ。
    ところが、多くは“「賄賂」で済まして金を「幕府」に巻き上げると云う策略”を何度も繰り返していたのだ。
    ところが、前段でも論じているが、「伊勢屋等」は、「伊勢の事お構いなし」の「長篠の戦い財政的協力・三方ヶ原後三河立直し協力・本能寺の変の救出等」に対して、この「過去の恩義」に報いる為に発行された「お定め書等」がありながらも、「幕府」はこの「恩義」にも従わず、「伊勢山田奉行所等・大岡越前守の時以来/享保期以来」は、盛んに「難癖」を着けて来て「闕所」を「伊勢青木氏・伊勢屋」に匂わせて来たのだ。
    其の典型的で決定的なものが「信濃事件・聖域と地権域の割譲と殖産の没収と人の家臣化」を命じられて強引に実行されたのだ。
    然し、「伊勢屋と信濃青木氏等」もこの「闕所処分」に先立ち、事前に「紀州藩」からこの事を「内密」に知らされていた。
    「記録」に依れば、「伊勢の事件」では、「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」を設け、前段でも記述した「摂津・本店を移した」のには、先ず「暖簾分け」した等で、「二つの支店」を開き、「朝廷への献納」を幕府に見せつけて牽制し、その後に再び元の「大坂摂津の地」に戻し店を再興したとある。
    「伯耆国久米郡倉吉の地」に関して何か特別な逃れ得る理由に成るものがあったのかと云うと無く疑問である。
    調査したが、ここには本当に不思議な位に矛先を躱すに効果的なもの、例えば誰かとの所縁とか何もない地域だとするのだ。
    この“何も無い事が果たして幕府の追及の矛先を躱せるのか”と云う事なのである。
    況してや、「闕所に向けた追及」を受けているのだし、それでも“躱せると云う事”なのかである。
    この「伯耆国久米郡倉吉の地・ダミー店」とするには、先ず“「倒産した」”と見せかける必要があったろうが、其の為に「摂津・本店を移した」では、現実には「暖簾分け」をしているのである。
    この「言い訳」は現実には成り立たないが、 「暖簾分け」は飽く迄も「内々の事」であって、それでこの「ダミー店」を強調したのであろう。
    実は、この事が後に江戸期末に物語に書かれて「小説」にも成っているのだ。
    他には実は、前段でも「讃岐青木氏の論説」の中で、「讃岐青木氏の後裔」がこの「宍道湖の横」迄に拡大したと論じて、「安芸の商い」は横の「足利系米子・八頭青木氏」との関係も築いているとした史実がある。
    ここに「ダミー店」を設置したとすれば、矛先の可能性は全く無関係の物ではなく成り、「あり得る事」に成るかもしれなかった筈だ。
    要するに、これが上記でも、又、前段でも論じている「影の店」であったと考えられるのだ。
    元々、「影の店戦法」を使っていたのだから騒ぐことは無かったのではないか。
    この様に、“「矛先」を変えてのこの「処置」で、「店を小さく見せる事」をしたり、「影の店」や「影の顔」や「影の店主」や「影の自宅等」さえまでもしても現実には護った”のである。
    後は「朝廷への献納」を見せて目を逸らした事などが資料から読み取れるのである。
    つまりは、「難癖の闕所」の「名目如何」にどの様に「商人」として対処するかの事であったろう。
    「殆どの狙われる超大豪商」は、この様な策や手を前もって使って駆使して特定を避けて逃げていて、一度見せても次は違う等していたらしい。
    事実を伝えているかは別としても、飽く迄も小説化しているので人気を博した「江戸時代の小説」にも成っているのだ。
    決して「超大豪商の現実」には、「小説やドラマの様な単純な顔や店を見せるような事」は全く無く、此処でこれを論じる以上では、現実には歴史を正しく調べれば、直接に自分や店をよりよく魅せる様な事は決して無く、飽く迄も「影」であって「表に観える等の事」は無かったと知るべきである。
    その意味で、「四家の構築した伊勢」での「四家制度」は誰が福家か判らない様にすれば都合が良かったと云える。
    また、江戸期にはそれまでも目立つ様に「朝廷・天皇家」には、「献納・奈良期から続ける」をし続けていた事もあって、それ故に、“「朝廷」は都合よく振る舞ってくれていた事等”も伝えられていて、この「闕所事件」では「格好の逃避策」ではあったらしい。
    「永代賜姓五役での献納の理由」は、云うまでも無いが、一部には「過去の格式伝統」はこの「闕所の格好の逃避策の意味」もあったのではないか。
    前段でも論じたが、「献納時」には「伊勢から御車」を大げさに仕立てて、それに「青木氏の随行者」を着け、且つ、到着後は「街中の事/噂話」を教える「軍略処の役務の令外官・青木氏」の祭りも負っていたと云うのだから、これにも「闕所対策の為の周囲の目を魅つける策」でもあったろう。
    これも江戸期から始まり幕末までその「目的の一環」であったのであろう。
    そもそも、「影」である以上は、「青木氏の各種の記録」には、これらの事の詳しい事は載せない事であったのであろう。
    実は、「享保期」からこの「伊勢青木氏に向けられた闕所事件・類似事件」は、江戸期に限らず「資料や記録の発見」から「新しく判った事」ではあるが、実は「明治期初期」にも明確に起こっていたのだ。

    注釈 実は「明治期」にも、そもそも「献納の相手」の「維新政府の政治的意向」から、“「薩摩藩」などが騒いで「闕所の嫌らせ・闕所の江戸時代に似せて」を受けていた”とある。
    それまでも、「四掟」で度々、「奈良期より下級公家族と何度も血縁していたと云う事」があり、これらの史実も「公家・叶家等」から「嫁・筆者からは祖母を迎えている事」も合わせていたらしく、これは「朝廷」では無く「初期の維新政府」を造った「薩摩藩等」であったろう。
    前段でも論じたが、「伊勢店や住居や蔵等の火付け焼き討ちや蔵の打ちこわし等」が何度もあって、それ故に「伊勢屋の活動本店を摂津に移している事」等に一致している。
    ただ「伊勢の福家・本家」は「寺の関係」や「郷士衆の氏族一族」が「伊勢に集中している事」もあって、暫くは「松阪」に置いていた事が判っている。
    これは「全ての“話し合い」”が直ぐに解決できる事では無かった事から来ているのではないか。
    江戸時代の「享保期と中期と幕末」と、それに「明治9年頃と15年頃と35年頃」にも、「摂津」から「福家・松阪」に届いた三度ほどの連絡の「虫食いのボロボロの手紙」が遺っていて、それ等に依れば、要約すれば次の内容で書かれている。
    内容
    「長く続く超豪商に対しての執拗な“闕所処分」”には、「伊勢屋」と「御師組合」は財産の一部を多くの機会を捉えて、観える様に「自らの申出」により「献納・朝廷」して「矛先」を先ず外して、目立つ米相場の等への「闕所の動き」を先ず第一段階は終えたとあり、更に、これにより次第に“闕所(財産没収)処分”に晒される事が少なく成り (イ)、この「第二幕」は閉じたとある。
    然し、「明治維新政府」の諸事記録からも、続き 「難癖」の“闕所(財産没収)処分らしき嫌がらせ”は続いた事が記されている。(ロ)
    先ず、それには“「第二幕」は閉じたとある”この (ハ)の事で、これは「第一幕」があった事を意味する。
    又、この等の記録は、“相当に事が落ち着いた後から「祐筆等」が書き記ししたものである事”が判る。これが(ニ)
    で、先ず、「青木氏・伊勢屋」から観たこの“「ニの第三幕」”は、本来の形の“闕所であったかは別として、”言うまでも無く、上記した「政治の場」から離れた頃の「明治35年まで」としてしていて、それは「明治期の嫌がらせ」であったであろう。
    とすると、「第一幕」とするのは何時としているのであろうかと成る、
    筆者には「第二幕のハと第三幕のニ」の事で、恐らくは「二人の祐筆」が書く記す際に「青木氏に降りかかった事」が、「明治期の難癖」の“闕所(財産没収)事件の処分”であったと認識していた事に成り、この事件の事で話題が一族内にも当時は充満していた事に成る。
    そして、又、その「闕所認識」が共有していて、同じ事が「明治期」にも続いて興ったと云う事に気が云っていた事に成る。
    だとすると、「過去の第一幕の事」が明治期に於いても同じ出来事であったとして認識していた事に成る。
    その「第一幕」は、「第二幕と第三幕」に“一致して同じ様な事が起っていた”と観てよい事に成る。
    然し、「足利幕府」とは「律宗族の呼称」でも判る様に、少なくとも「難癖」を着けられるような関係性では無かった事は確かである。
    「信長が足利幕府を追いやった時期」からと、その後に「秀吉が全国を統一した時期」までと、そこから「氏郷時代の良好な関係」の時期を経て、「豊臣徳川の関ケ原までの時期」と、江戸幕府の「享保期の山田奉行所事件直前」までの期間が「第二幕」と成ろう。
    その期間の模様は前段で論じた通りの「犬猿の仲での期間」であった。
    この「第二幕」が“一致して同じ様な事が起っていた”とすれば、“信長から秀吉の時代”と成り得る。
    「信長前」とすれば、「室町期の紙文化で巨万の富」を築いた時期からと成り、この「巨万の富」に狙いを定めた事に成ろう。
    「第二幕の典型的な例」を、前段でも既に論じたが、別にこの闕所の事件があったのだ。
    それを前段でも論じているが一つ述べて置くと、「東近江の青木氏」に於いて「本流と分流らの領地の争い」が起こった。
    それに於いて「仲裁の申請」が両者からあり、「東近江」には「巨万の富」を背景に伸びて来た「近江青木氏B」と、「元から東近江に居た青木氏A・本流の分家」とを「秀吉の面前」で戦わせて徹底的に雌雄を決せさせたとある。
    これは申請に基づく「本家分家の争いの仲裁」と、「その領地争いの仲裁」ではなく、「闕所の手段を使う事」を利用して、戦わせて一方先ず潰して、その「財と領地を奪い取る事」を目論んだのである。
    先ず「勝ち残ったB」のその「富」を利用した後で、この「近江青木氏B」を「富に対する難癖の闕所」で、“よく調べたらその富を奪った”として、後で潰す事にしたのだ。
    結局、「東近江」には「佐々木氏系青木氏」を除いてはいなくなったのだ。
    「伊勢青木氏は、結局は「東近江に居た青木氏Aの生き残り」」を救い出し、「摂津の西」に住まわせて保護した。
    「近江青木氏B」は、其の後に「兄弟争い」をして完全に潰れ、一部が千葉に逃れたと云われていて地元の「秀郷流青木氏を勝手に名乗って幕府に仕官している。
    他にも語り継がれていないが、郷土史に語り継がれる知る範囲では、この様な「紀州嫌いの秀吉の紀州伊勢征伐」での事で、この時、「小さい闕所事件」が取り分け多く起こっているのだ。
    取り分け、「南勢の伊勢50衆郷士衆中の氏族・湯川氏等5士」に対して記録に遺っているのである。
    殆どは「騙しの手打ちの闕所事件」である。
    当然に「第一幕」は、「嵯峨期の賜姓族外し・皇親族外し」である。
    最早、ここではもっと詳しく調べる術を考えて詳しく論じる事は必要だがここては語るに及ばないだろう。
    調べる中で関東には、この事件の左程の大きな事件歴史が無かった事が判る。
    「商人」が多くても闕所で目に着けられる程の商人が居なかった事が云えるのだ。
    そもそも敢えて江戸の政治域にその様な商人を造らせなかったという事であろう。

    さて、新しい資料が見つかったのでそれを加えて追記として論じる。
    少し「冶金学的考察」に戻して、これは「青木氏の資料」ではないが、「別の資料・御師制度の研究資料や明治期前後の商人の研究等」では、“「伊勢の和紙問屋」が「摂津の洋紙問屋」とも成ったが、「伊勢殖産」の「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で「良質な植物油」として「大利益を上げた」”と記されており、後に、“それを資金の元手に「石油の卸売」にも携わった”ともあり、“何れも又「莫大の利益・儲額を研究」を築いた”とある。
    これは「伊勢青木氏の記録」と一致しているので史実である。
    「上記の経緯」もあって、「総合商社となっていた伊勢屋」は、「菜種油問屋」とも成り、「貿易」で利益を上げて「石油の卸問屋・主に灯油」もしていても、「伊勢での実践・経緯」では、更に“「油・魚油」をメインに「冷却材に使われる結果・工業化」とも成っていた事”が書かれているのでここでも判る。
    そこで敢えて「冷却・工業化と殖産化」には、先ず最初に「備長炭の焼灰の中」として対応していたが、次に“「植物油か魚油の油」を使った”と考えられる。
    然し、論理的にも確かに「焼灰の中の方」が「冷却速度が緩いと云う点」では良い事は判っていたらしい。
    だが、「当時」は、概念的には、 未だ、“「マルテンサイトの有無の概念」”に拘わらず、 “何事にも「冷やすと云うだけの概念」と成っていた。”と云う事なのだ.
    そもそも「冷却の程度までの話」では無かったらしい。
    それは、当時は「砂鉄の玉鋼」にしても「陶器」にも由来していて、正確な温度把握は在ったかは疑問であるが“100度程度の低くて極めてゆっくり冷やす事程が良い”と云う「冷却概念」が当時にはあったとする。
    そこで、ところがこの事に就いては、“「マルテンサイトを獲得する冷却技術」”を獲得していたかどうかに付いては「玉鋼に関する資料」からは、全く散見できない。
    恐らくは、“「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」を、巧く調整して敢えて「変態が起さないところ」で「全行程」を止めていた”と、科学的に調べると判断できるのである。
    つまり、それが「変態」かは別として,“何か変な事が起こる温度域で、そこには悪い事が起るのだ”という「逃避概念」あったのではないか。
    ではこの「変態が起さない点」の手前とは、最も、「割れ、変形、等の品質欠点が起さないところ」でもあったのだ。
    現実にもその理論であるが、寧ろ、当時としては「この求めるべき点」と云うのは、「逆の点でとらえられていた事であったと云う事」だ。
    全くこの意識の無い事も記された資料があるが、少なくとも「技術的に避ける点」であったと云う事に成る。
    此れを「冷却とその後の処置」で上手く乗り越えれば、「逆の点のその逆に成ると云う事」を「伊勢青木氏」は“「銃の欠点克服の過程」で掴んだ”という事なのだ。
    それには、是非に「植物油の工業化・殖産化」に取り組まなければならないし、「伊勢神宮の植物油の禊品の事」もある。
    結局、上記の資料から、「嫌われている魚油の生産」を施し、「植物油の工業化・殖産化」をして、「禊ぎ品から量の解決」をして、更に「交易をして禊ぎ品の利益」を上げ、挙句はそれに代わる「魚油の代替品の石油を仕入れて卸問屋」を新たに営んで「伊勢の人の理解」を得て「巨万の富」を獲得したという事だろうの「経緯」であることは判る。
    この間に「銃の欠点の解決」の為にも、この為の「工業化」で「大量の禊ぎ品の油」を使うが、それに依って「マルテンサイトを獲得する為の冷却技術」を獲得していたのだ。
    「伊勢」では「額田青木氏を救う為の銃の製作」と、「それに使う油への批判・禊品に対する工業化」があったのではないだろうか。
    「禊ぎの品の殖産化と工業化」は、兎も角もそれを超えた「大工業化・銃」には「大きな批判」があって、そこで「交易から得た資金」で「石油問屋を営んだ事」ではないかと判断する。
    これで批判を躱したと考えられる。
    「金銭的な事と油植物油の使用率の事」では当面は解決したであろが「伊勢の禊品ぎと云う事」では解決が解決出来ていたかは確認が取れない。
    然し、じょうきした様に「額田青木氏の銃の欠点解決」で「冷却材として油を使う事」では結局は理解を得られていた事を考えれば、禊ぎ品に付いては小より大のもくてきではんだんされたので゛はないか。

    注釈 ここから「植物油と銃や刀の等の関わり」で論じる。
    専門的には成るが、これは、「工業化」に於いて「両者の事を専門的な立場」から観る事に役立つ。
    「禊ぎの殖産とその工業化」に付いてはそもそも「単純な動機」に依るものの、それが「意図的」だったとは考えられ無い事だ。
    度合いかと云うと、この「殖産化と工業化」には、室町期に「生死を賭けた伊勢青木氏による技術化」が伴っていたからだ。
    それには「額田青木氏を救うという大義」が大きくあったからだ。
    然し、そこには「技術的」に少なくともそれには、先ずこの「禊ぎ品」の「植物油」を使わないで “刀の処理工程では済ましている事であった。
    とすると、少なくとも当初より得られていていたとする「植物油」を使わないで「過去の冷却速さのパターン/水」では、専門的には「刀の内部組織」から観ると、“「類似ツルースタイト組織」”には少なくとも成っていた筈なのだ。
    そこで、場合に依っては、この「水の冷却の速さ」からでは、一段低い「類似ソルバイト織」”に完全に成っていたと考えられる。
    「水」は「冷却」が油の2倍に早いが直ぐに「蒸発の泡」が発生して「その速さに比例する冷却効果が得られないと云う欠点」を持っていて、「2度目の冷却」は水温が冷却に必要とする温度以上に上がり過ぎ同一のものが得られない欠点を持っているのだ。
    この欠点の発生は品質、つまり「製品」とは成し得ない事を生み出すのだ。
    だから、常時に一定に冷却効果が成し得る油が求められるのだ。
    「工業化」ではどうしても「一定に冷却効果が成し得る油」が必要であって、それには必要とするのが「植物油」と気付いた事であるのだ。それが奈良期から解決し得なかった銃の欠点解決から導きだされた成果であったのだ。
    それだけに上記する様に意味は大きかったのだ。
    要するに、“「刀」は「類似ソルバイト織・水」”より「類似ツルースタイト組織・水」”にするのが良いのだ”とするのが、これが「過去の普通の概念」であったと考えられる。
    例えば、「類似ソルバイト組織」”は、「バネ性を強く求める時に出す組織」で、これより「類似ツールスタイト組織」は「バネ性より硬くて強靭な組織」のものである。
    但し、本物のソルバイトやツロースタイトよりは何れもその特性は落ちる。
    そこで「水」を使い「植物油を使わない刀」の場合は、「専門的にこの資料を読んで咀嚼すると、「結論」は矢張りそこに陥る結論なのだ。
    つまり、“刀の処理工程”の場合には「砂鉄の玉鋼」を使用するが、要するに前段で論じた様に、「近江鋼の場合」の様に、元々使う鋼が「0.8%Cの共析鋼の処」であった場合と違って、そこで起こる“「変態・マルテンサト」を敢えて発生さしていない”のである。表現は正しくは発生しないがただしい。
    従って、この「玉鋼の刀」の“「加熱と鍛圧過程の二段階」では、「冷却の速さ」では、それなりに既に「硬くて柔軟な組織」に“「恣意的」ではないが、「偶然」にも成っていた”のだと専門的に観て考えられる。
    然し、この“刀の場合は、「上記した工程前後の処理の高度な知識」が、「未完”で在った事から、偶然に“「マルテンサイトの様な類似形」に成っていずに、そこでの「出来具合・類似的にツルースタイトかソルバイト」”が「何らかの形」で意図せずにこの「類似系組織」が得られていた可能性があったと推測できる。
    そして、“此れを良いものだ”としていたのだと考えられるのだ。然し、違ったのだ。
    決して、「変態」を起さない限りは、偶然にも、“「マルテンサイトの様な類似形」には絶対にならないのだ
    これを最近に調べた「刀の組織的・内部の研究結果の論文」があって、それには「内部の組織の良し悪し」では無く、「切れ味の刀の良し悪し」で表現されていたらしい。
    これは検査装置が無いので当然かもしれないが。
    当時では、従って、当然に「玉鋼の刀」に於いては、この「冶金的な結晶の構造」、つまり「マルテンサイト・ツルースタイト・ソルバイト・パーライ」の「4つの結晶組織」で、「強さ」をも表す「呼称の概念」は無かったと考えられる。
    然し、多くは「油の冷却過程」を得ずして得られるこの類似ソルバイト」であったと研究成果では結論付けている。
    後は、“「玉鋼の板を何層にも重ねて鍛えた結果」から得られる「強靭な物理的な強さ」”が、これを「補完している強さの正体」であったとしているらしい。
    仮にそうであったとしても、それはそもそも“「悪い出来具合」”と「砂鉄の玉鋼」では、「植物油冷却材として使わない事」と、「近江鋼の0.8%C共析鋼を使わない事」から、その「特性から脱却できるものではそもそも無かった」と云う事とされるのだ。
    当時としても、既に「近江鋼の0.8%C共析鋼」が一方で「伊勢青木氏」で使われていたにも関わらず、この限定された「その範囲の事が正しい事だ」として「刀の概念」が先行して断定されていたと考えられるのだ。
    何故ならば、これは「火縄銃の生産」も「刀の生産」も、「同時期にして同工程での概念」であって、「砂鉄の玉鋼」だけを使って「平衡して生産されていたと云う事」から来ているのだ。
    従って、「当時の青木氏部の匠の常識の凄さ」は、先進的に研究して「植物油を使う事」で「冷却問題」を先んじ解明し、“この「技術の壁」を「植物油の殖産と工業化」で打ち破っていた”と云う事に成る。
    そこには「伊勢の禊ぎ品と云う縛り」が伝統的にあったにも関わらず、寧ろ、「植物油の殖産化と工業化と交易化の積極策」で解決しているのである。
    その証が何よりも「額田青木氏の近代銃の鉄」は、“「近江鉄の鉱鋼」であった”と云う事なのだ。
    つまり、上記した「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理・冷却・植物油と魚油の冷却」で「銃の欠点」を克服していたのだ。
    普通なら長年に渡って「火縄銃の生産」や「刀の生産」も「同時期、同工程での概念」であって、且つ、「砂鉄の玉鋼」を使って平衡して生産されていたと云う事で在るのなら、この「工程に頼る」のが普通であろうがそうでは無かったのだ。
    「人間の成す事」と云うのはそんなものであろうが、ところが“全く違う「植物油と云うもの」を選んでいた”のだ。
    何故ならば、「刀の特性」には「切れ味」と「鍛する事」と、つまりは、「たたき合う事に依る折れない強さ」のこの「二つ特性」が「最優先」に先ず求められたのだ。
    現在科学では、この「切れ味」は、“「マルテンサイト」が最高”であって、これが「技術的に得られない事」から「類似ソルバイト」を「玉鋼の重ね板」で「何度も鍛える事」をして獲得したが、これでは「切れ味」は間違いなく落ちる。
    然し、特段に「バネ性」を獲得して「折れに対する強度」を補完していたのだと理解すれば、其れなりに納得出来る。
    つまり、故に「刀匠」に依っては、この“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係に油と云う冷却概念で差が出る事に成るのだ。
    それも“常時では無く時々の技物の出没”に成っていた筈である。
    何故ならば、原因はこの「類似ソルバイトの所以性の差」にあるのだ。
    当時の代表例として「刀」は次の関係に冶金的にあった事に成る。
    「類似ソルバイト」=「重ねたたき合う事」+「その鍛する温度」


    注釈 そこで此処からは「刀」に付いて論じる。
    「刀」は「類似」である以上は、以上の関係式に依って「刀の性質」は偶然に生まれるのだ。
    殆どは、この“「鍛する温度」の「最終温度」”にあって、これに依って「玉鋼」では決まる。
    何故ならば、この「狭い限定温度」を間違えると、「類似ソルバイト」は析出しないのだ。
    仮に何とか出たとしても、今度は“「切れ味」><「折れの強さ」”の「理想的な関係式」を保てずに「質の悪い使えない刀」と成るとする「冶金的に求めた研究報告」があるのだし、理論的ににもそうである。
    冶金的に専門的に合理的で理論的にもこの研究は納得できる。
    故に、この「技法」を使った「根来雑賀の火縄銃」は、“この関係性を持っている事”に成っていた事になるのだ。
    そこで、この「刀の高度な匠技・現在研究」では、“この「緩める事」と「冷却の事」を「同時に行う術」を把握していた事があり得る”ので、この「技法」を使って「名刀」とするものには、必ずこの「刃文・刃紋・玉鋼の板を重ねる事で起こる模様」と云うものが出る。
    そして、そこに出る「模様柄」、即ち「類似ソルバイ」の「光の屈折具合」のこれで「技量の高さの判別」が判るのだ。

    注釈 「類似ソルバイト」には「独特の波板の様な模様」が出る
    もし、そこで「青木氏部」に依って「額田青木氏の近代銃」に使われたとする“「マルテンサイトから得られる鋼の高度な特性処理」”で、仮にこの「刀」を造ったとすれば、“「切れ味」><「折れの強さ」”の関係は、「最高の物」と成り得て、それは“名刀中の名刀”と成り得る。
    以上として間違いなく扱われていただろう。
    この事の証明は、この「検証の物理の実験」が成されていて「物理試験・アムスラー試験」でも証明されているのだ。
    つまり、この「刀技の匠」で得られたとすれば、「額田青木氏の近代銃」も同然の結果と成り得た事を証明できる。
    然し、「近代銃の研究と製作」は、「刀匠の根雑賀根来の鍛冶師」では無く、「青木氏部に所属する部人・松阪と摂津と堺」とその支配下にあった「日野鍛冶師」であったのだ。
    そして、元よりそれは「砂鉄の玉鋼」では無く、「殖産の近江鋼」のものを使っていたのだ。
    そもそも、「青木氏部」に「所属する部人・鍛冶師」たちは、古い「奈良期からの殖産の結果」から「鉄の鋼」が違うのだ。

    注釈 「鍛造後・砂鉄」、又は、「熱処理後・鋼鉄」に得られる「類似ツルースタイト<>類似ソルバイト」の関係には次の二つがある。
    1 「鍛造後・砂鉄」の場合は、「鍛える過程のそのエネルギー」で「類似ツルースタイト<類似ソルバイト」の関係で「偽の類似的組織」でそれに近い物理特性が得られる。
    これは「鍛する過程」で、「鍛圧エネルギー」と「適度な温度に下がる事」のこの「二つの条件」が揃えば「偽の類似的組織」が得られる。
    これは極めて「難しい二つの条件範囲」で得られるので、そこで当然に「匠技」に関わっていたのである。
    だから、「名刀」と云うものが生まれていた所以であるのだ。
    2 「熱処理後・鋼鉄」の場合は、「決められた特定の範囲・鉄種と炭素量と温度領域と冷却温度と特殊な後処理の5条件」が一致する事である「特別な綱変化」が起こる。
    これを、此の世に起こらない特別な変化である為に「変態・トランスフォーメイション」と云うが、これが起こり、この獲得した「マルテンサイト・鉄のダイヤモンド」を、「特殊な後処理で安定させる事・特殊な熱処理」で揺るぎのない「物理特性」を持つ。
    これでは未だ安定しないのである特定の温度範囲で少し下げて処理すると「正常なツルースタイト・又はソルバイト」だけが得られるのだ。
    これを使ったのが「額田青木氏の銃に起こる欠点」を取り除いた「超近代銃」かが生まれた所以なのであるのだ。

    注釈 この「変態結晶体の独特の光反射の色合い・薄青白いシアン系の光を発する」を示すが、ところがこの「偽の類似的組織のマルテンサイト系ツルースタイト、又はソルバイトを有する刀」には現実にはこれが観えない。
    この処を考察すると、一般的には「砂鉄の玉鋼」では物理的に無理と成るが、故に当時としては「変態現象の概念を有していなかった事」が間違いなく云えるのだ。
    其れが砂鉄の玉鋼であったからだ。
    結論として、それに伴う「刀にする為のある程度の冷却に必要とする程度」の「冷却の概念の重要さ」も一部でも「保有していなかった事」は先ず確実であろう。
    ところが「名刀」とされるものには、「筆者の見立て」では、これが一部確認する事が出来るが、ところが完全に概念として有していたかは定かでは無い。
    又、「製作過程」でも偶然に得てそれが「名刀として扱われる所以」と成っていたとも捉えられるが可能性は低い。
    然し、これはより「偽の類似的組織」の「ツルースタイト>ソルバイト」の関係で、“偶然に名刀に成った”と観ていてこれが「刀の筆者説」である。
    何故ならば、「鋼鉄と砂鉄の違いの事」は、勿論の事ではあるが、この「マルテンサイトの存在」を「確認する事」には、「屈折光」だけでは無く、「高度な顕微鏡とその為の化学的処理・ナイタールと硝酸液の処理と酸化クローム研磨」が必要であるからだ。
    ところがこれが当時は未だ確かに無かったと観ている。
    「奈良期からの飾刀の匠技」に伴う「高度な冷却概念」の中には、「密かにテンパー概念」があったとしている記載があるのだ。
    何故ならば、それは“玉鋼”ではない”「近江鉄」”であったからだろう。
    それを理由に「近江と摂津と伊勢の青木氏部の匠」の中では、「何らかな方法・貿易」で獲得され、この“「703年〜713年の前からの歴史を持つ近江鉄」”を使う以上は、「最初の試練」として「試行錯誤の中」で「額田青木氏の超近代銃銃」に「高度な冷却概念」を求められていたと見ている。
    寧ろ、そうでなくては使えず懸命にその「匠技」を獲得しょうとして“間違いなく応用された”と考えているのだ。
    そうでなくては「近江鉄・磁鉄鉱と褐鉄鉱」である以上は使えないのだ。
    上記の「近代的な検査装置の存在」は無かったにせよ、「屈折光」と「焔硝の存在」とそれなりの「研磨工程」があれば、「最低限のより高度な確認検査装置・貿易で得られていただろう」は「室町期」には最早在ったと考えられる。
    「屈折光」は、「当然の事」として、「焔硝の存在」は大和には既に奈良期からあった事が記されている。
    それは「白村江の戦い」から破れて引き上げた「天智天皇」は、中国が攻めて来るとして「山陽道の造成」と「周防國から奈良」までの間を、「硝煙狼煙」で「情報を伝達するシステム」を構築した「歴史的な有名な事件」が在ったがこれに既に使われているのだ。
    これ等があれば、「その概念の存在」は、兎も角も、少なくともそれなりの「マルテンサイトの存在・極めて硬い組織の感覚的存在」は稀にも経験していた事は否定はできない。

    注釈 この「マルテンサイトの呼称」は、そもそも「ドイツ語」であって「近代の物理学、即ち、冶金工学と金属工学」は、主に「戦い」に依って利用され進歩を遂げたが、この為に「戦い」に勝つ為に「古くなった西洋の火縄銃の近代化」を「切っ掛け」に「近代銃への発展」へと「発達経路」を西洋で遂げたが、これ等は全てはこの「ドイツ」から起こった事なのである。
    必然として「ドイツ」の「西洋での位置づけの結果」では「勝利」を収めたのだ。
    これを「伊勢青木氏・伊勢屋の貿易」を通じて得ていたと云う事に成るのだ。
    当然に、その「技術」は「青木氏部」を有していた限りに於いて一部分であったと云う事では無かった筈である。
    奈良期から始まった「近江鉄の製鋼技術」から「室町期の近代銃の完成技術」までを、この「貿易」に依って全部とは云わずとも獲得していたと認識しているのだ。
    確かに問題は「奈良期からとする処」に問題は在るが、そうでなくては「近江鉱山の鉱石」を「高炉・日本での歴史は、一般的に「江戸末期に利用」を使ってしか成し得ない筈だ。
    とすると「近江鉄使用論」は成立しない。
    逆に「近江鉄」が存在する以上は、其れなりの高炉に近い「高温に成る炉」があった事は否めない。
    これは「幾つかの記録」からも「歴史上は紛れもなく史実」で在る。
    以上は、「高炉」と「近江鉄の製鋼技術」から、「室町期の近代銃の完成技術」までの間には「高炉存在論」が成立する事に成るが検証か必要である。
    それは「奈良期からの近江鉄」は、「院号を有していた伊勢の殖産業」で興されたもので在った以上は、その「社会普及」を特段に敢えて辞めて、「高炉に等しい炉」が見つからない以上はその開発炉は“「伊勢・摂津の範囲に留まっていた事」”に成る。
    寧ろ、これは「氏是と家訓」に従っていた事であろう。
    其の事からこの「高炉に近い炉の普及」を“留めていた”と受け取るのが正しいだろう。
    これらは「院屋号を完全保証されていた平安末期」と、「伊勢本領安堵の号」としては限定保証されていた鎌倉期」と、「律宗族としての半資格での室町期」の「3つの経路の扱い」を受けていた。
    この事から、故に「上記の開発の完成技術」は、長い間を「青木氏部」の“「氏族内に留められた・青木氏部」”と考えられる。
    そして、前段でも論じた様に「江戸期」に成っても「氏是」に伴い、「銃」と共に「一連の物」が秘密裏に「抹消した経緯」を持っているのだ。
    但し、「上記の完成技術の経緯」としては、「三方ヶ原の戦い以後」に「伊川津」に戻り、「渥美湾の制海権」を松平氏から獲得してから、暫くして、「摂津と伊勢」では「銃のその必要性」は無くなり、密かにして治めた。
    然し、これが「江戸期」に成って、前段でも論じた様に「享保期末期の吉宗との事件」と「山田奉行所との争い」とを相手に「摂津水運組合と山田奉行所事件」で摩擦・闕所事件」が起こった。
    「紀州藩の後盾」を得ていながらも“「難癖」”を着けられない様に、これらの「銃に関する全ての技術」は完全に抹消したと観ているのだ。
    取り分け、「母方系の藤原秀郷流一門」が「幕府御家人衆」に組み入れられ、「伊勢藤氏の全て」が「紀州藩家臣」と成った経緯もあり、これ等に影響を及ぼさない様にする為にも「銃技術を含む全て」は、勿論の事としても「上記に論じた完成技術」も“「抹消処置の時期」”としたと観ているのだ。
    前段でも論じた様に「四家の桑名等」では、“「祠」にして密かに「神明社」までも鎮守社の裏に隠したとある。
    そして、その「床下」に「青木氏の手伝統の記録・資料等」を隠したとした”とする。
    この為に「青木氏の現実の記録」も遺されているし、「南勢の旧領地等の各地の青木氏」でも同然であったとしている。
    兎も角も、“「抹消処置の時期」”とした場合は、概ねこの時期しか無かったと観ている。
    この元には「奈良期からの殖産」で「鉱山開発の院屋号を持つ伊勢」は、偶然にも環境証拠として「近江鉄を利用したとある。
    この事では詳細が判っている。
    それには僅かに「アルミニウムとマンガン含む鉄の原鉱石」、即ち、「1246度融点での近江鉄」には「磁鉄鉱と褐鉄鉱」が含まれていたとある。
    この結果として、「近江鋼」は、砂鉄と違って“「味のある特性としての概念」”で引き出されていた事に成るのである。
    工具などに使えば鉄だけの物より特性の豊かなものに成ると云う意味である。
    とすると、「近江鉄」は一般の要求に鍛冶師として応えられる鉄であったと云う事だから相当に忙しかったと考えられる。
    当初は1つ目の鉱山、あまり時間を置かずして2つ目の鉱山と、開発途上の鉱山でありながらも広げていった事が判る。
    そしても何時しか「近江」には「4つの鉱山」が開山された経緯を持つのだ。
    如何に「近江鉄・近江鋼」が当に世間から好まれて奪い合いする様に求められていた事が判る。

    注釈 さて、そもそも故にこの「急激な需要・経済発展に寄与」に対して、この「経緯論」としては、先ずどの様な「溶解炉」がこの「近江鉄・近江鋼」には、使われていたのかである。
    これだけの「需要」に対して、応えられるのは現在科学から観ても「高炉」でしかない。
    然し、この「高炉」は日本では「明治初期の使用」であり、西洋でも室町期末期である。
    これでは「経緯」が合わない。
    「砂鉄の炉」は理論的に使えないから何か炉を開発した事に成る。
    結論は、それは“どの様な「高炉に近い炉」を開発していたのか”であり興味が湧く。
    「近江鉄」から炉高が高く無くてはならないし、新規の還元剤の開発も求められる。
    「砂鉄」では、「平炉、箱型炉、縦型炉の開発経緯」で三つが使われたが、要するに高炉型ではない。
    これでは「近江鉄のような鉄鉱石の溶融」は、そもそも物理的に無理であり、それは「砂鉄の砂鉄炉」では「溶解温度」と「還元剤」と「溶解容量」とが原理的にも合わないのだ。
    この爆発的な「需要量」に応え得る事は、論理的に無理な事では勿論であるが、取り分けそこには「還元剤」が「鉄」を獲得するのに無理であるのだ。
    現実には「鉱山産出と原鉱石にする量」は、この「需要」に応じたとしてもこれを「獲得する炉の開発」が必要であるのだ。
    上記した様に「砂鉄の三つの炉」は、原理的に無理であるのだから、何らかのこの三つ以外の原理的に可能にする炉の開発が「鉄の鉱山開発」とは別に同時に求めらていた筈である。
    其れでなければ「鉄」として進んだ「特性」を出す「近江鉄」は成し得ないのだ。
    そこで、大昔は「原鉱石」から風化で削られて河川に流れ着いてその鉄だけがその比重差で沈み込みそれを溝で浮かび上がらせて、これを浚って集めた鉄、即ち「砂鉄」のものである。
    然し、この「砂鉄による製鉄・1560度融点・蒸発最高点」である事からこれを「タタラ鉄」とも云われた。
    然し、その「タタラの砂鉄・ふいごを使った炉」には「弊害」と成る「高融点のチタン」を多く含んでいた為に、この「チタン」だけが溶けずにいて炉の出口を塞いだのだ。
    これが「砂鉄の進歩」を阻害した最大の欠点であった。
    然し、この対策として「考え出した炉・高炉らしき縦型炉の坑口」にも「詰まり」が発生し、結局はこの詰まりの為に「炉の崩壊」が度々起こり解決に至らなかった炉なのだ。
    これにより「三つ以外の炉形」は、“進歩に繋がる製鉄法”としては使え無かったのである。
    現在でも、ほぼ同然で、そこで、何度も「高炉での研究開発」が「青木氏部」で成されたが、結果は同然で、この「チタンの多く含むタタラ鉄」では無理で況してや、その「チタンの特性」を江戸期末期まで生かせずにいたのだ。
    「上記する元素」としては「同然の特性」を有するが、然し、「チタン」は「鉄を強くする五大合金元素」に含まれる可能性を持ちながらも、「利用」は「難・1668度融点」であった為に、現在でも「高度な真空電気炉以外」には「一般炉でも溶解をする事は出来ないのである。
    そもそも「チタン」は「鉄」より軽く「アルミ」より重く耐熱性が高く次の「鉄に代わる金属」と云われている。
    この経緯から当然に「古代のタタラ製鉄」は必然的に衰退して行ったのだ。
    そもそも「何処の砂鉄」にも、他に日本の地形の形成上から「ニッケルとシリコン」を含んでいるものである。
    然し、これ等は「高炉以外には取り除く事」が出来ずに「タタラ製鉄の砂鉄の欠点」として残ったのだ。
    そこで「伊勢青木氏の摂津」では、「砂鉄の縦型炉を改良した竪型炉」を開発したのだ。
    これでこれを機に「近江鉄を使える様な炉」を次第に開発したとあり、それが最後には室町期末期まで使われたとある。
    関東は砂鉄が少なく、「近江鉱山」を参考にして「鉱山開発」が「鎌倉期・室町期末期前後」から始まったとされ青木氏部は指導したとある。

    注釈 「鉄の融点」は「1560度・実質1230度で可能」とし、「高温では現実に蒸発が伴い爆発の危険性」があって、ところが、この「鉄」には「他の金属」と異なり、その「温度毎に特有の結晶構造」を持つのだ。
    それ故に物理的にこの高温は使えないのだ。
    即ち、それが「炭素の含有との相関」であり、「使用範囲の限界」は、「温度毎」に異なり、最低で「723度程度以上・オーステナイト結晶」に成る。
    最高で「1025程度にする事」で、「何らかの処理」で上記した「マンガン・融点1246度/鉄の限界融点1232度」との「相関関係」、つまり「鉄と炭素相関図」が成立する事に成る。
    この相関関係が成立する温度範囲で無くては鉄は使えないのである。
    この「鉄と炭素との各種の組み合わせ」により、「各種のセメンタイト・鉄と炭素の結合体が生まれる事」が可能と成るのだ。これ無くして鉄は使えないのだ。
    この“「融合と合成」”の為に、これが「比較的低い温度」の為に「上記の様な事」は可能と成る。
    だが、然し、逆に砂鉄の場合は、この「タタラのチタンの欠点が生まれ、利用は無理と成るのだ。
    故に、「砂鉄」は「平炉のタタラ炉」でゆっくりと行われる。
    その為に「炉の温度」に「低めの限界}があって、この「チタン」を溶かせずに、逆に「チタンの弊害・結晶」に対して「炉や加工品の破壊」などが頻繁に起こっていた炉なのだ。
    この「弊害・当時は理解されていなかった」を含有し、絶対に「物理的に不向き」であって、現在も「真空電気炉以外」には無理であるのだ。

    注釈 そこで、「前段の日野―松井―摂津の地理的往来の論」でも論じた様に、「朝廷」より「院屋号」で「殖産」を命じられた。
    この大和では「鉱山開発の経験」のないところで「伊勢青木氏の裔系」の「奈良期の殖産」として「因事菅隷」として開発されたのが、「古代の日本最初鉱山」の「大倉鉱山と高倉鉱山」等に依って採掘されたのだ。
    これが「近江鉄と呼ばれる鉄」であった。
    要するに「近江鉄・前段の砂鉄では鉄鉱石」であるのだ。
    これを使えばより多く、より「高温に溶かす事」が出来る事が可能に成ったと考えられる。
    「後の銃の試作生産時」には、即座に「青木氏部・摂津と伊勢の青木氏部の匠等」に依ってこの「近江鉄の原鉱石」と「高炉に近い竪型炉の使用」は、1400年代初期頃には密かに炉の原形が試されていたが、此れは既に奈良期からの試されたものであったと記録されている。
    この為に密かに逸早く「西洋」からその「炉の技」の原案理論は「貿易」で密かに持ち込まれていたとされる。
    「摂津・堺」では、これに基づき,「試験用」として速い時期からこれを選ばれていたと考えられる。
    そもそもそうで無くては、態々、この「チタンの弊害」を取り除く為には、“「通常のタタラ鉄」”では無く、先ずに“「近江鉄」”を使い、それ故に上記した様に「銃にする為の欠点」を無くすには、「温度と量と炭素の関係性」を保つ事が理論的に必要と成り、結果としてそれには必然的に「高炉に近い炉」しか無かった筈である。
    「近代銃の入手」と共に、そこで「西洋の高炉をも研究していた形跡」があって、それまでの「炉の技術」も生かし、それに近いものを採用したと考えられる。
    然し、その前にそもそも「奈良期」からの「近江鉄の原鉱石を使うとする段階」では、「摂津」には、既に「早い段階では、つまり「平安期頃」では「高炉とするものに近い炉形」が既に「伊勢青木氏部]にはあったとされ、それには「関西で使われていた箱型炉」と「関東で使われていた縦型炉の原形」があったが、この“「縦型炉の改良型」”が既に開発され存在し得ていたと考えられるのだ。
    何故ならば,関東には日本形成事からの地質地形上で「砂鉄]は少ない地質であった。
    そうで無くては、「砂鉄」では無く「奈良期末期」には次々と開発された「近江鉄の原鉱石の4鉱山の経緯」は、存在し得ない理屈と成る。
    そして、「室町期」に向けてこの頃の各地に盛んに成った「鉱山開発」が「成された史実も存在しない事」にも成り得る。
    上記した「超近代銃の技術の所以・鉄と炭素と温度の相関関係」が得られる「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得するには、“「高炉に近いものの改良炉・竪型炉」”で無くては絶対に得られない理屈と成るのだ。
    ここに「通説・高炉は明治期とする説論」とは異なる処であって、少なくとも「近江鉄」が存在し、「炉・723度の0.8%C共析鋼」を獲得している処を観るとすると、少なくとも「高炉的原型炉」を「奈良期の初期」から使われていたとしているのだ。
    「砂鉄の低融点の平炉や箱型炉」では、「低温度炉」で在る為に、「近江鉄の原鉱石を銑鉄にする事」は少なくとも出来ない。
    理論的に「還元炉の高炉」と「不純物除去の転炉」で使うように成る筈である。
    ところが、この「高炉説」を本名する事が起こっているのだ。
    「砂鉄の玉鋼の平炉と箱型炉・江戸期」とは違う方法で製鉄が行われていたのだ。
    やっと「鎌倉期」に成って「関東以北」でも「広く鉱山開発」が行われる様に成った。
    この「鉱山」には、突然に「竪型炉/千葉県」と云うものが使われているのだ。
    この「竪型炉」が「高炉」に似ているのだ。
    つまり、「近江」で使われていた「炉形式」が関東でも使われたと云う事に成る。
    全く同じ型では無いが、「高炉に近い竪型炉の改良型」である。
    「近江」では「青木氏の炉・竪型炉」であって、「匠技」には構造には糸目は着けなかったが、「関東」に於いてはそこまでは出来ずいたみのが、恐らくは「高炉」に近い程度により高くしたものを造ったとされ、これを「竪型炉」としていたと考えられる。
    関東では「発展過程の炉」と云う事では無いか。
    つまり、「近江鉄の摂津」では、「高炉と呼ばれる程度の構造」を既に必然的に独自開発していた事を意味する。
    実はこれには、「還元炉」と呼ばれ、還元するには「コークス」と「石灰」と「還元剤」を炉の高い先端から投入する事が必要とする。
    専門的に古来から編み出されていた「竪型炉」は「高炉の原型炉」と云えるもので、「原理的」には同じ傾向のものである。
    つまり、簡単に云うと、「炉底」は「二重」に成っていてこの「炉底」に「けら銑・銑鉄」が流れ出て「炭素量」の違う「二種の鉄」が出来る。
    最後に、炉全体を壊して「二種の鉄」を取り出していたのだ。
    これでは未だ使え無ず、ここから「不純物・スラグ」を取り除く工程に入る。
    更により純度を揚げる為には、もう一度、「石灰等の還元剤」を加えて加熱して「浮き上がった不純物」を「棒先具・ケラ棒」で取り除くのだ。
    この作業は「銑鉄」の上に比重が異なる為に浮かび上がる為に同時に行う事もある。
    「伊勢青木氏」は、「玉鋼の製法」では目的とする「銃の欠点を解決すべく鉄」が論理的に得られないとして、そこで、その目的を達成させべく長い間「高炉に近い炉の開発」に取り組んでいたのだ。
    実は「高炉を貿易で輸入しての手法」では、「溶融方法」が出来ない「高い還元剤力と溶融温度」が得られないのだ。
    そこで独自に「鈩鉄の炉の中」でこの「目的に近い改良できる炉の開発」を試みたのだ。
    それが「縦型炉の改良の竪型炉」である。
    日本は最も高い効果を出す還元剤の製造には伝統の掟があって使え無かったのだ.
    それは先ず「石炭」を500度程度の蒸気で熱してコークスとして使えば最高の還元剤となるがこれが伝統で出来なかった。
    其れは超毒性の強い酸化硫黄の公害である。

    この原理の検証に続く。p48


    「青木氏の伝統 73」−「青木氏の歴史観−46」に続く。


      [No.396] Re:「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/06/02(Thu) 09:44:52  

    「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」の末尾。

    参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
    この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
    従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
    そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
    故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
    この“「良い味」”には「高度な技術」が潜んでいたのだ。

    故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明であったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ[匠」にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
    他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、求めてめている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
    そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
    恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」に成る前の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。

    それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
    この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。


    「青木氏の伝統 71」−「青木氏の歴史観−44」

    さて、戻して、そこで「鉄」に均等に「炭素とマンガン」のこれが“「結晶間に浸透すると云う現象」を上手く利用できていた”のではとする発想が偶然かは別として生まれて来るのだ。
    そもそも「進歩」などと云うものはそのキッカケは「偶然」によるものが多い。
    参考として、先ずその前に“「結晶とする知識の獲得」”は現実に「技術理論として把握していたのか」の疑問であるが、それは“「貿易か経験」”かで得られていたかは判らないが、それは実は「目視的」に解るのだが、故に外観的には「答え」としては“解っていた”と判断できるのだ。
    つまり、それだけの「経験力」とされを基にした「技術力」を周囲に比べて特段に持ち得ていた事に成る。
    何故ならば、その「試作の単片」を鏡の様に「砥石・日高砥石」の様な「超仕上げ砥石」で細かく磨き上げ、これに強い日光を当てれば「光の屈折」でうっすらとその「結晶の様子」が浮かび上がり、且つ、その「屈折」で僅かに「色合い・結晶の判別が可」も浮かび上がり観えるものである。
    これを更に「うすい2%程度の硝酸塩」に「2分程度浸して」それを拡大鏡で観れば凡その結晶構造まで観える。
    当時としては外国から輸入して「ある程度の拡大レンズ」はあつた事は解っているので、ある程度の範囲の「結晶構造」は観えていた事が考えられる。
    取り分け、前段でも論じたが「酸」の中でも、この「硝酸塩・硝酸カリウム・黒色火薬」は糞尿などを自然発酵させて変化させる事でも簡単に得られるが、故にその身近なものとして古代から既に「狼煙」などにも使われていて「火薬などの発達」と共に古代からあった。

    注釈 因みに 一般に聞きなれないこの「硝酸塩」とは、「硝酸類とアルカリ金属とアルカリ土類金属」との結合体の「塩類」で、古来から糞尿などから造られていたし、肥料にも使われていた最も人類に「身近な化学薬品」とされるものであつた。
    故に、「アルカリ金属類・リチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、フランシウム」と、「アルカリ土類金属類・カルシウム、ストロンチウム、バリウム、ラジウム、 ベリリウム、マグネシウム」であり、取り分け、「リチウムとナトリウムとカリウムとマグネシウム」は炎色の発火性を用いて「火薬等」にも広く多く用いられていて、従って「花火」と云う点では同然に「古代から身近な金属類」として扱われていた古い歴史を持っていたのだ。
    だから、上記の通り「鉄」を鍛える為に加えられる金属類としては身近なものであったのだ。
    上記で論じた取り分け「遷移元素のマンガン」は、「酸に溶けやすい金属」として有名で、性質は「野菜など採取できる身近な金属の亜鉛」にも性質は類似しいて、この「硝酸塩類」と共に古代から広く用いられている金属である。
    この様に後勘から観た「金属の歴史観・学問的知識」を承知すると、「銃の事」に関してにもより理解は深める事が出来るであろう。
    筆者は、大和に於いては「金属知識」は「局部」にではあるがそれなりに高くて広まっていたと観ている。
    それだけに「最先端の専門的知識」で以てこの様に検証する必要があるのだ。
    前段で論じた様に「奈良期から平安期」の「古墳建築や干拓灌漑」を手掛けた「額田部氏」の「土木建築工学的専門知識」は、唐に勝るとも劣らずの知識を持ち得ていたが、「金属」などの「冶金工学的な知識」や「額田部氏」と連携した結果から、「地質学的知識等」も「青木氏部」に依ってその知識は同然で高められて行ったと考えている。
    其の連携は、「青木氏部」は明治初期まで続いたとする事からその技量は「日本のトップクラス」にあったと考えられ、故に「近代銃」にまでのものに応用されるものであったのだと考えている。
    依って、明治初期の「伊勢屋の解体縮小の政治的圧力」では、「額田部氏の起業化・桑名」と「青木氏部の大工会社・2社・寺社大工」と共に「二つの企業化」を成したと成っている。
    然し、この辺の「青木氏部論の研究」も何時かは論じて観たいと考えて準備している。

    従って、この程度の事は「砥石の歴史・奈良期チャート」を観れば判るし、その「日高砥石」は技術の発展と供に歩んで来た経緯があって、その経緯は「歴史の技量」を物語る一品として有名で、「古代の何かの特別な技量」を物語るものには必ず「日高砥石」が出て来るのだ。
    歴史に使用されたものとして青木氏では長く保有して来た。
    これは「刀用だけではないもの」からも判断して技量の判定や確定に利用は出来るのだ。
    現在では、この砥石の代わりに「腐食液・2%硝酸ナイタール」を使ってすれば「顕微鏡等・最低で20倍最大で100倍」で万華鏡の様に綺麗に観えるが、故に、「顕微鏡」が無いにしてもこの「結晶らしき概念の概要」は密かに保有していた事が判るのだ。
    その事から「鉄と炭素とマンガンの関係の知識」とその「結晶的な概念」は「青木氏部」だけには充分にあったと経緯からすると確定できるだろう。
    ただ、この「マンガンに関しての知識」は「概念程度」で相関的な知識は無かった事は解る。
    尚且つ、上記したある程度の要領を記したものが、技量を統一する為なのか「要領書的な物」として「技量伝承の為」にか、「密かに氏人の床下に遺されていた形跡・世間に漏れる事を危険として嫌った」があって、「桑名地域の蔵の資料の一部」が読み取れるのだ。

    注釈 「明治35年伊勢屋解散・摂津に移籍」と共に「青木氏部」も解散し、一部が「桑名の額田」で工業所を創業、その関係する処の一部から資料が発見されている。
    この「多くの遺産物」は「失火消失・口伝・この頃の火事は疑問が多い」したと考えられるが、その様に伝えられている。
    それが前段で論じて来た「額田青木氏の銃の処の検証」であって、「古来・8世紀初期頃」には「近江鉄の生産703年と713年」は下記の通り歴史的に確認されている事から、そうすると「10世紀頃」には「伊勢青木氏」の中で密かにも硝煙は生産されていたと考えられる。
    その「名残の証」として「近江鉱山」に使う「火薬・焔硝の形」で遺されていたのであろう。
    その「名残」が「近江鉱山の近くの村」の「近江の床下・鉱山開発の爆薬」からも発見されていて、それに連動してか前段でも詳細に論じたが、偶然にもこの「要領書的なる物」が、「蔵等」では無く「思い掛けない所・神社の床下」から発見されたこれも「歴史的な由縁」なのであろう。
    つまり、この「発見カ所の床下」から考えると、この「要領書的な物の事・メモ的な物」は“何か特別なものとして観られて扱われていた事”を意味するだろう。

    そこで前段でも論じたが、歴史的には「天智天皇・大化期」には「朝鮮半島の百済復興」に出向き、それに「中国・唐」が朝鮮半島に進出し「白村江の戦い」で敗戦して急いで帰国し、「中国の大和侵攻」の“いざという時に戦える様に、“「中国道・現在の山陽道」を結城氏等に命じてこの工事を急いで完成させ造られたとする「歴史的史実」”がある。
    この時に下関の半島の先端からの「緊急の伝達手段」として「狼煙・焔硝」を使って都に「情報を伝える手段」を「構築・史実」したのだが、この事は既にこの“「焔硝」”は在って常時使われていたが、その為にこれは「皇親族」として唯一の「朝廷の国造の支配頭」をしていた「青木氏・青木氏部」で生産されていた事を示すものだ。
    故に、此の頃からの「青木氏部の存在」は、「近江鉄」に始りその時代の「技術的基礎・国の技術的基準」は「青木氏部」にあったと考えられ、当然に上記の事も含めて「硝酸塩の歴史」も「青木氏部」にあったと考えるのが普通であろう。
    つまり、この「顕微鏡」が無いにしても、この“「焔硝の存在」”に依って使っていたかは記録が見つからないので実録が見つからないので判らないが、“「結晶らしき概念の概要」”をそれなりに「鉄の表面」から、「より鮮明にして明確に確認できる環境に在った事」には成るだろう。
    筆者は完全では無くてもそれなりに使ってたと観ている。
    これは「奈良期からの青木氏部」には、「かなりの技術力が在った事」が云え、且つ、「氏族で独自の部・歴史的に確認できるのは四氏程度」を持ち、中でも総合力を持ち得ていたのは「青木氏部」であって、且つ、「朝廷の物造・国造の差配頭であった事」と「令外官・賜姓五役の事」からも裏付けられる事を示しているものだ。
    「青木氏部」は、要するに当時は「国の工学院的な立場」にあったと観ているが、「院号の確認」は古い為に資料がなく確定は出来ない。
    唯鉱山とその製鉄の技術を保有している限りに於いては技術の総合力を保持していたと考えるのが普通であろうし、青木氏部に比べて他に居なかったとすれば「国の工学院的な立場」の説は認められるであろう。
    況してや賜姓五役の令外官であったのだ。
    他に代わるべきものは無い事は頷ける。
    「青木氏部」の他に確認できる範囲では、記録として残る与えられた「院屋号」は「紙屋院、絵画院、墨具屋院、繪所預院,軍師処、等」が記録に明確に遺されている。
    この事から、一部資料からこの「鍛屋・かや」又は「鍛冶院・かぬやいん」と云う号名が出て来るがこれが「院号」では無かったであろうか。
    そもそも「青木氏部の位置・朝廷との関わり」づけから、この「青木氏部」の中にも「院や屋や号」に相当するものが必ずあったのでは無いかと観ているのだ。
    「近江鉱山を二つも興した青木氏」であれば何も無しはおかしく「院屋号」は少なくとも与えられるであろう。
    況してや「院屋号」を与えないと折角の鉱山の鉄もその販売も出来る事は無いだろう。
    現実にその「功績」を以て「伊勢」に「二度の大字」を与えられて功績を認められているのだ。
    「青木氏」は、自らも「青木氏部」を持ち、且つ、直接には「令外官」として「国造」を支配し、朝廷の「伴造」も「皇親族」として代わって差配下に置いていたとしている。
    故に、その名残として「光仁天皇」の以降は 「諱号」を「伴」にする事が多かったのだ。
    その関係する「青木氏部」の中の一つに上記した「鍛屋(かや)・鍛屋院では」と出て来る。
    この「鍛屋(かや」の号は、「近江鉱山開発の所縁」からの「院号・特区別占有権」を授かった「鍛冶屋(かぬや)の院、又は屋、又は号」では無いか。
    「鍛屋(かや)・「鍛冶屋(かぬや)」に「屋」が着いている処をみると、「紙屋院」と同様に「鉱山を掘る事」と共にそれを「売り捌くまでの事」に成っていたと云う事だろう。

    さて、再び技術論に戻る。
    その「上記の方法」でこの「概要」は少なくとも会得していたと考えられるが、この「炭素」と同様に、「記する処の筆者の読み込み」では、この「要領書的な物の存在」では“「光で映し出された粒の細かさが左右する」”として、その「光具合の技量」を会得していたらしく、それを「青木氏部の匠集団の中」で密かに伝えていたらしい事が解る。
    そもそも他と比べて珍しくも「青木氏の家訓10訓」にもある“「技術の重要性に関する事」”を説いているのはこの事に依る所以であろう。
    つまり「青木氏」の中にその「立場の関係者」のなかには「技量の伝承の義務」みたいなものが江戸期前までは長くあったのでは無いだろうが。
    余談だが、先ず、そもそも「家訓」に「技術の重要性」を説いているものは世間では皆無であろう。
    それだけに「商い・殖産」をしながらも、「技術の青木氏部の存在」が「伊勢と信濃の青木氏」の中では大きかった事を意味している。
    当時としてはこれでは普通で考えれば、世間からも“不思議な氏族である”と充分に観られていた筈だ。
    今で云えば、前段でも論じている事だが、“「販売」”もし、“「物造り」”もし、“「研究所」”も持つ「青木ホールディングス」であったのであろう。
    それでいて、一方で“「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷」”を重んじ維持し、将又、“「巨万の豪商」”と成りながらも、他方では“「質・施し」を「神明社」で施す”と云う処まで及んでいたのだ。
    一方では、“「律宗族」”と呼ばれ扱われていたとするのだから、その「歴史の中」にはその「独特の影響力」は深く「農業の分野」までに及んでいて、信濃と越後から進んだ技術を学び「伊勢の立地」からその「土壌と季節性」に苦手とされる「米の超早場米と酒米の開発・日本初」まで挑んでいたのだ。
    どう考えても、“不思議中の不思議の氏族”と普通に考えれば観られていた事には成る。
    確かに「奈良期の古来」よりその存在そのものが「普通」では無い事は間違いは無いが、これは前段でも論じた様に、「普通」では成り立つ事の無い「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷・院号の伊勢屋」と「賜姓族青木氏」の「二足の草鞋策を使い分けていた事の所以」である事は自明の理であるが、それが余りにも長い歴史を有し続けていた事から、これを世間ではこれが普通の事・当たり前の事と捉えられていた事に成るのでは無いかと考えられし、この事に就いてだけに明確に論じたものはないが、この説論は「流れ」や「状況証拠」から観て先ず間違いはない筈だ。
    だから、それらを纏められていたものが「家訓10訓」にも成り得ていた事は、“不思議な事では無い”し、そうでなければ「伊勢と信濃の女系氏族郷士50衆」からも異論は出て、「氏族存続・全ての事」のそのものが成り立たなかった筈だし、然し、「伊勢と信濃での連携」で成り立ってきたのだ。
    それ故に、当初、「青木氏の解明の研究」に苦労したが、「技術の重要性に関する事」は「大正14年」まで続いたと云える。
    その「科学の片鱗」が未だに「子孫の血液・理数系」の中に色濃くの遺し得ているのだ。

    元に戻して、“「結晶らしき概念の概要」”のそれは、「紀州姥め樫の備長炭・墨」では「細かい事」が良い事が解っていたからであり、それで無くては、“「良い品質の墨」からの「炭」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、略して、専門の呼称として「サイアナイド・浸炭効果」とこれを云うが,特殊な技術」が得られていたのだ。
    これを、“「浸炭としての効果」が出ない”として「青木氏部の中」では伝えて語られていたらしい事が書かれている。
    然し、「一般の技術・主に鈩鉄」では、“「良い品質の墨」からの「炭/炭素」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、「強く硬くすると云う概念」は全く無かったと観ている。
    唯、「幾つかの記録の表現」から「総合的」にあったのは、つまりは、「鍛して・叩いて強くする」と云う概念であったらしい。
    その証拠に「炭素の量」に「拘りの表現」が全くにして無いのだ。
    そもそも「鈩製鉄」では,「内炉の底にたまる鉄・0.10%程度・純鉄」と「炉外の炉低に流れ出た0.28%程度・低炭素」の「二つの鉄の塊」が出来て、それが「鉄表面0.2ミリ付近に侵入した鉄」が二つ出来るのだ。
    これを、“何度も加熱して鍛して折り重ねてそれを繰り返しで造った玉鋼」は出来るのだが、元より「炭素の量」に「拘り」が全くにして無かったのだ。
    ところが「近江鉄」は鉱山から掘り出した「鉱石」であって「砂鉄の箱型炉」では無く、新しく鉱石様に開発された「竪型炉」から出来る為に“「浸炭としての効果」を強く求めたのだ。
    両者の求める「技術の領域」が全く異なっていたとする「大きな技術の経緯」があったのだ。
    だから誰も真似は出来なかったと云う事があった。

    略して、「専門の呼称」としては「浸炭・サイアナイト」と成るのだが、要するに特別なのだ。
    この「一連の銃の研究」では、「約20年の試行錯誤の結果」から、その「温度に依って左右している事」を把握したとしていて、「内部の結晶・結晶の表現」としは、記録に無いが、但し、唯単に“「粗鉄・あら鉄」の「炭差」”の「意味合い」として記している。
    これは、況や、「鉄の細かさの温度に依る変化」として捉えていたと云う事に成るだろう。
    この様な「専門的な見地から記されている事」を要約すると、先ず「墨」の如くに極めて「粒を均一にして、更に「極めて細微」にして、それを先ず「熱・灼熱」して、「粗鉄・あらてつ・結晶を開いて」にして、これに「繰り返し」で「浸・浸透」させ、「鍛」し、これを以て「繰り返し」、その「技・熱処理」を施し、その後に「冷する」とあり、更に、不思議にその後に“「低く焼する」”と「添え書き」があり、「要領書・メモ形式的・古くて読み難い」に記されている。
    但し、この“「鍛」し”、は “「鍛える」”と云う「意味合い」だけでは無く、主に“「繰り返しの過熱」”に等しい「意味合い」で表現しているらしい。
    この「加熱を繰り返す事」に依って「墨、又は炭が浸みこむ事を促進させる」と云う意味合いで、“「鍛」し”、の呼称が使われていた事に成る。
    但し、この事は鈩鉄とは根本的違っている
    つまり、この事は近江鉄では「メインの作業目的」には、「墨、炭の量を微妙に調整していた事」に成るだろう。
    正しくは、この「工程」において「炭」では無く、最早、「細墨」を越えてであって、「炭素・Cの意味」を成している。

    それは次の理由による。
    1 加熱の炭
    2 鉄に付着している不純物の除去・還元作用・炉中で炭酸ガスに不純物は酸素に吸着させ、その代わりに炭素は鉄の結晶間に浸み込ませる。
    3 鉄にガス程に細かく成った「墨/炭素]を浸み込ませ浸炭する。炭では分子が大きすぎて浸みこまない。

    奈良期ではまだ「1の加熱炭」であったが、その平安期中期頃には「2の還元・入替」に気づき、平安期末期には「3の浸炭」へと進化を遂げた。
    兎も角も、上記の時期は捉え方で確定は出来ないが工程は次の様に推移して行った。

    「近江鉄の進化」=「1の加熱炭」→「2の還元」→「3の浸炭」

    つまり、この「20年の試行錯誤の経験」から、この前段でも論じた様に上記の数式の工程から既に「青木氏部」は、「墨の殖産の技術・墨・炭の経験」を持っていて、それを「高温に成る良質の備長炭の加熱材を使用した事」から、“偶然にも“「表面が少し固く成る事」”を知り得たと考えられる。
    要するに、「浸炭硬化」であった。

    ところが、その“「固さ」”と表現するものが、然し、実質のその特性は、“「硬さ」”であるのだが、これをより得る為に「何度」も上記の通りに、“「鍛する事」”と“「炭で加熱を繰り返す事」”で「得られる事」のこの“「三つの技」”を把握したのであろう。

    そして、「注目する事のもう一つ」は、その中には、「鍛する事の意味」が「鈩鉄」と違っていた事が理解した事が解る。
    この「鍛する事」で、「加熱によって拡大した結晶」が潰され、且つ、その「エネルギー」で「硬くなるの効能」では無く、「一度に炭素を継続して浸み込ませる技」よりも、「何度も加熱を繰り返す事の技」で、より「炭素を浸み量を増やす改善策」を見出した様であったが、これの進化が主であった様であり、その事によって「最悪の品質」を招く“「結晶の拡大」”を防いでいた様でもあり、その事が知っていたかは別として把握していた様だ。
    故に、この結果から、「要領書的な物の事の遺す重要性」があって記され、それにはその得られる性質を“「固さの表現」”と成ったと考えられる。

    然し、この「事実」はこの二つは下記の“「特別な現象」”で違うのである。
    さてところが、この“「固さと表現」”に付いて其の侭では、折角の“「欠点解消の処置が裏目に出る」”と云う経験をして仕舞ったのだ。
    この後で「収縮や変形や亀裂や炸裂等」の好まない「欠点の事・ロ」の顕著の特徴が、恐らくは、「試作中・試撃ち等か」に発生したのだと考えられる。
    つまり、文章の行を読み取ると、「何の為の試行錯誤経験か判らない事」が起こって仕舞っていたのであろう。
    故に、将又、更に「試行錯誤の経験・やり直しの過程」に入った様だ。
    兎も角も、工程を元に戻す為に行った「低く焼している事の過程」で、この「欠点の事・ロ」が何故か「消えて治っている事」に気づいたのだろう。

    これが、要するに“全ての熱を掛けて仕上げた物”に、もう一度矛盾するかの様にその「熱の影響を除去する為の熱の処理」が必要とする事に気づいた事に成る。
    これは当時としては当に「原理矛盾」である。
    ところが、それが,現在で云う「テンパーリング・応力除去の概念」と云う「高度な技術」なのであって、それを知らずか獲得していた事に成るのだ。

    抑々も“この世に於いて固くはなるが硬くもなる”という事は、この「自然界」に於いては原理的に無い。
    その“「硬くなったもの」”、そのものには、この世に於いて「一般的に得られない事象]であって、その「事象」を知っていて恣意的に人間が造り出さねばならないものである筈だ。
    従って、この様に「作り代えたもの」には、“何某かの次元変化を興させねば元には戻らない”筈だ。
    それが適用されたのが、この「金属にのみ発生する原理矛盾の熱処理」なのだ。
    故に、その上で結果として“「要領書的な物の事」”に示す様に「原理矛盾の技術理論」を纏めて遺し確立させ獲得したと考えられる。

    ここで、この“「固さと硬さ”に関する検証・概念では大きく違うのだが、然し、この「概念の解決」が必要と成ったとみられる。
    現在から観ると、先ずその概して云えば、その“「硬さの概念」”はこの事で完全とは云えないまでもある程度に掴んでいた様である事は認められる。
    然し、これを専門的に観れば未だ「大きな未熟の一点」としてあった事が確認できるのだ。
    つまり、それは此処では、当初、何度も「加熱―鍛えー再加熱ー冷しー繰返し」の「五つの工程事で得られた特質」と考えられていた様であるが、実はこの「昔の概念」は大事な処が一つ抜けていて違うのである。
    確かに、この「五つの工程事」では、「鉄」がある温度に依って「炭素」が偶然に「結晶」に浸み込み、それが「結晶の縁」に「浸み込み」が起こり、それが「鍛される事」で潰れて「原形」より「薄く」なり、これが「繰り返される事」で要するに「固くなるとする一般概念」として受け取られていたらしい。
    ここが違うのだ。
    これは降る程度の範囲では確かである事は完全に否定はしないが、然し、実はこれは“「固さ」”の「直接的効果」では無いのだ。
    飽く迄も、上記した様に冶金学では此れは、本来は上記した様に“「固さ」”なのであるからだ。
    ここには、何故ならば“「本来の硬さ」”から来るものには、必ずこの「自然界」では観られないある“「特別なあり得ない現象」”が起こっているものなのだ。
    これが起こっている限りは“「固さ」”では無いのだ。
    これでは、この時代では未だ当に「獲得し得ていなかった概念である事」は成る。
    それは、これには“「固さと硬さ」”に関係する「大事な結晶理論に伴う事」が起っているからなのだ。




    これは、「結晶の概念」に付いては、当時としては未だ“「鉄の細かさの温度に依る変化」”としてしか「概念」が無かった事の所以」なのだが、従って、それをこの「記録」では“「粗鉄・あらてつ」”と記されている所以でもある。
    “「粗鉄」”はで飽く迄も「鉄の域」を超えていない。
    「鉄」を「粗い」と「細かい」とに分類しているだけであってこれには「結晶の大小の概念」がない。
    要は、「鉄」には「粗い」と「細かい」ではなく、“「結晶の大小の概念」”が必要なのである。
    “「鉄の粗い」”は、必ずしも「結晶の大きい」に相当するとはならないのだ。
    何故ならば、「鉄の粗いの定義]としては、これには「均一性」が無く、この「粗い」の中に「細かい部分」も含んで「粗い」としている。
    「鉄」は「使用」に際しては、“ほぼこの「均一と細かい」で無くては使用に際しない”のだ。
    従って、「鉄」には「均一と細かい」が必ず求められ、この「均一」に「不均一としての不純物」が介在していればそれが阻害して「均一・又は均一性」は得られないのだ。
    故に、「不純物の除去。還元」が求められたのだ。
    結局は、「粗い」と「細かい」ではなく、それは「結晶の大小の概念」が必要と成って来たのである。
    何故ならば、この「不純物」は、この「結晶間」に存在するからだ。
    この「結晶」を小さく求めて行けば結果として「不純物」の「ノロとスラジ」も消えて行くのだ。逆の事も云える。

    処で、この「鉄の中]で、この「結晶を小さく求める事」は並大抵の事では無いのだ。
    「鉄を加熱する事]はそれは粗くなると云う定義に成るのだ。これを繰り返せば繰り返す程にその粗さはより増すのだ。
    「鉄の工程」としてはこれは「論理矛盾」である。
    「温度」を上げれば挙げる程に「結晶」は大きく成り、時間も長引けば長引く程に大きく成るし,その分だけ「鉄」は「結晶間の力」が弱く成り脆く成るのだ。
    ではどうするかであるが、この「鉄」には「ある特定の限定された温度域」で「適度に加熱する事」で「細かく成ると云う事」が不思議に起こるのだ。
    これは「論理矛盾の解決」である。
    この神が与えた「特定の温度」を把握する必要があるのだ。
    そうでないとそもそも結晶間に存在するものは何であれ「弊害物」と成り得ても脆く成るのである。
    これを「無弊害物」にしなければ成らず、同時に強くする物質に換えなければならない。
    ではそこでこの「結晶間に浸み込んだ細かい炭素」は、「不純物」として成り「炭素の効果」を発揮しないのだ。
    寧ろ、普通の理論では「浸みこんだ炭素」が逆に概して「結晶間の間」に入った「不純物」として「鉄の表面強度」を弱くして仕舞うのだ。
    結果として場合に依っては「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に全面に走るのだ。
    故に、当時としては「炭素」は「不純物」と観ていた筈だ。
    然し、ところが「加熱材」として、又「還元剤」としても使わなくてはならないのだ。
    「鈩製鉄」の「玉鋼」は、当に当初よりこの概念の中にあるが、「703年と713年の近江鉄」では「鉄鉱石」であって、ここから原鉱石を溶かして「鉄」を引き出し、「炭素と石灰」を使ってその反応強さで結合させて「各種の鉄を造る事」に成るのだ。
    故に、「玉鋼」だけには限定されていない。
    「不純物」と観られているこの「炭素」は、「近江鉄」に執つては逆で、つまり、「炭素と石灰」を使う「竪型炉」に執っては「必需品」と成り得るのだ。
    但し、この「近江鉄の竪型炉」に執っての必需品には、飽く迄も「不純物」である以上は「難しい限度」があるのだ。

    故に、「結晶間の不純物」と観られている「炭素の存在」は「鉄の性質」に大きく左右するのだ。
    従って、「鈩鉄」に比べて「近江鉄」ではその特徴を掴めば歓迎されていたと考えられる。
    とすると、この歓迎されている以上の「近江鉄」には、「不純物視」されていた「結晶間の炭素」を「コントロール」していた事に成り、逆に「炭素の少ない鉄・やわらかい鉄」から「炭素の多い硬い鉄」を生産する事に進化を遂げて行ったと考えられる。
    ところが上記した様に普通で考えれば「不純物」である限りは「近江鉄」には「限度」が存在する事に成る。
    この「限度」を掴まなくてはならない。
    それも「結晶間」に存在する限りは「破壊」に繋がるからだ。
    これを「青木氏部」は絶対に掴む必要があった筈だ。

    さて、もう一つこの“「限度」を掴まなくては使え無い”という事が起るのだ。
    そこで、それが「鉄」である限りは、先ず「加熱と冷却の熱処理」をすることが求めらる。
    「炭素量」が多く成れば成る程に、そもそも「炭素」が基本的に「不純物」である限りは相当に鉄の純度を上げない限りは「熱」に依って存在する「結晶間」で破壊するのだ。
    では、この「ノウハウの知識」が進んでいない以上はその限度の数値は「偶然把握」であり、どの様に「偶然の一致」がこの「近江鉄」に起こっていたかである。
    学問的に研究調査で後に判った事ではあるが、この「不純物の炭素」の「鉄の結晶間」に浸み込む程度は、「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」でこれは定まっている事に必ず気付くのだ。
    だと云いながらも、現実にはどの様にその限度を調べるかであってその方法が源るられていた筈だ。
    「最低で0.25%程度」、「最高でも1.3%程度」で限度は発生する。
    この「高い炭素」の場合は、「炭素の弊害」を無くす為の「特殊金属・マンガン等」を加えなくては使えないのだ。
    これは現在で判った知識であって、当時は「採取できる鉱石」に自然に含まれていてるもので、その量も決まってくるのだ。
    資料を読み取ると、「炭素」ではある程度の量で、それを「酸化する程度」で把握していたらしい。
    「マンガン」では含まれる「自然量」は、「鉄に含まれる金属の量」で「自然と鉄の反射色」が変わって来るので判る。
    採掘場所で異なるので、ここの「マンガンを含んだ鉱石」は「錆び難い鉱石の事」で判るし、「還元」を強くすると「炉の入り口に溜まる量」でも判るのだ。
    これで「鉱石を選んでいた事」が書かれているが、「炉の入り口に溜まる量」を集めて炉中に入れ直しても使えないのだ。
    何故ならば、「マンガンの融点」が高い為に「鉄の中に溶け込まず遊離して存在する事」に成るので、結局は不純物に成り破壊に繋がるのだ。
    従っても「マンガン等」は明治期の高炉でやっと使える様に成った事が書かれている。
    戻して、「炭素の量」はマンガンなどが除去された後の「酸化程度」で見極めていたらしい。
    その証拠に古来では、「箱型炉の炉低外に流れ出た鉄」は、「深い船底の様な穴」に流し、そこで先ず「微粉末の炭」に包んで保護していた事が解っている。
    これは「酸化を防ぎ目的」と、「炭素を表面に浸み込ませる目的」で行っていたものであるらしい。
    これを「二度目の加熱」で更に「炭素を浸み込ませる目的」であったらしい。
    最高で四度も「製鉄加熱」を繰り返していたらしい事が書かれている。
    これは当に飽く迄も「酸化防止を目的」とした「炭素の量の浸炭目的であった事」に成る。

    この「近江鉄」を「青木氏部」が「鍛冶院・かやいん・かぬいん/鍛冶院/かやいん」として「号」を以て扱う以上は、この「数値」を掴む必要に迫られていた筈だ。
    少なくとも、「自然の摂理の概要」に左右されている程度の事を「平安期中期」までにはその歴史的経緯から逆算して観て知っていなければならなかった筈だ。
    そうで無ければ当時としては、「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」も「偶然の自然の理屈」で決まっている以上は、つまり「論理的な理屈では導き出せない事」から下記の「温度域・723度」をも把握できていない筈だ。
    「近江鉄」は下記の「温度域・723度を使えない事」に成っていた筈だ。
    ところがこの「温度域・723度域を使う事」で解決するのだ。
    根気いる実験しか無かった筈だ。
    然し、結果論から「1540年〜1550年頃」には、最早、この「温度域・723度」は「銃の欠点克服の為」に「試行錯誤の上」で掴んでいた事に成る。
    この「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」に直接影響している“「鉄の理想的な結晶間の炭素量」”の「温度域・723度」であって、此処にだけに“「共析鋼」”と呼ばれる鋼にある事を、概して少なくとも掴んでいた事に成り、逆の事も云える。
    完璧な「偶然の自然の理屈」で出来る表の様で無くても「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」では、“それなりの「ポイントの繋がり」”としてを掴んていたと考えられる。
    それは「竪型炉の加熱時の備長炭の墨」の「木炭の加え方」と「石灰の投入の仕方と量と質」に「ノウハウの源」を府詰めしていた事に成る。
    少なくとも「無秩序な木炭と石灰の加熱と量」では得られないと心得ていた事に成る。
    これは「匠の極めた範囲のノウハウ」であったのかも知れない。
    これ等の事は「青木氏部」に秘かに引き継がれていた事に成る。
    だから、「鎌倉幕府に竪型炉による製鉄方式」を求められて「関東の鉱山}に拡大する事が出来たのだ。

    注釈として「伊勢本領安堵」の秘密裏に駆け引きに使われた事が考えられる。
    前段でも何度も論じたが、「青木氏部」から廻していた「鍛冶師の日野」の「ノウハウ」を薩摩藩等が秘密裏に「引き抜き事件」が1550年代に起きたが、この時には「伊勢の指示」に従った「日野の職人」の殆どは「伊勢の指示」に従い「伊勢」に逃げ帰って「青木氏部」に戻った事件があった。
    それ程に、「青木氏部の保有する銃の生産のみならず製鉄のノウハウ」にも興味が集まっていたのだ。
    取り分け、「近江鉄の4つの鉱山の製鉄」には「竪型炉のノウハウ」も含めてこれらは「鍛屋院の青木氏部」しか持ち得ない「製鉄ノウハウのかたまり」であったのだ。

    それにはどうするかであるが「以下の事」が同時に考えられていた筈である。
    「鉄」には「特徴ある特定の温度域」で突然に細かく成り、同時に不思議に「結晶」は丸く成り、「鉄」は四方からの負荷力が均一化して強くなると云う特徴を持っているのだ。
    その「加熱温度」が「600度〜650度」と限定されているのだ。この温度域に結晶と炭素に限り起こるのだ。
    これも偶然の原理でこの「不思議な温度」なのだが「不思議な温度」だけに色々な名で呼ばれている。
    「微細化温度、球状化温度、均一化温度、応力除去温度、安定化温度・・・等」の「全ゆる熱処理」で起こった欠点を克服する温度でもあるのだ。
    現在では結晶に限り「再結晶処理温度」とも云うのだが「金属の熱処理」としては、丁度、「中間の温度域帯」に位置するのだ。
    然し、この「金属の熱処理」の概念は「近代の新しい目的」から来た見つけられた熱処理で過去に於いては其処まで金属に対しての必要性も無かったであろうし、判らなかったであろう。
    では、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」に、ではこの“「特徴ある特定の温度」”で処理すればよいか”と云うと、問題と成るのは、“どの工程で行うか”によりそうでもないのだ。
    要はその効果の問題である。

    先ずその前に「この概念」はそもそもが未だ把握していなかったであろう。
    先ず「処理」が難しすぎるからだし、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」の「目標達成」には意味が大きすぎる。
    そこまでしなくても、ほぼ「額田青木氏に与えた銃の欠点除去の目標」は達成できたからだ。
    それは「近江鉄」が使った「竪型炉」から得られる「鉄鉱石」には、「特徴ある特定の温度域」は何も必要としないのだ。
    従って、下記にその「温度域・723度・共析鋼」を記しているが、偶然にも「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に走る事は起こらなかったのだ。
    だから、この「要領書の粗いの表現」からして書いた時のものは「完成時の物」では無い気がする。.
    「偶然」にも「凄い温度域」をこの「近江鉄」で見つけ出したと云う事だ。
    侭さに上記した「偶然温度」であるのだ。

    先ず「鉄の不純物」にはある「物理的な特徴・比重差」があって、これを「攪拌する事」で一か所に集中する性質を有するので、これを「く字型の道具」で取り除く事は「鉄の場合」は比較的に容易であるのだ。
    唯、「鉄」に科学的に付着しているものには、「石灰」と「木炭に依る炭酸ガス/加熱材にも成る」で「還元する事」で可能であるのでこれは一般の製鉄の工程通りである。

    以上の“「不思議な現象」”では、当時に於いては当然に「この概念に到達する確認できる術も無かった事」も頷けるが、さてだからと云って完全に無かったかと云うとそうでもないのだ。
    そもそも放置できない事だからだ。
    それは何度も論じている様に、これも“「紀州産備長炭の特徴」”にあったのだ。
    これをその「産地の紀州の藤白地区」から運んで来て、この「砂鉄」の「鈩製鉄手法の箱型炉」を、先ず「箱型」を「縦」に向けて、それを改良して、「炉溶温度」を上げられる様にし、それに合わせて改良を重ねた「竪型炉」を態々造って使っているという事なのだ。
    「鈩製鉄」の様に、単なる「木材」を「炉」に投入してそこから時間を掛けて「木炭」にしてでは無く、この改良した「竪型炉」では既に先に「備長炭」にして炉中に投入してから使っているのだ。
    「木炭」に成るまでの「無駄な時間と工程」を省いて直に「木炭効果」を上げる事で「木炭による還元反応」を高めた事と、「木炭(備長炭・墨)」を「鉄の表面」に浸み込ませて「硬く錆び難くする改良」を重ねたのだ。
    それは「鉄の表面層」に「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭・炭素」が幕の様に成って「浸みこむ事」を掴んだからである。
    「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭の炭素」は、化学組成上は「錆びない物質」であるからで、「錆びる鉄の物質」の表面層上にこの「錆びない物質の侵入」があれば、結果としてそれが「障壁」と成って「錆び難い物質」に代わる筈である。
    これで先ず「浸みこんだ微細炭」で「目的の一つ・錆び難い物質に変質」が達成されたのだ。
    序でに、他の「二つ目の目的」を先に云うと、この事は同時に“表面が硬く成る事”であり、この「硬く成る事」に依って「二つの原因(炭素が変化して硬化する=炭素が表面硬化を起こす」を起こすのである。
    更に他の「三つ目の目的」を先に云うと、この事で“表面が硬く成る事”で「摩耗性」が向上する事である。
    そして、この「摩耗性」が向上する事にも「二つの原因」が起こる。
    それは「炭素の高い滑り性と高温での結晶が変わり鉄組成の変化」があり「表面」は硬さで強さで改良されるのだ。

    注釈 そもそも 「還元反応」とは、「鉄」に外の物質が化学組成上で付着していれば「鉄」からこれを剥がさねばならない。
    これには化学組成上の結合である以上は、化学的に剥がさなくてはならない。
    この剥がす作業には「二つ」あって「酸化と還元」であるが「酸化」は「相手」も傷つけ壊して剥がす。
    相手に傷を着けないで剥がすには、この「還元」で付いている部分の化学組成に反応させてそっくり剥がして自分の方に付着させる手法で、これを使う。
    これらの事を科学的に把握していたかは別として何らかの形で使っている以上は古来から把握していたと云う事だ。
    一部の資料では「自然界に起こる偶然の結果を見習ったという事」であったらしい。
    その証拠に当初は加熱するのに「藁」を使っていた事から獲得したと観られている。
    「加熱の藁」は燃えれば「灰」に成り高い還元の効果を発揮する。
    これが「石灰石」に匹敵したのであろう。

    この手法の「良悪の問題」は、ここにあって「期待する効果」がそれだけなのかである。
    つまり、そもそも “何故にこの「細かい紀州備長炭の墨」が良い”と判断していたのであろうかである。
    “何かが在ったから良いと判断していた”のであろう。
    そしてこの「難しい疑問点・細かい墨」に、言い換えれば “「青木氏部の技術の概念」がここに到達できていなかったのか”である。
    その「答え」は、実は当初は青木氏部も“完全には到達できていなかった”のだ。
    何故ならば、この“「細墨の疑問」”に就いては、そもそもこの“「自然界」”に存在しない“未来の現象であって難しすぎるから”であった。
    これは「当時の事」としては「当然の事」であろう。

    そこで、“ではどの様な事の「未来の現象」が起こっていたのか”である。
    これを解く事が少し専門的で難しいのだし忘れ去られる可能性が高いが、「青木氏」がこの様な「銃と鍛冶屋院での鉱山開発の事」に関わったのだと云う事の「青木氏の将来の為」に誤解を恐れずにここで出来るだけ判り易く下記に解いて遺して置く。
    そもそもこのような立場に置かれていたのは当時としては「910程度の氏族」の中で唯一であったろう。

    確かに上記した様に、「五つの工程事」の様に、“「何度も鍛える事」”で「鉄」にはある「一定のエネルギー」が加えられ、その「エネルギー」が「鉄」に「何かの形」で残る筈である。
    この事で、この場合は確かに「要領書」に記されていた“「固さ・A」の概念”であって、それは確かに先ずは増すのだ。
    そして、「通常の鍛えた鉄物」は、確かにこの“「固さ・A」の概念”は先ず得られる。
    ところが、「火縄銃等の殆どの鍛物」のものには、この“「固さ・A」の概念”では済まされない何かが出ているのだ。
    然し、此れでは上記した「火縄銃等を含む銃に起こる欠点」を補えていないのだ。

    ところが「額田青木氏の超近代銃」に施されていたこの“「硬さ・B」”では、
    「紀州備長炭の炭・細かい炭素」と、「数度に鍛える事・加熱の効能」と、
    その「事の時間と温度」の“「三つの要因」”で、
    この「炭素の量」が“「結晶間に残る量」"としては増えるのだ。
    当初は「炭素が結晶間に残ると云う概念」がそもそも無かったであろう。
    それも「炭素」であり、この「細かい炭素」が鉄の中に残ると云う概念が無かったと考えられる。
    「途中の段階」までは “「鉄に浸み込んだ」”と云う風な程度に思い込んでいたらしい。
    でもそうだとすると、「鉄の何処に浸み込んだと思ったのかである。
    当然に「結晶の間という事」になろうが、この「結晶の概念」がそもそも低かったのであるからどの様に考えていたかである。
    ところがこの段階でも未だ「鉄が結晶の網」で出来ているとは思っていなかったらしい。
    「鉄」の何処に浸み込んだと認識していたのかである。
    餅の様にところどころに浸み込んだ程度で在ったのだろう。
    “水に墨が黒く浸みた如く”と思っていた様な事が書かれている。
    初期では「鉄などの鉱物」を「粘土の様な固い物」と同じと考えていたらしい。
    ところが、その途中で、「結晶の概念」を“何となく獲得した時」”があったらしいのだ。

    それが顕著に考えられる時期が来たらしい。
    それは「炭素」が浸みこむと鉄の表面の色が灰色に変化する事に気が着いたらしい。
    要するに、“「光の屈折”」で色が変化する事の認識を獲得した時であろう。
    この事は当然であり、「浸透した結晶間」の「難しい疑問点・細かい墨」、即ち、「炭素」が「光の邪魔」をして、その「炭素の結晶間での凹凸」で「光の屈折率が違う事」が起るがこの時の様だ。
    当にこの時に「結晶と云う概念・網」を「鉱物の鉄」に対して持ち得たのであろう。
    この「概念の取得」が「近江鉄の鋼の最も良い使い方」であったのだ。

    注釈 「結晶の語源説」には明治からの新しい学問であった為に外国語説が多いが、その言葉は元は「結晶」では無く「クリスタル」であり、ところが日本では違うのだ。
    「結晶の字形]から判断してでは,“三方からの「太陽の光」が結んだもの”としてあり、それは「石英・酸化シリコンの結晶」として判断していて、それが昔からある身近にあった「透明の水晶・シリコンの結晶」であったらしい。
    この「水晶」に当たる「光の行方」を観て定義したとする説もあるのだ。
    当に定義とするには「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」は「日本古来から存在する大変多い古来の宝石」として扱われそれの定義は適切である。
    筆者は、古来の人は、日本列島は地質学上で「石英列島」であって、山を歩けば直ぐに見つけられる結晶体である。
    この身近な何処にでもある「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「概念・認識」の根底にはあったと考えていて、だから、「鉱物の鉄」に含まれた「結晶間の炭素の屈折光」には、この「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」を観たのでは無いかと考えている。
    因みに、「ひすい]も「こはく」もこの「シリコンの石英の結晶体の一種」でその中に含まれ「微量のアルミかナトリュウム」かの違い色合いは起こるのである。
    この「珍しい事」による「宝石」とさせれる「結晶」は、殆どは「樹液や石や植物等」が地球の地下深くでの圧力で固形化したものでこれを「宝玉」と呼ばれる事と成ったものであり、「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「鉱物が結晶化して宝玉」となったものは少ない。
    況して、故に当初は「鉄と炭素の結晶化の認識」は無かったであろう。
    実は、「たたら製鉄の箱型炉」の「炉外底の炉池」には「溶融鉄が流れ出して来るシステム」と成って溜まるシステムとなっているが、この「炉底池」に「炭」が敷き詰められているのだが、これは、「鉄と炭素の結晶化の認識」からではなく、「高温の鉄の酸化を防ぐ目的」で上と下から「炭」を蒔いて覆い「酸化を防いだ事」が解っている。
    これ即ち、「炭素は「鉄の結晶に浸み込ませる目的」では無かった事」を物語っている。
    「炉中底」にも一部残った「溶融の鉄」もこの炭が敷き詰めた炉外底に最後は流されるのだ。
    つまり、「炭」は「酸化を防ぐ目的」にあった事に成る。
    だとすると、此れでは「酸化の認識」はあったとしても、その逆の「還元の認識の定義」を高める事の例に突きあたらないのだ。
    「箱型炉の鈩製鉄」にしても、「竪型炉の近江製鉄」にしろ「鈩では炭」、「近江製鉄では石灰石と炭」を「還元剤」とする化学反応を明確に意識して使っているのだ。
    ところがこれでは「還元の認識の定義」を高める事の例に合わない。
    それは「酸化」より「還元」の方が「常識」であったのかであるがそんな事は無いだろう。
    「確かに害の無い還元」であったとしても、「何れの製鉄」でも使っている以上は認識はあった筈である。
    「鈩製鉄」では、「加熱材」として「藁と木材」を大量に投入し炉の中で熱を籠もらせて投げ込んだ「砂鉄」を溶かす。
    その結果として「藁と木材」は、「灰」と成り、この「高温に成った灰成分」は「還元反応」を結果として招く。
    これが「メカニズム」である。
    飽く迄もこの時は“「加熱材」”であって“還元剤」”では無かった事に認識は成る。
    つまり、「還元の認識・概念」は当初は無かった事に成る。
    ところが、対比する「近江鉄の竪型炉」では、「加熱」は「木炭」で、「還元剤」として明確に加熱材を兼ねない「石灰石」を投入しているのだ。
    勿論、「木炭」であれば高温に於いて加熱中に先ず炉中で「鞴の酸素」と反応して「一酸化炭素」と成り、これが「鉄の表面」に反応して初期には「還元剤」として働くのだ。
    これが更に「加熱」が進むに従って、この「石灰石」が「溶融・900度」して「還元反応」を起こし「科学的な還元」を本格的に起こすのだ。
    その為には「竪型炉」はより溶融点を挙げる必要があって「改良の必然性」が高くなった一つなのだ。
    そこで、何故、突然に「石灰石」に意識が飛んだのかという事である。
    それは恐らくは、「鈩製鉄の箱型炉」に使う「加熱の藁や木材の灰」のその「効果」が大きく、その「灰」の「加熱の末路の凝固」の中には「炭酸カルシウム等・白い粉の塊」が多く含まれ冷えると凝固し当初は「邪魔物」として扱われていた。
    ところが「鉄鉱石に着いている付着物の撤去・邪魔者」は、結局はこの「白い石の灰の塊」にあると認識し、これが「還元」として働いているのではないかと云う概念を持つに至った筈だ。
    だとすると、「白い石の灰の塊」を獲得する為には、「青木氏部と額田部氏の協力」を得てその「専門知識」を生かして、その「山の同じ成分」と観た「山の石灰層の切り崩し」にあると観たのではないだろうか。
    「消石灰の原料」は、「石灰石・炭酸カルシウム)」である。
    この「石灰石」を砕いて「炉」で加熱した後に、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来るのだ。
    だとすると、「白い石の灰の塊」は、要するにこの“「消石灰」”である事に成るし、恐らくは「骨粉などの苦土石灰」も使っていたと考えられる。
    要するに、「石灰石」=「消石灰」=「白い石の灰の塊」として繰り返し砕いて使えば「還元効果」はより生まれる所以である。
    これはこの段階で、これは「竪型炉」に改良してそれに依って「溶融温度が高くなった事」に依る効果であって、その時に「還元と云う概念」をこのでの実績での事で明確に持ったという事であろう。
    そもそも、これは「箱型炉では得られない概念」で、「竪型炉で得られた概念」であった事に成る。
    つまり、これが年代的に竪型炉の開発と近江鉄の開発の「703年と713年と云う事」に成るのだ。

    注釈 「苦土石灰の成分」は、要するに貝粉や骨粉の堆積であり、「炭酸カルシウム}と「炭酸マグネシウム」が主な成分であり、 これに対してこの「消石灰の成分」は、「水酸化カルシウム」が主な成分である。
    何れも「日本列島の成り立ち」から無限にあって積極的に使ったと考えられる。
    ところが、「石炭」は、これに代わるものでありながら「古来」より列島にはその存在が多く認められて使われていた記録がありなから、それが「最大の加熱材」で、且つ、「最大の還元剤」を兼ねているのに「歴史・青木氏部」は何故か使われていないのだ。
    その「原因]は当にその「有毒の硫黄・亜硫酸ガス」であるからだ。
    この「石炭の硫黄」も、この「石灰石」を砕いて炉で加熱した後、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来る様に、同じ工程で「石炭も石灰」も元は地球上の生物の化石であって、故に「全く同じ工程」を踏めば出来る筈なのだ。
    これに依って「無害の石炭・コークスの名称」が得られ、「石灰=コークス」として使えている筈なのだし、「技術が無かった」と云う事では無いのだ。
    然し、この処理も知り得ていて敢えて使っていないのだ。
    何か「宗教上の掟」に依るものかであるが、それも記録が無く、この「記録}が特段に無いと云う事は他に「有毒の硫黄」の「宗教上の掟」としか考える事は出来ない。

    そもそも、その温度は「500度」だが50度+のそれだけの違いであり、これは全く「技術の有無」ではない。
    要するに処理後の呼称は「コークス」であり、それでも使わなかったのだ。
    「石灰石の処理」を知っていた限りは使えた筈だ。
    「明治期の高炉」までこの「コークス」は頑なに使わなかったのだ。
    それは「石灰石」などで「還元」は充分であったと云う事かもしれないが、然しながら「還元力」は、兎も角も高い温度が得られる「加熱材」等の「三つの高い効果を持つ」のには、現在もこれに代わる物は無いのだ。
    後は「青木氏部」である限りに於いて「積極的に使わなかった事」が原因して後世に於いて後段で論じる「神に捧げる物の定義」に扱われたのかである。
    つまりは、これが「鈩鉄と近江鉄の違い」から発生した結果かである。

    さて、話を戻す。
    「結晶論」の此の“「結晶間に残る墨量・炭素の量」”の「鉄の結晶間の縁だけに増えた量」が、「鉄の量」に対しては、「炭素・0.8%」に達した時に初めて、“「ある変化」”が「鉄の結晶間」で起こるのだ。
    理屈ではなく「自然が造り出す原理」である。
    何度も経験しなけれは得られないし「自然が成す基準値」である。
    これが当時としては、最大限に「難しい疑問点・細かい墨」であった筈なのだ。
    それが起こったのだが、「青木氏部」に執っては「何事も驚きの瞬間」であったろう。
    そもそも、それが何が起こったのかである。
    更にどんなに条件が整ったとしても、唯一つは“「墨・炭素に成る為の細かさ」が細かい”と云う点で、これも「偶然の事」で起こっていたのだ。
    唯、「細かい炭」であれば起こるという事ではないが、その“「細かさ」"が得られる「偶然の墨」だったと云う事だ。
    その確実に起こり得る「加熱中の偶然温度」が、何と不思議に、どんな条件でも“「723度・変態絶対温度と云う」”と云う点に限定されている事に成っていたのだ。
    つまり、この「温度に達した事・723度」で、「鉄と炭素」に、つまり、「細かい事の幾つかの偶然の条件」にある“「不思議な一致の偶然の変化」”が起こったのである。

    その“「723度」”は、「温度計」が無く、それも「高温」のものを計る事が出来ない時代に於いて、どの様に確認したのかであるが、この「不思議な偶然の事」が起こる「限定した鉄の温度」を覚えて置く事で可能と成ったのだ。
    これは「723度と云う特徴ある温度」である以上は、一度観ると忘れない「鉄の表面」が、「“波打つように輝く橙色”をしている」と云う色の特徴を持っていたのだ。
    これは何故起こるかと云うと、“「723度」”の「鉄の内部」では「特別な変化」を興す為に「色判定」には「ある5度程度の範囲温度で安定した特徴」を示したのだ。
    概して、先ず上記した持ちづらい概念の「鉄の結晶」には、「高温」に於いて「3つの色々な結晶構造」があり、それは「温度と鉄と炭素量」に左右されているのだ。
    そして、この「不思議な723度」がその「全ての鉄と炭素の結合点」であるのだ。
    「試し」に加熱して温度を下げて来ると、この「結合点」の「・723度」に於いて再び同じ点に必ず到達する「不思議な点」であるのだ。
    この「・723度の結合一致点」ではこの「鉄と炭素の結晶」は「3つの色々な結晶構造」で出来ていて、それが加熱を下げて来ると、「オーステナイト結晶」の「不思議な結合点」に到達するのだ。
    これには「物理的な原因」は無く「偶然の摂理」に基づき起こるのだ。

    注釈 「4つの色々な結晶構造」とは次の通りである。
    オーステナイト結晶
    パーライト結晶
    フェーライト結晶
    セメンタイ結晶(常温)

    そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”だからこそ、この世に起こらず存在しない“「トランスホーメイション・変態の温度」”と表現されるのだ。
    そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”に「ある特定のエネルギー」を加えると、世にも不思議な事が又起こるのだ。
    この「温度以下」でも起こらず、この「温度以上」でも、この「限定した温度以上」に達しない限りは起こらず、その場合は、その「温度の差の分」だけの “「歪み・欠陥を持つ事」”に成るのだ。それは「偶然」であるからだ。
    当然に、従って、「近江鉄」に於いて、この“「723度の温度」”を見極める「極めて難しい匠の目視技」が求められたのだ。
    云うまでも無く、この“「723度の温度」”の「偶然温度」に達しても「偶然温度である限り」は「幅・ユレ・3から5度程度」を持ち、この「偶然の幅」を獲得しなければ、この“「723度の温度」”の「良好な結果」は得られないのだ。
    「青木氏部の匠」はこの「偶然の幅の限界」を習得しなければならなく成っていたのだ。

    言って仕舞えば上記した様に、先ず、
    第一番目に「0.8%Cを偶然に見つけ出す事」に成功したが、
    そこで、次に第二番目に「723度」に「絶対的な偶然温度」がある事を知るに至る。
    これに対して「上記する偶然要素」を“「723度の温度」”を獲得するに必要とする「絶対の鉄」に含まれる数多くの要素を組み合わせて、「偶然の要素の影響を観る事」に成ったのであろう。
    この工程を踏まなければ「銃の欠点」を解決に至らなかった筈だ。

    要するに、これも「偶然の炭素量」が「0.8%C・(0.86C)」であって、この「二つを中心」としてそれぞれの「加熱」に対する「時間」。「細かさ」。「速度」。「質量」。「体積」。「面積」。「墨の素材」。「加熱力」。「融点」。「角度」。以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈である。
    当時に「冷却過程」に対する「冷却材」等に対しても以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈だ。
    「青木氏部」として「関係表」を完全な形で造る程度に得ていたかは判らないが、大筋でその目的の為の範囲にはできていたであろう。
    「処理後に対する把握」を根気よく出来て初めて「銃の欠点が安定よく排除する事」に成功したと考えられるのだそれで無くては「銃の欠点が安定よく排除する事」は出来ていない。のだ
    以上の様に、「数えきれない偶然」を「組み合わせ」で見つけ出す事に成った筈である。

    上記の「新しい鉄の持つ専門知識」を一度に得て総力を挙げて活気だったと考えられる。
    「目視」で凝視していれば一瞬ではあるが目に見えてに伝わって来るものがある。
    そして、「その時の鉄」の中では、其の「細かい炭素」と共に“「共析鋼」”と云う「偶然結果」として得られる総合品質の「良質な鉄のもの」に変化するのだ。
    そして、“この時、「ある変化」と共に飛びあがるような「不思議な事」が更に起こる”のだ。
    上記の“「不思議で偶然なある変化」、即ち、「この世では普通に起こらない特別な変化」、即ち、“「変態」”であって、「鉄の炭素との結晶」”では、結晶の呼称として“「オーステナイト」から「マルテンサイト」”と云う形に変化して起こるのだ。
    これを「銃の試作過程」で一度に「鉄の持つ不思議な複数の新しい知識」が関連して「偶然に会得したと云う事」に成ったのだ。
    それが言葉で纏めると“「共析鋼」”であって、その「結晶の変化」としては、先ずは「オーステナイト」であって「マルテンサイト」であるのだ。
    では、この「不思議な結晶の現象」の“「偶然な変化」”とは、一体何なのかである。
    これを何度か繰り返している時に、「ある温度・723度」で「炭素の量・0.8%/鉄」に達した時に、「偶然」に「冷やす工程」と成った時に、ある特別なこの「世では普通では興らない現象」が「炭素と鉄の結晶」を通じて“音を立てて瞬間的に起こったのだ。
    これは「可成りの偶然」な事である。
    これが、“「変態・不思議な偶然のある変化・鉄と炭素の結晶のオーステナイト」からの「マルテンサイト」”と云うものなのだ。
    「超硬く」て、この世のどんな物にも、例えば「ダイヤモント」と互角程度以上の強さを持ち、その強さは「どんな物理的で科学的な強さ硬さ」よりも優れているのだ。
    これは、当然に“「前段の銃の欠点」”を性質的に補う事に余りあるのだ。

    そこで、この通常では得られない「鉄と炭素の高温での結晶の状態」を専門的には“「オーステナイト」”と云う。
    全ての結晶の共通点である共析鋼でありながらも、この偶然にも得た一部の結晶の構造を全て一度「オーステナイトの状態」にして「鉄と炭素」の全てを「必要な時間」を掛けて変えて仕舞う必要が伴うのだ。
    その「時間」が長いと、「鉄と炭素の結晶の関係」に長いと「粗大化現象」と云う「取り返しのつかない欠点」を造り出して仕舞うのだ。
    当然に短いと、「不完全な鉄と炭素の結晶の関係・不均一現象」を生み出してし割れてしまうのだ。
    何れも大きな欠点を持ったものに成って仕舞うのだ。

    この上記の「温度・目視で把握・表面の色」も然る事乍ら、「時間・目視で把握・表面の色の流れ」にも「極めて難しい匠の目視の技」が求められるのだ。
    要するに、「鉄と炭素の結晶」を仲介して「一種の炭素の結晶に「ある独特の変化が起こるのだ。
    それは、「手に伝わる2秒程度の鈍音」と「震動」と「表面色」と「表面模様」と「油の冷却材の表面の踊り具合」でも判るのだがそれは一瞬で起こるのだ。
    判り易い近い例として、「マグマの中で溶けた炭素」が火山噴火等で外に放り出される。
    それまで「莫大な地球の高圧のエネルギ」が加わった時に「炭素の結晶体に変化」が起こり、それが「冷却等のある工程」を経て、「地球の冷却圧」とで「ダイアモンドと云う結晶体に変化する事」になるが、それはこれに類似する。
    そこに「高温に成った鉄が介在する事」で「鉄と炭素の二つの結合体の結晶体」が起こるのだ。
    これは、「ダイアモンド」と同じく、その「特異な状態のものが、つまり「・マルテンサイトと云う特異な形」を保つ為に、突然にこの「高温にあるオーステナイトの結晶」から「急激に冷やす事/1S以内」で「変態と云う特殊な現象・トランスフォメーション」が自然発生的にこの世に起こされるのだ。
    これで得た「あり得ない二つの結晶体の物体」を「マルテンサイト・鉄と炭素」/「ダイアモンド・炭素」と云うのだ。

    その「特別な特質」は「炭素の結晶体のダイヤモンド」に比して「鉄と炭素の結晶体のマルテンサイト」は決して劣らないのだ。
    寧ろ、「鉄との結晶の変態の結合体」と成るので「違った優れた特性」が導き出されるのだ。
    まあ、一般的に判り易く云えば「ダイヤモンド+鉄を造った」と云っても良いだろう。
    然し、此れは、解る様に「通常のこの世の事では無い事」の故に、つまり、その侭では「自然界」に無いものであるので、この“「マルテンサイ」”は、「自然破壊」して仕舞い「応力分散」が出来ずに割れ破裂するのだ。
    この「ダイアモンド」も「地中深く高圧の中」で「緩やかに冷やされ」て「ダイヤモンドと云う特別な特質の侭での状態で長く保たれ状た状態で維持された事」で割れないでいるのだが、それと同然で出来た侭の状態では「マルテンサイト」は、間違いなく「破壊」が起こるが、“穏やかに保たれていれば同然のものが得られ道理”であると考えた筈だ。
    その地球の“「穏やかさ」”を施してやれば「ダイヤモンド」と同然事と成るは必定である。
    その「穏やかさを施こすに替わる事」を考え出せばよい事に成る。
    そこで「青木氏部の匠等」は懸命に考えた。
    「穏やかさを施こすに替わる事」が、これが「この世に無い変態」である以上は論理的に解る事では無い。
    現在でも難しいが、当時でも直ぐには結論は見つからなかったであろう。
    つまり、これは簡単に見つかる事では無く、「穏やかさを施こすに替わる事のこの世の有無」も含めて試行錯誤の末に辿り着いたのが、それは思いも依らぬ「低温で加熱する事」で加熱して得たものをもう一度加熱すると云う事はそもそも「・原理矛盾」であったのだ。

    然し、「低温で加熱する事」そのものが定義的に変である。
    「マルテンサイト」は論理矛盾であっても「ダイヤモンド」はところが「・原理矛盾」では無いのだ。
    そもそも、「加熱」と云うのかは問題であるが、少なくとも「常温・20〜50度」を越えた「以上の温度である事・イ」には間違いはないが、この「常温以下の温度−40〜5度・ロ」に保つ事を「加熱」とはそもそもならない。
    然し、論理的には地球環境に似た環境に近い「このイとロ」に於いては、「+圧力」を加えてこの温度域に保てば破壊する事なく保てる筈なのだ。
    その「対策」として、初期には「ダイヤモンド」に合わせて何れも「地中深くに埋めた事」が書かれているが失敗している。
    それには、この世のものでない変態である以上は「マルテンサイト」の持つ「応力の大きさを解消する力」を持ち得ていなかった事に成る。
    論理的には「マルテンサイトに成るに必要としたエネルギー」に相当する「マイナスのエネルギー・打ち消すエネルギー」か必要である。

    これを求めるにはところがそれでは時間が掛かる事の欠点がある故に、事前に加熱後の灰配中に居れていた。論理的に「多少の変態の変化」は認められるも、何かで間違って、“「ある温度”に保てた「灰中に落とした侭」として放置して忘れていたいと書かれていて、ところがその結果として「破壊する事なく保てる事」を会得確認したとあり、それ以後は“「灰中・100〜150度」で「2日から3日程」に忘れて寝かしていた”とある。
    然し、これが結果として取り立ててその「銃の欠点を補う特性」に通常の変化はなかったのであろう。
    これは論理的に応力除去では納得できる良好な操作で、現在でも行っている「油中加熱」と共に「一つの方法」と成っているのである。
    当時としては「初期の頃」は「経験から獲得した理論」であったのだ。
    筆者は、上記した様に「近江鉄の製鉄法」にしてもこの熱処理にしても「日本特有の灰中冷却処理」で「より長く処理」が好ましいと考えている。
    其の後、「1540年頃」から始めてから「1560年頃のほぼ銃の欠点除去の完成域・1565年使用後」であった観ているが、「完成期」と考えられる時期の「室町期末期から江戸初期」に掛けては、「西洋」から「貿易に限られて」で「冶金知識」も合わせて「伊勢屋」を通じて入ったと観られる。
    然し、“「青木氏部」”ではその前ごろには「経験を通じて獲得している事」が判っていて、「独自の開発」による「竪型炉に依る技術」ではなく、これは「其の後の技術」はより進んだ「高炉の製鉄法との融合技術」であったと結論付けている。
    「竪型炉の発展経緯」から観て「外国人の技術導入」では無かったと観ているのだ。

    そこで、当時は上記した様に、飽くまでも未だ「何度も鍛する事」での“「固さ・A」”の概念」であったが故に、「硬さの概念」のそのものが無かった筈だが、この「概念のはっきりとした認識」の無い侭に、「額田青木氏の超近代銃の中、つまり「・摂津・青木氏部」では、「硬さの技・技術・処理」が経緯からすると何とか得られていたのだろう。
    と云う事は、それはそれまでの「巧みの技」を生かした「20年間の試行錯誤の過程での結果」であって、当初はその概念に付いては、その時は、それは“何か変だな程度の概念”であったろう。
    然し、「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」が在って、そこからこの「硬さの概念」が確実に得られていたのであって、その結果が上記した驚く様な「近江鉄の高度な技術に発展した事」に成る。

    注釈 「伊勢青木氏」では「家訓の技術を重んじられる家系の風潮・文化」は、この長い間のこれらの極める概念が色濃く遺された遺伝的な結果のものであろう。
    さて、「鉄」は高温に過熱するたびに「鉄の結晶」は粗大化するが、この「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」では、「高温の鉄の結晶」は逆により潰されて細かく成り、その「より細かく成った結晶」の間に、更に「微細炭素が浸みこむ」と云う過程が起こっている。
    そもそも鉄は加熱する事で粗大化するが、この結晶をそれを鍛して細かくすると云う技を駆使していたのだ。
    上記した「再結晶化温度の処理・600度〜~650度」は全く使っていないのだ。
    この代わりに「鍛する事」でこれに換えているのだ。
    この「鍛する事」で上記した「変態・マルテンサイトが起こる環境」が整えられて行って、「鉄に対して良循環が起こり続ける事」に成って行ったのだ。
    そもそも「再結晶化温度の処理・600度〜~650度を使う事で得られる結晶のマルテンサイト」と、「鍛する事」で結果として得られる結晶の上記した「変態・マルテンサイト」とには違いが生まれる。
    それは「鍛する事」で「結晶に受ける応力差」の違いである。
    「鍛する事」で受けた「大きく成る応力」を計算に入れておく必要がある。
    「マルテンサイトに成った時の鉄に対する影響」は無視できないのだ。
    これを如何に無くすかである。
    然し、この上記の基礎には「青木氏部」が古来より「専門部」として「朝廷に治める飾刀」から得た技がここに培われ続け引き継がれてきていたのだ。
    「朝廷に治める飾刀」は、「青木氏部を持った時期・647年頃」からとすると、「703年・713年の近江鉱山開発・近江鉄」を使っての「飾剣」であった筈で、砂鉄に依る玉鋼の「飾剣」では無かった筈である。

    注釈 大化の改新までは全て剣は中国からの輸入で朝鮮半島に攻める事に成った時に兵に全て刀剣を与える事と成り、中国と韓から「鍛冶部・かぬちべ」を北九州に迎えて全国がら部人を送り習わせたことが始まりであり、「飾剣・直刀」の製造は700年前後に入ってからの事である。

    ではそれは何故なのかであるが、それを下記に論じる。
    実は、前段で「駿河青木氏論との額田青木氏論の関係性」で論じた様に、「近江鉄の殖産の過程」で「琵琶湖から淀川」を経由して「原鉱石」を「内船」で「大阪湾」に出して、「摂津青木氏部」に「鉄の原鉱石を運び入れる道中」があって、その「運び込まれ得られた鉄」を「日野等」に先ずは支給して、「伊勢屋」は「鉄製品、最終は銃」を先ず生産していたのだ。
    これに薩摩藩などが密かに目を着けた。
    前段でも論じたが、そもそも「古代期」に「日野」は、「殖産の四つの近江鉱山」の「鍋窯の日用品等」の「鉄鍛冶屋」としての「鍛冶屋の摂津の影響を受けた有名な職域」にあって、そもそも「青木氏部の商いの範疇」にあった。
    その「殖産の背景」で室町期には、「銃の生産・限定期間中」にその後匠等は「全員伊勢に引き取ると云う事件」が興ったのだ。
    各地の豪族等は、「銃と云う事」に着目して「銃」よりもその元に成るその“「鍛冶職・かぬち」を摂津と日野で丸ごとに獲得する”と云う直接的な武力行動に出たと云う事に至ったのだ。
    この「歴史的経緯」があり、それで「摂津」ではこれ以上は無理であるとして「伊勢に引き取ると云う行動」で対抗したのだ。
    それからは前段でも論じたが「伊勢での銃の製作と云う過程」に入ったのだ。
    元々は前段でも論じたが、「伊勢の青木氏」では古来より「朝廷」などに納める「日野の飾刀/特定範囲」としても数は少なくも「朝廷用品の実用品物・供納品」として「賜姓五役」の一つとして「青木氏部」で造られていたのだ。
    それが前段でも論じたが、一時、戦乱に巻き込まれた時にこの「日野鍛冶匠」は「伊勢青木氏部」に一斉に逃げ込み組み、「伊勢の部」に組入れられた経緯があった。
    ところがこの一部が「伊勢」に組しなかった「非組合員の他の匠等」は、薩摩等に侵略され引き連れられていった経緯があった。
    この関係で「古来の飾刀鍛冶の技量を有していた匠等・青木氏部・鍛屋院」が「賜姓族の賜姓五役」から多くのいた事が判っている。
    恐らくは、当然にこの「賜姓五役の殖産の経緯」から観ても「この時の技量が生かされた事」と考えられる。

    そこで、では、“どの様な技量が生かされたか”と云う事に成る。
    何度も論じているが、先ず元を質せば、「院号を与えられた施基皇子とその裔系」は、その結果として「伊勢の五つの大字」を与えられた所以と共に、それに伴う「国造差配頭の位置」にもあって、且つ、「鍛屋院・かぬやいん
    」の「青木氏部を独自に持つ数少ない氏族」であった。
    その「伊勢と信濃の氏族」がそれを総合的に生かすその延長線上にはあって、故に当時の「技術水準の最高位置にいた事・令外官として国造支配」は頷けると共に、更には「それをリードしている青木氏部の立場」にもあった事」に依るこの“「二つの技量」”が生かされていた事に成る。

    注釈 筆者は、「天武天皇」が、“朝廷の高官の中には専門の官僚と成り得る優秀な大和人がどれたけいるか”と聞くと云う事件が起こったが、この事に注目している。
    “官僚に変わり得る高い技量の持つ部人を持つ氏族がどれだけいるのか”と問われたが、その答えは“いない”と云う「返答」が返って来たとある。
    殆どは、後漢の職能集団の帰化人であった。
    この時、「令」を発したが、この時の令の「因事菅隷」の通り、殆ど「施基皇子の後裔の伊勢青木氏以外」には専門家は居なかったと観ているのだが然し勿論に[官僚族]では無かった。
    この物語るところは百々の詰まりは、「伊勢の施基皇子とその裔系」は「因事菅隷の青木氏部を持つ氏族」を形成している事は既に重々に承知していた事である。
    然し、その中でこの発言を発するという事は大きく気にしていた事から発したと観ているのだ。
    つまり、「後漢人」に左右されない「青木氏部」の「独自の専門的レベル」が政界を騒がす程に高かったものである事を証明している。
    それだけにこの“「因事管隷」”は「青木氏の歴史」を知る上で忘れてはならない「青木氏に大きく影響を与えた事」に成る「史実」と成る。
    それには先ず「青木氏に与えられた院号を調べる事」なのだ。
    それに「最も有力な院屋号」は、この「伊勢」に最低で四つの大字を功績として与えられ、それを下に莫大な私財を投じた「近江鉱山開発の特別な院屋号」である。
    つまり、「近江鉱山開発の青木氏部が持つ院号屋号」であるが無いと云う訳には成らないであろう。

    そもそも、本来は、彼等に対して「朝廷の太政官」が「天皇」に代わってこの様な「令」を発するが、「奈良期の皇親族」ではこの「太政官」に代わって「永代の賜姓五役の格式」に於いての「永代令外官」として間違いなく「因事菅隷」を実施した事が書かれている。
    「皇親族=太政官=賜姓五役=「令外官」=「浄大一位格式」に依って「因事菅隷」があって、「令外官=永代浄大一位格式」は「太政官の上位」にそもそもあったと記されている。
    取り分け、「政治の事」は兎も角除きそれ以外の発言権に関して優先権を有していた事が「佐々木氏の研究資料」等にも記されている。
    故に、この事から「青木氏部・因事菅隷」は先ずはその「見本の様な立場」にあって「先導役」として走っていたと観られるのた。
    「青木氏部」は、要するに「奈良期から平安期」までは現在の「国立技術院・工学院の様な立場」として活躍をしていたらしい事は判っている。
    然し、ところが色々な資料を散見するが、それらしき確実に明記した「院屋号名」が表の記録に出て来ないのだ。
    これは「考え方」に依っては、この「因事菅隷」そのものが「青木氏」にある以上は、「工学院」と云う“院が別に存在したと云う事”では無く、「因事菅隷」を持つ「工学院=青木氏部」のそのものの呼称では無かったかと観ている。
    要するに「青木氏部」が「因事菅隷」を持つ以上は「青木氏部=院屋号」であったと云う考えも成り立つ。
    この「青木氏部に関する事」では、「近江鋼の鍛屋院の号等」の「幾つかの類似の記述」が観られるが、これが「総合の技術院や工学院の号」も得られていた可能性がある事を物語る。
    要するに当時は、「工学院=鍛屋院等の号」にあったと観ている。
    そうでなければ「日本最初の近江鉱山開発」は、「因事菅隷」として「青木氏」に命じ無かったであろうが命じているのだ。
    それが「賜姓五役としての令外官」であったのではないだろうか。
    筆者は、その「院屋号の前提にある事」として、因みにその「進んだ技量」の中でも、この「青木氏部の中」に論じている様に、つまり、一つの証明として古くから「朝廷に納める飾刀の工程」のこれが青木氏部の中にあった事を明確に物語る様に、「全ての技術の院屋号の所以の代表品」は、この「朝廷の飾刀・飾剣」にあったのでは無いかと観ているのだ。
    だから、「日本最初の近江鉱山開発」にも「工学院=鍛屋院の号・鍛冶院・・かやいん・かぬやいん」は下されていた筈だ。
    だとすると、第一に、「鍛屋院の号」が無ければ「鉄」を掘り出してもそれを裁いて「利益」に持ち上げる「商い」もしなければ成らないのであるとすると、これを認めている「占有権・独占権」も無くてはならものであるし、況してや、そもそも「因事菅隷」を出しているのだ。これがある以上は絶対に「占有権・独占権」は成り立っている筈だなのだ。

    この事で、故に後に基礎的に「飾刀の工程」が持つこの「青木氏部の基礎技量」が生かされたのであろうと考えられるのだ。
    それが「天武天皇の問の前提」にあったのであろう。
    その「高度な技量の詳細を語る事」にあるが、実は専門的にこれを論じると、下記の様にそもそもこれは「発想の域」を超えているのだ。

    当然に、上記のこの「結晶の変態現象・トランスフォメーション」、即ち、「高温に依って起こるオーステナイトと云う鉄と炭素の結晶体」での「結合体」が、一瞬にして突然に「全く違う「別の結晶体の物に変化してしまう現象」を云うが、これに依って起こる「変態した結晶体・この世では通常で起こる事では無い結晶の現象」、これを別に「マルテンサイト」と云うが、これが「鉄の表面に文様」として何らかの形で出て来るのである。
    それを以てこの「マルテンサイト」が起こっているかは、別として、それが「良い飾刀にもそれに近い模様が出て来ている事」に成るのだ。
    この「論理的で不思議な高度な現象」が起こっているその事が、この「奈良期からの賜姓五役の目的の青木氏部の高度な技量」に依る「飾刀工程の表れの文様」であるりだ。
    つまり、これを専門的に「刀文・刀紋」と云うが、これにこの「マルテンサイト」が相似すると当初では考えられていたのだ。
    然し、これに成るには、その前の概念としては先ずは“「奈良期の第一段階の基礎・飾刀」と成っていた”と考えられていたのだ。
    「飾刀・直刀」は、未だ奈良期初期までは「中国と韓からの輸入品」であって、殆どの物は「鍛冶物・かぬもの」はそうであったのだ。
    その後の事は上記した「天武天皇の因事菅隷による変革」で進められた。
    この一翼を背負わされたのは「青木氏部」であり、それが「近江鉱山開発」に始まる「大和の事・大改革事業」に成るのだ。

    さこで「銃の欠点の克服」の「技術的な経緯}としては次の様に成る。
    この「平安期まで飾刀工程の流れがこの「・第一段階」であった。
    更には、上記の「平安期の技量の第二段階の基礎・殖産」と成ったのだ。
    次には、上記の通りに相当に難しく成った「室町期の技量の第三段階の基礎・銃」と成った。
    その「技量の経緯」は「第四段階の銃の完成期」と成った。
    以上と次第に進んだと成るのだ。

    「銃の欠点の克服工程」は主にこの「第三段階}からであろう。
    そこで、その「概要のメカニズム」は、そもそも「この第四段階までの現象」には、この「奈良期から室町期」までを通しての「歴史的な飾刀の刃文・刃紋の進歩」と相似してそれが「表・銃身」に現れて来るのだが、ところがこの「第四段階までの現象」だけはこれを覆す様な現象が起こっている事に気が着く事に成るのだ。
    それが次の様な時に起っている事に成るのだ。

    そこで「鉄の製鉄基礎論」から「銃に対する概要論」をここから述べる。
    先ず「鉄の製鉄基礎論」に関わっていた時期の「飾刀・直刀期間」の経緯には、上記した論の「鉄の歴史」が伴うが、「初期・江戸期まで」は「砂鉄の玉鋼」と呼ばれる「金属原材料」で原始的に維持して敢えて全てが造られいたが、[青木氏部」では要するに上記した「後の近江鋼鉄の銃に使われた様な進んだ共析鋼」には、これに「近い鋼の原理の事」に相当するのである。
    そこで、「刀にする為に鍛える工程」で先ず論じて観るとする。

    そもそも、これらを「刀にする為に鍛える工程」とは、そもそも、その「鍛える度ごと」にその「表面」、又は、「断面の光の文様」や、その「板鋼の折重ね具合」を見定めて、その中でその「砂鉄玉鋼の性質」を見極めて重ね合わせて厚くして行く工程なのだが、「刀紋」はその過程の模様である。
    その数度の工程を以て幾重にも重ね合わせた状態にして加熱し叩いて鍛えて接着させて強くするが、「刀紋」はその強さを表す模様である。
    これ等は「叩く速さの時間と叩く力」に左右されて「刀」に成るかは決まり、それが正常にて出来ていなければ「その鍛えている刀」には「内外部に亀裂と剥離」が起こり「玉鋼の刀」にはならないのだ。
    そこで、その欠点を防ぐ為に「複雑に性質の違う幾種の違う玉鋼の鋼片」を折り重ねて、ある「高温加工の熱状態」、但し、「この・温度」を間違えると成らないので何度も鍛えるが、この時に「匠の技量の差」が問われるのだ。
    その「違う性質の玉鋼が重ねられる事」で、その「折重具合の断面」は“年輪状”の様に「折り重ねた鋼」と成り得る。
    この事が重要であって、「玉鋼の場合」に依って、要するに「折重具合の違う金属特性の複合特性」で「刀の長短の特性」を導き出す「製造方式」であるのだ。
    その「炭素の特性の性質が違う砂鉄」、即ち,「玉鋼」では「鉄で炭素との結晶の結合体の事」であって、そこには「表面」もその「断面」にも「折り重ねて鍛えた結果」として、「重ねた平鋼板の良し悪し」を見極める事が出来るのだ。
    それには、「重ねた平鋼板の良し悪し」は、その「平板の重ね具合」はこの「刀としての刃先形状」に全てを出す為に、その「刀の長手方向の刃先先端の断面」を「刀形状の三角に削り磨く」が、この時にその「重ね合わせた鋼の色合いの文様」が、この「長手方向の刃先先端の断面の断面模様」に出るのだ。
    これが「刃文」と成り共に「先端の刃先文」としても出るのだ。
    この「刃文」と「先端の刃先文」で「砂鉄の玉鋼」の「刀の良し悪し」が決まるのだ。
    多くは「先端の刃先文」で見極める事が出来る。

    要するに、「鋼にしたものを重ねる事」に依って「表層状態」に強度を増す様に成るのだが、「一枚の鋼」であるとその「内部は均一性に欠ける事」の為に、一か所に「応力・力」が掛かり弱いし折れる。
    そこで、この様に「玉鋼の日本刀の構造」は、「大樹の年輪」の様に、複雑に特性の違う“「玉鋼」”が造られ重ねられる事で強く成り、それが「外観の色変化」として「刀文・刀紋」と「先端の刃先文」」として二つに現れるてくる事に成るのだ。
    この「刃文」と「先端の刃先文」」は、“「適度な急速な冷却効果」”に依ってより現れるものであるのだ。
    取り分け、従って、この「刃文と先端の刃先文」を見分ける事、特に「刃先の先端に出る文様」で「匠・刀師の技量の良悪」と「その刀」のみ成らずその「工程の技量の良し悪し」も判る事に成るのだ。

    さて、そこでこの「良い刃紋を出す」には、その主に「熱の如何」が問われのが当然である。
    この「加熱」を一定の速さで下げる為の“「冷却」に伴う「良し悪し」”も判り、その「鋼の炭素と加熱と冷却」と、その「過程の模様・経緯」も僅か乍らも「刀の表面と破面」にも表れる事に成るのだ。
    故に、この「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」に依って上記した「マルテンサイに近い模様」は得られるが上記の工程の「・砂鉄」には結晶は得られない。
    然し、それに「近い模様」が「良い刀全体」にも表れて来るのだ。
    但し、上記した「近江鉄」に依って得られた「銃の工程」と違って、この「刀の場合」は、実はこの“「マルテンサイト」”は得られていないのだ。
    つまり、得られる為に必要な条件に到達していない物が多いのだ。
    殆どは、「玉鋼を幾重にも重ねて鍛える事に依って出る粘りと硬さの影響」で成り立っているものである。
    何故ならば、この上記した“「マルテンサイト」”が得られたとしても放置すればこの世の「変態」で在る為に「破壊」が必然的に起こるからで、此れを防ぐ「ノウハウ」にも「超高度な技術」に到達ししていなかった事にもあり、且つ、基本的にそもそもこの“「マルテンサイト」”にも、「砂鉄」から得られる「玉鋼」で在る限りは到達していなかったものがあったと考えられる。
    つまり、「砂鉄の玉鋼」では、必然的に「0.8%共析鋼」に成り得ていない事に成るからだ。
    ここが論理的な大きな違いである。
    従って、「銃の欠点」を克服する為には「初期」には先ずは「飾刀の経験・647年から650年頃に開始」から入ったと考えられるが、この「青木氏部」では、「近江鉄」として追及した「0.8%共析鋼・755年頃に完成」とは成るが、此処でこの「近江鉄・703年713年」を使いながらも「初期の初期」に「中国から直刀輸入640年頃していた」ので「初期に直刀・砂鉄玉鋼理論」を「製鉄」に参考にしたが、5年も経たずに直ぐに「近江鋼の開発」に入っているので、先ずは躓いたと考えられ、直ぐに「近江鉄の製法の確立」に入っている以上は「飾刀の経験・647年から650年頃」も「近江鉄」で入り直したであろうし、それが「銃の製法・基礎」に結び付いて行ったのだ。
    こと程左様に、平安期の当時は、この「技術としての確立した概念」を持ち得ていたかは定かでは無いが先ずは無かったと考えられる。

    この「刀のノウハウ」からは「刀の良し悪し」は、この「上記のマルテンサイト」にする為の「匠の技とその有無」が左右する事なので、だから、少なくともこの「マルテンサイト」を「自然破壊」から救い維持する為には、重要なのは「一定の冷却」と、上記した様に其の侭では「内部応力・自然界ではあり得ない別の物に変化する変態現象」に依り「自然破壊」が起こる。
    但し、「マルテンサイトの呼称・英とドイツの呼称」は何処にも記載は無い。
    この「変な現象を起す事」は、概念的に「青木氏部」では把握していた様ではあるが、そこで“何と呼称していたのか”を調べたが資料的には何処にも見つからない。
    後に「貿易」で「冶金学的な事」を江戸初期前後に把握している事からすると、「貿易」で伝わった何等かの呼称があった筈で、それが何なのかであり、「銃」に対して少し遅いが拘わりの度合いが判る。
    それを論じる。

    実は、“らすぅ”と云う言葉が一か所に確認できるが、これがその「呼称」として使われていたとも考えられる。
    その「根拠」は、そもそも外来語の“らすぅ”とは「トラスの原語」であって、“構造物を意味するもので物理学でもよく使われる。
    「呼称」としては、この「らすぅ・ラス」は、「マルテンサイトラス」、又は「らすマルテンサイト・ラスマルテンサイト」としも使われる事が可能な用語である。
    筆者は、この「らすぅ・ラス・トラス」と云えば、この「マルテンサイトの様なものの構造体」と訳していたと観ている。
    恐らくは、この「らすぅ・ラス」は、当時は輸入された「専門用語」であったと観られ、「マルテンサイト」に限らず「構造体」を指していた呼称であったと考えられる。
    その「構造物」とは、“原理的には幾つかの柱の様なもので結合し互いに引き合い強度を保っているもの”であり、例えば、“氷や雪の結晶の様なもの”もそれに当たるだろう。
    当にこの「密に成った複合的な構造物」の「マルテンサイト」も、その「元の鉄と炭素の結晶体」もこれに当たるだろう。
    “「らすぅ」”は遊園地にあるジャングルジムである。
    この記している呼称の“「らすぅ」”は、「一つの構造物」と認識して記していた事は間違いは無いと思うし、「貿易」に依って得た知識であった事が解る。
    と云う事は、“「鉄」が別の「一つの構造物」に成った“という事は認識していた事に成るだろう。
    そして、それが、“「氷や雪の結晶”の範囲」で観ていた事に成る。
    と云う事は、“砥石で磨いて光を当てて腐食させて観ていた”とする行為は頷ける。
    唯、この記述は一か所にのみに記されて散見されていたが、この事がどの様な意味を成すのかは色々な意味を持つ。
    「特別な言葉」なのか、「汎用的な言葉」なのかは判別が着かないが、少なくとも書いていた事の「らすぅ」は、“「銃の欠点」を補う工程のみ”として書き、それを「匠の範囲」では使われていたのであろう事が予想できる。
    依って、「古来よりの技」の「飾剣・飾刀の範囲」では使われていなかった事に成り、故に、日本語に無い言語の「らすぅ」に成っていると考えられる。
    何時頃にこの「言葉・呼称」が用いられていたかはその所以は「銃に関わる事」であり、且つ、「銃の欠点」を補完に成功した頃には既に「貿易」に依って入っていた事に成る。
    とすると、この記述から観ると、少なくとも前半の「1540年頃以降から1550年頃まで」であるので、そのそれを獲得する為に試行錯誤していた頃の事に成る。

    そもそも、筆者は最初は「全体の文書の読み込み」に苦労していたので、この「らすぅ」の「単語の言葉」までに気が着かず素通りであった。
    ところが、後に成ってふと気が着き、この“「らすぅ」”の言葉が何を意味するのか意味しないのか気に成って改めて読み直したが、その意味する処が暫くは判らなかった。
    つまり、「らすぅ」が“「トラス」に繋がる”と云う発想まで出なかった。
    この「トラス」は筆者の専門域の「物理の構造体の専門用語」である事である事が良く判っていたが、「らすぅ」と書かれていたので“ピン”と来なかった。
    よく考えて観れば、ある時、「トラス」は「ラス」として単語で使う事がある事を思い出した。
    其の使う時が、「ある構造体」の前に着けて「ラス・・・」と使う事がある。
    そもそもその「ある構造体」とは、普通は「トラス」は主に“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”の事で、ここで議論している「マルテンサイトの様な「変態で起こった構造体」は“「稠密六方晶」”と云う「特殊な方位の構造体」である。
    この様な場合は「ラス・・・」として“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”として表現する事に成っていて、この「マルテンサイト」は“「稠密六方晶」”なので「ラス・・・」として表現する事は学問上は正しい事に成る。

    そこで「らすぅ」は「日本語表現」で、スペイン語やポルトガル語の様な「母韻原語」ではないので、この「英語やドイツ語の場合」は「トラス」の「トのtの発音」は「子音の無音」の発音と成る故に、「青木氏部」では「らすぅ」と聞こえたと考えられるし、又、「ラス・・・」で「らすぅ」と受け取った事になろう。
    「らすぅ」の「ぅ」は「日本人特有の耳と口の癖」に依るものであろう。
    これを記述した者は「神明社の祐筆」であった事から、尚更に言葉に「韻」を含める使い方と成ったと考えられる。
    兎も角も、何れにしてもこの“「らすぅの表現」”は、「銃の欠点」を補完した「0.8%の共析鋼の変態構造」の事であった事に成ろう。

    この“「らすぅ」”では、「文献」で会得したものなのか、「指導の外国人技術者」を招聘したかは判らない。
    「貿易」をしていた事故に、「指導の外国人技術者の招聘」は充分にその能力は有り得たと考えられる。
    故に、この“「らすぅ」”の言葉からも、「銃を成功裏に治めた事」が云えるし、「近江鋼の使用の事」と「0.8%の共析鋼の変態構造の事」も納得できる。
    だとすれば、「フリントロック式改良銃の近代銃であった事」も証明できる。
    もっと云えば、「三方ヶ原後」に暫くはこの「銃」は保全していたが、その後完全にこの世から遺さずに抹消した事も頷ける。
    それは「指導の外国人技術者の存在と招聘」から、その「銃の西洋での殺戮具として使われた事」を耳にし、又、「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」も充分に考えられる。

    さて、そうすると「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」があったとして、“20年間の試行錯誤はの期間は長いのでは無いか”という素朴な事であるが疑問が湧く。
    その疑問に答えられる事がある。
    それは、前段でも論じた事ではあるが纏めてみると次の様な事が上げられる。
    1 「フリントロック式改良銃の近代銃であった事
    2 日本人にあった額田青木氏に合わせた銃であった事
    3 特別に4発式回転式自動銃にした事
    4 持運びの中型銃にした事
    5 火縄銃式では無く硝石型(火打式)でした事
    6 長距離銃にした事
    7 銃の欠点を無くした事
    8 量産型にした事
    9 近江鉄を使い玉鋼を使わなかった事
    10 准高炉型製鉄にした事
    11 反動型銃にした事
    12 立膝型銃にした事
    13 操銃に合せた編成隊を考案した事

    これ等の事が解決しなければ「額田青木氏としての銃」とは成らなかったのだがそれだけの[伊勢青木氏の要望]は高かったのだ。
    判る範囲で以上と成るが、これ等は「指導の外国人技術者」の「指導」だけで解決し得る範囲では無い事が判る。
    現に、「額田青木氏としての銃」の為に、この「銃での戦い方」で「伊勢の秀郷流青木氏」が担当しているという事は「青木氏の要望」が作戦の成功の為に「絶対的な必須条件」であった事を物語り、「銃の仕様」には「相当な要望」があった事が云える。
    故に「指導の外国人技術者」が存在していたとしても「20年間と云う期間」を敢えて要したと考えられる。
    「銃製作の要領書的な片鱗]のものが密かに遺されていたとしても「指導の外国人技術者」をものがたるものは何も遺されていないのだ。
    唯、「青木氏や伊勢屋の状況証拠」から考えれば充分に有り得る事で否定は出来ない。
    そもそも全国行脚の「僧侶や絵師や彫刻の匠等の修行者等」の長期宿泊する「特別の厨」がつい最近まであった事も、又、親族や店子や客等が慰安を兼ねて泊る「庵」も各地各所にあった事が確認されていて、筆者も子供の頃にここに宿泊した事がある。
    摂津や松阪や桑名には当然の事として外国人如何に拘わらず「指導の技術者」の宿泊はあったと考えられる。
    そもそも、これ以外に「神明社や清光寺の宿坊」もあったのだから「指導の外国人技術者」の存在は筆者は在り得たと考えている。
    上記した“「らすぅ」の記述の言葉”は間違いなくこれに関わっていただろう。


    話を更に戻す。
    そこで、この「砂鉄の玉鋼」では無い「近江鉄」での「0.8%C共析鋼」での「変態現象」で得た「稠密六方晶」の“「マルテンサイ」”を「自然界」で存在し得る様にする為に研究されたが、“「少し緩める適度な戻し作業」で、現在では学術的に確立していているが、「ある極めて低い温度範囲でのテンパーと云う処理」が必要に成るのだ。
    「近江鉄の銃の欠点の対策」では偶然結果で「灰中の長時間保存」で獲得した。
    この「ある極めて低い温度範囲」とは、一般で云えば「テンプラ油の温度」よりも低い「150度程度の温度」であり、[150度程度の低くてゆっくり冷やす程」に、その“「マルテンサイ」”の効能を下げる事なく高い効能で得られる事が解ったのだ。
    時間があるのであれば「150度程度」で「2日程度から3日程度・48時間〜68時間が良い事が判った。
    そうすれば“「完全な稠密六方晶」の「良質なマルテンサイ」”の範疇で得られるのだ。
    そして、上限は“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”を前提とするのであれば「灰中」であるので「150度・4日」と云う処であろう。
    後は、“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”をゆっくりと衝撃無く下げて行く事に成ろう。
    故に記録から観て、“「焼灰の中でという事」”であったので、“150度程度の低くて極めてゆっくり冷やす程に「マルテンサイ」の効能を下げる事なく高い効能で得られるの範囲”を使ったと観ている。

    これは「灰中150度3日の加熱」は温度のばらつきから難しかった様であった。
    当時としては、別の面で「灰中」以上に上記のばらつきを解決させる効果的な「植物油の利用」はあった筈である。
    それが高額であった事から食用等に限定してあったが、「青木氏部」も「殖産の工業等」には使っていなかった様だ。
    「殖産の関係」からその記録が多くは散見できないが、その僅かな記録を観ると面白い事が起こっていた事が記されている。
    それは「関西」からその「油使用」が、「食用類」などにもその関西人の性格から面白半分で積極的に使われ始めたのだが、その前はその絞った「絞粕」の捨てる場所も無かった事から、「ミカン畑等」に無造作に捨てられていたとある。
    然し、ある時にこの「和歌山や瀬戸内の周囲」の「害虫に依る田畑の病気」が関西域全域に大流行した。
    この時、この捨てていた「みかん畑」にはこの病気が不思議に起こらなかった。
    そこで、これをこの「害虫被害」の受けた「田畑」にも蒔き捨てた処、「田畑の病気」は完全に治まりそれと゜ころか大生育して効果がある事を確認した。
    その「生産」は、当初はその結果として「油の使用」よりその「絞粕用」として「生産が高まった経緯」があり、当然に其れに連れて「油の使用」が増えた。
    結果として「油は安価」に成り「食用」にも研究されて使われる様に成り、その果ては「工業」にも使われる様に発展して行ったのだ。但し、関西域だけであった.
    その時期が室町期中期から始まり、可成り遅れた江戸期に入っても「江戸・関東」でもこの「病気」は広まったが当初は「江戸気質]で毛嫌いして使われずにいたが、背に腹は代えられないとして使われる様に成ったと記されているのだ。
    要は、「窒素リン酸カリの有機剤」であり、「土中の微生物」を増やし、これで害虫と病原菌を減らすとともに、主に「チッ素肥料」として植物の栄養を多く供給すると共に、「害虫を遠ざける働き」も多く強くあり、この「絞粕」の中には「アブラムシ、ハダニ、コガネムシ等」を、取り分け当時の「椿油かす」には「ナメクジ、カタツムリ、バッタ」等を撃退する効果があるし、「もと枯れ病」や「バッタやイナゴ」もこの頃に大発生したとあり、このところから「窒素不足」が原因していたと考えられた。
    この時の記述はこの「微生物の増加」と「虫の撃退」の効能が働いたものと考えられる。

    「植物油の使用」は、人類起原にほぼ一致するが、「鉱物油」に関しては発見は江戸期初期の1690年代に発見されているが、「限定的な使用」はエジプトの古来に「アスファルト」として「接着剤」として工業的に使われていた古い記録がある。
    人類に多く利用され始めたのは「1855年」からで、生活に密着して使われたのは「1890年代」の「アメリカ」と成っている。
    従って、室町期中期頃には未だ「鉱物油での使用」は未だ無く、況してや「冶金的な物への利用」は「1890年代の事」で、勿論の事無く直接に冶金的な物への使用も無かった。
    従って、「冶金的な冷却材としての使用」は「植物油」に限られていたが、極めて高価で使用は困難であった。
    又、使えたとしても「冷却時」に「熱」に耐えられずに「油」が分解して「炭化してしまうと云う事」が起こり、「冷却材の使用」には耐えられなかった筈だ。
    つまり、「上記のマルテンサイト」を獲得する事は、元来、「砂鉄の玉鋼」は、勿論の事、「近江鉄」の場合にも難しい事であって、元より原理的に使っていない。
    後は冷却としては「水の冷却」と成るが、「砂鉄の玉鋼」は「マルテンサイト/変態」が起こらない為に、「ある技能の範囲」で使用は可能であった事が記録から解っている。
    では、その“「ある技能の範囲」”とは、どの様なものであったかを過去の資料の経緯を辿りその論理を考え合わせて考察した場合には次の様であった。

    先ず「水の冷却」には、その「冷却と云う点では大きな効能」はあるが、逆に逃れ得ない欠点もあるのだ。
    それは先ずは「一つ目」としては“冷えすぎると云う欠点”である。
    物理・冶金学では、“何でも冷えればよい”と云うものでは決して無い。
    「ある一定の冷える遅い速度」が必要であるが、それ以上に速いと「上記のマルテンサイト」のみならず、その「本体の鉄と炭素の結合体」に、更には、その「結晶」に異常を起こし、破壊するか、又はそれの破壊に相当する近い事が興るのだ。
    先ずは、それには少なくとも「約5S以上」に「緩やかに冷却する事」が必要で、これ以上に速く冷却すると、先ず間違いなく「強烈な破壊濁音を出して破壊」が起こる。
    この「季節変化」に伴うこの“「水の温度の冷却」”が、この「約5S以上」に保つ必要があり、そもそも極めて難しいのだ。
    何故ならば、ここにはもう「一つの理由」がある。
    それは、「春夏秋冬」には“「水の温度の冷却」”がかわり一定に保つ事には困難が伴う。
    夏の様に高ければ氷などで冷やさなくてはならないし、或いは「一定の冷温」を保つ「井戸水」が求められる。
    然し、“「水の温度」”が高いと水分中に含まれる「空気」が膨張して「大量の泡」を発生させてその「泡」が品の表面に密着し極端に「冷却能力」を著しく低下させ、“「水の温度の冷却」”に合わないのだ。
    最も嫌う事がこの“「水の温度の冷却」”で起こって仕舞う事に成るのだ。
    夏場で「水温」が高くなると、では冷やす為に「冷たい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
    「冬」もこの逆であり、「暖かい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
    秋と春も同然の事が起る。
    兎も角も、「水の温度の冷却」”の三つ目では、「焼入・冷却」の為に新たに水槽に水を入れると「焼入物・冷却物」の「強烈な熱」で「水槽の温度」は急激に上がるので「適切な温度・約20度・約5S以上・それだけの広さの水槽要」まで到達するのを待つしかない事に成る。
    出来得る事ならば“「使い古しの水・濾過」”が“「空気と不純物が少ない事」”から水が“「軟化・アルカリ成分が少ない軟水」”にして最も好ましいのだ。

    「上記の事」が「春夏秋冬に「水の温度管理」ができるかに関わるのだ。
    「砂鉄の玉鋼などの刀の処理等」では論理的に難しい事になるのだ。
    逆の事として、「近江鉄の0.8%C共析鋼」に於いては「青木氏部」では此れを克服する必要があった事に成る。
    その意味でも、「植物油」にしろ「鉱物油」にしろ「水」より好ましい事が解るし、冷却速度の比熱でも良い。

    因みに、「セルシウス温度」で、水1gあたり1気圧で1度の温度を上げるために必要な熱量の事で、水の比熱は1とすると、これに対する「油の比熱」は「0.5」である。
    結局は「油/水=1/2」であるので、「温度管理」では現実的には「油の方」が優れている。
    物質1gを1度上昇させる為に必要な熱量がこの「比熱」で、 この値が大きいほど温まりに難く成り、 水の比熱が1に対して、油は0.5である為、水に比べて早く温まる事に成る。
    然し、水と油を比べれば、水の方が温まり難く、冷め難いが、油の方が温まり易いが冷め易いのでこの2倍で冷め易く、「冶金的な冷却と云う点」では逆である。
    云い換えれば、「冷やされる方」に執っては「水は表面を早く冷やす」/「油は表面を遅く冷やす」の原理が働く。
    この事から“「室町期の中程頃」”では、「高価の件」は別として、「冷却能力」では油の可能性が出ていた事が解るし、「水の泡等の欠点」の少ない「油の使用」が検討されたのだ。
    上記した「油粕の事件の記述」は、丁度、この頃の事で、「氏族」の一部の中には遺したこの資料では、何故に記述して遺したのかは判らないが、「冶金的な冷却と云う点」では逆である事が解っていて、「殖産」として「油増産」に入った事が考えられる。
    「みかん畑」としていたので、「伊勢から紀州」の「みかん畑」に「油粕」を捨てていた事に成るので、未だあまり広まっていなかった。
    ところがこの突然の事は次の様な経緯を辿ったのだ。
    この「植物油の使い出だし」は、遺された資料より古来より細々と「食用への使用」であって、未だ「現在の様なテンプラ等の概念」は無かった。
    ところが、関西では室町室町期中期に成って「下記の経緯」で突然に広まったのだ。

    「植物絞り油の経緯」

    「植物絞り油の使用の経緯」 =「食用への使用」→・「害虫除去剤への使用」→「肥料への使用」→「冶金的な冷却材への使用」→「食用への大使用」

    その「切っ掛け」は上記した様に、関西で起こった・「害虫大発生の事件」からで思い掛けない事からその「除去剤」として急遽,“「大増産」”と成ったのだ。
    更には、それが「肥料」にも良いと成って、「絞り粕と云う事」の“「大増産」”と云う事だけでは無く、「植物油」そのものの“「大増産」”と成って行ったらしい。

    そこに、「食用油の使用」は、又、「比熱の点」で劣る「水」よりも、又、「焼灰」よりも、その中間にあり「目的」に適している事が解った「青木氏部」では、そこで、この“「大増産」”を切っ掛けに悩んでいたこの「冷却剤への使用」に、この「話題中の植物油」に「発想」を切り替えたと考えられる。
    「学実的な冷却理論」もあまりはっきりとしなかった「本論の経緯」の中では、それは「試し」に切り替えて観るしか無かったのではないだろうか。
    それは「伊勢の青木氏」としては「伊勢」に居るか限りは「長い伝統も立場」もあり、これは「世間へ義理を破る事に等しい事」であり、然しも世の中は、既にそれを迫る「鉄の汎用」と「油の汎用」と「肥料の汎用」との「切り替え転換期」に入っていたのでは無いか。
    筆者は、この「時期」がこれ以外に「神に対する3つの正義・「神饌」<「薬用」<「禊用」」、つまり、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の関係性がこの時期に変わって来たと観ているのだ。
    それだけに関西で起こった害虫被害の解決事件が社会に与えた影響は大きかったと観られる。
    それは、“何故この様な「資料の記述」が「南勢の家人の家」に遺されていたのか”に対するこの疑問であった。
    普通なら「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が記し、その「書」が当然に其れが何れかの「青木氏の蔵・3回消失」に遺されていた筈であるのに、「南勢の蔵であった事」に疑問点があるのだ。
    当然に、「植物油の原料の生産」とその「絞り工程」は、「南勢と南紀の殖産」として行われていて、その「粕の捨て所のみかん端」も「南勢と南紀」とすれば、「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が関わる書では無いだろうか。
    だからこの「植物絞り油の使用の経緯」は、記録に遺す程の相当な出来事であった事を物語るだろう。



    ではここからは「植物絞り油の使用の経緯」は“どの程度の期間で進んだのであろうか。”で論じる。
    次段でもこの論の続きを行う。
    上記に記した“「室町期の中程頃」”である事には間違いは無いのだか、もう少し詳しく論じる。
    そもそも室町時代中期頃までは、主に「作物]を育てるために使われていた「肥料」としては草木灰や刈敷等のアルカリ農法で焼き畑もその一つでこれを蒔く事が中心であったが、これでは害虫等を駆除できないでいた。
    この「室町時代中期頃の害虫事件」で「肥料三要素の窒素リン酸カリ」を多く含む「油粕事件・バッタ事件・銃開発期に一致」で、一度に関西では変化を来したのだ。
    ところが、「江戸・九州の方に先に伝わる」では「下肥」で済ませていたが何と「享保期飢饉・故に米も育たず害虫も大発生」まで使われなかったのだ。
    結局は、この「関西農法」を採用し、その結果として「食用油文化」と「果物農業」も関東に広まったのだ。
    最終、次段で論じるが、この貴重な食用油を殖産の銃開発に使ったのだ。

    その「経緯」を前段で論じたが、もう一度殖産の経緯を辿って観るとする。
    上記した様に「1540年頃」が実質の活用段階に入った事は解るが、では、それが「本論の銃での開始点」であるとすると、「植物油の殖産」は、「日本書紀」にも記されている様に「716年頃の前からの事・施基皇子没の2年後」で、「伊勢の裔系」は「令外官」として「部の国造(朝廷の命)支配」として働いていた。
    「近江鉱の二つ鉱山開発」もその一つで、この時期と当時に命じられて行われていた。
    この「大功績」に依って、“「伊勢の大字と民200」を「4回」に渡り「合計では民500・実質では民800」を得て、「土地・領地」ともに“「実質の伊勢の王」”と成って行ったのだ。
    この上記した“「殖産が自由に出来る領地」”としては、当時の「伊勢の有効面積の80%以上を獲得・地権域含む」し、「実質の伊勢の土地を殖産等で実行支配する伊勢王」と成っていた”と記されいる。

    注釈 ここで何か事件が興っていた様だ。
    実はそれまでは、“これだけの功績を掲げながら何故か朝廷から「初代伊勢王」とは認められていなかった”のだ。
    それまでは「第七位王位」であって「第四世族内の真人族」であり「冠位」は「天皇」に継ぐ「浄大壱位」で、「賜姓臣下族」と成っていたが他にこれ以上の冠位と官位を持つ者は例え皇族の皇子であっても存在しなかったのだ。
    この「大功績」も含めても「伊勢王」として認められていなかったのだ。
    つまり、「施基皇子」は「伊勢の王」とされながらも何か政治的なものがあって「初代の伊勢の王位」では無かったのだ。 来敵の孝徳天皇の第二第三皇子が一代限りの伊勢王に任じられていた。
    ところが任じられて直ぐに毒殺されていて,第三皇子がこれに代わろうとした。
    要するに「伊勢王」であるが「伊勢王」と成ろうとはしなかった。
    つまり、従って「朝廷からの国司」が「伊勢」を官吏して、その者が「初代の伊勢王」と一時呼ばれていたとされていて、「伊勢王」とは認められていなかったが、然し、この「近江鉱山開発等の功績」で「実質王」として、「伊勢への遙任」から、それ以降は、施基皇子は領国に「赴任・着任・647年」からが初めて認められたのだ。
    つまり、“「初代の伊勢王」が存在しながら「領国の伊勢の国」を管理し始めた”としているのだ。
    「遙任中」は「三宅連岩床の国司代」の配置の前に、この様に「初代伊勢王」がいたが「伊勢への遙任」に“「ある事件」”が起こり、それでその遙任の地位を「天皇」から解かれ、その「都の一族裔系」と共に「伊勢」に赴任し「着任」が許されたとしているのだ。

    実は“この伊勢に関わる「ある事件」”とは何なのかである。
    気に成る事なのでここで先に検証する。

    つまり、「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王」と成っていたのだ。
    この「孝徳天皇・在645年〜654年」の「失脚」と共に、この「その2人皇子・伊勢王の子供2人」の「突然の病死(政争)・伊勢王」で、「天智天皇の施基皇子」がら「領国の伊勢の国」の「伊勢王を勤める事」に史実は成ったのである。

    (注 斉明天皇・661年没〜中大兄皇子662年)

    「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は“「一代限り」”で任命されていた。
    「一代限り」である事と云う事でありながらも、「政治的な意味合い」で「初代伊勢王」と呼称されていたのだ。
    「天智天皇・在662年〜672年」の「第7位皇子の施基皇子・716年没」は「青木氏の賜姓」を受けたのは「飛鳥期の難波宮の都」で「647年の事」である。
    先ず、「皇極天皇期」に「中大兄皇子・後の天智天皇」から「645年の大化の改新後の2年後に「賜姓・647年・臣下族」をして「伊勢青木氏」で受けていながら、政治的には次の様に成っている。

    645年から「賜姓・647年」までの2年間
    654年までの7年間
    661年までの7年間
    以上の「16年間」である。

    一族が「天武期初期に移住したとする説」に従うと、「672年〜686年の初期」の約11年間の以上の後期の2期を合わせて、「賜姓時」より「27年間」は「天智天皇即位の662年」までの“「16年間」”は都にいた事に成る。
    表向きは遙任である。
    これは「伊勢青木氏」ではあって「伊勢王・第四世族内真人族の王位」ではあったが「伊勢」にいなかった計算に成る。

    これが、上記した「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で、「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」と成っていたとするのが「理由」と成るのだ。

    但し、「伊勢青木氏の記述」を借りると、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」の内の一人が死んだが、“もう一人が伊勢王”として続けたとしての事であり、記述はこの“もう一人が伊勢王”を“「施基皇子の中」”に組み入れて施基皇子「初代伊勢王」と成ったとしている。
    これは“「施基皇子の中」とは、“もう一人の孝徳天皇の皇子”を“「父親・天智天皇の政敵」でありながらも保護した”と云う意味であろう。
    そうする事で何事も無かった事にして、次は実質の「領国の伊勢の国」の「施基皇子が初代伊勢王」と成ったと云う事にしたのではないだろうか。
    と云うのは、最早、この“もう一人の伊勢王”と成った者は、「孝徳天皇の皇子」であるとすると、「天武天皇期」では、既に、この間に「3人の天皇」が即位しているとすると、「大化の改新・645年」で定められた「王位の定義」は、「第四世族外の第五世族位か第六世族位の皇子」が成る者として決められていて、この“もう一人の伊勢王と成る者”は、既に「王位」に無く、既にこの時は「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に居た筈なのだ。

    「大化改新の詔」では「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に成った者」は「関東・坂東」に配置される掟である。
    所謂、「大化改新後」は「初代の坂東八平氏の始祖」と成る筈であった。
    ところが「孝徳天皇の皇子」は「坂東」に流される前に政争で殺戮されたし、多くは自ら進んで政争を避けて「栗隈王の様」に一族挙って九州に臨んで配置されている。
    此れを取り分け「第六世族」と成った「中大兄皇子の政敵の孝徳天皇」の「元皇子」を“伊勢の中で囲い救ったと云う事”に成るのである。
    つまり、これ自体は大問題であるが「父の政敵の子」をこの「伊勢」で「施基皇子は匿った形」に成るが、“この時、何故か問題は起こらなかった”のだ。
    既にこれは「脅威と成る皇子」では無く成っている事もあり、「政敵の脅威」とはならないし、「伊勢」の中に囲い込む事で他の勢力も含めて抑え込む狙いもあったと考えられる。
    何れにせよ、これは今後の事を含めて丸く治めたと云う事であろう。
    この記述から読み取れる範囲は、「北部」、つまり「伊賀」に配置したとある事から観てこの者は密かに「伊賀の氏人の一人」として後に「伊賀青木氏と融合させたと云う事」に成ろう。

    さて、「伊勢」がいよいよ「施基皇子の第二世族王・真人族伊勢王」に成ったのは何時か”であるが、前段でも簡単に触れているがこの考察を序でにここでする。

    「施基皇子とその裔系」は、「伊勢」に「正式に移住できた年」は、「孝徳天皇失脚の654年・歴史経緯説」か、「天武天皇即位の672年・青木氏の記述」の「二時期の二つの説」が成り立つ事に成る。

    先ず、前者は、「天智期初期・654年」に“「遙任」”として「真人族王位の伊勢王」と成った。
    つまり、都に居て「伊勢」には国司代を置いたがこれが「三宅連岩床」である。
    “「遙任期間」”は“「18年間」”と成る。

    次に、後者は、「天武天皇初期・672年」に願い出て「一族」ともども「伊勢」に“「赴任」”をした。
    朝廷から派遣されていた「国司代」の「三宅連岩床」を都に帰した。

    「前者の前期」は、「孝徳天皇の皇子・二人・一代限りの真人族伊勢王」で記述から読み解くと、“後に伊勢で匿った”とする記述からすると、「遙任」では無く既に「赴任」であったと考えられる。
    この「赴任期間」は、「孝徳天皇・在645年〜654年」の「失脚」とすると、「真人族伊勢王の赴任期間9年間」である。

    仮に、前者と後者であるとすると、“何故、天皇の権限下で赴任にて一族を移住させられなかったのか”の大きな疑問が湧く。

    この「赴任期間」は、「嵯峨天皇期弘仁二年・811年詔勅」までとある。
    この「関係する詔勅」は、続けて「五年と七年と最後の十年の四詔勅」まで少なくとも「賜姓族」であって、“「伊勢王であった」”ので、“「139年間」”であり“「伊勢王」”であり続けた事に成る。

    然し、「施基皇子没・632年〜716年没・84歳」に依って「伊勢王」を解かれたのでは無く、これらの「四詔勅」に従えば、その内(湯原王、榎井王、白壁王、他三人)が「四家」を構成し補佐し、「後裔の福家嫡子・春日王」が「形式上811年」の「95年の間」までは“「伊勢王」”を続けていた事に成る。

    但し、ところが「嵯峨期」に成って「出自元を擁護する派」の「桓武派」と、「皇親族・青木氏」であった「出自元の勢力」を弱めようとする「嵯峨派」との間で“「同族の政争」”が起こる。
    つまり「桓武派」を推し進めていた「薬子の変」が起こった結果として「嵯峨派」が先手を打って勝つが、明らかにこれを“一族内の争い”と見做されていた「世間の評価・不評」で、「反発を受けてた嵯峨派」は、結局は譲り、「桓武派の代表の平城上皇」が、元の「信賞必罰の大権」を古巣の飛鳥の宮で握る事の「折衷案」で、「一族内の争い」は治まる。

    従って、「形式上811年・95年間」」のまで続けていた事は、「信賞必罰の大権」を握った事の「折衷案」で、つまり、「平城天皇806年〜824年」の「形式上824年」まで、この“「伊勢王」”は、更に“「13年間」”を延長され続けられる事と成ったのだ。

    「遙任期間・18年」+「赴任期間・三期の」=“「139年間」”+“98年間”+“13年間”
    =250年間

    では、「時系列に歴史的経緯」を観ると、以上と成るが果たして、「現実の事態」と云うと「時系列の歴史的経緯」では治まっていないのが世の常である。

    つまり、「824年以後」は、確かに「賜姓族」を外され「嵯峨天皇」から令外官の一部の立場を弱められ結果として、「伊勢王」では無く成っているが、本当にそうなったのかで在る。
    実はそう成ってはいないのである。
    確かに[250年の伊勢王」としては正式には終わらせられたが、唯の昨日今日と「朝廷から派遣された三等官の官僚族達」が「国司・伊勢王」と成っていた訳では無く、「伊勢郷士50人衆」を「氏族」として女系で血縁し、況してや「四掟」で「藤原秀郷流一門族316氏」と結ばれている「青木氏族の伊勢王」を外したからと云って、そう簡単に外れる訳ではない。
    当然に「嵯峨天皇」に依って「伊勢国司の官僚」が朝廷から一時廻されたが務まらず、僅かの地に「出自元擁護の仁明天皇」に依って「天智天皇の奈良期からの不入不倫の権」に基づき「出自元の伊勢王」は復されたのだ。
    その結果、「伊勢」には国司を置かず、「250年以降」は、南北に分け “「無足村主100人衆・郷士衆」”として「古来からの神域の伊勢」である事を以て自然発生的に「自治体の合議制」で治められる様に成ったのだ。
    この“「無足村主百人衆・郷士衆」”には「氏族の伊勢郷士50人衆」も含んでいるのだ。
    当然に「南勢」も「青木氏の旧領地」でもあり「北勢」と同然に“「無足村主百人衆・郷士衆」”は組まれたし、「氏族の伊勢郷士南勢50人衆」がこれに参加した。
    要するに「村主衆」であるので「郷士衆の者」が代々務めた。
    室町期には中には「府の役人」も務めていた者がいる。
    「青木氏の記録」を観ると、その“「無足村主百人衆・郷士衆」”の「財政的な支援」を影で「伊勢青木氏」はしていた事が書かれている。
    “「無足村主百人衆・郷士衆」”が「中央の政治圧力」に屈せない様に「独自性」を持たしていて「河川の修理等の工事」等にも「経済支援」や「技術支援」していた事が「商記録」等からにも書かれている。
    中には史実として「中央政府」に対して「犯罪者などの引き渡しなどの交渉」にも強く関わっていた事が書かれている。
    それは「鎌倉幕府や室町幕府」や「紀州藩との殖産等」で良好な関係が維持されていた事からの結果からであろう。
    現実に、幕末に起こした「南勢」からの“「無足村主100人衆・郷士衆」の「伊勢騒動」に対して「紀州藩」と交渉して罪人を出さずに済ませた事もあった。
    ところが、これに呼応して「北勢」の“「無足村主百人衆・郷士衆」”が動いたが「明治政府・薩摩藩等」が介入して「大伊勢騒動」に発展した。
    これに対して、「薩摩藩主体の維新政府」とは、蔵等を焼かれる等の「犬猿の仲」であったが、「先導者全員斬罪の条件」に対して、古来より「献納をしていた伊勢青木氏」が裏交渉してこれを取り下げさせ「一人の先導者」が責任を取る形で事を納めたのだ。
    これが「伊勢青木氏」が直接的に関わった「明治9年まで13年間の伊勢騒動・信濃を巻き込んでいる」であった。
    当に、これは「伊勢王」であろう。

    「250年後/272年」も間接的に「伊勢の事」に関わり、その「鎌倉期」からの伊勢の“「無足村主百人衆・郷士衆」の「自主の政治体制」は江戸末期まで続いたが、結局は、間接的であるか直接的であるかの「関わりの具合」であって、「支援」に関しては「政治」も[経済」でも「実質上の伊勢王」として勤めていた事に成るのだ。
    ここに第一に奈良時代から取り組んでいる「殖産の伊勢青木氏」があって女系で何度も深く繋がっていたとすれば、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「伊勢の民」も誰一人漏れなく「潤い」と「治政の恩恵」を得ていたのであるから、伊勢王期間の250年、又は272年後」に、突然に「伊勢王」で無く成ったからと云って“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「殖産」で「伊勢の民」等は誰一人左を向くような事は無かったと考えられる。
    ハッキリ言えば、「伊勢の民の指導者」の“「無足村主百人衆・郷士衆」は「女系の血縁族の伊勢青木氏の氏族」であるのだ。
    とりわけ、「純粋に氏族で形成している氏」は、日本に於いて「伊勢と信濃と秀郷流の青木氏」だけであるとすると、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、最早、「250年後/272年」以上の「何度も血縁を重ねた親族の一族」であった筈である。
    取り分け、「男系血縁族」では「親族でも主権争い」をするが、これは無く、「女系の血縁族」は「血の繋がり」を強くする。
    これは前段でも何度も論じたが「人類」は、「女系のみの継承」による「女性の遺伝子的繋がり」から出来ている。
    後勘から観てもどんな面から捉えてもこの“「伊勢王を外した”と云う「嵯峨天皇の判断」には「疑問」が残るが、そんな「伊勢王」の「伊勢」であった。
    其の侭に「伊勢王」であり続けていた場合に何か拙い事が起っている要素があったのかと云う疑問がある。
    「272年間」までが“「現実の伊勢王」”であって、それ「以後の明治9年」までは“「実質の伊勢王」”であり続けたと観ている。

    注釈 前段でもになども引用する処はあるがこれを前提にこれ等の論を続けて読んで頂きたい。
    確かに「伊勢青木氏]は「皇親族」として力を持ちすぎて「天皇の地位を脅かす力」はあったが、既にこの時はこの政治的争いに巻き込まれない為に徹底した「女系化」をして「青木氏側」から防いでいる。
    これで「天皇の地位を脅かす事」は出来ないしないし、寧ろ、「桓武天皇や平城天皇や仁明天皇」の様にその力を利用して「地位の安定・財源」を図っても何の不思議は無かった筈だ。
    突然に「天武系から天智系」で血の繋がる一族」と成ったとしても、そこは力を借りて安定を図るべきでは無かったか。
    要は、「嵯峨天皇」が一般的に嫌ったとする「皇親族」としてその度を過ぎなければ良い訳だ。
    それを既に見抜いて「施基皇子」が「氏是」にしているでは無いか。
    寧ろ、「天皇家の方」から近づいてきているのだ。
    それを信用するかしないかであって、「施基皇子」は歴史に遺る程に表の行動は「歌人」に徹しているのだ。
    後は「院号」を以て「殖産」を続けていれば良い訳であるし、それを続けているし「献納・内蔵」もしているし「院号代/大蔵」を納めている。
    要するに、現実には「天皇家の内蔵の方」が潤っていたのだ。
    「青木氏」を「皇親族で地位を保っている」として「社会」に「諂い」し見せたくないとする態度を採ったとも思っていたのか。
    然し、「施基皇子」は「歌人」として振る舞っている以上はこの説は当たらないだろう。
    寧ろ、「嵯峨天皇」は「伊勢青木氏」に卑下したかであるが、何故ならば「後裔の春日王」も歌人であり全てに優れていたとされる。
    「嵯峨天皇」に似て「初代の白壁王の光仁天皇」もその性質の傾向があった事が伝えられている。

    然し、この奈良期からの「伊勢」に「250年後/272年」もの間に、「伊勢氏族50人衆」で「強固な基盤」が既に築かれていて、そこに「朝廷国司」が来たからと云って務まるかの疑問が残る。
    現実には「経済基盤」と「支配の勢力基盤」と「軍事等の統治の政治基盤」が築かれているのだ。
    これ等の協力なしでは何も出来ないのが現実である。
    「朝廷としての税」にしても「伊勢弁財使」としても「税を都に送るだけの運搬の役目の官吏」であったろう。
    それ故に「250年間」で「伊勢郷士衆50衆の氏族・北部」で構成されている国では、最早、「押領使の役目や弁財使の役目」は唯、無かったであろう。
    従って、「824年」からは実質は「伊勢北部」は「伊勢国司不在」であったのだ。

    其の後、この“「738年間の国司不在の伊勢国」”は、元より「郷土史・無足村主100人衆由緒等」に依れば、“「無足村主百人衆以上の村主構成人・郷士衆」で保たれていた事が記録から判っていて、取り分け「伊勢南部」も「伊勢南部郷士衆50衆の氏族」で保たれていたのだ。
    この「伊勢南部」も云うまでもなく「奈良期からの伊勢青木氏の旧領地」であった。

    ところが「奈良期からの不入不倫の権」を破って「戦国期」に成って突然に「1562年から1576年」の「8年間」に渡りに「朝廷の学問処官吏・公家」だった「北畠氏」が「貴族の武力」を以て「伊勢・1415年」に強引に入り込み南北朝期に「伊勢国司」として振る舞い、最終は「信長」に1576年に潰されたのだ。
    約長くても「150年間」であるが、「伊勢国司としての役割」を果たした期間は実質無いのだ。
    矢張りは、古来から「伊勢一国惣国者国衆」として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主百人衆の郷士衆」であったのだ。
    彼等が参加しなかった後から甲斐と信濃から入って来た「工藤氏や神田氏や川久保氏等」との「伊勢の戦乱」であったのだ。
    唯、秀吉はこれを見抜いていたのだ。

    注釈 前段でも論じた様に、余談として、この「奈良期からの不入不倫の権」を自ら先鞭を切らずに「特殊な伊勢」に対して自ら手を下さず「北畠」に遣らせた「信長の策」に嵌まったのだと筆者は観ている。
    この注目の「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」は北畠氏に着いて行かなかったのだ。
    筆者は、古来から“「伊勢一国惣国者国衆」”として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」が従うと思ったところに問題があって、この「村上源氏を押し出した北畠」は余計な事をしたものだと思う。
    「村上源氏以上の格式」を有する「伊勢一国惣国者国衆」に対して{武力」では護れはしない「伊勢]である事を読み切らずに馬鹿な事をしたと思うし、「伊勢」は其の様に一定期間振る舞ったのだ。

    注釈 この“「伊勢惣国者」”で成り立つ「南北部の村主郷士の自治組織」は、江戸時代に成ってから政治的に利用され、「津藩の郷士の軍役の家臣」として利用され「政治の安定・取り込み政策」を図ったのだ。
    ところが「南北部の村主郷士の自治組織」の彼等には、元より「経済的」に安定する「擁護の支援者・伊勢青木氏」がいた為に、「津藩の働き掛け」に必要以上に靡かなかったのだ。
    中にはこの柵から抜け出せずに「軍役の役」を持ちながらも「無足村主百人衆」を捨てなかったのだ。
    「典型的な事件」として「伊勢騒動の指導者」の様に、「津藩の役人」でありながらも主張する処は主張し自ら責任を取った指導者もいたくらいで「無足村主百人衆」を守ったのだ。
    明治5年までの歴史が残っている。
    ところが江戸期に入って「伊勢」は、「多くの支藩・紀州藩」が乱立したが、どの藩の家臣にも成らず「無足の立場」で「自治組織」を形勢していた。
    又、この「土壌」を利用したのが「信長の楽市楽座」である。
    更には「伊勢秀郷流青木氏の梵純」の「甥の蒲生氏郷」が、この「伊勢の組織」を利用して「伊勢」を上手く治め「信長」より特別の褒章を得た史実があるほどの忘れてはならない「伊勢の事を左右する程の自治組織」であったのだ。

    況してや、「帝紀」で少なくとも「嵯峨天皇」は、「天智天武天皇の青木氏に下した命」は覆せないし、それを覆せない以上は「伊勢出自の光仁天皇・白壁王」と云えどこれを黙認したが、「桓武天皇と平城天皇」は帝紀を追認している。
    従って、この「帝紀の現状」は「絶対的帝紀」として覆せなかったのだ。
    つまり、「伊勢の領地と民」はこの「帝紀」に従う決定として「施基皇子の後裔地」として例え「天皇」であっても覆せなかったのだ。
    つまり、「伊勢王の国司事件」によりその後は“伊勢国司を置く事は絶対に出来ないと云う定め”に成っていたのだ。
    唯、累代の中で「嵯峨天皇」だけがこの「流れ」を嫌って「賜姓族と皇親族を外す事」で、「帝紀」に逆らったのだが、但し、晩年にこれに反省して自らが「賜姓族青木氏の制度」を甲斐に復活して「甲斐青木氏・税を司る役人の甲斐冠者」にしてから自らが復して「甲斐青木氏」として「青木氏の賜姓制度」に戻しているのだ。
    その後に「円融天皇」により既に「四掟」で「母方」であった「秀郷一門の嗣子第三子」に「秀郷流賜姓青木氏」に復する事を永代に命じているのだ。
    依って、この「考え方」に依れば一時的には成るが、「賜姓族」では無く成ってる時期もあった事に成り、同然に「伊勢王では無く成る時期」も起こったと云う事に成るのだ。
    「甲斐青木氏」として「賜姓」を復しているが、「制度」として復しているかは復したと明記している命が無い限り疑問であるのだ。
    天皇が正式に賜姓をするかは別として条件が揃えば名乗っても良いとしたのだ。
    これが「左大臣の島氏の青木氏」であったり「時光系回青木氏」であったり[橘氏系青木氏」等があったり証券の疑義はあるとしても「丹治彦流丹治氏系青木氏」がある。
    「秀郷流青木氏}は「円融天皇]より正式に条件に拘わらずに「賜姓」を永代で受けて別格である事は女系で云う迄も無い。
    まあ、「円融天皇」が「青木氏に依る賜姓制度」を正式に復した事にも成ると観ている。
    これは「賜姓族」を外したのは一時的にせよ「賜姓族と皇親族」ではあったとしても、“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだ。
    但し、「皇親族」では“外した”と云う記録はあるが、「仁明天皇」がこれを“復した”とする記録は「五つの朝廷史書」にもないし、これ等の「史書」から明らかに「賜姓」で「臣下」している限りに於いてだけでは「皇親族」は必然的には生まれてない。
    この“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだが、“無いと云う事”は外していないという事にも成る。
    つまり、「伊勢王」でありながら“「皇親族」では無い”と云う矛盾は生まれるのだ。
    又、同時に「伊勢王」である以上は「賜姓族」である事に成る。
    だとすると、「伊勢王」の「賜姓族」は、否定できない事実であるのなら、「皇親族」と成り得る事は否定できない。

    「記録の有無」は、兎も角も、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係は成立していなければならない理屈である。
    これを脅かした「嵯峨天皇の行為」は、矛盾するか否かではなく、「帝紀」に触れるか否かではなく、記録にあるか無いかではなく、この「出自元」でありながらこの「三つの関係」にある事をそれぞれを否定したのだ。
    そこで「特別令外官」だけに就いては、「3等官以上の官吏」であれば成り得るので「令外官」であった事は否めないし、況してや「浄大壱位の冠位」を持つ「永代賜姓五役」であった事は否定できないので、「永代令外官」は否定できずその侭の状態で放置した事にも成るのだ。
    つまり、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」でありながら、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係を否定してしまって「百々の顛末・始末」は矛盾した結果と成ったのだ。
    然し、結局は、この「嵯峨天皇の矛盾」を放置できずに「仁明天皇」が遂にはこれを修正したと成るのだ。
    この「歴史段階の結論としての証明」は、何はともあれは、“武力を前提としない氏族の青木氏”に対して、“「鎌倉幕府」は、「仁明天皇の修正部分」に基づいて、「鎌倉幕府」は「安堵策」を以てこれを認めているのだ。
    ところが、「歴史」では此れを正しく評価していて、この「伊勢」の「商いも営む二足草鞋策の裔系青木氏」に対しては、「伊賀域」を除いて、「伊勢全土本領安堵している史実・上記の関係式を認めた証拠」”があるのだ。
    「鎌倉幕府」は、「伊賀域を除いたとする事・地頭」からすると、「奈良期から平安期初期に掛けての詔」に従ったと云う事であり、又、「帝紀の有様」に従ったと云う事に成るのだ。
    「室町幕府」は、これを「伊勢北部」と「伊勢南部一部の旧領地」を二つに分けて本領安堵して全体を減らしたのだ。
    更に、その上でこの「地権策を多く用いたこの安堵策」は「奈良期の最も初期の状態」に限定した事を意味する。
    然し、この時は、限定と云う事は減らしたのかと思いきや「別の形」で処置して復しているのだ。
    それは、「青木氏の財力」を生かして優先的に「地権獲得・幕府には都合がよい」で本領を復して解決しているのだ。
    恐らくは、この「地権獲得」から得られる「大財源」を狙ったものである事は明白である。
    これ等の史実は、「伊勢王」では無く成った「824年」からも、“「武力を持たない豪族・秀郷流一門の抑止力」”を背景に「伊勢」を「実質に支配をしていた事」を示すものだ。

    次に、「伊勢王であった時期」としては、「賜姓前の“647年以前」はどうであったか”という事に成る。
    当時の「施基皇子15歳」で「成人」と成り、その為に「賜姓」を賜り、当然に独立した証として「姓」を持つ以上はそれなりの位に応じて「国・地域」も賜るのが「当時の真人族の者の仕来り」であった。
    この時に確かに「孝徳天皇の二人の皇子」の「伊勢王]として「一代限りの王」が居ながらも、「施基皇子」はその「伊勢の一部域・賜姓地は指定されていた」を賜っているのが通常と成っていた。
    然し、未だこの時は初代の「孝徳天皇の皇子の伊勢王・毒殺」が居た事から、「全域」では無かった事には成るが、そこで、この時、「伊勢」は果たして、「施基皇子の賜姓地」が決まっているのに、「初代の孝徳天皇の皇子の伊勢王」が存在し得ていた事に成り得るのかである。
    これは矛盾する。
    これは「孝徳天皇の皇子の伊勢王」に執っては「100%伊勢王としての立場」には無かった筈である。
    それでも「伊勢王・一定期」にしたと云う事だが、これは「中大兄皇子の政治策」であった事は明白であった。
    「歴史の経緯」からして、この状況の中では「伊勢王」は確かに「孝徳天皇の皇子」であった史実かも知れないが、現実は考え難い。
    「施基皇子」は、「賜姓」を「伊勢」に受け、且つ、「功績」に依って「伊勢の領国・4つの大字/80%」を受けながら、「伊勢王では無いと云う矛盾」が「一時期に続いていた事」に成るのだ。
    ところが、この「状態下]で、「中大兄皇子」は、「大化改新・645年6月12日」を実行しているのだ。
    「政権」を掌握した「中大兄皇子と中臣鎌足」は、「皇極天皇」を退位にし、「皇極天皇の弟」の「孝徳天皇」を即位させた。
    そして、その直後から「新たな時代の始まり」として、それまで正式に無かった「元号」をも「大化」と定めた年でもあって、「王位」も「第世族」までと決めた年でもあり、「日本」と「天皇」の「呼称」をも正式にこの時に定めた年でもあった。
    それまで「王位であった者」が「王位で無く成った者」が多く出て混乱し、これ等の者は坂東に配置されて「ひら族]と名付けられて流されたのだ。
    これが「後の鎌倉幕府を支えた坂東八平氏の始り・熊谷氏等」である。
    この「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は「斉明天皇」からは「第三世王」であり「天智天皇」となると「第四世族」と成り「施基皇子」が匿ったとしても必然的に「伊勢王ぎりぎりの位置」にあった事に成る。

    所謂、この「皇極天皇・在642年〜645年」と「孝徳天皇・在645年〜654年」の「中間・即位前」の中での起こった「改新劇」であって、「母親の重祚」の「斉明天皇・在594年〜661年」と「天智天皇・在668年〜671年」から「天武天皇・在673年3月20日〜86年10月1日」と繋いだ歳でもあった。
    当に「日本の社会状況」を含めて「状況」が大きく変わる「大化の経緯」であった。
    現実に、この時は「天智天皇」が「伊勢」に「紀州日前宮」から「最終地の遷宮地」として定め移した年でもあり、これを「伊勢神宮」と定めた歳でもあり、此れを「天武天皇」が正式に整えて最終決定して仕上げたのだ。
    だとすると、この「経緯」では、「伊の勢の国」は、「施基皇子」が15歳で成人し「賜姓」を受け、且つ、其の位から地を賜っている筈である。
    つまり、「年・647年の前」の「645年前頃前・皇極天皇期」の「伊の勢の国」は誰の支配下にあったかと云う事に成る。
    母親に代わって「中大兄皇子」が摂政を執っていた年の「伊の勢の国」は当然に神宮の事等もあって、「中大兄皇子」の支配下にあった事に成り、「15歳の賜姓を受けた施基皇子」には、「伊の勢の国の全域」とは云わずとも「ある域の領地]を与えた事に成る。
    でなければ「15歳での賜姓」は無い。
    ここが、“「旧領地」”と呼ばれていた「南勢域の尾鷲の域」ではないか。
    此れであれば、他は安堵され無く成っても、つまり「江戸時代」になっても「此処・南勢尾鷲域」は安堵されていた事から符号一致するのだ。
    つまり、「647年の前」の「642年の5年間」は、実質は「施基皇子の支配下」にあって「647年」に「正式に領地」と成ったとする経緯である事に成るのだ。
    つまり、この以上に検証した上記の「疑問」は、この状況の中で「中大兄皇子」がその「裔系」を以て「伊勢」を一時的に支配していたのではないかという事だ。
    「伊勢王の本領地の250年間」に、この“「5年間」”が加算される事を意味し、それは「255年間」と先ずは訂正される所以と成る。

    ところが、疑問としては、もめた「嵯峨天皇後」の「伊勢王の期間」は、果たして、上記した様に「賜姓族」を外された事で、要するに検証する“「伊勢王の期間」が此処で途切れたとする論”で良いのかである。
    つまり、これは「全ゆる殖産」は終わったとする事に成るが、この「殖産」は「伊勢王」であったかは別として「伊勢を代表する殖産の青木氏」として「紀州徳川氏」と共に明治期まで続けているのだ。
    これは何を意味するのかである。
    他に伊勢に同じ様な立場を保全している者があるのなら続けてはいない筈だ。
    「坂本竜馬の船沈没の事件の問題」も「伊勢の青木氏」が「勘定方指導役」として代わって解決しているのだ。
    本当にこれも何を意味するのかである。
    「伊勢」に「それなりの替わる者」が居れば出て来ている筈では無いか。
    要するに自ら伊勢松阪から摂津に身を引くまでの「明治期初め」まで「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は「実力のある実質の伊勢王」であったのだ。

    兎も角も、「時代経緯」がこれだけの事を示しているのに、それにしても「嵯峨天皇の出自元の行為」に対しては「純和天皇」も「中間の立場」を保ち無関心を装ったが、「仁明天皇」だけは、「嵯峨天皇時代の施政」に反して「反意の態度」を執って「出自元を擁護し復した」と幾つかの史書にある。
    「鎌倉期の史書」にも「伊勢青木氏の血縁筋の最後」は、「仁明天皇」が最後として記していて、ここまでの史実には「否定者」は、「嵯峨天皇以外」に無く、多くの者が良い「関与人物」として記している。
    この事から観れば「天皇」としては、後勘からみれば、「伊勢での青木氏の立場」を立ち直らせたのは「仁明天皇と円融天皇]であったろう。

    淳和天皇・在823年5月29日〜833年3月22日 10年間 嵯峨天皇の異母弟
    仁明天皇・在833年3月22日〜850年5月4日 17年間 嵯峨天皇第二皇子
    円融天皇・在969年9月27日〜989年9月24日 20年間

    とすると、「嵯峨天皇での青木氏賜姓の中止」で、その後は「伊勢王」は結果として停止し、「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」と成ったとあるが、「仁明天皇の復政」で「伊勢王の立場保全・実質は伊勢村主百人衆の上に立っていた」は戻ったとする説論が成り立つ。
    そうすると「伊勢王」が復されたのであれば「賜姓族」も復したと成るだろう。
    上記した「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である以上は、復する事は理窟の上では間違いは無いであろう。
    取り分け、この「説論」は「北勢」に於いては「青木氏の氏族」である「伊勢郷士50人衆の村主衆の氏人」で成り立っていた事を考察し、「旧領地の南部の伊勢郷士50人衆の村主衆」もこれに従ったと考えられている。
    とすると、少なくとも「北勢の伊勢王」であり続けた事が間違いは無い事が云える。
    そこでそもそも「南勢」は上記した様に「奈良期からの旧領地」であった。
    「北勢+南勢」に於いて、この関係が成立しているにも関わらず、そこで「実質伊勢王」を、「朝廷」は「嵯峨天皇の乱政」で掻き廻され、「帝紀を覆す事」は出来ない為に矛盾の進言もをせず“「積極的黙認」を続けた事”に成るのだ。
    取り分け、「南勢」に於いては明確に認められるのだが。
    その「証拠」に於いて「江戸期の伊勢での一揆反乱騒動・前段・伊勢騒動で論じた」は何とこの「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」での「南勢」から起こっているのだ。
    そして、「北勢衆・経済的な補完は伊勢青木がした」がこれを補佐したと記録にある。
    従って、江戸期まで働いていたとするならば、「北勢」は少なくとも「仁明期]までは充分に「実質伊勢王の威光」は働いていたと考えられる。
    従って、筆者は、250年間+5年間+17年間=“272年間” が“「伊勢王の期間」”としているのだ。
    後は、守護等を置かない「南北の無足村主百人衆の自治組織」が治めていた事に成る。

    「戦乱期の中」で「1415年」の「国司の格式」を得て「公家貴族の北畠氏」がこの「自治組織」を其の侭に「伊勢」に強引に入る事に成ったのだ。
    然し、この時も「公家貴族の北畠氏」の資格は「3等官以上が成り得る国司」であって「伊勢王」ではないのである。
    この事は、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である事が現実に認められる以上は否定は出来ず、“「積極的黙認」を続けた事”に依って「伊勢王の存在」を影乍ら認めていた証拠であろう。
    現実に「朝廷に執っては最大の献納・献納そのものが伊勢王の証拠」が行われているのだ。
    況して、「地頭と守護」のいない「南北の無足村主百人衆の自治組織」と「伊勢青木氏の支援」で治めていた「伊勢」の中で「国司」であったとすれば、「公家貴族の北畠氏の国司」は何の意味を成すかである。
    「南北朝の指金」に過ぎなかったと観ていて「朝廷を救うものでは無かった」のだ。
    況してや 「戦国時代1467年から1690年を戦国時代」とすると、「50年前の南北朝の朝廷」にあっては「公家貴族の北畠氏の国司」をこれをその格式とすれば「伊勢国司の意味」の成す処等はないのだ。
    実質は、この段階でも「伊勢王」は、伝統的にも実績でも功績でもどれを執っても“「伊勢青木氏に代わり得る者」が「伊勢」には存在していなかった”という事であって、「献納等の行為」も含めて公私ともに演じていたと見做せるのだ。
    その状態を再び室町幕府の公が形式的に時代に合わせて認めたのが「律宗族の青木氏」であったのでは無いか。
    平安期で“「積極的黙認」を続けた事”に対して、室町期では「正親町天皇」も巻き込んでの事であったと観ている。そうでなければ「正親町天皇・朝廷」を引き込まなかったであろう。
    “「積極的黙認」はこの時点で終わりを告げ実質伊勢王を認めた形を執ったのでは無いか.
    それが「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係であり続けたが、「伊勢青木氏」に執ってはそれがあるか無いかは別として大した意味を持たず、「南北の無足村主百人衆の自治組織」に囲まれた「奈良期からの伝統とその形を護る青木氏・律宗族」であったのでは無いか。
    最早、軌道に載った「殖産の青木氏」であったのであろう。
    要するに、[近江鉄の殖産」は「伊勢王の在り様」に大きく関わっていたのだ。
    それだけにその伊勢王の期間が問題に成る。

    「伊勢の国」の「伊勢王としての殖産」に関する事件は以上

    注釈 「伊勢の資料」には、恐らくは“「250余年間」”とするものもあるのはこの事に依るものであろう。
    要するに、“実質の限界値を何処に定めるか”にある。
    それにしても「奈良期初期の曖昧期の5年間」と、「平安期初期の曖昧期の17年間」を除けば、前段でも記述した様に、確実には、“「250年間」は「伊勢王」であった事”が認められる。

    注釈 そして、その後は、上記した様に鎌倉期には「御家人の地頭職・足利氏」を置いたが「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」を受けた様に、「平安期末期・1192年」までの“「368年間」”も、下記の政治体制としての「伊勢郷士衆南北百人衆」でまとめていた期間も、“「実質の伊勢王」”であった事に成る。
    この時の「伊賀域」は、伊勢松阪に代わって「足利氏の地頭職」を置いて外したが、「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」で、「鎌倉期初期・1220年」までは、「平安期の伊勢王」に相当する特殊な伊勢氏族」として保たれていた。
    然し、「鎌倉中期頃」からは「伊勢の態勢」は替わり「執権北条氏の政治策」で「伊勢の主な本領地」は無く成り、その代わりを「裏の形」では“「買い取る形・地権者」”としての「地位」を築いていたのだ。
    その古来から「立場格式を特別に有する“「郷氏」”、即ち、「豪族に相当する財力と抑止力を有している事」を前提として、「地頭」に相当する“「守護族・郷氏族・伊勢王」”として務めたとなる。

    注釈 「鎌倉幕府」の「頼朝」は、前段でも論じたが、天皇宣下が降りず「征夷代将軍」”とは直ぐには成れず、「頼政の以仁王の令旨」を以て引き継いだとして一段格下の「鎮守府将軍」に甘んじていた。
    従って、正しくは「鎌倉幕府」は、開けずに、「鎌倉の府」として振る舞っていた。
    この「鎌倉の府」の下では、「守護職」に代わって「地頭職の官僚」を前提として置く事を定めて「朝廷」に申請したがこれも直ぐには認めなかった。
    そこで、この樹立したばかりの「鎌倉の府」は、強引に「御家人」から成る「地頭職」を主要地に置き始め、「既成事実」で府の管理体制を造り上げたのだ。
    その為に前の「守護」と「地頭」との間で「争い」が続いた。
    その「地頭の最初の設置」が、「天智天皇の詔」がある為に「伊勢松阪」に直接に置けず、その代わりに「伊勢伊賀」に置いた。
    そして「美濃一色」にも置けず「美濃沼田」の二か所に先ず置いたのだ。これが最初であった。
    そもそも「一色の呼称」は「伊勢」於ける「伊勢王・施基皇子の大字の総称」として使われていたもので、「伊勢」から主要三か国・近江・美濃・信濃」に嫁いだ者等が故郷を懐かしんで住んでいる地域を「一色」と呼んだものであって、それが周囲から格式と見做され、乱れた室町期には無断で格式を高く見せる手段として使われる様に成ったものだ。
    要するに、第の氏名姓と云われるもので、足利氏や徳川氏は時と場所に依って足利氏、徳川氏以外に「名乗り名」を四つも使っている。
    この「名乗り名」を使う事には幕府の追認があったのだ。
    そこで、足利氏等の「名乗り名」に付いては次の通りである。

    例 足利氏・土岐氏等の「第三の名乗り名」 (一色に付いて)

    1 美濃国の戦国大名の「斎藤義龍」が「美濃一色氏」を称する。
    2 土岐頼益の養孫である「土岐成頼」の裔の「土岐頼栄の子孫」が「土岐一色氏」を称する。
    3 足利氏支流の「吉良有義の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
    4 足利氏支流の「吉良定堅の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
    5 藤原北家良門流の「犬懸上杉憲藤の裔孫の上杉教朝の子孫」が「上杉一色氏」を称する。
    6 足利義昭より偏諱の授与で「菅原流一色昭孝」を称する。
    7 足利在種の裔孫が「足利一色氏」を称する。

    要するに、これも「社会と周囲と朝廷と幕府」はその格式を認めていた事を示すものである。
    所謂、「施基皇子とそその裔系」に対して「伊勢王の権威」を認めていた事を示すものである。
    それは合わせて「格式を保つ為の古き伝統」をも維持していた事にも依る。

    注釈 そもそも、“「大兄」”とは、同母兄弟の中の長男に与えられた「大王位継承資格」を示す称号で、「中大兄」はその「2番目の大兄・皇子」を意味する語である。
    「大化の改新」とは、母の「皇極天皇期の645年に「乙巳の変」での国政改革の事で、その2年後に賜姓を授かり、「中大兄皇子」から「第7位の第四世族内の施基皇子」として臣下している。
    「孝徳天皇の子供の初代伊勢王」が、“「施基皇子の配下に入った」”とするは、“この二人の内の次に成り得るもう「一人の子供・皇子」が身を引き「施基皇子の配下に入った」”と成ったと考えられる。
    この事に就いて「施基皇子の功績」を以て、「天武天皇・在672年〜686年」も流石に放置できず、この時に「施基皇子の大功績」が有無を言わさずに「匿う事と赴任の事の容認」に踏み切る事に左右した事に成ろう。

    注釈 さて、“この「注釈に関わった時はと云うと,そうでは無かった”のだ。
    つまり、「初代伊勢王」は実は「施基皇子」であった。
    ところが、その「中大兄皇子の政敵」の“「一代限りの初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”は「伊勢王の施基皇子の配下の国司」として入って着任した形を執って「伊勢」に匿ったのだ。
    この為に政敵の「一人目の一代限りの初代の伊勢王・兄の皇子」は毒殺された。
    この為に、「一代限り」である事から次の「二人目の伊勢王・二人目の弟の皇子」に引き継がせる為には、この「二人目の皇子」には、飽く迄も、“「初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”の呼称としては引き継がせ様としたが、「実質の形」は「政治的立場」から「伊勢国司の形」として辻褄を合わせたのだ。
    この不思議な時系列を読み解けば、この「二人目の孝徳天皇の皇子」を救い匿う口実を造り上げていたとすれば理解は出来るのだ。
    そして、故に“「実質の形」”では、「朝廷」は飽く迄も“「初代伊勢王」と当初は呼んでいだ”の経緯と成るが、実の処は“呼んでいたと云うよりは呼ばしていた”のでは無いか。
    ところがこの「政争]とは別に、「施基皇子」が「朝廷」で「賜姓臣下族」として振る舞っていたが、それでいて余りの高い功績を積み重ねた為に、その侭では「朝廷」も無視し続ける事はできなくなったのだ。
    前段でも論じた様に、「賜姓五役」としての「功績」が誰よりも高く上げながらも、その様に振る舞わなかった原因である。

    注釈 「真人族」の中では「有名な歌人」として振る舞い「政治的立場」に敢えて出ず隠した形でおとなしくしていた。
    その為に上記した様に「冠位と官位と伊勢領地」とを「皇子真人族」の他の誰よりも獲得していたが、それ故に上記の様に「伊勢王呼称」には拘りを示さなかったのだろう。
    その「真人族」が何と初めての「第七位の第四世族内の真人族」が、最初の「臣下族」と成り、且つ、それが「賜姓族・647年」と成り、「天皇の親衛隊」と成った事で、その事象は過去に事例が無く、“「前例のない扱い」”であった事から、「天武天皇」とその「后・姉・持統天皇」は、その「扱い」に対して勿論の事で「朝廷」も困ったのでは無いかと観ている。
    此れは「父の天智天皇の大化の改新」で起こった初めての事であって、何事にもその「扱い」に極めて慎重に成ったと云う事ではないか。
    古来より上記している様に「帝紀」があって、“天皇が一度詔として定めた事はどんな事が有っても覆してはならない”とする掟があった。
    これに対する「三等官以上の官僚族」がこれに関われない“「政治的迷い」”があったからであろう。
    つまり、「浄大壱位と云う冠位」を持っていた事で、「兄の皇子」に対して“「天皇も裁けない出来事」”と成っていたと考えられる。
    その「最大の要素」は、「天皇に継ぐ冠位」と「真人族で賜姓族のその前例のない功績」であったと考えられる。
    これに「天武天皇」も「兄・天智天皇」で、その「后」も「天智天皇の娘」であり、「大化の改新の詔」と「帝紀の尊重」であるとすると、このそれ相当の“施基皇子の処遇に迷う”のは「自明で理」であるだろう。

    注釈 「施基皇子の功績に伴う処遇」に対して、「兄の川島皇子の処遇」は礎それ相当に評価されていないのは不思議で、「皇子順位」は川島の皇子の方が確かに上であるが、「近江への褒章の処遇」は同じと成っている。
    冠位と官位は施基皇子の方が上であるし、「領国の価値としては施基皇子の方が間違いなく上である。
    「賜姓」も「施基皇子」は「神木の青木」から当時の慣例から上で、「普通の当時の賜姓」の最低は「地名」であり、「川島皇子の賜姓」は単なる「近江の地名・神社名」であって「真人族の賜姓」の扱いではない。
    然し、以上の様に「青木氏のの氏是」にもある様に上位にありながら目立たない様にしていたのだ。

    注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
    それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
    その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
    その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
    前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
    そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
    「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
    この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
    この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
    そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
    唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
    この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。

    注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
    これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。


      [No.395] Re:「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/04/15(Fri) 11:21:52  

    「青木氏の伝統 69」−「青木氏の歴史観−42」の末尾

    > 要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
    > 「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
    > それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
    > それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。
    >
    > この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
    > 当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
    > 筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
    > 「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
    > だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
    > 家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これの「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
    > 筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
    > それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
    > 「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
    > この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を以て立ち回った氏族であった事」が良く判る。
    > 上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
    > それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
    > この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
    > 「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。


    「青木氏の伝統 70」−「青木氏の歴史観−43」


    さて、再び元に戻して、この様に「予定の籠城」をせずに再び「野戦」を選んだ処から「家康の判断」が「狂い始めた事」に成る。
    そこで「額田青木氏の銃隊」は「青木貞治の軍議の内部情報」を得て慌てて武田軍後尾を追尾するのを止めて「青木貞治隊の救出」の為に「三方ヶ原に走る事」と成ったのである。
    「籠城」は「吉田城」で観る様に、それの方が「銃隊の効果」が出ると考えていたし、「武田軍の本隊」もこの「銃の脅威」に対して、一度は、「第一次吉田城攻め・籠城」で経験しているし、二度目は「一言坂下の遭遇戦」で経験しているし、この「銃の威力」を生かすには“「籠城作戦」”が効果的作戦である事」を「両軍」ともに充分に認識している筈であった。
    それ故に「南下国衆の銃隊」を急遽、「吉田城」から呼び寄せたのだ。
    ところが先に論じた様に「軍議」では、初めから「援軍を送る心算」の無い「織田氏の軍目付・軍監達」は、飽く迄も「籠城とその為に依って起こる時間稼ぎ」を主張していた事が判る。
    「籠城戦を決定する」の為の「命令・三つの命」を駆け付けた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して命じたが、「軍議」では「額田青木氏の本来の目的」では無かった事でこれを蹴ったのだ。
    「松平氏の旗本」は勿論の事、命令を「勘違い・国衆約定を忘却」して受けるものとして観ていたし、「織田氏の軍目付・軍艦」もその様に聞いていて驚いたであろうし、内に秘めた「思惑・時間稼ぎの計画」は内心狂ったと思っただろう。
    と云う「事前の論筋」から呼び出す前に「事前の軍議」で検討され、決定してそれを伝えたと云う事に成る。
    「松平軍」としては「命令」を受け入れるものとして考えていたがその立場を軍監の前で失ったのだ。
    其れは「条件付きの伊川津国衆・約定」であって、それを「家康」が契約を破った以上は「額田青木氏」は断る以外には無かったし、この「危険リスクを負う事」は当初よりその「命令破りのリスク」はあったが、どう出るかは「指揮官の伊勢秀郷流青木氏・貞秀」と「額田青木氏の差配頭・貞重」は城から出て様子を見たが、「秀郷流駿河青木氏一族の青木貞治等」はどの様な行動に出るが緊迫して、外の行動を案じていた。
    「松平軍」は果たして「額田青木氏の銃隊」に対して攻撃に出て来るのかを観ていたが、答えは「時間稼ぎ・偵察隊・遭遇戦の命」であったのである。
    故に、外の「額田青木氏」にこの「命」を伝えに来たのは間違いなく、それは「秀郷流駿河青木氏・貞治」で在ったろう。
    そもそも、この時点で、最早、「額田青木氏」に執つては「松平軍の命」に従う必要があったかは疑問であるが、此処で「戦いを興す事」より「伊川津に戻っての事の方」が「リスク」は少なく都合が良くそのタイミングを計っていて我慢していたと云う事ではないか。
    何故ならば、そもそもこの「命」には「軍議の密かな思惑」があったのだ。
    「反発して来た旗本等」が直前に経験している“「一言坂に在る強い武田軍の本隊」に飲み込まれて滅するであろう”とする「読みの命」であったのだ。
    これは「自ら手を施す事」なく罰する事は出来るしと同時に、時間を稼げると観ていた。
    ところが、この“読みは見事に崩れた”のだ。
    この「詳細な経緯」を「城」から観ていた「松平軍」は、「額田青木氏の銃隊」は時間を経て見事に勝利し、故に、先に「西の坂下」に降りて再び「武田軍の本隊の浜松城通過の出方」を待ったのだ。
    その上で先ずは“「浜松城の右横小丘」”に着き、「両軍の出方を観る為に監視していた事」が資料から解る。
    では、この「詳細経緯」としては“これは何故か”である。
    最早、「命令を拒んだ以上」は「浜松城に留まる必要性」は全く無く成り、且つ、「伊川津国衆」として存在する理由は無くなったのだ。
    そこで、この行動はそれは“伊川津に戻るタイミングを計っていた”のだと成るだろう。
    「額田青木氏の銃隊の南下国衆」はそもそも「防御の銃隊」であって、「武田軍」に対して背後を突いて潰すのが戦略で無かった筈で、では「武田軍の前」を伊川津に引くのは「背後を突かれる危険」があり、故に「武田軍の本隊」が「浜松城通過の後」を「追尾する事」にして堀江城の手前のここで待っていたのだ。
    然し、兎も角も「額田青木氏の南下国衆の銃隊として」の形上は「軍議の命」を果たす様子を見せながらも待ったが、処が「松平軍は違った行動」を採ったのだ。
    それは、そこで、追尾中の「額田青木氏の銃隊」は普通なら得られる事の無い「軍議の密議の結果・野戦を選んだの情報」を、「後勘の経緯」を積み上げた事から観て、“間一髪に逸早く獲得した”のだ。
    それは「旗本からの非難」を受けながらも何とかこの「軍議」に残った「駿河青木氏の青木貞治隊」は、「追尾中の額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して“「重要な連絡」”を密かに採った事に成るのだ。
    そこで慌てて、「青木氏の資料記録から分析」では、「北の三方ヶ原」に向けて「額田青木氏の銃隊」は、「執るべき方針・目的」を定め直して「青木貞治の一族隊200」を護り救出する為にも、又、その後を見守る為にも、“「三方ヶ原に向けて懸命に走った”と成るのだ。
    “「三方ヶ原」に向けて懸命に走った”とする必要は、「伊川津」に戻る為の「様子見」をする為に、「タイミング・武田軍から伊川津に戻る背後を突かれない為にも」を計っていたので、「情報の必要性は元より無かった筈」でこれが初めての詳細結果だったのだ。

    ところが、然し、ここで「駿河青木氏」を救出せんが為の情報が入ったのだ。
    幸いにしてこの時に、ほぼ同時に「武田軍側」にも“「異変」”が起こったのだ。
    それは「堀江城の攻略」に手間取った事と、「別動隊の二俣城の手間取り」で、相互に「タイムラグ」が起こった事の情報である。
    「武田軍本隊」は、そこで「山県軍の別動隊」より先に三方ヶ原に来て「魚鱗・行軍中に」で陣取り、これに加わる様に成っていた。
    然し「別動隊との間」に何と「約1h〜0.5h時間の差」が発生して仕舞った経緯と成っていたのだ。
    既に救出の為に「魚鱗の陣形」を整えてしまつた「武田軍の本隊」には、最早、北の山際に着いた「山県具の別動隊」は西の本体に合流出来ず、更には「松平軍の野戦と陣形の形」を観てでも、予定より手間取る事となった。
    山際に到着し隊形を整える為に、そして「戦う為」には直ぐに「補給拠点の構築隊」を邪魔に成るので後ろに廻しながらも、「山県軍の別動隊」は「松平軍の鶴翼の陣形」の「右側面の山際」に到着した事と成ったのだ。
    「山県軍の別動隊の位置」が左右の軍の北側に位置する事と成って参戦する事はこの形では「異常な形の陣形の開戦」と成ったのだ。
    そもそも、「山県軍の別動隊」は「補給拠点構築隊とその守備兵」で構成されている事から参戦は無いと「武田軍本隊と松平軍の両軍」が観ていただろう。
    普通はそうなるだろう。
    そして、一方、此の両軍の態勢に対して、鶴翼の南側の右側に急いで到達した時には「額田青木氏の銃隊・目的」は、「貞治隊の救出に替わる」のだが、更にそれ以上に驚いた事が興ったのだ。
    それは何故か右の松平軍は「鶴翼陣形」が整っていたが、この「鶴翼面の左側面」の「翼面の隊」に「額田青木氏の銃隊」が仕方なく着いた事に成ったと「資料の一行」を想像するに断片的には解る。
    此処で、つまり、そうすると「青木貞治隊から秘密裏に得た情報」には「鶴翼陣形と云う情報」には無かった事に成る。
    これは「野戦」と決めた以上は、「陣形」も決める筈だが、決めていなかったか、得られなかったか、「家康」は「秘密にしていたかであり、「下記の時系列論」では「秘密にしていた事に成る」であろう。
    「普通」であれば、「野戦」と伝えたとすれば「陣形」も伝えたであろうと成る。
    「普通の陣形」は、「武田軍」に対して完全な無勢であるので「魚鱗の陣形」と成る。
    そうすると、「指揮官の青木貞治」は、「野戦=魚鱗の陣形」として伝えていた可能性が高い。

    この事に就いてもう一度、「時系列論」でここを考察して観る。
    況して、「松平軍」は半月程前に「二俣城の支援」で「無謀な野戦」を仕掛け、そして負けて「浜松城」を目がけて退避中に「武田軍の本隊」に「一言坂付近・11/3・三方ヶ原の1月19日前」で追いつかれ「野戦し酷い敗戦した」とする「歴史上の史実」がある。
    然し、この事に就いては、「松平軍に有利な他説・戦いを有利に進めたとする説」も多くあり、この日の事に付いては「大きく経緯と時系列」に食い違いがあって、「三河側の戦記の三記等・江戸期に脚色」にはあまりにも違いがあり信用できない。
    この「野戦」でも“「浜松城から出て野戦した”とする良い印象を与える説もあるのだ。

    この事に就いては「青木氏の歴史観」に直接に関係ない気がするが果たしてどうであったのであろうかこの「時系列」を追って観ると判る。
    此処で、「武田軍の本隊」は「軍の態勢」を立て直す為に、且つ、同時に周囲の「3つの出城」を落とした上で、何事も無かった様に12/21に西に向けて発進している。
    この「武田軍の本隊」には「赤兜の騎馬隊」が行軍中後尾に着いていたとある。
    つまり、この説では「松平軍と戦う態勢ではない行軍」であった事が判る。
    史実で「一言坂の野戦・松平軍は魚鱗」で「松平軍は完敗で負けている」のだとすると、そもそもこの事で“「魚鱗の陣形」では到底勝てる事は出来ない”と云う「先入観」が強く残ったのであろう。
    そこで、経緯としては、急遽、早く「浜松城」を出て「三方ヶ原」に到着して、そこで「独断・軍監の了解を得ず」で「魚鱗から鶴翼の陣形に突然に変更した事」に成る。
    何故ならば、この「陣形」にするのであれば「城」を出る前に「鶴翼」にしていた方が「戦術」としては「常道手段」である筈で、この事は、「三方ヶ原到着で突然に変更した事」を意味している。
    それは、将又、全面に押し出して来るだろう「同勢の「額田青木氏の銃隊」にも意識があったのだろうか。
    これに「打ち勝つ」には、両者が「魚鱗」で対戦すれば「松平軍」は「陣形の数」の上から観て、これに間違いなく負けるとして、そこで、“「鶴翼で包み込んで勝利する」”と云う「作戦」に切り替えれば“「陣形の上」では何とかなる”とした事が明確に判る。
    そうすれば、仮に勝てたとして、後はほぼ「同勢」と成った“「残りの武田氏の本隊・1万」との対戦する事が出来る”と急遽家康の中で成ったのだ。
    「堅固な堀江城を攻めていた武田軍の本隊」が、遅れて「三方ヶ原に到着する・情報を得ていた筈」と成れば、「武田軍の本隊」は時間の掛かる「多勢型の鶴翼とする陣形」は理窟的にも時間的にも執れない事に成る。
    恐らくは、「家康」にはこの思考でこの「勝つ為のシナリオ」を自らの頭の中でだけで密かに考えていた事が判る。
    何故ならば、それは「武田軍の本隊が鶴翼陣形を整えている間」を「松平軍に突かれる理由」からである。
    そうなれば「赤兜の騎馬隊・6000」の“得意の突撃型軍勢を生かす事は出来ない”と観ていた事に成る。
    普通の戦術では、“「鶴翼の翼部分を閉めたり開けたりして敵を弱らせた処で背後に控えた突撃型の騎馬隊が突撃して殲滅する”と云う「武田軍の本来の戦術」と成るであろう。
    故に、「鶴翼」さえ採らさなければ何とか勝てるとまでは云えないが、「それなりの見込み」は出て「互角並みに戦える」と踏んだ事に成る。
    それには、こちらが、先に“先ず何とか鶴翼にする事だ”と考えた事に成るのだ。
    それには、何故ならば「陣形の特徴」を生かす為には「鶴翼陣形を組む充分な時間」と「配置の為の良好な位置取り」が必要であったのだ。
    だから、“夜明け早くに「浜松城」の「北の三方ヶ原・+60mで南北平坦地」に向かった”の史実と成り符号一致するのだ。
    つまり、そして「武田軍の本隊」が未だ三方ヶ原に到着していないのを観て、故に、“これは戦略的に可能だ”として、「鶴翼の陣形」も「三方ヶ原」に「着いた時・直前に独断で決めたと云う事」に成るだろう。
    とすると、「家康」は「秘密が漏れる事」を恐れて“軍議にこの事を計らなかった”と成る。
    その「漏れて困る相手」は、そもそも「武田軍の本隊」では無く、その前に「織田軍の軍監・三人」であって、そもそも“負けて得をする”のは「織田氏」であって、「西三河の獲得・過去に清康が奪う」、果ては「南三河の獲得」に繋がる訳で、「西三河と南三河は織田氏」、「北三河と西駿河」は「武田氏」と「暗黙の色分け」をして「勢力を広げる信長の算段・目論見」で“「武田氏と戦わずして決着を着ける算段」”で在った筈である。
    それを顕著に物語る足る理由として、「肝心のこの三軍監」は「三方ヶ原の戦い寸前・3日前」に城を出て戦わずして戻っている史実があるのだ。
    唯、「軍監」ではない「軍監の守備隊の平手汎秀」だけは、この誰でも判る図面を読み取れ切れなかった事で、この為に“家康に馬鹿にされた態度を取られた”とした「通説の史実」が遺されている事に成るのだ。
    これは「家康自身」が、この「事・軍監の態度を事前に察知していた事」を意味し、故に「三方ヶ原の真の陣形」は「史実」として「口外」しなかったのだ。
    そして、何と「三方ヶ原の戦い後」にこの「勢力を広げる信長の算段・目論見」は実行されているのだ。
    この「家康の息子・信康に謀反の難癖」を着けて切腹に追い込み「二俣城」を実質は奪取する事の史実の経緯と進むのだ。
    唯、この時にこの「目論見を隠す為」に「見せかけの処罰」を「軍監の三人」に与え、此の「処罰の見せかけの理由」を、“「平手汎秀を見殺しにした」”として「追放の罰」を受けたかの様に見せたかけた。
    だが、現実には「軍監頭の佐久間信盛」は、“京都で諜報活動をしていたとする史実とする説”が遺されている。
    現実には、これだけの「理由・見殺しにした」では、そもそも“「古くからの重臣」を処罰はしない”であろう。
    そもそも「戦国時代」に「家臣」に対して「見殺しを理由」にすれば「武士団」は成立しないし、自らが「同じに近い事・佐久間を罰する事」をすれば「見殺しをした事」とに相当するではないか。

    そもそも以上の様に、ここには「信長が罰したとする論理の矛盾」が生まれているのだ。
    依って筆者はこの説には賛成しない。
    恐らくは、江戸期に入って作り上げた「物語風の戦記もの・江戸期に流行した」から「史実」かの様に引用したものであろうし、それが長く語り継がれる事で「史実」と成り得て行くのが歴史の常である。
    余談だが「歴史の研究」は一々確かめずして信じていると「矛盾だらけの歴史観」が生まれるが、これを「資料等の読み込み」で「見抜く確かな歴史勘の事」が必要で在るのだ。
    だから「家康」はこれを読み取っていたのだし、「京での情報」は得ていたであろうし、後に「家康」も「三人の家臣に同じ手・信康と本多氏と榊原氏等」を使っているのだ。
    そもそも、そんな「歴史の史実」は無いのであり、あったとしても多くは「ある目的を持たせた見せかけの策略・隠密行動」が殆どであった。
    これは「西国攻めをしていた信長」は、「そんな事」は「当初の目論見」が在る以上は、「そんな馬鹿げた罰」はしない事は「指揮官」たるものは誰でも判るので、この説は「史実」ではないであろう。
    故に、この事を「家康も見抜いていた行動」であり、「報復としての平手に・他の三人が引き上げた以上」は「無言で接した扱い」で挑んだが、「三方ヶ原の戦い」で“これが「どの様に出るか・戦死」をはっきりとさせた”のだ。
    そうなれば必要以上に「自ら声を掛ける事等」は決してないであろうし、放置するのが「最大の得策」であろうし、指揮官たる者の器の“始末は成り行きに任す”であろう。
    それよりも、筆者は“「他の三軍監に無視された事」”を恥じて「自滅の手段」を採ったのだろうと考える。
    それは、「前日の通り軍議」の中で「平手汎秀」だけが「時間稼ぎの籠城戦」では無く「三方ヶ原主戦論を強く唱えた事・史実」から「引き下がれ無く成った立場」に「置かれて仕舞った末の結末」なのだ。
    仮に馬鹿にされたとしても、この“「読みの無さ・判断力の低さ」”に対して“「軍監補佐として値しない」”とこの世に自然にあり得る事として見下されていたのだろう。
    そもそも、通説とする論に対しても、“「主君でもない者」に馬鹿にされた”からと云って、猪突猛進に武田軍に突っ込んで行く事の事態そのものに“「戦国期の者」”としての「酷い未熟さ」がある。

    筆者は、これはよくある江戸期に流行した「物語風歴史観の美化論」には同意せずこの様に観ている。
    「戦国の世の掟」として普通ならば「立場上」は「他の三軍監とその差配頭の佐久間信盛に従うが絶対上の立場」にあった筈である。
    要するに“「三軍監」と云うものをどの様に見るか”であってこれで決まる。
    時代と共にその「役目」は変化するものだが、そもそもは「室町期の古来の軍監・軍目付」とは、「同盟」に於いてその「同盟国の軍隊内での出来事」を「味方の主君」に報告し伝える将、又はそれに「近い役の上位者」が、「戦場の敵の情勢」を具に調査して自らの主君に報告する役目を主務としていたし、主君の為にどの様に有利に立ち回るかの役目であるのだ。
    決して「戦う役目」を負っていた訳では無く、「戦う直前・3日前」に引き上げて報告して「自らの軍に有利に成る様に前後策を講じるのが役目」である。
    その為には、「軍の三等官」、つまり、「副将軍の一つ下位に準ずる者」を派遣するのが「鉄則の常道」であって、要するに「自軍」に於いても「軍師役を務められるだけの能力のある立場の者」であった。
    この「派遣で同盟の強さの意味」が解るのだ。
    この場合は、「佐久間信盛・織田家旧来の重臣」と「その他の二人・主君の縁者」とその「警備役の者・平手」で構成されていた。
    決して、「同盟」であっても「援軍」ではないのだし、飽く迄も「援軍」は「援軍として派遣する習わし」であって其の場合は必ず「陣取り」をしたのだ。
    故に、この様に「織田氏の軍監・軍目付」はこの「当時の習わし」から一歩も外れてはいなかったのだ。
    故に、「平手」はこの「習わしの役目」のみならず「軍議の目的」とその「織田氏の目論見」をも全く理解していなかった事に成る。
    だから「戦国の世に生きる者としての知識の無さ・愚者」に「松平氏・家康と旗本・寧ろ旗本から」から「酷く馬鹿にされた事・常識の無さが特に低く見られたのだし、「氏家制度の武家風潮が強く求められた」は必然の事であり、のみならず、寧ろ、「織田氏からも強く疎んじられた筈」である。
    故に、両者から愚者にされた以上は「恥を解消する事」が出来ないので、当時としては「武士の立場・屈辱の作法」からすると、「面目なく生きて行く事」が出来ず、「切腹か自殺行為・武田軍に突っ込んだとする通説」はほぼ「史実であろう事」が判るし、「間違い」を悟って気が着いた時には「武士の作法で解決する事」しか無く成っていた筈なのだが“それであれば「切腹」が妥当"で、「主君に恥をかかせた事」からすると「より妥当な作法」であったと考えられ、その持つ意味も違って来るし、「織田氏の方」でもより良きように扱い方が違っていた事に出来る。
    そして「後世に別の意味として伝わった筈」であろうが、それもせずに唯単に「突っ込むの行為」は別の意味を持ち、其れさえも弁えていなかった事は相当に愚者で在った事が判る。
    「他の三人の軍監・軍目付」は、“無事に尾張に帰り着いている事”は「堀江城陥落の前日に脱出している事」に成り、その間の「3日間」に何とか出来た筈なのにそれもしていないと云う事は、「主君に面目に成る様な妥当な理由付け」をして脱出は出来ていた筈であろう。
    そして、結局は「脱出の説得にも応じなかったと云う事」に話の結末は成ろう。
    後勘から観ても、そもそも「自殺や切腹は主君の前での其の後の事」であろう。
    「平手」は「江戸期の通説通り」であれば、「戦国武士の主君・軽んじている事に成る」に対しての「最悪の手段を選んだ事」を意味している。
    歴史上でも言われている当に「・・・者」によくある“カーと成って仕舞ってやり過ぎて取り返しのつかない所まで陥った”という事であろう。
    それでも「主君の命を待つ事」が「家臣と成る者の掟」であって、況してや「織田軍の軍監の一員の守備者」とも成れば尚更の事であろう。
    とすれば筆者は「江戸期の通説通り」は疑問だと観ている。
    少なくとも「駿河青木氏の貞治」はこの「経緯と詳細」に就いてこの事を当然に知っていた筈であるとするとその後の行動に慎重に成るであろう。
    この「慎重さ」が未だ「織田氏軍監のいる中・3日前」で更に「額田青木氏の銃隊・貞秀」にこれだけの騒ぎが起こっている中では「情報提供の必要性を強く認識していた事」に成るだろう
    つまり、少なくとも「浜松城到着後の3日前頃から連絡のタイミングを計っていた事」に成り、それが「最後の詳細な情報提供」と、「上記の最終局面と成った段階」で、遂には「事態急変・負けると読み込み」で「救出依頼の打ち合わせまで」に至り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」に成って仕舞った”と云う「経緯」がここでも生まれる。
    つまり、このこの重要な経緯から「額田青木氏の銃隊」が「吉田城」を出て「浜松城到着後の直後」から「駿河青木氏の貞治」と密かに「打ち合わせに入っていた事・伊賀者の活動」に成り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」まで続いていた事を意味する。
    筆者は、「3日前」としたのは、「呼び出し命令を受けた吉田城出発前」から「到着まで浜松城到着」とその後の「三方ヶ原戦い後の戦線離脱後」と、「盤田見附の西光寺に回避の確認」と「最終の伊川津到着」に至るまでの間は、「伊賀青木氏の者」と「伊勢水軍」等の多くの者を駆使して同時に早く「警護と事前の情報提供に働いていた事」が解っている。
    この事から「呼び出し命令」から始まり「3日前頃・吉田城から三方ヶ原の間」とした。

    これは要するに、「青木氏の歴史観」から観れば、この「経緯論」は「他の三人の軍監・軍目付」の「時間稼ぎの籠城戦」に対して、「平手」は「軍監・軍目付」でも無いのに出過ぎて「三河旗本」と同じ「額田青木氏を用いた主戦論者」で在った事が云える経緯と成る。
    その相手が、丁度、「武田氏の軍であったという事」であろう。
    「織田氏の戦況の状況」の中で、既に「これ等の情報」を充分に承知していた「額田青木氏を用いた銃隊」を用いた主戦論は,好ましいものでは無かった筈であって、その証拠に詳細に上記した「2年後の長篠の戦い方」でそれが当に物語っているのだ。
    当に戦国の世間に対して、「氏家制度」の中で、これ程の「愚かさを露出した者」は「織田氏の恥・主君の顔に大泥を塗った・人材不足が低く見られた」と成るが、この時期の「歴史上のどの戦記類」を観てもこの事は珍しく他に余り散見できない。
    それ故に、これに影響を受けた「額田青木氏と駿河青木氏の行動」は、今後に、又、「伊勢や藤沢にも影響する行動」が求められていて、「実に適切で慎重であった事」に成るし、「伊川津に戻った後の旗本との関係」も「後世に泥を塗る事」とは成らず、寧ろ、「青木氏の歴史観」からしても「後世に見本と成る遺すべき行為」であって「重要と成る行為」で在ったのだ。
    故に、「後世に比較対象」と成る為にこれらに関わる史実の事を用いて詳細に論じて観た。

    さて、唯、更にこの「検証」を深めると、これにはもう一つ“「重要な事」”として、その「陣形の向きに欠点があった事」が読み取れる。
    要するに、ここにも「・・・者のカーの癖」が働いたのか、不思議にもより有利に成る筈の“「浜松城を背にしての陣形・北向き」では無かった”事なのだ。
    ここで念の為に「江戸期の脚色偏纂の定説」とされているものでは、“「武田軍の本隊」が先にこの「三方ヶ原」に到着して「魚鱗」で構えていた”としているので、故に、“松平軍の陣形はそれに合わして「鶴翼」とした”として、何時もの様に「後付けの美化」をしいるが、「江戸期前の記録」での「時系列の検証」でも、「堀江城の落城の経緯・延べ4日」から考えても、“此処までも「後付けするか」”と思われる様な程に全てこれ等には「辻褄」が合わず100%あり得ないので注釈する。

    そこでこれも「長篠の実戦」にも出ていてこれに付いて念の為に参考として論じるが、仮に「野戦」であっても、「武田軍が採用した移動型の魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の銃隊」が仮に「松平軍の頭の部分の先頭に着く事」があって、それが出来ていれば、「赤兜の騎馬隊・突撃隊」が前面に居たとしても、又、「山県軍の別動隊」が「北の山際・右側面の北に着いていた」としても、慌てる事は無かった筈だ。
    つまり、何故ならば近づいて戦う事の無い「勝てる見込みの銃」は充分に有ったし、間違いなく勝てたであろう陣形と成り得ていたと成る。
    ここが「額田青木氏の銃隊