青木氏氏 研究室
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  [No.379] 「青木氏の伝統 56−2」−青木氏の歴史観−29−2」
     投稿者:副管理人   投稿日:2024/03/29(Fri) 21:23:34

> 「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」の末尾


> 「青木氏」と同様に、主家が「神職族」であると云う格式から、つまり、高い「宿禰族」であると云う格式から、本来は「姓」は広げられない。
> 従って、「額田部氏」だけを何とか護ろうとしたが、結果として「神社」は遺せたが「氏名」は遺す事は出来なかったと云う説が頷ける。
> 「青木氏」は、「神明社」が有りながらも「由緒ある柏紋の神職・青木氏」を別に作り、これを徹底して「女系の四家制度」で切り抜けたのだ。
> 故に「神職青木氏」は各地で遺ったのである。
>
> 恐らくは「神職と云う事」から長い年代を「男系」だけでは難しかったと考えられる。
> ここに差が出たのではと考えられる。
> 筆者は全国に広がる“穂積氏で繋ぐ”と云う選択肢もあった筈なのに其れもしていない。
> それだけに「伝統を重んじた氏」であった事に成る。
>
> (注釈 江戸初期の「神社の統制令」の内に入り「で500社程度を有する神明社」を幕府に引き渡した。
> 江戸幕府は財政的にも管理し切れず荒廃は極端に進んだ。
> 但し、「伊勢と信濃と美濃と伊豆」では密かに「祠」で隠して護り通した。)
>
> 「額田部氏の系譜」の中まで入れないので、この「推測論」に成るが恐らくは間違いは無いだろう。
> それの遍歴が、現在は姓名が違うが「伝統」を護った「額田の宮大工」として遺ったとしているのだ。
>
> だから「施基皇子の裔の青木氏」には,当に、“「墳墓からの付き合い」”と記されているのは、“この事を察して護った”とする暗示の「青木氏の説」があるのだ。


「青木氏の伝統 56−2」−「青木氏の歴史観−29−2」

さて、前段の「額田青木氏・蒲郡青木氏」と「伊川津七党の青木氏・吉田青木氏等」のところに改めて戻る。
これには「別の面」からも考察が必要で、これに依って「青木氏の歴史観」が多く出て来るのだ。

この両者の「美濃の青木氏」は、「源平の美濃の二戦」で「近江佐々木氏や近江青木氏や佐々木氏系青木氏・近江三氏」と共に滅びた。
そして、別行動を執っていた「美濃」の「彼らの生き残り・伊勢の裔系」は、「加茂・木曽の山間部」に逃げ込み、「信濃シンジケート」として「伊勢等の支援」を受けて、密かに細々と「伝統」を守り生き延びた。
この間、平安末期からは「約300年以上」であった。
其の後、「額田を拠点」としてと「信濃までの山間部」で「原士・伊勢の裔系に付き従った官僚族」と共に生き延びた。

「美濃」で戦った「近江佐々木氏や近江青木氏や佐々木氏系青木氏・近江三氏」の一部も、「加茂・木曽の山間部」に逃げ込みんだとする一説もあるが、共に、この一部がどれだけ生き残り出来たかは判っていない。
筆者は滅亡したと考えている。
後に、「彼らの傍系支流一部」を探し出し、”「摂津」に匿った”とする「青木氏の資料」を採用している。
所謂、前段でも{論じた「摂津支店の支援」を受けた「摂津青木氏」である。
その意味で、この史実がある限りその一部が「加茂・木曽の山間部」に逃げ込んでいた可能性は否定出来ないだろう。

恐らくは、鎌倉期に入って暫くして「近江に戻る事」を望んたが、流石に「近江」には戻る事が出来ず、近くに居て、「摂津支店の保護」を受けて「商いの手伝い」をした事に成ったと考えられる。

そもそも前段でも論じたが、“「美濃の青木氏」は滅びた”と論じているのは、この“「美濃」”には「(aの族)と(a−1の族)と(a−2の族)」と「(bとcの官僚族)」の「四つの族」が居て、其の内、「(三野王の裔系のaの族)とその系列の(a−1の族)」の「全部」が滅びたのである。
つまり、「源氏化を進めた美濃族」である。

然し、「(a−1の残り・朝臣族、浄橋と飽波の裔系)」とその裔系の「(a−2・血縁族)」と、美濃の「(bとc・低位官僚族)」は、全てが「源氏化に賛成する者等」だけでは無かったし、元来、長い間に「多少の血縁性」は在ったとしても、「族としての関係性・氏族」は無かったのである。
要するに、「三野王を祖とする族(aの族)」とその「皇子族(a−1の族)」が「源氏化」を進め滅びた族であるが、「(a−1の族一部)(a−2の族)と(bとcの族)」の中には、上記の「浄橋飽波の裔系族」とは別に、彼等は、多少の所以を持つものの“「三野王に関わる美濃族」”としては“関わらなかった族”であった事に成る。

筆者は、「源氏化に反対」なのか、将又、「同族間の勢力争い」なのかは判らないが、何らかの理由で、恣意的に関わらなくしていた族”が居たと「状況証拠」から考えているのだ。
歴史的には記録として、激しい「同族間の勢力争い」があって衰退していたとする記録がある。
その原因は、「源氏化」なのかは明記されていないが、恐らくは、「源氏化に対する路線争い」であると思われる。

そもそも「平安末期」には、「美濃の土豪」であった「土岐氏」と血縁した「賜姓土岐氏系青木氏」が存在している以上はそう成るだろうし、この結果として「土岐氏の台頭」が目立つ故に、この゜土岐氏」も平安末期には完全な「源氏化」をしている。
「源平戦」で完全に滅びる事なく一部が何とか生き延びたが、室町期には弱体し乍らも存在している。
従って、「三野王系の中」には、「源氏化に反対していた勢力」が居たと考えられるし、その勢力も得て「浄橋、飽波の裔系」も早くから互いに「協力体制を採った流れ」の中に居たと観られる。

ところが、少し進んで、記録的には室町期の「織田勢力」が其処に付け込んで「美濃」にその「勢力」を拡大させたと成っている。
そこに存在していた「青木氏の影の勢力排除」の為に、その「信濃シンジケートの連絡網」、つまり、「命綱の断絶」の「神明社の排除」を図ったのだ。
困った「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、この「別の命綱」の別の構築に入った。
「伊勢から美濃信濃経由の縦の陸路」を遮断され、周囲に危険が迫っていた事から「三河の松平氏」に「国衆」として入った。
そして、「370年程度」の間は現地に潜んでいた(a−1の族一部)(a−2の族)と(bとcの族)の「末裔」が、これを機に「伊勢と信濃の青木氏の説得」で創った集団の「国衆」であった。

その「支援」を受けた「国衆」のその「戦力(鉄砲とゲリラ戦)」を「売り」にして三河の伸長している「松平氏」に「国衆として合力」したと前段でも詳しく論じた様にである。

(注釈 松平氏の「三方ヶ原の戦い」の「戦記」に、「195の国衆」の中にトップに「二つの青木氏」としてのその行動が詳しく記載が在る。
結局、この「三河の三つの記録」に依れば「美濃の青木氏」は、「額田青木氏」と「伊川津七党の青木氏」の二つを纏めて“「渥美の青木氏」”と記載されている。
この「記録」では、「前者の国衆の傭兵」は多く戦死し、「後者の国衆の傭兵」は生還と成っている。
つまり、この「記録」に依れば、「後者」とは、「額田の青木氏」であり、(a−1の族一部)の事である。
そして「前者」とは、武蔵から各地の国衆を経て「信濃」に移動し、そして最後に「美濃」に、更に「三河」に移動した「武蔵7党の丹治氏系青木氏」、つまり、「嵯峨詔勅で青木氏を名乗った族」の事である。
つまり、上記の(a−2の族)と(bとcの族)の事ではない。
この「前者」は、この後に、豊臣に付き、形勢を観て土壇場で徳川方に着いて摂津麻田藩を獲得した。)

(注釈 この時の戦記には、主に「松平の戦記記録」と「甲斐国志録」と「物語風の伊能文」とか外にも「複数記録」がある。)

注釈として、前段で詳しく論じた「一言坂の戦い」の「武田本隊の先鋒隊」と「額田青木氏の国衆の偵察隊」とが「坂の上下」で対峙して、その「遭遇戦」で戦死と成っている。
「青木氏等の記録」や゜他の二つの記録」では、「三方ヶ原での戦死」と成っている。
これは恐らくは「一言坂での戦い」は、抑々記録でも二つあって、一度目は「松平本隊」が野戦を仕掛ける為に、つまり、「土地の有利性」を生かして「武田軍本隊」を迎え撃つ為に「一言坂の東」で戦い、完敗して浜松城に逃げ帰った。
もう一つは、この後に、「吉田城」から呼び寄せた「350の銃隊」を「偵察隊」として「一言坂」に派遣し坂上で、遭遇した戦いで、この二つを混同して記録したものであろう。
然し、一概にこれには「混同」とは考え難く、江戸期にこの「無謀な野戦」を脚色して美化したと考えられる。

そこで、この時の「350の銃隊の偵察隊」に付いて記録から検証して観ると、この時の事が良く判る。
「額田青木氏の国衆・蒲郡青木氏」は「250人程度」であったとされる。
「渥美青木氏の国衆・田原青木氏等」は「100人程度」であったとされる。
合わせて、「南下した額田の裔系の国衆」は「350人」とある。
この内、「50人」は「伊川津七党の50人」としている郷土史らの説もある。
恐らくは、この「50人」は荷駄隊に従事したと観られるので、差配は「250人程度」の50人であると考えられ、要するに「土豪3氏の内の一部」であったと観られる。

今川氏が滅亡し駿河に隣接するその「東三河」には多くの「溢れ国衆等の残存兵」が居た。
これを重臣の「酒井氏や池田氏」に依って纏められて、「東三河軍・2000人」にして2軍制にしたのだが、ここに「額田の南下国衆・350人」は組み込まれたとある。
「松平軍」はこの時の「軍勢」は未だ「3000人」であったと成っていて、「西三河」と合わせて5000人に成ろうとしていた。

「350の銃隊の偵察隊」は何と全体の「約1割の国衆の勢力」であった事に成り、本来であればその「発言力」は相当あった事には成るが、現実は「旗本の西三河侍」に依って阻害された経緯を持っている。
筆者はそもそもこの「兵数の違い」には、前段で論じた「準備段階前の移動の証」と成ると考えている。
そもそも、「額田の子孫数」から観て「逆の兵数」に成ると観られ、そうすると「(bとcの族)」を分散させて「主力」を「額田青木氏の国衆・蒲郡青木氏」の方に置いたと考えられる。
これが「兵の役割」にもあった事は否定できない。

前段でも論じた様に、つまり、この記録の「350人」は、「美濃の伊勢の裔系の末裔」とすれば「約800年間」として、その「子孫力」の「4Nの2乗論」からすると少なすぎると考えられる。
前段でも論じた様に「人口に合った耕地面積」を「額田部氏」に依って開拓開墾灌漑され、その糧は充分にあった事を証明した。
つまり、これらが「家族とそれを護る一団」が先に「渥美」に移動させたとする確実な証拠にも成るのだ。
要は、「国衆の南下後」に家族を移すか、「南下の前」に移すかの選択にある。
当然に「国衆」がひしめき合う「美濃」に於いて「家族の移動前」の「国衆の南下」は危険すぎて無い。

前段でも検証した様に「家族」などの「一族郎党の移動集団の規模」は、「1500人程度」あった事が検証から判るが、南下前の更に「事前準備に入る前」に移していた事も判っている。

(注釈 前段でも論じた様に「田原にある古跡神明社の神官族・伊勢青木氏」を頼りにして、事前に「1500人もの家族」が「渥美と伊川津と田原と吉田域」の四域に移したが、武田軍の東三河の駿河と三河西から攻め入った軍勢に対し、「東三河」ではその攻撃の的は、当然に駿河に隣接する「吉田城と二連木城の攻撃」と成っていた。
そもそも、「豊橋の吉田域」は前段と上記で論じた様に、「伊勢青木氏の神官族」の古来よりの定住地であって、そこに「伊勢の神職の家族」などの一族郎党が奈良期より入っていた。
当然に、「国衆」と成った「一言坂の戦い前」の「8年間の歴史的空白期間」は、当に必然的に絶対的に護らなければならない「地域」であったし、そして、その地域を護る「二つの城」でもあった。
この「二つの城」は、「豊川」の川際に建てられた「平城の吉田城・豊橋今橋」と、そこから真東・2kmの「朝倉川」の際にある「300m高さ」の「山城の支城の二連木城・豊橋二連木」であった。
前者の「吉田城の経緯」は、土豪の「牧野氏と戸田氏との攻防」の後、最終は「戸田氏の城」と成ったが、1565年に「三つ巴戦」で「家康の手中」に入った。
この「東三河」には「武田軍」は「1571年・第一次」に攻め入った。
そして、「二連木城」を簡単に攻め落とし「1572年に吉田城」に攻め込んだ。
この時、「三河の戦記」に「二連木城の兵」は「吉田城」に入ったとある。
ところが、「平城の吉田城」が落ちず犠牲が大きく成つた事から「武田軍」は一度甲斐に引き上げた。
前段でも論じたが、明らかに「山城の二連木城」より簡単に落ちる「平城の吉田城」が落ちなかったのは、「額田青木氏の国衆」の「近代銃による銃隊」で雨霰の様に打ちかけられた事に依るものであった。
其の後、「今川氏の衰退」により「松平軍」は駿河を獲得したが、「武田軍の第二次」が始まり劣勢に置かれた。そこで、直ぐに「額田青木氏の国衆」の「近代銃による銃隊」は呼び出されて「吉田城」を出て「浜松」に向かい、その後に「一言坂」に偵察隊として向かったのである。
「一言坂の戦い」と「松平本隊の野戦」の「本戦の内容」は、「三河の三戦記」に記載はあるが、この「吉田城の戦記」では、何故か詳しく無く「田原吉田の兵」が戦った事だけが記されている。
要するに、ここで云う「田原吉田の兵」とは前段でも論じた様に「伊川津七党の事」である。
つまり、「小さい館城」を持っていた「渥美氏と戸田氏と牧野氏と西郷氏」の「4土豪」と、その「運命共同体の関係」にあった「額田青木氏の伊勢の裔系族とその原士族」の事で有り、当初は「4土豪」とで結成された「伊川津七党」であった。)

そこで、この「吉田城の経緯」を検証する。

牧野氏・1490年―戸田氏・1506年―松平氏・1529年―牧野氏・1535年―戸田氏・1537年―松平氏・1540年―(牧野氏・家臣―戸田氏・家臣)―今川氏・1546年―今川氏・1560年―松平氏・1565年―酒井氏(松平氏)・1571年

以上の様に、目苦しい経緯を持つていて、「松平氏・1560年」から渥美の伊川津で松平氏に関わっているのだ。

以上の「注釈の論」は、「青木氏の歴史観・三河での戦歴」を決める為には重要であり、唯、そこでこの活躍の「国衆」として南下したこの「活躍した350人」をどの様に決めたかにある。

前段での検証から、「地積拡大」から観て「40000人」と計算されたが、これは「三河域・青木氏の定住地」も含んでいる事も考えて「額田の域」だけでは「山間部含み」であった事から、「最大1/20」として「最大2000人程度弱」は「糧=人口の原理」から居たと考えられる。
又、「10里四方・40k四方の面積」の「拠点額田域の税の負担」から観てもこれ以上は無いであろう。
要するに、「350/2000≒1/18」で「残り」は「家族とその一族一門の集団」と成り得る。
これを数段に分けて徐々に移動させた事に成る。

兎に角も、この「350人のその役割」は「銃を持った偵察隊」と成っている。
つまり、記録としては「銃隊」である為に、前記の通り「吉田城の後」は「先鋒隊・偵察隊」に指名されたのであろう。
然し、これは「銃隊配置の原則の戦法」としては考え難い。
これには何かがあった事に成る。
そもそも「銃隊」は、「陣形の前方」に置くのが「常套手段」であるので「先鋒隊・偵察隊」は可笑しいし、それも「350と云う相当の数」である。
これ程は入らないでろう。

この事から考えると、「両者の合わせた戦力」は「280〜350/3000」とすると、単なる割合でも約10%〜12%とも成り、「松平軍」の中では「相当な軍力・発言力」と成っていた事が判る。
其処に、「平城の吉田城」で「武田軍」を退けた「300丁の超近代銃」を持っていると成ると、この前段でも検証したが「数倍の力・10〜20倍」を持っていた事に成る。

現に、「信長」が{武田軍27000」を「1000丁・傭兵}で殲滅した「戦歴の史実」の事から考えると、「350の銃隊の威力」は兵力に換算すると、其れも「単発の火縄銃」では無く、「4連発の近代銃」であったので、「数倍の力・10〜20倍」は充分に納得できる。

とすると、「350の銃隊の威力」は「松平軍本隊3000」と同じ軍力を持っていた事に成る。
此の論理からすると、「額田国衆の発言力」は最大であった筈である。
何度も論じているが、「西三河の旗本の嫉妬」、又は、「無知」は「異常のレベル」であった事に成るし、「家康」も歴史で美化されるほどに「青木氏の歴史観」から観れば大した事は無かった事に成る。

“一言坂の「先鋒隊・偵察隊」の扱い”のみならず「三方ヶ原の本戦の扱い・鶴翼の陣形」も「異常中の異常」であった。
筆者は元より「美化の方」が先行していて余り「家康」を買っていない。
故に、当時の伊勢は、“早々に国衆を引き払らう事を支持した”と考えられる。

そして、記録通りに「武田軍本隊(20000)の先鋒」と「全面戦に成った事」で観てみると、矢張り、「一言坂の戦いの遭遇戦」と云われる位に、僅か1%で対決出来た事は、普通では出来ない筈である。

(注釈 「西三河の松平軍本隊は3000」とあり、「武田軍の攻撃」を受け護り通した「東三河の吉田城」より参加した「東三河の酒井氏の支隊2000」とで最後は5000と成った。
「二連木城」より「吉田城」に移り参戦し「武田軍」を甲斐に戻させた「額田青木氏の国衆の銃隊」は「東三河軍の吉田城」を離れ本隊に参加し「一言坂の戦い」に偵察隊として入る事に成った事の経緯は判る。)

この戦歴は「相当な鉄砲等の火器/300丁・商記録から算出」と、「得意とするゲリラ戦」を駆使して対抗出来た事を示すものである。
況して、「三河戦記の記録類」にある様に、「三方ヶ原」で「騎(額田青木氏の当主)・隊長」が戦死した「額田青木氏の国衆」の一部と、「渥美の青木氏の国衆」が無事に生還した事を考察すると、前段でも検証した通り、「武田軍本隊の追撃」を躱すだけの「相当な戦力の保持」があった事に成る。

その意味で、「本能寺の変」を境に弱体化した「元今川氏」の「北三河域」の「額田地域一帯」に「青木氏の勢力圏・縦の陸路・第一と第二の陸路」を「国衆」として拡大構築して“「命綱」”を更に蘇えさせる戦略に出た事がこの事からも良く判る。
恐らくは、この「兵数と銃力」は相当に「家康本人」からは信頼されていた事を物語るものであろう。
ところが「西三河の旗本」は嫉妬で別であった。

そもそも、「二連木城」を物ともせず押し寄せた「勢いづいた武田軍」との「平城の弱い吉田城」から退けた「戦いの功績」が「額田青木氏等の銃隊の功績」の記録として遺さなかったのは疑問である。
「吉田城」と「二連木城」は、そもそも「戸田氏と牧野氏の争い」の為に「城づくり」が成された城であり、
それだけに「護り」は弱いのである。
それを退けたのであるから「相当な戦歴」であった筈である。

「武田氏の資料」には“全滅に近い犠牲が出る”として“甲斐に建て直しの為に引き上げた“とある。
それ程の事が起こったのである。
記録を遺さない程の嫉妬であったのであろうし、青木氏の資料に依ればこれが「江戸の享保期」まで続いたとある。

それは「平城」で戦うには「20000の軍」を退かせるには「10〜20倍の力を持つ銃」以外には無い。
そうすると。2000+1000+7000=1万
重臣の守備の酒井氏は「2000の兵」で守備していた。
家康はこれを助ける為に西三河から駆け付けたが脆くも負けたので「残存兵」と共に「吉田城」に入ったとある。
この時に、“渥美や田原や吉田や西郷等の土豪衆・伊川津七党も西から入った”とある。

そうするとこれで、「松平の守備力」は「2000+1000+7000」=1万と成る。
然し、これは2万>1万では無い。
これは「入り乱れての戦いの勢力」の時の論理である。
「2k先」から「命中率90%以上の威力」を持つ間断なく打ち込んで来る「弾幕の超近代銃」なのである。
つまり、「2万の軍力」には意味を持たない事に成る。
それも完全な北に川が控える北本丸のある小高い丘の上にある土盛りと素掘りの平城である。
城門は東向きに当初あって、松平氏はその後に南門を付け加えた。
従って、敵は三方から主に南門と東門から攻め立てる事に成ったが、普通であれば「土掘りと素掘りの平城」で何の強みも無い城は「総攻めの兵力」で簡単に堕ちる。
然し、二つの記録に依れば「4倍の兵力を持つ武田軍」は「総攻め」で堕ちる事に成るが、ところが「銃隊」が存在した事からはほぼ水平に的を得て打ち込まれたとあり、このの範囲に近寄れば何もしないでも全滅である。
然し、「2000の兵」の「二度に渡る攻撃」を掛けて、“「全滅」に近い相当の犠牲を負った”とされていて、「全滅」を恐れて断念して「建て直しの為」に軍は「二度目の撤退」と成り“「甲斐に帰った」”とあるのだ。

(注釈 織田軍の側面からの脅威論もある。
然し、この説は矛盾である。東三河を攻めれば松平氏が全滅し東が武田勢に堕ちれば「織田軍」に執っては好ましくないとしている説であるが、この事は始めから判っていた筈である。
そもそも、「甲斐に引き上げる理由」には成らない。
「甲斐の戦記」にはこの事に何も触れていないのだ。
「信玄の病気説」もあるが、これを隠し通して先ず「三河」を落とした上で織田との本戦に備える為に三河に守備隊を置いて「甲斐」に引き上げれば済む筈である。
何れにして長期戦であった事から「甲斐」に一度は引き上げなければならないであろう。
現に、歴史は「吉田城の戦い・1572年3月」から丁度一年後に「三方ヶ原の戦い・1573年1月25日」と成っている。
その前の「一言坂の戦い・1572年10月13日」が起こっている。
「織田脅威説」にしろ「信玄病気説」にしろこの間に何も状態は変化はしていないのである。
明らかに、「思い掛けない手痛い犠牲」を負って「態勢立て直し」の為に国に引き返した事に成る。信濃にも引き返しているが、それ以上の問題が戦術的にあった事に成る。
恐らくは、「吉田城の経験」から「今後の戦い方」として当然に「銃戦に対する対策」であった事に成る。
故に、「甲斐の戦記」には幾つもあった中の一つの戦いの「吉田城の事」が記されているのだ。
そして、「三河の戦記」に「家康の談」として“長篠城の壁は銃の穴だらけであった”と記されている。
「武田軍」は「吉田城の戦い」で「甲斐」に帰り、この「難しい銃の入手」に一年間奔走した事に成る。

前段でも論じたが、念の為に「銃の数」は「戦記の中」では不明であるが、一年間で入手できる範囲は「精々150丁から200丁・火縄銃」であろう。
「近江、日野、堺、雑賀、根来」の「生産地の能力・総合産業」から当時は未だ最大でも「年間で計300丁程度」とされた。
その「雑賀と根来」は「長篠」までは未だ「織田の銃の傭兵軍団」であった。
其の後に、「犬猿の仲」と成る。
従って、「近江、日野」か「堺」と成るが、「堺」は「伊勢青木氏の商いの取引先」にあって難しいし、「雑賀」と「根来」も「伊勢の商い先」であって「資産投資先」でもあった。
従って、堺からの資材供給で成り立つ「近江」から、起きた破りの裏ルートの何らかな方法で獲得する以外には無かった筈である。

然し、上記の通り「銃」は「ある特定の商人」の“「専売品」”で、先に“「一括発注」”されて生産されるシステムにあって、「一般の市場品・市販品」では無かった。
「伊勢の紙屋」の「伊勢屋のシンジケート」と「今井神社シンジケート」と「近江の商いの特定組合」の手中にあった。
従つて、“「政治的絡み」”が大きく、獲得しようとした場合、「裏ルートの獲得」と成った。
つまり、此の頃から、“裏ルートを獲得した者が天下を取る”と云われていた。

さて、そうすると、「伊勢屋の青木氏」が専売で特注し獲得した“「近代銃と云われる物」”は「300丁」と「商記録」が成っていて、この「期間」を割り出すと、「額田の国衆」に渡し、「伊勢秀郷流青木氏による特訓」の訓練をした時を、「1540年〜1545年の間」であるとすると、これに「運び渡すまでの時間」を遡れば、「伊勢で調達出来た時間限」が判る。
これが、「準備期間の開始」を「1540年期限」だとすると、「商記録の記載日等の資料」を探ると「約1年弱程度の期間」が掛かっている事に成る。
「300丁/11〜13」が「堺と、又は雑賀と根来」の特注での「銃生産力」と成る。

これは資料から、“「新式銃・超近代銃」”とするものであったので、「普通の火縄銃の生産」と合わせると、「三カ所の全生産力」は「600丁〜800丁」を超えないものであったろう。
但し、これには「条件」があって、「主生産地」は「湊を持つ地域」で、それは「堺と雑賀」であり、紀州の奥の「根来」は、「同族雑賀」からの「下請けの流れ」の中での生産に成っていた。
「近江と日野」は「雑賀―根来」と同様に「一地域の流れ生産」であり、港は持っていないので生産は低いと考えられる。
「雑賀と堺」は「銃」に必要な「鉄生産と火薬や檜等の用材」を全て持つていた「生産地」である。

恐らくは、「貿易」に関わっていた事から「最新の銃の情報・西洋の情報」を掴み、高額を叩き「見本」を得て“秘密裏に特注した”と考えられる。

注釈として、「銃の型式」は確実には解っていない。
それは下記した様に、「火縄銃・1543年」で無かった事が解る。
「火縄銃類」でなければ、「読み取り」から「種子島から後の事・1543年伝来」であれば“「近代銃」”である事に成る。

「国衆としての準備段階」に入ったのが「1540年」であるとすると、その「2年後」に伝来し、これを「国衆の武器」に逸早く採用しようとしたのは1545年頃と成る。
「外国貿易」をしていた事から「銃の情報」はもっと早かった筈である。
恐らくは、「1540年頃以前」に「中国からの情報」を得ていたと考えられる。
「銃の歴史」は「1411年・ヨーロッパ」が「最古」であるとして、「1430年」には遺されていて、「1473年」には、「汎用的」に外国では取り入れているし、「1499年」には“「マスケット」”と「火縄銃の総称」として呼ばれる様に成っていた。

恐らくは、「貨幣経済」が進んだ「室町期中期」で「巨万の富」を獲得した“「時期・1454年頃・倭寇時代」”と見做される。
早くても「1454年〜1473年」には少なくとも「見本」を取り入れて“「堺」”で「伊勢屋の許」で密かに、つまり、「種子島の100年前」には“「試作」”が施されている筈である。
そして、「1500年頃〜1540年頃」には、「伊賀や伊勢水軍」では「貿易の倭寇の護身用」として持っていた可能性がある。

「戦乱期である事」から、当初は「密かな商い用」であったと考えられる。
それが、試行錯誤しながら「1535年頃」には「改良型の新型の近代銃」の「試作量産」に入れていたと考えられる。
そして、「国衆の訓練・1540年〜1545年」頃には間に合わしていたと考えられる。
そもそも「伊勢秀郷流青木氏・梵純」が、この時、既に「結城氏を護る為」に「兵」を北と東に動かしていて、「額田国衆の訓練の指揮官」も「1540年頃」には引き受けている事から考えると、この経験から「指揮官」そのものが「額田国衆」の「近代銃の訓練」で来ていた事に成る。

だから、「織田勢や秀吉勢に対抗する力・銃力」を持っていて、つまり、既に、まだ「珍しい銃」を持っていて、背後から迫る「伊勢秀郷流青木氏・梵純」を恐れられたのであろう。
「陸奥」から「北陸商用道」を使って「歴史に遺超す程」の「醜い退却」をしたのである。
この事は、既に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」には「1543年の前」には「伊勢青木氏・伊勢屋」は密かに生産していた試作のものを彼等に渡していた事に成る。

其れで無くては、「伊勢秀郷流青木氏・梵純」の「僅かな兵力を恐れる事」は無かった筈である。
前段でも論じた様に、「伊勢の人口」は「不入不倫の権」で抑圧され「全国平均の1/20程度」しかなく、取り分け、「北勢」は“「聖域であった事」”からこれを護る為に少なく成っていた。
それ故に「中勢以南」に「人口」が集中し「室町期中期」には「全国平均並みの92万人」であったとされる。
「北勢に住む秀郷流青木氏」を含む「伊勢藤氏」が、史実の通り「対抗軍」を編成したとしても最大で「1000人〜2000人程度」であろう。

この「勢力」が背後に迫ったからと云って、「兵糧攻め」している中で慌てて「攻める事」を止めて「一般道」を通らず「北陸商人道」と云う「特別の険しい道」を通って「大坂」まで逃げ帰る事まではしない筈である。
何かが無ければ何処かで「陣構え」をして「迎え打つ事」はこの「人数・2万に拡大」では充分に出来た筈である。
結果としては「1510年頃」から“「北陸の戦い」”は始まり、「1575年・天正の乱」と「戦い」は続き、更に移り「1590年」に遂に「奥州仕置き」と発展し、「奥州の白川結城氏」は衰退し滅亡した。

この間の「織田勢の奥州攻め」の「支城一戦・1540年頃・三戸城等の在郷領主連合軍」である。
この“「奥州攻め」”では「陥落した城や領主」を勢力下にして「軍力」を大きくして行ったのである。

「種子島鉄砲伝来」より前に、既に“「試作」”が成され、その間、僅か乍ら“「量産」”に持ち込んでいた「伊勢屋」は、これを出来つつあるものから「伊勢藤氏」と「伊賀原士」と「伊勢水軍」と「秀郷一門一門」、或いは「信濃・諏訪含む」や「伊豆」に護身用に密かに渡していたのでは無いかと考えられる。
つまり、「種子島の100年前」には、「欧州・フランス」から兵用に使っていた銃を見本として取り寄せ、“「試作」”が何度も施され、そして、「1500年頃〜1540年頃」には「試作量産化」が成され、「1535年」には「火縄銃」を超えた「新型銃の試作と量産化」と成っていたとすると、間尺が合う。
それだけの「財力」は充分にあった。
そして、それが「伊豆」を救い「額田青木氏」を救う事が出来るのだと執念に燃えていたのだ。

何しろ、「奈良期」からの“「紙屋院の称号」”を獲得し「高位族」で在り乍らも“「造部」”を支配下に置き、自らも「青木氏部」を持ち、唯一、「商いの出来る特権」を得ていたのであり、それを更に発展させて「朝廷の財政・献納」を潤していた。
その「伊勢屋」は「貿易」をしていたのである。
この「状態」は前段でも論じた様に、明治中期まで続いていたのである。
そもそも、「進んだ銃の存在」を“「知らないと云う方」が可笑しい”であろうし、「造れない方」が可笑しい。

それを連携して叶えていたのは要するに「堺の呼称」なのである。
そもそも、奈良期から最も「海外の情報」を手中に収めていた「氏族」なのである。
“「銃の事」に関しては何事も条件は揃っていた”のである。
寧ろ、“何でも出来ると云う立場”にあった。
「青木氏の歴史観」はここにあるのだ。
これを忘れては「歴史の考察」は間違う。
その前提の意味で「全ゆる資料の行」の「一字一句の持つ深い意味」を読み解いているのだ。
この「銃の事」も同然である。

故に、密かに持つ「近代銃の力」で「1000〜2000の兵」としても「2万〜4万の戦力」と成って討ちかけられれば“全滅”として恐れられ、一時は「額田青木氏・蒲郡青木氏」の一部が「桑名」に引き上げた「史実」と成ったと考えられる。
「伊勢」と詳細を打ち合わせの為に戻った可能性が高い。

この「試作近代銃」を得て「伊勢の伊勢梵純の戦力」は「2万〜4万の戦力」と周囲から見做され、その兵力で「織田氏の勢力」を「大阪」まで追いやり、そこで陸奥の「小峰族の血筋」の無い「生粋の白川結城氏の一族末裔」をその「本家の永嶋氏」の「茨木結城・永嶋氏」に救い出した事に「伊勢梵純の戦記史実」として成ったのであろう。

そして、この何度も「試作量産銃」を「伊勢藤氏に渡す事」で「伊勢全域を護る血縁族の抑止力」ともしたと考えられる。
そこで、気になる処はこの「銃」を「信濃」に渡していたかであるが、手を尽くして色々な可能性を調べたが判らない。
「信濃」は唯一の奈良期からの「同族血縁族である事」から「伊勢藤氏」と同じ様に渡していた可能性は高いと考えている。
後段でも論じるが、「状況証拠」として「諏訪青木氏」の武田氏本隊での「一言坂の活躍」でも判る。
上記した様に銃が得られない状況の中で、「一言坂の遭遇戦」で僅かながら持ち得ていた事が史実として判っている。
武田軍の中で獲得出来得る国衆は信濃諏訪族の裔系以外に無い。

これだけ渡す「間口」が広ければ数から観れば“「試作」”では終わらなかった筈であり、額田は勿論の事、「全青木氏」の“「内々の量産」”であったと観ている。
戦国の世から「青木氏を生き残らせるための策」であったと考えている。

筆者はこの前提は、前段からも論じている様に、「室町期」に入り「下克上と戦乱期」に入り、「青木氏族の危険性」が極度に増し焦ったのでは無いかと考えられる。
そして、その為にもこの「抑止力」を高める為にも「青木氏の奈良期からの利点」を生かして“「財力」”を蓄えたと考えられ、幸いにも「紙文化」が花咲き「巨万の富」を獲得した。
そこで、この「財力」を使って「兵」を待たずとも出来る「銃の様な防御力・抑止力」を何とか確立させようとしたと考えているのだ。
それが、この「銃の先取りの試作」であったと観ていて、それが「美濃の国衆の近代銃」に繋がったと観ているのだ。

「公式の記録」では、「1543年の種子島」と成っているが、既に秀吉や家康は薄々は「伊勢青木氏」が背景で「堺」で「寡占的」に「秘密裏」に何か「変な飛び道具」を作っていた事を知っていたと考えられる。
然し、“懐疑的な面もあった”と考えていただろう。
故に、「梵純の兵」を“極度に警戒した事に成った”のであろう。

(注釈 この秀吉が銃を持った時期の歴史は次の通りです。
実は1588年に「刀狩り」があります。
その時の絵図にも「鉄砲」は描かれていて「記録」は遺つています。
つまり、これは「武士以外の者」が持っていた事に成る。
「1575年の長篠の戦い」では「雑賀と根来衆の銃の傭兵」で「信長」は獲得します。
これは「秀吉」が「信長」に進言し「調達」を「今井神社シンジケート」に「調達」を試みたが失敗に終わり、結局は「雑賀と根来衆の銃の傭兵」で「決着」が着く。
これはこの頃、「特殊な武具の情報・銃」を既に掴んでいた事に成る。
これは「蜂須賀小六の子分時代に知った事」に成っている。
秀吉は「1537年〜1598年」で、少年時代(15祭頃)に「蜂須賀頃の子分」に、「信長」に「草履取り」で「1558年」に、つまり「21歳の時」である。
「少年時代に情報」を掴んだとすると「15歳〜21歳」で、「信長・1532年〜1582年」に進言したのが仮に「2年〜5年」経っての事として、“「1560〜1563年」”に成る。
「種子島鉄砲伝来・1543年」とすると、「1558年」までには「15年経過〜20年経過」している。
この「1560年」は「桶狭間の戦い」で「今川氏」を衰退に追い込んだ時期である。
「1568年に上洛」、「1570年に姉川の戦い」、「1573年に室町幕府潰す、そして「武田軍」との「長篠の戦い・1575年・銃隊」と成る。
これが「実戦の種子島の経緯記録」と成る。

火縄銃の規制では、「秀吉の刀狩り1588年」と、これを「15年後」に引き継いだ「家康の1603年の銃規制」と成る。
故に、原則として「1560年〜1563年」までは誰も「銃」を持っていなかった事に成るのだ。
“入手できるとか出来ない”と云う前に、「銃価格」が「この時期」では余りにも入手出来ない程に「高価」であり過ぎたし、当然に「生産量」が無かった。
故に、「シンジケート入手」として独占化していたのである。

そもそも「生産態勢に必要とする財源」の供給が無い限りは無理であった事から「独占寡占化」して「シンジケートルート」に成っていたのである。
従って、「雑賀根来の銃傭兵」の方が可能と成るのだし、「銃を扱える熟練度」も必要としていたが未唯、その様な者は「生産者が財源元の支援者以外」には育っていなかった。
「シンジケートルート」と成り得る根拠があって、要するに「銃に依って得られる利益」は「販売で得られる利益」より「シンジケートを維持する事に依る利益」の方が遥かに大きかった事と、販売する事に依って「自らへの危険度を増す事への警戒度」が大きかったのである。
つまり、この集団を浮力に依って獲得して勢力を拡大させようとする危険度である。
これ等を無くすには、「シンジケートルート」しかないのであって、とは云っても「財源の補償」をしてくれる「バック」が必要であった。
当然に”口を出さずに”である。
そうなれば、「七割株の豪商」と云う事に成り、「商い」だけが成り立てば必要以上には”口を出さずに”に居たのが「伊勢屋・伊勢青木氏」であったのだ。
この「伊勢屋」が「氏是」で“銃の世間への広まり”を危惧していたのである。
飽く迄も、「抑止力の前提」の許にあったのだ。

ところが、又もや、「近江・日野」がこの「掟」を密かに破つたのだ。
この「近江日野」には「資材の供給の停止」と「財源の補償の制裁」を加えたのだ。
これが、結果としてその「職能」は空気感染を起こし各地に飛び散った。
「伊勢屋」はこれを止められなかった。
然し、幸いに広まった「火縄銃」は旧式で「マスケット」を超えていなかったのだ。
それでも「秀吉と家康」は抑え込もうとした事はいい方に働いた。


注釈として さて、そこで歴史に遺る「正規の火縄銃の生産経緯」はどの様なものであったのかである。
重要な歴史観を決める要素である。

「歴史の経緯」が記載されている説では、次の様に成る。
「根来寺の杉の坊算長(津田監物)」が自ら種子島に渡り、「鉄砲と火薬の製法」を習い、これを「根来の地」に持ち帰えったとされる。
その「鉄砲と同じ物」を根来の坂本に住む、「堺の鍛冶師、芝辻清右衛門」に製作させたのが「本州最初の鉄砲」と言われている。
実際は違っている。
上記で論じた様に「筆者の資料・近代銃・フリントロック」では、「貿易」で「種子島より相当前」に密かに入手し、それを「堺・持ち株7割・伊勢屋支店」で造らしていたとある。
「火縄銃」とは全く書いて居ず火縄銃ではないと考える。
出来るかどうかも判らない「フリントロックの改良型」を追求していたのであった事から銃名を書かなかったと考えられる。
「伊勢青木氏の資料」と同じ「歴史経緯に乗らないルート」を論じている説が他に「三説」がある。

一つ目は、「近江佐々木氏の青木氏研究論」に葉、”種子島”とは書かずに相当前に入手していたとする「行」がある。
これは「伊勢青木氏の資料の事」と同じで恐らくは「伊勢屋の事」を言っていると考えられる。

二つ目は、歴史の経緯の公的に成っている「記載説」に、「但し書き」として、“「種子島」は決して始めてでは無い“とする「添え書き」による入手事前説がある。
唯、生産していたとは明記していない。

三つ目は、二つ目と同じく「但し書き」であるが、「伊勢」では無く「近江の日野」とあり、「近江商人」をイメージする表現と成っている。
但し、三つ目は二つ目を参考にして論じたとものと推測できる。

合計4説があり、「青木氏説」も入れて「二つ」が「事前説」を強調し、「残り二つ」はそれらの“「種子島より事前説」”もあると説いている。

これ等の「4説の根拠」は二つある。これを分類すると次の様に成る。
一つは「青木氏の説」と同じく“「貿易説」”である。
二つは“「銃の長短説」”に基づいている。

「貿易」に依って「100%に情報」が早い。
そうでなければ「抑々論」で「貿易」は出来ない。
これに基づいて「貿易」は成されている。
要するに゜情報の遅い貿易」はあり得ない事に成り、完全に納得できる。

「銃の長短説」では「火縄銃」は大した訓練を要せずに使える。
然し、「天候」に左右され、「命中率」も低く、硝煙の火薬は貿易に頼るし、「飛距離」も短いと云う欠点があり、「西洋」では「個人的な使用に類する使い方」に限られていた。
これが「マッチロック式マスケット銃類・火縄銃類」と云うものである。

ところが、この「マッチロック式マスケット銃類・火縄銃類」の「欠点」を改良したのが「ホイールロック式銃」か、更に改良した「フリントロック式銃」であって、「欠点」は「火縄銃の裏返し」である。
「フリントロック式銃類」は、「活動性(軽量・移動)」を重視し、訓練で熟練度を必然的に挙げる事が出来るので「軍隊」に早くから広く採用されていたのだ。

この「軍隊」に広く採用されていたとすれば,“「貿易」”で「国内に情報」が入らない方が可笑しい。
故に、では何故、この「ホイールロック式銃」か、「フリントロック式銃」かが入らなかったかという事に説明が到達する。
入ったのは、“「個人用」”としてに持ち込まれた汎用的な“「火縄銃」”が先で、其れも「10種類」ほどある中の「初期の銃」であった事に成る。
そもそも、この「火縄銃の旧式銃」を日本に高く売り込んで「商い」とすると云う「外国の戦略」であった。

「伊勢の伊勢屋」が見本を入手した「銃」は、上記で検証した通りの「ホイールロック式銃・見本銃」か、「フリントロック式銃・近代銃」であったのかは確定は出来ないが、「汎用的火縄銃」を目的としたもので無かった事は明確と成る。
見本として入手したのは状況証拠から「フリントロック式銃」であろう事が判り、これをよりに日本人向けに、更に、「活動性(軽量・移動)」を重視した銃に密かに堺を使って改良を重ねたと云う事に成る。

急激に高まった「下克上と戦乱」の「極度の危機感」からの生き遺る為には「全財産・巨万の富」を使てでも獲得しようとしたのだ。
要するに、「銃に関わった理由」は、上記した“「青木氏の抑止力」”を「強化させる事」を“目的としたもの”であった事に依る。

(注釈 前段で論じた「美濃の額田青木氏の南下国衆の携帯した近代銃」は、上記した「1588年の刀狩り」では、既に“「商人の陸運業」”としてだけでは無く“「武士の護衛団役」”として帯同していた事であり、“「刀狩り」”は適用されずに逃れられた事を意味する。
この1588年時は、既に、「三方ヶ原の戦い後」の「1572年}で「国衆」を辞め「強力な陸運業」に専念した15年後の事であった。
当時は、未だ「盗賊山賊」が多く危険で「元美濃原士」であった「繋がり」もあり、襲っても「軍隊」でも「瞬時に潰せる能力」の持った「陸運業・伊勢屋の仕事」であってその相手では無かった。
この「刀狩り」には掛かったとする記録はない。
問題は、「大名」に課せた「1603年の銃規制・火縄銃」にはどの様に対処したのかは、「対象の大名」では無かった事からも、殆どは、「五つの記録」や「江戸期の小説」にも記載は無い。
「陸運業と開発業と殖産業」に成っている事は知られている。
その裔が行った有名を馳せた「額田青木氏の一言坂の戦い」を知っているし、例え、山賊や盗賊でも戦いを挑む馬鹿は居なかったであろう。
寧ろ、逆であったと考えられ、「遠方運送の場合」は連携して「協力態勢」を執って「糧」を得ていた可能性の方が高いだろう。
宿で隠密の様に,“次の連携について打ち合わせた”とする資料はある。
筆者は、この「一部の資料の行」を読み解くと、常時、使う陸路の場合は積極的に潰したか、その仲間に糧を与えて組み込んだと考えている。
「運送荷駄団」の「側面護衛」を前提にしている以上は、この考え方の方が自然であり、「抑止力」としては「美濃の国衆の役目」の様に「伊勢式」で、当時としてはこの記録は「1000年の歴史」を持つ「氏是」に沿っている。
この様に「強力的で協力的な抑止力で済んだ筈」である。)


さて次に、上記した様に「信長」が果たせなかった“「伊勢攻め」”で、今度はこれを引き継いだ「秀吉」は、「伊勢と紀州の勢力」を「紀州攻め」で、「銃」を生産し、且つ持つ「銃勢力」を潰しに掛かった。
上記した様に「秀吉」は「1552年頃」に、この「銃シンジケート」を知っていて天下を取ると逸早く潰しに関わった。
「銃生産と保持者」のみならずその「影と成る財源力」も潰しに掛かったのである。
「信長の雑賀根来攻め」は、「1577年、1581年、1582年」と三度である。
これには伊勢側は何とか「ゲリラの抑止力」で絶えた。
然し、これを引き継いだ「秀吉の紀州征伐」は「1585年」であった。
歴史に遺る「秀吉」の「信長」を超える「残虐な酷い殺傷の戦い」をした。
この時、「伊勢青木氏」は逃亡してくる「紀州門徒衆」等を匿ったし、然し、この為に「松阪の蔵」や「菩提寺・本寺」を焼かれた。

「銃生産の財源の背後」と知っていた「秀吉」の「長島の戦い」でも抵抗した。
最後には、「青木氏の旧領地・弱点」の「南勢の奈良期からの旧来からの氏人・郷士」の“「湯川衆攻め」”までして仕掛けて来たのである。
そもそも、この「南勢の湯川衆」は確かに「旧領地」と云えど政治的にも秀吉に抗した訳でも無く、「直接の関係衆」では無かったが、それでも「牽制の為」にも攻めたのである。
「氏人の伊賀攻め」も同然で仕掛けられた。
然し、これを「氏是」を護りながらも「秀吉の弱点」の「ゲリラ戦の抑止力・伊勢シンジケート」で抵抗したとある。
「観えない相手と戦う事」に疲れた秀吉は、これで「南勢の湯川衆攻め」から手を引いた。
然し、「北勢の攻め」も「伊勢青木氏に関わる攻め」たけは「深入り」をしなかった。
これ全ては「銃に関わる背後関係」から来ている筈である。

矢張り、“「ゲリラの本格戦」”ともなれば「三河の伊勢の裔系」からも「近代銃の陸運業隊」が駆けつけ、更には「銃」で既に防備していた「全国の秀郷流一門」や「伊賀衆」をも本格的に敵に廻す事に成るとして「得策」では無いとし、秀吉は「単なる牽制」で終わったのである。

「伊勢水軍」や「摂津河内水軍」や「堺衆」や「雑賀根来衆」も「力を盛り返して来る事」に成り、「秀吉の兵力」を遥かに超えて「無傷で上回る事」を意味していたのである。
それが「ゲリラ戦」と来ていると成れば手は出さないであろう。
「信長の紀州攻めの失敗」も知っている。
これは当に、密かに「伊勢青木氏」が「銃生産」で「抑止力」として「相当な銃力を蓄えていた事」を知っていた事に成る。

故に、「見せしめの牽制策」として、徹底して「根来一寺」を滅ぼせば、「紀州の諸豪族は刃を交えず降伏する」と見込んで、「根来勢の徹底壊滅」に乗り出したのである。
「すさまじい勢い」の「秀吉軍10万の大軍」を相手に「根来勢」は、「積善寺」をはじめに、千石堀、沢、畠中と次々に出城寺を攻め落とされ、最後はこの「本拠地の根来寺に逃げ込んだ農民等」に対し、「秀吉軍の本隊」が着いた時には、「寺衆・農民庶民」では既になく「抵抗する者」は全く居なかったと伝えられている位の殲滅状態であったとされる。
それでも、寺門から出て来た「戦力の持たない農民庶民」の全てを殲滅したと「記録・6000人」に遺されている。


さて、この「銃の事前獲得」に就いて、凡そ「資料の行」から、新たに、この“「300丁の銃」”を整えるとしていて、その「二つの銃(ホイールロック式、又はフリントロック式)」を整えるには、“「新型の事・フリントロック式・試作銃」”もあって纏めるには、「資料の存在の意味合い」から観ても「最低5年〜最大7年程度」は要したと考えられる。

この「二つの近代銃」は、“「扱い」”が難しく“「熟練を要した」”とだけ記されている。
“どの様な熟練度を要求していたのか”を他の資料と共に探るとする。

それは「火縄銃」は、上記で論じた様に、その「飛距離」、「命中度」、「殺傷力」、「環境力」、「時間差」の「5点」が低かったとされる。
ほぼ後に「欧州」で開発されたものは「小銃的・短銃」なもので「個人性」を有していて、一部でこれを「軍用」として「日本」では使おうとしたが直ぐに失敗したとある。
其れは“弓より劣る”とする理由であったとされる。

この「5欠点」を全て改良した結果、再び、何が起こったかと云えば、「射撃発射時の反動の悪化」であったとされる。
この「反動」があると、行き成り焦点を合わして構えるのではなく、肩に沿えた構えで「縦膝姿勢」で「反動」に耐えられる様にして、先ず、「銃」を上から下側に下ろして来るとしている。
そして、「狙いの位置」で引き金を引きシリンダに込めた弾丸を火打ち石で発火させて連続に打ち始める。
この時、1発目から4発目まで撃つ度に「長い銃身」が反動で少し上側に上がる。
これを“「訓練で少なくする事」”にあった。
然し、これを小さくする手段として「伊勢」が求めたのは、この「訓練」は兎も角も、“銃身を短くする事”にあったとしている。
これには意味があった。
この「銃身を短くする事」は、「飛距離を短くする事」になるが、「火縄銃」と違い「飛距離を短くなる事」には「黄鉄鉱の火花の爆発力を高める事」でより補い、それは上記の「活動性を高められる事」に成ったとしている。
然し、依然としてこの「反動」は高く、これを「打つ姿勢」を良くする事で「訓練」に依って、この「反動具合」が身に就いて来ると、“一定率に熟す事”が出来る様に成ったとして記されている。

恐らくは、この「発想の根拠」は、丁度、“「日本式弓の連射」に完全に相似している”としているとして採用したと観られる。
恐らくは、「銃に対する考え方」として「武器」と云うよりは、「弓道」に匹敵する「銃道」と観ていた可能性があるのだ。
この「銃道の考え方」の方が「青木氏」としては自然では無いか。
これを「額田青木氏」に「伊勢」は求めたと考えられる。
飽く迄も「護身術の一つ」として考えていたと観られる。

従って、それまでは「武士の嗜み鍛錬」として熟知していた「飛び道具の弓矢隊」が「銃隊に特化する事」に成るに等しく、“この「銃の熟練」には問題は無い”としている資料が遺されている。
中には、“人間の本能が蘇らせる”とまで書いている。

だから、この「近代銃」の生まれた「西洋の合理的考え方として」では、逸早く「火縄銃」を捨て、早くから100年も前から「高価」であっても、「威力の高い銃・小銃」を好んで”「兵用」”として用いられたのであろう。
日本では、「日本式弓の連射」がこれを導いたとしているが、手の届きそうでは無い「高価・4千両〜2千両/1丁」であって、更には前段でも論じた様に「三河武士」にあった様に“旧態依然としての感覚”がこれを排除していたのである。
それが「刀狩り・1588年」と「銃規制・1605年」に表れているのだ。

つまりは、“天下を治める”には、「絶対的武力差をける事」で「安定化を図る方式」と、逆に、「威力の高いものを排除」して「安定化を施す方式」かの「主観差」であろう。
然し、結論としては、「青木氏一族一党」はそもそも「天下安寧の目的」では無く「抑止力を増す方法」としての“「前者を採用したと云う事」”に成るのだ。
「積極的に威力として使う目的」では無かったから、「弓の延長」として“積極的に「近代銃」を先駆けて採用した”と考えられる。
“「殺戮の道具」としてでは無い”と云う事に成る。
「秀郷流一門」も“この「考え方」に同調していた“と云う事に成るのだ。
不幸にして「武力化・源氏化」で「近江佐々木氏」は滅亡に貧したが、これらの資料を「青木氏族の一員としての研究論文」に、生き遺った「原因回顧の反省」として記載して遺したのであろう。
故に、銃の説明では無いた為に「不明瞭」なのであると観ている。

さて、そこで「遺された資料」から考察すると、「フリントロック式の改良型」の「青木氏仕様」として上記した様に幾つかの「銃の型式」が考えられるのだ。

その一つを検証して観る。
そもそも、先ず、「江戸期初期・1605年」に「銃の規制」が敷かれたので、「近代銃」は元より「火縄銃の発展」もそもそも進まなかった。
それは「世の中の安定」もあって「銃の発展」は「秀吉と家康」に依って二度止められたのである。
その意味では、「秀吉と家康」は「青木氏仕様」に「近い考え方」があった可能性がある。
然し、”物事を術化する癖のある日本人”に比べて、その考え方のない外国は発展した。
筆者は、「鎖国」そのものがこの「主原因」では無いかと観ているのだ。
「銃の持つ威力」に対して「日本文化」に合わない、将又、「破壊する」として“拒否した事”でもあろう。

そこでその「銃の事」を記されている事を集めて纏めると次の様に成る。
1 外国から取り寄せた「見本」の「特注の発注」であった事
2 その頃・1540年〜1545の間で生産・量産された事
3 「4充填式」の「手動回転式シリンダ」を使っていた事
4 原理は「火縄銃・マッチロック式・マスケット」では無かった事
5 ケーベル式リボルバー銃であった事
6 「ホイールロック式」では無かった事
7 「フリントロック式」に最も似ている事
8 雨にも強く命中率も良く飛距離もあったとしている事。
9 「取り扱い」に「熟練」を要したとしている事
10 「手が出ない程の高価」であった事
 
以上の事から考察すると、「フリントロック・黄鉄鉱の火打式の改良型・シリンダ型」であった事に成る。

前段で論じた様に、「外国の兵用」に用いた「マックル式銃・パーカッションロック式・キャップロック式銃」の“「原型」”とする考察もあるが、これには多少疑問もあり、これは「フリントロック式」を更に「自動式にした銃・シリンダ」であり、「開発途上の銃」を指している様である。
其処までは、「自動式近代銃」であったかは判らないが、「時系列・完成1810年頃」から先に“日本に入って開発段階”を経たとしても難しいと考えられる。

然し、仮にこれらの形式は入ったとしても、日本では「極めて高額であった事」から発展しなかったし、獲得できる者は居なかつた筈で、獲得したとしても1丁程度と成るだろう。
故に、日本では拡大しなかったのである。
出来たとしても幕府程度で、その幕府自身が「江戸初期の銃規制」で「火縄銃以外」は認めなかったのである。
この「形式銃」は、従って、既に、江戸初期頃の西洋の外国では“「兵用」”に一般的に用いられていた。
従って、江戸期から明治期まで「火縄銃の開発」は進まず「堺の銃生産・江戸初期前」も低下し中止した。

又、最終は、「火縄銃式・マスケット・マッチロック」しか認めなかった事から、「一丁当たりの価格」も当初の「1/20〜1/30程度・20両程度」に急激に下がり、「生産の対比効果」がそもそも無くなったのである。

(注釈 「堺の銃生産」は、「秀吉と家康の厳しい取り締まり」で、「堺」が攻められ、「堺の人」を護る為に「堺の銃生産」は江戸初期全後頃で中止したとある。投資の中止である。)

(注釈 念の為に追記すると、「江戸期での銃規制」で「一頭は1200兵」と規制して、これに対して「火縄銃1丁」を「所持の規制範囲」とし、逆に“騒乱を避ける為に義務付けた”ものであった。
仮にこれに依れば「5000の兵」に対して“「火縄銃」”は「5丁〜6丁」と成る。
これでは「攻撃用」とするよりは当に「防御用」であろう。
室町期では、「一頭は2200兵」とし、「火縄銃1丁」を基準としていたらしいが護られなかった。
室町幕府にもこの規制があった事は、三幕府共に銃の武器としての殺戮性に危惧を抱いていた事を意味する。)


そこで、検証に戻して観る。
「吉田城の戦い」から「一言坂の戦い・遭遇戦」、又は、「三方ヶ原の戦い」までには「約7ケ月から10ケ月の期間」があった。
この間に「立直し策」の「銃の必要性」で、調達出来たとしても「近江・日野からの銃」の「裏ルーツ」の入手であり、且つ、「シンジケートの専売品の銃・普通の火縄銃」をどの様に調達したかにある。
出来たとして、「伊勢屋」とは「犬猿の仲」の「近江商人」と成るだろう。
又、この「近江商人」も「近江・日野」に対しては「大きな発言力」は無かった筈であり、「資材や財源」は「堺」と繋がった「近江と日野」であった。
この事から「近江商人とする説」には多くの「説の矛盾」はここにある。

さて、ところが此処で問題に成る事がある。
「銃の専売品システム」は何故出来たのかである。
それは簡単である。
上記した様に“「政治的な絡み」”があったからで、この時は「室町幕府」は最早、弱体化して「幕府の絡み」は最早無かった筈である。
合ったのは“「商いの絡み」”に特化されていたのである。

「銃生産する事」には「武力勢力」に侵される。
これに「対抗する充分な抑止力」が彼等を護らなければならなかった。
そこで、紀州の「雑賀族・鈴木一族」と「根来族・津田一族」は「同盟と血縁」を進めた。
そして、自らが「銃の軍団」を組んで自らを護つたのである。
要するに、この「自己防衛と銃の傭兵軍団」は、この「二つの一族」は元より「民衆から成る銃兵」を編成して造ったのである。

「紀州山間部」に住んでいた「鍛えられた平家郷士(龍神・戸津川・北山)」も「鈴木氏の縁」からこれに参加したとある。
この「雑賀と根来」で「1000丁の軍団」であったとされ、上記検証の20倍を掛け合わせれば「20000の軍団」に相当する事に成る。
故に、恐らくは記録では「火縄銃の1000」と成っているが、実際はもっと「大きな軍団」を組めていたと考えられる。

(注釈 「鍛えられた平家郷士」が組しているのであるから、「野戦の実戦」にも強かった筈である。
現在でも「戸津川郷士」と云えば「剣道の名手」が多い処であり、後に紀州藩は「伊賀原士」とは別に、「紀州の五平家集団」を「吉宗」は“「原士」”として地域の安定の為に「准家臣」にして扱った事は有名である。)

これに、「雑賀と根来」には「古来からの付き合い」により背後に「伊賀原士」を中心とする「五平家原士・紀伊郷士」等を含む「伊勢青木氏の伊勢シンジケート」を持っていた。
これが「生産地」のみならず「危険な銃の搬送」等に護衛し貢献したのである。
故に、「武田氏」は、要するに「精度の良い銃」のみならず「火縄銃」を簡単に大量に入手する事は出来なかった筈である。

現実に、「家康の発言」として、“「長篠の城壁の銃弾跡」”の「戦後の発言」があったが、これから観て、既に、数は別として、この「1年間の間」に何らかの方法で確保した事に成る。
これは「近江・日野の銃」である事には成るが、「経済的な問題」よりも入手出来ても「1年程度の期間・三方ヶ原」では、前段でも論じた様に、精々、「生産能力」から最大でも「100丁〜150丁程度」では無いだろうか。
最大は先ずあり得ない。
それは「堺」で「資材の原材料の供給と財源」をコントロールされていたからである。

「額田青木氏の国衆」に執っては長篠は「無関係の戦い」ではあるが、「長篠」では「吉田城の手痛い敗戦」の「3年半程度後」とすれば、あり得ない事ではあるが、全て「近江・日野の分」が流れたとしても積算で最大「300丁〜450丁」という処かである。
恐らくは、各大大名も「近江・日野」に集中しているので、「銃の認識度」は急激に高まり「銃値段」は上がったとあるので、「武田の支払いの経済力」から判断してもこの半分程度以下では無いかと考えられる。

注釈として、そこで前段に次いで、これに付いて検証を重ねてしてみると、「種子島の値段は2000両/2丁」であった。
ところが「室町期末期」の「この時期の値段」が、資料に依って異なるが、「約450両から800両の値段」が着いたとされている。
判断材料としては(450〜800両)・450丁=「36万両となり大金」である。
これは、凡そ「9000人の兵の数」に相当するもりと成り、こんな大金を一度に払える大名は居ない。この為に「家臣の武士」では出来ず「専門の傭兵屋」が居て「農兵の傭兵・経験者」を周囲から集めたとされる事となろう。

当時の資料よれば、これが戦乱期であった事から、「5〜10両/1人・銃兵」で「傭兵」にしたとする事から、「45000両の分」と成る。
簡単にこの時期は「銃獲得金」とも含んで「傭兵金」を合わせて「武田氏」は果たして払えるかは甚だ疑問である。
先ずは無理な事である。

そこで更に検証すると、「武田氏」は「甲斐」では「22万石 360億円」、当時価は「前渡金」は「約10万円/1両」であったので、「36万両」であった事に成る。
「銃価+傭兵価」で「40.5万両」と成る。
これは「1年間の米収穫量」の何と113%に相当する。
この時、「信濃域・25万石」も「甲斐の支配下」にあったとして、「769億円・70万両」と成る。
「信濃域」と合わせても60%と成る。
論理的に到底無理である。

そもそも「最大450丁」は、「戦費も要る事」なので到底無理であるし、「近江・日野の1年間の生産量」からしても、全てを獲得したとしても「300丁・14万両・20%」である。
「銃を獲得するルート」や「20%」も含めて「300丁」も絶対に無理である。
多ければ多い程に寡占と成るので「城価格・800両」に近づく。
そうすると、金額から観ても「最低の線」で「100丁・450両=4.5万両」が「精々の能力」と成る。
然し、これたけでは絶対に獲得は出来ないのだ。

後の課題の一つは、「銃取り扱い」に慣れた「傭兵の獲得」である。
先ず、全く「甲斐」には無かったと判断できる。
「額田青木氏の訓練」でさえ、「訓練指揮官」に「伊勢秀郷流青木氏の専門の家臣」を依頼した位である。
この事を配慮すれば、とりあえずは「50丁以内」と成ろうし、少なくとも訓練を要する。

然し、これでも無理なのである。
爆発させる「硝煙」は日本では生産は殆ど無いのだ。
「貿易」に頼るしか無かったのだ。
入手した火縄銃を使い続ける為には、この「硝煙」を入手できる「手立て」が必要で、要するに「豪商との繋がり」が必要と成るのだ。
「入手」のみならずこの高額の「硝煙の財源の確保」も必要と成るのだ。
先ず、無理であった筈で、それよりも「弓矢の方」が余程、現実的であった筈である。
況して、「移動性が無い銃」では「戦術」としては籠城か鶴翼利陣形でしか使えず先ず避けるであろう。
確かに「弓矢」は「殺傷力」は無いが、この室町期にはこれを補完する意味で「毒矢」が使われていて、戦術的には多用されていたのだ。

さて、然し、最早、「額田青木氏」はこの時は既に「三河国衆」から手を引いている。

「長篠の戦い時の松平氏の銃」はどの程度かは判っていない。
「鶴翼の陣形」を「三方ヶ原の戦い・銃が使えない陣形」で組んだ事から上記の論から考えても「銃」は未だ確保できていない筈である。
これは松平氏も、且つ、「魚鱗の陣形の武田氏」もである。
「魚鱗の陣形」の先端に置くとすれば「銃隊」を置くのが通常であるが、実際はそれに類する「赤兜の騎馬隊」であった。
「突撃型突破隊」であるが、「火縄銃」は」移動性」が「銃の特性」のみならず「荷駄隊」を伴う為に極めて低いのだ。
つまり、「赤兜の騎馬隊」で有名を馳せていた武田軍に執っては「魚鱗」で構えられる程の「銃隊」は無かった事に成るのだ。

然し、この「近江・日野」も「生産地」は「地理上の事」もあるが、主に「生産」に対して「護衛」が無かった事から周囲から武力的にな浸食されて危険に晒されて絶えたとする説もあるのだ。
充分に有り得る説で全く無かったとは云えず、細川氏等はこれを勢力内に居れようとして画策していた記録がある位である。

そもそも、前記した様に、この「近江・日野の生産体制」は、単独で生産出来るものでは無く、「堺からの資材供給と財源と搬送の許」にあったのだ。

恐らくは、「掟を破つた事」から「商いの青木氏の影響下・70%持ち株」にあった「堺」から「供給等の圧力」を受けて直ぐに衰退した。
従って、「武田氏等」は少なくとも「三方ヶ原」では「50丁」も無かった筈である。
「武田軍の敗因」は「建て直し」で必要な「充分な銃・財源」を獲得する事は出来なかったと判断できる。
「赤兜の騎馬隊の過信」もあったのであろう。

従って、「3年後の長篠」でも「織田軍の銃撃・雑賀根来傭兵軍」に応戦する事なく「全滅する破目・7割」と成ったのである。

(注釈 「一言坂」では「額田青木氏の300丁銃隊」に対して「坂途中の3000」と「西坂下の3000」の「待ち伏せ兵」に僅かな「原始的火縄銃」が配置されていた事は確かに記録には遺る。
恐らくは、「本隊から廻された6000の兵」であった事からこれが「全ての50丁」で在ったろう。
但し、入手できる国衆が居たのだ。
これは「青木氏の歴史観」に関わるので後段で論じる。)

故に、「近江・日野」の「銃職人」は,“「伊勢」に逃亡したとする説等”が起こり、その後に“雑賀や堺に入った”としている説があるのだ。
一部は薩摩に移動したと説もある。
この「銃職人」を「根来」は、「根来寺」で完全に地域支配されていて「排他的な所・宗教の縛り」があって引き取らなかったのでは無いか。
江戸期に成って「銃規制」により「堺と雑賀」が残り、そこから先ず「雑賀」が脱落し衰退し、遂には「堺」が中止した。
現在は伝統しかない事も同じである。

(注釈 江戸期に成って「近江・日野の銃職人」は、「伊勢と堺」以外にも、「備前、土佐、薩摩、稲富、関」に分散したと記録にある。
この様に、江戸初期には「銃の生産地が増えた事」が大きく「投資」と「値段」と「生産地」と「銃職人」の激減に繋がっていったのである。
恐らくは、然し乍ら依然として「その利権」は「シンジケート」に握られ入手困難であった事から、「大大名」はこれらの「銃職人」をかき集め“密かな軍事力を高めた”と観られる。
その意味で、「伊勢屋」は「独占的な利権保護」を保持する為に、「近江・日野の銃職人」を寧ろ積極的に記録にある様に「伊勢に掻き集めた」と考えられる。
秀吉より「伊勢屋の青木氏」は敵対され続けた所以は此処にもあったと考えられる。
遂に、「堺」にも「圧力」が掛かり「発注と投資」を「中止する結果」と成ったのである。)


「吉田城の事」に説明不足があるので触れて置く。
この時、「酒井氏の城兵」は「銃隊の応戦」に任せ「籠城」であった事に成る。
故に、家康も無事であって、記録に依れば直ぐに城から出て西三河に帰ったとされている。
つまり、上記の通り戦績は「武田軍の戦記」からも総合的に明確であって、明らかに“「銃隊で命を救われた戦績」”であった事が明確であった。

これだけ「戦績」が明確に成っているのに、況やこれが「銃の威力」なのに「吉田城の銃に関する事」や「額田青木氏の事」に付いて「三つの三河戦記」では何も記録されていないのである。
江戸期に消された可能性が高い。
況してや、応援に駆け付け負けて逃げ込んだ「家康」もこの城に居たのである。
そもそも「戦記」としては書かない方がおかしいであろう。

その記録は、単なる“渥美や田原や吉田や西郷等の土豪衆が「吉田城」に入り活躍した”とあるだけで終わっているのである。
他の「二つの記録」や「武田の戦記類」では明確に記されているのに「三河」では記録はない。

(注釈 この時は「吉田城の経緯」から既に「戸田や牧原」は「松平氏の准家臣」に組み込まれていた。
従って、「伊川津七党だけの戦績」である。)

これはまぁ兎も角も、元より前段から論じている“「伊川津七党の事」”の事ではあるが、この中には「額田青木氏」の要するに「渥美」で「四家」を構成していた「伊川津青木氏」が入っていたのだ。
そして、これが「銃隊の主」であり、“「吉田城」で戦った”と云えば、「伊勢の裔系の国衆額田青木氏の一族」であった事ははっきりしている事でもある。

流石に「一言坂の戦い」の様に、「単独の戦いの事」であったので「額田青木氏の国衆の事」を詳しく明記したが、「吉田城の戦い」では一緒に居た「家康の手前」から書かなかった事になるのかである。

これ程に「西三河の旗本」は「戦記」を書く時にも「意地」を張っていた事に成る。
これ等の「戦記」に付いては「三河の記録」では「三記録」であって、他に「二記録」がある。
この後の「二記録」からも凡そは知る事が出来る。

「銃の事・威力等」を先に論じたが、この様な「銃威力」を持ち得ているのに、「三河」では評価が低かった。
「保守的な力」が未だ全体を占めていたと云う事であろう。
これも何時の世も同じで否めない事ではあるが、然し、それにしても「旗本の嫉妬」には悩まされていた「額田青木氏等」の「三河の銃戦績・吉田城・一言坂・三方ケ原」のこれが此処に至るまでの経緯である。

要するに、「事前移動行動」と「準備期間・前期と後期」と「予備戦・吉田城」と「本戦・一言坂・三方ヶ原」と「その後の行動」の「五つの経緯」である。

恐らくは、筆者の推測ではあるが、少なくとも「三河国衆」としては「渥美湾の目的」が達成されているので、「長篠前までの計画」で進めていたのでは無いかと思われる。
ところが、上記した様に、当然に「目的達成」と「戦況悪化」もあったと思われるが、主に「銃認識低さと旗本嫉妬」から、「資料の文面の行」から観ても、“この侭では危険”と察して「三河の額田国衆」から手を引いたと判断しているのだ。

「長篠の戦い」で「織田徳川連合軍」が「武田勢」に勝てたとしても「三河の額田国衆」の「発展」は“これ以上に無いと観ていた“と考えられるのだ。
それは、「織田軍」には「雑賀根来の銃傭兵」で「主軍として固めての戦い」であった。
これは「織田軍」には“「銃認識低さと旗本嫉妬」が無かった事”を意味しているからだ。
逆に云えば、この「織田軍の考え方」が「松平軍を飲み込む」と観ていた可能性がある。
然し、旧態依然として「松平軍」には下記注釈の通り「3年」も経っていながら無かったからだ。

(重要な注釈 「長篠の戦い」とは、そもそも「三つの場所の総称」であるが、「長篠・設楽原・鳶ケ巣山岩」の「三つの戦い」を以て云うが、ある「長い期間の三河の研究記録」によると、この「古戦場」には、「戦い後」のすぐ後に調べた記録として、“「火縄銃の残骸跡」は全く発見されていない”とあるのだ。
「戦場を直ぐ整理した者等の発言」を取り纏めた「寺に遺された郷土史」にはその様に記されている。
これは「雑賀・根来の銃傭兵軍団」であった事から、「銃の発見の無い事」は充分に頷けるし、「戦場の後始末」は、“「勝った方」が誠意を以て行う「仕来り・請負」であった事”からも見つらなかった事もあるし、更には「戦場荒らし」が当時は横行した事もあろう。
然し、「鉛玉」はあの「広い戦場」に於いて発見されたのは、何とたった“「12個」”であった事は何かを物語っている。

「鉛銃弾」を戦後に貴重である為に、又鉛害の為に拾い集めたか、「武田軍の7割死傷者」に持ち込んだとする考え方説もあるが、“直ぐの集めた者の調査行為”であるとして、それを信じるとしたデータとして考えれば、そもそも、そして、その「発見分布」が、この「鉛弾玉」は「織田軍後方陣地」と「前線」と、この前線より「武田軍側」の三カ所にだけ発見されており、「松平軍陣地」には全く発見されていないとする記録もある。
これに付いて「明治後の周囲の自治体」を巻き込んだ「郷土史の調査団体」の「長年の現地調査研究記録」があるのだ。それなりの信用が出来る。

これによると「色々の事」が判って来る。
別に「松平軍陣地・6000・織田含み」には、「酒井忠次の東三河別動隊」に「200の銃」を与えたとし、自らは「300の銃」を持っていたとする説もあるが、別に「東三河の隊」は「臨機応変の奇襲隊・銃隊」として役務が与えられていたとしている。
とすると、これに依ると誇張気味に“銃は500であつたとする説”もある。
この研究はこれに疑問を投げかけいるのだ。

果たして、「信長」が「雑賀根来の1000の傭兵銃」なのに、上記で論じた様に「松平軍500の銃」も持つ事は絶対に無いだろう。
恐らくは、「三方ヶ原の額田青木氏の国衆の銃・300丁・東三河の酒井軍の支配下・吉田城・1572年・史実」にあった事からの、これを其の侭で採用した推論であつたと考えられる。
然し、「青木氏の資料」では「額田青木氏の国衆」は「三方ヶ原・1573年」で「国衆」から手を引いているのだ。
時代考証は可笑しい。
唯、「吉田城の戦い・家康本隊」の後、直ぐに「一言坂の戦い」の「偵察奇襲隊」を命じられて城を出ている。
この時に、「幾らかの銃」を置いて行った事は考えられるが、この「近代銃」を持ったからとして、「火打ち石の黄鉄鉱と鉛玉の弾丸」を特別に供給しなければ使えない。
唯、これには問題があって、「貿易」に依って得られる為に、当時としては未だ「極めて特殊な黄鉄鉱と硝煙」のこれを入手できるかにあるのだ。
「黄鉄鉱の生産能力」が地元にあるかである。当然に無い筈である。
この説では記録は発見されていないが、「松平氏」には難しいと考えられる。

故に、「上記の研究記録」では「戦場の状況」と「「技術的能力の問題」から無理であったと観ているのだ。
後段でも論じるがこの説によれば、「最も古いタイプの現存する火縄銃」は「滋賀近江の厳浄寺で観っかった銃だとしていて、「松平氏の火縄銃保有説」は時系列が合わないとして否定している。

(注釈 尚、記録に依れば、「滋賀県近江」と「滋賀県日野」で「火縄銃」は造られていたと論じているが、この何れにも「厳浄寺」があって、その所縁から「彼等の菩提寺」としてこの寺が遺されている。
琵琶湖の中央部に位置して直ぐ東横にこの「滋賀県近江の厳浄寺」があり、此処から「滋賀県日野の厳浄寺」が南東方向に22k、この「日野厳浄寺」から北東に10k、「日野厳浄寺」から「近江厳浄寺」まで北西に20kのほぼ「二等辺三角形の位置」にある。
ここで、「近江銃、即ち、厳浄寺銃」が造られていたのだ。
「厳浄寺銃の説」はこれでも信用できる。)


(注釈 即ち、鉄には「フェーライト」と「パーライト」と「オーステナイト」と云う「結晶組織の違う鉄」があり、これらは「加熱温度」に依って「炭素の結晶構造」が異なる事に依って起こる。
これをある程度の速さで冷やすと常温でもその結晶構造が得られる。
この「炭素量の多くしたパーライト状態」に「硫黄」を多く加えると「黄鉄鉱」と呼ばれる「極めて脆い金属」が出来て、叩くと簡単に「酸化火花」が出る。
「硫黄」は「鉄」に執っては「不純物」であり、「結晶の間」に食い込んで来る為に弱く、打つと結晶が破壊されて「空気中の酸素」と反応して酸化して「火花」が飛び散るのである。
「黄色の色」をしていて摩耗する。
これを「火打ち石の代わり」にして「硝煙」に火をつけ爆発させる仕組みである。
従って、「専門的で進んだ論理的な銃」と云う事に成る。
これは「火縄銃の仕組み」としては疑問である。)

要するに、「資料不足」の“「美化の2年の誤差」”を無視しての論説と成る。
「青木氏の歴史観」から観ても「長篠の戦記」には問題が多い。
これも「江戸期の書き換え」であろう。


「青木氏の伝統 56−3」−青木氏の歴史観−29−3」に続く。



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