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  [No.379] 「青木氏の伝統 56−2」−青木氏の歴史観−29−2」
     投稿者:副管理人   投稿日:2024/03/29(Fri) 10:39:29

> 「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」の末尾


> 「青木氏」と同様に、主家が「神職族」であると云う格式から、つまり、高い「宿禰族」であると云う格式から、本来は「姓」は広げられない。
> 従って、「額田部氏」だけを何とか護ろうとしたが、結果として「神社」は遺せたが「氏名」は遺す事は出来なかったと云う説が頷ける。
> 「青木氏」は、「神明社」が有りながらも「由緒ある柏紋の神職・青木氏」を別に作り、これを徹底して「女系の四家制度」で切り抜けたのだ。
> 故に「神職青木氏」は各地で遺ったのである。
>
> 恐らくは「神職と云う事」から長い年代を「男系」だけでは難しかったと考えられる。
> ここに差が出たのではと考えられる。
> 筆者は全国に広がる“穂積氏で繋ぐ”と云う選択肢もあった筈なのに其れもしていない。
> それだけに「伝統を重んじた氏」であった事に成る。
>
> (注釈 江戸初期の「神社の統制令」の内に入り「で500社程度を有する神明社」を幕府に引き渡した。
> 江戸幕府は財政的にも管理し切れず荒廃は極端に進んだ。
> 但し、「伊勢と信濃と美濃と伊豆」では密かに「祠」で隠して護り通した。)
>
> 「額田部氏の系譜」の中まで入れないので、この「推測論」に成るが恐らくは間違いは無いだろう。
> それの遍歴が、現在は姓名が違うが「伝統」を護った「額田の宮大工」として遺ったとしているのだ。
>
> だから「施基皇子の裔の青木氏」には,当に、“「墳墓からの付き合い」”と記されているのは、“この事を察して護った”とする暗示の「青木氏の説」があるのだ。


「青木氏の伝統 56−2」−「青木氏の歴史観−29−2」

さて、前段の「額田青木氏・蒲郡青木氏」と「伊川津七党の青木氏・吉田青木氏等」のところに改めて戻る。
これには「別の面」からも考察が必要で、これに依って「青木氏の歴史観」が多く出て来るのだ。

この両者の「美濃の青木氏」は、「源平の美濃の二戦」で「近江佐々木氏や近江青木氏や佐々木氏系青木氏・近江三氏」と共に滅びた。
そして、別行動を執っていた「美濃」の「彼らの生き残り・伊勢の裔系」は、「加茂・木曽の山間部」に逃げ込み、「信濃シンジケート」として「伊勢等の支援」を受けて、密かに細々と「伝統」を守り生き延びた。
この間、平安末期からは「約300年以上」であった。
其の後、「額田を拠点」としてと「信濃までの山間部」で「原士・伊勢の裔系に付き従った官僚族」と共に生き延びた。

「美濃」で戦った「近江佐々木氏や近江青木氏や佐々木氏系青木氏・近江三氏」の一部も、「加茂・木曽の山間部」に逃げ込みんだとする一説もあるが、共に、この一部がどれだけ生き残り出来たかは判っていない。
筆者は滅亡したと考えている。
後に、「彼らの傍系支流一部」を探し出し、”「摂津」に匿った”とする「青木氏の資料」を採用している。
所謂、前段でも{論じた「摂津支店の支援」を受けた「摂津青木氏」である。
その意味で、この史実がある限りその一部が「加茂・木曽の山間部」に逃げ込んでいた可能性は否定出来ないだろう。

恐らくは、鎌倉期に入って暫くして「近江に戻る事」を望んたが、流石に「近江」には戻る事が出来ず、近くに居て、「摂津支店の保護」を受けて「商いの手伝い」をした事に成ったと考えられる。

そもそも前段でも論じたが、“「美濃の青木氏」は滅びた”と論じているのは、この“「美濃」”には「(aの族)と(a−1の族)と(a−2の族)」と「(bとcの官僚族)」の「四つの族」が居て、其の内、「(三野王の裔系のaの族)とその系列の(a−1の族)」の「全部」が滅びたのである。
つまり、「源氏化を進めた美濃族」である。

然し、「(a−1の残り・朝臣族、浄橋と飽波の裔系)」とその裔系の「(a−2・血縁族)」と、美濃の「(bとc・低位官僚族)」は、全てが「源氏化に賛成する者等」だけでは無かったし、元来、長い間に「多少の血縁性」は在ったとしても、「族としての関係性・氏族」は無かったのである。
要するに、「三野王を祖とする族(aの族)」とその「皇子族(a−1の族)」が「源氏化」を進め滅びた族であるが、「(a−1の族一部)(a−2の族)と(bとcの族)」の中には、上記の「浄橋飽波の裔系族」とは別に、彼等は、多少の所以を持つものの“「三野王に関わる美濃族」”としては“関わらなかった族”であった事に成る。

筆者は、「源氏化に反対」なのか、将又、「同族間の勢力争い」なのかは判らないが、何らかの理由で、恣意的に関わらなくしていた族”が居たと「状況証拠」から考えているのだ。
歴史的には記録として、激しい「同族間の勢力争い」があって衰退していたとする記録がある。
その原因は、「源氏化」なのかは明記されていないが、恐らくは、「源氏化に対する路線争い」であると思われる。

そもそも「平安末期」には、「美濃の土豪」であった「土岐氏」と血縁した「賜姓土岐氏系青木氏」が存在している以上はそう成るだろうし、この結果として「土岐氏の台頭」が目立つ故に、この゜土岐氏」も平安末期には完全な「源氏化」をしている。
「源平戦」で完全に滅びる事なく一部が何とか生き延びたが、室町期には弱体し乍らも存在している。
従って、「三野王系の中」には、「源氏化に反対していた勢力」が居たと考えられるし、その勢力も得て「浄橋、飽波の裔系」も早くから互いに「協力体制を採った流れ」の中に居たと観られる。

ところが、少し進んで、記録的には室町期の「織田勢力」が其処に付け込んで「美濃」にその「勢力」を拡大させたと成っている。
そこに存在していた「青木氏の影の勢力排除」の為に、その「信濃シンジケートの連絡網」、つまり、「命綱の断絶」の「神明社の排除」を図ったのだ。
困った「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、この「別の命綱」の別の構築に入った。
「伊勢から美濃信濃経由の縦の陸路」を遮断され、周囲に危険が迫っていた事から「三河の松平氏」に「国衆」として入った。
そして、「370年程度」の間は現地に潜んでいた(a−1の族一部)(a−2の族)と(bとcの族)の「末裔」が、これを機に「伊勢と信濃の青木氏の説得」で創った集団の「国衆」であった。

その「支援」を受けた「国衆」のその「戦力(鉄砲とゲリラ戦)」を「売り」にして三河の伸長している「松平氏」に「国衆として合力」したと前段でも詳しく論じた様にである。

(注釈 松平氏の「三方ヶ原の戦い」の「戦記」に、「195の国衆」の中にトップに「二つの青木氏」としてのその行動が詳しく記載が在る。
結局、この「三河の三つの記録」に依れば「美濃の青木氏」は、「額田青木氏」と「伊川津七党の青木氏」の二つを纏めて“「渥美の青木氏」”と記載されている。
この「記録」では、「前者の国衆の傭兵」は多く戦死し、「後者の国衆の傭兵」は生還と成っている。
つまり、この「記録」に依れば、「後者」とは、「額田の青木氏」であり、(a−1の族一部)の事である。
そして「前者」とは、武蔵から各地の国衆を経て「信濃」に移動し、そして最後に「美濃」に、更に「三河」に移動した「武蔵7党の丹治氏系青木氏」、つまり、「嵯峨詔勅で青木氏を名乗った族」の事である。
つまり、上記の(a−2の族)と(bとcの族)の事ではない。
この「前者」は、この後に、豊臣に付き、形勢を観て土壇場で徳川方に着いて摂津麻田藩を獲得した。)

(注釈 この時の戦記には、主に「松平の戦記記録」と「甲斐国志録」と「物語風の伊能文」とか外にも「複数記録」がある。)

注釈として、前段で詳しく論じた「一言坂の戦い」の「武田本隊の先鋒隊」と「額田青木氏の国衆の偵察隊」とが「坂の上下」で対峙して、その「遭遇戦」で戦死と成っている。
「青木氏等の記録」や゜他の二つの記録」では、「三方ヶ原での戦死」と成っている。
これは恐らくは「一言坂での戦い」は、抑々記録でも二つあって、一度目は「松平本隊」が野戦を仕掛ける為に、つまり、「土地の有利性」を生かして「武田軍本隊」を迎え撃つ為に「一言坂の東」で戦い、完敗して浜松城に逃げ帰った。
もう一つは、この後に、「吉田城」から呼び寄せた「350の銃隊」を「偵察隊」として「一言坂」に派遣し坂上で、遭遇した戦いで、この二つを混同して記録したものであろう。
然し、一概にこれには「混同」とは考え難く、江戸期にこの「無謀な野戦」を脚色して美化したと考えられる。

そこで、この時の「350の銃隊の偵察隊」に付いて記録から検証して観ると、この時の事が良く判る。
「額田青木氏の国衆・蒲郡青木氏」は「250人程度」であったとされる。
「渥美青木氏の国衆・田原青木氏等」は「100人程度」であったとされる。
合わせて、「南下した額田の裔系の国衆」は「350人」とある。
この内、「50人」は「伊川津七党の50人」としている郷土史らの説もある。
恐らくは、この「50人」は荷駄隊に従事したと観られるので、差配は「250人程度」の50人であると考えられ、要するに「土豪3氏の内の一部」であったと観られる。

今川氏が滅亡し駿河に隣接するその「東三河」には多くの「溢れ国衆等の残存兵」が居た。
これを重臣の「酒井氏や池田氏」に依って纏められて、「東三河軍・2000人」にして2軍制にしたのだが、ここに「額田の南下国衆・350人」は組み込まれたとある。
「松平軍」はこの時の「軍勢」は未だ「3000人」であったと成っていて、「西三河」と合わせて5000人に成ろうとしていた。

「350の銃隊の偵察隊」は何と全体の「約1割の国衆の勢力」であった事に成り、本来であればその「発言力」は相当あった事には成るが、現実は「旗本の西三河侍」に依って阻害された経緯を持っている。
筆者はそもそもこの「兵数の違い」には、前段で論じた「準備段階前の移動の証」と成ると考えている。
そもそも、「額田の子孫数」から観て「逆の兵数」に成ると観られ、そうすると「(bとcの族)」を分散させて「主力」を「額田青木氏の国衆・蒲郡青木氏」の方に置いたと考えられる。
これが「兵の役割」にもあった事は否定できない。

前段でも論じた様に、つまり、この記録の「350人」は、「美濃の伊勢の裔系の末裔」とすれば「約800年間」として、その「子孫力」の「4Nの2乗論」からすると少なすぎると考えられる。
前段でも論じた様に「人口に合った耕地面積」を「額田部氏」に依って開拓開墾灌漑され、その糧は充分にあった事を証明した。
つまり、これらが「家族とそれを護る一団」が先に「渥美」に移動させたとする確実な証拠にも成るのだ。
要は、「国衆の南下後」に家族を移すか、「南下の前」に移すかの選択にある。
当然に「国衆」がひしめき合う「美濃」に於いて「家族の移動前」の「国衆の南下」は危険すぎて無い。

前段でも検証した様に「家族」などの「一族郎党の移動集団の規模」は、「1500人程度」あった事が検証から判るが、南下前の更に「事前準備に入る前」に移していた事も判っている。

(注釈 前段でも論じた様に「田原にある古跡神明社の神官族・伊勢青木氏」を頼りにして、事前に「1500人もの家族」が「渥美と伊川津と田原と吉田域」の四域に移したが、武田軍の東三河の駿河と三河西から攻め入った軍勢に対し、「東三河」ではその攻撃の的は、当然に駿河に隣接する「吉田城と二連木城の攻撃」と成っていた。
そもそも、「豊橋の吉田域」は前段と上記で論じた様に、「伊勢青木氏の神官族」の古来よりの定住地であって、そこに「伊勢の神職の家族」などの一族郎党が奈良期より入っていた。
当然に、「国衆」と成った「一言坂の戦い前」の「8年間の歴史的空白期間」は、当に必然的に絶対的に護らなければならない「地域」であったし、そして、その地域を護る「二つの城」でもあった。
この「二つの城」は、「豊川」の川際に建てられた「平城の吉田城・豊橋今橋」と、そこから真東・2kmの「朝倉川」の際にある「300m高さ」の「山城の支城の二連木城・豊橋二連木」であった。
前者の「吉田城の経緯」は、土豪の「牧野氏と戸田氏との攻防」の後、最終は「戸田氏の城」と成ったが、1565年に「三つ巴戦」で「家康の手中」に入った。
この「東三河」には「武田軍」は「1571年・第一次」に攻め入った。
そして、「二連木城」を簡単に攻め落とし「1572年に吉田城」に攻め込んだ。
この時、「三河の戦記」に「二連木城の兵」は「吉田城」に入ったとある。
ところが、「平城の吉田城」が落ちず犠牲が大きく成つた事から「武田軍」は一度甲斐に引き上げた。
前段でも論じたが、明らかに「山城の二連木城」より簡単に落ちる「平城の吉田城」が落ちなかったのは、「額田青木氏の国衆」の「近代銃による銃隊」で雨霰の様に打ちかけられた事に依るものであった。
其の後、「今川氏の衰退」により「松平軍」は駿河を獲得したが、「武田軍の第二次」が始まり劣勢に置かれた。そこで、直ぐに「額田青木氏の国衆」の「近代銃による銃隊」は呼び出されて「吉田城」を出て「浜松」に向かい、その後に「一言坂」に偵察隊として向かったのである。
「一言坂の戦い」と「松平本隊の野戦」の「本戦の内容」は、「三河の三戦記」に記載はあるが、この「吉田城の戦記」では、何故か詳しく無く「田原吉田の兵」が戦った事だけが記されている。
要するに、ここで云う「田原吉田の兵」とは前段でも論じた様に「伊川津七党の事」である。
つまり、「小さい館城」を持っていた「渥美氏と戸田氏と牧野氏と西郷氏」の「4土豪」と、その「運命共同体の関係」にあった「額田青木氏の伊勢の裔系族とその原士族」の事で有り、当初は「4土豪」とで結成された「伊川津七党」であった。)

そこで、この「吉田城の経緯」を検証する。

牧野氏・1490年―戸田氏・1506年―松平氏・1529年―牧野氏・1535年―戸田氏・1537年―松平氏・1540年―(牧野氏・家臣―戸田氏・家臣)―今川氏・1546年―今川氏・1560年―松平氏・1565年―酒井氏(松平氏)・1571年

以上の様に、目苦しい経緯を持つていて、「松平氏・1560年」から渥美の伊川津で松平氏に関わっているのだ。

以上の「注釈の論」は、「青木氏の歴史観・三河での戦歴」を決める為には重要であり、唯、そこでこの活躍の「国衆」として南下したこの「活躍した350人」をどの様に決めたかにある。

前段での検証から、「地積拡大」から観て「40000人」と計算されたが、これは「三河域・青木氏の定住地」も含んでいる事も考えて「額田の域」だけでは「山間部含み」であった事から、「最大1/20」として「最大2000人程度弱」は「糧=人口の原理」から居たと考えられる。
又、「10里四方・40k四方の面積」の「拠点額田域の税の負担」から観てもこれ以上は無いであろう。
要するに、「350/2000≒1/18」で「残り」は「家族とその一族一門の集団」と成り得る。
これを数段に分けて徐々に移動させた事に成る。

兎に角も、この「350人のその役割」は「銃を持った偵察隊」と成っている。
つまり、記録としては「銃隊」である為に、前記の通り「吉田城の後」は「先鋒隊・偵察隊」に指名されたのであろう。
然し、これは「銃隊配置の原則の戦法」としては考え難い。
これには何かがあった事に成る。
そもそも「銃隊」は、「陣形の前方」に置くのが「常套手段」であるので「先鋒隊・偵察隊」は可笑しいし、それも「350と云う相当の数」である。
これ程は入らないでろう。

この事から考えると、「両者の合わせた戦力」は「280〜350/3000」とすると、単なる割合でも約10%〜12%とも成り、「松平軍」の中では「相当な軍力・発言力」と成っていた事が判る。
其処に、「平城の吉田城」で「武田軍」を退けた「300丁の超近代銃」を持っていると成ると、この前段でも検証したが「数倍の力・10〜20倍」を持っていた事に成る。

現に、「信長」が{武田軍27000」を「1000丁・傭兵}で殲滅した「戦歴の史実」の事から考えると、「350の銃隊の威力」は兵力に換算すると、其れも「単発の火縄銃」では無く、「4連発の近代銃」であったので、「数倍の力・10〜20倍」は充分に納得できる。

とすると、「350の銃隊の威力」は「松平軍本隊3000」と同じ軍力を持っていた事に成る。
此の論理からすると、「額田国衆の発言力」は最大であった筈である。
何度も論じているが、「西三河の旗本の嫉妬」、又は、「無知」は「異常のレベル」であった事に成るし、「家康」も歴史で美化されるほどに「青木氏の歴史観」から観れば大した事は無かった事に成る。

“一言坂の「先鋒隊・偵察隊」の扱い”のみならず「三方ヶ原の本戦の扱い・鶴翼の陣形」も「異常中の異常」であった。
筆者は元より「美化の方」が先行していて余り「家康」を買っていない。
故に、当時の伊勢は、“早々に国衆を引き払らう事を支持した”と考えられる。

そして、記録通りに「武田軍本隊(20000)の先鋒」と「全面戦に成った事」で観てみると、矢張り、「一言坂の戦いの遭遇戦」と云われる位に、僅か1%で対決出来た事は、普通では出来ない筈である。

(注釈 「西三河の松平軍本隊は3000」とあり、「武田軍の攻撃」を受け護り通した「東三河の吉田城」より参加した「東三河の酒井氏の支隊2000」とで最後は5000と成った。
「二連木城」より「吉田城」に移り参戦し「武田軍」を甲斐に戻させた「額田青木氏の国衆の銃隊」は「東三河軍の吉田城」を離れ本隊に参加し「一言坂の戦い」に偵察隊として入る事に成った事の経緯は判る。)

この戦歴は「相当な鉄砲等の火器/300丁・商記録から算出」と、「得意とするゲリラ戦」を駆使して対抗出来た事を示すものである。
況して、「三河戦記の記録類」にある様に、「三方ヶ原」で「騎(額田青木氏の当主)・隊長」が戦死した「額田青木氏の国衆」の一部と、「渥美の青木氏の国衆」が無事に生還した事を考察すると、前段でも検証した通り、「武田軍本隊の追撃」を躱すだけの「相当な戦力の保持」があった事に成る。

その意味で、「本能寺の変」を境に弱体化した「元今川氏」の「北三河域」の「額田地域一帯」に「青木氏の勢力圏・縦の陸路・第一と第二の陸路」を「国衆」として拡大構築して“「命綱」”を更に蘇えさせる戦略に出た事がこの事からも良く判る。
恐らくは、この「兵数と銃力」は相当に「家康本人」からは信頼されていた事を物語るものであろう。
ところが「西三河の旗本」は嫉妬で別であった。

そもそも、「二連木城」を物ともせず押し寄せた「勢いづいた武田軍」との「平城の弱い吉田城」から退けた「戦いの功績」が「額田青木氏等の銃隊の功績」の記録として遺さなかったのは疑問である。
「吉田城」と「二連木城」は、そもそも「戸田氏と牧野氏の争い」の為に「城づくり」が成された城であり、
それだけに「護り」は弱いのである。
それを退けたのであるから「相当な戦歴」であった筈である。

「武田氏の資料」には“全滅に近い犠牲が出る”として“甲斐に建て直しの為に引き上げた“とある。
それ程の事が起こったのである。
記録を遺さない程の嫉妬であったのであろうし、青木氏の資料に依ればこれが「江戸の享保期」まで続いたとある。

それは「平城」で戦うには「20000の軍」を退かせるには「10〜20倍の力を持つ銃」以外には無い。
そうすると。2000+1000+7000=1万
重臣の守備の酒井氏は「2000の兵」で守備していた。
家康はこれを助ける為に西三河から駆け付けたが脆くも負けたので「残存兵」と共に「吉田城」に入ったとある。
この時に、“渥美や田原や吉田や西郷等の土豪衆・伊川津七党も西から入った”とある。

そうするとこれで、「松平の守備力」は「2000+1000+7000」=1万と成る。
然し、これは2万>1万では無い。
これは「入り乱れての戦いの勢力」の時の論理である。
「2k先」から「命中率90%以上の威力」を持つ間断なく打ち込んで来る「弾幕の超近代銃」なのである。
つまり、「2万の軍力」には意味を持たない事に成る。
それも完全な北に川が控える北本丸のある小高い丘の上にある土盛りと素掘りの平城である。
城門は東向きに当初あって、松平氏はその後に南門を付け加えた。
従って、敵は三方から主に南門と東門から攻め立てる事に成ったが、普通であれば「土掘りと素掘りの平城」で何の強みも無い城は「総攻めの兵力」で簡単に堕ちる。
然し、二つの記録に依れば「4倍の兵力を持つ武田軍」は「総攻め」で堕ちる事に成るが、ところが「銃隊」が存在した事からはほぼ水平に的を得て打ち込まれたとあり、このの範囲に近寄れば何もしないでも全滅である。
然し、「2000の兵」の「二度に渡る攻撃」を掛けて、“「全滅」に近い相当の犠牲を負った”とされていて、「全滅」を恐れて断念して「建て直しの為」に軍は「二度目の撤退」と成り“「甲斐に帰った」”とあるのだ。

(注釈 織田軍の側面からの脅威論もある。
然し、この説は矛盾である。東三河を攻めれば松平氏が全滅し東が武田勢に堕ちれば「織田軍」に執っては好ましくないとしている説であるが、この事は始めから判っていた筈である。
そもそも、「甲斐に引き上げる理由」には成らない。
「甲斐の戦記」にはこの事に何も触れていないのだ。
「信玄の病気説」もあるが、これを隠し通して先ず「三河」を落とした上で織田との本戦に備える為に三河に守備隊を置いて「甲斐」に引き上げれば済む筈である。
何れにして長期戦であった事から「甲斐」に一度は引き上げなければならないであろう。
現に、歴史は「吉田城の戦い・1572年3月」から丁度一年後に「三方ヶ原の戦い・1573年1月25日」と成っている。
その前の「一言坂の戦い・1572年10月13日」が起こっている。
「織田脅威説」にしろ「信玄病気説」にしろこの間に何も状態は変化はしていないのである。
明らかに、「思い掛けない手痛い犠牲」を負って「態勢立て直し」の為に国に引き返した事に成る。信濃にも引き返しているが、それ以上の問題が戦術的にあった事に成る。
恐らくは、「吉田城の経験」から「今後の戦い方」として当然に「銃戦に対する対策」であった事に成る。
故に、「甲斐の戦記」には幾つもあった中の一つの戦いの「吉田城の事」が記されているのだ。
そして、「三河の戦記」に「家康の談」として“長篠城の壁は銃の穴だらけであった”と記されている。
「武田軍」は「吉田城の戦い」で「甲斐」に帰り、この「難しい銃の入手」に一年間奔走した事に成る。

前段でも論じたが、念の為に「銃の数」は「戦記の中」では不明であるが、一年間で入手できる範囲は「精々150丁から200丁・火縄銃」であろう。
「近江、日野、堺、雑賀、根来」の「生産地の能力・総合産業」から当時は未だ最大でも「年間で計300丁程度」とされた。
その「雑賀と根来」は「長篠」までは未だ「織田の銃の傭兵軍団」であった。
其の後に、「犬猿の仲」と成る。
従って、「近江、日野」か「堺」と成るが、「堺」は「伊勢青木氏の商いの取引先」にあって難しいし、「雑賀」と「根来」も「伊勢の商い先」であって「資産投資先」でもあった。
従って、堺からの資材供給で成り立つ「近江」から、起きた破りの裏ルートの何らかな方法で獲得する以外には無かった筈である。

然し、上記の通り「銃」は「ある特定の商人」の“「専売品」”で、先に“「一括発注」”されて生産されるシステムにあって、「一般の市場品・市販品」では無かった。
「伊勢の紙屋」の「伊勢屋のシンジケート」と「今井神社シンジケート」と「近江の商いの特定組合」の手中にあった。
従つて、“「政治的絡み」”が大きく、獲得しようとした場合、「裏ルートの獲得」と成った。
つまり、此の頃から、“裏ルートを獲得した者が天下を取る”と云われていた。

さて、そうすると、「伊勢屋の青木氏」が専売で特注し獲得した“「近代銃と云われる物」”は「300丁」と「商記録」が成っていて、この「期間」を割り出すと、「額田の国衆」に渡し、「伊勢秀郷流青木氏による特訓」の訓練をした時を、「1540年〜1545年の間」であるとすると、これに「運び渡すまでの時間」を遡れば、「伊勢で調達出来た時間限」が判る。
これが、「準備期間の開始」を「1540年期限」だとすると、「商記録の記載日等の資料」を探ると「約1年弱程度の期間」が掛かっている事に成る。
「300丁/11〜13」が「堺と、又は雑賀と根来」の特注での「銃生産力」と成る。

これは資料から、“「新式銃・超近代銃」”とするものであったので、「普通の火縄銃の生産」と合わせると、「三カ所の全生産力」は「600丁〜800丁」を超えないものであったろう。
但し、これには「条件」があって、「主生産地」は「湊を持つ地域」で、それは「堺と雑賀」であり、紀州の奥の「根来」は、「同族雑賀」からの「下請けの流れ」の中での生産に成っていた。
「近江と日野」は「雑賀―根来」と同様に「一地域の流れ生産」であり、港は持っていないので生産は低いと考えられる。
「雑賀と堺」は「銃」に必要な「鉄生産と火薬や檜等の用材」を全て持つていた「生産地」である。

恐らくは、「貿易」に関わっていた事から「最新の銃の情報・西洋の情報」を掴み、高額を叩き「見本」を得て“秘密裏に特注した”と考えられる。

注釈として、「銃の型式」は確実には解っていない。
それは下記した様に、「火縄銃・1543年」で無かった事が解る。
「火縄銃類」でなければ、「読み取り」から「種子島から後の事・1543年伝来」であれば“「近代銃」”である事に成る。

「国衆としての準備段階」に入ったのが「1540年」であるとすると、その「2年後」に伝来し、これを「国衆の武器」に逸早く採用しようとしたのは1545年頃と成る。
「外国貿易」をしていた事から「銃の情報」はもっと早かった筈である。
恐らくは、「1540年頃以前」に「中国からの情報」を得ていたと考えられる。
「銃の歴史」は「1411年・ヨーロッパ」が「最古」であるとして、「1430年」には遺されていて、「1473年」には、「汎用的」に外国では取り入れているし、「1499年」には“「マスケット」”と「火縄銃の総称」として呼ばれる様に成っていた。

恐らくは、「貨幣経済」が進んだ「室町期中期」で「巨万の富」を獲得した“「時期・1454年頃・倭寇時代」”と見做される。
早くても「1454年〜1473年」には少なくとも「見本」を取り入れて“「堺」”で「伊勢屋の許」で密かに、つまり、「種子島の100年前」には“「試作」”が施されている筈である。
そして、「1500年頃〜1540年頃」には、「伊賀や伊勢水軍」では「貿易の倭寇の護身用」として持っていた可能性がある。

「戦乱期である事」から、当初は「密かな商い用」であったと考えられる。
それが、試行錯誤しながら「1535年頃」には「改良型の新型の近代銃」の「試作量産」に入れていたと考えられる。
そして、「国衆の訓練・1540年〜1545年」頃には間に合わしていたと考えられる。
そもそも「伊勢秀郷流青木氏・梵純」が、この時、既に「結城氏を護る為」に「兵」を北と東に動かしていて、「額田国衆の訓練の指揮官」も「1540年頃」には引き受けている事から考えると、この経験から「指揮官」そのものが「額田国衆」の「近代銃の訓練」で来ていた事に成る。

だから、「織田勢や秀吉勢に対抗する力・銃力」を持っていて、つまり、既に、まだ「珍しい銃」を持っていて、背後から迫る「伊勢秀郷流青木氏・梵純」を恐れられたのであろう。
「陸奥」から「北陸商用道」を使って「歴史に遺超す程」の「醜い退却」をしたのである。
この事は、既に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」には「1543年の前」には「伊勢青木氏・伊勢屋」は密かに生産していた試作のものを彼等に渡していた事に成る。

其れで無くては、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の「僅かな兵力を恐れる事」は無かった筈である。
前段でも論じた様に、「伊勢の人口」は「不入不倫の権」で抑圧され「全国平均の1/20程度」しかなく、取り分け、「北勢」は“「聖域であった事」”からこれを護る為に少なく成っていた。
それ故に「中勢以南」に「人口」が集中し「室町期中期」には「全国平均並みの92万人」であったとされる。
「北勢に住む秀郷流青木氏」を含む「伊勢藤氏」が、史実の通り「対抗軍」を編成したとしても最大で「1000人〜2000人程度」であろう。

この「勢力」が背後に迫ったからと云って、「兵糧攻め」している中で慌てて「攻める事」を止めて「一般道」を通らず「北陸商人道」と云う「特別の険しい道」を通って「大坂」まで逃げ帰る事まではしない筈である。
何かが無ければ何処かで「陣構え」をして「迎え打つ事」はこの「人数・2万に拡大」では充分に出来た筈である。
結果としては「1510年頃」から“「北陸の戦い」”は始まり、「1575年・天正の乱」と「戦い」は続き、更に移り「1590年」に遂に「奥州仕置き」と発展し、「奥州の白川結城氏」は衰退し滅亡した。

この間の「織田勢の奥州攻め」の「支城一戦・1540年頃・三戸城等の在郷領主連合軍」である。
この“「奥州攻め」”では「陥落した城や領主」を勢力下にして「軍力」を大きくして行ったのである。

「種子島鉄砲伝来」より前に、既に“「試作」”が成され、その間、僅か乍ら“「量産」”に持ち込んでいた「伊勢屋」は、これを出来つつあるものから「伊勢藤氏」と「伊賀原士」と「伊勢水軍」と「秀郷一門一門」、或いは「信濃・諏訪含む」や「伊豆」に護身用に密かに渡していたのでは無いかと考えられる。
つまり、「種子島の100年前」には、「欧州・フランス」から兵用に使っていた銃を見本として取り寄せ、“「試作」”が何度も施され、そして、「1500年頃〜1540年頃」には「試作量産化」が成され、「1535年」には「火縄銃」を超えた「新型銃の試作と量産化」と成っていたとすると、間尺が合う。
それだけの「財力」は充分にあった。
そして、それが「伊豆」を救い「額田青木氏」を救う事が出来るのだと執念に燃えていたのだ。

何しろ、「奈良期」からの“「紙屋院の称号」”を獲得し「高位族」で在り乍らも“「造部」”を支配下に置き、自らも「青木氏部」を持ち、唯一、「商いの出来る特権」を得ていたのであり、それを更に発展させて「朝廷の財政・献納」を潤していた。
その「伊勢屋」は「貿易」をしていたのである。
この「状態」は前段でも論じた様に、明治中期まで続いていたのである。
そもそも、「進んだ銃の存在」を“「知らないと云う方」が可笑しい”であろうし、「造れない方」が可笑しい。

それを連携して叶えていたのは要するに「堺の呼称」なのである。
そもそも、奈良期から最も「海外の情報」を手中に収めていた「氏族」なのである。
“「銃の事」に関しては何事も条件は揃っていた”のである。
寧ろ、“何でも出来ると云う立場”にあった。
「青木氏の歴史観」はここにあるのだ。
これを忘れては「歴史の考察」は間違う。
その前提の意味で「全ゆる資料の行」の「一字一句の持つ深い意味」を読み解いているのだ。
この「銃の事」も同然である。

故に、密かに持つ「近代銃の力」で「1000〜2000の兵」としても「2万〜4万の戦力」と成って討ちかけられれば“全滅”として恐れられ、一時は「額田青木氏・蒲郡青木氏」の一部が「桑名」に引き上げた「史実」と成ったと考えられる。
「伊勢」と詳細を打ち合わせの為に戻った可能性が高い。

この「試作近代銃」を得て「伊勢の伊勢梵純の戦力」は「2万〜4万の戦力」と周囲から見做され、その兵力で「織田氏の勢力」を「大阪」まで追いやり、そこで陸奥の「小峰族の血筋」の無い「生粋の白川結城氏の一族末裔」をその「本家の永嶋氏」の「茨木結城・永嶋氏」に救い出した事に「伊勢梵純の戦記史実」として成ったのであろう。

そして、この何度も「試作量産銃」を「伊勢藤氏に渡す事」で「伊勢全域を護る血縁族の抑止力」ともしたと考えられる。
そこで、気になる処はこの「銃」を「信濃」に渡していたかであるが、手を尽くして色々な可能性を調べたが判らない。
「信濃」は唯一の奈良期からの「同族血縁族である事」から「伊勢藤氏」と同じ様に渡していた可能性は高いと考えている。
後段でも論じるが、「状況証拠」として「諏訪青木氏」の武田氏本隊での「一言坂の活躍」でも判る。
上記した様に銃が得られない状況の中で、「一言坂の遭遇戦」で僅かながら持ち得ていた事が史実として判っている。
武田軍の中で獲得出来得る国衆は信濃諏訪族の裔系以外に無い。

これだけ渡す「間口」が広ければ数から観れば“「試作」”では終わらなかった筈であり、額田は勿論の事、「全青木氏」の“「内々の量産」”であったと観ている。
戦国の世から「青木氏を生き残らせるための策」であったと考えている。

筆者はこの前提は、前段からも論じている様に、「室町期」に入り「下克上と戦乱期」に入り、「青木氏族の危険性」が極度に増し焦ったのでは無いかと考えられる。
そして、その為にもこの「抑止力」を高める為にも「青木氏の奈良期からの利点」を生かして“「財力」”を蓄えたと考えられ、幸いにも「紙文化」が花咲き「巨万の富」を獲得した。
そこで、この「財力」を使って「兵」を待たずとも出来る「銃の様な防御力・抑止力」を何とか確立させようとしたと考えているのだ。
それが、この「銃の先取りの試作」であったと観ていて、それが「美濃の国衆の近代銃」に繋がったと観ているのだ。

「公式の記録」では、「1543年の種子島」と成っているが、既に秀吉や家康は薄々は「伊勢青木氏」が背景で「堺」で「寡占的」に「秘密裏」に何か「変な飛び道具」を作っていた事を知っていたと考えられる。
然し、“懐疑的な面もあった”と考えていただろう。
故に、「梵純の兵」を“極度に警戒した事に成った”のであろう。

(注釈 この秀吉が銃を持った時期の歴史は次の通りです。
実は1588年に「刀狩り」があります。
その時の絵図にも「鉄砲」は描かれていて「記録」は遺つています。
つまり、これは「武士以外の者」が持っていた事に成る。
「1575年の長篠の戦い」では「雑賀と根来衆の銃の傭兵」で「信長」は獲得します。
これは「秀吉」が「信長」に進言し「調達」を「今井神社シンジケート」に「調達」を試みたが失敗に終わり、結局は「雑賀と根来衆の銃の傭兵」で「決着」が着く。
これはこの頃、「特殊な武具の情報・銃」を既に掴んでいた事に成る。
これは「蜂須賀小六の子分時代に知った事」に成っている。
秀吉は「1537年〜1598年」で、少年時代(15祭頃)に「蜂須賀頃の子分」に、「信長」に「草履取り」で「1558年」に、つまり「21歳の時」である。
「少年時代に情報」を掴んだとすると「15歳〜21歳」で、「信長・1532年〜1582年」に進言したのが仮に「2年〜5年」経っての事として、“「1560〜1563年」”に成る。
「種子島鉄砲伝来・1543年」とすると、「1558年」までには「15年経過〜20年経過」している。
この「1560年」は「桶狭間の戦い」で「今川氏」を衰退に追い込んだ時期である。
「1568年に上洛」、「1570年に姉川の戦い」、「1573年に室町幕府潰す、そして「武田軍」との「長篠の戦い・1575年・銃隊」と成る。
これが「実戦の種子島の経緯記録」と成る。

火縄銃の規制では、「秀吉の刀狩り1588年」と、これを「15年後」に引き継いだ「家康の1603年の銃規制」と成る。
故に、原則として「1560年〜1563年」までは誰も「銃」を持っていなかった事に成るのだ。
“入手できるとか出来ない”と云う前に、「銃価格」が「この時期」では余りにも入手出来ない程に「高価」であり過ぎたし、当然に「生産量」が無かった。
故に、「シンジケート入手」として独占化していたのである。

そもそも「生産態勢に必要とする財源」の供給が無い限りは無理であった事から「独占寡占化」して「シンジケートルート」に成っていたのである。
従って、「雑賀根来の銃傭兵」の方が可能と成るのだし、「銃を扱える熟練度」も必要としていたが未唯、その様な者は「生産者が財源元の支援者以外」には育っていなかった。
「シンジケートルート」と成り得る根拠があって、要するに「銃に依って得られる利益」は「販売で得られる利益」より「シンジケートを維持する事に依る利益」の方が遥かに大きかった事と、販売する事に依って「自らへの危険度を増す事への警戒度」が大きかったのである。
つまり、この集団を浮力に依って獲得して勢力を拡大させようとする危険度である。
これ等を無くすには、「シンジケートルート」しかないのであって、とは云っても「財源の補償」をしてくれる「バック」が必要であった。
当然に”口を出さずに”である。
そうなれば、「七割株の豪商」と云う事に成り、「商い」だけが成り立てば必要以上には”口を出さずに”に居たのが「伊勢屋・伊勢青木氏」であったのだ。
この「伊勢屋」が「氏是」で“銃の世間への広まり”を危惧していたのである。
飽く迄も、「抑止力の前提」の許にあったのだ。

ところが、又もや、「近江・日野」がこの「掟」を密かに破つたのだ。
この「近江日野」には「資材の供給の停止」と「財源の補償の制裁」を加えたのだ。
これが、結果としてその「職能」は空気感染を起こし各地に飛び散った。
「伊勢屋」はこれを止められなかった。
然し、幸いに広まった「火縄銃」は旧式で「マスケット」を超えていなかったのだ。
それでも「秀吉と家康」は抑え込もうとした事はいい方に働いた。


注釈として さて、そこで歴史に遺る「正規の火縄銃の生産経緯」はどの様なものであったのかである。
重要な歴史観を決める要素である。

「歴史の経緯」が記載されている説では、次の様に成る。
「根来寺の杉の坊算長(津田監物)」が自ら種子島に渡り、「鉄砲と火薬の製法」を習い、これを「根来の地」に持ち帰えったとされる。
その「鉄砲と同じ物」を根来の坂本に住む、「堺の鍛冶師、芝辻清右衛門」に製作させたのが「本州最初の鉄砲」と言われている。
実際は違っている。
上記で論じた様に「筆者の資料・近代銃・フリントロック」では、「貿易」で「種子島より相当前」に密かに入手し、それを「堺・持ち株7割・伊勢屋支店」で造らしていたとある。
「火縄銃」とは全く書いて居ず火縄銃ではないと考える。
出来るかどうかも判らない「フリントロックの改良型」を追求していたのであった事から銃名を書かなかったと考えられる。
「伊勢青木氏の資料」と同じ「歴史経緯に乗らないルート」を論じている説が他に「三説」がある。

一つ目は、「近江佐々木氏の青木氏研究論」に葉、”種子島”とは書かずに相当前に入手していたとする「行」がある。
これは「伊勢青木氏の資料の事」と同じで恐らくは「伊勢屋の事」を言っていると考えられる。

二つ目は、歴史の経緯の公的に成っている「記載説」に、「但し書き」として、“「種子島」は決して始めてでは無い“とする「添え書き」による入手事前説がある。
唯、生産していたとは明記していない。

三つ目は、二つ目と同じく「但し書き」であるが、「伊勢」では無く「近江の日野」とあり、「近江商人」をイメージする表現と成っている。
但し、三つ目は二つ目を参考にして論じたとものと推測できる。

合計4説があり、「青木氏説」も入れて「二つ」が「事前説」を強調し、「残り二つ」はそれらの“「種子島より事前説」”もあると説いている。

これ等の「4説の根拠」は二つある。これを分類すると次の様に成る。
一つは「青木氏の説」と同じく“「貿易説」”である。
二つは“「銃の長短説」”に基づいている。

「貿易」に依って「100%に情報」が早い。
そうでなければ「抑々論」で「貿易」は出来ない。
これに基づいて「貿易」は成されている。
要するに゜情報の遅い貿易」はあり得ない事に成り、完全に納得できる。

「銃の長短説」では「火縄銃」は大した訓練を要せずに使える。
然し、「天候」に左右され、「命中率」も低く、硝煙の火薬は貿易に頼るし、「飛距離」も短いと云う欠点があり、「西洋」では「個人的な使用に類する使い方」に限られていた。
これが「マッチロック式マスケット銃類・火縄銃類」と云うものである。

ところが、この「マッチロック式マスケット銃類・火縄銃類」の「欠点」を改良したのが「ホイールロック式銃」か、更に改良した「フリントロック式銃」であって、「欠点」は「火縄銃の裏返し」である。
「フリントロック式銃類」は、「活動性(軽量・移動)」を重視し、訓練で熟練度を必然的に挙げる事が出来るので「軍隊」に早くから広く採用されていたのだ。

この「軍隊」に広く採用されていたとすれば,“「貿易」”で「国内に情報」が入らない方が可笑しい。
故に、では何故、この「ホイールロック式銃」か、「フリントロック式銃」かが入らなかったかという事に説明が到達する。
入ったのは、“「個人用」”としてに持ち込まれた汎用的な“「火縄銃」”が先で、其れも「10種類」ほどある中の「初期の銃」であった事に成る。
そもそも、この「火縄銃の旧式銃」を日本に高く売り込んで「商い」とすると云う「外国の戦略」であった。

「伊勢の伊勢屋」が見本を入手した「銃」は、上記で検証した通りの「ホイールロック式銃・見本銃」か、「フリントロック式銃・近代銃」であったのかは確定は出来ないが、「汎用的火縄銃」を目的としたもので無かった事は明確と成る。
見本として入手したのは状況証拠から「フリントロック式銃」であろう事が判り、これをよりに日本人向けに、更に、「活動性(軽量・移動)」を重視した銃に密かに堺を使って改良を重ねたと云う事に成る。

急激に高まった「下克上と戦乱」の「極度の危機感」からの生き遺る為には「全財産・巨万の富」を使てでも獲得しようとしたのだ。
要するに、「銃に関わった理由」は、上記した“「青木氏の抑止力」”を「強化させる事」を“目的としたもの”であった事に依る。

(注釈 前段で論じた「美濃の額田青木氏の南下国衆の携帯した近代銃」は、上記した「1588年の刀狩り」では、既に“「商人の陸運業」”としてだけでは無く“「武士の護衛団役」”として帯同していた事であり、“「刀狩り」”は適用されずに逃れられた事を意味する。
この1588年時は、既に、「三方ヶ原の戦い後」の「1572年}で「国衆」を辞め「強力な陸運業」に専念した15年後の事であった。
当時は、未だ「盗賊山賊」が多く危険で「元美濃原士」であった「繋がり」もあり、襲っても「軍隊」でも「瞬時に潰せる能力」の持った「陸運業・伊勢屋の仕事」であってその相手では無かった。
この「刀狩り」には掛かったとする記録はない。
問題は、「大名」に課せた「1603年の銃規制・火縄銃」にはどの様に対処したのかは、「対象の大名」では無かった事からも、殆どは、「五つの記録」や「江戸期の小説」にも記載は無い。
「陸運業と開発業と殖産業」に成っている事は知られている。
その裔が行った有名を馳せた「額田青木氏の一言坂の戦い」を知っているし、例え、山賊や盗賊でも戦いを挑む馬鹿は居なかったであろう。
寧ろ、逆であったと考えられ、「遠方運送の場合」は連携して「協力態勢」を執って「糧」を得ていた可能性の方が高いだろう。
宿で隠密の様に,“次の連携について打ち合わせた”とする資料はある。
筆者は、この「一部の資料の行」を読み解くと、常時、使う陸路の場合は積極的に潰したか、その仲間に糧を与えて組み込んだと考えている。
「運送荷駄団」の「側面護衛」を前提にしている以上は、この考え方の方が自然であり、「抑止力」としては「美濃の国衆の役目」の様に「伊勢式」で、当時としてはこの記録は「1000年の歴史」を持つ「氏是」に沿っている。
この様に「強力的で協力的な抑止力で済んだ筈」である。)


さて次に、上記した様に「信長」が果たせなかった“「伊勢攻め」”で、今度はこれを引き継いだ「秀吉」は、「伊勢と紀州の勢力」を「紀州攻め」で、「銃」を生産し、且つ持つ「銃勢力」を潰しに掛かった。
上記した様に「秀吉」は「1552年頃」に、この「銃シンジケート」を知っていて天下を取ると逸早く潰しに関わった。
「銃生産と保持者」のみならずその「影と成る財源力」も潰しに掛かったのである。
「信長の雑賀根来攻め」は、「1577年、1581年、1582年」と三度である。
これには伊勢側は何とか「ゲリラの抑止力」で絶えた。
然し、これを引き継いだ「秀吉の紀州征伐」は「1585年」であった。
歴史に遺る「秀吉」の「信長」を超える「残虐な酷い殺傷の戦い」をした。
この時、「伊勢青木氏」は逃亡してくる「紀州門徒衆」等を匿ったし、然し、この為に「松阪の蔵」や「菩提寺・本寺」を焼かれた。

「銃生産の財源の背後」と知っていた「秀吉」の「長島の戦い」でも抵抗した。
最後には、「青木氏の旧領地・弱点」の「南勢の奈良期からの旧来からの氏人・郷士」の“「湯川衆攻め」”までして仕掛けて来たのである。
そもそも、この「南勢の湯川衆」は確かに「旧領地」と云えど政治的にも秀吉に抗した訳でも無く、「直接の関係衆」では無かったが、それでも「牽制の為」にも攻めたのである。
「氏人の伊賀攻め」も同然で仕掛けられた。
然し、これを「氏是」を護りながらも「秀吉の弱点」の「ゲリラ戦の抑止力・伊勢シンジケート」で抵抗したとある。
「観えない相手と戦う事」に疲れた秀吉は、これで「南勢の湯川衆攻め」から手を引いた。
然し、「北勢の攻め」も「伊勢青木氏に関わる攻め」たけは「深入り」をしなかった。
これ全ては「銃に関わる背後関係」から来ている筈である。

矢張り、“「ゲリラの本格戦」”ともなれば「三河の伊勢の裔系」からも「近代銃の陸運業隊」が駆けつけ、更には「銃」で既に防備していた「全国の秀郷流一門」や「伊賀衆」をも本格的に敵に廻す事に成るとして「得策」では無いとし、秀吉は「単なる牽制」で終わったのである。

「伊勢水軍」や「摂津河内水軍」や「堺衆」や「雑賀根来衆」も「力を盛り返して来る事」に成り、「秀吉の兵力」を遥かに超えて「無傷で上回る事」を意味していたのである。
それが「ゲリラ戦」と来ていると成れば手は出さないであろう。
「信長の紀州攻めの失敗」も知っている。
これは当に、密かに「伊勢青木氏」が「銃生産」で「抑止力」として「相当な銃力を蓄えていた事」を知っていた事に成る。

故に、「見せしめの牽制策」として、徹底して「根来一寺」を滅ぼせば、「紀州の諸豪族は刃を交えず降伏する」と見込んで、「根来勢の徹底壊滅」に乗り出したのである。
「すさまじい勢い」の「秀吉軍10万の大軍」を相手に「根来勢」は、「積善寺」をはじめに、千石堀、沢、畠中と次々に出城寺を攻め落とされ、最後はこの「本拠地の根来寺に逃げ込んだ農民等」に対し、「秀吉軍の本隊」が着いた時には、「寺衆・農民庶民」では既になく「抵抗する者」は全く居なかったと伝えられている位の殲滅状態であったとされる。
それでも、寺門から出て来た「戦力の持たない農民庶民」の全てを殲滅したと「記録・6000人」に遺されている。


さて、この「銃の事前獲得」に就いて、凡そ「資料の行」から、新たに、この“「300丁の銃」”を整えるとしていて、その「二つの銃(ホイールロック式、又はフリントロック式)」を整えるには、“「新型の事・フリントロック式・試作銃」”もあって纏めるには、「資料の存在の意味合い」から観ても「最低5年〜最大7年程度」は要したと考えられる。

この「二つの近代銃」は、“「扱い」”が難しく“「熟練を要した」”とだけ記されている。
“どの様な熟練度を要求していたのか”を他の資料と共に探るとする。

それは「火縄銃」は、上記で論じた様に、その「飛距離」、「命中度」、「殺傷力」、「環境力」、「時間差」の「5点」が低かったとされる。
ほぼ後に「欧州」で開発されたものは「小銃的・短銃」なもので「個人性」を有していて、一部でこれを「軍用」として「日本」では使おうとしたが直ぐに失敗したとある。
其れは“弓より劣る”とする理由であったとされる。

この「5欠点」を全て改良した結果、再び、何が起こったかと云えば、「射撃発射時の反動の悪化」であったとされる。
この「反動」があると、行き成り焦点を合わして構えるのではなく、肩に沿えた構えで「縦膝姿勢」で「反動」に耐えられる様にして、先ず、「銃」を上から下側に下ろして来るとしている。
そして、「狙いの位置」で引き金を引きシリンダに込めた弾丸を火打ち石で発火させて連続に打ち始める。
この時、1発目から4発目まで撃つ度に「長い銃身」が反動で少し上側に上がる。
これを“「訓練で少なくする事」”にあった。
然し、これを小さくする手段として「伊勢」が求めたのは、この「訓練」は兎も角も、“銃身を短くする事”にあったとしている。
これには意味があった。
この「銃身を短くする事」は、「飛距離を短くする事」になるが、「火縄銃」と違い「飛距離を短くなる事」には「黄鉄鉱の火花の爆発力を高める事」でより補い、それは上記の「活動性を高められる事」に成ったとしている。
然し、依然としてこの「反動」は高く、これを「打つ姿勢」を良くする事で「訓練」に依って、この「反動具合」が身に就いて来ると、“一定率に熟す事”が出来る様に成ったとして記されている。

恐らくは、この「発想の根拠」は、丁度、“「日本式弓の連射」に完全に相似している”としているとして採用したと観られる。
恐らくは、「銃に対する考え方」として「武器」と云うよりは、「弓道」に匹敵する「銃道」と観ていた可能性があるのだ。
この「銃道の考え方」の方が「青木氏」としては自然では無いか。
これを「額田青木氏」に「伊勢」は求めたと考えられる。
飽く迄も「護身術の一つ」として考えていたと観られる。

従って、それまでは「武士の嗜み鍛錬」として熟知していた「飛び道具の弓矢隊」が「銃隊に特化する事」に成るに等しく、“この「銃の熟練」には問題は無い”としている資料が遺されている。
中には、“人間の本能が蘇らせる”とまで書いている。

だから、この「近代銃」の生まれた「西洋の合理的考え方として」では、逸早く「火縄銃」を捨て、早くから100年も前から「高価」であっても、「威力の高い銃・小銃」を好んで”「兵用」”として用いられたのであろう。
日本では、「日本式弓の連射」がこれを導いたとしているが、手の届きそうでは無い「高価・4千両〜2千両/1丁」であって、更には前段でも論じた様に「三河武士」にあった様に“旧態依然としての感覚”がこれを排除していたのである。
それが「刀狩り・1588年」と「銃規制・1605年」に表れているのだ。

つまりは、“天下を治める”には、「絶対的武力差をける事」で「安定化を図る方式」と、逆に、「威力の高いものを排除」して「安定化を施す方式」かの「主観差」であろう。
然し、結論としては、「青木氏一族一党」はそもそも「天下安寧の目的」では無く「抑止力を増す方法」としての“「前者を採用したと云う事」”に成るのだ。
「積極的に威力として使う目的」では無かったから、「弓の延長」として“積極的に「近代銃」を先駆けて採用した”と考えられる。
“「殺戮の道具」としてでは無い”と云う事に成る。
「秀郷流一門」も“この「考え方」に同調していた“と云う事に成るのだ。
不幸にして「武力化・源氏化」で「近江佐々木氏」は滅亡に貧したが、これらの資料を「青木氏族の一員としての研究論文」に、生き遺った「原因回顧の反省」として記載して遺したのであろう。
故に、銃の説明では無いた為に「不明瞭」なのであると観ている。

さて、そこで「遺された資料」から考察すると、「フリントロック式の改良型」の「青木氏仕様」として上記した様に幾つかの「銃の型式」が考えられるのだ。

その一つを検証して観る。
そもそも、先ず、「江戸期初期・1605年」に「銃の規制」が敷かれたので、「近代銃」は元より「火縄銃の発展」もそもそも進まなかった。
それは「世の中の安定」もあって「銃の発展」は「秀吉と家康」に依って二度止められたのである。
その意味では、「秀吉と家康」は「青木氏仕様」に「近い考え方」があった可能性がある。
然し、”物事を術化する癖のある日本人”に比べて、その考え方のない外国は発展した。
筆者は、「鎖国」そのものがこの「主原因」では無いかと観ているのだ。
「銃の持つ威力」に対して「日本文化」に合わない、将又、「破壊する」として“拒否した事”でもあろう。

そこでその「銃の事」を記されている事を集めて纏めると次の様に成る。
1 外国から取り寄せた「見本」の「特注の発注」であった事
2 その頃・1540年〜1545の間で生産・量産された事
3 「4充填式」の「手動回転式シリンダ」を使っていた事
4 原理は「火縄銃・マッチロック式・マスケット」では無かった事
5 ケーベル式リボルバー銃であった事
6 「ホイールロック式」では無かった事
7 「フリントロック式」に最も似ている事
8 雨にも強く命中率も良く飛距離もあったとしている事。
9 「取り扱い」に「熟練」を要したとしている事
10 「手が出ない程の高価」であった事
 
以上の事から考察すると、「フリントロック・黄鉄鉱の火打式の改良型・シリンダ型」であった事に成る。

前段で論じた様に、「外国の兵用」に用いた「マックル式銃・パーカッションロック式・キャップロック式銃」の“「原型」”とする考察もあるが、これには多少疑問もあり、これは「フリントロック式」を更に「自動式にした銃・シリンダ」であり、「開発途上の銃」を指している様である。
其処までは、「自動式近代銃」であったかは判らないが、「時系列・完成1810年頃」から先に“日本に入って開発段階”を経たとしても難しいと考えられる。

然し、仮にこれらの形式は入ったとしても、日本では「極めて高額であった事」から発展しなかったし、獲得できる者は居なかつた筈で、獲得したとしても1丁程度と成るだろう。
故に、日本では拡大しなかったのである。
出来たとしても幕府程度で、その幕府自身が「江戸初期の銃規制」で「火縄銃以外」は認めなかったのである。
この「形式銃」は、従って、既に、江戸初期頃の西洋の外国では“「兵用」”に一般的に用いられていた。
従って、江戸期から明治期まで「火縄銃の開発」は進まず「堺の銃生産・江戸初期前」も低下し中止した。

又、最終は、「火縄銃式・マスケット・マッチロック」しか認めなかった事から、「一丁当たりの価格」も当初の「1/20〜1/30程度・20両程度」に急激に下がり、「生産の対比効果」がそもそも無くなったのである。

(注釈 「堺の銃生産」は、「秀吉と家康の厳しい取り締まり」で、「堺」が攻められ、「堺の人」を護る為に「堺の銃生産」は江戸初期全後頃で中止したとある。投資の中止である。)

(注釈 念の為に追記すると、「江戸期での銃規制」で「一頭は1200兵」と規制して、これに対して「火縄銃1丁」を「所持の規制範囲」とし、逆に“騒乱を避ける為に義務付けた”ものであった。
仮にこれに依れば「5000の兵」に対して“「火縄銃」”は「5丁〜6丁」と成る。
これでは「攻撃用」とするよりは当に「防御用」であろう。
室町期では、「一頭は2200兵」とし、「火縄銃1丁」を基準としていたらしいが護られなかった。
室町幕府にもこの規制があった事は、三幕府共に銃の武器としての殺戮性に危惧を抱いていた事を意味する。)


そこで、検証に戻して観る。
「吉田城の戦い」から「一言坂の戦い・遭遇戦」、又は、「三方ヶ原の戦い」までには「約7ケ月から10ケ月の期間」があった。
この間に「立直し策」の「銃の必要性」で、調達出来たとしても「近江・日野からの銃」の「裏ルーツ」の入手であり、且つ、「シンジケートの専売品の銃・普通の火縄銃」をどの様に調達したかにある。
出来たとして、「伊勢屋」とは「犬猿の仲」の「近江商人」と成るだろう。
又、この「近江商人」も「近江・日野」に対しては「大きな発言力」は無かった筈であり、「資材や財源」は「堺」と繋がった「近江と日野」であった。
この事から「近江商人とする説」には多くの「説の矛盾」はここにある。

さて、ところが此処で問題に成る事がある。
「銃の専売品システム」は何故出来たのかである。
それは簡単である。
上記した様に“「政治的な絡み」”があったからで、この時は「室町幕府」は最早、弱体化して「幕府の絡み」は最早無かった筈である。
合ったのは“「商いの絡み」”に特化されていたのである。

「銃生産する事」には「武力勢力」に侵される。
これに「対抗する充分な抑止力」が彼等を護らなければならなかった。
そこで、紀州の「雑賀族・鈴木一族」と「根来族・津田一族」は「同盟と血縁」を進めた。
そして、自らが「銃の軍団」を組んで自らを護つたのである。
要するに、この「自己防衛と銃の傭兵軍団」は、この「二つの一族」は元より「民衆から成る銃兵」を編成して造ったのである。

「紀州山間部」に住んでいた「鍛えられた平家郷士(龍神・戸津川・北山)」も「鈴木氏の縁」からこれに参加したとある。
この「雑賀と根来」で「1000丁の軍団」であったとされ、上記検証の20倍を掛け合わせれば「20000の軍団」に相当する事に成る。
故に、恐らくは記録では「火縄銃の1000」と成っているが、実際はもっと「大きな軍団」を組めていたと考えられる。

(注釈 「鍛えられた平家郷士」が組しているのであるから、「野戦の実戦」にも強かった筈である。
現在でも「戸津川郷士」と云えば「剣道の名手」が多い処であり、後に紀州藩は「伊賀原士」とは別に、「紀州の五平家集団」を「吉宗」は“「原士」”として地域の安定の為に「准家臣」にして扱った事は有名である。)

これに、「雑賀と根来」には「古来からの付き合い」により背後に「伊賀原士」を中心とする「五平家原士・紀伊郷士」等を含む「伊勢青木氏の伊勢シンジケート」を持っていた。
これが「生産地」のみならず「危険な銃の搬送」等に護衛し貢献したのである。
故に、「武田氏」は、要するに「精度の良い銃」のみならず「火縄銃」を簡単に大量に入手する事は出来なかった筈である。

現実に、「家康の発言」として、“「長篠の城壁の銃弾跡」”の「戦後の発言」があったが、これから観て、既に、数は別として、この「1年間の間」に何らかの方法で確保した事に成る。
これは「近江・日野の銃」である事には成るが、「経済的な問題」よりも入手出来ても「1年程度の期間・三方ヶ原」では、前段でも論じた様に、精々、「生産能力」から最大でも「100丁〜150丁程度」では無いだろうか。
最大は先ずあり得ない。
それは「堺」で「資材の原材料の供給と財源」をコントロールされていたからである。

「額田青木氏の国衆」に執っては長篠は「無関係の戦い」ではあるが、「長篠」では「吉田城の手痛い敗戦」の「3年半程度後」とすれば、あり得ない事ではあるが、全て「近江・日野の分」が流れたとしても積算で最大「300丁〜450丁」という処かである。
恐らくは、各大大名も「近江・日野」に集中しているので、「銃の認識度」は急激に高まり「銃値段」は上がったとあるので、「武田の支払いの経済力」から判断してもこの半分程度以下では無いかと考えられる。

注釈として、そこで前段に次いで、これに付いて検証を重ねてしてみると、「種子島の値段は2000両/2丁」であった。
ところが「室町期末期」の「この時期の値段」が、資料に依って異なるが、「約450両から800両の値段」が着いたとされている。
判断材料としては(450〜800両)・450丁=「36万両となり大金」である。
これは、凡そ「9000人の兵の数」に相当するもりと成り、こんな大金を一度に払える大名は居ない。この為に「家臣の武士」では出来ず「専門の傭兵屋」が居て「農兵の傭兵・経験者」を周囲から集めたとされる事となろう。

当時の資料よれば、これが戦乱期であった事から、「5〜10両/1人・銃兵」で「傭兵」にしたとする事から、「45000両の分」と成る。
簡単にこの時期は「銃獲得金」とも含んで「傭兵金」を合わせて「武田氏」は果たして払えるかは甚だ疑問である。
先ずは無理な事である。

そこで更に検証すると、「武田氏」は「甲斐」では「22万石 360億円」、当時価は「前渡金」は「約10万円/1両」であったので、「36万両」であった事に成る。
「銃価+傭兵価」で「40.5万両」と成る。
これは「1年間の米収穫量」の何と113%に相当する。
この時、「信濃域・25万石」も「甲斐の支配下」にあったとして、「769億円・70万両」と成る。
「信濃域」と合わせても60%と成る。
論理的に到底無理である。

そもそも「最大450丁」は、「戦費も要る事」なので到底無理であるし、「近江・日野の1年間の生産量」からしても、全てを獲得したとしても「300丁・14万両・20%」である。
「銃を獲得するルート」や「20%」も含めて「300丁」も絶対に無理である。
多ければ多い程に寡占と成るので「城価格・800両」に近づく。
そうすると、金額から観ても「最低の線」で「100丁・450両=4.5万両」が「精々の能力」と成る。
然し、これたけでは絶対に獲得は出来ないのだ。

後の課題の一つは、「銃取り扱い」に慣れた「傭兵の獲得」である。
先ず、全く「甲斐」には無かったと判断できる。
「額田青木氏の訓練」でさえ、「訓練指揮官」に「伊勢秀郷流青木氏の専門の家臣」を依頼した位である。
この事を配慮すれば、とりあえずは「50丁以内」と成ろうし、少なくとも訓練を要する。

然し、これでも無理なのである。
爆発させる「硝煙」は日本では生産は殆ど無いのだ。
「貿易」に頼るしか無かったのだ。
入手した火縄銃を使い続ける為には、この「硝煙」を入手できる「手立て」が必要で、要するに「豪商との繋がり」が必要と成るのだ。
「入手」のみならずこの高額の「硝煙の財源の確保」も必要と成るのだ。
先ず、無理であった筈で、それよりも「弓矢の方」が余程、現実的であった筈である。
況して、「移動性が無い銃」では「戦術」としては籠城か鶴翼利陣形でしか使えず先ず避けるであろう。
確かに「弓矢」は「殺傷力」は無いが、この室町期にはこれを補完する意味で「毒矢」が使われていて、戦術的には多用されていたのだ。

さて、然し、最早、「額田青木氏」はこの時は既に「三河国衆」から手を引いている。

「長篠の戦い時の松平氏の銃」はどの程度かは判っていない。
「鶴翼の陣形」を「三方ヶ原の戦い・銃が使えない陣形」で組んだ事から上記の論から考えても「銃」は未だ確保できていない筈である。
これは松平氏も、且つ、「魚鱗の陣形の武田氏」もである。
「魚鱗の陣形」の先端に置くとすれば「銃隊」を置くのが通常であるが、実際はそれに類する「赤兜の騎馬隊」であった。
「突撃型突破隊」であるが、「火縄銃」は」移動性」が「銃の特性」のみならず「荷駄隊」を伴う為に極めて低いのだ。
つまり、「赤兜の騎馬隊」で有名を馳せていた武田軍に執っては「魚鱗」で構えられる程の「銃隊」は無かった事に成るのだ。

然し、この「近江・日野」も「生産地」は「地理上の事」もあるが、主に「生産」に対して「護衛」が無かった事から周囲から武力的にな浸食されて危険に晒されて絶えたとする説もあるのだ。
充分に有り得る説で全く無かったとは云えず、細川氏等はこれを勢力内に居れようとして画策していた記録がある位である。

そもそも、前記した様に、この「近江・日野の生産体制」は、単独で生産出来るものでは無く、「堺からの資材供給と財源と搬送の許」にあったのだ。

恐らくは、「掟を破つた事」から「商いの青木氏の影響下・70%持ち株」にあった「堺」から「供給等の圧力」を受けて直ぐに衰退した。
従って、「武田氏等」は少なくとも「三方ヶ原」では「50丁」も無かった筈である。
「武田軍の敗因」は「建て直し」で必要な「充分な銃・財源」を獲得する事は出来なかったと判断できる。
「赤兜の騎馬隊の過信」もあったのであろう。

従って、「3年後の長篠」でも「織田軍の銃撃・雑賀根来傭兵軍」に応戦する事なく「全滅する破目・7割」と成ったのである。

(注釈 「一言坂」では「額田青木氏の300丁銃隊」に対して「坂途中の3000」と「西坂下の3000」の「待ち伏せ兵」に僅かな「原始的火縄銃」が配置されていた事は確かに記録には遺る。
恐らくは、「本隊から廻された6000の兵」であった事からこれが「全ての50丁」で在ったろう。
但し、入手できる国衆が居たのだ。
これは「青木氏の歴史観」に関わるので後段で論じる。)

故に、「近江・日野」の「銃職人」は,“「伊勢」に逃亡したとする説等”が起こり、その後に“雑賀や堺に入った”としている説があるのだ。
一部は薩摩に移動したと説もある。
この「銃職人」を「根来」は、「根来寺」で完全に地域支配されていて「排他的な所・宗教の縛り」があって引き取らなかったのでは無いか。
江戸期に成って「銃規制」により「堺と雑賀」が残り、そこから先ず「雑賀」が脱落し衰退し、遂には「堺」が中止した。
現在は伝統しかない事も同じである。

(注釈 江戸期に成って「近江・日野の銃職人」は、「伊勢と堺」以外にも、「備前、土佐、薩摩、稲富、関」に分散したと記録にある。
この様に、江戸初期には「銃の生産地が増えた事」が大きく「投資」と「値段」と「生産地」と「銃職人」の激減に繋がっていったのである。
恐らくは、然し乍ら依然として「その利権」は「シンジケート」に握られ入手困難であった事から、「大大名」はこれらの「銃職人」をかき集め“密かな軍事力を高めた”と観られる。
その意味で、「伊勢屋」は「独占的な利権保護」を保持する為に、「近江・日野の銃職人」を寧ろ積極的に記録にある様に「伊勢に掻き集めた」と考えられる。
秀吉より「伊勢屋の青木氏」は敵対され続けた所以は此処にもあったと考えられる。
遂に、「堺」にも「圧力」が掛かり「発注と投資」を「中止する結果」と成ったのである。)


「吉田城の事」に説明不足があるので触れて置く。
この時、「酒井氏の城兵」は「銃隊の応戦」に任せ「籠城」であった事に成る。
故に、家康も無事であって、記録に依れば直ぐに城から出て西三河に帰ったとされている。
つまり、上記の通り戦績は「武田軍の戦記」からも総合的に明確であって、明らかに“「銃隊で命を救われた戦績」”であった事が明確であった。

これだけ「戦績」が明確に成っているのに、況やこれが「銃の威力」なのに「吉田城の銃に関する事」や「額田青木氏の事」に付いて「三つの三河戦記」では何も記録されていないのである。
江戸期に消された可能性が高い。
況してや、応援に駆け付け負けて逃げ込んだ「家康」もこの城に居たのである。
そもそも「戦記」としては書かない方がおかしいであろう。

その記録は、単なる“渥美や田原や吉田や西郷等の土豪衆が「吉田城」に入り活躍した”とあるだけで終わっているのである。
他の「二つの記録」や「武田の戦記類」では明確に記されているのに「三河」では記録はない。

(注釈 この時は「吉田城の経緯」から既に「戸田や牧原」は「松平氏の准家臣」に組み込まれていた。
従って、「伊川津七党だけの戦績」である。)

これはまぁ兎も角も、元より前段から論じている“「伊川津七党の事」”の事ではあるが、この中には「額田青木氏」の要するに「渥美」で「四家」を構成していた「伊川津青木氏」が入っていたのだ。
そして、これが「銃隊の主」であり、“「吉田城」で戦った”と云えば、「伊勢の裔系の国衆額田青木氏の一族」であった事ははっきりしている事でもある。

流石に「一言坂の戦い」の様に、「単独の戦いの事」であったので「額田青木氏の国衆の事」を詳しく明記したが、「吉田城の戦い」では一緒に居た「家康の手前」から書かなかった事になるのかである。

これ程に「西三河の旗本」は「戦記」を書く時にも「意地」を張っていた事に成る。
これ等の「戦記」に付いては「三河の記録」では「三記録」であって、他に「二記録」がある。
この後の「二記録」からも凡そは知る事が出来る。

「銃の事・威力等」を先に論じたが、この様な「銃威力」を持ち得ているのに、「三河」では評価が低かった。
「保守的な力」が未だ全体を占めていたと云う事であろう。
これも何時の世も同じで否めない事ではあるが、然し、それにしても「旗本の嫉妬」には悩まされていた「額田青木氏等」の「三河の銃戦績・吉田城・一言坂・三方ケ原」のこれが此処に至るまでの経緯である。

要するに、「事前移動行動」と「準備期間・前期と後期」と「予備戦・吉田城」と「本戦・一言坂・三方ヶ原」と「その後の行動」の「五つの経緯」である。

恐らくは、筆者の推測ではあるが、少なくとも「三河国衆」としては「渥美湾の目的」が達成されているので、「長篠前までの計画」で進めていたのでは無いかと思われる。
ところが、上記した様に、当然に「目的達成」と「戦況悪化」もあったと思われるが、主に「銃認識低さと旗本嫉妬」から、「資料の文面の行」から観ても、“この侭では危険”と察して「三河の額田国衆」から手を引いたと判断しているのだ。

「長篠の戦い」で「織田徳川連合軍」が「武田勢」に勝てたとしても「三河の額田国衆」の「発展」は“これ以上に無いと観ていた“と考えられるのだ。
それは、「織田軍」には「雑賀根来の銃傭兵」で「主軍として固めての戦い」であった。
これは「織田軍」には“「銃認識低さと旗本嫉妬」が無かった事”を意味しているからだ。
逆に云えば、この「織田軍の考え方」が「松平軍を飲み込む」と観ていた可能性がある。
然し、旧態依然として「松平軍」には下記注釈の通り「3年」も経っていながら無かったからだ。

(重要な注釈 「長篠の戦い」とは、そもそも「三つの場所の総称」であるが、「長篠・設楽原・鳶ケ巣山岩」の「三つの戦い」を以て云うが、ある「長い期間の三河の研究記録」によると、この「古戦場」には、「戦い後」のすぐ後に調べた記録として、“「火縄銃の残骸跡」は全く発見されていない”とあるのだ。
「戦場を直ぐ整理した者等の発言」を取り纏めた「寺に遺された郷土史」にはその様に記されている。
これは「雑賀・根来の銃傭兵軍団」であった事から、「銃の発見の無い事」は充分に頷けるし、「戦場の後始末」は、“「勝った方」が誠意を以て行う「仕来り・請負」であった事”からも見つらなかった事もあるし、更には「戦場荒らし」が当時は横行した事もあろう。
然し、「鉛玉」はあの「広い戦場」に於いて発見されたのは、何とたった“「12個」”であった事は何かを物語っている。

「鉛銃弾」を戦後に貴重である為に、又鉛害の為に拾い集めたか、「武田軍の7割死傷者」に持ち込んだとする考え方説もあるが、“直ぐの集めた者の調査行為”であるとして、それを信じるとしたデータとして考えれば、そもそも、そして、その「発見分布」が、この「鉛弾玉」は「織田軍後方陣地」と「前線」と、この前線より「武田軍側」の三カ所にだけ発見されており、「松平軍陣地」には全く発見されていないとする記録もある。
これに付いて「明治後の周囲の自治体」を巻き込んだ「郷土史の調査団体」の「長年の現地調査研究記録」があるのだ。それなりの信用が出来る。

これによると「色々の事」が判って来る。
別に「松平軍陣地・6000・織田含み」には、「酒井忠次の東三河別動隊」に「200の銃」を与えたとし、自らは「300の銃」を持っていたとする説もあるが、別に「東三河の隊」は「臨機応変の奇襲隊・銃隊」として役務が与えられていたとしている。
とすると、これに依ると誇張気味に“銃は500であつたとする説”もある。
この研究はこれに疑問を投げかけいるのだ。

果たして、「信長」が「雑賀根来の1000の傭兵銃」なのに、上記で論じた様に「松平軍500の銃」も持つ事は絶対に無いだろう。
恐らくは、「三方ヶ原の額田青木氏の国衆の銃・300丁・東三河の酒井軍の支配下・吉田城・1572年・史実」にあった事からの、これを其の侭で採用した推論であつたと考えられる。
然し、「青木氏の資料」では「額田青木氏の国衆」は「三方ヶ原・1573年」で「国衆」から手を引いているのだ。
時代考証は可笑しい。
唯、「吉田城の戦い・家康本隊」の後、直ぐに「一言坂の戦い」の「偵察奇襲隊」を命じられて城を出ている。
この時に、「幾らかの銃」を置いて行った事は考えられるが、この「近代銃」を持ったからとして、「火打ち石の黄鉄鉱と鉛玉の弾丸」を特別に供給しなければ使えない。
唯、これには問題があって、「貿易」に依って得られる為に、当時としては未だ「極めて特殊な黄鉄鉱と硝煙」のこれを入手できるかにあるのだ。
「黄鉄鉱の生産能力」が地元にあるかである。当然に無い筈である。
この説では記録は発見されていないが、「松平氏」には難しいと考えられる。

故に、「上記の研究記録」では「戦場の状況」と「「技術的能力の問題」から無理であったと観ているのだ。
後段でも論じるがこの説によれば、「最も古いタイプの現存する火縄銃」は「滋賀近江の厳浄寺で観っかった銃だとしていて、「松平氏の火縄銃保有説」は時系列が合わないとして否定している。

(注釈 尚、記録に依れば、「滋賀県近江」と「滋賀県日野」で「火縄銃」は造られていたと論じているが、この何れにも「厳浄寺」があって、その所縁から「彼等の菩提寺」としてこの寺が遺されている。
琵琶湖の中央部に位置して直ぐ東横にこの「滋賀県近江の厳浄寺」があり、此処から「滋賀県日野の厳浄寺」が南東方向に22k、この「日野厳浄寺」から北東に10k、「日野厳浄寺」から「近江厳浄寺」まで北西に20kのほぼ「二等辺三角形の位置」にある。
ここで、「近江銃、即ち、厳浄寺銃」が造られていたのだ。
「厳浄寺銃の説」はこれでも信用できる。)


(注釈 即ち、鉄には「フェーライト」と「パーライト」と「オーステナイト」と云う「結晶組織の違う鉄」があり、これらは「加熱温度」に依って「炭素の結晶構造」が異なる事に依って起こる。
これをある程度の速さで冷やすと常温でもその結晶構造が得られる。
この「炭素量の多くしたパーライト状態」に「硫黄」を多く加えると「黄鉄鉱」と呼ばれる「極めて脆い金属」が出来て、叩くと簡単に「酸化火花」が出る。
「硫黄」は「鉄」に執っては「不純物」であり、「結晶の間」に食い込んで来る為に弱く、打つと結晶が破壊されて「空気中の酸素」と反応して酸化して「火花」が飛び散るのである。
「黄色の色」をしていて摩耗する。
これを「火打ち石の代わり」にして「硝煙」に火をつけ爆発させる仕組みである。
従って、「専門的で進んだ論理的な銃」と云う事に成る。
これは「火縄銃の仕組み」としては疑問である。)

要するに、「資料不足」の“「美化の2年の誤差」”を無視しての論説と成る。
「青木氏の歴史観」から観ても「長篠の戦記」には問題が多い。
これも「江戸期の書き換え」であろう。


「青木氏の伝統 56−3」−青木氏の歴史観−29−3」に続く。


  [No.380] Re:「青木氏の伝統 56−3」−青木氏の歴史観−29−3」
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/04/01(Wed) 09:21:17


> 「青木氏の伝統 56−2」−「青木氏の歴史観−29−2」の末尾
>
> (注釈 尚、記録に依れば、「滋賀県近江」と「滋賀県日野」で「火縄銃」は造られていたと論じているが、この何れにも「厳浄寺」があって、その所縁から「彼等の菩提寺」としてこの寺が遺されている。
> 琵琶湖の中央部に位置して直ぐ東横にこの「滋賀県近江の厳浄寺」があり、此処から「滋賀県日野の厳浄寺」が南東方向に22k、この「日野厳浄寺」から北東に10k、「日野厳浄寺」から「近江厳浄寺」まで北西に20kのほぼ「二等辺三角形の位置」にある。
> ここで、「近江銃、即ち、厳浄寺銃」が造られていたのだ。
> 「厳浄寺銃の説」はこれでも信用できる。)
>
>
> (注釈 即ち、鉄には「フェーライト」と「パーライト」と「オーステナイト」と云う「結晶組織の違う鉄」があり、これらは「加熱温度」に依って「炭素の結晶構造」が異なる事に依って起こる。
> これをある程度の速さで冷やすと常温でもその結晶構造が得られる。
> この「炭素量の多くしたパーライト状態」に「硫黄」を多く加えると「黄鉄鉱」と呼ばれる「極めて脆い金属」が出来て、叩くと簡単に「酸化火花」が出る。
> 「硫黄」は「鉄」に執っては「不純物」であり、「結晶の間」に食い込んで来る為に弱く、打つと結晶が破壊されて「空気中の酸素」と反応して酸化して「火花」が飛び散るのである。
> 「黄色の色」をしていて摩耗する。
> これを「火打ち石の代わり」にして「硝煙」に火をつけ爆発させる仕組みである。
> 従って、「専門的で進んだ論理的な銃」と云う事に成る。
> これは「火縄銃の仕組み」としては疑問である。)
>
> 要するに、「資料不足」の“「美化の2年の誤差」”を無視しての論説と成る。
> 「青木氏の歴史観」から観ても「長篠の戦記」には問題が多い。
> これも「江戸期の書き換え」であろう。


「青木氏の伝統 56−3」−青木氏の歴史観−29−3」


(注釈 「武田軍の読み取れる史実」
さて、前段に続いて、これは次の事も云えるのだ。

この「研究資料」には、“「織田軍後方陣地」に遺っていた「鉛玉」は変形が激しく「四角」に成っていた”としているのだ。
本論は此処に着目している。
これ等の判断に至った多くの「資料や記録の見直し」の「前提」に付いて「注釈論」として論じて置く。

(注釈 「銃弾の変形から読み取れる史実」
これは、つまり、「弾丸の変形」に付いては、“「武田軍」が「僅かな火縄銃」での「接近戦」でも果敢に死ぬ覚悟の突進応戦した事”を示しているのだ。
この事に大きな意味を持っている。
恐らくは、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」の事は情報戦で武田軍は既に知っていたと考えられる。
それでも、「僅かな火縄銃」で応戦したと云う事は、一つは”未だ「火縄銃の効果」を低く観ていた”か、或いは、”調達出来なかったか”であり、筆者はこの両方であったと観ている。
何故ならば、「赤兜の騎馬軍団への信頼」と「風林火山の概念の強さ」にあったろう。
戦いは、要は、”風林火山にあると云う概念”が余りに強すぎたのであろう。
だから、一発撃つのに15分も所要する火縄銃である以上は「固定して戦果を揚げる火縄銃兵」でありながら、何と突撃すると云う事が興ったのであろう。
弓であればこれでも何とかなるだろうが、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」が目の前にあるのに何かの戦いの概念が間違えていた事を示すものである。
これは「銃兵」に対して「騎馬軍団」と同じ考え方にあったと観ているのだ。
且つ、これは同時に“「数少ない銃であっても風林火山でやれば戦果を掲げられる”と真剣に考えていた事」を示すものである。
況して、この「変形具合」の意味は、体では無く何かの“「堅い織田軍の防護壁」”に当たった事を意味している。
“「堅い織田軍の防護壁」”のこれを物語る資料が遺されていない。
「櫓と防護柵」を設置したとする事は記録されているが、これは騎馬軍団の突撃の防止と最前線にいる銃兵の保護にあった。
これは“「堅い織田軍の防護壁」”には成らない。
「石柵か鉄板」以外に無いだろう。
防護柵以外に「銃兵」の前にこの二つの何れかを「盾」にして置いていた事に成る。
この事は「織田軍」の「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」が「武田軍の銃」を事前に予想していた事に成る。
筆者はこれは「製鉄の地の雑賀地域」を重視して「鉄板」であったと観ている。
「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」だからこそ「近江と日野の銃」の「裏ルートの移動先」に付いて「情報」を得ていて「武田軍が僅かながらも銃を持っていた事」を事前認識していた事を示している。
「武田軍の少ない銃」でも「常識」を破って突撃をしてくれば、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」に「木の馬防柵」を貫いて超えて当たるから、これを防ぐには鉄板の盾の様な物を前に置く必要があった筈である。
「武田軍」はこの「銃の固定式の常識」を戦術的に敢えて超えて使ったのでは無いか。
何故ならば、下記の様に「三つの起伏の丘」が間に有りその「距離が約2kある」とすると、「銃の固定式の常識」は使えない。
「織田軍」は西で動かないと成れば、東の武田軍がこの「2kの間」を詰めなければ成らなくなる。
この「睨み合い」の中の期間を利用して後ろに酒井軍を廻して弓と少ない銃で前に進む様に仕向けたと考えられ、故に、これ等の行動を執ったと考えられる。
そもそも、然し、だとすると「武田軍側の三カ所の銃弾跡」は、「織田軍の1000丁の銃」の数にしてはそもそも少なすぎる。
これは「弾丸」は「馬や人」に食い込んだ事を意味するのか。
「二万軍の7割」が「銃撃で死んだと云う事」はこの事を意味するのであろう。
将又、「織田軍前戦」の「弾丸」は、「赤兜の騎馬兵」より前に前進していた「武田軍」の「数少ない銃隊」に当たった事を意味していて、それは「決死の抵抗戦」があった事を示している事にも成り得る。
そこで、そもそも戦場と成った「設楽地域」は「起伏の多い地形」であった事から、「武田軍」を「銃弾の確実に届く位置」まで引き出そうとする戦略を駆使していたのかである。
つまり、何故に、「戦い難い地形」のこの「波打ち地形」を態々選んだかである。
それは別の資料で「信長」は進んだ「西洋の事」を知る為に宣教師から講義を受けていたとする記録があり、その「講義の資料」の中に、この中で「イタリアの戦いの史実」を宣教師から教えられていたとする記録がある。
それによると、「起伏地形を利用する戦術の事」が欧州であったらしく、当時の日本の戦い方の中にはこの考え方は全く無く、前段でも論じた様に「魚鱗陣形」や「鶴翼陣形」等の寧ろ河原などの「平坦な地形」で戦う戦法であった。
そこで「信長」がこれに驚いて「宣教師」に執拗に詳細に聞いたとする記録である。
そこで「地形」は東西に先に来て配置し、西には織田軍、東には武田軍で配置し、この間の1.5kには小山が3つあり、「信長軍の本陣」は「戦地本陣」より西寄りの大きな平地1.9kに置いていた。
そして、「戦い」と成った位置は「信長ー勝頼の陣地」より織田軍方西より7割の位置の南寄り0.5kの小山と小山の間で決戦した。
かなり「織田側」は引き付けた事がこれで判る。
銃弾が確実に届く600mまで引き付けていた事に成る。
そうすれば、後ろに回った東三河の酒井別動隊の効果も出るし、この効果も出たのであろう。
要するに「武田軍側の銃」は前に出るしかなく無くなった事に成る。
この「二つの記録」を合わせると「長篠の戦い」は、「なだらかな起伏の多い地形」を選んで待ち受けた事では符号一致する。
然し、史実では「少ない銃隊」の後ろに控えていたされるその「赤兜の騎馬兵」が、記録に依れば“「後詰め」で有りながらもほぼ全滅であった”としている事から、「武田軍本隊15000」の内の「僅かな突撃銃隊」は、間違いなく「全滅であった事・武田軍1万の戦死」に成る。
とすれば「弾丸」は余り戦地に遺らない事に成るが、この作戦は、「東三河の酒井軍の銃に長けた者2000隊」に「織田軍自身の500の銃」を加えた「別動隊・酒井軍」を「武田軍」を挟み撃ちにする様にして攻撃したとされている。
「東三河の酒井軍の弓銃に長けた者2000隊・イ」に「織田軍自身の500の銃兵・ロ」に付いての記載では、イには「銃兵」とは書いていない。
これは「吉田城での経験」から始めて「銃撃戦」を経験した「銃経験者の事」を意味しているのだろう。
この時、既に「額田青木氏の銃隊」は三河の国衆を辞していた。
イに付いては、要するに“銃を持っていた”とする前提の記載では無く、「弓と経験」を意味しているのであろう。
ロに付いては、「織田軍の500」なのか、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」を割いたのかは書いていない。
前段でも仮に「織田軍の500」があるのなら「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」はいらない筈で、そもそも、「近江・日野」からそんな数の銃を裏ルートで調達どころか生産能力も無かったので先ず無かった。
更に「火縄銃」はそもそも高度の経験を要するので、簡単に出来るものでは無く、「貿易」で獲得できる数では無いし、経験も得られない。
だとすると、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」を二つに分けたと考えられる。
これで以て「銃による挟み撃ちにした作戦」であった事に成る。
つまり、二つに割くと云う事は,”武田軍側の銃の数が多くない”との「情報」を得ていた事に成る。
多ければ二つには割けないし、だから、割いたのであり、これが「弾丸の数」に表れているのだ。
これに付いて興味ある記載があって、「信長」は「武田側の銃の数」から判断して徹底して「兵の死傷者」を無くす作戦に出たとする記載があり、「無防備の銃兵」の死傷は著しい戦力の低下を招く為に、取り分け、発言として“銃兵の死傷者を出すな”と命じたとある。
それは、「長篠・設楽の波打つ地形」を利用して、この「へこみの地形部」を「掘り」に見立て何重にも「柵・馬防柵」を巡らし、「へこみ部」には兵を隠し分散させて、ここの最前線に「無防備の銃兵・雑賀は製鉄」を幾つかに分けて配置して護ったとある。
この最前線に「無防備の銃兵」の為に、それ故に「柵・馬防柵」に「鉄板・雑賀族の所以」を設けたのであろう。
これが「変形の弾丸」と成ったと考えられる。
極めて合理性が出ていて理解が出来るし、恐らくは「史実」であろう。)

(注釈 「龍源寺銃・厳浄寺銃の火縄銃」
この説では、この時に使われた「火縄銃・マッチロック式」は、「長篠1575年」の後の「8年後の銃物・1583年」であって、この銃は歴史的に遺されたものとしては、“使用された最古であるとする研究結果”がある。
これは要するに「龍源寺銃」・又は「厳浄寺銃・近江日野の菩提寺」と呼ばれるものであるとしている。
つまり、「時系列が違う」と云う説である。
そうすると、この研究説によれば、「松平軍」は「長篠の戦い」の時には、未だ「火縄銃」は持ち得ていなかった事を示していて、持ち得たのはそれが「8年後の銃物・1583年」の“「龍源寺銃・龍源院銃」”であったとしているのだ。
理窟上は、この時に両軍が使った銃は、「武田軍」は兎も角も「松平軍」が「長篠で使った銃」は、持っていなかったか、将又、日本製では無かったと云う事に成るか、後に入れ替えたかである。
つまり、「松平軍の銃」は日本製でこれが要するに「近江・日野の銃」と呼ばれるものであった事に成る。
この“「龍源寺銃・龍源院銃」”とは、要するに「近江銃の事・厳浄寺銃」であるのだ。
この「厳浄寺」は、「二か所・近江と日野」にあって、共に「近江と日野」で「銃」を造っていた地域にある寺である。
ここが「彼等の菩提寺」であった事も資料から判っていて現存する。
室町期に「近江」には「生産地・連携」が「二か所」にあって、且つ、「菩提寺」であった事は、彼等は「血縁族であった事」を意味し、「近江郷士衆であった事」の「職人族」に成る。
この「生産地」は「別の資料」では、「近江と日野」は「独立した生産地」では無く、一族の「分業生産」であったとしている。
「菩提寺」が同じならこの説が正しい事に成る。
そもそも、「独立した生産地」であるだけの「財源力と資材の供給力」は元から無く、「堺」からの「資材と財源の供給の態勢」であった事が記録から判っている。
更に、「重要な事」は、この「龍源寺の方」は、関西地区の特定の地域には「11カ所」あって、当然に全て歴史的に「室町期」の“「火縄銃の生産関連地」”であって、その寺は現存するのだ。
それは、次の「四地域」に分類されるのである。
A 「雑賀」、「堺」、「伊勢」
B 「田原」、「渥美」、「豊橋」、「豊川」
C 「近江」、「日野」
D 「姫路・摂津」、「松江」
以上の「A〜Dの四地域」である。)

(注釈 「A〜Dの四地域の持つ意味」
これは結局は、前段でも論じた様に、「銃のシンジケート」を意味し、この「シンジケート」に依って見張らてブロックされていて、従って、前段でも論じた様に「近江・日野」からしか「銃」は「抜け穴」として得られなかったと云う事になるのだ。
前段でも少し触れたが、この「近江・日野」を「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」で見張っていた事が判っていて、最後には実力行使した様である。
この「龍源寺」とは、抑々、当時、室町期には“「寺」”と云うよりは、寧ろ、“「銃シンジケート拠点」”の「役割」の為に存在していた事を意味するものなのだ。
筆者は、この「近江・日野の銃」を“「龍源寺銃」”と名付けられていた説には「大賛成」であるし、その中でも「近江・日野銃」を“「厳浄寺銃」”としている「青木氏の資料」を採用している。
「青木氏の中」では、彼らの独自の呼称として呼ばれていた「火縄銃」を採用して、資料には態々その様に呼称して遺していた事に成ろう。
「龍源寺銃」の中でも「厳浄寺銃」を別に何らかの理由で呼称を使い分けていた事を示す。
この呼称は、「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」の影響が強かったと考えられる。
恐らくは、これだけの「拠点作り・龍源寺」は、「財源的」に観ても、将又、全国に張り巡らされた「神明社的」に観ても、これを成し得るのは「伊勢屋・伊勢青木氏」しか出来なかった筈である。
取り分け、「AとBとD」がそれを如実に示している。
Dに付いては、「搬入港・伊勢屋の支店」であった事は間違いない事で、Bは前段からも論じている「額田青木氏の国衆」での「渥美湾の搬入搬出港」であった事に成る。
Bは銃を生産していないのだが、何か「銃に関する役割」を「伊勢」を通して果たしていた事を示している。)

(注釈 龍源寺の役割」
この寺の「詳細な役割」を現在より調べてはいるが、判っている範囲では、そもそも、「銃に関する龍源寺が情報拠点であった事」だけは判っている。
然し、Cを除いて「厳浄寺」が無い処を観ると、「情報」のみならず密かな「補充材の供給の拠点」でもあったと考えられる。
前段でも論じた様に、「青木氏仕様の改良」の為に「秀郷流青木氏」にも「試作銃」を「当面の抑止力」として渡している以上は、此処を利用したと考えられる。
その「証拠」に、前段での「伊豆の論」でも論じた様に、実は次の拠点にも「龍源寺」はあったのだ。
1 「伊豆青木氏の拠点」の近くの「伊豆・2カ所・神明社近隣・梅木」
2 「神奈川・藤沢・2カ所・神明社近隣」
以上の2カ所にもある。
何とこの他に3と4としても存在する。
3 「伊勢名張青木氏の館の清蓮寺」の「4k東」に所にある。
ここは他と違って、特徴としてまさしく“「神明社」に取り囲まれる様”に「龍源寺」が存在するのだ。
4 全く同様に前段で論じた「神奈川」の「秀郷流青木氏の拠点」のある所にも「神明社・4カ所」に囲まれて同様に「近隣2カ所・隣接」に存在するのだ。
これは単なる偶然で無く、「恣意的な必然」である。
そもそも、前段でも論じている様に、「青木氏の菩提寺名」の「本寺」は「密教清光寺・院・せいこうじ」であり、別に「分寺」として「来迎寺」がある。
「秀郷流青木氏」は「西光寺・せいこうじ」である。
「上記の事」から勘案すると、この「厳龍寺」は、何か“「特別な目的」”を持って配置していた事に成る。
其れも特徴として全て「神明社の近隣」にであり、且つ、「神明社二社」に依って囲まれているのだ。
筆者は研究した状況証拠の分析の結果から、これは「表向き」の“信仰の対象の寺”と云う事よりは、「裏の役目」は「室町期の情報と供給の拠点」であった事に成るだろう。
そして、その近隣に「神明社の二社」があると云う事は、これは“神明社と厳龍寺は補完し合っていた事”に成る。)

(注釈 「龍源寺である理由」
では、そこで、「表向き」のこの「神明社の補完寺」とすれば「龍源寺」は、普通なら「密教浄土宗」と成ろう。
然し、全てが違っていた。
「密教浄土宗」と考え方を類似する「永平寺」を「禅宗総本山」とする“「曹洞宗」”であり、中には同系の「臨済宗」もある。
つまり、“これは何故なのか”である。
そもそも、この「曹洞宗の裏の活躍」は、歴史的にも有名でそれは“「役行者・修験道の僧侶」”などに表現される様に、全国各地を廻って心を鍛える修行をしながら「情報を基にする諜報活動」をも行っていた宗派でもある。
この事から、「伊勢」はこの「龍源寺」を「神明社や清光寺の役務」とはし難く、「曹洞宗の寺」としての「表向き」を造り上げていて、同時に「曹洞宗を補完していた事」が考えられる。
現実に、この“補完を証明する物”として存在するのだ。
前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」では鎌倉期から伊勢に「曹洞宗の高僧」の多くを長く逗留させていた実績があり、この状況は昭和20年まで続いていた。
この「鎌倉期から昭和期」までの間の「曹洞宗僧侶達」が遺した「書画彫刻陶器」が今でも多く遺されている。
中には「室町期の永平寺貫主の書・額」もある。
これは、前段でも論じた様に、「密教浄土宗の白旗派」の「律宗族」として「室町幕府」から“特別に原理主義を浄土宗とする認定”を受けたが、この時から、「密教浄土宗・律宗族」で在り乍らも、“「永平寺の曹洞宗」”を支援していた事を意味しているのだ。
これがその「名残・補完」を証明する上記で論じた“「龍源寺」”でもあったと考えられるのだ。)

(注釈 「二か所の龍源寺の存在理由」
そこで、“何故、傾向として「隣接二か所・2k〜6k」の隣接域に存在させたのか”である。
現存している「龍源寺」もそう成っている。
この事に「大きな意味」を持っている。
確かに“特定した地域である”と云う事もあるが、そもそも「寺の目的」であるのなら「建造」は1寺でもよい筈であるが、上記の通り不思議に「隣接2寺」なのである。
この「隣接2寺」は「宗教的役目」の“「信者の囲い込み」”にもあったと観ている。
「座禅や修験道」で“心を鍛え悟りを得て「大日如来」に導かれる”と云う概念は、そもそも農民などには取り入れ難い概念であって、主に、「郷士や原士等の武士階級」に取り入れやすい概念と成る。
従って、「信者獲得」には、「地域限定の囲い込み」が必要があったのだ。
現実に、「中国生まれの儒教の影響を受けた概念」であって歴史的にも信者はそうであった。
この事はそもそも、「地域性が強く出た結果」と判断できる。
この傾向が、“伊勢青木氏に執っては都合が良かった”と考えられる。
故に、積極的に「伊勢青木氏」は「補完目的」として建造したのであろう。
仏教伝来以降は「密教浄土宗」は「高位族の対象」であった事もあって「曹洞宗」を補完したと考えられる。
取り分け、Bに付いては、「情報・供給」は元より「郷士や原士等の武士階級の信者獲得」のその意味合いも強かったと考えられる。
これに依って“「地域との絆関係」を高める手段”ともしていたと考えられる。
そして、ここから出される「貿易」によって得られる「黄鉄鉱や硝煙」を含む「火縄銃の事」を以て「龍源寺銃」と呼ばれたのであろう。
必死に成って「近江・日野から出される裏の銃」や「外国から持ち込まれる火縄銃」を、“無秩序に社会に使われる状況に成る事”を牽制したのであろう。)

(注釈 「近江・日野の掟破りの背景」
上記した様に、この様な「シンジケート」で固められた「龍源寺銃の組織」のある中でも、「火縄銃の掟・龍源寺銃・厳浄寺銃」に反して、「社会に悲惨な結果を招く様な武器」を「横流し」してでも、況して香具師に見張られていながらもこの様な「勝手な行動」を敢えて執ったのだ。
それは富に目が眩み無秩序にした「金銭の取得」であった。
「厳浄寺と云う組織」が「龍源寺と云う組織」に見張られながらも「銃の堅い掟」を破ったのだ。
その結果、この「近江・日野」も「堺」に「財源や資材」をブロックされて飛散する結果と成ったのだ。
兎に角にも、論点は逸れるが、「銃のシンジケートのブロック・龍源寺銃」は「戦乱」を拡大させ「被害」を拡大させる「銃の武器」を統制していた事では賛成出来る。
且つ、この組織は「武器を持たない青木氏族」に執っては「抑止力を最大に高める手段」でもあった。
これが世間に広まつた場合は「青木氏族の抑止力」は無くなる。
故に、「銃のシンジケートのブロック」に「巨万の富の全財産」を注ぎ込んでも必死で「最新の貿易情報」を掴み取り組んだと考えられる。
その意味では。「額田青木氏の国衆に与えた近代銃」は飽く迄も「武力」では無く、伊勢の裔系の「額田青木氏」を護る牽制銃であった事に成り、「額田青木氏の300の銃」に付いては「歴史的経緯」もそうなっているのだ。
筆者は、「青木氏の抑止力」を無くす“「室町期の貿易」”に依って無秩序に持ち込まれる「火縄銃」を、この「龍源寺の力・シンジケート」で何とか抑え込んだのではないかと考えている。
況してや、「銃を持ち込まれる事」は、中国の例に観られる様に、外国に侵略される前提であった。
それ故に、「水軍や伊勢シンジケート」と補完し合った「龍源寺シンジケート」で威圧して「貿易」を側面から抑制し牽制したと観ている。
それ故に、「財力」で横から買い取る意外にも、密かに、「水軍」で外国船や密貿易船を攻撃する、又は、「陸揚げされた銃」を「香具師」等で攻撃する程度の事はしたと考えられる。
「奪い買い取った銃」は廃棄する等の事もしたと考えられる。
「近江・日野」から約35年後の「秀吉の刀狩り・1588年」と、「江戸期」では「銃規制・1605年」で「禁令」と成って「抑制」は、更に働いて「抑止力」は護れたのだ。青木氏の抑止利欲はま)

(注釈 「堺の近江への戒め」
資料の読み取る範囲では、“100年弱程も前から「情報」を掴み何時しか「見本」を取り寄せて事前に「抑止力」の為の「銃の研究開発」を進めていたと考えられる。
故に、その様な「戦国や下剋上の乱世」の中で、「青木氏の抑止力」を弱める「銃の武器」を敢えて「松平氏」には渡す様な「矛盾した判断と行動」はしないと成るだろう。
「平安期の源氏化」と「奈良期の額田部氏の干拓灌漑」に反して、又しても「勝手な行動」を執った「近江族」を“「堺・支店」”を拠点として「伊賀青木氏・香具師」を使って戒めたのである。
結果としては、この「伊勢青木氏の背景」とした“「堺の戒め」”が「近江・日野の崩壊解散」と成り、各地に「銃職人」が飛び散る結果と成って仕舞ったのだ。
ところが、「堺の戒め」に対して、この事で恐れていた“「危険な状態」”と成って仕舞った。
この「近江・日野の鍛冶職人」を「伊勢に引き取る事」で解決できると観ていたし、その様に事は進んだ。
ところが、又しても「日野から裏切り」が出たのだ。
この「日野」は、「青木氏の存在した近江の域」より「北東に20k」の位置にあり、更に「甲賀青木氏の域」より「10kの北東」にある。
つまり、「日野」は「青木氏域の域・定住地で在った所」にないと云う事である。
「近江・日野」が離散した時、殆どの「銃職人・鍛冶職人」が「伊勢」の「伊賀・香具師」に護られて逃げ込んで来た。
そして「青木氏部」に組み込まれて「殖産の機械」を造ったのだ。
この「近江たけの事」は、平安期で滅亡したが「何らかの支流傍系」が生き残り、「銃職人」として「堺・摂津」から支援を受けて僅かながら生き延びていた事を意味する。
その「絆」を頼って「伊勢」に庇護を求めて来た事に成り、「青木氏部」の中に庇護したとしているのだ。
取り分け、「伊賀青木氏・香具師集団」が「支配頭」と成って「殖産・和紙等」の「青木氏部の服部」に組み込まれたのだ。
然し、この「近江」と「日野」との“「厳浄寺・菩提寺」”で示す様に、相互に「繋がり」があったとしても「伊勢」とは繋がりはなかった。
これが先ず「日野からの裏切り」と成ったのだ。
前段でも論じた様に、「伊賀青木氏」は、この為に「香具師・情報や諜報を行う忍者・露天商に変身」を近江に廻して抑え込みを図ったのだ。
当時の慣習では、止むを得ない仕儀であったかも知れないが、「日野の職人」は薩摩等の四か所に散ったのだ。
これが世に旧式の火縄銃が拡散する結果と成って仕舞った。)

(注釈 「銃のシンジケートの縛力」
「雑賀・根来の銃のシンジケート」が、「近江・日野の行動」に依って、「火縄銃」を無制限に販売放出する事は、「雑賀根来の防御のブロック・銃の傭兵軍団」が効かなく成る事をも意味した。
その意味でも、絆を維持する為にも「放置」は出来なかった。
今度は、この事に依って逆にその「為政者等に依る反動」が、“危険極まりない集団”として「名目」を着けられて「雑賀・根来・堺の傭兵軍団」に向かって、「弾」が飛んで来る事に成ったのだ。
「伊勢」も同じでその「抑止力が無くなる事」を意味したのだ。
史実は「信長との争い・1577年」から「秀吉の紀州征伐・1588年」としてそう成って仕舞ったのだ。
そこで、「雑賀・根来の連合郷士集団」はこれに対して自らが自らの「銃武力と集団力」で護ろうとした。
それが出過ぎた為に「雑賀・根来」は耐えられ無く成ったのだ。
弱点であった絆も弱さが「裏切り」として出たのだ。
これが何と「長篠の戦い・1575年」から「2年後」に始まり「13年後」にはこの決着が着いてしまったのだ。
この“「2年後とする事」”は、織田側に執っては「長篠の始末」が着けば、次は危険極まりない恐ろしい惣国集団の「雑賀根来を抑え込む事」にあって始めから考えていた事に成る。
結局は「雑賀・根来」は、信長は「武力」では犠牲が大きいと判断して、「瓦解させ時」は始めは弱点を突く「調略」に依るものであった。
「忍者系の要素」を持った南部の「鈴木派・2派」では無く、北部の「土橋派」を調略した。
「鈴木派2派」は更に2派に分かれていた。
この1派が其の後に「紀州藩の忍者・諜報」と成って其の後活躍した。)

(注釈 「雑賀根来の銃生産の経緯」
「雑賀・根来の銃生産」は、元より「彼等のシンジケート」の持っていた「火縄銃」、或いは「生産した火縄銃」は、最低でも「1000丁」と云われいて、最大でも「1500丁」と成ると記されている。
前段の検証でも「生産力」から「最大1500丁」は超えないであろう。
記録や郷土史の論などから観て観ると、「種子島」に渡り「1543年から2年弱の期間」で学んだ「津田監物」が持ち帰ったとする「銃技能」とその為の「資材と投資」を得てから「生産」までに到達させ使い熟すのに「計4年掛かった」とされている。
そうすると、「堺の鍛冶職人」に「模倣品」を作らせ「1547年」に根来で分業生産開始と成り、その後、当時の「大製鉄地の貿易港」を持つ「堺と雑賀」にもこれが広がり「量産」に至ったのだ。
この時が「本格生産・1549年頃」と成るとしている。
2年後であるが、これが「1552年頃」には、「堺・近江」と「雑賀・根来」で年間で「最大で100〜200丁程度」で在ったとされている。
「堺の生産分」は、その後に「別枠・フリントロック式改良試作銃」で全て「伊勢」が引き取ったとしているので、「近江・日野域と根来・雑賀域」が「火縄銃の主な生産地」に成る。
恐らくは、それまでの「堺の火縄銃」とされるのは「堺からの資材と財源」の供給をし、「近江」に生産を委ね、「近江」は「日野との連携」で分業生産したと観られる。
ある郷土史ではその様に書かれている。
従って、結局は、未だ圧力の受けていない「長篠の戦い」の時までには、「火縄銃の総合生産量」は、「23年の期間」を得ているので、単純計算では、2年後の「1577年」で「雑賀の火縄銃」だけと成る。
この時は、既に「根来」は、「信長」より間接的に「強い宗教圧迫」を受けていて、且つ、「仲間割れ」に依り弱り、況して「北紀の奈良に近い寺町」でもあった事から「生産」はしていないので、結局は半減している筈で最大でも「50丁程度」と観られる。
そうすると「23年・50丁≒1150丁」と成る。
注釈として、前記した様に勝手な振る舞いをした「近江・日野の銃生産」は「堺の圧力・伊勢の圧力」を受けて衰退に近く数は計算に入れない。
とすると、「長篠の戦い・1575年」では「雑賀・根来の銃傭兵集団の1000≒1150」は数的な検証から納得できる。
結局、「信長との争い・1577年」、「秀吉の紀州征伐・1588年」と「1588年頃・刀狩り〜1605年頃・銃規制」に依って、この「銃の経緯」は、全国に「1000丁銃とその傭兵」は飛散したとされている事に成る。
「公的記録」では、「近江」と同じ様に、“一端、「伊勢・伊勢屋青木氏」に移動した”とある。
郷土史等では、「雑賀根来の火縄銃」は没収されているので、「1500丁」は無い筈なのだが、「約500丁の火縄銃」を「雑賀の鈴木派の1派」が紀伊山脈に逃れて持っていたとされ、これで忍者活動や猟銃に使用されていたと記されているのだ。
そして、この1派が「紀州藩の忍者」と成ったと地元では云われていて、「吉宗の伝記」でも「雑賀忍者」は「甲賀忍者」と競り合いをしたと伝えられている。
そして、「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」も「幕府の甲賀の情報収集」に対抗して「紀州藩」に着いたとされているのだ。)

(注釈 「雑賀の経緯・松平氏の銃の検証」
そして、その後、滅ぼされた「雑賀氏の一部」は、元の「忍者集団・雑賀忍者」に戻り、山に入り、更には、“紀州徳川氏」に「忍者・銃兵」として仕官した”とある。
この史実からすれば、上記から論じている様に「徳川氏の火縄銃」は、“この銃であった事”にも成るがこれに付いての確認は状況証拠しか取れない。
つまり、この事は「長篠の戦い」の後の「2年後・1577年」には「紀州藩」を通じて密かに“徳川氏に流れた事”を示しているのだが、然し、御三家で在り乍らも幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられる等してこのような関係には少なくとも無かった筈で500丁の銃を渡せば益々嫌疑は高まる事に成る。
この事では、“「紀州徳川氏が持ち続けていなかった事」”に成るが、史実は紀州藩に火縄銃は秘匿して留まつていた事に成る。
これが密かに漏れて「謀反の嫌疑」に成っていた事も考えられる。
「謀反嫌疑の表向き理由」は、「伊勢藤氏の大量の家臣」として雇いこんだ事と成っている。
果たして、「初代藩主頼宜」が「水戸藩主・1603年、駿府藩主・1608年、紀州藩主・1619年」と云う経過から、仮に、「雑賀忍者の銃500丁」が准仕官して血かとして「紀州藩」に渡った事としても、そもそも「1577年」とは年代が違う事に成る。
これはどういう事なのかである。
「徳川氏の火縄銃の銃力」は、別の資料の史実では「計500」とあり、「200」が「東三河の酒井軍の奇襲隊」にあり、「300」が「本隊」に配置したとしているのだ。
多分、「後付けのシナリオ」であろうがその様に記載がある。
ところが、「松平軍の銃のタイプ」は、ある説では「1588年厳龍寺銃」とされている。
では、「織田軍」が獲得したとする「雑賀・根来の1000丁」は、「本能寺の変・1582年」から「小牧長久手の戦い・1584年」で権力を握ったとすると、この「織田軍の1000丁の銃」は「徳川氏」には未だ渡っていず、殆どは「秀吉側」にあった事に成る。
この「1000丁の銃」を「織田軍の中」でどの様に分けたかにも依るが、少なくとも「徳川氏」には未だ渡っていない事に成る。
「小牧長久手の戦い」の後の「4年後」の「刀狩り・1588年」の中で密かに「密貿易」で「火縄銃」を獲得したとする考えもあるが、「500丁の火縄銃」を果たして獲得できるかにある。
「絶頂期の秀吉」がこんな松平氏の「大量な火縄銃の獲得」のこれを認めるかにあるが先ず無いであろう。
其れこそ、秀吉から家康は謀反わ掛けられる破目になるだろう。
この様な「大量の火縄銃」の「密貿易の銃の限界値量」が「刀狩りの警戒」の中で“「松平軍」に全ては行く事は先ず無く”、そもそも、これだけの量では疑われ警戒される。
史実としてその様な「事件」は無い。
それこそこれは「秀吉の基盤が崩れる事」を意味する。
そうすると、「松平氏・徳川氏の500丁」は、何なのかと成る。
「1000丁の行方・織田」と「残りの500丁の行方・雑賀」である事は判っているとすると「密貿易説」は無いとして、“何処から調達したのか、将又、殆どの「徳川氏に関わる記録」が「修正脚色」された現実から「江戸期の修正」なのかに成る。
第一、「17年後」に「銃規制・1605年」が「徳川氏」に依って行われているのだ。
筆者は「銃規制後頃」に、直ちに「徳川氏に関わる記録」が「修正脚色」が行われたと考えている。
この事に依って、幕府は“各大名を牽制した”と観ている。
そこで、次の疑問は「織田軍の1000丁」が「秀吉」に全て渡ったのかである。
「本能寺の変・1582年」から「長久手の戦い・1584年」までの「2年間の戦記」では「火縄銃の使用」は「山崎の戦い・1582年・明智」と「賎ケ岳の戦い・1583年」の二つであるが、「戦記」では何れも銃は使われている事に成っている。
特に、「明智軍」は「銃の使い方」が上手かったと記されていて、軍勢で倍の勢力を持っいたが「秀吉」は、この“「光秀の銃」”を警戒していたと記されている。
この「二つの戦記」が正しいとすると、「信長」は「織田軍の中で分けたと云う事」に成るだろうが、どの様な形で分けたかは判らない。
「長久手と山崎の二つの戦い」で、結局は“「火縄銃」が「戦利品」として全て秀吉に渡った”と云う事に成る。
凡そ、「雑賀・根来の保有の1000丁」、つまりは、「2年間の間隔」で矢張り「織田軍」から「秀吉」の手元に渡った事に成るだろう。
「自然の流れ」は、つまりは、「長篠後」は、“傭兵軍団を雇っていた織田軍”から「秀吉」に渡ったと云う事に成ろうから、この“「銃の威力」”で「秀吉」は天下を取り「家康」はこれを恐れたと云う事の原因説が生まれる。
この「銃の威力」を高める為に、「秀吉の天下」をより確実にさせる為に「刀狩り・1588年・刀や銃などの許可なく武器の保持の禁止」を行ったと観ていて、家康もこの「銃の威力の自然低下」を待つしかなかったと読み取れる。
それが、「銃の威力を上手く使い熟す光秀」と同様に、これを観ていた「家康」は、又、「秀吉」に対しても「銃の威力」を上手く使い熟す為に、最後の策は「秀吉の死」であったろう。
唯、ところが、「記録類」をよく精査すると、どれも「織田軍1000」と成っていて、それが「秀吉」に渡ったとして、残りの1/2に当たる「500の銃」は何処へ行ったのかと云う恐怖感が「秀吉」にも「家康」にもあった筈である。
「刀狩り・1588年」では、集まった「火縄銃」は「100丁程度」であった事が記されている。
その前に、「第1次・1570年・信長」から「第4次・1591年・秀吉」まで行われた「紀州惣国の討伐」で、この「500丁の火縄銃の存在」を徹底的に掃討したのであろう。
「刀狩り」で「100丁もの火縄銃」が出て来る事が証明された以上は、「紀州惣国衆」が持っていたと判断されて、徹底的に潰されたと考えられる。
戦利品としてこの「火縄銃」が凡そ確認されたのであろう。
何処に潜んでいるか判らない為にその証拠に高野山も攻められているのである。
然し、結果は歴史的に後で判った事であるが「雑賀衆の一部」が密かに山中で隠し持っていた事に成るのだ。
これが上記した様に後で判った事ではあるが、その行方は「紀州藩」に組した「雑賀忍者の銃の根源」であったのだ。
歴史は、全てを秀吉は探し切れなかった事に成るのだ。)

(注釈 「500の銃の行方と松平氏の銃の根拠」
上記の検証でも、「生産状態」に入った段階での最大で「3年間1150」と成っているので、それまでの銃を勘案すると、銃は「1500」と成り得る。
この「500の差の銃」である。
そこで、更に「郷土史等の記録」から観てみる。
紀州は「惣国性が極めて強かった事」から「郷土史等の地元の資料」から読み取れる筈である。
「紀州討伐」では、結局、「雑賀衆」が全員潰された訳では無く、「鈴木系の雑賀衆の北部一派」は“山に逃げ込んだ”とされていて、地元でも「ゲリラ作戦」で「山の戦い」を挑んだと伝えられている。
筆者も地元の口伝で聞いた事があるし、現実に「雑賀氏の子孫」は現在の「鈴木氏の発祥地」でもあり、且つ、この「雑賀氏」は今でも「宗家・藤白」のある「海南市」に多く住んでいる。
筆者には「雑賀さん」の「知り合い」もいるし、学校の旧友の中にも居る。
口伝では、“紀州征伐後に山から下りて来た”とされている。
地元の山の真言宗高野山本山にも逃げ込んだと伝わる。
恐らくは、この「鈴木氏系の裔系の雑賀衆」と「宗教集団の根来衆」が団結してこの「500丁の銃」を持って山に逃げ込んだと考えられる。
要するに、「紀州藩の銃」は、江戸期初期では「紀州藩」に組したこの「鈴木氏系の雑賀氏の忍者集団の500の銃」と成るのだ。
つまり、「信長」が「雑賀根来」を潰した時は、「紀伊山脈」に逃げ込んだ「雑賀氏・鈴木氏」が保有していた事に成る。
そもそも、「紀伊山脈」は、元より歴史的に「鈴木氏」、即ち、その裔系の元と成っている「日高氏・熊野宮司六氏」の許下にあるし、平安期には「紀伊山脈」に逃げ込んだ「京平家の末裔」の「原士化した十津川郷士や龍神郷士等の住か」でもあって、「長い間に血縁族」と成っていたのだ。
地元でも、この「原士族」を江戸期に活躍した有名な“「雑賀忍者」”と呼ばれていたのだ。
「紀州藩」は「幕府の伊賀・甲賀忍者」に対してこの“「雑賀忍者」”を使って対抗した事は有名であるのだ。
「元紀州藩主の吉宗の逸話」の中にも「雑賀忍者」は出て来る。
「享保期の事件」として、「吉宗の地元の紀州藩」での「事件」が起こった。
その「事件」は、この「雑賀忍者・監視役」が「准家臣・家臣扱い」として「土地の土豪や郷士等の動き・惣国性質が強い土豪」の「監視役」をしていた。
ところが、「紀州藩の家老職の家臣」が「不正・癒着」を働き、「雑賀忍者」に見つかったが「藩主」が凡庸であった為に改められなかった。
そこで「雑賀の組頭」は危険を犯して「江戸」まで出て「目安箱」に直訴した。
これを知った「吉宗」は、「自ら仕上げた組織」が機能しなく成っていた事を知り、直接密偵を差し向けて調べたところ事実が発覚した。
そこで、「雑賀忍者の組頭」に「お墨付き」を託して「藩主」に改めて報告する様に命じた。
結局、藩主は退き、家老は切腹して「紀州藩の騒ぎ」が治まったとある。
これは当に「ドラマの様」であるが地名や人物も明確に成っている「享保期の史実」でもある。
「残存の雑賀衆」とすれば、「火縄銃」が有っても「硝煙と鉛玉」は簡単に入手出来なければ「宝の持ち腐れ」であり機能しない。
その意味で、この「雑賀地域」は江戸期までは「貿易の地域」であって、前段でも論じた様に潤沢に手に入つたのだ。
「残存の雑賀衆」の「雑賀族」は享保期まで「雑賀屋・長兵衛」を営んでいたとされ、「吉宗」に付き従い「江戸」に移り、その後に「浦賀」に移り、「明治30年頃」に倒産した事は史実として判っているので、これで、「伊勢青木氏の伊勢屋」の「歴史の史実」と間尺は合うのだ。
実は、この「雑賀屋の実態」は明らかに成っていないのだ。
筆者は「雑賀屋」は和歌山に置いた要するに支店の「伊勢青木氏の伊勢屋の事」では無いかと観ている。
その根拠は、「松阪伊勢屋本店」は江戸初期「前後に於いて「各地・15地域」に「出店・支店・商業組合」を持っていたが、その内の「摂津」は平安期より本店並みの別格の「摂津支店の伊勢屋・独立」としてを「店」を構えていて、この「支店」が「堺」にも店を出していた事は判っているし、そこから「紀州藩との殖産連携」の為にも江戸初期には既に「和歌山店」等を出していたとある。
実は、この「出店の仕方」に特徴があって、「伊勢青木氏の商いの特徴」は、享保期の江戸の伊勢屋を除いて先ず「松阪の伊勢屋」を直に名乗らない事なのだ。
それは、前段でも何度も論じている様に、何かが起こった時に連座する事を恐れての「平安期からの仕来り」で、この事は逃れ得ない「悠久の歴史を持つ由縁の宿命」であったのであろう。
その為に、「地域の地名・15地域」を「店名」としていた事が判っている。
唯、「共通な点」は前段でも論じた様に、「平安期からの役名」の「近衛軍の差配頭」から「長兵衛・・宮廷の衛兵の長・宮廷を護る衛兵・近衛兵」から名乗る「格式名」があって、これを「襲名」として着ける「仕来り」であった。
この「仕来り」を各店舗にはこの「四家の福家の長兵衛の襲名」を着ける習慣があったのだ。
「伊勢本店」との「繋がり」が判らない様にしながらも、唯、「地名店」の店長を長兵衛としたのだ。
悠久の歴史を持つ摂津店も同じである。
室町期にはその史実として「信長の伊勢攻め」の時の「松ケ島城消失」の大阪商人としてシンジケートを使った活躍がある。
享保期の江戸に広めた「200以上の伊勢屋の店舗」にはこの「・・・店・・・屋長兵衛」が着けられていたので明治期まで江戸には伊勢屋が遺った。
唯、これが「吉宗との軋轢」で江戸に一切遺して来た事から「商いの象徴」として「伊勢屋」と「長兵衛・・・・兵衛」は爆発的に全国に広まる結果と成ったのだ。
従って、この「・・・兵衛」を除いて概ね「嵯峨期の勅令の禁令」で「青木氏の慣習仕来り掟」を一切使っては成らないとする令は、原則は「明治3年」まで概ね護られたとしているのだ。
前段でも詳しく論じたが、唯、護られた「伝統」としては「青木氏の伝統の慣習仕来り掟」で存命中は敢えて仕来りとして「名」を変更させて「幼名、俗名、字名、通名、諱名、襲名、戒名、諡号」と替えて行く習慣を持っていた。
総合的に成人に成るとこの全てを持っている事に成る。場合に依って使い分けていたのだ。
この襲名の名で諡号の名の「長兵衛」は店名の後に敢えて着けられていたのだ。
享保期以降の江戸期にはその効果は低減したが護られていた。
「神明社の神道」でもあったので決められた年代で「諡号・諡」も替える習慣も持っていて、これを前提で調べればその「店の成り行き」が判るのである。
従って、上記の「戒名・仏教と諡・神道」等は生きている内で持つ「仕来りと習慣」であった。
ところがこれが「・・・衛」とか云う「奈良期と平安期の官職名」が「江戸享保期の伊勢屋の事・200店舗」の事で、世間に知れ渡り拡がり、遂には江戸期中期以降からこれを無視して「庶民の店」でも使う名として広がってしまったのだ。
唯、結論としては、これ等の「慣習」から調べると同時に、恐らくは、「雑賀屋」は、「雑賀の店・雑賀屋・長兵衛」として「番頭を置いていた和歌山店・摂津の支店」では無いかと観ているのだ。
それは、「上記の慣習仕来りの事」と合わせて、次の事が云えるのだ。
「慣習の実態」と「襲名の長兵衛」である事
「吉宗に江戸同行」している事
「失火明治35年倒産」させている事
「伊豆」と「浦賀」にも支店を置いていたとする事
「安田の姓と木村の姓」と関わっている事
「雑賀店」は「江戸中期以降の店」として「紀州藩の殖産」に関わっていた事
以上のこれ等の事は「伊勢青木氏の記録」にも一致し、そもそも「火縄銃の雑賀」で無く、「忍者の雑賀」で無く、時代も大きく異なっているし、況してや「雑賀衆」は既に衰退しているし、この頃は鈴木氏は「大きく店」を出す程の土豪では無く、且つ、「・・衆」と云えるものでは最早無かった。
従って、和歌山・海南のこの「雑賀屋」は「紀州藩との殖産」に依る「伊勢の伊勢屋の支店」として遺されたと考えられる。)

(注釈 「近江の逃げ込み先の伊勢」
さて、ここで、「近江の鍛冶職人」が、“一端、「伊勢・伊勢屋青木氏」に移動した”とする記録には、重要な見逃す事の出来ない「伊勢青木氏」の「歴史的な意味」を持っているのだ。
当然に、先ず「史実」の通りに「近江の事」も同じで、「七割株の支配先・投資先」の「伊勢屋に逃げ込む事」は必然である。
其処からが、この「史実」に隠されている問題で、彼等を“どの様に誰に「伊勢屋・伊勢青木氏」は振り向けたか”に成る。
“それを任された事”に結果として成る難しい問題であろう。
「戦乱」の最も激しい時の事であり、「事の次第」に依っては今までの「1000年以上の苦労」は水泡に期す事にも成る。
この様な「難しい立場に成る事」を予想出来ていたかは疑問である。
確かに、前回の平安期の「近江の事」は「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して「圧力」を掛けたのであるから予想していただろうから、上手く配置したし、「平安期の古来」より「近江」とは「犬猿の仲」と云うか「堺の間接的支援・摂津支店の支援」の中にあった。
従って、“彼等の一部が各地に散ってくれると云う事”では難は逃れられたし、左程の戦線では無かった。
平安末期の「近江の事件」は、「青木氏部」の「殖産機械を造る集団」、即ち、「伊賀青木氏の支配下の服部」に配置し、「彼等の鍛冶職人」の残りは「堺」に廻したとある。
然し、ところが、「室町期の事件」の今回は、前回と違っていて、そもそも「銃」であった事に対して“周囲には事実は公然としていた”としていたのだ。
矢張り、今回も「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して「圧力」を掛けたとある。
室町末期の今回は、この「圧力」は「強力」で要するに「近江と日野」を実力で潰したのだ。
「近江」は、「近江青木氏の支流傍系」の生き残りの地域であり、何らかの因縁はあったと観られが、「日野」に関しては何もない。
然し、彼らの「近江と日野」の「菩提寺・厳浄寺」は同じと成っている。
恐らくは「日野」は「近江」のその後の室町期に何らかの゜関係性・血縁性」を持っていたのであろうが近江の詳細は判らない。
何れにしても「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して掟を破つた為に「圧力」を掛けて潰したのだ。
そもそも、江戸初期前後にも前段で論じた様に、「秀吉の紀州征伐」で「伊勢」に逃げ込んだ「紀州門徒衆」を匿った史実もある。
この時は、「殖産」に密かに従事させたが、「伊勢」が「匿った事」に付いては利害の一致するその後の「紀州藩初代藩主頼宜の黙認」で事は「伊勢」だけでは済んだ。
これには「紀州藩の家臣」と成った「伊勢藤氏の後押し」もあった事で「伊勢」では事は上手く運んだ。
兎も角も、「近江・日野の件」は「伊賀青木氏の香具師・忍者」が事の次第を救った事に成ったのだ。
前段でも触れたが、「伊賀青木氏の香具師」とは、そもそも「露天商の事」で全国を露店商に身を替え乍らで廻りながら、「情報や諜報の活動」を行う「忍者の事」で、各地にある「神明社組織」や「伊勢屋の支店」を通じて廻り、「露天の品」を調達すると共に「伊勢」に情報を送り、又、命令を受けて実行する「青木氏」の「影の集団の事」である。
取り分け、「吉宗」の「江戸向行」で「青木氏」は、江戸に「伊勢屋の店・200」を敷いたが、この「青木氏」を影で護る為に歴史上に出て来る位に活躍し有名に成った。
取り分け、従って「甲賀忍者」とは対抗した事であろう事は判っている。
「紀州藩の青木氏を通じた伊賀忍者」と「幕府の甲賀忍者」とは激しい戦いを裏で繰り広げたのだ。
其処に間に入って「紀州藩」に味方する「伊賀青木氏の香具師の忍者」が活躍したのだ。
「激しい鍔迫り合い」が影で行われた事が記されている。
「甲賀」にも「甲賀青木氏の伊勢の裔系」が存在し、依って「甲賀忍者」も目に見えて直接的には攻撃は出来なかったであろう。
従ってこの様な背景があって「伊勢屋の店・200」を「伊賀青木氏の香具師の忍者」が護ったのである。
「享保期末期の吉宗の裏切り・信濃の件」は当にこの「伊賀青木氏の香具師の忍者」の活躍で情報が齎されて、江戸から伊勢に引き上げる際も「伊賀青木氏の香具師の忍者」が甲賀から護ったとある。)

(注釈 「500の火縄銃の行方の検証」
“「織田氏」とは室町期の「神明社遮断」で「犬猿の仲」”であったが今回は違った。
「三河徳川氏」とは、「額田青木氏の国衆の事」と、その後の「渥美、田原、吉田、豊橋、豊川、豊田、岡崎の開発業と殖産」と、「縦の陸路の保全」と「陸運業の根拠地」と「蒲郡の拠点等」では実に「世話」に成っている。
絶対に「三河国衆・1573年」から、つまり、“「旗本」とのいざこざ”から外れたと云っても、「家康との関係」は記録では「商い」では正常で繋がっていたのだ。
「家康」と云うよりは「三河」と云った方が良いだろう。
「三河国」に「開発業と殖産」を広げた。
結果としては、「三河での商い」は「家康の承認を得る事」に成るのだが両者利得相まって同じ事ではある。
これは「権威保全」から「伊勢の格式を護る事」も然る事乍ら、史実にある様に「本能寺の変の逃亡に関する伊賀者での支援」や、「一言坂や三方ヶ原の貢献」等を含めて、更には江戸初期には直ぐに、“伊勢の事お構いなし”の“「御定め書」”が「伊勢青木氏」に出されている事もあって、これが「伊勢と家康との関係性の証」と成るのだ。
これが何よりの証拠であろう。
紀州藩の家康に信頼されていた「頼宜との関係」や「伊勢藤氏の仕官」や「紀州藩との連携殖産」も証である。
これ等を護る為にも、本来であれば「三河」には”「陸運業や開発業や殖産業」”を始めたのであるが、その「頼宜に繋がる関係性」から云えば、この「銃300丁と銃兵」を先ずは普通は廻すであろうが実際は廻さなかった事が判っている。
恐らくは、確かに「上記の事」もあるが、「天下安定」には“実に優秀な戦略家の家康を見込んでの支援の事”ではあったとは観ているが、上記の通りの資料検証から仮に「松平氏の火縄銃500丁と銃兵」が存在したとしても、「額田青木氏」のものとは「銃の形式・フリントロック改良型」が違っていたのだ。
「徳川氏の火縄銃・厳龍寺銃・マッチロック式」と「青木氏の銃・フリントロック式改良銃」で根本的に異なっている。
この事は「家康への見込み」は其処まででは無かった事に成る。
つまり、歴史的には観て観ると、初代藩主の「頼宜の雑賀衆の扱い」と「伊賀衆の支援」から紀伊山脈に潜んでいた「残存の雑賀衆」のものであった事に成って来るが、史実の流れは違っている。
つまり、これが直接に「江戸幕府」に対してでは無く、“「紀州藩に対する伊勢の行動」”として出たのだ。
何故ならば、これは「家康自身」は「青木氏の氏是」に近い「主観の持主」であったからであろうが、「旗本」とは全く違っていたからだ。
これが「江戸幕府」と「紀州藩」との差に出た。
そして、その「姿勢」は引き継がれ「御三家」でありながらも「明治維新の慶喜の行動」とは全く違う行動を執ったのだ。
それが紀州藩家臣の「陸奥宗光の行動」と成る。
実は、「其の後の事」とは成るが、「信長の本能寺の変」の時も前段で論じた様に「家康逃亡一行の警護衆五人」の中に「伊賀との繋がり」のある「三河国衆の青木氏長三郎」の「家臣・国衆仕官」が居たのだ。
これは史実と成っているこの「所縁」を持って「伊賀者」が支援し、家康は「三河」まで辿り着けたのだ。
「供回り34人」の「警護衆五人」の中の一人が「青木氏・長三郎」であった事で「伊賀との繋がり」で救ったのだ。
従って、「額田青木氏の近代銃の引き上げ」の「代わり」とは云い難いが、「残存雑賀衆の火縄銃500丁と銃兵」を「紀州徳川氏に廻したと云う事」は、「幕府」と隣の「伊勢伊賀との利害」が出たと考えている。恐らくは幕府の命で「甲賀」に睨まれたと考えられる。
問題は、ところがこの「鈴木氏系雑賀衆の火縄銃500」は「三河」へなのか、少し後の「紀州藩」なのかの「時代確定」を表現したものが郷土史以外に読み取る資料は無いのだ。
然し、「郷土史類の研究書」では「本能寺後」に直ぐに後に「鈴木氏系雑賀衆」が山を下りてきている事は史実であるので、これを前提とすれば、「紀州徳川氏に渡った事」、「鈴木氏系雑賀衆」が「紀州徳川氏の500の銃隊・秘匿していた」として組み込まれた事に成る。
そうすると、「紀州藩の雑賀忍者衆」と成った史実は、この「秘匿500の銃隊」であった事に成る。
だから、「明治維新の紀州藩士・陸奥宗光」が、「維新政府」に先駆けて最初に採った処置が、「兵の銃に依るイギリス式軍制式」であった事がこの事を物語るのだ。)

(注釈 「雑賀衆の検証」
では、その「雑賀衆」の“何処の雑賀衆なのか”である。
実は、「雑賀衆」は、「鈴木派」と「土橋派」が先ずあって、前者は紀の川を境に北部側と、後者は南部側があった。
更に、この「鈴木派」は更に二つに分かれていた。
その内の一派は地元でも伝えられている様に紀伊山脈に「火縄銃」を持って逃げ込んだと成っている。
その住んでいた地域も地元でも有名であり、今では「雑賀さん」は多い。
その紀伊山脈には先ず「紀州藩の忍者衆」には、前段でも論じた様に、別に「平安期の落人・京平家」の山岳部で生きて来た「平家郷士衆・龍神衆・十津川衆・北山衆」も住んでいたし、現在も住んでいる。
「紀伊山脈」はそもそもその様な「歴史的な事件」の「歴史的な巣窟の山」であり、今でも「・・・村」と云えば、「奈良期からの族の巣窟」と云えるのだ。
元々、江戸期前・奈良期からの「紀州」は「惣国」と呼ばれ、「惣国衆」と云われ有名で、伊勢の伊賀と同じで何処の藩にも所属せず、決して「家臣など」に成らなかったのだ。
その中でも、「鈴木氏系の子孫の雑賀衆」は有名な“「惣国者」”と云われていた。
ところが、江戸初期に「紀州藩の准家臣」と成ったのだ。
この事は「1000年以上の霹靂」であるのだ。
先ず、「信長」に完全に潰された「殲滅の根来衆」と共にこの滅亡した「雑賀衆」であったが、ところが遺った「雑賀衆」には、それには「江戸幕府に仕えた雑賀衆銃隊・a」と、「紀州藩に仕えた雑賀忍者衆・b」があったのだ。
この「a」と「b」が何処が違うのかである。
先ず、「b」が「紀伊山脈」に逃げ込んだ「鈴木氏本筋系の海南の雑賀衆」で、次の「a」は「鈴木氏系の分家筋の和歌山の雑賀衆」と云える。
「a」が「信長の掃討」でも一時的に山に逃げ込んだ生き延びた「生き残り」である。
「b」が元々、「藤白神社の宮司」であった「鈴木氏」の「発祥の地付近・海南市藤白」に住み、「鈴木氏の伝統」を護りながらそれ程に戦闘的ではない「亀井氏や日高氏」らも含む一族であって、「雑賀衆のと党首」であった「鈴木孫一」に引きずられて「雑賀衆」で括られた族であった。
この「b」は「熊野神社の宮司六氏」と繋がる族であるので、それ故に「紀伊山脈・熊野山系」で生き抜く事が出来たのだ。
念の為に、これ等の判断に大きく関わる「鈴木氏」に付いて論じて置く。
そもそも「鈴木氏発祥」は、「熊野詣」で「後醍醐天皇」が、この「熊野権現の第一の藤白神社・熊野古道」の「第一の鳥居・社領の端」にある「藤白神社」に到達して宿泊し、歌会を催した。
この時、「宮司」は「日高氏・熊野権現宮司六氏の一つ」で神社の直ぐ横を流れる「谷川・紫川」の歌を詠んだ。
この歌の出来が良く歌会の一位を獲得し、天皇から「鈴木氏の賜姓」を授かった。
ところが「宮司日高氏」には子が無く、近隣の農家の氏子の家から「養子・三男」を迎えてこの「鈴木氏」を継承させた。
この後、「日高氏の鈴木氏」が「宮司」と成って122代継承したが、平安期に平家に追われて「弁慶」と共に「義経」は、この「熊野神社」に保護を求める為にこの「熊野神社の藤白神社」に立ち寄りここで「義経」は逗留した。
「弁慶」は「日高の宮司日高氏の出自」であった。
この「所縁」で「熊野権現」に「義経保護」を求めて「熊野・1月」に旅に出た。
この間、「神社の邸・鈴木屋敷」で「養子・鈴木氏」と「養子の弟の六男」とで「身の回りの面倒」を看た。
義経に魅了された「二人・三男と六男」は家臣にしてもらった。
その血縁で繋がる神社の氏人衆が鈴木氏衆を形成した。
「六男」は「義経」から「神社」の境内の真中にある「井戸の青石蓋の形」が亀の形に似ていた事から「亀井氏の賜姓」を授かった。
ところが、義経保護は熊野神社から断られた。
そこで、熊野から戻つた「弁慶」と共にこの「鈴木三郎と亀井六郎」の兄弟は鈴木氏子孫を置いて「義経」と共に「北陸の旅・平泉」と成った。
其の後、源平合戦で義経は活躍し平家を破つたが兄頼朝に疎んじられ、再び奥州の逃亡と成るのである。
この「紀州藤白」の「二人の子孫」と「鈴木氏氏人衆」が爆発的な広がりみせ、最後は、戦国の世を生き抜く為に「鈴木孫一」が「紀州惣国衆・土豪集団」を纏め「雑賀衆」を結成する。
従って、この「雑賀衆の鈴木派」には、紀伊山脈から紀の川南側までに「本家と分家筋尊属派」と「支流族卑属派」に分かれていたのだ。
故に、「雑賀衆」の窮した「最後の行動」は、先ずこの二派に分かれ、更には本家派と分家派の二派に分かれたのだ。
「鈴木派」が急激に子孫を拡大させたのは、上記した様にその「出自」にあり、「氏子の農家・現在の姓は秘匿・A」の周囲の繋がりがあり、Aは亀井氏の様に兄弟姉妹親戚縁者の「氏人の幅広い血縁関係」があり、これらが「鈴木氏と亀井氏で繋がつた由緒ある姓の賜姓鈴木氏である。
この「爆発的な血縁の輪」は当然に全国に「鈴木氏」で広がる事に成ったのだ。
そもそも、その「伝統継承の概念の差」を基本に分かれたと考えられる。
この事は、この「紀伊山脈」の村々には「鈴木氏系の姓」と「惣国衆の雑賀の姓」が遺つていないかで判る。
つまり、史実は、「三好勢に味方した雑賀衆・鈴木氏系・a」と「足利氏を押した信長勢に味方した雑賀衆・南郷と宮郷・土橋系・b」がいた。
結局は、「雑賀衆同士」で何度も戦い、「土橋氏系・b」と「鈴木氏系・a」は何度も勝負を分け合い戦ったが、最後にはこの「鈴木氏系雑賀」も潰された経緯を持つのだ。
“「雑賀衆」”と呼ばれ乍らも、歴史的に観ればその体を成していなかったのだ。
一体化して「雑賀衆」と呼称されていたのは「長篠の戦いの銃の傭兵軍団」の期間だけであった。
では、そこで疑問なのは、“「雑賀衆」の全てが「銃」を持っていたか”と云えば、そうでは無かったのだ。
つまり、「銃を持たない雑賀衆」が他に「南郷と宮郷域・紀の川の南」に居た事に成るのだ。
そもそも、「雑賀衆」とは当に「惣国土豪」が住む地域で、「五郷衆・十ケ郷、中郷、雑賀郷、南郷、宮郷」に住む土豪の事である。
前2つは紀の川沿いの北側、後3つは紀の川沿いの南側にあった。
現在もある。
前2つは「土橋派」、後3つは「鈴木派」である。
元々、後3つは上記した様に「鈴木氏発祥の地域」である。
現在の地元でも矢張り、“雑賀”と云えば後3つの事である。
現在も、“雑賀崎の地名・雑賀崎港”として遺っている。
前2つは“「雑賀」”とは現在でも云わない。
さて、この「銃の持たない雑賀衆」は、「雑賀郷の内部」の「派」にあり、上記した熊野権現の“藤白地区の鈴木氏発祥地域の派”に成るのだ。
これを証明するのが、現地に現在でもこの藤白地区に「雑賀姓」が現在も遺されているかにあり、実は確かに遺されているのだ。
そもそも、“雑賀”は「鈴木孫一」が住んでいた「雑賀郷」を採って「土豪惣国衆団の呼称」としたのだ。
「雑賀郷」は「紀の川」を渡った直ぐ西側の「海沿いの地域・漁村」である。
ここに「鈴木孫一」は住んでいた事に成るとすると、「藤白鈴木派の本家筋」の者では無かったと云う事に成る。
その意味で「鈴木氏」を「統制する力」は弱かった事に成る。
要するに、単なる「統治力」が前提と成っていた事に成る。
つまり、その力は一時は「鈴木孫一の雑賀党の支配力」が「紀の川」を超えて「北側域・前2つ・土橋派」まで及んでいた事を示すものである。
上記した様に、従って、この「鈴木派」と「土橋派」は数え切れない程に何度も敵味方に成って戦って「主導権を奪い合う集団」であったのだ。
この意味からすると、「雑賀族・雑賀党・雑賀衆」と云えるのかである。
そもそも、先ず、「血縁性」がないので「族」とは云えないだろうし,「概念」を統一している「衆」とも云えず、「利害」を一致させる「党」ではないか。
故に、地元では「雑賀党」と呼ばれているのだ。
そして、「銃の持たない集団」とも成れば、「由緒ある伝統」を重んじる「藤白の鈴木氏派」と成る。
この「銃の持たない雑賀衆・b・鈴木派の藤白派」は、「信長―秀吉」後に「紀伊山脈」に逃げ込んで姿を替えて「原士化」して生き残ったのだ。
中には、「藤白神社の氏子」の侭で遺った「藤白派」と、山に逃げ込んだ「藤白派」と連携をしていたとする説もある。
確かに、この県道の「山道R18」と「山道R424」の村々には、「藤白神社」の「鈴木氏」の出自元の「氏子の裔姓」が現在も多くあるし、そもそも現在もこの「藤白神社の宮司」はこの村から赴任した姓の人・鈴木氏系である。
この様な複雑な形態を持つ「雑賀衆の鈴木派」であったが、その後の「紀州藩の雑賀衆忍者」に成ったのである。
「江戸幕府の銃隊に成った雑賀衆・紀の川南域・2派の城域・和歌山域」と、「紀州藩の忍者と成った雑賀衆・海南域2派の藤白派」は、元々、「雑賀衆」の中でも「系列と定住地」が違っていたのである。
これは同時にこの「鈴木派」の中でも“「出自元」が違うと云う事”なのである。
これは「3つの家紋」で見分けが着くのである。
「前者」が「銃」を持ち、「後者」は「銃を持つ派」と「持たない派」があったと云う事で「2派」に成ったと云う事である。
「平安期の鈴木氏」の「全国の活動」と、上記の「雑賀衆の室町期の活動」と、「江戸期の活動」とに分かれる。
平安期は「鈴木一族」は集団で、「熊野詣の宣伝」を名目に「全国行脚」をして「各地の情報」を集めていて、「忍者の原型」を構築していた事は有名である。
中には「紀伊山脈の長峰山」の様な「険しい山道」で修行して「役行者の姿」で全国旅をしたとしていて、元々、その「忍者の原型」と「役行者の原型」であったとする説があるがこれは確かであろう。)

(注釈 「紀州雑賀忍者と伊勢伊賀忍者」
この「左右の忍者衆」による「勢力争い」が無かったのかである。
上記の注釈の通り、「紀州雑賀忍者・紀州藩」が「紀の川の紀北域・伊勢神宮の最後の遷宮社の日前宮社の宮前地区・南地区・中地区の郷」に居て、「紀伊山脈」を境にして伊勢側の全く「反対の位置・100k・北東30度」に「伊勢伊賀忍者・幕府」が居たのだ。
つまり、「紀伊山脈北部域の山陵」を隔てて左右に「忍者勢力」が活躍していた事に成る。
そして、「紀伊山脈の南部域」には「平家の原士衆」が勢力圏としていた事に成る。
この「南部域の左・西域」は「紀州藩」が抑え、「北部域の左・西域」も「紀州藩」が抑えていた事に成る。
右域は「伊勢伊賀忍者・幕府」であった。
そして、前段でも論じた様に「伊勢青木氏」は古来よりこの「伊賀との関係」を深く持っていた。
更に、これも前段で論じた様に、「京平家の落人」は「桓武平家」であり、「伊勢青木氏との関係」を古来より持っていた。
「伊賀」は、この「桓武平家の里・桓武天皇の母・光仁天皇の妃高野新笠の里」である。
だから、「紀伊山脈南部域」に住んでいた「平家落人の郷士衆」は「北部伊賀衆」との「繋がり・絆」もあったのだ。
江戸初期の殖産には大いに貢献した。
それ故に、「江戸期前の紀伊半島」も「江戸期の紀伊半島」も「京平家の落人」を基軸として「繋がり」を持っていて、一声出せば「彼等の三つ衆」の「郷士衆・忍者衆・原士衆」は「伊勢シンジケート」して動いたのである。
要するに、北部の左に「雑賀」、右に「伊賀」、南部の左に「平家落人郷士」、右には「伊勢郷士」、そして最南端は「熊野六宮司勢力」で「惣国」を固めていたのだ。
それには、この「五つの惣国衆」を固めていたのは、矢張り、「伊勢青木氏の財政的支援」があったのだ。
前段でも論じた様に、故に、「近江職人を匿った事」は当然の事して、「京平家の落人の支援」や「信長の伊賀攻めの救出」や「紀州門徒衆を匿った事」や、最後は「明治初期に掛けての伊勢騒動を支援した事」等を挙げれば暇がない位である。
「紀伊半島」は全てこの「五つの何らかの絆」で繋がっていたのだ。)

詳細の検証は更に次段に続く。


「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」に続く。


  [No.381] Re:「青木氏の伝統 56−4」−青木氏の歴史観 29−4」
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/04/30(Thu) 15:13:57


「青木氏の伝統 56−3」−「青木氏の歴史観−29−3」の末尾
>
> (注釈 「紀州雑賀忍者と伊勢伊賀忍者」
> この「左右の忍者衆」による「勢力争い」が無かったのかである。
> 上記の注釈の通り、「紀州雑賀忍者・紀州藩」が「紀の川の紀北域・伊勢神宮の最後の遷宮社の日前宮社の宮前地区・南地区・中地区の郷」に居て、「紀伊山脈」を境にして伊勢側の全く「反対の位置・100k・北東30度」に「伊勢伊賀忍者・幕府」が居たのだ。
> つまり、「紀伊山脈北部域の山陵」を隔てて左右に「忍者勢力」が活躍していた事に成る。
> そして、「紀伊山脈の南部域」には「平家の原士衆」が勢力圏としていた事に成る。
> この「南部域の左・西域」は「紀州藩」が抑え、「北部域の左・西域」も「紀州藩」が抑えていた事に成る。
> 右域は「伊勢伊賀忍者・幕府」であった。
> そして、前段でも論じた様に「伊勢青木氏」は古来よりこの「伊賀との関係」を深く持っていた。
> 更に、これも前段で論じた様に、「京平家の落人」は「桓武平家」であり、「伊勢青木氏との関係」を古来より持っていた。
> 「伊賀」は、この「桓武平家の里・桓武天皇の母・光仁天皇の妃高野新笠の里」である。
> だから、「紀伊山脈南部域」に住んでいた「平家落人の郷士衆」は「北部伊賀衆」との「繋がり・絆」もあったのだ。
> 江戸初期の殖産には大いに貢献した。
> それ故に、「江戸期前の紀伊半島」も「江戸期の紀伊半島」も「京平家の落人」を基軸として「繋がり」を持っていて、一声出せば「彼等の三つ衆」の「郷士衆・忍者衆・原士衆」は「伊勢シンジケート」して動いたのである。
> 要するに、北部の左に「雑賀」、右に「伊賀」、南部の左に「平家落人郷士」、右には「伊勢郷士」、そして最南端は「熊野六宮司勢力」で「惣国」を固めていたのだ。
> それには、この「五つの惣国衆」を固めていたのは、矢張り、「伊勢青木氏の財政的支援」があったのだ。
> 前段でも論じた様に、故に、「近江職人を匿った事」は当然の事して、「京平家の落人の支援」や「信長の伊賀攻めの救出」や「紀州門徒衆を匿った事」や、最後は「明治初期に掛けての伊勢騒動を支援した事」等を挙げれば暇がない位である。
> 「紀伊半島」は全てこの「五つの何らかの絆」で繋がっていたのだ。)
>
> 詳細の検証は更に次段に続く。
>


「青木氏の伝統 56−4」−「青木氏の歴史観−29−4」

「前段56−3」で「注釈」が多く続いて「歴史の経緯」は敢えて前後しているが基に戻す。
前段で「側面的な詳細論・経緯」があって本論で論じ切れないのでその部分の詳細に付いて明らかにする「不詳文の事」にある。
そこで先ず、「国衆」としての「準備期間(前期 後期)」の事である。
前期の事は前段でも論じたが、その「後半の事」である。

(注釈 「国衆南下の後半」
改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a−1の一部)」は滅亡した。
長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a−1)と(a−2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a−2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」の事であった。
そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と額田青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団・銃」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺いこれを実行した。
要するに、これが350年間の「歴史的な集結」であった。
取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があった地域であった。
この戦略は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く、「幅の狭い縦の陸路」の“「直線的な勢力圏の構築」”に限定していたのであった。
ここには、当時にあったこの付近には、土豪等が抑える近道の“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
これは「一般道」では無く、「一定の物資輸送」や「兵の移動路」の様な「土豪」が抑えて安全を保障する「商業道の物・近道」であったらしい。
三河の海から美濃を通じて信濃に通ずる“「商業通路」”であった。
「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「経済力」と「戦力差」に依って「戦い」にはそもそも成らなかったのではないかと観られる。
寧ろ、「党の様な軽い連合体の様な形」で「合力を申し合わせていた事」が書かれている。
彼らの「額田青木氏の国衆」は、元々、「別の面」での「美濃と信濃路間」の「一種のシンジケート・党」であった。
その近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事に付いて充分に知っていたらしい。
何せ元々、「原士」として活躍し武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であった。
この「額田の青木氏の国衆」には、背後には「伊勢と信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えているのだ。
従って、この事を知っていたこの「商業通路」の「土豪集団等」は戦わなかった。
寧ろ、彼らに執っては近づいていた方が全ての面で利得であった。
依って、比較的に簡単に東三河の山際にあったこの「商業道路の縦の陸路1」は構築出来た事が判っている。
もし、構築するのに戦い等で苦労していれば何らかの形で「青木氏の資料」に記録されている筈であるが何も発見されない。
明らかに「記録の通り」である事が判る。)

(注釈 「「商業通路の検証」
現在でも「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての古路が遺されている。
これには実は面白い実話がある。
前段でも論じた様に、室町時代に「秀吉」は奥州結城氏・永嶋氏等の北陸勢を攻めた時、これを護るために「背後」を「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した事が記録に遺っている。
この時、「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしてが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められるし、「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする実話の記録が遺されている。
この様に、この頃、“「商業道」”と成るものが周囲の土豪衆に依って密かに造られていたのである。
この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
この様な商業道は各地にあって土豪等に依って抑えられていたし、「通行料」を払う事で安全に使用できたのだ。
この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
この「縦の陸路1」の「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
後は元住んでいた「山間部・R152・Rは2ルートあった様だ」から「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから問題は無いと観察できた。
そこに「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こり、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こった。
「神明社」を含む「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始された。
そこで「伊勢」は決断したのである。
これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、「商業通路」の「利権を持つ東三河の土豪連」は「信長方」に付かなかった為に、何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にして、兎も角も、「縦の陸路1」で再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ「東三河の山際」の「商業通路」は信濃―三河間は通れたらしい。
確かに「神明社の陸の情報網」は消されたが「南の渥美湾」に到達できる様に成ったのだ。
元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させた。
美濃国衆に留まらずに「南下する為の国衆の結成」であった。
そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa−2」と「血縁性を持つ官僚集団」を渥美半島に差し向けた。
そして「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
「渥美」には、経緯としてはそもそも、「情報網の元」と成っていた「奈良期の古来より神明社」があり、伊勢より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当早期に先ず「額田青木氏等」の「国衆の家族」を移し、その後に「国衆」が移動した事に成ったのだ。
然し、国衆として南下して観ると、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とには違う事が起こった。
この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければならなかった事が判ったのだ。
この事が記されている。
そこには明らかに次の事が違っていたとある。
この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a−1)と(a−2)の一部の族」である。
ところが、二つ記されている資料からの観ると、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、次の「二つの説」が有って記録的にははっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東三河の端の「商業通路」では無く、「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
筆者はこれを「縦の陸路2」と呼んでいる。
つまり、「東三河の商業道の縦の陸路1」と「額田から蒲郡までの縦の陸路2」があった事に成る。
この「縦の陸路2」は「商業道」では無かったらしい。
要するに、この「二つの縦の陸路」のこの「期間差」がどの程度であったかである。
この「信濃の青木村」から塩尻を経由し、縦の「ルート2上」には直線状に「青木村」もあり「神明社」もあり「清光院」もあり現在もある。
この歴史を調べれば判るが、先ずこの「神明社」は奈良期からである。
この「縦の陸路2」の「神明社」には「古来の神明社の構え」が遺されているのだ。
この「神明社」が奈良期頃に存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、同時期に近いと考えられる。
青木の地名も遺され、現在も岡崎に村もあるのだ。
何故ならば、この「神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成って遺されている。
この事から、「神明社」と「青木」は証拠として確定できる。
然し、「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に、同時期とは確定できないが、「平安期末期か鎌倉期」である事には間違いはない。
相当な前から住んでいた事に成る。
何故、「蒲郡」かに付いては何も物語るものはないが、何か考えられるとしたら「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものが考えられるが判らない。
「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が奈良期からここに定住していた筈である。
そうすると、この状況からも同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東三河の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
そして、「縦の陸路2」の方は「額田青木氏」が移動し、依って、この「蒲郡に移動した事」に成ったのだ。
「縦の陸路2」の「岡崎の青木村」に定住しなかったかは恐らくは初期の目的は「渥美湾の制海権」の確保にあった事から「蒲郡」としたと成るだろう。
その証拠に、「蒲郡」はこの「縦の陸路2の岡崎の青木村」とは直線で当に寸分も違わない「真北」に位置するのだ。
そして、ここは古来より「石切り場の運び出し港」なのである。
故に、此処を伊勢水軍の大船が入る事が出来る「伊勢と伊川津と信濃との連絡事務所」として選んだのだ。
さて、この前提で、その後の「裔系の統一」が次の様であった。
そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ている。
前者が「a−1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
後者が「前者の血縁族の裔系」の「a−2族」とした。
前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が一部に認められる。
従って、この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
以上と成る。
そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)

(注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
其の後に、「美濃の南下国衆の二氏:(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏等の四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだ。
然し、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次の吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
その結果がここに出たのである。
それを物語る記録があって、この事から、一つは、「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の行の表現と成っている。
どうも同時に、これに依ると「三方ヶ原の戦い後」に直ちに一斉に離れた様では無かったらしい。
「多少のタイムラグA」があったと観える。
その「タイムラグA」は、「地元3土豪・国衆・四国」との間には「伊川津七党の絆の問題」があった事から、この「タイムラグA」はこの「時間差」によるものでは無いかと観ている。
つまり「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」の中で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事からそうすると「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて、「土豪間の話し合い・本家と分家の路線問題」に決着が着かなかった事が「行」から読み取れる。
「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
それは、一つは「伊川津の土豪・4氏」を陸運業に引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏からの異論」があったと観ている。
それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に「4氏」である。
結成当初の初期は「6土豪」であったが抜けて行って「4土豪」に成り、最後は「3土豪」と成った。
然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
“1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
この「西郷氏」とには「戦い」にも参加しなかった事が判るが、「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
これの「話し合い」に時間が掛かったのであろう。
結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)

(注釈 「七党の脱党の西郷氏」
「伊川津七党」から逸早く抜けた事に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に入り後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、一部が「三河の伊川津」に入った族である。
又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた「島津氏」である。
この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
要するに、何故に「不毛の地」の「伊川津」に入り込んだかは判らないが、この「国衆」の一族である。
筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は、非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も境遇は「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い・大久保氏」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等と「伊川津青木氏四家」の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
だから、「二つの条件」を下げて「伊勢・蒲郡」は納得をしたのである。
これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得をしたのである。
以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つの土豪分家は独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は何処でも未だ盗賊山賊等で危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、ところが「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、何はともあれ「伊川津四家の青木氏の陸運」は元は「美濃忍者の原士」でもあった。
それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
これには記録があって、伊川津の陸運業で勢力圏の宿場まで着いたが、そこで差配頭が宿で次の宿場までの安全の為の密かな話し合いをしていたとあり、この様な形で北陸までの経路を造り上げていたらしい。
その事に依るのか「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏等四家」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
“二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
つまり、この事から意味する処は、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
つまり、今で云うファンドのグループ化であろう。
ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、三方ヶ原後に「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
この「二つの疑問」を解決していない。
実は上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に「出自元」として大きく強く関わっていたからである。
つまり、奈良期の「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」を地名として名残を遺した事なのである。
元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「青木氏族」は「四家」を構成していた。
「蒲郡青木氏」の「一部」は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
其の後の伝承では、この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されているのだ。
そもそも「青木氏族」には、“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いていた事は確実である。
江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて、この事も「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い・偵察隊」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に表に出ていて、記録にも明確に遺つている。
その為にも「蒲郡」から一部が引き上げて、残りの者で「事務所程度の存在」としていた事も判っている。
要するに経緯としては「伊川津の青木氏」は「伊勢青木氏の初期の目的達成」が成され、「伊勢屋の商いの延長」として「陸運業」と成った事で、「蒲郡」と連絡を取りながら「商い」を続けたのだ。
そして、「伊豆までの生命線」を「陸と船」で復元したのだ。)

(注釈 「二つの縦の陸路の創設」
では、先ず前段でも論じたがはっきり云える事は、上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
注釈すべきは、「1510年〜1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・試作銃保持」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
この前提で論を進める。
従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆」としての成った「初期の目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より「三河」そのものに“「国衆」”として遺る理由は何も無かったと云えるのだ。
そもそも、何れも「(a−1)(a−2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、これは「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景の保護下」に入る事が出来る所以でもあるのだ。
然し、ところが「a−1の裔系」では無く「a−2の裔系」である以上は、「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“「渥美四家」”は、“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
必然的に「蒲郡の額田青木氏」には、その「初期の目的・縦の陸路1」が一応は達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿の膝下}に先ずは帰る事になるだろう。
つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「初期の目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て上記の様に一部が先ずは帰る事にはなるだろう。
だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
ところが再び、其の後に「陸運業」を興し、先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的に「勢力地・縦の陸路2・南下時の通路」を「独自の商業道」として改めて確実に安全な道として構築し直した事に成ろう。
これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った「間の無い頃」の「1560年頃〜1565年迄」であった事に成る。
これが「東の山際の商業陸路1」の後に成るのだ。
そうすると「東の山際の商業道・縦の陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた「陸路」であり、それを「東三河国衆」として「無許可で使える短絡路」として設定したのであろう。
東からは金銭で造り上げた既存の「商業道・縦の陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2・南下進軍路」を少し遅れて設定した事に成る。
これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
但し、この「縦の陸路2」は、調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地・岡崎」で、「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であって、これを改めて強化して繋いだとされているのだ。
「伊川津の田原の古跡神明社」と同じで古跡神明社は田原に定住地は豊橋にあったと同じ様に岡崎の古跡神明社と青木村と蒲郡にも僅かながらの定住地としていた事に成る。
それは「大船」が着く港に奈良期から別に居を構えていた事に成る。
「神明社」のある「岡崎の青木村」も「田原の青木村」も「神職の生活」を支援する伊勢からの港が必要であったと云う事に成る。
故に、その史実を承知していれば「南下後・1560年の頃」に直ぐに出来る仕草であった様だ。
恐らくは、これは当初からの「伊勢の情報と作戦・復元」であったと考えられる。
そして、この旧来からの「二つの縦の陸路の構築」は「国衆の銃と財力の威力」に保障されたものであったろう。
そうすると「初期の目的」が達成されていたのだ。
だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は、完全では無いが最早無くなっていた筈であるが、然し、其の後も「12年間」も続けた。
これは何故なのか理解しにくい処である。
その一つは、未だ「戦乱」は終わっていなく不安定で何時「二つの陸路」が崩されるかも知れないと云う恐れがあった。
従って、これには「松平氏と織田氏への牽制」にあったのだ。
「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
「商業道の縦の陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
これには、両者に対する牽制として、“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せ着けて置く必要があったのだ。
そうする事で「戦国の世」の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れている事に成るのだ。
さて、それに就いてであるが、“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった事が記されている。
それを「裏打ち」するだけのもっと“大きい背景・「秀郷一門の背景」”が必要であってそれには問題があった。
ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らには、一応、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
主に「額田青木氏(a−1)と、(a−2)」の中には、「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」が組み込まれていたのであった。
この事を「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」にただ入っていただけの事に結果として観えた事に成っていたのであろう。
これを「伊川津四家として見做す事」に不満をもっていた事が「伊勢の資料の行」から読み取れる。
要するに、「土豪3氏」は「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
然し、一方では「伊川津青木氏四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
ここに「地元の土豪勢力」との差が出ていた事に成る。
この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」にあって「揺らぎ」が生まれたのだ。
この「行の事」から鑑みれば、「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
「伊川津青木氏四家」だけでは信用せずに「伊川津七党」だけで構築していた訳では無く「影の一党・秀郷一門の背景」」を後ろに描いていた事に成る。
何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東から移動してきた「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に充分に承知していた筈である。
そもそも「秀郷一門の背景」は、室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は、元の関東に勢力圏は押し戻されたのだ。
桃山時代まで「秀郷一門の背景」は関東域でも未だ厳然として維持していた。
この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事にも成るし、「秀吉」に依って関東に移封された徳川氏が地元の「藤原朝臣」を名乗っていた事でも判る。
「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
それ故に、「近代銃」を持っていても未だその「銃の感覚」が強くなく、「軍力に頼る感覚」が勝り「伊川津七党」を組んでも若干心もとないものを持っていた事に成ろう。
この様に「細かい歴史観」としては、「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に「何某かの魅力」を感じていた事に成る。
そもそもこの事は「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって、無理のない処かも知れない。
更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのもこれまた「仕方のない事」かも知れない。
寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」等は時代が進んだ事に依って”「国衆」”と云う力のある誰でもが立身出世できるものが戦乱の世の中に新たに生まれ、彼等から観れば、従って「官僚族(bとc)」を「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類する「諡号族」である。
「官僚族(bとc)」側は相当に下と観ていただろう。
平安期は彼等土豪は「元官僚族類の支配下」にあった「庶民」であった。
全国的に観れば、「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この「渥美半島の室町期後半」の最後まで生き残った「4土豪」の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば全く下の農民であった。
然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として、一時期は「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
ところがこれは「家紋類」にも現れるが、家紋詐称は明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には、「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らない。
この事を前提に「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類系」が多い事からでも判る。
「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
つまり、似せていると云う事だ。
因みに、片喰紋類には「125紋」あり、州浜紋類には「43紋」もあるのだ。
「三河」に関わる「3土豪の家紋」は、この中には無く、あるのは「渥美半島の田原藩主」の「大久保氏」の片喰紋」と、「東三河の酒井氏」の「酒井片喰紋」での二つであり、恐らくはこの「3土豪」のものは、この二つに類似し「大久保片喰系の類似紋類」と、もう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。江戸期初期に合わして類似紋にしたと云うことである。
これは「国印状取得の為の搾取の疑い」は充分にあるが、元よりの土豪族の「本多氏の片喰紋類」もある。
何れも元の「秀郷流一門の家紋類系」の固有のものなのであるのだ。
「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し系譜搾取の為に「類似紋を使う事」を幕府から暗黙の中で黙認されたと考えられる。
尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門・青木氏系」に従って「陸奥」から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
鎌倉期に秀郷一門の勢力の「西への伸長」にともない「関東屋形」として「三河域」に一部の「支流子孫・卑属」を史実として遺したものである。
江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が異なり、「分家筋」に執っては“「一族から抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が「得策」であると考えていたのであろう。
現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に進んで入って行った事」でも判る。
この様に「伊川津青木氏四家」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったので、この一点も気にしたのでは無いか。
現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
これはこの「開発業」を受け入れたのは「秀郷流一門の背景」が地元に色濃く出て来た証拠でもある。
ところが「分家筋」は「読み」の通り相当に後に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河域にも「広げられる地盤」があった事に成る。
「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は「関東屋形」としてリードし一門に貢献したのである。
「永嶋氏」は四国の徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
そこで,例として挙げると「牧野氏の出自説」には、大まかには二説あり、共に共通点は四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいている。
然し、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
「前者・イ」は、「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
「後者・ロ」は、「阿波」から出て来て「乱の功績」で「三河宝飯郡」の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元はこれも「牧野」では無かった事に成る。
従って、何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違差にある。
「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「姓」を持てば「家紋」を持つ事に成る。
この「家紋」を持っていないか、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
そこで「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、「彼等・牧野氏」が江戸期に「三河の豊橋」に「讃岐神社」を造っている事から、「讃岐」から一度は「阿波」に移り、その後に「三河」に入つた「国衆団」であったとも考えている。
そもそも、「国衆」とは、弱い地域に移動しながらそこを略幕して住み着き土豪と成り、「うだつ」が上がらなければ、又別の地域に移動して行く武力集団で必ずしも土着の土豪と云う事ではない。
「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて疑問である。
現実に乱世ではこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
室町期末期の国衆の殆どはこのタイプであった。
「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、そもそも各地に分布している「20に近い牧野一族の家紋」がそもそも全く統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも全く無いのだ。
明らかに「国印状発行と系譜」には、武士と成る以上は何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は「阿波の農民」であった事」に成る。
前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は、「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
少なくとも「其処の民」であったのであろう。
それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
それによれば「片喰・州浜の家紋類」の「江戸初期頃の物」と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a−2)の族」の一部が、「(a−1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から伊川津では神明社の「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a−1族の裔」は兎も角も、「a−2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
然し、「南下国衆」として「a−1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a−2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ「伊勢の裔系」である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗の寺・匿名」としてある。
此処には、「18の真宗の寺」があって、その内の二つと観られる。
この寺から「真南1kの所」に「真宗の西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって、「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ている。
これは当時は、「草・しき」で以て表す「官僚族の格式を表す仕来り」、或いは「掟」であったのだ。
これを観る事で、「階級や属姓」等を簡単に判別できる仕組みであったのだ。
元々、この「官僚族の殆ど」は奈良期の「中国からの渡来人」で構成されていて約8割を占めていて後漢等から持ち込まれた「官僚の仕組み」である。
「日本書紀」にもこの事が書かれていて、「官僚族が知識を多く持つ渡来人」で占められている事に「天武天皇」は憂いていて、制度を造って「倭人の官僚族」を育てる様に命じている。
これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋・草」として扱われ、次第にそれが「家紋」と成って行ったのだ。
この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」には、この「草・しき」による“「判別紋」”を持っていたのである。
これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
全体では「440の判別紋」がある。
これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は「2寺」存在するのだ。
奈良期では「五都計画」の一つであった事から、朝廷から派遣され勢井治安等を管理する「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
中位格式以上は「都に帰る事・遙任制度」に成っていた。
この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
「墓所の家紋」から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)

(注釈 「3土豪の不毛の地の環境」
「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」のは内の五都の美濃に派遣されていた者らは確かに「伊勢裔系」の「保護下に入っていた事」は判るが、此処で多少の疑問が残る。
それは、江戸期には「三河の松平氏」、つまり、「幕府の徳川氏」は彼等3氏の本家筋を「准家臣扱い」から「譜代家臣」として最終は扱った。
この「保護下に入っていた最終の三氏」は、“一体誰なのか”に成る。
これを確認調査した。
「渥美の定住地」の伊川津域範囲、「家紋と墓所と宗派」とを細かく調べた。
何を導き出そうとしていたかと云うと、「本家、分家、傍系、支流の関係」である。
この「渥美湾の範囲」で「地形土壌」から、先ずその「土壌」が根本と成り、それがどれだけの家臣等を養えるかである。
調べると成ると、江戸期の資料と成り「江戸期の資料」には搾取偏纂が必ず伴うが、この「搾取のエラー」を取り除くには、生きて行く為に必要とする「絶対条件」の「地形土壌」で検証する必要がある。
これ以上は絶対と成り得る「人の糧」は得られないからである。
1説では、江戸初期には「田原藩と大久保氏」でも判るが、「12000石とする説」もあるが、これは実質無理であろう。
精々、「5000石以内・1石時代」であろう。
この「12000石」は、この「三土豪」を「国衆」から「准家臣」、そして“譜代までに取り立てる為”に仕立てた「虚偽の石高」であろう。
探訪から「古来の地形地質」から、ここは「真砂の多い土壌」であって、花崗岩の土壌は米は不作である。
実質は、「漁獲等の産物」を加えた「合算石高」であって、「米高」は「5000石以内」であるだろう。
前段でも論じた「伊川津四家の人数」は「1500人程度・蒲郡500人」の様に、「1石1人/年の原則」から「伊川津青木氏四氏・1500石最低/5000石」であり、これを「伊勢からの支援」で「糧」は成り立っていた事に成る。
ここに、元々は「阿波や相模や越後」から入った「国衆」があって、そこに「4氏・最大6氏」が入った経緯である。
その「6土豪の族人数・約6000石最低」を加えれば、「計7500石/5000石」ではその「差1500石」は明らかに足りない。
ここでは「渥美と伊川津と田原と吉田域・1500石」と「6土豪分」では足りない上に、更に「豊橋と豊川の青木氏・800石」が必要で、これで「差2300石分」が不足し生きて行くには無理である。
総合結果は「7500石/5000」と成り、精々、「本家位の人数」に限る事には成る。
「子孫拡大原理」の「4nの2乗の原理」から観ても、「分家、傍系、支流」が「武士」として生きて行くには到底難しい。
現実に、最終にはこの「3土豪・元」と成り得たが、これ等は元からの「定住民・原住民」では無かった。
四国や関東から立身出世を夢見て、無理に“弱い地域処”に押し寄せて来た各地からの「農民族で構成された国衆」であった。
それ故に、恐らくは室町期初期には生きて行く為の争いが史実の通り長い間この渥美半島域で起こったのだ。
最終的に遺った「土豪3氏」の代表の一つが「牧野氏」であって、この「牧野村」に入って横領して「牧野氏」を名乗ったのではあるが、同然に争いに勝った「戸田氏」も「鎌倉期信濃大河内村」より「国衆」として「尾張国海部郡戸田村」に移動した来た集団であったが、上記した様にこの中部域は全国各地、主に「5地域・阿波や越後や相模や信濃や美濃」に一時的に分散して流れ込み、そこから、又更にこの中から、そもそも「脆弱な渥美」に「国衆」として流れ込んで来た族である。
東三河域のこの「地域・宝飯・豊川、渥美・豊橋、八名・豊橋」に武力を以て「土豪」として割り込み住み着いたものである。
そもそも、「国衆と成った土豪」と「青木氏四家の国衆」とは、時代的に「青木氏の方」が「古跡神明社の伊勢青木氏神職」の事の所縁もあって、「吉田域以西」ではより早期に、つまり、「家族・1530年代」には神職裔系として入っている事に成るのだ。
「古跡神明社」とすれば、「奈良期」であり、「伊川津の国衆」に執ってみれば感覚的には“「原住民」”に相当するのだ。
「国衆であった4土豪」に執っては、当初は舐めてかかっていただろうが、突然に「伊勢周り」の「美濃の伊勢の裔系」の家族が移り住んで来た事に驚いたであろう。
そして、暫くして「東回り・縦の陸路1」で「青木氏四家の国衆」のとんでも無い近代銃で武装した大集団が、押し寄せて来た事に成ったのである。
彼等の執っては従って“「後から来た国衆」”とは観ていなかった可能性がある。
突然に神職族が膨張したと観ていて、故に「戦い」も無く入れて円滑に「伊川津七党」を結成できたのである。
「戦いの記録」は全く発見されていない。
「国衆」としても少なくとも「前段で論じた通り「1550年・南下期〜1560年前・吉田期」前には入っている事に成るので、大した違いは無い。
そこで、だとすると「疑問」が一つ起こる。
「渥美の土豪等」が、この「古跡神明社の所縁」で「額田の南下国衆」の「家族」が「伊勢経由」で前もって入ったとして、これ等の土豪に潰される可能性もあった筈である。
それは、「渥美の国衆土豪等」が何時頃入ったかに関わって来る。
「額田の南下国衆」の「家族」は、前段でも検証した様に、入らなければならない時期があって入っている。
それが「1540年前頃」に「美濃の空白期」があって、これを見計らって入っている。
それが、3回に分けて入っているが、これが「1500年前後の頃」である。
「渥美の国衆土豪等」の系譜では、“「江戸期の資料」”に依ると「1430年頃〜1450年頃代」だとしている。
そうすると、「50〜70年程度の差」がある。
ところが、ここには上記した様に「江戸期の資料」には「国印状取得の搾取偏纂の問題」があって一概に信用できないのだ。
恐らくは、この年代は、「戸田村や牧野村の原住民」と成っている「庄屋の発祥年代」であって、必ずしも彼等の「渥美の入植出自年代」では無いのだ。
「戸田村の戸田氏」や「牧野村の牧野氏」の家を乗っ取って名乗っているので、「渥美の入植出自年代」はこれより後に成る。
そもそも、「1430年代」は「室町幕府の力」がまだ強く、「関東制覇」に於いて“「結城合戦・秀郷一門」”を興し、「室町幕府」と「結城氏ら関東の諸豪族」との間の戦いが勃発した時期である。
この時、「敗退した多くの土豪」が「国衆」として中部域に流れて来たのだ。
「1430年代」までのここは、先ず「半島外」は、”「海食崖」”と呼ばれ浸食されていた地域で全く使えず、「湾内の内海」は、中部域から「大陸帰化人の由来」に依って「新しい技術」を持ち込まれた。
「奈良期からの陶器や瓦」を焼いた“「渥美窯」”と呼ばれていたものがあって現在でも出土している。
古来には「六連(むつれ)」や「百々(どうどう)」と呼ばれていたのである。
要するに此処は、「真砂の沼地」で米より「真砂と粘土の混在地域」であったのだ。
ところが、上記の“「結城合戦」”の「敗退した多くの土豪」等が関東から流れて来て米の採れない地域を何とか住めるようにした“「歴史的経緯」”を持つ地域なのだ。
「江戸期の搾取偏纂」によるものであって、決して「讃岐の農民や阿波の農民」や「信濃大河内の農民」ではないのだ。
「上記の疑問」の「額田青木氏等の家族の安全」は、時系列から「敗退した多くの土豪」等との関係があって、奈良期からの”「古跡神明社」の「神職裔系家族」”として敬っていた事から確保されていたのだ。
それは「室町幕府」には、「密教浄土宗の原理主義の白旗派」を「浄土宗」として認めさせ、「伊勢裔系族」を”「律宗族」”として認めさせた。
この事からも彼等土豪等は敬った事から従ったのである。
更には元々、彼らは「関東の秀郷一門の傍系支流族」に従っていた血縁した土豪であったからだろうし、讃岐でも「秀郷流讃岐青木」が確固たる勢力を持ち定住していたのだ。
故に、何よりの証拠としての「彼等の菩提寺」の“「西光寺」”が「古跡神明社」の直ぐ近くの「田原」に並んで存在するのだ。

(注釈 「5000石の検証」
そこで上記の検証の通り、この「3氏の土豪」と「青木氏の四家・1500人」が検証の通り「渥美郡域」で生きて行くには、この「5000石以内」では限られていて「本家程度」と成る。
此の検証から、“「額田青木氏」と共に陸運業”に結果として加わったのは「分家筋一門」に成る。
恐らくは、「陸運業に転身する前」のこの「三氏の土豪」は「戦い」で参戦して生きて行けたが、「三方ヶ原」より「陸運業」に転身した後の「少しの期間・準備期間と話し合い期間」では、「渥美湾域の青木氏の護衛・蒲郡青木氏」の支援を「糧」として「伊勢の支援」で生きていた事に成った事が判る。
それは「商記録」の中の「運搬の支払い状況・伊勢水軍の動き」が一時的に活発化しているのでこれで読み取れる。
その意味でも、この「糧の少なさ」を解決する為には、「土豪3氏」の中での「話し合い」には時間が掛かっていたと考えられる。
つまり、上記の「タイムラグ」は、要するに「青木氏側だけの問題では無かった事」に成る。
そこに、「女系の伊勢裔系」との「格式の事」でも問題があったらしく、それが「松平氏の旗本・西三河」とは、「銃の有無・戦力」に関わらず、「格式に対する相当な軋轢」があったらしい事も判っている。
「土豪3氏等」もこの狭間に絡んでていて、「本家筋」は「三河側」に着いたとしても「分家筋」は「最後の糧」には、「三河側の旗本」が補償してくれる訳でも無し、充分にない限りは生き抜けなかったと考えられる。
「三河松平氏の今後の事」を考えると、戦乱の中では「分家筋」は最前線で間違いなく犠牲に成り命を落とす事は必定と観ていたのであろう。
この「格式差・律宗族」と「戦力差・銃」がある「伊勢の裔系側・陸運業」に着く方が得策と見た事に成り、其の侭では「三河での発言力」では「分家筋」は「本家筋」に従うしかなく間違いなく「削がれる立場」には成ると観た事に成る。
兎も角も、これは言葉にしなくても「三河の旗本」は闇雲に「自ら卑下していた事」に成ろう。
然し、因みに「国衆離脱・1573年」でも「伊勢に直ぐに帰る事」はせずに蒲郡に一部が残ったのだ。
分家の土豪等は本家に追随するのでは無く、「三河旗本・大久保・本多氏系・田原城主・1564年・〜1590年関東」が入ったが、それでも「伊川津・国衆1560年・家族1530年頃」に其の侭に居着く事に成るのだ。
普通は本家に逆らった場合は居られないのが「氏家制度の掟」であるが、それでも居られたのは奈良期から居た「伊川津の神職族の裔系」に組み込まれた事によるのであろう。
「神明社に対する敬い」は当時は未だ「民衆の間」では絶対に「犯しべからずの立場」に居たのだ。
江戸初期から幕府に引き渡されてから荒廃し変わったのだ。
それだけに御蔭で美濃安全だけは保たれていた。
その「大久保・本多氏の旗本」とは、結局は「国衆の9年間」として「陸運業の21年間」の「付き合い」と成り、合わせて「30年間」と成った。
つまり、その「嫉妬怨嗟の旗本」とは「大久保・本多氏とその家臣」であった事に成るのだ。
この「大久保・本多氏」は藩主と成ると同時に「東三河軍制の吉田城の酒井氏」の配下に入ったのだが、経緯から三河元来からの保守的な旗本だけに「額田青木氏等」には軋轢があったと考えられる。
ところが更に不幸かこの軋轢の中で「額田の南下国衆」の「300の銃隊」も「東三河軍制下」に入れられ、同時期に「武田軍の南下」に伴い急遽「吉田城」に「編入・1565年」を命じらると云う事が起こつたのだ。
注釈だが、筆者は条件として「渥美湾の制海権の確保の役目」として「特別任務」が与えられていたのでは無いかとみているのだ。これが約束であったと観ているのだ。
そして、ところがこの「約束むを違えて皮肉にも「南下国衆の初戦」の「第1期の吉田城の戦い」に引っ張り出された事と成って、「武田軍」を押し返す程の勲功を挙げたのだ。
「蒲郡青木氏と伊川津青木氏四家の国衆離脱」とこの“「5000石の影響」”が「周囲の行動」を根本的に替えさせたのだ。
因みに、この「5000石」に付いて、“「大久保」に「家康」が「7000貫の所領」を与えた”としている詳細な重要な記録があり、これを説としているものがある。
この説では、「1貫=2石の説」では14000石、「1貫=1石の説」で7000石と成る。
「時代と地域」に依って「1貫で買える米量」が替わるので「7000石〜14000石」と云う事に成る。
この「時代と地域」では、「7000石程度」であるが、当時は威力を示す為に多めに云うのが慣習であった事から、それを咀嚼すると「5000石」であった可能性がある。
況してや“「石高」”で云うのでは無く、“「貫高」”で与えたとすると“「海産物等」”も含めての「石高」であった事に成る。
ここは、上記した様に「黒潮の海食崖」の域にあって「海産物の高」は元より高かった。
要するに、間違いなく米高は「5000石程度であった事」に成る。
そもそも、彼等の“「旗本」”とは言え戦国の世の民から出た「第二の姓族」である。
然し、一方の彼らの“「額田の南下国衆」”は「諡号の第一の姓族」である。
然し乍ら、「第二の姓族」に執っては、“出世を前提とする「国衆」と成った限り”は、一族を護る為にも「意見」を通す事が「最大の安全」に近づき、且つ、一門を率いる「指揮官」はそうする事が疑い無く当然の「義務」であって、これ等の事は充分に予想できる事で「何時の人の世」も間違いなくそうなるだろう。
然し、「額田青木氏の南下国衆」は違ったのだ。
何方が、「格式」を前面に押し出していたかは記録からは判らない。
筆者は、「青木氏の氏是」もある事でも判る様に「格式」は世間に押し出さず自然を護り通す掟がある。
従って、世間がどう受け取るかにあって、「勲功」か何かで何もない処から格式を得た訳で無いのであって与えられた格式ではない。
故にこれが「青木氏の氏是」の基源に成っているのだ。
元から「旗本側」に強く「卑下の意識」があったと考えている。
それは次の注釈に論じる「状況証拠・目的」からである。)

(注釈 「疑念の検証」
そもそも、「本幹・本命」とも云える“「神明社の遮断」”が「信長」に依って成された事から、結局はこの「命」に係わる「本幹の復元策」として、「信濃青木氏」と共に、「蒲郡と吉田」に結束して「国衆」として入って、「渥美湾までの縦の防護ライン」を形成したのである。
つまり、「渥美湾の制海権と支配力の確保・信長に水軍はない」と「信濃まで縦の陸路の連絡網」を「縦のライン構築(専用商業道)」を成し遂げたのである。
結果として「伊勢」から「渥美湾」から「伊豆」までの「陸路と水路の復元」も出来た事に成った。
改めて「3土豪の国衆」との「国衆としての目的」がそもそもが異なっていたのだ。
この様な関係にあっても、「伊川津七党の青木氏・吉田青木氏等四家」とは「彼らの独立性・3土豪の国衆」も担保してしながらも「不思議な関係」にあったのだ。
上記した「伊川津七党の土豪」のこの「土豪の国衆3氏」は、「松平氏の伸長」と共に「松平の准家臣・後に譜代家臣に格上げ」と成って、互いに護りあい「一族の安全」や「渥美湾の支配力」の関わりを担保していた事も七党にはあったのだ。
故に、上記した様に「額田青木氏・蒲郡青木氏」が「彼等土豪3氏」を「陸運業に加える事」、又、「出自元との関係性を担保する事」に当初は反対したのだ。
前段で論じた様に、「松平氏との関係性」を敢えて「組織の中に引き込む事」に“「大きな疑念」”を抱いていたのである。
つまり、これは「青木氏の氏是の考慮」にあった。
「伊勢も信濃」も同じ意見であったと考えられる。
結果として、この“「疑念」”は後に捨てた事に依って、「吉田城や一言坂や三方ヶ原の勲功」があって江戸期に「家康の天下統一」が成されて、更には「陸運業」や「開拓業」や「殖産業」で゜三河発展」に貢献した。
尚且つ、「伊勢の権威」を尊重し、「本能寺の変」の「堺からの逃亡」にも貢献し、「家康お気に入りの紀州藩主頼宜」に貢献している等の諸々が事の「家康の意識」に訴えて、この“伊勢の事お構いなし”の「お定め書」の発行に成った。
結局はこれを獲得でき、その後の「紀州藩・二万両の債権・2度の勘定方指導」にも貢献したのである。
然し、其の後に「紀州藩」はこの「家康のお定め書」を認めているのに、「三河旗本」は依然として何と「吉宗の享保期」までこれを認め様としなかったのだ。
遂には、「吉宗と伊勢青木氏との関係・親代わり・後見人」を知っていながら「伊勢の幕府役所」の「山田奉行所の難癖」で「二度」も「伊勢」との「係争事件」を起こしているのだ。
他にも前段でも論じた様に、「信濃」でも難癖の「同じ事件」が起こり、「吉宗」はこの「山田奉行所の件」も旗本側に着いた。
これが元で最後は「吉宗」とも決別したのだ。
“如何に執念深いか”と「伊勢」では資料や口伝に遺す程に「戒め」として観ていたらしい。
つまり、この「旗本疑念」を掘り下げれば、この点を持っていて、「伊勢側と蒲郡青木氏」は「陸運業の運営」に“「善い事」が起こらない”と観ての「不吉な疑念」であったのでは無いかと筆者は観ている。)

(注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
然し乍ら、その疑念は明治初期に消えた。
その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)


> 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」に続く。